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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(ほほう…)
 お得なのか、とハーレイは棚を覗き込んだ。
 仕事帰りに寄ったいつもの食料品店。今日はブルーの家に寄れなかったから、早めの時間。
 あれこれと選んで籠に入れながら、蜂蜜の棚まで来たのだけれど。シロエ風のホットミルクには欠かせないマヌカを買いに来たのだけれど。
 其処に躍ったセール中の文字。普段は貼られていない紙が目を引く、カラフルな文字で。
(どれでも二つ買ったら割引なのか…)
 セールの対象になっている品なら、蜂蜜の種類は問わないらしい。マヌカとアカシアをセットで買おうが、マヌカとクローバーの蜂蜜だろうが。
(ふうむ…)
 お得だからといって、蜂蜜を二つ欲しいわけではないけれど。一人暮らしだからそんなに減りはしないし、二つ買ったら次の買い出しまでの期間が延びるだけなのだけれど。
 蜂蜜を二つ買えばお得で、その中にマヌカ。対象品の中にマヌカの蜂蜜が何種類も。



(あいつ、お揃いが好きだからなあ…)
 小さなブルー。お揃いに憧れているブルー。
 出会って間もない頃には、教えてやった白いシャングリラの写真集がお揃いなのだと何度も口にしたものだ。ハーレイと同じ写真集だと、この写真集はお揃いなのだと。
 別々に買った本なのに。自分が先に書店で見付けて「少し高いが懐かしい写真が沢山あるぞ」と話してやったら、小さなブルーは父に強請って手に入れた。シャングリラの写真自体も気に入ったようだが、それ以上に「お揃い」にこだわった。同じ本だと、お揃いの本を持っていると。
(何かと言えば俺とお揃いなんだ)
 そんな持ち物は殆ど無いのに。
 シャングリラの写真集の他には、二人で写した写真を収めたフォトフレームくらいしかブルーは持っていないのに。
(あいつにかかれば、マーマレードだってお揃いだしなあ…)
 夏ミカンの金色のマーマレード。隣町の家で母が作ったマーマレード。
 届けてやる度、お揃いなのだと喜んでいる。朝の食卓の味がお揃いになる、と。



 食べれば無くなるマーマレードさえも、お揃いだと言い出すブルーだから。
 ハーレイの家とお揃いの味だと、瓶に頬ずりしてしまいそうなブルーだから。
 自分が食べるのと同じマヌカを「土産だ」と持って行ってやったら喜ぶだろう。大喜びで何度も瓶を眺めて、お揃いだと笑顔になるだろう。
 明日はブルーの家を訪ねる土曜日だから、丁度いい。
(うん、此処はセットで買うべきだってな)
 同じのを二つ、と籠にマヌカの蜂蜜の瓶を突っ込んだ。
 何種類かのマヌカが置いてあるけれど、味は大体分かっているから、ブルー好みの甘いものを。
 レジに運んでゆけば、「セール中ですから」と割り引いてくれた。二つでかなりお得な値段。
 家に帰って、念のためにと片方を開けて味見してみて。



(よし!)
 薬っぽくはないな、と大きく頷いた。
 マヌカには癖のあるものも多くて、小さなブルーは一番最初にそれに当たった。薬っぽい味に。
 シロエ風のホットミルクを飲めば身体が温まるからと、右手が凍えるメギドの悪夢を避けられるからと勧めてやったら、母に「作って」と頼んだブルー。
 シナモン入りでマヌカ多めのセキ・レイ・シロエ風を頼んだブルー。恐らく勇んでシロエ風のを飲んだのだろうに、生憎と母が買ったマヌカが薬っぽい味だったものだから。
 「薬っぽい味だよ!」と聞かされた苦情。マヌカのせいだと、お母さんに試食して選んで貰えと言ってやったら、それから後には何も文句を言わなくなった。
(薬っぽいのは駄目なんだ、あいつ)
 あくまで甘いマヌカでなければ、小さなブルーのお気には召さない。その点、今日のは及第点。これなら自信を持って贈れる、「土産だぞ」と。
 明日はブルーにプレゼントだ。自分の家のとお揃いのマヌカを。



 翌日の土曜日、開けていない方のマヌカの瓶を小さな紙袋に入れて提げて出掛けて。
 ブルーの部屋に案内されて、お茶とお菓子が出て来た後に袋から出してテーブルに置いた。
「ほら、土産だ」
 小さなブルーはガラスの瓶に貼られたラベルを観察しながら。
「…マヌカ?」
「ああ。シロエ風のホットミルクには欠かせないしな」
 飲んでるんだろ、少し冷える夜は。ホットミルクは温まるからな。
「うん、でも…。なんでくれるの?」
 マヌカなんか一度も貰っていないよ、ハーレイからは。もっと普通の蜂蜜だって。
「割引だったからな。二つ買ったらお得だと書いてあったんだ。セールってヤツだ」
 たまにはお揃いもいいだろう、とウインクしてやった。
 お前はお揃いが大好きだからと、このマヌカは俺とお揃いだと。



「ありがとう!」
 案の定、感激しているブルー。マヌカの瓶に頬ずりしかねないほどに。
 予想通りの反応とはいえ、この調子だと自分の母に「今度からマヌカはこれにしてね」と、指定しそうな勢いだから。プレゼントしたのと同じものを買おうとしそうだから。
「おいおい、次からマヌカは必ずコレにしようとか思うなよ?」
 俺の定番ってわけじゃないんだ、買う度に色々変えてるからな。その中の一つというわけだ。
 お前がコレだと決めて買っても、俺は違うのを食っているかもしれないからな。
「そうなの?」
 いつも決まったヤツじゃないんだ、ハーレイのマヌカ…。
「うむ。何種類かを渡り歩いているってトコだな、今度はコレだ、と」
 今回はお前の舌に合わせて甘いのを選んだ。薬っぽいのは嫌なんだろ、お前?
 俺はああいうのも嫌いじゃないが、と話してやったら。
「えーっと…。渡り歩くって、同じマヌカの蜂蜜だけで?」
 他の蜂蜜も色々あるのに、マヌカを渡り歩いているの?
「まあな。前にはそこまでしていなかったが…」
 何も考えずに買ってたんだが、シロエ風だってことになるとな。
 シロエが好きだったマヌカってヤツはどれだろうか、と想像したくもなるってもんだ。シロエを追うなら一つに決めてしまうよりもだ、色々な味を試さないとな?
 薬っぽいのから甘いヤツまで、その時の気分で色々と買えば、どれかがシロエと重なりそうだ。



 シナモンミルクをマヌカ多めで。それがシロエが好んだミルク。
 前のブルーはシロエの声を聞いたというから、最期の思念をどうやら捉えていたらしいから。
 ハーレイにとってもシロエは少し特別な存在になった。彼に近付きたくなった。
 だからこれだと決めていないマヌカ、シロエが好んだ味はこれだと分からないマヌカ。なにしろ味わいが違いすぎるから、どれとも決められないマヌカ。
 小さなブルーは貰ったマヌカの瓶を見詰めて、不思議そうに蓋をチョンとつついた。
「マヌカの蜂蜜…。どれもマヌカなのに、どうして味が違うんだろうね?」
 薬っぽかったり、甘かったり。…全部が薬っぽい味とかだったら分かるんだけど…。
「木が育った土地によるんだろうな。土の性質とか、気候だとか」
 元々が癖のある花の蜜なだけに、うんと違いが出るんだろう。同じマヌカの花でもな。
「ふうん…? 花の蜜の味が変わるんだ?」
「マヌカは味の差が大きいんだろうな、他の花の蜂蜜と違ってな」
 蜂蜜にも色々種類があるだろ、アカシアだとかレンゲだとか。花の種類で風味が違うし、好みの蜂蜜を選ぶわけだが…。マヌカはそいつを一種類の中でやってるわけだな、いろんな味で。



「そっか…。色々な種類の花の蜂蜜、あるものね」
 味だけじゃなくて色まで違うよ、透明だったり、白っぽかったり…。うんと濃い色のも。お店にズラリと並んでるのを見たら、まるでジュースの瓶みたいだよ。同じ蜂蜜でも種類が色々。
「そうだな、今度は選び放題になったってな」
「えっ?」
 何が、とブルーがキョトンとするから「蜂蜜だ」と答えてやった。今度は好きに選べると。
「シャングリラじゃ選べなかっただろうが。蜂蜜と言ったら、単に蜂蜜だ」
 いろんな花の蜜を集めたヤツでだ、一種類には絞れなかったろう?
 あの花の蜂蜜を食ってみたい、と思い付いても、出来たのはせいぜい味見くらいか…。蜜の量がそんなに無かったからなあ、シャングリラ中の仲間が好きに選べるほどにはな。
 ついでにマヌカは影も形も無かったぞ。シャングリラの何処を探してもな。
「そうだっけね…」
 蜂蜜はあっても、クローバーの蜂蜜だけとか、そんな風には出来なかったね。
 あの船の中で咲いていた花、全部の蜜を集めて混ぜるのだけが精一杯で。



 シロエ風のホットミルクを作りたくても、マヌカが無かったシャングリラ。
 もしもマヌカの木があったとしても、その蜜だけで蜂蜜を作れはしなかった。シャングリラ中の仲間に行き渡るだけの量の蜜が採れはしないから。マヌカの蜜だけでは足りないから。
 花の種類の数だけの蜂蜜が作れることなど、けして無かったシャングリラ。
 人類は贅沢に暮らしていたのに。
 教育ステーションの生徒に過ぎないシロエでさえもが、マヌカを注文出来たのに。
 ステーションの中で蜂蜜は作っていなかったろうに。
 シロエが好んだマヌカの蜂蜜は、宇宙船で何処からか運ばれて来ていたものだったろうに。
 ただの生徒が好みの蜂蜜を選んで食べられた教育ステーション。
 自給自足でやっていたのに、蜂蜜の種類を選べなかったシャングリラ。
 その差はかなり大きいな、とハーレイが記憶の彼方の白い船へと思いを馳せていたら…。



「そういえば、シャングリラのミツバチ…」
 小さなブルーが白い船の名前を口にしたから。
「ん?」
 シャングリラのミツバチがどうかしたのか、お前も蜂蜜、気になるのか?
「えーっと…。蜂蜜の方もそうなんだけど…。それを集めていたミツバチだよ」
 今でもいるのかな、あのミツバチ。…前のぼくたちが飼ってたミツバチ。
「ああ、あれな…!」
 特別なミツバチだったっけな、と頷いた。
 普通のミツバチとは違っていたと、見た目には同じだったけれども、と。
「思い出した、ハーレイ?」
 あのミツバチって、その辺を飛んでいるのかな?
 今でも何処かで飛んでいるかな、花の蜜を集めに、何処かでせっせと。



「いや、あれは…。あいつらは地球にはいないだろうなあ…」
 恐らく、いない。今の地球は遠い昔とそっくり同じに戻されちまったらしいしな。
 ヤツらには向いていないのさ。昔の姿を取り戻した地球は。
「…やっぱり?」
 探したって飛んでいないんだ…。前のぼくたちがお世話になったミツバチ。
「もしかしたら、研究施設に行ったら飼っているかもしれないが」
「そういうものなの?」
 ナキネズミみたいに絶滅しちゃったっていうわけじゃないのかな、あのミツバチは。
「今だってテラフォーミングの技術ってヤツはあるんだからな」
 人間が住める星になるよう、改造する技術は今の時代も現役なんだ。そうなってくると、あれも必要になるだろう。ナキネズミと違って役に立つんだ、あのミツバチは。
 更に改良が進んだかもしれんが、何処かにはいるさ。地球じゃなくても、何処かの星にな。
「そうかもね…」
 植物を植えて育てるんなら、ミツバチ、必要になるものね。
 最初からうんと広い範囲を緑化できない環境だったら、あのミツバチの出番だよね…。



 シャングリラで自給自足の生活をしようと皆で取り組み始めた頃。
 花粉を運ぶ虫が必要だから、とミツバチを導入しようとした。
 けれど…。
「例のミツバチなんだがね」
 長老たちが集まる会議の席でヒルマンが髭を引っ張った。
「何か問題があるのかい?」
 ブルーの問いに、ブラウがヒラヒラと手を振りながら。
「普通のミツバチだと駄目なんだってさ、この船ではね」
「どういう意味だい?」
 重ねて投げ掛けられた質問。答えを返したのはエラだった。
「空間が限られ過ぎているのです、ソルジャー」
 シャングリラの中だけでは難しいでしょう、という説明。
 ミツバチを育ててゆくために必要な沢山の花。農場ならばともかく、これから作る予定の公園。そういった場所にはミツバチは適応できない、と。



「要するに、空間が狭すぎるのだよ」
 沢山のミツバチが生活出来るだけのスペースが無い、というヒルマンの指摘。彼らを養うための花の蜜にしても、公園などでは充分に確保できないと。
「それなら、ミツバチの数を減らせば…」
 花の数やスペースに見合った数のミツバチを飼えば、とブルーが言ったが、ヒルマンは首を横に振った。それではミツバチの社会が成り立たないと。僅かな数では巣も作らないし、次の世代さえ生まれないのだと。
「ミツバチってヤツはそうらしいよ」
 厄介だよねえ、と腕組みしたブラウ。何の蜂でもかまわないなら、狭いスペースでも飼育は可能らしいけれども、そうなると肝心の蜂蜜がそれほど採れないらしい。ミツバチは名前の通りに蜜を集めてくれるというのに、他の蜂では蜜は二の次、三の次。
「困ったもんじゃ。同じ飼うなら、蜂蜜は是非とも欲しいんじゃがのう…」
 蜂を飼うならミツバチじゃろう、とゼルもしきりと言うのだけれど。
 そのミツバチは沢山の蜂で構成された巣を作る性質を持っていた。女王蜂を頂点に暮らす彼らが巣を分ける時は、山ほどの蜂が群れを成してついてゆくらしい。
 このくらいだそうだよ、とヒルマンが両手で示した巣分かれの折のミツバチの塊、それは小さな鍋ほどもあって。どのくらいのミツバチが詰まっているのか、百や二百では済まないだろう。
 彼らを小さな公園に放しても、直ぐに飢えるに決まっている。蜜が足りなくて。



「…では、公園でミツバチを飼うのは諦めろと?」
 他の蜂にするしかないのだろうか、と尋ねたブルーに、ヒルマンは「いや」と答えを返した。
「解決策は一応、あるのだがね。…人類もこうした問題に直面したらしくてね」
 そういったミツバチを作り出したらしい、という解説。
 テラフォーミング用に開発された特殊なミツバチ。広大なスペースや充分な蜜が無い惑星でも、生きてゆけるように改良されている品種。
 普通のミツバチよりも狭い範囲で巣作りをするし、巣を構成するミツバチの数も遥かに少ない。小さな公園の中であっても、充分に活動できるという。
「そのミツバチは何処に行けば手に入るんだい?」
 居場所が分かるなら、ぼくが行って奪ってくることにするよ。この船に必要なものなんだから。
 見当を付けてくれるかい、と申し出たブルー。ぼくが行こう、と。
「そういった研究をしている所か、テラフォーミング中の惑星になるね」
 ヒルマンが挙げれば、エラが「研究所の方が確実でしょう」と補足した。
「女王蜂から蜜を集める働きバチまで、ミツバチの社会が丸ごと必要ですから。同じ巣箱を奪いにゆくなら、一ヶ所で纏めて飼育している研究所のケースから奪った方が…」
「そうじゃな、混じり気なしで手に入りそうな場所も研究所じゃろう」
 他の虫だの、菌だのを持ち込まずに済むのは研究所で飼育しているものじゃろう、というゼルの言葉は確かに正しかったから。
 シャングリラの中に余分な虫や雑菌などは持ち込まないのが一番だから。
 研究所を狙おうということになった。テラフォーミングを手掛けるための研究所を。



 目標の惑星を絞り込み、人類に発見されない場所にシャングリラを停船させておいて。
「行ってくるよ」
 直ぐに戻る、と宇宙空間へと飛び立ったブルー。
 首尾よく研究所の中に入り込み、幾つも並んだケースの中からミツバチの巣箱を奪って戻った。今ある農場をカバーできる数だけのミツバチの巣箱を。
 その日からミツバチは働き始めて、後はヒルマンが必要に応じて増やしていった。
 改造が済んで白い鯨が出来上がってからは、あちこちの公園に巣箱が置かれた。広さに応じて、花の数に応じてミツバチの巣箱を一個、二個と。
 ミツバチは休まず働いていたから、いつでも蜜が集まった。
 農場でなくても、居住区に鏤められた小さな憩いの場からも、漏らさずに蜜を。花をつける木や草花があれば、シャングリラ中から集めることが出来た蜂蜜。
 巣箱を開けて取り出しさえすれば、トロリとした蜂蜜が手に入った。



「でも、あの蜂蜜…」
 種類は一つだけだったんだよね、とブルーが呟く。花は沢山あったけれども蜂蜜は一つ、と。
「ブレンドしちまっていたからなあ…」
 選ぶ自由も何もなくって、全部ひっくるめて蜂蜜だった。この花のがいい、と味見をしたって、皆に行き渡りはしないんだ。混ぜて使うしかなかったってな、シャングリラじゃな。
「うん…。今はホントにいろんな蜂蜜があるのにね」
 シャングリラにあったミツバチの巣箱も、中身は色々あったのに…。
 公園の巣箱と農場の巣箱でも違っただろうし、公園のだって、公園ごとに違っていたかも…。
 だけど混ぜたら全部おんなじ、ただの蜂蜜になっちゃってたよね。
 いつ見ても普通の金色をしてて、濃さだってまるで変わらなくって…。
 ブレンドする前に味見して回れば楽しかったのかな、あの蜂蜜。巣箱を端から開けてみて味見。
「馬鹿、刺されちまうぞ、そんなことをしたら」
「前のぼくだよ、シールドがあるよ」
 ちょっぴり開けてみればよかった、ミツバチの巣箱。
 どんな蜂蜜が入っているのか、味見しとけば良かったかも…。



