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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、只今、夏休み真っ最中。キース君たち柔道部三人組は柔道部の合宿、ジョミー君とサム君は璃慕恩院へ修行体験ツアーに出掛けてお留守です。こういう時には、男の子抜きで会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」と遊びに行ったりするんですけど。
「かみお~ん♪ 明日はベリー摘みに行くんだよ!」
「「ベリー摘み?」」
スウェナちゃんと私はオウム返しでしたが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「あのね、ちょっと作ってみたいものがあるから…」
「いろんなベリーが欲しいんだってさ」
だから農場へお出掛けしよう、と会長さん。マザー農場かと思いましたが、それとは別。サイオンを持つ仲間が経営している農場の一つで、ラズベリーだとかブルーベリーだとか。コケモモなんかもあるのだそうで…。
「ぶるぅは、サフトって言ってたかな? 寒い北の国の飲み物を作りたいらしいよ」
「えっとね、夏の太陽がギュッと詰まったベリーで作るのがいいらしいの!」
栄養ドリンクみたいなものかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「柔道部の合宿も璃慕恩院も大変でしょ? だから作ってあげたいな、って!」
「いいわね、自然の栄養なのね」
身体に良さそう、とスウェナちゃん。私も大いに賛成です。サフトとやらは色々なベリーに砂糖を加えて作る保存食と言うか、濃縮シロップと言うべきか。水やソーダで割って飲むためのジュース、お菓子なんかにも使えるのだとか。
「というわけでね、明日はみんなでベリー摘み!」
フィシスも一緒に行くからね、と会長さん。これは楽しくなりそうです。農場はアルテメシアに近くて涼しい山の中らしく、瞬間移動でお出掛け可能。避暑をしながらベリー摘みだなんて、いつもと違って面白そう!



次の日の朝、会長さんの家に行くと、フィシスさんが先に来ていました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はベリーを入れるための籠を人数分用意していて、後は行くだけ。青いサイオンがパアッと溢れて、身体がフワリと浮き上がって…。
「「わあっ!」」
山に囲まれた農場はベリーが一杯、待っていた仲間の人が「お好きなだけ摘んで下さいね」と迎えてくれて、摘み放題。普段はお菓子に飾ってあるのしか見ないような様々なベリーが沢山、せっせと摘んでは持って来た籠へ。
「沢山摘んでね、余った分はお菓子にするから!」
いくらあっても困らないもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言ってくれますから、スウェナちゃんも私も籠に何杯も摘みました。無論、会長さんたちも。ベリー摘みの後は農場主の仲間に昼食を御馳走になって、それから瞬間移動で帰宅で。
「えとえと…。一杯摘んだし、サフト、作るねー!」
まずはベリーを洗って、と…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は山のようなベリーを手早く仕分けて、使う分を洗いに出掛けました。それから計量、分量に合わせた砂糖を計って。
「煮て作る方と、煮込まない方と…。両方やってみたいんだもん!」
どっちも頑張る、とサフト作りの開始です。ベリーを潰して布で濾す方と、お鍋でグツグツ煮ている方と。サフトにしないベリーの方は会長さんとフィシスさんが仲良く保存用の袋に詰めて、傷まないように冷蔵庫へ。あちらはお菓子に姿を変えて近い内に登場するのでしょう。
「甘酸っぱい匂いが一杯ねえ…」
スウェナちゃんが言う通り、家の中はすっかりベリーの匂い。煮込んでいたサフトも、濾していたサフトも砂糖たっぷり、それを消毒した瓶に詰めたら出来上がりです。
「かみお~ん♪ サフト、飲んでみる?」
「「うんっ!」」
「こっちが煮た方、こっちが煮てない方だからね!」
はいどうぞ、と水で割って出されたジュースは宝石みたいに綺麗な真っ赤で、飲んだらベリーの味が爽やか。栄養ドリンクと言うよりも…普通に美味しいジュースですよ?
「そりゃね、パワーアップのためのジュースじゃないからね」
サフトはあくまで身体にいい飲み物、と会長さん。けれどビタミンたっぷり、サフトが生まれた北の国では食卓に欠かせないそうで。
「キースやジョミーたちの慰労会もさ、たまにはこういう飲み物がいいよね」
この夏は健康的に過ごそう! と会長さんもサフトを飲んでいます。今年の夏休みはベリーで作った赤いジュースがセットものかな?



「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作ったサフトは、男の子たちが合宿と璃慕恩院から戻った翌日の慰労会で早速披露されました。夏の太陽がギュッと詰まった、健康的な飲み物として。
「こいつは美味いな、その辺のジュースなんかと違って」
味も深いし、とキース君が褒めると「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大喜びで。
「ベリー、沢山使ったから! 一種類だけってわけじゃないから!」
「なるほどな。…焼き肉パーティーのお供にも、なかなかいける」
「でしょ? おんなじ材料でソースとかも出来るの、肉料理とかの!」
夏のベリーは栄養たっぷり! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースはお盆の用意とかもあるし、サフト、一瓶あげてもいいよ」
「くれるのか?」
「うんっ! 沢山作ったし、持って帰ってお家で飲んでね」
好みの量の水で薄めて飲んでよね、とサフトを詰めた瓶がキース君へのプレゼント用に出て来ました。卒塔婆書きに疲れたら飲んでリフレッシュ、気分も新たに挑んでくれという心遣いで。
「有難い。…正直、麦茶とコーヒーだけではキツイものがな…」
こういう非日常な飲み物があると非常に助かる、と押し頂いているキース君。
「例年、何か飲み物を、と思うわけだが…。買いに行ってる暇があったら卒塔婆を書こう、と思い直して麦茶とコーヒーの日々なんだ」
「じゃあ、ちょうど良かったね!」
足りなくなったらまたあげるね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は気前が良くて、サフトの瓶は確かに沢山。私たちと摘みに行ったベリーの残りはお菓子になるのか、それともサフトが追加になるか。この夏休みは何かと言えばサフトで、キース君もサフトを飲んでお盆を乗り切るのかも…。



華麗に登場したサフト。要はベリーのジュースですけど、有難味を演出しようと「サフト」と呼ぶのがお約束。猛暑でバテそうだからとサフトで、卒塔婆書きに疲れたとサフトをゴックン。マツカ君の山の別荘にお出掛けする時も、向こうで飲もうと瓶を持って行ったくらいです。
そんなサフトが定着する中、八月を迎え、キース君のお盆はいよいよリーチ。今日は棚経にお供するサム君とジョミー君の仕上がり具合のチェックだそうで。
「違う、そいつは其処じゃなくて、だ!」
間違えるくらいなら口パクでもいい、とジョミー君に向かって飛ぶ怒声。
「俺はともかく親父は怖いぞ? それにだ、檀家さんにも失礼だろうが、坊主がお経を間違えるなどは!」
「こんなの覚え切れないよ!」
「覚えるも何も、それが坊主の仕事だろうが!」
次は所作だ、と歩き方などの指導が始まりました。墨染の法衣を着せられた二人をキース君がビシバシしごいて、トドメが自転車。法衣が乱れないよう自転車を漕ぐ練習とやらは、会長さんのマンションの駐車場でやってくるのだそうで。
「ブルー、自転車は借りられるんだな?」
「うん、管理人さんに話はつけてあるしね。言ったらすぐに出してくれるよ、二人分」
「恩に着る。…行くぞ、二人とも!」
さあ練習だ、とキース君はサム君とジョミー君を連れて出て行ってしまい。
「うわー…。早速やっていますよ」
シロエ君が窓から下を見下ろし、私たちも。
「暑そうですねえ…。キースは日陰にいるようですけど」
マツカ君が気の毒そうに呟いたとおり、法衣の二人は炎天下の駐車場を自転車で周回させられていました。キース君はといえば夏の普段着、日陰に立って鬼コーチよろしく叫んでいる様子。
自転車修行を終えた二人はもうバテバテで、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「大丈夫?」と差し出したサフトを一気飲みです。
「あー、生き返ったぜ…」
「ホント、死ぬかと思ったよ~…」
まだ八月の頭なのに、と討ち死にモードの二人のコップにサフトのおかわり。グイグイ飲んで、再びお経の練習だとか。ご苦労様です、頑張って~!



年に一度のお盆の棚経、普段は法衣を忘れ果てているジョミー君たちも二日もしごけば身体が思い出す様子。そうなれば後は当日に向けて英気を養い、のんびりと過ごすわけですが。
「俺の方もやっと終わったぞ…」
今年の卒塔婆が、とキース君。
「後は飛び込みの注文くらいで、地獄って数じゃないからな。…親父め、なんだかんだで今年も多めに押し付けやがって!」
しかし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の方へと向き直ると。
「サフトのお蔭で乗り切れた。…感謝する」
「ホント!? 良かった、やっぱり夏のお日様が詰まったベリーは凄いんだね!」
作って良かったぁ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が跳ねた所へ。
「うん、本当に凄いよね」
「「「は?」」」
振り返った先に、優雅に翻る紫のマント。誰だ、と叫ぶまでもなく分かってしまった、会長さんのそっくりさんが其処に…。
「こんにちは。そのサフトとやら、ぼくにもくれる?」
「かみお~ん♪ ちょっと待っててねー!」
ブラックベリーのムースケーキもどうぞ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がササッと用意を。ソルジャーは真っ赤なサフトをコクリと飲んで。
「うん、飲みやすいね、これ。それに美味しいよ」
「でしょ、でしょ! 今年の夏はサフトで元気に乗り切るの!」
夏バテ知らずで元気にやるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーは「いいねえ…」とサフトを飲みながら。
「夏のお日様のパワーだっけか? これの秘密は」
「そうだよ、お日様たっぷりのベリー!」
「赤って色がまたいいんだよ。ぼくの瞳と同じ色だし、なんともパワーが出そうでねえ…」
如何にもハーレイが漲りそうだ、と妙な台詞が。ハーレイって…まさかキャプテンのこと?
「決まってるじゃないか、サフトを飲んでぼくのハーレイもパワーアップと行きたくってさ」
「無理だから!」
これはビタミンたっぷりなだけの健康飲料、と会長さん。
「栄養ドリンクみたいに見えるけれどね、君が期待するような効果は無いから!」
ただのジュースだ、と言ってますけど、ソルジャー、それで納得してくれるのかな…?



「…効かないのかい?」
君たちを見てると効きそうなのに、とソルジャーは首を捻りました。
「キースはパワーアップして卒塔婆を書いたし、サムとジョミーもバテバテだったのが元気になったし…。ぼくのハーレイがこれを飲んだら、きっと!」
「言っておくけど、他のみんなは普通だから!」
元気が余って仕方がないってわけじゃないから、と会長さんはツンケンと。
「要は気分の問題なんだよ、お日様のパワーが詰まったベリーで健康に、って!」
「えーっ? 分けて貰おうと思って来たのに…」
「欲しいんだったらあげるけどさ…」
でも効かないよ、と念を押す会長さん。
「せいぜい気分転換くらいで、その手の効能は全く無いから! おまけに甘いし!」
「甘いね、確かに」
「君のハーレイ、甘いものは苦手なんだろう?」
「効くんだったら、甘くても喜んで飲むだろうけど…。でも効かないのか…」
困ったな、とソルジャーの口から溜息が。
「なんで困るわけ?」
「ぼくのハーレイに言っちゃったんだよ、凄く効きそうな飲み物を貰って来られそうだよ、って」
「それで?」
「ハーレイも期待しちゃってるんだよ、この夏はパワーアップが出来る、と!」
なんとかならないものだろうか、と尋ねられても困ります。サフトはサフトで、ベリーのジュース。私たちは美味しく飲んで夏を乗り切るつもりですけど、ソルジャーお望みの精力剤とは違うんですから…。
「自業自得だね、帰って潔く謝りたまえ!」
「それはいいけど、パワーアップには、ぼくだって期待してたんだってば!」
サフトさえ貰えれば凄い夏になると思っていたのに、と勘違いについて述べられたって、どうすることも出来ません。サフトはサフトで、ビタミンたっぷりのジュースに過ぎず。
「…ぶるぅがベリー摘みだって言った時から、ワクワクしながら見守ってたのに!」
「材料が何か分かっているなら、効かないことだって分かるだろう!」
「プラスアルファかと思うじゃないか!」
いわゆる真夏の太陽のパワー、と言いたい気持ちは分からないでもないですが。生憎とベリーが真夏のお日様の光を浴びても、妙な変化は起こりませんから!



「…すっごく良く効く、赤い飲み物って言って来ちゃったのに…」
ハーレイも楽しみにしているのに、とソルジャーは零していますけれども、サフトはサフト。ただのベリーのジュースでいいなら「そるじゃぁ・ぶるぅ」も気前よくプレゼントするでしょうけど、効果の方は全くゼロで。
「いっそ手作りで何とかすれば?」
そういうドリンク、と会長さんがサフトをクイと飲みながら。
「ぼくたちもベリー摘みから始めたんだし、君も効きそうな材料を集めて煮込むとか!」
「…スッポンとかかい?」
「赤にこだわるなら、今の季節は赤マムシだねえ…」
あれなら太陽のパワーもあるかも、と会長さんの口から凄い言葉が。
「赤マムシ? …漢方薬の店で売ってはいるけど、あれに太陽のパワーだって?」
「夏はマムシのシーズンだからね」
何処に行っても田舎なら「マムシ注意」の立て看板が、と会長さんは言い放ちました。
「燦々と太陽を浴びたマムシが潜んでいるのが今の季節で、特に水辺の草叢なんかが高確率でマムシ入りかな」
「ふうん…。それで、赤マムシもその中に?」
「レアものだけどね!」
そう簡単にはいないんだけどね、と答える会長さん。
「マムシの中でも赤っぽい個体が赤マムシ! 普通のマムシより効くってことでさ、重宝されているんだけれど…。なかなか見つかりません、ってね」
「その赤マムシを見付けて煮込めば、いい飲み物が出来るのかい?」
「他にも色々、工夫してみれば? 野生のスッポンも今の季節はお日様を浴びているからね」
その辺で甲羅を干しているであろう、という説明。
「後はウナギも川で獲れるし、君の頑張り次第ってことで」
「うーん…。ぼくの手作りサフトになるわけ?」
「サフトという名が正しいかどうかは知らないけどね」
あくまでベリーのジュースとかがサフト、と会長さんは解説を。本場のサフトはベリーに限らず、エルダーフラワーとか色々な材料があるそうですけど、要は草木の実や花が素材。葉っぱや枝を使うものはあっても、動物由来のサフトは無し。
「だけどサフトにこだわりたいなら、ブレンド用に分けてあげてもいいよ?」
ぶるぅ特製のサフトを一瓶、という提案。さて、ソルジャーはどうするでしょう?



「…ブレンドかあ…」
それに赤マムシでスッポンなのか、と考え込んでしまったソルジャー。流石に作りはしないだろう、と誰もが高をくくっていたのに。
「よし! その方向でサフト手作り!」
一瓶分けて、とソルジャーは真顔で「そるじゃぁ・ぶるぅ」に頼みました。
「ぼくの世界で煮込んでみるから、サフトを分けてくれないかな?」
「えとえと…。ブレンドもいいけど、ちゃんとベリーから作ってみない?」
冷凍してあるベリーがあるから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「作るんだったらレシピをあげるよ、お砂糖の量も好きに調整出来るでしょ?」
「でも、ぼくは料理というものは…」
「大丈夫! ベリーをお鍋で煮るだけだから!」
それにスッポンの甘いお料理もあるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言ってビックリ仰天。スッポンの甘煮とか、そういった料理?
「んーとね、甘煮って言うんじゃなくって…。フルーツ煮かな? ライチとかが沢山入って、スープは甘くて赤かったよ?」
サフトほど真っ赤じゃなかったけどね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「そうだよね、ブルー?」
「うん、アレの煮汁はほんのり赤いって感じだったね。まさかスッポンを甘く煮るとは、と驚いたけれど、味は悪くはなかったよ」
案外、果物と相性がいい、と会長さんまでが。中華料理の本場の国へお出掛けした時、現地で食べたらしいです。スッポンの肉のフルーツ煮だとは…。
「なるほどねえ…。スッポンが甘いスープや果物と相性がいいとなったら、赤マムシだってベリーと合うかもしれないねえ…」
それにウナギパイは甘いものだし、とソルジャーは納得したらしく。
「分かった、出来上がったサフトとブレンドするより、ベリーから煮込んで作ることにするよ」
「そっちに決めた? だったら、ベリーは好きなのをどうぞ!」
ブルーベリーでもクランベリーでもコケモモでも、と名前をズラズラ挙げられてもソルジャーに区別がつくわけがなくて。「そるじゃぁ・ぶるぅ」に連れられてキッチンに行って、冷凍庫の中身を覗きながら決めたみたいです。
どうせならあれこれ混ぜるべし、と考えたのか、何種類ものベリーを貰ったソルジャーは。
「それじゃ、頑張って挑戦するよ!」
また来るねー! とパッと姿が消えましたけれど、はてさて、サフトは…?



その日の夕方。今夜は火鍋と洒落込もうか、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が赤いスープと白く濁ったスープを用意し、真ん中に仕切りのある専用鍋も出されて、食事の時間を待つばかり。火鍋はうんと辛いですから、もちろんサフトも出る筈で…。
「お邪魔しまーす!」
「「「!!?」」」
また来たのかい! としか言いようのない、昼間に見た顔。会長さんのそっくりさんが今度は私服で現れて。
「ごめん、ちょっと訊きたいことがあってね」
「どういう用事?」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「スッポンとウナギはゲットしたんだ、どっちもお日様パワーたっぷり!」
「そりゃ良かったねえ…」
「ノルディに訊いたら教えてくれてさ、ウナギのいる川とスッポンのいる池!」
お蔭で真夏の太陽をたっぷりと浴びたスッポンとウナギをゲットなのだ、と得意満面。
「後は赤マムシだけど、ノルディもこれが確実にいる場所を知らなくて…。水辺の草叢って言ってたっけか?」
「その辺が狙い目だと思うけどねえ?」
ついでに今なら獲りやすいのでは、と会長さん。
「マムシは夜行性だし、昼間よりは夜! 君の目だったら夜でも色くらい分かるだろう?」
「それはもちろん! オススメの赤マムシ獲りのスポットは何処?」
「ぼくだって知るわけないだろう! 当たって砕けろで数を当たっていくしかないね」
「やっぱりそうか…。ノルディが無知ってわけじゃなくって」
なら仕方ない、と大きな溜息。
「ぼくは赤い飲み物を早く作らなくっちゃいけないからねえ、行ってくるよ」
美味しそうな火鍋だけれども今日はパス、と瞬間移動でソルジャーは何処かへ消えてしまって。
「…マムシ獲りか…」
火鍋を食うより赤マムシなのか、とキース君が呆れて、シロエ君が。
「スッポンとウナギはゲット済みとか言いましたよね?」
「らしいね、赤マムシが獲れたら本気でベリーと煮込むんだ…?」
なんかコワイ、とジョミー君。サフトはとっても美味しいのですが、ソルジャーが目指すサフトは別物。ウナギにスッポン、赤マムシ。それはサフトと呼ぶのでしょうか…?



