シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
パパにだ、とブルーが眺めた葉書。学校から帰って、おやつの時間に。
ダイニングのテーブルに置いてあった葉書。他の郵便物と一緒に。ふと目に留まったから、手を伸ばして取ってみたのだけれど。
同窓会という言葉に引かれて、読んでみようと興味津々だったのだけれど。
(泊まり付き…)
なんだか凄い、と見詰めてしまった。何処かに集まるというだけではなかった、同窓会の中身。皆で食事をするのはもちろん、ホテルで一泊するらしい。其処から観光にも出掛けて行って。
(同窓会って言うより、旅行みたい…)
サマーキャンプとか、そんな感じの。学校の友達と泊まるのだったら、そういうイベント。
同窓会という言葉で思い付くのとは、まるで違った父の学校の同窓会。チビの自分は、同窓会はまだ無いのだけれども、友達から色々と聞いてはいる。年上の兄弟がいる友達も多いから。
彼らの話で耳にしていた同窓会は…。
(大人が行くような、レストランとかは高いから…)
もっと値段が安いお店で開かれている。チビの自分のお小遣いでも、食事が出来るような店。
上の学校を卒業するような人なら、レストランだと聞いているけれど。父宛の葉書では、泊まり付きということになっているから、もっと高いに違いない。参加費用と旅程は追ってお知らせ。
(空けておいてね、ってことなんだ…)
同窓会の日程を。費用は出せても、予定が空いていないと参加出来ないから。
それに泊まり付きだけに、観光の内容を後で詰めたりするのだろう。希望者の多い所にしたり、他に行きたい所は無いかと尋ねたり。行き先次第で費用も変わるし、それは後から。
とはいえ、子供の自分からすれば豪華な内容。費用は謎でも、高いことだけは確かだから。
友達に聞いた同窓会だと、お小遣いで行けるような店が会場。父に来た同窓会の葉書は、泊まり付きで食事に観光まで。
(大人はお小遣いが多いからだよね?)
上の学校を卒業するような年の人だと、同窓会の会場はレストラン。父は遥かに年上なのだし、こういう風になるのだろう。同じ食事でも、ホテルに泊まって観光も、と。
きっとそうだ、と葉書を見ながら考えていたら、入って来た母。
「あら、見てるの?」
パパに来た葉書。…まだ先だけれど、パパも喜ぶわ、きっと。懐かしいお友達に会えるから。
前にあったのは何年前だったかしらね、この学校のは。
「同窓会…。大人のは凄いね、子供のよりもずっと」
ホントに凄い、と葉書を母の方へと向けたのだけれど、母はキョトンとした表情。
「凄いって、何が?」
普通の葉書よ、いつかブルーにも葉書が来ると思うけど?
子供同士の同窓会でも、連絡は葉書の筈だから。これと同じで会場を書いて。
「それは知ってるけど…。友達から色々聞いているから。…凄いって言うのは中身だよ」
泊まり付きで、それに観光もついているんでしょ、これ?
同窓会って、子供だったら食事だけなのに…。今の学校の生徒がやるなら、うんと安いお店。
大人の同窓会は凄いよ、お小遣いが多いと中身も凄くなるんだね。
ビックリしちゃった、と葉書を指差したら。
「ああ、それはね…。お小遣いとは関係無いのよ」
大人がやってる同窓会なら、何処でもそんな風になるわね、と教えて貰った。
父くらいの年になった大人は、仕事や結婚、自分の好みなどで引越しする人が多い。あちこちの地域や、地球を離れて他の星へと。ソル太陽系とは違う星系にだって。
様々な場所に散っているから、同窓会をやるなら泊まり付き。
ホテルに一泊している分だけ、長くなるのが同窓会の時間。食事だけで終わりの会よりも。
開催時間が長くなったら、何処かで都合がつく可能性が上がるもの。一日目はどうしても無理な人でも、二日目なら出られそうだとか。泊まるだけなら、なんとかなるとか。
お小遣いの額とは関係無い、と母が話してくれたこと。みんなが集まりやすいようにと、泊まり付きになっている同窓会。大人になったら、住む場所が宇宙に散ってゆくから。
「なんだ、そういう仕組みになっていたわけ?」
大人だから豪華な同窓会、っていうわけじゃなくて。…その方が集まりやすいから。
色々な場所で暮らしているなら、直ぐには集まれないものね。子供と違って。
「そうよ。ブルーくらいの年の子供なら、同窓会も簡単だけど…」
遠い所に引越す友達、滅多に無いでしょ。だから食事で充分なのよ。短い時間で集まれるから。
だけど大人は、うんと離れた星に引越す人も多いし…。
同窓会は泊まり付きにするのが普通ね、何処の学校でも。そういう年になったなら。
いつかはブルーも、こんな同窓会に出る日が来るわよ。
「…ぼくも?」
「もちろんよ。今よりもずっと大きくなったら」
そしたら、こういう葉書が届くわ。同窓会のお知らせの葉書。泊まり付きのね。
一番最初の同窓会なら、お嫁さんも連れて行かなくちゃ。
「お嫁さん?」
なんで、と首を傾げたけれども、「そういうものよ」と微笑んだ母。
「此処に書いてあるでしょ、奥さんもどうぞご一緒に、って」
ママも行ったわ、ずっと前にね。…ブルーが生まれていなかった頃に。
遠い星とか、離れた地域から来る人だったら、同窓会のついでに家族旅行をする人もいるの。
子供連れで来る人もいるのよ、子供は子供同士で遊べるようにしてあるから。
一番最初の同窓会だと、お嫁さんを連れて行く人が殆どかしら。…自慢のお嫁さんだもの。
だからブルーも、いつかはね。
ブルーの自慢のお嫁さんを連れて、同窓会に行かないと。
「そうなんだ…」
お嫁さん、連れて行くものなんだね、大人が出掛ける同窓会は。
ママも行ったんなら、ぼくが行く時も、お嫁さんを連れて行かなくちゃ…。
分かったよ、と頷いて、おやつの後で帰った二階の自分の部屋。
勉強机に頬杖をついて、母から聞いた同窓会のことを考えてみた。大人になった後の同窓会。
きっと友達は、あちこちに散っているのだろう。他の地域や、他の星などに。仕事や、好みや、様々な事情で散らばってしまった、暮らしている場所。
離れ離れになった仲間が集まるためには、父に来ていた葉書のような泊まり付きで行く同窓会。奥さんや子供を連れて出掛ける人も。
(ぼくだと、ハーレイを連れて行くわけ?)
お嫁さんではないけれど。…お嫁さんは自分の方なのだけれど。
一番最初の同窓会には、ハーレイを連れて。
せっかくホテルに泊まるのだから、最初だけでなくて、その次だって。同窓会がある度に。
みんなにハーレイを自慢すると言うより、一緒に泊まって、観光だってしてみたいから。
(ハーレイの同窓会だって…)
連れて行って欲しいんだけど、と夢を描いていて思い出したこと。前にハーレイと約束をした。同窓会ではないけれど…。
(OB会…!)
ハーレイが通っていた学校の、柔道部員たちのOB会。彼らも宇宙に散っているだろうけれど、今もこの地域に住んでいる人たちが集まる会。それに自分も行けるのだった。
(豚汁作り…)
柔道部で頑張る後輩たちにと、ハーレイたちが作る豚汁。学校に集まって、大きな鍋で。自慢の味のを、グツグツと煮て。
それをハーレイが作りに行く時、連れて行って貰えるという約束。豚汁作りに行けるのならば、泊まり付きの同窓会だって…。
(行けるよね?)
きっと、と胸を躍らせていたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄って庭の向こうを眺めると…。
門扉の向こうで手を振るハーレイ。手を振り返しながら、弾んだ心。
(同窓会のこと…)
訊かなくっちゃ、と。連れて行って貰える筈だものね、と。
ハーレイが部屋に来るのを待って、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、もうワクワクと切り出した。同窓会、と胸を弾ませて。
「あのね、同窓会…。連れてってくれる?」
「はあ?」
何の話だ、と瞬く鳶色の瞳。「同窓会がどうかしたのか?」と。
「えっとね…。同窓会だよ、ハーレイにだって葉書、来るでしょ?」
こういう葉書、と父に届いた案内のことを説明した。ホテルに泊まっての同窓会。母に教わった知識も一緒に披露して。ホテルに泊まっての同窓会になる理由。
大人の同窓会がそうなら、ぼくもハーレイと一緒に行ってもいいの、と。
「そういうことか…。そりゃまあ、なあ…?」
美人の嫁さんは自慢しないと。もちろん一緒に連れて行ってな。
俺の友達もきっと驚くぞ。凄い美人だし、しかもお前はそれだけじゃないし…。
「男だから?」
お嫁さんって言っても女の人とは違うから…。やっぱりビックリされるよね。
ハーレイのお嫁さんが男だなんて、って、みんなビックリ仰天で。
「いいや、そいつは誰も気にしやしないだろう。なんたって、俺の嫁さんなんだ」
俺が選んだ嫁さんだしなあ、男だろうが、女だろうが、細かいことはいいってな。
やっとお前も結婚したか、と肩を叩いて祝福だ。「結婚出来ないと思っていたぞ」と言うヤツも出て来たりして。
男だというのは大したことじゃないんだが…。問題はお前の姿だな。
俺の嫁さんになってる頃には、何処から見たってソルジャー・ブルーそのものだぞ?
でもって、俺はキャプテン・ハーレイそっくりなわけで…。
その俺が連れて来た嫁さんがソルジャー・ブルーに瓜二つとなったら、どうなると思う?
「んーと…。みんな、とってもビックリしそう…」
男同士のカップルなことより、組み合わせがちょっと凄すぎるから…。
キャプテン・ハーレイにそっくりなハーレイのお嫁さんが、ソルジャー・ブルーだなんて…。
本物のソルジャー・ブルーじゃなくても、誰でもビックリ、と思い浮かべた光景。
ハーレイの学校の同窓会に一緒に出掛けて行ったら、きっと注目の的だろう。ソルジャーの服を着ていなくても。…ごくごく普通の服装でも。
今のハーレイは、前のハーレイにそっくりだから。それに自分も、前の自分と同じ姿に育つ筈。
そんな二人がカップルだったら、結婚したとなったなら…。
「ハーレイの友達にもビックリされそうだけれど、それだけじゃなくて…」
前のぼくたち、みんなに誤解されそうだね。本当は恋人同士だったのかも、って。
…本物のキャプテン・ハーレイと、ソルジャー・ブルー。
「そっちが本当のことなんだが…。前の俺たちは、恋人同士だったというのが」
しかし、今の俺たちが正体を明かしていないからには、誤解でしかないな。
そっくりなカップルが現れたから、というだけで生まれちまった誤解。
根も葉もない噂話ってヤツだが、さぞかし盛り上がることだろうさ。…その同窓会。
歴史の真実を発見だとか、まるで根拠の無い話でな。
「ぼくもそう思う…。本当は当たっているんだけれど…」
何の証拠も残ってないしね、前のぼくたちが恋人同士だったってこと。
ハーレイは航宙日誌に書いていないし、前のぼくだって何も残していないから…。
どう考えても、誤解で間違い。…ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは恋人同士、っていう説は。研究者に言ったら、笑われちゃう。
だけど、話の種にするには面白いから…。
ハーレイがぼくを連れて行ったら、同窓会の話題、それで決まりだね。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは、本当は恋人同士でした、っていう新説。
賑やかだろう同窓会。いつかハーレイが、一緒に連れて行ってくれたら。
ホテルに泊まって食事に観光、その間に何度も注目されては大騒ぎ。平和な時代を作った英雄、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ。
歴史の授業で必ず教わる、あの二人は恋人同士だったらしい、と無責任すぎる噂話で。ワイワイ騒いで、写真なんかも撮られたりして。
(もっとソルジャー・ブルーらしく、って注文されたりするのかな?)
今の自分と前の自分は、表情がまるで違うだろうから。同じ姿でも、表情で印象が変わるから。
ハーレイと二人で並んで立って、注文通りの表情とポーズ。
服装は全く違っていたって、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイらしく、と注文されて撮られる写真。何枚も何枚も、ポーズを変えて。
(友達に見せて驚かせるんだ、って撮るよね、きっと…)
同窓会に行って来たお土産と一緒に、披露されそうなハーレイとの写真。
地球のあちこちや、色々な星に運ばれて。「こんなカップルに会って来た」と。
研究者も知らない大発見だ、と語られるソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの仲。
実は恋人同士だったと、証拠が此処に、と出してみせる写真。
見せられた人は驚くだろうし、「本当なのか」と訊きそうだけれど…。
(冗談だ、って…)
そう結ばれるだろう、同窓会の土産話。
ただの他人の空似だと。それでもとても似ているだろうと、会心の出来の写真なのだ、と。
同窓会が終わった後にも、話題になりそうなハーレイと自分。前の自分たちにそっくりだから。誰が見たって、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイなのだから。
(…中身、本当は本物だしね?)
誰も知らないだけだもんね、と考えていたら、掠めた思い。
今の時代は同窓会があるのだけれども、前の自分たちの同窓会が出来たなら、と。
遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。ヒルマンやゼルや、エラやブラウや。…それにジョミーも、トォニィたちも。
もう一度彼らと顔を合わせて、ホテルに泊まって、観光だって。
それが出来たら、きっと素敵に違いない。今の平和な時代だからこそ、やってみたいこと。
「ねえ、ハーレイ…。同窓会、したいと思わない?」
出来たらいいね、と言葉にしたら、ハーレイは怪訝そうな顔。
「同窓会なら、勝手に葉書が来ると思うが?」
俺は幹事をやってないから、次はいつだか知らないが…。任せっ放しで。
好きなヤツがいるんだ、そういうのがな。ホテルの手配とか、観光プランを立てるのとかが。
「違うよ、今のハーレイじゃなくて…」
前のぼくたちだよ、同窓会をしたいのは。…前のぼくたちの同窓会。
「なんだそりゃ?」
サッパリ意味が分からないんだが、前の俺たちっていうのは何だ?
お前がやりたい同窓会は、どういう同窓会なんだ…?
「…無理だろうけど、夢の同窓会…」
前のぼくたちが一緒に暮らした、シャングリラの仲間を集めるんだよ。
ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。…ジョミーも、それにトォニィたちもね。
葉書を出して、ホテルに泊まって、みんなで観光。
食事も一緒で泊まるのも一緒、もちろん会場は地球でなくっちゃ。…前のぼくたちが目指してた星で、今はすっかり青いんだもの。前のぼくたちが生きた時代と違って。
青い地球の上で、皆が集まる同窓会。白いシャングリラはもう無いけれど。
「みんなが生まれ変わって来てたら、出来そうだよね、って…」
ぼくたちみたいに、ちゃんと記憶を持って。…出会えて、それに連絡も取れて。
全員に葉書を出せるんだったら、同窓会だって出来るでしょ?
「なるほどなあ…。あいつらを全員、地球に集めて、同窓会をしようってことか」
そいつはさぞかし愉快だろうな。懐かしいヤツらが勢揃いする、と。
でもって、俺はお前を連れて出席するわけか…。
俺の嫁さんになったお前を、あいつらに紹介するために。
「そう!」
だから今だと、まだ早すぎて駄目だよね。…ぼくがチビだから。
前と同じに育ってからだよ、同窓会をするんなら。
ハーレイと結婚して、お嫁さんになってから。…二人一緒に同窓会に出掛けて行って…。
それでね、とハーレイに話した夢。
同窓会の席で、「実は…」と打ち明ける、時の彼方での昔話。
今はこうして恋仲だけれど、本当は前もそうだった、と。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは恋人同士で、最後まで恋をしていたのだと。
前の自分たちは誰にも言えずに終わったけれども、今ならきっと、笑って許して貰えるだろう。
ブラウあたりが「そうだったのかい!?」と、目を丸くしていそうだけれど。
ゼルやヒルマンも、「知らなかった」とポカンとするかもしれないけれど。
それでも、今なら笑い話。ずっと隠していた恋は。
前の自分も、それにハーレイも、役目はきちんと果たしたのだし、責められもせずに。
最後まで隠し続けたことさえ、裏切りだったとは言われないで。
叱られないと思うんだけど、と傾げた首。「大丈夫だよね?」と。
「…同窓会をするんだったら、みんなに話しておきたいから…。本当のことを」
今度は結婚しているんだもの、前もホントは恋人同士だったんだ、って。
きっと叱られないと思うよ、前のぼくたち、自分の仕事は全部きちんとやったんだもの。
「そうだな、叱られはしないだろうな」
叱る理由が見付からないしな、特にお前は。…メギドを沈めて皆を守ってくれたんだから。
恋人だった俺と離れて、独りぼっちで死んじまう羽目になったって。
…しかしだ、俺はお前ほど頑張ったというわけじゃないしな…。
死んだ時にもヒルマンもゼルも一緒だったし、お前のようにはいきそうにない。
恋をして幸せだったとバレたら、詫びの印に何かさせられそうではある。
なんたって相手は、あいつらだからな。
「何かって…?」
お詫びの印って、ハーレイ、何をさせられちゃうの?
叱られないけど、「すみませんでした」って何十回も言わせられるとか…?
「子供の同窓会じゃないんだ、もっとみんなが喜ぶことだ」
みんなに酒をおごらされるとか、そんなトコだな。それもとびきり上等の酒を。
きっとゼル辺りが音頭を取るんだ、「ハーレイのおごりだ、大いに飲め」と調子に乗って。
酒を運んでくれる係に言いそうだよなあ、「いいから、樽ごと持って来い」と。
「ありそうだよね…」
樽ってお酒の入った樽でしょ、ゼルならホントに運ばせそう。
ハーレイのお財布、きっと大打撃だろうけれど…。
それでも、みんなが楽しめるんなら、ぼくは文句は言わないよ?
前のぼくたちが恋人同士だったってことを隠してた罰に、お酒をおごらされるんだから…。
ごめんなさい、って謝る代わりに、美味しいお酒を御馳走すればいいんだから。
ハーレイのお財布が空っぽになっても、ぼくなら平気。
暫くの間は、うんと質素な食事ばかりになっちゃってもね。
ホントに平気、と思った夢の同窓会。前のハーレイとの恋を明かした結果が、ハーレイの財布に大きな打撃を与えても。同窓会が終わった後には、質素な食事の日々が続いても。
「ぼくは平気だから、ハーレイ、みんなにお酒をおごってあげてね」
お財布が空になっちゃっても。…御飯、毎日、おにぎりだけになっちゃっても。
「…お前なあ…。本当にそんな食事でいいのか、腹が減っちまうぞ?」
いくら少ししか食わないと言っても、おにぎりではなあ…。
「平気だってば、みんなが楽しんでくれるんならね」
それに素敵だよ、もう一度みんなに会えるなら。…御飯がおにぎりだけになっても。
きっと楽しいから、ホントに平気。だって、みんなに会えるんだよ?
それに会場は地球だもの。前のぼくたちの夢の星だよ、其処で同窓会っていうだけで素敵。
そうだ、同窓会…。キースたちも呼べたらいいのにね。
「キースだって!?」
なんだってあいつを呼ばなきゃならん?
俺たちだけで楽しくやるのならいいが、キースなんかを呼んでどうする。
前のお前に何をしたヤツか、お前も覚えている筈だがな…?
「今だからこそだよ、キースを呼ぶのは」
ジョミーとは話が合う筈だものね、トォニィがちゃんと聞いたんでしょ?
