シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…)
ブルーは途方に暮れていた。土曜日の朝に。
目覚めたまではいいのだけれども、顔を洗って着替えるまでは普段通りの日だったけども。
朝食を食べようとダイニングに行ったら、其処には誰もいなかった。
先に食卓に着いている筈の、父も母も。
それにガランとしたテーブル。湯気を立てるカップも卵料理の皿も無ければ、トーストだって。母が焼くソーセージなどの匂いもしないし、サラダボウルも見当たらない。
(…なんで?)
どうして何一つ無いのだろう?
自分の分はこれから出て来るとしても、父と母。二人が食べた筈の料理は何処へ消えたろう?
とっくに食べ終えてしまったにせよ、名残はありそうなものなのに。
両親も気に入りの、ハーレイの母が作った夏ミカンの実のマーマレード。その瓶くらいは後から食べるブルーのためにと、テーブルに置いてありそうなのに。
(…物凄く早い時間に食べちゃった?)
それとも自分が寝坊をしただろうか、と壁の時計を見れば、いつもの時間。
母はダイニングか、キッチンにいる筈なのに。父は食べているか、新聞を読んでいる筈なのに。
(…他の部屋かな?)
朝食前にひと仕事、と庭に出掛けたということもあるかもしれない。父が芝生を刈り込んでいる間に、母が花壇の手入れだとか。
(えーっと…)
暫く待ってみて、それから庭に出てみたけれど。ぐるりと家を一周してみたけれども、父も母も庭には居なかった。てっきり庭だと思ったのに。
ダイニングに戻っても、両親はやはり其処には居なくて。
食事の匂いもまるでしなくて、皿なども置かれていないままで。
(…なんだか変…)
両親は何処に行ったのだろう?
そろそろ自分が起きて来る頃だと、二人とも知っている筈なのに。
父は用事で出掛けたとしても、母は朝食の用意をしようと来てくれそうなものなのに…。
トーストは自分で焼けるけれども、卵料理だって目玉焼きくらいなら作れるけども。
それでも母が毎朝のように訊いてくれる。トーストの焼き加減や、卵料理は何にするかを。
その母が来ないだなんて、おかしい。どうも変だ、とようやく気付いた。
「パパ、ママ、どこーっ!?」
何処にいるの、と叫んでも返らない返事。庭には出ていなかった両親。
ならば家の中で、父はいなくとも母は何処かにいる筈で。
(何処…?)
扉を端から開けて回った。一階も二階も、両親の部屋も。
あちこち探して探し回って、やっと見付けた。ダイニングのテーブルに置かれたメモを。
(こんなの、さっきあったっけ…?)
気付かなかったのかもしれない。皿や料理を探していたから、そっと置かれていたメモには。
手に取ってみれば「出掛けて来るから」と書かれていた。母の文字で。
父も母もいなくて、生まれて初めての本物の留守番。
近所まで買い物や外出というなら、ほんの短い時間だったら、何度か経験していたけれど。
家に一日、たった一人で。父も母も出掛けてしまった家に一人きり。
しかも「今夜は帰らない」とも。
(嘘…)
留守番どころか、夜まで一人。何の予定も聞いていないのに。
自分は弱く生まれて来たから、どんな時でも父か母かが家にいるのが常だったのに。
けれど目覚めたら、メモが一枚。二人で出掛けて来るから、と。
(そんなこと…)
ある筈がない、と考えていてハタと思い当たった。
この世界は夢に違いない。やたら現実味のある世界だけれども、きっと自分が見ている夢。
有り得ないことが起こっているのがその証拠だ、と確信した。
だとしたら…。
(今日は帰って来ないんだよね?)
父も母も明日まで帰って来ない。
夢の中の家に自分は一人で、この家に他には誰一人いない。
そうなってくると…。
(いい子で留守番、って書いてあるけど…)
友達を呼ぼうか、一人でいるのは寂しいから。
誰か泊まってくれそうな…、と友人たちの顔を順に思い浮かべていて。
(そうだ、ハーレイ!)
ハーレイを家に呼べばいいのだ、と閃いた名案。
土曜日なのだから、放っておいてもハーレイは来てくれる筈なのだけれど。そうなのだけれど、夢の世界ではその約束だって危ういもので。
(ハーレイだって、ちゃんと呼ばないと来てくれないかも…)
現に両親も、何も言わずに出掛けてしまって留守なのだから。二人とも家にいないのだから。
それに、これはチャンス。
普通だったら出来はしないこと、ハーレイを呼んで家に泊まって貰うこと。
それが出来る世界。夢だからこそ、ハーレイを家に呼ぼうと思った。泊まって欲しい、と。
でも…。
(ハーレイが泊まっていったベッド…)
あっさりとバレてしまうかもしれない。
外出先から家に戻った両親に。
このベッドを使ったのは子供ではないと、どう見ても大人が眠ったベッドだ、と。
それに、呼ばれたハーレイだって。
(…断るよね?)
両親の留守に家に泊まりに来るなんて。
ゲストルームに泊まるだけでも、本物の恋人同士の時間は抜きでの泊まりでも。一緒のベッドで眠るのではなくて、「おやすみなさい」と別れるにしても。
なにしろ相手はハーレイだから。
キスさえも許してくれはしないで、「チビには早い」と叱ってばかりのハーレイだから。
(でも、ハーレイ…)
せっかくチャンスが訪れたのに。
二人きりで夜まで楽しく過ごして、次の日の朝も「おはよう」と挨拶が出来るチャンスなのに。
同じ家の中で。同じ屋根の下でハーレイと眠って、朝も二人で目を覚まして…。
別の部屋で、別のベッドでも。それでもいいから、ハーレイと過ごしてみたいのに。
けれども、両親にはバレる。
身体の大きなハーレイを泊めたら、きっとベッドの具合でバレる。
ハーレイだって、何かと理由や理屈をつけて「駄目だ」と断って来そうだけれど。
いくら頼んでも、「友達を呼べ」と撥ね付けられてしまいそうだけど。
(ぼくが行けば…)
もしも自分がハーレイの家に行ったなら。
ハーレイは泊めてくれるだろう。両親が留守だと告げたなら。一人きりだと頼み込んだら。
まさか「帰れ」と放り出されはしないだろう。
ハーレイの家にもゲストルームはあるのだから。其処に泊めればいいのだから。
(うん、そうすればいいんだよ!)
遊びに来るなと言われてしまった家だけれども、こんな時なら話は別。
一人で留守番をさせておくより、ハーレイならきっと「泊まれ」と許してくれるだろう。
「今日だけだぞ」と苦い顔になっても、「この部屋を使え」と。
(そうしようっと!)
決めた、と頷いて読み直した母が残して行ったメモ。
都合のいいことに、両親の行き先もいつの間にか其処に書かれてあった。
(お祖母ちゃんの家…)
それなら分かる、と遠い地域に住む祖母の家へと通信を入れた。番号は機械に入っているから。登録されている番号を選んで、ボタンを押すだけで繋がるから。
呼び出し音が何回か鳴って、「はい?」と聞こえた祖母の声。「ぼくだよ」と名乗って、少しの間、話をして。
「えっとね、今日はハーレイ先生の家に泊めて貰うよ」
一人でいるよりその方がいいでしょ、ちゃんと大人のいる家の方が?
「そうねえ…。ハーレイ先生の家なら安心ね」
それはいいわね、と賛成してくれた祖母。そうしなさいと、泊めて貰いなさいと。
「ありがとう! パパたちが着いたら、言っておいてね」
ぼくはハーレイ先生の家に行くから、って。
「はいはい、きちんと鍵を掛けてから出掛けるのよ?」
「うんっ!」
分かってるよ、と通信を切った。忘れないように鍵を掛けてゆくから、と。
(ふふっ、お出掛け…)
ハーレイの家へ泊まりに行ける、とワクワクと鍵を取り出した。
一度も使ったことがない鍵。学校から戻れば母がいるから、持っているだけで使っていない。
(でも、使い方は知ってるしね?)
どうすれば鍵が掛かるか、開くか。それくらいのことは知っているから問題無かった。
泊まるための荷物は持っていないけれども、夢の世界だから大丈夫、と何の根拠もなく考える。荷物など無くても困りはしないと、これでいいのだと。
そして、行き先のハーレイの家がある場所は…。
(何処だったっけ?)
ハーレイの家が思い出せない。いくら考えても出てこない。
確かに一回、訪ねて行った筈なのに。一人で路線バスに乗って出掛けて、帰りもバスで。
メギドの悪夢を見てしまった夜に瞬間移動で飛び込んだ時には、ハーレイの車で送って貰った。バスが走るのと同じ通りを、ハーレイの車の助手席に乗って眺めていた。
それなのに全く思い出せない、ハーレイの家が建っている場所。その近くまで運んでくれる路線バスがどれかも、どの方向へ向かうのかさえも。
(そういえば、名刺…)
名刺があった、と気が付いた。
前に貰ったハーレイの名刺、大切な二枚の宝物。教師としてのハーレイの名刺と、仕事を離れて個人的に交換している名刺と。
(そう、これ!)
勉強机の引き出しの中から取り出した名刺。ハーレイの家の住所と通信番号が書かれた名刺。
これさえあれば、とそれを手にした。
何故だか道順が書かれていたから。
この道を通って行けば着くのだと、地図までが一緒に書かれていたから。
「行ってきまーす!」
父も母も家にはいないけれども、玄関先で奥に向かって叫んだ。いつもするように。
それから扉を閉めて鍵を掛け、颯爽と庭へ。庭から門扉へ、門扉をくぐって外の通りへ。生垣に沿って歩き始めて、心はハーレイの家へと飛んだ。これから行くのだと、直ぐに着けると。
胸を弾ませてバス停を目指したけれど。
バス停に着いて探したのだけれど、その方向へ行くバスは無かった。ただの一つも。
どのバスもそちらへ行ってはくれない。行きたいのならば歩くしかない、自分の足で。
何ブロックも離れたハーレイの家に行くのだったら、その場所に辿り着きたいのならば。
ブルーの足には遠すぎる距離。
天気が良ければハーレイは歩いて来るのだけれども、ブルーが歩くには遠すぎた。学校でさえもバス通学をしているほどの弱い身体で歩いてゆくには長すぎる距離。
けれど他には道が無いから、バスは運んではくれないから。
(大丈夫!)
ハーレイの家に行くんだから、とブルーは迷わず歩き始めた。
名刺に書かれた道順通りに、こうだと書かれた道を確かめながら。
(ここを真っ直ぐ…)
二つ目の交差点を左に曲がって、一つ目の信号を渡って右へ。そこから先は住宅街の中。
(この家の角を左へ行って…)
暫くは真っ直ぐ、次を右へと。
そんな風に歩いて行くけれど。名刺に書かれた通りの道を、前へと進んでゆくのだけれど。
(…お腹、空いたな…)
朝食を食べずに家を出て来てしまったから。
夏ミカンのマーマレードを塗ったトーストも、卵一個分の卵料理も、毎朝飲んでいるミルクも。卵料理はともかくとして、トーストとミルク。それくらいは用意出来ただろうに。母が留守でも、トーストを焼くくらいなら。ミルクを瓶からカップに注ぐくらいなら。
(…失敗しちゃった…)
喉も乾いてきたのだけれども、持っていないお金。持たずに家を出て来た財布。
歩いてゆく道に食事が出来る店はあるのに、パンや飲み物が買える店だってあるというのに。
(…財布も、失敗…)
荷物は無くてもかまわないけれど、財布は持って来るべきだった。
お腹も空いたし喉も乾いた、と悔やんでも財布は降っては来ない。空からストンと落っこちてはこない。財布も、お金も、トーストもミルクも。
(でも、ハーレイの家に着けさえすれば…)
ハーレイは「馬鹿が」と、「ウッカリ者が」と額を小突いて、朝食を作ってくれるだろう。もう朝食と呼ぶには遅い時間になっているけれど、トーストを焼いて、ミルクも出して。
「オムレツの卵は何個なんだ?」と尋ねてくれることだろう。ソーセージも焼くかと、サラダにかけるドレッシングは何がいいかと。
(うん、きっとそう…)
ハーレイならば、と自分自身を励ましながら歩いて行った。辿り着ければ朝食なのだと、お腹が一杯になってしまうほど食べさせて貰えるに違いないと。
「しっかり食べろよ」と、「沢山食べて大きくなれよ」と、大好きな声で促されて。
もう入らないと降参したって、「もっと食べろ」と盛り付けられて。
考えただけで幸せな気持ちになってくる。だから頑張って歩いてゆこうと、音を上げないで前へ進んでゆこうと。
何ブロックも離れていたって、いつもハーレイが歩いてくる道。
自分の足でも辿り着けない筈がない。少し遠くても、喉が乾いても、空腹感を抱いていても。
(ハーレイはいつも、こんな景色を見ながら来るんだ…)
路線バスが走る通りでなければこうなのか、と公園や道筋の家の花壇、生垣などで気を紛らわせながら歩き続けて。もう少し歩けばと、もう少しだと名刺を眺めて。
(次の角を曲がって…)
ここ、と辿り着いた場所に家はあったけれど。
見覚えのある家が建っていたけども、チャイムを鳴らしても出ないハーレイ。生垣と庭の芝生を隔てた向こうの、家の扉も開きはしない。
(お休みの日なのに…)
土曜日なのだし、ハーレイは家にいる筈なのに。
それともハーレイはブルーの家を目指して出掛けて、途中ですれ違ってしまったろうか?
名刺に書かれた道順通りに来たのだけれども、ハーレイにとっては通い慣れた道。他にも通れる道はあるのだし、その日の気分で変えてみたりもするかもしれない。
(…ぼく、行き違いになっちゃった…?)
此処まで歩いて来る途中の何処かで、ハーレイと。それと知らずに、気付かないままで。
ハーレイは今頃、ブルーの家に着いて「留守か…」と呟いているかもしれない。
せっかく来たのにと、ブルーは出掛けてしまったのかと。
(…通信、入れておけば良かった…)
これから行くよと、だから待ってて、と。
そうすればハーレイとすれ違ったりはしなかったろう、と思ったけれど。
(でも、そう言ったら断られちゃう…)
泊まりに来るより友達を呼べと、友達を呼んで泊まって貰えと間違いなく断られていただろう。通信も切られて、それからではもう、押し掛けて来たって手遅れで。
(…きっと門前払いなんだよ)
駄目だと言ったら絶対に駄目だ、と車に乗せられて送り返されてしまうかもしれない。
それを思えば、こうして直接やって来た方がマシに違いない。泊めて貰える可能性も高い。
行き違いになってしまったけれど。
どうやら何処かですれ違ってしまい、ハーレイは家に居なかったけれど。
(…ぼくが留守だと、何処かへ行っちゃう…?)
柔道の道場だとか、ひと泳ぎしにジムだとか。
けれども、いつかは帰って来るに決まっているのだし…。
真っ直ぐに戻ってくれるといいな、と家の前で帰りを待つことにした。
門扉の脇のスペースに膝を抱えてチョコンと座って、早く帰って来てくれないかと。
そうして待ち始めて暫く経ったら、犬の散歩をしていた人が通り掛かって。
「ハーレイ先生の生徒さんかな?」
年配の男性にそう訊かれたから、「はい」と礼儀正しく返事をした。歩き疲れた後だったから、腰を下ろしたままだったけれど。膝を抱えてチョコンと座ったままだったけれど。
すると男性が「待ってるのかい?」と訊くものだから。
「そうです。先生、お留守みたいで…」
帰って来るのを待ってるんです、と答えた途端。
「ハーレイ先生だったら、引越したよ」
「えっ!?」
そんな、とブルーは目を見開いた。引越したなどと聞いてはいない。ただの一度も。
だから男性を見上げて尋ねた。
「…いつ?」
丁寧に「いつですか?」と問い掛ける余裕はもう無かった。男性の方は首を捻って。
「確か先月だったかなあ…」
「嘘!」
「いや、本当だよ」
私はその先に住んでいるんだ。引越しますから、と挨拶に来て下さったんだよ。
美人の奥さんと一緒にね。
(…奥さん…)
思いもよらないことを聞かされて、ブルーは声も出なかった。
せっかくハーレイの家まで来たというのに、頑張って歩いて来たというのに。
(ハーレイ、結婚してただなんて…)
美人の奥さんがいたというなら、そういうこと。
いつかハーレイと結婚しようと思っていたのに、お嫁さんになろうと決めていたのに、他の人と結婚されてしまった。自分が育つのを待ってくれずに、他の誰かとハーレイは結婚してしまった。
おまけに引越し。結婚した誰かと一緒に引越し。
ブルーには内緒で、一言も言ってくれないままで。
(…ハーレイ、ぼくはもう要らないの…?)
週末ごとに家を訪ねて来てくれるけれど、仕事帰りにも寄ってくれるけれど。
それはあくまで守り役としてで、もう恋人だとは思ってくれてはいなかったのか。
結婚をしたというのなら。その人と引越してしまったのなら…。
流石に泣きはしなかったけれど、知らない人の前で泣き出したりはしなかったけども。
打ちのめされてしまったブルーは、あまりにしょげて見えたのだろう。
ちょっと待ってて、と犬を連れて数軒先の家に入って行った男性が紙を手にして戻って来た。
ハーレイの引越し先が書かれた紙を渡してくれた。
ここだよ、と。ハーレイ先生に用があるのなら、此処に行けばいいよ、と。
(…ぼくの家の近所…)
見覚えのある住所と地図。家からさほど遠くはない場所。
その地図がとても気になるけれど。
確かめてみたい気がするけれども、その家を目指して出掛けて行って。
本当に其処にハーレイが住んでいて、奥さんもいたら。
美人の奥さんがその家にいたら…。
(そんな…)
自分は間違いなく、ハーレイにとって要らない存在。
もう前の生の恋人などには縛られない、とハーレイは他の誰かと結婚したのだから。今の自分に似合いの女性を見付けて結婚したのだから。
(ぼく、邪魔者になっちゃったの…?)
