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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(…これが野菜で出来てるの?)
 本当に、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 綺麗な花や葉っぱの形に彫られた彫刻。鳥や龍だってあるのだけれども、その材料はどれも…。
(野菜に、フルーツ…)
 キュウリで出来た花や白鳥、それから亀。ニンジンで彫られた龍や火の鳥。赤いカブラを彫った薔薇やら、メロンを丸ごと使って彫り上げた花籠なんかも。
 材料はこれ、と言われなければ分からないほどの芸術品。本物そっくりに見える花まで。
 この作品たちは名前もそのまま、ベジタブルカービングにフルーツカービング。野菜を彫ったらベジタブル。果物を彫ったら、フルーツカービングになるらしい。
(復活して来た文化なんだ…)
 SD体制が崩壊した後、復活して来た様々な文化。遠い昔に地球のあちこちで生まれた料理や、伝統文化や、他にも色々。
 この彫刻たちも、その一つ。元はタイという国の宮廷の文化。食卓を美しく彩るために、様々な花や鳥などを彫った。野菜に果物、食べられる素材ばかりを使って。
 今の時代は趣味でやる人が多いという。タイの文化を復活させた地域はもちろん、この地域にもいる愛好家たち。
 新聞に載っている作品の一部は、この地域の人が彫ったもの。花も、細かく彫られた鳥も。
(柔らかい材料を彫るんだしね?)
 野菜や、パイナップルなどの果物。歯で簡単に噛み切れるのだし、木彫りや石の彫刻とは違う。楽々と彫れて、簡単なのだと思ったのに。
 愛好家が多いのも、直ぐに上達出来るからだと考えたのに…。



 嘘、と大きく見開いた瞳。新聞の記事を読み進めたら。
(使うの、ナイフが一本だけなの?)
 ベジタブルカービングも、フルーツカービングも、専用のナイフが一本だけ。道具はそれだけ、どちらにも使える共通のナイフ。相手が野菜でも、果物でも。
 鳥やら花やら、色々な形を彫り上げなくてはいけないのに。細かい部分まで彫り込まなければ、繊細な鳥は出来上がらない。翼を広げたキュウリの白鳥も、誇らしげなニンジンの火の鳥だって。
(こんなに細かいのを彫っていくのも…)
 メロンを丸ごと刳りぬいた花籠、それを作るのもナイフ一本。途中で道具を変えたりはしない。挑む相手が野菜だろうと、果物だろうと。
 硬い部分を彫ってゆく時も、柔らかな部分に細かい彫刻を施す時も。
(彫刻刀は使わないんだ…)
 初心者向けの教室だったら、用意しているらしいけれども。普通の彫刻と同じように。
 どういう風に彫ればいいのか、初心者にはまるで謎だから。野菜や果物の硬さがどうかも、まだ見当がつかないから。
(…コツを掴んだら、彫刻刀は卒業…)
 これからはナイフを使いましょう、と渡されるナイフ。それも一本、彫刻刀なら色々あるのに。目的に合わせて、違うタイプのを使えるのに。
(…何を彫るのも、このナイフだけ…)
 凄い、と改めて眺めた作品の数々。花も、花籠も、鳥たちも、龍や亀なども。
 ナイフ一本でこんなに彫れるだなんて、と。花を彫るのも、鳥の羽根を彫るのも、道具は同じ。
 きっと、ナイフをどう使うかで変わる彫り方。こう彫りたいなら、こんな具合、と。



(ぼくには無理…)
 そんな器用な彫り方はとても出来ないよ、と感心しながら戻った部屋。おやつのケーキと紅茶をのんびり味わった後で、もう一度さっきの新聞を見て。
 勉強机の前に座って、考えてみたベジタブルカービング。それにフルーツカービングも。
 人間が地球しか知らなかった頃に、タイで生まれた工芸品。ナイフ一本だけで彫り上げる、花や鳥たち。野菜や果物、食べられる材料だけを使って。
 どれも見事なものだったけれど、自分にはとても彫れそうにない。ナイフしか使えないのでは。大まかに彫るのも、細かい模様を刻み込むのも、全く同じナイフだけでは。
 美術の授業で彫刻刀を使うのだって、鮮やかとは言えない腕前の自分。
(おっかなびっくり…)
 彫刻刀の刃は鋭いから、先生に何度も脅された。木を削っていて、自分の手までウッカリ一緒に削らないように、と。
 手を滑らせたら削ってしまうし、そうでなくても何かのはずみで削りがちだから、と。
 それから、笑顔で注意もされた。「シールドなんかは反則ですよ」と。
 今の時代は、サイオンは使わないのがマナー。彫刻刀で削ってしまわないよう、手にシールドを張るのは反則。あくまで自分で注意すること、それが大切なことだから、と。
(反則したくても、出来ないから!)
 やっている子も多かったけれど、使えなかった反則技。サイオンを上手く扱えないから、片手にシールドを張っておくのは無理。
(…両方の手にだって張れないよ…)
 彫刻刀での怪我を防ぐシールド、それを左手にだけ張りたくても。彫刻刀の刃が怖くても。
 いつもビクビク、怪我をしないかと。手まで一緒に削らないかと。



 幸い、一度もしていない怪我。とても慎重にやっていたからか、たまたま運が良かったのか。
 彫刻刀で怪我をした子は、何人か見ているのだから。保健室に連れて行かれた子たち。
(ぼくが果物や野菜を彫ろうとしたら…)
 きっと怪我してしまうのだろう。今日まで無事に過ごして来たのに、あっさりと。
 野菜はともかく、果物は滑りやすそうな感じ。甘いメロンもパイナップルも、みずみずしい分、水気がたっぷり。彫っている間に、ツルッと滑ってしまいそう。
 おまけにナイフ一本で彫ってゆくのだから、余計に手元が危ういだろう。彫刻刀とは違うから。
(力加減が難しそうだよ…)
 どういう具合に彫りたいのかは、ナイフを握った自分次第。彫刻刀なら、目的に合わせて選んで替えてゆけるのに。「今度はこっち」と。
 そうする代わりに、変えるナイフの使い方。刃先で彫るとか、全体を上手く使うとか。
(使い方、想像もつかないんだけど…)
 ナイフなんかでどうやるの、と首を傾げても分からない。繊細な模様の彫り方も。クルンと中を刳りぬいた花籠、それをナイフで彫る方法も。
 あれを彫る人たちは器用だよね、と本当に感心してしまう。ナイフ一本で色々な形、花も鳥も、龍も作るのだから。
(ぼくと違って、ホントに器用…)
 自分だったら、出来上がる前に怪我をして終わり。ナイフでスパッと指とかを切って。大騒ぎで怪我の手当てをするだけ、絆創膏や傷薬で。
(絶対、そっち…)
 そうなるのが目に見えている。ナイフ一本で挑んだら。
 野菜や果物、それを使って花や鳥たちを彫り上げようと挑戦したら。



 世の中には器用な人がいるよね、と感動させられるベジタブルカービング。果物を使うフルーツカービングも。
 彫刻刀も使わずに彫るなんて、と技術の高さを思ったけれど。ナイフ一本で仕上げる腕前、その素晴らしさに脱帽だけれど。
(…あれ?)
 ナイフ、と掠めた遠い遠い記憶。ナイフで彫ってゆくということ。
 前のハーレイもそうだった、と蘇って来た前の自分の記憶。何度も目にした、ハーレイの趣味。木の塊から色々なものを彫っていた。実用品から、宇宙遺産のウサギまで。
(あのウサギ、ホントはナキネズミで…)
 宇宙のみんなが騙されてるよ、と呆れるしかない木彫りのウサギ。今の時代は博物館にあって、百年に一度の特別公開の時は長蛇の列。
 ナキネズミだとは誰も知らないから。「ミュウの子供が沢山生まれますように」と、ハーレイが彫ったウサギのお守り、そう信じられているものだから。
 ナキネズミがウサギに化けたくらいに、酷い腕前の彫刻家。前のハーレイはそうだったけれど、使った道具はナイフだけ。それも一本きりのナイフで、彫刻刀は使わなかった。
 何を彫るにも、いつでもナイフ。それだけを使って作った木彫りの作品たち。
(ハーレイ、ホントは器用だったの?)
 あまりにも下手な彫刻だったし、不器用なのだと頭から思っていたけれど。不器用すぎる下手の横好き、そうだと評価していたけれど。
 ナイフ一本で彫っていたなら、ベジタブルカービングやフルーツカービングと同じこと。
 新聞で眺めた綺麗な彫刻、あれを彫るのもナイフ一本。前のハーレイがやっていたのと同じに。
(木の方がずっと硬いんだから…)
 果物や野菜よりも硬い素材を、ナイフ一本で彫っていたハーレイ。彫刻刀を使いもせずに。
 もしかしたら、芸術的センスが無かっただけで、本当は器用だったのだろうか。ナイフがあれば何でも彫ることが出来たハーレイは。…酷すぎた腕の彫刻家は。



 そうだったのかも、と今頃になって気付いたこと。前のハーレイは器用だったのでは、と。
(芸術品の出来は最悪だったけど…)
 ナキネズミがウサギに化ける腕だったけれど、実用品の方は違った。スプーンとかなら、見事に仕上げていたハーレイ。注文する仲間が大勢いたほど、評価が高かった木彫りの実用品。
 それを思うと、彫刻の才能はあったのだろうか。まるで才能が無かったのなら、ナイフ一本では無理だという気がしてくる木彫り。彫刻刀を使っていいなら、別だけれども。
(スプーンを一本、彫るにしたって…)
 自分にはとても彫れそうにない。ナイフ一本しか使えないのでは。
 彫刻刀を使って彫ろうとしたって、木の塊から彫るのは無理。どう削るのかが分からないから。鉛筆で下絵を描いてみたって、大まかな形を削り出すのも難しそうに思えるから。
(やっぱりハーレイ、才能があったの?)
 あんなに下手くそだったのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、ハーレイ、器用だった?」
 本当は手先が器用だったの、ハーレイは…?
「はあ?」
 何の話だ、と目を丸くしているハーレイ。「料理の話か?」と。「包丁さばきは自信があるが」などと言っているから、「そうじゃないよ」と首を横に振った。
「今のハーレイだと、料理なのかもしれないけれど…。前のハーレイの話だよ」
 木彫りで色々作っていたでしょ、だから手先が器用だったのかな、って…。
 ハーレイ、何でも作れたから。
「ほほう…。俺の芸術をやっと認めてくれたのか?」
 今のお前にも馬鹿にされたが、ようやく腕を分かってくれたか。いいだろ、例のナキネズミ。
 勝手にウサギにされちまったが、あれは立派にナキネズミだしな?
「そっちじゃなくって、前のハーレイの彫り方だよ」
 ナイフ一本で彫っていたでしょ、どんな物でも。…スプーンも、他の芸術品も。
「その通りだが?」
 あれさえあれば何処でも彫れたし、お蔭で色々作れたってな。暇な時にはナイフを出して。
 例のナキネズミも、ブリッジで彫っていたくらいだから。



 ナイフ一本で出来る趣味だ、とハーレイが見せた誇らしげな顔。「他に道具は何も要らん」と。木の塊とナイフさえあれば、後は下絵用の鉛筆くらい、と。
「スケッチよりも簡単だぞ? スケッチブックが要らないからな」
 それに何処でも出来るのがいい。俺が座れる場所さえあったら、木彫りを始められるんだから。
「やっぱり…! ナイフ一本だけだよね、あれ」
 前のハーレイ、本当は器用だったんじゃないの?
 ナイフ一本で何でも彫っていたなんて、物凄く器用だったとか…。だって、ナイフが一本だよ?
 彫刻刀とかじゃないんだもの。…彫刻だったら、普通は彫刻刀なのに…。
 何を彫りたいかで、使う彫刻刀だって変わるものでしょ?
 それなのにナイフだけなんて…。ホントに凄すぎ、前のハーレイ。
「なんだ、今頃気が付いたのか? 前の俺が使っていた道具の凄さに」
 確かにナイフ一本で彫るというのは難しいだろうな、慣れていないと。…前の俺みたいに。
 器用だったことを分かって貰えて光栄なんだが、何故、今なんだ?
 どうして今頃、前の俺の木彫りの腕に注目したんだ、お前は?
 それが謎だ、と鳶色の瞳に見詰められたから、「えっとね…」と始めた新聞の話。
「今日の新聞に載ってたんだよ、とても綺麗な花とか鳥の彫刻が」
 彫刻なのに、材料が野菜と果物で…。ベジタブルカービングとフルーツカービング。
 どっちもナイフ一本だけで彫るんです、って書いてあったからビックリしちゃって…。
「あれか、丸ごと食える彫刻だな」
 使った部分にもよるんだろうが、その気になったら食っちまえるヤツ。あれは凄いよな。
 出来も凄いが、野菜や果物を芸術品にしちまう所がなあ…。



 実に凄い、とハーレイも知っていたベジタブルカービングとフルーツカービング。野菜や果物をナイフ一本で彫って仕上げる彫刻。
 知っているなら作れるのだろうか、と胸を躍らせて、ぶつけた質問。
「ハーレイも出来る?」
 あれって、ハーレイにも作れるの?
 包丁さばきには自信があるって言っていたよね、ベジタブルカービングも出来たりする…?
「ナイフと包丁とは違うしな…。それに今の俺は木彫りをやってはいないから…」
 挑んでみたって無理なんだろうが、前の俺なら出来ただろう。
 彫るものが木から野菜に変わるだけだし、果物だって彫れただろうな。
「本当に? 前のハーレイ、ホントに出来たの?」
 もしかしたら、って思ってたけど、あんな凄いのも作れたわけ…?
 野菜や果物を彫ってあったの、とても綺麗で芸術品って感じだったよ?
 前のハーレイが作った芸術品って、ナキネズミがウサギになっちゃうくらいに酷くって…。
「見本さえ見せて貰えれば彫れたな、こういう風に彫ってくれ、と」
 前の俺たちが生きた時代に、ああいう文化は無かったが…。昔の写真でもあれば。
 こいつは野菜で出来ているんだ、と花の写真でも渡して貰って、野菜を寄越してくれればな。
 どういう形に仕上げればいいか、それさえ分かれば充分だ。
 ナイフ一本で彫ってみせたさ、薔薇の花だろうが、小鳥だろうが。



 簡単なもんだ、と自信たっぷりだけれど。見本さえあれば出来たと、本人も言っているけれど。
 前のハーレイが本当に器用だったとしたなら、彫刻の出来はどうして酷かったのだろう?
 芸術的なセンスが無かったにしても、綺麗な花や小鳥を彫れる腕前があったなら…。
「…野菜や果物の花や小鳥は彫れるのに…。上手に彫れたって言ってるのに…」
 前のハーレイ、なんで駄目だったの?
「駄目って、何がだ?」
 ちゃんと彫れると言っただろうが、とハーレイは野菜と果物のつもりでいるようだから。
「木彫りだよ! 前のハーレイが作った彫刻!」
 どれも酷かったよ、実用品じゃなかったヤツは。…スプーンとかなら上手かったけれど。
 だけど、芸術だって言ってた彫刻、とんでもない出来のヤツばっかりで…。
 宇宙遺産のウサギもそうだし、ヒルマンが頼んだフクロウはトトロになっちゃったでしょ?
 もっと上手に彫れた筈だよ、野菜や果物で花や小鳥が彫れるなら。
 本物そっくりのナキネズミだとか、空を飛びそうなフクロウだとか…。
 どうして彫れなかったわけ、と問い詰めた。素晴らしい腕があったのに、と。
「そりゃあ、作れたかもしれないが…。やれと言われれば…」
 しかし、それを芸術とは言わんだろうが。本物そっくりに彫るってだけじゃ。
「芸術って?」
「独創性ってヤツだ、同じ彫るなら独創性が大切だ。彫刻家としての俺の腕だな」
 同じ木の塊を彫るにしたって、俺の魂のままに彫るんだ。
 本物そっくりに作るんじゃなくて、これはこうだ、と俺の魂が捉えた姿に仕上げるんだな。
 ナキネズミにしても、ヒルマンの注文だったフクロウにしても。
「…それ、ホント?」
 前のハーレイには、そう見えたわけ?
 ナキネズミはウサギみたいに見えてて、フクロウはトトロだったって言うの…?
「いや、それは…。その…」
 そう見えたというわけではなくて…。
 俺の独創性を発揮する前に、こう、基本になる彫刻と言うか…。
 普通に彫るなら、こう彫るべきだ、という当たり前の手本というヤツがだな…。



 何処にも無かったモンだから、というのがハーレイの言い訳。
 ベジタブルカービングや、フルーツカービングのように見本があったならば、と聞かされた話。ナキネズミもフクロウも、基本の形があったら手本に出来たんだが、と。 
 一理あるとは思うけれども、ナキネズミはともかく、フクロウの方。
 ミュウが作り出した生き物ではないし、データベースを端から探せば、彫刻の写真もあった筈。それこそ様々な形のものが。
 だから生まれてくる疑問。ハーレイの話は本当だろうか、と。
「お手本が何処にも無かったから、って言うんだね?」
 それがあったら前のハーレイでも、凄い芸術品を彫り上げることが出来たわけ?
 ナキネズミはウサギにならなくて済んで、フクロウはちゃんとフクロウのままで…。
 きちんとしたのを彫れたって言うの、お手本になる基本の彫刻があれば…?
 本当なの、と問いただしたら、「どうだかなあ…」とハーレイは顎に手を当てた。
「見本はこうだ、と資料を貰ったとしても…。はてさて、出来はどうなったんだか…」
 木の塊と向き合っちまえば、俺の考えが入っちまうしな?
 下絵をきちんと描いていたって、「こうじゃないんだ」と何処かで変えたくなっちまう。
 この通りに彫ったら、そいつは俺の作品じゃない、と思い始めて。
 そうやってあちこち変えていったら、見本とは別のが出来ちまうから…。
「本当に?」
 言い訳にしか聞こえないんだけれども、ハーレイの彫刻の腕が酷かったのは芸術なの?
 本当は上手に彫れるんだけれど、ハーレイが好きに彫ってた結果があれなわけ?
 ナキネズミがウサギになってしまったのも、フクロウがトトロになっちゃったのも。
「芸術っていうのは、そういうもんだと思うがな?」
 世の中の芸術ってヤツを見てみろ、彫刻でも絵でも、何でもいいから。
 これを彫りました、って言われていたって、その通りに見えない彫刻が山ほどあるだろうが。
 絵の方にしても、凄い美人をモデルにしたのに、落書きみたいに見えるヤツとか。



 俺の木彫りもそれと同じだ、とハーレイは大真面目に言い切った。「芸術品だ」と。
 木彫りの腕とはまるで関係無く、魂のままに彫った作品。酷いようでも俺の自慢の作品だ、と。
「ナキネズミがウサギに見えるヤツらが悪いんだ。…フクロウがトトロに見えるのもな」
 俺が違うと言っているんだ、作った俺の言葉が正しい。俺の芸術なんだから。
 そういや、お前…。前の俺にも言わなかったか?
「言うって…。何を?」
 何のことなの、とキョトンとしたら、「今と同じだ」と答えたハーレイ。
「きちんと上手に彫れないのか、と言ってくれたぞ」
 全く違うものに見えるし、酷すぎると。…俺の芸術作品を。
「いつのこと?」
 それって、いつなの、ハーレイが何を彫っていた時?
「いつだっけかなあ…。お前に言われたことは確かで…」
 お前なんだから、ナキネズミってことだけは有り得ない。トォニィがナスカで生まれた時には、お前は眠ってたんだしな。
 フクロウの方も、お前、存在自体を知らなかったから違うわけで…。
 あれは何だったか、俺が彫ってた芸術品は、だ…。
 そうだ、鶏を彫ろうとしてたんだっけな、あの時の俺は。
「鶏?」
 ハーレイ、鶏なんかも彫ってた?
 下手くそな木彫りは幾つも見たけど、鶏も誰かの注文だったの?
「俺が彫りたかったというだけなんだが…。ちょっといいじゃないか、鶏も」
 シャングリラでも飼っていたしな、本物をじっくり見られるだろうが。生きたモデルを。
 雄鶏を彫ったらいいかもしれん、と思い付いたんだ。
 朝一番に時をつくるし、なかなかに堂々としているからなあ…。雄鶏ってヤツは。
「思い出した…!」
 あったよ、ハーレイが彫ってた鶏。
 ハーレイの芸術作品だったし、どう見ても鶏じゃなかったけれど…。



