シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ママ、おやつちょうだい!」
ブルーはダイニングに足を踏み入れるなり、母に強請った。
学校から戻って、着替えて降りて来たダイニング。今日のおやつは何だろうか、と。
シフォンケーキだと言われたから。ふうわりと軽くて絹の舌触りのケーキだから。
「えっとね…。シロエ風のホットミルクも!」
「はいはい、マヌカ多めのシナモンミルクね」
どうぞ、と用意してくれた母。切り分けられたケーキが載ったお皿も、湯気を立てているホットミルクも。
「ありがとう、ママ!」
美味しそう、とシフォンケーキにフォークを入れると。
「ママも一緒に頂こうかしら…。ほんの少しだけ」
「うんっ! ママもホットミルク?」
「そうねえ、シロエ風っていうのもいいわね」
ハーレイ先生のお勧めだものね、と母は自分用のカップにホットミルクを注いで来た。小さめに切ったシフォンケーキを載せたお皿も運んで来たから、母と二人でティータイム。
あれこれ楽しくお喋りをして、学校であったことの報告もして。
じゃあね、と、「御馳走様!」と二階の部屋に戻ろうとしたら。
「ハーレイ先生、来て下さるといいわね」
声を掛けられ、コクリと頷く。
「今日は来てくれると思うんだけど…」
「あら、予知なの?」
「ううん、ぼくの勘!」
予知能力なんかあるわけないでしょ、ぼくのサイオン、まるで駄目だし…。
それにね、予知じゃフィシスに敵わなかったよ、ほんのちょっぴり出来たってだけ。
ソルジャー・ブルーだった頃でもそうだよ、何か予感がする、って程度。
今のぼくだとそれも無理だよ、と返事をすれば。
「そうね、ブルーはブルーだものね」
「…なあに?」
ブルーはブルー、って、どういう意味?
「パパとママのブルーよ、って言ってるの。元はソルジャー・ブルーでもね」
まだまだ小さな子供だもの、と母に頭を撫でられた。
ママのブルーは可愛らしくて、小さなソルジャー・ブルーなの、と。
パパとママとの宝物よ、と。
母の優しい笑顔は嬉しかったけれど。
頭を撫でてくれた柔らかな手だって、とても誇らしい気持ちになったけれども。
階段を上がって部屋に戻って、勉強机の前に座ったら。
其処に飾ったフォトフレームの中、ハーレイと二人で写した写真に目を遣ったら。
ハーレイの左腕、両腕でギュッと抱き付いた自分。ハーレイよりもずっと背が低い自分。それに顔立ちも少年のそれで、前の自分とは比べようもなくて。
(可愛らしくて、小さな…)
母の言葉が蘇って来た。「可愛らしくて小さなソルジャー・ブルーなの」と。
写真の自分と何処も変わらない、背丈すらも伸びていないままの自分。たったの一ミリも伸びてくれずに百五十センチしか無いままの背丈。
あれが自分の目標なのだ、とクローゼットに鉛筆で微かにつけた印の高さはまだ遠い。
前の自分の、ソルジャー・ブルーの背丈の高さに引いた線。
ハーレイにもチビと言われるけれど。
小さいとも可愛いとも何度も言われたけれど。
(見た目だけ…だよね?)
写真の中の自分がハーレイよりもずっと小さいように。
キャプテン・ハーレイと並んで立っていた頃より、肩の高さがずっと低いように。
十四歳にしかならないのだから、まだまだ子供なのだから。前の自分のようにはいかない。
小さくて当然、可愛らしいと形容されても、それが当然。
きっとそう、と思ったのだけど。
そうだと写真を眺めたけれども、今の自分の姿はこうだと頬杖をついて観察したけれど。
(…違う?)
もしかしたら、と頭を掠めた、さっきまでのこと。
学校はともかく、家に帰ってから。
おやつを食べながら母と交わした言葉の数々。
はしゃいで、笑って、それは沢山の言葉を紡いだ自分だったのだけれど。
どれも…。
(ソルジャー・ブルーじゃ…ない…?)
前の自分なら、あんな風には話さない。
白い上着に紫のマント、青の間に居た自分なら。ソルジャー・ブルーだった頃の自分なら…。
「ママ、おやつ」と言いはしないだろう。
「ちょうだい」とも。
自然に口から出した言葉で、今の自分には馴染んだ口調で、少しも変ではないけれど。
(前のぼくなら…)
どう言ったろうか、母はとっくにいなかったけれど。
前の自分を育ててくれた養父母の記憶も失くしたけれども、いたとしたなら。
ソルジャー・ブルーだった自分の目の前に、母がいたなら。
(…お母さん…?)
ママと呼ぶには育ちすぎていたソルジャー・ブルー。
母に向かって呼び掛けるならば、「お母さん」。そうでなければ「母さん」と。
前の自分が生きた時代は、十四歳で養父母と別れたけれど。離されたけれど、シャングリラには養父母の記憶を持っていた者たちもいた。彼らは、確かそう呼んでいた。
育ててくれた母を懐かしむ時、「母さん」、あるいは「お母さん」と。
ソルジャー・ブルーだった自分が、養父母の記憶を持っていたなら。それを誰かに語り聞かせるなら、どう呼んだろうか。その母が現れて呼び掛けるならば、どうだったろうか?
(…ママにおやつを頼むなら…)
行儀よく「お母さん」と呼んだのだろうか、前の自分は?
ソルジャー・ブルーが母におやつを注文するなら、さっき自分がやっていたように頼むなら。
(お母さん、おやつ…)
おやつは少し変かもしれないけれど。もっと相応しい言葉があるかもしれないけれど。
生憎と何一つ思い付かないから、おやつの方は仕方ない。
けれど、「ちょうだい」は如何にもまずい。それは子供の言葉だから。
甘える時なら「ちょうだい」と言っても良さそうだけれど、普通におやつを頼みたいなら…。
(お母さん、おやつお願いできる?)
頭の中で組み立てた言葉に、「そう、それ!」と声を上げたくなった。
前の自分ならば、そうなったろう。ソルジャー・ブルーが母親におやつを頼むのならば。
ところが自分がやったことと言えば、「ママ、おやつちょうだい!」と、それは無邪気に、変だとも思わずに、ためらいもせずに。
つまり自分は、ソルジャー・ブルーではない今の自分は…。
(ちょうだい、な子供…)
おまけに「お母さん」とは違って「ママ」。
よちよち歩きの幼児でも言える「ママ」なる呼び方、少しも大人らしくない。
今の今まで全く気付いていなかったけれど。まるで気付いていなかったけれど、言葉遣いというものからして間違っていた。
誰が聞いても子供の言葉で、前の自分とは違いすぎる。
(声のせいだけじゃなかったんだ…!)
前の自分とは違う声。まだ声変わりをしていない声。
そういう声で話しているから、何を言ってもハーレイに鼻で笑われるのだと思っていたけれど。
お前はチビだと、チビで子供だと相手にされずに終わるのだと信じていたけれど。
声はもとより、言葉からして幼かった。
ハーレイと並んで写真に収まった子供そのまま、十四歳の子供にお似合いの言葉。
前の自分が喋っただろう、大人の言葉が話せない自分。
(これを直さないと…)
ハーレイはキスをしてくれるどころかチビ呼ばわりのお子様扱い、それでは困る。
いつまで経っても伸びない背丈も問題だけれど、言葉遣いも大いに問題。
(直さなくっちゃ…)
前の自分と同じ口調に。今よりも落ち着いた声をしていたソルジャー・ブルーに似合う言葉に。
頑張らねば、と決意を固めた。
何も知らない両親の前では無理だけれども、子供らしく振る舞わねばならないけれど。
せめてハーレイの前では、と。
前の生からの恋人であった、ハーレイと二人きりで話す時には、と。
そうすればきっと、ハーレイの気持ちも変わるだろう。自分を見る目も変わるのだろう。
姿こそ今も小さいけれども、中身は前の自分と同じに大人だと。
心が、中身が大人だと認めて貰えたのなら、キスだって…。
きっとキスくらいは貰えると思う。その先は駄目でも、唇にキスを落とすくらいは。
(えーっと…)
前の自分ならどう話すのか、と懸命に記憶を手繰っていっては引き寄せて。
(あのね、とかも駄目…)
「なんで?」も間違いなく論外。「でしょ?」も明らかに今の自分ならでは。
使っては駄目であろう言葉を頭の中でチェックしてゆき、次々と見えない壺の中へ詰めた。心に作った、目には決して見えない壺。言葉を封印するための壺。
誰も見ることが叶わない壺にせっせと詰め込み、出てこないよう蓋を厳重に。
もちろん言葉を一つ詰める度に、言い換えるならば何にするかも考えた。
あくまでソルジャー・ブルーらしく。何処までもソルジャー・ブルーらしく、と。
ギュウギュウと言葉を詰め込んだ壺を、心の奥へと仕舞い込んで。
壺の中の言葉はもう使うまいと、ハーレイの前では使わないのだ、と自分自身に誓っていたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイムの音。この時間にあれを鳴らすのは…。
(ハーレイ…!)
窓に駆け寄り、見下ろしてみれば庭を隔てた向こうで手を振るハーレイ。
応えて大きく振り返してから、ハタと気付いた。
(子供っぽい…?)
こんな仕草も駄目だろうか、と少し控えめに振ってみた。
前の自分が手を振った時はこのくらい、と。
すると、ハーレイもそうしたから。手の振り方が急に小さくなったから。
(遊んでる、って思われてる…?)
大きく振っていた手を控えめにして、何か企んでいると誤解されたとか…。
けれども、これからが真剣勝負。
ハーレイと二人きりで向き合う時間が大切なのだ、と言葉遣いを改めて意識し直した。
ソルジャー・ブルーと同じ言葉を、大人らしい言葉を使わねば。
外見はチビのままだけれども、中身は前と同じなのだとハーレイに知って貰わねば。
変わったのは姿形だけ。
魂は、心は、前の自分だと。ソルジャー・ブルーは此処にいるのだ、と。
間もなく母がハーレイを部屋に案内して来て、お茶とお菓子とを置いて行って。
その間は壺に詰めた言葉も使っておいた。母が怪しまないように。
だからハーレイも気付きはしなくて、母の足音が階段を下りて消えてゆくと。
「どうした、今日は変わった手の振り方をしていたな?」
いつもみたいにブンブン振らずに、なんて言うのか…。
妙に澄ました、気取ったみたいな感じだったが?
「…少し気を付けようと思って」
「何にだ?」
鳶色の瞳が怪訝そうに細められたけれども、ブルーの決意は揺らがなくて。
桜色をしたその唇から、前の自分が紡いだであろう言葉を返した。
「あまりに子供っぽいことをしてると、君に笑われてしまうからね」
「はあ…?」
子供っぽいって…。お前、立派に子供だろうが、違うのか?
熱でもあるのか、と額に大きな手を当てられた。
どうかしたのかと、何処か変だと。
「熱は無いな」とハーレイが首を捻るから。
具合が悪そうでもないのだが、と見詰めて来るから、ブルーはクスッと小さく笑った。
「おかしいかい?」
「可笑しいかって…。そりゃあ可笑しいが…」
お前とも思えない台詞だったが、何を考えているんだ、お前?
それでだ、なんだ、その上品ぶった仕草は?
「上品って…。そう見えるのかな?」
ぼくはそんなにガサツだったかな、自分ではこれが普通じゃないかと思うんだけどね?
上品も何も…、と普段は嬉々としてフォークで切り取るケーキをそうっと静かに切った。
ティーカップに注いだ紅茶を混ぜるスプーンも、カチャカチャと音を立てないように。
ソルジャー・ブルーだった頃にはそうしていたから。
誰に躾けられたわけでもなかったけれども、あえて言うならエラだったろうか?
礼儀作法に厳しかったエラ。
長老たちだけでお茶を楽しむ時にも、紅茶をゴクゴク飲んだりはせずに、上品に。
同じ女性でもブラウの方だと、喉が乾いたと言わんばかりに一気に飲み干し、おかわりを注いでいたものだけれど。お菓子の類も豪快に口へと運ぶのがブラウだったのだけれど。
十四歳の小さなブルーは、どちらかと言えばブラウに近い。
食が細いというだけのことで、美味しいお菓子があれば飛び付く。食欲さえあれば、自分の口に見合ったサイズに切ってパクリと齧り付く。ケーキもタルトも、パイやムースも。
それがケーキをそうっと切ったり、いつもならカチャカチャ音をさせて混ぜる紅茶をあまりにも静かに混ぜるものだから、ハーレイの方にしてみれば…。
「不気味だぞ、お前」
悪いものでも食ったのか、って訊きたいくらいに妙なんだが…。いったい何を企んでいる?
「失礼だね、ハーレイ」
ずいぶんな言われようだけど…。ぼくを誰だと思っているわけ?
「誰って…。お前はお前だろう?」
それ以外の何でもないと思うが、何かあるのか?
服だっていつもと変わりないように見えるんだがな…?
「分からないのかい、ごく簡単な質問なのに」
ぼくはぼくだよ、君のブルーだよ。
そうだろう、ハーレイ…?
精一杯、前の自分の口調を真似たのに。
そういった言葉を口にした時の笑みまで真似てみせたのに。
ハーレイは盛大に吹き出した。それは可笑しそうに、もうたまらないというように。
「なるほど、そういうゲームだってか」
それなら付き合ってやらんとな。お前が膨れてしまう前にな…、って、これじゃいかんか。
俺もキッチリ切り替えんと…。
それで、これにはどういう理由が?
「ぼくらしくしようと思ってね」
平和ボケとでも言うのかな…。すっかり今に慣れてしまって、色々とお留守になっていた。
それじゃ駄目だと気付いたんだよ、少し遅すぎた気もするけれどね。
「反対する理由はございませんが…」
私は反対いたしませんが、そうなさって何か得でもあると?
あなたが苦労をなさるだけではないのですか?
「そんなことはないよ」
これでも充分、考えたしね。それに、こうしておいたなら…。
君の心が手に入るだろう?
ぼくから少し離れてしまった、君の心が。
例えばキスとか…、と微笑んでやれば。
ハーレイは少し困った顔で。
「とうに手に入れていらっしゃるかと思うのですが…」
こんな不自由をなさらなくとも、私の拙いキスくらいは。
「いや、まだだよ?」
ぼくは一つも貰ってはいない。少なくとも、ぼくの記憶には無い。
君の勘違いじゃないのかい?
学校の仕事や柔道部の指導で忙しそうだし、記憶違いをしているとか…。
「いいえ、確かに差し上げました」
頬と額に幾つも、何度も。それこそ数え切れないくらいに差し上げた筈だと思うのですが?
「それじゃ足りない。ぼくはキスには数えていないよ、そういったキスは」
この地球で君に巡り会えたけれど、再会のキスすら貰ってはいない。
ぼくは今でも君のブルーのつもりなのにね…?
「では、どうしろと仰るのです?」
何を求めていらっしゃるのですか、この私に…?
「言ったろう、キスを貰っていないと。…ぼくにキスを」
再会のキスが欲しいんだけどね…?
「かしこまりました」
仰せの通りに。…再会のキスを。
せっかくあなたに会えたのですから、心からのキスをあなたのために。
ハーレイが椅子から立ち上がって。
ブルーが座った椅子の方へとやって来たから、してやったりと瞼を閉じた。
効果はあったと、これでハーレイからキスが貰えるに違いないと。
前の自分と同じ背丈になるまでは無理だと諦め果てていた唇へのキス。それが貰えると、ついに唇にキスを贈って貰えるのだと。
(ハーレイのキス…)
言葉遣いを改めたことは正しかった、と自信を深めたブルーだけれど。
自分の誤りに気付いて良かったと、やはり言葉や仕草も大切だったのだ、と心躍らせて待ったのだけれど。
(…えっ?)
額に、頬に落とされたキス。慣れ親しんだいつものキス。
その後にキスをして貰えるのだと、次は唇だと待ち焦がれたのに、それっきり。
唇にキスを落とす代わりに、ハーレイが去ってゆく気配。
キスは済んだと、元の椅子へと戻ることにするか、と床を微かに軋ませて。
それでは困る。
再会のキスを貰っていないし、唇へのキスはどうなったのか。
パチリと瞳を開けてみたらば、ハーレイは椅子に戻っていたから。
テーブルを挟んで向かい側の椅子に、ハーレイの定位置に元の通りに座っていたから。
「これじゃ全然足りないってば!」
叫んだ途端に、ニヤリと笑みを浮かべたハーレイ。
ブルーは慌てて両手で口を押えたけれども、既に手遅れというもので。
ハーレイの耳は捉えてしまった。ブルーの口から漏れた言葉を、十四歳の子供の言葉遣いを。
(やっちゃった…!)
