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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




行楽の秋がやって来ました。とはいえ、私たちは学校に通う高校生。出席義務のない特別生でも、長期欠席をしての旅行は論外とばかり、お出掛けは近場。でなければ会長さんの家でのんびり、それが休日の定番です。今日も土曜日、会長さんの家で次のお出掛けの相談中。
「紅葉の季節はドッと混むしな、その前だな」
いわゆる名所に行くんだったら…、とキース君。
「でもって、朝の早い内から出掛けて行ってだ、混み始める前に飯を食う、と」
「そうだよねえ…。予約してても落ち着かないしね、行列されると」
何処のお店も行列だしね、とジョミー君も。
「いくら個室で食べていてもさ、外じゃ行列だと思うとさ…」
「うんうん、俺たち、そんなに偉くはねえもんなあ…」
ただの高校生だもんな、とサム君も同意。
「食ってる間はいいんだけどよ…。出て来た時の視線ってヤツが痛いよなあ…」
「何様なんだ、って目で見られますしね」
あれは嫌です、とシロエ君。
「ホントは混じってるんですけどねえ、凄い人だって」
「ブルーとマツカは本物だけどよ…」
伝説の高僧と御曹司、とサム君がフウと溜息を。
「でもよ、それが全く分からねえのがブルーとマツカのいいトコだしよ…」
「二人ともオーラを消せますからねえ、何処から見ても一般人です」
その辺が実に問題です、とシロエ君が頭を振りながら。
「特に会長は超絶美形と来てますからねえ、たまに勘違いをする人も…」
「あー、いるよな! なんかの有名人だと思って騒ぐヤツもよ」
どう転んだって何様なんだか、としか言いようがないのが私たち。混み合う季節の飲食店は避けるべし、というのが鉄則、行きたい時には早めの予約でサッサと出るのがお約束。
「とにかく予約だ、希望の行き先や店があったら挙げてくれ」
その上で検討することにしよう、と仕切り始めたキース君。副住職として頑張る間にスキルが上がって、こういうのも得意分野です。お坊さん同士の集まりなんかで慣れたんでしょうね。
「美味しいトコなら何処でもいいな」
「それより、景色が大切ですよ!」
せっかくお出掛けするんですから、とシロエ君は景色が優先らしく。美味しさ一番がジョミー君の方で、私たちは二手に分かれてワイワイと。食事だ、景色だ、とやっていたら…。



「こんにちはーっ!」
お出掛けだって? とフワリと翻った紫のマント。何かと言えば顔を出したがる人がツカツカ、空いていたソファにストンと座って。
「ぶるぅ、ぼくにもおやつと飲み物!」
「オッケー! ちょっと待っててねーっ!」
サッとキッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が栗のミルフィーユと紅茶をソルジャーの前に。ソルジャーは早速、ミルフィーユにフォークを入れながら。
「お出掛けの相談をしてるんだったら、丁度いいやと思ってね! ちょっとお誘い」
「「「お誘い?」」」
「そう、お願いと言うべきか…。特別休暇が取れそうなんだよ!」
なんと豪華に一週間も、とソルジャーはそれは嬉しそうで。
「ぼくの世界のユニバーサル…。成人検査をやってる施設で集中メンテナンスだったかな? とにかく成人検査はお休み、ぼくの出番も無いってね!」
シャングリラの方も暇になるから、とニコニコと。
「つまりハーレイも休みが取れるし、旅行に行こうと思ってさ!」
「…行って来たら?」
どうぞご自由に、と会長さんが返しましたが。
「それじゃつまらないよ、旅は道連れって言うんだろ?」
一緒に旅行、と誘われましても、一週間もの長期欠席は私たちの望むものではなくて。
「一泊くらいなら何とかするが…」
一週間はとても無理だな、とキース君。
「ついでにこの時期、ホテルも旅館も混んでるぞ? 別荘という手もあるが…」
俺たちは行かん、とバッサリと。
「あんたたちだけで行って来い。そうだな、湯治なんかはどうだ?」
「とうじ?」
なんだい、それは、と首を傾げているソルジャー。
「アレかな、一年で一番昼が短い日が冬至だっけか、地球の場合は…。でもねえ…」
特別休暇は来週なんだよ、というぼやきが。
「お勧めの季節が冬至と言われても、そこで休みが取れるかどうか…」
「俺が言うのは、そっちの冬至じゃなくてだな…」
温泉なのだ、とキース君。えーっと、ソルジャーに温泉旅行をお勧めですか?



「温泉ねえ…。ぼくも嫌いじゃないけどさ」
一週間も行くほどの素敵な場所があるのか、と当然のように切り返しが。
「さあなあ、俺が言ってる湯治ってヤツは温泉治療のことだからな」
「治療?」
何を、とソルジャーの目がパチクリと。
「ぼくのハーレイ、特に病気はしてないけどねえ? 毎晩、元気に励んでくれるし!」
「そういうあんたにお勧めなんだ、湯治はな」
たまに非日常を楽しんで来い、とキース君がニヤリ。
「湯治と言っても色々あるがだ、俺の一押しは自炊の宿だな」
「…自炊?」
「宿に食事はついていなくて、自分で料理をしながら暮らす。目的はひたすら温泉治療で、腰に効くとか、それは色々あるんだが…」
「腰に効くだって!?」
それは素晴らしい! とソルジャーの瞳がキラキラと。
「腰は男の命なんだよ、ハーレイの腰がパワーアップするなら、是非、温泉に!」
「そう来たか…。ならば立派に湯治に行く意味があるようだな」
温泉に浸かって腰にパワーだな、とキース君。
「自分のペースで湯に浸かるのが湯治の要だ、ついでに自炊で部屋の掃除も布団を敷くのも自分でやらんといけない宿がいいと思うが…」
「それって面倒そうじゃないか!」
「一週間だぞ? あんたの憧れの新婚生活に似合いの宿ってヤツじゃないのか?」
二人きりだぞ、とキース君が推すと、ソルジャーも。
「言われてみれば…。自分の面倒は自分で見るのが湯治なんだね?」
「もちろん旅館に泊まるのもアリだが、二人暮らしの気分になるならシケた宿だな」
提供されるものは部屋と布団だけだ、と聞かされたソルジャー、「なるほどねえ…」と。
「そういう休暇もいいかもね! 二人きりで邪魔は入らない、と!」
「温泉の方には先客と言うか、相客もいると思うがな」
「そっちは何とでもなるんだよ! ぼくにはサイオンがあるからね!」
何人いようが二人っきりの気分で入浴、と俄然、その気に。
「分かった、特別休暇は湯治に出掛けてみることにするよ! お勧めはどこ?」
「それこそあんたの好み次第だが…」
湯の効能で決めたらどうだ、とキース君が差し出す温泉マップ。さて…?



会長さんの家には色々なものが揃っていますが、温泉マップもその一つ。思い付いたらお出掛けとばかりに買ったようですけど、ソルジャーはそれを子細に眺めて。
「やっぱり腰に効くのがいいよね、ハーレイにはそれが一番だしね!」
ここがいいかな、と選ばれた場所はいわゆる秘湯。一般客向けの旅館もあるだけに温泉マップに載っているものの、メインは湯治用の宿。キース君が言う自炊の宿で。
「えーっと、食材も持ち込み、と…」
買い物便が出ているのか、と宿の説明を見ているソルジャー。
「三日に一回、近くの町まで買い出し用のマイクロバスが出るってさ! こういうのに乗って行くのもいいねえ!」
瞬間移動でパッと行くより新婚気分、と大喜びで。
「ハーレイと二人で食事のために買い物だなんて…。考えたこともなかったよ!」
「それは良かったな。俺も勧めた甲斐があった」
「ありがとう! 一週間、じっくり楽しめそうだよ!」
もう最高の特別休暇、とソルジャーは会長さんの家の電話で宿に予約を入れました。二人一室、一週間の御滞在。…御滞在と言っていいほどのレベルの宿かどうかは知りませんが…。
「えっ、その辺はいいんだよ! ハーレイと二人で暮らせるんなら、何処でも天国!」
ド田舎だろうが秘境だろうが、とソルジャーはやる気満々で。
「おまけに温泉に浸かり放題、ハーレイの腰がググンとパワーアップで素敵な休暇に!」
「はいはい、分かった」
もういいから、と止めに入った会長さん。
「それ以上は語らなくていいから、特別休暇を楽しんできてよ」
「もちろんさ! 温泉パワーでガンガンと!」
そして二人で買い物に料理、と笑顔のソルジャーですけれど。ソルジャー、料理が得意だなんて話は全く聞いてませんが…?
「うん、料理なんかは全然だねえ!」
まるで駄目だね、と恐ろしい台詞。それでどうやって自炊をすると?
「え、ハーレイがいるじゃないか! 任せて安心、きっと毎日、美味しい料理が!」
「…キャプテン、料理をなさるんですか?」
シロエ君が訊くと、ソルジャーは。
「ううん、全然! でもねえ、ハーレイはキャプテンだから!」
妙な所で真面目だから、とソルジャーは強気。レシピさえあれば作れるだろうと決めてかかってますけれど。そんな調子で大丈夫ですか…?



キース君の機転でソルジャー夫妻との長期旅行を無事に回避した私たち。湯治に行ったであろう頃にも平常運転、学校に行ったり、会長さんの家で過ごしたり。すっかり綺麗に忘れ果てたというのが正しく、この週末も会長さんの家に居たのですけど。
「遊びに来たよーっ!」
この間はどうも、とソルジャーが降って湧きました。お肌ツヤツヤのソルジャーが。
「見てよ、この肌! 温泉がとても効いたらしくて!」
「…そりゃ良かったな」
忘れていたが、とキース君が返すと、ソルジャーは。
「そうだったわけ? でもねえ、君のお勧めの湯治はホントに最高だったよ!」
ぼくのハーレイもパワーアップで充実の一週間だった、と御機嫌で。
「ハーレイが料理を作ってくれてさ、買い出しは二人で買い物便で! もう毎日が新婚気分で、素敵な発見だってあったし…」
「言わなくていいから!」
どうせロクでもない発見だ、と会長さんが一刀両断。なのに…。
「ううん、記念すべき大発見だよ、布団があんなに凄いだなんて!」
「「「布団?」」」
なんのこっちゃ、とオウム返しな私たちですが。
「布団だよ! あれは最高のベッドなんだよ、ただの布団だと思っていたけど!」
「「「はあ?」」」
布団がベッドって…。下にマットレスを何枚も重ねてベッドですか?
「そうじゃなくって! 布団自体が!」
いつでも何処でもベッドなのだ、とソルジャーは拳を握りました。
「こっちの世界で旅館に泊まると、布団は敷いてくれてたからねえ…。今まで全く気付かなかったよ、布団の凄さに!」
「…どの辺がどう凄いんだい?」
サッパリ意味が不明だけれど、と会長さんが尋ねると。
「何処でもベッド!」
「「「えっ?」」」
ますます分からん、と首を捻るしかない状態。何処でもベッドって、何なんでしょう?
「そのままの意味だよ、何処でもベッドになるんだよ!」
布団さえあれば、と謎の台詞が。ソルジャーは何を言いたいんですか…?



「…分からないかなあ、何処でもベッド…」
もう簡単なことなんだけど、とソルジャーが床を指差して。
「其処に布団を敷くとするだろ? そしたら、其処はどうなるわけ?」
「…邪魔な布団が置かれるんだけど?」
掃除の邪魔だ、と会長さん。
「こんな所に敷かれちゃったら掃除をするのに困るんだよ! どけなきゃ掃除が出来ないから!」
「そう、そこなんだよ、ぼくが言いたいのは!」
「…掃除って?」
「掃除じゃなくって、布団さえ敷けば何処でもベッドになるってことだよ!」
リビングだろうがダイニングだろうが、何処でも布団を敷きさえすれば…、と言うソルジャー。
「それこそ廊下でもいいんだよ! 布団を敷いたら寝られるだろう?」
「そりゃまあ…。ねえ…?」
廊下なんかで寝る羽目になってもいいのなら、と会長さんは呆れ顔で。
「その話の何処が発見だって?」
「わざわざベッドを用意しなくても、布団さえあれば何処でも一発!」
大人の時間が可能なのだ、と斜め上な言葉が飛び出しました。何処でもベッドって、そういう意味で言ってたんですか…?
「そうだよ、湯治で気付いたんだよ、布団は自分で敷くものだったし!」
ヤリたくなったら布団を敷かねばならないのだ、とソルジャー、力説。
「普通のホテルや旅館だったら、寝るための場所は自分で用意はしないしね? ぼくのシャングリラでもベッドは常に其処に在るものだし…」
係がリネンとかを取り替えるだけで、と言われてみればそういうものかも。
「それでね、ぼくたちは今回、初めて、自分の力で用意したわけ! ヤるための場所を!」
畳の上でも出来るんだけど、とソルジャーは。
「だけど、やっぱり背中が少し…ね。快適にヤるなら布団だってば!」
あれさえあったら、きっと何処でも! と布団に目覚めたらしいソルジャー。
「今までだったらベッドがなくちゃ、と思ってたような所でも楽々、布団を敷いたら即、一発!」
地面だろうが野原だろうが、と、とんでもない方へと暴走中で。
「ぼくのシャングリラでもそうだよ、きっと! 布団さえ敷けばブリッジでだって!」
「何をするかな、君という人は!」
ブリッジはそういうコトをするような場所じゃないだろう! と会長さんが眉を吊り上げてますが、ソルジャーだったらやりかねないかも…?



布団さえ敷けば何処でも一発、大人の時間で何処でもベッド。一週間の湯治で自分で布団を敷いていたソルジャー、エライ所に目を付けたようで。
「あれこそ万能ベッドなんだよ、ヤるために生まれたモノなんだよ!」
ヤリたくなったら敷けばオッケー! と拳を突き上げ、布団を絶賛。
「ぼくもハーレイもそれに気付いて、ホントに嬉しくなっちゃって! もう湯治場の布団じゃ物足りなくって、買っちゃったんだな!」
「「「へ?」」」
何を、とウッカリ訊いてしまった馬鹿は誰だったのか。ソルジャーはここぞとばかりに熱い口調で語り始めました、布団ショッピングへのお出掛けについて。
「買い物便で連れてってくれるのはスーパーとかだし、それじゃ布団は手に入らなくて…」
「それは売ってはいないだろうねえ…」
よほど大きなスーパーでないと、と会長さんが半ばヤケクソで合いの手を。
「ちょっとした服も買えるくらいのスーパーだったら、寝具売り場もあるだろうけど…」
「そうなんだよねえ、田舎のスーパーでは布団は無理でさ…」
それでノルディに相談したのだ、とエロドクターの名前が登場。どうやら瞬間移動で出掛けて尋ねたらしくて、専門店を教えて貰ったとか。
「それでハーレイと二人で行ってさ…。もちろん瞬間移動だよ? ハーレイは身体が大きいからねえ、連れて行かないとサイズがね!」
あれこれ試して素敵な布団を選んだのだ、と満面の笑み。
「見てよ、高級品なんだよ!」
羽毛たっぷり、とリビングの床に布団一式、枕付き。ソルジャーの世界から運んで来たに決まっています。枕だけは二つ乗っかっていて…。
「枕は二つ必要だからね、ぼくのと、それにハーレイのと!」
「こんなのを敷かないでくれるかな!」
部屋が穢れる、と会長さんが叫べば、ソルジャーは。
「平気だってば、ノルディに頼んでアフターケアも万全だから! 使った後にはこっちの世界でカバーとかを一式、替えて貰って!」
ノルディの家には使用人が大勢いるからね、と得意げな顔。
「任せておいたら綺麗に洗って貰えるんだよ、シーツも枕カバーもね! それに布団も!」
フカフカに乾燥して貰えるのだ、と自慢の布団を手でポンポンと。
「昨夜もハーレイとヤリたかったけど、たまにはベッドもいいものだしねえ…」
ベッドでヤッたから布団はお休み、と悪びれもせずに言ってますけど、何処でもベッド…。



ソルジャーはひとしきり布団を自慢し、慣れた手つきでヒョイと畳むと自分の世界へ送り返しました。今夜に備えて仕舞っておくとか、なんとか言って。
「いいだろ、ぼくの何処でもベッド! あれさえ敷けばね、ハーレイだって燃えるんだな!」
普通だったら無理な場所でも一発なのだ、と鼻高々。
「展望室でもヤッてみたしさ、公園だって!」
「「「こ、公園…」」」
それはブリッジから丸見えなんじゃあ、と誰もが思ったのですが。
「ちゃんとシールドしてるってね! 見えないように!」
そしてハーレイは布団さえあればスイッチが入る、と自信満々。
「これからヤるのだ、という気持ちになれるらしいね、布団を敷けばね!」
湯治場でそういう日々だったから、と得々と。
「ヤリたくなったら布団を敷かなきゃいけなかったし、ハーレイにとってはスイッチなんだよ! 敷けばヤるぞという印! 何処でもベッド!」
きっとブリッジでもヤれるであろう、と怖すぎる台詞。ブリッジだけはやめておいた方がいいのでは、と思うんですけど…。
「一応、シャングリラの中心だしねえ…。ホントにヤろうとは思ってないけど!」
だけどチャレンジしてみたい気も…、とソルジャーとも思えぬ酷い発言。いえ、ソルジャーというのはソルジャーじゃなくて、称号の方のソルジャーで…。人間としてのソルジャーだったらブリッジだって気にせず何でもやらかすだろうと分かってますが。
「それでさ、ぼくも色々、考えたんだけど…。何処でもベッドの使い道について!」
「もういいから!」
帰ってくれ、と会長さんがイエローカードを突き付けました。
「レッドカードでもいいほどなんだよ、今までの君の言動からして! サッサと帰る!」
そして布団を敷いてくれ、と吐き捨てるように。
「布団さえあれば天国なんだろ、何処でも好きに敷いて回れば?」
ブリッジだろうが公園だろうが、とシッシッと手で追い払おうとしたのですけど。
「その布団だよ! 有効活用できないかと!」
「「「は?」」」
「さっき言ったろ、布団でスイッチが入るって!」
ぼくのハーレイ、とソルジャー、ニッコリ。
「あのハーレイでも入るスイッチ、きっと使えると思うんだけどね?」
「「「…え?」」」
そんなスイッチ、いったい何に使うんでしょう? 明かりが点くわけないですよね?



何処でもベッドこと、布団を敷いたら入ると聞かされたキャプテンのスイッチ。同じスイッチでも電灯を点けたりエアコンを入れたりといったスイッチとは別物ですが…。
「スイッチとしての使い方はまるで同じなんだよ」
ズバリそのもの、とソルジャーが言えば、シロエ君が。
「でもですね…。スイッチは普通、明かりを点けたりするものですけど?」
そういう類のスイッチと同じとは思えません、と真っ当な意見。けれどソルジャーは「同じだってば」と譲りもせずに。
「同じものなら同じスイッチが使えるだろう? その手の電気器具にしたって」
「…それはまあ…。電球を別のに取り替えたから、とスイッチまで替えはしませんが…」
同じスイッチでパチンとやったら点きますが、とシロエ君が答えて、ソルジャーが。
「ほらね、モノさえ同じだったらスイッチも同じ! だから、こっちのハーレイだって!」
「「「…教頭先生!?」」」
どうしてその名が出て来るのだ、と思う間もなく続けられた言葉。
「何処でもベッドでスイッチが入ると思うんだよ! こっちのハーレイ!」
布団を敷いてあげさえすれば、とニヤニヤと。
「もちろん最初はただの布団だと思うだろうから、そこは丁寧に説明を! そして目出度く!」
何処でもベッドで童貞卒業、と恐ろしすぎる台詞が。童貞卒業って…。
「決まってるじゃないか、布団で一発ヤるんだよ! こっちのハーレイもスイッチを入れて!」
使わずに放置になってるアソコを使わせるべし、とソルジャーは言い放ちました。童貞のままではお先真っ暗、ここは一発、目覚めるべきだと。
「ぼくのハーレイだって、基本はヘタレ! 見られていると意気消沈で!」
ぶるぅの覗きでも萎えるヘタレだ、とお馴染みの言葉が。
「ところが、そういうハーレイだってね、布団を敷いたら公園で一発ヤれるんだな!」
きっと布団には秘めたパワーがあるに違いない、と言われましても。
「…布団はただの布団だけれど?」
会長さんがスッパリと。
「寝る時に敷くというだけのもので、パワーなんかは無い筈だけどね?」
「ぼくだって、そう思っていたよ! あの湯治場で気が付くまでは!」
畳で寝るには布団程度の認識だった、とソルジャーも負けていなくって。
「それが今ではしっかりスイッチ、敷きさえすればハーレイはパワー全開なんだよ!」
試してみる価値は大いにある、と言い出しましたが、試すって…?



