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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(あっ、可愛い!)
 服の中から猫が覗いてるよ、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、ダイニングで。おやつの用意を待っている間に広げた新聞。自慢のペットの紹介コーナー。
 飼い主が着ている服の胸元、可愛らしい猫が顔を覗かせている。クルンとした目で。
(ぼくも、服の中に猫…)
 入れてみたいな、と羨ましくなるのは、写真の猫が真っ白だから。顔だけしか覗かせていない猫だし、身体はブチかもしれないけれど…。
(真っ白なら、ミーシャ…)
 ハーレイが子供時代に一緒に暮らしていたミーシャ。隣町の家でハーレイの母が飼っていた猫。前に写真を見せて貰ったから、それ以来、真っ白な猫を見る度に「ミーシャだ」と思う。
(ハーレイだって、こんな風に入れてたかもね?)
 真っ白なミーシャを服の中に入れて、ちょっと散歩に出掛けてゆくとか。だから自分も真似してみたい。ただでも猫は可愛らしいから、写真で見ればなおのこと。
 ほんのちょっぴり入れてみたいな、と眺めていたら。
「ブルー、熱いから気を付けるのよ?」
 母が置いて行ってくれたホットミルク。おやつのケーキのお皿の隣に。マヌカの蜂蜜が入った、シロエ風のシナモンミルクだけれど。
 猫の写真に夢中だったから、なんとも思わずに手を伸ばして…。
(熱っ…!)
 見事に火傷してしまった舌。冷ましてもいないホットミルクは熱すぎた。慌てて舌を口の外へと出してみたって、それで冷やせるわけがない。
(火傷しちゃった…)
 酷い目に遭った、と後悔しても既に手遅れ。舌はヒリヒリ、腫れているかと思うほど。
 通り掛かった母も「だから言ったでしょ」と呆れ顔だけれど、もう遅い。ホットミルクの残りは冷まして飲んだ。すっかり冷たくなるくらいまで。



 やっちゃった、と肩を落とすしかない火傷。ウッカリしていたのが悪いよね、とは思っても…。
(今日はしみるかも…)
 熱い料理や、香辛料とかが。それに痛い、と帰った部屋。まだ痛いような気がする舌。鏡で舌を眺めたけれども、よく分からない火傷した場所。でも残っている舌の違和感。
 ピリピリするよ、と自分の失敗を嘆いていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれた所まではいいけれど。
 母が運んで来た、お茶とお菓子と。紅茶のカップやポットをテーブルに並べてゆきながら…。
「はい、どうぞ。ブルーはちゃんと冷まして飲むのよ」
「ママ…!」
「火傷したでしょ、気を付けて」
 同じ目に遭うのは嫌でしょう、と母は微笑んで出て行った。「ごゆっくりどうぞ」と。
(ママったら…!)
 ハーレイに聞かれた赤っ恥。何処から聞いても、熱い飲み物で舌を火傷した話。あんまりだ、と頬が真っ赤に染まったけれども、湯気を立てている紅茶のカップが怖い。立ち昇る湯気が。
 しっかり冷まして飲まないと、と用心してしまう熱い紅茶。ただでも舌を火傷した後だし、また火傷したら大変だ、と。



 フウフウと紅茶に息を吹きかけていたら、鳶色の瞳に覗き込まれた。
「こりゃまた、ずいぶん冷ますんだな…。火傷、そんなに酷いのか?」
 いったい何でやったか知らんが、痛くて紅茶も飲めないほどか?
「ううん、そこまで酷くないけど…。でも、火傷したら嫌だしね」
 さっきの火傷の上から火傷。きっと痛いよ、今度こそ紅茶も飲めなくなってしまいそうだし。
「そりゃそうだ。用心するのに越したことはない」
 火傷しちまったら、紅茶どころか、せっかくのケーキも台無しだからな。舌が痛くて。
 だが、お前…。弱くなったな、いいことだ。
「え?」
 弱くなったって…。何の話?
「火傷だ、火傷。今の話だと、それしか無いだろ?」
「舌の火傷…?」
 キョトンと見開いてしまった瞳。多分、ハーレイが話しているのは、前の自分のこと。遠い昔に生きたソルジャー・ブルー。けれど、舌に火傷をしていたろうか…?
「舌に火傷もしてたんだろうが、前のお前は我慢強かったから…。弱くなったな、と」
 たかが舌の火傷くらいで大騒ぎだなんて、弱くなったと思うじゃないか。
 前のお前なら、火傷の内にも入らなかったんだろうしな。舌なんかは。
「…火傷、したっけ…?」
 今でもハーレイが覚えているような火傷、前のぼく、してた…?
「忘れちまったか…。そりゃあ酷いのをやっちまったが…」
 火傷と聞いたら思い出したが、お前、覚えちゃいないのか?



 両手に火傷、と言われたけれども、思い出せない。そんな火傷をしただろうか?
 第一、両手には常に手袋。火傷などをするわけがない。あの手袋は特別な素材だったし、特殊な素材になる前の時代も、ある程度の熱なら防げた筈。
「えっと…。前のぼくの手、火傷しなかったと思うけど…」
 いつも手袋をはめていたもの。夜まで外しはしなかったんだし、両手に火傷はしない筈だよ。
「手袋って…。本当にすっかり忘れたんだな、痕も残らなかったから…」
 綺麗に治っちまったお蔭で、火傷したことまで忘れたってか。
「それ、いつの話?」
 もしかして、手袋、はめてなかった?
 手袋をはめるよりも前の話で、ぼくはホントに火傷したわけ?
「嘘をつくわけがないだろう。お前は手袋をしていなかったな、俺が厨房にいた頃なんだし」
 俺も今まで忘れていたが…。火傷しちまったという話を聞くまで。
 ついでに、用心しているお前を見るまで、俺だって忘れちまってた。
 火傷して以来、お前、用心していたからな。
 また同じことをやらないようにと、おっかなびっくりといった感じで。



 お蔭で俺は思い出したが、という話を聞いても戻らない記憶。
 前の自分は、どうして火傷をしたのだろう。事故に遭ったのなら、今でも覚えていそうなのに。
 分からないや、と首を傾げるしかなくて、一向に思い出せなくて。
「火傷って…。何処で?」
 ちっとも覚えていないんだけれど、前のぼくは何処で火傷をしたの?
「俺の目の前だ、厨房だな。いわゆる不幸な事故ってヤツだ」
 お前、ヒョイと両手で持ち上げちまったんだ。熱くなってたオーブンの天板を。
「熱い天板って…。そんなの、持たないと思うけど?」
 小さな子供だったら危ないけれども、今のぼくだって持たないよ。火傷するもの。
 前のぼくだって、オーブンの仕組みは分かっていたし…。触ろうとしない筈なんだけど?
「事故だと言ったぞ、それも不幸な」
 オーブンから出して上の料理をどけちまったら、分からんだろうが、見た目には。
 真っ赤に焼けた鉄じゃないんだし、その天板が熱いかどうかは。
 手を近付けたら、熱が伝わって来るから分かりはするが…。
 最初から用心しているからこそ、確認しようとするわけで…。それが無ければまず分からん。
 触っちまって火傷してから、「熱かったのか」と気付くのがオチだ。
 前のお前もそのクチだったんだ、よく聞けよ…?



 始まったハーレイの昔話。厨房で料理の試作をしていた時のこと。
 出来上がったオーブン料理を取り出し、天板ごとドンと置いたテーブル。熱い天板を置いても、焦げない頑丈なテーブルだから。
 それから料理の器を天板の脇へ。大きめの耐熱容器を使っていたから、汚れなかった天板。
「まずは料理を出すもんだろ? オーブンから出して来たんだから」
 天板の片付けはその後だ。俺が料理の器を出した所へ、お前が覗きにやって来て、だ…。
 手伝うつもりで、出しっ放しの天板をオーブンに片付けようと…。
 よく手伝ってくれていたしな、俺の片付け。
「思い出した…!」
 熱いなんて知らなかったから…。綺麗だったし、洗ってあるんだと思い込んじゃって…。
 早く片付けた方がいいよね、って。
 「ぼくがやるよ」と、いつもの調子で持った天板。オーブンの中に戻しておこうと。
 ハーレイが「おい!」と止めた時には、もう掴んでいた。両方の手で。
 思ってもみなかった熱い天板。一瞬の内に焼かれた肌。
 あまりの熱さに放り出したけれど、その前にしっかり掴んでいたから。熱いとも知らずに焼けた天板を掴んだのだから、たまらない。
 両手は真っ赤になってしまって、呆然とするしかなかった自分。火傷したんだ、と。
 「ブルー!」と大声を上げたハーレイ。まるでハーレイが火傷したかのように。
 「見せてみろ」と言うから、差し出した両手。「火傷しちゃった」と。すっかり真っ赤になっていた手を、無残に色を変えてしまった手を。
 ハーレイは見るなり声を失い、「来い!」と洗い場に引っ張ってゆかれて、冷たい水を蛇口から浴びせられた。両手が痺れてしまいそうなほどに、それは冷たいのをザーザーと。
 その間にハーレイが用意していた、氷や、濡らしたタオルやら。
 冷えて感覚が無くなった手を、氷入りの濡れタオルでグルグル巻かれて…。



 厨房での応急手当はそこまで。火傷の薬は置いてあるらしいけれど、酷い火傷には役立たない。ちょっと赤くなった程度の火傷用。
 だからハーレイは、前の自分をノルディの所へ連れて行った。「行くぞ」と大慌てで、火傷した両手を冷やしながら。
 ノルディが常駐していた部屋に駆け込むなり、「診てやってくれ!」と叫んだハーレイ。両手に酷い火傷をしたと、熱い天板を素手で持っちまった、と。
 氷入りのタオルをノルディがほどいて、始めた治療。消毒したり、薬を塗ったり。
 前の自分はそれを見ていただけだったけれど、ハーレイの方は心配そうに覗き込みながら。
「どうだ、治りそうか? ブルーの火傷」
 俺がウッカリしてたんだ。あんな熱いのを置きっ放しにしてただなんて…。
 ちゃんと治してやってくれ、と頼まれたノルディは治療の手を休めずに。
「こいつは暫くかかるだろうな。治るのは治るが、その後だ」
 痕が残らないといいんだが…。酷い火ぶくれになっているから。
 かなり深くまで火傷していたら、痕が残るということもある。火傷自体は治ってもな。
「…痕が残ったらどうなるんだ?」
 ブルーの手に火傷の痕なんて…。それは消えるのか、時間が経ったら?
「深い火傷なら、消えないだろうな。…今の船ではどうしようもない」
 痕を消すには、皮膚の移植が必要になる。だが、この船では移植手術は出来ない。
 もっと設備が整わないと無理だ、それから医療スタッフも。
 そこまで深い火傷でなくても、きちんと治療しないと痕が残るぞ。引き攣れたような。
 痕を消すには皮膚移植しか無くて、そっちは今は無理ってことだ。
 全力を尽くすが、今の段階で出来る治療には限りがある。後はブルーの運次第だな。



 治るといいが…、と包帯で巻かれてしまった両手。飲み薬まで処方された。痛み止めに、感染症予防の薬。それから痕が残りにくくするための飲み薬も。
 けれど、両手を火傷したから、手では持てない。サイオンで受け取ろうとしたら、横から褐色の手が掴んだ薬の袋。「俺が持つから」と。
 ハーレイは部屋まで薬を運んでくれて、部屋に入るなり謝った。
「すまん、ブルー…。酷い火傷をさせちまって」
 俺がサッサと片付けていたら、お前、火傷なんかしなかったのに。
 痛いだろう、と包帯に包まれた両手を痛々しそうに見るから、「大丈夫だよ」と返した答え。
「平気だってば、このくらい。…ちょっと痛いけど」
 だけど、そんなに痛いってことも…。手だけなんだから。それも手のひらだけ。
 火傷だって、それほど酷くはないし…。ぼくは平気だよ、心配しないで。
「酷くはないって…。酷いだろうが!」
 ノルディも心配していたじゃないか、痕が残らなければいいんだが、と。
 それだけ火傷が酷いってことだ、平気な筈がないだろう!
「…大丈夫。もっと酷い目に遭っていたから」
 火傷どころか、焦げそうなくらい。…燃えて死んじゃいそうなくらいに。



 アルタミラでね、とハーレイに話した前の自分。それは本当だったから。ハーレイは息を飲み、前の自分をまじまじと見た。
「焦げそうって…。そんな実験をされていたのか?」
 お前の腕にあった注射の痕なら知ってたが…。酷い目に遭ったとも聞いてはいたが…。
 火傷するような実験って…。燃えて死にそうな実験だなんて、あの研究者どもがやったのか?
「そう。高温の蒸気が噴き出して来たこともあったし、本物の火が出て来たことだって…」
 熱いって叫んでも止めてくれなくて、ぼくが倒れるまで実験してた。
 もう駄目だ、って倒れちゃうまで。死んじゃうんだな、って思いながら意識が無くなるまで。
 それでも死ななかったけど…。また檻の中で目が覚めるんだけど。
「お前…。そんな目に遭って、よく生きてたな」
 俺みたいに頑丈だったらともかく、細っこい身体のチビなのに…。
 とても生き残れそうにないのに、お前、それでも生きてたってか。凄いな、お前。
「ぼくもそう思うよ、死ななかったのが不思議」
 いつも治療をされていたけど、死んじゃっても不思議じゃないのにね?
 きっと色々と調べてたんだよ、実験中も。死なないように、ギリギリの所でやめられるように。
 タイプ・ブルーは一人しかいないし、死んでしまったら実験出来なくなるんだもの。
 何度も焦げたり火傷してたよ、焦げる時には焦げちゃうんだよ。…ちょっぴりだけど。



 でもね…、と髪を指差した自分。今と同じに銀色だった髪。
 どんなに熱くても、髪の毛は焦げないんだよね、と。
「ホントだよ? 実験室に鏡は無かったけれども、ちゃんと分かった」
 髪の毛は焦げていないってこと。本物の火で焼かれちゃっても。
「焦げないって…。何故だ、そんなに強いのか、髪は?」
 お前の髪の毛、こうして触っても柔らかいんだが…。
 それは見かけだけで、本当は火傷した手よりも丈夫に出来てるってか?
 髪の毛なんかは直ぐに焦げるぞ、現に俺だって焦がしちまったことが何回か…。実験じゃなくて料理中のことで、景気よく火を使った時なんかに。
「丈夫なのかどうかは分からないけど…。そういえば、顔も焦げてなかったよ」
 顔も火傷はしてないと思う。ぼくの意識があった間は。
 ハーレイ、ビックリしてるみたいだし…。顔とか髪の毛、焦げた方が良かった?
 その方が普通で良かったのかな、熱くても少しも焦げないよりは。
「いや、そんなお前は可哀相でとても見ていられない…。髪や顔まで焦げるだなんて」
 想像だってしたくはないし、焦げなかったと聞いたらホッとした。無事だったんだ、と。
 …しかし、火傷はしたんだな?
 顔と髪の毛が無事だっただけで、その他の手とか足とかは?
「何度もね。…何度も焦げたし、火傷も一杯」
 今日みたいに手のひらだけじゃなくって、身体中に。
 最初の間は火傷しなくても、力が抜けて来ちゃったら駄目…。



 あの頃の自分はシールドという言葉を知らなかったけれど、無事だったのはそれのお蔭だろう。無意識の内にシールドを張って、自分の身体を守ろうとした。
 髪の毛や顔が焦げなかった理由は、恐らくは頭部だったから。サイオンを秘めた脳が入っている部分。なんとしても脳を守らなければ、と懸命に死守していた頭部。意識しなくても。
 だから倒れてしまった後にも、顔も髪も焦げはしなかった。火傷は一度も負わなかった。
 そう話しても、前のハーレイは怖い顔をして腕組みで。
「やはりあいつら、許し難いな」
 お前みたいなチビに、火だの蒸気だのと…。倒れちまうまで実験だなんて、俺は許せん。
 火傷だらけだった上に、焦げただと?
 顔と髪の毛が焦げてなくても、他の部分が火傷だったら痛いなんてモンじゃないだろうが。
 今日の火傷だって酷いというのに、お前、平気だと言うんだから…。
 もっと酷い目に遭っていたから、それに比べたら酷くはないと。
 研究者どもめ、こんなに小さいお前に無茶をしやがって…!
「実験は酷かったかもしれないけれど…。ぼくも酷い目に遭っちゃったけど…」
 だけど治療は上手だったよ、どんな時でも。
 ぼくの身体に傷は無いでしょ、注射の痕も消えちゃったから…。
 火傷とかの痕は残っていないよ、上手に治療していたんだよ。それも実験かもしれないけれど。
「うーむ…。確かに傷痕は無いな、お前が言わなきゃ分からなかったほどに」
 火傷の痕なんか残っちゃいないし、聞かなかったら俺は知らないままかもしれん。
 顔と髪の毛以外は焦げちまったとか、火傷だらけになってただとか。



 そんな目に遭っていたなんて…、と痛ましそうな顔になったハーレイ。
 せっかく地獄から逃げ出したのだし、その火傷の痕、残らないといいな、と。
「ぼくはいいけど? 残っちゃっても」
 別に困らないよ、痕くらいなら。…何かをするのに困るわけじゃないし、見た目だけだもの。
 それに手のひらだから、他の人だって滅多に見ないものね。
「お前はいいかもしれないが…。俺は困るな」
 お前が火傷しちまったのは、俺のせいだし。…痕が残ったら、辛いだろうな。
「そうなの?」
「俺がきちんと気を付けていたら、火傷なんかは…」
 天板は直ぐに片付けるだとか、お前が厨房に入って来た時点で「危ないぞ」と声を掛けるとか。
 俺はどっちもしなかったんだし、明らかに俺のミスってヤツだ。
 今でも充分、申し訳ないのに、その上、痕まで残っちまったら…。
 見る度に辛い、とハーレイが唇を噛むものだから。
「じゃあ、頑張って治すことにするよ」
 ハーレイのためにも、痕なんか残らないように。
 ぼくが両手に火傷したこと、ハーレイも忘れてしまうくらいに。
「治すって…。お前、そんなことまで出来るのか?」
 サイオンを使って痕を消すとか、傷の治りを良くするだとか。
「ううん、そういう使い方をするのは無理そうだから…」
 ノルディの治療にきちんと通うよ、そうするのが大切みたいだから。痕を残さないように治療をするには、診て貰うのが良さそうだから。



 サボッたりしないで治療するよ、と宣言したのが前の自分。ハーレイのために、と。
 ハーレイは「俺のせいだ」と悔やんでいたけれど、火傷の原因は自分にだってあったのだから。
 厨房がどういう所なのかを、よく考えもしないで入って行った。
 オーブン料理を作っていたなら、天板が熱いのは当然なのに。天板の横に置かれた料理にチラと視線を向けていたなら、出来立てなのだと分かったろうに。
(…作り立ての料理が置いてあったら、天板だって…)
 まだオーブンから出されたばかりで、熱い筈。厨房で料理を作っていたなら誰でも分かる。前の自分も何度も覗きに行っていたのに、分かったつもりになっていただけ。厨房という場所を。
(ぼくが自分で作らないから、気が付かなくて…)
 ハーレイに迷惑をかけてしまった、と反省しきりだった両手の火傷。
 試作中の料理が出来上がったのに、放り出させてしまった自分。ハーレイは大慌てでノルディの所まで連れて行ってくれたし、診察の後は部屋まで送ってくれた上に話し込んだから…。
(…料理だって、すっかり冷めちゃったよね…)
 もしかしたら、同じのを作り直したかもしれない。出来立ての味が分からないから、最初から。
 作り直す間にも、ハーレイはきっと心を痛め続けただろう。「俺が用心していれば」と。
 オーブンで加熱するのが終わって、出す時にはもっと。
 「何故、天板を直ぐに仕舞わなかった」と、「ブルーが来たのに気付かなかった」と。
 ハーレイは少しも悪くないのに。
 厨房だったら当たり前の作業を、いつもと同じにやっていたというだけなのに。



