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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(あっ、ハーレイ!)
 見付けちゃった、と喜んだブルー。飛び跳ねた心。
 学校の休み時間に見付けたハーレイ、前の生から愛した恋人。学校では「ハーレイ先生」としか呼べないけれども、やっぱり心が弾んでしまう。ハーレイの姿を目にしたら。
 そのハーレイは、授業に使うための資料なのだろうか、箱を抱えて運搬中。腕に紙袋まで提げているから、絶好のチャンス。
(お手伝い…!)
 ハーレイと一緒に歩いてゆける、と張り切って近付いて呼び掛けた。「ハーレイ先生!」と。
「ぼくも手伝います。荷物、何処まで運ぶんですか?」
 そう尋ねたら、ハーレイはチビの自分を見下ろしながら。
「おいおい…。手伝うだなんて、重いぞ、これは」
 見た目よりずっと重いんだが、と「よし」と言ってはくれないハーレイ。けれど、手伝いをするチャンス。ハーレイと並んで歩いて行けるし、歩く間は話も出来る。諦めたくない、お手伝い。
「ぼく、お手伝いしたいんです」
 重いんだったら、先生だって大変でしょう?
 箱は無理でも、袋くらいなら、ぼく、持てますから!
「そうなのか? お前の気持ちは嬉しいんだが…」
 紙ってヤツは重いんだよなあ、見掛けよりもずっと。この紙袋の中身もそうだ。
 袋が頑丈に出来ているから、重い中身でもいけるってだけで…。並みの袋だと底が抜けるぞ。



 持てるのか、とハーレイが渡してくれた紙袋。
 大きさの割にズシリと重くて、腕がガクンと下がってしまった。片手で受け取ったものだから。これは駄目だ、と慌てて添えた手。右手に加えて左手まで。
 ハーレイは一部始終を見ていたわけだし、「ほらな」と荷物を取ろうと手が伸びて来た。
「やめとけ、お前には重すぎる」
 俺だと片手で提げて行けるが、お前だと両手になっちまう。重い証拠だ、重すぎるんだ。
 返せ、とハーレイが箱を片手で持ったままで言うから。
「大丈夫です!」
 ハーレイ先生はこれを片手に通して、両手で箱じゃないですか!
 紙袋だけでも、ぼくが持ちます。そしたら箱も持ちやすいでしょう?
「そりゃまあ…。バランスは良くなるな」
 なら、頼むかな、とハーレイが言ってくれたから。「やった!」と躍り上がった心。
(運んでいる間は、ハーレイと話…)
 荷物くらいはなんでもないや、と両手でしっかり握り直した。重い紙袋の持ち手の部分を。握り直したら、両手にかかる重さが丁度いい感じ。これならいける、と嬉しくなった。
(途中で持てなくなっちゃったら…)
 恥ずかしいもんね、と両手で提げた重たい袋。本当に見掛けより重い、と。



 ハーレイと二人で歩き始めて、話題にしようと思った荷物。紙袋の中身。覗こうとしても、袋の中身が見えないから。歩きながら開けてみて覗き込めるほど、腕の力に余裕が無いから。
「ハーレイ先生、この紙袋はプリントですか?」
 全部のクラスで配るプリント、これに入っているんですか?
 それなら分かる、と考えた袋の重さだけれど。
「プリントじゃないぞ。資料に使う本が入っているんだ、何冊もな」
 教科書はそれほど重くはないが…。そいつの中身は俺の私物で、コレクションとも言うだろう。趣味で集めた資料の本でだ、学校の図書室には無かったもんでな。
 いい本ってヤツは重いんだ、と教えて貰った。図版や写真が沢山詰まった資料本。教科書だって写真は多いけれども、大勢の生徒に配るものだから、値段も安い。
 けれど、ハーレイが趣味で集める本の類は、紙の質が全く別物らしい。上質な紙を使った本。
(いい本、それで重いんだ…)
 シャングリラの写真集も重かったっけ、と気が付いた。ハーレイとお揃いの豪華版。お小遣いで買うには高すぎたから、父に強請って買って貰った。あの写真集もズシリと重い。
 それが分かっても、学校では話題に出来ないけれど。
 ハーレイと二人で歩いていたって、教師と生徒。恋人同士ではないのだから。



 ちょっと残念、とガッカリした所へ掛けられた声。
「シャングリラの写真集、重いだろ?」
 お前の本棚に入っているヤツ。あれもな、紙の質がいいから…。同じの、俺も持ってるしな。
「ハーレイ先生?」
 思いがけないシャングリラの名前。時の彼方で、ハーレイと暮らした白い船。
「お前もアレが好きなんだよなあ、写真集、持ってるくらいだからな」
 みんなの憧れの宇宙船だし、豪華版でなくても写真集を持ってる生徒はきっと多いだろう。
 わざわざ豪華版を持ってるってことは、パイロットでも目指してるのか?
 だったら、もっと身体を丈夫にしないとな、とハーレイの言葉は続いてゆく。パイロットになる道をゆくなら、健康な身体を作ること。まずはそこから、と。
(やっぱりね…)
 普通の生徒と話すんだったら、こうなるよね、と思いながらも相槌を打って、質問も。宇宙船を動かすパイロットの知り合い、いましたよね、とか。
 前の自分たちの話は出来ないけれども、幸せな会話。
 パイロットになったハーレイの古い友人、その人がやっていたトレーニングとか。丈夫な身体を作るためには、運動するのが一番だとか。



 重い紙袋を古典の教師が集まる準備室まで運んで届けて、其処までの道でたっぷり話せた。立ち話よりもずっと沢山、色々なことを。
 紙袋をハーレイの机の上に置いたら、「助かったぞ」と御礼を言って貰えて…。
「いいか、他の生徒には内緒だぞ?」
 誰か来る前に早く食っちまえ、とハーレイがくれた御饅頭。「生徒が来たらうるさいから」と。
 先生たちが食べるためのおやつの箱から、一個貰えた。
(…これ、美味しい!)
 蕎麦饅頭だけれど、皮も中身の餡子も絶品。他の先生たちも笑顔で見ている。ハーレイの話では人気の商品、この準備室でもよく買うらしい。それをモグモグ美味しく食べて…。
「ありがとうございました!」
 ペコリと頭を下げたら、「俺の方こそ助かった。ありがとう」と声が返ったから。
 得しちゃった、と教室に帰る間も弾む足取り。ハーレイと二人で並んで歩いて、色々と話して、おやつも貰えた。古典を教える先生たちのお気に入りのおやつ。
(御饅頭、美味しかったよね…)
 夢中で食べてしまったけれども、包み紙をよく見れば良かった。そうすれば分かった、御饅頭の名前。作っている店も。
(ママに頼んで買って貰えるのに…)
 でも、またハーレイに訊けばいい。何処のだったの、と尋ねたら教えてくれるだろう。
 大好きなハーレイと沢山話せて、オマケにおやつ。荷物は重たかったのだけれど、浮き立つ心。お手伝いをした甲斐があったと、御饅頭も貰えてしまったしね、と。



 御機嫌で過ごした、今日の学校。その帰り道に、ちょっぴり痛いと感じた腕。
(あれ…?)
 何か変だよ、と不思議に思った。どうして腕が痛むのだろう、と。バス停で降りて、のんびりと歩いて家に帰って、着替えようと制服を脱ごうとしたら…。
(なんだか痛い…?)
 肩から肘の間あたりが。手首の近くも少しだけ痛い。
 なんで、と右手で左腕をさすって、次は左手で右腕を。両方の腕が同じくらいに痛くて…。
(ハーレイの荷物…!)
 重い紙袋を提げて歩いたから、筋肉痛だ、と気が付いた。重い荷物など、普段は持つことが全く無いから、悲鳴を上げている筋肉。頑張りすぎた、と。
 重い荷物は持たない上に、運動だって控えめな自分。
(筋肉痛になるほど、やっていないし…)
 そうなる前に体育は見学、他の生徒が次の日に「痛い」と言っているのを耳にする程度。だから分かるまでに暫くかかった。これは筋肉痛なのだ、と。



 自分とは無縁な体育の授業の筋肉痛。クラスのみんなが痛がっていても、自分は平気。そこまで運動するよりも前に、手を挙げて見学に回っているから。
(まだ痛くなる…?)
 どうなんだろう、と心配になった、おやつの後。部屋に戻って動かしてみた腕、やっぱり痛い。上げようとしたら痛みが走るし、肩から大きく回してみても。
(筋肉痛なんて…)
 経験自体が少ない上に、荷物で起こしたことがない。腕では一度もやっていなくて、遠足の後で足に来たのが数回だけ。普段よりも沢山歩いたせいで。
(足は痛くて、重かったけど…)
 腕の場合は、どのくらい痛くなるのだろう?
 今は痛いと思うだけなのが、動きに支障が出るだとか。腕も上げられないくらいになるとか。
(明日の朝になったら、うんと痛いとか…?)
 痛すぎてベッドから起き上がれないほどに。そんなことになったら、学校に行けない。筋肉痛で欠席だなんて、ハーレイに会える学校へ行けなくなるなんて。
(ハーレイ先生でも、ハーレイなんだから…)
 休みたくないよ、と心配していたら、チャイムが鳴った。仕事帰りのハーレイが母の案内で来てくれて…。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで座るなり、微笑んだハーレイ。
「今日のお前は頑張ったな、うん」
 俺の手伝い、よく頑張った。途中で投げ出したりせずに。
 あの紙袋、重たかっただろう?



 準備室まで運べたとはな、と褒められたのは嬉しいけれど。御礼の御饅頭まで貰ったけれども、今の自分は筋肉痛。重すぎる紙袋を提げて歩いたせいで。
「それなんだけど…」
 腕が痛いよ、と訴えた。両方の腕のこの辺だけど、と。
「ほほう…。筋肉痛になったか、流石はチビだ」
 もう痛いなんて、若さの証拠だな。ダテに小さいお前ではない、と。
「え?」
 なんなの、若さの証拠だなんて。ぼくは両腕、痛いんだけど…。
「筋肉痛だろ? 若いほど早く来るってな」
 若い内なら、動かしたその日に出ちまうもんだ。ちょっと痛いな、というのがな。
 ところが、もっと年を取ったら、筋肉痛が出るのは遅い。次の日まで全く出ないヤツもいる。
「そうなの?」
 ハーレイの年だと、その日には痛くならないの?
「どうだかなあ…。俺の場合は鍛えているから、今でも早く出るんじゃないか?」
 そうは言っても、起こさないんだがな、俺は筋肉痛なんか。
 日頃からしっかり鍛えておけばだ、筋肉は怠けやしないわけだし…。
 筋肉痛ってヤツは、普段使っていない筋肉を急に動かすから、ズシリと痛みが来るってな。
 お前、腕の筋肉を使ってないから、あの程度で痛くなっちまう、と。
 柔道部のヤツらがアレを提げても、筋肉痛にはならないぞ。お前より長く持っていたって。



 お前の腕は弱すぎだ、と言われてしまった。「だからやめておけと言ったのに」と。
「俺は重すぎると止めた筈だぞ、なのに持つから…」
 途中で俺に渡せばいいのに、頑張って運んじまったから…。自業自得といった所か。
「まだ痛くなる?」
 今よりも腕が痛くなるかな、腕を上げるのも辛くなっちゃう?
「当たり前じゃないか、痛み始めたトコなんだから」
 明日の朝辺りが最高なんじゃないのか、その筋肉痛。いや、昼頃か…?
 こればっかりは個人差だしなあ、俺にも読めはしないんだが。
「そんな…。ぼく、学校に行けなくなっちゃう…」
 両腕が痛くて起き上がれなかったら、ベッドから出られないんだし…。
 ママに「駄目」って言われなくても、学校、お休みになっちゃうよ…!
「そこまで酷くはならんだろうさ。うんと痛くても、腕は動くしな」
 我慢してエイッと起きればいいんだ、動かしていればその内にちゃんと慣れるから。
 だが、そうなるのが嫌なんだったら、今の間に薬でも塗っとけ。
 家に無いのか、筋肉痛の薬。お父さんが使っているかもしれんぞ、ゴルフ、好きだろ?
 あれで起こしちまうこともあるしな、塗ってる所を見たことないか?
「…分かんない…」
 お薬、パパが持ってるとしても、リビングとかでは塗ってないから…。
 家にあるのかどうか分からないよ、ぼくが小さかった頃がどうだったのかも分かんない…。
 遠足で足が筋肉痛になったけれども、お薬、塗って貰ったかどうか…。



 筋肉痛の薬が家にあるのか、本当に分からなかったから。幼かった頃にはどうしたのかも、全く思い出せないから。そう答えたら、ハーレイは「ふうむ…」と腕組みをして。
「なら、もう一度、持ってみるんだな。重たい荷物」
 お前の鞄に重い本を詰めて、暫く提げて立ってればいい。部屋の中をぐるぐる歩くのもいいな。
 俺の荷物を提げていた時間と同じほどだけ。
「どうして?」
 重い荷物で筋肉痛だよ、なのに重い物なんか持ってどうするの…!
「筋肉痛が治ると言うんだ、同じことをすれば」
 起こしちまったのと同じくらいの運動、そいつをやったら治っちまうと。
「ホント?」
 本当にそれで治ってくれるの、筋肉痛?
 薬を塗ったりしなくてもいいの、もう一度、重い荷物を持てば?
「少なくとも俺はそうだったが?」
 ガキの頃には、それで治した。柔道や水泳でハードな練習をやった時には起こしたからな。
 これじゃいかん、と運動だ。そしたら嘘のように治った。
 とはいえ、こいつを半端にやったら余計に痛いが…。筋肉痛の上から筋肉痛で。
「嫌だよ、それは!」
 治せるんなら、鞄、重くして持つけれど…。もっと酷くなるかもしれないだなんて!
 そうなるよりかは我慢しとくよ、明日の朝にうんと痛くったって…!
 ちゃんとベッドから起きられるんなら、痛くても我慢しておくから…!
「ほら見ろ、だから言ったのに…」
 これは重いからやめておけ、とな。お前の腕の強さくらいは、充分、知ってる。
 重い荷物を持てるようには出来ていないということも。
 ん…?



 そういえば、と顎に手を当てたハーレイ。「前のお前もやってたっけな」と。
「前のぼくって…。何を?」
 何をやったの、前のぼくは…?
「筋肉痛の話なんだし、筋肉痛に決まってるだろう」
 今のお前と全く同じに、腕の筋肉痛だったが?
「それって、いつ?」
 覚えていないよ、筋肉痛だなんて。それに腕って、なんで前のぼくが…?
「アルタミラからの脱出直後の話だな。まだシャングリラじゃなかった頃だ」
 そんな名前はついていなくて、とにかく船で生きていこうという時期だった。行き場所なんかがあるわけがないし、この船で生きていかないと、と。
 その頃にお前が始めただろうが、船の片付け。通路とかにも積んであった荷物を整理するとか。
 チビのお前がやり始めたから、俺や他のヤツらも手伝い始めて…。
 前のお前は、俺が腕の力で荷物を運ぶのを見てて、サイオン抜きで挑んじまって。
 それで筋肉痛を起こしたわけだな、運んだ荷物が重すぎたから。
「思い出した…!」
 やっちゃったんだっけ、前のぼく…。
 サイオン無しでも運べるよね、って調子に乗って運び過ぎちゃって…。



 蘇って来た、遠い日の記憶。アルタミラの地獄を後にしてから、間もない頃。
 前の自分は船の中を片付けようと考えた。今と同じに綺麗好きだったから、雑然と積まれた物を片付けて、通路や部屋を使いやすく、と。
 それをハーレイが手伝ってくれた。最初はハーレイ一人だけ。やがて少しずつ増えた仲間たち。
(片付けるの、荷物だったから…)
 此処だ、と決めた場所まで運んだ。それがあの船の備品倉庫の始まり。
 どんな荷物でも、軽々と運んでゆけたサイオン。宙に浮かせて、指一本で押してゆけたほど。
 けれどハーレイは、そのサイオンを使わなかった。「身体がなまる」と、ただの一度も。いつも肉体の力だけ。重い荷物でもヒョイと持ち上げて、抱えて行ったり、担いでいたり。
 ある時、ハーレイが「これもだな」と床から抱え上げた大きめの荷物。まるで重さなど無いかのように。その上に更に他の荷物も積もうとするから、つい気になって訊いてみた。
「そんなに軽いの?」
 もう一個持とうとしてるくらいだし、その荷物、とても軽いわけ?
「軽いってこともないんだが…。大したことはないぞ、こいつは」
 気になるんだったら、ちょっと持ってみるか?
 お前、いつでもサイオンだしなあ、たまには腕で持つのもいいだろ。



 そう勧められて、受け取った荷物。予想していたよりもズシリと重くて、危うく床に落としそうだった。慌ててサイオンで支えたけれど。床に落としはしなかったけれど…。
「重いよ、これ!」
 凄く重い、とサイオンで支えて持っていたそれを、ハーレイは「そうか?」と抱えてしまった。大した重さじゃないんだが、と。それから、上にもう一個、荷物を乗せながら。
「このくらいでないと、身体が駄目になっちまうしなあ…」
 しかし、お前には重すぎた、と。チビだし、仕方ないかもしれんな。
「チビじゃなくても、充分、重いと思うけど!」
 サイオンの加減で見当はつくよ、その荷物が軽いか重いかくらいは!
 他のみんなだったら、絶対、持たない。サイオン無しだと、きっと持ち上げられないよ!
「そういうモンか? …まあ、そうなのかもしれないが…」
 みんな、俺ほど頑丈に出来てはいないようだし、持てないと言われたらそうかもしれん。
 だがなあ…。俺の場合は、こんな荷物でも持っていないと、本当に身体がなまるんだ。
 ずっと鍛えていたもんだから、と妙な台詞を吐いたハーレイ。
 前の自分は沢山の記憶を奪われてしまって、成長も止めていたほどだけれども、自分が置かれた環境くらいは把握していた。アルタミラでも。
 それに「鍛える」という言葉も分かるし、「身体がなまる」というのも分かる。
 だから、ハーレイの言葉に首を傾げた。
 アルタミラでは、誰もが檻の中にいた筈。実験の時しか外に出られず、檻が世界の全てだった。上を見上げても、周りを見回しても、檻があるだけ。なんとか生きてゆける程度の。
 まともに身体を動かすことさえ、上手くはいかなかった檻。狭かった独房。
 あの檻の中で、どう鍛えるというのだろう?
 走り回れはしないのに。軽い運動をするにしたって、檻はあまりにも狭すぎたのに。



 目をパチクリとさせていた自分。ハーレイがいた檻は特別だったのだろうか、と。
「えっと…。鍛えたって、何処で?」
 ハーレイがいた檻は広かったとか、ぼくと違って運動のために出して貰えたとか、そういうの?
 でないと鍛えられないし…。あの檻は凄く狭かったから。
「俺の檻だって、他のヤツらと一緒だったが?」
 身体がデカイからって、広い檻をくれるわけがないだろ、研究者どもが。たかが実験動物に。
 俺はな、実験で鍛えられたんだ。この図体だからこその実験だろうな。
 負荷をかけるってヤツが多かったわけだ、どの段階でサイオンを使い始めるかを調べるんだな。
 「これを持ってろ」と持たされた箱が、どんどん重くなっていくとか…。
 背中に何かを背負わされてだ、そいつが重くなっていくのに、そのまま立っているだとか。
 そうやって鍛えられたんだ。何度もやってりゃ、耐えられる重さも増していくしな。
 多分、最初から、ミュウにしてはデカくて頑丈だったということだろう。成人検査でミュウだと分かって、捕まっちまった時からな。
 お蔭で、こういうデカブツになった。研究者どもに鍛え上げられて。
 だから、重い荷物も軽々と持てるし、身体も丈夫に出来ている。そいつを使ってやらないと。
 もったいないだろ、せっかくの身体がなまっちまって駄目になったら。
 お前、知らないってことは、やっていないんだな、その手の実験。
「多分…」
 やってないと思うよ、ハーレイに聞いても「あれだ」ってピンと来ないから。
 ぼくでは試してないんじゃないかな、そういうのは。