布団を敷いたらスイッチオンで、何処でも一発らしいキャプテン。そのスイッチが教頭先生にも使える筈だ、というのがソルジャーの見解ですけれど。
「…試すも何も…。ハーレイは布団に慣れてるよ?」
柔道部の合宿は常に布団だ、と会長さん。キース君たちも頷いています。
「そうだな、合宿所では布団だな」
「ベッドなんかはありませんよね、教頭先生は一人部屋においでですけれど…」
あの部屋もベッドは無かったですね、とシロエ君。
「ご自分で敷いてらっしゃいますしね、布団くらいで気分が変わりはしないかと…」
「だよねえ、布団は珍しくないし…」
ぼくたちの世界じゃ普通にあるし、とジョミー君も。
「家じゃベッドで寝てるって人でも、旅館に行ったら布団だし…。寝られないからって、ベッドを用意させるのは無しだと思うよ」
最初からベッドの部屋にしないと…、という意見は至極もっともなもの。自分で和室をチョイスしておいて、ベッドを出せとは論外です。けれど…。
「やってみなくちゃ分からないじゃないか、こっちの世界のハーレイだって!」
ぼくのハーレイも湯治に行く前は布団でスイッチは入らなかった、と言い募るソルジャー。
「スイッチが入れば儲けものだよ、試すだけの価値があるってば!」
「誰が儲けて何の価値があると?」
会長さんの冷たい声音に、ソルジャーは。
「君が儲かるに決まってる、って言いたいけれども、今の時点じゃ言うだけ無駄だし…。ハーレイのスイッチが入れば分かるよ、儲かった、って!」
君とハーレイとの素敵な時間が…、とニヤニヤニヤ。
「こればっかりは体験しないと分からないからね、御礼は後から言ってくれれば!」
「儲かりもしないし、御礼を言う気も全然無いから!」
ぼくにそっちの趣味などは無い、と会長さん。
「迷惑どころか災難なんだよ、そんなスイッチが入ったら! 黙ってヤられはしないけど!」
その前にハーレイをブチ殺す、と不穏どころかコワイ台詞が。
「ぼくと一発ヤろうだなんてね、思い上がりも甚だしいから、殺されたって文句は言えないね!」
「うーん…。君に悩殺されるんだったら、ハーレイだって本望だろうけど…」
「そういう意味の殺すじゃなくって、息の根を止める方だから!」
次の日の朝日は拝めない方で殺してやるから、と会長さんはギャーギャーと。ソルジャーがいくら試したくっても、何処でもベッドは無理ですってば…。



布団を敷いたら入るスイッチ、教頭先生にあるか無いかの話はさておき、入った所で悲惨な末路にしかならないことは明々白々。会長さんをモノにするどころか、下手をすれば命がありません。まさか本気で殺しはしないと思いますけど…。
「まあねえ…。まだ捕まりたくないからね?」
それに殺生の罪は重くって…、と会長さん。
「銀青ともあろう者が戒を破って殺したとなれば、言い訳に凄く困りそうでねえ…」
「言い訳って…。あんた、言い訳できるのか? 殺生の罪を!?」
アレは坊主には致命傷では…、とキース君が訊けば。
「いざとなったら、なんとでも…ねえ? それが出来なきゃ緋色の衣は着られない、ってね」
ダテに高僧をやってはいない、と平然と。
「ただねえ、言い訳の方は出来ても警察がね? そりゃあ、そっちも誤魔化せるけどさ」
ハーレイの一人や二人くらいは殺したって、と、まるでゴキブリ並みの扱い。ソルジャーが深い溜息をついて、嘆かわしそうに。
「…ホントのホントに報われないねえ、こっちのハーレイ…。殺してもいいとか、殺したくらいじゃバレないだとかさ」
「日頃の行いが悪いからだよ、ぼくに対する態度とかがね!」
「愛情表現をそう取られたんじゃ、もう気の毒としか言いようがないよ」
ぼくなら喜んで一発どころか二発、三発…、と嘆くソルジャー。会長さんは教頭先生の値打ちがサッパリ分かっていないと、あんな素敵な伴侶はそうそういないのに…、と。
「ぼくなんか毎日が熱々なのにさ、君ときたらさ…」
「君の認識が狂ってるんだよ、ぼくは至って正常だからね!」
ちゃんとフィシスという女神もいるし、と会長さんだって負けていません。ソルジャーの方が絶対変だと、あんなのと結婚するなんて…、と。
「どう間違えたら男と結婚したくなるのか、ぼくには理解不能だから!」
「分かってないねえ、気持ちいいからに決まってるだろう!」
結婚したならやることは一つ! とソルジャーは拳を握り締めました。
「晴れて夫婦で何処でも一発、布団を敷いたら公園でだって! これが結婚の醍醐味で!」
まずは気持ち良さを体験しなくちゃ、とソルジャーの目指す所は更に高みへと。
「こっちのハーレイにスイッチを入れて、君は気持ちの良さを体験! そうすれば、きっと!」
結婚しようという気にもなるのだ、と自説を展開するソルジャー。まずは布団を敷いてスイッチ、それから会長さんが教頭先生にヤられてしまって、ソルジャーと同じく男同士の良さにハマるのだ、とか言ってますけど、無理すぎませんか…?



思い込んだら一直線なのがソルジャーなる人、誰が止めても止まるわけがなく。
「要は布団でスイッチなんだよ、入るかどうか試してみようよ!」
ちょうどハーレイも暇そうだし…、とサイオンで教頭先生の家を覗き見た様子。
「ぼくたちの布団を貸してあげるから、とりあえず、此処で!」
「「「此処で!?」」」
このリビングで実験なのか、と誰もがスザッと後ろに下がりましたが、ソルジャーの方は。
「布団は何処でもベッドなんだよ、何処でもスイッチが入るってね!」
論より証拠、とソルジャーの指がパチンと鳴ったら、リビングに教頭先生が。瞬間移動をさせたようです。教頭先生はキョロキョロとして。
「こ、これは…。邪魔したか?」
「大いに邪魔だよ、ぼくは呼んではいないからね!」
会長さんがツンケンと言うと、ソルジャーが。
「ぼくが呼んだんだよ、ちょっと素敵なアイテムを見付けたものだから…。君は布団を知っているかな、いわゆる布団」
敷いて寝るヤツ、と訊かれた教頭先生は。
「それはもちろん…。私の家にも何組か置いてありますし」
私自身はベッドですが、という答えにソルジャーは満足そうに。
「なるほど、それじゃ布団の敷き方、心得てるよね?」
「はい。ですが、布団がどうかしましたか?」
「高級なヤツを買ったんだよねえ、ちょっと敷いてみてくれるかな?」
モノはこれで…、と再び空間を超えて来たソルジャー夫妻の布団は、きちんと畳んでありました。ソルジャーは湯治場で過ごす間に布団の畳み方を覚えたようです。教頭先生は畳んで積み上げられた布団に触ってみて。
「ずいぶん奮発なさいましたね、これをお使いになっておられるのですか?」
「まあね。…何処でもいいから敷いてみてよ」
「はあ…」
やってみましょう、と教頭先生は掛布団をよいしょと脇へどけると、敷布団を引っ張り出しました。ソルジャーとキャプテンが使う布団ですし、とびきり大きな敷布団です。それを広げて、シーツを掛けて。お次は掛布団をバサッと広げて…。
「…こんな感じで如何でしょうか?」
「うん、いいね。それじゃ枕を…」
どっこいしょ、とソルジャーが取り出した枕が二つ並べて置かれましたが。さて、この後は…?



大きな布団に枕が二つ。どう見ても夫婦用ですけれども、教頭先生のスイッチは入りませんでした。いえ、キツネにつままれたような顔とでも言うべきか…。
「どう、ハーレイ? グッと来たかな?」
ソルジャーがワクワクと問い掛けてみても、返った返事は。
「…羨ましいな、と思うだけですが…」
ご夫婦用の布団ですよね、と見ているだけの教頭先生。それはそうでしょう、ソルジャーが買ったと言っているのですし、枕が二つのビッグサイズじゃ、キャプテンと二人で使う布団に決まってますし…。
「…君の感想はそれだけなわけ?」
「…他に何かが?」
とても高級な布団なのでしょうか、とズレまくっている教頭先生。ズレたと言うより、そちらの方が普通の反応、スイッチなんかは入るわけがなくて。
「……おかしいなあ……」
ちゃんと布団を敷いたんだけどな、とソルジャーは首を捻りました。
「この布団があれば、君にもパワーが漲ってくると思ったんだけどね?」
「パワーですか?」
「そう、パワー! これは何処でもベッドと言って!」
布団さえ敷けば何処でも一発! とソルジャーが布団を指差しているのに、教頭先生は「一発?」と怪訝そうな表情で。
「一発と言えば、一発だろう!」
「はあ…?」
教頭先生とソルジャーの会話は平行線でした。まるで噛み合わず、ソルジャーの意図は通じていません。ソルジャーはすっかり自信を失くして、ガックリと肩を落としてしまって。
「…ぼくのハーレイ限定なわけ?」
「そうじゃないかと思うけど?」
こっちのハーレイの方が正しい、と会長さんは勝ち誇った笑み。布団はただの布団なのだと、それ以上でも以下でもないと。
「でも…。ぼくのハーレイだと何処でもベッド…」
「…何処でもベッドとは何のことです?」
今一つ分かりかねるのですが、と教頭先生が口を挟みました。
「確かに布団は敷きさえすればベッド代わりになりますし…。スペースさえあれば寝られますが」
「そこが大事なポイントなんだよ!」
うんとポイントが高いんだけど…、とソルジャーは布団を畳み始めました。諦めて持って帰るんですかね、その方がいいと思いますけど…。



敷いてあった布団を畳み終わると、グルリと周りを見渡したソルジャー。それから視線を宙に向けると、「よし!」と一声、青いサイオンが煌めいて。
「「「!!?」」」
ゆらりと一瞬揺れた空間、キャプテンがパッと現れました。ソルジャーの方は私服ですけど、こちらは制服を着ています。キャプテンは私たちに気付くと姿勢を正して。
「どうも、ご無沙汰しております。いつもブルーがお世話になっておりまして…」
「ハーレイ、挨拶はどうでもいいから」
それよりこっち、とソルジャーが布団の山を示した途端に、バッと勝手に広がった布団。リビングに見事に敷かれてしまって、ソルジャーは。
「ねえ、ハーレイ? 布団なんだけど…」
「布団ですね!」
そうでしたね、とキャプテンはソルジャーをグッと抱き寄せ、熱いキスを。えーっと、私たちのこと、見えてますかね、バカップルモード全開ですかね…?
「…でね、ハーレイ…」
キスから解放されたソルジャーのサイオンが光って、バカップルは見えなくなりました。布団も消えたと思ったのですが、何処からか「あんっ…!」という声が。
「「「え?」」」
今の声はソルジャーの、と見回す間に、また「あっ…!」と。会長さんが床をドンと蹴り付け、怒り狂った形相で。
「出てってくれる!? ここはぼくの家で…!」
「それどころじゃあ…。あんっ! ダメだってば、ハーレイ…!」
話し中で、というソルジャーの声が喘ぎに変わって、何事なのかと驚いていれば、急に静かになりましたけれど。
「…何だったんだ、今のは?」
キース君が一歩踏み出そうとしたら、会長さんが鋭く制止。
「ちょっと待って! …うん、帰ったかな、あっちにね。ぶるぅ、塩!」
「お塩?」
「そう! 思い切り床が穢れたから!」
よくもこんな所で前哨戦を…、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が持って来た塩壺の中身をリビングにブチ撒き、教頭先生が立っていらした場所にもパッパッと。あれっ、教頭先生は?
「かみお~ん♪ トイレに走って行ったよ、さっき!」
無邪気な答えが返りましたが、会長さんの方は怒り心頭。まさかトイレって、もしかして…?



教頭先生が駆け込んだトイレは、念入りに清められたようです。塩を撒いた上に、お経まで。出て来た教頭先生は悄然としておられますが…。
「す、すまん…。つい…」
「あの声を聞いて欲情したって!? そりゃね、シールドの向こうだったけどねえ!」
とんでもないことをしてくれちゃって、と会長さんの怒りは収まらない模様。リビングの絨毯は処分するとか、もう明日にでも買い替えだとか。
「…何もそこまでしなくても…」
あの絨毯はいいヤツだろう、と教頭先生が言ったのですけど。
「そういう問題じゃないんだよ! 布団だけならまだマシだけれど、ああなってはね!」
スイッチだなんて…、と怒りまくって、どのくらいの時間が経ったのか。いきなり空間が揺れたかと思うと、さっきまでとは別の服を着たソルジャーが。
「ごめん、ごめん…! ついウッカリとヤリ込んじゃって…!」
ちゃんとシャワーは浴びて来たから、とボディーソープの匂いがふわりと。
「ハーレイもブリッジに走って行ったよ、勤務時間中には違いないしね!」
あんな感じでスイッチが入るというわけで…、とソルジャーは笑顔。
「ね、布団のパワーは凄いだろう? ぼくは間違ってはいなかったってね!」
何処でもベッド! という極上の笑みに、教頭先生の喉がゴクリと鳴って。
「あ、あのう…。あれは特別な布団ですか?」
「特別と言えば特別なのかな? 値段はとっても高かったよ、うん」
「私もあれを買いたいのですが…!」
そして練習したいのですが、という台詞を教頭先生が言い終えることは出来ませんでした。キラリと光った会長さんのサイオン、ご自分の家へ送り返されてしまわれたようで…。
「何をするかな、せっかくハーレイがその気になったというのにさ!」
「布団にパワーは無いんだってば、それに練習されても困る!」
二度と布団を持ち込むな、と会長さんが怒鳴って喚いて、ソルジャーは「やれやれ」とお手上げのポーズ。布団は効くのにと、あれこそ何処でもベッドなのに…、と。



「おい、本当に効くのか、布団は?」
俺にはどうも分からんのだが、とキース君が声を潜めて、シロエ君が。
「知りませんってば、湯治場のパワーと相乗効果じゃないんですか? キース先輩が勧めたんですよ、休暇には湯治に行けばいい、って」
「単に追い払いたかっただけなんだが…」
どうしてこういうことになるんだ、と頭を抱えるキース君にも、ソルジャーと大喧嘩を繰り広げていた会長さんにも、布団の効果はついに分からないままでした。
一方、何処でもベッドを手に入れてしまったソルジャーの方は、相変わらず布団で楽しみまくっているようで…。
「どうかな、これ? 今度、こっちのハーレイに勧めてみようかと!」
「…好きにすれば?」
もうあの家は布団部屋だから、と会長さんは開き直りの境地です。教頭先生、ソルジャーにせっせと勧められるままに布団を買ってはコレクション中、家のあちこちに布団の山があるのだとか。
「…ああいう商法、昔、無かった?」
やたらと布団を買わせるヤツ、とジョミー君がコソコソと囁き、サム君が。
「あったっけなあ…。でもよ、布団は効くんだぜ?」
「バカップル限定ですけどね…」
あっちもまた買ったようですよ、とシロエ君。何処でもベッドも只今、順調に増殖中。布団の効果が切れる時まで増えるんでしょうか、あっちの世界とこっちの世界で高級布団が何組も。ソルジャーがハマッた、何処でもベッド。効果はいつまであるんでしょうねえ…?




           何処でも布団・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ソルジャーが湯治に出掛けて発見したのが、布団の素晴らしさらしいですけど。
 布団商法に引っ掛かった形の教頭先生、布団を何枚、買わされるやら。お気の毒に…。
 ところで、シャングリラ学園番外編、去る4月2日で連載開始から12年となりました。
 干支が一周して来ましたです、何処まで行けるか、お付き合い頂ければ嬉しいです。
 次回は 「第3月曜」 5月18日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、4月といえば桜で、お花見の季節。マツカ君の別荘の桜も見頃。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











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「ほら、ブルー。綺麗でしょう?」
 おやつの時間に母が見せにやって来たお皿。学校から帰って、着替えも済ませて、ダイニングでのんびりしていたら。
 母が差し出した皿には、可愛い鳥が描かれていた。ヒイラギの枝に止まったコマドリが一羽。
 どう見ても飾っておくための皿で、実用品ではなさそうなお皿。おやつのケーキが載ったお皿とサイズは変わらないけれど。
「…クリスマス用の?」
 白地に金の縁のお皿の、殆どを占めるコマドリの絵。
 ヒイラギの枝には赤い実が幾つもついているから、クリスマスに備えて買ったのだろうか。赤い実を沢山つけたヒイラギは、クリスマスのリースの定番だから。
 かなり気が早いと思うけれども、見付けた時に買っておかないと売れてしまうのかもしれない。次に出掛けても、もう無いだとか。
 きっとそうだ、と考えたから母に訊いてみたのに…。
「そうかもしれないわねえ…」
「え?」
 ブルーの目の前、まじまじと皿を見ている母。コマドリとヒイラギが描かれた皿を。
「クリスマス用だと言われれば、そうかも…」
 ヒイラギだものね、クリスマスかしら?
 …コマドリはクリスマスの鳥だったかしらね、ママには分からないんだけれど…。
 ブルー、知ってる?
「ううん、知らない…」
 ヒイラギの絵だから、クリスマス用のお皿なのかと思っただけ…。
 ちょっと早いけど、見付けたら直ぐに買っておかないと、じきに売り切れちゃうのかな、って。



 そう答えたものの、買って来たにしては妙だと傾げた首。
 クリスマス用だと考えさえもしなかった母が、こういう絵皿を買うのだろうか?
 それともコマドリが可愛らしいから、と買い込んだだけで、ヒイラギには気付かなかったとか。
(…ママらしいけどね?)
 お気に入りの食器が幾つもある母。何か探しに店に出掛けて、実用品の代わりに飾り物の絵皿を買うかもしれない。飾りたい場所が閃いたなら。
 決め手はコマドリに違いない、と丸っこい小鳥の絵を見ていたら…。
「このお皿、お祖母ちゃんが送って来たのよ」
 お皿に絵を描く教室に通い始めたらしくて…。この絵、お祖母ちゃんが描いたんですって。
「お祖母ちゃんが?」
 このお皿の絵…。お祖母ちゃんなの、本当に?
 よく見せて、とテーブルに置かれた絵皿を覗き込んだ。コマドリとヒイラギの絵をまじまじと。
 絵を描くのは自分も得意だけれども、お皿と画用紙はまるで別物。失敗したから、と塗り直しは多分出来ないだろうし、一回限りの真剣勝負。
 それを上手に描き上げたのが祖母、買った絵皿だと思い込んだほどに。
(…上手すぎるよ…)
 何処もはみ出したりしてないものね、とコマドリの絵を指でなぞってみる。ヒイラギの枝も。
「凄いでしょ、お祖母ちゃんの腕前」
 自信作らしいわ。先生にも褒めて頂いたのよ、って通信で得意そうに話していたから。
「うん…。ぼくじゃ、こんなの描けないと思う…」
「ママも無理だわ、描き直しは出来ないらしいから…。間違えました、って消せないのよ」
 お祖母ちゃんがそう言ってたわ。描き直したら、後で見た時に分かっちゃうのよ、って。
 でもね、お祖母ちゃんに聞いた話だと…。もっと凄い人たちがいるんですって、絵を描く人。



 母が祖母から教わった話。手描きで色々な食器を仕上げる職人たち。
 簡単な下絵が入っただけの皿やカップを相手に、正確無比な絵を描いてゆく。花の絵だろうが、もっと複雑な模様だろうが。
「そういった絵をね、まるで印刷したみたいに描けるらしいのよ」
 幾つも並べて比べてみたって、何処が違うのか分からないくらいに同じような絵をね。
「なんだか凄いね、うんと練習しないと無理そう…」
 同じ絵ばかりを何度も描いたり、線を描いたりする練習とかも…。色を塗るのも。
 教室にちょっと通ったくらいじゃ、絶対、描けそうにないものね、それ…。
「お仕事なんだもの、朝から晩まで練習よ。上手に描けるようになるまで」
 売るための物を任せて貰えるのは、何年も練習してからですって。
 だから昔は、とても高かったらしいわよ。そういう食器は。
 今は寿命が遥かに延びたし、職人さんも大勢いるの。練習の時間もたっぷり取れるし…。
 でも、ソルジャー・ブルーの時代だったら、高かった筈ね。今よりもずっと。
「ぼくはそんなの、縁が無いから…!」
 食器なんかは買えなかったし、高い食器って言われても…。シャングリラとは関係無いよ。
 でも…。前のぼくが奪った食器の中には、そういうの、混ざっていたのかも…。
 誰もそうだと気が付かないから、猫に小判だけど。
「あらまあ…。それじゃ、とっても高いお皿を使っていたかもしれないのね?」
 何も知らずに、食堂とかで。…普通にお料理を盛り付けちゃって。
「だって、食器は食器だよ?」
 使うためのもので、こういう飾りのお皿じゃなくて…。
 飾り物のお皿が混じっていたって、シャングリラだったら、上にお料理、盛り付けるから!