 確かにあった、と浮かび上がって来た記憶。前のハーレイが彫った雄鶏。
 最初の出会いは、キャプテンの部屋へ泊まりに出掛けて行った時。恋人同士になっていたから、たまに泊まったハーレイのベッド。恋人の部屋で過ごす時間が好きだったから。
 その日も夜に出掛けてみたら、ハーレイが机で向き合っていた木の塊。木彫りを始める前の常。
 暫くじっと木を見詰めてから、鉛筆で線を描いてゆく。彫ろうとしている物の下絵を。
 そこそこ大きな塊だったし、興味津々で問い掛けた自分。ハーレイの手許を覗き込みながら。
「今度は何が出来るんだい?」
 スプーンとかではなさそうだけれど、君の得意な芸術だとか…?
「鶏ですよ。雄鶏を彫ってみようと思いまして…」
 雌鶏と違って絵になりますしね、雄鶏は。高らかに鳴いている時などは、特に。
 あの堂々とした姿を彫り上げられたら、この木も大いに満足かと…。スプーンになるより。
 いい作品に仕上げてみせますよ、とハーレイは自信満々だったけれど、日頃の腕が腕だけに…。
(ちっとも期待出来ない、って…)
 前の自分は考えた。ハーレイの腕では、雄鶏など彫れるわけがない、と。
 そうは思っても、雄鶏と聞けば好奇心がむくむくと湧いて来るもの。白いシャングリラの農場で時をつくっている雄鶏。立派な鶏冠を持った鶏。
 ハーレイが彫ったら何が出来るか、ちゃんと雄鶏に見えるかどうか。
 其処が大いに気になる所で、行く末を見届けたくなった。結果はもちろん、彫ってゆく間も。
 下絵では雄鶏らしく見えているのが、どんな形に出来上がるかを。



 木彫りの雄鶏が完成するまで、時々、泊まりに来ようと思った自分。ハーレイがナイフで彫っているのを、側で見学するために。
 何度か足を運ぶ間に、木の塊から雄鶏が姿を現したけれど。雄鶏が生まれる筈なのだけれど…。
「…別の物になって来ていないかい?」
 君は雄鶏だと言っていたよね、とハーレイが彫っている木を指差した。
 「ぼくの目には、これが雄鶏のようには見えないけれど」と。
「…そうでしょうか?」
 雄鶏のつもりなのですが、と彫る手を止めて眺め回したハーレイ。持ち上げてみたり、真横からしげしげ見詰めたりと。
 その結論が「雄鶏ですよ?」と出たものだから、「違うだろう?」と呆れ返った。雄鶏らしくは見えない木。どう贔屓目に見ても、譲っても。
「雄鶏だなんて…。これじゃアヒルだよ、本物のアヒルはシャングリラにはいないけど…」
 君もアヒルは知っているだろう、鶏とは違うことくらいは。…これはアヒルだね。
 クチバシも駄目だし、尻尾の辺りも、本物の雄鶏とは違いすぎるよ。
 雄鶏らしく見せるんだったら、あちこち直してやらないと…。
 ちょっと貸して、とハーレイから奪った雄鶏とナイフ。
 「ぼくが上手に直してあげる」と宣言して。
 ハーレイに「どいて」と椅子を譲らせて、自分が机の前に座って。



 さて、と彫り始めた木彫りの雄鶏。左手で持って、右手にナイフ。
 ハーレイの部屋では恋人同士で過ごすのだから、とうに外していた手袋。ソルジャーの手袋は、二人きりの時には外すもの。他の衣装は着けていたって。
 素手で木彫りに取り掛かったけれど、硬かったのが素材の木。バターのように切れはしないし、削るだけでも一苦労。ほんの僅かな修正でさえも。
(えっと…?)
 どう直すのがいいのかな、とナイフを握って悪戦苦闘する内に…。
「危ない!」
 叫びと共に飛んで来た、ハーレイの緑のサイオンの光。
 アッと思ったら、シールドされていた左手。ハーレイが放ったサイオンで。
 それが弾いたナイフの刃。左手にグサリと食い込む代わりに、キンと響かせた金属音。
「………?」
 ナイフを持ったまま、呆然と見詰めた自分の手許。何が起こったのか、直ぐ分からなくて。
「良かった…。お怪我は無いですか?」
 ブルー、と呼び掛けるハーレイの声で、やっと気付いた。さっき自分が見舞われた危機に。
「…大丈夫だけど……」
 なんともないよ、と返事してから、ナイフを置いて眺めた左手。
 もう少しで怪我をする所だった。ハーレイがシールドしてくれなかったら、雄鶏の木彫りを削る代わりに、自分の左手をナイフで抉って。
 手袋をはめていないから。
 爆風も炎も防げる手袋、ソルジャーの手を守る手袋は、自分で外してしまったから。



 もしもナイフで抉っていたら、とゾッとした左手。木が硬いだけに、上手く削ろうと力を入れていたナイフ。あれが左手を襲っていたなら、掠り傷では済まなかっただろう。
(…当たった所が悪かったら…)
 ノルディに縫われていたかもしれない。パックリと口を開いた傷を。
 「いったい何をなさったのです?」と尋ねられながら、何針も。「手袋はどうなさいました」と睨み付けられて、包帯をグルグル巻き付けられて。
 助かった、とホッと息をついて、「ありがとう」とハーレイに御礼を言った。自分では気付いていなかったのだし、ハーレイが弾いてくれなかったら、間違いなく怪我をしていたから。
「…君のお蔭で助かったよ。もう少しで、ノルディにお説教をされる所だったかも…」
 縫うような傷になっていたなら、酷く叱られただろうね。「手袋を外すとは何事です」と。
 油断してたよ、こういう作業をしている時こそ、あの手袋が役に立つのに…。
 ナイフの怖さを思い知ったけど、君は怪我をしたりはしないのかい?
 手に包帯を巻いた姿は、まるで覚えが無いんだけれど…?
「慣れていますからね、これが私の趣味ですし」
 怪我をするようでは、話になりはしませんよ。ゼルたちにも叱られてしまいます。
 「何をウカウカしとるんじゃ!」と。…手を怪我したなら、舵が握れなくなりますから。
「慣れているのは分かるけれども、最初の頃は?」
 君だって最初は初めての筈だよ、木彫りをするのは。…ナイフには慣れていそうだけれど…。
 厨房でもナイフを使っていたけど、木と野菜とは違うだろう?
「そうですね。慣れなかった頃は、こういう時に備えてシールドですよ」
 キャプテンは手が大切ですから、怪我をしないよう、シールドしながら彫っていました。
 それならナイフが当たったとしても、切れる心配はありませんから。
「…ぼくにもそれを言ってくれれば良かったのに…」
 左手をシールドするくらいのことは、ぼくには何でもないんだから。
「忘れていました、初心者でらっしゃるということを」
 私の作品を直すだなどと仰ったので…。木彫りには慣れてらっしゃるつもりでおりました。
 あなたが木彫りをなさらないことは、誰よりも知っている筈ですのに…。
 ブルー、申し訳ありません。…あなたにお怪我をさせる所でした。私の不注意のせいで。



 無事で良かった、と左手に落とされたハーレイのキス。左手にも詫びるかのように。
 ハーレイの彫刻は下手だけれども、木彫りの腕はいいらしい、と思った自分。その時に、ふと。
 自分と違って、怪我をしないで彫れるのだから。
 雄鶏には見えないような物でも、アヒルにしか見えない木の塊でも。
「…前のハーレイ、腕は良かったんだね、本当に」
 木彫りの腕は確かだったよ。ぼくよりも、ずっと。
「おっ、認めたか?」
 俺の芸術を分かってくれたか、今頃になってしまったが…。前のお前は認めてくれなかったが、そうか、認めてくれるのか。俺も頑張った甲斐があったな、何と言われても。
「怪我をしないで彫れたんだもの。それだけで充分、凄いと思うよ」
 前のハーレイなら、ベジタブルカービングも、きっと出来たね。フルーツカービングだって。
 ナイフだけで花とか鳥とかを彫って、シャングリラの食卓を飾れそう。
 ソルジャー主催の食事会なら、思い切り腕を揮えそうだよ。テーブルに飾れば映えるものね。
「前の俺が知っていさえすればな、あの文化をな…」
 果物や野菜で見事な彫刻が作れるんだ、ということを。そうすりゃ、俺の評価も上がった。
 厨房を離れた後にしたって、趣味の範囲で野菜や果物をナイフで彫って。
「無かったっけね、あんな文化は…」
 ヒルマンもエラも、見付けて来たりはしなかったから…。見付けていたら素敵だったのに。
 前のハーレイの出番が増えるし、評価もグンと上がっていたよ。果物や野菜を彫る度に。
 木彫りは駄目でも、こういうヤツなら凄く綺麗に彫れるんだ、って。
 そういえば、あの雄鶏はどうなったっけ?
 ぼくが直そうとして怪我をしかけた雄鶏、ちゃんと雄鶏に仕上がってた…?
「あれなら、お前に散々笑われて終わりだったが?」
 完成した後に、「何処から見たってアヒルだ」と言われちまってな。直せもしない、と。
「ごめん…。あの時のぼくも、腕はいいんだと思ったけれど…」
 ハーレイの木彫りの腕はいいけど、その腕を使って出来上がるものが酷かったから…。
 やっぱり下手くそなんだよね、って思うしかなくて、あの雄鶏も…。



 出来上がったらアヒルにしか見えなかったから、と肩を竦めた。
 どうしてああなっちゃうんだろうね、と。
「前のハーレイ、本当に腕は良かったのに…」
 怪我をしないで彫れたのもそうだし、ナイフ一本で何でも彫れたのだって上手な証拠。
 木彫りの腕は確かなんだよ、なのにどうして変な物ばかりが出来上がったわけ?
 ナキネズミはウサギで、フクロウはトトロで、雄鶏はアヒルになっちゃったなんて。
「さてなあ…? そいつはお前の思い込みっていうヤツで…」
 前の俺は下手ではなかったんだ。木彫りも、そいつで出来上がる物も。
 芸術っていうのはそうしたモンだろ、理解して貰うまでには時間がかかる。
 とても有名な芸術家にしても、作品が本当に評価されたのは、死んじまった後の時代だとかな。
「…宇宙遺産のウサギは今でもウサギのままだよ、理解されてないよ?」
 誰が見たって、ナキネズミには見えないんだから。…ウサギで通っているんだから。
「しかし、あれは立派な宇宙遺産だぞ。評価はされてる」
 キャプテン・ハーレイの木彫りの腕も、立派に評価されたってな。
 ああして宇宙遺産になってだ、特別公開される時には大勢の人が並んで見物するんだから。
「言い訳にしか聞こえないけど…」
 ナキネズミがウサギになっちゃったことは、どうするの?
 ウサギと間違えられちゃったから、ミュウの子供が沢山生まれますように、ってお守りで…。
 ナキネズミのままだと、ただのオモチャで終わりなんだよ、あのウサギは。
「どうだかな? 前の俺なら、ベジタブルカービングだって出来たんだ」
 やろうと思えば作れたわけで、そういう文化が無かっただけで…。
 俺の木彫りの腕は確かだ、だからこそ宇宙遺産のウサギも見事に彫れたってな。
「…野菜や果物を彫るのを見てれば、みんなの評価も変わってたかな?」
 ナキネズミもフクロウも、ハーレイの芸術作品なんだ、って。…下手なんじゃなくて。
「そうかもなあ…」
 実は綺麗な物も彫れるんです、と腕前を披露するべきだったか…。
 生憎とチャンスは無かったわけだが、野菜や果物で花だの鳥だのを見事に彫って。



 スプーンやフォークを彫っていたんじゃ、俺の本当の腕は分かって貰えないしな、とハーレイが浮かべた苦笑い。「ナイフ一本で彫れる凄さを、披露するチャンスを逃しちまった」と。
 前の自分たちが生きた時代に、ベジタブルカービングは無かったから。フルーツカービングも。
 ナイフ一本で野菜や果物に施す彫刻、それを愛でるという文化も。
 今の時代なら、ハーレイの腕を生かせそうなのに。ナイフ一本で彫刻する腕、それを生かす場がありそうなのに。
「…ねえ、今のハーレイにはホントに無理なの?」
 ベジタブルカービングとかは出来そうにないの、木彫りをやっていないから…?
 包丁でお魚とかを上手に切れても、野菜や果物に彫刻は無理…?
「やってみたことがないからなあ…。やろうと思ったことだって無いし」
 いつか試すか、お前と一緒に。
 料理のついでに、ちょいと綺麗に飾りを作ってみるっていうのも悪くはないぞ。
 食卓を凝った彫刻で飾れて、果物だったら後で丸ごと食えるしな。
「一緒にって…。ぼく、今度こそ怪我をしそうだよ!」
 左手、シールド出来ないんだから…。美術の授業の、彫刻刀だって怖いんだから…!
「今度は俺も怪我をするかもしれないぞ。今の時代は、サイオンは使わないのが基本だからな」
 俺だって使わないのが好みで、もうキャプテンでもないわけだから…。
 左手をグサリとやっちまうかもな、前の俺なら使い慣れてた筈のナイフで。
 だが、野菜や果物は木彫りよりかは、柔らかい分だけ彫りやすいし…。
 手が滑らないように気を付けていれば、木彫りよりは怪我も少ないだろう。
 怪我をしたって、前のお前が危なかったみたいな、縫うような怪我にはならんだろうし…。
「だったら、二人で練習してみる?」
 ぼくは初心者だから、彫刻刀で彫る所から。…ハーレイは最初からナイフ一本で。
「それもいいなあ、前の俺たちに戻ったつもりで」
 きっと楽しいぞ、野菜や果物を彫ってみるのも。
 前のお前は彫刻刀を使っちゃいないが、今のお前は彫刻刀なら使えるからな。



 どうだ、と誘って貰ったから。
 ナイフ一本で木彫りをしていた、ハーレイからの誘いだから。
 結婚した時にも覚えていたなら、二人であれこれ彫ってみようか。
 野菜や果物をナイフ一本で、それに彫刻刀で。
 今のハーレイの腕前はどうか、本当に綺麗に彫れるのか。変な芸術にならないで。
 野菜や果物で出来た花やら、鳥たちやら。
 ハーレイと二人で綺麗に彫れたら、きっと最高に楽しい筈。
 前の自分たちは全く知らなかったもので、今ならではの文化だから。
 蘇った青い地球に来たから、そんなものをナイフで、彫刻刀で彫れるのだから…。




            木彫りとナイフ・了

※出来上がった作品は散々でしたが、木彫りの腕だけは確かだったらしい、前のハーレイ。
 野菜やフルーツも、ナイフ一本で彫れたかもしれません。あの時代に、それがあったならば。
 パソコンが壊れたせいで2月になった、1月分の2度目の更新。今月は普通に2度目です。
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(行っちゃった…)
 帰っちゃった、とブルーが見送ったテールライト。遠ざかってゆく車の光。
 ハーレイの愛車の後ろに灯っているライト。金曜日の夜、「またな」と帰って行ったハーレイ。前のハーレイのマントと同じ色の車を運転して。濃い緑色をした愛車に乗って。
 懸命に手を振るのだけれども、ハーレイからはもう見えないだろう。テールライトは遠ざかって消えていったから。夜の住宅街の向こうへ。
(あーあ…)
 溜息をついて入った庭。見送りに出ていた道路から。門扉を閉めて鍵をかけたら、ハーレイとは別の世界の住人。チビの自分はこの家に住んで、ハーレイの家は何ブロックも離れた所。
(さよならだなんて…)
 今日は学校があった日だから、ハーレイが帰りに寄ってくれただけでも運がいい。学校の仕事が長引いた日には、訪ねて来てはくれないから。
 それは分かっているのだけれども、寂しい気持ちは拭えない。ついさっきまでは、あれこれ話が出来たのに。二人きりで部屋でお茶を飲んだり、両親も一緒の夕食だって。
(ホントに色々、お喋りしてて…)
 ハーレイの声に、姿に、夢中だった自分。「ハーレイと一緒なんだよ」と。
 キスは駄目でも恋人同士で、大好きでたまらないハーレイ。側にいられるというだけで。温かな声が耳に届いて、穏やかな瞳を見られるだけで。
 幸せ一杯で過ごしていたのに、楽しい時間はアッと言う間に過ぎるもの。気付けばとっくに通り過ぎていて、こうして終わりがやって来る。
 食後のお茶の時間も終わって、帰って行ってしまったハーレイ。「またな」と軽く手を振って。
 ガレージに停めていた愛車に乗って、エンジンをかけて走り出して。
 そのハーレイが乗った車はもう見えない。「あそこだよ」と分かるテールライトも。
 表の道路に戻ってみたって、何処にも見えないテールライト。夜の道路があるだけで。道沿いの家に灯る灯りや、街灯の光があるだけで。



 庭から家の中へと入って、戻った二階の自分の部屋。ハーレイとお茶を飲んでいた部屋。
 其処にハーレイの姿は無いから、零れてしまった小さな溜息。さっきまで一緒だったのに、と。
(寂しいよ…)
 ハーレイが運転して行った車。濃い緑色の車の助手席に乗って、ハーレイの家に帰りたいのに。自分も車に乗ってゆけるなら、それが出来たら幸せなのに。
 ハーレイが開ける運転席とは、違った方の扉を開けて。シートに座って、扉を閉めて。
 そしたら車が走り出しても、寂しい気持ちになったりはしない。自分も一緒に乗っているから、夜の道を二人で走るのだから。
 ほんの短いドライブだけれど、ハーレイの家に着くまでの道を。ガレージに車が滑り込むまで、ハーレイがエンジンを止めるまで。
(そうしたいけど、まだまだ無理…)
 十四歳にしかならない自分は、当分はこうして見送るだけ。
 今日の自分がそうだったように、家の表の道路に出て。ハーレイに「またね」と手を振って。
 車が行ってしまうのを。…テールライトが見えなくなるのを。



 お風呂に入ったら、後は寝るだけ。パジャマ姿で、窓の向こうを覗いてみた。カーテンは閉めたまま、上半身と頭を突っ込んで。
 庭園灯が灯った庭と生垣、それをぼんやり見下ろしていたら、通った車。黒っぽい影とライトが見えただけなのだけれど、表の道路を走って行った。ハーレイの車が去ったのと同じ方向へ。
(ハーレイの車も…)
 こんな風に此処から見ることがある。濃い緑色は夜の暗さに溶けてしまって、シルエット。光が当たった時以外は。街灯だとか、庭園灯だとか。
 はっきり見えるのはテールライトで、「帰って行くんだ」と分かる遠ざかる光。
 普段は表で見送るけれども、病気の時には窓からお別れ。今のようにカーテンの陰に入って。
(起きちゃ駄目だ、って言われても…)
 ハーレイが「しっかり眠って早く治せよ?」と灯りを消して部屋を出たって、足音が消えた後、何度見送ったか分からない。
 こっそりと起きて、カーテンを閉めた窓の陰から。ハーレイに気付かれないように。
 テールライトが消えてゆくのを、遠ざかって見えなくなってゆくのを。
(ああいう時には、ホントに寂しい…)
 外で見送る時よりも、ずっと。表の通りに立って手を振る時よりも。
 きっと心が弱くなっているからだろう。病気のせいで、弱ってしまった身体と一緒に心まで。
 窓から車を見送りながら、涙が零れる時だって。
 「帰っちゃった」と。
 ハーレイの車は行ってしまって、テールライトももう見えないよ、と。



 今の車で思い出しちゃった、と離れた窓。ハーレイはとっくに家に着いただろうし、ゆっくりと寛いでいそうな時間。熱いコーヒーでも淹れて。
 置いて帰ったチビの恋人、自分の心も知らないで。
(テールライト…)
 なんて寂しい光だろう、とベッドに腰掛けて考えた。消えてゆく光は寂しいよ、と。
 テールライトを点けて帰って行ったハーレイ、愛おしい人はまた来るのだと分かっていても。
 それっきりになってしまいはしなくて、再び会えると分かっていても。
(今日だと、明日には…)
 夜が明けたら土曜日なのだし、またハーレイに会うことが出来る。
 休日だから、車の出番は無いけれど。天気のいい日は、ハーレイはいつも歩いて来るから。雨が降る日や、降りそうな時だけ、車でやって来るハーレイ。休みの日には。
 仕事の帰りに寄ってくれる日は、いつでも車。今日も車で来ていたように。
 テールライトが消えていっても、ハーレイにはまた会えるのだけれど。ほんの短い間のお別れ、どんなに会えない日が続いたって、せいぜい数日なのだけれども。
(でも、会えるって分かっていたって…)
 悲しすぎる光がテールライト。いつ見送っても、何度、大きく手を振っても。
 さよなら、と小さくなってゆく光。
 ハーレイを乗せた車が点けている光、恋人の居場所はどんどん遠くなってゆくから。
 さっきまで家の前にいたのに、遠ざかって消えてしまうから。



