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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(クッキー…)
 それは唐突にやって来た。
 学校から帰って、おやつを食べていた最中に。おやつはケーキだったのに。
 何故だか急に、食べたくなった。あのクッキーが食べてみたい、と。
(あそこのクッキー、美味しかったもの…)
 一度だけ、ハーレイが持って来てくれた。
 ハーレイの家の近所にあるという店のクッキー、それを土産に提げて来てくれた。ブルーの家に来られなかった詫びにと、客にはこれを出したのだと。
 柔道部の顧問をしているハーレイ。クラブの子たちが遊びに来るから、と来客を優先された時のお詫びがクッキーだった。彼らに出した菓子はこれだと、お前も食べてみたいだろうと。
 今の学校だと柔道部員で、それまでにハーレイが居た学校なら水泳部員のこともあったろう。
 柔道部であれ、水泳部であれ、あのクッキーはハーレイの客たちの御用達。



(徳用袋って言ってたよね?)
 ブルーは箱入りの綺麗な詰め合わせを貰ったけれども、来客用には徳用袋だと聞かされた。作る途中で割れたり欠けたりしたクッキーを詰めた、大きな袋があるのだと。
 菓子も食事も山のように食べる生徒たちには上品な詰め合わせセットは向かない。ゆえに徳用、それでもアッと言う間に空にするのがハーレイの家の客たちらしい。
(ホントに本物のお客さんなら、ぼくが貰ったみたいなクッキーを出すんだろうけど…)
 それを思えば、自分が貰ったクッキーの方が断然、上。
 いわば特別扱いだけれど、それが突然、あまり嬉しくなくなった。
 ハーレイの家には行けない自分。来てはいけないと言われた自分。なのに自由に出入りしている柔道部員の生徒たち。招かれたら家じゅうを走り回って、覗いて回るという生徒たち。
 彼らの立場が羨ましい。彼らのために用意されるという徳用袋のクッキーだって。



(食べてみたいな…)
 割れたり欠けたりしたクッキー。改まった客には出さないクッキー。
 それを自分も味わってみたい。特別扱いの澄ましたクッキーなどより、普段着のクッキー。
 ハーレイの家に遊びに出掛けた生徒たちに振る舞われるクッキー。
(味はおんなじなんだろうけど、気分が全然違うよね?)
 箱に綺麗に並べられていて、欠陥など無いクッキーは所詮、よそゆきの顔。何処に行っても通用する顔、個性がまるで無いクッキー。
 けれども徳用袋のは違う。真っ二つに割れてしまったものやら、大きく欠けているのやら。同じ型から生まれたものでも同じ形をしているクッキーは無くて、どれもが違った顔ばかり。
(どのクッキーもきっと、ユニークなんだよ)
 賑やかに笑いさざめいているクッキーたちの声が聞こえるようだ。大きな菓子鉢か皿に盛られて出されたクッキー、それらが笑い合う声が。クッキーをつまむ生徒たちと同じに、それは賑やかに楽しそうに。
(…いいな…)
 そんなクッキーたちを自分も食べたい。個性豊かなクッキーを食べて、気分だけでもハーレイの客になったつもりで楽しみたい。あの家に自分は行けないけれども、気分だけでも。
(だって、徳用袋のクッキー…)
 ハーレイの家に招かれた教え子たちだけが出会えるクッキー、個性溢れるクッキーたち。
 割れたり欠けたり、お行儀の悪いクッキーの群れ。
 そこから一つつまむだけでも幸せな気分になれるだろう。ハーレイの家に行ったらこのクッキーだと、こんなクッキーたちが「いらっしゃい」と迎えてくれるのだと。



 どうにも食べたくなってきたから、クッキーに会いたい気持ちを抱えて部屋に戻った。徳用袋に入ったクッキー、まだ会ったことが無いクッキー。
(食べたいな…)
 ハーレイのお客さんになって食べてみたいな、と勉強机の前に座って考えていたら。クッキーな気分を断ち切れずにいたら、運良くハーレイがやって来た。仕事帰りに、チャイムを鳴らして。
(神様が連れて来てくれたんだよ…!)
 クッキーが欲しいと頼むように、と連れて来て下さったに違いない。心から欲しいと願っていたから、神様が願いを叶えてやろうと手伝って下さったに違いない。
 だから早速、ハーレイに強請った。母がお茶とお菓子を置いて去った後、勢い込んで。徳用袋のクッキーが欲しいと、あれを一度食べてみたいのだと。
 しかし…。



「徳用袋か…。お前には向いていないんだがな」
 あれはお前に渡すようには出来ていないと思うんだが…。
「なんで?」
 割れたり欠けたりしてるだけでしょ、味は普通のクッキーなんでしょ?
 あそこのクッキー美味しかったし、ぼくの好みの味だったよ。向いてないことはないと思うな、よそゆきの顔をしてないクッキー、食べたいな…。
 ちゃんと揃ったクッキーもいいけど、普段着の顔のクッキーがいいよ。
 だって、ハーレイの家に大勢で遊びに行った生徒は、そのクッキーを食べるんだものね。
「味や形は問題じゃないんだ、要は徳用袋のサイズだ」
 お前ではとても食い切れない。個別包装だってしてないからなあ、一気に食わんと湿っちまう。一日で全部食えとは言わんが、せいぜい二日か三日ってトコだ。それを過ぎたらもう駄目だな。
「平気だってば、食べ切れないならママたちと分けるよ」
 ママもパパもクッキー、大好きだしね。
 前にハーレイがくれたクッキー、少しだけ分けてあげたんだけど…。とても美味しいって言っていたから、また貰えたなら大喜びだよ。それも沢山食べられるんなら。
「そんな失礼なことが出来るか!」
 お前が一人で食うならともかく、お父さんやお母さんにも分けるだと?
 そいつは失礼すぎるってモンだ、俺の人格を疑われそうだ。なんてモノを持ってくるんだとな。
 相手は徳用袋なんだぞ、とハーレイは顔を顰めて言った。
 来客に出したり、お遣い物に持ってゆくには不向きだからこそ徳用袋に入れられるクッキー。
 そんなクッキーばかりを詰めたものなど、土産に持っては来られないと。



 アッサリ断られてしまったけれども、諦められない徳用袋。
 ハーレイの家に出掛けた生徒たちだけが味わえる個性豊かなクッキー。
 駄目だと言われれば余計に欲しい。食べたくて欲しくて、なんとしてでも手に入れたい。
 次にハーレイがやって来た時も、また強請ったから。
 徳用袋のクッキーが欲しいと、食べてみたいと強請ったから。
「お前、忘れていなかったのか…」
 たかがクッキーだぞ、お母さんだって焼いてくれるじゃないか。うんと美味いのを。
 それに毎日、手作りの菓子を色々食わせて貰ってるくせに、お前の頭から徳用袋は消えんのか?
「食べ物の恨みって言うじゃない」
 しつこいものでしょ、食べ物の恨み。それだから忘れないんだよ。
 ハーレイが食べさせてくれなかった、って恨んでいるから、徳用袋のことを覚えているんだよ。ぼくに御馳走してくれるまでは忘れないままでいると思うな、徳用袋のクッキーのこと。
「そう来たか…」
 食い物の恨みか、そいつは確かにしつこそうだ。俺は来る度に言われるんだな、あれを食わせてくれなかったと。
 仕方ないな、とハーレイは大きな溜息をついた。
 なんとか工夫してみよう、と。
 ブルーの両親に失礼なことにならない形で徳用袋のクッキーを持ち込む工夫をしよう、と。



 そして訪れた週末の土曜日。
 ハーレイは自分の荷物とは別に丈夫そうな袋を提げて来た。袋の中身はハーレイの母の手作りのマーマレードが詰まったガラス瓶。夏ミカンの金色が鮮やかなマーマレードは、切れないようにと早めに新しい瓶を持ってくるのが常だった。ブルーの家の朝食に欠かせないマーマレード。
 それをブルーの母に手渡した後で、二階のブルーの部屋に案内されて来たハーレイだけれど。
 「苦労したぞ」と袋の中から瓶をもう一つ取り出した。
 「お母さんにはマーマレードだけを持って来たふりをしておいた」と。
 テーブルの上に置かれた大きなガラス瓶。中にギッシリ詰まったクッキー。
 覗き込んでみれば、クッキーはどれも割れたり欠けたりしていたから。



「これが徳用?」
 徳用袋のクッキーは瓶に詰まっているものだったの、ぼくは袋だと思っていたけど…。
「いや、徳用だけに袋入りだが? 瓶なんかついてくるもんか」
 そいつの一部を詰め替えて来たんだ、この瓶にな。
 お前にはとても食い切れない量だと言っていただろ、徳用袋。だから一部だ。
 こんなサイズの袋だからな、と示された大きさはとてつもないもの、まさに徳用。
「凄いね、そんなに大きな袋だったんだ。クッキーの徳用袋って…」
 この瓶だって充分、大きいのに…。ぼく、一日では食べ切れないよ。
「クッキーを入れるなら、このくらいのデカさの瓶でないとな」
 せっかくの徳用袋だからなあ、お前が欲しくて何度も強請ったヤツだしな?
 そうそう買ってはやれないからなあ、こいつでじっくり味わってくれ。
 これだけあったら暫くはクッキー、食えるだろ?
 一日にどれほど食うかは知らんが、二日や三日じゃ、多分、食い切れないだろうしな。



 マーマレードの瓶に負けないサイズのガラス瓶。瓶の高さは十五センチは軽くあるだろう。
 その中にびっしり、色々な色や形のクッキーたち。割れたり欠けたりしているけれども、様々なクッキーが詰め込まれていて。
「こうやって瓶に詰めておけばな、袋と違って湿らないしな」
 食べる分だけ出したら蓋を閉めるんだ。そうしておいたら一ヶ月だって大丈夫だぞ。
「ありがとう! 大事に食べるよ、少しずつ。おやつは毎日、ママが用意してくれるしね」
 お腹が空いてるわけじゃないから、一日に二つか三つもあれば…。
 どのクッキーが美味しいの?
「うん? どれも美味いが、シナモンはちょっと変わった風味だぞ」
 黒砂糖ってヤツを使っているんだ、甘さにクセがあるってな。
「シナモンって…。どれ?」
「こいつだ、ここの四角いヤツだ。割れちまって四角じゃないけどな」
 それにアーモンドもホロリと崩れる感じがいいんだ、こいつがアーモンドクッキーだ。
 でもって、こっちの黒っぽいのがだな…。



 ココア風味や、チョコレートチップが入ったものやら。
 どのクッキーもハーレイのお勧めらしいけれども、原型を保ったものは無かった。それでも形の想像はつく。きっとこうだと、綺麗に仕上がればこうなのだと。
 前に貰った詰め合わせセットの時には無かったクッキー談義がとても嬉しい。
 ブルーが熱心に瓶を見ていたら、ハーレイが蓋に手を置いた。
「ちょっと食ってみるか?」
 どんな味だか、二つか三つ。上の方に入っているヤツをな。
「うんっ!」
 ハーレイも一緒に食べようよ。ぼくが一人で食べるのもいいけど、ハーレイと一緒。
 徳用袋を食べる生徒の時もそうでしょ、ハーレイ、一緒に食べてるんでしょ?



 ハーレイが瓶の蓋を軽く捻って開けて、それは素晴らしいティータイム。
 ケーキのお皿に割れたクッキーを何枚か出して、ハーレイと二人でつまんで食べた。クッキーの説明をして貰いながら、元はこうだと形を教えて貰いながら。
 もちろん瓶にはきちんと蓋がされていたから、瓶の中身は湿りはしない。ハーレイはクッキーを隙間なく詰めて来ていたのだろう、瓶にはまだまだギッシリとあって。
「な、割れたクッキーでも美味いだろう?」
 残りは楽しんで食うんだな。飯を食うのに差支えない程度にしておけよ。
「うん! 一人でコッソリ食べることにするよ」
 ママに見付かったら食べられちゃうしね、このクッキー。
 美味しいわね、って言われちゃったらおしまいなんだよ、アッと言う間に無くなっちゃうよ。



 この店のクッキーが美味しかったことは両親も覚えている筈だから危険だった。
 発見されれば「このクッキーでお茶にしましょう」と階下に運ばれ、それっきりになる。
 だから隠す、とブルーはクッキー入りの瓶をチョンとつついた。
 クローゼットに仕舞っておくよ、と。
 あそこならママも滅多に覗かないから、絶対に発見されないよ、と。
 その言葉通り、母が昼食を運んで来る前にクローゼットに突っ込んだ。
 ハーレイは「そんな所に隠すのか?」と笑ったけれども、かまわない。ベッドの下よりも安全な筈の隠し場所。クローゼットの扉を大きく開け放たない限り、隅っこまで見えはしないから。



(ふふっ、クッキー…)
 ついに手に入れた徳用袋の中身のクッキー。割れたり欠けたりしたクッキー。
 その夜、ハーレイが帰って行った後、歯を磨く前に一枚食べよう、とクローゼットから引っ張り出した瓶。どれにしようか、と思案しながら開けようとして。
(開かない…)
 固く閉まった瓶の蓋。こういう時には蓋を温めれば開くのだったか、と思ったけれど。
 生憎と蓋だけを温められそうなものは部屋には無い。布で擦って温めてみても開かない蓋。
(んーと…)
 力一杯、何度も捻って、手が痛くなるまで挑んだけれど。
 どう頑張っても開かなかったから諦めた。
 なにしろ瓶の中身はクッキー、洗面所に運んで蓋を湯で温める方法は使えないから。
 両親に知られずに出来そうな方法は、湯の他に思い付かないから…。



 悪戦苦闘して諦めた翌日、日曜日。
 訪ねて来てくれたハーレイと部屋で向かい合うなり、母の足音が階下に去るなり、ブルーは瓶をクローゼットから取り出した。
「ハーレイ、この蓋、開かないよ?」
 昨日、寝る前に一枚食べようとしたんだけれど…。
 蓋が固くて開かなかったよ、一枚も食べられなかったんだよ。
「そうか?」
 そいつは残念なことをしたなあ、家にあるのに食い損なったか。
 しかしだ、この蓋、そんなに固くはない筈だがな?



 ほら、とハーレイが蓋を捻ればポンと簡単に開いた瓶。
 ブルーは嬉々として中身を何枚かケーキの皿の上へ移すと、ハーレイに勧めた。
 これを食べようと、クッキーも二人で食べようと。
 ハーレイの家でしか食べられない筈の徳用袋のクッキーだから。
 割れたり欠けたり、お遣い物に持ってゆくにはお行儀の悪すぎるクッキーたちだから。
 そうして二人でまたクッキーを食べて、瓶の蓋はハーレイが閉めてくれた。
 「湿ると不味くなっちまうしな」と、ブルーがクッキーを皿に移すなり、手早くキュッと。
 そのハーレイと二人でクッキーをつまんで、残りが入った瓶はクローゼットの奥に片付けて。
 ハーレイの家に行った気分で味わったクッキー、徳用袋のクッキーたち。



(美味しかったな…)
 あのクッキー、とハーレイが帰って行った後でクローゼットから瓶を引っ張り出した。
 ハーレイと一緒に二度も食べたから、ますます特別になったクッキー。両親には内緒の宝物。
 どれを食べようかとガラス越しに眺めて、今夜こそ、と蓋に手を掛けた。
 宝物のクッキーを今夜こそ、一つ。
 ハーレイお勧めのシナモンもいいし、アーモンドのも美味しかった。チョコレートチップのも、ココア風味も、アーモンドとココアが混じったものも。
 心躍らせつつ蓋を捻ったのに、開いてくれない。どう頑張っても開かない蓋。
 あんなに楽々と開けていたのに、と大きくて逞しい褐色の手を思い浮かべた途端に気が付いた。
(ハーレイのせいだ…!)
 そういえば前に確かに聞いた。
 いつもハーレイが持って来てくれる、夏ミカンの金色のマーマレード。あの瓶の蓋も固かった。両親が苦労して開けているそれを、ハーレイは手だけでポンと開けてみせた。蓋を開けるのにコツなどは無いと、自分は捻っているだけだと。



(力持ち…)
 固くて開かないと評判らしい、夏ミカンのマーマレードが詰まった瓶。
 捻るだけで開けられる人間はハーレイ一人で、マーマレードを瓶詰めにしたハーレイの母でさえ父と二人で開けるという。二人がかりで、サイオンまでも乗せて。
 そのマーマレードの瓶を軽々と開けるハーレイが閉めてしまった蓋。「湿ると駄目だ」と固めに閉めておいた蓋。
 ブルーの力で開くわけがない。どう頑張っても開く筈がない。
(クッキー…)
 食べたいのに、と瓶を見詰めて肩を落とした。
 開けたいけれども、開かない瓶。自分の力では開けられない瓶。
 父に頼めば、開けてくれるかもしれないけれど。
(開けてくれても、食べられちゃうよ…)
 「開けた御礼に一つ貰うぞ?」で済むわけがない。「ママにも一枚」と言いそうな父。
 母と二人で一枚ずつ食べれば、もう間違いなく気付かれる。これは美味しいクッキーだと。形は不揃いでみっともなくても、味は素晴らしいクッキーなのだと。
 そうなったら二人は確実に思い出すだろう。ハーレイが前に持って来たのと同じものだと。
(気付かれちゃったら、みんなで食べようって言い出すんだよ)
 母がお茶を淹れ、父が器にクッキーを入れてティータイム。
 クッキーの瓶はそのまま階下に留め置かれて、二度と部屋には持ち帰れない。一人占めにはしておけない。
(それに、一人で食べられるチャンスがあったとしても…)
 ダイニングのテーブルで食べていたのでは、ハーレイの家に出掛けた気分になれない。あの家に招かれた気がするからこそ、このクッキーが欲しかったのに。



