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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「ママ、それなあに?」
 学校から帰ったら、ダイニングのテーブルの上に木の枝が三本。葉っぱつきの。
「月桂樹よ。庭にあるでしょ、あれを切って来たのよ」
 ご近所さんに分けてあげるの、って言ったママ。
 ホントだ、木の枝は月桂樹だった。けっこう大きな枝が三本、真っ直ぐに伸びた若い枝。今年に育った枝なんだろう、皮がまだ緑色だから。
 月桂樹ならぼくも知っているけど、庭に植わっているけれど。こんな風に枝だけ置いてあったら直ぐにそうだとは分からない。
(でも…)
 匂いで気付くべきだった。三本の枝に葉っぱが沢山、その葉っぱから漂う独特の香り。
 煮込み料理に使うんだっけ、と月桂樹の枝を眺めていたら。
 ママが用意してくれたおやつを食べながら観察してたら。
「はい、栞。一枚あげるわ」
 葉っぱを一枚、ママが千切って渡してくれた。
「栞?」
「月桂樹の葉っぱは虫よけになるのよ、いい匂いがするわ。乾いた後もね」
 本の栞にしてみたら、って一枚貰った月桂樹の葉っぱ。濃い緑色をした固めの葉っぱ。
 ママは三本の枝を束ねて飾りのリボンを結んでる。届けに行くのかと思っていたけど、もうすぐ取りに来るんだって。買い物のついでに、ぼくの家に寄って。
(じゃあ、一回目はご近所さん…)
 門扉の脇のチャイムが鳴っても、それはハーレイじゃないってこと。
 だけどやっぱり窓に駆け寄って覗いちゃうんだろうな、ハーレイかな、って。



 おやつを食べ終えて、月桂樹の葉っぱを手にして部屋に帰って。
 勉強机の前に座ったら、ぼくの指から月桂樹の匂い。葉っぱをつまんでいた指から。
(匂い、けっこう強いんだ…)
 ぼくは葉っぱを揉んだわけじゃないし、持って帰って来ただけなのに。ダイニングから部屋まで来るまでの間、つまんでいたってだけなのに。
(栞…)
 これだけ香りが強いんだったら、素敵な栞になるだろう。本が好きだから栞は幾つか持っているけど、葉っぱなら本物の天然素材。ちょっといいよね、って気がしてくる。
(いい匂いの栞…)
 香料をつけたわけじゃなくって、葉っぱがそのまま香るから。これはいいかも、って考えた。
 だけど直ぐにパタンと本に挟んだら、葉っぱがちょっぴり可哀相だろうか?
 本の重さは葉っぱにはきっと重すぎるよね、と思ったりもする。
 でも、このまま葉っぱが乾いちゃったら、曲がってしまって栞に出来なくなっちゃうかも…。
 そうなったならば本末転倒、栞用に貰った意味が無いから。
(ちょっとだけ…)
 葉っぱの半分を本に挟もう。本に挟んだ部分は押し葉で、真っ直ぐ。
 外に出ている部分の葉っぱが曲がっちゃっても、残り半分が真っ直ぐだったら栞になるから。
(この本でいいかな?)
 本棚から一冊引っ張り出して、月桂樹の葉っぱを半分挟んだ。
(いい匂い…)
 半分が外に覗いているから、ぼくの部屋に月桂樹の匂い。
 不思議な木だよね、庭に植わってる時は近くに寄っても月桂樹の香りはしないのに。
 ママに頼まれて煮込み料理用に葉っぱを千切りに行ったら、千切った葉っぱが香るんだ。ママがダイニングに置いていた枝がいい匂いをさせていたように。
 あの枝はきっと、木から切られたから強い匂いがしたんだろう。葉っぱを一枚千切るどころか、枝ごとチョキンと切ったんだから。



 月桂樹の栞を挟んで直ぐに聞こえたチャイムの音。
 大急ぎで窓に駆け寄ってみたら、月桂樹を貰いに寄ったご近所さんが門扉の所に立っていた。
(…一回目のチャイムはご近所さん、って思ってたくせに…)
 すっかり忘れてハーレイかと思った慌て者のぼく。
 こんな日に限ってハーレイは来てはくれないのかも、って心配したけど、暫くしたらチャイムが鳴って今度はハーレイ。仕事帰りに寄ってくれたハーレイ。
 そのハーレイは、ママがお茶とお菓子を置いてったテーブルを挟んで向かい合わせで座ってから部屋を見回して。
「おっ、月桂樹の匂いだな」
 何処かにあるのか、月桂樹の枝。その辺には見当たらないんだが…。
「あそこの本だよ、ママが栞にってくれた葉っぱを挟んだんだよ。だけど…」
 ハーレイ、匂いで分かっちゃうの?
 月桂樹が部屋にあるってことが?
「そりゃあ分かるさ、俺の家にもあるからな」
 馴染みの匂いだ、嗅げばアレだと分かるってわけだ。月桂樹の香りは分かりやすいし。



(ハーレイの家にも月桂樹の木…)
 おんなじ木だ、と嬉しくなった。
 ぼくの家にあるのと同じ木がハーレイの家の庭にあるって、お揃いみたいで胸が高鳴る。ぼくの家にも、ハーレイの家にも月桂樹。ママのお手伝いでたまに葉っぱを千切りに行く木。
「月桂樹の葉っぱ、ハーレイも煮込み料理に使うの?」
 それとも虫よけ?
 ママが教えてくれたんだよ。月桂樹の葉っぱは虫よけになるって、栞に一枚貰ったんだ。
「月桂樹の葉の使い方か? 俺は料理だが、おふくろの場合は両方だな」
 しっかり乾燥させたのを布の袋に詰めてだ、クローゼットとかに入れているんだ、防虫用に。
 月桂樹の他にもハーブを混ぜているがな、おふくろの好みで色々とな。
「お母さんの家にも月桂樹、あるの?」
「あるさ、俺が生まれるよりも前から植わってる木がな」
 ガキの頃には、おふくろに頼まれて葉っぱを千切りに行ってたもんだ。
 煮込み料理に入れるから、って走らされたな、庭までな。



(お母さんの家にも月桂樹…)
 ますます嬉しくなった、ぼく。
 ハーレイの家にも、隣町にあるハーレイのお父さんとお母さんが住んでる家にも月桂樹。ぼくの家の庭にも月桂樹が植わっているんだし…。
 おんなじ木があるって、とっても嬉しい。
 ハーレイから聞いてる木の話といえば、お父さんたちの家にある大きな夏ミカンの木だけれど。
 いつもハーレイが持って来てくれる、お母さんの手作りのマーマレードの材料がドッサリと実る木だけど、ぼくの家には夏ミカンの木は植わってないから。
 大きな夏ミカンの木は「どんなのかな?」って想像するしか出来なかったし、本物に会える日はまだ遠そうだし、ぼくにとっては幻みたいな存在で。
 なのに、月桂樹の木がいきなり出て来た。ハーレイの家にも、お父さんたちの家にも月桂樹。
 ぼくの家の庭の月桂樹とお揃い、枝ぶりとかはきっと違うだろうけど。



「どうした、お前、嬉しそうだな」
 やたらニコニコしているようだが、何がそんなに嬉しいんだ?
「木がお揃いだよ、月桂樹の木」
 ぼくの家と、ハーレイの家と、ハーレイのお父さんたちが住んでいる家と。
 庭の月桂樹の木はお揃いだよね、って考えたら嬉しい気持ちがしない?
「なるほどなあ…。月桂樹がお揃いというわけか」
 そいつは全く気付かなかったな、お前の家の庭に月桂樹があるのは知ってたが…。
 お揃いと来たか、お前ならではの発想だな。
 俺とお揃いの何かが欲しい、と何度聞かされたことやらなあ…?
 あそこのシャングリラの写真集にしたって、お前にしてみりゃ俺とお揃いらしいしな?
 俺が先に買って教えてやってだ、お父さんに強請っただけなのになあ…。
 一緒に買いに行ったってわけじゃないんだし、お揃いも何もあったものではない筈だがな?



 庭の木がお揃いだと言うのなら、とハーレイは唇に笑みを浮かべた。
 月桂樹の話をしてやろうか、って。
「神話だったら知ってるよ?」
 女の人が月桂樹になってしまうんでしょ?
 神様に追い掛けられちゃって、逃げ切れなくて。それで月桂樹に変身しちゃうんだよね?
「あれじゃなくてだ、あの神話の国の話だな」
 ギリシャ神話っていうくらいだから、遠い昔のギリシャの話だ。
 その大昔のギリシャで本当にあった話で、神話なんかじゃない話だが…。
「どんなお話?」
「それはな、月桂冠と言うヤツで、だ…」
 月桂樹の枝を編んで作った冠なんだ。
 最高に名誉な冠だったらしいぞ、月桂冠は。そいつを作っていた頃にはな。



 月桂樹の枝を編んで作った月桂冠。
 オリンピックっていう競技大会で勝った人が貰える冠だったんだって。
 ボクシングだとか、円盤投げとか、色々な種目で競い合っていた体育の祭典、期間中には戦争もお休みになったくらいの大きなお祭り。四年に一度の大きなお祭り。
 そのオリンピックは大昔のギリシャが衰退したら無くなった。ずっと後になって、それを真似て地球にあった国の殆どが参加したほどのオリンピックという大会が出来たらしいけど。SD体制に入るよりも前に消えてしまって、オリンピックは今は無い。
 だから知らなかった、オリンピック。
 名前くらいは知っているけど、月桂樹の枝を編んで作った月桂冠は初耳だった。
 後から出来たオリンピックだと、競技ごとにメダルが貰えたみたい。一位の人には金のメダルで二位の人は銀、三位は銅。
 だけど、昔のオリンピックにメダルは無かったんだって。
 勝った人には月桂冠。月桂樹の枝を編んだ冠を被せて貰って、勝者の証。



「…メダルは無しって…。月桂冠だけ?」
 勝ってもそれしか貰えなかったの、ずうっと昔のオリンピックは?
「うむ、それだけだ」
 偉いスポンサーがついていればだ、自分の姿を彫った像を作って貰えたらしいが…。
 その像をオリンピックが開催されてた場所の近くの神殿に奉納出来たそうだが、そこまで出来たヤツは多くはないって話だな。大抵のヤツは月桂冠を貰ってそれで終わりだ。
「月桂冠だけって…。酷くない?」
 それじゃ記念に取っておいても枯れてしまうよ、元の形で残せないよ?
 メダルだったら何十年だって残しておくことが出来るのに…。
「そういう時代だったってことだな、古代ギリシャがあった頃はな」
 オリンピックが一番有名なんだが、似たような大会が他に三つあった。その三つの方も、貰えるものは冠だけだったと言うからな。
 しかもだ、冠は大会が開催される場所によって何で作るのかが決まっていた。オリンピックなら月桂冠だが、他の所だとセロリにパセリにオリーブだぞ。
「セロリにパセリにオリーブって…。全部、食べられるものじゃない!」
 月桂樹だって料理に使うものだし、もしかして食べるものしか貰えない時代だったわけ?
「そのようだ。それぞれ由来ってヤツはあったんだろうが…」
 開催地の神様にゆかりの植物だとか、そういった理由はあった筈だが…。
 食えるもので作った冠ってことは案外、丈夫な身体を作れっていう意味もあったのかもな。
 いつもお前に言っているだろ、「しっかり食べて大きくなれよ」って。
 そんな風に食べられる冠を贈って、もっと強くて頑丈な身体を作るように、ってな。



 ハーレイが教えてくれた、古代ギリシャの勝者の冠。
 月桂冠にセロリにパセリにオリーブ、なんだか美味しそうな冠ばっかり。
 貰った人はやっぱり冠を食べちゃったのかな、残しておいてもセロリやパセリは傷んじゃう。
 オリーブだって実が駄目になるし、月桂冠もドライハーブになっちゃうだけ。
 新鮮な間に料理しちゃって食べてたのかな、と思うけど…。
「ハーレイ、凄く詳しいね」
 オリンピックには月桂冠だとか、他にも大会があっただとか。
 古典の先生だから詳しく知っているわけ、そういう昔の大会のことも?
「馬鹿、俺とは範囲が違うだろうが」
 俺が教えるのは同じ古典でもギリシャじゃなくって日本の方だ。
 月桂冠を貰えるオリンピックをやってた時代は、日本なんかは世界史にも出ては来ないってな。
「そっか…」
 そういえばそうだね、日本よりも古代ギリシャの方が歴史がうんと長いんだよね。
 日本とギリシャじゃ距離も遠すぎるし、接点だって無さそうだよね…。



 古典の範囲じゃなかったのか、って納得したけど、今度は疑問。
 ハーレイは何処でオリンピックや月桂冠のことを知ったんだろう?
 情報自体はデータベースにあるだろうけど、知りたがる理由が分からない。授業中にする雑談の種を探してたのかな、それにしたってオリンピックというのが謎だし…。
「ねえ、ハーレイ。なんでそんなに詳しいの?」
 月桂冠もオリンピックも、古典の授業と全く関係なさそうだよ?
 雑談の種を探してたにしたって、そこまで詳しく調べなくても良さそうだけど…。
「ああ、それはな…」
 貰ったからさ。貰ったからには調べたくなっても全く不思議じゃないだろうが。
「何を貰ったの?」
「月桂冠だ」
「ええっ!?」
 月桂冠って、月桂樹で編んだ冠のこと?
 ハーレイ、それを貰ったの!?



 いつ、ってビックリしちゃった、ぼく。
 オリンピックは今は無いのに。
 月桂冠だけが貰えたオリンピックどころか、それを真似てたメダルが貰えるオリンピックだって何処にも無いのに。
 全宇宙規模での競技会の類は幾つもあるけど、オリンピックっていう名前じゃない。勝った人が貰えるものは何だったっけ、と考えていたら。
「俺が貰ったのは、お前とおんなじ学校の頃さ。上の学校へ行く前のことだな」
 水泳部の顧問をしていた先生が俺にくれたんだ。
 本当に本物の月桂冠。月桂樹の枝を編んで作った冠をな。



 ハーレイが所属していた水泳部。
 顧問の先生の奥さんが古代ギリシャの文化や神話が好きだったらしくて、月桂冠を考え出した。
 水泳部の生徒のために自分が編もうと、それをプレゼントしてあげようと。
 ただし、大会で優勝したら。
 あちこちの学校から選りすぐりの選手が出場してくる大会で見事に優勝できたら。
「先生からそう聞かされてみろ。これは頑張るしかないだろう?」
「うん」
 優勝しないと貰えないんだものね、月桂冠。欲しければうんと頑張らないとね。
「そういうことだ。月桂冠の話が出て来た時にだ、オリンピックや他の冠の話も聞かされたんだ」
 月桂冠が如何に凄いか、特別なものかを先生が俺たちに語るわけだな、こういうものだ、と。
 その由緒ある月桂冠を手に入れたければ頑張ることだ、と。
「それって、励みになりそうだね…」
 目の前のニンジンみたいなものだね、その月桂冠。
「うむ。俺の家にも月桂樹はあったし、おふくろに頼めば月桂冠は充分に作れたんだが…」
 それとこれとは話が別っていうヤツだ。
 見た目は同じ月桂冠でも、優勝した御褒美と俺のおふくろの手作り品とじゃ別物だろうが?
 もう絶対に貰ってやる、と他のヤツらの何倍も練習したもんだ。
 毎日毎日、もっと泳げると、まだ泳げると。
 そして優勝したってわけだな、他の学校の選手に大差をつけてな。
 先生は約束通りにくれたさ、奥さんが作った月桂冠を。



 大会の次の日、ハーレイは月桂冠を貰った。
 水泳部員が集まってる前で、先生の手で頭に被せて貰った。月桂樹を編んだ冠を。
「月桂冠、貰えて嬉しかった?」
「そりゃもう……なあ?」
 あれを目指して泳いだんだしな、来る日も来る日も誰よりも長く練習をして。
 ついに貰えたと、優勝したんだと、あの瞬間に実感したなあ…。
 大会の会場で貰って帰ったトロフィーよりもだ、俺にとっては月桂冠の方が価値があったんだ。
 ただの月桂樹を編んだ冠なんだが、どういう由来がある冠かを知っているしな。
 古代ギリシャのオリンピックで勝ったみたいな気分になったな、あれを被った瞬間にな。



 念願の月桂冠を貰って、大喜びで持って帰ったハーレイ。
 先生は保存用の加工をしようかと言ったらしいけど。
 そのままだといずれ枯れてしまうし、緑の葉のままで飾っておけるように花屋さんに頼むのなら費用を出そうと思ってくれていたらしいんだけれど。
「自然の枝から出来ているんだ、やっぱり自然が一番だろう?」
 月桂冠を貰えた時代にそういう保存技術は無いしな、そのままがいいと思わんか?
 加工していつまでも記念に残すのもいいが、自然に枯れて朽ちてしまうのも悪くないってな。
「ハーレイの気持ち、ぼくにも分かるよ。自然のものは自然に任せるのが一番だから」
 でも、どうなったの、その月桂冠。
 加工しなかったってことは、その内に枯れちゃったんだよね…?
「少しずつ葉っぱが乾いて落ちていってだ、落ちる度におふくろが煮込み料理にな」
 月桂樹の葉を煮込み料理に使う方法は二通りあるんだ、生の葉にするか、乾かした葉か。
 俺が貰った月桂冠から落ちた葉っぱは乾いてるしな、そのまま煮込み料理に入れりゃいいんだ。生の葉を入れるなら軽く揉んだりするんだがな。
 おふくろが煮込み料理に使っちまっても、俺は惜しいと思わなかった。むしろその逆だ。
 今日の料理は勝利の煮込みだと、あの月桂冠の葉を入れて作った煮込み料理だと。これを食えば力が出てくる筈だと、強くなれるに違いない、とな。
「力、出た?」
 勝利の煮込み料理は効いたの?
「多分な」
 そいつを食ったら、次の日はうんと力がついてる気がしたな。
 水泳にしても柔道にしても、負け知らずってくらいに強かったなあ…。