一緒に戦った仲間だった、っていう話。ジョミーとキースは、最後は友達だったんだよ。
だからジョミーはキースに会えたら喜ぶし…。
ハーレイだって、きっと仲良く喧嘩出来るよ、今の時代なら。
お詫びの印に何かやれ、って言って、キースにお酒をおごらせるとか。
「そう来たか…。詫びの印か」
俺はゼルたちに酒をしこたま飲まれて、財布が空になりかねないって所だが…。
その俺はキースにおごらせるんだな、もっといい酒を飲ませろ、と。
痛快ではあるな、と笑うハーレイ。
酒をおごらせてやるのもいいが、一発殴ってやるのもいいか、と。
「生まれ変わりでも、キースはキースだ。…見た目は前と同じだってな」
それに記憶も持ってるわけだし、殴られたって理解出来るだろう。
どうして俺に殴られたのか、同窓会で痛い目に遭わされたのか。
「それ、酷くない?」
いくらキースの記憶があっても、殴るだなんて…。同窓会に来てくれたのに…。
時間を作って、遠い星から来てくれたのかもしれないのに…。
「そうかもしれんが、一発殴れば、それで清算出来るんだぞ?」
前のあいつが前のお前にやらかしたことを、きちんとな。…殴られてアザが出来ようが。
俺の嫁さんを殺そうとした罰だ、そのくらいの詫びはして貰わないと。
「ぼく、生きてるけど…?」
生きてるからハーレイのお嫁さんだし、一緒に同窓会なんだけど…。
それでもキースを殴るって言うの、ぼくは死んではいないのに…?
「今のお前は確かに生きてる。…だが、前のお前は死んじまった」
キースのせいでな。あいつがメギドを持ち出さなければ、前のお前は死んではいない。
ついでに、あいつは前のお前を何発も撃って、そのせいでお前の右手は冷たく凍えちまって…。
お前、泣きながら死んだんだろうが、メギドで独りぼっちになって。
…それでも殴るのは駄目だと言うなら、あいつの右目の周りに丸を描くとするか。
「丸って…?」
「墨でデッカイ丸を描いてやるんだ、お前の右目の仕返しに」
お前が最後に撃たれた右目。その仕返しだ、とキースの顔にクッキリ描いてやる。
同窓会にはこの顔で出ろ、と。
「酷すぎない?」
キース、みんなに笑われちゃうよ。…その墨、簡単には消えないんでしょ?
「当然だろうが。同窓会の間は消えない墨で描いてやらんと意味が無い」
そんな顔でも、殴られるよりはマシだと俺は思うがな?
記念写真に写ったキースは、どれも目の周りに墨で描いた丸がついていたって。
そういうキースと二日も過ごせば、俺もあいつを許せるかもな、とハーレイは言った。
今もキースが憎い原因、それの一つは直接顔を合わせていたのに殴り損ねたことだから、と。
「…前の俺があいつと出会った時には、前のお前を撃ったことを知らなかったから…」
メギドを持ち出したヤツではあったが、国家主席には違いない。
人類側の代表なんだし、過去のことは水に流すべきだ、と思って挨拶しちまった。ミュウを代表する一人としてな。
あの時、俺が知っていたなら…。確実に殴っていただろう。他のヤツらに止められたって。
それなのに、俺はそうしなかった。…前のお前がどうなったのかを、全く知らなかったから。
今の俺が全てを知った時には、あいつは姿を消しちまってた。
歴史の中の人物になってしまって、殴りたくても、キースは何処にもいなかったってな。
あいつに仕返し出来さえすればだ、許せる日だって来そうなんだが…。
「そっか…。それじゃ、同窓会、しなくちゃね」
キースも呼んで、うんと賑やかに。…今はキースはいないけれども。
「同窓会って…。何処でやる気だ?」
夢の話をしていた筈だぞ、実現するのは無理だと思うが…?
「地球でやるのは無理そうだから…。いつか、天国でやりたいな」
天国だったらみんな揃いそうだよ、と浮かべた笑み。みんなの記憶もちゃんとあるよね、と。
「それはまた…。ずいぶんと気の長い話だな?」
お前はたったの十四歳だし、同窓会の開催までには、いったい何年かかるんだ?
「三百年は軽くかかると思うよ。でも、やりたいと思わない?」
それまでにハーレイのキース嫌いが治っていたら、いいけれど…。
キースに仕返ししたい気持ちが、消えてくれていたらいいんだけれど…。
「治したいのか、俺のキース嫌いを?」
俺は治したいとも思っていないし、今もあいつを許すつもりは無いんだが…?
「だって、ハーレイの心の傷だよ?」
ぼくが生きていても、キースを許せないほどの。…それは心の傷でしょ、ハーレイ?
だから治してあげたいんだよ。その傷が出来てしまったの、ぼくのせいだから…。
前のぼくが撃たれていなかったなら、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。
聖痕が今のハーレイに真実を教えてしまった。前の自分がどうなったのか。キースの銃で何発も撃たれて、右の瞳まで砕かれたこと。…痛みのあまりに、ハーレイの温もりを失くしたことも。
メギドで死んだだけだったならば、ハーレイはキースを今ほど憎みはしなかったろう。キースの生まれ変わりに会っても、殴りたいと思うくらいには。
「…ぼくのせいだよ、ハーレイがキースを大嫌いなのは…。それじゃ辛いよ、ハーレイが」
いつまで経っても憎んでるなんて、ハーレイの心は痛いまま。…心の傷が開いたまま。
傷から流れる血も止まらないし、その傷、ちゃんと塞がなくっちゃ。
ハーレイがキースの名前を聞いても、心が痛み出さないように。
…だけど、目の周りに丸を描いてやる、って言える程度には傷がマシになったの?
キースを殴れないんだったら、右目の周りに丸だ、って。
「どうなんだか…。殴るのは酷い、とお前が言うから、別の手段を考えたまでだが…」
同窓会も愉快ではある、と思ったことは確かだな。
目の周りに丸を描かれたキースを晒し者にして、記念写真が撮れるなら。
「それなら少しずつ治ってるかもね、ハーレイの傷」
きちんと治して欲しいよ、それ。…辛いのはハーレイなんだから。
ぼくはキースを憎んでないのに、ハーレイだけが憎み続けるなんて…。辛い思いをするなんて。
そんなの駄目だよ、治さなくっちゃ。
心の傷を綺麗に治して、痛まないようにしなくっちゃ…。
キースの話も笑って出来るくらいになって、と心の底から願ったこと。
今のままでは、ハーレイが辛いだけだから。キースを憎み続けたままでは、ハーレイの心の傷が治りはしないから。
傷からは血が流れ出すのに。…血を流す傷は痛むのに。
「…ホントだよ、ハーレイ? キースが嫌いだと、辛い思いをするのはハーレイなんだから…」
ぼくはとっくに許しているのに、ハーレイは許せないなんて…。
キースが嫌いで憎いままだなんて、それはホントに、ハーレイが辛いだけだもの…。
「そう言われても…。こればっかりは、そう簡単にはいかないな」
俺は自分が許せないんだ、どうして気付かなかったのか、と。
メギドにはキースがいた筈なんだし、お前に何かしたかもしれん、と考えていれば…。
そうすりゃ、俺はキースに訊いた。「ブルーをどうした」と問い詰めただろう。
あいつが「知らん」と答えたとしても、訊いてさえいれば…。
それもしなかった馬鹿が前の俺でだ、その辺りも複雑に絡んでいるのがキース嫌いの原因だ。
しかし、お前はキースが好きらしいしな?
憎んでいないこともそうだし、結婚シリーズの夢もあったよな、お前。
俺の代わりにキースと結婚式を挙げるって夢を、お前、何度か見てた筈だが…?
「それは無しだよ、夢なんだから!」
寝てる間に見てしまう夢で、コントロールなんか出来ないんだもの…!
あれはただの夢で、みんなで夢の同窓会をやるにしたって、ぼくはハーレイのお嫁さんだよ!
キースのお嫁さんになっても、嬉しくもなんともないんだから…!
「俺だってあいつに譲りはしないぞ、お前をな」
お前は大事な嫁さんなんだし、頼まれたってキースには譲ってやらん。
土下座しようが、山ほどの宝を積み上げようが。
「ぼくも譲られたって困るよ…!」
逃げて帰るよ、ハーレイのお嫁さんなんだから…!
ハーレイが同窓会で飲んだお酒で酔っ払っちゃって、ぼくをあげるってキースに約束しても…!
絶対に逃げて帰るからね、と誓ったけれども、出来ない夢の同窓会。
今の地球には、今の時代には、自分たちしかいないから。他の仲間もキースもいなくて、葉書を出すことも出来ないから。「同窓会をやりましょう」と。
いつか天国でするのだったら、出来そうだけれど。もう一度、みんなで会えそうだけれど。
「…同窓会、みんなでやりたいな…」
天国でいいから、みんなで会って。…天国だったら、泊まり付きでなくても大丈夫だね。
みんなの都合も簡単に合うし、きっと楽しい会になりそう。
「おいおい、天国だなんて気の早いことを言う前に、だ…」
俺と一緒に同窓会に行かないとな?
キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが結婚してる、と俺の友達の度肝を抜きに。
前の俺たちにも変な噂が立つんだろうが、そいつは根も葉も無い噂だし…。
それに本当は、噂の方が真実だったというオチだしな?
「行くに決まっているじゃない。…連れてってくれるか訊いたの、ぼくだよ?」
同窓会にも、OB会にも行くんだよ。ハーレイの友達や、先輩や後輩の人たちに会いに。
それから、ぼくの同窓会にも来てくれる?
ママが言ったよ、いつかはぼくにも同窓会のお知らせの葉書が届くんだ、って。
「お嫁さんと一緒に行くのよ」って、ママは言ってたけれど…。
ぼくはハーレイのお嫁さんだし、ハーレイと一緒に行くものでしょ?
「もちろん、俺も一緒に行くが…。待てよ、ハーレイ先生が出席しちまうのか?」
今の学校の同窓会なら、そういうことになっちまうか…。同窓会にハーレイ先生なあ…。
俺がお前を担任してたら、先生が行っても、少しも変ではないんだが…。
「…ぼくの担任にならなかったら、ハーレイが同窓会に出ていたら、変?」
ハーレイ、とっても困っちゃう?
ぼくと一緒に出るのは無理?
「いやまあ…。今だと色々問題もあるが、同窓会なら…」
お前が学校を卒業したなら、先生も何も無いからな。元はハーレイ先生だとしても、同窓会ではお前の結婚相手ってだけだ。
「なら、決まりだね!」
ぼくの同窓会に行く時も、ハーレイと一緒。二人で同窓会に行こうね、泊まり付きの。
約束だよ、と指切りしたから、いつかは二人で同窓会にも出掛けてゆこう。
ソルジャー・ブルーと、キャプテン・ハーレイなカップルで。
ハーレイの学校の同窓会にも、チビの自分が卒業した後の同窓会にも。
きっと何処でも盛り上がるだろう、二人で姿を見せたなら。キャプテン・ハーレイにそっくりなハーレイと、ソルジャー・ブルーにそっくりな自分が結婚したとなったなら。
「お前と二人で同窓会か…。とんだ噂が流れそうだな」
同窓会に出ていたヤツらが、自分の家に帰ったら。…地球のあちこちや、あちこちの星に。
俺たちの写真を見せびらかしては、歴史的な発見がどうこうと。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは、実は恋人同士じゃないか、と冗談で。
とてつもなく良く出来た冗談なだけに、噂に尾ひれがつきそうだよなあ…。
「噂の方が本当なんだし、いいじゃない」
本当は恋人同士でした、って噂が宇宙に流れても。
何の根拠もありませんから、って研究者や学者が怒っててもね。
それはそれで面白いじゃない、と笑ったけれども、誰も信じはしないだろう。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、前の自分たちの恋のこと。
遠く遥かな時の彼方で、本物の恋人同士だったこと。
最後まで二人で隠し続けて、そのまま終わってしまった恋だということは。
いつか昔の仲間たちを集めて同窓会が出来たとしたなら、その時は信じて貰えそうだけれど。
「実は恋人同士でした」と二人で明かして、みんなが驚く同窓会。
そういう同窓会もいい。
今のハーレイのキース嫌いが治るなら。
皆で笑い合って、昔を語り合えるのならば。
今はまだ、夢の同窓会を開けはしないのだけれど。…誰も仲間はいないから。それにキースも。
だから本物の同窓会に出掛けてゆく。
いつか結婚したならば。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、そういう姿をしたカップルで…。
夢の同窓会・了
※同窓会を開くなら、泊まりになるのが大人の世界。他の星や地域に住む人が増えるせいで。
ハーレイとブルーが一緒に出席したなら、無責任な噂が流れそう。歴史の隠された真実発見。
お願い、と小さなブルーが祈った神様。お風呂から上がって、パジャマ姿で。自分の部屋で。
明日はハーレイが来る土曜日だけれど、楽しみな日ではあるのだけれど…。そのハーレイには、問題が一つ。誰よりも好きな恋人でも。ハーレイの笑顔がどんなに好きでも、大きな問題。
恋の障害で、恋路の邪魔をしてくれるもの。とても無粋で、大嫌いなこと。
(キスは駄目だ、って言われるんだよ!)
ハーレイに「駄目だ」と叱られるキス。強請っても断られてばかり。誘った時には睨まれる。
真剣に恋をしているというのに、今の自分はチビだから。十四歳にしかならない子供で、少しも育ってくれない身体。前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイはキスをくれないのに。
ソルジャー・ブルーだった頃の自分の背丈は百七十センチで、今の自分は百五十センチ。
おまけに、今のハーレイと出会った五月三日から、今日に至るまでに…。
(一ミリだって…)
伸びてくれないままなのだから、まるで全く見えない希望。いつになったらキスが出来るのか。背が伸び始めて、「あと少しだよ」と思える日までは、いったい何年かかるのか。
こればかりは本当に分からないから、伸びない背丈を伸ばすためには…。
(お祈り、たまには真剣に…)
きちんと祈ろう、と考えた。いつもはミルクを飲む時に祈っているのだけれども、その時以外は何かのついで。「神様、お願い」と心の何処かでチラリと祈って、それでおしまい。
そんなお祈りを捧げていたなら、神様の方でも「ついでなんだな」と思うだろう。誰かの願いを叶えるついでに、手が空いていたら叶えてやればいいだろう、と。
(…そうなっちゃうよね?)
神様だって忙しいんだから、と今夜は真面目に祈ることにした。パジャマ姿ではあるけれど。
ベッドの端っこにチョコンと座って、瞳も閉じて。神様を頭に思い浮かべて。
今の時代は神様が大勢いる時代。SD体制が崩壊した後、多様な文化と一緒に帰って来た神様。色々な神様がいるのだけれども、こうして祈ろうと思ったからには…。
(前のぼくが生きてた時の神様…)
そうでなくちゃ、と決めた神様。クリスマスに馬小屋で生まれた神様、シンボルは十字架。前の自分が生きた時代は、あの神様しかいなかった。他の神様は機械が消してしまったから。
(…他の神様でも効きそうだけど…)
もしかしたら、背を伸ばす御利益がある神様だって存在するかもしれないけれど。そっちの方が向いているかもしれないけれども、生憎と知らない神様の名前。いたとしたって。
それにクリスマスに生まれた神様も、自分にとっては効きそうな神様。他の神様たちと違って、前の自分を知っているから。前の自分も祈りを捧げた神様だから。
(前のぼくと同じ背丈に、ってお願いしたら…)
きっと分かってくれる筈。今の身長よりも二十センチ、と具体的な数字を出さなくても。こんな具合でお願いします、と前の自分の姿を頭に描かなくても。
だから一番いい筈だよね、と真面目に祈った。「早く大きくなれますように」と。
前の自分と同じになるよう、背丈を伸ばして下さい、と。
(…神様、ホントのホントにお願い…)
早く大きくなりたいから、と祈り終わって、目を開けたけれど。
(えーっと…?)
本当に今ので良かっただろうか、と急に心配になって来た。祈りはともかく、祈り方が。自分はきちんとやったつもりでも、間違っていたかもしれない作法。お祈りのやり方。
教会には行っていないのだから、どうやって祈るのか全く知らない。今の時代は神様が多いし、それに合わせて祈り方も色々。この神様にはこうだとか。この神様なら、こうするだとか。
(…ちゃんとお祈りしないと駄目?)
あの神様に祈るのだったら、行儀よく。こうするんです、という作法通りに。
けれど知らない、正しい方法。でも、真剣に祈れば、きっと…。
(神様、聞いてくれるよね?)
間違えちゃった方法でも、と頷いた。神様なんだし、大丈夫だよ、と。
前の自分たちだって、正しい祈り方などしてはいなかったから。改造前のシャングリラの時は、祈るための場所さえ無かったくらい。専用の部屋がありはしなかった。
白い鯨に改造した後、祈りの部屋が出来た後にも、祈る時には…。
(あの部屋にあった鐘を鳴らしてただけ…)
澄んだ音がした鐘、それを鳴らすための紐を引っ張って。神に届くよう、鳴らしていた鐘。その音の中で祈り始めて、神への言葉を紡いでいた。心の中で。
そうでなければ、自分の部屋で蜜蝋の蝋燭を灯して祈るか。白いシャングリラで飼育していた、唯一の虫だったミツバチたち。その巣から採れた巣材の蜜蝋。
甘い香りのする蜜蝋で作った蝋燭、それは遠い昔は神に捧げる蝋燭だった。SD体制の時代は、何処にも無かったその習慣。
ならば、と使うことにした。人類が忘れた方法だったら、それを使えばミュウの祈りが神の所に届くだろうと。甘い香りと共に祈れば、神が気付いてくれるだろうと。
(鐘を鳴らすか、ミツバチの蝋燭を貰って祈るか…)
どちらも神への祈りの方法。前の自分たちの、白いシャングリラでの流儀。
正しい作法でなかったことは確かだけれども、他に方法など知らない。ヒルマンやエラが調べて来たって、船に教会は作れない。祈りの部屋を設けておくのが精一杯。
(それでも聞いて貰えたしね?)
前の自分たちが捧げた祈り。
白いシャングリラは地球まで辿り着けたから。ミュウの時代を手に入れたから。
それに聖痕も貰っちゃったよ、と眺めた身体。今の自分が持っていた聖痕、あれのお蔭で記憶が戻った。またハーレイと巡り会えたし、きっと神様の贈り物。
聖痕は本来、神様が受けた傷と同じ傷のことだから。それが身体に表れるのが聖痕現象、自分の場合は前の自分がメギドで撃たれた傷痕だけれども。
(ハーレイとのことは、メギドでは…)
前の自分は祈っていない。ハーレイの無事を祈っていただけ。他の仲間やシャングリラの未来を祈るのと共に。どうか生きてと、無事に地球へ、と。
ただそれだけで、また会いたいとは祈らなかった。もう会えないと思ったから。最後まで持っていたいと願った、右手に残ったハーレイの温もり。それを落として失くしたから。
ハーレイとの絆は切れてしまって、二度と会えないと泣きじゃくりながら、前の自分はメギドで死んでいったのだから。死よりも恐ろしい絶望と孤独の中で、独りぼっちで。
あの悲しみの中で祈ってはいない。祈った記憶も残ってはいない。
(…それとも、祈った?)
自分では覚えていないけれども、意識が消える最後の時に。「会わせて」と。
もうハーレイには会えないとしても、出来ることなら会わせて欲しいと。
そう祈ったから、神様は聖痕をくれたのだろうか。ハーレイに会わせてくれただろうか。
(だったら、やっぱり祈り方なんて…)
方法が正しいかどうかは関係無くて、心が大切。神様に祈るという気持ち。心の底から、どうか届いて、と。
前の自分たちの祈りは届いて、シャングリラは地球に行けたから。今の自分も、ハーレイと再会出来たのだから。聖痕まで貰って、青い地球の上で。
お祈りの正しい方法よりも心だよね、と出した結論。祈る方法が間違っていても、心から祈れば神様には届く筈だから…。
(よし!)