(さよならの光…)
 テールライトはそうだよね、と思った途端に、胸を掠めていったこと。
 前の自分は見ていない。
 シャングリラが去ってゆく光を。白い鯨のテールライトを、「さよなら」と消えてゆく光を。
(テールライトじゃなかったけれど…)
 白いシャングリラも、暗い宇宙で後ろから見れば、幾つかの光が灯っていた。鯨のヒレのように見える部分などには、位置を示すための青い色の灯り。
 それにエンジンの強い光も、テールライトのようなもの。「あそこにいる」と分かるから。
 漆黒の宇宙を飛んでいたって、シャングリラの居場所を教えた光。
 けれど、メギドに飛んだ自分は…。
(テールライト、見送れなかったんだよ…)
 白い鯨が去ってゆくのを、自分が守ったシャングリラを。
 命と引き換えに守り抜いた船を、無事に飛んでゆくシャングリラを。
 あの時の自分は泣きじゃくっていたから、それどころではなかったけれど。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えて、悲しくて泣いていたのだけれど。
(…だけど、シャングリラが見えていたなら…)
 シャングリラがいた赤いナスカと、あんなに離れていなかったなら。メギドとナスカが、もっと近い場所にあったなら。
 泣きながらも、きっと見送れた。白いシャングリラが旅立つのを。
 自分は其処には戻れないけれど、あそこにハーレイがいるのだと。
 ハーレイがしっかりと舵を握って、シャングリラは地球に向かうのだと。
 遠ざかってゆくテールライトを、エンジンの光を見送っただろう。光が宇宙に溶けてゆくのを。漆黒の闇に吸い込まれるように、「さよなら」と消えてゆく光を。
 メギドが爆発する時まで。前の自分の命の焔が、それと一緒に消える時まで。
 あるいは倒れて命尽きるまで、意識が闇に飲まれるまで。



 もしも、そうしていられたら。白いシャングリラを見送れたなら。
(ハーレイとの絆…)
 切れてしまった、と思わずに済んだかもしれない。ハーレイの温もりを失くしていても。
 シャングリラの居場所を教えてくれる、テールライトの光の向こう。それを点けた船、ミュウの仲間たちを乗せた白い箱船。光の中にはハーレイもいる。テールライトを点けている船に。
 ハーレイの温もりは消えたけれども、今は見送るだけなのだから、と。
 温もりをくれた温かな腕は、あの光と一緒にあるのだから、と。
(さよならだけれど、ハーレイは見えているものね…)
 姿そのものは見えないけれども、ハーレイが舵を握る船。シャングリラの光が見えているなら、ハーレイが見えているのと同じ。ハーレイを乗せた船なのだから。
 右手が凍えていたとしたって、ギュッと握ったかもしれない。自分の意志で。
 失くしてしまったハーレイの温もり、それを右手に取り戻そうと。
 白いシャングリラのテールライトを見送りながら。「あそこにハーレイはいるのだから」と。
 絆は切れてしまっていないと、今もハーレイとは繋がっている、と。
(ハーレイの姿は見えなくっても…)
 白いシャングリラが其処に在るなら、ハーレイも其処に確かにいる。あの箱舟の舵を握って。
 キャプテンの務めを果たさなければ、と真っ直ぐに前を見詰めて立って。
 テールライトが遠くなったら、絆は細くなってゆくけれど。きっと切れたりしないだろう。船がどんなに遠くなっても、光が闇に溶けていっても。
 ワープして視界から消えていっても、切れることなく続きそうな絆。ハーレイと前の自分の間を繋ぎ続ける、細いけれども強い糸。けして切れずに、繋がったままの。
 白いシャングリラを、テールライトを見送ることが出来たなら。
 右の瞳は撃たれてしまって潰されたから、左の目でしか見られなくても。
 半分欠けてしまった視界が、涙で滲んでぼやけていても。



(…シャングリラ、見送りたかったかも…)
 そう思ったら零れた涙。両方の瞳から、涙の粒が盛り上がって。溢れて流れて、頬を伝って。
 守った船を見送ることさえ、出来ずに終わった前の自分。
 シャングリラからは遠く離れていたから、ジルベスター・エイトとナスカの間は遠すぎたから。
 もっと近くにシャングリラがいたら、テールライトを見送れたのに。
 「さよなら」と、「いつか地球まで行って」と。
 自分の命は尽きるけれども、シャングリラは無事に飛び立てたから。暗い宇宙へ船出したから、遠くなってゆくのがテールライト。白い鯨が旅立った証。
 それさえ見られず、独りぼっちで泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。
 前の自分は、なんと悲しい最期だったか、と思うと止まらない涙。
 テールライトが見えていたなら、皆の旅立ちを見送ったのに。ハーレイとの絆もきちんと自分で結び直して、右手をギュッと握ったろうに。
 温もりは消えてしまったけれども、こうして思い出せるから、と。
 シャングリラが遠くへ去ってしまっても、自分の命が此処で尽きても、ハーレイとの絆は切れてしまいはしないから、と。
 きっと笑みさえ浮かべただろうに、見送れなかったシャングリラ。遠ざかる光を、漆黒の宇宙を飛んでゆく船のテールライトを。
(見たかったよ…)
 シャングリラの光が遠くなるのを、テールライトが消えてゆくのを。
 けれども、出来なかったこと。シャングリラから遠く離れたメギドで死んでいった自分。
 本当に悲しくてたまらないから、胸が締め付けられるようだから…。
(明日は、ハーレイに…)
 うんと甘えることにしよう、と両腕で抱き締めた自分の身体。ハーレイは此処にいないから。
 明日になっても覚えていたなら、大きな身体に抱き付いて、頬をすり寄せたりもして。
 ハーレイと一緒に地球に来られたと、今はこうして幸せだから、と。



 それがいいよね、と潜り込んだベッド。今の自分はチビの子供で、両親と地球で暮らしている。子供部屋だって持っているから、こうして眠れる自分用のベッド。
 青の間にあったベッドよりずっと小さいけれども、心地良い眠りをくれる場所。
 一晩眠れば、明日はハーレイが来てくれる。ハーレイに会ったら、抱き付いて、甘えて…。
(…メギドの夢は嫌だけれどね?)
 あそこでシャングリラを見送りたかった、と考えていたせいで、メギドの悪夢が訪れたら困る。怖くて夜中に飛び起きる夢。前の自分が死んでゆく夢。
 メギドの夢を見ませんように、と祈りながらウトウト眠ってしまって、気付けば其処はメギドの中で。青い光が消えてしまった制御室。発射されることはないメギド。
 とうに壊れて、後は沈んでゆくだけだから。爆発のせいで、装甲も破壊されているから。
(…シャングリラ……)
 あんな所に、と見付けた船。遠いけれども、白い鯨だと分かる船。
 爆発で穴が開いた装甲、それの向こうに広がる宇宙。漆黒の闇にポツンと灯ったテールライト。
 長い年月、其処で暮らしたから、シャングリラの光を間違えはしない。
 遠く離れて、小さな光の点になっても。星たちの中に紛れていても。
(シャングリラは無事に飛び立てたんだ…)
 良かった、と漏らした安堵の息。もう大丈夫だと、白い鯨は飛べたから、と。
 メギドの炎に飲まれはしないで、仲間たちを乗せて飛び立った船。この宙域から去ってゆく光。
 シャングリラの無事を確かめられたら、思い残すことは何も無い。
(どうか地球まで…)
 白いシャングリラの仲間たちが幸せであるように。ミュウの未来が幸多きものであるように。
 シャングリラの舵を今も握っているだろう恋人、ハーレイもどうか青い地球へ、と捧げた祈り。
 自分は共に行けないけれども、皆は幸せに青い地球へ、と。
 冷たいと感じはしなかった右手。
 皆の幸せを祈る間も、右手は凍えていなかった。ただ、シャングリラを見送っただけ。
 無事に飛べたと、テールライトが宇宙の闇に消えてゆくのを。



(あれ…?)
 何処、と見回した自分の周り。パチリと開いた両方の瞳。右の瞳は砕けてしまった筈なのに。
 なんだか変だ、と思った自分はベッドの上。朝の光がカーテンの向こうから射して来る。
(…今のって、夢…)
 前のぼくのつもりで夢を見てた、と気が付いた。夢が覚めたから、チビの自分がいるのだと。
 子供部屋に置かれたベッドの上に。十四歳の自分用のベッドに。
(あの夢って…)
 メギドの夢でも全然違う、と見詰めた右手。この手は冷たく凍えなかったし、いつもの悲しさや苦しさも無い。「やり遂げた」という思いがあるだけ。
 シャングリラは無事に飛び立てたから。ミュウの仲間たちとハーレイを乗せて、宇宙に船出して行ったから。宇宙の何処かにあるだろう地球、其処を目指して。…ミュウの未来へ。
 夢の中身が変わっていたのは、きっとテールライトのことを考えたせい。
 シャングリラのそれを見送りたかった、と眠る前に思って泣いていたから。白いシャングリラのテールライトを見送れたならば、前の自分は悲しい最期を迎えずに済んでいただろう、と。
 そう思ったから、夢の中身が変わった。
 同じメギドの夢だけれども、白いシャングリラを見送る夢に。



 いつもと全く違った夢。目覚めた後にも、鮮やかに思い出せる夢。
 だから、ハーレイが訪ねて来た時、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日はハーレイに甘える予定だったんだけど…」
 そういうつもりでいたんだけれど、と言ったらハーレイは怪訝そうな顔。
「予定だって?」
 なんだ、甘える予定というのは。…それに、その予定がどうかしたのか?
 それだけでは何も分からんぞ、というハーレイの疑問は当然だろう。普段だったら、ハーレイが何をやっていようが、甘える時には甘えるから。
 断りも無しにチョコンと膝の上に座るとか、いきなりギュッと抱き付くだとか。
「予定だってば、甘えようと思っていたんだよ。…昨日の夜から」
 甘えるつもりだったんだけど…。変わっちゃったよ、夢を見たせいで。…ぼくの気分が。
「夢ということは…。メギドなのか?」
 違うな、メギドの夢を見たなら、甘える方に行く筈だ。お前、いつでもそうなんだから。
 いったい何の夢を見たんだ、甘えたい気分が消し飛ぶだなんて…?
「えっとね…。甘えたい気分が消えたって言うより、ぼくが満足しちゃったんだよ」
 昨日の夜には、ハーレイに甘えるしかない、って思うくらいに悲しくて…。
 涙まで出ちゃったほどなんだけれど、その悲しさが無くなっちゃった。夢のお蔭で。
 見たのはメギドの夢だったけれど、ぼくの手、凍えなかったんだよ。いつも右手が凍えるのに。
「ほほう…。その夢には俺が出て来たのか?」
 俺はお前を助けられたのか、メギドの夢に登場して…?
「ううん、出て来たのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
 メギドを沈めにやって来たのか、とハーレイが訊くから、「違うよ」と首を横に振った。
「ただシャングリラが出て来ただけ。うんと遠くを飛んでいたけど…」
 あれは確かにシャングリラだったよ、夢の中のぼくにも分かっていたから。
 だって見間違えるわけがないもの、シャングリラが宇宙を飛んでゆく姿。



 無事に飛び立ったことが分かったから、と説明した。
 ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、それを見られて安心した、と。いつもの夢なら、独りぼっちで泣きじゃくるけれど、ハーレイも無事だと分かったお蔭で泣かずに済んだ、と。
「ホントだよ? ちゃんとシャングリラが見えたから…」
 シャングリラなんだ、って分かる光だったから、泣いたりしないでホッとしてたよ。ハーレイもあの船に乗っているから、みんなと地球まで行くんだよね、って。
 ぼくは一緒に行けないけれども、みんなが無事ならそれでいい、って…。
 シャングリラは飛んで行っちゃったけれど、光を見ながらお祈りしてた。夢の中でね。
「…あんな所から見えたのか、それが?」
 お前が夢に見るってことはだ、今日まで忘れてしまってただけで、見えていたのか?
 もちろん肉眼じゃ見えないだろうが、サイオンの目では見えていたとか…?
「見えなかったよ、そんな力が残っていたわけがないじゃない」
 メギドからシャングリラを探せるほどなら、前のぼくは生きて戻っていたよ。
 大怪我をしてても、シャングリラまで。…ジョミーを呼んで、途中まで迎えに来て貰って。
 力は少しも残っていなくて、シャングリラが無事かどうかも知らないままで終わったけれど…。
 無事でいて欲しい、って思いながら死んだのが前のぼくなんだけど…。
 でもね、シャングリラを見送りたかった、って思ったんだよ。
 昨日の夜に、ハーレイの車を見送った後で。
 お風呂に入って、それから暫く起きていて…。窓の外もちょっぴり眺めたりして。
 ハーレイが車で帰って行く時は、テールライトが見えるから…。じきに見えなくなるけどね。
 シャングリラだって、後ろから見たらエンジンとかの光、テールライトに見えるでしょ?
 それを見送りたかったな、って考えちゃって…。
 メギドで独りぼっちになっても、シャングリラの光が見えていたなら良かったかも、って。
 だって、みんなが乗ってる船だよ?
 シャングリラなんだ、って見送ることが出来たら、前のぼく、泣かなかったかも、って…。
 でも、シャングリラは見えなかったし、前のぼくは悲しすぎたよね、って…。
 そう思ったから、ハーレイに甘えるつもりだったんだよ。…今日、会ったらね。



 色々と考えてしまったせいで夢を見ちゃった、と打ち明けた。
 メギドの悪夢は見たくないのに、メギドの夢を見てしまった、とも。夢の中身は、まるで違っていたけれど。独りぼっちで泣きじゃくりながら、死んでゆく夢ではなかったけれど。
「夢のぼく、やっぱり独りぼっちでいたけれど…。誰も側にはいなかったけれど…」
 それでも泣いていなかったんだよ、いつもの夢とは違ってね。
 右手が凍えて冷たい感じもしなかった。この話、さっきもしていたでしょ?
 同じように死んでしまう夢でも、シャングリラを見送ることが出来たら、幸せみたい。
 シャングリラがどんどん遠くなっていって、消えてしまうような夢でもね。
 夢の中のぼく、どうして平気だったのかな…?
 シャングリラはぼくを置いて行くのに、ぼくは一人で死んじゃうのに…。
 今のぼくが幸せに生きてるからかな、おんなじようにテールライトを見てても。
 ハーレイの車、帰って行っても、また来るもんね。
 テールライトが見えなくなっても、もうハーレイに会えなくなるってわけじゃないから。
 それと重なっちゃったのかな、と傾げた首。
 「夢の中のぼくは、今のぼくと重なっちゃってたかな?」と。
 夢にいたのは前の自分でも、今の自分の幸せな経験を何処かに持っていたのだろうか、と。
「そのせいだろうな、シャングリラは行ってしまうんだから」
 行ったきり二度と戻って来ないし、お前は独りぼっちのままだ。余計に寂しくなりそうだぞ。
 いや、前のお前なら、そうは思わなかったかもしれん。
 本当にシャングリラの光が見えていたなら、満足だったかもしれないな。
 前のお前は、今のお前よりも遥かに我慢強かった。…仲間たちのことが最優先で、自分のことはいつも後回しで。
 そのせいでメギドまで行っちまったんだ、仲間たちとシャングリラを守ろうとして。
 だからシャングリラの無事を知ったら、独りぼっちで死ぬ運命でも、幸せに思ったかもしれん。
 自分の役目を果たせたんだし、ミュウの未来が続いてゆくのを、その目で確かめたんだから。



 シャングリラの光が遠ざかってゆくなら、それは仲間たちが生き延びた証拠。メギドの劫火から無事に逃れて、ミュウの未来へと旅立った証。
 「前のお前なら、幸せな気持ちで見送ったかもしれないな」と話したハーレイなのだけれども。
 ふと曇ったのが鳶色の瞳。「俺は無理だな」と。
「…俺には、とても出来んだろう。遠ざかってゆく光を見送ることは」
 お前のようには出来ないな。…たとえ夢でも、俺には無理だ。
「え…?」
 ハーレイが見送る光ってなあに、何が無理なの?
「夢でも無理だと言っただろうが。今の俺じゃなくて、前の俺だな」
 前のお前がシャングリラが飛んで行くのを見なかったように、前の俺だって見ていない。
 シャングリラじゃなくて、前のお前だが…。
 お前がメギドへ飛んで行くのを、前の俺は見てはいないんだ。…青い光が遠ざかるのを。
 ジョミーの話じゃ、お前、消えちまったらしいしな?
 瞬間移動で行ってしまって、何処へ飛んだかも分からなかった。お前が行ってしまった方向。
 シャングリラのレーダーに映っていた点、その内の一つが消えてしまって、それっきりだ。
 次にお前が現れた場所は、もうレーダーでは捉えられない所になっていたんだろう。
 お前がそれを意図していたのか、そうじゃないのかは分からんが…。
 青い光に包まれたお前が飛んで行くのを、もしも肉眼で見ていたら…。
 レーダーに映った点にしたって、そいつがどんどん遠くなっていって、消えちまったら…。



 きっと一生、悔やみ続けた、とハーレイの手が伸びて来て握られた右手。
 今日の夢では凍えていないし、「温めてよ」と頼んだわけではないというのに。甘える予定も、夢のお蔭で変わったと伝えた筈なのに。
 けれどハーレイは褐色の両手で、右手をすっぽりと包んでいるから…。
「…なんでハーレイは見送れないの?」
 前のぼくが飛んで行く姿を。…肉眼でも、それにレーダーでも。
 見送りたかった、って言うんだったら分かるけれども、その逆だなんて…。
 前のぼくは其処まで考えてないし、飛べるだけの距離を稼ぎたくって瞬間移動したんだけれど。
 どうしてそんなことを言うの、とハーレイの顔を見詰めたら…。
「いいか、見送ったら、お前を失くしてしまうんだぞ?」
 俺が見ている青い光は、二度と戻って来やしない。…お前はそのために行ったんだから。
 青い光が見えなくなったら、お前とはもうお別れだ。レーダーから影が消えた時にも。
 前のお前が見送りたかったシャングリラには、ちゃんと未来があるだろう?
 お前が見ていた夢の中でも、現実に起こった出来事でもな。シャングリラは無事に地球まで辿り着いたし、消えてしまいやしなかった。沈んだりしないで、未来があった。
 しかし、お前にはそいつが無いんだ。…メギドに向かって飛ぶお前には。
 未来なんか無くて、死んじまうだけだ。俺から遠くなればなるほど。
 そうなることが分かっているのに、俺が見送れると思うのか…?
「あ…!」
 ホントだ、前のぼくとシャングリラだったら、まるで逆様…。
 おんなじように消えて行っても、遠くなっていく光でも…。
 前のぼくだと本当に消えて、戻って来ない光だものね…。シャングリラの光は宇宙に消えても、別の所へ旅をしてゆくだけなんだけれど…。
 全然違うよ、どっちも遠くなる光だけれど。
 前のハーレイがぼくを見送れないのは、前のぼくは戻って来ないから…。



 それで「無理だ」と言ったのか、と分かったハーレイの言葉の理由。ハーレイの胸にある思い。
 もしも戻って来ないのだったら、テールライトは見送れない。
 今のハーレイが乗っている車、それの光が消えて行ったら、もうお別れだと言うのなら。二度とハーレイに会えはしなくて、テールライトが見えなくなった時が別れの瞬間ならば。
(…お別れなんだ、って分かっていたって、見送れないよ…)
 テールライトが見えなくなったら、別れを思い知らされるから。あまりにも悲しすぎる別れを、現実を目の前に突き付けられてしまうから。
 さよならと一緒に「またね」があるから、見送れる車のテールライト。「また来てね」と大きく手を振りながら。テールライトが見えなくなるまで、車が行ってしまうまで。
 メギドでシャングリラを見送る夢だって、多分、同じこと。
 また見ることは叶わなくても、シャングリラは未来がある船だから。夢も希望も乗っている船、別れた途端に消えてしまいはしないから。
「そっか…。ぼく、あんな夢まで見ちゃったから…」
 テールライトを見送ることって、幸せなんだと思ったのに…。
 さよならの光でも、幸せな光。見送っていたら、心が温かくなる光。ちょっぴり寂しい気持ちがしたって、見られないよりもずっといいよね、って…。
 でも…。
 そうじゃない時もあるんだね。…前のハーレイだと、幸せどころか悲しいだけの光だから。
 見られない方が良かったんだ、って今でも思うほどだから…。前のぼくが飛んで行った時の光。
「まあな…。前の俺にはな」
 今の時代だと、チビのお前が思う通りに幸せな光になるんだろうが。…余程でなければ。
「ホント?」
「考えてもみろ、「またな」と嘘をついたりすることはないだろう?」
 俺が「またな」と帰った時には、ちゃんとまた会いに来るんだし…。
 誰だってそういう具合だろうが、俺に限らず。