 最後の方には取っておいたさ、って笑うハーレイ。
 月桂冠から落ちた葉っぱを大切に残しておいて、ここぞっていう大会や試合の前の日になったらお母さんに頼んで煮込み料理を作って貰う。取っておいた月桂樹の葉っぱを入れて貰って。
 シチューにポトフに、それからカレー。他にも色々、勝利の煮込み。
「ハーレイ、勝てた?」
 勝利の煮込みを食べて勝てたの、大会や試合。
「当然だろうが。でなきゃプロの選手にならないか、なんて話は来ない」
 上の学校に入る時には、それまでの成績も検討した上でコースを決めてくるからな。
 プロの選手を目指せるヤツかどうか、その辺も考えて所属するクラスを決められるもんだ。
 例外だって当然あるがだ、俺の場合は最初からプロ向けのコースだったってな。
 そのコースに乗っかることが出来たのは勝ち続けたからだ、勝利の煮込みは大いに効いたさ。



 あのままプロの選手になっていたなら…、と話すハーレイ。
 月桂冠にも出会えたかもと、メダルやトロフィーに刻んであることも多いからと。
「なにしろ古代ギリシャからの伝統の冠だからなあ、月桂冠は」
 そういう習慣を大切にしたい人が始めた大会とかなら、そのモチーフが使われるんだ。
 月桂冠を知っているなら一目で分かる模様だな。知らなきゃ、ただの木の枝だが。
「それじゃ、月桂冠…」
 今でもあるんだ、冠の形はしていなくても。
 ハーレイがプロの選手だったら、また月桂冠を貰えていたかもしれないんだ…?
「まあな。だが、俺は教師になっちまったし…」
 今の俺には無縁だってな、月桂冠は。
 柔道だって今じゃ趣味の範囲だ、あの手の大会を目指そうとまでは思わんなあ…。
 頭に被るための冠なんかは別に要らんし。
 そいつをモチーフにしたメダルもトロフィーも特に欲しくは無いなあ、うん。
「…寂しくない?」
 月桂冠は今もあるのに、手に入れることが出来ないなんて。
 先生を辞めて選手になろう、って思ったりはしないの、ハーレイの腕なら出来そうなのに。
「いや。一度は本物、貰ったからな」
 正真正銘の月桂冠だぞ、トロフィーとかに刻んだヤツと違って。
 本当に本物の月桂樹の枝で編んだ冠だ、俺はそいつを頭に被せて貰ったんだ。
 ついでにそいつで勝利の煮込みを何度も作って貰って、食って。
 勝った思い出が山ほどあるから、それでいいのさ。



 充分だ、って満足そうな顔のハーレイ。
 前の俺には月桂冠なんかは無かったんだし、って。
(でも…)
 ハーレイは本当にそれでいいんだろうか?
 今のぼくと同じ学校の生徒だった頃に貰った、月桂樹の枝を編んで作った月桂冠。
 それがハーレイが手に入れた、たった一つの月桂冠。
 水泳にしても柔道にしても、プロの選手になっていたなら、もっと幾つも貰えただろうに。
 メダルやトロフィーに刻んだものでも、月桂冠を知っているならそうだと分かる冠を。月桂冠の模様が入った勝利の記念を幾つも、幾つも手にしただろうに…。
(なのに、プロにはならずに先生…)
 どうして先生の道を選んだのかは聞いてるけれど。
 自分の意志で決めたことだと言っていたけど、ホントに後悔しなかったろうか?
 先生を辞めてプロの選手の道に入ろうか、って一度も思わなかったんだろうか…?



 ハーレイが先生になってくれたから、ぼくと出会えた。
 忘れもしない五月の三日に教室で会えた。
 プロの選手になっていたって、多分、出会えただろうけど…。
(きっと、会えるのはずっと先…)
 ぼくはスポーツをやってないから、プロの選手との接点がまるで無いんだから。スポーツ観戦の趣味も無いから、スタジアムとかで観客として出会うチャンスも全く無い。
 そんなぼくがプロの選手のハーレイに会うなら、街で偶然、すれ違うくらい?
 でなければパパやママと一緒に食事に出掛けたお店にハーレイも食べに来ていたとか。
(…そうやってハーレイに会えたとしても…)
 ハーレイはプロの選手なんだから、スポーツもやらないチビのぼくなんかと頻繁に会っては話すほど暇じゃないだろう。休みの日だって上手く重ならないかもしれない。
(学校の先生だったから、学校でも会えて、ぼくの家にも来てくれて…)
 毎日と言ってもいいほどに会えて、二人きりで過ごせる時間だって取れる。守り役だって喜んで引き受けてくれたけれども、プロの選手ならそうはいかない。守り役なんかしてはいられない。
(地球のあちこちに試合に出掛けて、他の星にだって…)
 練習時間も多いんだろうし、チビのぼくのために時間は割けない。
 ハーレイがプロの選手だったら、出会えたとしても会えない日の方が多いと思う。
 それに、将来、お嫁さんにして貰えるかどうかも分からない。
 プロの選手のお嫁さんになるには身体が弱すぎるぼく。
 試合や練習で忙しいハーレイを支えられるほどに丈夫じゃないから、足を引っ張るだけだから。
 そんなぼくをお嫁さんに選んでくれるとは、とても思えないから…。



「ハーレイ、月桂冠、ホントのホントに要らないの…?」
 プロの選手になって手に入れたかったと思わない?
 学校の先生なんかをするより、ぼくと結婚するよりも。
 いろんなメダルやトロフィーを貰って、プロの世界で活躍したいと思わない…?
 そう訊いたら、「同じ貰うなら月桂冠よりも嫁さんの方がいい」っていう答えが返ったけれど。
 月桂冠よりもお嫁さんだと、ぼくをお嫁さんに貰いたいんだ、って言われたけれど。
(ホントに未練は無いのかな…)
 ハーレイが進んでいたかもしれないプロの選手になるという道。
 月桂冠を刻んだメダルやトロフィーを幾つも幾つも勝ち取れる道。
 そっちの道を選べば良かった、ってハーレイは思いはしないんだろうか?
 今からでもそっちに軌道修正をしようと思いはしないんだろうか…?



「…月桂冠を貰えそうな道…」
 プロの道にホントに未練は無いの?
 そっちに行こうと、行けば良かったと思ったりすること、一度も無いの…?
「無いな、俺は自分の人生ってヤツに充分満足しているからな」
 別の生き方をしてみたいなんて思わんなあ…。ただの一度も無いな、そいつは。
 本当に一度も無いんだからな、ってハーレイはぼくに言い切った。
 とびきりの笑顔で、ぼくが大好きでたまらない笑顔で。
 それから、ぼくを見詰めてこう尋ねたんだ。



「お前、月桂冠にこだわりたいのか?」
 やたらと気にしているようなんだが、月桂冠がそんなに気になるのか…?
「聞いちゃったからね、月桂冠の話」
 どんなものかも、ハーレイが本物を貰ったってことも。
「だったら、お前が作ってくれ」
 月桂樹の枝をお前が編んでだ、本物の月桂冠ってヤツを。
「…ハーレイに?」
 月桂冠を編んでハーレイにプレゼントすればいいわけ、本物のを?
「渡す相手は俺でいいんだが…。俺で間違いないんだが…」
 俺が言うのは、ガキだった俺が月桂冠を貰ったみたいに、って意味のことだな。
 顧問の先生が俺の頭に被せてくれたが、あの月桂冠を作った人は…。
「ああ、先生の奥さん…!」
 ぼくが作って、ハーレイに渡して。
 その月桂冠をハーレイが生徒にプレゼントするんだね、優勝した子に…?
「うむ。どうしてもお前が月桂冠にこだわりたいなら、そういうのが俺の望みだな」
 お前の手作りの月桂冠、って鳶色の瞳が細められた。
 作ってやってくれないか、って。
 俺の教え子のために月桂冠を編んでくれないか、って。
「いいよ、ハーレイがそうしたいなら」
 ハーレイが貰った月桂冠みたいに、クラブの子に贈ってあげたいのなら。



 頑張って月桂冠を作るからね、って勢いよく返事を返した、ぼく。
 子供だった頃のハーレイが貰って嬉しかったという月桂冠を、今度はぼくが作るんだ。
 ハーレイが指導する子供たちのために、月桂樹の枝を編んで本物の月桂冠を。
 優勝した子に、頑張った子の頭にハーレイが被せる月桂冠。
 そのハーレイがずっと昔にして貰ったように、被せてあげるんだろう月桂冠。
 ハーレイのお嫁さんだからこそ、作ることが出来る月桂冠。
 いつかハーレイの教え子のために月桂冠を編むんだ、ハーレイの家の庭で育った月桂樹の枝で。
 ぼくが編んで、ハーレイが教え子の頭に被せる。
 「俺の嫁さんが作ったんだぞ」って、「嫁さんからの贈り物だ」って。
 そうして、月桂冠の話をハーレイは教え子たちに語るんだろう。
 この冠はこういうものだと、勝利の証の月桂冠だと。
(勝利の煮込みの話までセットでつきそうだよね?)
 きっと保存用の加工を頼んでくる子は一人も出て来やしないんだ。
 月桂冠の葉っぱが落ちてしまったなら、それを使って勝利の煮込みが出来るから。



 ハーレイの家にも、ぼくの家にも、ハーレイのお父さんたちの家にも生えてる月桂樹。
 だけど月桂冠を編むなら、ハーレイの家の月桂樹。
 お嫁さんのぼくだからチョキンとハサミで切っちゃってもいい、月桂樹。
 ハーレイが学校に出掛けてる間に枝を切って、編んで。
 「はい」ってハーレイに出来上がったのを渡すんだ。
 頑張った子の頭に被せてあげてね、って、うんと頑張って月桂冠を編んだからね、って…。




           月桂樹の冠・了

※ハーレイが子供時代に貰った、本物の月桂樹で出来た冠。勝者の証の月桂冠です。
 今も大切な思い出の一つ。いつかブルーが、ハーレイの教え子たちに編むのでしょうね。
  ←拍手して下さる方は、こちらからv
  ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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「裏返し?」
 何、と訊き返してしまった、ぼく。
 ハーレイが授業でそういう話をした、っていう別のクラスの噂話。よほど印象が強かったのか、アッと言う間に学年中に広がってしまって、ぼくの耳にも入って来た。友達経由で。
 だけど裏返しって、何のことだろう?
 どういう意味、って教えてくれた友達に確認してみたら。
「おまじないらしいぜ、なんかパジャマを裏返しにして寝ると…」
「好きな人が夢に出て来る、っていうんで流行ってるらしいぞ、女子の間で」
 女子はそういうのが好きだもんな、って笑い合ってる、ぼくの友達。
(裏返し…)
 そんな話は知らなかった。初めて聞いた。
 前のぼくだって多分、知らなかった筈。パジャマを裏返しにして寝るおまじないだなんて。
(…パジャマは滅多に着なかったけどね)
 ハーレイに恋をしてからは。恋人同士になってからは。
 いつも一緒に眠っていたから、ぼくのパジャマはハーレイだった。温かくて、ぼくの身体を包み込んでくれて、本当にピッタリのパジャマだったから。
 具合の悪い時だけ、パジャマを着てた。「身体を冷やすといけませんから」って着せられた。
 ノルディも診察にやって来るんだし、「裸だったらマズイでしょう」、って。



 そのせいなのかな、知らないパジャマのおまじない。裏返しだなんて聞いたこともない。
(裏返して寝ると、好きな人が夢に出て来るだなんて…)
 ぼくたちの年だと、恋に恋するお年頃にもまだ早い。
 前のぼくが生きてた時代だったら、十四歳で成人検査で、育ての親ともお別れだったけど。子供時代の記憶を処理され、大人の社会へ旅立つためにと教育ステーションへ送られたけれど。
 今の世界は人間はみんなミュウだから。平均寿命が三百歳を軽く越えるような時代なんだから、育つのも恋をするのものんびり、ゆっくり。
(十八歳になれば結婚出来るけど…)
 そんなに早く結婚しようって人はとても少なくて、普通はその年の頃に初恋ってトコ。
 義務教育が終わって上の学校に行って、其処で恋人が出来るケースが多数派なんだ。今の時代はそういう時代。恋をするにはまだまだ早い、ぼくが通う学校の生徒たち。
(パジャマを裏返して寝るのが流行っているとしても…)
 夢の中で会いたい好きな人って、本当に自分が恋をしている相手なんかじゃないだろう。
 人気ドラマの主役や俳優、そういった憧れの人だろうけど。
 でも…。



(ぼくの場合は真剣に…)
 夢の中で会いたい人がいる。好きでたまらない、前のぼくだった頃から好きだった人が。
(ハーレイに夢で会ってみたいよ…)
 普段の生活でも会えるけれども、ちゃんと家にも来てくれるけれど。
 ハーレイはぼくを子供扱い、キスも出来ない恋人同士。それよりは夢で出会ってみたい。
(夢の中なら…)
 キスも出来るし、それよりも先のことだって。
 現に何度も夢に出て来た、前のハーレイとベッドで過ごした時間。幸せな気分で目が覚める夢。
 パジャマを裏返しにして眠るおまじないで、あの甘い夢が見られるのなら…。
(ぼくも試してみたいんだけどな)
 そして夢の中でハーレイと…、って思いを馳せた。
 キスを交わして、それから、それから…。ハーレイの腕の中、本物の恋人同士になれる夢。
 今のぼくには出来っこないけど、夢の中なら出来るんだから。



 だけど分からない、噂の真偽。
 本当にパジャマを裏返すだけで夢を見られるのか、他にも何か必要なのか。寝る前に唱えなきゃいけない呪文があったりするとか、噂だけでは分からないこと。
 正しいやり方を知りたかったら、ハーレイの雑談を待つしかないのに。授業中に生徒が飽きないように、ってハーレイが織り込む雑談は人気。授業の度に必ず一つは聞けるんだけど。
(今日も別の話…)
 あれから一週間も経つのに、一向に出てこないパジャマの話。
 噂を聞いた日からずっと待っているのに、まるで違った雑談ばかり。
 いくら待ってもしてはくれないパジャマの話。裏返しのパジャマのおまじない。

 今日も駄目だった、って教室を出てゆくハーレイの背中を見送りながら決心した。
(訊いてやる…!)
 明日は土曜日、ハーレイが家に来てくれる日だし、噂の張本人に直接訊こう。
 待っても待っても、とうとう聞けなかったんだから。
 この一週間、ハーレイがぼくの家に寄ってくれた日もあったんだけれど、そんな話は何処からも出て来てはくれなかったんだから。
 いい加減、ぼくも痺れが切れる。
 聞きたくて、知りたくて、待って、待ち続けて、一週間も経ったんだから。



 次の日、訪ねて来てくれたハーレイ。
 ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、ママがお茶とお菓子を置いて部屋を出るなり、ぼくは早速切り出した。ママの足音が階段を下りてゆくのはきちんと確認したけれど。
「ハーレイ、パジャマを裏返しって、なに?」
「はあ?」
 いきなりパジャマってどうかしたのか、畳み方とかの話なのか?
 俺がパジャマを洗濯する時は、裏返しで干して、片付ける時に表返して畳んでいるが…。
「干し方とかの話じゃなくて! 他のクラスでやったんでしょ!」
 パジャマを裏返しにして寝たら、夢の中で好きな人に会えるって話!
 確かに聞いたよ、ハーレイがそういう話をしてた、って。
「ああ、雑談なあ…」
 そういや何処かのクラスでやったな、何処だったっけな…。
 生徒の顔ぶれを見たら思い出すんだが、そうじゃない時はハッキリしないな、その手の記憶。
 お前のクラスじゃなかったことだけは、どうやら間違いなさそうだが。



 その話だったら小野小町だ、ってハーレイは言った。
 ぼくたちが住んでる地域にずうっと昔に在った小さな島国、日本に住んでた有名な女性。美人で歌を詠むのも上手で、沢山の伝説が残っている人。その人が詠んだ歌なんだって。
「いとせめて 恋しきときは むばたまの 夜の衣を 返してぞ着る」。
 そういう歌から出て来た雑談。
「ずうっと昔の夢の歌だな、小野小町が生きていた頃に詠んだんだからな」
 平安時代だ、どのくらい古い歌なのかってことはお前にだって分かるだろう?
 その頃にあったおまじないを詠んだ歌なんだ。眠る時に着るものを裏返して着れば、好きな人に夢で会えるとな。
 もっとも、平安時代だからな…。パジャマなんかは無かったことだけは間違いないが。
 しかし今なら、寝る時に着るのはパジャマだってな。
「そのおまじない。流行ってるらしいよ、女子の間で」
 もしかしたら男子もやっているかもしれないけれど…。ぼくが友達から聞いたのは女子。
 パジャマを裏返しにして寝れば、好きな人の夢が見られるんだ、って。
「ほほう…。そういうことになっていたのか」
 授業は適当に聞いていたって、耳寄りな話は聞き逃さないって証拠だな。
 雑談のし甲斐があるってことだが、その勢いで授業の中身も覚えてくれればいいんだがなあ…。



 肝心のことを覚える代わりに別のことを覚えられちまう、って嘆くハーレイ。
 授業で教えたことが噂になればいいのに、雑談の方が広まるのか、って。
「それで、どうして俺に訊くんだ?」
 ちゃんと噂は回ってたんだろ、お前の耳にまで入るくらいに?
「根拠が知りたかったから」
 ただの噂か、ハーレイがホントに言ったのか。言ったとしたなら、噂がちゃんと合ってるか。
「なんでそうなる、俺が喋ったからこその噂だろうが」
「噂は噂で、又聞きっていうヤツだもの。根拠なんか無くて、ただの冗談かもしれないし…」
 それにホントの話だとしても、何処か間違ってるかもしれないし。
 間違った噂を鵜呑みにしちゃって、信じたらぼくが馬鹿みたいだし…。
「馬鹿みたいって…。お前、やる気か?」
 パジャマを裏返しにして寝ようと思っているのか、俺の夢でも見るつもりなのか?
「そうだよ、やってみて損は無いじゃない」
 夢の中ならハーレイとキスが出来るかも…。ちゃんと恋人同士かも、って思うんだもの。
 それとも、これは効かないの?
 パジャマを裏返しにするおまじないは、ずっと昔からあったけれども効かないものなの?
「知らんな、俺はやってみたことが無いからな」
 やってみた女子か、小野小町に訊いてくれ。
 このおまじないは効くんですかと、好きな人は夢に出て来ましたか、とな。