結婚したことを教えたならば、嫉妬しそうなチビだから。それどころか怒り出しそうだから。
それで黙って結婚した上、黙って引越ししたのだろうか?
今は内緒にしておけばいいと、知られはしないと、黙ったままで。
(…嘘だよね?)
引越しの話も奥さんの話も嘘だよね、と思いたいけれど、現にハーレイは家に居ないから。
チャイムを鳴らしても出て来なかったし、近所の男性は「引越したよ」と言ったのだし…。
(…でも、嘘だってことも…)
間違っているということも無いとは言えない。
この目で確かめるまでは、本当かどうか分かりはしない。
本当だったら辛いけれども、悲しいけれども、確かめずにはいられないことだから…。
帰りの道は来る時よりも遠かった。
距離は変わらない筈だけれども、来た道を逆に辿るのだけれど、それでも遠くて長かった。足も重いし、酷く疲れてどうにもならない。
(お腹、減ったよ…)
喉も乾いた、と余計に惨めな気持ちになった。財布さえあれば、何か食べられるのに。空っぽの胃袋に何か入れたなら、温かな食べ物と飲み物を入れてやれたなら。
気持ちも少しは落ち着くだろうに、少し和らいでくれるだろうに。
(ほんのちょっぴり、パンとミルクと…)
一番安いものでいいから。こんなのがいい、と贅沢を言いはしないから。
けれども財布は現れてくれず、パンもミルクも出て来なかった。
重たい足を引き摺りながらも歩くことしか出来なかった。元来た道を逆に、家の方へと。
来る時は弾む心で歩いていた道を、どうしようもなく重い心を抱えて俯きながら。
どのくらいそうして歩いたろうか。
やっとの思いで、いつも学校への行き帰りに使うバス停の所まで戻って来た。辿り着いた。其処から住宅街に入って、家へ向かう道。
(これをこっちに…)
右へ曲がれば、ハーレイが奥さんと住んでいると教えられた家。
真っ直ぐに行けば、自分の家。
(…どうしよう…)
本当かどうかを確かめに行くか、行かずに家へと帰るべきか。
真っ直ぐ帰れば傷つかずに済む。トーストを焼いて、ミルクを飲んで、疲れた身体を癒すことが出来る。歩き疲れてしまった身体を、打ちのめされてしまった心も。
(…家に帰って…)
お腹を満たして、ベッドに倒れ込みたい誘惑。このまま眠ってしまいたい、と。
けれども、それでは悩みを先へと送るだけ。先送りにしてしまうだけ。
もしもハーレイが、本当に結婚していたならば…。
悩んだけれども、歩き出した。
まだ今ならば歩けるから。歩く力は残っているから、ハーレイの家の方角へ。
貰った紙を見ながら歩いて、角を曲がって…。
(あの家だよね?)
三軒向こう、と近付いて行って、生垣越しに覗き込んだら。
庭の手入れをしている女性。ブルーが知らない、まだ若い女性。
(まさか、奥さん…?)
震えそうになる足をグイと踏みしめ、懸命に声を絞り出した。
「あの…。ここ、ハーレイ先生の家ですか?」
「ええ。あら、生徒さん?」
女性が笑顔で振り向いた。「いらっしゃい」と、「すぐに呼ぶわね」と。
(…そんな…!)
とても待ってはいられなかった。後をも見ずに逃げ出した。
そのままだと泣き出してしまいそうだったから。
ハーレイが家から出て来るよりも前に、泣き崩れてしまいそうだったから。
(嘘だよ…!)
あんまりだよ、と家に向かって走った。足が重たいことも忘れて、空腹だったことも忘れて。
(ハーレイの家に泊まろうと思って行ったのに…!)
泊まるつもりで出掛けて行ったのに、頑張って歩いて行ったのに。
ハーレイの家に泊まるどころか、引越されていて、おまけに奥さん。自分が全く知らない間に、何も知らされないままに。
(酷すぎるよ…!)
やっとの思いで駆け込んだ自分の家の庭。
家の鍵を開けることさえ忘れて、庭に置かれた白いテーブルで泣いた。庭で一番大きな木の下、ハーレイと何度も過ごした場所で。初めてのデートをした場所で。
(ハーレイが結婚しちゃったなんて…!)
自分は捨てられてしまったのだ、とハーレイのいないテーブルで泣いて、泣きじゃくった。
独りぼっちだと、独りぼっちになってしまったと。
もうハーレイのお嫁さんになれはしなくて、独りなのだと。ただ一人きりで、独りぼっちで…。
(手が冷たいよ…)
右の手が冷たい。凍えて冷たい。
痛いほどに冷たく冷えて凍えて、どうしようもなくて。
温めて欲しくても、どうにもならない。もうハーレイはいないから。
独りぼっちになってしまったから。温めてくれていた手は、二度と戻っては来ないから…。
(ハーレイ…っ!)
自分の泣き声で目が覚めた。
土曜日の朝、カーテンの隙間から柔らかな朝日が射し込むベッドで。
(…夢…)
夢だったのか、と身体を起こしたけれども、夢の中でも似たようなことをしていたから。
これは夢だと、夢の世界だと、色々なことをしていたから。
(…これも夢なの…?)
恐る恐るベッドから下りて、勉強机の所に行って。
引き出しを開けて取り出したハーレイの名刺に、あの地図は無かった。夢の中の自分が見ていた地図。それを頼りに歩いた地図。
(やっぱり、あっちが本物の夢…?)
そして現実はこちらなのだろうか、名刺に地図が無いのだから。ハーレイの住所と通信番号だけしか書かれていないし、柔道の先生の証のマークも入っているし…。
(全部、夢だったの…?)
ハーレイが引越してしまっていたことも、美人の奥さんがいたことも。
それとも本当は、ハーレイは…?
起きてゆけば、ちゃんと両親がいた。ダイニングで「おはよう」と迎えてくれた。
いつも通りの土曜日の朝で、トーストも卵料理も、ミルクもあった。母は「もっと食べる?」と訊いてくれたし、父は「食べるか?」とソーセージを一本くれた。そんなに入らないと言っているのに、「もっと食べろ」と。「でないと大きくなれないぞ」と。
(いつもとおんなじ…)
やっぱりあれは夢だったんだ、とキツネ色にカリッと焼けたトーストに齧り付いた。ハーレイの母が作ったマーマレードをたっぷりと塗って、夏ミカンの金色をスプーンで塗って。
それは幸せな休日の食卓、マーマレードの味に思わず顔が綻ぶ。いつもの味だと、この味がある食卓なのだ、と。
朝食を終えて、部屋の掃除を済ませて。
窓辺で待っていると、門扉の横のチャイムを鳴らしてハーレイが来てくれたから。
母が運んでくれたお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせに座ったから。
ふと心配になって、訊くことにした。現実はどうかと、本当はどうなっているのかと。
「ハーレイ、もしかして、引越した?」
「はあ?」
どうして俺が引越しするんだ、俺の家はあそこから変わっちゃいないが。
「…じゃあ、奥さんは?」
「なんだそりゃ?」
奥さんって、誰の奥さんだ?
俺の家の近所に奥さんって人は沢山いるがな、どの奥さんのことを言っているんだ…?
「ハーレイに奥さん、いるの、って訊いているんだよ…!」
「俺に奥さん!?」
どう間違えたらそういう質問になるんだ、お前?
俺が独身人生だってこと、お前は誰よりもよくよく知ってる筈なんだがな?
ブルーは夢の話をしたのだけれど。
辛くて悲しくて、泣きじゃくって終わった夢の話を聞かせたけれど。
聞き終えたハーレイに散々に笑われた。
その夢は全てお前が悪いと、俺の家に泊まりに来ようだなどと企むからだ、と。
「ロクでもないことを計画するから、そういうオチになっちまうんだ」
夢の中だからやってやろうと思ってたんだろ、夢の中のお前。そいつのせいだな。
「そうなの?」
「うむ。良心ってヤツが咎めたってわけだ、それでとんでもない夢になる」
俺に叱られるオチの代わりに、俺がいないというオチにな。
「…そうなのかな?」
ホントにそうなの、ぼくが悪いの?
「そういうことだな」
俺が悪いわけがないだろう。お前の夢には干渉出来んし、第一、引越してもいない。
ついでに結婚もしてはいないし、何もかもお前が悪いってな。
勝手に悪事を企んだ挙句、自分で自分を落とし穴に追い込んじまったんだ。俺が黙って引越しをしてて、結婚している世界へとな。
だが、と右手を褐色の大きな手で掴まれた。
この手は温めておいてやろうと、怖かったろうと。
「…独りぼっちで泣いていたなんて、お前、メギドじゃあるまいし…」
庭のテーブル、お気に入りだろうが。そんな所で泣くヤツがあるか、夢でもな。
「うん…。でも、ハーレイ…。勝手に結婚……しないでよ?」
怖かったんだよ、と訴えれば。
「結婚もしないし、引越しもしないさ」
お前が嫁に来る家だろう、と微笑まれた。あの家はいつかお前と住む家だ、と。
奥さんと呼ぶのはお前だけだと、他の奥さんなど要りはしないと。
「うん…。うん、ハーレイ…」
ぼくがハーレイと住む家なんだね、ハーレイの家。
ハーレイの奥さん、ぼくがなったらいいんだね。いつか結婚して、お嫁さんで奥さん…。
(ぼく、奥さんになれるんだ…)
あの夢に出て来た女性みたいに、庭でハーレイの教え子を迎えて。
「生徒さん?」と、「すぐに呼ぶね」と、家に入ってハーレイを呼んで…。
(うん、あんな風に…)
学校の生徒が訪ねて来たと、こういう子だと伝えに行く。そしてハーレイと並んで出てゆく。
訪ねて来た子を招き入れるために、「いらっしゃい」と門扉を開けてやるために。
(女の人になっちゃってたけど、あれがぼく…)
あれが未来の自分の姿。ハーレイと結婚した後の自分の姿。
とても恐ろしい夢だったけれど、ハーレイの言葉は信じられる。
(引越しもしないし、結婚するのもぼくだけだって…)
そのハーレイの家に勝手に泊まりに出掛けようとは、もう思わない。
夢が本当になってしまったら、怖いから。
悲しい夢はもう見たくないから。
大人しく待っていようと思う。ハーレイがちゃんと家に招いてくれるまで。
もう来てもいいと、俺の恋人だと、手を繋いで一緒に門扉をくぐってくれる日まで…。
夢の中の家・了
※夢の中とはいえ、ハーレイの家を訪ねて行こうとしたブルーを見舞った悲劇。
可哀想すぎる夢でしたけど、いつかはブルーもハーレイの家で暮らせる日が来ます。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
シャングリラ学園の春は入学式で始まります。サイオンの因子を持った生徒がいないか確認するのが会長さんの仕事で、毎年一年生を繰り返している私たちも実はドキドキ。もし見付かったら会長さんがフォローするため、暫くの間は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を貸し切れず…。
「いやー、今年はいなくて良かったぜ!」
サム君が大きく伸びをする今日は、入学式ならぬ始業式の翌日です。昨日は始業式の後、教頭先生に会長さんからのお届けものが。そう、恒例の紅白縞のトランクスを五枚。それさえ終われば一学期の間はのんびりまったり過ごせる筈で…。
「かみお~ん♪ 新しい人が来ちゃうと暫く忙しいもんね!」
ぼくはお客様も大好きだけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。新しい仲間が入学式で確認されたら、入学式の日に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に御招待という決まり。私たちの時もそうでした。御招待して、私たちも一緒にお茶会。翌日からはフォロー開始で。
「ぼくも今年は暇で嬉しい。というか、今年は暇なのを希望」
会長さんも今年は楽だと喜んでいる様子。フォローとなったら一年間はその生徒のサイオンを調整せねばならず、折に触れて面談ならぬお茶会も必要になってしまいます。それ以外はフィシスさんとリオさんに丸投げするのだと分かってはいても、大変なことは間違いなくて。
「あんたは毎年、暇なコースを希望だろうが!」
ソルジャーのくせに、とキース君が突っ込めば、「今年はより切実に暇なのを希望」という返事。
「こんな年はそうそう無いんだよ。いや、二度と無いかもしれないしね」
「何か特別なことでもあるのか?」
「それはもう!」
最高にスペシャル、と会長さんが言うものですから、私たちも気になり始めました。
「なになに? 今年はいいことあるとか?」
ジョミー君はワクワクした顔、サム君も。
「なんだよ、シャングリラ号でも絡むのかよ?」
「えーっと…。シャングリラ号はまるで無関係ではないかな、うん」
「「「えっ?」」」
もしかして今年はソルジャーとしての仕事が多めになるとか、宇宙での生活多めとか? だったら是非ともお供したいです、地球もいいですけど宇宙もいいかと!
「宇宙だったら、ぼくも行きたいな」
授業はサボる、とジョミー君が言い出し、他のみんなも。
「俺もサボるぞ、月参りもこの際、親父に投げる」
「ぼくもサボります、やっぱり宇宙に行きたいですよ!」
ぼくも、私も、と大いに盛り上がりつつあったのですけど。
「残念ながら、そういう話じゃないんだな、これが」
宇宙は全く無関係だ、と会長さん。
「ついでにスペシャルイベントは授業が始まるまでの間のお楽しみでさ」
「「「…え?」」」
「ほら、まだ暫くは校内見学とクラブ見学で授業が無いだろ。今日も新入生歓迎会でブッ潰れてたしさ」
ね? と言われれば、その通り。今日は授業は一切なくって、二年生と三年生は一部を除いてお休みでした。一年生だけがお宝入りの卵を探す恒例のエッグハントを楽しみ、体育館では立食パーティー風の歓迎会も。
「俺たちは出てはいないがな…。見物してただけで」
キース君の言葉に、私たちは「うんうん」と。特別生として一年生を繰り返し続ける私たちが一年生限定のイベント参加は反則だろう、と見守るだけに留めています。お宝入りの卵を隠して回る方なら遊び半分、引き受ける年もあるんですけど。
「それで、授業が無い期間中がどうスペシャルなんだ。あんた、イベントとも言ってたな?」
「期間限定イベントなんだよ、実は明日から食堂に……ね」
「「「えぇっ!?」」」
あの人気店が入ると言うんですか? ホットドッグだのサンドイッチだのが美味しくて、コーヒーや紅茶も注文出来て、おまけにお値段、良心価格。元は有名コーヒーチェーン店の傘下だったのが独立しちゃったアルテメシアの人気店。食事の時間帯でなくても混むと聞きますが…?
「凄いな、それは。いったいどういうコネなんだ」
キース君の問いに、会長さんは「分からない?」と自分の頭を撫でるゼスチャー。
「こう、髪の毛が綺麗に無い人! ゼルだよ、ゼル」
「「「ゼル先生!?」」」
「ゼルは料理も上手いしね? パルテノンの何処かの店であそこの店主と偶然出会って、飲んでる間に意気投合! ちょっと出店してくれないか、ということで」
「「「…スゴイ…」」」
期間限定で学校の食堂に人気店。それは確かにスペシャルです。サイオンを持った新入生のフォローをしてたら食べに行くチャンスも激減しますし、会長さんが暇なの希望も分かるかも~。
お店は明日から食堂で開店、もちろん通常の食堂メニューも食べられるという話ですが。
「やっぱり普通は…珍しい店に行くもんだよなあ?」
俺も行きてえ、とサム君、涎の垂れそうな顔。
「ホットドッグも美味そうだけどよ、サンドイッチも美味いんだよなあ?」
「かみお~ん♪ あそこのサンドイッチはホットドッグみたいなパンだもん!」
おっきいパンにドカンと挟んでくれるんだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えとえと、えっとね…。チキンと生ハムのアボカドソースの、美味しかったよ!」
ゆず胡椒風味のアボカドソースがクリーミー、と聞いてしまって私たちも一気に食べたくなってきました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんはイベントの話を知ってますから、二人で食べに出掛けたようです。
「そいつは是非とも食ってみたいな」
キース君が呟き、ジョミー君も。
「期間限定なんだよね!? 全種類制覇出来るかな?」
「どうでしょう? 学校に出店して来るんですし、品切れは無いと思いますけど…」
でも行列が出来そうですね、とシロエ君。
「会長、イベントは授業が無い期間中だけなんですね?」
「そうなんだよねえ、言わば全校生徒が暇って感じ? 競争はなかなか激しいと見たね」
「それであんたも暇なのを希望か…」
出遅れたらロクに食えないからな、とキース君。
「しかしだ、あんたの場合は俺たちが授業に出てる間に普通に店に行けるだろう? 出店じゃなくって本店の方に」
「まあね。現にこないだ行って来たから、ぶるぅがオススメを喋るわけだけど…。ぼくの目的は食べる方じゃない」
「「「は?」」」
期間限定の人気店。食べる以外にどういうお楽しみがあると?
「出店の黒幕はゼルって言ったよ。そのゼルが企画を立てているんだ」
「「「企画?」」」
「ズバリ、一日店長ってヤツ!」
「「「一日店長?!」」」
それはアレでしょうか、いわゆる芸能人とかがよくやる名誉職と言うか、お飾りと言うか。「一日店長」なんて書かれたタスキをカッコよくかけたりしちゃって、愛想良く微笑むポジションですよね? それをゼル先生がやらかすんですか、食堂で…?