きっと明日には少しくらい…、と思う身長。ちょっぴり伸びてくれるよ、と。明日が駄目でも、その内に。明後日とか、そのまた次の日とかに。
伸び始めたら、後は順調に伸びてゆくのに違いない。前の自分と同じ背丈になれるまで。
(今日のお祈り、神様の所に届くよね?)
きちんとお祈りしたんだから、と満足してベッドに潜り込んだ。お祈りの効果を早く出すには、眠ることだって大切な筈。「寝る子は育つ」と聞いているから、お祈りの他に自分でも努力。
神様に任せっ放しでいるより、頑張っている所も見せなくちゃ、と思ったのだけれど…。
(あれ…?)
枕にポフンと頭を乗っけて、眠ろうとして、ふと気になったこと。前の自分の祈りのこと。
神様に祈って、白いシャングリラは地球まで行けて、チビの自分はハーレイと再会したけれど。青い地球で新しい命と身体を貰って、前の自分の恋の続きを生きているのだけれど。
そうなって欲しい、と神様に祈った前の自分は…。
(お祈り、いつからやってたの…?)
いつからやっていたのだろう。神に祈るということを。
白いシャングリラでは当たり前のように祈っていた。祈りの部屋を作らせたほどだし、改造前の船でも何度も祈った。鳴らす鐘も、蜜蝋で出来た蝋燭も無い船だったけれど。
捧げた祈りの中身は色々、ミュウの未来や仲間たちのこと。白い鯨ではなかった船でも。
けれど、その船に辿り着くまでは。…元はコンスティテューションという名前だった船、人類が捨てていった船で宇宙に飛び出すまでは…。
(お祈り、してた…?)
アルタミラにあった研究所で。狭い檻の中で。
其処で自分は祈っただろうか、神に祈りを捧げたろうか…?
どうだったっけ、と手繰った記憶。アルタミラの檻で過ごした頃の自分は祈ったのか、と。
(檻にいた時は…)
長い年月、心も身体も成長を止めていた自分。成人検査を受けた少年の姿のままで。今と同じで少しも育たず、子供のままで生きていた。
あの地獄から逃げ出すまでは。後にシャングリラと名を変えた船で、宇宙に脱出するまでは。
もしも自分が神に祈っていたならば。神に助けを求めたのなら…。
(…もうちょっと育っていそうな気がする…)
身体はともかく、心の方は。姿は子供のままだったとしても、中身の方は。
神に祈るという思いがあったら、少しは成長しただろう。祈る気持ちは、前を見ないと生まれて来ないものだから。今よりもいい状態になるよう、願うのが祈りなのだから。
それを願えば、心は育つ。前を見られる強さが生まれて、その内に希望を持ったりもして。
なのに自分は育たなかったし、子供のままの心でいたのなら…。
(お祈り、してない…?)
一度も祈っていなかったっけ、と思い出したこと。前の自分は祈っていない。アルタミラでは、狭い檻で一人で生きていた頃は。
実験室に引き出された時に感じた、他の仲間たちの残留思念。殺されていった大勢の仲間たち。彼らの断末魔の悲鳴を感じ取っても、それが意味のある叫び声でも…。
(どうでも良かった…)
残った思念が「助けて」と苦痛を訴えていても。「死にたくない」と叫んでいても。
明日は自分も、と思っただけ。いつかは彼らと全く同じに死ぬのだから、と。死に方が変わるというだけのこと。焼き殺されるか、窒息するのか、四肢を無残に引き裂かれるか。
いずれにしたって死んでゆくのだし、他の仲間がどういう風に死んでいったか、それを知っても意味などは無い。自分も行く道なのだから。
檻に出入りする時は、外されたサイオン制御リング。一瞬だけサイオンで周りが見られて、他の檻にいる仲間を見たって、それもどうでも良かったこと。
今はこういう顔ぶれなのか、と見渡しただけ。また変わったと、前にいた仲間は殺されたのかと眺めただけ。
神に祈りはしなかった。檻の隣人が死んだのに。…皆いなくなって、別の顔ぶれだったのに。
なんて酷い、と愕然とした前の自分のこと。仲間たちの死を知っていたって、祈りもしないで、ただ檻の中で過ごしただけ。
祈る時間はあったのに。…檻の中では食べて寝るだけ、他にすることは無かったのに。
(ぼくって酷い…)
死んだ仲間が安らかであるよう、一度も祈らなかっただなんて。残留思念を捉えた時にも、檻の顔ぶれが変わっていることに気付いた時も。
皆、殺されていったのに。残虐な実験で命を奪われ、非業の最期を迎えたのに。
(…分かっていたくせに、お祈り、してない…)
酷すぎるかも、と思う間に落ちて行った眠り。ベッドの中にいるのだから。
実験の夢は見なかったけれど、アルタミラの夢を見てしまった。メギドの炎で燃え上がる地獄、仲間たちを星ごと喪った日を。離陸しようとする船から外を見ていた時を。
もう一人くらい、誰か走って来ないかと。生き残った仲間が誰か姿を現さないかと。
其処でプツリと終わった夢。朝の光の中で目覚めた自分。
(ごめんね…)
助けられなくて、と起きた途端に祈っていた。アルタミラを滅ぼした炎の中では、大勢の仲間を助けたけれど。シェルターを開けては逃がしたけれども、間に合わなかった仲間たちもいた。
シェルターごと地割れに飲み込まれたり、瓦礫に押し潰されたりして。
もっと早くに助けられたら、と祈る間に、思い出した眠る前のこと。前の自分の祈りのこと。
(前のぼく、やっぱり…)
アルタミラでは祈っていなかった。
研究所で殺された仲間たちの魂のためには、ただの一度も。残留思念の悲鳴を聞いても、檻から姿を消していることに気付いても。
死んだのだな、と思っただけで。…自分もいつかこうなるのだな、と麻痺した心で、感情の無い目で見ていただけで。
一度も祈りはしなかった自分。前の自分のことだけれども、考えるほどに酷すぎること。
仲間たちが死んだと知っていたって、彼らの悲鳴を感じ取ったって、祈りさえもせずに過ごしていた。檻の中でも、祈ることなら出来たのに。…他にすることは無かったのに。
(ぼくって、最低…)
なんて酷いことをしたのだろう、と思っても、とうに過ぎ去ったこと。アルタミラの檻に戻れはしないし、今の自分がどんなに詫びても、前の自分の罪は消えない。消し去れはしない。
(…前のぼく、きっと恨まれてたよ…)
あそこで死んだ仲間たちから、と胸が塞がってゆく。いくら自分が謝ってみても、前の自分とは違うから。「何故、あの時にそうしなかった」と、責める声が聞こえて来そうだから。
それでも起きてゆくしかない。今日はハーレイが来る日なのだし、両親だって朝食の席で待っている。顔を洗って着替えたけれども、元気が無かった朝のテーブル。
「何処か具合が悪いのか?」と父が訊くから、「平気だよ」と笑みを浮かべたけれど。頑張って朝食を食べたけれども、部屋に帰ると塞がる心。前の自分の酷さを思って。
(ハーレイ、お願い。早く来て…)
ぼくの話を聞いて欲しいよ、と何度も眺める窓の方向。側に立って庭の向こうを見たり。
前の自分が酷かったことを謝るのならば、きっとハーレイが一番だから。
アルタミラで死んだ仲間たちにも詫びたけれども、自分の罪を打ち明けるのなら、死なずに生き延びた仲間でないと。…それがどれほど酷いことなのか、分かってくれる人間でないと。
今のハーレイは生まれ変わりだけれども、アルタミラから生きて脱出した仲間。
あそこで何が起こっていたのか、人類が何をやっていたのか、今も覚えているのだから。
早く来てよ、と待ち続けたハーレイが部屋にやって来た後、挨拶もそこそこに切り出した。母が置いて行ったお茶とお菓子に手もつけないで、ハーレイの顔をじっと見詰めて。
「あのね、ぼくって最低だったよ…」
「はあ?」
なんだそりゃ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の何処が最低なんだ?」と。
「前のぼくだよ、ホントに最低…。昨日、寝る前に気が付いたんだよ…」
一度も祈っていなかった…。アルタミラの檻で生きてた時に…。
実験室に連れて行かれたら、殺された仲間の残留思念があったのに…。悲鳴とかだって。
それに檻から出された時には、周りの檻にいた仲間たちの顔が違ってて…。
死んじゃったんだな、って思ったけれども、たったそれだけ。…実験室でも、檻の前でも。
いつかはぼくも死んじゃうんだな、って見ていただけで、自分のことしか考えてなくて…。
お祈り、しようとしなかった…。死んじゃった仲間を可哀相だとも思わないで。
それって酷くて、最低でしょ?
普通はお祈りするものなのに…。みんなが天国に行けますように、って。
「そうか? 俺はお前が最低だとは思わないが…?」
アルタミラでは、お前が一番辛かったんだ。あそこにいた仲間の誰よりも。
一番長い年月を檻に閉じ込められて過ごして、成長まで止めてしまってた。…心も身体も。
生きていたって何もいいことは無い、と思っていたから、そうなっちまっていたんだろ?
そんな思いをしていたお前に、祈る余裕があったとは俺は思わんな。最低ってことはない筈だ。
出来なかったことは仕方がない。…お前は祈れなかったんだ。自分が苦しすぎたから。
「でも…。他のみんなは死んじゃったんだよ?」
助けて、って悲鳴を幾つも聞いたし、「死にたくない」っていう声だって…。
みんな苦しんで死んでいったよ、酷い人体実験をされて。
ぼくよりも苦しかった筈だよ、だって死んじゃったんだから…!
「それはそうだが、死んだら其処で終わりだろうが。…死んだ仲間の人生ってヤツは」
魂は肉体を離れちまって、もう苦しんでいた身体は無い。そいつの魂の周りには。
残留思念はあったとしたって、魂の方は、今の俺たちみたいにだな…。
生まれ変わって別の人生を生きただろうさ、とハーレイは言った。ミュウにはならずに、今度は人類に生まれるだとか。そうでなければ、天国に行っていただろう、と。
「生まれ変わるにせよ、天国に行っちまうにせよ…。そいつの人生は終わりなんだ」
とても苦しい思いをしたって、死んだら終わっちまうから…。もう苦しくはないってわけだ。
苦しんでいた身体が無くなっちまえば、苦しみようがないからな。
しかし、お前は死ねなかった。…違うのか?
どんなに苦しい思いをしたって、お前には終わりが来なかったんだ。前のお前には。
「そうだけど…。前のぼくは死ななかったけど…」
タイプ・ブルーは一人だけだし、死んじゃったら実験出来なくなるから…。
これで死ぬんだ、って思っていたって、気が付いたらまだ生きていて…。
死ななかったよ、と今でも忘れられない苦痛。気を失うまで繰り返された人体実験。
意識が薄れて消えてしまっても、どれほど酷い傷を負っても、治療されたから死ななかった。
絶対零度のガラスケースに放り込まれても、高温の炎に焼かれても。
「…お前は死ななかっただろう? 他の仲間なら死んだだろうにな」
治療しないで、死ぬまで実験し続けて。…殺しちまっても、別ので実験出来るんだから。
他のサイオン・タイプだったら、幾らでも代わりがいたからな。
それが出来なかったのが前のお前で、一人で実験され続けた。研究のために。殺さないように、治療までして。
前のお前は、他の仲間の何人分を死んだんだ?
死ぬんだな、と思っていたって、それで死ななきゃ苦しいだけだ。治療も、次の実験も。
そういう毎日だったわけだが、お前、その中で、自分のために祈ってたのか?
「此処から出たい」と、「助かりたい」と。…神様ってヤツに。
どうなんだ、と訊かれたけれども、まるで無かった祈った記憶。助かりたいとも、出たいとも。何も祈ってはいなかった。…思い付きさえしなかった祈り。
「…祈ってない…」
お祈りなんか忘れていたよ。お祈りをすれば助かるかも、って考えたことも無かったみたい。
どうせ助からないんだから、って思っていたのか、そうじゃないかは分からないけど…。
だけど、お祈りしなかったのは確か。…ぼくは覚えていないから。
「ほら見ろ。前のお前に余裕は無かった。祈るだけの心の余裕がな」
神様さえも忘れちまっていたんだろうなあ、毎日が苦しすぎたから。
そうでなくても、あそこは地獄だったんだし…。神様がいるとは思えないような。
前のお前が、自分のためにだけ祈っていたなら、最低だと言われても仕方がないが…。自分さえ良ければそれでいいのか、と責めるヤツらもいそうだが…。
そうじゃないしな、お前は最低なんかじゃない。
自分のためにも祈れないんじゃ、他の仲間のために祈るのは無理ってモンだ。
立派に育った大人だったら、出来る人間もいるんだが…。前のお前もそうだったんだが、チビの頃だと話は別だ。子供だった上に、誰よりも苦しい思いをしてれば、祈るのも忘れちまうだろ?
「そうなのかな…?」
前のぼく、最低じゃなかったのかな、知らんぷりをして生きてたけれど…。
死んじゃった仲間のためのお祈り、ホントに一度もしなかったけど…。
「お前は最低の人間じゃない。苦しすぎて心に余裕が無かっただけだ。…祈るだけの分の」
だから一度も祈らなかったし、自分のためにも祈れなかった。
間違いない、俺が保証する。前のお前は最低なんかじゃなかった、と。
「ありがとう…。ちょっぴり心が軽くなったよ、ハーレイのお蔭」
ハーレイに聞いて貰えて良かった。前のぼくが何をやっちゃったのか。…酷かったことも。
最低じゃない、って言って貰えたら、ほんの少しだけホッとしたから…。
やっちゃったことは変わらないけど、許してくれた仲間もいたかもね、って。
でも、前のぼく…。
いつから祈っていたのだろう、と尋ねてみた。それが昨夜の疑問の始まり。
アルタミラの檻で祈らなかったというなら、いつから神を求めただろう、と。
「ぼくって、いつからお祈りしてたと思う…?」
シャングリラではお祈りしていたけれども、誰かに教えて貰ったのかな…?
アルタミラの檻では神様のことまで忘れてたんだし、お祈りしそうにないんだけれど…。
「さあな…? 俺は教えた覚えは無いなあ、前のお前に」
だが、参考までに言ってやるなら…。前の俺の昔話になるが…。
俺の場合は、檻の中でも祈っていた。いつか必ず生きて出てやると、死んじゃならんと。
そうするためにも生かしてくれと、俺を生き延びさせてくれと。
「生きるって…。ハーレイ、凄いね」
神様にお祈りするのも凄いけれども、生きたいだなんて…。
あそこから生きて出てやるだなんて、ホントに凄すぎ。ぼくは何もかも諦めてたのに…。
生きるのも、自由になることも、全部。
「お前よりは余裕があったからな。…実験が落ち着いて来てからは」
俺がデカブツだったお蔭で、負荷をかける実験の方がメインになってたんだと話しただろう?
肉体的にはかなりキツイが、精神的には踏ん張れる。…負けるもんか、と思うわけだな。
お蔭で祈る余裕もあった。こんな地獄から抜け出してやる、と。
その俺が、「頼む」と真剣に神に祈った最初ってヤツは…。あの地獄だ。
「地獄って…? あそこが地獄だったじゃない」
研究所そのものが地獄だったよ、ハーレイもそう言ったじゃない。抜け出してやる、って。
「それよりもまだ酷い地獄だ。…地獄が地獄に落とされた時だ」
アルタミラがメギドの炎に焼かれて、燃え上がる中を、お前と二人で走った時。
一人でも多く助けさせてくれ、と。
生き残っている仲間を死なせないでくれと、俺たちが無事に助け出すまで守ってくれと。
「あ…!」
ぼくも同じだよ、その気持ち…。前のぼくもハーレイと同じだったよ…!
思い出した、と蘇って来た遠い遠い記憶。アルタミラがメギドに滅ぼされた日。
崩れ、燃え盛る地面を走る間に、見えない神に祈っていた。「もう少し」と。
自分たちが其処に辿り着くまで、仲間たちが閉じ込められたシェルターを持ち堪えさせて、と。もう少しだけ時間が欲しいと、仲間たちを助けたいからと。
そうして祈って走り続けて、助け出した大勢の仲間たち。ハーレイと二人でシェルターを幾つも開けて回って、「早く逃げて」と逃げる方向を指差して。
(神様、お願い、って…)
時間が欲しいと、仲間たちの命を守って欲しいと祈り続けた前の自分。間に合わなくて、壊れてしまったシェルターの前では「ごめん」と心で謝って。
「助けられなくて、本当にごめん」と、「もっと急げば良かったのに」と。
神に祈って、死んだ仲間にも謝っていた前の自分。ということは、あの時が…。
「ハーレイ、前のぼくのお祈り、一番最初はアルタミラだったよ」
神様にずっとお祈りしてた…。前のハーレイとおんなじことを。
助けられなかった仲間たちにも、「ごめん」って謝っていたんだよ、ぼく。
「そうか、やっぱりあの時なんだな」
俺の昔話が参考になって何よりだ。…お前が思い出せたんなら。
「…もしかして、ハーレイ、知っていたの?」
ぼくがお祈りしていたってことを、思念で感じ取ってたとか…?
「まさか…。そこまでの余裕は流石に無かった。仲間たちを助け出すことで頭が一杯だしな」
だが、あの時のお前を思い出したら、簡単に分かることだってな。
諦めようとはしなかっただろ、お前。…本当に最後の最後まで。
これが最後の一つなんだ、ってシェルターを開けて仲間を逃がすまでは。
自分のことだけで手一杯なら、諦めちまって逃げるだろうから…。途中で放り出しちまって。
それをしないで頑張ってたのは、仲間たちのことを考えていたからだ。俺と同じで。
俺と考えが同じだったら、神様にだって祈っただろうと思ったんだが、当たりだったな。
「そっか…。ハーレイが言う通りかもね…」
あの時、ぼくは閉じ込められてたシェルターを壊して、後はポカンとしてただけ…。
ハーレイがぼくに「助けに行こう」って言ってくれたんだよ。他にも仲間がいる筈だ、って。
仲間たちのことに気付いたお蔭で、神様のことも、お祈りも思い出したんだね…。
あれだったのか、と思った初めての祈り。前の自分が神に祈ったのは、アルタミラから脱出した後のことではなかった。崩れゆく星でもう祈っていたなら…。
(そうだ、あの星を離れる時に…)
アルタミラがあったジュピターの衛星、ガニメデを離陸してゆく時。
事故で船から放り出されて、炎の中へと落ちて行ったハンス。前の自分のサイオンはもう、彼を救えはしなかったから。引き上げる力が無かったから。
そのハンスにも心で詫びたけれども、救えなかった仲間たちに詫びた。シェルターごと地割れに飲まれたりして、命を落とした仲間たち。助け出すのが間に合わなくて。
それよりも前に、実験で殺された仲間たちにも。船がどんどん遠ざかる星、其処で死んだ全ての仲間たちの魂に詫びて祈った。
皆の分まで、きっと生きると。この船を、船の仲間たちを必ず守ってみせると。
(だから、お願い、って…)
見えない神に祈った自分。皆を守りたいと、守らせてくれと。
ハーレイの胸で泣かせて貰った時には、もっと強く。泣きじゃくりながらも祈った自分。
(頑張らなくちゃ、って…)
この船で皆と生きてゆくから、守って欲しいと。
船に乗れずに死んでいった大勢の仲間たちにも、どうか救いがあるようにと。
あれが自分の最初の祈り。
檻の中では忘れ果てていた、神への祈りを取り戻した時。
アルタミラの地面の上で祈って、あの星を離れる船の中でも祈り続けて。
良かった、と零れた安堵の息。前の自分はアルタミラでも祈っていた、と。
きっとハーレイが言った通りに、檻の中では心の余裕が無かったのだろう。神に祈ることさえ、思い付かないほどに。…仲間たちのために祈るどころか、自分のためにも祈れないほどに。
「…良かったあ…。前のぼくも、ちゃんとお祈りしてたよ」
まだアルタミラがあった間に。
…脱出してから思い出したんじゃなくて、誰かに教えて貰ったわけでもなくて。
お祈り、ホントに忘れてしまっていたんだね…。檻の中で暮らしていた時は。
「思い出せたか?」
その様子だと、俺が話した以上に色々と思い出せたようだな。
俺が来た時とは表情が全く違うし、見違えるように生き生きしているから。
「うん、最低じゃなかったみたい…」
実験で殺された仲間のためにも、最後にお祈りしていたんだよ。
アルタミラから離陸していく時にね、ハンスに謝っていたけれど…。ぼくたちがシェルターから助け出す前に、死んじゃった仲間にも謝ったけど…。
研究所で殺された仲間たちのためにも、ちゃんとお祈りしていたよ、ぼく。
神様にお願いしていたんだよ、死んだ仲間たちも助けてあげて、って。
「そりゃあ良かった。前のお前が、きちんと祈ってやれたんならな」
白い鯨になった後にも、お前、ずいぶん気にしてたから…。今も気にするほどだから…。
前のお前が最低ってことは無い筈なんだが、お前、本当に悲しそうな顔をしてたしな?
