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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(えっ?)
 なに、とブルーを仰天させた煙。いきなりブワッと上がった白煙、それもハーレイの授業中に。煙はたちまち教室に広がり、何が起こったか分からないのだけれど。
「こらあっ、誰だ!」
 教室の前で怒鳴ったハーレイ、その姿も霞みそうな勢いでモクモク立ち昇る煙。
「ハーレイ先生、お誕生日おめでとうございます!」
 叫んだクラスのムードメーカーの男子、煙は彼の机の上からシュウシュウ噴き出していた。丸いボールのような球体、それが吐き出す物凄い煙。
 けれど火災を知らせるベルも鳴らなければ、スプリンクラーも作動していないから。あの煙には火は無関係なのに違いない。咳き込む生徒も一人もいないし…。
「おめでとうございます、って…。お前なあ…」
 いつと間違えているんだ、おい、とハーレイの顔に呆れた表情。煙の向こうで。
「間違えてません! 八月の二十八日です!」
 実は最近知ったんです、と答えた男子。夏休み中なので何もお祝いが出来ませんでした、と。
「…それでスモークボールなのか?」
 景気よく煙を吐いているが、と睨むハーレイ。そういう名前が付いているらしい、煙のボール。名前そのままに煙を吐き出すスモークボール。
「はい、クラッカーよりもいいと思いました!」
 クラッカーだと一瞬ですけど、スモークボールだと暫く煙が出ますから!
 うんと賑やかな感じがしますし、こっちの方が断然いいです!



 お誕生日おめでとうございます、と繰り返した男子。悪びれもせずに。
「学校で花火は禁止だが?」
 グラウンドはもちろん、教室でやるなど論外だ。夏休み中にグラウンドで遊ぶ場合も、前もって許可を取っていないと駄目なんだが?
「これ、火を点けない方のタイプですけど」
 ピンを引き抜くだけのヤツです、スモークボールっていう名前ですけど花火じゃないです!
「オモチャも禁止だ!」
 学校にオモチャを持ってくるな、と校則で決まっているだろうが!
 鞄に入っているだけだったら何も言わんが、それを使って遊んだ場合は即、没収だ!
「でもですね…。これはお祝いに買ったわけですし…」
 せっかく用意したんですから、と新しく出て来たスモークボール。男子がボールのピンを引っこ抜いたら、真っ青な煙がブワッと出て来た。さっきのボールが出した煙が収まりかけていた所へ、追加で青い煙がモクモク。
 今度は正体が分かっているから教室中がドッと笑って、拍手している生徒も何人も。
 「ハーレイ先生、お誕生日おめでとうございます!」と叫ぶ生徒も。
 教室の中は煙で一杯、男子は更にスモークボールを取り出した。ピンッと抜かれたピンの後には煙を吐き出す丸い球体。青い煙の次は黄色で、混ざり合った辺りは緑色の煙。



 シュウシュウと煙を吐いているボール、初めて目にしたスモークボール。
(なんだか凄い…)
 あんなオモチャが存在するのか、とポカンと眺めるだけだった。ぼくは知らない、と。
 ハーレイは煙が立ち昇る生徒の席まで出掛けて叱っていたけれど。スモークボールを取り上げた上に、「他のも出せ」と残りも没収したのだけれど。
 スモークボールを幾つも抱えて教室の前に戻ると、中の一つを持ち上げてみせて。
「俺の誕生日祝いはともかく…。叱られるオチは同じなんだから、頭を使え」
 どうせやるなら煙幕ごっこだ、それなら逃げられただろうが。
 おめでとうございます、と叫んでおいてだ、教室の外に向かって走れば良かったんだ。馬鹿が。
(煙幕ごっこ?)
 何だろう、と首を傾げた煙幕ごっこ。まるで初耳、聞いたこともない言葉。
 けれど、答えは直ぐに出た。「知らんのか、お前は煙幕ごっこを?」と、ハーレイが男子生徒をジロリと睨んで、それからクラスの皆に説明したものだから。
 煙幕ごっこは、煙で姿をくらまして逃げる遊びのこと。スモークボールで上がった煙に紛れて、自分の姿を隠してしまう。上手くいったら、瞬間移動をしたかのように逃げられるらしい。
「こいつを使えば、瞬間移動が出来た気分になるってことだな」
 タイプ・ブルーはあまりいないが、他のサイオン・タイプでも出来る瞬間移動だ。
 ただし、逃げ足が遅いと話にならない。…直ぐに見付かっちまうからな。



 煙幕ごっこにも才能ってヤツが必要なんだ、とハーレイはさっきの生徒をもう一度叱った。次にやる時は逃げ道の方も確保しておけと、そこまでやったら認めてやろう、と。
「だがな、もちろん叱るからな?」
 俺が認めるのと、学校の規則は別物だ。二度とやらないのが一番だな、うん。
 授業に戻る、とハーレイが広げた古典の教科書。今日は雑談の時間は無いだろう。煙幕ごっこの話で充分、スモークボールの騒ぎでクラス中の目が覚めたから。
(煙幕ごっこ…)
 それも知らない、と首を捻るしかなかった遊び。スモークボールを知らない以上は、知っている筈も無いのだけれど。煙幕ごっこはスモークボールを使うのだから。
(ぼくの友達、やってないしね…)
 煙幕ごっこも、スモークボールも、遊んでいるのを見たことが無い。
 ごくごく普通の花火だったら、何度か一緒に遊んだけれど。夜になってから誰かの家や、近くの公園に集まって。
(ぼくの家でも、何回か…)
 芝生が焦げてしまうから、と派手な花火は出来なかったけれど、色々なのを。芝生ではない庭の家とか、公園だったら、もっと色々。
 花火と言ったら、噴き出す火花を楽しむものだと思い込んでいた。綺麗な色やら、弾ける火花。煙はオマケでついてくるもので、多すぎた時は…。
(花火が綺麗に見えなくなるから…)
 ちょっと休憩、と煙が流れて消えてしまうまで待っていたもの。次の花火に火を点けるのを。
 なのに、煙で遊ぶ花火があるらしい。火を点けないでいいタイプのものまであるくらい。
 自分は今日まで知らなかったけども、様々な色の煙が噴き出すスモークボール。



 凄かったな、と家に帰っても思い出さずにいられない煙。おやつを食べて部屋に戻ってからも。
 教室にモクモク広がった煙、真っ白な煙に、青に黄色に。
(ハーレイ、没収してたけど…)
 禁止のオモチャを持ち込んだ方が悪いのだから、当然の結末というものだろう。愉快な光景ではあったけれども、規則は規則。ハーレイも教師をやっている以上、学校の規則は厳守するもの。
(煙幕ごっこで逃げちゃっていたら、認めて貰えるらしいけど…)
 あくまでハーレイ個人が認めるというだけ、スモークボールはやっぱり没収。クラス中の生徒を楽しませたって、ハーレイが「やるな」と笑っていたって。
 つらつらとスモークボールのことを考えていたら、ハーレイが仕事帰りに来てくれたから。母がお茶とお菓子を置いて行った後で、あの男子よろしく元気な声で。
「ハーレイ、お誕生日おめでとう!」
 ぼくはお祝い、ちゃんとしたけど、教室で言い損なったから…。おめでとう、ハーレイ!
「お前も煙を出そうと言うのか、スモークボールで?」
 あいつの一味か、教室で派手にやろうって度胸が無かっただけで?
「…ううん、スモークボールは持っていないよ」
 楽しそうだな、とは思ったけれど…。
 あんなオモチャがあるなんてことも知らなかったよ、スモークボール。
 花火なんだよね、本当は?
 ハーレイ、花火は禁止だって最初に言ってたもんね…?



 煙を楽しむ花火自体を見たことが無い、と正直に言った。花火に煙は邪魔なものだから、一面に煙が立ち込めて来たら暫くお休み、と。
「だって、花火が綺麗に見えなくなっちゃうんだもの…。煙が凄いと」
 風で消えるまで花火は中止で、煙が消えたらまた遊ぶんだよ。
「スモークボールを知らなかったのか…。そいつはいかんな」
 やってる子供は少ないかもしれんが、あれで遊ぶのを知らんというのは損をしているぞ。
「なんで?」
 ただの煙だよ、色がついててビックリしたけど…。煙より花火の方がいいでしょ、普通の花火。
「分かっていないな、授業の時にも言っただろうが。煙幕ごっこにしておけ、と」
 活動的な遊びなんだぞ、煙幕ごっこというヤツは。
 瞬間移動の真似もいいんだが、忍者だ、忍者。煙幕は元々、忍者が使っていたんだから。
「なに、それ…?」
 ニンジャってなあに、ぼくはニンジャも知らないんだけど…?



 キョトンとしてしまった、ニンジャなるもの。今日は知らないことばかり。スモークボールに、煙幕ごっこ。その上、煙幕はニンジャが使っていたものだなんて。
 知識が足りなさすぎるだろうか、と思ったけれども、ハーレイ曰く、ニンジャは学校の授業では出て来ないらしい。歴史の授業でも、古典の方でも。
「昔の日本で、重要な任務を担っていたのが忍者なんだが…。忍者は表舞台には決して出ない」
 別名が「忍び」と言うくらいだしな、分かりやすく言うならスパイってトコか。
 しかし、忍者はスパイとは違う。諜報活動も暗殺もすれば、偉い人のボディーガードもやった。様々な活躍をしていたわけだが、表に出たなら、もう忍者とは言えないからなあ…。
 忍者を束ねたヤツくらいしか、歴史に名前は残っていない。
 …後はアレだな、俳句の松尾芭蕉がいるだろ。本当は忍者だったという説があるな、あちこちに出掛けて俳句を詠んだり、教えたり…。それを隠れ蓑にして情報を集めていたってヤツが。
 その程度しか分からないのが忍者で、お蔭で色々な伝説が出来た。他の動物に変身出来るとか、分身の術が使えるだとか。
「えーっと…。それって、サイオニック・ドリームじゃないの?」
 忍者っていうのはミュウだったんじゃないの、サイオンを使えば全部出来そうなんだけど…?
「生憎と、ただの昔話だ。そんな昔にミュウの集団がいたわけがない」
 人間の空想の産物ってことだ、変身するのも、分身の術も。
 まさか未来に本当に出来る時代が来るとは、誰も思っていなかったろうさ。
 だからこそ夢が広がったんだろうな、忍者を英雄扱いにして。



 本物の忍者は松尾芭蕉がそうだったように、地味なもの。自分が忍者だと名乗ることはなくて、任務についても語りはしない。表舞台にも出て来ない。
 けれど伝説の忍者の方なら、それは華々しい活躍が語り継がれたという。戦争となったら忍者の出番で、真田十勇士と呼ばれた十人の英雄、その中にも忍者が入っているほどに。
「本来の忍者の姿からすれば、歴史に名前が残るなんぞは有り得ない話なんだがな…」
 なのに、実在の人物なのかと勘違いしそうな伝説の忍者もいるってこった。
 そんな具合だから、忍者のファンも生まれるわけで…。俺の友達にも好きだったヤツがいたってことでだ、俺も忍者に詳しくなった、と。
 …もっとも、ガキだった頃は本当に凄い忍者がいたんだと頭から信じていたんだがな。
 信じていたから、忍者の真似だ。スモークボールで煙幕を張って。
「それ、上手くいった?」
 忍者みたいに姿を消せたの、煙なんかで?
「風向きとかにもよったんだが…。そいつも煙幕ごっこの重要なポイントだったな」
 最初に風の向きを調べて、逃げる方向を考えて…。
 それからスモークボールの出番だ、火を点けるにしても、ピンを抜くにしても。
 煙がブワッと上がった途端に逃げるわけだが、風向きを読み間違えていたら丸見えだろうが。
 風向きは急に変わりもするしな、なかなか忍者のようにはいかんさ、ドロンと姿を消すなんて。



 けっこう難しいものなんだ、とハーレイが語る煙幕ごっこ。遠い昔の忍者の真似事。
 本物の忍者は表舞台に出て来なかったのに、何故だか伝説になっている忍者。それの真似をして姿を消そうと奮闘していたらしいのだけれど。
「…そうそう上手くはいかなかったし、だから教室でも言ったんだ」
 煙に紛れて逃げるトコまでやって見せたら、俺は認めてやってもいいと。学校の規則で駄目だと決まってはいるが、俺個人としては認めてやるとな。
 …しかし、お前と話していたら気が付いた。
 今にして思えば、うんと平和な遊びってヤツだな、煙幕ごっこ。…今ならではの。
「え?」
 どういう意味なの、スモークボールは初めて見たけど平和だったよ?
 火事だっていうベルも鳴らなかったし、スプリンクラーも動かなかったし…。
 花火の方のスモークボールを使っていたなら、ベルが鳴ったのかもしれないけれど…。
「その辺はあいつも分かってたんだろ、下の学校の子供じゃないんだから」
 どういう仕組みで火事を知らせるベルが鳴るのか、その程度のことは。
 知っていたから、火を使わないスモークボールで祝ってくれたというわけだ。俺の誕生日を。
 …そこで重要なのが俺ってトコだな、煙幕ごっこで遊んで育ったガキだったんだが…。
 今日も教室でスモークボールで誕生日を祝って貰ったわけだが、スモークボールが吐く煙。
 そいつをよくよく考えてみると、平和なんだという気がしてきた。
 煙だぞ、煙。
 前の俺たちにとっては煙と言ったら、それは物騒なものだったのにな…。



 シャングリラではタバコの煙も嫌がられたぞ、と言われてみれば鮮明に蘇って来た記憶。
 一時期、シャングリラでタバコが流行った。前の自分が奪った物資に混ざっていたのが原因で。
 けれども、無くなってしまったタバコ。理由は色々あったのだけれど…。
「そうだったっけね…。煙が駄目だ、って言われて姿を消しちゃったね、タバコ」
 他の理由は反対しようもあったけれども、煙だけは誰も文句を言えなかったから…。
 いくらタバコが気に入ってたって、吸わない人から「アルタミラみたいだ」って言われたら…。
「まったくだ。アルタミラが滅ぼされた時の煙を思い出しちまうから、と来たもんだ」
 あの時に見た炎と煙は忘れられんし、心に傷が残ったヤツらも多かった。
 タバコの煙はどう考えてもこじつけだろうと思うわけだが、それでもなあ…。同じ煙というのは確かなんだし、言い返すことは誰にも出来ん。
 タバコの煙でもあの有様なんだし、スモークボールの煙となったらどうなるか…。
 それを思うと、本当に平和になったんだな、と今の時代に感謝したくなる。
 アルタミラでお前と一緒に煙と炎の中を走って、やっとの思いで逃げ出したのに…。
 今の俺ときたら、スモークボールで煙幕ごっこをしてたんだ。わざわざ自分で煙を出して。
 教室で食らったスモークボールも叱ってはいたが、楽しんでいたな。
 あそこにいたのが前の俺なら、楽しむどころじゃなかったんだが。



 前の俺にはアルタミラの後にも嫌な煙の思い出が多い、とハーレイが眉間に寄せた皺。
 お前はまるで知らないだろうが、と。
「…あれは俺しか経験してない。…シャングリラのヤツらはともかくとして」
 前のお前は見てはいないな、俺が見て来た嫌な煙は。…アルタミラの地獄よりも後の時代には、一つだけしか。…アルテメシアを追われた時の。
「…見ていないって…。いつ?」
 死んじゃった後なら、もちろん見てはいないけど…。
 見ようと思っても見られないけど、ハーレイ、煙をいつ見ていたの…?
「前のお前が生きてた間だ。一番最初はジョミーを助けに浮上した時だな」
 お前はジョミーを追い掛けて行って、もうシャングリラにはいなかったが…。
 グズグズしてたら、人類軍はジョミーとお前を攻撃する方へ行っちまう。そうなるとマズイし、ヤツらの目を他へと逸らすためには、シャングリラを出すしかないだろうが。
 雲海の上へと出たまではいいが、予想した以上の攻撃だった。…初の戦闘だし、パニックになる者が多くて、防御セクションのサイオン・シールドが追い付かなくて…。
 お蔭で派手に爆撃されちまったんだ、本来だったら防げただろう分までな。
 …ブリッジで見てても煙だらけになっちまったわけだ、シャングリラは。
 あの時が最初で、あれから後にも色々あったな、前のお前が生きてた間に。
 俺は散々に嫌な煙を見ていたってことだ、シャングリラで。



 心の傷が多いんだな、と溜息をつくハーレイだけれど。
 アルタミラの他にも嫌な煙を山のように見た、と呻くけれども、その唇に微かな笑み。苦笑いと言えばいいのだろうか、そういった笑み。
「…ハーレイ、嫌な煙を一杯見たって言うけれど…。でも、少しだけ笑っていない?」
 楽しそうっていうほどじゃないけど、ほんの少し。ちょっぴり笑っているみたいだけど…。
「…まあな。笑っているのは今の俺だな、煙を嫌だと思っているのが前の俺の方で」
 俺にしてみれば、煙はオモチャだったんだ。…前の俺の記憶が戻るまでは。
 おまけに記憶が戻っていたって、やっぱり今の俺ってヤツがだ、先に立つんだと思ってな…。
 教室で煙が上がった時にも、前の俺は反応しなかった。
 スモークボールの悪戯なんだ、と直ぐに気付いて叱ってたわけで、前の俺とは全く違う。
 前の俺だったら、あそこで楽しむことなど出来ん。そんな余裕は何処にも無かった。
 遊びの煙なんぞは知らんし、何が起こったかと原因を掴むトコからだ。…キャプテンとして対処するべきことが山ほどあるしな、シャングリラで煙が出たとなったら。
 そうやって生きて死んでいった俺が、煙で遊べる時代が今だ。ガキの頃からスモークボール。
 煙幕ごっこで遊んで育って、今日は誕生日まで煙で祝って貰ったってな。



 考えてみれば愉快だろうが、とハーレイはすっかり笑顔になった。いい時代だ、と。
「嫌な思い出が沢山あった煙で色々遊んでるんだぞ、今の俺はな」
 ガキの頃もそうだし、今日だってそうだ。今の俺には煙はオモチャで、嫌な思い出なんか無い。
 本当に平和な時代ってヤツだ、煙で遊んでいられるんだから。
「そうなのかも…。ぼくもアルタミラの煙なんかは忘れていたから」
 煙が出た、ってビックリしたけど、ちっとも怖くなかったし…。何かしなくちゃ、と立ち上がりさえもしなかったし。
 …前のぼくなら、あそこで直ぐに飛び出さないと駄目なのにね。煙なら緊急事態だもの。
 だけどポカンと見てたのがぼくで、ホントになんにも考えてなくて…。
「そうだろう? すっかり安心し切っているって証拠だ、今のお前というヤツが」
 怖いことなど起きやしないと、今の世界は安全なんだと。
 あれがスモークボールの煙ではなくて火事だったとしても、それを知らせるベルが鳴り響いて、消火用のスプリンクラーが動く。避難の指示を出す俺だっているし、何の心配も無いってな。
 今のお前はそれをきちんと知っているから、ポカンと座っていられたわけだ。…前のお前なら、何が起きたのかと、原因を調べにサッと動いていたんだろうが…。
「うん、多分…。でもね、今のぼくは煙は怖くないけど…」
 煙と友達ってほどでもないかな、スモークボールを知らなかったし。
 忍者の話も、煙幕ごっこもまるで知らなくて、やってる友達もいなかったから…。