「…確かにゼル先生はお好きそうではある」
キース君が頷き、ジョミー君が。
「目立つポジション、好きだもんねえ…。でもさ、それでブルーが楽しいわけ?」
なんで、という質問はもっともでした。ゼル先生の一日店長が会長さん好みとは思えません。ゼル先生に愛想笑いをして貰って喜ぶようなキャラじゃないことは分かってますし…。
「えっ、楽しいけど?」
「ゼル先生がか?」
キース君だけでなく私たちも驚いたのですが、会長さんは。
「人の話は最後まで聞く! 一日店長はゼルじゃないんだ」
「「「へ?」」」
「ぼくの大事なオモチャのハーレイ! そのハーレイが一日店長! シャングリラ号のキャプテンだからね、シャングリラ号もまるで無関係ではないと言ったろ?」
「「「教頭先生!?」」」
どうして教頭先生なのだ、という疑問は誰もに共通。サッパリ理由が分かりません。人気店の店主と意気投合したと聞くゼル先生なら分かりますけど、何故に教頭先生が…。
「ゼルに借金があるんだよねえ、ハーレイは。…こないだから派手に負け続きでさ」
賭け麻雀で負けが込んでいるのだ、と会長さんは唇の端を吊り上げました。
「早く借金を返せばいいのに、先延ばしにするからこうなった。一日店長で全校生徒に奉仕すべし、と」
「「「奉仕?」」」
「そう。お飾りの一日店長じゃなくて、自ら注文をこなしてなんぼ! ミスすれば当然、自分の責任、出店してくれた店に弁償する羽目になる」
更に注文ミスで迷惑をかけた生徒に頭をペコペコ、と楽しそうな顔の会長さん。
「こんな面白いイベントをねえ、黙って見ている手は無いだろう? 食堂に出掛けてガンガン注文、ハーレイをパニックに陥れる!」
「「「ぱ、パニック…」」」
「もちろん君たちもやるんだよ? 一般生徒は相手が教頭のハーレイってだけで遠慮が出るから、容赦のない注文なんかはしない。忙しそうだと思った時にはコーヒーだけとかも大いに有り得る」
「「「あー…」」」
それはとっても良く分かります。いくらシャングリラ学園が自由な校風で、会長さんが先生方をオモチャにしまくる闇鍋大会とかが存在していても、やっぱり教師と生徒の関係。無茶をする人はいないでしょう。
「ね? だから君たちの頑張りどころ!」
ファイトだ! とブチ上げられましたけれど。まずはお店を見ないことには…。
その翌日。登校して1年A組の教室に出掛けたものの、誰もイベントを知らないようです。私たちだって会長さんに聞くまで知りませんでしたし、無理もないとは思うのですが…。でも、アルテメシアで人気のお店ですよ? どうなるのかな、と思っていたら。
「諸君、おはよう」
グレイブ先生が靴音も高く現れました。
「実に嘆かわしい我が学校では、まだまだ授業が始まらないのだ。今日から三日間は校内見学、そこで土日で休日となる。休日を挟んで向こう三日間はクラブ見学、その後にやっと授業が始まる」
「「「知ってまーす!」」」
元気に答えるクラスメイトたちは入学式の日に予定表を貰っています。当分の間、授業無し。シャングリラ学園ならではの素晴らしさに誰もが感激してましたっけ…。グレイブ先生は不満そうにツイと眼鏡を押し上げて。
「さて、その元気もいつまで続くやら…、と言いたいのだがね。諸君が更に元気になりそうなお知らせというのをしなければならん。私は実に残念だ。残念なのだが…」
しかし仕事だ、と一枚の紙を取り出すグレイブ先生。
「今日からクラブ見学終了までの間、食堂に特別な店が出される」
「「「店?」」」
「諸君も噂くらいは知っているだろう。アルテメシアで最近人気の、ホットドッグとサンドイッチで評判の店で…」
グレイブ先生が読み上げた店名に「えーっ!」と教室中に溢れる声。
「本当ですか!?」
「あの店が食堂に来るんですか!?」
「…残念なことに、来るのだよ。ゼル先生はもう知っているかね? ゼル先生の御好意だ」
コネをお持ちで特別に呼んで下さったのだ、とグレイブ先生は仏頂面で。
「ただでも授業の無い期間中に、学園祭でもあるまいし…、と私などは反対を唱えたわけだが、賛成多数で可決になった。人生、楽しんでなんぼだそうだ。学生生活も同じらしい」
ゆえに、とグレイブ先生の指が神経質そうに教卓をコツコツと。
「小遣いに余裕がある諸君は大いに楽しみたまえ。品揃えは本店と全く同じで、売り切れないよう食材などの補充もされる。一人が飲食する量に制限は無い」
「マジですか!」
「本当ですか、と言いたまえ」
言葉の乱れは実に聞き苦しい、と窘めつつも、グレイブ先生は「本当だ」と律儀に答えましたから、大歓声。六日間もの間、人気メニューを食べ放題とは、そりゃ学生の夢ですってば…。
朝のホームルームが終わると校内見学。クラスメイトは一斉に出掛けてゆきましたけれど、私たち七人グループは見学しようにも見慣れすぎた校内です。同じく特別生のアルトちゃんとrちゃんはどうするのかな、と視線を向ければ。
「アルト、とりあえず食べに行ってみる?」
「うん。特に見に行く所も無いし…」
行こう、と二人は教室を出て行ってしまいました。食堂見学らしいです。これは私たちも…。
「先輩、早速出かけますか?」
シロエ君が食堂のある建物の方を眺めて、マツカ君が。
「早い間がいいでしょうね。お昼時は混むと思いますから」
「だよなあ、とっくに混んでいそうだけどな!」
上級生には校内見学は関係ねえしよ、とサム君に言われて大慌て。そっか、二年生と三年生にも見慣れた学校でしたっけ! 私たち、もしかして出遅れましたか? 急いで食堂へと出掛けてゆけば、既に行列が出来ていました。
「あちゃー…。やっぱり混んじまってるぜ」
「どうする、後でまた見に来る?」
並んでるよ、とジョミー君が一時撤退を提案しましたが、それで行列が縮むかどうか…。
「「「うーん…」」」
並ぶべきか、並ばざるべきか。それが問題、と食堂を見渡してみれば、席には余裕があるようです。とりあえず席を取っておくか、と空いたテーブルと椅子をキープするべく椅子に上着を掛けたりしていたら。
「かみお~ん♪ こっち、こっち!」
並んでるよー! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声が。見ればかなり前の方に「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんの姿があります。
「えとえと、後で七人ほど来るからね、って言ってあるからー!」
大丈夫だよ、という頼もしい呼び声と、会長さんの手招きと。これは割り込んで並ばにゃ損々、持つべきものは先に並んでくれる知り合いですよね!
「「「美味しー!!!」
暫く後。私たちは評判の人気店のサンドイッチやホットドッグを首尾よくゲットし、大満足で頬張りました。ドリンクメニューも実に豊富で、コーヒーと紅茶だけかと思えばチャイにカフェ・ラテ、カプチーノにココアなどなど。
「凄いね、学校の食堂なのにね…」
評判のお店はやっぱり違う、とジョミー君は感動しきり。
「これだけ揃えるの、思い切り大変そうだけど…」
「だろうね、舞台裏は相当にハード。それを軽々とこなしてこその人気店だよ」
会長さんがロイヤルミルクティーを傾けながら。
「ゼルの提案に乗って出て来た理由は、大学とかへの進出らしい」
「「「大学?」」」
「アルテメシアには大学が多いからねえ、カフェを幾つも入れてる所も多数ってわけ。そういう所へ出店出来れば客は途切れず、人気も持続。ただ、学生はけっこう時間に追われてもいるし、注文にもかなりうるさいし…」
どんな感じか掴んでみるための出店なのだ、と会長さんは裏事情を教えてくれました。
「大学で試験的な出店を出すには許可も必要だし、スペースや設備を貸して貰えるかどうかも分からない。その点、ウチなら合格ってね」
なるほど、そう聞けば納得です。儲かるとはいえ、なんだって一介の学校に気前よく来てくれたのかと思っていれば、しっかり利害の一致が…。
「そういうこと! それでどうかな、味とかは?」
「すっごく美味しい!」
全メニュー制覇で頑張るぞ、とジョミー君が笑顔で返事し、私たちも。なんとケーキまであるんですから、これは何回でも通わなくては…!
「それは良かった。だったら一日店長が来る日も頑張れるね?」
「「「は?」」」
「忘れたのかい、一日店長! ハーレイがにこやかに食堂に立つ日!」
「「「………」」」
言われてみれば、そういう話がありましたっけ。まずはお店を見なくては、と思った所までは覚えてましたが、その後、スッパリ忘れていました。おまけに食べて美味しいお店。教頭先生の件は忘却の彼方、今の今まで思い出しさえしませんでしたよー!
結局、食堂ではそれ以上の深い話は出なくって。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は食べ終わったら「また後でねー!」と帰ってしまって、私たちはその日一日、終礼の時間まで校内見学。暇だからとあちこち覗きに出掛けて、気が向いたらフラリと食堂へ。しかし…。
「並んでるねえ…」
「ああ。これぞまさしく長蛇の列だな」
救いの神はいないようだな、と行列を眺めるキース君。割り込ませてくれる人は見付からないまま、終礼の時間が来てしまいました。この後もクラブ活動の生徒が居るため、食堂もお店も営業しますが、私たちには別の行き先があって。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
お昼御飯が出来てるよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。授業が始まるまでの間は午前中で学校は一応おしまい、お昼御飯は家で食べるか、食堂で食べるか、帰りに食べるか。もちろん今は例のお店が来ていますから、部活の無い人も食堂に行っていそうですけど。
「はい、エビとアスパラのレモンクリームスパゲティ―! 沢山食べてね!」
「「「いっただっきまーす!」」」
声を揃えてフォークを握って、パクパクと。うん、美味しい! 食堂で食べたサンドイッチも美味しかったですが、こちらもプロ並みの味が光ります。ワイワイ騒いで食べている間に、またまたすっかり忘れたのですが。
「…ところで、ハーレイの一日店長だけどね」
食後の飲み物が出て来た所で、会長さんの瞳がキラリと光って。
「どうやら金曜日が出番らしいよ、明後日だね」
「三日目か…」
キース君が腕組みをして。
「それで、あんたは俺たちに何をさせたいと?」
「そりゃもう、ハーレイをパニックに! 支離滅裂な注文もいいし、息つく暇もなく次の誰かが注文したってかまわない。もちろん、ぼくとぶるぅも出掛ける」
「かみお~ん♪ いっぱい注文するんだよ! それと間違いだったっけ?」
「「「間違い?」」」
「違うよ、ぶるぅ。そこは訂正と言うのが正しい」
注文をガンガン取り替えるのだ、と会長さんはニヤリと笑いました。
「例えば、コーヒーとサンドイッチのコレ、と注文をやらかした直後に、やっぱりカフェ・ラテとサンドイッチのこっちのヤツ、って風に訂正! それをガンガン!」
そして注文と違うメニューが出来て来たら文句をつけるのだ、と言われましても。そのやり方で注文されたら、慣れた人でも間違えませんか…?
教頭先生の一日店長。ゼル先生に麻雀で借りを作りまくって、お飾りならぬ本気の店長、しかも奉仕の精神とやら。ミスをすれば自腹で弁償だというお気の毒な立場を承知でパニックに陥れようとする会長さんは鬼でした。私たちが止めても聞く筈が無くて、ついに金曜。
「諸君、おはよう」
グレイブ先生が1年A組の教室に颯爽と。教室の一番後ろに会長さんの机は増えていませんけれども、今日が教頭先生が一日店長をなさる日です。グレイブ先生は当分授業が始まらないことを嘆いた後で。
「それから、今日はお知らせがある。食堂で人気の例の店にはもう行ったかね?」
「「「はーい!!!」」」
「ふむ。学生生活を楽しんでいるようで、大いによろしい。…いや、私個人としては今もって賛成しかねるのだが…。その店にだ、今日は教頭先生がお立ちになる」
「「「…教頭先生?」」」
ザワつくクラスメイトたち。それはそうでしょう、教頭先生と言えば校長先生の次に偉い先生。入学式では司会をなさっておられましたし、始業式では新学期の学生生活の心得なんかも威厳たっぷりに語っておられましたから、現時点では雲の上の人。
「教頭先生が一日店長をなさるのだ。諸君への奉仕の精神だとかで、飾り物の一日店長ではない。教頭先生自ら注文をお取りになって、注文の品をトレイに乗せて渡して下さる」
「マジですか!?」
「本当ですかと言いたまえ、と前にも注意をした筈だが…。まあいい、いずれ授業が始まったらビシビシ躾けるとしよう。そして私が話したことは本当だ。教頭先生に失礼のないよう、敬意を払って注文したまえ」
「「「はいっ!」」」
みんなの緊張が伝わって来ます。恐らく全校、何処のクラスでも似たような注意がされたのでしょう。いくら教頭先生が笑いのネタにされるのを見て来た上級生でも、こうして注意をされてしまったら礼儀正しく注文をしに出掛けるわけで。
『ブルーの読みって正しかったね』
ジョミー君から思念が飛んで来て、私たちは『うん』と返しました。
『これだと確かに委縮するだろうな、全校生徒が』
キース君がそう答えた所で、『其処の特別生七人組!』とグレイブ先生からの思念が。
『私語は慎めと言っている筈だが!?』
『『『…す、すみません…』』』
首を竦めた私たちに『分かればよろしい』という思念。うーむ、朝から前途多難そう…。
朝っぱらからグレイブ先生に叱られた私たちですが、校内見学のために解散と同時に揃って食堂へと向かいました。お目当ては教頭先生の一日店長です。
「いらっしゃいませ!」
入るなり飛んで来た聞き慣れた声。
「「「………」」」
食堂の従業員さんたちと区別するため、人気店の人たちは店の制服を着ています。それを着込んだ教頭先生が『一日店長』と書かれたタスキをかけて笑顔で立っていらっしゃました。さっき聞こえた「いらっしゃいませ」は言わずと知れた教頭先生で…。
「順番に列にお並び下さい」
なるほど、今日も行列です。教頭先生が注文を受けるといえども、人気店のメニューが居ながらにして食べられるとあれば並びたくなるのも無理はなく…。
「思ってたより混んでるね?」
ちょっとビックリ、とジョミー君が最後尾に並び、私たちも続いて並びました。その後ろにも直ぐに生徒が並んで、行列は一向に短くなりません。教頭先生は手早く注文をさばいておられるようですが…。そんなことを言い合いながら並んでいたら。
「あ、居た、居た!」
「かみお~ん♪ ぼくとブルーも入れて~っ!」
其処に入れてよ、と会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が食堂に入って来たではありませんか。で、でも…。後から二人増えます、なんて後ろの人たちには言っていません。入れてくれなんて言われても多分、無理なんですけど~!
「おい、割り込みは並んでるヤツらに迷惑だぞ」
キース君がビシッと断りましたが、会長さんは平気な顔で。
「えっ? 大丈夫だと思うけど…。ねえ、ぶるぅ?」
「んとんと…。別に入れてくれなくても困らないけど、どうなのかなあ?」
「ふふふ、ぶるぅは不思議パワーが売りだしね? 入れてくれた人には何かあるかもね」
「あっ、そっかぁー!」
ぼくの右手の握手はラッキー! と聞いた生徒たちがザザッと後ろに下がりました。
「ど、どうぞ入って下さい、生徒会長!」
「それに、ぶるぅも!」
「悪いね、後から割り込んじゃって…。ぶるぅ、みんなと握手をね?」
「うんっ!」
ありがとー! と順に握手をしながら近付いて来る「そるじゃぁ・ぶるぅ」。右手の握手で幸運が来るとは言われてますけど、不思議パワーの御利益、恐るべし…。
私たちよりも後ろに並んだ人には「そるじゃぁ・ぶるぅ」の右手との握手。そんな幸運を前に並んだ人たちが黙って見ている筈などがなくて、私たちは「どうぞ抜かして下さい!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」とセットで列をゴボウ抜き。気付けば一番前に来ていて。
「いらっしゃいませ! ご注文は?」
教頭先生に愛想よく訊かれたジョミー君は慌ててメニューを見ると。
「え、えっと…。ココアと、ホットドッグのレタス入りで!」
「ココアはホットでらっしゃいますか?」
「は、はいっ!」
注文、終わり。教頭先生は後ろのスタッフにテキパキと指示をし、注文の品をトレイにササッと。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
ウキウキと立ち去るジョミー君ですが、その後ろ姿に会長さんが「失格」と一言。
「キース、君の番だよ、頑張って」
「あ、ああ…。えーっと、コーヒー、ホットで。それとローストチキンのサンドイッチでお願いします」
「かしこまりました」
ササッと注文の品が揃って、去ってゆく背中に会長さんが「全然ダメだし!」と不機嫌そうに。
「いいかい、注文を聞いたハーレイがパニクッてなんぼ! わざわざ自分でホットだなんて言わなくていいから!」
そ、そんなことを言われても…。普段にそういう注文の仕方をしていませんから、こういう所へ来てしまったら自動的に…。
「カフェ・モカ、ホットでお願いします。サワーピクルスのホットドッグと」
シロエ君にも「全然ダメ」との烙印が押され、私も「失格」と言われてしまいました。こうなった以上、何が正解かを見届けてやる、と先に行ったジョミー君とキース君もトレイをテーブルに置いて戻って来たのですけど。
「かみお~ん♪ えとえと、チャイで! 違った、ハニー・チャイだったあ!」
「ハニー・チャイ、ホットでらっしゃいますか?」
「えっとね、アイスで! ううん、ホットで…。んとんと、やっぱりアイスにしとくー!」
むむっ、これが正しい注文ですか!