心の中に仕舞っておいた封印の壺。子供らしい言葉を詰め込んだ壺。
しっかりと封印を施した筈が、ポンと飛び出してしまった言葉。開いてしまった壺の蓋。
アタフタとするブルーに向かって、ハーレイは至極真面目な口調で。
「ソルジャー・ブルーはそのようには仰いませんでしたね」
私が記憶している通りでしたら、「これでは全然足りやしない」と仰ったかと。
「全然」ではなくて、「全く」だったかもしれませんが。
「まるで足りない」とも仰いましたね、「これではまるで足りないじゃないか」と。
淡々と並べ立てられる言葉。
ソルジャー・ブルーはこうであったと、このように話していた筈だと。
それをブルー自身が懸命に考えたものより遥かに自然に、流れるように話すものだから。
ハーレイがそれらの言葉を使っていたかの如くに流れ出て来るものだから。
こうも違うかと、考えて作り上げた言葉と本来のものとは違うものかと、突き付けられた厳しい現実。ハーレイにとっては、前の自分の口調や言葉遣いは意識せずとも思い出せるもの。こういうものだと、こうであったと、スラスラと真似てみせられるもの。
ブルーには出来なかったのに。
今の自分の言葉をせっせと壺に押し込め、記憶を手繰ってようやっと真似ただけなのに。
使わないよう封印していた壺の中身も、あっさり零れてしまったのに…。
所詮は猿真似だったのか、と思い知らされた、前の自分の口調の真似。
ハーレイは楽々と真似るというのに、当の自分が真似られなかったソルジャー・ブルー。
あんなに考えて頑張ったのに、と小さなブルーはもう悔しくてたまらなくて。
「うー…」
そんな声しか出てこない。失敗した、と呻く声しか。
しかしハーレイの方はそうではなくて、真面目くさったキャプテンさながらの顔で。
「うー、とも仰いませんでした」
そのような時には黙ったままでらっしゃいましたね、何も仰らずに。
そうでなければ、「ぼくとしたことが…」と溜息をついていらっしゃったかと。
「ハーレイのバカッ!」
短く怒鳴れば、ハーレイは「ええ」と頷いた。
「それは何度も仰いましたね、ハーレイの馬鹿、と何度も浴びせられましたが…」
確かに仰っておられたのですが、それは間違いないのですが…。
尻尾が見えておりますよ、とクックッと喉を鳴らしたハーレイ。
大きな古狸の尻尾ではなくて、キツネの尻尾でもなくて。
それは可愛らしい尻尾が見えると、ふわふわのフカフカの尻尾が見えると。
「子狸でしょうか、それともウサギか…」
そういえば、あなたは小さい頃にはウサギになりたいと思ってらっしゃったとか…。
ならば子狸よりもウサギの尻尾と思った方がよろしいですか?
そういう愛らしい尻尾ですね。
あなたのお尻にくっついた尻尾は、チラチラと見えている尻尾は。
「なんで尻尾!」
どうして尻尾の話になるわけ、ぼく、尻尾なんかは生えてないのに!
それにハーレイ、何処から尻尾が見えるって言うの!?
テーブルに隠れて見えない筈だよ、ホントに尻尾がくっついてたって!
尻尾、尻尾、って、ぼくはそんなのくっついてないよ!
「おやおや、先に音を上げられたのはあなたですか?」
尻尾どころか、もう全身が見えておりますが?
どうやらあなたは、尻尾の話を御存知なかったようですねえ…。
ゲームオーバーだな、とゲーム終了を告げられた。
もうキャプテン・ハーレイの真似はやめだと、元の口調に戻らせて貰う、と。
「お前、あの言い回しを知らないのか?」
尻尾を出すってよく言うだろうが、化けの皮が剥がれるとも言うが…。
化けていたキツネや狸の尻尾が見えちまったら、正体が何か分かるだろ?
そいつのつもりで言ったんだがなあ、さっきの尻尾。
お前、せっせとソルジャー・ブルーの真似をしてたが、どんどんボロが出ちまってたしな?
それで「尻尾が見えているぞ」って俺が教えてやっているのに、お前ときたら…。
出てた尻尾を仕舞うどころか、全身丸ごと出しちまったと来たもんだ。
尻尾の話で頭に来たのか? 本物の尻尾は生えてないしな。
「ハーレイがあんな言い方をするから悪いんだよ!」
真面目な顔して尻尾、尻尾、って言われたら何かと思うじゃない!
ぼくに尻尾は生えてないのに、何処から尻尾が出て来るんだろう、って!
「ほほう…。お前、知ってはいたんだな? 尻尾を出すっていう言葉」
「当たり前だよ、そのくらいのことは知ってるよ!」
でなきゃトップは取れないよ!
ぼくの成績、ハーレイだって知ってるくせに!
テストだったらちゃんと分かるよ、尻尾を出すって意味くらい…!
ブルーは膨れっ面になったけれども、尻尾の話で尻尾を出したのは自分だから。
尻尾どころか全身を出して、化けの皮が剥がれてしまったから。
あんなに頑張って壺に詰め込んだ言葉はすっかり零れてしまった。一つ残らず壺から飛び出し、元あった場所へ戻ってしまった。
ソルジャー・ブルーの口調はもう真似られない。前の自分の真似は出来ない。
十四歳の子供の口調で怒って、膨れて、当たり散らして。
たった一つだけ、ソルジャー・ブルーとそっくり同じな言い回し。
「ハーレイのバカ!」と口にする度、それをぶつけられた筈のハーレイが腹を抱えて笑い出す。
その台詞だけは間違っていないと、実に見事でその通りだと。
点数をつけるなら百点満点、文句なしのソルジャー・ブルーの台詞。
流石お前だと、生まれ変わっても一つくらいは何か取柄があるようだ、と。
「サイオンはとことん不器用な上に、思いっ切りのチビなんだがなあ…」
それでもそいつはソルジャー・ブルーだ、間違いない。
頑張らなくても完璧な出来だ、もうそれ以上は練習しなくてもいいってな。その台詞だけは。
「ハーレイのバカっ!」
どうしてそういうトコで褒めるわけ、ぼくはあんなに頑張ったのに!
前のぼくらしくしようと思って、ケーキも紅茶も、うんとお行儀よく食べたのに!
そしたらハーレイは不気味だなんて言ってくれたし、酷すぎなんだよ、何もかも全部!
バカだけ満点を貰っちゃっても、嬉しくもなんともないってば…!
息もつかずに一気にまくし立てたブルーだったけども、ハーレイはただ笑うだけ。
馬鹿だけは満点をプレゼントすると、なんなら紙に書こうかとまで。
「ハーレイの馬鹿に関しては免許皆伝です、と大きく書いてやってもいいぞ?」
この俺を馬鹿にした台詞を書いてやろうと言うんだからなあ、大サービスというヤツだ。
何か無いのか、そういったことを書くのに向いてるデッカイ紙。
画用紙でもいいから持って来い。免許皆伝と書いてやるから。
「そんなサービス、要らないよ!」
日記にも書かなくていいからね!
ぼくがソルジャー・ブルーの真似をして失敗しちゃったことは!
自分の言葉も真似が出来ない情けないヤツ、って書いたら本気で怒るからね…!
「書きやしないさ、俺の日記は覚え書きだと言ってるだろうが」
そういう俺がだ、「ハーレイの馬鹿」と紙に書こうと言っているんだ、遠慮するな。
今を逃したらもう書かないぞ?
「ハーレイのバカっ!」
ぼくが要らないって言っているのに、押し付けなくてもいいじゃない!
そんな台詞だけ免許皆伝でも、ちっとも嬉しくないんだからね…!
もっと他の台詞…、とブルーは懸命に訴えたけれど、それは子供の言葉でしかなくて。
ソルジャー・ブルーの真似は出来なくて、すっかりいつもの言葉遣いで。
「ハーレイのバカ!」と繰り返す内に、ハーレイが「それで?」と問うて来た。
「お前、なんだってこんな馬鹿な遊びを思い付いたんだ?」
前のお前の口真似だなんて、チビがやってもまるで似合っていないんだがな?
「ぼくらしくしようと思ってる、って言ったでしょ!」
真剣なんだよ、ハーレイにちゃんと見て貰いたくて!
見た目はチビでも、中身は前と変わらないよ、って、おんなじだよ、って!
「…どの辺がどう同じなんだか…。尻尾は最初から丸見えだったと思うがなあ…」
悪いものでも食ったのか、と思ったくらいに可笑しかったが、今日のお前の喋り方。
しかしだ、お前が本気で取り組むつもりだと言うのなら…。
まあ、付き合ってやらんこともない。俺もキャプテン・ハーレイらしく、だ。
頑張るんだな、ソルジャー・ブルーを目指してな。
「もちろんだよ!」
この次はきちんとやってみせるよ、前のぼくみたいな喋り方。
ちゃんと出来たら、ハーレイだってぼくを認めてくれるだろうしね!
そうは宣言したものの。
やってみせると言い張ったものの、キャプテン・ハーレイの丁寧すぎる言葉遣いより。
今のハーレイの砕けた口調が、「私」よりも「俺」なハーレイの方が断然、好きで嬉しいから。
小さなブルーは二度と挑みはしないだろう。
前の自分の口調を真似して背伸びしようとは、より大人らしく見て貰おうとは。
とはいえ、いつかすっかり忘れてしまえば、またやるのかもしれないけれど。
背伸びしようと、中身はこうだと、大人の口調。
ソルジャー・ブルーだった頃に自分が使った、子供には似合わない口調。
それが少しも似合っていないと、小さなブルーは気付きもしない。
自分の中身は前と同じだと、ちっとも変わっていないのだと。
そしてハーレイが笑いを堪える。
次にはどんな事件が起こるか、小さなブルーは何をやらかしてくるのだろうかと。
「ハーレイの馬鹿」だけは免許皆伝、前の通りの小さなブルー。
前の自分と同じ姿も、その喋り方も、まだ当分は手に入りそうもないけれど。
恋人だけは前と同じに持っている。
「ハーレイのバカ!」と言われようとも満点をくれる優しい恋人を、とうに小さな手の中に…。
違った口調・了
※ハーレイが子供扱いするのは、子供っぽい口調のせいだと思い込んだブルー。
頑張って直して喋っていたのに、出てしまった尻尾。子供にはそれがお似合いですよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
除夜の鐘が終われば新しい年で、初詣。今年こそ良い年になりますように、と祈願したのが効いたのかどうか。はたまたニューイヤーのイベントで満足したのか、トラブルメーカーと名高いソルジャーが現れないまま、無事に冬休みが終わりそうです。
「いやあ、こういう年もあるんだねえ…」
素晴らしいね、と会長さん。
「まさかブルーの顔を見ないまま、七草粥が食べられるなんて」
「まったくだ」
キース君が深く頷いて。
「今年の七草粥は格段に美味い。此処に来る前に家でもおふくろが作ってくれたが、あれも例年になく美味く感じた」
「かみお~ん♪ 七草、今年はブルーと揃えたんだよ!」
買ったのもあるけど採って来たのもあるんだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も嬉しそう。そう、此処は会長さんのマンションです。お正月の七日といえば七草粥で、無事にお邪魔出来れば頂く習慣。もっとも無事にお邪魔出来ても七草は市販品か、マザー農場で調達したもので…。
「えとえと、採りに行った場所はマザー農場なんだけど…」
でもブルーとぼくとで採ったんだよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。美味しさの秘密はその辺でしょうか、それともソルジャーの顔を見ないで過ごせた嬉しさで五割増しとか七割増しとか…。
「え? そりゃあ七草の美味しさとブルーがいないことのダブルだよ、うん」
会長さんが「おかわり!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「うんっ!」
ササッとおかわり、すぐに盛り付け。私たちもおかわりを入れて貰って美味しく食べていたのですけれど。
「いいねえ、今年のは美味しいんだって?」
「「「!!?」」」
まさか、と振り向いた先にイヤンな人影。会長さんのそっくりさんが私服姿で立っていました。
「ぶるぅ、ぼくにも七草粥! 出来ればニンニクすりおろしたっぷり!」
「邪道だから!」
七草粥にニンニクなんかは有り得ないから、と会長さんが叫びましたが、相手はソルジャー。自分の七草粥が盛り付けられたら、勝手にキッチンに出掛けて行って食べるラー油なんかを取って来ました。ニンニクの代わりに食べるラー油をたっぷりと。それ、七草粥じゃないですから!
出て来る早々、トンデモな七草粥を召し上がったソルジャーは当然の如く居座ってしまい、七草粥の後の午前中のティータイムの席にもドッカリと。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が漬け込んだドライフルーツ入りのフルーツケーキを頬張りながら…。
「今日は七草粥の日だしね? こういうのは吉日を選ばないとね」
「「「は?」」」
吉日も何も、ソルジャーが出て来た時点で厄日なフラグ。しかも新年初登場となれば吉日どころではないのですけど、ソルジャーは我関せずとばかりに。
「ファンクラブってヤツを立ち上げようと思うんだよ、うん」
「「「ファンクラブ!?」」」
誰の、とウッカリ反応したのが運の尽き。ソルジャーは「知りたい?」と膝を乗り出して来ました。
「そりゃ君たちだって知りたいよねえ? 誰のファンクラブを立ち上げるのか!」
「…君のハーレイだろ」
会長さんがまるで関心の無い風で手をヒラヒラと。
「君一人では何かと不便なんだとか理由をつけて手伝わせる気だとぼくは踏んだね。君の代わりに花束を手配させられたり、プレゼントを買いに行かされると見た」
「なんでわざわざ!」
ファンクラブなんぞを作らなくても間に合っている、と返すソルジャー。
「ぼくとハーレイはとっくに結婚してるんだよ? たまに刺激も欲しくなるけど、ファンクラブなんかを作って過熱されたらたまらない」
ぼくのハーレイはぼくのものだ、と言われましても。
「…それじゃノルディのファンクラブかい?」
「そっちの方も間に合ってるねえ…」
お小遣いに不自由はしていない、とエロドクター説も却下です。誰のファンクラブか本気で分からなくなってきました。
「分からないかなあ、ぼくがファンクラブを作って応援したい人!」
「「「応援?」」」
「そう! もっとファンが増えますようにと、熱烈なファンがつきますようにと!」
願いをこめてファンクラブなのだ、とソルジャーは拳をグッと突き上げ。
「同じハーレイでも、こっちのハーレイ! こっちのハーレイのファンクラブ!」
「「「教頭先生!?」」」
何ごとなのだ、と仰け反ってみても、ソルジャーなんぞの行動理由は常に謎。それゆえのトラブルメーカーですから、これもやっぱりトラブルの内…?
「ぼくもあれこれ考えたんだよ」
去年の暮れからニューイヤーにかけて、とソルジャーはファンクラブが如何に名案なのかを滔々と説明し始めました。
「こっちのハーレイ、クリスマス・パーティーでも冷遇されていたからねえ…。新年になってもブルーは綺麗に無視しちゃってたし、おせちが沢山無駄になったようで」
「無駄になんかはなってないから! ちゃんとシャングリラ号の交代要員とかに振舞われてるし、ハーレイの株も上がってるから!」
会長さんの反論はもっともなもの。教頭先生が会長さんや私たちの年始回りに備えて用意してらっしゃる沢山のおせち、出番が無かった場合はそういうコースを辿ります。キャプテンとしての教頭先生の部下に気前よく御馳走されて、教頭先生のお株も上昇。
「そんなわけでね、おせちは無駄にはならないんだよ!」
「…そうかなあ? 君が食べてあげない時点でハーレイにとっては無駄じゃないかと」
「いいんだってば!」
結果こそ全て、と会長さん。
「ハーレイは勝手に妄想しまくって暴走するんだ。普段はロクな結果にならないけれども、おせちだけは暴走したって無問題! 結果的に株が上がるから!」
「…そういうことにしてもいいけど、全体的に報われないよね、こっちのハーレイ」
だからファンクラブを作らなければ、と語るソルジャー。
「ぼくが作るんだから、ぼくが会長! 会員はもちろん君たち全員!」
「「「全員!?」」」
「ファン同士で煽り合わないとね? 此処まで頑張って応援してます、尽くしています、って競争しないと!」
出待ち入り待ちは基本なのだ、とソルジャーはファンクラブっぽい単語を口にしました。
「毎日花束を届けるのもいいし、仕事で疲れて帰宅するハーレイのために料理を作ってあげるのもいいね。掃除洗濯も代わりにやるとか!」
「「「………」」」
「要はハーレイのために頑張るクラブ! そんなファンクラブを作って煽れば、いつかはきっとハッピーエンド!」
「…何が?」
会長さんの問いに、ソルジャーの顔に極上の笑みが。
「君とこっちのハーレイだよ!」
君のファン心理が過熱した末に目出度く結婚に漕ぎ付けるのだ、という結論。それがファンクラブ設立の理由ですか~!
ソルジャー自ら教頭先生のファンクラブ会長。私たち全員を会員に巻き込み、ファン同士で競わせてヒートアップさせて、いずれは会長さんと教頭先生の結婚を目指すという凄すぎる企画。今年のお正月は無事に済むかと思っていたのに、この始末とは…。
「素晴らしい案だと思うんだよねえ、ぼくとしてはさ」
「何処から降ってわいたわけ? …そのアイデアは」
嫌過ぎるんだけど、と会長さんが顔を顰めれば、ソルジャーは。
「こっちのノルディなんだけど?」
「「「えっ?」」」
何故にエロドクターがファンクラブ? 誰かのに入会しているとか?
「まあね。ノルディはあれでも会長だから」
「「「会長!?」」」
誰のファンクラブの会長なのだ、と私たちは顔を見合わせたのですが。
「其処で勘違いをしないで欲しいね、ノルディのは一人ファンクラブ!」
「「「へ?」」」
一人ファンクラブとは何でしょう? 会員が一人で会長しかいないファンクラブ?
「そうそう、そういうファンクラブ!」
「凄いな、誰のタニマチなんだ」
キース君がウッカリ話に乗ってしまって、ソルジャーはとても嬉しそうに。
「ああ、タニマチっていうのも言ってたねえ…。でもさ、ノルディがタニマチをやっているのは別口だよ、うん」
「「「別口?」」」
タニマチと言えば力士とかの無償のスポンサー。バンバンとお小遣いを渡して応援しまくると聞いていますが、エロドクターの財力だったら余裕でしょう。タニマチもやっていましたか…。ついでに一人ファンクラブもやってて、タニマチは別口という話。
「ぼくも芸能界には詳しくなくてね、ついでに興味も全く無いから…。だけどノルディ好みの歌手とか俳優とか? そういうののタニマチをやってるらしいよ。でもね」
一人ファンクラブはタニマチの世界とは全く別だ、とソルジャーは胸を張りました。
「なにしろ本当に世界が違うし! このぼくの一人ファンクラブだから!」
「「「えぇっ!?」」」
「もしかして気付いていなかった? ずうっと前からノルディは会長!」
だからお小遣いもたっぷり貰えるのだ、と聞いてビックリ、ファンクラブ。いつもランチだのディナーだのに付き合ってお小遣いを貰うと知ってはいましたけれども、あれってエロドクターがソルジャーのファンクラブをやっていたんですか!
