シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、新しい年も平和にスタートしたのですが。元老寺での除夜の鐘やら、アルテメシア大神宮への初詣なんかも無事に終わって、学校の新年恒例行事もすっかり終了、次は入試かバレンタインデーか、といった辺りの今日この頃ですが…。
「おいおい、今日も副業やってんのかよ?」
サム君がシロエ君に声を掛けている放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。シロエ君は一心不乱に作業中というか、副業と言うか。カシスオレンジのチーズケーキは半分以上残っていますし、紅茶だって冷めてしまったのを「そるじゃぁ・ぶるぅ」が入れ替えています。
「おい、シロエってばよ!」
「あ、すみません…。何でしたっけ?」
全く聞いていませんでした、と手を止めて顔を上げたシロエ君。
「明日の予定のことでしたか?」
「いや、そうってわけでもねえけどよ…。予定も何も…なあ?」
「どうせブルーの家だよね?」
土曜日だしね、とジョミー君が笑って、キース君も。
「寒い時期だしな、特にイベントも無いからな…。しかしシロエはこの調子では…」
「間違いなく明日も副業でしょう」
今日も注文多数でしたし、とマツカ君が言い、スウェナちゃんが。
「すっかりブームになっちゃったものねえ…」
「元は柔道部からだったよね?」
確か、とジョミー君が訊くと、キース君が「ああ」と。
「これが遊べたら楽しいのにな、と古いゲーム機を持って来やがったヤツが最初だったな」
「そうです、そうです。それでシロエが持って帰って直してしまって…」
それ以来ですよ、とマツカ君。
「大抵の家にはあるんですよね、ゲーム機もソフトも」
「一時期、相当流行ったからなあ…。無理もないが」
そしてゲーム機はとうにオシャカの筈なんだが、とキース君がシロエ君の手元を見詰めて。
「シロエにかかれば劇的に直ると評判が立ってしまったからな」
「持ち込みが後を絶たないよねえ…」
いっそ料金を取ればいいのに、とジョミー君。タダでは気前が良すぎないか、と。
「いえ、ぼくはこういうのが好きですから…」
「…駄目だな、これは」
明日も副業まっしぐらだな、とキース君が苦笑して、案の定…。
「うわあ、それだけ持って来たのかよ!」
今日の昼飯、カニ鍋だぜ? と呆れるサム君。雪模様の中、会長さんの家の近くのバス停に降り立ったシロエ君は大きな袋を提げていました。中身はゲーム機と修理用の工具に違いありません。
「あのさあ…。カニ鍋でそれやってるとさ…」
確実に負けるよ、とジョミー君が呆れた顔で。
「ただでもみんなが無言なのにさ、シロエがそっちにかかりっきりだと…」
「俺たちで全部食っちまうぜ?」
副業しながらカニを食うのは無理だもんな、とサム君が。
「カニを毟った手で弄れねえしよ、まったく何を考えてんだか…」
「そのカニですけど、ぼくは毟らなくてもいいそうですよ?」
食べるだけで、とシロエ君がサッサと歩きながら。
「ぶるぅが毟ってくれるそうです、昨日の夜に思念波で連絡が来ましたから」
「「「えーーーっ!!!」」」
それは反則とか言わないか、と一気に集中する非難。自分でカニを毟らなくても食べられるカニ鍋、そんな美味しすぎる話があってもいいんでしょうか?
「ずるいよ、ぶるぅに毟って貰って食べるだけなんて!」
ジョミー君が責め、サム君だって。
「ぶるぅはプロだぜ、お前、食いっぱぐれねえに決まっているし!」
「いいんですってば、ぶるぅが言ってくれたんですから」
今日のぼくは副業しながらカニ鍋です、と言い切られては反論出来ません。行き先は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の家ですし…。
「くっそ~、シロエが羨ましいぜ!」
「ぼくも羨ましくなってきた…」
毟らなくても食べられるカニ、とシロエ君が提げた袋をみんなでジロジロ、袋の中身は免罪符ならぬゲーム機の山と来たものです。
「いいなあ、毟らずに食べられるカニ…」
「でもよ、副業があるからだしなあ…」
無芸大食だとぶるぅも世話してくれねえよな、というサム君の台詞でグッと詰まった私たち。食べるだけなら誰でもお箸と器があったら可能ですけど、古いゲーム機の修理なんかは…。
「…俺には無理だな、どうあがいてもな」
「ぼくも無理だよ…」
仕方ないか、とキース君にジョミー君、他のみんなも。今日のカニ鍋、シロエ君の勝利…。
かくしてシロエ君は大量のゲーム機を修理しながら午前中のおやつを平らげ、カニ鍋の方も。食べるのがお留守にならないように、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がマメに声掛けした結果。
「…シロエが一番食ったんじゃねえか?」
カニの殻から察するに、とサム君が指差し、みんなで溜息。
「…負けたようだな…」
俺も頑張って食ったんだが、とキース君がぼやいて、ジョミー君が。
「ぼくも負けないつもりだったのに…。カニの量では敗北したよ!」
でも雑炊では負けないからね、と締めの雑炊をパクパクと。シロエ君の方は雑炊が冷めるに違いない、と眺めていれば。
「終わりましたーっ!」
これで全部、とシロエ君、いきなり戦線復帰と言うか参戦と言うか。修理を終えたゲーム機を置くなり雑炊をパクパク、それも熱い内に。
「嘘だろ、おい…!」
このタイミングで戻って来るなよ、というサム君の声は無駄に終わって、シロエ君が。
「すみません、こっちに刻み海苔を多めで!」
「かみお~ん♪ おかわり、たっぷりあるからねーっ!」
はい、刻み海苔! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がシロエ君の雑炊にパラパラと。熱々の雑炊、シロエ君もリアルタイムで食べるようです。いろんな意味で負けた気がします、今日のカニ鍋…。
せっせとカニを毟った人より、毟らなかった人が勝ったカニ鍋。なんだかなあ…、と溜息をつきつつ、食べ終えてリビングへ移動した後は飲み物片手にお喋りですが。
「そのゲームってヤツ、マジで評判高いよなあ…」
シロエに修理の依頼が山ほど殺到するんだし、とサム君がゲーム機を手に取って。
「なんだったっけか、モンスター狩り…?」
「そうですよ?」
往年の名ゲームですよ、とシロエ君。
「ぼくも少しだけやってましたね、機械弄りの息抜きですけど」
「そいつが何故だか大流行り、というのが今のシャングリラ学園か…」
一般にはもう流通すらもしていないんだが、とキース君。
「シロエの副業で時ならぬブームだ、そうなってくると調べるヤツらも増えてくるしな」
かつてのゲームの遊び方を…、という話から。
「流行りは裸縛りってヤツだったっけ?」
「らしいぜ、キノコ縛りとな」
ジョミー君とサム君が頷き合って、スウェナちゃんが。
「何なの、それは? 裸縛りとかキノコ縛りって…」
「なんか使わないって意味らしいよ?」
ぼくもゲームはやってないけど、とジョミー君が言えば、シロエ君が。
「簡単に言ってしまうとですね、特定のアイテムを使わないでゲームを進めるんですよ」
「そうか…」
あれはそういうヤツだったのか、とキース君。
「そうじゃないかとは思ったんだが、どういう風にだ?」
「裸縛りだと防具無しです、裸一貫っていう感じですね。防御力がグッと落ちるわけです」
「なるほど…。それは難しいかもしれないな」
「そうなりますね。その状況で何処までやれるか、仲間と競って遊ぶんですよ」
キノコ縛りはキノコ無しです、という説明ですが。
「「「キノコ?」」」
「ゲームの世界のアイテムですよ。キノコを食べると回復だったり、効果が色々…」
「それを食わずに進めるんだな、なるほどな…」
面白い縛りがあったものだ、とキース君がニッと。
「俺はゲームはやっていないが、同じやるならキノコよりも裸縛りだな」
そっちの方が楽しそうだ、という意見。キノコよりも裸なんですか…?
シロエ君が修理したゲーム機で流行っているゲーム。同じ遊ぶならキノコ縛りより裸縛りだ、とキース君が言い出しましたが、どうしてそっちの方がいいわけ?
「あくまで俺の個人的な意見ということになるが…。武道を志す者としてはな」
防具無しの方を選びたい、と柔道部ならではの見解が。
「ああ、分かります! ぼくもやるなら、断然、裸縛りの方ですね」
今は修理に忙しいのでやりませんが、とシロエ君。
「一段落したら、ちょっとやろうかと思ってるんです、久しぶりに」
「おっ、やるのかよ?」
お前も参戦するのかよ、とサム君が訊くと。
「もちろんですよ! これだけ流行ってるんですからねえ、やっぱり一度は遊ばないと…」
「それじゃ、シロエも裸縛りでやろうってわけ?」
キノコじゃなくて、とジョミー君。
「縛るんだったら裸でしょう。キノコくらいはどうとでもなります」
「…そういうもの?」
「そんなものですよ、一種のコツがありますからね」
キノコが無くても抜け道色々、とシロエ運。
「ですからキノコを縛るよりかは、裸縛りの方が面白味ってヤツがあるんですよ」
もう本当に運次第で…、とシロエ君が語れば、会長さんも。
「そうだろうねえ、ぼくもゲームはやってないけど、やるならそっちの方を選ぶよ」
「会長もやってみませんか? そうだ、いっそみんなで遊ぶというのも…!」
この際、みんなで裸縛りで…、とシロエ君は乗り気で。
「面白いですよ、あのゲームは」
「そうなのかい? お勧めだったら、その内に遊んでみるのもいいかな…」
「是非やりましょう!」
誰が勝者になるかが全く読めませんからね、と言われてみれば…。
「そっか、ゲームで競ったことって…」
無かったかな、とジョミー君が首を捻って、マツカ君が。
「無いですねえ…。長い付き合いですけれど」
「ね、そうでしょう? 一度みんなで!」
「それもいいねえ…」
悪くないね、と会長さんが頷きました。シロエ君の副業とやらが一段落したら、みんなでゲーム。キノコ縛りだか裸縛りだかで、腕を競おうというわけですか…。
「ぼくは裸縛りを推しますね!」
やるならソレです、とシロエ君が熱く勧めて、キース君も。
「キノコ縛りよりは、そっちだという気がするな…」
「縛り無しっていうのは?」
ジョミー君が声を上げましたが、サム君が。
「同じやるなら縛りつきだろ、無しだとイマイチ面白くねえよ」
「ぼくもそっちに賛成だよ!」
「「「!!?」」」
あらぬ方から声が聞こえて、振り向いてみればフワリと翻る紫のマント。ソルジャーがツカツカとリビングを横切り、空いていたソファに腰を下ろして。
「ぶるぅ、ぼくにも何か飲み物! おやつもあると嬉しいんだけど…」
「かみお~ん♪ そろそろおやつも入りそうだしね!」
サッとキッチンに走って行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がアーモンドクリームタルトを切り分けて運んで来てくれました。紅茶やコーヒー、ココアなんかも注文を聞いて熱いのを。
「はい、どうぞ!」
「「「いっただっきまーす!」」」
うん、美味しい! と頬張った所で、ソルジャーが。
「それでさ、さっきの裸縛りの話だけどさ…」
ぼくたちもやってみたいんだけど、とタルトを口に運ぶソルジャー。えっと、ぼくたちって…?
「決まってるだろう、ぼくとハーレイ!」
遊ばせてよ、と言われましても。
「あのぅ…。そういうゲームですよ?」
シロエ君が念を押しましたが。
「ゲームだからこそ、やりたいんじゃないか! 裸縛りを!」
是非ともそれで遊んでみたい、と熱意溢れるソルジャーの瞳。そんなにゲーム好きでしたっけ?
「モノによるんだよ、ハーレイとはレトロなボードゲームもやったりするしね」
「ああ、なるほど…。分かりました」
それじゃ二人分を余分に調達します、とシロエ君。
「なにしろ昔のゲームですから、行く所へ行けばタダ同然で売られてますしね」
「…売られてるって…。タダ同然で!?」
なんて素晴らしい世界だろう、と妙に感激しているソルジャー。誰も遊ばなくなったようなゲームとゲーム機、そういうものだと思いますけどね?
ゲームをするなら混ぜてくれ、と現れたソルジャーはシロエ君の言葉に感動しきりで。
「それじゃシロエに任せておくけど、アレだね、シロエも顔が広いね」
「それはまあ…。こういう道では長いですから」
行きつけの店も多いんですよ、とシロエ君。
「バイトから店長になった知り合いも大勢いますし、情報も豊富に入って来ますよ」
「素晴らしすぎるよ! まさかシロエにそんな特技があっただなんて!」
知らなかった、と嬉しそうなソルジャー。
「だったら、これからはノルディばかりに頼っていないで、そっちのルートも活用しなくちゃ!」
「「「は?」」」
どうして其処でエロドクターの名前が出るのだ、と思いましたが。
「だってそうだろ、シロエの方でもルートがあるっていうんだからさ!」
しかもタダ同然で色々なアイテムが手に入るルート、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「あの手のヤツって、ぼったくりだと思ってたけど…。ある所にはあるんだねえ!」
「…何がです?」
何のことです、とシロエ君が訊き返すと。
「嫌だな、今更、照れなくっても…。裸縛りのゲームに使うアイテムだってば!」
「ああ、それは…。ぼったくる店もありますけどね」
店の見分けが大切なんです、とシロエ君。
「マニアとかコレクター向けの店だと、プレミアがついて高値になるのがお約束です。でもですね、そういったものには見向きもしないような人が多い店だと…」
「安いってわけだね、それはそうかも…」
その趣味が無い人には売れないだろうね、とソルジャー、納得。
「高い値段をつけておくより、安くても売れる方がいい、と」
「そうです、そうです。仕入れたからには売らないと店も損をしますし…。それに売りに行く方も心得てますよ」
詳しい人なら、とシロエ君は得々として。
「タダでも引き取って貰えそうにないものと、自分にとってはどうでもよくても世間で人気の高いものとを持ってってですね、セットでなければ売りません、と言うわけですよ」
「なるほどねえ…! そうやって成り立っているわけなんだね、あの業界は」
「チェーン店だと駄目ですけどね」
その手の技が通用しません、と得意げに語られる玄人ならではの知識の数々。狙い目は個人経営の店なんですか、そうですか…。
シロエ君の話に聞き入ってしまった私たち。ソルジャーも相槌を打ったり質問したりと、大いに満足したようで。
「それじゃよろしく頼むよ、シロエ。ぼくとハーレイも混ぜて貰うってことで!」
「いいですよ。…用意が出来たら連絡ってことでいいですか?」
「どうしようかなあ…。次の週末、暇なんだけどね?」
「次ですか…」
シロエ君は壁のカレンダーを眺めて、それから指を折ってみて。
「その辺りだったら、なんとか間に合うと思いますよ。副業の方は当分忙しそうですが…」
たまには息抜きに遊んでみます、という返事。ソルジャーは「いいのかい?」と嬉しそうで。
「そこならハーレイも休めるんだよ、帰ったら早速、休暇届けを出しとかなくちゃ!」
「…遊び方の説明とかは要らないんですか?」
要るようでしたら付けときますが、とシロエ君。
「初めて遊ぶって人ばかりですしね、入門書をサービスしてるんです。ぶっつけ本番がいいって人も多いんですけど、入門書希望の人もけっこう…」
「ふうん…? 入門書まで作っているのかい?」
「ごく簡単なヤツですけどね。ページ数はそんなに無いんですよ」
基本のプレイと使い方くらいで、とシロエ君は謙遜していますけれど、その入門書。一度は要らないと断った人が貰いに来るほど、実は人気の品だったりします。分かりやすいと評判も高く、基本と言いつつ裏技も多数。
「へええ…。シロエがそういう入門書をねえ…」
流石は裸縛りの達人、とソルジャーはいたく感心したようで。
「ぼくも入門書は要らないってクチの人間だけどさ、それは貰っておこうかなあ…」
「分かりました。ゲームとセットで渡せるようにしておきますよ」
「…先には貰えないのかい?」
その入門書、とソルジャーが。
「入門書だけ先に貰えるんなら、ぼくのハーレイと是非、読みたいんだけど!」
「いいですけど…。生憎と今日は持って来てなくて…」
「君の家にはあるのかい?」
「ありますよ。人気ですしね、昨夜も何冊か作ってたんです」
余裕のある日に作っておかないと在庫切れになってしまいますし…、という計画性の高さ。この几帳面な性格が反映されてる入門書ですから、そりゃあ人気も出ますってば…。
シロエ君の家にはあるらしいですが、持って来てはいない入門書。ソルジャーはそれに興味津々、少しでも早く欲しいらしくて。
「シロエの家にあるんだったら、一冊、欲しいな…。それとも二冊貰えるのかい?」
ぼくの分とハーレイの分とで二冊、とソルジャーが訊くと。
「もちろんです。サービスですから、一人一冊は基本ですよ」
「嬉しいねえ! …出来れば持って帰りたいけど、君の家だし…」
瞬間移動で取り寄せるのは反則だよね、と残念そうにしているソルジャー。
「普段から馴染みの家なんだったら、ヒョイと取り寄せちゃうんだけれど…。シロエの家とは馴染みが無いから、家探しみたいになっちゃうし…」
「かみお~ん♪ ぼく、お手伝い出来ちゃうよ!」
シロエを家まで送ればいいの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が名乗り出ました。
「しょっちゅう送り迎えをしてるし、瞬間移動で送ってあげれば、シロエが入門書を二冊用意して帰って来られるよ、合図一つで!」
「本当かい? …シロエ、そのコースでお願い出来るかな?」
ソルジャーがシロエ君に視線を向けると。
「いいですよ? えーっと…。ぶるぅ、ぼくの部屋まで送って貰えますか?」
「お部屋でいいの? 作業部屋じゃなくて?」
「入門書は部屋の方なんですよ」
「オッケー! 行ってらっしゃーい!」
帰りは思念波で合図をしてね! とキラッと光った青いサイオン。シロエ君の姿がパッと消え失せ、ソルジャーは「有難いねえ…」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に御礼の言葉を。
「ありがとう、ぶるぅ! 君はいい子だよね、ぼくのぶるぅと違ってね」
「えーっ!? ぶるぅもいい子だと思うんだけど…」
「アレはダメだね、だからゲームにも混ぜてやる気は無いんだよ、うん」
ぼくのハーレイだってやる気を失くしてしまうから…、とブツブツと。
「いくら周りが盛り上がっていたって、ぶるぅはねえ…」
「ぶるぅ、駄目なの?」
「よくないね! なにしろ悪戯が生き甲斐だけにね!」
ついでに覗き…、とソルジャー、溜息。
「せっかくのゲームがパアになるんだよ、ぶるぅがいるっていうだけで!」
「「「あー…」」」
それはそうかも、と私たちも深く頷きました。悪戯されたらゲームどころじゃないですしね…。
間もなくシロエ君から「用意出来ました」と思念波が。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のサイオン発動、シロエ君はリビングに青い光と共に戻って来て。
「昨夜作った甲斐がありましたよ、休日に二冊も出るなんて思っていませんでしたし…」
「申し訳ないね、急に我儘言っちゃって…」
「いえ、せっかくのゲームですから…。早めに知識を入れておいたら有利ですよ」
どうぞ、と差し出された入門書が二冊。
「あっ、俺も貰っておきてえな、それ!」
「ぼくも早めに欲しいんだけど!」
サム君とジョミー君が声を上げ、キース君も腰を浮かせています。そういうのは早めに言ってあげたらシロエ君も一回の往復で済んだのに…、と思ったのですが。
「…モンスター狩り入門ねえ…」
ある意味、モンスター狩りかもね、と表紙を眺めているソルジャー。
「普通の人には敷居が高いものだとも聞くし、ぼくとハーレイにしたってねえ…。ハーレイはヘタレが基本だからねえ、モンスターに挑むようなものだよね、うん」
「「「は?」」」
キャプテンのヘタレとゲームで遊ぶのとにどう関係があるんだか、と首を傾げていれば、ソルジャーは入門書をウキウキ開いて。
「…えっ?」
キョトンと目を見開いているソルジャー。異世界のゲーム機の操作方法が謎だったのか、ゲーム機そのものに馴染みが無いのか。どっちだろう、と観察していると。
「…これって、ゲーム機の使い方のように見えるんだけど?」
「そうですよ? まずは其処から書かないと…。今のとは形が変わって来ますし」
「ふうん…? じゃあ、この先が問題ってことで…」
ゲーム機を何に使うんだろう、とソルジャーはページをパラパラめくっていましたが…。
「ちょっと訊いてもかまわないかな?」
これについて、と指差す入門書。
「いいですけど? 分からない単語でも出て来ましたか?」
「そうじゃなくって…。これの何処が裸縛りなわけ?」
「ああ、それはですね…。入門書には書いていないんですよ、そういう遊び方までは」
防具無しっていう意味ですね、とシロエ君はソルジャーに解説しました。入門書にも載っているような基本の防具も無しで遊ぶのが裸縛りで、防具無しだけにリスクが高いと。それだけに達成感も大きく、キノコ縛りも人気なのだと。
「…裸縛りって…。そんな遊びのことだったわけ!?」
おまけにキノコ縛りなんていうのもあったのか、とソルジャーは愕然とした表情で。
「どおりでシロエが詳しい筈だよ、入門書まで作るくらいにね…」
「…どうかしたわけ?」
君は何かを間違えたのかい、と会長さんがニヤニヤと。
「ぼくたちと一緒にゲームしたいとか、君のハーレイまで連れて来るとか、妙に嬉しそうにしていたからねえ、あえて訊くような無粋な真似はしなかったんだけれどね?」
「分かってたんなら、無粋なチョイスで良かったんだよ!」
ぼくの期待を返してくれ、とソルジャーの泣きが入りました。
「シロエが詳しいっていう店の方も、どういう店だか分かったよ! ぼくが思ってたような店じゃなくって、シロエでも堂々と入れる店で!」
「…何の店だと思ってたんです?」
売る時には身分証明書とかが要るんですけど、とシロエ君が訊くと、ソルジャーは。
「そういう店の逆だってば! 身元なんかは分からない方が良くて、十八歳未満かどうかの確認くらいで、それだって微妙なくらいのお店!」
早い話がアダルトショップ、と出て来た言葉に唖然呆然。万年十八歳未満お断りと言われる私たちですが、アダルトショップが何かくらいは分かります。シロエ君とソルジャーが盛り上がっていたのがアダルトショップと勘違いしての話となったら、裸縛りの方だって…。
「そうだよ、ぼくは裸で縛り上げる方の遊びだとばかり…!」
真っ裸にしたり、真っ裸にされたり、それをロープや紐やらで…、と斜め上な台詞。それってどういう遊びなんですか、ソルジャーの言う裸縛りとは…?