 ハーレイほどには煙と親しくないのかも、と少し羨ましい気持ちになった。アルタミラのような煙は二度と御免だけれども、シャングリラの煙も御免だけれど。
 そういう嫌な煙に幾つも出会って、乗り越えたのが前のハーレイ。どんな時にも冷静に生きて、キャプテンとして煙に対処しながら。
 そうやって煙と戦い続けて、その分、今は煙と親しくなったのだろうか。
 アルタミラと、アルテメシアを追われた時しか嫌な煙を見ないで生きた自分と、嫌な煙を幾つも見ていたハーレイとの違いが出たのだろうか?
 スモークボールで遊んで育つか、知らないままで育って来たか。
 ちょっと残念、と零れた溜息。嫌な煙に出会った記憶は沢山欲しくないけれど、煙で遊べる今の時代を自分は満喫していないらしい、と。
 そうしたら…。
「ふうむ…。お前、煙で遊んでみたいというわけか」
 顔に書いてあるぞ、羨ましいと。…俺ばっかりが遊んでいたのが、羨ましくてたまらないとな。
 だったら、今度の土曜日に試してみるか?
「試すって…。何を?」
 何を試すの、土曜日に…?
「スモークボールに決まってるだろう」
 お前に才能があるかどうかは知らんが、煙幕ごっこを教えてやろう。
 本当だったら、タイプ・ブルーに煙幕なんぞは要らないんだが…。瞬間移動で消えるんだが。
 お前の場合は不器用だしなあ、煙幕でも無きゃ、姿は絶対、消せやしないし…。頑張るんだな。
 火を点けるタイプのヤツじゃなくって、ピンを抜く方のを買って来てやろう。
 今日、教室で煙を噴いてたヤツだな、アレなら火傷の心配も要らん。
「ホント?」
 教えてくれるの、煙幕ごっこを?
「もちろんだ。知らないようでは損をしている、と言った責任も俺にはあるし…」
 楽しみにしていろ、今度の土曜日。スモークボールを持って来てやるから。



 教室で起こった悪戯のお蔭で、思わぬ遊びを教わることに決まった土曜日。ハーレイから習えるスモークボールの煙幕ごっこ。
(ぼく、出来るかな…?)
 スモークボールを持ち込んだ生徒が煙幕ごっこで逃げおおせていたら、認めてやると言っていたハーレイ。それにハーレイは「難しいぞ」とも話していた。風向きを読んで方向を決めて、上手く逃げないと煙幕には隠れられないと。
(丸見えになっちゃいそうなんだけど…)
 あまり無さそうな煙幕ごっことやらの才能。サイオンの方も不器用だけれど、運動もまるで駄目だから。足は遅いし、反射神経は無いに等しいし、煙に隠れて逃げるなどは…。
(…絶対、無理…)
 瞬間移動と同じくらいに、今の自分には無理だろう。どう考えても、きっと出来ない。
(…きっとハーレイに笑われるんだよ…)
 才能の無さを、可笑しそうに。「お前、煙幕でも姿を消すのは無理なんだな」と。
 それでも、今のハーレイが仲良くしている煙を使って遊んでみたい。今は煙で遊ぶことが出来る平和な時代で、教室で突然モクモクと煙が上がるのだから。スモークボールが吐き出す煙が。



 首を長くして待った土曜日、ハーレイは「約束通りに買って来たぞ」とスモークボールを持って訪ねて来てくれた。「いい天気だから丁度いいな」と。
 部屋で紅茶を一杯飲んで、ケーキを食べたら「行くとするか」と立ち上がったハーレイ。
「庭に出ないと煙幕ごっこは出来ないからな」
 なにしろ全力で走って逃げる遊びだからなあ、此処でやったら足音がドタバタ響いちまう。下にいるお父さんとお母さんとに迷惑だろうが、お前はともかく、俺は体重が重いんだから。
 行くぞ、と庭に出たハーレイの手にスモークボール。
 どうするのかとワクワクしながら眺めていたら、突然、ハーレイが引っこ抜いたピン。ブワッと真っ白な煙が噴き出し、アッと思ったら、もうハーレイはいなかった。
(ハーレイ、何処…?)
 ドロンと消えてしまったハーレイ。瞬間移動をしたかのように。
 さっきまでハーレイが立っていた場所、其処の芝生にコロンと転がったスモークボール。シュウシュウと煙を上げているけれど、ハーレイの姿は何処にも見えない。
(何処に消えちゃったの?)
 キョロキョロと辺りを見回していたら、「俺は此処だぞ」と聞こえた声。
「まったく、何処を探してるんだか…。お前、本当に鈍くなったな」
 俺の気配も読めないのか、と家の陰から出て来たハーレイ。庭だとばかり思っていたのに。
「凄い、ハーレイ…!」
 いつの間に裏側に行っちゃっていたの、あっちにも庭はあるけれど…。どうやったの?
「なあに、簡単なことだってな。お前が煙に気を取られている間に、パッと走った」
 風向きからして、こっちだな、と。
 面白かったぞ、家の陰からポカンとしているお前を見てたら。
 前のお前だったら、煙幕なんぞは無くてもドロンと姿を消せたというのになあ…。
 俺が上手に隠れていたって、「此処だ」と直ぐに見付けただろうに。



 すっかり不器用になったお前には、こいつの助けが必要なようだ、と渡された丸い物体が一個。手の中にスモークボールが一つ。
「いいか、このピンを抜けば煙が出るから」
 俺が使っていたのと同じで、白い煙だ。風向きを確かめて動くんだぞ?
 …今の風だと、あっちに走るのがいいだろう。あの木の陰だな、隠れるならな。
 頑張れよ、とポンと叩かれた肩。あそこまで全力で走って行け、と。
「分かった…。ぼく、頑張るから!」
 エイッとピンを引っこ抜いたら、派手に立ち昇った真っ白な煙。もうそれだけでビックリ仰天、どうすればいいのか分からなくなった。煙に隠れて逃げるどころか、突っ立って煙を仰ぐだけ。
「おいおい…。お前、全く逃げられてないぞ」
 スモークボールを持っててどうする、それじゃ狼煙だ。
 此処にいます、と敵に知らせているようなモンだ、煙幕の意味が無いだろうが。
「…そうみたい…」
 ビックリしちゃって、見てるだけしか出来ないみたい。
 スモークボールで遊んだことが一度も無いから、そのせいなのかな…?
「いや、才能の問題だろう」
 俺は初めて遊んだ時にも、スモークボールを投げて逃げたぞ?
 風向きを間違えて逃げちまったから、煙幕は役に立たなかったが…。それでも逃げた。
 お前の場合はスモークボールに見惚れちまっているというのか、夢中と言うか…。
 自分をビックリさせてどうする、周りのヤツらをビックリさせるのが煙幕なんだぞ?
「…そうなんだろうけど…」
 分かってるけど、失敗しちゃった…。自分をビックリさせちゃったよ、ぼく…。



 ハーレイに何度も教えて貰って頑張ったけれど、捨てて逃げるのが精一杯だった煙を吐く玉。
 隠れ場所まで「あそこだ」と教わって走ってゆくのに、上手くいかない煙幕ごっこ。父と母とが庭に出て来て笑って見ている、失敗続きの煙幕ごっこを。
 「ハーレイ先生に遊んで貰えて楽しそうね」と、「もっと上手に逃げたらどうだ」と。
 息が切れるまで何度も走って、とうとう降参するしか無かった。煙幕ごっこは無理みたい、と。
「ちっとも上手く出来ないよ、ぼく…」
 ハーレイみたいに隠れたいけど、これだけやっても駄目なんだもの…!
「才能の無さはよく分かった。絶望的だな、お前は忍者になれそうもない」
 タイプ・ブルーとしても駄目だし、煙幕で姿を消すのも無理、と…。
 今の時代に忍者はいないが、いたとしても入門出来んな、お前は。煙幕も張れない始末では…。
 部屋に戻ってお茶の続きをする方が余程、建設的だ。
 残りのスモークボールを使って思い出話をしてやるから。
「…思い出話?」
 この間の教室の話じゃないよね、ハーレイが子供だった頃の話とか?
 煙幕ごっこで遊んでた頃の話を色々聞かせてくれるの…?
「さてなあ、そいつは部屋に帰ってのお楽しみってな」
 これ以上はお前が疲れるだけだし、お茶の続きにしようじゃないか。
 ケーキは食ってしまった後だが、紅茶はポットにたっぷり入っていた筈だからな。



 二階の部屋に戻ってみたら、紅茶のポットはまだ充分に温かかった。懸命に走り回った時間は、きっと半時間も無かったのだろう。体育の時間の時と比べて、それほど疲れていないから。
 紅茶をカップに注いで砂糖。喉を潤したら、煙幕ごっこの才能の無さをまた思い出した。まるで無かった自分の才能、煙と戯れる遊びは向かない。スモークボールで遊べはしない。
(才能、ゼロ…)
 ガックリと項垂れていたら、ハーレイが「ほら」と手に取ったスモークボール。思い出話をしてやると約束していたろうが、と。
 褐色の指が引っこ抜いたピン。煙を噴き上げるスモークボールを床へとポンと放り投げて。
「そうだな、こういう具合だったな…」
 あの時に、俺が見ていた煙は。…モニター越しに確認していただけなんだが。
 現場に走れるような状況じゃなかった、俺がブリッジにいなくなったらどうにもならない。船尾損傷、シアンガス発生と報告されても、俺に出来たのは指示を出すことだけだった。
「…それ、いつの話?」
 ハーレイが見ていた嫌な煙の話だろうけど、いつだったの?
「前に話してやっただろうが、三連恒星に向かって追い込まれた時だ」
 思考機雷の群れに突っ込んじまって、後ろからは人類軍の船が追って来ていた。重力の干渉点を見付けて、其処からワープで逃げたわけだが…。
 俺たちを追っていた船に乗っていたのは誰だと思う?
「…誰って…。ぼくが知ってる人なの?」
 キースが乗ってたわけがないよね、そんな早くにキースとは出会っていないものね…?
「そのキースの先輩だったと言えば分かるか、今のお前なら?」
 歴史の授業で教わるだろうが、マードック大佐。…あの英雄のマードック大佐だ、自分が乗った船をメギドにぶつけて、地球を守った英雄だな。
 同じ船にミシェル少尉も乗ってた、俺たちの船を追っていた時も。
 …前の俺は最後まで知らなかったが、たまたま調べた資料に載ってたんだよなあ…。
 不思議なもんだろ、前のお前もマードック大佐とミシェル少尉に会っていたんだ。眠ったままで何も気付いちゃいなかったろうが、ちゃんと二人に出会っていたのさ。



 嫌な煙を見ていた中でも、そういう縁があったらしい、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
 他にも何かあるかもしれんと、今の俺だから分かる何かが…、と。
「マードック大佐とミシェル少尉…。ぼく、会ってたんだ…」
 優しい人だったんだよね、マードック大佐。
 ナスカで残党狩りをしないで、命令を無視してくれた話は歴史の授業で教わるけれど…。
 それよりも前には、会っていないんだと思ってた…。ぼくがシャングリラに乗ってた頃には。
「俺だってそう思っていたさ。…それを書いた資料に出会うまではな」
 ひょっとしたらだ、山ほど出版されてる俺の航宙日誌の中には、載せているのがあるかもな。
 資料を詳しく突き合わせていけば、これがそうだと分かるんだから。
 …しかしだ、そういう本を買うより、偶然見付ける方がいい。俺はそう思うが、お前はどうだ?
 種明かしをしてある航宙日誌で舞台裏を一気に知りたいタイプか?
「…ううん、ぼくだってハーレイと同じ」
 少しずつ分かっていく方がいいよ、きっと神様が順番に教えてくれるんだろうし…。
 次に教えていいことはこれで、その次はこれ、って。
「俺もそう思う。…だから、ゆっくり二人で見付けていこうじゃないか」
 前の俺たちが生きた時代に何があったか、俺たちは誰に出会っていたのか。
 嫌な煙の思い出だった筈が、マードック大佐に繋がっていたりするんだからな。



 さて…、とハーレイの指が引っこ抜いたピン。
 マードック大佐の思い出話の次はコレだと、今の俺のガキの頃の話だと。
「スモークボールで隠れたつもりが、上手く隠れていなかったわけで…」
 それでもお前よりかはマシだ、と聞かせて貰った失敗談。
 スモークボールで煙幕ごっこは自分には向いていなかったけれど、こんな風に使うのも面白い。煙がブワッと噴き上げる度に、素敵な思い出話が一つ。
 前のハーレイも、前の自分も、嫌な思い出が多かった煙。それが今では遊びの道具で、遠い昔の嫌な煙の一つも、マードック大佐とミシェル少尉に繋がっていた。
 色々なことが分かってゆくのも、平和な時代に生まれて来たから。
 ハーレイと二人で、青い地球まで来られたから。
 煙幕ごっこの才能は無くても、今は煙を楽しめる。スモークボールのピンを引っこ抜いて、一つ二つと思い出話を聞きながら。
 きっとこういう休日もいい。部屋中に煙が溢れていたって、思い出話も一杯だから…。




            スモークボール・了

※今の時代は、スモークボールで遊べる時代。ブルーは才能皆無でしたけど、楽しかった時間。
 そして聞かされた、前のハーレイの煙の思い出。マードック大佐たちにも会っていた二人。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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(ふうむ…)
 旬には少し早いんだがな、とハーレイが眺めたキウイフルーツ。茶色くて毛が生えた丸い果物、ジャガイモに似ていると言えなくもない。でこぼこが少ないタイプのジャガイモ。
 それがドッサリと棚に積まれていた。ブルーの家には寄れなかった日、いつもの食料品店で。
 キウイフルーツは人気の果物、一年中、売られているのだけれど。本当の旬はこれからの季節。近所の家の庭で実りつつある、毛だらけの実が。藤棚よろしく作られた棚で。
 通る度に「おっ!」と思うけれども、売られている果実に引けを取らない大きさだけれど。
(収穫してから、暫く置いておかないと…)
 熟さないのだった、キウイフルーツは。柔らかくて甘い果実になってはくれない。熟すまでには時間がかかるキウイフルーツ、美味しいけれども手がかかる果実。
 木に置いておくと霜に当たって駄目になるから、その前に収穫。それから追熟、貯蔵しておいて食べ頃を待つ。果実によって異なる食べ頃、三十日から六十日も。
 こうして店頭に並ぶまでにも、果実の個性を見極めながら追熟がされていたのだろう。食べ頃になったものを揃えて、店へと出荷。



 今はまだ、キウイフルーツが木にぶら下がっている時期だから。旬には早いと分かるけれども、そうとは知らなかった頃。
(ウッカリ食っちまったんだっけな)
 やんちゃ盛りだった子供時代に。今のブルーよりも小さかっただろう背丈の頃に。
 隣町の家の近所に、キウイフルーツを植えていた家。立派な棚に茂っていた葉と、幾つも幾つも毛だらけの果実。食べて下さいと言わんばかりに。
 背が届かない高さにあったキウイフルーツ、けれど子供には誘惑の果実。美味しそうだと。
 もぎたてを一つ食べてみたくて、精一杯のジャンプで奪い取った実。生垣を越えて道路の上まで張り出した蔓から失敬した一個。
(何処で食ったのかは覚えちゃいないが…)
 公園にでも持って行ったか、それともその場で齧ったのか。
 毛だらけの皮は吐き出して食べればいいだろう、とガブリとやったら、それは固くて渋かった。甘くて柔らかくて美味しいどころか、とんでもない味だったキウイフルーツ。
 悪戯者には罰だ、と化けてしまったかのように。甘い果実が渋い果実に。
(毒じゃないだけマシだったがな)
 とても食べられたものではない、と捨ててしまったキウイフルーツ。口の中に渋さが暫く残ったけれども、腹を壊しはしなかった。吐き気もしなくて、酷い目に遭ったというだけのこと。
 ただ、木の実には厄介なものもあったりする。今では馴染みの梅だけれども、熟す前の青梅を種ごと食べると危険。種の中身が毒だから。
 両親から厳しく教えられたものだ、「生の梅の実を食べてはいけない」と。
 梅の実は美味しそうなのに。桃の実のような匂いがするのに、誘われて食べたら中身は毒。



(キウイフルーツなあ…)
 色々と懐かしく思い出したら、食べたい気分になって来た。旬には早いと眺めていたのに、急に買いたくなった果物。店に並んだキウイフルーツなら、待たなくても直ぐに食べられるから。
 子供時代に失敗した分、固くて渋かった自分の獲物。その分をこれで取り返すかな、とズラリと並んだ果実の中から気まぐれに幾つか選び出した。どれも甘いに決まっているから。
(あの日の俺が食い損なった分だ)
 それに失敬したわけでもないし、と買って帰ったキウイフルーツ。今から冷やせば、夕食の後にいい具合に食べられることだろう、と冷蔵庫に入れて、夕食の支度。
 手際よく作った料理と炊き立ての御飯、満足だった今日の夕食。小さなブルーがいないことさえ除けば、申し分のなかった食卓。
 食べ終えた後は冷やした果物の出番、キウイフルーツを食べる番。皮を剥いて綺麗にカットするよりも、子供時代よろしくシンプルに食べてみたいもの。
(流石に齧るのはあんまりだしな?)
 真っ二つに切って、スプーンで食べるのがいいだろう。毛だらけの皮の中身を掬って食べれば、薄い皮だけが残る勘定。剥いて食べるよりきっと楽しい、毛だらけの皮をつけたまま食べるのは。



 さて、と切って来たキウイフルーツ。食べ頃に冷えていた果実。皿に載せて、スプーンも持って来た。早速一口、スプーンで掬って期待通りの甘さに頷く。これでこそだ、と。
 子供時代に齧ったものとはまるで違った、その味わい。とろけるような柔らかさも。美味い、と綻んでしまう顔。これが食べたくてガキの頃の俺は頑張ったんだが、と。
 道路まで張り出していた蔓に実っていたキウイフルーツ、それが欲しくて。もぎたてが欲しくてジャンプしたのに、戦果は惨憺たるもので。
(…しかしだ、キウイフルーツの味を知ってたからこそで…)
 そうでなければ、きっと挑んでいないだろう。二つに切っただけの果実を味わっていたら、そう思えて来た。なにしろ、見た目が毛だらけだから。
(何処から見たって、毛の生えたジャガイモってトコだしなあ…)
 けして美味しそうな姿ではない。甘いだろうとも想像出来ない。見た目だけでは。
 なのに毛だらけの皮の内側には、それは瑞々しい緑色。まるで食べられる宝石のように鮮やか、おまけに甘くて柔らかい。スプーンで掬って食べられるほどに。
 外側からは全く予想もつかない中身の果実。子供時代の自分を誘惑したほどのキウイフルーツ、けれども見た目は毛の生えたジャガイモ。
(これが食えると見抜いたヤツは凄いかもな?)
 しかも追熟させてまで、と感心せずにはいられない。それとも原産地では木の上で甘く熟して、香りを漂わせるのだろうか。此処に美味しい果物があると、今が食べ頃だと。
 あるいは動物が食べていたろうか、鳥たちが群れてつついていたとか。