 食器は食べるための道具だもの、とクスクス笑って部屋に帰った。
 「本当に猫に小判だわ…」と目を丸くする母に、「お料理が盛れればそれで充分」と、懐かしい船の食器事情を話しておいて。
(ホントにそうだったんだから…)
 お皿もカップも使うためのもの、と座った勉強机の前。今とはまるで違うんだから、と。
 祖母が絵を描いたコマドリの絵皿も、あの船だったら料理が盛り付けられただろう。コマドリもヒイラギも見えないくらいに、その日の料理がたっぷりと。
 食べ終わってやっと「こういう模様がついていたのか」と眺める程度で、それも一瞬。さて、と手にして係に返しに行っておしまい。「御馳走様」と。
(あのシャングリラで、手描きの食器…)
 もしも混じっていたとしたって、本当に気付いていなかっただろう。その値打ちに。
 ハーレイが備品倉庫の管理人をしていた時代も、管理人の仕事を別の仲間が引き継いだ後も。
 白い鯨になる前の船では、食器はどれも一纏めに食器。お皿か、カップか、使い道によって分類されていただけ。それとサイズと。
 割れたり欠けたりしてしまったら、新しい食器が出て来た船。ただし、前とは違うものが。
 奪った物資の中の食器は、船の仲間に行き渡るだけの数が揃っていなかったから。割れた食器と全く同じ物が常にあるほど、恵まれた船ではなかったから。
 不揃いな食器が当たり前だったシャングリラ。模様も気にしていなかった。男性用に花の模様はちょっとマズイか、と盛り付ける係が加減した程度。これは女性に渡す方が、と。



 どんなに素晴らしい食器があっても、猫に小判だったシャングリラ。
 あの時代には高かったという熟練技の手描きの食器も、安価な食器も、纏めて食器。上に料理を盛れれば充分、カップなら飲み物が入れば充分。
 シャングリラはそういう船だったけれど、もしかしたら、前のハーレイは気付いていたろうか?
 備品倉庫の管理をしていた時代に、其処へドカンと運び込まれた値打ち物の食器に。
 「これは高いぞ」と考えていたか、「手間暇かかった食器があるな」と眺めていたか。
 ハーレイなら見抜いていたかもしれない。猫に小判だった皿やカップの真価を、その値打ちを。
 誰も欲しいと言い出さなかった、木で出来た机や羽根ペンを欲しがったハーレイだから。
 「こいつは、磨けば磨くほど味が出るんだぞ」と、木の机をせっせと磨いていたハーレイ。
 あのハーレイなら、食器の値打ちも知っていたかも、という気がする。
(…どうなのかな?)
 前の自分は何も聞いてはいないけれども、気になるシャングリラの食器事情。
 一人くらいは食器の値打ちに気付いていたのか、猫に小判な船だったのか。高価だったと聞いた手描きの食器は混じっていたのか、それも分からないままだったのか…。



 ハーレイに訊いてみたいんだけど、と頬杖をついて考えていたら、チャイムの音。仕事の帰りに寄ってくれたハーレイ、チャンスは直ぐにやって来た。
 母がお茶とお菓子を置いて去った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ、目利きは出来た?」
「…はあ?」
 何の目利きだ、それにどうして過去形なんだ?
 目利きは出来るかと訊くなら分かるが、出来たかって、ガキのオモチャの目利きか?
「そうじゃなくって…。前のハーレイだよ、目利きは得意?」
 まだ厨房にいた頃の話で、備品倉庫の管理も一緒にやってた頃の…。
「食材か? それなら出来んと話にならんが」
 でないと料理が不味くなっちまう、持ち味ってヤツを生かしてやらんと。
 肉も魚も、それに野菜も、どういう料理に向いているかをきちんと見分けて使わないとな。
「ううん、食材は出来ただろうけど…。食器の目利き」
 倉庫に色々入っていたでしょ、前のぼくが輸送船から奪った食器。
「確かに食器はドッサリあったが、食器の目利きって…」
 何なんだ、それは?
 何処からそういう話になるんだ、前の俺は目利きが出来たか、だなんて。
「えーっと…」
 お祖母ちゃんがお皿を送って来たんだよ。使うヤツじゃなくて、飾っておくヤツ。
 シャングリラでは飾っていなかったけれど、今はお皿も飾るでしょ…?



 お祖母ちゃんが絵を描いたお皿だったんだよ、とコマドリの絵皿の話をした。
 絵皿を見せてくれた時の母の話も。世の中には祖母よりずっと凄い人がいるようだ、と。様々な食器に正確無比な絵を描いてゆける職人たちが何人も、と。
「そうらしいなあ、職人技の極みってヤツで」
 昔はべらぼうに高かったと聞くぞ、手描きの食器。一枚一枚、手で描いたヤツは。
「今よりもずっと?」
 前のぼくたちが生きてた時代は、そうだったんだよね。そういう食器、とても高かった?
「当然だ。今とは時代が違うんだから」
 人間の寿命がまるで違うし、一人前になった職人が働けた年数が比較にならん。
 その上、年を取るからなあ…。身体が言うことを聞かなくなったらそれで終わりだ。今の時代は若い姿を保つもんだし、三百年は軽く現役なんだが。
 一人の職人が三十年しか働けないのと、三百年も働けるのとは、全く違うぞ。
「ママもそう言ってたから、本当に昔は凄く高かったんだろうけど…」
 前のハーレイ、そういう食器があることに気付いていたのかな、って。
 備品倉庫に入ってた食器、高い食器が混じっていたなら、分かったのかな、って…。
「なるほど、それで目利きと言ったのか…」
 俺も食器に詳しかったわけじゃないんだが…。その道のプロじゃなかったんだが。
 少しくらいなら分かっていたなあ、どれが高いか、安いかくらいは。



 食器が入っていた箱などで見当が付いたという。これは高い、と。
 頑丈な箱に詰められ、緩衝材も沢山入っているような食器。形に合わせて箱に窪みがあったり、中が布張りになっているとか。
 その上、一つ一つが薄布できちんと包まれた食器。輸送中に傷が出来たりしないように、と。
「…そんな食器も混じってたんだ…。前のぼくが奪って来た食器…」
 どうしたの、それ?
 ハーレイが見付けた、高い食器は?
「どうしたって…。普通に出したが?」
 食堂の食器が駄目になったら、そいつの代わりに。割れたり欠けたりしちまったらな。
 皿を一枚と頼まれたら皿を、カップを一つと言われりゃカップを。他の食器と何も変わらん。
 手に入った順に仕舞ってあったし、その箱の番になったら出すんだ。
「…なんで?」
 高そうだってことを知ってたんでしょ、高級品だよ?
 他の食器とは違うヤツだよ、どうして普通に出しちゃったの?
 分かってなければ仕方ないけど、ハーレイ、ちゃんと分かっていたのに…。高い食器だ、って。
「お前なあ…。あの頃の船の状況ってヤツを知ってるだろうが」
 白い鯨になった後なら、余裕は充分あったんだが…。船の中で全部を賄えたからな。
 だが、その前の時代は違った。前のお前が奪って来なけりゃ、何も手に入らない船だったんだ。食料はもちろん、食器も、他の色々な物も。
 お前がせっせと奪っていたから、飢えることだけは無かったが…。そうでなければ飢えて死ぬ。毎日が命懸けって船だぞ、戦いは無くても生きてゆくだけで。
 命懸けで生きているような船で、高級品も何もあったもんじゃない。食器は食器というだけだ。生きてゆくのに必要な食べ物、そいつを入れる器だろうが。



 食事するのに使ってこそだ、とハーレイが返した明快な答え。
 俺の後継者もそうだったろう、と。
「キャプテンになる時に引き継ぎをしたが、「食器は其処だ」と教えた程度で…」
 手に入った順に使っているから、次はこれだと指差しておいた。空になったら次がこれだ、と。
 やりやすいように整理し直してくれてもいい、とも言っておいたな。
 だから、あいつも順番に出して渡しただろうさ。これは高そうだ、と気付いたとしても。
「…ハーレイが何も言わなかったんなら、そうなるね…」
 高そうだったら残しておけとか、そういったことを。…元々、区別が無かったんだから。
 その高そうだった食器の中に、凄い値打ち物も混じってたかな?
 前のぼく、自分でも気付かない内に、人類が見たら驚くような高い食器を奪ってたのかな…?
「そこまでは知らん。高そうだな、と見ていただけだし」
 机みたいに、個人の持ち物にはならないからなあ、食器ってヤツは。
 今の俺だったら、あれこれ比べて気に入ったヤツを買うんだが…。自分の家があるからこそだ。
 あの頃の俺が自分用の食器を持っていたって、何の役にも立たないだろうが。食事の度に食堂へ運んで行かない限りは、飯を入れては貰えないんだから。
 だから全く興味は無くてだ、俺は調べてさえいない。高い食器の正体はな。
 手描きだろうが、手間暇かかった細工だろうが、知ったことではないってこった。
 要は使えりゃいいってわけで…。
 ん…?



 待てよ、と首を捻ったハーレイ。
 こだわってたヤツがいたような気が…、と。
「…俺は全く気にしてないのに、やたらと食器にこだわるヤツが…」
 確かいたんだ、新しい食器が手に入る度に…。
「誰なの、それ?」
 ハーレイと同じで、備品倉庫の係かな?
 管理はハーレイだったけれども、運び込んだり、整理する人は他にもいたから…。
「違うな、普段は倉庫じゃ見掛けない顔のヤツだった」
 新しい食器が入った時だけやって来るんだ、いそいそと。倉庫に入って箱を開けては、中の皿やカップを取り出して、それの裏側を…。
 そうだ、エラだ!
 いつもあいつが開けに来たんだ、新しく入った食器の箱を。でもって、高そうな箱だったら…。中身を出すんだ、そして裏返して眺めていた。安そうな箱なら蓋をパタンと閉めるだけだが。
 高そうだったら裏を見るんだ、必ずな。…また来やがった、と見ていたもんだ。
 その内に俺も覚えちまった、エラが裏返しそうな食器ってヤツを。



 前の自分が奪った物資に、食器の箱が紛れていた時。
 それが倉庫に運び込まれたら、箱を開けては中身を検分していたエラ。高そうな食器が詰まった箱なら、中身を出して裏返してみる。食器の裏には色々なマークが描かれていたから。
 エラは小さなメモやノートを持参していて、マークを控えて行ったという。食器の裏に描かれた文字や模様を、丁寧に紙に書き写して。
「そうやってマークを書いて行っては、調べてたようだ」
 データベースで、何処のマークか。…どういう所で作った食器か、どんな値打ちがあるのかを。
 たまに俺にも教えてくれたな、これは模様が手描きだとか。これは作るのに手間がかかるから、地味なようでも高いんだとか。
「そうだったんだ…」
 食器の目利きをやっていた人、ハーレイだけじゃなかったんだね。
 エラが詳しく調べてたんだね、どういう食器があったのかを。
「まあな。…もっとも、エラも調べてただけで、使うことに文句は言わなかったが」
 あいつも船の事情は承知だ、使ってこそだと分かっていたんだ。…食器は食事に使うものだと。
 どんなに有難い食器だろうが、使わずに倉庫に仕舞っておけとは言われなかった。
 …パルテノン御用達のヤツでもな。
「パルテノン!?」
 それって、人類の最高機関だったんじゃあ…。元老とかが所属していたトコだよ、パルテノン。
 前のぼくたちでなくても雲の上だよ、普通の人類から見ても…!
 そんな凄い食器が紛れていたわけ、前のぼくが奪った物資の中に…?
「俺もすっかり忘れてたんだが、今、思い出した。混じってたんだ」
 エラが教えてくれなかったら、高そうな食器の一つだと思っておしまいなんだが…。
 あの時はエラも、調べに行った足でそのまま戻って来たな。「これは凄いわ」と。



 エラが倉庫の中で見付けた、パルテノン御用達だという食器。
 ハーレイが言うには、なんということはない、ただの皿。白い無地の皿で、恐らくコース料理を出すためのもの。何種類かの大きさの皿が、それぞれの箱に詰められていた。
 地球の紋章すらも描かれていなかったけれど、裏のマークがそれだったという。パルテノン用の食器だけを手がける工房のマーク。
「何組くらいあったんだったか…。けっこうな数があった筈だぞ」
 シャングリラの人数の方がずっと多いから、総取り替えとはいかなかったが…。
 皿の大きさも色々あったし、これは便利だと嬉しかったな。どれが割れても代わりになる、と。
「パルテノン御用達って…。それって、高いの?」
 何の模様もついてなくても、その食器はとても高かったの…?
「とてつもなく高い値段だったと思うがな…?」
 参考までに聞かせてくれ、とエラに訊いたら、それは素敵に高かった。
 生憎と値段は忘れちまったが、とんでもなく高い皿だったことは間違いない。割れちまった皿の代わりに一枚渡す度にだ、「これ一枚で他の皿が何枚買えるんだ?」と思っていたからな。
 もしかしたら、お前が奪った分の皿の値段だけで、船中の食器が買えたかもなあ…。
 最初から船に載っていた食器、あれをそっくり新品で全部。
 前のお前は、そういう食器を知らずに奪って来たってわけだ。船のヤツらも知らずに使った。
 見た目はただの白い皿だし、どんな料理にもピッタリだからな。



 俺がキャプテンになった後にも、長いこと現役だった皿だぞ、と今のハーレイは笑ったけれど。
 シャングリラが白い鯨になった頃には、割れてしまって無かったらしい。ただの一枚も。
「これは丁寧に使ってくれよ、って注意してたわけじゃないからなあ…」
 普通の皿と全く同じ扱いで、おまけに便利に使える白だ。出番が多けりゃ、割れることも多い。
 滅多に出番の無いヤツだったら、そうそう割れはしなかったんだが。
 …どう考えても男に出すのはマズイだろう、っていう派手な花模様の皿とかだったら。
「そうなんだ…。割れちゃってたんだ、シャングリラが生まれ変わった頃には」
 もし残ってたら、船の何処かに飾れたのにね。
 パルテノンは誰でも知ってたんだし、このお皿は凄いお皿なんだ、って眺めて楽しめたのに。
 これで食事をしたことがある、って思い出した人は、うんと素敵な気分になれたよ。
 人類の中でも最高のエリートだけしか使えないお皿で食べたんだ、って。
「まったくだ。…割れちまってさえいなければな」
 こんな時代が来るんだったら、あの皿を使わずに残しておけば、とエラが悔しがって…。
 今の船なら上等な食器の出番もあった筈だ、と俺に何度も零してたっけな。…あの食器の正体を知っていたのは俺だけだったし、他には誰も知らないし…。
 ヒルマンは食器に興味が無かったらしくて、ゼルやブラウも御同様だ。前のお前も。
 そんな具合だから、エラが食器の愚痴を零せる相手は俺しかいなかった。あれがあれば、と。
 …そうだ、それでソルジャー専用の食器が出来たんだった。前のお前の専用の食器。
「えっ…?」
 それって、ミュウの紋章入りのアレだよね…?
 前のぼくと一緒の食事の時しか出て来ません、ってエラがみんなに何度も説明してたヤツ…。
「うむ。エラは覚えていたってことだな」
 特別な食器は権威を表す、とパルテノン御用達の皿どものせいで。
 専用の工房まで設けて作らせてたほど、御大層な食器が宇宙には存在するってことを。



 白い鯨が完成した頃には、パルテノンの食器に詳しかったエラ。
 倉庫に通っては食器の箱を端から開けていたほどなのだし、元から好きだったのだろう。多分、成人検査を受ける前から。
 高級な食器が幾つも出て来る家で育ったか、そういう家に招かれる機会が多かったのか。食器の裏にはその正体を示すマークが描かれている、と早い段階でエラは気付いて、興味もあった。
 幾つもの箱を開けている内に、エラが出会った最高級品がパルテノン御用達のもの。
 出会ってしまえば、深まる興味。どういう食器が其処で作られるか、どういった時に使うのか。
 暇を見付けては色々調べて、エラの頭に刻み込まれたパルテノンの食器のラインナップ。
 最高峰は国家主席クラスの者たちが使う食器で、その頂点が晩餐会用。
 エラはそこまで調べ尽くしていて、それに倣ってソルジャー専用の食器を作り出そうと考えた。人類の頂点に立つのが国家主席なら、ミュウの頂点はソルジャーだから。
 専用の食器を是非作りたいと、そうすればソルジャーは更に特別な存在になる、と。



 思い付いたエラが招集した会議。ソルジャーとキャプテン、それに四人の長老が集った。
 その席でエラが披露した案。
 国家主席クラスの者が晩餐会で使う食器には、地球の紋章が描かれるもの。その時しか出ない、特別な食器。それを真似てソルジャー専用の食器はどうか、と。
「…もちろん、地球の紋章などは入れません。あれは人類の紋章ですから」
 私たちには、ちゃんとミュウのための紋章があります。地球の紋章と入れ替えるだけで、立派な食器になることでしょう。
 人類は晩餐会でしか使わないようですが、この船ではもっと幅広く。
 ソルジャーには普段から使って頂いて、ソルジャーも御一緒の食事などでは、他の者たちにも。
 この食器のセットは、お茶の席でも使えるのです。デザート用までが揃いますから。
 カップとデザート用のお皿だけを抜き出せばお茶の会も…、とエラが揮った熱弁。
「いいねえ、そいつは愉快じゃないか」
 あたしは大いに賛成だよ。…国家主席は今は空席だしねえ、晩餐会も無いんじゃないのかい?
 人類の世界じゃ、その食器セットは埃を被っているってわけだし…。
 代わりに使ってあげようじゃないか、あたしたちがさ。…ミュウの紋章入りなんだけどね。
 賛成、とブラウが挙げた右の手。
「悪くないのう。…人類は虫が好かんものじゃが…。わしは全く好きになれんが…」
 人類の真似も、そういうことなら面白いじゃろう。ミュウも負けてはおらん、とな。
 国家主席並みに偉いのがミュウのソルジャーなんじゃ、とゼルも賛同した。
 ヒルマンも賛成、この段階で賛成票が過半数。
 肝心のソルジャーの意見はもとより、キャプテンの意見も訊きもしないで、エラの提案は見事に通った。
 会議はそういうものだったから。シャングリラの命運を左右するような議案以外は、多数決。
 ソルジャーもキャプテンも出番が無いまま、閉会となってしまった会議。他の四人が拍手喝采、次の会議では食器を作る計画を具体的に、と約束までして。