アルタミラがまだあった間に、祈れたんなら良かったじゃないか。
仲間たちはとっくに次の人生を生きていたんだと俺は思うが、それだとお前の悲しみは減らん。
やっぱり祈っておきたかった、と自分を責め続けるだろうしな。
これでお前の悩みは消えたし、俺も大いに安心だ。お前が自分で納得しないと、こればっかりは俺にもどうにもしてやれんから…。
で、安心した所で、お前に一つ訊きたいんだが…。
何処から祈りの話が出て来たんだ、と鳶色の瞳に覗き込まれた。真正面から。
「お前の頭を悩ませたほどの大問題だし、俺は解決に手を貸してやった」
どうしてそういう話になったか、聞かせて貰える権利はあると思うがな?
お前、なんだって悩んでいたんだ、お祈りなんかで…?
「そ、それは…。えっと…。昨日の夜に神様に…」
背を伸ばそうとお祈りしてて…。ぼくの背、一ミリも伸びてくれないから…。
普段だったら、ミルクを飲む時に、ついでにお祈りするんだけれど…。
たまには真面目にお祈りしよう、って神様にきちんとお祈りして…。
それが始まり、と白状したら、「なるほどな…」とハーレイが浮かべた可笑しそうな笑み。
「今のお前のお祈りってヤツが、よく分かった」
背丈を伸ばして下さいってか…。それこそ最低な祈りだな。自分勝手で。
神様には神様の考えがあって、お前をチビのままにしてらっしゃるんだと思うわけだが…。
そいつを綺麗サッパリ無視して、自分の都合で「お願いします」って所が最低最悪だってな。
前のお前の祈りに比べて、落ちるなんて騒ぎじゃないだろうが。
「…やっぱり?」
ぼくのお願い、我儘すぎた?
ホントのホントに最低最悪なお祈りになるの、背のこと、真面目にお祈りしたら…?
「前のお前に比べれば、と言っただろう?」
相当に質が落ちてしまうが、今のお前はそれでいいんだ。
今はすっかり平和な時代になっているしな、前のお前みたいな祈りは必要無いってこった。
背を伸ばしたいというのも、お前にとっては切実なことには違いないしな?
最低最悪でも悪くはないだろ、神様が叶えて下さるかどうかは別問題ってことになるんだが。
背丈が伸びるかどうかはともかく、今の自分はそういう祈りでいいらしい。
時代に合わせて祈りの中身も変わるもんだ、とハーレイは穏やかな笑顔だから。
最低最悪のお祈りでも許してくれるらしいから、これからも神様に祈ってゆこう。
時には真面目に、真剣に。
お祈りの作法は間違っていても、きっと心が大切だから。
早く大きくなれなますようにと、ハーレイとキスが出来る背丈に、と。
このお祈りが神様に届きますようにと、心からの願いをお祈りに乗せて…。
初めての祈り・了
※祈ることさえしなかったのが、アルタミラの檻にいた頃のブルー。自分自身のことさえも。
前のブルーの最初の祈りは、燃える星で仲間たちを助けに走った時。滅びゆくアルタミラで。
(あれ…?)
学校の帰り道、立ち止まったブルー。いつものバス停から家まで歩く途中で。
通り掛かった生垣の向こう、庭木の手入れをしている御主人。何処の家でもよく見るけれども、今日の家のは違った様子。人ではなくて、庭木の方が。
(萎れてる…?)
世話をしている木の葉が少し。花が咲いていないから、何の木か分からないけれど。常緑樹ではないことだけは確か、しっかりと硬い葉ではないから。その葉が萎れている感じ。
夏の盛りなら、暑さで元気を失くす木だってあるけれど。
今は暑くはないわけなのだし、萎れているなら、その木に元気が無いということ。水不足とか、栄養が足りていないだとか。
急に元気が無くなったのか、前からなのか。木の存在にまるで気付いていなかったから、記憶を探ってみても無駄。けれど気になる、元気が無い木。
(…枯れちゃいそう?)
まさか、と生垣越しに眺めた。チビの自分と同じくらいの背丈だろうか、まだ小さな木。若木と呼ぶのが相応しいのに、ひょっとして枯れてしまうとか、と。
それではあまりに可哀相。これから育ってゆく筈なのに、と見ていたら、振り返った御主人。
「おや。ブルー君、今、帰りかい?」
こんにちは、と挨拶してくれた御主人とは顔馴染み。だから木のことを尋ねてみた。
「その木、いったいどうしちゃったの?」
なんだか元気が無さそうだけど…。お水が足りていないとか?
「それがねえ…。そうじゃないんだ、水不足なら水やりをすればいいんだけどね」
植えたのに弱っちゃったんだよ、と御主人は説明してくれた。
元気が無い木の名前は沙羅。夏椿とも呼ばれる、夏に白い花を咲かせる木。知ってるかい、と。
沙羅の木だったら、名前はもちろん知っている。花の写真を見たことも。
平家物語で有名な木だし、花の季節には「此処で見られます」という新聞記事も載る木だから。
本物はこういう木だったんだ、と観察した沙羅。萎れた葉っぱは椿とは違う。夏椿という名前は花の形が似ているからで、常緑樹ではないのが沙羅らしい。
萎れて元気が無い葉たち。生命力が落ちているから。
このままでは木が枯れてしまう、と御主人が聞いて来た手入れの仕方。土を入れ替えて、肥料も少し。やり過ぎないよう、気を付けて。
「大丈夫なの?」
沙羅の木、それで元気になる?
「くれた人に教えて貰ったからね。沙羅の木に詳しい人なんだよ」
植え替えには今の季節がいいから、とプレゼントしてくれた木なんだ、これは。
明日には様子を見に来てくれるし、大丈夫な筈さ。アドバイスも色々くれるだろうしね。場所が悪いようなら、他の所に植え替えるとか…。
違う場所に移るかもしれないけれども、ちゃんと生き返るよ、と聞かせて貰ってホッとした。
枯れてしまったら、木だって可哀相だから。
まだ若い木だし、花もこれから。来年の夏には真っ白な花を咲かせる沙羅。
(ぼくとおんなじくらいの背…)
今はチビでも、もっと大きくなるのだろう。幹だってグンと丈夫になって。枝を伸ばして、葉を茂らせて。…沙羅の木の葉は、冬には落ちてしまうのだけれど。
(元気になってくれるといいよね)
御主人の世話と、木をくれた人のアドバイスで。
少し萎れてしまった葉たちも、元の元気を取り戻して。
きっと元気になる筈だから、と沙羅の木と御主人に「さよなら」と挨拶をして帰った家。
制服を脱いで、ダイニングに行っておやつを食べて。二階の自分の部屋に戻ったら、思い出した元気が無かった木。本物を見るのは初めてだった沙羅。花は咲いてはいなかったけれど。
御主人が手入れをしていたのだし、明日には詳しい人が様子を見に来てくれるから…。
(沙羅の木、元気になりますように…)
元気になって大きく育って、沢山の花を咲かせられるように。たった一日しか咲かない花でも、沙羅の花はとても綺麗だから。本物は写真で見る花よりも素敵だろうし、魅力的な筈。
(きっとその内に、大人気だよ)
花の季節は、ご近所さんに。散歩中に見掛けた人の間でも評判になって。
そういう立派な木になれるように、ぼくもお祈りしているからね、と心の中で呼び掛けていたら掠めた記憶。前も祈った、と。遠く遥かな時の彼方で。
(…前のぼく…?)
何処で、と辿った前の自分が生きた頃。
元気になって、と木に祈ったなら、シャングリラでのことだろう。あの船だけが世界の全てで、外の世界は人類の世界。外の世界では多分、祈らない。
(弱っている木に会ったって…)
また会える機会は無いのだろうし、祈ったとしても「元気に生きて」という言葉だけ。その木が元気に生きてゆけるよう、大きくなるよう祈りはしない。
自分が生きる世界の中には、その木は無いのと同じだから。
人類の世界に生えている木が大きくなっても、船の仲間は姿さえも見られないのだから。
シャングリラで祈った筈なんだけど、ということは分かる。ただ、記憶には残っていない。あの船にあった木たちに向かって祈った記憶。「元気になって」と。
(サイオンで育てた豆はあったけど…)
白い鯨になる前の船で、前の自分がサイオンで育てたらしい豆。まるで自覚は無かったけれど。
豆の苗が駄目になりそうだ、と聞いたから励ましてやっただけ。弱々しい苗を。
「元気になって」と、「生きて欲しいよ」と。
そうしたら元気を取り戻した苗。今にも枯れそうだったのに。「生き返った」と皆も驚いた。
豆はグングン育っていって、次の世代を生み出した。一番丈夫な作物になった。
赤いナスカでも、最初に根付いたほどに。蘇った青い地球の上でも、テラフォーミング用の植物以外では、最初の植物になったくらいに。
今の時代は「パパのお花」と呼ばれる豆。幼かったトォニィがそう呼んだから。
(あれだって綺麗に忘れていたし…)
パパのお花の記事に出会うまで、思い出しさえしなかった。前の自分が励ましたことが、生きる力になったらしいのに。…ジョミーが「生きて」と願う力で、前の自分を生かしたように。
サイオンで植物を生かす奇跡は、きっと豆の時の一度きり。他にやってはいないと思う。
それとも忘れてしまっただけで、奇跡をもう一度起こして欲しい、と誰かに頼まれただろうか?
(まさかね…?)
もしも誰かが頼みに来たなら、豆のことを覚えていそうだから。今の自分も忘れないで。
前の自分は、そういう力を持っていた、と。
祈りの力で植物たちを、元気に生き返らせたのだ、と。
けれど、そういう記憶も無い。奇跡の力を持っていたとは、前の自分は思っていない。
力を持っていないのだったら、どうして祈っていたのだろう。「元気になって」と、船にあった木に。祈っても意味は無さそうなのに。それで生き返りはしないのに。
(…あれは、いつなの…?)
祈っていた時も、祈っていた意味も分からないや、と首を捻っていたら、聞こえたチャイム。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ぶつけた質問。ハーレイは知っているかも、と。
「あのね…。前のぼく、木にお祈りしてた?」
「はあ? お祈りって…」
木は神様ではないと思うが、と怪訝そうなハーレイ。当然と言えば当然な答え。
質問の仕方を間違えちゃった、と最初から説明することにした。
「えっとね…。今日の帰りに、元気の無い木に会っちゃって…」
御主人が手入れをしていたんだよ、きっと元気になる筈だ、って。…小さな沙羅の木。
元気に育って欲しかったから、家に帰って思い出した時にもお祈りをしてて…。あの木が元気に育ちますように、って。
そしたら、そういう気持ちを知っている気がしたんだよ。前のぼくもお祈りしてた、って。
この木が元気になりますように、っていうお祈り。…パパのお花とは違うんだよ。
パパのお花は豆の苗でしょ、それとは違っていた筈で…。普通の木だと思うんだけど…。
前のぼくは木のためにお祈りしたかな、パパのお花の時とは別に。
「なるほど、そういうお祈りか。木が神様ではないんだな」
前のお前が木にお祈りなあ…。はて…?
シャングリラだったことには間違いないな、とハーレイは腕組みをして考え込んだ。
いつの時代か、そいつを思い出さないと、と。
白い鯨になった後には、公園にも農場にも何本もの木。改造前のシャングリラでも、自給自足で生きる船ではどうするべきか、と試験的に作っていた畑。木も何本か育てていた。
木に祈るのなら、改造前の船の方だと思ったけれども、ハーレイが導き出した答えは違った。
「そうか、あれだな。…白い鯨の時代だった」
前のお前が祈っていたのは、白い鯨が出来てからだ。改造が済んだ後のことだな。
「え…? 改造した後のシャングリラなら…」
木は何本もありそうだけど…。農場にも、それに公園にも。
あんなに沢山植えてたんだし、お祈りなんかしなくても元気に育っていそうだけれど…?
「確かに木なら沢山あったが…。それだけに失敗も多かったんだ。初めの頃はな」
覚えていないか、上手く根付かなかった木が何本もあったんだが。
こいつは此処だ、と植えてやっても、なにしろ素人ばかりだったからな。木に関しては。
「それは覚えているけれど…」
難しい木もあったものね、と頷いた。今も記憶に残っているから。
白いシャングリラに植えていた木たち。改造前からの計画通りに、公園に、それに農場に。
様々な木を植えたけれども、全てが成功したわけではない。初めて育てる木なのだから。
枯れてしまった木も少なくはなくて、抜くしかなかった駄目になった木。
そういう時には、新しい苗木を奪いに出たのが前の自分。シャングリラからアルテメシアへ。
担当の仲間に必要な苗木を頼まれて。人類の施設に忍び込んで。
そのことは確かに覚えている。今度はこれか、と苗木を奪いに行ったこと。
けれど、祈りと繋がらない。
新しい苗木を奪って来たなら、それを育てればいいだけのこと。枯れてしまった木の代わりに。
元気な株を選んで奪ったのだし、今度は上手く育つだろうから。
きっと元気に育つだろう木。祈らなくても、備わっている生命力で。丈夫に出来ているだけに。
健康な木には祈りは要らない。自分の力で育ってゆける。
なのにどうして前の自分は祈ったのか。それが不思議で、ハーレイに訊いた。
「枯れた木の代わりに、新しい木を奪ってたけど…。なんで祈るわけ?」
丈夫な苗木を選んでたんだよ、祈らなくても元気に育つと思うけど…。
お祈りする理由、何処にも無さそうなんだけど…。
「それがだな…。駄目になっちまった木だと、そうなるんだが…」
何本もの木を育てる間に、仲間たちだって木が好きになる。木だって生き物なんだから。
そのせいかもなあ、枯れそうな木を懸命に世話したヤツらがいたんだ。
木に仲間たちの名前をつけて、「頑張れよ」とな。
「名前って…?」
ただの名前なら分かるけれども、仲間たちの名前って、どういう意味?
船で暮らしていた仲間の名前をつけていたわけ、枯れそうな木に…?
「おいおい、それだと枯れちまった時に困るだろう。…その木の名前の持ち主に悪い」
縁起でもないってことになるしな、自分の名前の木が枯れたら。…俺だっていい気分はしない。
ハーレイって名前がついていた木が、枯れてしまったと聞いたらな。
だから仲間たちの名前と言っても、船にいなかった仲間の名前だ。…だが、仲間だった。
もちろん本当の名前は分からん。それが正しいか、間違っていたか、誰も分かりはしなかった。
アルタミラにいただろう仲間たちの名だ、船に乗れずに死んでいった仲間。
そいつを木たちにつけていたんだ、ハンスの木と同じ理屈だな。
墓碑公園にあった糸杉、ゼルが「ハンス」と呼んでたろうが。
ハンスは本当に存在してたが、他の仲間の名前は分からないままだった。ただの一つも。
こういう名前の仲間がいたかも、という名を木たちに名付けたわけだな。
「そういえば…!」
本当にいたとは限らなくても、仲間たちの名前…。
つけてたっけね、枯れそうな木を世話する時には、「頑張って」って。
白いシャングリラで育てていた木。枯れそうな木には名前がついた。
いつの頃からか、つけられるようになっていた名前。シャングリラに乗れなかった仲間の名前。
アルタミラの研究所で殺された仲間や、メギドの炎で死んでいった仲間。
彼らの名前は分からないけれど、こんな名前もあっただろうと。きっとこういう仲間も、と。
名前がついたら、誰もがその名を呼んでいた。相手は木なのに、仲間が其処にいるかのように。
食事の時に話題になったり、様子はどうかと何度も見に行く仲間がいたり。
「どういうわけだか、あれで不思議に生き返った木もあったってな」
すっかり萎れて、枯れるだろうと思っていたのが嘘みたいに。
パパのお花になってしまった豆ほど凄くはなかったんだが、だんだん元気を取り戻して。
「そんな木、幾つもあったよね…」
新しい苗木を調達しなきゃ、って思っていたのに、リストから外れちゃった木が。
頼んでいた係が言いに来るんだよ、「この木は無事に根付きました」って。
あれってやっぱり、パパのお花と同じ理屈で戻ったのかな…。あの木たちの命。
みんなが「生きて」って願っていたから、それが生きるための力になって。
「どうだかなあ…。そいつは俺にも謎だとしか…」
サイオンのお蔭とは限っちゃいないぞ、木たちの場合は。
なんたって名前がついていたんだ、それだけで係たちの力の入り具合も違う。
ただの木だったら「こんなモンだな」と思う所を、名前がある分、細やかに世話をするからな。
仲間たちの名前がついてる木なんだ、大切にしようと考える気持ちが出て来るもんだし…。
夜中でも様子を見に行ったりもしただろう。仕事で見に行く時以外にも。
「そうだね、大切に世話してやったら、弱い木だって持ち堪えそう…」
枯れちゃいそうでも、頑張って世話をして貰えたら。
今日の木だって、そうだから…。あの沙羅の木は、場所が合わないなら植え替える、って。
それだけ気を付けて世話してくれたら、木だって元気になれそうだものね。
シャングリラの木だって同じだったかもね、せっせと世話をして貰えた木は丈夫に育って。
細やかな世話のお蔭で生き返ったかも、と思い出した木たち。枯れそうだった何本もの木。
仲間たちの名前がついていたから、前の自分も気に掛けていた。どうしているか、と。
「思い出したか、名前がついてた木たちのことを?」
もっとも、元気になっちまったら、すっかり忘れ去られていたが…。名前ごとな。
他の木たちに混ざっちまって、ただの木だ。元は名前があったことさえ、忘れられてて。
元気に育ち始めるまでの間だけだな、仲間たちの名前で呼ばれていたのは。
しかし、お前も呼んでたろうが。
あの木たちについてた、色々な名前。…船の仲間の名前とは違っていたんだが。
「思い出したよ。前のぼくのお祈り、枯れそうな木たちのためだったんだ…」
仲間たちに生きて欲しかったから。…その木の名前を持ってた仲間に。
そういう名前を持っていた仲間、本当にいたかどうかは分からなかったけど…。
だけど、仲間の名前だから…。仲間たちの名前の木だったから。
覚えているよ、と鮮やかに蘇って来た記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃の。
白いシャングリラで誰かが始めた、枯れそうな木に名前をつけること。アルタミラで命を失った仲間、船に乗れなかった仲間を思って。
船の仲間たちとは重ならない名前、けれど珍しくはない名前。人類の世界にはよくある名前で、名付けられた仲間がいても不思議はない名前。
それを木たちに名付けていた。この木はこれ、と本物の仲間がいるかのように。男性の名前も、女性の名前もついていた木たち。
(名前、ホントに色々あったんだっけ…)
データベースで探していたのか、名付けるのが得意な仲間でもいたか。同じ名前は無かった木。重ならなかった木たちの名前。けして少なくはなかったのに。
船の仲間たちも木の心配をしていたけれども、前の自分も全く同じ。枯れそうな木があると耳にした時は、その木に会いに出掛けて行った。農場へも、それに公園へも。
手入れをしている係に尋ねた、木につけられた仲間の名前。それを教わったら、早速呼んだ。
幹に手を当てて、「元気になって」と。
枯れてしまわないで、この船で大きく育って欲しいと。根を張って、葉を茂らせて、と。
アルタミラで死んだ仲間たちを思って、「生きてゆこう」と声で、心で呼び掛けた木たち。この船で一緒に生きてゆこうと、せっかく船に来たんだから、と。
仲間たちの名前は分からないままになったけれども、檻の向こうに姿を見た日もあったから。
実験のために檻から引き出された時や、押し込まれる時に。
(…サイオン制御リングを外されるから…)
その一瞬だけ、透けて見えていた仲間たちの檻。自分の檻の隣や、上下に並んだ檻の中に。
生きた仲間の姿を見たのは、研究所の中ではその時だけ。研究者たちは、他のミュウたちと接触しないよう、管理を徹底させていたから。
檻に名札はついていなくて、思念を交わすことも出来なかった仲間たち。名前が分かるわけなど無かった。何という名か分からないまま、入れ替わっていった檻の隣人たち。
(…みんな、殺されちゃったんだ…)
実験の果てに、残酷に。狭い檻にさえ帰れもしないで、何も言葉を残せないままで。
そういう仲間の姿を重ねて、木たちの名前を呼んでいた。「ぼくたちと一緒に生きよう」と。
パパのお花を生き返らせたことは忘れていたのだけれども、「生きて」と撫でてやった幹。
枯れそうな木の幹を撫でては、「元気になって」と祈った自分。
シャングリラには乗れなかった仲間が、木になって其処にいるかのように。名前すらも告げずに死んでいった仲間、彼らが船に来たかのように。
前の自分は確かに祈って、木たちの無事を願っていた。枯れずに元気に育って欲しいと。
「ねえ、ハーレイ…。奇跡は何度も起こらないよね?」
パパのお花は、前のぼくが生き返らせたみたいだけれど…。あれっきりだよね?