「いわゆるSMプレイだよ! それをやろうとしているんだと思ってさ…!」
だから混ざりたかったのだ、とソルジャーはシロエ君が作った入門書を手にしたままで。
「ハーレイにだって休暇を取らせて、こっちの世界でSM三昧! 次の週末はそれに限ると、ぶるぅなんかは混ぜたら終わりだと思ったのにさ…!」
なんてこった、とガックリ眺める入門書。本当に本物のモンスター狩りのゲームだったと、SMプレイというモンスターに挑むわけではなかったと。
「…あのねえ…。気付かない方がどうかしてると思うんだけどね?」
この面子で、と会長さんが私たちの方を順に指差しました。
「普段から何も分かっていないと評判の面子! これでどうやってそういう遊びを?」
「…シロエが詳しいって聞いたから余計に騙されたんだよ…」
ちゃんと話が噛み合ってたから、と項垂れられても困りますってば、そんな勝手な勘違い…。
自分に都合よく聞き間違えたか、取り違えたか。裸縛りをしたかったらしいソルジャーの思惑は分かりましたが、アヤシイ遊びに付き合う義理はありません。シロエ君は「じゃあ、この冊子は要らないんですね?」と入門書二冊を回収すると。
「ゲーム機とソフトの手配も要りませんよね、勘違いですし」
手間が省けて助かります、と立ち直りの早さは頭脳派ならでは。いえ、柔道も凄いですから文武両道と言うのでしょうけど…。ダメージの深さはソルジャーの方が大きそうだな、と見ていると。
「待ってよ、ゲーム機はどうでもいいけど、裸縛りの方だけは…!」
そっちは諦め切れないのだ、とソルジャーが始めた悪あがき。次の週末は裸縛りで遊びたいのだと、裸縛りをやってみたいと。
「あのですね…。ゲーム機が無いと出来ませんからね、裸縛りは!」
ついでにキノコ縛りも無理です、とシロエ君が毅然と切り返しを。
「ぼくたちが遊びたい裸縛りはゲーム機が無いと不可能です! キノコ縛りも!」
「待ってよ、キノコ縛りというのは何なんだい?」
それも魅力的な響きだけれど…、と食い下がるソルジャー。シロエ君は「キノコと言ったらキノコですよ」とバッサリと。
「ゲームの中で使うアイテムなんです、キノコを食べれば色々な効果があるわけですが…。それを一切使わないのがキノコ縛りというプレイです!」
「…たったそれだけ?」
「それだけです!」
それ以上でも以下でもないです、とシロエ君は容赦がありませんでした。…って言うか、ソルジャー相手にここまで戦えた人が今までに誰かいただろうか、と思うくらいに強いシロエ君。あのソルジャーにはキース君はおろか会長さんでも歯が立たないのが私たちの常識だったんですが…。
「そのキノコの効果って、どんな風に…?」
色々というのはどんな感じで…、とソルジャーはまだ未練たらたら。シロエ君は「そんなのを知ってどうするんです!」と一刀両断、ゲームもしないのに意味など無い、と言いつつも。
「回復薬とか強化薬とか、栄養剤とか、秘薬とか…。いにしえの秘薬もありましたね、ええ!」
どれも関係無いですけどね、とツンケンと。
「知りたかったら、まずはゲームを始めて下さい。それからだったら相談に乗ってもいいですよ」
裏技だろうが、キノコ縛りの抜け道だろうが…、と言われたソルジャー、悄然として。
「…そのキノコ、全部、ゲームの世界のものなんだ…?」
おまけに縛るのもゲーム用語か、とそれはガックリきている様子。キノコなんかを縛った所で何かの役に立つんでしょうかね、この現実の世界ってヤツで…?
裸縛りを勘違いしてSMプレイがしたかったソルジャー、今度はキノコに御執心。キノコを縛って何の得があるというのやら…、と思っていたら。
「だって、キノコを縛るんだよ!?」
ぼくのハーレイにもそれは立派なキノコが一本! とソルジャーはキッと顔を上げて。
「ぼくにもそれほど立派じゃないけど、キノコってヤツがついてるんだよ! 正確に言えばキノコじゃないけど、キノコそっくりの部分がアソコに!」
此処に、とソルジャーが指差す股間。ハーレイのアソコは立派なキノコだと、こっちの世界で言う松茸だと。
「「「…ま、松茸…」」」
なんというものに例えてくれるのだ、と今の季節が秋でなかったことに感謝しました。松茸の季節はとうに終わって今は真冬で、当分の間、松茸には会わずに済む筈です。松茸も、他のキノコにも。けれどソルジャーは「キノコなら此処にあるじゃないか」と譲らなくて。
「裸縛りも魅力的だけど、キノコ縛りだって…! しかも強化薬とか秘薬だなんて…!」
いにしえの秘薬もあるだなんて、とシロエ君が挙げたラインナップをズラズラと。
「それでこそ最高のキノコなんだよ、食べればもれなくパワーアップ!」
しっかり縛って、それから食べる! とグッと拳を。
「ハーレイのアソコをキッチリ縛れば、きっとパワーが漲るわけで!」
「…勝手にやっててくれませんか?」
次の週末はぼくたちはゲームをするんです、とシロエ君はまさに最強でした。
「ゲーム機を持たずに参加はお断りです、キャプテンと二人でお好きに遊んでおいて下さい」
「…裸縛りとキノコ縛りで?」
「遊び方は人それぞれですから、縛らない人も中にはいますよ」
縛ったら最後、まるでゲームが進まない人も多いんですから、と当然と言えば当然な話。
「縛りプレイは猛者向きなんです、素人さんにはそうそうお勧めしませんね!」
でもぼくたちはやりますけどね、とキッパリと。
「キース先輩も乗り気でしたし、他のみんなもやるなら裸縛りなんだということですし…。次の週末はゲームなんです、ゲーム機を持たずに来て頂いても、いいことは何もありませんから!」
「…そういうオチかい、ぼくはわざわざやって来たのに?」
「ぼくだって、わざわざ入門書を取りに帰りましたよ!」
勘違いのせいで瞬間移動はお互い様です、と言い返されたソルジャーは。
「ぼくのは空間移動なんだけど…」
「ほんの一文字、違うだけです!」
どっちもサイオンで移動ですから、とシロエ君も負けていませんでした。かくしてソルジャー、手ぶらで帰って行く羽目になって…。
「すげえな、シロエ! 追い返したぜ、あいつをよ!」
サム君がシロエ君の肩をバンバンと叩いて、キース君が。
「俺はお前を見直さないといけないな…。柔道の方なら負けはしないが、あいつの扱いについては負けた。一本取られたという気がするぞ」
「本当ですか、キース先輩!?」
ぼくは先輩に勝ったんですか、とシロエ君は感無量で。
「夢を見ているような気分ですよ。ぼくはゲームについて語っただけなんですが…」
「いや、充分に凄かった。流石はゲーム機を修理出来るだけの達人ではある」
しかもゲームもやり込んだんだな、とキース君はシロエ君を絶賛しました。だからこそソルジャーに口先だけで勝利できたと、見事に叩き出せたのだと。
「俺は猛烈に感動している。まさかあいつに勝てるヤツが存在していたとは…」
「ぼくも同感だよ、シロエがアッサリ勝つだなんてね」
あのブルーに…、と会長さんも大感激で。
「話が最初から噛み合ってないことは分かっていたけど、シロエがいなけりゃ、今頃はね…。もう間違いなく大惨事ってね」
「そうでしょうか?」
「うん、保証する。次の週末はゲームどころか仮装パーティーとかにされていたね」
そして裸で縛りなのだ、と会長さんは吐き捨てるように。
「ぼくたちは絶対参加しないと言ったってさ…。相手はなにしろブルーだからねえ?」
もう強引に押し掛けて来るに決まっている、と言われて私たちも「うん、うん」と。ソルジャーだけに教頭先生を巻き込むこともありそうで…。
「その線も大いにあっただろうねえ、仮装パーティーをやらかすならね!」
真っ裸にされて縛り上げられたハーレイを肴に飲む会だとか…、と会長さんの発想の方もソルジャーに負けず劣らず酷いものでした。教頭先生を裸縛りだなんて…。
「だけどブルーは好きそうだろ? そういうのもさ」
「…好きそうですね、あの性格なら」
裸もキノコも縛りますよ、とシロエ君が溜息をついて、ソルジャーの手から回収して来た入門書の表紙を手でパタパタと軽くはたいて。
「この二冊、誰か要りますか? 今ならお得な裏技ペーパーをサービスしますが」
裏技ペーパーのお届けは明日に会った時に、という声に「ハイ、ハイッ!」と挙がる手が多数。ジャンケン勝負の末にサム君とマツカ君がゲットしました、マツカ君、ジャンケン、強かったんだ?
シロエ君がソルジャーを追い返したお蔭で、一週間は何事も無く過ぎてゆきました。水曜日には「早めに慣れておいて下さい」とシロエ君からゲームソフトとゲーム機が配られ、入門書も。放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で練習を重ね、家でも練習をして…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日はみんなでゲームだよね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出迎えてくれた、土曜日の朝の会長さんの家。寒波襲来で寒かったですから、まずは身体と手を温めて…。
「よーし、やるぞーっ!」
負けないぞ、とジョミー君がゲーム機の電源を入れて、私たちも。会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」もシロエ君が修理した古いゲーム機でスタンバイです。
「会長、サイオンは抜きですよ? それに、ぶるぅも」
「分かってるよ。ついでに裸縛りだっけね」
「かみお~ん♪ 防具無しでも頑張るんだもん!」
さあやるぞ、とゲーム画面に向かった時。ピンポーン♪ と玄関チャイムが鳴って。
「誰かな、いきなり出鼻をくじいてくれたのは?」
宅配便かな、と会長さんがチッと舌打ち、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出てゆきましたが…。
「えとえと…。誰か、ハーレイ、招待してた?」
「「「はあ?」」」
なんだ、と顔を上げれば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の後ろに教頭先生が。コートを手にして、何故だか大きな紙袋まで。まさか中身はゲーム機では…、と注目したら。
「…そ、そのう…。今日はゲームだと聞いたのだが…」
「ゲームの日だけど?」
見ての通りで、と会長さんが自分のゲーム機を持ち上げて見せて。
「忙しいんだよ、今から始めるトコだから!」
「そうか、間に合ったようで良かった。注文の品を色々と揃えて来たものだから…」
これだ、と指差された紙袋。差し入れの食料か何かでしょうか? でも誰が…?
「ありがとう、ハーレイ! 買って来てくれた!?」
「「「!!?」」」
いきなり降って湧いたソルジャー、それも私服ときたものです。隣には私服のキャプテンまでが。
「どうも、ご無沙汰しております。本日はよろしくお願いします」
「いえ、私の方こそ…。お役に立てればいいのですが」
こういった縛りは初めてでして…、と挨拶している教頭先生。もしや紙袋の中身はゲーム機でも差し入れの食料でもなくて、もっとイヤンなものだとか…?
「ゲーム機はちゃんと用意して来たよ、この通り!」
こっちのハーレイも、ぼくのハーレイもゲーム機でね、とソルジャーは胸を張りました。この二台を使って裸縛りにキノコ縛りだと、ぼくも縛って貰うのだと。
「ちょ、ちょっと…!」
なんで何処からそういう話に…、と会長さんが慌てたのですが。
「君のアイデアがヒントになってね! 仮装パーティーなんてケチなことは言わずに、しっかりゲーム! 縛って遊んで、朝までガンガン!」
脱いで、脱いで! とソルジャーが促し、キャプテンが。
「脱がないことには始まらないそうです、ご一緒しましょう」
二人でしたら私も多少は心に余裕が…、と教頭先生に声を掛け、教頭先生が頷いて。
「そうですね…。脱がないと裸縛りになりませんしね、買って来た道具も無駄になりますね」
「ちょ、道具って…!」
いったい何を買ったわけ!? と会長さんが叫べば、ソルジャーが。
「それはもう! 紐にロープに他にも色々、栄養ドリンクとか精力剤とか!」
いにしえの秘薬も、それっぽいのを漢方薬店で特別配合! と強烈な台詞。
「これを使って裸縛りにキノコ縛りだよ、ちゃんとゲームに参加するから!」
特別休暇は取って来た! という声が響いて、ソルジャーはセーターをバサリと脱ぎ捨てました。
「さあ、始めるよ、裸縛りを! はい、脱いで、脱いで!」
「…だそうです、脱ぎましょうか」
まずはセーターを、とキャプテンが脱いで、教頭先生もセーターをポイと。
「そういうゲームの日じゃないんだけど!」
あくまで今日のは…、と会長さんがシロエ君の方を振り向いて。
「シロエ、あれを止めて! もう止められるのは君しかいない!」
「…え、えーっと…」
ぼくもこういうのは範疇外で…、とシロエ君も今回はお手上げでした。一度はソルジャーを追い返したというシロエ君でも駄目となったら…。
「…は、裸縛り…」
「キノコ縛りも来るのかよ!?」
もうこうなったらゲームに集中、それしか道はありません。ゲーム画面を見ている限りは…。
「「「何も視界に入らない!!!」」」
徹夜で朝までゲームしてやる、と決意したものの、狂乱の宴に勝てるのでしょうか? いえ、その前に教頭先生はどうなるんでしょうか、早くも鼻血で轟沈ですが…、って見ている場合じゃないですね? ゲーム、とにかくゲームです。裸縛りで頑張りますーっ!
ゲームで縛れ・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
シロエ君が始めた副業のお蔭で、あのソルジャーを相手に、劇的な勝利でしたけど。
なんと言ってもソルジャーなだけに、まさかの逆転。悲惨な徹夜ゲームの行方が心配です。
次回は 「第3月曜」 6月15日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月はGWも終わった平日のお話。キース君が朝から災難で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(えっ…?)
とんでもない、とブルーが目を丸くした新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
何気なく見たら「新婚旅行」という文字が目に入ったから、読むことにした。SD体制が始まる前の、遠く遥かな昔のイギリス。その時代の貴族の新婚旅行についての記事。
広い領地に豪華な邸宅、特権階級だった貴族たち。きっと素敵な旅行だろうと思ったのに。
(お嫁さん、いきなり仕事なの…?)
そう書かれていたから、驚いた。貴族だったら、仕事なんかは無さそうだから。大勢の使用人がいる筈なのだし、家事は一切しなくていい。まして新婚旅行ともなれば、本当に遊び暮らすだけ。そういうイメージで読み始めたのに…。
(…なんだか違う…)
全然違う、と仰天させられた遠い昔の新婚旅行。
後の時代には事情が変わって、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったけれども。その前の時代は全く違った。長い旅には違いなくても、その行き先。
(…他所の家だなんて…)
親戚や友人の屋敷を丸ごと空けて貰って、其処に滞在したという。貴族どころか、王族だって。
家はもちろん、馬車も使用人もそのまま借りる。屋敷の持ち主は他の所へ移っているから…。
(…着いた日の、御飯…)
そのくらいは用意されているかもしれないけれど。次の日からは、下手をしたら着いた日の夕食辺りから、使用人に出さねばならない指示。「これを用意して下さいね」と。
食べたい食事を、食べたい時間に。お茶を飲みたくても、そのように。
いきなり家事の一切合切、それの指図が花嫁の仕事。自分で用意をしなくて済むだけ、使用人がしてくれるというだけ。
(…御飯も、掃除も…)
洗濯だって、指示をしないと上手く回らない貴族の生活。放っておいたら、自分の望み通りには何一つして貰えない。屋敷を貸してくれた人のやり方でしか動かないだろう使用人たち。
この時間に食事をしたいと思うのだったら、時間を指示して、メニューまで。
そうしなかったら、何が出たって言えない文句。下手をすれば無いかもしれない食事。その上、自分の生活ばかりではなくて…。
(お茶会に、食事の会まで開くの?)