赤マムシは無事にゲット出来たらしく、火鍋の席にソルジャーは乱入しませんでした。せいぜい頑張ってサフト作りに励んでくれ、と安堵した私たちですが…。
翌日、例によって会長さんの家で午前中からたむろしていると。
「失敗したーっ!」
一声叫んで、リビングに降って湧いた紫のマントのソルジャーなる人。失敗したって、サフト作りに…?
「ど、どうしよう…。せっかく材料を頑張って集めて、ぶるぅに貰ったベリーもたっぷり入れたのに…。ぼくのシャングリラのクルーも動員してたのに!」
「「「は?」」」
クルーを動員したのに失敗? なんでまた…?
「サフト作りは秘密だからねえ、青の間のキッチンでやることにしたんだけれど…。スッポンだのウナギだの赤マムシだのは、ぼくにはとっても捌けないから…」
その部分だけをクルーにやらせた、という話。ソルジャーの常で厨房のクルーに時間外労働をさせて、記憶は綺麗サッパリ消去。そうやって手に入れたスッポンとウナギと赤マムシの肉をミキサーにかけたと言うから凄いです。
「「「ミ、ミキサー…」」」
「え、だって。肉がとろけるまで煮込んでいたら何日かかるか分からないし…。ミキサーの方が早いってば!」
ドロリとしたのをベリーと混ぜて鍋に入れた、と言うソルジャー。「そるじゃぁ・ぶるぅ」に貰ったレシピを見ながら砂糖も加えて、火にかけたまではいいのですけど。
「目を放したって?」
それは失敗して当然、と会長さん。
「どうせ焦がしたんだろ、煮てた鍋ごと!」
「焦げてないけど…。それに、ぶるぅに「ちゃんと混ぜて」って言っておいたし…」
「「「ぶるぅ?!」」」
あの悪戯小僧の大食漢か、と唖然呆然。そんなのに鍋を混ぜさせておけば、どう考えてもトンデモな結果しか無さそうですけど?
「そういうわけでもないんだよ。食べ物で釣れば、あれで案外、使えるものでさ」
その上、パパとママの役に立つこととなれば! と主張するソルジャー、「パワーアップ用の飲み物を作る」と「ぶるぅ」に教えていたようです。大人の時間のための飲み物と聞いた「ぶるぅ」は、真面目に混ぜると元気に返事をしたらしいですが…。



「だからと言って、丸投げしたら駄目だろう!」
相手は子供だ、と会長さん。
「君がきちんと責任を持ってチェックしなくちゃいけないんだよ!」
「分かってたけど、つい、うっかり…。ハーレイが「それは何ですか?」って訊いて来たから、例の赤い飲み物を作ってるんだ、って答えたら感激されちゃって…」
その場でディープなキスだったのだ、と言うソルジャー。
「普段だったら、ぶるぅが見てたら駄目なくせにさ…。こう、大胆に触って来た上、ファスナーも下ろされちゃってハーレイの手が中に…」
「その先、禁止!」
喋らなくていい、と会長さんがレッドカードを突き付けましたが。
「でもさ、ホントに凄かったんだよ、「ぼくは鍋の番をしなくちゃいけないから」って言っているのに、「それは、ぶるぅで充分でしょう?」って、大きな手で包まれて擦られちゃうとねえ…」
「もういいから!」
とにかく黙れ、とブチ切れそうな会長さんが振り回しているレッドカード。そういえばサフトも赤いんだよね、と現実逃避をしたくなります。
「それでさ、ついつい、ヤリたい気分になっちゃって…。ぶるぅに「ちゃんと混ぜるんだよ」って鍋を任せて、二人でベッドへ」
「それで焦げないわけがないから!」
「焦げてない!」
焦がしてしまったわけではないのだ、とソルジャーはムキになって反論しました。
「ぶるぅはきちんと混ぜてたんだよ、真面目に徹夜で!」
「「「徹夜!?」」」
「そう、徹夜」
キャプテンと熱い大人の時間を過ごしたソルジャー、鍋を火にかけていたことも忘れて朝までグッスリ。目を覚ましてからハッタと気が付き、慌ててキッチンに向かったそうなのですが。
「…それって、いわゆる火事コースだから!」
鍋から火が出るパターンだから、と会長さんが怒鳴り、私たちも揃って「うん、うん」と。火にかけたお鍋を一晩放置って、どう考えても燃えますから!
「ちゃんとぶるぅが見ているんだから、焦げそうになったら火を止めるって!」
「だけど失敗したんだろう?」
ぶるぅは役に立たなかったんだろう、と会長さん。失敗したなら、そうなりますよね?



「…焦げたわけではないんだよ」
そこは本当、とソルジャーは「ぶるぅ」がきちんと役目を果たしたことを強調しました。
「ぼくが行った時にもまだ混ぜていたし、本当にうんと頑張ったんだ」
ソルジャー曰く、徹夜でお鍋を混ぜ続けた「ぶるぅ」はお腹が減ったか、厨房から様々なものを瞬間移動で取り寄せ、食べながら混ぜていたようです。キッチンの床にはお菓子やチーズの包み紙などが幾つも転がり、「ぶるぅ」の頬っぺたには溶けたチョコレートがくっついていたとか。
「ふうん…。君よりよっぽど真面目じゃないか、ぶるぅの方が」
「…そうかもしれない…」
だけどサフトは失敗したのだ、とソルジャーはとても残念そうです。ぶるぅがきちんと混ぜていたのに、何故に失敗?
「…煮詰めすぎたんだよ…」
あれを液体とはもはや呼べない、とソルジャーが嘆く鍋の中身は、赤い飲み物になるサフトではなく、真っ黒なタールのようなもの。何処から見たって飲み物には見えず、強いて言うならペースト状の代物だそうで。
「何と言うか、もう…。飲むんじゃなくってパンに塗るとか、そんな感じになっちゃったんだよ! ぼくの大事なサフトが出来上がる筈だったのに!」
「…なら、塗れば?」
塗れば、と会長さんが顎をしゃくって。
「焦げてないなら、それこそ塗ればいいだろう! 君が自分で言ったとおりにパンに塗るとか、ソース代わりに料理に添えてみるとかさ!」
「…えっ?」
「それで効き目があったら御の字、駄目で元々、試してみれば?」
どんな出来でも材料はサフトだったんだし…、と会長さん。
「スッポンだのウナギだのが入っているのをサフトと呼ぶかどうかはともかく、ベリーや砂糖は入ってるんだし…。それを煮詰めて出来たものなら、焦げていないなら食べられるだろう」
「…そうなのかな?」
どうなんだろう、とソルジャーが首を捻った時。
『助けてーーーっ!!!』
物凄い思念が炸裂しました。小さな子供の絶叫です。頭を殴られたような衝撃を受けて、誰もがクラリとよろめきましたが。…今の思念って「そるじゃぁ・ぶるぅ」じゃないですよね?



何事なのか、と部屋を見回した私たち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の目も真ん丸です。やっぱり「そるじゃぁ・ぶるぅ」の思念じゃなかったのか、と思った所へ。
『たーすーけーてーーーっ!!!』
誰か助けて、とまたも思念が。しかも「死ぬ」とか「殺される」だとか、穏やかではない内容です。ガンガンと響く思念ですけど、このマンションに住んでいる筈の仲間たちの反応がありません。これだけ響けば、普通は誰かが「どうしたんだ!?」と騒ぎ出す筈で。
「「「も、もしかして…」」」
この凄まじい思念は私たちにしか届いていないということでしょうか? この部屋限定で響き渡って、救助を求めているのだとか…?
「こ、この思念って…」
ジョミー君が目を白黒とさせて、キース君が。
「ぶるぅか、あっちの世界の方の?」
「でも、助けてって叫んでますよ?」
あの「ぶるぅ」が、とシロエ君。
「しかも本気で死にそうですけど、そういうことって有り得ますか? あのぶるぅが?」
「シャングリラの危機…じゃなさそうだよね?」
それならブルーが反応するし、とジョミー君の視線がソルジャーに。そのソルジャーも事態が飲み込めていないみたいで。
「な、なんで助けてって言ってるんだろ?」
「ぼくが知るわけないだろう!」
ぶるぅの保護者は君なんだろう、と会長さんが眉を吊り上げ、「助けて」の声は今や悲鳴に変わっていました。キャーキャー、ギャーギャーと只事ではない雰囲気です。
「どう考えてもこれは普通じゃなさそうだから! 早く帰って!」
「…そ、そうする…」
サフトの件はまた今度、とソルジャーの姿がパッと消え失せ、それと同時に「ぶるぅ」の悲鳴もパタッと聞こえなくなりました。
「…ブルー宛のメッセージだったのかな、あれ?」
ジョミー君が顎に手を当て、サム君が。
「そうじゃねえのか、止んじまったし…。でもよ、ぶるぅに何があったんだ?」
「「「さあ…?」」」
それが分かれば苦労はしない、と誰の考えも同じでした。「助けて」で「死ぬ」で「殺される」。あまつさえ最後はキャーキャー、ギャーギャー、悪戯小僧に何があったと…?



「オオカミ少年って言うヤツなのかな?」
いわゆる悪戯、と会長さんが述べた意見に、私たちは「それっぽいか」と頷くことに。「ぶるぅ」だったら空間を超えて「殺される」という偽メッセージだって送れるでしょう。
「…一晩中、鍋を混ぜさせられたんだったな?」
多分そいつの腹いせだろう、とキース君も。ソルジャーとキャプテンはベッドで楽しく過ごしていたのに、「ぶるぅ」は食事も与えられずに自己調達しつつ、お鍋の番。徹夜で頑張って混ぜ続けた挙句、失敗作だと言われてしまえば仕返しの一つもしたくなるかも…。
「傍迷惑ねえ、死ぬだの殺されるだのってビックリするわよ」
スウェナちゃんが頭を振り振り、言ったのですけど。…オオカミ少年だったにしては、あれから時間が経ちすぎてませんか?
「そういえば…。ブルーだったらガツンと殴って戻りそうな気も…」
会長さんが眺めるテーブルの上には、私たちが食べかけていた甘夏のシフォンケーキのお皿や、お馴染みになったサフトが入ったコップ。ソルジャーの分はまだ用意されておらず、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出しそびれたままになっています。
「…甘夏のシフォンケーキが好みじゃないってことはない筈…」
「うん、前にも出したけど、おかわりしてたよ?」
好きな筈だよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「…好物を食べに戻って来ないって…。ブルーなら絶対に有り得ないんだけど…」
「まずないな。ついでに午前中に湧いて出たなら、昼飯を食って帰るのが基本の筈だが」
平日の場合、とキース君が指差すカレンダーの今日の日付は見事に平日。つまり、オオカミ少年な「ぶるぅ」を一発殴って、おやつと昼食を食べに戻るのが普通なわけで…。
「…まさか、ホントにシャングリラが危なかったとか…?」
会長さんの声が震えましたが、マツカ君が。
「それだけは無いと思います。ぶるぅがあれほど絶叫するなら、それよりも先に戻る筈です」
確か思念で常に様子を見ている筈です、と冷静な指摘。言われてみればそうでした。こっちの世界でのんびり別荘ライフを楽しんだりする時は「ぶるぅ」までが留守。そんな時でもシャングリラを放って来られる理由は、ソルジャーが監視しているからで…。
「じゃあ、何が…?」
「サッパリ分からん…」
俺が知るか、というキース君の言葉は全員に共通、これは放置しかないですね…。



そうやって思考を放棄してしまった、「ぶるぅ」の「助けて」「殺される」事件。すっかり綺麗に忘れ去ってから三日ほどが経ち、いよいよお盆も迫って来た頃。
「こんにちはーっ!」
明るい声が会長さんの家のリビングに響いて、紫のマントのソルジャーが。
「あっ、今日のおやつも美味しそう! それと、サフトも!」
よろしく、とソファに腰掛けたソルジャーの姿に、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がパタパタとグレープフルーツと蜂蜜のタルトを切り分け、真っ赤なサフトも運んで来て。
「えとえと…。ぶるぅ、元気にしてる?」
「それはもう!」
おやつも食事も食べ放題で幸せ一杯、とソルジャーは笑顔。
「ぶるぅのお蔭でぼくは天国、ぼくのハーレイも天国ってね! 食事もおやつも御礼にドカンとあげなきゃ駄目だろ、死にそうな目にも遭ったんだしさ」
「本当に死にそうだったわけ!?」
会長さんの声が引っくり返って、私たちも唾をゴクリと飲み込む羽目に。あの日、「ぶるぅ」に何があったと…?
「話せば長くなるんだけどねえ、ぶるぅが徹夜で煮詰めたサフト! ぼくがこっちに来てしまった後、ぶるぅはハーレイに食べさせたんだよ。新作のジャムを作ったから、って」
「「「し、新作…」」」
悪戯小僧な「ぶるぅ」の新作。食べればロクな結果になりそうもなくて、さりとて食べねば悪戯されるに間違いなくて。キャプテンの心境はドン底だったに違いありません。
「そりゃね、ハーレイもぶるぅの怖さは知っているしね…。だけどトーストに塗り付けて渡されちゃったら仕方ない。見かけの割にやたら甘いな、と思いながら食べたらしいんだけど…」
「「「らしいんだけど…?」」」
「直後に、身体に漲る活力! もはやヤるしかない勢いで! だけど肝心のぼくがいなくて…。最初は堪えていたみたいだけど、何処かでプツンと理性が切れてさ」
これもブルーの一種なのだ、とばかりにキャプテンは「ぶるぅ」を青の間のベッドに放り投げた上、服を毟りに掛かった次第。それって、つまり…。
「そうさ、ぶるぅとヤろうとしたのさ、ハーレイは!」
「「「うわー…」」」
それは「助けて」で「死ぬ」であろうと、「殺される」と叫んだ挙句にキャーキャー、ギャーギャーになるであろうと顔面蒼白。ソルジャーのサフト、効きすぎですって…。



ソルジャーが慌てて戻った時には、真っ裸に剥かれた「ぶるぅ」の身体に素っ裸のキャプテンが圧し掛かろうとしていた所だったとか。
「流石のぼくも頭が真っ白になったけれどね、何が起こったか分かったらもう、嬉しくて! 直ぐにぶるぅを床に投げ飛ばして、代わりにベッドに!」
それからはもう天国目指してまっしぐら…、と満足そうな顔のソルジャーはキャプテンと心ゆくまでヤリまくった末に、例のサフトを愛用する日々。
「毎日、トーストを焼いてあげてね、それにサフトをたっぷりと! そうすれば、もう!」
疲れ知らずのハーレイと朝までガンガン、とソルジャーはそれは嬉しそうで。
「お盆が済んだら、マツカの海の別荘だろう? ぼくたちはもちろん、サフト持参で!」
そして毎日が天国なのだ、と言うソルジャーがキャプテンと共に部屋に籠りそうなことが容易に想像出来ました。凄いサフトを作った「ぶるぅ」は御馳走三昧で過ごすのでしょう。
「君たちがサフトを飲んでたお蔭で、ぼくたちも充実の夏なんだよ!」
太陽のパワーを集めた飲み物はやっぱり凄い、と褒めまくっているソルジャーですけど。サフトってそういうものだったでしょうか、ただのベリーのジュースなのでは…。
「…サフトが間違っている気がするんだが…」
あれは俺の卒塔婆書きの友でリフレッシュ用の飲み物なんだが、とキース君。その認識で間違っていないと思います。けれど何故だか出来てしまった、まるで別物のカッ飛んだサフト。夏の別荘が荒れませんよう、神様、よろしくお願いします~!




           太陽の飲み物・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 夏に美味しい、ベリーのサフト。本来はスウェーデンの家庭で作られる飲み物です。
 効きそうだからとソルジャーが作ったサフトは、失敗作が転じて、凄い代物に…。
 シャングリラ学園、11月8日に番外編の連載開始から10周年の記念日を迎えました。
 ついに10年に届いたというのが、我ながら、もうビックリですね。
 次回は 「第3月曜」 12月17日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、11月は、スッポンタケの戒名が消せるかどうかが問題で…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv









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 「弘法筆を選ばず」。
 ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。
 筆っていうのはアレだよね、ってピンと来たけど。動物の毛とかで出来ているヤツで、書くには墨を使うもの。文字を書く筆はレトロだけれども、今もきちんと存在してる。
(前のぼくたちが生きてた頃には無かったけれど…)
 絵を描くための筆はあっても、字を書く筆は何処にも無かった。そういう文化が無かったから。だけど今では復活している、筆で字を書くという文化。書道家なんて人だっている。
 今の時代に筆と言ったら、絵筆ではなくて文字を書く方。「筆を選ばず」もそれだと思う。
(でも、弘法って…?)
 なんのことだか分からない。筆の一種で「弘法筆」っていうのがあるんだろうか、とハーレイの字を眺めていたら、「どうだ、分かるか?」っていう声がして。
 始まったハーレイお得意の雑談、居眠りそうな生徒もガバッと起きちゃう。面白かったり、他の学校の友達とかに披露したくなったり、そういう中身が詰まっているから。



 「弘法筆を選ばず」は、SD体制が始まるよりもずっと昔の日本のことわざなんだって。弘法は偉いお坊さんのことで、死んじゃった後も弘法大師って呼ばれて大勢の信者さんがいたくらい。
 そのお坊さんは字がとても上手で、三筆っていう字の上手い三人に数えられたほど。綺麗な字を書くには立派な筆が要るんじゃないか、って思っちゃうけど、そうじゃない。弘法大師ほどの人になったら、どんな筆でも上手に書いちゃう、立派な文字をスラスラと書く。
 それが「弘法筆を選ばず」、名人は道具を選ばない。文字を書く人も、彫刻なんかをする人も。名人は何でも使いこなせる、安物の筆でも、くたびれちゃった筆でも。
 名人だったら、同じ道具でも立派な文字やら、工芸品やらを仕上げるから。それでこその名人、本当に優れた腕を持つ人は、何を渡されても人並み以上の技を発揮するものだから。
 自分の字とかが下手くそなことを、道具のせいにしちゃ駄目だ、って。もっと練習したら見事な字が書けるんだし、練習不足なだけなんだから、って。