(仕方ないや…)
 クッキーはとても食べたいけれども、次にハーレイが来るまでお預け。
 瓶の蓋を開けて貰える時まで、暫くお預け。
 ガラス瓶越しにクッキーたちを毎日眺め続けて、水曜日にハーレイが来てくれたから。また瓶を出して来て「開けて」と頼んだ。
 クッキーを何枚かケーキが載った皿に移して、今度は自分で蓋を閉めたけれど。
「おいおい、駄目だぞ、そんな閉め方」
 もっと力を入れないとな。ギュッと閉めんと湿っちまうぞ。
 貸してみろ、と褐色の手が伸びて来て瓶を取り上げた。
 止める暇も無く、ハーレイの力で閉められてしまった瓶の蓋。
 悲劇は再び繰り返された。
 ブルーがどんなに頑張ってみても、瓶の蓋はビクともしなかった。



 開かない蓋と空しく戦い続けて、週末が来て。
 土曜日、訪ねて来てくれたハーレイにブルーはまた頼まざるを得なかった。蓋を開けてと、この瓶の蓋が開かないからと。
 瓶の蓋はいとも容易くポンと開いて、其処からクッキーを何枚か出して。
 「ぼくが閉めるよ」と、「湿ってもいいから」と自分の力で閉めたのだけれど。
「俺はそういうのは許せんな」
 寄越せ、きちんと閉めてやるから。
 湿ってもいいとは、何を言うんだ。それは食べ物を粗末にするってことだぞ、分かってるのか?
 いいか、クッキーはな、湿っちまったら美味くないんだ。しっかり閉めておいたら湿らん。
 美味いままで置いておけるというのに、湿ってもいいとは感心せんな。
 食い物が如何に大事なものかは、お前も承知している筈なんだがな?
 前の俺たちがアルタミラから逃げ出した後、その食い物のせいでどうなった?
 危うく飢え死にするトコだったぞ、前のお前がいなかったらな。
 船に載ってた食料だけでは、いつか終わりが来るんだからな。



 あの危機を覚えているだろうが、と言われたらもう反論出来ない。
 ハーレイの手が瓶の蓋を固く閉め直すのを見ているしかない。
 クッキーたちはブルーの手が届かない世界へ行ってしまって、ガラス瓶の向こう。美味しそうな姿は見えているのに、食べたくても瓶から取り出せない。
「これで良し、っと…」
 もう大丈夫だ、こうしてきちんと閉めておけばな。いつでも美味いのを食べられるぞ。
「でも、開かないし…」
 ぼくの力じゃ開けられないから、美味しいも何もないんだよ!
 どんなにクッキーが美味しくっても、ハーレイが家に来てくれた時しか食べられないし!
「馬鹿だな、お前。サイオン、あるだろ」
 そういう時にこそサイオンだってな、サイオンを使えば解決じゃないか。
「サイオン?」
 ハーレイ、ぼくがサイオンを上手く使えないこと、知ってるくせに!
 タイプ・ブルーだなんて名前だけだよ、とことん扱いが下手なんだよ…!



 蓋なんかとても開けられない、と言い返したら。
 出来るわけがない、と噛み付いたら。
「開けなくてもいいだろ、お前だったら」
 蓋にこだわるから困るってだけだ、要はクッキーが食えりゃいいんだろうが。
 瞬間移動で出せばいいのさ、とハーレイの指先がガラス瓶の表をピンと弾いた。
 蓋を開けなくてもクッキーは出ると、前のお前なら一瞬だったと。
 瓶の蓋はキッチリ閉められてしまい、クッキーたちは瓶の中。
 割れたり欠けたり、一つとして同じ形をしてはいない表情豊かなクッキー。
 ガラス瓶の中で笑いさざめくクッキーたち。
 開けてごらんと、此処から取り出して食べてごらんと。



 またハーレイに蓋をされてしまったガラス瓶。
 もちろんその夜は開けられないまま、日曜日が来てハーレイに「開けて」と泣きついた。瓶から出て来たクッキーたちを二人でつまんで、また蓋をされた。
 「しっかり閉めんと湿るからな」と、「食べ物は大事にしないとな?」と。
 そのハーレイが「またな」と帰って行った後の夜、挑んだけれども開かない蓋。ブルーの力では開けられない蓋。
(ハーレイ、蓋にこだわるからだって言ったけど…!)
 瞬間移動で出せるものなら苦労はしない。
 それが出来るのなら、思念波だって自由自在に操れる筈で、他にも色々とサイオンで出来る。
 前の自分がやっていたように、指さえ動かさずにこの部屋の模様替えだって…。
(うー…)
 食べたいのに、とガラス瓶の向こうを睨み付けても、動いてくれさえしないクッキー。
 瞬間移動で出て来るどころか、位置さえも変えてくれないクッキー。
(…シナモンも、隣のアーモンドも…)
 チョコレートチップも、と思い浮かぶものは味ばかり。
 美味しいクッキーの味は頭に蘇るけれど、それを口へと運ぶための技は出てこない。瞬間移動のコツもサイオンの力加減も、何一つ出ては来てくれなかった。



 ガラス瓶を睨んで瞬間移動を試み、蓋を開けようとしては格闘して。
 ブルーの努力は報われないまま、またハーレイが仕事帰りに訪ねて来た。週の半ばに。
 悔しいけれども、瓶の中身を食べたかったらハーレイに頼むしかないものだから。
 クローゼットの中から引っ張り出したら、ハーレイは瓶を見るなり大笑いした。
 「減っていないな」と、「瞬間移動も無理だったか」と。
「お前、食い物の恨みとか言っていたから、その一念でやってのけるかと思ったが…」
 出来なかったんだな、瞬間移動で出すというのも。一個も減ってはいないようだしな?
「そうだよ、だから開けてって言ってるじゃない!」
 ハーレイが蓋を開けてくれないと、ぼくはクッキー、食べられないんだ。
 これが食べたいな、って睨んでいたって、動いてさえもくれないんだもの…!
「分かった、分かった。開けてやるから」
 どう固いんだか、この蓋の何処が…。このくらいに閉めておくのは基本だ、でないと湿るぞ。
 徳用袋に入ったままで放っておいたクッキーみたいに、ほんの二日か三日ほどでな。



 あれはいかん、とハーレイは瓶の蓋を軽く捻って開けた。
 ブルーがどんなに頑張ってみても開かなかった蓋を、いとも簡単に片手でポンと。
 手が届くようになったクッキーたち。それをハーレイと二人分、とお菓子の皿に移していたら。
「結局、今日もそのコースってか、お前にプレゼントしてやったクッキーなんだが…」
 どうやら俺と二人で食うしか道が無いってな、これは。
 お前が一人で楽しむようには出来ていないな、このクッキー。
「…そうみたい…」
 ぼくの力じゃ開かないんだもの、ハーレイが蓋を閉めてくれたら。
 瞬間移動もまるで駄目だし、ハーレイに頼んで開けて貰った時しか食べられないんだよ…。
「ふうむ…。そういうことなら、このクッキー」
 諦めるんだな、徳用袋は。
 お前がどんなに食べたくっても、向いていないということだ。
 次にクッキーを土産に買うとしたらだ、お母さんたちにも充分渡せる綺麗なヤツだな、割れたりしてない箱入りのな。
 あっちだったら個別包装になってるんだし、箱の蓋を開けて放っておいても湿らんしな。



 徳用袋を買ってやるのはこれっきりだ、と言われたから。
 ブルーは慌てて「待って!」と叫んだ。
「徳用袋のクッキーでなくちゃ駄目なんだよ! ぼくが欲しいの、これなんだから!」
 ハーレイの家に行った気分で食べられるクッキーが欲しいんだってば、箱入りじゃなくて!
 割れたり欠けたりしてるクッキー、そういうクッキーが欲しいんだよ!
 瞬間移動で取り出せるように努力するからまた買って、と強請ったけれど。
 出来るものか、とハーレイは笑うし、事実、出来ないのがブルーだから。
 どう頑張っても出来そうにないのが現実だから。



「…徳用袋が欲しいのに…」
 このクッキーがとても気に入ってるのに、これっきり買ってくれないの…?
 これでおしまいなの、ねえ、ハーレイ…?
「うむ。諦めるんだな、こいつはお前向きじゃない」
 だからだ、当分お預けだってな。安心しろ、いつかは食える筈だぞ、俺の家でな。
 お前が客として訪ねて来る時のことを言ってるんじゃないぞ?
 結婚して、俺の嫁さんになって。
 家に来たガキどもに俺と一緒に「どうぞ」と御馳走出来る時が来たなら、たっぷり食えるさ。
「えーっ!」
 そんなに先まで駄目なの、ハーレイ?
 徳用袋のクッキーは結婚するまで食べられるチャンスは無さそうなの…?
「当たり前だろ、お前が俺の家に客としてやって来たなら、だ…」
 徳用袋の割れたクッキーなんかを出したら、親父やおふくろに酷く叱られちまう。
 それがお客さんに向かってすることなのかと、割れたクッキーとは何事だ、とな。



 徳用袋のクッキーは結婚するまで駄目だ、と諦めさせられたけれど。
 瓶に残ったクッキーたちを食べてしまえば、次のチャンスは何年も先になりそうだけれど。
 それでもハーレイも実の所はブルーに甘くて優しいから。
(上手く頼めば、また買って来てくれるかもしれないし…)
 諦めないでしっかり覚えておこう、とブルーはクッキーが入った瓶を見詰めた。
 割れたり欠けたり、箱に並べて店に出すにはみっともなさすぎたクッキーたちの群れ。
 けれども、それらに心惹かれる。
 よそゆきの顔をしたクッキーたちより、普段着の顔のクッキーたち。
(ハーレイの家に遊びに行ったら、普通はこっちが出て来るんだしね…?)
 だからこそ値打ちのあるクッキー。
 ハーレイの家に行った気分に、ハーレイに招かれた気分にしてくれる素敵なクッキー。
(それにハーレイと二人で食べたし、これが無くなるまでは二人で食べるんだし…)
 ハーレイに瓶を開けて貰って、二人で仲良く食べたクッキー。
 瓶が空っぽになってしまうまで、二人で食べるのだろうクッキー。
 こんなオマケまでついてしまったクッキーたちと一度限りでお別れだなんて、とんでもない。
 何かのタイミングで思い出したら、徳用袋を強請ってみよう。
 あれが欲しいと、あのクッキーが食べたいのだと。
 ハーレイの家でしか味わえないという、割れたり欠けたりしたクッキー。
 お行儀の悪いクッキーだけれど、あれをもう一度食べてみたいから買って来て、と…。




           クッキー・了

※ブルーが欲しくてたまらなくなった、徳用袋に入ったクッキー。手に入ったのに…。
 自分の力では開けられない瓶。ハーレイが来ないと食べられないなんて、失敗でしたね。
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(ふうむ…)
 久しぶりに、とハーレイはコーヒーを淹れながら考えた。
 ブルーの家に寄れずに帰って来たから、食後の時間はたっぷりとある。こんな夜には…。
 長らくやらなかったカフェ・ロワイヤル。
 小さなブルーと再会してからは、多分、一度も。
 ブランデーに浸した角砂糖に火を点け、溶けた砂糖を入れて飲むコーヒー。目で、舌で楽しめる洒落た飲み物。ゆっくりコーヒーを飲みたい時にはピッタリなのだが…。
(暖かかったからな)
 五月の三日にブルーと出会った。前の自分の記憶も戻った。
 それから季節は初夏へ、夏へと移り変わって、暖かいどころか暑すぎたほど。そういう季節には思い出さない、飲みたい気分にならない飲み物、カフェ・ロワイヤル。
 けれども、今の季節には合う。秋の夜長によく似合う。これから訪れる寒い冬にも。
 熱いコーヒーも悪くないのだが、ひと手間かけて楽しみたいならカフェ・ロワイヤル。



(豪快にやるのが俺流なんだ)
 専用のスプーンを置いているような店で出される、お洒落なソーサーつきのカップも来客用にと揃えてはある。しかし、それよりマグカップ。愛用の大きなマグカップがいい。
(寛いで飲むなら普段のカップがいいってな!)
 此処は自分の家なのだから。好きな時間にコーヒーが飲める場所なのだから。
 カフェ・ロワイヤル用のスプーンも要らない。
 マグカップの上に渡して置いてもバランスを崩さない、大きめのスプーンがあればいい。
 何度も家で作っているから、どのスプーンが一番使いやすいかも分かっているし…。
(うん、こいつだな)
 銀色のスプーンを一本取り出し、コーヒーを満たしたマグカップと一緒にトレイに載せた。
 それに角砂糖と、小さな器にブランデーを少し。
(後は、と…)
 カフェ・ロワイヤルにはこれだ、とトレイにそれを載せたら出発だ。
 リビングもいいが、やっぱり書斎。あそこの机がいいだろう。小さなブルーにプレゼントされた羽根ペンが置かれている机。ブルーと二人で写した写真も飾ってある机。
 其処が落ち着く、とトレイを手にして歩いて行った。
 この秋、初めてのカフェ・ロワイヤル。それを飲むならあの部屋がいいと。



 書斎に運んだマグカップ。それを机に置き、明かりを落とした。足元を照らす常夜灯だけ。
 カップの上にスプーンを渡して、角砂糖を一個、スプーンに載せて。
 その角砂糖の上からブランデーをそうっと注いでやる。スプーンが一杯になるだけの量を。
(ボトルから直接っていうのは駄目なんだよなあ…)
 最初の頃はそれで失敗したものだ。どうしてもついてしまう勢い、スプーンが傾いて落っこちてしまう角砂糖。カフェ・ロワイヤルにはなってくれずに、ただのブランデー入りのコーヒー。
 失敗を重ねて、諦めた。この部分だけは自分流では無理なようだと、店で供される時の淹れ方に倣ってやるしかないと。ブランデーを小さな器に移して、そこから静かに注ぐべきだと。
(何回、失敗したんだか…)
 スプーンごとコーヒーに落下して行った角砂糖は幾つあったのか。
 今ではすっかり慣れたものだし、そんな失敗も過去の笑い話になったけれども。
 角砂糖とブランデーを載せたスプーンは、マグカップの上で平衡を保っているけれど…。



 準備が出来たら、ライターの出番。
 煙草の類はやらないけれども、家には常に置いている。蝋燭などに火を灯したいならライターが無くては話にならない。今の時代でも、火を点けるためのライターはあった。
(…こいつはマッチじゃいけないんだ)
 今でもマッチはあるけれど。
 箱で擦れば火が点くマッチはレトロなアイテムとして人気だったし、自分も持っているけれど。
(その辺りは前の俺と似てるな)
 わざわざマッチを買いたがるというレトロ趣味。
 前の自分が木で出来た机や羽根ペンを好んだのとよく似ている、と頬が緩んだ。
 カフェ・ロワイヤルにもマッチが似合うと素人は思うだろうけれど。
 暗くした部屋で角砂糖に火を点けるのだったら、そういった道具が似合いそうだと考えがちではあるのだけれど。
(そいつは絶対、厳禁だってな)
 カフェ・ロワイヤルにはマッチは合わない。
 マッチの匂いが角砂糖に移ってしまうから。せっかくの風味を台無しにしてしまうから。



 ライターの火を角砂糖に近付け、火を点けて。
 そこから上がった青い炎に息を飲んだ。
(ブルー…!)
 前のブルーのサイオン・カラー。
 それを思わせる炎が揺れる。ブランデーが燃える青い炎が、角砂糖を包んだ青い炎が。
(前のあいつだ…)
 ブルーの色だ、と青い炎に魅せられた。
 暗い宇宙を駆けてゆく時、ブルーの身体を包んでいた色。青く輝くサイオンの光。
 その青を纏っていたブルー。前の自分が愛したブルー。
 小さなブルーは愛らしいけれど、前のブルーは気高く、そして美しかった。
 誰よりも愛したソルジャー・ブルー。メギドで逝ってしまったブルー…。



 炎が消えて、我に返って。
 溶けた角砂糖をコーヒーに入れて、部屋の明かりを点けた所でふと考えた。
(あいつと飲めば良かったなあ…)
 青い炎を上げるカフェ・ロワイヤルを、前のブルーと。
 机の引き出しの中、日記を上掛けに被せてやっている写真集の表紙に刷られたブルーと。
 『追憶』というタイトルがついたソルジャー・ブルーの写真集。表紙には青い地球を背景にした前のブルーの写真があった。
 正面を向いた、一番有名なブルーの写真が。悲しみと憂いを秘めた瞳のブルーの写真が。
 その写真集を出して、一緒にカフェ・ロワイヤルを楽しめば良かった、前のブルーと。あの青い炎を、前のブルーのサイオン・カラーを思わせる色を。
 失敗だったな、と思ったけれど。
(いや、あいつは…)
 コーヒーも酒も駄目だったな、と苦笑した。
 どちらも苦手で好まなかったソルジャー・ブルー。
 カフェ・ロワイヤルなどを飲めと言っても、きっと喜ばないだろう。顔を顰めるだけだろう。
 こんな飲み物はとても飲めないと、コーヒーと酒を合わせたものなど、と。
(あいつは飲みやしないよなあ…)
 嫌そうな顔が見えるようだ、と前のブルーを思い浮かべてみたのだけれど。
 これを見たならどんな顔をするのだろうか、と遠い記憶の中のブルーの、それらしい表情を探し求めようとしたのだけれど。



(そうだ、あいつが点けてくれたんだ)
 不意に蘇って来た記憶。思い出しさえしなかった記憶。
 前の生で飲んだカフェ・ロワイヤル。
 それを飲む時、前のブルーが角砂糖に火を点けてくれていた。いつも、いつも、いつも。
 最初はただの友達として。
 面白そうなことをしているから、とカフェ・ロワイヤルを飲む時は、いつも。



 遥か時の彼方、白いシャングリラで暮らしていた頃。
 青の間で好奇心一杯で尋ねたブルー。
「ハーレイ、何を始めるんだい?」
 コーヒーだってことは分かるんだけどね、ブランデーだのライターだのって…。
 ブランデーはともかく、コーヒーを飲むのにライターなんかが要るのかい?
「そのようです。こういう飲み方を見付けまして…」
 カフェ・ロワイヤルと呼ぶそうです。
 面白そうな飲み方ですから、あなたにもお見せしようかと…。まだ試してはいないのですが。
「ふうん…?」
 ぼくの分までは作らなくていいよ、コーヒーは好きじゃないからね。
 だけど見学させて貰うよ、カフェ・ロワイヤルとかいうものを。