 ちょっと残念、と惜しそうなブルー。好奇心いっぱいの小さなブルー。
 ソルジャー・ブルーは開けなかったけれど、小さなブルーなら巣箱を開けたがるだろう。中身を見たいと、此処のミツバチが集めた蜂蜜を味見してみたいと。
(確かに、巣箱の置いてある場所で味は違っていたんだろうが…)
 前の自分も味見して回りはしなかった。
 キャプテンだったけれど、巣箱のある場所を確認したりはしたけれど。
 蜂蜜の出来はどんな具合かと、順調に採取出来ているかとデータのチェックはしていたけれど。
 今から思えば、惜しいことをした気がしないでもない。
 白いシャングリラのあちこちに置かれたミツバチの巣箱が時の彼方に消えた今では。青い地球の上に生まれ変わって、セールの蜂蜜を選べる今では。
(どんな蜂蜜があったんだかなあ…)
 公園の花たちを思い浮かべる。
 季節によって、公園によって違っていた花、様々な花たち。
 農場で咲く花も色々だった。畑と牧場ではまるで違うし、ミツバチが集めて回っていた蜜も全く違ったのだろう、巣箱によって。それが置かれた場所によって。
 けれども、大勢が暮らす船だから。何種類もの蜂蜜を揃えて楽しむ余裕は無かったから。
 一種類の花のものだけを集めた蜂蜜は一度も作れなかった。
 常にブレンド、農場やあちこちの公園のものを。
 色も味わいもまるで変わり映えのしない、金色の蜂蜜が出来ていただけ…。



「ねえ、ハーレイ。シャングリラの蜂蜜、一種類しか無かったから…」
 混ぜちゃった分しか無かったから、とブルーがマヌカの瓶を指先でそっと撫でてみて。
 蜂蜜の色をガラス瓶越しに覗き込みながら、ラベルに刷られたマヌカの花の写真を見ながら。
「シャングリラにマヌカを植えていたって無駄だったろうね」
 こういう蜂蜜、採れないんだよね。シロエは教育ステーションでも食べていたのに…。
 ぼくたちの船じゃ無理だったんだね、他の花の蜂蜜と混ざってしまって。
「まあな。…しかしだ、それ以前にマヌカは役に立たんぞ」
 公園に植えるというなら別だが、農場に植えて栽培するにはマヌカは不向きな植物だしな。
 栽培自体は難しくないが、マヌカそのものが観賞用の花だと言うか…。
「え? でも、蜂蜜…」
 マヌカの蜂蜜、風邪の予防に効くんじゃないの?
 風邪を引いた時にも殺菌作用があるから効く、って、ハーレイ、言っていたじゃない。
「そういう程度の植物だってな、蜜には殺菌作用があるが…」
 薬としても使えるんだが、その他の部分。あまり役には立たないんだよなあ、宇宙船の中では。
 葉はハーブティーになるが、ただそれだけだ。
 この写真みたいな花は咲いても、実は食べられない。公園向きの植物ってわけだ、マヌカはな。



「それじゃ、シャングリラにマヌカを植えてみたって…」
 他の蜂蜜と混ざってしまって無駄って言う前に、マヌカが役に立たないんだ?
 公園に植えて、花が咲いたら「綺麗だなあ」って見に行くだけで。
「そうなるな。いくら蜂蜜に効果があっても、ブレンドしちまえば意味が無いしな…」
 病人用に、って別に取っておけるほどの量の蜂蜜が採れるなら別だが。
「他の花に比べて、うんと沢山の蜜が採れるわけでもないんだね?」
 マヌカを植えてある所の巣箱だけ、蜂蜜の量が多めになるっていう花でもないんだ?
「そのようだ。蜜の量が多いという話は知らないからな」
 沢山採れると有名だったら、そのように書いてあるだろう。俺はそういうデータは知らん。
「ハーレイ、マヌカに詳しいね」
「シロエ風のホットミルクをお前に勧めた以上はな」
 マヌカが何かも知らないようでは、全く話にならないだろうが。
 どういう花から採れる蜂蜜かは、きちんと押さえておくべきだってな。



 マヌカの蜂蜜だけは以前から知ってはいたが、とハーレイは笑う。
 たまに両親が買っていたから、と。
「ハーレイのお父さんたちって…。風邪の予防に?」
 風邪の季節になったらマヌカの蜂蜜を買うの?
「そんなトコだな、シロエ風にはしちゃいないがな」
 ついでに言うなら、俺の家では風邪の予防には主に金柑だしなあ…。
 マヌカを買っても薬代わりに使うよりかは、ただの蜂蜜と同じだな、うん。トーストに塗ったりして食っちまう、と。
「金柑…。あの甘煮のこと?」
 ハーレイがくれた、金柑の甘煮。お父さんたち、マヌカよりも金柑だったんだ…。
「当然だろうが。家の庭で採れるし、おふくろが山ほど煮るんだし…」
 そっちの方が馴染みの味ってな。ヒョイとつまんで風邪の予防だ、あの金柑を。
 お前、おふくろの金柑、ちゃんと食ってるか?
「うん、一応…」
 風邪を引きそう、って感じがした日は食べてるよ。ハーレイにも叱られちゃったから…。
「要するに、あまり食ってはいないな?」
 マズイと思った時だけしか食っていないんだな、お前?
「だって、金柑、もったいないし…」
 食べたら減っちゃうよ、金柑の甘煮。ぼく専用だよ、って言ってあるけど…。
「馬鹿。いくらでもあると言ってるだろうが」
 金柑の季節の終わり頃には余っちまって菓子にするほど作るんだ、あれは。
 お前が食うなら、いくらでも貰って来てやるから。



 風邪を引く前にしっかり食っとけ、とブルーの頭を軽く小突いた。
 引いてからでは手遅れだろうが、と。
「いいな、きちんと食うんだぞ?」
 風邪の予防には金柑だ。マヌカも悪くはないんだがなあ、金柑もよく効くからな。
「でも、引いちゃったら…。喉が痛くなる風邪だったら…」
 あの甘いのをまた食べられるから、とチラチラと見ている小さなブルー。
 前に喉風邪を引いてしまった時に持って来てやった、透明になるまで煮詰めた金柑。金色の飴のような柔らかい金柑をブルーは狙っているようだから。
 あわよくばあれをもう一度、と企んでいるらしい気配がするから。
「…分かった、おふくろが煮詰めた金柑だな? お前はあれを食ってみたい、と」
 そういうことなら、たまに食わせてやる。
 喉風邪なんかは引いてなくても、俺が来た時の土産にな。
「ホント?」
 お土産にくれるの、あの金柑を?
 ハーレイのお母さんが煮詰めた金柑、ぼくに食べさせてくれるんだ…?
「ああ。俺もケチではないからな」
 今日だって土産を持って来ただろ、頼まれてもいないマヌカをな。
 お前がお揃い、喜びそうだと買って来たんだ、金柑くらいはお安い御用だ。
 だから、喉風邪を引いちまう前に食っておくんだぞ、金柑の甘煮。
「うんっ!」
 金柑も食べるし、マヌカもホットミルクに入れるよ。
 風邪の予防にちゃんと使うよ、ハーレイが買って来てくれたマヌカだもの。



 ハーレイとお揃い、とブルーがマヌカの瓶を幸せそうに眺めているから。
 それは嬉しそうに顔を綻ばせて蜂蜜の瓶を見詰めているから、ハーレイの胸まで温かくなる。
(やっぱりお揃いが好きなんだな、こいつ)
 小さなブルーが大好きなお揃い、持ち物でなくても喜ぶお揃い。
 またいつか買ってやりたいと思う。
 二つでお得なフェアがあったら、ブルーの分と自分の分とで二つ。
 そうして一つをブルーの所に持って来てやろう、「お揃いのものが好きだったよな」と。
 マヌカでなくても、蜂蜜でなくても、こういう風に食べて無くなってしまうもの。
 お揃いの持ち物を買ってやるには早すぎるから。
 いくら恋人でも、小さなブルーは十四歳にしかならない子供だから。



 お揃いの持ち物を幾つも持てない代わりに、食べれば消えてしまうもの。
 そういうお揃いを作ってやろうと、買って来てやろうと思ってしまう。
 ハーレイとお揃いのマヌカを貰った、と幸せ一杯のブルーの心が弾んでいるから。
 お揃いなのだと喜びに跳ねているから、ブルーが喜ぶお揃いの食べ物を、機会があれば。
(もう牛乳はお揃いだっけな)
 四つ葉のクローバーのマークの牛乳、ブルーの家にも自分の家にも届く牛乳。
 その牛乳にお揃いのマヌカを入れたら、お揃いのホットミルクが出来る。
 シナモンを振って、セキ・レイ・シロエ風のお揃いのホットミルクの出来上がり。
(うん、ホットミルクまでがお揃いなんだ)
 小さなブルーも、その内に気付くことだろう。お揃いなのだ、と。
 気付いた時には大喜びで飛び跳ねそうなブルーだから。
 お揃いの味だと、シロエ風のホットミルクがお揃いになったと、幸せに浸りそうだから。
 また買ってやろう、お揃いが好きな小さなブルーに。
 食べて美味しいお揃いのものを。
 お揃いの持ち物を幾つも持てない間は、幾つも、幾つも、食べたら消えるお揃いのものを…。




              お揃いの蜂蜜・了

※ブルーがハーレイに教えて貰った、シロエ風のホットミルクと、マヌカの蜂蜜。
 今度はお揃いの蜂蜜を貰えたようです。シャングリラでは無理だった、マヌカの蜂蜜を…。
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(此処は…)
 ハーレイは周りを見回した。
 暗くガランとした、深い海の底を思わせる青い空間。明かりは点いているけれど、暗い。全体を明るく照らし出しはしない。
 全容が全く掴めない場所。天井は何処か、壁は何処なのか。何処かに確かに在る筈だけれど。
 それは青の間。ブルーの、ソルジャー・ブルーの私室。その入口。
 其処に自分が立っていた。たった一人で。



(何故、此処に…)
 青の間はもう、無くなったのではなかったか。白いシャングリラと共に。
 最後のソルジャーだったトォニィが解体を決めて、消えてしまったのではなかったか。
 それなのに何故、と訝りつつ。
 ふと見れば、足元に白い花びら。何の花かは分からないけれど、白い花びらが一枚、はらりと。
(花びら…?)
 青の間に花はあったろうか、と視線を上げて初めて気付いた。
 入口から奥へと緩やかに昇るスロープの両脇、埋め尽くすように白い花々。これといった種類があるわけではなくて、それはとりどりに様々な花たち。
 八重の花やら一重の花やら、大輪の花から小さな花まで。どれもが白い。白い花たち。
 まるでシャングリラ中の白い花たちを全て集めて来たかのように。
 白い鯨のあちこちに鏤められた幾つもの公園、其処に咲く花を端から摘んで来たかのように。
 白ければいいと、種類も何も問いはしないと、白い花を全て。
 咲き初めのものから満開のものまで、あれもこれもとかき集めたように。



(白い花…?)
 それ以外の色は一つも無い。青も、紫も、桃色の花も。
 ブルーは白い花が好きだったろうか、これほどに白ばかりを飾らせるほどに…?
(これでは、まるで…)
 結婚式か何かのようだ、と首を傾げた途端に思い当たった。
 葬儀なのだ、と。
 白は白でも婚礼のための白い花たちではなくて、弔いの花。送るための花。
 ソルジャー・ブルーを。
 今は亡き人の魂を送り出すために、青の間に飾られた白い花たち。
 スロープの両脇を埋めて、それが行き着く所まで。一番上にあるブルーのためのスペースまで。
 円形をしている其処の周りにも無数の白い花たちが見えた。遠すぎて形は掴めないけれど、取り巻くように飾られた白い花たち。ブルーの死を悼んで捧げられた白。白い花々。



(あそこに…)
 海の底を思わせる青の間の中、其処だけ淡い光を纏ったブルーのベッド。
 ソルジャー・ブルーが寝起きしていた天蓋つきのベッド。
 何度となく其処で夜を過ごした。ブルーを抱き締め、共に眠った。
 誰も気付きはしなかったけれど。ベッドの持ち主に恋人がいたことも、そのベッドで恋人と愛を交わしていたことも。
(…ブルー…)
 誰よりも愛したソルジャー・ブルー。気高く美しかった恋人。
 その恋人があそこに、あそこのベッドに、一人、眠っているのだろう。
 永遠の眠りに就いたブルーが。鼓動を止めてしまったブルーが。
 白い花に埋もれて、たった一人で。
 生前と同じにソルジャーの衣装とマントを身に着け、ただ一人きりで。
 この部屋には誰もいないから。
 葬儀の準備は全て整っているようだけども、ブルーの亡骸を見守る者さえいないようだから。
 誰もが忙しくしているものなのか、はたまた夜更けで皆は寝静まっているものなのか。



「ブルー…!」
 誰一人いないのは、あんまりだから。
 ブルーの魂も寂しがるから、側に居てやろうとベッドに向かって声を張り上げた。
 俺が来たからと、直ぐに其処まで行ってやるからと。
 駆け出そうとした時、脇をスルリと通り抜けた影。
 いつの間に誰が入って来たのか、と思えば、それは小さなブルーで。
 十四歳のブルー。少年の姿をしているブルー。
 ハーレイの方を振り返るでもなく、声を掛けていったわけでもなくて。
 小さなブルーはスイと通り過ぎて行った、ハーレイなど見えていないかのように。



(なんで、あいつが…)
 あのブルーが此処に居るのだろうか、と首を捻る間に、ブルーはスロープを登ってゆく。
 細っこい身体で、細っこい足で。
 白い花々に飾られた道を、上へと、ベッドの在る方へと。
 ぼうっと浮かび上がる天蓋つきのベッド。ソルジャー・ブルーの亡骸が眠っているベッド。白い花たちに取り巻かれて。弔いの花たちの中に埋もれて。
 もしも其処へと着いてしまったら…。
(死んでしまう…!)
 小さなブルーも。
 生きている小さなブルーの命も無くなってしまう。
 自分の亡骸に引き摺り込まれて。死の淵の底へ引き込まれて。
 けれどブルーは分かってはいない。きっと全く気付いてはいない。
 このスロープを登り切ったら何があるのか、自分の身に何が起こるのかも。
(此処はあいつの部屋でもあるんだ…!)
 小さなブルーに生まれ変わる前は、此処で暮らしていたのだから。
 ただ懐かしさだけで、前の自分の部屋だというだけで上を目指しているのだろう。かつて何度も歩いた道を。前の自分が慣れ親しんでいたスロープを、上へ。
 その先に何が待つかも知らずに、白い花たちが意味するものも知らずに。



「行くな、ブルー!」
 駄目だ、と叫んだ声は届かず、ブルーは振り向きさえしない。
 止めようと駆け出した足がツルリと滑った。踏み出した分だけ、後ろに戻った。
 まるで氷のようなスロープ。滑って前へと進めないスロープ。
 いや、本当に凍り付いていた。
 スロープの脇に見える水槽の水面は凍っていないのに。部屋の空気も凍てていないのに。
 それなのに凍り、鈍い光を放つスロープ。
 緩やかな弧を描くスロープだけが氷の坂となっていた。登ろうとする者の足を拒絶する氷。前へ進もうと踏み出す分だけ、後戻りさせる氷の道に。



(くそっ…!)
 登ろうとしては逆に滑って、ただの一歩も進めはしなくて。
 ふと足を見れば、いつの間にか履いていたキャプテンだった頃の自分の靴。制服までをも纏っていた。前の自分が着た制服を。
 この忌々しい靴が悪いのだ、と脱ぎ捨てようとしたけれど。
 靴さえ脱いだら滑らないだろうと、足から抜こうとしたのだけれど。
(脱げない…?)
 足から離れてくれない靴。手で掴んでみても脱げない靴。
 その間にもブルーは登ってゆく。小さなブルーは歩いてゆく。
 死への階段を、氷のスロープを、滑りもせずに。
 ハーレイに背を向け、細っこい足で、小さな歩幅で。



「ブルー! 行っては駄目だ!」
 止まれ、と声の限りに叫んだけれども、小さなブルーには届かない。
 それにブルーは気付いてもいない。
 懸命に止めている声があることも、何故その声が止めるのかも。
 懐かしさからか、好奇心からか、立ち止まりもせずに登ってゆくブルー。
 スロープの上に着いてしまったら、自分の亡骸があるというのに。近付いたら最後、自分の命もそれに飲み込まれてしまうというのに。
(止めなければ…!)
 何としても、と花を千切ってスロープに撒いた。
 白い弔いの花たちを毟り、自分の行く手に撒き散らした。
 氷の坂で靴が滑るというなら、こうすればマシになるだろう。滑り止めに花を散らしたら。
 弔いの飾りは台無しになってしまうけれども、今はそれどころではないのだから。