そんなものまで開催するらしい。近くで暮らしている貴族や名士なんかを招いて。
主催するのは初めてなのに。使用人たちとも顔を合わせたばかりで、屋敷だってまるで把握してしないだろうに。どういう部屋があるのかも。用意出来るだろう食材なども。
(なのに、こなして初めて一人前…?)
酷いとしか思えないけれど。苛められているような感じだけれど。
当時の貴族には当たり前のことで、誰からも文句は出なかったらしい。そういうものだと思っていたから、新婚旅行が初仕事の場所。夫はともかく、花嫁の方は。
(…今の時代は違うよね?)
貴族なんかはとっくにいないし、その貴族だって「これは酷い」と思い始めたから、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったのだろう。
花嫁が初日から仕事をしなくても済むように。新婚旅行を楽しめるように。
きっと素敵なホテルに泊まって、色々な場所を旅して回って。
ビックリした、と目をパチクリとさせてしまった遠い昔の新婚旅行。
あんな時代じゃなくて良かった、と新聞を閉じて部屋に帰った。今で良かった、と。
勉強机の前に座って眺めた、ハーレイと写した記念写真。夏休みの一番最後の日に。ハーレイの腕にギュッと抱き付いた自分、二人揃って最高の笑顔。
(ハーレイと新婚旅行に行ったら…)
さっき読んだ貴族の旅行などとは違って、素敵で楽しいことだろう。使用人に指図しなくても、旅先で全部して貰えるから。食事の支度も、掃除なんかも、その道のプロに任せておけば。
結婚式を挙げて、それから旅行。
二人で選んだ場所へ向かって、荷物だけを持って。二人きりで出掛ける初めての旅。
(色々、初めて…)
ふふっ、と緩んでしまった頬。ちょっぴり赤いかもしれない。
ホテルに泊まってゆっくりしたなら、二人きりの夜。キスを交わして、それから、それから…。
きっと初めてのハーレイとの夜になるのだろう。やっと本物の恋人同士になれる夜。
チビの自分に「キスは駄目だ」と叱るハーレイ。
前の自分と同じ背丈になるまでは、とキスもしてくれないのがハーレイ。
あれほどうるさいハーレイなのだし、結婚するまでは許してくれそうな気がしないから。いくら強請っても、誘ったとしても、前の自分たちのような恋人同士になることは。
本当に甘くて、幸せな夜。心も身体も、きっと幸せ一杯で。
旅の間中、甘い甘い日々が続くのだろう。朝から夜まで、何度も何度もキスを交わして。
何処へ行くのかは分からないけれど、宇宙から地球を見に出掛けるという話もあった。宇宙船で地球の周りを回る旅。今の自分は宇宙から青い地球を一度も見ていないから。
(だけど、何処でもかまわないよね)
ハーレイと二人で初めての旅に行けるなら。二人きりの日々を過ごせるのなら。
地球を眺める旅でなくても、地球の上での旅で充分。他の地域へ出掛けさえせずに、今の自分が暮らす地域の中の旅でも。
二人きりで過ごす、甘い旅行を終えてこの町に帰って来たら…。
(ハーレイの家に帰るんだよ)
今の自分が生まれ育った、この家ではなくてハーレイの家。其処に二人で帰ってゆく。
きっと初めて泊まる家。
それまでにも何度も遊びに行ったり、結婚の準備で何度も出入りはするだろうけれど…。相手はキスさえ許してくれないハーレイなのだし、結婚するまでは泊めてくれそうもない。いくら大きく育っていたって、「もう夜だしな?」と車に乗せられて、家へと送り返されて。
だから、新婚旅行から帰って来た日が、ハーレイの家での初めての夜。そういう予感。
とても新鮮で特別な夜。
(ホントに色々…)
本物の恋人同士になっていたって、ハーレイのベッドは初めてだから。
ハーレイの寝室で夜を過ごすのも、その夜が初めてなのだから。
新婚旅行の時とは違って、もっと幸せで満ち足りた夜。これからはずっと二人一緒、と。
次の日の朝は、初めての朝食。ハーレイの家で迎える初めての朝で、二人きりの食事。
(…ホントは一回、食べちゃってるけど…)
ハーレイの家で朝も迎えているのだけれども、あれは別。メギドの悪夢を見てしまった夜、何も知らずに瞬間移動をしていた自分。ハーレイのベッドに飛び込んだけれど、たったそれだけ。目を覚ましたらハーレイのベッドにいたというだけ、朝食の後は…。
(送り返されちゃったんだよ…!)
元の家へと、ハーレイの車で。朝食を食べたら、それっきりで。
そんな風にはならない朝が、新婚旅行から帰った次の日。ゆっくりと起きて、もしかしたら目が覚めた後にも、恋人同士の甘い時間が持てるかも…。
(…前のぼくたちだと、無理だったから…)
朝になったら、ソルジャーとキャプテン。名残のキスが精一杯。
シャワーを浴びて制服を着けて、時間通りに朝食だった。係の者がやって来るから。二人きりの食事には違いなくても、決まった時間。キャプテンからの朝の報告、それを聞く食事だったから。
(ちゃんと報告も聞いていたしね…)
恋人同士の会話はあっても、定刻に始まって終わった食事。ベッドで戯れてはいられなかった。
けれど、今度はソルジャーでもキャプテンでもない二人。何時に起きてもかまわない。
(お昼まで寝ててもいいんだものね?)
ベッドで甘えて過ごしていようが、朝から愛を交わしていようが。
また頬っぺたが熱くなる。それを想像してみただけで。
幸せに過ごして起きた後には、遅い時間でも朝御飯。ハーレイが作ってくれるのだろう。たった一度だけ、飛んで来てしまったあの日と同じで。
「お前、オムレツの卵は幾つだ?」などと尋ねてくれて。
ハーレイはきっとコーヒーを淹れて、其処から始まるだろう一日。トーストの匂いや卵料理や、美味しそうな匂いが漂う中で。
新婚旅行から帰って来たって、ハーレイの休暇が続く間は、本当に蜂蜜のような日々。甘い甘い時を二人で過ごして、ハネムーンの続きの幸せな日々。
でも…。
(終わったら、仕事…)
今頃になって気付いた現実。ハーレイの休暇はいつか終わって、仕事にゆく。学校へと。
自分はポツンと残されるのだった、家に一人で。ハーレイを仕事に送り出して。
結婚式や新婚旅行や、楽しかった日々が終わったら。ハーレイの休暇が済んでしまったら。
(…ゴールじゃなかった…)
ずっと幸せな甘いことばかりが続くんじゃなかった、と零れた溜息。
ハーレイとの結婚が目標だけれど、結婚式はゴールではなくて、始まりだった。二人で暮らしてゆくことの。ハーレイと一緒に生きてゆく日々の。
ずっとその日を夢に見ている、色々なことも始まるけれど。旅行も食事も、日帰りではない長いドライブだって出来るのだけれど。
(独りぼっち…)
ハーレイと一緒に暮らしていたって、仕事にはついて行けないから。
朝、ハーレイを送り出したら、一人で家にいるしかない。時間を潰せることを見付けて。掃除や洗濯をするにしたって、きっと一日もかかりはしないし、他に時間を潰せる何か。
そういう何かが見付からないなら…。
(ぼくも仕事に出掛けるとか…?)
仕事はあまり、向いていそうにないけれど。
ハーレイにも、そう言われたけれど。家にいる方が似合いそうだと。
やりたい仕事は思い付かないし、前の自分はソルジャーだった。まるで役には立たない経験。
今のハーレイもキャプテンだった頃とは全く違う仕事だけれども、ハーレイの場合は…。
(元々、違う仕事の経験者だったんだよ!)
厨房からブリッジに転職したのが前のハーレイ。料理とキャプテンは違いすぎる仕事。それでも苦もなくこなしていたから、古典の教師という今の仕事も天職の一つなのだろう。
それに比べて自分ときたら、出来そうな仕事も思い付かない。家にいるしか無さそうな自分。
(どうなるの、ぼく…?)
ハーレイが仕事で留守の間は、何をしていればいいのだろう?
母のように料理を頑張ってみるとか、お菓子作りや、庭仕事や。お菓子作りなら…。
(ハーレイの好きなパウンドケーキ…)
大好物だと聞いているから、マスターしようと思っているケーキ。ハーレイの母が作るケーキと同じ味のを、それが焼ける母に教わって。
見事に焼けたら、ハーレイの笑顔が見られそうだけれど。
そう毎日は作れないだろう。同じお菓子しか出ない日々だと、ハーレイが飽きてしまうから。
他にも色々なお菓子や料理を作るためには…。
(お嫁さんの学校…)
料理やお菓子の作り方を教えてくれる学校に行くのが、多分、一番。
行こうと思ったこともあるけれど、男の子向けのコースは無い。残念なことに、対象はあくまで女性ばかりで、男性が行くならプロの料理人を目指す学校。
お嫁さんの学校と違って毎日授業で、通う期間も長すぎる。とても行ってはいられない。
そうなってくると…。
(現場で勉強…?)
さっき新聞で読んだばかりの、イギリス貴族の花嫁のように。
新婚旅行に行った途端にぶっつけ本番、食事のメニューも家の中のことも、何から何まで一人でやるしかなかった花嫁。自分が指示を出さないことには、食事も出ては来ないのだから。
(きっと色々、失敗だって…)
起こっていたに違いない。慣れない間は、きっと沢山。そうやって経験を積んだのだろう。
(使用人を使うか、自分でやるかの違いだけ…)
イギリス貴族の花嫁も自分も、初心者という点は全く同じ。現場で勉強するしかない。料理も、他の色々なことも。
(前のぼくだって、やっていないし…)
青の間の掃除をしていた程度。係にばかり任せていては悪いから、と出来る範囲で。
けれど、料理や洗濯などはしていなかった。
アルタミラからの脱出直後は、ゴチャゴチャだった船の中を整理したりもしたけれど。気付けば物資を奪うのが仕事、他の雑事は誰かがやってくれていた。
ソルジャーと呼ばれるようになれば尚更、青の間を貰った後には部屋付きの係が何人も。
そういう風に暮らしていたから、前の自分も家事については初心者同然。
今の自分はチビの子供で、やっぱり掃除だけしか出来ない。ハーレイと十八歳で結婚するなら、家事を勉強する暇も無い。今の学校を卒業したら、直ぐに十八歳だから。
どうやら本当に現場で勉強するしかない家事。料理も洗濯も、その他のことも。
(…ぼく、上手く出来る…?)
母のように上手く出来るだろうか、家事というものを。ハーレイが留守にしている間に。仕事に出掛けている間に。掃除はともかく、料理や洗濯。
上手く出来なくても、ハーレイは怒りはしないだろうけど。派手に失敗していたとしても、怒る代わりに「大丈夫か?」と逆に慰めてくれそうだけれど。
(怒る…?)
ふと引っ掛かった、その言葉。きっと怒らない、と思ったハーレイ。
そのハーレイには叱られたことが滅多にない。今の自分も、前の自分も。
(キスは駄目だ、って…)
怖い顔をして睨まれはしても、その程度。コツンと額を小突かれるだとか、軽い拳が降ってくる程度。子供だからというだけではないだろう。前の自分も、怒ったハーレイは殆ど知らない。
怒る時には理由があったし、前の自分も納得していた。だから…。
(喧嘩だって…)
記憶にある限り、酷い喧嘩はしていない。
ハーレイはいつでも折れてくれたし、自分も我儘ではなかったから。
互いの立場を思い遣っては、仲直りするのが常だった。ハーレイが「少し言葉が過ぎました」と謝って来たり、前の自分が「ぼくが悪かったよ」と謝ったり。
ハーレイが本気で怒り出す前に、終わってしまっていた喧嘩。白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイは怒りはしなかった。怒ったとしても、酷い喧嘩は起こらなかった。
怒った所を滅多に見てはいないハーレイ。前の自分と過ごしたハーレイ。
(でも、今のぼく…)
今のハーレイも穏やかだけれど、問題は今の自分の方。平和な時代に育った自分。優しい両親と一緒に暮らして、愛されて育って来たものだから。
(…独りぼっちに慣れていないし…)
ハーレイと二人で暮らし始めたら、「帰りが遅い」と怒ってしまうかもしれない。仕事なのだと分かってはいても、寂しくて。独りぼっちで過ごす時間が長すぎて。
ハーレイは少しも悪くないのに、まるでハーレイが悪いかのように。
遅くなる日が続いたら。…遅いのだったら、ハーレイはその分、長く仕事をしたのだろうに。
ただの我儘、前の自分なら決して言いはしなかったこと。怒るどころか、気遣っていた。そんな時間まで仕事をしていたハーレイを。「遅かったけれど、大丈夫かい?」と。
けれど、今の自分に言えるだろうか?
自分の寂しさばかりをぶつけて、ハーレイのことは考えそうもない。前の自分の頃と違って。
(ハーレイと旅行に行く時だって…)
思い通りに運ばなかったら、不満を零してしまいそうな自分。少し予定が狂っただけで。
ハーレイは何も悪くないのに、「こんなの、酷い!」と。早い話が八つ当たり。
そうなったとしても、ハーレイは笑っていそうだけれど。
「俺のせいではないんだがな?」と余裕たっぷり、気分転換になりそうな話題なんかも。きっと怒りで返しはしなくて、軽く受け流して微笑んでくれて。
ハーレイだったら絶対にそう、と考えたけれど。
前のハーレイと三百年以上も同じ船で生きていたのだから、と思ったけれど。
(もしかしたら…)
今度は事情が違うのだった、とハタと気付いた二人きりの暮らし。いつか結婚してからの日々。
同じ家に住むのだし、毎日一緒。喧嘩したって、お互い、同じ家の中。
もしも自分の我儘が元でハーレイが腹に据えかねていても、距離を置きたいと思っていても…。
(…何処かでバッタリ…)
会ってしまうとか、会った途端に、またしても自分が何か我儘を言うだとか。
(それでホントに怒っちゃっても…)
顔を合わせずには暮らせない。同じ家なら必ず出会う。食事まで別には出来ないから。そこまでやったら、もう本当に大喧嘩。そうなるよりも前に…。
(ハーレイ、怒っちゃうんだよ…)
堪忍袋の緒が切れて。きっと自分が見たこともない怖い顔をして。
「お前と一緒に飯が食えるか!」とか、「お前の顔なんか見たくもない」とか。
そんなハーレイは知らないけれど。前の自分は、一度も出会っていないのだけれど。
酷く怒ったら、ハーレイはどうなってしまうのだろう?
(まさか、叩くとか…?)
前の自分は叩かれたことは無いのだけれども、今の自分は何度もコツンとやられているから。
ああいう優しい「コツン」の代わりに、平手打ち。
大きな手で頬っぺたを引っぱたかれて、「反省しろ!」と怒鳴られるとか。
思ってもみなかった、ハーレイに叱られて叩かれること。
今の自分なら起こりかねない、そういう悲劇。ハーレイと暮らし始めたならば。
(…そんな…)
もし本当にそうなったならば、きっと自分は泣き出すだろう。ハーレイに頬を打たれた途端に。
自分が悪いと分かっていても。ハーレイが怒るのは当然なのだと思っていても。
悲しくて、そして辛くて、痛くて。
どうしてこうなってしまったのだろうと、ハーレイに叩かれるなんて、と。
前の自分だった頃から、ずっと一緒に生きて来たのに。酷い喧嘩は一度もしなくて、ハーレイが自分を叩くことなど無かったのに、と。
ポロポロと涙を零しそうな自分。堪え切れずに泣き声だって。
(でも、ハーレイの方がずっと…)
辛そうな顔になるだろう。悲しそうな顔をしているだろう。
自分が泣いてしまったら。
「こいつが悪い」と思っていたって、きっと後悔するのだろう。思わず叩いてしまったことを。どうして叩いてしまったのかと、ハーレイは悔やむに決まっているから。
(我慢しなくちゃ…)
酷い喧嘩にならないように。我儘ばかりでハーレイを怒らせないように。
頭を冷やしに庭に出るとか、冷たい水で顔を洗うとか。気分を切り替えて戻れるように。
ハーレイを悲しませたくはないから。
幸せ一杯に育った今の自分は、前の自分よりもずっと我儘。
ハーレイがどんなに譲ってくれても、もっと我儘を言いそうだから。ハーレイが怒り出すまで、遠慮なく。頬を叩かれて泣き出す羽目になってしまうまで、好き放題に。
何度も何度も夢に見て来た結婚生活。ハーレイと二人きりの家。
甘くて幸せな日々が始まるのだと思っていたのに、現実はそうはいかないらしい。さっき読んだ遠い昔の貴族の花嫁も大変だけれど、自分も充分、大変だった。
料理や家事はなんとかなっても、抑えられそうにない自分の我儘。ハーレイの帰りが遅いからと怒って、大喧嘩になることもありそうで。
平手打ちなどされてしまったら、ハーレイも自分も悲しいのだから、我慢するしかないだろう。独りぼっちが寂しい時でも、そうは言わずに。ハーレイに我儘をぶつけないで。
(なんだか大変…)
結婚したらホントに大変そうだ、と考えていたら、そのハーレイが仕事の帰りにやって来た。
母がお茶とお菓子を運んでくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。二人きりで過ごせる時間。いつもだったら大喜びで、夕食まで楽しくお喋りだけれど。
(…今だから我儘、言えるんだよね?)
自分はチビで、まだ子供だから。
ハーレイと一緒に住んではいなくて、我儘を言っても額をコツンと小突かれるだけ。大きな手が伸びて来て「こら」とコツンと。「我儘を言うな」と。
コツンとやられても、夕食が済んだらハーレイは「またな」と帰って行くから、怒ったとしてもそれっきり。家に帰れば忘れるだろうし、明日になったら元のハーレイ。
けれど、同じ家で暮らしていたなら、怒った気持ちは溜まるまま。家の中でバッタリ会ったら、我儘を重ねそうなのが自分。
ハーレイの怒りが爆発するまで、堪忍袋の緒が切れるまで。頬を叩かれてしまうまで。
お互い、悲しい気持ちをしなくて済むよう、結婚したら我儘は我慢、とハーレイの顔をついつい見詰めてしまったから。
「おい、俺の顔がどうかしたのか?」
さっきからじっと見ているようだが、何処かに何かくっついてるか?
「んーとね…。我慢しなくっちゃ、って」
いつもハーレイが、そういう顔でいられるように。ちゃんと我慢、って。
「はあ?」
我慢って、何を我慢するんだ、お前?
いつもってことは、今だけのことじゃなさそうなんだが…。どういう我慢だ、お前の我慢。
「今はいいんだよ、一緒に暮らしていないから」
いつかハーレイと結婚するでしょ、その後の話。我慢しなくちゃ、って。
「なんだそれは? どうしたらそういうことになるんだ、結婚したらって…」
お前の夢だろ、俺の嫁さんになるというのは。…夢が叶うのに、我慢というのが謎なんだが?