 ブリッジでの勤務が終わった後のティータイム。
 ソルジャーだったブルーに一日の報告を済ませ、青の間で二人でお茶を飲むのが常だった。
 ブルーは紅茶で、自分もそれに付き合ったけれど、たまにはコーヒー。
 そんな日々の中、データベースで見付け出して来たカフェ・ロワイヤル。同じ試すならブルーの前で、とブランデーとライターを用意して行った。
 シャングリラにコーヒーの木は無かったから、代用品のキャロブのコーヒー。ブランデーも合成だったけれども、カフェ・ロワイヤルは作れる筈だと、それをブルーと二人で見ようと。



 ソーサーつきのカップにコーヒーを淹れて、カップの上にスプーンをそうっと渡した。その上に角砂糖を一つだけ載せ、小瓶に入れて来たブランデーを注ぐ。スプーンの縁まで、ひたひたに。
 青の間の照明は元々強くはなかったけれども、更に落として、それからライター。
 角砂糖に火を灯した途端に、上がった炎。青の間の光でも青と分かる炎。
「へえ…!」
 これは凄いね、角砂糖に火が点くなんて。
「綺麗な火ですね、ここまでとは…」
 百聞は一見に如かずと言いますが、こんなに美しい火だとは思いませんでした。
 もっと赤いかと、炎らしい色かと思ったのですが…。



 角砂糖を包み込んで揺れていた、青かった炎。
 ぼくの色だ、とブルーが笑った。
 ぼくのサイオン・カラーとまるで同じだと、角砂糖がタイプ・ブルーになったと。
 炎が消えた後、溶けて崩れた角砂糖を落としてかき混ぜて出来たカフェ・ロワイヤル。ブルーは味見だと飲みたがったものの、やはり一口で音を上げた。
「見た目は綺麗だったんだけど…。味はやっぱりコーヒーだよ」
 おまけにブランデーの味までするし…。いつものコーヒーよりも倍は酷いね、この味はね。
「そうでしょうか?」
 私には味わい深いのですが…。コーヒーも酒も好きですからね。
「君の好みは理解しかねるよ、こと飲み物についてはね」
 なんだってコーヒーなんかがいいのか、お酒なんかが好きなのか…。
 ぼくには全く理解出来ないし、分かりたいとも思わないね。
 でも…。



 次からはぼくが点けてあげるよ、とブルーは笑顔で言った。
 この飲み物は苦手で飲めないけれども、君が気に入ったと言うのなら、と。
「それに見た目は悪くないからね、カフェ・ロワイヤル」
 ぼくのサイオン・カラーと同じ色だし、角砂糖が燃えるというのも面白いし…。
 君が準備をするんだったら、次からはぼくが手伝うよ。
 もうライターは用意しなくていいからね。
 持って来なくてもいい、と笑みを浮かべたブルー。
 そしてサイオンで火を点けてくれた。
 カフェ・ロワイヤルの用意をする度に、指先一つで。角砂糖をスッと指差すだけで。
 自分は決して飲まなかったけれど。
 苦くて酒の味までするから嫌だと、この趣味は理解出来ないと。



 けれど、恋人同士になって暫く経った頃。
 身も心も結ばれ、二人きりで過ごす時には手袋をはめなくなったブルーの手に、ライター。
 カフェ・ロワイヤルの用意をしていた間に、何処からか取り出したらしいライター。
 ブルーならば瞬間移動で簡単に持って来られるとは思うけれども。
「それで点けるのですか?」
 サイオンではなく、と訊いてみれば。
「ひと手間かけたいと思うじゃないか」
 恋人のために、と返った答え。
 指先一つで点けていたのでは有難味が無いと、ここはライターを使うべきだと。
「あなたのサイオンでも同じですよ」
 サイオンを使って頂くのですから、同じことです。
 ライターよりも簡単だなどと、手間を惜しんでサイオンなのだと私は思いはしませんが…。
「でも、やってみたい」
 君のためだからね、ライターの力を借りてみたいよ。
 ぼくの手を使って操作しないと、ライターでは火は点かないんだしね。



 そうは言ったものの、ブルーは普段にライターを使いはしないから。
 火を点けたことなど無いに等しいから、おっかなびっくり、点けていたブルー。
 角砂糖に火が点いて炎が上がると、文字通り後ろに飛び退いた。
 手が焦げるとでも思ったのだろうか、その目は丸く見開かれていて、こう言ったものだ。
 やはりサイオンの方が楽だと、ライターで点けるのは少し怖いと。
「怖いだなどと…。ライターが怖いと仰るのですか?」
 それとも燃え上がった火の方でしょうか、ほんの小さな炎ですよ?
 蝋燭の炎とさほど変わらないと思うのですが…。
 もっと大きな炎であっても、あなたの身体を傷つけることなど出来ないでしょうに。
「うん。ぼくなら火傷はしないんだけどね」
 アルタミラでも散々に実験されたし、あそこから逃げる時にも炎をくぐって走っていたし…。
 今だってアルテメシアに降りる時には、炎を隠れ蓑にしたりもするよ?
 でも…、と手袋をはめていない白い右手に左手で触れていたブルー。
 手袋が無いと少し怖いと、怖いような気がするのだと。
 ソルジャーの衣装は炎や爆風からブルーの身体を保護するように出来ていたから、そう思うのも無理は無いだろう。手袋など無くとも大丈夫なのに、無いと頼りなく思えるのだろう。
 真空の宇宙を生身で駆けてゆける力を持っているのに、手袋などよりブルー自身が持つ防御力の方がずっと上なのに。



 けれども、手袋が無いことを怖がるブルー。それはブルーが守られたいと思っている証。
 ソルジャーとして守る立場に立ち続けて来たブルーだけれども、ブルーも同じ人間だから。弱い部分も持っているのだから、守りたい。守ってやりたい。
 だから、その手の甲に口付けた。恭しく。
「なんだい、ハーレイ?」
 急に芝居がかったことをして…。これは何かの悪戯かい?
「火を点けて下さった御礼ですよ」
 サイオンではなくて、ライターで。
 怖い思いをなさったのでしょう、そこまでのことをして下さった御礼をさせて頂きました。勇気溢れる、あなたの右手に。
「ぼくの右手に…?」
 君が御礼を言ってくれるんだ、ぼくは火を点けただけなのに。
 サイオンじゃなくてライターだったし、火を点けたのはライターなんだけれどね…?



 手の甲への口付けが本当に嬉しかったのだろう。
 それからもカフェ・ロワイヤルの用意をする度、怖いと言いつつライターで点けていたブルー。
 火が上がると慌てて逃げていたけれど、サイオンはたまにしか使わなかった。
 ひと手間かけたいと、君のためにとライターにこだわっていたブルー。
 カフェ・ロワイヤルは飲まなかったけれど。
 苦くて酒の味もするからと、味見さえも滅多にしなかったけれど。
(今のあいつなら…)
 小さなブルーなら、どうなるのだろう?
 前と同じにコーヒーが苦手な小さなブルー。酒が飲める年でもないブルー。
(しかしだ、思い出したなら…)
 またライターを持ち出すのだろうか、そして怖いと騒ぐのだろうか?
 悪戯心が頭を擡げる。
 明日は土曜日だから、やってみようか、ブルーの家で?
 前のブルーが火を点けてくれたカフェ・ロワイヤルを、小さなブルーの目の前で。



 次の日、午前中からブルーの家に出掛けて、ブルーと二人でのんびり過ごして。
 両親も交えての夕食の後で、ブルーの母に頼んだコーヒー。小さなブルーはコーヒーが駄目だと分かっているから、自分の分だけ。
 カフェ・ロワイヤルをして見せたいので、用意をお願い出来ますか、と。
 ソルジャー・ブルーとの思い出です、と、シャングリラでもやっていたのです、と。
(嘘をついてはいないしな?)
 そう、全くの嘘ではない。
 前のブルーと友達同士であった頃から、カフェ・ロワイヤルを飲んでいたのだから。
 火を点ける道具が途中で変わってしまっただけで。
 前の自分とブルーとの仲が、恋人同士に変わっただけで…。



 夕食を食べたダイニングから二階のブルーの部屋に戻って、待っている間に用意が出来て。
 ブルーの母がトレイにコーヒーの入ったカップと、紅茶のカップとを載せて来た。
 ソーサーつきのコーヒーカップの隣に置かれたブランデー入りの器や、大きめのスプーン。
 それらを並べた母が「ごゆっくりどうぞ」と出て行った後で、ブルーが紅茶を前にして訊いた。
「カフェ・ロワイヤルって、何?」
 コーヒーだろうけど、何か特別なコーヒーなの?
「忘れちまったか?」
 前のお前は何度も見ていた筈だがなあ…。俺が飲むのを。
 手伝ってもくれていたんだけれどな、お前は覚えていないかもなあ…。



 カップの上にスプーンを渡して、角砂糖を載せて。
 ブランデーを注いで準備する間に、どうやらブルーは思い出したらしく。
 部屋の明かりを消して常夜灯だけになった途端に、サッとライターを手に取った。
「ぼくが点けるよ」
 点けてあげるよ、前のぼくがいつも点けていたでしょ?
 ハーレイがカフェ・ロワイヤルを飲みたい時には、いつだって、ぼくが。
「怖いくせに」
 火が点いた途端に逃げていたくせに、チビのお前に点けられるのか?
 前のお前でも怖がったんだぞ、もっとデカイ火でも軽くシールド出来たくせにな。
「それは覚えているけれど…。でも…」
 ライターで点けるの、ぼくだったよ。前のぼくもライターで点けてたってば、怖くっても。
 ぼくの係、と譲らなかったブルーだけれど。
 ブランデーが染み込んだ角砂糖にライターで火を点けたけれども。
「火…!」
 悲鳴にも似た声が上がって、引っ込められた小さな手。
「ほら見ろ、やっぱり…」
 怖いんだろうが、そいつは一気に燃え上がるからな。アルコールだけに早いんだ。



 しかし角砂糖に火は点いた。
 コーヒーカップの上で青い炎が揺らめいている。角砂糖を包んで溶かしながら。
「綺麗な青だね…」
 ちょっとビックリしちゃったけれども、とっても綺麗。
「お前の色さ」
 前のお前のサイオン・カラーはこいつに似ていた。お前も自分の色だと言ったぞ、この色がな。
「そうだけど…。そう言ったけれど…」
 今のぼくには出せない色だよ、サイオンが上手く使えないから。
 こんなに綺麗な青が見えるほどの、強いサイオンは出せないみたい…。
「そうらしいな?」
 飛べないどころか、思念波も上手く使えないレベルと来たもんだ。
 前のお前と全く同じなタイプ・ブルーに生まれたくせにな。



 火が消えて、明かりをもう一度点けて。
 崩れた角砂糖をコーヒーに溶かし込んでいたら、ブルーが呟く。
「あれがぼくの色…」
 青い火の色とおんなじ色…。
「そうさ。多分、今のお前には出せない色がだな」
 頑張ってみても、前のお前と同じってわけには行きそうにないし…。
 しかしだ、今度のお前はそれでいいんだ。守らなければならないものなど無いんだからな。
 俺が何度も言っているだろ、今度は俺がお前を守るんだ、って。
「うん…」
 それはとっても嬉しいけれども、ハーレイに守って欲しいけど…。
 でも、とブルーはカフェ・ロワイヤルが入ったコーヒーカップを見詰めた。
 サイオンで点火は無理だけれども、今度も点けてあげたいと。
 ハーレイがカフェ・ロワイヤルを作る時には、ライターで自分が火を点けるのだと。
 今日もなんとか点けられたのだし、これからだって、と。



「ハーレイのために点けてあげたいよ」
 だって恋人なんだから、と差し出された手。小さな白い手。
 キスが欲しいと、この手の甲にと。
 いつもハーレイはキスをくれたと、前の自分がライターで火を点けた時にはいつも、と。
「そこまで思い出しちまったのか…!」
 ライターで点けたってトコまでじゃなくて、そんなのも思い出したのか…!
「うん、思い出した。ちゃんとライターで火を点けてあげたよ」
 だからちょうだい、ハーレイのキス。
 手の甲だったら唇じゃないし、貰えそうだと思うんだけど…。駄目…?
「なんだってチビの手の甲なんぞに俺がキスしないといかんのだ!」
 お前へのキスは頬と額だけだ、何度もそう言った筈だがな?
 手の甲は頬でも額でもないし、当然、駄目だと決まってるってな。
「ハーレイのケチ…!」
 ぼくは頑張って火を点けてたのに、ハーレイ、御褒美くれないんだ?
 チビだって言うだけで御褒美も無しで、ハーレイだけ美味しくカフェ・ロワイヤルを飲むって、あんまりじゃない…!
「知らんな、お前が勝手にやったんだしな」
 どうしても御褒美を寄越せと言うなら、味見させてやるが。
 美味いぞ、お前が火を点けてくれたカフェ・ロワイヤル。飲むんだったら分けてやるがな?
「そんな御褒美、要らないよ!」
 前のぼくだって苦手だった飲み物、ぼくが飲めるわけないじゃない!
 酷いよ、ハーレイ、チビだと思って馬鹿にして…!



 小さなブルーは膨れたけれども、放っておいた。
 手の甲に恭しくキスを贈るにはまだ早すぎる、小さなブルー。十四歳にしかならないブルー。
 素知らぬふりをしてカフェ・ロワイヤルのカップを傾けていたら、赤い瞳に見詰められて。
 いつかハーレイと結婚したら、とブルーが強請る。
 ライターで火を点けてみていいかと、キスをくれるかと。
「ハーレイがカフェ・ロワイヤルの準備をしてたら、火を点けていい?」
 ちゃんとライターで火を点けてあげるから、手の甲にキスをしてくれる…?
「結婚した後なら、別にかまわないが…」
 キスは駄目だと止める理由も無いからな。
 火を点けてくれるというのも大いに有難いがだ、そいつは俺からキスを貰うためか?
 手の甲にキスを貰いたいから、お前が火を点けにやって来るのか…?
「ううん、そういうつもりじゃないよ」
 もちろんキスは欲しいけど…。
 今のぼくはサイオンでは火を点けられないから、どうしてもライターになっちゃうんだよ。
 ちょっと火傷が怖いけれども、頑張ればきっと上手になるよ。
 逃げなくっても、慌てなくっても、角砂糖に火を点けられるようになってみせるよ。



 そうなれるように練習するよ、と微笑まれた。
 ハーレイのために、と。
「だって、ハーレイのためなんだもの。前のぼくだってそう言っていたよ」
 ひと手間かけたいって、恋人のためだからそうするんだ、って。
 サイオンで一瞬で点けていたのを、ライターに切り替えて頑張ってたもの、前のぼくだって。
「うーむ…。お前が練習なあ…」
 どうしてもやりたいと言うんだったら、止めはしないが。
 キスだってきちんと贈ってやるがだ、気を付けて練習してくれよ?
 お前は前のお前と違って、小さな火だって避けられそうにないんだからな。



 強大な防御能力を持っていながら、手袋が無いと火を怖がっていたソルジャー・ブルー。
 前の自分と二人きりの時だけ、手袋を外していたブルー。
 けれども今のブルーは手袋などははめていなくて、今も小さな白い手が見える。
 いつかは前と同じに華奢で細い指の、それは美しい手になるのだろうけれど。
 今はまだ幼さが残る子供の手。十四歳の子供に似合いの手。
 この手が大きく育ったところで、サイオンの扱いが上達するとは思えない。前のブルーと同じになるとは思えない。
 ライターを持って火を点ける時に、失敗したなら火傷しそうな手なのだけれど。
 角砂糖と一緒に炙られてしまって「熱い!」と大騒ぎしそうだけれど。



(…そいつもいいかな)
 何度か失敗をやってしまって、痛い目に遭ってもブルーは懲りはしないだろう。
 頑固な所は前のブルーと変わらないから。こうと決めたら、きっと譲りはしないだろうから。
 おっかなびっくり、ライターで火を点けてくれるブルー。
 カフェ・ロワイヤルは飲まないくせに。
 苦い上に酒の味までがすると、自分は決して飲まないくせに。
(それでも、きっとこいつなら…)
 目の前で瞳を輝かせている小さなブルー。
 ハーレイのために練習するのだと、ライターを持って頑張るのだと決意しているブルーならば、きっと本当に点けてくれるだろう。
 カフェ・ロワイヤルを飲もうと準備する度に、火傷しながらでも角砂糖に火を。
 自分は飲めないと、それは苦手だと、言いつつも味見するのだろう。
(でもって、苦いと文句を言うんだ)
 自分には理解出来ない趣味だと、とんでもない味の飲み物だと。
(そうなった時は、口直しをさせてやらんとな…?)
 ブルーが好きそうな甘いもの。
 角砂糖でもいいし、キャンディーでもいい。それを口へと落とし込んでやって、ブルーの口から苦さが消えるのを待ってやる。
 カフェ・ロワイヤルを味わいながら、ブルーを見守り、待っていてやる。



 そうして、笑顔が戻ったならば。
 もう苦くないと笑みが戻って来たなら、顎を捉えて、キスを交わして。
 甘い甘い二人きりの夜が始まる。
 カフェ・ロワイヤルの苦味など欠片も残らない、甘い甘い夜が。
 そんな夜を二人で、何度も、何度も。
 青い地球の上で、いつまでも二人、何処までも共に。
 今度こそ二人離れることなく、何度も何度もカフェ・ロワイヤルの角砂糖に火を灯しながら…。




           角砂糖の火・了

※前のブルーが、火を怖がりながらも使っていたライター。ハーレイのためにと。
 生まれ変わったブルーも頑張りましたが、ご褒美のキスは未来にお預けらしいです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