 遠くへ旅立つ宇宙船だって、とハーレイが優しく撫でてくれた右手。「お前の手だな」と。
「前の俺はお前を失くしちまったが、お前でさえも帰って来たんだ。俺の所へ」
 今はそういう時代なんだぞ、
すっかり平和で戦いも何も無い時代。
 技術もずいぶん進んだんだし、どんなに遠くへ行った船でも、いつかは帰って来るもんだ。前の俺たちが生きた頃だと、行ったきりになる船も珍しくはなかったが…。
 戻って来たって、乗組員が世代交代しちまってるとか。人類だけに、年を取り過ぎちまって。
 しかし今だと、そういうことは起こらないから…。
 他の星へ移住するんです、と引越したヤツも、それっきりにはならないだろう?
 郵便も届けば、通信だってあるからな。直接会える機会は少なくなっちまっても。
「そうだね…!」
 宙港とかまで見送りに行っても、飛んで行く船、ちゃんと帰って来るものね…。
 乗って行った人が次の便には乗ってなくても、「またね」って約束したらいつかは会えるもの。
 会えないままになったりしないよ、何年か会えずに待つってことはあってもね。
 パパやママの友達だってそうだもの、と頷いた。遠い星へと引越して行った知り合いの人。
 「あの船だな」と父が夜空を指差したことも何度かあった。友達が乗っている船だ、と。
 消えてゆく光を父と一緒に見上げたけれども、友達はまた会いに来た。宇宙船に乗って、他所の星から。「大きくなったな」と頭を撫でてくれたりもして。



 そういうものか、と納得した今の時代のこと。今は悲しいテールライトは無いらしい。
 ハーレイが「俺は無理だな」と夢に見るのさえ嫌がったような、遠ざかって消えてゆく光は。
 二度と戻れない場所へ向かって、真っ直ぐに飛んでゆく光は。
 平和な時代になったんだね、と考えていたら、ハーレイが右手を返してくれた。「お前のだ」と優しい笑みを浮かべて。
「今日のお前は、温めなくてもいいらしいしな? メギドの夢を見たくせに」
 俺の方が逆に欲しがっちまった、お前の手を。…前のお前を思い出したら、不安になって。
 前のお前がメギドへ飛んで行く時の光、夢でも見たくはないからなあ…。
 それでだ、今のお前の場合は、テールライトが好きなのか?
 俺の車を見送った後で、色々と考え事をして、ついでに泣いてたようだがな…?
「…泣いてたのは、前のぼくのことを考えてたからで…」
 前のぼく、可哀相だったよね、って。…シャングリラを見送れなかったから。
 夢でシャングリラを見送ったぼくは、いつもの夢よりずっと幸せだったんだけど…。
 今のぼくは寂しいよ、テールライトは。「またね」の光で、また会えても。
 ハーレイの車を見送るだけで、一緒に帰れないんだから。
「なるほどなあ…。また会えるんだと分かっていたって、寂しい光に見えるってことか」
 しかしだ、今は無理でも、いつかはお前も俺と一緒に帰れるんだぞ?
 何処へ出掛けても俺の車で、俺の隣に座ってな。…テールライトを見送る代わりに。
 その日を楽しみにしていちゃどうだ?
 いつかはアレに乗るんだから、と思っていれば、幸せな光に見えて来そうだぞ。
 何事も気の持ちようだってな、テールライトをどう思うかも。
「前のぼくなら出来そうだけれど、今のぼくは強くないんだよ!」
 シャングリラの光を夢で見送って、幸せだったぼくみたいには…!
 あんな風に強くなれやしないよ、今のぼくはうんと弱虫になってしまったもの…!
 だからね…。



 今日はゆっくりしていってね、と立ち上がって回り込んだテーブル。ハーレイが座る、向かい側へと。椅子の後ろから両手を回して抱き付いた。
 「テールライトは遅いほどいいよ」と。
 遠くなるのはゆっくりでいいと、うんとゆっくり走らせて、と。
「ゆっくり走れば、見えなくなるまでの時間が少しは長くなるでしょ?」
 だからお願い、テールライトが遠くなるのを遅くしてよね。
「おいおい、今日は天気がいいから、俺は車じゃないんだが?」
 此処まで歩いて来ちまったんだし、テールライトを遅くするも何も…。
 そいつは出来ない相談で…、とハーレイは苦笑しているけれど。譲る気持ちなど全く無いから、車で来てはいない恋人に出した注文。
「じゃあ、帰る時はゆっくり歩いて!」
 ハーレイ、歩くの、速いんだもの…。大股でぐんぐん行っちゃうから。
「ゆっくりか…。俺が覚えていたならな」
 帰る時まで覚えていたなら、注文通りに歩いてやろう。ちょっと遅めに。
「約束だよ?」
 ぼくも約束、忘れないから、ハーレイもちゃんと覚えておいて。今日の帰りはゆっくりだよ!
 メギドの夢まで見ちゃった日だから、と大きな身体に甘えて約束。「絶対だよ?」と。
 いくら幸せな部分があっても、遠ざかってゆくテールライトは、やっぱり何処か寂しいから。
 見送れる強さを今の自分は持っていないから、甘えたくなる。
 早く一緒に帰れるようになりたいから。
 ハーレイの車のテールライトを見送るよりかは、同じ車で帰りたいから…。



            テールライト・了

※前のブルーには見送れなかった、ナスカを離れてゆくシャングリラが遠ざかってゆく光。
 もしも見ることが出来ていたなら、きっと満足だったのでしょう。自分の務めを全て終えて。
 パソコンが壊れたため、実際のUPが2月10日になったことをお詫びいたします。
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「クシャン!」
 ブルーの口から、いきなり飛び出したクシャミ。
 それもハーレイと一緒に過ごす土曜日、午前中のお茶の時間に突然に。
「大丈夫か?」
 ハーレイが心配そうな顔をするから、「平気だよ」と笑顔で答えた。
「ちょっとムズムズしちゃっただけ…。ホントに平気」
 もう出ないでしょ、と言ったのに。
「どうなんだか…。昨夜は少し冷えたからなあ、風邪引いてないか?」
 メギドの夢は見なかったようだが、身体を冷やしちまったかもな。知らない間に。
 午後のお茶も此処にするべきだろう。庭じゃなくって。
「えーっ!?」
 そんな、と見開いてしまった瞳。
 いい天気だから、午後は庭のテーブルに行こうと考えていた。庭で一番大きな木の下、真っ白な椅子とテーブルがある。初めてのデートの思い出の場所が。
 其処で過ごそうと思っていたのに、駄目だなんて。
 ハーレイにも「行こうね」とウキウキ話して、とても楽しみにしていたのに。
 けれど「当然だろう」という顔のハーレイ。「今のクシャミを聞いちまうとな」と。
「お前、身体が弱いんだから…。気を付けないと」
 用心に越したことはないんだ、今日は一日、お前の部屋だな。
 庭のテーブルと椅子は逃げやしないし、次の機会でいいじゃないか。



 そうするべきだ、とハーレイは譲らない。庭は駄目だ、と。
 たった一回クシャミが出ただけ、繰り返してはいないのに。それに空には雲一つ無くて、絶好のデート日和なのに。
 庭のテーブルと椅子は特別な場所。デート気分になれる場所。諦めるなんて、とんでもない。
 だから…。
「…ママに注文しておいたのに…。ハーレイの好きなパウンドケーキ…」
 あそこで初めてのデートをした時も、パウンドケーキを食べたでしょ?
 飲み物は冷たいレモネードだったけど、今の季節にはママは作ってくれないから…。
 ケーキだけでも同じにしたくて、昨日からママに頼んでたのに…。
 ちゃんと準備をしたんだよ、と真剣な顔で訴えたけれど。
「パウンドケーキなら、此処でも食える。…そうか、あれを頼んでくれたんだな」
 楽しみだなあ、お前のお母さんのパウンドケーキは絶品だしな?
 お母さんには昼飯の時に言えばいいだろ、午後のお茶は此処に変更だ、と。
 運ぶ先が此処に変わるだけのことだ、何の問題も無いだろうが。
 部屋でお茶だ、とハーレイの意見は変わらなかった。「お母さんには俺が言ってやる」と。
「ママにはまだ言っていないんだよ」
 パウンドケーキは頼んだけれども、何処で食べるかは言っていないから…。
「そうだったのか?」
 俺はてっきり、昨日からかと…。パウンドケーキを頼んだついでに言ったんだろう、と。
「お天気がどうなるか分からないでしょ? 天気予報が外れる日だってあるもんね」
 それに朝はちょっぴり雲があったよ、ぼくが朝御飯を食べてた時は。
 曇ったら駄目だし、お昼御飯の後で頼めばいいよね、って…。
 ママがお皿を下げに来た時に、午後のお茶は庭のテーブルがいいな、って言えばいいから。



 まだ計画を話していない、と説明したら、ハーレイは「なるほど」と頷いたけれど。
「最初から天気次第だったというわけか。お前の計画」
 それなら雨が降ったと思えば、諦めやすいというもんだ。確かに朝は雲もあったし…。
 曇って雨になっちまったら、庭に出るのは無理なんだから。
 やめておくんだな、と窓の向こうを見るハーレイ。「いい天気でないと外は無理だ」と。
「今はとってもいい天気じゃない!」
 天気予報でも一日晴れだし、雨なんか絶対、降らないよ!
 ぼくのクシャミは一回だけでしょ、今日は庭でデートしたいんだってば!
「何と言おうが、駄目なものは駄目だ。俺はクシャミを聞いたんだから」
 クシャミしているお前も見たしな、動かぬ証拠というヤツだろうが。
 庭でお茶など、俺は許さん。お前が風邪を引きたいのならば、話は別になるんだが…。
 風邪を引いたら病院で注射になっちまうぞ、と脅された。
 もちろん学校は欠席になるし、注射をされて薬を貰ってベッドの住人。そっちが好きか、と。
 学校を休む方はともかく、注射と薬。「お前は注射が好きだったのか?」と。
「注射も薬も大嫌いだよ!」
 知っているでしょ、ぼくがどっちも嫌いなこと!
 だから病院は嫌いなんだよ、行ったら注射をされるんだから!
「ほら見ろ、行きたくないんだろうが。病院ってトコに」
 風邪を引いたら病院行きだぞ、お前の場合は。こじらせちまうと厄介だからな、弱いから。
 そうならないよう、予防するのが一番の薬というもんだ。庭に出たりはしないでな。
 しかし、一向に治らんなあ…。お前の注射嫌いというヤツ。
「だって筋金入りだもの…」
 うんと小さい頃からそうだよ、注射は痛くて大嫌い。平気な人が信じられないよ。
「分かっちゃいるが…。今のお前もそうだってことは」
 前のお前の時からだしなあ、そう簡単には治らんだろうな。…その注射嫌い。



 フウとハーレイがついた溜息。「チビはともかく、注射嫌いのソルジャーなんて」と。
「今のお前は、まだチビだから…。苦手な子供もたまにいるしな」
 お前よりもっと大きな子だって、「痛いですか?」と心配そうに訊くヤツがいる。それも男で。
 だから、お前はいいんだが…。問題は前のお前の方だな、あれは酷かった。
 注射が嫌いだったというのを、知ってる仲間は少なかったが…。
 ノルディが注射を始めた頃には、もう医務室が出来ていたからな。専用の部屋が。
 あそこで「嫌だ」と叫んでいたって、お前の悲鳴は外には聞こえん。
 まだソルジャーじゃなくてリーダーだったが、外まで聞こえていないんだから…。
 お前が注射が苦手だってことは、ヒルマンたちしか知らんだろうな。ブラウにエラにゼル、あの四人の他には一人もいない筈だぞ。
 リーダーだった頃の悲鳴を聞かれなくって良かったな。
 お蔭でソルジャーが上げた悲鳴も、誰も知らないままなんだから。
「うー…」
 医務室があって良かったと思うよ、ノルディが注射を打ち始めた時に。
 ぼくの部屋でも打たれたけれども、診察に行っても打たれたから…。「嫌だよ」って言っても、勝手に用意を始めちゃって。…「これですっかり治るから」って。
 いつも「嫌だ」って騒いでたけど、あの悲鳴…。外に聞こえてたら大変だよね…。
 後でソルジャーになった時に、と今の自分でも分かること。
 仲間たちに悲鳴を聞かれていたなら、ソルジャーになっても威厳も何も無かっただろう。エラがどんなに旗を振っても、ヒルマンたちがせっせと祭り上げても。
 立派な制服を作って着せても、所詮は注射を嫌がる子供。身体だけ大きく育っていたって、心は子供と変わっていない、と。
 中の声が漏れない医務室が無ければ、仲間たちにも聞こえる悲鳴。「注射は嫌だ」と大騒ぎで。
 幸い、そうはならずに済んだのだけれど。知っている仲間はゼルたちだけだったけれど。



 医務室のお蔭でバレずに済んでも、慣れることだけは無かった注射。アルタミラでの恐怖が心に深く刻まれ、どうしても消えなかったから。
 人体実験の時に打たれた注射。血を抜く時にも刺された針。そういった日々を生きていたから、注射は怖いものでしかない。いつまで経っても、長い年月が流れ去っても。
「前のぼく…。注射、青の間が出来ても嫌だったしね」
 ノルディが診察に来るようになって、メディカル・ルームには滅多に行かなくなっても。
 それでも嫌なものは嫌だし、何処で打たれても、注射は注射なんだから。
「青の間なあ…。其処は「最後まで」と言うべきだぞ」
 前のお前は、最後まで注射嫌いのままだったんだ。ジョミーが来たって、変わらなかった。
 ジョミーもやっぱり知らなかったが、お前は注射嫌いのままで…。
 そういや、ナスカでは注射、していないのか?
 あそこで目覚めて、キースが逃げるのを止めようとしていただろうが。格納庫で。
 トォニィとセットで、メディカル・ルームに搬送されてた筈なんだが…。
 あの時は注射はどうだったんだ、しないで済んだとは思えないが?
「されたよ、青の間に戻ってからね」
 メディカル・ルームでは応急手当で、それから青の間に戻されて…。
 注射はしないで済むんだな、って安心してたら、ノルディが来ちゃったんだよ…!
 トォニィの手術は無事に済んだから、今度はこっち、って!
「ほほう…。やっぱり最後まで注射だったのか」
 俺がいないのに、よく頑張ったな。最後の注射。…ノルディの例の戦法か?
 お前が逃げ出さないように。
「そうだよ!」
 他に方法なんか無いでしょ、ぼくに注射をしたかったら…!
「確かにな。あれは効くよな、いいアイデアだ」
 ノルディは優れた策士でもあったということだな。注射嫌いのソルジャーの件に関しては。
「笑わないでよ…!」
 ぼくにとっては笑い事じゃなかったんだよ、あれは!
 どんなに注射は嫌だと言っても、あれをやられたら逃げられないから…!



 今でも鮮やかに思い出せること。遠く遥かな時の彼方で、注射を嫌った前の自分。ソルジャーになってもそれは変わらず、注射嫌いは治らなかった。
 ノルディが注射をしようとしたって、ハーレイが側にいないと打たせなかったほど。「嫌だ」と突っぱね、ノルディに「出て行け」と命令したり。
 どう頑張っても、怖くて我慢出来ないから。針が刺さるのが嫌でたまらないから。
 けれど、ハーレイはキャプテンで多忙。ブリッジにいたり、データのチェックをしていたり。
 「来て」と思念を飛ばしてみたって、来られない時も珍しくない。注射の付き添いよりも重要な仕事、それがハーレイを待っていたなら。キャプテンの仕事の真っ最中なら。
 だからと言って、ハーレイがいないのに注射を打つなど耐えられない。絶対に嫌で、腕に針など刺されたくない。いくらソルジャーでも、皆の長という立場でも。
 そんな調子だから、注射を打つべきタイミングを逃してしまうことも多かった。早期治療で治る所を、こじらせて寝込んでしまうだとか。
 シャングリラが白い鯨になったら、余計に増えたそういうケース。船が大きくなり、自給自足で生きる形に変わったから。それに伴って、キャプテンの仕事も多くなったから。
 注射を拒否してこじらせた場合、何日もベッドから離れられない。ノルディが診察にやって来る度、お決まりの台詞はこうだった。
「ソルジャー、これで懲りてらっしゃると思いますから…。次は早めに治療を受けて下さい」
 単に診察を受けるのではなくて、注射です。「打ちましょう」と私が言った時には。
 キャプテンがおいでになれないから、と断ったり、後回しにしたりはせずに。
「それが出来るなら苦労はしないよ」
 ぼくだってね、とノルディに背中を向けていた自分。まるで聞く耳を持たないで。
 病気になったら自分も辛いし、酷い時には、起き上がることさえ出来ないほど。ハーレイが作る野菜のスープも、横になったまま飲んでいたほどに。
 けれども、注射はもっと怖くて恐ろしい。病気で辛い思いをするより、熱や痛みで苦しむより。
 病気の苦痛は、その内に消えるものだから。我慢していれば、いずれ消え失せるから。
 そういう風には消えなかったのが、アルタミラで打たれた注射の苦痛。直接流し込まれた毒物もあれば、実験の前段階として打たれた薬品もあった。気を失うまで続いた苦痛。注射のせいで。
 それがあるから、嫌だった注射。「大丈夫ですよ」と言うハーレイが側にいなければ。
 「これは怖くない注射なんだ」と分かる言葉が貰えなければ。



 平気で注射を打てる仲間たち、彼らが英雄に見えたほど。「なんと心が強いのだろう」と。
 自分にはとても無理だから。彼らのように「早く治したいから、注射を打ちに」と、ノルディの所を訪ねようとも思わないから。
 注射は嫌で、恐ろしいもの。出来れば打たずに済ませたいもの。
 そう考える日々を送っていたら、ある日、ハーレイがやって来た。いつもならブリッジで仕事をしている筈の時間に、青の間まで。
「ソルジャー、視察のお時間です」
 参りましょう、と言われたけれども、まるで覚えの無い予定。視察だなどと。
「視察って…。ぼくは聞いてはいないけれども?」
 誰からも何も聞いていないし、君だって何も話さなかったよ?
 朝食の時に、と指摘した。ソルジャーとキャプテンの朝食の時間、表向きは朝の報告の時間。
 ハーレイとは既に恋人同士だったけれども、一日の予定は朝食の時に聞くことも多い。こういう予定になっております、とハーレイが念を押す形で。
 それを聞いてはいなかった。視察があるなら、行き先や時間の確認をする筈なのに。
「朝にはございませんでした。…今日になってから、急に決まりましたので…」
 ご一緒にお出掛け頂けませんか、こういう視察はソルジャーのお仕事の一つですから。
「そういうことなら、嫌だと言いはしないけど…。緊急事態じゃないだろうね?」
「視察ですから、ごくごく平和なものですよ」
 ご心配には及びません、と穏やかな笑みを浮かべたハーレイ。「参りましょうか」と。
「何処へ行くんだい?」
 ぼくの都合もあるからね、と尋ねた行き先。ハーレイと視察に出掛ける時には、自分の方が先に立って通路を歩くから。キャプテンを従えるという形で。
 行き先によって道順も変わるし、何処へ行くのかと訊いたのだけれど。
「本日はメディカル・ルームの視察になります」
「え…?」
 メディカル・ルームの視察って…。それはまた珍しい話だね?
 誰かのお見舞いに行くと言うなら分かるけれども、そんな所で視察だなんて…。



