シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「裏返し?」
何、と訊き返してしまった、ぼく。
ハーレイが授業でそういう話をした、っていう別のクラスの噂話。よほど印象が強かったのか、アッと言う間に学年中に広がってしまって、ぼくの耳にも入って来た。友達経由で。
だけど裏返しって、何のことだろう?
どういう意味、って教えてくれた友達に確認してみたら。
「おまじないらしいぜ、なんかパジャマを裏返しにして寝ると…」
「好きな人が夢に出て来る、っていうんで流行ってるらしいぞ、女子の間で」
女子はそういうのが好きだもんな、って笑い合ってる、ぼくの友達。
(裏返し…)
そんな話は知らなかった。初めて聞いた。
前のぼくだって多分、知らなかった筈。パジャマを裏返しにして寝るおまじないだなんて。
(…パジャマは滅多に着なかったけどね)
ハーレイに恋をしてからは。恋人同士になってからは。
いつも一緒に眠っていたから、ぼくのパジャマはハーレイだった。温かくて、ぼくの身体を包み込んでくれて、本当にピッタリのパジャマだったから。
具合の悪い時だけ、パジャマを着てた。「身体を冷やすといけませんから」って着せられた。
ノルディも診察にやって来るんだし、「裸だったらマズイでしょう」、って。
そのせいなのかな、知らないパジャマのおまじない。裏返しだなんて聞いたこともない。
(裏返して寝ると、好きな人が夢に出て来るだなんて…)
ぼくたちの年だと、恋に恋するお年頃にもまだ早い。
前のぼくが生きてた時代だったら、十四歳で成人検査で、育ての親ともお別れだったけど。子供時代の記憶を処理され、大人の社会へ旅立つためにと教育ステーションへ送られたけれど。
今の世界は人間はみんなミュウだから。平均寿命が三百歳を軽く越えるような時代なんだから、育つのも恋をするのものんびり、ゆっくり。
(十八歳になれば結婚出来るけど…)
そんなに早く結婚しようって人はとても少なくて、普通はその年の頃に初恋ってトコ。
義務教育が終わって上の学校に行って、其処で恋人が出来るケースが多数派なんだ。今の時代はそういう時代。恋をするにはまだまだ早い、ぼくが通う学校の生徒たち。
(パジャマを裏返して寝るのが流行っているとしても…)
夢の中で会いたい好きな人って、本当に自分が恋をしている相手なんかじゃないだろう。
人気ドラマの主役や俳優、そういった憧れの人だろうけど。
でも…。
(ぼくの場合は真剣に…)
夢の中で会いたい人がいる。好きでたまらない、前のぼくだった頃から好きだった人が。
(ハーレイに夢で会ってみたいよ…)
普段の生活でも会えるけれども、ちゃんと家にも来てくれるけれど。
ハーレイはぼくを子供扱い、キスも出来ない恋人同士。それよりは夢で出会ってみたい。
(夢の中なら…)
キスも出来るし、それよりも先のことだって。
現に何度も夢に出て来た、前のハーレイとベッドで過ごした時間。幸せな気分で目が覚める夢。
パジャマを裏返しにして眠るおまじないで、あの甘い夢が見られるのなら…。
(ぼくも試してみたいんだけどな)
そして夢の中でハーレイと…、って思いを馳せた。
キスを交わして、それから、それから…。ハーレイの腕の中、本物の恋人同士になれる夢。
今のぼくには出来っこないけど、夢の中なら出来るんだから。
だけど分からない、噂の真偽。
本当にパジャマを裏返すだけで夢を見られるのか、他にも何か必要なのか。寝る前に唱えなきゃいけない呪文があったりするとか、噂だけでは分からないこと。
正しいやり方を知りたかったら、ハーレイの雑談を待つしかないのに。授業中に生徒が飽きないように、ってハーレイが織り込む雑談は人気。授業の度に必ず一つは聞けるんだけど。
(今日も別の話…)
あれから一週間も経つのに、一向に出てこないパジャマの話。
噂を聞いた日からずっと待っているのに、まるで違った雑談ばかり。
いくら待ってもしてはくれないパジャマの話。裏返しのパジャマのおまじない。
今日も駄目だった、って教室を出てゆくハーレイの背中を見送りながら決心した。
(訊いてやる…!)
明日は土曜日、ハーレイが家に来てくれる日だし、噂の張本人に直接訊こう。
待っても待っても、とうとう聞けなかったんだから。
この一週間、ハーレイがぼくの家に寄ってくれた日もあったんだけれど、そんな話は何処からも出て来てはくれなかったんだから。
いい加減、ぼくも痺れが切れる。
聞きたくて、知りたくて、待って、待ち続けて、一週間も経ったんだから。
次の日、訪ねて来てくれたハーレイ。
ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、ママがお茶とお菓子を置いて部屋を出るなり、ぼくは早速切り出した。ママの足音が階段を下りてゆくのはきちんと確認したけれど。
「ハーレイ、パジャマを裏返しって、なに?」
「はあ?」
いきなりパジャマってどうかしたのか、畳み方とかの話なのか?
俺がパジャマを洗濯する時は、裏返しで干して、片付ける時に表返して畳んでいるが…。
「干し方とかの話じゃなくて! 他のクラスでやったんでしょ!」
パジャマを裏返しにして寝たら、夢の中で好きな人に会えるって話!
確かに聞いたよ、ハーレイがそういう話をしてた、って。
「ああ、雑談なあ…」
そういや何処かのクラスでやったな、何処だったっけな…。
生徒の顔ぶれを見たら思い出すんだが、そうじゃない時はハッキリしないな、その手の記憶。
お前のクラスじゃなかったことだけは、どうやら間違いなさそうだが。
その話だったら小野小町だ、ってハーレイは言った。
ぼくたちが住んでる地域にずうっと昔に在った小さな島国、日本に住んでた有名な女性。美人で歌を詠むのも上手で、沢山の伝説が残っている人。その人が詠んだ歌なんだって。
「いとせめて 恋しきときは むばたまの 夜の衣を 返してぞ着る」。
そういう歌から出て来た雑談。
「ずうっと昔の夢の歌だな、小野小町が生きていた頃に詠んだんだからな」
平安時代だ、どのくらい古い歌なのかってことはお前にだって分かるだろう?
その頃にあったおまじないを詠んだ歌なんだ。眠る時に着るものを裏返して着れば、好きな人に夢で会えるとな。
もっとも、平安時代だからな…。パジャマなんかは無かったことだけは間違いないが。
しかし今なら、寝る時に着るのはパジャマだってな。
「そのおまじない。流行ってるらしいよ、女子の間で」
もしかしたら男子もやっているかもしれないけれど…。ぼくが友達から聞いたのは女子。
パジャマを裏返しにして寝れば、好きな人の夢が見られるんだ、って。
「ほほう…。そういうことになっていたのか」
授業は適当に聞いていたって、耳寄りな話は聞き逃さないって証拠だな。
雑談のし甲斐があるってことだが、その勢いで授業の中身も覚えてくれればいいんだがなあ…。
肝心のことを覚える代わりに別のことを覚えられちまう、って嘆くハーレイ。
授業で教えたことが噂になればいいのに、雑談の方が広まるのか、って。
「それで、どうして俺に訊くんだ?」
ちゃんと噂は回ってたんだろ、お前の耳にまで入るくらいに?
「根拠が知りたかったから」
ただの噂か、ハーレイがホントに言ったのか。言ったとしたなら、噂がちゃんと合ってるか。
「なんでそうなる、俺が喋ったからこその噂だろうが」
「噂は噂で、又聞きっていうヤツだもの。根拠なんか無くて、ただの冗談かもしれないし…」
それにホントの話だとしても、何処か間違ってるかもしれないし。
間違った噂を鵜呑みにしちゃって、信じたらぼくが馬鹿みたいだし…。
「馬鹿みたいって…。お前、やる気か?」
パジャマを裏返しにして寝ようと思っているのか、俺の夢でも見るつもりなのか?
「そうだよ、やってみて損は無いじゃない」
夢の中ならハーレイとキスが出来るかも…。ちゃんと恋人同士かも、って思うんだもの。
それとも、これは効かないの?
パジャマを裏返しにするおまじないは、ずっと昔からあったけれども効かないものなの?
「知らんな、俺はやってみたことが無いからな」
やってみた女子か、小野小町に訊いてくれ。
このおまじないは効くんですかと、好きな人は夢に出て来ましたか、とな。
俺は知らん、とバッサリ切り捨ててくれたハーレイ。
ぼくの家で一日ゆっくり過ごして、「またな」って帰って行ったハーレイ。
だけどパジャマのおまじないのことは聞き出せた。呪文なんかは要らないってことも、いつから存在していたのかも。
(SD体制があった頃には、多分、廃れていたんだろうけど…)
前のぼくが知らなかったんだから。
それでも、前のぼくなんかよりも遥かな昔に生きていた人が歌に詠んでたおまじない。
平安時代に小野小町がやってたくらいに、由緒だけはありそうなおまじない。
まるで効かないおまじないなら、歌にしたりはしないだろう。きっと笑われるだけだから。
(夜の衣を 返してぞ着る…)
ハーレイが教えてくれたけれども、小野小町は六歌仙っていうヤツに選ばれたほどの歌の名人、その名人が歌に詠んでも恥ずかしくはないおまじない。
(きっと、その頃には誰でも知ってて、やっていて…)
効果があったに違いない。だから歌だって残っているんだ、夜の衣を返してぞ着る、って。
(裏返し…)
その夜、ぼくはパジャマを裏返してみた。効きそうなおまじないだから。
パパやママが見たら変だと思うに決まっているから、お風呂から上がった時にはちゃんと普通に着込んだパジャマ。部屋に戻ってから裏返した。まずはズボンから。
裏返しにして履いたズボンは良かったんだけど、問題は上。裏返すのは簡単だったけれども。
(ボタン、留めにくい…)
袖は通せても、留まらないボタン。パジャマの内側、ぼくの肌の方に入ってしまったボタン。
上から下まで全部内側、ボタン穴に通すのにかなり苦労した。そうやって留めるようには出来てないから、ボタンはパジャマの表側で留めるものだから。
(前のぼくなら、サイオンで留められたんだけど…)
そうは思っても、前のぼくみたいに器用じゃないぼく。タイプ・ブルーっていうだけの、ぼく。
とことん不器用なぼくには出来ない、サイオンでボタンを留める技。
仕方ないから指を使って一個ずつ。ホントに手探り、サイオンで透視も出来やしないから。
悪戦苦闘して、頑張り続けて。
なんとか留まった。全部のボタンを裏返しのままで留められた。
上も下も裏返しで着たパジャマ。表向きで着たなら絶対見えない、縫い目とかが表に出ちゃったパジャマ。素材とメーカーのロゴが書いてあるタグまで表に出ているけれど…。
(裏返しだしね?)
これで良し、ってベッドに潜った。明かりを消して、上掛けを首まで引っ張り上げて。
いつもの癖で丸くなったら、ボタンが肌に当たるけど。ちょっぴり違和感があるんだけれど。
気になると言えばボタンくらいで、他は裏返しでも普段のパジャマと変わらない。この程度なら寝心地だって全く問題無いだろう。寝心地が悪いと変な夢を見ることもあるけれど…。
(うん、これだったら大丈夫!)
きっとハーレイが夢に出て来て、運が良ければキスを交わして、それから、それから…。
胸がじんわり温かくなる。夢の中でハーレイに会えるんだから、って。
ぼくの恋人、前のぼくの頃から恋人同士だった大好きなハーレイ。今度は結婚出来るハーレイ。
そのハーレイに会いに行くんだ、裏返しのパジャマの力を借りて。
(キースってオチは無しだからね?)
嫌なことを思い出しちゃった。あれは懲りたんだ、ローズマリーのおまじない。
ローズマリーの小枝を枕の下に入れて眠ったら、未来の夫が夢に出て来ると新聞で読んで試したぼく。ハーレイが夢に出て来る筈だと、ローズマリーの小枝を庭から採って来て。
なのに、夢にはキースが出て来た。結婚相手を探している、っていうキースが。
夢の中でも今と同じにチビだったぼくは、危うくキースと結婚式を挙げてしまう所で…。
(おまけにハーレイに祝福されたし!)
ミュウの代表で結婚式の参列者だったハーレイが居た。ぼくを攫って逃げる代わりに、お祝いの言葉を贈ってくれた。頭に来たからローズマリーの小枝で引っぱたいたんだ、夢の中のぼくは。
(ああいう夢だけはもう沢山だよ!)
今度こそハーレイに会うんだから、って眠ったんだけど。
裏返しのパジャマで眠ったんだけれど。
(えーっと…)
またか、と泣きそうになった、ぼく。夢だと自覚があった、ぼく。
チビでパジャマで裸足のぼくの前に、国家騎士団の制服を着込んだキース。その上、メギド。
青い光が溢れてる部屋で、キースがぼくの方を見た。
「やはりお前か!」
キースの口から飛び出した台詞は、嫌と言うほど聞き覚えがあった。前のぼくがメギドで聞いた言葉で、メギドの悪夢にも付き物の台詞。
この後は化け物だとか罵倒された挙句に銃を向けられて…。
(殺される方の夢だったの?)
ぼくはチビなのに。
キースに撃たれた前のぼくと違って子供なのに、と震えたけれど。撃たれるんだ、ってギュッと両目を固く瞑って、身体を縮めていたんだけれど。
銃の発射音と撃たれた衝撃と痛みの代わりに、キースの声が聞こえて来た。
とても機嫌が良さそうな声で、それは満足そうな声。
「此処で待っていた甲斐があったな、まさに」
なあ、マツカ?
「良かったですね、キース。花嫁がまた見付かって」
(えっ…?)
どうなったの、って目を開けてみたら、キースが笑顔で近付いて来た。前のぼくの記憶に残った冷酷そうな笑みとは違って、嬉しそうな顔で。
「お前が消えてしまった時には驚いたが…。こうして会えるとは来てみて良かった」
此処で待っていれば見付かるだろう、と予言があってな。それでマツカと来たわけだが。
「予言って…。誰の?」
誰がそんなことを予言してたの、ぼくがメギドに来るってことを?
「俺の母親と言うべきだろうな、俺を創った遺伝子データの元だからな」
「フィシス…!?」
そんな、と悲鳴を上げちゃった、ぼく。
ハーレイに会おうと頑張ってたのに、フィシスに裏切られちゃったらしい、ぼく。
だけどキースは気にもしなくて、マツカにぼくを指差してみせて。
「見ろ、パジャマがしっかり裏返しだ」
「ええ。この方もキースに会いたかったのですね」
それでパジャマを裏返しにして、わざわざこんな所まで…。
良かったですね、消えてしまわれた時には随分心配しましたが…。
ちゃんとウェディングドレスもベールも残してありますよ。早速、結婚式の準備をしますから。
「違うから…!」
そうじゃないから、って抗議したけど、キースもマツカもまるで聞いてはくれなくて。
有無を言わさず二人に連れ帰られちゃった、ぼく。
ノアにあるキースの家に一部屋用意して貰って、またしてもキースのお嫁さんコース。マツカがあれこれ世話を焼いてくれて、キースは結婚式の準備に忙しい。うんと盛大な式にしようと、国家主席になる自分に相応しい立派な結婚式にしようと。
ぼくのドレスも前のよりも豪華なドレスになった。その方がいい、ってキースが決めた。
招待状があちこちに出されて、結婚式の日がやって来て…。
真っ白なウェディングドレスを着せられた、ぼく。
頭を花で飾り立てられて、純白の長いベールもついた。ブーケも持たされて、式場の前。
(ハーレイがいたら、引っぱたく…!)
前はローズマリーの小枝で頬っぺたを叩いたけれども、今度はブーケで引っぱたいてやる。花が散ってもかまわないから、思いっ切り。
そう決めて式場に入って行ったら、チャペルの中にはミュウのみんなが揃っていて。
エラにブラウに、それからヒルマン。シドもリオもヤエも、拍手でぼくを迎えてくれた。花嫁になるぼくを、キースのお嫁さんにされちゃうぼくを。
(ハーレイは…?)
席には見当たらないハーレイ。大きな身体は誰よりも目立つ筈なのに。
何処にいるの、ってチャペルを見回して愕然とした。
なんてことだろう、神父がハーレイ。威厳たっぷりの神父の衣装を纏ったハーレイ。
(こんなに距離があったら引っぱたけないよ…!)
ぼくの前には真っ赤な絨毯、バージンロード。それがハーレイが立つ祭壇の所まで伸びている。これを歩いて辿り着かなきゃ、ハーレイに一発お見舞い出来ない。それに…。
(あそこにキースが待ってるし…!)
前のぼくが会った頃と少しも変わらないキース。まだ若いキース。
だけど結婚式だからなのか、いずれは国家主席になるって決まってるからか、国家主席の正装を着けてピシッと立ってる花婿のキース。
ぼくがハーレイを引っぱたきたくても、キースに止められちゃうだろう。手にしたブーケを振り上げる前に、手を掴まれて指輪を嵌められるかも…。花嫁の証の結婚指輪を。
(誰か、キースを止めてくれる人…)
結婚指輪を嵌めようとするキースを止めてくれる人はいないんだろうか?
マツカは絶対に止めてくれないし、他に誰か、って縋るような気持ちで隣を見た。祭壇の前までぼくを連れてゆく花嫁の父役がいる筈だから。
その人なら助けてくれるかも、って視線を向けたらゼルだった。チビのぼくよりはずっと背丈があるから得意満面、モーニング姿でぼくをエスコートしようと待ち構えてる。
(ハーレイに結婚させられちゃうわけ?)