シャングリラ学園、今日も平和に事もなし。梅雨入りしたものの、それはそれで楽しみようもあるというもので…。今日もホタル狩りに出掛けようかなんていう話をしながら会長さんのマンションへ。ええ、週末の土曜日です。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
雨は夜には上がるみたい、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。
「雨が上がったらホタルさんを見に行くんだよね?」
「そのつもりだが…」
親父にはちゃんと断って来た、とキース君。夜のお勤めに出られないと言っておいたようです。週末は大抵サボッてるくせに、毎回、毎回、律儀に断るとは素晴らしいですが…。
「俺は一応、副住職だしな? 法事の入りやすい週末に遊び回るとなれば謝っておかんと」
「うんうん、それは坊主の基本だね」
会長さんが「頑張りたまえ」と激励を。
「そんなキースを力づけるためにも、今夜はホタル狩りと洒落込みたいねえ。でもまあ、お天気次第だし…。いつものようにのんびりいこうよ」
「あのね、おやつ、ブルーベリーチーズケーキだよ!」
食べて、食べて! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。飲み物も揃って、みんなで早速パクパクと。外は雨でも会長さんの家は居心地最高、ワイワイとやっていたのですけど。
「ちょっといいかな?」
「「「は?」」」
会長さんの声が背後から。でも目の前に会長さん。…あれ?
「今日はお願いがあるんだけれど…」
「「「!!?」」」
なんだ、と振り返った先に紫のマントのソルジャーが。早くもおやつを嗅ぎ付けて来たか、はたまた夜のホタル狩りの方がお目当てか。来たぞ、と身構える私たち。お願いが何か知りませんけど、どうせ却下は不可能ですよ…。



「悪いね、御馳走になっちゃって」
ソルジャーはさも当然のようにブルーベリーチーズケーキを頬張りつつも、なんだかいつもよりも腰が低めな感じ。これは相当に恐ろしい「お願い」が来るに違いない、と思ったのですが。
「「「ジャガイモ!?」」」
「そう、ジャガイモ」
植えられる場所は無いだろうか、と真顔のソルジャー。
「ぼくの世界のシャングリラでちょっと色々あってね…。今、ジャガイモが作れないんだ。だけどジャガイモはとても人気の食材で…。栄養価も高いし」
「そりゃそうだろうね、主食にしていた国だってあるし」
会長さんがそう応じると。
「分かってくれた? ジャガイモ無しのシャングリラなんて考えられないと言うか、ジャガイモが無ければ大変と言うか…。今はまだ貯蔵してある分があるんだけれども、もって二ヶ月」
そこでジャガイモが底を尽くのだ、とソルジャーは至極真面目な顔で。
「今すぐにこっちで栽培出来ればジャガイモを確保出来るんだよ。何処かに空いた畑は無いかな」
「いっそジャガイモを買い付けたら?」
それが早い、と会長さん。
「ジャガイモは収穫までに三ヶ月ほどはかかる筈だよ、二ヶ月じゃとても間に合わない。だけどこっちは春に植えたジャガイモが採れる時期だし、買い付けるんなら名前くらい貸すよ」
ただし代金は自分で払え、と会長さんは突き放しました。
「どれだけ要るのか分からないけど、ジャガイモの代金くらいはノルディが喜んで支払うさ。ぼくは絶対、払わないけどね。というわけで、はい、解決」
買いに行って来い、と会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に店の名前を確認中。新鮮な野菜を買うために時々出掛けて行っている卸売市場の野菜のお店らしいのですけど…。
「かみお~ん♪ えっとね、野菜を扱う市場が入っているのが此処で…」
御親切にも紙に地図を描き始めた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。何棟もの大きな建物が並ぶ卸売市場の地図らしいですが、ソルジャーは。
「気持ちは有難いんだけど…。種イモが無駄になってしまうのはマズイ。畑さえ貸してくれればそれでいいんだよ。1ヘクタールくらい」
「「「1ヘクタール…」」」
百メートルかける百メートルで1ヘクタールで三千坪。咄嗟に想像つきませんけど、それだけの広さでジャガイモを作ると?



「どうしてもジャガイモでなきゃいけないのかい?」
ジャガイモが無ければサツマイモを食べればいいじゃない、と女言葉の会長さん。何処ぞの女王様だか王妃様だかが仰ったという名文句のパクリですけども…。
「ジャガイモでなければ駄目なんだよ!」
種イモもある、とソルジャー、真剣。
「それに成長促進用の肥料なんかもあるからね。二ヶ月あったら収穫可能! 種イモを無駄にしたくはないから、何処かに畑…」
「うーん…。異常な早さで成長するジャガイモを植えるとなると…」
その辺の畑は無理があるか、と会長さんは考え込んで。
「マツカ、畑をなんとか出来るかい? できれば人里離れた場所で1ヘクタール」
「…畑ですか?」
マツカ君は携帯端末を取り出し、執事さんと話し始めました。
「ええ、そう。人目につかない場所で1ヘクタール。…えっ、いつからって…」
いつからですか? とソルジャーに問い合わせ。
「使えるんなら直ぐにでも! 場所さえ分かれば一人でなんとか」
「直ぐ使いたいって…。はい、はい…。あ、じゃあ、そういう方向で手配をお願いします」
よろしく、と終わった執事さんとの電話。畑は確保出来たのでしょうか?
「あったようです、ちょうどいい畑。アルテメシアの北の山あいの方になりますが…。なんでもお茶を栽培するとかで整備したものの、栽培予定だった人が旅に出たそうで」
「「「旅?」」」
「お茶の視察の旅だそうです、茶畑は来年までお預けだとか」
マツカ君曰く、この国で最初にお茶の木を植えて栽培が始まったのがアルテメシアの北の山沿いのお寺。その後、お茶の栽培はアルテメシアの南の方へと移ってしまって、お茶といえば誰もが思い浮かべるほどの一大産地となっていますが…。
「北の方でのお茶栽培は廃れたんですよ。それを村おこしでやってみるか、という話になって、その辺りに生えていたお茶の木をDNA鑑定して貰ったら、この国の何処とも一致しなくて」
「「「ええっ!?」」」
「もしかすると最初に持ち込まれたお茶の木の子孫なのかも、ってコトなんです。そうなるとプレミアがつきますからねえ、お茶の本場で確認すべし、と」
栽培予定だった人はお茶の本場の中華な国へDNA鑑定用のサンプル集めに旅立ったとか。というわけで畑はそのまま置いてあるのだ、という結末。



「お茶の栽培となると色々とお金がかかりますしね、父が出資をしてるんですよ」
ゆえに放置中の畑もマツカ君のお父さんの土地。お茶の栽培が始まるまではどう使おうが勝手らしくて、蕎麦でも植えるかという話になっていたとのこと。
「空き地だったら蕎麦もいいですけれども、使いたいなら何でも適当に植えてくれれば、と言っていました。ヒマワリだろうがコスモスだろうが」
「いや、ぼくはジャガイモさえ植えられれば…。それじゃ借りてもいいんだね?」
「はい。まずは育苗用に1ヘクタールってことで切り開いたそうで、周りには人家も田畑も無いらしいですよ」
いずれは一面の茶畑にするのが目的の場所。元からの田畑を買収するよりも山林開拓、手始めに育苗用のスペースを1ヘクタール。あつらえたようにソルジャー向きの畑です。
「ありがとう、マツカ! これでシャングリラのジャガイモ事情が改善されるよ」
「お役に立てて何よりです。直ぐに使うと言っておきましたから、今日中に耕してくれるそうですよ。雨が降っていても農作業のプロはプロですからね」
元々が「蕎麦でも植えるか」だっただけに、軽く耕してはあったのだとか。ジャガイモ用に耕し直して、明日には使える畑が完成。ソルジャーは感激の面持ちで。
「言ってみるものだねえ、ジャガイモ畑! ところで明日の天気はどうかな」
「晴れそうだよ?」
今夜はホタルを見に行くんだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「そっか、晴れならジャガイモを植えるにはピッタリだよね」
頑張るぞ! とソルジャーがグッと拳を握った所で気が付きました。まさかジャガイモの植え付けだとか、収穫だとか。私たち、手伝う羽目になるとか…?
「えっ、その点は別に迷惑をかける気は…。植えるくらいはサイオンでパパッと一瞬だしね? その後の世話とかもシャングリラ流でガンガンやるしさ」
促成栽培用の肥料を入れて、除草も農薬とはちょっと違った専用のものがあるとかで。
「こっちの世界の生態系に影響が出ないよう、きちんと気を付けてシールドするから! もちろん畑も収穫の後でしっかり後始末!」
御心配なく、との言葉でホッと安心。1ヘクタールもの畑でジャガイモの植え付けだなんて、楽しくもなんともないですしね?
「植えるのは楽しくないだろうけど、収穫の方もパスなのかい?」
ソルジャーの問いに、「うーん…」と悩んで、時期によってはやりたいかも、という結論に。夏休みの間の暇な日だったら、レジャーを兼ねてチョチョイと掘るとか、そういうの~。



その日の夜はソルジャーも一緒にホタル狩りへとお出掛けで。例の畑は夕方までにマツカ君の家の執事さんから「準備が出来ました」と連絡があって、ソルジャーを現地まで案内がてらの瞬間移動で見学して来ましたが…。
「ブルーがやってるジャガイモ畑は順調らしいね?」
今日も見て来た、と会長さん。夏休みが近付き、暑さもググンと増して夏真っ盛り。放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋はクーラーも効いて快適ですけど、外はうだるような真夏日です。
「あの畑か…。あいつが真面目に農業とはな」
キース君の言葉に、ジョミー君が。
「なんかさあ…。あれでもホントにソルジャーなんだね、わざわざジャガイモ作りだなんて」
「普段の言動からは全く想像つきませんよね」
シロエ君も感動しています。
「食料事情の改善のためにソルジャー自らイモ作りですか…」
「ぼくも見習わなきゃいけないかも、って気がしてくるよ」
あのイモ畑を見る度に、と会長さん。
「いくらサイオンを使ったにせよ、1ヘクタールもの畑で種イモの植え付け! その後も真面目に世話をしてるし、今月の下旬辺りには収穫らしいよ」
「へえ…。ホントに二ヶ月で採れるのかよ?」
サム君が「すげえ」とカレンダーで日付を数えて確認。
「マジで二ヶ月切ってるよな、それ。人目につかねえ場所って注文、正しかったぜ」
「畑に人が近付かないよう、シールドもしているみたいだよ。いやもうホントに頭が下がるよ」
まさかあそこまで真面目だったとは、と会長さんもソルジャーを見直しているらしく。
「この際、収穫くらいは手伝うべきかな、って本気で思うね」
「だよねえ、サイオンで一発収穫OKなんじゃないかなって気もするけれど…」
ちょっと手伝ってあげたいよね、とジョミー君。キース君も大きく頷いています。
「今月の末なら夏休みのスケジュールさえ上手く組めばな…。俺も手伝いのためなら卒塔婆書きを頑張りまくって時間を作ろう」
「それじゃ、みんなで手伝うかい? ブルーもきっと喜ぶよ」
ハーレイも動員してしまおうか、と会長さんがニコニコと。
「ぼくと一緒にジャガイモ掘りだと言えば簡単に釣れるしね? 額に汗してジャガイモ掘りなら、あのガタイは充分役に立つ!」
よし! と会長さんの一声、ジャガイモ掘りを手伝うことになりました。教頭先生も引っ張り出しての農作業。今年の夏休みは一風変わったものになりそう…。



夏休みに突入すると柔道部の合宿とジョミー君とサム君の璃慕恩院での修行体験。それが済んだらマツカ君の山の別荘にお出掛けをして、戻って来て二日後がジャガイモ掘りの日となりました。暑さがマシで、快晴という頼もしい予報だったからです。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
お弁当とか出来ているよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大はしゃぎ。私たちは会長さんのマンションに集合、其処から瞬間移動でジャガイモ畑へ出発予定。なにしろシールドで隠されている秘密のジャガイモ畑ですから、マイクロバスとかで移動はちょっと…。
「もうすぐハーレイも来ると思うよ、あっ、来たかな?」
会長さんの声が終わらない内にチャイムの音が。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が玄関へ跳ねてゆき、教頭先生と一緒に戻って来ました。
「おはよう、みんな揃っているな」
「そりゃねえ、お手伝いをするわけだしね? 時間厳守さ」
じきにブルーがやって来る筈、と会長さんが眺めた時計は午前八時ちょうど。空間がユラリと揺れて、「こんにちは」とソルジャー登場で。
「ぼくのハーレイも今日は手伝いに来てくれるんだ。一足先に畑に行って見回り中でね」
「なるほどねえ…。シャングリラのためのジャガイモだからだね」
「そう! キャプテンたるもの、食料の確保も仕事の内だし」
キャプテン、どんな作物がいつ採れるのかも把握しなくてはいけないそうです。同じキャプテンでも教頭先生の場合はクルーにお任せ、今、農場に何があるのかも知らないらしくて…。
「いかんな、こんなことではな…。私も真面目に報告書を上げさせるべきだろうか?」
「無理、無理! 却って現場の負担になるよ」
会長さんが即座に却下。
「君に提出するための報告書を作る時間があったら、農作業! 牛にブラシをかけてやるとか!」
そうして美味しい肉が出来る、という意見は至極正論。ソルジャーの世界と違って私たちの方のシャングリラ号は同じ自給自足でも楽しくリッチに、お肉も美味しく出来てなんぼで。
「現場のクルーは熟練だしねえ、君が迂闊に口を出すより放置が一番!」
「…そうか、そうかもしれないな…」
「というわけでね、その分、ブルーのシャングリラのために頑張りたまえ」
畑でジャガイモをガンガン掘るべし、と会長さん。教頭先生は「うむ」と頷き、ソルジャーも「それじゃ行こうか」と。そのソルジャーは何処で買ったかツナギの作業服、ホントに真面目にやってますねえ、ジャガイモ作り…。



会長さんとソルジャー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の青いサイオンで全員揃って瞬間移動。お弁当もしっかり一緒に移動した先は山林の中にパッと開けたジャガイモ畑。収穫期だけに葉っぱや茎は黄色っぽく枯れて、ちょうど良さそうな感じですけど。
「ブルー、どれも充分に掘れそうです!」
キャプテンが大きく手を振りながら、畑の奥からやって来ました。これまたツナギの青い作業服、農業にかける意気込みが分かるというものです。ソルジャーは「うん」と頷いて。
「それじゃジャガイモ掘りだけど…。ハーレイ、お手本をよろしく頼むよ」
「お任せ下さい!」
では、とキャプテンが畑の脇に置いてあった荷物の中から取り出したものは。
「「「???」」」
なんで野球の審判なのだ、と言いたくなるような顔をガードする審判用マスク。更に肩と胸をガードするチェストプロテクターと足用のレッグガードも装着。
「…な、何なんです、アレ?」
シロエ君が指差しましたが、答えられる人はいませんでした。ジャガイモ畑で野球をするとも思えないのですが、とにかくキャプテンは審判スタイル。
「それでは行ってまいります」
「うん、気を付けて」
キャプテンがジャガイモ掘り用のフォークみたいな農機具を持って畑へと。直ぐ側で掘るんだとばかり思っていたのに、ずんずん奥へと歩いて行って…。
「ブルー、この辺りでいいですかー!?」
「それで充分!」
「では、始めます!」
ザックとばかりにフォーク、そう、正式名称フォークとかいう農機具が畑にグッサリと刺され、土の中からジャガイモがゴロリ。てっきりスコップで掘るんだと思っていたんですけど、ああいう道具を使っていいなら楽そうです。
「梃子の原理というヤツか…」
面白いほどジャガイモが出るな、とキース君。ゴロンゴロンと掘り上がったジャガイモ、一株でかなりの数があります。キャプテンはそれを軍手をはめた手でヒョイヒョイと拾って袋へと。
「完了でーす!」
「うーん…。それじゃ見本になってないよね!?」
「なってませんねー!」
なんとも謎な会話が交わされ、キャプテン、隣のジャガイモの株をザックザックと。掘り方は分かったと思いますけど、まだ掘るんですか?