枯れそうだった木たちが元気に育った理由は、きちんと世話して貰えたからでしょ?
船の仲間たちや前のぼくのお祈りだって、少しくらいは効いていたかもしれないけれど…。
「どうなんだかなあ…?」
俺にも分からんと言った筈だぞ、しかし生き返った木が多かったのは確かだな。
枯れそうな間は、大勢のヤツらが名前を呼んでいたことも。様子を見に行く仲間が大勢いたってことも。…船に乗れなかった仲間たちのことは、誰もが覚えていたからなあ…。
名前すらも分からない有様だったが、命が助かった俺たちよりも、死んだ仲間の方が多かった。
考えなくても誰だって分かる。…どれだけの年月、ミュウが殺されていたかってことだ。
そいつを思うと、木でも大事にしないとな。仲間たちの名前がついた木なんだ、何の根拠も無い名前でも。…そういう名前を持っていた仲間が、いたかどうかは分からなくても。
確証は何も無かったけれども、船の仲間たちが呼んでいた名前。
枯れそうになった木に名付けていた、アルタミラの地獄で死んでいったミュウたちの名前。その木が立派に育つようにと祈りをこめて。白いシャングリラで、自分たちと一緒に生きてゆこうと。
「あれって、いつまであったんだっけ…?」
枯れそうな木には名前をつける、っていう習慣。元気になったら名前は忘れられちゃったけど。
どの木だったか、みんなすっかり忘れてしまっていたけれど…。
「俺も覚えちゃいないんだが…。最初の数年だけってトコだな、名前をつけていた時期は」
白い鯨での暮らしってヤツが軌道に乗ったら、木を育てるのにも慣れていったから…。
枯れちまうことの方が珍しくなって来たなら、自然とやらなくなっただろう。
元々はただの木なんだからなあ、たまには枯れることだってあるし…。代わりのを植えて終わりだろうな、そのために苗を何本も育てていたんだから。
「そうなんだろうね、育つのが普通になったら忘れてしまうよね…」
元気に育つようになったら、木の名前、忘れていたんだし…。みんなが名前を呼んでた木でも。
ハンスの木だけが例外なんだね、ゼルが大事にしていたってこともあるけれど…。
本当に生きてた仲間の名前で、どんな顔だったか知ってた仲間も何人も…。
あの事故の時に乗降口の側にいた仲間たちは、ハンスの顔を見たんだものね…。
「ハンスだけだからな、名前が分かっていたのはな…」
顔を直接知らないヤツでも、ゼルに弟がいたってことは知っていた。脱出の時の事故だって。
ハンスは確かにいたんだってことを、知らないヤツはいなかったから…。
墓碑公園の糸杉を見れば思い出すよな、ハンスの名前を。
この木の名前はハンスなんだ、っていうゼルが名付けた名前の方も。
例外だったハンスの木。墓碑公園にあった糸杉。ゼルがせっせと世話をしていた。まるで本物の弟のように。アルタミラから脱出する時、亡くしてしまったハンスの代わりに。
けれど、ハンス以外の仲間たちの名前は分からなかった。アルタミラで死んだ仲間たち。実験で殺されてしまった仲間も、メギドの炎で命を失った者も。
名前どころか、その正確な人数までもが分からないまま。何人いたのか、何人のミュウが人類の餌食になったのかも。
とはいえ、それは前の自分が生きていた間のことだから。機械がデータを隠し続けて、封印していただけなのだから…。
「…ハーレイ、アルタミラの本当のデータ…。知ってるよね?」
「データだと?」
「そう。…前のハーレイだよ、今のハーレイじゃなくて」
前のぼくの誕生日とかを知っているなら、アルタミラにいた仲間たちのことも知ってるでしょ?
あそこに何人の仲間たちがいたのか、どうなったのか。…名前も、殺された仲間の数も。
テラズ・ナンバー・ファイブから引き出したデータの中にあった筈だよ。
前のハーレイは見た筈なんだよ、アルタミラで死んだ仲間たちの名前も、人数だって。
「まあな…。そいつを否定はしない」
キャプテンだったし、データにはもちろん目を通してる。…今でも覚えているのも確かだ。
あそこに何人のミュウがいたのか、どういう名前のヤツらだったかも。
「その名前…。教えてって言っても、ぼくには教えてくれないよね?」
仲間たちの名前を一つでいいから、って頼んでも。
「お前、自分を責めそうだからな。…助け損ねた、と」
前のお前が本気だったら、研究所ごと吹っ飛ばすことも出来たんだ。…逃げ出すことも。
そうしなかったから仲間が大勢死んじまった、と考えてるのがお前だしな。
あの状況では、とても無理だったのに…。子供のままで、成長を止めていたようなお前じゃな。
お前に教えるわけにはいかん、とハーレイの答えは予想通りのものだった。どんなに頼んでも、口を開きはしないのだろう。…仲間たちの名前は今もやっぱり分からない。ハーレイのせいで。
「…だったら、訊くのは諦めるから…。代わりに教えて」
木たちにつけてた名前の中で、当たっていた名前があったのかどうか。
枯れそうだった木につけた名前だよ。仲間たちの名前のつもりでつけていたでしょ、あれは。
「そう来たか…。待てよ、どうだったやら…」
木の名前の方もけっこうあったし、元気に育っちまった後には忘れてしまった名前だから…。
ちょっと待ってくれよ、今、木の方を思い出してるトコだ。
あれだろ、それから、あれで、あれでだ…。
そういやあったな、今にして思えば。
…ハンスの木みたいに、本当にいた仲間の名前を持っていた木が。
「どの木?」
当たっていたのはどの木だったの、何処にあった木?
場所を忘れているんだったら、木の種類だけでも教えてよ。何の木だったか。
「それもお前には教えられない。…お前、思い出そうとするに決まっているからな」
どの木だったかを手掛かりにして、忘れちまっている名前を。
そして名前を思い出したら、悲しむだろうが、今のお前も。そういう名前の仲間がいた、と。
アルタミラから救い損ねたと、前のお前のせいなんだ、とな。
「…そうだけど…」
そうなっちゃうけど、でも、知りたいよ。
死んでしまった仲間の名前も、とても大切だから。…その人が生きた印だから。
シャングリラのみんなも、そう思ったから名前をつけていたんだよ。
枯れそうな木には仲間の名前を。…この船で一緒に生きてゆこう、って。
だから教えて、と食い下がったけれど、ハーレイは「駄目だ」と応じなかった。仲間とそっくり同じ名前だった、木のことは教えられないと。種類も、その木があった場所も。
「知らなくてもいいんだ、今のお前は。…アルタミラの地獄のことなんかはな」
お前は充分、頑張ったから。命まで捨てて、ミュウの未来を守ったんだから。
今のお前は別の人生を生きているんだ、前のお前のことまで引き摺らなくてもいい。
自分を責めたりしなくていいんだ、今のお前と前のお前は違うんだから。
「そうだけど…。ぼくは前より、ずっと弱虫になっちゃったけど…」
本当に知らないままでいいと思うの、ぼくの中身は前のぼくだよ?
前のぼくが中に入っているから、ハーレイが好きで、ハーレイの恋人なんだけど…。
「…お前、今でも頑固だからなあ…。変な所で前のお前にそっくりだ」
分かった、いつかアルタミラの本当のことを、お前が知りたくなったなら。
前のお前と同じに育って、もう大丈夫だと思える時が来たなら、データを探してみるといい。
責任に押し潰されたりしないで、事実を受け止められるなら。…今ならデータは見付かるから。
だがな、探す時には必ず俺が一緒だ。
俺がお前の隣にいる時、そういう時しか調べては駄目だ。…絶対にな。
「どうして?」
ハーレイと一緒でなくっちゃ駄目って、どうしてそういう決まりになるの?
ぼく一人でも調べられるよ、今の時代はデータをブロックされたりはしていないでしょ?
「調べるだけなら簡単なんだが…。其処が大いに問題だ」
データを引き出したら、お前はどうなる?
何人の仲間が死んでいったか、どういう名前の仲間だったか、全部分かってしまうんだぞ?
慰めてやれる俺がいないと、お前、一日中、泣きっ放しになるだろうが。
俺の留守にウッカリ調べちまったら、俺が戻って来るまでな。
飯を食うのも、お茶を飲むのも忘れちまって、涙をポロポロ零し続けて。
「…そうなっちゃうかも…」
ぼくのせいだ、って前のぼくのつもりになっちゃって。
今のぼくとは関係無いのに、ぼくの中身は前のぼくと同じになっているから…。
本当に泣いてしまいそう、と自分でも容易に想像がつく。アルタミラで死んだ仲間たちの数や、名前を目にしてしまったら。
ハーレイは「分かったか?」と、大きな手でクシャリと頭を撫でてくれた。
「俺はお前を泣きっ放しにさせたくはない。…知りたい気持ちは分かるんだがな」
しかしだ、俺が一緒だったら、同じデータをお前が見ても…。泣き出しても、ちゃんと打つ手を持っているってわけだ。
もう泣き止んで飯でも食うか、と声を掛けられるし、抱き締めてもやれる。
お前の気分が変わるようにと、ドライブにも連れて行けるしな。
俺がお前の側にいられる時が来るまで、アルタミラのことは調べるんじゃない。今のお前も。
いいな、絶対にやるんじゃないぞ?
「…うん…」
ぼくだって一人で泣きたくないから、約束するよ。…一人の時には調べない、って。
いつかは調べられる時が来るしね、ぼくが知りたいと思ったら。…今よりも大きくなったなら。
アルタミラのデータを調べられたら、どの木の名前が当たってたのかも分かりそう。
木の名前の方を、ぼくが忘れていなかったら。
…そうだ、今日の木、大丈夫かな?
弱っちゃってた沙羅の木、元気になれるかな…?
「大丈夫だろう。その家の人が、きちんと世話していたんだから」
沙羅の木に詳しい知り合いの人も、明日には見に来てくれると聞いて来たんだろ?
頼もしい人もついているんだ、元気になるに決まっているさ。
植わっている場所が合わないのならば、ちょっと引越ししたりもして。
シャングリラじゃなくて地球でもあるしな、光も風も本物だ。土も水もな。
命に溢れた地球の上だぞ、うんと元気に育ちそうじゃないか。
「そうだよね…!」
地球なんだものね、本当に本物の青い地球。
シャングリラでも名前をつけていた木は、枯れそうな時でも生き返ることが多かったんだし…。
地球の上なら、名前なんかはつけてなくても、元気に育っていけるよね…!
葉っぱが少し萎れてしまっていた沙羅の木。学校の帰りに出会った、まだ小さな木。
あの木に名前は無かったけれども、きっと元気になるだろう。世話をしてくれる御主人がいて、明日は詳しい人も見に来てくれるのだから。
青い地球の水や土や光も、元気を与えてくれる筈だから。吹き渡ってゆく風だって。
明日も元気が無かったとしたら、何か名前をつけてやろうか。白いシャングリラで、仲間たちがそうしていたように。「元気になって」と、名前をつけて世話したように。
「ねえ、ハーレイ…。沙羅の木、名前をつけてあげようかな?」
もしも元気が出ないようなら、うんと元気に育っていくように、強そうな名前。
ゼルなんか、いいと思わない?
若かった頃はハーレイの喧嘩友達だったし、元気が溢れていたんだから。
「ゼルか…。そいつはいいな、その時は俺にも教えろよ?」
何処の家なのか、そのゼルの木があるっていう家。
沙羅の木を探せば見付かるだろうが、花が咲いてない時に探すのは大変だしな?
「もちろんだよ。ゼルってつけたら、場所はきちんと教えるよ」
家がある場所も、ゼルの木が植えてある場所も。
…あの沙羅の木に、ゼルって名前をつけるかどうかは分かんないけど…。
いつかハーレイと暮らす時には、ぼくたちの家で植える木にも名前をつけようね。
元気が無くって枯れちゃいそう、って思った時は。
「名前をつけるなら、やっぱりゼルか?」
憎まれっ子世に憚ると言うしな、枯れそうな木でも生き返りそうだが。
「ブラウとかでもいいと思うよ、強かったから」
うんと強そうな名前にしようね、逞しそうな名前がいいよ。…今のぼくたちがつけるんだから。
シャングリラの頃とは違うものね、と浮かべた笑み。
今の時代は、悲しい祈りはもう要らない。アルタミラで死んだ仲間たちの名前をつけた木たち。
本当の名前が分からないままで、こうだろうか、と名付けた木。
今はアルタミラは遠く遥かな時の彼方で、調べれば彼らの名前も分かる。いつかハーレイが側にいる時に、調べようと思い立ったなら。
そういう時代に生まれたのだし、木に名付けるなら、元気さにあやかれる名前がいい。
前のハーレイの喧嘩友達のゼルや、姉御肌だったブラウの名前。
今は誰もが幸せになれる、平和で素敵な時代だから。
ハーレイも自分も、小さな木だって、青い地球で生きてゆけるのだから…。
木たちの名前・了
※シャングリラで名前がついていた木は「ハンスの木」。けれど、他に何本もあったのです。
アルタミラの仲間たちを思って名付けて、育てていた木。育ったのは、祈りのお蔭なのかも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(こんなの、あるんだ…)
知らなかった、とブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
可愛らしいクマのぬいぐるみ。チョコンと座った姿のクマ。そういう写真が載っているけれど、ただのクマではないらしい。
生まれた時の身長と体重と同じに作って貰える、世界に一つだけのクマ。つぶらな瞳で、子供が喜びそうな姿の。
(女の子だったら、きっと友達にするよ)
自分の名前を付けたりして。何処へ行く時も、大切に抱いて。お気に入りのぬいぐるみを連れた子供は、公園でも街でもよく見掛けるから。
それに、このクマは記念品にもなるという。赤ちゃんが生まれた時の思い出、体重も身長も全く同じに出来ているから。
「こんな子だった」と手に取ってみたり、クマのモデルになった子供に抱かせたり。赤ちゃんの時はとても小さかった、と思い出すにはピッタリのクマ。
赤ちゃんの頃に着ていた服を、着せてやることも出来るらしいから…。
(そっちだったら、男の子でも…)
いい記念品になるだろう。友達にして遊ばなくても、眺めるだけで。「あれが、ぼくだよ」と。ぬいぐるみだけれど、一生の記念。生まれた時の自分の大きさ、それとそっくりなクマだから。
(結婚する時も、持って行くとか…)
こんな大きさで生まれたのだ、と連れてゆくクマ。結婚して二人で暮らす家まで。
相手もクマを持っていたなら、二人のクマを並べておける。こういう二人が今は一緒、と。
(ちょっと素敵かも…)
生まれた時には別々だったのに、今では誰よりも大切な家族。愛おしい人のクマの隣に、自分のクマがチョコンと座る。仲良く並んで。
(ぼくとハーレイだと…)
きっと大きさが違う筈。似たようなクマでも、体重と身長が変わるから。
それにベビー服も、まるで違った色や雰囲気だろうし、クマが着ている服だって違う。持ち主は誰か、一目で分かるに違いない。自分のクマと、ハーレイのクマが並んでいたら。
きっとそうだ、と眺めた写真。クマが何匹か写っているけれど、どのクマも違う雰囲気だから。同じクマでも、まるで同じには見えないから。
面白いよね、としげしげ見詰めていたら、掛けられた声。いつの間にか入って来ていた母に。
「あら、欲しいの?」
「え?」
顔を上げたら、「クマでしょう?」と母が指差した写真。
「たまに見るけど、欲しいんだったら、今からでも注文出来るわよ?」
赤ちゃんの時のブルーと同じ体重のクマ。身長も同じに作って貰って、服だって着せて。
ブルーの服は取ってあるから、クマに着せたら可愛いわ、きっと。
注文をしてあげましょうか、と今にも注文しそうな母。生まれた時の身長と体重、それを調べて通信を入れて。「こういうサイズでお願いします」と。
「ううん、注文しなくていいけど…」
見てただけだよ、面白いクマがあるんだな、って。赤ちゃんそっくりに作るだなんて。
「でも…。ブルー、欲しそうだったわよ?」
とても欲しそうな顔をしてたわ、「あったらいいのに」っていう顔ね。
ママには分かるわ、だってブルーのママだもの。…欲しいんでしょう、本当は?
「…ちょっとだけね。ママが言う通り、欲しいけど…」
あったらいいな、って思うけれども、ぼくはとっくに赤ちゃんじゃないし…。
ぬいぐるみと遊ぶ年でもないから、わざわざ今から作ってまでは…。
最初からあったら、きっと大事にしただろうけど。
注文しようとは思わないよ、と帰った二階の自分の部屋。
勉強机の前に座って、考えてみたクマのこと。母に「欲しいの?」と訊かれたクマ。
本当の所は、ちょっぴり欲しい。ハーレイのクマがあるのだったら、いつか並べてみたいから。別々に生まれた二人だけれども、今はこうして一緒なんだ、と。
そうは思っても、ハーレイのクマ。生まれた時の体重と身長で作られたクマ。
(きっと、作っていないだろうし…)
ハーレイも持っていないと思う。赤ちゃん時代の思い出のクマは。
けれどハーレイだって、その気になったら、あのクマを注文出来るのだろうか?