「えっと…。ハーレイと一緒に暮らすことになるから、我慢なんだよ」
ハーレイを怒らせないように。
今みたいに我儘ばかり言ってたら、いつか喧嘩になっちゃいそう。
ハーレイが帰って来るのが遅いから、って文句を言うとか、他にも色々言いそうなんだよ。
前のぼくなら、ちゃんと我慢が出来たんだけど…。今のぼくは駄目。
アルタミラとかで苦労をしないで育って来たから、ホントに我儘一杯だもの…。
きっと言っちゃう、我慢出来なくて我儘ばかり。
そうならないように、きちんと我慢しなくっちゃ、って思うから…。
一緒に暮らしていくんだものね、と決意表明したのだけれど。
ハーレイは「なんだ、そんなことか」と笑みを浮かべた。「気にしないが?」と。
「結婚したって、お前はお前だ。我慢しなくていいんだぞ?」
今と全く同じでいいんだ、チビの子供でさえなけりゃ。…ちゃんと大きく育っていれば。
好きなだけ我儘を言えばいいのさ、俺の嫁さんなんだから。
今よりももっと我儘になっていいと思うぞ、お母さんたちの目も無いからな。
「でも…。ハーレイ、怒ると思うんだけど…」
うんと仕事が忙しいのに、「早く帰って」って我儘ばっかり言ってたりしたら。
前のぼくみたいに「疲れていない?」って言うよりも前に、「遅いよ」って文句ばかりなら…。
「ふうむ…。その程度で俺は怒りはしないが?」
それだけ寂しかったんだな、とギュッと抱き締めてやるってトコだな。遅くなってすまん、と。
「…ホント? 怒って平手打ちとかはしない?」
ぼくがハーレイを怒らせちゃったら、そういうこともありそうだな、って…。
だから我慢、って思うんだけど…。
「おいおい、失礼なヤツだな、お前」
俺がお前を引っぱたいたことが一度でもあったと言うのか、お前は?
もしも本当に怒ったとしても、前のお前との喧嘩程度だ。
睨んで終わりだ、ギロリとな。
それで充分、お前には効くし…。足りなきゃ怒鳴っておけばいい。
前のお前に怒鳴っちゃいないが、船のヤツらには何度か怒鳴ったこともあるしな。
ついでに、だ…。
前の俺だった頃に、俺が誰かを殴った所。…お前、そうそう知りはしないと思うんだがな…?
三百年以上も生きてたんだが、数えるほどしか手を上げたことは無いのが俺の自慢だ。
ゼルは別だぞ、あれは喧嘩友達でじゃれ合いだからな。
余程でなければ仲間たちに手を上げたことは無い、と言ったハーレイ。
パンチ力には自信があったが、それは最後の切り札だから、と。
「…ただの喧嘩で殴ったことは一度も無い。平手打ちでもな」
ガツンと一発食らわない限り、目が覚めないような大馬鹿者。そういうヤツしか殴らなかった。
それも散々、手を尽くした後で「これしかない」と思った時だ。
ゼルにお見舞いしていたパンチも、あいつが老けてしまった後にはやっていないから…。
お前、本当に殆ど知らない筈だぞ、俺が誰かを殴ったのは。
…忘れちまったか?
「ううん…。思い出した」
ハーレイは睨むだけだったんだよね、怒ってた時も。誰かが凄いヘマをやっても。
呆れたみたいに溜息をついて、腕組みをして睨んでいるだけ。「分からないか?」って。
「俺がどうして怒っているのか分からないほど、お前は馬鹿か?」って…。
怒鳴ることだって、ホントに必要な時だけだったよ。…普段は睨んで溜息だけ。
あれで充分、仲間は震え上がっていたし…。怒らせたんだ、ってペコペコ謝ってたし。
殴られた人って、ハーレイの指示を守らずに危ないことをした人だよね?
一つ間違えたら大事故だ、っていうようなことをやった人だけ。
「そういうことだ。…お前も覚えていたか」
殴られなければ分からないヤツしか殴ってはいない。…殴られたヤツが目を覚ますように。
もっとも、それが通じなかったヤツもいたんだがなあ、前のお前が寝ちまった後に。
ナスカでのことだ、あの星で生きると言い張ったハロルドに一発お見舞いしてやった。
シャングリラにはもう戻らない、と寝言を言っていたからな。
…だが、ハロルドには通じなかった。見ていた他の若いヤツらにも。
あの一発で目が覚めていたなら、ナスカの悲劇は起こらなかった。馬鹿は死ぬまで治らない、と昔から言うが、その通りになっちまったんだ。…ハロルドは。
「そうだっけね…」
ハロルド、ナスカで死んじゃったから…。せっかくハーレイが殴ったのにね。
前のハーレイが手を上げたことは、確かに殆ど無かったのだった。
だからこそ睨みと溜息だけで震え上がった仲間たち。「相当に機嫌が悪いようだ」と。
そんなハーレイが平手打ちなどする筈がない。命を危険に晒したわけではないのだから。
「分かったか? 大丈夫だ、修行を積んである」
そう簡単には殴らないよう、かれこれ三百年以上もな。…平手打ちでも同じことだ。
お前が喧嘩を吹っ掛けて来ても、受けて立たない自信もあるし…。
心配は要らん、結婚したって我儘放題のお前でいいんだ。俺はお前を叩きはしない。
「そっか…。睨むだけなんだね」
ちょっぴり我儘が酷くても。…睨んで溜息、それだけなんだ…。
「そうそう睨みもしないと思うぞ。お前の我儘にも慣れているからな」
前のお前も、ソルジャーとしての我儘ってヤツは相当だった。
俺が止めても、絶対に聞かん。それが必要だと思った時には、止めるだけ無駄というヤツで。
ジョミーを追い掛けて飛んでっちまうわ、挙句の果てにメギドまで飛んでしまいやがって…。
あの時でさえ俺は叩いていないぞ、前のお前を。
メギドはともかく、ジョミーの時なら叩けたんだが…。
お前はベッドで動けなかったし、とピンと指先で弾かれた額。
それでも俺は叩かなかった、と。
「…ハーレイ、ぼくを叩きたかった?」
ジョミーの時には我慢していたらしいけど…。メギドの時は。
命を危険に晒したんだし、前のぼくの頬っぺた、叩きたかった…?
「当然だろうが。…お前が生きて戻っていたらな」
殴るわけには流石にいかんし、派手に平手打ちを食らわせただろう。パアンと一発。
なんて危ない真似をしたんだと、そこまでしろとは言っていないと。
…そうだな、ジョミーの時に叩けば良かったか…。
あそこで一発叩いていたなら、前のお前も、もう少し命を大切にしたかもしれないな。メギドに飛ぶ前に少し考えて、他に最善の道は無いかと。
俺がお前を甘やかしちまって、叩かずに放っておいたから…。
本当に叩いてやりたかった時に、お前は戻って来なかった。…メギドからな。
「…前のぼく、叩かれ損なったんだ…」
ジョミーの時と、メギドの時と。…合わせて二回。
知らなかったよ、二回も叩かれ損なったなんて。…今のぼくの心配ばっかりしてて。
ハーレイはぼくを引っぱたくかも、って。
「なるほど、叩かれ損なった、と…。そういう言い方も出来るのか、あれは」
だったら、今度は叩いてやろうか?
前のお前が叩かれたかったように聞こえないこともなかったしな。
平和な時代じゃ、命の危機も無さそうなんだが…。お望みとあれば、一発くらいは。
我儘が過ぎた時に一発お見舞いするかな、その頬っぺたに。…もちろん、結婚した後だが。
「遠慮しておく…!」
叩かれちゃ困るから、我慢しようと思ったんだから…!
結婚したら我慢が大変だけれど、ハーレイを怒らせて叩かれないよう、頑張らなくちゃ、って!
叩いて欲しいなんて言っていないよ、痛そうだから…!
ぼく、叩かれたら、きっと泣いちゃうんだから…!
叩かないでよ、と悲鳴を上げたのだけれど。
痛い平手打ちも御免だけれども、前のハーレイが前の自分を叩き損ねたと言うのなら。
本当に叩きたかった時には、前の自分がもういなかったと言うのなら。
一度くらいは叩かれてみようか、我儘を言って。
ハーレイが睨んでも、溜息をついても、ちっとも聞かずに我儘放題。
前の自分は、どうやらハーレイに叩かれ損なったらしいから。
メギドから生きて戻っていたなら、ハーレイに頬を派手に叩かれたらしいから。
我儘を言って、溜息をつかせて、睨ませた後で、頬っぺたを出して。
「ぼくの頬っぺたを叩いてもいいよ」と、「あの時の分を返していいよ」と。
ハーレイはきっと、叩きはしないだろうけど。
きっと笑って許してくれるのだろうけれど、一度くらいは叩かれてもいい。
幸せな日々を二人で生きてゆくなら、前の自分がハーレイを酷く悲しませた分の一発を。
きっとペチンと叩かれるだけで、痛くないだろう平手打ち。
ハーレイは今も、ずっと昔も、変わらずに優しいままだから。
そのハーレイといつか結婚式を挙げて、二人きりの日々を幸せに生きてゆくのだから…。
結婚したなら・了
※結婚した後は、色々と我慢しないと、ハーレイを怒らせるかも、と心配になったブルー。
ハーレイの平手打ちは、前のブルーが二回、食らい損ねたらしいです。一度目で叩けば…。
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(んーと…)
やっぱり浮けない、とブルーが見上げたクローゼット。
学校から帰って、おやつを食べた後で。二階の自分の部屋に戻って。
クローゼットの上の方、鉛筆で微かに引いてある線。前の自分の背丈の高さに。ハーレイと再会してから間もない頃に、自分で書いた。これが目標、と。
床から丁度、百七十センチ。チビの自分が其処まで育てば、前の自分とそっくり同じ姿になる。
ソルジャー・ブルーだった頃の姿に。ハーレイとキスが出来る背丈に。
けれど、クローゼットに書いた印は遠いまま。いつもこうして見上げるだけ。届かないよ、と。
少しも近付いてくれない印。百五十センチから、一ミリさえも伸びない背丈。
それに…。
(…あの高さにだって、届かないよ…)
届かないのは背丈ではなくて、自分の頭がある高さ。こうして見上げるだけしか出来ない。
あそこに印を書き入れた日には、あの高さまで浮けたのに。サイオンを使って、ふうわりと。
前の自分の視点で見たなら、この部屋はどう見えるのか。床の位置やら、棚の高さやら、色々と眺めて遊んでいた。前とそっくり同じに育てばこう見える筈、と。
浮き上がったり、床に下りたり、何度も繰り返し遊んでいたのに…。
今はちっとも浮かない身体。どんなに印を見上げていても。
駄目だ、と今日もついた溜息。ぼくは少しも浮けないみたい、と。
タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いが不器用な自分。両親も呆れてしまうほど。瞬間移動は夢のまた夢、空も飛べない。床から浮くことだって出来ない。
(あの日は前のぼくだった?)
クローゼットに書いた印の高さに浮いていた日は。浮いたり下りたり、楽しんだ日は。
きっと気分が高揚していて、無意識の内にやっていたこと。
そういうつもりは無かったけれども、前の自分の記憶か経験、そういったものを引き出して。
遠く遥かな時の彼方でやっていたことを、そのまま写して。
(…今のぼくのサイオン、不器用だけど…)
あの日は確かに浮いて遊んだ。前の自分の視点はこう、と。努力しなくても出来たこと。
それから、メギドの悪夢を見た日に、ハーレイの家まで飛んで行った自分。無意識の内に、瞬間移動で。ハーレイが眠っていたベッドまで。
だから自分にも、潜在的には…。
(力、あるよね?)
サイオンは生まれつき不器用だけれど。自分の意志では、まるで使えはしないけど。
それでも力は持っているから、使えることもあるのだろう。
前の自分が身体の中に戻った時には、きっと上手に。
たったの二回しか、経験してはいないけれども。…クローゼットに印を書いていた日と、悪夢の後に瞬間移動で飛んで行った日と。
二つだけしか無い経験。前の自分が自由自在に使ったサイオン、それを自分も使えた日。
(前のぼくさえ戻って来たら…)
浮くどころか空へ飛び立てるのに、と床を蹴っても浮かない身体。クローゼットに書いた印は、ほんの一瞬、近付いただけ。身体ごと床に戻ってしまった。
ジャンプの限界、今の自分はこれしか出来ない。エイッと飛び上がることだけしか。
(こうやって勢いをつけておいたら…)
力の限りに飛び上がったなら、前の自分なら天井を突き抜けてゆけるだろう。凄い速さで。
今の自分がそれをやったら、酷く叱られそうだけど。「天井と屋根を壊すなんて」と。
けれど要らない、壊す心配。天井も屋根も破れはしない。自分は飛んでゆけないのだから。
(…ホントに絶対、出来ないんだから…)
飛んでみたくても絶対に無理、と思った所で気が付いた。前のぼくだって、やっていない、と。飛び上がることは簡単だったけれど、真上には飛んでいなかった。
シャングリラからは瞬間移動で出ていたから。雲海に潜む白い鯨を浮上させたら危険だから。
でも…。
(真上に飛んだよ?)
上に向かって真っ直ぐ飛んだ、と訴える記憶。そうやって高く飛んで行った、と。
出来る筈がないことなのに。シャングリラから真上に向かって飛び立つことは不可能なのに。
(えーっと…?)
シャングリラではなかったろうか、と首を傾げた。シャングリラ以外に船と言ったら、小型艇。前の自分が小型艇などで出るだろうか、と考える内に浮かんだギブリ。
(ナスカで、ジョミーと…)
二人でギブリに乗り込んだ。ナスカに残った仲間たちの説得に行く、と嘘をついて。ハーレイにだけは、本当のことを思念で伝えて。
シャングリラを離れて直ぐに襲ったメギドの炎。防ごうとギブリから飛んだけれども、あの時も瞬間移動だった。そのまま上に向かって飛んだら、ギブリを壊してしまうから。
あれも違う、と首を振った記憶。けれども、真上に飛んで行った記憶。
真っ直ぐに飛んで、もっと高く。ぐんぐんと上へ、遥か上へと。
(何処で…?)
有り得ない筈の、真上に向かって飛んでゆくこと。白いシャングリラでは出来ないのに。真上に飛べはしないのに。
(…前のぼくが夢の中でやってた…?)
本当に起こった出来事ではなくて、夢だろうかと思った記憶。そうかもしれない、と遠い記憶を手繰ってみる。とても気持ちのいい夢だったから、それを覚えていたのだろうかと。
シャングリラから上に飛べたなら、と。何処までも高く飛んで行けたら、と心に刻み付けた夢。
そうだったかも、と考えた途端、不意に浮かんで来た記憶。
(ジョミー…!)
思い出した、と得られた答え。真上に向かって飛び立った自分。シャングリラから。
前の自分が連れて来させたソルジャー候補。成人検査から救ったジョミー。けれど、ジョミーは手に余った。どうしても船に馴染まなかった。
現実を知れば変わるだろうと、帰したアタラクシアの家。其処に養父母はいなかったから。
あの時代に一般人として生きていた者は、子供を一人育てるのが義務。それを終えれば、休暇が貰えた。その間にユニバーサルの職員たちが来て、家から子供の痕跡を消す。何もかもを。
ジョミーが家に帰った時には、全て終わって空っぽだった。両親は長い休暇に出掛けて、彼らの荷物は誤って処分されないようにと他所に預けてあったから。
何も無い家を見せ付けられたら、ジョミーは戻ると考えたのに。
そうはならずに、アタラクシアを歩き回ったジョミー。学校へ出掛けて幼馴染にも会った。成人検査を受けた後には、二度と戻らない筈なのに。
それだけ動けば、ユニバーサルに居場所が知れる。ジョミーは捕まり、深層心理検査を無理やり受けさせられて…。
(…サイオン、爆発しちゃったんだよ…)
ユニバーサルの建物を破壊し、空に逃げ場を求めたジョミー。闇雲に逃げて、飛び続けて。
何機もの戦闘機の攻撃を避けて、高く、遠くと飛んで行ったジョミー。
あの時だった。前の自分がシャングリラから飛び立ったのは。
逃げるジョミーを連れ戻せるのは、もう自分しかいなかったから。小型艇では追えないから。
雲海の中から僅かに浮上したシャングリラ。高く聳えるアーチの先端、それが雲から覗く程度の高度まで。
その上に立って、浮上するのを待っていた自分。
雲の海から外に出た時、アーチを蹴って真上へと飛んだ。ハーレイが止める声も聞かずに。
「お待ち下さい、そのお身体では…!」と叫んだハーレイの思念。
それを振り切り、真っ直ぐに上へ。ジョミーを追って一直線に。
あれだったのか、と思い出した記憶。シャングリラから上へと飛び立った自分。
クローゼットの印を見上げて、それから勉強机の前に座った。溜息をついて、頬杖もついて。
(…前のぼく、いつも…)
ハーレイとは別れを惜しめなかったらしい。これが最後だと分かっていても。
メギドに向かって飛んだ時にも、ジョミーを追い掛けて飛んだ時にも。
すっかり忘れていたけれど。メギドで迎えた死が悲しすぎて、アルテメシアでも同じだったと、気付かないままでいたけれど。
(…シャングリラを浮上させろ、って…)
前の自分がそう命じた。ジョミーを追って飛んでゆくには、残しておかねばならないサイオン。少しでも負担を軽くしようと、瞬間移動で出るのをやめた。それだけでかなり違うから。
「ぼくが出るから」と命じられた時、ハーレイは止めたかった筈。前の自分を。
行けば命を失くすから。
残り少なかった前の自分の命の灯、それが消えるのは確実だから。
けれど、他には無かった道。自分以外の誰にも出来ない、ジョミーを船に連れ戻すこと。
ハーレイに「出る」と思念で伝えただけで、前の自分は飛ぶしか無かった。
それが自分の務めだったから。もしもジョミーを失ったならば、シャングリラの未来もミュウの未来も、何もかもが潰えてしまうのだから。
(…前のぼく、飛んで行っちゃった…)
ハーレイに「さよなら」も言えないままで。「ありがとう」とも伝えないままで。
白いシャングリラを離れて飛び立ち、ただひたすらにジョミーを追って。上へと、もっと高くと飛んだ。ジョミーが飛んでゆく方へ。
後継者として選んだジョミー。そのエネルギーの強さに魅せられ、残り僅かな命も忘れて飛んで行ったけれど。笑みさえ浮かべたほどだけれども。
ジョミーを捕まえ、成人検査の時の記憶を送り込むのが限界だった。それが最後に使えた力。
(あれでおしまい…)
そうなるだろうと覚悟していた通り。其処で自分の力は尽きた。
命の焔が消えてゆくのを感じる間もなく、力を失い、落ちて行った身体。アルテメシアの引力のままに、真っ直ぐに下へ。
薄れ、霞んでゆく意識。ジョミーに詫びて、そしてハーレイに…。
(ごめん、って…)
闇の中へと落ちてゆく前に、懸命に紡いだ最後の想い。届きはしないと分かっていても。
ごめん、とハーレイに謝った自分。
シャングリラにはもう帰れない、と。このまま尽きてしまうだろう命。
帰れたとしても、ハーレイと話す時間は取れない。船の仲間たちへの遺言、それを伝えるだけで精一杯で。
さよならも言えないままだった。「ありがとう」とも伝えられずに消えてゆく命。
誰よりも愛し続けたハーレイ、恋人に別れも告げられずに…。
悲しみの中で失くした意識。「ごめん」とハーレイに詫びて、そのまま。
なのに、気付けば身体に戻っていた力。ジョミーに救われ、拾った命。
自分は青の間に運び込まれて、傷の手当てをされていた。駆け付けたノルディや看護師たちに。
(…ジョミーが「生きて」って…)
意識は無くても覚えていた。注ぎ込まれた強い思いとエネルギーとを。
生かしてくれたジョミーのためにと、仲間たちに思念で語り掛けた言葉。生きて戻れたら、こう話そうと考えていた遺言の中身。「ジョミーを指標にして、地球へ向かえ」と。
もう遺言ではなかったけれど。暫くは生きていられそうだから。
それでも消耗していた身体は眠りを欲して、語り終えた後には開かなかった瞼。誰がいるのか、確かめたくても。…ハーレイがいないのは分かるけれども、他には誰が、と考えても。
引き摺り込もうとしている睡魔。抗う力がある筈も無くて。
このまま眠れば、二度と目覚めは来ないかもしれない。身体は命を繋いだとしても、心は二度と目覚めないまま。
そう思うけれど、開かない瞳。身体から抜けてゆく力…。
逆らえないままに眠ってしまって、ぽっかりと目を覚ました夜中。
(ハーレイが…)
側で見守ってくれていた。ベッドの脇に椅子を運んで来て、一人きりで。…キャプテンの制服をカッチリと着て。
そのハーレイの額に残った傷の痕。何処で怪我を…、と驚いたけれど。
「お目覚めですか? ブルー」
ソルジャーとは呼ばなかったハーレイ。それならば、誰もいないのだろう。青の間には。
他に誰かがいるのだったら、「ブルー」と呼ばれはしないのだから。
「…ノルディは?」
ぼくの手当てをしに来ていたと思うんだけど…。看護師たちも。
「もう大丈夫だと帰ってゆきましたよ」
あなたの容体が落ち着いたので…。点滴も刺さっていないでしょう?