 いずれにしても、最初に気付いた人間のお蔭で、キウイフルーツが食べられる。感謝しよう、と思った果実。よくぞ見付けてくれたものだ、と。
(待てよ…?)
 何処かでそういう話を聞いた、という記憶。フイと心を掠めていった。
 キウイフルーツは食べられると見抜いて、ついでに追熟。収穫したままでは食べられないから、甘くなるまで貯蔵するのだと。
(…何処で聞いたんだ?)
 得意の薀蓄の一つだろうか、いつもアンテナを張っているから。
 授業に飽きてきた生徒たちの心を捉える雑談、そのための種は幾つあっても足りないもの。常に張り巡らせてある頭のアンテナ、これはと思えば頭に叩き込んでおく。
 キウイフルーツについての知識も、そうやって手に入れたのだろうか。今では当たり前のように知っているけれど、何処かで読んだか、耳にしたのか。
 きっとそうだな、と考えたのに、「そうではない」と訴える記憶。それは違う、と。
 ならば何処で、とキウイフルーツを睨んで、スプーンで口へと運んだら…。
(シャングリラか…!)
 あの船にあった、と蘇って来た遠い遠い記憶。シャングリラで食べたキウイフルーツ。
 しかも厨房で料理をしていた時代に、シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃に。
 そうか、と懐かしい記憶を追った。確かにキウイフルーツだった、と。



 自給自足の船になるよりも遥かな昔。皆の命を繋いでいたのは、前のブルーが奪った物資。
 ある日、ブルーが持ち帰ったコンテナの中に、大量のキウイフルーツがあった。毛だらけのが。
 けれども、成人検査と繰り返された人体実験のせいで皆が失くしてしまった記憶。それが何かが分からなかった。誰も覚えていなかったから。
「なんだい、これは?」
 毛だらけじゃないか、と呆れたブラウ。食べ物とも思えないんだけどね、と。
「さてなあ…?」
 なんだろうな、とゼルも首を捻ったし、ヒルマンもエラも。
 とはいえ、手掛かりならあった。毛だらけのそれが入っていた箱には、キウイフルーツの文字。そういう名前を持った食べ物、フルーツなのだし果物だろう。
 手に取ってみたら固かったけれど、固い果物は珍しくない。リンゴのようなものなのだろう、と毛だらけの皮をナイフで剥いて、ゼルたちと試食してみたら…。
「酷い味だな」
 食えたもんじゃない、と顔を顰めたゼル。渋くて固いだけじゃないか、と。
「まったくだよ。こんな不味い果物は知らないね」
 どの辺がフルーツだと言うんだい、とブラウもぼやいた。口中が渋くなっちまったよ、と。
 前の自分も同感だったし、ブルーも「本当に果物なのかな?」と悩んだほど。箱の中身が別のに変わっていたのだろうかと、人類は箱を使い回していたろうかと。
 その可能性もゼロではないな、と思ったけれども、それから間もなく出て来た答え。箱の中身はそれで正しいと、これは間違いなく果物だと。
 ヒルマンとエラが調べに出掛けて行ったから。キウイフルーツとは何だろうか、と。



 データベースに向かった二人は、実は疑っていたらしい。フルーツという名の別の食べ物、その可能性を。海から採れる貝などのことを「海の果物」と呼ぶらしいから。
 それと同じで、全く別の食べ物なのに「フルーツ」と名付けてあるのでは、と。
 ところが違った、キウイフルーツ。渋いけれども、確かに果物。ただし…。
「このままでは駄目だね、食べられないそうだ」
 渋いだけだ、とデータベースから戻ったヒルマンが言うから。
「料理するのか?」
 てっきり自分の出番だとばかり思った、調理して食べる果物だろうと。甘く煮るとか、焼いたら甘くなるだとか。どうやってこれを食べればいいのだ、と訊いたのに。
「いや、料理ではなくて…。追熟だそうだ」
「追熟…?」
 それはなんだ、と自分はもとより、誰もがキョトンとしたのだけれど。
 ヒルマンとエラが言うには、このまま倉庫に突っ込んでおけばいいらしい。柔らかくなるまで、一ヶ月か二ヶ月。まずは一ヶ月ほど待ってみよう、と。



 大量のキウイフルーツは箱ごと倉庫に運び込まれて、一ヶ月後。何度か様子を見に出掛けていたヒルマンが「まだ駄目だね」と首を横に振った。
「まだもう少しかかるようだよ、固いままだから」
 柔らかくならないと甘くはならない、という話。そのヒルマンが「これでいいだろう」と持って来るまでには更に二週間ほどあっただろうか。
 試食してみたら、前の渋さが嘘だったように甘かった。美味な果物に化けたキウイフルーツ。
 これはいける、とヒルマンの勧めに従って冷やして、食堂で皆に出してみた。毛だらけの外見も面白いから、と二つに切って、スプーンをつけて。
「美味いな、これは!」
「見た目は悪いが、味はいいよな」
 人類はこんなに美味しい果物を食べているのか、と皆が手放しで喜んだから。
「最初は不味かったんだがね…」
 我々はそれを食べたんだがね、と苦笑したヒルマン。犠牲者は他にブルーに、ブラウに…、と。
 ドッと笑った仲間たち。試食組でも特権ばかりじゃないんだな、と。
 見た目が悪くて、おまけに直ぐには食べられなかったキウイフルーツ。輸送船に乗っているほどなのだし、追熟してあるわけがない。輸送先の星で追熟するもの、その方が便利なのだから。
 手に入っても完熟するまで倉庫で保管するしかなかった、少し面倒な毛だらけの果物。けれども人気は高かった。毛だらけの皮の中身は甘くて、とろけるように美味しかったから。
 奪った物資にキウイフルーツが紛れていたら皆が喜んだ。一ヶ月ほどでまた食べられる、と。



 毛だらけのくせに、外見を裏切って美味な果物。緑の宝石が中に詰まったキウイフルーツ。
 前の自分が厨房を離れた後も、ブルーがソルジャーになった後にも続いた人気。あの果物をまた食べたいものだと、物資に混ざっていればいいが、と。
 追熟などという手間がかかるのに、人気を誇ったキウイフルーツだったから。
(シャングリラを改造する時も…)
 採用されたのだった、船で育てる果樹の一つに。
 何を育てるかを検討していた時に、希望が多かったキウイフルーツ。栽培方法を調べてみたら、意外なことに手がかからないもの。畑どころか、庭でも栽培出来るくらいに。
 その上、沢山の実をつけるという。蔓を伸ばして育つのだけれど、一本で千個も実るほどに。
 専用の畑を設けなくても、あの美味しい実がドッサリ採れるとなったら、キウイフルーツは船で育ててみたいもの。畑はもちろん、公園に緑の彩りを添える棚にも使えそうだから。
 そればかりか、キウイフルーツの実は栄養価が高くて低カロリー。ビタミンも豊富、自給自足で暮らしてゆく船には打って付けの果物だった。
 簡単に育てられるというなら、是非とも採用せねばならない。皆に人気のキウイフルーツ、畑が無くても育つくらいに丈夫なら。



(そういや、あいつが…)
 キウイフルーツはキーウィと関係があるのかい、と尋ねたブルー。鳥のキーウィ、と。
 白い鯨になるだろう船に、キウイフルーツを導入しようと決まった席で。ゼルやヒルマンたち、長老と呼ばれた四人と前の自分と、ソルジャーの六人。最終決定の会議はいつも六人だった。
 今の自分には馴染み深いキーウィ、姿がキウイフルーツにそっくりな鳥。丸っこい身体に特徴のある長いクチバシ、翼は退化していて飛べない。地面をトコトコ歩いてゆくだけ。
 動物園に行けばキーウィはいるし、子供でも名前を知っているけれど。
 前の自分たちが暮らした船には、動物園などありはしなかった。本物のキーウィを見られる場所などは無くて、本にもそうそう出て来ない鳥。鳩や雀の類と違って、広く知られていないから。
 特に鳥好きでもなかっただろうに、キーウィを知っていたブルー。空を飛べない鳥だよ、と。
 あの時はキーウィばかりに気を取られていた自分だけれど。
 今にして思えば、前のブルーは青い鳥を欲しがったのだった。幸せを運ぶという青い鳥。地球と同じ色を纏っている鳥を。
 そんな鳥など役に立たない、と却下されてガッカリしていたブルー。欲しかったのに、と。
 キウイフルーツと鳥のキーウィに何か関係は、と訊いたブルーは、青い鳥を思っていたろうか。青い鳥に未練があったのだろうか、それでキーウィと言っただろうか?
 キーウィも同じ鳥だから。キウイフルーツに青い鳥を重ねてみたかったろうか?
(訊いてみるかな…)
 小さなブルーに。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が訊きそびれたことを。
 前のブルーがキーウィの名前を口にした時、青い鳥のことを思っていたか、と。
 幸い、明日は土曜日だから。ブルーの家にゆく日だから。



 次の日、目覚めても忘れずにいたキーウィのこと。それにシャングリラのキウイフルーツ。
 本物のキウイフルーツを持ってゆかねば、と食料品店に寄って買って出掛けた。昼食が済んだらデザートに出して貰おうと。その頃ならよく冷えているから。
 キウイフルーツが入った袋をブルーの母に渡しておいたら、案の定、訊かれた。二階の部屋から見ていたブルーに「お土産は?」と。
 もう少し待てと、昼飯の後だ、と聞かされたブルーが楽しみにしていたらしいデザート。きっと菓子だと思ったのだろう、出て来たそれに真ん丸になってしまった赤い瞳。
「…キウイフルーツ?」
 なんで、と驚くのも無理はない。お菓子の代わりに毛だらけの果物がコロンと一個。真っ二つに切られて、スプーンが添えられただけの。
 ブルーの母なら、もっとお洒落な出し方だって出来るのに。皮を剥いて綺麗にカットするとか、カットした上にホイップクリームを添えるとか。
 普段だったら、そういう果物。今のブルーが食べているキウイフルーツは。
「覚えていないか、こいつはシャングリラにあったんだぞ」
 白い鯨の頃だけじゃなくて、それよりも前から食っていたんだ。俺が厨房にいた時代からな。
 最初は謎の毛だらけの物体だったわけだが、キウイフルーツ。
 本当にこれは食える物か、と悩んじまったくらいにな。
「…そういえば…。前のぼくが奪った物資の中に…」
 山ほど入っていたんだっけね、キウイフルーツがゴロゴロと。
 ゼルもヒルマンも、誰も覚えてなかったから…。すっかり忘れてしまっていたから、正体不明。
 何なんだろう、って話になったくらいに、変な食べ物だったんだっけ…。



 思い出した、とブルーが浮かべた苦笑い。あれでひと騒ぎあったんだっけ、と。
「前のぼくたち、剥いて試食をしちゃったけれど…」
 箱にフルーツって書いてなければ食べてないよね、あの時の毛だらけのキウイフルーツ。
 ジャガイモみたいにお料理しないと食べられないとか、そんな風に考えちゃったかも…。
「まったくだ。固かった上に毛だらけではな」
 フルーツだと箱に書いてあったからこそ、リンゴみたいに剥けばいいんだと思ったわけで…。
 しかし、素敵に不味かったんだよな、そうやって食ったら。
「…固くて渋くて、果物の味じゃなかったよ、あれは」
 ブラウたちも文句を言っていたけど、ぼくだって口中が渋くなっちゃって…。
 箱にはフルーツって書いてあったけど、違う中身が入ってたかな、って詰めた人類を恨んだよ。違う物を箱に詰めたんだったら、面倒がらずに品物の名前を書き直したら、って。
「そう考えるのが普通だよなあ、あの不味さだと」
 まさか食べ頃が来ていないだなんて誰が思うか、普通の果物は直ぐに食えるんだから。
 ちょっとばかり酸っぱいってことはあっても、その程度のことだ、あそこまで不味くはないぞ。
 早く剥きすぎちまったかな、って思いはしてもだ、ちゃんと果物の味はする。バナナだろうが、リンゴだろうが、それなりの味がするっていうのに…。
 なんだってアレは一ヶ月以上も待たないと食えない代物なんだか、キウイフルーツ。
 今みたいに店で買ったヤツだと、きちんと追熟させてあるから食えるんだがなあ…。



 もっとも今の時代も騙されちまった馬鹿が俺だが、と自分の顔を指差した。
「実はな、今の俺がお前よりも背の低いガキだった頃の話だが…」
 俺が育った家の近くに、キウイフルーツを庭に植えていた家があったんだ。棚を作って。
 そいつの蔓が道路の上まで伸びて来ててな、美味そうな実が幾つもな…。
 今の俺はガキの頃からキウイフルーツを食ってたわけだし、美味いってことも知ってるし…。
 もぎたての実はきっと美味いに違いない、と考えたんだな、ガキだけに。
 親父たちとブドウ狩りとかに行っていたから、新鮮な果物の美味さも分かる。だから見上げて、こいつも食ったら美味いだろうと…。
 もちろん普通に手を伸ばしたって届きやしないし、そこでジャンプだ。精一杯に飛んで、見事に一個もぎ取ったまでは良かったが…。
 後は分かるな、ガキの頭に追熟なんて言葉は入っていないってことが。
「…ハーレイ、今度もやっちゃったんだ…」
 熟していないキウイフルーツ、そのまま食べてしまったんだね。
「皮も剥かずに齧り付いてな。…甘いとばかり思ったんだが…」
 もぎたてだったら、皮を吐き出す分を補ってもなお余りある甘さがあるもんだとばかり…。
 なのに口中に広がる渋さと来たもんだ。なんだって、今度もやっちまう羽目になったんだか…。
 記憶が戻っていない以上は仕方ないんだが、前の俺が懲りていたのにな。
「覚えてないのは本当に仕方ないけれど…」
 ジャンプしてまで取らなかったら、今度は食べずに済んだ筈だよ?
 その家の人に「一つ下さい」ってお願いしたなら、ちゃんと教えて貰えたのに…。
 まだ早いからとか、これは熟してから食べるんだよ、って分けてくれるとか。
 それもしないで飛び付くだなんて、食いしん坊だね、家の人が来るまで待てばいいのに。
「…毎日見ていて、美味そうだったからな」
 ついに誘惑に負けたってヤツだ、その日に限って。
 でもって、自分の手で取ってみたかったんだろうな、頼んで取って貰うよりかは。



 ガキってヤツはそんなもんだろ、と語った自分の失敗談。一人で出来ると言い張った挙句、何か失敗をやらかすもんだ、と。お前の場合はどうか知らんが、元気なガキにはありがちだろう、と。
「俺もご多分に漏れず、そういうガキの一人だったってわけで…」
 やっちまったわけだ、前の俺の轍を踏むってヤツを。
 そいつを昨日、思い出したから、キウイフルーツを買って帰って…。あの時に不味い思いをした分をこれで取り返そう、と食っていたら記憶が戻って来たんだ、前の俺のな。
 それで土産に持って来たんだが、お前も思い出したようだし、一つ訊きたい。
 …不味かった騒ぎとは別件になるな、シャングリラを改造しようって時代なんだから。
 新しい船で何を栽培しようかという会議をしてたら、キウイフルーツが候補に挙がった。人気が抜群の果物だったし、育てやすいことも分かったし…。
 導入しよう、と会議で決まった時のことだが、前のお前が訊いていたんだ。
 キウイフルーツと鳥のキーウィには何か関係があるのか、と。



「…えーっと…。そうだね、訊いてたね」
 名前が似てたし、形もそっくりみたいだったし。
 だから気になって訊いちゃったんだよね、鳥のキーウィと関係あるのかな、って。
「そいつが俺の訊きたいトコだ。…どうしてキーウィと言い出したのか」
 今のお前なら、話は分かる。動物園に行けば本物がいるからな。印象深い姿の鳥だし、会ったら忘れないだろう。
 しかしだ、前のお前の場合は事情が違う。本物なんぞは見られもしないし、データだけだ。
 そのキーウィを知っていた上に、あの場で訊いた。キウイフルーツと関係があるのか、と。
 お前、青い鳥を欲しがってたしな、それと重ねていたのかと…。
 キーウィも鳥には違いないから、とキウイフルーツに青い鳥を重ねようとしてたのか、お前?
「そこまで執念深くはないよ」
 青い鳥に無理やりこじつけるほどに、キウイフルーツにはこだわらないけど…。
 気になっていたのは、キーウィの方。青い鳥じゃなくって、キーウィなんだよ。



 シャングリラでは、本物を見ることは叶わなかったキーウィ。動物園など無かったから。
 白い鯨になった後には、アルテメシアに潜んでいたから、前のブルーは本物に出会ったらしい。船の外にある人類の世界の動物園まで出掛けた時に。
 もっとも、遊びに行ったというわけではなくて、ミュウの子供を救い出すための下見などで。
 けれど、それよりも前の時代にブルーはキーウィの名前を口にした。飛べない鳥、と。
「たまたま本で見付けたんだよ、キーウィのこと」
 何の本だったかは覚えてないけど、そういう名前の飛べない鳥がいたってことを。
 それにね、何処にでもいた鳥じゃなくて、固有種だって…。
 他の場所には棲んでいなくて、ニュージーランドっていう島だけの鳥で…。
 ミュウと重なっちゃったんだよ、ぼくの頭の中で。
 キーウィは飛べないから減っていっちゃった、って…。逃げられないから捕まっちゃって。
「滅びそうだという意味か?」
 数が少ない上に、飛べないばかりに捕まっちまって。
 捕まったらそれでおしまいだからな、捕まった上に滅ぼされそうになった前の俺たちか?
 アルタミラごと滅ぼされていたら、ミュウはおしまいだったんだから。
「うん…」
 ちょっとキーウィみたいでしょ?
 前のぼくたち、本当に滅びそうだったから…。
 なんとか逃げ出して生きていたけど、人類軍の船に見付かっちゃったらおしまいだもの。



 前のブルーが読んだという本。キーウィについて書かれていた本。
 地球が滅びるよりも遥かな昔に、キーウィと同じような鳥が幾つも滅びていった。地球の環境は悪化しておらず、どんな生き物でも充分に生息出来たのに。
 七面鳥に何処か似ていたドードー、キーウィと同じ島にいた首が長くてダチョウのようなモア。地球の鳥では最大の体重を誇った、エピオルニスもダチョウを思わせる鳥。
 どれも絶滅して地上から消えた。人間に狩られ、食用にされて。空を飛べない鳥ゆえの悲劇。
 キーウィも人間を警戒することを知らず、そのせいで激減していった。
 飛べない上に、人を怖がらないから、簡単に捕まってしまったキーウィ。人間にとっては格好の獲物で、食べるにはもってこいだったから。
 空を飛ぶ鳥なら、撃ち落とさないと捕えられないけれど。あるいは罠が必要だけれど。
 キーウィは空へと飛んでゆかないし、おまけに人を怖がらない。見付けさえすれば肉が手に入る便利な生き物、肉が歩いてるようなもの。
 キーウィは危うく、モアと同じになる所だった。
 このままでは滅びてしまう鳥だと、人間が気付かなかったなら。
 ようやく気付いて、ニュージーランドのシンボルの鳥に選んで保護してくれなかったなら。