 覚えていないだけかもしれないけれど、と付け足しはした。ハーレイよりも長い年月、檻の中で暮らしていたのだから。何度も実験を繰り返されては、記憶を失くしていったのだから。
(ぼくは唯一のタイプ・ブルーで…)
 貴重だとされた実験動物。負荷をかけるような実験よりかは、毒物などを試しそうではある。
 けれども、それを始める前には、負荷の実験もあったかもしれない。自分がペシャリとへばってしまって、「話にならない」と打ち切られたとか。
(…それもありそう…)
 体格のいいハーレイと、細っこい自分。実験内容は大きく異なっていた。
 自分には無かった、鍛えられるチャンス。重くなってゆく荷物を抱えて立っているとか、背中に背負って立ち続けるとか。聞いただけでも辛そうな実験。
 けれどハーレイは頑張って耐えて、身体を鍛えて、今は軽々と持ち上げる荷物。サイオンを一切使うことなく、腕の力だけで。自分や他の仲間たちなら、サイオンを使って運ぶのに。
 それでは駄目だ、と思った自分。やはり身体も鍛えなくては、と。
 だから…。
「分かった、ぼくも頑張ってみるよ」
 ハーレイみたいに強くなるには、積み重ねが大切みたいだから。
「はあ?」
 積み重ねって…。何をする気だ、何を頑張ってみようと言うんだ?
「荷物運びに決まっているよ」
 鍛えたいからね、強くなれるように。…サイオンばかり使っていないで、腕の力も。
 今は無理でも、その内にきっと、ハーレイみたいに持てるようになると思うから…。
 頑張って鍛え続けていたなら、力だって強くなりそうだから。



 サイオンだけが強くても駄目だ、と前の自分は考えた。肉体の力も強い方がいい、と。強い腕があれば重い荷物を持てるし、軽々と運んでゆけるのだから。
 鍛えるのが一番、と張り切って持ち上げてみた床の上の荷物。腕の力だけで。
(このくらいなら…)
 大丈夫だよ、とサイオンは無し。さっきまでは使っていなかった腕。
(うん、この方が…)
 ずっといいかも、という気がした。今はミュウばかりの船にいるから、サイオンを当然のように使うけれども、アルタミラでは使えなかった。檻はサイオンを封じ込める仕掛けが施されていて、檻の外では首にサイオン制御リングを嵌められたから。
 つまりは人類が嫌うサイオン、使わずに済むならその方がいい。サイオンが無ければ、ミュウは化け物とは呼ばれないから。ただの人間なのだから。
 いつも化け物と呼ばれた自分。檻に入れられ、人間扱いされなかった自分。
(あんな力を持っているから…)
 嫌われるんだ、と思ったサイオン。荷物をサイオンで運ぶ自分と、サイオンを使わずに腕の力で運ぶハーレイなら、きっとハーレイの方が人類に近い。人間らしいと思われるだろう。
(そのハーレイにも、人類は実験してたけど…)
 ハーレイもミュウで実験動物だったけれど、サイオンを安易に使わない分、化け物という名から遠ざかる。サイオンに頼る自分と違って。
 だから自分も人間らしく、と挑んだ荷物。腕の力でもちゃんと持てる、と。
 一つ倉庫まで運び終えたら、「やれた」と覚えた達成感。「ぼくも自分の力で運べた」と。
 もう嬉しくてたまらないから、次はさっきより大きな荷物。
(ちょっと重いけど…)
 でも大丈夫、と抱えて運んだ。もっと大きな荷物を手にしたハーレイと一緒に。
「お前も、やれば出来るもんだな」
 頑張ってるじゃないか、とハーレイが褒めてくれるから、その次はもっと大きな荷物。重くてもサイオンは使わないまま、せっせと運んだ。ぼくにも出来る、と。



 倉庫まで何度も運んだ荷物。より重いのをと、大きいのを、と。これは持てない、と思う荷物は諦めて。自分の力で、腕の力だけで運べる重い荷物を選んで。
「…前のぼく、調子に乗りすぎちゃってた…」
 ちゃんと運べる、って嬉しくなって、何度も何度も重たい荷物を倉庫まで…。
 頑張ったのは良かったけれども、その日の内に筋肉痛になっちゃって…。
 夜になったら腕が痛くて、ちょっと動かすのも辛くって…。
「思い出したか?」
 今日のお前もあれと同じだ、自分じゃ持てるつもりで運んでいたってな。重い袋を。
 俺が無理だと言ってやったのに、そりゃあ嬉しそうな顔だった。俺の手伝いが出来るんだから。
 前のお前とまるで同じだな、調子に乗るトコが。
 運ぶ途中で「もう駄目です」って俺に渡せばいいのに、準備室まで運んじまって。
「どうしよう…。前のぼく、次の日、凄く痛かったんだけど…!」
 ホントに痛くて、ベッドに腕をつくのも辛くて、アルタミラに戻ったみたいな気分。
 頑張って起きて食堂に行っても、腕がプルプルしちゃうから…。
 スプーンもフォークも上手く持てなくて、サイオンを使って食べてたよ。サイオンで持ったよ、スプーンとフォーク。
 今のぼく、サイオン、使えないのに…。うんと不器用になっちゃったのに…。
 明日の朝御飯はどうすればいいの、ママに頼んで食べさせて貰って、学校はお休み?
 学校に行っても、両手が上手く動かせないから…。字も書けなくって、ランチも無理で…。
 そうなっちゃったら、お休みするしかないじゃない…!
「慌てるな。そりゃ、今日よりは痛いだろうが…」
 朝にはかなり痛むんだろうが、お前が持ったの、紙袋を一つだけだろう?
 前のお前みたいに重いのを幾つも運んじゃいないし、あそこまで酷くはならないさ。
 安心していろ、今度のヤツはアレよりはマシな筈なんだから。



 たかが紙袋を一個運んだだけだろうが、と慰められた。「前のお前の時よりマシだ」と。明日の朝に酷くなったとしたって、ベッドに腕をつくだけでも痛いほどではなかろう、と。
「いつものようにはいかんだろうが…。腕を庇って動くことにはなるんだろうが…」
 着替えも歯磨きも出来る筈だぞ、手が震えたりはしないから。…痛むだけでな。
 頑張ってしっかり動かしてやれば、その分、治りも早くなる。さっき言ったろ、同じことをしてやれば治るって。
 それと同じだ、痛くても動かす方がいい。筋肉痛ってヤツは、そういうもんだ。
 痛くても起きて学校に来い。…残念ながら、明日は俺を手伝うチャンスは無いが…。
 必要な資料は運んじまったし、次は当分先になるだろうな。俺が両手に荷物を抱えて歩くのは。
「そっか…。同じことをして治したくっても、ハーレイのお手伝い…」
 当分無いんだ、それなら二回目、やっちゃうかも…。またお手伝いして筋肉痛かも…。
「ありそうだよなあ、お前の場合」
 今日のをすっかり忘れちまって、いそいそ手伝いに来るってヤツ。
 その時は、俺はどうすりゃいいんだ?
 「この前、酷い目に遭っただろうが」と思い出させてやるのがいいのか、手伝いを頼むか。
 覚えていたなら、お前の好みの方の返事をしてやるが…?
「んーと…。痛くなっても、学校をお休みしなくていいんなら…」
 お手伝い出来る方がいいかな、ぼく、頑張って運ぶから。
 ハーレイと二人で荷物を運ぶの、とっても楽しかったから…。
 先生と生徒の話だけしか出来なくっても、ハーレイと一緒に学校の中を歩けたし…。
 それだけで充分嬉しかったし、この次もお手伝い出来るのがいいな。



 筋肉痛になっちゃってもね、と腕をさすったら、「分かった」と応えてくれたハーレイ。学校で荷物を運ぶ時には、チビに手伝いを頼んでやろう、と。
「ただし、お前が持てそうな荷物の時だけだぞ?」
 今日のは授業で使うヤツだし、あの程度の重さで済んでたわけで…。
 柔道部の方の荷物だったら、とんでもない重さの時があるからな。飲み物がギッシリ詰まった箱とか、差し入れで届いた弁当だとか…。
 ああいう荷物はお前には持てん。…持たせもしないな、落とすに決まっているからな。
「うん…。想像しただけでも重そうだから」
 だけどハーレイ、今度も凄いね。前と同じで、重たい荷物を持てるんだもの。
 ぼくには絶対無理な荷物も、ハーレイ、一度に運んでいそう。飲み物と一緒にお弁当とか。
「当然だろうが、何度も往復しているよりかは、一度に運んだ方がいい」
 その方が手間も省けるし…。箱がデカすぎて抱えられんというならともかく、持てるんだったら運んじまうさ、一度にな。
 今の俺だって鍛えてあるんだ、前の俺よりもしっかりと。実験じゃなくて、ちゃんと運動で。
 だからだ、今の俺で前の俺と同じ実験をしたら、前よりも凄いデータが出るんだろうな。限界が前よりずっと上になってて、研究者どもが腰を抜かすとか。
 そんな具合だから、お前ももう少し鍛えた方が…って、今度は鍛えなくてもいいか。
 紙袋一つで筋肉痛だと泣きっ面になる、弱っちいお前で充分だな。
「どうして?」
 鍛えろって言うんだったら分かるけど…。夏休みにも朝の体操に誘われてたから、鍛える方なら分かるんだけれど、どうして逆なの?
 鍛えなくていいって、ハーレイらしくないんだけれど…。もっと鍛えろ、って言いそうだけど。
「俺としては、そう言うべきなんだろうが…」
 しっかり鍛えて丈夫な身体を作るべきだ、と言ってやりたい所なんだが…。荷物だからな?
 荷物を運ぶという点だったら、お前は鍛えなくていい。持てないままでかまわないんだ。
 お前の荷物は、何もかも俺が持つんだから。



 本物の荷物も、心の荷物も…、とハーレイがパチンと瞑った片目。「俺が持とう」と。
「今度は俺が持ってやる。お前の荷物は全部纏めて、ちゃんと抱えて運んでやるさ」
 だがなあ…。本物の荷物は幾つもあっても、心の荷物は今の時代は無いかもな。
 今のお前はソルジャーじゃないし、うんと平和で幸せな時代に生まれ変わって来たんだし…。
 抱え込むような悩みは一つも無いかもしれん。前のお前なら、沢山抱えていたんだが…。
 俺が代わりに持とうとしたって、持ってやれない重たい心の荷物ってヤツを。
 しかし、今度は全部俺が持つ。お前の荷物は、何もかも全部。
「持ってくれるの?」
 ハーレイがぼくの荷物を持って運んでくれるの、重たくても?
 ぼくが欲張って色々詰めたら、重くなり過ぎた旅行鞄とかでも…?
「もちろんだ。お前、俺の嫁さんになるんだろうが」
 嫁さんに重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、何処を探しても。
 だからお前は、鍛えなくてもいいってな。荷物は一つも、持たなくてもかまわないんだから。
 これだけは持ちたい、ってヤツだけを持っていればいい。
 ヒョイと取り出して読みたい本とか、お前が食べる菓子だとか。
 俺と結婚した後は、お前はそういう人生だ。荷物は何でも、俺に「お願い」と持たせるだけの。
 頼まれなくても俺が持つから、筋肉痛を起こすのは今の内だけだ。
 重たい荷物を持たなくなったら、筋肉痛にはならないからな。



 今の間しか起こせないんだから、味わっておけ、とハーレイは可笑しそうに笑っているから。
 きっと本当に、そんな未来が待っているから、痛くなっても楽しもう。明日の朝には、今よりも痛くなっているらしい、この筋肉痛。紙袋を一つ運んだばかりに、起こしてしまった筋肉痛を。
(ハーレイのお手伝いは出来たんだしね?)
 学校の中を一緒に歩いて、二人で荷物を運んで行った。古典の先生のための準備室まで。
 運んだ御礼に、美味しい御饅頭を一つ貰って、美味しく食べて。
(あの御饅頭のお店、ハーレイに訊いてみようかな?)
 それとも次にお手伝いした時、御褒美に貰って食べようか。お手伝いをしたら、筋肉痛になってしまいそうだけれど、今の間しか起こせないから。
 ハーレイが荷物を全部纏めて持ってくれたら、筋肉痛にはならないから。
(痛いんだけどね…)
 明日にはもっと痛そうだけれど、この痛みも今は愛おしい。
 腕の痛みが、前の自分の思い出を連れて来てくれたから。前の自分も同じだった、と。
 それに今度は、これが最後の筋肉痛かもしれないから。
 ハーレイが荷物を全部持ってくれるようになってしまったら、筋肉痛はもう起こせない。
 本物の荷物も、心の荷物も、ハーレイが持ってくれるから。
 結婚した後には、何もかも全部、ハーレイが運んでくれるのだから…。




             荷物と筋肉痛・了


※ハーレイの手伝いをしたせいで、筋肉痛になってしまったブルー。前のブルーも同じ経験が。
 また失敗をしたわけですけど、それは今だけ。今度はハーレイが持つ荷物。心の重荷まで。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv














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(えーっと…)
 夢だったんだ、とブルーが眺めた自分の両手。土曜日の朝に、ベッドの上で。
 ハーレイが来てくれる日の朝だけれども、自分が見ている両手が問題。何処から見たって子供の手。十四歳にしかならない、今の自分の。
 前の自分の両手だったら、これより大きかったのに。華奢でも大人の手だったのに。
(大きくなれたと思ったのに…)
 全部ぼくの夢、と零れた溜息。本当のぼくは子供のまま、と。
 さっきまで見ていた夢の中の自分。パジャマを脱いで、ウキウキと服に袖を通していた。身体が大きく育ったから。前の自分とそっくり同じになったから。
 いつか大きくなった時のために、と買っておいた服を取り出して、ハーレイとデートに出掛ける支度。土曜日だから、ハーレイが訪ねて来る日だから。
(デートに行ける筈だったのに…)
 あの服を着て待っていたなら、ハーレイが迎えに来てくれて。二人で歩いて出掛けてゆくのか、車の助手席に乗せて貰うか。
 どちらにしたって、とても素敵な時間の始まり。この家で過ごす土曜日と違って、家の外へと。何処かで食事で、お茶の時間も。ハーレイと二人で楽しむ一日。
 きっと夕食も何処かのお店で食べるのだろう。「今日は一日楽しかったね」と、デートで行った場所や会話を思い出しながら。
 夕食の間も、デートの続き。この店にまた来てみたいだとか、次に来る時はあれを食べるとか、そんな話だってきっと楽しい。ハーレイと二人なのだから。外で夕食なのだから。
(だって、デートをしてるんだしね?)
 夕食が済んだら、送って貰ってお別れだけれど。その帰り道も色々話しながらで、家に着いたらキスが貰える。門扉の所で「またな」と唇にハーレイのキス。
 お別れのキスには違いないけれど、きっと「おやすみ」のキスだろう。だって、「さよなら」は似合わないから。また直ぐにデートに行けるのだから。



 夢の通りの自分がいたなら、そういう一日になっていた筈。土曜日なのは同じだから。
 けれど、目覚めたらチビのままだった、本当の自分。少しも大きくなっていない手、パジャマもきつくなってはいない。眠る前と同じにピッタリのサイズ。
(前のぼくなら、このパジャマ、小さすぎなのに…)
 きっときつくて着られない。袖もズボンも、丈が全く違うから。背丈がまるで違うのだから。
 百五十センチしかない今の自分と、百七十センチだった前の自分。その差は今も縮んでいない。
 夢の自分は「大きくなれた」と浮き立つ心で、デートの支度をしていたのに。その日のためにと買っていた服にワクワクと袖を通していたのに。
(あの服だって…)
 持ってないよ、とベッドの上から見回した部屋。何処にも用意していない服。デート用の服など買ってはいない。着て行く服を持ってはいない。
 自分はチビの子供だから。背丈が少しも伸びないから。
 ハーレイと再会した日から一ミリも伸びない背丈。百五十センチで止まったまま。夏休みの間も伸びてくれなくて、育つ気配さえない自分。
 すくすくと背丈が伸びていたなら、服を買ったかもしれないのに。「もう少しだよ」とデートを夢見て、早くその日が来てくれないかと。



 その発想は無かったっけ、と眺めた自分が着ているパジャマ。子供の自分に丁度いいパジャマ。大きめのパジャマは持っていないし、服だって、そう。
(服もパジャマも、ぼくに合うのを買ってるし…)
 成長が早い方ではないから、それで充分。ハーレイと出会う前からそうだった。季節ごとに母が買ってくれる服、それを着ていれば間に合った。小さすぎもしなくて、大きすぎもしない。
(今の学校の制服だって…)
 小さくなったら買えばいいから、と今の自分に合うのを買った。制服を扱う店に行ったら、常にサイズが揃っているから。「品切れです」とは言われないから。
(大きめの服は持っていないよ…)
 だから無かった、「いつか大きくなった日のために」デート用の服を用意する発想。夢の自分は買っていたのに、部屋にきちんと持っていたのに。
(あの服があれば…)
 おまじないになってくれるだろうか。背丈がぐんぐん伸びるようにと、おまじない。
 夢の自分は育って袖を通していたから。「デートに行ける」と、心を弾ませていたのだから。
 持っていたなら、心強いに違いない。何度も眺めて、「早く着たいな」とデートを夢見て、まだ大きすぎる服をちょっぴり羽織ったりもして。
 その服を着られる時が来たなら、ハーレイとデートなのだから。二人で出掛けて、食事やお茶。夕食も二人で外で食べて来て、家の前まで送って貰う。
 デートの終わりは「おやすみ」のキスで、「またな」と帰ってゆくハーレイ。次のデートの日を約束して、こちらへと手を振りながら。車でも、歩いて帰るにしても。



 あるといいな、と思った服。夢の自分がデートのためにと持っていたシャツ。
(普通だったけど…)
 ごくごく普通の、シンプルなシャツ。薄い水色で、何処にでも売られていそうだけれど。買いに出掛けたら、見付かりそうな気もするのだけれど…。
(おまじないなら、あれでないと効果が無さそうだし…)
 買うのだったら、そっくり同じの水色のシャツ。デザインも、ボタンの数も形もそっくり同じ。そういうシャツを買って来ないと、きっと効果は無いのだろう。
(だけど、あの服…)
 夢の自分はどうやって用意したのだろうか。お小遣いを貯めて買ったのだろうと思うけれども、何処で買ったのかが問題。あのシャツを手に入れたお店が問題。
(一人で服なんか、買ったことない…)
 服もパジャマも母が買って来るか、母と出掛けた時に選ぶか。選ぶ時だって、母が「どう?」と取り出して見せてくれたり、「どっちが好き?」と指差してくれたり。
 そんな具合だから、自分一人で選んだことなど一度も無い。母が選んでいるようなもの。
(あのシャツのお店…)
 まるで分からない、お店の場所。自分では買いに出掛けないから、何処か見当さえつかない。
 欲しくなっても買いに行けない、おまじないになってくれそうなシャツ。夢の自分が袖を通した水色のシャツ。
 買う所から夢に見ていたのならば、その店に真っ直ぐ出掛けてゆくのに。おまじない用に、あの水色のシャツを買うのに。



