シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「んー…」
アサリがいっぱい、とブルーが頬張るシーフードピラフ。
ハーレイが訪ねて来てくれた土曜日の昼食、いつものテーブルで向かい合って。母が運んで来たお皿のピラフはシーフードたっぷり、殻つきのアサリがアクセントを添える。殻が無ければ洒落た感じはしないだろう。剥いてしまったアサリでは。
でも…。
「美味しいけど、ちょっと面倒だよね」
シーフードピラフ、とフォークでチョンとつついたアサリ。パカッと口を開けている貝。
「面倒って…。何がだ?」
作るのが面倒そうだって意味か、シーフードピラフを?
「そうじゃなくって、このアサリだよ。…アサリ、美味しいのは分かっているけど…」
ちょっぴり面倒だと思わない?
こうやって殻がくっついていたら、外すのが。フォークだけだと外れないよ?
スプーンで押さえていないと駄目だし、綺麗に外れないのもあるし…。
「そこが本物の証明じゃないか、新鮮なアサリを使いました、って証拠だろ」
殻つきなんだぞ、生きたアサリを買って来ないと作れないんだ。
アサリってヤツは、死んじまったら熱を加えても絶対に口を開けやしないぞ。
新鮮なアサリを入れて炊いたら、出来上がった時にこうなるわけだ。アサリが口を開いてな。
アサリがこうだし、他のもきっと買ったばかりの材料だ。この海老や、ここのイカとかも。
お母さんがいい材料を揃えてくれたからこそなんだ、とハーレイが指差す殻つきのアサリ。
これも、これも口を開けてるだろうが、と。
「そっか…。ママ、朝から買い物に行ってくれたのかな?」
アサリとかを買いに、お店まで。
「さてな? 昨日の内から買っておいても、きちんと扱えばアサリは充分生きてるが…」
しかし、せいぜい二日ってトコだ。何日も生かしておくのは無理だな、普通の家じゃ。
お母さんはきちんと準備をしてたってことだ、海老とかも。
今日はシーフードピラフにしようと決めて、色々と買って。
そこで殻つきのアサリを買ってくれたことを喜ばないとな。店に行ったら、殻を剥いてあるのも売られているんだから。
アサリだけじゃなくて、海老やイカも入ったシーフードミックスを買えば簡単なんだぞ?
炊く時にパッと放り込んだら手間要らずだ。何の下ごしらえも要らないんだから。
「うん、知ってる。…シーフードミックス、あったら便利だっていうのは」
友達に聞いたよ、いろんな料理に使えるから、って。
だけど、ママが買って来たのは見たこと無いから、お料理する所は知らないよ。
「お前のお母さんなら、買わないだろうなあ…」
あれはだ、手抜きの極みってヤツだ。…もっとも、俺の場合はお世話になるが…。
一人暮らしでアサリも海老も、と欲張って買ったら使い切れないことがあるからな。そういった時には便利なモンだぞ、必要なだけ出して使えるトコが。
しかしだ、お前のお母さんはきちんと買って作ってくれたからこそ、殻つきのアサリがピラフに入っているわけだ。剥いたアサリじゃなくってな。
面倒だなんて言うヤツがあるか、と軽く睨まれた。外れにくいことは確かだけれども、殻つきは新鮮な証拠だから。生きたアサリを炊き込まないと作れないから。
「前のお前なら、サイオンで一瞬で外せたのかもしれないが…」
フォークとスプーンで頑張らなくても、ポンと綺麗に外れちまったかもしれないんだが…。
上手くいかないのも御愛嬌だろ、自分の手を使って食べるのもマナーの内なんだから。
でないとすっかり退化しちまう、人間はあくまで人間らしく、だ。
「分かってるってば、サイオンは必要な時にだけ、っていうのが今のルールでしょ?」
でもね、前のぼくでも食事の時にサイオンは使っていなかったよ。
手が塞がってるからサイオンで口まで運んじゃおう、なんてことはやっていないよ、一回も。
食事の時にはちゃんと手で、って。青の間で一人で食べてた時でも。
「そうだな、真面目に食ってたな、お前」
今から思えば凄いことだな、前のお前なら両手が塞がっている時にだって楽に食えただろうに。
何でもヒョイとサイオンで運んで、そいつを食べながらデカイ本だって読めた。
…なのにやってはいなかったよなあ、読みかけの本はスッパリ諦めて食事をしてたんだ。
サンドイッチを考え出したっていう貴族よりも真面目で偉かったぞ、お前。
ゲームをしながら食べたいから、ってサンドイッチを作らせたっていう話だしなあ、その貴族。
前のお前の場合でいけばだ、サイオンで口に運びたいから、運びやすい料理を作れってトコだ。
一口サイズに纏めて来いとか、そういうサイズに切っておけとか。
そういう無精な真似をしなかったことは偉かった、とハーレイは褒めてくれたのだけれど。
サイオンで食べるソルジャーだったら、このピラフだって皿に盛る代わりに、おにぎりよろしく一口サイズの団子にされていたのだろう、と笑ったけれど。
「待てよ…? こいつで団子か…」
それに、おにぎりか…。如何にお前が無精なソルジャーだったとしても…。
「どうかしたの?」
「いや、シーフードピラフだな、と…」
サイオンを使って食うんだったら、おにぎりや団子が便利ではあるが…。
「なあに?」
おにぎりとかお団子は便利そうだけど、前のぼく、そんなの注文しないよ?
ちゃんとスプーンを使って食べるし、殻つきのアサリが入っているなら、フォークだって。
「いや、有り得ないな、と思ってな…」
サイオンで食うだの、おにぎりや団子にしようって前に。
「何が?」
前のぼくがやらなかったから、っていう話?
無精しちゃって、手を使わないで食事をしようってことは一度も。
「前のお前には違いないんだが…。俺もセットの問題だな」
俺もそうだし、シャングリラ全体の問題とも言う。
シーフードピラフが有り得ないんだ、サイオンを使って食おうと考える以前にな。
「そうだっけ?」
有り得ないってことは無かった筈だよ、シーフードピラフ。
前のぼくが物資を奪いに出ていた頃なら、いろんな食べ物があったんだから。
シーフードだって奪っていたよ、と前の自分の記憶を振り返った。
自給自足の生活を始めるよりも前の時代は、食料も物資も奪うもの。前の自分が人類の輸送船を狙って、様々な物を奪って戻った。
コンテナごと失敬していた物資。食料の中には肉も魚も沢山あったし、貝や海老だって。
「シーフード、何度も奪って来てたと思うんだけど…。シーフードミックスもあった筈だよ」
白い鯨になった後には、シーフードピラフを作るには種類が足りなかったけど…。
作ったとしても入っているのはムール貝だけとか、そんなのだったかもしれないけれど。
「材料の方はそうなんだろうが…。お前が言ってる通りなんだが…」
シャングリラにシーフードってヤツは確かにあったが、肝心の飯が…。
こいつを美味しく炊き上げるための飯がだな…。
「え…?」
何か足りなかったっけ、シーフードピラフを作るのに?
必要なものは奪ってたんだし、白い鯨に改造した時も、必要な食料は作れるように、って…。
「その必要な食料ってヤツが問題なんだ。シーフードピラフは米を炊くんだぞ?」
米だ、米。そいつが何処にも無かっただろうが、前の俺たちが生きた頃には。
シーフードピラフは有り得ないんだ、肝心の米が無いんだから。
「そういえば…。お米、無かったっけね…」
シャングリラで麦は育てていたけど、田んぼは作っていなかったっけ…。
稲を育てる田んぼが無くちゃ、って誰も言い出さなかったから。
すっかり忘れていたのだけれども、SD体制が敷かれていた時代。
機械が統治しやすいようにと文化は統一されてしまって、米を主食にしていた地域の文化は全て消されていたのだった。習慣も、もちろん食文化も。
消えてしまった米を食べるという文化。稲を育てれば米が採れると誰も考えなかった時代。
今とは事情がまるで違った、米が当たり前に食卓に上る時代とは。
「そっか、前のぼくたち、シーフードピラフは作れなかったんだ…」
お米が無いんじゃ、どうしようもないね。
シーフードはあっても、前のぼく、シーフードピラフを食べたことが一度も無かったんだね。
それじゃ、おにぎりにするとか、お団子だとかも絶対に無理。
手を使わないで食べられるように工夫してよ、って頼めるわけがないよね、無かったのなら。
…サイオンで食べようとはしなかっただろうと思うけど…。
食べる間くらいは読みかけの本も、見ていた書類も置いておくとは思うんだけど…。
「前のお前なら、そうしただろうな。無精しないで、きちんと自分の手を使う、と」
だから、お前もアサリの殻は面倒だなんて言っていないで、ちゃんと食べろよ?
シーフードピラフの有難さってヤツも分かっただろうが、今ならではの食べ物なんだ。
前の俺たちが生きてた頃には、どう頑張っても食えるチャンスは無かったんだから。
なんと言っても、作ろうっていう発想自体が無かったからな。
米は何処にも無かったんだし、前のお前も奪っては来ない。
シーフードだけじゃ無理ってことだな、シーフードピラフを作るのは。
前の俺だって米の炊き方なんぞは知らん、とハーレイは肩を竦めてみせた。
米を渡されてもどうしようもないと、きっと考え込むのだろうと。
「…こいつはどうやって食べるんだ、ってトコから検討したんだろうなあ、米を前にしたら」
まずは一粒口に入れてみて、舐めたり噛んだり、味を確かめたり。
でもって、米は乾燥してるし、そこの所をどう考えたか…。
水で戻してみようとしたのか、ナッツみたいに炒ろうとしたか。俺が思うに、多分、炒ったな。
米ってヤツはだ、水に浸しておいただけでは食えるようにはならないんだし…。
蒸すとか炊くとか、そういった手間をかけてやらんと駄目な食べ物だ。
そんな方法を思い付くよりも前に、フライパンを使って炒ってただろう。…炒ったら食える物になったか、そこは謎だが。
フライパンで米を炒ってみたって、ポップコーンみたいに上手く弾けはしないだろうしな。
「そうだよね…。炊く前のお米じゃ、どう使うのかも分からないよね」
前のハーレイ、料理が得意だったけど…。使い方が謎だと、やっぱりどうにもならないものね。
…今は炊けるの、お米だけをポンと渡されても?
「当たり前だろうが、米を炊くのは基本の中の基本ってヤツだ」
炊飯器なんかを使わなくても、鍋があったら炊けるんだ。
普通の鍋でも、土鍋でも炊ける。
そういや、土鍋も前の俺たちが知らなかった調理器具なんだよなあ…。
鍋を食べるって文化自体が無かった以上は、土鍋も無いし。
前の俺たちが土鍋を見たなら、調理器具だとは思わないかもな。何かを入れて仕舞っておくのに使うんだろう、と蓋を開けたり閉めたりしてな。
何を入れる物だと思っただろうか、とハーレイが笑っている土鍋。前の自分が土鍋を見たって、入れ物なのだと考えただろう。料理に関係すると聞いたら、スープを入れる鉢だとか。
「おっ、スープ鉢か! そいつは間違ってはいないかもなあ、スープ鉢」
鍋もスープの一種ではあるし、保温しながらスープを仕上げる器ってトコか。
それに昔の貴族の食事の席には、デカいスープの鉢があったと言うからな。何人分ものスープが入った専用の鉢で、蓋つきなんだ。土鍋と違って、うんと豪華に出来てたんだが。
「ふうん…? そんな入れ物があったんだ…」
前のぼく用に、って作られてしまった食器のセットには、スープ皿しか無かったけれど…。
エラとヒルマン、忘れてたのかな、そういうスープの鉢を作るのを?
「いいや、忘れたわけじゃない。…スープ鉢は必要なかったんだ」
食事の仕方が変わったわけだな、デカい鉢から取り分ける代わりに一人分ずつ配る形に。
その方が温かいスープを食べられるだろうが、熱々のヤツを目の前で注いでくれるんだから。
そういう食べ方になるよりも前は、料理は大皿に盛られてドカンと出されたそうだぞ。スープはもちろん、他の料理も。
一人分ずつ皿に盛り付けて配る時代に変わっちまったら、デカいスープの鉢は要らない。
だから前のお前の食器セットにスープ鉢は入っていなかったってな。
「そうなんだ…。エラが好きそうだと思ったんだけどな、うんと豪華な鉢だったら」
これはソルジャー専用の食器なんです、って食事会の度に説明してたもの。
ミュウの紋章が入った大きなスープ鉢だと、凄く目立って偉そうな感じがしそうじゃない。
「貴族の食器は財力を見せびらかすためのものだったからなあ、その使い方は正しいな」
ソルジャーはこんなに偉いんですから、とデカいスープ鉢を据えておいたら効果絶大だろう。
しかし、デカいスープ鉢の時代はとっくに終わっちまって、作っても出番が無かったし…。
良かったな、お前。デカいスープ鉢まで作られる羽目に陥らなくて。
ソルジャーの威厳を高めるために、と青の間まで作り上げたのが白いシャングリラの長老たち。
専用の食器を作るくらいは当然のことで、嫌だと言うだけ無駄だった。エラたちが作ると決めてしまったら、スープ鉢だって出来たのだろう。土鍋並みに大きな、豪華なものが。
「…スープ鉢、無くて良かったよ…。紋章を描くだけじゃ済みそうにないし」
他にも飾りがついていそうだよ、凄く凝った形になっているとか。
…土鍋だったらシンプルだけれど、そんな形じゃ、エラが素直に納得するとは思えないもの。
「だろうな。土鍋の形を模したにしたって、元が土鍋だとは思えない出来になったぞ、きっと」
持ち手だの、蓋の取っ手だのが派手になっていそうだ、貴族好みの形に仕上げて。
そして得々と皆に説明するんだな、エラが。
ソルジャー専用のスープ鉢です、と中身のスープが何かよりも先に、スープ鉢の方を。
「…エラだと、ホントにそうなっちゃいそう…」
中のスープはどうでもよくって、スープ鉢があるって方が大切。
もしもスープ鉢を作られていたら、前のぼくの溜息、もっと増えたよ。偉くないのに、って。
無くて良かったと心から思う、ソルジャー専用のスープ鉢。無駄に豪華な、大きすぎる器。
それが無かったことは嬉しいけれども、土鍋も無かったシャングリラ。外の世界にも土鍋は存在しなかった。土鍋で炊けるという米も。
「…ねえ、ハーレイ。土鍋でお米を炊くっていうのは難しいの?」
ママは土鍋で炊いてないけど、それは炊くのが難しいから?
「おいおい、お母さんに失礼すぎるぞ、その言い方は」
炊いたことが無いっていうだけだろうさ、普通は土鍋で炊かないからな。炊飯器があったら米は炊けるし、付きっ切りで見張っていなくてもいいし…。
土鍋で炊くには、スイッチ一つじゃないというのは分かるだろう?