お手本としてはイマイチだったらしいジャガイモ掘り。キャプテンは別の株にチャレンジ、いとも簡単にザックと掘り上げ、袋の中へヒョイヒョイヒョイ。
「まだ駄目ですねー!?」
「もう一本だねー!」
またまた交わされる謎の会話と、次の株に挑むキャプテンと。いったい何をやってるんだか…。ザックザックでヒョイヒョイヒョイ…って、ええっ!?
「「「うわーっ!!!」」」
ドッゴーン!!! と響き渡った爆発音と、もうもうと上がる土煙。何が起こったのかと目を剥いていれば、衝撃で転がったらしいキャプテンがムクリと起き上がって。
「当たりでしたーーーっ!」
「ご苦労様ーーーっ!」
今度こそ謎としか言いようのない妙な会話で、キャプテンはフォークを右手に、左手にジャガイモ袋を持って私たちの所へ戻って来ました。
「ブルー、とりあえずこれだけ掘りましたが」
「上等、上等。やっぱりジャガイモにはまるで影響ないみたいだねえ?」
「同士討ちはしない仕様でしょう。種の存続に響きますから」
「そうなんだろうねえ…」
全部ドッカンだと滅びてしまうし、と言われましても。何がドッカンと爆発したのか、全然サッパリ謎なんですが…?
「ああ、あれかい? 爆発したのはジャガイモだけど」
「「「ジャガイモ!?」」」
なんでそんなモノが爆発するというのでしょう? 有り得ないですよ、ジャガイモですよ?
「なんでジャガイモが爆発するのさ!」
会長さんが即座に突っ込み、ソルジャーがケロリとした顔で。
「ジャガイモだから」
「「「はあ?」」」
それって答えになってませんから! もちろん会長さんも納得なんかするわけがなくて。
「どういうジャガイモ!?」
「こういうジャガイモ!」
畑一面、1ヘクタール! とソルジャー、得意げ。もしやこのジャガイモ、普通じゃないとか? 冗談抜きで爆発するとか、まさか、まさかね…。



「…そもそも最初は事故だったんだよ」
それでジャガイモを作れなくなってしまったのだ、とソルジャーは三千坪ものジャガイモ畑を眺めて溜息をつきました。
「ぶるぅが悪戯しちゃってねえ…。そうとも知らずに普通に育てて、収穫の時に爆発してさ。爆発自体が悪戯なんだと思った農作業係のクルーは作業続行、お蔭で怪我人続出ってわけ」
「もしかしなくても、本当にジャガイモが爆発するわけ?」
会長さんの問いに、ソルジャーは「うん」と。
「さっきハーレイがやって見せたように、ドッカンと派手に大爆発だよ。ハーレイは身体が頑丈な上に、プロテクターもつけてたしね? 尻餅程度で済むんだけれど…」
普通のミュウだとそうはいかない、と嘆くソルジャー。
「吹っ飛ばされた衝撃で全身打撲とか、失神だとか。すっかりトラウマになってしまってジャガイモは当分見たくないとか、爆発ジャガイモが駆逐されるまで畑では作業したくないとか…」
「当然だよ!!!」
そんな目に遭って誰が畑に出るものか、と会長さんは眉を吊り上げ。
「そのジャガイモを植えたわけだね、1ヘクタールも! どういうつもりで!」
「いや、君たちならレジャー感覚で掘ってくれるかと…。種イモだってもったいないし」
それに本当にジャガイモが底を尽きそうなのだ、とソルジャー、其処は本当らしく。
「種イモが爆発ジャガイモだと分かってるから誰も作業をしたがらない。普通のジャガイモと入れ替えるから、と言ってみたけど腰が引けてて、どうにもこうにも」
だから自分で作ることにした、とソルジャーは珍しく指導者の顔。
「ソルジャーのぼくが真面目に栽培したなら、現場を放棄して逃げたクルーは敵前逃亡、職務怠慢ということになる。しかも爆発ジャガイモだしねえ、ぼくが育てたジャガイモは!」
真っ当なジャガイモでも育てたくないなどとは言わせない、とソルジャーが言えば、キャプテンも隣で「そのとおりです」と肯定を。
「爆発ジャガイモは今回の分を食べてしまえばもう終わりですし、ぶるぅが持ち込もうにも種イモは廃棄処分の筈ですから」
二度と爆発しない筈です、と確信している様子のキャプテン。えーっと、爆発ジャガイモが「ぶるぅ」の悪戯で持ち込まれたことは分かりましたが、それって、何処から?



ドカンと爆発するという爆発ジャガイモ。そんな恐ろしい代物が何処にあったのだ、と私たちが口々に尋ねてみれば。
「…アルテメシアのサイオン研究所」
「「「研究所?」」」
何故にサイオン研究所で爆発ジャガイモ? それこそ謎な展開ですけど、ソルジャーは。
「そもそも生物兵器なんだよ、爆発ジャガイモ。対ミュウ用に開発されたジャガイモなわけ」
「…それにしては爆発が甘くないか?」
キース君の指摘に、ソルジャーは「まあね」と苦笑い。
「殺傷力って点では、とてもとても。でもねえ、そこまでの威力を持たせてしまうと被害甚大で意味が無いから」
「だけど生物兵器だろ? 被害甚大で皆殺しが基本じゃないのかい?」
会長さんが訊けば、ソルジャーが。
「理想は多分それだと思うよ。でもさ、そんな危険な爆発ジャガイモ、どうやってシャングリラに送り込むわけ? まず無理かと」
「ぶるぅが持ち込んだじゃないか!」
「ぶるぅの悪戯に期待するほど人類も間抜けじゃないからねえ…。爆発ジャガイモはミュウが増えないように使う兵器なんだな」
「「「へ?」」」
あんなジャガイモをどう使うのだ、と『?』マークの乱舞ですが。
「子供の間にミュウを発見、素早く駆逐! そういう目的で爆発ジャガイモ! ほら、こっちの世界でもやってるだろう? 幼稚園とかでイモ掘りにお出掛け」
「「「あー…」」」
ジャガイモ掘りもサツマイモ掘りも、幼稚園の行事の王道です。ソルジャーの世界でも幼児はイモ掘りに出掛けるらしく。
「このジャガイモはねえ、サイオンに反応して爆発するんだ。ミュウの因子を持った子供がイモ掘りをして掴んだ途端にドッカンとね」
大人でも失神するか全身打撲な爆発ですから、幼児の場合はもれなく気絶。他の子供には「病院へ連れて行くから」と言い訳しておいて秘かに処分を、という目的で開発された生物兵器が爆発ジャガイモ。世の中、本当にブッ飛んだモノがあるとしか…。



子供の間にミュウを発見して処分するための爆発ジャガイモ。ぶるぅが持ち出したのも大概ですけど、それ以前にコレ、廃棄処分とか言いませんでした?
「ああ、それはねえ…。散々実験を重ねたらしいけど、不発弾が多すぎるんだよ、これは」
ねえ? とソルジャーがキャプテンに視線を向けて、キャプテンが。
「先ほど、ジャガイモ掘りのお手本をお見せしましたが…。この畑のジャガイモは全て爆発ジャガイモです。しかし御覧になったとおりに、三株目でようやく爆発といった次第で」
「そうなんだよねえ、割合的には九割以上が不発弾だと言ってもいい。爆発ジャガイモの案は良かったし、研究費が出ていたようだけど…。不発弾の割合が下がらなくって予算打ち切り」
ついでに今までに開発した爆発ジャガイモも廃棄処分、とソルジャー、ニッコリ。
「研究室ごと閉鎖らしいよ。そのタイミングでぶるぅが盗み出して来たっていうのが最高! そうでなければ、多分、一生、ぼくも知らずに終わっていたかと」
「なんでそういう物騒なものを盗むんだ!」
キース君の怒声に返った答えは「ぶるぅだから」という単純明快なもの。
「サイオン研究所に忍び込んだら爆発ジャガイモがゴロゴロと…ね。まだ栽培もしていた頃でさ、悪戯とばかりに引っこ抜いていたらドッカンと! それで大喜びで持って帰って」
「そうとも知らない農場担当の者が植えたというわけです」
キャプテンとソルジャー、二人がかりでの説明によると、爆発ジャガイモは掘り上げてしまえば爆発しないらしいのです。地面から掘り出して収穫する時に手に取る一瞬が勝負の瞬間。其処でサイオンを検知した場合はドカンと一発、検知しなければ普通のジャガイモとして終わるらしくて。
「次にドカンとやらかす時はさ、種イモとして植えられて新しいジャガイモが出来た時でさ」
「さっきのようにドカンと爆発する仕組みですが、大部分が不発弾ですから…」
どれが当たりかは掘ってみないと分からないのです、と話すキャプテン。
「とにかく今回の収穫分は種イモに回さず、全て食用にする予定です」
「つまりさ、これが最後の爆発ジャガイモの畑なんだよ」
凄いレアもの、とソルジャーは畑を指差しました。
「二度とはお目にかかれない上に、収穫してくれればシャングリラの皆が感謝する。ソルジャーであるぼくの株だってググンと上がる。…もっとも、別の世界で育ててるとは言ってないけどね」
アルテメシアのとある所に植えておいた、と言ったらしいです。そういえばジャガイモ、元々は荒れ地で育つ類のモノだったような…。何処に植えても特に問題無さそうですねえ?



掘り上げて手に取った人間にサイオンがあれば、ドカンと爆発するらしい爆発ジャガイモ。生物兵器としては価値なしと判断されて研究打ち切り、廃棄処分な二度と出会えないレアものを植えたと言われても…。
「…ぼくたちって一応、サイオン、あるよね?」
ジョミー君の声が震えて、シロエ君が。
「思念波を使えるからにはサイオンが無いとは言えないでしょうね…」
「それじゃ俺たちでもドカンじゃねえかよ!」
サム君の叫びに、マツカ君も。
「爆発すると思います。…さっき見たようなああいう感じで」
「「「…………」」」
1ヘクタールものジャガイモ畑。三千坪のジャガイモ畑。いくら九割が不発弾でも、単純に面積から計算していけば…。
「千平方メートル分は爆発すると考えて間違いないんだろうな」
キース君の計算をスウェナちゃんが別の言い方で。
「三百坪は爆発するってわけね…」
「ちょ、広すぎるし!」
三百坪ってどれだけなのさ、とジョミー君の悲鳴が上がりました。千平方メートルと言われても全くピンと来ませんでしたが、三百坪なら分かります。それを人数分で割ったら…。
「えーっと、ぶるぅも数えて十一人だし…一人頭で二十七坪?」
ジョミー君が指を折る横からスウェナちゃんの声が。
「つまりは五十四畳なのね?」
「「「えーーーっ!!」」」
どの辺がどう不発弾なのだ、と全員が総毛立つ恐ろしい数字。運が良ければ一発も当たらないかもですけど、こういうモノって得てして公平に当たりがち。イモ畑に入ってザックザックでヒョイヒョイヒョイでドッカンとなる確率がお一人様に五十四畳分…。
「ねえ、プロテクターって一人分だけ!?」
ジョミー君がソルジャーに縋るような目を向けましたが、答えは聞くだけ無駄なもので。
「無いねえ、ハーレイの見本用に一式用意しただけで」
それじゃ掘ろうか、とフォークを掴んでソルジャーはジャガイモ畑へと。あのう……サイオンは使わないんですか? そしたら一気に掘れそうですけど…。
「ダメダメ、いくら同士討ちはしない仕様のイモでも、大爆発となったら傷むかもだし!」
丁寧に手で掘り上げるべし、とフォークを土にザックリと。ソルジャーの称号がダテでないことは分かりました。ドカンと行こうがザックザックでヒョイヒョイ拾うわけですね?



恐ろしすぎる爆発ジャガイモ。お一人様につき五十四畳分は爆発するらしい不発弾がビッシリ埋まったジャガイモ畑。それを植え付けたソルジャーは作業服で鼻歌交じりにザックザックと掘り始めていて、その直ぐ後ろに審判スタイルのキャプテンが。あれっ、フォークは?
「…フォーク持ってないね?」
なんで、とジョミー君が口にした途端にキャプテンの存在意義が分かりました。ソルジャーが掘り上げたジャガイモをキャプテンがヒョイヒョイ拾っています。バカップルだけに見事に息の合った二人三脚ならぬイモ掘りコンビ。
「それで一人だけプロテクターかよ!」
俺たちはどうしてくれるんだよ、というサム君の絶叫にドカンと被さる爆発音。キャプテンが畑に尻餅をついて、ソルジャーが「ごめん、ごめん」と謝りながら引っ張り起こして。
「さあ、頑張って掘って行こうか! 其処の君たちもどうぞよろしくーーーっ!」
「どうぞよろしくお願いしますーーーっ!」
声を揃えて叫ばれましても、プロテクターも無しでドカンな爆発ジャガイモ。殺傷力は無いと聞いても全身打撲だの失神だのと怖い事実も耳にしましたし…。
「おい、シロエ。俺たちは安全に掘れると思うか?」
「ど、どうでしょう…。火薬とかなら計算式も作れますけど、ジャガイモですから…」
どういう仕組みで爆発するのか分かりません、とシロエ君もお手上げ状態。爆発の仕組みが分かっているなら、ジャガイモのサイズや個々人の体重などから危険性を割り出せるようですが…。
「ぼくが現状で言えることはですね、キャプテンの体格とプロテクターがあれば尻餅程度で済むということと、爆発現場の直ぐ側に居ても起爆させた人間以外は問題無いということだけです」
あのとおりソルジャーは無傷なんです、と言われてみれば、そうでした。キャプテンが尻餅をつくような爆発が起こっているのに、直ぐ側に立っていてもよろけもしなくて…。
「…サイオンと何か関係あるのかな?」
ジョミー君が首を傾げて、スウェナちゃんが。
「サイオンはどうだか分からないけど、幼稚園児のイモ掘り用でしょ? サイオンを持った子供が掘り起こして爆発はかまわないとして、子供って大抵、集まってるのに危なくない?」
「そうだな、起爆させた人間限定で被害を出すような仕組みかもしれん」
キース君の仮説と目の前の現実。ソルジャーが掘り上げたジャガイモを拾ったキャプテンだけが吹っ飛び、ソルジャーは平然としている事実。と、いうことは…。
「掘るだけだったら安全なんだ?」
拾わなければセーフなんだ、というジョミー君の意見は恐らく当たっているのでしょう。そうか、掘るだけお手伝い…!



お一人様につき五十四畳分は爆発するらしい恐怖のジャガイモ畑。普通のジャガイモ掘りだと思ってお弁当まで用意してやって来たのに、エライことになったと震えてましたが…。
「かみお~ん♪ 掘るだけだったら爆発しないの?」
「らしいよ、ぶるぅ」
ぼくもそう見た、と会長さんの頼もしい言葉が聞こえました。
「それならブルーを手伝える。ぼくたちはジャガイモを掘ればいいんだ、其処のフォークで」
会長さんが示す先には人数分のジャガイモ掘り用のフォークな農機具。それを握ってザックザックとやらかす分には爆発ジャガイモの危険は無くって、ただの楽しいイモ掘りなわけで…。
「拾うのはキャプテンに任せるんだね?」
ジョミー君が明るい顔で言ったのですけど、会長さんが返した答えは。
「ちゃんと居るだろ、イモ拾い要員」
「「「は?」」」
「プロテクター無しだし全身打撲と失神の恐れがゼロではないけど、ブルー専用のイモ拾い係に匹敵する立派な体格の持ち主!」
君だ、と会長さんは教頭先生をビシィと指名しました。
「君のぼくへの愛を見込んで、イモ拾い係に任命しよう。ぼくとぶるぅと、ぼくの大切な友達のために身体を張ってくれたまえ」
「…わ、私がか?」
「平気だってば、不発弾が九割らしいしね? 人数的にはブルーがバンバン爆発させれば残りの部分は絶対安全! いいかい、全部で十一人だろ? そして一人がイモ拾い専用だから…」
イモ掘り要員は十人なのだ、と会長さん。
「君がイモ拾い要員に徹せず、自分でも掘れば全部で十人。九割が不発なら九人は無傷! 爆発はブルーの担当分だけ!」
「な、なるほどな…。そういう計算だと言われれば合うな…」
納得しておられる教頭先生。確率の問題からしてそういう計算にはならないだろう、と全員が気付いていたのですけど、此処はヨイショをするのが吉。
「そうです、その計算で合っていますよ!」
シロエ君が「流石は会長、冴えてますよね」と褒めれば、キース君も。
「実に正しい読みだな、それは。…そうか、爆発はあいつらだけか」
俺たちは完全に安全圏か、と会長さんの尻馬に乗って言い出し、私たちも声を揃えて安全性の高さを主張しました。教頭先生はコロッと騙され、フォーク片手に私たちと一緒にジャガイモ畑へ。そして…。



「いやあ、頑張ってくれたねえ、こっちのハーレイ」
残るは向こうの畝だけだよ、とソルジャーが御機嫌で焼きそばパンを頬張っています。お弁当はとっくの昔に食べ終え、その後もせっせとジャガイモを掘って、おやつの時間。こういう時には市販の調理パンが美味しく、他にもサンドイッチやジャムパン、クリームパンなど。
「君が計算したんだって? こっちの面子は安全圏だ、って」
「その手の計算は得意なんだよ。でもって、ぼくのプライドにかけて! 計算ミスなんて有り得ないから!」
たまにドカンと爆発するのは不幸な事故だ、と会長さんは主張しました。なにしろ相手は自然の産物、計算通りにいかない部分も多々あるという持論を展開、教頭先生を煙に巻き…。
「いいんでしょうか、不幸な事故が多すぎるような気がするんですけど…」
シロエ君の呟きに「問題ない、ない」とヒラヒラと手を振る会長さん。
「ハーレイの頭の中で計算が合えばいいんだよ。ぼくが計算した美しすぎる答えなんだよ、ミスの介在する余地は無いって!」
おやつが済んだら向こうの畝を十人がかりで一気に片付けよう! と会長さんがブチ上げ、ソルジャーが。
「オッケー、爆発する危険性がある一割は全部引き受けるから!」
「頼もしいねえ、よろしく頼むよ。…ハーレイ、今度もぼくたちは不発弾の担当だってさ!」
頑張ろうね、と励ます会長さんの声に、おやつのパンも食べずに討ち死に中の教頭先生が「うむ」と返事を。
「…お前のためなら頑張れる。不発弾といえども危険はやはり伴うからな…」
そのために不発弾処理というのがあるんだからな、と教頭先生は何処までも騙されてらっしゃいました。そんな教頭先生を爆発でボロボロにしたジャガイモ畑は綺麗サッパリ掘り上げられて、夕方までに袋に詰められて。
「ありがとう、これでぼくのシャングリラのジャガイモ不足も解消するよ」
「皆さんには感謝しております。爆発ジャガイモは全て、きちんと食用に回しますから」
二度と爆発しないでしょう、とキャプテンが深々と頭を下げ、ソルジャーは大量のジャガイモを詰めた袋に大満足。私たちもスリリングなジャガイモ掘りを楽しめましたが、教頭先生はどうなんでしょう? 当分ジャガイモは見たくないかな、ひょっとしたら一生食べられないかも~?