 自分が入って行かなかったら、天板を掴まなかったなら。
 火傷したりはしなかったのだし、ハーレイが悔やむことも無かった。辛そうな顔で。
 「すまん」と謝ることだって無くて、普段と変わらない時間が流れ続けていた筈。皆に美味しい料理を出そうと、鼻歌交じりに試作しながら。
 自分の方でも、「今日の食事は、どんなのかな?」とハーレイの料理を楽しみにして。明らかに新作だと分かる料理が出て来たならば、ワクワクと心躍らせて食べて、喜んだだろう。ハーレイに顔で、言葉で「美味しいよ」と伝えて、それは御機嫌で。
 けれども、それを壊してしまった。よりにもよって自分の不注意で。
(…ぼくのせいだよ…)
 ハーレイは悪くないんだもの、と思うけれども、きっとハーレイは「違う」と言うから。
 「俺のせいだ」と譲らないのに決まっているから、ウッカリ者の自分に出来ることといったら、痕が残らないように治すことだけ。
 ただそれだけしか出来はしなくて、他には何も出来ない自分。ハーレイのために。
(ぼくがハーレイを悲しませたのに、たったそれだけ…)
 なんとも悔しい、自分の無力さ。火傷の治療しか出来そうにない。それも治して貰うだけ。
 ノルディは「運次第だ」と言いはしたけれど、やはり努力はしなければ。彼の指示通りに診察に通って、薬を塗ったり、飲んだりして。



(前のぼく、ホントに頑張ったっけ…)
 ハーレイを悲しませたくはないから、火傷を綺麗に治そうと。痕が少しも残らないようにと。
 毎日、ノルディの所に通った。包帯の下の手を診て貰っては、言われる通りに塗り薬を塗った。飲み薬も忘れないように。飲み薬は嫌いだったのだけれど、我慢をして。
(だけど、両手に包帯だったから…)
 両方の手のひらを火傷したから、何かと不自由で使えない両手。食器も持てない。
 サイオンを使えばちゃんと出来るのに、ハーレイが世話をしてくれた。「俺のせいだから」と。
 厨房で料理をしていない時は、時間を作って部屋に来てくれて。食事の時間には、食堂で。
 「ほら、食べろ」と食べさせて貰った食事。切り分けるのもハーレイだった。食べやすいよう、パンも千切ってくれた。薬を飲む時は水を用意して、薬を一つずつ口に入れてくれて。
 着替えも、シャワーも、全部ハーレイの手を借りた。
 「お前、両手が使えないんだから」と、朝の着替えから、眠る時まで。
 顔を洗うのも、歯磨きもハーレイ。「これでいいか?」と「痛くないよな」と確認しながら。
 シャワーの時には、火傷した手に気を付けながら。
(火傷、治療用シートの下だったから…)
 ノルディが何度も張り替えてくれた、傷の保護を兼ねた治療用のシート。それに覆われた火傷は見えない。下の火ぶくれが潰れないよう、治してゆくために貼られていたから。
 シャワーを浴びる時も、シートは取らない。包帯だけを外して、シートはそのまま。何か所かをテープで留めてあるから、それが外れないようにシャワーを浴びて、また包帯。



 ハーレイは「火傷、どうだ?」と訊きはしたけれど、透視したりはしなかった。シートの下を。
 覗き見るのが怖かったのか、マナー違反は良くないと考えていたものか。
(…見なくて正解だったんだけどね…)
 もしもハーレイが見ようとしたなら、止めただろう。でなければサイオンで弾いていたか。
 治るまでの過程で、見るも無残な様相だった時期があったから。火傷した部分から滲み出て来た滲出液。火ぶくれも癒えていなかっただけに、自分でも目を背けたほど。
 これはハーレイには見せられない、と何度も思った。きっと苦しませてしまうから。
 今から思えば、ハーレイは知っていたかもしれないけれど。ノルディの所へ訊きに出掛けて。
(でも、今頃になって訊くのもね…?)
 ハーレイの古傷を抉るようだから、尋ねないのがいいのだろう。今は、きっと。
 酷かった時期もあったのだけれど、治療に通った前の自分の努力は報われた。世話をしてくれたハーレイの努力も。
 ようやく包帯が取れて、治療用のシートも薄いものになって、ついには要らなくなって…。
「ほらね、綺麗に治ったでしょ?」
 何処を火傷したか、もう分からないよ。今はちょっぴり、まだ赤いけど…。
 ノルディが言ったよ、赤みが消えたら元通りだって。痕は残っていないから。
 見て、と広げてみせた手のひら。「もう大丈夫」と。
「良かった…。これなら、じきに治るな」
 厨房の塗り薬も要らない程度の赤さだ、放っておいても治るって火傷。
 本当に良かった、痕が残らなくて。…今の船じゃ、火傷の痕を治す治療は出来ないんだから。



 それから更に何日か経って、白い肌が戻って来た手のひら。その手を何度も撫でて確かめては、「元通りだな」と安堵していたハーレイ。「お前の手に痕が残らなくて良かった」と。
 今のハーレイも、「本当に心配したんだぞ」と鳶色の瞳でじっと見詰めて。
「あんな火傷でも、お前と来たら、俺の心配をしてたのに…」
 俺が後々、気に病まないように、きちんと治すと言ってたくらいに強かったのに。
 今のお前だと、舌の火傷で騒ぐらしいな。紅茶か何かで火傷したくせに。
 そういう火傷は、知らない間に治っちまうと相場が決まっているモンなのに。
 しかしだ、それはいいことだ、うん。
 舌の火傷で大騒ぎなのも。
「いいことって…。どうして?」
 我慢強い方が、ずっと良くない?
 両手に酷い火傷をしたって、泣いたりしないでいる方が…。ハーレイの心配を出来る方が。
「そうは思わんな、今のお前の方がいいに決まってる」
 痛い時は痛いと言えるだろ、お前。…前のお前みたいに我慢しないで、素直に「痛い」と。
 前のお前が痛くなかったわけがないんだ、今のお前と同じで人間だったんだから。
 火傷でも怪我でも、痛いものは痛い。…それなのに、前のお前は酷い目に遭いすぎて、何処かが普通じゃなかったんだな。痛さの基準が違いすぎた。
 そんなお前が、今だと舌の火傷で痛がる。
 いい世界じゃないか、痛い時は痛いと言えるんだから。
 そっちのお前が断然いい、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「うんと痛がれ」と。
「舌の火傷だって、痛いモンだしな?」
 痛けりゃ痛いと
言っていいんだ。恥ずかしいなんて思わずに。
 前のお前が我慢強すぎた分まで、今のお前は痛がっていいと思うがな。…俺は。



 今度は大いに痛がるといい、とハーレイはパチンと片目を瞑った。前の分まで、と。
「そっか…。前のぼくの分まで、痛がっていいんだ…」
 舌が痛いの、我慢しなくていいんだね。今もちょっぴりヒリヒリするけど…。痛いんだけど。
 でも、残念。舌の火傷だと、ハーレイに世話して貰えないもの。
「はあ?」
 俺が世話するって、どういう意味だ?
 なんだってそういう話になるんだ、俺がお前の世話なんていう。
「前のハーレイ、してくれたでしょ?」
 ぼくが両手に火傷した時。サイオンで出来るって言っていたのに、治るまでずっと。
 あの時みたいに、食べさせて貰うとか、お風呂に入れて貰うとか…。
 ハーレイに世話をして欲しいけれど、舌の火傷じゃ無理だよね…?
「お前なあ…!」
 調子に乗るなよ、俺が優しくしてやったからって…!
 痛がってもいいと言いはしたがだ、お前のは舌の火傷だろうが!
 大袈裟に「痛い」と騒ぐ分には、いくらでも優しく見守ってやるが…。
 そんなヤツの世話までする義理は無いな、舌の火傷は放っておいても治るんだから。
 前のお前の時と違って、薬の出番も無いんだからな。



 俺は知らん、と突き放されたけれども、きっとハーレイは優しい筈で。
 舌の火傷でなかったとしたら、今度も世話をしてくれるだろうと思うから…。
「ねえ、ハーレイ。…またぼくが両手を火傷しちゃったら、世話してくれる?」
 前のぼくにやってくれたみたいに、食事の世話とか、着替えだとか。
「火傷しなくても、お前の世話ならいくらでも…な」
 もっとも、今はしてやれないが。
 お前が両手を火傷しちまったとしても、今は駄目だな。
 世話をしてくれる人が、ちゃんといるだろ。お母さんがいるし、お父さんだって。
「…やっぱり駄目?」
 パパとママがいるから、ハーレイの出番は無くなっちゃうの?
 ぼくの世話はママたちがしてくれるんだし、ハーレイは駄目…?
「当然だろうが、お前はお母さんたちの子供なんだぞ?」
 この家でお母さんたちと暮らすチビでだ、面倒を見てくれるのもお母さんたちだ。
 お前が此処に住んでる間は、病気になった時の野菜スープが限界ってトコか。
 あれなら野菜スープのシャングリラ風だし、俺にしか作れないからな。
 お前、あれしか食べない時もあるから、お母さんだって認めてくれるが…。
 その他の世話はちょっと無理だな、俺の仕事じゃないんだから。



 駄目だ、と軽く睨まれた。「チビの間は野菜スープだけだ」と。子供の間は、世話をしてくれる人たちいるだろうが、と。
「いいか、お母さんたちの役目を俺が取ったら駄目なんだ」
 お前を可愛がってくれるお母さんたちだぞ、膨れっ面なんかするんじゃない。本物のお母さんとお父さんなんだ、甘えられる間にしっかり甘えておけ。世話をお願い、と。
 その代わり、俺と結婚したら。…舌の火傷でも、ちゃんと面倒を見てやるから。
「ホント?」
 舌の火傷でも世話してくれるの、どうやって?
 紅茶とかをハーレイが冷ましてくれるの、ぼくの代わりに…?
「違うな、お前が楽しみにしているキスだ」
 お前にキスして、「痛いの、痛いの、飛んでけ」とな。
 何処が痛いか、お前に訊いて。
 痛い所を治してやるってことになるなあ、それで治るだろ?
 本当に治るかどうかはともかく、気分だけでも。
「うん、治りそう…!」
 きっと治るよ、ハーレイのキスで。
 舌を火傷してヒリヒリしてても、火傷して直ぐの痛い時でも…!



 約束だよ、とハーレイと小指を絡ませた。いつか治して、と。
 舌の火傷は痛いけれども、そういう手当てをして貰えるのなら、してみたい。
 いつかハーレイと暮らす家でも、熱いホットミルクや紅茶で火傷。
 そして思い切り甘えてみよう。
 「キスで治して」と言った後には、「まだ痛いよ」と。
 火傷したから、世話をしてよと。
 食べさせて貰って、お風呂も、着替えも、と。
 前の自分が両手に火傷をしていた時に、ハーレイに世話して貰ったように。
 色々と面倒を見て貰ったように、舌の火傷でも甘えてみよう。
 あの頃は恋人同士ではなかったけれども、今度は同じ家で暮らしている恋人同士。
 もっと沢山、世話をして貰えそうだから。
 ハーレイの時間を一人占めして、あれもこれもと強請れそうだから…。




             火傷・了


※舌に火傷をしたブルー。痛いのですけど、前のブルーだと、その程度なら平気だったのです。
 船で負った火傷を治すのに、懸命に治療に通った日々。前のハーレイとの思い出の一つ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












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「さて、今日は…」
 コレだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。古典の授業の真っ最中。居眠りしそうな生徒の集中力を取り戻すために、挟み込まれるお得意の雑談。
(ザクロ…?)
 何を話すのかな、と眺めたブルー。今はザクロの旬だけれども、食べ方か、お菓子の作り方か。そういった中身かと思い込んだし、クラスメイトたちも多分、そうだったろう。
 ところが、ハーレイが始めた話は…。
「お前たち、ザクロの食べ方ばかり考えてるな? まあ、美味いんだが…」
 残念ながら、俺の話は少し違うぞ。ザクロには色々と伝説があってだな…。
 古いヤツだと、ギリシャ神話のが有名だ。冥界の王がペルセポネという娘を攫った。それがだ、豊穣の女神の娘だったから大変だ。女神は仕事を放り出しちまって、地上が荒廃しちまった。
 そこで娘を返すように、という交渉が纏まったんだが…。
 冥界の王は狡かった。ペルセポネにザクロの実を食べさせてから地上に帰した。冥界の食べ物を口にしちまったら、冥界の住人になるしかない。
 たった四粒とも七粒ともいう、小さなザクロの実なんだが…。冥界の掟は掟ってことだ。
 仕方ないから、ペルセポネは冬の間だけ冥界で暮らすことになって、豊穣の女神がまた悲しむ。冬に作物が実らないのは、そのせいだという伝説だ。
 どうだ、なかなか面白いだろう?



 しかし、とハーレイがコンと叩いたボード。「日本だって負けちゃいないんだぞ」と。
「この地域は、ずっと昔に日本があった辺りだが…。日本にもユニークなヤツがあるんだ」
 ザクロの伝説。日本で生まれた伝説のくせに、これがとびきり凄くってな。
「どんな話ですか?」
 皆が口々に尋ね始めたら、ニヤリとして教室を見渡したハーレイ。
「ザクロの味についての話だ。本当に日本だけでの話なんだが…」
 人の肉の味がすると言うんだ、ザクロの実は。
「ええっ!?」
 たちまち教室で上がった悲鳴。人というのは人間なのか、と。
「その通りだが? お前たちよりは小さい子供の肉なんだろうな、伝説によると」
 鬼子母神という神様がいた。元は鬼でな、人間の子供を攫って食べていたわけだ。
 それを止めさせようと、お釈迦様が鬼子母神の子供の一人を隠しちまった。五百人もいた子供の中でも、特に可愛がっていた一人をな。
 いくら捜しても見付からないから、鬼子母神は酷く悲しんだわけだが…。
 お釈迦様が言うには、命の重さと子供を可愛いと思う心は、人間も鬼神も変わらない。五百人の中の一人が消えても悲しいのなら、もっと子供の数が少ない人間の親の気持ちはどうだ、と。
 鬼子母神はやっと自分の罪に気付いて、それからは子供を攫わなくなった。
 お釈迦様に仕えるいい神様になったわけだが、元々の伝説は此処までで…。日本で勝手に増えた話がこの後なんだ。



 元々は子供を食べていたのが鬼子母神。また子供の肉を食べたくならないようにと、与えられた果物がザクロだという。子供を食べたくなった時には、代わりにザクロ。人の肉の味がするから、それを食べれば収まるだろう、と。
「そんな伝説があるもんだから、鬼子母神の像は右手にザクロを持っているんだ」
 左手には子供を抱いているんだが、右手のザクロが怖いわけだな。人の肉の味がするんだから。
「本当に人の肉の味なんですか?」
 おっかなびっくり尋ねた生徒に、ハーレイは「まさか」と軽く両手を広げてみせた。
「日本で出来た伝説なんだと言っただろうが。此処から後は、と」
 鬼子母神は吉祥果という果物を持っているそうだ。そいつが中国でザクロになった。子孫繁栄の意味があるから、吉祥果にはピッタリだとな。
 その鬼子母神が日本に伝わった時に、誰かが間違えちまったんだ。子供を食べたくなった時には代わりにザクロを食べるらしい、と。
「じゃあ、人の肉の味は…。しないんですか、ザクロ?」
「するわけがない。ザクロはザクロだ、甘酸っぱくて美味いだろうが」
 肉の味とは全く違うぞ、あれは立派に果物だってな。血の味もしないし、生臭くもない。
 だが、伝説は一人歩きをするもんだ。人の肉の味がするから不吉だ、と嫌っていた場所もあったそうだぞ。ザクロは決して食べないだとか、植えるだけでも不吉だとか。
 ザクロにしてみたら、いい迷惑だな。せっかく美味い実をつけるのに。
 鬼子母神の方も気の毒だよなあ、子供は二度と食べないから、と改心したのにザクロの伝説。
 子供の肉を食べる代わりに、ザクロを食べると思われたんじゃな。
 まあ、伝説には何かと尾ひれがつくもんだが。



 授業に戻るぞ、とボードから消された「ザクロ」の文字。今が旬の果実。
(ザクロ…)
 家の近くにもあったよね、とブルーの頭に浮かんだ家。庭にザクロの大きな木。バス停から家に向かう道とは違うけれども、ザクロの話を聞いたからには見てみたい。
(一粒くらいなら、取って食べても…)
 かまわないだろう、ザクロの中には小さな実がビッシリ詰まっているのだから。人の肉の味ではないそうだけれど、勘違いされたザクロの実。
(帰りにちょっと見に行こうっと)
 手が届きそうな所に実っていたなら、中身を一粒。
 今日は学校の帰りにザクロ、と心に決めて、迎えた放課後。いつもの路線バスに乗る所までは、普段と同じ。バスを降りたら、違う道へと。
(えーっと…)
 この先だっけ、と歩いて行って、「あった」と見上げたザクロの木。生垣の向こう、大きな木の枝は道の方にも張り出しているから。
(…下の方の実、届くかな?)
 一粒だけでいいんだけどな、と眺めていたら、「ブルー君?」と庭に現れたご主人。今年も沢山実ったんだよ、とザクロの木の実を数え始めて…。
「見えている分だけでこれだけだしねえ、もっと沢山あるってことだね」
 欲しいなら持って帰るかい、とハサミでチョキンと切って貰ったザクロの実。それも三つも。
 一粒だけでも味見したい、と回り道をしたのに、赤く弾けたザクロごと貰えた。中にギッシリ、艶やかな実。ハーレイの授業で教わった実が。



(美味しそう…)
 ほんの数粒食べたばかりに、冥界の住人になってしまったペルセポネ。彼女の瞳にも、魅力的に映ったのだろう。一粒、二粒とつまんだくらいに。
(あっちは人の肉の味じゃないんだけどね?)
 本当のザクロの味はそっち、と日本で生まれた伝説を思う。ついつい食べたくなるのがザクロ。一粒、二粒とつまんだ女神もいたというのに、日本だと人の肉の味だなんて、と。
(貰ったんだし、家でゆっくり…)
 味わって食べよう、と持って帰ったら、目を留めた母。
「あら、ザクロ…。頂いたの?」
 今年もドッサリ実ってるものね、上の方まで。一番上のは二階の窓から採るのかしら?
 でも、帰り道とは違うわよ、あそこ。回り道したの?
「今日の授業で聞いたから…。ザクロ、あの家にあったっけ、って」
 ちょっと味見が出来たらいいな、って見に行ってみたら、三つも切って貰えたんだよ。
「授業でザクロのお話ってことは、ハーレイ先生ね?」
「うんっ! 今日の雑談、ザクロだったよ」
 だから食べたくなっちゃって…。
 着替えておやつの時に食べるよ、ザクロ、とっても美味しそうだもの。



 そう宣言して、おやつの時間に食べてみたザクロ。弾けた果実をエイッと割って、詰まっている粒を指でつまんで。
 甘酸っぱい味がするけれど。遠い昔の日本の人たちは、人の肉の味だと言ったそうだけれど。
(人間なんか、食べたことがないから…)
 どんな味だか分からないんだし、比べようがないよ、と思った途端。
(人間を食べる…?)
 何処かで聞いた、その響き。食べたことなど無い筈なのに。
 今の自分も、前の自分も、人間の肉を食べたりはしない。同じ人間を食べるわけがない。今日の雑談でハーレイが話した命の重さ。人類とミュウが争った時代もそれは同じ、と考えたけれど。
「ヤツらは人間の精神を食べる」
「そうだ、あいつらは人間を食い殺すんだ」
 不意に頭に響いて来た声。蔑むような男たちの声。
(アルタミラ…!)
 あそこだった、と蘇った記憶。前の自分が閉じ込められていた研究施設。
 サイオンを持ち、人の心を読む化け物への評価。「人間を食い殺す」と言った研究者たち。
 ミュウは食べたりしないのに。人の心を読み取れるだけで、心を食べはしないのに。
 嫌だ、と頭から振り払った声。前の自分が聞いていた言葉。
(今の時代は、みんなミュウだから…)
 間違った考え方をする人類はいないし、SD体制の崩壊と共に人類とミュウは手を取り合った。化け物と呼ばれる時代は終わった。
(忘れなくっちゃ…)
 酷い言葉は、と母が焼いてくれたケーキに集中。ザクロよりもケーキ、と。
 人の肉の味だと勘違いされたザクロはとても美味しいけれども、今はケーキの方がいい。人間を食べると忌み嫌われていた、あの頃の記憶が蘇るから。



 幸い、そこまでで終わった記憶。母のケーキが、今の時代にしっかりと繋ぎ止めてくれたから。
 とはいえ、ハーレイのせいで思い出す羽目になったのだから…。
(文句、言わなきゃ…)
 仕事の帰りに訪ねて来たなら、ハーレイに文句。嫌なことを思い出したじゃない、と。ウッカリ忘れてしまわないよう、ザクロを部屋に置くことにした。
 三個も貰って来たわけなのだし、まだ割っていない二つの内の片方を。
 母には「部屋に飾って眺めながら食べるよ」と説明したから、種を入れるためのお皿も貰えた。ザクロの実には小さな種。一粒に一つ入っているから、食べる時には吐き出す種。
 そうやって部屋に運んだザクロをまじまじと見る。人の肉の味だなんて、とんでもない。綺麗な実が幾つも詰まっているのに。一粒、二粒とつまんだ女神もいたほどなのに。
(ハーレイ、来るといいんだけどね?)
 文句を言おうと待っているのだし、是非来て欲しい。ザクロも用意したのだから。
 それとも、苛められると分かっているから来ないだろうか。
 予知能力は無い筈だけれど、なんだか嫌な予感がすると。今日は真っ直ぐ家に帰ろうと。
(逃げたら逃げたで、ザクロを残しておくもんね)
 そう簡単には傷まないだろうし、割らなかったら三日くらいは持つだろう。その間にハーレイはきっと来るから、「これ!」とザクロを指差して文句。今日でなくても、三日後でも。



 此処にザクロの実がある間は時効じゃないよ、と考えていたらチャイムの音。部屋にハーレイがやって来たけれど、アルタミラの記憶と結び付いたとは知りもしないから。
「おっ、ザクロか。早速、何処かに貰いに行って来たんだな」
 いいことだ、と笑顔のハーレイ。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで。
 そのテーブルの上にザクロもあるから、「どうだ、人間の肉の味がしたか?」と訊くハーレイ。此処は昔は日本なんだし、そっちの気分でザクロだよな、と。
「酷いよ、ハーレイ!」
 人の肉の味だなんて言うんだもの…!
 ザクロ、貰いに行って来たけど、頭がそっちに行っちゃったよ…!
「…このザクロ、そういう味だったのか?」
 俺は甘酸っぱい実だと思ってたんだが、このザクロは違う味なのか?
 血の味がするのか、それなら鉄分が多いザクロということになるが…。ザクロに鉄分…?
 確かに入っちゃいるんだが…、とハーレイはザクロの栄養価を考え始めたから。
「ううん、血の味じゃなくて、アルタミラ…」
「はあ?」
 アルタミラって…。前のお前か?
 あそこでザクロを食っていたのか、餌の他にも貰えたのか…?