 絶滅の危機に瀕したキーウィ。地球に滅びの気配さえもまだ無かった頃に。
 今の自分はそれを知っているけれど、前の自分はどうだったろうか。あの時代には地球は滅びた後だったから、どの生き物も等しく地球からは滅び去った後。
 キーウィはもちろん、鳩も雀も棲めなくなってしまった地球。人間は生き物を他の惑星に移し、絶滅することだけは辛うじて防いだ。動物も植物も、思い付く限りの地球の全てを。
 そんな時代だから、前の自分はキーウィを単なる飛べない鳥だと思っていたかもしれない。空を飛べない鳥は幾つもいるから、その内の一つがキーウィなのだと。
「そうだっけな…。言われてみれば、まるでミュウだな、キーウィって鳥は」
 人間の都合で狩られちまって、滅びる所だったんだからな。
「そうでしょ?」
 似てるでしょ、キーウィと前のぼくたち。
 滅びそうだったってこともそうだけど、滅びそうになってしまった原因。それも同じだよ?
 前のぼくたちは、キーウィと同じで知らなかったよ、人類は怖いということを。
 人を警戒することを少しも知らなかったから、成人検査を受けちゃって…。
 気が付いたら檻に閉じ込められてて、後は殺されるだけだったんだよ。
 食べられてしまうか、実験で殺されてしまうかだけの違いだったよ、キーウィとミュウは。
 …だから重ねてしまったんだよ、ミュウとキーウィ。
 そのキーウィと似たような名前で、似たような果物がキウイフルーツ。
 訊きたくなるでしょ、それは関係があるものなのか、って。



 前のブルーがミュウと重ねて見ていたキーウィ。果物の名前で直ぐに連想するほどに。
 キウイフルーツを育てると決まったら、関係があるのかと尋ねたほどに。
「そのキーウィも今じゃ普通に生きているよな、のびのびと」
 動物園にいるのもそうだが、元はニュージーランドだった辺りの地域か?
 似たような島を見付けて貰って、自由に生きているようだしな。
「ちゃんと保護して貰ってね」
 お肉にされずに、好きにあちこち歩き回って。
 地球と一緒に滅びかかったのに、キーウィは立派に生き抜いたんだよ、他の星で。
 環境もずいぶん変わっただろうに、何処の星でも子孫を残して頑張ったんだよね、キーウィは。
 そうやって頑張って生きていたから、キーウィは今の地球に戻って来られたんだよ。
 もう駄目だ、って滅びちゃっていたら、キーウィ、何処にもいないんだもの。
「…ミュウも似たようなものだったのかもなあ…」
 滅びちゃいかん、と必死に頑張って生きて、生き残って、やっと地球まで戻れたってトコか。
 地球が滅びさえしなかったならば、SD体制なんぞは無かったわけだし…。
 そうなっていたら、人類とミュウは敵対する代わりに、自然と交代したんだろうしな。
 少しずつミュウの数が増えていって、人類とも自然に混じり合って。
「多分…。地球が滅びる前の時代の実験室でも、ミュウは生まれていたんだものね」
 育つ所まで行ったかどうかは分からないけど、ミュウ因子は分かっていたんだから。
 排除しちゃ駄目だっていうプログラムがあった以上は、ミュウも生まれていた筈で…。
 他の星へと移されてしまって、人工子宮で育つ時代が来ちゃったけれども、生き延びたよね。
 キーウィが頑張って生きてたみたいに、前のぼくたちも。
 そうやって地球に戻って来られんだよね、ミュウもキーウィも、今の青い地球に。



 前のブルーがミュウの姿を重ねたキーウィ。空を飛べなくて滅びかかった鳥。
 ミュウも同じに滅びかけたけれど、キーウィのように生き抜いた。受難の時代を越えて今まで。人間が地球に戻れる時が来るまで、ミュウという種族は滅びずに生きた。
 SD体制を倒してミュウの時代を築いて、自然出産で子孫を残しながら。
「…ミュウが頑張って地球に戻って、今の俺たちがキウイフルーツを食ってるわけだな」
 地球で育ったキウイフルーツを、きちんと追熟させてあるのを。
「キウイフルーツ…。結局、キーウィとは殆ど関係無かったんだよね」
 まるで無関係ってわけでもないけど、キウイフルーツはキーウィの島の果物じゃないし…。
「そうらしいよなあ、名産地ではあったみたいだが…」
 あの時、ヒルマンが言ってたっけな、ニュージーランドが名産地だから名付けただけだ、と。
 キーウィが棲んでた島がたまたま栽培に適していたっていうだけらしいしなあ…。
 元々の産地は別の所で、中国の南部だったっけか。
 其処からニュージーランドに運んで、沢山採れるから輸出しようって時にキーウィの名前を拝借しておいた、と。島のシンボルになってた鳥だし、姿も似てるし、丁度いい、とな。



 もっと深い関係があった方がミュウの船には相応しかったな、とブルーと二人で笑い合った。
 ミュウと重なって見えたキーウィと縁が深かったならば、キウイフルーツは白いシャングリラのシンボルにするのに良かったろうに、と。
 鳥のキーウィは飼えないけれども、キーウィの代わりにキウイフルーツを育ててゆく船。
 これを守ろうと、自分たちも鳥のキーウィのように頑張って生きてゆかねばと。
 残念なことに、前のブルーが期待したほどには深くなかったキーウィとの縁。
 だから誰もが何も気にせず、実る度に食べていたけれど。
 収穫した後、甘くなるまで追熟させては、美味しく食べていたのだけれど。
 毛だらけの果物、キウイフルーツは、懐かしいシャングリラの思い出の味。
 前のブルーが訊いたフルーツ、それを育てようと決まった席で。
 キーウィは関係あるのかい、と。
 この果物と鳥のキーウィは、何か繋がりがあるものなのかい、と…。




             キウイフルーツ・了

※シャングリラにもあったキウイフルーツ。わざわざ追熟させてまで、食べていた果物。
 その果物と鳥のキーウィを重ねて見ていた、前のブルー。ミュウに似ていた鳥だったのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(んーと…)
 これは素敵、とブルーが眺めた旅の案内。学校から帰って、おやつの時間に。
 新聞に載っていた記事の一つで、地球一周の船旅なるもの。こういう旅をしてみませんか、と。
 行きたくなった人のためにと、旅行会社の名前も幾つか書いてあるけれど。連絡先まで載ってはいるのだけれども、広告とは違うらしい記事。
 写真が沢山の記事を書いた記者が乗っただろう船、それの名前も分からないから。どんな設備の船だったのかも、どういう船室で旅をしたのかも。
 一度滅びて蘇った地球は、銀河系で一番の水の星。地表の七割を覆っている海、これよりも広い海を持った星など、未だに一つも見付かってはいない。
 青い水の星、母なる地球。
 それを見ようと、素晴らしい青い海が見たいと他の星からやって来る人も多い地球。
 「せっかく地球に住んでいるのだし、海を旅してみませんか」というのが記事の狙いで、地球を丸ごと旅したいなら、船に乗るべきだと書いてある。宇宙船ではなくて、本物の船。
 宇宙からだと地球の全貌を見られるけれども、周りをクルリと回れるけれど。遊覧飛行に行けるツアーもあるのだけれども、記者のお勧めは船だという。地球の海をゆく本物の船。
 大海原へと出て行ったならば、どちらを見ても水平線。地球は丸いと分かる緩やかな曲線、平らではない水平線。
(…海水浴とかに行った時でも分かるんだけど…)
 地球を取り巻く海も丸いということは。平らではないと分かる曲線は。
 小さかった頃に父に教えて貰った、「丸いだろう?」と。「地球はホントは丸いんだぞ」と。
 船で海へと漕ぎ出して行けば、どちらを向いても水平線しか無いと書かれた新聞記事。見ていた記者の感激が分かる、「地球は丸い」と海の上で実感していたことが。
 その海を旅して、やがて見えて来る島や大陸。
 港に入って見物する場所や、大きな船は入れないから上陸用のボートで行く場所や。
 地球の広さと魅力を満喫するなら船だ、と旅心をくすぐる記者の筆。断然船だと、宇宙船よりも船で一周するのがいいと。



 記者が体験して来た船旅、何枚も撮って来た写真。記者の姿は載っていなくて、それも狙いの内なのだろう。旅のエッセイを読んでいる気分、自分が旅をしたような気分。そういうワクワク感を与える、船で地球を周る旅の記事。これを読んでいるあなたも是非、と。
(地球を一周…)
 外洋に出て行ける大型船に乗って、地球を覆っている海をぐるりと回って。
 船で真っ直ぐ進んで行ったら何処かでぶつかる島や大陸、それを避けながら旅をしてゆく。船がぶつからないように。陸地へゆくなら港に入るか、ボートを使って上陸するか。
 宇宙船なら地球の上を真っ直ぐ飛んでゆけるのに、何処でも周ってゆけるのに。
(だけど、陸には降りられないよね…)
 船のようにはいかないから。港の代わりに宙航に降りて、離れる時にはまた宇宙へと。つまりは地球から遠ざかるわけで、いつでも地球の上とはいかない。
 船旅だったら、小さな島さえ見えない時でも地球は必ず側にあるのに。船の下はいつでも地球の海だし、地球を離れてはいないのに。
 それについても書いている記者、「地球の広さが分かりますよ」と。宇宙船ならアッと言う間に地球を離れてしまうけれども、船で行ったら一日かけてもこの海の果てが見えません、と。
 そういう海を回ってゆく旅、二ヶ月以上もかかるという。
 あちこちの島や大陸に寄っている時間を多く取ったら、もっと日数がかかる旅。
 宇宙船なら、地球一周の遊覧飛行は一泊二日で行けるのに。たった二日間の旅の間に、宇宙船は青い地球の周りを何周も回るらしいのに。
 けれども、二ヶ月以上もかけて地球を周るのが記者のお勧め。
 時間があるなら船に乗らねばと、遠い星へと旅をするより、地球の広さを知るべきだと。



 読めば読むほど、船に乗りたくなって来た。地球一周の旅に出る船に。
 両親と遊びに行った港で眺めた、見上げるように大きな船。ああいう船でゆくのだろう。地球を一周するのなら。長い船旅に出掛けるのなら。
(新婚旅行の時に行くには…)
 この船旅は長すぎる。地球の海をゆく旅に出るなら、ハーレイと二人で行きたいのに。
 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイと目指した地球。白いシャングリラで、いつか地球へと。
 何度も夢見た、約束の場所。地球に着いたらと、どれほどの夢を描いただろう。
 夢は夢のままで終わってしまって、辿り着けずに終わったけれど。
 ハーレイが一人で着いた地球には、青い海すら無かったけれど。
(だけど、地球まで来られたんだよ…)
 生まれ変わって、ハーレイと二人。
 前の自分たちが生きた頃には、何処にも無かった青い地球まで。
 その地球をぐるりと周る旅なら、ハーレイと一緒に出掛けたい。これが地球だと、地球の海だと語り合いながら、長い船旅。地球を離れずに地球を一周、宇宙船とは違う旅。
 行きたくてたまらないのだけれども、二ヶ月もかかる新婚旅行は無理だろう。
 ハーレイの休みが足りないから。そんなに休めはしないから。
 学校で一番長い休みは夏休みだけれど、夏休みを全部使っても無理。船旅を終えて戻るより前に始まってしまう新学期。
 夏休みは二ヶ月も無いのだから。長いけれども、そこまで長くはないのだから。



(ハーレイ、休めないのかな?)
 教師の仕事をしている以上は、二ヶ月もの休みは取れないだろうか。学校の仕事で何処かへ出張するならともかく、自分の都合で夏休みの続きにオマケの休暇を何日か付け足すことなどは。
 そうは思っても、行ってみたい旅。行きたい気持ちになってきた旅。
(いつか、宇宙から地球を見ようって…)
 ハーレイとそういう約束をした。
 今の自分は宇宙旅行をしたことが無くて、一度も地球を見ていないから。宇宙から見える地球の姿を肉眼で見てはいないから。
 結婚したなら、地球一周の遊覧飛行。青い地球を見られる部屋に泊まって、前の自分たちが夢に見た星を眺めながらの抱擁とキス。
 そうやって二人で宇宙から見る地球も素敵だけれども…。
(二ヶ月以上も海の上だよ?)
 上陸しての観光や食事の時間は取ってあっても、殆どの時間は海の上。眠っている間も船は海の上を進んでゆく。次の目的地へ向かって休むことなく、何処までも続く大海原を。
 それほどに長い旅をしたなら、水の星を実感できるだろう。地球は本当に水の星だと、青い海が地球を覆っていると。
 前の自分はアルテメシアで海を見たけれど、テラフォーミングで作られた海。海藻があって魚も泳いでいた海の広さは、地球のそれには遠く及ばないものだった。
 あの海でさえも充分に広く思えたのだから、地球の海となればどれほどだろう。二ヶ月以上もの旅をしないと一周出来ない地球の船旅、その船から地球を見てみたい。青い青い海を。
 とても行きたい旅だけれども、ハーレイの休みが取れるかどうか。
 そこが問題、ハーレイの仕事柄、取れそうもない二ヶ月以上もある休暇。
(やっぱり無理…?)
 難しいかな、と溜息をついて新聞を閉じた。行きたいけれども、ちょっと無理そう、と。



 食べ終えたおやつのお皿やカップをキッチンにいた母に返して、部屋に戻って。
 勉強机の前に座っても、頭から離れてくれない船旅。地球の海を船で回ってゆく旅。ハーレイの休みは取れそうもなくて、二人一緒には行けそうもなくて。
(でも、行きたいな…)
 ハーレイと二人で船に乗って。何処までも続く青い海の上を、地球の海の上を旅してみたい。
 前の自分が焦がれた地球。
 いつか行こうとハーレイと二人で目指していた地球、その地球へ来られたのだから。
 前の自分が生きた頃とは、まるで違う星になったのだけれど。
 青い水の星が蘇るためには、燃え上がるしかなかった地球。アルタミラで見た地獄さながらに、大地は崩れて、海もマグマで煮えたぎって。
 何もかもを飲み込み、燃やし尽くして地球は蘇った、炎の中から。
 火の中で新しく生まれ変わると伝わる不死鳥、フェニックスのように新しく生まれた地球。青い地球が再び宇宙に戻った、命を育む母なる星が。
 裂けて崩れてしまった大地は、姿を変えてしまったけれど。
 大陸の形はすっかり変わってしまったけれども、地球は地球。前の自分が夢に見た星。
 たとえ地形が変わっていようと、海の形が違おうと。



 青い地球ならそれで充分、と今の地球の姿を思ったけれど。
 学校で習った遠い昔の地球の地形を思い浮かべて、かなり変わったと頷いたけれど。
(…あれ?)
 そういえば、と思い出したこと。
 前の自分は知らなかったのだった、あの頃の地球の真の姿を。
 青い星だと騙されていたこともそうだけれども、その青い地球。前の自分が行きたかった地球。
 フィシスの記憶に刷り込まれていた地球、何度も何度も見ていた地球。
 これが本当の地球の姿だと、いつかは其処へと焦がれていたのに、あれは偽りの情報だった。
 今のハーレイに指摘されるまで、全く気付いていなかったけれど。
(…大陸も海も、全部、偽物…)
 マザー・システムは地球の情報を巧妙に隠し続けた、地形すらをも。
 どういう星かを知れば知るほど、人間は地球を求めるから。地球を見たいと、一目でいいからと探して行こうとするだろうから。
 地球を求める者が増えれば、探す人間の数が増えれば、何処かで綻びが生まれるもの。どんなに情報を隠しておいても、何処からか漏れてしまうもの。
 そうならないよう、マザー・システムは地球の姿を誤魔化した。人間が疑いを持たない程度に。
(前のぼくたちは、知っていたけど、知らないのと同じ…)
 地球の歴史は知っていたのに、歴史を築いた国が何処にあったか、それは怪しいものだった。
 東洋や西洋、その程度のことは知っていたけれど、地図を描けはしなかった。
 博識だったヒルマンやエラでも、描くことは出来なかっただろう。イギリスは島で、フランスは海を隔てた向こう側だと知識はあっても描けなかった地図。
 そういう具合にマザー・システムは地球を隠した、具体的なイメージを持てないように。



 地図が描けないほどだったのだから、無かった地球儀。
 前の自分が生きた時代は、地球儀が存在しなかった。地球儀は地球の模型そのもの、あったなら人は本物の地球を見たいと思い始めるから。
 それに航海図も無かったのだった、地図や地球儀が無いのと同じで。
(マザー・システム、酷かったものね…)
 フィシスが持っていた地球の映像、それさえも偽物だったくらいに。大陸や海の形をぼかして、本物とは変えてあったくらいに。
(…地球にだって、あれじゃ辿り着けない…)
 前の自分が本物なのだと信じて見ていた地球へ向かう旅は、全くの嘘。でたらめだった太陽系。惑星の配列も、位置すらも嘘で、あの通りに飛んでも地球には着けない偽りの航路。
 そんな時代に生きていたのが前の自分で、ハーレイもまたそうだったから。
(地球儀と、それに航海図…)
 いつかハーレイと暮らす時には、それを買おうと相談していた。
 ハーレイの書斎に大きな地球儀、そしてレトロな航海図。人間が地球しか知らなかった時代に、帆船で旅をしていた海。そういう時代の航海図がいいと、二人で眺めて旅をしようと。
 地球儀と、それに航海図。
 何処へ行こうかと、今はもう無い遠い昔の地球の大陸を、海を見ながら想像の旅。背中に広げた空想の翼、二人で自由に飛んでゆこうと。
 その旅に自分を連れて行ってくれるハーレイならば…。
(…連れてってくれる?)
 地球を一周する船旅にも。
 宇宙船から地球を眺める旅とは違って、地球の海を船で渡ってゆく旅。
 青く蘇った水の星の上を、偽物ではなくて本物の地球の青い海の上をゆく旅に。



 けれど、足りないのがハーレイの休み。二ヶ月以上も必要な休暇。
(無理だよね、きっと…)
 教師なのだし、どう考えても取れそうにない。夏休みよりも長い休暇は。
 もっと違った仕事だったら、長期休暇を取れる場合もあるのだろうに。二ヶ月どころか、三ヶ月とか四ヶ月でも。具体的な仕事は咄嗟に思い付かないけれども、きっとある筈。
 ハーレイの仕事とは別の仕事で、長い休暇が取れそうな仕事。あの船旅はそういう人たちが行くために存在するのだろうか。次の休暇はこれに行こう、と。
 そうなってくると、休暇が取れないハーレイだと…。
(引退するまで行けないとか…?)
 どんなに行きたいと強請った所で、長い休みは無理なのだから。
 二ヶ月以上もかかる地球一周の船旅は駄目で、宇宙から見る地球がせいぜい。くるりと一周してみたいのなら、地球を一周するのなら。
 宇宙船での遊覧飛行で地球を一周、それしか今は出来そうにない。一番長い夏休みを使って旅に出たって、地球一周の船旅にはとても行けないのだから。
(…引退するまで行けないだなんて…)
 そう考えたら、寂しい気持ちになってくる。
 引退するような年になるまで、ハーレイと二人であの船旅には行けないなんて、と。
 寂しくて悲しい気もするけれども、教師はハーレイの天職のようなものだから。
 柔道や水泳のプロになるより教師がいい、と選んだ職だと聞いているから。