「止まるんだ、ブルー!」
 花を千切っては散らして、踏んで。
 前に進めるようにはなった。花は無残な姿になってゆくけれど、登れるようになったスロープ。
 そうして懸命に追ってゆくのに、縮まらない距離。
 止まってくれない小さなブルー。どんどん登ってゆくブルー。
 前の自分が暮らした場所へと、今は葬儀のために白い花で飾られたスペースへと。
「ブルー…!」
 絶叫しながら花を千切り、撒いて。
 滑り止めにと踏みしめ続けて、やっとの思いで登り切って。
「…ハーレイ?」
 どうかしたの、と小さなブルーが振り返ったけれど。
 天蓋つきのベッドの側まで近付いていた足を止めてくれたけれど。
 その身体が揺らめき、消えてしまった。瞬きする暇さえも与えずに消えた。
 赤い瞳の残像を残して、一瞬の間に。
 小さなブルーは声も上げずに吸い込まれて消えた。
 ベッドに眠った亡骸の中に。前の自分の、呼吸も鼓動も止めてしまった器の中に。



「ブルー…!」
 慌てて駆け寄り、ベッドの亡骸を抱え起こした。
 ソルジャーの衣装を着けた身体を、冷たくなってしまった身体を。
 ベッドの上には一面の花。ソルジャー・ブルーを送るための花。どれも白くて、ただ一面に。
 その花たちが折れて潰れてゆくのもかまわず、懸命にブルーを揺さぶったけれど。
 傍目には眠っているとしか見えない、美しい亡骸を揺すったけれど。
 開かない瞼、閉じたままの睫毛。
 赤い瞳は開いてくれない。小さなブルーを吸い込んだままで、飲み込んだままで。
 もう永遠に目覚めないブルー。
 後は死の国へと旅立つだけのブルーの魂。
 小さなブルーも中に居るのに、その魂も一緒に溶けているというのに。
 揺すっても、揺すっても起きないブルー。目覚めてはくれない、永遠の眠り。
 白い花の中で。
 ベッドを埋め尽くす白い花たちの中で、ブルーは二度と目覚めはしない。死んでしまったから。
 こんなに安らかな顔だけれども、傷の一つも無いのだけれど。
 その肉体は滅びてしまって、息も鼓動も戻ってはこない。小さなブルーを閉じ込めたままで。



(失くしちまった…)
 前と同じに失くしてしまった。小さなブルーを、戻って来てくれた小さなブルーを。
 ようやく取り戻した筈のブルーを、目の前で連れてゆかれてしまった。
 自分が間に合わなかったから。
 もっと早くに追い付いていれば、小さなブルーを止めていたなら、間に合ったのに。
(俺はまた失敗しちまったんだ…)
 まただ、とブルーの亡骸を抱き締めて泣いた。
 前も、今度も追い切れずに失くした。ブルーを捕まえられずに失くした。
 同じだ、と泣いて、泣き崩れて。
 目覚めてくれない亡骸を抱いて、冷たい身体を腕に抱いて泣いて…。



(…朝?)
 泣き濡れた目を開けば、朝で。
 まだ部屋の中は薄暗いけれど、耳に届いた鳥の声。白いシャングリラにはいなかった小鳥。
 青の間はもう何処にも無かった。
 腕に重さが残る気がする、冷たくなってしまったブルーの亡骸も。
(…夢か…)
 夢だったのか、と身体を起こして頭を振った。
 ゾクリと走った恐怖と悪寒。氷のスロープの冷たさが背中に貼り付いたように。
 酷い悪夢だった。そうとしか言えない、恐ろしかった夢。恐ろしすぎる夢。
 けれども、ソルジャー・ブルーの葬儀。
 出来なかった葬儀。
 白いシャングリラではしてやれなかった、出来ずに終わったブルーの葬儀。



(ああしてやるつもりだったんだ…)
 シャングリラ中の白い花を集めて、青の間に飾って、ベッドに眠るブルーの周りにも。
 ブルーを悼む仲間たちの心を白い花に託して、その中にブルーを眠らせてやって。
(最後の一輪は俺が置くんだ…)
 キャプテンがそれを眠るブルーの胸に置いても、顔の側にそっと置いてやっても。
 誰も咎めはしなかったろう。
 ブルーの右腕であったキャプテンなのだし、それを置くのが相応しい、と。
 別れの口付けは出来ないけれども、代わりに花を。
 最愛の恋人の死出の旅路に添えてやる花を、心をこめて。「愛している」と心の中で呟いて。
 そうしてブルーを送り出してやって、全てが終わってしまったならば。
 葬儀を終えたら、後を追って死ぬ。隠し持っていた薬を使って、ブルーの後を追ってゆく。
 何処までも共にと誓っていたから。一緒にゆくと誓いを立てていたから。
(…なのに、叶わなかったんだ…)
 その思いが夢を招いただろうか、前の自分の悲しい記憶が。
 ブルーの後を追ってゆくどころか、葬儀すら出来ずに終わった記憶が。



(だがなあ…)
 してやりたかった葬儀はともかく、小さなブルーを奪われた。
 目の前で奪われ、失くしてしまった。
 亡骸になった前のブルーに奪い取られて、連れてゆかれて。
 小さなブルーは自分に気付いてくれたのに。
 「ハーレイ?」と振り向き、「どうかしたの」と愛らしい声を掛けてくれたのに。
 抱き締める前に消えてしまった、前のブルーに吸い込まれて。亡骸の中に取り込まれて。
 揺すっても目覚めなかった亡骸。戻っては来なかった小さなブルー。
 ただ泣き続けて、泣き崩れていただけの悲しすぎた夢。小さなブルーを失くした夢。



(たとえ前のあいつが望んだとしても…)
 ブルーは一人しかいないのだから、そんなことなど起こり得ないと頭では分かっているけれど。
 あんな悪夢を見てしまった後は、二人いるような気さえしてしまう。前のブルーと、今の小さなブルーの二人が。
 もしもメギドで死んでしまった前のブルーが欲しがったとしても、小さなブルーは渡せない。
 ブルーの望みは何でも叶えてやりたいけれども、これだけは決して譲れはしない。
 小さなブルーを渡しはしないし、共に連れては行かせない。
 前のブルーがどんなに望んで、欲しいと願って訴えたとしても。
(俺ごと連れて行こうって言うなら、いいんだがな…)
 ブルーの亡骸に、死んだ魂に引き摺られるままに死んでゆくのもいいだろう。
 小さなブルーごと連れてゆかれるのならば、そういう最期も悪くはない。
 ブルーを失くして一人残るより、共に逝く方がずっといい。
 前の自分は独り残されて、白いシャングリラで地球へまで行った。前のブルーが望んだから。
 けれども今の小さなブルーは残れと言いはしないだろう。自分が一緒に逝くと言ったら、止める代わりに手を繋ぐだろう。
 行こうと、何処までも一緒に行こうと。



(そういえば、あいつ…)
 生まれ変わって来た、小さなブルー。青い地球の上で出会ったブルー。
 今度は一緒に、と何度も聞いた。何処までも一緒だと、けして離れはしないのだと。
 小さなブルーに頼まれてもいる。
 「ハーレイの寿命が先だと言うなら、ぼくも一緒に連れて行って」と。
 一人残されて生きるのは嫌だと、自分の命が短くなっても一緒に行きたいと頼み込まれた。
 そうするために心の一部を結んで欲しいと、鼓動が同時に止まるように、と。
 まだ結んではいないけれども、いつか結婚したならば。
 ブルーの想いが変わっていなければ、サイオンで心を結ぼうと決めた。共に逝けるように。
(それなのに置いて行かれちまった…)
 とびきりの悪夢、ブルーを失くしてしまう夢。
 前のブルーに小さなブルーを連れて行かれてしまう夢。



(とんだ悪夢を見ちまったもんだ…)
 俺としたことが、と溜息をついた。
 同じ小さなブルーの夢なら、もっと生き生きとしている夢。生気に溢れた小さなブルーの笑顔を夢で見たかった、と思った所で気が付いた。今日は土曜日だったのだ、と。
 週末の土曜日、ブルーの家を訪ねてゆける日。
(…あいつに会えるな)
 すっかり夜が明けて明るくなったら。
 小さなブルーの家に行っても、迷惑でない時間になったなら。
(うん、学校のある日でなくて良かった)
 平日だったら、仕事が終わるまでブルーの家には行けないから。
 小さなブルーを見かけたとしても、抱き締めたりは出来ないから。
 その点だけは今日で良かったと思う。あれは夢だと、ただの夢だともうすぐ分かる筈だから。



 気分を落ち着けるために、朝食は少し多めに食べた。
 現実というものを意識するには、食べるのがいい。朝食をしっかり味わいながら噛み締め、香り高いコーヒーで目を覚ますのが。
 とはいえ、やはり心が騒ぐ。小さなブルーを失くした悪夢がまだ胸の奥で騒いでいる。
(あいつに何事も無ければいいが…)
 前の自分も今の自分も、予知能力などありはしないけれども、恐ろしい。虫の知らせという言葉だってあるし、嫌な予感ほど当たるもの。
 小さなブルーも酷い夢を見て泣きじゃくったとか、あるいは病に臥せったとか。
(まさかな…)
 そんなことはあるまい、と思いはしても消えない恐怖。消えてくれない悪夢の記憶。
 冷たかったブルーの亡骸の重さと、失くしてしまった小さなブルーと。
(気のせいだ、俺の気のせいってヤツだ…)
 ブルーはピンピンしている筈だ、と自分を叱咤し、朝食の後片付けを済ませて家を出た。自然と足が早くなる。ブルーの家へと、早く着かねばと。



 生垣に囲まれたブルーの家。その前に着いて門扉の脇のチャイムを鳴らせば、二階の窓から手を振るブルー。小さなブルー。
 それだけで肩の力が抜けた。何も無かったと、ブルーは元気に生きていると。
 悪夢のことはもう忘れよう、と自分自身に言い聞かせたけれど。あれは夢だと、ただの恐ろしい夢だったのだと、言い聞かせながらブルーの部屋に着いたけれども。
 ブルーの母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去るなり、ブルーに訊かれた。
「ハーレイ、どうかしたの?」
 テーブルを挟んで向かいに座った小さなブルーが、赤い瞳で見詰めてくるから。
「…分かるか?」
 今日の俺は何処か違うのか、うん…?
「えっとね…。ちょっぴり寂しそうなんだよ」
 いつものハーレイ、そんな顔なんかしないのに…。何かあったの、寂しくなること。
「ふうむ…。なら、来てくれるか?」
「え?」
「来てくれるか、と言っているんだ、お前にな」
 此処だ、と膝を指差した。椅子に座った自分の膝を。此処に来て座ってくれないか、と。



 普段はブルーが強請って座る膝の上。ハーレイの方から「来い」とは滅多に言わないから。
 それも来てまだ間もない時間に手招きなどはしないから、ブルーはキョトンと目を丸くした。
「…いいの?」
 座っちゃっていいの、本当に?
「うむ。俺がそういう気分だからな」
 ほら、と椅子を引いて膝を叩いてやったら、ブルーは早速やって来た。それは嬉しそうに座った小さな身体を胸に抱き寄せ、強く抱き締めて。
「ああ、お前だ…」
 お前だな、と背を撫でていたら、ブルーがクイと顔を上げて、見上げて。
「ハーレイ、変な夢でも見た?」
 ぼくがメギドの夢を見ちゃうみたいに、嫌な夢とか…?
「当たりだ。それもとびきりのをな」
「どんな?」
「お前のメギドよりかは遥かにマシだが…」
 痛いわけじゃないし、殺されちまうってわけでもないし。
 だが、独りぼっちになっちまう所は似ていたな…。前の俺の夢を見たってわけではないが。



 訊かれるままに夢の話をしてやった。
 白い花に埋め尽くされた青の間、氷になってしまったスロープ。
 酷い夢だったと、あんな夢は一度も見たことがないと。
「…縁起でもないな、お前の葬式だなんて…」
 同じ白でも、婚礼の花なら良かったんだが。
 花嫁のブーケも白いドレスには白を合わせることが多いし、教会の飾りも白い花が多いし…。
「お葬式って言うけど、前のぼくでしょ?」
 ホントに一回死んでるんだもの、お葬式でもいいんじゃないの?
「それはそうかもしれないが…。お前を連れて行かれちまった」
 お前まで一緒に死んじまったんだ、だから縁起でもない夢だ、と…。
 もっとも、昔の日本って国じゃ、死んじまう夢っていうのは悪い夢ではなかったそうだが…。
 逆に吉だと言ったらしいが、どうにも気分が落ち着かなくてな…。
「その夢…。悪い夢ではないと思うよ、ぼくも一緒に死んじゃってても」
「何故だ?」
 お前、夢占いってヤツに詳しかったか、俺は授業で喋っちゃいないと思うがな?
 たった今、お前に話した分よりも詳しく話した覚えは無いんだが…。
 夢が吉だと言われてる理由、お前は前から知っているのか?
「ううん、知らないけど…」
 縁起がいいかどうかも初めて聞くけど、これだけは確か。
 ハーレイ、前のぼくのお葬式、したかったんだよ。したいと思ってくれていたんだよ、ずっと。



 だから夢の中でしてくれたんだ、と微笑むブルー。
 お葬式をするなら魂が無いと出来はしないと、それで自分が一緒に連れて行かれたのだ、と。
「前のぼくと今のぼく、魂は二人で一つしか無いと思うから…。吸い込まれちゃった」
 魂が入っていないと駄目だ、って吸い込まれたんだよ、前のぼくの身体に。
 せっかく準備が出来てるんだもの、お葬式の主役がいなくちゃ駄目だよ、ぼくの魂。
「うーむ…。お前は変な夢、見なかったのか?」
 俺がとんでもない夢を見ていた時、お前はぐっすり眠っていたのか?
「うん、夢はなんにも見てないよ。なんにも見ないで眠ってたんだし、暇なんだから…」
 ハーレイの夢に行ってあげれば良かったね、と言われたから。
 その夢の中にぼくも行けたら良かったのにね、とブルーが言うから。
「馬鹿、死ぬぞ!」
 死んじまうんだぞ、あの夢の中に出て来たら!
 前のお前に吸い込まれちまって、お前はすっかり消えちまった。死んじまったんだ、前のお前に引き摺られてな。
「ぼくは慣れてるから平気だよ。夢の中で死ぬのは」
 何度もキースに撃たれてるしね、それに比べたらずっとマシだよ、ハーレイの夢。
 痛くなさそうだし、ちょっぴり眠いとか、そんな感じの夢じゃないかな、ぼくにしてみれば。



 たまにお葬式だって経験したい、とブルーは無邪気な笑みを浮かべた。
 一度もして貰ったことが無いから、と。
「前のぼくはメギドで死んじゃって終わりだったし、お葬式は体験していないんだよ」
 どんな感じかも分からないから、ハーレイが見た夢、ぼくの立場で見たかったな。
 前のぼくのお葬式っていうヤツを。
「お前なあ…」
 逞しいヤツだな、葬式の夢まで体験してみようってか?
 俺は最悪な気分だったのに、あの夢の中の俺の立場はどうなるんだ。
 チビのお前まで失くしちまった、ってドン底だったぞ、もう泣くことしか出来なかったが…。
 目が覚めた後もスッキリしなくて、お前に何かあったんじゃないかと怖かったんだが…。
「死んじゃう夢は吉なんじゃないの?」
 ハーレイ、さっきそう言ったじゃない。いい夢なんでしょ、ぼくが死ぬ夢。
「…そういう解釈もあるってこった」
 しかしだ、夢を見ちまった気分まで変わるってわけじゃないしな、最悪な夢は最悪な夢だ。
 俺にとっては最低最悪、酷い夢としか言えない夢だったってな。
「そんな夢がどうして、いい夢になるの?」
 ぼくが死んじゃった夢で、ハーレイはとっても悲しいのに…。どうしてそれがいい夢なの?
 夢占いって言っていたよね、死んじゃう夢が吉になる理由は何なの、ハーレイ?
「…お前、いいように解釈するなよ? いいか、恋人が死んじまう夢っていうヤツは、だ…」
 二人の関係に何か進展があるだろう、っていう意味になるんだそうだ。
 恋人同士で進展だったら、いい意味にしかならんだろうが。結婚だとか、婚約だとか。
 それで吉だというわけだな。
 もっとも、こいつは夢占いだし…。その通りになると決まっちゃいないぞ、夢は夢だ。



 所詮は夢占いに過ぎない、と言ってやったのに、ブルーは満面の笑顔になった。
 ハーレイが素敵な夢を見てくれたと、何か進展があるかもしれない、と。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイがその夢、見たんだったら、ぼくが進展させてもいいよね?」
 キスしてもいいよ、一歩前進だよ?
 結婚とか婚約とかじゃないけど、うんと進展するんだけれど…?
「馬鹿。いいように解釈するなと言っただろうが」
 俺はその手には乗らないからな。いくら最悪な夢を見たって、お前の思い通りにはならん。
 うかうかと乗せられてキスしちまうほど、俺は弱くはないってな。
「…残念…」
「残念も何も、キスは駄目だと俺は前から言ってる筈だぞ」
 ブルーの額を指でコツンと小突いてやった。まだ膝の上に居るブルーの額を。
 小さなブルーは「いたっ!」と額を押さえて、膨れっ面になったけれども。
 そのまま暫くプウッと膨れていたのだけれども、それが収まると…。



