シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ハーレイの席…)
此処だったよね、とブルーが開いた写真集。白いシャングリラが表紙を飾った、ハーレイの本とお揃いのもの。
学校から帰った後に、勉強机の前に座って広げてみた。その席が見たくなったから。
前のハーレイが座っていた席。キャプテン・ハーレイが座った場所を。
(…ハーレイ、いつも此処にいたよね…)
茶色い革張りのようにも見える、キャプテンの席。本物の革ではなかったけれど。もっと丈夫な人工の素材、座り心地は革と変わらない。そういう風に作ってあった。何時間でも座れるように。
(座り心地が一番だものね)
普段はともかく、非常事態には座りっ放しになるだろうから。「座り心地が大切なんじゃ!」と譲らなかったゼルのお蔭で、キャプテンの席も周りの席も座り心地は最高だった筈。
(下手な客船にも負けんわい、って…)
自慢の椅子じゃ、と威張ったゼル。誰が座ってもピタリと馴染むし、座り心地もいいのだと。
特別な手入れをしてやらなくても五百年くらいは持つであろう、と自信もたっぷり。
(…ゼルの席だって、おんなじだもんね?)
こだわるよね、とクスッと笑った。「ハーレイの分だけなら、適当に作っていたかもね」と。
シャングリラで一番広い公園、その公園の上に浮いていたブリッジ。
本当は公園を作る予定は無かった、ブリッジの周りは危険だから。人類軍に攻撃された時には、真っ先にブリッジが狙われるから。
なのに「広いスペースを公園にしたい」という声が多くて、出来てしまった広い公園。
船に危険が迫った時には避難場所として使う代わりに、其処から逃げねばならない公園。何処か間違った公園だったけれど、人気の憩いの場所ではあった。
公園からはブリッジが見えて、ブリッジからは公園が見える。ブリッジ勤務の者にも憩いの緑。公園の方を眺めさえすれば、緑の芝生や木々の緑や。
(…公園の方が良かったよね、きっと…)
がらんどうで放っておくより、殺風景なスペースに仕上げるよりも。
公園とセットになったブリッジ、シャングリラの姿に少し似ていた。宇宙船のようで、おまけに浮いているものだから、箱舟と呼んだ者たちもいた。ブリッジのことを。
中でもコアブリッジと呼ばれた部分。シャングリラの指揮が執られた中枢。
円形のスペースに配置された席、ゼルの御自慢の椅子が幾つも。ゼルもブラウもエラも、其処に座っていたけれど。誰の席も同じに見えるのだけど。
舵輪の正面に位置していたのがキャプテンの席。舵輪から一番近い席。
白いシャングリラの舵を取る舵輪、いつでも其処へ走れるように。キャプテン自ら舵輪を握って船を操る時に備えて、キャプテンの席は舵輪の正面。
ハーレイの席、と広げた写真集では、その席に誰も座ってはいない。
他の席にも誰もいなくて、コアブリッジだけを捉えた写真。停まっている時に撮ったのだろう。ノアか、それともアルテメシアか、シャングリラには馴染みの宙港で。
キャプテンの席に、其処の主は座っていないけれども…。
(…ハーレイじゃなくて、シドの席…)
見慣れたハーレイの席ではあっても、この写真集ではシドの席。キャプテン・シドが座る席。 写真集の元になった写真が撮られた時代は、トォニィの代になっていたから。
それを思うと少し寂しい。
ずっとハーレイが座っていたのに、もうハーレイの席ではないのだ、と。
地球の地の底で死んでしまった前のハーレイ。代わりにシドがキャプテンになって、ハーレイの席を受け継いだ。ハーレイの席はシドの席になって、この写真集の席はシドの席。
(でも、ぼくだって、もういなかったしね…)
前の自分はとうの昔に死んでいたから、その後のことは分からない。誰が座っていようとも。
どうせ分かっていなかったのだし、ハーレイの席でなくてもいいか、と考えた所で…。
あれっ、と気付いた写真集の中のシャングリラ。キャプテン・シドが舵を握っていた船。
(…トォニィだよね?)
この写真集の船のソルジャー。白いシャングリラの長はトォニィ。
そうだったっけ、と覗き込んだけれど、コアブリッジの写真にトォニィの席は…。
(やっぱり無いの?)
一つ、二つと順に数えたコアブリッジに配置された椅子。ゼル御自慢の座席の数は昔と同じ。
つまりトォニィの席は無いまま。
前の自分やジョミーが生きた時代と変わらず、ソルジャーの席が無いブリッジ。
(トォニィの席、作らなかったんだ…)
人類との戦いやSD体制が全て終わって、平和な時代が訪れた後も。
白いシャングリラが招かれるままに、宇宙のあちこちを旅する時代になってからも。
ブリッジにトォニィのための席は作られていなかった。作ってもかまわなかったのに。
(トォニィ、船を変えたくなかった…?)
前の自分やジョミーの時代のままにしておきたかっただろうか、シャングリラを。
単に改造が面倒だっただけかもしれないけれど。
コアブリッジに椅子を一つ増やすには、キャプテンの椅子を除いた全部を…。
(外してしまって、場所も移して…)
増えた分を含めて、均等に設置し直さなければいけないから。
面倒だから、と放っておいたかもね、とトォニィの席が無い写真を眺めた。
コアブリッジには無い、ソルジャーの席。其処だけではなくて、ブリッジの何処にも。
箱舟とも呼ばれた公園の上に浮かんだブリッジ、あそこにソルジャーのための席は無かった。
ソルジャーは視察に出掛けてゆくだけ、でなければコアブリッジの中央に立つだけ。専用の席は何処にも無いから、用が無ければブリッジにいる必要も無い。
(…前のぼくの時は…)
ソルジャー・ブルーの席が無いのは、ソルジャーは航行に携わらなくてもいい、という意味。
船のことはキャプテンやブリッジの仲間に任せて、のんびり過ごしていて下さい、と。
表向きはそういうことだったけれど。船の仲間たちも、そうだと信じていたけれど。
(…ホントは違った…)
唯一のタイプ・ブルーのソルジャー。ただ一人だけの戦える者。
前の自分は名前通りに戦士で戦力、シャングリラを守って攻撃にだって出てゆける。
けれど、ブリッジで腰掛けていては、戦うことも守ることも出来はしないから。
立ってゆかないと、どちらの役にも立たないから。
(だから無かった…)
ソルジャーのための席などは。コアブリッジにも、ブリッジの中の他の場所にも。
白い鯨に改造する時、設けられなかったソルジャーの席。
人類軍からの攻撃を受けたら、ソルジャーは船の外で戦うか、船をシールドで覆って守るか。
ブリッジの席では何も出来ない、戦うことも、守ることさえも。
シャングリラ全体を守るとなったら、集中力が必要だから。
船を守ろうと怒声が飛び交うブリッジにいては、シールドに集中出来ないから。
改造前の船だった頃は、誰も気にしていなかった。ソルジャーの席の有無などは。
こういう特殊なブリッジではなくて、ごくごく普通の宇宙船。何処にでもある平凡なブリッジ、席の配置も平凡なもの。操縦用の席やら、副操縦士のための席やら、他にも色々。
ソルジャーの席は無かったけれども、無いと決まってもいなかったから。
(ぼくだって、たまに…)
ブリッジに出掛けて行った時には、空いていた席に座ったりもした。席の主が休憩に行ったり、非番で空いているような時は。
常に全員が詰めていたわけではなかったブリッジ。のんびり宇宙を旅した時代。
人類の船に見付からないよう、宇宙を飛べればそれで良かった。白い鯨になるよりも前は。
とにかく生きて旅をすること、未来に向かって生き延びることが何よりも大切だった船。
ソルジャーの自分が何処にいたって、何も言われはしなかった。ブリッジの席に座っていても。
持ち主が留守なら座れたのだし、キャプテンの席の隣でも。
(副操縦士…)
本来は、そんなポジションだった。前の自分がストンと座った、キャプテンの隣にあった席。
座ったところで、船は動かせなかったけれど。操縦は手伝えなかったけれど。
本物の船と、シミュレーターとは違うから。遊びで船は操れないから。
いつも座っていたというだけ、副操縦士の席から眺めていただけ。
ハーレイが船を操るのを。
かつては厨房でフライパンを握っていた手で、それは見事に船を前へと進めてゆくのを。
そういう風に過ごしていたのに、ブリッジに座っていられたのに。
白い鯨への改造計画、ブリッジの案が提出された会議の席で驚いた。自分の席が無かったから。研究を主な仕事にしていたヒルマンはともかく、ブラウもエラもゼルも居場所があったのに。
「…ぼくの席は?」
ソルジャーの席が無いようだけれど、この案はどうなっているんだい…?
間違いでは、と図面を指したら、「要らんじゃろうが」とゼルが即座に返した。
「ソルジャーが座って何をするんじゃ、ブリッジで」
此処での仕事は無いじゃろうが、と言ったゼルの横からブラウやエラも口を揃えた。
普段はいいかもしれないけれども、非常事態の時にはマズイ、と。
ソルジャーは船の外へと出て戦うか、シールドで船を守り抜くか。どちらもブリッジでは無理なことだし、ソルジャーの席は設けられないというのが彼らの意見。
「一応、あってもいいと思うけど…」
ぼくの力が必要な時は、直ぐに飛び出して行けるから…。そうでない時はブリッジにいれば…。
ブリッジは船の心臓なんだし、ソルジャーの席も作るべきだよ。
「駄目じゃ。ソルジャーがその席におらんと、皆が不安になってしまうわい」
ソルジャーが席を離れるくらいの非常事態じゃと、船中に知れてしまうじゃろうが。
一人が慌てれば皆が慌てる、思念波で直ぐに広がるからのう…。
騒ぎを大きくするだけじゃわい、とゼルが髭を引っ張り、ブラウも大きく頷いた。
「そうだよ、ドッシリ構えているなら別なんだけどね」
ブリッジでちょいと目を瞑るだけで、守りも攻撃も出来るんだったら、誰も何にも言わないよ。
だけど、そいつは無理だろうしね、周りがバタバタし始めた時に集中出来るわけがない。
攻撃だって外に出た方が楽だろうし、と言われてみれば、その通りで。
反論出来はしなかった。ゼルやブラウの意見は正しく、何処も間違ってはいないのだから。
船が新しく生まれ変わるのに、そのブリッジには無くなるらしい自分の居場所。
作って貰えないソルジャーの席。
今のブリッジとはまるで違った、ミュウの船らしいブリッジがゼロから作られるのに。人類には想像も出来ないだろうブリッジ、それが誕生するというのに。
自分の居場所は其処に無いのか、と図面に視線を彷徨わせていたら、ゼル指先で叩いた図面。
「此処がハーレイの席になるんじゃ、キャプテンの席じゃ」
ブリッジでドッシリ構えておくのは、キャプテンの役目というヤツじゃろうが。
慌てず、騒がず、指揮を執り続ける。そういう役目はキャプテンに任せておけばいいんじゃ。
ソルジャーには別の役目があるじゃろ、万一の時は。
「うん…。ぼくがブリッジに座っていたんじゃ、確かにどうにもならないね…」
外へ出てゆくか、シールドに集中できる場所に移るか、どちらかだろうし…。
ぼくがブリッジからいなくなったら、相当にマズイと皆に知らせるようなものだね、確かにね。
アッと言う間に広まるだろうね、ぼくがブリッジから出たということ…。
ミュウの特徴の一つは思念波。瞬時に情報を共有出来る力は強みだけれども、諸刃の剣。
抑え切れない強い感情を、さざ波のように船に広げてしまうから。それを拾った仲間の心から、別の仲間の心へと。次から次へと連鎖してゆく、喜びだろうが、悲しみだろうが。
(…今みたいに、みんながミュウって時代じゃないから…)
誰も備えてはいなかった。他の誰かの感情や心に共鳴しないで、自分の心を守る力を。
今の時代なら、サイオンが不器用な自分でさえも、生まれつき備えている力なのに。
それを持たなかった初期のミュウばかりが乗っていた船がシャングリラ。
ブリッジの仲間が動揺したなら、船の仲間に直ぐに伝わる。
人類軍の攻撃だけでもパニックだろうに、その中でソルジャーがブリッジから姿を消したなら。攻撃に出たか、守りに入ったか、どちらにしても戦況が悪化したということ。
ブリッジにいては防ぎ切れないと判断したから、席を離れただろうソルジャー。
(これは危ない、って誰かが思えば…)
その感情はブリッジから近い所の誰かに伝わり、そこから次へ。そのまた次へと広がってゆく。
一度広がり始めた思念の連鎖は、そう簡単には止められない。
誰かが気付いて「大丈夫だ」と叫んだとしても、「本当なのか」と疑う心もまた連鎖する。
そうなった時は、船の航行に支障を来たすどころか、最悪の場合は沈むだろう。
いくらハーレイたちが頑張っていても、何処かで生じてしまう綻び。
もう駄目なのだと誰かが思えば、たちまちそれが広がるから。
船を守ろうという強い感情は砕けてしまって、装備する予定のサイオン・シールドは霧消する。船の姿を消し去るためのステルス・デバイス、それも崩れて無くなってしまう。
剥き出しになった上に守りを失くせば、後は猛攻を浴びるだけ。
どんなに自分が守ろうとしても、ハーレイたちが死力を尽くしたとしても、もう救えない。
船の仲間たちが、駄目だと船を諦めたなら。助からないと思い込んだら…。
ソルジャーだからこそ分かっていたこと。ミュウという種族の特徴と弱さ。
負の感情の連鎖が引き起こす悲劇、それは確かに起こり得るから。
指摘された以上は、もう押せなかった。諦めざるを得なかった。
すっかり新しく生まれ変わる船、白い鯨のブリッジに席を設けることを。ソルジャーの席を。
(ホントは欲しかったんだけど…)
そうすることで生まれるリスクを考えてみたら、とても通せはしない我儘。白いシャングリラのブリッジに自分は座れはしない。そのための席は無いのだから。
ソルジャーの席を作ってしまえば、リスクが高まるだけなのだから…。
(…作れないね、って言うしかなくて…)
ブリッジにソルジャーの席は設けないことに決まって、正式に書かれた設計図。コアブリッジに設置する椅子も、ゼルがあれこれ考えていた。
「五百年は使えるようにしておくんじゃ」だとか、「座り心地の良さが大切なんじゃ」とか。
ソルジャーの分は無い椅子を。座り心地がどうであろうが、自分は関係無いだろう椅子。
たまたまブリッジに立ち寄った時に、空いていたなら別だけれども。
白い鯨の全体像が決定されて、資材集めも順調に進み、改造が始まる少し前のこと。
ふらりとブリッジに出掛けて行ったら、ハーレイの隣が空いていたから。
副操縦士の席が「どうぞ」とばかりに待っていたから、其処にストンと腰を下ろして…。
「あと少しだけだね」
ハーレイにそう掛けた声。船の前方を真っ直ぐ見ているキャプテンに。
「何がです?」
あと少しとは、とハーレイが顔をこちらへ向けたから。
「ぼくの席だよ。…君の隣に座っていられるのは、あと少しだけ」
改造されたブリッジになったら、ぼくの席はもう無いんだから。
…君の隣には座れなくなるよ、あと少ししたら。
「そうですね…」
エラやブラウの席が空いていたとしても、今のようには…。
ブリッジクルーも増えるのですから、二人しかいないという状態にはならないでしょうね。
今はあなたと私だけしか、ブリッジにはいないわけですが…。当分は誰も戻りませんが。
こういう機会が無くなるのだな、と考えてみたら、少し寂しい気もします。
あと少しだな、と気付かされたら。
「ぼくもだよ…」
新しい船のブリッジには、ぼくの席が無いというのも寂しいけれど…。
君の隣に座れなくなるのが寂しいな。
何度も此処に座っていたしね、君がキャプテンになってから。
この船を動かせるようになった後には、よくこの席に座っていたから…。
新しい船では、それが出来なくなるというのが寂しいかな…。
もうあと少しで見納めなのか、と黙って見詰めた漆黒の宇宙。副操縦士の席からの眺め。
ハーレイも黙々と船を操り、暫く無言で二人で座って。
瞬かない星が幾つも散らばる宇宙を、船は進んで行ったのだけれど。ハーレイがスイと指差した先。褐色の指が示した惑星。
「ソルジャー、あの星を周りませんか?」
あと数分で通過しますから、あれを回って飛ぶのもいいかと…。
「そういう航路設定なのかい?」
時間調整か何かのためかな、それとも進路を少し変えるとか?
星の引力に助けて貰って…?