「それからホットドッグ! レタスのがいいかな、サワーピクルスも美味しそうかも…。サンドイッチも美味しそうだし、ローストチキンのサンドイッチと、やっぱりココアー!」
うわあ…。教頭先生はココアはホットかアイスなのかを確認するのを忘れました。そして…。
「…ぼく、ホットココアが良かったのに…」
トレイに乗っかった氷たっぷりのグラスに入ったアイスココア。ローストチキンのサンドイッチは注文通りの品が来ましたが、飲み物が間違っていたようです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はションボリと肩を落としてトレイを受け取ろうとしたのですけど。
「店長。ぶるぅにココアはホットかアイスか訊いていなかったみたいだけれど?」
会長さんの冷たい声が。
「そ、それは…」
「言い訳無用! 君のミスだろ、取り替える!」
「は、はいっ! も、申し訳ございませんでした…」
アイスココアのグラスが下げられ、露で濡れたトレイが拭かれてホットココアが。
「ハーレイ、ありがとー!」
ホットココアだぁー! と無邪気に叫ぶ「そるじゃぁ・ぶるぅ」に悪意は多分、無いのでしょう。会長さんに言われたとおりに注文しまくり、教頭先生が引っ掛かったわけで。
「「「………」」」
あれは酷い、と見ている間に会長さんが教頭先生の前に立ちました。メニューを丸暗記しているのでは、と思ってしまうほどの立て板に水で、機銃掃射の如き注文と訂正を繰り返した末に、出て来た品は。
「…ハーレイ。ぼくは紅茶を頼んだと思うんだけど? なんでエスプレッソになるわけ?」
「す、すみません…」
「それから、サンドイッチだけれど。サーモンと小柱の野菜マリネを頼んだ筈だよ、生ハムなんかは頼んでいない」
「…ま、間違えました…」
直ぐに取り替えます、と詫びて大慌ての教頭先生にトドメの一撃。
「うん、取り替えてくれるんだったら、紅茶はロイヤルミルクティーにしておこうかな? アイスで、ううん、やっぱりホットで!」
「かしこまりました」
「それとね、サンドイッチじゃなくってホットドッグにしてみるよ。レタスの…。いや、サワーピクルスがいいかな、悩んじゃうなあ…」
どうしようかな、と会長さんが注文の変更をかましたお蔭で、出来て来た品は飲み物も食べ物もどちらも間違い。会長さんは「使えないねえ…」と舌打ちをしつつ。
「だけど後ろがつかえてるしね、仕方ない、これで我慢しとくよ」
「…も、申し訳ございません…」
ヤクザも真っ青な勢いでクレームの世界。会長さんは意気揚々と去って行ったのでした。
お気の毒としか言いようがない一日店長な教頭先生。食堂に居座って主と化した私たちのテーブルから誰かが注文に立つ度、制服姿で震えておられるのが分かる有様。そんな状態だけに他の注文でもミスが続発、もみ消そうにもゼル先生が監視にやって来ていて。
「なんじゃ、ハーレイ! お客さんがアイスと言ったらアイスなんじゃあ!」
「わ、分かっている…」
「教頭先生、ぼくはホットでも平気ですから」
「いかんのう、自分の主張はハッキリ言わんとロクな大人になれんわい」
ちゃんと注文は通すのじゃ、とゼル先生が譲らないだけに、一般生徒相手でもミスはしっかりミス扱い。其処へ会長さんに「頑張ってこい!」と背中を叩かれたキース君とかジョミー君とかが怒涛のような注文と訂正を繰り返す上に…。
「かみお~ん♪ ハニー・チャイ、ホットでちょうだい!」
それから、それから…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が派手にやらかし、クレーム大王の会長さんが早口言葉もかくやな注文の嵐をぶつけるのですからたまりません。
「…ハーレイ? 何度言ったら分かるのかなあ?」
ぼくの注文はこれじゃなくって、と文句をつける会長さん。教頭先生のミスは更に酷くなり、終礼の後のお昼御飯の時間帯にはボロボロで。
「…ホットコーヒー、お待たせしました…」
「サンドイッチは?」
それとケーキも頼んだ筈、と会長さんは鬼の形相。
「ついでにホットコーヒーじゃないし! アイスロイヤルミルクティーだし!」
「…と、取り返させて頂きます…」
「当然だよ!」
なんて使えない店長なのだ、と会長さんが毒づき、ゼル先生が。
「まったくじゃ。今日だけで何人に迷惑をかけてしまったやら…。それに無駄になった注文の方も山ほどあるでな。まあ、全部、無駄にはなっておらんが」
こんなこともあろうかと思って呼んでおいた、と誇らしげな顔のゼル先生。食堂の奥の休憩室には職員さんやら先生やらが次から次へと訪ねて来ては注文ミスで下げられた品を食べまくっているらしいのです。えーっと、それって、支払いの方は…。
「ハーレイの自腹だと言った筈だよ、ミスをした分は弁償なんだし」
「「「………」」」
つまりはタダ飯。今や「食べに来ないか」と友達を呼んでいる人までいるとか。営業時間は部活が終わる夕方までです。教頭先生、どれだけ弁償させられるのやら…。
「…いやあ、昨日は大いに食べたねえ」
翌日の土曜日、会長さんの家に遊びに出掛けた私たち。会長さんは教頭先生が弁償する羽目に陥った額をゼル先生から聞かされたそうで、満面の笑顔というヤツです。
「塵も積もれば山となるだよ、麻雀で負けた分、サッサと払えば良かったのにさ」
「そんなに強烈な額だったのか?」
キース君が尋ねれば「それはもう!」と御機嫌な顔で。
「君が月参りで貰うお布施とは比較にならない。月参りに換算するなら何軒分かな、少なくとも麻雀でもう一回は負けられるほどに毟られたようだね、あのゼルにね」
だけど麻雀と違って店に支払う費用なんだし…、と会長さん。
「お店にはきちんと支払わなくちゃね? 待ってくれなんて言えやしないし、もう強引に毟られたってね」
「「「………」」」
私たちも片棒を担いだ身だけに、恐ろしくて金額は訊けませんでした。一日店長って其処まで恐ろしいものだったのか、と思っていたら。
「こんにちは」
「「「???」」」
誰だ、と振り返った先に私服のソルジャー。
「ハーレイの一日店長だけどさ。明日、もう一回やらないかい?」
「何処で!?」
会長さんが真面目に訊き返しました。
「明日は学校は休みなんだよ、あの店だって今日と同じでスタッフなんかは寄越さないから! 定休日!」
「ハーレイの家で充分じゃないか」
ぼくの食べたいメニューはちゃんと出せるし、とソルジャーは言うのですけれど。
「どんなメニューさ? 言っておくけど、一日店長でやってた店はね、調理スタッフが別に居たから! ハーレイが作ったわけじゃないから!」
「そのくらいのことは見てれば分かるさ。だけど単純なメニューだからねえ、ハーレイでも簡単に作れるかと」
実はもう話をつけて来たのだ、とソルジャーはニッコリ笑いました。
「毟られた分を取り返せる勢いで儲けさせてあげる、とも言っておいたよ。だから是非! お客さんがぼく一人ではつまらないしね、是非、君たちも」
ソルジャーの「是非」は「必ず来い」です。つまり行くしかないわけですね?
次の日の朝、私たちは会長さんの家に集合させられ、ソルジャーから山のようなお小遣いを渡されました。エロドクターから貰ったお小遣いを分配してくれたそうですけども。
「いいかい? こないだの一日店長の時を再現したまえ、ハーレイがミスをするように!」
「それじゃ儲けにならんだろうが!」
キース君が噛み付いたのですが。
「どっこい、それが儲けに結び付く…ってね。ぼくがドカンと注文するから!」
「あんた、そんなに食えるのか?」
「好物は別腹って昔から言うだろ、大丈夫!」
まあ頑張れ、とソルジャーに喝を入れられ、会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」も一緒に瞬間移動でお出掛け。教頭先生のお宅に着くと、リビングが仮設店舗と化していて。
「いらっしゃいませ。メニューをどうぞ」
「「「………」」」
差し出されたメニューはホットドッグが三種類。飲み物の種類は多いですけど、インスタントでいけそうです。なのにお値段、どえらく高め。ミスを出さずに売り続けたなら、先日の損を取り戻せるかもしれません。でも…。ソルジャーのお目当ては…。
「じゃあ、始めようか。この前と同じ要領で!」
一番に並んだソルジャーの注文は、会長さんの注文に倣ったもの。ホットだ、アイスだ、あれだ、こっちだと言いたい放題、案の定、ミスが出てしまいました。ということは、私たちも…。
「かみお~ん♪ ココアと、ピクルスのホットドッグと…。違った、アイスの…えとえと!」
「ぼくはアイスティー、ホットでお願いします」
そんなものは存在しないだろう! という激しい注文までが飛ぶ中、教頭先生、ミス三昧。
「も、申し訳ございません…!」
「いいけどねえ…。こんな調子だと儲からないよ?」
ソルジャーの台詞に「誰のせいだ!」と全員が突っ込みましたが。
「仕方ないねえ、今度はきちんと! ミルクティー、ホットで。それとホットドッグの方はね、特製のソーセージでお願いしたいな」
「…そういうメニューはございませんが?」
「ううん、あるって! 要は挟んでくれればいいんだ、そこのパンでさ」
レタスもピクルスも添えなくていい、とソルジャーはペロリと舌なめずりをして。
「いっぺん食べてみたかったんだよ、そういう風に…ね」
「何をですか?」
「ホットドッグ! 君の大事なソーセージ、つまり息子を挟んで!」
ゲッと息を飲む私たち。そ、それってまさかのアレのことですか、教頭先生の大事な部分…?
「うーん…。いけると思ったんだけどなあ…」
あれだけの勢いでハーレイの頭をパンクさせれば、と唸るソルジャー。
「出来るわけがないし! ヘタレだから!」
会長さんがギャーギャーと喚き、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと、何をパンで挟むの? ぼくで良かったらちゃんと作るよ?」
「いや、ハーレイに挟んで貰わないと食べられないしね…」
ついでに今の状態では美味しくないと思うんだ、と嘆くソルジャーが眺める先には教頭先生が仰向けに倒れておられました。顔は鼻血ですっかり汚れて、意識も全くありません。
「おかしいなあ…。美味しく食べてチップをドカンと支払うつもりでいたんだけれど…。ハーレイ特製のホットドッグだし」
「そういうのは君の世界でやりたまえ!」
「こっちのハーレイだから意味があるんだよ、初物、つまり出来たての味!」
童貞ならではの新鮮な味をパンで挟んで頬張りたかった、と言われましても。私たち、明日からホットドッグを口にすることが出来るでしょうか? 例のお店はあと三日間も出るんですけど、ホットドッグだけは下手したら一生無理かもです~!
店長は大忙し・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生の一日店長は如何でしたでしょうか、お飾りじゃないのが売りでしたけど…。
こんな注文ばかりだったら、接客のプロでもズタボロになってしまうかも?
シャングリラ学園、11月8日に番外編の連載開始から9周年を迎えるんですが…。
感謝の気持ちで月2更新が恒例でしたが、絶望的に使えないのがwindows10 。
シャングリラ学園、来月も月イチ更新であります、申し訳ございません。
次回は 「第3月曜」 11月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、10月は、キノコの季節。スッポンタケ狩りに行くとかで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(久しぶりに…)
飲んでみるか、とハーレイは野菜を刻み始めた。何種類もの野菜を細かく、細かく。
今日は土曜日、いつもより早く目が覚めたから。
ブルーの家に出掛ける前にと、普段と違ったものを飲もうと。
(こいつもずいぶんご無沙汰だよなあ…)
前はよく飲んだ野菜ジュース。
学校のある日も作っていたほど、馴染みの味だった朝の食卓の野菜ジュース。
小さなブルーと再会してから朝はミルクが多くなったから、あまり作らなくなっていた。こんなジュースよりもミルクなのだと、ブルーも飲んでいるのだから、と。
(あいつ、毎朝、頑張って飲んでるみたいだしな?)
背丈を伸ばそうとミルクをせっせと飲んでいるらしい、小さなブルー。
努力は全く報われないまま、今も出会った時と変わらない百五十センチの身長だけれど。一ミリさえも伸びはしなくて、愛くるしいチビのままなのだけれど。
(そんなあいつも、また可愛いんだ…)
前の生でも、そのくらいの頃に出会ったブルー。少年の姿で成長を止めてしまっていたブルー。
けれども、アルタミラから脱出した後は順調に成長していった。育っていった。
皆のためにと食料や物資を奪いに宇宙を駆ける間に。甘える暇さえろくに無い内に。
だから幸せそうな笑顔の記憶が無い。今のブルーが見せるような笑顔を覚えていない。
(もっと、もっと俺は見ていたいんだ…)
両親に守られ、暖かな家で暮らすブルーを。小さなブルーの幸せそうな顔を。
早く大きく育って欲しいと、前と同じに育って欲しいと思う半面、今のままでとも願っている。少しでも長く、小さなブルーと過ごしてみたいと。
(あいつが聞いたら膨れるんだろうな…)
小さいままでいて欲しい、などと言ったなら。育たなくていいと言ったなら。
「ゆっくり育てよ」とは言ってあるけれど、ブルーも頷きはしたけれど。
それでもブルーは膨れるだろう。「ぼくは大きくなりたいのに」と。
早く育とうと、背を伸ばそうとブルーが毎朝、飲んでいるミルク。幸せの四つ葉のクローバーのマークが瓶に描かれているミルク。
前の生では、何故だか見付けられなかった四つ葉のクローバー。ブルーも自分も、それは何度も探したというのに、一度も出会えはしなかった。幸せの四つ葉のクローバーに。
(そのクローバーのマークってトコがな…)
ブルーの家で買っているミルクが四つ葉のクローバーのマークだと聞いて、まるで運命のように感じたものだ。
今の生では見付けられた四つ葉のクローバー。ブルーの家の庭にも、自分の家の庭にも四つ葉のクローバーが生えていた。探したその日に見付かった。
それ以来、牛乳を買わねばと思うと自然に四つ葉のクローバーのマークを探すようになった。
ブルーと同じだと、同じ四つ葉のクローバーだと、幸運の印が描かれたミルクを。
そうして、いつしか朝の食卓から野菜ジュースは姿を消した。
四つ葉のクローバーのミルクに取って代わられてしまって、いつの間にやら。
(野菜が足りないってこともないしな)
朝には必ず何か野菜を食べているのだし、果物だって口にする。
その辺りは前と全く変わらないけれど、野菜ジュースもかつては定番だった。朝にはこれだと、野菜ジュースを飲まねばと。
ブルーに出会うまでは、四つ葉のクローバーのミルクに心惹かれて忘れるまでは。
毎朝のように作っては飲んでいたジュース。何種類もの野菜を刻んで作ったジュース。
健康作りに、と上の学校に入った頃から始めたのだったか…。
家にある野菜を沢山入れようと、目に付いた野菜を端から刻んで。
ミキサーに入れて、水を加えて、ほんの少しの塩をパラリと。
作り始めた頃を懐かしく思い出しながら、今も野菜を端から刻んでいたのだけれど。
(そういえば…)
同じだな、と、ふと気が付いた。
前の自分が作っていたスープと、この野菜ジュース。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水を加えて、塩を少し。
前のブルーに食べさせるために何度も何度も作ったスープと全く同じ。
あちらはコトコト煮込んだけれど。野菜の旨味が充分出るまで、野菜がとろけるほどにまで。
(だから余計に作らないってか?)
あのスープを思い出したから。
今では「野菜スープのシャングリラ風」と、名前だけはお洒落になっているスープ。
それをブルーのために作っているから。
ブルーが寝込んでしまった時には、出掛けて作ってやっているから。
(あいつ、今でも好きだからなあ、あのスープ…)
前のブルーがそうだったように。
まるで食欲が無かった時でも、あのスープだけは食べてくれたブルー。食べられたブルー。
小さなブルーもそれと同じで、野菜スープを作ってとせがむ。あれならば食べられそうだから、と。他の食べ物は嫌だけれども、スープならば、と。
(本当に前とそっくりなんだ…)
味を変えるなと、塩だけでいいと言う所までがソルジャー・ブルーとそっくり同じ。
素朴すぎる味のスープなのに。
美味しい食事を食べて育った小さなブルーには、物足りなく思える味だろうに。
(あいつのための食べ物なんだ、と俺は思っているんだろうなあ…)
何種類もの野菜を細かく細かく刻んで作るものは。水と少しの塩を加えて出来上がるものは。
それを煮込むか煮込まないかの違いくらいしか無いのだから。
野菜スープのシャングリラ風と、自分好みの野菜ジュースの間には。
どちらも野菜を端から刻んで…。
(そういや、なんで刻むんだ?)
何故だ、と其処に思い至った。
今も刻んでいる野菜。どうして野菜を刻むのだろう? それも細かく、とても細かく。
どうせミキサーにかけるのに。
どんなに細かく刻んだところで、ミキサーで粉々になるというのに。
そもそも、ミキサーはそのためにある。細かく砕いてしまうためにある調理器具。
なのにどうして、自分は野菜を細かく刻んでいるのだろう…?
学生だった頃から不思議がられた。
何故刻むのかと、ミキサーがあるのに余計な手間をかけるのかと。
仲間のいる場所で作る度に。
「適当に切っておけばいいのに」と呆れた友やら、「これでいいじゃないか」とキャベツの葉を手でバリバリと破った友やら。
キュウリを豪快にポキポキと折った友人もいた。「充分だろ?」と。
もちろんミキサーはそうした野菜も見事に砕いてくれたのだけれど、友人たちは「ほらな?」と得意満面だったけども。
それでも次には野菜を刻んで作るものだから、「真面目すぎる」と笑われた。
(…ついでに味もな)
果物を入れろ、とよく言われた。
出来上がった野菜ジュースを飲んだ仲間たちから、不味いと、味が足りないと。
塩しか入れないことは許すが、果物抜きなのは許せないと。
「これも入れろ」とバナナやリンゴを放り込まれた。これで美味くなると、飲みやすくなると。
味はすっかり別物になってしまったものだが、彼らの口にはそれが合ったらしい。
(俺にはこいつで良かったんだが…)
果物などは入らなくても、ほんの少しの塩さえあれば。
もう充分に満足できる味であったし、工夫しようとも思わなかった。
野菜だけでいいと、家にあるだけの野菜を端から入れればいいと。野菜が摂れればいいのだと。
けれども、野菜を刻む方。野菜ジュースに入れる野菜を全部刻んでしまう方。
細かく刻むのに理由は無かった。刻めば味が変わるわけでもないのだし…。
なのに、刻まずにはいられなかった。友人たちが手抜きする方法を幾つ伝授してくれようとも。キャベツは破ってキュウリは折るのだと、何度も手本を見せてくれても。
(ミキサーに逆らわれたってことはないよな?)