タニマチならぬ一人ファンクラブ。ソルジャーのためだけにエロドクターが作って会長をしているファンクラブ。そんなカッ飛んだものが存在していたとは…。
「素敵だろう? 会員は無償で尽くして当然、お小遣いから私生活まで面倒を見るのが当然らしいよ。もっとも、ぼくは別の世界に住んでるからねえ…」
私生活まで面倒を見られないのが残念らしい、とソルジャー、得意げ。
「本当だったら、ぼくの移動に車を出して運転するとか、家で料理を作っておくとか。何から何まで尽くしまくって、それが名誉という世界!」
「「「………」」」
タニマチってそういうものだったのか、と目から鱗な気分でした。力士や芸能人にお小遣いを渡すだけでなく、滅私奉公する世界だとは…。お金持ちの世界は実に不思議だ、と思ったのですが。
「えーっと…。マツカ先輩?」
シロエ君がマツカ君に声を掛け。
「はい?」
「マツカ先輩のお父さん、タニマチをやっていませんでしたか? 今の横綱」
「やってますけど…。地元出身の力士ってことで、早くから応援していましたね」
「それじゃマツカ先輩のお父さんも?」
忙しいのに横綱のお世話ですか、とシロエ君。
「先輩の家だと家事とかは一切無いんでしょうけど…。そういう世界で暮らしていれば、炊事とかもしたくなるんでしょうか? そのためにタニマチやるんですよね?」
非日常を求めているんですね、との台詞に私たちも揃って「うん、うん」と。日頃から家事などと無縁な生活だったら、誰かのために尽くしまくるのも楽しいのかもしれません。横綱のために運転手だとか、掃除洗濯を頑張るとか。あれ? でも、横綱って付き人がついていたような…?
「父はそういうのはやってませんよ?」
タニマチはあくまでスポンサーです、とマツカ君。
「横綱をお招きしての宴会だとか、化粧回しを贈るとか…。横綱のお世話はちゃんと付き人がいますしね。付き人がつく前も父はお世話には行ってませんが」
「「「え?」」」
同じタニマチでも力士の世界は違うようです。それじゃソルジャーが熱く語ったタニマチの世界は芸能人の方なのでしょうか?
「そうだけど?」
力士じゃないねえ、とソルジャーは笑顔。
「何だったかなあ、女性ばかりで構成された歌劇団の団員を応援しまくるファンクラブだよ。会員はあくまで女性限定、その辺がノルディの憧れらしいね、同性のためにひたすら尽くす!」
究極のプラトニックラブの世界、と言われて納得。如何にもエロドクターが好きそう…。
同性の歌劇団員を応援するため、ひたすらに尽くす女性限定のファンクラブ。プラトニックラブの世界なのだ、と聞けばエロドクターが憧れた挙句にソルジャー相手に設立したのも分かります。なるほど、それを教頭先生を対象にしてソルジャーが会長になって設立する、と…。
「分かってくれた? プラトニックラブの世界だからねえ、本当は元ネタのヤツと一緒で男だけで固めたいんだけれど…。ちょーっと面子が寂しいしね?」
たった八人しか居ないのではねえ…、と頭数を数えているソルジャー。会長をするというソルジャーの他に会長さんとキース君たち男の子が五人、プラス「そるじゃぁ・ぶるぅ」で八人。確かに少々寂しいかもです。
「メンバー不足は悲しすぎるし、この際、女子も入れておこうかと」
君たち二人、とスウェナちゃんと私を指差しつつも、ソルジャーは。
「だけど、あくまでメインは男! 男性が男性を応援しまくる、そしてひたすら尽くして頑張る! 競い合ってヒートアップしてってなんぼで、最終的には其処のブルーを!」
一番のハーレイのファンにするのだ、と盛り上がる気持ちは分からないでもないですが…。
「…それで、このぼくがハーレイのファンになるとでも?」
「やってみなくちゃ分からないじゃないか!」
蓋を開けてみれば嫉妬に燃える君が居るかも、とソルジャー、ニヤニヤ。
「日頃ハーレイをオモチャにしている君の心理は歪んだ愛情! それを真っ直ぐに直してやればね、ハーレイへの愛に目覚めるわけだよ。他の面子が頑張るほどに効果が出るかと」
あの役目は自分がしたかったのに、と歯ぎしりするようになれば目覚める日も目前、と唱えるソルジャー。
「ハーレイのために料理したいとか、掃除を頑張って喜ばれたいとか! そうした境地に持って行くためにも、他の会員はハーレイのために頑張りまくる!」
ぼくも含めて、というソルジャーの決意は本物でした。本気の正気で教頭先生の私設ファンクラブ。自分が会長となって立ち上げ、尽くして応援しまくろうとは…。
「そういうわけでね、たった今から、ぼくたちはハーレイのファンクラブ会員だから!」
でもって会長はこのぼくだから、とソルジャーは仕切り始めました。
「ブルーがぼくを押しのけて会長の座に就きたいと言うなら譲るけれどね、それ以外の面子はぼくが絶対! ぼくが決めたらきちんと従う!」
まずはハーレイを応援すべし、と最初の御言葉。
「ハーレイは只今、孤独な昼食を何にしようかと悩み中! ファンクラブとしては放っておけない状況だよねえ、早速出掛けて応援しなくちゃ!」
それでこそ私設ファンクラブ! という叫びが終わらない内に、パアアッと溢れた青いサイオン。ソルジャー、全員を連れて飛びますか? 教頭先生のお宅まで!?
「「「………」」」
自称ファンクラブ会長のソルジャーの技に抜かりなし。会長さんの家のリビングから瞬間移動をした筈なのに、私たちの足にはしっかりと靴が。ついでに目の前に教頭先生のお宅の玄関の扉。ファンクラブ会員を名乗る以上は玄関で挨拶からということですか…。
「君たち、年が明けてから一度もハーレイに会ってないしね? ちゃんと「あけましておめでとうございます」だよ、まだ七草粥の日なんだから!」
そこを間違えないように、と注意してから、ソルジャー、チャイムをピンポーン♪ と。
『はい?』
ドアホンの向こうで聞こえた教頭先生の声は弾んでいました。それはそうでしょう、玄関チャイムに至るまでには庭が横たわっているのです。本当だったら門扉のチャイムを鳴らさなければ玄関前には来られません。
そうした過程をショートカットしてチャイムを鳴らせる来客、すなわち瞬間移動が出来る人。つまりは会長さんの登場を意味しているわけで…。
「ああ、ハーレイ? あけましておめでとうございます」
『こ、これはどうも…! あけましておめでとうございます』
すぐに開けます、という声は敬語。教頭先生、ドアホン越しの声でもソルジャーと会長さんの区別がつくのが凄いです。これも愛の力と言うものなのか、と驚く間に扉が開いて。
「どうぞ、お入り下さい…って、なんだ、全員来ていたのか?」
「御挨拶だねえ、来ちゃ駄目だとでも?」
会長さんがフンと鼻を鳴らせば、ソルジャーがその脇腹を肘でドカッと。
「そうじゃなくって! 礼儀正しく、新年の挨拶をきちんとするっ!」
「…い、いたたた…。あ、あけましておめでとうございます…」
呻きながらの会長さんの声に合わせて、私たちもペコリと頭を下げて。
「「「あけましておめでとうございます!」」」
「あ、ああ…。うむ、あけましておめでとう」
遠慮しないで入ってくれ、と教頭先生は扉を大きく開けたのですが。
「ありがとう、ハーレイ。でもね、その前に! お昼御飯は何を食べたい?」
ソルジャーが訊いて、教頭先生が。
「いえ、そこは私が決めるのではなく…。何の出前を取りましょうか?」
「ダメダメ、ぼくたちの方が御馳走する立場! 決められないなら寄せ鍋でいい?」
寒いもんねえ、というソルジャーの言葉に、教頭先生、「はあ…」とポカンと。
「じゃあ、寄せ鍋! 君は家でゆっくりしていてくれれば…」
さて、と私たちに向き直るソルジャー。いきなり会長命令ですか?
昼食は寄せ鍋と決めたソルジャー、お次は私たちをグルリと見渡し、「うん」と一声。
「とりあえず財布はマツカに任せる。だからマツカと…。寄せ鍋用の食材選びを頼まなきゃ駄目だし、ぶるぅもだね。他に荷物持ち、キースとシロエ!」
頑張ってこい、と柔道部三人組と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が買い出し部隊に選ばれました。
「急いで出掛けて、急いで帰る! それが大切!」
「「「はいっ!」」」
逆らったら怖いと思ったのでしょう、キース君たちは最敬礼して買い物へと走り去ってゆき。
「お昼御飯の手配は終了! それじゃ入って」
君が一番、とソルジャーは教頭先生を玄関の中へと促し、教頭先生は途惑いながらも靴を脱いで家へ上がられましたが。脱いだ靴の向きを直すべく屈もうとなさったのをソルジャーが止めて、私たちに。
「気が利かないねえ、こういう時にはサッと屈んで靴を揃える!」
「「「は、はいっ!」」」
会長さんを除いた全員が慌て、教頭先生の大きな靴はサム君が素早く揃えました。恐らく元老寺での修行の賜物でしょう。初詣だの春のお彼岸だのお盆だのと手伝い続けて苦節ウン年、檀家さんの履物を揃えまくって長いですから。
「……靴に買い物……」
教頭先生、自分が置かれた状況がサッパリ分からない様子。そんな教頭先生に、ソルジャーはとびきりの笑みを浮かべて。
「君のファンクラブを設立したんだ、ぼくが会長で他の面子は全員、会員!」
「ファンクラブ?」
「そう! 君を応援するためのクラブで、何から何まで君のお世話をするんだよ! 会員は君に尽くしてなんぼで、今日からスタート!」
だから君はゆっくり寛いでてよ、とソルジャー、ニコニコ。
「君はコーヒー党だよね。ぼくたちが美味しいコーヒーを淹れる。君を囲んでお茶会と洒落込みたいところだけれども、買い出し部隊で一部が出動中だから…。こういう時にはフライング禁止」
お茶会は後で改めて…、とソルジャーは勝手知ったる他人の家な教頭先生の家に上がり込み、教頭先生をリビングのソファに座らせて。
「さて、コーヒー。…この中で一番美味しく淹れられそうなのは誰だろう?」
「「「え、えーっと…」」」
コーヒーを上手に淹れられそうなキース君とマツカ君は外出中。残った面子は紅茶党ですけど、どうなるんでしょう?
教頭先生のためにコーヒーを。しかし紅茶党の団体様では無理があるかも、と思っていればソルジャーの鶴の一声が。
「とりあえずサムを指名かな。でも…。ブルーも上手に淹れられそうだよね」
「なんでぼくが!」
会長さんの叫びに、ソルジャーは「あーあ…」と深い溜息。
「先はまだまだ長そうだ、ってね。此処でサムを押しのけて名乗りを上げるトコまで行かないとねえ…」
「ぼくにそういう趣味はないから!」
「はいはい、ツンデレ」
今の所はツンのみだけど、と非常に懐かしい死語が登場。ソルジャーは会長さんを指差しながら、ソファの教頭先生に。
「これでもファンクラブに入ってる以上、君のファンには違いないわけ。…ところがツンデレっていうタイプでねえ、デレるまではツンのみで突っ走るかと」
「…ツンデレですか…」
「うん。ぼくがファンクラブを立ち上げたのはさ、ツンデレなブルーのツンの部分を突き崩すためで…。いずれデレるからお楽しみにね」
「は、はあ…。ブルーがツンデレだったとは…」
全く気付きませんでした、と教頭先生、感動の面持ち。それはそうでしょう、脈無しとばかり思っておられた会長さんが実はツンデレ、デレさえすれば実は自分のファンだったなんて…。
ソルジャーが得々として会長さんツンデレ論を展開している間にサム君がコーヒーを淹れて来て「どうぞ」と差し出し、教頭先生、一口飲んで。
「ほほう…。これは美味いな」
「あっ、そうですか? 良かった、俺、たまに練習してるんですよ。将来に向けて」
「将来?」
「坊主になった時のためです、修行中には先輩のためにお茶を淹れるのも仕事ですから」
コーヒーも緑茶も上手に淹れないと叱られるんです、とサム君、キリッとした表情。玄関先での靴の件といい、着々と将来に向けて経験を積んでいるようですけど、ジョミー君の方は未だ坊主に拒絶反応。将来、苦労しなけりゃいいんですけどねえ、ジョミー君…。
教頭先生がコーヒーを飲み終えた後は、買い出し部隊が戻って来るまで暫し歓談。あくまでフライング禁止ですからお茶もお菓子もソルジャーが断り、話題はひたすらファンクラブ。教頭先生はファンクラブが会長さんの「デレ」を引き出すためのものだと知って感激、大喜びで。
「素晴らしいクラブを作って下さってありがとうございます」
「どういたしまして。ぼくも常々、歯がゆく思っていたからねえ…。君にはブルーがお似合いなのにさ、このとおり究極のツンデレだからね」
「ぼくは違うと!」
「うんうん、その発言もツンデレゆえだよ」
こんな具合で揉めている内に買い出し部隊が帰還しました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンで頑張り、出汁が出来たら寄せ鍋開始。教頭先生を囲んでのお食事会は大いに盛り上がり、ソルジャーはせっせと教頭先生の食事の世話を。
「ハーレイ、次はどの具を入れる? あ、ぶるぅ、こっちは煮えてるのかな?」
「うんっ! 煮えすぎない間に取ってあげてね」
「了解。はい、どうぞ」
ホントは「あ~ん♪」と行きたいんだけどね、と言いつつソルジャー、お箸で摘んだ具を教頭先生の取り皿に。そして私たちの方を見ながら。
「とりあえず、こういう席でのお世話の権利は会長のぼくが独占ってね。ぼくを追い落として会長になれる権利はブルー以外には無いんだけどねえ、ちゃんと例外もあるってね」
「「「例外?」」」
「ほら、これはハーレイのファンクラブだから。ハーレイ自身が他の人を会長にしたくなったら、指名して交代させられるわけ。…ツンなブルーは指名するだけ無駄っぽいけどさ」
ブルー以外は頑張りたまえ、とソルジャーの檄が。
「ぼくよりも上手くお世話が出来ます、実はこんなに気が利くんです、とハーレイにアピールすべきだね。そうやって頑張る君たちの姿を見ている間にツンなブルーも」
「デレないってば!」
「いやいや、其処がツンデレのツンデレたる所以で、真骨頂だよ」
それでこそツンデレ! とソルジャーは自説を曲げようともせず、私たちの使命は会長さんのツンを崩してデレな部分を引っ張り出すこと。ソルジャーが立ち上げた教頭先生の私設ファンクラブは本日発足、明日から本格的な活動に入るということで。
「じゃあ、ハーレイの私設ファンクラブの前途を祝して!」
ソルジャーの音頭で「かんぱーい!」の声の大合唱。会長さんだけが「献杯!」と法事モードで叫んでましたが、それもソルジャーに言わせれば「ツン」ゆえ。デレへの道は長いそうです、そもそもデレないと思いますけどね…?