 夢の自分が買いに出掛けた店さえ分かれば、と考えていて気が付いた。あの夢は、夢。
(予知じゃないから、夢で見たって…)
 この店だった、と買いに行っても、同じシャツはきっと無いのだろう。何処かが違って、あれと同じではないのだろう。襟の形が少し違うとか、ボタンの形が違うとか。
 おまじないのために必要なものは、あの夢のシャツ。あの水色のシャツでないと駄目。
(夢のシャツ、ポンと出て来ないかな…)
 此処に出て来てくれないかな、と見詰めた両手。「欲しい」と願ったら出ればいいのに、と。
 サイオンを使って夢の中から取り出せたらいい。あのシャツを、ヒョイと。
 それが出来たら、本当に夢と同じシャツ。水色のシャツを大切に仕舞って、ハーレイとデートに行ける日を待つのに。育った時には、あれを着るのに。
(どんな季節でも、あれを着て行くよ)
 夏だったとしても、長袖のシャツ。あのシャツだけでは寒い冬なら、上にセーター。
 持っていたいけれど、夢の中のシャツは取り出せない。ただでも不器用すぎるサイオン、今日の服さえクローゼットから出せない有様。
 ベッドの上から「今日はこのシャツ」と念じてみたって、シャツは決して出て来ない。シャツもズボンも、靴下だって、起きて手を使って出すしかない。クローゼットや引き出しから。
 これじゃ駄目だ、と大きな溜息。夢のシャツなんか出せないよ、と。



 仕方ないから起きて着替えて、顔も洗ってダイニングで朝食。両親も一緒の朝食だけれど、まだ残念な気分が抜けない。忘れられない、幸せだった夢。
 夏ミカンの実のマーマレードを塗ったトーストを齧っても。温かなオムレツを頬張っても。
 もしも自分が夢の通りに、大きく育っていたのなら…。
(この服じゃなくて、あのシャツを着てて…)
 用意してあった水色のシャツ。それを着て食べていただろう朝食。もうすぐハーレイとデートに行ける、と胸を躍らせて齧るトースト。オムレツだって、きっと幸せの味。
(食べ終わったら、ハーレイを待って…)
 そのハーレイが来てくれたならば、直ぐにデートに行けただろう。チャイムの音で迎えに出て。門扉の所に駆けて行ったら、「大きくなったな」と言って貰えて。
 「前のぼくとホントに同じになったよ」と笑顔の自分を、「行くか」とデートに誘うハーレイ。車で行くのか、歩いてゆくのか、二人で出掛ける初めてのデート。
 歩いてゆくなら、手を繋ぎ合ってバス停まで。行き先を決めてバスに乗り込んで、二人で並んで席に座って。
 ハーレイの車で出掛けてゆくなら、行き先は特に決めなくてもいい。ハーレイに任せて、色々な場所へ。あちこち走って、食事もお茶も。
 きっと素敵な、初めてハーレイと出掛けるデート。何もかもが新鮮で、もう最高に楽しくて。
(キスだって…)
 ちゃんと唇にして貰える。約束の背丈に育ったのだから、恋人同士のキスを唇に。
 そういうデートがしたかった。夢の自分が出掛けたのだろう、幸せたっぷりの初めてのデート。
 チビの自分は、行けないけれど。今日もハーレイと、この家で過ごすしかないのだけれど。



 朝食の後は部屋に帰って、掃除をして。
 ハーレイが来るのを待っている間に、また夢のシャツを思い浮かべた。あれがあったら、と。
 おまじないになってくれそうなシャツ。部屋にあったら、早く大きくなれそうなシャツ。
(でも、夢の中の物は出て来ないよね…)
 いくらサイオンを使っても。自分のサイオンが不器用でなくても、夢の中身を外には出せない。夢はあくまで夢だから。夢で見た物は、現実の世界にありはしないから。
(部屋とかは、本物そっくりだけど…)
 この部屋にある家具も夢には出て来たけれども、それは別。夢の自分のシャツとは違う。自分の記憶が見せているもので、現実の世界を写し取ったもの。写真や映像と似たようなもの。
 けれども、欲しくてたまらないシャツは違うから。夢の世界にしか無いものだから。
(…どう頑張っても、出せないよ…)
 前のぼくにだって出来やしない、と思った所で蘇った記憶。前の自分と夢のこと。
(中身、出そうとしてたんだっけ…)
 夢の中身を出せはしないかと、たまに試していた自分。遠く遥かな時の彼方で。
 見ていた夢の通りの物が取り出せないかと、出ては来ないかと。
(みんなが喜びそうなもの…)
 それが出せたら、とサイオンで引き出そうとした夢に見たもの。あれが欲しい、と。
 人類の船から奪った物資で生きていた時代なら、食料の山や物資が詰まったコンテナ。夢の中で見たそれを此処に、と床を見詰めて念じたりした。そうすれば夢から取り出せるかも、と。
 白い鯨が出来上がった後も、何度か試してみたりした。船の仲間が喜びそうな物が出て来る夢を見た時は。自給自足の船の中では、手に入らない珍しい食材だとか。



 前の自分が描いた夢。サイオンで何度か試してみたこと。夢の中身を取り出すこと。
(頑張ったけど…)
 今日の夢は鮮明だったから、と挑んでみたって、夢の中身は出て来ない。現実に存在していないものは、運んで来ることが出来ないから。どう頑張っても、夢は夢だから。
 手が届きそうに思えたとしても、夢の世界に手は突っ込めない。現実という世界からは。
(地球にだって…)
 前の自分が焦がれた地球。何度も夢で見ていた星。あれが地球だ、と青い星を。
 夢で地球を見ても、行けはしないと分かっていた。夢の世界に入れはしないし、現実の世界から飛び込めはしない。夢の中身を出せないのと同じ。
 宇宙を駆けて地球に行く夢、それがどんなに鮮やかでも。シャングリラの外に飛んで出たなら、夢の続きでそのまま飛んで行けそうでも。
 無理だと知っていた自分。夢は夢だし、現実の世界には繋がらないと。
(…だけど、形にしてみたかった…)
 夢で見た物をヒョイと取り出して。食料も物資も、地球への道も。
 それが出来たら、既に人ではないだろうけれど。
 神の領域なのだけれども、試みた自分。サイオンで出来はしないかと。
(…色々な夢が叶うんだもの…)
 本物にしてみたかった夢。現実に結び付けたかった夢。
 物を取り出すのも、地球に行くのも。夢の中身を此処に出せたら、と。



 そういう夢を見てたんだっけ、と遠い昔の自分を思った。今の自分が欲しいと願った夢のシャツよりも、もっと切実だった夢。それを取り出そうとしていた自分。食料や物資や、地球への道。
 夢を形にするなんて無理、と思ったけれど。
 前のぼくでも夢を現実には出来なかった、と考えたけれど。
(…地球…)
 地球の上に生まれて来た自分。前の自分が夢に見ていた、青い地球の上に。
 前の自分が生きた頃には、何処にも無かった青い水の星。地球は死の星のままだったから。前のハーレイが辿り着いた地球は、何も棲めない星だったから。
 それが現実だったというのに、今の自分は青い地球の上にやって来た。ハーレイと二人で生まれ変わって、前とそっくり同じ姿でまた巡り会えた。
(ぼくはちょっぴりチビだったけど…)
 ハーレイとデートに行けはしなくて、キスも出来ない子供だけれど。
 いつか育てば、今朝の夢のようにハーレイとデートに出掛けてゆける。胸を躍らせて。
 まるで夢のように起こった奇跡。前の自分は死んでしまったのに、メギドで命尽きたのに。右の手が凍えて、泣きじゃくりながら。ハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちで。
 もうハーレイには二度と会えないと、泣きながら死んでいった後。
 自分は新しい身体を貰って、ハーレイと青い地球に来られた。今の世界に。
 夢よりも凄い本当の世界。今の自分が生きている現実。



(こんな凄い夢、前のぼくは…)
 一度も見てはいなかった。青い地球に行く夢は見ていたけれども、これほどの夢は。
 争いと言ったら喧嘩程度の平和な地球。広い宇宙の何処を探しても、軍隊も軍人も無い世界。
 もう戦いは起こりはしなくて、人間は全てミュウになった世界。
 血の繋がった本物の家族と暮らす時代で、成人検査もSD体制も今は歴史で教わるだけ。
 そんな世界に生まれた自分。ハーレイも一緒にこの世界に来て…。
(ぼく、ハーレイと結婚できる…)
 前の自分には出来なかったこと。出来ずに終わってしまった結婚。
 けれど自分は十四歳の少年になって、育つ日を夢見て、結婚式の日を待ち焦がれて…。
(大きく育った夢まで見ちゃった…)
 ちゃんと大きくなったから、と用意していたシャツを着る夢。ハーレイとのデートに心躍らせ、水色のシャツに袖を通す夢。今日はデート、と。
 その夢で見たシャツが欲しい、と考えた自分。大きくなれるおまじないに、と。
 同じシャツでないと効かないだろうし、夢の中身を取り出せないかと。
(今のぼくって、幸せすぎない…?)
 青い地球の上に、ハーレイと二人。前の自分が夢見た以上に、幸せな世界にやって来た。
 夢よりも幸せな現実だなんて、本当に思いもしなかった。前の自分は、ただの一度も。
 幾つもの夢を描いたけれども、今の世界には敵わない。青い地球も、ハーレイと暮らす未来も。
(前のぼくでも、夢の中身は取り出せなくて…)
 それでも、たまに試みたこと。白いシャングリラが出来上がった後も、取り出せないかと。
 夢に出て来た地球への道が欲しくなったら、夢と現実は違うと気付いていても。
 それを自分は手に入れたなんて。
 前の自分が取り出したかった夢の世界を、夢に見ていた以上の今を。



 考えるほどに、凄い現実。前の自分が見ていた夢より、素晴らしい世界に生きている自分。
 青く蘇った地球は平和で、暖かな家に本物の両親。美味しい食事に、幸せな毎日。
(ハーレイだって、家に来てくれるんだよ…)
 チビの自分を訪ねて来てくれて、今日のような土曜日はお茶に食事にと夜まで一緒。二人きりで過ごして、両親も交えての夕食の後にハーレイが「またな」と帰ってゆくまで。
 そういう日々を幾つも重ねて、いつかは朝食を食べながら待つ。今朝の夢みたいに、デート用の服に袖を通して。ハーレイが来たらデートなんだ、と胸を躍らせて。
 きっと必ずやって来るその日。いつになるかは分からないけれど、ハーレイを待つ日。
(やっぱり欲しいな、さっきのシャツ…)
 早くその日が来てくれるように、おまじない。デートに着てゆくためのシャツ。夢の中の自分が持っていたのとそっくり同じな、水色のシャツが欲しいけれども。
(…今のぼく、とっても幸せなんだし…)
 前の自分の夢よりも素敵な現実が今。其処に生まれて、其処で暮らす自分。
 欲張らない方がいいのだろうか?
 これ以上もっと、と夢の世界のシャツを欲しがるのは欲張りだろうか。
 夢の中身は取り出せないから。現実の世界に持ってくることは出来ないから。



 そうは思っても、欲しくなるシャツ。夢の中で自分が袖を通していたシャツ。大きくなれた、と胸を弾ませて、デートのためにと着ていたシャツ。
(あのシャツ、ホントに欲しいんだけど…)
 そっくりのシャツを見付けたとしても、買ったシャツでは効かないだろう。現実の世界で買ったシャツには無さそうな力。夢の世界のシャツだからこそ、持っていそうな不思議な力。
 ある朝、目覚めたら大きく育っている自分。デートに行ける、と喜ぶ自分を現実の世界に連れて来てくれるのは、きっとあの夢の中にあったシャツだけ。
(あれが欲しいよ…)
 何処かにあったら、買いそうな自分。お小遣いで買える値段だったら、偶然それに出会ったら。あの夢のシャツだ、と大喜びで。買ったシャツでは効きそうになくても、やっぱり欲しい。
 あれがあったら頼もしいのに、と考えていたら、ハーレイが訪ねて来てくれたから。テーブルを挟んで向かい合うなり、恋人に向かって訊いてみた。いつかデートに行きたい恋人。
「あのね、ハーレイ…。夢のシャツ、持ってた方がいいと思う?」
「はあ?」
 なんだ、そりゃ。夢のシャツって、お前が欲しいシャツのことなのか?
 欲しいんだったら、お母さんに頼めばいいだろう。こういうシャツが欲しい、とな。
「そうじゃなくって、夢で見たシャツ…」
 ぼくの夢の中に出て来たシャツだよ、今朝の夢にね。
 夢の中のぼくは大きくなってて、ハーレイとデートに行けるんだけど…。
 その夢でぼくが着ていたシャツ。うんと幸せな気分になって。



 だから夢のシャツ、とハーレイに夢の話を聞かせた。どんなに素敵な夢だったかを。
「ハーレイとデートなんだから、って夢の中でシャツを着るんだけれど…」
 それね、前から買って持ってたシャツだったんだよ。
 いつか大きくなった時のために、って持っていたシャツ。それをウキウキしながら着る夢。
「用意のいいヤツだな、デカいシャツを買って待っていた、と」
 チビの頃から持っていたとは恐れ入る。気が早いと言うか、何と言うべきか…。
「ぼくだってそう思うけど…。デート用のシャツ、買おうとも思っていなかったけど…」
 あんな素敵な夢を見ちゃったら、どうしようかって考えちゃう。
 夢のシャツ、買っておいた方がいいかな、おまじないに。
 早く大きくなれるかもしれないし、あれとそっくりなシャツを何処かで見付けたら。
 お小遣いで買えそうな値段だったら、買って仕舞っておこうかな…?
「おいおい、そっくりのシャツを買うのか?」
 その夢に出て来たシャツでないと駄目だと思うがな?
 おまじないの効果があると言うなら、夢の中のシャツだと思うわけだが。
「やっぱりそう? ハーレイもそう思うんだ…」
 ぼくもそういう気がするんだよ。そっくりのシャツを買っても駄目だ、って。
 だけど、あのシャツ、欲しいから…。持っていたいって思うから…。
 夢の中身を、ヒョイと取り出せたらいいのにね。
 これが欲しいな、って掴んで引っ張り出せたなら。
 あの夢のシャツがホントになったら、ぼくの前に出て来てくれたなら…。



 そしたら大事に仕舞っておくのに、と今も欲しくてたまらないシャツ。夢の中で袖を通していたシャツ。あれが欲しいよ、と繰り返したら、「そういえば…」と向けられた鳶色の瞳。
「前のお前もよく言っていたな。夢の中身を出せればいいのに、と」
 食料だとか、物資だとか。夢で見た物を取り出せたならば、仲間たちの役に立つのにと。
 お前が物資を奪ってた頃に、そういう話をよく聞いたもんだ。流石のお前も、夢の中身を現実に出来はしなかったがな。
「うん…。それより後にも、たまに試してた」
 船のみんなが喜びそうな物を夢に見た時は、出て来ないかな、って。
 地球に行く夢を見ちゃった時にも、この夢がホントにならないかな、って…。
 色々とやってみていたけれどね、夢はやっぱり夢だったから…。どう頑張っても、現実になってくれなかったよ、どの夢だって。
 でも、それをやってた前のぼくだって、今のぼくの夢は見てないよ。
 青い地球の上に生まれ変わって、ハーレイとまた出会えるなんて。
 うんと平和な世界になってて、パパもママもいて、いつかはハーレイと結婚だなんて…。
 夢より凄いよ、今のぼくの世界。
 ホントのホントに凄すぎなんだよ、前のぼくが見ていた夢よりも凄い現実だもの。
「そいつは俺も同じだな…。今の世界ってヤツに関しては」
 前の俺だって、こんな夢は見ちゃいなかった。
 これが本当になってくれれば、と思う夢なら何度でも見たが、此処までじゃない。
 俺が見た夢より凄い世界だ、今の俺が生きてるこの世界はな…。



 夢よりも凄い現実とはな、とハーレイも頷くものだから。前のハーレイにも欲しいと思った夢があったようだから、知りたくなった。前の自分と同じように試していたのかと。
「ハーレイも夢の中身を出そうとしたの?」
 前のぼくが何度も話していたから、ハーレイもやってみようとしてた?
 サイオンを使って出せないかどうか、試してみていた時があったの?
「いや、お前ほどのサイオンは持ってなかったし…」
 お前でも無理だと聞いていたから、中身が出せると思っちゃいない。俺の力では。
 夢は夢だし、手が届かないのは百も承知だ。手を伸ばしたって、届きやしない。
 そうは思ったが、夢が本当になってくれればいと祈っていたな。祈りってヤツは、神様に届けるモンだろうが。…神様だったら、俺よりもずっと強い力があるんだから。
 俺にとっては夢でしかなくても、神様だったら現実に出来るかもしれないからな。
「お祈りしてたって…。どんな夢なの?」
 前のハーレイは何が欲しかったの、神様に何をお祈りしたの…?
「…前の俺の夢か? 時代によって色々と変わって行ったんだが…」
 最後はお前と二人で地球に行くという夢だったな。そういう夢を何度も見た。
 夢を見る度、叶いやしない、と思ったもんだ。
 夜中に夢を見て目が覚める度に、お前の寝顔を見ながらな。…こいつは夢だ、と。
 お前を抱き締めて、何度も祈った。この夢が本当になったらいい、と。
「そっか…。前のぼくの寿命…」
 地球に行く前に尽きちゃうんだものね、ハーレイの夢は叶わないよね…。
 ぼくと一緒に地球に行きたくても、ぼくの命が終わっちゃうから。
「…お前、何処かへ行っちまうからな」
 あんなに地球を見たがってたのに、死んでしまって、誰も知らない何処かへと。
 俺もお前を追い掛けて行こうと思ってはいたが、それと地球とは別の話だ。
 お前に地球を見せたいじゃないか、お前が生きている間に。…お前の命がある間にな。



 そう思ったから、何度も神に祈ったという。地球へ行く夢を見る度に。「ブルーを地球へ」と。
 腕の中で眠る前の自分を抱き締めながら、夢が本当になればいい、と。
 夢と現実は違うけれども、神ならば現実に出来そうだから。それだけの力がありそうだから。
「ハーレイのお祈り、神様が叶えてくれたのかな?」
 前のぼくが地球へ行けますように、って何度も祈ってくれていたから、地球に来られた?
 ハーレイが神様にお祈りしていた地球は、あの頃は無かった青い地球だから…。
 お祈りの通りに青い地球が出来たら、神様がぼくを連れて来てくれた…?
 ハーレイが何度もお祈りした通りに、二人一緒に。…今の地球まで。
「どうだかなあ…?」
 そいつは俺にも分からないがだ、地球に来られたことは確かだ。前のお前の夢だった星に。
 青くて、おまけに平和な地球。人間は誰もがミュウになっちまって、もう戦争も起こらない。
 俺たちは、前の俺たちが見ていた夢よりもずっと、素晴らしい世界に来たってな。
 お前がさっき言ってた通りに、夢よりも凄い現実ってヤツだ。
 前の俺たちがどんなに大きな夢を見たって、今の世界には敵わんさ。
 「事実は小説よりも奇なり」と言うがだ、「現実は夢よりも奇なり」ってトコか。
 それほど凄い世界なんだし、お前の夢のシャツだって、だ…。



 もっと素敵なシャツになって登場するんだろう、とハーレイが浮かべた優しい笑み。
 夢の通りに現れる代わりに、素晴らしいシャツに変身して…、と。
「俺がプレゼントするかもしれんぞ、その夢のシャツ」
 夢の中のお前は自分で買って持ってたようだが、そうじゃなくってプレゼントのシャツだ。
「プレゼント…? ハーレイがくれるの?」
 ぼくの誕生日に買ってくれるとか、そういうの?
 だったら、凄く嬉しいけれど…。大切に仕舞っておくんだけれど。
「誕生日だなんてケチなことは言わん。それとは別のプレゼントだな」
 贈るタイミングが分からないしな、誕生日プレゼントにするのは無理だ。お前のシャツは。
 俺がお前にプレゼントしてやるのは、お前が今よりかなり大きくなってからだな。
 お前の背丈が前のお前に近付いて来たら、お前にシャツを贈ってやる。何処かで買って。
 そいつをお前に渡してやってだ、こう言うんだ。
 初めてのデートにはこれを着て来い、と。
「ホント!?」
 デート用のシャツを買ってくれるの、ハーレイが?
 夢の中のぼくが着ようとしてたの、ハーレイが買ってくれるって言うの…?