 クラスのみんなは目を輝かせて聞いていたけれど。
 今日も楽しい話を聞けたと、勉強になったとノートに書く子もいたけれど。ぼくはノートに書くよりも前に、他の方に頭が行っちゃった。肝心要の弘法大師の方じゃなくって、筆の方。
(…ハーレイ、羽根ペン、使えてるかな?)
 夏休みの終わりが其処に見えてた、まだ暑かった八月の二十八日。その日がハーレイの誕生日。
 前のハーレイが愛用していた羽根ペン、今のハーレイは持っていなかったから。前のハーレイの記憶が戻って「欲しい気もする」とは言っていたけど、買うとは言っていなかったから。
 誕生日に羽根ペンを贈ろうと思った、前のハーレイのと似た羽根ペンを。航宙日誌を書いていたような、白い羽根ペンをプレゼントしようと。
 だけどお小遣いの一ヶ月分では無理だった羽根ペン、子供のぼくには高すぎた。それでも諦めることは出来なくて、悩んでいたら助け舟。ハーレイと二人で買うことになった、白い羽根ペンを。ぼくとハーレイ、二人のお金で。
(殆どハーレイが出したんだけど…)
 それでも羽根ペンは無事に贈れた、ハーレイは白い羽根ペンを持っているんだけれど。
 気になってしまった、ほんのちょっぴり。「弘法筆を選ばず」と聞いて。
 ハーレイはあの羽根ペンでスラスラと書いているんだろうか?
 羽根ペンの箱には色々なペン先が入っていたけど、どれを使っても楽々と書くのか、これ以外は駄目だというのがあるのか。
 筆ならぬペン先を選んでいるのか、選ばないのか、気になってしまう。ハーレイの場合はどっちだろうかと、名人は選ばないんだけれど、と。



 ハーレイの授業はまだ続いたから、その内に忘れてしまった、ぼく。授業の中身の方が大切。
 学校を出る時もすっかり忘れていたんだけれども、家に帰って、庭に入ったら思い出した。前にこの庭で拾ったっけ、って。
 ぼくの羽根ペン、鳩の羽根。見付けて拾った大きめの羽根、それを大切に持っていた。羽根ペン気取りで、ハーレイとお揃いになった気分で。
 文字を書こうと頑張っていたら、折れちゃったけれど。力を入れすぎて折れてしまって、それでおしまい。泣く泣く屑籠に捨てるしかなくて、あれっきり手に入らないけれど。
 羽根ペンだっけ、って考えた途端、頭に浮かんだハーレイの雑談。それから羽根ペン。
(ハーレイの羽根ペン…)
 使えてるかどうか、やっぱり気になる。それまでのペンと全く同じに使えているのか、ペン先を選んでいるのかどうかも。
 ダイニングでおやつを食べる間も、部屋に帰っても、ぼくの頭から消えない羽根ペン。白い羽根ペン、ハーレイと二人で買った誕生日プレゼント。



 あの羽根ペンはどうなったのかな、と勉強机に頬杖をついて考えていたら、チャイムの音。
 仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせで話せる時間が出来たから。早速訊こうと口を開いた、羽根ペンのこと。
「あのね…。ハーレイ、筆を選ぶ?」
「はあ?」
 なんのことだ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。きっと雑談のことは忘れているから。
「今日の雑談だよ、ぼくのクラスの。…弘法筆を選ばず、って話してたでしょ?」
 名人は道具を選ばない、って。筆でも、何でも。
「ああ、あれな。…あれがどうかしたか?」
「ハーレイはどうなのかな、と思ったから…。ハーレイの羽根ペン、どんな感じ?」
 いろんなペン先がセットだったけど、どれでもスラスラ書けちゃうの?
 それとも筆を選ぶみたいに、これでしか上手く書けないっていうのがあったりする?
「…そう来たか…。あの雑談で俺の羽根ペンを思い出したか、参ったな」
 藪蛇だとは言わないが…。
 「弘法筆を選ばず」と自分で喋ったからには、言い訳みたいになっちまうんだが…。
 あの羽根ペンなあ…。



 少し違うんだ、ってハーレイは困ったような笑顔になった。
 ちゃんと書けるけど、何処か違うって。
「…どういう意味?」
 何が違うの、ハーレイがそれまで使ってたペンと違う気がするの?
「いや、そうじゃなくて…。それまでのペンとは違っていたって当たり前だろ?」
 なにしろ羽根ペンだ、ペンの軸が羽根で出来ている分、重さからして違うしな。頼りないくらい軽い気がしたし、使い勝手がまるで違った。それにインクもペンの中から出ては来ないし…。
 慣れるまでに多少時間はかかるさ、それだけ違ったペンとなればな。
 しかしだ、前の俺は羽根ペンを使ってたんだし、じきに慣れると思ってた。こいつが俺の愛用品だと、これで書くのが一番だと。
 実際、今じゃ気に入っているし、あれで書くのが好きなんだが…。
 どうも何処かが違うんだ。前の俺のと、前の俺が使っていた羽根ペンの書き心地と。



 あれこれ試してみたんだが…、ってフウと溜息をついたハーレイ。
 羽根ペンの箱にセットされてたペン先を色々と取り替えてみては、次々に試したらしいけど。
 きっとどれかが手に馴染む筈だと書いてみたけれど、前のハーレイの羽根ペンとは違うって気がして、違和感が消えてくれないんだって。どれで書いても、いくら書いても。
「弘法筆を選ばず、って…。ハーレイ、自分で言ったんだよ?」
 前のハーレイ、羽根ペンで書くのが得意だったと思うんだけど…。今は駄目なの、あれは違うと言うんだったら、ハーレイ、筆を選んでいるよね?
「だから、書けるとは言ってるだろうが」
 字が書けないとは言っていないぞ、下手な字になるとも言ってない。
 最初の間は慣れてないから、力加減が上手くいかなくて歪んじまった字だってあるが…。それは誰でも経験するだろ、よほどの名人ならばともかく。
 俺はあの羽根ペンが悪いと言いはしないし、そのせいで字が下手になったと文句も言わん。俺の字は今も昔も同じで、羽根ペンで書こうが、それまでのペンを使って書こうが、変わらないぞ。



 もう羽根ペンには慣れているから、字は書ける、って。
 どのペン先をセットしたって、文字の太さや硬さが変わる程度で、ハーレイが書きたいと思った通りの字がスラスラと書けるらしいんだけど…。
「しかし何処かが違うんだよなあ…。前の俺のペンと」
 あの羽根ペンとは違っているんだ、どのペン先をつけてみたって。
 前のと全く同じにはならん、俺のじゃないって気がするんだよなあ…。前の俺と羽根ペンの長い付き合い、今の俺と今の羽根ペンとの付き合いとは比較にならないからな。
「書き心地が違うって言っていたよね、ペンそのものじゃなくってペン先だよね?」
 字を書く時の感じだったら、ペン先が違うっていう意味だよね…?
 前のハーレイが使ってた羽根ペンと今の羽根ペン、ペン先が違っているってこと…?
「どうやら、そういうことらしいな」
 選んじゃいかんとは思うんだがなあ、「弘法筆を選ばず」だしな。
 前の俺が使っていたペン先がいい、なんていうのは俺の我儘ってヤツなわけだし…。



 だが…、とハーレイが教えてくれた話。ペン先についての、お得意の雑学。
 前のぼくたちが生きてた時代も、今の時代も、ペン先はとても丈夫に出来ているけれど。ペンと一緒について来たものは、簡単に駄目にはならないけれど。
 ずうっと昔は、ペン先といえば消耗品。すぐに潰れて買い替えるもの。ペンをよく使う人なんかだと纏め買いをしていたくらいに、ペン先の寿命は短かったみたい。
 そういう時代に、自分好みの線が書けるよう、ペン先を工夫していた人たちがいた。ペンで絵を描く漫画家さんたち。同じペンでも、描きたい絵柄は人それぞれだし、その絵に似合ったペン先で描こうと、使い始める前にひと工夫。どうやっていたかは、人によって違う。
 それに、ペン先についてる切れ込みの長さ。ほんのちょっぴり、人間の目では分からないほどの僅かな長さの違いで、書ける線が変わってしまったりもした。
 字を書く人たちは全く気付かなかったらしいけど、絵を描く人たちは気が付いた。前と違うと、このペン先では前のような絵が描けないと。
 それくらいに凄い、人間の手が持っている感覚。僅かな違いも見抜いてしまった、ペン先の方が違うのだと。自分の技術は前と全く変わらないのに、ペン先のせいで腕前を発揮出来ないと。



 そういう話を聞いてしまったら、ハーレイのペン先が違うというのも分かる気がする。
 「弘法筆を選ばず」だけれど、やっぱり筆も大切だよね、って。ハーレイの場合は筆と違って、ペン先ってことになるんだけれど。
 そうしたら…。
「俺は選んでもいいと思うんだよなあ…。筆ってヤツを」
 実際、選んでいたんだしな。弘法筆を選ばず、なんて言われているのに。
「え?」
 誰が選んでたの、何の名人?
 ハーレイが言ってた、ずっと昔の凄く有名な漫画家さんとか…?
「漫画家どころか、本家本元だ」
 弘法大師だ、「弘法筆を選ばず」の弘法大師が筆を選んでいたって言うなあ…。



 あの雑談にはオマケがあった。ハーレイが授業で話していなかっただけで。
 実は本物の弘法大師は選ばないどころか、選んでた。筆というものを。
 授業で聞いた、三筆って人。弘法大師が生きた時代の、字が上手だった三人の人。弘法大師と、嵯峨天皇と、橘逸勢っていう人たち。
 その中の一人、嵯峨天皇に弘法大師が四本の筆を贈ったけれど。その時の言葉は、こうだった。この四本の筆を書体に合わせて使い分けて下さい、と。
 書きたい文字に合わせて筆を変えろとアドバイス。ちゃんと記録に残ってる。
 つまり、弘法大師も本当の所は筆を選んでいたってこと。「弘法筆を選ばず」どころか、反対に筆を選んでた。字の名人にだってアドバイスしてた、「筆を選んで下さいね」って。



「…じゃあ、あのことわざはどうなっちゃうの?」
 弘法大師が筆を選んでいたなら、「弘法筆を選ばず」は間違いってことになるんだけれど…。
「史実とは違うってことになるなあ、記録にあるのは逆のことだからな」
 しかし、ことわざは立派に出来ちまったんだし、後の時代の人たちはそっちの意味で使ったわけだし、頭から駄目だと言うことも出来ん。
 これはなんとも難しいなあ、間違っています、と訂正しようにも「弘法筆を選ばず」と書かれた文章ってヤツは膨大な量があるからな。そいつを端から直していったら凄い手間だし、文章だって書いた人の持ち味が無くなっちまうし…。
 放っておくしかないんだろうなあ、「弘法筆を選ばず」はな。



 弘法大師がやっていたのとは逆のことわざが出来ちゃったらしい、「筆を選ばず」。一人歩きをしちゃった言葉。弘法大師は選んでいたのに、「弘法筆を選ばず」って。
 弘法大師でも筆を選んでいたなら、ハーレイも筆を選んで良さそうだけど。筆じゃなくってペン先だけれど、ハーレイの手にしっくりと馴染むペン先を選べそうだけど…。
「ハーレイ、あの羽根ペンにセットしてあったペン先が違うと言うんだったら…」
 前のハーレイのペン先は無いの、前のハーレイが使っていたヤツ。
「…前の俺?」
 あれか、キャプテン・ハーレイが使っていたペン先のことか?
「うん。あれの復刻版とかは?」
 それを買ったらピッタリじゃないの、同じペン先なんだから。復刻版なら、きっと同じに作ってあると思うよ、それこそ切れ込みの長さまで。うんとこだわって、本物そっくり。
 ちょっと高いかもしれないけれども、買ってみる価値はあると思うな。
「おいおい、そんなのがあると思うのか?」
 キャプテン・ハーレイ愛用のペン先なんかが、売られていると思っているのか?
 あるとしたらだ、少々値段が高くなろうが、羽根ペンとセットで売りそうだがな…?



 羽根ペンの売り場でそいつを見たか、って訊かれたら…。
 ハーレイに羽根ペンを贈ろうと思って出掛けた時には見ていない。もしもあったなら、そっちにしたくてショーケースの中を見詰めていたに違いないから。
 ぼくの予算より遥かに高くて手が出なくっても、「これがハーレイの羽根ペンなんだ」って。
「…そういえば、売り場では見なかったけど…」
 キャプテン・ハーレイと言えば羽根ペンなんだ、って凄く有名な話だよ?
 航宙日誌は羽根ペンで書かれていたって話も有名なんだし、ハーレイの羽根ペン、復刻版とかがありそうだけど…。売り場に並べるほどじゃなくても、取り寄せとかで。
「生憎とそいつは存在しないな、俺はとっくに調べたってな」
 羽根ペンが欲しい気分になってきた時に、そいつを一番に探したんだ。
 どうせ買うならキャプテン・ハーレイの羽根ペンがいいだろ、高くついても前の俺のをそっくり再現してあるヤツが。しかし何処にも無かったってな、キャプテン・ハーレイの羽根ペンはな。
「…なんで無いわけ?」
 シャングリラの食器の復刻版とかは売られてるんだよ、ソルジャー専用のヤツ以外のも。食堂で普段に使っていたのも、ちゃんと復刻版が売られているのに…。
「分かっているのか、俺の羽根ペンだぞ?」
 正確に言えば前の俺だが、俺が使っていた羽根ペンなんだぞ、そこを冷静に考えてみろよ?
 ソルジャー・ブルーやジョミーたちとは全く違うぞ、人気の高さというヤツがな。



 何処にニーズがあると言うんだ、って苦笑された。
 ただでもレトロな文具の羽根ペン、そういったものが好きな人しか買わないアイテム。その上、キャプテン・ハーレイの羽根ペンの復刻版だと、ハードルが二重に高いって。
「俺ですら、羽根ペンを買うかどうかで躊躇ったんだぞ」
 キャプテン・ハーレイの生まれ変わりで同じ記憶を持っていてさえ、暫く悩んでいたってな。
 高いし、買っても使いこなせる自信が無かったし…。
 お前がプレゼントしたいと言ってくれなきゃ、未だに買わずにいたかもしれん。売り場を何度も覗きに行っては、もう少し考えてからにするかと回れ右してな。
「そうだったっけね…」
 ハーレイでも買うまでに時間がかかったんだものね、普通の人だともっと悩むかも…。
 キャプテン・ハーレイを好きな人がいても、羽根ペンは安くはないんだし…。
 せっかく買っても持ち歩けるタイプのペンとは違うし、やっぱりハードル高そうかなあ…。



 復刻版は出ていないらしい、キャプテン・ハーレイの白い羽根ペン。
 実際、キャプテン・ハーレイ愛用の羽根ペンが飛ぶように売れるとは思えない。シャングリラの食堂の食器だったら実用的だけど、羽根ペンの方はそうじゃないから。
 それに食器はシャングリラに乗った気分になれるし、あの船に乗ってた誰が好きでも、その人と一緒に食事な気分。ソルジャー専用の食器はあっても、ソルジャーが食堂の食器を使わなかったということはないし、前のぼくもジョミーも使ってた。トォニィだって、きっと。
 だけど、キャプテン・ハーレイの羽根ペンは違う。それを買ってもキャプテン・ハーレイにしか思いを馳せられはしなくて、しかも部屋に居る時のハーレイ限定、ブリッジじゃない。ハーレイはブリッジに羽根ペンを持っては行かなかったから。
 キャプテン・ハーレイのファンが買うにも、羽根ペンはちょっぴり厳しそう。羽根ペンよりかはシャングリラの舵輪をあしらったレターセットだとか、そういう物が喜ばれそう。
 でも…。



「ハーレイの羽根ペン、データは残っていないのかな?」
 どんなペン先がついていたとか、そのペン先は何処で作ったものだったとか…。
「そいつは分からん」
 俺もそこまでは調べていないし、どうなんだか…。前の俺の羽根ペン、歴史的な価値があるとも思えん代物だしなあ…。
「価値はどうだか知らないけれど…。トォニィは前のぼくたちの部屋を残していたよ?」
 ハーレイとお揃いで持ってるシャングリラの写真集にも、前のハーレイの部屋が載ってるし…。あの部屋の机に羽根ペンがちゃんと置いてあるから、羽根ペンは最後まであったんだよ。
 トォニィがシャングリラの解体を決めるまで、羽根ペンは残っていた筈だから…。キャプテンの部屋に置かれていたんだろうから、データ、あるかもしれないね。ペン先の分も。
「そうだな、シャングリラの資料を端から引っくり返せばな」
 誰かが記録していたかもしれん、すっかり平和になった時代に。シャングリラの全てを記録しておこうと、あんなペン先に至るまでな。
「…データがあるなら、復刻版を作ってくれればいいのに…」
「そいつは些か難しそうだな、今に至るまで一度も作られていないんだからな」
 さっきも言ったろ、キャプテン・ハーレイの羽根ペンはハードルが二重に高いと。
 商品を作るからには売れないと駄目だし、あまり売れそうにない羽根ペンではなあ…。



 それにペン先は自分で工夫していたものだし、と言うハーレイ。
 ずっと昔のことだけれども。
 なのに全く工夫もしないで、自分に合ったペン先が欲しいと考える方が我儘だろう、って。
 ハーレイに聞いた替えのペン先を纏め買いしていた時代もそうだし、その前の時代は…。
「羽根ペンって、鳥の羽根のままだったの?」
 ペン先がくっついていたわけじゃなくって、羽根のままなの…?
「うむ。羽根の先を切って使っていたんだ」
 そいつをインクに浸してやればだ、ストローと同じで羽根の空洞がインクを吸うし…。
 中にインクが入っている間はスラスラと書ける仕組みだな。そう沢山は入ってくれないが。



 羽根ペンの仕組み、ぼくの推理は当たってた。
 庭で拾った鳩の羽根で気取ったぼくの羽根ペン、あれを使っていた頃の推理。
 羽根ペンの始まりは鳥の羽根をそのまま使うんだろうと、先っぽを切って書いたんだろうと。
 そう思ったから、鳩の羽根でも充分に羽根ペン、ぼく専用だと大事にしてた。先っぽを切ったら失敗した時にもったいないから、切らずに書いていたけれど。尖った羽根の先でせっせと。
 それでもポキリと折れてしまって、もう羽根ペンは無いんだけれど。
 本物の羽根ペンは、あの頃にぼくが考えた通り、羽根の先を切って書くものだった。切った先を丈夫にするために軽く焼いたりもした。
 そういう時代が過ぎた後には、ペン先の時代がやって来た。今みたいに丈夫なペン先と違って、纏め買いしてた消耗品。ペンを使って絵を描く人たちがペン先に工夫をしていた時代。
 羽根の先を切って書いてた時代も、消耗品だったペン先の時代も、使いやすいよう、人は色々と工夫を重ねて来たんだから。
 羽根の切り口を軽く焼いたり、自分の好みの線が描けるようペン先を工夫してみたり…。
 そんな時代が幾つも幾つも重なった後に、今のハーレイのペン先がある。前のハーレイが使ったペンとは違ったペン先、書き心地が違うらしいペン先。