隣で他の料理は出来ても、ちょっと買い物に行ってくるとか、庭仕事というわけにはいかん。
だから炊飯器が便利なんだが、美味いぞ、土鍋で炊いた飯はな。
それにピラフは見栄えがするんだ、デカい土鍋でドンと炊いたら立派な料理だ。
柔道部のヤツらには上等すぎるから作ってやらんが、俺の友達が大勢来た時なんかは定番だぞ。
シーフードピラフが一番だな、うん、殻つきのアサリなんかも入れて。
「…いいな、ハーレイのシーフードピラフ…」
それに土鍋で炊いた御飯も。
美味しそうだし、食べたいよ、それ。…土鍋で作ったシーフードピラフ。
「食べたいって顔をされてもなあ…」
俺の手料理は持って来られないと、何度も言ってる筈だがな?
お前の家で作る時にも、野菜スープのシャングリラ風か、病人用の食事だけだぞ。
「分かってるけど…」
無理だっていうのは分かっているけど、でも、土鍋…。
ぼくの家だと、お鍋の時しか使わないから、土鍋で作ったシーフードピラフは絶対、無理…。
土鍋で炊いた御飯も無理だよ、ママは作ってくれないんだもの。
前のハーレイは米も炊き方も知らなかったというのに、今のハーレイは土鍋で炊くほど。
しかも今日の昼食と同じシーフードピラフも作るというから、もう食べたくてたまらない。
どういう味がするのだろうかと、一度でいいから食べてみたいと。
けれど、ハーレイは作って来てはくれないし、家で作って貰うのも無理。前の自分と同じ背丈に育つまではきっと、土鍋で作ったシーフードピラフも食べられないのに違いない。
そう思ってションボリ項垂れていたら、ハーレイが「ふむ…」と腕組みをして。
「お前のお母さんは、土鍋でピラフを作ったことは無いんだな?」
飯を炊いていたことも無いと言ったが、それで間違いないんだろうな?
「そうだよ、ママが土鍋を使う時にはお鍋の料理」
お米を炊いてたことなんか無いよ、ぼくは一度も見たこと無いもの。
「なら、リクエストしてみるといい。土鍋でピラフを作ってくれ、とな」
土鍋を使えば、俺が作るのと似たような出来になる筈だ。
俺のレシピで作りさえすれば。
「レシピって…。ハーレイ、ママに教えてくれるの?」
土鍋で作るシーフードピラフ。…どうやって炊くのか、ぼくのママに?
「お前に食わせてやれる方法、どうやら他には無さそうだからな」
俺の家で食えるようになるまで待て、って言うのも可哀相だろう。シーフードピラフ、こうして昼飯に出ちまってるし…。
お前がお母さんに頼んで炊いて貰うんだったら、レシピくらいはお安い御用だ。
「ホント!?」
それなら、ママに頼んでみる!
きっとママなら作ってくれるよ、土鍋で炊くのは初めてでも…!
諦めるしかないと思った、土鍋で炊くというシーフードピラフ。今のハーレイが得意な料理。
早く母がお皿を下げに来てくれないかと、ワクワクしながら昼食を綺麗に食べ終えて。
今か、今かと待っていた所へ、ノックの音が聞こえたから。
「ママ! あのね…!」
母が部屋の中に入って来るなり、息を弾ませて空になったシーフードピラフの皿を示した。上にアサリの殻だけがコロンと残った皿を。
「今日のお昼、シーフードピラフだったでしょ? そしたら、ハーレイが話してくれて…」
ハーレイ、土鍋でシーフードピラフを炊くのが得意なんだって!
家に来た友達に御馳走したりするって聞いてね、ぼくも、そういうのが食べたくて…。
でも、ぼくはハーレイの友達じゃないし、生徒には御馳走してないらしいし…。
ママが代わりに作ってくれない?
土鍋で御飯は炊いてないけど、レシピがあったら作れるでしょ…?
「あらまあ…。土鍋で御飯が炊けるって話は知ってたけれど…」
シーフードピラフまで作れるだなんて、初耳だわ。
それはブルーに頼まれなくても、ママも挑戦してみたいわね、是非。
「土鍋でお作りになりますか? 私のレシピでよろしければ…」
おふくろの直伝なんですよ。土鍋さえあれば、これがけっこう簡単でしてね。
「そうなんですの? ブルー、メモと書くものを貸して頂戴」
えーっと…。お米と同じか、一割増しくらいのお水を加えて、三十分以上置いておく、と…。
それから好みのシーフードを入れて、お塩と、それに味付け用の…。
母は熱心にメモして行った。土鍋で作るシーフードピラフのためのレシピを。
ハーレイの母の直伝だというレシピは母に伝わったけれど…。
「ママ、直ぐに作ってくれるかな?」
失敗しないで作れそうだけど、晩御飯に炊いてくれると思う…?
「さてなあ…? 俺なら今日は作らないがな」
昼飯と同じになっちまうだろうが、夜もシーフードピラフだったら。
俺がいなけりゃ、それでもいいかもしれないが…。一応、俺も客ではある。
お客さんに続けて同じ料理を出すというのは、普通はやってはいかんことだぞ。頼まれたならば話は別だが、そうでなければ違う料理を出すべきだ。材料は同じでも、味も見た目も違うのを。
まず有り得ないな、晩飯がシーフードピラフというのは。
ついでに、明日にも出ないだろうなあ、明日も俺がやって来るんだからな。
ハーレイが予言した通り。夕食がもう一度シーフードピラフということはなくて、日曜日も別の料理が出て来た。昼食も、それに夕食も。
月曜日が来ても、シーフードピラフは影も形も無くて。
「ママ、ハーレイのシーフードピラフは…?」
どうなっちゃったの、ぼく、楽しみにしてるのに…。今日も別の御飯…。
「まだよ、ハーレイ先生と一緒に食べたいんでしょう?」
「え?」
「ブルーの顔にそう書いてあるの。…ハーレイ先生と食べたいな、って」
いつでも作ってあげられるけれど、平日にハーレイ先生がいらっしゃる日は分からないでしょ?
作ってあげても、ハーレイ先生がおいでにならなかったら、パパとママしかいないわよ?
それじゃブルーがガッカリするって分かっているもの、だから土曜日。
お昼御飯に炊いてあげるから、楽しみに待っていらっしゃい。
今度の土曜日のお昼までね、と微笑んだ母。
ハーレイ先生と一緒にお部屋で食べるといいわ、と。
そう聞かされたら、待ち遠しいのが土曜日だから。カレンダーを毎日眺めて待って、仕事帰りに来てくれたハーレイにも「土曜日だって!」と報告して。
待ちに待った土曜日、朝から覗いたキッチンに置かれていた土鍋。もうそれだけで心が躍った。これで炊くのかと、昼御飯にはハーレイのレシピで作ったシーフードピラフが食べられる、と。
やがてハーレイがやって来たから、顔を輝かせて「土鍋があったよ」と自慢した。
「ママが用意をしてくれてたんだよ、キッチンに土鍋」
お米とかは入っていなかったけれど、約束通り炊いて貰えるよ!
ハーレイが言ってた、シーフードピラフ。あの土鍋で。
「今度もアサリが入ってそうだな、殻つきの」
殻つきの貝を入れると見栄えがいいんですよ、と話しておいたし、アサリじゃないか?
馴染み深いのはアサリだからなあ、ムール貝とかでも美味いんだがな。
「アサリだと思うよ、ハーレイもアサリって言っていたから」
あの日のはアサリが入っていたから、アサリみたいな殻つきの貝、って言ってた筈だよ。
だから、アサリで作ると思う。…次に作る時はムール貝かもしれないけれど。
「アサリか…。また面倒だと言い出すなよ?」
殻つきのアサリは外すのがちょっと面倒だなんて、罰当たりなことを言いやがって。
あれは新鮮さの証明なんだし、ちゃんと味わって食べることだな。
「分かってるよ!」
ちょっぴり面倒って思っただけだよ、だって、ホントに食べにくいから…。
だけど、前のぼくでもサイオンを使って食べるようなことはしなかったんだし、今のぼくだって分かってるってば。
ハーレイにジロリと睨まれちゃったら、面倒だなんて、もう言わないよ。
それに、今日のシーフードピラフは特別だもの。殻つきのアサリが山ほど入っていたって、全部喜んで食べるよ、ぼくは。
そして昼食に運ばれて来たシーフードピラフ。「お待たせしました」と笑顔だった母。
土鍋での調理は上手くいったようで、ホカホカと湯気が立つシーフードピラフが盛られたお皿。予想通りに殻つきのアサリが入っていたけれど、面倒だとは思わない。
アサリの身を外すのも、楽しみの内。殻つきの貝を入れると見栄えがいい、とハーレイが教えたレシピだから。それで殻つきなのだから。
「ふふっ、ハーレイが作るのとおんなじ味…」
土鍋で炊いたから、御飯がふっくらしているのかな?
ママが普段に作ってくれるのも美味しいけれども、土鍋で作ったらもっと美味しい…!
ハーレイが得意なシーフードピラフ、これとおんなじ味なんだね…!
「どうだかな?」
本当にお前が食べたかったのは、こいつで間違いないのかどうか…。
「この味じゃないの?」
ママの味付け、ハーレイのと何処か違ってる?
それとも炊き方がちょっと違うの、ハーレイが炊いたら、こうならないの…?
「いや、お母さんは上手く再現してると思うぞ」
初めて炊いたとは思えない出来だし、流石は料理上手ってトコだ。
俺が作るのと、まるで変わりはないんだが…。
とても美味いんだが、お前が食べたいシーフードピラフは、こいつじゃないって気がしてな…。
お前の憧れは俺が作ったヤツなんだろうが、と指摘されたから。
土鍋で炊いたシーフードピラフを食べたがったのは、俺の得意料理だと聞いたからだろうが、と鳶色の瞳で真っ直ぐに見詰められたから。
「…そうだけど?」
本当に食べたいシーフードピラフは、それなんだけど…。
でも、ハーレイが作ったヤツは食べられないから、ママにお願いしたんだよ。
ハーレイが作るのと同じ味なら、ぼくは充分、嬉しいんだけど…?
「そうなんだろうと思いはするが…。今はそいつが限界なんだが…」
お前、シーフードピラフでなくても喜びそうだな、と思ってな。
こんなに豪華に作らなくても、お前ならきっと喜ぶぞ、と。
「え…?」
それって、どういう意味なの、ハーレイ?
シーフードピラフじゃなくって、もっと普通のピラフのこと…?
「ピラフじゃなくてだ、普通に米を土鍋で炊いただけでも」
俺が土鍋で炊きさえしたなら、大満足で食うんじゃないかと…。
炊いてやれるのはずっと先だが、いつかお前に御馳走できる日が来たならな。
「それはもちろんだよ!」
ハーレイが作ってくれるんだったら、シーフードピラフでなくてもいいよ。シーフードなんかは入ってなくても、普通に御飯を炊いただけでも。
そうに決まっているじゃない。
ハーレイが作る所を側で見られて、ハーレイと二人で食べられるんなら…!
殻つきのアサリや海老などが入った、ふっくらと美味しいシーフードピラフもいいけれど。
土鍋で炊き上げた素敵なピラフもいいのだけれども、御飯だけでもきっと美味しい。ハーレイが炊いてくれるなら。炊飯器の代わりに土鍋を使って、ホカホカの御飯が炊き上がるなら。
「やっぱりな…。そういうことなら、飯盒炊爨なんかもいいな、と思ってな」
土鍋で炊くような風にはいかんが、あれもなかなかに美味いもんだぞ。
「飯盒炊爨?」
どんなものなの、それも御飯を炊くんだよね…?
「飯を炊くのには違いないが…。土鍋どころか、鍋も使わん」
キャンプとかの時に使う道具だ、こういう形をしてるんだが…。
見たことは無いか、こいつを直接、焚火とかにかけて飯を炊こうというわけだ。
「ああ…!」
パパが炊いてくれたことがあったよ、下の学校の時にキャンプ場で。
そういう道具を貸してくれる所があってね、焚火用の場所もあったんだよ。
ハーレイもあれで御飯を炊けるの?
「得意な方だな、炊き方のコツは知ってるぞ」
下手に炊いたら、芯が残った飯が出来たりするんだが…。
そうなったことは一度も無いなあ、こいつも俺の才能かもな?
幼かった頃に、両親と出掛けたキャンプ場。父が炊いてくれた御飯は美味しかった。緑の木々や川の流れが綺麗だった森で食べたからだろうか、ただの白い御飯だったのに。
それをハーレイが炊くと言うから、御馳走してくれるらしいから。
「それ、食べたい…!」
飯盒炊爨をするんだったら、キャンプ場とかに行くんでしょ?
ハーレイの車でドライブ付きだよね、飯盒炊爨が出来る場所まで…!
「ほらな、ますます夢が膨らんだろうが」
お前と二人でドライブしてから、一緒に焚火を始めて炊く、と。
飯盒炊爨でもシーフードピラフは作れるんだぞ、普通の飯を炊くっていうだけじゃなくて。
「嘘…!」
土鍋だったら分かるけれども、あれって普通のお鍋じゃないよ?
御飯を炊いても、下手な人だと芯が残ってしまうんでしょ?
そんな道具でシーフードピラフは、作れそうもないと思うんだけど…。
「まあ、殻つきのアサリは無理だな、確かにな」
火の通り方の関係だろうな、殻つきの貝では上手くいかんと俺も聞いてる。親父からな。
そうさ、親父に仕込まれたんだ。釣りに行ったら飯盒炊爨って時もあるしな、場所によっては。
飯盒でシーフードピラフを炊くんだったら、使うのは店で売ってるヤツだ。手抜きで使おうってわけじゃなくって、シーフードミックスがピッタリなんだ。
そいつを使って火にかけてやって…。焦げるくらいが美味いんだぞ。シーフードピラフ。
「美味しそう…」
手抜きじゃないのに、シーフードミックスを使うんだ?