 ソルジャーとキャプテンの意向は全く訊かずに、エラの計画は進んでいった。
 白い鯨になった船だからこそ作れる、ソルジャー専用の食器。手本にするのはこれだ、とエラがデータベースから引き出して来た、パルテノン御用達の食器の資料。
 国家主席クラスの晩餐会で使われる様々な食器。それをそっくり真似て作れる腕を持った仲間が何人も選ばれ、地球の紋章は手描きされるというものだから…。
「エラときたら、紋章を描かせるために、熟練の仲間まで育てやがったんだ…!」
 絵の上手いヤツらに練習させてだ、ミュウの紋章を食器にスラスラ描けるようにな。
 カップだろうが、スープ皿だろうが、あの紋章を手描きで狂いなく、だ。
「思い出した…!」
 毎日、特訓していたんだよ。専用の部屋で、絵の上手い仲間が何人も…。
 最初は普通のお皿にちょっと加工して、描いたり消したり出来るようにして…。
 上手に描けるようになったら、次はカップとかスープ皿とか…。
 どんな食器でも綺麗に描けます、っていう腕前になったら本物の専用食器の出番。此処だ、ってエラが決めていた場所に、ピタッと紋章を描いてたんだよ、あの仲間たち…。
 何年も練習したわけじゃなくて、ほんの三ヶ月ほどだった…?
 それだけであんなに上手に描けたの、命懸けの船で生きてたからかな…?
「…そうかもなあ…。ついでに、絵を描く仕事だというのも大きかったかもな?」
 生きるか死ぬかの毎日だったら、そんな仕事があるわけがないし…。
 船の外では生きられなくても、船の中なら安全だからこそ絵を描くことを仕事に出来る。
 こいつは大きな生き甲斐になるぞ、絵さえ描いてりゃいいんだから。元から絵が好きだった仲間ばかりだ、仕事に出来れば嬉しいだろうさ。
 ミュウの紋章を描く時は真剣勝負だったが、他の時は好きに描けば良かった。食堂で使う色々な食器に、自分がこれだと思った絵をな。



 僅かな期間でエラが育成した、ミュウの紋章を見事に描ける熟練の仲間たち。
 ソルジャー専用の食器の全てにあまりに正確に描かれた紋章、手描きとはとても思えなかった。幾つも並べて見比べてみても、まるで違いが分からない出来。
 それが食器を作ろうと思い付いたエラの自慢でもあった。パルテノン御用達の工房以上に、いい腕を持った職人が船に揃っていると。シャングリラの工房の方が遥かに上だ、と。
「…ハーレイ、あの食器…。今は復刻版のが出てるけど…」
 ミュウの紋章、ちゃんと今でも手描きなのかな?
 熟練の人たちが描いているのかな、何年も何年も練習してから…?
「俺は知らんが、あのシリーズの食器…。それほど高くはないからなあ…」
 手描きだったら、もう少し高くなるんじゃないか?
 いくら手描きの食器が安い時代でも、あの値段で熟練の職人技は無理だと思うぞ。
「やっぱり、ハーレイもそう思う…?」
 ぼくもパンフレットを見たことあるから、そんなに高くないのは分かるよ。
 お小遣いでは買えないけれども、貯めておいたら、少しずつ揃えていけそうだもの。
 お皿を一枚とか、カップを一個とか、そんな感じで。



 今の自分のお小遣いを貯めれば、少しずつ集めていけそうなソルジャー専用の食器の復刻版。
 熟練の職人の手描きだったら、それは流石に無理だろう。ほんの子供のお小遣いでは。
 誰も気付かなかったのだろうか、熟練のミュウの職人技に。
 あまりにも正確に描かれていたから、印刷なのだと信じたろうか…?
「どう思う、ハーレイ? あの食器、勘違いされちゃったかな…?」
 船の中だけで作ってたんだし、印刷だろう、って。
 ソルジャー専用の食器だけれども、あんな時代に手描きで上手に描けやしない、って。
「そうなんじゃないか? …多分」
 高い値段はついていないし、売られているのはあれしか無いし…。
 手描きだったと分かっているなら、他に手描きが売りのシリーズを作るだろう。本物志向の人に合わせて、より本物に近い物ならこちらをどうぞ、と。
 それが存在しないってことは、印刷なんだと誰もが信じているってことだ。手描きシリーズも、作れば充分、売れるんだから。
「…そうだよね…。手描きがいいな、って人もいるよね」
 ちょっぴり高くても、本物に近いのはこっちだから、って。…でも、無いんだし…。
 印刷なんだと思われてるよね、前のぼくの食器のミュウの紋章。
 エラの努力は、ちっとも報われていないんだけど?
 ぼくの意見を訊きもしないで、パルテノン御用達の食器に対抗したのに。
「別にいいじゃないか、エラの努力の評価はともかく」
 リーズナブルな値段なんだぞ、ソルジャー専用の食器の復刻版。
 印刷なんだと勘違いされてしまったお蔭で、手描きの食器よりも安い値段で買えるってな。



 あれさえ買ったら、誰でもソルジャー主催の食事会の気分になれる皿で…、とハーレイが瞑った片方の目。パチンと、それは悪戯っぽく。
「お前も買うか、安いんだから」
 今はチビだし、前に要らんと言っていたような気もするが…。
 こうして由来を思い出したら、お前の考えも変わりそうだぞ。ただの食器じゃなかったんだ。
 エラが努力に努力を重ねて、あのとんでもなく有難い食器を作ったってな。
「うん。最初は倉庫で、食器を端から裏返してマークを調べるトコから…」
 シャングリラの食器が猫に小判だった頃から、エラはせっせと調べてたんだし…。
 それを聞いちゃったら、あの食器、買わずに放っておくのはエラに悪いかな?
 どうしよう、ハーレイ、買った方がいい?
 …今は要らないけど、いつかハーレイと一緒に暮らす時には。
「さてなあ…?」
 どうするべきかな、手描きの食器よりかは安く買えるんだしなあ…。
 話の種に買うのもいいなあ、お前が嫌がらないならな。



 ゆっくりと考えておけばいいさ、とハーレイに言われたソルジャー専用の食器の復刻版。
 エラが熟練の仲間を育成したのに、腕が良すぎて、印刷なのだと勘違いされたミュウの紋章。
 お蔭ですっかりリーズナブルになってしまった、遠い昔の職人技。
 あの時代には、手描きの食器はとても高価なものだったのに。
(…エラはホントに頑張ったのにね、倉庫に通って食器のマークを調べたりして…)
 エラの努力は報われなくて、今は印刷のミュウの紋章。ソルジャー専用の食器の復刻版は。
 それも愉快だから、いつかハーレイと暮らす時には買ってみようか。
 もう一度あれを使ってみようか、仰々しかったミュウの紋章入りの食器を。
 遠く遥かな時の彼方で、「あれは手描きの紋章ですよ!」とエラが怒っていそうだから。
 こんな筈では、と悔しがるエラの姿が見えるようだから。
 使ってみようか、前の自分のための食器の復刻版を。
 「今のぼくのお皿は、印刷になってしまったけれど?」と、エラにクスクス笑い掛けながら…。




            手描きの紋章・了

※前のブルーが使っていた、ソルジャー専用の食器。ミュウの紋章は手描きだったのです。
 エラの肝いりで出来たのですけど、印刷だと思われてしまった後世。それも愉快な結末かも。
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(雨か…)
 ハーレイが眺めた窓の外。シトシトと庭を濡らしている雨。
 ブルーの家へと出掛ける休日、予報通りに雨の朝。車で行くしかないだろう。雨が降る日に散歩するのもいいものだけれど、あくまで散歩の範囲内。何ブロックも離れたブルーの家だと、散歩と言うよりジョギングコースになりそうな距離。
 歩くのは苦にはならないけれども、濡れてしまいそうな靴や、ズボンの裾や。
 雨脚が強くなった時には、服まで濡れてしまうだろう。シールドを張って防ぐ手段はあっても、今の時代は日常生活ではサイオンを使わないのが立派な大人。人間らしく、と。
(ヒルマンたちは先見の明があったってな)
 遠く遥かな時の彼方で、最初のミュウたちを乗せていた船。箱舟だったシャングリラ。
 其処で「人間らしく」と説いていたのがヒルマンだった。それからエラも。
 何かと便利に使ってしまいがちなサイオン、思念波や、物を動かす力や。それが駄目だと何度も注意していた二人。人間らしく言葉で話せと、手や足は使うためにある、と。
 特に規則は無かったけれども、サイオンを出来るだけ使わないようにしていたシャングリラ。
 今の自分が生きる世界は、あの船の思想とそっくりな世界。
 サイオンは出来るだけ使わないもの、他の手段があるのだったら、そちらを使え、と。
 雨が降ったら、傘を差すもの。シールドで防ぐのはヤンチャな子供か、急ぐけれども傘が手元に無かった大人か。
(…俺もいい年の大人ってわけで…)
 雨が降る日に外を歩くなら、雨傘を差して。シールドは無しで。
 いきなり強く降り出したならば、雨宿りするか、濡れてしまっても歩き続けるか。
 ブルーの家には急ぎたいから、濡れながら歩くことになる。服や靴などがビッショリ濡れたら、迷惑をかけるブルーの母。拭くためのタオルを持って来るとか、着替えの服を出すだとか。
 申し訳ないことになるから、雨の日は車。そういう風に自分で決めた。



 今日は車だ、と視線を投げた庭の向こうにあるガレージ。前の自分のマントの色をした、愛車が其処に入っている。小さなブルーが「ハーレイらしい色だね」と言っている車。
 それの出番が来るのだけれども、問題は家を出る時間。
(早く着きすぎても悪いからなあ…)
 歩いてゆく日と同じに出たなら、いつもよりずっと早く着く。小さなブルーは大喜びでも、母は慌てるかもしれない。朝食の後片付けを済ませて、一休みという時間帯かもしれないから。
(普段通りがいいんだ、うん)
 気配りってヤツだ、と大きく頷く。車で行くなら、出るのは遅めに。
 こういう日もあるから、家を出る時間はちゃんと掴めている。早く来すぎた、と途中の何処かで車を停めなくてもいい時間。此処で五分、といった調整が要らない時間はこれだ、と。
(何度も車で行ってりゃなあ…?)
 自然と覚えてしまうもんだ、と普段の週末よりもゆっくり食べた朝食。
 コーヒーものんびりとおかわりまでして、丁度いい時間に車で家を出たというのに…。



(おいおいおい…)
 なんてこった、と思わず口から零れた言葉。
 一本道の住宅街で前を走っていた車。家が近いのか、元からスピードは出ていなかった。それが目的地に着いたらしくて、悪戦苦闘している車庫入れ。
 道幅はそれほど広くないから、車が道路を塞いでしまった。初心者マークをくっつけた車。
 まさか此処まで下手だったとは、と気付いた時にはもう遅い。逃してしまった別の方へと曲がる道。バックで其処まで戻ってゆくには…。
(…雨の中だし、厄介か…)
 雨水が伝うガラスの向こうは見えにくい。長い距離をバックで戻ってゆくには向かない天気。
 仕方ないな、と待っているのに、なんとも下手なドライバー。
(まだ動かんか…)
 正確に言えば、車は動いているのだけれど。ノロノロと前へ後ろへ、道を塞いで車庫入れ中。
 これは遅刻だな、と溜息をついた。
 とんだ所で食らった足止め、早めに出て何処かで待てば良かった。こうなるのなら。
 「俺が入れてやるから、代われ」と車を降りて言いたいくらいに下手な腕前。
 いつになったら動けることやら、この場所から。



 もう間違いない、ブルーの家に定刻通りに着けないこと。次はどれほど遅刻するかが大問題。
 ほんの五分で済んでくれるか、もっとかかってしまうのか。全ては前の車次第で、ドライバーの腕前次第。全く期待出来ないけれど。
(初心者マークなあ…)
 気付いた時点で曲がるべきだった、後ろをついて走る代わりに。
 こうなることもありますよ、と知らせるために初心者マークがあるのだから。今の自分も免許を取って間もない頃にはつけていたから、目の前の車に文句は言えない。
 もっとも、俺はあれほど下手ではなかったんだが、と呆れるしかない下手なドライバー。
 俺は運転免許を取って直ぐから、迷惑をかけずに運転出来たが、と思った所で…。
(…アレよりも、もっと下手くそなヤツが…)
 俺だったんだ、と愕然とした。
 自動車学校のコースを走った頃から、今の自分は抜群の腕を誇ったけれど。他の車も走る道路へ練習のために出て行った時も、見事なハンドル捌きを披露したのだけれど。
 それはあくまで今の自分で、自動車相手の運転のこと。
 前の自分は下手くそどころか、最悪なドライバーだった。遠い昔に、シャングリラで。



 初心者マークよりも酷かったんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。改造前のシャングリラ。
 どういうわけだか、キャプテンに抜擢されてしまった自分。船を動かした経験は無くて、厨房で料理を作っていたのに。
 「船は動かせなくてもいいから」と、ヒルマンやゼルたちに頼まれた。適任だからと、この船を纏めてくれさえしたなら、操舵は他の者がするから、と。
 迷った末に受けたキャプテンの任。前のブルーの力になろうと。
 本当にブルーを補佐したいなら、船を動かせなくてはならない。ブルーがそれを望む場所へと、船を運んでゆけてこそ。
 だから操舵をすると申し出、まずはシミュレーターでの練習から。
 そこそこ経験を積んだ後には、実地で練習することになった。本物の船を自分が動かす。
(…あれが大変だったんだ…)
 当時のシャングリラにはまるで無かった、操舵する者に対する試験。実技も筆記も。
 そんなわけだから、免許取り立てどころか無免許。そういう自分が挑んだ操舵。初心者マークもついていない船で、いきなり宇宙に飛び出した自分。最初から宇宙だったけれども。
 それまで操舵していた者から、「頼む」と任せられた舵。
 ブルーの先導とシールドのお蔭でなんとかなった。生身で宇宙を飛んでゆくブルー、サイオンの青い光を纏って。その後を追い掛けて船を操る、そういう練習が始まったけれど。
 鬼コーチだった前のブルー。
 手加減は全くしてはくれなくて、障害物だらけの空間に突っ込まされた。凄いスピードで。
 懸命に避けた障害物。何度も激しく揺れていた船。
 ぶつかりそうになった時には、ブルーのシールドが守ってくれた。船が傷つかないように。



 何度「駄目だ」と思ったことか。ぶつかる、と心臓が凍ったことか。
 実際は激突するよりも前に、障害物が弾き飛ばされたけれど。ブルーが張ったシールドに触れて木っ端微塵か、あらぬ方へと飛ばされるか。
 とはいえ、障害物が迫って来るのは見えるから。船も激しく揺れるものだから。
(…ブラウやゼルたちも参っちまって…)
 死ぬかと思った、と愚痴を零したブラウやゼル。彼らもブリッジで見ていたから。
 それは酷くて下手くそだった、前の自分の初操舵。
 初めての時は最低最悪、その後も実に酷かった。容赦が無かった前のブルーは、練習の度に酷なコースを選んだから。障害物だの、重力場が歪んだ空間だのと。
 「シールドするから大丈夫だよ」と、「万一の時は船ごと移動させられるから」と。
 本当に何度、シールドに船を救われたことか。障害物を避け損なっては、激突しかけて。
(そうだ、シールド…!)
 白い鯨に改造された後、シャングリラが備えたサイオン・シールド。
 人類軍の攻撃をも弾き返せたシールド、あれは自分が原因だった…!
 思い出した、と手を打つ間も、悪戦苦闘している車。初心者マークをくっつけた車。
 けれども自然と笑みが浮かんだ、「頑張れよ」と。
 お前のお蔭で今日の話の種が出来たぞ、と。
 苛立つ気持ちはもう無かったから、車が車庫に入ってゆくまで見守っていた。
 「長い間すみませんでした」と鳴らされたクラクションに、こちらも応えて走り出すまで。



 すっかり遅刻したブルーの家。
 二階のブルーの部屋に案内されたら、小さなブルーは膨れっ面で。
「…お土産は?」
 ママのケーキが出てるけれども、ハーレイ、お土産、持って来なかったの?
「今日は土産は何も無いが」
 菓子も昼飯になるようなものも…、と返すと唇を尖らせたブルー。
「遅れたんなら、何か買って来てくれればいいのに」
 そういうものでしょ、遅刻のお詫びに。
「もっと遅れた方が良かったのか?」
 評判の高い店まで行ってくるべきだったか、と尋ねてやった。
 少し遠いが、隣町に美味いクッキーの店があるんだが、と。
「隣町って…! ハーレイのお父さんたちが住んでる町でしょ?」
「その通りだが? だからその店を知っているんだ、何度も食っているからな」
 あそこまで買いに出掛けて行ったら、下手をすれば昼頃になるかもなあ…。俺が着くのは。
 美味いクッキー、食べたかったか?
「それは嫌だよ! …美味しいクッキーが嫌なんじゃなくて…」
 ハーレイが来るのがお昼頃になってしまう方…。
 そんなの嫌だよ、遅刻しちゃっても、クッキーは買って来なくていいから…!