神父の格好をしているんだから。祭壇の前に居るんだから。
ぼくをハーレイの所まで連れてゆくゼルは結婚に反対してそうもないし、ミュウのみんなも同じこと。ぼくとキースの結婚式を祝うためにやって来たんだから。
(…ハーレイが神父になってるだなんて…)
前の夢よりよっぽど酷い。
ハーレイはぼくを攫って逃げるどころか、結婚させちゃうつもりなんだ。それもキースと。
ぼくにキースと永遠の愛ってヤツを誓わせて、指輪を交換させるんだ。
(それに誓いのキスだって…!)
なんでこんなことになっちゃったの、てパニックに陥りそうになった所で目が覚めた。
辛うじて挙式は免れたけれど、キースと指輪を交換しなくて済んだけれども。
(ハーレイ、ホントはぼくをキースに…)
お嫁にやりたいと思っているわけ、と詰め寄った。
もう二回目だと、これで二回目だと、日曜日に来たハーレイに。
ママが置いてったお茶とお菓子に手を付ける前に、これだけは言ってやらなくちゃと。
だけど…。
「それはお前の方だろう?」
「えっ?」
ぼくの方がなんだと言うんだろう、って目を丸くしたら。
「お前がキースと結婚したいと思っているってことなんじゃないか、俺と結婚するよりも?」
二回も夢に見ちまうくらいだ、お前の本音ってヤツじゃないかと思うがな?
「冗談でも怒るよ!?」
どうしてぼくがキースなんかと!
キースと結婚したいだなんて一度も思っていないし、夢の中でも逃げることしか考えてないし!
ぼくはハーレイと結婚したくて、ハーレイしか好きじゃないっていうのに!
あの夢はぼくには悪夢なんだよ、一回目の夢も昨夜の夢も!
冗談じゃない、って叫んだ、ぼく。
ハーレイっていう誰よりも好きな恋人がいるのに、キースなんかを選びはしないと。
夢だから自分の意志が無視されて、とんでもないことになってしまうんだと。
「ぼくはキースのお嫁さんになんか、ホントになりたくないんだからね!」
それなのに夢だと上手くいかなくて、ハーレイの代わりにキースばっかり…。
ハーレイはぼくがキースと結婚するのを喜んでいたり、神父になったり、最悪なんだよ!
だからハーレイがそうなったらいいと思っているのか、訊いたんだけど!
ハーレイはぼくをキースのお嫁さんにしたいと思っているの、って!
そう訊いてるのに、どう間違ったら、ぼくがキースと結婚したがってるってことになるわけ!?
ホントに怒るよ、ぼくがきちんと納得するような説明が出来なかったらね!
テーブルを叩きそうな勢いで一気に怒りをぶつけてやった。
夢のせいでとっくに頭に来てたし、当たり散らしたい気分だったから。
ぼくをキースと結婚させようと神父の姿で夢に出て来たハーレイに腹が立っていたから。
そしたら、ハーレイは「すまん」と一言、謝ってから。
「だが、お前…。俺がキースを憎んでいるほど、お前はキースを恨んでは…いないんだろう?」
俺は今でもキースが憎いし、ヤツに会ったら殴り飛ばしたいとまで思っている。
いや、殴るどころか八つ裂きにしても足りないくらいにヤツが憎いな、今でもな。
…あいつが前のお前に何をしたのか、それを知るのが遅すぎた。
もっと早くに知っていたなら、前の俺が地球でキースと出会った時に知っていたのなら…。
そうしたらヤツを一発殴って、お前の仇だと怒鳴り付けて。
それで終わりになったかもしれん。
あるいは何発も殴ろうとして、ジョミーやゼルたちに羽交い締めにされて止められたか。
どっちにしたって、お前の仇と殴り飛ばすことは出来たんだ。
しかし、そいつは出来ずに終わった。前の俺はキースが何をやったかを知らなかったし、挨拶を交わしちまったってな。前のお前を嬲り殺しにしようとしたヤツに出会ったのにな…。
そのせいなんだろう、俺はキースを憎む気持ちを止められない。
この憎しみだけが消えてくれない。生まれ変わって新しい俺になってもな。
そういう俺とは違って、だ。
…お前はキースを憎んでないだろ、あんな目に遭わされちまったのにな。
ハーレイは辛そうな顔をしていた。
今もキースを憎んでるからか、名前さえ口にしたくはないのか。普段の会話ならキースの名前も普通に出るけど、こういう時には憎しみが先に立つんだろう。
それでも、ぼくがキースを恨んでいないことは本当だから。
前のぼくを撃った時のキースも、ジョミーと一緒にSD体制を倒したキースも、その時の自分の信念を貫いていたんだってことが分かっているから、憎む気持ちは起こらない。
前のぼくが命懸けでメギドを沈めたのと同じで、キースだって常に全力で進み続けてた。立場が違っていただけのことで、出会いが全く違っていたなら、きっと友達になれただろうから。
そう思うから、ぼくはキースを許せる。
ハーレイにも何度もそう話してるし、ハーレイだって、ぼくの気持ちを知っているから…。
「うん、ぼくはキースを憎んでも恨んでもいないけど…」
もしもあのまま死んでいたなら、生まれ変わらずに死んだままだったなら。
キースがSD体制を崩壊させたことも知らずに、メギドだけで終わっていたのなら。
そしたら憎んでいたかもしれない。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きながら死んだままだったなら…。
でも、今のぼくは知っているから。キースがどういう人間だったか、今のぼくなら分かるから。
…だから憎みも恨みもしないし、また会えたなら、って思ったりもする。
あの頃はお互い大変だったと、苦労したね、ってお茶を飲みながら話せるような気がするよ。
キースだったらコーヒーなのかな、ぼくはコーヒーは得意じゃないから、ぼくは紅茶で。別々の飲み物を注文してても、きっと話が弾むだろう、って。
「…その辺の心が出るんだろうさ」
お前はキースを憎んじゃいないし、一緒にお茶を飲みたいなどと思うくらいに共感も出来る。
友達になれていただろう、と考えたりもするほど、キースに親しみを覚えるわけだな。
それでキースが夢に出て来る。メギドの悪夢と違った場合は、こういう風に出会いたかった、という思いが夢を支配するんだ、もっと親しくなりたかったと。
ただし、相手は夢だからなあ、友情ってヤツが何処か間違っちまって、結婚話になるようだが。
そしてだ、俺はキースを憎んでいるから、お前の夢では悪役にされる。
せっかくキースの夢を見ているのに余計なヤツが出て来やがって、と引っぱたかれたり、ロクな役目を貰わなかったり…。
ついでにお前の目が覚めた後も、こうして八つ当たりされるってな。
「そうなの?」
ぼくが見た夢、そういう仕組みになっていたわけ?
ハーレイがぼくをキースに押し付けようとしてるんじゃなくて、ぼくが悪いの?
「…そんな理由かもしれないな、という話だがな」
あくまでも俺の推測ってヤツだ、単なる偶然かもしれん。
しかしだ、誓って言っておくがな、俺はお前をキースなんかにくれてやる気は無いからな。
お前の夢に入って行けるんだったら、キースなんぞは殴り飛ばしてお前を攫って逃げてやる。
とはいえ、そいつは無理だからなあ、お前がいくら膨れたってだ、俺は助けに行けないぞ。
懲りたんだったらおまじないはもうやめておけ、って釘を刺された。
三度目の正直という言葉があるから、次こそ本当にキースと結婚しちまうぞ、って。
「いいか、俺はお前の夢までは責任を全く持てないんだからな」
どんなにお前が困っていようが、結婚式の夢をブチ壊すために飛び込んで行けはしないんだ。
キースと結婚しちまった、って当たり散らすのはかまわないが、だ。
そういう夢をウッカリ見ちまった時は、お前だって嬉しくないだろうが。
「うん…」
ハーレイのお嫁さんならいいけど、キースはね…。
夢の中でも、ハーレイよりも前にキースと結婚してしまったなら、大ショックだよ。
指輪の交換とか、誓いのキスとか。
早くハーレイとやりたいな、って思っているのに、キースに先を越されるなんてね…。
絶対嫌だよ、そういうコース。いくら夢でも、ぼく、泣きそうだよ…。
そうは言ったけど、ハーレイの夢は見てみたいから。
ハーレイと幸せに過ごせる夢が見られるんなら、その方法を試してみたいから。
三度目で本当に懲りない限りは、ぼくはおまじないを続けるんだろう。
今はまだ、ハーレイと結婚することが出来ない、ぼく。
一緒に暮らせない、チビのぼく。
誰よりも好きでたまらないハーレイとだったら、夢の中でも会って一緒にいたいんだから…。
夢の通い路・了
※ハーレイが出て来る夢を見よう、とブルーが試したおまじない。裏返しのパジャマ。
けれど来たのはキースだったわけで、なんとも気の毒。ハーレイが神父役の結婚式なんて。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうん…)
新聞に載ってる、本の紹介。
学校から帰って広げたんだけど。ちゃんと着替えて、おやつも食べて。
(こういうのが人気だったんだ…)
おかわり用に淹れた紅茶をお供に読んでみた。タイトルだけなら学校で何度も耳にしたから興味津々、女子の間で一番人気の本だってことは知っていた。中身までは知らなかったけど。
(…本の世界に入ってしまった女の子…)
主人公の女の子が図書館で出会った本から始まる物語。ちょっぴり不思議なファンタジー。本の世界に吸い込まれちゃって、その中で色々と冒険をする。本の世界に住む沢山の仲間と協力して。
SD体制が始まるよりも前の時代が舞台のお話、それも人気の理由だろう。
地球が死の星になってしまう前の時代に憧れる人は多くて、行ってみたいと誰もが夢見る。この地球の上に幾つもの文化が築き上げられてて、自然だって豊かだった頃。
不便なことだって多かったろうし、旅をするのも命懸けだった時代なんだとは聞くけれど…。
(それでも行ってみたいよね?)
ちょっと出掛けて覗くだけなら、すぐに帰って来られるなら。
(このお話、それで大人気なんだ…)
本の世界では何ヵ月もかかる大冒険。恐ろしい目にも遭ったりするけど、何かの切っ掛けで元の世界にヒョイと戻ってしまえるらしい。そしたら時間は出掛ける前と変わっていなくて、本の中にまた戻りたいなら本を開けばいいだけのこと。
そうやって自分が住んでる世界と、本の世界とを行ったり来たりしながら進むお話。
憧れのSD体制よりも前の時代に出掛けてゆくには、お誂え向きの道具になってる便利な本。
(こんな風にして冒険できたら楽しいよね?)
行って来ます、って本に入って、また戻って来て。
本の中に広がるSD体制よりも前の時代で仲間を集めて冒険してても、元の世界に戻って来たら普通の暮らしが待っている。暖かい家も、美味しい御飯も、おやつも、それに友達だって。
今の生活を続ける傍ら、本の世界では立派なヒロイン、頼りにされちゃう主人公。
(人気なわけだよ…)
いつもの暮らしはそっくりそのまま、別の世界で冒険の旅が出来るんだから。こんな風に自分も別の世界と掛け持ちの生活をしてみたいな、って考える人は多い筈。
(ある意味、王道なんだけど…)
本の中に入ってしまう話も、別の世界で冒険するのも。
小さい頃から、そういう話を幾つも読んだ。
パパやママに買って貰った本たちの中に色々とあった。
新聞に載ってるこの話だって、ぼくが小さかった頃に出版されていたらパパかママがプレゼントしてくれたんじゃないかな、とても面白そうだから。
現に今だって読みたい気分。今度、本屋さんに出掛けることがあったら買ってみようか、まずは試しに少し読んでみて。本屋さんには本を買おうかどうしようかと検討するためのテーブルだってあるんだから。飲み物を注文しさえしたなら、いくらでもタダで読めるんだから。
ぼくのコレクションが増えるかもしれない、女の子たちに人気の一冊。本の世界に入れる話。
(ホントに入れたら素敵なんだけどね?)
広げた本の世界の中に。ページの向こうに広がる世界に。
生まれつき身体が弱かったぼくは、何度も夢見た。
遠い地域に住むお祖母ちゃんたちの所へ会いに行っただけで、熱を出すような子供だったから。旅はもちろん、ハイキングだって身体のせいで行き損なって、家の庭でお弁当を食べていたことが多かったような子だったから。
(本の中なら何だって出来ると思ったんだよ)
うんと元気な主人公になって、走り回ったり、冒険したり。
そういう夢も本当に見た。夢の中のぼくは本の世界で疲れもしないで楽しんでいた。とても広い海を船で旅したり、高い高い山を越えて行ったり。
弱い身体では出来もしないことが夢の中では出来たんだ。本の世界とそっくり同じに。
だから…。
(本の世界に入りたいな、ってよく言ってたっけ…)
中に入ってみたいんだよ、ってパパやママたちに何度も言った。本の中は夢の世界だから。
本気で入ってやろうと思って本を枕の下に入れたり、頑張ってた、ぼく。
とうとう一度も入れないまま、そういったこともしなくなったけど…。
(本の中の世界…)
入りそびれてしまったよね、って新聞を閉じて、キッチンに居たママにおやつのお皿とカップを返して部屋に戻った。小さかったぼくが本の世界を目指してた部屋に。
勉強机の前に座って、ベッドの方を見てたんだけど。本を枕の下に入れてた頃のベッドは、もう小さすぎて買い替えられてしまったけれど…。
(そういえば…)
まだ子供用のベッドで寝ていた頃の誕生日。
パパとママから本を貰った。綺麗な紙で包装されてて、リボンもかかった本を一冊。
一目で中身は本だと分かるから、大喜びで開けたプレゼント。わざわざ誕生日にくれるからには特別な本に違いないから。本屋さんでいつでも買える本とは違うだろうから。
ドキドキしながらリボンをほどいて、包装紙を剥がして開けたぼく。
中から出て来た本は立派で、凝った装丁になってたけれど。
(人魚姫…?)
表紙に刷られたそのタイトルと、貝殻の冠を被った人魚のお姫様の絵と。
例の悲しいお話だろうか、と開いてみたら。海の泡になっちゃう人魚姫かと思ったら…。
(ぼくの本…!)
主人公の名前はブルー姫だった。人魚の王様の娘たちの末っ子、ブルー姫。
(ぼく、人魚姫になっちゃった…!)
なんて素敵なお話だろう。ぼくが人魚で、深い海の底に住んでるだなんて。海の上の世界を見に出掛けようと、足の代わりに尻尾を使ってぐんぐん泳いで行くなんて。
王子様が乗ってる船を見付けて、その後は嵐。投げ出されちゃった、王子様。
人魚姫のぼくは海に沈んでゆく王子様を助けて、ちゃんと浜辺まで運んで行って…。
(だけど気付いて貰えないんだよね?)
王子様に会おうと、人間になろうと海の魔女に会いに行った、ぼく。
尻尾の代わりに足を貰うには、声を失くすんだと思ったけれど…。
(特別サービス!?)
魔女のお誕生日か何かで、海の魔女はとっても機嫌が良かった。人間になれる薬をタダでくれた上に、歩くと足が痛くなるのを治す薬もセットでくれた。
早速、王子様を運んだ浜辺まで泳いで、薬をゴクリと飲んだぼく。
気を失って倒れてしまったけれども、夜が明けたら王子様が散歩にやって来て…。
ハッピーエンドだった人魚姫。
隣の国のお姫様なんかは出ても来なくて、人間になったぼくと王子様との結婚式。
(ぼく、幸せになれたんだ…!)
夢中で読んでしまった本。パパとママに御礼を言うのもすっかり忘れてしまっていたから。
ありがとう、って笑顔で言ったら、パパとママの様子がなんだか変で。
困ったような顔をした、パパとママ。二人の瞳にありありと出てた、途惑いの色。
「…どうしたの?」
ぼく、御礼を言うのを忘れちゃってたから、お行儀の悪い子だと思った?
ごめんなさい…。とっても素敵な本だったから…。
ぼくの名前が出て来るだなんて、ホントにビックリしちゃったから。
それで夢中になってしまって、最後まで一気に読んじゃった…。
ぼくが本の中に入りたい、って言っていたから、ちゃんと入らせてくれたんだね!
ブルー姫のお話、ありがとう!
大事にするよ、って本を抱き締めて御礼を言った。御礼を忘れてごめんなさい、って。
そしたら、パパが「いや…」って口ごもってから。
「人魚姫じゃなくて、勇者の本のつもりだったんだが…」
その本を頼んでおいたんだがなあ、ブルーの名前で。
「そうよ、ドラゴン退治の勇者のお話を注文したのよ」
てっきりそうだと思っていたけど、何処で間違えられたのかしら…。
包装されていたから気付かなかったわ、人魚姫の本になっていたなんて。
ブルーはなんにも悪くないのよ、本屋さんが失敗しちゃったの。
パパとママとがお願いした本を間違えて作っちゃったのよ。
間違って注文されちゃった本。
頼まれた本屋さんが注文する時に失敗したのか、注文された本を作るお店が間違えたのか。
ぼくは人魚のブルー姫じゃなくて、勇者ブルーになる筈だった。ドラゴンを退治して、お姫様を助けて結婚式を挙げるんだ。そういう本が出来て届く予定が、どういうわけだか人魚姫。
パパとママは本を取り替えて貰うって言ったんだけれど。
「この人魚姫の本はどうなるの?」
ブルー姫のお話、どうなっちゃうの?
「返品することになるんじゃないかな」
それをお店に返しに行って、勇者ブルーの本と取り替えて貰うんだ。間違ってました、っていう証拠が要るから、とにかく持って行かなきゃな、ママ?