 俺は知らん、とバッサリ切り捨ててくれたハーレイ。
 ぼくの家で一日ゆっくり過ごして、「またな」って帰って行ったハーレイ。
 だけどパジャマのおまじないのことは聞き出せた。呪文なんかは要らないってことも、いつから存在していたのかも。
(SD体制があった頃には、多分、廃れていたんだろうけど…)
 前のぼくが知らなかったんだから。
 それでも、前のぼくなんかよりも遥かな昔に生きていた人が歌に詠んでたおまじない。
 平安時代に小野小町がやってたくらいに、由緒だけはありそうなおまじない。
 まるで効かないおまじないなら、歌にしたりはしないだろう。きっと笑われるだけだから。
(夜の衣を 返してぞ着る…)
 ハーレイが教えてくれたけれども、小野小町は六歌仙っていうヤツに選ばれたほどの歌の名人、その名人が歌に詠んでも恥ずかしくはないおまじない。
(きっと、その頃には誰でも知ってて、やっていて…)
 効果があったに違いない。だから歌だって残っているんだ、夜の衣を返してぞ着る、って。



(裏返し…)
 その夜、ぼくはパジャマを裏返してみた。効きそうなおまじないだから。
 パパやママが見たら変だと思うに決まっているから、お風呂から上がった時にはちゃんと普通に着込んだパジャマ。部屋に戻ってから裏返した。まずはズボンから。
 裏返しにして履いたズボンは良かったんだけど、問題は上。裏返すのは簡単だったけれども。
(ボタン、留めにくい…)
 袖は通せても、留まらないボタン。パジャマの内側、ぼくの肌の方に入ってしまったボタン。
 上から下まで全部内側、ボタン穴に通すのにかなり苦労した。そうやって留めるようには出来てないから、ボタンはパジャマの表側で留めるものだから。
(前のぼくなら、サイオンで留められたんだけど…)
 そうは思っても、前のぼくみたいに器用じゃないぼく。タイプ・ブルーっていうだけの、ぼく。
 とことん不器用なぼくには出来ない、サイオンでボタンを留める技。
 仕方ないから指を使って一個ずつ。ホントに手探り、サイオンで透視も出来やしないから。
 悪戦苦闘して、頑張り続けて。
 なんとか留まった。全部のボタンを裏返しのままで留められた。
 上も下も裏返しで着たパジャマ。表向きで着たなら絶対見えない、縫い目とかが表に出ちゃったパジャマ。素材とメーカーのロゴが書いてあるタグまで表に出ているけれど…。



(裏返しだしね?)
 これで良し、ってベッドに潜った。明かりを消して、上掛けを首まで引っ張り上げて。
 いつもの癖で丸くなったら、ボタンが肌に当たるけど。ちょっぴり違和感があるんだけれど。
 気になると言えばボタンくらいで、他は裏返しでも普段のパジャマと変わらない。この程度なら寝心地だって全く問題無いだろう。寝心地が悪いと変な夢を見ることもあるけれど…。
(うん、これだったら大丈夫!)
 きっとハーレイが夢に出て来て、運が良ければキスを交わして、それから、それから…。
 胸がじんわり温かくなる。夢の中でハーレイに会えるんだから、って。
 ぼくの恋人、前のぼくの頃から恋人同士だった大好きなハーレイ。今度は結婚出来るハーレイ。
 そのハーレイに会いに行くんだ、裏返しのパジャマの力を借りて。
(キースってオチは無しだからね?)
 嫌なことを思い出しちゃった。あれは懲りたんだ、ローズマリーのおまじない。
 ローズマリーの小枝を枕の下に入れて眠ったら、未来の夫が夢に出て来ると新聞で読んで試したぼく。ハーレイが夢に出て来る筈だと、ローズマリーの小枝を庭から採って来て。
 なのに、夢にはキースが出て来た。結婚相手を探している、っていうキースが。
 夢の中でも今と同じにチビだったぼくは、危うくキースと結婚式を挙げてしまう所で…。
(おまけにハーレイに祝福されたし!)
 ミュウの代表で結婚式の参列者だったハーレイが居た。ぼくを攫って逃げる代わりに、お祝いの言葉を贈ってくれた。頭に来たからローズマリーの小枝で引っぱたいたんだ、夢の中のぼくは。
(ああいう夢だけはもう沢山だよ!)
 今度こそハーレイに会うんだから、って眠ったんだけど。
 裏返しのパジャマで眠ったんだけれど。



(えーっと…)
 またか、と泣きそうになった、ぼく。夢だと自覚があった、ぼく。
 チビでパジャマで裸足のぼくの前に、国家騎士団の制服を着込んだキース。その上、メギド。
 青い光が溢れてる部屋で、キースがぼくの方を見た。
「やはりお前か!」
 キースの口から飛び出した台詞は、嫌と言うほど聞き覚えがあった。前のぼくがメギドで聞いた言葉で、メギドの悪夢にも付き物の台詞。
 この後は化け物だとか罵倒された挙句に銃を向けられて…。
(殺される方の夢だったの?)
 ぼくはチビなのに。
 キースに撃たれた前のぼくと違って子供なのに、と震えたけれど。撃たれるんだ、ってギュッと両目を固く瞑って、身体を縮めていたんだけれど。
 銃の発射音と撃たれた衝撃と痛みの代わりに、キースの声が聞こえて来た。
 とても機嫌が良さそうな声で、それは満足そうな声。



「此処で待っていた甲斐があったな、まさに」
 なあ、マツカ?
「良かったですね、キース。花嫁がまた見付かって」
(えっ…?)
 どうなったの、って目を開けてみたら、キースが笑顔で近付いて来た。前のぼくの記憶に残った冷酷そうな笑みとは違って、嬉しそうな顔で。
「お前が消えてしまった時には驚いたが…。こうして会えるとは来てみて良かった」
 此処で待っていれば見付かるだろう、と予言があってな。それでマツカと来たわけだが。
「予言って…。誰の?」
 誰がそんなことを予言してたの、ぼくがメギドに来るってことを?
「俺の母親と言うべきだろうな、俺を創った遺伝子データの元だからな」
「フィシス…!?」
 そんな、と悲鳴を上げちゃった、ぼく。
 ハーレイに会おうと頑張ってたのに、フィシスに裏切られちゃったらしい、ぼく。
 だけどキースは気にもしなくて、マツカにぼくを指差してみせて。
「見ろ、パジャマがしっかり裏返しだ」
「ええ。この方もキースに会いたかったのですね」
 それでパジャマを裏返しにして、わざわざこんな所まで…。
 良かったですね、消えてしまわれた時には随分心配しましたが…。
 ちゃんとウェディングドレスもベールも残してありますよ。早速、結婚式の準備をしますから。



「違うから…!」
 そうじゃないから、って抗議したけど、キースもマツカもまるで聞いてはくれなくて。
 有無を言わさず二人に連れ帰られちゃった、ぼく。
 ノアにあるキースの家に一部屋用意して貰って、またしてもキースのお嫁さんコース。マツカがあれこれ世話を焼いてくれて、キースは結婚式の準備に忙しい。うんと盛大な式にしようと、国家主席になる自分に相応しい立派な結婚式にしようと。
 ぼくのドレスも前のよりも豪華なドレスになった。その方がいい、ってキースが決めた。
 招待状があちこちに出されて、結婚式の日がやって来て…。



 真っ白なウェディングドレスを着せられた、ぼく。
 頭を花で飾り立てられて、純白の長いベールもついた。ブーケも持たされて、式場の前。
(ハーレイがいたら、引っぱたく…!)
 前はローズマリーの小枝で頬っぺたを叩いたけれども、今度はブーケで引っぱたいてやる。花が散ってもかまわないから、思いっ切り。
 そう決めて式場に入って行ったら、チャペルの中にはミュウのみんなが揃っていて。
 エラにブラウに、それからヒルマン。シドもリオもヤエも、拍手でぼくを迎えてくれた。花嫁になるぼくを、キースのお嫁さんにされちゃうぼくを。
(ハーレイは…?)
 席には見当たらないハーレイ。大きな身体は誰よりも目立つ筈なのに。
 何処にいるの、ってチャペルを見回して愕然とした。
 なんてことだろう、神父がハーレイ。威厳たっぷりの神父の衣装を纏ったハーレイ。



(こんなに距離があったら引っぱたけないよ…!)
 ぼくの前には真っ赤な絨毯、バージンロード。それがハーレイが立つ祭壇の所まで伸びている。これを歩いて辿り着かなきゃ、ハーレイに一発お見舞い出来ない。それに…。
(あそこにキースが待ってるし…!)
 前のぼくが会った頃と少しも変わらないキース。まだ若いキース。
 だけど結婚式だからなのか、いずれは国家主席になるって決まってるからか、国家主席の正装を着けてピシッと立ってる花婿のキース。
 ぼくがハーレイを引っぱたきたくても、キースに止められちゃうだろう。手にしたブーケを振り上げる前に、手を掴まれて指輪を嵌められるかも…。花嫁の証の結婚指輪を。
(誰か、キースを止めてくれる人…)
 結婚指輪を嵌めようとするキースを止めてくれる人はいないんだろうか?
 マツカは絶対に止めてくれないし、他に誰か、って縋るような気持ちで隣を見た。祭壇の前までぼくを連れてゆく花嫁の父役がいる筈だから。
 その人なら助けてくれるかも、って視線を向けたらゼルだった。チビのぼくよりはずっと背丈があるから得意満面、モーニング姿でぼくをエスコートしようと待ち構えてる。



(ハーレイに結婚させられちゃうわけ?)
 神父の格好をしているんだから。祭壇の前に居るんだから。
 ぼくをハーレイの所まで連れてゆくゼルは結婚に反対してそうもないし、ミュウのみんなも同じこと。ぼくとキースの結婚式を祝うためにやって来たんだから。
(…ハーレイが神父になってるだなんて…)
 前の夢よりよっぽど酷い。
 ハーレイはぼくを攫って逃げるどころか、結婚させちゃうつもりなんだ。それもキースと。
 ぼくにキースと永遠の愛ってヤツを誓わせて、指輪を交換させるんだ。
(それに誓いのキスだって…!)
 なんでこんなことになっちゃったの、てパニックに陥りそうになった所で目が覚めた。
 辛うじて挙式は免れたけれど、キースと指輪を交換しなくて済んだけれども。



(ハーレイ、ホントはぼくをキースに…)
 お嫁にやりたいと思っているわけ、と詰め寄った。
 もう二回目だと、これで二回目だと、日曜日に来たハーレイに。
 ママが置いてったお茶とお菓子に手を付ける前に、これだけは言ってやらなくちゃと。
 だけど…。
「それはお前の方だろう?」
「えっ?」
 ぼくの方がなんだと言うんだろう、って目を丸くしたら。
「お前がキースと結婚したいと思っているってことなんじゃないか、俺と結婚するよりも?」
 二回も夢に見ちまうくらいだ、お前の本音ってヤツじゃないかと思うがな?
「冗談でも怒るよ!?」
 どうしてぼくがキースなんかと!
 キースと結婚したいだなんて一度も思っていないし、夢の中でも逃げることしか考えてないし!
 ぼくはハーレイと結婚したくて、ハーレイしか好きじゃないっていうのに!
 あの夢はぼくには悪夢なんだよ、一回目の夢も昨夜の夢も!



 冗談じゃない、って叫んだ、ぼく。
 ハーレイっていう誰よりも好きな恋人がいるのに、キースなんかを選びはしないと。
 夢だから自分の意志が無視されて、とんでもないことになってしまうんだと。
「ぼくはキースのお嫁さんになんか、ホントになりたくないんだからね!」
 それなのに夢だと上手くいかなくて、ハーレイの代わりにキースばっかり…。
 ハーレイはぼくがキースと結婚するのを喜んでいたり、神父になったり、最悪なんだよ!
 だからハーレイがそうなったらいいと思っているのか、訊いたんだけど!
 ハーレイはぼくをキースのお嫁さんにしたいと思っているの、って!
 そう訊いてるのに、どう間違ったら、ぼくがキースと結婚したがってるってことになるわけ!?
 ホントに怒るよ、ぼくがきちんと納得するような説明が出来なかったらね!



 テーブルを叩きそうな勢いで一気に怒りをぶつけてやった。
 夢のせいでとっくに頭に来てたし、当たり散らしたい気分だったから。
 ぼくをキースと結婚させようと神父の姿で夢に出て来たハーレイに腹が立っていたから。
 そしたら、ハーレイは「すまん」と一言、謝ってから。
「だが、お前…。俺がキースを憎んでいるほど、お前はキースを恨んでは…いないんだろう?」
 俺は今でもキースが憎いし、ヤツに会ったら殴り飛ばしたいとまで思っている。
 いや、殴るどころか八つ裂きにしても足りないくらいにヤツが憎いな、今でもな。
 …あいつが前のお前に何をしたのか、それを知るのが遅すぎた。
 もっと早くに知っていたなら、前の俺が地球でキースと出会った時に知っていたのなら…。
 そうしたらヤツを一発殴って、お前の仇だと怒鳴り付けて。
 それで終わりになったかもしれん。
 あるいは何発も殴ろうとして、ジョミーやゼルたちに羽交い締めにされて止められたか。
 どっちにしたって、お前の仇と殴り飛ばすことは出来たんだ。
 しかし、そいつは出来ずに終わった。前の俺はキースが何をやったかを知らなかったし、挨拶を交わしちまったってな。前のお前を嬲り殺しにしようとしたヤツに出会ったのにな…。
 そのせいなんだろう、俺はキースを憎む気持ちを止められない。
 この憎しみだけが消えてくれない。生まれ変わって新しい俺になってもな。
 そういう俺とは違って、だ。
 …お前はキースを憎んでないだろ、あんな目に遭わされちまったのにな。



 ハーレイは辛そうな顔をしていた。
 今もキースを憎んでるからか、名前さえ口にしたくはないのか。普段の会話ならキースの名前も普通に出るけど、こういう時には憎しみが先に立つんだろう。
 それでも、ぼくがキースを恨んでいないことは本当だから。
 前のぼくを撃った時のキースも、ジョミーと一緒にSD体制を倒したキースも、その時の自分の信念を貫いていたんだってことが分かっているから、憎む気持ちは起こらない。
 前のぼくが命懸けでメギドを沈めたのと同じで、キースだって常に全力で進み続けてた。立場が違っていただけのことで、出会いが全く違っていたなら、きっと友達になれただろうから。
 そう思うから、ぼくはキースを許せる。
 ハーレイにも何度もそう話してるし、ハーレイだって、ぼくの気持ちを知っているから…。



「うん、ぼくはキースを憎んでも恨んでもいないけど…」
 もしもあのまま死んでいたなら、生まれ変わらずに死んだままだったなら。
 キースがSD体制を崩壊させたことも知らずに、メギドだけで終わっていたのなら。
 そしたら憎んでいたかもしれない。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きながら死んだままだったなら…。
 でも、今のぼくは知っているから。キースがどういう人間だったか、今のぼくなら分かるから。
 …だから憎みも恨みもしないし、また会えたなら、って思ったりもする。
 あの頃はお互い大変だったと、苦労したね、ってお茶を飲みながら話せるような気がするよ。
 キースだったらコーヒーなのかな、ぼくはコーヒーは得意じゃないから、ぼくは紅茶で。別々の飲み物を注文してても、きっと話が弾むだろう、って。



「…その辺の心が出るんだろうさ」
 お前はキースを憎んじゃいないし、一緒にお茶を飲みたいなどと思うくらいに共感も出来る。
 友達になれていただろう、と考えたりもするほど、キースに親しみを覚えるわけだな。
 それでキースが夢に出て来る。メギドの悪夢と違った場合は、こういう風に出会いたかった、という思いが夢を支配するんだ、もっと親しくなりたかったと。
 ただし、相手は夢だからなあ、友情ってヤツが何処か間違っちまって、結婚話になるようだが。
 そしてだ、俺はキースを憎んでいるから、お前の夢では悪役にされる。
 せっかくキースの夢を見ているのに余計なヤツが出て来やがって、と引っぱたかれたり、ロクな役目を貰わなかったり…。
 ついでにお前の目が覚めた後も、こうして八つ当たりされるってな。
「そうなの?」
 ぼくが見た夢、そういう仕組みになっていたわけ?
 ハーレイがぼくをキースに押し付けようとしてるんじゃなくて、ぼくが悪いの?
「…そんな理由かもしれないな、という話だがな」
 あくまでも俺の推測ってヤツだ、単なる偶然かもしれん。
 しかしだ、誓って言っておくがな、俺はお前をキースなんかにくれてやる気は無いからな。
 お前の夢に入って行けるんだったら、キースなんぞは殴り飛ばしてお前を攫って逃げてやる。
 とはいえ、そいつは無理だからなあ、お前がいくら膨れたってだ、俺は助けに行けないぞ。



 懲りたんだったらおまじないはもうやめておけ、って釘を刺された。
 三度目の正直という言葉があるから、次こそ本当にキースと結婚しちまうぞ、って。
「いいか、俺はお前の夢までは責任を全く持てないんだからな」
 どんなにお前が困っていようが、結婚式の夢をブチ壊すために飛び込んで行けはしないんだ。
 キースと結婚しちまった、って当たり散らすのはかまわないが、だ。
 そういう夢をウッカリ見ちまった時は、お前だって嬉しくないだろうが。
「うん…」
 ハーレイのお嫁さんならいいけど、キースはね…。
 夢の中でも、ハーレイよりも前にキースと結婚してしまったなら、大ショックだよ。
 指輪の交換とか、誓いのキスとか。
 早くハーレイとやりたいな、って思っているのに、キースに先を越されるなんてね…。
 絶対嫌だよ、そういうコース。いくら夢でも、ぼく、泣きそうだよ…。



 そうは言ったけど、ハーレイの夢は見てみたいから。
 ハーレイと幸せに過ごせる夢が見られるんなら、その方法を試してみたいから。
 三度目で本当に懲りない限りは、ぼくはおまじないを続けるんだろう。
 今はまだ、ハーレイと結婚することが出来ない、ぼく。
 一緒に暮らせない、チビのぼく。
 誰よりも好きでたまらないハーレイとだったら、夢の中でも会って一緒にいたいんだから…。