 要らない、とブルーが慌てたお土産。美味しいクッキーも、他の物でも。
 着くのがもっと遅れるよりかは、お土産無しの方でいいから、と。
「ホントのホントに、何も持たずに来ていいから…!」
 お土産は、って二度と言わないから、買いに行くより、急いで来てくれる方にして…!
「そう慌てるな。土産は買って来られなかったが…」
 土産話なら持って来たから、そいつでいいだろ。今日のお土産。
「お土産って…。なに?」
 キョトンとしている小さなブルー。赤い瞳を瞬かせて。
「今日の俺だな、遅れちまった理由ってトコだ」
 車のせいで遅刻しちまったんだ。俺の車が動かなかったわけじゃないんだが…。
 いつも通りに家を出たらだ、初心者マークをつけた車が走ってた。初心者マークは分かるだろ?
 そいつが車庫入れに手間取っちまって、俺の行く手を塞いじまった。
 バックで戻ろうにも場所と天気が悪くて、どうにもこうにも…。仕方ないから、車庫に入るまで止まったままで待っていたのさ。
 あそこまで下手なドライバーってヤツも珍しいがだ、頑張ってちゃんと入って行ったぞ。
「…その話の何処がお土産なわけ?」
 何か珍しい車だったとか、そういうの?
 ぼくは車に興味は無いけど、好きな子だったら見掛けただけでも大感激とか…?
「ごく平凡な車だったが? だがな…。あれを見ていたら思い出したんだ」
 下手なヤツだな、と俺も最初は呆れて見てた。同じ初心者マークの頃でも、俺ならもっと上手に運転出来たのに、とな。
 ところが、俺にも下手くそな頃があったんだ。
 今の俺じゃなくて、前の俺だな。…シャングリラを初めて動かした頃の。



 お前がしごいてくれたっけな、と浮かべた笑み。
 初心者の俺に、ハードな操舵をさせやがって、と。
「いきなり障害物だらけの所に連れて行っただろうが、俺が初めて舵を握った日に」
 満足に舵も切れないっていうのに、どうやって避ければいいんだか…。
 船は揺れるし、俺の心臓は縮み上がるし、そりゃあとんでもないモンだった。
 なのに、お前は気にするどころか、練習の度にそういうコースへ連れ出してくれて…。障害物は山ほどあったし、重力場まで歪んでいたわけなんだが…?
「それはそうだけど…。ちゃんとシールドで守っていたよ?」
 船が傷ついたら大変だものね、きちんとシールドしておかなくちゃ。絶対に衝突しないように。
 だから一度もぶつかってないよ、ハーレイが上手く避けられなくても。
「そのシールドだ。前のお前が張ってたシールド」
 土産話はシールドってヤツだ、あの下手くそな車のお蔭でそいつを思い出したんだ。
「えっ? …シールドって…」
 前のぼくが張ってたシールドだよね?
 …今のぼくだと、あんなシールド、張れないけれど…。雨を避けるシールドも無理なんだけど。
「お前が張ってたヤツもそうだが、シャングリラにはサイオン・シールドがあっただろうが」
 元の船には無かったヤツだが、白い鯨になった後には。
 少しくらいの障害物なら弾き飛ばせて、人類軍の攻撃だって、ある程度までは防げるヤツが。
「そうだけど…。それが?」
「あのシールドが船にあったのは、お前と俺のせいなんだ」
 俺たちというコンビがいなけりゃ、あのシールドは生まれていないぞ。
「…なんで?」
 どうしてハーレイとぼくが原因になるの、それに、ぼくたちのせいって…。
 その言い方だと、ハーレイとぼくが悪いことでもやったみたいに聞こえるけれど…?
「間違っちゃいないな、その認識で」
 船を操るのが下手くそな俺と、とんでもない所で練習をさせた前のお前と。
 そいつがシールドの元になったってわけだ、あの下手くそな車を見ている間に気付いたってな。



 ゼルたちがすっかり参っちまったんだ、と両手を広げてお手上げのポーズ。
 前の自分の操舵が上手くなるまでに、何度も衝突を防いだブルーのシールド。ブリッジに悲鳴が響き渡ったのは一度や二度のことではなかった。
 ゼルもブラウも、「スリルどころの騒ぎではない」と頭を抱えた猛特訓。
 「あたしの心臓が持ちやしないよ、早いトコ覚えてくれないかね?」とブラウは言ったし、隣でゼルも睨んでいた。「お前は俺を心臓発作で殺したいのか?」と。
 それほどの目に遭ったゼルとブラウに、たまに見学していたヒルマン。それからエラも。
 彼らは本当に死にそうな思いをしたのだけれども、流石は後に長老と呼ばれたほどの者たち。
 「もう駄目だ」と目を瞑りたくなる度、障害物を弾き飛ばしたシールドのことを覚えていた。
 前の自分が立派に船を操るようになった後にも、忘れないで。
 シールドに何度も救われた命、それから船。
 ブルーのシールドは凄いものだと、自分たちの寿命は縮んだけれども、命は残った、と。



 シールドさえあれば防げるらしい船への衝撃。小惑星に真正面からぶつかっても。
 それを身を以て知ったゼルたち、シールドは役に立つものだと。
 船を守るなら、シールドで包み込むのが一番。障害物を避け損なった時にも傷つかない船。
 けれども、ブルーに常に張らせるわけにはいかない。いくらサイオンが強かろうとも、ブルーが疲れてしまうから。
 何か代わりの方法は無いか、とヒルマンとゼルが始めた研究。
 サイオンを使って船を包み込むサイオン・シールド、それを作り出す方法は…、と。
 ブルーほどの力は誰も持ってはいないとはいえ、船の仲間は全員がミュウ。弱くてもサイオンを持った者たちばかり。
 そのサイオンを一つに纏めることが出来たら、シールドも作り出せるだろう。ブルーの代わりに皆の力で、眠っている間も消えることのないシールドを。
 皆で張るなら、一人一人の負担は少ないものになるから。呼吸をするのと変わらない程度、そのくらいの力で張れるシールド。
 それを作れたら、船は今よりずっと安全なものになる。
 障害物を避けられるのなら、いつか攻撃を受けた時にも防げる筈。人類軍の船に発見されても、被害は少なくなるだろう。
 ヒルマンたちはそう考えた。船の仲間たちが持っているサイオン、それを防御に使おうと。
 同じ理屈で、船の姿も消せないかと。
 船を守ろうと思う力は同じだから。船を丸ごとシールドするのも、丸ごと隠してしまうのも。



 ヒルマンが案を練り、ゼルが何度も試作した装置。
 効率良く皆のサイオンを集め、シールドや船体を隠す力を作り出すもの。
 そうやって出来たサイオン・シールドとステルス・デバイス、どちらもサイオンが動力源。船の仲間の思考を纏めて、船体を丸ごと包み込んで守る。シールドを張って、姿を消して。
「そいつを載せたのが白い鯨だ、覚えていないか?」
 あれが出来上がった時に初めて使った。サイオン・シールドも、ステルス・デバイスも。
「そういえば…!」
 改造する時に決めたんだっけね、ヒルマンたちの研究成果を使おう、って。
 とても大きな船になるけど、きっとシールド出来る筈だ、って…。



 白い鯨に搭載することが決まった、サイオン・シールドとステルス・デバイス。
 最初は誰もが半信半疑で、あまり期待はしていなかった。
 ヒルマンやゼルたちと共に研究を重ね、開発に携わった者たち以外は。
 人類の船にそういう機能が無いことは皆が知っていたから。今はシャングリラと呼んでいる船、元は人類が使っていた船。その船には無い、サイオン・シールドとステルス・デバイス。
 船を作った人類が持っていなかった技術、そんなものをミュウが持てるのかと。
 ミュウの力で人類の技術を越えられるのか、と。
「大丈夫じゃ。わしの力を見くびるでない」
 人類如きに負けてたまるか、と胸を張ったゼル。わしの腕に文句は言わせんぞ、と。
「私たちも研究を重ねたからね。…研究室でしか使えなかったが」
 なにしろ試す所が無くて…、とヒルマンは髭を引っ張った。こればっかりは、と。
 改造前の船で試したかったらしいけれども、船の構造上、無理だったという。技術的には充分に可能、けれども船が邪魔をする。ミュウに合わせて作られた船ではなかったから。
 サイオン・シールドもステルス・デバイスも、実装するにはサイオンを集めやすい構造の船体が要る。船の仲間たちの力を使うからには、そういう船でなければ不可能。
 改造が済んだ白い鯨に搭載しないと、どちらも動かすことが出来ない。
 それまでは無理だ、とゼルもヒルマンも口を揃えた。けれど、完璧なものが出来ると。



 こうして始まった船の改造。自給自足で生きてゆく船、ミュウの特質を生かした船。
 サイオン・シールドにステルス・デバイス、迎撃用のサイオン・キャノンも備えた巨大な鯨。
 少しずつ姿を現し始めた船をモニターしながら、ある日、ブラウが尋ねたこと。
「…どの段階から動かせるんだい?」
 例のシールドとステルス・デバイス。…出来るだけ早く見たいもんだね、そいつの力を。
 ブルーが張ってたシールドに匹敵するんだろ?
 ついでに姿も消せるとなったら、一日も早くお目にかかりたいものなんだけどね…?
「気持ちは分かるが、完成しないことにはのう…」
 頭隠して尻隠さずじゃ、と答えたゼル。
 船体が全て完成しないと、稼働させても意味はあんまり無いじゃろうが、と。
 システムが行き渡っていない部分が残っていれば、其処がシールドからはみ出してしまう。姿を隠す方でも同じで、その部分だけが見えてしまう、と。
 それでは間抜けで、せっかくのシステムが生きてこない、というのがゼルの言い分。
 船を丸ごと包めてこそのサイオン・シールド、それにステルス・デバイスなのだ、と。



「白い鯨がやっと出来てだ、テスト航行をするって時にも…」
 お前ときたら、無茶しやがって。
 サイオン・シールドとステルス・デバイスは完璧なんだ、と証明しようとしたんだろうが…。
「…駄目だったかな?」
 あれが最高だと思ったんだけど…。
 前のぼくには、ちゃんと分かっていたからね。シャングリラがシールドに守られていることも、人類が使うレーダーには引っ掛からないことも。
 それに、ステルス・デバイスがあれば、近付かない限りは船は見えさえしないんだから。
 あの時にぼくが選んだコースは、駄目だった…?
「いや、いいが…」
 お前はそういうヤツだったしなあ、最初から。
 俺が操舵を始めようって時に鬼コーチになって、ゼルたちが参っちまったほどの。
 …そのせいでサイオン・シールドが生まれちまって、ついでにステルス・デバイスで…。
 実にとんでもないコンビだったな、前のお前と俺ってヤツは。
 白い鯨のテスト航行、よりにもよって、人類軍の船の航路を横切って行くと来たもんだ。
 いざとなったら、お前が守ると言ってはいたが…。
 あの時もきっと、ゼルやブラウは「死ぬかと思った」って気分じゃないか?
 俺に向かって言わなかっただけで、何処かで愚痴を零してたかもな…。



 テスト航行が無事に終わって、完成したサイオン・シールドとステルス・デバイス。
 白い鯨はそれに守られ、地球までの旅を続けていった。
 赤いナスカがメギドに砕かれ、人類軍との戦いの火蓋が切られた後には、ステルス・デバイスがゼルの船にも載せられたという。トォニィが使った小型艇にも。
 サイオン・シールドは白い鯨を守り続けて、シャングリラは地球に着いたのだけれど。
「知ってるか、お前?」
 シールドってヤツは、人類軍の船には最後まで無かったままだったんだぞ。
 ヤツらの船は丸裸みたいなものだったんだ。…障害物も避けられやしない船ばかりでな。
「…そうなの?」
 ハーレイ、何処かで見ていたわけ?
 人類軍の船が何かにぶつかっちゃうのを、前のハーレイ、何処かで見たの…?
「ああ。…ジュピターの上空であった、最後の戦い。歴史の授業で教わるだろう?」
 俺が見たのは、あの時だった。…同士討ちのようにぶつかっていたな、人類軍の船同士で。
 ぶつかった船はもちろん終わりだ、そのまま爆発しちまって。…両方がな。
 旗艦のゼウスにも、危うくぶつかるトコだったんだ。
「ゼウスって…。あの時だったら、キースやマードック大佐が乗ってたわけで…」
 どうなったの、上手く舵を切ったの?
 ぶつからないように、大慌てで。
「…デカイ船だったし、小回りが利かん。急に舵など切れるわけがない」
 他の船が撃ち落としちまったんだ。…ぶつかりそうになった船をな。
「そんな…!」
 どうして仲間の船を撃つわけ、他に方法は無かったわけ…?
 その船にだって、人類が乗っていた筈なのに…。きっと大勢、乗っていたのに…!



 酷い、とブルーは叫んだけれども、前の自分は確かに見た。
 その悲劇を。
 人類軍の旗艦を守るためにだけ、撃ち落とされてしまった人類の船を。
 あの船にシールドが搭載されていたら、どちらも無傷で済んだのだろうに。ゼウスも、ゼウスに衝突しかけた船も。
「…ハーレイ、どうして人類の船には、最後までシールドが無かったわけ?」
 シャングリラと何度も戦ったんでしょ、シールドにも気付いていた筈だよ。
 なのに、どうして作らなかったの、人類は…?
 仲間の船まで撃ち落とすなんて、シールドがあったら、絶対、しなくて済んだのに…!
「技術的に無理があったんだろう。…作ろうとしても、作れなかった」
 シールドの利点に気付かなかったとは思えないんだ、人類が。
 きっとヤツらも欲しかっただろう、ああいうシステムを船に載せられたら、と。
 だが、あれはミュウにしか作れない。サイオンを持った、ミュウだけにしか。
 そういうシステムだったんだ。サイオン・シールドというヤツはな。
 前のお前のシールドを見ていたゼルとヒルマン、あの二人が作ったミュウのためのもの。
 そうだったろうが、サイオン・シールドも、それにステルス・デバイスも。
 船を丸ごと守りたいと思う仲間たちの思考を纏めて、シャングリラを守っていたんだからな。



 どちらも前のお前のお蔭で生まれた技術だ、とブルーに話してやった。
 鬼コーチだったお前と、操舵が下手だった俺のコンビが切っ掛けになって出来たんだぞ、と。
「俺の下手くそな操舵で、ゼルやブラウが「死ぬかと思った」と愚痴を零しはしたが…」
 転んでもただでは起きなかったってな、死にそうになったゼルとヒルマンは。
 前のお前が張ってたシールド、そいつに目を付けて開発したのがあの二つだ。
 シャングリラも何度も救われたんだが、後の時代の船も救った。…ヒルマンたちの研究はな。
「後の時代…?」
 それっていつなの、SD体制が倒された後のことだよね…?
「前の俺も死んじまった後のことだが、調べなくても分かるぞ、これは」
 ステルス・デバイスは、平和になった時代にはもう要らなかったが…。
 サイオン・シールドの方は、今も搭載されているんだ。何処を飛ぶ宇宙船にもな。
 近距離だろうが、長距離だろうが、客船にも、それに輸送船にも。
 サイオン・シールドが無いような船じゃ、完成しても検査を通りやしない。
 …それ以前に建造許可が出ないだろうなあ、ちゃんと設計し直して来い、と。



 今の時代の宇宙船には、当たり前のように搭載されているサイオン・シールド。
 障害物から船を守るために。宙航などでの衝突を回避するために。
 その技術の基礎は、遠い昔にヒルマンとゼルが作ったもの。平和になった時代に改良を重ねて、より簡単に使える形で完成された。
 小さな船なら、パイロットだけのサイオンでもシールド出来るくらいに。
「そうだったんだ…。ゼルたちの研究、今の時代も生きているんだ…」
 ずいぶん改良されただろうけど、基本は変わらないんだろうし…。
 ヒルマンもゼルも、一緒に研究していた仲間も、凄い発明をしちゃったんだね…。
「そのシールド。俺の下手くそな操舵と、鬼コーチだったお前がいなけりゃ生まれていないさ」
 あいつらが死ぬかと思ったくらいの、下手くそな俺と鬼コーチだったお前のコンビ。
 何度も何度も障害物に突っ込んでたから、シールドの有難さってヤツに気付いたわけで…。
 だから始めた研究なんだぞ、そいつを船に載せられないかと。
「…そうなのかな?」
 前のぼくたちが酷いコンビを組んでなくても、いつか出来たと思うんだけど…。
 ゼルたちじゃなくて、後の時代の誰かが研究したかもだけど…。
「まあな。…いつかは生まれた技術だろうが、あんなに早くは無理だったろう」
 人間がみんなミュウになったら、誰かがいつかは気付いただろうが…。
 これは使えると思っただろうが、いつになったかは分からんぞ。
 切っ掛けってヤツが必要だしなあ、研究を始めるためにはな。…どんなものでも。



 白いシャングリラを丸ごと包んで守り続けた、サイオン・シールド。
 命懸けで生きた時代だったからこそ、船を、仲間たちを守ろうとして生まれた技術。
 障害物やら、いつか遭遇するだろう人類軍の攻撃から船を、ミュウの箱舟を守り抜こうと。皆の思考を一つに纏めて、シールドで船を包み込もうと。
 これが平和な時代だったら、事故でも起こらない限りは出来ない。片方の船は砕けてしまって、もう片方は無事だったという不思議な事故でも起きない限りは。
「そうなったならば、無事だった方の船を調べるだろうしな」
 調べていったら、無事だった船の乗客にタイプ・ブルーがいたとか、そういったこと。
 乗客たちの話を集めて、ようやっとシールドに気付くってわけだ。…それから研究開始だぞ?
 いったい何年かかるというんだ、全部の船にサイオン・シールドを載せようとしたら。
「そっか…」
 基礎があったら早いけれども、何も無かったら、ゼロから出発するんだもんね…。
 おまけに平和な時代だったら、ゼルたちみたいに必死で研究しないだろうし…。
 のんびりゆっくり研究してたら、ホントに何年かかったんだか…。もしかしたら、今でも研究の途中だったかもしれないね。もっと改良できる筈だ、って。
「そういうことだな。…前のお前と俺のコンビが、ゼルたちを死ぬ目に遭わせてなけりゃ」
 立派な土産話になっただろうが、今日の俺の遅刻。
 俺を遅刻させちまった、あの車にも礼を言わなきゃいけないぞ。土産話をありがとう、とな。
「そうだね。よく考えたら、その車にも…」
 サイオン・シールドが載っているんだもんね…。うんとコンパクトになってるヤツが。
 ぼくは運転免許も取れない年だし、すっかり忘れてしまっていたけど…。
「そういやそうだな、載ってたっけな」
 俺もそいつは気付いてなかった。…当たり前のように載ってるモンだし、説明も無いし…。
 車を点検に出す時だって、そんなトコまで考えて出しやしないしなあ…。プロに任せておくのが普通で、自分で点検するわけじゃないし。
 そうか、俺の車にもゼルとヒルマンの研究の成果、しっかりと載っているってわけか…。



 遠く遥かな時の彼方で、前の自分と前のブルーが酷い目に遭わせたゼルとヒルマン。
 前の自分の飲み友達だった、彼らが開発した技術。
(…おい、聞こえてるか? 俺は今でも、そいつの世話になってるってな)
 これからも世話にならせて貰うぞ、と心の中で呼び掛けた。時の彼方の飲み友達に。
 今では普通の車にも搭載されたシステム。
 当たり前になったサイオン・シールド。
 ドライバーがいれば、そのサイオンだけで張れるシールド、それが車に載せられている。
 他の車とぶつからないよう、人とぶつかってしまわないよう。
 平和な時代に、平和な技術が進歩したから、車にもついたサイオン・シールド。
 今はもう無い、自動車事故の犠牲になる人。
 どの車にもサイオン・シールドが載っているから、人も車も守るシステムがついているから。
 いつかブルーと出掛けるドライブ、その時もサイオン・シールドと一緒。
 張っているという自覚も無ければ、負担すらも無いサイオン・シールド。
 そんな車でドライブに行こう、ブルーと二人で。
 サイオン・シールドのことを覚えていたなら、その切っ掛けになったコンビだと笑い合って。
 今は車にも載っているぞ、とゼルたちを酷い目に遭わせてしまった昔を思い出しながら…。




            船とシールド・了

※今の時代は、自家用車にまで搭載されているサイオン・シールド。当たり前のシステム。
 それが生まれる切っ掛けになったのが、前のブルーとハーレイなのです。操舵の練習中に…。
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「あっ…!」
 ブルーが上げた小さな悲鳴。床に落とした紅茶のカップ。手からスルリと滑って行って。
 ハーレイと部屋で過ごしていた時、起こってしまった不幸な事故。紅茶を飲み終え、ソーサ―にカップを戻そうとしたら滑った手。
 慌てて屈み込んだ床。コロンと転がっているカップ。
「おい、大丈夫か?」
 ハーレイが訊くから、「うん」と答えた。
「もう飲んじゃった後だから…。零れていないよ、カップの中身」
 良かった、紅茶を零さずに済んで。服とか床が濡れてしまったら大変だもの。
「いや、大丈夫かって訊いているのはカップだ」
 割れちまっていないか、落ちたはずみに。
「カップって…。ハーレイの心配、そっちなの?」
 ぼくの服とか、どうでもいいんだ…。カップを心配するだなんて。
 酷い、と唇を尖らせながらも、俄かに心配になって来たカップ。母のお気に入りの一つ、白地に緑で繊細な模様が描かれたもの。
 割れていないか、目で確かめてみて、それから手でも。滑らかな磁器に傷は無かった。
 ホッとしてカップをソーサーに置くと、自分も元の椅子に戻った。ハーレイの向かい側の椅子。



 もう一度しげしげとカップを眺めて、改めて紅茶を注いでみて。
 何処からも漏れて来ないようだ、と確認してからホウッとついた安堵の吐息。
「大丈夫だった…。割れていないよ」
 見えないヒビが入っているってこともあるから、ちょっぴり心配だったけど…。
 紅茶を入れても漏れて来ないし、もう大丈夫。
「そりゃ良かった。カップが無事でなによりだ」
 俺も濡れ衣を着なくて済むしな、めでたし、めでたしって所だ、うん。
「濡れ衣って…。なに、それ?」
 なんでハーレイが濡れ衣を着るの、なんの濡れ衣?
「決まってるだろう、お前の身代わりというヤツだ」
 もしもカップが割れていたなら、俺が代わりに犯人になる、とハーレイがくれた頼もしい言葉。
 俺はウッカリ者になってしまうが、お前と違ってそれほど叱られないだろう、と。
「そっか…。ハーレイ、お客さんだしね」
 お客さんには怒らないよね、ママのお気に入りが真っ二つに割れてしまっても。
 ママは悲しくなるんだろうけど、片付けながらハーレイの心配をするんだろうし…。「お洋服は濡れていませんか?」だとか。
「そういうこった」
 何かと言えば押し掛けて来るような俺でも、客には違いないからな。
 お母さんだって叱れやしないさ、お前だったら派手に叱られそうな真似をしちまっても。



 いつか本当に割っちまうことがあったら代わってやるぞ、と胸を叩いたハーレイだけれど。
「待てよ…?」
 身代わりなあ…。俺がお前の代わりにか…。
「どうかしたの?」
 ハーレイが顎に手を当てているから、何か考え事なのだろうか?
「…身代わりだ。前にもこういうのがあったような…」
 俺がお前の身代わりに叱られてやるって話。…前にもしていたような気がする。
「ぼく、落っことした?」
 前にもカップを落としていたかな、割れなかっただけで?
 ハーレイが身代わり、やってくれなくても済んだってだけで…?
 やっちゃったかな、と尋ねるまでもなく、何度かやっているかもしれない。ハーレイと会えば、いつもはしゃいでしまうから。注意力散漫というヤツだから。
(…うーん…)
 あったっけ、と頭に浮かんだ落っことしたお皿。昼食の時に。サラダの器も落とした記憶。
 他にも色々、次々と思い出す自分の失敗。カップもお皿も、何度も落とした。
 幸い、割れてはいなかっただけで。
 ハーレイに身代わりを頼まなくても、母に叱られずに終わっただけで。



 考えただけでも情けなくなる、ウッカリ者が落としてしまったカップやお皿。
 ハーレイが言うのも、その中の一つだろうと思ったけれど。
「違うな、そういうのじゃなくて…」
 もっと別の…、と記憶を探っているらしいハーレイ。
「じゃあ、いつ?」
 此処じゃなくって、庭のテーブル?
 あそこでも何か落っことしたかも、芝生だから割れていないってだけで。
「それも違うようだ。…此処でも庭でもなくてだな…」
 しかしお前と一緒だったわけで、俺がお前の身代わりだとすると…。
 そうだ、今よりずっと昔だ。…シャングリラだ。
「えっ…?」
 シャングリラって…。それって、前のハーレイとぼく…。
 あんな所でハーレイが身代わりだったわけ?
 前のぼくが何かを割ってしまって、ハーレイが身代わりになったとか…?