「ええ、そうね。そして作ったお店に渡して貰って、代わりに勇者ブルーの本を貰うの」
だけど、この本はブルー姫の本になってしまって、使い道が無いわけだから…。
もしかしたら勇者の本と一緒に、それも貰えるかもしれないけれど。
「…返品って、なあに?」
「返すってことだな、さっき言っただろう?」
その本を返して、代わりに勇者ブルーの本を届けて貰うのさ。
「それじゃ、返した人魚姫の本はどうなるの?」
ママが言ったみたいに二冊とも貰えるってわけじゃないなら、人魚姫の本はどうなっちゃうの?
「ブルーの名前になってるからなあ、他の人には売れないしな…」
多分、新しい本に作り替えられるんだろう。材料は紙だし、溶かせばまた紙を作れるからな。
「そんな…!」
やめて、って叫んだ小さかったぼく。
せっかくのブルー姫の本。溶かしちゃうだなんて、とんでもない。
パパとママとに「返さないで」ってお願いした。
本が可哀相だからこれでいいよ、って。
勇者ブルーの本は要らないから、人魚姫の本をぼくにちょうだい、って。
ぼくの名前の人魚姫。本の世界に入ったぼく。
その本が溶かされて無くなっちゃうなんて、酷すぎるから。可哀相すぎるから、ぼくは人魚姫の本を貰っておいた。ブルー姫の本を。
(それにドラゴン退治じゃなくっても…)
充分ワクワクさせてくれた本。
人魚姫のぼく。深い海の底にあるお城に住んでた、人魚姫のぼく。
貝殻の冠を頭に被って、足の代わりに尻尾で泳いで、王子様を助けて運んで行った。海の魔女に薬をタダで貰って、人間の足も手に入れた。
ブルーって名前の人魚姫。ぼくだけが持ってる人魚姫のお話。
本の世界に入れたんだ、って嬉しくて嬉しくて、何度も読んだ。ブルー姫が出て来るお話を。
お気に入りだった、ブルー姫の本。
ぼくだけが入れた本の中の世界、人魚姫になって暮らしていた世界。
(王子様と結婚するんだけれど…)
人間になって、王子様と結婚式を挙げたブルー姫。
特に変だとは思わなかった。悲しい人魚姫の話とは違ってハッピーエンドなんだと喜んでいた。王子様とちゃんと結婚出来たと、幸せに暮らしてゆくんだと。
(ドラゴン退治の勇者だったら、お姫様と結婚するんだよね?)
そっちの話を貰っていたなら、どう思ったかは分からないけれど。
ブルー姫の話を手に入れたぼくは、王子様との結婚式で終わる話がとてもお気に入りで、最後のページを何度も読んだ。王子様の隣に花嫁姿で立ってるブルー姫の挿絵が入ったページを。
今から思えば、あの本は…。
(予言だった?)
いつかお姫様になって結婚するんだよ、って。
まだプロポーズもされてないけど、ハーレイと結婚することが決まっているぼく。
ハーレイのお嫁さんになろうと決めている、ぼく。
お嫁さんだから、ぼくの立場は人魚姫だったブルーと同じ。
ブルー姫の本は予言をしてたんだろうか、ぼくの未来はお嫁さんだと。
予言かも、って思い始めたら気になってくる。
小さかったぼくの所に間違って届いた人魚姫の本。ドラゴン退治の勇者の話が化けた本。
(えーっと、あの本…)
急に会いたくなってきた。ブルー姫の本に。
子供の頃の本は部屋には無いけど、別の部屋に仕舞ってあるけれど。お気に入りの宝物は別。
クローゼットの奥から引っ張り出したぼくの宝箱の中、人魚姫の本も入ってた。
長いこと手にしていなかったけれど、記憶にあるままの装丁のブルー姫の本。貝殻の冠を被った人魚が表紙に刷られた、ぼくだけのための人魚姫の本。
(懐かしい…!)
開いたら、もう止まらない。初めて貰ったあの日みたいに一気に読んだ。ブルー姫が海の上へと泳ぎ始めて、王子様が乗った船を見付けて、嵐が来て…。
気を失っている王子様を浜辺に送り届けて、海の魔女から薬を貰って。人間になったら王子様と出会って、声を失くしていないブルー姫は海の泡になって消える代わりに結婚式で…。
(やっぱりハッピーエンドだよ!)
こうでなくっちゃ、とブルー姫の物語に嬉しくなった。王子様との結婚式で終わる人魚姫の本。悲しい結末になりはしないで、ハッピーエンド。
この幸せな人魚姫の話を書いてくれた人は誰なんだろう、って本の奥付を見てみたら。
(…フィシス?)
そういう名前の人が書いてた。ブルー姫の話の作者はフィシス。
本当はブルー姫じゃなくって、この本を注文した人に合わせて名前が変わるんだろうけど。
ジョミーって人が注文したなら、ジョミー姫の本が出来るんだろうけど…。
(でも、フィシス…)
あまりにも懐かしい名前だから。懐かしすぎる名前の作者だから。
他にも何か書いてないかな、って本の終わりにズラリと並んだ他の本のリストを調べてみたら。
(これもフィシス?)
ドラゴン退治の勇者の本も、作者の名前はフィシスとあった。
パパとママが注文したらしい本。人魚姫のブルーの話の代わりに届けられる予定だった本。
同じ作者の本同士だったら、ちょっとしたミスで入れ替わることもあるだろう。
それにしたって、ぼくの所にブルー姫。勇者ブルーの本じゃなくって、ブルー姫。
王子様と結婚式を挙げてハッピーエンドの、お嫁さんになる話が好きだった、ぼく。
(もしかしたら…)
入れ替わってしまった二冊の本。
勇者ブルーになって本の世界に入る代わりに、ブルー姫になってしまったぼく。それをちっとも変だと思わず、ブルー姫の本を何度も何度も読んで宝物にしていた、ぼく。
勇者ブルーも、ブルー姫の本も、作者がフィシスだったなら。
本が入れ替わったのは間違いじゃなくて、予言だったんだろうか、本物の?
タロットカードでミュウの未来を占い続けていたフィシス。前のぼくがミュウにしたフィシス。青い地球が欲しいと、あの地球を抱く少女が欲しいと、ミュウにして攫って来たフィシス。
(フィシス…)
この地球の上にいるんだろうか?
ぼくとハーレイが生まれ変わって来たのと同じで、フィシスも地球にいるんだろうか?
(この本をフィシスが書いたんだったら…)
ぼくよりはずっと年上だけれど、それでもフィシスだったなら。
本を注文して来た人の未来を占った上で、それに相応しく本を取り替えることもあるだろう。
ブルーがぼくだと、ソルジャー・ブルーだとは気付かなくても、ぼくの未来はお嫁さんだから。
勇者ブルーよりもブルー姫がいいと、この本が似合うと、ブルー姫の本。
間違えたふりをして、ブルーという名の子供にピッタリの人魚姫を。
(やっぱり、フィシス…?)
ぼくが誰かは気付かないままで、人魚姫の本を送ってくれた?
ブルーって名前は前のぼくが大英雄になったお蔭で珍しくないし、本物のぼくだと気付かずに。
ソルジャー・ブルーが生まれ変わった子供のブルーのための本だとは知らないままで。
(…フィシス、記憶は持ってるのかな…?)
前のフィシスだった頃の記憶を持ってるだろうか、今のフィシスも?
もしも記憶を持っているなら、そして占いをしているのなら。
自分が書いた本を注文して来た子供たちの未来を占い、相応しい本を選んで届けているのなら。
(会ってみたいな…)
ブルー姫の本をくれたフィシスに。
ハーレイと結婚するんだよ、って言ったらフィシスは酷く驚くだろうけれど、会って報告をしておきたい。今のぼくはとっても幸せだからと、幸せに生きてゆくんだからと。
でも…。
(何処に行ったら会えるんだろう?)
同じ地域に住んでいるなら、場所によっては一人でも会いに行けるだろうけど。
遠かったりしたら、いつかハーレイと二人で行くしかないんだろうか?
(パパとママに頼んで連れてって貰うのは無理だしね…)
だって、報告に行くんだから。ぼくはハーレイと結婚するよ、って。
そんな報告、パパとママが一緒に居たんじゃ出来っこない。今はまだ秘密なんだから。
(いつ会えるかな…)
ハーレイと結婚しちゃった後?
それとも、もっと早くにバスを乗り継いで会いに行けるかな、フィシスの家まで…?
会えるんなら早く会いたいけれど、と考えていたら、チャイムの音。門扉の脇にあるチャイム。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ぼくは相談することにした。もちろんママが部屋から出て行った後で。お茶とお菓子をテーブルの上に置いてった後で。
「ハーレイ、この本…」
子供の頃の本なんだけど、ってブルー姫の本を差し出した。
「おっ、人魚姫か?」
こういう本も好きだったのか、お前。なかなかに凝った装丁だが…。
「あのね…。ぼくの宝物だった本なんだけどね…」
フィシスなんだよ、って話をした。
この本はフィシスが書いたんだ、って。ぼくの未来を予言していたかも、って。
本が間違ってた話はすっ飛ばして。入れ替わって届いてしまった話は省略しちゃって。
「フィシスだって…?」
これをフィシスが書いたと言うのか、あのフィシスが?
「うん。そうとしか思えないんだよ」
長いこと仕舞ってあった本だし、ぼくも作者までは覚えていなくて…。
さっき出してみたらフィシスなんだよ、ほらね、フィシスと書いてあるでしょ?
「ふうむ…。確かにフィシスとあるな」
だが、本当にフィシスなのか?
フィシスって名前は今じゃ人気で、お前の学校にも一人や二人はいるんじゃないか、フィシス。
俺の知り合いにもいるくらいだしな、似ても似つかんフィシスだけどな。
どれ、ってハーレイは本を調べていたけれど。
ブルー姫の本を手に取ってあちこち開いていたけど、ぼくも大いに期待したけれど。
「こいつは違うな、フィシスというのはペンネームだな」
「えっ?」
ペンネームって…。それでもフィシスって可能性はゼロじゃないって思わない?
自分の名前をそのままペンネームにしちゃっている人、少なくはないと思うんだけど…。
「いや、違う。正真正銘、ペンネームってヤツだ、この場合はな」
此処を見てみろ、書いてあるから。普通は此処まで読まないだろうが…。
本の中身とは無関係だし、他にどういう本があるかっていう広告ってわけでもないからな。
此処だ、ってハーレイの褐色の指で指された本の奥付。
出版社の名前とかが書かれたページに、小さな文字で一緒に載ってる作者の紹介。この本を注文するだろう大人に向けての紹介ってヤツで、子供なら読まずに素通りする場所。
子供の名前を入れて作れる本のシリーズ、作者はどの本も同じ人だと書いてあった。人魚姫も、ドラゴン退治の勇者も、その他に山ほどある本も。
もしかしたら全種類を揃えるかもしれない子供のために、と使い分けた名前。
全部が同じ作者の本だと嘘っぽいから、同じ名前で出す本は二冊。
フィシスの名前で出版している本は、人魚姫の本とドラゴン退治の勇者の本の二冊だけ。
「じゃあ、これの作者がフィシスってことは…」
あのフィシスだってことはないっていうの?
ただのペンネームで、フィシスの名前じゃないっていうの…?
「どう考えても有り得ないってな」
フィシスとは縁もゆかりも無いってトコだな、有名どころの名前ってだけで選んだんだろ。
「でも…」
それは分からないよ、ぼくだってハーレイに会うまではただのブルーだったよ?
本物のソルジャー・ブルーだなんて誰も思わないし、ぼくだって気付いてなかったし…。
この作者だって、あのフィシスじゃないって誰が言えるの?
ぼくの未来を予言したんだよ、この本を書いたフィシスって人は。
フィシスっていうのがペンネームだとしても、予言が出来てフィシスを名乗っているのなら…。
「おいおい、落ち着け、ちゃんと紹介を読んだのか?」
よく読み直してみろ、この本の作者は男だぞ?
最後にちょこっと書いてあるだろうが、小説家としての本当の名前。
「ホントだ…!」
だけどホントに男の人なの、女の人が男みたいな名前で書いてる本だって…。
「これに関しては断言出来る。もう間違いなく男だ、ってな」
俺は古典の教師ではあるが、現代文学ってヤツも少しくらいは把握していないと話にならん。
この小説家の顔写真ってヤツを知っているのさ、何処から見たって男だった。
強いて言うならハロルドに少し似てたかなあ…。とっくに年を止めているがな。
「ハロルドって…。確か、ナスカに残って死んだ…」
ツェーレンのお父さんだった人だね、あのハロルドに似てるんだったら男だね。
フィシスなのかと思っていたけど、男の人なら人違いだね…。
違ったのか、とガッカリしちゃった、ぼく。
フィシスが地球にいるんだったら会いに行きたいと思っていたのに、人違い。
考えてみれば、ぼくがハーレイと出会えただけでも凄すぎる奇跡なんだから。フィシスを探して会いたいだなんて、神様に叱られちゃうだろう。
お前は何処まで欲張りなんだ、って。恋人だけではまだ足りなくって、フィシスまでか、って。
(そうそう奇跡は起こらないよね…)
奇跡ってヤツは大盤振る舞いするものじゃなくて、一生の内に一度起これば幸運なもの。一度も奇跡に出会えないままの人の方がずっと多いんだから…。
フィシスって名前に期待しすぎた、って早とちりをしたウッカリ者の自分を叱り付けていたら。
「それでだ、何処が予言だって?」
この本の何処が予言になるんだ、ザッと読んだ所、人魚姫の話を作り替えた話みたいだが…。
ついでにお前が主人公だが、それ以外に変わった特徴は何も無いようだがな…?
「…その本が人魚姫だからだよ」
ブルー姫って書いてあるでしょ、パパとママが誕生日にくれた本なんだけど…。
子供の名前を入れた本を作って下さい、って注文するのに、ブルー姫を注文しそうだと思う?
いくら女の子と間違えられてばかりの男の子だって、パパとママがブルー姫の本を頼むと思う?
「そういやそうだな、普通は男が主人公の本を頼むよなあ…」
変だとも思わずに読んじまったが、そいつは俺がお前を嫁さんに貰おうと思ってるせいか。
お前、なんだってブルー姫なんかになっているんだ?
「知らないよ! パパとママにも謎だったんだよ!」
注文した本が間違って届いちゃったんだ。パパとママもビックリしてたんだけど…。
取り替えて貰うって言っていたけど、返品されたら、この本、溶かされてしまうから…。
可哀相だから、って止めたんだよ、ぼく。
人魚姫の本でも嬉しかったし、ドキドキしながら一気に最後まで読んだんだもの。
…でもね、パパとママが注文していた元の本だと、ぼくは勇者になる筈だった、って。
なのに勇者の本じゃなくって、人魚姫の本が届いたから…。
どっちも作者がフィシスだったから、予言なのかと思ったんだよ。
ぼくはハーレイと結婚するから、勇者の本より人魚姫の本がいいでしょう、って。
「ははっ、そうか! もう一冊の方と間違えられて作られたんだな、フィシスが作者の」
ドラゴン退治の勇者になる代わりにブルー姫ってわけか、見事に入れ替わっちまったか!
それは確かにフィシスの予言かと思いもするよな、男のお前がブルー姫じゃな。
フィシスは存在しなかったけど。ハロルドに似てるって小説家が書いていたんだけれど。
それでも何故だか、ぼくに届いた人魚姫の本。ドラゴン退治の勇者の代わりに人魚姫。
いつかハーレイのお嫁さんになる、ぼくの未来を予言したような不思議な間違い。
ホントにフィシスがやったことかと思ったんだよ、って繰り返したら。
「予言者がいたとしたなら神様だろう」ってハーレイが笑う。
本の注文を間違えさせたのは神様なんだ、って。
パパとママはきちんと勇者の本を注文したけど、神様が入れ替えちゃったんだ、って。
「そっか、神様なら…」
ぼくの身体に聖痕をくれて、ハーレイと地球で会わせてくれたのが神様だものね。
ハーレイと結婚するって未来も最初から分かっているよね、神様だったら。
「そういうわけだな、神様は何もかも御存知だからな」
当然、予言もなさるってことだ。
お前の所にブルー姫の本を届けるくらいは、神様にとっては簡単なことさ。
俺たちを前の俺たちとそっくり同じに生まれ変わらせる手間を思えば、指も動かさずにチョイと弄れてしまうんだろうな。本の注文の入れ替えくらいは。
それにしても、お前がブルー姫なあ…。人魚のお姫様なんだな。
お前がお姫様なら俺は王子か、って可笑しそうなハーレイ。
そういう柄ではないと思うが、って、挿絵の王子様が着ている服なんかは似合わないぞ、って。
(そんなことないと思うんだけど…)
前のハーレイはキャプテンの制服が似合ってたんだし、王子様の服もきっと似合うと思うんだ。
普段に着てたら変だけれども、結婚式ならいいんじゃないかな、そういった服も。
(うん、ぼくがドレスを着るんだったら、ハーレイの服が王子様でも…)
悪くなさそう、って思った、ぼく。
だって、ハーレイは、ぼくにとっては王子様だから。ブルー姫だったぼくの王子様。
フィシスの予言は無かったけれども、神様の予言。
ドラゴン退治の勇者よりも人魚姫がいい、と神様がぼくにくれた本。
大きくなったら、ぼくは王子様の、ハーレイのお嫁さんになる。
お気に入りだった本の世界に住んでる、人魚姫。
ぼくの名前がついたブルー姫が、王子様と結婚していつまでも幸せに暮らしたように…。
宝物だった本・了
※人魚の「ブルー姫」の本。小さかった頃のブルーの宝物。間違えて届いた本だったのに。
書いた人はフィシスじゃなかったですけど、予言みたいなお話ですよね。
でもって、ハレブル別館の更新ペース。
週2で続けて参りましたが、windows10 で色々と不具合が起こり続けておりまして…。
今後は週1更新にさせて頂きます。それが精一杯です、更新は毎週月曜です。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
季節は春、ゴールデンウィークはシャングリラ号で過ごした私たち。今年は特に会長さんの悪戯も無くて、宇宙の旅を堪能出来ました。地球からは見ることの出来ない瞬かない星が煌めく宇宙空間は貴重な眺め。夜空とはやっぱり違うわけで…。
「真っ暗なんだよなあ、宇宙ってヤツはよ」
太陽も星も無かったらよ、と放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でサム君が。
「それなのにワープ中には緑だよなあ、なんでだろうな?」
「宇宙じゃなくって時空間だからじゃないですか?」
シロエ君が「時間も空間も飛び越えますしね」と見解を述べれば、会長さんが「うんうん」と。
「それで合ってる。ブルーの世界へ飛ぶ時なんかも似た感じだよ」
「「「へ?」」」
「あっちのブルー! ぼくは案内無しでは出掛けられないし、数えるほどしか飛び越えたことはないけれど…。途中で通る空間はワープ空間と似ているかな、うん」
一瞬だけどね、という断りつきでしたが、そういえばソルジャーの世界から私たちの世界へ来るには空間移動が必要です。幸か不幸か時間の流れ方が全く同じなせいで何とも思っていなかったものの、時間も飛び越えているかもで…。
「時間かい? 飛び越えて移動するんだと思うよ、科学技術が違いすぎ! おまけにあっちは既に西暦が終わってしまっているしね」
会長さんの言葉に「あー…」と誰もが納得。ソルジャーの世界は地球が汚染されて滅びてしまった後に制定されたSD体制時代の暦です。西暦で三千何百年だったか、そのくらい経ってから始まったのがSD体制。ということは、空間だけじゃなくて時間も飛び越えるんですか…。
「俺の感覚ではなんとなく暗闇だったんだが…」
キース君がボソリと口を挟みました。
「いや、完全な闇ではないな。向こうに光が見える感じで、そこへ向かって飛んで行けば俺たちの世界に出て来られたり、あいつの世界へ行けるというか…」
「漠然と目標を定めずに飛ぶなら、それもアリかもしれないけどねえ…」
それは嫌だ、と会長さん。
「ぼくはきちんと出掛けて行って、元の世界に戻りたいしね? いい加減に飛ぶのは御免だよ」
「そういうものか?」
「そんなものだよ!」
いい加減に飛びたがるのは「ぶるぅ」くらいだ、とソルジャーの世界の悪戯小僧の名前が出ました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のそっくりさんの「ぶるぅ」。そういえば、私たちの世界に一番最初にやって来たのって、「ぶるぅ」でしたよね?