「ハーレイ、ぼくのお葬式の夢…。なんだか凄すぎるんだけど…」
 そんなに沢山の白い花だなんて、ホントにシャングリラ中からかき集めないと足りないよ。
 ハーレイ、凄いのを計画していたんだね、前のぼくのためのお葬式。
「当然だろうが。前のお前はソルジャー・ブルーだ」
 そのくらいやっても誰も文句は言わないぞ。足りないと言われるほどかもしれんな、エラあたりからな。もっと盛大にやれと、ソルジャーを送るためなのだから、と。
 俺は恋人のためにやってるわけだが、誰も気付きやしなかっただろう。流石はキャプテンだと、ソルジャーに相応しい立派な葬儀だと騙されてな。
 だが、実際は…。
 俺は計画していた葬式どころか、お前のための葬式さえも…。



 してやれなかった、とハーレイは唇を噛んだ。
 赤いナスカが滅ぼされたために、大勢の仲間が死んだから。大勢が死んでしまったから。
 ブルーだけのために花を集めることは出来なくて、合同になってしまった葬儀。
 それにジョミーがアルテメシアに行くと決めたから、葬儀は簡素に、花も花輪が幾つかだけ。
 ハーレイが思い描いた葬儀とはまるで違った、ブルーの葬儀。
 青の間を飾る白い花たちは無くて、亡骸さえも無かったブルー。最後の別れを告げることさえも出来ずに別れて、それきりだった。ブルーはメギドから戻らなかった。
 亡骸を抱き締めることも叶わず、白い花で飾って静かに送ってやることも…。



「…色々と悲しかったんだ、俺は…」
 前のお前を送ってやれなかったこと。おまけに追っても行けなかった。
 お前にジョミーを頼まれちまって、生きて行くしかないっていうのに…。お前の葬儀も出来ずにいたんだ、こうして送ろうと前から決めていたのにな…。
「ごめんね、ハーレイ…。だけど今度は、そんなの関係ないからね」
 死ぬ時もハーレイと一緒だもの、と強く抱き付かれて。
 そうだったな、と小さなブルーを抱き締め返した。
「お前が言っていたんだったな、死ぬ時も二人一緒に行こう、と」
「そうだよ、ぼくが決めたんだもの。ハーレイと一緒」
 ぼくの命が短くなっても、ハーレイと一緒に行くのがいい。
 独りぼっちで生きていたって、そんなのちっとも嬉しくないから。
 ハーレイだって、そう思うでしょ? 二人一緒に行くのがいい、って。
「…お前がそれでかまわんのならな」
 寿命が短くなっちまってもかまわないなら、一緒に行こう。今度こそ、何処までも一緒にな…。



 行こう、と小さなブルーを抱き締め、柔らかな頬にキスを落とした。
 温かなブルー。生きているブルー。
 悪夢は幸せな時に変わって、小さなブルーが腕の中にいる。膝の上にチョコンと腰を下ろして。
(うん、お前だ…。俺のブルーだ…)
 前のブルーも小さなブルーも、ブルーはブルー。どちらも同じ一つの魂。
 青い地球の上でブルーと幸せに生きて、伴侶として同じ家で暮らして。
 今度は置いて行かれもしないし、行ったりもしない。
 満ち足りた生を二人で生きたら、手を繋いで共に帰ってゆこう。
 何処だったのかは分からないけれど、此処へ来る前に二人で居た場所へと。
 そうして、またいつか生まれて来よう。
 ブルーと二人でこの地球の上に、幸せな時を生きるために…。




          夢の中の別れ・了

※前のハーレイには出来なかった、前のブルーの葬儀。恋人を送ってやりたくても。
 あまりにも悲しい夢でしたけれど、生まれ変わっても覚えているほど辛かったんですね…。
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 ぽっかりと夜中に目が覚めた。
 メギドの悪夢を見てしまったわけではなくて、単にぽかりと。何かのはずみで。
 横になったままキョロキョロと部屋を見回したけれど、時計も眺めてみたけれど。
 本当に真夜中、朝までは数時間もある。夜更けと言ってもいいほどの時刻。
(…変な夢でも見たのかな?)
 欠片も覚えていないけれども、意識が浮上するような夢。きっと、そう。
 部屋の中、しんと静まり返った夜気。常夜灯だけがぼんやり照らし出す部屋。



(えーっと…)
 こんな時には目が冴えてしまって眠れないから。
 眠気が再びやって来るまで、明かりを点けて本でも読もうかと思ったけれど。
 あまりワクワクしない本。続きが気になって眠れなくなる本は困るし、パタンと閉じたらそこでお別れ出来る本。
 そういった本はどれだったか…、とベッドの中で考えていて。
(なんだか…)
 何処かで感じた、という気がした。同じ空気を。
 今の自分と似たような感覚を確かに覚えた、何処かで、いつか。
(パパもママも家にいるんだけれど…)
 同じ二階の別の部屋にいると分かっているのだけれど。
 二人ともぐっすり眠っているから、何の気配も伝わって来ない。足音も、扉を開ける音も。耳を澄ませても聞こえない音。自分の息しか聞こえては来ない。
(ぼく一人しかいないみたいだ…)
 けして一人ではないのだけれども、一人だという夜。一人だと感じてしまう夜。
 こんな夜に出会った記憶がある。一人にされたわけではないのに、一人きりの夜に。



(いつ…?)
 幼い頃の出来事だろうか、と今よりもずっと小さかった頃を思い浮かべた。
 両親と一緒に眠っていたのは、幼稚園の頃までだっただろうか?
 それとも下の学校に入ってからも、暫くはそっちに居たのだろうか?
 昼間は自分の部屋で過ごして、夜は両親の部屋で眠った幼かった時代。庭に来たフクロウの声が怖くて、オバケの声に聞こえて泣いた。あれはオバケに違いないのだと両親を起こして笑われた。
 フクロウのオバケが最初に出た時、まだ両親の部屋に居たのかどうか…。
(どうだったっけ?)
 今一つハッキリしていない記憶。定かではない、フクロウのオバケの記憶。
 両親の部屋まで駆けて行ったのか、ベッドで揺り起こしただけなのか。
 それさえも曖昧になっているほど幼かった頃に、子供部屋にベッドが置かれたろうか?
 一人そちらで眠ることになって、一人だと思っていたのだろうか…?



(そうかも…)
 一人ではないけれど、一人きりの夜。
 子供時代の自分が覚えた感覚なのかも、とフクロウのオバケの鳴き声の怖さにブルッと震えた。前にあの声がメギドの悪夢を連れて来たほど、フクロウの声が怖かった。
 ハーレイのお蔭で前ほど怖くはなくなったけれど。フクロウはトトロに変わったけれど。
 きっと子供の頃の夜だ、と一人きりの部屋の静けさに自分を合わせてみた。
(小さい頃なら、もっと天井が高くて…)
 子供用のベッドも今より大きく感じていたのだろう、と想像するけれど。
 何故だか、しっくりこない感覚。
 それは違う、と。子供時代のものではない、と。
(じゃあ、いつの話…?)
 確かにこういう夜があった、と目を閉じてみたり、開いてみたり。
 パチパチと瞬きしたりもしてみた。
 そうする内に…。



(あ…!)
 思い出した、と浮かび上がった一人きりの記憶。一人ではないのに、一人の記憶。
 白い鯨の夜だった。前の自分がそう感じた。
 長くかかったシャングリラの改造が全て完成した夜に。
 ソルジャーの私室として作り上げられた青の間に一人、移った夜に。
 あの夜、確かに一人きりだった。今の自分と同じに、一人。
 白い鯨には大勢の仲間が乗っていたのに、暮らしていたのに、青の間に一人。



 青の間に移る日、ハーレイに案内されたけれども。
 移った先には全ての設備が整えられていて、部屋付きの係も何人も紹介されたけれども。
 それまでの部屋とは比べ物にならない広さの青の間。一人で住むには広すぎる部屋。
 建造する途中で何度も見に来て、ちゃんと分かっていた筈なのに。
 そういう部屋だと分かっていたのに、いざ移ってみると心細いほどに大きな部屋。移る直前まで使っていた部屋が幾つ入るのか、まるで見当もつかない青の間。
 引越しは係がやってくれたから、ブルーは指示をしていただけ。これはこちらに、それは自分で片付けるから、などと荷物の仕分けを見ていただけ。
 引越しが済めば後は一人で、それでも昼の間は良かった。
 シャングリラ中に張り巡らせていた思念の糸。部屋を移ったから、一本ずつ辿って先を確認してみたり、感度はどうかと探ってみたり。
 そうこうする内に夕食の時間、係が運んで来て奥のキッチンで仕上げてくれた。食べる間も給仕してくれ、終わったら食器を洗って片付け、「おやすみなさいませ」と帰って行った。
 やがてハーレイが一日の報告をしに訪れて、「では」と言うから。
 「おやすみなさいませ」と一礼して帰ってゆこうとするから。
「待って。こんな広い部屋にぼく一人かい?」
 もったいなさすぎるほどに広いのだけど、と広大な空間を指し示したのに。
「もちろんです。此処はソルジャーのお部屋ですから」
 他の部屋とは違うのです。どうぞご自由にお使い下さい、ソルジャーのためのお部屋ですから。
 青の間はそういう所なのだ、と誰もが承知しております。この船の者たちは一人残らず。



 それではおやすみなさいませ、と帰って行ってしまったハーレイ。
 テーブルや椅子や天蓋つきのベッドが置かれたスペースにブルーを残して、スロープを下りて。扉が開いて閉まった後には、ブルーだけしかいない空間。青の間に一人。
(明日の朝まで、ぼく一人だけ…)
 朝には朝食の用意をするために係がやって来るのだけれど。
 「何をお召し上がりになりますか?」と訊かれて答えもしたのだけれども、その係が来るまでは部屋に一人きり。誰も青の間を訪ねては来ない。
(おやすみなさい、と言われたんだし…)
 することもないし、眠るのが一番いいのだろうか、とバスルームに行った。今までの部屋のものとは違って、ゆったりと広いバスルーム。これは気に入ったから、バスタブに湯を張り、ゆっくり浸かって寛いだ時間を楽しんだ。
 それからフカフカのバスタオルで水気を拭って、パジャマに袖を通したけれど。
 バスルームの扉から外へと出れば、昨日までとは違う部屋。大きすぎる部屋。



(ぼくのためだけに、こんな部屋…)
 要らないと言ったのに、押し付けられた。ソルジャーだから、と。
 設計図の段階でも、建造中にも目を見開いたけれど、完成品は思った以上のとんでもなさで。
(何の役にも立たないんだけれど…)
 この部屋の大部分を占める巨大な水槽。ブルーのサイオンと相性がいいらしい大量の水を湛えた水槽。表向きはサイオンの補助だけれども、実は演出だと知っている。水など無くてもサイオンに影響したりはしないし、あってもサイオンは増幅されたりしないのだと。
(ただのこけおどし…)
 そう思いつつも、あちこちを歩き回ってみた。パジャマ姿で。
 昼間やっていたように、一通り。スロープの下まで一度下りてみて、上り直して。ベッドなどのあるスペースの奥に隠されたキッチンやバスルームも扉を開けては中を覗いて、入ってみて。
 そこから外へと出て来てみれば、夜も昼も変わらない照明に照らされた部屋。
 天井や水槽は青く沈んで、海の底のよう。
 ベッドやテーブルが置かれた辺りだけが、ほんのりと白く輝くだけの暗い海の底。



(独りぼっちだ…)
 この海の底に、一人きり。独りぼっちで取り残された。
 皆の思念は感じ取れるけれど。
 シャングリラ中に張り巡らせてある思念の糸も辿れるけれども、感じる孤独。
 一人だと、独りぼっちだと。
(広すぎるんだよ…)
 この部屋は、と零した溜息さえもが響いた気がした。
 大きな水槽の水面を揺らして。波紋のように、さざ波のように。
(どうしよう…)
 こんな部屋に一人。広すぎる部屋に一人きり。
 けれども誰も来てはくれないし、係が来る朝まで眠ろうとベッドに潜り込んだけれど。ベッドを上から照らす照明も消してみたけれど。
 ますます暗くなってしまった海の底。本当に海の底にいるよう。
 独りぼっちで夜の海の底、あるいは光も届かないほどの深い海の底に一人きり。これではとてもたまらない。寂しくて眠れたものではない。
(やっぱり点けよう…)
 一度は消した照明を点けた。ベッド周りの青い玉の形の明かりも灯した。
 その方がマシ。同じ海の底でも、周りが明るい分だけマシ。
 ベッドを照らし出す照明は快適に調整されているから、点いたままでも眠れるから。
 でも…。



(本当に一人だ…)
 一人きりだ、とコロンとベッドで寝返りを打った。
 上掛けを被っても訪れない眠気。却って冴えてゆく意識。
 この広大な青の間の周りに居住区は無い。仲間の思念は感じるけれども、横たわる距離。
 ハーレイの部屋もぐんと遠くなった。遠い所に行ってしまった。
 前の部屋なら、気軽に遊びに行ける所にあったのに。先日までハーレイが使っていた部屋。
 そう、ハーレイも引越しをした。一足先に、キャプテン用にと作られた部屋に。
 愛用している木の机は今も変わらないけれど、部屋の主役を務めるけれども、キャプテンだけが使う部屋。航宙日誌や蔵書を並べる棚が設けられた、落ち着いた部屋。
 引越して直ぐに覗きに行ったから知っている。どんな部屋かも、何処に在るかも。
(…ハーレイ、今は何をしているんだろう?)
 ハーレイももう眠ったろうか、とサイオンを使って覗き込んだら、航宙日誌を書いていた。木の机の前の椅子に座って、これも愛用の白い羽根ペンで。
 終わればベッドに入るのだろう。キャプテンの制服を脱いで、シャワーを浴びて。あの部屋にもバスタブが備えられているから、のんびりと浸かるかもしれない。
 バスルームから出たらパジャマを着込んで、大きなベッドへ。ハーレイの逞しい身体に見合ったサイズの広いベッドへ。



(ハーレイの部屋は普通なんだよ…)
 他の仲間たちが住む居住区の部屋よりは広いけれども、まだ普通の部屋。青の間のように巨大な水槽がありはしないし、高すぎる天井があるわけでもない。
 照明だって暖かい色。暗くて深い海の底のような、この青の間とは全く違う。
 いっそハーレイの部屋に瞬間移動で移ろうか、と考えてから。
(逆がいいかも…)
 ハーレイはあの部屋で何の不自由もしていないのだし、孤独も感じていそうにないから。
 居心地の良さそうな部屋なのだから、この青の間を味わわせるのも悪くない。
 よくもこんな部屋を押し付けてくれたと、もっと普通の部屋にしてくれれば良かったのに、と。
(うん、その方が…)
 出来てしまった部屋は仕方ないけれど、せめて意趣返しをしておきたい。青の間を作らせた犯人たちは他にもいるのだけれども、仕返しするならハーレイがいい。
(一番古い友達だしね?)
 ハーレイ自身がそう言った。アルタミラからの脱出直後に、ブルーを紹介する時に。船で出来た友人たちに紹介する時は必ず、「俺の一番古い友達だ」と。
(友達を青の間に連れて来たって、誰も文句は言わない筈だよ)
 瞬間移動で引っ張り込んだら、ハーレイも逃げられないだろう。逃れることは出来ないだろう。
 ましてパジャマでは船内を走って帰れはしないし、実行するならパジャマに着替えてから。
 航宙日誌を書き終えたハーレイがシャワーを浴びて、パジャマを着るのを待った。
 そして…。



「これは一体、何事です!?」
 瞬間移動で連れて来られて、大慌てしているパジャマのハーレイ。パジャマ姿で靴さえも履いていないハーレイ。裸足で立っているハーレイ。
 ソルジャーの衣装ではなくてパジャマだったけれど、大真面目な顔で命令した。ベッドから出て偉そうに立って、「今夜は此処に」と。自分も裸足で。
「君も今夜は此処で眠るんだよ、この青の間で」
「何故です?」
 私の部屋は他にありますし、第一、此処はソルジャーのお部屋なのですが…!
「理由を言えと言うのかい? だったら、此処は広すぎるから」
 独りぼっちになった気分がするんだ、まだこの部屋に慣れていないから。
 みんなの思念は感じ取れるけれど、今までの部屋よりもずうっと遠くて落ち着かない。
 おまけに照明が妙に暗いし、まるで海の底みたいじゃないか。
 一人きりで深い海に沈められたようで、どうにも気分が良くないんだよ。
 ぼくに合わせて調整してはあるんだろうけれど、今までの部屋と何もかもが違いすぎるんだ。
 これじゃ、たまったものじゃない。慣れない間は不眠症になってしまいそうだよ…!