活動を始めた教頭先生の私設ファンクラブ。本格的な活動に入る、とソルジャーが宣言した発足の翌日は冬休みが終わって三学期に入る日と重なりました。お蔭で朝から調子が狂った私たち。いえ、正確には早朝からです。
『ダメダメ、そんな食材なんて!』
朝も早くから全員の家に飛び込んで来たソルジャーの思念。三学期の初日と言えば御雑煮の大食い大会、優勝すれば先生を二人指名して闇鍋イベントとあって、生徒は誰でも闇鍋用の食材持参で登校なのに…。
『納豆なんかは論外だから! 持つなら味噌とか醤油とか!』
ファンクラブ会員が闇鍋を不味い方向に持って行ってどうする、という厳しい突っ込み。教頭先生は毎年、私たち1年A組の優勝と同時に指名されて闇鍋を食べさせられる立場ですしね…。
『教頭先生を闇鍋から外せばいいじゃない!』
勇気ある思念は寝起きでキレたジョミー君のようですけれども、ソルジャーは。
『指名してるの、ブルーだろ? ツンデレ、ツンデレ』
ツンの間はハーレイは闇鍋から決して逃げられないのだ、という反論不可能な仰せ。私たちは無難な食材を持たざるを得なくなり、相談の上で全員が餅を。ツンデレの名を冠せられた会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と一緒に変なのを用意してると思うんですけど…。
『ツンデレなんだから仕方がないよ。それより、入り待ちしなくちゃ駄目だよ!』
餅を持ったら急いで出る! と急き立てられて学校へ。教頭先生よりも先に学校に着いて、校門前での入り待ちが必須。登校してみればソルジャーが会長さんの制服姿で校門前にちゃっかりと。
「やあ、おはよう。…どうせツンデレは入り待ちなんかはしないしね?」
「あんた、その格好でバレないのか?」
キース君が尋ねれば、「何を今更」と嘯くソルジャー。
「門衛さんはぼくがブルーだと思っているけど? 他の先生たちだって分かりやしないさ」
平気、平気、と自信たっぷり。間もなくゼル先生が大型バイクでやって来ましたが、「なんじゃ、今日は揃って早いのう」と声を掛けて通って行っただけ。
「ほらね、全然バレないし! あ、来た、来た!」
ハーレイだ、というソルジャーの合図で二列に分かれてザッと整列。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も来ていませんから面子はたったの八人だけで、四人と四人の列ですけれど。
「「「おはようございまーす!」」」
一斉にお辞儀した私たちの間を、教頭先生が車で通ってゆかれました。窓を開けて「おはよう」と挨拶をして下さいましたが、これが入り待ちというヤツですか…。
始業式が済んだら御雑煮大食い大会開催。ソルジャーは姿を消してしまって、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の登場です。二人の活躍で1年A組は見事に優勝、今年も闇鍋への道が開いて。
「教頭先生を指名します!」
会長さんの声が会場に響き、もう一人はゼル先生が選ばれました。これにクラス担任のグレイブ先生が連帯責任で強制参加となり、合計三名。グラウンドに据えられた大鍋は…。
「…俺たちが餅にしておいても、だ。クラスの他のヤツらがな…」
多勢に無勢だ、とキース君が言う通り、他のクラスメイトが鍋に投入したラインナップは凄まじきカオス。其処へ会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がブチ込んだものが業務用のコチュジャンまるごと一瓶と同じく業務用ナンプラー。これで美味しくなる筈もなくて。
『仕方ないよね、ツンデレ、ツンデレ』
どうやら「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に居るらしいソルジャーからの思念。教頭先生にも届いたらしくて、激マズ闇鍋を笑顔で食べていらっしゃいます。会長さんは悪戯に燃えているだけでツンではないと思うのですけど、まあ、いいか…。
「いいんだよ、所詮ハーレイだから」
あの馬鹿さ加減がハーレイなのだ、と腕組みをして笑って見ている会長さん。教頭先生にはその笑みすらもが自分に向けられたデレの欠片に見えるらしくて、笑顔全開。
「…俺の良心が痛むんだが…」
キース君が胸を押さえれば、会長さんは。
「別にいいだろ、ハーレイは喜んでいるわけだしね。自分のファンクラブが出来た上にさ、それの目的がアレだしねえ…」
「あんた、楽しんでいるだろう!」
「ファンクラブという発想自体は迷惑だけどさ、同じ阿呆なら踊らにゃ損々、と思うわけだよ」
こうなったらトコトン踊ってやる、と開き直りの会長さん。ツンを極めて突っ走るそうで、極めるためには努力も何も要らないそうで。
「ぼくが普通に振る舞ってればね、それだけでハーレイが勝手にツンだと解釈するから!」
『無理しなくっても元からツンデレだしね?』
聞こえて来たソルジャーの思念をサラッと無視して、会長さんは闇鍋のノルマを完食なさった教頭先生にツンとそっぽを。これぞツンデレ、ただしツンのみ。勘違いしておられる教頭先生、デレを夢見てデレデレですけど…。
放課後は新学期恒例、紅白縞のお届けイベント。会長さんから心をこめての紅白縞のトランクスを五枚、教頭先生に届けるためにと教頭室まで行列を組んで行くわけですが…。
「ぼくは今回、行かないからね!」
ファンクラブの会長が行けばいいだろ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で唇を尖らせている会長さん。
「わざわざファンクラブを作ったからには、こういう美味しいイベントの類は会長が独占するものだろう!」
「うーん…。それはそうだけど、このイベントはさ…。君とハーレイとの心の絆で」
「そういうのを結んだ覚えは無いから!」
君に譲る、と会長さんはソルジャーに顎をしゃくりました。
「このイベントには悪辣な悪戯がセットになることも多いしね? 今回は究極の悪戯ってことで、ぼくは面子から外させて貰う。ぼくからトランクスを貰えないわけだよ、ハーレイは!」
「分かったってば、要はツンデレ」
「ツンデレじゃないっ!」
その要素だけは絶対に無い、と喚く会長さんにツンデレ要素が皆無なことは私たちには嫌というほど分かっていました。けれど分かっていない人が一人。言わずと知れたファンクラブ会長、会長さんにも教頭先生への愛はあるのだと思い違いをしているソルジャー。
「君もいい加減、頑固だねえ…。まあ、それでこそのツンデレだけどね」
デレた時の値打ちがググンと上がるし、とソルジャーは会長さんの代理でトランクスを届ける役目を快諾。私たちを引き連れ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」にトランクス入りの箱を持たせて教頭室がある本館へと。会長さんがやっているように教頭室の重厚な扉をノックし…。
「失礼します」
ガチャリと扉を開けたソルジャーに続いて私たちがゾロゾロと。教頭先生は「あなたでしたか」と慌てて立とうとなさいましたが。
「いいって、いいって! ぼくはファンクラブの会長だしね。君に尽くしてなんぼなんだし、座っていてよ。はい、いつもの紅白縞を五枚、お届け。生憎とブルーが嫌がってねえ…」
ツンデレだしね? と小首を傾げてみせるソルジャー。
「ファンクラブに入ってしまったからねえ、何かと恥ずかしいらしい。なにしろトランクスだろう? 君の大事な息子とかをさ、カバーするのがコレだしねえ…」
「なるほど、そういうことでしたか…」
そう聞けば嬉しい気もします、と顔をほころばせる教頭先生、またも壮大な勘違い。会長さんはツンデレのツンだと、デレはまだ先でツンのみなのだ、とトランクスの箱を抱えて感無量。デレどころかツンさえ無いんですけど、ツンさえ何処にも無いんですけど~!
勘違いの極みな教頭先生と、思い違いなソルジャーと。ある意味、最強、あるいは最凶なタッグが組まれたファンクラブはガンガン活動し続け、マメに通ってくるソルジャーの指示の下、どんどんエスカレートしてゆきました。
「「「教頭先生、お疲れさまでーす!」」」
廊下に整列、揃ってお辞儀。教頭先生が授業に行かれる教室の前での入り待ち、出待ちは今や基本で、特別生だからこそ可能な究極の活動。特別生には出席義務がありませんから、授業への遅刻も途中で抜けるのも自由自在というわけで。
「すまんな、いつも出迎えて貰って」
「「「光栄でーす!」」」
次の授業も頑張って下さい、と最敬礼する私たち。ソルジャーと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が一緒に出待ちや入り待ちをすることもあって、そうした時にはソルジャーは会長さんのふり。先生方にも生徒たちにもバレてませんけど、教頭先生だけは御存知ですから、そういう日には。
「ふむ…。まだツンなのか」
「「「はいっ!」」」
「…デレてくれる日が楽しみだな、うん」
こんな会話があるのですけど、廊下や教室の他の生徒にはツンが何だかデレが何だか意味不明。いつの間にやら、妙な噂が学校中に広がってゆきつつあって…。
「なんだと、俺たちが組を結成していると!?」
キース君の声が引っくり返って、シロエ君が。
「そうらしいです、教頭先生が組長だとかで…。会長が若頭だっていう噂ですよ」
「「「く、組長…」」」
組長、おまけに若頭。それはヤのつく自由業とか言わないか、と青ざめましたが、時すでに遅し。世間はスウェナちゃんと私、どちらが「姐さん」なのかで悩んでいるとか、姐さんは実はフィシスさんだとか、噂の裾野が広がりまくっているらしく…。
「…どうしてヤクザになっているんだ…」
俺たちは暴力団ではない筈なんだ、とキース君が頭を抱えれば、ソルジャーが。
「じゃあ、ファンクラブですって白状するかい? そうすりゃ、一発で解決するよ?」
「出来るか、馬鹿!!」
そっちの方がよほど酷いぞ、というキース君の叫びもやんぬるかな。
今や教頭先生の家で炊事洗濯、家の中はおろか表の通りの掃き掃除。車の運転手までは出来ませんけど、代わりとばかりに校内で、家のガレージで愛車をピカピカに磨き上げる日々。これがヤクザの活動でなくてファンクラブだと知れたら、「痛いヤツ」でしかありません。
「…ぼくたち、何処の組になるわけ?」
ジョミー君が呆然と呟き、サム君が。
「1年A組じゃねえってことだけは確かだよな…」
「やはりそうか…」
ナントカ組系ナントカ組とかいう組だな、とキース君が天井を仰ぎながら。
「このままで行くと、いずれはアレか? 何処の組の兄さんで、とか訊かれて仁義を切らんといけない日とかが来るわけか?」
「「「さ、さあ…」」」
どうなるのだろう、と泣きの涙の私たちを他所に、組長ならぬファンクラブ会長のソルジャーは今日の放課後も張り切っていました。
「こらこら、此処でサボらない! 急いで帰るよ、ハーレイの家の表にゴミが落ちているから!」
掃除して食事の用意を済ませたら戻って出待ち、と飛ばされる指示。
「「「はいっ!」」」
「うん、いい返事! 頑張ろうねえ、ブルーがデレる日を目指してね!」
「それだけは無いから! ぼくはツンデレなんかじゃないから!」
若頭、いえ、会長さんの怒鳴り声も名物の一つと化して久しく、もはや私たちに残された道は。
「…仕方ない、ヤクザを極めるとするか」
「デレよりも先にそっちの方向で確定だよ、きっと…」
キース君とジョミー君の嘆き節はソルジャーの「じゃあ、出発!」の声と青いサイオンとにかき消されました。1年A組の特別生七人組改め、誰が呼んだか何処ぞのヤクザの組員の集い。元はファンクラブだったと思うんですけど、今でもファンクラブなんですけど~!
「目指せ、ツンデレのブルーがデレる日! 今日も張り切ってファンクラブ活動!」
「「「はいっ!」」」
ファンクラブ会長の指図で掃除に、炊事にと懸命に走る私たち。これが終わったら学校に戻って出待ちで、それが済んだら家の前まで戻って入り待ち。ヤクザの世界とどっちがキツイか、それ以前にこれっていつまで続くか、誰か教えて下さいです~!
クラブで応援・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
作中の歌劇団のモデルは、いわゆるヅカというヤツです。ベルばらとかで有名な。
そしてファンクラブの活動も実話、ご贔屓さんは半端ないです。知り合いにも何人か…。
アニテラも9月22日で放映終了から10周年になります。早いものですね。
シャングリラ学園、来月も月イチ更新です。windows10 は今も絶望的に駄目です。
次回は 「第3月曜」 10月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、9月は、お彼岸。スッポンタケの法要を誰がやるかが問題で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(なんだか変…?)
金曜日の夜。ブルーが喉に覚えた違和感。
お風呂に入って、パジャマに着替えて部屋で寛いでいた時間に、ふと。
喉の奥が少し痒い気がする。それにザラリとした感覚も。
風邪の引き始めに少し似ていて、こうした時には喉が痛くなるのではなかったか。
(ハーレイの金柑…)
特効薬だ、と前に貰った。風邪に効くのだと金柑の甘煮が詰まった瓶を。
ハーレイの母が作った甘煮。隣町にあるハーレイの両親の家で実った金柑の実で。
風邪の予防にもなると聞いたし、喉にもいいと聞かされたから。
食べてみようか、と思ったけれど。
キッチンの棚に仕舞ってあるのを食べに行こうかと考えたけれど。
(このくらいなら…)
ほんの僅かな、喉に意識を集中しなければ分からない程度の痒みとザラつき。
気が付かなければ何もしないでベッドに入っていそうなほどの。
ごくごく軽くて、見逃していても不思議ではない、錯覚で済ませられそうに感じる喉の訴え。
普通のキャンディーを舐めればいいや、と自分で決めた。
あの金柑はもったいないと、ここぞという時にこそ食べるべきだと。
階段を下りてリビングを覗くと、まだ両親が其処に居たから。
どうしたのかと尋ねられたから、「ちょっとキャンディーが食べたくなった」と誤魔化した。
歯は磨くからと、キャンディーを一つ貰っていくねと、ダイニングにあった缶から一つ。様々な色と味のキャンディー、そこから適当に一つ取り出して口へと入れた。
それが失敗だとは思いもせずに。
柑橘系の味がするなと、金柑の甘煮とは違った味だと、舐めたら収まってくれた喉。
唾液が痒みを抑えただけだと、ザラつきも潤いで消えただけだと、ブルーに分かるわけがない。
(もう大丈夫!)
金柑を奮発しないで良かった、とベッドに入って眠りに就いた。
歯も磨いたから口はスッキリ、明日はハーレイが来てくれる日だと心弾ませ、上掛けを被って。
ところが翌朝、目を覚ましたら。
(喉…?)
消えてくれた筈の違和感どころか、もう明らかに風邪の症状。喉の奥が腫れている感じ。
けれども、声は出せたから。普段と変わらない声が出たから、さほど酷くはないのだろう。熱を測っても平熱だったし、クシャミや鼻水も全く無いし…。
(ただの喉風邪…)
これならバレない。自分が我慢をしていさえすれば、両親も風邪と気付きはしない。
(平気だよね?)
絶対に見破られない筈、と顔を洗って服も着替えた。ウガイは念入りにしておいたけれど。喉が少しでも良くなるようにと、ガラガラと水とウガイ薬ですすいだけれど。
(これで良し、っと…!)
準備万端、食事をしようとダイニングに颯爽と入って行った。
喉風邪なんかを引いてはいないと、元気そのものだと自分に言い聞かせるように。
トーストの焼ける匂いや、オムレツやソーセージの匂い。扉を開けたら包まれてしまう、暖かな朝の食卓の匂い。それを一杯に吸い込みながら「おはよう」と明るく挨拶したら。
父と母の手がピタリと止まって、二人ともが。
「どうしたの、ブルー?」
「声、変じゃないか?」
掠れている、と指摘された。いつもの声とはまるで違うと。
「そんなことないよ、普通だよ!」
起きたばかりだから変なだけ、と主張したけれど、その声が既に変だったから。
妙にあちこち引っ掛かるような、そういう発声だったから。
「見せてみなさい」と母に手招きされた。此処へ来て口を開けなさい、と。
仕方なく開けさせられた口。大きく開けと命じた母が覗き込み、父も椅子から立って来て。
「喉が真っ赤よ、痛いんでしょう?」
「こいつは酷いな、声が変な筈だ」
どう見ても風邪だ、嘘をついても無駄だぞ、ブルー。この喉な上に、その声ではな。
朝食が済んだら車を出そう、と言い出した父。
病院へ行かねばと、早く手当てをして貰わねばと。
「そんな…!」
ブルーは泣きそうな表情になった。
病院だなんて、とんでもない。今日はハーレイが来てくれる日なのに。
そんな所へ出掛けてゆくより、ハーレイと二人で過ごしたいのに。
声に出しては言わなかったけれど、母には気持ちが通じたらしくて。
「大丈夫よ。ハーレイ先生には連絡しておいてあげるから」
「でも…!」
それではハーレイは来てはくれない。朝から病院に行くと知ったら、ハーレイは…。
でも、言えない。それが嫌だと言えはしない、と唇を引き結んで項垂れていたら。
「病院から帰ってくる頃に来て下さい、と連絡をすればいいんでしょ?」
熱は無いようだし、喉だけだものね。
ハーレイ先生に会いたいんでしょう、今日は来て下さる日だったから。
「うん…!」
ありがとう、ママ!
そうしてくれるなら病院に行くよ、パパの車で。
早めに行ったら、早く診察、終わるんだよね?
「ブルーったら…」
もう喋らないで、朝御飯をちゃんと食べなさい。喋ると喉が酷くなるわよ、今よりもね。
それと栄養、しっかりと食べて身体に元気をあげないとね?
ブルーは本当にハーレイ先生のことが大好きなのね、と呆れられたけれど。
喉が痛くても病院に行かずに我慢しようとするなんて、と父も母も困り顔だけど。
(だって、本当に好きなんだもの…)
ハーレイのことが。
会えるチャンスを逃すことなど出来はしないし、したくもない。
喉の具合が最悪だろうが、声がとてつもなく変であろうが。
学校の日ならば諦めて休みもするだろうけれど、今日は貴重な週末の土曜日なのだから。
(ぼくが好きなの、キャプテン・ハーレイじゃなくてハーレイなんだけどね…)
勘違いをしているであろう両親。
前の生での右腕であったキャプテン・ハーレイとの友情なのだと、二人は親友だったのだろうと信じているであろう両親。だからブルーが会いたがるのだと、親友と過ごしたいのだと。
(友達じゃなくて恋人なんだけどね?)
元は友達だったけれど、と緩みそうになる頬を引き締めた。
親友から恋人へと変わったハーレイ、今の生でもキスさえ出来ない仲でも恋人。
そのハーレイに会いたかったら、まずは朝食、それから病院。
両親の言い付けをきちんと聞かねば、ハーレイに会えはしないのだから。
父が運転する車で母に付き添われて、病院に行って。
顔馴染みと言っていいほどの医師の診察を受けて、「風邪ですな」と喉に薬を塗られた。独特の味がする薬。効きそうだけれど、けして美味とは言えない薬を。
「今日は一日、安静に。ベッドで身体を休めて下さい」
そこまでは全く問題無かった。
ブルーが予想していた通りで、ホッと一息ついたのだけれど。
「喉のためには喋らない方がいいでしょう」
「えっ…!」
「声ですよ。思念波まで禁止とは言っていませんよ、大丈夫」
慌てなくても、と年配の医師は笑ったけれども、ブルーには笑い事ではなかった。
医師とは長い付き合いだけれど、物心ついた頃から何度もお世話になっているけれど。
診察の折にサイオンを使う機会は無いに等しいから、医師は全く知らないのだ。目の前の患者は思念波を上手く操れないことを。声の代わりに思念波で会話を交わすことなど、不可能なことを。
(喋れないなんて…!)
愕然としているブルーを他所に、医師は「お大事に」とにこやかな笑みを浮かべてくれた。
帰りの挨拶は要りませんよと、それよりも黙っていることですね、と。
思いもよらない診断が下った、病院からの帰り道。
父の車の中、隣に座った母の袖をクイと引っ張った。此処までは黙っていたけれど…。
「ママ、ぼくの喉…」
「シーッ!」
喋っちゃ駄目でしょ、と叱られた。話したいのなら思念波で、と。
「ぼく、思念波は…!」
ひりつく喉で声を上げたら、運転席の父までが。
「ブルー、先生の仰ったことは聞きなさい」
ママから聞いたぞ、今日は一日、思念波だ。
お前の思念波は使えるレベルになっちゃいないが、パパとママには通じるだろう?
休みの日だからそれでいいんだ、きちんと黙って早く治しなさい。
両親揃って諭されてしまえば、もう肉声は使えない。
父と母には拙い思念波が通じるけれども、なんとか会話が出来るけれども。
(ハーレイが来てくれるのに…!)
昨日から待ち焦がれていたハーレイ。今日は二人きりで話が出来ると心躍らせて待ったのに。
声が出せなくては何も話せず、おまけに自分はベッドで安静。
どうしたらいいと言うのだろう?