「思い出したぞ、俺が持って来た掛軸の中から出やがったんだ!」
キース君が「あれが全ての始まりだったか…」と頭を抱えて。
「適当に空間を飛んでる最中に引き寄せられたとか言いやがったな、あの野郎」
「そうなんだよねえ…。でもって、此処が地球だったのが運の尽きだよ」
ブルーにしっかり目を付けられた、と会長さんも額を押さえています。
「自分そっくりなぼくが居る上に、ブルーの憧れの青い地球! あれ以来、此処を目指して一直線に飛んで来るからねえ…。たまには他所にも行けばいいのに」
「無駄なんじゃない?」
言うだけ無駄、とジョミー君。
「完全にリピーターになっちゃってるもの、別の所は行きそうにないよ」
「「「リピーター…」」」
なんという絶望的な響きでしょうか。私たちはこれまでも、これから先もソルジャーとソルジャーのパートナーなキャプテン、プラス「ぶるぅ」に振り回されるしかないようです。「ぶるぅ」の方も新境地開拓はすっかりサボッているようですし…。
「たまーに、変なシャングリラに落ちるらしいね?」
忘れた頃に、というジョミー君の言葉に、シロエ君が。
「それこそ何年かに一度あるか無いかの突発事故みたいなモノですよねえ…。そして其処には地球もグルメも無かったとかで、二度と出掛けて行かないんですよ」
「俺たちの世界で間に合っているというわけか…」
すまん、とキース君が頭を深々と。
「あの時、俺が掛軸を持ち込まなかったら…。そしたら平和が続いた筈だ」
「どうでしょう?」
その前から充分に波乱でした、とシロエ君。
「会長だけしかいない時代でも色々あったと思うんですけど、ぼくの勘違いですか?」
「「「…うーん…」」」
会長さんしかいなかった時代。今となっては遠い昔ですが、私たちが普通の高校一年生だった時代です。入学式の日に全員が「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に呼ばれて、それから後は…。
「言われてみれば既に色々あったか、俺が元老寺の跡取りだったのもバレたんだった」
「教頭先生もとっくにオモチャだったよ」
キース君とジョミー君の台詞に続いて思い出話がズラズラと。なんだ、会長さんしかいなかった頃からメチャクチャだったんじゃないですか! ソルジャーたちが現れなくても、どうせドタバタで波乱ですってば…。
「…随分と失礼な言い草だねえ? 歩く迷惑と言えばブルーだろ?」
ぼくは違うよ、と会長さんに主張されても「さあ?」としか答えられない私たち。この人も充分迷惑です。ソルジャーが絡めば更に破壊力が増しますけれども、単独でも大概な破壊兵器で。
「あんたが歩く迷惑でないなら、座る迷惑と言ったところか」
キース君が斬新な表現を。
「あいつはアクティブに動き回るが、あんたは自分から空間を超えては行かんし、坊主は座ることが多い職業だしな? 座る迷惑でいいだろう、うん」
「なにさ、それ!」
「座っているだけで迷惑なんだ、と言っている。俺たちの通路にドッカリ座って、道を譲りもしないんだ。最悪、闇夜の石かもしれん」
真っ暗な中を歩いて行けばゴッツンなのだ、とキース君。
「落ちている石のデカさにもよるが、小さな石でも躓けば転ぶ。あんたの場合は等身大で、狭い道幅を塞ぐ勢いで座っているんだ、もれなくゴツンだ」
そして迷惑なことになる、とキース君は滔々と。
「ぶつかっただけなら「はい、すみません」で終わりだろう。相手が石なら「痛かった」と呻いて済む話だがな、あんたは違う。自分で道に座り込んでおいて文句たらたら、因縁をつけて、ああだのこうだの!」
ヌリカベどころの騒ぎではない、と妖怪の名前まで飛び出しました。
「俺たちは毎回、あんたに巻き込まれてはババを引くんだ。これが座る迷惑でなければ、いったい何だと!」
「なるほど、座る迷惑ですか…」
分かる気がします、とシロエ君が相槌を。
「歩く迷惑な人ほどの破壊力は無いにしたって、会長単独でも相当ですしね」
「そうだろう? 俺はこいつも迷惑の内に認定するぞ」
でもって闇夜の石なのだ、とキース君は勢いに乗って一気に決め付け。
「しっかりドッカリ道を塞いで、俺たちがぶつかるのを黙って待っていやがるんだ。ぶつかったら最後、悪戯だの何だのと片棒を担がされるんだ!」
「…酷い言われようだと思うんだけど?」
会長さんが不服を申し立てても、キース君は「どの辺がだ!」と突っぱねて。
「まだ闇夜の牛糞だと言われないだけマシだと思え!」
「「「牛糞?」」」
そんな諺だか故事成語だかがありましたっけ? 牛糞と言えば牛糞ですよね?
「…牛糞だって?」
聞き捨てならぬ、と会長さんが眉を吊り上げましたが、キース君は「やかましい!」と一喝。
「あんただって無駄に年を食ってはいない筈だと思うがな? 聞いたことはないか、何処とは言わんがアルテメシアに近い教区で牛糞と言えば…」
「…もしかしてアレかい?」
アレとは酷い、と二人だけで成立しそうな話。置き去りにされてはたまらないとばかりに、シロエ君が話の端を捉えて。
「それで牛糞がどうしたんです、キース先輩?」
「牛糞か? …俺たちの周りにも出身者がいるとマズイからなあ、地名は伏せるが」
「「「地名?」」」
「いわゆるアレだ、お国柄と言うか、その地域の人の気質を指すと言うべきか…」
今の若い者は知らんと思うが、と副住職ならではの渋いお言葉。アドス和尚から聞いて来たのか、はたまた御高齢の檀家さんから聞いたのか。ともあれ牛糞、何なのでしょう?
「こう、そこの地域の人を指して言う言葉が入ってだ、「どこそこの人と牛の糞」と」
「「「牛の糞?」」」
ますますもって意味が分かりません。会長さんが酷いと言うからには酷いのでしょうが、牛糞だけでも酷いわけですし…。そもそも牛糞に何の意味があると?
「俺も実際に体験したわけじゃないからな…。親父も経験は無いそうなんだが、牛の糞というヤツは犬だの猫だのの糞と違ってしつこいらしい」
「「「しつこい?」」」
「踏んだら最後、そう簡単には取れないというか…。その辺を絡めて、なんだかんだと絡んでくる迷惑な気質を指してだ、牛の糞だと」
「「「へえ…」」」
うんうん、分かった気がします。それが牛糞なら、闇夜の牛糞は更に迷惑。ただでも見えない闇に落ちていて、踏んづけたら延々と絡まれるわけで。会長さんの場合は闇夜の石より牛糞の方が相応しいかもしれません。
「ぼくが闇夜の牛糞だって!?」
会長さんの怒声に私は首を竦めましたが、見れば全員が似たようなポーズ。考えることは同じなのか、とホッとしていたら。
「…闇夜の石で牛糞な上に、座る迷惑なんだって?」
よくも言ったな、と地を這うような低い声。腕組みをして足を組み直している会長さんは充分すぎるほど怖すぎでした。よからぬ考えを練っている時のお決まりの仕種に似ていますけれど、まさか、まさか……ね……。
会長さんの長い沈黙にガクガクブルブル、話が変な方向へと行きませんように、と祈るような気持ちの私たち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飲み物のおかわりを淹れてくれ、ロイヤルミルクティー風味のシフォンケーキもおかわりがお皿に乗っかりましたが…。
「よし、決めた!」
決めた、とコーティングの生クリームもロイヤルミルクティー味のシフォンケーキをフォークで切って口へと運ぶ会長さん。おかわりの紅茶はとっくにカップに入ってますから、飲み物のおかわりを決めたわけではなさそうです。これは思い切りヤバイかも…。
「闇夜の石で牛糞とまで言われちゃうとねえ、そこは活用しないとね?」
おまけに座る迷惑らしいし、と会長さんはシフォンケーキをモグモグと。
「こうなった以上、闇と迷惑を最大限に! それでチャレンジ!」
「……オバケ屋敷か?」
キース君が言い出しっぺの責任を取って確認しましたが、会長さんは「ううん」と首を左右に。
「別に怖いってわけじゃないしね? 単に暗いだけで」
「「「暗いだけ?」」」
「そう、中が真っ暗というだけで!」
だけど此処だとちょっと狭すぎ、と周りをキョロキョロ。
「やっぱりアレかな、やるならぼくの家でかな?」
「「「家?」」」
何をする気だ、と突っ込みたくても怖くて訊けませんでした。家だか部屋だかを真っ暗にするのに、オバケ屋敷ではないらしいモノ。ついでに迷惑を最大限に、って…。
「一時期、流行ったんだよねえ…。暗闇体験」
知らないかな、と尋ねられても私にとっては謎のそれ。けれどキース君とシロエ君は知っていたらしく。
「あれか、ダイアログ・イン・ザ・ダークとかいうヤツか?」
「確かグループを組んで入るんですよね、真っ暗な中に」
「へえ? そういうイベントがあるのかよ?」
知らねえなあ、とサム君が言えば、スウェナちゃんが。
「…そういえば昔、チラッと新聞で読んだわね。完全に真っ暗な中で助け合って過ごして、食事とかもして、知らない人同士でも昔からの知り合いみたいに仲良くなるとか」
「ああ、ありましたね」
思い出しました、とマツカ君も。真っ暗闇の家やスペースに入って、助け合わないと何も出来ないのだとか。会長さん、それをどうするつもり…?
ワイワイガヤガヤ、暗闇体験とやらについての知識が披露された後、会長さんはスッと右手の人差し指を立てて。
「だいたい分かってくれたかな? その暗闇でうんと迷惑をかけてみようかと」
「「「ひいぃっ!!!」」」
死んだ、と悲鳴や嘆く声やら。私も泣きたい気持ちです。キース君が座る迷惑だの闇夜の石だの、挙句の果てに牛糞とまで言ったばかりにこの始末。闇の中で食事とくればシャングリラ学園名物の闇鍋イベントも真っ青じゃないかと思うのですが…! しかし。
「誰が君たち相手にやるって言った?」
「じゃ、じゃあ、まさか…」
ジョミー君の声が震えて、キース君が。
「頼む、それだけはやめてくれ! 歩く迷惑にそれだけは!」
「そうです、絶対に返り討ちですよ! もう確実に殺されますって!」
ソルジャー相手はやめて下さい、とシロエ君が叫び、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋の中は阿鼻叫喚の地獄と化しました。いくら会長さんが「座る迷惑」でも、「歩く迷惑」と称されるソルジャーなんかに太刀打ち出来る筈がありません。かけた迷惑は倍返しどころか…。
「百倍返しでも済まないよ!」
ぼくたちだって殺されちゃうよ、と泣きの涙のジョミー君。
「頼むから考え直してよ! まだ死にたくはないんだってば!」
「俺もお浄土を目指してはいるが、それとこれとは別件だ! まだまだ副住職として寺を盛り立てんといかんのだ! まだ死ねん!」
死んでたまるか、とキース君。
「座る迷惑の件は謝る! 闇夜の石も牛糞の件も全て謝るから、この通りだ!」
あいつをターゲットに据えるのだけはやめてくれ、とガバッと土下座。私たちも土下座まではしなかったものの、頭をペコペコ必死に下げたり、縋る瞳で訴えたり。ソルジャー相手に迷惑だなんて、命知らずでは済みません。命は確実に無くなるでしょうし、極楽どころか地獄行きで。
「「「お願いします!」」」
もう本当によろしくなんです、とキース君の土下座に合わせてペコペコ、懇願、嘆願。このままでは間違いなく死ぬと分かっているのですから、恥も外聞も宇宙に捨てる覚悟でないと…。
「…うーん、お願いされてもねえ…」
あんなものは最初から想定してはいない、と会長さんがのんびりと。
「「「へ?」」」
「論外なんだよ、ブルーなんかは」
え。うんと迷惑をかけたい相手って、ソルジャーじゃなかったんですか?