         夢の通い路・了

※ハーレイが出て来る夢を見よう、とブルーが試したおまじない。裏返しのパジャマ。
 けれど来たのはキースだったわけで、なんとも気の毒。ハーレイが神父役の結婚式なんて。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(ふうん…)
 新聞に載ってる、本の紹介。
 学校から帰って広げたんだけど。ちゃんと着替えて、おやつも食べて。
(こういうのが人気だったんだ…)
 おかわり用に淹れた紅茶をお供に読んでみた。タイトルだけなら学校で何度も耳にしたから興味津々、女子の間で一番人気の本だってことは知っていた。中身までは知らなかったけど。
(…本の世界に入ってしまった女の子…)
 主人公の女の子が図書館で出会った本から始まる物語。ちょっぴり不思議なファンタジー。本の世界に吸い込まれちゃって、その中で色々と冒険をする。本の世界に住む沢山の仲間と協力して。
 SD体制が始まるよりも前の時代が舞台のお話、それも人気の理由だろう。
 地球が死の星になってしまう前の時代に憧れる人は多くて、行ってみたいと誰もが夢見る。この地球の上に幾つもの文化が築き上げられてて、自然だって豊かだった頃。
 不便なことだって多かったろうし、旅をするのも命懸けだった時代なんだとは聞くけれど…。
(それでも行ってみたいよね?)
 ちょっと出掛けて覗くだけなら、すぐに帰って来られるなら。
(このお話、それで大人気なんだ…)
 本の世界では何ヵ月もかかる大冒険。恐ろしい目にも遭ったりするけど、何かの切っ掛けで元の世界にヒョイと戻ってしまえるらしい。そしたら時間は出掛ける前と変わっていなくて、本の中にまた戻りたいなら本を開けばいいだけのこと。
 そうやって自分が住んでる世界と、本の世界とを行ったり来たりしながら進むお話。
 憧れのSD体制よりも前の時代に出掛けてゆくには、お誂え向きの道具になってる便利な本。



(こんな風にして冒険できたら楽しいよね?)
 行って来ます、って本に入って、また戻って来て。
 本の中に広がるSD体制よりも前の時代で仲間を集めて冒険してても、元の世界に戻って来たら普通の暮らしが待っている。暖かい家も、美味しい御飯も、おやつも、それに友達だって。
 今の生活を続ける傍ら、本の世界では立派なヒロイン、頼りにされちゃう主人公。
(人気なわけだよ…)
 いつもの暮らしはそっくりそのまま、別の世界で冒険の旅が出来るんだから。こんな風に自分も別の世界と掛け持ちの生活をしてみたいな、って考える人は多い筈。
(ある意味、王道なんだけど…)
 本の中に入ってしまう話も、別の世界で冒険するのも。
 小さい頃から、そういう話を幾つも読んだ。
 パパやママに買って貰った本たちの中に色々とあった。
 新聞に載ってるこの話だって、ぼくが小さかった頃に出版されていたらパパかママがプレゼントしてくれたんじゃないかな、とても面白そうだから。
 現に今だって読みたい気分。今度、本屋さんに出掛けることがあったら買ってみようか、まずは試しに少し読んでみて。本屋さんには本を買おうかどうしようかと検討するためのテーブルだってあるんだから。飲み物を注文しさえしたなら、いくらでもタダで読めるんだから。



 ぼくのコレクションが増えるかもしれない、女の子たちに人気の一冊。本の世界に入れる話。
(ホントに入れたら素敵なんだけどね?)
 広げた本の世界の中に。ページの向こうに広がる世界に。
 生まれつき身体が弱かったぼくは、何度も夢見た。
 遠い地域に住むお祖母ちゃんたちの所へ会いに行っただけで、熱を出すような子供だったから。旅はもちろん、ハイキングだって身体のせいで行き損なって、家の庭でお弁当を食べていたことが多かったような子だったから。
(本の中なら何だって出来ると思ったんだよ)
 うんと元気な主人公になって、走り回ったり、冒険したり。
 そういう夢も本当に見た。夢の中のぼくは本の世界で疲れもしないで楽しんでいた。とても広い海を船で旅したり、高い高い山を越えて行ったり。
 弱い身体では出来もしないことが夢の中では出来たんだ。本の世界とそっくり同じに。
 だから…。
(本の世界に入りたいな、ってよく言ってたっけ…)
 中に入ってみたいんだよ、ってパパやママたちに何度も言った。本の中は夢の世界だから。
 本気で入ってやろうと思って本を枕の下に入れたり、頑張ってた、ぼく。
 とうとう一度も入れないまま、そういったこともしなくなったけど…。



(本の中の世界…)
 入りそびれてしまったよね、って新聞を閉じて、キッチンに居たママにおやつのお皿とカップを返して部屋に戻った。小さかったぼくが本の世界を目指してた部屋に。
 勉強机の前に座って、ベッドの方を見てたんだけど。本を枕の下に入れてた頃のベッドは、もう小さすぎて買い替えられてしまったけれど…。
(そういえば…)
 まだ子供用のベッドで寝ていた頃の誕生日。
 パパとママから本を貰った。綺麗な紙で包装されてて、リボンもかかった本を一冊。
 一目で中身は本だと分かるから、大喜びで開けたプレゼント。わざわざ誕生日にくれるからには特別な本に違いないから。本屋さんでいつでも買える本とは違うだろうから。



 ドキドキしながらリボンをほどいて、包装紙を剥がして開けたぼく。
 中から出て来た本は立派で、凝った装丁になってたけれど。
(人魚姫…?)
 表紙に刷られたそのタイトルと、貝殻の冠を被った人魚のお姫様の絵と。
 例の悲しいお話だろうか、と開いてみたら。海の泡になっちゃう人魚姫かと思ったら…。
(ぼくの本…!)
 主人公の名前はブルー姫だった。人魚の王様の娘たちの末っ子、ブルー姫。
(ぼく、人魚姫になっちゃった…!)
 なんて素敵なお話だろう。ぼくが人魚で、深い海の底に住んでるだなんて。海の上の世界を見に出掛けようと、足の代わりに尻尾を使ってぐんぐん泳いで行くなんて。
 王子様が乗ってる船を見付けて、その後は嵐。投げ出されちゃった、王子様。
 人魚姫のぼくは海に沈んでゆく王子様を助けて、ちゃんと浜辺まで運んで行って…。
(だけど気付いて貰えないんだよね?)
 王子様に会おうと、人間になろうと海の魔女に会いに行った、ぼく。
 尻尾の代わりに足を貰うには、声を失くすんだと思ったけれど…。
(特別サービス!?)
 魔女のお誕生日か何かで、海の魔女はとっても機嫌が良かった。人間になれる薬をタダでくれた上に、歩くと足が痛くなるのを治す薬もセットでくれた。
 早速、王子様を運んだ浜辺まで泳いで、薬をゴクリと飲んだぼく。
 気を失って倒れてしまったけれども、夜が明けたら王子様が散歩にやって来て…。



 ハッピーエンドだった人魚姫。
 隣の国のお姫様なんかは出ても来なくて、人間になったぼくと王子様との結婚式。
(ぼく、幸せになれたんだ…!)
 夢中で読んでしまった本。パパとママに御礼を言うのもすっかり忘れてしまっていたから。
 ありがとう、って笑顔で言ったら、パパとママの様子がなんだか変で。
 困ったような顔をした、パパとママ。二人の瞳にありありと出てた、途惑いの色。
「…どうしたの?」
 ぼく、御礼を言うのを忘れちゃってたから、お行儀の悪い子だと思った?
 ごめんなさい…。とっても素敵な本だったから…。
 ぼくの名前が出て来るだなんて、ホントにビックリしちゃったから。
 それで夢中になってしまって、最後まで一気に読んじゃった…。
 ぼくが本の中に入りたい、って言っていたから、ちゃんと入らせてくれたんだね!
 ブルー姫のお話、ありがとう!



 大事にするよ、って本を抱き締めて御礼を言った。御礼を忘れてごめんなさい、って。
 そしたら、パパが「いや…」って口ごもってから。
「人魚姫じゃなくて、勇者の本のつもりだったんだが…」
 その本を頼んでおいたんだがなあ、ブルーの名前で。
「そうよ、ドラゴン退治の勇者のお話を注文したのよ」
 てっきりそうだと思っていたけど、何処で間違えられたのかしら…。
 包装されていたから気付かなかったわ、人魚姫の本になっていたなんて。
 ブルーはなんにも悪くないのよ、本屋さんが失敗しちゃったの。
 パパとママとがお願いした本を間違えて作っちゃったのよ。



 間違って注文されちゃった本。
 頼まれた本屋さんが注文する時に失敗したのか、注文された本を作るお店が間違えたのか。
 ぼくは人魚のブルー姫じゃなくて、勇者ブルーになる筈だった。ドラゴンを退治して、お姫様を助けて結婚式を挙げるんだ。そういう本が出来て届く予定が、どういうわけだか人魚姫。
 パパとママは本を取り替えて貰うって言ったんだけれど。
「この人魚姫の本はどうなるの?」
 ブルー姫のお話、どうなっちゃうの?
「返品することになるんじゃないかな」
 それをお店に返しに行って、勇者ブルーの本と取り替えて貰うんだ。間違ってました、っていう証拠が要るから、とにかく持って行かなきゃな、ママ?
「ええ、そうね。そして作ったお店に渡して貰って、代わりに勇者ブルーの本を貰うの」
 だけど、この本はブルー姫の本になってしまって、使い道が無いわけだから…。
 もしかしたら勇者の本と一緒に、それも貰えるかもしれないけれど。



「…返品って、なあに?」
「返すってことだな、さっき言っただろう?」
 その本を返して、代わりに勇者ブルーの本を届けて貰うのさ。
「それじゃ、返した人魚姫の本はどうなるの?」
 ママが言ったみたいに二冊とも貰えるってわけじゃないなら、人魚姫の本はどうなっちゃうの?
「ブルーの名前になってるからなあ、他の人には売れないしな…」
 多分、新しい本に作り替えられるんだろう。材料は紙だし、溶かせばまた紙を作れるからな。
「そんな…!」
 やめて、って叫んだ小さかったぼく。
 せっかくのブルー姫の本。溶かしちゃうだなんて、とんでもない。
 パパとママとに「返さないで」ってお願いした。
 本が可哀相だからこれでいいよ、って。
 勇者ブルーの本は要らないから、人魚姫の本をぼくにちょうだい、って。



 ぼくの名前の人魚姫。本の世界に入ったぼく。
 その本が溶かされて無くなっちゃうなんて、酷すぎるから。可哀相すぎるから、ぼくは人魚姫の本を貰っておいた。ブルー姫の本を。
(それにドラゴン退治じゃなくっても…)
 充分ワクワクさせてくれた本。
 人魚姫のぼく。深い海の底にあるお城に住んでた、人魚姫のぼく。
 貝殻の冠を頭に被って、足の代わりに尻尾で泳いで、王子様を助けて運んで行った。海の魔女に薬をタダで貰って、人間の足も手に入れた。
 ブルーって名前の人魚姫。ぼくだけが持ってる人魚姫のお話。
 本の世界に入れたんだ、って嬉しくて嬉しくて、何度も読んだ。ブルー姫が出て来るお話を。
 お気に入りだった、ブルー姫の本。
 ぼくだけが入れた本の中の世界、人魚姫になって暮らしていた世界。



(王子様と結婚するんだけれど…)
 人間になって、王子様と結婚式を挙げたブルー姫。
 特に変だとは思わなかった。悲しい人魚姫の話とは違ってハッピーエンドなんだと喜んでいた。王子様とちゃんと結婚出来たと、幸せに暮らしてゆくんだと。
(ドラゴン退治の勇者だったら、お姫様と結婚するんだよね?)
 そっちの話を貰っていたなら、どう思ったかは分からないけれど。
 ブルー姫の話を手に入れたぼくは、王子様との結婚式で終わる話がとてもお気に入りで、最後のページを何度も読んだ。王子様の隣に花嫁姿で立ってるブルー姫の挿絵が入ったページを。
 今から思えば、あの本は…。
(予言だった?)
 いつかお姫様になって結婚するんだよ、って。
 まだプロポーズもされてないけど、ハーレイと結婚することが決まっているぼく。
 ハーレイのお嫁さんになろうと決めている、ぼく。
 お嫁さんだから、ぼくの立場は人魚姫だったブルーと同じ。
 ブルー姫の本は予言をしてたんだろうか、ぼくの未来はお嫁さんだと。



 予言かも、って思い始めたら気になってくる。
 小さかったぼくの所に間違って届いた人魚姫の本。ドラゴン退治の勇者の話が化けた本。
(えーっと、あの本…)
 急に会いたくなってきた。ブルー姫の本に。
 子供の頃の本は部屋には無いけど、別の部屋に仕舞ってあるけれど。お気に入りの宝物は別。
 クローゼットの奥から引っ張り出したぼくの宝箱の中、人魚姫の本も入ってた。
 長いこと手にしていなかったけれど、記憶にあるままの装丁のブルー姫の本。貝殻の冠を被った人魚が表紙に刷られた、ぼくだけのための人魚姫の本。
(懐かしい…!)
 開いたら、もう止まらない。初めて貰ったあの日みたいに一気に読んだ。ブルー姫が海の上へと泳ぎ始めて、王子様が乗った船を見付けて、嵐が来て…。
 気を失っている王子様を浜辺に送り届けて、海の魔女から薬を貰って。人間になったら王子様と出会って、声を失くしていないブルー姫は海の泡になって消える代わりに結婚式で…。
(やっぱりハッピーエンドだよ!)
 こうでなくっちゃ、とブルー姫の物語に嬉しくなった。王子様との結婚式で終わる人魚姫の本。悲しい結末になりはしないで、ハッピーエンド。
 この幸せな人魚姫の話を書いてくれた人は誰なんだろう、って本の奥付を見てみたら。



(…フィシス?)
 そういう名前の人が書いてた。ブルー姫の話の作者はフィシス。
 本当はブルー姫じゃなくって、この本を注文した人に合わせて名前が変わるんだろうけど。
 ジョミーって人が注文したなら、ジョミー姫の本が出来るんだろうけど…。
(でも、フィシス…)
 あまりにも懐かしい名前だから。懐かしすぎる名前の作者だから。
 他にも何か書いてないかな、って本の終わりにズラリと並んだ他の本のリストを調べてみたら。
(これもフィシス?)
 ドラゴン退治の勇者の本も、作者の名前はフィシスとあった。
 パパとママが注文したらしい本。人魚姫のブルーの話の代わりに届けられる予定だった本。
 同じ作者の本同士だったら、ちょっとしたミスで入れ替わることもあるだろう。
 それにしたって、ぼくの所にブルー姫。勇者ブルーの本じゃなくって、ブルー姫。
 王子様と結婚式を挙げてハッピーエンドの、お嫁さんになる話が好きだった、ぼく。



(もしかしたら…)
 入れ替わってしまった二冊の本。
 勇者ブルーになって本の世界に入る代わりに、ブルー姫になってしまったぼく。それをちっとも変だと思わず、ブルー姫の本を何度も何度も読んで宝物にしていた、ぼく。
 勇者ブルーも、ブルー姫の本も、作者がフィシスだったなら。
 本が入れ替わったのは間違いじゃなくて、予言だったんだろうか、本物の?
 タロットカードでミュウの未来を占い続けていたフィシス。前のぼくがミュウにしたフィシス。青い地球が欲しいと、あの地球を抱く少女が欲しいと、ミュウにして攫って来たフィシス。
(フィシス…)
 この地球の上にいるんだろうか?
 ぼくとハーレイが生まれ変わって来たのと同じで、フィシスも地球にいるんだろうか?
(この本をフィシスが書いたんだったら…)
 ぼくよりはずっと年上だけれど、それでもフィシスだったなら。
 本を注文して来た人の未来を占った上で、それに相応しく本を取り替えることもあるだろう。
 ブルーがぼくだと、ソルジャー・ブルーだとは気付かなくても、ぼくの未来はお嫁さんだから。
 勇者ブルーよりもブルー姫がいいと、この本が似合うと、ブルー姫の本。
 間違えたふりをして、ブルーという名の子供にピッタリの人魚姫を。



(やっぱり、フィシス…?)
 ぼくが誰かは気付かないままで、人魚姫の本を送ってくれた?
 ブルーって名前は前のぼくが大英雄になったお蔭で珍しくないし、本物のぼくだと気付かずに。
 ソルジャー・ブルーが生まれ変わった子供のブルーのための本だとは知らないままで。
(…フィシス、記憶は持ってるのかな…?)
 前のフィシスだった頃の記憶を持ってるだろうか、今のフィシスも?
 もしも記憶を持っているなら、そして占いをしているのなら。
 自分が書いた本を注文して来た子供たちの未来を占い、相応しい本を選んで届けているのなら。
(会ってみたいな…)
 ブルー姫の本をくれたフィシスに。
 ハーレイと結婚するんだよ、って言ったらフィシスは酷く驚くだろうけれど、会って報告をしておきたい。今のぼくはとっても幸せだからと、幸せに生きてゆくんだからと。
 でも…。



(何処に行ったら会えるんだろう?)
 同じ地域に住んでいるなら、場所によっては一人でも会いに行けるだろうけど。
 遠かったりしたら、いつかハーレイと二人で行くしかないんだろうか?
(パパとママに頼んで連れてって貰うのは無理だしね…)
 だって、報告に行くんだから。ぼくはハーレイと結婚するよ、って。
 そんな報告、パパとママが一緒に居たんじゃ出来っこない。今はまだ秘密なんだから。
(いつ会えるかな…)
 ハーレイと結婚しちゃった後?
 それとも、もっと早くにバスを乗り継いで会いに行けるかな、フィシスの家まで…?