 ソルジャーを神経衰弱にしたいのか、と詰め寄った。
 慣れるまでこの部屋で過ごしてくれと。このままでは眠れそうにもないと。
「し、しかし…!」
 私はキャプテンで、明日も朝食を終えたら直ぐブリッジに行かねばなりません。此処でのんびりしていられるほど、暇なわけではないのですが…!
「大丈夫。朝には君の部屋まで送り届けるから」
 パジャマで走って帰らなくても、瞬間移動で送ってあげる。ほんの一瞬だよ、ぼくにかかれば。
 明日の朝は何時に目覚ましをセットしておけばいいんだい?
 ぼくも君に合わせて起きることにするよ、目覚まし時計のアラームは何時?
「ソルジャー…!」
「ブルーでいいよ。ソルジャーは要らない」
 友達だからね、と微笑んだ。「君の一番古い友達」と。
 その友達を見捨てないで欲しいと、今夜はこの部屋に泊まって欲しいと。
「ですが、ベッドは…!」
 何処かから簡易ベッドでも運ぶと仰るのですか、ソルジャー……いえ、ブルー?
「ベッドだったら、充分広いよ」
 二人分のスペースはあると思うんだ、と天蓋つきのベッドを指差した。
 枠にミュウの紋章が刻まれたベッドを、さっきまで一人で潜っていたベッドを。



 押し問答にはなったけれども、なんだかんだでハーレイも折れた。
 パジャマ姿で船の中を走って逃げられはしないし、靴さえも履いていないのだから。
 ブルーが目覚まし時計をセットし、二人並んでベッドに横になって…。
「ハーレイ。…こうしていると脱出した直後みたいだね」
 アルタミラから、この船で。まだ改造の話さえ無かった頃だけれども。
「ああ、あの頃はたまに二人で眠っていましたね」
 今よりもずっと小さかったあなたと、私と二人で。
 思い出しますね、あの頃のことを…。



 脱出直後のシャングリラ。最初はコンスティテューションという名前だった船。
 人類が捨てて行った船に乗り込み、燃え上がり崩れるアルタミラから逃げ出した。その船の中に部屋は沢山あったから。皆に行き渡るだけの数があったから、ブルーもハーレイも自分用の部屋を貰って一人で使っていたのだけれど。
 ベッドもそれぞれの部屋にあったのだけれど、ハーレイの所にブルーが泊まりに出掛けていた。枕だけを抱えてハーレイの部屋へ、ハーレイが眠っているベッドへ。
 アルタミラの夢を見て怖かった夜に。
 人体実験の夢や、檻に閉じ込められていた頃の夢。
 そうした夢に出会った夜には一人が怖くて、ハーレイの隣に潜り込んだ。
 さほど大きなベッドでもないのに、ハーレイの身体にピッタリとくっついて、落ちないように。ハーレイも腕を回してくれた。ブルーが落っこちないように。



「ブルー、最近はもうあの夢は?」
 アルタミラの夢は見ないのですか、もうすっかり…?
「見ないね、こっちの生活の方が長いから」
 みんなと暮らし始めて長いし、そういう夢を見ているよ。いつも誰かが夢に出て来る。
 ハーレイは大抵、出て来るかな。キャプテンだったり、厨房にいたり、いろんな夢でね。
 でも、アルタミラの夢は見ないよ。見ても脱出する時の夢で、ぼくは一人ぼっちじゃないんだ。
 ハーレイと二人で走っている夢。だから怖くはないんだ、あれは。
「それは良かったです。アルタミラの夢があなたを脅かしていないのなら」
「そう思うのなら、ぼくが気持ちよく眠れるように君も協力してくれないとね」
 こんなガランとした部屋を押し付けるなんて論外だよ。
 いくら上等の部屋であっても、使う方の気持ちがついていかなきゃ意味が無い。
「そうは仰いますが、この部屋は本当にあなたのお身体に合わせた部屋で…」
「こけおどしの水槽も含めてね」
 まさか本気で作るだなんて…。
 ぼくのサイオンと水との相性、誤差の範囲内だとヒルマンたちだって知ってるくせにね…?



 他愛ないことを話している間に、いつの間にか眠ってしまっていた。
 多分、自分が先に眠った。ハーレイよりも。
 夢見心地でハーレイの声を聞いていたような気がするから。「聞いているよ」と半ば眠りながら相槌を打って、呆れられていたと思うから。
 それにハーレイが掛けてくれた上掛け。肩まですっぽり掛け直してくれた。「良い夢を」という優しい言葉も耳に届いた、眠りに落ちる前に。
 そうして一晩ぐっすり眠って目覚まし時計の音で起き出し、約束通りにハーレイを送った。瞬間移動でキャプテンの部屋まで。パジャマ姿も裸足の足も、誰にも見られないように。
 ハーレイは顔を洗ってキャプテンの制服に着替え、朝食を摂りに食堂へと。
 青の間の方にも係が食事を運んで来た。昨日注文しておいた通りのものをトレイに載せて。
 トーストを焼くのと、料理の仕上げは青の間の奥のキッチンで。
 満足のゆく朝食だったけれども、何も文句は無かったけれど。
 やはり慣れない、広い青の間。海の底に沈んでいるような孤独。それに囚われてしまう夜。



 だから、その夜もハーレイを呼んだ。パジャマに着替えてしまうのを待って、瞬間移動で。
 呼び付けられたハーレイの方は、青の間を見回し、眉間に皺を刻んだものだ。
「…またですか?」
 今夜も眠れないと仰るのですか、それで私をお呼びになったと?
「これしか仕方ないだろう。実際、眠れないんだから」
 君には分かっていないんだ。この部屋で一人で眠るというのが、どれほど寂しいことなのか。
 いずれ慣れれば、そんなことなど笑い話になるだろうけれど…。
 一人の方が良く眠れる、と思う日が来ると分かってはいるのだけれど。
 今はまだ一人じゃ無理なんだ。少しでも早く部屋に慣れるよう、君に協力して欲しい。
 君がいなくても眠れるくらいに慣れるためには日数がかかる。
 ちゃんと眠れる部屋とベッドだ、と納得するまで、ぼくの側で眠ってくれないとね。



 キャプテンがいないと眠れないソルジャーでは話にならない、とハーレイを何度呼んだことか。
 パジャマで裸足のハーレイを。
 瞬間移動でヒョイと攫って、あの青の間に慣れるまで。
 一人で眠るのに慣れる頃まで、何度も、何度も。
(そっか、あのベッド…)
 最初からハーレイと使ったのだった。青の間に移った、暮らし始めたその日から。
 ハーレイを呼んで、二人で眠った。大きなベッドで寄り添い合って。
 恋人同士ではなかったけれど。一番古い友達だと思っていたのだけれど…。
(ハーレイ、覚えているのかな…?)
 前の自分たちが恋人同士になるよりも前に、あのベッドで一緒に眠っていたこと。
 青の間を使い始めた最初の夜から、ハーレイが其処に泊まっていたこと。
(…忘れちゃってるかな、どうなのかな…)
 覚えていたら訊こう、と欠伸をした。
 明日は土曜日なのだから。ハーレイが来てくれる日なのだから。
(んー…)
 眠い、と急に襲って来た眠気。
 明かりを点けてメモを書こうとは思わなかった。眠い、と丸くなっただけ。上掛けを引っ張り、コロンと丸く。
 欠伸を漏らして、スウッと息を吸ったらもう眠っていた。メモを、と思う暇さえも無く。



 メモを書き損ねたブルーだけれど。
 書かずに眠ってしまったけれども、幸いなことに、朝、目が覚めたら、夜中の出来事を忘れずに覚えていたものだから。
 前のハーレイと青の間で初めて眠った日のことが記憶に残っていたものだから。
(これは訊かなきゃ…!)
 ハーレイも覚えているのか訊こう、と胸を弾ませて来訪を待った。
 顔を洗って朝食を食べて、部屋を掃除して、ワクワクと。
 早くハーレイが来てくれないかと、チャイムを鳴らしてくれないかと。



 待ち焦がれていたハーレイが訪れ、ブルーの部屋で二人、向かい合わせ。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、ブルーは早速、例の質問を持ち出した。
「あのね、ハーレイ…。青の間のこと、覚えてる?」
 前のぼくの部屋。ハーレイたちが勝手に大きくしちゃった部屋だよ、水槽までつけて。
「…あの部屋のことなら忘れないが?」
 誰が忘れると言うんだ、アレを。あんな部屋は二つと無いんだからな。
「部屋もそうだけど、最初の夜だよ。青の間で最初に過ごした日の夜」
「そういう話は断らせて貰うが」
 チビのお前にゃ、まだ早すぎだ。ちゃんと育ってからにするんだな。前のお前と同じ姿に。
「そっちの最初の方じゃなくって…!」
 違うんだってば、青の間そのものの最初だってば!
 前のぼくが、あの部屋に引越しした日。その日の夜の話だってば…!



 本当に本当の使い始め、と説明をした。
 白い鯨が完成した後、ソルジャーが青の間に移った日のこと。
 その日の夜からハーレイが青の間のベッドに泊まっていたよ、と。
 部屋に馴染めないソルジャーにパジャマ姿で呼ばれて、命令されて泊まっていたよ、と。
「ハーレイ、すっかり忘れちゃってる? 瞬間移動で呼んだんだけど…」
 ぼくの命令、って泊まって行くように言ったんだけど。
「…そういえば…。そういうこともあったな、俺はお前に拉致されたんだ」
 おやすみなさい、と挨拶して部屋に帰った筈だが、青の間に逆戻りしちまった。制服どころか、パジャマに裸足で。このベッドで寝ろ、と言われたっけな。
「思い出した? それから何度も呼んでいたでしょ、ぼくが青の間に慣れるまで」
「うむ。お前、遠慮なく呼んでくれるんだよなあ、俺の都合も考えずにな」
 パジャマに着替えたら一杯やるか、と思っていたって、その前に攫われちまうんだ。
 もういいだろうと、着替えは済んだと、瞬間移動でアッと言う間にな。
「その文句…。言われたっけね、何回も」
 俺の酒をどうしてくれるんだ、って。ちゃんと取り寄せてあげた筈だよ、ハーレイのお酒。
 これだよね、って瞬間移動で運んであげたよ、前のぼくは。
「そりゃまあ…なあ? そのくらいはして貰わんとな」
 俺は夜な夜な攫われてたんだ、酒くらい飲んでもいいだろうが。
 お前も安眠したかったろうが、俺だって酒を一杯やってだ、気分良く眠りたいんだからな。



「ハーレイには迷惑かけちゃったけど…。あれって、運命だと思わない?」
 青の間に引越した日の夜からだよ、その夜から一緒に眠ってたんだよ?
 恋人同士になるよりも前に、あのベッドを二人で使ってたなんて…。運命だよ、きっと。
 前のぼくたち、恋人同士になるって決まっていたんだよ、もう。
「お前、いつでも最初からだと言ってるだろうが」
 出会った時から特別なんだと、俺たちの仲は最初からだ、と。
「そうだっけね…。ハーレイはぼくの特別だっけ…」
 アルタミラで初めて出会った時から、ハーレイとは息がピッタリ合ったし…。
 ぼくに声を掛けてくれたのもハーレイだっけね、ぼくがシェルターを壊した後に。
 二人で幾つも、幾つもシェルターを開けて回ったね、仲間を助けに。
 あの時からもう始まってたんだね、ぼくとハーレイとは一緒に生きて行くんだ、って道が…。



 メギドに滅ぼされたアルタミラで。
 崩れてゆく星の炎の中で、出会って二人で必死に走った。生きようと、仲間を救い出そうと。
 飛び立った船で、二人で眠った。ブルーがアルタミラの悪夢に襲われた夜に。
 その船が白い鯨になった後にも、また二人で。
 青の間が完成してブルーが引越した夜に、大きなベッドで寄り添い合って眠った。恋人同士にはなっていなかったのに。
 そういう仲になる日が来るなど、二人ともまるで思っていなかったのに…。



「ハーレイ、やっぱり運命なのかな?」
 ぼくたちが出会って、ずうっと二人で生きていたこと。
 恋人同士じゃなかった時から、一緒のベッドで眠っていたこと…。
「うむ。今も一緒な所を見るとな」
 運命だろうさ、間違いなく。前の俺たちが出会った時から、この地球で再会したのも全部。
 そいつが運命ってヤツでなければ、運命って言葉を何処で使えばいいのやら…。
 それともお前は運命じゃなくて、腐れ縁って言われた方がいいのか?



 どうなんだ、と訊かれたから。
 「運命だよ!」と即座に返した。きっと運命に決まっているから。運命の恋人同士だから。
 青の間が出来て引越した日の夜から、同じベッドで眠った仲。
 あの部屋に慣れてハーレイの添い寝が要らなくなるまで、何度も何度もハーレイを呼んだ。
 今度は別々の家に住んでいるだけに、添い寝は無理そうなのだけど。
 いつになったら眠れるだろうか、同じベッドで。
 ハーレイの大きな身体にくっついて眠れる日はいつのことなのだろうか…。



「ねえ、ハーレイ…。今度、ハーレイと一緒に寝られるのは、いつ?」
 本物の恋人同士にならなきゃ駄目なの、前みたいに添い寝はしてくれないの?
「さあなあ…? チビのお前が嫁に来たなら、添い寝だろうな」
 それにだ、添い寝なら一度は経験済みだろうが、お前。
 メギドの夢を見ちまった夜に飛んで来ただろ、俺のベッドに瞬間移動で。
 あれっきり二度と飛んでは来ないが、あれも運命の出会いだろうさ。
 一度くらいは添い寝をさせてやろう、と神様が運んで下さったってな、あの夜だけな。
 だからだ、背伸びなんかはせずに、だ…。
 ゆっくり大きくなるんだぞ、と頭をクシャリと撫でられた。
 急がなくていいと、ゆっくりでいいと。時間はたっぷりあるのだから、と。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 分かってるよ、と頷いた。焦らないよ、と。



 出会えたことが運命だから。
 今の生でも、ハーレイと出会えたことが運命なのだから。
 いつか一緒に眠れるだろう。
 今度も添い寝で始まったのだし、いつかは本物の恋人同士。
 ハーレイと同じ家で暮らして、ベッドも二人で同じのを使う。大きなベッドで二人で眠る。
 生まれ変わって来た青い地球の上で、今度こそ何処までも恋人同士で…。




           初めての青の間・了

※前のブルーが一人で眠るには、広すぎたのが青の間という部屋。それに慣れるまでは。
 「不眠症になりそうだから」と、前のハーレイと眠っていたようです。微笑ましいお話。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













「やはりお前か、ソルジャー・ブルー!」
(え!?)
 嫌というほど聞き覚えのある声。何度となく聞いたキースの声。
 またメギドか、とブルーは慌てたけれど。
 大嫌いで苦手なメギドの悪夢。それが来たかと、しかも夢だと自覚のある方なのか、と泣きたい気持ちになったけれども。
 「…ではないのか」と続いた声。
 場所はメギドに違いないけれど、青い光が溢れる制御室の中に居たけれど。
 「見付けたぞ」と笑顔で近付いてくるキース。その手に拳銃を構えてはいない。それにマツカを従えているし、いつものメギドの悪夢とは違う。
 何かが変だ、と自分の身体を見回してみたら、パジャマを着ていた。ソルジャーの衣装は消えてしまって、代わりにパジャマ。おまけに小さくなっている身体。十四歳の子供の身体。
(…どうなってるの?)
 確かにメギドに居るんだけれど、と目をパチクリとさせている間にキースが側までやって来た。
 背の高いキース。前の自分が会った時より遥かに高い。身体が小さくなっている分、身長の差が大きくなるから。
 自然と見上げる形になってしまい、アイスブルーの瞳の男と向き合った途端。
「ずいぶん探し回ったぞ。今度こそ結婚して貰わんとな」
「ええっ!?」
 仰天したけれども、思い出した。花嫁を探していたキース。自分に白羽の矢が立った。何故だか自分に、チビの自分に。
 危うい所で逃げ出したけれど、結婚式を挙げる途中で目覚めて夢から逃げられたけれど。
 そのキースにまたしても見付かった。探し出されて、キースは笑顔。それは満足そうな顔。
 逃げ出したいと焦ったけれども、覚めない夢。逃れられない夢の中の自分。
 「さあ、行こうか。此処は危ないからな」とキースに腕を掴まれた。
 逃げられないままで拉致されてしまった、またしてもノアへ。キースが住んでいる家へ。



(もう三度目だよ…!)
 キースが花嫁を探している夢。自分が花嫁に選ばれる夢。
 三度目なのだと分かってもいるし、夢だと自覚もあるというのに、一向に覚めてくれない悪夢。
 国家主席になるらしいキースは結婚式の準備を進めている上、機嫌の方も至極良かった。やっと花嫁を見付け出したと、結婚式を挙げて自分のものにするのだと。
 花嫁の正体が何であろうが、キースは全く気にしていない。ブルーという名前もミュウの長だということも充分に承知で、シャングリラにまで結婚式の招待状を送っていた。
 ミュウと人類がとうに和解した世界、シャングリラの皆からも出席すると届いた返事。
(三度目の正直って言うんだよね…?)
 縁起でもない、と夢から逃れようと思うけれども、覚めない夢。
 キースが住む家でマツカに世話され、結婚式に向けて流れてゆく日々。高層ビルに住むキースの家から一歩も出しては貰えない日々。
 大切にされてはいるのだけれど。一部屋貰って、何の不自由もしていないけれど…。



(今度こそ結婚させられちゃうよ…!)
 ウェディングドレスは出来たと聞いたし、結婚式当日のお楽しみだと微笑んだキース。サイズはピッタリに作らせてあるから、きっと似合うと。可愛らしいに違いないと。
(ぼく抜きで話が進んでるなんて…!)
 このまま進めば、また結婚式。今度は逃げ出せないかもしれない。キースと結婚してしまう夢。
 誓いのキスやら指輪の交換、まだハーレイともしていないのに。唇へのキスはまだハーレイから貰えないのに、夢の中でキースにキスされるなんて…。
(それだけは嫌だよ…!)
 ハーレイよりも先にキースとキス。いくら夢でも酷すぎる話。それでも覚めてくれない夢。
 いくら願っても、夢だと自分に言い聞かせても、終わりが来てはくれない夢。