どうやらソルジャーではなかったらしいターゲット。では誰が、と顔を見合わせれば。
「ブルーだとねえ、暗闇なんかは意味が無いしね?」
あれは暗闇のプロフェッショナルだ、と会長さん。
「ぼくもサイオンで周囲を探れるけれども、ブルーの能力はそれよりも高い。暗闇体験をさせるためにはサイオンを封じないと無理なんだけどさ、封じられると思うかい?」
「…それはまあ…」
無理だろうな、とキース君。土下座から立ち直ってソファに座り直して、コーヒーをコクリ。
「だったら誰を相手にするんだ、あいつでないなら」
「普通に考えて一人だけだと思うけど?」
ぼくが迷惑をかけたい相手、と会長さんはフフンと鼻を鳴らして。
「減るもんじゃないから喋っちゃうとさ、シャングリラ学園教頭、ウィリアム・ハーレイ」
「「「教頭先生!?」」」
直球すぎて浮かばなかったその名前。てっきりソルジャー狙いだとばかり思ってましたが、冷静になって考えてみれば一番狙われそうな人です。何かといえば会長さんのオモチャにされる教頭先生、迷惑をかけてみたいとなったらターゲットになって当然で…。
「それしかないだろ、迷惑をかけて楽しい相手! ハーレイだったらサイオンも簡単に封じられるし、そういう遊びだと言ってやれば素直に引っ掛かるし……ね」
「引っ掛けるだと?」
キース君が聞き咎めると、「うん」と即答。
「暗闇体験はグループで共有するのが売りなんだよ。そして協力し合うわけ! ハーレイも多分、知ってると思う。だけど暗闇を共有する筈の仲間が非協力的だったら…?」
「「「非協力的?」」」
「そう、ミスリードと言ってもいい。一緒に暗闇に入る仲間は暗闇の中には居ないんだよ。ちゃんとサイオンで周りが見えてて、間違った方向にリードするんだな」
実に面白いと思わないかい、と言われるまでもなく「面白そうだ」とピンと来ました。教頭先生にとっては真の暗闇で何も見えてはいないのでしょうが、仲間とやらはどう考えても私たち。その私たちにはバッチリ見えてて、教頭先生に嘘八百を…。
「いいじゃねえか、それ」
ぶつかるんだな、とサム君が親指を立てて、シロエ君が。
「文字通り、闇夜の石なわけですね? いえ、牛糞と言うべきでしょうか、ミスリードなら」
「牛糞な勢いで頑張ってほしいね、ハーレイに絡んでなんぼだしね?」
是非やってくれ、と会長さん。なんと暗闇に教頭先生を放り込みますか! それを嘲笑って遊べるだなんて、面白くもあり、意地悪くもあり…。
「実にいいねえ…」
パチパチパチ、と拍手の音が。誰だ、とバッと振り返った先に歩く迷惑、ソルジャー登場。紫のマントを優雅に翻して部屋を横切り、空いていたソファにストンと座って。
「ぶるぅ、ぼくにもシフォンケーキ! 紅茶はロイヤルミルクティーがいいな」
「オッケー! ちょっと待っててねー!」
いそいそと飛び跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。直ぐにシフォンケーキを載せたお皿とロイヤルミルクティーが出て来ました。ソルジャーは紅茶の香り高いシフォンケーキを頬張り、ロイヤルミルクティーのカップを傾けながら。
「なんだか派手に揉めていたねえ、ぼくを狙うと後が無いとか」
「誰も狙っていないから!」
会長さんが即座に反論。
「ぼくはそこまで間抜けじゃないから、君なんか絶対、狙わないし!」
「それが正解。返り討ち程度で済めばいいけど、場合によってはぼくのシャングリラに御招待だよ。そして当分監禁ってね」
闇の世界に、とニコニコニコ。
「君はぼくのサイオンを封じられないみたいだけれども、ぼくなら君を真っ暗闇に閉じ込めるくらいのことは出来るよ? たかが青の間でも真っ暗になると困るだろうねえ…」
スロープから足を踏み外したが最後、ドボンだから、と笑顔のソルジャー。
「ドボンした後も、まるで光が見えないとなると…。どうやって水から上がるんだろうね、上も下も無い世界だからねえ? まあ、その内に勝手に浮くだろうけど」
浮いても上がれる場所が見えない、と恐ろしげな台詞がズラズラと。
「もちろん瞬間移動で脱出なんかは出来ないし? うんと楽しんでいってよ、青の間」
「お断りだから! そんな体験、要らないから!」
ぼくが陥れたいのはハーレイなのだ、と会長さんは必死の形相。
「だから君には関係ないだろ、そもそも君を狙ってないから!」
「そうらしいねえ? 命が惜しいというのは分かる。もしも狙われたら青の間に閉じ込めておくのもいいな、と思ってたのに…。でもまあ、ものは考えようだよ」
君を閉じ込めるよりもこっちのハーレイ! と、ソルジャーはいとも楽しげに。
「ハーレイだけ暗闇に放り込んでおいて、周りのみんなでミスリードだって? そっちの方が面白そうだし、ぼくも面子に加えて欲しいな」
サイオン封じならドンとお任せ! と胸を叩いていますけれども、座る迷惑ならぬ歩く迷惑。面子に加えて大丈夫でしょうか、その前に申し出を断れるかどうかが謎ですが…。
教頭先生だけを暗闇に閉じ込め、暗闇の中で助け合うふりをしてミスリード。会長さんのそんな計画を聞き付けたソルジャー、やりたくて仕方ない様子。下手に断ると会長さんがソルジャーの世界に拉致されてしまい、暗闇と化した青の間に監禁されそうな勢いで。
「やりたいんだってば、ぼくも一緒に! 絶対、迷惑はかけないから!」
「迷惑をかけてなんぼなんだよ、この計画は!」
ただし相手はハーレイだから、と会長さん。
「ハーレイを真っ暗闇の中で困らせてなんぼ、間違った方向に行かせてなんぼ! でもねえ、君の場合は迷惑が何か間違っていそうで」
「えっ? 君だと思わせておいて色々とやったらいけないのかい?」
お触りだとか、と首を傾げるソルジャー。
「いくらハーレイでも闇の中では君とぼくとの区別はつかないと思うんだ。それで君だと勘違いさせて、あちこち触ってあげるとかね」
「ど、何処を…?」
会長さんの顔が青ざめ、ソルジャーは。
「それはもう! デリケートな場所とか、あのガッシリしたお尻とか!」
「そういうのは痴漢行為だから!」
「別にいいだろ、痴漢は夜に出るものなんだろ?」
ぼくの世界には出ないけどさ、と語るソルジャー。
「なにしろSD体制だしねえ? マザー・システムってヤツはミュウはもちろん、犯罪者にだって優しくない。痴漢をするなら命懸けだし、そこまでする馬鹿は何処にもいないよ」
その点、こっちの世界は合格! と言うのですけど、痴漢が居ればどう合格なんだか…。
「えっ、痴漢? そりゃあやっぱり、スリリングだしね? こっちのノルディもお触りは好きで上手だけれどさ、思いもかけない所で全く知らない人から触ってこられたら素敵かと…」
「そう考えるのは君だけだから!」
「君はトコトン、ノーマルだしねえ? 痴漢の良さも分からないなんて…」
「その考えが分かるようなら、痴漢は犯罪にならないから!」
なんとも不毛な言い争い。ともあれ、ソルジャーが痴漢に遭ってみたいことと、教頭先生に痴漢行為を働きたいことは分かりました。暗闇で石にゴッツンどころか、ソルジャーという名の痴漢が出そうな暗闇体験。会長さんはどうするのだろう、と固唾を飲んで見守りましたが…、
「……分かった。君はどうあっても痴漢をしたい、と」
「せっかくだしね? 断るんなら、ぼくの青の間に御招待して…」
「もういいから!」
君を面子に加えるから、と決断を下した会長さん。ソルジャーつきでの暗闇体験、教頭先生はどうなるのやら…。
こうしてトントン拍子に決まってしまった、教頭先生に暗闇体験をさせる計画。当の教頭先生には会長さんから招待状が送られました。「一時期流行った暗闇体験をみんなでやろう」というコンセプト。すっかり信じた教頭先生、開催予定日の土曜日の朝に会長さんのマンションへ…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日はお外でお出迎え、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。私たちとソルジャー、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は会長さんの家がある最上階のエレベーターホールで教頭先生をお出迎えです。なにしろ会長さんの家の中は真っ暗闇で…。
「ハーレイ、おはよう。ご覧の通り、ぼくの家は全部が会場なんでね」
「そうらしいな。…それで、全員で入るのか?」
「そうだよ、みんなで助け合わないとどうにもならない。もちろんサイオンはしっかり封じてある状態だし、ぼくもブルーも闇しか見えない」
君も頑張ってくれたまえ、と会長さんは教頭先生に激励を。
「聞いた話じゃ、付き合っている男性が信頼に値するかどうかを暗闇体験で試す女性もいたそうだ。君がどれだけ株を上げるか、ぼくも楽しみにしてるから」
「そ、そうか…。お前をきちんとリード出来れば株が上がるのだな?」
「リードもそうだし、間違っても暗いからといって痴漢行為をしないことだね」
「ち、痴漢……」
教頭先生、それは全く考えてらっしゃらなかったみたいです。逆に意識してしまったらしくて、会長さんの身体をチラチラ、頬がほんのり赤いですけど。
「ふうん? その顔つきだと触る気かな?」
「い、いや、私は!」
「知らずに触ってしまう分にはいいんだよ、うん」
それは不幸な事故だから、と涼しい顔の会長さん。
「だけど故意だと認定した時は、遠慮なく叫ばせて貰うから! 痴漢です、って!」
でもって逮捕、とニヤニヤと。
「もっとも暗闇の中だしねえ? 痴漢の君を逮捕するつもりで間違えてキースを逮捕したとか、その手のミスも起こり得る。流石にガッチリ縛り上げたら体格の違いで分かるだろうけど、捕まえる段階では取り違えも充分ありそうだしね?」
運が良ければ逃げおおせることも可能かもねえ、と煽っているんだか、いないんだか。ともあれ、暗闇体験は闇の中での食事も含めてお昼まで。会長さんとソルジャーが教頭先生のサイオンをガッチリ封じて準備オッケー、いよいよ真っ暗闇な世界へ出発です~!
会長さんの家の玄関ドアの周囲には光を遮るための黒くて分厚いシートが。それを順にくぐって会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に「入って、入って」と促されるままに家の中へと。私たちはサイオンを封じられていませんが、それでもしっかり暗いです。
「ふう…。これでは見えんな…」
キース君が「何も見えん」とお芝居をしながら靴を脱いで暗い家に上がり込み、私たちも次々と。靴は端の方へと順に揃えて、それぞれ壁に張り付いて待てば。
「はい、ハーレイ。最後はぼくたちってことになるから」
「かみお~ん♪ お昼御飯まで頑張ろうね!」
会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにソルジャーが教頭先生を取り囲むようにして入って来て玄関ドアがパタンと閉まって…。教頭先生はこれで完全に暗闇に閉じ込められた筈。案の定、動けないようです。その手を会長さんが掴んでクイと引っ張って。
「とりあえず、此処に玄関の段差。あ、靴は適当に脱いでいいけど、他の人のを踏まないように」
「あ、ああ…。しかし、他のは…」
何処だ、と屈み込む教頭先生。本当に見えていないみたいです。手探りで他の人の靴を探す間に、先に玄関に上がっていた会長さんの足首をウッカリ触ってしまって…。
「ちょ、ハーレイ! それ、ぼくの足!」
「す、すまん…!」
「今の、故意とは違うんだろうね? 撫でられたような気がしたけれど?」
「いや、違う! 断じて違う!」
間違えたのだ、と冷汗ダラダラの教頭先生は気の毒なほどに竦んでおられましたが、知ったことではありません。私たちの任務はミスリード。教頭先生が失敗すればするほど作戦成功、どんな失敗でも大歓迎で。
「教頭先生、とりあえずリビングに移動しますか?」
この暗闇では遠そうですが、とキース君。
「そ、そうだな、皆で移動しようか。…リビングに行けば何があるのだ?」
「お茶くらいは飲めるようですよ。もっとも紅茶もコーヒーも淹れるのが難しそうですが…」
手探りですし、と溜息をついているキース君には紅茶の缶もコーヒー豆もお見通し。私たちにとっては常夜灯が灯った程度の暗さですけど、教頭先生は漆黒の闇にお住まいですから、さぞかし心細いかと…。とはいえ、会長さんにいい所を見せねばとも思っておられるわけで。
「よし、行くか。ブルー、この廊下を真っ直ぐ行くんだったな」
頑張ろう、と先頭に立たれた教頭先生は手探り、足探りでの前進だけに屁っ放り腰。会長さんとソルジャーが懸命に笑いを堪えています。これだけでも暗闇体験の価値はあるかも~!
そろりそろりと廊下を歩いた教頭先生がリビングに着かれるまでには、普段の倍以上の時間がかかりました。やっとのことでドアノブを探り当て、「先に入れ」と言って下さったため、私たちは見えないふりをして我先に。そして…。
「教頭先生、あと少しでソファがありますから」
多分、とシロエ君の声。一番最後に入って来た教頭先生への心遣いですけれど、ソファに着く前にゴツンと鈍い音が響いて「うっ!」と蹲る教頭先生。
「す、すみません、テーブルがありましたか!?」
「…い、いや、ちゃんと探って歩くべきだった…」
大丈夫だ、と呻く教頭先生の足には恐らく青アザが出来たことでしょう。なんとか立ち上がって「皆は何処だ?」と訊かれたものですから。
「ソファに座ってまーす!」
ジョミー君が元気よく答え、サム君も。
「テーブルを回り込んだらソファがありますよ、教頭先生!」
「うんうん、ハーレイ、気を付けて」
そう、その辺り…、という会長さんの指図を信じて教頭先生が腰を下ろした場所にはソファなどありませんでした。会長さんが誘導した場所はソファの直ぐ脇、絨毯のみ。ドスンとお尻から絨毯に落ちた教頭先生、尾てい骨を強打なさった模様。これは相当、痛いですってば…。
「う、うう…」
「ごめん、ハーレイ。大丈夫かい?」
会長さんが手を差し伸べて。
「やっぱりきちんと誘導しないと駄目なようだね、はい、此処。ぼくの隣にどうぞ」
「す、すまん…」
教頭先生をソファで隣に座らせておきながら、「その手!」と会長さんの怒りの声が。
「ぼくの太ももに触ってるんだよ、知っててやってる!?」
「ち、違う…! さっき打った腰を擦りたくて、だな…」
「ああ、腰ねえ…。重傷かい?」
「分からんが…。まあ、痛むのは確かだな」
ソファに座っていても痛い、という教頭先生の台詞を受けてソルジャーが。
「早めの手当てが要るんじゃないかな、腰は男の命だよ?」
「真っ暗闇の中でかい? 湿布薬を貼るのも無理じゃないかと思うけど…」
無理そうだけど、と会長さん。実際の所は見えていますけど、真の暗闇にいるふりをするなら湿布薬は無理。薬の置き場所を探し出せても、どれが湿布か分かりませんよ…。
「ああ、そうか…。湿布は無理か」
でも冷やさなきゃ、とソルジャーの声。
「この際、普通に水で絞ったおしぼりでも無いよりマシじゃないかと」
「おしぼりねえ…」
それをハーレイのお尻に乗せるのか、と会長さんは乗り気ではなさそうでしたが、ソルジャーは冷やすべきだと主張。教頭先生のお尻は痛んでいるようですし…。
「仕方ない、暗いからみっともないお尻は見えないし…。冷やすことにしようか」
「あ、有難い。実に痛くて…」
よろしく頼む、と教頭先生の声に安堵の色が滲んでいます。しかしリビングでお尻におしぼりとは凄い話で、せめて教頭先生だけゲストルームに放り込むとか…。どうなるんだろう、と暗がりで視線を交差させていると。
「ハーレイ、お尻を冷やすんだったら、此処ではちょっと…ね」
会長さんが言葉を濁して、ソルジャーが。
「女の子もいるのに、真っ暗闇の中でお尻を露出というのはねえ…。流石にマズイね」
「や、やはりそうか…。しかし…」
何処へ行けばいいのだ、と困惑する教頭先生に向かって、会長さんが。
「ゲストルームとか、ぼくの寝室とか…。ベッドのある部屋は幾つもあるけど、どれがいい?」
「選べるのなら、お前の部屋だ!」
教頭先生、見事な即答。会長さんは怒り狂うかと思ったのですけど、「了解」と。
「ぼくの寝室のベッドね、了解。…だったら行こうか、立てるかな?」
「…ほ、本当にかまわないのか?」
「暗闇の中では助け合わないとね? 君のお尻の手当てもしないと」
さあ行こう、と教頭先生を支えて立ち上がらせている会長さん。まさか本気で寝室へ案内する気では…、と焦る私たちに、会長さんがパチンとウインク。
「じゃあ、行ってくるね。君たちはお茶を楽しんでいてよ」
「かみお~ん♪ 紅茶の缶がこれかな、こっちがポット~!」
頑張るもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が答えていますが、手探りどころかスイスイスイ。暗いとはいえ見えているのですから至極当然、ティーカップの用意も任せて安心。えっ、コーヒーも淹れますか? まあ、見えてるんだし、なんでもいいかな…。
教頭先生にはソルジャーも付き添って出掛けました。お触りがどうの、痴漢がどうのと言っていた人だけに、どうなったやら…。
「ごめん、ごめん。ぼくも紅茶を貰えるかな?」
かなり経ってから会長さんだけが戻って来たからビックリです。教頭先生はベッドで寝ているとしても、ソルジャーは?
「ブルーかい? ぼくのふりをしてハーレイにしっかり付き添うらしいよ」
おしぼりを絞って腰を冷やして…、と会長さん。
「ハーレイもつくづく間抜けと言うか、馬鹿だと言うか…。案内する途中で何度か方向転換しただけで騙されちゃってね、今はダイニングにいるんだけれど」
「「「ダイニング!?」」」
「シッ、声が高い! ゲストルームからベッドを瞬間移動で運んで据えてある。ぼくの部屋だと信じているから気分は極楽、付き添いはぼくだと思い込んでるから更に天国」
痴漢に遭っても本望であろう、と悪魔の微笑み。
「ブルーは喋らないつもりらしいしねえ? 照れているぼくを演出するとか」
「あんたはそれでかまわないのか?」
とんでもないことになりそうなんだが、とキース君が指摘しましたが。
「大丈夫! その辺はブルーも心得ているよ、お触りタイムはお昼前からなんだ」
「「「お昼前?」」」
「そう、お昼前。昼食はダイニングで食べる予定でテーブルに用意が整っている。冷めても美味しく食べられるように、ぶるぅが豪華サンドイッチとかを作って覆いがしてある」
「そ、それは…」
教頭先生にダイニングだとバレないのか、とキース君が唸って、シロエ君が。
「バレますよ、普通! これだけの人数が食べに行ったら!」
「分かってないねえ、其処が狙い目! ブルーのお触りでいい気分になりかかった所へドヤドヤと大勢入って来るんだ。そして心配になってもお触りは続く」
「「「………」」」
続くんですか! と心で突っ込み。けれど会長さんは全く気にせず。
「暗闇体験は昼食が終わるまでなんだ。其処で明かりがパパッと点いてね、暗闇を共にした仲間と親睦を深める趣向と言った筈だけど?」
「「「…じゃ、じゃあ…」」」
教頭先生がお尻丸出し、痴漢行為を働くソルジャーに付き添われて横たわるベッド。それがダイニングにあるということは、昼食を終えた瞬間、何もかもが明るい光の中へと…。
会長さんの部屋だと信じてダイニングでお尻を冷やすことになった教頭先生。お茶とお喋りを楽しんだ私たちがダイニングに行くと、端の方にベッドが置かれていました。手探りのふりをしながら一人ずつ入った私たちですが、もちろん気配はするわけで。
「…ブルー、大勢入って来たようなのだが…」
教頭先生の声が「ああ、こら!」と中断されて。
「き、気持ちは分かるが、そ、そのう…。人の気配が気になって…。そ、そうか…」
お前は気にしないのか、と納得している教頭先生、痴漢に絶賛遭遇中。一言も発しないソルジャーは自分の気配を殺しているらしく、教頭先生は会長さんだと頭から信じて疑っておらず。
「ブルー、昼飯の匂いがするのだが…。お前は食いに行かなくていいのか? それより私か」
光栄だな、と教頭先生は痴漢行為を働いているソルジャーに感謝の言葉を。会長さんは顔を顰めつつも耐え抜き、その分、昼食をガツガツと食べて…。
「「「ごちそうさまでしたー!!!」」」
みんな揃って叫んだ瞬間、パパパッと点いたダイニングの明かり。教頭先生の丸出しのお尻も、痴漢行為で耳まで真っ赤に染まった顔も、せっせと触りまくったソルジャーの姿も煌々と灯った明かりに鮮やかに照らし出されて…。
「ハーレイ、君って最低だから!!」
よくもダイニングでお尻なんかを丸出しに…、と会長さんが喚き、ソルジャーが。
「まあいいじゃないか、ぼくはたっぷり楽しんだしねえ? どう、ハーレイ? 暗闇だったらブルーかぼくかの区別もつかないみたいだし…。ぼくの青の間で暗闇体験、一発ツアー!」
文字通り一発、いや、二発! とソルジャーは拳を突き上げました。
「よかったらヌカロクも夢じゃないほど指導するから二人でやろうよ、真っ暗闇で!」
「いいかもねえ…。持って帰ってくれてもいいから、其処のハーレイ!」
会長さんが冷たい笑みを浮かべて、教頭先生は顔面蒼白。
「ち、違うのだ! わ、私はお前だと思い込んだだけでだ、暗ければいいというわけでは…!」
私には一生お前だけだ、という教頭先生の決まり文句が今日ほど白々しく聞こえたことは未だかつてありませんでした。暗闇だったらソルジャーの痴漢行為も極楽、天国。いっそソルジャーに拉致されて青の間で暗闇、如何ですか? 監禁されての極楽体験、お勧めさせて頂きます~!