今夜は私がお側におります、と温かな手で包み込まれた手。
皆にもそう言っておきましたから、と。
「…君が…?」
「はい。正々堂々といられますよ。…これが私の仕事ですから」
あなたの様子を一晩見るのが、今夜の私の役目なんです。医療スタッフは多忙ですからね。
…この傷、お気付きになりましたか?
船が揺れたはずみに、強くぶつけてしまったんです。けれど、これでも掠り傷ですよ。
「…まさか、ハーレイ…」
シャングリラは見付かってしまったのかい?
人類に位置を知られてしまって、それで攻撃されたのかい…?
「ご心配には及びません。…キャプテンの私が決めたことです」
あなたとジョミーを守るためには、それも必要だったかと…。シャングリラを浮上させました。敵の目をこちらに向けさせるために。
怪我人が何人も出てはいますが、皆、無事です。ミュウにはシールドがありますからね。
私はウッカリ張り損ねまして…、とハーレイが指した額の傷痕。
「どうやら油断していたようです、咄嗟にシールド出来なかったほどに」
防御に優れたタイプ・グリーンだから、という慢心があったかもしれません。直撃弾を食らった者でも、軽い火傷や打撲だけだというのがいます。
船が揺れて転んだ程度で怪我をするなど…。情けないとしか言えませんよ。
ノルディも「塗っておけ」と薬を投げて寄越しただけです、傷を診てさえくれませんでした。
「…そうだったんだ…。それで船の中が…」
あちこち落ち着いていなかったんだね、何故そうなのかを確かめるだけの力は無くて…。
後でみんなに謝らなければ、ぼくたちのせいで危険に晒してしまったのなら。
「それはジョミーの役目でしょう。…船の仲間に詫びて回るなら」
もっとも、今は次のソルジャーに指名されてしまったわけですからね。ジョミーに「詫びろ」と詰め寄る仲間はいないでしょう。…あなたにそうする仲間がいないのと同じ理屈で。
大丈夫ですよ、誰も怒っていません。シャングリラは無事に逃げ延びましたし、自信がついたと言っている者もいるくらいです。人類軍が来ても大丈夫だ、と。
「本当に…?」
君を信じてもいいのかい…?
酷い怪我をした者は本当にいなくて、シャングリラもちゃんと飛べるのかい…?
「ええ。…現に今でも飛んでいますよ」
キャプテンの私がブリッジにいなくても、いつも通りに雲の中を。
アルテメシアから逃げ出さなくても良かったからこそ、シャングリラは雲の中なんですよ。
ご心配無く、と説明された仲間たちと船の被害状況は、確かにそれほど酷くなかった。船の方は修理が始まっているし、怪我をした仲間はメディカルルームで治療中。重傷者は皆無。
良かった、と安堵の息をついたら、「スープをお召し上がりになりますか?」と優しい微笑み。
「野菜スープを用意してあります。夜中ですから、軽いものの方が…」
他にも何かお召し上がりになるのでしたら、厨房の者たちに連絡致しますが。
「…作っておいてくれたのかい?」
ぼくがぐっすり寝ている間に、あのスープを…?
「そうですが…。作り立ての方が良かったですか?」
お目覚めになってから作った方が良かったでしょうか、先に作っておくよりも…?
「ううん、今から作りに行ったら、暫く君は留守なわけだし…」
スープ作りで時間を取られてしまうよりかは、君が側にいてくれる方がいい。
今夜はぼくの側にいるのがキャプテンの仕事なんだろう?
…この部屋で君が正々堂々と夜を過ごせるチャンスは、ぼくも大事にしたいしね…。
作っておいてくれたスープがいいよ。…温め直すだけのスープの方がね。
「分かりました。…温めて来ます」
お待ち下さい、直ぐにこちらへお持ちしますから。
いつもと同じで、野菜を刻んで煮込んだだけのスープなのですけどね。
特別なことは何もしていませんよ、とスープを温めに奥のキッチンへ向かったハーレイ。
また食べられるとは思っていなかった、ハーレイが作る野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。
それをハーレイが運んで来てくれた。小さめのスープの器に入れて。
「どうぞ、ブルー。…熱いですから、お気を付けて」
慌てると舌を火傷しますよ、それでは私と変わりません。…額に怪我をした私と同じで、ただの間抜けになりますからね。
「そうだね、気を付けて飲むことにするよ」
ノルディたちは忙しくしているそうだし、舌の火傷は診てくれそうもないからね。
君の怪我よりも放っておかれそうだよ、戦闘中の怪我とは違うんだから。
…気を付けなくちゃ、とスプーンで掬って、息を吹きかけて軽く冷まして。
口に含んだ湯気の立つスープ。眠っている間に、ハーレイが作っておいてくれた野菜のスープ。
素朴すぎる味が美味しくて、そして温かくて。
また食べられた、と零れた涙。
このシャングリラから飛び立つ時には、もう戻れないと思っていたのに。
生きて帰って来られはしなくて、ハーレイにも二度と会えないままで。
きっとそうなる、と決めていた覚悟。自分の命はこれで尽きると。
けれど、帰って来られた自分。…遺言を遺すためにではなくて、まだ暫くは残された時間。
まだ生きられると、生きているのだと野菜スープが教えてくれた。
魂だけでは、きっと味など分からないから。…温かさもきっと、感じないから。
頬を伝って落ちた涙に、ハーレイが驚いて顔を覗き込んだ。
「どうなさいました?」
熱すぎましたか、そんなにグラグラ煮立てたわけではなかったのですが…。
「…そうじゃない。舌に火傷はしていないよ。…それは間抜けだと君にも注意されたから」
ただ、この味が嬉しくて…。また君のスープを飲めるのが信じられなくて…。
帰って来られたんだ、と思ったら涙が零れてしまっただけ。
ぼくは死なずに生きているんだ、と実感したらね…。
「…ずいぶんと無茶をなさいましたからね、あなたは」
私が止めても、少しも聞こうとなさらなくて…。シャングリラを浮上させろと仰っただけで。
どんな気持ちで私が船を浮上させたか、あなたはお分かりになりますか?
…浮上させたら、私はあなたを失うのですよ?
そうなることが分かっているのに、その指示を出すのは私なんです。…キャプテンですから。
「…分かっているよ。…ちゃんと分かっていたけれど…」
他には道が無かったんだよ、ぼくが出て行くしか道は無かった。誰もジョミーを追えないから。
…ジョミーのお蔭で、ぼくの命は延びたけれどね。
でも、それは夢にも思わなかったことだから…。ぼくは死ぬんだと思っていたから…。
力が尽きて落ちてゆく時、考えていたよ。君に「さよなら」を言いそびれたな、と。
ごめん、ハーレイ。…さよならも言わずに行ってしまって。
「まったくです」
私の身にもなって下さい、「さよなら」も言えなかったあなたを送り出した時の。
送り出すしかなかったのですよ、そうなるのだと分かっていても…。
生きて戻って来て下さって良かった、と強く抱き締められた胸。
野菜スープを飲み終えた途端に、逞しい腕に捉えられて。広い胸へと抱き込まれて。
「あんなことは二度となさらないで下さい」と。
「…よろしいですね? ソルジャーはもう、ジョミーですから」
ソルジャー候補と呼ばれてはいても、これからはジョミーが戦力なのです。…あなたには新しい役目があります、ジョミーを導いてゆくということ。
そのためにも決して無理はなさらず、お身体を大切になさらなければいけません。お命を危険に晒すことなど、言語道断というものです。
ジョミーも失望することでしょう。…あなたが命を無駄になさったら。
「分かっているよ。…ジョミーが生かしてくれたんだからね」
あの時、ジョミーが「生きて」と願ってくれなかったら、ぼくは戻れはしなかった。ジョミーの強い思いと、願い。…それが命を延ばしてくれた。
強い思いは力を生むから、ジョミーの願いがエネルギーの塊のように変わってね。
…本当だったら、ぼくは今頃、死んでしまっていたんだろうに…。
ジョミーがぼくにくれた命を無駄にしようとは思わない。…無駄にはしないよ、絶対にね。
それに…、とハーレイの腕の中で続けた言葉。
君に「さよなら」を言わないままで死んだりしない、と約束した。言えなかったことを悔やんでいたから、これだけは必ず言わなければ、と。
「…約束するよ。ぼくの命が尽きる時には、きっと言うから」
だから、キャプテンとしてでいいから、ぼくの手を握っていて欲しい。…ぼくの側で。
手をしっかりと握っていてくれれば、必ず「さよなら」は伝えるから。
…どんなに弱っていたとしたって、最後に君に。ぼくは最期まで君だけを想い続けるから…。
「ええ、ブルー。…約束します。あなたの手を握ってお見送りしましょう、その時が来たら」
ですが、ほんの少しの間だけですよ。…お別れするのは。
直ぐに追い掛けてゆきますから。私も、あなたがいらっしゃる場所へ。
「…君の気持ちは嬉しいけれど…。君と一緒なら、ぼくも幸せだろうけど…」
そうしたら、ジョミーはどうなるんだい?
この船でジョミーは独りぼっちだ、ぼくも君も死んでしまったら。
「ジョミーのことなら、なんとでもなります」
あなたが飛び出して行かれた時にもそう思いました。あなたがお戻りにならなかった時は、私も一緒に行かなければ、と。
…あなたの寿命が尽きると分かった時から、私は約束しております。ご一緒すると。
ですから、引き継ぎが済み次第、あなたを追ってゆきます。…長くはお待たせ致しません。
この船にはシドもいますから、と真顔だったハーレイ。必ず一緒に参りますから、と。
シドはハーレイの後継者だった。…キャプテン・ハーレイの跡を継げるよう、ハーレイが選んだ次のキャプテン。主任操舵士という役職を作り、ハーレイ自身が任命して。
そう、シドは前の自分が命尽きた後、ハーレイが後を追えるようにと選び出した者。死んだ後も何処までも共にいようと、必ず追ってゆくからと。
(…そっか…)
そういう約束だったんだっけ、と思い出した時の彼方でのこと。
ジョミーを追い掛けて飛んだ自分が生きて戻って、あの日、ハーレイと交わした約束。死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、それを言わずに死にはしないと。
言いそびれたままで死にゆく自分が悲しかったから、それを忘れていなかったから。ジョミーの力に救われて生きて戻った後も。
だから必ず言おうと思った。いつかその日が来た時には。
いつも自分の側にいてくれた愛おしい人に、「さよなら」と。そして「ありがとう」と、想いの全てをハーレイに向けて。
けれど、自分は約束を破ってしまったのだった。
あんなに悔やんでいたというのに、それをすっかり忘れてしまって。
赤いナスカに滅びの危機が迫っていた時、十五年もの長い眠りから目覚めた自分。自分の役目は皆の未来を守ることだと、躊躇いもせずにメギドへと飛んだ。
約束していた「さよなら」も言わずに、「ジョミーを頼む」とハーレイを船に縛り付けて。
前の自分が破った約束。ハーレイに「さよなら」と言いもしないで、前の自分は飛び去った。
ジョミーを追い掛けて飛び立った時に、それを後悔したというのに。二度としないと、死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、ハーレイに約束していたのに。
約束をきちんと守るどころか、忘れてしまっていたのが自分。それも今日まで。
ハーレイはどんなに悲しかっただろうか、聞けずに終わった前の自分の別れの言葉。必ず言うと約束したのに、「さよなら」と言いもしなかった自分。
(ぼく、本当に酷いことしちゃった…)
謝らないと、と机の前で項垂れていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、部屋で向かい合うなり謝った。母が「ごゆっくりどうぞ」と去るのを待って。
「ハーレイ、ごめん…」
ホントにごめん。ぼく、ハーレイに悪いことしちゃった…。
「はあ?」
ごめんって…。お前、俺の授業中に何かやっていたのか、机の下で…?
「授業の話じゃないんだけれど…。ぼくは約束、破っちゃったんだよ」
「何の話だ?」
俺は宿題を出していないと思うんだが…。何の約束を破ったんだ?
「前のぼく…。ハーレイに約束してたのに…」
ぼくが死ぬ時には、ハーレイに「さよなら」を言うって約束したんだよ。…アルテメシアで。
ジョミーを追い掛けて飛んで行った時に、ハーレイに「さよなら」を言いそびれちゃって…。
言えなかったな、って悲しい気持ちで死んじゃう所を、ジョミーに助けられたから…。
これじゃ駄目だ、ってハーレイに約束したのが「さよなら」。
死ぬ時は必ず言うことにする、って前のハーレイに約束してた。…もう懲りたから、って。
だけど、忘れてしまったんだよ。…そういう約束をしていたことを。
言わないままでメギドに行っちゃったんだよ、ぼくは約束、破っちゃった…。
おまけに約束のことも忘れちゃってた、と謝った。前の自分がした約束を。
「…今日まで忘れてしまってたんだよ、ハーレイに約束してたのに…」
さよならを言わずに行ってしまって、今日まで思い出しもしないで…。
ホントにごめん。…ハーレイ、とっても悲しかったと思うから…。
「いいんだ、お前、帰って来ただろ?」
帰って来たなら、さよならも何も無いからな。…さよならってヤツは別れる時に言うもんだ。
ちゃんと帰って来るんだったら、最初から「さよなら」は要らないだろうが。
「え…?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
前のぼくは帰って来なかったんだよ、メギドに行っちゃってそれっきりだよ…?
きちんと「さよなら」を言って行かなきゃ、駄目だったんだと思うんだけど…。
「前のお前はそうなんだろうが…。今のお前さ」
少々チビだが、お前は帰って来たってな。俺の所へ。…あのまま別れてしまわないで。
だから「さよなら」を言い損なったと謝らなくてもいいだろうが。
言う必要は無かったってことだ、こうして帰って来たんだから。ほんの少しだけ、お前が留守をしていたわけだな、俺の前から。
気にしなくていいんだ、「さよなら」くらい。…お前は帰って来たんだろうが。
それに謝ってくれたからな、とハーレイは笑顔。もう充分だ、と。
「…そうでなくても、とうに時効だ。前の俺だった頃からな」
お前も忘れていたってことだが、俺もすっかり忘れていたんだ。…その約束。
そういう約束をしていたことさえ、綺麗サッパリ忘れちまってた。お前がメギドに飛んで行った時は、もう覚えてはいなかったんだ。
覚えていたなら、悲しかったかもしれないが…。あの約束はどうなったんだ、と思っていたかもしれないが…。
何も覚えていなかったんだし、前の俺は何とも思っちゃいない。お前が「さよなら」を言うのを忘れたままで行っちまおうが、それは全く気にしなかった。
お前がいなくなっちまった、と落ち込んだだけで、「さよなら」はどうでも良かったんだ。
「ホント…?」
ハーレイ、ホントに忘れちゃっていたの、嘘をついていない?
…ぼくが悪いと思わないように、覚えていたのに「忘れた」なんて言ってはいない…?
ぼくのサイオンは不器用だから、ハーレイが嘘をついていたって分からないんだもの。
「安心しろ。…本当のことだ、忘れていたのは」
あれから色々ありすぎたからな、俺も覚えちゃいられなかった。
お前が眠ってしまわなければ、きっと忘れはしなかったろうが…。それはお前も同じだな。
俺はお前が寝ている間も働き続けて、あの約束を忘れちまった。キャプテン稼業は忙しいんだ。
そしてお前は、ぐっすりと深く眠りすぎてて、俺と同じに忘れちまった、と。
お互いの顔を見ながら何度も話していたなら、事情は違っていたんだろうがな。
…お前も俺も忘れちまった約束なんぞは、破ってもいい。どんなに大事な約束だろうと、覚えていなけりゃ意味が無いんだ。
片方だけが覚えていたって、そいつは空しいだけだろうが。ちゃんと守っても、ちっとも相手に通じていないし、喜んでも貰えないんだから。
二人揃って忘れたってことは、本当に必要無かったってことだ。お前の「さよなら」。
だからかまわん、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
今度は何処までも一緒だろうが、と。
「いつまでも二人一緒なんだし、「さよなら」は要らん」
あんな約束、今度も必要無いってな。…「さよなら」の出番が無いんだから。
「そうだっけね…」
今はハーレイが帰って行く時は「さよなら」だけど…。約束していた「さよなら」とは別。
ただの挨拶の言葉なんだし、会えなくなるわけじゃないんだものね。…死んでしまって。
「そういうこった。…今度は別の約束をしておくべきだな」
さよならじゃなくて、一生、俺の側から離れない、ってヤツでよろしく頼む。
今度は守れよ、忘れちまわないで。…俺も今度は忘れないから。
「うん、ハーレイ…。今度は一生、「さよなら」は無し」
死ぬ時だって一緒なんだもの、「さよなら」はもう要らないよ。
結婚したら、ずっとハーレイの側にいるから。…前のぼくみたいなことは、絶対しないよ。
守るからね、とハーレイと小指を絡めて約束をした。
前の自分が破った約束、それは時効だと言ってくれた優しいハーレイと。
別れの言葉を伝えるという悲しい約束、そんな約束は今は要らない。
今度は何処までも、いつまでも一緒。
「さよなら」の言葉は、ただ挨拶のためにだけ。
二人一緒に生まれ変わった、青い地球の上でずっと二人で生きてゆくから。
しっかりと手と手を繋ぎ合わせて、幸せに歩いてゆくのだから…。
忘れた約束・了
※前のブルーがハーレイと交わした約束。死ぬ前には必ず「さよなら」を言うから、と。
けれど約束は守られなくて、約束したことも忘れたままだったのです。時効ですけれど。
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(んーと…?)