 新しい医療機器でも出来たのかい、と質問したら、「いいえ」と返って来た返事。ただの視察に行くだけのことで、たまにはメディカル・ルームの方も、と。
(普段の視察ルートじゃないし…)
 頻繁に覗く場所ではないから、こういうこともあるだろう。急に決まった話だとはいえ、前から依頼があったとか。…ハーレイがそれに割ける時間が無かっただけで。
 そうなのだろう、と考えながら、ハーレイと一緒に出掛けて行った。誰に出会うかも分からない通路、恋人同士の会話は無しで。ソルジャーとキャプテンらしい話を交わしながら。
 船の中を結ぶ乗り物、コミューターの中でも、誰もいないのに真面目な顔で。
 そうやって着いたメディカル・ルーム。
 ハーレイが「どうぞ」と、扉の脇の開扉ボタンを押した途端に…。
「痛いの、嫌ーっ!」
 いきなり聞こえて来た悲鳴。幼い子供たちが騒いでいた。ヒルマンが一緒にいるのだけれども、嫌だと叫んで、走ったりもして。
「これは…?」
 いったい何が始まるんだい、と丸くなった目。子供たちは何故、こんな所に集められたのか。
 涙を浮かべて泣いている子も、何人もいるものだから驚いた。何をしようというのだろう、と。
「ようこそ、ソルジャー。是非一度、御覧になって頂きたいと思いまして…」
 予防接種の日ですから、とノルディが答えて、ヒルマンも「そういうことでね…」と頷いた。
「付き添いなのだよ、私はね。子供たちだけだと、収拾がつかないものだから…」
 見ての通りだ、いつも逃げようと大騒ぎでねえ…。目を離すと逃げてしまうのだよ。
 看護師たちが見張っていたって、子供は実にすばしっこいから。
「教授のお蔭で助かっていますよ。…教授の言い付けは、子供たちも守りますからね」
 それでも騒ぎになりますが…。注射の日だというだけで。
 困ったものです、とノルディが漏らした溜息。「けれど、必要なことですから」と。
 白い鯨になったシャングリラは、アルテメシアからこういう子たちを救い出す。ミュウだと判断された子供を、処分される前に。
 彼らを助け出すのを仕事としている潜入班や救出班。所属する者たちは外の世界と接触するし、救い出された子供も船の外からやって来る。
 つまり外界からのウイルスの侵入、それの危険があるのが今。



 虚弱な者が多いミュウだけれども、幼い子供たちは更に身体が弱いもの。病気になったら治りが遅いし、重症化することだって。
 そうならないよう、予防接種をするのだという。定期的に集めて、全員に注射。
(……注射だなんて……)
 聞いただけでも、震え上がってしまった前の自分。ソルジャーだけに顔には出なかったけれど、心の中では逃げ出したいほど。自分が打たれるわけではなくても。
 見るのも嫌だ、と思っているのに、予防接種を見届けるのが視察で、ソルジャーの仕事。逃げて帰れはしないのが自分。
 平静な顔を装って立って、子供たちを眺めているしかなかった。「嫌だ」と騒ぐ子供たちを。
 逃げようとする子は、ヒルマンが「止まりなさい」と呼び止めて叱る。すぐ終わるから、並んで順番を待つように、とも。
 嫌がる子たちは順に並ばされ、一人ずつ注射をされていった。「痛いよ」と泣き叫びながら。
「大丈夫よ、ほら、痛くないでしょ?」
 もう終わったわ、と看護師たちが慰めていた。注射を受ける子供たちを。
 注射の前には「痛くないから」と言い聞かせてやって、真っ最中には「我慢してね」と。
(ぼくも、あんな感じでハーレイに…)
 慰めて貰っているんだから、と見ていた予防接種の光景。
 やっぱり注射は怖いじゃないか、と。
 アルタミラの地獄を知らない子たちも、「嫌だ」と恐れるのが注射。チクリと刺さる針だけで。それが刺さっても、恐ろしいことは何も起こらないのに。
(病気の予防で、治療みたいなものなのに…)
 それでも「怖い」と大騒ぎする子供たち。ヒルマンがいないと脱走する子もいるほどに。
 ならば、注射で酷い目に遭った自分が嫌がるのは至極当然なこと。視察する立場でも怖くなる。あそこで注射を受けているのが自分なら、と。
 順に並んで注射だなんて、考えただけでも恐ろしすぎる。自分の番がやって来るのを、ブルブル震えて待つなんて。一人終わったら、順番が一つ進むだなんて。



 子供たちの予防接種が済んだら、青の間に帰るだけだったけれど。ハーレイはブリッジの方へは行かずに、そのまま後ろについて来たから、チャンスとばかりに苦情を言った。
 ベッドが置かれたスペースまで辿り着いた途端に、クルリと後ろを振り返って。
「…ハーレイ。今の視察のことなんだけれど…。どうしてあんな視察の予定を入れたんだい?」
 ぼくが注射が嫌いなことは、百も承知の筈だけれどね?
 君も、ノルディも、ずっと前から知っている筈だ。注射をどれだけ嫌っているか。
 予防接種の視察だなんて…。ぼくが見るのも嫌がるだろうと、君たちは考えなかったとでも?
 怖くてたまらなかったんだけどね、と睨み付けた。どういった意図であの視察を、と。
 きっとハーレイは詫びるだろうと考えたのに。「私の配慮が足りませんでした」と、謝る筈だと思ったのに…。
 まるで違っていた反応。「そうでしょうとも」と笑みを宿した鳶色の瞳。
「ですから、視察にお連れしました」
 あれは嫌だ、と仰ることは最初から分かっておりますからね。…だからこそです。
「どういうことだい?」
 君の嫌がらせか、それともノルディの方なのか…。ぼくは君たちの恨みを買ったのかい?
 全く覚えが無いんだけれどね、嫌がらせをされるような覚えは何も無いんだけれど…?
「視察だと申し上げました。嫌がらせのために、そんな手の込んだことは致しません」
 復讐でしたら、もっと私的に攻撃させて頂きます。…私も、ノルディも。
 よろしいですか、先ほどの視察は、子供たちの予防接種に立ち会うというのが目的です。他には意図はございません。
 ただ、いつか…。十年もすれば、あの子供たちの中の誰かが、看護師になる日も来そうです。
 それでもお逃げになりますか?
 ノルディが看護師になった子供を連れて来ていても、注射は嫌だと。
 今と同じに「嫌いだから」と、私がお側にいない時には、ノルディを追い出したりもして…?
「…そ、それは……」
 あの子供たちの中から看護師が?
 ノルディが連れて来ると言うのかい、ぼくに注射をする時の助手に…?



 無理だ、と震えてしまった声。「それだと、ぼくは逃げられない」と。
 メディカル・ルームで泣き叫んでいた子供たち。予防接種は、注射は嫌だと。ヒルマンが睨みを利かせていたって、逃げようとする子がいたほどに。
 あの子供たちが大きくなっても、ソルジャーの自分は今と同じに特別な存在。シャングリラを、ミュウを導く唯一の者で、誰もが敬意を表する相手。
(…今は一緒に遊んでることもあるけれど…。大きくなったら、ソルジャーの意味も…)
 分かってくるのが子供たち。自分たちとは違うのだ、と。他の仲間たちとも全く違う、と。雲の上の人のような存在、そうなるようにとエラたちが仕向けたのがソルジャー。
 そのソルジャーが、注射が嫌いで逃げ回るなどは有り得ない。
 「ハーレイがいないと絶対に嫌だ」と、悲鳴を上げることだって。
 とても特別な存在なのだし、幼い子供と同じことなどする筈が無い。白いシャングリラを束ねるソルジャー、偉大なミュウの長ともなれば。
 成長した子供たちが看護師としてやって来たなら、逃げ場を失うのが自分。ノルディの手には、大嫌いな注射器があったって。「注射します」と宣言されたって。
「…逃げられないじゃないか、あの子たちを連れて来られたら…!」
 ソルジャーは注射が苦手なんだ、と呆れられるか、船中に噂が広がるか…。
 そうなったらエラたちがいくら頑張っても、ぼくの威厳は台無しで…。それを避けたいなら…。
 黙って注射されるしか、と酷い顔色で言ったけれども、ハーレイの方は動じなかった。
「お分かり頂けて何よりです。これはノルディのアイデアでして…」
 子供たちが育って看護師の道を選んでくれたら、ソルジャーに注射をする時の助手に選ぶとか。
 何度も注射を打ち損ねましたからねえ、あなたが逃げてしまわれるので…。
 ですから、助手をつけるそうです。この方法なら、あなたに逃げ場はありませんから。
「ぼくは困るよ…!」
 注射は嫌いだと何度も言ったし、今も逃げ回っているんだけれど…!
 病気で寝込んだ方がマシだよ、無理やり注射をされるよりかは…!



 なんという酷いアイデアなのだ、と嘆いたけれども、それが実行に移される日がやって来た。
 ノルディの希望で、子供たちのための予防接種を何度となく視察させられる内に。
 ある日、体調を崩した自分。軽い眩暈と発熱だけれど、ノルディが診察に来たものだから、横になったままで釘を刺しておいた。「注射はお断りだからね」と。
「ちょっと眩暈がするだけなんだよ、注射は要らない」
 本当は薬も嫌だけれども、そっちは我慢して飲んでおくから。…注射は無しで。
「分かっております」
 キャプテンはお留守のようですからね、と答えたくせに、ノルディが思念で呼び寄せた看護師。何年か前には幼い少女で、注射を嫌がって泣いていた女性。
 見覚えがある、と思う間も無く、彼女はベッドの直ぐ側に来た。
「ソルジャー、注射の前に消毒しますので…」
 腕を出して頂けますでしょうか、と微笑んだ看護師。かつて遊んでやっていた少女。注射嫌いの相手とも知らず、それはにこやかな白衣の天使。
(ハーレイに…)
 来てくれるように連絡してから、なんとか時間稼ぎをしよう、とハーレイの居場所を探るまでもなく、ノルディから飛んで来た思念。看護師の女性には分からないよう、相手を絞って。
 「キャプテンはお忙しいですから」と。
 此処へはお越し頂けませんと、手が空くまでには二時間ほどはかかるでしょう、とも。
(そんな…!)
 嘘だろう、と思念で船の中を探れば、本当に忙しくしていたハーレイ。機関部の者と何かを打ち合わせながら、メインエンジンに近い区画で見ている図面。
 これは駄目だ、と一目で分かった。
 エンジントラブルとは違うけれども、オーバーホールに向けての調整中。どのタイミングで実施するのか、その間の船の航路をどう設定するべきなのかなど。
 二時間で済んだらまだ早い方で、下手をしたなら夜までかかる。休憩や食事の時間は取れても、青の間までは来られない。たかが注射の付き添いには。



 これまでだったら、こういう時でも逃げられた。「注射は嫌だ」とノルディを追い払って。注射するならハーレイと一緒に出直して来いと、絶対に腕は出さないから、と。
 ところが、今の自分の状況。
 ベッドの側には看護師の女性、以前は幼い少女だった彼女。「ソルジャー?」と首を傾げている女性は何も知らない。注射嫌いなソルジャーのことも、ノルディの恐ろしい計画のことも。
 ハーレイを呼んでも、来てくれる可能性はゼロ。
 そして看護師の女性の仕事は、ノルディの注射を手伝うこと。手際よく腕を消毒して。
(…仕方ない…)
 注射は怖くて嫌だなどと此処で言えはしないし、差し出した腕。手袋はしていなかった。具合の悪い日は外しているから、看護師は袖をめくるだけ。肘の上まで。
 「この辺りですね」と消毒をされて、ノルディが鞄から出した注射器。それに薬液も。
 看護師に「後は私が」と言って代わると、しっかりと掴まれてしまった腕。
「やはりソルジャーには、私が注射致しませんと…」
 看護師も注射は打てるのですが、失礼があってはいけませんから。
 下手だからとても痛かっただとか、後からアザになったとか…。
 他の者ならよろしいのですが、ソルジャーの腕では練習させられませんし。
 では、と打たれてしまった注射。
 頼みの綱のハーレイ無しで。「大丈夫ですよ」と安心させてくれる、付き添いは無しで。
(…痛いのは誰でも同じだよ…!)
 ノルディがやっても、看護師でも、と心の中だけで上げていた悲鳴。
 上手でも下手でも変わりはしないと、針が刺さるこれが嫌なんだから、と。
 アルタミラでは、容赦なく針を刺されていたから。研究者たちの注射の腕など、気にしたことは無かったから。
 どんな注射でも、必ず苦痛をもたらすだけ。上手く刺さろうが、下手で何度も刺し直そうが。
 注射針への恐怖は今でも消えないまま。
 病気が治る注射なのだと分かっていたって、腕に刺さる針はアルタミラと同じなのだから。



 首尾よく注射を打ったノルディは、薬を処方して帰って行った。「お大事に」と看護師の女性と共に。「夜には熱も下がりますよ」と。
 夕方までに熱は下がったけれども、注射のお蔭だとは思いたくない。本当に酷い目に遭わされた上に、注射針がとても嫌だったから。
 部屋付きの係が届けた夕食、それを食べてから薬を飲んで、ベッドでウトウトしていたら…。
「ソルジャー、遅くなりました」
 お加減の方は如何ですか、とハーレイがやって来たものだから…。
「遅すぎだよ!」
 具合が悪いと知っていたなら、もっと急いで走って来ればいいだろう!
 お蔭で、ぼくは注射を打たれてしまったじゃないか、と文句をぶつけた。
 「君が来ないから、それは酷い目に遭ったんだ」と。
 ノルディが勝手に注射を打ったと、逃げられないように助手の看護師まで連れて、と。
「遅くなったことはお詫び致しますが…。注射の件なら、前から申し上げておりましたよ」
 子供たちの予防接種の視察に、初めてお連れした時から。
 何度もお供をしておりますから、ソルジャーも覚悟はしておられたかと…。
 今日のような時には、看護師の出番が来るのだと。…違いますか?
 御存知だった筈ですが、と鳶色の瞳は揺らがなかった。ひたと上から見下ろすだけで。
「それは確かに聞いたけれども…!」
 注射の計画は知っていたけど、まさか実行するなんて…!
「計画は実行してこそです。ノルディも喜んでおりました。これからはきちんと注射出来ると」
 私も早く治って頂けるとなれば嬉しいですよ。こじらせたりはなさらないで。
 今までは酷くなられる度に、私が忙しくしていたせいだ、と胸を痛めておりましたから…。
 早めに注射をしておられたら、と何度思ったか分かりません。
 ですが、これからは…。大丈夫ですね、とハーレイの顔に安堵の色。「良かった」と。
「君が自分を責める必要なんかは無いから、前の通りにして欲しいけど…!」
 ノルディが助手付きで注射を打つのは、ぼくには怖いだけなんだから…!
「いえ、駄目です」
 大切なのはソルジャーのお身体ですからね。…充分に自覚なさって下さい、お立場を。
 ソルジャーの代わりになれる者など、この船には誰もいないのですから。



 お分かりですね、と言い聞かせられて、逆らえなかった前の自分。
 注射の付き添いは、ハーレイから看護師に変わってしまった。ハーレイが忙しい時は。どんなに呼んでも、来てくれそうにない時には。
 「大丈夫ですよ」と優しい言葉をくれるハーレイは来なくて、代わりに看護師。シャングリラに来た頃は幼い子だった、今は育った看護師たち。
 彼女たちは何も知らなかったから、ノルディの助手を務めるだけ。注射嫌いのソルジャーの心が叫んでいるとも知らないで。「注射は嫌だ」と、「助けて、ハーレイ!」と。
 ソルジャーの心は遮蔽されていて、思念は漏れはしないから。どんなに悲鳴を上げていたって。
「…あれ、酷かったよ…。ノルディと、前のハーレイと…」
 言い出したのはノルディだけれども、ハーレイが賛成しなかったら出来ない計画じゃない!
 ぼくは嫌だと言っていたのに、あの方法で何度も注射…。
「そうか? 早く治って良かったじゃないか、こじらせる前に」
 いい手だったと俺は思っていたんだが…。ああでもしないと、お前は逃げてしまうから。
 だが、今のお前には使えない手だな。
 正真正銘、本物のチビで、注射は嫌だと泣き叫んだって、誰も変には思わないしなあ…。
「そうだよ、それに注射は今のぼくも嫌いで、苦手なんだよ!」
 注射なんかはされたくもないし、病院も薬も嫌いだってば…!
 前のぼくの記憶が残ってるんだよ、ぼくも分からないような何処かに…!
「そうなんだろうな、その点は大いに同情するが…」
 注射は嫌だと分かっているなら、午後のお茶は部屋にしようじゃないか。
 お前が風邪を引いちまったら、待っているのは注射なんだしな?
 庭のテーブルでお茶にするのは次でいいだろ、今日は大事を取るんだな。クシャミが出たし。
「ハーレイ、酷い…!」
 あれからクシャミは出ていないじゃない、一回しかしていないのに…!
 クシャミ、一回くらいだったら、小さな埃を吸っただけでも出ちゃうのに…!



 意地悪、と頬を膨らませたけれど、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。
 庭のテーブルでお茶は駄目だと、「お前に風邪は引かせられないからな」と。
 「ハーレイのケチ!」と怒ったけれども、そのハーレイ。
 今のハーレイも、注射の付き添いはしてくれない。まだ家族ではないのだから。前のハーレイのように忙しくなくても、仕事が入っていない時でも。
 それを思うと、やっぱり注射は避けたい気分。庭のテーブルでお茶にしたくても。
 ハーレイの好きなパウンドケーキで、庭でデートと洒落込みたくても。
(…風邪を引いたら、注射だから…)
 午後のお茶の場所は、この部屋で我慢しておこう。本当は庭に出たいのだけれど。
 懐かしい記憶が戻って来たって、嫌な注射は嫌なまま。今の自分も、注射は嫌いなのだから…。
 注射をする羽目に陥らないよう、この部屋で大人しく過ごすことにしよう。
 ハーレイと二人で過ごせる土曜日、それだけで充分幸せだから。
 風邪さえ引いていなかったならば、明日は二人で庭にも出られるだろうから…。




            注射の方法・了

※今のブルーも注射が嫌いですけど、そうなったのは前の生で繰り返された人体実験のせい。
 注射嫌いだったソルジャー用に、ノルディが考えた助手をつけること。逃げられませんよね。
 パソコンが壊れたため、実際のUPが2月5日になったことをお詫びいたします。
 修理期間中、「シャングリラ学園生徒会室」の方で、経過報告を続けていました。
 予告なしに更新が止まる時があったら、そちらのチェックをお願いします。
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(折れちゃってる…)
学校の帰りにブルーが気付いたもの。バス停から家まで歩く途中で。
ポキリと折れてしまった小枝。道端の生垣の木の枝が一本だけ。折れているから、目に付いた。変な形に曲がっていたから。
(んーと…)
 萎れていないし、折れたばかり、と眺めるけれども、元には戻りそうもない。木の力では。枝は不自然に曲がってしまって、その皮だって少し浮いているから。皮が外れてしまえば、もう駄目。
(子供が悪戯したのかな?)
グイと引っ張ったら、力を入れすぎて折れてしまったとか。遊んでいて何かをぶつけたとか。
 花が咲いているわけでもないから、欲しがるとも思えない小枝。綺麗な花を咲かせているなら、持って帰ろうとする子供だっていそうだけれど。欲しかったのに、折り損なった枝。
 木の枝が丈夫に出来ていたなら、上手く折れないこともあるから。折っても木から外れない枝。皮が強くて、引き千切れなくて。
 けれど、そうではないらしい枝。花も蕾もつけていない小枝。
(可哀相…)
 折れちゃったなんて、と小さな枝を見詰める。
 この枝は今年、伸びたばかりの枝なのに。焦げ茶の幹とは違った緑色の皮。それで今年の枝だと分かる。冬を越したら、皮は焦げ茶に変わるから。
 せっかく今日まで伸びて来たのに、折れてしまって、もうくっつかない。このまま萎れて枯れてゆくだけ。折れた枝には、水も栄養も届かないから。
 この枝は道の方にあるから、家の人だって折れているとは気付かない。庭から見えるのは元気な生垣、何処も折れてはいない側。わざわざ外まで調べに出たりするとは思えない。
 花の手入れをするのだったら別だけれども、毎日毎朝、隅から隅まで点検してはいないだろう。折れているな、と気付いて貰えない小枝。
 すっかり枯れてしまうまで。葉っぱも茶色く枯れてしまって、一目で分かるようになるまで。