 会えるんなら早く会いたいけれど、と考えていたら、チャイムの音。門扉の脇にあるチャイム。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ぼくは相談することにした。もちろんママが部屋から出て行った後で。お茶とお菓子をテーブルの上に置いてった後で。
「ハーレイ、この本…」
 子供の頃の本なんだけど、ってブルー姫の本を差し出した。
「おっ、人魚姫か?」
 こういう本も好きだったのか、お前。なかなかに凝った装丁だが…。
「あのね…。ぼくの宝物だった本なんだけどね…」
 フィシスなんだよ、って話をした。
 この本はフィシスが書いたんだ、って。ぼくの未来を予言していたかも、って。
 本が間違ってた話はすっ飛ばして。入れ替わって届いてしまった話は省略しちゃって。



「フィシスだって…?」
 これをフィシスが書いたと言うのか、あのフィシスが?
「うん。そうとしか思えないんだよ」
 長いこと仕舞ってあった本だし、ぼくも作者までは覚えていなくて…。
 さっき出してみたらフィシスなんだよ、ほらね、フィシスと書いてあるでしょ?
「ふうむ…。確かにフィシスとあるな」
 だが、本当にフィシスなのか?
 フィシスって名前は今じゃ人気で、お前の学校にも一人や二人はいるんじゃないか、フィシス。
 俺の知り合いにもいるくらいだしな、似ても似つかんフィシスだけどな。



 どれ、ってハーレイは本を調べていたけれど。
 ブルー姫の本を手に取ってあちこち開いていたけど、ぼくも大いに期待したけれど。
「こいつは違うな、フィシスというのはペンネームだな」
「えっ?」
 ペンネームって…。それでもフィシスって可能性はゼロじゃないって思わない?
 自分の名前をそのままペンネームにしちゃっている人、少なくはないと思うんだけど…。
「いや、違う。正真正銘、ペンネームってヤツだ、この場合はな」
 此処を見てみろ、書いてあるから。普通は此処まで読まないだろうが…。
 本の中身とは無関係だし、他にどういう本があるかっていう広告ってわけでもないからな。
 此処だ、ってハーレイの褐色の指で指された本の奥付。
 出版社の名前とかが書かれたページに、小さな文字で一緒に載ってる作者の紹介。この本を注文するだろう大人に向けての紹介ってヤツで、子供なら読まずに素通りする場所。
 子供の名前を入れて作れる本のシリーズ、作者はどの本も同じ人だと書いてあった。人魚姫も、ドラゴン退治の勇者も、その他に山ほどある本も。
 もしかしたら全種類を揃えるかもしれない子供のために、と使い分けた名前。
 全部が同じ作者の本だと嘘っぽいから、同じ名前で出す本は二冊。
 フィシスの名前で出版している本は、人魚姫の本とドラゴン退治の勇者の本の二冊だけ。



「じゃあ、これの作者がフィシスってことは…」
 あのフィシスだってことはないっていうの?
 ただのペンネームで、フィシスの名前じゃないっていうの…?
「どう考えても有り得ないってな」
 フィシスとは縁もゆかりも無いってトコだな、有名どころの名前ってだけで選んだんだろ。
「でも…」
 それは分からないよ、ぼくだってハーレイに会うまではただのブルーだったよ?
 本物のソルジャー・ブルーだなんて誰も思わないし、ぼくだって気付いてなかったし…。
 この作者だって、あのフィシスじゃないって誰が言えるの?
 ぼくの未来を予言したんだよ、この本を書いたフィシスって人は。
 フィシスっていうのがペンネームだとしても、予言が出来てフィシスを名乗っているのなら…。
「おいおい、落ち着け、ちゃんと紹介を読んだのか?」
 よく読み直してみろ、この本の作者は男だぞ?
 最後にちょこっと書いてあるだろうが、小説家としての本当の名前。
「ホントだ…!」
 だけどホントに男の人なの、女の人が男みたいな名前で書いてる本だって…。
「これに関しては断言出来る。もう間違いなく男だ、ってな」
 俺は古典の教師ではあるが、現代文学ってヤツも少しくらいは把握していないと話にならん。
 この小説家の顔写真ってヤツを知っているのさ、何処から見たって男だった。
 強いて言うならハロルドに少し似てたかなあ…。とっくに年を止めているがな。
「ハロルドって…。確か、ナスカに残って死んだ…」
 ツェーレンのお父さんだった人だね、あのハロルドに似てるんだったら男だね。
 フィシスなのかと思っていたけど、男の人なら人違いだね…。



 違ったのか、とガッカリしちゃった、ぼく。
 フィシスが地球にいるんだったら会いに行きたいと思っていたのに、人違い。
 考えてみれば、ぼくがハーレイと出会えただけでも凄すぎる奇跡なんだから。フィシスを探して会いたいだなんて、神様に叱られちゃうだろう。
 お前は何処まで欲張りなんだ、って。恋人だけではまだ足りなくって、フィシスまでか、って。
(そうそう奇跡は起こらないよね…)
 奇跡ってヤツは大盤振る舞いするものじゃなくて、一生の内に一度起これば幸運なもの。一度も奇跡に出会えないままの人の方がずっと多いんだから…。
 フィシスって名前に期待しすぎた、って早とちりをしたウッカリ者の自分を叱り付けていたら。



「それでだ、何処が予言だって?」
 この本の何処が予言になるんだ、ザッと読んだ所、人魚姫の話を作り替えた話みたいだが…。
 ついでにお前が主人公だが、それ以外に変わった特徴は何も無いようだがな…?
「…その本が人魚姫だからだよ」
 ブルー姫って書いてあるでしょ、パパとママが誕生日にくれた本なんだけど…。
 子供の名前を入れた本を作って下さい、って注文するのに、ブルー姫を注文しそうだと思う?
 いくら女の子と間違えられてばかりの男の子だって、パパとママがブルー姫の本を頼むと思う?
「そういやそうだな、普通は男が主人公の本を頼むよなあ…」
 変だとも思わずに読んじまったが、そいつは俺がお前を嫁さんに貰おうと思ってるせいか。
 お前、なんだってブルー姫なんかになっているんだ?
「知らないよ! パパとママにも謎だったんだよ!」
 注文した本が間違って届いちゃったんだ。パパとママもビックリしてたんだけど…。
 取り替えて貰うって言っていたけど、返品されたら、この本、溶かされてしまうから…。
 可哀相だから、って止めたんだよ、ぼく。
 人魚姫の本でも嬉しかったし、ドキドキしながら一気に最後まで読んだんだもの。
 …でもね、パパとママが注文していた元の本だと、ぼくは勇者になる筈だった、って。
 なのに勇者の本じゃなくって、人魚姫の本が届いたから…。
 どっちも作者がフィシスだったから、予言なのかと思ったんだよ。
 ぼくはハーレイと結婚するから、勇者の本より人魚姫の本がいいでしょう、って。
「ははっ、そうか! もう一冊の方と間違えられて作られたんだな、フィシスが作者の」
 ドラゴン退治の勇者になる代わりにブルー姫ってわけか、見事に入れ替わっちまったか!
 それは確かにフィシスの予言かと思いもするよな、男のお前がブルー姫じゃな。



 フィシスは存在しなかったけど。ハロルドに似てるって小説家が書いていたんだけれど。
 それでも何故だか、ぼくに届いた人魚姫の本。ドラゴン退治の勇者の代わりに人魚姫。
 いつかハーレイのお嫁さんになる、ぼくの未来を予言したような不思議な間違い。
 ホントにフィシスがやったことかと思ったんだよ、って繰り返したら。
 「予言者がいたとしたなら神様だろう」ってハーレイが笑う。
 本の注文を間違えさせたのは神様なんだ、って。
 パパとママはきちんと勇者の本を注文したけど、神様が入れ替えちゃったんだ、って。
「そっか、神様なら…」
 ぼくの身体に聖痕をくれて、ハーレイと地球で会わせてくれたのが神様だものね。
 ハーレイと結婚するって未来も最初から分かっているよね、神様だったら。
「そういうわけだな、神様は何もかも御存知だからな」
 当然、予言もなさるってことだ。
 お前の所にブルー姫の本を届けるくらいは、神様にとっては簡単なことさ。
 俺たちを前の俺たちとそっくり同じに生まれ変わらせる手間を思えば、指も動かさずにチョイと弄れてしまうんだろうな。本の注文の入れ替えくらいは。
 それにしても、お前がブルー姫なあ…。人魚のお姫様なんだな。



 お前がお姫様なら俺は王子か、って可笑しそうなハーレイ。
 そういう柄ではないと思うが、って、挿絵の王子様が着ている服なんかは似合わないぞ、って。
(そんなことないと思うんだけど…)
 前のハーレイはキャプテンの制服が似合ってたんだし、王子様の服もきっと似合うと思うんだ。
 普段に着てたら変だけれども、結婚式ならいいんじゃないかな、そういった服も。
(うん、ぼくがドレスを着るんだったら、ハーレイの服が王子様でも…)
 悪くなさそう、って思った、ぼく。
 だって、ハーレイは、ぼくにとっては王子様だから。ブルー姫だったぼくの王子様。
 フィシスの予言は無かったけれども、神様の予言。
 ドラゴン退治の勇者よりも人魚姫がいい、と神様がぼくにくれた本。
 大きくなったら、ぼくは王子様の、ハーレイのお嫁さんになる。
 お気に入りだった本の世界に住んでる、人魚姫。
 ぼくの名前がついたブルー姫が、王子様と結婚していつまでも幸せに暮らしたように…。




          宝物だった本・了

※人魚の「ブルー姫」の本。小さかった頃のブルーの宝物。間違えて届いた本だったのに。
 書いた人はフィシスじゃなかったですけど、予言みたいなお話ですよね。
 でもって、ハレブル別館の更新ペース。
 週2で続けて参りましたが、windows10 で色々と不具合が起こり続けておりまして…。
 今後は週1更新にさせて頂きます。それが精一杯です、更新は毎週月曜です。
  ←拍手して下さる方は、こちらからv
  ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




季節は春、ゴールデンウィークはシャングリラ号で過ごした私たち。今年は特に会長さんの悪戯も無くて、宇宙の旅を堪能出来ました。地球からは見ることの出来ない瞬かない星が煌めく宇宙空間は貴重な眺め。夜空とはやっぱり違うわけで…。
「真っ暗なんだよなあ、宇宙ってヤツはよ」
太陽も星も無かったらよ、と放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でサム君が。
「それなのにワープ中には緑だよなあ、なんでだろうな?」
「宇宙じゃなくって時空間だからじゃないですか?」
シロエ君が「時間も空間も飛び越えますしね」と見解を述べれば、会長さんが「うんうん」と。
「それで合ってる。ブルーの世界へ飛ぶ時なんかも似た感じだよ」
「「「へ?」」」
「あっちのブルー! ぼくは案内無しでは出掛けられないし、数えるほどしか飛び越えたことはないけれど…。途中で通る空間はワープ空間と似ているかな、うん」
一瞬だけどね、という断りつきでしたが、そういえばソルジャーの世界から私たちの世界へ来るには空間移動が必要です。幸か不幸か時間の流れ方が全く同じなせいで何とも思っていなかったものの、時間も飛び越えているかもで…。
「時間かい? 飛び越えて移動するんだと思うよ、科学技術が違いすぎ! おまけにあっちは既に西暦が終わってしまっているしね」
会長さんの言葉に「あー…」と誰もが納得。ソルジャーの世界は地球が汚染されて滅びてしまった後に制定されたSD体制時代の暦です。西暦で三千何百年だったか、そのくらい経ってから始まったのがSD体制。ということは、空間だけじゃなくて時間も飛び越えるんですか…。
「俺の感覚ではなんとなく暗闇だったんだが…」
キース君がボソリと口を挟みました。
「いや、完全な闇ではないな。向こうに光が見える感じで、そこへ向かって飛んで行けば俺たちの世界に出て来られたり、あいつの世界へ行けるというか…」
「漠然と目標を定めずに飛ぶなら、それもアリかもしれないけどねえ…」
それは嫌だ、と会長さん。
「ぼくはきちんと出掛けて行って、元の世界に戻りたいしね? いい加減に飛ぶのは御免だよ」
「そういうものか?」
「そんなものだよ!」
いい加減に飛びたがるのは「ぶるぅ」くらいだ、とソルジャーの世界の悪戯小僧の名前が出ました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のそっくりさんの「ぶるぅ」。そういえば、私たちの世界に一番最初にやって来たのって、「ぶるぅ」でしたよね?



「思い出したぞ、俺が持って来た掛軸の中から出やがったんだ!」
キース君が「あれが全ての始まりだったか…」と頭を抱えて。
「適当に空間を飛んでる最中に引き寄せられたとか言いやがったな、あの野郎」
「そうなんだよねえ…。でもって、此処が地球だったのが運の尽きだよ」
ブルーにしっかり目を付けられた、と会長さんも額を押さえています。
「自分そっくりなぼくが居る上に、ブルーの憧れの青い地球! あれ以来、此処を目指して一直線に飛んで来るからねえ…。たまには他所にも行けばいいのに」
「無駄なんじゃない?」
言うだけ無駄、とジョミー君。
「完全にリピーターになっちゃってるもの、別の所は行きそうにないよ」
「「「リピーター…」」」
なんという絶望的な響きでしょうか。私たちはこれまでも、これから先もソルジャーとソルジャーのパートナーなキャプテン、プラス「ぶるぅ」に振り回されるしかないようです。「ぶるぅ」の方も新境地開拓はすっかりサボッているようですし…。
「たまーに、変なシャングリラに落ちるらしいね?」
忘れた頃に、というジョミー君の言葉に、シロエ君が。
「それこそ何年かに一度あるか無いかの突発事故みたいなモノですよねえ…。そして其処には地球もグルメも無かったとかで、二度と出掛けて行かないんですよ」
「俺たちの世界で間に合っているというわけか…」
すまん、とキース君が頭を深々と。
「あの時、俺が掛軸を持ち込まなかったら…。そしたら平和が続いた筈だ」
「どうでしょう?」
その前から充分に波乱でした、とシロエ君。
「会長だけしかいない時代でも色々あったと思うんですけど、ぼくの勘違いですか?」
「「「…うーん…」」」
会長さんしかいなかった時代。今となっては遠い昔ですが、私たちが普通の高校一年生だった時代です。入学式の日に全員が「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に呼ばれて、それから後は…。
「言われてみれば既に色々あったか、俺が元老寺の跡取りだったのもバレたんだった」
「教頭先生もとっくにオモチャだったよ」
キース君とジョミー君の台詞に続いて思い出話がズラズラと。なんだ、会長さんしかいなかった頃からメチャクチャだったんじゃないですか! ソルジャーたちが現れなくても、どうせドタバタで波乱ですってば…。



「…随分と失礼な言い草だねえ? 歩く迷惑と言えばブルーだろ?」
ぼくは違うよ、と会長さんに主張されても「さあ?」としか答えられない私たち。この人も充分迷惑です。ソルジャーが絡めば更に破壊力が増しますけれども、単独でも大概な破壊兵器で。
「あんたが歩く迷惑でないなら、座る迷惑と言ったところか」
キース君が斬新な表現を。
「あいつはアクティブに動き回るが、あんたは自分から空間を超えては行かんし、坊主は座ることが多い職業だしな? 座る迷惑でいいだろう、うん」
「なにさ、それ!」
「座っているだけで迷惑なんだ、と言っている。俺たちの通路にドッカリ座って、道を譲りもしないんだ。最悪、闇夜の石かもしれん」
真っ暗な中を歩いて行けばゴッツンなのだ、とキース君。
「落ちている石のデカさにもよるが、小さな石でも躓けば転ぶ。あんたの場合は等身大で、狭い道幅を塞ぐ勢いで座っているんだ、もれなくゴツンだ」
そして迷惑なことになる、とキース君は滔々と。
「ぶつかっただけなら「はい、すみません」で終わりだろう。相手が石なら「痛かった」と呻いて済む話だがな、あんたは違う。自分で道に座り込んでおいて文句たらたら、因縁をつけて、ああだのこうだの!」
ヌリカベどころの騒ぎではない、と妖怪の名前まで飛び出しました。
「俺たちは毎回、あんたに巻き込まれてはババを引くんだ。これが座る迷惑でなければ、いったい何だと!」
「なるほど、座る迷惑ですか…」
分かる気がします、とシロエ君が相槌を。
「歩く迷惑な人ほどの破壊力は無いにしたって、会長単独でも相当ですしね」
「そうだろう? 俺はこいつも迷惑の内に認定するぞ」
でもって闇夜の石なのだ、とキース君は勢いに乗って一気に決め付け。
「しっかりドッカリ道を塞いで、俺たちがぶつかるのを黙って待っていやがるんだ。ぶつかったら最後、悪戯だの何だのと片棒を担がされるんだ!」
「…酷い言われようだと思うんだけど?」
会長さんが不服を申し立てても、キース君は「どの辺がだ!」と突っぱねて。
「まだ闇夜の牛糞だと言われないだけマシだと思え!」
「「「牛糞?」」」
そんな諺だか故事成語だかがありましたっけ? 牛糞と言えば牛糞ですよね?