ハーレイは沈黙に飽きてしまって、さっさと帰ってゆくかもしれない。
「ブルー君を疲れさせてはいけませんから」と口では言いつつ、ジムか道場に行こうと回れ右をしてしまうかも…。
それだけは困る。それは避けたい。
せっかく来てくれたハーレイが帰ってしまったのでは、悲しいどころの騒ぎではない。
(そうだ、嘘…)
喋れないことを言わなければいいのだ、ハーレイに。
喉を傷めて声が変だと、喉風邪なのだと、その事実だけを告げて他は秘密に。
医師に「喋らないように」と注意されたことは黙っておこう、と決意したのに。
ハーレイが来てもそれは言うまいと、知らぬふりをしようと決めたのに。
運の悪いことに、父の車が家に着いたら、先にハーレイが待っていた。門扉の側に立ち、笑顔で車に手を振ってくれた。「待っていたぞ」と、「大丈夫か?」と声を掛けるように。
「ハーレイ先生、お待たせしましてすみません…!」
母が急いで車から降りて詫びる間に、父も車をガレージに入れてやって来た。母と一緒に車から降りたブルーの所へ。
両親の前では黙っていよう、と沈黙を守るブルーを尻目に、父と母はハーレイに医師の診立てと例の言葉を話してしまった。
ブルーは今日は喋れないから、思念波で喋るようにさせて下さい、と。
「分かりました。ブルー君と話すなら思念波ですね」
(嘘…!)
ハーレイは百も承知の筈なのに。
ブルーの思念波が喋れるレベルではないことを。
それなのにハーレイに知られてしまった、肉声を禁止されていることを。
ハーレイは帰ってしまうのだろうか、退屈だからと欠伸をして。
ブルーの蔵書では時間潰しにもなりはしないと、今日はジムにでも行くとするか、と。
話したくても、話せない。喉から言葉を紡ぎ出せない。
母に部屋へと連行された。早くパジャマに着替えるようにと、そしてベッドに入るようにと。
その間、ハーレイは階下で父と談笑していたらしくて、ブルーの部屋までやって来た時には手にカップ。普段はブルーの部屋で飲まない、コーヒーのカップ。
ハーレイがそれをテーブルに置いて間もなく、母がお菓子を運んで来た。本当だったらブルーも一緒に食べる筈だったケーキのお皿を一人分だけ。
「ごゆっくりどうぞ」と微笑む代わりに「すみません」と頭を下げながら。
我儘な一人息子だけれども、どうぞよろしくお願いします、と。
母の足音が階段を下りて消えていった後、ブルーはそうっと口を開いた。
声が掠れないよう注意しながら、喉の辺りを意識しながら。
「ねえ、ハーレイ…」
「思念波で喋れと言われた筈だが?」
いつもの椅子に腰掛けたハーレイにピシャリと叱り付けられた。
椅子はベッドの脇に運ばれ、ハーレイは直ぐ側に居るのだけれど。手を伸ばしたら触れる所に、ハーレイの膝があるのだけれど。
喋れないのでは、これだけ近くても見詰めることしか出来ないから。
許されないから、叱られてもいいと声を絞り出した。
「でも…!」
「でもも何もない。今日は喋るなと言われたんだろ、ちゃんと聞いたぞ」
明日には喋りたいんだろうが。
日曜だしなあ、俺は明日だって来るつもりだしな?
それにだ、お前、痛いんだろ、喉。その声を聞けば痛いと分かるさ、普通の声ではないからな。
喉から熱が出ることもあるぞ、と脅された。それも高い熱が。
だから黙れ、と。
高熱が出たら大変だからと、声が出ないだけでは済まないからと。
「馬鹿者めが…。おふくろの金柑、食わなかったな?」
早めに食えと言っておいたのに。いくらでもやると、お前専用だと言っといたのに…。
どうなんだ、と問い詰められれば頷くしかない。
食べなかったことは本当だから。
宝物の金柑を食べるよりは、とキャンディーを舐めてしまったから。
上掛けの下で首を竦めて縮こまっていると、ハーレイがついた大きな溜息。
「まったく…。あれほど言っておいたのに…」
馬鹿が、と屈み込んだハーレイの荷物の中から何か出て来た。小さめのジャムの瓶を思わせる、ガラス瓶。それに詰まった深い金色。
夏ミカンの実のマーマレードよりも、金柑の甘煮よりも深みを帯びた金の色合い。
それなあに、と尋ねかけて慌てて口を噤んだ。
知りたいけれども、声を出してはいけないから。喉を治さないといけないから。
「それで良し。いいか、喋っちゃ駄目だってな」
こいつは金柑が透明になるまで煮詰めたものさ。もう柔らかめの飴ってトコだな、飴とは違った舌触りだがな。これもおふくろが作っているんだ、甘煮を作るついでにな。
こんな具合だ、と爪楊枝に刺した金柑を一つ見せられた。
種を抜くためにこうするのだ、と周りに幾つもの切り込みを入れられ、平たく押し潰された丸い実。金柑と言われれば金柑だけれど、花の形のようにも見える実。
元の姿が分からないほど透明になってしまった金柑。まるで飴細工のような金柑。
よく効くぞ、と口に落とし込まれた。
甘煮よりも喉に優しい味だと、痛む喉にはこれが効くと。
ハーレイが含ませてくれた金柑。甘煮よりも手間がかかった金柑。
それは甘くて、柔らかいけれども噛めばほろ苦い金柑の味。ハーレイの母が作った甘煮と同じ。
もっと味わいが深いけれども。
手間と時間をかけてある分だけ、その味は深くて、温かみさえも覚えそうなのだけれど。
(…ハーレイのお母さんの味…)
まだ会ったことがない、ハーレイの母。
いつかハーレイが伴侶に迎えるブルーのためにと、夏ミカンで作ったマーマレードをくれる母。金柑の甘煮も贈ってくれた。風邪の予防にと、引いた時にもこれが効くと。
そのハーレイの母が金柑を煮詰めて作り上げたらしい、甘煮よりも手間がかかるもの。
感想を伝えたいのだけれども、御礼も言いたいと思うけれども。
(喋れない…)
それに思念波も紡げやしない、と金柑を口の中で転がしながら涙が零れそうになる。
どうしてこんな時に限って特別なことが起こるのか、と。
この気持ちは今、伝えたいのに。
喋れるようになってからでは、きっと値打ちも無いのだろうに…。
泣いてしまってはハーレイに悪い、と目を閉じた。
嬉しさゆえの涙なのだと伝わらなかったら、申し訳ないでは済まないから。
この金柑の実が不味かったのかと勘違いをさせてしまったのでは、ハーレイの心遣いを無にするばかりか、ハーレイの母にも詫びようがなくて、どうすればいいのか分からないから。
そう思ったから、目から涙が溢れないよう、瞼を閉ざしてしまったのに。
(えっ?)
上掛けの下で手を握られた。
いつの間に滑り込ませていたのか、大きくて逞しい手で、右の手をキュッと。
温もりを移してくれる時のように、あの温かな褐色の手で。
そうして声が降って来た。
パチリと目を開けたブルーを見下ろし、鳶色の瞳が柔らかな光を湛えていた。
「そのまま頭で考えてみろ」
声にはしないで、頭の中でな。
(えーっと…?)
いったいどういう意味なのだろうか、とブルーは瞳を瞬かせたけれど。
「それでいい。お前の心は伝わってるさ」
「ホント?」
「こら、声に出すな!」
ちゃんと聞こえているからな、と微笑むハーレイ。
この手を通して伝わっていると、お前が言葉にしたいことは、と。
(凄い、ハーレイ…)
ママとパパしか出来ないのに…!
ぼくは思念波が上手く使えないから、喋れない時はママとパパがこうしてくれるのに…!
「俺を誰だと思ってるんだ?」
今のお前との付き合いは短いかもしれん。お父さんとお母さんよりずっと短い。
だがな、その前はどうだったんだ?
何年、お前と一緒に暮らした?
同じ家に住んではいなかったが、だ。前のお前と前の俺とは…。
(そうだったね…)
ずうっとハーレイと一緒だったね、ハーレイと二人で暮らしていたね。
あのシャングリラで、どんな時でも。
ぼくがメギドに飛んでしまうまで、ずうっと恋人同士だったね…。
そのハーレイに自分の心が伝わらない筈がないのだった、と褐色の手を握り返せば。
ハーレイの声が問うて来た。
「それで金柑、どうだった?」
俺のおふくろが煮詰めた金柑、美味かったか?
(美味しかった!)
ありがとう、と想いを送るまでもなく、「いや」と返って来た答え。
思念波ではなくて、ちゃんと言葉で。唇と舌を使った言葉で。
「このくらいのことは何でもないさ。早く治してやりたいしな」
金柑の甘煮を贈ってやっても、食わずに風邪を引くようなお前だからなあ…。
こいつはお前にプレゼントせずに、毎回、持参すべきだな。
そうそう喉風邪を引かれたのではたまらないがだ、引いちまったら持ってくるとするか。
この金柑を食って早く治せと、俺のおふくろの手作りだしな、と。
(うん…。その方がいいと、ぼくも思うよ)
瓶ごと欲しいと思っちゃうけど、貰ってもきっと食べ損なうから。
金柑の甘煮と同じで大事にし過ぎて、風邪を引いちゃっても食べずにいそう…。
「そうだろうなあ、お前だけにな」
これで何度目だ、金柑の甘煮を食わないで風邪を引いたのは?
そういうのを世間じゃこう言うんだなあ、「宝の持ち腐れ」という風にな。
お前の場合は「猫に小判」かもしれないな?
使い道ってヤツが分かってないなら、猫に小判の方だよなあ…?
酷すぎる例えを出されたけれども、膨れっ面になったブルーだけども。
ハーレイは喉をクックッと鳴らして、それは可笑しそうに。
「うんうん、言葉で喋れない分だけ、文句がワンワン響いてくるな」
酷いだの、馬鹿だの、意地悪だのと。
全部一度にぶつけられる分、言葉よりいいかもしれないぞ?
口は一つしか無いんだからなあ、馬鹿と意地悪とを同時に言ったり出来んだろうが。
今のお前は俺への悪口大合唱だぞ、チビのお前が何十人もで悪口をコーラスしてるってな。
そりゃあ賑やかで景気がいいさ、とハーレイがブルーの額をつつく。
空いた方の手で、右手を握った手はそのままにして。
「それだけ元気があるようだったら、どうやら喉だけの風邪みたいだな」
とはいえ、喉風邪を甘く見たらだ、駄目だとさっきも言ったよな?
高い熱が出ると、喉は大事にしなくちゃいかんと。
俺は喋るが、お前は喋るな。
何も心配しなくったってだ、ちゃんと聞こえているからな。
俺への悪口の大合唱だって、おふくろの金柑を美味いと喜んでくれたことだって。
(うん…)
ハーレイが言葉にしてくれてるから、伝わってること、ぼくにも分かるよ。
思念波でだって返せるだろうに、わざわざ言葉にしてくれるんだね。
ありがとう、言葉を使ってくれて。
ハーレイの声が耳に届くと、それだけで幸せな気持ちになるよ。
ぼくはハーレイと話してるんだって、喋れないけどハーレイと話をしてるんだ、って…。
それはブルーの心からの想いだったから。
ハーレイの声を聞くことが出来て、本当に嬉しかったから。
その心もまた大合唱となって、手から伝わったのだろう。
「こんな声でも役に立つのか?」とハーレイが笑い、ブルーの右手をキュッと握って。
「俺の声を聞いていたいと言うなら、退屈しのぎに何か話をしてやるさ」
何が聞きたい?
特別授業か、それとも俺の失敗談か。武勇伝だって、まだまだ沢山あるんだぞ?
お前、喋れない病人だからな、うんとサービスしてやろう。
リクエストがあったら遠慮なく言えよ、どういう話を聞きたいんだ?
(…ハーレイの昔話がいいよ)
前のハーレイの話じゃなくって、今のハーレイの昔話。
ぼくに会うまでに何をしてたか、どんな所でどんな人たちに会ったのか…。
そういう話が聞きたいな。ぼくの知らないハーレイのことを。
「よしきた、それじゃ最初はだな…」
親父の話といこうじゃないか。俺が初めて釣りに出掛けた時の話だ、親父とな。
あの釣り好きの親父ときたら、だ…。
色々な話を聞かせて貰って、ワクワクしながら声に出せない相槌を打って。
それをハーレイは端から拾って、上手に話をするものだから。
まるで言葉を交わしているかの如くに、次から次へと昔語りの翼を広げるものだから。
ブルーもその場に居たかのように心が躍った。ハーレイに手を引かれ、あちらこちらへ旅して、飛んで。様々な人に出会って、笑って、もう楽しくてたまらなかった。
そうこうする内に、なんだか眠くなって来た、と思ったら。
「疲れちまったか? お前、ずいぶん、はしゃいでたしな」
少し眠れ。せっかくベッドに入ってるんだし、眠れば風邪の治りも早いぞ。
(でも、ハーレイ…。帰っちゃわない?)
ぼくが寝ちゃったら退屈だろうし、家に帰るとか、ジムに泳ぎに行くだとか…。
「帰らんさ。今日は夜まで居てやるから」
土曜日はそういう約束だったろ、俺に用事が出来ない限りは夜まで此処に居るってな。
退屈だからと誰が帰るか、お前の寝顔を見てるだけでも俺は幸せなんだしな。
ゆっくり寝てろ、と額を撫でられた。
右の手は変わらず握られたままで、ハーレイの空いた方の手で。
いつしかブルーは眠ってしまって、夢も見ないで深く眠って。
ふわりと意識が浮上した時、目が覚めて瞼を開けた時。
(ハーレイ…?)
何処、と探すまでもなく返った返事。
此処にいるさ、と。
お前の側に、と握られた右手。
ブルーの手よりもずっと大きな手が、今も右手を握っていたから。
(ずっと握っていてくれたの?)
ぼくが寝ている間中、ずっと…?
「たまにサボッてたんだがな」
飯も食ったし、とハーレイが空いた手でテーブルの方を指差した。
いつの間にやら入れ替わっていた、テーブルの上に置かれたカップやケーキのお皿。ハーレイが自分で持って来ていたコーヒーのカップは別のカップに、ケーキのお皿も違ったものに。
(…御飯のお皿に見えないんだけど…)
それともハーレイ、御飯の代わりにお茶とケーキで我慢してたの?
「おいおい、お前のお母さんがそんな真似をするわけないだろうが」
昼飯の時間はとっくに済んださ、美味いのを食わせて貰ったぞ?
その後でお茶も飲んだってわけだ、あの通り、菓子までつけて貰ってな。
俺だけ先に食っちまったが、とハーレイの瞳がブルーを見詰める。
「目が覚めたんなら飯にするか?」
寝てたからなあ、腹はそんなに減ってないかもしれないが。
(御飯って…。ハーレイのスープ?)
いつものスープを作ってくれるの、野菜スープのシャングリラ風を?
「俺の手が離れていいんならな」
スープを作りに行くんだったら、お前の右手は離さないとな?
(やだ…!)
それなら野菜スープはいいよ。ママが作ってくれるだろうから、そっちでいいよ。
きっとその内に、ママが様子を見に来るだろうし…。
「冗談だ。野菜スープなら、とっくに用意は出来てるってな」
キッチンの鍋に入っているさ、とハーレイがパチンと片目を瞑った。
ブルーがぐっすり眠っている間に作っておいたと、温め直して持って来ると。
(流石、ハーレイ…!)
じゃあ、ちょっとだけ右手、離してもいいよ。
スープを取りに行ってる間は、大人しく一人で待っているから。
そうして、野菜スープが入った器を載せたトレイが届いて。
いつもならハーレイに一匙ずつ食べさせて貰うのだけれど、そうなると手が離れるから。
右手を握ってくれていた手が離れたままになってしまって、ハーレイに心が伝わらないから。
ブルーはベッドサイドに置かれたトレイに手を伸ばした。
スープに添えられたスプーンを右手で握ったら。
「おっ、今日は自分で食うんだな?」
いいことだ、とハーレイが言うから、黙って左手を差し出した。
さっきまで握って貰っていた右手の代わりに、左手。利き手ではない方の左手。
握っていて、と。
こちらの手は食べるのに使わないから、この手を握って話をして、と。
一言も喋りはしなかったけれど、ハーレイは「うむ」と大きく頷いてくれた。
今度は左手を握るのだなと、左手と喋ればいいのだな、と。
「スープを零さないように気を付けろよ」と声を掛けられて、握られた左手。
またハーレイと繋がった、と飛び跳ねた心はそのままハーレイの手へと流れて。
「やっと自分で食う気になったかと思ったら…。こうなるとはなあ」
甘えん坊だな、どう転んでも。
お前というヤツは、何処かで必ず俺に甘えてくるんだなあ…。
(甘えていいでしょ?)
病気の時くらいは甘えていいでしょ、病気じゃない時も、ちょっとくらいは?
「ああ。今度は守ると約束したしな」
今度こそお前を守ってやるんだ、と言ったからには甘えていいぞ。
前のお前は、甘えてばかりじゃいられなかった。
だがな、お前は違うんだ。いくら甘えても誰も困らん。もうソルジャーじゃないんだからな。
困るヤツがいるなら俺くらいだなあ、こうして片手が塞がりっ放しになっちまって。
もっとも、そいつも役得ってヤツだ。
お前の手だって俺に握られっ放しってわけで、俺から逃げられやしないんだしな。
しっかり食べて早く治せよ、と見守られながら、ブルーは野菜スープを味わって食べる。
繋がった手と手で話をしながら、野菜スープを作ってくれた手を握り返しながら。
とても美味しいと、この味が何よりも好きだったと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープだけれど。
前の自分はこれが好きだったと、病気の時にはこれだったと。
(ねえ、ハーレイ…。明日には喋れるようになるかな?)
ぼくの喉、明日には治るかな?
「夜まで大人しくしていればな。喋ったりせずに」
スープを食ったら、金柑も食えよ?