新鮮な材料を揃えるんじゃなくて。
「そうだ、そこが面白い所だな。普通にシーフードピラフを作るんだったら、手抜きなのにな」
シーフードミックスを使っちまったら、手抜きと言われても仕方がないが…。
飯盒炊爨だと逆にそいつが秘訣ってわけだ、美味いシーフードピラフを炊くための。
いつかお前に作ってやるさ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
殻つきのアサリは何処にも入っていないけれども、飯盒で炊いたシーフードピラフ。
キャンプ場なら、殻つきのアサリの身を外すのは本当に面倒だろうし、丁度良さそうな気がするシーフードミックスを使ったピラフ。
まずは土鍋で炊いたシーフードピラフからだ、と言われたけれど。
キャンプ場までドライブするのは、土鍋の方のを披露してからだ、ということらしいけれども。
土鍋で作ったシーフードピラフも魅力的だから、それでいい。
最初は土鍋で炊く所を見て、次はドライブで飯盒炊爨。
(…きっと、どっちも美味しいんだよ)
ハーレイが作るシーフードピラフは、殻つきの貝が入ったものでも、シーフードミックスで炊く飯盒炊爨の方でも、きっと。
シャングリラには無かったシーフードピラフ、今は炊き方までも色々。
使う道具も、入れるシーフードも、料理上手なハーレイ次第。
早くハーレイと二人で食べたい、今ならではの味を、前の自分が焦がれ続けた青い地球の上で。
白いシャングリラで行こうと夢見た、ハーレイと目指した地球の上で。
きっと、幸せの味がするのに違いない。殻つきのアサリが少し面倒でも、殻がないアサリの身が入っているシーフードミックスを使ったものでも。
いつか大きく育った時には、ハーレイと二人でシーフードピラフ。
飯盒炊爨に出掛けて行ったら、地球の自然を楽しみながら。
ハーレイと暮らす家で土鍋で炊いたら、二人きりのテーブルで互いに微笑み交わしながら…。
シーフードピラフ・了
※シャングリラの時代は無かった、お米を炊く料理。もちろんシーフードピラフだって。
けれど今度は、ハーレイと一緒に食べられたのです。そしていつかは、二人で飯盒炊爨も。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(アップルパイかな?)
学校から帰ったら、そういう匂い。ブルーに届いた甘い甘い香り、母が得意なアップルパイ。
きっとそうだ、と心が弾んだ。ハーレイの大好物のパウンドケーキも好きだけれども、お菓子はどれも大好きだから。食べると心に幸せが満ちる、母の手作り。
パイもケーキも種類は色々、なのに何故だか心が躍る。アップルパイだ、と。
(美味しいんだよね、アップルパイ…)
今日はアップルパイを食べたい気分だったのだろう。自分では気付いていなかったけれど、匂いだけで嬉しくなるのなら。上手い具合に重なったらしい、食べたいお菓子と母が作ったお菓子。
アイスクリームも添えてくれるといいな、と考えながら部屋で制服を脱いで、着替えを済ませてダイニングに下りて行ったら、おやつを用意してくれた母。予想通りにアップルパイ。
「今日のアップルパイはね、ママも初めて作ったのよ」
どうぞ召し上がれ、と渡されたお皿。アップルパイが一切れ、ごくごく普通の。
「…いつものアップルパイに見えるけど…?」
「見た目はね」
食べてみて、と母に促されてフォークを入れて。頬張ってみたら、香ばしいパイ皮と優しい味のリンゴのハーモニー。サックリした皮と、しっとりと甘い中のリンゴと。
「美味しい!」
ホントに違うね、ママが作るのも美味しいけれど…。これは特別に美味しいみたい。
「そうでしょう?」
ママもね、お友達の家で御馳走になるまで知らなかったわ、この味は。
だから早速聞いて来たのよ、これはどうやって作るのかしら、って。
母が教わって来たアップルパイの作り方。教会のバザーで売られるアップルパイのためのレシピだという。人気の高いアップルパイで、並べれば直ぐに売り切れるくらい。
味の秘訣は中身のリンゴ。普通のアップルパイと違って、リンゴのジャムから作り始める。その時に出て来た煮汁を取り分けておいて、パイを焼く時に三度も塗るのが美味しさの秘密。
ジャムとして食べても充分に美味しいリンゴのジャムと、何度も塗られたリンゴの煮汁。
卵黄と牛乳で作る上塗り液とは別に、煮汁を三回。
「SD体制が始まるよりも、ずうっと昔のレシピなんですって」
修道院のシスターが作っていたらしいわよ。今とは違って、教会がずっと厳しかった時代に。
外で売るためのお菓子は作れても、シスターは修道院の外には出られなかったんですって。
「ふうん…?」
なんだか凄いね、今は教会、普通だけれど…。前のぼくの頃から、そうだったけど。
外に出られないから、お菓子の研究をしていたのかな?
「どうなのかしら…。ママもそこまでは聞かなかったけれど…」
でもね、特別だっていうのは分かるわ、この作り方が。
アップルパイを作る時にね、リンゴジャムを使うことはあるのよ。リンゴを煮ている時間が無い時に中に詰めちゃおう、って。瓶から出したら使えるものね。
だけど、リンゴのジャムから作るレシピは滅多に無いわ。リンゴを煮た方がずっと早いもの。
それにジャムから作る時でも、リンゴの煮汁を上に塗ったりするほどの手間はかけないし…。
三回も塗るのよ、オーブンを五分ごとに開けてね。
上塗り液さえ塗っておいたら、充分、綺麗に焼き上がるのに。
お菓子作りが好きな母でも、特別だと思う作り方。
美味しさの秘密を聞いたからには、興味津々で食べたアップルパイ。とても美味しい、と。
お皿がすっかり空になっても、まだ名残惜しい気がするから。
「ママ、おかわり!」
もっと食べたいよ、このアップルパイ。ホントに美味しいパイなんだもの。
「お腹、一杯になっちゃわない?」
晩御飯が入らなくなってしまうわよ、食べ過ぎちゃったら。これはおやつよ、食事じゃなくて。
「少しだけだよ、今度はゆっくり食べてみたいから」
美味しすぎて夢中で食べちゃったから、今度は慌てて食べずに、ゆっくり。
「はいはい、ブルーも味の研究がしたくなったのね」
あんまり食べると後で困るから、少しだけよ?
ハーレイ先生がいらっしゃっても大丈夫な程度ね、ブルーだけお菓子が無いと嫌でしょう?
だからこれだけ、と母が小さめに切ってお皿に載せてくれたアップルパイ。
本当に小さなサイズだけれども、おかわりのパイは無事に貰えた。
母がダイニングから出て行った後に、じっくりと眺めたアップルパイ。
見た目は普通のアップルパイと変わらないのに、美味しくて手間のかかったパイ。それに教会のバザー用のパイ、遠い昔に修道院のシスターたちが作ったレシピ。
(神様のアップルパイなんだ…)
聖痕をくれた神様のパイ、と嬉しくなったパイとの出会い。神様のアップルパイに会えた、と。
特別なパイをもっと知りたくて、思い立ったのがパイの分解。
リンゴの煮汁が塗られた皮と、中のリンゴジャムを別々に味わってみるのも良さそうだから。
少しお行儀が悪いけれども、皮を剥がして齧ってみたら、確かにほんのりリンゴの味。ジャムの煮汁を塗ってあるから、皮もリンゴの味なのだろう。
中のリンゴジャムは透き通った金色、ジャムとして食べても美味しいだろうに、アップルパイに詰めてある。わざわざ作ったジャムだというのに、それをお菓子に惜しみなく。
沢山の手間がかかっていることと、その美味しさが分かった分解。別々に食べた、皮と中身と。
(分解してみて良かったよね!)
ママにおかわりを貰えたからだよ、とジャムをフォークで口へと運んだ。イチョウ切りになった薄いリンゴは、これだけでも手間がかかると分かる。リンゴを小さく切るのだから。
アップルパイに入れるリンゴなら、もっと大きく切ってもいいのに、と頬張ったジャム。金色になるまで煮てあるリンゴ。
そうしたら…。
(あれ…?)
何処かで食べたような気がした。こういうアップルパイの中身を。
アップルパイ用に煮たリンゴではなくて、リンゴで作ったジャムが詰まったアップルパイ。
けれども、何処で食べたのだろう。こういう味がする中身、と考え込んだ所へ、折よく母が通り掛かったから、呼び止めて訊いた。
「ママ、リンゴジャムのアップルパイを作ったことはある?」
時間が無い時はジャムを使うって言っていたけど、ママも作った?
「作らないわよ、アップルパイにはいつもリンゴを煮ているもの。…でも、どうして?」
「…これ、食べたような気がするから…」
パイの中身だけ食べたんだけれど、こういう味のリンゴが詰まったアップルパイ。
普通に煮てあるリンゴじゃなくって、リンゴのジャム。
「シャングリラじゃないの?」
ブルーにはソルジャー・ブルーの記憶があるでしょ、その頃に食べていなかった?
シャングリラにもリンゴはあったんでしょうし、アップルパイもあったでしょ?
「んーと…。リンゴは育てていたけれど…」
あの船のパイじゃないと思うよ、教会のアップルパイのレシピなんかは無かっただろうし。
時間が無い時に作るリンゴジャムのレシピも、シャングリラだと意味が無いんだもの。
厨房には決まった係がいたから、時間不足は有り得ないんだよ。出来上がりまでの時間を考えて作るんだもの、アップルパイだって同じだと思う。
今日は時間が足りないから、ってジャムを詰めることなんか無い筈なんだよ。
アップルパイが運んで来た謎。何処かで食べたと思った味。
おかわりのパイを食べ終わっても、ついに答えは出なかった。空になったお皿や紅茶のカップを母に返して、部屋に戻って。
勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。あの味に何処で出会っただろう?
(確かに食べてた筈なんだけど…)
舌があの味を覚えていたから。アップルパイの中身はリンゴのジャム、と。
友達の家で出たのだろうか、と思ったけれども、ごくごく普通のアップルパイの記憶しか無い。ジャムとは違って、甘く煮たリンゴを詰めてあるパイ。
そうなってくると、母が言ったようにシャングリラしか残らないのだけれど。
(でも、シャングリラだと…)
アップルパイは必ず中身のリンゴを甘く煮て作っていただろう。
どんなに急いでいたとしたって、係はきちんといたのだから。リンゴを煮るより早く出来ると、ジャムを詰めたりはしなかったろう。
たかがアップルパイといえども、係にとっては仕上げることが仕事なのだから。
急いで作らねばならないとしても、手抜きはきっと考えない。ジャムを詰めたら早く作れる、と気付いたとしても、けして実行したりはしない。
その方が美味しく出来るというなら別だけれども、そういうレシピは船に無かっただろうから。
アップルパイのリンゴは専用に煮るもの、そう考えていそうだから。
けれど、もしかしたら、誰かが考え付いたのだろうか、リンゴのジャムで作るレシピを?
何かのはずみにふと思い付いて、作ってみたら美味しかったとか…?
そういったこともあるかもしれない。
白いシャングリラで仲間たちと暮らした時間は長くて、アップルパイの研究だって出来た筈。
神様のアップルパイのレシピを作ったシスターたちと同じに、外へは出られなかった船。研究のための時間は充分にあった、遠い昔の修道院のように閉ざされた世界だったのだから。
(…ハーレイだったら、知ってるのかな?)
キャプテンになる前は、厨房にいた前のハーレイ。
料理は得意だったのだから、アップルパイの味が変われば興味を持って訊きに行きそうだ。何か新しい工夫をしたかと、どういうレシピで作ったのかと。
ハーレイが来れば謎が解けるかも、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが尋ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「ハーレイ、アップルパイは作れる?」
「もちろんだ」
「だったら、前のハーレイは?」
「前の俺だと?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。どうして前の俺でアップルパイだ、と。
「あのね…。シャングリラのアップルパイのレシピを知りたいんだよ」
ハーレイなら知っているかと思って…。厨房にいたから、レシピなんかも詳しそうだし。
「レシピはともかく、アップルパイというのは、なんのためにだ?」
お前が作ってみようと言うのか、シャングリラにあったアップルパイを?
「えーっとね…。そうじゃなくって…」
ぼくが作ろうっていうんじゃなくって、アップルパイの味が気になるんだよ。
シャングリラのアップルパイはどういう味だったかな、って。
切っ掛けは今日のおやつのアップルパイ、と質問の理由を説明した。
特別なパイを作って貰ったら、何処かで食べたような気がする味だったのだ、と。
「ほほう…。教会のアップルパイとは珍しいな」
しかもSD体制が始まるよりも前の時代のレシピか、本物の修道院で生まれた味なんだな。
どんなレシピだ、俺も大いに興味があるが。
これでも古典の教師だからなあ、遠い昔の文化ってヤツが好きなのは知っているだろう?
前の俺だってレトロな羽根ペンを使っていたんだ、こいつは血かもしれないな。
「秘密はリンゴのジャムなんだよ」
アップルパイの中身がリンゴのジャムでね、ジャムだけでも凄く美味しかったよ。
ママが、時間が足りない人はリンゴのジャムを使って作ることもあるって言ったけど…。
普通はリンゴを甘く煮るでしょ、アップルパイ用に。
だから、リンゴのジャムが詰まったアップルパイなんかを食べた覚えは無い筈なのに…。
何処かで食べたって思ったんだよ、中のジャムだけ食べてた時に。
「なるほどな…。お前、覚えていたのか」
リンゴのジャムのアップルパイを。…前のお前が食ってたことを。
「えっ?」
ぼく、シャングリラで食べてたの、あれを?
ハーレイが言うなら間違いないけど、ホントのホントにシャングリラで…?
甘く煮てあるリンゴの代わりに、リンゴジャムを詰めたアップルパイ。美味しいアップルパイにしようと、わざわざジャムから煮てゆくレシピ。
白いシャングリラにもあったのだろうか、あの特別なパイのレシピが?
あるいは時間が足りないからと、誰かが慌てて作ったろうか。リンゴのジャムを詰め込んで。
「ハーレイ、それって、どういうレシピ?」
厨房の誰かが研究してたの、アップルパイの美味しい作り方を?
それとも、時間が足りなかった時に、リンゴのジャムを詰めちゃったわけ…?
手抜きだけれども、特に文句は来なかったから、ってリンゴジャムのレシピもあったとか…?
「どちらかと言えば、手抜きの方だな」
それから、そいつを食っていた時期を間違えちゃいかん。厨房のヤツらは無関係だ。
前のお前が食ってたリンゴジャムが詰まったアップルパイはだ、俺が作っていたんだからな。
もちろん白い鯨になる前のことだ、俺がキャプテンになるよりも前だ。
「前のハーレイが作ってた、って…。ハーレイ、手抜きをしてたわけ?」
アップルパイ用にリンゴを甘く煮るのは面倒だ、ってリンゴのジャムを詰めちゃってたの?