 前のお前は特別待遇だったのか、と更に勘違いをしたハーレイ。研究所の檻で食べていたのは、誰もがただの餌だったから。餌と水だけ、果物などは無かったから。
「違うよ、ぼくが言われたんだよ! 前のぼくが!」
 人間を食べる化け物だ、って…。ミュウは人間の精神を食べて、食い殺すんだって。
「そういや、あいつら、言ってたなあ…」
 俺も聞いたぞ、その台詞は。…人の肉の味で、そいつを思い出したってか?
「ハーレイのせいだよ、ザクロの話なんかをするから!」
 人の肉の味だって話をするから、アルタミラ、思い出しちゃった…。
 ぼくは人間を食べたりしないのに、いつも化け物扱いで…!
「それは気の毒だが、このザクロの実を貰いに行ったの、お前だろうが」
 俺の授業で気分が弾んで、いそいそ貰いに出掛けた筈だぞ。
「そうだけど…! ちょっと一粒味見したいな、って回り道をして帰ったんだけど…」
 家の人が出て来て、三つも貰えて、嬉しい気分で帰って来たのに…!
 おやつの時間にワクワクしながら食べ始めたのに、人間を食べる化け物だなんて…!
 ぼくは人間を食べてないのに、食い殺しなんかしないのに…!



 アルタミラの記憶なんかは要らなかった、とプンスカ膨れた。せっかく貰ったザクロの実だって台無しだよ、と。
「そうでしょ、値打ちが全部台無し! 美味しいね、って食べていたのに…」
 こんな味なんだ、ってつまんでいたのに、人間を食べる化け物だって言われちゃったよ!
「うーむ…。そいつを言ってた研究者どもは、とっくの昔にいないんだが…」
 人類のヤツら、改心ってヤツをしなかったしなあ…。
 鬼子母神みたいに改心してたら、ミュウを見る目も変わったんだろうが…。
 化け物じゃなくて、そういう種類の人間だってことに気付いてくれれば。
「でしょ? 人類は少しも反省したりはしなかったんだよ」
 ミュウは化け物で、人間の精神を食べるから…。食い殺すんだから、殺してもいいって。
 酷い実験をして死んでしまっても、これで一匹処分出来た、って笑ってたんだよ。
 前のぼくのサイオンは封じられてたけど、そんな目に遭った仲間の残留思念が幾つも、幾つも。檻から出されて実験室に連れて行かれたら、仲間の悲鳴が残ってて…。
「その人類だが、そもそも説教をしていないしな」
「えっ?」
 説教ってなあに、なんの話なの…?
「授業で言ったろ、お釈迦様の話。鬼子母神の子供を一人隠して、どう諭したか」
 命の重さは同じなんだ、と説教したのがお釈迦様だぞ。人間の子供も、鬼子母神の子も。
 ミュウと人類の命の重さも同じだったが、それを教えるヤツが一人もいないんではなあ…。
「そうだね…。誰も人類にそれを教えていないよね…」
 第一、ぼくたちが話そうとしたって、話なんか聞いてくれないし。
 人間扱いしていないんだから、ぼくたちの言葉は人類の耳には届かないよね…。



 鬼子母神の子供も、人間の子供も命の重さは変わらない。人類とミュウの命の重さも全く同じ。
 人類が其処に気付かない限り、ミュウは化け物。人間の精神を食べると忌み嫌われた化け物。
 本当は、そうではなかったのに。
 人類という名の鬼子母神に狩られ、食べられていたのがミュウだったのに。
「…ミュウは食べられちゃう方だったんだよ。人間を食べていたんじゃなくて」
 人類はミュウを殺してたんだし、人類が鬼子母神みたい。ミュウを食べてはいないけど…。
 殺してただけで、ミュウを殺して食べることまではしなかったけど…。
「なるほどなあ…。鬼子母神は人類の方だってか。化け物と呼ばれたのは俺たちだったが」
 そういえば、マザー・システムが統治してたんだっけな、あの時代には。
 マザーと名乗るくらいなんだし、あれこそが鬼子母神ってトコだったかもな。改心する前の。
 お釈迦様に説教をされて、いい神様になるよりも前の鬼子母神だな。ミュウだと分かれば端から殺す。食わなかっただけで、途方もない数のミュウを殺していたんだから。
「マザー・システムは最後まで改心しなかったよね…」
 だから壊されて、SD体制もそれでおしまい。悪い鬼子母神のままだったから。
「ああ。改心どころか、マザー・システムは自分の子供も殺しちまった」
「え?」
 自分の子供って…?
「キースだ。あいつはマザー・システムが無から作った生命だったろうが」
 つまりはマザー・システムの子供だ、鬼子母神のな。
 俺はあいつが好きではないが…。
 その点だけは同情するな。キースは自分を生み出した親に処分されたんだ。
 作ったのはマザー・イライザだったが、作るようにと命令したのはグランド・マザーだ。作れと命じて、出来上がったキースを意のままに動かそうと考えた。
 なのにキースが逆らった途端、あっさりと処分しちまった。鬼子母神より酷かったんだ。
 改心する前の鬼子母神でも、自分の子は可愛がったのに。
 もしもその子が逆らったとしても、食い殺したりはしなかったろうに…。



 まして人間の親となったら…、とハーレイはフウと溜息をついた。SD体制の時代の養父母ならともかく、本物の親なら殺さないと。子供を処分したりはしない、と。
「だからキースに同情すると言ったんだ。親に殺されちまったんだから」
 作られた生命体にしたって、親は親だし…。養父母なんかより縁は濃かった。望まれて生まれた子供なんだからな。グランド・マザーに。
 しかし、子供を殺してもいいと考えたのがグランド・マザーだ。逆らった子供を殺しちまった。
 その場で直ぐには死ななかったが、殺すつもりで処分したからには、殺したのと変わらん。
 剣でグサリと貫いておいて、「処分終了」と言ったそうだからな。グランド・マザーは。
「うん…。歴史の授業で教わるよね」
 その後はジョミーが戦ったけれど、グランド・マザーに逆らったのはキース。
 最初から逆らうつもりでいたから、メッセージまで残して行って。
 ミュウは進化の必然だったから、マザー・システムはもう時代遅れ。一人一人が自分で考えて、どうするべきかを決める時代だ、って…。
 あんなメッセージを流してしまったら、処分されるに決まってるのに。
「…命懸けで説教をしたってわけだな、グランド・マザーに」
 人類もミュウも同じ人間だと、命の重さに変わりはないと。国家主席がそれを認めたら、決して生きてはいられないだろうに…。自分の子供でも殺しちまうような機械が相手なんだから。
 説教をしたキースは処分されたが、説教の中身は人類に届いた。そして人類は、考え方を変える方へと行ったんだ。ミュウと戦うより、手を取り合おうと。
 本当だったら、キースのメッセージだけしか、後の時代に残らなかったかもしれない。
 他の色々なことが分かっているのは、ジョミーが遺した記憶装置のお蔭だ。
「そうだったっけね…」
 あれが全てを記憶したんだよね、全部トォニィに伝わるように。
 次のソルジャーの役に立つようにと、ジョミーが見ていた何もかもを全部。



 崩れゆく地球の地の底で、ジョミーがトォニィに託した補聴器。
 記憶装置を兼ね備えたそれは、元は前の自分の物だったもの。ソルジャー・ブルーの記憶装置。メギドへ飛ぶ前に、フィシスにそっと手渡した。何も言わずに。
 フィシスは前の自分の意図を分かってくれて、メギドが沈んだ後にジョミーに渡した。その中に入った、前の自分の記憶の全てを。
(多分、ジョミーの役に立ったから…)
 ジョミーもトォニィに同じことをした。致命傷を負った自分に代わって、ソルジャーになれと。次の世代を導いてくれと、補聴器をトォニィに託したジョミー。
 その補聴器が全てを憶えていた。記憶装置の役目を果たして、トォニィに伝えた。キースが地の底で何をしたのかを。
 グランド・マザーにどう逆らって、処分されるに至ったのかを。
 けれど…。



 今の自分だから、不思議に思ってしまうこと。歴史の授業では教わらないこと。
「ねえ、ハーレイ。…キースは、どうして気付いたんだろう?」
 人類もミュウも、命の重さは同じだってことに。…ミュウを排除しちゃいけないことに。
 前のぼくがキースと話し合えていたら、歴史を変えられたような気がするけれど…。
 きっとそうだと思うんだけれど、そういうチャンスは来なかったよ。…メギドでもね。
 キースは何も言わずにぼくを撃ったし、ぼくも何一つ話さなかった。どうしてなのかな、神様がそう決めちゃっていたのかな…。人類とミュウが話し合うにはまだ早い、って。
 あの頃のキースは、まだ少佐で…。人類の世界で発言力はそれほど大きくなかったから。
 でもね、話が出来たら変わったかもしれない、たったそれだけ。ただの可能性。
 キースの中には、まだシステムへの疑問くらいしか無かったんだよ。矛盾してる、って。
「ふうむ…。お前だからこそ、読み取れたってか?」
 今の不器用なお前と違って、キースの心に入り込めたと言ってるしな?
 一瞬の内にそこまで読んだか、流石はソルジャー・ブルーだったと言うべきか…。
 読み取ったものの、あいつの中にはシステムへの疑問だけしか無かった、と…。
 前のお前が話し合う方向に持って行けるほどの、決定打ってヤツは無かったんだな?
「そう。…メギドの制御室で会った時にも、キースは変わっていなかったと思う」
 あの時点で思う所があったら、撃つよりも前にぼくに訊いただろうから。
 ミュウはどういう生き物なのか、前のぼくが命を捨ててまで守り抜く価値があるものなのか。
 命の重さに気付いていたなら、きっと尋ねていたんだと思う。
 大勢の仲間を助けるためだけに、命を捨てに来たのかと。…そうまでして守りたいのかと。
 だけどキースは訊かなかったよ、敵としてぼくを撃ちに来ただけ。…ミュウの大物だったから。
 迷いもしないで何発も撃って、反撃しないのを嘲笑ってた。前のぼくとは、それで終わりで…。
 それから後には、キースは一度もミュウと接触していないのに…。
 マツカが側にいたというだけで、他のミュウとは話す機会も無かったのに。



 いったい何処で気付いたんだろう、とハーレイに向かって投げ掛けた問い。
 キースはどうして変わったのかと、人類とミュウの命の重さは同じなのだと気付いたのか、と。
「…命の重さが同じだってことに気付かない限りは、キースの考えも変わらないでしょ?」
 ミュウは排除しなくちゃ駄目な生き物で、前のぼくをメギドで撃ったみたいに、撃って当然。
 そんなキースが変わってしまって、マザー・システムへの疑問どころじゃなくなって…。
 とうとう逆らって、殺されるトコまで行っちゃった。…グランド・マザーに。
 キースを変えたのは誰なんだろうね、マツカだろうとは思うけど…。
 学校でもそう教わるけれども、本当にマツカだけなのかな…?
「マツカの存在も大きいんだろうが…。色々なことの積み重ねだろうな」
 あいつはステーション時代にシロエに会ってる。ミュウ因子を持ったシロエにな。候補生の頃は知らなかっただろうが、後になったら分かった筈だ。シロエは実はミュウだった、と。
 人類だとばかり思っていたんだろうに、ミュウだったんだぞ? これは大きい。
 ミュウは敵だと決まったものでもなかったのか、と思った筈だ。シロエはキースをライバル扱いしていただけで、敵だと考えたわけじゃない。殺そうとしたわけでもない。
 …ただシステムに逆らっただけで、シロエは抹殺されちまった。それもキースの手で。
 自分は間違っていなかったか、と思うことだってあっただろう。…俺の推測に過ぎないがな。
 そして無害なマツカに出会った。キースを庇って死んだマツカだ、何度もキースを救った筈だ。
 この二人はキースと親しかったミュウだが、前のお前だって…。
 キースの敵ではあったわけだが、何らかの影響は与えたんじゃないか?
 メギドの制御室に入り込んだお前と、ギリギリまで睨み合っていたそうだからな。
 マツカが助けに来なかったならば、お前、キースを巻き添えに出来たらしいじゃないか。
 …そんなに粘って、キースは何をしたかったのか。この辺も大切な鍵かもしれん。
「前のぼくも、キースが変わる鍵だった?」
「多分な。…おっと、これ以上の考察は御免蒙る。俺はあいつを許してはいない」
 今もやっぱり許せないんだ、あいつについては深く考えたくもない。
 英雄にしてやりたい気分もしないな、今でもな…。



 記念墓地で一緒にされちまったが、と眉間に皺を寄せるハーレイ。「なんであいつと」と。
「マードック大佐はまだいいんだ。ナスカで残党狩りをしなかった話は有名だしな」
 早い時期から、ミュウと人類の命の重さは同じなことに気が付いていた、と。
 軍人という立場にいたから、自分の意見を述べなかっただけで。
 だから、マードック大佐と一緒の墓地でも別にかまわん。パイパー少尉も。
 だがな、キースは出来れば引越して貰いたい。あいつが引越さないと言うなら、俺が別の場所に引越ししたいくらいなんだが…。前のお前と一緒の墓地だし、仕方なく我慢してるってな。
「えーっと…。お墓を引越ししたいくらいに、キースが嫌い?」
 前のぼくのお墓が一緒にあるから、我慢して入っているってくらいに?
「当然だろうが。あいつはお前に何をしたんだ、前のお前に!」
 お前はあいつに何発も撃たれて、俺の温もりを失くしちまった。
 独りぼっちだと泣きじゃくりながら死んだんだろうが、違うのか?
 お前をそんな目に遭わせた野郎を、俺は今でも許せないんだ。お前自身が許していてもな。
 俺はキースが大嫌いだし、お前がどんなに「許す」と言っても、許す気持ちにはなれないな。
 前のお前を殺しちまった大悪党なのに、英雄扱いされているのも気に食わん。
 その上、あいつを殴り損ねた。地球で会った時、普通に挨拶しちまったんだ。前のお前を撃った男だと知っていたなら、あの場で一発お見舞いしたのに。



 考えただけで腹が立ってくる、とハーレイが視線を落とした先にザクロの実。弾けて口を開けているだけで、コロンと転がっているザクロ。
「ふむ…。ザクロが人の肉の味だというのが発端だっけな、キースの話」
 最初はお前の恨み節だったが…。アルタミラ時代を思い出しちまった、という文句だったが。
 人の肉の味がするというなら、キースだと思って食ってやるとするか。こいつを一粒。
 これがキースだ、とハーレイが弾けた実から一粒つまんで取り出したザクロ。
 一粒ならポイと口の中に入りそうなのに、わざわざ前歯でガブリと噛んで。それからモグモグと口を動かして、皿の上にペッと吐き出した種。「スッキリした」と。
「…ハーレイ、それがキースって…」
 人の肉の味なら食べるってくらいに、キースが嫌い?
 ザクロの実をキースのつもりで齧って、種を吐き出して、スッキリしたって…。
「嫌いだな。さっきも言ったが、まだ許せない」
 墓も引越ししたいくらいに、俺はキースが憎くてたまらん。…お前はキースが好きなようだし、仕方なく話に付き合ってやるが。
「でも、ハーレイ…。ぼくはキースの話もしたいよ。今の世界を作ってくれた英雄なんだよ?」
 だからね、いつかは好きになってくれる?
 今は無理でも、その内に。…ぼくと話が出来るくらいに、キースのことを。
「お前をすっかり取り戻したらな」
 前の俺が失くしちまったお前が、もう一度、ちゃんと帰って来たら。
 チビのお前も可愛らしいが、キースに撃たれてしまったお前。あの時のお前が戻って来たら。
 今度こそ失くさなくて済むんだ、と俺が本当に納得したら…。
 その時は考えてやってもいい。あの悪党を許すことをな。



 今は無理だ、とハーレイは本当にキースが嫌いらしいから。許すつもりも無いようだから。
「ハーレイも鬼子母神みたい…」
 なんだか、そんな気がしてきたよ。怖いけれども、悲しいよねって。
「鬼子母神だと? この俺がか?」
 どうしたら、そういうことになるんだ。俺は人間の肉は食わんぞ。…キースなら食うが。
「ほらね。ザクロの実をキースだと言って食べたよ、キースの肉を」
 それにね、前のぼくがいない、って捜し回って…。
 前のぼくをすっかり取り戻すまでは、って…。子供を必死に捜してる鬼子母神とおんなじ。
 人間の子供を食べる鬼子母神は怖いけれども、自分の子供がいなくなって捜すのは可哀相…。
 ねえ、ハーレイ。命の重さは、ぼくもキースも同じだよ?
 キースを許してあげて欲しいよ、怖い顔してザクロの実なんか食べないで。
「駄目だな、言いたいことは分かるが…。所詮、お前はチビだしな?」
 お釈迦様の立派なお説教ほどには、説得力が無いってこった。
 俺の雑談の受け売りなだけで、それでは俺を説得は出来ん。
 とにかくキースは大悪党で、俺にとっては八つ裂きにしても飽き足りないほどの仇だってな。
前のお前の。



 だからキースだと思って食っておくんだ、とまたハーレイがザクロの実を齧っているから。
 一粒つまんで前歯でわざと潰しているから、鬼子母神にも見えるハーレイ。人の肉の味だという実を齧るから。キースのつもりで食べているから。
(キースの味なの…?)
 ホントにそうかな、と齧ってみたザクロは甘酸っぱいだけ。ただの果物。
 それをキースに擬えて食べるハーレイは酷いと思うけれども、そうさせたのは自分だから。
 キース嫌いにさせてしまったのは、前の自分のせいだから。
「分かった、お説教が上手くなるように頑張るよ」
 ハーレイがザクロのキースを齧らなくてもいいように。
 あいつは嫌いだとか、許せないだとか、言わなくてもいい日が早く来るように。
「おいおいおい…。俺に説教を聞かせているより、いい方法があるんだが?」
 ゆっくりでいいから、前のお前と同じに育て。そうすれば、俺はお前を取り戻せる。いつまでもキースを恨んでいないで、お前と一緒にやり直せるしな。
 育った方が早いと思うぞ、前と同じに。…俺に懇々と説教を垂れているよりもな。
「どっちも頑張る!」
 前のぼくと同じに育つって方も、お釈迦様に負けないお説教も。
 きっとハーレイも、キースのことが大好きになるよ。ぼく、本当に頑張るから。前のぼくと同じ姿になるのも、ぼくのオリジナルのお説教も…!