 思いがけないハーレイの言葉。いつか大きくなった時には、ハーレイがシャツを贈ってくれる。初めてのデートに着て行くシャツを。「これを着て来い」と、買って来てくれて。
 前の自分の背丈になるまで、あと少し、という日が来たら。初めてのデートの日が近付いたら。
「期待するなよ、そんな気障な真似をするかどうかは分からないからな」
 デート用の服を見立てるってヤツは、自分のセンスに自信がある男のやることで…。
 俺は服には詳しくなくてだ、流行ってヤツにも疎いんだから。
「ハーレイが買ってくれるんだったら、どんなシャツでも嬉しいよ」
 ぼくが自分で用意するより素敵だもの。
 あの夢みたいに自分で買うより、ハーレイに貰ったシャツを着る方が断然いいよ。
 やっと着られる、って袖を通して、ワクワクしながらボタンを留めて。
「ほらな、夢をそのまま形にするより、現実の方がいいこともあると言っただろ?」
 夢の通りなら、お前は自分で買っておいたシャツを着るんだし…。
 夢の中身を取り出せたとしても、そいつはお前が買ったシャツなんだ。俺じゃなくてな。
 しかしだ、夢は夢だと放っておいたら、俺からのシャツが届くかもしれん。夢よりも現実の方が良くてだ、お前は俺がプレゼントしたシャツで初めてのデートに出掛けてゆく、と。
「じゃあ、シャツ、買ってよ。気障でもいいから」
 ハーレイのセンスも気にしないから、ぼくに初めてのデートで着るシャツ、ちょうだい。
 水色がいいな、夢のシャツは水色のシャツだったから…。
 デザインはハーレイに任せておくから、水色のシャツをぼくに買ってよ。
「その時が来たらな」
 お前がちゃんと育ち始めて、前のお前の背丈に届きそうな日が近付いて来たら。
 もう少しだな、と俺が思ったら、シャツをプレゼントしてやろう。…注文通りに、水色のをな。
 とんでもないセンスのシャツを渡されても、そのシャツ、きちんと着て来るんだぞ?
 初めてのデートに出掛ける時には、俺がお前に贈ったシャツをな。



 もっとも、俺はシャツの話なんぞは忘れているかもしれないが…、と言われたけれど。
 今日の日記にも書きはしないから、覚えていた方が奇跡だろうとハーレイは苦笑するけれど。
(…初めてのデートは、いつか行くしね…)
 その日に着て行くシャツも、何処かにきっとある筈。水色にしても、他の色にしても。
 長袖になるか、半袖になるか、上にセーターを着込むのか。その上にコートまで必要なのか。
 出掛ける季節も分からなければ、シャツのデザインも今は謎。襟の形も、ボタンの数も。
(ハーレイがくれたシャツなら、最高だけど…)
 とても嬉しくてドキドキだけれど、忘れられているということもある。シャツの夢を見た自分の方でも、忘れてしまってそれっきり。
 夢を見たことさえ綺麗に忘れて、初めてのデートに着て行くシャツは、自分で買うかもしれないけれど。街で見掛けて、「これがいいかな」と買っておくかもしれないけれど。
(ママが買ったシャツってこともあるよね、ぼくが忘れてたら…)
 ハーレイも自分も忘れていたなら、母が買って来たシャツの中から「これ」と一枚選ぶシャツ。今日のデートにはこのシャツがいいと、これを着ようと。
 けれど、どういうシャツになろうと、夢より素敵な現実があると、今の自分は知っているから。
 前の自分が夢に見たより、素晴らしい世界に生きているから。
(きっといつか、あの夢のシャツより、ずっと素敵なデート用のシャツ…)
 それを着てハーレイと、初めてのデートに出掛けて行こう。
 クローゼットの隣に立って、鉛筆で書いてある前の自分の背丈の印を確かめて。
 同じになった、と大喜びして、用意してあったシャツに袖を通して。
 ウキウキしながら留めてゆくボタン。
 やっとハーレイとデートに行けると、このシャツを着てデートなんだよ、と…。




           夢で見たシャツ・了


※夢の中でブルーが袖を通したシャツ。ハーレイとデートに行くのだから、と弾んだ心で。
 けれども、シャツもデートも夢。ガッカリですけど、いつかハーレイがシャツをくれるかも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













(どうせ、ぼくには読めやしないし…)
 マナー以前の問題だから、と小さなブルーがついた溜息。学校から帰って、おやつの時間に。
 母が用意してくれた紅茶とケーキ。味わった後で広げた新聞、面白い記事が載っていないかと。その新聞の記事が問題、それで零れてしまった溜息。
(心を読まないのはマナーなんだけど…)
 新聞で見付けた、お付き合いのコツ。友達ではなくて、恋人同士の。
 そういう見出しが目に入ったから、母が通り掛かっても慌てないように、他の記事を読むふりをして読み始めたのに。ハーレイとの恋に役立つだろうと考えたのに。
(あまり参考にならないし…)
 最初の印象がそれだった。意中の人と両想いになるためのコツだったから。お付き合いのコツというヤツは。好印象を与える表情だとか、話題作りとか。
 最初から恋人同士では意味が無いよ、とガッカリしていたら、両想いになった後のコツ。相手と仲良くやっていくコツがあるという。「結婚してからも役に立ちます」と自信たっぷり。
 そのコツならば、と飛び付いた結果が溜息だった。
(信じること、って…)
 相手の心を信じるのがコツ。それが大切なことらしい。恋を壊さず、育ててゆくには。
 どうなのかな、と相手の心が心配になったような時。心を読みたくなるものだけれど、読んだりしないで言葉で訊くこと。相手の気持ちを。返事を貰ったら、それを信じる。相手の言葉を。



 それがコツだと書かれてあった。嘘かもしれない、と思ったとしても心は読まない。そうすれば相手の心も動くものらしい。「信じてくれた」と嬉しくなるから、言った言葉を守ろうとする。
 だから言葉で、と書かれたコツ。思念波は駄目、と。
(思念波は上手く使ったつもりでも…)
 相手にバレてしまうことが多いですから、という筆者の注意。心を読まれたと気付かれたなら、相手は不快になるものだから、しないようにと。
 安易に心を読まないことは社会のマナーでもありますね、と念を押してもあるのだけれど…。
(ぼくは最初から読めないってば…!)
 まるで読めない、他の人の心。ぼくは不器用なんだから、と肩を落とした。
 サイオンタイプは前と同じにタイプ・ブルーで、本当だったら最強の筈。心だって一瞬で読める筈なのに、とことん不器用な自分のサイオン。読もうとしたって全く読めない。
 恋のコツを守るにはピッタリだけれど、能力があるのと無いのとは違う。心を読む力を封印して恋を守るのは素敵だけれども、封印する以前の状態の自分。それが悲しい。
 恋を育むお付き合いでも、注意されるほどの相手の心を読む力。使わないで、と。
 今の時代は人間は全てミュウになったから、誰でも簡単に出来ること。心を読むこと。けれど、不器用な今の自分は…。
(出来ないんだってば…!)
 それが出来たら困らないよ、と情けない気分で閉じた新聞。恋の記事にまで馬鹿にされた、と。自分は心が読めないのに、と。



 二階の自分の部屋に帰って、座った勉強机の前。頬杖をついて、さっきの記事を思い返して。
(社会のマナーで、恋のコツなのに…)
 やらないように、と注意されていた心を読むこと。だけど読めない、と溜息しか出ない。本当に不器用になってしまって、他の人たちのようにはいかない。
 おまけに恋人のハーレイときたら、今でもタイプ・グリーンだから…。
(遮蔽はタイプ・ブルー並み…)
 防御力に優れたタイプ・グリーンは心の遮蔽能力も強い。読まれないように遮蔽したなら、他の人間には読み取れない。よほど強引にこじ開けないと。
 それでも前の自分なら読めた。こじ開けなくても、覗き込むだけで。
 なんと言っても、今も伝説のソルジャー・ブルーだったから。最強のサイオンを誇ったから。
 もっとも、力を持っていたって、滅多に読みはしなかったけれど。それが必要だと思った時しか覗いてはいない、ハーレイの心。
(いいことじゃないしね?)
 恋のコツにも書かれていたけれど、相手の心を覗き見ることは。
 相手が言葉にしないからには、知られたくないのが心の中身。勝手に見てもいいものではない。そうしなくては、と思う理由が確かなものでない限り。
 隠していることを読み取らなければ、大変なことになりそうだとか。
 前の自分がハーレイの心を読んでいたのは、そう考えた時だった。キャプテン・ハーレイが心に仕舞っていること。船の今後に関すること。
 ハーレイの手には余るけれども、他の仲間を困らせたくない。そんな気持ちで黙っている時は、表情を見れば分かったから。「何かあるな」と。
 だから心をそっと読み取り、「ごめん」と一言謝ってから言葉で告げた。その件は二人で考えてみようと。二人で答えが出せなかったら、ヒルマンたちにも訊いてみようと。



 そういう時しか読まなかったな、と前の自分の頃を思った。誰の心でも読めたけれども、勝手に読みはしなかったっけ、と。
(ただでも嫌われる力だったし…)
 ミュウの世界では当たり前にあるものだったけれど、人類は忌み嫌っていたサイオンという力。人類はそれを持たないのだから、恐れられたのも無理はない。
 サイオンにも色々あった中でも、思念波が一番嫌われた。人の心を読み取る力。
 「人の心を盗み見る化け物」と、「人の心を食う化け物」と。
 何度ぶつけられたろうか、その言葉を。アルタミラでも、逃げ出した後も。白いシャングリラが潜んだアルテメシアでも、ユニバーサルの者たちがそう言っていた。化け物めが、と。
(仕方ないけど…)
 人類はサイオンを持っていないし、きっと気味悪かったのだろう。心を読み取る思念波が。物を動かしたりする力よりも、心にスルリと入り込むそれが。
 気付かない内に、読まれるから。そうされないよう防ぐ力も、人類は持っていなかった。訓練を受けた軍人ならばともかく、一般人には出来なかった遮蔽。



 嫌われるわけだ、と考えたけれど。今の時代も、心を読むのはマナー違反で、恋のコツでも注意するよう記事に書かれていたけれど。
(でも、思念波…)
 人類は持っていなかったそれを、マザー・システムは使っていた。ごく当たり前に。機械の力で作り出したそれで、人類の世界を支配していた。
 成人検査でコンタクトするのは思念波だったし、教育ステーションのマザー・システムも同じ。心が不安定な者をコールした時は、思念波を使って入り込んだ心。中身を深く読み取るために。
(だから余計に怖がられたかな?)
 前の自分たちが生きた時代のミュウたちは。面倒を見てくれるマザーではなくて、ただの人間が心を読むのだから。心の中身を、何もかも全部。
(マザーだったら、従っていればいいんだけれど…)
 人類はマザー・システムを信頼していたから、教育ステーションのマザーも同じこと。養父母の代わりに育ててくれる、新しい親のようなもの。
 親なのだから、心の中身を全部知られてもかまわない。心を導いてくれるのがマザー。
 その導きも、彼らにとっては正しいもの。叱ったり、時には慰めたりと至れり尽くせり。
 だから人類はマザーなら許す。心を読まれても、それは「いい結果」へと結び付くから。
 そうは言っても、人は間違いを犯すもの。自分が優先、自分自身が一番大切。マザーだったら、その間違いを叱りはしたって、いいアドバイスをくれるけれども、ミュウだったら。
(いいようにされる、って怖かった…?)
 マザーなら導いてくれる所を、悪意を持って悪い方へと追いやるだとか。抱えた悩みに解決策を与える代わりに、もっと悩みを深くするとか。
 いい方へ導く力があるなら、逆も可能だということだから。ミュウとマザーは違うから。
(それに、心を見られることも…)
 導く立場のマザーではない、同じ人間が見るとなったら怖かったろう。人は誰だって、隠したいことの一つや二つは持っているもの。それを勝手に盗み見られてはたまらない。
 今の時代でも、心は読まないのがマナー。人類がどれほどミュウを恐れたか、分かる気がする。心を隠す術も無いのに、一方的に読まれてしまう、と。



 人類がミュウを恐れた時代。思念波が何より嫌われた時代。人の心を食う化け物、と。
(だけど、前のぼく…)
 記録の上では、一番最初のミュウだった筈。SD体制に入る前にも、実験室でミュウは生まれていた筈だけれど、彼らの記録は後世に残らなかったから。
 最初に発見されたミュウの自分は、いつ思念波を使っただろう?
 一番最初に人の心を読み取ったのは、いつだったろう?
(成人検査は…)
 何が始まるのかも分からないまま、受けていた検査。前の自分の一番古い記憶。それよりも前の記憶は失くして、何も覚えていないから。
 ジョミーの時代とはシステムが違った成人検査。見た目は医療チェックさながら、看護師だって立ち会っていた。前の自分も、医療チェックだと信じたのに。
(…捨てなさい、って…)
 手放すように言われた自分の記憶。その一切を。地球に行くには必要ない、と。
 その声に抵抗した自分。忘れたくなどなかったから。「嫌だ」と叫んで、抗った末に…。
(機械、壊した…)
 気付けば砕けていた機械。無数の破片が宙に浮いていた。「殺さないで」と怯えていた看護師。それで自分がやったと分かった。「殺さないで」と、「助けて」と声が聞こえたから。
 あれが最初に使ったサイオン。前の自分が。
 駆け込んで来た警備員たちに撃たれた時にも、銃弾を全て受け止めたけれど。
(思念波、使っていなかった…)
 銃を向けられ、言葉で訴えていた自分。「待って」と、「ぼくは何もしない」と。
 もしも思念波を使っていたなら、警備員たちは頭を抱えたろうに。頭の内側で響く思念に、その動きすらも奪われて。銃を投げ出して、床に座り込んで。
 そうしなかったから、前の自分は撃たれてしまった。銃弾を受け止めるのが精一杯で、力尽きて気絶した自分。其処から始まった地獄の日々。



 ミュウと判断された自分は、研究所へと送り込まれた。サイオンを調べ、ミュウという生き物を研究するために。まるで実験動物のように、人間扱いされない場所へ。
(じゃあ、思念波は…?)
 成人検査でサイオンが覚醒したというのに、思念波を使わずに撃たれた自分。その力に気付いていなかったから。思念波を知らなかったから。
 いったい何処で思念波の存在に気付いたろうか、と思うけれども分からない。覚えてはいない。研究所に送られ、何度も繰り返された実験。地獄だった日々の中でいつしか使うようになった。
 実験室へと連れてゆくために、サイオンの制御リングを首に嵌めに来る研究者たち。
(嵌められる時に見えるから…)
 彼らの心の中にあるもの。それを読んでは、実験の内容に震え上がった。何が起こるのか、どうされるのかが明確に分かる日もあったから。
 実験の最中は制御リングを外されるから、実験室に残された残留思念も読んだ。其処で命尽きた仲間の苦悶や、断末魔の悲鳴。
 思念波を使っていた自分。研究者たちの心を読んだり、残留思念を読み取ったり。



 そうした記憶は残っているのに、肝心の記憶を持ってはいない。最初に思念波を使った記憶。
(忘れちゃったんだ…)
 他の失くした記憶と一緒に、初めて人の心を読み取った時の記憶まで。
 いつから心を読んでいたのか、読み取るようになったのか。欠片も覚えていないけれども、今も覚えていることが一つ。
 思念波は人の心を読めるし、語り掛けることも出来るけれども、前の自分は…。
(読んでいただけで、話し掛けなかった…)
 研究者たちにも、檻から引き出す者たちにも。ただの一度も。
 そんなことをしたら、酷い目に遭うから。実験の他にも、苦痛を味わう羽目になるから。
(酷い目に遭うって知ってたんだし…)
 多分、酷い目に遭ったのだろう。彼らに思念波で話し掛けて。一度か、もっと何度もなのか。
 いずれにしても、前の自分は「使っては駄目だ」と知っていたから、思念波を使うのは読み取る時だけ。送りはしないで、読み取っただけ。
 話し掛ける方でも使えるのに。…離れた所にいる相手にでも、メッセージを伝えられるのに。



 封じていたらしい、思念波を相手に送るということ。アルタミラの研究所にいた時代には。前の自分は便利にそれを使っていたのに、不器用な自分とは違ったのに。
(初めて、思念波を送ったのって…)
 いつなのだろう、と首を傾げた。失くしてしまった記憶ではなくて、今も覚えている中で。誰に思念を届けただろうか、どういう時に。
 シャングリラでは使っていたから、アルタミラを脱出した後だろうか。船の仲間は、一人残らずミュウばかり。もう安全だと使い始めたか、誰かが先に使っていたか。
(おい、って思念で呼び掛けられたら…)
 当然のように思念で返す。そういう風にして使い始めただろうか、あの船の中で?
(アルタミラだと、使えないしね…)
 使ったら酷い目に遭わされるのだし、使う理由が見当たらない。メギドの炎に焼かれた時にも、研究者たちは逃げ出した後。ミュウだけをシェルターに閉じ込めておいて。
(逃げて行く研究者たちに呼び掛けたって…)
 止まってくれるわけがない。「出して」と叫んでも、彼らが助けるわけがない。第一、思念波を思い付きさえしなかった。前の自分はシェルターの扉を両手で叩き続けただけ。
 「開けろ、ぼくらが何をした!」と。「何をしたっていうんだ!」と。
 思念波は使わず、肉声で。研究者たちに届く筈もない、肉体の声で。



 此処から出たい、と叫び続けた自分。強い思いが本当の力を引き出した。シェルターを破壊したサイオン。閉じ込められていた仲間は我先に逃げ出し、自分は呆然としていただけ。
(何が起きたか、分からなくって…)
 その場から動けなかった自分に、ハーレイが掛けてくれた声。「お前、凄いな」と。チビなのに凄い力があるな、と言われてようやく我に返った。自分がシェルターを壊したのか、と。
 ハーレイは燃える地獄を見回し、他にも仲間がいるだろうと言った。同じように閉じ込められている仲間。星と一緒に焼き尽くすために、シェルターに押し込められたミュウたち。
(あの時だ…!)
 思い出した、と蘇った記憶。前の自分が誰かに送った、最初の思念波。
 メギドの炎に焼かれ、崩れてゆくアルタミラ。其処をハーレイと二人で走った。他の仲間たちを助けるために。幾つものシェルターを開けて回るために。
 地震が起こる度に走る地割れや、崩れ落ちてくる建造物。炎も襲い掛かって来た。地獄だとしか思えない世界、一つ間違えたら自分もハーレイも命が無いかもしれない世界。
 懸命に二人で走ってゆく中、何度も呼び合い、声を掛け合った。助け合うために、相手に迫った危険を知らせて回避するために。
(もちろん言葉も使ってたけど…)
 それが聞き取れないような時。瓦礫が音を立てて落ちて来た時や、炎に巻かれそうな時。思念を飛ばして伝えていた。「危ない」だとか、「避けて」だとか。
 「ハーレイ」と呼んで、「ブルー」と呼ばれた。互いの名前を呼び続けた。声で、思念波で。
 もしかしたら、あの時、ハーレイの方も…。