生まれた時の身長と体重、それは記録が残っている筈。それさえあれば、クマは作れる。ベビー服が今も残っているなら、服を着ているクマだって。
(ハーレイのお母さんなら、赤ちゃんの時に着せてた服も…)
大切に残しているだろう。何処の家でも、きっと仕舞ってあるだろうから。
赤ちゃんが最初に着ていた服とか、そういう思い出の服を。
(きっと、あるよね…)
何処の家でも、子供が育ってゆく間は。時々、取り出して風を通して、眺めたりして。
「こんなに小さかったのに」と、大きく育った子供と比べて。
ハーレイはとっくに大人だけれども、まだ結婚していないから。家族を持ってはいないから。
(…今もやっぱり、ハーレイのお母さんには大事な子供で…)
記念の服も残していそう。赤ちゃんのハーレイが着ていた服を。
(クマ、作れるかな?)
ハーレイのクマと、自分のクマを。
今は無理でも、結婚したら注文して。赤ちゃん時代の服だって着せて。
クマを並べたい気分になったら、二人のクマを並べておきたくなったなら。
作ろうと思えば作れるのかな、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速訊いてみることにした。あのクマのことを。
「あのね、ハーレイの赤ちゃんの時の服って、ある?」
残してあるかな、赤ちゃんの時に着てた服…。ベビー服だよ。
「はあ? ベビー服って…」
俺の服があったらどうかしたのか、お前、そいつが気になるのか?
「じゃあ、クマは? ハーレイ、クマは持ってるの?」
本物じゃなくて、ぬいぐるみのクマ。…ハーレイの家では見なかったけど…。
「クマだって? ベビー服の次はクマなのか?」
何を訊きたいのか、俺にはサッパリ分からんのだが…。ベビー服とクマがどうしたんだ?
まるで分からん、と瞬きしているハーレイ。「ぬいぐるみのクマで、ベビー服だと?」と。
「ハーレイ、知らない? 赤ちゃんの服を着てるクマ…」
服は着てなくても、赤ちゃんそっくりの大きさに出来たぬいぐるみのクマ。
身長も体重も同じなんだよ、赤ちゃんが生まれて来た時のと。注文して作るらしいけど…。
赤ちゃんが生まれた記念のクマ、と説明したら。
「あれのことか…。見たことはあるな、俺の友達の家で」
「えっ?」
友達って…。ハーレイの友達、男の子なのにクマを持ってたの?
遊びに行ったら飾っていたわけ、自分の部屋に…?
持っていても不思議じゃないけれど…。作ったんなら、あるだろうけど。
それにしても凄い、と思ってしまったハーレイの友達。ぬいぐるみのクマを飾っていた子。
男の子だったら、友達が家に遊びに来る時は、何処かに隠しておきそうなのに。大切な記念品のクマでも、ぬいぐるみには違いないから。「お前の趣味か?」と友達に訊かれそうだから。
流石はハーレイの友達だ、と感心したのに、「間違えるな」とハーレイが浮かべた苦笑。
「友達の家で見たと言っても、そいつのクマってわけじゃない」
そいつの子供のためのクマだな、子供が生まれた記念に作ったと言ってたが…。
待てよ、側には他にもいたな。あのクマは一匹だけじゃなかった。
全部で三匹いたってことはだ、他の二匹は、あいつらのクマになっていたのか。クマの家族で。
そうだとは思いもしなかったから、訊かずに帰って来ちまったが。
「ハーレイの友達と、お嫁さんのクマ?」
それが一緒に並べてあったの、赤ちゃんのためのクマと一緒に?
「今から思えば、そうなんだろう。直ぐ側に飾ってあったんだから」
多分、ついでに作ったんだな。子供用のを注文する時に。
古いクマのようには見えなかったから、クマにも家族が出来るようにと。
「そうなんだ…。そういうのがあるなら、ぼくたちも作っていいかもね」
家族なんだし、クマのぬいぐるみ。
「なんだって?」
作るってなんだ、何を作ろうと言うんだ、お前?
「ハーレイとぼくのためのクマだよ、いつか結婚した時にね」
赤ちゃんの頃はこうでした、って二人のクマを並べておいたら素敵だろうと思わない?
ハーレイにも赤ちゃんの時の服があったら、それをクマに着せて。ぼくのクマには、ぼくの服。
服無しのクマより、服つきのクマ…。そっちの方が、赤ちゃんの時をイメージしやすいでしょ?
「クマのぬいぐるみって…。お前、そういう趣味なのか?」
俺の友達の家で見た、と話した時には驚いたくせに。…お前は、そいつを飾りたいのか?
結婚したら作って、俺たちの家に?
「ちょっといいよね、って思うんだけど…」
だってハーレイのお嫁さんだよ、今度は家族になれるんだよ?
別々に生まれて来たっていうのに、結婚してハーレイと二人で家族。
だから、赤ちゃんだった二人が今では家族なんです、っていう記念にクマのぬいぐるみ…。
作って並べたら素敵だと思う、と話したらハーレイは頷いてくれた。「確かにな」と。
「男同士のカップルではあるが、ぬいぐるみも悪くはないかもしれん」
赤ん坊だった時の俺たちと同じに出来てるクマなら、そいつを作って並べておくのも。
俺たちの場合は、大いに意味があるだろうしな。赤ん坊時代の思い出のクマは。
前の俺たちには、絶対に出来ないことなんだから。…ミュウでなくても。
「自然出産じゃなかったから?」
人工子宮から生まれて来たから、今とは全然違うよね…。
機械がタイミングを決めて出してたんだし、どの子供でも似たようなものだったかも…。
身長も、それに体重だって。…前のハーレイとぼくも、殆ど同じだったかも…。生まれた時は。
「それもあるがだ、個人差があったとしてもだな…」
お前と俺では、まるで違っていたとしたって、誰がそいつを残すんだ?
いくら自分にそっくりだとしても、クマのぬいぐるみは持って行けないぞ。成人検査にも、その後に待ってる教育ステーションにもな。
「あっ…!」
ホントだ、クマのぬいぐるみを作って貰っても…。そのクマ、なんの意味も無いよね…。
大きくなってから思い出そうにも、子供時代の持ち物なんかは持っていなくて…。
育ててくれた人たちだって残せないよね、育てた子供の思い出なんか。
無理なんだっけ、と気付いたSD体制の時代。前の自分たちが生きた時代は、そういう時代。
子供時代の持ち物は処分されてしまった。ミュウでなくても、普通の人類の子供でも。
成人検査で記憶を消されるのだから、子供時代の思い出の品は持っていたって意味が無い。もう戻れない過去のことだし、必要は無いとされていた。
子供を育てた養父母の方も、次の子供を育ててゆくには、前の子供の思い出は不要。成人検査が終わったら直ぐに、ユニバーサルから職員が来て全て処分した。
子供部屋の中身はそっくり捨てて、持ち物も、アルバムの写真でさえも。
処分するために、養父母たちに休暇を与えて留守にさせたくらい、徹底的に何もかもを。
どうせ捨てると分かっているのに、クマのぬいぐるみを作りはしない。
おまけに人工子宮から生まれた子供なのだし、身長も体重も単なる記録の一つにすぎない。成長過程を確認するのに必要なだけの、ただの数字でデータの一つ。
「…前のぼくやハーレイのクマは無いんだね…」
誰も作ってくれやしないし、持ってたわけもなかったんだね。赤ちゃんの時とそっくりなクマ。
「うむ。記憶みたいに消されたのとは全く違う。最初から存在しなかったんだ」
作ろうと思うヤツもいなけりゃ、残そうと考えるヤツだっていない。
赤ん坊は十四歳になるまで育てるだけだし、育てた後には、二度と会えないわけだから…。
「なんだか寂しい…」
前のぼくを育ててくれたパパとママも、優しそうな人たちだったのに…。
だけど訊いてはくれないんだね、「クマが欲しいの?」って。
ぼくのママは訊いてくれたのに…。ぼくが新聞を覗き込んでたら、「それ、欲しいの?」って。
今からでもクマは注文出来るし、欲しいんだったら頼んであげる、って言ってくれたのに…。
「あの時代は、そういう時代だったんだ。仕方あるまい」
優しい心を持っていたって、社会の仕組みが先に立つ。…思い付きさえしなかったんだ。人類の社会で暮らす限りは、その枠の中でしか考えないから。
その点、俺たちのシャングリラだと、残そうと思えば残せたんだが。
誰も処分はしないからなあ、子供時代の色々な物も。
「そうだっけね…。だから今でも残ってるんだね」
宇宙遺産になってしまった、前のハーレイの木彫りのウサギ。…ナキネズミだって聞いたけど。
あれはトォニィが生まれた時ので、人類の世界だったら処分されちゃう…。
トォニィが大切に持っていたって、十四歳になった途端に。…子供時代の宝物なんかは、残しておいても意味が無いから。
「そういうこった。ミュウだったからこそ、残せたんだな」
俺にとっては、恥ずかしい記念になっちまったが…。
ずいぶんと出世されてしまって、ご立派な宇宙遺産になって。…あれはウサギじゃないのにな。ただのナキネズミで、お守りじゃなくてオモチャのつもりだったのに…。
とんだ出世をされちまった、とハーレイが嘆くナキネズミ。宇宙遺産の木彫りのウサギ。今では博物館の目玉で、本物の展示は百年に一度という代物。公開の時には長蛇の列が出来るほど。
それを残せたのもミュウならではのことで、ナキネズミは立派な宇宙遺産になったのに…。
「…あのナキネズミは残っちまったが、前の俺は残せなかったんだ」
シャングリラで暮らしていたっていうのに、大切なものを。…誰も処分はしないのにな。
俺としたことが、と溜息をついたハーレイ。失敗だった、と。
「残せなかったって…。何を?」
「前のお前の思い出ってヤツだ」
そいつを残し損なっちまった。シャングリラだったら、思い出も取っておけたのに。
「思い出って…。前のぼく、赤ちゃんじゃなかったよ?」
トォニィみたいに、赤ちゃんの時から船にいたってわけじゃないから…。
それとも船に乗り込んだ頃のこと?
白い鯨になる前の船で、アルタミラから脱出した時。あの時が生まれた時みたいなもので…。
ぼくが着ていた服を残しておきたかったの?
研究所で着せられていた服は、捨てちゃったから…。でも、あんな服を残しておいたって…。
「服って所は合ってるんだが、それじゃない」
お前が着ていたソルジャーの服だ。幾つもあったろ、同じ服がな。
「え…?」
ソルジャーの服って、マントとか上着…。
ハーレイが残し損なったものって、あれだったの…?
なんでそんなもの、と驚いて丸くなってしまった瞳。ソルジャーの衣装は制服なのだし、意味はそれほどありそうにない。どれを取っても同じ服ばかり、寸法も同じだったのだから。
けれどハーレイは「あれのことだ」と瞳の色を深くした。「お前の服だ」と。
「お前のことを思い出すにはピッタリだろうが。…ベビー服とは違うがな」
それでも、お前が着ていた服だ。いつもお前を包んでいた服。
だが…。お前がいなくなっちまった後を考えてみろ。
青の間のベッドのマットレスとかも、一度は撤去したくらいだぞ?
もう持ち主はいないんだから、と片付けられて枠だけになった。…もっとも、そっちは暫くして元に戻ったが…。誰が見たって寂しいからな。
しかし、お前が着ていた服はどうなるんだ?
それを着ていたお前はいないし、誰かが代わりに着るってわけにもいかないし…。
「…前のぼくの服、無くなっちゃった?」
処分って言ったら変だけれども、他の何かに役立てるとか。
「その通りだ。…一部の記念品を残して、他のは再利用するということになった」
特殊な素材で出来ていたしな、ジョミーの服に作り替えて生かすべきだろう。上着もマントも、手袋とかも全部。
俺はキャプテンだったわけだし、データを誤魔化せば貰っておくことも出来たんだが…。
上着が一枚減っていたって、誰も気付きはしないだろうしな。
「そうすれば良かったんじゃない。…欲しかったんなら」
残し損ねた、って今でも溜息をつくほどだったら、思い切ってデータを誤魔化して。
「お前なあ…。そうやって残して、俺に万一のことがあったら、どうするんだ」
仲間たちが部屋を整理するんだぞ、その時にアッサリ見付かっちまう。…お前の服が。
再利用に回した筈の服をだ、キャプテンの俺が持ってたとなると…。
色々なことを疑われちまうだろうが、お前との仲も含めてな。
「それはマズイかもね…」
データを誤魔化していたこともバレるし、そうやって残した理由も探られるだろうし…。
誰かがウッカリ思い付いたら、恋人同士だったのかも、って噂だって流れてしまいそう…。
「ほらな、お前でも直ぐに思い付くだろ」
だから俺だって考えた。…残しておいたら何が起こるか、考えた末に諦めたんだ。
ソルジャーの服をキャプテンが持っているのはマズイ、と前のハーレイが出した結論。データを誤魔化して手に入れられても、その後のことを思うと無理だ、と。
そう考えたから、ハーレイの手許にソルジャーの衣装は残らなかった。手袋の片方だけさえも。
青の間に残された記念品の衣装も、手には取れない。係が手入れをしていたから。
「…係が手入れをするってことはだ、決められた位置があるってことで…」
クローゼットにはこう入れるだとか、この前は此処に入れておいたから次はこう、とか。
係がルールを決めてるんだし、勝手に手に取るわけにはいかん。…気付かれるからな。
残留思念を残さないように気を付けていても、何処からかバレるものなんだ。誰か触った、と。
「それじゃ、ハーレイは…」
触ることさえ出来なかったの、前のぼくの服に…?
青の間にきちんと残してあっても、出したりするのは無理だったの…?
「そうなるな。痛くもない腹を探られたくはないだろう?」
本当は痛い腹だったわけだが、だからこそ余計に気を付けないと…。誰にも知られないように。
前のお前を好きだったことも、忘れられずにいることも。
しかし、ウッカリ触ったが最後、気持ちが溢れ出しかねん。ほんの少し、と触っただけで。
そうなっちまえば思念が残る。俺の思念だとバレるだろうな、お前に恋をしていたことも。
だから触りはしなかった。仕舞ってある場所を開けてみることも。
「…見ることも出来なかったわけ?」
クローゼットを開けられないなら、そうなるよね。…服は仕舞ってあるんだから。
「見たい時に見るのは無理だったんだが、たまに手入れする係が外に出していた」
上着とかに風を通しにな。仕舞ったままだと、駄目だと思っていたんだろう。
そういう時に眺めただけだ。運良く出会えた時にはな。
お前はこんなに細かったか、と。なんて小さな上着なんだ、と。
何度も眺めて、目に焼き付けて、それから帰って行ったんだ。何度も後ろを振り返りながら。
あれを着ていたお前の姿を、出してある服に重ねながらな…。
青の間にソルジャーの衣装が置いてあっても、触れられなかった前のハーレイ。風を通すために出してあっても、眺めることしか出来なかった。
懐かしい衣装を目にした日には、部屋に帰った後、ハーレイが撫でた奇跡のシャツ。奇跡としか思えなかったシャツ。縫い目も針跡もまるで無かった、ソルジャー・ブルーからの贈り物。
古い恋歌、スカボローフェアの歌詞の通りに、作り上げられた亜麻のシャツ。それをハーレイは取り出して撫でた。青の間で見て来た服を思って。
これよりもずっと小さかったと、それなのに上着だったんだ、と。
あんなに小さくて華奢だった人に、どれほどの重荷を背負わせたのかと。シャングリラを守って逝かせたのかと、どうして止めなかったのかと。
シャツを撫でる度に、涙が零れて落ちたという。もうこのシャツしか残っていない、と。
「…あのシャツはお前が作ってくれたが、俺のサイズのシャツだったから…」
お前の服とは違ったんだ。大きさからして、全然違った。…お前とは重ならないってな。
そう思う度に、何度考えたか分からない。
お前の服を貰っておけば良かったと。…データを誤魔化して手に入れるんじゃなくて、堂々と。何か適当な理由をつけて。
「理由って…。どんな風に?」
ハーレイがぼくの服を貰っても、着ることなんて出来ないから…。難しそうだよ?
「さてなあ…。俺の一番古い友達の服だ、と言ってやるのが良かったか?」
実際、お前はそうだったわけだし、ゼルたちにも何度もそう言ったもんだ。最初の頃はな。
その友達の思い出の品が何も無いから、貰って行ってもいいだろうか、と。
「ハーレイの一番古い友達…。それなら通用したかもね」
友達の思い出だって言うなら、着られない服でも貰えたかも…。誰にも変だと思われないで。
「あの時は、それを思い付きさえしなかったがな…」
お前がいなくなって直ぐの頃には、その最高の言い訳を。
恋人だったお前の思い出、それが欲しくて服のデータを誤魔化せないかと考えて…。
友達の思い出に貰うってヤツは、まるで頭に無かったな。
そいつを思い付いてりゃなあ…。
服が思い出の品になる、という発想が全く無かったんだ、とハーレイは呻く。思い出ではなくて形見だとばかり考えていた、と。恋人の形見に服が欲しい、と。
恋人が着ていた服だったから、欲しいと思ったソルジャーの衣装。そう考えて欲しがっただけ。
奇跡のシャツを撫でていたように、服を抱き締めたかっただけ。愛おしい人を想いながら。
その服を見るだけで思い出せることに、ハーレイは気付きもしなかった。服が思い出のよすがになること、それがあるだけでも思い出になるということに。
記念に残されたソルジャーの服を、青の間に出掛けて目にするまでは。
風を通すために係が出しておいた服、それを見付けて恋人の姿を重ねるまでは。
「…俺が失敗しちまったのも、前の俺たちが生きてた時代ならではだ」
後から大切に思い出すために、何かを残すっていう考え方自体が無かったんだな。
子供たちの持ち物は取っておいても、持ち主の子供は生きてるわけで…。
思い出の品を取っておくのと、それを使って思い出すのとが繋がらなかった。あの時代は、次の世代というのは全く違うものだったから…。
赤ん坊の時の体重や身長そっくりのクマを作ることさえ、必要無かった時代だからな。
いくらシャングリラで生きていたって、人類と何処か似ちまうもんだ。忌々しいことに、基本の考え方までが。
「そうだったのかもしれないけれど…。でも、ぼくの髪の毛は探したんでしょ?」
髪の毛を探しに青の間に行ったら、すっかり掃除されちゃってた、って言ってたよ?
ぼくの髪の毛は残っていなくて、とっても悲しかった、って…。
「髪の毛はそのまま、お前の欠片というヤツだろうが」
お前の髪だし、お前の欠片だ。…抜けちまったらゴミでしかないが、お前の身体の一部だぞ。
だから俺だって直ぐに思い付いた。お前の髪が落ちていたなら、拾って来ようと。
だが、服は違う。お前が着ていたというだけだ。
お前自身の欠片じゃないしな、抱き締めたって其処にお前はいないんだから。
人形を側に置くようなつもりで、ソルジャーの服が欲しかった。
そいつを強く抱き締めていたら、寂しさが少しは紛れるだろうと思ってな…。
俺は考え違いをしていたんだ、とハーレイが浮かべた苦笑い。服そのものを恋しがるより、服の向こうに愛おしい人の姿を見ること。それが大切だったのに、と。
「其処に気付いていたならなあ…。ソルジャーの服を貰ったんだが…」
俺の一番古い友達の思い出だから、と頼みに行って。上着だけでも貰えないか、と。
きっと貰えただろうにな。…そういうことなら、と誰も変には思わないで。
「そうだよね…。何かを思い出に残す発想、今ほど普通じゃなかったけれど…」
子供たちの持ち物は捨てずに置いてた船だし、誰だって直ぐに分かったと思う。前のハーレイが言いたいことも、服が思い出になることも。
でも…。
上着だけでも、って聞いたら思い出したんだけれど、前のぼく…。
ハーレイの上着をよく借りていたよ、独りぼっちで寂しかった時は。
いくら待ってもハーレイが青の間に来ない時とか、遅くなりそうな時とかに。借りて着てたら、ハーレイが側にいてくれるような気がしたから…。
着たままで眠っちゃってた時には、ハーレイ、困っていたじゃない。上着が皺くちゃ。
あのぼくを見てても、服が思い出になるって考えなかったの?