一寸先は暗闇・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が体験なさった暗闇イベント、一時期、流行ったみたいですけど。
親睦がグッと深まる代わりに、とんでもない結末になりました。お気の毒としか…。
シャングリラ学園、来月は普通に更新です。いわゆる月イチ。
次回は 「第3月曜」 7月17日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、6月は、キース君をスッポンタケの御用達にするべく…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(うーむ…)
ブルーの家からの帰り道。ハーレイは歩きながら考え込んだ。
夕食を御馳走になって来たのだけれど。今日は土曜日だから、朝から居座っていたのだけれど。
お茶にお菓子に、昼食も。運動もせずに、小さなブルーと語り合いながら食べていたけれど。
(…食い足りなかったか?)
小食のブルーに付き合ったからか、そうでもないのか。お菓子はともかく、食事の時はブルーの母がハーレイの分を多めに盛り付けてくれているのだし、量は充分に足りる筈。
とはいえ、「おかわりを頂けますか?」とはブルーの前では言えないし…。
(今日の飯はまた美味かったんだ)
特にキノコたっぷりの炊き込み御飯が。
あれを炊いたのが自分だったら、軽く三杯は食べただろう。ブルーの母もおかわりをくれたし、二杯は食べた。三杯目も勧められはしたのだが…。
(ブルーに恨まれちまうしな?)
いつだったか、「頂戴します」と盛り付けて貰った三杯目。それを食べていたら、ブルーの父がこう言った。「ブルー、ハーレイ先生はまたおかわりだぞ? お前も頑張って食べなさい」。
そうしてブルーの御飯茶碗に追加された御飯、あの時のブルーの顔と言ったら…。
(もう無理だよ、って膨れてたっけな…)
お腹一杯、と嘆きながらも、ブルーはなんとか食べ終えた。けれども本当に多すぎたらしく。
(ハーレイのせいだ、ってブツブツ文句を言ったんだ、後で)
ブルーの部屋で飲んだ食後のお茶。その間に散々に文句を聞かされた。ハーレイがおかわりしたせいで自分はこうなったのだと、胃袋がもう限界だと。
あれ以来、三杯目は控えるように心がけている。勧められても「もう充分です」と返している。時々、ウッカリ忘れるけれど。つい三杯目を頼んでしまって、ブルーにギロリと睨まれる。
(…睨まれてもいいから食えば良かったかな、三杯目)
それとも、食べ足りなかったせいではないのか、単なる自分の欲求なのか。
どういうわけだか、にわかにカレーが食べたくなって来た、帰り道。
キノコの炊き込み御飯を食べて来たのにカレーなのだから、まるで関係ないかもしれない。味が別物、食べ方だって全く違う代物なのだし…。
そういったことを考えていても収まってくれない、カレーを食べたくなった胃袋。
一度カレーだと思ってしまえば、あの味が、匂いが頭を支配し始める。スパイスの効いた金色のソース、それをたっぷりと白米にかけてのカレーライスだと、カレーなのだと。
どうにも止まらない、頭の中でのカレーの行進。ビーフカレーにチキンカレー。ポークカレーにシーフードカレー、と次から次へと現れるカレー。
そうこうする内に、胃袋の叫びもどんどん大きくなってくるから。今すぐ食べたいと、カレーを食べたいと腹の中で暴れ始めるから。
(寄って行くか…)
ちょうど目に入った、前方の明かり。煌々と点いているライト。いつもの行きつけの食料品店。カレーを食べよう、と躍り上がっている胃袋を連れて自動ドアをくぐって中に入った。
入口でグルリと見渡したけれど、今からカレーを作ったとしても美味しくなるのは明日だから。味が馴染んでコクと深みが増すまでの間に、少し置かねばならないから。
(カレーってヤツは、一晩寝かせたのが一番美味いんだ)
一晩寝かせた味に近付けたければ、鍋を急冷するという手もあるけれど。出来上がったカレーを鍋ごと冷水で冷やして冷ませば、その味に近くなるけれど。
この時間からカレーを煮込まなくとも、朝食に炊いた白米が家に残っているし…。
(こんな時のための非常食ってな!)
いわゆるレトルト、白米にかけるだけで立派なカレーライスが出来上がるもの。
それを並べたコーナーを目指し、その前に立った。実に様々なパッケージ。カレーの種類も迷うほどあるし、カレーを収めたパッケージの仕様もまた様々。
開けるだけでホカホカと温まるものも、便利で楽だとは思うけれども。
(俺はこっちが好きなんだ)
断然コレだ、とカレー入りのパックを温めなければ食べられないタイプに手を伸ばした。ビーフカレーでいいだろう。何種類もあるから、パッケージの写真が気に入ったのを一つ。買いたい物は今はこれだけ、レジに出すための籠は要らない。
カレーをレジへと持ってゆく途中、ふと思い出して笑いが漏れた。
(こいつもレトロなものだよなあ…)
開けさえすれば温まるカレーがあるというのに、未だに廃れない自分で温めるタイプのカレー。前の自分が生きた頃から、それよりも前から存在したらしい、こういうタイプのレトルト食品。
それを選んで買ってしまうということは…。
前の自分が愛用していた羽根ペンと同じでレトロ趣味なのだろうか、今の自分も。
温める手間をかけねば食べられないタイプの、昔ながらのレトルト食品に惹かれる自分も…。
カレーだけが入った食料品店の袋を提げて帰宅し、それから鍋に湯を沸かした。カレーが入ったパックを温めるために必要な量の熱湯、この中で温める時間が好きだ。
沸騰した湯にカレーのパックをそうっと落とし込み、朝、炊いた米も皿に移して温め直して。
(いつもなら握り飯なんだがなあ…)
ブルーの家に寄って来た日に何か食べたくなったら、握り飯。塩をふったり、具を入れたり。時にはひと手間、焼きおにぎりと洒落込むこともあるのだけれど。
どうしたわけだか、今夜はカレー。胃袋ごと見事に捕まってしまったカレーライス。
(なんだってカレーだったんだか…)
悪くはないが、とパックを温めている最中の鍋を見ていて、脳裏を掠めた遠い遠い記憶。
前の自分もやっていたな、と。
シャングリラに居た頃、こんな風に湯を沸かしていた。レトルト食品を温めるために。
(あの時代から変わっていないってこった)
レトロなタイプのレトルト食品、と温まったカレーを白米にかけてテーブルに運んだ。立ち昇る湯気とスパイスの香り。スプーンを手にして頬張りながら、自分の趣味に苦笑する。
(開けるだけで温まるタイプのカレーってヤツも、前の俺の頃からあったんだが…)
それなのに今も温める手間をかけたいタイプが自分なのか、と。
つくづくレトロな趣味なのだな、と思った途端に。
(そうだ、あいつに…)
ブルーのためにと、前の自分がレトルト食品を温めていた。
今夜の自分がそうだったように、鍋に湯を沸かして一人きりで。キャプテンになるよりも前に、まだ厨房が居場所だった頃に、厨房ではなくて自分の部屋で。
(あいつに作ってやっていたんだ、レトルト食品…)
正確に言うなら、作るのではなくて温めていたというだけの食品だけれど。
中身は調理済みの料理が詰められたものだったのだし、作ったわけではなかったけれど。
シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃。
自給自足の生活を始めていなかった頃は、食料は奪うものだった。人類が乗った輸送船から。
それが出来る者はたった一人で、タイプ・ブルーだった前のブルーだけ。
食料も、それに他の物資も奪いに宇宙を駆けていたブルー。
コンテナごと奪って戻る物資や食料品には、非常食がよく紛れていた。奪う相手が宇宙船だから多く積み込まれていたのだろう。万一の時に備えて多めに。文字通りの非常食として。
非常食と言っても、侮れない出来だったそれらの食品。今の時代に食料品店の棚に整列しているレトルト食品と変わらない出来のものばかり。
(開ければ勝手に温まるヤツと、温めなければ食えないヤツとがあったんだ…)
その点も今と変わりはしない。
温めなければいけないタイプは手間がかかるから、食料品を収めた倉庫の奥へ突っ込まれるのが常だったけれど。
自分で温めてまで食べようと思う者も少なかったけれど、それをいいことに失敬していた。
進んで食べたがる者などいないのだから、と倉庫の奥へと押し込む時に一種類ずつ。
前の自分は備品倉庫の管理係も兼ねていたから、作業のついでに貰っておいた。
食料は全て奪うものだったシャングリラ。
最初の間は奪ってくる時に中身を選べないことも珍しくなくて、食材が偏ったケースも多数で。
ジャガイモ料理が延々と続くジャガイモ地獄や、キャベツだらけのキャベツ地獄や。
同じ素材の料理しか無い日々が続けば、人気が出て来る非常食。倉庫の奥から運び出す者たち。これを食べようと、非常食ならば他の料理もあるのだからと。
そうする輩が少なくないからアッと言う間に開けるだけで温まるタイプの非常食が消えて、次は温めなければ食べられないタイプの非常食の出番。そちらもどんどん減ってゆくから、厨房を担当していた前の自分は「出された食事をちゃんと食べろ」と怒鳴り付けることになったけれども。
ジャガイモだろうがキャベツだろうが栄養は足りている筈なのだ、と我儘な仲間たちに怒鳴って厨房の料理を食べさせようと努力していたけども。
そんな日々の中、出される料理を黙々と食べていたブルー。
食が細いから食べる量こそ少なかったけれど、文句の一つも言おうとせずに。
皆のためにと食料を奪いに出掛けていたブルーこそが、食事の中身に好きなだけ文句をつけてもいい筈なのに。思う存分に我儘を言って、自分好みの非常食を食べてもいい筈なのに…。
(あいつがそういうヤツだったから…)
どんなにジャガイモ料理の日々が続いていようが、キャベツ料理が連続しようが、ブルーは何も言わずに出されたものだけを食べたから。他の仲間たちのように我儘を言いはしなかったから。
そういった時に役立てようとコレクションしていた非常食。倉庫の奥へと押し込める時に一種類ずつ抜き取っておいた非常食。
湯を沸かすことは自分の部屋でも可能だったから、夕食が終わって皆が自室に引っ込んだ後に、コレクションから一つ選んでコッソリとそれを温めて。
思念波でブルーを呼んでやった。
部屋に遊びに来ないか、と。
ブルーの返事に合わせてタイミングを計り、出来立ての非常食を器に移した。それはホカホカのスープだったり、具だくさんの濃厚なシチューだったり。
部屋を訪れて、テーブルの上で湯気を立てる器を目にしたブルーは。
「ハーレイ、これ…」
今日の食事のメニューと違うよ、非常食を出して来たんじゃないの?
「非常食には違いないがな、お前用だ。お前、遠慮して非常食には手を出さないしな」
食べろ、と促せば、初めての時には酷く遠慮をしたブルー。
ハーレイも非常食を全く食べてはいないというのに、自分に譲ってどうするのかと。ハーレイが自分で食べるべきだと、ぼくは食堂で食べた食事で充分だからと。
けれども、自分では食べるつもりなど無かったから。最初からブルー用にと集めておいた中から選んだのだから、「食べないとこいつが無駄になるぞ」と食べさせた。
冷めてしまっては美味しくもないし、それでは料理が無駄になる。温かい間に全部食べろと。
お前が奪って来た物資に混ざっていたのだからと、お前には食べる権利があると。
「でも、ハーレイ…」
「いいから食え。冷めて不味くなっちまう前に食っちまえ」
このくらいの量なら食べられるだろうが、無駄にしないでしっかり食っとけ。
今を逃したら、当分の間は代わり映えのしない食事が続くんだしなあ、食材が全く同じじゃな。
食材が偏り、飽きた者たちが非常食を求めて倉庫に侵入し始める度に、部屋で温めてはブルーに食べさせた非常食。
ハーレイが始めたブルーのためだけの特別な料理は、いつしか定番になってしまって。
温める頃合いを見定めながら思念を送れば、ブルーは直ぐにやって来た。ある時は空間を越えて瞬間移動で、また別の時は自分の足で通路を歩いて、といった具合に。
「遊びに来たよ」
でも、君は…。食べに来いとは言わないんだね。いつも「遊びに来ないか」としか。
「誰が聞いているか分からないからな。食べに来いとは言えんだろうが」
俺が料理をしてるのがバレる。…料理と言っても、ただ温めてるだけなんだがな。
「思念でぼくに呼び掛けてるのに?」
ぼくだけに思念を送ってるんだし、他の人には届かない筈だと思うんだけど…。
なのに絶対、「食べに来い」とは言わない所が君らしいよね。
とても真面目で、それに慎重。
ハーレイは凄く気が回るんだよ、他のみんながどう思うだろう、って所までいつも考えている。
みんなは勝手に非常食を出して食べているのに、君は遠慮が先に立つんだ。
ぼくに食べさせるための非常食でも、それを内緒で作っているのは気が引ける、ってね。
それでもぼくには分かるけれど、とブルーは笑った。
「遊びに来ないか」という誘いであっても、食事を用意して待っている時の思念は分かると。
ハーレイの心が「食べに来ないか」と呼んでいるのがぼくには分かる、と。
「ぼくにばっかり用意してないで、君も食べなきゃ」
美味しいよ、これ。カボチャの甘味が作りたてみたいな感じのスープ。
「いや、俺は…」
それはお前のスープなんだし、お前が飲めばいいだろう。そのくらい軽く入る筈だぞ。
「ぼくはそんなに要らないから」
さっき紅茶を飲んでたんだよ、自分の部屋で。だから全部だと多すぎるんだ。
ほら、と差し出されたブルーがスープを掬ったスプーン。カボチャのスープが入ったスプーン。
食べろ、と瞳で、言葉で何度も促されたから、口にしてみて。
「ほう…。こいつは美味いな」
確かに出来立てのスープと変わらん味だな、言われなければ非常食とは分からんな。
「ほらね、食べてみて良かっただろう?」
もっと飲んだら?
沢山あるから遠慮しないで、ハーレイもこれを食べるといいよ。
始まりはスープ。
それ以来、ブルーはいいアイデアを思い付いたとばかりに非常食を貰えばお裾分け。
「ハーレイもこれを食べるといいよ」と、「ぼく一人では多すぎるから」と。
本当は一人でも食べ切れるくせに、一度その方法に気付いてしまえば分けて当然、ハーレイにも分けるのが正しい食べ方になってしまって。
(今から思えば、まるで恋人同士だな…)
あくまでお裾分けというものだったから。半分に分けて食べるものではなかったから。
一つのスプーンで、同じスプーンで食べていた。
ブルーが差し出して、自分が食べて。
シチューもスープも、同じ皿から一つのスプーンで、ブルーに掬って貰って食べた。
もう少しどうかと、遠慮しないでもっと食べてと言われるままに。
(そういうつもりのコレクションではなかったんだが…)
前の自分が倉庫に入れずに一種類ずつ抜き取っておいた非常食。ブルーのための非常食。
だが、嬉しかった。
同じ皿から一つのスプーンでブルーと一緒に食べていた食事。ブルーが「ハーレイの分だよ」と掬って食べさせてくれた、スープやシチューやビーフストロガノフ。
まだソルジャーではなかったブルーと二人きりで囲んだ秘密の食卓、温めた非常食だけが全てのささやかな食事。仲間たちには内緒の二人だけの宴。
スプーンは一人分しかないというのに、もう一人分を用意しようとは思い付きさえしなかった。自分のスプーンを取って来ようとは思いもしなくて、ブルーもそうは言わなくて。
ブルーが掬って差し出してくるのを食べていた。同じスプーンでブルーも食べた。
それを変だと思うことなく、非常食を二人で食べていた時代が終わるまでそのままだったから。食材の偏りが起こらなくなり、非常食のコレクションが要らなくなるまで続いたから…。
(あの頃から恋をしてたのか?)
もしかしたら、既に。
互いに、とうに。
同じ皿から同じスプーンで食べるなど嫌だと思う代わりに、それが普通だと思っていた。
自分もブルーも、なんとも思っていなかった。
スプーンで掬って食べさせたブルーも、食べさせて貰った方の自分も、当たり前のようにそれを続けた。スプーンをもう一本用意することを一度も思い付かないままで。
(…恋人だったら普通だよなあ?)