 頑張るからキースを好きになってね、と一粒つまんだザクロ。甘酸っぱい味がする果実。
 人の肉の味がするというのは、遠い昔の日本で起こった勘違い。日本だけにしか無い言い伝え。
 そのザクロの実でキースを食べた気になる、鬼子母神なハーレイは辛いから。
 今もハーレイを苦しめている、と胸が締め付けられるから。
 いつかキースを好きになって貰えるように、頑張ろう。
 前と同じに大きく育って、「そうかもな」と頷いて貰える、お説教だって考えて。
 頑なにキースを嫌い続ける、ハーレイの心が融けてほぐれてゆくように。
 「キースも悪いヤツではないよな」と、笑顔で話をしてくれる日が来るように。
 昔話は、二人で楽しく語りたいから。
 あんなこともあったし、こんなこともあった、と幸せに語り合いたいから…。




              ザクロの味・了


※人間の子供を食べないように、ザクロの実を与えられた鬼子母神。人の肉の味がする実を。
 その鬼子母神のように、「キースだ」とザクロを齧るハーレイ。許せる日はまだ先なのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv














「…どうしても駄目?」
 ママ、と縋るような目でブルーは母を見上げたけれど。ベッドの中から、顔だけ出して。
 お願い、と目と言葉とで訴えたけれど、母は見下ろして「駄目ね」と睨んだ。
「今日で三日目でしょ。まだ熱が下がらないじゃない」
 約束だから、と母の口調は変わらない。いつもは優しい母だけれども、今は学校の先生のよう。宿題をしないでやって来た子に、「休み時間にやりなさい」と言い渡す時の。
(…ママ、酷い…)
 一昨日の夜から出ていた熱。微熱だけれど、喉が痛むから間違いなく風邪。金柑の甘煮を食べて治そうと頑張っていたのに、下がらない熱。ちゃんと薬も飲んでいたのに。
 熱が下がってくれないせいで、今から注射に連れて行かれる。家から近い病院まで。痛い注射は大嫌いなのに。出来れば打たずに済ませたいのに。
 ベッドの側から動かない母に、もう一度だけ頼んでみた。
「ママと約束したけれど…。注射、嫌いなの、知ってるでしょ?」
 もう一日だけ。明日まで待ってよ、熱が下がるかもしれないから…。
「いい加減にしなさい、今日まで待ってあげたんだから」
 注射をしたら、直ぐに下がるの。風邪だってアッと言う間に治るわ。
 第一、熱が下がらなかったら、ハーレイ先生にも御迷惑でしょ。
 毎日がスープ作りじゃない、と言われたらそう。仕事の帰りに寄ってくれるハーレイ。寝込んでしまった自分のために、野菜スープを作ってやろうと。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。その味が今も好きだった。前の自分が好んだ味が。



 ハーレイが作る、野菜スープのシャングリラ風。今はそういう名前がついた、病気になった時の定番。熱を出して学校を休んだ日から、ハーレイは毎日来てくれていて…。
(今日が木曜…)
 野菜スープは今までに何回作って貰ったっけ、と指を折りかけたら、母が顔を覗き込んで来た。
「注射が嫌なのはいいけれど…。治らないままで土曜日がいいの?」
 ハーレイ先生が来て下さっても、ベッドから出られないままね。
 お茶もお菓子も、テーブルじゃ駄目。ブルーはベッドの中で食べるの。
「それは嫌だよ!」
 せっかくハーレイが来てくれるのに、と声を上げたら、「注射に行くわね?」と念を押された。迎えのタクシーを呼んでおくから、着替えて下りていらっしゃい、と。
(…治らなかったら、ベッドの中…)
 ハーレイと過ごせる素敵な時間が、きっと台無し。テーブルを挟んでのお茶もお菓子も、向かい合わせで食べる昼食も、すっかり駄目になってしまうから。
 両親も一緒に囲む夕食も、仲間外れになるだろう自分。ハーレイはダイニングで両親と食べて、病気の自分は部屋でポツンと独りぼっち。
(野菜スープのシャングリラ風は、部屋に届けて貰えても…)
 ハーレイが側で食べさせてくれても、夕食のテーブルにはいられない。寝ていなさい、と両親に叱られるから。パジャマ姿で下りて行っても、追い返されてしまうから。



 悲しい土曜日を迎えるのは嫌。注射はとても嫌いだけれども、寂しい土曜日は来て欲しくない。母の言葉は正しいのだから、仕方なく起きて着替えた服。病院に出掛けてゆくために。
 階段を下りて下に行ったら、支度を整えて待っていた母。タクシーも直ぐにやって来た。病院は家から近いけれども、歩いてゆくには遠すぎる。
(注射…)
 このタクシーに乗って行ったら注射、と泣きそうな気持ちで向かった病院。待合室が大勢の人で混み合っていたらいいのに、と。痛い注射を打たれる時を、少しでも先延ばしにしたいから。
 けれど、着いてみたら少なかった人。「注射は嫌だ」と泣き叫びそうな子供もいなくて、じきに回って来た順番。母は診察室の中まで付いて来た。「注射は無しで」と勝手に断らないように。
 顔馴染みの医師は、とても温厚な人なのだけれど…。
「注射を打っておきましょう。なあに、このくらい直ぐに治りますよ」
 一本打って、家で大人しく寝ていれば、と出て来た注射器。
(やっぱり…!)
 嫌だ、と逃げ出したい気分。まるで小さな子供みたいに、泣けたらどんなにいいだろう。目からポロポロ涙を零して、大暴れして。
 幼い頃から、注射が嫌いで苦手だった自分。他の子たちは大きくなったら我慢するのに、自分はどうしても駄目だった。一向に慣れはしなかった。
 その上、今では前よりも怖くて苦手な注射。前の自分の記憶が戻って来たせいで。
(注射されたら…)
 酷い目に遭わされるんだから、と前の自分が悲鳴を上げる。注射は嫌、と。
 此処から逃げて帰りたいのに、看護師がまくり上げる袖。消毒されて、医師が手にした注射器。大嫌いな針がブスリと刺さって、とびきり痛くて、前の自分と一緒に悲鳴。
 十四歳にもなって、叫ぶ子供もいないだろうに。医師も看護師も笑っているのに。



 散々な目に遭ったけれども、なんとか終わった注射の刑。処方された飲み薬を母が受け取って、呼んで貰ったタクシーで家に帰ったら…。
(ちょっとマシかな?)
 そう思えた身体。服からパジャマに着替える時に、出掛ける前よりも楽な気がした。ほんの少し身体が軽くなったような、そういう感じ。
 ベッドに入って、暫くしたらスウと眠って。昼食は母に運んで貰って、薬を飲んでまた眠って。
 夕方にはすっかり下がっていた熱。今朝までの熱が嘘だったように。
 これなら明日は学校に行けそう、と思っていたのに、ホットミルクを持って来てくれた母は…。
「熱が下がって良かったわね。でも、明日も学校は休むのよ?」
 先生がそう仰ってたから。無理をしないで、家でゆっくりするように、って。
「えーっ!」
 そんな、と懸命に抗議したけれど、三日も続いていた微熱。ただでも虚弱な身体なのだし、熱が下がって直ぐに動いたら、ぶり返すこともあるだろう。医師が心配している通りに。
 幼い頃から診てくれている医師の見立ては間違っていない。明日も休むのが治す早道。
 熱は無くても、家で大人しく。疲れたら直ぐに眠れるように、自分の部屋で。



 頭では分かっているのだけれど。だから渋々頷いたけれど、母が出て行ったら零れた涙。
 せっかく注射に耐えたのに。嫌な注射を我慢したのは、学校に行けばハーレイに会えると思ったからなのに。…ハーレイが仕事をしている昼間も、挨拶をしたり、姿をチラと見掛けたり。
(…ハーレイ先生って呼ばなきゃ駄目でも、ハーレイはハーレイ…)
 家で一人で寝ているよりは、ハーレイに会えるチャンスが幾つも転がっている学校。廊下とか、朝のグラウンドとか。そっちの方が断然いいのに、明日も欠席。
 今日は木曜で明日は金曜、学校に行けないままで週末。ハーレイと一日一緒にいられるけれど、それまでの時間を損した気分。今日と、それから明日の分とを。
(…明日も学校で、ハーレイに会えない…)
 昼の間は絶対会えない、と悲しんでいたら、聞こえたチャイム。この時間ならきっとハーレイ。仕事の帰りに、野菜スープを作りに来てくれたのだろう。
 少ししてから、扉をノックする音。扉が開くと、ハーレイの姿。母は一緒に来ていない。お茶やお菓子を運んで来たって、自分はベッドの住人だから。テーブルに着けはしないから。
 昨日も一昨日も、ハーレイのお茶は部屋に届きはしなかった。きっと野菜スープを煮込む間に、母が「どうぞ」と出すのだろう。ケーキなんかも添えたりして。
 今日もそうだ、と視線をやったら、「起きてたか?」と微笑むハーレイ。
「熱が出てたの、下がったんだってな。注射に行って。…偉いぞ、お前」
 お前、注射は嫌いなのにな、と大きな手で撫でて貰えた頭。俺がいなくてもよく頑張った、と。
「え…?」
 ハーレイがいなくても、って…。どういう意味なの、いつもハーレイ、いないじゃない。
 ぼくが病院に注射に行く時、ハーレイはついて来ないでしょ?



 病院に行くなら、付き添いは母。大きな病院だったら両親。病院に連れて行くのは家族。それが家族の役目なのだし、ハーレイに代わりを頼みはしない。家族同様の付き合いでも。
 ハーレイは何を言うのだろう、とベッドの中で首を傾げていたら…。
「いや、今日はお前が注射に行ったと、お母さんから聞かされたら、だ…」
 思い出しちまった、昔のことを。…前のお前のことを一つな。
「昔のことって…。その話、ぼくに聞かせてくれるの?」
「それはかまわないが…。俺のスープがお留守になっちまう」
 野菜スープを作るんだったら、キッチンに行かんと無理だからな。此処じゃ作れん。
 昔話をしている間に、晩飯の時間になっちまったら…。今日のお前は野菜スープは無しだ。
 スープ無しでも気にしないんなら、昔話をしてやるが。
「いいよ、ハーレイの野菜スープは無しでも」
 この風邪、食欲は落ちてないから…。あのスープしか欲しくないようなヤツじゃないから。
 でも、ママに頼みに行かなくていいの?
 野菜スープは今日は作らないから、ぼくの食事はお願いします、って。
「その心配は要らないってな。お母さんから注射の話を聞いた途端に思い出したし…」
 昔話を一つ思い出しましてね、と言っておいたんだ。お前の体調がいいようだったら、懐かしい話をしたいんですが、と。
 だからだ、俺がキッチンに下りて行かなきゃ作ってくれるさ。俺の代わりに、お前の晩飯。
 俺はベッドで寝ているお前に、昔話を聞かせてやっているんだから。
「そっか…。それなら安心だね」
 ママだって直ぐに分かってくれるね、ハーレイが下りて行かなかったら。
 昔話で忙しいんだ、って晩御飯の支度をしてくれるよね…。



 普段だったら、「スープを作りに行くとするかな」と、頃合いを見て下りてゆくのがハーレイ。そうでなければ、先に作って「お前のスープが出来てるぞ」と、トレイを手にして現れるか。
 そのハーレイが昔話と言って来たなら、母もその内に気付くだろう。今日は野菜スープの出番は無くて、昔話の日なのだと。ハーレイの仕事は昔話、と。
 野菜スープのシャングリラ風は好きだけれども、今は昔話を聞きたい気分。前の自分の。
「ハーレイ、昔話って…。「俺がいなくてもよく頑張った」って、何のこと?」
 注射だっていうのは分かるけれども、なんでハーレイ…?
「そいつが俺の昔話だ。前のお前の思い出ってヤツだ」
 お前、注射が大嫌いだっただろうが。生まれ変わっても、記憶が戻る前から嫌いだったほどに。
 前のお前は、最初から酷い注射嫌いで、今のお前もそれを引き摺ってる。
 もっとも、シャングリラは、最初は注射が無かったんだが。
 病気になっても、注射を打つってことは無かった。…あの船の初期の頃にはな。
「そういえば…。無かったっけね、いつも薬で」
 注射の代わりに、飲み薬が出てたんだったっけ…。
 前のぼく、そっちも嫌いだったけど…。薬の味も苦手だったんだけど。
 アルタミラの檻で暮らしていた頃、飲み水に何度も薬を入れられてたから…。あの味も嫌い。
 注射よりかはマシだけれども、薬も好きにはなれないよ、ぼく。



 病気になったら、苦手な薬を飲まされた船。それでも、船に注射は無かった。最初の頃は。
 ノルディが医師を始めるまでは、無かった注射。
 船に注射器はあったけれども、医師代わりだったヒルマンは使わなかったから。ヒルマンは皆の怪我や病気を診てはいたものの、「素人だしね」が口癖だった。少し知識があるだけだから、と。
 博識だったから、医者の代わりをしていただけ。それがヒルマン。
 けれど、ノルディの方は違った。仲間の病気や怪我を治そうと、倉庫に薬を貰いに出掛けていたノルディ。備品倉庫の管理をしていたハーレイが、「病気がちなのか」と思ったくらいに。
 そんな具合だから、ノルディはいずれ医師になろうと決めていた。病気も怪我も治せる医師に。
 腕を磨いて、知識を増やして、ノルディは医師への道を進んだ。
 独学の医師で、何の資格も無かったけれども、ハーレイがキャプテンになるよりも前に、皆からドクターと呼ばれたノルディ。病気も怪我も治してくれる、と。



 ハーレイは「覚えてるか?」とノルディの思い出を話してくれた。物資を奪いに行くのなら、と薬品などを注文し始めたノルディ。これがあったら早く治せるとか、これが欲しいとか。
「それでだ、前のお前が医療用具を纏めてドカンと奪って来て…」
 メディカル・ルームの基礎が出来たら、練習用の人形をお前に注文したんだ、ノルディのヤツ。
 注射を練習したいから、と医者とかを養成するステーションで使っていた人形を。
 人間相手じゃ何度も練習出来はしないが、人形だったら練習し放題だしな。
 失敗したって文句は言わんし、痛そうな顔をするわけじゃなし。…腕に打とうが肩に打とうが。
「やってたっけね、注射の練習…。暇が出来たら」
 注射器を持って、人形相手に。この薬品を打つんだったら、此処だ、って。
 本とか映像を見ながら練習していて、見ていて、とても怖かったんだよ。
 だって、注射の練習だもの…。覚えるためにやっていたんだもの。



 前の自分は、あれが怖かったのだった。人形を相手に、注射の練習を繰り返すノルディ。
 覚えたが最後、自分も注射されるだろうと。今は薬で済んでいるけれど、いずれは注射、と。
 だから恐怖を分かって欲しくて、前のハーレイを捕まえた。厨房の仕事が終わった後に、部屋へ帰る所を呼び止めて。「ちょっと来て」と、自分の部屋まで引っ張って行って。
「ねえ、ハーレイ…。聞いて欲しいことがあるんだけれど…」
「どうしたんだ?」
 何か食べたい料理でもあるのか、と訊かれて、「ううん」と横に振った首。
「ノルディの注射…。毎日、練習してるでしょ?」
 ぼくが奪って来た人形で。「今のは痛すぎたかもしれないな」なんて言いながら…。
「ああ、あれか。頼もしいよな、その内に注射一本で治るようになるぞ」
 今だと、薬を何回も飲まなきゃいけない病気が。注射ってヤツはよく効くらしい。
 ノルディが注射を覚えてくれたら、寝込むヤツらも減るってもんだ。
「そうじゃなくって…。ぼくはノルディが怖いんだよ…!」
 今はいいけど、その内に注射を覚えちゃう。そしたら、ぼくにも注射するんだよ。
 ぼくは弱くて直ぐに寝込むから、薬の代わりに注射をしそう。
 でも、ぼくは注射がとても嫌いで…。注射を覚えようとしてるノルディも怖いんだよ…!



 注射は嫌だ、とハーレイに向かって訴えた。本当に怖くてたまらなかったから。注射への恐怖を誰かに聞いて欲しかったから。
「ぼく、アルタミラで酷い目にばかり遭ってたんだよ…! 注射のせいで…!」
 研究者たちに何度も何度も注射されてて、その度に酷い目に遭って…!
 だから注射は怖いんだってば、研究者じゃなくてノルディでも…!
「注射って…。ノルディの注射も怖いって…」
 そういや、俺と初めて出会った頃のお前の腕…。酷かったっけな…。
「注射の痕だらけだったでしょ? どっちの腕も」
 見て分かる分だけで、あれだけの数。…消えかかっていたのが、もっと沢山。
 とっくに消えてしまった分なら、あんな数では済まないんだから…。百とか千とか、数えられる数じゃなかったんだから…!
 ぼくが覚えていない分だって、きっと山ほど。消えちゃった記憶も多い筈だから。
 何度打たれたか分からないよ、と身体を震わせた注射の忌まわしい記憶。実験のために打たれた薬物、それに結果を調べるための採血だって。
 幾度となく針を刺されていたから、恐ろしかった。苦痛の記憶しか無い注射が。
「おいおい…。治療用だってあった筈だぞ、注射」
 嘘みたいに痛みが消えるヤツとか、ぐっすり眠れるヤツだとか。
 どれもが酷い注射ばかりじゃないだろ、マシな気分になれる注射もあっただろうが。
「マシな気分って…。苦しい注射の方ばっかりだよ…!」
 いつだって痛くて、チクッとして。酷い時だと、針が刺さった時からズキズキ。
 そして注射をされた後には、うんと苦しくなるんだよ。身体が辛くて丸くなりたいのに、実験のために手足を固定されてて…。もがくことだって少しも出来ずに、苦しいだけ。
 その間にまた注射されるんだよ、薬の追加をするだとか…。
 ぼくの身体がどうなっているか、調べるために血を抜くだとか…!



 気分が良くなった注射は知らない。そんな注射をされてはいない。ただの一度も。
 もしも打たれていたとしたって、記憶の形になってはいない。激しい苦痛でのたうち回る自分に研究者たちが打っていたって、苦しさしか覚えていないのだから。
 ハーレイが言う「気分がマシになる注射」をされていたって、苦しみもがいた自分は知らない。
 唯一のタイプ・ブルーだった自分は、死なないように治療されたけれども、それだけのこと。
 実験でボロボロになった身体が回復したなら、また実験が待っていたから。
 苦痛ばかりの毎日の中で、あの狭い檻で目覚めた時。腕に注射の痕が幾つあろうが、まるで関係無いのだから。古い痕なのか、新しい痕か、それさえも。また注射されるだけのこと。
 だから知らない、治療用の注射。気分が良くなる注射などは。
「そうなのか…。俺は身体がデカイからなあ、負荷をかける実験の方が多かったし…」
 どの程度まで耐えられるのか、という実験だけに、俺の身体を治さないとな?
 身体が駄目になっちまったなら、そいつを治して次に備える。腕でも、足でも。
 そういう時には注射だったし、俺が打たれた注射は治療用の方が多いんじゃないか?
 お蔭で治ると知っているわけだ、具合が悪い時には注射、と。
 なあに、お前も心配は要らん。
 安心して打って貰うといいと思うぞ、ノルディが注射をマスターしたら。
「でも、怖い…!」
 ぼくは注射が怖いことしか覚えていないし、打って欲しいと思わないんだけど…!
 注射をされるくらいだったら、薬を山ほど飲まされた方がマシなんだけど…!
「今から心配しなくても…。一度打ったら気分も変わるさ」
 確かに針はチクッとするがな、じきに気分が良くなるから。
 そういうモンだと分かってしまえば、お前も注射の良さに気付くぞ。実に役立つと。
 怖いのは最初の一回だけだが、注射をするのはノルディなんだ。研究者たちとは違って仲間だ。
 お前が怖いと思っていたって、アッと言う間に済ませてくれるに決まってる。
 もう終わりか、と目を丸くするぞ、きっと手早いだろうしな。



 怖がらなくても大丈夫さ、とハーレイは肩をポンポンと叩いてくれたのだけれど。直ぐに注射も平気になれる、と繰り返し言ってくれたのだけれど。
(大丈夫だ、って言われても…)
 嫌なものは嫌だ、と思った注射。あんな怖いものは絶対嫌だ、と。
 それからどのくらい経った頃だったか。ある日、体調を崩してしまった。朝、目覚めたら重たい身体。朝食を食べに行く元気も無いから、ハーレイに部屋まで運んで貰った。
 食べ終わった後、ベッドでウトウトしていたら、やって来たノルディ。医療用の鞄を提げて。
 多分、ハーレイがノルディに知らせたのだろう。往診に行ってくれるようにと。いつもと同じに診察と問診、それが済んだら再び開けている鞄。きっと中から薬が出て来る。
(…薬も嫌いだったけど…。飲まないと治らないもんね…)
 量が少ないといいんだけどな、と眺めていたら、「これで治る」とノルディが取り出した注射。一本打ったら熱も下がるし、身体がグンと楽になるから、と。
 そうは言われても、注射は嫌。怖い思いしかしていないのだし、悲鳴を上げた。
「やめてよ、注射は嫌なんだよ!」
 痛くて怖いし、それだけはやめて。お願い、我慢して薬を飲むから…!
「薬よりいいぞ、早く治るから。薬だったら三日はかかるが、注射だったら一日ってトコだ」
 半日も経たずに気分が良くなる。体力も消耗しないで済むし。
 この方がいい、と注射の準備を始めたノルディ。注射器に薬品をセットしてゆく。
「嫌だってば! ぼくはホントに注射が嫌で…!」
 やめて、お願い。薬を少なくしてって言ったりしないから…!
 薬がドッサリでもかまわないから、注射はしないで…!