「…牛糞だって?」
聞き捨てならぬ、と会長さんが眉を吊り上げましたが、キース君は「やかましい!」と一喝。
「あんただって無駄に年を食ってはいない筈だと思うがな? 聞いたことはないか、何処とは言わんがアルテメシアに近い教区で牛糞と言えば…」
「…もしかしてアレかい?」
アレとは酷い、と二人だけで成立しそうな話。置き去りにされてはたまらないとばかりに、シロエ君が話の端を捉えて。
「それで牛糞がどうしたんです、キース先輩?」
「牛糞か? …俺たちの周りにも出身者がいるとマズイからなあ、地名は伏せるが」
「「「地名?」」」
「いわゆるアレだ、お国柄と言うか、その地域の人の気質を指すと言うべきか…」
今の若い者は知らんと思うが、と副住職ならではの渋いお言葉。アドス和尚から聞いて来たのか、はたまた御高齢の檀家さんから聞いたのか。ともあれ牛糞、何なのでしょう?
「こう、そこの地域の人を指して言う言葉が入ってだ、「どこそこの人と牛の糞」と」
「「「牛の糞?」」」
ますますもって意味が分かりません。会長さんが酷いと言うからには酷いのでしょうが、牛糞だけでも酷いわけですし…。そもそも牛糞に何の意味があると?
「俺も実際に体験したわけじゃないからな…。親父も経験は無いそうなんだが、牛の糞というヤツは犬だの猫だのの糞と違ってしつこいらしい」
「「「しつこい?」」」
「踏んだら最後、そう簡単には取れないというか…。その辺を絡めて、なんだかんだと絡んでくる迷惑な気質を指してだ、牛の糞だと」
「「「へえ…」」」
うんうん、分かった気がします。それが牛糞なら、闇夜の牛糞は更に迷惑。ただでも見えない闇に落ちていて、踏んづけたら延々と絡まれるわけで。会長さんの場合は闇夜の石より牛糞の方が相応しいかもしれません。
「ぼくが闇夜の牛糞だって!?」
会長さんの怒声に私は首を竦めましたが、見れば全員が似たようなポーズ。考えることは同じなのか、とホッとしていたら。
「…闇夜の石で牛糞な上に、座る迷惑なんだって?」
よくも言ったな、と地を這うような低い声。腕組みをして足を組み直している会長さんは充分すぎるほど怖すぎでした。よからぬ考えを練っている時のお決まりの仕種に似ていますけれど、まさか、まさか……ね……。



会長さんの長い沈黙にガクガクブルブル、話が変な方向へと行きませんように、と祈るような気持ちの私たち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飲み物のおかわりを淹れてくれ、ロイヤルミルクティー風味のシフォンケーキもおかわりがお皿に乗っかりましたが…。
「よし、決めた!」
決めた、とコーティングの生クリームもロイヤルミルクティー味のシフォンケーキをフォークで切って口へと運ぶ会長さん。おかわりの紅茶はとっくにカップに入ってますから、飲み物のおかわりを決めたわけではなさそうです。これは思い切りヤバイかも…。
「闇夜の石で牛糞とまで言われちゃうとねえ、そこは活用しないとね?」
おまけに座る迷惑らしいし、と会長さんはシフォンケーキをモグモグと。
「こうなった以上、闇と迷惑を最大限に! それでチャレンジ!」
「……オバケ屋敷か?」
キース君が言い出しっぺの責任を取って確認しましたが、会長さんは「ううん」と首を左右に。
「別に怖いってわけじゃないしね? 単に暗いだけで」
「「「暗いだけ?」」」
「そう、中が真っ暗というだけで!」
だけど此処だとちょっと狭すぎ、と周りをキョロキョロ。
「やっぱりアレかな、やるならぼくの家でかな?」
「「「家?」」」
何をする気だ、と突っ込みたくても怖くて訊けませんでした。家だか部屋だかを真っ暗にするのに、オバケ屋敷ではないらしいモノ。ついでに迷惑を最大限に、って…。
「一時期、流行ったんだよねえ…。暗闇体験」
知らないかな、と尋ねられても私にとっては謎のそれ。けれどキース君とシロエ君は知っていたらしく。
「あれか、ダイアログ・イン・ザ・ダークとかいうヤツか?」
「確かグループを組んで入るんですよね、真っ暗な中に」
「へえ? そういうイベントがあるのかよ?」
知らねえなあ、とサム君が言えば、スウェナちゃんが。
「…そういえば昔、チラッと新聞で読んだわね。完全に真っ暗な中で助け合って過ごして、食事とかもして、知らない人同士でも昔からの知り合いみたいに仲良くなるとか」
「ああ、ありましたね」
思い出しました、とマツカ君も。真っ暗闇の家やスペースに入って、助け合わないと何も出来ないのだとか。会長さん、それをどうするつもり…?



ワイワイガヤガヤ、暗闇体験とやらについての知識が披露された後、会長さんはスッと右手の人差し指を立てて。
「だいたい分かってくれたかな? その暗闇でうんと迷惑をかけてみようかと」
「「「ひいぃっ!!!」」」
死んだ、と悲鳴や嘆く声やら。私も泣きたい気持ちです。キース君が座る迷惑だの闇夜の石だの、挙句の果てに牛糞とまで言ったばかりにこの始末。闇の中で食事とくればシャングリラ学園名物の闇鍋イベントも真っ青じゃないかと思うのですが…! しかし。
「誰が君たち相手にやるって言った?」
「じゃ、じゃあ、まさか…」
ジョミー君の声が震えて、キース君が。
「頼む、それだけはやめてくれ! 歩く迷惑にそれだけは!」
「そうです、絶対に返り討ちですよ! もう確実に殺されますって!」
ソルジャー相手はやめて下さい、とシロエ君が叫び、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋の中は阿鼻叫喚の地獄と化しました。いくら会長さんが「座る迷惑」でも、「歩く迷惑」と称されるソルジャーなんかに太刀打ち出来る筈がありません。かけた迷惑は倍返しどころか…。
「百倍返しでも済まないよ!」
ぼくたちだって殺されちゃうよ、と泣きの涙のジョミー君。
「頼むから考え直してよ! まだ死にたくはないんだってば!」
「俺もお浄土を目指してはいるが、それとこれとは別件だ! まだまだ副住職として寺を盛り立てんといかんのだ! まだ死ねん!」
死んでたまるか、とキース君。
「座る迷惑の件は謝る! 闇夜の石も牛糞の件も全て謝るから、この通りだ!」
あいつをターゲットに据えるのだけはやめてくれ、とガバッと土下座。私たちも土下座まではしなかったものの、頭をペコペコ必死に下げたり、縋る瞳で訴えたり。ソルジャー相手に迷惑だなんて、命知らずでは済みません。命は確実に無くなるでしょうし、極楽どころか地獄行きで。
「「「お願いします!」」」
もう本当によろしくなんです、とキース君の土下座に合わせてペコペコ、懇願、嘆願。このままでは間違いなく死ぬと分かっているのですから、恥も外聞も宇宙に捨てる覚悟でないと…。
「…うーん、お願いされてもねえ…」
あんなものは最初から想定してはいない、と会長さんがのんびりと。
「「「へ?」」」
「論外なんだよ、ブルーなんかは」
え。うんと迷惑をかけたい相手って、ソルジャーじゃなかったんですか?



どうやらソルジャーではなかったらしいターゲット。では誰が、と顔を見合わせれば。
「ブルーだとねえ、暗闇なんかは意味が無いしね?」
あれは暗闇のプロフェッショナルだ、と会長さん。
「ぼくもサイオンで周囲を探れるけれども、ブルーの能力はそれよりも高い。暗闇体験をさせるためにはサイオンを封じないと無理なんだけどさ、封じられると思うかい?」
「…それはまあ…」
無理だろうな、とキース君。土下座から立ち直ってソファに座り直して、コーヒーをコクリ。
「だったら誰を相手にするんだ、あいつでないなら」
「普通に考えて一人だけだと思うけど?」
ぼくが迷惑をかけたい相手、と会長さんはフフンと鼻を鳴らして。
「減るもんじゃないから喋っちゃうとさ、シャングリラ学園教頭、ウィリアム・ハーレイ」
「「「教頭先生!?」」」
直球すぎて浮かばなかったその名前。てっきりソルジャー狙いだとばかり思ってましたが、冷静になって考えてみれば一番狙われそうな人です。何かといえば会長さんのオモチャにされる教頭先生、迷惑をかけてみたいとなったらターゲットになって当然で…。
「それしかないだろ、迷惑をかけて楽しい相手! ハーレイだったらサイオンも簡単に封じられるし、そういう遊びだと言ってやれば素直に引っ掛かるし……ね」
「引っ掛けるだと?」
キース君が聞き咎めると、「うん」と即答。
「暗闇体験はグループで共有するのが売りなんだよ。そして協力し合うわけ! ハーレイも多分、知ってると思う。だけど暗闇を共有する筈の仲間が非協力的だったら…?」
「「「非協力的?」」」
「そう、ミスリードと言ってもいい。一緒に暗闇に入る仲間は暗闇の中には居ないんだよ。ちゃんとサイオンで周りが見えてて、間違った方向にリードするんだな」
実に面白いと思わないかい、と言われるまでもなく「面白そうだ」とピンと来ました。教頭先生にとっては真の暗闇で何も見えてはいないのでしょうが、仲間とやらはどう考えても私たち。その私たちにはバッチリ見えてて、教頭先生に嘘八百を…。
「いいじゃねえか、それ」
ぶつかるんだな、とサム君が親指を立てて、シロエ君が。
「文字通り、闇夜の石なわけですね? いえ、牛糞と言うべきでしょうか、ミスリードなら」
「牛糞な勢いで頑張ってほしいね、ハーレイに絡んでなんぼだしね?」
是非やってくれ、と会長さん。なんと暗闇に教頭先生を放り込みますか! それを嘲笑って遊べるだなんて、面白くもあり、意地悪くもあり…。



「実にいいねえ…」
パチパチパチ、と拍手の音が。誰だ、とバッと振り返った先に歩く迷惑、ソルジャー登場。紫のマントを優雅に翻して部屋を横切り、空いていたソファにストンと座って。
「ぶるぅ、ぼくにもシフォンケーキ! 紅茶はロイヤルミルクティーがいいな」
「オッケー! ちょっと待っててねー!」
いそいそと飛び跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。直ぐにシフォンケーキを載せたお皿とロイヤルミルクティーが出て来ました。ソルジャーは紅茶の香り高いシフォンケーキを頬張り、ロイヤルミルクティーのカップを傾けながら。
「なんだか派手に揉めていたねえ、ぼくを狙うと後が無いとか」
「誰も狙っていないから!」
会長さんが即座に反論。
「ぼくはそこまで間抜けじゃないから、君なんか絶対、狙わないし!」
「それが正解。返り討ち程度で済めばいいけど、場合によってはぼくのシャングリラに御招待だよ。そして当分監禁ってね」
闇の世界に、とニコニコニコ。
「君はぼくのサイオンを封じられないみたいだけれども、ぼくなら君を真っ暗闇に閉じ込めるくらいのことは出来るよ? たかが青の間でも真っ暗になると困るだろうねえ…」
スロープから足を踏み外したが最後、ドボンだから、と笑顔のソルジャー。
「ドボンした後も、まるで光が見えないとなると…。どうやって水から上がるんだろうね、上も下も無い世界だからねえ? まあ、その内に勝手に浮くだろうけど」
浮いても上がれる場所が見えない、と恐ろしげな台詞がズラズラと。
「もちろん瞬間移動で脱出なんかは出来ないし? うんと楽しんでいってよ、青の間」
「お断りだから! そんな体験、要らないから!」
ぼくが陥れたいのはハーレイなのだ、と会長さんは必死の形相。
「だから君には関係ないだろ、そもそも君を狙ってないから!」
「そうらしいねえ? 命が惜しいというのは分かる。もしも狙われたら青の間に閉じ込めておくのもいいな、と思ってたのに…。でもまあ、ものは考えようだよ」
君を閉じ込めるよりもこっちのハーレイ! と、ソルジャーはいとも楽しげに。
「ハーレイだけ暗闇に放り込んでおいて、周りのみんなでミスリードだって? そっちの方が面白そうだし、ぼくも面子に加えて欲しいな」
サイオン封じならドンとお任せ! と胸を叩いていますけれども、座る迷惑ならぬ歩く迷惑。面子に加えて大丈夫でしょうか、その前に申し出を断れるかどうかが謎ですが…。



教頭先生だけを暗闇に閉じ込め、暗闇の中で助け合うふりをしてミスリード。会長さんのそんな計画を聞き付けたソルジャー、やりたくて仕方ない様子。下手に断ると会長さんがソルジャーの世界に拉致されてしまい、暗闇と化した青の間に監禁されそうな勢いで。
「やりたいんだってば、ぼくも一緒に! 絶対、迷惑はかけないから!」
「迷惑をかけてなんぼなんだよ、この計画は!」
ただし相手はハーレイだから、と会長さん。
「ハーレイを真っ暗闇の中で困らせてなんぼ、間違った方向に行かせてなんぼ! でもねえ、君の場合は迷惑が何か間違っていそうで」
「えっ? 君だと思わせておいて色々とやったらいけないのかい?」
お触りだとか、と首を傾げるソルジャー。
「いくらハーレイでも闇の中では君とぼくとの区別はつかないと思うんだ。それで君だと勘違いさせて、あちこち触ってあげるとかね」
「ど、何処を…?」
会長さんの顔が青ざめ、ソルジャーは。
「それはもう! デリケートな場所とか、あのガッシリしたお尻とか!」
「そういうのは痴漢行為だから!」
「別にいいだろ、痴漢は夜に出るものなんだろ?」
ぼくの世界には出ないけどさ、と語るソルジャー。
「なにしろSD体制だしねえ? マザー・システムってヤツはミュウはもちろん、犯罪者にだって優しくない。痴漢をするなら命懸けだし、そこまでする馬鹿は何処にもいないよ」
その点、こっちの世界は合格! と言うのですけど、痴漢が居ればどう合格なんだか…。
「えっ、痴漢? そりゃあやっぱり、スリリングだしね? こっちのノルディもお触りは好きで上手だけれどさ、思いもかけない所で全く知らない人から触ってこられたら素敵かと…」
「そう考えるのは君だけだから!」
「君はトコトン、ノーマルだしねえ? 痴漢の良さも分からないなんて…」
「その考えが分かるようなら、痴漢は犯罪にならないから!」
なんとも不毛な言い争い。ともあれ、ソルジャーが痴漢に遭ってみたいことと、教頭先生に痴漢行為を働きたいことは分かりました。暗闇で石にゴッツンどころか、ソルジャーという名の痴漢が出そうな暗闇体験。会長さんはどうするのだろう、と固唾を飲んで見守りましたが…、
「……分かった。君はどうあっても痴漢をしたい、と」
「せっかくだしね? 断るんなら、ぼくの青の間に御招待して…」
「もういいから!」
君を面子に加えるから、と決断を下した会長さん。ソルジャーつきでの暗闇体験、教頭先生はどうなるのやら…。



こうしてトントン拍子に決まってしまった、教頭先生に暗闇体験をさせる計画。当の教頭先生には会長さんから招待状が送られました。「一時期流行った暗闇体験をみんなでやろう」というコンセプト。すっかり信じた教頭先生、開催予定日の土曜日の朝に会長さんのマンションへ…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日はお外でお出迎え、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。私たちとソルジャー、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は会長さんの家がある最上階のエレベーターホールで教頭先生をお出迎えです。なにしろ会長さんの家の中は真っ暗闇で…。
「ハーレイ、おはよう。ご覧の通り、ぼくの家は全部が会場なんでね」
「そうらしいな。…それで、全員で入るのか?」
「そうだよ、みんなで助け合わないとどうにもならない。もちろんサイオンはしっかり封じてある状態だし、ぼくもブルーも闇しか見えない」
君も頑張ってくれたまえ、と会長さんは教頭先生に激励を。
「聞いた話じゃ、付き合っている男性が信頼に値するかどうかを暗闇体験で試す女性もいたそうだ。君がどれだけ株を上げるか、ぼくも楽しみにしてるから」
「そ、そうか…。お前をきちんとリード出来れば株が上がるのだな?」
「リードもそうだし、間違っても暗いからといって痴漢行為をしないことだね」
「ち、痴漢……」
教頭先生、それは全く考えてらっしゃらなかったみたいです。逆に意識してしまったらしくて、会長さんの身体をチラチラ、頬がほんのり赤いですけど。
「ふうん? その顔つきだと触る気かな?」
「い、いや、私は!」
「知らずに触ってしまう分にはいいんだよ、うん」
それは不幸な事故だから、と涼しい顔の会長さん。
「だけど故意だと認定した時は、遠慮なく叫ばせて貰うから! 痴漢です、って!」
でもって逮捕、とニヤニヤと。
「もっとも暗闇の中だしねえ? 痴漢の君を逮捕するつもりで間違えてキースを逮捕したとか、その手のミスも起こり得る。流石にガッチリ縛り上げたら体格の違いで分かるだろうけど、捕まえる段階では取り違えも充分ありそうだしね?」
運が良ければ逃げおおせることも可能かもねえ、と煽っているんだか、いないんだか。ともあれ、暗闇体験は闇の中での食事も含めてお昼まで。会長さんとソルジャーが教頭先生のサイオンをガッチリ封じて準備オッケー、いよいよ真っ暗闇な世界へ出発です~!



会長さんの家の玄関ドアの周囲には光を遮るための黒くて分厚いシートが。それを順にくぐって会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に「入って、入って」と促されるままに家の中へと。私たちはサイオンを封じられていませんが、それでもしっかり暗いです。
「ふう…。これでは見えんな…」
キース君が「何も見えん」とお芝居をしながら靴を脱いで暗い家に上がり込み、私たちも次々と。靴は端の方へと順に揃えて、それぞれ壁に張り付いて待てば。
「はい、ハーレイ。最後はぼくたちってことになるから」
「かみお~ん♪ お昼御飯まで頑張ろうね!」
会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにソルジャーが教頭先生を取り囲むようにして入って来て玄関ドアがパタンと閉まって…。教頭先生はこれで完全に暗闇に閉じ込められた筈。案の定、動けないようです。その手を会長さんが掴んでクイと引っ張って。
「とりあえず、此処に玄関の段差。あ、靴は適当に脱いでいいけど、他の人のを踏まないように」
「あ、ああ…。しかし、他のは…」
何処だ、と屈み込む教頭先生。本当に見えていないみたいです。手探りで他の人の靴を探す間に、先に玄関に上がっていた会長さんの足首をウッカリ触ってしまって…。
「ちょ、ハーレイ! それ、ぼくの足!」
「す、すまん…!」
「今の、故意とは違うんだろうね? 撫でられたような気がしたけれど?」
「いや、違う! 断じて違う!」
間違えたのだ、と冷汗ダラダラの教頭先生は気の毒なほどに竦んでおられましたが、知ったことではありません。私たちの任務はミスリード。教頭先生が失敗すればするほど作戦成功、どんな失敗でも大歓迎で。
「教頭先生、とりあえずリビングに移動しますか?」
この暗闇では遠そうですが、とキース君。
「そ、そうだな、皆で移動しようか。…リビングに行けば何があるのだ?」
「お茶くらいは飲めるようですよ。もっとも紅茶もコーヒーも淹れるのが難しそうですが…」
手探りですし、と溜息をついているキース君には紅茶の缶もコーヒー豆もお見通し。私たちにとっては常夜灯が灯った程度の暗さですけど、教頭先生は漆黒の闇にお住まいですから、さぞかし心細いかと…。とはいえ、会長さんにいい所を見せねばとも思っておられるわけで。
「よし、行くか。ブルー、この廊下を真っ直ぐ行くんだったな」
頑張ろう、と先頭に立たれた教頭先生は手探り、足探りでの前進だけに屁っ放り腰。会長さんとソルジャーが懸命に笑いを堪えています。これだけでも暗闇体験の価値はあるかも~!