ぼくはハーレイの上着の向こうに、いつもハーレイを見ていたのに。
「そういうお前は覚えていたが…。十五年間もお前が眠っていたって、忘れなかったが…」
お前が着ていた俺の上着は、お前の服とは結び付いてはくれなかったな。
俺はお前の服を借りたりしなかったから…。服の向こうにお前を見てはいなかったから。
服というのは、そいつの中身が伴ってこそだと思ってた。
それを着ているお前がいないと、何の役にも立たないんだと。…人形みたいに眺めるだけで。
馬鹿だったな、俺も。
もっとしっかり考えていたら、友達の思い出なんだから、とソルジャーの服を貰ったろうに。
「そういう時代だったしね…」
前のぼくたちが生きてた時代は、思い出は残さない時代。…赤ちゃんから育てた子供のでも。
一番大切な時を一緒に過ごした子供の思い出も全部、処分するような時代だったから…。
いくらミュウでも、考え方まで丸ごと人類から切り離すのは無理。
トォニィたちが生まれた後でも、そう簡単には変われないよ…。
世界そのものが今とは違っていたんだから、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。ソルジャーの服を残し損ねた、と時の彼方で悔やんだ恋人。
青の間でそれを見る度に。…手に取ることも出来ない衣装を眺める度に。
ハーレイはどんなに悲しかっただろうか、残し損ねた服を思って。あれが手許にあったなら、と何度も涙したと言うから。
…前の自分がプレゼントしたシャツ、奇跡のシャツを撫でながら。縫い目も針跡も無い、亜麻のシャツ。ハーレイのサイズで作られたシャツで、前の自分の服とは大きさが違いすぎるのを。
「えっとね…。前のハーレイは、ぼくの服を残し損なったけど…」
思い出に出来るって気付かなくって、貰い損ねてしまったけれど…。
今のぼくなら、赤ちゃんの時の服だってちゃんと残っているよ。ママが残してくれているから。
クマだって作れる時代なんだよ、ぼくが生まれた時の体重と身長になってるクマを。
そういう時代に二人で生まれ変わって来たでしょ、今度は幸せに生きていけるよ。
いつまでも、何処までも、ハーレイと一緒。…ぼくは絶対、離れないから。
「赤ん坊の時の服ってヤツか…。おふくろなら残しているんだろうなあ…」
きちんと仕舞って、時々、風を通したりもして。
俺はすっかりデカくなったが、「こんなに小さい頃もあった」と見てるんだろう。小さい頃には可愛い子供だったのに、と溜息をついているかもな。あんなに大きくなるなんて、と。
そのデカい俺の嫁さんになってくれるのが、大きく育った今のお前か…。
ちゃんと帰って来てくれたんだな、俺の所に。…今はチビだが。
お前、クマのぬいぐるみ、作りたいのか?
会った途端に訊いてたからなあ、俺が赤ん坊だった頃の服は残ってるか、と。
「うーん、どうだろう…? 欲しい気持ちもするけれど…」
男同士でクマは変かな、ぬいぐるみを並べて飾っていたら…。
そうだ、ハーレイが生まれた時って、大きかった?
クマを作るんなら、赤ちゃんの時のハーレイと同じになるんだけれど…。ハーレイのクマは。
「俺か? そりゃなあ…?」
この図体だぞ、小さいわけがないだろう。
おふくろも親父も、「この赤ん坊は大きくなる」と見るなり思ったらしいしな…?
聞いて驚け、という台詞通りに、驚いてしまったハーレイの体重。青い地球の上に、ハーレイが生まれて来た時の重さ。それに身長も、うんと大きい。チビの自分は軽くて小さかったのに。
(…やっぱりハーレイ、大きい赤ちゃんだったんだ…)
生まれた時から、大きくなりそうだと一目で分かる元気な赤ちゃん。それがハーレイ、泣き声も大きかっただろう。自分とは比べられないほどに。
(そんなに違っていたんなら…)
あのクマをいつか作ってみようか、ハーレイのクマと自分のクマを並べるために。
こういう大きさで生まれた二人が、今では家族なんだから、と。
赤ちゃんの時の服を着させて、仲良く二つ並べて置いて。生まれた時には小さかったよ、と。
「俺はどっちでもかまわないぞ、クマは」
作ってもいいし、作らなくても、どっちでもいい。…お前さえいれば。
前の俺みたいに、お前の服も俺の手許には残っちゃいない、と泣かずに済むならいいんだから。
お前がクマを作りたいなら、おふくろに頼んで貰って来るさ。赤ん坊の時の俺の服をな。
残しているに決まっているんだ、今はそういう時代だから。
「うん。クマを作って並べるかどうか、二人でゆっくり考えようね」
男同士のカップルなんだし、クマのぬいぐるみは似合わないかも…。
もしかしたら、ハーレイ、笑われちゃうかもしれないものね。柔道部員の生徒たちが来たら。
「笑うだと? そういう失礼な生徒ってヤツにはお仕置きだな」
俺のクマを見て笑うのはいいが、お前のクマまで笑ったヤツは許さんぞ。
大事な嫁さんのクマを笑うなんて、そいつは飯もおやつも抜きだ。うんと反省して貰わんと。
「…それって可哀相じゃない?」
遊びに来たのに、御飯もおやつも抜きなんて…。何も食べさせて貰えないなんて。
「何処が可哀相だ、可哀相というのは前の俺みたいな思いをしてこそだ」
独りぼっちで残されちまって、思い出になる服も持っていなくて…。あれがあったら、と何度も何度も悔やみ続けて、泣き続けてこそ可哀相だと言えるってな。
「…ごめんね、ハーレイ…。前のハーレイを一人にしちゃって」
本当にごめん、と謝ったけれど、「いいさ」とハーレイは笑ってくれた。「もういいんだ」と。
「お前、帰って来てくれただろ? お蔭でクマの話も出来る」
いつか二人でゆっくり決めよう、俺たちのクマを作って飾るかどうかってことを。
クマを作るなら付き合うからな、とハーレイも乗り気らしいクマ。
家に来た教え子がクマを眺めて笑った時には、お仕置きもしてくれるらしいから…。
生まれた時の体重と身長で作って貰えるクマを、二つ並べて飾ってみようか。小さめのクマと、それより大きなハーレイのクマ。今のハーレイの赤ちゃんの時の服を着ているクマ。
(…赤ちゃんの時の服もいいけど…)
前の自分の上着を着せてみるのも素敵だろうか、小さい方のクマに。
大きなクマには前のハーレイの上着、そういうクマもいいかもしれない。
青い地球の上に生まれ変わる前には、二人とも、それを着ていたから。
遠く遥かな時の彼方で、そんなカップルだったから。
(生まれ変わりなんです、っていうのは内緒でも…)
姿がそっくり同じなのだし、着せていたって、誰も不思議には思わないだろう。遊びなのだ、と微笑ましく思うことはあっても。
(柔道部員とかが笑った時には…)
ハーレイがお仕置きをして、御飯とおやつが抜きになる。ちょっぴり可哀相だけど。
本当にいつか作ってみようか、前の自分たちの上着を着ている二匹のクマのぬいぐるみ。
前のハーレイが貰い損なった前の自分の上着を、頑張って真似て縫い上げてみて。
ハーレイのキャプテンの上着も作って、着せて座らせる二匹のクマ。
きっと幸せだろうから。
ハーレイと二人で手に取ってみては、「こんなに小さかったんだね」と笑い合って。
今は二人ともずっと大きいと、大きく育ったから、結婚して家族になれたんだよね、と…。
思い出の服・了
※前のブルーのソルジャーの衣装。ブルーがいなくなった後、欲しいと思ったのですが…。
友達の思い出として残す発想が無くて、そのままに。今の時代は、思い出の品は普通なのに。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(灯り、色々…)
ホントに色々、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
ダイニングで広げた新聞に灯りの特集、色々なタイプの照明器具。見ているだけで楽しい記事。灯りで変わる部屋のイメージ、明るさや色や、照明の形。
シンプルなものから豪華なものまで、和紙で出来ている灯りまである。きっと昔の日本風。
(灯りを変えるだけで、部屋も変わるんだ…)
同じ部屋でも、全く違うイメージに。天井も壁も床もそのままでも、変わる雰囲気。吊り下げるタイプを、天井にくっついたタイプに変えてやるだけでも。
もっと簡単にやりたかったら、照明の色を変えるだけ。そういうタイプの器具もあるから。一番単純に出来たものだと、昼間みたいな色で灯る灯りと、暖炉の火みたいな優しい灯り。
凝ったものなら、青や緑や、赤い光になる灯りだって。
(面白そう…)
その日の気分で選ぶ照明。夜になったら部屋で楽しむ。今日は暖炉の灯りのように、と柔らかな光で読書とか。青の間みたいに、海の底みたいな青い光を灯すとか。他にも色々出来る筈。
(お料理だって…)
記事を読んだら、灯りで変わってくるらしい。同じ料理を並べておいても、見た目がガラリと。煌々と灯る白い灯りと、暖炉や蝋燭を思わせる暖かな灯りとでは。
(前にハーレイと…)
夜の庭で食事したけれど。母が置いてくれたランプの灯りで食べた料理は、とても特別な感じに見えた。普段の料理を庭で食べたというだけなのに。
灯りで料理が変わるというなら、ああいう風にもなるのだろう。外でなくても、照明を落としてランプの明かりで食べたりしたら。
前にハーレイも言っていた。落ち着いた雰囲気のレストランだと、夜はテーブルに蝋燭を灯したランプを置いてくれたりもする、と。
面白いよね、と記事を読み終えて戻った部屋。おやつのケーキも美味しく食べて。
その部屋だって、夜は色々な顔になる。常夜灯の時と、明るい照明の時とは違う。机の分だけを点けていたって、やっぱり変わる部屋の雰囲気。灯りしか変えていないのに。
(病気で寝ていて、知らない間に部屋が真っ暗になってた時に…)
ハーレイが来て「寝てるのか?」と扉を開けたら、廊下から入って来る光。その中にハーレイの大きな影が見えると、とても幸せ。ハーレイの顔は暗くて見えないのに。
それからパチンと点される灯り、ハーレイが壁のスイッチを探って。いきなり光が溢れる部屋。眩しくて目を瞑るけれども、ほんの一瞬。次に目を開けたらハーレイの姿。「大丈夫か?」と。
大きかった影はハーレイになって、もう嬉しくてたまらない。「来てくれたんだ」と。
あれも灯りの効果だろう。最初は影で、灯りが点いたら恋人の姿が見えるのだから。
でも…。
(ハーレイとだったら、暗い部屋でもきっと幸せ…)
そうに違いない、と思ってしまう。
昼間みたいに明るくなくても、お互いの顔がぼんやりと見える程度でも。常夜灯とか、廊下から漏れてくる光。それだけが頼りの暗い部屋でも。
ハーレイと二人でいられたら。あれこれ話して、手を握ったりもして貰えたら。
部屋が暗いのに気付かなかったのは、病気だったせい。元気づけるために握ってくれる手。
野菜スープも食べさせて貰えるのだろう。「火傷するなよ?」と懐かしい味のスープを、そっとスプーンで掬ってくれて。一口ずつゆっくり運んでくれて。
暗い部屋なら、あのスープだってもっと美味しくなりそうに思う。味に集中出来るから。素朴なスープを味わう他には、することが何も無いのだから。
(ハーレイの顔だって、ぼんやりとしか…)
見えないのだから、スープの味とハーレイとに夢中。余所見しようにも部屋は暗くて、気が散るものは目に入らない。本も本棚も、他の色々な家具だって。
そういう時間もきっと素敵、と考えてしまう暗い部屋でのお見舞い。学校を休んでしまった日の夜、ハーレイが部屋にスープを運んで来てくれて。
前の生から好きだったスープを、コトコト煮込んだ野菜スープのシャングリラ風を。
(…許してくれそうにないけどね?)
常夜灯とか、廊下からの明かりだけの部屋で、ハーレイと二人きりなんて。
ハーレイはいつも、パチンと灯りを点けるから。暗かった部屋を一気に明るくしてしまうから。
明るくした部屋を暗くする時は、「チビは寝ろよ」と出てゆくハーレイ。
灯りを消して、「しっかり寝ろよ」と。「また来てやるから、早く治せ」と。
ハーレイの姿はまた影に戻って、パタンと閉められる扉。「おやすみ」という声だけを残して、足音が遠ざかってゆく。自分だけがポツンと取り残されて。
暗い部屋には、ハーレイはいない。入って来るなら灯りを点けるし、灯りを消すなら出て行ってしまう。その理由は、きっと…。
(前のぼくたちも、恋人同士だったから…)
それも本物の恋人同士。前の自分はチビの姿ではなかったから。
暗い部屋だと、前の生なら愛を交わしていた二人。青の間で、それにキャプテンの部屋で。
けれども今ではそうはいかないし、キスさえ出来ないチビなのが自分。十四歳の小さな子供。
だからハーレイは暗い部屋にはいないのだろう。灯りを消したら、「おやすみ」と扉を閉ざしてしまって、家へ帰ってゆくのだろう。
「眠るまで側にいてやるから」と言ってくれる時は、いつも灯りがついたまま。
眩しくないよう暗くしたって、何処かに残っている灯り。机の前とか、壁に一つとか。すっかり暗くならないようにと、お互いの顔が見えるようにと。
「寝ろよ」と側にいてくれたって。上掛けの下の手を、優しく握ってくれていたって。
(前のぼくの部屋、暗かったから…)
常に暗かったのが青の間。夜でも昼でも、深い海の底に沈んでいるかのように。
ベッドの周りだけを除いて、他の灯りは控えめなもの。部屋全体すらも見渡せないほど、明るくなかった照明たち。
だから余計に、ハーレイは灯りを点けておこうとするのだろうか。暗くなってから、お見舞いにやって来た時は。眠るまで側についていようとする時も。
チビの自分と過ごす時間が、前の自分たちの時間と重ならないように。
恋人同士だった頃の青の間、暗かった部屋が今の自分の部屋に重ならないように。
(そうなのかもね…)
青の間の暗さのせいもありそう、と零れた溜息。ちょっと残念、という気分。
暗い部屋でハーレイと二人きりになれる時間が来るのは、ずっと先。お見舞いに来てくれた時にしたって、チビのままでは駄目らしい。何処かに灯りが点いたまま。
(…ホントに残念…)
きっと青の間のせいなんだよ、と考えたけれど。
恋人同士で過ごしていた部屋、あそこが暗かったせいなんだから、と唇を尖らせたけれど。
(あれ…?)
青の間、とパチクリ瞬きをした。前の自分が長い長い時を生きた部屋。白いシャングリラで。
その青の間は、最初から暗い部屋だった。
白い鯨が出来た時から。ハーレイと友達同士だった頃から、ずっと。
恋人用にと暗かったわけではなかった部屋。そうなることなど、誰も想像していなかったから。
前の自分が恋をすることも。…恋の相手と、あの部屋で一緒に夜を過ごすということも。
なんだか変だ、と気付いたこと。部屋の明るさを、灯りのことを思えば思うほどに。
(青の間、なんで暗かったわけ…?)
あれだけ大きい部屋だったのだし、明るくすれば映えるだろうに。
さっき読んで来た新聞の記事にもあった通りに、照明で変わる部屋のイメージ。それを生かせば良かったのに。ありとあらゆる手を使ったなら、効果があったと思う青の間。
こけおどしのために作られた部屋に、更に迫力が増しそうな感じ。照明に工夫を凝らしたら。
青の間が無駄に広かった理由、それに巨大な貯水槽。
どちらもソルジャーの威厳を高めるためで、それ以外の意味は全く無かった。そういう部屋。
せっかく広く作られていたのに、あんなに暗い照明だけでは…。
(部屋の広さが、少しも分からないじゃない…!)
入って来たって、スロープと終点が見えるだけ。天蓋つきのベッドがあったスペース。
部屋全体が暗かったせいで、目に入るものはたったそれだけ。青の間に入った瞬間には。
暫く経っても、部屋の全ては見えては来ない。壁も天井も闇に覆われて、何処にあるのか掴めもしない。貯水槽さえも満足に見えない明るさでは。水面の反射でようやく分かる程度では。
だから見えない部屋の大きさ。
白いシャングリラでも、屈指の広さがあったのに。
天体の間と並ぶ大きさがあって、私室としては船で最大。他の仲間が住んでいた部屋なら、幾つ入るか分からないほど。居住区の一部なら、きっと丸ごと入っただろう。
それほどの広さを誇っていたのに、掴めなかった全体像。青の間の照明は暗すぎたから。
どうして暗くしたのだろう、と不思議でたまらない青の間の灯り。
青い照明を灯していたって、数を増やせば明るく出来る。深い海の底のような暗さを、透き通る青にすることも。光を透かして青くゆらめく、明るい海にすることだって。
そうしておいたら、部屋の広さが良く分かる。貯水槽がどんなに大きく出来ていたかも。
(青の間の灯り、ちゃんと明るく…)
灯しておけば良かったのに、と首を傾げていたら聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「ねえ、青の間って、どうして暗くなっていたわけ?」
とても暗かったよ、一日中。…昼間でも、まるで夜みたいに。
なんであんなに暗くしてたの、もっと明るくても誰も困らないと思うんだけど…。
「青の間だって?」
いきなり何だ、と目を丸くしているハーレイ。急に青の間の話だなんて、と。
「えっとね…。今日の新聞に灯りの記事が載っていて…」
部屋のイメージ、照明だけでも変わるんだって。どういう灯りを使うかだけで。
それで色々考えていたら、青の間を思い出しちゃって…。あそこはいつも暗かったよね、って。
前のハーレイと恋人同士で過ごす時には、あの明るさで良かったけれど…。
とても素敵な部屋だったけれど、青の間を暗くしていた理由が分からないんだよ。出来た時から暗かった部屋で、いつだって海の底みたい。
ぼくに恋人が出来た時のために、って暗く作ったわけじゃないでしょ?
「そいつは無いな。其処までの配慮は誰もしてない」
お前に恋をした俺でさえもな。…青の間が完成した段階では、まだ恋人ではなかったが…。
後でお前の恋人になった前の俺ですらも、お前が恋をするなんてことは考えなかった。
俺でもそういう有様なんだし、他のヤツらが思い付くわけがなかろうが。
いつかお前が恋をした時は、青の間の暗さが役立つだなんて。
「だったら、どうして暗くしちゃったの?」
青の間、ホントに暗すぎだったよ。目が慣れてないと、見えるのはスロープとベッドだけ…。
目が慣れて来ても、せっかくの広さがちっとも分からないじゃない。壁も天井も見えないから。
こけおどしのために広かったんでしょ、と指摘した青の間の真実の姿。満々と水を湛えた貯水槽だって、本当は意味が無かったのに、と。
前の自分のサイオンは水と相性がいいのだから、という理由で作られた貯水槽。サイオンを無理なく増幅するには、貯水槽の水が役に立つ、と。相性の良さは誤差の範囲に過ぎなかったのに。
けれど、青の間の広さはもちろん、貯水槽さえもろくに見えなかった暗い照明。
もっと明るく照らしていたなら、誰もが青の間の全貌を掴めた筈だから…。
「こけおどしで広く作った部屋でしょ、明るくしなくちゃ駄目じゃない」
どれだけ広いか分からなかったら、広くする意味が無いんだから。それに貯水槽だって、暗いと水しか見えないよ?