前の自分たちはしなかったけれど、互いに「あーん」と食べさせ合うこと。仲の良いカップルがそれをするのを今の自分は何度も見かけた。街のカフェテラスや公園のベンチで何度も、何度も。
(あれと似たようなことをしてたってことは…)
ブルーは「あーん」とは言わなかったけれど、食べさせてくれていたのだから。
自分用のスプーンを取って来いとも、自分で掬えとも言いはしないでいたのだから。
(…自覚が無くても、恋だったかもしれないなあ…)
そう思いながら残り少なくなったカレーライスを口に運んで、スプーンを眺めて。
(このスプーンで、だ…。一緒にカレーを食うことになっても許せるヤツっていうのはだ…)
小さなブルーは許せるけれども、他には親しか思い浮かばない。隣町に住んでいる両親。
血が繋がった両親の他にはブルーしかいないということは…。
やはり前の自分はブルーにとっくに恋をしていて、ブルーの方でも恐らくは、きっと。
(明日はブルーに話してみるか…)
ブルーがあの頃に恋をしていたかどうか、尋ねてみるのもいいだろう。
明日は日曜日で、ブルーの家へ行ける日なのだから。
次の日、昨夜と同じ食料品店に寄って温めるタイプのスープを買った。棚の前で暫し考えた末に二つ選んでレジへと運んで。
それを荷物の中に突っ込み、ブルーの家まで歩いて出掛ける。門扉の脇のチャイムを鳴らして、二階のブルーに手を振った。もちろんブルーは荷物の中身に気付いてはいない。
門扉を開けに来たブルーの母に、玄関先でスープの箱を渡して頼んだ。昼食にこれを持って来て欲しいが、温めた後は封を切らずにパックのままで運んで貰えないかと。
「キャプテン・ハーレイだった頃の思い出に繋がっているんですよ」
あの時代にもこういうスープがありましてね。ブルー君と何度も飲んだものです。
カップに注がれて届いたのでは、思い出の意味がありませんので…。
「そうですの? 面白そうなお話ですわね」
パックのままがいいということは、開ける時に何か失敗談でもあったんでしょうか?
きっと先生とブルーだけに分かる笑い話か何かですわね、ブルーに訊いたら膨れそうですわ。
あの子ったら、ソルジャー・ブルーだった頃に何をやっちゃったのかしら…。
いえ、先生に訊こうとは思いませんわよ、ブルーが膨れるだけですものね。
スープは忘れずに持って行きますわ、とブルーの母は笑顔で約束してくれた。きちんと温めて、封は切らずにスープカップと一緒に運ぶと。
二階のブルーの部屋に案内され、待っていたブルーと喋って、笑って。
午前中のお茶の時間は瞬く間に過ぎ、昼食が出来たとブルーの母がトレイを運んで来たけれど。シーフードピラフとサラダはともかく、空のスープカップ。パックに入ったスープが二種類。
「ごゆっくりどうぞ」と母が去った後、ブルーはテーブルの上を見詰めて。
「なに、これ?」
このスープって、どうしてカップに入ってないんだろう?
ママ、作る時間が無かったんだって言いたいのかなあ、今日のスープはレトルトです、って。
「いや、そいつは…。俺が買って来た土産なんだが、どっちがいい?」
カボチャのスープか、ホウレン草か。書いてあるだろ、その袋に。
「どっちも好きだよ、カボチャのスープもホウレン草も」
だからハーレイが先に選んでくれればいいよ。ぼくは残った方にするから。
「いいから、選べ。そいつが冷めちまう前に、どっちか一つ」
遠慮するな、と片目を瞑った。
これはお前のだと、特別なのだと、あの時のように。
冷めて不味くなる前に食べてしまえと、これはお前のものなのだから、と。
「ハーレイ、それって…」
もしかして、とブルーの瞳が丸くなって。
「このスープ、前のぼくたちが食べてた、あの食事の真似?」
ぼくがハーレイの部屋でコッソリ食べさせて貰った、非常食のスープやシチューとかの?
ハーレイにも「食べて」ってスプーンで渡して二人で食べてた、あれの真似なの?
「そうさ、今だと自分の分を食うしかないがな」
お前が俺に食べさせるっていうのは駄目だぞ、今の俺たちがあれをやったらマズイからな。
それで、お前はどっちにするんだ?
カボチャか、それともホウレン草か。
「えーっと…。ハーレイに一番最初に食べさせてたのがカボチャのスープだったから…」
ぼくはカボチャにしておくよ。今のハーレイは食べてくれないらしいけど…。
「当たり前だろ、ああいう食べさせ方ってヤツはだ、恋人同士の定番なんだ」
チビのお前は知らんかもしれんが、カフェテラスとかでよく見かけるぞ。
「恋人同士って…。あっ、そうか!」
見たことがあるよ、食べさせ合ってるカップルの人。あれってそういう食べ方なんだ…。
前のぼくは知らないままだったけれど、今のぼくならちゃんと分かるよ。
「なるほど、今度はチビでも分かる、と」
前のお前はサッパリ分かっちゃいなかったようだし、俺も気付いちゃいなかったんだが…。
傍から見てれば、さぞ仲のいいカップルに見えてただろうさ、あの頃の俺たち。
一緒に食ってただけなんだがなあ、一つの非常食を二人で分けてな。
しかし今では俺に食べさせるのは禁止だぞ、と小さなブルーに釘を刺してから。
ブルーがカボチャのスープの封を切るのを見てから、ホウレン草のスープの封を切って、自分のカップへと注ぎ入れて。
「なあ、ブルー。…前の俺たちが非常食を二人で食っていた頃…」
あの頃、恋をしてたと思うか?
まるで恋人同士みたいな食い方をしていた俺たちなんだが、お前は恋をしてたと思うか…?
「…どうなんだろう?」
ハーレイと一緒のスプーンは嫌じゃなかったけど、恋はどうかな…。
あれもやっぱり恋なんだろうか、ハーレイにせっせと食べさせてあげてたことを思うと?
「うーむ…。お前にもやはり分からんか…」
どうだったのか、と気になったからな、このスープを買って来たんだが。
お前が俺に恋をしてたか、その辺が俄かに気になったからな。
「んーと…。恋はどうだか分からないけど、ハーレイはぼくの特別だったよ」
特別だったから、同じスプーンで食べていたって嫌だなんて気はしなかった。
ホントのホントにハーレイは特別、ぼくの特別。
最初からね、とブルーが微笑んだ。
出会った時から特別だったと、あのアルタミラが滅ぼされた日に会った時から特別だったと。
「アルタミラって…。まさか、あそこで出会った時からの恋なのか?」
お前に自覚が無かったってだけで、あの時から恋をしていたと…?
「そうかもね、って思うんだ」
一目惚れってよく言うじゃない。ハーレイがぼくを助け起こしてくれた時から恋してたかも…。
お前、凄いな、って。小さいのに、って声を掛けてくれた、あの時から。
「そう言われてみりゃ、俺の方でもそうかもなあ…」
まるで気付いちゃいなかったが、だ。
あの地獄の中をお前と二人で走れたってことは、お前は俺の特別だったんだろう。
初めて会ったヤツだというのに、そんな気持ちがしなかった。
俺だって最初からお前に恋をしてたんだろうな、全く自覚が無かっただけでな。
「そうだといいな…。ぼくも最初からハーレイの特別だったんなら」
一目惚れして貰えたんなら嬉しいな。
前のぼくの頃の話だけれども、ハーレイがぼくに一目惚れをしてくれたんだったら。
だって…。
今のぼくはハーレイに一目惚れだよ、とブルーが言うから。
教室で会って、その瞬間に一目で恋に落ちたと言うから。
「それを言うなら俺だってだ」
お前に出会って、記憶が戻って。
そうなったらもう、恋に落ちるしかないってな。
前の俺が恋をしていたお前が戻って来たんだ、たとえチビでも一直線だ。
他のヤツらは目に入らないし、お前しか嫁に欲しくはないし…。
これが一目惚れではないと言うなら、この世の中に一目惚れなんぞは無いってことだろ?
「そうだね、ぼくがチビだから、うんと回り道をしなくちゃいけないけれど…」
このスープだって、ぼくが飲ませてあげると言ってもハーレイは飲んでくれないけれど。
でもね、前のハーレイがぼくのスープを飲んでくれてた頃、ぼくはまだまだチビだったよ?
ソルジャー・ブルーみたいに大きく育っていなくて、チビだったよ…?
「そいつは重々、分かっちゃいるが、だ」
あの頃は恋だと気付いてないから、有難く飲ませて貰っていたんだ。
恋をしている自覚があったら断っていたな、お前のスプーンで飲むのはな。自分用のスプーンを取って来ていたさ、お前がどうしても俺に食べさせたいと言っていたならな。
恋人同士のような食べ方をしていたくせに、二人とも気付いていなかった。
お互い、特別な相手だと思っていながら、それを恋とも思わなかった。
けれど今度こそは間違いなく一目惚れなのだ、と二人、楽しげに笑い合う。
この地球の上で出会った瞬間、二人同時に恋をした。運命の相手とまた恋に落ちた。
そうして、これからも恋をしてゆく。
小さなブルーが前と同じに育つ日を待って、結婚式を挙げて、永遠の愛を誓い合う。
二人、いつまでも、何処までも、恋を。
今度は誰にも隠すことなく、手を繋ぎ合って生きて、恋をしてゆく。
二人一緒に生まれ変わって来た、青い水の星に戻ったこの地球の上で…。
温める食事・了
※前のハーレイとブルーが、こっそり二人で食べていたのが非常食。二人で一つを。
きっとその頃から、お互いに恋をしていたのでしょう。二人とも気付いていなかっただけで。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれなかった日。ちょっぴり寂しい、今日の夕食。料理はとっても美味しいんだけれど、ハーレイも一緒に食べたかったな、って。
(ハーレイも今頃、晩御飯かな?)
料理は得意だと聞いているから、仕事から帰って手早く作って。それとも凝った何かにしようと格闘中かな、食料品店で色々と食材を買い込んで来て。
(どっちもありそう…)
ハーレイが作る料理だったら、きっと何でも美味しいから。パパッと作った炒飯とかでも、待ち時間が長いオーブン料理や煮込み料理の類でも。
ぼくも食べたい、って思っていたら。ハーレイの夕食は何なんだろう、と考えていたら。
そのテーブルでパパが一言。
「ママ、頼んでいたアレは出来てるかな?」
「ええ」
(まだ何かあるの?)
パパが注文していた料理が出て来るのかな、と思ったんだけど。平日だけれど、お酒だろうか。軽くビールを一杯飲みながら、何かおつまみ、と考えたけれど。
どうぞ、とママが棚から取って来たもの。それは出来上がった料理やおつまみじゃなくて…。
小さな箱に刷られたお店の名前で一目で分かった。パパの名刺。
(お仕事用?)
ママが近所の印刷屋さんに時々作りに行っているから。
きっとそうだよ、と眺めていたら、「こいつはいいな」って笑顔のパパ。
お仕事用の名刺じゃなくって、知り合った人に渡す名刺の方だった。かしこまっていない感じの名刺。もっと砕けた、自己紹介を兼ねて気軽に渡せるタイプの名刺。
ふうん、と見ていただけだけれども。
この前に作った名刺とデザインが変わっているんだな、って見ただけだけれど…。
食事が終わって、部屋に戻って考えた。さっきのパパの名刺のこと。
知り合いに渡す名刺は気分でデザインを変えているけど、お仕事用の方はいつでも同じ。パパの趣味も入っているんだろうけど、うんと堅苦しい印象の名刺。
(お仕事用と、知り合い用と…)
名刺が二種類、渡す相手が誰かによって渡す名刺も変わってくる。間違えて渡したら、お仕事の時は失礼だったりするんだろう。あの堅苦しい名刺の代わりに知り合い用のを渡しちゃったら。
名刺はどっちも自分が誰かを表すものなのに、大人は大変。
(ママだと一種類しか無いんだけどね?)
会社に行ったりするわけじゃないし、知り合った人に渡す分しか作っていない。リボンを結んだ花束が端っこに浮き出している名刺、ママの好みのお洒落な名刺。
パパが作っている知り合い用の名刺もそれに似ているかな、カクテルグラスやコーヒーカップや色々なものを気分で選んで入れているから。今日の名刺はマグカップだっけ。
パパが言うには、そういう模様も話の切っ掛けになるらしい。何をお飲みになるんですかとか、そういったトコから始まる会話。お仕事用の名刺はつまんないけど、知り合い用だと面白い。
(名刺、ぼくはまだ持っていないし…)
子供には名刺なんかを交換する場所も習慣も無いし、当然、名刺は持ってない。
ぼくが名刺を持つようになる日は、まだまだ先の話なんだ。
(ハーレイのお嫁さんになったら作るんだよ)
ママが持ってる名刺みたいに、知り合い用のを一種類だけ。今のぼくには将来の夢はお嫁さんの他には何も無いから。仕事をしている姿なんて想像出来ないから。
ハーレイも「お前は家に居て、俺の送り迎えをしてくれりゃいいのさ」なんて言ってるんだし、きっと仕事はしないと思う。お仕事用の名刺は要らない。
ハーレイのお嫁さんになった時には、どんな名刺を作ろうか?
ママのみたいな花束つきの名刺は男のぼくだと少し変かな、お嫁さんならそれでいいのかな?
(…名刺の決まりなんか、ぼく、知らないしね…)
ハーレイと相談するのが一番だろうか、お嫁さんのぼくにピッタリの名刺。ハーレイと暮らしているんです、って自己紹介をしながら渡すのに相応しいデザインの名刺。
(うん、それがいいよ)
ぼくはハーレイのお嫁さんだし、と思ったんだけれど。
(…あれ?)
大人だったら持っている名刺。初めて会った人に渡して自己紹介をする名刺。
ハーレイだって持っている筈、作っていない筈がない。
(お仕事用と、知り合い用…)
学校の先生をしているハーレイの名刺と、学校とは無関係の場所で渡す名刺と。パパのが二種類あるのと同じで、ハーレイだって、きっと二種類作っているんだ、自分の名刺を。
(どんな名刺を持ってるんだろ、ハーレイって…)
それに、その名刺。ぼくの家にはあるんだろうか?
ハーレイと初めて会った途端に、聖痕現象を起こして病院に運ばれちゃった、ぼく。ハーレイは病院まで付き添ってくれて、その日の夜には家を訪ねて来てくれた。
おまけにぼくの守り役ってことになってるんだし、自分の名刺をパパとママとに渡していそう。大人同士だったら名刺の交換、それがどうやら基本らしいし…。
(でも、渡していないってこともあるよね…)
名刺なんかを交換するより、もっと大事な話が色々あっただろうから。
ぼくの家には無いかもしれない、ハーレイの名刺。どんな名刺か見てみたい名刺。
でも、訊けない。パパとママには今更訊けない。
「ハーレイの名刺って、貰ってた?」なんて今頃になって訊いたら何かと思われる。
ママなら、きっとこう言うんだ。「ハーレイ先生の住所だったら知ってるでしょ?」って。
だけど気になる、ハーレイの名刺。見たくてたまらない、ハーレイの名刺。
仕事用のも、知り合い用のも、どっちも一度は見てみたいから。
(ハーレイの名刺…)
今度ハーレイが来たら訊いてみよう、とメモに書こうとしたけれど。ぼくが学校に行ってる間にママが来たなら、ぼくが名刺を作りたいのかと勘違いをされてしまいそうだし…。
(これで良し、っと)
パパの名刺を机の端っこに一枚、置いた。
前に貰った知り合い用のを勉強机に。カクテルグラスの模様が隅っこに浮き出してるのを。
名刺のことを訊くんだよ、と決心してたら、その次の日。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから、夕食の前にお茶を飲みながら訊いてみた。テーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けて。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイ、名刺は持っている?」
「名刺?」
「そう、名刺。大人は名刺を持っているでしょ、自己紹介用の名刺だよ」
初めて会った人と交換するヤツ、ハーレイも持っているよね、きっと。
「そりゃまあ…なあ?」
俺も立派な大人なんだし、もちろん名刺は必需品だが。
「それ、ぼくに見せて」
見てみたいんだよ、ハーレイの名刺。どんなのかな、って思っちゃって。
「かまわないが…」
いきなり名刺とは何を言い出すんだ、お前、誰かに名刺を貰ったのか?
「違うよ、昨日、パパのが出来て来たのを見たんだよ」
それでハーレイのも見たくなっただけ。どういう名刺を渡すのかな、って。
「なんだ、単なる好奇心か」
そうだろうなあ、チビのお前に名刺を渡すような大人は珍しいからな。
ほらこれだ、とポケットに入れてあった名刺入れから出て来た名刺は先生の名刺。
ハーレイが先生をしているぼくの学校の校名と住所が入った、仕事用の名刺。
「…これだけなの?」
たったこれだけ、ハーレイの名刺?
「これだけって…。まだ何かあるのか?」
「知り合い用の名刺は無いの? お仕事じゃなくて、他の所で出会った人に渡すための名刺」
「ああ、そっちもか」
名刺と言うから、てっきりコレかと思ったんだが…。
俺はお前の先生だしなあ、学校の名前が入った方だと考えるのが普通だよな?
こっちだな、と別の名刺が出て来た。
テーブルの上に二枚の名刺。仕事用のと、プライベートで使う知り合い用のと。
ぼくはしげしげと二枚の名刺を見比べてから。
「ハーレイ、この名刺、ぼくの家にもくれた?」
渡してくれたの、ぼくとハーレイとが出会った頃に?
「ああ。お母さんたちに渡した筈だがな」
病院だったか、後でお前の家に来た時か、どっちだったか俺も記憶が曖昧なんだが…。
なにしろ前の俺の記憶が一気に戻った直後だ、どうもハッキリしないんだよな。
「渡したって…。どっちの名刺を?」
「両方だが」
「えーっ!」
ハーレイ、両方渡しちゃったの、パパとママに?
「当然だろうが、俺の職業も俺の住所も、どっちも必要になるんだからな」
俺はお前の守り役になるんだ、ついでにキャプテン・ハーレイだぞ?