こんなのあるんだ、とブルーが驚いた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
綺麗に刷られたカラーの写真。載っているのは、とても馴染みが深い代物。
(復刻版…)
フィシスが使ったタロットカード。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラの天体の間で。
請われなくともカードを繰っていたフィシス。ミュウの女神と呼ばれたフィシス。
広告の写真は、フィシスのために作らせたタロットカードを復刻したもの。そっくりそのまま、模様も、多分、大きさも。
「あなたも女神の気分でどうぞ」という謳い文句。フィシスはもちろん、ソルジャー・ブルーの写真まで添えて。フィシスだけでも、充分に人目を引くだろうに。
(ぼくが飛び付くと思っているわけ?)
本物のソルジャー・ブルーなら此処にいるけど、と可笑しくなった。釣れないんだけど、と。
フィシスの写真が載っていようと、飛び付きはしないソルジャー・ブルー。
けれど巷では、ソルジャー・ブルーとフィシスは、ミュウの王子様とお姫様。前の自分の隣にはフィシス、対の存在。世間の人はそういう認識。
何処までの関係があったかはともかく、ソルジャー・ブルーとフィシスは恋人同士。絵に描いたような美男と美女で、互いが互いを引き立たせるもの。
前の自分が死んでしまって、再び生まれてくるまでに流れた長い歳月。
まるで与り知らない所で、対の二人にされていた。とても似合いのカップルだった、と。
対の二人だから、フィシスのカードの復刻版の広告までがソルジャー・ブルーの写真付き。前の自分とフィシスを並べて載せてある。他の仲間は、ジョミーでさえも載っていないのに。
フィシスの写真と一緒に誰か、と選ぶ時にはソルジャー・ブルーになるらしい。対だったから。
(その通りだったら、懐かしくて買うけど…)
本当に恋人同士だったんならね、と眺める広告。フィシスが使ったタロットカード。
占いの趣味は無いのだけれども、恋人の思い出の品だったら。時の彼方で愛おしい人が繰り返し使っていたものならば。
ウキウキと新聞広告を切り抜いてゆくか、メモに書き写して持ってゆくか。とにかく欲しくて、売っていそうな店へと急ぐことだろう。これを買わなきゃ、と。
お小遣いを入れた財布を握って、弾んだ心で。…子供が買うには、少し高いけれど。
(でも、要らないしね?)
ぼくはこんなの要らないんだから、と苦笑したソルジャー・ブルーの写真。フィシスと対だ、と誰もが勘違いをしている人物。
残念なことに、ソルジャー・ブルーはカードを買いには出掛けない。お小遣いで買おうと急いで店を目指しはしない。
恋人はハーレイだったから。フィシスではなくて、キャプテン・ハーレイ。
とはいえ、フィシスも大切な人には違いなかった。「ぼくの女神」と呼んだ心に嘘などは無い。その身に地球を宿した女神。青く輝く美しい地球の映像を。
それが見たくて攫ったほどに。
機械が無から創った存在、人間ですらもなかったフィシス。
それでもフィシスの地球が欲しくて、いつまでも眺めていたかったから。水槽の中のフィシスにサイオンを与え、ミュウの力を持たせて攫った。
研究者たちがサイオンに気付き、フィシスを処分する直前に。
そうやって船に連れて帰ったフィシス。研究所時代の記憶を消して。
ハーレイ以外は誰も知らなかった、フィシスの生まれ。船の仲間たちも、フィシス自身も。
地球の映像を抱いていた上、占いにも長けていたフィシス。女神と呼ぶのが相応しかった女性。
(フィシスのカード…)
前の自分が作らせたカード。研究所でフィシスが使っていたカードは、シャングリラに持っては行かなかったから。
カードは馴染みがあるものだから、と広告に刷られた写真を眺めて、お次は説明文の方。どんなカードだと書いてあるのか、読み始めたら。
(…優しいタロットカード…?)
そういう説明、初心者向けかと考えた。初めて占う人でも分かりやすいという意味なのか、と。
ところが違った「優しい」の意味。
フィシスのカードで占う時には、死神のカードは使わないらしい。他のタロットカードと同じに入っているのに。…死神のカードも、ちゃんと一緒に。
けれども、それを抜いて占う。それが正しい占い方。フィシスのカードを使うのならば。
だから「優しい」タロットカード。死神が描かれた不吉なカードは、何を占っても絶対に出ては来ないのだから。
(…どうなってるわけ?)
謎だ、と首を捻った広告。フィシスの優しいタロットカード。
どうして死神のカードを抜くのか、それを入れずに占うのか、と。
聞いたこともない、不思議な話。前の自分はフィシスと対だと今の時代も間違われるほど、近い所にいたというのに。
フィシスのことなら、きっと誰よりも詳しかったと思うのに…。
おやつを食べ終えて、部屋に戻って。
勉強机に頬杖をついて、さっきの疑問を解こうとした。優しいタロットカードの謎を。恐ろしい死神が描かれたカードを抜いて占う、フィシスのカードの復刻版。
(死神のカード…)
人の命を断ち切る大鎌、それを手にした黒衣の死神。意味する所は文字通りに「死」。
フィシスが持っていた死神のカードは、前の自分が確かに燃やした。十五年もの眠りから覚め、自分の死を予感した時に。
フィシスの前で、サイオンを使って燃やしたカード。消してしまった死神のカード。
そのせいだろうか、復刻版のタロットカードを使う時には、死神のカードを抜いて占うのは。
欠けたままでフィシスが占ったから、と入れずに占うものなのだろうか?
(でも、欠けたカードを補充するのは…)
出来ないことではなかった筈。フィシスが望みさえすれば。
カードのデータは船にあったし、現に取り替えたカードもあった。何度も何度も繰られ続けて、擦り切れることも多かったから。
復刻版のカードにしたって、参考にしたのはそのデータだろう。
なのに、死神のカードを抜いて占うという約束事。燃やしてしまった死神のカードは、あのまま欠けていたのだろうか。作られないままで。
(フィシス、断っちゃったとか…?)
死神のカードを新しく作り直すこと。もう一度作って、加えること。
それとも言わなかったのだろうか、足りないことを?
死神のカードが欠けていたことを、誰にも言わずにいたのだろうか…?
今の自分には分からないこと。前の自分も、死んでしまった後のこと。
(ハーレイに…)
知っていそうなハーレイに訊いてみなければ、と思っていたら、折よく寄ってくれたハーレイ。仕事の帰りに。
早速、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり尋ねてみた。
「あのね、フィシスのタロットカードは知っている?」
「当然だろうが。…俺が知らなくてどうするんだ」
今はともかく、前の俺には見慣れたものだぞ。あれを使って占うフィシスも。
「それじゃなくって、復刻版だよ」
フィシスが使ったタロットカードの復刻版。…本物そっくり。
「はあ? フィシスのカードの復刻版って…」
そんなのがあるのか、知らなかったな。…まあ、あっても不思議じゃないんだが…。
前のお前が使った食器の復刻版だって、ちゃんと売られているんだから。
「そうなんだよね…。ソルジャー専用の食器」
あれと同じで、フィシスのカードもあったんだよ。
ぼくも今日まで知らなかったけど。
新聞に広告が載っていたよ、と話をした。「前のぼくまで載せられちゃってた」と。
「…ホントなんだよ、フィシスの写真とセットになってて、ソルジャー・ブルー…」
まるで恋人同士みたいに、ちゃんと二人がセットなんだよ。
「そりゃ傑作だな、未だに誰にもバレていないって証拠じゃないか」
前のお前の本当の恋人は誰だったのか。
誰も気付いていないからこそ、お前とフィシスがセットなんだしな。
「それはいいんだけど…。勘違いはかまわないんだけれど…」
フィシスのカードが問題なんだよ、ぼく、説明を読んだんだけど…。どんなのかな、って。
そしたら、優しいタロットカードなんだって。…フィシスのカードの復刻版は。
「優しいって…。占いやすいという意味か?」
俺は占いはサッパリなんだが、そういうヤツでも占えそうな初心者向けか?
「ううん、ぼくも最初はそう思ったけど…。違ったんだよ」
フィシスのカードの復刻版には、死神のカードが無いんだって。
…カードの中にはあるんだけれども、占う時には死神のカードを抜いて占うらしいんだよ。
「ほほう…。そいつは優しいな。何を占っても傷つかずに済むというわけか」
死神のカードを抜いてあるなら、嫌なカードは出ないんだから。
「まるっきり嫌でもないけどね…?」
死神のカード。…ハーレイも少しは知っているでしょ、タロットカードが持っている意味。
上と下とが逆さになったら、カードの意味まで変わるってことは…?
人の命を刈り取る大鎌。それが描かれた死神のカード。
そのままの向きで出て来た時には、意味する所は死なのだけれど。上と下とが逆になった時は、再生の意味になるカード。復活、それに死地からの生還。
前の自分も、幼いフィシスのカードの上下を入れ替えてやった。処分されると決まった日の朝、幼かったフィシスが恐れた死神。占いの最後に出て来たカード。
逆さに向けて、フィシスに示した。「君を助ける」と、死神はもういなくなった、と。
「…ハーレイにも話しておいた筈だよ、こうしてきた、って」
フィシスの記憶は消したけれども、連れて来る前にも未来を正しく読んでいたよ、って。
「そういや、そうか…。上下で意味が変わるんだったな、タロットカードは」
もっとも、上下が入れ替わったって、どうにもならないヤツもあったが…。
死神よりも、もっと救いのないカードが。
「…そうだったっけ?」
そういう酷い意味のカードって、タロットカードに混じってた…?
「あったぞ、塔だ。…塔のカードだ、忘れちまったか?」
そのままだろうが、逆さになろうが、どう転んでも破滅のカードだ。死神のカードと違ってな。
「あったっけね…。まるで救いが無かったんだっけ、塔のカードは」
だけど、ハーレイ、よく覚えてるね。…今はタロットカードなんかは縁が無いのに。
「何度、フィシスの託宣を聞いたと思ってるんだ」
シャングリラの航路をどうするべきかと、何度もフィシスに尋ねたもんだ。覚えもするさ。
…そうやって占って貰ってはいても、その通りにするとは限らなかったが。
占いは所詮、占いだしな。…漠然としていて、ハッキリはしない。
恐るるに足らず、と無視してゼルに怒鳴られもしたな。…思考機雷の群れに突っ込んじまって。逃げた先には三連恒星、ゼルが怒るのも無理はないがな…。
なるほど、と聞いていた話。三連恒星の重力の干渉点からワープしたことはハーレイの自慢で、人類軍の船が追跡を諦めたほどの危うい亜空間ジャンプ。
それならばゼルも怒るだろう。「フィシス殿のお告げ通りに航路設定しておけば…」と。
多分、ハーレイは塔のカードか死神のカードを無視して進んだ。「ただの占いだ」と軽く考え、窮地に追い込まれたのだろう。シャングリラごと。
…それもハーレイらしいけど。占いに頼りっ放しではないハーレイだからこそ、シャングリラを地球まで運んでゆけたのだけれど。
「えーっと…。ハーレイがフィシスの占いを見ていたのなら…」
死神のカードが無くなっちゃってた理由も知ってる?
フィシスは失くしてしまったんだよ、死神のカードだけが消えて無くなっちゃった…。
前のぼくが燃やしちゃったから。
「そうらしいな。…死神のカードは消えちまってた」
前の俺たちが全く知らない間に、跡形も無く。
「ハーレイ、やっぱり知ってたの?」
消えちゃってたのも、前のぼくが燃やしたことにも気付いていたの…?
「気付いたんじゃなくて、フィシスから聞いた」
カードが一枚足りないのです、とフィシスは俺たちに言ったんだ。
タロットカードは全部揃っていてこそ占えるもので、欠けたカードでは占えないとな。
死神のカードが欠けているから占えません、と言われちまった。
「えっ…」
それじゃフィシスは、もう占いをしなかったわけ?
サイオンを分けていたぼくが死んでしまったら、占えないことは分かっていたけど…。
カードが欠けているから無理だ、って言って、フィシスは占わなかったんだね…?
「そういうことだ」
占おうとさえしなかった。…「カードが足りない」の一点張りで。
俺たちは何も知らなかったが…、とハーレイが一つ零した溜息。
カードが足りない、と占いをしようとしなかったフィシス。
それがカードを失くしたせいではないことを全く知らなかった、と。フィシスが本当に失くしたものは、カードではなくて占いの力。
前の自分が与えたサイオンが失せて、占う力を失ったフィシス。読めなくなった未来のこと。
「…前のお前が死んじまったせいだ、と気付くまでに暫くかかったな」
死神のカードが足りないから、と言われて素直に信じちまった。…俺としたことが。
お前がいなくなっちまった以上は、フィシスの力も消えるだろうにな。…お前が与えていた力。それが消えたら、フィシスは元の人間に戻ってしまうんだから。
…人間と言っていいのかどうかは、俺としても迷う所だが…。機械が無から創ったんだし。
「ハーレイ、そのこと…。誰かに話した?」
フィシスは占う力を失くしたんだ、って気が付いた後。…ヒルマンやエラに。
「俺が話すわけないだろう。…お前との大切な約束だ」
フィシスがどういう生まれだったか、船に来る前には何処にいたのか。
誰にも言わん、と俺は誓った。お前がフィシスを連れて来たいと言い出した時に。
俺の記憶も消してしまえと言った筈だぞ、秘密を漏らしてしまわないように。
…お前がそれをしなかった以上は、俺は秘密を守らねばならん。何があろうと。
だから誰にも言うわけがない。…フィシスは二度と占えない、と本当のことを知っていたって。
前のハーレイはフィシスの秘密を漏らさなかった。生まれのことも、フィシスの力の源も。
ソルジャー・ブルーが死んでしまえば、フィシスの力が消え失せることも。
そのハーレイが真実に気付くよりも前に、フィシスが考え出した言い訳。占う力を失ったことを悟られまいと、欠けたカードを理由にした。
アルテメシアを目指す船の中、託宣を求めたキャプテン・ハーレイや長老たちに。
占いに使うテーブルの上に、一つ、二つとカードを並べて、「死神のカードが無いのです」と。この状態ではカードの意味まで欠けてしまうから、と顔を曇らせたフィシス。
「…これでは、とても占えません」
一枚が欠けたカードでは…。これで何かを占ったとしても、それは外れてしまうでしょうから。
「そりゃ大変だ。もっと早くに言ってくれればいいのにさ」
あちこちゴタゴタしてはいてもね、遠慮なんかはするもんじゃないよ。…あたしたちにまで。
死神ってのは、あまり嬉しくないもんだけどさ…。今は特にね。
大勢の仲間が死んじまったし、ブルーまで連れて行かれちまった。…でもね、話は別だろう?
見たくないから、って避けて通れるもんじゃない。死神のカードが必要ならね。
急いで代わりを作らなきゃね、とブラウが見回し、「まったくじゃて」とゼルも頷いた。
「…フィシス殿。あなたが占って下さらんと皆が困るんじゃ」
現に今でも困っておる。…何処を通ってアルテメシアに戻るべきかが分からんからのう…。
カードを作って出直して来るしかないようじゃが…。
足りないカードがちゃんと揃ったら、占いをよろしく頼みますぞ。
では…、と天体の間を後にしたゼルたちは、急いで新しい死神のカードを作らせたけれど。
それを手にして出掛けて行ったら、フィシスは首を横に振った。
「…このカードは加えられません。…これが無いと何も占えなくても」
ソルジャー・ブルーの思し召しです、死神のカードが無くなったことは。
あの方が燃やしてしまわれました。これは必要無いのだから、と。
ですから、新しいカードが出来ても、加えることは出来ないのです。あの方が消してしまわれたものは。…多分、要らないものでしょうから。
これから先のミュウの未来に、死神のカードはもう要らないのでしょう。
きっと…、とフィシスは手元のカードの山に死神のカードを加えなかった。それが無ければ何も占えはしないのに。
占えません、と断ったフィシス。それがソルジャー・ブルーの御意志ですから、と。
断られてしまった、占いと託宣。ゼルたちも、前のハーレイも、出てゆくより他に無かった道。
死神のカードが無いと占えないのに、フィシスは新しいカードを加えようとはしなかったから。
「…それっきりなの?」
ハーレイたちが占いを諦めて出てって、それっきり…?
フィシスの占い、死神のカードが足りないからって言われておしまい…?
「そうなるだろうが。前のお前がやったんだと言われちまうとなあ…」
ソルジャー・ブルーが燃やしたんだ、と聞かされたんだぞ?
それでもカードを元に戻せと詰め寄れるわけがないだろうが。前のお前がそうしたんなら。
でもって、一枚欠けたカードじゃ何も占えないんじゃなあ…。
諦めるより他は無いだろ、もう託宣は貰えないらしい、と。
…俺は後から気が付いたがな。カードがあっても、フィシスは占えないんだってことに。
前のお前が死んでしまって、フィシスの力も消えちまった、と。
そいつが分かれば、無理を言おうとは思わなかった。…元々、アテにはしていなかったし。
真相に気付いた前のハーレイは、もう占いには頼らなかった。失われた力は戻らないから。
けれども、何も知らないままのゼルたちが、強引に頼みに行った占い。
死神のカードは入れずに占ってくれていいから、とフィシスに何度も頭を下げて。
「当たる筈などないのですが…」と途惑いながらも占ったフィシス。
カードが一枚欠けた占いは当たりはしなくて、フィシスの所を訪れる者は減っていった。以前の活況が嘘だったように。
何かと言えば「託宣を頂きに」と、船の仲間が相談に出掛けていたものなのに。
「…俺もそれほど行ってはいないな、フィシスの所に」
占いを頼もうってわけじゃないんだし、本当だったら、もっと訪ねるべきだったろうが…。
散々世話になっておいた後で、キャプテンまでがミュウの女神を放っておいては駄目なんだが。
…前のお前の女神でもあるし、足繁く通って話をするべきだったとは思う。
だが、出来なかった。…理屈じゃ分かっていると言っても、俺自身が辛くなるからな。
「…なんで?」
どうしてハーレイが辛くなるわけ、フィシスと話をしに行ったら…?