「いえ、これが最後かもしれませんから…」
ソルジャーを隣に乗せて飛べる機会は、これが最後かもしれません。
次においでになった時にも、その席が空いているかどうかは分かりませんし…。
空いていたとしても、二人きりとは限りません。
今日までは何度もあったことですが、新しい船ではもう無理ですし…。
この船で次があるかどうかも、まるで分かりませんからね。
あの星を一周してゆきましょう、とハーレイが提案してくれた星。
なんの変哲もない、恒星からも遠く離れた惑星だった。目立った特徴すらも無い星。表面を覆う大気も地表も、宇宙では至って見慣れたもの。旅をしていれば幾つも見掛ける、そんな惑星。
何処の星系だったかは忘れた。何番惑星だったのかも。
けれども、ハーレイと二人で周った。名前だけだった頃のシャングリラで。白い鯨になるよりも前の、人類がコンスティテューションと呼んでいた船で。
ハーレイが一人で決めた航路の変更。通り過ぎるだけの予定の星を周ってゆく航路。
誰からも文句は来なかった。
惑星から離れた所を通過する代わりに、衛星軌道に入っても。星の周りを回り始めても。
どういう航路で飛んでいようが、危険が無ければ誰も気にしていなかったから。
警報の類も鳴りはしないから、ハーレイは慣れた手つきで船を進めた。
「一周すると言っても、直ぐなのですが」と、「そんなに長くはないのですが…」と。
衛星軌道から見下ろした星。船の真下を流れてゆく星。
特に珍しくもない筈の星が、その時はとても綺麗に思えた。雲も、その下に見える地表も。
「綺麗だね…」
人は住めない星だろうけれど、ちゃんと空には雲が浮いてて…。雲の下には地面があって。
とても綺麗だよ、この星の周りを飛べて良かった。通過してたら、見られなかった景色だから。
「これが地球ならいいのですけどね…」
残念なことに、名前さえもついていないような星で…。
けれど、いつかは地球までお連れしますよ。いつか必ず、青い地球まで。
新しい船が出来上がったなら、地球へ行ける日も近付くでしょう。
今の船では戦えませんが、新しい船にはサイオン・キャノンも出来るのですから。
「それは嬉しいけど…。約束してくれるのは頼もしいけど…」
ハーレイの腕と新しい船があったら、きっと地球まで行けると思う。いつかは、きっと。
だけど、ぼくはもう、君の隣に席が無くなってしまうんだけれど…。
こんな風に隣に座れはしなくて、他の席にだって、座れるかどうか…。
「大丈夫ですよ。地球に着いたら、戦いは必ず終わるでしょうから」
平和になったら、空いている席も出来ますよ。ブリッジに詰めている必要は無いのですから。
今日のようにガランと誰もいない日が来るでしょう。
キャプテンだけしかいないような日が、何処の席でも好きにお座りになれる日が。
「そうだね、きっとそうなるだろうね…。地球に着いたら」
またこうやって座ってみたいな、君の隣に。
新しい船のブリッジだったら、眺めも変わるんだろうけど…。
その船にこうして乗ってみたいと思うよ、君の隣に空いている席が出来たらね。
地球を一周して飛ぶ船に、と夢見たけれど。新しい船で地球を周ろう、と思ったけれど。
それがハーレイの隣に座った、最後になってしまったのだった。
改造に入る前にもう一度、とブリッジを覗きに行っても、空いていなかったハーレイの隣。前の自分が何度も座った、副操縦士のための席。
ハーレイの隣には座れないまま、始まってしまった船の改造。
前の自分は改造中の船を守るのに忙しくなって、もうブリッジには立ち寄れなかった。覗いても直ぐに持ち場に戻ってシールドを張ったり、船の周りを警戒したり。
そうこうする間にブリッジは新しい場所に移って、まるで違う姿になってしまった。公園の上に浮かぶ形のブリッジ、円形のコアブリッジがキャプテンの居場所。
ハーレイやゼルたちの席はあっても、ソルジャーの席は其処に無かった。
ゼルがこだわって作らせた椅子は、前の自分の分が無かった。五百年は持つと言われた椅子は。茶色い革張りを思わせる椅子は。
それでも、いつかと夢を見ていた。またハーレイの隣に座れる日が来るだろうと。
お気に入りだった副操縦士の席は無くなったけれど、また別の席に。
一番の狙い目はエラの席。ハーレイの左隣の席。
副操縦士の席も左隣にあったのだから、と其処が空く日を待ち焦がれていた。
あそこから見たらどんなだろうかと、地球の周りを飛んでゆく時はどういう風に見えるのかと。
きっといつかは座れるだろうと、ハーレイの隣で地球を見ようと。
それほどに地球に焦がれていたのに。ハーレイの隣で青い水の星を見たかったのに。
(新しい船が出来ても、ぼくは地球まで…)
ついに行けないままだった。辿り着けずに終わってしまった。
メギドを沈めて、前の自分の命は終わってしまったから。ハーレイとも離れてしまったから。
前の自分は、二度とハーレイの隣に座れはしなかった。あんなにも夢を描いていたのに。
(…いつかは地球の周りをハーレイに飛んで貰おう、って…)
ハーレイの隣に座って飛ぼうと、新しい船でもハーレイの隣に座るのがいい、と。
今から思えば、ハーレイの隣の席に座って、あの船で惑星を周っていた時。
自分では気付いていなかったけれど、とうにハーレイに恋をしていたのだろう。
そしてハーレイの方でも、きっと。
「あの星を周ってゆきませんか」と航路を変えてくれたハーレイ。
最後になるかもしれないから、と。
「新しい船が出来たら、いつか地球までお連れしますよ」と。
その時はまた隣の席が空くだろうから、其処に座ってくれればいい、と…。
改造が済んで、白い鯨になった船。ミュウの力でゼロから作り上げたブリッジ。
人類のものとはまるで違って、五百年は持つとゼルが自慢した、茶色い革張りを思わせる椅子が幾つも並んでいたのに…。
(ぼくの席、無かった…)
あのブリッジに、ソルジャーのための席は無かった。それを作ってはならないから。
本当は、ハーレイの隣に座っていたかったのに。改造前の船でそうしたように。
副操縦士の席とは違っていたって、コアブリッジに席が欲しかったのに。
ゼル御自慢の椅子でなくてもいいから、座り心地が悪い椅子でもかまわないから、キャプテンの席の隣に欲しかった。自分の席が、ソルジャーの席が。
無理だと分かっていたけれど。
白いシャングリラが置かれた状況、それに当時のミュウの弱さと。
それを思うと絶対に無理で、新しいブリッジにソルジャーの席を作れはしなかったのだけど。
(トォニィは何処かに座れたのかな…)
何度数えても、増えてはいないコアブリッジの席。ソルジャーの席は設けられないまま。
けれど、トォニィはきっと座っていただろう。
前の自分が夢に見たような、平和な時代だったのだから。
キャプテン・シドの隣の席でも、何処でも空いていたのだろう。
全員がコアブリッジに詰める必要などは無かったから。
今日は此処だ、と空いている場所にストンと座ってゆけたのだろう。
ソルジャーの席を作らなくても、空きは幾つもあったから。前の自分の頃と違って…。
座り損ねたハーレイの隣。
トォニィはシドの隣に座れただろうに、前の自分はハーレイの隣に座れなかった。
改造前の船で隣に座ったあの日が、最後の思い出になってしまった。また座れると思ったのに。
いつか地球まで辿り着いたら、また座ろうと夢を描いていたのに。
(座れないままになっちゃった…)
溜息をついて、パタンと閉じた白いシャングリラの写真集。ぼくの席が無かった船だっけ、と。
本棚に写真集を返して、また溜息を零していたら、ハーレイが訪ねて来てくれたから。
そうだ、と訊いてみることにした。前の自分とハーレイとのことを。
「あのね、ハーレイ…。ぼくの席、無かったんだけど…」
「はあ?」
お前の席ならあっただろうが、今日も座っているのを見たが?
それとも席替えで消えちまったのか、俺の授業の後で席替えがあったのか?
たまたまお前が移った先で、机か椅子かが壊れちまったか…?
「そうじゃなくって、前のぼくだよ」
シャングリラのコアブリッジにあった椅子…。
ゼルの自慢の椅子だったけれど、ぼくの席だけ無かったんだよ。ソルジャーの席は。
「ああ、あれなあ…」
仕方ないだろ、あの頃は事情が事情なんだから。
ソルジャーの席を作っちまったら、後が大変だったんだ。…お前も分かっていただろうが。
「そうだけど…。だけど、座りたかったんだよ…」
ハーレイの隣に座りたかったな、エラが座っていた席に。いつでも左に座っていたから。
前のぼくが好きだった副操縦士の席、ハーレイの左側だったから…。
あそこに座ろう、って思っていたのに、座れないままになっちゃったんだよ。
あの席、きっとトォニィは座っていたんだろうけど…。
ソルジャーの席が増えてないから、トォニィは座れたんだろうけど…。
前のぼくは座り損なっちゃった、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
白い鯨では一度も座れないままだったけど、と。
「…ぼくがハーレイの隣に座れていたのは、改造する前の船だった頃で…」
また座れると思っていたのに、とうとう座れないままで…。
ハーレイ、ぼくが最後に隣に座っていた日に、惑星の周りを飛んでくれたの、覚えてる…?
「これが最後かもしれませんから」って、ちょっと航路を変えてくれて。
ぼくとハーレイしかブリッジにいなかった時なんだけれど…。
「あったっけなあ…!」
懐かしいなあ、まさか本当に最後になるとは俺も思っていなかったんだが…。
あの船での最後ってつもり程度で、次があるさと軽い気持ちでいたわけなんだが…。
本当に最後だと分かっていたなら、二周くらいはするべきだった。
三周でもいいな、いや、誰かがブリッジにやって来るまで、ずっと周ってても良かったなあ…。
「…ホント? ぼく、ハーレイに訊きたいんだけど…」
あの時、ぼくを好きだった?
ぼくのこと、好きだと思ってくれてた…?
ちっとも気付いていなかったけれど、ぼくはハーレイのことが好きだったんだと思うんだよ。
だから隣に座りたくって、空いてる時には座っていて…。
白い鯨になった後には、もうブリッジに席は無いけど、いつか座ろうと思ってたんだ、って。
…ハーレイはぼくのこと、好きだった…?
「俺もとっくに好きだったんだろうな、お前と同じで」
それで航路を変えようと思ったんだろう。
お前と並んで座れるチャンスは当分やって来そうにないし…。二人きりというのも難しいし。
今の内だと考えたんだな、お前とゆっくり飛んでおこうと。
次はいつだか分からないから、お前と二人で外を眺めておかないと、とな…。
シャングリラでドライブしちまったらしい、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
前のお前とドライブをしたと、地球までは連れて行ってはやれなかったが、と。
「…約束したのに、守れなかったな…。だが、あんな赤い地球ではなあ…」
お前もガッカリしたんだろうなあ、もしも地球まで行っていたなら。
あの星の方がよっぽどマシだ、とドライブしていた星の話を持ち出したかもな。
…それでも、お前は俺の隣に座って眺めたかったんだろうが…。
地球が少しも青くなくても、俺の隣で見ていられるなら、それで満足だったんだろうが…。
「うん…。ハーレイの隣に座って眺められるんならね」
きっと充分だったと思うよ、前のぼくには。…地球まで行けずに終わったけれど…。
でも、今は来たよ、青い地球まで。
ハーレイの隣に座っていけるよ、前のぼくが座っていたみたいに。
「おいおい…。今の俺はだ、宇宙船なんかは全く動かせないんだが?」
前のお前に約束はしたが、生憎と俺はパイロットじゃなくて…。
ただの古典の教師ってヤツで、お前を隣に乗っけて地球を一周するのは無理なんだが…?
「ううん、ハーレイの車で充分!」
それでいいんだよ、いつか乗っけて走ってくれれば。
星を一周しなくていいから、ぼくを隣に乗せてドライブしてくれれば。
行き先はホントに何処でもいいよ。
あの時みたいにハーレイが決めて、「行こう」って言ってくれる所でいいから。
「よしきた、車でドライブだったら任せておけ」
お前の行きたい所へ好きなだけ俺が連れてってやろう、前の俺が約束していた分まで。
地球には二人で来ちまったんだし、車で行ける所だったら何処でもいいぞ。
車でいいなら、シャングリラでなくてもいいのならな…。
いつかお前が大きく育って俺とドライブ出来る日が来たら、とハーレイが約束してくれたから。
またハーレイの隣に座ろう、宇宙船ではなくて車だけれど。
副操縦士の席でもコアブリッジでもなくて、助手席に乗って行くのだけれど。
遠く遥かな時の彼方で、二人で座っていたように。
お互い、恋をしていることにも気付かないままで、シャングリラでドライブした日のように。
今度は恋人同士で、いつか。
ハーレイの車の助手席に乗って、青い地球の上を走ってゆこう。
惑星の周りは飛べないけれども、幸せなドライブに違いないから。
またハーレイの隣に座って、二人だけで何処までも、いつまでも走ってゆけるのだから…。
ブリッジの席・了
※白いシャングリラの何処にも無かった、ソルジャーの席。作るわけにはいかなかったのです。
改造する前、ハーレイの隣が好きだったブルー。いつかハーレイの愛車で、隣の席に…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれ…?)
学校の帰りにブルーの耳に届いた音。バス停から家まで歩く途中で。
カーンと澄んだ鐘の音が一つ。何処からともなく、風に乗って。
(下の学校…)
あそこの鐘、と顔が綻ぶ。今の学校に入学するまでは、家から歩いて通っていた。幼稚園の次は下の学校、自分が初めて通った学校。勉強をしに行く所。
幼稚園は遊びの場所だったからか、学校嫌いの子も多かった。勉強も、じっと自分の席に座っていなければならない規則も、遊び盛りの子供には向いていないから。
(…大きくなっても、おんなじだけどね?)
友達と遊べる時間はともかく、授業は大抵、歓迎されない。今、通っている学校でも。なんとも嫌われ者の学校、勉強を教える場所だということで損をしている。
学校でなければ得られないものも多いのに。新しい友達も、学校で大勢出来てゆくのに。
(ぼくも、そうだったんだから…)
下の学校で幾つも貰った、知識も、それに友達だって。
家から歩いて行ける距離だから、その学校の鐘がたまに聞こえる。上手い具合に風に乗ったら。
さっき聞こえていたように。一つだけ、カーンと。
授業の合図のチャイムと違って、いつでも音は一回きり。
今日はなんだか懐かしい。あの鐘の音が、澄んだ響きが。久しぶりに聞こえたからだろうか?
(…それに、学校の鐘だしね?)
今の学校に入る前には、八年もお世話になったのだから。何度も耳にしたのだから。
懐かしいこともあるだろう。学校の鐘、と。
もう聞こえない鐘の音。いつも一度しか鳴らさない鐘、二度目の音は届かない。
気付いた時には通り過ぎてしまっていた音だから、余計に懐かしいかもしれない。学校の鐘、と意識した時は、響きが残っていただけだから。
きっとそのせい、と考えて家に帰ったけれど。残りの道をのんびり歩いて行ったのだけれど。
家に着いて、制服を脱いで着替えて、ダイニングでおやつを頬張っていたら、また思い出した。鐘の音がとても懐かしかった、と。
鼓膜を震わせただけではなかった、あの鐘の音。心の襞まで震わせていった。澄んだ響きで。
たった一回、カーンと鳴らされ、耳に届いただけなのに。
(…あの鐘、そんなに好きだったっけ?)
授業の合図には使われない鐘、休み時間を知らせる鐘だった。他にも色々、生徒を校庭に集める時とか、完全下校の時間が迫った時だとか。
生徒の注意を引き付けるために鳴らされる鐘。何度も鳴らすより効果的だと思われていたのか、いつでも一度きりだった鐘。カーンと一回。
(本物の鐘で…)
小さな鐘楼のような所に吊るされていた。紐を引っ張って鳴らしていた鐘。
いい音がする鐘だったことは確かだけれど。今の学校には無いものだけれど。
(でも、懐かしいほどじゃ…)
ないように思うのに、懐かしい。帰り道に聞こえた、あの鐘の音が。
まるで覚えていないけれども、鳴らしたことでもあっただろうか?
たまに希望者が鳴らせた鐘。係の先生が出て来た時に、サッと元気に手を挙げたなら。
(んーと…)
どうだったっけ、と考えたけれど、鳴らしてはいない。紐を手にした記憶が無いから。
多分、名乗りを上げる勇気も無かっただろう。ついでに、力一杯、鳴らさなくてはいけない鐘。一度だけしか鳴らさないのだし、学校中に届くようにと。
失敗したら大変だから、と眺めていたのに違いない。ぼくには無理、と。
下の学校の鐘は、そういう鐘。自分はいつも見ていただけ。鐘の響きを聞いていただけ。
けれど、懐かしくてたまらない。おやつを食べ終えて部屋に戻っても、まだ耳の奥に残った音。帰り道に聞こえた、あの鐘の音。
(やっぱり、ぼくも鳴らしたのかな?)
勇気を奮って、名乗りを上げて。精一杯の力を鐘にぶつけて、カーンと一回。
それとも鳴らしたかったのだろうか、今頃になって思い出すほど。鳴らしたかったな、と響きを追い掛けるほど。とうに通り過ぎてしまった鐘の音、それを懐かしく思うほど。
(ぼくの馬鹿…)
きっと鳴らしていないのだろう。鳴らしていたなら、誇らしく覚えていそうだから。
しみじみと懐かしむくらいだったら、鳴らしておけば良かったのに。
そうすれば思い出が一つ増えたし、今日の鐘の音も感慨深く聞けただろう。「誰だろう?」と。係の先生が鳴らしていたのか、生徒の中の誰かだろうか、と。
(今のぼくなら…)
名乗れると思う、「ぼくもやりたい」と前に出られる。他に希望者がひしめいていても、グイと前に出て、ジャンケンもして。
運良く勝てたら鐘を鳴らせるし、負けても次のチャンスはある。一回限りで挫けるような真似はしなくて、鳴らせるまで挑戦出来ると思う。何度でも勇気を出して名乗って。
見ていただけの鐘を鳴らせそうなのが、上の学校に上がった自分。鐘があった下の学校の頃は、本当に見ていただけだったのに。
(今の学校に上がったから?)
制服がある上の学校。「お兄ちゃん」になった気分で袖を通した入学式の日。義務教育の最後の学校、卒業した後は結婚も出来る十八歳。
大人に一歩近付く学校、其処に進んだから勇気がグンと増えただろうか。
でなければ、前の自分の勇気。記憶と一緒に、ソルジャー・ブルーの分が戻って来たろうか?
(…前のぼくかも…)
英雄だったソルジャー・ブルー。知らない人など、誰もいないほどの。
学校の授業で教わる前から、子供は自然と何処かで覚える。前の自分の名前と姿を。一番最初のミュウの長。ミュウの時代が始まる切っ掛け、それを作った偉大な英雄。
今の自分でさえ、あの生き方は真似られない。
いつでも仲間たちが優先、命まで捨ててメギドを沈めた。白いシャングリラを守るために。迷いさえせずに、そう決めた自分。此処で自分が行かなければ、と。
とても敵わない、前の自分の勇気と生き方。逆立ちしたって敵いはしない。
同じ魂が生まれ変わって、今の自分がいるというのに。記憶もちゃんと持っているのに。
弱虫になってしまった自分。ソルジャー・ブルーだったとは思えないほど、ちっぽけな自分。
(でも、前のぼくの記憶を思い出したお蔭で、ちょっぴり勇気…)
下の学校の生徒だった頃は、見ていただけで終わった鐘。あれを鳴らせる勇気が増えた。今なら自分も手を挙げられるし、あの鐘だって鳴らせるだろう。
ソルジャー・ブルーの勇気の欠片を貰ったから。前の自分の強さの記憶を持っているから。
前のぼくのお蔭で、前よりも強いぼくになれた、と思った途端に。
(あの鐘…!)
帰り道にカーンと聞こえた鐘。懐かしさを覚えた、澄んだ鐘の音。
懐かしい音はシャングリラだった、白い鯨であの音を聞いた。前の自分が生きていた船で。
けれど、シャングリラに、ああいう鐘はあっただろうか?
白い鯨に、ミュウの箱舟に、澄んだ音のする鐘は据えられていたのだろうか?
(…船に教会、無かったよ?)
今の時代に鐘と言ったら、教会の鐘が真っ先に浮かぶ。前の自分が生きた時代も、そうだった。ただ一人だけ消されずに残った神のためにあった教会と、其処の鐘楼に吊るされた鐘と。
シャングリラには設けなかった教会、鐘も鐘楼もあるわけがない。
ヒルマンが子供たちに勉強を教えていた教室では、合図はチャイムか船内放送。鐘など鳴らしていなかった。紐を引っ張って鳴らすような鐘は。
(…他に鐘って…)
公園などで見掛けるカリヨン、幾つもの鐘を鳴らして奏でる音楽。それも白いシャングリラには無かったもの。カリヨンとは違った、一つだけの鐘も。
墓碑公園にも無かった気がする、あそこは祈りの場だったけれど。鐘の音が似合いそうだけど。
遠い記憶をいくら探っても、まるで見覚えが無いらしい鐘。
なのに確かに聞いた気がする、白いシャングリラで前の自分が。鐘は何処にも無かったのに。
(…ハーレイだったら、知ってるかな?)