俺のおふくろが煮詰めた金柑、喉風邪には良く効くんだからな。
(うん…。うん、ハーレイ…)
ちゃんと食べるよ、その金柑も。
ハーレイのお母さんが作るんだものね、絶対に効くに決まっているもの…。
喋れないけれど、握り合った手と手で話が出来る。
思念波が上手く使えないブルーだけれども、こうして心を分かって貰える。
両親にしか出来ないと思っていた技を使ったハーレイ。
手を握るだけで想いが伝わるハーレイ。
前の生からの大切な恋人、この地球の上に生まれ変わって再び出会えた想い人。
明日には喉も治る気がする。
野菜スープと、ハーレイが「猫に小判だ」と笑った透明な甘い金柑があれば。
今も左手を握っていてくれる、ハーレイの温もりがありさえすれば…。
喉風邪・了
※喉風邪を引いてしまったブルー。喋ることは厳禁、ガッカリしたんですけれど…。
手を握って心を読んでくれたハーレイ。不器用で思念波が使えなくても、幸せな休日に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれ…?)
何かが違う、とブルーは首を傾げた。
お風呂に入ってパジャマに着替えて、部屋でのんびりしていたけれど。本を読んだりもしたのだけれども、そろそろベッドに入らねば、と始めた準備。
明日の朝は気温が少し低いと天気予報で聞いていたから、夜中に冷えてくるかもしれない。
まだ秋とはいえ、そういった夜も珍しくはない。眠っている間に気温が下がると、恐ろしい夢がやって来る。メギドの悪夢が。
前の生の最後に失くしてしまった、右の手に持っていたハーレイの温もり。
独りぼっちになってしまったと泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。前の生の自分。
右手が冷えるとそれを思い出すし、夢の中なら、夢はメギドに置き換わる。
ソルジャー・ブルーが死んでいった場所に。泣きながら死んだ悲しい記憶に。
秋に入ってから立て続けに見た、メギドの悪夢。
右手が冷えてしまうからだ、と手袋をはめて眠ってみたりもしてはみたのに、防げなくて。
どうにもならないと嘆いた自分に、ハーレイがくれたサポーター。医療用の薄いサポーター。
通気性がいいから眠りを妨げないと言われた。
その上、ハーレイが右手を握ってくれる時の力加減を再現したとも。
(…ハーレイに手を握って貰ってるみたいなんだけど…)
そんな感じがするサポーター。
初めて着けた日は、メギドの悪夢の最後にハーレイが来てくれた。凍えた右手に温もりを届けに来てくれた。
幻のハーレイだったけれども。
遠いシャングリラから、ハーレイの想いだけが宇宙を駆けてメギドまでやって来たのだけれど。
それでも温もりは右手に戻って、夢の終わりは悲しくなかった。もう一人ではないのだと。
(サポーターのお蔭なんだけど…)
あれ以来、メギドの悪夢は劇的に減った。夢そのものを滅多に見なくなったから、冷える夜にはサポーター。悪夢の予防にサポーター。
なのに…。
(何か変…?)
いつものように右手に着けようとしたら、感じた違和感。
そうではないと、それを着けるのではないのだと。
(なんで…?)
サポーターが無ければ夢を見る。右手が冷えてしまった夜には何が起こるか分かっている。
着けずに眠るなど、とんでもないのに。出来もしないのに、何故、違うのだと思うのか。
(そんなこと…)
自分がこれを着けたがらない筈が無い。けれども「違う」と感じる心。
それが何故だか分からないから、サポーターを着けてみたけれど。
右の手が温もりに包まれたけれど、ハーレイの手に握られているようで幸せだけれど。
(やっぱり違う…)
こうじゃなくて、と訴える心。
着けるのではないと、こうするのではないのだと。
(どうしてなの?)
これが無ければ困るのに、と途惑いながらも、一度外してみることにした。
そうすれば分かるかもしれない、とサポーターを左手で外した途端に掠めた記憶。
右手から抜いた、その瞬間に。
(そうだ、手袋…!)
前の自分がはめていた手袋。ソルジャーの衣装の一部でもあった、両手を包んでいた手袋。
あれを自分は外したのだった、眠る時に、手から。
たった今、サポーターを右手から外したのと同じに、手袋を外して肌を晒した。
常にはめていた、あの手袋。あれを外した、今やったように。
眠る時には。もっと正確には、眠るよりも前に。
(…ハーレイの前で…)
そう、ハーレイの前でだけ。
自分がソルジャーではなくなった時に。ソルジャーではなくて、ただのブルーに戻った時に。
もちろん本当にソルジャーの称号を返上したわけではなかったけれど。
そんなことなど出来もしなくて、ソルジャー・ブルーのままだったけれど。
心だけは「ただのブルー」になった。ブルーに戻れた。
手袋を外せば、その下の肌を空気に晒せば。
(あの手袋…)
いつからあれをはめ始めたのか。両手を覆って肌を見せなくなったのか。
考えずとも答えは直ぐに出て来た。
ソルジャーの制服が出来た時。やたら仰々しく、マントまで付いた立派すぎる衣装。仕上がると同時に着せられてしまい、もう脱ぐことは出来なくなった。
ソルジャーだからと、皆を導くソルジャーにはこれが相応しいからと皆に言われて。
(それでも最初の間はまだ…)
デザインだけは最後まで同じだったけれど、衣装の素材は変わっていった。
より良いものへと、より着けやすくて防御力の優れた素材へと。
シャングリラが白い鯨になった頃には、ソルジャーの衣装も完全なものとなっていた。ミュウの特性を生かし、心地良い熱や温もりは通しても、爆炎のような害をなす熱は通さない素材。
手袋もそういう材質だった。
着けたままでも不自由がないよう、肌の一部であるかの如くに作り上げられた。
(あれなら外さなくてもね…?)
初期の衣装だった頃は手袋を外していることも多かったけれど、完成品ともなったら違う。
一度はめたら、外す方が却って面倒なほど。
外せば置く場所が必要になるし、置き場が無ければ手に持つしかない。それでは片手が塞がってしまう。両手で何かをするには向かない。
(よく出来てたんだよ、あの手袋は)
ティーカップを持っても滑らない。何をするにも困らない。
仲間たちと握手を交わす時にだって、手の温もりが伝わって来た。相手にも自分の手の温かさが伝わるわけだし、手袋ははめていないも同じ。
そんなわけだから、いつしか手袋に慣れてしまって、眠る時しか外さなくなった。
バスルームに行こうという時に外して、朝を迎えてパジャマを脱いだら、またはめた。
手袋の下の素肌を見る者は誰もいなくて、それが普通だと思っていた。
ハーレイが青の間に来ていた時も。
キャプテンとしての訪問ではなくて、一番の友として来てくれた時も。
ハーレイのためにと紅茶を淹れたりしていたけれども、手袋は外さないままで。
はめたままでのティータイムだった。
手袋をはめた手で二人分のカップに紅茶を注いで、自分のカップも手袋をはめた手で持って。
何の不自由も感じなかったし、楽しくお茶の時間を過ごした。
そうしていたのに、ふと物足りなくなってしまって。
「また今度」と握手する時に、間に挟まった一枚の布。薄い手袋。
それがあるのがもどかしくなって、これは要らないと心の何処かで思い始めて。
(あの頃から、恋…)
自分では気付いていなかったけれど、今にして思えば、きっとその頃。
ハーレイの手にじかに触れてみたいと、温かくて大きな手に触れたいと願い始めた恋の始まり。
(恋だとは思っていなかったけどね)
まるで気付きもしなかった自分。
ハーレイは一番の友達なのだと、大切な友だと思い込んだままでいたけれど。
それでも時々、手袋を外してハーレイとお茶を飲むようになった。
一日の報告に来てくれた後や、遊びに訪ねて来てくれた時に。
手袋は要らないと外してしまって、「また今度」と握手して見送っていた。
自分では友達を見送るつもりで、一番の友達に手を振るつもりで。
けれど、恋だとついに気付いて。
想いが叶ってハーレイとキスを交わすようになったら、手袋はもう、はめていたくなかった。
ハーレイの前では、キャプテンとしての職務が終わったハーレイの前では。
だからはめなくなった手袋。ハーレイの前では外した手袋。
結ばれた後には、もう手袋は…。
(あれが切り替え…)
青の間で夜にハーレイから一日の報告を聞いて、手袋を外せば恋人同士の時間の始まり。
ソルジャーではない、という印。
ただのブルーだと、ハーレイに恋をしているブルーなのだと。
その背にマントを着けていようが、ソルジャーの白い上着を纏っていようが、もう違った。
あの手袋さえ外してしまえば、前の自分はソルジャーなどではなかった。
ハーレイに恋をしていたブルー。
ただのブルーで、ミュウの長でもなんでもなかった。
青の間に住まっているというだけ、ただそれだけのミュウで、人間だった…。
(手袋で切り替えていたなんて…!)
ソルジャーだった自分と、一人のミュウとしての自分とを。
それもハーレイの前でだけ。
(あの手袋…)
わざと外してみせたこともあった。
ハーレイの報告がなかなか終わらない時に、焦れながら。
早く終わらせろと言わんばかりに。
ゆっくりと手から手袋を取った。
報告はまだ終わらないのかと、自分の用意はとうに整っているのに、と。
マントも上着も、きちんと着込んで着けたままで。
ソルジャーとしての表情は全く動かさないまま、手袋だけをこれ見よがしに手から外して。
(前のぼくの合図…)
あの手袋が。
それを外すということが。
今からはただのブルーなのだと、ハーレイの恋人のブルーなのだと知らせる合図。
もう手袋は外したのだから、そのように扱ってくれと知らせた。
ソルジャーではないと、恋人なのだと。
(ハーレイ、覚えているのかな…?)
前の自分がしていた合図を、手袋を外すという意味を。
ハーレイの前でだけやっていたことを、それにこめられた自分の想いを。
(…覚えてるのか、確かめたいけど…)
気になるけれども、肝心要の手袋なるもの。
今の自分は手袋などをはめて暮らしてはいない。もうソルジャーではないのだから。あの手袋は要らないのだから。
十四歳になったばかりの普通の子供に手袋は要らず、冬用のものしか持ってはいない。
冷たい北風が吹きつける季節にはめるものしか。
けれど…。
ゴソゴソとクローゼットの中を探った。手袋が仕舞ってある場所を。
そこを覗き込み、一組、取り出してみたけれど。
前の自分の手袋にそっくりのものがあるわけがなくて、色だってまるで同じではなくて。
遠目に見たなら似たようなものかと、白いアンゴラの手袋を一組。
アンゴラだけにフワフワしていて、ソルジャーの手袋とは似ても似つかないものだけれども。
(…これでいいかな?)
水色や紺の手袋よりかはマシだろう。いくらフワフワでも、少しはそれらしく見えるだろう。
明日は土曜日、ハーレイが来る時にはめていようか?
この手袋をはめてハーレイを待とうか、いつもの椅子に腰掛けて?
しかし…。
(ママがいたっけ…!)
いつもハーレイを部屋まで案内して来る母。お茶とお菓子を運んで来る母。
手袋をはめた自分を見たなら、母は訝しむことだろう。
冬でもないのに、冬でも家に入る時には手袋を外している筈なのに、と。
(ママ、絶対に変に思うよ)
それどころか「どうしたの?」と訊かれてしまうに違いない。
手袋に何の意味があるのかと、怪我でもしたのか、手が冷たいのかと。
そうなればハーレイの意識もそちらへ向いてしまうし、手袋はただの「変なもの」。季節外れの変な手袋、その認識でおしまいだろう。
母が部屋まで来てしまうからには、最初からはめてはいられない。
とはいえ、手袋の合図をハーレイに思い出して貰えるチャンスはあるかもしれないし…。
(見える所に置いておけば…)
忘れないように、と通学用の鞄の隣に吊るして眠った。
手袋を思い出す切っ掛けになった、あのサポーターを右手に着けて。
メギドの悪夢は襲っては来ず、次の日の朝。
ベッドから起き出して手袋を見るなり、昨夜の出来事が脳裏に浮かんだ。
(そうだ、手袋…!)
これをはめるんだったっけ、と白いアンゴラの手袋を撫でる。
前の自分の手袋の合図。ただのブルーだと、ソルジャーではないという合図。
恋人同士の時間の始まりを告げる合図を、ハーレイの前でもう一度やって見せるのだった。
この手袋をはめて、前の自分のように外して。
それが出来るだけのチャンスさえあれば。
(ハーレイが席を外してくれれば…)
すまん、と階下の母の所へでも出掛けて行ってくれたなら。
戻って来るまでの間に手袋をはめてしまえばいい。
ふわふわの白い手袋だけども、前の自分の手袋とはまるで似ていないけれど。
それでも手袋なのだから。
微笑みながら外して見せればいい。
ハーレイが部屋に戻って来たら。「すまなかったな」と部屋に入って来たなら。
(ふふっ、手袋…)
手袋の合図、と心の中で何度も繰り返しながら、躍る心を抑えながら。
朝食と部屋の掃除とを終えて、計画を練って練習もした。前の自分の仕草を真似て。
白いアンゴラの手袋をはめて、こう外すのだと何度も、何度も。
そうこうする内にチャイムの音がし、ハーレイがやって来たけれど。
母の案内で部屋を訪れ、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったけれど。
「なんだ、あれは?」
あの手袋は、とハーレイに目を留められた。
昨夜と同じに鞄と並んで吊られた手袋、ふわふわのモコモコ、季節外れの白い手袋。
それは奇妙な代物だけれど、今の自分はあれしか持っていなかったから。
前の自分のような手袋は、ソルジャー・ブルーの持ち物に良く似た手袋は持っていないから…。
精一杯、澄ました顔で答えた。「手袋だよ」と。
「…手袋?」
ハーレイは手袋をまじまじと見詰め、それからブルーに向き直って。
「そいつはアレを見りゃあ分かると思うがな?」
俺が訊いてるのは、あれが手袋かどうかじゃなくて、だ。
なんだって手袋があそこにあるのか、どういうつもりで出してあるのかということなんだが…。
まだ手袋の要るような季節じゃないだろ、外へ出るにしても?
寝る時に手が冷たいって話は前に聞いたし、サポーターをプレゼントしてやった筈だがな?
あのサポーターでは足りなくなったか、と訊かれたから。
ブルーは「ううん」と首を横に振って。
「ハーレイ、何かを思い出さない?」
あそこに手袋が吊ってあったら、あの手袋があるのを見たら。
「クリスマスか?」
かなり気が早いが、と笑われた。
クリスマスに向けての広告さえも見かけはしないと、それにあちらは靴下だと。
吊るしておいたら、夜の間にサンタクロースがプレゼントを入れて行ってくれる靴下。
それの真似かと、今からクリスマスプレゼントの催促なのか、と。
「違うってば…!」
クリスマスだなんて言っていないよ、手袋だよ!
それに靴下とも間違えてないよ、ホントのホントに手袋だってば…!
ブルーはむきになって主張したけれど、ハーレイは一向に思い出さないようだから。
ピンと来てさえくれないものだから、椅子から立って例の手袋を取って来た。
元の椅子へと座り直して、これでも思い出さないのか、とはめて見せたけれど。
白いフワフワのアンゴラの手袋を両手にはめてみたけれど。
「ほほう、似合うな。ずいぶんと可愛らしいじゃないか」
ウサギの手みたいで可愛いぞ、うん。
そういや、お前、将来の夢はウサギだったか、チビだった頃は?
ウサギになりたいと思ってたって話を聞かされたっけな、手だけなら充分ウサギに見えるぞ。
「そうじゃなくって…!」
ぼくが言ってるのは手袋なんだよ、この手袋が大事なんだよ!
こう、と手袋をゆっくり外した。
右手で左手の手袋を引っ張り、手首から指先へと肌を晒してゆく。
左手がすっかり露わになったら、今度は右手を。
前の自分と同じ仕草で、朝から何度も練習していたあの仕草で。
わざと時間をかけて右手の手袋を外して見せれば、ハーレイがハッと息を飲んだ。
「お前…!」
それきり、後が続かないから。
後の台詞が続かないから、ブルーは手袋をテーブルに置いた。一組を綺麗に重ねて揃えて、前の自分の仕草をなぞって。
「…分かった?」
この手袋の意味が何だったのか、ハーレイ、分かってくれたよね?
さっきクリスマスって言っていたから、クリスマスにぼくに贈ってくれる?
ぼくがハーレイから欲しいプレゼントを、と誘うような笑みを浮かべてみせた。
前の自分がそうやったように、手袋の合図で促した時にそうしたように。
ブルーは自信たっぷりだったし、通じた筈だと思ったのに。
もう間違いなく通じたのだと思っていたのに、ハーレイの返事はこうだった。
「うむ。そいつに似合うマフラーだな」
手袋はあるからマフラーが欲しいと、そう言うんだな?
「えっ?」
思わぬ言葉にブルーの瞳は丸くなったけれど、ハーレイは至極真面目な顔で。
「違うのか? 俺はてっきりマフラーかと…」
それとセットで持ちたいのかと思ったんだが、マフラーじゃないなら何なんだ?
ちゃんと言葉で言ってくれんと、ファッションってヤツには疎くてなあ…。
「ぼくが欲しいのは、褐色の…!」
褐色の肌をした恋人なのだ、と言うだけの度胸は流石に無くて。
「褐色の」だけで止めたものだから、それを聞いていたハーレイの方は。
「ああ、褐色のマフラーな」
白よりもそっちの方が好みか、色の指定があったんだな。
褐色か…。そういう色をしたウサギもいるしな、お前が着けても似合うだろうさ。
そういやアンゴラはウサギだったか、褐色のアンゴラのマフラーだな、うん。
覚えておこう、とハーレイのポケットから取り出された手帳。それに愛用の瑠璃色のペン。
手帳をパラパラとめくるハーレイは、本当に書き付けそうだから。
瑠璃色のペンで、ナスカの星座が鏤められているペンで、覚え書きを残しそうだから。
(ぼくにクリスマスプレゼント、って…!)