             内緒のイモ畑・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ソルジャーが珍しく「ソルジャーらしい仕事」に挑戦したわけですけど…。
 よりにもよって爆発ジャガイモ、掘らされる方は大迷惑。ジャガイモは大切ですけどね。
 シャングリラ学園、来月は第3月曜までに間が空くので、オマケ更新の筈なんですが…。
 windows10 とサイトの相性が最悪、UPするだけの作業に1時間半かかるのが今の状態です。
 この問題が解決するまで、オマケ更新は「なし」とさせて頂きます。スミマセン…。
 次回は 「第3月曜」 8月21日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、7月は、お盆を控えたキース君が卒塔婆書きの季節ですけど…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv










「いたっ…!」
 週末、ブルーの部屋でのお茶の時間の真っ最中。向かい側に座ったブルーが上げた小さな悲鳴。
 右目を擦ろうとしているから。
「どうした?」
 右目、どうかしたのか、痛いのか?
「…何か入ってしまったみたい…」
 チクチクして変な感じだよ。さっきほど痛くはないけれど…。
「見せてみろ」
 椅子から立って、ブルーの隣に行った。屈み込んで小さな顔を覗き込む。
 宝石のように赤い右目の瞼を指でそうっと押さえ、日の光で見ると、銀色の睫毛。
 細い睫毛が白目の部分に貼り付いていた。たった一本、細い細い銀色の睫毛だけれど。
(こいつは痛いな…)
 経験があるから痛さは分かる。
 睫毛にチクリと刺された瞳が痛くなることも、その後に訪れる不快感も。



「…何だった?」
 指を離せば、ブルーの瞳が見上げて来るから。
「睫毛だ。俺が取ってやってもいいんだが…。俺の指ときたら、この太さだし…」
 お前の目にはデカすぎだってな、指のサイズが。
 サイオンで取ってやるにしたって、力加減がどうだかなあ…。
 指もサイオンも加減するのが難しそうだ、とハーレイは苦笑してみせた。
 自分の目ならば何とでも出来るがブルーの目では、と。
「いいよ、ちょっぴり痛くったって」
 ハーレイが取ってくれるんだったら、取れた後には痛くないしね。
「それはそうだが、ウッカリ傷でも出来ちまったら…」
 目の傷ってヤツは侮れないんだぞ、目に見えないような傷がうんと尾を引くこともある。
 しかも自分じゃ気付かない内に悪化するしな、痛いと自分で気付く頃には酷くなってて、病院に何度も通う羽目になったりするもんだ。
 毎日、毎日、目薬を差して、傷が治ったか診て貰って…。
 厄介なことになりたくなければ、そいつは自分で取るべきだな。



「ぼくがやっても同じことだと思うけど…」
 サイオンは無理だし、自分の指で取るしかないよ?
 ティッシュで取るのは難しいんだもの、無駄に擦ってしまうだけで。
「そのまま大きく目を開けておけ」
「えっ?」
「知らないのか、こういった時には王道だろうが」
 目玉をグッと見開いておくんだ、そうすりゃ涙が出て来るからな。
 瞬きが出来ないと自然と涙が流れるもんだ。そいつで目に入ったゴミや睫毛を洗い流す、と。
 騙されたと思って頑張ってみろ。いいか、瞬きするんじゃないぞ。



 瞬きをしたら涙は出ない、とブルーに教えてやったのに。
 小さなブルーは我慢出来ずにパチパチ瞬きしてしまうから、一向に流れ出さない涙。
 それでは睫毛が流れてくれる筈もないから、「指で押さえろ」と指導した。
「目の上と下とを指で押さえてやるんだ、親指と人差し指でグイッと広げてやれ」
 瞬きなんかが出来ないようにな、目玉をしっかり出してやるんだ。
「ハーレイ、やってよ」
 押さえといてよ、ぼくが瞬き出来ないように。
「なんで俺が!」
 確かに力の加減は要らんが、どうしてそこまで面倒を見ることになるんだ、うん?
 幼稚園に行ってるようなガキじゃあるまいし、自分でやれ。
「うー…」
 ハーレイにやって欲しかったんだよ、甘えてみたくなるじゃない!
 目の中に睫毛が入ったんだよ、痛いんだよ?
「知らんな、たかが睫毛だろうが」
 風でゴミでも入ったんなら、俺ももう少し慎重になるが…。
 刺さっちまったかと心配もするが、睫毛と分かれば慌てることもないってな。
 自分の面倒は自分で見ろ。チビと言われたくなければな。
「ハーレイのケチ!」
 いつだってチビって言ってるくせに!
 こんな時だけ一人前に扱うだなんて、ホントのホントにケチなんだから…!



 膨れっ面になったブルーだけれども、言われた通りに自分の指で右目を開いて押さえながら。
「…変な顔じゃない?」
 ぼくの顔、変になってないかな、右目だけグッと開けちゃってるから。
「それはまあ…な。変でない筈がないってな」
 けっこう笑える顔だぞ、お前。顔の作りが台無しってトコだ。
「酷い!」
 ハーレイがやらせているくせに!
 自分でやれって言ったのハーレイのくせに、笑える顔だなんて酷すぎだってば!
「俺がやっても同じことだと思うがな?」
 片方の目だけがデカイわけだし、傍から見てれば変な顔にしか見えないぞ。
 文句を言わずに我慢していろ、ちゃんと涙が出て来るまでな。



 やがて流れてきた涙。
 赤い瞳からポロリと零れて、幾粒も頬を伝って落ちて。
「…ハーレイ、取れた?」
 これだけ涙が出たら睫毛も一緒に流れちゃったかな、目の外に?
「もう痛くないか?」
「うん、多分…」
 ブルーが指を外して右目を何度か瞬かせてみる。どうやら睫毛は取れたようだけども。
「流れ落ちる前に瞬きしてたら、奥の方に入っちまうってこともあるしな」
 下の瞼の縁に入れば痛まないから、後で出て来てまたチクチクとしたりするぞ。
 そいつも困るし、見ておくか。



 ついでに拭くか、とハンカチを出した。
 普段使いの白いハンカチ、それをズボンのポケットから。
 ブルーの顔を濡らした涙を拭って、右目を調べて。
 大丈夫だな、と頷いた。
「よし、取れた。睫毛は何処にも見当たらないから、流れたんだな、涙と一緒に」
 それに涙も普通の涙だ、何も心配ないってな。
「普通って?」
 涙は涙だよ、普通って、なに?
「血じゃないってことだ」
「ああ、右目…」
 そういえば最初は血だったっけね、ハーレイが見たぼくの右目の涙。
 聖痕で流した血の涙だから、ハーレイ、ビックリしちゃっただろうね…。
 記憶が戻る前も、戻った後も。
 ぼくの右目はどうなったんだ、って。



 でも、とブルーは笑みを浮かべた。
 そんなことより、と。血の涙よりも、と。
「…どうかしたか?」
「久しぶりだな、って」
 ホントに久しぶりなんだよ。こうして見るのは。
「何がだ?」
「ハーレイのハンカチ」
「ハンカチ?」
 このハンカチがどうかしたのか、いつもポケットに入れているがな?
 スーツの時にはズボンじゃなくって、上着のポケットにも入れたりするが…。
「そうじゃなくって…。持っていたでしょ、前のハーレイ」
 ハンカチを上着のポケットに入れて、いつでも持っていたじゃない。
「あれか…。あれなら確かに久しぶりだろうな、お前、長いこと寝ちまってたしな」
 アルテメシアから逃げ出した直後に眠っちまって、十五年か…。
 目が覚めたらナスカの騒ぎの真っ最中だったし、お前はメギドに行っちまったし…。
 俺のハンカチには出会わず終いで飛んじまったなあ、メギドにな。
「前のハーレイが持ってたハンカチ、白かったけど…」
 今のも白いね、白いハンカチだね。
 だから思ったのかな、久しぶりだって。これはハーレイのハンカチなんだ、って。



 見せて、とブルーは元の椅子に戻ったハーレイの方へと手を伸ばした。
 ハンカチを見せてと、よく見たいからと。
 そうして強請って、渡してやったハンカチを両手で広げてみて。
「名前、書いてないよ?」
 何処にもハーレイって書いてないけど、このハンカチ。
「おいおい、子供じゃあるまいし…」
 名前なんかを書くわけないだろ、俺みたいなデカイ大人がな。
 お前だって書いてはいないだろうが、持ち物全部に自分の名前。ノートとかには書いてあってもハンカチにまでは書かないだろう?
「そうだけど…。ぼくもハンカチには書いてないけど…」
 でも、イニシャルの刺繍とかは?
 大人の人だってイニシャルを入れていることはある筈だけど…。
「そんな上等のじゃないからな」
 イニシャル入れのサービスがあるほど高いハンカチは買ってない。ハンカチは使えれば充分だ。高級品なんかを選ばなくても、普通の白のでいいってな。
「前のハーレイのには、ついていたのに…」
「あれはイニシャルではなくてだな…!」
 もっと偉そうなハンカチだった、と苦笑いした。
 イニシャルの代わりに紋章入りのハンカチだったと、紋章の刺繍が入っていたと。
「そうだよ、ミュウの紋章だったよ」
 前のハーレイのハンカチの刺繍、ミュウの紋章だったよね…?



 白いシャングリラの船体にも描かれていた紋章。
 フェニックスの羽根を表す金色の中に、前のブルーの瞳の赤。ミュウにとってのお守りの赤。
 それは本来、ソルジャーだったブルーの持ち物にだけ入る紋章。
 なのに…。
「お前が入れさせたんだろうが!」
 あの紋章を俺のハンカチに!
 お前専用の紋章の筈が、俺のハンカチに刺繍させやがって!
「だって…。ぼくばかりだと恥ずかしいじゃない」
 ぼくの持ち物だけが紋章入りだなんて、ぼくはそんなに偉くはないのに…。
 そう言ってるのに、食器にまで紋章を入れられちゃって、ソルジャー専用にされちゃって。
 仲間たちと食事会を開く度にエラが説明するんだ、ぼく専用の食器なんだ、って。
 お蔭で来た人はカチンコチンで、どうにもこうにもならないから…。
 ハーレイにいつも頼んでいたでしょ、ちょっと空気を和ませてくれ、って。
「やらされてたなあ、わざと失敗するんだったな」
 切った肉が皿から飛んで行くとか、そういったヤツを。
 しかしだ、お前専用の紋章が恥ずかしいからと、俺まで巻き込まなくてもなあ…?



 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーの食器。
 今の時代も復刻版が出ている食器は全て紋章入りだった。
 食器もそうだし、青の間にあったベッドの枠にも紋章が刻み込まれていた。
 あちこちに鏤められた紋章。ソルジャーだけが使える紋章。
 それをブルーは恥ずかしがって、ある日とうとう、こう言い出した。
「ハーレイ、紋章のことなんだけど…。君の持ち物にも入れるべきだよ」
 ぼくだけじゃなくて、君が使う物にもミュウの紋章。そうするのがいいと思うけれどね?
「何故です?」
 あれはソルジャーでらっしゃるからこそ、入れると決まった紋章ですが?
 皆を導く立場におられるソルジャーだからこそ、あの紋章をお使いになれるわけですし…。
 それを私の持ち物に入れるなど、変ではないかと思うのですが。
「おかしくはないよ、ハーレイには入れる権利があるよ」
 このシャングリラのキャプテンじゃないか、君がいないとシャングリラは前に進めない。
 ソルジャーの次に偉いと思うよ、キャプテンはね。
 だからあの紋章を入れてもかまわないと思うんだけどな、君の持ち物に。
「いいえ、キャプテンはただのキャプテンです」
 慣れれば誰でも出来る仕事です、ソルジャーとは全く違います。
 それに居場所はブリッジですから、と逃げを打った。
 キャプテンの私室は青の間のように広くもないし、紋章を入れるような立派な家具は無いと。
 食事会にしてもキャプテン主催のものなどは無いし、専用の食器も必要無いと。



 けれどブルーは諦めなかったらしく。
 紋章の話をしていたことなど忘れ果てた頃に、青の間で二人でお茶を飲んでいたら。
「ハーレイ、この前に話した紋章だけどね」
 覚えているかな、君の持ち物にもミュウの紋章を入れるべきだ、っていう話。
「まだ仰るのですか?」
 あの紋章をあしらうような家具も無ければ、食器も要らないと申し上げていた筈ですが…。
 相応しい持ち物が無いのですから、紋章を入れる必要は無いと考えますが。
「それなんだけど…。丁度いいのがあったんだよ」
 紋章を入れるのにピッタリのものが。誰もが納得しそうなものが。
「何なんです?」
「君のハンカチ」
 これ、とポケットから引っ張り出された。
 自分の椅子から立って来たブルーに、ポケットの中身のハンカチを。



 ブルーはハンカチを手にして椅子に戻って、広げてみせた。
 何の変哲もない白いハンカチを、模様すらも無いシンプルなものを。
「ぼくの服にはポケットが無いし、こういうハンカチを持ち歩いたりはしないしね?」
 つまり、ぼくにはハンカチなんかは特に必要無いわけで…。
「それで?」
「これに入れればいいんじゃないかと…。ミュウの紋章」
「なんですって!?」
 あの紋章はソルジャー専用の、と言ったけれども、ミュウの紋章だと躱された。
 それを個人的に使える立場がソルジャーなだけで、ソルジャー専用と決まったわけではないと。
 ソルジャーがハンカチを持たない以上は、シャングリラでソルジャーに次ぐ立場だと皆が認めるキャプテン、そのキャプテンのハンカチにミュウの紋章を入れるべきだと。

「エラも言ったよ、こういったものにも刺繍をすると」
 持ち主が誰か、一目で分かるようにとね。ハンカチにも紋章を刺繍していたのだ、と。
「誰がです?」
 ハンカチにまで紋章だなどと、持ち主だなどと…。誰がそんなことを?
「昔の人だよ、SD体制が始まるよりもずっと昔の王様や貴族」
 そういう人たちにとっては、自分の持ち物に紋章を入れさせるのは当然だったらしいけど?
 ハンカチにだって、紋章の刺繍が入っているのが当たり前ってこと。
「私はそんなに偉くないのですが!」
 ただのキャプテンで、王様でも貴族でもありません。それなのに真似てどうするのです!
「それを言うなら、ぼくだってね」
 偉くもないのに真似てるんだけどね、昔の王様や貴族たちの真似。
 ソルジャー専用の食器なんかは極め付けだよね、そこまで偉くもないくせにね。



 専用の紋章入りの食器はそういう人種の持ち物だろう、とブルーは言った。
 遠い昔の王侯貴族。彼らが作らせ、それを使っていたのだと。
 どうやら、あれからエラと二人で悪だくみをやらかしていたらしい。現時点ではブルーだけしか使っていないミュウの紋章を、キャプテンにも使わせることが出来はしないかと。
 あれこれ調べて、選ばれたものがハンカチだったといった所か。
「…というわけでね、エラもヒルマンたちも賛成なんだよ」
 君のハンカチにミュウの紋章を入れること。
 模様を染めるよりも刺繍にしようと、ハンカチに紋章を入れる時には刺繍だったから、と。
 君は白いハンカチが好みらしいし、刺繍も同じ白い糸でね。
「それは決まっているのですか!?」
 やたらと話が具体的ですが、決まっているのではないでしょうね?
「とうに決定事項だけれど?」
 キャプテン抜きの秘密会議でね。
 メンバーはもちろん長老たちとぼくで、シャングリラの最高機関ということになる。
 たとえキャプテンが抜けていたって、そのキャプテンについての会議なんだし…。
 何の問題も無いと思うよ、キャプテン抜きで決めていたってね。
 キャプテンの処分を決める会議に、キャプテンが必要無いのと同じで。



 秘密会議とやらが何処で開かれたものかは知りたくもなかった。
 調べた所で、彼らは尻尾を出さないだろうけれど。
 そして…。
「ほら、君のハンカチ」
 出来たと言うから、青の間に届けさせたんだ。君の部屋の方に届けさせたら、見なかったことにしかねないしね、君の場合は。
 ソルジャーのぼくから手渡されたら、使うより他に無いだろう?
 明日からポケットに入れて出たまえ、ブリッジにね。
 ちゃんと中身を確認して、とブルーから手渡された箱。一日の終わりの報告のためにと出掛けた青の間で渡された箱。
 それはハンカチを入れてあるにしては、妙に大きな平たい箱で。
 けれど重さはさほど無かったから、広げた形で入っているのだろうと蓋を開けたハーレイは目を剥いた。
 白地に白い糸でミュウの紋章を刺繍した部分が見える形で畳まれたハンカチ、白い刺繍の紋章がズラリ。ずらして詰められたハンカチの数は二枚や三枚ではなくて…。
「こんなにですか!?」
 ハンカチはこんなに要らないのですが、五枚もあれば充分ですが…!
「基本はダースだとエラが言ったよ、王様や貴族がこういったものを作らせる時はね」
 毎日、取り替えるものだろう?
 そういう品物はダースで作っておくものらしいよ、だから今回はそれだけ作った。
 とりあえず、それで様子を見てみて…。次からはもっと増やしてもいいね、作らせる数を。



 箱に一杯、一ダースもあったミュウの紋章入りのハンカチ。
 ブルーに直接手渡されては、知らなかったふりなど出来はしないし、隠せもしない。次の日からポケットにそれを入れたけれど、引っ張り出す度に気恥ずかしかった。
 白いハンカチに白い糸だし、目立つわけではないのだけれど。
 それでも何処か恥ずかしいもので、そそくさとポケットに突っ込んだものだ。
(…なんたって紋章入りなんだしな?)
 そんなハンカチは誰一人として持ってはいないし、ブルーが言うには王侯貴族の習慣なるもの。
 ただのキャプテンには過ぎた品だと、贅沢すぎると気が引けもした。
 しかしブルーは許してはくれず、毎日、あのハンカチを持っているかと尋ねてはチェック。服のポケットから出させて調べて、使っていることを確認していた。
(…くたびれてくる前に次のを発注されちまったんだ)
 使用状況をチェックされていたから、新しいハンカチが作られて届き、今度もダースで。十二枚もの新品を前にして狼狽えていても、ブルーは涼しい顔だった。
 「ぼくの気持ちが少しは分かって来ただろう?」と。
 専用の紋章を作られてしまった恥ずかしさを君も味わうといいと、そのハンカチはこれから先も君専用に作らせるからと。
(まったく、前のあいつときたら…)
 それでもいつしか、慣れて普通になったけれども。
 白いハンカチに白い刺繍でミュウの紋章、それが自分のハンカチなのだと。
 前の自分にそれを押し付けたブルーの涙も、幾度となく拭っていたのだけれど…。



(キャプテン・ハーレイのハンカチか…)
 そういうハンカチを持っていたなと、白地に白の刺繍だったなと思い出していたら。
 遠い記憶の彼方から出て来たハンカチの手触りを懐かしく思い返していたら。
「ねえ、ハーレイ。あのハンカチの復刻版ってあるのかな?」
 前のぼくの食器は復刻版が出てるよ、シャングリラの食堂の食器もね。
 キャプテン・ハーレイのハンカチなんかも売られているかな、デパートとかに行けば?
「あのハンカチなあ…。そいつは多分、無いんじゃないか?」
 探すだけ無駄だと俺は思うぞ、あのハンカチの復刻版は。
「なんで?」
 ミュウの紋章入りのハンカチなんだよ、シンプルだから使えそうだけど…。
 食器なんかよりも出番も多いし、値段も高くはならないだろうし。
 ハンカチ売り場に並べておいたら、きっと人気の商品になると思うのに…。
「人気商品も何も、存在自体が知られていないぞ」
 あのハンカチのことを航宙日誌に書いてはいないし、俺しか使っていなかったしな。他の誰かに貸し出すようなものでもないだろ、ハンカチは?
 俺のハンカチにあの紋章が入っていたこと、知らなかったヤツらも多いんじゃないか?
 同じシャングリラで暮らしていたって、白いハンカチを愛用しているって程度の認識でな。
「もったいない…!」
 あのハンカチは記録に残らなかったわけ?
 ハーレイ専用に作らせてたのに、すっかり忘れられちゃったわけ…?
 ミュウの紋章入りの白いハンカチ、前のぼくもとっても気に入ってたのに…!