誰よりも船に詳しいキャプテン、シャングリラの全てを把握していたキャプテン・ハーレイ。
今のハーレイが覚えているなら訊いてみたい、と思っていたらチャイムが鳴った。仕事の帰りに来てくれた恋人、教師になったキャプテン・ハーレイ。
いつものテーブルを挟んで座って、母がお茶とお菓子を置いて去った後、早速尋ねた。
「あのね、シャングリラに鐘ってあった?」
ハーレイだったら、きっと覚えていそうだけれど…。あの船に鐘があったのなら。
「鐘? …鐘って、どういう鐘なんだ?」
ガランガランと鳴らすヤツなら、その辺で使っていたんじゃないか?
こう、手に握って鳴らす鐘だな、あれはけっこう音が響くし。
「それじゃなくって、教会の鐘みたいなの…」
ちゃんと紐を引っ張って鳴らすヤツだよ、下の学校の時にあったんだよ。
今のぼくが前に行ってた学校、小さな鐘楼みたいなのがあって…。いい音がする鐘がついてた。
何かの合図の時に鳴らすんだよ、一回だけね。休み時間だとか、他にも色々。
たまに風に乗って聞こえて来るから、今日の帰りに聞いたんだけど…。
バス停から歩いて帰る途中で、カーンって一回、鳴ったんだけど…。
その音が妙に懐かしかった、と恋人に向かって説明をした。
最初は今の自分の思い出なのかと考えたけれども、違うらしいと。前の自分だと、同じ鐘の音を白いシャングリラで聞いたのだ、と。
「ホントなんだよ、でも、鐘があった場所が分からなくって…」
何処にも無かった、っていう気がするんだけれども、前のぼくは鐘の音を聞いたし…。
あの鐘、本物じゃなかったのかな?
そういう音を流してたのかな、食事の合図とか、そんな具合で船内放送…。
「いや、鐘の音は使っていない。そいつは俺が保証する」
音楽だとか、色々なのを使ってはいたが…。船の空気が和むようにと工夫していたが、鐘の音は採用してないな。…少なくとも、俺がキャプテンになった後には。
つまり、お前の言う白い鯨じゃ使っていないということだ。最初の頃の船はともかく。
船内放送には使ってないのに、前のお前が聞いたとなると…。
何処かに鐘があったってことか、あのシャングリラに教会みたいな感じの鐘なあ…。
「…やっぱり無かった?」
ぼくの記憶が間違ってるかな、今のぼくのと混ざっちゃった?
その可能性だってゼロじゃないよね、混ざってしまって、ごっちゃになって。
「さてなあ…?」
そう簡単には混ざらないだろうと思うんだが…。少なくとも、俺はごっちゃにならないし。
シャングリラだな、と思った時には、間違いなく前の俺の記憶だ。
なにしろ船が世界の全てだ、そうそう今と混じりはしないぞ。地球とはまるで違うんだから。
お前も多分、同じだろうし…。鐘の音を聞いたと言うんだったら、その音は確かにあったんだ。
だが、鐘なあ…。あのシャングリラで鐘だってか…?
シャングリラで鐘のありそうな場所…、とハーレイも暫く考え込んで。
「お前、シャングリラの写真集は見たか?」
あれを広げて確かめてみたか、何処かに鐘が写っていないか。
「…ううん、見てない…」
「なら、持って来い。俺とお揃いなのが自慢だろうが」
一緒に見よう、と促されて棚から取って来た写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。
ハーレイと二人でページをめくって、船の中を端から探していった。公園や食堂、展望室。皆が休憩に使っていた部屋、順に調べてゆくのだけれども、やはり写っていない鐘。
最後のページに辿り着いても、鐘はとうとう見付からなかった。
「…無かったね、鐘…」
ぼくの気のせいだったのかな?
今のぼくのと混じっちゃったかな、下の学校にあった鐘の音と…?
「いや、俺も聞いたような気がしてきたぞ」
お前に鐘だと言われ続けたせいってわけでもないだろう。俺は影響されるタイプじゃないし…。
今の俺もそうだし、前の俺もそうだ。周りの意見に流されてたんじゃ、キャプテンも無理なら、柔道も水泳も、大して上達しやしないってな。
俺まで聞いたと思うからには、シャングリラに鐘はあったんだろう。本物の鐘が。
しかし…。
何処で、とハーレイは首を捻った。
写真集を広げて探し回っても、無かった鐘。
もしもシャングリラに鐘があったら、何処かに写っていそうなのに。
「分からんな…。これだけ探して、ヒントすらも無いというのが不思議だ」
鐘ってヤツは目立つモンだぞ、使い方からしてそうなんだし…。
あれを鳴らすのは合図と相場が決まっているんだ、それだけに目立っていなくちゃならん。
人目につかない場所で鳴らしても、合図の役目を果たせないしな。
「…そうなの?」
鐘ってそういうものだったの?
下の学校では、確かに合図に使っていたけど…。鐘は元々、そういうものなの?
「そうらしいぞ。お前の学校にあった鐘もそうだし、教会の鐘も似たようなモンだ」
教会の鐘だと、お祈りの時間が始まる合図に鳴らすんだそうだ。
結婚式とかの時にも鳴らすが、本来はお祈り用らしい。毎日、決まった時間に鳴らして。
…待てよ?
教会の鐘はお祈りの合図で…。
「ハーレイ、何か思い出した?」
「それだ、お祈りの合図ってヤツだ」
シャングリラの鐘もそれだったんだ。…お祈りの合図に鳴らしてた鐘だ。
「お祈りって…。シャングリラには教会、無かったよ?」
前のぼくたちは教会を作っていないし、お祈りの合図もあるわけがないよ。
ハーレイ、何かと間違えていない…?
「おいおい、キャプテンだった俺が、船の設備を間違えるってか?」
失礼なヤツだな、キャプテン・ハーレイに向かって「間違いだ」なんて。
まあ、今の俺はただの古典の教師なんだし、そう言われても仕方がないが…。しかしだ、記憶はしっかりしてるぞ、前の俺の分の。
シャングリラに鐘は確かにあった。お祈りの合図に鳴らすためのヤツが。
…これだ、これ。
写真集には載っていないが…、とハーレイが指差す休憩室。
仲間たちの憩いの場所だった部屋。丸ごと写せるわけではないから、捉え切れていない壁や天井の全て。
「…此処にあったの?」
ぼくは全く覚えてないけど、どの辺り?
此処でみんなでお祈りしたかな、それの合図の鐘だったかな…?
「此処じゃなくてだ、もっと別の場所に…」
休憩室という名前だったが、小さいのが一つあったんだ。休憩室は他に幾つもあったが、それは特別なヤツだった。…身体じゃなくって、心が休憩するための部屋だ。
教会代わりに作っただろうが、そういう部屋を。
「えっ…?」
休憩室でしょ、なんで教会の代わりになるの…?
教会は神様のための場所だよ、休憩しに行く所じゃないよ…?
「心のためだと俺は言ったぞ。心を休憩させたい時には此処だ、という部屋だった」
自分の部屋では、癒せないような時もあるだろう。…色々なことを思い出しちまって。
そういった時には神様に癒して貰える場所が必要だ、とヒルマンとエラが言い出したんだ。
本物の教会は専門の神父とかがいないと無理だし、祈るための部屋だけ作っておこうと。
祈りたい時に、祈りたいヤツが好きに使えるような場所をな。
「ああ…!」
そういえばあったね、とても小さな休憩室が。
他の休憩室とは違って、賑やかじゃなかった静かな部屋が…。
すっかり忘れてしまっていた。ハーレイにそれを聞かされるまで。
前の自分たちが休憩室と呼んだ、小さな部屋。教会の代わりに作った部屋。存在したことさえ、まるで覚えていなかった。教会があったら其処でするのだろう、結婚式や仲間の葬儀。そういった儀式は他の所でやっていたから。仲間たちが大勢入れるようにと、もっと広い部屋で。
白いシャングリラの一角にあった、祈りのための休憩室。心を休憩させるための小部屋。
本当に小さくて、けれど大切な部屋の一つで…。
「鐘はあそこにあったんだ。…お前が言っていたような鐘が」
部屋の端っこに吊るしてあった。紐を引っ張って鳴らす鐘がな。
「思い出したよ、自分で鐘を鳴らすんだっけ…」
お祈りしたい気持ちの時には、自分で紐を引っ張って。
…そういう気分になれない時には、黙って座っているための部屋。自分の心が落ち着くまで。
ちゃんと落ち着いたら、そのまま静かに出て行ってもいいし、鐘を鳴らして帰ってもいいし…。
あそこはそういう部屋だったっけね、お祈りのための鐘がある場所。
これからお祈りしますから、って鐘を鳴らしたり、神様への御礼に鳴らしたり…。
鐘を鳴らすための決まりは何も無くって、誰でも自由に鳴らせたんだっけ…。
休憩室と呼ばれていた小部屋。仲間たちとお喋りをするような休憩室とは違った部屋。
飲み物も食べ物も置かれてはおらず、休憩用の椅子とテーブルがあっただけ。それから鐘と。
教会の代わりにと設けられた部屋、使い方は決まっていなかった。
祈りたい人が、祈りたい時に出掛けてゆけばそれで良かった。
何を祈るのも個人の自由で、鐘を鳴らすのも、鳴らさないのも個人の自由。
記憶から抜け落ちてしまっていた小部屋、白いシャングリラの教会代わりだった部屋。
誰も来ないままで一ヶ月だとか、そういう失礼があっては神様に申し訳ないから、と神様の像は無かったけれど。
神様に仕える専門の仲間は誰もいなくて、教会を彩るステンドグラスも無かったけれど。
それでも確かに、教会の代わりを立派に果たしていた小部屋。心のための休憩室。
休憩室で祈る人には、けして事情を訊いてはいけない。その人が涙を流していても。
黙って自分も祈るのが礼儀、そうでなければ立ち去るもの。
涙を流している人が話したくないならば。事情を打ち明けたくないのなら。
鐘はその部屋の壁際にあった。神様の像を据える代わりに。
小さな小さな部屋だったけれど、吊るされた鐘はゼルが工夫を凝らした鐘。本物の教会の鐘にも負けないものをと、形や金属の配合を何度も検討しながら作り上げた鐘。
あの部屋に丁度いいように。小さな部屋でも、よく響くように。
誰が鳴らしても、余韻のある美しい音が響いていた鐘。澄んだ、天まで届きそうな音が。
白いシャングリラで、前の自分が聞いた鐘の音。あれは祈りの鐘だった。休憩室の壁に吊るしてあった鐘。誰が鳴らしてもよかった鐘。
祈りたい時に紐を引っ張ってやれば、透き通った音が響き渡った。小さな部屋の中でなければ、きっと遠くまで届いた音が。
今日の帰り道に聞いた鐘のように、白いシャングリラに鐘の音は響いていたのだろう。鐘の音が外に漏れないようにと作られた部屋でなかったら。
祈りのための部屋の中でだけ、響くように作られていなかったなら。
(…壁に細工をしてたんだっけ…)
鐘の音は一つ間違ったならば、騒音にもなるという話だったから。
遠い遥かな昔の地球でも、問題になった時代があったとヒルマンとエラが調べて来たから。
本物の教会の鐘楼の鐘は、夜中でも鳴っているものだった。人の心に余裕があった時代には。
ところが人が余裕を失くして、自分のことしか考えないような時代になったら、教会の鐘の音は騒音になった。夜も昼も鳴ってうるさいから、と。止めて欲しいと殺到した苦情。
それぞれの暮らしがあるだろうから、と最初は夜だけ止めていた鐘。
夜は鳴らなくなったというのに、今度は朝早い鐘が嫌われた。あれもうるさい、と。
そんな具合で、最後には鐘を鳴らさなくなった教会もあったほどだという。
(人類はなんて身勝手なんだ、って思ったけれど…)
実際にそういう例があったなら、考慮しておくべきだろう。ミュウは心が優しいけれども、船の中だけが全ての世界。聞きたくない時に鐘が聞こえたら、苛立つこともあるだろうから。
祈りの心を託した鐘が騒音になってしまわないよう、小部屋の壁には細工がされた。サイオンは使わず、吸音材で包んでおいたのだったか。
鐘の音は部屋には響くけれども、部屋の外には零れなかった。
だから自分も何処で聞いたか、思い出せずにいた有様。祈りのために鳴らした時しか、鐘の音は聞こえなかったから。
白いシャングリラの何処に行っても、聞こえた音ではなかったから。
前の自分も鳴らした鐘。小部屋に入ったら先にいた誰か、他の仲間が鳴らすのも聞いた。
清らかに澄んだ響きの音を。天まで響いてゆきそうな音を。
けれども、鐘は写っていない。シャングリラの主だった部屋を収めてあるのに、休憩室の写真も載っているのに。
「…あの部屋、どうして載っていないんだろ?」
小さいけれども、とても大切な部屋だったのに。…休憩室より、ずっと大事な部屋なのに。
写真集にも入ってないから、ぼくもハーレイも忘れてたじゃない…!
きちんと載せておかなきゃ駄目だよ、抜けちゃってるなんて片手落ちだよ…!
「…ある意味、神聖な部屋とも言えるからなあ…」
教会とは違うが、それの代わりに作った部屋だ。他の部屋とは少し違うぞ、あの部屋は。
遊びに来ました、と記念に一枚、写真を撮れるような場所ではないだろう?
前のお前や俺の部屋とは違うんだ。…そのせいじゃないか?
皆が祈っていた部屋だからな、こういう写真集に載せるつもりは無かったかもしれん。
娯楽のための出版物には決して載せるな、とトォニィが指示を出したとしたなら、研究者向けのデータくらいしか無いだろう。
…もしかしたら、そいつも無いかもしれん。
あの部屋の写真は一枚も撮らずに、シャングリラを解体させたかもしれんな、トォニィは。
見世物じゃない、と記録は一切残さずに。
残したとしても、興味本位では見られないよう、厳重に管理がしてあるとかな。
トォニィたちも祈っていたかもしれないから、というのがハーレイの読み。
自分も祈りを捧げた場所なら、きっとあの部屋の重さも意味も分かるだろうから、と。
「…俺が思うに、トォニィは祈った可能性ってヤツが高いだろう」
間違いなく祈っていたんじゃないか、と思わないでもないわけだ。…あの部屋でな。
「そうなの?」
前のハーレイたちが死んじゃった後かな、ジョミーも地球で死んじゃったから…。
トォニィはジョミーが大好きだったし、あの部屋、使っていたかもね…。
「その時もそうだが、前の俺が生きていた間。…その間に一度は祈っていそうだ」
確証は無いが、そういう気がする。トォニィはあそこに行っただろう、と。
「…いつ?」
アルテラたちなの、トォニィはアルテラに貰ったボトルを忘れなかったし…。
あのボトルに書かれたメッセージだって、ちゃんと今まで伝わってるし。
「そいつも恐らく入るんだろうが、俺が言うのはマツカを殺しちまった時だ」
キースを殺しに行ったというのに、仲間の命を奪っちまった。…事故だったがな。
俺が真相をジョミーから聞いた時には、トォニィは酷く悔やんでいた。
そういうことか、と傍目に見たって分かるくらいに泣きそうな顔をしていたな…。
まさか俺にまで知られているとは、恐らく気付いていなかったろうが。
それが普段のトォニィだったら、「余計なことまでかまうんじゃない!」と怒鳴っただろうに、何も言わずにいたからな。
…多分、気付いちゃいなかったんだ。自分がどんな顔をしているのかさえ。
人類の命は山ほど奪っていたトォニィだが、仲間を殺してしまったショックは大きいし…。
なのに、マツカの葬儀は無かった。シャングリラの仲間じゃないからな。
アルテラたちが死んだ時には皆が祈って、墓碑にも名前が彫られたんだが、マツカは違った。
だから祈りに行ったんじゃないかと思うわけだ。…あの部屋で一人、鐘を鳴らして。
殺しちまったマツカの葬儀を、誰一人してはくれないんだから。
トォニィがマツカを殺したことは、一部の者しか知らなかったらしい。
地球が目の前に迫っていたから、ジョミーが敷いた緘口令。皆が動揺しないようにと、マツカの死は固く伏せられた。
人類の側に、国家主席の側近としてミュウがいたのだと知れたら酷い騒ぎになるから。このまま進んで行っていいのか、迷う者たちも出るだろうから。
確かに仲間が、一人のミュウが死んだというのに、誰もその死を悼んでくれない。それも仲間に殺されたのに。トォニィが誤って殺したのに。
マツカを殺したトォニィだけしか、祈れる者はいなかった。前のハーレイも心で祈っておくのが精一杯。船の仲間にマツカのことを知らせるわけにはいかないから。
きっとジョミーもハーレイと同じ、祈りには行かなかったろう。地球へ行くのが最優先で。
トォニィは一人で祈るしかなかった、マツカのために。
自分一人で背負ってゆくには、あまりにも重いその十字架。自分の部屋での祈りだけでは。
それまで一度もあの部屋に入っていなかったとしても、トォニィは小部屋に入っただろう。鐘を鳴らして祈りを捧げに、自分が殺したマツカのために。
ミュウの最後のソルジャーになった、トォニィが一人で鳴らした鐘。
誰も祈りを捧げてくれないマツカの魂、彼が真っ直ぐ天国へ飛んでゆけるようにと。
悲しい祈りを捧げたトォニィ。自分が殺してしまった仲間を、マツカを悼んで鐘を鳴らして。
ハーレイはそうだと考えていた。トォニィはあの部屋に行った筈だ、と。
今の自分も、ハーレイと同じ考えだから。トォニィは小部屋で祈っただろうと思うから。
「そっか…。トォニィが一人で祈るしかなかったことがあるなら…」
他の仲間は誰も知らなくて、一人きりで苦しい思いをしながら鐘を鳴らしていたんなら…。
あの部屋の写真は撮らせないかもね、さっきハーレイが言った通りに。
撮らせたとしても、ホントに一部の研究者向けで、普通の人には見られない仕組み。
データベースにアクセスしたって、きっと引き出せないんだね。ハーレイもぼくも、今は普通の人間だから…。
「そうなんだろうと俺は思うぞ、写真集に載っていないってことは」
この写真集は、一番内容が充実していると評判なんだ。そいつにも載っていないんだから。
…お蔭で俺も忘れていたがな、あの部屋のことも、鐘があったことも。
お前が鐘だと言い出した時も、直ぐには思い出せない始末で。
前のお前のために何度も行っていたのに、とハーレイが言うから。
すっかり忘れてしまっていたとは情けないな、と苦い笑いを浮かべているから。
「…そうだったの?」
ハーレイ、あそこで祈ってくれたの、前のぼくのために?