(…初めて思念波を送って来た?)
 前の自分がそうだったように、誰かに向かって飛ばす思念波。ハーレイも初めて使ったろうか、燃え盛る地獄を走り抜ける中で。
 だとしたら、本当に運命の二人。互いに初めて思念波を送って、相手からも送り返して貰って。
 出会った時から特別だった、とハーレイと何度も話したけれど。
 あの時からの縁だけれども、初めて思念波を送った者同士ならば、縁は余計に深くなる。初めて思念波で呼んだ相手が、ハーレイならば。ハーレイも自分を初めて呼んでくれたなら。
(ハーレイに訊かなきゃ…)
 どうだったのかを訊いてみたいな、と思っていた所へ聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ドキドキしながら問い掛けた。
「あのね…。ハーレイが初めて思念波を使ったの、いつ?」
 心を読み取る方じゃなくって、話し掛ける方で。…最初はいつなの?
「さてなあ…。そこまで俺も覚えちゃいないが、赤ん坊の時になるんだろうな」
 おふくろ宛で、ミルクが欲しいと呼び掛けていたか、もう眠いだとか。
 生憎と聞いていないもんでな、今じゃ普通のことだから。…よっぽど遅けりゃ話題にもなるが。
 今のお前みたいに不器用なヤツが、初めて親に呼び掛けただとか。
「そうじゃなくって…!」
 ぼくの言い方が間違っていたよ、「前の」って付けるの忘れてた…。
 前のハーレイのことを訊いてるんだよ、初めて使ったのはいつだったのか。



 どうだったの、と鳶色の瞳を見詰めた。「前のハーレイは?」と。
「前のぼくはね、ハーレイに送ったのが初めてだったよ。…覚えている分は」
 アルタミラで二人で走っていたでしょ、他の仲間たちを助けるために。シェルターを開けに。
 あの時、ハーレイに思念波で話し掛けてたよ。呼んだり、「危ない」って叫んだり。
 …あれが前のぼくの、最初の思念波。誰かに思念を届ける方の。
 もっと前にも、きっと使っていたんだろうけど…。思念波を使ったら酷い目に遭う、って知っていたから、使ったことはあったらしいけど、覚えてないから。
 使った記憶は一つも無いから、ハーレイの名前を呼んだのが最初。
「そういえば…。俺もそうだったのかもしれん」
 あそこじゃ、研究者どもに思念波を使ったら殴られたんだし…。
 殴られるのが分かっているのに送りはしないし、前のお前に呼び掛けたのが最初だな。
 しかしだ…。殴られたという記憶があるなら、お前に送ったのが初めてというわけじゃないか。
 研究者どもにウッカリ送って殴り飛ばされたか、檻を管理していたヤツらの方か。人類に送ってしまったらしいな、前の俺の最初の思念波は。
「でも…。ハーレイ、覚えていないでしょ?」
 誰に向かって、何を言ったか。どういう思念波を送ったのか。
「それはまあ…な」
 覚えちゃいないな、俺を殴ったヤツらの顔も。研究者だったか、そうでないのかも。
「ぼくも同じだよ、言ったでしょ? 酷い目に遭うのは知っていたもの」
 人類に思念波を送っちゃったら、酷い目に遭うって分かってた。だから黙っていたんだよ。
 思念波はいつも、読み取る方だけ。…ぼくから送りはしないままで。



 覚えている中での初めてがハーレイ、と続けた思念波の話。最初に送った相手だった、と。
「ホントだよ。…あの時、初めて使ったんだよ」
 誰かに向かって呼び掛ける思念波。前のぼくが最初に呼んだ名前は、ハーレイの名前。
 ハーレイもぼくと同じでしょ?
 一番最初に呼んだ名前は、前のぼくの名前。…一番最初に呼び掛けた相手、前のぼくでしょ?
「そういうことなら、お前だな」
 思念波だったな、と思い出せる相手は前のお前だ。研究者どもは記憶に無いし…。
 前のお前を呼んでいたのが、前の俺の最初の思念波らしいな。今の俺だと、おふくろだろうが。
「やっぱり…!」
 ハーレイもぼくを呼んだのが初めてだったら、とても凄いと思わない?
 前のぼくは初めてハーレイを呼んで、ハーレイは初めて前のぼくを呼んで…。
 一番最初に思念波を使って呼んだ名前が、ぼくはハーレイで、ハーレイはぼく。
 これって凄いよ、それまでは誰も呼んでいないし、呼び掛けたことも無かったんだよ?
 なのに、ハーレイと会った途端に、二人で思念波。
 ぼくたち、最初から運命の二人だったんだ、っていう気がするよ。
 お互いに初めての思念波を送って、初めての思念波を送って貰って。
「運命の二人か…。そうなんだろうな、あの時からお前は俺の特別だったし」
 俺はお前に出会った時から、お前に捕まっちまってた。…お前が誰より大切だった。
 何度もお前に言っているだろ、俺の一目惚れだったんだろう、と。
「ぼくもそうだよ、ハーレイは特別」
 会った時から、ずっと特別。きっとあの時から恋をしていて、気付くのが後になっただけ。
 だからね、ホントに会った時から運命の二人だったんだよ。
 初めて名前を呼び合ったなんて、本当に凄く特別だもの。初めて思念波を送り合ったのも。
 前のぼくの思念波、ハーレイに会うまで大切に取ってあったのかもね。
 初めて呼ぶならハーレイの名前、って、誰の名前も呼ばないままで。



 きっとそうだよ、とハーレイの名前を呼んだけれども、もちろん声で。今の自分は、前の自分の頃のようにはいかないから。思念波で甘く「ハーレイ」と呼び掛けたりは出来ないから。
 ハーレイもそれに気が付いたようで、鳶色の瞳が細められて。
「そうか、思念波、俺に会うまで大切に取っておいてくれたのか。…前のお前は」
 前の俺も取っておいたんだろうな、お前に会うまで。…前のお前に呼び掛けるまで。
 そう考えると実に感動的だが、今のお前は違うってか。
 思念波の扱いが下手なばかりに、俺の名前も呼べやしない、と。こういう話になったからには、思念波で呼んだらロマンチックなのにな?
 俺の名前を声にしないで、思念波の方で「ハーレイ」とな。
「…分かってるなら、言わないでよ、それ…」
 ぼくだって、ちょっぴり悲しいんだから。思念波で呼びたかったんだから。
「大当たりってトコか。今のお前は、思念波どころかサイオン自体が不器用と来たし」
 タイプ・ブルーというのは嘘じゃないのか、と思うくらいにサッパリだ。
 お母さんたちから聞いていなけりゃ、お前が勝手に言い張ってるだけだと思うだろうな。
 前のお前と同じなんだ、と強調したくて、タイプ・ブルーだと主張してる、と。
 実際の所はタイプ・イエローかレッドなのにだ、大嘘をついてタイプ・ブルーと。
 …そうじゃないのは分かってるんだが、なんとも不思議なモンだよなあ…。
 前のお前の生まれ変わりで、正真正銘、タイプ・ブルーの筈なのにな?



 此処まで不器用なヤツはそうそうお目に掛かれん、とハーレイも呆れる今の自分の不器用さ。
 前と同じでタイプ・ブルーなのに、思念波さえもロクに紡げないレベル。此処で「ハーレイ」と思念波で呼べたら、本当にロマンチックなのに。自分でもそう思うのに。
 なんて不器用なんだろう、と俯くしかなくて、ハーレイの方は笑っていて。
「いいんじゃないのか、不器用でも。お前の力が必要無いのはいいことだしな」
 お前が一人で頑張らなくても、今の時代は誰も困りはしないんだ。
 もうソルジャーは要らない世界で、シャングリラだって何処にも無い。…要らないんだから。
 不器用なお前でいればいいんだ、その不器用さを誇っておけ。平和な時代に生まれたからこそ、お前は不器用でいられるんだからな。タイプ・ブルーに生まれちまっても。
「うん、分かってる…。ハーレイも何度も言ってくれたし」
 ぼくのサイオンが不器用なのが平和な時代の証拠だろ、って。ぼくの力を伸ばさなくても、誰も酷い目に遭わない世界。
 それにサイオンが不器用だったら、恋のコツは守れるみたいだよ?
「はあ?」
 恋のコツっていうのは、何の話だ?
 何処からそういう話になるんだ、俺はお前のサイオンについて話してたんだが…?



 不器用なサイオンがどう転んだら恋のコツだ、とハーレイの眉間に寄せられた皺。恋のコツなど俺は話していないんだが、と。
「前のお前の話なら分かる。運命の出会いで運命の恋だ、恋のコツだってあるだろう」
 何がコツかはまるで謎だが、お前にとってはコツだった、とな。
 しかし、サイオンが不器用となったら、そいつは前のお前じゃない。今のお前だ。
 恋をするには早すぎるチビが、どう間違えたら恋のコツなんぞを守るんだ?
 不器用さとどう結び付くのかも、俺には見当が付かないんだが…?
「えっとね…。今日の新聞記事…」
 恋人同士のお付き合いのコツって書いてあったから、読んだんだよ。役に立ちそう、って。
 そしたら、恋人同士になるにはどうすればいいかのコツの話で…。
 ぼくとハーレイとは両想いだから、殆ど役に立たなくて…。
 恋人同士になった後のコツも、ぼくには意味が無かったんだよ。相手を信じることだったから。
 心を読んだら駄目だって。…ちゃんと言葉で訊きましょう、って。
 ぼくは心を読めやしないし、このコツだけは守れるみたい…。
「お付き合いのコツって…。そんなのを読んでいたのか、お前…」
 チビのくせして、背伸びしやがって。
 どうせ、お母さんに見付からないよう、他の記事でも読んでいるふりで見てたんだろうが。
 自分の年が分かっているのか、たったの十四歳だろ、お前?
「チビでも、ハーレイの恋人だよ! 中身は前のぼくなんだよ!」
 見付けちゃったら気になるじゃない、恋のコツの記事!
 ぼくが読んでもかまわないでしょ、本当に恋をしてるんだから…。お付き合いだって、ちゃんとハーレイとしてるんだから!



 それに…、とグイと身体を乗り出した。「あの記事は役に立ったんだから」と。
「前のぼくが初めて、思念波を送った相手はハーレイ。そうだったんだ、って思い出したし!」
 ハーレイの方も同じだった、って分かったんだし、あの記事、役に立ったんだよ!
 ぼくとハーレイ、最初から運命の二人だったんだもの。初めての思念波を取っておいたくらい、出会うのを待っていたんだもの…!
「ふうむ…。役に立ったと言うかもしれんな、そういう意味では」
 だがなあ…。お前の場合は、コツを守るより、破るべきだという気がするが。
 その新聞には恋のコツだと書いてあっても、俺の心を読むべきかもな。
「なんで?」
 恋のコツだよ、心は読んだら駄目なんだよ?
 社会のマナーでもありますね、って書いてあったから、読んじゃったら駄目。
 ぼくは最初から読めないけれども、恋のコツは守れそうだから…。不器用で良かった、って思うことにしたのに、なんでそのコツ、破れって言うの?
「それはだな…。もしもお前が、そのコツとやらを破ったら、だ…」
 俺の心が読めるわけだし、その方がお前のためだってな。
 お前に俺の心が読めたら、キスだの何だのと言わなくなるに決まってる。俺の心さえ、ちゃんと上手に読み取れたらな。
「え…?」
 それってどういう意味なの、ハーレイ?
 心を読んだら、どうしてぼくがキスして欲しいって言わなくなるの…?



 分からないよ、と瞬きをしたら、ハーレイがパチンと瞑った片目。
「そうだろうなあ、お前、ホントにチビだしな?」
 俺の心に入っているのは、お前への想いというヤツだ。この胸の中に詰まってる。
 そいつを読んだら分かるわけだな、俺がどんなにお前のことを想っているか。
 キスは駄目だと言っていたって、「チビのくせに」と言ったって。
 俺はお前が好きでたまらなくて、お前を誰よりも愛してる。…前のお前を愛してたように。
 それが分かれば、お前はすっかり満足するっていう寸法だ。
 キスなんぞは大きくなった時のオマケで、オマケ無しでも充分、愛されてるってな。
「それ、読ませて…!」
 お願い、ハーレイの心の中身をぼくに読ませて。
 恋のコツを破っていいんだったら、破るべきだって言うのなら。
 読んでみたいよ、ハーレイの手をこっちにちょうだい。手を絡めたら心、見せられるでしょ?
 ハーレイが遮蔽を解いてくれたら、ぼくとサイオンを合わせてくれたら。
「そこまでサービスはしてやれないなあ、お前、チビだし」
 一人前に恋のお付き合いのコツまで読んだんだったら、自分の力で読むんだな。俺の心を。
 恋のコツとやらを破って心を読むのは許すが、手伝いはしない。
 俺に手伝う義理は無いしな、サイオン、鍛えてくるんだな。不器用でなけりゃ、お前、アッサリ読めるだろうが。俺の心の中身くらいは。
 前のお前がそうだったしなあ、まあ、頑張れ。恋のコツ、いつでも破っていいから。
「ハーレイのケチ!」
 読んでもいいとか、読むべきだとか言うんだったら、見せてくれてもいいじゃない!
 ハーレイの心を見せて欲しいのに、ぼくに自分で読めなんて…!
 出来ないってことを知っているくせに、ハーレイ、ホントにケチなんだから…!



 酷すぎるよ、とプンスカ膨れて怒ったけれども、膨れっ面になったけれども。
 ハーレイの場合は、心を読んでもいいらしい。恋のコツでは禁止なのに。新聞にはそう書かれていた上、社会のマナーも心を読まないことなのに。
 誰もがミュウになった世界でも。…思念波が普通になった今でも。
(でも、ぼくだって…)
 ハーレイにだったら、心の中身を読まれたとしても、きっと怒りはしないから。
 読んだハーレイが、「よくも」と腹を立てるような中身も、自分の心にありはしないから。
(ハーレイだって、きっとおんなじ…)
 心を読め、と言うくらいだから、ハーレイの心には自分への想い。愛している、と。
 その想いが一杯に詰まっているから、ハーレイは心を読まれてもいい。それに、自分も。
(…ぼくたち、運命の二人だものね?)
 初めての思念波で互いの名前を呼び合ったくらいの、運命の二人。
 出会った時からずっと一緒、と溢れる幸せ。
 一度は離れてしまったけれども、前の自分たちの恋は悲しく終わったけれど。
 今の自分たちは恋のコツさえ要らない二人で、マナー違反をしたって壊れはしない恋。
 互いの心を読んでみたって、恋は壊れはしないから。
 きっと想いが強くなるだけで、前よりも、もっと好きになる恋。
 前の自分たちの恋の続きを、幸せに生きてゆくのだから。
 青い地球の上で、いつまでも。手を繋ぎ合って、何処までも歩いてゆくのだから…。




             恋と思念波・了


※相手の心を読まないのが、今の時代のお付き合いのコツ。恋人が何を考えているのかは。
 けれど、ブルーとハーレイの場合は、読んでしまっても大丈夫。互いを想う気持ちで一杯。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv














(あ…!)
 学校からの帰り道。ブルーの前をふわりと横切った綿毛。バス停から家まで歩く途中で。小さな小さなプロペラみたいに、羽根をくっつけた何かの種。柔らかそうな、白い羽根を。
 目の高さくらいでスウッと通り過ぎたのに、上手い具合に風に乗ったらしい種。ふうわりと空に舞い上がってゆく。そのまま道端に着地するのかと思ったのに。
(飛んで行くよ…)
 羽ばたきもせずに飛んでゆく種。生垣を軽く飛び越えて行った。引っ掛からないで。
 今の自分は飛べないのに。前と同じにタイプ・ブルーでも、とことん不器用に生まれたせいで。どう頑張っても空は舞えない。生垣の高さにだって飛べない。
 あんなに小さな種が軽々と飛んでゆくのに。気持ち良さそうに風に乗ってゆくのに。
(…いいな…)
 何もしないでも飛べるなんて、と羨ましい気持ちで見上げた種。チビの自分よりもずっと小さい種。何かの植物の赤ん坊。生まれたばかりで、空に飛び立った所。この世界へと。
(種だけど、やっぱり赤ちゃんだよね?)
 でなければ卵かもしれない。雛が孵る前の卵の旅。何処かに落ちたら雛が孵って、とても小さな芽が出るのだろう。気を付けていないと、見落としそうなくらいに小さいのが。



 赤ちゃんなのか、それとも卵か。どっちなのかな、と見ている間も、種はぐんぐん昇ってゆく。いい風に乗って。生垣の次は庭を飛び越えて、お次は家。
 二階の屋根より高く舞い上がって、光の中に溶けてしまった。とても小さな種だったから。白く光を弾く綿毛よりも、太陽の輝きが強かったから。
 種は見えなくなってしまったから、何処まで行くかはもう分からない。今の自分は、サイオンの目では追えないから。前の自分の頃と違って。
 不器用な自分が飛べない空を、フワフワと飛んで行った種。風に乗っかって、広い空へと。
(うんと遠くまで行っちゃうかもね?)
 ああやって空の旅をして。もしかしたら、上昇気流にも乗って。
 風船が思いがけなく遠い所まで旅をするように、あの種だって行くかもしれない。バスの終点を軽く飛び越して、もっと遠くへ。隣町とか、その向こうとか。
(遠くまで旅をしなくても…)
 種が飛び立った場所とは違った、知らない所へ飛んでゆく旅。ほんのちょっぴりだけの旅でも。家を幾つか越えただけでも。
 初めて見る場所にふうわりと落ちて、地面の中で眠って、冬を越して。春になったら…。
(何が育つのかな?)
 あの綿毛から。地面に落ちたら、多分、綿毛は役目を終えて外れるのだろう。種が旅するための綿毛はもう要らないから。
 種はゆっくり眠り続けて、春の暖かな光で芽を出す。小さな葉っぱが顔を覗かせて、その葉から太陽の光を貰って、根からは土の中の養分。新しい場所で育ち始める命。
 すくすく育ってゆくだろうけれど、後は綿毛の正体と運。雑草が生えた、と抜かれてしまうか、逞しく育ち続けてゆくか。「いいものが生えた」と歓迎されるか、綿毛だけでは分からない。
(綿毛、色々なのがあるから…)
 雑草でなくても、様々な園芸植物の類。あの種が何かは分からないけれど。
(土があったら、芽を出せるよね?)
 道路なんかに落ちなかったら、無事に芽を出すことだろう。着地した場所で、春になったら。