「いや、違う。そこも間違えてはいかん所だ」
いいか、あの頃の船じゃ、菓子はそうそう作れるものではなくてだな…。
基本は奪ってくるものだったぞ、菓子の類も。前のお前が。
…もっとも、前の俺は許しはしなかったんだがな、菓子だけ奪いに行くというのは。
菓子が食えなくても死にはしないし、贅沢なんかはしなくていいと。
だからだ、菓子はお前が奪った物資に混ざっていれば食べるという勘定だ。
焼き菓子があったらそれを食ったし、チョコレートだったら、チョコレート。
シャングリラはそういう船だったろうが、俺が厨房にいた頃にはな。
美味しい菓子を船で作るのは、贅沢だった頃のシャングリラ。限られた物資で暮らしていた船。
倉庫の食料が不足する前に、前の自分が奪いに出掛けた。人類の輸送船を狙って。
船の中で菓子を作りたくても、白い鯨とは違った事情。手に入った食材だけが全てで、待っても船では何も育たない。リンゴも、甘く煮るための砂糖が生まれるサトウキビも。
「あの頃のシャングリラで、アップルパイなんかを作ってられるか?」
お前がリンゴを沢山奪って帰って来たとしても、そこでアップルパイにはならんぞ。
リンゴはパイにするよりも前に、貴重な果物というヤツだ。
新鮮な間に皮を剥いて食べる、そいつが一番大切だってな。船でリンゴは採れないんだから。
「それもそうだね、果物は人気があったしね」
食事と一緒に果物が出たら、みんな、とっても喜んでたし…。
アップルパイを作れる余裕が無いなら、リンゴはそのまま切って出すよね。
「分かったか? 前の俺が作ったのは保存食なんだ」
アップルパなんていう洒落たモノじゃなくて、ただのリンゴの保存食だ。
「保存食?」
それってなんなの、非常食とは違うよね?
保存食って言ったら、缶詰だとか、瓶詰だとか…。リンゴの缶詰、あったっけ?
リンゴジュースなら知ってるけれども、リンゴの缶詰…?
あれかな、甘く煮てあるヤツ…。リンゴのコンポートみたいなのが詰まった缶詰。
たまに見掛けるリンゴの缶詰。母は買っては来ないけれども、友達の家で御馳走になった。缶を開けたら出て来る甘いリンゴを使ったおやつ。フルーツポンチや、かき氷のトッピングなども。
そういったものしか思い浮かばない、リンゴを使った保存食。リンゴの缶詰、と。
前のハーレイはリンゴを甘く煮て缶詰を作っていたのだろうか?
そんな記憶は無いのだけれど、と首を傾げていたら、「忘れちまったか?」と笑みを含んだ声。
「缶詰じゃなくて、瓶詰だな。…前の俺がリンゴで作っていたのは」
リンゴが山ほどあった時には、保存しておこうとジャムにしたもんだ。
ジャムはパンには欠かせないしな、あっても困りはしないだろうが。
だからリンゴがドカンと手に入ったなら、せっせと作って瓶に詰めていたが…?
「そういえば…。ハーレイがジャムを煮詰めていたのを思い出したよ」
大きなお鍋でリンゴのジャム。金色になるまで、焦がさないように何度も混ぜて。
…あのジャムでアップルパイだったの?
せっかくジャムが出来たんだから、ってアップルパイを作っていたわけ…?
「お前用にだけな」
前のお前にしか作っていない。…リンゴのジャムのアップルパイは。
「ぼくにだけ?」
他のみんなの分は無しなの、リンゴのジャムは沢山あったと思うんだけど…。
「全員の分を作れる余裕は無い船だった、と言っただろうが」
それでも、お前の分だけは作ってやりたかったんだ。
お前、いつも奪って来てくれてたしな、色々なものを。食料も他の物資もだ。お前がいなけりゃ何も手に入りはしなかった。奪いに出掛けるだけの力は、お前にしか無かったんだから。
…だったら、少しは礼をしないとな、頑張ってくれるお前のために。
何か出来ないかと考えていた時に、アップルパイに出会ったんだよなあ…。
ハーレイとアップルパイとの出会いは、前の自分が奪った物資。コンテナの中にアップルパイが幾つも混ざっていたから、皆で分けて食べた。いつものように。
アップルパイが混ざっていたことは前にも何度もあったのだけれど、その時はリンゴもドッサリ入っていたのがヒントになった、と語るハーレイ。
「またリンゴジャムを作らないとな、と考えながら食っていたのが良かったんだろうな」
こいつの中身はリンゴジャムでもいいんじゃないか、と閃いたわけだ。アップルパイで。
それでデータベースで調べてみたらだ、リンゴジャムを使うレシピがあった。アップルパイにはリンゴのジャムを詰めてもいい、と。
それが分かったら、もう作るしかないだろう。アップルパイは美味いんだから。
しかしだ、一人分だけのパイ生地を作るというのもなあ…。
だから待ったさ、パイ生地を使った料理を作る時が来るまで。そのために作ったパイ生地の端を少し貰っておいても、問題は何も無いからな。どうせ端っこは余るんだし。
余ったパイ生地をくっつけて使うのは俺の自由だ、オーブンの隅っこに入れて焼くのも。上手く形を作って合わせて、中にリンゴのジャムを詰めればアップルパイの出来上がりってな。
前のお前が食べる分だけ、本当に少しだけだったが。
「思い出した…!」
ハーレイが作ってくれてたんだよ、前のぼく用のアップルパイを。
あの味だったよ、ママが作ったアップルパイの中身のジャムは。
何処かで食べたって思うわけだよ、ハーレイのアップルパイだったんだから。
あのアップルパイ、前のぼくはいつも、幸せ一杯で食べていたから…。
他のみんなに悪いよね、って気持ちもしたけど、ハーレイが作ってくれたのが凄く嬉しくて…。
「他のヤツらは気にするな」って言ってくれたから、いいのかな、って。
ハーレイがわざわざ作ってくれたお菓子なんだし、食べちゃってもかまわないんだよね、って。
前のハーレイに「お前だけだぞ」と厨房に呼ばれて、何度も食べたアップルパイ。
今日のおやつに食べていたような、アップルパイの形ではなかったけれど。
四角かったり、細長かったり、その時々で色々な形。余ったパイ生地の形や大きさで決まった、前のハーレイが作ったアップルパイの形。
「あのアップルパイ、いつでもリンゴのジャムだったものね…」
中身はリンゴのジャムなんだぞ、ってハーレイが教えてくれたっけ。
本物のアップルパイでも、リンゴのジャムで作ることがあるから、って。
…ママのアップルパイとおんなじ味になっちゃうわけだよ、中身がリンゴのジャムなんだもの。
「お前が言ってた、アップルパイのレシピなんだが…」
リンゴジャムの煮汁を仕上げに塗るって話だったよな。三回だったか?
前の俺がお前用に作ったアップルパイにも、煮汁が塗ってあったんだが…。
「煮汁って…。そんなのも取っておいたわけ?」
ジャムを作った後に残していたわけ、煮汁まで?
何かのお料理に使おうと思って取っておいたの、ハーレイは?
「いや、基本はシロップ扱いでだな…。水で薄めて厨房のヤツらが飲んでたんだが」
そうそう残りはしなかったわけだ、三日も経ったらすっかり飲まれちまってた。
だから、ジャム作りとパイ生地の料理が重なった時だけ塗ってたな。
薄めて飲んだら美味いわけだし、こいつを塗ったらアップルパイも美味くなりそうだ、と。
「そっか…。ハーレイ、煮汁も塗っていたんだ…」
あのアップルパイ、ママのとそっくり同じになってた日もあったんだ?
「流石に三回も塗る所まではやっていないがな」
その発想はまるで無かったな、一回塗れば充分だろうと思っちまってた。
あと二回塗れば、そのものズバリの上等なパイが出来ていたかもしれないのにな…?
惜しいことをした、とハーレイは苦笑しているけれども、リンゴジャムが入ったアップルパイ。
リンゴジャムを作った時の煮汁も塗られていたという、ハーレイが作ったアップルパイ。
前の自分は、今の自分がおやつに食べた特別なパイと同じものを食べていたらしい。
ほんの少しだけ違うけれども、煮汁が塗られた回数が二回足りないだけ。
それ以外の部分はまるで同じで、遠く遥かな時の彼方で前の自分が食べていた。神様のパイだと今の自分が思った、特別なレシピのアップルパイを。
前のハーレイに作って貰って、何度も何度も、リンゴのジャムの小さなパイを。
なんとも不思議で、懐かしい味のアップルパイ。
いつも形はバラバラなもので、パイ生地の端っこで作られたパイ。ハーレイが上手く工夫して。
端を綺麗に捻ってあったり、飾りがついていたこともあった。
パイ生地に入った切れ目の他にも、生地の端っこを貼り付けて小さな飾り。三角だったり、四角だったり、オマケのパイ生地。
「たまに、こういうのもいいだろうが」とハーレイは得意そうだった。ちょっとお洒落な出来になったと、今日のパイ皮にはオマケ付きだ、と。
前の自分が何も知らずに時の彼方で食べたパイ。遠い昔に修道院で生まれたアップルパイと同じレシピで作られたパイ。
それを作っていたハーレイ自身も、そうとは知らなかったのだけれど。リンゴジャムを使ってもアップルパイは作れるものだと、閃いたというだけなのだけれど。
リンゴジャムの煮汁を塗っていたのも、ほんの偶然。美味しそうだからと塗っただけ。
そのアップルパイを作っていたハーレイが厨房を離れた後には、リンゴジャムのアップルパイはもう無かったという。前のハーレイはレシピを残さず、誰も作らなかったから。
「…それじゃ、前のぼくも…」
ハーレイがキャプテンになった後には食べてないわけ、あのアップルパイ?
レシピが残っていなかったんなら、誰も作ってくれないものね…。
「そうなるな。…白い鯨になった後には、アップルパイのレシピは普通だったからな」
リンゴジャムなぞ誰も使わん、それをやったら手抜きだと言われても仕方ない。
ちゃんとリンゴを煮てから作れと、上のヤツから厳しく叱られただろうさ。
リンゴジャムを使って素晴らしく美味いのを作れば別だが、そんな話は聞いちゃいないぞ。
厨房とは縁が切れちまっても、画期的なことをやったヤツがいたなら耳に入ってくるからな。
なにしろ、元が厨房出身だ。昔馴染みのヤツだっているし、情報は色々あったってことだ。
白いシャングリラでは作られなかったらしい、リンゴジャムを使ったアップルパイ。
前のハーレイが編み出したレシピは消えてしまって、誰も作りはしなかった。前の自分も二度と食べられないまま、その味を忘れてしまったのだろう。同じ味のパイを食べるまで。
「…なんだか不思議…。前のハーレイが神様のアップルパイと同じのを作っていたなんて…」
前のぼくがそれを食べていたのも、とっても不思議。
今頃になって、ママがおんなじ味がするパイをおやつに作ってくれたのも…。
「まったくだ。神様の悪戯ってヤツかもしれんな、ちょっと驚かせてやろうとな」
奇跡ばかりじゃないんだぞ、と愉快なサプライズを下さったってこともあるかもしれん。神様は何処にでもいらっしゃるんだと言うからな。
前の俺は神様のアップルパイのレシピだと知らずに盗んじまったのか、拝借したのか…。よくもやったな、と今頃になって頭をコツンと叩いていらっしゃるかもしれないな、うん。
しかし、そういう由緒正しいレシピが存在したとは驚きだ。
あれは手抜きじゃなかったんだな、リンゴジャムで作るアップルパイは。
「今のハーレイは知らなかったわけ?」
リンゴジャムを使うレシピは手抜きなんだと思っていたわけ、前と同じで?
「うむ。…リンゴジャムから作ろうっていう凝ったのがあるとは、夢にも思っていなかった」
しかも煮汁を三回も塗って仕上げるだなんて、もう全くの初耳だ。
おふくろは知っているかもしれんが、俺にまでは伝わって来ていないってな。
「それなら、ママのレシピを教えて貰う?」
ぼくは材料とかを詳しく聞いてないから、ママに作り方、教えて欲しい?
「そうだな、レシピを貰えるんなら、有難く貰って帰るとするかな」
伝統あるレシピというだけでも充分に魅力的なのに、前の俺のレシピと重なるようだし…。
これは教えて貰わないとな、本当はどういうレシピなのかを。
「うんっ!」
ちょっと待っててね、ママに頼んでくる!
晩御飯までに書いておいて、って言ってくるから…!
大急ぎで階段をトントンと下りて、母の所へ走って行った。キッチンにいた母に駆け寄り、息を弾ませて。
「ママ、ハーレイにあのレシピ…!」
アップルパイのレシピを教えてあげてよ、今日のおやつに作ってくれた教会のバザー用のパイ。
ハーレイ、レシピが欲しいんだって。
ぼくも分かったよ、なんでハーレイがレシピを教えて欲しいのか…!
「あらまあ…。それじゃ、謎が解けたの?」
何処かで食べたって言っていたのは、やっぱりシャングリラのアップルパイなの?
「そうだったんだよ、前のぼくが食べてたアップルパイとそっくりだった!」
ホントのホントにそっくりなんだよ、ハーレイもぼくも、とてもビックリしちゃったくらいに。
晩御飯の時に詳しく話すよ、今は時間が惜しいから!
それにパパだって聞きたがるだろうし、ママはもう少し待ってて、お願い!
「ハーレイ先生とお話の続きがしたいんでしょう、急いで走って来たものね」
晩御飯を楽しみにしているわ。…どんなお話が聞けるのかしらね、アップルパイの。
「まだ内緒! でも、ハーレイがレシピを持って帰れるように書いておいてね」
前のハーレイの思い出のレシピだったんだよ、あのアップルパイの作り方…!
「分かったわ。ちゃんとハーレイ先生の席に置いておくわね」
忘れないわよ、レシピはきちんと書いておくから。
慌てて走って階段で足を滑らせないでね、ブルーは自分じゃ止まれないから落っこちるわよ?
落っこちちゃったら、晩御飯どころか病院に行かなきゃいけないんだから。
「はーい!」
じゃあ、また晩御飯の時に呼んでね!
アップルパイの話を聞いたら、ママたちもきっと凄くビックリする筈だから…!
母に手を振って、パタパタと走って上がった階段。もちろん落っこちないように気を付けて。
足を滑らせたら大変だから。サイオンの扱いが下手な自分は、落ちたら怪我をしてしまうから。
それでもやっぱり走ってしまう。早く部屋へと戻りたいから。
部屋の扉をバタンと開けたら、ハーレイにまで「大急ぎだな」と笑われた。子供だけあって落ち着きが無いと、「それでは階段から落ちちまうぞ」と。
「平気だってば、落っこちないよ!」
ぼくの家だもの、慣れているから大丈夫!
ママに頼んで来たよ、アップルパイのレシピを書いておいて、って。
晩御飯の時に、ハーレイの席にレシピが置いてある筈だよ。ママが約束してくれたから。
「すまんな、後で俺が頼んでも良かったのに」
急がないから、次に来た時に貰うコースでも、俺は全く気にしないんだが…。
「ううん、ぼくはちっともかまわないってば、お使いくらい」
だってハーレイ、いつか作ってくれるんでしょ、ぼくに。
ママに貰ったレシピを使って、あの神様のアップルパイを。
「もちろんだ。そのつもりで貰うんだからな、レシピを」
前の俺のと何処が違うのか、そこをじっくり確認しないと…。
お前は同じ味だと言ったが、たまたまリンゴのジャムだってだけで、分量が違うこともある。
それに特別なレシピらしいし、他にも秘密が隠れているかもしれんしな?