(…逃げるしかないの?)
 夢から逃れられないのならば、夢の中で逃げるしかないのだろうか。何処でもいいから、何処か遠くへ。キースが見付け出せない場所へ。
(きっと、それしか…)
 方法は無い、とキースが仕事に出掛けた隙に窓から逃げようと下を覗いてみたけれど。
 とんでもない高さ。
 人の姿はまるで分からないし、車でさえも小さな記号のよう。動いてゆくから車なのだと分かるだけ。道路を次々と流れてゆくから、たまに止まったりもしているから。
 ビュウと吹き上げて来た強い風。遥か下から吹いて来た風。
(…死んじゃうかも…)
 こんな高さから飛び降りたら。この窓から外へ逃げたなら。
 とはいえ、これは夢だから。自分が見ている夢の世界の中なのだから。
 飛べるかもしれない、と懸命に窓枠をよじ登った。
「危ないですよ!」
 下りて下さい、とマツカが止める声も聞かずに窓から下へと飛んだけれども。
 飛べると信じて飛び降りたけども…。



(やっぱり飛べない…!)
 真っ直ぐに落ちてゆく身体。飛ぶどころではなくて、地面へ向かって一直線に。
(ぼく、死んじゃう…!)
 落っこちて死ぬ、とギュッと目を瞑ろうとしたら聞こえた声。自分の名前を呼んでいる声。
(まさか、ハーレイ?)
 来てくれたのか、と目を見開いたら、落ちてゆく先で両手を広げているキース。受け止めようと足を踏ん張り、「大丈夫だ!」と自信に溢れた表情。
(最悪だよ…!)
 夢の世界なら、キースも自分もきっと怪我一つしないのだろう。
 あんな高さから飛び降りた自分をキースが受け止め、しっかりと両腕で抱えるのだろう。
 「良かったな」と、「危なかったな」と。
 もう最悪なハッピーエンド。
 キースに受け止められるだなんて…、と泣きそうな気分になった所で目が覚めた。
 本物の瞼がパチリと開いて、夢の世界から逃げ出せた。
 カーテン越しに朝の光が射し込む部屋へと戻って来られた。自分のベッドがある部屋へと。



(…あんまりな夢…)
 あれは酷すぎ、とベッドの中で頭を振った。
 横になっていたら、またウトウトと眠ってしまって夢に捕まるかもしれないから。さっきの夢の続きを見たら大変だから、と起き上がってベッドの端に腰掛けることにした。
 まだ着替えるには早い時間だからパジャマのままで。
(…あの夢って、何の呪いなわけ?)
 毎回キース、と唸ったけれど。
 キースに攫われては花嫁にされてしまうんだ、と理不尽な夢に怒りをぶつけたけれど。



(…呪い?)
 呪われているのだろうか、あのキースに?
 もしかしたら、夢の世界で出会うキースが自分に呪いをかけたのだろうか?
 チビの自分を花嫁にしようと、花嫁にするのだと恐ろしい呪いを。
 花嫁にするための呪いの魔法を、この自分に。
(それでチビとか…?)
 一ミリさえも伸びてくれない背丈。どんなに頑張っても少しも伸びない背丈。
 時期が来れば伸びると、そういう時期が来ていないだけだと思っていたけれど、呪いがかかっているかもしれない。大きく育ってしまわないように。チビの姿でいるようにと。
 夢の中で出会うキースが欲しい花嫁はチビの自分で、育った姿の方ではないから。
 育ってしまえばソルジャー・ブルーで、問答無用で撃ち殺される。
(キースが欲しいの、チビのぼくだから…)
 チビの自分を手に入れようとして、育たないようにとかけられた呪い。
 そうだとしたなら、沢山食べても、ミルクを飲んでも、背丈は伸びてくれないだろう。いつまで経ってもチビのまんまで、前の自分と同じ姿にはなれないだろう。
 悪い魔法使いのキースに呪われて。
 大きくなれない呪いをかけられ、背が伸びないままで暮らすしかない。呪いのせいで。



(どうしよう…)
 本当に呪いかもしれない、という気がして来た。
 三度も夢で出会ったキース。チビの自分を花嫁にしようと目論むキース。
(呪いを解くには…)
 どうすればいいのか、と考え込んでいて、ハタと気付いた。
 呪いを解くには真実の愛。王子様のキス。
(白雪姫だって、オーロラ姫だって…)
 王子様のキスで呪いが解けた。お姫様のキスで呪いが解けるカエルの話もあった筈。
 自分はハーレイと結婚することになっているのだし、王子様はきっとハーレイだろう。キスさえ貰えれば呪いは解けて、背丈が伸びるに違いない。
 それなのに今は貰えないキス。前の自分と同じ背丈に育つまでは、と貰えないキス。
 けれども事情が事情だから。
 キスを貰わないと背丈が伸びてはくれないわけだし、呪いを解かねば背は伸びないから。
(今日は土曜日…)
 駄目で元々、ハーレイに相談しようと決めた。
 今の自分の王子様。呪いを解くためのキスが出来るのは、きっとハーレイだけなのだから。



 朝食を食べて、部屋の掃除をきちんと済ませて。
 まだか、まだかと待ち侘びていたら、チャイムの音が聞こえて来た。窓に駆け寄れば、手を振るハーレイ。大きく手を振り返して、王子様を待った。呪いを解ける王子様を。
 母がお茶とお菓子を置いて行った後、テーブルを挟んで向かい合わせに座ってから。
「あのね、ハーレイ…。呪いって信じる?」
 そう切り出したら、ハーレイは「はあ?」と鳶色の瞳を瞬かせた。
「呪いってなんだ、何の話だ?」
「呪いだよ。魔法使いとかが呪いをかけるでしょ?」
 ああいう呪い。ハーレイは存在していると思う? 呪いの魔法。
「うーむ…。俺たちは生まれ変わりなわけだし、お前には聖痕まであったからなあ…」
 呪いが無いとは言えないな。無いと言い切る自信は無いが…。
 どうしたんだ、お前。いきなり呪いの話だなんて?



「…ぼくね、呪われてるみたい」
「呪うって…。誰にだ?」
 誰がお前を呪うと言うんだ、こんな平和な今の世界で?
 勘違いっていうヤツじゃないのか、たまたま偶然が重なっただけで。
「でも…。呪ってるのはキースなんだよ」
「キースだと!?」
 何故だ、とハーレイに真顔で訊かれたから。
 「お前、キースを嫌ってはいないだろうが」とキース嫌いのハーレイに尋ねられたから。
「…それとこれとは別問題だと思う…」
 ぼくがキースを嫌ってなくても、嫌っていても。
 キースの方では全く関係ないんじゃないかな、呪いをかけてる相手は今のぼくだから。
 前のぼくとは無関係な所で目を付けて呪っているだけだから…。
「サッパリ話が分からないんだが、何処からキースが出て来たんだ?」
 それにどうして呪いになるんだ、俺に分かるように説明してくれ。
 俺の嫌いなキースの名前が山ほど出ようが、そこは我慢して聞いてやるから。



「えーっと…。ぼく、また夢を見たんだよ。結婚式の」
 キースと結婚させられちゃう夢。キースがぼくをお嫁さんにしようと企んでる夢。
「ああ、あのシリーズの三回目か」
 確か三回目になる筈だよなあ、お前が俺に喋っていない分があるなら知らんが。
「あれってシリーズだったわけ?」
「聞かされてるだけの俺にしてみればな。…八つ当たりもされるが」
 で、今度は何をやらかしたんだ?
 今度の夢では、お前、どういう目に遭ったんだ…?
「聞いてよ、ハーレイ! 酷いんだよ…!」
 いつもと同じで始まりはメギド。ぼくはまたキースに捕まっちゃって…。
 こうだ、と夢の話を全部聞かせた。
 危うい所で目が覚めたけれど、夢の中の自分が考えたような三度目の正直ではなさそうだと。
 結婚式場に行かなかったから、カウントされないに違いないと。



「…それで?」
 目が覚めたんなら充分じゃないかと思うがなあ…。三度目が来たって、所詮は夢だろ?
 どうしてそいつが呪いになるんだ、しかもキースの呪いだなんて。
「目が覚めてから気が付いたんだよ、これはキースの呪いだって」
 呪われてるんだよ、あのキースに。今まで気付いていなかったけれど…。
「どんな呪いだ?」
 夢を見るように呪われてるのか、結婚式のシリーズを最後まで見ろと。
 キースと結婚式を挙げるまでは何度でも見るっていうのか、そのシリーズを?
「ううん、そっちの方がマシ。もっと深刻な問題なんだよ」
「深刻って…。どんな具合にだ?」
「ぼくの背丈が伸びない呪い…」
「なんだそりゃ?」
 お前の背丈って、伸びないようにと呪ったら何か得をするのか、そのキースは?
「大きくなったら、お嫁さんには出来ないしね?」
 育っちゃったらソルジャー・ブルーで、キースは撃つ方に行っちゃうから…。
 チビのぼくでないと、お嫁さんには出来ないんだよ。だから大きくならないように。前のぼくと同じに育たないように、キースが呪いをかけているんだ。
 ぼくがいつまでも、チビのまんまでいるように。育たないように…。
「あのなあ…。お前、まだ寝ぼけてはいないだろうな?」
 背丈が伸びない呪いをかけられたってか、あのキースに?
 前のお前を撃ったキースが、今度は魔法使いになって戻って来たってか…?



 キースがどうすれば魔法使いになるというのだ、と呆れるハーレイ。
 いくらなんでも有り得ない、と。
「お前、冷静に考えてみろよ? お前の聖痕は不思議ではあるが、魔法とは違う」
 生まれ変わりだって魔法じゃないんだ、神様がやって下さったことだ。
 奇跡が存在することは俺も認めはするがだ、魔法となったら信じ難いな。
 おまけにキースが魔法使いになるなどと…。あいつだったら、魔法よりも現実重視だろうが。
 そういうタイプだ、キースってヤツは。
 魔法を習いに出掛けるキースなんぞは全く想像出来んぞ、俺は。
「だけどぼくの背、伸びないし…。ちっとも伸びてくれないし…」
「それは確かだが…」
 だからと言って呪いと結び付けるのはどうかと思うが…。個人差ってヤツもあるからな。
「でも…。試してみる価値はありそうなんだよ」
「何をだ?」
「キースの呪いを解く方法」
 ぼくの背丈が伸びない呪いは、これで解けると思うから…。
 もしも呪いがかかっていたなら、これを試せば背だって伸びようになると思うんだけどな。
「その方法をキースが喋ったのか?」
 呪いかどうかも分からないのに、夢の中で何かを言ったのか、キース?
「ううん、王道」
 大抵の呪いはこれで解けるよ、間違いないよ。
 だからキースの呪いだってきっと、この方法で解けると思うけど…。



 呪いを解くにはハーレイの協力が必要なんだよ、とブルーは説明した。
 眠りの呪いもカエルの呪いも王子様やお姫様のキスで解けると、呪いを解くにはキスなのだと。
「だからお願い、協力して!」
 ぼくにかかった呪いを解いてよ、キースの呪いを。
「俺にどうしろと?」
 何をすればいいんだ、俺の協力とやらいうヤツ。
「ハーレイだって分かってるでしょ、呪いはキスで解けるんだよ?」
 ぼくにキスしてくれたら解ける筈だよ、キースにかけられてしまった呪い。
 お願い、ハーレイ。ぼくにキスして。
「ふうむ…。やはりそういうことになるのか」
 仕方ないなあ、呪いを解くにはキスしかないんだ、ってことになったら。
 要は呪いを解けばいいんだな、俺がキスして。



 よし、と椅子から立ち上がったハーレイ。
 ブルーの方へとやって来たから、瞳を閉じて待っていたのに。
 王子様が唇にキスをくれる、とワクワクしながら待っていたのに、額にキスを落とされたから。
「それじゃ駄目だよ!」
 呪いが解けない、と文句を言った。
 額ではなくて唇にキスだと、呪いを解くキスは唇にしてくれなくては、と。
 なのに…。
「解かなくていいだろ、そんな呪いは」
 キスだと言うから一応、キスはしてやったが…。唇へのキスにはまだ早いしな?
 何度も言ったな、前のお前と同じ背丈になるまではキスはしてやらない、と。
「だけど…! その背丈になれない呪いがかかってるんだよ、今のぼくには…!」
 どんなに頑張ってミルクを飲んでもチビのままだよ、呪いなんだから。
 それをハーレイが解いてくれなきゃ、ぼくの背丈はいつまで経っても伸びないんだけど…!
「解かなくてもいいと言っている。背丈の伸びない呪いってヤツは」
「なんで?」
 ハーレイはぼくがチビでもいいの?
 チビのまんまでキスも出来ないようなのがいいの、ねえ、ハーレイ?
「…チビのお前も俺は好きだし、ゆっくり大きくなれとも何度も言っているがな…?」
 急がなくていいんだ、背を伸ばそうと。のんびり育てばいいのさ、お前は。
 チビなのは呪いなんかじゃない。現実問題としてキースがいない。
「えっ…?」
「何処にもキースはいないじゃないか。…違うのか?」
 俺もお前も、一度もキースに会ってはいない。だから呪いも存在しない。
 キースがいたなら、考えてやる。呪いなのかもしれない、とな。



 お前の夢の中だけの話だろうが、とキスをアッサリ断られてしまった。
 そんな呪いなどありはしないと、あるわけがないと。
 存在していないキースが呪いをかけることなど有り得ないのだし、呪い自体が存在しないと。
 自分の椅子に戻ったハーレイ。キスは済んだと、額へのキスで充分だと。
「でも、ぼくの背…。ホントに一ミリも伸びていないよ、ハーレイと会った五月から…!」
 呪いじゃなければ何だって言うの、ぼくの背、絶対、呪われてるよ…!
「そう言われてもだ、呪いを解くにはキスなんだろうが。唇へのキス」
 本当に呪いがかかっているなら、俺も真面目にキスしてやるが…。
 今の時点じゃ、お前が一人で思い込んでるってだけで、呪いが解けるって方法もそうだ。呪いの解き方はキスだけじゃなくて色々とあるぞ? 本当にキスで解けるのかどうか…。
 結婚出来る年になっても呪われていたら、考えてもいい。
 お前がチビのままで十八歳の誕生日ってヤツが来てしまったなら、その時はキスをしてやろう。
 俺のキスで呪いが解けるかもしれんし、チビのままだと嫁に貰うにも色々と問題があるからな。
「そんな…!」
 十八歳になるまで駄目だって言うの、キスは無し?
 ぼくにかかった呪いを解いてはくれないの?
 キースが呪いをかけているのに、チビのぼくと結婚しようと思って呪っているのに…!



 このままじゃキースと結婚で…、と叫んだら。
 次に夢を見たら三度目の正直で結婚式を挙げてしまうかもしれないのに、と訴えたら。
「当面の問題は、そっちだろうが。お前が見ている夢のシリーズ」
 背丈が伸びない方じゃなくて、と指摘された。
 夢で何度も会っているキースの方が問題なのだ、と。
 メギドの悪夢とは全く別の夢のシリーズ、そちらではキースは小さなブルーを花嫁にするべく、虎視眈々と狙っている。メギドまで探しにやって来る。
 逃げても逃げても追い掛けて来るし、高層ビルから飛び降りたブルーを受け止めようと両の手を大きく広げるほど。受け止められると自信を持って。受け止めてみせると両手を広げて。
 どうやらキースは小さなブルーが心底欲しくて、花嫁にしようと夢の世界で待っているから。
 ブルーに呪いをかけたキースがいるのだとしたら、夢の中。
 かけられた呪いは背丈が伸びない呪いではなくて、ブルーが花嫁になる呪い。夢の中でキースの花嫁になるという呪い。
 キースはそれをかけたのだろう、とハーレイは言った。夢の世界に住むキースが。



「そうかも…。それでシリーズになっちゃうのかも…」
 ぼくがキースのお嫁さんになるまで、あの夢、続いていくのかも…。
 もしかしたら、結婚しちゃった後までも続くシリーズなのかな?
 キースが呪っているんだとしたら、夢の世界でぼくに呪いをかけたんだったら。
「その可能性もゼロではないな」
 俺が思うに、そのシリーズ。
 本当は呪いなんかではなくて、お前がキースを嫌っていないせいで見てるんだろうが…。
 本当のキースはいいヤツだったと、友達になりたかったと思っている心が、夢の中だと間違った方に行ってしまって結婚シリーズになるんだろうが…。
 呪いなんだと思いたいなら、夢の世界のキースの呪いってことでも別にかまわん。
 でもって、そっちの呪いはだな…。



 夢の世界の俺に解いて貰え、と突き放された。
 ブルーが見ている夢の世界に居るだろうハーレイ、そのハーレイのキスで解ける、と。
「それ、絶対に無理だから!」
 あの夢のシリーズ、ハーレイはぼくを祝福してたり、神父さんの格好で結婚式場の祭壇の前で、式を挙げようと待ち構えていたりするんだから!
 ぼくにキスして呪いを解くどころか、ぼくがキースとキスする方へと仕向けるんだもの!
 その内にホントにキースとキスだよ、祭壇の前で誓いのキス…!
「…そうは言うがな、そのシリーズの俺はそうかもしれんが…」
 お前の夢の世界ってヤツの全体を見ればどうなんだ?
 他にも俺は出て来る筈だぞ、まるで全く出てこないことは無さそうだと俺は思うがな…?
「ハーレイの夢は見るけれど…。よく見るんだけど…」
 呪いを解いて、って夢の中でどうやって頼めばいいの?
 あのシリーズ以外の夢を見ている時には、キースのシリーズ、忘れてるのに…!
 ハーレイのキスなんか貰えやしないよ、どう頑張っても無理だってば…!
「本当か? …要はキスだろ、呪いを解くには俺からのキス」
 お前、夢の世界では俺と一度もキスしてないのか?
 ただの一度もキスしていない、なんてことは絶対に無い筈だがな…?
 それともチビになったお前は夢も見ないのか、前の俺と過ごしていた頃の夢は?
 青の間でも、俺の部屋でも、何度も何度もキスしてやったが、そういう夢は一切見ないのか?
 どうなんだ、うん?
 チビのお前が見る俺の夢は健全なお子様仕様ってヤツで、キスの一つも無いってか…?