 いい旅を、と心で呼び掛けた綿毛。今の自分は空を飛べないから、心の底から。素敵な所へ旅をしてねと、気持ちいい所へ飛んで行ってね、と。
 もう見えなくなった種を見送って、家に帰って、おやつを食べて戻った部屋。二階の窓から外を眺めたら、綿毛のことを思い出した。帰り道に空を飛んで行った種。
 風に乗って高く舞い上がった種は、あれから何処へ行ったのだろう?
(この辺りだったら、土のある場所は、うんと沢山…)
 何処の家にも庭があるから、其処にふわりと落ちたなら。公園もあるし、家の外にまで植木鉢を並べた家だって。
 屋根に落ちても、雨で流れて着地出来そうな庭。花壇にだって着くかもしれない。綿毛の正体が雑草だとしても、芽を出すことは出来る筈。冬が終わって、暖かな季節が巡って来たら。
 もっと遠くまで飛んでゆけたら、広い野原にも着けるだろう。何の種でものびのび育てる、誰も抜いたりしない場所。雑草の種でも、綺麗な花が咲く植物でも。
(素敵な所まで飛べるといいね…)
 幸せに育ってゆける場所まで。庭で芽を出しても大きくなれる家だとか。うんと遠くの町外れに広がる野原にだって。
 もしも雑草の種だったならば、庭では歓迎されないから。ある程度までは大きくなれても、空を飛んでゆける種が出来上がる前に、引っこ抜かれてしまいそうだから。
 どんな種でも立派に成長出来る場所なら、郊外の野原。其処が一番。



 帰り道に出会った綿毛の正体は分からないから、野原まで飛んで行けたらいいい。空を旅して、町の外まで辿り着けたら大丈夫、と思った所でハタと気付いた。
(町の外って…)
 人間が住んでいる家が見えなくなったら、広がっている野原や緑の山や。沢山の木が茂った山を越えて行っても、続いてゆく植物の種が生きられる地面。山の向こう側も、木々に覆われた斜面。其処を下れば、林や野原。
 当たり前に思っていたのだけれども、その光景は今だからこそ。青く蘇った地球の恵みで、前の自分は知らない風景。町の外まで緑の地面が続く景色は。
(アルテメシア…)
 白いシャングリラが長く潜んだ、雲海の星。緑溢れる町もあったし、海も広がっていたけれど。
(全部、人間が暮らすためのもので…)
 本来の星の姿を改造したもの。人間が其処で生きてゆくのに適した姿に。
 テラフォーミングされた場所を除けば、アルテメシアは荒地のままだった。同じ星の上にあった二つの都市の間でさえも、不毛の地だった峡谷が挟まっていた有様。
 険しい断崖と深い峡谷、水さえ流れていなかった。そんな所に緑が育ちはしない。どんな雑草も生えていなくて、荒涼とした谷。町の外も同じに荒れた土だけ、草は一本も育たなかった。
(あそこだと、種が風に乗っても…)
 高く、遠くと舞い上がれても、幸せにはなれなかっただろう。旅をした先に、植物の種を育ててくれる地面は無いから。長い空の旅を続けた果てには、不毛の大地があっただけだから。
 人間のために整備されていた区域の中でしか、雑草でさえも芽を出せなかったアルテメシア。
 綿毛の羽根で空を飛べても、自由にはなれなかった星。人間が作った世界からは。



 けれども、今日の綿毛は違う。町の外まで飛んで行ったら、本当に自由。雑草の種でも、抜いて捨てられはしないから。山で、野原で、大きく育ってゆけるのだから。
(今は人間の方が遠慮してる時代…)
 人間の都合で星を、自然をどんどん改造したりはしない。テラフォーミングをするのだったら、星ごと変えてゆくのが基本。人間の住む場所以外であっても、自然が息づく星になるように。
(砂漠とかも、ちゃんとあるけれど…)
 それは、その方が自然だから。この惑星ならどうすべきか、と検討して自然を作ってゆくから。もっと人間の住める地域を、と欲張らないで。他の生き物が暮らす範囲を最優先で。
 特に地球では、厳しい決まり。一度滅びて、奇跡のように蘇って来た星だから。
 この星の上では、他の動物や植物のためにある場所の方が多くて、人間は其処に住ませて貰うといった雰囲気。彼らの邪魔をしないようにと遠慮しながら。
(アルテメシアにあったみたいな高層ビルは…)
 今の時代は、もう作られない。地球でなくても、何処の星でも。
 中でも地球が一番厳しい、と学校で習う。ビルも道路も、自然を損ねてしまわないよう、とても気を配って作られていると。滅びる前の地球とは違うと。
 賑やかな街の真ん中にだって、きちんと作られている公園。人が緑と触れ合えるように。小鳥や虫たちが暮らせるように。
 町の外には、豊かな緑。野原も山も、「此処で終わり」と不毛の大地に変わりはしない。



(だからあの種、何処へでも行けて…)
 着いたその場所で育ってゆける。家の庭でも、町の外でも。土のある場所に下りられたならば、冬の後には芽を、根を出して。
 前の自分が生きた時代は、そんな風にはいかなかったけれど。世界はとても狭かったけれど。
(凄いよね、地球は…)
 風に運ばれた種が、何処ででも暮らしてゆける星。土さえあれば、春になったら芽を出して。
 なんて幸せな星なんだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、口にしてみた。
「ねえ、地球って幸せな星なんだね。…ホントに幸せ」
 地球に来られて良かったと思うよ、今の青い地球に。
「はあ? 幸せって…」
 そりゃ幸せだろ、前のお前が行きたがってた夢の星だぞ。しかも今では青い地球だ。
 前のお前が生きてた時代は、こんな地球は何処にも無かったが…。
 滅びちまった時と変わらないままの、そりゃあ無残な星だったんだが…。
 こうして元に戻ったからには、最高に幸せな星だってな。人間を生み出した星なんだから。



 何を今更、という顔をされてしまったから、説明をすることにした。幸せな星だと思った理由。今の青い地球と、遠い昔のアルテメシアは違ったことを。
「あのね、綿毛が飛んでたんだよ。…今日の帰り道に」
 植物の種がくっついた綿毛。ぼくの前を横切って、風に乗って飛んで行っちゃった。家の屋根を越えて、そのまま見えなくなっちゃったんだよ。
 でもね、その種…。何処へ行っても、生きてゆけるでしょ?
 うんと遠くへ飛んで行っても、春になったら、ちゃんと芽を出して。
「おいおい、道路とかだと駄目だぞ」
 芽を出すためには土が無いとな。道路に落ちたらどうにもならんぞ、土が無いから。
「それはそうだけど…。そんなのじゃなくて、人間の住んでいない所でも、っていう意味」
 町の外まで飛んで行っても、山も野原もあるじゃない。山を越えても、育つ場所は一杯。
 だけど…。アルテメシアじゃ駄目だったよ。前のぼくたちが生きてた頃の。
 アタラクシアも、エネルゲイアも、町の外に出たら緑はおしまい。人間が暮らす都市から見える範囲だけしか、テラフォーミングしてはいなかったから。
「そういや、そうだな…。山を越えたら荒地だっけな」
 草一本生えやしなかった。そういう風には出来てなかったし、種が落ちても芽は出せないか…。
 あの時代だと、完全に人が住める状態だった星は、ノアくらいだな。
 人類が最初に入植に成功した星だったから、荒地のままで置いておくより、テラフォーミングをして住める場所を増やしていかないと。ポツン、ポツンと町を作るよりかは。
 しかし、ノアでも今の地球には及ばんなあ…。青い星には見えたんだがな。



 海もあったし、綺麗な星ではあったんだ、と話すハーレイ。
 前のハーレイが白いシャングリラから目にしたノアは、他の星よりも遥かに美しかったという。星を取り巻く白い輪が無ければ、地球かと間違えそうなくらいに。
「ノアがこんなに綺麗だったら、地球はどれほど凄いんだろう、と誰もが夢を見ていたもんだ」
 もっと青くて、息を飲むしかないんだろうと。…残念ながら、本物の地球は酷かったが。
 あのレベルまで行ってたノアでも、今の地球には敵わなかった。技術の限界といった所か。
「ね、そうでしょ? 一番整備されてたノアでも、そんなのだから…」
 アルテメシアだと、ホントに駄目。植物の種が町の外に出たら、芽は出せなかったよ。
 だから、地球は幸せな星だと思って…。
 ぼくたちも幸せに生きているけれど、植物だって幸せなんだよ。
「確かにな。綿毛が旅をして行った先が、不毛の土地だっていうことはないな」
 此処は砂漠の地域じゃないから、土さえあったら、何処でも自由に育ってゆける、と。
 もっとも、そうして芽を出したって、運が悪けりゃ、抜かれちまうが…。
 雑草が生えた、と抜かれちまったら、それでおしまいなんだがな。
「そうなんだけどね…。雑草の種は嫌われちゃうから」
 ぼくが見た種、何の種だか分からないんだよ。雑草かもしれないし、花壇の花かも…。
 だけど、気持ち良さそうに空を飛んでた。ぼくは飛べないのに、風に乗ってね。
 いい旅をしてね、って思っちゃった。あの種が幸せになれる場所まで。



 幸せな空の旅を続けて、何処かで幸せに育つといいな、と夢を語ったら。
「そうだな、そういうのも今の地球ならではだな」
 空の旅をする色々な種。そいつが沢山あるというのも、地球の良さだ。
 幸せな場所を目指して旅に出るのは、お前が見掛けた綿毛だけではないからな。
「うん…。他にも幾つも飛んでいるよね」
 あれと一緒に風に乗った種、きっと一杯あっただろうし…。
 その中の一つをぼくが見ただけで、色々な所に飛んでったと思う。行き先も色々。
「綿毛だけではないんだぞ? 空を飛ぶ種は」
 もっと他にも幾つもあるんだ。自分で飛んで行く種だってあるが、運んで貰うのもあるからな。
 綿毛なんかはついていなくて、ただの種のままで。
「なに、それ? ただの種って…」
 運んで貰って空を飛ぶって、飛行機か何か?
 そういう種まき、あるって聞くけど…。広い畑だと、飛行機を使って、空から種まき。
「違うな、それじゃ人間の都合で栽培されてるだけだろうが」
 行き先は畑で、あまり自由じゃなさそうだぞ。快適な環境で育ってゆけるのは確かだがな。
 俺が言ってるのは、それじゃない。空を飛ぶのは飛行機じゃなくて、生き物だ。
 空を飛ぶ生き物とくれば鳥だろ、鳥に食べて貰って飛んでゆくんだ。
 美味しい実をどうぞ、とドッサリ実らせて、種ごと飲み込んで貰ってな。



 鳥が運んでゆくという種。それなら前にハーレイに聞いた。ヤドリギの実がそうなのだと。高い木の枝に生えるヤドリギ、こんもりと丸い姿に育つ寄生植物。
 実の中の種は粘り気があって、小鳥を捕まえるためのトリモチが作れる。けれど、種の粘り気はトリモチの材料になるためではなくて、木の枝にしっかりくっつくためだ、と。
 実を食べて種を飲み込んだ鳥が、高い木の枝に残してゆく糞。それに混じってくっついた種が、雨風で流されてしまわないようにと、強い粘り気。
「ああ、ヤドリギ…!」
 木の枝にくっつかなくちゃ駄目だから、粘り気のある種なんだよね?
 それでトリモチが作れるくらいに凄いって…。ヤドリギの種は空を飛ぶよね、綿毛無しで。
「覚えてたか? ヤドリギはそのために美味い実をつける、と」
 鳥に運んで貰って増えるんです、っていう植物の代表みたいなモンだな、ヤドリギ。他の木まで運んで貰うとなったら、鳥にしか頼めないからな。
 それが専門の植物もあるが、そうでもないのに、鳥に運んで貰って凄い所で育つこともあるぞ。
 もちろん、鳥に運んで貰って遠くへ行こうとはしたんだろうが…。
 本当だったら、そんな所で育つ植物じゃなかったよな、という凄いヤツが。
「それって、どんなの?」
 変な所に生えてるんだよね、その植物。何の種だったの?
「聞いて驚け、松に桜だ」
 松の木の上に桜が咲くんだ。小ぶりだとはいえ、立派に枝を広げてな。
「ええっ!?」
 桜って、春に咲く綺麗な桜のことだよね?
 それが松の木の上で咲いてるだなんて、なんだか信じられないんだけど…!



 嘘みたい、と目を丸くしたけれど、本当の話。ハーレイは写真で見たという。その桜の木がある辺りでは、よく知られた木。花の季節には写真を撮ろうと愛好家たちが出掛けてゆく。
「もちろん、花見の人だって行くぞ? ただ、松の木の上だからなあ…」
 何メートルも上で咲いてるんだから、普通の花見とは違うだろうな。見上げりゃ首も痛くなる。周りに桜が沢山咲いてるわけでもないし…。まあ、珍しいものを見に行くってトコか。
 他にも、木の上に他の木が生えるってヤツは幾つもあるわけだ。
 寄生植物じゃなくても、たまたま鳥が落として行った種が芽を出したらな。
「それって凄いね、木の上に別の木だなんて…」
 ヤドリギだったら分かるけれども、桜なんかは木の上に生える木じゃないのに。
「な、地球ならではの景色だろ?」
 人間が住んでる所だけしか緑が無い、って所じゃ無理だ。
 鳥が自由に実を食べて飛んで、気の向いた木の枝で休憩するから、凄い所で種が育つ、と。
「ホントだね…。鳥だって好きに飛んで行けるものね」
 今の地球だと、渡り鳥だっているんだもの。冬に来る鳥とか、夏の鳥だとか。
 前のぼく、そんなのは少しも想像出来なかったよ。種を運ぶ鳥も、渡り鳥だって。
 渡り鳥のことは色々な本に載っていたけど、そういう種類の鳥なんだな、って思っていただけ。
「アルテメシアに鳥はいたがだ、あれだって人間が作った町だけにしかいなかったし…」
 おまけに、シャングリラには鳥がいなかったからな。…鶏しか。
「そう…! 卵を産んでくれて、肉も食べられる鶏だけ…」
 前のぼくが欲しかった青い鳥は駄目で、みんなの役に立つ鶏しか飼えなかったんだよ。
 鶏は空を飛べなかったし、種を運ぶ以前の問題だよね。



 人類に追われたミュウたちのための、箱舟だったシャングリラ。白い鯨に改造された後は、自給自足で生きていた。船の中だけが世界の全てで、何もかもを船で作り出して。
 余計な生き物は必要無い、と飼育されなかった空を飛ぶ鳥。手間がかかるだけだ、と鶏だけしか船で飼ってはいなかった。空を飛べない、歩き回るだけの鶏たち。
「ねえ、ハーレイ。シャングリラに鳥はいなかったけど…」
 鶏だけしかいなかったけれど、もし、あの船に空を飛ぶ鳥がいたって…。
 植物の種を運んで行くことは出来なかったよね。木の実を好きに食べられないもの。
 シャングリラで育てていた植物は全部、人間のための植物だったから…。
 観賞用に植えてあっても、それを眺めるのは人間でしょ?
 大切な実を鳥が食べちゃうだなんて、絶対、駄目。…食べられないように工夫した筈だよ。
 食べられない実の種は運べないから、空を飛べる種は無かったよ、きっと。
 鳥がシャングリラの中を飛んでいたって、一緒に空を飛ぶ種は一つも無かったと思う。
「あの船の植物は、どれもそういうヤツだったしなあ…」
 収穫するのは人間の役目で、鳥の出番は無かったな。いたとしたって。
 鳥が木の実を食おうとしたなら、ゼルやヒルマンが対策を考えただろう。食われないように。
 種は決して空を飛べんな、あの船ではな。
 …そういや、綿毛も無かったかもしれん。自分で風に乗って行ける種。
 アルテメシアの話じゃないがだ、飛んで行っても、船の中じゃどうにもならんしなあ…。
 いや、あったか?
 観賞用か何かで、そういう植物。…綿毛がついてる種が出来るヤツ。
「どうだったっけ…?」
 花壇の花でも、綿毛のついた種が出来るのは色々あるけれど…。
 シャングリラで育てていたかな、それ。…公園は幾つもあったんだけれど…。



 白いシャングリラにあった植物。鳥ほど手間はかからないから、観賞用のも多かった。人の心を和ませてくれる植物たちは、大いに歓迎されていたから。
 けれど、その中に綿毛のついた種を結ぶものはあっただろうか?
 百合も薔薇も綿毛をつけはしないし、スズランも、スミレやクローバーも。
 二人して公園の花を幾つも思い出しては、「これも違う」と数える間に、ふと蘇って来た野花の記憶。まるで小さな太陽のような、黄色い花を咲かせたタンポポ。
「そうだ、タンポポ…!」
 タンポポの花が咲いていたっけ、あれの種は風で飛んで行くんだよ。
 花が終わったら、真っ白な綿毛がふんわりくっついていたじゃない…!
「あったな、タンポポ…。ブリッジの下の公園にな」
 春になったら咲いてたんだった、あっちこっちに。あの公園でしか咲かなかったが。
「うん…。根っこが深くて、嫌われてたけど…」
 公園の手入れをしていた係に。
 大きく育ったタンポポの根っこはうんと深くて、引っ張っただけじゃ抜けないから…。
 小さい間に抜いてしまわないと、ホントに手間がかかっちゃうから。
「だが、タンポポを植えないと、とヒルマンが押し切ったんだっけな、あの公園」
 船の子供たちに、植物が増えてゆく仕組みを教えたいから、と。
 種を蒔いたら増えるもんだが、それじゃ駄目だ、と言ったんだった。
 自然の中では勝手に増えてゆくものなんだし、船の中だからこそ教えたい、とな。
 タンポポってヤツは、人の手を借りずに増えるからなあ、あの種が風に乗っかって。
 種を落とすだけのスミレやクローバーとかとは違って、見た目で分かる。種が飛ぶのが。
 是非植えたい、と言われちまったら、厄介なヤツでも仕方ないよな。



 船の中だけが世界の全てだった、白いシャングリラ。救い出した子供たちを乗せた箱舟。外には出られない子供たちに自然を教えるためには、タンポポは格好の教材だった。
 ある日、長老たちを集めて「タンポポを植えたい」と言ったヒルマン。
「育ててみようと思うのだよ。この船でね」
 タンポポは植えておくべきだ。一ヶ所だけでもかまわないから。
「ちょいと、タンポポって…。雑草をかい?」
 あんなのが何の役に立つのさ、とブラウが尋ねた。綺麗な花でもないじゃないか、と。
「観賞用の植物だけが全てではないよ」
 それでは駄目だ。自然をそっくり再現しようとは言わないが…。タンポポは欲しい。
「もう色々と植えてあるわい、スミレもクローバーも植えたじゃろうが」
 追加は要らん、とゼルが苦々しい顔をしたけれど、ヒルマンは「いいや」と首を横に振った。
「確かにあれこれ植えたがね…。公園で見るには充分なのだが…」
 生憎と、今ある植物たちの種は、旅をしてくれないものばかりだ。ただ増えるだけで。
「旅だって?」
 誰もが首を傾げた「旅」という言葉。
 長い旅なら、前の自分たちもして来たけれども、植物の旅とは何だろう?
 しかも種とは、と不思議に思った前の自分たち。
 人間だったら宇宙船などで旅をするものだけれど、植物が何故、と。
 植物は自分で歩いてゆきはしないから。根を下ろした場所から少しも動きはしないのだから。