しっかりと読んで、レシピの通りにきちんと作る。
菓子も料理もコツはそれだな、自分のものにしてしまうまでは基本に忠実に作ってこそだ。
レシピ通りに作って覚えて、今度はデカいアップルパイを作ってやるから、と言われたけれど。
好きなだけおかわり出来る大きさで焼き上げてやる、とハーレイは微笑んでくれたけれども。
「大きいのも食べてみたいけど…。最初は前のと同じのがいいよ」
前のハーレイが作ってくれてた、パイ生地の端っこのアップルパイ。
あれくらいのヤツを食べてみたいよ、一番最初は。
「端っこって…。小さいぞ?」
このくらいしか無かったわけだが、前のお前のアップルパイは。
小さすぎだ、とハーレイが片手で示した大きさ。
今の自分の小さな手でさえ、それを乗せたら小さすぎるとしか見えないサイズなのだけど。
「それでいいんだよ、最初のは」
前のハーレイとぼくの思い出のアップルパイは、大きくなんかなかったもの。
いつもパイ生地の端っこばかりで、形も色々だったんだもの…。
「ふうむ…。パイ生地の端っこで作って欲しい、と」
分かった、デカイのを作るついでに小さいのも一つ作ってやろう。
いかにも端っこで作りました、って感じの小さなアップルパイを一つ。余ったパイ生地で飾りも付けてだ、前のお前が食っていたようなヤツにするかな、小さいんだがな。
「ありがとう! それを食べたら、大きい方のパイをおかわりにするよ」
ハーレイに大きく切って貰って、あの味のパイを沢山、沢山。
「おいおい、アップルパイは菓子なんだからな」
そればかり食わずに飯も食べろよ、美味い料理も作ってやるから。
いくら思い出の味か知らんが、まずは食事が大切なんだぞ。
アップルパイばかり食うんじゃないぞ、と釘を刺されてしまったけれど。
いつかハーレイが作ってくれる時が来る。
前のハーレイがそれと知らずに何度も作った、リンゴジャムを使ったアップルパイを。遠い昔に修道院で考え出された、神様のアップルパイとそっくり同じな作り方のパイを。
シャングリラがまだ白い鯨ではなかった時代の、懐かしい思い出のアップルパイ。
神様のアップルパイのレシピでハーレイが作ってくれるパイも、きっとあのパイと同じ味。
そんな予感がするのだけれども、食べられる日はまだ先だから。
ハーレイとキスを交わせるようになるまで、アップルパイもお預けだから。
それまでは母が焼いてくれる度に、リンゴジャムのパイを味わおう。
あの味がすると、前のハーレイが作ってくれたアップルパイと同じパイだと。
そしていつかはハーレイと食べる。
最初は小さなアップルパイ。おかわりの時は大きなアップルパイを切って貰って。
聖痕をくれた神様のアップルパイとそっくりだった、前のハーレイが作っていたパイ。
「不思議だよね」と、「きっと神様の悪戯だよね」と笑い合いながら。
ハーレイと二人で暮らす家できっと何度も何度も、アップルパイを食べるのだろう。
リンゴジャムで作るアップルパイ。前の自分がシャングリラで食べていた、思い出のパイを…。
アップルパイ・了
※前のハーレイがブルーだけに作った、アップルパイ。リンゴのジャムと余ったパイ生地で。
遠い昔の修道院のレシピと、偶然、同じだったのです。今の生で、ゆっくり味わえそう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
俺は料理が得意なわけだが…、と教室で始まったハーレイの雑談。ブルーのクラスでも馴染みの時間で、生徒たちの集中力を取り戻すために織り込まれるもの。
ハーレイが料理上手なことは知られているから、てっきり美味しい料理の話だと思っていたら、続いた言葉はこうだった。
「しかしだ、そんな俺にも作れない料理が存在するんだ」
実に伝統ある料理なんだが、こいつは無理でな。いわゆる日本の料理の一つだ。
「なんですか?」
幾つもの声が上がったけれども、ハーレイは「まあ、待て」と教室の前のボードに向き直った。そこに料理の名前をサラサラと書いて、手でコンと叩く。書かれた文字は「おしゃます鍋」。
「見ての通りに鍋なんだが…。どうして作れないのか分かるか?」
「高いんですね、材料が?」
サッと手を挙げた男子の一人。家で作るには高すぎる材料を使うんでしょう、と。
「惜しいな。…材料ってトコはいい線を行っているんだが」
「…珍しいんですか?」
高くなくても珍しいもので、この辺りでは買えないとか…?
「ふうむ…。お前だったら作れるかもな」
「ぼくですか?」
自分の顔を指差す生徒。彼の家は農家だっただろうか、と考えたけれど。
「お前、飼ってただろうが、猫」
「はい…?」
「そいつの鍋だ、おしゃます鍋は猫の鍋なんだ」
「えーっ!」
そ、その鍋はぼくも作れません!
ミーちゃんは大事な家族なんです、食べようだなんて酷すぎますよ…!
猫の飼い主の男子はもとより、大騒ぎになった教室の中。猫を食べるなんて、と。
「ほら見ろ、だから作れないと言っただろうが」
俺の料理の腕とか、予算以前の問題なんだ。おしゃます鍋はとても作れん。
材料の猫なら、ガキだった頃は俺の家にもいたんだがな。
「分かりました…」
でも本当にあったんですか、と男子生徒がしげしげと眺める「おしゃます鍋」の文字。
驚かせようとして冗談を言っているのでは、と。
「俺を誰だと思っているんだ、今までに嘘を教えたことがあったか?」
冗談だったら、とうに種明かしをしている頃だ。おしゃます鍋は正真正銘、日本の料理だ。
SD体制よりもずっと昔の食文化だな、とハーレイが語る「おしゃます鍋」。
遠い昔に日本が国交を断って、鎖国とやらをしていた江戸時代。おしゃます鍋は江戸時代に考案された料理で、材料が猫だと分かるようにと名前がついた。当時、流行っていた歌から。
「猫じゃ、猫じゃとおしゃますが」と歌う歌詞から、おしゃます鍋。かつての日本の食文化。
色々な文化が復活している今だけれども、流石にそこまでは復活しなかったという所だろうか。
(おしゃます鍋…)
ミーシャの鍋、と心で呟いてブルッと震えた。とんでもない、と。
子供時代のハーレイの家にいた猫といえば、真っ白なミーシャ。写真も見せて貰った猫。とても可愛くて甘えん坊だったミーシャ、それを食べるなど酷すぎるから。
学校が終わって家に帰ったら、着替えを済ませてダイニングでおやつ。
ケーキと紅茶を用意してくれた母に、あの話をしようと思い出した。仕入れたばかりの薀蓄を。
「ママ、おしゃます鍋っていうのを知ってる?」
「作って欲しいの?」
「…知ってるの?」
そう言うってことは、もしかして、ママは知っているわけ?
「知らないわ。でも、どうせハーレイ先生でしょ?」
ブルーが学校で聞いて来るお話、珍しいものは大抵、ハーレイ先生だもの。
だからお鍋も教わったのね、とママにも簡単に分かるわよ。食べてみたいの、そのお鍋?
「…ママの推理で当たってるけど…。ハーレイの授業で聞いたんだけど…」
でもね、食べたいとは思わないよ、ぼく。ママだってきっと作れないと思う。
おしゃます鍋って、猫のお鍋なんだよ。
「猫ですって!?」
ペットの猫よね、他の種類の特別な猫じゃないわよね…?
猫科の動物ってわけじゃないのね、本物の猫のお鍋なのね、それは…?
あんまりだわ、と母も愕然とした、おしゃます鍋。
本当に存在していたらしい、と説明したら、ポカンと口を開けていた母。日本という国はなんと凄かったのかと、江戸時代と言えば平和でお洒落な文化の時代じゃなかったかしら、と。
母を大いに驚かせた後、おやつを美味しく食べて部屋に戻って。
勉強机の前に座って、また思い出した例の雑談。ハーレイにも作れない料理。
(いくらなんでも、おしゃます鍋は…)
酷すぎると思う、かつての日本の文化でも。名前までついた料理でも。
今の時代には無くて良かった。ミーシャを食べる文化だなんて。
猫には何度も出会ったけれども、今は一番身近に感じるハーレイの家にいたミーシャ。真っ白な猫は写真だけしか知らないとはいえ、生きていた頃の色々な話を聞いているから。
(ハーレイ、凄いの知ってるんだから…)
よりにもよって、おしゃます鍋。可愛らしい猫を食べてしまう鍋。
けれど、自分が知らないだけで、他にも沢山あるかもしれない。
信じられない食べ物が。それを食べるなど酷すぎる、と声を失いそうな料理が。
もっとも、今の時代には多分、無いだろうけれど。
おしゃます鍋が無いのと同じで、復活させないで放っておかれているだろうけれど。
そういったことを考えていたら、おしゃます鍋を教えたハーレイが訪ねて来てくれたから。
知識の豊富なハーレイに訊こうと、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「えっと…。今日の雑談、おしゃます鍋って言ってたけれど…」
おしゃます鍋の他にもあるの?
「何がだ?」
「変な食べ物。今のぼくたちが聞いたら、嘘だと思うような食べ物だよ」
猫を食べるなんて、ってビックリしたけど、他にもそんなのあったのかな、って…。
「おいおい、変と言ったら失礼だぞ。当時は立派な食文化だ」
其処の文化の一つなんだし、頭から否定しちゃいかん。
しかし、そうだな…。犬を食べるというのもあったな、中国とかでは。
「犬って…。それって、猫を食べるより酷くない?」
猫はホントにペットだけれども、犬は人間のことをとても大事に考えてるって言うじゃない!
お使いに出掛ける犬だっているよ、首から籠を下げて貰って!
「そいつは価値観の違いってヤツだ、どう考えるかは」
最初から犬を食べていた国じゃ、犬は人間のパートナーとかペットである以前に食べ物だ。他の国の人が「ペットにどうぞ」とプレゼントしたら、「美味しかったです」と書かれた御礼状が来て仰天したって話もあるんだ、犬の方はな。
犬の料理にも名前がついていたらしい。栄養がつくから暑い夏には喜ばれたとか、立派な食べ物だった犬。見た目はペットの犬と同じで、特別な犬ではなかったのに。
「…なんで食べなくなっちゃったの?」
おしゃます鍋も、犬の料理も、どうして消えてしまったの?
今の時代に無いっていうのは分かるけれども、SD体制に入るよりも前に無くなったんでしょ?
その頃だったら、文化を消そうって時代じゃなかったと思うんだけど…。
「動物愛護の精神ってヤツだ」
生き物を大切にしなければ、という精神が広がったんだな、世界中に。
犬や猫はもちろん、鯨やイルカも可哀相だと大勢の人が声を上げ始めたら、賛同する人も増えていくだろうが。そういうものを食べる文化があった国でも、間違いかもしれんと思うヤツらが。
食べないようにするべきだ、と考えるヤツらばかりになったら、食べる文化も消えちまう。犬も猫も、他の動物もな。
生き物を殺して食べることは残酷すぎる、という考え方の人間はベジタリアンになった時代。
肉も魚も一切食べずに暮らしてゆくのがベジタリアンだった。
「凄いね、全く食べないだなんて…」
つまらなそうだよ、食事するのが。お肉も魚も使わなかったら、お料理、減っちゃう…。
「そういったものを食べない文化は、それよりも前からあったんだがな」
宗教と結び付いたりして。熱心な信者は肉を食べないとか、そんな感じで。
「ふうん…?」
神様が駄目って教えてたのかな、お肉や魚を食べることは。
「そんなトコだな、だから神様にお仕えする人たちは食べなかったという話だなあ…」
SD体制に入るよりも前は、そうだった。
前の俺たちの時代も残っていたろう、神様がたった一人だけ。
俺たちが生きた頃には、その習慣はもう無かったが…。それよりも前の時代は、教会の人たちは肉どころか卵も食べなかったらしい。卵は普段は食べられたんだが、特別な時期は。
「卵も駄目って…。今は食べてもいいんだよね?」
教会の人たちも食べているよね、お肉も卵も。…だって、そんな話は聞かないもの。
「SD体制に入る時に消されて、そのままだからな」
あの時代は教会を支える人間も機械が選んでいたから、昔のようにはいかなかったんだ。
それまでの時代は、神様に仕えたいと思う人たちが自分で出掛けて行ってたからなあ、食べ物を制限されてしまっても平気だったというわけだ。自分で選んだ道なんだから。
ところが、機械が選ぶとなったら、そうはいかない。
お前は教会に入るんだ、と教育ステーションで決められちまって、教会に入るわけだろう?
自分の意志とは関係なしに肉や卵が食えなくなったら、人間、不満が出るってな。
マザー・システムとしては有難くない。食べ物ごときで体制批判をされちまったら。
そうならないよう、規則を緩めた。それが今でも続いてるんだな、肉も卵も食べて良し、と。
しかし、SD体制ってヤツは実に酷かったな、と続いた言葉。その観点から行けば、と。
教会の人たちも肉も卵も食べていい時代を作ったというのに、どう酷いのかが分からない。その観点から行けばいい時代だった、と言うのだったら分かるけれども。
「…どういう意味?」
教会の人たちがお肉も卵も食べられるようになったの、SD体制のお蔭でしょ?
ちっとも酷くないんだけれど…。いいことをしたように思うんだけど?
「その話の前だ、動物愛護の精神だ」
SD体制の時代も続いてたんだぞ、生き物を大切にしなければという考え方は。
機械が徹底して叩き込んでいたんだ、生き物を無闇に殺さないように。
地球が滅びてしまったからなあ、その分、余計に厳しくしていた。どんな生き物も大切に、と。
なのに、前の俺たちはどうなったんだ?
ミュウも生き物の内なわけだが。
「食べられてないよ?」
誰も食べてはいかなった筈だよ、ミュウのお肉は。
「当たり前だろうが、見た目は人類と同じなんだからな。食おうとは思わないだろう」
いくら研究者どもが冷血漢でも、食べる発想は無かったろうさ。
だが、食わなかったというだけのことだ。…ミュウは殺されちまったろうが。
「そうだね、死んじゃっても誰も気にしてなかったね…」
この実験をやったら死ぬかも、って思っていたって、やめずに実験していたんだし…。
殺すための実験もあったわけだし、大切にしては貰っていないね、生き物なのに。
アルテメシアでもミュウだと分かった子供は、端から殺していたんだから。
「ほら見ろ、それがSD体制の時代の考え方だ」
生き物を大切にしろと教えてはいたが、ミュウの命はどうだったんだ、ということだ。
ミュウも生き物には違いないどころか、姿は人間そのものなのにな。
だから酷いと言ったんだ、とハーレイの眉間に寄せられた皺。あの頃を思い出したかのように。
アルタミラの地獄や、アルテメシアで殺されていった仲間たち。赤いナスカでも。
「動物愛護の精神だけを叩き込んでおいてだ、ミュウは殺した」
そして不思議に思うヤツらもいなかったわけだ、何処にもな。
アルタミラにいた研究者たちも、家に帰ればペットがいたかもしれないのにな?