 今はまだ、他の枝と区別がつかない小枝。不自然に曲がっているのを除けば。
 けれども、もう水は届かない。栄養だって幹からは来ない。このまま萎れて枯れるしかない。
(そしたら、ゴミになっちゃって…)
 枯葉や咲き終わった花と同じで、家の人に取り除かれるだけ。生垣の見栄えが悪くなるのだし、きちんと手入れをしなくては、と。枯れているのを見付けたら。
 こんな風に折れてしまわなかったら、育って生垣を濃くしたろうに。来年には立派な焦げ茶色の皮、それを誇らしげに纏った枝に変身して。折れる代わりに、適当な長さに剪定されて。
 枝だって、きっとその日を夢見て、今日まで頑張って伸びて来たのに。もっと大きく、と。
(頑張ってたのに、折れちゃって…)
 家の人にも気付かれないままで、枯れてゆくしかない小枝。折れた枝は元に戻らないから。どう頑張っても、元のようにはくっつかないから。
(誰も気付いてくれないままで、枯れちゃうなんて…)
 可哀相だよ、と思った途端に、重なった前の自分たちの姿。人類に忌み嫌われたミュウ。
 人類の社会からは見えない所で、ミュウたちは処分されていた。存在してはならないから。処分するのが正しいやり方だから。
 この枝も折れてしまったからには、枯れるしかなくて、枯れた後にはゴミと同じ扱い。ゴミ箱にポイと放り込まれて、それでおしまい。
 もしかしたら、堆肥に利用されるかもしれないけれど。この家の人が堆肥を作っていれば。
 堆肥になるなら、枝は無駄にはならないけれど…。



 生垣の向こうを覗いてみたって、見付からない堆肥を作る場所。こうして道から見える庭では、堆肥を作りはしないけれども。
(…堆肥にしないなら、ゴミで処分で…)
 それは嫌だ、という気持ち。ミュウたちの姿が重なるから。前の自分が生きた時代は、ミュウに生まれたら、ゴミと同じに扱われたから。
(普通の人たちの目に入らないように、排除しちゃって処分だったよ…)
 この枝だって、そうなっちゃう、と思い始めたら、もう止まらない。この枝はまだ緑色だから。折れたばかりで、葉っぱは生きているのだから。
 まだ萎れてはいない、折れた枝の葉。「生きているよ」と、枝の声が耳に聞こえるよう。
 生きているなら、生きられる限りは生かしてやりたい。このまま枯れて、ゴミになるより。
(持って帰って…)
 コップの水に生けてやったら、もう何日かは生きられる筈。幹からの水はもう届かないけれど、代わりの水を吸えるのだから。
(この枝が自分で頑張る間は…)
 別の場所でも生きられる。生垣からも、元の幹からも、ぐんと離れてしまっても。
 よし、と鞄から取り出したハサミ。今日は学校で使うから、と持って出掛けて行ったから。
 手では上手く折れそうにない枝なのだし、ハサミで切るのがいいだろう。無理に引っ張るより、ハサミでチョキンと。
 幸い、そんなに力を入れずに切り取れた枝。折れた場所から、チョンと上手に。



 大丈夫かな、と手にした小枝。弱っていないといいけれど、と。
(頑張って生きてね…)
 すぐにお水をあげるから、と大切に持って帰った枝。「ぼくと一緒に帰ろう」と。時の彼方で、前の自分がミュウの子供にそうしたように。
 人類に処分されそうになったミュウの子たちを、シャングリラに連れて帰ったように。
 枝と一緒に家に着いたら、一番最初に母の所へ。洗面所で手を洗うより先に。
「ママ、これ…」
 見てよ、と差し出した小枝。キッチンにいた母に。
「あら、どうしたの? その枝、誰かに頂いたの?」
「違うよ、帰りに見付けただけ。途中でポキンと折れちゃってた…」
 放っておいたら枯れてしまうよ、それだと可哀相だから…。まだ生きてるのに…。
 お願い、何かに生けてあげて、と母に頼んだ。「コップの水でいいから」と。母は「見せて」と手に取ったけれど、枝を暫く眺めてから。
「この枝だったら、生きられそうよ」
「え?」
 思わぬ言葉にキョトンとした。生きられるとは、どういう意味だろう?
「大丈夫。強い木なのよ、この枝の木は。…だから挿し木に出来ると思うわ」
 ブルーも挿し木は知っているでしょ、ちゃんと根が出て枝から小さな木に育つのよ。
「ホント?」
 この枝、もう一度生きていけるの?
 折れておしまいになるんじゃなくて…?
「ええ、そうよ。上手く育ったら、うちの生垣に入れてあげてもいいわね」
「生垣って…。ホントのホントに、また生きられるの?」
 元の木よりも、ずっと小さくなるけれど…。この枝のサイズの木になっちゃうけど。
「生きられる筈よ、丈夫な木だから」
 折れて暫く経っているなら、お水が足りなくなってるから…。
 その分を吸わせてあげてから、挿し木にしなくちゃね。ママに任せておきなさいな。
「ありがとう、ママ!」
 持って帰って良かったよ、枝…。また生きられるんだね、枯れちゃわないで…!



 良かった、と母に笑顔で御礼を言った。枝を生かしてくれるのだから。思いがけない方法で。
(挿し木だなんて…)
 まるで思いもしなかった。折れた小枝が、そのまま新しい木に育つだなんて。
 制服を脱いでダイニングにおやつを食べに行ったら、テーブルにあった一輪挿し。持って帰った小枝を挿して、水を吸わせている最中。
 おやつのケーキを頬張りながら、それを眺めては幸せな気分。「生きられたね」と。
 折れたままで放っておかれたならば、枯れてしまってゴミだったのに。葉っぱが萎れて、枯れて縮んで、「みっともない」と取り除かれて。
 なのに、生き延びられそうな小枝。頑張って水を吸いさえしたら。挿し木になって、根を何本も生やしたら。
 ホントに良かった、と小枝に微笑みかけて、戻った二階の自分の部屋。おやつの後で。ケーキも紅茶も、美味しく食べて大満足で。
 勉強机の前に座って、思い浮かべた小枝のこと。母が挿し木にしてくれる枝。
(あんな風に、ミュウも生きられたなら…)
 前の自分が生きた時代に生まれたミュウたち。ミュウだというだけで殺されていった。
 折れてしまって枯れた木の枝を、「みっともない」と取り除くように。ミュウは異分子で、あの時代にはゴミのように処分されておしまい。
 誰も生かしてはくれなかった。折れた小枝をコップに挿したり、挿し木で生かすような風には。
 生かしてくれたら良かったのに、と思うけれども、駄目だった。
 人類はミュウを処分しただけ。ミュウの存在が知られないように、密かに、ゴミ同然に。ゴミが社会を汚さないよう、美しく保ってゆけるよう。
 処分という形を取らないのならば、実験で殺した。やはり同じに、虫けらのように。
 死んでも弔ったりはしないで、ゴミのように捨てていっただけ。ゴミさながらに袋に詰めて。



 アルタミラの檻では、死んだ仲間がどうなったのかも知らずに生きていたけれど。考えることも無かったけれども、脱出してから色々と知った。アルタミラのことも、他の星でのことも。
 白いシャングリラが潜んだアルテメシアでも、ミュウは見付かったら殺されるだけ。SD体制の社会の不純物として。人間扱いされもしないで、処分されただけ。
(酷いよね…)
 何処の星でも、命を奪われていったミュウたち。ミュウに生まれたというだけのことで。
 ただ殺されてゆくだけのミュウを、誰も守ろうとはしなかったろうか?
 今日の自分が、折れた小枝を救ったように。ゴミになろうとしていた命に、新しい木へと生まれ変わる道を開いて助けたように。
(一人くらいは…)
 ミュウの理解者がいたっていいと思うのに。ミュウも人だと、人類と同じ命を持っているのだと考える誰か。助けなければ、と思ってくれる人間。あんな時代でも、一人くらいは、と。
 けれど、出会わなかった理解者。
 ミュウに手を差し伸べてくれた人類。「ミュウも人だ」と、「命の重さは同じ筈だ」と。
 そう考える人類が一人でもいれば、きっと歴史は変わっただろう。
 もっと早くに、赤いナスカが燃えるよりも前に。
 …もしも理解者がいたならば。ミュウを救おうと、誰かが声を上げてくれたら。
 前の自分は、ついに出会いはしなかったけれど。ミュウの理解者など、一人も知らないけれど。
 それとも自分が知らなかっただけで、何処かの星にはいたのだろうか?
 ミュウを救おうとした人類が。…救えないままで、その人の命が終わっただけで。



 どうなのだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速訊いてみることにした。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ…。ミュウの理解者って、いたのかな?」
「はあ?」
 理解者も何も…、と鳶色の瞳が丸くなった。「今は誰でもミュウなんだが?」と。
「それは分かっているってば。前のぼくたちが生きてた頃の話だよ」
 あの頃は、ミュウは見付かったら処分されるだけ。…そうでなければ、研究施設に送って実験。
 どっちにしたって、殺されるしか無かったんだけど…。
 あんな時代でも、ミュウを助けようとした人類が誰かいたのかな、って…。
 ミュウだって同じ人間だから、って命を助けようとした人。
「無いな、そういう記録はな」
 前の俺も知らんし、俺だって知らん。…歴史の授業にも出ないだろうが。
「やっぱり、そうなの?」
 そういう人間、何処にもいないままだったの…?
「当然だ。お前だって覚えが無いだろう?」
 前のお前だ、そんな記憶は無い筈だ。人類に命を助けられたという記憶。
「助けられるって…。シャングリラはいつも隠れていたよ」
 アルテメシアだと雲海の中で、それよりも前は人類の船を避けて宇宙を旅してたから…。
 人類に助けて貰うようなことは、最初から起こりもしないんだけど…?
「シャングリラじゃない。…その前のことだ」
 あの船で逃げ出すよりも前だな、アルタミラにあった研究所。
 お前は誰よりも長い時間を檻で過ごしていたんだが…。実験ばかりされていたんだが…。



 誰か助けてくれたのか、と尋ねられた。「子供の姿をしていたんだし、有利そうだが」と。
 育ってしまったハーレイたちより、助けて貰えそうな印象ではある、と言われたけれど。子供の姿のままで成長を止めてしまって、長く過ごしていたのだけれど…。
 人類たちの反応はと言えば、恐れられたか、蔑まれたか。子供の姿をしていても。
 ミュウの力に目覚めた時から、その瞬間から。
「…誰も助けてくれなかったよ、最初から。…いきなり銃で撃たれちゃった」
 ぼくの力が目覚めた途端に、大人が大勢駆け込んで来て。
 何もしてない、って言ったのに…。話も聞こうともしないで撃ったよ、一斉に。
 機械の側についてた看護師さんだって、「殺さないで」って震えてただけ。
 ぼくを化け物だと思ってたんだよ、優しそうな看護師さんだったのに…。
「ほら見ろ、それが全てだってな」
 人類には理解出来ない力を持ってる、もうそれだけでミュウは化け物なんだ。
 化け物を守る必要は無いし、守るよりは退治しなくちゃいかん。…相手は化け物なんだから。
 前の俺だって、誰も優しくしちゃくれなかった。俺も最初は十四歳のガキだったのに。
 いくらデカくてもガキはガキだが、それよりも前に化け物だからな。
「どうしてだろう…。子供でも化け物扱いだなんて…」
 一人くらいは、分かってくれても良さそうなのに…。
 ミュウもおんなじ人間だ、って。…違う力を持っているだけの。
「お前の言いたいことは分かるが…。どうして、そういう考えになった?」
 分かってくれる人間がいれば、なんていう妙な話に。
 いきなりすぎるぞ、何処から思い付いたんだ?
「えっとね…。今日の帰り道に…」
 折れてる枝を見付けたんだよ、まだ若い枝。今年伸び始めたばっかりの。
 その枝、ポキンと折れちゃってて…。



 ミュウの姿と重なったのだ、と木の枝を助けた話をした。
 少しでも長く生きられたなら、と持って帰った小枝の話を。コップの水に生けてやろうと。
「ぼくはそのつもりだったんだけど…。ママに見せたら、生きられるって」
 挿し木が出来る木なんだって。だからね、ママが挿し木にしてくれるんだよ。
 今は一輪挿しの中。お水が足りなくなっていたなら、挿し木したって弱っちゃうから。
「それはいいことをしたなあ、お前」
 枝にとっては命の恩人というヤツだ。折れて死んじまう所を、助けて貰ったんだから。
「ぼくも生きられるとは思わなかったよ、新しい木に育つだなんて」
 ちょっぴり命が延びたらいいな、って思って持って帰って来たのに…。お水だけのつもりで。
 だからね、そんな風にミュウの命だって…。
 助けて貰えなかったかな、って。…誰か一人でも、助けようと思ってくれる人。
「そいつは難しかっただろうな。前の俺たちが生きてた頃だと」
 今の時代とは、考え方そのものが違うんだ。今と同じに考えちゃいかん。
「考え方って…?」
「前の俺たちのようなミュウはともかく、人類の社会が問題だ」
 人類は成人検査をやってたんだし、家族すらも紛い物だった。子供を育てるためだけの。
 目覚めの日が来たら、子供時代の記憶をすっかり消してしまっていたんだぞ?
 機械に都合がいいように。…社会に疑問を抱かないように、従順な人間に仕上げるために。
 そんな世界では、教え込まれたらおしまいだってな。
 人類以外は要らないんだ、と。他の種族は排除すべし、と教えられたら誰もが従う。
 折れた木の枝を助けようと思うヤツはいたって、ミュウとなるとな…。
「木の枝は人類でも助けるの?」
 折れちゃっていたら、ぼくみたいに…?
「そうするヤツもいるだろう。折れているな、と気が付いたなら」
 基本は優しく出来ていたんだぞ、人類だって。
 そうでなければ子供は育てられんし、社会だってギスギスしちまうだろうが。



 人類もペットを可愛がったりしていただろう、と言われればそう。人類以外の命も大切にして、家族同然に面倒を見たりしていたもの。犬やら猫やら、小鳥やらを。
 本当は優しいのが人類ならば、アルタミラで出会った研究者たちも、家に帰れば子供がいたかもしれない。彼らの帰りを待つ子供が。
「アルタミラにいた研究者…。子供、いたかな…」
 家に帰ったら、待ってる子供。研究者が子供を育てていたって、おかしくないよね?
「いたかもしれんぞ、お前が言う通り」
 研究所に所属してるってだけで、そいつはただの職業だから…。
 養父母としての顔も持つつもりならば、出来ないことはなかっただろう。
「それじゃ、前のぼくたちに酷い実験をした後、家に帰って…」
 ただいま、ってドアを開けたわけだね、そういう人は。…子供が待っていたのなら。
「そうなるなあ…。まるで想像出来なかったがな、実験中の姿からは」
 だが、人類の世界の中では、いい父親というヤツなんだろう。
 可愛がっただろうな、自分の子供を。「いい子にしてたか?」と抱き上げたりして。
「…その子がミュウになっちゃったら?」
 とても大事にしていた子供が、ミュウに変わってしまったら…。
 研究者なのは同じだけれども、理解者になっていなかった?
 だって、自分が大事に育てた子供が、ミュウだっていうことになるんだから。
 あの時代だと、成人検査を受けた子供だけが、ミュウに変化していたみたいだけれど…。
 子供は記憶を消されているけど、親の方は子供を覚えているでしょ?
 研究所の檻に自分の子供がいたなら、ミュウもおんなじ人間なんだ、って考えそうだよ?
「…そういうことなら、理解者になっていたかもしれん」
 いや、理解者になったことだろう。化け物じゃないと、親には分かっているんだから。
 しかし、そうなる前にだな…。
 親の方の記憶も、機械が処理してしまっただろう。子供のことを忘れるように。
 顔を見たって、それが誰だか気付かないように。
「そうなのかも…」
 機械ならやるよね、そのくらいのこと…。記憶を処理する機会は幾らでもあるんだものね。



 あの時代ならば、充分、有り得ただろう。
 研究者たちが育てていた子がミュウになったら、親の方の記憶も処理すること。彼らが育てた、大人の社会へ送り出したつもりでいた子供。…その子に関する記憶を消してしまうこと。
 記憶を処理され、忘れてしまえば、もう分からない。
 実験用のガラスケースの向こうに、自分の子供がいたとしても。ついこの間まで、ありったけの愛を注いで、大切に育てていた子供でも。
「ハーレイ、それって酷すぎるよ…」
 本当にあったことだとしたなら、研究者も子供も可哀相…。
 自分の子供に、そうだと知らずに酷い実験をしていたなんて…。
 実験されてた子供の方でも、大好きだったお父さんに殺されちゃうなんて…。
 どちらにも記憶が無かったとしても、ホントに酷すぎ。…お父さんが子供を殺すだなんて。
「確かにな。酷いし、なんとも惨い話だ。…考えただけで」
 もしかしたら、の話だが…。
 そいつの収拾がつかなくなって、アルタミラを滅ぼしちまったかもな。…グランド・マザーは。
「えっ…?」
 それって何なの、どういう意味?
「アルタミラでメギドを使ったことだ。どうして星ごと滅ぼしたのか」
 あそこで大勢のミュウが生まれたのは間違いないが…。凄い数だったことも確かだが…。
 それだけだったら、端から殺していけばいい。ミュウに変化した子供を全部。
 他の星へ送って実験動物にするんだったら、沢山いたって問題は無いと思わないか?
 何も星ごと滅ぼさなくても、方法は他にありそうだ。ミュウを始末するというだけだったら。
 アルタミラの真相は今も分からん。
 だが、今の話から、俺が思い付いたことなんだが…。



 あくまで俺の考えだぞ、とハーレイはきちんと前置きをした。「単なる想像に過ぎないが」と。
「いいか、アルタミラにいた研究者だとか、市長だとか…」
 重要な職に就いていたヤツらが育ててた子供。…きっと大勢いただろう。
 そういう子たちが、次々にミュウになってしまったら…。
 アルタミラという育英都市は、いったい、どうなると思う?
「いくら記憶を処理していっても、追い付かないかも…」
 研究者同士で友達だったりするんだから…。
 他の人たちの子供の顔も知っているから、そういう人の記憶も処理しなくっちゃ…。
 市長とかなら、もっと知り合い、増えるしね…。
「それだけじゃない。その記憶処理を命令する立場の人間だっているんだぞ?」
 上の立場になればなるほど、下のヤツらに命令を出すことになってゆくから…。
 指示を出すのは機械にしたって、現場で作業するのは人間だ。ああしろ、こうしろと。
 大勢のミュウの子供が出たなら、立ち止まるヤツがいるかもしれん。記憶を処理する人間たちのリストを見ていて、「これは、あの子のことじゃないか」と。
 自分が一緒に遊んでやった誰かの子だとか、そんな具合で。
 一度気付けば、そいつは慎重になるだろう。明日は我が身になるかもしれん、と。
 気付いちまったら、ミュウの理解者が現れないとは限らない。「ミュウだって同じ人間だ」と。
 ミュウになった子供と知り合いだった、と考えるヤツら。あの子は普通の子供だった、と。
 疑問ってヤツは、生まれちまえば膨らんでゆく。
 それまで自分が信じてた世界、それが嘘かもしれないとなれば。
 疑問を解こうと考え始めて、何処かおかしいとも気付き始める。今の世界はどうも変だ、と。
 ミュウも本当は人じゃないかと、化け物なんかではない筈だ、と。
 間違いに気付けば、自分が正しいと信じる道へと歩き出すのが人間だから…。
 世界が間違っているというなら、それを正そうと努力したりもするだろう?
 あんな時代でも、自分に力があったなら。…自分の意見を発表する場を持っていたなら。



 そうなっちまったからこそ、焼いちまったかもな、とハーレイがついた大きな溜息。
 アルタミラを星ごと消したんだ、と。
「そうかもしれんと思わんか? あそこで殺されたのは、ミュウだけじゃなかったかもしれん」
 自分の子供がミュウになっちまって、ミュウの理解者になりそうなヤツら。
 大きな発言権ってヤツを持ってて、社会を動かすだけの力がありそうだった人間。
 そういう人類たちも一緒に、グランド・マザーが星ごと焼いてしまったかもな。
 前の俺たちが全く知らなかっただけで、あの騒ぎの中で、殺されちまった人類が何人も。
 研究者か、それとも市長やユニバーサルのお偉方といったトコなのか…。
 今の社会は間違っている、と声を上げようとしていたヤツらが、密かに撃ち殺されてしまって。
 保安部隊じゃ出来ない仕事だ、メンバーズでも送り込んで来たかもしれんな。
「そんな…。それじゃ、殺されたのって…」
 ミュウの子供を持ってしまった、お父さんとか、お母さんたち…。
 お父さんの方が気が付いたんなら、お母さんにも話をするものね…。大事な子供のことだもの。
 ミュウと人間は同じなんだ、って気付いて子供を守りたいなら。
 そういう優しかった人たち、それを殺してしまったわけ?
 星ごとメギドで焼いたんだったら、事故に見せかけることも出来るから…。
「…あくまで俺の想像だがな」
 前の俺でさえ、真相は知らん。
 テラズ・ナンバー・ファイブを倒して引き出したデータに、其処までは入っていなかった。
 どうしてメギドを使用したのか、その理由までは。
 今の時代も同じに分からん、グランド・マザーが持ってたデータは地球ごと燃えちまったから。
 実はそうだったのかもしれないな、と俺が考えているだけのことだ。
 根拠なんかは何処にも無い上、証拠だって何処からも出て来やしないさ。…今となっては。
「そっか…」
 前のハーレイでも知らなかったなら、今の時代に研究したって無駄だよね…。
 学者たちが謎を解こうとしたって、手掛かりは残っていないんだから。