 アルタミラの地獄から脱出した後、長く宇宙を旅していた。白い鯨に改造を終えて、雲海の星に辿り着くまで。アルテメシアの雲に潜むまで。
 其処で保護したミュウの子供たち。幼い子たちが船に加わり、ヒルマンはその教育係。旅をする種が必要だから、とタンポポの導入を唱えたヒルマン。
「タンポポはね…。種に綿毛があるのだよ」
 本などで見たことがあるだろう。タンポポの種の写真くらいは。丸い綿毛の塊をね。
 あの種は、綿毛を使って風に運ばれて、落ちた先の地面で芽を出すものだ。
 それが旅だよ、タンポポの種の。…ほんの短い距離にしたって、自然を実感出来るだろう。
 この船の公園に吹いている風は、人工の風には違いないが…。
 それでも、そうして風が吹いたら、タンポポの種の旅が始まる。その風に乗って。
 子供たちが息を吹き掛けて散らした時にも、やはり同じに旅をしてくれる。風のままにね。
 本来、自然はそういったものだ。人間の力を借りることなく、次の世代を育ててゆく。
 船の中しか知らずに育つ子供たちにも、自然の仕組みを教えておきたい。
 …どうだろうかね?
 タンポポを植えるのは駄目だろうか、という質問に反対する者はもういなかった。旅をする種は船に必要だろうから。自然の教材は、きっと子供たちの役に立つから。
「いいじゃろう。…そういうわけなら、反対せんわい」
「あたしも植えるべきだと思うよ。…どうだい、ソルジャー?」
 ブラウに訊かれたから、「いいと思う」と前の自分も応じた。ハーレイたちも。
 ヒルマンは嬉しそうに頷き、それから髭を引っ張っていた。
 「ただ、問題はタンポポの性質でね…」と、「増えすぎると抜くのが厄介らしいが」と。
 繁殖力が旺盛な上に、深く根を張るから嫌われ者の植物なのが難点だがね、と。



 そんな遣り取りを経て、シャングリラにタンポポが植えられた。前の自分が種を採りに降りて、綿毛を公園に吹く風に乗せて。ブリッジが見える一番大きな公園で。
 ヒルマンが連れて来た子供たちがワッと揃って上げた歓声。綿毛が風に乗って散ったら。
 やがてタンポポの種は芽を出し、公園のあちこちで育ち始めた。それまでは無かった植物が。
「植えたんだっけね、タンポポの種…」
 前のぼくが最初に蒔いたんだったよ、タンポポの種。…ううん、タンポポは自分で飛んでった。風に乗せたら、ぼくの方なんか見向きもせずに。
 何処へ飛ぶかな、って見送っていたよ、ヒルマンや子供たちと一緒に。タンポポの旅を。
 後で生えて来たら、ビックリするほど色々な所にあったっけ…。あの時のタンポポ。
「うむ。雑草なだけに、生命力が強かったからな」
 もれなく発芽したんじゃないのか、お前が公園に蒔いてやった種。
 いや、お前はタンポポの種を採って来ただけで、後はタンポポが旅をしただけか。
 あの公園は広いというのに、呆れるほどの範囲で芽が出たぞ。
 でもって、黄色い花が幾つも咲いてだ、花が終わったら綿毛の番で…。
 そいつらが旅を始めたっけな、公園に吹いてた風に乗っかって。
 子供たちもフウフウ吹いて飛ばして、シャングリラ生まれのタンポポが旅をしたんだが…。
 次の季節にはワンサカ増えてて、増えすぎたから、と係に手入れを頼んだら…。
「…抜けなかったんだよね、根っこが深くて」
 引っ張っただけではビクともしなくて、無理に引っ張ったら千切れちゃって。
 残った根っこからまた新しい葉っぱが生えてくるから、係が悲鳴を上げてたっけね…。



 ヒルマンが厄介者らしいと言った通りに、厄介だったシャングリラのタンポポ。公園の整備係を困らせたそれは、教材だからと居座ったまま。花が終わったら種を飛ばして、また増えて。
「実に厄介な植物だったが、お前も遊んでいたっけな」
 子供たちと一緒に、タンポポの種で。綿毛を息で吹き飛ばしてな。
「競争してたよ、誰が一番遠くまで種を飛ばせるか、って」
 それにサイオンで風も起こしてたっけ。公園の風より強い風をね。
 子供たちに「やって見せて」って頼まれた時は、タンポポの周りに、うんと強い風を。
 そしたら種がブワッと飛ぶから、みんな大喜びで見上げていたよ。あんなに飛ぶね、って。「ブリッジにもたまに落ちて来てたぞ、タンポポの綿毛」
 お前がわざわざ飛ばさなくても、風の加減というヤツで。
 こんなトコまで飛んで来たな、と拾っては公園に返したもんだ。ブリッジに土は無いからな。
 ついでに、誰かの服にくっついて、他の所で生えたら困るし。
「あの公園でしか育てていなかったんだよね、タンポポは…」
 植える前にヒルマンが言ってた通りに、ホントに厄介者だったから。
 抜いても抜いても次が生えて来るし、引っこ抜く時も掘り起こさなくちゃ駄目だったから…。
「嫌われ者っていうヤツだよなあ、頼んでないのに次々と増えて」
 好き勝手に旅をしては増えるから、どうにもならん。何処に生えるのもヤツらの自由で。
 教材としては立派だったが、嫌われっぷりも酷かったぞ。公園の係がブツブツ文句だ。
 他の公園で見付かった、ってニュースが入ろうもんなら、係のヤツらが飛んでったっけな。飯の途中でも放り出しちまって、タンポポ退治。
 早い間に根絶やしにしないと、またタンポポが増えるしな?
 本当に、よっぽど厄介だったんだろうな、飯も後回しで退治しておきたいくらいにな。
「多分ね…。後で、って思って忘れちゃったら、おしまいだものね」
 種が飛んじゃったら、もう拾えないし。…生えてくるまで、何処にあるのか謎なんだから。



 白いシャングリラのブリッジが見えた広い公園。其処にしか生えていなかったタンポポ。綿毛の旅は公園の係泣かせで、他の公園では端から退治されていたから。
「…ぼくが見た綿毛、タンポポだったのかなあ?」
 今日の帰りに飛んでった綿毛。もっと良く見ておけば良かった、タンポポだったら。
 こんな懐かしい話になるんだったら、もっとしっかり。
「タンポポだったかもしれないな。秋にも咲くしな、気候が良けりゃ」
 なんたって、相手はタンポポなんだ。厄介者で嫌われ者だった、あの頑丈な雑草だぞ?
 花を咲かせたら、きっと綿毛を作るだろうしな。咲いただけでは終わらないで。
「厄介者かもしれないけれど…。今の時代でも、タンポポ、厄介なんだけど…」
 ママが「また生えちゃったわ」って抜いているけど、あの種がタンポポだったなら…。
 厄介者だって言われない場所で、うんと幸せになって欲しいな。
 シャングリラのことを思い出せたから、嫌われない場所で、花を咲かせて。
「うーむ…。俺もタンポポには手を焼くんだが…」
 庭の芝生に生えちまったら、たまに泣かされているんだが…。
 お前が見た種がタンポポだったとしても、きっと幸せになれるだろうさ。地球なんだから。
 今度が駄目でも、また次ってな。
「次って…。花を咲かせられなくても、その次があるの?」
 引っこ抜かれた根っこの残りから、また新しい葉っぱを出すってこと?
「そうじゃなくてだ、俺たちみたいに生まれ変わって」
 次もタンポポになって旅をするとか、もっと喜ばれる花の種になって旅をしてゆくとかな。
 綿毛で増える花壇の花とか、鳥に食べられて空の旅をする木の実だとか。
「そっか…! 空の旅だって色々だっけね」
 地球なんだもの、空を旅する種も色々。旅をしてゆく方法も色々…。
 あの種もきっと幸せになれるね、地球なんだものね。タンポポの種でも、何の種でも。



 幸せに旅が出来ますように、と窓の向こうに目をやった。
 あの種は今も飛んでいるのか、何処かにふわりと舞い降りたのか。家の庭か、野原か、それとも山か。歓迎される場所に降りたか、すくすく育ってゆけるのか。
 何処へ降りても、植物の種でも、幸せに生きてゆけるのが地球。
 今度が駄目でも、またタンポポになって空を舞うとか、鳥に運んで貰うとか。
 種だって幸せになれる時代は、何に生まれても、きっと幸せ。
 死の星だった地球は青く蘇って、他の星でも、今は誰もが幸せだから。
 その幸せな世界に生まれて来られた、今の自分と今のハーレイも。
 今度は幸せに生きてゆけるから、いつまでも、何処までも、二人で旅してゆけるのだから…。




          旅をする綿毛・了


※今の地球だと、何処に落ちても育ってゆける植物の綿毛。旅をする種をつける植物は色々。
 シャングリラでも、子供たちの教材にタンポポを育てていたのです。増えすぎる嫌われ者を。
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(えっ…?)
 帰り道のバスでブルーが感じた視線。いつものように学校からの帰りに乗っているのだけれど。窓の外から、誰かに見られている感じ。今は信号待ちで停車中のバス。
(誰…?)
 今日はたまたま、真っ直ぐ前を向いていた。一番前の席に座っているから、前の景色を見放題。これからバスが走ってゆく先も、前をゆく車や自転車なども。
 自分で運転しているみたい、と前に夢中で、見ていなかった窓の方。そっちから感じる、誰かの視線。バスの車高は高いのに。
(なんで…?)
 背伸びしたくらいじゃ覗けないよ、と視線の方へと顔を向けたら…。
「キャーッ!」
 明るい叫びが弾けた気がした。バスの防音はしっかりしているから、聞こえなかったけれど。
 隣の車線に、子供たちの顔がズラリと並んだ観光バス。下の学校の子供たち。誰もが見ている、こちらのバス。それも自分が座っている場所を。
 ワイワイガヤガヤ、騒いでいる声が此処まで届きそう。指差している子や、見詰めている子。
(えっと…?)
 ぼくの方を見ているんだよね、と浮かんだ苦笑。きっと誰かが偶然、気付いた。この顔に。赤い瞳に銀色の髪のソルジャー・ブルー。まだ少年ではあるけれど。
(ソルジャー・ブルーが乗ってるよ、って…)
 それで騒ぎになったのだろう。「本物そっくり!」と指差したりして。
 十歳になったか、ならないかくらいの子供たち。失礼だとか思いはしないし、あのバスの中は、きっと賑やかなのに違いない。先生の声も届かないくらいに。



 伸び上がって見ている子も大勢いるから、手を振ってみた。どうなるのかな、と。ワッと歓声が上がったのだろう、子供たちのバス。小さな手が一斉に振られたけれど。
(あれ…?)
 シャッとカーテンを閉めた女の子が一人。すぐ隣だから、よく分かる。カーテンを閉めた子供が誰だったのかも、ついさっきまでは開いていたことも。
(どうしちゃったわけ?)
 手を振ったらカーテンを閉めちゃうなんて、とキョトンとしている間に、感じた視線。その方向から。よく見てみると、カーテンの隙間から覗いている子。こちらを、じっと。
 顔は真っ赤で恥ずかしそうで、それでも視線。見るのをやめられないらしい。カーテンを閉めてしまったくせに。自分で慌てて閉めていたくせに。
(ソルジャー・ブルー…)
 きっと、あの子の憧れの人。前の自分が、あの女の子が大好きな夢の王子様。
 その王子様にそっくりなチビが今の自分で、隣のバスに乗っていた。ソルジャー・ブルーの服と違って、学校の制服を着た王子様。
(見ていたいけど、恥ずかしいんだ…)
 ぼくに姿を見られちゃうのが、と思い至った女の子の気持ち。すぐ隣だから、余計なのだろう。少し離れた窓からだったら、気にしないで見ていられたろうに。他の大勢の子たちに紛れて。
(んーと…)
 隠れながらも、その子はこちらを見ているから。「大丈夫」と視線を合わせて、また振った手。閉じたカーテンは開かなかったけれども…。
(ぼくの顔、見てる…)
 嬉しそうな顔の女の子。隠れたままで小さく手を振りながら。



 信号が変わって青になったら、動き始めた両方のバス。暫く並んで走った後で、観光バスの方が先に行ってしまった。あちらはバス停に止まらないから、速度を上げて。
 乗っていた大勢の子供たちの方は、遠ざかるまで手を振っていた。後ろの窓に貼り付いてまで。はしゃぐ声が此処まで聞こえて来そうな勢いで。
 それでも開かなかったカーテン。女の子が閉めてしまったままで。
(もう開けたとは思うんだけど…)
 観光バスは見えなくなったし、また並ぶことは二度と無い筈。隣同士になってしまって、自分と顔を合わせることも。
(隠れなくてもいいのにね?)
 カーテンの陰から見るくらいなら。こちらへと手を振り続けるのなら。
 どうせだったら、しっかり見物すればいいのに、と思ってしまう自分の顔。ソルジャー・ブルーそっくりのチビ。遠慮しないでジロジロ眺めて、大きく手を振れば良さそうなのに。
 動物園でゾウやキリンに手を振るみたいに、ライオンやカバを見詰めるみたいに。
 そっちの方がお得だよね、と思うけれども、相手は憧れのソルジャー・ブルー。少しチビでも、夢の王子様に瓜二つの顔の「お兄ちゃん」。
 恥ずかしくなって、隠れてしまう子もいるのだろう。
 隣り合った別々のバスの中でも。挨拶すらも要らない場所でも、カーテンを閉めて。



 可笑しかった、と思い返しながら帰った家。恥ずかしがり屋の子に会っちゃった、と。
 ダイニングでのんびりおやつを食べて、部屋に戻ったら、また思い出した。カーテンをシャッと閉めていた女の子。十歳くらいの小さな子。
(あのバス…)
 何処まで走って行ったのだろう。賑やかな子たちや、恥ずかしがり屋の女の子を乗せて。
 もう学校が近かったのか、もっと遠くへ帰ってゆく途中だったのか。
(見忘れちゃった…)
 バスのナンバープレートを。この町のバスか、他の町から来たバスなのかも分からない。何処へ走って行ったのかも。
 窓のカーテンを閉めていた子は、自分の家に帰ったろうか。家で話しているのだろうか、バスの窓から見付けた小さなソルジャー・ブルーのことを。学生服のチビの王子様に出会ったことを。
(家でも恥ずかしがり屋の子なのかな?)
 話したくても「えっと…」と何度も詰まってしまって、なかなか喋れないだとか。それとも逆に元気一杯、大はしゃぎで家族を捕まえているか。「ね、今日はね…」と。
 まだ帰り着いてはいなかったとしても、夕食の頃には話題になりそう。もじもじしながらでも、頬を紅潮させての報告でも。
(こんな顔でも、役に立つなら嬉しいよね…)
 きっと遠足のいい思い出になったろう。あの子にとっては。
 ソルジャー・ブルーにそっくりの顔をした、学生服のチビの王子様を見た、と。



 じっと見ていた女の子。バスの窓から見えなくなるまで、こちらを眺めていたのだろう。
(だけど、カーテン、閉めなくても…)
 堂々と見てれば良かったのに、と今でも思ってしまうカーテン。他の子たちは見ていたのだし、一人だけ慌てて隠れなくても平気だと思う。こちらから見れば、大勢の中の一人なのだから。
(ホントに恥ずかしがり屋さんだよね…)
 お蔭で印象に残ったけれども、其処まで計算するわけがない。咄嗟に隠れてしまっただけ。何も考えずに、大慌てで。恥ずかしいからと、カーテンを閉めて。
 外が見えにくくなってしまうのに。見ていたい顔も見えなくなるのに。
(ぼくの顔、カーテンに隠れちゃって、あんまり見えない…)
 視線はこちらを向いていたけれど、きっと見づらい、と思った途端。
(んーと…?)
 意外に外が見えるんだよね、と浮かんだ考え。カーテンの隙間からでも良く見える、と。
 自分もアレをやったのだろうか、観光バスの窓のカーテンを閉めて。その隙間から外を見ていたことでもあったのだろうか、小さな頃に。
 良く見える、と思うからには、何処かで経験していた筈。カーテンの隙間から見るということ。あの女の子がやっていたように、そのカーテンの陰に隠れて。



 いつだったろう、と遡り始めた記憶。カーテンの陰から外を覗いていた自分。
(学校の遠足…?)
 観光バスなら、多分、遠足。幼稚園の時にも乗っていた。今日の子供たちと同じように。大勢の友達を乗せたバスで出掛けた、色々な所。学校からも、幼稚園からも。
(サルと目を合わせないように、って…)
 そういう注意をされたことがあった。下の学校の時に行った遠足。野生のサルが道に出て来る、山の中の道路を走ってゆく間の注意事項。
 気の荒いサルは、視線が合ったら襲い掛かって来るのだという。相手が窓の向こう側でも、車の中でも、かまうことなく。
 その山の中を走っていた時、カーテンを閉めていた自分。サルの姿が見えたから。道のすぐ側、ガードレールに座っていたサル。あれに見付かったら、きっと大変、と。
(怖かったっけ…)
 ボスザルなのかと思ったくらいに大きかったサル。視線が合ったら、襲って来そうだったサル。いくら自分がバスの中でも、歯をむき出して、飛び掛かって来て。
 バスの窓枠をしっかり掴んで、振り落とされないように貼り付いていそう。バスが止まったら、中の自分を襲ってやろうと、何処までだって。



 あの時はカーテンを閉めたけれども、相手はサル。人間を相手に閉めてはいない。姿が見えたと慌てて閉めて、隠れたことなど無かったと思う。
 恥ずかしいからとカーテンに隠れてしまいたいほど、憧れていた人もいなかったから。瓜二つの人を窓から見付けて、慌ててカーテンを閉めるような人。
 そうなってくると…。
(サルの時かな…?)
 確かにカーテンの隙間から見ていたサル。ずいぶん大きいと、ボスザルだろうかと。カーテンの陰に隠れていたって、よく見えた。悠然と座っていたサルが。
 きっとアレだ、と考えていたら、聞こえたチャイム。それを鳴らしているだろう人は…。
(ハーレイ…!)
 恋人の来訪に気付いた瞬間、思い出した。サルじゃなかった、と。
 カーテンの隙間から外を見ていたのは、自分ではなくて前の自分。視線の先には前のハーレイ。意外に見える、と思ったのだった。こんなに細い隙間からでも、と。
 ハーレイの姿も、その動きも。何処へ行こうとしているのかも。



 まだハーレイと恋人同士ではなかった頃。病気で寝込んでしまった自分。白い鯨は出来上がっていたから、あの大袈裟な青の間のベッドで。
 大した病気ではなかったけれども、ベッド周りのカーテンをノルディがピッタリと閉めた。熱が下がるまで安静に、と。「ベッドから出ないで下さい」と。
(だから、ハーレイが来た時に…)
 朝の報告に来たハーレイは、必要な報告だけを済ませて、直ぐに出て行った。ベッドを取り巻くカーテンの向こうへ、「では、これで」と一礼して。
 野菜スープを作ってくるとも、帰るとも言わずに、たったそれだけ。
 カーテンがふわりと揺れた後には、もうハーレイの姿は無かった。ベッド周りの空間には。
(いつもだったら、ちゃんと見えるのに…)
 ハーレイが何処へ向かっているのか、ベッドに横になったままでも。カーテンさえ大きく開いていれば。…ピタリと閉められていなかったなら。
 けれども、ノルディが閉めたカーテン。その向こう側は見えはしなくて。
(サイオンで透視しても良かったんだけど…)
 何故か、覗こうとした前の自分。
 「出ないで下さい」と言われたベッドから下りて、カーテンの隙間から外の様子を。ハーレイは奥のキッチンへ野菜スープを作りに行くのか、出口に向かっているのかを。