(無理を言っちゃ駄目…)
 長い休みが取れる仕事をして、とは言えるわけがない。いくらそうして欲しくても。長い休暇を取って貰って、二人で旅をしたくても。
 地球一周の船旅のことは諦めよう、と小さな溜息をついた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ムクムクと頭を擡げる我儘。
 テーブルを挟んで向かい合っていたら、「行ってみたいよ」と強請りたくなる。あの船旅に。
 無茶だと分かっているけれど。ハーレイが教師を辞める筈など無いのだけれど。
「…俺の顔に何かついてるか?」
 さっきからじっと見てるようだが、と訊かれたから。
「そうじゃなくって…」
 ハーレイと旅行に行きたいんだよ。宇宙船じゃなくって、本物の船で。
 大きくなったら、いつかハーレイと結婚したら。
「船って…。豪華客船か?」
 プールもジムもついてるらしいな、豪華客船というヤツは。
 ホテルを丸ごと船に乗せたみたいに、中だけで何でも出来るそうだが…。
「んーと…。別にそこまで豪華でなくてもいいんだけれど…」
 多分、大きな船だとは思う。とっても長い旅に出る船だから。
 …地球を一周してみたいんだよ、船に乗って。
「ほう…?」
 本物の船で地球を一周か。そいつは楽しそうではあるな。
「でしょ? 今日の新聞にね、旅の案内が出てたんだけど…」
 新聞記者の人が乗って出掛けて、お勧めだって書いてたんだよ、船に乗って地球を一周する旅。
 記事を読んだら凄く素敵で、ぼくも行きたくなったんだけど…。



 でも二ヶ月以上もかかるんだって、と項垂れた。
 そんなに長くは、ハーレイはとても休めないよね、と。
「俺の仕事か?」
「うん…」
 夏休みを全部使っちゃっても、二ヶ月にだって足りないし…。
 続きにもっと休みを取るなんてことも、先生だったら出来そうにないし…。
 地球一周、引退するまで無理だよね?
 ハーレイが仕事を辞めてからでないと、あんな旅行には行けないよね…。
「おいおい、勝手に決めるんじゃないぞ」
 チビはチビなりに考えたんだろうが、やっぱりチビだな。仕事ってヤツを分かっていない。
 教師をしていりゃ、一番長い休みは確かに夏休みだが…。
 二ヶ月にさえも足りないわけだが、俺は今の俺だ。
 休みってヤツが全く無かったキャプテン・ハーレイの時代じゃないんだ、今の時代は。
「キャプテン・ハーレイって…。キャプテンに休みは無かったけれど…」
 毎日ブリッジに行ってたんだし、休憩してても連絡が来たりしていたけれど…。
 今のハーレイ、夏休みの他にも休めるの?
 夏休みよりも長いお休み、学校の先生をしている人でも取っちゃっていいの?
「ちゃんと希望を出しておけばな」
 新年度ってヤツが始まった後に出したとしたなら、「馬鹿か」と叱られちまうんだが…。
 もっと早い時期に、新しい年度の担任とかが決まるよりも前に出しておいたら、希望は通る。
 今の俺みたいに担任のクラスが無い状態にしてくれるんだな、休みを取ってもいいように。
 担任しているクラスが無ければ、後は休暇の間の俺の代理を決めるってだけで…。
 他の先生が担当してくれるわけだ、俺の授業を。
 休暇が済んだら、その先生から俺に戻って授業の続き。そんな具合でいけるってことさ。



 教師でも長い休暇は取れる、と話したついでに、ハーレイが教えてくれた今の時代の仕事事情。
 お前はチビだから、そう詳しくは知らないだろう、と。
 前の自分たちが生きた時代と違って、平均寿命が三百歳を軽く超えている世界。
 人間はみんなミュウなのだから、長生きな上に若い姿を保ってゆける。
 そういう時代に、何歳まで働くかは個人の自由。決まりは全く無いらしい。どんな仕事も。
 一度仕事を辞めたとしたって、また働くのも個人の自由。
「親父なんかはそのクチだな」
「ハーレイのお父さん?」
 今は仕事はしていないけれど、いつか何処かへ働きに行くの?
「どうするかは親父次第だが…。当分の間は、今のままだと思うんだが…」
 もう充分に働いたから、と楽隠居中なのが今の親父だ。
 しかしだ、気が向いたらまた働くのも悪くないな、と言ってるんだよな、親父はな。
 好きな時に釣りが出来る職場があったら、あの親父なら行きかねん。
 漁師もいいな、と半分本気だ、海は遠いから川で漁師だ。
「…漁師さんなら、釣りはホントに仕事だけれど…」
 ハーレイのお父さん、プロの漁師さんになっちゃうの?
 川で魚を獲る漁師さんは、向いているかもしれないけれど…。
「向いてるどころか、ピッタリだろうさ。今でも充分、プロ並みの腕を持ってるからな」
 だから、俺にもそういうコースはあるんだが…。
 適当な所で一度辞めてだ、何年か好きに過ごしてからまた古典の教師に戻ってみるとか。
「ふうん…。ぼくのパパはずっと働くのかな?」
 辞めたりしないで働くのかなあ、パパはまだまだ若いんだけど…。
 ハーレイとあんまり変わらないけど、どうするんだろ?
「さてな?」
 お父さんの考え次第だろうなあ、辞めちまうのも、ずっと働き続けるのも。
 俺の意見を言わせて貰えば、適当なトコで辞めて楽隠居なタイプだと思うんだがな。



 どう働くかは個人の自由。今の時代は、そういう時代。
 前の自分たちが生きた頃とは全く違っている時代。機械が仕事を決めたりしないし、働く期間も自分で選べる。この年までとか、もっと長くとか。
 深く考えたこともなかったけれども、自分が住んでいる辺りでは…。
「ウチのご近所さん、みんなのんびりだよ?」
 お孫さんがいるような人は、家にいる人ばかりじゃないかな。学校の帰りにいつも会うもの。
 庭の手入れをしている人とか、散歩している人だとか。
「何処に行っても似たようなモンさ」
 お前の家の近所に限らず、今は何処でもそうだってな。地球だけじゃなくて、他の星でも。
 あくせく働く時代じゃないんだ、機械が命令したりしないし、監視しているわけでもないし…。
 大抵の人は若い世代に次を譲って、引退するって所だな。
 若いヤツらに「もっと仕事を教えて欲しい」と頼まれた人や、好きで働く人以外は。
 中にはいるしな、幾つになっても働いていないと落ち着かないっていう人間も。
「じゃあ、ハーレイもその内、辞めるの?」
 先生の仕事を辞めてしまうの、孫が出来てもおかしくないような年になったら。
 …ぼくたちに子供は生まれないから、孫も生まれはしないんだけど…。
「それがだ、前の俺の記憶が何処かに残っていたせいなのか…」
 まるで考えていなかったんだよなあ、引退するっていうコース。
 身体と元気が続く限りは、現場で働いていたかったんだ。
 後進を育ててゆくってヤツだな、教師の方でも、柔道の指導をしてる方でも。
 前の俺は一生、働き続けていたわけだから…。
 地球の地の底で死んじまうまで、ずっとキャプテンのままだったしな。



 シドを任命し損なったし、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 次のキャプテンがいなかった以上は、死んだ瞬間までキャプテンの職に就いたままだ、と。
「最後まで働き続けていたって記憶がしみついてたのか、今の俺の方もそういうつもりで…」
 働ける間は働いてやろう、と思ってたわけだ、記憶が戻る前からな。
「それじゃ、ハーレイ、辞めないの…?」
 年を取っても、ずっと仕事を続けていくわけ、先生の…?
 凄いベテランになれそうだけれど、ホントに最後まで仕事をするの…?
「どうだかなあ…。お前に会ったし、辞めるかもしれん」
 お前と二人でやりたいことが山ほどあるだろ、だから仕事を辞めるのもいい。
 引退してのんびり、二人で旅行だ。いろんな所へ。
 だがなあ、そいつはまだまだ先の話ってことで、俺はまだまだ働き盛りで…。
 引退よりかは休みを取るかな、お前が旅に出たいんだったら。
 二ヶ月以上もかかると言ったし、何処かで三ヶ月ほどな。
「…いいの?」
 休んじゃったら、その後がとっても大変じゃない?
 何処まで授業が進んでいたのか、これから何を教えるのかとか、そういう引き継ぎ。
 休む前にも引き継ぎがあるよね、ハーレイの代わりをする先生と。
「なあに、そのくらいの手間は大したことではないってな」
 俺が何年教師をやってると思っているんだ、引き継ぎなんかは得意技だぞ。
 学校を変われば、その度に色々あるからな。
 教える授業の方もそうだし、生徒もガラリと変わるわけだし…。
 引き継ぎを面倒がってるようでは、教師ってヤツは出来ないな、うん。



 休暇を取って旅行に行くか、とハーレイは優しく微笑んでくれた。
 お前が行きたいと言うのなら、と。
「前のお前の夢だろうが、地球は」
 俺と行こうと、前のお前はずっと夢を見て、それなのに寿命が来ちまって…。
 もう行けないと泣いていたよな、俺の腕の中で。
 俺と別れるのも辛かったろうが、地球に行けないのも悲しかった筈だぞ、前のお前は。
「そうだけど…。ハーレイと二人で行きたかったから…」
 いつか行けると思っていたから、行けないことが分かっちゃったら、悲しかったよ。
 ハーレイと一緒に地球を見るのはもう無理なんだ、って。
「お前の泣き顔、今でも覚えているからな…。せっかくの地球だ、旅もしないと」
 本物の地球に来られたんだし、結婚したら地球儀と航海図を飾るんだろう?
 前の俺たちが生きてた頃には無かったヤツだが、今は売られているんだからな。
 そいつを眺めて旅をしようと話してたじゃないか、お前と二人で。
 昔の地球のままの地球儀と、うんとレトロな航海図で。
「…覚えてたの?」
 地球儀を買おう、っていう話。…それに航海図も。
「こういう話をしていれば自然に思い出すだろうが」
 地球一周だの、船旅だのと。
 一周するなら地球儀の出番で、船旅だったら航海図だ。
 …もっとも、今の地球の海を旅してゆこうって時は、昔の地球のは全く役には立たないがな。



 その旅に行くには別の地球儀や航海図が必要になるんだろうな、と笑うハーレイ。
 地形が変わってしまった地球では、昔のものだと意味が無いから、と。
「まあ、買わなくても旅は出来るわけだが…」
 俺が動かすわけじゃないしな、地球一周に出掛ける船は。
 プロの船長が乗ってるんだし、航海士だって大勢乗っているんだろうし。
 右も左も分からない客が乗っていたって、船は迷子になりはしないし、任せておけば安心だ。
 ちゃんと地球を一周出来るぞ、俺もお前も地理が全く分かってなくても。
 …そしてだ、前の俺たちには見られなかった夢が見られる。
 地球儀も航海図もあるんだからなあ、それを見ながら此処を旅して、こう回って、と。
 同じ行くなら、理想の航路で行ける船旅を選ばないとな、地球一周の旅は。
「理想って…。幾つもあるの?」
 地球を一周するための航路、一つだけしか無いわけじゃないの?
「もちろんだ。海はデカイし、地球は広いぞ」
 俺もそれほど詳しくはないが、その手のツアーの案内を見るのは好きなんだ。
 一番人気が高い航路というヤツはだな…。



 かつての地球の七つの海を旅してゆくのを思わせる航路。
 それを行く船が人気だという。地球を一周する船旅の中でも、一番人気でツアーも多い。
「昔の地球って…。それに乗りたい…!」
 地球はすっかり変わっちゃったけど、前と同じじゃないけれど…。
 少しでも前と似てるのがいいよ、前のぼくたちが生きてた頃には昔と変わっていなかったもの。
 生き物が住めない星だっただけで、地形は昔のままだったもの…。
 どんなに情報がぼかされていたって、前のぼくたちが騙されてたって、地球は本物。
 あの頃のぼくが地球まで行けていたなら、そういう地形があったんだもの。
「だろうな、お前ならそう言うだろうと俺にも予想がついた」
 前のお前が見たかった地球に、少しでも近いのがいいんだろうと。
 ついでに、一番人気の航路。…俺の夢でもあるんだ、これが。
 キャプテン・ハーレイだった俺の記憶が戻って以来の夢だな、船に乗って地球を一周するのは。
 地球の海を隈なく見て回りたいんだ、俺のこの目で。
 前の俺は赤茶けちまった地球しか見られずに死んじまったし…。
 青い地球なんぞは何処にも無くって、おまけに地球を周ってもいない。シャングリラを降りて、そのまま地球で死んでるからなあ、一周している暇は無かった。降りたってだけだ。
 だから今度は見てみたいわけだ、本物の地球はどんな具合か。
 シャングリラじゃなくて、海を渡っていく船で。
 地球は丸いと分かる海をだ、船で行くのが最高だってな。地球を一周してみるのなら。



 断然、船の方がいいんだ、とハーレイは新聞の記事を書いていた記者と同じことを言った。
 一周するなら船に限ると、その方が地球の広さが分かると。
「それにだ、宇宙じゃないってトコがいいんだ、海は海でも本物の海だ」
 前の俺は船乗りでキャプテンだったが、乗っていた船は宇宙船だし、星の海しか旅していない。
 本物の海はシャングリラで上から眺めただけでだ、一度も旅しちゃいないんだから。
「そうだね、前のぼくだって同じ…」
 シャングリラの外へは出ていたけれども、アルテメシアの海も見たけど…。
 船に乗ってたことなんか無いし、前のぼくが船で旅をしたのも星の海だけだよ。
 なんだか凄いね、今度は本物の海の上を船で行けるだなんて。…それも地球の海で。
「まったくだ。海の上だと星も綺麗だぞ、そいつは今の俺が保証する」
 宇宙に来たかと思うくらいだ、もう満天の星空だってな。
 夜に船で海の真ん中に出たら、空から星が降って来そうなほどに。
「…ホント?」
 星が落ちて来そうなくらいに凄いの、夜の海から空を見上げたら?
 ぼくは夜には乗ってないから…。船は昼間しか乗ったことが無いから、見たことないよ。
「俺は親父と何度も乗っているしな、夜釣りってヤツで」
 釣りをする時には魚を呼ぶために明かりを点けるが、それまでは暗い海の上だ。
 町の明かりが届かないからな、その分、星が綺麗に見える。
 家が少ない所に行ったら天の川が見えるのと同じ理屈だ、海の上だともっと凄いがな。
 本当に宇宙を見ているようだぞ、星が瞬きさえしなければ。



 前の俺たちが旅した宇宙を見上げながらの船の旅だ、と聞いたら余計に行きたくなる旅。
 昼の間は青い海を見て、夜になったら船の上に星の海までが見えるというから。
「…行きたいな…」
 地球を一周する船の旅に行ってみたいな、ハーレイと一緒に。
 昔の地球の海に近い所を通る航路で、地球をぐるりと回ってみたいな…。
「俺も同じだと言っただろうが。俺の夢だと」
 上手く休みを取るとするかな、いつかお前と結婚したら。
 新婚旅行で行くのは無理だが、その内にきっと休みを取ろう。余裕を持って三ヶ月ほど。
 それだけあったら充分行けるぞ、俺たちが行きたい地球を一周しようって旅に。
「いつか行こうね、約束だよ。引退よりも前に、お休みを取って」
 そうだ、地球儀と航海図も持って船に乗らない?
 昔の地球のヤツでいいでしょ、ハーレイがキャプテンじゃないんだから。
 今はこの辺りを通ってるのかな、って眺めたらきっと素敵だよ。
 二ヶ月以上も船に乗るなら、そういうのも持って行きたいな。家にいる気分になれそうだし。
「おっ、いいな!」
 俺たちの家の一部と一緒に旅をするわけか、そいつはのんびり出来そうだ。
 此処も俺たちの部屋に違いない、と落ち着けそうだぞ、地球儀と航海図を飾っておいたら。
「そうでしょ?」
 落ち着けるし、それに役にも立つし…。
 昔の地球の地形のヤツなら、昔の地球の海を旅してる気分。
 本当はすっかり変わっていたって、気分だけでも、前のぼくたちの頃の地球なんだ、って…。



 前の自分たちが生きていた頃の地球を写した地球儀とレトロな航海図。
 それをお供に、いつか二人で地球の海の上を旅してゆこう。
 前の自分たちが目指した地球。
 其処へ二人で来られたのだから、地球をゆっくり眺めてみよう。
 こんなに広いと、まだまだ海が続いてゆくと。
 ハーレイと二人で本物の海を、本物の地球の広さを知ろう。
 いつか、そういう旅をする。
 青い地球の海を船でぐるりと、シャングリラで宇宙から周るよりも遥かに長い船での旅を…。




             船でゆく地球・了

※ブルーが行きたいと思った、船で青い地球を一周する旅。ハーレイの夢も同じだったのです。
 いつかハーレイが休暇を取って、二人で船旅。レトロな地球儀と航海図を眺めながら…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(んーと…)
 可愛いかも、とブルーが眺めたポニーの写真。
 学校から帰って、おやつの時間に広げた新聞、その中の記事。動物園の子供の国にいるポニー。子供たちが動物と遊べるように、と設けられている子供の国に。
(小さかった頃に…)
 ポニーの背中に乗せて貰った、両親と一緒に出掛けて行って。係の人に抱き上げられて。
 きちんと鞍もついていたから、子供の目には立派な馬に見えたのだけれど。得意になって背中に乗っていたのだけれども、新聞の記事に載っているポニーは…。
(今、見たら小さい…)
 飼育係の隣に立っているポニー。記憶では大きな馬だったけれど、子馬のようにも見えるほど。本物の馬はもっと大きいと知っているから、ずいぶん小さかったと分かった。幼かった頃に乗ったポニーは。頼もしい背中をしていた馬は。
 けれどポニーは力持ちだとも書いてある。人を乗せていても、時速四十キロくらいは充分出せる馬だと。子供ではなくて、大人が乗っても。
 それを読んだらホッと安心、今よりもずっと小さかった自分は全く重くはなかっただろう。何か背中に乗っているな、と思われた程度だっただろう。力持ちなポニーだったのだから。
(他にも色々…)
 子供の国にいる動物たちの写真。幼稚園の頃の自分が仲間になりたいと願ったウサギもいれば、リスも手乗りの鳥たちも。
 「大人の方も是非どうぞ」とも書かれてあった。子供の国でも遠慮しないで、と。
 動物園は子供たちだけのための場所ではないから、動物たちと遊びに来て下さいと。