 それじゃ注文して作ろうよ、と小さなブルーは言い出した。
 復刻版が無いと言うなら注文で刺繍を入れればいいと、あのハンカチをもう一度、と。
「作れないことはないでしょ、ハーレイ?」
 ミュウの紋章は今もデザインとしてきちんと残ってるんだし、大きさとかを指定すれば。
 こんなハンカチを作りたいんです、って注文したって、きっと不思議だとは思われないよ。あのデザインが好きな人なんだな、って勝手に思い込んで作ってくれるよ。
「…それは確かにそうなんだが…」
 あれに良く似たハンカチを探して、刺繍する場所や大きさを決めれば出来るだろうが、だ。
 そんなものを作って何にするんだ、どう使うんだ?
「ぼく専用」
「ぼく専用って…。今度はあれをお前が持つのか?」
「ううん、今日みたいに使って欲しいな、って」
 ハーレイのポケットからヒョイと出て来て、ぼくのためだけに。
 ぼくの涙を拭いてくれたり、他にも色々。
 何処かに出掛けて、手を洗った時に「使え」って渡してくれるとか…。



「ふうむ…。お前専用のハンカチなあ…」
 そうは言われても、俺のポケットに入っている以上は、いろんな相手に使うと思うが。
 同僚の先生に「ちょっと貸してくれ」と言われて手を拭くために貸すとか、クラブのガキどもに貸してやるとか。
 いくらお前が自分専用だと主張したって、そいつは無駄だと思うんだがな?
 デートの時しか使わない、って決まりにするなら話は別だが。
「うー…」
 それじゃ駄目なんだよ、とっておきのハンカチってわけじゃないんだから!
 いつもハーレイのポケットにあって、いつでも出せるのがいいんだよ!
 ハーレイ専用のハンカチだけれど、ぼく専用。
 そういうハンカチにしたいんだから…!



 前のぼくみたいにしたかったのに、とブルーが唇を尖らせるから。
 あのハンカチで何度も涙を拭いて貰ったと、今日のように優しく拭いてくれたと膨れるから。
「そのこと自体は否定しないが…。俺だって忘れたわけではないが、だ」
 子供の鼻だって拭いてやったぞ、公園や通路で転んじまってベソをかいてた子供のな。
 涙どころか鼻水まで出て、そりゃあ凄まじい泣き顔だったが、それを拭くのもあのハンカチだ。俺のポケットにはアレしか入っていないんだからな?
「えっ…!」
 そういえばハーレイ、よく子供たちの涙を拭いていたっけ…。
 だけど涙や鼻水でグシャグシャになったハンカチ、ぼくは一度も見てないよ?
 ハーレイがあのハンカチを持ってるかどうかをチェックしていた頃にも見てないけれど…。
「当たり前だろ、誰が汚れたハンカチをそのまま持ち続けるんだ」
 汚れちまったら、新しいヤツと取り替える。でなきゃハンカチを持つ意味が無い。使いたい時に使えないようじゃ、全く話にならないだろうが。
 幸か不幸か、お前、いつでもダースで作らせてくれていたしな?
 スペアは山ほど持っていたんだ、ブリッジにも予備が置いてあったぞ。いつでも部屋まで取りに帰れるとは限らないしな、そういった時に備えてな。



 だから俺のハンカチはいつでも綺麗だったんだ、と腕組みしてニヤリと笑ってみせた。
 汚れたハンカチは洗濯に回して、新品同様になって戻ってくる。それをポケットに忍ばせる。
「つまりだ、お前の涙を拭いてたハンカチ、その前の日にはガキの鼻水を拭いてたかもな?」
 流石に前の日ってことはないかもしれんが、いちいち印を付けちゃいないし…。
 運が良ければ、お前にしか使わなかったヤツが一枚か二枚くらいはあったかもしれん。
 しかしだ、どう考えてもガキの鼻水とお前の涙の両方を拭いたハンカチが圧倒的多数ってことになるんだろうなあ、ガキの方がしょっちゅう泣いてたからな。
「そうなっちゃうわけ…?」
 ぼく専用だと思っていたけど、洗って綺麗になった段階でぼくに使っていただけで…。
 前の日には転んだ子供の涙や鼻水を拭いたハンカチだったの、ねえ、ハーレイ…?
「今頃になって気付いたのか、お前?」
 俺のハンカチの使い道くらい、きちんと把握するべきだったな。
 持ち物チェックをやっていたなら、使い道の方もしっかりチェックをしておかないとな…?
「そんなことまで気が回らないよ…!」
 ハーレイ専用のハンカチだよね、って見てただけだよ、ぼくの涙を拭いてくれた時に…!
 ぼくが大泣き出来る場所って、ハーレイの前しか無かったから…。
 ぼくの涙を拭いてくれる人も、ハーレイだけしかいなかったから…!



 自分専用のハンカチだったと思っていたのに、と盛大に嘆くブルーだけれど。
 そのハンカチの使用状況を指摘されればその通りだから、ブルーはグウの音も出ない。そうではないと、それは違うと反論することは出来ないわけで。
「分かったな? あのハンカチの復刻版を作ったとしても、お前専用にはならないさ」
 前のお前の時と同じだ、ガキの鼻水もお前の涙も一緒くただ。
 今度はガキどもが少しデカくて、鼻水じゃなくて洗った手を拭くって違いくらいだな。
「酷いよ、ハーレイ…!」
 何度も鼻水って言わなくってもいいじゃない…!
 前のぼくの涙も子供たちの顔も同じハンカチで拭いていた、って言い方だって出来るのに…!
 何度も何度も鼻水、鼻水、って、ハーレイ、ぼくを馬鹿にしていない…!?



 あんまりだよ、と文句をつけるブルーだけれど。
 ハンカチの思い出が台無しになったと苦情も述べているのだけれども、あのハンカチ。
 白地に白い糸の刺繍の、ミュウの紋章入りのハンカチに未練はたっぷりとあるようだから。
 もう一度あのハンカチを目にしてみたいと、自分専用に出来るならばと考えているのが手に取るように分かるから。
(またあのハンカチを作られるのか…?)
 キャプテン・ハーレイだけが持っていた白いハンカチ。ミュウの紋章入りのハンカチ。
 まさか作りはしないだろう、と思うけれども、いつかブルーと結婚したなら。
 ある日、ブルーが笑顔で差し出してくるかもしれない。
 軽いけれども大きな箱を。包装された平たい箱を。
 あのハンカチを注文したのだと、君専用だと、一ダースほども。
 今度はぼくのためだけに使ってくれるよね、と甘えた声で念を押しながら…。




          白いハンカチ・了

※キャプテン・ハーレイが持っていた白いハンカチ。ミュウの紋章が刺繍された品。
 前のブルーの涙を拭ったハンカチですけど、他にもあった使い道。子供たちのお世話用。
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「ママ、それなあに?」
 学校から帰ったら、ダイニングのテーブルの上に木の枝が三本。葉っぱつきの。
「月桂樹よ。庭にあるでしょ、あれを切って来たのよ」
 ご近所さんに分けてあげるの、って言ったママ。
 ホントだ、木の枝は月桂樹だった。けっこう大きな枝が三本、真っ直ぐに伸びた若い枝。今年に育った枝なんだろう、皮がまだ緑色だから。
 月桂樹ならぼくも知っているけど、庭に植わっているけれど。こんな風に枝だけ置いてあったら直ぐにそうだとは分からない。
(でも…)
 匂いで気付くべきだった。三本の枝に葉っぱが沢山、その葉っぱから漂う独特の香り。
 煮込み料理に使うんだっけ、と月桂樹の枝を眺めていたら。
 ママが用意してくれたおやつを食べながら観察してたら。
「はい、栞。一枚あげるわ」
 葉っぱを一枚、ママが千切って渡してくれた。
「栞?」
「月桂樹の葉っぱは虫よけになるのよ、いい匂いがするわ。乾いた後もね」
 本の栞にしてみたら、って一枚貰った月桂樹の葉っぱ。濃い緑色をした固めの葉っぱ。
 ママは三本の枝を束ねて飾りのリボンを結んでる。届けに行くのかと思っていたけど、もうすぐ取りに来るんだって。買い物のついでに、ぼくの家に寄って。
(じゃあ、一回目はご近所さん…)
 門扉の脇のチャイムが鳴っても、それはハーレイじゃないってこと。
 だけどやっぱり窓に駆け寄って覗いちゃうんだろうな、ハーレイかな、って。



 おやつを食べ終えて、月桂樹の葉っぱを手にして部屋に帰って。
 勉強机の前に座ったら、ぼくの指から月桂樹の匂い。葉っぱをつまんでいた指から。
(匂い、けっこう強いんだ…)
 ぼくは葉っぱを揉んだわけじゃないし、持って帰って来ただけなのに。ダイニングから部屋まで来るまでの間、つまんでいたってだけなのに。
(栞…)
 これだけ香りが強いんだったら、素敵な栞になるだろう。本が好きだから栞は幾つか持っているけど、葉っぱなら本物の天然素材。ちょっといいよね、って気がしてくる。
(いい匂いの栞…)
 香料をつけたわけじゃなくって、葉っぱがそのまま香るから。これはいいかも、って考えた。
 だけど直ぐにパタンと本に挟んだら、葉っぱがちょっぴり可哀相だろうか?
 本の重さは葉っぱにはきっと重すぎるよね、と思ったりもする。
 でも、このまま葉っぱが乾いちゃったら、曲がってしまって栞に出来なくなっちゃうかも…。
 そうなったならば本末転倒、栞用に貰った意味が無いから。
(ちょっとだけ…)
 葉っぱの半分を本に挟もう。本に挟んだ部分は押し葉で、真っ直ぐ。
 外に出ている部分の葉っぱが曲がっちゃっても、残り半分が真っ直ぐだったら栞になるから。
(この本でいいかな?)
 本棚から一冊引っ張り出して、月桂樹の葉っぱを半分挟んだ。
(いい匂い…)
 半分が外に覗いているから、ぼくの部屋に月桂樹の匂い。
 不思議な木だよね、庭に植わってる時は近くに寄っても月桂樹の香りはしないのに。
 ママに頼まれて煮込み料理用に葉っぱを千切りに行ったら、千切った葉っぱが香るんだ。ママがダイニングに置いていた枝がいい匂いをさせていたように。
 あの枝はきっと、木から切られたから強い匂いがしたんだろう。葉っぱを一枚千切るどころか、枝ごとチョキンと切ったんだから。



 月桂樹の栞を挟んで直ぐに聞こえたチャイムの音。
 大急ぎで窓に駆け寄ってみたら、月桂樹を貰いに寄ったご近所さんが門扉の所に立っていた。
(…一回目のチャイムはご近所さん、って思ってたくせに…)
 すっかり忘れてハーレイかと思った慌て者のぼく。
 こんな日に限ってハーレイは来てはくれないのかも、って心配したけど、暫くしたらチャイムが鳴って今度はハーレイ。仕事帰りに寄ってくれたハーレイ。
 そのハーレイは、ママがお茶とお菓子を置いてったテーブルを挟んで向かい合わせで座ってから部屋を見回して。
「おっ、月桂樹の匂いだな」
 何処かにあるのか、月桂樹の枝。その辺には見当たらないんだが…。
「あそこの本だよ、ママが栞にってくれた葉っぱを挟んだんだよ。だけど…」
 ハーレイ、匂いで分かっちゃうの?
 月桂樹が部屋にあるってことが?
「そりゃあ分かるさ、俺の家にもあるからな」
 馴染みの匂いだ、嗅げばアレだと分かるってわけだ。月桂樹の香りは分かりやすいし。



(ハーレイの家にも月桂樹の木…)
 おんなじ木だ、と嬉しくなった。
 ぼくの家にあるのと同じ木がハーレイの家の庭にあるって、お揃いみたいで胸が高鳴る。ぼくの家にも、ハーレイの家にも月桂樹。ママのお手伝いでたまに葉っぱを千切りに行く木。
「月桂樹の葉っぱ、ハーレイも煮込み料理に使うの?」
 それとも虫よけ?
 ママが教えてくれたんだよ。月桂樹の葉っぱは虫よけになるって、栞に一枚貰ったんだ。
「月桂樹の葉の使い方か? 俺は料理だが、おふくろの場合は両方だな」
 しっかり乾燥させたのを布の袋に詰めてだ、クローゼットとかに入れているんだ、防虫用に。
 月桂樹の他にもハーブを混ぜているがな、おふくろの好みで色々とな。
「お母さんの家にも月桂樹、あるの?」
「あるさ、俺が生まれるよりも前から植わってる木がな」
 ガキの頃には、おふくろに頼まれて葉っぱを千切りに行ってたもんだ。
 煮込み料理に入れるから、って走らされたな、庭までな。



(お母さんの家にも月桂樹…)
 ますます嬉しくなった、ぼく。
 ハーレイの家にも、隣町にあるハーレイのお父さんとお母さんが住んでる家にも月桂樹。ぼくの家の庭にも月桂樹が植わっているんだし…。
 おんなじ木があるって、とっても嬉しい。
 ハーレイから聞いてる木の話といえば、お父さんたちの家にある大きな夏ミカンの木だけれど。
 いつもハーレイが持って来てくれる、お母さんの手作りのマーマレードの材料がドッサリと実る木だけど、ぼくの家には夏ミカンの木は植わってないから。
 大きな夏ミカンの木は「どんなのかな?」って想像するしか出来なかったし、本物に会える日はまだ遠そうだし、ぼくにとっては幻みたいな存在で。
 なのに、月桂樹の木がいきなり出て来た。ハーレイの家にも、お父さんたちの家にも月桂樹。
 ぼくの家の庭の月桂樹とお揃い、枝ぶりとかはきっと違うだろうけど。



「どうした、お前、嬉しそうだな」
 やたらニコニコしているようだが、何がそんなに嬉しいんだ?
「木がお揃いだよ、月桂樹の木」
 ぼくの家と、ハーレイの家と、ハーレイのお父さんたちが住んでいる家と。
 庭の月桂樹の木はお揃いだよね、って考えたら嬉しい気持ちがしない?
「なるほどなあ…。月桂樹がお揃いというわけか」
 そいつは全く気付かなかったな、お前の家の庭に月桂樹があるのは知ってたが…。
 お揃いと来たか、お前ならではの発想だな。
 俺とお揃いの何かが欲しい、と何度聞かされたことやらなあ…?
 あそこのシャングリラの写真集にしたって、お前にしてみりゃ俺とお揃いらしいしな?
 俺が先に買って教えてやってだ、お父さんに強請っただけなのになあ…。
 一緒に買いに行ったってわけじゃないんだし、お揃いも何もあったものではない筈だがな?