固すぎるものを放り込んだ時は、異音を立てて抗議するミキサー。
もっと砕けと、砕いてから入れろと苦情を申し立てるミキサー。
野菜ジュースを作ろうとして、それをやられたかと思ったけれど。カボチャが固いと、この固いニンジンを何とかしろと喚かれたのかと思ったけれど。
記憶にある限り、その覚えは無い。文句を言われた覚えは無い。
(ミキサーに負担をかけないためだと思っていたが…)
自分ではそのつもりで刻んでいたが。
最初から刻んでいなかったろうか、この野菜ジュースを作る時には?
初めて作ろうと思った時から、細かく刻んではいなかったか。
(…俺の手が勝手に刻んでいたんだ…)
これだけの野菜をジュースにせねば、と思ったら。
考えずとも身体が動いた、包丁を持った手が動いていた。もっと細かくと、細かくせねばと。
全部の野菜を細かく刻んで、ミキサーに入れて水を加えた。それに塩を少し。
ついでに果物も入れなくていいと思っていた。バナナもリンゴも、恐らくはあった筈なのに。
要りはしないと、余計な味など要らないのだと入れずに作った。
出来上がったジュースは会心の作で、もう手を加える必要は無くて。
それ以来、ずっとこの野菜ジュース。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水と、僅かな塩だけを入れて。
煮込む代わりにミキサーにかけた、野菜スープのシャングリラ風。前のブルーが好んだスープ。
(…あいつのために作ってたのか…?)
沢山の野菜を前にした途端に、身体が、勝手に。
これを刻もうと、刻んで野菜のスープを作ろうと、手が勝手に。
野菜ジュースが目的だったから、コトコト煮込みはしなかったけれど。ミキサーにかけて終わりだったけれど、自分は野菜のスープを作ろうとしたのだろうか?
生まれてもいなかったブルーのために。
まだ出会ってもいなかった小さなブルーのために。
誰に教えられずとも野菜を刻んで、前の自分がやっていたように。
こうして野菜を刻んで作ると、塩を少しだけ入れるのだ、と。
(それとも…)
今の小さなブルーではなくて。
前のブルーのためにと作っていたのだろうか、これを食べさせようと。
食べて欲しいと、お前のために作ったから、と。
(そうなのかもな…)
前のブルーの方だったかもしれない、と思えて来た。
何処かで一緒に居た気がするから。
其処が何処かは分からないけども、生まれ変わる前には、二人一緒に。
片時も離れず共に居たのだと、自分はブルーと共に居たと。
(そこでも俺は作ってたのか?)
天国にキッチンがあるというなら、食べるという行為があるとしたなら。
何処とも知れない天国とやらで、自分は野菜のスープを作っていたのだろうか。共に居ただろうブルーのためにと、ブルーに食べさせてやりたいと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水と少しの塩とでコトコトとろけてくるまで煮込んで。
(キッチンなんぞは無かったとしても…)
食べるという行為が無かったとしても。
この地球の上に生まれて来た自分は、ブルーを覚えていたのだろう。
ブルーが好きだった野菜スープも、その作り方も。
何種類もの野菜を目にして、身体がそれを思い出して。
食べさせてやろうとしていたのだろう、記憶の何処かに居たブルーに。
お前の好きなスープを作ってやるから、と。
少し待っていろと、じきにスープが出来上がるから、と。
(…中途半端な出来だったがな)
ブルーの好んだ野菜スープとは違う味。材料と手順が似ているとはいえ、別物の味。
煮込んでいない、ただのジュースだから。
スープほどに味が深くはないから。
それに野菜も、とろける代わりに粉微塵。スープの中に浮かぶ代わりに濃い緑色を加えるだけ。
つまりは見た目もまるで別物、あのスープと同じ材料から出来たとは思えない代物。
だから自分でも気付かなかった。
今の今まで、作り始めるまで思い出しさえしなかった。
長年飲んでいた野菜ジュースが、前のブルーが好んだスープと同じ作り方のものだったとは。
(さて、と…)
刻み終えた野菜を水と一緒にミキサーにかけて、塩をほんの少し。
僅かな時間で出来上がったジュースをコップに移して味わってみれば、今の自分の記憶のままの味だけれども。
学生時代から何度となく作った野菜ジュースの味なのだけれど。
(…一味足りんな)
今だからこそ、そう思う。
友人たちのアドバイス通りにバナナやリンゴを入れたいというわけではない。
足りないものは、煮込む手間の分。
細かく刻んだ野菜が半透明になってとろけるくらいに、柔らかく煮込む手間の分。
その味が足りない、と今なら分かる。
小さなブルーに何度も作ってやったから。
完成品の野菜スープを、同じ材料から出来上がってくる野菜スープのシャングリラ風を。
(あいつに作ってやったなら…)
何と言うのだろうか、小さなブルーは?
この野菜ジュースを作ってやったら、作って飲ませてやったなら。
自分は作り続けていたのだと、中途半端な野菜スープをずっと作っていたのだと。
それをブルーに話してやりたい。小さなブルーに教えてやりたい。
(手料理は厳禁なんだがな…)
ブルーの母に気を遣わせることになるから、自分の手料理は持って行かないと決めていた。野菜スープのシャングリラ風も、ブルーが寝込んだ時に作ってやっているだけ。
しかし、この野菜ジュースは飲ませてやりたい。
今の自分がそれと知らずに作り続けて、ブルーのためにと野菜を刻んでいたジュースだから。
(…どうするかな…)
たっぷり飲もうと多めに作っていたジュース。まだ二人分は充分にあった。
水筒に詰めて持って行ったなら、ブルーの母には気付かれないで済むだろう。ただの水筒、道々飲みながら歩いて来たお茶か、ジュースでも入っているのだろう、と。
水筒の中身は見えないから。サイオンで透視でもしない限りは、中身が何かは分からないから。
(そいつでいくか)
よし、と水筒を用意した。保温も保冷も出来る水筒。
野菜ジュースの残りを水筒に移して、しっかりと蓋をし、紙コップも二つ用意した。水筒からは二人一緒に飲めないから。ブルーの家のコップを借りるわけにもいかないから。
(うん、これでいいな)
ブルーの家へと提げてゆく荷物の中に水筒、それに二つの紙コップ。
小さなブルーが待っている家へ、野菜ジュースを運んでゆこう。
未だ記憶も戻らぬ内から、何度も何度も作り続けた中途半端な出来のスープを…。
朝食を食べ終え、ミキサーも洗って片付けをして。
秋晴れの空の下、歩いてブルーの家に向かった。野菜ジュースが詰まった水筒を提げて。
通い慣れた生垣に囲まれた家の門扉の横のチャイムを鳴らせば、二階の窓から手を振るブルー。手を振り返す内に、ブルーの母が門扉を開けに来た。
ブルーの部屋に案内されて、いつものようにお茶とお菓子が運ばれて来て。
二人きりになると、ブルーが紅茶のカップへと手を伸ばしたから。
「その前にこいつを飲んでみないか?」
これだ、と水筒を取り出して見せた。野菜ジュース入りの水筒を。
「お茶?」
わざわざ持って来てくれたの、ハーレイ?
美味しいの? 何か特別なお茶なの、それは?
どんなお茶なの、とブルーの瞳が輝くから。
お茶だと思い込んでいる様子だから、水筒だけに無理もない、と心の中で苦笑しながら。
「いや、ジュースだ」
こいつの中身はお茶じゃなくって、ジュースなんだが…。
「ジュース?」
「ああ。お母さんには内緒だぞ」
俺がジュースを持って来てたということは。
ついでに不味いが、と紙コップを出して注いでやった。自分の分も。
白い紙コップに八分目くらい、濃い緑色をした野菜のジュース。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水と少しの塩を加えてミキサーにかけて作ったジュース。
「なに、これ?」
小さなブルーは目を丸くした。想像していたジュースと全く違ったのだろう。
きっと小さなブルーにとっては、ジュースと言ったらリンゴやオレンジ、果物のジュース。
「いいから飲め」
こいつもジュースには違いないんだ、お前が飲んでるジュースとは別かもしれないが。
「えーっと…。これって、野菜ジュース?」
野菜ジュースなの、ハーレイが家で飲んでるジュース?
「そうだが、不味いぞ」
美味いと思って飲んだら後悔するからな。
俺でも何が足りないかくらい、充分、自覚はあるってな。
「ふうん…?」
じゃあ、ハーレイの手作りなんだね、このジュース。
それなのに不味いって、どういうこと?
ハーレイだったら、いくらでも美味しく出来そうなのに…。
だけど不味いだなんて言わないよ、ぼく。ハーレイが作って持って来てくれたジュースだもの。
どんな味かな、と飲んでみたブルーが一瞬、目を見開いて。
もう一口、と口に含んで、それをゆっくりと味わい、飲み込んでから。
「ハーレイ、これ…」
「ん?」
どうかしたか、と微笑んでやれば、ブルーはジュースをもう一口飲んで。
「味の足りない、野菜スープのシャングリラ風…」
それに冷たいね、スープと違って。野菜ジュースだから。
「おっ、分かったか?」
「うん。一口飲んだ途端にね」
分からない筈がないじゃない、と笑顔のブルー。
この味は分かると、見た目が違っていても飲めば分かると。
そして好奇心満々の瞳で尋ねて来た。
「新作なの?」と。
野菜スープのシャングリラ風のアレンジなのかと、野菜ジュースにしてみたのかと。
「いや、旧作だ」
「旧作?」
ブルーがキョトンとしているから。
旧作とはいったい何のことかと、どんな意味かと首を傾げるから、「古いってことだ」と答えてやった。新作の逆だと、古いのだと。
「俺はこいつを作っていたんだ、学生の頃から」
その頃から不味いと評判だったが、野菜ジュースには違いないしな。
誰が文句を言ってこようが、こうすれば美味いと手を加えられようが、俺のオリジナルは決して変えたりしなかった。こだわりってヤツだな、俺なりのな。
「野菜ジュースだものね、そういうものかも…」
自分の身体にはこれがいい、って決めたら不味くても飲んじゃうのかも…。
スポーツをする人って、そういったものが好きそうだものね。
身体が一番、味よりも先に栄養だ、って。
きっとそうだね、とブルーが言うから。
それで美味しくないままなんだね、と納得している風だから。
「俺もそうだと思っていた」
そういうものだと思い込んでいたし、不味くてもこれが俺のジュースの味だと飲み続けていた。
だがな…。
野菜を細かく刻んでいたんだ、と明かしてやった。
どうせミキサーにかけるというのに自分は野菜を刻むのだと。それも細かく、とても細かくと。
「今日のこれもそうだ、どういうわけだか必ず刻んでしまうんだ」
キャベツの葉くらい破って入れればいいじゃないか、と手伝ってくれたヤツもいた。キュウリは折ったら充分いけると、へし折ってくれたヤツもいた。
そして実際、それでジュースは出来上がるんだが…。ミキサーも文句は言わないんだが…。
次に作る時はまた刻んでたな、呆れられても刻み続けた。
考えてみたら、最初からなんだ。
一番最初に野菜ジュースを作った時から、俺は野菜を刻んでいた。
これだけ入れようと選んだ野菜を、どれも細かく、細かくしようと刻んでた。
まるで昔からやっていたように、ごくごく自然に野菜を刻んでいたんだ、俺は。
刻み終わったら、水と少しの塩とを入れて。
ミキサーにかけてジュースを作った、これで完成するんだ、とな。
「…ハーレイ、それって…」
ブルーの顔に驚きの色が広がってゆく。
まさかと、信じられないと。
「そうさ、俺はお前のためにと作っていたんだ。中途半端な記憶だったが」
煮込む代わりにミキサーに入れて、野菜ジュースにしちまってたが…。
自分では作っているつもりでいたんだろうなあ、野菜スープのシャングリラ風を。
野菜はこんなに細かく刻んだと、後は少しの塩なんだと。
そうやって作った完成品なら、誰が不味いと言って来ようが、俺が変えるわけが無いだろう?
あのスープの味、お前は決して変えるなと言っていたんだからな。
美味い調味料が色々増えても、塩味と野菜の旨味だけで。
「…そんなこと、あるんだ…」
ハーレイの記憶、その頃には戻っていなかったのに…。
学生時代なんて、ずうっと昔で、ハーレイは好きに、自由に生きてた筈なのに…。
「その筈なんだが、身体が覚えていたらしい。この手が、だ」
俺はすっかり忘れちまって、前のお前のことだって…。ただの英雄だと思ってた。
遠い遠い昔の英雄なんだと、ソルジャー・ブルーという英雄が今の時代を作ったんだ、と。
しかし、身体はお前を忘れちゃいなかった。
野菜の山を目にした途端に、こいつでスープを作らなければ、と勝手に思い出したんだ。
細かく刻んで塩を入れてと、そこまでだけな。
お蔭でスープが出来る代わりに、野菜ジュースが出来ちまったが…。
誰が飲んでも「不味い」としか言わない、評判の悪いのが出来ちまったってわけなんだがな。
「そうなんだ…」
ブルーの瞳に盛り上がった涙。
それが見る間にポロリと零れて、柔らかな頬を伝ったから。
「どうした?」
なんで泣くんだ、そんなに不味かったか、俺の野菜ジュース?
嫌なら残りは飲まなくていいぞ、泣きながら飲んだら余計に不味くなっちまうしな。
塩味がもっと増えちまうし…、と指先で涙を拭ってやれば。
小さなブルーは「ううん」と首を左右に振った。
「そうじゃなくって、嬉しくて…。そしたら涙が出ちゃったんだよ」
ハーレイ、覚えててくれたんだ、って。
勝手に野菜を刻んじゃったくらいに、前のぼくのことを。
前のぼくがスープを好きだったことを。あのスープが好きで、いつも作って貰ってたことを。
ぼくは生まれてもいなかったのに。
この地球の上に、今のぼくはまだ、いなかったのに…。
「俺もお前を思い出してはいなかったがな」
ソルジャー・ブルーの写真を見たって、ドキリとしたりはしなかった。
恋人の顔も忘れちまってたような薄情な奴だぞ、そんな奴がスープだけを作っててもなあ…。
おまけにスープにもなっちゃいなくて、不味いと評判の野菜ジュースだ。
それで喜ばれても、俺としては何だか申し訳ない気もするんだがな?
「ううん、充分…」
野菜ジュースだけで充分だよ。
ハーレイの手が勝手に野菜を刻んでただけで、ぼくは充分。出来たのが野菜ジュースでも…。
生まれる前から会ってたんだね、とブルーの頬に流れる涙。幾つも、幾つも、涙の真珠。
ずうっとハーレイと一緒だったと、生まれる前から一緒だったと。
「どうやら、そういうことらしい。俺たちはずっと一緒に居たんだ」
記憶が無くても、まだ出会ってはいなくても。
俺の身体が勝手に野菜スープを作ろうと用意をし始めるくらい、俺はお前と一緒に居た。
何処に居たのかはサッパリ謎だが、間違いなく一緒に居た筈なんだ。
…だから今度は離れるなよ?
お前一人で飛んでっちまうんじゃないぞ、前のお前が俺を残して飛んでっちまったみたいにな。
「うん、離れない…」
離れたりしないよ、ぼくの居場所はハーレイの居る所だから。
今度はハーレイのお嫁さんになって、ずうっと一緒に暮らすんだから…。
もう行かないよ、としゃくり上げるブルーの涙を拭うと、手招きして膝に座らせてやった。
まだ泣き続けているブルーを抱き締め、その背を優しく撫でてやる。
泣かなくていいと、今度こそ何処までも一緒だと。
一緒に行こうと、二人一緒に歩いてゆこうと。
「なあ、ブルー…。今はまだ、一緒に暮らせないが、だ」
あと数年の辛抱だろう?
お前は俺の嫁さんになって、俺の家で一緒に暮らすんだ。
前と違って結婚式だって挙げられるんだぞ、祝福されて堂々とな。
そうしたら不味い野菜スープも、レシピを変えて美味いのを作るとするか。バナナとかリンゴをたっぷり入れてだ、お前が不味いと泣かないようなジュースをな。
「…ううん、不味くて泣いたりしないよ…」
このままでいいよ、ハーレイのジュース。
ハーレイが覚えていたままでいいよ、果物なんかは入ってなくても、塩味だけで。
この味もきっと、ぼくは好きになるよ。
ハーレイが何度も作ってくれてた、あのスープと同じなんだから。
材料は同じで、ハーレイが作ってくれる味。
…ぼくが嫌いになる筈がないよ、ハーレイのジュース…。
だから作って、とまだ濡れた瞳で見上げる恋人。
中途半端な出来の野菜ジュースを、野菜スープの出来損ないのジュースを欲しいと言ってくれる恋人。その味がいいと、その味でいいと。
「ねえ、ハーレイ…。ジュース、また作ってくれるよね…?」
「またいつかな」
そうそうコッソリ持ち込んだりは出来んだろうが。
その代わり、お前が嫁に来たら、だ。健康作りに飲ませるとするか、こいつをな。
「…毎日とか?」
「毎日もいいな、毎朝な」
お前、育ったら、もう毎朝ミルクではないんだろうし…。
俺の得意の野菜ジュースと洒落込んでみるかな、不味いんだがな。
なにしろ野菜と水と塩だけだからな、とブルーの背中をポンポンと叩く。
それで良ければ作ってやろうと、学生時代から作り続けて慣れたものだと、お手の物だと。
何種類もの野菜を細かく刻んでミキサーに入れて、水と塩だけ。
ミキサーに入れる野菜だというのに、何故だか細かく、細かく刻んで。
身体が覚えていた記憶。
前の自分の身体ではないのに、勝手に動いてジュースを作った。
こうだと、こうして作るのだと。
この味が好きな恋人だったと、こうして自分は作っていたと。
それほどに愛していたブルー。
生まれ変わって、この腕の中に再び戻って来てくれたブルー。
今度こそ決して離しはしない。いつまでも、何処までも、そして命尽きた後も…。
野菜ジュース・了
※今のハーレイの野菜ジュースの作り方。ミキサーがあるのに、野菜を細かく刻むのです。
前世の記憶が戻る前から、ブルーのために作っていたジュース。想いの深さが分かるお話。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「あっ…!」
流れ星、とブルーは叫んだ。
土曜日の夜、ハーレイを見送りに出た庭で見上げた夜の空。玄関を開けて、二人一緒に外へ出た途端に流れて行った星。瞬きを忘れた蛍のように。空の星が一個、落っこちたように。
「綺麗だったね!」
ねえ、ハーレイも今のを見てた?