ぼくはハーレイを酷い目に遭わせちゃったのに…。独りぼっちにしちゃったのに。
「だからこそだな。…行かないわけがないだろう」
お前の所に届くといい、と鐘を鳴らして祈っていた。地球に着いたら俺も行くから、と。
俺が行くまで待っていてくれと、寂しがらずにいてくれと。…俺の祈りが届くのなら、と。
鐘の音がお前に届いていたかは知らないが…。お前も覚えていないようだが。
それはともかく、前のお前も行ってたんだな、あの部屋に。
シャングリラにああいう鐘があったと、ちゃんと覚えていたんだから。
「うん…」
いろんな時に祈りに行ったよ、あそこまで。
先に誰かがいたこともあるけど、ぼくも祈りたかったから…。
ソルジャーだってお祈りしたってかまわないでしょ、ミュウの未来を祈るんだから。
…そうやって鐘を鳴らしてたんだよ、ゼルが作って吊るしてくれた鐘を。
前のぼくもあそこでお祈りしてたよ、ハーレイとは一度も会わなかったけど。
白いシャングリラの休憩室。祈りのための小さな部屋。
あの部屋で何度、祈りの鐘を鳴らしただろう。澄んだ音を部屋に響かせる鐘を。
神に届いてくれればいいと、祈りが神に届くようにと。
「…ハーレイ、あの部屋、シャングリラの教会だったのかな?」
本物の教会は作っていなくて、あそこは休憩室だったけれど。
神様の像も、十字架も無かった部屋だったけれど、あれが教会だったのかな…?
「ふうむ…。教会じゃなくて代用品だが、立派に役目は果たしていたなあ…」
結婚式とかには使えなかったが、祈りの場所にはなったわけだし…。
前の俺たちも祈ったわけだし、あれも教会だったんだろうな。神様の像が無かっただけで。
「今は教会、ちゃんとあるよね」
本物の教会が町に建ってて、鐘楼だってくっついていて…。
この家からは離れているから、鐘の音は聞こえてこないんだけど。
「お前、教会、行ってるのか?」
真面目に祈りに行っているのか、クリスマスとかに?
「ううん、ハーレイは?」
ぼくは教会には通ってないけど、ハーレイは行ったりしているの?
「お前と同じだ、俺も全く行ってないってな」
美味いものが食えるバザーでもあると聞き付けたんなら、話は別だが…。
そうでなければ、御縁は全く無いってヤツだ。
あれが教会の鐘の音だな、と意識したことさえ一度も無いなあ、ただの鐘だな。
カーンと鳴ってりゃ鐘ってだけでだ、学校の鐘か教会の鐘かも俺は気にしていないってな。
前の俺は何度も真面目に鳴らしていたんだが…。あの部屋の鐘を。
鐘を鳴らして祈る必要も無いほど幸せになってしまったんだな、とハーレイは楽しそうだから。
あの鐘のことも二人揃って忘れるくらい、と肩を竦めて笑っているから。
きっとそういうことなのだろう。
前の自分たちの頃と違って、鐘を鳴らして縋るような祈りを捧げなくてもいいのだろう。
神様にはたまにお願いするだけ。
教会どころか自分の家から、うんと自分に都合よく。これを叶えて下さい、と。
鐘を自分で鳴らしもしないで、欲張りに。
早く大きくなれますようにと祈ってみたり、早く結婚出来ますようにと祈ったり。
ハーレイと二人、平和な時代に、青い地球に生まれて来られたから。
祈りの鐘を鳴らさなくても、幸せが幾つも降ってくるから。
そしていつかは、結婚式の鐘が鳴るのだろう。
ハーレイと一緒に歩き出す日に、幾つも、幾つも、幸せの鐘。
澄んだ鐘の音が響き渡る中、幸せに包まれて歩いてゆく。
いつまでも、何処までも、ハーレイと二人。キスを交わして、しっかりと手を握り合って…。
祈りの鐘・了
※白いシャングリラにあった、祈りを捧げるための鐘。それを鳴らして祈った小さな休憩室。
けれど、写真集には載せられていないのです。きっと、とても大切な部屋だったから。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
ブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
ふと目に留まった運転免許を取るための学校、それの広告。新聞に広告を出すほどだから、車の免許。ごくごく普通の、一般人向け。
(宇宙船だと、ホントに学校…)
多分、飛行機でもそうだろうけれど、パイロット専門の養成学校。そういう所へ入学しないと、運転免許は貰えない。何年間もの勉強と訓練、難関だと聞く試験も受けて。
新聞に広告を載せるまでもなく、その手の学校は志願者が多い。入学試験があるほどなのだし、車の免許とは全く違う。車の方なら、生徒の方がお客様のようなものだから。
(お金を払えば、誰でも入れて…)
教えて貰える車の運転。入学試験などは要らない、申し込んでお金を払うだけ。
後は…、と読んでみた広告。運転免許を手に入れるための方法はどうなっているのだろう、と。
(学校で教えてくれるのは…)
車の運転に必要な知識、交通ルールなどの教室で学ぶ授業が幾つか。他の時間はひたすら運転、学校の中の練習コースで腕を磨いて、それから外へ。教官を乗せた車で走って、本物の道路で積む経験。これで大丈夫、という御墨付きを貰えば無事に卒業。
そこまで行ったら、運転免許を発行してくれる所で試験を受ける。合格したら免許皆伝、やっと手に入る運転免許。
そういう仕組みになっているのか、と広告を眺めて考え込んだ。
新聞に広告が載っているくらいの自動車学校、お金さえ払えば行ける学校。生徒の方がお客様の学校、きっと親切に教えてくれるに違いない。自分が申し込んだって。
まだ年齢が足りないけれど。十四歳では門前払いを食らうけれども、免許を取れる年ならば。
取ろうとも思っていなかった免許、広告のせいで気になったから。
(…免許を取るなら、実技と筆記…)
そういう試験があるらしい、と最後まで読んでフウと溜息。
筆記試験なら楽に合格出来そうだけれど、実技が問題。車を上手に動かせないと不合格だろう。自動車学校はそのためにあるようだから。主な授業は車を運転することだから。
(パパは免許を持ってるし…)
当たり前のように運転している、毎日のように。会社に行くにも、休日に出掛けてゆくのにも。
運転免許は母も持ってはいるらしい。普段は運転していないだけで。
(いざとなったら乗れるんだよね、ママ?)
一度も見たことは無いのだけれども、運転免許を持っているなら母も運転出来るのだろう。日常生活では出番が無くても、ドライブの途中で父と交代するだとか。
長距離ドライブに行くような時は、きっと両親が交代で運転することになる。泊まりで出掛けてゆくような場所へ、車で走ってゆくのなら。
旅行に行く時は車なんだ、と話をしていた友人たちの家では、両親が交代で乗るらしいから。
(長距離ドライブ…)
自分が生まれつき弱かったせいで、車で遠出をすることは無い。その日の間に戻れる距離しか、父は車を出そうとしない。しかも往復の時間は短め、長い距離を走ってゆかない車。
運転する人が交代するようなドライブは、ぼくの家とは無関係、と思った所で気が付いた。父に代わって、母が車のハンドルを握る機会は無さそうだけれど。
(…ハーレイとドライブ…)
運転免許も、車も持っているハーレイ。今の愛車は前のハーレイのマントと同じに濃い緑色。
そのハーレイと、いつかドライブに出掛けるのだった、自分が大きくなったなら。
前の自分と同じ背丈に育った時には、助手席に乗せて貰ってドライブ。最初の目標は隣町にあるハーレイの両親が住んでいる家で、この町を出てゆく一番の遠出。庭に夏ミカンの大きな木がある家まで出掛けてゆくことが。
それが目標なのだけれども、ドライブが普通になって来たなら、もっと遠くへも。
(牧場だとか、海だとか…)
美味しい卵が食べられる牧場や、アイスクリームや牛乳で名高い牧場。そういった所へ出掛けてゆこうと約束に指切り、青い海だって見に行く予定。前の自分が焦がれ続けた地球の海を見に。
他にも色々交わした約束、それを果たしに出掛けてゆくなら、長距離ドライブもあるだろう。
海はともかく、アイスクリームや牛乳で知られた牧場までは遠いのだから。
(…運転免許、取っておかないと駄目?)
ハーレイに代わって、自分が運転するのなら。
運転する人が交代しながら走ってゆくのが、長距離ドライブというものならば。
少なくとも友達の家の場合は、両親が運転を代わるもの。車で遠出をする時には。
おやつを食べ終えて、部屋に帰って。
勉強机の前に頬杖をついて、考え始めた運転免許。さっきの新聞に載っていた広告。運転免許を取るのだったら、まずは自動車学校だけれど。誰でも入学出来るのだけれど…。
(運転免許…)
自分なんかに取れるのだろうか、筆記試験はクリア出来ても問題は実技。運転技術を見る試験。自動車学校で教えて貰える技術だけれども、ハンドルを握って車を動かす、そこが問題。
運動神経は無いに等しいし、反射神経も怪しい自分。
自動車学校の練習コースで車に乗っても、きちんと走ってくれるのかどうか。教官が「こう」と指示した通りに、動かせる自信がまるで無い。車も、ハンドルを握っている手も。
取れるという気が微塵もしない運転免許。自動車学校に通ってみても。
(前のぼくなら…)
マシだったろうか、と思い浮かべたソルジャー・ブルー。
生身で宇宙空間を駆けて、人類の輸送船から物資を奪い続けていた自分。最後はメギドも沈めたくらいで、それは素晴らしい伝説の戦士。大英雄になったソルジャー・ブルー。
あの頃ならば、と思ったけれども、今と同じに弱かった身体は、運動神経と言うよりも…。
(サイオンが頼り…)
障害物だらけの宇宙空間を、凄い速さで飛べたのも。
テラズ・ナンバー・ファイブと互角に渡り合えたのも、全てサイオンがあったから。サイオンの助けを使って動いて、攻撃だって避けられた。
メギドへ向かって飛んだ時には、レーザーさえも軽く躱せた。光の速さで飛んで来るのに。
(…あんなのだって、ヒョイと…)
避けることが出来た、サイオンで捉えたレーザーの光は、速くもなんともなかったから。まるで止まっているようにも見えて、楽々と躱して飛べたから。
レーザーさえも避けて飛べたのがソルジャー・ブルー。今の自分には出来ない芸当。
(…サイオン無しだと、どうなるわけ?)
それが無ければ今の自分と大して変わらなかったのだろうか。伝説の戦士も、運転免許を取りに行ったら挫折するのか、それとも見事に合格なのか。
前の自分に運転技術はありそうだろうか、と遠い記憶を手繰ってみたら…。
(そうだ、シミュレーター!)
あれがあった、と思い出した。白い鯨に改造する前のシャングリラで使ったシミュレーター。
ハーレイがキャプテンに就任した後、それで練習していたから。「操舵は出来なくてもいい」という条件でキャプテンに就任したというのに、操舵を覚えようとしていたハーレイ。
練習中の所へ見学に出掛けて、前の自分も挑んでみた。シミュレーターのスイッチを入れて。
(…ぼくの方が、ずっと…)
ハーレイよりも上手かった。シミュレーターを使って、シャングリラを操縦するということ。
初めて挑戦したというのに、ハーレイよりもずっと。スピードもぐんぐん上げられたほどに。
(あれくらい、簡単…)
最初の間はハーレイよりも上手かったから、と自信を覚えた運転技術。前の自分だったら、車の免許も楽に取れたに違いないと。宇宙船の操縦技術があったのだから、と。
けれど、よくよく考えてみたら、あの時だって…。
(サイオン頼み…)
シミュレーターに次々と表示されてゆく障害物を避けて飛べたのも、スピードをぐんぐん上げてゆけたのも、サイオンで見ていた感覚のお蔭。
前の自分が器用に使いこなしたサイオン、呼吸するように使えていたから無かった自覚。それを使っているのだと。
肉眼の代わりにサイオンの目で見て、それに合わせて動かした身体。シミュレーターの向こうの障害物を避けるならこう、とサイオンが伝える感覚のままに。右へ、左へとそれは素早く。
メギドに向かって飛んでゆく時、レーザーの光を避けた速さで。
前のハーレイが仰天していた、前の自分のシミュレーターでの操舵の腕前。
もしも、あそこでサイオンを使わなかったなら。
純粋に肉体の能力だけで挑んでいたなら、ハーレイに勝利を収める代わりに…。
(シャングリラ、沈没…)
そういうメッセージが画面に表示されていただろう。
障害物接近の警告音が何度か鳴り響いた後で、あっさりと。シミュレーターのスイッチを入れて間もなく、一番最初の小惑星か何かにドカンと派手に衝突して。
なにしろ前の自分の場合も、運動神経も反射神経も、今と同じにゼロだったから。
サイオン抜きのソルジャー・ブルーは、ただの虚弱なミュウだったから。
(改造前のシャングリラの時でも、前のぼくには動かせなくて…)
白い鯨になった後だと、更に難しくなっていたろう操船方法。
あの時代のどんな宇宙船よりも、シャングリラは巨大な船だった。ミュウの箱舟、世界の全てを乗せておくには必要だった大きな船。世界最大の生物とも言われる、本物の鯨さながらに。
それほどの船を動かすとなれば、改造前よりも遥かに上の操船技術を要求されたことだろう。
ハーレイは楽々と新しい船を操ったけれど。
サイオンの助けを借りもしないで、逞しい腕と自分自身の勘だけで。
(無免許運転だったんだけどね…?)
あれはいつだったか、そう言って笑っていたハーレイ。
「俺は試験をパスしてないぞ」と。
後の時代に導入された操舵のための試験は受けていないと、キャプテン・ハーレイは無免許運転だったんだがな、と。
前のハーレイが航宙日誌に書かなかったから、今も知られていない真実。
免許を持たずに、白いシャングリラを地球まで運んだキャプテン・ハーレイ。
本当は無免許運転だったけれども、前のハーレイには出来た操船。
白いシャングリラも、その前の船も、ハーレイは誰よりも見事に操っていた。元はフライパンを持っていたのに、厨房出身だったのに。
それに引き替え、前の自分は、伝説のソルジャー・ブルーときたら…。
(ギブリでも無理…)
サイオンは抜きで操縦しろと命じられたら、どうにもならなかっただろう。シャングリラよりも遥かに小さな、小型艇だったギブリでさえも。
ジョミーが捕えておいたキースは、初めて目にしたギブリを使って逃げたのに。人質まで取って乗り込んだけれど、フィシスはギブリを操れないから、キースが操縦したギブリ。
ミュウが開発した船だっただけに、人類が使う宇宙船とは微妙に違っていたろうに。
(…キースにも負けた…)
初見でギブリの操縦方法を見抜き、シャングリラから逃れたキース。一つ間違えたら、格納庫の壁に激突して終わりだっただろうに。
メンバーズはプロだと、そういう能力の持ち主なのだと分かっているけれど、それでも悔しい。
ソルジャーにも操縦出来ないギブリをキースが持ち逃げしただなんて、と。
(…サイオン抜きだと、ホントにキースに負けちゃうんだよ…!)
メギドを沈めたことはともかく、ギブリの操縦に関しては。
今の自分よりも遥かに高い能力があった、前の自分でさえもその始末。
船には乗せて貰うもの。白いシャングリラも、それにギブリも。
自分ではとても動かせなかった、サイオン抜きでは無理だった。分かっていたから、挑戦さえもしないで乗せて貰っていただけ。ハーレイやシドや、操舵のプロたちが操るシャングリラに。
これは駄目だ、と頭を抱えた前の自分の運転技術。
サイオン抜きだと、乗せて貰うしかなかったらしいソルジャー・ブルー。白いシャングリラも、小さなギブリも、誰かに操縦して貰うだけ。自分はそれに乗ってゆくだけ。
前の自分がそういうことなら、サイオンが不器用な今の自分は…。
(…絶望的だよ…)
運転免許を取りに行っても、手も足も出ないのに違いない。サイオン抜きの前の自分と、状況はまるで同じだから。運動神経も反射神経も、人並み以下しか無いのだから。
(…運転免許は、最初からサイオン抜きだろうけど…)
誰もが同じ条件だと思う、タイプ・ブルーだろうが、イエローだろうが。
人間が全てミュウになっている今の時代は、サイオンは出来るだけ使わないのがマナーで約束。運転免許の試験場でも、きっとサイオンは禁止の筈。使った場合は多分、失格。
(…普通の人なら、サイオン抜きでも取れるのに…)
母も免許を持っているのだし、普通だったら難しくないのが運転免許を取るということ。広告が出ていた自動車学校、其処に暫く通いさえすれば。
車を上手に走らせることさえ出来るようになれば、後は試験を受けるだけ。
(ぼくの友達なら、筆記試験を嫌がりそう…)
「なんで勉強しなきゃいけないんだよ!」と文句を言う姿が目に見えるよう。車の運転を習いに来たのに、教室で授業があるだなんて、と。
自分の場合は、教室の方が楽なのに。筆記試験だけで運転免許を貰えるものなら、そちらの方が楽なのに。
自動車学校のメインだという、実地で運転することよりも。学校のコースや本物の道路で、隣に教官が乗った車のハンドルを握ることよりも。
けれど、実技が要る試験。明らかに運転技術の方が大切、そういう試験なのだと分かる。自動車学校の授業のメインは「運転すること」なのだから。
今のぼくには取れそうもない、と溜息しか出ない運転免許。前の自分でも無理なのだから。
そうは言っても、いつかハーレイとドライブに行くなら要るのだろう。
遠い所へ出掛けてゆくなら、運転免許が必要になる。ハーレイと交代するために。友達の両親がやっているように、交代で運転してゆく車。
海へ行くにも、牧場へ行くにも、きっと長距離ドライブだから。
(…ぼくでも取れる?)
運転免許、と不安しか湧いてくれない心。あまり取れそうにないんだけれど、と。
母でも持っているとは言っても、本当に人それぞれだから。
(…ママの体育の成績、ぼくよりはきっとマシだよね…?)