「俺が思うに、今の俺のペン先も、時代に合ったヤツなんだろう」
 時代に合わせて進化して来て、今の時代ならこれがピッタリのペン先ですよ、ということだな。
 俺には違和感のあるペン先でも、他の人たちは何も思わん。
 むしろ書きやすいと思うんじゃないか、このペン先は素晴らしいとな。
「そうなの?」
 ハーレイにはピンと来ないヤツでも、他の人が使えば素敵なの?
 どれも書き心地のいいヤツばかりで、もっと他のがいいなんてことは思いもしなくて。
「多分な」
 そうでなければ、あのペン先がセットになってはいないだろう。
 羽根ペンのセットを売り出す前には色々とデータを集めた筈だぞ、どんなペン先がいいのかを。
 沢山の人にアンケートをしたり、実際に書いて試して貰ったり…。
 そうやって発売された自信作なわけだな、あの羽根ペンとセットのペン先たちは。誰が書いても手に馴染むヤツで、書き心地も多分、最高だろうな。



 俺の手が時代遅れなんだ、って笑ったハーレイ。
 キャプテン・ハーレイの時代からもペン先は進化を重ねて、今の時代はあのペン先だ、って。
 書き心地もきっと今風なんだ、って、最先端だ、っておどけるけれど。キャプテン・ハーレイも驚く最新の羽根ペンなんだ、って笑っているけど、ハーレイは少し寂しそうで。
 時代遅れだと笑う瞳の奥にちょっぴり、昔を懐かしむ光があって。
 それがハーレイの本心なんだ、って分かるから。
 本当は前のハーレイと同じペンが欲しくて、それで書きたいんだと思うから…。



「ハーレイの羽根ペンの復刻版、出して貰えないかな?」
 何処かの会社が作らないかな、キャプテン・ハーレイの白い羽根ペン。
「ニーズが無いって言ってるだろうが、この俺が」
 キャプテン・ハーレイだった俺が言うんだ、ニーズが無いと。発売したって、まず売れないな。
 だがなあ…。
 出しちまった、ってハーレイが浮かべた苦笑い。
 何の話かと思ったんだけど、羽根ペンの会社にお願いの手紙。今のハーレイの羽根ペンを作った会社に手紙を書いて出したんだって。
 「キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版を出して貰えませんか」って。
 同じ羽根ペン愛好家として、あの時代と同じペン先で書いてみたいと、それが夢です、と書いた手紙を郵便ポストに入れたと言うから。
 発売されたら必ず買います、と羽根ペンで書いて出したと言うから。



「…出るかな、それ?」
 ちゃんと発売して貰えるかな、キャプテン・ハーレイのと同じペン先。
 データがあったら作れそうだし、ペン先だけなら羽根ペンほど高くはならないし…。羽根ペンが好きな人だって興味を持ちそう、どんな書き心地のペン先だろう、って。
「俺としては出て欲しいんだがな」
 いろんなペン先を付け替えて使えるのが羽根ペンの良さだ、それこそ使い分けるんだな。書体に合わせるとか、自分の好みだとか…。「弘法筆を選ばず」の逆で、弘法大師のアドバイス通り。
 そういう使い方を楽しんでるのが羽根ペン愛好家というヤツだからな、キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版でも飛び付きそうではあるんだ、うん。
 キャプテン・ハーレイのファンでなくても、SD体制の時代のペン先ってヤツを試したいとな。
「そっか…。それなら、ぼくも手紙、出すよ」
 羽根ペンの会社の住所を教えて、ぼくも欲しいって手紙を書くから。
 一人だけから手紙が来るより、二人目から来たら、会社の方でも売れそうだって考えそうだし。
「…チビの字でか?」
 どう考えても、自分で羽根ペンを買えそうな大人の字じゃないんだが…。
 説得力があると思うか、今のお前が書いた手紙に?
「うー…」
 そうかも…。今のぼくが書いても「子供からか」って笑われちゃうかも、それでおしまいかも。
 ちゃんと読んでは貰えなくって、商品開発の参考データにはならないかも…。



 「弘法筆を選ばず」だけど。
 名人だったら、どんな筆でも、どんなペンでも綺麗で立派な字を書くんだけど。
 チビのぼくの字じゃ、何処から見たって子供の字。弘法大師のアドバイス通りに大人用のペンを使って書いても、羽根ペンを買えるお客様の字にはならないから。
 パパの部屋からペンを持ち出しても、どう頑張っても、大人の字なんか書けないから。
「…今は無理だけど、大きくなったら何通も出すよ」
 ちゃんと大きく育ったら。前のぼくと同じに大きくなったら、ぼくの字、大人の字になるから。
 そしたら羽根ペンの会社に手紙を何通も書くよ、キャプテン・ハーレイのペン先と同じペン先を作って貰えませんか、って。
「お前も書いてくれるのか?」
 羽根ペン、お前は使わないのに…。前のお前も使ってないのに。
「ハーレイのペン先、あると嬉しいでしょ?」
 前のハーレイのと同じ書き心地のペン先、それがあったら。
 最先端のペン先もいいかもしれないけれども、無理に慣れるより、時代遅れでも昔のペン先。
「まあな」
 あのペン先にもう一度会えたら、俺は感動するだろうなあ…。
 お前にまで手紙を出して貰って、復刻版がちゃんと発売されたら。俺の記憶に残った通りの書き心地のペン先、あれが帰って来てくれたらな。



 お前が大きく育つよりも前に実現するかもしれないけどな、って言ってるハーレイ。
 ペン先だけなら手間も開発費もそれほどじゃないし、って。
 だけどニーズが無さそうなのがキャプテン・ハーレイの羽根ペンだから。
 キャプテン・ハーレイのペン先だって、どう転ぶかは分からない。
 ぼくが大きく育った頃にも出ていなかったら、まだハーレイが悲しそうだったら手紙を出そう。
 ハーレイの羽根ペンを作った会社に、大人の字で。
 「キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版をお願いします」って。
 ぼくは羽根ペンは使わないけど、ハーレイの羽根ペンを借りて、頑張って書いて。



 「弘法筆を選ばず」だけど。
 ハーレイにはやっぱり、あのペン先で書いて欲しいから。
 これが馴染むと、俺のペンだと、あの頃のままの書き心地を楽しんで欲しいから。
 ハーレイの羽根ペン、白い羽根ペン。
 前のハーレイが使っていたのと同じに、ペン先までがそっくり同じでいて欲しいから。
 だって、ハーレイの大好きなペン。
 ハーレイには白い羽根ペンが似合うし、そう思って贈ったんだから。
 いつか出て欲しい、復刻版。
 キャプテン・ハーレイと同じペン先、それが出るまで、お願いの手紙を書き続けなくちゃ。
 何度も、何度も、ハーレイのために手紙を書こう。
 大好きなハーレイの嬉しそうな顔を見たいから。
 幸せそうに羽根ペンを使う姿を、ハーレイの隣で見ていたいから…。




           選びたいペン先・了

※今のハーレイがブルーに貰った、白い羽根ペン。見た目は、前のハーレイのと全く同じ。
 けれど書き心地が違うらしいのです。前のハーレイのペンの復刻版、出て欲しいですよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(酒も山ほどあるんだよなあ…)
 今の時代は、とハーレイは食料品店の棚を覗き込んだ。
 ブルーの家には寄れなかった日の帰り、買い出しに寄ったついでに酒も。食料品をメインに扱う店だけれども、酒のコーナーもあったから。
 以前だったら酒屋に出掛けることも多くて、目当ては試飲。もちろん車で行けはしないし、散歩がてら歩いて行っていた。仕事の無い日に。
 それが今ではすっかり御無沙汰、酒屋へ酒を選びに行くよりブルーの家。酒は食料品店で充分、馴染みの銘柄はそこそこ揃っているのだし…。



(シャングリラの頃とは比較にならないってな)
 合成ではない本物の酒がズラリと並んで、しかも地球の水で仕込んであるという値打ち物。今の自分には当たり前の地球、けれども前の自分は違う。地球へ行こうと長い旅を続けた、青い地球がきっとあると信じて。前のブルーを失くした後にも、ただひたすらに。
 前のブルーが遺した言葉を守って辿り着いた地球、前のブルーが焦がれた地球。前の自分の旅の終わりは青い地球にはならなかった。命懸けの旅路を嘲笑うような死の星、それが地球だった。
(…あんな地球では酒を仕込むどころか…)
 水さえ飲めはしない、と赤かった地球を思い返して、今の自分の幸せをしみじみと噛み締める。この酒は全部値打ち物だと、本物の地球の水を使って仕込んだ酒だと。
 水もそうだし、酒の材料。麦も、米も、どれも地球で採れたものばかり。
 おまけに酒の種類だって増えた、前の自分が生きた頃には無かった酒。様々な文化が地球の上に蘇り、バラエティー豊かな酒も再び作られ始めた。
 和風の酒やら、他にも色々。この店の棚にも和風の酒が何種類も置かれているけれど。



(…俺はやっぱりこいつなんだ)
 これが好みだ、とウイスキーの瓶を手に取った。
 和風の酒も好きだし、買ったりもする。酒屋へ試飲に出掛けていた頃には和風ばかりか中国風の酒なども買った、もっと他の酒も。
 とはいえ、何が一番好きかと訊かれればウイスキーかブランデーといった所になるのだろうか。書斎でゆっくり飲みたい時には、そういう酒。グラスに注いで、時には氷を入れたりもして。
(今から思えば、前の俺のせいかもしれないなあ…)
 白いシャングリラで馴染んでいた酒、無意識の内にそれを選んでいたかもしれない。今の書斎は雰囲気が何処かキャプテンの部屋に似ているから。
 其処で飲むならこれなのだ、と。この酒がいいと、前の自分の好みに釣られて。
 それも悪くはない気分だから、今日もやっぱりウイスキー。書斎で飲むならこれが一番、と。



 ウイスキーの他にも食料品を買い込み、家へ帰って。
 鼻歌交じりに夕食の支度、出来上がったらのんびりと食べて、後片付けも。それから気に入りのグラスを用意し、ウイスキーの瓶なども持って書斎に向かった。
 いつもの机の前に座って、ウイスキーのボトルの封を切る。新しいボトルは久しぶりだと、前に比べてあまり飲まなくなったから、と。
(…あいつのせいだな)
 酒屋にも御無沙汰になっちまったし、とウイスキーをグラスに注ぎ入れながら考える。グラスに入れて来た氷が弾ける音を聞きながら。氷が奏でる歌を聞きながら。



 青い地球の上に生まれ変わって、再び出会った前の生から愛したブルー。
 前とそっくり同じ姿に生まれたブルーだけれども、まだ幼い。十四歳にしかならないブルー。
 十四歳では酒は飲めない、酒の瓶などには「二十歳から」と書かれているから。
 その上、前のブルーも酒は駄目だった、今のブルーとは違って大人だったのに。飲めば悪酔い、酒の味も苦手で好きではなかった。
 そんな恋人と再会したからか、前ほど飲まなくなってきた酒。休日に楽しく出掛けていた試飲に行けなくなったことも、残念だという気持ちはしない。ブルーの方が大切だから。試飲に行くよりブルーに会いたい、キスも出来ない恋人でも。



 たまに前のブルーの写真を前にして、何杯も飲んでしまうけれども。
 前のブルーを失くした辛さを、その悲しみを酒で紛らわすかのように杯を重ねるけれど。
(そういう酒も…)
 あまり飲まなくなった、ずいぶんと心が落ち着いて来た。
 新しいボトルの封を切るのは久しぶりだと思うのは酒量が減った証拠で、落ち着いた証拠。心が穏やかで落ち着いていれば、酒は好きでも多くは要らない。味を、喉ごしを楽しめればいい。
(あいつの右手と同じだな) 
 ブルーの右手、と笑みを浮かべた。
 前の生の終わりに
メギドで凍えたブルーの右手。その手に持っていた温もりを失くして、冷たく凍えてしまったという。右手が冷たいとメギドを思い出すと、悪夢を見るのだと恐れるブルー。
 けれど最近、減って来ているらしいメギドの悪夢。
 右手が冷たくならないようにと贈ってやったサポーターのお蔭だと言っているけれど、そのせいだけではないだろう。
 ブルー自身の傷が少しずつ癒えて来ている。
 この地球の上で記憶が戻って、それから流れた時と共に。



(だから、俺だって…)
 ブルーを失くす夢を見る夜がずいぶんと減った。自分の叫びで目覚める夜が。
 それと同じで、前のブルーを失くした痛みも癒えつつある。ブルーは確かに生きているのだと、生きて帰って来てくれたのだと、小さなブルーに前のブルーが重なるから。
 小さくてもブルーはブルーなのだと、俺のブルーは此処にいるのだ、と。
 気高く美しかった前のブルーはもういないけれど、代わりに小さなブルーがいる。自分を慕ってくれるブルーが、愛くるしい笑顔の小さなブルーが。
 同じ地球の上に、同じ町に小さなブルーがいる。学校でも、ブルーの家でも会えるブルーが。
 そうして何度も逢瀬を重ねて、前のブルーを失くした悲しみも辛さも少しずつ癒えて…。



(前のあいつを忘れたわけではないんだがな…)
 覚えているが、と机の引き出しを開けて取り出した一冊の写真集。自分の日記を上掛け代わりに被せてやっている、『追憶』という名のソルジャー・ブルーの写真集。
 表紙に刷られた、真正面を向いた前のブルーの写真に向かって微笑み掛けた。
 俺はお前を忘れていないと、お前は今でも俺のブルーだ、と。
「お前も飲むか?」
 新しいボトルを開けたんだが、とウイスキーのグラスを掲げてみせる。
 ブルーの分のグラスは持っては来ていないけれど。前のブルーと飲む予定ではなかったから。
 今夜はそういう気分ではなくて、前のブルーを悼む酒ではないのだから。
 ただ懐かしいというだけのこと。
 前のブルーと生きていた日々が、白いシャングリラで過ごした日々が。



「お前は酒は苦手だったからなあ…」
 こいつは地球の水で仕込んだウイスキーでだ、前の俺たちには信じられない極上の酒というわけなんだが…。それでもお前の舌には合わんな、ウイスキーだしな?
 ウイスキーもブランデーも駄目だったろうが、お前の舌は。
 よく言ってたっけな、「何処が美味しいのか分からないよ」と顔を顰めて。なあ…?
 地球の酒でも美味くないよな、と戯れに話し掛けていて。
 写真集の表紙の前のブルーに、「ウイスキーは所詮、ウイスキーだしな?」と語っていて。
 ふと、ブルーでも美味しく飲める酒はあるな、と気が付いた。
 酒だけれども、酒らしい味がしない酒。
 まるでジュースのような味わい、酒が苦手でも飲めるカクテル。
 正体は酒だし、ものによっては下手な酒よりアルコール度数が高いけれども、それと分からない味のカクテル、見た目もジュースそっくりで。
 グラスに果物が添えてあったりと工夫を凝らしたカクテルの数々、あれならブルーも飲める筈。
 そうは言っても酒なのだから、やはりブルーは酔うだろうけれど。
 次の日の朝には「酷い目に遭った」と二日酔いに苦しみそうだけれども。



 前のブルーでも飲めそうなカクテル、酒の味がしないと喜んで飲んでいそうなカクテル。
(あれはシャングリラには無かったんだ…)
 ほんの一時期、存在しただけで姿を消してしまったカクテル。
 シャングリラが白い鯨になるよりも前の遥かな昔に、ほんの僅かな間だけあった。人類の船から奪った酒をベースに、ジュースを混ぜて作られていた。酒を嗜む者たちの間で、これも美味だと。
 誰かがデータベースで見付けたカクテル。同じ酒でも、こんな飲み方があるようだ、と。
 酒をそのままの形で飲むより、ひと工夫というのが人気を呼んだ。成人検査と人体実験で記憶を失くしてしまっていたから、新しい情報や味というものに皆が貪欲だった。
 酒を好んだ者たちの間でカクテルは一気に話題になったし、バーテンダーを気取る者まであったほど。新作を作ったと披露してみては、皆にやんやともてはやされて。



 ところが上手くは運ばないもので、カクテルはまるでジュースだったから。
 ある時、不幸な事故が起こった、休憩室に置かれていたのをエラがジュースと間違えて飲んだ。喉ごしが良くて、ほど良く冷えていたというのも悪かった。
 何も知らなかったエラはジュースだと思い込んだままで何杯か飲んで、気付いて止める者も誰もいなくて。ブラウがエラを見付けた時には、いわゆる大トラ。とてもエラとは思えない女性が泥酔していた、それは御機嫌で。
 エラは部屋へと運ばれたけれど、「自分で歩ける」と千鳥足で踊るように歩き、歌まで歌った。出会った者たちに「よう!」と声を掛けては肩を叩いた、ブラウさながらに。
 すっかり人が変わってしまって、シャングリラ中を練り歩いたエラ。自分の部屋へ真っ直ぐ帰る代わりに、ブリッジまで覗いて陽気に騒いだ。
 けれど翌朝は酷い二日酔い、記憶はまるで無かったけれども、皆の様子で何があったかは充分に把握出来たから。エラは怒った、カクテルのせいだと。あれは危険な飲み物だと。
 風紀が乱れると激怒したエラ、被害に遭ったのが自分だったから良かったけれど、と。
 そうしてカクテルは禁止されてしまった、シャングリラには相応しくない悪魔の飲み物だと罵倒されて。二度と作るなと出された通達、逆らえる者は誰も無かった。



(あれっきりになっちまったんだよなあ…)
 シャングリラで力をつけていたエラの鶴の一声、無かったことにされたカクテル。ベースにする酒まで禁じられたら大変だから、と皆は粛々と従った。ジュースのような酒は姿を消した。
 密かに作ろうという度胸のある仲間もいなかったから、もう本当にそれっきり。エラと一対一でやり合えるだけの発言力を持った人物、ゼルとヒルマンが自室でコッソリ楽しんでいた程度。
(あの二人でもコッソリだったんだ…)
 厨房にいた頃、ジュースの調達を何度か頼まれた。明らかにカクテルだろうと分かった、自分もレシピは知っていたから。流行っていた頃に目にしてもいたし、耳でも情報を集めたから。
 ゼルやヒルマンにジュースを渡すと「今夜どうだ?」と誘われたから、間違いはない。御禁制のカクテルの宴、それを催していたに違いない。
 エラの目から逃れて、コソコソと。酒とジュースを混ぜ合わせて。