「見ていたが…。お前、願い事、したか?」
「…願い事?」
「流れ星にはするもんだろうが、願い事」
消えてしまう前に三度、願い事を。ちゃんと言えたら叶うと言うだろ、知らなかったか?
「そういえば…」
忘れちゃってた、とブルーは空を仰いだ。
もう一度星が流れないかと、流れ星が飛んでくれないかと。
秋の夜空は澄んでいるから、鏤められた星も多いけれども。それは幾つもの星が瞬いているのだけれども、その星が流れるわけではないから。
流星群の時期でも無いから、待ってもそうそう上手く出会える筈などなくて。
「まだかな、次の…」
早く流れてくれないかな、と小さなブルーが呟くまでに五分くらいは経っただろうか。あるいはほんの一分だったろうか、いずれにしても夜気に晒されてただ立っているには長すぎる時間で。
「馬鹿、風邪を引くぞ。いつまで立ってるつもりなんだ」
それに俺も帰らなくてはいけないしな、とハーレイがブルーの肩をポンと叩けば。
「ハーレイ、明日も来てくれるんだよね?」
「日曜日だからな」
ちゃんと朝から来てやるさ。だから入れよ、流れ星なんか待っていないでな。
またな、と軽く手を振って帰ってゆく恋人。門扉をくぐって外の通りへ、星空の下を歩いてゆくハーレイ。生垣に隔てられてしまった恋人にブルーは何度も手を振ったけれど。
「早く入れよ、冷えちまうぞ?」
「うん…」
去り際に声で促されては仕方ない。
ハーレイの影が見えなくなった後、遠ざかってゆく足音を聞きながら、また空を見て。
(流れ星…)
足音が聞こえる間にもう一つ、と願ったけれども、星たちは静かに瞬くだけ。流れてはくれず、諦めて家に入るしかなかった。
ハーレイの足音はもう聞こえないし、「早く入れよ」と叱られたような気がするから。
けれど、どうにも忘れられない流れ星。また出会いたい流れ星。
お風呂に入るまで、自分の部屋の窓から空を眺めた。星が一つ落ちてゆかないかと。ハーレイと二人で見た時のように、スイと流れてくれないかと。
お風呂に入ってパジャマに着替えた後もカーテンを開けて覗いたけれども、流れない星。いくら待っても落ちてはこない流れ星。
(やっぱり駄目…)
あの一個だけ、と溜息をついた。
願い事を唱えることなど忘れて見上げてしまった星。願い事を唱え損ねた星。
なんとも惜しくてたまらないけれど。
失敗した、と今もこうして流れ星を探しているのだけれども、何を願いたかったのだろう?
流れ星が流れてゆく間に三度。
消えるまでに三度。
(幸せになれますように、でいいよね?)
願い事をするなら、多分、それ。
今でも充分幸せだけれど、もっと幸せになりたいから。ハーレイと幸せに暮らしたいから。
この地球の上で、生まれ変わって来た青い地球の上で。
ならば願い事は、ただ「幸せに」と願うよりも。
(早く結婚出来ますように…?)
晴れてハーレイと二人きりの暮らしを始めたいなら、願い事はそれ。一日でも早い結婚式。
(でも…)
結婚すれば今よりもずっと幸せになれるに決まっているから、やはり幸せを願うべきだろうか?
それとも早い結婚を願って、少しでも早く二人きりの幸せを手にするか。
(うーん…)
考え始めたらキリが無かった。他にもどんどん欲が出て来て。
ハーレイとキスが出来るように背を伸ばしたいとか、本物の恋人同士になりたいだとか。
どれも幸せへと繋がる道。幸せが手に入る道。
一番いいのは何だろう?
流れる星に三度願うなら、流れ星に願いをかけるなら。
(やっぱり、幸せ…)
そう願うのが一番だろうか、と考えたけれど。
流れ星を待ちながら決めかけたけれど、「だけど…」と少し心配になった。
星に願うのは自分の幸せだけでいいのだろうか?
自分一人が幸せであれば、それで自分は幸せだろうか?
(…ううん…)
それは違う、と直ぐに出た答え。
自分一人が幸せになっても意味が無い。ハーレイにだって幸せになって欲しいから。二人一緒に暮らしてゆくのに、生きてゆくのに、自分一人だけが幸せだなんて、とんでもない。
(ハーレイの分も…)
願わなくては、と気が付いた。
三度唱えるのは難しそうな気がするけれども、二人で幸せになれますようにと。
ハーレイと二人、幸せに生きてゆけますようにと。
(うん、それ!)
願い事をするならそれがいい、と決めて夜空に別れを告げた。
夜更かしをしても星は流れないし、今夜は諦めて眠らなければ、と。
窓のカーテンを閉めて、ベッドに潜り込んで、明かりを消して。
次に流れ星に出会うことがあれば、と願い事を頭で繰り返す。決めたばかりの願い事を。
(ハーレイと幸せになれますように…)
二人で幸せになれますように、と何度も唱えた。流れ星は何処にも無いけれど。常夜灯が灯っただけの部屋には、星などは流れないのだけれど。
(ハーレイと幸せに…)
流れ星を見たら唱えなければ、消えてしまう前にこれを三回。
練習なのだと、もっと早くと。
流れ星が落ちてしまうまでの間に三度、と練習し続けた。もっと早く。もっともっと、早く。
そうして唱え続ける内に…。
(あれ?)
前にも自分は願わなかったろうか?
流れてゆく星に。
夜空を流れる星に向かって、こうして早口言葉のように。
(いつ…?)
幼かった頃には色々願った。
たまにしか出会えなかったけれども、見付けた時には沢山の願い事をした。
流れ星はとうに消えているのに、落ちてしまった後だというのに、幾つも幾つも願い事を。
子供ならではの無邪気さでもって、きっと叶うに違いないと。
それのことかと思ったけれど。
オモチャやお菓子や、欲しいものなら山のようにあった頃だから。
きっとそれだ、と思いかけたけども。
(それにしては欲張り…)
幼い子供の願い事にしては、妙に欲張りだった気がする。
何が何でも叶えて欲しいと、この願いだけは叶えて欲しいと。
(…オモチャとかで…?)
お菓子もオモチャも好きではあった。欲しくて強請りもしていたけれども、幼かっただけに一晩眠れば忘れることなど当たり前で。
(どうしても欲しいものなんて…)
この願いだけは、と星に祈るほど、幼い自分は欲しがったろうか?
そこまで欲張りだっただろうか?
けれども確かに願っていた、という記憶。
夜空を流れる星に向かって早口言葉で。
消える前に三度と、落ちてしまう前に三回と。
(小さい頃のぼくが…?)
いったい何を願ったのだろう、と不思議に思った時、不意に掠めた遠い遠い記憶。
子供だった頃よりもずっとずっと昔、遠い彼方に過ぎ去った昔。
前のぼくだ、と。前の自分が願ったのだ、と。
(アルテメシア…)
暗い宇宙を長く旅して、辿り着いて隠れた雲海の星。白い鯨を隠した星。
シャングリラは雲海の中だったけれど。
ブリッジからも、展望室からも、一面に広がる雲しか見えない星だったけれど。
前の自分は何度も地上に降りていた。人類の情報などを探りに、ミュウの子供の救出のために。
そうやって降りた、ある夜のこと。
星が流れてゆくのを見付けた。雲海の中では見られない星。夜空を横切って流れた星。
流れ星は大気のある星でしか目にすることが叶わないから。
珍しいものを見た、とその時は思った。
知識の中にはあったけれども、初めて肉眼で捉えたと。あれが流れ星というものなのか、と。
そしてヒルマンに話したのだったか、白いシャングリラに帰った後で。
博識な彼なら喜ぶだろうと、どんなものだったか話してやろうと。
そうしたら…。
「願い事をしておいたかね?」
流れ星に出会ったのなら、とヒルマンに訊かれた。その星に願いをかけておいたか、と。
「願い事?」
何のことだか分からなかったし、首を傾げてしまった自分。
どうして流れ星に願い事なのか、と訝っていたら、ヒルマンはこう話したものだ。
「流れ星に願いをかけたそうだよ、人間がまだ地球で暮らしていた頃には」
星が流れて消えるまでの間に願い事を三度唱えたというね、そうすれば星が叶えてくれると。
もっとも、星が流れるのは一瞬だから…。
見付けたと思えば消えてしまうだけに、難しかったと言われているがね。
「そうだったのかい?」
流れ星を見たら願い事をするものだったんだ…。
知らなかったよ、次からやってみよう。
流れ星に出会ったら願わなくてはね、願い事を叶えてくれる星なら。
その次に流れる星を見た時。流れてゆく星を見付けた時。
迷わずに「地球へ」と願いをかけた。
地球へ行きたいと、どうか地球まで行けますように、と。
消えるまでに三度唱えられたか、あまり自信が無かったけれど。それでも願いをかけはした。
地球へと、地球へ行きたいのだと。
ちゃんと願えた、と流れ星が消えた空を仰いで、ふと思った。
今の願いは自分中心に過ぎただろうか?
遠く青い地球に焦がれるあまりに、ソルジャーらしからぬ我儘を願ってしまったろうか?
(でも…。みんなで地球へ行くのだし…)
白いシャングリラで、いつかは地球へ。
未だ座標も掴めぬ地球まで、この雲海の星を離れて母なる地球へ。
地球へ降りることが叶う時には、自分たちはもう追われる身ではない筈だから。
ミュウの存在を人類に認めて貰って、地球の上に立てる筈だから。
(…地球に行けるなら、きっとみんなも幸せな筈だ)
その願いでいい、と願い続けた。
流れる星を目にする度に。見付けた、と星に気が付く度に。
地球へと、いつかは必ず地球へと。
ある時はミュウの未来も願った。幸多かれと、皆が幸せであるようにと。
けれど…。
ハーレイに恋をして、実った後。
キスを交わして、結ばれて、秘めた仲ながらも恋人同士になれた後。
気付けば星に願っていた。流れ星に願いをかけていた。
どうかハーレイといつまでも、と。
この幸せが続くようにと、ハーレイと二人で過ごせるようにと。
地球へ、と願いをかける代わりに。ミュウの幸せを願う代わりに。
(いけない…!)
ソルジャーの自分がこんな私的な願い事などしてはいけない。
しかもハーレイとの恋は誰にも明かせないことであったし、言うなれば後ろめたい恋。どんなに幸せな恋であっても、シャングリラの中では許されない恋。
ソルジャーとキャプテン、船の実権を握る二人が恋仲だなどと知れたら大変なことになる。誰の指示を仰げばいいのか、誰を信じてついてゆけばいいのか、皆が迷うし、どうにもならない。
だからこそ伏せたままの恋。知られないよう、隠している恋。
そんな恋の行方を、幸せな未来を願うことなど、してはならないと思ったのに。
もうこれきりだと、一度限りだと、固く自分を戒めたのに。
心というのは正直なもので、それから後も…。
(ハーレイと、って願っちゃったんだ…)
三度に一度は願ってしまった。どんなに気を付け、駄目だと自分に言い聞かせていても。
星が流れれば、「ハーレイと地球へ」と。
いつか二人で辿り着きたいと、地球で幸せに暮らしたいと。
そう願う度に自分を責めたけれども。
また間違えたと、星に願うべきことを誤ったのだと、唇を噛んで項垂れたけども。
(…もしかして、そのせいで地球に来られた…?)
流れ星に願いをかけていた自分は、前の自分はメギドで死んでしまったけれど。
ソルジャー・ブルーは地球を見られずに死んでいったし、ハーレイの温もりも失くしたけれど。
(ぼく、地球にいるよ…)
ハーレイと二人、生まれ変わって青い地球の上に。
もう戦いなどありはしなくて、人は皆、ミュウになってしまった遥かな未来の地球の上に。
前の自分がかけた願いを神が叶えてくれたのだろうか、そうして地球へと来たのだろうか…?
長い長い時がかかったけれども、前の自分が焦がれた地球に。
(流れ星…)
三度に一度はうっかり願った、ハーレイと二人で地球へ行く未来。
星への願いは、とても効いたというのだろうか?
こんな奇跡が起こるくらいに、ハーレイと再び生きて巡り会えたほどに…。
前の自分が願い続けた流れ星。願いをかけた流れ星。
次の日、ハーレイが来てくれたから。
約束通りに朝から訪ねて来てくれたから、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、弾んだ心をそのままにぶつけた。こうして会えるのも星のお蔭だと、流れ星に願ったからなのだと。
「ハーレイ、流れ星、効くね」
「はあ?」
いきなり言っても、ハーレイに通じるわけがない。
鳶色の瞳が丸くなったから、こうだったよ、と話をした。前の自分が見た流れ星。願いをかけたアルテメシアの流れ星。
願い事を星に叶えて貰ったと、ハーレイと地球へ来られたと。
青い地球の上に生まれ変わって、また出会うことが出来たのだ、と。
「お前、そんなの祈っていたのか…」
流れ星を見たら俺と地球へ、って三度唱えていたっていうのか?
「うん、ハーレイは?」
ハーレイはどんな願い事をしてたの、流れ星に?
それって、叶った?
「馬鹿、ブリッジから見えるのか?」
ブリッジでなくても、あのシャングリラの何処から見えるんだ、流れ星なんて。
周りはすっかり雲の海だぞ、レーダーに映った隕石に向かって祈れってか?
「そういえば…。ごめん、うっかり忘れちゃってた。昨夜は覚えていたんだけどね」
ハーレイに会ったら忘れちゃったんだよ、昨日、一緒に外で流れ星を見てたから…。
ついハーレイも見ていたような気になっちゃって、間違えちゃった。
前のぼくしか見られなかったのにね、アルテメシアの流れ星は。
潜入班の仲間たちだったら、運が良ければ見付けていたかもしれないけれど…。
雲海の中に居たシャングリラ。雲の海しか見えはしなかったシャングリラ。
星が流れても見られなかった。夜空に流れる星は無かった。
レーダーが捉える隕石はあっても、それは流れる星ではないから。夜の空から零れ落ちたように飛んでゆく星とは違うから…。
(前のぼくだけが見られたんだよ、流れ星は…)
潜入班の者たちと違って、流れ星に願いをかけるだけの余裕も持っていたから。
星が流れると、流れ星だと眺めるだけの心の余裕もあったから。
誰も見られない星なのだから、と祈ったのだった、流れ星に。
シャングリラの仲間の誰一人として見られはしないし、願いをかけられもしないから、と。
(消えるまでの間に三度唱えたら、叶うって…)
地球へ、と懸命に唱え続けた。ミュウの未来に幸多かれ、とも幾度も唱えた。
流れ星に祈ることが出来ないシャングリラの仲間たちの分までも、と。
けれども三度に一度は唱えた、自分自身の願い事。
ハーレイと二人でいつか地球へと、ハーレイと幸せになりたいと。
三度に一度は自分の願いを唱えてしまった。いくら戒めても、駄目だと自分を責め続けても。
「前のぼく…。悪いソルジャーだったかな?」
ミュウのみんなを放ってしまって、自分のお願い事ばかり…。
ソルジャーだったら、そんなことをしていちゃいけないのにね?
みんなで一緒に地球へ行こう、って、ミュウが幸せになれますように、ってお願いしないと駄目だったのにね…。
「まさか。悪いソルジャーなんかであるものか」
お前はきちんと願ったんだろ、流れ星に?
俺とのことも祈ったかもしれんが、三度の内の二度まではミュウのために祈っていたんだろう?
「そうだけど…」
三度に一度はハーレイとぼくのことだったんだよ、それじゃ駄目だよ。
ソルジャーだったら、全部をみんなのお願い事に使わなきゃ。
流れ星を見付けたら、みんなのために。地球へ行こうと、みんな幸せになれますように、って。
やっぱり悪いソルジャーだよね、と小さなブルーは俯いたけれど。
自分のことばかり願ってしまった、とシュンと萎れてしまったけれども、「そうじゃないさ」と大きな手で頭を撫でられた。ハーレイの大きな褐色の手で。
「お前は悪いソルジャーじゃないし、精一杯、頑張って願いをかけた」
だからこそだ、お前が流れ星にかけた願いを神様が叶えて下さったんだとしたら。
「えっ?」
どうしてそうなるの、ぼくが三度に一度はお願いしちゃった、ハーレイとのこと…。
なんで叶えて貰えたの?
「お前の他の願い事。きちんと全部、叶っただろうが」
地球へ行こうってヤツは俺だってちゃんと見届けたんだぞ、そいつが叶った瞬間にな。
前のお前が夢に見ていた青い星ではなかったが…。それでも地球には違いなかった、地球までは辿り着けたんだ。
それから、ミュウの幸せってヤツ。これも間違いなく実現しただろ、現に今だってミュウは幸せ一杯ってヤツだ。前の俺は、そこまでは見届けられずに死んじまったがな。
お前がかけてた願い事。すっかり全部叶っているんだ、前のお前は頑張ったのさ。
流れ星を見る度に三度願って、凄い願いを叶えたってな。
そんなお前が悪いソルジャーでなんか、あるものか。
神様は分かって下さってたんだ、お前の気持ちも、お前が願いをかけたかったことも。
だから叶った、とハーレイは鳶色の瞳でブルーを見詰めた。
地球へとブルーが願った未来も、ミュウが幸せである未来も。
「それだけの願いをかけたお前が、ほんの少しだけ願ったこと。お前は失敗だったと言うが…」
お前の本当の願いはそれだろ、神様にはきっと届いていたさ。
祈っちまう度に失敗したと悔やんでたことも、何もかも、全部。
ほんの少しだけ、欲張るどころか、願ったことさえ失敗だったと悔やんじまうような願い事。
それを叶えて下さらないほど、神様ってヤツは酷くはないと思うがな…?