 涙交じりで叫んでいるのに、ノルディは注射をするつもり。消毒用の綿が入ったケースも出して来たものだから、飲み薬ではとても済みそうにない。
「やめてよ、ホントにお願いだから…! 注射はやめて…!」
 お願いだってば、聞こえないの、ノルディ!?
 誰か助けて、助けて、ハーレイ…!
 声の限りに叫んだ自分。無意識の間に思念波で助けを呼んでいたらしくて、ハーレイが大慌てで飛び込んで来た。部屋の扉を乱暴に開けて、凄い勢いで。
「どうしたんだ、ブルー!?」
 なんだ、何があった!?
「ハーレイ…!」
 助かった、と思った瞬間。これで注射を打たれずに済むと。
 ハーレイの方はノルディの姿に驚いたようで、何事かとキョロキョロしているから。この状況を説明しないと、とノルディの方を指差した。「注射を打つって言うんだよ」と。
 薬でいいと言っているのに、注射をする気だ、と叫んだら事情は分かって貰えたけれど。危機も理解してくれたようだけれども、其処までだった。
 「なるほど」と大きく頷いたハーレイ。「ついに注射か」と、「嫌なのは分かるが…」と。
「しかしだ、それなら打って貰わないとな」
 嫌がっていたんじゃ治らないから。…駄々をこねずに、注射して貰え。
「え? 注射って…」
 前に言ったじゃない、ぼくは注射が怖いんだ、って…!
 酷い目に遭ったことしかないから、注射は怖くて嫌なんだよ…!



 覚えてるでしょ、と懸命に助けを求めているのに、ハーレイの答えはこうだった。
「それを言うなら、俺もお前に言った筈だぞ。一度打ったら気分も変わる、と」
 お前は注射の良さを知らないんだ、これで劇的に治るってことを。
 そのままじゃ一生、損をするってな。注射だったら直ぐに治るのに、無駄に何日も寝込む羽目になって。それだとお前の身体も辛いし、辛い時間も長引いちまう。早く治すのが一番だ。
 やってくれ、ノルディ。こいつの言うことは聞かなくていい。
「そんな…! 酷いよ、ハーレイ!」
 ぼくを助けに来てくれたんでしょ、ぼくが呼んだから…!
 なのにノルディに味方するなんて、ハーレイ、何かを間違えてない…?
「俺は間違えてはいない筈だぞ。お前の病気を治す手伝いをしてやるんだから」
 いいか、我慢して注射して貰うんだ。それがお前の身体のためだし、お前のためだ。
 俺は料理の途中だったのを、放り出して駆け付けて来たんだからな。
 全力で走った俺の気持ちを無駄にするなよ、お前を助けてやるために。
 注射からお前を助け出すのか、病気から助けるかだけの違いだ。同じ助けるなら、病気の方から助け出すのが正しいだろうが。誰に訊いても、そう言うだろうな。
「ハーレイ…!?」
 ぼくは注射から助けて欲しいんだけど…!
 病気の方はどうでもいいから、ぼくを助けて!
 お願い、病気で寝込むくらいは、アルタミラに比べたら何でもないから…!



 実験に比べたら病気なんか…、と心の底から思ったのに。熱も辛さも我慢出来ると考えたのに、一蹴された。「お前の知ってる注射とコレとは違うんだ」と。
 「気分が良くなる注射ってヤツを覚えておけ」と、ベッドに腰を下ろしたハーレイ。前の自分の願いとは逆に、ノルディに協力するために。
 注射から助けてくれるどころか、そのまま押さえ込まれてしまった。強い腕でグイと抱えられた身体。「こっちでいいか」と袖を捲られ、剥き出しにされた細い左腕。
「嫌だよ、やめて!」
 助けてって言っているじゃない!
 お願い、ぼくを放して、ハーレイ…!
「助けに来たと言っただろうが。こいつで病気が治るんだから」
 ノルディ、早いトコやっちまってくれ。下手に暴れたら、余計に熱が出るからな。
 こいつは俺が押さえておくから、とハーレイに掴まれた腕は動かせなくて。暴れようにも、足もハーレイの逞しい足に絡め取られて、奪われてしまった身体の自由。
 「嫌だ」と涙を零しているのに、ノルディは斟酌しなかった。腕を消毒され、血管の位置を指で探られて、ブスリと打たれた恐ろしい注射。グサリと刺さった注射の針。
 痛くて悲鳴を上げたけれども、痛みは多分、チクッとした程度だっただろう。ノルディは何度も練習を重ねて、自信をつけてから注射器を手にした筈だから。
 それでも「痛い」と叫んだのが自分。嫌な思い出しか持たない注射は、恐怖で痛く感じるもの。ほんの僅かな痛みであっても、まるで槍でも刺さったかのように。
 ノルディが「もう終わったぞ」と針を刺した場所にテープを貼ってくれた後も、まだポロポロと零れていた涙。注射は酷く痛かった上に、ハーレイも助けてくれなかった、と。



 とんでもない目に遭った注射だけれども、病気は治った。いつもだったら熱にうかされて過ごす所を、ほんの半日で下がった熱。夕方には楽になっていた身体。
 その代わりに見た、アルタミラの悪夢。ベッドで眠っていた筈なのに、気付けば実験室に居た。白衣の研究者たちに取り巻かれていて、打たれる注射。「どのくらい入れる?」と。
(やめて、助けて…!)
 そう叫ぶ声は声にならなくて、腕に何度も針が刺される。「もっと多く」と、「次の薬だ」と。薬の量を増やされたならば、もっと苦しくなるというのに。もう充分に苦しいのに。
(お願い、やめて…!)
 誰か助けて、と叫んだ声で目が覚めた。実験室でも檻でもなくて、ベッドの上で。
 苦痛は少しも残っていないし、もう消えていた熱っぽさ。だるさも、手を動かすのも辛く感じた身体の重さも。
(…ノルディの注射…)
 あれが効いたんだ、と眺めた腕。袖を捲ったら、腕に貼られているテープ。
(こんなの、貼って貰っていない…)
 アルタミラでは、テープなど貼って貰えなかった。実験動物だったから。患者ではなくて、治療するのも次の実験のためだったから。
 実験動物の肌などは守らなくていい。注射を打つ前に消毒したから、感染症の心配は無い。針を刺した痕から血が流れようが、流れ出した血が肌にこびりつこうが。
 初めて見た、と指先で撫でてみたテープ。もう剥がしてもいい筈だけれど、そのまま腕に残しておいた。「今の注射は治る注射」と、「怖い注射とは全然違う」と。その印のテープ、と。



 そうは思っても、怖かった注射。少しも減らない注射の恐怖。身体は楽になったけれども、怖い気持ちは残ったまま。腕にテープが貼ってあっても、違う注射だと分かってはいても。
 やっぱり駄目だ、と横になっていたら、夕食を運んで来てくれたハーレイ。まだ食堂に来るのは無理だろうから、とトレイに乗せて。
「どうだ、身体は楽になったか? 顔色は良くなったみたいだが」
 熱は下がったか、と額に当てられた手。「よし」とハーレイが浮かべた笑み。下がったな、と。
「そうみたい…。身体もずいぶん楽になったよ」
 朝は手足が重かったけれど、もう大丈夫。だるい感じも無くなったから。
「ほらな、そいつは注射のお蔭だ」
 ノルディが言ってた通りだろう? 半日も経たずに気分が良くなる筈だとな。
 お前は酷く嫌がっていたが、注射は効くんだ。これでお前も分かっただろうが、注射の良さが。
「でも、怖いってば…!」
 怖い気持ちは消えていないよ、注射を打たれる前とおんなじ。今もやっぱり怖いままだよ。
 寝てる間に、アルタミラの夢も見ちゃったし…。夢の中で注射を打たれちゃったし。
 きっとこれからも、注射される夢を見るんだと思う。ノルディに注射をされちゃったら。
 だから嫌だよ、注射だけは。ぼくは飲み薬でいいんだってば…!
「駄目だな、注射の方が早く治るとノルディも言っていたろうが」
 お前の弱い身体のためにも、注射で治すべきだってな。すっかり消耗しちまう前に。
 アルタミラの怖い夢ってヤツはだ、その内に見なくなるってもんだ。
 治る注射だと覚え直したら、嫌な思い出は消えちまうからな。



 ハーレイに諭されたのだけれども、どうしても恐怖が消えなかった注射。痛い針が腕にグサリと刺さる注射器。逃げ出したくてたまらないのに、注射の評判が上がる一方だった船。
 あれのお蔭で早く治ると、病気の時は注射に限ると。注射は怖いものなのに。
「…なんで、みんなは平気なわけ?」
 ぼくはいつでも逃げたくなるのに、みんなは自分で行っちゃうわけ?
 ノルディの所へ、「注射を頼む」って。…薬を飲んで、寝ていればいいと思うのに…。
 みんな変だよ、とハーレイに零したら、「俺と同じってことなんだろうな」と返った返事。
「注射で治ることだってある、と知っているんだ。…アルタミラの檻にいた頃からな」
 もちろん、中には酷い注射を打たれたヤツもいるだろう。お前みたいに。
 しかし、そういう目に遭った後は、ちゃんと治療用のを打って貰って、治ったわけだ。そいつを覚えているってことだな、注射でマシな気分になった、と。
 その時の気分や、楽になった記憶。そいつを今も忘れてないから、注射がいいと考える。何日も苦しい思いをするより、注射で早く治したいと。
 つまりだ、お前ほどの目には遭っていないということだろうな、この船のヤツら。
 治療用の注射を打たれた記憶も残らないほど、実験ばかりの日々を過ごしちゃいなかった。
 苦しい思いはしたんだろうが、お前よりかはマシだったんだ。…俺も含めて、一人残らず。
 それで注射をされても平気で、自分から頼みに行くんだろうな。



 誰の記憶にもあった、治る方の注射。身体が楽になる注射。
 残念なことに、前の自分にだけは無かった記憶。注射は苦痛を運んで来るもので、いつも苦しみ続けただけ。注射の針を刺される度に。薬を身体に入れられる度に。
 アルタミラで打たれた、数え切れない恐ろしい注射。ノルディが打ってくれる注射は、その数に及びはしなかった。
 「楽になった」と何度思っても、忌まわしい記憶は消えないまま。注射の後に貼られるテープを何度眺めても、「今の注射は病気が早く治る注射」と思おうとしても。
 だから、最後の最後まで…。
「お前、抵抗し続けたんだ。注射を打たれるってことになったら」
 ソルジャーになっても、青の間が出来ても、一向に慣れやしなかった。
 注射は嫌いで、それは嫌だと文句ばかりで。
「だって、注射はホントに嫌だったから…。どうしても慣れなかったから…」
 ノルディが治療にやって来る度、「注射とは違う方法がいい」とゴネたソルジャー。それが前の自分。船の仲間たちは誰も知らなくて、ノルディとハーレイが知っていただけ。
「お蔭で、俺はいつでもお前を宥める役だったんだ。…ノルディに呼ばれて」
 他のヤツらに知られないよう、俺に思念を寄越すんだ、あいつ。注射するから、と。
「そうだったっけね…」
 いつもハーレイが急いで来てたよ、ノルディが注射をする時には。
 ホントに忙しかった時は仕方ないから、ぼくだって我慢してたけど…。でも、嫌なものは嫌。
 ハーレイが「これで治るから」って言ってくれなきゃ、アルタミラしか思い出さないし…。
 ぼくの寿命が残り少なくなって来た頃にだって、ハーレイ、いつも来てくれたっけね。
 注射をされることになったら、ぼくの付き添い。



 前の自分にノルディが注射を打とうとする度、付き添うために来ていたハーレイ。流石に身体を押さえ付けることは無かったけれども、「大丈夫ですよ」と何度も掛けてくれた声。これで身体が楽になりますからと、注射が一番効きますからね、と。
「まったく、何回、お前の注射に付き合ったんだか…」
 前のお前は、基本は我慢強かったのに…。注射の針の痛みなんかは、きっと痛みの内にも入っていなかったろうに。
「痛さは関係無かったんだよ、本当の痛さがどのくらいかは…!」
 もっとグッサリ縫い針とかが刺さっていたって、平気だったと思うけど…。消毒して貰って薬を塗らなきゃ、と思いながら針を抜いただろうけど…。
 注射だけはホントに駄目だったんだよ、ノルディに何回注射されても…!
 そのせいで今のぼくも駄目だよ、記憶が戻ったら余計に駄目。
 三百年以上も嫌いなままで生きてたんだし、注射は今も嫌なんだってば…!



 注射なんかは無い世界がいいな、と文句を言ってみたけれど。
 前の自分たちが生きた頃からずいぶん経つのに、どうして今もあるんだろう、と注射の存在する世界に苦情を述べたけれども。
「お前なあ…。今の時代もあるってことはだ、やっぱり注射が一番なんだ」
 なんと言っても、よく効く薬を身体に直接入れられるんだし…。注射が一番効くのが早い。
 ノルディも研究を重ねてはいたが、いつも最後は注射の出番になっただろうが。
 前のお前が文句を言うから、極力、打たないようにしてても。
 それと同じだ、今の時代も。お前がどんなに注射嫌いでも、今日みたいに打つしかないってな。
「酷い…!」
 ぼくはこれからも、ずっと注射を打たれちゃうわけ?
 病気になったら病院に行って、注射されるしかないって言うの…?
「うーむ…。俺の家の近所の医者ってヤツもだ、問答無用で打つタイプだが…」
 早く治すには注射に限る、と飲み薬よりも前に注射なんだが、庇ってはやる。
 お前の注射嫌いってヤツは、俺も充分、知ってるからな。
「よろしくね。ぼくが注射を打たれないように」
 ちゃんと頼んでよ、ぼくは注射が苦手なんだから。…飲み薬の方でお願いします、って。
「そりゃまあ…なあ? 俺の大事な嫁さんなんだし、頼んではやるが…」
 早く治るのがいいんじゃないかと思うがな?
 付き添ってやるから、注射を一本、打って貰うのが一番だろうが。
「分かってるけど…」
 駄目なものは駄目。前のぼくだって、最後まで苦手なままだったでしょ…?



 ハーレイが聞かせてくれた思い出話。ソルジャー・ブルーも嫌っていた注射。
 どうしても打つしかないとなったら、付き添いが呼ばれていたほどに。
 ドクター・ノルディが思念を飛ばして、キャプテン・ハーレイを呼び出したほどに。
 注射で治ると分かっていたって、苦手なままだった前の自分。本当に最後の最後まで。
 今日も注射で治ったけれども、やっぱり注射は嫌だから。早く治ると分かっていたって、注射が嫌いでたまらないから。
(…ハーレイに付き添い、お願いしないと…)
 今度も注射を打たれる時には、ハーレイに側にいて貰おう。
 いつか大きくなったなら。ハーレイと二人で暮らし始めたら、注射に行く時はハーレイと一緒。
 前の自分がそうだったように、温かな声で守って貰おう。
 「大丈夫だから」と、「怖くないから」と。
 これですっかり良くなるからと、「痛くても我慢するんだぞ」と。
 それに今度は、手だって握って貰えるだろう。「俺が一緒だ」と、大きな手で。
 今度は結婚するのだから。ハーレイが手を握ってくれていても、誰も咎めはしないのだから…。




            嫌だった注射・了


※注射が嫌いだった前のブルー。青の間が出来た後になっても、付き添いが必要だったほど。
 生まれ変わっても同じに苦手で、今度も付き添いが要りそうです。注射の時はハーレイ。
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(口髭用のカップ…?)
 変な物がある、とブルーが覗き込んだ新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 口髭のある人が使った専用のカップなのだと書かれていた。カラー写真を何枚もつけて。人間が地球しか知らなかった時代に、そういうカップが誕生した、と。
(ムスタッシュカップ…)
 それが口髭用のカップの名前。ムスタッシュはそのまま、口髭の意味。名前からして口髭専用、遠い昔の地球で生まれた。千八百六十年代、いわゆる十九世紀。
 イギリスという国が栄えた時代で、其処は紅茶が好まれた国。その国で暮らす紳士のためにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(口髭を濡らさずに飲めるティーカップ…)
 ふうん、と読んでいった記事。発明した人はハービー・アダムス、今も名前が伝わるほどだし、相当に流行ったのだろう。口髭用だというカップは。
(髭マークつき…)
 このタイプだったら、ムスタッシュカップを知らない人でも口髭用だと分かるかもね、と眺めた写真。カップの内側に橋を渡すように、最初からついている口髭置き。
 カップと同じ素材で出来ているそれは、色々なデザインがあるのだけれど。形も模様もカップによって違うけれども、ユニークなのが髭の絵つき。「ここに乗せて下さい」という印。
(口髭、紅茶に入りそうだものね…)
 カップの紅茶を飲もうとしたら、中にポチャンと。口髭ガードだという専用の橋が無かったら。その上に髭を置かなかったら。



 大人気だったというムスタッシュカップ。それを反映して、ティーカップからマグカップまで、色々なカップについている橋。口髭を乗っけておくための。
 面白いね、と読み進めたら、ムスタッシュカップが生まれた理由。口髭を乗せる橋が歓迎された理由は、紅茶で濡れるからではなくて…。
(髭の形が崩れちゃうんだ…)
 紅茶の湯気で溶けてしまうというワックス。紳士たちが髭を固めておくのに使ったもの。当時の紳士は髭好きが多くて、大流行だったのがピンと捻り上げるタイプ。
 これがそうです、と載っている古い写真の人物の髭が…。
(……ゼル……)
 そうとしか見えない、立派な口髭。遠く遥かな時の彼方で、ゼルが生やしていた口髭。カイゼル髭と呼ぶらしい。写真の人物や、ゼルの口髭は。
(この形の髭が大流行…)
 大勢の人がゼルのような髭を蓄えた時代。そうは言っても、自慢の髭が崩れないよう、カップの形を改造だなんて、凄すぎる。橋を一本渡すだけでも、ひと手間かかる製造過程。
 発明した人も凄いけれども、イギリス紳士の紅茶への情熱も、きっと凄かったのだろう。専用のカップを用意してまで、飲みたかった紅茶。
(口髭があるお客さんが来たら、出してたのかな…?)
 しげしげと見詰めたカップの写真。カップ本体の形も模様も実に様々、口髭用の橋が無ければ、普通のカップになりそうなもの。繊細な花柄のカップも沢山。
 髭の種類も幾つもあったと書かれているけれど、そちらがメインの記事ではないから。
(ゼルの髭しか載っていないや…)
 口髭を生やした人の写真は、カイゼル髭の一枚だけ。
 きっと口髭の代表選手、と納得した。ヒルマンだったら頬髭もあったし、口髭よりも頬髭の方が目立っていたという記憶。ムスタッシュカップの記事に添えるには、不向きなのだろう。
(だって、口髭用だしね?)
 口髭がトレードマークの人でなくっちゃ、と考えた。ヒルマンよりかはゼルの方、と。