「うっ…」
 言葉に詰まってしまったブルー。
 みるみる耳まで真っ赤に染まって、もうアタフタとするしか無かった。
 前のハーレイと過ごしている夢を見たら、キスを交わすのは当たり前のこと。青の間だったり、前のハーレイの部屋であったり、場所は変わりはするけれど。
 キスを交わして、それから、それから…。
 小さなブルーには許されていない、それは甘くて幸せな時間。本物の恋人同士ならではの時間。愛を交わして、互いに溶け合う。幸せに溶けて、ただ酔いしれて…。
 目覚めた後にも温もりが、熱さが残っている夢。前のハーレイの熱が身体に残っている夢。
 キスは幾つも、幾つも貰った。唇どころか、身体中に。
 ハーレイのキスを貰っていない場所を探す方が難しいほどに。
 そんな場所は一つも無かったから。前の自分は身体中にキスを貰ったのだから…。



「…ふむ。やっぱり山ほど貰ってるんだな、俺からのキス」
 その顔を見れば一目で分かる、とハーレイが唇の端を笑みの形に吊り上げた。
 隠しても無駄だと、隠すだけ無駄だと。
「……そうだけど……」
 仕方なく答えたら、ピンと額を弾かれた。指先で軽く。
「ほらな、お前の呪いの件。…キスで呪いが解けるのなら、だ…」
 俺は充分、協力している。夢の世界の俺が贈ってるキスで呪いも簡単に解けるだろうさ。
 ただし、キースの夢のシリーズの俺は、協力どころじゃなさそうだがな。
 生憎と俺が見ている夢じゃないから、そればっかりはどうにも出来ん。
 お前が自分で頑張って逃げるか、夢の中でキースを引っぱたくか。
 こっぴどく振ればキースも懲りるんだろうが、お前、どうやら、振ってないしな?
 大人しく捕まって閉じ込められてる辺り、まるでキースを嫌いってわけじゃないんだろう。
 夢の中だけに間違った方向に行っちまうんだなあ、お前がキースに持ってる感情。
 嫌っていないと、友達になれたに違いないと思っているせいで結婚シリーズになっちまう、と。
 そのシリーズ、俺も今後が楽しみではある。
 お前がキースを振って終わるか、めでたく結婚しちまうのか、とな。



 結婚式を挙げてしまったら慰めてやるから、と笑われた。
 そうなった時は、結婚祝いにケーキくらいは買ってやろうと。
 土産にケーキを持って来ようと、家の近くに美味いケーキ屋もあるのだから、と。
「酷い! お祝いにケーキだなんて!」
 それだと、あの夢のハーレイとちっとも変わらないじゃない!
 「おめでとうございます」って祝福をしたり、神父さんの格好で祭壇の前に立ってたり…。
 ぼくがキースと結婚するのを喜んでるのが、あのシリーズのハーレイなんだよ?
 お祝いにケーキを買って来るなら、あのハーレイと全く同じなんだけど…!
「だが、お前。ケーキの類は大好きだろうが」
 美味いのを買ってやろうと言うんだ、そこは喜んで受け取るべきだと思うがな?
 甘い物を食ったら、幸せな気持ちになるからなあ…。
 夢でキースと結婚しちまって、ガックリ来ているお前でも、だ。美味いケーキで立ち直れるさ。俺のお勧めのケーキってヤツを、祝いにと買って来てやるんだからな?
 どんなのが好みだ、旬のケーキか? それとも店の定番品か?
「うー…」
 ケーキはとっても気になるけれども、旬のも定番のも食べたいけれど!
 キースとの結婚祝いだなんて!
 ぼくをキースと結婚させない道を選んではくれないんだ?
 夢の世界のキースが呪いをかけたんだとしても、ハーレイ、解いてはくれないんだね…?



「当然だろうが。夢の世界でかけられた呪いは俺の管轄ではないってな」
 仮に呪いがかかってたとしても、解くのは夢の世界の俺だ。
 そっちの俺からは充分な数のキスを贈っているようだしなあ、呪いもいずれは解ける筈だぞ。
 どんなにお前が呪われてたって、夢でキースと結婚したって。
 俺からのキスはやれないな。チビの間はキスはしないと、してやらないと決めたんだしな?
「酷いよ、ハーレイ! ぼくはホントに呪われてるかもしれないのに…!」
 キースと結婚する呪い。チビのまんまで、背が伸びないようにされちゃう呪い。
「さっきから言っているだろう。背丈が伸びない呪いってヤツは有り得ないし、だ」
 キースと結婚しちまう夢にしたって、お前の心の問題だってな。
 そんな呪いは何処にも無いんだ、俺に解いてやる義理は無い。
 俺からのキスは、お前が大きくなるまでは駄目だ。
 前のお前とそっくり同じ背丈になったら、そういう姿に育ったなら。
 嫌と言うほどプレゼントするさ、俺からのキスを唇にな。



 欲しければ早く大きくなれ、とキスをすげなく断られた。
 呪いが解けるかもしれないキスを。王子様からの魔法のキスを。
 前と同じに大きく育てば、あの夢のシリーズも見なくなるだろうと言われたけれど。
 キースのことなど思い出している暇も無いほど、幸せにしてやるとハーレイは約束したけれど。
(三度目の正直…)
 あのシリーズでキースと本当に結婚してしまったら。
 そんな日が来たなら、呪いを解こうという気になってくれるだろうか?
 キスを贈って呪いを解こうと、例の夢から、背丈の伸びない呪いから自分を解き放とうと。
 でも…。
(きっと無理…)
 結婚してしまう夢を見たなら、お祝いにケーキをプレゼントしようと言い出したようなハーレイだから。旬のケーキか定番のケーキか、どっちがいいかと訊くほどだから。
(…呪いなんて、きっと無いんだ、ホントに…)
 キースの呪いかとも思ったけれども、ハーレイの方がきっと正しい。
 背丈の伸びない呪いなどは無くて、大きくなるまでハーレイのキスは貰えない。唇へのキスは。
 仕方ないから、背を伸ばそう。
 少しでも早くハーレイからキスが貰えるように。唇へのキスが貰えるように。
 どうすれば背丈が伸びてくれるか、まるで見当もつかないけれど。
 まずは毎朝、欠かさないミルク。それとしっかり食べること。
 いつかはきっと、背だって伸びる。前の自分と同じ背丈に、ハーレイとキスが出来る背丈に…。




          王子様のキス・了

※ブルーが見てしまった、キースとの結婚式の夢。もう三度目で、シリーズとも呼べるほど。
 こんな夢を見る呪いを解くには、王子様のキスだと思ったのに…。甘くなかったですね。
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 土曜日の朝と言うには少し遅い時刻、ブルーの家へと歩いて向かう途中。
 ハーレイの鼻腔をくすぐった美味しそうな匂い。何処からなのか、と探さなくても目に入った。いつも出掛ける食料品店の表に露店が一つ。フライドポテトを揚げている露店。
 もう子供たちが買おうとしている。頬張っている子供もいる。
 朝食は済ませて来たのだろうに。土曜日なのだし、普段よりも遅めの朝食だろうに。
(おやつってヤツは別腹なんだな)
 大きなサイズを注文している子供の姿が可愛らしい。食べ切れるのだろうか、あんなに沢山。
(食い切れなくても、昼飯前までかかって食っても満足なんだろうとは思うがなあ…)
 イモは揚げ立てに限るんだが、と苦笑した。フライドポテトは揚げ立てが美味い、と。
 ホクホクの揚げ立てにパラリと塩を振ったばかりのをつまむのがいい。まだ熱い内に、冷めない間にすっかり食べてしまうのがいい。
 フライドポテトは揚げ立てが一番、冷めてしまっては風味が落ちる。熱い間に食べ切れる分だけ揚げてこそだと、食べてこそだと思うけれども。
(小さいサイズで買ってる子供がいないってのがなあ…)
 目先の美味さに囚われるんだな、と足を止めて微笑ましく見守った。幼かった頃の自分も大きなサイズを買っただろうか。冷めても食べていたのだろうか…。



(俺のことだし、デカイのを買っても食い切れたような気もするんだが…)
 温かい内に、ペロリと全部。記憶に無いほど幼い頃なら、冷めてしまったとか、食べ切れないで家に持って帰ったとか、そうした事態も起こっていたかもしれないけれど。
(フライドポテトなあ…)
 そういえば、前はよく食べていた。もう子供ではなくなった後に。今の家で暮らし始めた後に。
 ビールのつまみに、フライドポテトに合いそうな酒を飲む時のつまみに、カラリと揚げて。
 枝豆を茹でるのと似た感覚で、フライドポテト。適当な大きさのジャガイモを選んで、薄い皮を剥いたらスティック状に切って。
 油を熱して揚げる間も、酒を、ビールをお供に何本かつまみ食い。口の中を火傷しそうな熱さの揚げ立てを一本ヒョイとつまんで、モグモグと。揚げている内から至福の時間。
 全部揚げたら皿に移して、ダイニングに、あるいは書斎に運んで食べていた。ビールを飲んでは何本かつまみ、酒を飲んでは何本かつまんで、冷めない間に、美味しい間に。



(あいつと会うようになって…)
 小さなブルーの家に出掛けて過ごすようになって、そういったことも忘れていた。一人暮らしの楽しみ方を、醍醐味を忘れたと言うべきか。
 酒もビールも飲むのだけれども、ジャガイモの皮を剥く所から始めるフライドポテトは御無沙汰していた。もっと手早く作れるものやら、チーズやナッツに座を奪われてしまって久しい。
 久しぶりに嗅いだ揚げ立ての匂いに、食べたい気持ちが掠めるけれど。
 酒は無くとも、フライドポテトだけで充分に満足出来そうだけれど。
(…食いながら行くか?)
 揚げ立てを買って、道々、齧りながら。ホクホクの味を楽しみながら。
 それもいいな、という気がした。いい年をした大人がフライドポテトを食べながらの散歩、手にした袋から一本出しては頬張りながらの愉快な道中。
 ブルーはなんと言うだろう?
 「フライドポテトを食いながら歩いて来たんだぞ」と話してやったら、「本当に?」と赤い瞳が丸くなるのか、「いいな…」と羨ましそうな顔をするのか。
 子供ならば大抵、大好物のフライドポテト。きっとブルーも好きだろうから。
(いっそ、あいつにも…)
 買って行ってやるか、と露店を眺めた。揚げ立ての匂いを漂わせる露店。
 ブルーの家まで持ってゆくなら少し冷めるが、温め直して貰ったならば、と思った所で。



(そうだ、イモ…!)
 ジャガイモだった、と遠い記憶が蘇って来た。イモだと、フライドポテトだったと。
 前のブルーがまだソルジャーでは無かった頃。ただ単純にリーダーと呼ばれるようになるよりも前の、今と変わらない姿の少年だったブルー。人類の船から食料や物資を奪っていたブルー。
 その頃のブルーは前の自分に懐いていたから。よく厨房に来ていたから。
 手が空いている時にブルーが顔を出したら、ジャガイモを揚げてやっていた。皮を剥いて切って油でカラリと。塩をパラリと振りかけて。
 前のブルーが来ると尋ねていた。「食べるか?」と。
 フライドポテトを食べたくないかと、食べたいのならば揚げてやるぞ、と。
(これは買わんと…)
 買わなければ、とフライドポテトの露店に向かった。
 単なる酒のつまみではなかったフライドポテト。前の自分の思い出の味。前のブルーの思い出が詰まったフライドポテト。今の今まで、思い出しさえしなかったけれど。
 こうなれば買ってゆくしかあるまい、歩く途中で冷めてもいいから。
 露店の前に立って「二つ」と頼んだ。小さなサイズで二つ頼むと、持ち帰り用に包んでくれと。
 本当だったら、ブルーの目の前で自分で揚げてやりたいけれど。
 そうしたい人が買ってゆくために、後は揚げるだけのイモも売られているのだけれど。
(…揚げるのは簡単なんだがなあ…)
 ブルーの家のキッチンで二人きりとはいかないから。
 それでは思い出話が出来ない、とイモを揚げるのは諦めた。
 シャングリラの頃の思い出です、と話せばキッチンを借りられるだろうし、イモを揚げるくらい手料理の内にも入らないから、その点は問題無いのだけれど。
 ブルーの母への遠慮は必要無いのだけれど…。



 冷めにくいよう、包んで貰ったフライドポテト。提げられる小さな紙の袋もついて来た。
 袋を提げてブルーの家へと向かう途中も心が弾んだ。
 思い出したと、フライドポテトの記憶を見事に拾い上げた、と。
 生垣に囲まれたブルーの家に着いて、門扉の脇のチャイムを鳴らして。開けに来たブルーの母に事情を話して、冷めて来ているだろうフライドポテトを温め直して欲しいと頼んだ。
 シャングリラで食べていたんです、と言えばそれだけで通じたから。
 「キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーの思い出のフライドポテトですのね」と納得して貰えたから、「よろしくお願いします」とフライドポテトが入った袋を手渡した。
 量はそんなに多くないけれど、フライドポテトも一種のおやつには違いないから。
 「お菓子の量も調節して下さい」と付け加えるのを忘れなかった。
 小さなブルーが食べ過ぎてしまわないように。昼食が入らなくならないように。



 二階の窓から手を振っていた、ブルーの部屋に案内されて。
 テーブルを挟んで向かい合うなり、ブルーはハーレイの周りをキョロキョロと見回した。
「ハーレイ、荷物は?」
 もう一つあった小さな袋はどうしたの、と問われたから。
「見てたのか? 目ざといヤツだな」
「うん、お土産かと思ったんだけど…。何かお土産。でも…」
 お菓子はママのお菓子だよね、とテーブルの上を見詰めるブルー。ケーキ皿には口当たりの軽いシフォンケーキが載っているけれど、小さなブルーは気付いていない。小さめなことに。
 フライドポテトの量の分だけ、ケーキのサイズが小さいことに。
 お茶もお菓子も揃っているから、余計に気付かないのだろう。もう一品あるということに。
 だから…。
「まあ、待ってろ。荷物のことなら直ぐに分かるさ」
「えっ?」
 あれって、やっぱりお土産だった? 何かくれるの、ねえ、ハーレイ?
「いいから、暫く俺と喋りながら待つんだな」
 またお母さんが来る筈だから、と言ってやればブルーは待ち遠しげに扉の方ばかり見ている。
 目の前に恋人がいるというのに、扉が恋人であるかのように。
(俺は扉に嫉妬はせんが…)
 この辺りはやはり子供だな、と面白く観察してしまう。
 注意せずとも恋人同士の会話などせずに、「ママ、まだかな?」と扉の向こうに夢中だから。



 やがて階段を上がる足音が聞こえて、扉が軽くノックされて。
「ハーレイ先生、お待たせしました」
 温まりましたわ、揚げ立てには敵いませんけれど…。
「すみません…! お手数をおかけしまして」
「どういたしまして」
 お役に立てて良かったですわ、とブルーの母が置いて行った二つの皿。その上に盛られて湯気を立てている、ホカホカの細く切られたジャガイモ。油でカラリと揚げられたイモ。
「…フライドポテト…?」
 どうして、とブルーが訊いてくるから。
 ずいぶん変わったお土産だけど、と温め直されたフライドポテトを眺めているから。
「好きだったろ、お前?」
 フライドポテト。温め直してもけっこういけるぞ、熱い間は。
「好きだけど…。小さい頃から、揚げ立てを何度も買って貰ったけど…」
 ママだってたまに揚げてくれるし、美味しいんだけど。…ハーレイにそういう話、したっけ?
「いや、お前はお前でも前のお前だ。好きだったろうが」
「前のぼく?」
 案の定、キョトンとしているブルー。自分と同じで忘れてしまっているのだろう。あの船の中で食べていたことを、前の自分が揚げていたことを。
 そうなるのも無理も無いとは思う。
 フライドポテトを揚げていた頃は、お互いにキャプテンでもソルジャーでもなかったから。前の自分がキャプテンになってしまった後には、もう揚げたりはしなかったから。
 ブルーが厨房に遊びに来ることも、前の自分が厨房に立つことも無かったのだから…。



 けれども、思い出して欲しいフライドポテト。前のブルーとの思い出の味。
 一本つまんで、「覚えていないか?」とブルーに尋ねた。
「こいつを、だ。よく揚げてやったぞ、前の俺がな」
 前のお前が厨房に来たら、「食うか?」と訊いては、ジャガイモを剥いて。
「ああ…! ハーレイのフライドポテト…!」
 思い出したよ、揚げてくれてた。ぼくのおやつに、ってフライドポテトを何度も、何度も。
「そうだ、そいつだ。…生憎と俺が揚げたんじゃなくて、買って来ただけだが…」
 おまけに揚げ立てじゃなくて、温め直したヤツなんだが…。
 まあ、食ってみろ。フライドポテトは温かい間が美味いんだからな。
「前のハーレイもそう言っていたね、揚げ立てを食べるのが美味いんだぞ、って」
 火傷するくらい熱いのもうんと美味しいから、って揚げてる間にも分けてくれたよ。まだ全部を揚げたわけじゃないのに、「ほら」って、つまんで。
「冷めると美味くないからな、イモは」
 特にフライドポテトってヤツは。
 揚げたばかりのホクホクしたのを食ってこそだな、こいつはな。
 …おっと、こいつもなかなかいけるぞ、お前のお母さん、上手く温め直してくれたんだなあ…。