 シャングリラではそういう飲み物だったカクテル、悪魔の飲み物のレッテルがベタリと貼られたカクテル。
 だから前のブルーはカクテルを飲んだことが無い。少年の姿だった頃はもちろん、成長した後も飲んではいない。
 既にカクテルが禁止だったことも大きいけれども、それよりも前にエラの泥酔。カクテル禁止の原因になった泥酔事件はブルーも見たから、恐ろしい飲み物だと考えていた。二日酔いになる上、人格までもが変わってしまう。カクテルは悪魔の飲み物なのだと。
 「ハーレイはアレは作らないよね」と信じ切った目で見られたから。ゼルやヒルマンはコッソリ作っているようだけれど、ハーレイは作りはしないよね、と言われたから。
(…あいつの信頼は裏切れんしな?)
 作らないままで終わったカクテル、レシピは幾つも知っていたけれど。
 酒が苦手な前のブルーでも美味しく飲めそうなカクテルの味も知っていたけれど、一度も作りはしなかった。エラを見舞ったような不幸がブルーを襲わなくても、二日酔いは起こすだろうから。原因はジュースだったのだろうと、あれはカクテルだと責められたくはなかったから。



(さて、今度は…)
 どうしようか、と考える。
 ブルーの口にも合いそうなカクテル、苦手だと言わずに飲めそうな酒。ジュースを飲むのと同じ感覚で飲めるカクテル、あれならばブルーも美味しく飲める。
 「何処が美味しいのか分からない」と嫌っていた酒を、自分と一緒に飲むことが出来る。小さなブルーはまだ駄目だけれど、二十歳の誕生日を迎えたならば。
 それに、今度の小さなブルー。酒が飲めるように努力をすると言っていたブルー。
 苦手な酒をそのままで飲ませるよりかは、カクテルがいい。同じ酒なら楽しんで欲しい、これは美味しいと喜んで欲しい。
 ただ、飲みすぎには注意だけれど。「もっと欲しい」と飲ませすぎたら危険なカクテル。そこは昔と変わってはいない、エラが泥酔していた頃から。今も昔も口当たりの良さで飲みすぎる人間が後を絶たない、なにしろ味はジュースだから。酒の味はまるでしないから。
 「もうそのくらいにしておけよ」とブルーの酒量に注意しながら、二人で飲むのも今ならでは。
 カクテルは禁止されていないし、ブルーと二人で酒を飲むにはピッタリのもので。
(あいつに訊くかな…)
 カクテルを飲んでみたいかどうかを。
 明日は土曜日、ブルーの家を訪ねてゆくから、小さなブルーに。



 次の日の朝、目が覚めたら直ぐに思い出したカクテルのこと。これは訊かねば、とブルーの家に出掛けて行った。いい天気だから、秋晴れの空の下を歩いて。
 生垣に囲まれたブルーの家に着き、二階の部屋に案内されて。いつものようにテーブルを挟んで向かい合わせで座って、こう切り出した。
「お前、今度は酒が飲めるように努力をするんだったっけな?」
「そうだよ、ハーレイをパパに取られたくないしね」
 ぼくがお酒を飲めなかったら、ハーレイはパパと飲むんだって言うし…。
 ハーレイとパパが楽しく飲んでて、ぼくは仲間外れになっちゃうだなんて、最悪だもの。
「よし。それなら、カクテルに挑戦するか?」
「…カクテル?」
 なあに、それ? そういう名前のお酒があるの?
「名前と言っていいのかどうか…。カクテルにも色々あるからな」
 カクテルの中には甘いジュースみたいなヤツもあるんだ、見た目も味もジュースそのままだ。
 お前が苦手な酒の味はしない、そういうカクテルが幾つもあるのさ。



 エラの事件を覚えていないか、と尋ねてみたら。
 シャングリラで起こった事件なんだが、と言えば、ブルーはキョトンとして。
「…エラ?」
 エラがどうかしたの、シャングリラで事件って…。エラは事件なんかは一度も…。
「いや、あった。酔っ払っただろうが、休憩室でジュースを飲んで」
 正確に言えば、ジュースと間違えて酒を山ほど飲んだわけだが。
「ああ…! そういえばあったね、歌まで歌って、ブラウみたいになっちゃったエラ」
 後から凄く怒ってたけど…。あれは悪魔の飲み物だ、って、シャングリラの風紀が乱れるって。
「あの時のジュースがカクテルなんだ。…あれで禁止になっちまったが」
 シャングリラではカクテル作りは禁止されたし、幻の酒っていうヤツだな。
 ゼルとヒルマンがコッソリ部屋で楽しんでいたが、他のヤツらは飲んでいない筈だ。エラが相手じゃ勝ち目がないしな、バレたらタダでは済まんだろうし…。
 前のお前がカクテルって名前を覚えるよりも前に消えちまったな、シャングリラではな。
「そっか、あのジュースがカクテルだったんだ…」
 エラが間違えて飲んじゃったお酒、今でもあるの?
 ジュースみたいな味のお酒なら、確かにぼくでも飲めそうだけど…。エラも飲んだんだし。
「あるぞ、カクテル。挑戦するかと訊いてるからには、もちろんあるさ」
 酒の強さもピンからキリまで、前の俺たちが生きてた頃より遥かに沢山のカクテルがな。



 カクテルに使う酒の種類も増えているし、と例を挙げてやった。SD体制の時代には存在自体が消されていた酒、それの一つのリュウゼツランから作る酒。テキーラと呼ばれて愛されたけれど、カクテルのベースとしても有名だったけれど、前の自分たちの時代には無かったと。
「テキーラは強い酒なんだがなあ、カクテルにすればいい感じになるぞ」
 これが酒か、と思うような美味いジュースになるんだ。お前でもきっと飲めるだろう。テキーラそのものは嫌がりそうだが、カクテルならな。
 それから、和風の酒がベースのカクテルもある。和風の酒も前の俺たちの頃には無かったな。
「そうなんだ…!」
 テキーラはちょっと無理そうだけれど、和風のお酒だったら大丈夫かも…。
 カクテルでなくても、そのまんまでも。
「おいおい、どういう根拠でそうなるんだ?」
 和風の酒なら大丈夫そうって、お前、まだ酒なんかは飲めないだろうが。
「酒蒸しとかがあるじゃない。ママが時々、作ってくれるよ」
 ぼくは酒蒸し、大好きだから…。嫌な味だと思ったことが無いから、和風のお酒は平気かも。
 前のぼくでも大丈夫だったかもしれないよ。無かったから試せなかったってだけで。



 人によって駄目なお酒は違うかも、とブルーは大真面目だから。
 今の自分も前の自分も、和風の酒なら飲めるのかも、と酒蒸しを根拠に決め付けるから。
「アルコール入りの飲み物って所は、どれも同じだと思うがなあ…」
 酒蒸しにするとアルコール分は飛んじまうんだぞ、もはや酒とは言えん代物だ。風味だけだな、酒蒸しで酔っ払っちまったって話は聞いたことがないが。
「…そう?」
 でも、ぼくの嫌いな味はしないよ、酒蒸しからは。
 それに和風のお酒が駄目でも、カクテルだったら飲めるんでしょ?
 カクテルになったらジュースみたいで、お酒だって感じがしなくって…。それならぼくでも絶対平気。いつかカクテル、飲んでみたいな。
「エラと同じ末路ってことも有り得るが?」
 飲みやすかったからエラはああなっちまった。お前だって、そうならないとは限らんぞ。
 お前の酒の限界ってヤツが謎だからなあ、俺が止めるにしても間に合わないって可能性も…。
 エラほど派手には酔わなくっても、二日酔いコースはあるかもなあ…。
「二日酔いでも、ぼくは気にしないよ」
 だって、ハーレイと一緒にお酒が飲めるんだよ?
 美味しくない、って文句を言わずに、ジュースみたいに美味しいのを。
 次の日に頭が痛くなっても、ちょっと気分が悪くなっても、ハーレイと一緒にお酒がいいな。



 カクテルに挑戦してみたい、とブルーは飲む気のようだから。
 飲んでみたいと大乗り気だから、「よし」と大きく頷いた。
「なら、カクテルも勉強しておくかな」
 普通のも、和風の酒とかのも。たまに作って試飲に研究、お前と飲む時に備えてな。
「…ハーレイ、カクテルは詳しくないの?」
 パパとお酒の話をしてたし、詳しいのかと思ったけれど…。
 これから勉強するんだったら、カクテルは作っていないわけ?
「俺は普通に飲むのが好きでな」
 酒はそのまま、それが基本だ。氷を入れたり、水で割ったり、その程度だな。和風の酒なら熱くするとか、冷やすとか…。
 前の俺も酒はそのままだったな、ゼルやヒルマンはカクテルも飲んでいたんだが…。
 あの頃のレシピも覚えてはいるが、今の時代に似合いのカクテルの方がいいだろう?
 和風の酒とか、前の俺たちの頃には無かったテキーラとかで作ったカクテル。
 俺も自分で作りはしないが、たまに飲むのは嫌いじゃないぞ。



 カクテルを作って飲ませてくれる店があるんだ、と話したら。
 決まったレシピで作る他にも、注文に合わせてオリジナルのを作って貰えると教えてやったら。
「それ、行ってみたい…!」
 ハーレイに作って貰うのもいいけど、専門のお店だったら材料だって色々あるよね?
 こういう味のカクテルが飲みたい、って言えば作ってくれるんでしょ?
 もっと甘くして、って頼んだら甘くなったり、ソーダ入りのにして貰えたり。
「お前、何杯も飲むつもりなのか?」
 いくらカクテルでも相手は酒だぞ、甘くて美味いと飲んでいる内に酔いそうなんだが…。
 いや、確実に酔っちまうから、俺としてはだ、二杯くらいで止めて欲しいが…。
「たったの二杯? それじゃ美味しいのに出会えないよ…!」
 もっと甘く、って頼んだら、それでもう二杯目だよ?
 ソーダ入りのが飲みたくっても、それを試す前におしまいになってしまうじゃない…!



 せっかく店に出掛けるからには二杯だけではつまらない、と唇を尖らせるブルーだけれど。
 オリジナルのカクテルを色々試してみたい、と膨れるけれど。
 もっと、もっと、と試す間にブルーが酔うのは確実だから。もう間違いなく酔ってしまうから。
「…酔ったお前を人に見せたくないんだがなあ…」
 だからだ、二杯くらいで止めて欲しいと思うわけだな、酔っても顔に出ない間に。
「なんで?」
 酔っ払っても、ぼくはエラみたいになったりしないと思うけど…。
 そうなる前にハーレイが止めてくれるだろうから、ちょっとくらいは酔っ払っても…。次の日に二日酔いになるのはぼくだし、ハーレイじゃないし。
「いや、駄目だ。酔っ払ったお前を披露したくない」
 店の人もそうだし、他にも客がいるんだろうし…。
 酔ったお前を見せてやるだなんて、そんなもったいないことは出来んな。
「えーっ!?」
 もったいないって、なんなの、それは?
 みっともないの間違いじゃないの、エラが酔っ払った時に後でそう言って怒っていたよ?
 あんな飲み物を置いておくから、みっともないことになっちゃった、って…。
 風紀が乱れる酷い飲み物で、悪魔の飲み物。飲んだら、みっともなくなるから、って。



 まるで分かっていないらしいブルー。もったいないの意味が掴めていない小さなブルー。
 酔った自分が美しかったことをブルーは知らない。
 どれほど煽情的であったかも、匂い立つような色気と艶やかさを帯びていたのかも。ほんのりと赤く染まった頬や目許や、香しい息が零れ落ちていた唇やら。
 酔っ払った最中に鏡は見ないし、たとえ鏡を見ていたとしても、自分で気付くわけがない。今の自分がどう見えるのかも、そんな自分が宿す美なども知るわけがない。



 ハーレイはフウと溜息をつくと、小さなブルーに分かるように説明してやった。
「お前、酔ったら凄い美人になるからなあ…」
 元から美人で綺麗なんだが、もっと美人になっちまう。だからもったいないって言うんだ、他のヤツには見せたくないしな。
「…そうなの?」
 酔っ払ったら美人だなんて、言われてもピンと来ないけど…。
 エラはとっても怒ってたんだし、みっともないなら分かるんだけれど。
「いや、酔ったお前は確かに美人だ。芙蓉どころか酔芙蓉ってな」
「なにそれ?」
「ん? 芙蓉が美人で、酔芙蓉は酔った美人ってトコだな」
 芙蓉って花は知ってるか?
 元々は中国で蓮の花を芙蓉と言っていたんだ、そして美人の譬えでもあった。芙蓉のかんばせ、とくれば美人の顔のことだな。
 ところが日本じゃ芙蓉は蓮じゃなくって、全く別の花になっちまった。その芙蓉の中に酔芙蓉という品種があってな、そいつはまさに酔っ払うんだ。一日だけしか咲かない花だが、その間に花の色が酔っ払ったみたいに変わってゆくんだな。酔った芙蓉で酔芙蓉だ。



 そういう綺麗な花があるのさ、と酔芙蓉の解説をしてやったら。
「…あの花かな?」
 えっとね、ちょっと離れた所の家にね、色が変わる芙蓉が咲くんだよ。真っ白だな、って思って通るんだけれど、お昼過ぎに見たらピンクになってて、夕方にはもっと濃いピンク色。
 あれのことかな、酔芙蓉って…?
「そうだ、そいつが酔芙蓉だ」
 雪のように白い肌の美人が酔ってゆくように見えるだろう?
 最初はほんのり淡く色づいて、だんだん顔が赤くなる。美人の芙蓉が酔っ払うんだし、酔芙蓉は酔った美人だろうが。
 お前も酔芙蓉の花を知ってるんなら、どれほど綺麗か直ぐに分かるよな…?



 まさにそういう感じになるのが酔ったお前で…、と片目を瞑った。
 そんなお前を他のヤツらに見せたくはないと、もったいないと。そうしたら…。
「酔芙蓉、好き?」
「はあ?」
 唐突に問われて、小さなブルーをまじまじと見る。どういう意味か、と。
「酔った前のぼく、好きだった?」
 もったいないから見せたくない、って言うんだったら、そういうぼくも好きだった?
 酔芙蓉みたいだった、っていう前のぼく。
「そうだなあ…。好きではあったが…」
 この上もなく美人だったし、ふらふらと惹き付けられもした。
 こんなお前は俺だけのものだ、と得意にもなったものなんだが…。
 誰も知らんと、誰も見たことのない最高の美人だと、酔芙蓉なお前に酔ったもんだが…。



 迷惑もした、と苦笑した。
 明くる日は散々文句を言われて、と。
 酔芙蓉だった前のブルーはそれは美しかったけれども、魅せられたけども。当のブルーは酔っているのだし、次の日は必ず二日酔い。頭痛や胸やけなどで臥せるか、ぐったりするか。
 そんな自分に無茶をさせたと、どうして寝かせてくれなかったかと膨れたブルー。夜の間に何があったか、自分の身体を見れば一目で分かるから。どういう夜を過ごしたのかが。
「えーっと…。今度のぼくは文句なんかは言わないよ?」
 前のぼくと違って、お酒を美味しく飲めるんだし…。ジュースみたいなカクテルなんだし。
 美味しいカクテルで酔っ払っても、二日酔いでも、苦手なお酒じゃないからいいよ。
「さて、どうだか…」
 お前は分かっていないようだが、前のお前が言ってた文句。
 酒の味の文句も入ってはいたが、チビのお前には分からない文句もあったってな。そっちの方を今度も言われそうだな、ハーレイは酷いと、人でなしだと。
「…言わないよ?」
 ホントのホントに何も言わないよ、美味しくお酒を飲んだんだから。
 二日酔いでも、絶対、ハーレイのせいにはしないよ、酷いだなんて言いやしないよ。



 やはり分かっていないブルーは、今度は二人で酒を飲むのだと上機嫌だから。
 美味しく飲めるならカクテルを飲むと、飲みに行きたいとはしゃぐから。
「酔芙蓉は他のヤツらに見せられんからなあ…」
 飲みに行くなら、うんと弱いのを二杯までだ。そのくらいだったら顔には出ないだろうし…。
 それ以上は駄目だな、お前、酔芙蓉になっちまうしな。
「じゃあ、カクテルは二杯だけなの?」
 ハーレイと一緒に飲みに出掛けても、ぼくは二杯でおしまいなの?
 もっとハーレイとお酒を飲んでみたいのに…。前のぼくが飲めなかった分まで、美味しいのを。カクテルだったら何杯だって飲めそうな気がするのに、二杯だけなの…?
「店で飲むならな。…しかしだ、お前が俺に付き合って飲んでくれると言うのなら…」
 俺が作るさ、家でカクテル。それなら何杯飲んでもいいしな、見てるヤツらはいないしな。
 お前が酔芙蓉になっちまっても、家なら連れて帰らなくても大丈夫だし。
「うんっ! 家で飲むなら、酔っ払っても安心だよね!」
 パタッと倒れて眠っちゃっても、ベッドに運んで貰えるし…。
 次の日の朝に二日酔いでも、そのまま寝ていてかまわないんだし。



 家で二人でカクテルを飲もうね、と笑顔のブルーは未だに分かっていないけれど。
 酔芙蓉になった自分が家にいたなら、ベッドでぐっすり眠るどころではないということにまるで気付いていないけれども、それが可愛くて愛おしい。
(酔芙蓉をそのまま眠らせちまうなんて、それこそもったいないってな)
 小さなブルーは全く分かっていないけれども、酔芙蓉の花は愛でてこそ。愛でて、愛して、花の香に酔って、心ゆくまで味わってこそ。
 いつかはブルーとカクテルもいい。白から紅へと色を変えてゆく、酔芙蓉の花を愛でながら。
(今からレシピを増やしておくかな、いずれブルーと飲むんだからな?)
 前の自分が記憶していたレシピの他にも、あれこれ調べて研究しよう。酒が苦手でも飲めそうなものを、ブルーが喜んで飲んでくれそうなカクテルを。
 店で飲んでもいいのだけれども、自分の家で酔芙蓉。
 最高の美人を一人占めするために、酔芙蓉の花に溺れるために…。




            酔芙蓉・了

※シャングリラでは、ご禁制の品だったカクテル。悪魔の飲み物では仕方ないのですけど…。
 本当はとても美味しいわけで、今度はブルーと飲みたいハーレイ。酔芙蓉なブルーと。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(…えっ?)
 バスの中、チョンチョンと膝をつつかれた。
 学校からの帰りに乗った路線バス。空いていたら座るお気に入りの席で。
 誰、と見れば小さな男の子。
(幼稚園くらい?)
 そんな年頃、幼稚園の制服は着ていないけれど。
 可愛らしい笑顔と、ブルーの方へと差し出された手。幼い子供の小さな右手。この手がつついて来たんだな、と眺めた手首にブレスレットが嵌められていた。握手のマークつきの。
(あ…!)
 手と手を握った握手のマーク。それはブルーも知っていたから。
 男の子の周りに視線を移せば、その子の母親の姿があって。「お願いします」と下げられた頭。ずっと年下のブルーに向かって、それは丁寧に。
 この状況では仕方ない。断ることなどとても出来ない。「はい」と応えて男の子の手をキュッと握った。握手するように。
 思念波の扱いは苦手だから。こうして手と手を握り合わせるのが一番だから。