 シャングリラで前の自分の身代わりになったか、なろうとしたらしい前のハーレイ。
 とても考えられないけれども、初めの頃ならあっただろうか。まだ青の間が無かった頃ならば。皆と食事をしていた頃なら、食器を落として割ることだって…。
「…ぼく、食堂で割っちゃった?」
 さっきみたいに落としてしまって、カップを割ったとか、お皿だとか…。
「そいつも大いにありそうなんだが、それは身代わりが必要か?」
 食堂なんだぞ、大勢が集まって食ってるんだし…。ウッカリ事故は日常じゃないか。
「他のみんなも割ってたね…」
 毎日ってほどのことでもないけど、一つも割れずに一ヶ月なんかは無かったかな?
 そういう記録は取らなかったから、割れなかった月も混じっていたかもしれないけれど。
「他のヤツらが割っていたのは間違いないが…」
 そんなことより、あそこの食器はお前が揃えた食器だろうが。
 お前が食器を奪って来たんだ、他のヤツらじゃなくってな。物資は全部、前のお前が揃えてた。
 割っちまっても、元はお前が手に入れたヤツだ。身代わりを立てて謝らなくてもいいってな。



 白い鯨になるよりも前のシャングリラ。元は人類の物だった船。
 最初から船にあった食器は、日が経つにつれて割れたり欠けたりしていったから。
 食堂のテーブルには、不揃いな食器が並ぶようになった。新しく手に入れた物資の中から、取り替えて補充していた食器。一つ割れれば、代わりの物を。欠けて使えなくなっても同じ。
 物資の中に人数分の揃いの食器があるわけがなくて、模様も大きさもまちまちだった。
「それにだ、俺が管理をしていたからなあ、あの船の食器」
 お前が割っても問題無いだろ、俺の所に取りに来るのはお前なんだから。
 他のヤツなら、おっかなびっくり来ていたとしても、お前は俺の友達なんだし。
「そうだね…。ハーレイの一番古い友達」
 友達だったら、そんなに酷くは叱られないし…。バツが悪いってだけだよね、ちょっと。
 ウッカリしてた、ってバレちゃうんだから。落っことして割ってしまったことが。
 恥ずかしいってだけのことかな、と遠い記憶を辿ってみた。初めの頃のシャングリラ。
 食器を割ったら備品倉庫へ謝りに行って、管理人のハーレイに新しい食器を出して貰う。それを食堂の係に渡して、割れた食器は代替わり。
 そういう決まりがいつしか出来た。
 だから、前の自分が割ってしまって、代わりの食器を貰いに倉庫へ出掛けても…。
「俺が適当に選ぶだけだし、お前が謝らなくてもな?」
 お前が手に入れた食器なんだから、堂々と持って行けばいいんだ。
 他のヤツだったら、俺も注意をすることもあったが、お前は別だ。お前が揃えた食器なんだぞ。
 幾つ割ろうが、代わりの食器を奪いに行くのはお前なんだし。
「それはそうかも…」
 割って足りなくなった時には、食器を奪えばいいだけだから…。
 前のぼくなら、簡単に奪って来られたんだから、謝る必要、無かったかもね…。



 食器を割った前の自分の身代わりなどを務めなくても、ハーレイ自身が食器の係。割った仲間が詫びる相手はハーレイだったし、身代わりを立てるまでもない。
 それに食器は前の自分が奪った物資。謝らなくても、新しいのを一つ持ってゆくだけ。こういう食器も奪ったっけ、と眺めながら。
 そうなってくると、ハーレイが身代わりになったというのは…。
「いつのことなの、ぼくは覚えていないんだけど…?」
 ハーレイに身代わり、頼んだことなんかあったっけ…?
「さてなあ、シャングリラだったことは確かなんだが…」
 今じゃないってことは間違いないがだ、どうにもハッキリしなくてなあ…。
 お前が割って、俺が身代わりに立つんだろ?
 管理人をやってた時代だと有り得ないんだし、いったい、いつの話なんだか…。
「…キャプテンになった後のことかな?」
 倉庫の係も変わったんだから、ぼくも謝りにくかったかも…。ハーレイだった頃と違って。
「俺がソルジャーの身代わりだってか?」
 まだリーダーだった時代にしたって、そいつはちょっと…。
 キャプテンがわざわざ倉庫まで行って、お前の身代わりにペコペコ頭を下げるのは…。
 …待てよ、そいつか?
 リーダーだったか、ソルジャーだかの身代わりで俺は謝ったのか…?
「それだった?」
 ぼくの身代わり、それで合ってた…?
「ちょっと待ってくれ」
 そうじゃないか、って頭に引っ掛かるんだが、上手い具合に出て来なくて、だ…。
 前のお前はソルジャーだったか、リーダーだったか、どっちなんだか…。



 俺がキャプテンで、お前がリーダーかソルジャーで…、とハーレイは遠い記憶を探って。
 なかなか思い出せないもんだ、と紅茶のカップに触れた途端に。
「…分かった、ソルジャーの身代わりなんだ…!」
 思い出したぞ、俺はソルジャーだったお前の代わりに謝ったんだ。
「ソルジャーって…。それに身代わりって、どうしてハーレイがそうなるわけ?」
 キャプテンなのに、と仰天した。
 船では最高責任者だったキャプテン・ハーレイ。割れた食器の補充くらいは簡単な筈。係の者に指示を出すだけで、新しい食器が直ぐに出て来たことだろう。
 おまけに前の自分はソルジャー。船で一番偉い立場に祭り上げられ、正直な所、途惑っていた。
 そのソルジャーが食器を割っても、誰も咎めはしなかったろうに。
 キャプテンが身代わりで謝らなくても、何事も無かったかのように新しい食器が食堂に届く。
 次はこれを、と不揃いな食器が送り込まれたか、白い鯨なら揃いの食器か。
 白い鯨になった後には、食器も船で作っていたから。



 船で食器を作れる時代になったら、ますます必要無さそうな身代わり。
 前の自分は青の間の主で、こけおどしだった大きすぎる部屋に住んでいたから。
 その前の時代は、不揃いな食器を次々と奪っていた自分。身代わりは多分、まるで要らない。
 けれどハーレイは、「間違いない」と自信に溢れた答えを返した。
「俺はソルジャーの身代わりだったぞ、お前がオロオロしていたからな」
 そうなって来たら、今と同じで身代わりになるしかないだろうが。
 今の時点じゃ、お前は食器を割っていないし、俺は身代わりにはなっていないが。
「オロオロしてたって…。ぼくが?」
 前のぼく…。ソルジャーだった頃のぼくだったの?
「そうなんだが? …お前、覚えていないようだな」
 割っちまった、と真っ青だったぞ。今日と同じだ、紅茶のカップだ。
「え…?」
 紅茶のカップって…。こういうカップ?
 それを落として、割って、真っ青…?



 ハーレイは自信たっぷりだけれど、前の自分は今と違って、サイオンの扱いが上手かった。
 落とした時にもサイオンで落下を止められたのだし、そうそう割ってはいないと思う。
 不幸にも割れてしまったとしても、ソルジャーという偉い立場だったから…、と思った所で。
「ソルジャーの食器…!」
 前のぼくの食器で、その中のカップ…。紅茶用の…。
「思い出したか?」
 俺を身代わりに立てた時のこと。…紅茶のカップで。
「うん、思い出した…」
 前のぼくだけが使えた食器…。あれのカップを割っちゃったんだよ、朝御飯の時に。
 食堂の食器だったら気にしないけれど、ソルジャー用のを…。
 思い出した、と脳裏に鮮明に蘇った事件。
 確かにハーレイを身代わりに立てた。
 紅茶のカップを割ってしまったのは、間違いなく自分だったのに。ハーレイはカップを割ってはいなくて、何の落ち度も無かったのに。



 前の自分が青の間で使った、御大層なソルジャー専用の食器。
 ミュウの紋章が描かれた食器は、前の自分と一緒に食事をする者以外は使えなかった。そういう決まりになっていた食器。ソルジャーの威厳を高めるための小道具の一つ。
 ソルジャー主催の食事会などでは、招待された仲間たちに向かってエラが有難さを説いていた。他の場所では使われないもので、ソルジャー専用の食器なのだ、と。
 けれども、前の自分はソルジャー。普段使いの食器がそれで、いつでもミュウの紋章入り。食堂から何か特別に届けさせない限りは、ソルジャー専用の食器で食べたり、飲んだり。
 その食器で前のハーレイと食べていた朝食。
 不幸な事故はそこで起こった、前の自分が落としてしまった紅茶のカップ。
「…お前、ぼんやりしちまっていて…」
 そのせいだったな、カップが見事に割れちまったのは。…ソルジャー専用の紅茶のカップ。
「だって、ハーレイと過ごした後だよ…?」
 ぼんやりしない方が変だよ、あの頃はまだ慣れていなくて…。
 ハーレイと二人で朝御飯っていうの、とても恥ずかしかったんだよ…!



 朝の食事は、青の間で前のハーレイと二人で食べるもの。
 キャプテンの報告を聞きながら。その日の予定を確認しながら、ソルジャー専用の食器で二人。
 白い鯨が出来上がった後に生まれた習慣。
 シャングリラはとても広くなったし、自給自足の生活になって何もかもを船で賄う世界。食料は充分に足りているのか、船の設備は順調に機能しているか。
 そういった報告は一日の終わりだけでは足りない、と朝食の席が選ばれた。毎朝、キャプテンが報告をすれば良かろうと。そうすればソルジャーの指示も仰げる、と。
 二人分の食事は、厨房のスタッフが運んで来た。青の間の奥のキッチンで仕上げ、ミュウの紋章入りの食器に盛り付けて出す。
 何を食べるかは前の日の内に注文するもの、前の自分とハーレイの食事が重ならないこともよくあった。量はもちろん、内容だって。
 ホットケーキを食べる自分の向かいで、ハーレイがトーストを頬張るだとか。自分の皿には卵の料理で、ハーレイは朝から肉料理を食べていただとか。
 食事しながら、報告も聞いていたけれど。楽しい語らいの時間でもあった、朝の報告。
 ソルジャーとキャプテンの朝食は二人で食べるのが基本、恋人同士になる前から。
 仲の良い友達だった頃から。



 ところが、ハーレイに恋をした後。ハーレイからも恋を打ち明けられた後。
 朝食の席は、恋人同士で過ごせる貴重な時間になった。何処からも邪魔は入らないから。食事を作った厨房のスタッフは、出来上がった後は退室するから。
 報告はきちんと聞いたけれども、甘く幸せな時を過ごした。ハーレイが「では」とキャプテンの貌に切り替え、ブリッジへ出掛けてゆくまでは。
 初めの間はそんな具合で、朝にハーレイが訪ねて来ていた。それまで通りに。
 けれど、恋とは、キスだけで終わりはしないもの。もっと深く、と求め合うもの。
 ハーレイが初めて青の間に泊まり、二人きりの夜を過ごした後には、恥ずかしかった朝食の席。
 初めての夜の翌朝もそうだし、その次の時も。そのまた次に迎えた朝も。
 向かいに座ったハーレイの顔を、まともに見られなかったくらいに。
 顔を見たなら、ベッドでのことを思い出すから。
 ハーレイはキャプテンの制服をカッチリ着込んでいるのに、その下の肌を思い出すから。



 そういう日々が続いていた頃、落として割ってしまったのだった。
 朝食の後に飲んでいた紅茶のカップを。
 ハーレイが何気なく「どうなさいました?」と掛けた声にビックリしてしまって。
 褐色の肌をした逞しい恋人、ハーレイの顔に見惚れていたから。両腕で自分を閉じ込め続けた、甘くて熱い優しい恋人。一晩中、あの腕の中にいたのだ、と。
 正面からは恥ずかしくてとても見られないから、チラリ、チラリと視線を投げて。
 どうしても自然に伏せてしまう目、それを上げては眺めた恋人。誰よりも好きだと、二人きりの時間がもっと続いてくれれば、と。
 その最中に掛けられた声で、驚かない方がどうかしている。
 ビクンと跳ね上がってしまった心臓、身体のコントロールを失くした。離してしまったカップの取っ手。驚いたはずみに、指も一緒に跳ね上がったから。
 カップが床で割れてしまうまで、落としたことにも気付かなかった。
 青の間に音が響くまで。ミュウの紋章入りのカップが、床に当たって砕けるまで。



 落ちたカップを受け止めるには、向いていなかった硬い青の間の床。
 幾つかに割れて砕けたカップと、紅茶とが床に散らばった。そうなる音が響いた後に。
「あれなあ…。いつものお前だったら、拾うからなあ、サイオンで…」
 カップも、中身の紅茶の方も。…お前、飛び散る水でも拾えたんだから。
「うん…。普段通りのぼくだったらね」
 ボーッとしてなきゃ拾えたと思う、あの時のカップ。
 今のぼくには無理だけれども、前のぼくなら簡単だもの。…カップ、割れてはいなかったよ。
 紅茶だって床に飛び散る代わりに、カップに戻っていたと思うよ…。
「お前、そういうのが得意だったしなあ…」
 いつもだったら、あそこで割れちゃいないんだ。カップを落としてしまったとしても。
 俺もビックリしちまってたから、代わりに拾ってやれなかったし…。
 カップだけなら俺でも余裕で拾えたんだが、お前があんまりビックリしたんで、俺も、つい…。
 お前と一緒にビックリってヤツで、拾うどころじゃなかったんだよなあ…。



 そうして砕けてしまったカップ。ミュウの紋章入りだったカップ。
 如何にサイオンが強かろうとも、元に戻せはしなかった。くっつけることは出来ない欠片。
(…凄く恥ずかしくて…)
 どうしようもなくて、割れたカップを見ていることしか出来なかった。
 カップを落としてしまった理由も、拾い損ねて割った理由も、考えるほどに恥ずかしいばかり。
 ハーレイに声を掛けられて真っ赤になった筈の頬は、もう真っ青になっていただろう。
 どうすれば、とオロオロしただけの自分。
 割れたカップはくっつかない。元の姿に戻せはしない。
 ただの食堂のカップだったら、少しは救いがあったのに。食堂のカップは仲間たちも気軽に使うカップで、一ヶ月もあれば幾つかは割れるものだから。食堂の係がトレイごと落として、何個ものカップが一度に割れることもあるから。
 なのに、青の間のカップは違う。ソルジャー専用、ミュウの紋章が描かれたカップ。
 ソルジャー主催の食事会だの、お茶会だので使われるカップ。
 仲間たちがそれに招かれる度に、エラが有難さを説いているもの。
 よりにもよって、その有難いカップを割った。
 自分にとっては普段使いでも、仲間たちにとっては違うカップを。
 これほど見事に砕けなくても、ほんの少し欠けてしまっただけでも、仲間たちなら大慌てだろうソルジャー専用。
 それを落として拾い損ねて、元に戻せない欠片になった。
 誰にも言えないような理由で、恥ずかしすぎる理由のせいで。
 甘くて熱い時を過ごした昨夜の秘めごと、それに思いを馳せていたせいで。



 赤くなったり、青くなったり、半ばパニックになっていた自分。
 「どうしよう…」としか言葉が出なくて、片付けることさえ出来ない有様。
 部屋付きの掃除係がいたって、バスルームなどは自分で掃除しようとしていた綺麗好きなのに。
 割れたカップを拾い集めて、零れた紅茶を拭き取るくらいは簡単なのに。
「お前、動けもしなかったしなあ…。俺が代わりに掃除したんだ」
 係が来るまで放っておいたら、お前、ますますパニックだろうし…。そうなる前に、と。
 掃除を済ませて、その後、俺が割っちまったってことで身代わりに…。
「…叱られに行ってくれたんだっけね、ぼくの代わりに」
 本当はぼくが割っちゃったのに…。
 ハーレイが割ってしまったんだ、っていうことにしてくれて、叱られてくれて…。
「いや、叱られてはいないがな」
 そう簡単に叱られてたまるか、ああいう時には言い訳ってヤツが大切なんだ。
 嘘も方便っていう言葉があるだろ、俺はそいつを使ったってな。
 データを見ていてぶつけちまった、と謝りに出掛けて行ったんだ。あの食器を保管していた係の所へ、「カップを一つ割ってしまった」と。
 ソルジャーもデータに気を取られていて拾えなかった、と言っておいたぞ。
 係のヤツは嘘をそのまま信じてくれたさ、「キャプテン、それは大変でしたね」と。
 却って心配されたくらいだ、「カップの後始末で支障が出ませんでしたか、お仕事に」とな。
 掃除くらいは係がするから、次からは係を呼んでくれれば、とも言ってたぞ。
 割れた食器も係任せでかまわないからと、どれが割れたか係に伝えてくれさえすれば、と。



 だから、それっきり俺は身代わりに立っちゃいないが…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 その後もカップや皿が割れたりしたのだけれども、二度と謝りに行ってはいない、と。
「お前にもきちんと伝えた筈だぞ、気にするな、って」
 他のヤツらには御大層な食器かもしれんが、お前にとっては普通の食器だったんだから。
 使っていれば割れることもあるし、それで文句が出るんだったら、別のにすればいいだろう。
 エラが余計なことを言わなきゃ、お前は何処で何を食おうが自由でいられたんだしな。
 「ソルジャーは偉い方なのですよ」と旗を振っていたのは、いつでもエラだ。
 お前がカップを割ったくらいで文句を言うなら、普段は普通の食器を使わせてくれ、と言いさえすればエラだって黙る。割れば割るほど、普通の食器に戻せる可能性だって…。
 もっとも、お前は最後まであの食器だったが…。
 幾つ割ろうが、エラは普通の食器に戻しはしなかったがな。
「…そうだっけね…。あのカップが最初で最後だっけね…」
 ハーレイがぼくの身代わりになってくれたのは。
 ぼくの代わりに叱られてくる、って謝りに行ってくれたのは…。
 ビックリしちゃって、割っちゃったぼくが悪いんだけど…。
 ボーッとしていた、ぼくがホントに悪いんだけど…。