 シャングリラで食ってたあの味だ、とハーレイはフライドポテトを頬張った。小さなブルーも。
 白い鯨ではなかったシャングリラで食べた、フライドポテト。熱々の揚げ立て。
 その誕生はジャガイモ地獄だった頃。
 前のブルーが奪った食料の大部分をジャガイモが占めた、ジャガイモ地獄。
 地球が滅びてしまうよりも前の遥かな昔は、ジャガイモを主食にしていた地域もあったという。ジャガイモだらけでも大丈夫な筈だと、何とかなると努力したハーレイと厨房の者たち。
 ありとあらゆるジャガイモ料理を作ったけれど。
 ブルーが調達して来た食料を無駄にしないようにと、頑張ったけれど。
「今日もジャガイモか…。もう飽きたな」
「まったくだよ。たまにはジャガイモ抜きの食事を食べたいねえ…」
 そんな台詞ばかりが流れる中。食事の時間が訪れる度に聞こえて来る中。
 意外なことに、好評だったフライドポテト。
 単純に切って揚げただけのもので、味付けも振った塩だけなのに。
 ジャガイモそのものの料理だというのに、何故だか、皆に好まれた。誰も文句を言わなかった。
 そうと分かってからは、フライドポテトを添えることにした。
 ジャガイモだらけの料理に一品、フライドポテト。それを食べる時だけは誰もが笑顔で、不平も不満も無かったから。熱い間にと、皆が一番に食べていたから。



 あまりに不思議なフライドポテト。添えるだけで笑顔を引き出す食べ物。
 ジャガイモ地獄の日々の中でも、「美味い!」と喜ばれて好かれたフライドポテト。
 何か理由があるのだろうか、とヒルマンがデータベースで調べた結果。
「例のフライドポテトなんだが…。子供の頃に食べたようだね」
 どうやら、そういう食べ物らしい。家でも作りはするのだが…。どちらかと言えば家の外。
 それを専門に揚げている店で買うのが多いようだ。遊園地などの露店でね。
「なるほどねえ…! あれは遊園地の味だったのかい」
 まるで覚えちゃいないんだけどさ、遊園地にも行った筈だしねえ…。楽しかったに違いないね。
 その時に食べたものだったんだ、と舌が覚えていたってことだね、フライドポテト。
 分かった、とブラウがポンと手を打ち、たちまち広がったフライドポテトの由来なるもの。
 思い出の味か、とシャングリラ中の皆が納得した。
 失くしてしまった楽しい記憶と結び付いているらしいフライドポテト。
 それで飽きないのかと、これだけは美味しく食べられるのか、と。



 ジャガイモ地獄の中、どんな料理でも黙々と食べていたブルー。
 文句の一つも言わずに何でも食べたけれども、フライドポテトが特別な所は皆と同じで。
 食堂でハーレイと並んで食事しながら、添えられた揚げ立てのフライドポテトを頬張りながら。
「ねえ、ハーレイ」
「ん?」
「ぼくのフライドポテトの思い出、どんな思い出だったんだろう?」
 なんにも思い出せないけれども、これを食べると幸せな気持ちになるんだよね…。
 美味しいなあ、って思うんだ。美味しかったな、って、また食べたいな、って。
 何処で食べたのかな、遊園地かな? それともパパかママに強請って何処かの露店?
「さあなあ…」
 何処だったんだろうな、ヒルマンの話じゃフライドポテトの露店は多かったらしいしな?
 公園にもあれば、街角にだって。何処でも子供が主役でな。
「ハーレイの思い出も気になるよね。フライドポテトとセットの思い出」
「まあな。だが、思い出の場所が何処であれ、だ…」
 俺はお前よりもデカイのを買って食っていたのに違いないさ、と笑って言った。
 フライドポテトを買う時に選ぶ、自分の胃袋に見合ったサイズ。
 この身体だから、と。子供の頃にも大きかったに違いないと。
「そうかも…!」
 きっとハーレイ、一番大きなサイズだね。大人の人が買って行くような。
「お前は一番小さいのかもな」
 今だって食が細いんだしなあ、デカイのを買っちゃいないだろう。
 でなきゃ、食えると強請ってデカイのを買って、最後までは食べ切れなかったとかな。
 それだって、いい思い出だ。残りはお前の養父母が食べてくれたんだろうし、うんと愛されてた時代の素敵な思い出なんだ。残念ながら、俺たちは全部失くしちまったわけなんだがな…。



 誰もが喜んだフライドポテト。
 記憶は失くしても、舌に残っていた露店の味。幸せな思い出を閉じ込めた味。
 ジャガイモを切って揚げただけなのに、塩を振りかけただけなのに。
 厨房の責任者だったハーレイにとっては、忘れられない食べ物となったフライドポテト。まるで魔法のように思えて、ジャガイモを見る度に思い出したものだ。その調理法を。
 だからジャガイモ地獄が終わった後にも、たまにブルーに揚げてやった。
 手が空いている時にブルーが来たなら、「食べるか?」と訊いて「うん」と答えが返ったら。
 ジャガイモの皮を剥いてトントンと切って、熱した油でジュウジュウと揚げて。揚げる間にも、早く揚がった分をブルーに「熱いぞ」と渡してやっていた。
 軽く塩を振って、「これがホントの揚げ立てってヤツだ」と、「火傷するなよ」と。
 揚げ終わったら、塩をパラリと振りかけて皿に盛り、熱々のをブルーと二人で食べた。カラリと揚がったホクホクのフライドポテトを二人で。
 齧りながら、何かを思い出さないかと期待もしていた。この味が引き金になって何かを、と。
 失くした子供時代の記憶。フライドポテトが大好きな理由。
 お互い、記憶は一つも戻りはしなかったけれど。欠片さえ戻って来なかったけれど。
 何度も何度も、揚げ立てのフライドポテトを二人一緒に頬張った。
 「熱い間が美味いんだから」と、あの船にあった厨房で。
 幸せだった、前のブルーとの思い出。
 フライドポテトに纏わる記憶はブルーとの思い出になってしまった。あの頃に追っていた記憶の欠片を探すのではなくて、前のブルーと結び付いてしまったフライドポテト。
 二人で食べていたフライドポテト…。



「俺が思うに、あの頃、既にお前はだな…」
 お前に俺がフライドポテトを揚げてやっていた頃。
 俺としては友達に振舞うつもりでせっせと揚げてたんだが、そいつは俺の勘違いってヤツで。
 実はお前は、とっくの昔に…。
「ハーレイの特別だった、って言うの?」
 まだ恋人ではなかったけれども、ハーレイにとっては特別な何か。友達じゃなくて。
「そういう気持ちがしないでもない」
 お前のために揚げてやろう、ってジャガイモの皮を剥き始めたら気分が弾んでいたしな。うんと美味いのを食わせてやろうと、今日も揚げ立てを御馳走しようと張り切っていた。
 お前の記憶が戻るといいなと、こいつで戻るといいんだが…、とな。
「ぼくはいつでも言ってるよ。会った時から特別だよ、って」
 アルタミラでハーレイと初めて出会った時から、特別。
 ハーレイはぼくの特別なんだよ、って何度も言ったよ、最初からだよ、って。
「そうだっけな…。俺にとってもお前は特別だったんだろうな」
 お前以外の誰かが来たって、フライドポテトを食わせてやろうとは思わなかったし。
 ゼルが長居をしていた時にも、ヒルマンが覗きに来てくれた時も。
 一度も揚げてはやらなかったなあ、フライドポテト。
 食ってみるか、って試作品を食わせた思い出ってヤツは星の数ほどあるんだがな。



 前のブルーにしか揚げてやらなかったフライドポテト。
 もう充分にブルーは特別だったのだろう。前の自分がそうだと気付いていなかっただけで。
「フライドポテトなあ…。お前にしか揚げてやらなかった、ってトコで気付けば良かったな」
 俺はお前を特別扱いしてるんだ、ってことに気付けば、その他にだって。
 あれこれと色々あったかもしれんな、お前が特別だった証拠が。
 そいつを知ってりゃ、もっと早くにお前に打ち明けていたかもしれん。お前が好きだと、恋人になってくれないか、と。
 ところがどっこい、俺ときたら恋だと気付くまでに何年かかったんだか…。
 シャングリラが白い鯨になっても、まだ友達だと思ってた。つくづく馬鹿だな、鈍いヤツだ。
 フライドポテトのことだけに限らず…、と苦笑いしながら小さなブルーと二人でつまんだ。
 まだホクホクとしているフライドポテトを。揚げ立ての味に近いものを。
 ハーレイが揚げたわけではないけれど。
 揚げ立てでもなくて、持って来る間に冷めてしまって、温め直されたものだけれども。
 それでもフライドポテトだから。
 前の自分たちが食べたフライドポテトと、まるで違うというわけではないから…。



「またハーレイに揚げて欲しいな、フライドポテト」
 お土産でも嬉しいんだけど…。ハーレイの揚げ立て、食べたかったな。
「そいつは俺も、一応、考えてはみたんだがなあ…」
 フライドポテトの露店を見ていて記憶が戻った時に、とハーレイは食料品店の側で巡らせていた考えを思い返して頭を振った。
 揚げればフライドポテトになるイモを買おうと思えば買うことは出来た。そういう商品も扱っていたから、「揚げていない物を」と頼めば済んだ。
 皮を剥かれて切られていたイモ。露店に山と積んであったジャガイモ。計って貰って生のイモを買えば、そういうイモを買いさえすれば。
 小さなブルーが見ている前で揚げてやることが出来ただろう。キッチンを借りて。
 ブルーが寝込んでしまった時には野菜スープを作っているキッチン。何度も借りて使っていた。
 フライドポテトを揚げるくらいは手料理というわけでもないから、ブルーの母を恐縮させる心配だって無かっただろう。
 シャングリラでの思い出の料理だと、それを再現してみたいのだ、と言えば分かって貰えた筈。
 快く貸して貰えただろうキッチン、揚げるための鍋も、それに油も。
 けれど…。



「俺がキッチンで揚げていたなら、その場で思い出話が出来んぞ」
 そこが問題だし、イモを揚げるのは諦めたんだ。揚げてないイモもあったんだがなあ、ちゃんとフライドポテト用に切ってあるイモ。家で揚げようって人は量り売りをして貰えたんだが。
「思い出話って…。大丈夫だったんじゃないの、ママがいたって、パパも覗きに来てたって」
 本当に前のハーレイが揚げていたんだから。ジャガイモの皮を剥くってトコから始めて。
 そういう話を二人でしてても、パパもママも変には思わないよ?
 シャングリラの昔話の一つなんだ、って聞いてるだけだと思うんだけど…。
「それは確かにそうなんだが…。揚げてたってことだけで話が済めばいいんだが」
 もっと色々話したくなっちまった時に困るじゃないか。そう思ったから揚げるのはやめにした。
 現にお前が俺の特別だった、って話が出て来てしまったろうが。
 お父さんやお母さんの前でその手の話は出来ないぞ。後で、ってことにするしかないんだ。
「…そっか、後からになっちゃうんだ…」
 フライドポテトを揚げ終わって部屋に行くまで話が出来ないんだね。
 思い出した、っていうものがあっても、キッチンだったら黙っているしかないものね…。
「そういうことだ。思い出して直ぐに話せるっていうのと、後まで黙っておくのは違うぞ」
 忘れちまいはしないだろうがだ、新鮮な驚きが消えちまう。
 あれはこういうことだったのかと、後で忘れずに話さなければ、と何度も頭で繰り返す内にな。



 そうなったのでは感慨が薄れちまう、とフライドポテトを揚げることを断念した理由をブルーに説明したら。こんなわけでやめておいたのだ、と説いてやったら。
「じゃあ、今度揚げてよ、フライドポテト」
 思い出話はたっぷりしたから、前のぼくがハーレイの特別だったフライドポテトを揚げてよ。
 ぼくにだけ揚げてくれてたんだな、って噛み締めながら眺めることにするから。
 前のぼくの頃に戻ったつもりで、ハーレイが揚げるの、見ているから。
 ジャガイモの皮から剥いてくれなくても、フライドポテト用のを揚げてくれればいいから。
 お願い、とブルーに頼まれたけれど。強請られたけれど。
「もうお母さんに話しちまったからなあ、フライドポテトの思い出ってヤツ」
 全部を喋ったわけじゃないがだ、フライドポテトを持って来た理由は話しちまった。
 そいつを今度は揚げるとなったら、そこまで大事な食べ物なのか、と興味を持たれてしまうぞ、きっと。どんな思い出か知りたいだろうし、話してくれとも言われるだろう。
 無理やり聞こうってほどに強引じゃなくても、一緒に夕食を食ってる時とか。
 前のお前に揚げてやってた、お前が俺の特別だった、っていう思い出。
 そうそう披露したくはないなあ、特別だったと気付いちまった今ではな。



 またいつかな、と言い逃れたら。
 興味を持たれないくらいに時間が経つか、揚げても妙だと思われないようなタイミング。そんな機会が訪れたなら…、と逃げを打ったら、ブルーは残念そうにしていたけれど。
 フライドポテトを揚げる姿は見られないのか、と肩を落としていたのだけれど。
「…結婚したら揚げてくれる?」
 ハーレイと結婚した後だったら、フライドポテトを揚げてくれる…?
「もちろんだ。露店で売ってるイモを買ってくるようなケチな真似はしないぞ、一から作る」
 前の俺が何度もやってたみたいに、ジャガイモの皮を剥くトコからだな。
 うんと美味いのを揚げてやるから、それを楽しみに待っていろ。揚げてる途中で味見ってヤツも前と同じにつけてやるから。「火傷するなよ」って渡してたヤツな。
「ホント!?」
「うむ。誰にも遠慮しないで二人きりで暮らせる家なんだしな?」
 キッチンも有効に使いたいじゃないか、フライドポテトも楽しくいこう。
 前の俺たちは何の記憶も思い出すことは出来なかったが、だ…。
 今度の俺たちはきっと色々思い出せるぞ、今、思い出した分よりも沢山、フライドポテトの思い出ってヤツを。
 前のお前と俺とで食べてたフライドポテトだ、山ほど思い出が詰まっているさ。
 俺が揚げて、お前が横からつまんで。
 そうする間にも次から次へと懐かしい記憶が戻るんじゃないか、お前も、俺もな。



 そして今のお前のフライドポテトの思い出はどんな具合なんだ、と訊いてみる。
 何か楽しい思い出はあるかと、今度はちゃんと思い出せるかと。
「うんっ! えっとね、遊園地でママに買って貰って、いっぱい食べて…」
 食べ切れなくって、持って帰って食べたいな、って思ってたのに。
 パパが「冷めると美味しくないぞ」って、「パパが食べておこう」って食べちゃった…。
 何度もそういう目に遭ったけれど、フライドポテトを買う時には欲張っちゃうんだよ。
 食べ切れないに決まっているから小さいのにしなさい、って言われても駄目。一番小さいヤツにしておきなさい、ってママが言っても、パパが言っても、もっと大きいの。
 流石に、一番大きいのが欲しいとまでは欲張らなかったけどね。
「うーむ…。お前らしいと言えば、お前らしいな」
 妙な所で頑固だからなあ、前のお前とそっくりで。
 うんうん、デカいフライドポテトか。お前の腹には入り切らんな、まして今よりチビではな。



 聞かせて貰ったブルーの幸せな思い出。今のブルーの思い出の中のフライドポテト。
 遊園地で「欲しい」と駄々をこねる姿が見えるような気がした。今よりもずっと小さなブルーが足を踏ん張り、大きいのがいいとフライドポテトの露店の前で。
 きっと他でもやったのだろう。遊園地でなくても、フライドポテトの美味しそうな匂いが漂って来たら。揚げている露店に出会ったら。
「お前、今度はフライドポテトの思い出を山ほど持っていそうだが…」
 そういう幸せな思い出を増やして行こうな、フライドポテトの他にもな。
 前の俺たちがフライドポテトで幸せな気持ちになっていたように、幸せを運んでくれる思い出。
「うんっ! ハーレイと二人で沢山思い出を作らなくっちゃね」
 幸せな思い出を沢山、沢山。
 思い出すだけで幸せになれるものを沢山、ハーレイと二人で見付けようね。
「ああ、食い物に限ったことじゃなくてな」
 その辺を散歩して、買い物に行って。ドライブや旅行や、前の俺たちがやってないことを端から経験していくとしよう。幸せな思い出を増やすためにな。



 偶然出会った、フライドポテトの露店が運んで来てくれた記憶。
 前の自分が持っていた記憶。
 ブルーのためにだけフライドポテトを揚げていたのだと、ブルーは特別だったのだ、と。
 いつか、結婚したならば。
 またブルーのためにフライドポテトを揚げよう、ジャガイモの皮を剥く所から始めて。
 揚げながらブルーに「熱いぞ」と揚げ立てを渡してやって、キッチンで二人。
 前の思い出を拾い集めながら、今の思い出を語りながら。
 フライドポテトの思い出だけでも、きっと一度で語り尽くせはしないだろう。
 だから何度も、何度も揚げる。
 ブルーのためにフライドポテトを、揚げ立てが美味しいカラリと揚がった思い出の味を…。




           フライドポテト・了

※シャングリラでハーレイが揚げていたフライドポテト。前のブルーが来た時にだけ。
 その頃から、きっとブルーは特別だったのでしょう。わざわざ作ってあげたいくらいに。
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