抱き上げてやったり、頭を撫でたり、おやつだって食わせていたかもしれん。
自分の家では飼っていなくても、知り合いの家にはいただろう。其処でペットに出会った時は、頭を撫でてやったんだろうさ。ミュウを扱う時とは違って、それは優しく「可愛いですね」と。
「…前のぼくたち、猫以下なんだ…」
猫だったら頭を撫でて貰えて、抱き上げて貰って、おやつも貰えて…。
もちろん檻には閉じ込めてなくて、家の中や庭を好きに歩けて。
「そういうことだ。…前の俺たちにやっていたことを、犬や猫にやっていたならどうなる?」
頭に妙な機械を被せて、苦しんでいようが、死んでしまおうが、かまわずに色々と実験だ。
手足も縛ってあるわけだしなあ、暴れないように。
そいつを犬や猫でやってりゃ、どんな目で見られていたんだと思う?
「凄い騒ぎになっちゃいそう…」
噂だけでも人が集まってくるよ、本当にそういう実験をしている場所なのか、って。
それで証拠を掴んじゃったら、みんな酷いと騒ぐんだろうし…。
研究所は閉鎖になっちゃいそうだよ、実験を続けられなくなって。
「そうだろうが。…犬や猫なら、そうなっていたに違いない」
だがな、俺たちは、残念なことにミュウだった。
犬や猫なら動物愛護の精神ってヤツで保護して貰えたんだろうが、ミュウはそうじゃない。
人類と同じ姿をしてても、守る必要など何処にも無かった。
ミュウも生き物だから大切に、と考える人類は一人もいなかったわけだ、機械のお蔭で。
あの忌々しいマザー・システムが、ミュウを生き物から除外しちまった。
ミュウは殺してもいい動物だと、殺すべきだと教えてたんだな…。
絶滅危惧種なんていうのもあった時代がその前にあるのに…、と深い溜息をつくハーレイ。
地球が滅びるよりも前の時代に、絶滅しないよう保護されていた生き物たち。その過程で人間が培った技術、それのお蔭で地球が滅びても動物も植物も生き延びられた。他の惑星で。
そうやって滅びを免れた生き物たちを蘇った地球の上に戻して、今の自然が作られた。遠い昔の自然そのままに、生命に溢れた海や森などが。
けれども、それだけの生き物を保護し続けていたSD体制の時代にも殺されていたのがミュウ。
人類よりも数は遥かに少なかったのに、保護する代わりに殺し続けた。
端から殺してしまっていたなら、いつか滅びてしまうのに。
地球が滅びた時に人類はそれを学んでいたのに、ミュウを保護する者は無かった。アルタミラで星ごと消そうとしたのは、滅ぼすつもりだったから。
赤いナスカの時も同じで、ミュウという種を絶やすのが彼らの目的だった。
他の生き物の命は大切にしたのに、滅びないよう保護していたのに、ミュウだけは別。
マザー・システムがそう教えていたから。
ミュウは滅ぼしてもいい生き物だと、保護する必要は何処にも無いと。
「ヤツらはミュウを絶滅させようとしていたわけだ」
滅びるのを防ぐ手段を考え出す代わりに、どうすればミュウを殲滅出来るか、そればかりでな。
アルタミラもそうだし、ナスカだってそうだ。
星ごと壊せば滅びるだろうと、ヤツらはメギドを持ち出したんだ。一人も残りはしないように。
「…でも、マザー・システムにミュウ因子を排除出来るプログラムは無かったって…」
キースが言ったから確かなんでしょ、その話は。
だったら絶滅しない筈だよ、どんなに殺してもミュウは生まれて来るんだから。
「さてなあ? …前の俺たちは運良く生き残れたが…」
アルタミラから無事に逃げ出した後は、シャングリラで暮らしていたわけなんだが…。
そのシャングリラも、ナスカの時には相当に危なかったんだ。
前のお前がメギドを沈めていなかったならば、ミュウは滅びていたかもしれない。
お前が制御室を壊してくれたお蔭で、二発目のエネルギーは相当に弱くなっていたそうだ。
あれを食らう前にワープ出来たが、照射率が百パーセントだったら間に合わなかった。メギドの炎が届いちまって、シャングリラは沈んでいただろう。
…あの時、シャングリラが巻き込まれていたら、マザー・システムの狙い通りにミュウは滅びて終わりだってな。
「そんなことは…!」
前のぼくが失敗していたとしても、シャングリラを助けられなくっても…。
マザー・システムがミュウの因子を排除出来ない以上は、きっとなんとかなった筈だよ。
ミュウは絶滅しなかったと思う、どんなに消しても次のミュウが生まれて来るんだから。
ナスカでシャングリラが沈んだとしても、また新しいミュウが生まれて生き延びただろう。白いシャングリラを造る代わりに、別の船で地球を目指しただろう。
前の自分がメギドを沈め損なったとしても、ミュウは滅びはしなかった筈だと思ったけれど。
「それがだな…。色々と研究したヤツらがいるのさ、どうなったかと」
SD体制が崩壊した後は、ずっと平和な時代だし…。今じゃ誰でもミュウなんだし。
そういう時代になったからこそ、研究しようというヤツもいる。シャングリラがナスカで沈んでいたなら、その後の歴史はどうなったのかと。
「いつかはミュウの時代になるっていうんでしょ?」
研究の結果は今と同じの筈だけど…。人類だけの時代は終わって、ミュウだけの時代。
マザー・システムもSD体制も壊してしまって、今みたいに人間が人間らしく暮らせる時代に。
「…ミュウの時代が来るのは間違いないらしいんだが…」
本当の歴史がそうなったように、前の俺たちが生きた時代の続きにそれが来ていたかどうか…。
もっともっと長い時間が経たなきゃ、ミュウの時代は来なかったかもしれんという話だな。
その上、地球が蘇っていたかどうかも分からんそうだ。
グランド・マザーを倒す方法、それによって地球のその後も変わる。
ジョミーとキースがやったみたいに、直接乗り込んで行って壊したからこそ、地球までが派手に壊れたわけで…。その結果として、青い地球が戻って来たってことだが、そうじゃない場合。
どう壊すのかを計算し尽くして立ち向かっていたら、グランド・マザーの機能だけを遠隔操作で止められたそうだ。手順は少々厄介らしいが、犠牲者は出ないし、安全で確実な方法だな。
しかし、それだとグランド・マザーが止まるってだけで、SD体制が終わるだけだぞ。止まったグランド・マザーを地下から撤去したって、地球は燃え上がりはしない。
そうなっていたら、地球を蘇らせる方法を考え付かない限りは、死の星のままで何も変わらん。
今の地球があるのは、シャングリラが地球まで行ったからだそうだ。他の船じゃなくて。
「そうなんだ…」
ジョミーたちの壊し方と違っていたなら、地球まで変わってしまうんだ…?
「うむ。何もかも前のお前のお蔭ということだな」
お前がメギドを沈めたお蔭で、ミュウはナスカで滅びずに済んだ。そしてシャングリラが地球に着いてだ、今の平和な時代がやって来たってな。青い地球まで戻って来て。
おしゃます鍋なんかを俺がこうして語れるのも…、と続いたから。
ハーレイの話が平和な時代に似合いの中身に戻ったから。
「おしゃます鍋…。今は作る人、いないよね?」
昔の地球でも、動物を大切にしてあげなくちゃ、って無くなっちゃったみたいだし…。
ハーレイみたいに知っていたって、おしゃます鍋に挑戦したりはしないよね?
「そんなグルメは流石に一人もいないと思うぞ」
猫は可愛い生き物なんだと思われてるのが今の世界で、今日のお前のクラスの生徒みたいに家族扱いしている人も多いんだしな?
猫より犬の方が好きだと思うヤツとか、猫は苦手だと思うヤツでも殺して食べはしないだろう。
誰でも分かっているってことだな、猫は大切にしてやらないと、と。
前の俺たちの時代でさえも、猫を食べようってヤツは何処にもいなかったんだから。
マザー・システムにきちんと叩き込まれて、動物愛護の精神だ。
ミュウは殺しても、猫は殺さん。まして鍋など、誰もやるわけがないってな。
もっとも、前の俺たちが生きた頃には、鍋を食おうっていう文化自体が無かったが…。
おしゃます鍋を食べる以前に、鍋料理が無かった時代じゃ誰も食えんな、おしゃます鍋は。
前の自分たちが生きた時代は、何処にも無かった鍋料理。今は馴染みのものなのに。
とはいえ、やっぱり猫の鍋など食べてみたいとも思わない。前の自分も、そうだったろう。猫を食べると聞いていたなら、酷い料理だと思っただろう。
他の仲間たちもきっと、顔を顰めたに違いない。おしゃます鍋などというものは。
「ねえ、ハーレイ。…エラたちが聞いたら、どんな顔をするかな?」
おしゃます鍋っていう料理があって、猫のお肉だと聞かされたら。
猫はお鍋にするんだよ、って。
「さてなあ…。信じられないって顔はするんだろうが…」
エラなんかは「なんて野蛮な料理でしょう」と言いそうなんだが、それはあくまで平和な時だ。
シャングリラは何処からも補給の来ない船だったんだし、飢えたら食うしかないだろう。
おしゃます鍋でも無いよりはマシだ、飢えて死ぬことを思えばな。
「…おしゃます鍋って…。シャングリラに猫はいなかったよ?」
いない動物は食べようがないし、おしゃます鍋、無理だと思うんだけど…。
「おしゃます鍋は無理だったろうが、食えるものなら他にいたろうが」
どういう名前の鍋になるかは知らないが…。鍋を食べる文化が無かったからには、他の調理法で食うわけなんだが、ローストするのか、煮込むのか…。
美味いか不味いかも全く謎だが、シャングリラで食うならナキネズミだな。
「ナキネズミ!?」
あれを食べるわけ、猫の代わりに?
おしゃます鍋にするんじゃなくって、焼いたり、シチューに入れたりするわけ…?
酷い、と悲鳴を上げてしまった。猫を食べるのも酷いけれども、ナキネズミ。
今の時代は、ナキネズミはとうに滅びてしまっていない動物。繁殖力が衰えていって、遠い昔に消えてしまったナキネズミ。保護して数を増やす代わりに、絶滅させる道が選ばれた。それこそが自然な道だったから。ナキネズミは人間の手で作られたもので、普通の動物ではなかったから。
思念波を上手く操れなかったミュウの子供をサポートするために作り出されたナキネズミ。
つまり思念波を使えた動物、人間と会話が出来た動物。
ナキネズミのように喋れはしない猫でも、食べることなど出来ないのに。おしゃます鍋と聞いて震え上がったのに、ナキネズミのローストや煮込み料理は想像したくもないもので。
シャングリラの仲間たちを信頼し切っていたナキネズミを、いったい誰が食べられるだろう?
他に食べ物が無いとなっても、誰がナキネズミを料理しようと思うだろう?
そうするより他に道が無くても、ナイフを持てる者などいない。「何をするの?」と首を傾げるナキネズミを殺せる者などは、誰も。
白いシャングリラの仲間たちは皆、心優しいミュウだったから。
ミュウを端から殺した人類、彼らとは違って他の生き物を思い遣ることが出来たから。
きっと誰もが選んだだろう。
ナキネズミを殺して食べる代わりに、飢えて死ぬ道を。何も食べ物が無いのならば。
けれど…。
「ナキネズミを食べなきゃいけないほどなら、ぼくが奪いに出掛けて行ったよ」
みんなの命を守るためなら、どんな場所でも行ったと思う。
ぼくも飢えててフラフラの身体でも、絶対に何か奪って戻るよ。
後はナキネズミを食べるしかない、なんていう悲惨なことになっちゃったら。
だって、ナキネズミは友達だよ?
ナキネズミを殺せる仲間なんかは一人もいないよ、食べたら命が助かる時でも。
「確かにな…。誰もナキネズミを殺せやしないな、俺でも無理だ」
キャプテンの俺がやるしかない、って覚悟を決めても無理だったろう。
そして結局、前のお前に縋るしかなくて、お前が何処かへ食べる物を探しに出掛ける、と…。
ナキネズミの命も仲間の命も救おうとしてだ、飛び出して行くのがお前というヤツだから…。
そんなお前だから、メギドを沈められたんだ。
命がどれだけ大切なものか、前のお前は誰よりも知っていたってな。
それを守るにはどうすればいいか、何が最善の道なのか。考えた末に飛んで行っちまった、命を一つ捨てる代わりにシャングリラが生き残れる道を、と。
自分の命を犠牲にしたなら、他の仲間たちが助かるから、と。
「…そうだけど…。そう思ったから、ぼくはメギドへ行ったけど…」
でも、ナキネズミは殺せないくせに、牛や鶏は食べちゃってたね。
シャングリラで飼ってた牛や鶏、前のぼくは平気で食べてたよ。可哀相だとは思いもせずに。
「今のお前だって食ってるだろうが」
牛も鶏も、魚とかも。…猫やナキネズミを食おうとしなけりゃ、それだけでもう充分だ。
ちゃんと命の大切さってヤツは分かってるわけだ、安心しろ。
それにだ、牛や鶏も遊びで殺していたんじゃないしな、前の俺たちは。必要な命を貰ってた。
今のお前も、前のお前も、生きるために命を食べていたんだ、何も問題ないと思うがな?
殺しちまって捨てたんだったら話は別だが、きちんと食べて自分の命にするんだから。
人類がミュウを殺していたのとは全く違う、とハーレイは穏やかに微笑んでくれた。
自分の命を養うためなら、牛や鶏の命を貰っても命は無駄にはならないから、と。
「ほどほどでいいのさ、命を食べないというのはな」
ナキネズミや猫を食べるとなったら、そいつが本当に正しいかどうか悩むトコだが…。
しかし、飢えちまった時なら、それが正しい道になるってこともあるだろう。
そんな状況は俺だって御免蒙りたいがな、猫やナキネズミを食べるしかないっていうヤツは。
普通に肉を食えるのがいいんだ、牛にしたって、鶏にしたって。
牛も鶏も美味しく食べれば、命は決して無駄にはならん。食べる度に可哀相だと思わなくても。
「…それでいいの?」
ナキネズミも猫も、牛も鶏も、命の重さは変わらないような気もするけれど…。
でも、前のぼくも食べちゃっていたし、やっぱり食べてもいいのかな…?
「当然だろうが、そのために肉が売られているんだからな」
誰も食べなきゃ無駄になっちまうぞ、肉になった牛や鶏の命。
まあ、命をまるで食わないのがいいと言うんだったら、精進料理って手もあるが。
「精進料理って…。お肉抜きの料理だって聞いているけど、あれは命を食べないためなの?」
命を食べなくてもいいように、ってお肉を使わない料理なわけ?