「…そうなの…?」
前のぼくが願って、だけど欲張りじゃなかったから…。
ハーレイと二人で地球に来られたの、今の地球の上に生まれ変わって…?
「多分な。…そうじゃないかという気がするな」
前のお前が流れ星に祈っていたのなら。見付ける度に三度願っていたのなら…。
流れ星が叶えた願いだったら、欲張らなかったのが良かったんだろう。
いつもいつも俺との幸せばかりを願っていたなら、それまでにお前が願っていた分。
地球へ、って分も、ミュウの幸せも、叶わなかったかもしれないなあ…。
欲張りなヤツの願い事っていうのは叶わないのが定番だろう?
俺の授業で教えるような昔話でも、他の地域に古くから伝わる昔話でも、そんなモンだってな。
欲張り者の願い事は叶わないものだ、と言われてみれば一理あるから。
そうした話はブルーも幾つも知っているから、にわかに心配になって来た。
昨夜、ハーレイと二人で目にした流れ星。願い事のことなど忘れて見ていた流れ星。
あの後、懸命に夜空を見上げた自分。
もう一度星が流れないかと、願い事をかけられないかと、星が流れるのを待っていた自分。
おまけに流れ星に願うのならば…、とベッドの中で練習までした。
消える前に三度唱えなければと、頑張って三度唱えるのだと。
「ハーレイと幸せになれますように」と、何度も練習したけれど。
次に流れ星を見たら唱えられるよう、頭に叩き込んだのだけども、それは欲張り者だろうか?
これを唱えるのだと、こう願うのだと待ち構えていてはいけないだろうか?
前の自分がやっていたように、自分の願いは後回し。
もっと他のことを、世の中の役に立つようなことを願う間に、たまにウッカリ、三度に一度。
そういう願い事でなければ流れ星には届きもしなくて、叶いもしないというのだろうか…?
今では誰でも流れ星を自由に見られるけれど。
流れた時に運良く夜空を見ていさえすれば、誰でも願いをかけられるけれど…。
今度の自分がかけたい願いはどうなのか。
叶うのかどうか、気がかりで仕方ないものだから。
小さなブルーは目の前の恋人に訊くことにした。前の生では流れ星など見られなかった恋人に。前の自分が願ったお蔭で、この地球の上で会えたのかもしれない恋人に。
「…あのね…。前のぼくが欲張りじゃなかったから、願いが叶ったと言うんなら…」
今度もお願い、欲張っちゃ駄目?
流れ星を見付けた時にするお願い事は欲張ったら駄目なの、どうなの、ハーレイ…?
「欲張るって…。お前、何を祈りたかったんだ?」
昨夜のお前は願い事さえ無かったようだが、あれから何が出来たんだ?
とんでもないものでも欲しくなったか、お父さんたちに強請っても駄目だと言われそうなもの。
そういったものでも願っておいたら、まるで無効でも無いと思うが…。
前のお前みたいな願い事をするヤツよりかは、自分のためにと祈るヤツの方が多そうだしな?
それでお前は何をお願いしたいんだ。欲張りがどうの、って今度は何だ…?
「んーと…」
言おうか、それとも言わずにおくか。
ブルーは少し迷ったけれども、願い事の中身を言わないことには判断をして貰えないから。
欲張りかどうか、ハーレイにもきっと分からないから、思い切って口にすることにした。今度の自分の願い事を。昨夜、ベッドで何度も何度も、唱えるためにと練習していた願い事を。
「…ハーレイと幸せになれますように、って…」
そう唱えようと思ってたんだよ、次に流れ星を見付けたら。
だけど、これだと欲張りになってしまうんだよね?
前のぼくなら、三度に一度しかお願いしてはいなかったんだし…。それも失敗して唱えちゃっただけだし、最初からこればかり唱えてたんじゃ、やっぱりお願い、聞いて貰えない…?
「おいおい、そいつは祈らなくてもいいんだぞ?」
お前の願い事がそれなら、流れ星にわざわざ頼まなくても大丈夫だな。
「なんで?」
願い事だよ、ぼくのお願い事なんだよ?
「要は叶えばいいんだろうが。流れ星を探さなくてもな」
俺と幸せになりたいだなんて言われなくても、ちゃんと幸せにしてやるから。
世界で一番幸せなヤツにしてやりたい、と俺は思っているんだからな。
願い事をするなら他のにしておけ、とハーレイが笑う。
せっかくの流れ星だから。
見たいと願ってもそう簡単にはお目にかかれない、空からの贈り物だから。
もっと普通の願い事をしろと、三度唱えるならそうしておけと。
前のブルーが祈り続けた時代と違って、今は誰でも夜空を仰げる時代だから。自分の運で流れる星に出会うことが出来る時代だから。
運良く出会えた流れ星には、自分自身の願い事。自分が叶えて欲しいことを三度。
そういう時代に生まれ変わったブルーなのだし、今度こそ、個人的なこと。
唱えるのならばそれを願えと、うんと欲張りでいいのだから、と。
「…欲張りでいいの?」
ぼくのお願い事、欲張りな中身でかまわないの?
流れ星に呆れられちゃって叶わないとか、そんなことになってしまわない…?
「欲張りでいいさ、今度のお前はソルジャーなんかじゃないんだからな」
前のお前にしたって、だ…。
流れ星にまで願っていたのか、ミュウの未来のことなんかを。
自分の願いは後回しにして、願っちまったら失敗したなんて考えて…。
そこまで頑張り続けた挙句に、メギドにまで飛んで行かなくてもなあ…?
もっと俺にも頼って、甘えて、幸せに生きて欲しかったがな…。
前のお前は頑張り過ぎだ、と額をコツンとつつかれた。
今度は頑張る必要は無いと、前の分まで守って幸せにしてやるからと。
「いいな、俺との幸せなんぞは流れ星に祈るまでもない」
俺が幸せにすると言ったらそいつを信じろ、流れ星に願うならもっと他のだ。
お前にだって一つや二つはあるだろう。叶えばいいな、と思うようなヤツ。
「えーっと…。あるかな、そういうの…」
早くハーレイのお嫁さんになりたいな、とか、キスしたいな、とか…。
ハーレイ抜きだと何も出てこないよ、ぼくのお願い。
「ふうむ…。まあ、ゆっくりと考えておけ」
次に流れ星に出会うまでにだ、これだっていう願い事ってヤツをな。
「うん、そうする」
滅多に見られないのが流れ星だし、考えておくよ。何か素敵なお願い事。
一つくらいは見付けてみるね、とハーレイに笑顔で返したけれど。
夜になってハーレイが「またな」と帰る時、夜空を見上げてみたけれど。
流れ星は今日は流れてくれずに、秋の星たちが幾つも幾つも清かに瞬いていただけで。
(…今夜は駄目かな…)
出会えないかな、と部屋の窓から空を眺めた。流れ星が落ちてゆくかと、空を。
けれども、思い付かない願い。
流れ星に頼みたい、三度唱えたい、願い事。
昨夜何度も練習していた、「ハーレイと幸せになれますように」という祈りしか。
だから今度は流れ星への早口言葉は唱えなくてもいいかもしれない。
消えてしまう前にと、三度唱える早口言葉の願い事。
今度の自分のその願い事は、ハーレイが叶えてくれるのだから。
流れ星に願いを三度唱えずとも、ハーレイと二人、いつも、何処までも幸せに。
この地球の上で、夜になったら星が流れる青い地球の上で…。
流れ星・了
※前のブルーが流れ星にかけた願い事。仲間たちを地球へと思いながらも、自分のことも。
三度に一度の願い事でも、叶ったのが今。前の生で頑張った分だけ、今度は幸せに…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(茶柱…)
知らなかった、ってハーレイの授業を聞いていた、ぼく。
正確に言えば雑談だけど。みんなが授業に飽きて来る頃に、絶妙のタイミングで始まる雑談。
これが人気で、みんな慌てて授業に戻る。聞き逃しちゃったら損だから、って。
(ハーレイ、いつも上手いよね…)
誰も余所見なんかをしてはいないし、ハーレイの話に夢中って感じ。もちろん、ぼくも。
「いいか、立つと縁起がいいんだぞ?」
覚えておけよ、って繰り返してからハーレイは授業に戻って行った。教室の前の大きなボード。その隅っこに「茶柱」って書いて、丸で囲んで。
(茶柱、見たことないんだけどな…)
立ったら縁起がいい茶柱。幸運を呼び込むという茶柱。
ぼくは一度も見たことが無い。ハーレイが教えてくれた幸運の印を全く知らない。
家に帰って、おやつを食べながらママに話したら。
ママは茶柱を知っているの、って訊いてみたら。
「あら、ブルーには教えていなかったかしら?」
意外な答えが返って来た。ぼくは茶柱、生まれて初めて聞いたのに。
「…常識なの?」
ママ、茶柱は知らない方がおかしいの?
「そうでもないけど…」
知っているわよ、って笑顔のママ。
ママだけじゃなくてパパも知ってるって、立つと縁起がいいってことも。
「だけど茶柱、ぼく、知らないよ?」
見たことだって無いんだけれど…。うんと珍しいの?
「それもあるけど…。ブルーはあんまり飲まないものね」
お茶を飲まなきゃ出会えないでしょ、茶柱には。見たことが無くても不思議じゃないわ。
「飲まないって…。お茶、飲んでるよ?」
今だって、ってカップを指差した。ママが淹れてくれた紅茶のカップ。
そうしたら、クスッと笑ったママ。
「ブルー。…ハーレイ先生のお話、よく聞いてたの?」
「聞いてないわけがないじゃない! だから茶柱、覚えてるんだよ!」
お茶を淹れたら立つって聞いたよ、立つと縁起がいいんだぞ、って。
「そのお茶よ。お茶が大切なのよ」
茶柱を見たいなら、お茶を飲まなくちゃ。そういうお茶をね。
紅茶じゃ駄目なの、って教えて貰った。
茶柱が立つのは日本のお茶よ、って。
SD体制が始まるよりもずうっと昔に、ぼくたちが住んでる地域の辺りにあった島国、日本。
とても小さな国だったけれど、いろんな文化を持っていた。独特のお茶も。
マザー・システムに一度は消されてしまった文化。日本のお茶も姿を消した。だけど今では復活していて、色々なお茶が売られてる。茶柱はそういうお茶でないと、って教わったけれど。
「ハーレイ、そんなの言ってなかったよ!」
お茶を淹れたら立つんだぞ、って聞いただけだよ、授業では!
ハーレイの説明不足なんだよ、ぼくはきちんと聞いていたもの!
「あらあら…。そうねえ、わざわざ仰らないかもしれないわね?」
授業と関係の無いお話だったら、お茶としか。
ブルーみたいに家に帰って「茶柱が立たない」って思っている子がいるかもしれないわねえ…。
「いるってば!」
何人もいるに決まっているよ。今頃、紅茶で頑張ってる子!
そうは言ったけど、部屋に戻ったら急に自信が無くなった、ぼく。
ひょっとして聞き逃しちゃったんだろうか、ハーレイの授業。授業じゃなくて雑談だけれど。
(確かにお茶って言ってた筈…)
日本のお茶とは言わなかった、と授業中のことを思い出していたら、チャイムの音。門扉の脇についてるチャイム。
それを鳴らして、ハーレイが寄ってくれたから。
仕事帰りに来てくれたから、ママが運んで来た紅茶を指差して、訊いてみた。ママが扉を閉めて出て行った後で。ハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ハーレイ、茶柱、立たないよ?」
帰ってからママと飲んだ時にも立たなかったし、今も立ってはいないんだけど…。
「そりゃそうだろ。紅茶じゃそいつは無理ってモンだ」
日本のお茶でしか立たんぞ、茶柱。紅茶じゃまるで別物だしなあ、元になる葉は同じなんだが。
「そんなの、授業で聞いていないよ!」
「俺はお茶だと言った筈だが?」
「うん、だから…!」
紅茶のことだと思ったんだよ、お茶って紅茶のことじゃない!
お茶をどうぞ、って淹れてくれるの、何処でも普通は紅茶だけど!
前のぼくが白いシャングリラで生きてた時代も、今の時代もお茶と言えば紅茶。
ママがお茶会をやってる時にも、ポットで紅茶を淹れているから。
ご近所さんの家とかにお邪魔した時、出してくれるのも紅茶だから。
茶柱の話を聞かされたぼくが紅茶のことだと思い込んでも、ちっともおかしくない筈なんだ。
でも、ハーレイは…。
「その後に俺は説明していた筈だがな?」
茶柱は日本の国の話で、お茶と言ったら日本のお茶だと。
俺は古典の教師なんだぞ、雑談にだって日本の文化を織り込まないとな、たまにはな?
「嘘…!」
ハーレイ、お茶って言ったんだ…。
ちゃんと「日本のお茶だ」、って。
その部分を聞いていなかった、ぼく。肝心の話を聞き落とした、ぼく。
茶柱で頭が一杯になって。
立つと縁起がいいんだと聞いて、幸運を呼び込めると聞いて。
肩を落としてたら、鳶色の瞳に見詰められて。
「そんなに興味があったのか、お前?」
たかが茶柱だぞ、聞き逃したって問題は無いと思うがな?
「大事なことだよ、ハーレイの授業だったから!」
「あれは雑談だったんだが?」
授業とはまるで関係無くてだ、居眠りそうなヤツらを呼び戻すためのだな…。
「でも、大切だよ!」
ハーレイの話なんだから! ハーレイが話をしてるんだから…!
大好きでたまらないハーレイ。
学校では「ハーレイ先生」だけれど、大好きなことは変わらない。会えるだけで幸せ、その上に声を聞くことが出来る素敵な時間が授業中。
どんなことでも聞いていたいし、聞き逃すなんて、とんでもない。余所見だってしない。
そういう気持ちで座っていたのに、ちょっぴりショック。
茶柱がどういうお茶で立つかを聞いてなかった。ハーレイは話をしたらしいのに。
だけど幸運を呼び込む茶柱、この目で確かめてみたいから。
どうすれば立つの、って尋ねたけれど。立て方を訊こうとしたんだけれど。
「まあ、運だな」
運が良ければ茶柱が立つし、悪けりゃ駄目だ。
だからこそ縁起がいいと言うのさ、茶柱が立った時にはな。
「えーっ!」
運ってだけなの、コツとかじゃないの?
それじゃ茶柱、頑張ってみても立てる方法、無いじゃない…!
茶柱が立つかどうかは運任せ。
「そんなモンだ」と笑ったハーレイが帰った後で。
パパとママも一緒に夕食を食べて、「またな」と手を振って車で帰ってしまった後で。
(茶柱…)
ぼくの頭から消えない茶柱。離れていかない、お茶に立つ茶柱。
立つと縁起がいいと言うから、幸運が来ると聞かされたから。
どうにも気になってたまらない。
しかも日本のお茶でないと立たない、立ってくれないらしい茶柱。
前のぼくの頃には何処にも無かった日本のお茶で立つというから、なおのこと。
(立ててみたいな…)
ぼくも、茶柱。幸運を呼び込んでくれる茶柱。
ハーレイと幸せになれるように。
うんと幸せな結婚が出来て、二人一緒に暮らせるように。
(茶柱を立てるなら、日本のお茶…)
今度からハーレイが来てくれた時は、紅茶の代わりに日本のお茶にしてみようか?
そうすればきっと立つだろうから。
何度もそういうお茶を出したら、運任せの茶柱だって、いつかは。
次の日、ママにそう言ったら。
学校から帰って、おやつの時間に頼んでみたら。
「かまわないけれど…。茶柱は誰に渡せばいいの?」
「えっ?」
どういう意味、ってキョトンとした、ぼく。
ママは訊き方を変えて来た。
「茶柱が立っているお茶は、ブルーに渡すの?」
それともハーレイ先生に渡すの、どっちがいいの?
「ええっ…?」
そこまでは考えていなかった、ぼく。
言われてみれば、運が良くないと立たない茶柱、二人分も一度に立つわけがない。
ハーレイか、ぼくか、どちらか一人。茶柱のお茶は一人分だけ。
(えーっと…)
どっちに決めればいいんだろう?
ぼくの分にするか、ハーレイに渡して貰う方にするか。選びかねてしまう、茶柱のお茶。
決められそうにない、縁起のいいお茶…。
考え込んでしまったぼくは、よっぽど真剣な顔で悩んでいたんだろう。
ママがクスクス可笑しそうに。
「それじゃ、ブルーが自分で淹れてみたら?」
お茶の用意はしてあげるから、ハーレイ先生の分と、ブルーの分と。
淹れ方はそんなに難しくないのよ、紅茶と同じ。
ママが葉っぱを入れておくから、お湯を注いで待てばいいのよ、葉っぱがきちんと開くまでね。
「そうしてみる!」
ぼくが淹れるから、持って来てね。日本のお茶用の、えーっと…。
「急須でしょ?」
「そう、それ!」
家庭科の授業で一度だけ淹れたよ、だからぼくでも大丈夫だよ。
ハーレイが家に来てくれた時は、日本のお茶の用意をしてね!
ママにお願いをしたら、その日にハーレイが寄ってくれたけど。
昨日と今日とで、二日続けて来てくれたけれど。
お茶は昨日のとは全く違った。ママが準備した急須と湯呑み。お菓子も日本のお茶によく合う、お饅頭を載せたお皿が二つ。
ぼくが早速、急須の蓋を取ってお湯を注いだら。
「珍しいな、お前が淹れるのか?」
「うんっ!」
淹れたことはあるから、任せておいて。んーと…。
そろそろかな、って湯呑みに緑茶を入れた。ハーレイの分と、ぼくの分との二つの湯呑み。
(おんなじ濃さになるように、って…)
学校で習った通りに交互に注いでみたけれど。淡い緑のお茶をたっぷり入れたんだけど…。
立ってくれなかった、幸運の茶柱。
なんにも入っていない、お茶。
ハーレイの分にも、ぼくの分にも、茶柱は立っていなかった。
(…茶柱、無理なの?)