 手が触れ合ったら、流れ込んで来た男の子の思念。
『お兄ちゃん、学校?』
『うん。学校が終わって帰るところ』
『学校、遠いの?』
『そうじゃないけど…。ぼくには少し遠すぎるんだよ、歩いて行く子も多いけどね』
 ふうん…、とニコニコと笑顔の子供だけれど。好奇心旺盛な子供らしいけれども。
 口が利けない。
 ブレスレットの握手のマークはそういう印。思念波で会話をお願いします、と。
 人間が皆、ミュウになった今の世界では、思念波は普段は使わないから。思念波に頼っていると言葉を話す能力を失くしてしまうから、会話は言葉で。それが常識、社会の中での約束事。
 けれど、喋ることが出来ない人間もいるから、そういう人との会話は思念波。そうだと気付いて貰えるようにと握手のマークをつけている人。ブレスレットだったり、ペンダントだったり。
 この男の子も、その中の一人。



(リオ…)
 遠い昔に口が利けない仲間がいた。前の自分がいたシャングリラに。
 その仲間の名を、頭の中でふと呟いた途端。
『お兄ちゃん、すごい!』
『え?』
 凄い、と弾けた男の子の思念波。輝く瞳が見上げて来た。
『ホントにソルジャー・ブルーみたい!』
 ぼくの名前を当てちゃうなんて、と感心している男の子。誰も当てられなかったのに、と。まだ質問もしていないのに、ぼくの名前を当てちゃった、と。
『えーっと…。リオ?』
『うんっ! お兄ちゃんの所に来てよかった…!』
 ソルジャー・ブルーのような姿だったから、話がしたくて来たのだと言う。離れた座席に座っていたのに、母に頼んで連れて来て貰って。
 本当に本物のソルジャー・ブルーだ、と大喜びではしゃぐ男の子。本物に会えたと。
『違うよ、ぼくは普通の学校の生徒で…』
『でも、当てたもん! ぼくの名前を、ぼくが当ててって言わない内に!』
 そんなことが出来た人は一人もいない、と大感激の子供だけれど。リオという名前は読み取ったわけではなくて偶然の一致、自分はそこまで器用ではない。タイプ・ブルーのくせに不器用。
 このまま会話を続けて行ったらガッカリさせてしまいそうだし、どうしようかと焦っていたら。
 次のバス停で降りるから、と男の子の母親が合図して来た、思念波で。
 「お兄ちゃんとのお話、もうおしまいよ」と。



 ホッと安堵して、握り合っていた手を離した。「またね」と思念波で伝えておいて。
 母親が「ありがとうございました」と深々と頭を下げるから。
「どういたしまして。ぼくでお役に立てたでしょうか?」
「ええ、もちろん。本当にソルジャー・ブルーでしたわ、この子の言う通り」
 どうしても話をしてみたい、と強請られて連れて来た甲斐がありましたもの。
「違いますよ、ぼくは…! ぼくはソルジャー・ブルーなんかじゃ…」
 見た目だけです、本当にただの子供ですから…!
「でも、この子にとっては本物のソルジャー・ブルーですわ」
 ありがとう、とバスから降りて行った親子。男の子は大きく手を振っていた。バスには思念波を遮断する仕掛けが施されているから、もう思念波は届かないけれど。
 あの男の子は、そのせいで会話が出来なくなったと信じて帰ってゆくだろうけれど。
 ソルジャー・ブルーだと信じた相手のサイオンが不器用なことも知らずに、本当は思念波すらもロクに紡げない人間だったとは気付きもせずに。



(ぼく、勘違いされちゃった…)
 ソルジャー・ブルーと間違えられてしまった、さっきの男の子に。
 姿形が似ているだけでサイオンの扱いはとことん不器用、思念波での会話にも自信が無いから、手と手を握り合わせて話をしていたのに。
 でも本物ではあるんだけどね、と苦笑しながらバスに揺られて、家の近くのバス停で降りて。
(リオ…)
 走り去ってゆくバスを見送った。ほんの束の間、バスの中で話した男の子。先にバスから降りて行ったから、今頃はもう家に帰り着いているだろう。バスでソルジャー・ブルーに会ったと、話が出来たと興奮しながらおやつを食べているかもしれない。
 まさかあの子もリオだったなんて。リオという名前の子だったなんて。
 きっと生まれつき口が利けなかったから、つけられた名前。
 あやかりたい、と。
 前の自分が、ソルジャー・ブルーが知っていたリオに。その名を思い浮かべたリオに。



 家に帰って、着替えを済ませて、ダイニングのテーブルでおやつの時間。ケーキを食べながら、またさっきの子を頭に描いた。帰りのバスで出会った子供を、小さなリオを。
(リオかあ…)
 白いシャングリラにいた、本物のリオ。あの子と同じに口が利けなかったリオ。話す時には常に思念波、リオの肉声はついに知らないままだった。ただの一度も聞かずに終わった。
 悲鳴さえも上げられなかったリオ。声を出せる身体ではなかったから。そのための器官を欠いて生まれて、最後まで何も話せなかった。自分の声では、肉体を使った本物の声では。
 けれども、バスで出会ったリオ。あの男の子は、もうすぐ口が利けるようになる。本物の自分の声で話せる、思念波ではなくて肉体の声で。
 今は医学が進んだから。生まれた時には欠けていた器官を作ってやることが出来るから。
(小さい間は出来ない手術…)
 技術的には可能だけれども、子供の心のことを考えて先延ばしにする。手術を受けるには何度も診察が要るし、手術の時には入院だって。小さな子供には重い負担で、酷だから。
 今の時代なら思念波での会話に不自由はしないし、ある程度大きくなってから手術。下の学校へ上がる前とか、上がってからの夏休みとかにするのが普通。
 手術を受けるまでの間は、あの子もつけていた握手のマーク。それを何処かにつけておく。
 「思念波でよろしくお願いします」と、誰もに分かって貰えるように。
 本物のリオが生きた時代に、そういうマークは無かったけれど。思念波などを使ったりすれば、処分された時代。ミュウと判断され、消されるしかなかった悲しい時代だったのだけれど…。



 時代はすっかり変わったよね、と感慨深くケーキを食べて、紅茶も飲んで。
 キッチンの母に空になったお皿やカップを返して、二階の自分の部屋に戻って。勉強机に頬杖をついて、またリオのことを思い出す。バスで出会った小さなリオを。
(ぼくよりも器用だったよ、リオ…)
 自分の名前を当てられないよう、隠しておくことが出来るリオ。
 多分、名前を訊かれた時には偽の情報を流すのだろう。ぼくの名前はこれなんだよ、と。本当の名前は読まれないように心の底へと仕舞っておく。鍵がかかった心の小箱に。
 思念波は心の声なのだから、嘘をつくのは難しい。隠したつもりでもポロリと真実が零れ落ちてしまう、相手の心に届いてしまう。
 そうならないよう上手くやるには、かなりの技と才能が要る。才能が無い人間は努力あるのみ、ひたすら訓練するしかない。思念波を巧みに操れるように、遮蔽も完璧になるように。
 前の自分ならば容易かったけれども、今の自分には出来ない芸当。
 努力云々以前の問題、思念波で自由に会話する所から始めなくてはいけないレベルで…。



(逆になっちゃった…)
 自分よりもリオの方が上。今日のリオにしても、本物のリオでも。
 もっとも、バスで会ったリオは勝手に勘違いして、尊敬の眼差しで見ていたけれど。自分の名を言い当てられたと思って、大感激ではしゃいでいたけれど。
 本物のソルジャー・ブルーに会えたと、話が出来て嬉しかったと。
 そのリオの方が本当は凄い、今の不器用な自分よりも。リオは気付いていなかったけれど。
(本物のリオなら…)
 今、出会ったなら、リオの方が上。
 もう間違いなく上だけれども、白いシャングリラにいた頃は違った。
 前の自分はソルジャー・ブルー。ミュウの長であり、サイオンも誰よりも強かった。前の自分の方が上だった、本物のリオを前にしたって。
 リオを見付けて、救出するよう指示を出したのも、ソルジャー・ブルーだったのだから。



 雲海の星、アルテメシアに潜んでいた頃。白い鯨の中から探した、ミュウの子供を。
 初めの間は助けを求める声を聞いては飛び出していたのが、いつしか先回りするようになった。子供たちを管理していたユニバーサルの情報網に潜り込んでは、要注意の子を見付け出して。
 これは危ないと思った時には潜入班の出番で、ミュウと判断された子供が処分される前に救い、シャングリラへと連れて来た。リオもそうして助けられた一人。



 口が利けない子だったリオ。
 喋れないから、懸命に紡いだ思念の声。それでも最初は上手くいっていた、思念波が何かを知る者は誰も周りにいなかったから。
 喋れないのにカンのいい子だと思われた程度。リオが紡いでいた思念の声はまだ周囲に届かず、相手の心を読んでいることにも誰も気付いていなかったから。
 けれど、少しずつ力を伸ばしていったサイオン。手を触れずに物を動かしてみたり、声なき声が相手の心に直接届き始めたり。
 「カンのいい子」は「気味の悪い子」になってしまって、リオは養父母や友達といった人々から孤立し、ついに通報された。ユニバーサルの監視部門に、普通ではない子供がいると。
 監視対象になって間もなく、ミュウだと断定されたリオ。
 ミュウの処分を専門とする特殊部隊が駆け付ける前に、潜入班に救い出された。雲海に潜む白いシャングリラへ連れて来られた。
 楽園という名の白い鯨へ、ミュウだけが暮らす箱舟へと。



 特殊部隊には出会わなかったけれど、危険は察知していたリオ。
 もしもシャングリラに救われなければ、自分はきっと殺されていたと分かっていたリオ。
 それほど敏い子供だったのに、養父母たちを信じていた。通報したのは両親や友達ではないと、悪い誰かがそうしたのだと。
 だからその心を尊重しておいた、無垢な心を傷つけたくはなかったから。まだ柔らかで幼い心に負の感情を植え付けることは良くないから。通報したのは悪い誰かだと教えておいた。本当の所は違ったけれども、あえて真実を知らせることもあるまいと。
 幼かったリオは両親の家に帰りたがって泣いたけれども、帰れない。家が恋しいと毎日のように泣きじゃくっていても、悪者がいるから、もう帰れない。
 家に帰れば、また悪者に通報されてしまうから。今度は無事に逃げる代わりに、殺されてしまうだろうから。



 家に帰れないと悟ったリオはシャングリラで暮らして、思念波で交わす会話にも慣れて、友人も出来た。大人たちにも可愛がられた、口が利けない分、誰もが余計に目を掛けてやった。
 ソルジャーだった前の自分も、リオが早くシャングリラに馴染めるようにと心を配った。
 そうしてシャングリラでの暮らしを受け入れたリオは、人類の世界で孤立していた頃に強い心を育んだらしく、意外にも芯の強い子だった。こうと決めたら譲らない意志の強さも持っていた。
 自分の意見が正しい筈だと、シドとも喧嘩したくらいに。周りの子供たちにも止められなかった派手な取っ組み合いの喧嘩を。



 やがて少年へと成長していったリオの才能、新しくシャングリラにやって来た子供と直ぐに打ち解け、仲良くなること。
 船に来たばかりの子供は酷く怯えているのが普通だったのに、リオの前では笑顔になった。涙を零して蹲っていた子も、頑なに部屋に閉じ籠もっていた子も。
 口が利けない子供だったからこそ、新しい仲間と築きやすかった信頼関係。あれこれ声を掛ける代わりに、そっと寄り添って心をほぐした。かつては自分も同じだったと、この船に来た頃は同じ気持ちで過ごしていたと。
 思念波だからリオの誠実な人柄と優しさが伝わる、相手の心に染み透ってゆく。思念波だけしか使えないから、肉体の声を使えないから、懸命な気持ちが相手に伝わる。
 どんな子供もリオに懐いた、まるで昔からの友達のように。
 シャングリラに連れて来られる前から親しくしていた先輩に再会したかのように。



 これは素晴らしい才能だ、と皆が一目置いたリオ。
 引っ込み思案の子も、気難しい子も、リオにかかればアッと言う間にシャングリラに馴染んだ、此処が家だと。新しい仲間と家が出来たと、シャングリラでの暮らしを受け入れた。
 そんなリオだから、ヒルマンが教える教育課程を終えた後には、当然のように養育部門へと配属されて行ったのだけれど。子供たちの世話を任され、子供たちも懐いていたのだけれど。
 暫く経ったら、本人は潜入班になりたいと志願し始めた、最初から助けてやりたいと。
 生まれ育った世界から追われ、不安な心でシャングリラへと向かう小型艇に乗せられるミュウの子供たち。その子供たちをサポートしたいと、もう怖くないと安心させてやりたいのだと。



 言い出したら聞かない、強い子だから。意志が強かったリオだから。
 潜入班になるために必要な全てを見る間に覚えた、サイオンでデータを誤魔化す技術も、様々なタイプの小型艇を操縦する方法も。
 それらをリオが覚えた以上は、残るは適性検査だけ。合格しない筈がなかった、精神力の強さを問われる検査だったから。窮地に陥っても切り抜けられるだけの強さがあれば合格だから。
 一度目の検査で見事に合格、養育部門から潜入班へと移ったリオ。
 実際に救出活動を始めさせたら、他の者とは比較にならない好成績を叩き出した。リオが助けて連れて来た子は、シャングリラに馴染むのがとても早いと評判になった。
 だから救出が難しそうな子はリオの担当。救出の途中で銃撃戦に巻き込まれたりした子は、心に深い傷を負うから。自分が本当に救い出されたのか、攫われたのかも冷静に判断出来ないくらいにパニックになってしまうから。
 時にはシャングリラの方が悪者なのだと思い込みがちな子供たち。シャングリラが自分を見付けなければ、誰も自分を襲おうとはせず、あのまま暮らしていられたのだと。
 そう考えている子供たちにもリオは寄り添った、どんなに「悪者」と罵られても。自分を攫った悪い奴だと泣きじゃくられても、根気よく、優しく、けして怒らず。



 前の自分はリオの能力を高く評価し、直属の部下として扱った。
 潜入班の指揮はキャプテンの仕事で、ソルジャーの管轄ではなかったのに。
(前のぼくの直属…)
 そんな立ち位置の潜入班員は、リオの他にはいなかった。他の者では務まらなかった、精神力が足りなさすぎて。長時間の緊張を強いられる救出作業は、それを一人でこなすことは。
 一番信頼していたリオ。
 この救出は難しそうだ、と思った時には迷わずリオを指名した。他の者たちはサポートに回し、リオを単独で向かわせていた。
 リオは期待に見事に応えた、一度も失敗したことは無かった。
 だからこそジョミーの時も任せた、前の自分を継いでソルジャーとなる筈のジョミーの時も。
 シャングリラに迎えられたジョミーが船に馴染めず、アタラクシアに帰せと怒った時にもリオに送らせた、リオならば上手くやるだろうから。



(…リオでも敵わなかったんだけどね…)
 あまりにも強情だったジョミーは、リオの手に余った。ジョミーはリオを散々振り回した末に、ユニバーサルに捕えられるという有様で、リオまで捕まってしまったけれど。
 リオは拷問に等しい心理探査を受けたけれども、それでも無事に救出された。精神崩壊を起こすことなく、精神に異常を来たすことなく。
 リオだったから戻って来られたのだと思う、あれだけの目に遭わされても。
 他の者たちなら、船に戻れても、前と同じに暮らしてゆくことは無理だっただろう。心に負った傷が深すぎて、閉じ籠もるか、あるいは一人でいることが出来なくなるか。
 けれどもリオはそうはならなかった、まるで何事も無かったかのように船に戻って、ジョミーを嫌いもしなかった。お前のせいだと責めもしないで、それまでと変わらずジョミーに接した。



 ジョミーがシャングリラに馴染む過程で、リオの力は大きかったと言えるだろう。
 前の自分はジョミーを連れ戻す時に体力を使い果たして、ジョミーを連れてシャングリラの中を回りたくても、そうすることは出来なかったから。
 代わりにリオにジョミーを任せた、「今までの子供と同じつもりで頼むよ」と。
 リオは快く引き受けてくれた、ジョミーを最初に救い出した潜入班員として。前の自分の直属としての立場で働いてくれた、ジョミーがシャングリラに溶け込めるように。
 きっとリオだから上手くやってくれた、ジョミーが怪我を負わせてしまったキムとの仲直りも、他の仲間たちの厳しい視線を柔らかく変えてゆくことも。



 強くて有能だったリオ。前の自分が信頼したリオ。
 前の自分が深く眠ってしまった後にも、リオはジョミーを支え続けた。シャングリラでのリオの肩書きは特に何も無くて、アルテメシアを離れたせいで潜入班の仕事も無くなったのに。
 リオがその才能を発揮できる場所は、シャングリラの中にはもう無かったのに。
 それでもリオはジョミーを守った、かつて自分が救出して来た新しい仲間を、今はソルジャーとなったジョミーを、ただひたすらに。
 シャングリラの者たちがジョミーを責めても、赤いナスカで古い世代と新しい世代が睨み合った時にも、リオはジョミーの味方についた。何が起こっても自分だけは、と。自分だけはジョミーの側にいようと、ジョミーを理解し、寄り添わねばと。
 前の自分が「頼むよ」とジョミーを任せたから。「今までの子供と同じつもりで」と。



 リオは最後までジョミーを守ろうと頑張り続けた、本当に最期の瞬間まで。
 シャングリラが辿り着いた死の星だった地球、其処へと降りるメンバーの中にリオは選ばれず、船に残っていたというのに。
 そのままでいれば生き延びたろうに、リオは燃え上がる地球へと向かった。たった一人で、船を離れて。もう一人乗せて飛ぶのが精一杯の小型艇を選んで、ジョミーを救いに燃える地球へと。
 リオが操る小型艇が何処に着陸したのか、記録は何処にも残っていない。
 けれどもリオは確かに地球に辿り着き、ジョミーを救おうと地下を目指した。その途中で地震で崩れ落ちた岩盤、巻き込まれそうになった人類の女性を助けて、リオが代わりに下敷きになった。
 リオは彼女に「逃げろ」と思念波で伝えたという。「行って」と、「早く」と。
 それが強かったリオの最期の姿で、リオに救われたリボーンの女性が証言した。自分はミュウに助けられたと、口の利けない青年だった、と。
 そうしてリオも英雄になった、記念墓地に墓碑がある英雄に。
 燃え盛る地球で人を救った勇気あるミュウの青年だったと、彼は人類にも手を差し伸べたと。