 おかしなカップがあったみたい、と何度も眺めたムスタッシュカップ。口髭がある人の御用達。必要は発明の母だけれども、何も此処までしなくても、と。
 なんとも傑作なカップだった、と部屋に帰っても忘れられない。口髭を乗せる橋つきのカップ。とはいえ、自分には全く関係ない話。今の自分はチビの子供だし、前の自分も…。
(髭なんか生えなかったから…)
 滑らかだった前の自分の顔。口髭も顎髭も生えはしなくて、産毛だけ。口髭が無ければ、出番が無いのがムスタッシュカップ。欲しいと思ったことさえも無い。髭も、口髭専用カップも。
(それに、髭…)
 前のハーレイも生やしていなかった。二人で何度もお茶を飲んだけれど、ハーレイも口髭専用のカップに用は無いから、青の間には要らないムスタッシュカップ。
(そういうカップは無かったけれど、髭の人だって…)
 専用カップが必要なほどの人数じゃないよ、と思い浮かべたシャングリラ。前の自分が暮らしていた船。あのシャングリラで髭を生やしていた人といえば…。
(ゼルとヒルマン…)
 他にいたっけ、と首を傾げたけれども、どうにも思い出せない顔。船の仲間は覚えているのに。生まれ変わった今になっても、全員の名前を言えるほどなのに。
(だけど、髭の人…)
 ゼルとヒルマン、あの二人しか浮かんで来ない。前の自分が知っている顔は二つだけ。
 もっとも、アルテメシアを脱出した後、誰か生やしたかもしれないけれど。赤いナスカに降りた頃には、他にいたかもしれないけれど。



 前の自分の記憶にある髭は、ゼルとヒルマンの二人だけ。彼らしか生やしていなかった髭。他に一人もいなかったのは、年齢のせいもあるかもしれない。
(若いと、あんまり似合わないものね…)
 本当の年齢はともかくとして、外見は若かった仲間たち。アルタミラからの脱出組も。若い間に年を取るのをやめてしまったから、船の仲間は青年ばかり。
(んーと…)
 この顔も駄目であの顔も駄目、と色々な仲間の顔に描いてみた髭。頭の中で。誰の顔にも、髭は似合わなかったから…。
(長老並みに年を取らないと…)
 髭を生やしても駄目なんだよ、と考えた。きっと似合いはしないのだと。
 けれど、その辺の事情は聞いてはいない。ゼルとヒルマン、あの二人が髭を生やしていた理由。前のハーレイからは聞かなかったし、多分、ゼルたちからだって。
 今の自分が忘れたのではなかったら。記憶から消えたわけではないなら。
(聞いてないけど、ゼルはカイゼル髭…)
 そういう名前の髭だったんだね、と今の自分が仕入れた知識。さっき新聞で読んだカイゼル髭。それを固めるワックスが湯気で溶けないようにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(カイゼルカップって名前じゃないから…)
 他にも口髭の名前は幾つもあったのだろう。大流行したのがカイゼル髭だっただけで。
(あの頃だったら、ゼルは流行の最先端だよ)
 だってカイゼル髭なんだもの、とゼルのピンとした口髭を思った。カイゼル髭、と。
(…ゼルがカイゼル髭…)
 髭の名前にゼルの名前が入ってるよ、とクスッと笑ったのだけれども…。



 クイと心に引っ掛かったもの。ゼルが生やしていたカイゼル髭。
(ちょっと待って…!)
 それだ、と蘇って来た記憶。遠く遥かな時の彼方で、ゼルの顔にあったカイゼル髭。ゼルの顔にあれが生まれた理由。ゼルだからカイゼル髭だっけ、と。
(最初は長老のみんなに共通の話で…)
 前の自分を補佐してくれた、長老たち。それにキャプテンだったハーレイ。
 仲間たちが外見の年齢を止めてゆく中、彼らはそのまま年を取り続けた。前の自分は、とっくに年を取るのを止めていたのに。
「あたしたちには、威厳ってヤツが必要なんだよ。なにしろ、あんたが若いんだから」
 周りがしっかりしていないとね、と年を重ねていったブラウたち。外見から自然に生まれてくる重み、それも役立つ筈なのだから、と。
 そうして時が流れてゆく中、髭を伸ばすと言い出したゼル。長老たちが集まった席で。
「顎髭がいいと思うんじゃがな。こんな具合に」
 こうじゃ、とゼルが顎の下に手で描いてみせたイメージ。十センチくらいはあっただろうか。
「私も伸ばそうと思っていてね。髭は貫禄がありそうだから」
 やってみようと検討中だ、とヒルマンも髭を伸ばすつもりで、たちまち顔を顰めたエラ。
「髭だなんて…。それも二人で伸ばすだなんて。あなたたちの立場が分かっていますか?」
 無精髭という言葉があるほどですから、髭は賛成できません。
 貫禄を出そうと言うのだったら、年齢を重ねてゆくだけでいいと思いますが?
「無精髭とは違うわい! 髭は威厳があるものなんじゃ」
 きちんと手入れをしておれば問題ないじゃろうが。
 わしの顔じゃぞ、わしだって無精髭は御免じゃ。この顔に似合う髭がいいんじゃ…!



 どういう風に伸ばしてゆくかはヒルマンと二人で考えるわい、と言い切ったゼル。伸ばす過程で文句が出て来ないように気を付ける、と。
 髭を伸ばしたかった二人は、エラの小言を言葉巧みに躱し続けて…。
「なんだい、顎髭じゃないのかい?」
 顎はツルリとしてるじゃないか、とブラウが見詰めたゼルの口髭。顔の両側にピンと張り出して立派だけれども、最初に言っていた顎髭が無いから。綺麗に剃られたツルツルの顎。
「わしは考えを変えたんじゃ。これでいいんじゃ、顎髭は要らん」
 ピッタリの髭が見付かったからな、わしはこれからコレにするんじゃ。
 得々とゼルが髭を引っ張るから、前の自分も興味を引かれた。ピッタリの髭とは何だろう、と。
「ピッタリの髭って…。その髭なのかい?」
「そうじゃ、カイゼル髭と言うんじゃ!」
 似合うじゃろうが、と言われたものの、カイゼル髭。耳に馴染みが無い名前。
「ふうん…? ゼルが生やすから、カイゼルなのかい?」
 自分の名前の前にカイとつけるのかな、そのタイプの口髭を生やす時には?
「カイゼルと言ったら、カイザーじゃが?」
 そのままの意味じゃな。読み方だったか、発音だったか、それが違うというだけなんじゃ。
「カイザーって…」
 ゼルの髭という意味ではなくて、カイザーだって…?



 頭を掠めた嫌な思い出。カイザーの方なら、前の自分も知っていた。リーダーからソルジャーに変わった切っ掛け、皆が投票で決めた尊称。候補の中にあったカイザー。
 やたら偉そうな代物だったから、忘れられずに覚えていた。カイザーという言葉の意味を。
「カイゼルの意味は、皇帝なのかい…?」
 皇帝がカイザーだったと思う、と確かめてみたら。
「そうじゃ! 皇帝の髭じゃから、カイゼル髭と言うんじゃ、これは」
 ゼルの話では、遥かな昔の地球にあった国。ドイツ帝国のヴィルヘルム二世、独特の形の口髭を誇っていた皇帝。彼の名にちなんで、同じタイプの口髭にカイゼル髭と名前が付いたらしい。
「皇帝が生やしていた髭だって?」
 前の自分も驚いたけれど、ブラウもポカンと口を開けていた。「そりゃ偉そうだ」と。
「皇帝の髭じゃぞ? 由緒正しい髭というヤツじゃ、カイゼル髭は」
 上手い具合にわしの名前も入っておるしな、ちゃんと「ゼル」とな。
 ソルジャーも勘違いしたほどなんじゃし、これこそがわしに似合いの髭じゃ。顎髭なんぞより、ずっといいわい。カイゼル髭の方が。
 素晴らしいじゃろ、と自慢するゼルの姿に、ブラウが「ヒルマン髭は?」と尋ねた。ヒルマンの名前が入っているとか、そういった髭もあるのかい、と。
「いや、私のは…。残念ながら…」
 ゼルのようにはいかなかったね、と苦笑するヒルマンは口髭に頬髭。如何にも由緒がありそうな形に見えたけれども、ヒルマンの名前を織り込んだ髭は無かったらしい。
 カイゼル髭が流行った時代は、髭も色々あったのに。髭の紳士が多かったのに。



 ヒルマン曰く、無精髭という言葉もあるのが髭だけれども。その髭が紳士のお洒落だった時代、そういう時代があったという。髭を伸ばしていた紳士たち。
「古き良き時代というヤツだね。伸ばすと言ったら反対された、ゼルや私にしてみれば」
 その頃の髭は、大層優遇されていたから…。専用のカップもあったくらいに。
「カップだって?」
 何のカップだい、と前の自分もブラウも不思議に思った。カップと言ったら、紅茶やコーヒーを飲むためのもの。それしか頭に浮かんで来ないし、髭の紳士の専用カップなど想像出来ない。
 何の目的でそれが在ったのかも、どんな形のカップなのかも。
「普通のカップと同じように使うカップだよ。発明された国では、紅茶用だったらしいね」
 他の国でも作られていたし、形も色々だったから…。コーヒーを飲んでいた紳士もいただろう。
 ムスタッシュカップという名前のカップで、ムスタッシュは口髭の意味だった。名前の通りに、口髭用のカップなわけで…。
 口髭の形が紅茶の湯気で崩れないよう、それに濡れないようにとも思ったんだろうね。カップの内側に、髭を乗せておくための橋がくっついていたんだよ。最初から。
 残念なことに今の時代は無いらしい、と笑ったヒルマン。
 ムスタッシュカップはとうの昔に廃れてしまって、現物も残っていないようだという。博物館にあったとしたって、展示される機会も無いのでは、と。展示しても分かって貰えないから。
 けれど、ゼルとヒルマンが生やした口髭。
 紅茶やコーヒーを飲むには不向きだけれども、ムスタッシュカップが無くても問題無いらしい。湯気で崩れたり、濡れたりするのを防ぎたかったら、サイオンを使えばいいことだから。
 わざわざカップを誂えなくても、髭をシールドしておけるから。



(…ムスタッシュカップ、って言っていたっけ…)
 時の彼方で、前の自分が聞いただけのカップ。さほど興味が無かったのだろう、どんなカップか改めて尋ねはしなかった。訊いていたなら、「こういうカップで…」と思念で伝えて貰えたのに。
(ああいうカップだったんだ…)
 ムスタッシュカップ、と思い浮かべた新聞記事の写真。前の自分が名前だけを聞いた、カップの写真を見てしまった。長い長い時が流れた後で。青い地球の上で。
 ゼルとヒルマンは多分、見たことがあっただろう写真。髭が優遇された時代の口髭用のカップ。
(…今のハーレイ、知ってるのかな?)
 口髭用にと発明されたムスタッシュカップ。
 それに、そのカップが生まれる切っ掛けになった紳士たちの髭。皇帝が生やしたカイゼル髭。
 今のハーレイは沢山の知識を持っているから、生まれ変わった後に覚えたかもしれない。こんなカップがあったようだと、このスタイルの髭の呼び名はこう、と。
 前のハーレイの記憶が戻る前から、ちゃんと仕入れて。今のハーレイの知識として。
(知ってるかどうか、訊いてみたいな…)
 仕事の帰りに寄ってくれたら訊けるんだけど、と思っていたら、チャイムが鳴った。急いで窓の所に行ったら、ハーレイが手を振っている。庭を隔てた門扉の向こうで。
(やった…!)
 これで訊ける、と小躍りした。ムスタッシュカップも、カイゼル髭も。
 今のハーレイは知っているのか、其処から入って思い出話。シャングリラのことを話そうと。



 ワクワクしながらハーレイを迎えて、テーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けて。テーブルには母が運んで来てくれた紅茶もあるから、カップをチョンとつついて尋ねた。
「あのね、ハーレイ…。ムスタッシュカップって、知っている?」
 紅茶とかを飲むカップだけれど…。ちょっと変わっているカップ。
「口髭用のだろ? こういうカップの内側にだな…」
 こんな感じで髭を乗せるための部分がくっついていて、とハーレイが指で描いた形。新聞で見た写真とそっくり、間違いなくムスタッシュカップだったから、念のため。
「今日の新聞、読んで来たの?」
 ムスタッシュカップの記事が載っていたけど、家か学校で読んじゃった?
「いや、前にたまたま読んだんだ。あれは新聞ではなかったぞ」
 何の本だったか、タイトルは思い出せないんだが…。あのカップが生まれた時代を詳しく書いた本だな、その手の本は多いんだ。人気の高い時代だから。
「それじゃ、写真も載ってたの?」
 ムスタッシュカップの写真も見られた?
「見たぞ、何枚か載ってたからな」
 写真無しだと、どんなのか想像しにくいだろうが。あんなカップは。
「傑作だよねえ、髭を乗せておくための橋がついてるカップだなんて」
 ぼくが見た写真だと、髭の絵が描いてあるのもあったよ。あれだと分かりやすいけど…。
 髭の絵は無しで、あのカップだけを見たら悩んでしまいそう。これはなあに、って。
「確かにな。何に使うのか、まず分からんなあ…」
 カップだというのは理解できるが、あの橋を何に使うのか。
 其処に砂糖を乗せて出すんだ、と言われたらコロリと騙されそうだぞ。
 でなきゃスプーンを置く場所だとか…。間違え方は幾らでもありそうだよな。



 本当の使い方を知らなきゃ分かるもんか、とハーレイも知っていたムスタッシュカップ。ずっと昔にシャングリラで聞いた、髭の話とは無関係に。
 ならば今度は髭を訊かねば、と「カイゼル髭っていうのも知ってる?」と尋ねたら。
「もちろんだ。ムスタッシュカップの時代に流行ったヤツだな、カイゼル髭は」
 あれだろ、ゼルが生やしていたような髭。ああいう髭がカイゼル髭だ。
「そっちも本で読んだわけ?」
「さてなあ…。どうだったかなあ、髭用のカップほど印象に残るものでもないし…」
 これだ、と直ぐには思い出せんな。小説なんかにも出て来るから。
「そっか…。それでね、ムスタッシュカップなんだけど…」
 ヒルマンも話をしていたよ。口髭用のカップなんだ、って。
「はあ? ヒルマンって…」
 どうしてムスタッシュカップの話になるんだ、ヒルマンも髭を生やしちゃいたが…。
 シャングリラには無かったぞ、ムスタッシュカップ。あったら忘れる筈がないからな。
「えっとね…。そういうカップがあったんだ、っていう話。ずうっと昔は、って」
 ヒルマンとゼルが髭を伸ばした時の話だよ。
 髭を伸ばしたら貫禄が出るから、って二人で揃って伸ばすことにして…。エラが文句を言っても無視して、あのスタイルになった後。
 髭が優遇されてた時代もあったんだ、ってムスタッシュカップの話をしてた。そういうカップを作ったくらいに、髭が流行していた時代。
 皇帝だって立派な髭を生やして、その皇帝と同じ髭だからカイゼル髭。皇帝はカイザーで、同じ意味の言葉がカイゼルでしょ?
 それが気に入って、ゼルはカイゼル髭にしたんだよ。
 顎髭を伸ばすつもりでいたのに、やめてしまって口髭だけ。自分にピッタリの髭だから、って。



 皇帝の髭で、ゼルの名前も入っているのがカイゼル髭、とハーレイに話した。それで顎髭よりも口髭、と。
「覚えていない? とっても得意そうだったけど…」
 わしにピッタリの髭なんじゃ、って。…ヒルマンの方は、そういう髭は無かったけれど。
 なんでああいう髭にしたかは、前のぼくも聞いていないんだけど…。
「あったな、そういう話もな…。思い出したぞ、俺も危ないトコだったんだ」
 綺麗サッパリ忘れちまってたが、危機一髪というヤツかもしれんな。
「え? 危ないって…。何が?」
 キョトンと瞳を見開いていたら、「分からないか?」とハーレイが指差した自分の顔。
「髭だ、髭。あの二人に呼ばれちまってな…」
 自分たちは髭を伸ばすことにしたから、お前も伸ばせ、と言われたんだ。俺が伸ばせば、長老の男は全員が髭ってことになるだろ?
 そうなればエラの小言も減りそうだからな、髭は長老のシンボルなんだと言い返せるから。
 あいつら、悪知恵を働かせやがって…。俺を巻き込もうと、あの手この手だ。
 キャプテンこそ髭を伸ばすべきだと、うんと貫禄が出るからと来た。
「そうだったの!?」
 ゼルたち、ハーレイを髭の仲間にしようとしてたんだ…。
 二人だったらエラも怒るけど、ハーレイまでってことになったら、確かに怒りにくいかも…。
 長老なんです、っていう印が髭なら、ちょっと文句は言えないものね…。



 まるで知らなかった、前のハーレイが見舞われた危機。髭を伸ばせと誘った二人。ヒルマンと、ゼルと。「キャプテンこそ髭を伸ばすべきだ」と。
「…ハーレイ、どうやって無事に逃げられたの?」
 ゼルはとっても押しが強いし、ヒルマンだって粘り強いよ?
 二人揃って押し掛けられたら、とても断りにくそうだけど…。それにハーレイの飲み友達だし。
 顔を合わせる度に「髭を伸ばせ」で、しつこく言われそうなんだけど…?
「その通りだ。あいつらは諦めが悪かった。…また来るから、と諦めないんだ」
 しかし、諦めて貰わないと…。俺は髭を伸ばしたいとは思わなかったし、いくら誘われても気は変わらない。髭面の俺なんて、自分でも想像出来なかったしな。
 だから、ヤツらが言ってくる度、「髭なんか手入れしていられるか」と断ったんだが…。
 伸ばした髭を手入れするより、剃った方が早いと言ったんだが。
 キャプテンの仕事は多忙なんだし、髭の手入れは時間の無駄だ、と。
 そしたら、「ムスタッシュカップはどうだ」と言われた。…あいつらにな。
「ムスタッシュカップって…。なに、それ?」
 口髭があるから、ムスタッシュカップを使うんでしょ?
 髭は伸ばさないって言っているのに、ムスタッシュカップが何の役に立つの?
「俺が見事に髭を伸ばしたら、そいつの出番になるからな」
 レトロな物が好きだろう、と攻めて来たんだ、あいつらは。
 髭を伸ばしたら、うんとレトロなムスタッシュカップを使えるぞ、とな。
「ムスタッシュカップって…。あの頃は、シャングリラでカップは作っていなかったよ?」
 前のぼくが奪ったカップばかりで、船では作っていなくって…。
 それに奪って来るにしたって、ムスタッシュカップが作られてた時代は、ずうっと昔だよ?
 ヒルマン、自分で言ってたじゃない。現物は残っていないだろう、って。
「作ってやると言われたんだ!」
 宇宙の何処にも存在しないレトロなカップを、俺専用に!
 髭を伸ばすなら、ゼルが作ってプレゼントすると、餌をちらつかせに来やがったんだ…!



 前のハーレイを髭仲間にしようと企んだらしい、ゼルとヒルマン。二人よりも三人の方が何かと便利で、エラの小言も躱せるから。
 けれど、ハーレイは首を縦に振らず、ゼルとヒルマンは考えた。木で出来た机を使っている上、羽根ペンを愛用していたハーレイ。誰が見たってレトロ趣味だから、それを使おうと。
 悪党二人が目を付けたのが、ムスタッシュカップ。遥か昔の十九世紀に流行ったカップ。口髭を生やした紳士のためにと生まれたカップで、現物は残っていないだろうから…。
「わしが作ってやろうと思うんじゃが…。髭を伸ばすんなら、上等のムスタッシュカップをな」
 どうじゃ、ムスタッシュカップじゃぞ?
 ヒルマンが今、話したじゃろうが。本物は多分、残っておらんと。なにしろ十九世紀じゃし…。
 しかし、わしなら、本物そっくりのヤツを作ってやれるんじゃ。
 髭を伸ばして仲間になるなら、最高のヤツをプレゼントしてやれるんじゃがのう…。
 レトロの極みじゃ、とハーレイを引き摺り込もうとしたゼル。一緒に髭を伸ばさないか、と。
 ゼルは手先が器用だったから、具体的なプランも披露した。
 ハーレイが選んだ好みのカップに、割れて駄目になった食器で作った髭用の橋。そちらも好みの形に仕上げて、外れないようにくっつける。たったそれだけ、けれど宇宙に一個だけのカップ。
 ムスタッシュカップは、時の彼方に消えたから。多分、残っていないから。
 そういうカップが欲しくないか、とニヤニヤと笑うゼルの隣で、ヒルマンも大きく頷いた。
「いいと思うよ、ムスタッシュカップ。君はコーヒー党なわけだが…」
 紅茶に限ったものでもないしね、ムスタッシュカップ。紳士の好みも色々だから。
 髭を伸ばして、ブリッジでムスタッシュカップに淹れたコーヒー。
 レトロなカップで、大いに威厳が出ると思わないかね。口髭専用のカップなのだよ?
「威厳よりも前に、笑い物だと思うんだが…!」
 そいつが本当に洒落たカップなら、廃れる代わりに今も残っている筈だろうが!
 流行った当時はそれで良くても、後の時代に笑われたからこそ、消え失せたんだと俺は思うが!