「元々はそのために生まれたらしいぞ、精進料理は」
教会の神様とは違って、日本や中国の神様と言うか…。古典でやるだろ、仏教ってヤツ。
仏教を広めたお寺の方でも、肉や魚は食べられなかった。お寺の人たちが食べていたのが、肉を使わない精進料理だ。もちろん魚も使っちゃいないし、卵も無しだな。
動物の命は一つも奪っていないってわけだ、精進料理を作っても。野菜の命も命の内だ、ということになったら、少々立場がマズイんだがな。
「野菜にも命…。あるんだろうね、木だって、花だって生きてるものね」
だけど、動物の命は一つも食べないのが精進料理なんだ…。
ハーレイ、精進料理も作れるの?
「作れるに決まっているだろう。俺に作れない料理は、今日の授業で話した筈だぞ」
おしゃます鍋は作れないわけだが、他の料理なら作れるってな。精進料理も得意なんだぞ。
野菜だけで作る料理というのも奥が深くて面白い。それにけっこう美味いんだ、あれは。
しかし、美味しく肉を食ってこそだ、とハーレイが片目を瞑るから。
「でないと食う楽しみが減るじゃないか」と、「肉を食わなきゃ人生、損だぞ」と、肉を使った料理を幾つも挙げてゆくから、ほどほどなのがいいのだろう。
命をまるで食べない料理で生きてゆくより、前の自分もそうだったように、牛も鶏も食べる道。命を無駄に奪わないなら、貰った命で自分の命をきちんと作ってゆくのなら。
前の自分がメギドを沈めるためにと捨ててしまった命。
それをもう一度、神様が自分にくれたのだから。ハーレイと一緒に生きてゆけるよう、二つ目の命をくれたのだから。
神様に貰った新しい命を養ってゆくのに必要なだけの命は貰っていいのだろう。牛の命も、鶏の命も、魚たちの命も、今度も、きっと。前の自分も貰って生きていた命だから。
ナキネズミは食べずにいたけれど。
今の自分も、おしゃます鍋を食べたいなどとは、微塵も思いはしないけれども。
ほどほどに食べればいいんだよね、と考えていたら、ハーレイに「おい」と呼び掛けられた。
「お前が興味があるんだったら、精進料理もいつか作って食わせてやるが…」
命を食わない料理もいいがだ、せっかく地球まで来たんだからな?
今度は色々食べようじゃないか、シャングリラでは食えなかった命も沢山あるんだ。
おしゃます鍋は論外とはいえ、肉だけでも種類はドッサリだってな。
鹿もイノシシもシャングリラじゃ絶対に食えなかったぞ、あの船にはいなかったんだから。
魚となったら何種類いるんだ、前の俺たちが一度も食ってはいなかった魚。
「ホントだね…!」
お肉もそうだけど、魚も前のぼくが食べたことがないのが今は一杯…。
ハーレイが言う通りに食べなきゃ損だね、今のぼくたちだから食べられる色々な命。
おしゃます鍋とかナキネズミのシチューは困るけれども、食べていいものは食べなくっちゃね。
貰った命を無駄にしないで、幸せに生きればいいんだものね…。
白いシャングリラでは一度も食べられなかった、色々な魚や様々な肉。
蘇った青い地球に来たから、そういったものも食べられる。
平和な時代に、ミュウの命もきちんと守られる時代に生まれて来られたから。
前の自分が失くした命を、神様が新しく与えてくれたから。
また生きていいと、ハーレイと二人で幸せに生きてゆくようにと。
ハーレイと一緒に手を繋ぎ合って、いつまでも、何処までも歩いてゆこう。
食べる命に感謝しながら、この地球の上で。
生きるために自分の命をくれた牛や鶏たちの分まで、幸せを二人で噛み締めながら…。
作れない料理・了
※動物愛護の精神はあっても、ミュウの扱いは酷かったSD体制の時代。猫以下だった命。
そのミュウの船でも、ナキネズミを食べようとはしなかった筈。命を食べるのも大切ですが。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ママ、何してるの?」
学校から帰って、おやつの時間。何の気なしにテーブルを立ったブルーが覗いたキッチン、何か作業をしている母。キッチンの小さなテーブルの上で。
「ハーブソルトを作っているのよ」
匂いがするでしょ、という言葉で気付いたハーブの香り。テーブルに置かれた幾つかのハーブ。
「そっか…」
お塩なんだ、と改めて眺めた母の手元。ハーブソルトなら、自分も馴染みの調味料。キッチンに母が常備している。手作りのものを。
庭の一角のハーブガーデン、其処で育ったローズマリーやセージなど。摘んだばかりのハーブと塩とを混ぜて出来上がるハーブソルト。
今もフレッシュな香りが漂うハーブを母が細かく刻んでいる所。何種類か混ぜてゆくのだろう。母のレシピで、お気に入りの割合でハーブを合わせて。
刻み終わったら、用意してある炒った塩と混ぜて出来上がりらしい。ハーブと塩とが一対一で。
それだけで出来て簡単なのよ、と微笑む母。美味しいけれども、とても簡単、と。
「…乾いたハーブでも作るよね?」
たまに吊るして乾かしてるよね、いろんなハーブを。あれが入ったヤツもあるでしょ?
乾いたハーブなら、刻まなくても叩くだけで粉々になりそうだけど…。
「そうね、確かに簡単かもね。保存も利くから便利だけれど…」
元々は冬の間の保存用だったらしいわよ。冬になったら枯れてしまうハーブもあるでしょう?
だけど、新鮮なハーブが採れる間は、ママはこっちで作りたいわね。
味も香りも、断然、こっちが上だもの。ちょっぴり手間がかかるけれども、美味しさが大事。
お料理に使うお塩は美味しい方がいいでしょ、お料理もグンと美味しくなるし。
刻み終えたハーブと用意してあった塩を小さな鉢に入れて、丁寧に混ぜ合わせ始めた母。偏ってしまわないよう、気を付けながら。
フレッシュなハーブは水気があるから、きっとドライハーブよりも混ぜにくいだろう。ハーブが塩を集めてしまう分だけ、余計にかかりそうな手間。
それでも美味しく作るためには必要な作業なのだろう、と見学していたら母に訊かれた。
「シャングリラには無かったの?」
「えっ?」
何が、と首を傾げてしまった。何が無かったかと訊かれたのだろう?
「ハーブソルトよ、ママが作っているお塩」
シャングリラでは作っていなかったかしら、ハーブソルトは?
「んーと…。最初の間は無かったけれど…」
ぼくが物資を奪ってた頃は、そんなの作っていなかったけれど…。
改造した後はちゃんとあったよ、ハーブが入っていたお塩。
「ほらね、便利なものなのよ。シャングリラにもあったくらいに」
ハーブがあったら作らなくちゃね、少しくらい手間がかかっても。
「うん、美味しいしね、ママのお料理」
ハーブを使ったお料理だって美味しいけれども、ハーブソルトを使ったのも好き。
作ってる時からハーブの匂いがたっぷりだものね、ハーブソルトは。
母とそういう話をしてから、ダイニングに戻っておやつを食べて。
空になったお皿やカップを母に返して、自分の部屋へと帰ったけれど。
本でも読もうと勉強机の前に座ったら、思い出したハーブソルトを作っていた母。細かく刻んだハーブと塩とを丁寧に混ぜて。
母に問われたシャングリラ。あの船にハーブソルトはあったのかしら、と。
あったと答えた自分だけれども、そういえば考えたことがなかった。それが存在した背景を。
(ハーブソルト…)
白いシャングリラにあった、ハーブが混ざったハーブソルト。普通の塩とは違った塩。
ごく当たり前に存在していたけれども、誰が作っていたのだろう?
フレッシュなハーブもドライハーブも使っていたろう、あのハーブソルト。肉にも魚にも便利に使えたハーブソルトを作り出した仲間は誰だっただろう?
(…ハーレイじゃない…)
それだけは確か。料理が得意で工夫を凝らすのが好きだったけれど、ハーレイが厨房にいた頃はハーブは栽培していなかった。白い鯨ではなかったから。ハーブの畑は無かったから。
だから、それよりも後のこと。ハーレイが厨房を離れてしまって、白い鯨が完成した後。
自給自足で生きてゆく船に、誰がハーブを導入したのか。誰が使おうと考えたのか。
間違いなくあったハーブソルト。色々なハーブが混ざっていた塩。
(誰だったわけ…?)
思い出せない、ハーブソルトを作った仲間。ハーブを育てて作ろうと主張した仲間。
前のハーレイならやりそうだけれど、もう厨房にはいなかった。キャプテンになったハーレイは厨房で料理をしなかったのだし、ハーブソルトも作りはしない。
もしも厨房にいたのだったら、嬉々として案を出しそうだけれど。ハーブソルトを作りたいから船でハーブを栽培したいと、そのための場所を設けて欲しいと。
(でも、ハーレイだけは有り得ないんだよ…)
とっくにキャプテンだったんだもの、と考えていたら、そのハーレイがやって来たから。仕事の帰りに寄ってくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで、問い掛けた。
今のハーレイのハーブ事情を。料理が得意な今のハーレイなら、やはり作っているだろうかと。
「えっと…。ハーレイ、ハーブソルトは作ってる?」
ハーブとお塩を混ぜるヤツだよ、ママが作っていたんだけれど…。
「いや、そこまではやっていないな。…庭にハーブは植えてるんだが」
ちょっと採って来て使うだけだな、料理の時に。流石にハーブソルトはなあ…。
手間もかかるし、と答えたハーレイが使うハーブソルトは隣町で暮らす母が作ったもの。他にもハーブオイルやハーブビネガー、手作りのものをふんだんに使っているらしい。
自分の家では作らないけれど、隣町の家で貰って来て。キッチンの棚の常備品。
あれば便利なものだしな、とハーブソルトの良さを語るハーレイ。普通の塩では出せない旨味を引き出せるのがハーブソルトで、一度使えば手放せないと。
「ママも言ってたよ、お料理に使うお塩は美味しい方がいいでしょう、って」
だからね、手間がかかっても新鮮なハーブで作るのがいい、って。
保存するのに向いているのは乾燥させたハーブだけれども、今の季節は新鮮なハーブ。
「お前の家にもハーブガーデン、あるからなあ…」
思い立った時に摘んで作れるよな、思い通りのハーブソルトを。好きなように混ぜて。
俺も一人暮らしというんでなければ、ハーブソルトを作るんだが…。
どんな割合で混ぜるのがいいか、研究だってしてみたいんだが、生憎と一人暮らしじゃなあ…。
作りすぎになってしまうんだよなあ、ウッカリ凝ってしまったら。
「そうかもね…」
少しだけ作るつもりでやっても、改良したくてまた作りそう。
次はこういう風にしよう、って何度も挑戦している間に、ハーブソルトだらけになりそうだよ。
今のハーレイも作らないらしい、ハーブを混ぜ込んだハーブソルト。
そうなってくると、ますます有り得ない、前のハーレイがハーブソルトを作ること。今でさえも作っていないのだったら、キャプテンが作るわけがない。
けれど、事情は知っているかもしれないから。シャングリラを纏め上げていたのがキャプテン、ハーブソルトが生まれた経緯も聞いていたかもしれないからと、ぶつけた質問。
「じゃあ、シャングリラのハーブソルトは誰が作ってたの?」
白い鯨になった後には、ちゃんとあったよ、ハーブソルトも。
あれを作っていたのは誰なの、シャングリラにあったハーブソルトを?
「誰って…。そりゃあ、厨房のヤツらだろ」
担当していたヤツがいたのか、手が空いた時に作ってたのか。そこまでは俺は知らないがな。
「レシピはデータベースのだよね?」
データベースで調べて作ったんだよね、ハーブの混ぜ方も、ハーブソルトの作り方も。
「いやまあ…。データベースの情報には違いないんだが…」
ハーブソルトの作り方はだ、基本のレシピは俺が見付けたヤツだったんだが?
「えっ、ハーレイ?」
なんでハーレイがレシピを探すの、あの頃はとっくにキャプテンでしょ?
「それも間違いないんだが…。忘れちまったか?」
俺だ、俺、とハーレイは自分の顔を指差した。
あの船にハーブを乗せたのは俺だと、ハーブソルトもその延長だと。
まさか、と驚いてしまったけれども、ハーレイは得々として語り始めた。
白いシャングリラにあったハーブと、前の自分との関わりを。
「覚えていないか、前の俺がハーブを植えようと言い出したのを」
自給自足の船にする時に、せっせと推していたんだが…。
そんなにスペースは取らないんだし、ハーブガーデンは作るべきだとな。
「どうしてハーブガーデンなわけ?」
「美味いからに決まっているだろう! ハーブを少し入れるだけでな」
厨房にいた頃は何度もハーブを使ったからなあ、物資の中に混ざっていたら。
ハーブソルトも、ハーブオイルも、ハーブビネガーも時々混ざっていたもんだ。生のハーブも。
どうやって使うものかを調べて、ちょっと入れたら美味いんだ、これが。
船で植物を育てるんなら、ハーブが無ければ片手落ちだぞ。
ローズマリーにセージに、タイム。ほんの少しで変わるんだよなあ、料理の味が。
「えーっと…。ローズマリーにセージって…」
前のハーレイが歌ってくれたスカボローフェア…?
だからそういうハーブを植えようって言ったの、シャングリラに…?