(だから、あの子も…)
 帰りのバスで会ったあの子も、リオなのだろう。
 口が利けなくても強い子であれと、リオのように優しい子になるようにと。
 今の時代は、あのリオももうすぐ口が利けるようになるけれど。病院での診察や手術をするのに必要な入院、そういったことが負担にならない年齢になれば、手術を受けて。
 自分の声で話せるようになったら、あの子はリオという名の普通の少年、他の子供と変わらない暮らしが待っている。会話をするのに思念波は使わず、自分の声で話して、笑って。
 今はまだ、本物のリオと姿が重なるけれど。
 「思念波でお願いします」という握手のマークのブレスレットで、リオだけれども。
 口が利けなかった本物のリオと、今日のリオとが重なるけれど…。



(ハーレイ、なんて言うだろう?)
 リオに会った、と話したならば。
 帰りのバスでリオに出会ったと、子供だったと話してみたい。前のハーレイもリオの才能を高く買っていたし、ジョミーを最後まで支え続けたことも知っているのだから。
 今日のリオは別人だったけれども、ちょっと愉快な出来事として。
(だって、リオだものね…?)
 しかも自分をソルジャー・ブルーと間違えたリオ。
 そういうリオにバッタリ会ったと、声を掛けられたと話してみたい。
(今日はハーレイ、来てくれないかな…?)
 どうなんだろう、と窓の方を何度も眺めていたら、チャイムの音。窓に駆け寄り、門扉の方へと手を振った。其処にハーレイが立っていたから、大きく手を振ってくれたから。



 部屋に来てくれたハーレイと、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせ。紅茶をコクリと一口飲んでから、切り出した。
「あのね…。今日、帰りのバスでリオに会ったよ」
 幼稚園くらいの男の子。ぼくが座ってたら、声を掛けて来たよ。
「リオって…。本物のリオか?」
 あいつが幼稚園児になっていたのか、あのリオが…?
「まさか。リオっていう名前は本物だけどね」
 本当に本物のリオだったけれど、あのリオじゃないよ。前のぼくたちが知ってたリオとは別人。
 でもね、その子は喋れないんだ、握手のマークのブレスレットをつけてたよ。
 ぼくと話をしたのも思念波、ぼくは思念波を上手く使えないから、ホントに握手になったけど。
 握手しないと喋れないのに、その子は気付かなかったんだよ…。



 こんな子だった、とバスで会ったリオの話をした。
 ソルジャー・ブルーにそっくりだから、と声を掛けに来た男の子。握手のマークで本物のリオを思い出したら、自分の名前を言い当てられたと驚いていた、と。
 本物のソルジャー・ブルーに会ったと大感激で、サイオンの扱いが苦手な自分は焦ったのだと。
「…あのまま話を続けていたらね、絶対にボロが出たんだよ」
 もっと何かを当ててみて、って言われたって、ぼくには出来っこないし…。
 そうなる前にお別れだったから、本当にホッとしたんだけれど…。
「お前は焦ったのかもしれんが、いい話だな」
 リオと同じ名前のリオに出会って、うんと感激して貰えたんならな。
「そう? …ぼくはホントに焦っていたんだけれど…」
 あんなに感激されてしまったら、ぼくのサイオンが不器用だってことは言えないよ。
 だけど話を続けていたなら、何処かでバレるに決まっているし…。
「俺はいい話だと思うがな? その子は本物のソルジャー・ブルーに会えたんだ」
 お前の正体を見抜いたんだぞ、実はソルジャー・ブルーなんだ、と。
「勘違いだけどね。あの子の名前を読み取ったわけじゃないんだから」
 ホントに偶然、リオって名前が重なっただけ。…ぼくがリオの名前を思い出しただけだよ。
「だが、認めては貰えたんだろう? 本物のソルジャー・ブルーだと」
 素晴らしいじゃないか、お前は正体を見抜いて貰えて、その子も本物に会ったんだ。
 見た目だけじゃなくて中身まで本物のソルジャー・ブルーに、凄いサイオンの持ち主にな。
「まあね…」
 そういうことになるんだろうけど、ちょっぴり複雑。勘違いでソルジャー・ブルーだなんて。
 確かに本物なんだけれども、あの子はぼくのサイオンが凄いと勘違いしていたんだものね…。
 今のぼくだと、あの子よりもサイオン、不器用なのに。
 本物のリオにも敵いやしなくて、ソルジャーどころか、潜入班だって無理なんだけど…。



 そうして二人、本物のリオを懐かしみ、語り合った。
 口が利けなかったからこそ強かったリオ。意志が強くて、最後までジョミーを救い出そうと一人きりで地球に向かったリオ。ジョミーを乗せるのが精一杯の船で、たった一人で燃える地球へ。
 本当に強い人間だったと、だから英雄になれたのだろうと。
 記念墓地に墓碑がある英雄の中で、肩書きが無いのはリオ一人だけ。
 ソルジャーや国家主席やキャプテン、長老といった錚々たる人物の墓碑に混じって、ひっそりと立つリオの墓碑。人類を救って地球で斃れたと刻まれた墓碑銘、それと名前だけで。
 墓地にはマードック大佐とミシェル少尉の墓碑もあるのだけれども、肩書きはある。リオだけが肩書きを持たない英雄、記念墓地が初めて作られた時から今に至るまで。
 誰もがリオを知っている。
 そういう名前の英雄がいたと、口の利けない英雄だったと。
 今でも子供にリオと名付ける人が存在するほどに。あやかりたいとリオの名前を貰うほどに。



「…あの子、ぼくをソルジャー・ブルーと間違えていたんだから…」
 ハーレイもいれば良かったかもね、そしたらキャプテン・ハーレイもセット。
 きっとあの子も大感激だよ、ぼくだけと話をするよりも。二人一緒だと値打ちも倍だよ。
「いつか、そんな日も来るかもな」
 お前が会ったリオじゃなくても、これから先に。
 結婚したら二人で出掛けることが増えるんだしなあ、何処かでバッタリ会うんじゃないか?
 握手のマークをつけてる子供で、俺たちに注目しそうな子供。
「そっか、またリオ…!」
 今日、会ったリオは、もうすぐ手術をするんだろうけど…。話せるようになるんだろうけど。
 他にもリオはきっといるよね、握手のマークをつけているリオ。
「うむ。その時も上手くやるんだぞ?」
 きちんと尊敬して貰えるよう、先に名前を言い当ててな。
 ソルジャー・ブルーは本当に凄い、と大いに感激して貰わんとな…?
「無理だってば…!」
 今日はたまたま上手くいったけど、次はどうなるか分からないよ。
 ぼくのサイオンは不器用なんだし、本当の名前を読み取ることなんか出来ないんだから…!



 いつか何処かで出会うかもしれない、握手のマークの男の子。
 ハーレイと二人で出掛けた先で、会うかもしれない口の利けない男の子。
 その子の名前がリオだとは限らないけれど。
 まるで違った名前の子供かもしれないけれども、もしもまたリオに出会えたら。
 リオという名前で、自分を見付けてソルジャー・ブルーだと思い込む子供に出会ったら。
「ハーレイもその子と仲良くしなきゃね、キャプテン・ハーレイなんだから」
 せっかくソルジャー・ブルーとセットでいるんだし、ちゃんとキャプテン・ハーレイらしく。
 子供の相手は上手だったし、シャングリラにいた頃みたいにね。
「よしきた。お前が嫁さんなことがバレないように気を付けて話をしないとな」
「そっか…!」
 ソルジャー・ブルーがお嫁さんだと、リオは感激している場合じゃないものね。
 キャプテン・ハーレイにお嫁さんがいて、それがソルジャー・ブルーだなんて…。
 きっとビックリ仰天しちゃって、夢が台無しになっちゃうものね。



 ソルジャー・ブルーがキャプテン・ハーレイのお嫁さんだとバレてしまったら大変だから。
 リオという名の子供に会ったら、ソルジャー・ブルーだと思い込まれたら、その時は遥かな昔に白いシャングリラでやっていたように、恋人同士ではないふりを。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、ただそれだけの二人なふりを。
「そんなふりをするのも、楽しいかもね?」
 とっくに結婚しちゃっているのに、全く関係ありません、って顔で。
「楽しいかもなあ、そういう遊びをするのもな」
 そうするためには、結婚指輪もコッソリ外しておかんとな?
 いや、その年くらいの子供だったら、指輪をしてても何の意味だか気付かんか…。
 とにかく、リオの夢は大切に守ってやろうじゃないか。
 本物のリオにもう一度バッタリ出会ったつもりで、子供になっちまったリオの夢をな。



 口が利けない、握手のマークのリオという名の男の子。
 その子に会ったら、結婚指輪を嵌めていたって、結婚していないように振舞う。
 子供の親にはカップルなのだとバレるだろうけれど、子供の夢は壊さないように。
 小さなリオはソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイに会ったと信じているのだから。
 凄い二人に会ってしまったと、本物なのだと、大感激のリオなのだから。
 たまにはそういう休日もいい。
 結婚している二人だけれども、リオの前でだけは他人のふりで。
 リオの夢は守ってやりたいから。
 本物のリオを今も覚えているから、そのリオの幸せな姿を重ねて、思い描いて他人のふりで…。




           リオの思い出・了

※ブルーが出会った、リオという名の男の子。本物のリオと同じで、口が利けない子供。
 今の時代は、その症状は治るのですけど、彼が名前を貰ったリオは、誰もが知っている英雄。
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(ぼくって、生まれ変わりなんだよね…)
 奇跡みたいな話だけれど、とブルーは心で呟いた。
 お風呂上がりに、パジャマ姿で。ベッドの端にチョコンと腰掛けて。
 そう、まさに奇跡のような出来事。前の自分とそっくり同じ姿形を持って生まれ変わった、この地球の上に。前の自分が行きたいと願った青い水の星に。
 前の自分の記憶が戻る切っ掛けになった聖痕、メギドで撃たれた時の傷痕をそのまま写し取った傷。大量の血が溢れたけれども、何の痕跡も残らなかった。掠り傷でさえも。
 聖痕だけでも奇跡だというのに、神の御業だと思うのに。
 それを上回りそうな奇跡が生まれ変わりで、今の自分は前の自分とそっくり同じ。銀色の髪も、赤い瞳も、顔立ちも前の自分そのもの、まだ幼いというだけのこと。育てば本当に同じ姿になり、見分けもつかなくなるだろう。そういう姿になる筈の自分。
 おまけに奇跡の生まれ変わりは自分一人に留まらなかった。同じ地球の上にもう一人。
 前の生から愛した恋人、ハーレイも生まれ変わって来た。前とそっくり同じ姿で。
 これだけ揃えば、もう偶然であるわけがない。きっと奇跡で、神の力が働いた結果。



 明日は、そのハーレイが訪ねて来てくれる週末の土曜日。
 ハーレイと一日一緒に過ごせる、二人きりの時間をたっぷりと取れる。キスは駄目だと言われているから、唇へのキスは貰えないけれど。前と同じに恋人同士でも、何もかもが前と同じようにはならないけれど。
 それでも二人、恋人同士。
 青い地球の上に生まれ変わって再び出会えた、前世の記憶を取り戻して。
 今の記憶をそっくり残して、前の自分の記憶が積み重ねられた、三百年以上の時の記憶が。
(前のぼくの記憶…)
 ソルジャー・ブルーだった自分の膨大な記憶、何かのはずみに思わぬ記憶が蘇ったりする。白いシャングリラで生きていた頃、見ていたものやら、食べたものやら。
 それは沢山の記憶があるから、探るだけでも一仕事だったり、何か発見して驚いたり。
 ハーレイと二人で幾つも見付けた、前の自分たちには無かったものやら、今の時代だから出来ることやら、様々なものを。
 何度も何度も語り合って来た、前の自分たちの遠い記憶を、生きていた日々を。



 今も遥かな遠い昔へ思いを馳せていたけれど。
 前の自分の記憶を辿っていたのだけれども、ふと浮かんだのが生まれ変わりという言葉。さっき心で呟いた言葉。きっと奇跡だと、神の力が働いたのだと。
(前のぼくの前は…)
 誰だったろう、と前の自分の記憶を探っても、その中には無い前世の記憶。
 ソルジャー・ブルーとして生まれ落ちる前は何処にいたのか、その前の自分は誰だったのか。
 まるで分からない、手掛かりさえも見付からない。前の自分は自分でしかなくて、前世の記憶は何も無かった。ほんの小さな欠片でさえも。
(…なんにも無い…)
 そもそも前の自分自身が意識してさえいなかった。自分になる前は誰だったのかを考えることもしなかった。前世の記憶は持っていなくて、思い出すことも無かったから。
 あの忌まわしい成人検査で記憶を失くしてしまったけれども、前世の記憶もそのせいですっかり消えたわけではないだろう。
 生まれ変わり自体が珍しいもの、それを指し示す言葉はあっても、生まれ変わりの例は少ない。
 前の自分も恐らく最初から、全く持ってはいなかったのだろう。前世の記憶というものを。
 生まれて来る前には誰だったのかも、何処で暮らしてどう生きたのかも。



(前のぼくとハーレイ…)
 惹かれ合った運命の恋人同士。今も二人で生まれ変わって来た、この地球の上に。
 再び出会って、今度こそ共に生きてゆこうと誓い合ったけれど。いつか結婚して共に暮らそうと決めているけれど、前の生で二人、惹かれ合う前はどうだったろう。
 アルタミラで出会ったあの生の前は、自分とハーレイは何処でどうしていたのだろう。
 全く知らない者同士だったというのだろうか?
 一度たりとも出会うことなく、互いに互いの顔も姿も知らずに生きてその生を終えただろうか?
(そうだとしたら、寂しいけれど…)
 出会いもせずに生きていたなら、とても悲しくて寂しいけれど。
 それとは逆に恋人同士で、寄り添い合って暮らしていたのに、忘れてしまったというのも寂しく思える、二人の思い出を失くしたのなら。前の自分になる前の恋を忘れて生きていたのなら。



 けれども、前世のその前の記憶は全く無くて。
 いくら探しても欠片すらも無くて、前の自分が考えた記憶もまるで残っていないから。三百年を超える記憶の中には、前の自分の前世を知ろうとしていた痕跡すらも見当たらないから。
(前のぼくの前は、ハーレイとは赤の他人だったの…?)
 もしも前のハーレイが前世の記憶を持っていたなら、前の自分も探しただろう。二人で暮らした前世の記憶を思い出そうと努力に努力を重ねただろう。
 それを一切しなかったからには、前の生の前には何も無かったに違いない。次の生まで引き継ぐ記憶も、そうして出会いたいほどの固い絆も。
(やっぱり、他人…?)
 前のハーレイと出会う前には、と溜息をついて悲しくなった。
 こんなにハーレイが好きなのに、と。
 前の自分の記憶の中でも、今の自分の心の中でも、ハーレイが誰よりも好きなのに…。



 青い地球の上に二人で生まれ変わるまでは、きっとハーレイと一緒にいた。片時も離れず、手を握り合って。抱き合って二人、同じ所に。
 日に日に強くなる、その感覚。
 前の生での命が尽きた後には一緒だったに違いないと。長い長い時を二人で過ごして、その後に地球に生まれ変わった。また出会えるよう、もう一度二人で生きてゆけるように。
 そしていつかは、其処へと還る。二人一緒に、生まれ変わる前にいた場所へと。
 きっとそうだという気がするから、二人でいたと思えるから。
(前のぼくたちも其処から来たの…?)
 それが何処かは分からないけれど、ハーレイと共にいられた場所。二人一緒にいられる場所。
 前の自分たちも其処からこの世に送り出されて、そしてアルタミラで出会ったろうか。
 必ず出会うと定められていた、運命の二人だったのだろうか。



(それなら、とっても嬉しいんだけど…)
 そうであって欲しいと思うけれども、無い記憶。ほんの小さな欠片ですらも。
 前の自分のその前は無い。
 ソルジャー・ブルーだった自分の、その前が誰であったのかは。
(…ハーレイの方はどうなんだろう?)
 前のハーレイは何も語りはしなかったけれど、もしかしたら覚えていたのだろうか?
 自分の前世が誰であったか、前の自分のその前が誰であったのかを。
 前の生では尋ねようとさえ思わなかったから、ハーレイは語らずにいたかもしれない。自分しか持たない前世の記憶を話してしまえば、前の自分はきっと悲しんだに違いないから。思い出せない自分を激しく責めて、きっと苦しんだに違いないから。
(ハーレイなら、きっとそうするんだよ…)
 前の自分が何も覚えていなかったのなら、それに合わせて振舞ったろう。思い出させようとすることはやめて、それでも愛してくれただろう。前世の自分が恋した相手を、愛した人を。
 だとしたら、可能性はある。ハーレイが前よりも前の自分を、二人の絆を、忘れずに覚えている可能性。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが、その前はどんな二人だったかを。
(…訊いてみるだけの価値はあるよね?)
 明日は訊こう、とメモを取り出して書き付けた。
 一晩眠っても忘れないよう、「前のぼくたちの前世のこと」と。



 次の日、目覚めて見付けたメモ。そうだった、と脳裏に蘇った昨夜のこと。
 是非ハーレイに訊かなければ、と心に刻んで、恋人が訪ねて来るのを待って。部屋でハーレイと向かい合わせに腰掛け、鳶色の瞳を覗き込んだ。
「ねえ、ハーレイ。…前のぼくたちの前を覚えてる?」
「はあ?」
 なんだそれは、と怪訝そうな顔をされたから。
「前のことだよ、前のぼくたちの前世」
「前の俺たちだろ? 俺たちは生まれ変わりなんだし、俺たちの前世は前の俺たちだ」
「違うよ、その前のことだってば! 前のぼくたちになる前のことだよ!」
 前の前のことを覚えているの、と尋ねたのに。
 前の自分は聞いていないけれど、もしかしたら…、と確認してみたのに。
「…すまん、記憶に無い」
 まるで全く覚えてないんだ、前の俺になる前は誰だったのか。何処にいたかも、何をしたかも。
「ハーレイもなの…?」
 ぼくも覚えていないから…。
 ハーレイだったら覚えてるかも、って訊いてみたけど、やっぱり覚えていないんだね…。



 ぼくとハーレイは運命の二人だと思うのに、と言ったけれども。
 生まれ変わる前は何処かで二人一緒に時を過ごして、其処から地球へ来たのだろうと。前の前もきっと同じ場所からこの世に生まれて、あの日、アルタミラで出会ったのだと言ったけれども。
「はてさて、そいつはどうなんだかなあ…?」
 記憶が欠片も残ってないんだ、前の前もお前と一緒だったかどうかは分からん。
 此処へ来る前は一緒だったという気はしてもだ、その前までは前の俺も考えなかったからな。
 前のお前が誰かの生まれ変わりかも、と思ったことすら一度も無かった。前のお前がいれば充分満足だったし、前のお前に生まれて来る前は誰だったかなんて気にしたことも無かったな…。
「それなら、前のぼくたちの前はハーレイとは赤の他人だったの?」
 ハーレイとは会ったことも無くって、名前なんかも知らないままで。ハーレイも前のぼくの前の誰かを見たことも無くて、名前も知らずに終わっちゃった…?
「それもなんだか寂しいなあ…」
 せっかくこうして一緒にいるのに、前の俺たちも一緒にいたのに、その前が赤の他人ではな。
「でしょ?」
 他人だったなんて、あんまりだよ。そんなこと、あって欲しくないのに…。
 前のぼくの前も、ハーレイと出会っていて欲しいのに…。