 其処まで記憶を辿った所で、ハーレイが部屋にやって来た。キャプテンではない今のハーレイ。母が案内して来て、お茶とお菓子をテーブルに置いて行ったのだけれど。
(ハーレイだっけね…)
 あの時もハーレイで今もハーレイ、と前の自分の記憶が重なった。カーテンの隙間、と。
「おい、どうした?」
 俺の顔がどうかしたのか、と鳶色の瞳が見詰めるから。
「え、なんでも…。なんでもないよ、ホントだよ」
「そんな風には見えないが? バツが悪そうな顔をしてるぞ、今のお前は」
 いったい何をやらかしたんだ、俺が来る前に。…それとも、悪戯を計画していた真っ最中か?
「そうじゃなくって…。サルかと思ったらハーレイだったんだよ」
 サルだったっけ、って思っていたのに、サルじゃなくってハーレイで…。
「はあ? サルって…」
 そりゃあ確かにバツが悪いな、俺がサルだってか。サルがチャイムを鳴らしたか?
 でなきゃ、窓から見下ろした時に、俺がサルみたいに見えてたってか?
「ハーレイとサルが重なったんだよ、ぼくの頭の中」
 そっくりって意味じゃないけれど…。ハーレイがサルに見えてたわけじゃないけれど。
 ハーレイがサルだなんて言いはしないよ、サルに見えるわけないじゃない。
 前のぼくだった時からずっと一緒で、ずっと恋人なんだから。



 カーテンの記憶だったんだよ、と説明した。それを思い出した切っ掛けがサル、と。
「下の学校の時にバスで遠足に行って…。山の中にサルがいたんだよ」
 サルと視線を合わせないように、って言われていたから、窓のカーテン、閉めちゃった。だけど気になって、カーテンの隙間からサルを見てたよ。大きかったから、ボスザルかな、って。
 それを思い出す前は、今日の帰りに隣を走ってたバスに乗ってた女の子。十歳くらいの。
 ぼくが乗ってたバスの隣に止まったら、大勢の子供がこっちを覗き込んでて…。きっとこの顔がお目当てだよね、って気が付いたから、手を振ったんだけど…。
 その女の子だけが、カーテンを慌てて閉めちゃって…。なのに、陰から覗いてたんだよ。ぼくが隙間からサルを見ていた時みたいに。
「カーテンなあ…。たまにいるよな、シャッと閉めるヤツ」
 好奇心一杯で見てたくせして、こっちが気付いたと分かった途端に。
「ハーレイも見るの、そういう子供を?」
 慌ててカーテンを閉めちゃう子たちを、見たことがあるの?
「当たり前だろ、この姿だぞ。どう見てもキャプテン・ハーレイなんだから」
 お前はチビだし、ソルジャー・ブルーにそっくりと言ってもまだマシだ。チビな分だけ。
 ところが俺だと、そっくりそのままの姿だろうが。顔も、ついでに身体つきも。
 お前以上に、もう格好の見世物だ。大勢で観光バスに乗ってる、ガキの団体に見付かったらな。
 ヤツら、遠慮なくまじまじ見詰めて、賑やかに見物してるわけだが…。
 俺が気付いて手を振ってやったり、笑い掛けたら、今日のお前と同じ末路だ。



 ビックリしたようにカーテンを閉めるヤツらが多い、とハーレイが浮かべた苦笑い。あちこちの窓のカーテンがシャッと閉まって、隙間からガキどもが覗いてるんだ、と。
「俺としては、サービスしてやったつもりなんだが…。そのガキどもに」
 手も振ってやったし、おまけに笑顔だ。サービスなんだが、カーテンが閉まる。
 そんなに怖そうに見えるのか、俺は?
 笑顔をサービスしてやってるのに、カーテンの陰に隠れるくらい。…お前が言ってたボスザルと同じ扱いなんだが、視線を合わせちゃ駄目だってヤツ。
「うん、多分…。小さな子供から見れば、そうなんじゃないかな」
 ぼくだって、キャプテン・ハーレイの写真を初めて見た時は、怖そうだって思っていたし。
 …実際、ハーレイ、怖いんだし。
「怖い? …俺がか、お前も俺が怖いのか?」
「そう。カーテンの隙間から見てるとね」
 今日の女の子や、サルを見ていた時のぼくみたいに、カーテンの隙間からハーレイを見たら。
「なんだ、それは?」
 何処からカーテンが出るって言うんだ、その窓のトコのカーテンか?
 アレの隙間から俺を見てたら、怖い顔に見えるというわけなのか?
「違うよ、前のぼくの時だよ」
 まだハーレイとは仲のいい友達だった頃…。もう青の間は出来てたけれど。
 病気になって、ノルディがベッドの周りのカーテンをすっかり閉めちゃって…。
「アレか…!」
 お前、隙間から見てたんだ。安静にしろと言われたくせにな。
 ベッドから下りて、あのカーテンの隙間から…。簡単に透視出来ただろうに。



 思い出したぞ、とハーレイの眉間に寄せられた皺。そういう事件があったっけな、と。
(ほらね、やっぱり今でも怖い顔になっちゃうし…)
 前のぼくが怖い顔をされちゃったのも当然だよね、と竦めた首。キャプテンに叱られてしまったソルジャー・ブルー。あの時、隙間から覗いたばかりに。
(でも、ハーレイが気になったから…)
 閉ざされたカーテンの向こう側に行ってしまったハーレイ。横たわったベッドからはハーレイの姿が見えなかったから、起き上がって裸足で床へと下りた。透視する代わりに。
 裸足だから足音は聞こえない。丁度いい、とカーテンの側まで近付いて行って、隙間からそっと覗いてみたら。
(ハーレイ、帰っていくトコで…)
 青の間の入口に続くスロープを下りてゆくところ。こちらを振り返りもせずに。ただ真っ直ぐに去ってゆく背中を、ハーレイのマントを、泣きそうな気持ちで見送っていた。
 このまま行ってしまうのだ、と。今日はスープは駄目なんだ、と。
 もしも時間があるのだったら、逆の方へと向かう筈だから。青の間の奥のキッチンへ。
(ハーレイのスープ…)
 体調を崩して寝込んだ時に、よく作ってくれる野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ優しい味。
 何も食べたくなかった時でも、あのスープだけは喉を通った。それを作って欲しいと思うのに、今日はどうやら駄目らしい。ハーレイはスロープを下ってゆくから。奥の方へは向かわずに。



 途中で引き返してくれないだろうか、と見詰めていたけれど、消えてしまったハーレイの背中。
 スロープを下りて、青の間の外へ。見えなくなってしまったマント。後姿も。
(キャプテンだって、忙しいから…)
 そのことは誰よりも分かっている。ブリッジで舵を握る他にも、キャプテンを待っている沢山の仕事。船の最高責任者だから。仕事の中身は、ソルジャーよりも多岐にわたるのだから。
 けれど、寂しくて、独りぼっちで。
 野菜スープは作って貰えない上に、ガランと広い青の間に一人。安静に、とノルディがピタリと閉めたカーテン、部屋付きの係も中に入って来はしない。そのために閉めてあるのだから。
(食事の時まで、誰も来ないよ…)
 その食事だって、こう寂しくては食べたくもない。係に声を掛けられたとしても、中へ運べとは言わないだろう。「其処でいいよ」と、カーテンの向こうのテーブルに置かせておくのだろう。
(どうせ、食べたい気分じゃないし…)
 ハーレイのスープとも違うのだから、放っておいてもかまわない。冷めてしまっても、柔らかい料理がすっかり固くなってしまっても。
(あのテーブルの上に置いて貰えば…)
 それでいいのだ、と眺めたテーブル。具合のいい日はハーレイと朝食を食べるテーブル。其処にハーレイの姿は無いから、テーブルと椅子だけ。誰もいない部屋。
 カーテンの隙間から順に視線を移していったら、色々なものが見えてくる。少し前にハーレイが消えた扉や、緩やかな弧を描いて下るスロープ。ぼんやりと青く浮かび上がる部屋も、カーテンの周りに据えられた灯りも。
 そういった物を眺め回しながら、思ったのだった。「意外に外がよく見える」と、細い隙間から目を凝らして。透視しなくても、外の様子がこんなに見える、と。



 それが今の自分が思い出した記憶。カーテンの陰からでも外は意外に見えるものだ、と。サルを見た時のことではなかった。カーテンの向こうに探していたのは、ハーレイだった。
(入って来たら、直ぐに分かるから…)
 カーテンの隙間から、よく見える入口。其処が開いたら、きっとハーレイがやって来る。仕事が一段落したら。午後になるかもしれないけれども、夜まで待たなくても、きっと。
(…具合が悪いの、知ってるんだし…)
 野菜スープを作る時間は取れないとしても、様子は見に来てくれるだろう。その時に、此処から覗けたらいい。「ハーレイが来た」と喜べたらいい。
 この隙間からは、スロープも入口も見えるのだから。カーテンをピタリと閉められていても。
(何度も覗きに来よう、って…)
 前の自分はそう考えた。カーテンの隙間から外を見ようと。何度も覗いてハーレイを待とうと。
 けれども、今は独りぼっち。いつ来るのかも分からないハーレイ。
 ベッドに戻れば、もうカーテンの隙間は見えない。こうして外を覗けはしない。ベッドに戻って眠らなければと思うけれども、「もう少し」とも思う、見ていたい外。
 カーテンの陰からはよく見えるから。意外なくらいに、外の様子がよく分かるから。



 もう少しだけ、と外を眺める間に、襲って来た眠気。元から具合が悪かったのだし、一つ小さな欠伸が出たら、重くてたまらなく感じた瞼。カーテンの向こうが遠くなってゆき、いつの間にやら捕まった睡魔。ベッドに戻ることも忘れて、其処でウトウト眠ってしまって…。
「ブルー?」
 降って来た声で、浮上した意識。ぼんやりと目を開けたら、ハーレイの顔。
「…ハーレイ…?」
 来てくれたんだ、と言おうとしたけれど、ハーレイの声に遮られた。それも慌てている様子。
「どうしてこんな所にいらっしゃるのです、ブルー?」
 御気分でもお悪いのですか、と逞しい腕で抱き上げられた。眠り込んでいた床の上から。大股でベッドまで運ばれて行って、横たえられて、上掛けを被せられて。
 それが終わったら、問いが降って来た。「何故、あんな所に倒れておられたのです」と。
「…倒れていないよ、眠かっただけ…」
 あそこにいたら、急に眠くなってしまったから…。そのままウトウトしてしまって…。
「ベッドで眠っておられたのでは?」
 私が出てゆく時はベッドにおられましたが…。あの場所に何か御用でも?
 そういう時には、係の者をお呼び下さい。ご自分で行こうとなさらないで。
「…別に、用事があったわけじゃなくて…。カーテンの向こうが気になったんだよ」
 君は帰るのか、それとも野菜スープを作ってからブリッジに出掛けるのか。
 どっちなんだろう、と思ったけれども、透視するより、直接見たいと思ってしまって…。
 それで起き上がって、カーテンの間から覗いてみたんだ。どちらなのかと。そうしたら…。



 君は帰ってゆく所だったから、とベッドの上からハーレイを見上げた。まだ眠いような気がする瞼を押し上げながら、何度か瞬きをして。
「スロープを下りてゆく後姿が見えたから…。出て行くんだと分かったから…」
 君が出てゆくのを見送った後は、寂しくて…。今日は野菜のスープも無しだ、と寂しくなって。
 独りぼっちだ、と思って部屋をボーッと見てた。…テーブルや椅子や、灯りなんかを。
 よく見えるんだよ、あんなカーテンの隙間からでも。
 本当なんだよ、サイオンで透視しなくても充分、あの隙間からこの部屋が見える。スロープも、入口も、あそこから全部。
「…それで、そのまま見ておられたと?」
 ベッドにお戻りにならないで。…あんな所に座り込んで?
「発見したからね、よく見えるんだと。…意外な発見は嬉しいだろう?」
 君が入って来る時も此処から見える、と思ったんだよ。だから何度も覗きに来ようと。
 それまではベッドに戻らなくちゃ、と頭では分かっていたんだけどね…。
 ベッドに戻れば、もう隙間からは見えないだろう?
 だから、もう少し、と覗いている間に、眠くなってしまって…。それであそこで…。
「あなたでしたら、カーテンの隙間から覗かなくても、此処から御覧になれる筈ですが?」
 このカーテンを透視なさるくらいは、あなたには何でもない筈です。御病気の時でも。
 それをわざわざベッドから起き出して、サイオンは抜きでカーテンの隙間からなどと…。
 次からはサイオンで御覧下さい、ベッドから!
 ノルディが安静にと閉めて行った意味が、あなたはお分かりにならないのですか?
 どうかベッドでお休み下さい、あんな所から覗こうとしたりなさらずに…!



 カーテンの隙間は二度と禁止です、と怖い顔で睨まれたのだった。ベッドから勝手に抜け出した上に、床で眠ってしまうなど、と。
「病気だという自覚がおありですか? なんという無茶をなさるのです…!」
 まったく信じられません、とハーレイに酷く叱られた。床で眠るなど、元気な時でも風邪を引く元になるだろうに、と。
 首を竦めて聞いているしかなかった自分。ハーレイの言うことは正しかったから。
 そのハーレイに、野菜スープは作って貰えたけれど。叱られた後で昼の分を貰って、夕食の時も作りに来てくれたけれど…。
「あの日はずっと叱られたんだよ、夜になっても」
 もっと具合が悪くなったらどうするんです、って睨み付けられて、何度も何度も叱られて…。
 カーテンは本当に禁止ですから、って指を差しては怒るんだよ。
 どんなに眺めが良かったとしても、次からはサイオンで透視して下さい、って。
「当前だろうが、お前の身体が大切なんだ。床なんかで寝られてしまっちゃたまらん」
 忘れちまったか、あの日は夜中も監視していたが?
 ブリッジで仕事をしていた間は行けなかったが、仕事が終わって暇になった後は。
「夜中って…。それに、監視って…?」
 ハーレイ、ぼくを見張ってたわけ?
 いったいそれって、なんのために…?
「決まってるだろう、お前が隙間から外を覗きに行かないようにだ」
 意外な発見をしたなんて言うもんだから…。お前、気に入ったようだったからな、あの隙間から外を覗くのが。…サイオン抜きでも良く見えるんだ、と。
 放っておいたら、またやりそうだから、ベッドの脇にだ…。椅子を置いて眠ることにした。
 前のお前に妙な癖がついたら、どうにもならん。透視するより、此処から覗く、と。
「そういえば…」
 ああいうのは癖になるから、ってハーレイ、怒ったんだっけ…。一度やったら、二度、三度って続けてやりたくなるものなんだ、って。…そしてすっかり癖になる、って…。



 前のハーレイがベッドの脇に運んで来た椅子。キャプテンの仕事が終わった後で。
 いつも朝食の時に使っている椅子を、ベッドの側にドンと据えられた。「此処で眠ります」と。
 けして座り心地の悪いものではなかったけれども、ベッドと椅子とは違うもの。
 それでは身体が休まらないだろうと、前の自分は懸命に止めた。「それは駄目だ」と。
「椅子で眠るなんて…。無茶だよ、身体が疲れてしまうよ」
 君は一日、仕事をして来た後なのに…。明日も朝から仕事なのに。
 操舵の間は立ちっ放しだし、ベッドで眠った方がいい。身体の疲れが取れないから。
 ぼくなら、心配しなくても…。
 起きて隙間から覗きはしないし、ちゃんとベッドで寝ているから…!
「いいえ、この椅子で大丈夫です。私は頑丈に出来ていますから」
 弱くてらっしゃる、あなたが床で寝ておられたのです。しかも御病気でいらっしゃるのに。
 それに比べたら、健康な私が椅子で眠るくらいは大したことではありません。
 ベッドで寝るのと大して変わりはしませんからね。…制服のままでも、椅子で眠っても。
 私の身体の心配などより、ご自分のお身体を大事になさって下さい、と譲らなかったハーレイ。
 あなたのお身体が大切ですから、と本当に椅子に座って眠った。
 前の自分が、ベッドから起きて行かないように。カーテンの隙間から覗く新鮮さを、ワクワクと味わいに行かないように。
 夜中に何度か目が覚めたけれど、その度にハーレイも目を覚ましていた。
 「どうなさいました?」と、「私なら此処におりますから」と。
 カーテンの隙間から覗いて捜そうとなさらなくても、こうしてお側におりますからね、と。



 心の底から申し訳ないと思った、前のハーレイを椅子で寝させたこと。自分には暖かなベッドがあるのに、ハーレイは毛布も無しで椅子だけ。腰掛けたままの姿勢で朝まで眠ったハーレイ。
 何度目覚めても、ハーレイは椅子に座っていたから。気遣う言葉を掛けてくれたから…。
(ホントに、ハーレイに申し訳なくて…)
 二度と隙間から覗こうとはしなくなったのだった。青の間のベッドの周りにあったカーテン。
 それがピタリと閉められた時は、大人しくベッドに横になっていた。外の様子が気になった時も透視で眺めた。隙間から見えると分かってはいても、起きてゆかずに。
「…カーテンの隙間、よく見えたんだけどね…」
 意外に外がよく見えるんだ、って思ったけれども、ハーレイに叱られちゃったから…。
 あれっきりになって、忘れちゃってた。カーテンのことも、ぼくが隙間から見ていたことも。
 今のぼくがサルを見てた時かな、って思うくらいに忘れていたよ。
「俺もだが…。いや、あの時は驚いたぞ」
 ブリッジの仕事が一段落したから、野菜スープを作りに行くか、と入って行ったら…。
 お前は多分寝てるだろうし、とカーテンを細めに開けて覗いたら、お前が床で寝てるんだから。
 てっきり倒れたのかと思っちまって、慌てたもんだ。まさか床で寝るとは思わないからな。
「ごめんね、椅子で寝させてしまって…」
 ぼくに妙な癖がつかないように、って一晩中、監視させちゃったなんて…。
 いくらハーレイが頑丈に出来てても、椅子じゃ寝た気がしなかったよね。座ったままだし。
「なあに、お前が病気を悪化させるよりかはマシだからな」
 病気の度にベッドから出ては、カーテンの隙間から外を眺めて床で寝ちまう。
 そんなとんでもない癖がつくよりは、あそこでガツンとお仕置きだってな。
 お前を叱っておくのはもちろん、俺にも迷惑をかけちまったと思わせるのが一番だ。前のお前は周りのヤツらに気を遣ってたし、そいつが一番効くんだ、うん。



 今度のお前も、カーテンの隙間から覗くんじゃないぞ、と言われたけれど。
 具合が悪い時にはベッドから出ないで、大人しく寝ていろと注意されたけれど。
(…今は覗いても仕方ないけど…)
 いつかハーレイと二人で暮らすようになったら、覗きたくなる日が来るかもしれない。
 ハーレイが仕事で出掛けてゆく日に、病気になってしまったら。
 家で寝ているしかなくなったならば、ハーレイが「行ってくるぞ」と出掛けた後で。
 ちょっと見ようと、少しだけだよ、と窓のカーテンの隙間から。
 でも、ハーレイをまた椅子で寝させたら、悪いから。叱られるのも、悲しいから。
 ハーレイを困らせてしまわないよう、怒らせないよう、急いでベッドに戻らなくては。
 窓から外を見ている間に、ハーレイの車が行ってしまったら。
 ガレージから通りに出て行った後に、見えなくなってしまったら。
(…そこまでで終わりにしなくちゃね?)
 カーテンの隙間から見える景色が素敵でも。外の日射しが優しくても。
 意外に外がよく見える、と覗いていないで、カーテンを閉めて、早く治しにベッドへと。
 その方がきっと、ハーレイは喜んでくれるから。
 一日も早く病気を治して、ハーレイと二人で、あちこち出掛けてゆきたいから…。




              カーテンの隙間・了


※前のブルーが気付いた、カーテンの隙間から眺める外の光景。意外によく見えるものだ、と。
 透視する代わりに眺め続けて、床で眠ってハーレイに叱られた上に、迷惑をかけた思い出。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv














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