 ハーレイが語った、アルタミラがメギドに焼かれた理由。
 あの星でミュウの理解者たちが生まれて、声を上げようとしていたのかも、という話。
 彼らが大切に育てた子供が、成人検査でミュウになったから。
 ミュウも人類と同じに人だ、と彼らは気付いて、子供たちを守ろうと考えたから。
(…研究所にだって、手を回したかも…)
 自分の子供が実験動物にされないように、と懸命に。研究所のデータを書き換えてでも。
 人類も基本は優しいのだから、自分の子供は守りたい。皆が「化け物だ」と言っていたって。
 SD体制の時代を統治する機械、それが「殺せ」と命令したって。
(…ミュウになった子供の、お父さんとか、お母さん…)
 研究者たちや、市長や、ユニバーサルの実力者たち。彼らがそうなら、守っただろう。化け物にされてしまった子供を。…成人検査に送り出すまで、大切に育てて来た子供たちを。
 機械が、社会が「殺せ」と言うなら、そういう社会を変えればいい。
 「ミュウも人だ」と認めるように。ミュウが殺されない、正しい世界に。
 そういう人々が生きた星なら、グランド・マザーがメギドを使って消したのも分かる。記憶処理では済まないレベルで、社会が変わろうとしているから。
 放っておいたら、他の星にも飛び火するかもしれないから。
(…本当に、みんな殺しちゃったの…?)
 自分の子供を守ろうとしていた、ミュウの理解者になりつつあった養父母たちを。
 ミュウを化け物と断じる世界の誤り、それに気付いて正そうとしていた人々を、星ごと全部。
 社会的地位のある人間なら、簡単に殺せはしないから。下手に消したら、怪しまれるから。
(…メギドを使うよりも前に、殺してしまって…)
 星ごと焼いたら、何の証拠も残らない。「あれは事故だ」と言い訳も出来る。
 彼らを乗せて脱出した船、それが途中で沈んだとか。エンジンの不調で飛び立てないまま、炎に飲まれてしまっただとか。
 そうしていたって、機械なら消せる事件の真相。
 あらゆるデータを書き換えた上に、彼らを殺したメンバーズたちの記憶も消し去って。
 アルタミラで事故死とされた人たち、彼らの存在自体も何処かで丸ごと消してしまって。



 今も分からない、本当のこと。アルタミラでメギドが使われた理由はいったい何だったのか。
 けれど、アルタミラから後の時代に、あんな惨劇は起こっていない。
 ミュウは変わらず生まれ続けていたというのに、ただの一度も。…何処の星でも。
「…ハーレイの説が合ってるのかな…?」
 アルタミラには、ミュウの理解者がいたってこと。…自分の子供を守ろうとした人たちが。
 それなら分かるよ、アルタミラだけがメギドに焼かれてしまった理由。
 ミュウが爆発的に増えたの、アルタミラだけじゃない筈だから…。
 子供を生み出す交配システムは何処も同じで、ミュウの子供は何処でも生まれていた筈だから。
「さあな? さっきも言ったが、俺の想像に過ぎないわけで…」
 それも今の俺だ。前の俺は疑問を持ちさえしなかったからな、アルタミラの件に関しては。
 引き出したデータで色々分かって、それで満足しちまったから…。
 だから実際、どうだったのかは分からんが…。
 ミュウの理解者が生まれていたのか、宇宙の何処にもいなかったのかは掴めんが…。
 そんな時代でも、前の俺たちは生き延びた。
 一人の理解者も現れなくても、誰も助けてくれなくても、だ。
 それでも俺たちは懸命に前を目指して進み続けて、ついに未来を手に入れたってな。
 …前のお前も、ナスカも失くしちまっても。
 やっとの思いで辿り着いた地球が、まるで青くない死の星でも。
 俺の命も終わっちまったが、立派にミュウの時代になった。
 ミュウというだけで殺されちまった時代は、グランド・マザーと一緒に滅びてしまって。



 理解者はいなくても生き延びられた、とハーレイが言うから、「それは違うよ」と訂正した。
「…前のぼくが生きてた間は、そうだったけど…。ミュウの理解者、いなかったけど…」
 最初にキースが分かってくれたよ、ミュウと人類は同じなんだ、って。
 キースはマツカを助けたんだよ、殺すことだって出来たのに…。
 あれが最初で、ナスカの時だって、マードック大佐が残党狩りをしなかった話は有名でしょ?
 ミュウの理解者は増えていったよ、ナスカから後は。
 シャングリラが地球まで辿り着く頃には、いろんな人類がミュウを助けてくれたんだよ?
 あちこちの星でも、ノアや地球でも。
 キースのメッセージを放送してくれたスウェナもそうだし、キースの部下のセルジュたちも。
「…それはそうだが、ミュウの理解者が大勢現れたのは、だ…」
 時代がミュウの味方をしてくれたっていうことだろう?
 前の俺たちは戦いながら前へと進んでただけで、ジョミーは人類と話し合おうとはしなかった。
 それこそ地球に着く直前まで。
 ミュウは恐ろしい存在だ、と怖がられたって仕方ないのに、人類は分かってくれたんだぞ?
 忌み嫌う代わりに、理解する方へと向かってくれた。
 時代が変わる時だったんだ。…機械の時代から、人の時代に。
 ミュウも人類も、同じ人だと気付く時代に。
 それから長い時が流れて、今じゃすっかりミュウの時代だ。宇宙にはもう、ミュウしかいない。
 誰も殺されたりはしないし、今のお前は木の枝だけを助けていればいいってな。
「木の枝って…?」
「帰りに助けてやったんだろ? ミュウの姿が重なっちまって」
 お母さんが挿し木をしてくれる枝。…折れちまって、枯れる筈だった枝の命をお前は助けた。
 木の枝の命を助ける程度でいいんだ、今のお前の頑張りは。
 前のお前がやったみたいに、命まで捨てて、仲間たちの命を守らなくても。
 お前が必死に頑張らなくても、ミュウは誰でも、幸せに生きてゆけるんだから。
「そうかも…」
 ぼくのサイオン、不器用だけれど、木の枝くらいは助けられるね。
 サイオン、使ってないけれど…。
 ハサミでチョキンと切って帰ったら、ママが木の枝、ちゃんと助けてくれたんだけれど…。



 今のぼくだとサイオンも駄目で、ハサミだったよ、と不器用っぷりを披露したけれど。
 「平和な時代になったからだな」と、ハーレイが微笑んでいる通り。
 前の自分は命を捨ててメギドを沈めたけれども、今の自分は木の枝を救えばいいらしい。学校の帰りに見付けた木の枝、ポキリと折れた枝の命を。
 あの枝にミュウの仲間たちの姿を重ねたけれど。
 ふとしたことから、アルタミラの話になったけれども、今はもうミュウは殺されない時代。
 平和な世界で、あの枝のように元気に生きてゆけるから、ハーレイと幸せに歩いてゆこう。
 生まれ変わって来た青い地球の上で、手を繋ぎ合って。
 折れてしまった枝を見付けたら、助けてやって。
 挿し木するのは無理な枝でも、綺麗な水に生けてやる。
 枝の命が少しでも延びて、緑色の葉っぱと元気を保てるように。
 折れたせいで命を断ち切られないで、ゴミにされずに生きてゆけるよう。
 どんな命にも、幸せでいて欲しいから。
 今の平和な世界だからこそ、折れた枝にも、命の輝きを長く保っていて欲しいから…。




           折れた枝と命・了


※アルタミラがメギドで焼かれた理由は、今でも謎。もしかしたら、というハーレイの推理。
 育てた子がミュウになった人類が、社会を変えようと考えたのかも。彼らを消すための惨劇。

 ハレブル別館は、今年、2022年から月に2回の更新になります。
 毎月、第一月曜と第三月曜を予定しております。
 よろしくお願いいたします~。
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(賢いんだ…)
 カラス、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 今が旬の胡桃、それを割ろうとするカラスたち。中の美味しい実を食べたいから。
 けれど、取り出せない中身。固すぎて割れない胡桃の殻。カラスのクチバシでは歯が立たない。足を使っても、割れてくれない。
 そこで頭を使ったカラス。胡桃を殻ごと咥えて飛んで、固い道路に落としてやる。空の上から。道路も同じに固いわけだし、上手い具合に割れる殻。ヒビが入ってパッチンと。
 一度で駄目なら、二度、三度。咥えて空から落とすのだけれど、それでも頑固に割れない殻も。そうなった時には、其処で待つのがカラスたち。もう自分では割ろうとしないで。
 カラスが待っているのは車。人間が運転してやって来る車。
 それに轢かせたら、どんな胡桃もパチンと割れてしまうから。中の実までが砕け散っても、味が変わりはしないから。
 車が走り去った後には、美味しく食べられる胡桃。クチバシでヒョイと拾っては。砕けた欠片を次から次へと、全部すっかり無くなるまで。
(ずっと昔から…)
 そうやって割っていたらしいカラス。自分では割れない胡桃を運んで。
 まずは道路にぶつけてみる。駄目なら車が来るのを待つ。車は確実に胡桃を割ってくれるから。



 地球が滅びてしまう前から、カラスは胡桃を割っていた。道路で、人間が運転する車で。
 やがて胡桃は自然の中では育たなくなって、カラスたちが飛べる空も無くなった。人間は地球を離れて行ったし、胡桃もカラスも他の星へと。
 そして訪れた機械が統治する時代。前の自分たちが生きていた世界。
 SD体制が敷かれた時代のカラスたちには、青い地球も野生の胡桃も無かった。人間と同じに、保護されて生きていたというだけ。滅びないように。
 SD体制の時代が終わって、長い時が流れて蘇った地球。其処に自然が戻って来たら、カラスは胡桃を割り始めた。ずっと昔のカラスたちがやっていたように。
 面白いことに、そっくりそのまま。森から胡桃をせっせと運んで、道路にぶつけて割ってみる。それでも割れてくれない胡桃は、人間の車に轢かせて割る。
(きっと、車が一番なんだよ)
 そうに違いない、と思った固い胡桃の割り方。固い道路と、其処を走る車で割る胡桃。
 他に便利な方法があれば、それで割ろうとするだろうから。昔のカラスとは違うやり方で。
 サイオンを持たないカラスだけれども、何かいい手が見付かれば。今の時代のカラスたちには、とても似合いの方法が。
(車の他には…)
 何かあるかな、と思った固い胡桃を割れるもの。
 カラスは自分で割れないのだから、道具を使うしか無いだろう。けれど道具を持っていないのがカラスたち。車と道路に頼るしかない。道具が無いなら、その二つに。



 それで車に割って貰うんだ、と納得して帰った二階の部屋。母に空になったお皿を返して。
 勉強机の前に座って、考えてみたカラスたちのこと。今も昔も、車に胡桃を割らせるカラス。
 地球が滅びて蘇った後も、同じことをやっているカラスたち。胡桃を割るなら車が一番、と。
(車よりも上手く割れそうなもの…)
 道具を使えないカラスでも、と考えるけれど、思い付かない。固い胡桃の殻を割るなら、道路でなくても良さそうだけれど。…岩にぶつけても割れそうだけれど。
(岩にぶつけて割れなかったら…)
 次の方法が見付からない。辛抱強く咥えて飛んでは、割れるまで岩に落とすだけしか無い方法。二度や三度では済まなくても。十回ぶつけても割れなくても。
 それに比べて便利な道路。一度でパチンと割れたりもするし、駄目でも車を待てばいい。自分で割るのに疲れたら。「もう嫌だよ」と思ったら。
 田舎の道でも、車は走って来るものだから。「疲れちゃった」と翼を休める間に、車のタイヤが割る胡桃。パチンと、ほんの一瞬で。
(ホントに頭がいいよね、カラス…)
 人間の車を道具の代わりにするなんて。自分の力で割れない胡桃は、車に割って貰うだなんて。
 わざわざ道路に運んで来てまで、人間の車を利用する。多分、車がカラスの道具。固い胡桃を、パチンと楽に割るための。
 同じ胡桃を人間が割るには、やっぱり道具が必要になる。車ではなくて、専用の道具。
(胡桃割り人形…)
 そういう道具があるとは聞いているのだけれども、実物は見たことが無い。同じ名前の、有名なバレエも見ていない。
 人間の自分も胡桃割り人形を知らないのだから、カラスが車を思い付いたのは凄い。固い胡桃を割るなら車、と。
 きっと車が、カラスの胡桃割り人形。カラスにとっては、胡桃割り用の道具なのだから。



 人間の形はしていないけどね、と思った車。胡桃割り人形は人形なのだし、人の姿を真似ている筈。その人間は胡桃割り人形で胡桃を割って、カラスの場合は…。
(胡桃割り車…)
 名付けるのならば、そういう名前になるのだろう。
カラスたちが胡桃を割らせる車は。車の色や形なんかは関係無くて、胡桃の殻さえ割れればいい。どんな車でも、立派な胡桃割り車。
(…ハーレイの車でも、カラスが見たら…)
 胡桃割り車になるんだよね、と想像してみたら愉快な気分。ハーレイの車は、胡桃割りのために買った車とは違うのに。ハーレイが乗って、色々な所へ行こうとしている車なのに。
(だけど、やっぱり胡桃割り車…)
 胡桃を割りたいカラスからすれば、ハーレイの車も胡桃割り車。濃い緑色のが走って来た、と。前のハーレイのマントの色の車だから。…カラスは全く知らないけれど。
 いつかハーレイの車で胡桃を割ってみようか、カラスのために。秋になったら二人でドライブ。胡桃を割って欲しいカラスが、「まだかな?」と車を待っている場所へ。
 キャプテン・ハーレイのマントの色をした、胡桃割り車に二人で乗って。ハーレイがハンドルを握って走って、自分は助手席に乗っかって。



 そんなドライブも素敵だよね、と浮かんだ考え。ハーレイの車が胡桃割り車に変身する。道路でカラスが待っていたなら。「これをお願い」と、胡桃を置いていたならば。
(胡桃割り車のドライブ、いいかも…)
 タイヤの下で砕ける胡桃。車はちょっぴり揺れるのだろうか、それとも音がするだけだろうか?
 固い胡桃がパチンと弾ける、カラスが喜ぶ胡桃割り車。「やっと割れた」と。
 胡桃割り車をやってみたいな、と思っていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ぼくがハーレイと一緒にドライブに行けるようになったら…」
 大きくなったら、秋には胡桃割り車をお願いしてもいい?
 ハーレイの車でも出来る筈だもの、胡桃割り車。
「はあ? 胡桃割り車って…」
 なんだそりゃ、と丸くなってしまったハーレイの瞳。「そんな車は知らないが?」と。胡桃割り人形の方ならともかく、車というのは初耳だ、と。
「えっとね、胡桃割り車は、ぼくが考えた名前だから…。カラス専用の道具なんだよ」
 カラスは車で、固い胡桃を割るんだって。道路に落としても割れない胡桃は、車に轢かせて。
 それって胡桃割り人形じゃなくて、胡桃割り車だと思うから…。
「あれか、俺も噂は聞いてるな。カラスは知恵が回るんだよなあ…」
 俺の親父も割らされたらしいぞ、釣りの帰りに走っていたら。
「ホント? それなら、其処に行ったら割ってあげられるね」
 胡桃の木があって、カラスがいるってことだもの。其処で出来るよ、胡桃割り車。
「俺の車でやりたいのか? 胡桃割り車というヤツを」
 カラスが道に置いてる胡桃を、タイヤで轢いて。…まさしくカラスの思う壺だな、胡桃割り車。
「だって、楽しいと思わない?」
 ちゃんと道路で待ってるんだよ、カラスは隠れているかもだけど…。胡桃だけ置いて。
「まあ、愉快ではあるかもなあ…」
 お前はそいつを見たいわけだし、割った後には車を停めればカラスが食うのも見られるし…。
 俺の車は胡桃割り車になるってわけだな、カラスのために胡桃を割りました、と。



 胡桃を割るために買った車じゃないんだが、とハーレイは苦笑しているけれど。カラスのためにドライブなのか、とも言うけれど。
「胡桃割り車でいいじゃない。ぼくが行きたいドライブなんだよ、胡桃割り車は」
 カラス、とっても頭がいいよね。ずっと昔から、やり方はおんなじらしいけど…。
 人間が乗ってる車に胡桃を割らせるんだよ?
 ちゃんと道具にしちゃってるんだよ、車をね。胡桃を割るなら車なんだ、って。
 人間は胡桃割り人形を使うけれども、カラスは車。
 胡桃割り人形、ぼくは本物、見たこと一度も無いんだけれど…。
「俺はあるんだが、この地域では使えんぞ。胡桃割り人形というヤツは」
 飾って眺めておくだけだってな、胡桃割り人形を買って来たって。
「使えないって…。どういう意味?」
 胡桃を割るための人形なんでしょ、使えない筈がなさそうだけど…。道具なんだし…。
「それがだ、胡桃の殻の固さが全く違うらしいぞ」
 この地域で採れる胡桃の殻は固いんだそうだ。胡桃割り人形の方が壊れるくらいに、桁違いに。
 胡桃の種類が違うわけだな、地域によって。
 胡桃割り人形を考え出した地域の方だと、胡桃の殻はもっと割れやすい。胡桃割り人形で簡単に割れるが、この地域だと駄目なんだ。…飾り物にしかならないんだな、胡桃割り人形は。
「へえ…!」
 知らなかったよ、そんなこと…。胡桃の固さが違うだなんて。
 人間が胡桃を割るんだったら、車じゃなくって胡桃割り人形だよね、って思ってたのに…。



 カラスが胡桃の殻を割るには、人間の車が通るのを待つ。タイヤで割ってくれるから。
 人間の方は胡桃割り人形を使って割るのだと思っていたのに、この地域では違うらしい。胡桃の殻が固すぎるから、胡桃割り人形は壊れてしまう。他の道具を使うしかない。
「胡桃割り人形、此処だと飾りになっちゃうんだ…。なんだか不思議」
 道具があっても役に立たないなんて…。地球は広いね、胡桃の固さも違っちゃうんだ。何種類も胡桃があるんだろうけど…。
 あれっ、それならシャングリラの胡桃はどっちだろ?
 食べていたよね、白い鯨で。…胡桃の木だって植えていたから、実が出来たら。
 あの胡桃は固い胡桃だったのか、そうじゃない胡桃だったのか、どっち…?
「そういや、あったな。胡桃の木も」
 酒のつまみにも食っていたもんだ、あの胡桃。美味かったんだが、はて、どっちだか…。
 俺も胡桃には詳しくないしな、それにシャングリラでは胡桃だと思っていただけで…。
 いや待て、あれは人形で割れたんだ。…ということは、柔らかい方の胡桃だったんだな。
「えっ、人形って?」
「そのものズバリだ。胡桃割り人形、あったじゃないか」
 ちゃんと本物の胡桃割り人形が。そいつで割ったぞ、シャングリラで採れた胡桃の殻を。
「そうだっけ…?」
 胡桃割り人形なんかを奪って来たかな、前のぼく…?
 何かに紛れて奪っちゃったのを、ハーレイ、倉庫に仕舞っていたとか…?
「俺は確かに関係してたが、お前が奪った胡桃割り人形を管理していたわけじゃない」
 作ったんだ、胡桃割り人形を。胡桃の殻を割るためにな。
「…作ったって…。ハーレイが胡桃割り人形を?」
 ハーレイ、そんなに器用だった?
 木彫りのナキネズミがウサギにされてしまったくらいに、器用じゃないと思うんだけど…。
「言わないでくれ。俺にとっても、其処は情けない思い出なんだ」
 俺の独創性ってヤツは一切抜きでだ、とことん注文通りにだな…。こう作れ、と。
「思い出したよ…!」
 胡桃割り人形、あったっけね…。前のハーレイが作ったんだっけ…!