 レトロ趣味にも色々あって、とハーレイが必死に打った逃げ。
 自分が欲しいと思わない物は、レトロの極みでも価値はゼロだと。ムスタッシュカップは要りもしないと、髭も剃る方が好みだから、と。
「それでもしつこく通って来たがな、あいつらが髭を伸ばしてゆく間には」
 こういう顔に憧れないか、と髭面の紳士の顔写真を見せに来るだとか…。
 ムスタッシュカップが出来上がったらこんな感じだ、と絵を描いて持って来るだとか。
 欲しくないか、と何度も言ったぞ、レトロの極みで宇宙に一つ、と。
「ハーレイ、危なかったんだ…」
 髭を伸ばせって言われていたなんて…。ホントに全然知らなかったよ、前のぼく。
 ゼルもヒルマンも、ぼくには何も言わなかったし…。ハーレイを誘っているんだってこと。
 もしもハーレイが巻き込まれてたら、ゼルたちの仲間にされていたわけ?
「そうなるな。…俺が髭面の紳士もいいな、と惹かれちまうとか、レトロなカップに…」
 ゼルが何度も「こんなのはどうじゃ?」と見せに来ていた、手作り予定のムスタッシュカップ。
 あれにウッカリ釣られていたら、だ…。
 キャプテン・ハーレイも見事な髭面だったんだろうな、あの二人に負けず劣らずの。
「……ハーレイに髭……」
 ゼルが生やしていたカイゼル髭とか、ヒルマンみたいな髭だとか…。
 ムスタッシュカップに釣られたんなら、口髭は絶対、生やすんだよね…?
 でなきゃカップの出番が無いから、ハーレイに口髭…。
 ゼルみたいな髭を生やしていたとか、顎髭も伸ばしちゃってたとか…?



 向かい側に座ったハーレイの顔をまじまじと眺めて、何度もパチクリ瞬きをした。
 ハーレイがゼルたちの勧誘に乗っていたなら、とんでもないことになっていたかもしれない。
(…威厳たっぷりかもしれないけれど…)
 口髭を生やしたキャプテン・ハーレイ。もしかしたら、ついでに顎髭だって。
 髭を蓄え、ムスタッシュカップでコーヒーを飲んでいるハーレイ。宇宙にたった一つしかない、御自慢のレトロなムスタッシュカップ。口髭を置く橋がついたカップで。
「…前のぼく、それでも恋をしたかな?」
 ハーレイが髭面になっちゃっていても。…口髭を生やしたハーレイでも。
「どうだかなあ…。俺はお前に一目惚れだし、お前もそうだという話だし…」
 恋をしたのがずっと後なだけで、出会った時から特別だしな?
 俺が髭面になっていようがいまいが、お前は俺に惚れたんじゃないか?
 ただなあ…。前の俺が口髭を生やしていたらだ、とりあえずキスに邪魔だと思うぞ。
 お前が顔を近付けて来たら、どうしても髭が触るわけだし…。
 この髭が邪魔だ、と思っちまうのか、髭もいいなと思ってくれるか。邪魔な髭でもな。
「やっぱり、髭は邪魔だよねえ…。ぼくもそう思うよ、キスの時には邪魔かもね、って」
 それで、ハーレイ…。キスしてもいい?
「なんだと!?」
 どうして其処でキスになるんだ、髭の話をしてるんだろうが!
「ハーレイ、自分でキスって言ったよ。髭があったら邪魔そうだ、って」
 今のハーレイにも髭は無いでしょ、だからキス。
 邪魔な口髭は生えてないから、キスをするのも簡単だよね、って。
「揚げ足を取るな!」
 お前、まだまだ子供だろうが!
 チビの間はキスはしないと言った筈だぞ、俺の髭とは別問題だ!
 もっと大きく育ってから言え、そういうませた台詞はな…!



 コツンと軽く叩かれた頭。「子供は子供らしくしろ」と。
 そうなることは分かっていたから、「痛いよ!」と大袈裟に騒いだ後で。「ハーレイのケチ」と睨み付けた後で、この騒動の原因をハーレイにぶつけてみた。
 ゼルとヒルマンがハーレイを勧誘していたカップ。餌にしていたムスタッシュカップを。
「えっと…。ハーレイ、ホントにムスタッシュカップは要らないの?」
 レトロの極みって言われたらそうだし、ちょっぴり欲しいと思わなかった?
 口髭を生やすのとセットでなければ、ゼルの手作りで宇宙に一つ。
 そういうカップは欲しくなかったの、ハーレイだけしか持っていないレトロなカップなんだよ?
「別に欲しいとは思わなかったなあ…。いくらレトロでも」
 今の俺でも、其処は同じだ。そういうカップの知識は持ってて、復刻品もあるようだがな。
「復刻品って…。ホント?」
 あんなカップが売られているわけ、ちゃんと新しく作ったヤツが…?
「イギリスではな。…昔、イギリスだった辺りの地域に行ったら、あるんだそうだ」
 もっとも、お前が新聞で見た写真のカップは、古いヤツかもしれないが。…十九世紀の。
 データは今も残っているしな、前の俺たちの頃と同じに。
「そうだね、うんと古いデータで、本物はとっくに消えちゃってる物…」
 色々あるよね、カップの他にも。本とか、昔の服とか家具とか。
 …復刻品のムスタッシュカップがあるんだったら、ゼルたち、あのカップ、欲しいかな?
 口髭専用のカップなんだし、お店で売られているんなら。
「あいつらか…。あるなら、買うかもしれないなあ…」
 なにしろ自慢の髭だったんだし、俺まで引き摺り込もうとしたし…。
 こだわりの口髭を持ってたからには、あのカップも試してみるかもな。
 本当に役に立つのかどうかと、興味津々で紅茶を淹れて。…紳士気取りで傾けてみて。



 やりそうだよな、とハーレイが笑みを浮かべるカップ。口髭専用のムスタッシュカップ。
 シャングリラには無かったカップだけれども、それが思い出を連れて来てくれた。髭の話やら、前のハーレイが髭の危機だった話やら。
 ハーレイはレトロな物が好きだし、いつか旅をして、復刻品のカップに出会ったら…。
「ムスタッシュカップ、一つ買ってみる?」
 ぼくもハーレイも口髭は無いから、役に立つのか分からないけど…。
 普通のカップでお茶を飲むより、邪魔な感じのカップなのかもしれないけれど。
「ふうむ…。土産物に一つ買うってか?」
 前の俺は本物を貰い損なったが、今なら土産に買えるわけだし。
「うん! いいでしょ、口髭専用のカップ」
 選べるんなら、髭の絵がついてるヤツがいいかも…。
 それとも、ゼルが「こんなのはどうだ」って、絵を描いたヤツに似たのがいいかな?
 思い出だもの、とハーレイに微笑み掛けた。
 前のハーレイは髭を生やさなかったけれども、その思い出に一つ、ムスタッシュカップ。
 口髭は二人とも生やさないけれど、旅の記念に買ってみる。
 二人で眺めては、「危なかったね」と幸せに笑い合うために。
 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが見舞われた危機。
 それを二人で思い出しては、ムスタッシュカップをつついてみよう。
 口髭専用に発明されたカップを、ゼルが作ろうとしていたカップの復刻品を…。




            口髭用のカップ・了


※ゼルとヒルマンが生やしていた髭。実は、ハーレイも髭仲間にしようとしていたのです。
 レトロ趣味なハーレイ用に、ムスタッシュカップを作ってやるから、と。危なかったかも…。
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「ね、ハーレイ」
 温めてよ、と小さなブルーが頼んだ休日。ちょっと温めて欲しいんだけど、と。
 よし、とハーレイが差し出した大きな手。「ほら」と右手を包み込もうと、心得たように。頼む時はいつも、そうだから。「温めてよ」とハーレイに強請る日は、いつも。
 前の生の最後に凍えた右手。撃たれた痛みで失くしてしまった、右手に持っていた温もり。最後まで持っていたかったのに。ハーレイの温もりを持っていたなら、一人ではない筈だったのに。
 独りぼっちだと泣きじゃくりながら、前の自分は死んだから。
 冷たかった右手を覚えているから、今もハーレイに温めて貰う。右の手が冷えていない時でも、その温もりが欲しくなるから。
 けれども、今日は欲しいものが違う。温めて欲しいのは右手ではなくて…。
「どうしたんだ、ブルー? 手を寄越さないと温められないぞ?」
 早くしろよ、と鳶色の瞳が促すから。
「それじゃなくって…!」
 こっち、と乗っかったハーレイの膝。自分の椅子から立って行って。テーブルを挟んだ向こうへ回り込んで。
 膝の上に座って、両腕でギュッと抱き付いた大きな身体。広くて逞しい胸にピタリとくっつく。
(ふふっ、あったかい…)
 ぼくのハーレイ、と頬を、身体を擦り寄せる。ハーレイはぼくのものなんだから、と。



 甘える仕草に途惑いながらも、ハーレイは腕を回して抱き締めてくれた。落っこちないように。
 それから溜息交じりの声が降って来た、頭の上から。
「お前なあ…。温めてくれって、手じゃないのか?」
 いつだって右手ばかりだろうが。何なんだ、これは。俺にお前をどう温めろと?
「全部に決まっているじゃない! ハーレイにくっついているんだから!」
 たまには丸ごと温めてよ。右手だけだなんて、ケチなことをしないで。
 ぼくたち、恋人同士だけれども、キスをするのは駄目なんでしょ?
 キスは頬っぺたと額だけだぞ、ってハーレイ、いつも言ってるから…。唇は駄目、って。
「当然だろうが。お前はまだまだチビで子供だ」
 前のお前とそっくり同じ背丈になるまで、キスは駄目だと言った筈だぞ。
 あと二十センチだ、頑張って伸ばせ。…俺としては急いで欲しくないがな、子供時代を思い切り楽しんで貰いたいからな。
「いつだって、そう言うんだから…。ゆっくり大きくなるんだぞ、って」
 キスが駄目なら、ぼくを丸ごと温めるくらいのことはいいでしょ?
 ほんのちょっぴりくっつくだけだよ、ぼくはそんなに重たくないと思うから…。
 それに身体ごと、もっとしっかり温めて欲しいと思っても…。
 本物の恋人同士になるのも駄目みたいだし、と言ったらコツンと小突かれた。額を、軽く。
「そういう魂胆なら降りて貰うぞ。俺を誘惑しようってか?」
 チビのくせして、一人前に…。降りて自分の椅子に戻るんだな。
「駄目!」
 一人で座るより、二人がいいよ。ハーレイと一緒に座っている方が、断然いいよ。



 もうくっついた、と抱き付いていたら。降りてたまるかと甘えていたら…。
(嘘…!)
 慌てて離れたハーレイの身体。膝からピョンと飛び降りた。有り得ない音が聞こえたから。扉の向こうで母の足音。階段を上ってやって来る音。
 大急ぎで自分の椅子に戻って、何食わぬ顔でカップも手にした。飲んでるんです、といった風になるよう、紅茶のカップを。中身は少しは減っているから。
 でも…。
(…違った…)
 階段を上がって来た母の足音は、違う方へと。こちらへは来ずに、遠ざかってゆく。母の部屋に用事があったのだろう。何かを取りにやって来たとか、置きに行くだとか。
 紅茶のカップを手にしたままで息を詰めていたら、暫くしてから下りてゆく音。さっきとは逆に階段を下へ、トントンと。
 母の足音が消えてしまってから、安堵の息と一緒に零れた言葉。
「ビックリした…」
「実は俺もだ」
 俺としたことが驚いちまった、心臓がドキンと跳ね上がったぞ。
 柔道の試合の真っ最中でも、落ち着いてるのが自慢なんだが…。そうでなきゃ俺が負けちまう。相手のペースに持ち込まれたら負けだ、勝負ってヤツは。
 思いもよらない技で来たって、冷静に対処出来てこそだが…。
 どうやら一本取られちまったな、お前のお母さんに。見事な一本背負いってヤツで。



 試合だったら俺は今頃床の上だ、とハーレイは両手を広げて降参のポーズ。負けちまった、と。
(…ママ、ハーレイを投げ飛ばしちゃった…)
 なんだか凄い、と思うけれども、さっきの母は本当にハーレイを心底驚かせたのだろう。試合中なら、母のペースに持ち込めるような勢いで。
(ぼくもビックリしちゃったもんね…?)
 ハーレイのように上手い例えは見付からないけれど、自分も母にしてやられた。油断していて、隙だらけ。柔道だったら投げ飛ばされて、床に転がされていたのだろう。
(…ママが二階に来るなんて…)
 こんな時間に、と眺めた時計。反則だよね、と。
 ハーレイとこの部屋で過ごすようになって、いつの間にか二人で気付いていたこと。二人きりでゆっくり過ごせる時間は此処、と。
 母が扉を軽く叩いて、「お茶のおかわりは如何?」と現れない時間。
 最初の間は階段を上る音がしないかと、常に気にしていたのだけれど。何度も二人で会っている内に、母のルールというのを覚えた。この間ならば来ないようだ、と。
 今の時間もそういう時間。母が扉をノックしない時間。
 知っていたせいで、安心し切っていたものだから。ハーレイもそれが分かっていたから、甘えていたって許してくれた。膝の上に座って抱き付いていても。



 母は来ないと二人揃って思い込んでいたら、とんだ不意打ち。いきなり聞こえた母の足音。行き先は別の部屋だったけれど、扉を叩きはしなかったけれど。
 縮み上がってしまった心臓、自分も、それにハーレイだって。
「…ホントにビックリしちゃったけれど…。ママの足音」
 でも、間に合ったね、ぼくの逃げ足。ママが来てても、絶対にバレなかったと思う。ハーレイの膝に座ってたことも、抱き付いてくっついてたことも。
「まったくだ。鮮やかだったな、チビだけにすばしっこいってか?」
 座るだけじゃなくて、カップまで持って。何処から見たって、椅子から動いちゃいないってな。
「ぼくも上出来だったと思う。顔だって普通だったと思うよ」
 ビックリした、って顔じゃなくって、普通の顔。ドキドキしてるのは心臓だけで。
 だからね、きっとホントに来ちゃった時でも大丈夫だよ。
 ハーレイにくっついて甘えてる時にママが来たって、ちゃんと元通りに椅子に座って。
「悪いヤツだな、お母さんに内緒の恋人か」
 べったりくっついて、キスだの何だの言ってるくせに…。お母さんには秘密なんだな?
「ハーレイだって、おんなじじゃない!」
 ぼくがホントは恋人だってこと、ママもパパも少しも知らないんだから…!
 ずうっと秘密で隠してるでしょ、ぼくと同じで内緒じゃない!
「まあな。…バレちまったら、色々と困るんだろうしなあ…」
 お前が大きくなっていたなら、何の問題も無いんだが。
 生憎と、恋をするには早すぎる年で、立派にチビの子供だからなあ…。誰が見たって。



 俺の方が大人な分だけ、お前よりもタチが悪いかもな、と苦笑するハーレイ。同じように隠しているにしたって、お前はチビだからまだマシだが、と。
「…そういうものなの?」
 おんなじ秘密を抱えているのに、ハーレイの方が悪いってことになってしまうの?
 先生だからっていうんじゃなくって、大人だから…?
「大人だからというのもあるし、俺の方が遥かに年上だしな?」
 こういった秘密の恋ってヤツはだ、見付かった時には年上の方が分が悪いもんだ。
 責任はお前にあるんだろう、と責められるのは年上の方だってことさ。長く生きてりゃ、知恵もつくしな。甘い言葉でたぶらかしたとか、巧みにたらしこんだとか。
 隠さなければいけないような恋の道へと、若いヤツを引き摺り込んだ悪党なんだからな。
「そうなんだ…。責任を問われちゃうんだね。バレちゃった時には、年上の方が」
 だったら、前のぼくたちだと…。
 ハーレイと恋人同士だったのがバレちゃっていたら、悪者にされてしまうのは…。
「お前の方ってことになるのかもなあ、俺より遥かに年上だったし」
 見た目はともかく、本当の年。…お前の方が俺よりもずっと年上だったんだから。
「中身はそうじゃなかったけどね」
 ぼくの中身は年下だったよ、ハーレイよりも。
 記憶をすっかり失くしてしまって、成長も止めてしまっていたから…。身体も、心も。
「最初だけはな」
 俺の後ろにくっついて歩いてたチビで、中身も見た目と同じだったが…。
 外見そのものの子供だったが、それは最初の内だけだろうが。俺よりも年下だったのは。



 後の時代は違うだろ、というハーレイの指摘。ちゃんと成長して行ったから、と。
「物資を奪いに行っていたチビが、リーダーと呼ばれるようになっていって…」
 立派にソルジャーになったわけだし、あの頃にはもうチビじゃない。…俺の前では違ったが。
 後ろにくっついて歩かないだけで、俺に甘えていたのがお前だ。昔と同じで。我儘も言ったし、弱さも見せた。…俺の方がずっと年上なんだ、とお前は思っていたからな。心の中身。
 しかしだ、皆の前では違った。俺を従えて歩くソルジャーで、誰よりも年上の長だってな。
「…ブラウたちはそれまで通りだったよ?」
 エラは「ソルジャーは誰よりも偉いのですから」って言っていたけど、ブラウとかゼル。それにヒルマンも、ちゃんと分かってくれていたけど…。
 ぼくはちっとも変わっていない、って。責任が増えた分、頑張っているだけなんだ、って。
 だから前のぼくを支えてくれたし、ぼくよりも年を取っている分、力になってくれたけど…。
 本当の年はずっと上でも、心の中身はブラウたちの方が年上みたいなものだったから。
「それは確かにそうなんだが…。前の俺にも分かっちゃいたが…」
 船のヤツらも、アルタミラから一緒だったヤツらは知っていたろう。チビだったお前が頑張って育って、ソルジャーをやっていたことを。…本当のお前は年下なんだということを。
 最初から船に乗ってたヤツらは、全員、年上だったんだからな。見かけだけなら、お前よりも。
 つまりはお前より大人だったわけで、チビだったお前も当然、知ってる。
 だが、アルテメシアに着いてから増えた仲間は違うぞ。あいつらはソルジャーしか知らない。
 追われていた自分を助けてくれたのは誰か、誰のお蔭でシャングリラまで逃げて来られたか。
 一番最初に教わることだぞ、ソルジャー・ブルーの偉大さってヤツは。
「うーん…。ヒルマンの係だったっけね、それ…」
 シャングリラに来た子が落ち着いて来たら、船の仲間たちを紹介して。
 前のぼくに会うのは一番最後で、「ソルジャーに御礼を言いなさい」だっけ…。
 それよりも前に養育部門で会っていたって、ぼくと一緒に遊んでいたって、あの時だけは別。
 偉い人なんだ、って緊張しちゃって、御礼も言えずにピョコンと頭を下げるだけの子とか。