運動の方はサッパリだった、と聞いたことなど一度も無い母。人並みの成績は取ったのだろう。運動神経も反射神経もゼロに等しい自分と違って、そこそこの点は。
(普通はそっちで、だから車も運転出来て…)
自動車学校に通いさえすれば、運転技術をちゃんと身につけ、試験に合格できるのだろう。運転免許を貰える試験に、きっと一回挑んだだけで。
大多数の人はそうだというのに、自分には無理としか思えないのが運転免許。自動車学校に入学したって、車を運転出来そうにない。
(エンジンはスタートさせられたって…)
その後が無理、と容易に想像出来てしまった自分の末路。
遠い昔に前の自分がハーレイに勝ったシミュレーター。あれをサイオン抜きでやったのと、同じ結果になるのだろう。
シャングリラ沈没というメッセージが表示されるか、車がコースを外れるかの違い。隣に乗った教官が運転を代わってくれなかったら、何処かに衝突して終わり。
そういう結果が見えているのに、運転免許が必要なのが今の世の中。
キャプテン・ハーレイが無免許でいられた時代は終わって、普通の車を運転するにも運転免許。それを自分が取れなかったら…。
(ハーレイと一緒にドライブは無理…)
運転免許を持っていなければ、交代出来ない車の運転。長距離ドライブには出掛けられない。
牧場へも海へも出掛けてゆこう、とハーレイと幾つも約束したのに。
卵が美味しい牧場へ行ってオムレツやホットケーキを端から頼んで食べる予定も、牛乳で名高い牧場の特製アイスクリームを食べにゆくのも、これでは無理。
日帰り出来る海には行けても、もっと遠い所の海には行けない。海沿いに何処までもドライブを続けてゆけはしなくて、途中でおしまい。「此処までだな」とハーレイが車の向きを変えて。
自分が運転を交代出来ない以上は、長いドライブは無理だから。
いつかハーレイとドライブに出掛けるようになっても、行き先は近い所だけ。この町から日帰り出来そうな所、それくらいしか目指せしてゆけない。
ハーレイと運転を交代しなくていい所しか。ハーレイが行ける所までしか。
運転免許が取れなかったら、けして行けない長距離ドライブ。
牧場も、海も、どうにもならない。幾つも幾つも、ハーレイと約束していたのに。
ハーレイと遠くへ出掛けるためには、運転免許が必要だという現実の壁。途中で運転を代われる資格を持っていないと、長距離ドライブには出掛けられない。
牧場も海も、沢山交わした約束はどれも叶わない。
(ぼくの夢…)
前の自分が夢見た地球には来られたけれども、その地球の上で幾つも描いた新しい夢。
それがすっかり駄目になりそう、とガックリと肩を落とした所へ聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたけれど、無くなってしまったハーレイとの未来。
いつか大きく育ったとしても、二人で行けない長距離ドライブ。あんなに夢を見ていたのに。
「どうしたんだ、お前?」
なんだか元気が無さそうだが、と鳶色の瞳で覗き込まれた。何処か具合でも悪いのか、と。
「……運転免許……」
「はあ?」
お前の年ではまだ無理だろうが、自動車学校にだって入れないぞ?
申込書を貰うどころか、「お家の人は?」と訊かれるだろうな、そいつを貰いに行ったらな。
何を考えているのか知らんが、どうして元気が無くなるんだか…。
取れる年になってから続きを考えるんだな、その方がよほど建設的だ。
そこまでにしろ、とクシャリと撫でられた頭。伸びて来た大きな褐色の手で。
けれど、その手の持ち主との未来がかかっているのが運転免許。取れなかったらドライブの夢が殆ど砕けて消えてしまうのに、どうやら自分は取れそうになくて。
「…取れる年になっても無理そうなんだよ…」
ぼくは試験に受からなくって、運転免許は貰えないと思う…。
「そうなのか? そいつは考えすぎだと思うぞ」
大抵は一度で受かるモンだし、一度目で落ちても二度目くらいで通ると聞くが…。
落ちる理由は筆記試験で、お前だったら簡単だろうと思うがな?
お前の成績、トップだろうが。…覚える中身が違ったくらいで、試験に落ちはしないだろう。
今から心配していなくてもだ、自動車学校の教科書を見たら直ぐに覚えるさ、お前ならな。
「筆記試験はいいんだけれど…。そっちは心配してないんだけど…」
実技試験が無理なんだよ。
だって、車を運転出来なきゃ、実技試験はパス出来ないでしょ?
…試験会場にだって行けないと思う、自動車学校で失敗ばかりで、ちっとも卒業出来なくて。
「おいおい、実技って…。前のお前は俺よりも腕が上だったが?」
凄い才能を持っていたくせに何を言うんだ、俺は今でも覚えているぞ。
俺が悪戦苦闘していた、シャングリラにあったシミュレーター。あれを鮮やかに操ったろうが、障害物を避けてスピードを上げて。…しかも初めてだったくせに。
まあ、車ではなかったが…。
宇宙船な上に、シミュレーターで、実地だったわけではないんだが…。
車よりも宇宙船の方が遥かに操縦が難しいんだし、お前なら車の運転くらいは簡単なモンだ。
大船に乗った気持ちで行ってくるといい、きっと初日からスイスイ走れるだろうからな。
「…あれはサイオンだったんだよ…!」
前のぼくがシミュレーターを使ってた時は、サイオンの目で見ていたみたい…。
ぼくの身体もサイオンに合わせて動いていたから、凄い速さで動かせんだよ、シミュレーター。
サイオン抜きでやっていたらね、アッと言う間に警告音が鳴って、それでおしまい。
ハーレイにはとても敵わなくって、シャングリラ沈没って画面が出てたよ、絶対に…。
だから今だと絶対に無理、と打ち明けた。
サイオンの助けが無かった時には前のぼくでも無理なんだから、と。
「…前のぼくでもサイオン抜きだと、シャングリラどころかギブリも無理だよ…」
動かせやしないよ、どう頑張っても。
…運転免許の試験でサイオンはきっと禁止だろうから、前のぼくでも運転免許は取れなくて…。
今のぼくだともっと無理だよ、前のぼくより駄目で弱虫…。
前のぼくなら、取らなきゃ駄目だってことになったら、頑張ると思う。どんなに下手でも、車が運転出来るようになるまで、諦めないで挑戦して。
…でも、今のぼくは前のぼくほど強くないから…。きっと免許は取れないんだよ。
「ふむ…。おおよその事情は分かったが…」
お前には運転の才能が無くて、運転免許は取れそうにない、と。
それは分かったが、どうして元気が無くなるんだ?
運転免許が無くても問題無いだろうが。俺は免許を持ってるんだから。
キャプテン・ハーレイは無免許だったが、今の俺はきちんと持ってるってな。ただし、車の免許なんだが…。宇宙船にも、普通の船にも乗れない平凡なヤツなんだが。
それでも免許はちゃんとあるから、お前を車に乗せてやれるし、何の問題も無い筈だぞ。
お前は隣に乗ってりゃいいんだ、運転免許を持ってなくても。
「だけど、ドライブ…」
普段はそれでかまわなくても、ドライブに行く時に困るんだよ。
ぼくが免許を持っていないと、絶対に、いつか。
最初の間は、近い所へ行くんだろうから大丈夫だけど…。何度もドライブに行き始めたら。
遠い所まで行けないんだもの、と訴えた。
長距離ドライブは交代しながら走るものでしょ、と。
「ぼくの家では行かないけれども、ぼくの友達、家族で遠くまで車で行くから…」
そういう友達が何人もいるよ、誰の家でも交代で運転して行くんだよ。遠い所へ出掛ける時は。
お父さんとお母さんが交代しながら運転なんだよ、何処の家でも。
…だから、ハーレイと遠い所までドライブしようと思ったら…。
ぼくが交代出来ないと駄目で、運転免許を持っていないとハーレイと交代出来なくて…。
いろんな所へ行けなくなっちゃう、いつか行こうね、って約束した場所。
卵が美味しい牧場だとか、海に行こうとか、沢山、沢山、ハーレイと約束してたのに…。
どれも無理だよ、ぼくが免許を持っていないと。
それなのに免許は取れそうもなくて、ハーレイとドライブ出来ないんだよ…。
「なんだ、そんなことか」
それでションボリしてたってわけか、約束がパアになっちまう、と。
心配は要らん、俺を誰だと思ってるんだ?
最初からお前をアテにはしてない、運転を代わって欲しいと思ったこともない。
本当にただの一度もな。
俺が行こうと約束している場所へ出掛ける時には、俺が運転して行くんだ。
牧場も海も、俺が運転してってやるから、お前は隣に座っていろ。
遠すぎて疲れちまった時には、眠っていたってかまわない。着いたら俺が起こしてやるから。
安心して俺に任せておけ、とハーレイは微笑んでくれるけれども。
友達が何度も、「長距離ドライブの時は交代しながら走るんだぜ」と話していたから。
「それじゃハーレイ、疲れてしまうよ」
ずうっと一人で運転してたら、ハーレイがヘトヘトになっちゃうよ…?
そうならないように早めに交代しなくちゃ駄目だ、って友達はみんな言ってるよ…?
次は此処まで、って先に決めておいて、其処に着いたら交代なんだ、って。
「普通はそうかもしれないが…」
俺は違うな、普段からしっかり鍛えてあるし…。交代なんぞは要らないんだ、うん。
前の俺でもシャングリラの舵を握り続けて何時間でも立ちっ放しだ、と言ったハーレイ。
誰にも代わって貰わないで、と。
「任せられるヤツが無かった時には、そうだった。俺が一人でやっていたんだ」
此処は俺しか抜けられないな、と思った小惑星だらけの場所だとか…。
アルテメシアに着いた後にも、雲海の様子が怪しい時には俺だったろうが。
雲の流れがどうなりそうかが分からないのに、他のヤツらに任せられると思うのか?
ウッカリ雲から出ようものなら、シャングリラがいるとバレちまう。…運悪く監視衛星なんぞに捉えられたら、それで終わりだ。
ステルス・デバイスが常に完璧だとは限らないしな、そういう時に限って不具合が出るのが世の常だろうが。こんな筈ではなかったのに、では済まされない。
だから誰にも任せなかったな、俺が一人でやり続けた。…何時間でも、俺一人だけで。
「そういえば…。ハーレイ、何度もやってたっけね」
シャングリラを動かせる仲間は他にもいるのに、休みもしないで。
「代わりますから」って誰かが言っても、「私がやる」って舵を握ったままで…。
ホントのホントに立ちっ放しで、何時間でも一人で動かしていたんだっけね、シャングリラを。
「ほらな、経験だけはたっぷりあるんだ。前の俺の頃からの積み重ねがな」
今の俺だって、何時間でも運転出来るぞ。…もっとも、今の俺の場合は遊びだが。
何処まで休まずに運転出来るか、仲間と競っていたこともあるし、一人で挑んだこともある。
キャプテン・ハーレイ並みの記録も幾つもあるがだ、そこまでの無茶をしなくても…。
ドライブに行こうと言うんだったら、やっぱり休憩しないとな。
乗ってるお前も疲れちまうし、適当な所で一休みだ。
休憩場所なら、今の時代は何処でも山ほどあるだろうが。雲海や宇宙じゃないんだからな。
道端にもあるし、ちょっと外れた所にも。
車を停めて休むための場所には不自由しないぞ、シャングリラの頃とはまるで違って。
休憩しながら運転してゆくなら、シャングリラよりも遥かに楽だ、とハーレイは笑う。
車を停めたら飯も食えるし、コーヒーだって、と。
「シャングリラで舵を握ってた時は、不眠不休どころか食えなかったぞ、飯なんか」
舵を握りながら飯を食ったら、大変なことになっちまう。
ただでも少しの狂いってヤツが命取りなのに、片手で舵を握れるか?
しっかり両手で握らなくちゃいかん、飯も駄目だし、コーヒーも駄目だ。
誰かが口に入れてくれるというのも無理だぞ、そのタイミングで何かあったら終わりだからな。
「そうだっけね…」
ハーレイ、ホントに一人で舵を握ってて…。
食事もしないで、何時間でも立っていたっけ。…他の仲間じゃ駄目だ、って。
ハーレイが頑張ってくれていたから、シャングリラは無事でいられたんだよね、いつだって。
小惑星にぶつかりもしないで、雲海から出ちゃうことも無くって。
…思い出したよ、そういう時の前のハーレイを。
ちっとも疲れた顔はしないで、いつでも真っ直ぐ前を見ていて…。
「思い出したか?」
そいつが前の俺の場合で、文字通り船の仲間の命が懸かっていたわけで…。
あれに比べりゃ、今の時代は天国みたいなものだってな。何時間も一人で運転するのも、遊びで出来るという時代。誰の命も懸かっていないし、そりゃあ気楽なドライブだ。
そういうドライブで鍛えた俺がだ、お前を乗っけて長いドライブに出掛ける、と。
もちろん途中で休憩しながら、お前が行きたい所までな。
牧場でも海でも、何処へだって…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
そのために俺の車がある、と。
「安心しろ、俺が乗せてってやる。お前の居場所は俺の隣だ」
お前が免許を持っていなくても、俺と交代出来なくても。
交代して欲しいと思いもしないし、休憩するのもお前のためだな。俺だけだったら、何時間でも休まずに走ってゆけるんだから。
お前が疲れてしまわないよう、適当な所で休憩しよう。飯を食ったり、何か飲んだり。
間違えるなよ、俺が疲れたから休むんじゃない。お前とゆっくり過ごすために車を停めるんだ。走りっ放しじゃ、お前は絶対、疲れちまうに決まっているんだから。
俺が「寝てろ」と言っておいても、お前は起きていそうだからな。眠くなっても、目を擦って。
お前を休ませるために、お前の顔をじっくり見ながら話すために車を停めて休憩。
それが済んだら、また走るわけだ、長いドライブの続きをお前と一緒に。
いいか、俺はお前を乗せて走りたいんだ、今度こそ。
前のお前を地球まで連れて行ってやれなかった分、お前と二人の今だからこそ。
俺たちだけのためのシャングリラで、長距離ドライブといこうじゃないか。
お前は隣に乗っているだけで、俺と交代なんかはしないで。
だから運転免許は取らないでいてくれた方が俺は嬉しい、とハーレイが言ってくれたから。
「お前が欲しいと言うんでなければ、それは要らん」と笑顔を向けてくれたから。
心配は綺麗に消えてしまって、代わりに夢がまた一つ増えた。
(…長距離ドライブに行くなら、休憩…)
そのための場所には色々な食べ物があるらしいから、それを目当てのドライブもいい。
行き先は決まっているのだけれども、其処までのルートを色々選んで。
これを食べたいからこっちで行こうとか、これも食べたいから、帰りはこっちの道だとか。
きっと楽しいドライブになる。何処へ行くにも、其処から帰ってくる時の道も。
いつか大きく育った時には、ハーレイと二人で長いドライブに出掛けよう。
運転免許は持っていなくても、ハーレイの代わりにハンドルを握って走れなくても。
それは要らないと、頼もしい言葉を貰ったから。
遠い昔にシャングリラの舵を何時間も一人で握り続けた、ハーレイが運転してくれるから。
いつか二人でドライブに行こう、牧場へ、海へ、素敵な楽しい行き先に向けて。
ハーレイが運転してゆく車で、二人のためだけに走ってくれる車に変わったシャングリラで…。
車の免許・了
※前のブルーが素晴らしい腕前を発揮した、操船用のシミュレーター。実はサイオンのお蔭。
サイオンが不器用な今は車の免許も無理そうですけど、心配無用。運転手は、ハーレイ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ほう…?)
美味いんだよな、とハーレイが目を留めた、ソフトクリームと書かれた立て看板。
ブルーの家には寄れなかった日、いつもの食料品店で。
入口から近い特設コーナー、其処にソフトクリームの店が来ていた。しかも上質のバターで名を馳せる牧場の出店。ソフトクリームにもバターが入っているのが売りだという。
謳い文句にも惹かれるけれども、ソフトクリームというのがいい。頼りないほどに柔らかくて、滑らかな出来のアイスクリーム。さながら冷たいホイップクリーム、そういう食感。
(こいつは此処で食ってこそなんだ)
注文すればコーンの中に絞り出されて、「どうぞ」と手渡されるのがソフトクリーム。
サイオンを使って冷やしながら持ち帰ることは出来るけれども、普通はその場で食べるもの。
なにしろ、柔らかさが身上だから。絞り出して直ぐの、滑らかなクリームが美味しいのだから。
アイスクリームを買ったら付けて貰える、保冷バッグも存在しないのがソフトクリーム。
持ち帰り用の品などあるわけがなくて、買ったら直ぐに食べないと溶ける。
誰かのために持ち帰りたいなら、自分でサイオンを使うしかないソフトクリーム。買った店では何もサービスしてくれないから。「これをどうぞ」と保冷バッグは出て来ないから。
自分の家で食べたいと思っても、家までの道はサイオンで冷やしてやりながら。
(…そうやって持って帰るつもりでいたって…)
帰る途中で食っちまうんだ、と子供時代を思い出す。
まだ満足に使えなかったサイオン、それの訓練も兼ねてと高く志しても、誘惑に負けた帰り道。手に持ったソフトクリームが如何にも美味しそうだから、ついつい一口。
滑らかな味を舌が知ったら、もう止められないつまみ食い。
気付いた時にはソフトクリームは消えてしまって、胃袋の中に収まっているのが常だった。
なんと言っても、子供だから。我慢が出来ない食いしん坊。
子供時代に重ねた失敗、家まで持っては帰れなかったソフトクリーム。
(今日の俺でも無理だしなあ…)
駐車場に置いてある車。仕事の帰りにやって来たから、今日の自分は愛車連れ。
サイオンで冷やす技にも、自制心にも、充分に自信があるのだけれども、運転しながら持っては帰れない。ハンドルを片手で握れはしないし、ソフトクリームを置ける台も無いから。
(此処で食うかな)
食べたい気持ちになって来たから、一つ、と頼んだソフトクリーム。買い物を済ませて店を出る時、例のコーナーに立ち寄って。
牧場のロゴ入りの特製コーンに、たっぷりと絞り出されたクリーム。特製バターの風味を損ねてしまわないよう、一つだけしか無い種類。どれにしようかと悩む必要すらも無かった。
ほんのりとバターの色が見えるような、柔らかな白。たったそれだけ、何もつかない。
(こういうヤツも美味いんだ)
店の表で一口食べたら、期待通りの滑らかさ。コクのある甘みはバターが出しているのだろう。
優しい舌触りのソフトクリーム、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
(ガキの頃には、よく食べたよなあ…)
隣町の店でも買って食べたし、家族旅行に出掛けた先でも。
特産品の果物などを使ったソフトクリームは、色々な場所で売られているから。
美味しそうだと思った時には、冬の最中でも食べたりした。家に持っては帰れないから、其処でしか食べられないのだから。
仕事帰りの思わぬ立ち食い、いい年の大人が店の表でソフトクリーム。
けれども、御同輩が他にも数人、食べたくなってしまった人たち。年配の紳士や、家に帰ったら子供が待っていそうな女性の姿も。
(…後から買って帰るのかもなあ…)
自分の分を食べてしまったら、孫や子供のお土産に、と。サイオンで冷やして、上手に持って。
立ち食い仲間と目と目で笑って、美味しく食べたソフトクリーム。
得をした気分になった立ち食い、期待以上に美味だったから。
家に帰って夕食を食べて、コーヒーを淹れて向かった書斎。其処でも頭に浮かんだけれど。
(あれはブルーに持って行くには…)
向いていないな、と弾き出した答え。
いくら美味しくても、持ち帰り用に出来てはいない食べ物だから。
(夏にアイスを買ってやったが…)
ブルーの家へと歩く途中で、バッタリ出会ったアイスクリームの移動販売車。あれも牧場の名物だった。今日のソフトクリームとは別の牧場、そちらは牛乳で名高い牧場。
暑い日だったから、食べようかと思案していた所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で交わした約束、前のブルーと。
(今日はジョミーと食べてしまったから、明日、食べるよ、って…)
前の自分が青の間に持って出掛けたアイスクリーム。前のブルーはそう言った。明日食べるから仕舞っておいて、と。
(それで冷凍庫に入れて…)
次の日にブルーと一緒に食べる約束をした。明日の仕事が終わった後で、と。
(なのに、あいつは眠っちまって…)
十五年間も眠り続けて、アイスクリームを食べる約束は果たされなかった。ブルーの目覚めは、そのまま死へと繋がったから。
白いシャングリラを守るためにと、ブルーは逝ってしまったから。
アイスクリームの約束は思い出しさえもせずに、メギドへと飛んで行ったから。
シャングリラの思い出だったアイスクリーム。前のブルーと交わした約束。
「あの時の約束を果たして貰うぞ」と、買ってブルーに持って行ってやった。アイスクリームを一緒に食べると言っただろうが、と。
(ソフトクリームには、そういう思い出は無いからなあ…)
わざわざ買って行かなくても、と考える。
小さなブルーが欲しがるお土産、それには少々不向きなものだ、と。
(美味かったんだが、サイオンを使って運ぶトコまでは…)
してやらなくてもいいだろう。
夏ならともかく、今の季節には。それに特別な思い出も無いし、買わなくても、と。
(コーヒーなら、思い出もあるってもんだが…)
あいつは苦手な飲み物だがな、と傾けた愛用のマグカップ。絶妙な苦味が嬉しいコーヒー、今の時代はコーヒー豆も選び放題なのだけど。
白いシャングリラでは、そうではなかった。自給自足で生きてゆく船にコーヒーの木は無くて、最初の間は合成品。それが代用品のキャロブに変わって、チョコレートもキャロブで出来ていた。
あの船ならではの食べ物の思い出は多いのだけれど。
(ソフトクリームはなあ…)
特に何も、としか言えない。
空気を含んで滑らかに出来たアイスクリームが、ソフトクリーム。牧場に行けば名物でもある、牛乳が主な材料だから。
持ち帰れないのも人気が高い理由だろう。今日の自分が店の表で立ち食いしていたように。
(サイオンを使って冷やさない限りは…)
長時間はとても持ち運べない。
柔らかく出来たソフトクリームは、コーンに盛られたら溶け始めるから。
こんもりと高く絞り出されても、寿命が短いソフトクリーム。端から溶けて崩れ始めて。
季節によっては食べる間にも、トロリと垂れてしまうほど。
(シャングリラにも不向きだな…)
小さなブルーに持って行くにも不向きなんだが、と思った食べ物。
白いシャングリラでソフトクリームを作ったとしても、食堂でしか出せなかっただろう。直ぐに溶けるし、冷凍庫に入れるわけにもいかない。固くなってしまって駄目になるから。
休憩室でも飲めたコーヒーや紅茶、そんな風に置いてはおけない食べ物。ソフトクリーム専用の機械を休憩室には据えられない。
だから、シャングリラではアイスクリームくらいなもので…、と考えたけれど。
保冷バッグやケースで運べて、冷凍庫があれば何処の部屋でも保存が出来たアイスクリーム、と前の自分の遠い記憶を辿ったけれど。
(…待てよ?)