 子供の国は楽しそうだし、他の動物たちを見て回るのも面白いだろう。鼻のシャワーで水浴びをしている象を眺めたり、カバの欠伸で口の大きさを実感したり。
 他にも色々、見るものは沢山ありそうだけれど。ライオンもキリンも好きだけれども…。
(やっぱり、子供が行く場所だよね?)
 大人の方もどうぞ、と書かれる辺りからして、動物園の主なお客は子供。行きたがるのも子供が殆どなのだろう。ポニーに乗ったり、ウサギやリスと遊びたがるような年頃の。
(ぼくだって、ハーレイとデートするなら…)
 動物園に連れて行って、と頼みはしないという気がする。なんだか少し子供っぽいから。
 水族館とか植物園ならデートにも向いていそうだけれども、動物園はちょっと、と。
 なにしろ子供が主役の所で、子供の国とは違う場所でも、きっと子供がいることだろう。両親に連れられてやって来た子や、幼稚園などの先生に引率された子供たちやら。
(大人が行くなら、子供連れで…)
 動物園はそういう所。小さな子供を連れてゆく場所、動物たちに会いたがる子を。
 けれど、自分は産めない子供。
 いつかハーレイと結婚したって、子供は決して生まれて来ない。新しい小さな家族は増えない、動物園に行きたがる子は。



 だからハーレイと一緒に動物園には行かないよ、と新聞を閉じて戻った部屋。おやつのケーキは食べてしまったし、紅茶も綺麗に飲み干したから。
 勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。動物園とは縁が無さそう、と。
(ぼくたちに子供はいないんだから…)
 ハーレイと二人で出掛けて行っても、少数派。動物園でデートというのは聞かないから。
 連れてゆく子供がいない以上は、動物園にはきっと行かないだろう。男同士では子供は生まれて来ないし、「動物園に連れて行って」と強請られることも無いのだから。
(子供、欲しいとは思わないけれど…)
 欲しいかどうかも考えたことすら無かったけれども、ハタと気付いた今の世の中。
 自分たちのように子供が出来ないカップルの場合、養子を迎えることも多いのだった。男同士や女同士のカップルだけれど子供はいます、という人たち。
 ただし、肝心の養子になる子は、気長に待つしかないのだけれど。
 前の自分が生きた時代と違って、自然出産に戻った時代。おまけに平和で、豊かな世界。両親を失くした可哀相な子供は滅多にいないし、引き取ろうという親戚の数も多いのだから。
 養子を迎えたいカップルは確か登録するのだったか、役所に行って。そうしておいたら、いつか子供が見付かった時に連絡が来る。この子を育ててみませんか、と。
 そういう時代に生まれて来たのに、子供が欲しいとも全く思っていなかった自分。子供は決して生まれないから、いないものだと頭から決めてかかっていた自分。
 養子を迎える気にならないのは、前の自分の記憶を持っているからだろうか?
 機械が子供を作った時代に生きていたから、子供は誰でも必ず養子だったから。機械が養父母を勝手に選んで、其処へ子供を届けていたから。



 マイナスのイメージしか無いのだろうか、と思った養子。前の自分が出会った幼い子供たち。
 養父母の家で育っていたのに、ミュウだと分かってシャングリラに来るしか無かった子供。
(アルテメシアにも動物園があったけど…)
 エネルゲイアにもアタラクシアにも、それは立派な動物園。人類の親子連れに人気だった施設、いつ見てもいた子供たち。養父母と一緒に、はしゃぎながら。
 白いシャングリラに動物園は無かったけれども、作ろうとも思っていなかった。自給自足で船の中だけが全ての世界。無駄な生き物は乗せられないから、動物園などは夢のまた夢。
(でも、サイオニック・ドリームでなら…)
 見せてあげられたのかもしれない、あの子供たちも好きだったのだろう動物園を。
 あるいは立体映像を使って、専用の部屋で様々な動物を見られるようにしておくだとか。
(……動物園……)
 作ってあげれば良かったと考えるのは、今の自分が動物園を知っているからだろう。楽しかった思い出を失くさないままで、大きく育ったからだろう。
 前の自分は全く思いもしないで、ヒルマンたちにしても事情は同じ。動物園の案は出なかった。
 子供たちのために動物園をと、誰も考えなかった船。
 今とは何かと事情が違った、動物園にしても、それが好きだったろう子供たちにしても。
 動物園に出掛ける親子たちは皆、血が繋がってはいなかった。子供は養子で当たり前。動物園で作った思い出でさえも、いつかは子供の記憶から消える。
 成人検査で不要と判断されたなら。大人になるには要らないものだと、機械が判断したならば。
 子供たちのための情操教育、そのためだけにあった動物園。
 将来に役立つような思い出を持っていなかったならば、動物園の記憶は消されておしまい。ただ漠然と残る程度で、動物の知識があれば充分。



 そういう時代に、前の自分は生きていた。白いシャングリラの子供たちにも動物園を、と考えもしなかったような時代に。今とは全く違った世界に。
 今の自分なら、動物園を作るだろうに。子供たちがきっと喜ぶから、と長老たちを集めた会議で案を幾つも出すのだろうに。
(それじゃ、子供も…)
 今の時代に生まれたからには、欲しいと思うべきなのだろうか。
 ハーレイとの間に子供が欲しいと、二人で育ててゆきたいと。前の自分は夢にも思わず、子供は考えもしなかったけれど。
(ハーレイとの子供…)
 結婚するなら、やはり子供は欲しいと思うのが普通だろうか。今の時代は。
(でも、生まれないし…)
 男の自分は子供を産めない。どう頑張っても作れはしない。
 養子はちょっと、と思うけれども、前の自分の考え方を引き摺ったままで生きているのが自分。
 今では養子の事情も変わった、そう簡単には貰えない養子。
 機械が作って、勝手に選んで渡されるのとは違った子供。登録しておいて長い間待って、やっと貰える自分たちの子供。十四歳になっても、成人検査で取り上げられることはない子供。
 そういう養子を育てているカップルが存在する世界ならば、考え方もやはり変わるだろう。
 自分は何とも思っていなかったけれど、今の自分よりも長い時間を生きているハーレイ。
 今の世界で三十八年も生きたハーレイの方は、子供が欲しいのかもしれない。
 そういう話題にならなかっただけで、ハーレイは欲しいかもしれない子供。
 いつか結婚したら子供が欲しいと、二人で子供を育ててゆこうと。



(だったら、子供…)
 養子を貰うべきなのだろうか、ハーレイが子供が欲しいなら。育てたいと思っているのなら。
 それに、今の自分とハーレイの両親たちのためにも、子供は必要なのかもしれない。
 ハーレイも自分も一人息子で、他に兄弟はいないのだから。
 両親たちに孫の顔を見せてあげたいのならば、養子を貰うべきだろう。血の繋がっていない子供でも、今の時代は養子も実子も同じ扱い。本物の子供。
 ハーレイには子供、両親たちにとっては孫になる養子。そういう子供が必要だろうか?
(どうなの…?)
 子供は要るの、と急に心配になってきた。
 思ってもみなかった、自分たちの子供。ハーレイと二人で育てる子供。
 いつも結婚ばかりを夢見て、幸せな将来ばかりを思い描いて生きて来たけれど、その中に子供の姿は無かった。ただの一度も。
 頭に浮かぶ夢と言ったら、ハーレイと二人で暮らすことだけ、二人でやりたいことばかり。
(ぼく、勝手すぎた…?)
 あまりにも自分勝手な夢ばかりを見て、自分が世界の中心になっていたろうか。ハーレイは自分一人のものだと、二人きりで暮らしてゆくのだからと、周りが見えてはいなかったろうか。
(…子供…)
 ハーレイが欲しいと言うのだったら、考え方を改めなければいけないだろう。
 最初はハーレイと二人きりでの暮らしであっても、いつかは子供。登録して待った子供を迎えて家族が増える。新しい家族を二人で育てる。
(赤ちゃんが来るか、少し育った子供が来るか…)
 それは全く分からないけれど、どちらでもきっと大丈夫だろう。
 幸い、子供は前の自分だった頃から好きだし、大切に育てられる筈。
 ハーレイと二人きりの生活は消えて無くなるけれども、子供のいる家もいいものだろう。自分は欲しいと思わないけれど、ハーレイがそれを望むなら。
 子供が欲しいと思っているなら、二人で子供を育ててゆこう。縁あって家に来てくれた子を。



 いずれは子供を育ててゆくのか、ハーレイと二人きりで生きてゆく方なのか。
(ハーレイに訊かなきゃ…)
 子供が欲しいのか、そうではないのか。忘れないで訊ければいいんだけれど、と考えていたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。
 これは訊かねば、とテーブルを挟んで向かい合うなり、こう切り出した。
「ねえ、ハーレイは子供は好き?」
 赤ちゃんも、少し育った子供も、大きな子供も。
「好きだぞ、もちろん」
 でなきゃ教師をやっているわけがないだろうが。子供相手の仕事が殆どなんだから。
 道場で指導もしてないだろうな、子供が好きでなければな。…自分の技を磨くだけなら、指導でなくても対戦相手はいくらでもいる。腕が立つ大人しか来ない時間もあるんだから。
「そっか…」
 ハーレイ、子供が好きなんだ…。前のハーレイも子供好きだったけど…。
「おい、どうかしたのか?」
 俺が子供を好きなのかどうか、そんなのを訊いてどうするつもりだ?
 そもそも、お前が子供だろうが。まだまだ立派にチビなんだから。
「んーとね…。子供、好きなんだったら…」
 ハーレイ、やっぱり子供が欲しい?
「はあ?」
 子供ってなんだ、なんの話だ?
 欲しいかどうかって、子供はその辺で拾えやしないぞ、いくら好きでも。



 拾って帰ったら人攫いじゃないか、とハーレイが両手を軽く広げてみせるから。
 懐かれても連れて帰れやしない、と肩も竦めてみせるから。
「違うよ、他所の子供じゃなくって、ぼくたちの子供」
 結婚した後に欲しいかどうかって訊いてるんだよ、ぼくとハーレイとで育てる子供。
「おいおいおい…」
 気が早すぎるにもほどがあるだろう、お前。今、何歳だ?
 最短コースで結婚したって十八歳だぞ、何年あると思っているんだ。
 それに子供は生まれないが…。
 いくらお前がチビにしたって、そのくらいは分かる筈だがな?
 男同士じゃ、子供は生まれはしないってことは。
 …もっとも、前の俺たちが生きた時代は、ごくごく普通のカップルでも子供は出来なかったが。
 あの時代の子供は人工子宮で作られるもので、結婚したって決して生まれやしなかった。
 トォニィが生まれてくるよりも前は、何処のカップルでも子供は養子で…。
「でしょ?」
 だからね、前のぼくは本物の子供というのを知らないんだよ。
 トォニィたちには会ったけれども、本当に会ったというだけだから…。
 お母さんのお腹から生まれて育っていく姿を見てはいないし、ホントに知らないのと同じ。
 自然出産で生まれた子です、って聞いたら凄いと思ったけれど…。
 本当に本物の子供なんだ、って感動したけど、そのことを深く考えるよりも前に死んじゃった。
 前のハーレイとぼくが男同士じゃなかったんなら、子供が生まれるんだってこと。
 それに気付くよりも先に死んじゃったんだよ、前のぼくには時間が残っていなかったから…。



 そのせいで頭が回らなかった、と打ち明けた。
 結婚したなら普通は可愛い子供が生まれて、二人で育ててゆくものなのに、と。
「…ぼくはまだ十四年しか生きてないから、前のぼくの考え方に近いみたいで…」
 普段はそうでもないんだけれども、子供についてはそうみたい。
 前のぼくが欲しいと思っていなかったせいで、要らないと思っているんだよ、きっと。
 ハーレイと二人で暮らすことしか考えてなくて、いつも子供のことなんか抜きで…。
 結婚したらやりたいことが山ほどあるのに、子供は入っていないんだよ。…ぼくの夢には。
 ぼくは欲しいと思ってないけど、ハーレイは欲しい?
 せっかく結婚出来るんだものね、二人で子供を育ててみたい…?
「うーむ…。俺とお前の子供ってことか…」
 本当にお前が産むんだったら、欲しくないこともないんだろうが…。
 お前と二人きりの時間が減るとしてもだ、欲しいと思っちまうんだろうが…。
「やっぱり?」
 ハーレイは子供、欲しいんだね?
 ぼくとハーレイとで育てていく子。…二人きりの時間が減っちゃっても。
「そりゃまあ、なあ…。子供は好きだし、俺の家には子供部屋まであるからな」
 いつか子供が生まれた時には使うつもりでいたのは確かだ。…そのための子供部屋なんだから。
 しかしだ、お前を嫁さんに貰う以上は、そいつは出来ない相談だし…。
 お前は子供を産めやしないし、諦めるしかないってこった。
 とうの昔に覚悟は出来てる、それで後悔したりもしない。子供は無しの人生でもな。
 お前さえいれば俺は充分、幸せに生きていけるんだから。
 生まれるわけがない子供まで欲しいと欲張っていたら、ロクなことにはならんと思うぞ。
 神様の罰が当たっちまって、今度もお前を失くしちまうとか…。



 それは勘弁願いたいから、とハーレイは子供は要らないらしい。
 子供は好きだと聞いたのに。…今の自分が産めるのだったら、本当に欲しいらしいのに。
「ねえ、子供…。ぼくは産んではあげられないけど…」
 養子だったら貰えるよ?
 どのくらい待つのか分からないけど、登録しておけば養子を貰える仕組みがあるでしょ?
 それで子供を貰ったカップルみたいに、ぼくたちも養子。
 ハーレイと二人で育てられるよ、ぼくたちの子供。
 …そういう子供を貰ってもいいよ、ぼく、頑張って育てるから。ハーレイとぼくの子供だもの。
「養子という手は、確かにあるが…」
 前の俺たちが生きた時代のことを思えば、今の養子は本物の子供並みではあるが…。
 しかし、養子は貰わなくてもいいんじゃないか?
 いや、貰わない方がいいだろう。…俺たちの場合は、その子供は。
「なんで?」
 どうして貰わない方がいいわけ、ぼくたちが男同士だから?
 今の時代は男同士のカップルの子供も、そう珍しくはない筈だけど…。
 うんと幸せに育ててあげたら、きっと子供も喜びそうだよ。
 ハーレイみたいなお父さんがいたら、絶対、自慢出来るもの。世界一のお父さんなんだ、って。
 柔道も水泳もプロ級なんだし、料理も得意で、カッコ良くて…。
「それを言うなら、お前の方だって自慢の親になれそうなんだが…」
 不器用すぎるサイオンはともかく、見た目はソルジャー・ブルーだからな。
 もうそれだけで自慢の種に出来るってモンだ、スポーツも料理もまるで駄目でも。
 だが、俺たちには子供はいない方がいい。
 自然に生まれて来たならともかく、貰ってまではな。



 それだけはやめた方がいい、とハーレイの顔から消えた笑み。養子は駄目だ、と。
「…お前、今度は俺と一緒に死ぬとか言っていないか?」
 独りぼっちで残りの人生を生きるよりかは、俺と一緒に死ぬ方がいいと。
 お前の寿命が縮んじまっても、まだ生きられる命を捨てちまっても。
「言ってるけど…。だって、独りぼっちは嫌だもの」
 前のハーレイを独りぼっちにしてしまったけれど、悪かったと思っているけれど…。
 それとこれとは話が別だよ、ぼくは一人じゃ寂しくて生きていけないから…。
 ハーレイと一緒に連れて行ってよ、その方がいいに決まっているから。
「それだ、そいつが問題なんだ」
 お前が俺と一緒に死ぬってことはだ、もしも養子を貰っていたら…。
 両親をいっぺんに失くしちまうんだぞ、その子供は。
 事故でもないのに、二人ともを。…そんな可哀相なことが出来るか、自分の子供に。
「でも…。子供だって大きくなってるんだよ、その頃には」
 とっくに子供じゃなくなっているし、結婚して子供も孫も、曾孫もいるんだろうし…。
 もう寂しいって年でもないから、大丈夫だろうと思うけど…。
「それは違うな、お前は大きな考え違いをしているぞ」
 たとえ何歳になっていたって、自分の親は親なんだ。
 生みの親だろうが、育ての親だろうが、自分の親には違いない。
 物心ついた時からずっと一緒で、その前からも育ててくれてた大切な人で、代わりはいない。
 失くしちまったら、心にぽっかり穴が開いちまって、その穴は二度と埋まらないんだ。
 時が経ったら穴は少しずつ塞がりはするが、完全に消えてしまいはしない。
 そんな穴がだ、一度に二つも開いちまったら、可哀相すぎるぞ、俺たちの子供。
 幸せに育っていればいるほど、穴はデカいのが開くんだから。
 …前の俺がお前を失くしている分、今の俺にも分かる気がするな。どんなに悲しくて辛い思いをすることになるか、まだ未経験な今でもな…。



 ハーレイの両親は健在だけれど、今の年まで生きて来た間に出会ったという幾つものケース。
 肉親を亡くした人の悲しみ、それをハーレイは見聞きしていた。
 今は人間は皆ミュウになって、姿だけでは本当の年が分からないほどに誰もが若い。年を取った人でも自分の好みで老けたというだけ、中身は元気で達者なもの。かつてのゼルやヒルマンがそうだったように。
 寿命を迎えて身体が衰え始めていっても、姿は変わらず若いまま。ソルジャー・ブルーの晩年のように、若い姿を保ったまま。
 そうして命の灯だけが弱くか細くなっていった末に、フッとかき消えてしまうから。元気だった頃の姿そのままで、魂だけが飛び去るから。
 人類の時代だった頃より、悲しみが余計に深いという。誰かを亡くしてしまった時の。
 生きているとしか思えない姿で眠っているのに、その目は二度と開かないから。
 永遠の眠りに就いてしまって、もう目覚めてはくれないから。
 肩を揺すれば、起きそうなのに。声を掛ければ、パチリと瞼が開きそうなのに。
 なのに、戻っては来ない魂。
 眠っているようにしか思えない人を、大切な人を墓地へと運んでゆくしかない。逝ってしまった人たちの身体が眠るための場所へ、家のベッドとは違う所へ。