 思い出したら、みるみる染まってしまった頬。前の自分の失敗談。
 カップを落として割ったことより、そうなった理由が恥ずかしいから。前のハーレイと過ごした夜に気を取られていて、カップは割れてしまったのだから。
(…だって、ハーレイと本物の恋人同士になったばかりで…)
 朝食の席では、まともに見られなかった恋人の顔。恥ずかしくて顔を上げられなくて。
 そんな日々の中、幾つカップを割ったのだろう。何枚の皿を割ったのだろう。
(…覚えてないけど…)
 数えてさえもいなかったけれど、微かに残っている記憶。
 前のハーレイと夜を過ごして、翌朝、二人で食事をする時。慣れない間は、よく落としていた。紅茶のカップも、トーストの皿やサラダの器も。
 ハーレイに優しく見詰められただけで、落としてしまったカップもあった。ふと顔を上げた時、ハーレイの熱い視線に射抜かれ、手から滑ってしまったカップも。
 多分、カップが一番沢山、割れてしまっていたのだろう。
 次がトーストの皿だったろうか、驚いたはずみに利き手ではない左手が触れて、そのまま床へ。
 考えただけでも恥ずかしくて頬が染まるけれども、あれも幸せな日々だった。
 何度もカップや皿を割っていた、ハーレイと二人で過ごした翌朝。
 いつの間にやら、割らなくなっていたけれど。
 ハーレイがテーブルの下で絡めて来る足、それが嬉しくて微笑む自分に変わったけれど。
 恋は冷めずに、深い絆になったから。
 恥ずかしかった気持ちを通り越したら、よりハーレイと二人きりでいたくなったから。
 カップを落として割ってしまうより、紅茶やコーヒーの味がするキス。
 それを交わして、「また夜に」とハーレイを送り出す幸せな日々がやって来たから…。



 前の自分が落としたカップ。最初はハーレイが身代わりになって詫びに行ってくれた、落として割れてしまったカップ。
 今の自分も落とすのだろうか、ハーレイと暮らし始めたら。
 いつか育って、ハーレイと結婚したならば。
 同じベッドで夜を過ごして、次の日の朝は二人で食事。前の自分がそうだったように。
 係が食事を作りに来るか、自分たちで作って食べるかという違いだけ。
 それと食器に描かれた模様。ミュウの紋章入りの御大層なものか、今の自分たちが選んだ食器を使うかの違い。
 きっとハーレイと二人で相談しながら、選んだ食器なのだろうけれど…。
(…落とすかも…)
 前の自分の時と同じに。
 恥ずかしくて顔を上げられないまま、ハーレイの声に驚いたりして。
 二人で選んだ大切な食器が、落っこちて割れるかもしれない。紅茶のカップも、キツネ色をしたトーストを載せていた皿も。新鮮な野菜のサラダが入った器も、色々なものが。
 前の自分が割った時のように、割れた音で初めて気付く惨劇。
 床に紅茶が飛び散るだとか、トーストやサラダが散らばるだとか。
 サイオンを自由自在に操れた前の自分でさえも割ってしまったカップ。今の不器用な自分は幾つ割るのか、もう心配でたまらない。
 せっかく二人で選んだ食器は、たちまち不揃いになるかもしれない。
 初めの頃のシャングリラの食器がそうだったように、割れた物から取り替えられて。前の自分の頃と違って、奪うのではなくて、新しく買って。
(…ホントに揃わなくなっちゃうかも…)
 幾つも割れたら、同じ品物が買えなくなって。店に出掛けても「在庫切れです」となって、別の模様の食器を買うしか道が無くなるだとか…。



 如何にもありそうな、今の不器用な自分の末路。
 ハーレイと暮らし始めた途端に、二人で選んだ食器をすっかり駄目にしそうな自分。全部端から落として割って。紅茶のカップも、トーストの皿も。
(…ぼくって、駄目かも…)
 きっとハーレイだってガッカリするよ、と項垂れていたら、「おい」と掛けられた恋人の声。
「お前、何を考えているんだ、今度は?」
 真っ赤な顔をしたかと思えば、今はションボリに見えるんだが…?
 前のお前じゃあるまいし。…紅茶のカップを割っちまったと、真っ青でオロオロしていた時の。
「んーと…。ハーレイ、割れない食器を買おうか?」
「はあ?」
 割れない食器って、何の話だ?
 何をするのに割れない食器を買うと言うんだ、俺にはサッパリ分からないんだが…?
「…食器だよ。いつかハーレイと暮らす時には、食器も買うでしょ?」
 ぼく、ハーレイと結婚したら、暫くは割ってしまいそう…。
 前のぼくだった時と同じで、紅茶のカップやお皿を落として。…きっと、幾つも。
 ハーレイと二人で選んだ食器が駄目になっちゃう、揃わなくなって。
 お店に行っても「在庫切れです」って言われてしまって、同じ模様のを買えなくなるとか…。
 それじゃハーレイも困っちゃうでしょ、せっかくの食器が全部台無し。
 だけど、気を付けていたって、ぼく、きっと割ってしまうから…。
 前のぼくでも割っちゃったんだよ、今のぼくだともっと沢山、落っことして割って粉々で…。
 きっとそうなるに決まっているから、割れない食器。
 それを買うのがいいと思うよ、ぼくが落とさなくなるまでは。お皿、不揃いにならないように。
 シャングリラの食堂みたいになってしまったら、ハーレイだってガッカリしない?
 船で食器を作れなかった頃は、お皿もカップも、全部、不揃い…。



 そうなっちゃったら大変だから、と大真面目に提案した割れない食器。
 結婚する時はそれを買おうと、今のぼくは前よりもずっとサイオンが不器用なんだから、と。
 そうしたら…。
「俺は、割ったらいいんじゃないかと思うんだが?」
 前のお前も割っていたんだ、お前が割ってもいいだろう。
 うるさく言うようなエラもいないし、端から全部割れちまっても良さそうだがな…?
「なんで?」
 …割れてしまったら揃わなくなるよ、せっかく二人で選んだのに…。
 これがいいな、ってハーレイと決めて、二人で使おうと思って買うのに…。
「揃わなくなったら、また買い直せばいいじゃないか。気に入ったのを」
 食器なんかは、次から次へと新作が出るか、そうでなければロングセラーの定番品だ。
 定番品を買っておいたら、いくら割れても在庫切れだとは言われんだろうし…。
 新作がどんどん出るヤツだったら、また気に入りのが出来るってもんだ。
 だから普通に割れる食器を買っておけ。割れない食器はお子様用だぞ、つまらないじゃないか。
 結婚する時は、お前もチビは卒業だしなあ、お子様用を買ってどうする。
 割れちまってもかまわないから、大人用の食器を揃えないとな。
「そうかも…。割れない食器は、子供用かも…」
 子供用のしか見たことないしね、割れません、って書いてある食器。
 ぼくは少ししか食べられないから、子供用でも平気だけれど…。
 ハーレイだったら、入れた分だと足りないに決まっているものね。いつも沢山食べるんだもの。
「そいつも大いに問題だな、うん」
 もう空っぽになっちまった、と何度もおかわりするのもなあ…。
 落ち着かないから、普通のを買おう。お前が端から割っちまっても、俺は絶対、怒らないから。



 今度も俺が係なんだから、遠慮なく割れ、と言われた食器。
 不揃いな食器だった頃のシャングリラとは違って、今では好きに選べる食器。店に出掛けて。
 ロングセラーなら、いくら割っても在庫切れにはならないらしい。新作が次々出る食器ならば、新しいお気に入りにも出会える。今度はこっち、と。
(…食器、割りたくないんだけれど…)
 せっかく揃えた食器が割れて減っていったら、ガッカリだから。残念な気持ちだろうから。
 けれども、きっと、それも幸せなのだろう。
 ハーレイと二人で選んだ食器が、すっかり割れてしまっても。
 また新しく買わなければ、と店に出掛ける羽目になっても。
 ミュウの紋章入りの食器を使わされていた、前の自分とは違うから。
 食器を落として割ってしまって、頬が真っ赤に染まっていたなら、ハーレイが笑うだけだから。
 「そうか、お前もやっちまったか」と。
 またやったのかと、それを落として割ったってことは、俺のことを考えていたんだろう、と…。




         落とした食器・了

※前のブルーが割ってしまった、ソルジャー専用の食器のカップ。謝罪したのは前のハーレイ。
 サイオンが不器用な今のブルーは、沢山割ってしまいそうですけど、それも幸せな日々。
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(んーと…)
 どっちにしよう、と悩んだブルー。学校から帰って、おやつの時間に。
 今日は来客があったらしくて、おやつのケーキが選べる二種類。チョコレート入りの生地が描く縞が大理石のようなマーブルケーキと、ドライフルーツがたっぷり入ったフルーツケーキ。
 まるで違った味わいだから、どちらにしようか悩んでしまう。出来れば両方食べたいくらい。
(薄く切って貰えば、両方…)
 食べられるけれど、二つとも食べてしまったら…。
(ハーレイが来た時、困っちゃう…)
 仕事が早く終わった日には、帰りに寄ってくれるハーレイ。夕食も一緒に食べて行ってくれる。
 こういう風にケーキが二種類あった時だと、自分が食べなかった方を母が出すのがハーレイとのお茶。夕食の支度が整うまではゆっくりどうぞ、と。
 もしも両方食べていたなら、ハーレイと二人で食べる時には減る感激。「さっきも食べた」と。
 それは寂しいから、どちらか片方、と思ったけれど。
(…どっちも美味しそうなんだよね…)
 ふんわりとしたマーブルケーキも、どっしりとしたフルーツケーキも。
 眺めるほどに美味しそうで選べないから、迷った末に…。
(表ならこっちで、裏ならこっち…)
 取って来たコインをポイと放った。ダイニングに置いてある小銭入れのコイン。
 サイオンが不器用な自分だからこそ、自信たっぷりに決められる。願望が入る余地が無いから、コインは自由に回って落ちてゆくもの。
 表を出せとも、裏を出せとも、一切、命令されないのだから。



 床に落っこちて転がったコインは、表を向けてピタリと止まった。
(よし!)
 表だったらこっちだものね、と母を呼んで切って貰ったフルーツケーキ。こっちに決めた、と。
 キッチンでコインの音を聞いていたらしい母が笑っている。
「コインで決めていたんでしょう? どっちも美味しそうだったのね」
 ブルーならではの決め方よね、コイン。…表か裏か。
「ぼくだけじゃないよ。やっている子は少なくないよ?」
 学校でもそうだし、遊ぶ時だって。悩んだ時にはコインなんだよ。
「それはそうかもしれないけれど…。ブルーの場合はホントにコインで決められるでしょ?」
 自分の願望が入らないものね、こっちがいいな、って。
 サイオンが強いと入っちゃうわよ、ブルーはタイプ・ブルーなんだもの。不器用じゃなくて器用だったら、コインの占い、無理なんじゃない?
 …それとも、逆に入らないのかしらね?
 タイプ・ブルーくらいに強くなったら、キッチリと遮断出来ちゃって?
「えーっと…?」
 サイオンを遮断出来るのか、って…?
 さっきみたいにコインを投げても、自分の考えが混じらないように…?



 どうなのだろう、と考え込んでしまった。
 一番最初に発見されたタイプ・ブルーが前の自分で、ソルジャー・ブルー。最強と謳われた強いサイオン、扱いの方も慣れたもの。今の不器用な自分と違って。
 前の自分はコインを投げていたろうか?
 表か裏かと、投げ上げて何かを決めただろうか…?
(シャングリラでコイン…)
 そんな記憶は無かったけれども、多分、遮断は出来るのだろう。前の自分の経験からして。
 自分の願望を一切入れずに、サイオンを操ることは可能だったから。
「んーとね…。コインを投げたら完璧だと思うよ、前のぼくなら」
 こうなるといいな、っていう気持ちは綺麗に切り離せたから。
 コインじゃないけど、他のことだと色々と…。ちゃんと上手に出来ていたもの。
「あらまあ…。そんなに器用だったソルジャー・ブルーが、今はこうなのね?」
 おやつのケーキをコインで決めて選べるのね、と母は可笑しそうな顔だから。
「前のぼくと変わらないじゃない!」
 変わっていないよ、前のぼくもコインで決められたんだから!
「そうすることが出来るというのと、それしか出来ないのとは違うでしょ?」
 ソルジャー・ブルーは器用に使い分けられたけれど、ブルーはそれしか出来ないんだし…。
 不器用なんだと思うわよ、ママは。…同じようにコインで決められてもね。
「ママ、酷い…」
 ホントのことでも、それって酷いよ!
 笑わないでよ、可笑しくなるのは分かるんだけど…!



 散々に笑われてしまったおやつ。コインを投げて決めたばかりに。
 美味しいケーキだったけど。フルーツケーキを選んで良かった、と思ったけれど。
 ママに一杯笑われちゃった、と部屋に戻って勉強机の前に座った。頬杖をついて、膨れっ面で。
(…コインなんて…)
 前の自分は投げてはいない。尋ねられたから、多分こうだ、と答えただけ。
 ソルジャー・ブルーだった頃でも、今と同じに決められた筈、と。コインを投げて。それなのに笑い転げた母。「今は不器用になっちゃったわね」と。
 不器用なことは本当だけれど、コインのことまで前の自分と比べて笑わなくても、と仏頂面。
 前のぼくは投げていないんだから、と思ったコイン。
 でも…。
(あれ?)
 不意に浮かんだ、コインを投げていたような記憶。表か裏か、と。
 投げて決めようにも、シャングリラにはコインが無かったのに。
 あの船の中に店などは無くて、コインの出番は一度も無かった。シャングリラの外の世界でも。
 人類のためにあった世界で流通している通貨は危険。機械が管理していたから。
 アルテメシアに送り込んでいた、潜入班の仲間たち。彼らも通貨を使ってはいない。必要な時はサイオンを使ってデータを誤魔化し、色々な物資を手に入れていた。
 シャングリラはそういう船だったから、初めての買い物は前の自分がいなくなった後。
 今のハーレイからそう聞いているし、それよりも前にコインを使ったわけがない。
 けれど、記憶はコインだと告げる。
 シャングリラでそれを投げた筈だと、さっきケーキを選んだように、と。



 投げた記憶があるコイン。前の自分が、ソルジャー・ブルーが。
 船には無かった筈のコインを、表か裏かと投げ上げた自分。
(何処で…?)
 それ以上は思い出せない記憶。勘違いか、と悩んでいたらチャイムが鳴った。仕事帰りに訪ねて来てくれたハーレイ。
 母が運んで来た、紅茶とマーブルケーキのお皿。コインが選ばなかった方のケーキ。
 チョコレートの生地の縞模様が綺麗なそれを指差し、向かいに座ったハーレイに訊いた。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラでコインって、投げていたっけ?」
「コイン?」
 なんなんだ、それは。なんでコインを投げるんだ…?
「何か決めたりするでしょ、コインで。表か裏か、って」
 このケーキはそれで選んだんだよ、選んだ方じゃないんだけれど…。
 おやつのケーキが二種類あってね、どっちにしようか決められなくて…。コインの出番。
 選んだ方をおやつに食べて、こっちは選ばなかった方…。
「ほほう、コインのお告げってことか」
 こっちが残っていたってことは、コインは俺の好物のケーキを選んでくれたのか、うん?
「どうだろう…?」
 そこまで考えていなかったけれど、ぼくが食べた方はフルーツケーキ…。
 ママのフルーツケーキの味は知っているでしょ、ハーレイ、どっちが好きだったの…?
「どっちも好きだが、今日はこっちの気分だな。選んでいいなら、マーブルケーキだ」
 コインは正しい選択をした、というわけだ。
 まさにお告げといった感じだな、俺にはこいつを残しておけ、という御託宣。
 …待てよ、託宣…?



 ハーレイが指先でトントンと叩いている眉間。
 そうすれば遠い記憶が戻って来ると思っているのか、ただの癖なのか。暫く考え込んで、眉間を何度か軽く叩いて…。
「それだ、託宣だったんだ!」
 思い出したぞ、シャングリラにあった託宣なんだ。
「えっ? 託宣って…」
 どういう意味なの、何が託宣…?
「お前も覚えているだろう。託宣と言えばフィシスだろうが」
 フィシスがタロットカードで占う未来が託宣だった。…いつの間にやら、そう呼ばれていて。
「そうだけど…?」
 託宣はフィシスだったけれども、その託宣がどうかしたわけ…?
「よく考えてみろよ? …フィシスが来る前はどうだった?」
 未来が見えるヤツはいたのか、予知の力を持っていたヤツは?
 フィシスのような仲間は誰かいたのか、と訊かれれば誰もいなかった。シャングリラには。
 前の自分でさえも、予知の力は怪しいもの。漠然と嫌な予感がするとか、その程度の力。
「…誰もいないね、ぼくがフィシスを船に攫って来るまでは…」
 フィシスはホントに女神だったよ、ちゃんと未来が見えたんだから。
「そのフィシスをお前が連れて来る前。…フィシスの託宣が無かった頃だな、お前の記憶」
 どっちを選ぶのが正しいのかが、誰にも分からなかった時。
 そういう時にコインで決めていたんだ、表か裏かと。
 選べなくても選ぶしかない、だが、俺たちではいくら考えても答えが出ない。
 そんな時はコインだったんだ。…どちらかに決めなきゃいけないんだしな、ピッタリだろうが。
 投げれば答えが出て来るからなあ、コインってヤツは。表と裏しか無いんだから。



 そういえば…、と蘇って来た、遠い遠い記憶。前の自分とコインの記憶。
 一番最初は、航路の決定に悩んでしまった時だった。
 シャングリラが白い鯨になるよりも前で、ハーレイがキャプテンになって間もない頃。
「どっちに行っても、大して変わりはなさそうだけどね?」
 素敵な所へ辿り着けるというわけじゃなし…、というのがブラウの意見。
 シャングリラの今後をどうしてゆくかを決める顔ぶれは、もう揃っていた。後に長老と呼ばれた四人と、キャプテンのハーレイ、それに前の自分。
「しかし、人類がいない方へと向かうなら…」
 こちらの方が良さそうだが、とハーレイが推した航路に異議を唱えたヒルマン。
「まるでいなくても困るだろう。…人類の船が」
 物資の補給が難しくなる。人類の船が無いとなったら、輸送船だって無いのだからね。
 あれは人類のために物資を運んでいるわけで…。我々のためではないのだから。
「ぼくは何処へでも行けるけど?」
 輸送船が無いなら、いそうな所へ探しに行けばいいんだから、と前の自分は言ったのだけれど。
「いや、お前にばかり負担はかけられん」
 こっちがいいかと思ったんだが、やめておいた方がいいかもしれん。
 もう一つの方を選ぶべきだな、とハーレイが顎に手を当てた。俺が間違っていたらしい、と。
「けれど、決め手に欠けているわ」
 どっちの航路も、と零したエラ。
 人類の船が多いか、少ないかという点だけの違い。それも、現時点でのデータに基づいたもの。
 状況は変わってゆくかもしれない。人類の方の都合次第で。
 もっと詳しいデータがあったら分かるけれども、今のシャングリラではこれが限界。
 人類軍の暗号通信などは読み解けないから、これ以上のデータは手に入らない。