水面に光が反射するから、水があるんだって分かるけど…。大きさの方は分からないまま。
あんな部屋だと、まるで値打ちが無いじゃない。広いんですよ、って照らして見せなくちゃ。
「そういうことか…。今のお前の考え方だと、そうなるんだが…」
青の間の場合は逆だってな。お前が言うのとは全く逆だ。
「逆…?」
どういうことなの、ぼくの考え方の何処が逆なの?
「明るい方がいいってトコだ。もっと明るい照明を使うべきだったという所だな」
其処がまるっきり逆なんだ。青の間を広く見せるためには、あの照明が一番だった。
人間ってヤツは面白いもんで、同じ部屋なら暗い方が広く見えるってな。
「そうなの?」
「目の錯覚の一つだな。真っ暗なだけだと、広さは分からないんだが…」
周りを見たって闇しか見えんし、広いか狭いか、それも全く掴めやしない。ところが、だ…。
暗闇の中に灯りを幾つか灯しておいたら、実際よりも広く感じるらしい。
ただし、壁とかが見えない程度に。
灯りだけがポツン、ポツンと灯っていたなら、灯りと灯りがうんと離れて見えちまうんだ。
実際に開いている距離よりも。本当の灯りの間隔よりもな。
サイオンを使わずに見なきゃならんが、とハーレイが話す目の錯覚。暗闇に灯った灯りの間は、実際よりも広く見えるらしいから。
「それ、ホント?」
暗いと本当に離れて見えるの、灯りと灯りの間の距離が?
そんなに離れていないヤツでも、とても離れて見えちゃうだとか…?
「うむ。ヒルマンが言っていたんだが…。覚えていないか?」
その錯覚を使えば、狭い空間でも広く見えると話していたぞ。小さな部屋でもデカく化けると。
元がデカけりゃ、もっと大きく出来るともな。
「そうだっけ…!」
青の間、それであんなに暗くなっちゃったんだ…。暗いと広く見えるから。
真っ暗でなくても、壁も天井も見えなかったら、おんなじ効果を出せるんだから…。
思い出した、と零れた溜息。青の間の暗さも、こけおどしの中の一つだった、と。
自分の手さえも見えないくらいに、真っ暗な闇に包まれた時の人間の瞳。
闇が何処まで続いているのか、まるで想像がつかないもの。サイオンを使って見ない限りは。
そういう闇に、灯りを幾つか灯してやる。ほんの小さな、闇に溶けそうな弱い光を。
すると瞳は小さな灯りに引き寄せられて、それを頼りに広さを測り始めるけれど。
あそことあそこ、と数えていっては、「このくらいだ」と距離を認識するのだけれど。
パッと明るくしてやったならば、思った以上に狭い空間。瞳が「こうだ」と捉えたものより。
ただの闇よりも、小さな灯りを灯した方が、遥かに広いと錯覚するのが人間の瞳の不思議な所。
狭い部屋でも、果ての無い部屋であるかのように。
何処まで行っても、壁も扉も見付からないほどの部屋にいるかのように。
人間の瞳が起こす錯覚、青の間にはそれを利用しようとヒルマンは言った。
壁も天井も見えないくらいに暗くしておいて、スロープと終点のスペースだけを明るく照らす。他の照明はほんの少しだけ、「灯りがあるな」と思う程度に。
そうすれば広く見える青の間。本当の広さ以上に大きく、何処にも果てが無いかのように。
ヒルマンの案に、前の自分は愕然とした。とてつもない広さと貯水槽を持つ設計だけでも、もう充分に参っていたから。「なんという部屋を作るのだ」と。
なのに、まだ足りないとばかりに出て来た案。広すぎる部屋を、錯覚を使ってより広くなどと。
「…それに何の意味があるんだい?」
ただでも広すぎる部屋だよ、これは。他の仲間たちの部屋が幾つ入るか、考えたくもないほどに広いんだけどね?
それを余計に広く見せかける仕掛けだなんて…。実際よりも広く見せるだなんて。
どういうつもりで計画したのか、聞かせて欲しいと思うんだけれど?
「意味はあるとも、ソルジャーのための部屋なのだからね」
これがソルジャーの部屋なのだ、と誰もが息を飲むような立派さと神秘性とを持たせるのだよ。
ただ広いよりは、どれほど広いか分からないほどの部屋がいい。同じ広い部屋を作るなら。
照明は青を基調にするのがいいね、とヒルマンは髭を引っ張った。
青の間の名前通りにしようと、イメージは深い海の底だ、と。より神秘的になるだろうから。
そうして決まってしまった計画。青の間の照明は暗くすること、目の錯覚で広く見せること。
反対したって、無駄だと分かっていたけれど。
着工された後は、工事中の部屋を視察する度に溜息をついていたのだけれども、明るい間はまだ良かった。工事現場は暗いと話にならないのだから、煌々と点いていた灯り。作業のために。
現場に行っても、無駄な広さだけを眺めていれば良かったから。天井も壁も、巨大すぎる貯水槽だって。「こういうものか」と、「それにしたって広すぎる」と。
青の間の工事は着々と進み、やがて届いた「完成した」という報告。ヒルマンたちに呼ばれて、出掛けた広い青の間でのこと。暗くはなくて、明るい空間。
「試験点灯だって?」
例の灯りを点けるのかい、と見回した部屋。作業員たちは引き揚げた後で、前の自分の他には、長老の四人とハーレイだけ。
「どんな具合か、確認しないといけないだろう」
我々だけが立ち会ってだね…、とヒルマンが浮かべた穏やかな笑み。「舞台裏は、大勢の仲間に見せるものではないからね」と。
点灯してみて、必要なようなら調整せねば、という意見。
もう青の間には、ベッドなどの家具が置かれていた。無駄な広さの、だだっ広い場所に。
これまた大きなベッドの周りにハーレイたちと立って、試験点灯を待つまでの間。
「ハーレイ。…こんな部屋、ぼくは欲しくはないんだけどね?」
部屋も、この立派すぎるベッドもだ。本当に無駄に大きすぎるよ、何もかもが。
「しかし、反対なさいませんでしたので…」
何も仰いませんでしたから、ソルジャーのお部屋はこのように…。
「勝手に計画したんだろう! ぼくが全く知らない間に!」
ぼくが設計図を見せられた時には、もう何もかもが決まってて…。この部屋の位置も、大きさも全部。決定事項になってしまっていて、変更するのは不可能で…。
ぼくは「任せる」とは言ったけれどね、こんな部屋は頼んでいないんだよ…!
こうなったのは誰のせいなんだい、とジロリと睨んでおいたハーレイ。改造案には、ハーレイも関わっていたのだから。キャプテンが承認しなかったならば、何も進みはしないのが船。
そうする間に消された灯り。全部一度に消えてしまって、真っ暗になってしまった空間。部屋もベッドも貯水槽も消えて、自分の手さえも見えない闇。
ヒルマンが「では、点けてみよう」と声を上げたら…。
ぼうっと浮かび上がったスロープ。緩やかな弧を描いて下へと。遥か下に見える入口まで。
あんなに離れていただろうか、と思った入口までの距離。ただ暗いだけで、こうも変わるかと。長いスロープは全体像が見えるわけだし、目の錯覚はまるで関係無い筈なのに。
そう思う中で、闇に隠れてしまった天井。壁も貯水槽の端も、肉眼で見ることは出来ない暗さ。幾つか灯った青い照明、それを包む闇が降りて来るだけ。青を含んだ闇の色が。
明るかった時よりも遥かに広くて、果てが無いように思える部屋。
果ては確かにある筈なのに。
ヒルマンが灯りを消してしまう前には、天井も壁もあったのに。
これが人間の目の錯覚なのか、と呆然と眺め回した部屋。信じられないような気持ちで。
肉眼は確かだと思っていたのに、こうも簡単に騙されてしまうものなのか、と。
「どうかね?」
こんな具合でどうだろうか、とヒルマンの声と共に明るくなった部屋。「元はこうだよ」と。
果てが見えなかった部屋は元に戻って、広くはあっても普通の空間。さっきまでと違って天井も壁もちゃんとあるから、ホッとついた息。この方がずっと落ち着く部屋だ、と。
「ぼくは今の方がいいと思うけれどね?」
やたら暗くて、端も見えない部屋よりは。…この部屋の方がずっといい。
あの照明は使わずにおいて、今のままにするのが良さそうだけど?
そうしておこう、と言った途端に、「いいえ」とエラに遮られた。
「ソルジャーには、あちらがお似合いです。御覧になられましたでしょう?」
今の照明では、広い部屋にしか見えません。貯水槽の底も、この通りに覗ける状態ですし…。
それでは神秘性に欠けます、せっかくの部屋が。
ああいう仕掛けが無かったのなら、このままでもかまわないのでしょうが…。
作ったからには大いに活用すべきです、と譲らなかったエラ。それにヒルマンも。
「でも…! 何もソルジャーだからと言って…」
あそこまでのことをしなくても、と訴えたけれど、他には無かった反対意見。ゼルもブラウも、頼みの綱のハーレイでさえも「やめた方がいい」と言いはしなかった。
ソルジャーの私室になるのが青の間。
其処は神秘的な部屋であるべきだ、と皆は考えていたものだから。
ハーレイだって、キャプテンとしてはそういう意見。ソルジャーは偉大な存在なのだ、と。
試験点灯が成功したから、青の間の工事は全て完了。前の自分が引越す時には、もう暗い部屋になっていた。工事中に見ていた明るい部屋は消えてしまって。
「…思い出したよ、青の間の灯り…。試験点灯が済んだ時には明るかったけど…」
あれっきり二度と、明るい部屋には戻らなくって…。ぼくが引越しした時も暗いままだったよ。
明るい方がいいですか、って誰も訊いてはくれなかったし。
「そりゃそうだろう。あの部屋に住むのはお前なんだから、暗いのが当たり前なんだ」
引越しの時だけ明るくしたって、何の役にも立たないだろうが。
お前の荷物を運ぶヤツらに、舞台裏が見えてしまうだけだってな。実はこういう広さです、と化けの皮がすっかり剥がれてしまって。
それじゃ駄目だろ、あの照明にした意味が無い。メンテナンスだって、暗い中でも充分出来る。ミュウはサイオンを持ってるんだし、そいつを使えば簡単だしな?
そうだろうが、というハーレイの言葉の通り。
青の間を明るく照らす設備は、やがて取り外されてしまった。貯水槽の循環システムも含めて、全て順調だと判断された段階で。
工事用の照明はもう要らない、と。使わない設備を残しておいても無駄だから、と。
前の自分が押し付けられてしまった部屋。目の錯覚を利用してまで、広く見せようと工夫された青の間。わざわざ暗い部屋に仕上げて、青い照明を控えめに灯しただけの。
「…酷いよ、なんであんな部屋…」
やたら暗くて、スロープとベッドの周りくらいしか見えない部屋なんて…。
もっと普通の部屋がいいのに、灯りまで使ってこけおどし。…広く見せなきゃ、って。
「ふうむ…。お前、あの部屋、嫌いだったか?」
部屋そのものじゃないな、あの灯りだ。ああいう照明、嫌だったのか?
「えーっと…?」
嫌いだって言っているじゃない。さっきからずっと。あんなの酷い、って。
「だったら、最初にあった照明。工事用に使っていた方のヤツ…」
あっちの方なら、前のお前も言ってた通りに明るい部屋になっただろう。よく見える部屋に。
でもって、お前に訊きたいんだが…。
うんと明るい部屋で暮らして、その部屋で俺と二人きりで会うのが良かったか?
最初の頃なら友達同士で会ってたんだし、何の問題も無いんだが…。
恋人同士になった後だな、仕事が終わった俺が明るい部屋に来るというのはどうだったんだ?
もちろん入口を入った時から、俺の姿は鮮やかなんだが。…その後も、ずっと。
「…それはちょっと…」
ずっとハーレイがハッキリ見えているわけ、普通の灯りなんだから…?
青の間の灯りで見ていた時には、服の色とかも外とは違っていたけれど…。
それにハーレイが側まで来たって、部屋は明るいままなんだよね?
ちょっと困る、と思った青の間。明るく出来ていたならば、と。
もしもあんなに大きな部屋で、それも煌々と灯りが灯った部屋で、ハーレイと恋人同士になった時には、どうしよう?
キスはともかく、その後のこと。恋人同士でベッドに入って過ごすなら…。
(…明るいままだと、天井も壁も、全部見えてて…)
前の自分たちが夜を共にした、あの青の間とは全く違う。昼間かと思うほどの明るさ、その光が照らす部屋の中の全て。ベッドも周りも、スロープも全部。
そんな部屋ではとても眠れないし、愛を交わせるわけもない。それでは困るし、消してゆかねばならない灯り。もっと暗い部屋になるように。
ただ、その灯りを消してゆくのも、次の日の朝に点けるのも…。
(うんと恥ずかしそう…)
消す時だったら、これから何をしようというのか、ちゃんと分かっているのだから。暗い部屋で二人、どういう時間を過ごすのか。
逆に灯りを点ける時には、何をしていたかが照らし出される。眩しく感じるほどの灯りに、何もかもが。…自分たちの姿も、乱れたベッドも。
(…シャワーを浴びに行く時だって…)
ベッドから下りる姿が見えるし、持ってゆく服や、脱ぎ散らかした服も目に入るだろう。明るくなった部屋の中なら、灯りを点す前よりも、ずっと鮮明に。
(それって、とっても恥ずかしいってば…!)
青の間の灯りが暗かったからこそ、それほど無かった気恥ずかしさ。消したり点けたり、そんなことは一度もしなかったから。灯りは灯ったままだったから。
それに明るい部屋だったならば、ハーレイが入って来た瞬間から…。
(前のぼくが感じていたより、もっとドキドキ…)
ハーレイと過ごす時間を思って、脈打っていただろう自分の心臓。暗い部屋ではなかったら。
灯りを消さずに、愛し合うのではなかったら。
明るい部屋で暮らしていたなら、きっと最後まで、慣れることは無かったのだろう。
あの大きな部屋の灯りを消すのも、次の日の朝にまた点すのも。
とんでもない部屋に住んでいたものだ、と今のハーレイにまで苦情を言った青の間だけれど。
前の自分も、押し付けられたと不満を抱えた部屋だったけれど…。
「…青の間、あれで良かったのかな?」
だだっ広いのは嫌だけれども、暗かったことは。…最初から暗く出来ていたことは。
ハーレイと恋人同士になった後にも、灯りは点けたままでいたから…。
消さなくちゃ、って思うことは一度も無かったわけだし、点けることだって無かったものね。
点けたり消したりしなきゃいけない大きな部屋なら、とても恥ずかしそうだから…。
消す時も、それに点ける時にも。
「結果的には、あれが良かったわけだな、うん」
最初の頃には、無駄に暗いと思ったもんだが…。お前の所へ行く度に。此処は暗いな、と。
友達同士で話をするには、あの部屋はちょいと暗すぎたからな。
とはいえ、そいつもじきに慣れたし、あの照明で良かったんだろう。後々のことを思うとな。
点けたり消したりするとなったら、きっと平気じゃいられんし…。
「ぼくもだけど…。明るかったら、恥ずかしかったと思うけど…」
ハーレイ、今でも部屋を暗くしないの、そのせいなの?
ぼくの部屋だよ、夜にお見舞いに来てくれる時。…ぼくが病気で寝込んじゃってて。
野菜スープを食べさせてくれて、「しっかり治せよ」って側にいてくれる時。
ぼくが寝るまで側についててくれる時には、絶対、部屋を暗くしないよ。帰る時なら、パチンと消してしまうのに…。「おやすみ」って暗くしていくのに。
部屋にいる時は、いつも灯りを点けておくでしょ、一つは必ず。
前のぼくたちの頃と重ならないように、部屋を明るくしておくの…?
「そんなトコだな。お前がチビの間はなあ…」
暗くしちまったらマズイだろうが。
チビでもお前はお前なんだし、つい思い出すこともあるってな。…前のお前を。
灯りを消して一緒にいたなら、余計に思い出すってモンだ。
青の間のことやら、前の俺の部屋で過ごしたことやら、こう、色々と…。
たかが明るさでも、部屋の雰囲気ってヤツが重なっちまうと、思い出も重なりやすいから…。
おっと、とハーレイが切ってしまった言葉。「此処までだな」と。
「思い出話は、今日はこのくらいにしておくか」
青の間の灯りの話もいいがだ、今のお前の話ってヤツもしようじゃないか。
お前が読んだっていう新聞記事には、どんな灯りが載っていたんだ?
今の時代はユニークな照明器具も多いし、前の俺たちが生きた時代とはかなり違うだろう?
SD体制の時代ってヤツは、そういうトコまで統一されてて、面白みも何も無かったからな。
「待ってよ、なんでいきなり灯りの話?」
前のぼくたちの話だったのに、SD体制の時代の灯りと今の灯りの違いだなんて…。
同じ時代の話をしてても、中身が全然違うんだけど…!
「そりゃそうだろうな、話題を切り替えたんだから」
チビのお前には、こっちの方が相応しい話題というヤツだ。ただの灯りの話がな。
青の間の灯りの話に釣られて、ついついウッカリ前の俺たちのことまで話しちまったが…。
お前とそういう話をするのは、まだ早すぎだ。
部屋の灯りを点けておくのはどうしてなのか、って所までで終わりにしないとな。
「ハーレイのケチ!」
せっかく前のぼくとハーレイの話だったのに…。
暗い部屋だと、前のぼくのことを思い出しそうだって言ってくれたのに…。
其処で終わりなの、その先が大切なことなのに…!
だってそうでしょ、恋人同士で過ごすためには、青の間も暗い方が良くって…!
「知らんな。あの部屋は無駄に暗かったよなあ…」
いつ出掛けたって、海の底みたいに暗いんだ。…たまには明るくすればいいのに。
「そういう設備は無かったってことも、ハーレイ、ちゃんと知ってるくせに!」
さっきから二人で話していたでしょ、どうして青の間は暗かったのか…!
ハーレイだって、暗い部屋の方が良かったと思っていたくせに…!
知らんぷりをするなんて酷い、とプンスカ怒ったけれども、ハーレイは知らん顔のまま。
「俺は知らん」と紅茶のカップを傾けているから、憎らしい。
ケチで意地悪な恋人だけれど、それは自分がチビだから。十四歳にしかならない子供だから。
いつか大きく育った時には、暗い部屋でも一緒にいられる。灯りは点けておかないで。
暗い部屋で二人、キスを交わして、愛を交わして、朝まで一緒。
(青の間はもう、何処にも無いけど…)
ハーレイと一緒に暮らし始めたら、ああいう灯りを提案しようか、遠い昔を懐かしんで。
夜は暗くなる部屋だけれども、ベッド周りの照明だけでも青くするとか。
深い海の底を思わせるような青の間の灯り、それに似せた雰囲気を作るとか。
たまには、そんな夜だっていい。
前の自分たちが一緒に過ごした時間を、そっと重ねて過ごせるような。
今はまだ、話せないけれど。
提案しただけで頭をコツンと叩かれそうだけれど、いつかは二人で暮らせるから。
青い地球の上でハーレイと二人、幸せに生きてゆけるのだから…。
青の間の灯り・了
※深い海の底のように暗かった青の間。その理由もまた、こけおどしの一つだったのです。
人間の目の錯覚を利用して、広く見せかけていた暗い青の間。明るい部屋なら、効果はゼロ。
ハレブル別館、2022年から更新のペースを落とします。
シャングリラ学園番外編が来年限りで連載終了、それに合わせてのペースダウンになります。
月に2回の更新を予定で、いずれは月イチ。そしていつかは、お話の長さがショートの形に
移行する日がやって来るかと。
書く気がある間は続けますけど、頻繁な更新は止めて、まったり。よろしくです~。
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