「お前の年では、まだ知らないかもしれないが…」
 そういう悲しい別れってヤツを、聞いたことはないかもしれないが…。
 まだまだチビだし、出会うヤツらもチビばかりって所だろうしな。
「うん、知らない…」
 お葬式はまだ見たことがないし、行った友達もいないから…。
 パパやママも行ってないんじゃないかな、行ってたとしても親戚じゃないよ。聞いてないもの。
 お祖父ちゃんたち、みんな元気だし…。ぼくが知ってる親戚の人は。
「やっぱりな…。だから子供が育った後なら大丈夫だなんて言えたわけだな」
 何歳になっていたとしてもだ、親が死んでも平気なヤツなんていやしない。
 有難いことに、俺も身内じゃまだ知らないが…。
 友達の中に、何人か混じってるんだよな。親じゃないがだ、親戚を亡くしちまったヤツが。
 もちろん平均寿命なんかはとうに超えてて、大往生っていうヤツなんだが…。
 葬式に行ったら、その人の子供が涙をポロポロ零してるわけだ。まるで本物の子供時代に帰ったみたいに、親の名前を呼びながらな。
 周りのヤツらも貰い泣きだし、顔を知ってる親戚だったら自分も悲しいわけなんだし…。
 俺の友達も、俺に話をしながら泣いてたもんだ。「優しいお爺ちゃんだったのに」とかな。
「そうなんだ…」
 平均寿命を超えてた人なら、子供だって三百歳くらいになっているよね…。
 それでもポロポロ泣いちゃうんなら、ぼくたちの子供がいたならホントに泣きじゃくるよね…。
 ぼくとハーレイが一緒にいなくなっちゃったら。
 二人いっぺんに死んでしまったら、涙だけじゃ済まないに決まっているよね…。



 ハーレイの話を聞いたら分かった。もしも養子を迎えたならば、悲しませることになるのだと。
 どんなに幸せに育てたとしても、最後の最後に辛い思いをさせるのだと。
 前の自分は独りぼっちで泣きじゃくりながら死んだけれども、子供は生きてゆかねばならない。きっと子供も孫もいるから、その人たちのために「もう大丈夫」と涙をこらえて。
 泣き叫びたくても、微笑むしかない。子供たちを心配させないように…。
「分かったか。…だから、俺たちには子供は要らない」
 いつか必ず悲しい思いをさせると、最初から分かっているんだからな。
 お前が子供が欲しいと言うなら話は別だが、そういうわけではないんだろうが。
 子供はいた方がいいだろうか、と俺に訊くほどなんだし、本当に想像もしていなかったな?
「さっきも言ったよ、一度も考えたことが無かったから、って」
 前のぼくだった頃から、ホントに一度も。
 結婚したら子供がいるのが当たり前だってこと、全く気付いていなかったから…。
 子供はいなくてかまわないんだよ、ハーレイがいてくれればいいよ。
 ハーレイと二人で暮らしていけたら、ぼくはそれだけで幸せ一杯なんだから。
「俺もお前がいればいいのさ、子供を産んでくれるんだろう嫁さんよりも」
 お前しか嫁に欲しくはないから、お前が子供を産めない以上は子供も要らない。
 子供部屋の出番は無くなっちまうが、俺たちで好きに使おうじゃないか。
 お前と二人で色々なことに。
 模様替えすれば、どんな部屋にでも出来るぞ、子供部屋とは違う部屋にな。
 お前専用の昼寝部屋にでも、お前好みの本を集めた書斎でも。…書斎が二つもいいよな、うん。



 俺の書斎は元からあるから、もう一つ作るのも悪くないな、とハーレイが微笑む。書斎が二つもある家は滅多に無いだろうから、そういう家にするのもいいと。
「お前も本を読むのが好きなクチだし、書斎はいいぞ。…喧嘩の時にも役立つだろうし」
「喧嘩?」
 どうして其処で喧嘩になるわけ、本を投げたら武器にはなるけど…。傷んじゃうよ?
「分かっていないな、お前が書斎に立て籠るんだ」
 飲み物や菓子を山ほど抱えて入って、中から鍵をかけちまう、と。
 俺が「すまん」と外で土下座してても、知らん顔して本を読みながら菓子を食うのさ。
 いい砦だと思うがな?
 好きなことをしながら俺を苛めるには、書斎に籠るというのはな。
「…そういう使い方が出来るんだ…」
 本があったら退屈しないし、飲み物とお菓子があったらいいかな…。
 だけど、ハーレイが土下座しているのに、知らんぷりしてお菓子はちょっと…。
 ぼくなら直ぐに開けると思うよ、書斎の鍵。
 それに喧嘩もしないと思うな、ハーレイを放って立て籠るような凄い喧嘩は。
「そうか、それなら俺も助かる。お前、前と同じで頑固だからなあ、妙な所で」
 立て籠ったら最後、出て来ないかと思ったが…。土下座さえすれば扉が開く、と。
 ところで、お前、どうしてそういう発想になったんだ?
 書斎じゃなくてだ、子供の話。
 いきなり「子供は欲しいか」だなんて、いったい何をしたんだ、お前?
「えーっと…」
 えっとね、最初はポニーなんだよ。
 動物園にある子供の国でね、小さかった頃に乗ったんだけど…。
 ポニーとかウサギが載ってたんだよ、新聞の記事に。大人の人も遊びに来て下さい、って。
 でもね…。



 動物園でデートは無理だと思った、と話したら。
 子供連れの大人が多い所で、子供のいない自分たちには似合わない気がしたと話してみたら。
「そこから子供の話にまで飛ぶのか、お前の頭は」
 シャングリラに動物園を作ってやれば良かったというのは、辛うじて理解の範疇なんだが…。
 どう間違ったら、俺とお前の間に子供という方向へ行くんだ、まったく。
 しかも子供は生まれないから養子だと来た、挙句の果てに俺に質問とはな。
 子供は好きかと、好きなら子供も欲しいだろうかと。
「変だったかな?」
 ぼくは真面目に考えたのに…。
 子供はいなくて当たり前だよね、っていうのは自分勝手で間違ってたかと思ってたのに…。
「変だと言うより、考えすぎだ」
 前のお前だった頃からそうだな、余計なことまで心配するんだ。
 ドンと構えていろと言っても、なんだかんだと気を回してはソルジャー自ら動いてたってな。
 ソルジャーはそんなことまでしなくていい、とエラが何回言ってたことか…。
 視察の時にもそうだった。一つ聞いたら十くらい先まで考えちまって、後から俺に提案なんだ。こうした方が良くはないかと、まだ始まってもいないようなことを。
 始めないことには分かりませんから、と俺が答えたら「でも…」と自分の考えを挙げて、結果の方も何種類もズラズラ羅列して…。
 どう考えたらそっちに行くんだ、と思うくらいに悪いケースばかりを想定してな。
 あの頃のお前を思い出したぞ、動物園から子供の話に飛んじまったヤツ。
 子供が産めなくて何が悪い、と堂々としてりゃいいのに、お前…。
 男なんだから産めなくて当たり前だし、子供がいないカップルだって珍しくない世の中なのに。
 二人きりの暮らしが好きなんです、って言ってる普通のカップルだって多いんだがな…?



 考えすぎはお前の悪い癖だ、と額を指で弾かれたけれど。
 面白かったからいつかデートに行くか、と誘われた。行き先はもちろん、動物園。
 子供連れが多いと気付いたらまた、「子供が欲しい?」と訊きそうだから、と。一人であれこれ考えてしまって、「やっぱり養子…」と真剣な顔になりそうだから、と。
「そうなった時は、こう言ってやる。お前が産むなら子供もいいな、と」
 お前が産んだ子供じゃないなら、わざわざ育てなくてもいい。
 子供のためにも、それが一番なんだから。
「…だけど、ハーレイのお父さんや、ぼくのパパたち、子供、欲しがらないのかな?」
 養子でもいいから孫に会いたい、って思わないかな、結婚したら。
 いつまで待っても、ぼくに子供は出来ないんだし…。
「分かってくれるさ、俺たちの結婚を許してくれた段階でな」
 男同士のカップルなんだぞ、子供は無理だと誰が考えても分かるだろうが。
 生まれないからには養子しか無いが、貰うかどうかは俺たち次第だ。
 俺たちが欲しいと言わない以上は、貰えとは決して言わないだろうな。
 自分たちだって子供を育てていたわけなんだし、その分、余計に。
 考えがあって二人きりの暮らしを選んだんだな、と俺たちの親なら分かってくれる。
 だから余計な心配は要らん、子供だなんて。
 俺だって、お前が産むんでなければ、子供無しでもかまわないってな。



 親父たちには、孫がいない分まで親孝行をすればいさ、と言われたから。
 結婚しても子供が生まれない分は、そうして埋め合わせをしてゆこう。
 ハーレイは子供好きだけれども、子供部屋まである家で暮らしてゆくのだけれど。
 そのハーレイが、親を亡くして悲しむ子供を貰うよりは、と要らないと言ってくれたから。
 「子供が産める嫁さんよりも、お前がいい」と言ってくれたから。
 養子を貰って育てる代わりに、ハーレイと二人で親孝行をしよう、精一杯。
 何度も家を訪ねて行っては、手伝いをしたり、料理をしたり。
 もちろん一緒に旅行にも行って、釣りやハイキングや、色々なことを。
 いつかはみんなで動物園に行くのもいい。
 ポニーやウサギやリスが暮らしている、子供の国も覗いてみよう。
 子供たちのための場所だけれども、大人ばかりで出掛けて遊ぶ。
 餌をやったり撫でてやったり、抱っこしてみたり、きっと大人も楽しめる場所。
 他所の子供たちの笑顔も沢山あるから、子供好きな気持ちを満たしながら。
 たまにはハーレイを子供たちのために譲って、ウサギに餌でもやってみようか。
 「ぼくもホントはウサギなんだよ」と、「ぼくたち、ウサギのカップルだよ」と。
 ハーレイも自分も、今ではウサギ年だから。
 同じウサギの干支に生まれた、茶色いウサギと白いウサギの仲良しカップルなのだから…。




            動物園と子供・了

※前のブルーは想像もしなかった、ハーレイとの子供。自然出産が無かったSD体制のせいで。
 けれども、今の時代は子供は自然に生まれてくるもの。それで、悩んでしまったブルー。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(エアプランツ…?)
 なあに、とブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 園芸のコーナーらしいけれども、何処から見たって土が無かった。金魚鉢のようなガラスの器に入っているものはともかく、根を張れそうもない壁にくっついた何本もの草。それどころか、宙に浮いている草までがあった、細いワイヤーで吊られて空中に幾つも草の塊。
(ドライフラワー?)
 乾燥しても色を失わない草だろうか、と記事を読んでみたら、全く違った。ドライフラワーではなくて生きている植物、土の無い場所で。壁はまだいいとして、何も無い宙で。
(…それで、エアプランツ…)
 空気だけで生きてゆけるから。土が要らない不思議な植物、本当の名前はチランジア。
 根っこはあっても、養分を吸うために使う代わりに身体を固定しておくもの。育つための栄養は葉から取り入れる水分だけ。雨でなくても霧で充分育つのだという。
(たまに霧吹きするだけでいいの?)
 植物を育てるためには必須の水やり、それすらも殆ど要らないらしい。水をやりすぎると枯れるくらいに、手がかからないのがエアプランツ。多年生だから、一年限りで終わりでもない。
 原産地では寄生植物の一種、木の枝などにくっついて育つ。岩でも何処でもいいらしいけれど、木の枝が好みの種類が幾つも。木から栄養は貰わないのに。
(くっついてると水が切れないのかもね?)
 葉っぱが茂った木からだったら、いい具合に水が滴って落ちてくるかもしれない。日陰も作ってくれるだろうから、乾燥しすぎることだって無い。
(南アメリカの方なんだ…)
 エアプランツの原産地。もっとも、地球は一度滅びてしまった星なのだから、原産地というのが正しいかどうかは謎だけれども。
 かつて南アメリカがあった辺りに新しく生まれた別の大陸、其処で育つのがエアプランツ。昔の通りに戻った植生、森の中や山や砂漠で、木や岩などにくっついて。



 水さえあったら育つ植物、便利に使えるエアプランツ。写真のように壁に飾ったり、ワイヤーで吊るして文字通り空中で育てたり。
(オブジェみたいな植物だよね…)
 机の上に転がしておいても、ちゃんと育ってゆくらしいから。生きた置き物、エアプランツ。
 普通の観葉植物などでは飽き足りない人向けなのかもしれない。自分のセンスで好きに育てて、訪ねて来た人をアッと驚かせたり。
(ぼくだって、知らなかったらビックリ…)
 遊びに出掛けて行った先などで、空中に草が生えていたなら。植木鉢は無しで、宙に草だけ。
 きっと、つついてみるのだろう。「これ、生きてるの?」と質問しながら。
(生きてるって聞いたら、もっとビックリ…)
 しかも、まだまだ育つのだから。花瓶に生けられた花とは違って、何年も生きて育ち続ける植物だから。宙にぽっかり浮かんだままで。
 土が無くても、困らないらしいチランジア。水だけで大きく育ってゆけるエアプランツ。
 面白い植物もあったものだ、と感心しながら写真を眺めた。空中で育つ草なんて、と。



 おやつを食べ終えて部屋に戻ったら、頭に浮かんだエアプランツ。この部屋でもきっと、空中で育てられるだろう。ワイヤーを張って吊るしさえすれば。
 なんとも楽しい植物だけれど、頭を掠めた遠い遠い記憶。前の自分が見ていた光景。
(あんな植物、シャングリラには…)
 一つも無かった、エアプランツは。寄生植物だって、ただの一つも。
 クリスマスになったら飾りに使った、ヤドリギも造花だった船。クリスマスにしか使わない上、綺麗な花も咲かないから。美味しい実だってつけないのだから。
 船で必要とされないものなど、育てなかったシャングリラ。植物も、それに動物も。
(観葉植物なんて…)
 葉っぱを楽しむことしか出来ない観葉植物は、白い鯨になってからのもの。
 自給自足で生きてゆく船、それが軌道に乗ってから。皆の心に余裕が生まれて、幾つもの公園が居住区などに鏤められていたシャングリラ。
 そういう船になったからこそ、観葉植物を育てることも出来たのだろう。休憩室などに飾って、緑の葉っぱを眺めることも。
 花は無くても、緑の葉っぱが茂っていたなら心は和むものだから。
 観葉植物はそのためのもので、それを育てる余力が無ければ船には乗せておけないから。



 白い鯨に改造するまで、シャングリラには無かった筈だ、と思ったけれど。
 エアプランツも無ければ、普通の観葉植物だって、と改造前の船へと記憶を遡ったけれど。
(違った…)
 あったんだっけ、と蘇って来た観葉植物の姿。元はコンスティテューションという名前だった、人類が捨てて行った船。燃えるアルタミラの宙航にポツンと一隻だけ。
 人類が付けた名前は嫌だ、とシャングリラという名を付けたけれども、船はそのまま。白い鯨に生まれ変わるまでは、人類が使っていた時のまま。
 けれど、その船にも観葉植物はあったのだった。船のあちこちに。
(ポトスとか…)
 ハート形の葉っぱでお馴染みのポトス、他にも何種類かあった観葉植物。専用の鉢に植えられ、それを置くのが似合いの場所に。
 改造するよりも前のシャングリラは、人類の船から奪った物資で命を繋ぐ船だったのに。
 食料はもちろん、生きてゆくために必要な物資は全て人類の輸送船から奪っていたのに。
 前の自分が奪いに行っては、それをやりくりして暮らしていた船。
(あんなポトスとか、奪って来たっけ…?)
 まるで記憶に残っていないし、船に必要とも思えない。眺めるだけの植物などは。
 なのにどうして観葉植物を育てていたのか、全くの謎。
 白い鯨の方ならともかく、公園さえも無かった船で。奪った物資で命を繋いでいた船で。



 何故あんなものがあったのだろう、と首を傾げた観葉植物。食料さえも奪って来ないと生きてはいけなかったのに。
 食べられる実をつける植物なら分かるけれども、ポトスの実などは食べられない。どう考えても役に立たない、手がかかるだけの植物なのに、と思った所で気が付いた。
(ポトス、元からあったんだよ…)
 他の観葉植物たちも。
 前の自分が輸送船から奪ったわけではなかった植物。アルタミラで自分たちが乗り込む前から、植物たちは船に乗っていた。言わば先客、観葉植物の方が船での暮らしの先輩。
(…ぼくたちの方が後からだっけ…)
 あのポトスたちにしてみれば。
 船の持ち主が人類からミュウに変わってしまって、新顔になったのがシャングリラ。植物たちが知らない人間が勝手に大勢乗り込んだわけで、さぞかし驚いたことだろう。
 植物たちに目や耳があったなら。人間を見分けられたなら。



 メギドの炎に焼かれ、砕かれたアルタミラ。崩れゆく星から命からがら脱出した後、どのくらい経った頃だったろうか。
 ようやく心が落ち着いて来たら、船のあちこちにあった植物。それまでからずっと植物は其処にあったのだけれど、見てはいなかったと言うべきか。心に余裕が無かったから。
 とにかく、植物があると気付いた前の自分たち。そうなれば、最初に考えることは…。
「食べられるのかい、これは?」
 ブラウも訊いたし、他の仲間たちの関心も当然、食べられるか否か。
 葉っぱを毟って料理するとか、でなければいずれ美味しい実をつけるとか。
「どうなのだろうね、種類は幾つかあるようだが…」
 調べてみよう、とデータベースに向かったヒルマンが持ち帰った答えは観葉植物。どれも眺めるためだけのもので、食べられもしないし、実もつけはしない。
「食えないものなら捨ててしまえ」
「乗せておいても、水と空気の無駄ってもんだ」
 そういう意見も出たのだけれども、別の意見も多かった。見ているだけで癒されるから、と言い出した者が何人も。捨てなくても、このままでいいのでは、と。
「観葉植物は本来、そういう目的で栽培されているそうだよ」
 緑の植物があるというだけで、人は自然を連想するから、とヒルマンが述べた存在意義。まるで役立たないように見えても、この船の中で役目を担っているのでは、と。
 宇宙船の中でも緑の庭を見ている気分になれるようにと、それらは置かれているのだろうと。



 捨てろと最初に言った者たちも、ヒルマンの意見を聞いた後には思う所があったらしくて。
 暫く処分は保留にしよう、と観葉植物たちを宇宙に放り出すのは先延ばしになった。捨てるのに時間はさほどかからないし、いつでも放り出せるから、と。
 保留していた間に分かった、植物用の水は別系統になっているということ。
 飲料水や生活用の水とは別に循環していた、観葉植物たちのための水。
 そういうことなら、人間用の水を無駄に使ってはいないから。誰も困りはしないのだから、今のままで船に置いておこう、という結論になった。癒される者も多いようだし、このままで、と。
(あの時点では、まだ食料も…)
 充分に積んであった船。人類が大量に補給したらしい食料がドッサリ積まれていた船。
 飢えることなど誰も考えてはいなかったから、観葉植物たちは生き延びられた。皆の心に余裕がたっぷりあったお蔭で。
 それから幾らか時が流れて、積まれていた食料は残り少なくなったけれども。
 前のハーレイから「食料が尽きる」と聞かされて直ぐに、前の自分が奪いに出掛けた。なんでもいいから食べる物をと、皆を救いたい一心で。
 初めての略奪に成功した後は、奪えばいいと分かったから。
 手当たり次第に奪った挙句にジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツ地獄もあったとはいえ、飢えずに済んだ船だった。
 白い鯨になる前も。名前だけの楽園だった頃にも。