アイスクリームを手にして急いでいた記憶。
両手に持ったアイスクリーム。溶けてしまわないよう、サイオンでしっかり守りながら。
そうやって通路を急いだ記憶。白いシャングリラの長い通路を。
おかしい、と首を捻った遠い記憶のアイスクリーム。前の自分の急ぎ足。
溶けないように、と懸命だったことも微かに覚えているのだけれど。
(アイスクリームは…)
持ち運び用の保冷バッグもケースもあった。前のブルーと一緒に食べる約束を交わした時にも、保冷バッグに入れて運んだ。厨房で貰って、青の間まで。
白いシャングリラでは、アイスクリームは保冷バッグで運ぶもの。大量に運んでゆくのだったら専用ケースで、どちらも保冷効果は抜群。サイオンなどは使わなくても済むように。
「サイオンは日常生活で使うべきではない」と、ヒルマンもエラも言っていたから。
人間らしく生きるためには、必要最低限のサイオンに留めておくべきだ、と。
シャングリラはそういう船だったから、アイスクリームをサイオンで冷やすことなど言語道断。保冷バッグがあるだろうに、とヒルマンたちが眉を吊り上げただろう。
(…その筈なんだが、なんでまた…)
キャプテン自ら禁を破って、サイオンを使って運んでいたのか。保冷バッグを使わずに。
それとも、保冷バッグが役に立たない場所へ運んで行ったのだろうか?
区画によっては相当な暑さだった機関部、其処でゼルが仕事をしていただとか。
室温が四十度に届きそうな場所では、保冷バッグは役立たない。短時間なら持ち堪えても、長い時間は使えない。ゼルの仕事が一段落するまで、アイスクリームが持ったかどうか。
そういう事情があったとしたなら、保冷バッグを使わない可能性もある。どうせ役には立たない行き先、余計な荷物を持ってゆくより、アイスクリームだけでいいではないか、と。
(…しかし、ゼルなんかとアイスを食うか?)
ゼルとは長い付き合いなのだし、食べていないことも無いだろうけれど、仕事中の所へアイスを二つも運んでゆくとは思えない。サイオンを使って、溶けないように守ってまで。
(そのくらいだったら、凍った飲み物を届けるよなあ?)
アイスクリームを持ってゆくより、ボトルごと凍らせたコーヒーやジュース。
そっちの方が量も多いから喜ばれそうだし、高い室温でいい感じに溶けてゆきそうだから。
ゼルと並んで話をする間に、丁度いい具合に溶けてゆく中身。話の合間に傾けるのには、きっと似合いの量だったろう。「それでな…」と自分が一口飲んで、ゼルも「そうじゃな」と自分の分のボトルを一口。
機関部のゼルに差し入れに行くなら、そっちの方だと断言出来る。現に届けたような記憶も。
保冷バッグは使わなかったけれど、サイオンも使っていなかった機関部のゼルへの届け物。前の自分は届けてはいない、ゼルと二人で食べるためのアイスクリームなどは。
(なら、俺は何処へ…)
アイスクリームを運んでいたのだろう?
保冷バッグを使う代わりに、両手に一個ずつ持って守ったサイオン。溶けないように、と。
機関部の他にも高温の場所はあったけれども、何処へ向かって急いでいたのか。
(…ゼル以外の誰がいるというんだ?)
前の自分が差し入れに出掛けてゆきそうな仲間。高温の場所にいそうな仲間。
誰一人として思い当たらないから、遠い記憶を手繰ってみる。
手にしたアイスは何だったか、と。
何種類かあった、アイスクリームのフレーバー。それが手掛かりにならないだろうか、と。
好物だった仲間を思い出せたら、行き先も見当がつくだろうから。
そうしたら…。
(ソフトクリームか…!)
保冷バッグが無かったわけだ、と腑に落ちたサイオンを使った理由。
ソフトクリームを運んでゆくなら、今も昔も、保冷バッグを使えはしないのだから。
すっかり忘れていたのだけれども、白いシャングリラのソフトクリーム。
滑らかで柔らかいソフトクリームは、白い鯨でも作られていた。食堂に専用の機械を据えて。
(…最初は子供たちだったんだ…)
アルテメシアで保護したミュウの子供たち。その子供たちが、食べたいと恋しがったから。
養父母たちと食べたソフトクリームを、公園などで買って貰った思い出の味を。
白いシャングリラには、普通のアイスクリームしか無かったから。前の自分たちは、その味しか知らなかったから。
(人類の輸送船が運ぶ物資は、アイスクリームの方だしな?)
ソフトクリームをコンテナに詰めて運べはしないし、手に入ったものはアイスクリーム。甘くて冷たい冷凍の菓子はアイスクリームやシャーベットなどで、ソフトクリームは一度も無かった。
だからアイスクリームを作ってはいても、ソフトクリームは無かった船。
アイスクリームがあれば充分、それしか知らない人間ばかり。
ところが、新しく船にやった来た子供たちの方はそうではなかった。ソフトクリームの柔らかい舌触りを知っていた彼らは、あれが食べたいと何度も言った。
アイスクリームを口にする度に、ソフトクリームが食べたいと。
どうしてシャングリラでは出て来ないのかと、もう一度あれが食べたいのに、と。
ソフトクリームなど、初耳だったのが前の自分たち。幼い頃には食べたのだろうに、全く記憶に残ってはおらず、成人検査よりも後に食べてはいない。
けれど、子供たちが欲しがるからには美味しいのだろう。アイスクリームとは違うのだろう。
何度も繰り返された「ソフトクリームが食べたい」という声、子供好きだったゼルが最初に動き始めた。「この船でなんとか作れんのか」と、「機械が要るなら作るんじゃが」と。
そうなってくるとヒルマンの出番、データベースでの調べ物。
ソフトクリームの仕組みは直ぐに分かった、早速ゼルが取り掛かった。ソフトクリームが作れる機械の製作に。「こんな具合じゃな」と図面を書いて。
ソフトクリームにはセットのコーンも、焼くための機械をゼルが作った。厨房に置けるようにとコンパクトなものを。ソフトクリームの機械と並べても、場所を取らないものを。
(そいつを厨房に据え付けて…)
牛乳などの材料を入れて、出来上がりを待ったソフトクリーム。どんなものかと、どういう味がするのかと。
最初に作ったソフトクリームは試食用だったから、前のブルーと自分と、それから長老の四人で食べてみた。先に作っておいたコーンに、厨房のスタッフがクリームよろしく絞り出して。
(美味かったんだ、アレが…)
同じアイスクリームとは思えない味、舌触りが違うというだけで。滑らかなだけで。
子供たちが欲しがったのも頷ける、と誰もが思った。
シャングリラ生まれのソフトクリームは仲間たちにも好評を博し、子供たちはもちろん大喜び。
ただし、食べられる場所は食堂だけ。
保冷バッグは役に立たない上、サイオンを使って持ち運ぶことも好ましくないとされたから。
食べたい時には食堂へ出掛けて注文するもの、食堂で食べて帰るもの。
そのソフトクリームが、前のブルーも気に入りだった。空気を含んだ滑らかな味が。
アイスクリームとは違った味だ、と何度も食べに出掛けていた。
ソルジャーが食堂でソフトクリームを舐めているのは如何なものか、とエラが眉を顰めたから、コッソリと。目立たない陰の方に隠れて、それは美味しそうに。
そうかと思えば、瞬間移動で青の間に持って帰ったりもした。「食堂が駄目なら仕方ないよ」と屁理屈をこねて、サイオンで守って運ぶ以上に強いサイオンを使って運んで。
ソフトクリームが好きだったブルー。嬉しそうに舐めたソルジャー・ブルー。
(あいつ、熱を出して…)
寝込んでしまった時のこと。まだ恋人同士ではなかった頃。
見舞いに行ったら、冷たい物を食べたがったのだった。身体が熱いから、冷たい物を、と。
診察したノルディは、アイスクリームを食べてもいいと許可を出していたのだけれど。栄養価が高いから、身体を冷やさない程度に適量を、と言ったのだけれど。
(どうせなら、あいつが食堂でしか食べられないヤツ…)
青の間の冷凍庫では保存できないソフトクリームを、と食堂へ貰いに行ったのだった。冷凍庫に入っていたアイスクリームを食べさせるよりも、ブルーの好きなソフトクリームを、と。
厨房のスタッフに「一つ作ってくれ」と頼んで、急いだ通路。
ソフトクリームを一個だけ持って、溶けないようにとサイオンで包んで冷やしながら。
青の間に着いてもソフトクリームは無事だったから、「どうぞ」とブルーに差し出した。「一つ貰って来ましたから」と、「アイスクリームよりもお好きでしょう?」と。
ブルーはベッドに身体を起こして、美味しそうに舐めていたのだけれど。
「…君の分は?」
貰って来なかったのかい、と暫くしてから向けられた瞳。君の分は、と。
「いえ、私は…。冷たい物が欲しいと仰ったので…」
ソルジャーの分だけを貰って来ました、と答えたら、「ごめん…」と謝ったブルー。サイオンを使って運んでくれたのだろうに、ハーレイの分は無いだなんて、と。
「いえ、これもキャプテンの仕事の内ですから」と言っているのに、ブルーは申し訳なさそうな顔をしていたものだから。
これでは駄目だと、次からは自分の分も作って貰って運んだ。
「ついでに貰って来たんですよ」と、「私も食べたい気分なので」と。
熱を出したブルーが冷たい物を欲しがる度に、ソフトクリームを両手に持って。
時の彼方から戻った記憶。ソフトクリームを守って急いだ通路。
(そうか、ソフトクリームってヤツは…)
あの滑らかな冷たいクリームは、前のブルーが好んだもの。
ブルーのためにと、前の自分が運んでいたもの。保冷バッグは使えないから、サイオンで守って青の間まで。初めて届けた時は一つで、次からは両手に一つずつ持って。
(前の俺たちも食べていたんだ…)
ブルーの所へ届けた時には、二人一緒に。恋人同士ではなかった頃から。
そうと分かれば、ソフトクリームを買って行かねばならないだろう。今の小さなブルーにも。
自分一人で「美味い」と立ち食いするのではなくて。
(明日は土曜日と来たもんだ)
上手い具合に、ブルーの家を訪ねてゆく日。
特設コーナーのソフトクリームの店は、明日もやっている筈だから。二つ買って行こう、そして運ぼう。溶けないようにサイオンを使って冷やしながら。
遠い昔に、前の自分がシャングリラでそうしていたように。
右手と左手に一つずつ持って、長い通路を急いだように。
次の日の朝、目覚めても忘れていなかった記憶。前のブルーに届けていた物。
それを買わねば、と青空の下を歩いて出掛けて、入った昨日の食料品店。たまに持ち歩く小さなケースを脇に抱えて、「二つ下さい」とソフトクリームを注文した。特製バターが美味しいのを。
渡された二つのソフトクリーム、右手と左手に一つずつ。
溶けてしまわないようサイオンで包んで、颯爽と歩き始めた道。ブルーの家まで続いている道。
ソフトクリームを持って歩く途中も楽しかった。
前の自分が急いだ船の通路とは違って、様々な景色。生垣の木だけでも何種類もあるし、花壇の花はもっと沢山。
すれ違う人たちは揃いの制服を着てはいなくて、シャングリラにはいなかった犬や猫まで。
頭の上には天井の代わりに真っ青な空。雲海とは違った白い雲たち。
同じようにソフトクリームを持っていたって、まるで別物の自分の周り。こんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。青の間へと急いでいた頃は。
そうして歩いて、生垣に囲まれたブルーの家に着いたら、左手でソフトクリームを二つ。器用に片手で二つ手にして、門扉の横のチャイムを右手で鳴らした。
左手に持ったソフトクリームを落とさないよう、サイオンで支えておきながら。
チャイムが鳴ったのを確認してから、両手に持ったソフトクリーム。右手と左手に一つずつ。
門扉を開けに出て来たブルーの母が目を丸くした。
「あら、ソフトクリームですの?」
近くで売っていましたかしら。…それとも、途中にお店でも?
「それが…。私の家の近くなんですよ。美味しい店が来ていましてね」
ついでに、これはシャングリラの思い出の味なんです。ブルー君にも食べて欲しくて…。
こうして此処まで持って来ました、と笑ってみせたら、荷物を持ってくれたブルーの母。「少し負担が減りますでしょう?」と、脇に抱えていた小さなケースを。
ソフトクリームを一つ持つから、と申し出ないのがブルーの母ならでは。
思い出の味だと口にしただけで、ソフトクリームを両手に持つべきなのだと気付いてくれる。
この家に何度も通う間に、分かって貰えた前の自分とブルーとのこと。
恋人同士だとは思っていないだろうけれど、思い出を共有している二人だ、と。
ソフトクリームを二つというなら、その片方を自分が預かって持ってはならないと。
そんなわけだから、二階のブルーの部屋に着いても、お茶とお菓子が出るまで、そのまま。
右手と左手にソフトクリーム、そういう姿勢で椅子に座って待っていた。ブルーの母がお菓子を置いて去ってゆくまで、お茶の支度が整うまで。
「ごゆっくりどうぞ」と部屋の扉が閉められてから…。
「ほら、土産だ」
好きな方を選べ、とブルーに差し出してやったソフトクリーム。味はどっちも同じだが、と。
ブルーは二つを見比べてから、「こっち」とヒョイと片方を取った。多分、気分で選んだ方を。
どちらも似たような形なのだし、溶けても崩れてもいないのだから。
「珍しいね、ハーレイがサイオンまで使ってお土産だなんて…」
ソフトクリームを持って帰るの、今のぼくだと絶対に無理。
だって溶けちゃう、ぼくのサイオンだと、冷やしておくなんてことは出来ないんだもの。
「そうだろうな、今のお前ではな」
お前、こういうのを覚えていないか?
「こういうのって…。何を?」
「前のお前だ、ソフトクリームだ」
好きだったんだがな、ソフトクリーム。…こいつほど美味くはなかったが…。
今日の土産のソフトクリームは、バターで有名な牧場のヤツで、昨日食ったら美味かったぞ。
バターが入っているんだそうだ。そのせいだろうな、コクがあるんだ、普通のよりも。
前のお前が好きだったヤツも、俺がこうして何度も運んだ、と上げてみせた両手。
左手はもう空だけれども、「両方の手に一つずつだった」と。
「溶ける前に食べろよ」と自分の分のソフトクリームをペロリと舐めたら。
「そうだ、ハーレイが運んでくれてた…」
前のぼくが熱を出しちゃった時に、ソフトクリーム…。
今日みたいにサイオンで冷やしながら持って来てくれたよね、青の間まで。
ぼくの分と、ハーレイの分と、いつでも二つ。「ついでですから」って。
「お前、冷たい物を欲しがったからな」
ノルディの許可が出ていた時には持ってったもんだ、ソフトクリームを。
アイスクリームよりも喜びそうだから、厨房で作って貰ってな。
「…前のハーレイが病気のぼくにくれていた物…」
野菜スープだけじゃなかったんだね、ソフトクリームまで貰ってたよ、ぼく…。
「ソフトクリーム、俺は作っちゃいないがな」
作っていたのは厨房のヤツらで、俺は運んだだけなんだが。
「でも、ハーレイがいてくれないと届かないよ?」
どんなに待っても、ソフトクリームは届けて貰えなかったと思う…。
保冷バッグでは運べなかったし、アイスクリームは青の間に置いてあったんだから。
ノルディが「食べていいですよ」って言ってたアイスは、冷凍庫のアイス。
ぼくが食堂まで食べに行けない時には、あれしか食べられなかったんだよ、アイスクリーム。
ハーレイが届けてくれなかったら、ホントにアレだけ…。
他の仲間は普通のアイスしか運んで来てくれなかったから、と微笑んだブルー。
ハーレイだけがソフトクリームをぼくに届けてくれたんだよ、と。
「…他のみんなは、冷凍庫にアイスが入っていればいいと思っていたから…」
減った分だけ補充すればいいんだ、って保冷バッグで運んで来ていただけだったから。
…ハーレイが運んでくれなかったら、ソフトクリームは食べられなかったと思う。
誰も訊いてはくれなかったもの、「ソフトクリームを持って来ましょうか?」って。
ハーレイ、ぼくが頼んでもいないのに、ちゃんと届けに来てくれたよ。
…まだ恋人じゃなかったのに。
仲のいい友達だった頃の話なのに…。
「俺がソフトクリームを持って行こうと考え付いた理由ってヤツは…」
キャプテンだったから…ってことはないよな、俺の仕事の内だとは思っていたんだが…。
前のお前の友達だったからだよな?