教師としての俺も、仕事を離れている時の俺も、どちらも「これからよろしく」だろうが。
「ぼくはそんなの、聞いていないよ!」
ハーレイの名刺は初めて見たよ、と叫んでしまった。
今日まで全く知らないままだった宝物。ぼくの家の何処かにハーレイの名刺。
仕事用のと知り合い用のと、二枚の名刺。
ぼくが貰ったわけじゃないけど、ハーレイが置いて行ったもの。
(これがハーレイの名刺…)
よく見なくちゃ、と二枚の名刺を覗き込んでいたら、気が付いた。
仕事用のも知り合い用のも、何かマークがついている。二枚とも同じマークじゃない。仕事用の名刺と知り合い用では、ついてるマークが違うから。
「これ、なあに?」
何のマークなの、ハーレイの趣味? これとそれとじゃ違うマークになっているけど…。
「ああ、それはな…」
先生としてのハーレイが使う名刺に入った二つのマークは、柔道と水泳を教えられるという印。柔道と水泳を表すマークが一つずつ。
ハーレイは体育の先生じゃないけど、その二つはプロだという印。その気になったら授業だって出来る腕前があるという印。先生同士で交換したなら、そのマークだけで分かるんだって。
「ふうん…。ぼくにはマークじゃ分からないけど…」
こっちの知り合い用のについてるマークは?
これも何かの目印なの?
「目印と言うか…。俺の肩書きみたいなモンだな、柔道のな」
学校の教師をしていない時はこっちの教師ってことになるんだ、と言われてビックリ。ついてたマークはハーレイが所属している柔道の道場を示すマークで、道場の先生だけしか入れられない。
「ハーレイ、柔道の先生だったの?」
たまに道場に行って教えているって聞いていたけど、先生のマークが貰えるほどなの?
「それなりにな」
もちろん上には上がいるがだ、学生時代に既に選手にならないかって話があった俺なんだぞ?
それから二十年近くも経っているんだ、先生と呼ばれる立場にならなきゃ情けないだろうが。
ぼくが全く知らないままだった、柔道の先生をしているハーレイ。
考えてみれば選手の誘いが来るほどなんだし、先生になっても不思議じゃない。水泳の方だって選手の話があったんだっけ、と気が付いたから。
「水泳の先生のマークは無いの?」
学校で先生が出来るってことは、水泳の先生のマークだって持っていそうだけれど…。
「水泳の方は道場ってヤツが無いからなあ…。プロ向けのクラブはあるんだが」
そういうトコまで出掛けて行くより、ジムで泳いでる方が気楽でいいのさ。
柔道と違って一人でも出来るスポーツだしなあ、自分のペースが一番だってな。
だから先生のマークは無いんだ、って笑うハーレイ。学校で教える腕があったら充分だ、って。
(分かる人が見たら、このマークだけでハーレイの腕が分かるんだ…)
学校で柔道と水泳を教えられることや、柔道の先生をしていることや。
名刺だけで分かる、ハーレイの中身。
仕事用のでも、知り合い用でも、どっちもハーレイの特徴が出てる。マークだけで。
それに知り合い用の名刺の方なら、家の住所も書いてある。もちろん通信番号だって。仕事用の名刺の方でも、学校に居る時のハーレイに繋がる通信番号が刷られているし…。
(ハーレイがぎっしり…)
ほんの小さな名刺だけれども、ハーレイの情報が詰め込まれている二枚の名刺。
そう思ったら欲しくなって来た。テーブルの上の二枚の名刺。
くれるのかな、って期待したのに。
「もういいな?」
ちゃんと解説もしてやったんだし、もう充分に見ただろう?
ヒョイと名刺をつまみ上げたハーレイ。名刺入れに戻そうとしているから。
「仕舞っちゃうの?」
「見せびらかすようなモンでもないしな」
俺の名刺は特に凝ってるってわけでもないし…。単にマークが入ってるだけだ、普通の名刺だ。
紙だってごくごく基本のヤツだし、模様だって何も入ってないだろ?
気が済んだか、って二枚の名刺は名刺入れへと戻された。
そうやって消えた、ハーレイの情報がギュッと詰まった宝物。
何事も無かったかのように夕食を食べて、「またな」と帰って行ったハーレイ。
(ハーレイの名刺…)
どうにも諦め切れない名刺。もう一度見たい、ハーレイの名刺。
次の日、学校から帰って来て。
おやつを食べた後、ママが庭仕事に出ている間に名刺入れを広げて探してみた。今までにパパやママが貰った名刺を仕舞ったファイルがダイニングの棚に入っているから。
大きさの割に重たいそれを引っ張り出して来て、床の上に置いてめくってみる。名刺をズラリと並べたページが幾つも、幾つも。
(…どういう順番?)
ぼくたちが住んでいる地域は昔は日本と呼ばれた辺りで、人の名前は「あいうえお」順になっているのが基本だけれども、そういう順番じゃないみたい。アルファベットの順でもないし…。
名刺を貰った順番なんだ、と気付くまでの間に少しかかった。ファイルは名刺をしっかり包んでガードしてるから、古い名刺も新品同様、それじゃ全く分からない。
やっと見付けた、名刺の隅っこに書かれた日付。後に行くほど最近の日付。
(五月の三日…)
ハーレイと再会した日はその日だから、とページをめくった。今年の五月頃の日付入りの辺りにハーレイが渡した名刺がある筈、と順にめくって…。
(あった…!)
他の人の名前の名刺と並んで、二枚。忘れようもないハーレイの名刺。
仕事用のと、知り合い用のと、二枚の名刺がファイルにきちんと収まっていた。マークが入ったハーレイの名刺、ハーレイの情報がギュッと詰まった小さな紙が。
(昨日、見たのとおんなじだよ…)
見せて貰った名刺とそっくり、水泳と柔道を教えられる資格を示すマークと柔道の道場の先生のマーク。どっちもハーレイを表すマーク。それに住所に通信番号。
(いいな…)
この名刺がとても欲しいけれども、貰えない。
パパとママが貰ってファイルに仕舞った大切な名刺、ぼくのじゃないから抜き取れない。ぼくの家に置いてあるからと言って、抜き取って部屋には持って行けない。
欲しいのに、って覗き込んでいたら、ママが庭から戻って来る音。
(ママだ…!)
悪いことをしていたわけじゃないけど、慌ててファイルを元の棚へと押し込んだ。動かしたってことが分からないよう、周りの本とかとキッチリ揃えて。
だって、恋人の名刺を探していたんだもの。欲しいと見惚れていたんだもの。
ママには気付いて欲しくなんかないし、名刺を探していたことは秘密。
(ハーレイの名刺、欲しいんだけどな…)
どうすれば貰えるんだろう?
ダイニングのファイルからは抜き取れないけど、見付けちゃったら、もうたまらない。欲しくて欲しくて我慢できない。ハーレイの情報がギュッと詰まった、あの名刺。ハーレイの名刺。
持っているのはハーレイだから、と土曜日に訪ねて来てくれたハーレイに言った。
名刺、頂戴、って。
なのに…。
「お前の家にはもうあるだろうが」
俺は渡したと言った筈だぞ、お前のお父さんたちに。
「うん、見付けた」
名刺を整理してあるファイルに入れてあったよ、ハーレイの名刺。仕事用のも知り合い用のも。
「なら、それだけでいいじゃないか」
二枚ともちゃんと入ってたんだろ、俺が渡すのを忘れていたなら話は別だが。
「なんで?」
ぼくの家にあったらそれだけでいいって、どうしてそういうことになるわけ?
「名刺は見せびらかすようなモンじゃないしだ、プリントみたいに配るモンでもないからな」
一度渡せばそれでいいんだ、何枚も配るものじゃないんだ。
「パパ、配ってるよ?」
ハーレイに名刺を見せて貰った前の日にだって、名刺、新しいのを作っていたよ。
前の分をすっかり配っちゃったから作ってるんでしょ、パパは沢山配る筈だよ。
「そいつは交換してるんだろうが」
「交換?」
「まあ、挨拶といった所だな」
大人は名刺を渡すというのは知ってるんだろ、渡された人は自分の名刺をお返しに渡すっていう一種の決まり事だな。知り合いが増えれば渡す名刺も増えるんだ。だから何枚でも要るってな。
大人ってヤツは付き合いが広がる一方だしなあ、名刺はいくらでも必要なのさ。
しかし、一回渡した相手に二度目というのは失礼なんだ。前に会ったことを忘れています、って言うのと同じだからな。前に会った時と仕事や趣味が変わっていたなら話は別だが…。
そういうわけでだ、お前の家には俺の名刺が既にある。二度目を渡しちゃ失礼ってモンだ。
大人の挨拶、名刺の交換。
それをやったら貰えるんだとは分かったけれど。
ぼくの家にハーレイが二度目の名刺をくれるとなったら失礼だけれど、ぼくが貰うなら話は別。前の名刺はパパとママの分で、ぼくの分ではないんだから。
(ハーレイに名刺を渡しさえすれば、お返しに名刺…)
貰えるらしい、と思うけれども、問題が一つ。
(ぼく、名刺が無い…)
子供のぼくは名刺なんかは持ってない。落とし物をした時に分かるように、ってパパから貰った名刺を鞄に入れたりしているくらいの小さな子供で、自分の名刺は存在しない。
名刺が無ければ交換が出来るわけがなくって、ハーレイの名刺は貰えないけど。
でも、欲しい。ホントに欲しくてたまらない。
日曜日にまたハーレイと会ったら、一緒に一日を過ごしちゃったら、もっと欲しくなった。
ハーレイの名刺、ハーレイの情報がギュッと詰め込まれた二枚の名刺が。
ぼくの頭は名刺で一杯、大好きなハーレイの名刺で一杯。
もちろん頭の大部分を占めているのはハーレイだけれど、そのハーレイの名刺だから。
一晩寝たって忘れられなくて、学校へ行っても頭から消えてくれなくて。
(名刺…)
この間、ママがパパの名刺を作っていたのは近所の印刷屋さんだったっけ。
其処へ行ったら作れるのかな、と学校から帰って広げた新聞に、丁度、広告。おやつのケーキも放り出しちゃってチェックしてみた、お店の広告だったけど。
(五十枚から…)
名刺の印刷は五十枚から承ります、って書かれてた。そんなに要らない。一枚でいい。五十枚も名刺を印刷したって、何処にも配れやしないんだから。友達は名刺を持っていないし…。
それに印刷するものがない。いわゆる肩書き、仕事というヤツ。
ママはパパのお嫁さんで、それも立派な仕事の一つで、何も書いてない名刺だけれど。
いつかハーレイのお嫁さんになった後のぼくも、そういう名刺になるんだろうけど。
今は十四歳にしかならない子供で、何の仕事もしていないから…。
(一年生、って印刷出来ないよね…)
学校の生徒は仕事じゃないから。名刺を作りに出掛けようにも、今のぼくでは話にならない。
印刷屋さんに「どう書きますか?」って訊かれても返事のしようがないんだ、子供だから。
プロの印刷屋さんで刷って貰うことは出来そうもなさそうな、今のぼく。
だけどハーレイの名刺は欲しいし、そうするためには名刺の交換、ぼくの名刺は必需品。
(…こうなったら自分で作るしか…)
あれこれ悩んで考えた末に、パパの名刺のサイズを測って、画用紙に慎重に線を引いていった。縦がこれだけ、横がこれだけ、って。
失敗するってこともあるから、画用紙いっぱいに引いた線。名刺サイズの四角が沢山。
(十枚くらい切ればいいかな…)
端が歪んだりギザギザになったりしないように、って息を止めて切り取った十枚の紙。ぼく用の名刺を作るための用紙。どれも立派に名刺っぽく見える真っ白な紙の出来上がり。
机の上を綺麗に片付け、一枚選んで深呼吸してから頑張ってきちんとペンで書き込んだ。ぼくの名前と、それから住所。下書きも目印の線も書けないんだから、これがホントの真剣勝負。
(…これで良し、っと!)
ママの名刺みたいに花束は浮き出していないけれども、字だって印刷じゃないけれど。
なんとか名刺には見えると思う。名刺なんです、って言い張ったなら。
(この名刺で、名刺、貰えるかな…?)
ドキドキしながら出来上がった名刺を見詰めていたら、チャイムが鳴って。
仕事帰りのハーレイが来てくれたから、ママがお茶とお菓子を置いてった後で、さっきの名刺を勉強机の引き出しの中から取り出して来て「これ」って差し出した。
ぼくの手作り、画用紙を切って作った名刺。
「ハーレイ、これ、ぼくの名刺だけれど…」
これを渡したら、ハーレイもぼくに名刺をくれる?
「ほほう…。手作り感の溢れる名刺ってヤツだな、画用紙を切って手書きってトコか?」
「そうだけど…。やっぱりこういう名刺だと駄目?」
印刷屋さんで作って貰った名刺でなくっちゃ、ハーレイの名刺、貰えない?
「いや、そこまでは言わないが…。ここまでされたら仕方ないよな」
お前、よっぽど欲しかったんだな、俺の名刺が。
俺が作った名刺じゃなくって、印刷屋に頼んだ大量生産品で有難味も何も無いのになあ…?
まあいいか、と名刺入れを引っ張り出したハーレイ。
ぼくが渡した名刺と交換、知り合い用の名刺を一枚貰った。
ハーレイの住所と通信番号が書かれた名刺で、柔道の道場の先生のマークも入ってる。大喜びで受け取ったぼくだけれども、それっきり何も出て来ないから。
ハーレイの名刺は二種類の筈なのに、一枚きりしか貰ってないから。
「えーっと、ハーレイ…。仕事用のは?」
ぼく、一枚しか貰っていないよ、名刺、もう一種類あった筈だよね?
「ふうむ…。あっちは仕事用だと話さなかったか、教師としての俺の名刺だと」
お前、仕事は何なんだ?
あれを渡すのは仕事で出会った人なんだがなあ、仕事用だしな?
お前のお父さんたちにも教師としての自己紹介の意味で渡したんだが、あの名刺。
「あっ…!」
ごめん、仕事の付き合いでないと渡せないんだね、あっちの名刺。
あれが欲しいなら、ぼくも仕事用の名刺を作ってハーレイに渡さなきゃ駄目なんだね…!
ちょっと待って、と勉強机の所へ走って名刺用の紙を取り出した。
(余分に作っておいて良かった…!)
十枚も用紙を切っておいたから、まだ九枚も残っているから。
その内の一枚を机の上に置いて、急ぎながらも文字を揃えて書き込んだ。ぼくの名前を真ん中に書いて、後は学年とぼくのクラスと。それに学校の名前も書いて…。
「これでいい? 学校の住所も書いた方がいい?」
「そいつは俺も同じだからなあ、学年とクラスだけでいいだろ。お前の仕事は生徒だしな」
交換だ、ってハーレイは笑いながら名刺をくれた。
仕事用のを、柔道と水泳を教えられるって印のマークが入った先生の名刺を。
「ありがとう、ハーレイ! 大事にするよ!」
この名刺、ぼくの宝物だよ、二枚とも。大切にするね、きちんと仕舞って。
「ああ、俺もな」
こいつは大切にしないとなあ…。お前の名刺。
「なんで? その名刺、本物じゃないよ?」
印刷屋さんで作っていないし、ぼくが画用紙を切っただけだし…。
名刺っぽく見えるようには頑張ったけれど、それ、偽物の名刺なんだよ?
「いやいや、立派な名刺だってな、こいつはな」
お前が手作りしたんだろう?
世界に二つとない名刺なんだ、どんな印刷屋に頼んだとしても絶対に作れやしないってな。
こいつは俺の宝物だ、ってハーレイは二枚の名刺を大切そうに見ているけれど。
画用紙で作った偽物の名刺を、目を細めながら見ているけれど。
あんな偽物の名刺なんかよりも、ハーレイがくれた二枚の名刺の方が本物、よっぽど立派。
ぼくにとってはハーレイの名刺が宝物だし、本物の名刺なんだから嬉しいし…。
こういうのをなんて言うんだったかな、海老で鯛を釣るって言うんだったっけ?
画用紙の名刺で本物の名刺を貰ったよ、って喜んでいたら。
「海老で鯛だと? チビだな、お前」
分かっちゃいないな、そこはお前が喜ぶ所じゃないんだが…。
「どうして?」
ハーレイの名刺が貰えたんだよ、嬉しくない筈がないじゃない!
それとも言い方、間違えてるかな、海老で釣るのは鯛じゃなかったかな…?
「いいや、ヒラメでもカレイでもなくて、そこは鯛だが…」
まあいいさ。俺と結婚しようって頃にはお前も分かるさ、こいつの値打ち。
名刺欲しさにお前が作った、この偽物の値打ちがな。
手作りで世界に一枚きりだ、ってハーレイは本当に嬉しそうなんだけど。
とても大事そうに名刺入れに画用紙の名刺を仕舞っているけど、偽物でもかまわないのかな?
(印刷屋さんで作って貰った、本物がいいと思うんだけど…)
そう思うけれど、ハーレイがそれでいいと言うなら、いいんだろう。
画用紙で作った名刺だったけど、海老で見事に大きな鯛を釣り上げられた、ぼく。
ぼくの宝物が一気に増えた。
ハーレイの情報がギュッと詰まった素敵な名刺。
それが二枚も、仕事用のと知り合い用のと、合わせて二枚。
どっちも大切な宝物。
ぼくが作った偽物の名刺で貰えた本物の名刺、ハーレイの名刺。
これの方が絶対、値打ち物だよ、ハーレイに渡した画用紙の名刺なんかより…。
名刺・了
※ハーレイの名刺が欲しくなってしまったブルー。見せて貰ったら、その分、余計に。
けれど名刺は「交換するもの」。画用紙で名刺を作ったお蔭で、宝物がまた増えました。
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