「分からないか? …フィシスは何も知らなかったんだ」
俺とお前の間のことは。…お前が俺の何だったのかも、お前にとっての俺が何かも。
フィシスはお前を慕っていたから、お前の思い出話になるんだ、いつでもな。
違う話をしていた時でも、何かのはずみにお前が出て来る。…お前の話や、お前の名前が。
聞いたら辛くなるだろうが。
…俺はお前に置いて行かれて、追い掛けることさえ出来ないんだから。
「そうだね、ホントはハーレイが恋人だったんだものね…」
前のぼくが本当に好きだった人で、フィシスが来るよりもずっと前から恋人同士。
だけどフィシスは何も知らなくて、仲のいい友達同士なんだと信じてて…。
おまけにフィシスは前のぼくのことを、恋人みたいに思っていたしね…。
前の自分も気付いてはいた、フィシスの淡い恋心。それに応えはしなかったけれど。
幸いなことに、フィシスは無から生まれたものだったせいか、恋はしていても求めなかった。
恋をしたなら、その先に待っているものを。…唇へのキスも、その先のことも。
フィシスは最後まで気付かなかった。
…前の自分がフィシスに注ぎ続けた愛情、それが恋ではなかったことに。恋とは違って、慈しむだけの愛情だったということに。
そんなフィシスが、前の自分がいなくなった後に、懸命に考え出した言い訳。占いの力が消えた理由に、フィシス自身も気付いたろうに。
…きっと、自分の生まれのことも。
ジョミーが捕えていたキース。シャングリラから逃れようとしたキースを、フィシスは庇った。
前の自分がキースに放った、彼を倒す筈のサイオンの矢を弾き飛ばして。
フィシス自身も気付かない内に、反射的に。
彼女と同じ生まれのキースを、地球の映像を抱いた男を。機械が無から創った者を。
そう、フィシスはきっと知っていたろう。
シャングリラが地球まで辿り着く前に、自分の生まれを。
占いの力を失くした理由も、誰が自分にサイオンを与えてミュウにしたのかも。
…全ては前の自分の我儘。
たった一度だけ、白いシャングリラの皆を裏切り、欺いてまで手に入れたフィシス。
自分の命が尽きた後には、フィシスがどうなってしまうのか。
まるで知らなかったわけでもないのに、何も手を打たずにミュウたちの箱舟に残した女神。青く美しい地球をその身に抱いていた女神。
前のハーレイと同じに一人残され、占いの力も失ったフィシス。
それでも彼女は生きてゆく術を自分で見付けた。誰も疑わないだろう理由を、占いの力が無いと知られずに済む方法を。
カードが無いから占えない、と。
欠けたカードはソルジャー・ブルーの意志によるもの、加えることなど出来はしないと。
遠く遥かな時の彼方で、フィシスが紡ぎ出した嘘。
それは時を越え、タロットカードの復刻版が売られる平和な時代まで長く語り継がれた。死神のカードは使わないもの。そのカードを使って占う時は。
今日まで時を渡る間に、意味は変わってしまったけれど。
最初に死神のカードを抜き出し、他のカードに答えを尋ねる優しい占いが生まれたけれど。
「…死神のカード、それで入れずに占うんだ…」
フィシスが入れていなかったから。…入れずに未来を占ってたから…。
占いは外れてばかりいたけど、死神のカードは入れないんだ、ってことになっちゃって…。
フィシスの占いが当たってた頃の話と一緒に伝わる間に、何処かで混ざってしまったんだね。
死神のカードは抜いて占うものなんだ、って。
「そのようだな。…実際、フィシスはそうしたんだから」
占いがまるで当たらなかったというだけで。…ゼルたちに拝み倒された時は、何回も。
それをフィシスが話したんだろうな、前の俺たちが死んでしまった後に。
トォニィはフィシスを嫌ってたんだが、ソルジャーになった後には水に流したという話だし…。
死神のカードが無いというのも、トォニィが広めていたかもしれんな。
シャングリラには凄い占い師がいたが、死神のカードを失くしちまった、と。
だからシャングリラのタロットカードには、今も死神のカードが欠けているそうだ、とな…。
死神のカードが欠けてしまった、フィシスのカード。代わりのカードが用意されても、使おうとせずに加えないまま。ソルジャー・ブルーの意志だったから、と。
フィシスが使ったタロットカードは、今は優しいカードになった。死神のカードが決して出ないカードに。
死神のカードは、占う前に抜き出すから。そうやって占うカードだから。
その占いの元になったフィシスはどうなったろう。…いつまでカードを繰っていたろう?
「…フィシス、占い、していたのかな…」
シャングリラが地球を離れた後も。…トォニィがソルジャーになった後にも。
「さてなあ…。力は戻っていたようだが…」
カナリヤの子たちをシャングリラに向かって送り出す時、サイオンを使うのを確かに見たし…。
姿も最後まで若いままだったそうだし、ミュウの力はあったんだろう。
だが、占いは…。俺が思うに、していないんじゃないか?
「どうして?」
フィシスの力が戻ったんなら、占いだって出来る筈なのに…。出来たら色々役に立つのに。
「…前のお前がやったんだろうが。死神のカードを消すってことを」
死神のカードは要らないんだろう?
そういう意味だろ、ミュウの未来にはもう要らないと。
ミュウの未来に要らないカードは、カナリヤの子たちの未来にだって要らないさ。
カードなんかに未来のことを尋ねているより、前に進むことだ。次の時代を生きる子たちの手をしっかりと握ってやってな。
「そうしたんだね、フィシスはね…」
カナリヤの子たちを立派に育てて、それからシャングリラを降りて。
いろんな星を旅して回って、幼稚園を幾つも、幾つも作って…。
幼かった頃に通った幼稚園。母に見送られて、幼稚園バスに乗り込んで。
その幼稚園の庭にあった、優しそうなフィシス先生の像。手を差し伸べるようにしてフィシスは座っていた。小さな子たちが膝に上って来られるように。
今の自分も、フィシス先生の像がお気に入りだった。膝の上にチョコンと腰掛けるのが。
幼稚園を幾つも作ったフィシス。
白いシャングリラでフィシスが育てた、カナリヤの子たちと力を合わせて。あちこちの星に。
幾つもの幼稚園の庭に据えられた、優しく微笑む真っ白なフィシス先生の像。
あの像がとても好きだったけれど…。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくが行ってた幼稚園にも、フィシス先生の像があったんだけど…」
フィシス先生だ、って見ていたけれども、フィシス、今でも先生よりも女神なんだよね…。
ミュウの女神ってイメージの人の方が多いよ、どうしてなのかな?
タロットカードの広告にだって、ミュウの女神って書いてあったし…。
「前のお前とセットだからだろ、ミュウの女神の方のフィシスは」
ソルジャー・ブルーと並んでいたなら、そりゃあ綺麗なカップルだ。何処の王子様とお姫様かと思うくらいに。
…だが、フィシス先生の方だとなあ…。
カナリヤの子たちか、幼稚園児しかセットにならない。見ていてつまらないってことだな。
女神の方なら、夢もロマンもたっぷりなんだが。
「そっか…。じゃあ、ハーレイとぼくがセットだったら、ハーレイの人気も出てたかな?」
キャプテン・ハーレイの写真集は一冊も出ていないけれど、それが山ほど出てるとか…。
うんと人気で、写真集だって飛ぶように売れていくだとか。
「お前なあ…」
いったい何を考えてるんだ、前のお前と俺をセットにしてみた所で、俺の姿は変わらんぞ?
人気が出るとはとても思えないし、写真集も無理だと思うんだが…?
相手は俺だぞ、「薔薇のジャムが少しも似合っていない」とシャングリラ中で評判だったが?
あのジャムを希望者に配る抽選、俺の前だけ、クジの箱が素通りして行ったんだぞ…?
それこそ占ってみたらどうだ、とハーレイが笑う。
前の俺がお前とセットだったら、今の人気はどうだろうか、と。
「カードが教えてくれると思うぞ、いいカードはきっと出やしないんだ」
死神どころか、どう転がっても救いのない塔が出て来そうだが…?
人気が出るなど夢のまた夢で、逆立ちしたって駄目ですよ、とな。
やるならフィシスのカードにしておけ、死神のカードが入ってない分、いくらかはマシだ。
それでも塔のカードが出て来て、俺に救いは無さそうだがな。
「…フィシスのカードを買って占うなら、そんなことよりも未来がいいな」
これからの未来を覗いてみたいよ、ハーレイとぼくの未来のことを。
「おいおい、そいつは占う必要も無いだろうが」
フィシスが何度も言ってた言葉を、真似ているわけじゃないけどな。
そうさ、フィシスはよく言ってたんだ。…占う力を失くしてからは。
ゼルたちが「占ってくれ」とゴネた時には、やんわりと断ったんだよなあ…。「占うほどのことでもないでしょう」と。その必要はありません、とな。
死神のカードはもう無いんだから、ミュウの未来は明るいものに決まってるんだ、と。
…お前、そこまで計算してたか、死神のカードを燃やした時に…?
「…ううん、なんにも考えてないよ」
あれを燃やしたのは、フィシスが不安に怯えていたから。
「ナスカに不吉な風が吹く」って、それは自分のせいなんだ、って…。
だから燃やしてしまったんだよ、「不吉な未来はぼくが消すから」って。
ぼくが守るから大丈夫、ってカードを燃やしてしまっただけ…。死神は消してあげる、って。
…本当は死神、ぼくが連れて行くつもりだったんだけど…。
狙っているのはぼくだろうから、ぼくと一緒に燃え尽きて終わりにしてしまうから、って。
「なるほどなあ…。死神のカード、お前が引くって意味だったんだな」
そして本当に引いちまったが…。俺の前から、お前は消えてしまったんだが…。
ちゃんと帰って来てくれたんだし、未来なんぞは占わなくてもいいってな。
優しいタロットカードだろうが、死神のカードは抜きだろうが。
今度のお前は幸せになれるに決まっているし、とハーレイがパチンと瞑った片目。
俺が幸せにするんだから、と。
前の自分が燃やしてしまった死神のカード。…自分がそれを引くつもりで。
あれから長い時が流れて、フィシスのタロットカードをそっくり写した復刻版では、抜いて占うらしい死神。けして死神のカードが出ないからこそ、それは優しいタロットカード。
けれど、優しいタロットカードも要らないらしい。
わざわざカードで占わなくても、今度は幸せになれるから。
幸せにすると、ハーレイが約束してくれたから。
ハーレイと二人、生まれ変わって来た青い地球の上で、何処までも二人で歩いてゆく。
手をしっかりと繋ぎ合わせて、いつまでも、何処までも、幸せの中を…。
優しいカード・了
※前のブルーが燃やしてしまった死神のカード。それを理由に、占いを断っていたフィシス。
ミュウの未来に死神のカードは、必要ありませんでした。前のブルーは意図していなくても。
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(ふうん…?)
こんな鳥がいるんだ、とブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
イソシギという小さなシギ。名前だけだと、海の鳥のように思えるけれど。
(イソって、海の磯だよね…?)
多分、そう。他には思い付かないから。けれども、磯の名を持つイソシギ。ヒョロリと足の長い鳥は、海の側にいるだけではなくて…。
(この町にも…)
隣町にもいるらしい。ハーレイの両親が住んでいる町。どちらにも海は無いというのに。
川があったら、其処で子育てを始めるイソシギ。河原に小さな巣を作って。
今の季節は南へ移ったようだけれども。雛も立派に成長したから、暖かい場所へ渡って行った。其処で冬を越して、また来年に戻る夏鳥。卵を産んで雛を育てるために。
イソシギなのに海に住んでる鳥じゃないんだ、と読み進めた記事。面白いね、と。河原で子育てするのにイソシギ。河原と磯は違うのに。
そうしたら…。
(偽傷するんだ…)
子育て中のイソシギの親。
卵を抱いている真っ最中やら、雛が小さい間のこと。敵が現れたら、巣を離れる。自分が逃げるためにではなくて、卵や雛を守ろうとして。
偽傷というのは言葉そのまま、偽の傷。怪我はしていないのに、怪我をしたふり。
そういう鳥がいるのは知っていた。イソシギと同じで、河原で子育てする千鳥。
何かで読んだことがあるから。雛や卵を守る親鳥、傷を負ったようなふりをして。翼をバタバタさせて飛べないふりをするとか、片方の翼を引き摺りながら歩くとか。
卵や雛を狙っていた敵は、同じ食べるなら大きな親鳥がいいと思うから、追ってゆく。捕まえて食べてしまおうと。
追ってくる敵に捕まらないよう距離を保って懸命に歩いて、巣から充分離れた後に逃げる親鳥。空へ向かって。敵はポカンとする他はなくて、親鳥は雛や卵の所に戻るという。
偽傷するのは千鳥だけかと思っていた。今の今まで。
(チドリ目、シギ科…)
イソシギは千鳥の仲間だろうか、チドリ目なら。それで偽傷をするのだろうか?
残念なことに、記事にはそこまで書かれていない。チドリ目の鳥は全部そうなのか、鳥によって違いがあるのかは。
(ぼくは千鳥も見たことないけど…)
会ったことがない、河原で子育てしている千鳥やイソシギ。河原に出掛けたことはあるのに。
気付かなかっただけかもしれない、卵や雛に近付かなければ、親鳥は偽傷しないから。雛に運ぶ餌を探していたって、怪我をしたふりをしない限りは普通の鳥にしか見えないから。
(…そうだったのかも…)
両親たちと河原で広げたお弁当。石を拾って遊んだりもした。
あの時も千鳥やイソシギは何処かにいたかもしれない。のんびりと餌を探しながら。
自分は出会い損ねたけれども、ハーレイの父なら出会っただろうか。こういう鳥たち。雛や卵を守り抜こうと、怪我をしたふりを始める親鳥。
釣りが大好きなハーレイの父は、川でも釣りをするのだから。魚が釣れる場所を探して、河原を歩き回るのだから。
巣がある場所など分からないから、近付くこともあるだろう。知らない間に。
親鳥の方も、人間の狙いが魚だと分かる筈もないから、慌てて偽傷を始めるのだろう。卵や雛を守らなければと、人間を巣から遠い所へ連れて行かないと大変だ、と。
(きっと急いで離れるんだよね、人間だって)
傷を負ったふりをする親鳥を見たら。それが偽傷だと知っていたなら。
(知らない人なら、怪我をした鳥だと思って助けに行くかもしれないけれど…)
鳥の性質を知っている人は、元来た方へと戻るだろう。そちらには巣が無いのだから。驚かせてごめん、と謝りながら。「帰っていいよ」と、「巣にお帰り」と。
ハーレイの父でなくても、誰でも。
親鳥が早く卵や雛の所に帰れるようにと、追ってゆかずに自分が離れる。少しでも早く、親鳥が巣に戻れるように。大切にしている卵や雛と離れていないで済むように。
今はそういう時代だから。
人間の親も、自分の子供を守るもの。イソシギの親にも負けない愛情。
卵で生まれるわけではなくても、血の繋がった本物の家族があるのだから。
(…前のぼくたちが生きてた頃だと…)
事情はまるで違っていた。本物の家族は何処にも無かった。トォニィたちが生まれるまでは。
機械が人工子宮で育てて、養父母に渡していた子供。生まれたばかりの赤ん坊を。
養父母と子供の組み合わせさえも、全て機械が決めていた。この子は此処、といった具合に。
SD体制が始まった頃には、それでも不都合は無かっただろう。養父母たちは十四歳になるまで子供を育てて、送り出すだけで良かったから。偽物であっても、家族は家族。愛情だって。
ところが、ミュウが生まれ始めたら、家族の形も変わってしまった。
(…ミュウが見付かったら、処分だものね…)
養父母に通報されてしまった子供もいた。ミュウを処分するユニバーサルに。
自分の評価が悪くならないよう、通報してしまう酷い親たち。自分が育てた子供なのに。
(…通報したら、殺されちゃうのに…)
それを承知で通報した親。
機械がそのように教えていたから、自分の子供を。
幼い子供を守ってやろうと努力する代わりに、自分自身を守ろうとして。
イソシギの親とはまるで違った、あの時代の酷い養父母たち。イソシギの親たちは、自分の命を危険に晒して雛や卵を守るのに。傷を負ったふりをして巣を守るのに。
いくら勝算があるにしたって、敵わない敵もいるだろう。その親鳥まで捕まえるような。無事に空へと飛び立つ前に、食べられることもあったのだろう。
それでもイソシギは卵や雛を守り続けて、今の時代もそういう習性。
敵が来たなら、飛べないふり。自分が怪我をしているふり。卵や雛を守り抜くために。
SD体制の時代の親とは比較にならない、深い愛情。前の自分が生きた時代は、イソシギの方が上だった。命懸けで子供を守るイソシギ。
(…ジョミーのママは違ったけれど…)
ジョミーを育てていた養母。彼女はジョミーを通報しようとしなかった。
目覚めの日を控えたジョミーが口にした言葉、それは危険なものだったのに。もしも子供が口にしたなら、ユニバーサルに直ちに知らせるべきだったのに。
(…ジョミーのママは、何もしなくて…)
代わりにジョミーを抱き締めていた。自分まで瞳に涙を浮かべて。
ジョミーの言動を監視していたユニバーサルから職員が来ても、彼女は何も話さなかった。ただ驚いて、ジョミーを心配し続けて…。
(…これを着せてあげて、って、パジャマまで…)
職員たちに渡していた。ジョミーはバスルームから検査室へと運ばれたから。
きっと、ああいうケースが例外。
あの時代ならば、有り得ないような。
少なくとも前の自分は知らない。ジョミーの母の他には、一人も。
自分の立場が危うくなっても、子供を守ろうとしていた親。イソシギの親を思わせる親は。
おやつを食べ終えて、部屋に帰って。
勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を考えた。怪我をしたふりをして卵や雛を守る親鳥。
(イソシギ…)
会ってみたい気がする、河原の鳥。懸命に子供を守る親鳥。
今の時代の親子ならば普通の愛情だけれど、前の自分が生きた時代は違ったから。人間の家族は全て偽物、イソシギの方が子供を大切にしていたのだから。
人間が愛情を失くした時代も、それを失わなかったイソシギ。会ってみたい、と思うイソシギ。
(ハーレイのお父さん、連れてってくれるかな?)
釣りのついででかまわないから、と考えていたら、仕事帰りのハーレイが来てくれたから。
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。イソシギって知ってる?」
河原に住んでる鳥らしいんだけど…。夏鳥だけど。
「知ってるが…。いきなり、どうした?」
怪訝そうな顔をしているハーレイ。イソシギがどうかしたのか、と。
「イソシギに会ったことはある?」
「まあな。…そういう季節に川に行ったらいるもんだし」
親父の釣りについてった時に、何度も会ったな。
釣りには丁度いいシーズンだしなあ、イソシギが来ている季節ってヤツは。
ガキだった頃からよく見たもんだ、とハーレイが話すものだから。
それなら、と早速、偽傷のことを訊くことにした。イソシギの親がする、怪我をしたふり。
「ハーレイ、イソシギ…。怪我してた?」
「怪我?」
別に、元気なもんだったが?
病院に連れて行かないと、と親父と慌てたことだって無いし。
「そうじゃなくって、怪我をしたふり。…羽をバタバタさせるだとか…」
飛べなくなったふりをするんでしょ、卵とか雛を守ろうとして。
巣があるのとは違う方へ歩いて行くものなんでしょ、イソシギの親は…?