書かれたら最後、ハーレイは約束をきちんと守るに違いない。
まだ先だけれど、クリスマスに備えてプレゼントを買おうと出掛けて行って。
あちこちの店で色々比べて、自分がいいと思ったマフラー。
白いアンゴラの手袋に合うと、ブルーに似合うと思ったマフラーを選んでくるだろうから。
褐色のマフラーを綺麗に包んで貰って、「プレゼントだ」と贈ってくれそうだから。
「違うんだってば…!」
マフラーじゃないよ、ぼくが欲しいのはマフラーじゃなくて!
ハーレイだよ、と訴えた。
クリスマスプレゼントをくれるんだったらハーレイがいいと、その意味なのだと。
褐色はハーレイの肌の色だと、それを贈って欲しいのだと。
息もつかずに言い終えた後は、もう耳までが赤かったけれど。
それでも言えたと、ちゃんと言えたとブルーは上目遣いでハーレイを見る。
このプレゼントは貰えそうかと、クリスマスに贈ってくれるだろうかと。
白いアンゴラの手袋だったけれど、合図は送った。
こうだと、今の自分の想いはこうなのだと。
手袋の合図が伝わるように。
伝わって欲しい、と頬も耳も染めて、祈るような気持ちで恋人を見詰める。
どうか分かってと、前の自分の手袋の合図を思い出して、と。
手袋を外せば、恋人同士の時間の始まり。
クリスマスにはそれが欲しいと、クリスマスプレゼントはハーレイがいいと。
こうして向かい合わせで座るだけでなくて、膝の上に座ったり、抱き締めて貰うのでもなくて。
前の自分がそうだったように、本当に恋人同士だからこそ持てる時間を。
褐色の肌を纏った身体に包まれ、ただ幸せに酔っていたいと。
今の自分はキスさえ許して貰えないけども、せめてクリスマスのプレゼントには、と。
ほんの一夜の夢でいいから、サンタクロースがトナカイの橇で駆けてゆく間の、イブの夜だけの夢でかまわないから…、と。
「やっぱりか…」
あれだったのか、と深い溜息。
ハーレイが手帳とペンとをポケットに仕舞い、眉間に皺が刻まれた。普段よりも深く寄せられた皺が、まるで心と呼応するような深めの皺が。
鳶色の瞳は白い手袋とブルーの顔とを交互に眺めて、呆れ果てたような色だから。
子供の相手など出来るものかと、していられるかと言わんばかりの様子だから。
ブルーの期待はたちまち萎んで、シュンと項垂れるしかなくなって。
「…気付いてたの?」
ぼくが手袋を用意した意味、気付いてた?
わざわざ外して見せなくっても、もしかしなくても、手袋だけで?
「最初からな」
俺は前から言ってるだろうが、お前の心はお見通しだと。
普段はそこまで酷くはないがな、お前、気持ちが高ぶってる時は中身がすっかり零れてるんだ。
今日も初めからそうだった。
俺がこの部屋に入った途端に、手袋、手袋とはしゃいだ心が弾けていたさ。
手袋で俺に合図をしようと、あれで合図をしていたと。
前の自分がやった通りに練習もしたし、きっと俺が釣れる筈だとな。
馬鹿が、と額を小突かれた。
十四歳のチビが何をするかと、手袋で誘うには早すぎるのだ、と。
「いいか、お前はキスも出来ないチビでだな…」
つまりは身体もうんとチビなわけで、手だって子供の手だってな。
前のお前が白いフワフワの手袋をしてりゃ、俺だってグッと来るかもしれん。
お前が手袋を外さなくても、そのフワフワの下の手を見てみたくてウズウズしながら、外すのを待っていたかもしれん。まだかと、まだ手袋を取ってくれないのかと。
だがな、今のお前じゃウサギみたいなチビの手なんだ。どう見たって可愛いだけの手だ。
キュッと握ってみたくなるのがせいぜいだってな、その手じゃな。
手袋の中身はどのくらい詰まっているんだろうかと、暖かそうな手袋だが、と。
同じ手袋をはめてみたって、それをはめる手が違うのさ。
外した途端に色気が出るのが前のお前で、今のお前じゃ食い気ってトコか。
こういうフワフワの手袋をしてれば、くっついちまって食えない菓子もあるからなあ…。やっと食えると菓子に飛び付くのが今のお前で、前のお前はそうじゃないってな。
菓子なんかよりも先にこっちなんだ、と俺に目だけで強請れた筈だ。
それを寄越せと、そっちを先に食わせろとな。
「お菓子よりも先に食べるものって…」
なんなの、ハーレイ?
ハーレイがお茶を淹れてくれるの、そっちの方が先だった?
確かにポロポロ崩れるクッキーとかなら、お茶を一口飲んでからの方が美味しいけれど…。
「ふむふむ、やっぱり分かっていない、と」
前のお前が焦れてた時はな、何は無くとも一番にキスだ。そいつで機嫌を直して貰うのが先だ、お前が腹を減らしてたってな。
キスを忘れてお茶なんぞ淹れに出掛けていたなら、どうなったやら…。
もっとも、俺の方にしたって、お茶を淹れてるよりキスしたいしな?
そういう悲劇は起こらなかったな、俺がお茶を淹れる間にお前がすっかり怒ってしまって、青の間からポイと蹴り出されるとか、平手打ちを食らってしまうとかはな。
「…そうだったっけ?」
ブルーはキョトンとするしかなかった。
手袋の合図は確かに覚えていたけれど。焦れた自分が手袋を外して見せていたことも、ハッキリ覚えているのだけれど。
それから後は必ずベッドに直行ではなくて、お茶の時間を持ったりもした。
美味しいお菓子があるのだから、と二人でゆっくり食べたりもした。
朝までは二人きりなのだから。
二人きりの時間を過ごせるのだから、とハーレイを誘って、それは色々な夜の過ごし方。
「何は無くとも一番にキス」と強請った記憶は何処にも無くて…。
「思い出せないのがガキの証拠ってな」
お前の記憶は中途半端だ、とハーレイに鼻で笑われた。
だからお前には菓子が似合いだと、キスよりも菓子の方が似合うと。
フワフワの手袋を外したら菓子をパッと掴んで、齧って。
「美味しいね」と笑顔になるのが似合いの子供で、それに見合った手をしていると。
手袋を外せば色気ではなく、食い気が出て来る子供の手。
どんなに前の自分の仕草を真似ても駄目だと、それは芝居でしかないと。
ハーレイは白いアンゴラの手袋を掴み、「小さな手だな」と褐色の手のひらに重ねてみて。
「フカフカだな」と、「前のお前がはめても似合いそうだな」と微笑んだ後で。
手袋をテーブルの上に戻すと、小さなブルーに軽く片目を瞑ってみせた。
「もう分かったろ? お前にはマフラーがピッタリなのさ」
こいつとセットで出来るマフラー、それがお前に似合いだってな。
「酷い…!」
マフラーじゃないって言ったのに!
ちゃんと褐色のハーレイが欲しいって言っているのに、マフラーなの?
「当たり前だろ、そういう台詞を口にするには早すぎるんだ、チビ」
それに、貰えるだけマシだろうが。
たとえ嬉しくないプレゼントでもだ、俺からのクリスマスプレゼント。
まだまだ先の話だがなあ、まだ秋だしな?
…俺もすっかり忘れちまうかもしれないなあ…。マフラーどころか、その手袋もな。
やっぱり手帳に書いておく方がいいか?
お前、褐色のマフラーが欲しいと強請ってたってな。
「うー…」
書かなくていいよ、マフラーなんて!
ぼくはそんなの欲しがってないし、貰ってもそれは嫌がらせだよ!
要らないからね、とブルーは叫んだけれど。
断ったけれど、ハーレイは可笑しそうに笑い転げて白い手袋を何度も指でつついていたから。
「いい手触りだ」と、「お前に似合う」と繰り返したから、もしかしたら。
クリスマスが来たら、マフラーを貰ってしまうのかもしれない。
注文の品だと、お前が欲しがったマフラーを買って来てやったと。
そんなプレゼントは欲しくないのに、欲しいとも思っていないのに。
(でも…)
同じマフラーを貰うのだったら、褐色のマフラーもきっと悪くはないだろう。
ハーレイの肌の色のマフラー。
誰よりも好きな恋人の肌と同じ色合いの、フカフカで暖かなマフラーがいい。
白いアンゴラの手袋とセットのマフラー。
ハーレイに貰ったプレゼント。
手袋を使って誘惑するには早すぎたけれど、それが包んでくれるのならば。
褐色の肌をした恋人の代わりに、暖かく包んでくれるのならば…。
手袋の合図・了
※前のブルーがハーレイに送った、手袋の合図。ソルジャーから「ブルー」に戻る時。
思い出した小さなブルーですけど、用意した手袋は大失敗。マフラーが貰えるみたいです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(一生の不覚というヤツか…)
思い出しちまった、とハーレイは溜息をついて頭を振った。
一生どころか二生の不覚と言うべきか。そんな言葉があるかどうかは謎だけれども。
(しかし、確かに二生目だしな?)
一度目の生を生きた自分は死んでしまった。遠い昔に、この地球の深い地の底で。
今の自分は二度目の生を生きている。人の人生を一生と言うなら、二生目と言っていいだろう。
(そいつは有難いことなんだが…)
思いがけずも前世の記憶が戻って、二度目の生だと気が付いた。しかも恋人までついて来た。
前の生で愛したソルジャー・ブルー。
気高く美しかったブルーは十四歳の少年になって戻って来た。青い地球の上で巡り会えた。前の自分が辿り着いた時には死の星だった、母なる地球。その地球が命を取り戻した後で。
まだ十四歳にしかならないブルーは幼すぎるから、伴侶には迎えられないけれど。
それでも守り役という名目の下に、平日だって仕事が早く終わりさえすれば家へ会いに行ける。
今日は生憎、寄れなかったから、一人の夕食。
とはいえ一人暮らしは長いし、料理も好きだし、それなりに楽しい時間を過ごした。ところが、後片付けを済ませて、コーヒーでも、と思った途端に降って来た記憶。普段は忘れている記憶。
前の自分のものならまだしも…。
(今の俺のでもあるんだ、これが)
情けないような、悲しいような。さりとてどうにもならない記憶。
思い出したら、あれやこれやが一気に蘇って来るものだから。
(うーむ…)
複雑な顔をするしかなかった。よりにもよってコレなのか、と。
愛用のマグカップにコーヒーを淹れて、書斎に行って。
机の前に腰掛けてもなお、何処へも行ってはくれない記憶。一向に消えてくれない記憶。
(まったく…)
俺としたことが、と「二生の不覚」と心の中で繰り返しながら、一冊の本を棚から取り出した。
白いシャングリラが表紙に刷られた写真集。船の中の写真も多く収められた豪華版。
「お揃いだよね」と小さなブルーの声が聞こえた気がするけれど。
この写真集を見付けて教えてやったら、ブルーも父に強請って買って貰って大切にしているのだけれど。懐かしい船体や船内が載った写真集は自分も気に入っているのだけれど…。
(まさかこういうことになるとは…)
パラパラとめくって開いたページに、トォニィの私室。最後のソルジャーだったトォニィ。
彼の部屋の窓辺に置かれた宝物たち、それが非常に問題だった。
人類との戦いの最中に死んでいったアルテラ、彼女が遺したボトルはトォニィらしくていい。
アルテラ自身はそれが形見になるとも思わず、トォニィに渡しただけなのだけれど。
「あなたの笑顔が好き」と書き入れただけだけれども、そのメッセージは今の時代にも伝わっていた。アルテラが書いた筆跡そのまま、意中の人に渡すカードに印刷されていたりもする。
(こいつはいいんだ、こっちの方は…)
トォニィの想いも、アルテラの想いも愛の形として残ったから。
けれども、ボトルの隣にあるもの。チョコンと座った木彫りのウサギに見えるもの。
(こいつはウサギじゃなかったんだが…)
前の自分が彫った木彫りのナキネズミ。
初めての自然出産児だったトォニィのために、と部屋で、ブリッジでせっせと彫った。木彫りはとても好きだったけれど、評判の方はよろしくなくて。
(実用品のスプーンとかなら、欲しがるヤツも多かったんだが…)
何かを象った作品の方は、悉く散々な評価を受けた。
ヒルマンの注文で彫ったフクロウも「これはトトロだ」と酷評された。お蔭でSD体制が始まるよりも遥かな昔の『となりのトトロ』という心温まる映画を知りはしたけれど…。
下手くそな木彫りで得をしたことは、トトロの映画だけかもしれない。それほどに酷い木彫りの腕前、トォニィのために彫ったものとて例外ではなく。
(ナキネズミのつもりだったんだがなあ…)
ミュウが開発した生き物。ネズミとリスを掛け合わせたもの。
それこそが新しいミュウの時代を担う子供に相応しい、と意気込んで取り組んだ作品なのに。
(何処で間違えちまったんだか…)
木の塊に下絵を描いた段階では、間違いなくナキネズミだったと思う。
まるでリスのような大きな尻尾に、首の周りのフサフサの毛皮。少し尖ったその顔も。
けれどもナイフを手にして彫り始めて行ったら、どうにも上手くいかないバランス。尖った顔は再現できたが、やたらと長くなった耳。代わりに尻尾が短くなった。申し訳程度の長さの尻尾。
(俺も変だとは思ったんだ…!)
なんとかナキネズミらしくならないものか、とブリッジで工夫していたら。
間の悪いことに、ブラウがやって来た。それも足音を忍ばせて。
「カリナが子供を産んだって?」と声を掛けられたが、慌てて木彫りを背中の後ろに隠したが。
ブラウは最初から全て見ていたらしくて、隠すだけ無駄というものだった。
ステルス・デバイスがどうのこうのと、シャングリラに纏わる連絡事項を伝え終わると、改めて覗き込まれた背後。「それを出しな」と、「見てたんだから」と。
そして言われた、「ウサギかい?」と。「ナキネズミだ!」と主張したものの、自分でも自信が持てない作品。ブラウが納得するわけがない。
「どの辺がどうナキネズミだい?」とニヤニヤしながら、しげしげ見られた。耳も尻尾もウサギそのもの、ナキネズミらしさの欠片も無いと。
(これがナキネズミなら、ウサギに対する認識ってヤツを改めなきゃね、とまで言いやがって!)
大笑いしながら去って行ったブラウ。
「ウサギとナキネズミは似てもいないよ」と、「あんたの目は歪んでいるのかい?」と。
そこまで言われてはたまらないから、ナキネズミらしくと頑張ったけれど。
努力に努力を重ねたけれども、やはりウサギにしか見えなくて。
(…ナキネズミだと言おうと思ったんだが…)
トォニィに贈る時には一言添えて、と決意したのだが、そうは問屋がおろさなかった。
赤い星に降りて、カリナとトォニィに対面して。
「気に入って貰えるといいのだが…」とナキネズミの木彫りを差し出す横から、ブラウが解説を加えてくれた。キャプテンが手ずから彫ったウサギだと、トォニィのためのウサギなのだと。
何処から見たってウサギにしか見えないナキネズミ。
カリナは素直にブラウを信じた。笑顔で受け取り、トォニィに持たせて母ならではの笑み。
「ほら、トォニィ。ウサギさんよ?」と、「キャプテンが彫って下さったのよ」と。
その瞬間に木彫りはウサギになってしまった。ナキネズミからウサギに変身を遂げた。
挙句の果てに、今では立派な宇宙遺産。
地球で一番大きな博物館の所蔵品となり、百年に一度だけ特別公開されるという有様。
(…やはり訂正するべきだったか?)
ウサギだとして独り歩きを始める前に。
「ミュウの子供が沢山生まれますように」との祈りがこもったウサギなのだと解説までついて、宇宙遺産になってしまう前に。
あれをトォニィに贈った時に「ウサギではない」と正しておいたら、宇宙遺産のウサギは残っていなかっただろう。幼かったトォニィのオモチャの一つで終わっただろう。
いつしか忘れ去られてしまって、ソルジャーになったトォニィの部屋の窓辺に飾られもせずに、時の彼方にひっそりと消えて失われていたに違いない。
しかし…。
(あんな場面で訂正できたか?)