 そう思うけれど記憶など無い、前世の前世。
 ハーレイと一緒だったと思いたいのに、二人とも何も覚えていない。自分も、ハーレイも、二人揃って覚えてはいない、前の自分たちの前世のことを。
 ハーレイがフウと溜息をついて。
「…お前に言われて気になって来たが、前の俺たちほど派手な手掛かりだって無いしな…」
 どうやって探せばいいのか分からん、手掛かり無しじゃな。
「手掛かりって…? 前のぼくたち、何か派手だった?」
「今の俺たちの姿形というヤツだ。周りのヤツらに「生まれ変わりか?」と訊かれるだろうが」
 俺はもちろん、お前も何度も訊かれた筈だぞ。それこそ記憶が戻る前から。
 そういう手掛かり、前の俺たちの前にもあったか?
「無いね…」
 ヒルマンとエラはデータベースで調べ物をするのが好きだったけれど、前のぼくたちと同じ顔の人を見付けたんなら言ってくるよね。生まれ変わりかどうかはともかく、話の種に。
 そういう話は聞いていないし、前のぼくたちにそっくりな顔の有名人はいなかったんだね…。



 ハーレイはともかく、ブルーはアルビノ。
 成人検査で変化してしまった途中からのアルビノとはいえ、それ自体が珍しい存在なのに。今のブルーも生まれながらのアルビノなのだし、前の前にもアルビノだったかもしれないのに。
 残念なことに、シャングリラのデータベースに入っているほどの有名人のアルビノはいなかったらしい。そういう人物がいたとしたなら、ヒルマンたちが見付けただろうから。
「前のぼくの前は誰だったのか。…アルビノの記録、端から探せば分かるかな…?」
 SD体制に入るよりも前のデータも残ってるんだし、頑張って端から探していけば。
 そうやって前の前のぼくを見付け出せたら、ハーレイの記録も出て来るのかな…?
「おいおい、記録に残るよりも前ってことだってあるぞ」
 ついでに、データベースに登録しないってこともあるから、そうなっていたらまず無理だ。
「そっか…。そういう人も大勢いるよね、マザー・システムが出来る前なら」
 登録するために出掛けてゆくのも面倒だから、って放っておいた人も多かったんだし…。
 きちんと登録していた人でも、写真は入れずに名前だけとか。
 それだとアルビノだったかどうかも謎だし、顔だってまるで分からないよね…。



「うむ。それに人とも限らないしな」
「え?」
 何のことか、とブルーは赤い瞳を瞬かせたけれど。
「前のお前の、そのまた前さ。前のお前はソルジャー・ブルーで、凄かったが、だ」
 顔も名前も誰もが知ってる大英雄だが、今のお前は普通だろうが。
 ソルジャー・ブルーにそっくりなだけの、ごくごく平凡な子供ってヤツで。
「うん。…サイオンもまるで使えないしね」
 前のぼくと同じでタイプ・ブルーなのに、ぼくはとことん不器用だから。
「ほらな。ソルジャー・ブルーの生まれ変わりでも、今じゃ普通の子供なんだ」
 前のお前の、その前となるとどうだったんだか…。
 お前みたいに平凡どころか、人じゃなかったかもしれん。
 俺もお前も人間に生まれていたわけじゃなくて、記録も残らないような動物だったのかもな。



 たとえばウサギ、とハーレイは片目をパチンと瞑った。
「お前、幼稚園に行ってた頃にはウサギになりたかったんだろう?」
 その上、お互い、今はウサギ年だ。教えてやったろ、干支が同じでウサギ年だと。
 だからだ、ウサギだったかもしれんな、前のお前に生まれる前はな。もちろん、俺も。
「ウサギって…」
 ぼくもウサギで、ハーレイもウサギ?
 前のぼくたちになって出会う前にはウサギだって言うの…?
「無いとは言えんぞ、ウサギというのも」
 ウサギのカップルだったんじゃないか、前の俺たちの、そのまた前は。
 白いウサギと茶色のウサギで、何処かの野原で暮らしてたとかな。
「…そんなのがソルジャー・ブルーになれる?」
 ウサギがソルジャー・ブルーになれるの、それにシャングリラのキャプテンにも…?
 だってウサギだよ、ピョンピョン跳ねてるだけなんだよ…?
「それを言うなら、ソルジャー・ブルーがお前になったが?」
 甘えん坊でチビで、サイオンの扱いはうんと不器用で、似ている所は顔だけだってな。
 キャプテン・ハーレイの方にしてもだ、ただの古典の教師になってしまって見る影も無いぞ。
 宇宙船を動かせる免許も持っちゃいなくて、普通の車で道路を走るのが精一杯だと来たもんだ。
 うんとレベルが落ちちゃいないか、俺もお前も、前に比べて。
「落ちてるね…。それじゃ、反対にウサギの出世も…」
 何処かの野原で跳ねてたウサギがソルジャー・ブルーになっちゃうってことも…。
「まるで無いとは言い切れないだろうが、前の俺たちがこうなんだから」
 落差ってヤツを考えてみたら、ウサギがソルジャー・ブルーになっていたって、俺は驚かん。
 前の俺の前はウサギだったと誰かが言っても、ストンと納得しちまうだろうな。



 ハーレイが言い出した、前の自分たちの前はウサギかもしれないという話。
 もしも本当なら、どういうウサギだったのだろうか、と半ば遊びで語り合った。
 きっとSD体制が始まるよりも遥かな昔の、青かった地球。其処に生まれた二匹のウサギ。白い毛皮で赤い瞳を持ったウサギと、茶色の毛皮で鳶色の瞳をしたウサギと。
 どちらも雄のウサギ同士で、本来だったら、出会った途端に喧嘩になるのに。縄張り争いをする雄同士なのに、どういうわけだか、喧嘩の代わりに仲良くなって。
 いつの間にやら同じ巣穴で暮らし始めて、ウサギのカップル。
 白いウサギと茶色のウサギで、昼の間は一緒に遊んで、夜になったら寄り添い合って眠る。同じ巣穴で、それは幸せに。
 来る日も来る日も、仲良く暮らしてゆくのだけれど…。



「…最後は肉のパイかもな」
 ハーレイの言葉に、ブルーはキョトンと目を丸くした。
「なにそれ?」
 肉のパイっていうのは何なの、パイって食べ物のパイのことだよね…?
「うんと有名なウサギの話さ。SD体制が始まるよりも前に書かれた本だな、子供向けの本」
 見たことないか、とハーレイに訊かれたピーターラビット。
 それならブルーも知っていた。たまに絵を見る可愛いウサギ。子供に人気のピーターラビット。元の絵本も読んでいたと思う、幼稚園の頃に。中身は忘れてしまったけれど。
「えーっと…。ウサギの家族のお話だよね?」
 ウサギだけれども服を着ていて、お母さんウサギはエプロンをしてて…。
「そうなんだがな…。お母さんウサギはちゃんといるんだが、お父さんウサギはいないんだ」
 ピーターラビットのお父さんだったウサギは、肉のパイだ。
 元は確かにウサギだったが、肉のパイにされてしまったわけだな。
「えーっ!」
 肉のパイって、それじゃ、死んじゃったの?
 お父さんウサギは殺されちゃったの、肉のパイになってしまったんなら…。



 知らなかった、とブルーは仰天した。幼かった頃に読んだ、可愛い絵本の残酷な中身。
 ピーターラビットの父親のウサギは事故に遭って肉のパイになったのだという。一番最初に出版された絵本の挿絵にはパイの絵が入っていたらしい。父親のウサギで作られたパイ。
「お父さんウサギは、野菜を食べに出掛けて行った畑で事故に遭ったんだ」
 そして畑の持ち主の奥さんにパイにされちまった。肉のパイにな。
「事故って…。車にはねられちゃったとかじゃないよね?」
「絵本に事故の話は書かれちゃいないが、罠にかかったか、捕まったか…」
 だが、前の俺たちの前のウサギが肉のパイとなったら、キースの出番のような気がするぞ。
「…キースが畑?」
 あのキースが畑仕事をしてるの、なんだか似合わないけれど…。畑仕事も、畑にいるのも。
「畑仕事をさせてやってもかまわないんだが、あいつの場合は狩猟だろうな」
 狩りだ、狩り。それも仕事で狩りをしている猟師ではなくて、遊びの方で。
 あの忌々しい野郎に上等な立場をくれてやりたくはないんだが…。
 汗水垂らして畑仕事で充分なんだが、あいつがやるなら遊びの狩りだ。ピーターラビットの話の国では、狩りは貴族の趣味だったんだ。



 仕事ではなくて、道楽で狩りをしていた貴族。
 馬に乗ってのキツネ狩りやら、如何に沢山の獲物を撃つかを競う狩りやら。食べる物には不自由しないのに、鳥やウサギを狩っていた。自分の腕前を披露するために。
 そういう狩りをするのがキースで、ウサギのブルーは遊びで撃たれてしまいそうだとハーレイは頭を悲しげに振った。キースに姿を見られた途端に、今日の獲物は肉のパイだと一瞬の内に。
「白いウサギは目立つからなあ、茶色いウサギと違ってな」
 ピョンと跳ねなくても、座ってるだけで見付かっちまう。あんな所にウサギがいるぞ、と。
「ぼく、撃たれちゃうの?」
 ウサギだから何もしていないのに…。メギドを沈めるわけじゃないのに。
「キースが出てくりゃ、撃たれるだろうな」
 なにしろ暇を持て余した貴族ってヤツだ、銃を持ってりゃ撃つんじゃないか?
 館に帰れば御馳走が山ほどあったとしたって、自分が撃った獲物を食うのは格別だろうし…。
 その上、珍しい白いウサギとなったら、よほど慈悲深いヤツでなければ撃つだろうさ。



 そしてあいつは撃ちそうなんだ、とハーレイは苦い顔をした。
 きっと遊びで撃つに違いないと、館に肉が余っていたって白いウサギを撃つだろうと。
 ハーレイは今もキースが嫌いだから。前のブルーを撃ったキースを、今も許してはいないから。
「もしも、お前が撃たれちまったら、俺は出て行く」
 キースの野郎がお前を撃ったら。ウサギのお前が目の前で倒れちまったら。
「出て行くって…。何処へ?」
「決まってるだろう、キースの前へだ」
 お前の仇を討ちに行くんだ、ウサギの蹴りは強いんだからな。キースに一発お見舞いしてやる、俺の後足で思い切り蹴って。
「撃たれちゃうよ? そんなことしたら、ハーレイまで…」
 キースに銃で撃たれてしまって、ハーレイだって死んじゃうじゃない…!
「かまわんさ。キースに一矢報いられたら万々歳だし、駄目でも一緒に肉のパイだ」
 お前と一緒に肉のパイになれるんだったら、俺は撃たれてもかまわないんだ。
 キースに蹴りをお見舞い出来ずにパイになっても後悔はせんな、お前と一緒にパイなんだから。お前を失くして生きてゆくより、一緒に肉のパイになる方が遥かに素敵だろうが。
 パイになってもお前と一緒だ、キースに食われる時も一緒だ。



 そういうウサギのカップルだったかもな、と微笑むハーレイ。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイになる前の俺たちの前世、と。
 同じ巣穴で仲良く暮らして、一緒に眠って、同じ肉のパイになってまで一緒だったから。
 最後まで離れずに一緒にいたから、次も二人で生まれて来たと。
 ウサギから人になったけれども、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったけれども。
「ハーレイと一緒にウサギのパイ…」
 前のぼくたちの前は肉のパイなの、ウサギに生まれて?
 キースの遊びで撃たれてしまって、二人で肉のパイだったわけ…?
「嫌か、ウサギのカップルで最後は肉のパイになるのは?」
 そんな悲惨な結末よりかは、今みたいに普通の人間がいいか、俺と二人で…?
「ううん、ハーレイと一緒だったらウサギのカップルでいいよ」
 おんなじ巣穴で一緒に暮らして、一緒に遊んで。
 もしもキースに撃たれちゃっても、それまでのぼくは、うんと幸せだと思うから。
 ウサギのハーレイといつも一緒で、眠るのも一緒。
 それに…。



 ハーレイが追い掛けて来てくれるんなら、と嬉しくなった。
 ウサギの自分が撃たれてしまったら、仇を討ちにキースを蹴りにゆくと言ってくれたハーレイ。姿を見せてしまったら最後、たとえキースを蹴れたとしたって、ハーレイも撃たれてしまうのに。
 逃げ切る前に一発撃たれて、ハーレイも肉のパイになるのに。
 そうなることが分かっているのに、ウサギのハーレイはキースの前に出てゆくという。同じ肉のパイになれるのならいいと、パイになっても二人一緒だと。
 前の自分もその約束をして貰ったのに、それは叶わなかったから。
 前の自分の寿命が尽きる時には一緒に逝くとハーレイは誓ってくれていたのに、叶わないままで終わったから。
 ハーレイをシャングリラに独り残して、メギドへ飛んでしまった自分。
 ジョミーを頼むと言葉を遺して、ハーレイに後を追わせなかった。ミュウの未来を守るためにはハーレイが必要だったから。シャングリラを地球まで運ぶためには、キャプテン無しでは駄目だと充分に分かっていたから。
 だからハーレイは最後まで一緒に来てはくれなかった、独りで死んでゆくしかなかった。
 けれども、ウサギのハーレイは違う。肉のパイになっても最後まで一緒で、自分を最後まで追い掛けてくれる。本当に最後の最後まで。肉のパイになってキースに食べられるまで。



 なんという幸せなウサギだろうか、とブルーは前の自分の前のウサギを思い描いた。
 地球が滅びてしまうよりも前の遠い昔に、何処かの野原で跳ねていたウサギ。真っ白なウサギ。茶色いウサギのハーレイと出会って、一緒に暮らして、そして最後は…。
「ぼくはかまわないよ、肉のパイでいいよ」
 ハーレイと一緒に、肉のパイ。キースの遊びで撃たれちゃっても、肉のパイでも。
「ウサギでいいのか、前のお前のその前ってヤツは?」
 白いウサギと茶色のウサギのカップルでいいのか、俺もお前もウサギ同士で。
「うん、なんとなく納得したから」
 きっとハーレイと一緒だったら、ぼくは幸せになれるんだよ。
 野原で暮らして、巣穴で眠るウサギのカップルでも。
 キースが出て来て遊びで撃たれることになっても、肉のパイでも、ハーレイと一緒なんだから。



 そんな前世でかまわないよ、と笑顔で応えた。
 ソルジャー・ブルーになる前の自分、それよりも前の前世の自分。
 偉くなくても、人でなくても、幸せなら…、と。
 ハーレイと二人で暮らすことが出来て、最後まで二人、離れることなくいられたのなら…、と。
「おいおい、最後は肉のパイだぞ?」
 俺もお前も肉のパイにされて、キースに美味しく食われるんだが…?
 俺はお前を追い掛けるんだから、肉のパイでも悔いの無い人生っていうヤツなんだが…。
 ウサギで人生というのも妙だが、俺は満足して死ねる。しかし、お前は…。
 俺よりも先に撃たれちまった白いウサギは、ちゃんと幸せだったかどうか…。
「幸せだったに決まっているよ。ハーレイと一緒に暮らしたんだから」
 それに、撃たれて肉のパイになるのは、キースが出て来た時だけでしょ?
 キースなんかが出て来なかったら肉のパイにはならないよ、きっと。
 最後までハーレイと幸せに暮らして、死ぬ時もきっと、どっちが先でもないんだよ。二人一緒に寝ている間に天国に行って、気が付いたら天国に着いてるんだよ…。



 前の自分の、その前の前世。ウサギだったかもしれない自分とハーレイ。
 白いウサギと茶色いウサギで仲良く暮らして、最後は肉のパイかもしれない。キースに撃たれて二人一緒に、肉のパイになって。
 そうは言っても、何も起こらず、天寿を全うしたウサギのカップルかもしれないから。
 最後の最後まで幸せ一杯に生きたウサギだったかもしれないから。
 ウサギだった前世も悪くないと思う、ハーレイと二人で野原で暮らしていたウサギ。
(でも、肉のパイになったとしたって…)
 きっとかまわない、肉のパイでもかまわない。
 キースに遊びで撃たれる最期は癪だけれども、ハーレイが追い掛けて来てくれるから。キースに蹴りをお見舞いしようと飛び出してくれて、その蹴りがキースに届かなくても、最後は一緒。
 ハーレイと二人で肉のパイになって、食卓に上る。同じパイになって、同じテーブルに。
 そうしてキースに食べられるけれど、最後まで一緒なのだから。
 肉のパイになっても二人一緒で、二人で天国へゆくのだから。
 前の自分はハーレイと一緒に行けなかったけれど、ウサギだった自分はそれが出来るのだから。



 そう考えたら、ウサギだった前世も幸せだろうと思うから。
 たとえ最後が肉のパイでも、ハーレイと一緒で幸せだったと思うから…。
「ねえ、ハーレイ。…ウサギのパイって、どうやって作るの?」
 肉のパイの作り方、ハーレイ、知ってる?
 ぼくはウサギのお肉を売ってるお店も、一度も見たことないんだけれど…。
「ん? それはな…」
 まずはウサギを捌く所からだな、毛皮がついてちゃ食えんしな?
 こら、間違えるなよ、俺がウサギを撃ったわけではないんだからな。あくまで知識だ、ウサギの肉の料理の仕方というヤツだ。
 それでだ、ウサギのパイはだな…。



 頭を切り落とす所から始まる、ウサギのパイの作り方。
 ハーレイは作ったことがあるのか、それとも単なる知識なのかは分からなかった。
 「美味いんだぞ」と言われただけで。
 そういうパイが食べられる店も知っているから、いつか一緒に食べに行くかと誘われただけで。
 前世の話からウサギのパイへと少し話は外れたけれども、幸せな土曜日。
 ハーレイと二人、前世のその前は肉のパイかも、と笑い合いながら。
 前の前の自分たちの味がするパイを食べに行こうかと、物騒な約束を交わしながら。
 そう、肉のパイでもかまわない。そんな前世も悪くない。
 ハーレイと一緒に暮らせたのなら、最後まで一緒だったなら。
 だから今度も二人一緒に、何処までも行こう。
 手を繋ぎ合って二人、青い地球の上で…。




            前世と肉のパイ・了

※今のブルーたちは生まれ変わりですけど、前のブルーたちの前はどうだったのか。
 もしも二人ともウサギだったら、と交わした話。たとえ最後は肉のパイでも、幸せなのです。
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