せっかく頑張って淹れたのに、ってしょげてたら。
お饅頭を食べるのも忘れて、湯呑みの中身を見詰めていたら。
「どうした?」
美味いお茶じゃないか、お前、淹れるの上手だな。
しかしだ、早く飲まんと冷めちまうぞ。こういうお茶はだ、熱い間が美味いんだ。
まあ、夏になったら氷で淹れるっていうのもあるがな、そいつもとびきり美味いんだがな。
「…氷で淹れても茶柱は立つの?」
「そりゃあ、運さえ良ければ立つな」
淹れ始めてから飲むまでに時間がかかる分だけ、値打ちの高い茶柱かもな?
なにしろ氷で淹れるには、だ。急須の上に氷を山盛り、それが自然に溶けるのを待つ。すっかり溶けたら出来上がるわけだが、いくら夏でも五分や十分で出来やしないさ、氷のはな。
「氷でやっても立つんだ、茶柱…」
ぼくが淹れても立たないのに…。もしかして、ぼくは運が悪いの?
「なるほど、茶柱を立てたかったのか…」
それで日本のお茶だったんだな、やっと分かった。
どうしても立ててみたいと言うなら、早道ってヤツが無いこともない。
ちょっとした反則技だがな。
茶柱が立ちやすいお茶があるんだぞ、って教えて貰った。
反則技でも、秘密の抜け道。茶柱を立てるための方法、使わないという手は無いから。
ハーレイが「またな」って帰ってった後で、ママの所へ走って行った。
「ママ、茶柱なら雁金だって!」
葉っぱじゃなくって茎のお茶だから、普通のお茶より立ちやすいって!
ハーレイに教えて貰ったんだよ、茶柱を立てる反則技!
「…そんなことまで習ったの?」
「そう! だって茶柱、立ててみたいもの!」
雁金、ある? それとも買って貰わなくちゃ駄目…?
「あるけれど…」
ちょっぴりランクが落ちるのよ、って言ったママ。困り顔のママ。
お客様に出すなら、今日、ぼくが淹れて駄目だった玉露、葉っぱの部分を使ったお茶。そっちの方がいいお茶なのよ、とママは教えてくれたけど。雁金よりいい、って言うけれど。
別に雁金でかまいやしない。
緑茶ですらない、ほうじ茶だって出してることがあるんだから。
ほうじ茶の方が似合うお土産を、ハーレイが持って来てくれた時は。お煎餅とかを貰った時は。
雁金にして、ってママに強請った。
次にハーレイが来てくれた時は、急須に雁金、入れておいてね、って。
そして、土曜日。
朝から綺麗に晴れた青空で、ハーレイは歩いてやって来た。
ぼくの部屋で向かい合わせに座って、ワクワクしながら用意したお茶。ママがテーブルに置いて行ってくれた急須の蓋を取って、お湯を注いで、暫く蒸らして。
もういいかな、ってハーレイの分と、ぼくの分とを交互に淹れていった、ぼく。
今度もやっぱり駄目だろうか、って心配してたら…。
「あっ、ゴミ!」
失敗しちゃった、って叫んでしまった。
「ゴミ?」
何処だ、ってハーレイが覗き込むから。
「これ!」
お茶の中に茎が入っちゃってた。プカプカ浮いてる、お茶の茎。立ってるみたいにプッカリと。
大失敗、って、つまみ上げようとしたら。
道具なんかは持ってないから、ゴミが入ったお茶がぼくのでいいや、って指で拾おうとして突っ込みかけたら…。
「待て。そいつが茶柱だ」
ゴミじゃないんだ、茶柱ってヤツはそういうモンだ。
「ホント!?」
初めて見た、って躍り上がった、ぼく。
茶柱がプカリと立ってる湯呑みは、それがゴミだと思い込んだ時に、ぼくのだと決めてしまっていたから、ぼくのもの。ぼくの湯呑みに立った茶柱。
お茶は最後の一滴までキッチリ注ぎ分けてから、茶柱の湯呑みをぼくの前に置いた。ハーレイの分もきちんと渡して、それから茶柱をしみじみ眺めて。
「ハーレイ、これって縁起がいいんだよね?」
茶柱が立ったら幸運を呼び込めるんだものね。
「まあな」
うんと昔からそう言うんだしな、幸運の印ではあるだろうさ。
「ぼく、幸せな結婚が出来る?」
結婚出来るに決まっているけど、ぼくが思ってるより、もっと早くに結婚式を挙げられるとか。
ハーレイのプロポーズがとても早くて、アッと言う間に婚約だとか…。
「どうだかなあ…」
その茶柱でだ、幸せな結婚となると難しいかもな。
「なんで?」
ちゃんと立ったよ、これが茶柱なんでしょ?
なのにどうして難しくなるの、幸運を呼べる茶柱なのに…!
それって変だ、と湯呑みの中を覗いたけれど。
茶柱がコロンと横倒しになって、立ってないのかと思ったけれども、プカリと立ってた。
今もプカプカ立っているのに、何がどう難しいんだろう?
分かんないや、と首を傾げていたら…。
「お前、喋っちまっただろうが」
「何を?」
「茶柱だ。ゴミと間違えて叫びはしたが、だ…」
それが茶柱だと分かった後もだ、茶柱、茶柱と大喜びで喋っていたろうが。
喋っちゃ駄目なんだ、茶柱の幸運を自分に呼び込むためにはな。
そいつはコッソリ飲むもんだ、って大笑いされた。
茶柱が立っていることは誰にも内緒で、幸運は知られない内に飲み込むもの。見付からないよう飲んでしまって、素知らぬふりをすべきもの。
茶柱なんかは無かったですよと、そんなものは立っていませんよ、と。
「嘘…」
茶柱ってそういうものだったの?
ぼくの幸運、喋っちゃったから消えちゃったなんて、ホントなの…?
「本当だ」
お前には気の毒な話なんだが、茶柱はそうして飲み込んでこそだ。
立った、立ったと触れ回るようなものじゃないんだ、幸運は一人占めってな。
「一人占めって…。だけど、四つ葉のクローバーとかは…!」
見付けました、って自慢するじゃない!
鼻高々で見せて回るけど、それで幸運が消えちゃうだなんて聞かないよ!
前のぼくは一つも見付けられずに終わったけれども、子供たちは見付けて得意だったよ?
ヒルマンだって「黙っていなさい」って止めなかったし、みんなに知られてもいいんでしょ?
「四つ葉のクローバーはそうなんだが、だ」
他にも色々と幸運のシンボルってヤツはあるんだが、喋っちまうと幸運が逃げるものもある。
茶柱はそっちの方なわけだな、逃がしたくなきゃ黙っていろ、と。
あれだけ連呼しちまったんだし、その茶柱は多分、効かんだろうなあ…。
「うー…」
そこまで授業で言っておいてよ、茶柱の話をするんだったら!
ぼくの茶柱、何の役にも立たないじゃない…!
嬉しくて喋っちゃった、ぼく。茶柱が立ったと喜んだ、ぼく。
だけど茶柱はコッソリ飲むもの、幸運を逃しちゃっただろうか、とガックリしてたら。
効き目がすっかり消えてしまった茶柱を見ながら萎れていたら。
「いいじゃないか、これで覚えただろう?」
茶柱が立った時には黙ってコッソリ飲むもんだ、と。他のヤツらに知られない内に。
「うん…」
失敗したからもう忘れないよ、茶柱が立ったらどうするか。
ちゃんと黙って飲むことにするよ、幸運が来ますように、って。
「それで良し、と。…次からはコッソリ飲んでおけ」
俺と結婚した後にもな。幸運を逃しちゃつまらんだろうが。
「それは駄目だよ!」
結婚した後に茶柱だったら、ハーレイと二人でお茶を飲む時に立つんでしょ?
そんなの、コッソリ飲めないよ!
幸運を呼べる茶柱なのに…!
ハーレイに黙って飲み込むなんて、って言った、ぼく。
せっかく茶柱が立ったのに、って。
幸せになれると、幸運が来ると、茶柱が教えてくれてるのに、って。
「そうでしょ、ハーレイ? ぼくに幸せが来るんだよ?」
ハーレイがくれる幸せに決まってるんだよ、その幸せって。
なのにハーレイに内緒で飲むって、酷くない?
幸せにしてくれてありがとう、って、茶柱が立ったよ、って教えたいじゃない…!
「しかしだな…。茶柱ってヤツはコッソリでないと…」
知られないように飲み込まないとだ、幸運を逃しちまうんだが?
俺に喋ったら逃げて行くんだぞ、お前の茶柱がくれる幸運。
「…じゃあ、回す」
「はあ?」
鳶色の瞳が丸くなったけど、ぼくの心はもう決まってる。だから…。
「茶柱が立った湯呑みを回すよ、ハーレイの前に」
ぼくの茶柱、ハーレイにあげるよ。こっそりとね。
ハーレイがそれを飲んだらいいよ。ぼくに喋らずに、黙ってゴクンと。
そしたら幸運はハーレイのものになるんでしょ?
ぼくはいいんだ、いつもハーレイから幸せを沢山、貰っているのに決まっているから。
茶柱の幸運はハーレイにあげるよ、それくらいしか、ぼくはあげられないから。
湯呑みを取り替えてハーレイにあげる、って宣言したら。
コッソリ飲み込んで幸せになって、ってニッコリ笑ったら。
「いや、お前のだとバレるぞ、それは」
いくらコッソリ取り替えたってだ、一目でお前のだと分かるってな。
そうなりゃ、俺はお前に返すし、お前が黙って飲んでおけ。お前の茶柱なんだから。
「…なんでバレるの?」
ハーレイがお茶を淹れたんだったら分かるけど…。
ぼくが淹れたら、バレるわけがないと思うんだけど。はい、って渡すだけだもの。
「結婚した後のことだろう?」
「そうだよ、二人で暮らしてるんだし」
ぼくの湯呑みをハーレイに渡しても、誰もなんにも言わないよ?
見てる人だっていないわけだし、黙って渡せばコッソリなんだよ、幸運は逃げて行かないよ?
ハーレイの所に回した茶柱、どうしてぼくのだと分かるわけ?
心が零れてバレるんだったら、その内にきっとバレなくなるよ。
最初の間は直ぐにバレても、慣れたら「はい」っていつも通りに渡せるよ、きっと。
サイオンの扱いが不器用なぼく。ハーレイに心が筒抜けなぼく。
嬉しい時とか、はしゃいだ時にはホントに筒抜け、心の中身が丸見えだって聞いてるから。
茶柱もそれでバレるんだろうと考えたけど。
ハーレイにあげよう、って弾んだ心がポロリと零れて拾われちゃうんだ、と思ったけれど。
「そうじゃなくてだ、どんなに心をガードしたってバレるってな」
お前と俺とじゃ湯呑みが全く違うんだから。
お前専用の湯呑みってヤツが俺の所にやって来たなら、バレない方がおかしいだろうが。
「…どうして違う湯呑みになるの?」
同じのでいいと思うけど…。ハーレイ、ぼくと同じの湯呑みは嫌なの?
もしかして、お気に入りの湯呑みがあったりする?
それは一人で使いたいから、ぼくには別のを使えって?
…それなら仕方ないけれど……。
同じ湯呑みが良かったな、って俯いた。
今度は結婚出来るのに。ハーレイと一緒に暮らしてゆけるのに、違う湯呑みになるなんて。
お揃いの湯呑みを使いたいのに、まるで別のになるなんて…。
シュンとしちゃった、ぼくだけれども。
「…お前、勘違いをしてないか?」
その顔だとどうやらそうみたいだな、ってハーレイの手が伸びて来た。
ぼくの頭をクシャクシャと撫でて、「知らないのか?」ってポンと軽く叩いたから。
「…知らないって、何を?」
茶柱、他にも何か意味があった?
コッソリ飲まなきゃいけないっていうだけじゃなくて、もっと何かあるの?
「茶柱が立つ湯呑みの方さ。そいつをお前は知らんようだな」
「湯呑みくらいは知ってるよ。…ハーレイのと同じのは駄目だってことも」
ぼくは同じのが良かったけれど…。お揃いになるんだと思っていたけど…。
「それがお前の勘違いってヤツだ。揃いの湯呑みだが、同じじゃないんだ」
夫婦湯呑みと言ってだな…。名前そのままだ、二つ一組で夫婦用に作ってあるわけだ。
ただし全く同じじゃない。大きさが違うとか、色が違うとか…。
何処かで区別が出来る仕組みだ、どっちが誰の湯呑みか、ってな。
そういう湯呑みを買おうと思っていたんだが…。
嫌か、お前は夫婦湯呑みは?
「…夫婦湯呑み…」
知らなかった、って目をパチクリとさせた、ぼく。
お揃いだけれど、まるでそっくりじゃない湯呑みだなんて。
ハーレイとぼくと、二人分でセットで、だけど何処かが似ていない湯呑み。大きさが違ったり、色が違ったり、自分専用のを選べるけれども、ちゃんとお揃いになってるだなんて…。
「ん? 嫌なのか、夫婦湯呑みってヤツは?」
お揃いが好きなお前だからなあ、そういったものも好きじゃないかと思ってたんだが。
「それ、欲しい!」
欲しいよ、ハーレイの分とセットの湯呑み!
見た目がそっくり同じでなくても、二つセットの湯呑みだったら欲しいってば!
「ほらな、お前は欲しがるわけで、だ…」
そうなるとお前の湯呑みが俺の所に来たら一目でバレるってな。
これはお前の湯呑みじゃないかと、この茶柱はお前のだろう、と。
当然、俺は送り返すぞ、本物の持ち主の所へな。幸運の茶柱、立っているぞと言わずにな。
「…そっか…」
ハーレイに幸せをあげたくっても、湯呑みでバレてしまうんだ?
ぼくの所に立った茶柱だったってこと。
それじゃハーレイにはあげられないよね、あげても戻って来ちゃうんだものね…。
夫婦湯呑みは欲しいけど。ハーレイのと、ぼくのと、セットの湯呑みは欲しいけど。
専用の湯呑みを使っていたんじゃ、ハーレイに茶柱を譲れない。
幸運を呼び込む茶柱を譲ってあげられない。
ぼくはハーレイから貰ってばかりで、幸せを贈られるばっかりで…。
せめてお返しに茶柱くらい、って思ったけれども、あげられない。
夫婦湯呑みでバレるから。ぼくの湯呑みに立った茶柱だと、ハーレイにバレてしまうから。
(ぼくばかり幸せを貰いっぱなし…)
それもなんだか申し訳ないし、ハーレイにだってお返しをしたい。
たまには同じ湯呑みにしようか、ハーレイのと、ぼくの。
お客様用の湯呑みとかなら、同じのが幾つもある筈だから。そういう湯呑みで、たまにはお茶。
上手く茶柱が立ってくれたら、それをハーレイに渡せばいい。
それなら絶対バレないよね、って言ったんだけど。
ハーレイ、飲んでくれるよね、って譲るつもりで言ったんだけれど。
「ふうむ…。お前の気持ちは嬉しいが、だ」
そんな時に限って、茶柱は立ってくれないってな。
「…やっぱりそう?」
ハーレイもそんな気がしちゃう?
ぼくが頑張っても、夫婦湯呑みを使わずにお茶を淹れても駄目だ、って…?
「まあなあ、狙って立てられるものじゃないからな、あれは」
あくまで運だし、俺に譲ろうと努力するだけ無駄ってもんだ。
それにだ、俺はお前に贈ってばかりというわけじゃないぞ、幸せってヤツを。
お前からもちゃんと貰っているのさ、お前に自覚が無いってだけだ。
今だって貰い続けているんだ、こうして話していられるだけでな。
お前は帰って来てくれただろう? 俺の所へ、前のお前と同じ姿で。
…ちょっぴり小さくなっちまったが、いずれは育って見分けがつかなくなるんだし…。
そんなお前を嫁に貰える俺は幸せ者なんだ。
お前から茶柱を貰うどころか、俺の方から「どうぞ」と譲ってやらんとな。
今度こそお前を守ると決めたし、幸せだってうんと沢山、お前にやろうと決めているしな。
だから茶柱はお前のものだ、ってハーレイは言ってくれたけど。
立った時には全部お前が飲むといい、って笑っているけど、その茶柱。
やろうと思って立てられるものじゃないみたいだから、運の問題だから、難しそう。
だけど、今度のぼくたちだから。
四つ葉のクローバーをいくら探しても見付けられなかった、前のぼくたちとは違うから。
「…ハーレイ、茶柱、また立つよね?」
結婚した後でもきっと立つよね、譲り合いが何度も出来るくらいに。
「うむ、現に一回目で見事に立ったんだからな」
正確に言えば二回目なんだが、雁金に変えたら一度で立ったくらいだし…。
お前の運も大したものだな、今度はな?
四つ葉のクローバーが見付からなかった前のお前とは違うってな。
幸せになれるに決まっているさ、って片目を瞑ってみせたハーレイ。
俺が幸せにしてやるからって、茶柱も全部一人占めして幸せになれ、って。
「いいか、コッソリ飲むんだぞ? 今日みたいに失敗しないでな」
「そっちの方も頑張るけれど…。ハーレイに茶柱を譲る方でも頑張るよ」
バレないように譲る方法、って、ぼくも片目を瞑っておいた。
幸せを分けてあげたいから。ハーレイにも幸運を沢山掴んで欲しいから。
茶柱の幸運、今日は失敗して逃したけれども、もう次からは逃さない。
ハーレイと二人、コッソリ譲って、譲り合ってはコッソリ飲んで。
飲み込んで幸運を呼び込まなくっちゃ、幾つも、幾つも、うんと沢山。
ハーレイもぼくも、今度こそ幸せになるんだから。
幸運の茶柱が湯呑みにプッカリ浮かぶ地球。青い地球の上で、二人で夫婦湯呑みを買って…。
幸運の茶柱・了
※茶柱が立つと縁起がいい、とハーレイの授業で聞いて、頑張ったブルー。
幸運の茶柱を一人占めするより、ハーレイに譲りたい未来。二人で夫婦湯呑みを買って。
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