 ホントにあった、と思い出した胡桃割り人形。前のハーレイが作った木彫りの人形。
 事の起こりは、シャングリラに植えた胡桃の木。白いシャングリラが出来上がった後に、公園や農場に何本も植えていた胡桃。実は食べられるし、長期保存にも向いていたから。
 胡桃の殻は手で割ることが出来たのだけれど、ヒルマンが欲しがったのが胡桃割り人形。それがあったら子供たちが喜ぶだろうし、情操教育にもなりそうだ、と。
 長老たちが集まる会議で話が出た時、前の自分も面白そうだと考えたけれど…。
「欲しいのだがねえ…。しかし、ハーレイの腕ではだね…」
 木彫りはハーレイがやっているだけで…、と言葉を濁したヒルマン。続きはゼルが引き継いだ。
「作れんじゃろうな、どう考えても」
 こういう人形は無理に決まっておるわ、と指差された資料。ヒルマンが持って来た写真。
「あたしも全く同感だね。これはハーレイには作れやしないよ」
 まるで才能が無いんだからさ、とブラウも容赦なかったけれども、「しかしだ…」とヒルマンが挟んだ意見。「才能の方はともかくとして」と。
「こういった物を作らせた時は、ハーレイの腕は話にならないのだがね…」
 スプーンとかなら、実に上手に作るじゃないか。芸術方面の才能が無いというだけだ。
 木彫りの腕がまるで駄目なら、ああいう物も作れないだろう。だからだね…。
 使いようだ、とヒルマンが述べた、前のハーレイの木彫りの腕前。
 胡桃割り人形を作るのだったら、設計図の通りに木を削るだけ。ハーレイの仕事は部品作りで、組み立てなどの作業はゼルでどうだろうか、という提案。
「ほほう…。わしとハーレイとの共作なんじゃな、その胡桃割り人形は?」
「殆どは君に任せることになるだろうがね」
 設計も、それに組み立ても…、とヒルマンとゼルが頷き合う中、ハーレイは仏頂面だった。
「私は削るだけなのか?」
 それだけなのか、と眉間に皺が寄せられたけれど。
「あんた、自分の腕を全く分かっていないとでも?」
 それこそ他人の、あたしにだって分かることなんだけどね?
 あんたが一人でこれを作ったら、人形どころかガラクタが出来るだけだってことは。



 そうじゃないのかい、とブラウが鼻を鳴らしたくらいに、酷かった前のハーレイの腕前。下手の横好きという言葉そのまま、芸術作品には向いていなかった。木を削ることは得意でも。
「…確かに否定は出来ないが…」
 難しいことは認めるが、と胡桃割り人形の写真を見詰めるハーレイを他所に、ヒルマンの方針はとうに決まっていた。「ハーレイは削るだけだよ」と。
「ゼルに設計を任せておくから、君はその通りに木を削りたまえ」
 寸法などをきちんと測って、少しも狂いが出ないようにね。それなら問題無いだろう?
 君の腕でも充分出来るよ、胡桃割り人形の部品が立派に。
「そうじゃ、そうじゃ! わしに任せておくのがいいんじゃ」
 腕によりをかけて、素晴らしい図面を描かんとのう…。他にも資料はあるんじゃろ?
 最高の胡桃割り人形を作ってやるわい、子供たちが楽しんで使えるヤツを。
 任せておけ、と胸を叩いたゼル。子供たちが喜ぶ胡桃割り人形を作り上げるから、と。
 ブラウもエラもそれに賛成、胡桃割り人形はハーレイとゼルとの共作にする。ハーレイの仕事は部品作りで、下請け作業なのだけれども。
 それが一番いいということは、前の自分にも分かっていた。ハーレイの木彫りの腕前だって。
 もう恋人同士になっていただけに、ハーレイには少し可哀相だとは思ったけれども、私情を挟むわけにはいかない。たかが胡桃割り人形のことにしたって。
 此処でハーレイの肩を持ったら、ソルジャー失格。
 子供たちのことより、恋人を優先するようでは。自分の感情を交えた言葉で、長老たちの意見を否定するようでは。
 だから駄目だ、と守った沈黙。「ぼくもその方がいいと思うよ」と、自分の心に嘘をついて。



 こうして決まった、胡桃割り人形を作ること。計画通りにゼルが設計に取り掛かった。どういう人形が喜ばれそうか、資料を色々用意して。子供好きだけに、あれこれ検討して。
 デザインが決まれば、次は設計。ハーレイの腕でも、素晴らしい人形が出来るようにと。
 数日が経って、青の間で暮らす前の自分にも、噂が聞こえて来たものだから…。
「図面を貰ったんだって?」
 例の胡桃割り人形の、とハーレイの部屋を訪ねて行った。シャングリラの中はとうに夜。通路の照明などが暗くなっていて、展望室から外を見たなら、雲海も闇の中だろう。
 ハーレイは机に向かっていたのだけれども、顔を上げて苦い笑みを浮かべた。
「実に屈辱的ですがね。…この通りですよ」
 御覧下さい、と指された設計図。机の上に広げられた図面には、本当に細かすぎる指示。此処はこういう寸法で、だとか、角度はこうだ、と注文が山ほど。
 それほどうるさく書いてあるのに、ハーレイの仕事は木を削るだけ。部品作りの下請け作業。
 出来上がったら部品をゼルに届けて、色を塗ったりするのもゼル。
 完成した時は、遠い昔の兵隊の姿になる人形に。大きな口で胡桃の殻を割る人形に。
「…君は、組み立てもさせて貰えないんだね…」
 出来たパーツには、触るなと書いてあるんだし…。バラバラのままで届けに来い、と。
「そのようです。…全く信用されていません」
 部品によっては、仮に組んでみれば完成度が上がりそうなのですが…。
 微調整ならゼルにも出来るそうでして、手出しするなと釘を刺されてしまいましたよ。
 私はゼルの部下らしいです、とハーレイが嘆くものだから…。
「そんな風にも見えるけど…。実際、そうかもしれないけれど…」
 でも、この部品を作り出すのは君なんだ。木の塊を注文通りに削ってね。
 それは君にしか出来ない作業で、とても大事な仕事だよ。…君の考えでは動けなくても。
「…そうでしょうか?」
 ただの下請けで、ゼルにいいように使われているとしか思えませんが…。
 これだけ細かく注文されたら、能無しと言われた気もしますしね。



 私は本当に削るだけで…、とハーレイは溜息をついたけれども。この先の空しい作業を思って、眉間の皺も普段より深いのだけれど…。
「そんなにガッカリしなくても…。君が一番肝心な部分を担っているんだと思うけれどね?」
 船で言うなら、エンジンという所かな。…これから出来る胡桃割り人形の心臓の部分。
 此処に書いてあるパーツが無いと、胡桃割り人形は作れないんだから。どれが欠けても、人形は完成しやしない。全部のパーツが揃わないとね。
 それを作れるのは君だけなんだよ、ゼルに出来るのは微調整だけだ。肝心のパーツは作れない。
 最初にパーツありきなんだし、君がいないと胡桃割り人形は出来上がらない。
 そう考えたら、下請けだろうが、これは最高に素晴らしい仕事だと思えてこないかい…?
「…そうですね…。どの部品が欠けても、胡桃割り人形は作れませんね」
 出来た部品が欠陥品でも、同じ結果になるでしょう。…ゼルが修正出来なかったら。
 下請けも大切な作業なのですね、少しやる気が出て来ましたよ。
 溜息ばかりをついていないで、狂いの無いパーツを作らないと、と。
「それは良かった。…やる気になってくれたのならね」
 でも、ハーレイ…。頑張ってパーツを作るというのはいいけれど…。
 部品作りに夢中になって、ぼくのことを忘れてしまわないでよ?
「ご心配なく。青の間では作業しませんよ」
 あそこで部品を削っていたなら、木屑が落ちてしまいますから…。
 私が青の間にいたというのがバレます、掃除しに来た係の者に。…あなたとの仲を疑われたら、大変なことになりますし…。作業はこの部屋だけですよ。
「それは分かっているけれど…。だから注意をしているんだよ」
 青の間に来るのが遅くなるとか、来るのを忘れて朝まで作業を続けるだとか…。それは困るよ。
「まるで無いとは言い切れませんね…。細かい作業になりそうですから」
 ご心配なら、あなたがおいでになりますか?
 今のように、私の部屋の方まで。…青の間でお待ちになるのではなくて。
「それも素敵だね。君の部屋に泊まるというのも好きだし…」
 君の作業を見られるのも、とても楽しそうだよ。たとえ下請け作業でもね。



 そんな遣り取りがあったものだから、胡桃割り人形の部品の制作中は、ハーレイの部屋に何度も泊まった。青の間の自分のベッドは放って、瞬間移動で出掛けて行って。
 作業をしているハーレイの姿を熱心に眺めて、差し入れだって。
 ソルジャー用にと夜食を注文しておいて、それが届いたら、青の間からハーレイの部屋に運んで行って。もちろん誰にも見付からないよう、瞬間移動で飛び込んで。
 そうやって夜食を持って行ったら…。
「ほら、ハーレイ。…サンドイッチ」
 今日のは色々作って貰って、卵やハムもあるんだよ。…お腹が空いた、と注文したからね。
 どれから食べたい、やっぱりハムの?
「いえ、お気持ちは嬉しいのですが…。今は作業の真っ最中で…」
 手が汚れたら、木まで汚れてしまいますから。…無垢の木は汚れやすいので…。
「その心配は要らないよ。ぼくが食べさせてあげるから」
 君は横を向いて齧ればいいだろ、食べこぼしで木を汚さないように。…こんな風にね。
 口を開けて、と差し出していたサンドイッチ。卵やハムや、キュウリなどのを。
 ハーレイの好みを訊いては、「はい」と。モグモグと動く口に合わせて、食べやすいように。
(うん、他にも…)
 色々と差し入れしたんだっけ、と蘇った前の自分の記憶。作業中だったハーレイに夜食。
 今のハーレイに「覚えてる?」と尋ねてみたら、「そうだったなあ…」と懐かしそうで。
「ああいうのは当分、出来ないな…」
 お前の手から食べるというヤツ。…どれも美味かったが…。サンドイッチも、グラタンとかも。
「ママが作った料理で良ければ、いつでも食べさせてあげるけど?」
 週末は二人でお昼御飯だもの、ママたちがいないから大丈夫。…この部屋だしね?
 今度の土曜日に食べさせてあげるよ、注文があるならママに頼んでおいてもいいし…。
 ハーレイ、お昼に何を食べたい?
「お前のアイデアは悪くないんだが…。そいつは駄目だな」
 チビのお前に食べさせられたら、馬鹿にされた気分になっちまう。子供扱いされたみたいで。
「えーっ!?」
 ぼくはハーレイの恋人なのに…。チビだけど、ちゃんと恋人なのに…!



 酷い、と頬を膨らませたけれど、胡桃割り人形のことは素敵な思い出。全部のパーツが完成するまで、何度も泊まったハーレイの部屋。木の塊から削り出すのを眺めに、飽きもしないで。
 夜食も何度も運び続けて、最後のパーツが出来上がって…。
「お疲れ様。…これで完成だね、胡桃割り人形のパーツ」
 此処から先はゼルの仕事で、組み立てるのも、色を塗ったりするのもゼルで…。
 君の出番は今日でおしまい。明日からはゼルが作業の続き。
「そうなりますね。明日の夜までには、届けに出掛けますから」
 胡桃割り人形が完成するまで、ゼルの部屋で御覧になりますか?
 この先の作業は、私がやっていたような単調なものとはガラリと変わるのでしょうし…。
 きっと面白いと思いますよ。見学に出掛けてゆかれたなら。
「作業はそうかもしれないけれど…。問題は部屋の住人だよ」
 ゼルの部屋に泊まってもつまらないからね。…夜食を運ぼうとも思わないよ。
 食べさせてあげたい気持ちもしないし、後の作業は見なくてもいいって気分だけれど?
「そう仰ると思いました。…あなたが熱心に通っておられた理由は、見学とは違いましたから」
 私があなたを忘れないようにしておくことと、夜食を食べさせに通うこと。
 どちらも今日で要らなくなった理由です。
 私の作業は終わりましたし、これで青の間に戻れますよ。作業のことを気にしないで。
「そうだね。でも…」
 此処に通うのも楽しかったけどね、ただ泊まるのとは違っていたから。
 君がキャプテンの仕事をしているだけなら、夜食を横から食べさせたりは出来ないし…。
「ええ。…そういう不真面目な態度で仕事をしたくはないですね」
 夜食を食べることはあっても、あなたに食べさせて頂くなどは…。それはあまりに…。
「不謹慎だって?」
 そうなるだろうね、ソルジャーとキャプテンなんだから。
 誰にも秘密の恋人同士で、仕事の時には、お互い、恋は封印だしね…?



 だから胡桃割り人形のパーツ作りは楽しかったよ、と交わしたキス。今夜でおしまい、と。
 次の日、ハーレイは出来上がったパーツをゼルに届けて、続けられた胡桃割り人形作り。今度はゼルが組み立てをして、色を塗って、顔なども描いて。
 作業が終わって完成した時は、会議の席で披露されたのだけれど…。
「凄いね、これは。…ハーレイが作ったとは思えない出来栄えだよ」
 パーツはハーレイが作ったのに、と褒めた前の自分。兵隊の姿の胡桃割り人形は、本当に見事な出来だったから。
 そうしたら…。
「殆どはワシじゃ、わしの仕事じゃ!」
 組み立てて、色も塗ったんじゃし…。顔を描いたのも全部、わしなんじゃから。
 ちゃんとサインも入れてあるんじゃぞ、わしが作ったと、背中にな。
「え…?」
 誇らしげだったゼルの宣言。まさか、と机の上に置かれた胡桃割り人形を調べてみたら、ゼルのサインが入っていた。人形の背中の、よく見える場所に。
「あるじゃろうが、其処にワシのサインが」
 どうじゃ、とゼルが自慢するから、ソルジャーとして訊いてみた。ハーレイの恋人ではなくて、ソルジャー・ブルー。…白いシャングリラで暮らすミュウたちの長として。
「…サインを入れたい気持ちは分かる。仕上げたのは確かに君なんだから」
 でもね…。ハーレイの立場はどうなるんだい?
 パーツを作ったのはハーレイなんだよ、それが無ければ胡桃割り人形は作れなかったわけで…。
 そのハーレイの存在を無視して、君の名前だけを書くというのは…。
 どうかと思う、と苦言を呈したけれど。
「大部分はワシの仕事じゃろうが!」
 わしが設計図を書かなかったら、パーツを作ることだって出来ん。…そうじゃろうが?
 ハーレイはワシの指図で仕事をしておっただけで、ただの下っ端に過ぎんのじゃ!
 そんな輩に、サインを入れる資格があるとは思えんがのう…。
 下っ端のサインは入らんものじゃろ、ただ手伝っただけの能無しのは…?



 ハーレイのサインなんぞは要らん、と言い放ったゼル。会議に出ていたヒルマンたちも、文句を言いはしなかった。ゼルの言葉も、まるで間違いではないのだから。
 そういうわけで、子供たちに人気があった胡桃割り人形はゼルの作品。せっせとパーツを作っていたのは、前のハーレイだったのに。
 立派な人形が出来上がるよう、細心の注意を払ってパーツを幾つも削り出したのに。
「…前のハーレイ、手柄を横取りされちゃったね…」
 胡桃割り人形、ゼルが作ったってことになっちゃった…。ゼルのサインが入ってたから。
「仕方あるまい、相手がゼルでは俺だって勝てん」
 若い頃からの喧嘩友達なんだぞ、勝ち目が無いってことくらい分かる。…あの状況ではな。
 それに屁理屈が上手いのもゼルだ、どう転がっても俺のサインは無理だっただろう。
 実際、ゼルの図面が無ければ、俺はパーツを作れなかったわけなんだしな。
「だけど、ハーレイが作業していた時間の方が長かったのに…」
 幾つも部品を作ってたんだよ、何度も寸法を測ったりして。…角度も合わせて。
 ゼルはパーツを組み立てただけで、色を塗ったりしただけじゃない…!
「いいんだ、お前がいてくれたからな。…俺が作業をしていた時は」
 何度も部屋まで来てくれていたし、俺は一人じゃなかったから。…作業自体は下請けでもな。
「ホント?」
「ああ、最高に幸せだったさ。あの時の俺は」
 お前が側で見ていてくれて、夜食も色々食べさせてくれて。「ほら」と口まで運んでくれてな。
 お蔭で忙しくて手が離せなくても、腹が減って困りはしなかったわけで…。
「…お嫁さんが隣にいたような気分?」
 ぼくが作った夜食じゃないけど、食べさせてあげていたんだから。「はい」って、色々。
「嫁さんか…。そういう発想は無かったんだが…」
 そうだったんだろうな、今から思えば。…お前が嫁さんみたいな気分になっていたんだ。
「今度も食べさせてあげるよ、色々」
 サンドイッチも、おにぎりだって。…ハーレイが食べさせて欲しいんだったら。
「もちろん、頼みたいんだが…。育ってからだぞ?」
 チビのお前じゃ話にならんし、さっきも言ったが、馬鹿にされてる気分だからな。
 一人で飯も食えないのか、と。



 まずはお前が育つことだ、と念を押された。ハーレイに「ほら」と食べさせたって、恋人同士に見える姿に。今の大人と子供ではなくて。
 ただし、ゆっくり育つこと。…急いで大きくならないこと。「分かるな?」とハーレイの鳶色の瞳が見詰めてくるから、「うん」と素直に頷いた。
「分かってる…。子供時代をゆっくり楽しめ、って言うんでしょ?」
 早く大きくなりたいけれども、ハーレイが言いたいことだって、ちゃんと分かるから…。
 それでね、いつか大きくなったら、ハーレイと結婚出来るでしょ?
 胡桃割り人形、今度も作る?
 ぼくたちが住んでる地域の胡桃は、胡桃割り人形では割れない胡桃らしいけど…。
「作って飾りにするってか? ゼルじゃなくて俺のサインを入れて…?」
「そう! ハーレイが作った胡桃割り人形、家に飾れたら素敵じゃない?」
 前のとおんなじ人形でもいいし、違う色とか顔でもいいよね。兵隊さんの顔が違うとか。
「作るって…。設計図が無いぞ、ゼルがいないんだから」
 あちこち探せば、作り方が分かる本があるかもしれないが…。俺には木彫りの趣味が無いんだ。前の俺みたいに器用にパーツを作れやしないし、胡桃割り人形は絶望的だな。
 胡桃割り車で勘弁してくれ、カラスが持って来る胡桃なら幾つでも割ってやるから。
「そうだ、今度はそれがあったね…!」
 一番最初は、それをお願いしてたんだっけ…。ハーレイの車で胡桃を割ること。
 カラスのために胡桃割り車でドライブしようよ、胡桃を割りたいカラスが待っている場所へ。
 もしもカラスが来ていなかったら、待ってる間に、ハーレイにお弁当、食べさせてあげるよ。
 前のぼくがやっていたのと同じに、サンドイッチとかを横から「はい」って。
「いいかもなあ…。お前が食わせてくれるんならな」
 胡桃割り車でドライブするなら、美味い弁当を用意して行こう。
 俺が色々作ってもいいし、途中の店で山ほど買って行くのも楽しいぞ、きっと。
 胡桃割り人形は作ってやれんが、弁当作りは任せてくれ。胡桃割り車の運転もな。



 お前が大きくなったなら、とハーレイは約束してくれたから、いつか二人でドライブに行こう。
 胡桃割り人形を作る代わりに、胡桃割り車を利口なカラスにプレゼントしに。
 カラスが来るのを待っている間は、ハーレイにあれこれ食べさせてあげて。
 ハーレイが作ったお弁当やら、途中で買って来た美味しいものを。
 「もうすぐ来ると思うから…」と、待ち時間が長くなったって。
 胡桃を割りたいカラスが来るまで、うんと時間がかかったとしても。
 前の自分も、胡桃割り人形のパーツが出来上がるまで、ハーレイの世話をしていたから。
 夜食を運んで食べさせていただけでも、二人とも幸せだったから。
 その思い出を語り合いながら待とう、胡桃を咥えたカラスが道路にやって来るまで。
 胡桃割り車の出番が来るまで、ハーレイの車でカラスの胡桃をパチンと割ってやれる時まで…。




             胡桃割り人形・了


※前のハーレイが部品を作った、胡桃割り人形。けれどサインを入れたのは、設計者のゼル。
 そして木彫りの趣味が無いのが、今のハーレイ。今度はカラス用の胡桃割り車でドライブを。

 ハレブル別館、毎週更新は今回が最後になります。
 2022年からは月に2回更新、毎月、第一月曜と第三月曜の予定です。
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