 船をどちらへ進めるべきか。
 選べなくなってしまった航路。どちらも正しいように見えるし、また間違いのようにも見える。
 けれど、どちらかへ行くしかない。他の航路は、どれも不都合があったから。
 正しい航路はどちらなのか、と皆が考え込んだけれども、出せない答え。キャプテンにも、前の自分にも。エラやブラウやヒルマンたちにも。
 どうするべきか、と時間が流れてゆく中、ゼルが声を上げた。
「そうだ、コインがあった筈だぞ」
 ブルーが奪った物資に紛れていたヤツが…。あれを使えばいいんじゃないか?
「コインだって?」
 何に使うというのだね、とヒルマンが訊いて、前の自分たちも首を傾げたけれど。
「もちろん、航路を決めるのに使う。…今は航路の相談中だぞ」
 コインで決めてた時代というのがあるんだろうが。
 一枚投げて、表か裏か。出て来た方で答えを決めるというヤツだ。
 この船にあった本で読んだぞ、と出された案。
 決められないならコインにしようと、きっとそいつが一番だろうと。
「ああ、あれねえ…!」
 いいんじゃないかい、と賛成したブラウ。
 いくら考えても出ない答えなら、コインに訊くのも悪くないよ、と。



 選べないなら、コインで決める。表か裏かで、船の航路を。
 遠い昔の地球の占い、人類は今もコインを投げているらしい。決めかねた時は。
 それを真似るのもいいのでは、と纏まりかけた所で、ヒルマンが「しかし…」と心配そうに。
「人類ならば、それで問題は無いのだろうが…。我々はミュウだ」
 サイオンが干渉するんじゃないかね、投げたコインに。
 表がいいとか、裏がいいとか…。誰もが無意識に選んでいそうだ、こっちがいい、と。
 そうなればコインに働きかけてしまう、自分の選んだ方が出るように。
 上手く行かないような気がしてならないのだがね、ミュウの場合は。
「だったら、ブルーが投げればいいじゃないか」
 あたしたちよりずっと強いよ、サイオンがね。束になっても敵いやしない。
 ブルーだったら、誰のサイオンにも干渉されずに出来るだろ?
 自分の願望ってヤツも全く入れずに、と返したブラウ。
 ブルーなら出来るに違いないよ、と。
「なるほど…。ブルーならば、というわけか」
 出来そうかね、とヒルマンに尋ねられたから。
「多分…。出来ると思うよ、コインを投げればいいんだね?」
 表か裏か、どちらがいいかは考えないで。
 他のみんながどちらにしたいか選びたい気持ちも、影響を与えないように。
「よし、決まりだな。コインに訊いてみようじゃないか」
 ハーレイ、あれを持って来てくれ、とゼルがニヤリと親指を立てた。
 コインはお前が管理してるし、適当なヤツを一枚選んでやってみよう、と。



 そういうわけで、前のハーレイが保管場所から持って来たコイン。
 どれか一枚を選ぶ代わりに、それが入った箱ごと、全部。
 百枚は優にあっただろうか、あるいはもっと。大きさも色も、様々なものがジャラジャラと。
「どれにするんだい?」
 あたしはコインとしか知らないんだけどね、何か定番があるのかい?
 どうなんだい、とブラウに訊かれたゼルが「俺もだ」と浮かべた苦笑。コインで決めるという所までしか俺は知らないと、ヒルマンはどうか、と。
「私かい? …生憎とそれは知らないねえ…。エラはどうだね?」
「私も、コインで占うとしか…。ずっと昔なら、何かあったかもしれないけれど…」
 今の時代は特に無いんじゃないのかしら。由緒も由来も無いんだから。
 どれもコインだと言うだけでしょ、とエラが言う通り。
 SD体制の時代のコインは、模様にすらも意味が無かった。区別出来ればいいというだけ。
 占いに向いたコインが無いなら、どれでやっても同じことだから…。
「それもブルーが選べばいいんじゃないか?」
 ブルーがいいと思った一枚、それでいいだろ。
 表か裏かでこの先のことを決めるコインだ、選ぶ時にも勘ってヤツだ、と笑ったゼル。
 反対する者はいなかった。コインもブルーが決めるべきだ、と。



 この中から一つ選ぶといい、と前の自分に示された箱。沢山のコイン。
 けれど、コインがピンと来なくて、ただまじまじと見詰めていた。価値が分からなかったから。
 人類の世界でしか意味を持たないコインの価値など、当時は詳しくなかった自分。どのコインで何が買えそうなのかも、それがあれば何が出来るのかも。
 それと気付いたヒルマンが、コインを一種類ずつテーブルに並べて教えてくれた。
 このコインならば、一枚で子供向けの菓子が一個買えるとか。これならば飲み物が一本だとか。
 高額なコインもあったけれども、そういうものより子供でも持てるコインに惹かれた。
 成人検査で失くしてしまった、子供時代の自分の記憶。
 きっとその中で、幼い自分がコインを握っていただろう。お気に入りの菓子を買いに行こうと、小さな手の中にコインが一枚。
 そうでなければ、養父母に「ほら」と握らせて貰って、店員に「はい」と差し出すだとか。
 子供が持てるコインだったら、思い出もきっとあった筈。
 すっかり忘れてしまったけれども、幸せだった頃の思い出。養父母と過ごした温かな日々。
 だから小さなコインを選んだ。子供用の菓子しか買えないコイン。
 銀色に光る小さなコインを一枚、箱の中から。
 同じコインが幾つもある中、目を引いたそれを取り出して。



「じゃあ、これ…」
 これにするよ、と選び出したコイン。テーブルの上にコトリと置いた。
 コインが決まれば、次は表か裏かの問題。それもヒルマンが皆に解説してくれた。模様が目立つ方が表で、数字が目立っている方が裏、と。
 コインで決めたい二つの航路。それをどちらに割り当てるかは、六人で相談して決めた。表ならこっちで、裏ならこっち、と。
 人類の船が少ない方へと向かう航路が、表側。ハーレイが「駄目だ」と言っていた方。
 裏側が出たら、人類の船が今までと変わりなく飛んでいる筈の航路。
 どちらが出ようと、もうこれ以上は迷わない。コインは答えを告げたのだから。
 そう決めた後に、前の自分が投げ上げたコイン。
 ゼルたちに「こうだ」と教えられた通り、指先で弾くようにして。
 会議をしていた部屋の天井に向かって投げたコインは、直ぐに落ちて来て転がった。テーブルの上で暫く回って、パタリと倒れたコインが示した表側。
「表なのか!?」
 あちらへ行くのか、とハーレイが酷く慌てたけれども、「決めたことだよ」と肩を叩いて諫めたヒルマン。そういう決まりになっていたろうと、コインの表が出たのだから、と。
「大丈夫だよ。…輸送船が飛んでいなくても、ぼくがいるから」
 何処かで物資を調達するよ、と前の自分がテーブルの上から拾い上げたコイン。これを貰ってもいいだろうか、と。
「貰うって…。何にするんだい?」
 何の役にも立ちやしないよ、とブラウが目を丸くしていたけれど。
「ちゃんと航路を決めてくれたよ、役に立ったよ」
 もしも航路が正しかったら、これは本当に役に立つから…。
 また迷うようなことがあったら、これに訊いたらいいと思うよ。ただのコインだけど、二つある道をどちらにするかは、決めて貰えるみたいだからね。



 一枚の小さなコインで決まった、シャングリラの航路。
 表が示した方の航路へ前のハーレイは船を進めて、続いていった宇宙の旅。
 人類の船にはまるで出会わず、代わりに輸送船だけが何故か一隻。何処へ向かうのか、山ほどの物資を積み込んで。食料も、他の色々な物も。
 その輸送船から奪った物資で、飢えずに快適な旅が続いた。人類の船には出会わないまま、暗い宇宙を。いつもこういう旅ならいいな、と誰もが感激していたほどに。
「あの時、お前が投げたコインで決めてだな…」
 俺が反対していた航路が、正しかったという結末になっただろう?
 他のヤツらも、あっちに行こうと決められないままでいたのにな。コインの表が出るまでは。
 …なのに、コインは正しい答えを出したんだ。
 子供の菓子しか買えないような、ちっぽけなコインだったくせにな。
「うん…。あのコイン、ぼくが貰って持っていたから…」
 何かって言えば、投げてたね、コイン。
 シャングリラが白い鯨になった後にも、決められないな、っていう時になったら。
 ゼルとかブラウが言い出すんだよ、「これはコインに訊くしかない」って。
 ヒルマンもエラも、「後は神様次第だ」って思っていたから、コインにお任せ。
 前のハーレイも、ぼくもおんなじ。
 ぼくたちの力で決められないなら、神様に決めて貰わなくちゃ、って。



 前の自分が一枚だけ選んだ、銀色をしていた小さなコイン。
 幼かった頃に大切に握り締めていたのと、多分、そっくりだったろうコイン。
 それが選んでくれた航路が正しかったから、その後も色々と質問していた。コインを投げては、どうすべきかと。自分たちはどちらに進むべきかと。
 航路はもちろん、船の中のことも。どちらを選べばいいのだろうかと。
 フィシスがやって来るまでは。
 タロットカードで未来を読み取る、神秘の女神。機械が無から創ったものでも、フィシスの力は本物だった。前の自分が与えたサイオン、それが作用した予知能力。
 ハーレイ以外は誰も知らなかった、フィシスの生まれ。
 だから信用された占い、託宣とまで呼ばれたほどに。
 コインだったら表か裏か、二つしか道は無かったけれど。二つに絞り込まない限りは、コインも答えはしなかったけれど。
 フィシスの方はそうではなかった、曖昧なことを質問されても答えを出せた。
 三つも四つもある道の中から最善の一つを選び出すのも、フィシスにとっては容易いこと。
 コインなどより遥かに優れた、ミュウの未来を読み取れる女神。
 白いシャングリラに幼いフィシスを迎え入れた後は、コインに尋ねることは無かった。
 幼くてもフィシスは未来を読めたし、タロットカードはコインよりも頼りになったから。
 単に答えを示すだけでなく、注意すべきことやアドバイスなども、カードは教えてくれたから。



 けれども、フィシスが船に来るまでの長い年月。
 コインは何度も投げ上げられては、進むべき道を告げていた。表か、裏かで。
 会議の席で「コインに訊こう」という声が出たなら、前の自分が投げ上げていた。データ不足で決めかねた時や、どちらがいいのか判断に困ってしまった時に。
 銀色の小さなコインを一枚、手の中にスッと取り出して。
「お前の部屋にあった筈だぞ、託宣用のコイン」
 一番最初にお前が選んで、持ってったヤツが。…いつでもあれを使っていたしな。
 誰かがコインの出番だと言えば、お前、瞬間移動でヒョイと運んで…。
 今のお前には全く出来ない芸当だよなあ、すっかり不器用になっちまったから。
「うん…。コイン一枚でも、ぼくには無理だよ」
 瞬間移動で運べやしないよ、ほんのちょっぴりの距離でもね。
 あそこの勉強机の上から、このテーブルまででも絶対に無理…。あんなに小さなコインでも。
 青の間に引越した後も、コイン、大切に持っていたっけ…。
 いつでも占いに使えるように、って奥の部屋に。
 小さな引き出しに入れてあったよ、掃除の時に間違って捨ててしまわれないように。
 引き出しの中は、前のぼくしか触らないから…。
 ハーレイはたまに開けていたけど。
「…まあな、お前に頼まれた時には開けてたなあ…」
 あの引き出しに入れてあるから、って色々な物を頼まれたが…。お前が寝込んじまった時とか。
 そういや、コインに気付いたこともあったっけか…。
 此処に入っていたんだな、って見てたんだっけな、ほんの少しの間だけだが。
 お前に頼まれた物を探しに行ったわけだし、それが見付かったら急いで戻って行かないと…。
 だからコインに触っちゃいないな、触ろうとも思いはしなかったが。
 なにしろ神聖なコインだったし…。
 俺たちはいったいどうするべきか、って時に答えをくれてたんだし。



 前のハーレイも触れなかったという、託宣用になっていたコイン。
 元は物資に紛れていただけの、普通のコインだったのに。
 子供が菓子を買える程度の価値しか持たない、銀色をした小さなコイン。銀色なだけで、銀ではなかった。きっと銀など、欠片も入っていなかったろう。
 それでも、コインは皆を確かに導いてくれた。表か裏かで、道を示して。
(…フィシスが来たから、コイン、要らなくなっちゃって…)
 ゼルもブラウも、「コインに訊こう」とは言わなくなった。未来を読める女神がいたから。
 航路や他の様々な問題、それの答えが出なければフィシスに尋ねればいい。フィシスはタロットカードを繰って並べて、読んだ未来を告げるから。答えの他にもアドバイスなどをくれるから。
 フィシスが来たから、用済みになってしまったコイン。
 前の自分が大切に引き出しの中に仕舞って、何度も未来を尋ねたコイン。
 出番が来る度、瞬間移動で運んでキュッと握って。
 ゼルやヒルマンやハーレイたちの前で、天井へと高く投げ上げて。
 あれほど何度も投げていたのに、今日まで忘れ果てていた。
 フィシスを船に迎えた後には、二度と使わなかったから。
 表か裏か、二つに一つの答えだけしかくれないコイン。それよりもずっと役立つ女神が、未来を読み取るフィシスがいたなら、コインに尋ねはしないのだから。



 忘れ去ったままになってしまった、託宣用だった小さなコイン。
 長い年月、あれのお世話になっていたのに。何度も何度も、道を教えてくれていたのに。
(…前のぼく、ご苦労様、って言った…?)
 ちゃんと御礼を言ったのだろうか、忘れ果てる前に。
 青の間の奥にあった小さな引き出し、其処に仕舞ったままにしてしまう前に。
(……自信、ゼロ……)
 手に入れたフィシスにすっかり夢中になっていたから、御礼も忘れていたかもしれない。
 その身に地球を宿した少女。タロットカードで未来を読み取る、神秘の女神。
 暇さえあったらフィシスの許へと行っていたから、コインも忘れてしまったろうか。それまでに何度も助けられたのに、託宣をしてくれていたというのに。
(…ごめんね、忘れちゃっていて…)
 今からでも間に合うだろうか、と心の中で謝った。
 前の自分が忘れたコインに。御礼も言わずに仕舞ったままにしたかもしれない、銀色をしていた小さなコインに。
 「ごめんね」と、そして「ありがとう」と。
 前のぼくは忘れてしまったけれども、こうして思い出したから、と。



 小さくて価値も無かったコイン。子供が菓子を買える程度の、ちっぽけなコイン。
 前の自分が箱の中から一枚選んで、ゼルやヒルマンたちも頼りにしていた。前のハーレイも。
 託宣と言えば、ずっとコインのものだった。フィシスがやって来るまでは。
「あのコイン、どうなっちゃったんだろう…?」
 ぼくも忘れてしまってたんだし、ゼルたちもきっと忘れてたよね…?
 ハーレイだって今まで忘れていたから、引き出しのコイン、誰も回収していないよね…?
「さてなあ…。最後には誰かが見付けただろうが…」
 シャングリラを解体しようって時には、青の間にあった色々な物も運び出してた筈だから…。
 あのままで壊したわけじゃないから、引き出しの中も空にしたろう。
 そういう作業をしに来た誰かが、コインも見付けていたと思うぞ。
 こんな所に一枚あった、と拾い上げた後はどうなったんだか…。
 デカイ船だし、アルテメシアを落とした後には買い物をしていたヤツらもいたし…。
 あちこちにコインが紛れてそうだし、それと一緒になっちまったかもな。
 見付けたコインはこれに入れろ、と袋でもあって、その中にポイと。
 お前の名前が書いてあったら別だったろうが、ただのコインが一枚ではなあ…。
 せいぜい骨董品ってトコだな、前のお前が奪った物資に紛れていたコインは高く売れたし…。
 前の俺はそいつを売り払った金で、船の仲間に小遣いを渡してやれたんだしな。



 白いシャングリラが役目を終えて、トォニィの指示で解体されることになった時。
 色々な物が運び出されていった青の間の奥に、引き出しにコインが一枚だけ。
 多分、ひっそりと何かに紛れて、小さな銀色。本物の銀でさえなかったコイン。
 それを見付けて持って行った者も、トォニィもシドも、誰も気付きはしなかったろう。一枚しか入っていなかったコイン、銀色のコインの正体に。
 ソルジャー・ブルーが何度も何度も未来を尋ねた、託宣用のものだったとは。
 シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃から、船の未来を決めていたコインだったとは。
「消えちゃったね、コイン…」
 なくなっちゃったね、前のぼくが忘れてしまっていたから…。
 ぼくの名前は書いてなくても、袋に入れるとか、箱に入れるとか…。そして説明を書いて一緒に入れれば良かった、何に使ったコインだったか。
 そうしておいたら、コイン、きちんと残っただろうに…。
 行方不明になってしまわずに、何処かに、きっと。
「そうだな…。あのコインの意味が分かっていたヤツがいたなら、ちゃんと残っていたろうな」
 俺の木彫りのウサギみたいに、立派な宇宙遺産になって。
 あんなウサギよりもコインの方が、遥かに凄い宇宙遺産というヤツなんだが…。
 シャングリラの未来を決めていたんだし、それは素晴らしい超一級のコインなんだがなあ…。



 遠く遥かな時の彼方に消えてしまった、小さなコイン。銀色をしていた小さなコイン。
 前の自分が何度も投げては、ミュウの未来を占っていた。表ならこうで、裏ならばこう、と。
 コインが告げた託宣のままに、シャングリラは宇宙を、アルテメシアの雲海を飛んだ。
 白い鯨になるよりも前から、白い鯨になった後にも。
 未来を読み取るミュウの女神が船に来るまでは、フィシスに取って代わられるまでは。
 シャングリラを長く導き続けた、コインは忘れ去られて消えた。
 立派な仕事をしていたのに。
 それがどういう仕事をしたのか、もしも誰かが気付いていたなら、今頃は宇宙遺産だったのに。
「…ぼく、悪いことしちゃったかな…」
 あのコイン、頑張ってくれていたのに。…前のぼくたちを、何度も助けてくれていたのに…。
 前のぼくが忘れてしまっていたから、コイン、何処かに消えちゃった…。
「気にするな。…世の中、そうしたものだってな」
 なんでもかんでも残るってわけじゃないんだし…。
 お前はこうして思い出したし、それでコインも満足だろうさ。
 宇宙遺産になっちまうより、その方が気楽でいいかもしれんぞ。今は自由になったんだから。
 博物館のケースの中より、のびのびと何処かで第二の人生。
 いや、百回目とか、千回目だとか、そういう人生を送っているかもしれないじゃないか。
 もうコインではなくなっちまって、他の何かに生まれ変わって。
「そうかもね…。ぼくたちも、生まれ変わったものね」
 キャプテン・ハーレイでもなくて、ソルジャー・ブルーでもなくて、ただの人間。
 今のぼくたちも、このままだったら忘れ去られておしまいだものね。
 生まれ変わる前は誰だったのか、って話をしないで終わっちゃったら、それっきり…。
 コインと同じで、いつかは忘れられそうだけど…。
 その方が好きに生きていけるし、うんと幸せになれそうだものね…。



 話さなければ誰も知らない、気付かれないままで終わるのだろう自分たち。
 今の時代は伝説になった英雄、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが存在すること。
 前とそっくり同じ姿で、青く蘇った地球に二人で生まれ変わって。
 自分たちの正体を知っている人間は、三人だけ。
 両親と、聖痕現象を起こした時に診てくれた医師しか今も知らない、前の自分たち。
 時の彼方に消えてしまった、あのコインのように誰も気付いてはいない。
(…このまま、ずうっと黙っておいたら、コインみたいに…)
 きっと忘れられ、ただのブルーとハーレイのままで終わるのだろう。
 そんな平凡な人生もいい。
 誰にも知られず、今度は自由に、ハーレイと二人。
(だって、英雄じゃないんだもんね?)
 前の自分は英雄扱いされているけれど、ただ懸命に生きただけ。
 ハーレイと恋をして、幸せに生きたかっただけ。
 それが叶わなかったというだけ、英雄になろうと思ったわけではなかったから。
 前の自分が「じゃあ、これ…」と一枚選んだばかりに、託宣用になったコインと同じ。
 銀色の小さなコインと同じで、歴史の悪戯で偉くなったというだけだから…。




            コインの託宣・了

※フィシスがシャングリラにやって来るまで、託宣を告げていたコイン。表か裏かで。
 船の未来を決めたコインは、ひっそりと忘れ去られて、時の彼方に消えて行ったのです。
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