自分や長老たちと、トォニィが初めて出会った、あの時。
そこで自分の木彫りの腕前を懸命に言い訳しようものなら、台無しになったろう、場の雰囲気。
(キャプテンの俺が必死に言い訳なんぞは…)
みっともない上に、聞き苦しい。その上、木彫りが下手くそなことを公言するも同然の行為。
とはいえ、トォニィ誕生という慶事の真っ最中。
大笑いで終わっていたかもしれない。そんなこともあるさと、キャプテンだって人間だからと。
ウサギに見えてもナキネズミなのだと、酷いナキネズミもあったものだと。
(…こんなことになると分かっていたなら…)
あのナキネズミがトォニィのオモチャだけでは終わらず、長い時を越えると知っていたなら。
宇宙遺産などという大層なものになってしまって、博物館に置かれると分かっていたら。
(…しかも、それだけでは済まなくてだな…)
もう一度、この目でアレを拝むような羽目になるとは思わなかった。
ブルーと二人で青い地球の上に生まれ変わって、あのナキネズミが辿って来た道を、前の自分が予想もしなかった出世街道を知らされることになろうとは…。
(こういうオチだと知っていたら、だ)
何としてでも訂正したろう、ウサギではなくてナキネズミだと。
宇宙遺産などにはならなくていいから、ただのガラクタとして時の彼方に消えていいから。
(…本当に二生の不覚なんだ…)
自分自身も「ウサギ」という解説が恥ずかしいけれど、何よりブルー。十四歳の小さなブルー。
そのブルーだって、あれはウサギだと信じていた。
「実はナキネズミだ」と白状した時、丸い目をして驚いた。
ついでに「下手くそな木彫りを作ったハーレイが悪い」と、「宇宙遺産のウサギを見に出掛ける人が気の毒だ」とまで言われてしまった。
ウサギだったら値打ちもあるけれど、ナキネズミでは全く価値が無いと。
大勢の人を騙しているのだと、御大層な解説つきのウサギに化けたナキネズミで、と。
(しかしなあ…)
ブルーには呆れられ、けなされたけれど。
あのナキネズミが宇宙遺産になったからこそ、今のブルーに見て貰える。青い地球の上に生まれ変わったブルーに自分の木彫りを見て貰える。ウサギだろうが、本当はナキネズミだろうが。
前のブルーは見られなかった木彫りのナキネズミを。
初めての自然出産児を、トォニィの誕生を祝って彫り上げたあのナキネズミを。
(…そこが難しい所だな…)
恥ずかしい腕前の木彫りではあっても、小さなブルーもウサギだと思っていた出来であっても。
宇宙遺産として残ったからこそ、ブルーに「これだ」と見せることが出来る。
自分が彫ったと、前の自分が彫った木彫りのナキネズミだと。
たとえ笑われてしまったとしても。ウサギでしかないと笑い転げられても。
(ブルーには見せられなかったからなあ…)
前のブルーには、前の自分が愛したソルジャー・ブルーには。
あのナキネズミを彫っていた時、ブルーは長い眠りの中で。
いつ目覚めるとも知れない眠りで、ドクターにすらも分からなかった。いつの日かブルーが再び目覚めるか、それとも一度も目覚めないまま、永遠の眠りに就いてしまうのか。
ブルーの思念を追うことには誰よりも長けていたのに、その思念すらも掴めない眠り。ブルーの手を握り、その心へと語り掛けても何の応えも返らなかった。
眠り続けるブルーが紡いでいるだろう夢も、その夢の小さな欠片さえも拾えはしなかった。
(…あいつの身体は確かにあるのに、命も確かにあったのに…)
どうしても掴めない、ブルーの心。ブルーの魂が奏でる音色。
だからナスカで虹を探した。雨が降る度に、雨上がりに架かった虹の橋を追った。
虹の橋のたもとには宝物が埋まっていると言うから。
それを見付ければ、見付けて掘り出すことが出来れば、ブルーが目覚めるかもしれないと。
自分にとっての宝物と言えば、ブルーの魂だったから。
虹のたもとに埋まっているそれを見付け出そうと、何度も何度も虹を追って赤い星を歩いた。
そうして虹を追い続ける間に、ナスカで起こった記念すべき出来事。
SD体制が始まって以来、一度も無かった自然出産。母の胎内から生まれたトォニィ。
そのトォニィに贈ってやるならこれだ、とナキネズミを彫ることにした。
前のブルーが作らせた生き物、青い毛皮をしたナキネズミを。
青い地球に焦がれ、幸せを運ぶ青い鳥を飼いたいと願ったブルー。
青い鳥は何の役にも立たないから、と皆に反対され、諦めたブルーを覚えていた。せめてと青い毛皮を纏ったナキネズミを選び、その血統を育てさせていたことも。
ブルーの想いが、青い地球と青い鳥に憧れたブルーの想いがこもったナキネズミ。
誰が知らずとも自分はそれを知っていたから、ナキネズミを彫ろうと決めたのだった。
ナキネズミは思念での会話が下手な子供たちをサポートするための生き物だったし、言うなれば子供たちの良き友、遊び友達。
トォニィにそれを贈ったとしても、誰も不思議には思うまい。
眠り続けるブルーの代わりにと、ブルーの想いをも届けてやろうと彫ったのだとは。
(…あいつにもいつか、見て貰えると思っていたんだ)
眠り続けていたブルーが目覚めたならば。
これを彫ったと、ブルーの分までと思って彫ったと、あのナキネズミを見せるつもりだった。
二人でトォニィの許を訪ねて、とんでもない出来の木彫り細工を出して貰って。
前のソルジャーと、キャプテンの自分。二人揃って出掛けて行っても、トォニィの両親は光栄に思いこそすれ、訝しんだりはしないから。どうしてこういう組み合わせかと不思議に思いはしないだろうから。
(あの木彫りだって、喜んで持って来てくれたんだろう…)
今も大事に持っていますと、トォニィのお気に入りです、と。
ユウイもカリナもウサギだと思ったままだったろうし、ブルーもウサギだと思っただろう。
青の間に戻った後で「ナキネズミです」と言おうものなら、きっと吹き出されたことだろう。
「君らしいよ」とか、「どう見てもあれはウサギだったよ」とか。
けれど、「相変わらず木彫りは下手なんだね」と笑われようが、それで良かった。
長い眠りから覚めたブルーと二人で笑い合えたなら、と。
そんな日が来ると信じ、願い続けていた。
虹の橋のたもとを探し続けて、ブルーの魂を探し続けて。
けれども、それは叶わなくて。
あのナキネズミをブルーと二人で眺められる日は訪れなくて。
(行っちまったんだ…)
ようやく目覚めてくれたブルーは、その瞬間からソルジャーだった。戦うための戦士だった。
まだ満足に動けぬ身体でキースと対峙し、それから後は激動の時間。
恋人同士の語らいはおろか、二人きりで話せる機会も持てずに運命の時が来てしまった。
ブルーは木彫りのナキネズミが作られたことさえ知らずに、メギドへと飛んで行ってしまった。
ただ一人きりで、たった一人で。
そして帰って来なかった。白いシャングリラにも、涙にくれる自分の許へも。
愛しい人は逝ってしまって、独りシャングリラに残された自分。
ブルーが最後に残した言葉を守って、地球までの道を歩んだけれど。シャングリラを運んで遠い地球まで行ったけれども、心はとうに死んでしまっていたのだろう。
自分はそれきり、思い出しさえしなかった。
ブルーと二人で見たいと願った木彫りのことを。
トォニィに贈った、あのナキネズミを。
(なのに、こいつは長い時を越えて…)
青い地球まで先に着いていた。自分よりも先に青い地球へと、立派に辿り着いていた。
今はもう無いシャングリラ。時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
白い鯨の写真が編まれた写真集では、トォニィの私室の窓辺に写っているけれど。
アルテラが残したボトルと一緒に写っているのだけれども、ボトルは既に残っていない。それに書かれたメッセージだけが今に伝わり、恋人たちに人気のカードなどに刷られて贈られる。
しかし、ナキネズミの方は違った。
ウサギだと信じられたばかりに、お守りなのだと勘違いされて宇宙遺産へと出世を遂げた。
一番最初の自然出産児の誕生を祝い、ミュウの子供が沢山生まれてくるようにという祈りと共に彫られたものだと、キャプテン・ハーレイが自ら彫ったウサギのお守りだったのだと。
ウサギは沢山の子供を産むことで知られていたから、豊穣のシンボルでもあったから。
宇宙遺産になったウサギは青く蘇った地球へ運ばれ、博物館に収まっている。
普段はレプリカのみの展示で、本物の公開は百年に一度。
幸運なことに、その博物館は自分とブルーが住んでいる町に建てられていた。大して広い町でもないのに、人が多いというわけでもないのに、色々な条件に適ったとかで。
(俺はこいつをブルーに見せたかったんだ…)
前のブルーに。誰よりも愛したソルジャー・ブルーに。
彼を失くした後、忘れてしまっていたけれど。
木彫りどころか、生きたナキネズミの方でさえをも、すっかり忘れてひたすらに地球を目指したけれど。其処に着ければ全て終わると、自分の役目はそれで終わりだと。
(…地球に着いたら、俺の役目が終わったら…)
追ってゆこうと思っていた。先に一人で、独りぼっちで逝ってしまったブルーを追って。
死に赴こうと、睡眠薬を飲んで眠るように逝こうと決意していた。
なのに運命とは分からないもので、薬など要りはしなかった。死の星だった地球の地の底、崩れ落ちて来た瓦礫が自分の命を奪った。
そうして全ては終わってしまって、自分の生涯は其処で終わった筈なのだけれど。
(二生目があったと来たもんだ…)
しかも途中から、前の自分とそっくり同じに育った姿になった所から。
それまではまるで別の人生、前の自分と重なるどころか、成人検査も人体実験も無い人生を謳歌して来た。青い地球の上、本物の両親の許に生まれて、のびのびと。
(まさか、こういう人生が待っているとはなあ…)
夢にも思いはしなかった。瓦礫に押し潰される瞬間でさえも、次の生など思わなかった。
これでブルーの許へゆけると、約束通りに追って逝けると笑みさえ浮かべていなかったか。
それがいったいどうしたわけだか、二度目の生が待っていた。
ブルーも同じ地球の上に生まれて来ていた。自分よりもずっと年下になって、小さくなって。
十四歳になる小さなブルーは、木彫りを笑ってくれたけれども。
ナキネズミになんか見えはしないと、ウサギでしかないと笑ったけれど。
(…元々は笑い合うつもりだったしな?)
前のブルーと二人で見たなら、トォニィの部屋を二人で訪ねて行ったなら。
ユウイとカリナが「キャプテンに頂いたウサギです」と例の木彫りを持って来るだろうし、どう見てもウサギでしかないし…。
ブルーに「あれはナキネズミです」と言えば言うほど、笑いを誘っていたことだろう。遠慮なく笑い飛ばされた挙句、木彫りの腕前もけなされただろう。
恋人同士であったからこそ、遠慮なく。
あんなに下手だとは思わなかったと、どう彫ったならばナキネズミがウサギになるのかと。
(…うん、間違いなく言われていたな)
それを思えば恥と言ってはいけないのだろうか?
一生どころか二生の不覚とぼやいたりしては駄目なのだろうか?
(前のあいつだって笑うんだからな、今のあいつよりも酷いかもなあ…)
小さなブルーよりも三百年以上も長く生きていた前のブルー。
一旦、笑うと決めたが最後、知る限りの語彙を並べ立てて酷評したかもしれない。あの木彫りを批評するならこうだと、これが笑わずにいられるものかと。
前のブルーも、今のブルーも、どちらもあれを笑うのならば。
木彫りのナキネズミがウサギにしか見えないと笑うのだったら、あの木彫り。
よくぞ今日まで残ってくれたと、自分は喜ぶべきなのだろうか?
宇宙遺産は恥ずかしすぎるが、あれをブルーに見せてやることが出来るのだから。
(しかしなあ…)
きっとブルーは大笑いする。展示ケースの前で笑い転げる。
いつか二人で見に行った時に。
小さなブルーが前のブルーと同じに育って、結婚した後か、それとも結婚前のデートか。
百年に一度の特別公開までは五十年ほどあるらしいから、展示ケースのウサギはレプリカ。
本物そっくりのレプリカのウサギで大笑いをして、置物を買うと言うのだろう。
これを見に来たお土産に買うと、ミュージアムショップに寄るのだと。
(確か、色々あるんだ、あれは…)
原寸大で再現してある置物はもちろん、小ぶりなものやら、お守り感覚のアクセサリーまで。
いくらなんでもアクセサリーを買ってつけたいとまでは言わないだろうが、間違いなく何かしら買わされてしまって、ブルーは御機嫌なのだろう。
やっと来られたと、ハーレイと一緒に木彫りのウサギを見に来られたと。
(…本当はウサギじゃないんだが…)
ナキネズミなのだ、と力説したってブルーは聞かない。きっと聞いてはくれないのだ。
展示ケースにはウサギとあったと、ミュージアムショップでもウサギと書かれているからと。
(俺はそれでもいいんだが…)
どうせ元々、前のブルーと笑い合いたかった木彫りなのだし、ウサギだろうが気にすまい。
そうは思っても、自分にとってはナキネズミ。一生の不覚、二生の不覚の下手くそな木彫り。
(…なんとかアレをナキネズミだと認めて貰える道は…)
写真集の中の木彫りを見れば見るほど、絶望的な気持ちになってくる。
彫っていた時からウサギに見えたし、完成してもウサギに見えたし、今では宇宙遺産のウサギ。自分ごときが足掻いた所で、覆せそうな説が見付からない。
(たかがこいつの訂正のために、俺の前世を明かすというのも情けないしな…)
それではあまりに大人げないし、前の自分の木彫りの下手さも明るみに出るし、したくない。
何よりブルーが巻き添えになる。
ブルーが沈黙を守ったとしても、否定したとしても、あの姿。
前世はソルジャー・ブルーであろうと世の人は見るし、探りも入れたくなるだろう。そうなってからでは、もう遅い。ブルーの前世も知られてしまって、その後はいったいどうなることか…。
(恋人同士っていうのがなあ…)
好意的に受け止めて貰えればいいが、そうならないということもある。
宇宙遺産のウサギごときで無用のトラブルは招きたくないし、一生の不覚でも黙るのが吉。
それが二生の不覚であっても、ブルーを守ってやりたいのならば。
(特別公開で本物を見るんだって言ってたなあ…)
一番乗りで見ようと、ウサギを見ようと。
つまりは、今の小さなブルーは自分の前世を明かす予定は無いわけだ。
もしも前世を明かしていたなら、特別公開などを待たなくとも、ウサギは見に行けるのだから。それに関わる関係者として、それこそ特別待遇で。
(黙ってる方がいいんだろうなあ、俺たちのことは)
ごくごく平凡に暮らしたかったら、何処にでもいる恋人同士でいたければ。
(アレの特別公開か…)
自分もお目にかかったことは無いのだけれども、噂だけなら聞いている。百年に一度のチャンスだけあって、大勢の人が詰めかけると。その行列は何日も前から博物館を取り巻くほどだと。
(そいつに一番乗りとなったら、ただごとじゃないぞ)
もっとも、ブルーの望みとなったら、休暇を取ってでも並ぶけれども。
それこそ一番乗りで駆け付け、列の先頭で何日でも待つだけの覚悟は充分あるけれど。
(前のあいつを失くした後でだ、地球に着くまでにかかった時間のことを思えば一瞬だしな?)
行列に並ぶ苦労にしたって、アルタミラの研究所時代の地獄などとは比較にならない。
順番待ちをしている人向けに食事や飲み物を売りに来るとも聞いているから、まるで天国。
要は待つだけ、特別展示が始まるその日にブルーを迎えて、二人並んで入館するまで。
(…でもって、中に入るのはいいが…)
宇宙遺産のウサギを展示したケースの前に立つまではいいが、そこでウサギを目にしたならば。
(もう間違いなく喧嘩だな)
喧嘩と呼ぶのかどうかはともかく、言い争い。ウサギを指差し、二人ともまるで譲らずに。
ウサギだ、いやいやナキネズミだと。
「キャプテン・ハーレイ作の木彫りのウサギ」と書いてあるだろうに、それを無視して。
ブルーは「ウサギだ」と主張しているのだから展示説明とも合っているけれど、自分の方は…。
(周りのヤツらが何と思うやら…)
正気を疑われるかもしれない。どう見てもウサギで、説明もウサギ。
それを捕まえて「ナキネズミだ」と言い張る自分は、さぞかし滑稽なのだろうと。
そうは言っても、木彫りのウサギは宇宙遺産。百年に一度の特別公開。
詰めかけた客たちは、喧嘩など全く気にしていないだろうけれど。
宇宙遺産のウサギに夢中で、くだらない喧嘩など気にも留めてはいないだろうけれど。
(レプリカの方を見に行った時でも同じだろうな)
展示ケースの前で二人で喧嘩して、笑って、また喧嘩して。
ウサギだ、いやいやナキネズミだと。
一段落したら他の展示も眺めて、博物館のレストランで食事をしながらまた笑って。
あれはウサギだと、ナキネズミだと。
(…あそこときたら、再入場が可能と来たもんだ)
レプリカを展示している時なら、同じ日の内なら何度でもケースを眺めにゆける。
ブルーは飽きずに見に行くだろう。食事やお茶で休憩をしては、ウサギを収めたケースの前へ。
宇宙遺産になってしまったウサギを笑いに、前の自分が彫ったウサギを笑い飛ばしに。
(本当に一生の不覚なんだが…)
一生どころではなくて二生の不覚で、情けない出来の木彫りなのだが…。
前のブルーに見せたかったものを、今のブルーが見るのだから。
見て貰えないままに終わったナキネズミの木彫りを、ちゃんと見て貰えるのだから。
どんな恥でも、それは喜ぶべきだろう。
ナキネズミがウサギになってしまっていても、ウサギにしか見えないナキネズミでも。
それに…。
(二人一緒に見られるんだしな?)
この地球の上で。二人一緒に生まれ変わった、青い地球の上にある博物館で。
ウサギにしか見えないナキネズミを見て、ミュージアムショップで買い物をして。
そして、この家へ二人で帰ってくる。
結婚前ならまだ無理だけれど、結婚した後もレプリカのウサギをきっと見に行くだろうから。
(あいつ、レプリカのウサギの置物を買って、家に置こうと言ってたっけな…)
二人で暮らす家にレプリカのウサギ。
今は自分が一人で住んでいるこの家へブルーと帰ってくる。
ウサギを笑い飛ばされた後で、笑い飛ばしてくれたブルーと。
その頃には、きっと…。
(この書斎だって…)
お役御免になるのだろう。
今は自分の城だけれども、ブルーが来たら。
この家でブルーと一緒に暮らすようになったなら。
今みたいに書斎にコーヒーを運んで来たりはしないだろう。一人で飲みはしないだろう。
(きっと二人でリビングなんだ)
自分はコーヒー、ブルーは紅茶で、寛いだ食後のひと時を過ごす。
日記くらいはこの部屋へ書きに来るのだろうけれど…。
(その間もあいつが待っているんだ)
木彫りのナキネズミをウサギだと笑ってくれたブルーが、リビングでお茶を飲みながら。
自分が戻れば、きっとこう訊くに違いない。
「日記にはちゃんと書いたの?」と。
例のウサギを笑われたことはちゃんと書いたかと、前の自分の反省文も、と。
「下手な木彫りですみませんでした」と、「あれはどう見てもウサギです」と。
ブルーならばきっと、クスクス笑って「書いた?」と言うに違いない。
(そう思うとなあ…)
木彫りのウサギも悪くない。
本当はナキネズミだったけれども、間違われたままで今の時代まで残ったことも。
ブルーと二人で笑い合った後で、暖かな家へ帰れるのだから…。
残ったウサギ・了
※前のハーレイが彫った木彫りのナキネズミ。宇宙遺産のウサギになってしまいましたが…。
お蔭で今まで残ったわけで、ブルーにも見て貰えるのです。間違えられてウサギでも、幸せ。
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