そろりそろりと廊下を歩いた教頭先生がリビングに着かれるまでには、普段の倍以上の時間がかかりました。やっとのことでドアノブを探り当て、「先に入れ」と言って下さったため、私たちは見えないふりをして我先に。そして…。
「教頭先生、あと少しでソファがありますから」
多分、とシロエ君の声。一番最後に入って来た教頭先生への心遣いですけれど、ソファに着く前にゴツンと鈍い音が響いて「うっ!」と蹲る教頭先生。
「す、すみません、テーブルがありましたか!?」
「…い、いや、ちゃんと探って歩くべきだった…」
大丈夫だ、と呻く教頭先生の足には恐らく青アザが出来たことでしょう。なんとか立ち上がって「皆は何処だ?」と訊かれたものですから。
「ソファに座ってまーす!」
ジョミー君が元気よく答え、サム君も。
「テーブルを回り込んだらソファがありますよ、教頭先生!」
「うんうん、ハーレイ、気を付けて」
そう、その辺り…、という会長さんの指図を信じて教頭先生が腰を下ろした場所にはソファなどありませんでした。会長さんが誘導した場所はソファの直ぐ脇、絨毯のみ。ドスンとお尻から絨毯に落ちた教頭先生、尾てい骨を強打なさった模様。これは相当、痛いですってば…。
「う、うう…」
「ごめん、ハーレイ。大丈夫かい?」
会長さんが手を差し伸べて。
「やっぱりきちんと誘導しないと駄目なようだね、はい、此処。ぼくの隣にどうぞ」
「す、すまん…」
教頭先生をソファで隣に座らせておきながら、「その手!」と会長さんの怒りの声が。
「ぼくの太ももに触ってるんだよ、知っててやってる!?」
「ち、違う…! さっき打った腰を擦りたくて、だな…」
「ああ、腰ねえ…。重傷かい?」
「分からんが…。まあ、痛むのは確かだな」
ソファに座っていても痛い、という教頭先生の台詞を受けてソルジャーが。
「早めの手当てが要るんじゃないかな、腰は男の命だよ?」
「真っ暗闇の中でかい? 湿布薬を貼るのも無理じゃないかと思うけど…」
無理そうだけど、と会長さん。実際の所は見えていますけど、真の暗闇にいるふりをするなら湿布薬は無理。薬の置き場所を探し出せても、どれが湿布か分かりませんよ…。



「ああ、そうか…。湿布は無理か」
でも冷やさなきゃ、とソルジャーの声。
「この際、普通に水で絞ったおしぼりでも無いよりマシじゃないかと」
「おしぼりねえ…」
それをハーレイのお尻に乗せるのか、と会長さんは乗り気ではなさそうでしたが、ソルジャーは冷やすべきだと主張。教頭先生のお尻は痛んでいるようですし…。
「仕方ない、暗いからみっともないお尻は見えないし…。冷やすことにしようか」
「あ、有難い。実に痛くて…」
よろしく頼む、と教頭先生の声に安堵の色が滲んでいます。しかしリビングでお尻におしぼりとは凄い話で、せめて教頭先生だけゲストルームに放り込むとか…。どうなるんだろう、と暗がりで視線を交差させていると。
「ハーレイ、お尻を冷やすんだったら、此処ではちょっと…ね」
会長さんが言葉を濁して、ソルジャーが。
「女の子もいるのに、真っ暗闇の中でお尻を露出というのはねえ…。流石にマズイね」
「や、やはりそうか…。しかし…」
何処へ行けばいいのだ、と困惑する教頭先生に向かって、会長さんが。
「ゲストルームとか、ぼくの寝室とか…。ベッドのある部屋は幾つもあるけど、どれがいい?」
「選べるのなら、お前の部屋だ!」
教頭先生、見事な即答。会長さんは怒り狂うかと思ったのですけど、「了解」と。
「ぼくの寝室のベッドね、了解。…だったら行こうか、立てるかな?」
「…ほ、本当にかまわないのか?」
「暗闇の中では助け合わないとね? 君のお尻の手当てもしないと」
さあ行こう、と教頭先生を支えて立ち上がらせている会長さん。まさか本気で寝室へ案内する気では…、と焦る私たちに、会長さんがパチンとウインク。
「じゃあ、行ってくるね。君たちはお茶を楽しんでいてよ」
「かみお~ん♪ 紅茶の缶がこれかな、こっちがポット~!」
頑張るもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が答えていますが、手探りどころかスイスイスイ。暗いとはいえ見えているのですから至極当然、ティーカップの用意も任せて安心。えっ、コーヒーも淹れますか? まあ、見えてるんだし、なんでもいいかな…。



教頭先生にはソルジャーも付き添って出掛けました。お触りがどうの、痴漢がどうのと言っていた人だけに、どうなったやら…。
「ごめん、ごめん。ぼくも紅茶を貰えるかな?」
かなり経ってから会長さんだけが戻って来たからビックリです。教頭先生はベッドで寝ているとしても、ソルジャーは?
「ブルーかい? ぼくのふりをしてハーレイにしっかり付き添うらしいよ」
おしぼりを絞って腰を冷やして…、と会長さん。
「ハーレイもつくづく間抜けと言うか、馬鹿だと言うか…。案内する途中で何度か方向転換しただけで騙されちゃってね、今はダイニングにいるんだけれど」
「「「ダイニング!?」」」
「シッ、声が高い! ゲストルームからベッドを瞬間移動で運んで据えてある。ぼくの部屋だと信じているから気分は極楽、付き添いはぼくだと思い込んでるから更に天国」
痴漢に遭っても本望であろう、と悪魔の微笑み。
「ブルーは喋らないつもりらしいしねえ? 照れているぼくを演出するとか」
「あんたはそれでかまわないのか?」
とんでもないことになりそうなんだが、とキース君が指摘しましたが。
「大丈夫! その辺はブルーも心得ているよ、お触りタイムはお昼前からなんだ」
「「「お昼前?」」」
「そう、お昼前。昼食はダイニングで食べる予定でテーブルに用意が整っている。冷めても美味しく食べられるように、ぶるぅが豪華サンドイッチとかを作って覆いがしてある」
「そ、それは…」
教頭先生にダイニングだとバレないのか、とキース君が唸って、シロエ君が。
「バレますよ、普通! これだけの人数が食べに行ったら!」
「分かってないねえ、其処が狙い目! ブルーのお触りでいい気分になりかかった所へドヤドヤと大勢入って来るんだ。そして心配になってもお触りは続く」
「「「………」」」
続くんですか! と心で突っ込み。けれど会長さんは全く気にせず。
「暗闇体験は昼食が終わるまでなんだ。其処で明かりがパパッと点いてね、暗闇を共にした仲間と親睦を深める趣向と言った筈だけど?」
「「「…じゃ、じゃあ…」」」
教頭先生がお尻丸出し、痴漢行為を働くソルジャーに付き添われて横たわるベッド。それがダイニングにあるということは、昼食を終えた瞬間、何もかもが明るい光の中へと…。



会長さんの部屋だと信じてダイニングでお尻を冷やすことになった教頭先生。お茶とお喋りを楽しんだ私たちがダイニングに行くと、端の方にベッドが置かれていました。手探りのふりをしながら一人ずつ入った私たちですが、もちろん気配はするわけで。
「…ブルー、大勢入って来たようなのだが…」
教頭先生の声が「ああ、こら!」と中断されて。
「き、気持ちは分かるが、そ、そのう…。人の気配が気になって…。そ、そうか…」
お前は気にしないのか、と納得している教頭先生、痴漢に絶賛遭遇中。一言も発しないソルジャーは自分の気配を殺しているらしく、教頭先生は会長さんだと頭から信じて疑っておらず。
「ブルー、昼飯の匂いがするのだが…。お前は食いに行かなくていいのか? それより私か」
光栄だな、と教頭先生は痴漢行為を働いているソルジャーに感謝の言葉を。会長さんは顔を顰めつつも耐え抜き、その分、昼食をガツガツと食べて…。
「「「ごちそうさまでしたー!!!」」」
みんな揃って叫んだ瞬間、パパパッと点いたダイニングの明かり。教頭先生の丸出しのお尻も、痴漢行為で耳まで真っ赤に染まった顔も、せっせと触りまくったソルジャーの姿も煌々と灯った明かりに鮮やかに照らし出されて…。
「ハーレイ、君って最低だから!!」
よくもダイニングでお尻なんかを丸出しに…、と会長さんが喚き、ソルジャーが。
「まあいいじゃないか、ぼくはたっぷり楽しんだしねえ? どう、ハーレイ? 暗闇だったらブルーかぼくかの区別もつかないみたいだし…。ぼくの青の間で暗闇体験、一発ツアー!」
文字通り一発、いや、二発! とソルジャーは拳を突き上げました。
「よかったらヌカロクも夢じゃないほど指導するから二人でやろうよ、真っ暗闇で!」
「いいかもねえ…。持って帰ってくれてもいいから、其処のハーレイ!」
会長さんが冷たい笑みを浮かべて、教頭先生は顔面蒼白。
「ち、違うのだ! わ、私はお前だと思い込んだだけでだ、暗ければいいというわけでは…!」
私には一生お前だけだ、という教頭先生の決まり文句が今日ほど白々しく聞こえたことは未だかつてありませんでした。暗闇だったらソルジャーの痴漢行為も極楽、天国。いっそソルジャーに拉致されて青の間で暗闇、如何ですか? 監禁されての極楽体験、お勧めさせて頂きます~!





          一寸先は暗闇・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が体験なさった暗闇イベント、一時期、流行ったみたいですけど。
 親睦がグッと深まる代わりに、とんでもない結末になりました。お気の毒としか…。
 シャングリラ学園、来月は普通に更新です。いわゆる月イチ。
 次回は 「第3月曜」 7月17日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、6月は、キース君をスッポンタケの御用達にするべく…。
  ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv








(うーむ…)
 ブルーの家からの帰り道。ハーレイは歩きながら考え込んだ。
 夕食を御馳走になって来たのだけれど。今日は土曜日だから、朝から居座っていたのだけれど。
 お茶にお菓子に、昼食も。運動もせずに、小さなブルーと語り合いながら食べていたけれど。
(…食い足りなかったか?)
 小食のブルーに付き合ったからか、そうでもないのか。お菓子はともかく、食事の時はブルーの母がハーレイの分を多めに盛り付けてくれているのだし、量は充分に足りる筈。
 とはいえ、「おかわりを頂けますか?」とはブルーの前では言えないし…。
(今日の飯はまた美味かったんだ)
 特にキノコたっぷりの炊き込み御飯が。
 あれを炊いたのが自分だったら、軽く三杯は食べただろう。ブルーの母もおかわりをくれたし、二杯は食べた。三杯目も勧められはしたのだが…。
(ブルーに恨まれちまうしな?)
 いつだったか、「頂戴します」と盛り付けて貰った三杯目。それを食べていたら、ブルーの父がこう言った。「ブルー、ハーレイ先生はまたおかわりだぞ? お前も頑張って食べなさい」。
 そうしてブルーの御飯茶碗に追加された御飯、あの時のブルーの顔と言ったら…。
(もう無理だよ、って膨れてたっけな…)
 お腹一杯、と嘆きながらも、ブルーはなんとか食べ終えた。けれども本当に多すぎたらしく。
(ハーレイのせいだ、ってブツブツ文句を言ったんだ、後で)
 ブルーの部屋で飲んだ食後のお茶。その間に散々に文句を聞かされた。ハーレイがおかわりしたせいで自分はこうなったのだと、胃袋がもう限界だと。



 あれ以来、三杯目は控えるように心がけている。勧められても「もう充分です」と返している。時々、ウッカリ忘れるけれど。つい三杯目を頼んでしまって、ブルーにギロリと睨まれる。
(…睨まれてもいいから食えば良かったかな、三杯目)
 それとも、食べ足りなかったせいではないのか、単なる自分の欲求なのか。
 どういうわけだか、にわかにカレーが食べたくなって来た、帰り道。
 キノコの炊き込み御飯を食べて来たのにカレーなのだから、まるで関係ないかもしれない。味が別物、食べ方だって全く違う代物なのだし…。
 そういったことを考えていても収まってくれない、カレーを食べたくなった胃袋。
 一度カレーだと思ってしまえば、あの味が、匂いが頭を支配し始める。スパイスの効いた金色のソース、それをたっぷりと白米にかけてのカレーライスだと、カレーなのだと。



 どうにも止まらない、頭の中でのカレーの行進。ビーフカレーにチキンカレー。ポークカレーにシーフードカレー、と次から次へと現れるカレー。
 そうこうする内に、胃袋の叫びもどんどん大きくなってくるから。今すぐ食べたいと、カレーを食べたいと腹の中で暴れ始めるから。
(寄って行くか…)
 ちょうど目に入った、前方の明かり。煌々と点いているライト。いつもの行きつけの食料品店。カレーを食べよう、と躍り上がっている胃袋を連れて自動ドアをくぐって中に入った。
 入口でグルリと見渡したけれど、今からカレーを作ったとしても美味しくなるのは明日だから。味が馴染んでコクと深みが増すまでの間に、少し置かねばならないから。
(カレーってヤツは、一晩寝かせたのが一番美味いんだ)
 一晩寝かせた味に近付けたければ、鍋を急冷するという手もあるけれど。出来上がったカレーを鍋ごと冷水で冷やして冷ませば、その味に近くなるけれど。
 この時間からカレーを煮込まなくとも、朝食に炊いた白米が家に残っているし…。



(こんな時のための非常食ってな!)
 いわゆるレトルト、白米にかけるだけで立派なカレーライスが出来上がるもの。
 それを並べたコーナーを目指し、その前に立った。実に様々なパッケージ。カレーの種類も迷うほどあるし、カレーを収めたパッケージの仕様もまた様々。
 開けるだけでホカホカと温まるものも、便利で楽だとは思うけれども。
(俺はこっちが好きなんだ)
 断然コレだ、とカレー入りのパックを温めなければ食べられないタイプに手を伸ばした。ビーフカレーでいいだろう。何種類もあるから、パッケージの写真が気に入ったのを一つ。買いたい物は今はこれだけ、レジに出すための籠は要らない。
 カレーをレジへと持ってゆく途中、ふと思い出して笑いが漏れた。
(こいつもレトロなものだよなあ…)
 開けさえすれば温まるカレーがあるというのに、未だに廃れない自分で温めるタイプのカレー。前の自分が生きた頃から、それよりも前から存在したらしい、こういうタイプのレトルト食品。
 それを選んで買ってしまうということは…。
 前の自分が愛用していた羽根ペンと同じでレトロ趣味なのだろうか、今の自分も。
 温める手間をかけねば食べられないタイプの、昔ながらのレトルト食品に惹かれる自分も…。



 カレーだけが入った食料品店の袋を提げて帰宅し、それから鍋に湯を沸かした。カレーが入ったパックを温めるために必要な量の熱湯、この中で温める時間が好きだ。
 沸騰した湯にカレーのパックをそうっと落とし込み、朝、炊いた米も皿に移して温め直して。
(いつもなら握り飯なんだがなあ…)
 ブルーの家に寄って来た日に何か食べたくなったら、握り飯。塩をふったり、具を入れたり。時にはひと手間、焼きおにぎりと洒落込むこともあるのだけれど。
 どうしたわけだか、今夜はカレー。胃袋ごと見事に捕まってしまったカレーライス。
(なんだってカレーだったんだか…)
 悪くはないが、とパックを温めている最中の鍋を見ていて、脳裏を掠めた遠い遠い記憶。
 前の自分もやっていたな、と。
 シャングリラに居た頃、こんな風に湯を沸かしていた。レトルト食品を温めるために。
(あの時代から変わっていないってこった)
 レトロなタイプのレトルト食品、と温まったカレーを白米にかけてテーブルに運んだ。立ち昇る湯気とスパイスの香り。スプーンを手にして頬張りながら、自分の趣味に苦笑する。
(開けるだけで温まるタイプのカレーってヤツも、前の俺の頃からあったんだが…)
 それなのに今も温める手間をかけたいタイプが自分なのか、と。
 つくづくレトロな趣味なのだな、と思った途端に。



(そうだ、あいつに…)
 ブルーのためにと、前の自分がレトルト食品を温めていた。
 今夜の自分がそうだったように、鍋に湯を沸かして一人きりで。キャプテンになるよりも前に、まだ厨房が居場所だった頃に、厨房ではなくて自分の部屋で。
(あいつに作ってやっていたんだ、レトルト食品…)
 正確に言うなら、作るのではなくて温めていたというだけの食品だけれど。
 中身は調理済みの料理が詰められたものだったのだし、作ったわけではなかったけれど。



 シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃。
 自給自足の生活を始めていなかった頃は、食料は奪うものだった。人類が乗った輸送船から。
 それが出来る者はたった一人で、タイプ・ブルーだった前のブルーだけ。
 食料も、それに他の物資も奪いに宇宙を駆けていたブルー。
 コンテナごと奪って戻る物資や食料品には、非常食がよく紛れていた。奪う相手が宇宙船だから多く積み込まれていたのだろう。万一の時に備えて多めに。文字通りの非常食として。
 非常食と言っても、侮れない出来だったそれらの食品。今の時代に食料品店の棚に整列しているレトルト食品と変わらない出来のものばかり。
(開ければ勝手に温まるヤツと、温めなければ食えないヤツとがあったんだ…)
 その点も今と変わりはしない。
 温めなければいけないタイプは手間がかかるから、食料品を収めた倉庫の奥へ突っ込まれるのが常だったけれど。
 自分で温めてまで食べようと思う者も少なかったけれど、それをいいことに失敬していた。
 進んで食べたがる者などいないのだから、と倉庫の奥へと押し込む時に一種類ずつ。
 前の自分は備品倉庫の管理係も兼ねていたから、作業のついでに貰っておいた。