 庭の木がお揃いだと言うのなら、とハーレイは唇に笑みを浮かべた。
 月桂樹の話をしてやろうか、って。
「神話だったら知ってるよ?」
 女の人が月桂樹になってしまうんでしょ?
 神様に追い掛けられちゃって、逃げ切れなくて。それで月桂樹に変身しちゃうんだよね?
「あれじゃなくてだ、あの神話の国の話だな」
 ギリシャ神話っていうくらいだから、遠い昔のギリシャの話だ。
 その大昔のギリシャで本当にあった話で、神話なんかじゃない話だが…。
「どんなお話?」
「それはな、月桂冠と言うヤツで、だ…」
 月桂樹の枝を編んで作った冠なんだ。
 最高に名誉な冠だったらしいぞ、月桂冠は。そいつを作っていた頃にはな。



 月桂樹の枝を編んで作った月桂冠。
 オリンピックっていう競技大会で勝った人が貰える冠だったんだって。
 ボクシングだとか、円盤投げとか、色々な種目で競い合っていた体育の祭典、期間中には戦争もお休みになったくらいの大きなお祭り。四年に一度の大きなお祭り。
 そのオリンピックは大昔のギリシャが衰退したら無くなった。ずっと後になって、それを真似て地球にあった国の殆どが参加したほどのオリンピックという大会が出来たらしいけど。SD体制に入るよりも前に消えてしまって、オリンピックは今は無い。
 だから知らなかった、オリンピック。
 名前くらいは知っているけど、月桂樹の枝を編んで作った月桂冠は初耳だった。
 後から出来たオリンピックだと、競技ごとにメダルが貰えたみたい。一位の人には金のメダルで二位の人は銀、三位は銅。
 だけど、昔のオリンピックにメダルは無かったんだって。
 勝った人には月桂冠。月桂樹の枝を編んだ冠を被せて貰って、勝者の証。



「…メダルは無しって…。月桂冠だけ?」
 勝ってもそれしか貰えなかったの、ずうっと昔のオリンピックは?
「うむ、それだけだ」
 偉いスポンサーがついていればだ、自分の姿を彫った像を作って貰えたらしいが…。
 その像をオリンピックが開催されてた場所の近くの神殿に奉納出来たそうだが、そこまで出来たヤツは多くはないって話だな。大抵のヤツは月桂冠を貰ってそれで終わりだ。
「月桂冠だけって…。酷くない?」
 それじゃ記念に取っておいても枯れてしまうよ、元の形で残せないよ?
 メダルだったら何十年だって残しておくことが出来るのに…。
「そういう時代だったってことだな、古代ギリシャがあった頃はな」
 オリンピックが一番有名なんだが、似たような大会が他に三つあった。その三つの方も、貰えるものは冠だけだったと言うからな。
 しかもだ、冠は大会が開催される場所によって何で作るのかが決まっていた。オリンピックなら月桂冠だが、他の所だとセロリにパセリにオリーブだぞ。
「セロリにパセリにオリーブって…。全部、食べられるものじゃない!」
 月桂樹だって料理に使うものだし、もしかして食べるものしか貰えない時代だったわけ?
「そのようだ。それぞれ由来ってヤツはあったんだろうが…」
 開催地の神様にゆかりの植物だとか、そういった理由はあった筈だが…。
 食えるもので作った冠ってことは案外、丈夫な身体を作れっていう意味もあったのかもな。
 いつもお前に言っているだろ、「しっかり食べて大きくなれよ」って。
 そんな風に食べられる冠を贈って、もっと強くて頑丈な身体を作るように、ってな。



 ハーレイが教えてくれた、古代ギリシャの勝者の冠。
 月桂冠にセロリにパセリにオリーブ、なんだか美味しそうな冠ばっかり。
 貰った人はやっぱり冠を食べちゃったのかな、残しておいてもセロリやパセリは傷んじゃう。
 オリーブだって実が駄目になるし、月桂冠もドライハーブになっちゃうだけ。
 新鮮な間に料理しちゃって食べてたのかな、と思うけど…。
「ハーレイ、凄く詳しいね」
 オリンピックには月桂冠だとか、他にも大会があっただとか。
 古典の先生だから詳しく知っているわけ、そういう昔の大会のことも?
「馬鹿、俺とは範囲が違うだろうが」
 俺が教えるのは同じ古典でもギリシャじゃなくって日本の方だ。
 月桂冠を貰えるオリンピックをやってた時代は、日本なんかは世界史にも出ては来ないってな。
「そっか…」
 そういえばそうだね、日本よりも古代ギリシャの方が歴史がうんと長いんだよね。
 日本とギリシャじゃ距離も遠すぎるし、接点だって無さそうだよね…。



 古典の範囲じゃなかったのか、って納得したけど、今度は疑問。
 ハーレイは何処でオリンピックや月桂冠のことを知ったんだろう?
 情報自体はデータベースにあるだろうけど、知りたがる理由が分からない。授業中にする雑談の種を探してたのかな、それにしたってオリンピックというのが謎だし…。
「ねえ、ハーレイ。なんでそんなに詳しいの?」
 月桂冠もオリンピックも、古典の授業と全く関係なさそうだよ?
 雑談の種を探してたにしたって、そこまで詳しく調べなくても良さそうだけど…。
「ああ、それはな…」
 貰ったからさ。貰ったからには調べたくなっても全く不思議じゃないだろうが。
「何を貰ったの?」
「月桂冠だ」
「ええっ!?」
 月桂冠って、月桂樹で編んだ冠のこと?
 ハーレイ、それを貰ったの!?



 いつ、ってビックリしちゃった、ぼく。
 オリンピックは今は無いのに。
 月桂冠だけが貰えたオリンピックどころか、それを真似てたメダルが貰えるオリンピックだって何処にも無いのに。
 全宇宙規模での競技会の類は幾つもあるけど、オリンピックっていう名前じゃない。勝った人が貰えるものは何だったっけ、と考えていたら。
「俺が貰ったのは、お前とおんなじ学校の頃さ。上の学校へ行く前のことだな」
 水泳部の顧問をしていた先生が俺にくれたんだ。
 本当に本物の月桂冠。月桂樹の枝を編んで作った冠をな。



 ハーレイが所属していた水泳部。
 顧問の先生の奥さんが古代ギリシャの文化や神話が好きだったらしくて、月桂冠を考え出した。
 水泳部の生徒のために自分が編もうと、それをプレゼントしてあげようと。
 ただし、大会で優勝したら。
 あちこちの学校から選りすぐりの選手が出場してくる大会で見事に優勝できたら。
「先生からそう聞かされてみろ。これは頑張るしかないだろう?」
「うん」
 優勝しないと貰えないんだものね、月桂冠。欲しければうんと頑張らないとね。
「そういうことだ。月桂冠の話が出て来た時にだ、オリンピックや他の冠の話も聞かされたんだ」
 月桂冠が如何に凄いか、特別なものかを先生が俺たちに語るわけだな、こういうものだ、と。
 その由緒ある月桂冠を手に入れたければ頑張ることだ、と。
「それって、励みになりそうだね…」
 目の前のニンジンみたいなものだね、その月桂冠。
「うむ。俺の家にも月桂樹はあったし、おふくろに頼めば月桂冠は充分に作れたんだが…」
 それとこれとは話が別っていうヤツだ。
 見た目は同じ月桂冠でも、優勝した御褒美と俺のおふくろの手作り品とじゃ別物だろうが?
 もう絶対に貰ってやる、と他のヤツらの何倍も練習したもんだ。
 毎日毎日、もっと泳げると、まだ泳げると。
 そして優勝したってわけだな、他の学校の選手に大差をつけてな。
 先生は約束通りにくれたさ、奥さんが作った月桂冠を。



 大会の次の日、ハーレイは月桂冠を貰った。
 水泳部員が集まってる前で、先生の手で頭に被せて貰った。月桂樹を編んだ冠を。
「月桂冠、貰えて嬉しかった?」
「そりゃもう……なあ?」
 あれを目指して泳いだんだしな、来る日も来る日も誰よりも長く練習をして。
 ついに貰えたと、優勝したんだと、あの瞬間に実感したなあ…。
 大会の会場で貰って帰ったトロフィーよりもだ、俺にとっては月桂冠の方が価値があったんだ。
 ただの月桂樹を編んだ冠なんだが、どういう由来がある冠かを知っているしな。
 古代ギリシャのオリンピックで勝ったみたいな気分になったな、あれを被った瞬間にな。



 念願の月桂冠を貰って、大喜びで持って帰ったハーレイ。
 先生は保存用の加工をしようかと言ったらしいけど。
 そのままだといずれ枯れてしまうし、緑の葉のままで飾っておけるように花屋さんに頼むのなら費用を出そうと思ってくれていたらしいんだけれど。
「自然の枝から出来ているんだ、やっぱり自然が一番だろう?」
 月桂冠を貰えた時代にそういう保存技術は無いしな、そのままがいいと思わんか?
 加工していつまでも記念に残すのもいいが、自然に枯れて朽ちてしまうのも悪くないってな。
「ハーレイの気持ち、ぼくにも分かるよ。自然のものは自然に任せるのが一番だから」
 でも、どうなったの、その月桂冠。
 加工しなかったってことは、その内に枯れちゃったんだよね…?
「少しずつ葉っぱが乾いて落ちていってだ、落ちる度におふくろが煮込み料理にな」
 月桂樹の葉を煮込み料理に使う方法は二通りあるんだ、生の葉にするか、乾かした葉か。
 俺が貰った月桂冠から落ちた葉っぱは乾いてるしな、そのまま煮込み料理に入れりゃいいんだ。生の葉を入れるなら軽く揉んだりするんだがな。
 おふくろが煮込み料理に使っちまっても、俺は惜しいと思わなかった。むしろその逆だ。
 今日の料理は勝利の煮込みだと、あの月桂冠の葉を入れて作った煮込み料理だと。これを食えば力が出てくる筈だと、強くなれるに違いない、とな。
「力、出た?」
 勝利の煮込み料理は効いたの?
「多分な」
 そいつを食ったら、次の日はうんと力がついてる気がしたな。
 水泳にしても柔道にしても、負け知らずってくらいに強かったなあ…。



 最後の方には取っておいたさ、って笑うハーレイ。
 月桂冠から落ちた葉っぱを大切に残しておいて、ここぞっていう大会や試合の前の日になったらお母さんに頼んで煮込み料理を作って貰う。取っておいた月桂樹の葉っぱを入れて貰って。
 シチューにポトフに、それからカレー。他にも色々、勝利の煮込み。
「ハーレイ、勝てた?」
 勝利の煮込みを食べて勝てたの、大会や試合。
「当然だろうが。でなきゃプロの選手にならないか、なんて話は来ない」
 上の学校に入る時には、それまでの成績も検討した上でコースを決めてくるからな。
 プロの選手を目指せるヤツかどうか、その辺も考えて所属するクラスを決められるもんだ。
 例外だって当然あるがだ、俺の場合は最初からプロ向けのコースだったってな。
 そのコースに乗っかることが出来たのは勝ち続けたからだ、勝利の煮込みは大いに効いたさ。



 あのままプロの選手になっていたなら…、と話すハーレイ。
 月桂冠にも出会えたかもと、メダルやトロフィーに刻んであることも多いからと。
「なにしろ古代ギリシャからの伝統の冠だからなあ、月桂冠は」
 そういう習慣を大切にしたい人が始めた大会とかなら、そのモチーフが使われるんだ。
 月桂冠を知っているなら一目で分かる模様だな。知らなきゃ、ただの木の枝だが。
「それじゃ、月桂冠…」
 今でもあるんだ、冠の形はしていなくても。
 ハーレイがプロの選手だったら、また月桂冠を貰えていたかもしれないんだ…?
「まあな。だが、俺は教師になっちまったし…」
 今の俺には無縁だってな、月桂冠は。
 柔道だって今じゃ趣味の範囲だ、あの手の大会を目指そうとまでは思わんなあ…。
 頭に被るための冠なんかは別に要らんし。
 そいつをモチーフにしたメダルもトロフィーも特に欲しくは無いなあ、うん。
「…寂しくない?」
 月桂冠は今もあるのに、手に入れることが出来ないなんて。
 先生を辞めて選手になろう、って思ったりはしないの、ハーレイの腕なら出来そうなのに。
「いや。一度は本物、貰ったからな」
 正真正銘の月桂冠だぞ、トロフィーとかに刻んだヤツと違って。
 本当に本物の月桂樹の枝で編んだ冠だ、俺はそいつを頭に被せて貰ったんだ。
 ついでにそいつで勝利の煮込みを何度も作って貰って、食って。
 勝った思い出が山ほどあるから、それでいいのさ。



 充分だ、って満足そうな顔のハーレイ。
 前の俺には月桂冠なんかは無かったんだし、って。
(でも…)
 ハーレイは本当にそれでいいんだろうか?
 今のぼくと同じ学校の生徒だった頃に貰った、月桂樹の枝を編んで作った月桂冠。
 それがハーレイが手に入れた、たった一つの月桂冠。
 水泳にしても柔道にしても、プロの選手になっていたなら、もっと幾つも貰えただろうに。
 メダルやトロフィーに刻んだものでも、月桂冠を知っているならそうだと分かる冠を。月桂冠の模様が入った勝利の記念を幾つも、幾つも手にしただろうに…。
(なのに、プロにはならずに先生…)
 どうして先生の道を選んだのかは聞いてるけれど。
 自分の意志で決めたことだと言っていたけど、ホントに後悔しなかったろうか?
 先生を辞めてプロの選手の道に入ろうか、って一度も思わなかったんだろうか…?



 ハーレイが先生になってくれたから、ぼくと出会えた。
 忘れもしない五月の三日に教室で会えた。
 プロの選手になっていたって、多分、出会えただろうけど…。
(きっと、会えるのはずっと先…)
 ぼくはスポーツをやってないから、プロの選手との接点がまるで無いんだから。スポーツ観戦の趣味も無いから、スタジアムとかで観客として出会うチャンスも全く無い。
 そんなぼくがプロの選手のハーレイに会うなら、街で偶然、すれ違うくらい?
 でなければパパやママと一緒に食事に出掛けたお店にハーレイも食べに来ていたとか。
(…そうやってハーレイに会えたとしても…)
 ハーレイはプロの選手なんだから、スポーツもやらないチビのぼくなんかと頻繁に会っては話すほど暇じゃないだろう。休みの日だって上手く重ならないかもしれない。
(学校の先生だったから、学校でも会えて、ぼくの家にも来てくれて…)
 毎日と言ってもいいほどに会えて、二人きりで過ごせる時間だって取れる。守り役だって喜んで引き受けてくれたけれども、プロの選手ならそうはいかない。守り役なんかしてはいられない。
(地球のあちこちに試合に出掛けて、他の星にだって…)
 練習時間も多いんだろうし、チビのぼくのために時間は割けない。
 ハーレイがプロの選手だったら、出会えたとしても会えない日の方が多いと思う。
 それに、将来、お嫁さんにして貰えるかどうかも分からない。
 プロの選手のお嫁さんになるには身体が弱すぎるぼく。
 試合や練習で忙しいハーレイを支えられるほどに丈夫じゃないから、足を引っ張るだけだから。
 そんなぼくをお嫁さんに選んでくれるとは、とても思えないから…。



「ハーレイ、月桂冠、ホントのホントに要らないの…?」
 プロの選手になって手に入れたかったと思わない?
 学校の先生なんかをするより、ぼくと結婚するよりも。
 いろんなメダルやトロフィーを貰って、プロの世界で活躍したいと思わない…?
 そう訊いたら、「同じ貰うなら月桂冠よりも嫁さんの方がいい」っていう答えが返ったけれど。
 月桂冠よりもお嫁さんだと、ぼくをお嫁さんに貰いたいんだ、って言われたけれど。
(ホントに未練は無いのかな…)
 ハーレイが進んでいたかもしれないプロの選手になるという道。
 月桂冠を刻んだメダルやトロフィーを幾つも幾つも勝ち取れる道。
 そっちの道を選べば良かった、ってハーレイは思いはしないんだろうか?
 今からでもそっちに軌道修正をしようと思いはしないんだろうか…?



「…月桂冠を貰えそうな道…」
 プロの道にホントに未練は無いの?
 そっちに行こうと、行けば良かったと思ったりすること、一度も無いの…?
「無いな、俺は自分の人生ってヤツに充分満足しているからな」
 別の生き方をしてみたいなんて思わんなあ…。ただの一度も無いな、そいつは。
 本当に一度も無いんだからな、ってハーレイはぼくに言い切った。
 とびきりの笑顔で、ぼくが大好きでたまらない笑顔で。
 それから、ぼくを見詰めてこう尋ねたんだ。



「お前、月桂冠にこだわりたいのか?」
 やたらと気にしているようなんだが、月桂冠がそんなに気になるのか…?
「聞いちゃったからね、月桂冠の話」
 どんなものかも、ハーレイが本物を貰ったってことも。
「だったら、お前が作ってくれ」
 月桂樹の枝をお前が編んでだ、本物の月桂冠ってヤツを。
「…ハーレイに?」
 月桂冠を編んでハーレイにプレゼントすればいいわけ、本物のを?
「渡す相手は俺でいいんだが…。俺で間違いないんだが…」
 俺が言うのは、ガキだった俺が月桂冠を貰ったみたいに、って意味のことだな。
 顧問の先生が俺の頭に被せてくれたが、あの月桂冠を作った人は…。
「ああ、先生の奥さん…!」
 ぼくが作って、ハーレイに渡して。
 その月桂冠をハーレイが生徒にプレゼントするんだね、優勝した子に…?
「うむ。どうしてもお前が月桂冠にこだわりたいなら、そういうのが俺の望みだな」
 お前の手作りの月桂冠、って鳶色の瞳が細められた。
 作ってやってくれないか、って。
 俺の教え子のために月桂冠を編んでくれないか、って。
「いいよ、ハーレイがそうしたいなら」
 ハーレイが貰った月桂冠みたいに、クラブの子に贈ってあげたいのなら。



 頑張って月桂冠を作るからね、って勢いよく返事を返した、ぼく。
 子供だった頃のハーレイが貰って嬉しかったという月桂冠を、今度はぼくが作るんだ。
 ハーレイが指導する子供たちのために、月桂樹の枝を編んで本物の月桂冠を。
 優勝した子に、頑張った子の頭にハーレイが被せる月桂冠。
 そのハーレイがずっと昔にして貰ったように、被せてあげるんだろう月桂冠。
 ハーレイのお嫁さんだからこそ、作ることが出来る月桂冠。
 いつかハーレイの教え子のために月桂冠を編むんだ、ハーレイの家の庭で育った月桂樹の枝で。
 ぼくが編んで、ハーレイが教え子の頭に被せる。
 「俺の嫁さんが作ったんだぞ」って、「嫁さんからの贈り物だ」って。
 そうして、月桂冠の話をハーレイは教え子たちに語るんだろう。
 この冠はこういうものだと、勝利の証の月桂冠だと。
(勝利の煮込みの話までセットでつきそうだよね?)
 きっと保存用の加工を頼んでくる子は一人も出て来やしないんだ。
 月桂冠の葉っぱが落ちてしまったなら、それを使って勝利の煮込みが出来るから。



 ハーレイの家にも、ぼくの家にも、ハーレイのお父さんたちの家にも生えてる月桂樹。
 だけど月桂冠を編むなら、ハーレイの家の月桂樹。
 お嫁さんのぼくだからチョキンとハサミで切っちゃってもいい、月桂樹。
 ハーレイが学校に出掛けてる間に枝を切って、編んで。
 「はい」ってハーレイに出来上がったのを渡すんだ。
 頑張った子の頭に被せてあげてね、って、うんと頑張って月桂冠を編んだからね、って…。




           月桂樹の冠・了

※ハーレイが子供時代に貰った、本物の月桂樹で出来た冠。勝者の証の月桂冠です。
 今も大切な思い出の一つ。いつかブルーが、ハーレイの教え子たちに編むのでしょうね。
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