「うん。…ぼくのことを考えてくれていたからだよ」
ただの友達じゃなくて、ハーレイの一番古い友達。
いつもハーレイ、そう言ってたものね、アルタミラを脱出して直ぐの頃から。
「俺の一番古い友達だ」って、船のみんなに。
そんなハーレイだから、ソフトクリームを思い付いてくれたんだよ。
前のぼくがソフトクリームを食べにコッソリ出掛けてたことも、青の間に持って帰ってたことも知っていたでしょ、ハーレイは?
他のみんなも知っていたけど、届けることまで思い付いてはくれなくて…。
ホントにハーレイだけだったんだよ、前のぼくにソフトクリームを運んで来てくれたのは。
熱い野菜スープと、冷たいソフトクリームと、どっちもハーレイ、とブルーは嬉しそうで。
ハーレイがぼくにくれていた物、とソフトクリームを口に運んだ。思い出した、と。
「そいつは良かった。持って来た甲斐があったってもんだ」
美味いだろ、このソフトクリーム。…俺は昨日に店の表で立ち食いしてたんだがな。
「…そうなの?」
家まで持って帰らなかったの、でなきゃ食べながら歩くとか…。
お店の表で立ち食いするのと、歩きながら食べるのは違うよね…?
「もちろん、今の俺なら家まで楽々と持って帰れるんだが…」
此処まで運べたくらいなんだし、家までなんかは大した距離ではないんだが…。
歩きながら食うのも悪くはないがだ、生憎と俺には車があってな。
「車?」
「俺の車だ、仕事の帰りに店に寄ったから、俺は車を連れていたんだ」
駐車場に停めてあったからなあ、そいつを置いては帰れんだろうが。
ハンドルを握りながら、ソフトクリームをサイオンで冷やしておくのは無理だし…。
置いておくための台でもあったら出来たんだろうが、ソフトクリームに台は無いしな。
持ち帰り用の保冷バッグも付かないだろうが、ソフトクリームには。
前の俺たちが生きてた時代も、今の時代も、ソフトクリームは買ったその場で食うのが基本だ。
でなきゃ、食べながら歩いてゆくか…。
車連れでは歩いて帰れやしないからなあ、店の表で食ってたわけだ。
俺の御同輩が何人かいたぞ、立ち食いしていたお仲間ってヤツが。
美味しく食べてだ、家に帰っても「美味かったな」と覚えていたから、思い出しちまった。
シャングリラにもソフトクリームがあったってことと、俺が運んでいたことを。
…もっとも、今の俺の場合は、サイオンで冷やして運ぶ途中に誘惑に負けて食っちまったが。
ガキの頃だな、家まで持って帰ろうと思って歩き始めるんだが、家に着く頃には手が空っぽだ。
「ふふっ、なんだか見えるみたいだよ」
家に着くまで待てないハーレイ。…だけど、今のハーレイだって運んでくれたよ。
ぼくの家まで、ちゃんと食べずに。それも二つも持っていたのに。
今のハーレイだって運べたじゃない、とブルーが言うから、「年を考えろよ?」と苦笑した。
「ウッカリ食ってたガキの頃とは違うんだから」と。
二人で食べているソフトクリームは、サイオンの守りを失って柔らかく溶けてゆくけれど。
トロリと垂れそうになるのだけれども、それを上手に舌で掬うのもまた楽しい。
前のブルーとも、そうやって食べた。青の間まで運んで行った時には。
「ハーレイ、ソフトクリーム、また食べたいね」
今日のは凄く美味しいけれども、これじゃなくてもかまわないから。
またハーレイと一緒に食べてみたいよ、前のぼくたちが食べてた頃みたいに。
「…お前の気持ちは分からないでもないんだが…」
両手に持って此処まで来るのは目立つんだよなあ、俺はデカイし。
昨日の立ち食い仲間だったら、お孫さんとか、子供に買って帰るんだな、と微笑ましいが…。
俺がやってりゃ、微笑ましいよりも先に人目を引きそうだ。
今日だって多分、見られていたんだと思うぞ。
似合わないことをやっているなと、何処まで持って帰るんだか、と。
…俺は気付いちゃいなかったが…。
シャングリラの通路を急いでた頃とは随分違うと、地球なんだな、と景色を満喫してたんだが。
しかし、二度目は出来れば勘弁願いたい、と肩を竦めた。
今日は夢中で持って来たから平気だったけれど、次からは人目が気になりそうだ、と。
「よっぽど美味い店のが来たとか、そういう時には頑張って持ってくるのもいいが…」
そうでなければ勘弁してくれ、今頃になって恥ずかしくなって来たからな。
…その代わり、いつか二人で食べに行こうじゃないか。
お前が俺の車でドライブに行けるようになったら、美味いソフトクリームを食べに牧場へ。
ソフトクリームは牧場の名物だからな、新鮮な牛乳が材料なんだし。
「うんっ、行こうね!」
ハーレイの車で食べに行こうね、ソフトクリーム。
シャングリラの頃と違って、地球の牛乳で出来ているから、ずっと美味しいに決まってるもの。
ハーレイが運んでくれてたソフトクリームも美味しかったけど、あれよりも、ずっと。
今日のも凄く美味しいものね。
「ふうむ…。二度目は勘弁願いたいとは言ったが、だ…」
俺と一緒に暮らし始めてから、お前が病気になっちまったら。
何処かで買って運ぶとするかな、アイスの許可が出ているようなら、ソフトクリームを。
「それも嬉しい…!」
またハーレイが運んで来てくれるんだね、ソフトクリームを。
今度は地球のソフトクリームを、ぼくが寝ているベッドまで。
もちろん、ハーレイの分もあるよね、今日みたいに。…前のぼくたちが食べてた時みたいに。
「そりゃまあ、なあ…?」
当然だろう、とブルーに向かって瞑った片目。
サイオンで冷やしながらソフトクリームを運ぶとなったら、二人分だ、と。
「ハーレイの分は?」とブルーが申し訳なさそうな顔にならないように。
大きな身体で両手に持って歩いていたなら、目立ったとしても。
(…なんたって、ブルーのためなんだしな?)
前の自分が持って急いだソフトクリーム。
サイオンで冷やして、両手に持って、長い通路を青の間まで。
その思い出のソフトクリームを、今のブルーと何度も食べよう。
二人で来られた青い地球の上で、新鮮な地球の牛乳で作られた滑らかなソフトクリームを…。
ソフトクリーム・了
※シャングリラでも作られていたソフトクリーム。前のブルーの好物だったのです。
それを青の間まで届けたハーレイ。サイオンで冷やして、二人分のをしっかりと持って…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
ハーレイにちょっと似合うかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間。
料理で名を馳せる人の特集、写真の中には様々な分野の料理人たち。トップシェフやら、和風の料理人のトップを指す花板、他にも色々。
どの料理のプロも身に着けている白い制服、それから帽子。料理によって違う制服、同じ白でも違ったデザイン。帽子の方も。
(…前のぼくの頃だと、シェフの制服しか…)
無かったのだろう、他の料理は無かったのだから。中華料理も、和風の料理も。
それはともかく、料理人たちが纏った制服と帽子。料理が得意なハーレイにも似合いそうな服。トップシェフの高く聳える帽子はもちろん、花板や寿司職人の服もいいかもしれない。
(どれも似合うよね?)
そういった服で厨房に立っていたならば。カウンターの向こうで料理をしていたならば。
きっと似合う、と想像してみて「うん」と大きく頷いた。ハーレイならとても良く似合う、と。料理人が着ている服もそうだし、キビキビと料理をしている姿も。寿司を握ったり、フライパンでステーキをフランベしていたり。
(…ホントはハーレイ、柔道と水泳なんだけど…)
プロの選手にならないか、とスカウトが幾つも来ていたと聞く。柔道の選手に水泳の選手。
だからハーレイが何かのプロになっていたなら、スポーツ選手の方だろう。柔道の道か、水泳の方か。料理のプロの方へは行かない。
ついでにハーレイが選んだ仕事は古典の教師で、教師のプロというのは聞かない。教師になった時点で既にプロとも言えるのが教師、制服のある職業でもない。
(だけど、料理の方に行っても…)
身を立てられたかもしれない、今のハーレイ。料理が得意で、大抵の料理は作れるらしいから。店で出された美味しい料理も、自分で再現するらしいから。レシピが無くても、舌と勘だけで。
もっとも、ハーレイ自身に料理人という選択肢は無かっただろうけど。
プロのスポーツ選手になるのか、教師にするかの二つだけしか考えなかっただろうけど。
料理の道でも充分に成功していただろうに、料理人の制服も似合いそうなのに。トップシェフの帽子も、寿司職人が被る帽子も、ハーレイならきっと似合うだろうに。
そちらに行こうともしなかったハーレイ、料理人になりたかったと聞いたことは一度も無い。
前のハーレイは元は厨房出身、異色のキャプテンだったのに。料理人とはまるで違った宇宙船のプロに転身した経歴の持ち主なのに。
(もし、前のハーレイの記憶があったら…)
ほんの微かにでも残っていたなら、今のハーレイは料理人の道を選んだだろうか?
スポーツ選手や教師にはならずに、プロの料理人。何の料理かは分からないけれど、名を上げて新聞に載せて貰えるような。
(ハーレイなら出来たと思うんだけど…)
トップシェフや花板への出世。何処かの店に修行に入って、アッと言う間に腕を磨いて、お店のトップに立つということ。独立して自分の店を持つことも夢ではなさそうな料理の腕前。
(今のハーレイも凄いけれども、前のハーレイも凄かったしね?)
偏った食材しか無いような時も、せっせと工夫を重ねていた。船の仲間たちが飽きないようにと味を変えたり、調理方法を研究してみたり。
何度も試作をしていたハーレイ、もし厨房にハーレイの姿が無かったならば、ジャガイモ地獄やキャベツ地獄を無事に乗り切れたかどうか。
(…おんなじ料理が続いちゃったら、みんなが限界…)
他に食材が無いということが分かっていたって、噴き出していたろう不満や愚痴。小さな不満が溜まっていったら、些細なことで喧嘩も起こっていたかもしれない。心に余裕が無いのだから。
それでは船はとても持たない、ただでも外へは出られない船。頭を冷やしに行く場所でさえも、船の中にしか無い状態。そこでも出会い頭に喧嘩で、船の空気は殺気立つばかり。
けれども、そうはならずに済んだ。ハーレイが料理をしてくれたから。
ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も乗り越えていった前のハーレイ。フライパン一つでとは流石に言えないけれども、鍋もオーブンも使っていたのだけれど。
(いつも工夫をしてくれてたよ…)
同じ料理ばかりを出しはしなくて、食材は同じでも味や見た目が変わった料理。それが出るから誰も文句を言わなかったし、ハーレイも「今はこれしか無いんだからな!」とキッパリ言えた。
俺は充分に工夫をしたから、何も文句は言わせないぞ、と。文句があるなら自分で作れと、俺の代わりに厨房に立てと。
(あれを言われたら、誰も文句は言えないよ…)
シャングリラの胃袋を預かる厨房、其処に入って皆の料理を作れるだけの腕を持っていたなら、とうに厨房にいるだろうから。他の仕事をするのではなくて、厨房で料理。
(前のハーレイはプロだったしね?)
シャングリラという船の料理のプロ。誰もが認めた最高の腕の料理人。ジャガイモ地獄も軽々と越えて船を進めた、内輪揉めの危機をフライパンを使って回避して。
(あの時のハーレイ、キャプテンみたいなものだったかも…)
船にキャプテンはまだいなかったけれど、シャングリラを救ったのだから。料理が原因で起こる諍い、それを未然に防いだのだから。
料理をしていたハーレイ自身も、気付いてはいなかっただろうけど。
自分の料理の腕前一つで、船を守ったという自覚すら無かっただろうけれども。
とはいえ、ハーレイは船を守った。ブリッジではなくて厨房に立って、舵の代わりに油を引いたフライパンをしっかり握り締めて。
キャプテンと並んで天職とも言えた、前のハーレイの料理の腕。シャングリラのプロの料理人。あのまま厨房に残っていたなら、オリジナルのレシピを幾つも編み出したことだろう。
(凄く美味しいのとか、お洒落なのとか…)
シャングリラ中の話題を掻っ攫いそうな、素晴らしい料理。白い鯨になった後なら、きっと色々生まれていた。前のハーレイの腕があったら、ジャガイモ地獄やキャベツ地獄を越えて進んだ腕の持ち主がいたならば。
(ホントに料理のプロだったんだよ)
キャプテンなんかになっちゃったけど、と少し惜しんだ料理人としてのハーレイの腕。あのまま厨房に立っていたなら、どんな料理が出来ただろうかと。
白いシャングリラに似合いの料理や、仲間たちの胃袋を引っ掴む料理。
ハーレイだったらきっと出来た、と懐かしんでいてハタと気が付いたこと。
(…なんでハーレイだったわけ?)
シャングリラのプロの料理人。当たり前のように思っていたのだけれども、そのハーレイ。
どうしてハーレイが厨房で料理をしていたのかが問題だった。
前のハーレイの居場所は確かに厨房だったのだけれど、何故、厨房にいたのかが。
(最初に非常食を食べた時には…)
ノータッチだったと記憶している。アルタミラからの脱出直後に初めて食べた食事の時。
封を切るだけで料理が温まったり、パンがふんわりと膨らんだり。そういった非常食が配られ、前の自分はハーレイの隣で食べていた。あの船で一番最初の食事を。
食事をする前はハーレイと二人きりでいたわけなのだし、ハーレイは食事を配ってはいない。
(…ぼくがポロポロ泣いちゃってたから…)
ハーレイに「今の間に泣いておけ」と抱き締めて貰って、誰もいない部屋に二人きり。ようやく涙が止まった所で、ハーレイと食事に行ったのだから。
(…ハーレイは食事の係じゃなかった…)
少なくとも、脱出直後の船の中では。皆に食事を配らなくては、と考えた仲間たちの中には、前のハーレイはいなかった。
(多分、食事係はあのまま…)
非常食を配った者たちがやっていたのだろう。最初に食料を探しに出掛けた仲間たち。その中にハーレイは入っていなくて、厨房を使い始めた時にも頭数に含まれていなかった筈。
なのに、いつの間にやらハーレイは厨房に立っていたわけで…。
(…何があったのかな?)
遠い記憶を手繰ったけれども思い出せない、ハーレイが厨房にいた理由。厨房を居場所に選んだ切っ掛け、それが何かが出て来ない。
前のハーレイは厨房で料理をするようになって、気付けば自分用のエプロンまでも持っていた。物資の中から見付けたのだろう、大きな身体に見合ったサイズのエプロンまでも。
(制服とか帽子は無かったけれど…)
ハーレイ専用のエプロンはあった。替えの分もきっとあったのだろう。きっと毎日、仕事の後にきちんと洗って、自分で管理をしていたものが。
なんとも気になる、前のハーレイが厨房に入った理由。最初から食事を配っていたなら、不思議でも何でもないのだけれど。
(…とにかく何か食べる物を、って動いたんなら分かるんだけど…)
そうでもないのに、ハーレイは厨房の仕事を始めていた。責任者になって料理をしていた。
(…制服と帽子の代わりにエプロン…)
シャングリラの料理のプロなんだけど、と新聞記事の料理人特集を睨み付けても答えは出ない。料理の世界がまるで違うから、参考にすらなってくれない記事。
船の中だけが全ての世界で限られた食材で料理をするのと、沢山の食文化が復活を遂げた平和な時代に料理をするのは違うから。
(…制服だけでも今は色々…)
前の自分が生きた時代にありはしなかった板前や寿司職人の制服、シェフのそれとは似ていない帽子。今の自分なら、一目見ただけで料理人の帽子だと分かるけれども。
(前のぼくだと、分からないよね?)
料理人だとは思わないだろう、制服姿の花板や寿司職人たち。
何の参考にもなりはしない、と新聞記事を閉じてテーブルに置いた。これじゃ駄目だ、と。
おやつを食べ終えて、二階の自分の部屋に帰って。勉強机の前に座った、さっきの続き、と。
遠く遥かな前の自分の記憶を辿って旅をしてゆく。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。
(…どうしてハーレイがお料理だったの?)
向いていそうな仕事は他に幾つもあっただろうに。大きな身体をしていたのだから、それと力を生かせる仕事。機関部の仕事も務まったろうし、備品倉庫の管理人だって。
(倉庫の管理も、ハーレイだしね?)
厨房と兼任でやっていた。「見当たらないものがあるならハーレイに訊け」と言われたほどに、有能だった管理人。その職だけでも充分だったろうに、どうしたわけだか厨房まで。
(…ホントにちっとも思い出せない…)
ハーレイが厨房に入った理由か、もしくは動機。
謎だ、と頬杖をついて考え込んでいたら、チャイムの音。窓に駆け寄れば、手を振るハーレイ。仕事の帰りに寄ってくれたから、チャンス到来と訊くことにした。
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせで。
まずは今のハーレイの方から訊こう、と目の前の恋人にぶつけた質問。
「ハーレイ、シェフになりたかった?」
「はあ?」
シェフって…。なんだ、お前は何を訊きたいんだ?
「シェフでなくても、板前さんとか、寿司職人とか…」
似合いそうだけど、お料理する人の制服とか帽子。ハーレイだったらきっと似合うよ。シェフもいいけど、板前さんも。お寿司屋さんだって。
「おいおい、制服が似合いそうだ、って…。そういう理由でシェフとかなのか?」
「違うよ、それもあるけれど…。ハーレイはお料理が得意だから」
大抵のお料理は作れるんでしょ、だからシェフとか板前さんになりたかったのかなあ、って。
「料理は確かに好きなんだが…。生憎と俺には柔道と水泳があってだな…」
同じ専門の道を目指すなら、料理よりも断然、そっちの方だ。プロの選手になるって夢だな。
「…先生は?」
先生になったのもハーレイの趣味なの、お料理するより先生の方が良かったわけ?
「教師って仕事を考えてみろ。俺はお前の学校で柔道部の顧問をしているんだぞ」
今までに行ってた学校でもだ、柔道部か水泳部の顧問をしていた。趣味の柔道も水泳も活かせる職業だろうが、教師ってヤツは。
ところが料理じゃそうはいかない、柔道も水泳も全く出番が無いんだから。
そんな仕事を俺が選ぶわけがないだろう。プロ級の腕を役立てる場所が無いんじゃな。
「そっか…。シェフは柔道、やらないもんね…」
水泳だってしないね、板前さんとかお寿司屋さんも。
仕事が無い日に趣味でやるのは出来そうだけど…。お店じゃ何も出来ないものね。
柔道や水泳の腕を活かせないから、と今のハーレイは選ばなかった料理人の道。やはり選択肢に入ってさえもいなかった。料理人になるという道は。
「だったら、前のハーレイは?」
料理人になりたいと思っていたのか、違うのか、どっち?