 人類の輸送船から奪った食料や物資、それに頼っていたシャングリラ。
 何処からも補給の船は来ないし、自分たちでも作れなかった。食料も、生活に欠かせない物も。
 そんなシャングリラで、観葉植物のための肥料を研究していたヒルマン。厨房で食材の屑などを貰って、いわゆる堆肥のようなものを。
「何をしてるの?」
 ゴミなんかで、と覗き込んでいた前の自分。ゴミは宇宙に捨てるものだから。
「植物の肥料を作るんだよ。人間で言えば食べ物といった所だね」
 水だけでは生きていけないのだから、と穏やかな笑みを浮かべたヒルマン。観葉植物にも栄養を与えなければ弱ってしまうと、そのための栄養が肥料なのだと。
 けれど、肥料を奪えるほどの余裕は無いから、こうして肥料を研究中だ、と。
(肥料…)
 なるほど、と前の自分は理解したけれど、流石に肥料は滅多に混ざっていなかった。輸送船から奪う物資は食料や生活用品なのだし、肥料とは性質が根本的に異なるから。
 そういうわけで、観葉植物たちの肥料はヒルマンが作って入れていた。植物専用に循環していた水のシステム、其処には肥料を加えるための場所もあったから。
 最初の間は本当に堆肥、後には液体になっていたと思う。より植物が吸収しやすいように液体、もちろんヒルマンが抽出して。



(あのポトスとか…)
 木ほど寿命が長くはないのが観葉植物。ヒルマンはそれも知っていたから、早い時期から挿し木などで数を増やしていた。駄目になった株は、直ぐに植え替えられるようにと。
 お蔭で観葉植物の緑は絶えることなく、人類の船だった時に植えられた場所に代替わりしながら茂っていた。ポトスも、他の観葉植物たちも。
 植物が置かれた部屋というのはいいものだ、と誰もが思い始めた船。此処でも観葉植物を育てることは出来るか、という声までもが出始めた。循環システムの水に余裕があるようなら、と。
 そういった声が上がる度にゼルがシステムを調べ、可能な場所なら引いていた水。新しい環境で生き生きと育った観葉植物。
 シャングリラを白い鯨に改造する頃には、船の仲間たちは皆、緑の大切さに気付いていた。緑が見える生活がいいと、もっと緑が多ければいいと。
 観葉植物があるというだけで、これほどに心が潤うのなら。豊かな気持ちになれるなら。
 もっと沢山の緑があったら、沢山の緑が茂っていたなら、どんなに素敵なことだろう。どちらを向いても緑の葉が見え、それに囲まれて過ごせたら。
(それで公園…)
 思い出した、と掴んだ記憶。白いシャングリラに幾つもの公園が生まれた理由の切っ掛け。
 皆が緑を欲しがっていたから、公園を作ろうと決めたのだった。観葉植物が置かれたスペースもいいのだけれども、もっと広くて沢山の緑。
 それがあったら皆が気持ち良く過ごせるだろうと、船には公園を作らなければ、と。



 作ると決まれば、皆が欲張りになった公園。船のあちこちに幾つも作るという案では足りずに、より広いものをとスペース探し。何処かに大きく取れないだろうか、と。
 そうしてブリッジの見える場所にあった、あの公園が作られた。ブリッジの周りは何も設けず、見通しのいい空間として整備する案もあったのに。
(これだけ広いなら公園がいい、って…)
 無機質な空間にしてしまうよりは公園だ、と皆が目を付けたブリッジの周り。操船に支障が無いようであれば、此処を公園にするのがいい、と。
(…ホントはちょっぴり危ないんだけどね?)
 人類側との戦いになれば、狙われる場所はブリッジだから。機関部を叩くのも効果的だけども、操船しているブリッジを潰せば船は確実に沈むから。
 それがあるから、ブリッジの周りは無人にしようと考えたのに。関係者しか立ち入らないよう、何も作らずに放っておこうと決めていたのに…。
(いざとなったら逃げるから、って…)
 万一の時にはブリッジから近い公園を離れて、船の中央部に避難する。そういう規則さえ作っておいたら問題ないから、と公園作りが決まってしまった。ブリッジの周りは公園だ、と。
(…普通だったら逆なんだけど…)
 大きな公園は避難場所というのが今でも常識。災害などが起こった時には広い公園へ、と学校で教えられもする。けれどシャングリラは逆だった。白いシャングリラで一番大きな公園は…。
(何かあったら、一番に逃げなきゃ駄目だったんだよ、あそこから…!)
 公園の意味が間違っていたのでは、と可笑しくなるのは今の自分だからだろう。前の自分だった頃にはそれで正解、実際、そういう事態も起こった。ジョミーを救いに浮上した時に。
(子供たちはヒルマンと避難した、って…)
 後でハーレイから聞かされた。「あの規則が初めて使われましたよ」と。
 それまでの間はずっと平和で、皆の憩いの場だった公園。此処を公園にしておいて良かったと、広い芝生の緑の絨毯、それを見るだけで清々しい気分になれるから、と。



 アルタミラを脱出して間もない頃には、観葉植物を捨てようとしていた仲間たち。反対した者も多かったけれど、捨てようとした者も少なくなかった。
 その仲間たちがいつの間にやら、「いざという時には逃げるから」と危険だとされたスペースを公園に仕立てる始末で、事の起こりは観葉植物。緑の葉っぱが見える生活、それが素敵だと誰もが考えるようになったから。観葉植物が乗っていた船、其処で暮らしていた間に。
(なんだか、傑作…)
 最初は捨てると言ってたくせに、とクスッと零れてしまった笑い。命拾いをした観葉植物たちが皆の考えを変えたのか、と。
 観葉植物どころか公園、それも大きなものが欲しいと。危険であろうが広いのがいいと、万一の時には避難するから、ブリッジの周りの広大なスペースを公園にしたいと言い出すほどに。
(ハーレイ、覚えているのかな…)
 捨てられかかった観葉植物から、白いシャングリラの公園の歴史が始まったこと。白い鯨の中に幾つも幾つも作られた公園、その始まりは観葉植物だったということを。



 時の彼方から戻って来た記憶。前の自分が見ていた歴史。たかが公園のことなのだけれど、思い出したら話したい。同じ時間を生きていた人に、あの船で長く共に暮らしたハーレイに。
 帰りに寄ってくれればいいのに、と何度も窓を見ていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルで向かい合うなり訊いてみた。
「ハーレイ、シャングリラの公園の始まり、覚えてる?」
 どうして公園を作ることになったか、公園が一杯の船になったか。
 ブリッジの周りまで大きな公園にしちゃったくらいに、みんな公園が好きだったのか。
「はあ? 公園って…」
 デカイのがいいと言い出したんだろ、うんとデカイのが。
 ブリッジの周りが空いてるからって、公園にするんだと決めちまって…。確かにスペースは充分あったが、危険の方も充分あったわけだが?
 俺は何度もそう言ってたのに、本気で公園にしちまいやがって…。戦場に公園を作るようなモンだったんだぞ、あのデカイのは。真っ先に狙われそうなブリッジと隣り合わせの公園ではな。
「それでも広い公園が欲しくなるほど、みんなが緑が大好きになった理由だってば!」
 最初は観葉植物なんだよ、ぼくもすっかり忘れてたけど…。
 水と空気の無駄だから、って捨てようとしていた観葉植物、あったでしょ?
 アルタミラから逃げ出した船に、最初から乗ってた観葉植物。
「ああ、あれなあ…!」
 そういや、あれが始まりだったか…。
 役に立たないなら捨てちまえ、っていうのを保留にしていた間に、水は別だと分かったっけな。
 それならいいか、と乗せておいたら、ファンが増えたというヤツだ。
 こっちの部屋にも植えられないか、って話が出る度にゼルがせっせと水を引いては、ヒルマンが苗を選んで植えに出掛けて。
 その内、すっかり緑が好きなヤツらばかりになったんだった。
 ブリッジの周りは危険だから、と口を酸っぱくして説明したって、「避難するから大丈夫だ」とデカイ公園を作っちまったくらいにな。



 始まりはアレか、とハーレイは肩を竦めて苦笑した。俺も偉そうなことは言えんが、と。
「…俺にも最初は、あの植物が何のためにあるのか分からなくってな…」
 食えるものかと思っていたんだ、実の所は。
 アレそのものは食えないとしても、その内に美味い実をつけるとか…。てっきりそうかと…。
「ハーレイもなの?」
 実用的なものだと思っていたわけ、あの植物が?
 捨ててしまえ、って言ってた仲間の中には、混ざっていなかったように思うんだけど…。
「…捨てろとまではなあ…。何かの役に立つからこそ乗せてあったんだろうし」
 様子を見てから決めればいいさ、と思ったクチだな、前の俺はな。
 現にそれまで、アレのせいで何か被害が出たってわけでもないんだし…。捨てちまったら、後でしまったと思っても二度と拾えんからなあ、急がなくてもいいだろう、と。
 …そう言うお前はどうだったんだ?
 食い物の類だと思っていたのか、食えなくても好きな方だったのか。
「ぼくはなんとなく好きだったかな。…あれを見てたら落ち着くから」
 どうしてなのかは分からないけど、好きだったんだよ。あれの側がね。
「そうなのか…」
 好きだった方か、「癒される」と言ってたヤツらのお仲間なんだな。
 アレに関しては、前のお前と俺の意見は違ってたわけか。食えるものだと考えていたか、癒しの緑だと思っていたか。
「ふふっ、そうだね、正反対だね」
 討論会をやっていたなら、凄い喧嘩になっちゃったかも…。お互い、自分が正しいんだ、って。
 食べられるものだと思うのが普通だってハーレイが言って、ぼくが違うって反対して。



 成人検査と、繰り返された人体実験。それよりも前の記憶をすっかり奪われていても、あの緑を見るのが好きだった自分。観葉植物が与える癒しを、前の自分は覚えていた。
 養父母の家にあったのだろうか、ああいう観葉植物が?
 あの船にあったポトスなどとは違う種類でも、観葉植物の鉢が置かれていたのだろうか…?
「ねえ、ハーレイ。…前のぼく、あれを見ていたのかな…?」
 ぼくを育ててくれた人たちの家に、観葉植物があったのかなあ…?
「前のお前が育った家か…。そこまでのデータは無かったな」
 テラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータは、お前にも見せた分で全部だ。
 お前の家が何処にあったか、どんな家かのデータはあったが…。生憎と外側だけしか無かった、家の中はサッパリ謎だってな。
「そうだよね…。前のぼくの部屋も謎なんだものね」
 一階だったか、二階だったか、それも分からないままなんだもの…。
 リビングとかがどうなってたのか、データがあるわけないんだけれど…。
 もしかしたら、何処かにあったのかもね。観葉植物があって、前のぼくが何度も見ていた部屋。
「あったのかもしれんな、そういう部屋が。…前のお前の気に入りの部屋」
 そしてだ、前の俺が育った家の方には、観葉植物が置いてある部屋は無かった、と。
「なんで分かるの?」
 前のハーレイの家のデータも、ぼくのと変わらない筈なんだけど…。外側だけで。
「食えるのかと思っていたからだ。あの船でアレを見た時にな」
 お前みたいに癒される代わりに、食えるものかと思っていたのが動かぬ証拠だ。
 前の俺は観葉植物なんぞに馴染みが無かった、だからそうなる。
「うーん…」
 そういうことかな、ハーレイとぼくの意見の違い。
 馴染みがあったら癒される方で、無かった方だと食べられるかどうかを考えるわけ…?



 素っ頓狂にも思えるけれども、一理ありそうなハーレイの意見。
 観葉植物を眺めて癒された者と、食べられるかと考えた者の違いは其処にあったのだろうか。
 捨ててしまえと言った者たちにしても、乱暴だったわけではなくて。
 彼らは観葉植物に馴染みが無いまま、育ったというだけかもしれない。成人検査を受けるまでの日々を、観葉植物の無い家で。それが無かった養父母の家で。
 十四歳になるまで育てられた家に、観葉植物があったかどうか。それで分かれてしまった考え、食べられるかどうかと思って見たのか、癒されると思って眺めていたか。
「…ハーレイの説は、説得力があるかもね」
 裏付けは何処にも無いんだけれども、あの後のことを考えちゃうと…。
 捨ててしまえ、って言ってた仲間もいた筈の船で、公園を作ろうってことになったんだし…。
 ブリッジの周りは危ないから、って言っても聞かずに、大きな公園、作っちゃったし。
 みんな緑が大好きだったし、考え方って、環境で変わるってことだよね?
 成人検査よりも前は緑に馴染みが無かった人だけ、食べられるかどうかを気にしてたんだよ。
 観葉植物が無かった家で育ったら、癒されるって思う代わりに、食べられるかどうか。
「…子供を育てるシステムってヤツは、統一してはあったんだろうが…」
 学校だったら全く同じに出来るわけだが、家に帰ればそういうわけにもいかんしな。
 どういう家具やインテリアを揃えていくかは、養父母の好みが出るからなあ…。
 観葉植物を置くかどうかも、個人の自由で決まりだな、うん。
 前のお前が育った家には観葉植物が置いてあってだ、俺の家には無かった、と。



 どうやらそういうことらしいな、とハーレイは自信満々で決めてしまって。
「それで、お前はどうして観葉植物なんかをいきなり思い出したんだ?」
 この部屋には何も見当たらないがだ、置きたいかどうかと訊かれでもしたか?
「ううん、観葉植物そのものじゃなくて…。あれも観葉植物っぽいけど…」
 えっとね、新聞に載ってたんだよ、エアプランツっていう植物が。
 土が無くても水だけあったら、ワイヤーで空中に吊るしておいても育つんだって。
「エアプランツか…。たまに見掛けるな、売ってるトコを」
 あれはシャングリラには無かったが…。
 導入しようと言い出すヤツさえ無かった、ヒルマンもエラも言わなかったな。
 寄生植物だから駄目だと思っていたのか、それとも知らなかったのか…。
 あいつらがエアプランツの使い方ってヤツを知っていたなら、あった可能性は高いんだが。
「…なんで?」
 エアプランツの使い方って、どんな風に?
 シャングリラの何処かで飾りに使うの、ワイヤーとかで吊るしておいて?
「ワイヤーで吊るすかどうかはともかく、エアプランツの特徴ってヤツだ」
 土が要らない植物だろうが、シャングリラの中で育てる分にはピッタリなんだぞ。
 あの船で土があった所がどれだけあるんだ、殆どの場所には無かったろうが。
 そういう船でもエアプランツなら、あちこちで育てられるってな。観葉植物と違って循環させる水も要らないし…。たまに霧吹きでシュッとひと吹き、それで充分なんだから。
 極端な話、アレならブリッジでも置けたんだ。観葉植物の鉢は置けんが、エアプランツなら…。その辺に適当に吊るしておいても、転がしておいてもいいんだから。
「それって、ブリッジにあってもいいの?」
 公園を周りに作るのも危険だから、って言ってたくらいの船の心臓部なんだけど…。
 そんな所にエアプランツなんか、飾っておいてもかまわないわけ…?
「さてなあ…。こればっかりは会議にかけてみないとな?」
 俺の一存では決められないんだ、会議でエラたちに訊くべきだろう。…もっとも、今から訊きに行こうにも、シャングリラは無いし、エラたちだって何処にもいないんだがな。



 だが、今の俺なら欲しいトコだな、とハーレイはエアプランツを置きたいらしい。キャプテンの仕事場とも言えるブリッジ、其処に癒しの緑を一つ。
「今の俺だと、あそこはどうにも…。公園の緑は確かに見えるが、それだけじゃなあ…」
 機能優先ってヤツで、まるでゆとりが無い場所じゃないか、遊び心に欠けると言うか。
 ワイヤーを張って、エアプランツの五つや六つは吊るしてもいいと思うんだよな。
「五つや六つって…。一つじゃないわけ?」
 ハーレイの席に一個あったら満足するっていうんじゃないの?
 もっと欲しいわけ、五つも六つも?
「ブリッジの広さと人数ってヤツを考えろよ?」
 エアプランツの大きさはお前も分かっただろうが、新聞で記事を読んだなら。
 あんな小さいのが一つで足りるか、ブリッジに置くなら五つは欲しい。
 広い公園を寄越せとゴネたヤツらじゃないがだ、こいつは俺も譲らんぞ。エアプランツを置ける許可が出たなら、お次は数の交渉だ。十個は欲しいと言っておいたら、五個はいけそうだし。
「…ハーレイ、そこまで頑張るの?」
 今のハーレイだから、そんな無茶でも言うんだろうけど…。
 前のハーレイなら、絶対、言いっこないんだけれど。
「まったくだ。俺も我儘になったってことだ」
 もうキャプテンではないんだからなあ、欲張ったってかまわないってな。
 …ブリッジにエアプランツを置こうと言うからには、キャプテン・ハーレイなんだろうが…。
 中身は今の俺ってわけだし、エアプランツを五つくらいは置かせて貰う。
 真面目に仕事をするならいいだろ、五つ吊るそうが、六つだろうが。



 人生、やっぱり潤いが無いと…、と笑っていたハーレイがポンと打った手。「そうだった」と。
「吊るすって言えば…。お前、吊りしのぶを知ってるか?」
 エアプランツで思い出したが、吊りしのぶだ。
「…吊りしのぶ?」
 それってどんなの、ぼくは聞いたことが無いんだけれど…?
「昔の日本の文化ってヤツだ、エアプランツとは少し違うが…」
 土の代わりに樹皮、木の皮とかを丸めて塊を作る。そいつにシダを植えるんだ。でもって、家の軒とかに吊るす。俳句だと夏の季語になるんだぞ、吊りしのぶはな。
「へえ…!」
 シダが植えてある塊を吊るして飾るわけ?
 とっても涼しそうだね、それ。空中にシダがあるなんて。
「だろう…?」
 吊るしておいて、水をやっておけば夏でも枯れずにシダの緑を拝めるわけだ。
 エアプランツよりずっと風流なんだぞ、吊りしのぶは。
 なにしろ日本の文化だからなあ、エアプランツよりも歴史が長い。
 エアプランツも悪くないがだ、今の俺だと吊りしのぶの方に惹かれるかもなあ…。



 夏になったら親父が毎年吊るしてるんだ、とハーレイが話してくれるから。
 エアプランツよりも素敵らしいから、いつか大きく育った時には、隣町まで見に行こう。
 庭の大きな夏ミカンの木が目印の家まで、ハーレイが運転する車に乗って。
 シャングリラには無かった、今の時代ならではの癒しの緑。
 夏の季語だという吊りしのぶを。
 涼しげだろうシダの緑が、軒先に吊られて揺れているのを。
 今の時代は、ハーレイでさえも「ブリッジにエアプランツを五つ」と言ってもいい時代。
 我儘を言っても、欲張りになってもいい時代。
 前の自分たちには出来なかったことが、今は沢山、沢山、出来る。
 青い地球まで来られたから。
 ハーレイと二人、生まれ変わって、何処までも一緒に幸せに生きてゆけるのだから…。




            観葉植物・了

※シャングリラのブリッジがあった、広い公園。本当は一番危険な場所だった筈なのに。
 そこが公園になった理由は、皆が緑を欲しがったから。今ならブリッジにエアプランツかも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












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