 食料は全て奪うものだったシャングリラ。
 最初の間は奪ってくる時に中身を選べないことも珍しくなくて、食材が偏ったケースも多数で。
 ジャガイモ料理が延々と続くジャガイモ地獄や、キャベツだらけのキャベツ地獄や。
 同じ素材の料理しか無い日々が続けば、人気が出て来る非常食。倉庫の奥から運び出す者たち。これを食べようと、非常食ならば他の料理もあるのだからと。
 そうする輩が少なくないからアッと言う間に開けるだけで温まるタイプの非常食が消えて、次は温めなければ食べられないタイプの非常食の出番。そちらもどんどん減ってゆくから、厨房を担当していた前の自分は「出された食事をちゃんと食べろ」と怒鳴り付けることになったけれども。
 ジャガイモだろうがキャベツだろうが栄養は足りている筈なのだ、と我儘な仲間たちに怒鳴って厨房の料理を食べさせようと努力していたけども。
 そんな日々の中、出される料理を黙々と食べていたブルー。
 食が細いから食べる量こそ少なかったけれど、文句の一つも言おうとせずに。
 皆のためにと食料を奪いに出掛けていたブルーこそが、食事の中身に好きなだけ文句をつけてもいい筈なのに。思う存分に我儘を言って、自分好みの非常食を食べてもいい筈なのに…。



(あいつがそういうヤツだったから…)
 どんなにジャガイモ料理の日々が続いていようが、キャベツ料理が連続しようが、ブルーは何も言わずに出されたものだけを食べたから。他の仲間たちのように我儘を言いはしなかったから。
 そういった時に役立てようとコレクションしていた非常食。倉庫の奥へと押し込める時に一種類ずつ抜き取っておいた非常食。
 湯を沸かすことは自分の部屋でも可能だったから、夕食が終わって皆が自室に引っ込んだ後に、コレクションから一つ選んでコッソリとそれを温めて。
 思念波でブルーを呼んでやった。
 部屋に遊びに来ないか、と。



 ブルーの返事に合わせてタイミングを計り、出来立ての非常食を器に移した。それはホカホカのスープだったり、具だくさんの濃厚なシチューだったり。
 部屋を訪れて、テーブルの上で湯気を立てる器を目にしたブルーは。
「ハーレイ、これ…」
 今日の食事のメニューと違うよ、非常食を出して来たんじゃないの?
「非常食には違いないがな、お前用だ。お前、遠慮して非常食には手を出さないしな」
 食べろ、と促せば、初めての時には酷く遠慮をしたブルー。
 ハーレイも非常食を全く食べてはいないというのに、自分に譲ってどうするのかと。ハーレイが自分で食べるべきだと、ぼくは食堂で食べた食事で充分だからと。
 けれども、自分では食べるつもりなど無かったから。最初からブルー用にと集めておいた中から選んだのだから、「食べないとこいつが無駄になるぞ」と食べさせた。
 冷めてしまっては美味しくもないし、それでは料理が無駄になる。温かい間に全部食べろと。
 お前が奪って来た物資に混ざっていたのだからと、お前には食べる権利があると。
「でも、ハーレイ…」
「いいから食え。冷めて不味くなっちまう前に食っちまえ」
 このくらいの量なら食べられるだろうが、無駄にしないでしっかり食っとけ。
 今を逃したら、当分の間は代わり映えのしない食事が続くんだしなあ、食材が全く同じじゃな。



 食材が偏り、飽きた者たちが非常食を求めて倉庫に侵入し始める度に、部屋で温めてはブルーに食べさせた非常食。
 ハーレイが始めたブルーのためだけの特別な料理は、いつしか定番になってしまって。
 温める頃合いを見定めながら思念を送れば、ブルーは直ぐにやって来た。ある時は空間を越えて瞬間移動で、また別の時は自分の足で通路を歩いて、といった具合に。
「遊びに来たよ」
 でも、君は…。食べに来いとは言わないんだね。いつも「遊びに来ないか」としか。
「誰が聞いているか分からないからな。食べに来いとは言えんだろうが」
 俺が料理をしてるのがバレる。…料理と言っても、ただ温めてるだけなんだがな。
「思念でぼくに呼び掛けてるのに?」
 ぼくだけに思念を送ってるんだし、他の人には届かない筈だと思うんだけど…。
 なのに絶対、「食べに来い」とは言わない所が君らしいよね。
 とても真面目で、それに慎重。
 ハーレイは凄く気が回るんだよ、他のみんながどう思うだろう、って所までいつも考えている。
 みんなは勝手に非常食を出して食べているのに、君は遠慮が先に立つんだ。
 ぼくに食べさせるための非常食でも、それを内緒で作っているのは気が引ける、ってね。



 それでもぼくには分かるけれど、とブルーは笑った。
 「遊びに来ないか」という誘いであっても、食事を用意して待っている時の思念は分かると。
 ハーレイの心が「食べに来ないか」と呼んでいるのがぼくには分かる、と。
「ぼくにばっかり用意してないで、君も食べなきゃ」
 美味しいよ、これ。カボチャの甘味が作りたてみたいな感じのスープ。
「いや、俺は…」
 それはお前のスープなんだし、お前が飲めばいいだろう。そのくらい軽く入る筈だぞ。
「ぼくはそんなに要らないから」
 さっき紅茶を飲んでたんだよ、自分の部屋で。だから全部だと多すぎるんだ。
 ほら、と差し出されたブルーがスープを掬ったスプーン。カボチャのスープが入ったスプーン。
 食べろ、と瞳で、言葉で何度も促されたから、口にしてみて。
「ほう…。こいつは美味いな」
 確かに出来立てのスープと変わらん味だな、言われなければ非常食とは分からんな。
「ほらね、食べてみて良かっただろう?」
 もっと飲んだら?
 沢山あるから遠慮しないで、ハーレイもこれを食べるといいよ。



 始まりはスープ。
 それ以来、ブルーはいいアイデアを思い付いたとばかりに非常食を貰えばお裾分け。
 「ハーレイもこれを食べるといいよ」と、「ぼく一人では多すぎるから」と。
 本当は一人でも食べ切れるくせに、一度その方法に気付いてしまえば分けて当然、ハーレイにも分けるのが正しい食べ方になってしまって。
(今から思えば、まるで恋人同士だな…)
 あくまでお裾分けというものだったから。半分に分けて食べるものではなかったから。
 一つのスプーンで、同じスプーンで食べていた。
 ブルーが差し出して、自分が食べて。
 シチューもスープも、同じ皿から一つのスプーンで、ブルーに掬って貰って食べた。
 もう少しどうかと、遠慮しないでもっと食べてと言われるままに。



(そういうつもりのコレクションではなかったんだが…)
 前の自分が倉庫に入れずに一種類ずつ抜き取っておいた非常食。ブルーのための非常食。
 だが、嬉しかった。
 同じ皿から一つのスプーンでブルーと一緒に食べていた食事。ブルーが「ハーレイの分だよ」と掬って食べさせてくれた、スープやシチューやビーフストロガノフ。
 まだソルジャーではなかったブルーと二人きりで囲んだ秘密の食卓、温めた非常食だけが全てのささやかな食事。仲間たちには内緒の二人だけの宴。
 スプーンは一人分しかないというのに、もう一人分を用意しようとは思い付きさえしなかった。自分のスプーンを取って来ようとは思いもしなくて、ブルーもそうは言わなくて。
 ブルーが掬って差し出してくるのを食べていた。同じスプーンでブルーも食べた。
 それを変だと思うことなく、非常食を二人で食べていた時代が終わるまでそのままだったから。食材の偏りが起こらなくなり、非常食のコレクションが要らなくなるまで続いたから…。



(あの頃から恋をしてたのか?)
 もしかしたら、既に。
 互いに、とうに。
 同じ皿から同じスプーンで食べるなど嫌だと思う代わりに、それが普通だと思っていた。
 自分もブルーも、なんとも思っていなかった。
 スプーンで掬って食べさせたブルーも、食べさせて貰った方の自分も、当たり前のようにそれを続けた。スプーンをもう一本用意することを一度も思い付かないままで。
(…恋人だったら普通だよなあ?)
 前の自分たちはしなかったけれど、互いに「あーん」と食べさせ合うこと。仲の良いカップルがそれをするのを今の自分は何度も見かけた。街のカフェテラスや公園のベンチで何度も、何度も。
(あれと似たようなことをしてたってことは…)
 ブルーは「あーん」とは言わなかったけれど、食べさせてくれていたのだから。
 自分用のスプーンを取って来いとも、自分で掬えとも言いはしないでいたのだから。
(…自覚が無くても、恋だったかもしれないなあ…)
 そう思いながら残り少なくなったカレーライスを口に運んで、スプーンを眺めて。
(このスプーンで、だ…。一緒にカレーを食うことになっても許せるヤツっていうのはだ…)
 小さなブルーは許せるけれども、他には親しか思い浮かばない。隣町に住んでいる両親。
 血が繋がった両親の他にはブルーしかいないということは…。
 やはり前の自分はブルーにとっくに恋をしていて、ブルーの方でも恐らくは、きっと。
(明日はブルーに話してみるか…)
 ブルーがあの頃に恋をしていたかどうか、尋ねてみるのもいいだろう。
 明日は日曜日で、ブルーの家へ行ける日なのだから。



 次の日、昨夜と同じ食料品店に寄って温めるタイプのスープを買った。棚の前で暫し考えた末に二つ選んでレジへと運んで。
 それを荷物の中に突っ込み、ブルーの家まで歩いて出掛ける。門扉の脇のチャイムを鳴らして、二階のブルーに手を振った。もちろんブルーは荷物の中身に気付いてはいない。
 門扉を開けに来たブルーの母に、玄関先でスープの箱を渡して頼んだ。昼食にこれを持って来て欲しいが、温めた後は封を切らずにパックのままで運んで貰えないかと。
「キャプテン・ハーレイだった頃の思い出に繋がっているんですよ」
 あの時代にもこういうスープがありましてね。ブルー君と何度も飲んだものです。
 カップに注がれて届いたのでは、思い出の意味がありませんので…。
「そうですの? 面白そうなお話ですわね」
 パックのままがいいということは、開ける時に何か失敗談でもあったんでしょうか?
 きっと先生とブルーだけに分かる笑い話か何かですわね、ブルーに訊いたら膨れそうですわ。
 あの子ったら、ソルジャー・ブルーだった頃に何をやっちゃったのかしら…。
 いえ、先生に訊こうとは思いませんわよ、ブルーが膨れるだけですものね。
 スープは忘れずに持って行きますわ、とブルーの母は笑顔で約束してくれた。きちんと温めて、封は切らずにスープカップと一緒に運ぶと。



 二階のブルーの部屋に案内され、待っていたブルーと喋って、笑って。
 午前中のお茶の時間は瞬く間に過ぎ、昼食が出来たとブルーの母がトレイを運んで来たけれど。シーフードピラフとサラダはともかく、空のスープカップ。パックに入ったスープが二種類。
 「ごゆっくりどうぞ」と母が去った後、ブルーはテーブルの上を見詰めて。
「なに、これ?」
 このスープって、どうしてカップに入ってないんだろう?
 ママ、作る時間が無かったんだって言いたいのかなあ、今日のスープはレトルトです、って。
「いや、そいつは…。俺が買って来た土産なんだが、どっちがいい?」
 カボチャのスープか、ホウレン草か。書いてあるだろ、その袋に。
「どっちも好きだよ、カボチャのスープもホウレン草も」
 だからハーレイが先に選んでくれればいいよ。ぼくは残った方にするから。
「いいから、選べ。そいつが冷めちまう前に、どっちか一つ」
 遠慮するな、と片目を瞑った。
 これはお前のだと、特別なのだと、あの時のように。
 冷めて不味くなる前に食べてしまえと、これはお前のものなのだから、と。



「ハーレイ、それって…」
 もしかして、とブルーの瞳が丸くなって。
「このスープ、前のぼくたちが食べてた、あの食事の真似?」
 ぼくがハーレイの部屋でコッソリ食べさせて貰った、非常食のスープやシチューとかの?
 ハーレイにも「食べて」ってスプーンで渡して二人で食べてた、あれの真似なの?
「そうさ、今だと自分の分を食うしかないがな」
 お前が俺に食べさせるっていうのは駄目だぞ、今の俺たちがあれをやったらマズイからな。
 それで、お前はどっちにするんだ?
 カボチャか、それともホウレン草か。
「えーっと…。ハーレイに一番最初に食べさせてたのがカボチャのスープだったから…」
 ぼくはカボチャにしておくよ。今のハーレイは食べてくれないらしいけど…。
「当たり前だろ、ああいう食べさせ方ってヤツはだ、恋人同士の定番なんだ」
 チビのお前は知らんかもしれんが、カフェテラスとかでよく見かけるぞ。
「恋人同士って…。あっ、そうか!」
 見たことがあるよ、食べさせ合ってるカップルの人。あれってそういう食べ方なんだ…。
 前のぼくは知らないままだったけれど、今のぼくならちゃんと分かるよ。
「なるほど、今度はチビでも分かる、と」
 前のお前はサッパリ分かっちゃいなかったようだし、俺も気付いちゃいなかったんだが…。
 傍から見てれば、さぞ仲のいいカップルに見えてただろうさ、あの頃の俺たち。
 一緒に食ってただけなんだがなあ、一つの非常食を二人で分けてな。



 しかし今では俺に食べさせるのは禁止だぞ、と小さなブルーに釘を刺してから。
 ブルーがカボチャのスープの封を切るのを見てから、ホウレン草のスープの封を切って、自分のカップへと注ぎ入れて。
「なあ、ブルー。…前の俺たちが非常食を二人で食っていた頃…」
 あの頃、恋をしてたと思うか?
 まるで恋人同士みたいな食い方をしていた俺たちなんだが、お前は恋をしてたと思うか…?
「…どうなんだろう?」
 ハーレイと一緒のスプーンは嫌じゃなかったけど、恋はどうかな…。
 あれもやっぱり恋なんだろうか、ハーレイにせっせと食べさせてあげてたことを思うと?
「うーむ…。お前にもやはり分からんか…」
 どうだったのか、と気になったからな、このスープを買って来たんだが。
 お前が俺に恋をしてたか、その辺が俄かに気になったからな。
「んーと…。恋はどうだか分からないけど、ハーレイはぼくの特別だったよ」
 特別だったから、同じスプーンで食べていたって嫌だなんて気はしなかった。
 ホントのホントにハーレイは特別、ぼくの特別。



 最初からね、とブルーが微笑んだ。
 出会った時から特別だったと、あのアルタミラが滅ぼされた日に会った時から特別だったと。
「アルタミラって…。まさか、あそこで出会った時からの恋なのか?」
 お前に自覚が無かったってだけで、あの時から恋をしていたと…?
「そうかもね、って思うんだ」
 一目惚れってよく言うじゃない。ハーレイがぼくを助け起こしてくれた時から恋してたかも…。
 お前、凄いな、って。小さいのに、って声を掛けてくれた、あの時から。
「そう言われてみりゃ、俺の方でもそうかもなあ…」
 まるで気付いちゃいなかったが、だ。
 あの地獄の中をお前と二人で走れたってことは、お前は俺の特別だったんだろう。
 初めて会ったヤツだというのに、そんな気持ちがしなかった。
 俺だって最初からお前に恋をしてたんだろうな、全く自覚が無かっただけでな。
「そうだといいな…。ぼくも最初からハーレイの特別だったんなら」
 一目惚れして貰えたんなら嬉しいな。
 前のぼくの頃の話だけれども、ハーレイがぼくに一目惚れをしてくれたんだったら。
 だって…。



 今のぼくはハーレイに一目惚れだよ、とブルーが言うから。
 教室で会って、その瞬間に一目で恋に落ちたと言うから。
「それを言うなら俺だってだ」
 お前に出会って、記憶が戻って。
 そうなったらもう、恋に落ちるしかないってな。
 前の俺が恋をしていたお前が戻って来たんだ、たとえチビでも一直線だ。
 他のヤツらは目に入らないし、お前しか嫁に欲しくはないし…。
 これが一目惚れではないと言うなら、この世の中に一目惚れなんぞは無いってことだろ?
「そうだね、ぼくがチビだから、うんと回り道をしなくちゃいけないけれど…」
 このスープだって、ぼくが飲ませてあげると言ってもハーレイは飲んでくれないけれど。
 でもね、前のハーレイがぼくのスープを飲んでくれてた頃、ぼくはまだまだチビだったよ?
 ソルジャー・ブルーみたいに大きく育っていなくて、チビだったよ…?
「そいつは重々、分かっちゃいるが、だ」
 あの頃は恋だと気付いてないから、有難く飲ませて貰っていたんだ。
 恋をしている自覚があったら断っていたな、お前のスプーンで飲むのはな。自分用のスプーンを取って来ていたさ、お前がどうしても俺に食べさせたいと言っていたならな。



 恋人同士のような食べ方をしていたくせに、二人とも気付いていなかった。
 お互い、特別な相手だと思っていながら、それを恋とも思わなかった。
 けれど今度こそは間違いなく一目惚れなのだ、と二人、楽しげに笑い合う。
 この地球の上で出会った瞬間、二人同時に恋をした。運命の相手とまた恋に落ちた。
 そうして、これからも恋をしてゆく。
 小さなブルーが前と同じに育つ日を待って、結婚式を挙げて、永遠の愛を誓い合う。
 二人、いつまでも、何処までも、恋を。
 今度は誰にも隠すことなく、手を繋ぎ合って生きて、恋をしてゆく。
 二人一緒に生まれ変わって来た、青い水の星に戻ったこの地球の上で…。




         温める食事・了

※前のハーレイとブルーが、こっそり二人で食べていたのが非常食。二人で一つを。
 きっとその頃から、お互いに恋をしていたのでしょう。二人とも気付いていなかっただけで。
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