「何の話だ? 前の俺が何になりたかったか、覚えていたとでも思うのか?」
成人検査よりも前の記憶は無かったんだぞ、前の俺には。
何になりたいと思っていたのか、そいつをしっかり覚えていたなら奇跡だろうと思うがな?
「そこまで前の話じゃなくて…。前のぼくと出会った時よりも後」
前のハーレイ、どうして厨房にいたんだろう、って気になっちゃって…。
今日の新聞に料理人特集が載っていたから、それを見てたら前のハーレイのことも…。
初めの間は、今のハーレイなら料理人になれそうなのに、って思ってたんだよ。
前のハーレイの記憶があったら、お料理の道に行ってたかもね、って。
そしたら、前のハーレイを思い出しちゃって…。だけど、厨房にいた理由が謎。ひょっとして、お料理、したかったわけ?
料理人になろう、って自分で決めたの、それとも誰かに決められちゃった…?
「ああ、あれなあ…。前の俺が厨房を選んだ理由か」
実は俺にも謎なんだよなあ、それも今の俺じゃなくて前の俺だった頃からの謎だ。
何故かは知らんが、放っておけなかったと言うか…。
俺よりも先に厨房で料理をしていたヤツらは、何人もいたわけなんだがな。
お前も覚えているだろう、とハーレイが挙げた仲間たちの名前。厨房の熟練として記憶しているけれども、彼らの方がハーレイよりも先に厨房にいたという。あの船の料理人として。
まだシャングリラの名前も無かった頃の船。一番最初の食事も彼らが探して配った。
「そんなヤツらが揃ってたんだし、俺が後から入らなくても人手は足りていたんだが…」
いつだったか、厨房を覗いてみたら悪戦苦闘していてな。確かシチューを作ってたんだか…。
野菜を切ろうとしていたわけだが、どうにも手元が危なっかしい。素人の俺が見ててもな。
もうちょっと上手くやれるんじゃないかと思って、ついつい厨房に入って行って…。
「…それで?」
「貸してみろ、って誰と代わったんだっけな、そこまでは俺も覚えていないな」
とにかく代わって、やってみたら身体が勝手に動いた。
どういった風に切ればいいんだ、と確認しただけで、そうかと勝手に手が動き出して。
「勝手にって…。ハーレイ、何も考えていなかったのに?」
切りたい形を教わっただけで、その形に綺麗に切れちゃったわけ?
「うむ。…代わろうと言った俺が自分で驚くほどにな」
野菜を切ってた記憶なんぞは全く無いのに、それはトントンとリズミカルに切れてしまうんだ。次に切るのはどれなんだ、って切りながら訊いて、そいつも俺の手が勝手に切った。
どうやら、成人検査を受けるよりも前の子供時代に俺は料理をしていたらしい。なにしろ野菜を切り終わったら、そのまま料理を始めちまったし…。俺も一緒に作るから、と。
成人検査で記憶はすっかり消されちまったが、身体は覚えていたわけだ。包丁の持ち方も、使い方も。料理を作るための手順も、何もかもを。
俺の身体が覚えていたんだ、とハーレイが語った厨房に入った切っ掛けなるもの。元から厨房にいた仲間たちよりも、ずっと上だった前のハーレイの料理の腕前。
此処に決めた、と思ったという。自分が仕事をすべき所は厨房だろうと、料理をするのが向いているから、と。
「それじゃ、前のハーレイはシェフになりたかったとか?」
シャングリラでシェフになるんじゃなくって、成人検査をパスしていたら。
大人になったらやりたかった仕事、シェフだったのかもしれないよ…?
「そいつは俺も考えないではなかったが…。あくまで可能性の一つに過ぎん」
記憶を失くしてしまったんだし、永遠の謎というヤツだ。
シェフを目指していたわけじゃなくて、料理が得意な母親の手伝いをしている間に覚えたという線もある。料理自慢の母親だったら、横で見ていて、やりたくなるってこともあるだろう?
子供は好奇心が旺盛なんだし、うんと小さい頃から一緒に料理を作っていたとか。
「前のハーレイのお父さんは?」
シェフだったっていうことはないわけ、ハーレイにお料理を教えるような。
「テラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータじゃ、料理関係の仕事じゃなかったぞ」
ごくごく普通の勤め人だな、ジョミーの父親と似たようなモンだ。
写真を見たって、料理人の服は着ていなかったし。
「じゃあ、前のハーレイにお料理を教えていたのは、やっぱりお母さん?」
お父さんの仕事がお料理じゃないなら、お母さんの方ってことになるよね、教えた人は。
「そこも謎だな、俺が覚えていない以上は」
料理好きの父親だったという可能性も全くゼロではないだろうが。
休みの日に腕を奮っていたんだったら、子供は興味を持つもんだ。自分もやってみたい、とな。
両親揃って料理上手だったかもしれないわけだし、覚えていないのが残念だった。
俺の身体は自然に動いて料理をするのに、誰に教わったか、どうしても思い出せないんだから。
データにも残っていなかった、とハーレイが浮かべた苦笑い。誰に料理を習ったのか、と。
「シャングリラで厨房を選んだくらいに、前の俺は料理することを覚えていたんだが…」
身体が勝手に動くトコまで覚えていたって、肝心の記憶が無いんじゃなあ…。
「前のハーレイの記憶だったんだ…。お料理」
厨房にしよう、って決めたくらいに、ハーレイ、お料理してたんだ…。成人検査を受ける前は。
お母さんかお父さんが前のハーレイに教えてたんだね、お料理のやり方。
「どうだかなあ…。好きでやってただけかもしれんが」
教えられなくても、自分で勝手に本でも見ながら作っていたってオチかもしれん。
分からない言葉が出て来た時だけ、どうすりゃいいのか母親に訊いて。
「子供向けの料理教室は?」
そういうのがあるでしょ、本物のシェフとかが教えてくれる料理教室。
お料理が好きなら、子供向けのに通っていたかもしれないよ?
「子供のための料理教室か…。今の時代は特に珍しくもないんだが…」
色々な料理を習えるようだが、前の俺たちが生きてた時代にあったかどうかが謎だってな。
育英都市って所は健全な精神を持った子供を育てるための場所でだ、将来のことは二の次だ。
自分が就きたい職業を選べた時代でもないし、何になるかは機械が決めていたろうが。
下手に子供向けの料理教室を作ったりしたら、悪影響を及ぼしかねん。熱心に通って、いつかは本物のシェフになるんだと決めていた子に適性ってヤツが無ければどうなる?
記憶をすっかり消すしかないんだ、マザー・システムに不満を持たれないようにするにはな。
成人検査で余計な手間がかかるってことだ、普通以上に。
そして綺麗に消したつもりが、何かのはずみで蘇ってみろ。人生が狂ってしまうんだから。
子供向けの料理教室は多分無かっただろう、というのがハーレイの読み。
SD体制が敷かれていた時代は、エキスパートを育てる場所は教育ステーションだったから。
「…まさか、料理人になるための教育ステーションも…」
何処かにあったの、シェフを育てる専門の教育ステーションが…?
「あったようだぞ。前の俺は直接見てはいないが…」
地球に向かって進む途中に、そういう教育ステーションが近いと聞いた記憶があるからな。
メンバーズ・エリートや軍人を育てるステーションだったら、陥落させてから進むわけだが…。
料理人用のステーションには用が無いから、そのまま通過した筈だ。トォニィたちだけが出て、教育システムのコンピューターを破壊しておいて。
「…それなら、前のハーレイが成人検査をパスしていたら…」
料理人になりたかったかどうかはともかく、選ばれちゃってた可能性はあるんだね?
身体がお料理を覚えていたっていうほどなんだし、素質は充分ありそうだもの。
「そういうコースに行ってたかもなあ…」
シャングリラの厨房で料理をする代わりに、何処かの星でプロの料理人ってな。
「知らなかったよ、そんな話は」
前のハーレイがプロの料理人になっていたかも、って話なんかは。
「…前の俺も考えてはいなかったしなあ、そういう「もしも」は」
考えたって仕方ないだろ、自分が進み損ねちまった未来の話なんかをな。
成人検査に落っこちちまって、ミュウになっちまって、もう進みようが無いんだから。
人類の世界に残れていたら、って夢は見るだけ無駄ってもんだ。
料理上手だった前のハーレイの厨房時代は、料理と備品倉庫の管理が仕事。
その後はキャプテンとしてシャングリラの舵を握っていたから、失くしてしまった未来の夢より現実の方が大切だった、とハーレイは言った。
もしも自分が成人検査をパスしていたら、という夢物語をしてはいない、と。
「そういうもんだろ、戻れない過去より未来をしっかり見詰めないとな」
でないと道を誤っちまうぞ、キャプテンが過去に囚われていたら。夢を見るより現実と未来。
そいつを睨んで進んでゆくのがキャプテンってヤツで、料理をしていた頃ならともかく…。
待てよ?
…前のお前と話してたかもな、前の俺が進んでいたかもしれない未来の話。
「ぼく?」
前のぼくとそういう話をしたわけ、前のハーレイはお料理のプロだったかも、って…?
「そうだ、キャプテンになるよりも前の俺がな」
厨房で料理をしていた合間に、お前と話していたんだった。
俺は料理の試作をしていて、お前がヒョッコリ覗きに来て…。確か、こう言ったんだっけな。
「ハーレイだったら、料理のプロになれていたかも」と。
「そういえば…!」
思い出したよ、その話。
ハーレイが何を作っていたかは忘れたけれども、野菜を刻むトコから見てて…。
鮮やかだったハーレイの料理の手際。野菜を刻むのも、それを料理に仕上げてゆくのも。
いつ見ても本当に上手だよね、と感心していたら口をついて自然に出ていた言葉。
ハーレイならプロになれていたかも、と。何処かの星で料理のプロに、と。
「俺が料理人になっていたらだ、お前が食べに来るんだっていう話だったぞ」
ある日、フラリと店に入って来て、俺が作る料理を気に入っちまって。
「うん、美味しいに決まっているもの」
シャングリラで作っていたお料理が美味しいんだから、何処かでお店をやってても同じ。
ハーレイとぼくが成人検査をパスしていたなら、ハーレイのお店で出会うんだよ。
ぼくはハーレイのお料理が食べたくてお店に通うようになって、ハーレイに顔を覚えて貰って。
お店に行ったら、注文する前にお勧めの料理をハーレイが教えてくれるんだよ。
メニューには無いお料理なんかも、その日の気分で作ってくれて。
「俺が厨房でやっていたことを、そっくりそのまま店に移せばそうなるんだが…」
実に愉快な話なんだが、前の俺とお前が成人検査をパスしてた場合。
お前の方がずうっと年上なんだよな…。
それにミュウとは違うわけだし、すっかり老けて年相応の姿ってヤツで。
「そこが問題だったんだよね…」
話が合っても、友達になれても、ぼくはハーレイより年寄りなんだし…。
他のお客さんの目もあったりするから、丁寧な言葉で喋るしかないしね、ハーレイは…。
老紳士になっていただろう自分と、まだまだ若いハーレイと。
料理人と客として出会っていたって、いくら親しくなれたとしたって、店の中では互いの立場を優先するしかない二人。店の外でも、老紳士と若者に変わりはないから、若いハーレイは老紳士に敬意を表するのが礼儀。丁寧な言葉遣いで話して、態度もグッと控えめに。
それでは少しも楽しくないから、まるで広がらなかった夢。
こうだったなら、と二人で思い描いたけれども、弾まないままで終わった話。
もしも成人検査をパスして、何処かで出会っていたならば。
料理人になったハーレイの店に、前の自分がフラリと入っていたならば…。
遠く遥かな時の彼方で、ほんのひと時、語り合った「もしも」。
たった一度だけハーレイと話した、成人検査をパスした自分たちの出会いと、その後の話。
ハーレイが料理をしている店に何度も出掛けて、顔馴染みになって、仲良くなって…。
「…そうか、今だったら叶ったんだな、あの夢も」
前の俺たちが話してた時は、お前が年寄りになっちまうってことで叶えたくない夢だったが…。
今なら、お前が立派にチビだ。
年寄りじゃないし、あの話をしていた頃のお前と変わらない姿のチビってわけだ。正真正銘。
「ホントだね…!」
チビのぼくなら、あの話だって実現してたら楽しそう。
ハーレイが何処かでお料理のお店をやってて、ぼくがお客さんでお店に行って。
何処で会えたかな、隣町かな?
それとも、やっぱりこの町なのかな、ハーレイのお店が何処かにあって。
「この町じゃないかという気はするが…。そこまでは愉快な話なんだが…」
俺がやってる料理の店にだ、食べに来たお前に聖痕が出るというわけか?
他のお客もいそうなんだが、チビのお前が血まみれなんだな…?
「…凄く人騒がせな話かも…」
教室でやっても大騒ぎになってしまったけれども、お店の方だともっと迷惑そうだよね?
食事の途中だった人たち、とってもビックリしちゃいそう…。
ハーレイだって、お店、その日は閉めるしかないよね、血だらけの床のお掃除とかで。
…一緒に救急車に乗ってくれる代わりに、お客さんにお金を返したり…。食事の続きは出来なくなってしまうんだろうし、その分のお金。
ぼくが運ばれて行く救急車に乗るのは、ぼくをお店に連れてったパパやママたちで…。
ハーレイは暫く、ぼくの住所も名前も分からないままになっちゃうかもね…。
パパとママが「ご迷惑をかけてすみませんでした」って謝りに行くまで、誰だったのかは謎。
ぼくが帰って来たんだってことは分かるだろうけど、今の名前も住所も謎で。
せっかく再会出来たというのに、まるで違った出会いになってしまいそうな話。
料理人になったハーレイの店は迷惑を蒙り、戻って来たチビの恋人の名前も分からないまま。
今の自分の両親が店まで詫びに出掛けてゆくまで、きっとハーレイは店の掃除をしながら心配し続けるのだろう。救急車で運ばれて行った恋人はどうなったのかと、大怪我をして入院したかと。
けれど、そういう出会いも悪くはなかっただろうか?
最初はハーレイに酷い迷惑をかけるけれども、それから後は店に行ったら会えるのだから。
「お前なあ…。俺が料理人になってた時はだ、教師のようにはいかんぞ、おい」
夏休みなんていう長い休暇は取れやしないし、普段も夜まで店で料理をする日々だ。お前の家に夕食を食べに出掛ける代わりに、お客さんのために料理をするのが仕事だろうが。
週末はもちろん書き入れ時だし、お前の家まで遊びには行けん。朝なら時間がありそうでもだ、料理人だと朝早くから仕入れに出掛けて、店を開けるまでは料理の仕込みだってな。
…お前とゆっくり過ごせる時間はまず無いだろうさ。
店に来てくれれば御馳走はするが、二人きりとはいかんだろうなあ…。他のお客もいるからな。
「そうなんだ…。ハーレイがお料理のお店をやっていた時は、そうなっちゃうんだ?」
二人きりで会えるチャンスは殆ど無くって、ぼくがお店に食べに行くだけ…。
ハーレイ、先生で良かったんだね。お料理のプロになるんじゃなくて。
「そうなるな」
俺たちにとってはピッタリの職を選んだってわけだ、今の俺はな。
チビのお前に会いに行けてだ、一緒に飯まで食えるんだから。
もっとも、俺は料理人になる気は無かったけどな、とハーレイは肩を竦めてみせた。
前の自分は厨房の仕事を選んだけれども、今の自分が料理人になれるコースは無さそうだ、と。
「なんと言っても、柔道と水泳があったからなあ、今の俺には」
料理人になろうって発想自体が最初から無いな、プロになるなら柔道か水泳の選手ってトコだ。
しかし、今度はお前専属の料理人だぞ、結婚したら。
色々と作って食わせてやるから、と言ってるだろうが、何度もな。
「うん、楽しみにしてるけど…」
今のハーレイには、お料理のプロっていう選択肢は全く無かったんだね?
シェフの帽子も、板前さんの帽子も、ハーレイに似合いそうなのに…。
白い制服も絶対に似合うと思うんだけれど、着るつもりなんか無かったんだ…?
「当たり前だろうが、いくら料理が好きだと言っても、それ以上に好きなものがあるんだから」
好きな柔道と水泳を犠牲にしてまで、料理の道を極めようとは思わんな。
料理をするのは確かに好きだし、食べて美味いと思った料理を再現するのも楽しいが…。
お前専属の料理人になれれば充分だな、うん。
料理の道なら、お前専属のシェフだの板前だのでいいんだ、今の俺にはそれが似合いだ。
料理学校には行き損ねたが、と笑うハーレイは、今度も料理人のコースを進めなかったらしい。
前のハーレイが料理人を育てる教育ステーションには行けずに終わってしまったように。
ただし、今度は自分の意志で。
成人検査にパス出来なかった前のハーレイとは違った理由で。
「…俺が思うに、今の俺が教師をやっていられるのも、だ…」
機械が進路を決めていない分、自由が利いたというヤツだろうな。
前の俺のように機械が間に入っていたなら、俺は今頃、柔道か水泳の選手の道をまっしぐらだ。
「…それを言うなら、前のハーレイも水泳をやっていたよね?」
シャングリラのプールで泳いでいたもの、前のハーレイも水泳の選手だったかも…。
成人検査にパスしていたなら、水泳選手になってたのかも。
「どうだかなあ…。あの時代に水泳のプロになるのは厳しそうだぞ、適性ってヤツで」
速く泳げるかどうかも調べるだろうが、長く続けられるタイプかどうかも調べるだろう。他にも色々、機械ならではの適性検査をするんだろうさ。才能だけでは選手まではなあ…。
そっちの教育ステーションよりかは、料理人の行くステーションに送られるコースじゃないか?
記憶をすっかり失くしていたって身体が勝手に動いたくらいに、料理人に向いていたんだから。
どうなってたかはマザー・システムに訊いてみないと分からないがな、と苦笑いするハーレイと今度は話が広がるから。
もしも前のハーレイが料理人の道を進んでいたなら、どんな料理人になっただろうか、と二人であれこれ想像しながら楽しく笑い合えるから。
平和な今の時代が嬉しい、「もしもこういう風だったら」と空想の翼を広げられる世界。
前の自分たちが生きた時代の「もしも」で話を続けられる世界に来たのだから。
料理人が行く教育ステーションに前のハーレイが進んでいたら、と。
遠く遥かな時の彼方で話した時には、広がらずにそれっきりだった話。
それを二人で広げられるから、老紳士だっただろう前の自分も話の種に出来るから。
こうして笑って、笑い転げて、いつかは今のハーレイが料理人になる。
今は小さなチビの自分が前と同じに育ったら。
いつかハーレイと結婚したなら、今の自分の専属になって、きっと最高の料理人に…。
最高の料理人・了
※前のハーレイが厨房に入った理由は、実は料理が上手かったから。理由の方は謎ですけど。
そして今のハーレイも得意な料理。プロではなくて、ブルー専属の料理人になるのです。
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