 確かにハーレイの言う通り。雲海の星、アルテメシアで救出されたミュウの子供たち。
 新しく船に加わった仲間は、前の自分が子供の姿だった時代を全く知らない。あの船やミュウの歴史を学ぶ時には教わるけれども、たったそれだけ。子供だった前の自分に会ってはいない。
 彼らが見たのは、ソルジャーとして完成された姿だけ。誰よりも年上で、青の間で暮らす偉大なソルジャー。その人生はミュウの歴史そのもの。
「…じゃあ、ハーレイと恋人同士だっていうことがバレてたら…」
 悪者扱いされてしまうの、どっちだったわけ?
 本当の年はぼくの方が上で、中身はハーレイの方が年上だったんだけど…。
「さてなあ…。お前の方が遥かに年上なんだし、分が悪いのか…。それとも俺の方なのか」
 どちらが相手をたぶらかしたということになったか、大いに悩むトコではあるな。
 ゼルたちだったら、俺を悪者にしそうだが…。場合によっては殴られちまいそうなんだが。
 若いヤツらは、どうだったんだか。…年上なのはお前だしなあ、偉いのもな。
「…悪者になるの、ぼくなのかな?」
 退屈で恋の相手が欲しくて、ハーレイを青の間に引っ張り込んで…。
 キャプテンの仕事で忙しいのに、ぼくのお相手までさせていたってことになるのかな?
「そうなのかもなあ、若いツバメというヤツで」
 薔薇のジャムは似合わないと言われちまった、この顔だがな。
 なんて物好きなソルジャーだろうと、お前の趣味まで疑われるぞ。もっと若くて顔のいい仲間は大勢いるのに、なんだってアレを選んだんだ、と。
「そうなっちゃうかもね…。バレてしまったら、シャングリラの危機だと思ってたけど…」
 深刻な話になるよりも前に、笑い物にされちゃっていたのかも…。
 前のぼくの趣味が酷すぎる、って船中の話題になってしまって、針の筵になってたかもね。
「有り得るなあ…。そういう情けない結末も」
 お前の趣味の悪さばかりが問題になって、格好の話題を提供して。
 俺たちが心配していたようなことは、誰も言いさえしなかったかもな。もっとマシな恋人を探すようにと、前のお前に進言するヤツが次から次へと現れるだけで。



 前の自分との恋がバレたら、若いツバメになるらしいハーレイ。年の差が大きすぎるから。前の自分の方が遥かに年上、ハーレイの立場は若いツバメに違いないから。
 そうなっていたら、と二人して笑い転げた。実際は誰にもバレはしなくて、今の時代もバレてはいない。前のハーレイは航宙日誌に書かなかったし、前の自分も記録を残しはしなかったから。
 誰も気付きはしなかった恋。ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの恋。
(あれ…?)
 確かに隠し続けた恋。誰にも知られてはならないと。
 白いシャングリラが出来上がった後、アルテメシアに辿り着いてから芽生えた恋。アルタミラの地獄で出会った時から、ずっと互いを特別に思っていたくせに。
(…ぼくもハーレイも、恋だと気付いてなかったから…)
 恋に落ちた時は、船に新しい仲間が増えていた。ソルジャー・ブルーしか知らない仲間。チビの頃の自分をまるで知らなくて、ハーレイとの恋がバレた時には若いツバメだと思いそうな仲間。
 そういう仲間たちが大勢いた船、その船でハーレイと恋をしていて…。
(前のぼく、必死に隠してた…?)
 今日の自分がやったみたいに。
 母の足音を聞いて、大慌てで椅子に戻った自分。あんな具合に、危機一髪といった状況。
 上手に隠して振舞わないとバレるから、と。
 そうなってしまったら大変だからと、とても慌てたような気がする。白いシャングリラで。



 前の自分が懸命に隠していたらしい恋。若いツバメかどうかはともかく、ハーレイとの恋。
(隠すって、誰から…?)
 皆の前では、あくまでソルジャーとキャプテンだった二人。言葉遣いも、仕草も、全部。
 恋人同士の時間を過ごした青の間や、前のハーレイの部屋。其処から一歩外へ出たなら、全てをきちんと切り替えていた。互いを見る時の表情までも。
 そこまで徹底していたのだから、自分たちの仲を見破れるような仲間はいなかった筈。
 恋人同士になるよりも前から、ハーレイと二人で朝食を食べていたから、なおのこと。早朝から青の間にハーレイがいても、あくまでキャプテンの仕事の一環。報告する事項が多かっただけ。
 キャプテンが夜に青の間に行くのも、一日の報告をしに出掛けるわけだし、問題はない。報告を終えてキャプテンの部屋に帰ったかどうか、監視するためのカメラも無かった。監視カメラを常に見ている者だって。
 白いシャングリラは、管理社会だった人類の世界とは違ったから。皆の生活を尊重したから。
 そのせいで、後にキースが逃亡した時、対応が後手に回ったけれど。捕虜の部屋を監視していたカメラはあっても、逃げ出した先の通路などには監視カメラが無かったから。
 そういう船だったシャングリラ。恋人同士で過ごす時間を隠すくらいは簡単なこと。
(別に必死に隠さなくても…)
 人のいない通路でハーレイとキスをしていたほどだし、苦労をしていた筈がない。普段の行動に気を付けていれば、決してバレはしないのだから。
(でも、慌ててた…?)
 バレてしまう、と慌てた記憶。さっき自分が慌てたように。
 しかも、一度や二度ではなかったような気までしてきた。何度も慌てふためいていた、と。
 そんなことなど有り得ないのに。上手く隠して、平然と振舞っていた筈なのに。



 何か変だ、と首を傾げてしまった記憶。前の自分たちは本当に上手くやっていたのに。
(…慌てるなんてこと、一度も無かった筈なんだけど…)
 記憶違いか何かだろうか、と考え込んでいたら、ハーレイに「おい」と声を掛けられた。
「どうかしたのか、黙り込んじまって」
 可笑しそうにコロコロ笑っていたのに、いきなり黙ってしまったぞ、お前。
 お母さんの足音がした時みたいに、それこそピタリと。
「それなんだけど…。前のぼくも慌てていたような気がして…」
 変だよね、慌てることなんか一度も無い筈なのに。…いつもきちんとしてたのに。
「何の話だ?」
 慌てるだとか、前のお前だとか。俺にはサッパリ分からないんだが…?
「若いツバメの話だよ」
「はあ?」
 ますます謎だぞ、若いツバメの話で笑っていただろうが、お前。…慌てるどころか。
「本物の若いツバメだってば、前のハーレイとぼくのことだよ」
 バレたら大変、って慌ててたような気がするんだよ。前のぼくが。
 それも一回や二回じゃなくって、何回も…。バレちゃいそうだ、って大慌てで。
「それは無いだろ、俺たちは注意してたんだから」
 お前の部屋と俺の部屋でしか、恋人同士の会話はしない。…そいつが基本だ。
 外で会ったらソルジャーとキャプテン、表情にだって気を付けてたぞ。慌てるも何も、そういう場面が無いと思うが?
 青の間も、前の俺の部屋も、許可を得てから入るというのがシャングリラの約束事だったし。
「そうだよねえ?」
 今のぼくの部屋と違って、うんと特別な部屋だったから…。青の間も、前のハーレイの部屋も。
 挨拶もしないで入る仲間はいないし、ベッドに入っていたとしたって、時間はたっぷり…。
 少し待って、って返事しておいて、起きて着替えればいいんだから。
 中の様子は覗けないもの、シャワーを浴びる間だって待たせておけるよ。ぼくもハーレイも。



 今の自分の部屋と違って、閉じ籠もれた上に、証拠隠滅のための時間も取れた部屋。前の自分が暮らしていた部屋、青の間の守りは完璧だった。キャプテンの部屋も似たようなもの。
(…部屋付きの係も、留守の時しか黙って入りはしなかったから…)
 不意打ち出来るような仲間は誰もいなかった筈、と思った途端に気が付いた。たった一人だけ、いたことを。不意打ちして来た例外が一人。
「そうだ、ジョミーだ…!」
 ジョミーだったんだよ、前のぼくを慌てさせてたの…!
 ぼくとハーレイが一緒にいる時に、何度も青の間に入って来て…!
「あいつか…!」
 そういや、あいつがいたんだっけな。…俺も何度も慌てたんだった、いきなり来るから。
 何の前触れも無いんだよなあ、なまじっかタイプ・ブルーなだけに。
 おまけに、入室許可なんか取りはしなくて、いつも突進して来やがるんだ。自分の都合で。
 あのタイプ・ブルーの厄介者は…、とハーレイも顔を顰めたジョミー。
「…前のぼくもウッカリしてたんだけどね…」
 ジョミーが船にやって来た頃には、何も問題無かったから。…ぼくたちのことに関しては。
 他の件だと、問題は山積みだったけど…。ジョミーは少しも船に馴染もうとしなかったしね。
「喧嘩は起こすわ、ヒルマンの言うことも聞きはしないわ…」
 そんな調子だから、そもそも青の間に来なかったしな。お前の方針でもあったわけだが…。
 自分の意志で来ようとするまで放っておけ、と。
 あれじゃ作法を学ぶことさえ無いってな。青の間に入る時には入室許可を貰うこと、と。
「うん…。それを教えるのは、ヒルマンだし…」
 そのヒルマンの講義だってロクに聞きやしないし、エラの出番は無かったし…。
 ソルジャーに敬語で話すどころか、青の間に行く時の礼儀作法を教わる場面も無かったよね…。



 それも良かろう、とジョミーを放っておいたのが前の自分。挙句にジョミーは、船に慣れなくて逃げ出したほど。「ぼくをアタラクシアに、家に帰せ」と言い放って。
 もっとも、全て計算ずくではあったけれども。
「ジョミーが船で暮らしてた間、ぼくは弱っていたけれど…」
 成人検査を妨害するのに力を使いすぎてしまって、身体を起こすのも辛かったけれど…。
 でも、ハーレイはちゃんと毎晩、ぼくの所に来てくれていたし…。
「何も変わりはしなかったからなあ…。俺たちが二人で過ごす時間は」
 弱っちまったお前を抱き締めて、「早く治せよ」って言ってやって。
 時間がある日は野菜スープも作っていたんだ、お前のために。…お前が寝込んだ時と同じに。
「うん…。たまにジョミーの強い思念が飛び込んで来たけど…」
 夜はジョミーも眠っていたしね、ぼくたちの邪魔にはならなかったよ。ほんの少しも。
 だから…。



 二人して安全だと思い込んだジョミー。他の仲間たちと同じで問題無し、と。
 ソルジャー候補としての前途は多難だけれども、それはそれ。自分たちの恋が脅かされる心配は無いと、今までと何も変わりはしないと。
 いずれジョミーが一人立ちしたら、ソルジャー・ブルーは不要になる。ソルジャーはジョミーに代替わりをして、前の自分の負担も減るかもしれない、と思ったくらい。
 そうなったならば、残り少ない寿命が尽きるまで、ハーレイとゆっくり過ごせるだろう。二人でいられる時間の長さは変わらなくても、自分の負担が減った分だけ。
(そんな夢まで見てたんだけどな…)
 きっと幸せに違いない、とその日を夢見た。いつかソルジャーではなくなる日を。



 ジョミーが船から出て行った後も、直ぐに戻ると考えていた。自分の居場所が無いという現実、それをアタラクシアで知ったら。空っぽになった家を見たなら。
 船に戻れば、ジョミーはソルジャーを継ぐしかない。そして自分はいずれ引退。
 そう思ったのに、一筋縄ではいかなかったジョミー。船には戻らず学校に出掛け、幼馴染たちに会ったりしたから、直ぐに追手がかかってしまった。
 ジョミーはユニバーサルに捕まり、それからはもう大変な騒ぎ。前の自分は命懸けでジョミーを追う羽目になった。自分は生きて戻れなくても、ジョミーだけは、と。
(だけど、なんとか戻って来られて…)
 思った以上だったジョミーのサイオン、それに救われて戻った自分。力は尽きていたけれど。
「お前が無事に戻ってくれてホッとしたんだ、あの時は…」
 ジョミーには散々振り回されたが、とハーレイが今でも呻くくらいの命の瀬戸際。死んでいても不思議ではなかった状況。ハーレイはきっと、気が気ではなかったのだろう。
「…ぼくも嬉しかったよ、生きて戻れて」
 もう戻れないと思っていたもの、シャングリラを離れて飛び立った時は。
 …こんな所で死んじゃうんだな、って。ハーレイに「さよなら」も言えないままで。
 それなのに、生きて戻って来られたから…。ハーレイが「大丈夫ですか」って来てくれたから。
 幸せだったよ、またハーレイと生きてゆけるんだ、って。
 いつかジョミーがソルジャーになったら、もっと幸せに残りの時間を過ごせるよね、って…。



 思いがけなく手に入れられた、命の続き。ハーレイと一緒に生きてゆける時間。
 その幸せを噛み締めながら日々を過ごして、ある夜、青の間で抱き合っていたら。
「ソルジャー・ブルー!」
(えっ!?)
 突然響いた声に、慌てて離れた。ハーレイの胸から。
 すっかり身体が弱っていたから、本当にただ抱き合っていただけ。ソルジャーの衣装もマントも着けたまま、ハーレイもキャプテンの制服のままで。ベッドの端に腰を下ろして。
 前の自分は座り直して、ハーレイはベッドの側に控えた。其処へ駈け込んで来たジョミー。息を切らせてスロープを上がって。
 そして、ようやく二人いることに気が付いたらしく。
「あれっ、ハーレイ?」
 何故、とキョトンとしているジョミーに、ハーレイは穏やかな笑みを浮かべて返した。
「どうなさいました、ジョミー?」
 こんな時間に…。居住区や通路は、とうに暗くなっていると思いますが…?
「ううん、ちょっと…」
 特に用事は無かったんだけど…。その…。ちょっとだけ…。



 腹が立ってとても眠れないのだ、と零したジョミー。昼間の訓練で長老たちに小言を言われて、横になるとそれを思い出すから。ゼルの怒鳴り声やヒルマンの渋面、エラの顰めっ面などを。
 誰かに愚痴を言いたくなっても、ジョミーの周りにまだ友はいない。船の仲間たちは、人類軍に攻撃された時のことを覚えているから。
 それがジョミーのせいだったことも、ソルジャー・ブルーまで喪いかねなかったことも。
 だから駆け込んで来たジョミー。愚痴を言うなら此処が一番、と。ハーレイがいたことに驚いたものの、ジョミーは一息に不平不満をぶちまけて…。
「…ごめん、遅くに文句ばかりで。でも、全部言ったらスッキリしたから…」
 また明日からは頑張れそう。おやすみなさい!
「あ、うん…。おやすみ、ジョミー」
「キャプテンも遅くまでご苦労様! お互い、毎日大変だよね!」
 無理しないでね、と元気に駆け出して行ったジョミー。さっきまでとは打って変わって、明るい笑顔でスロープを降りて。その姿が扉の向こうに消え失せてから…。
「…ご苦労様じゃない…んだけどね?」
 君は仕事に来たわけじゃなくて、ただ単に…。
「ええ…。仕事はとうに終わりましたし…」
 あなたのお側にいるというだけで、これから寝ようかという所ですが…。
 おやすみのキスをあなたに贈って、あなたを腕にしっかりと抱いて。
 まさかジョミーがやって来るとは…、とハーレイを嘆かせた、とんでもなかった闖入者。
 安全だとばかり思っていたのに。他の仲間と全く同じで、何の心配も無いと信じていたのに。



 それから後も何度もやられた。ハーレイと二人で過ごしている時、何の前触れもなく飛び込んで来たジョミー。普段は思念で分かるというのに、この時ばかりは分からなかった。
(…腹が立ってた分、遮蔽の力が逆に強かったとか…?)
 誰にも言えない愚痴を抱えて怒っていたから、そのせいで。筒抜けにならずに、胸の中だけ。
 「ブルー!」と叫ぶ声を聞く度、何度慌てたか分からない。早くハーレイから離れなければと、きちんとジョミーに向き合わねばと。
 前の自分が深く眠ってしまうまで。ハーレイと二人で眠っていた夜が無くなるまで。
「…前のぼく、ジョミーのせいで、とっても苦労してたよ…」
 いつ飛び込んで来るか分からないから、いつだって、とても大慌てで。
「俺もそういう気がしてきた。…苦労したんだ、と」
 あいつはお前のお母さん以上に、パターンが読めなかったしな…。
 今日は来そうだ、と身構えていたら、来ないで終わって肩透かしを食らうし、その逆も、だ。
 おまけに足音がするわけでもなくてだ、いつもいきなり「ブルー!」なんだ。
「タイプ・ブルーな上に、元気は余っていたからね…」
 変な時だけ、遮蔽が完璧だったんだよ。愚痴を零しながら走って来たら分かるのに…。
 全部溜め込んで、少しも漏らさずに走って来るから、余計に始末が悪かったんだよ。
 そんなジョミーに、「青の間に入る時には、許可を取ること」って言っても怒るだけだから…。
 今更教えても仕方ないよね、って諦めるしか無かったんだよ…。



 何度も慌てさせられたけれど、それでもジョミーには気付かれないで済んだ恋。青の間に夜遅くキャプテンがいても、仕事なのだとジョミーは勘違いをしてくれたから。
 とはいえ、危うい橋を渡っていたのだろうか、今から思えば。
 ジョミーが来てからは、自分たちの恋は。
 一つ間違えたら、二人一緒にベッドの中だとか、キスの最中かもしれなかったから。
「…前のぼくの後継者、危険が一杯…」
 ミュウの未来のためには必要だけれど、凄く危険な存在だったかも…。
「前の俺たちにとってはな。いきなり飛び込んで来るんだから…」
 どんなはずみでバレてしまうか分からないじゃないか、俺たちがどういう関係なのか。
 俺はいつだって青の間にいたし、お前と抱き合っていた真っ最中だし…。
「…バレてないんだよね?」
 前のぼくとハーレイが、恋人同士だったこと。…ジョミーは知らなかったんだよね?
「そうだと思うぞ。…お前がいなくなっちまった後に、何も言われていないからな」
 気付いていたなら、きっと慰められただろう。俺は恋人のお前を失くしちまったんだから。
「それが根拠なの? だったら、どうかな…」
 ジョミー、人が変わったみたいになってたんでしょ、ナスカから後は。
 わざわざハーレイに言いに来るかな、「大丈夫かい?」って。
 ハーレイを慰めているような暇があったら、とにかく進め、ってことにならない…?
「そういえば、そうか…」
 俺の魂が死んでしまっていたのと同じで、あいつは感情をすっかり殺しちまってた。
 例外なんかがあるわけがないな、たとえ前のお前の恋人でもな…。



 結局、ジョミーは気付いていたのか、いなかったのか。
 何度も不意打ちされたけれども、前の自分とハーレイとの恋に。いつも二人で迎えたけれど。
「…謎だね、ジョミーがどっちだったか…」
 知っていたのか、知らないままか。…なんにも記録は残ってないし…。
「うむ。気付いていたのに、秘密を抱えて死んじまったのか、それとも知らなかったのか…」
 謎ではあるなあ、あいつのこと。
 今となっては確かめようもないんだが…、とハーレイも首を捻っているけれど。
 前の自分たちの恋に、気付いていたかもしれないジョミー。何度も青の間に飛び込む内に。
 もしもそうなら、ジョミーに礼を言っておかねばならないだろう。
 前のぼくたちの秘密を守ってくれてありがとう、と。お蔭で幸せな恋が出来たよ、と。
「…ハーレイ、どうする? ジョミーが秘密にしてくれてたなら…」
 お礼を言わなきゃ駄目だと思うよ。前のぼくたち、ジョミーに見逃して貰ったんだから。
 シャングリラ中に思念波で喋られてたって、何も文句は言えないのに…。
 あの頃のジョミーの勢いだったら、本当に全部、筒抜けなのに。
「…一応、言うか? ありがとう、と」
「言っておきたいと思わない? だって、ジョミーはジョミーだもの」
 ぼくたちの恋には気付いてなかったとしても、地球まで行ってくれたソルジャー。
 命懸けで前のぼくの願いを叶えてくれたよ、だから御礼を言っておこうよ。
「そうだな、あいつも本当に最後まで頑張ったしな…」
 よし、とハーレイが頷いてくれたから、二人で窓の向こうの空に向かって御礼を言った。
 ありがとう、と。
 ぼくたちはとても幸せだからと、ジョミーも何処かで幸せに、と。
 前の自分たちの秘密の恋を、知っていたかもしれないジョミー。
 それならば、本当にありがとうと。今度の恋は秘密にしないで、結婚して幸せになるからと…。




             隠していた恋・了


※前のブルーとハーレイの恋に、気付いていたかもしれないジョミー。何度も二人を見る内に。
 けれど、どうだったかは分からないまま。ジョミーは気付いていたのでしょうか、本当は。
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