「あれか…。そういうヤツなら見たことがあるな」
なんだかバタバタしているぞ、と思って見てたら、親父に「こら!」と叱られた。
さっさとこっちに来てやれ、と。
飛べないふりをしているだけだと、この近くに巣があるんだろうと。
「やっぱりそうなんだ…。ぼくが考えてた通り…」
「あれがどうかしたか?」
親父と一緒に戻り始めたら、バタバタするのはやめちまったが…。飛んでは行かなかったがな。
暫くこっちをじっと見てたな、俺たちが戻って来るんじゃないかと心配そうに。
「そうだろうね。本当に卵や雛を狙っているんだったら、戻って来るかもしれないし…」
でも、ハーレイのお父さんならそうするよね、って思ってたんだよ。
怪我をしたふりをするイソシギを見たら、きっと急いで離れるよね、って。
予想通りの行動を取ったハーレイの父。イソシギの巣から離れなければ、と。
まだ子供だったハーレイを「こら!」と叱って、急いで二人で戻って行った。巣の無い方へ。
「親父でなくても、誰でも離れると思うんだが?」
必死なんだぞ、イソシギの親は。敵が来たから、とにかく子供を守らないと、と思ってな。
俺たちは敵ってわけじゃないんだし、怖がらせたら悪いじゃないか。
命懸けで頑張らなくてもいいぞ、と離れてやるのが礼儀ってモンだ。知っているなら。
「そうなんだけど…。それを自然に考えられるの、今の時代だからなんだよ」
親は子供を守るものだ、って分かっているから、誰でも急いで巣から離れていくけれど…。
前のぼくたちの時代だったら、多分、教えるものだったと思う。イソシギは敵が現れた時には、そうやって怪我をしたふりをする、って。可哀相だから、人間は急いで離れましょう、って。
子供がどんなに大切なのかは、きっと誰にも分かってなかった。
ミュウはともかく、人類の方は。…子供の社会と大人の社会は別だったから。
命懸けで子供を守るどころか、通報しちゃう人だっていたよ。この子は変だ、って気付いたら。
自分の評価が下がらないように、ユニバーサルに。
「確かになあ…。とんでもない時代だったんだっけな、前の俺たちが生きてた頃は」
あの時代の養父母たちがイソシギの親を見たとしたって、知識があるというだけだな。
怪我をしたふりをしているようだし、急いで離れてやらないと、と。
子供と一緒の時に出会っても、子供にもそう教えるだけか…。「鳥さんが可哀相だから」と。
「でしょ? イソシギがどうして必死なのかは分からないんだよ」
子供を守ることが大切、って誰も考えないんだから。
シャングリラはそうじゃなかったけれど…。子供はみんなで大切に育てていたけれど。
でも、シャングリラだって、トォニィたちが生まれるまでは本物の親子はいなかったしね…。
SD体制が敷かれた時代は、自分の命を危険に晒して子供を守る親はいなかった時代。
血の繋がった親子はいないし、機械も「子供を守れ」と教えなかったから。養父母として育ててやれば充分、子供の育て方さえ機械が教えていた時代。養父母向けの教育ステーションで。
「だけど、ジョミーのお母さんは違っていたよね…」
ジョミーに目覚めの日のことを「寂しくない?」って訊かれても、一瞬、ビックリしてただけ。
「ぼくがこの家からいなくなっても、ママは寂しくない?」って…。
そんなこと、言っちゃ駄目だったのに…。子供が言ったら、通報しなくちゃ駄目だったのに。
ジョミーのお母さんはそうしなかったよ、代わりにギュッと抱き締めただけ。「大丈夫」って。
ちゃんと立派な大人になれる、って…。
あんなお母さん、ぼくは一人しか知らなかった。…ジョミーのお母さんの他には知らない。
「そうだな、立派なお母さんだった。ジョミーを育てたお母さんは」
…待てよ、お前は知らないのか…。その様子じゃ、お前、知らないんだな。
「何を?」
知らないっていうのは、前のぼくなの、今のぼくなの?
「今のお前だ。…前のお前は知るわけがない。死んじまった後の話なんだから」
学校の授業じゃ習わないかもな。…俺も習いはしなかったし」
「授業って…。何の話?」
「歴史の授業だ。…コルディッツだ」
シャングリラが人類と本格的な戦闘状態に入った後。
人類の方は、ミュウの摘発に躍起になった。ミュウの因子を持ったヤツらを端から捕えて。
そうやってミュウと判断された人間は全部、収容所送りになったんだ。
子供だろうが、国家騎士団に所属していた軍人だろうが、一人残らず、容赦なく…な。
ミュウ因子を持った人間たちが移送されたのがコルディッツ。
どういう歴史の悪戯なのか、ジュピターの上空にあった収容所。ジュピターは因縁の星だった。かつてメギドの炎に焼かれたアルタミラ。それはジュピターの衛星の上にあったのだから。
ガリレオ衛星の一つ、ガニメデ。遠い昔にアルタミラごと砕けてしまったジュピターの衛星。
人類はわざと其処を選んだか、単なる偶然だったのか。それは今でも分からない。
ミュウの収容所はジュピター上空に作られ、コルディッツと名付けられていた。ソル太陽系へと侵攻して来たミュウに対する切り札として。
ミュウが戦いを止めないのならば、コルディッツをジュピターに落下させると脅した人類。
もしもコルディッツが落下したなら、大勢のミュウが犠牲になる。それでも来るか、と。
けれども、ジョミーは脅しに屈することはなかった。
シャングリラはそのまま進み続けて、キースの部下のスタージョン中尉が下した決断。
マードック大佐の制止に耳を貸さないで押した、コルディッツを落下させるためのボタン。死が待つ星へと一直線に落ちてゆく収容所を、ゼルの船とナスカの子たちが救った。
誰一人として犠牲にはならず、救出された仲間たち。落下が止まったコルディッツから。
歴史の授業で習っていたから、今の自分も知っている。コルディッツも、それがあった所も。
前の自分は死んでしまった後だったけれど、人類はなんと酷かったのか、と。
「コルディッツのことは知ってるよ?」
人類は酷いことをしたよね、本当に最後の最後まで。それまで普通に暮らしてた人も、捕まえてしまったんだから。…ミュウの因子があるってだけで。
誰もサイオンは使ってないのに、ミュウらしいことは何もしていないのに…。
「…知ってるだろうな、コルディッツのことは教わるからな」
こういう歴史がありました、と。…だが、授業ではそこまでだ。一般人が大勢送られた、とな。
コルディッツに収容されてた人間までは習わない。軍人も子供もいた、って程度で。
その大勢の中にいた人間が問題なんだ。…前のお前も知っている人が混じってたってな。
「前のぼくって…。そんな人があのコルディッツに?」
…誰がいたの、誰がコルディッツにいたっていうの?
前のぼくの知り合い、普通に生きてた人間の中には一人もいないと思うんだけど…?
「それがいたのさ。…ジョミーの親だ」
「えっ…」
ジョミーの親って、まさかジョミーのお母さんが!?
お母さんはミュウじゃなかった筈だよ、因子があったら気付いてたよ!
それって何かの間違いじゃないの、何か手違いでもあったんじゃないの…?
「…間違いじゃない。しかし、手違いでもなかったんだ」
あそこにはジョミーの両親がいた。…ジョミーのお母さんだけじゃないんだ、お父さんもだ。
もちろん二人とも、ミュウじゃなかった。
だから、本当なら行かなくてもいい。誰も連行しようともしない。
それでも二人は選んだんだ。…コルディッツに行くという道を。ミュウ因子があると判断された子供と一緒に、自分たちも、と。
ジョミーを育て上げた二人が、その後に新しく迎えた子供。レティシアという名の女の子。
元々はスウェナ・ダールトンが養母だったけれども、離婚して失った養母の資格。
新たに選ばれた養父母がジョミーの両親、彼らは全てを承知で娘になる子供を迎え入れた。まだ幼いから、新しい環境にも充分に馴染んでくれるだろうと。
そして穏やかに暮らしていたのに、アルテメシアはミュウの手に落ちた。安全な場所へ、と移住しようと向かったノアで、ミュウだと断定されたレティシア。
連れ去られようとしたレティシアと一緒に、ジョミーの両親は収容所に行ってしまったという。今もその名が伝えられているコルディッツへ。
「なんで…。なんで、ジョミーのお母さんたちが?」
お母さんたちはミュウじゃなかったのに、どうしてなの…!
ミュウだと分かった子供と一緒に行ってしまったら、殺されたって仕方ないのに…!
「…分からないか? ジョミーを守れなかったからだ」
ジョミーのお母さんは覚えていたんだ、ジョミーがどんな目に遭ったかを。目覚めの日の前に、深層心理検査だと言って、ユニバーサルが何をしたのかを。
…もうあんなことは二度とさせない、と飛び出して行ったのがお母さんだった。警備兵が大勢、銃を突き付けていたのにな。この子は自分が守るんだ、って。
そしてジョミーのお父さんだって、やはり忘れちゃいなかった。ジョミーのことを。
自分の娘は守ってみせると、今度こそ守ってやらなければ、と警備兵の前に出て行ったんだ。
後は分かるな、レティシアを離そうとしなかった以上は、二人ともコルディッツ送りだろうが。
「…ハーレイ、そのこと、知っていたの?」
前のハーレイは知っていたわけ、ジョミーのお母さんたちがコルディッツの中にいたことを?
「いや…。今から思えば、あの通信がそうだったんだな、と思うだけで…」
コルディッツの件で、人類軍から脅されてた時。
…スウェナ・ダールトンからの通信があった。シャングリラにな。
ジョミーが切らせてしまったんだが、多分、伝えようとしていたんだろう。コルディッツに誰がいるのかを。…ジョミーの親がいるとなったら、見捨てるわけがないんだから。
けれど、伝わらなかった通信。シャングリラにも、それにジョミーにも。
コルディッツはゼルたちが救ったけれども、救い出された者たちは皆、シャングリラには来ずに終わってしまった。地球を目指す船に彼らを乗せたら、お荷物になるだけだから。
ゼルの船もまた地球に向かうから、応援を呼んで安全な星へと送り出した。もう二度と戦場にはならない星。ミュウの支配下にある星へ向かって。
「…その時に名簿を作ったわけでもないからなあ…」
みんな纏めて仲間なんだし、調べる必要も無いだろうが。コルディッツには色々な仕事が出来る人材が充分揃っていた。維持してゆくのに欠かせない仕事は、何もかもミュウがやっていたんだ。
だからこそ簡単に捨てられたわけだな、人類は一人もいないんだから。
前の俺たちからすれば、人類のスパイがいるわけがない、ということになるんだし…。
もう心配は要らないから、と送り出したらそれで良かった。…安全な星へ。
名簿も何も作りもしないで、地球を目指しただけなんだよなあ…。
救い出した仲間が誰だったのかも、調べないままでシャングリラは地球に向かったから。
前のハーレイも、もちろんジョミーも、最後まで知らないままだったという。
コルディッツに誰がいたのかを。
目覚めの日の後、シャングリラに連れて来られたジョミーが「ぼくを帰せ」と叫んだ家。帰って会いたかった両親、その両親が直ぐ側に揃って来ていたことを。
ジョミーとの再会を果たすことなく、ジョミーの両親はソル太陽系を離れて行った。迎えの船に移って、安全な星へ。守り抜いた娘のレティシアを連れて。
「…ハーレイ、なんで知ってるの…?」
ジョミーのお母さんたちのこと…。前のハーレイは知らなかったのに、何処で分かったの?
「前の俺の記憶が戻って来た後、たまたま見付けた資料ってヤツだ」
何を調べていたんだったか、ついでにポロッと出て来たってな。ジョミーの名前が。
なんだってこんな所に出て来るんだ、と読んでいったら、ジョミーの親の方だったってわけだ。
ジョミーが気付いていたんだったら、重要な資料になるんだろうが…。そうじゃないから、他の資料と一纏めにされていたってな。偶然の出会いすらも無かったんだし。
だが、あの時代に、そういう立派な親がいたんだ。…命懸けで子供を守ろうとしていた親が。
血も繋がってはいないというのに、子供を離そうとしなかった親がな。
ジョミーはいい両親を持ったってことだ、お母さんも、それにお父さんも。
「…でも、ジョミーは知らないままで終わったんだよね…」
お母さんたちが側まで来ていたってことも、子供を守ろうとして頑張ったことも。
ミュウだと分かってしまった子供を必死で守って、コルディッツまで一緒に行ったってことも。
…なんだかジョミーが可哀相だよ、最後まで気付かなかっただなんて…。
「俺も思った、知った時には。…ジョミーに知らせてやりたかった、と」
何もかも手遅れなんだがな…。
今の俺が今頃気付いたってだ、ジョミーは何処にもいないんだから…。
もっとも、それだけ子供を大事に思ったお母さんたちだ。何処かでジョミーに会えたと思うぞ、お母さんたちの方が遥かに長生きしたんだろうがな。
きっと会えたさ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。俺とお前が会えたみたいに、と。
「ジョミーがあんなに会いたかった親だ。神様が会わせて下さっただろう」
お母さんたちが生きてた間は無理だったろうが、きっと何処かで。
…もしかしたら、本物の親子にだってなれたかもなあ、記憶があったかどうかはともかく。
ジョミーはとんでもない悪戯っ子で、お母さんたちは手を焼きっ放しで。
そういや、イソシギの話だったか。あの鳥の鳴き声、知ってるか?
「知らないよ?」
新聞には書いてなかったし…。ぼくはイソシギ、そうだと思って見たことがないし。
「ツィーリーリー、と鳴くんだが…」
聞き方によっては、面白いことになるらしい。…聞きなしっていうのは知ってるか?
鳥のさえずりを人の言葉に当て嵌めるヤツだ、覚えやすく。それをイソシギでやるんだが…。
「どんな風になるの?」
イソシギの鳴き声、人間の言葉にしたなら、どうなるわけ?
「俺にはそうは聞こえなかったが…」
イソシギはこう鳴くんだそうだ。「私を可哀相だと思って」とな。
「ええっ?」
全然違うよ、それって変だよ。…だって、イソシギ、ツィーリーリーって鳴くんでしょ?
ちっとも重ならないんだけれど…。可哀相も何もないんだけれど…!
ツィーリーリーと、「私を可哀相だと思って」。
何処も重なりそうにないから、騙されたのかと思ったけれど。両親に会えずに死んでしまった、可哀相なジョミーの話なのかとも考えたけれど。
「今の俺たちの言葉じゃ無理だな、ツィーリーリーとしか聞こえんだろう」
古い昔の言葉で聞いたら、そうなるんだそうだ。…人間が地球しか知らなかった頃の。
前に歌ってやっただろうが、前のお前にも教えてやったスカボローフェアを。
あの時代のイギリスの言葉を聞き慣れていたら、そういう風に聞こえるってな。
「そうなんだ…?」
言葉は変わっていくものね…。だから古典もあるんだものね。
今とは全く違った意味の言葉だったり、別の響きになっちゃっていたり。
「そんなトコだな、だから俺にもサッパリ分からん」
俺は日本の古典の教師で、イギリスの古典は範疇外ってヤツだから…。
そう聞こえるんだ、と本で読んだ程度で、どういう風に当て嵌めるのかは分からんな。
ただ、印象的だったもんだから…。それでそのまま覚えちまった。「私を可哀相だと思って」と鳴いてるんだと、ツィーリーリーはそういう意味だ、と。
親とのさよならを悲しむように鳴く鳥なんだ、と書かれていたっけなあ…。
「…さよなら?」
親と別れてしまうの、イソシギの子供は?
怪我をしたふりで守ってくれてた、お母さんたちとお別れなの?
…そりゃあ、いつかは雛も巣立ちをするんだろうけど…。
「巣立ちが早い鳥なのさ。イソシギってヤツは」
卵から孵って、半日もしたら巣から離れるくらいにな。
そのくらいだと、まだ目も見えていない鳥の雛も沢山いるっていうのに。
巣立ちが早いらしいイソシギ。たったの一ヶ月で訪れる巣立ち。
敵が来たなら、傷を負ったふりをして卵や雛を守っていた親。命懸けで守ってくれた親鳥。
その親鳥から離れて巣立つしかない、イソシギの子供。一ヶ月しか一緒にいないで。
「可哀相だね…。イソシギの子供」
鳴き声の意味が分かる気がするよ、ぼくにはそうは聞こえなくても。
「可哀相だと思って」って鳴くよね、まだ小さいのに、お母さんたちとお別れなんだから…。
命懸けで守ってくれていたほど、優しいお母さんたちなのに…。
「そう聞こえるってだけなんだがな」
人間様の耳が勝手に聞いているだけだ、そういう風に。こう鳴いてるな、と。
巣立ちをしようっていう雛は至って元気なものさ。一人前に空も飛べるし、餌も獲れるし。
次の年には自分が子供を育てるんだぞ、仲間と一緒に旅に出てって、河原に戻って来る頃には。
ジョミーの時と一緒にするなよ、「家に帰せ」と鳴くようなヤツはいないだろう。
巣にちんまりと座っているより、空を飛ぶ方が楽しいだろうが。人生を謳歌するってヤツだな、鳥の場合は人生と言わんかもしれないが…。
今の時期だと、この辺りのはもう旅立ってるな。暖かい所で冬を越そうと。
「らしいね、新聞にもそう書いてあったよ」
夏鳥だから、今の季節は旅立つ頃です、って。また来年に河原に戻って、雛を育てるって。
敵が近付いたら、怪我をしたふりをして卵や雛を守りながら。
この町の川でも、隣町の川でも、河原に行ったら、イソシギに会えるらしいから…。
それでね…。
イソシギに会いに行きたいな、と話してみた。
大きくなったら、ハーレイのお父さんに案内して貰って、と。
「…お父さん、川に詳しいでしょ?」
イソシギが住んでる河原にも詳しそうだから…。ぼくを連れてって欲しいんだよ。
最初からそう思っていたけど、ジョミーのお母さんたちの話を聞いたら、会いたい気持ちが倍になったよ。…だって、ホントにイソシギみたい…。
あんな時代に、命懸けで子供を守ったなんて。…コルディッツまでついて行っただなんて。
「そうだな、まさにイソシギだよなあ…。怪我をしたふりはしていないんだが…」
人類だったのに、ミュウと一緒に収容所に行こうって勇敢さだ。
そうやって必死に子供を守って、立派に守り抜いたんだし…。コルディッツから子供と一緒に、無事に戻って来たんだからな。
よし、いつか親父に頼んでやろう。イソシギに会える所へ連れてってくれ、って。
お前は釣りもするんだろう?
せっかく川まで出掛けて行くんだ、親父に釣竿を貸して貰って。
「うん、ハーレイも一緒にね。でも…」
先にイソシギに会ってからだよ、そっちが大切なんだから。
あれが勇敢な親鳥なんだ、って観察してから。…ジョミーのお母さんたちみたいな鳥を。
「おいおい、観察するのはいいがだ…。巣に近付くなよ?」
可哀相だろうが、敵だと思って怪我をしたふりをさせちまったら。
「分かってるってば…!」
そんなことしないよ、見るだけだよ!
もしもウッカリ近付いちゃったら、謝って直ぐに戻るから…!
羽をバタバタさせたりしてたら、「ごめんね」って、ちゃんと謝るから…!
今の季節は暖かい場所へ旅立つけれども、また来年の春に戻るイソシギ。
河原に小さな巣を作るという、命懸けで卵や雛を守る親鳥。
その姿を誰もが温かく見守る時代。
怪我をしたふりを始めたならば、急いで元来た方へ戻って。巣から離れて。
親は子供を守るものだと、今は誰でも知っているから。
それが当たり前で、親が子供を通報したような悲しい時代は、とうの昔に終わったから。
(…そんな時代でも、ジョミーのお母さんたちは…)
ジョミーの次に迎えた子供を、イソシギの親のように守った。
今度は守ると、コルディッツまで一緒に行って。…ジョミーを守れなかったから、と。
いつかハーレイと、イソシギに会いに出掛けよう。
ハーレイの父に案内して貰って、河原まで。イソシギが子育てしている季節に。
怪我をしたふりをさせてしまわないよう、気を付けて。
ジョミーの両親のようなイソシギ。
命懸けで子供を守ろうと頑張る、優しくて勇敢な親鳥に会いに…。
イソシギ・了
※怪我をしたふりをして、雛を守るイソシギ。SD体制の時代の養父母なら、しなかったこと。
けれど、ジョミーの両親だけは違ったのです。ジョミーは、きっと再会出来ましたよね。
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