「歌のせいではないんだがな」
たまたまハーブが出て来るってだけだ、スカボローフェアは。
そんな理由で決めやしないぞ、シャングリラで育てていこうっていう大切な作物の種類はな。
ローズマリーにセージに、タイム。他にも色々、料理の味に豊かさを持たせるために。
前のハーレイは長老たちが集まる会議でハーブを植えようと提案した。
ハーブがあったらハーブソルトもハーブオイルも、ハーブビネガーも出来る筈だ、と。ハーブやハーブソルトなどを使った具体的なレシピも、幾つも挙げて。
出された資料を四人の長老たちは子細に読み込み、チェックしてから。
「ハーブと来たよ。これだけでは料理にならないみたいだけどさ…」
かつての厨房の責任者がここまで推すんだったら、植えるだけの価値はあるってことかね。
要は匂いのする葉っぱの類みたいだけどね、と身も蓋も無いことを言ったのがブラウ。
「それだけでは料理にならんものでも、料理に使えば美味くなるのなら反対はせんが」
大して場所も取らんようじゃし、とゼルは「美味しい」という点に興味を抱いたらしい。
「ハーブは薬にもなる植物だそうだよ、この船では試していないがね」
煎じてお茶にするのだそうだ、とヒルマンは知識を持っていた。
人間が地球だけで暮らしていた頃、薬草だったというハーブ。ローズマリーは消化不良や炎症の抑制に良く効くハーブで、セージは抗菌作用を生かして感染予防のウガイなどに。タイムは風邪の症状を和らげ、疲労回復にもなるといった具合に。
「ハーブで治せる病気は色々あるそうですよ。料理用の他にも植えるといいかもしれませんね」
お茶にして飲めば効くそうですし、と微笑んだエラ。
腹痛や胃痙攣に効果があると伝わるカモミール。料理には使えないハーブだけれども、そういうハーブも植えましょうか、と。
白く愛らしい花が咲くというカモミール。薬が高くて買えなかった時代に重宝されていた植物。船でハーブを育てるのならば、植えておくのも良さそうだからと。
植えると決まれば、後は早かったハーブの選定。
キャプテン自ら案を出していたハーブの他にも色々なハーブが選び出されて、シャングリラには立派なハーブガーデンが出来た。農業用の広いスペースの一角、豊かなハーブガーデンが。
収穫出来そうな頃合いになって、再び集まった長老たち。キャプテンも、それにソルジャーも。
「さて、ハーレイ。…あんたの希望のハーブってヤツが育ったみたいだけどねえ?」
どう使うんだい、レシピの資料は前に見せては貰ったけどさ。
まずは料理に添えるのかい、と興味津々でブラウが尋ねた。香草焼きがあったようだけど、と。
「香草焼きか…。厨房のヤツらに任せてもいいが…」
そうすれば香草焼きになるのだろうな、ハーブの最初の使い道は。
せっかく立派に育ったのだし、第一号は色々な料理に役立つものにしてやりたいが…。
「もしかして、君がやるのかい?」
役立つものを作りに行くというのかい、と問い掛けたのが前の自分で。
「それもいいのう、言い出したのはハーレイじゃしな」
たまには厨房に立つのもいいじゃろ、腕がなまっておらんのならな。
何が出来ると言うんじゃ、ハーレイ?
わしらも是非とも見たいもんじゃのう、キャプテンが厨房に立った所を。
厨房のヤツらが酷く緊張するんじゃろうが、と笑っていたゼル。面白い見世物になりそうだと。
「思い出した、ハーレイ、作ったんだっけ…!」
厨房に出掛けて、ハーブソルトを。
シャングリラの一番最初のハーブソルトは、ハーレイが作ったヤツだったよ…!
「ごくごく基本のヤツだがな」
前の俺だって、ハーブソルトは出来上がったヤツを料理に使ってただけで、作ったことは一度も無かったからなあ…。いわゆる初心者向けってヤツだな、誰の舌にも合いそうなハーブで。
「だけど、本格的だったじゃない」
フライパンでお塩を炒って、冷まして。…お塩をそのまま使うんじゃなくて。
ハーブだって細かく刻んでたものね、お塩と綺麗に混ざるように。
「俺は厨房出身なんだぞ? 久しぶりに古巣に戻ったからには、本格的にいきたいじゃないか」
キャプテンになっても料理の腕は落ちちゃいないと、披露してやるチャンスだからな。
昔馴染みのヤツらが揃っていた場所なんだし、余計に腕が鳴るってもんだ。
ハーブはこうやって使うもんだと、ちゃんと手順を覚えておけよ、と。
キャプテンの制服の袖をまくって、ハーレイはハーブ入りの調味料をきちんと作り上げた。
厨房のスタッフたちやゼルやヒルマンたち、前の自分までが見守る中で。
ハーブソルトと、ハーブを漬け込んだオイルとビネガー。
出来上がったら直ぐに使えるハーブソルトと、ハーブの香りが移るまで待つオイルとビネガー。どれも料理にハーブの風味を加えるための調味料。
それらが見事に出来た後には…。
「ハーレイ、料理はしていないよね?」
ハーブソルトとかは作ったけれども、あれを使った料理なんかは。
「そう思うか?」
調味料だけを作って満足しそうか、古巣に戻ったキャプテンが?
白い鯨になっちまったから、俺の知ってた厨房とはすっかり変わってしまっていたが…。
それでも料理を作る場所には違いないしな、見た目がどんなに変わっちまっても。
「…それじゃ、料理をしていたの?」
ハーブソルトとかを作っただけでは終わらなかったの、あの時は?
前のぼくたちは、出来上がった所を見た後は帰ってしまったけれど…。
ハーレイも一緒に厨房を出たんじゃなかったっけ?
早くブリッジに戻らないと、って急いでいた気がするんだけれど…?
ハーブソルトやハーブオイルを作るためにと、あの日、持ち場を離れたハーレイ。
もちろん、キャプテン不在の間も航行に支障が出ないようにと、指示をしてきた筈だけれども。
責任感の強いキャプテンは急いで戻ったと記憶している、前の自分は。
けれども、記憶違いだったろうか?
ハーレイは一人で厨房に残って、出来たばかりのハーブソルトで料理を作っていたろうか?
あの日のシャングリラの夕食。その中の何かをハーレイも一緒に作っていたと言うのだろうか、ずっと昔は料理をしていた厨房で。場所は変わっても同じ顔ぶれのスタッフたち。かつての仲間と笑い合いながら、ハーブソルトを使って料理を作ったろうか…?
思い出せない、遠い遠い記憶。
厨房に立っていたキャプテンのその後、ハーレイが作っただろう料理も、食べた記憶も。
いくら記憶を手繰り寄せても、戻っては来ないハーレイの料理。ハーブソルトを使った料理。
首を捻って考え込んでいたら、「俺も忘れていたからな」とハーレイが浮かべた苦笑い。
「…お前に訊かれて思い出したんだ。料理はしていなかったよね、とな」
それを聞くまで、すっかり忘れていたんだが…。
ハーブソルトを作った後には、確かにブリッジに戻ったわけだ。そして仕事をしていた、と。
ところが、せっかく作ったハーブソルトを俺は料理に使えないわけで…。
考えた末に、ハーブソルトの出来を確かめるという口実でだ、お前用に野菜のソテーをな。
何日か経ってからだったが。
「…野菜のソテー?」
なんなの、野菜のソテーって。…野菜スープじゃないよね、それ…。
「うむ。野菜スープを作る代わりに、野菜をソテーしたってわけだ」
ただしお前は健康だったが。
寝込んでも弱ってもいなかった上に、普段通りの食事をしていたが…。
俺が青の間まで野菜ソテーを届けに出掛けた時には。
「そういえば…」
いつもと同じに、一人でお昼御飯を食べていた所にハーレイが来たんだったっけ。
何の用かと思ったけれども、「キッチンを少しお借りします」って…。
青の間の奥にあった小さなキッチン。其処はソルジャーの食事の仕上げをしたり、温め直したりするための場所。
ハーレイはキッチンに入って暫くしてから、温め直したらしい料理の皿を持って戻って来た。
こんな料理が出来ましたよ、と間引きしたニンジンがメインの野菜ソテーを。
「…君が作って来たのかい?」
ハーブソルトを試してみたくて、わざわざ作りに行って来たとか…?
「はい。…作ったからには使ってみたくて、ソルジャーに試食して頂くから、と…」
ご心配なく、ちゃんと味見はしましたから。
ご覧の通りにソテーしただけで、仕上げにハーブソルトを振ったというだけですが…。
なかなかに味わい深いものです、ハーブの風味が生きていますよ。
「ふうん…? 君が届けに来てくれるからには、自信作だと思うんだけど…」
どんな味かな、と口に運んだら、ふわりと広がったハーブの香り。野菜に一味加わった風味。
野菜をソテーして塩を振っただけとは思えない味、ただの塩ではないからだろう。
だから自然と浮かんだ笑み。「美味しいものだね」と、「ハーブが入ると違うんだね」と。
「そうでしょう? 同じ塩でも、ハーブを入れると変わるのですよ」
野菜スープも、次からはこれにしましょうか?
あれの味付けは塩だけですしね、ハーブソルトに変えればきっと美味しくなりますよ。
「君の野菜スープは、今のあの味がいいんだよ」
元の味のままがいいと何度も言ったと思うんだけどね?
野菜の味と塩だけのスープが気に入っているし、ハーブソルトの出番は無いよ。
「しかし…。いくらお好きでも、あの味付けは…」
塩だけというのは、召し上がっておられても味気ないように思うのですが…。
お好きな味だと知ってはいますが、ハーブソルトを入れたものも試して下さっても…。
ハーブが加わるだけなのですし、と野菜ソテーを作った料理人は困ったような顔。
野菜スープは野菜と塩だけで作るけれども、ハーブも野菜の内なのでは、と。
ハーブガーデンで育つハーブは、野菜と同じに食べるもの。口に入れても害のないもの、薬にもなるというほどのもの。だから野菜の親戚だろう、と。
「野菜と言うより、スパイスだろう?」
ハーブだけではお茶くらいにしかならないわけだし、風味付けに使うのが主なんだし…。
野菜ではなくて、スパイスなんだと思うけれどね?
ぼくは野菜スープにスパイスが欲しいと言ってはいないよ、塩があれば充分なんだから。
「…厳密に言えば、スパイスなのかもしれませんが…」
スパイスの内だと言われてしまえば、上手く反論出来ないのですが…。
それでもハーブは野菜の内だという気がしますよ、使い方が変わっているだけで。
ハーブソルト入りの野菜スープも、お召し上がりになる価値はあるのでは…?
一度作ってみますから、とハーレイがハーブソルトを使って作ったスープ。
寝込んではいなくて健康だったけれど、青の間のキッチンで何種類もの野菜をコトコト煮込んで作って貰った野菜のスープ。いつもは塩味だけの所を、同じ塩でもハーブソルト。
出来上がったそれを食べた途端に、いつもとは違う豊かな味わい。ハーブの風味。
「やっぱり駄目だよ、美味しすぎだ」
ハーブソルト入りのスープは駄目だね、普通の塩だけで味付けしないと。
「美味しいのならいいと思いますが?」
塩だけという所は変えておりませんし、ハーブが入っただけですよ?
ハーブソルトも塩なのですから。
作る所を御覧になっておられた通りに、ハーブと塩とが半分ずつです。
「それは分かっているんだけれど…。そのハーブってヤツが問題なんだよ」
これじゃお洒落な御馳走の味で、本来の君のスープじゃない。
ぼくが大好きな味がしないよ、こういうスープをぼくは求めてはいないんだけどね?
「同じスープなら、美味しい方が良くありませんか?」
贅沢な食材を使ったわけではありませんから、こういう味の野菜スープもよろしいかと…。
「今までに色々と工夫してくれたスープを、全部断ったと思うけど?」
美味しいスープが欲しいんじゃなくて、あの味のスープが欲しいんだよ。
分からないかな、ぼくが言うこと。
「…ハーブソルトも駄目ですか…」
本当に塩なのですけどね…。ハーブが入っているというだけで、本当にただの塩なのですが。
他の調味料は何も入っていないわけですし、塩は塩だと思うのですが…。
ハーレイは残念そうだったけれど、美味しすぎたのがハーブソルトを使ったスープ。
そうしてお蔵入りになったのだった、ハーブソルト入りの野菜スープは。
ハーブソルトが辿った末路を、ハーレイも思い出したらしくて。
「…お前、野菜のソテーは喜んで食っていたのに、スープは駄目だと言いやがって」
ハーブソルトは二度と入れるなとゴネられちまって、あれっきりだ。
前の俺が作ったハーブソルトの晴れ舞台ってヤツは二度と無かった、野菜スープが駄目ではな。
あれの味が生きる最高の料理は、野菜スープだったと思うんだが…。
塩しか使っていなかっただけに、あれが一番、ハーブソルトで美味くなったと思うんだがな。
「そうだったのかもしれないけれど…」
ハーレイは料理が得意なんだし、それが正解かもしれないけれど…。
でも、前のぼくはハーブソルトが入ったヤツより、普通の塩のが良かったんだよ。
あの味が好きで、他のは駄目。美味しくっても、駄目だったんだよ…。
「俺も充分に分かってはいたが、料理人としては寂しかったぞ」
腕の奮い甲斐が無いわけだしなあ、何度スープを作っても。
次はこういう味にしようとか、こうしたらもっと美味くなるとか、何も工夫は出来なくて…。
挙句の果てにハーブソルトまで駄目だと言われちゃ、ガッカリするしかないってな。
白いシャングリラにハーブを導入していたくらいに、料理が得意だった前のハーレイ。
自ら厨房で腕まくりをして、一番最初のハーブソルトを作り上げていたキャプテン・ハーレイ。
なのにハーブソルトが似合いの料理に、それを使えはしなかった。
塩だけを入れてコトコトと煮込む野菜スープに、前の自分が好んで作って貰ったスープに。
その野菜スープは長い時を越えて、今の自分もハーレイに作って貰うから。
病気で寝込んでしまった時には、ハーレイが作りに来てくれることが何度もあるから。
「えっとね…。ママ、ハーレイにハーブソルトも提案してた?」
野菜スープを作ってた時に、ハーブソルトを入れたらどうかって言われちゃった?
「一番最初に作りに来た時に、仕上げにどうぞと出されたな」
振りかけるだけで違いますから、とハーブソルトが入った瓶を。
「やっぱりね…」
そうなっちゃうよね、ママは色々アドバイスしてたみたいだし…。
何も入れずにお塩だけだと言うんだったら、ハーブソルトだと思うよね。
仕上げにパラッと振っておいたら、グンと美味しくなるんだし。
ママだって絶対、思い付くよね、何を言っても駄目なんだったら仕上げにコレ、って。
ハーブソルトを出されたけれども、入れなかったのが今のハーレイ。
塩と野菜の旨味だけのスープに、ハーブの風味は要らないから。前のブルーは、ハーブソルトの入ったスープを二度と頼みはしなかったから。
素朴で優しい野菜スープは、今もそのままのレシピだけれど。何種類もの野菜を細かく刻んで、塩味だけでコトコトと煮込むものなのだけれど。
「お前、今度もハーブソルトは無しなのか?」
ハーブソルトの話が出て来たついでに訊くがな、今度のお前はどうするんだ?
野菜スープにハーブソルトは入れないままの方がいいのか、今も?
「どうだろう…。ハーブソルトも美味しいものね」
ママが自分で作ってるから、前のぼくよりも知ってると思うよ、ハーブソルトの美味しさを。
今のハーレイの家の庭にも、ハーブが植わっているんだよね?
一人暮らしだと多すぎるから、ってハーブソルトは作ってないって聞いたけど…。
野菜スープの味はそのままでいいから、ハーブソルトは作って欲しいな。
ハーレイが一人暮らしじゃなくなった時は、庭のハーブでハーブソルトを。
「おっ、そう来たか!」
一緒に暮らせるようになったら、ハーブソルトを作って欲しい、と。
なら、ビネガーもオイルも作らないとな。
前の俺だって作ってたしなあ、ハーブオイルにハーブビネガー。
やっぱりそいつも作らんといかん、美味い料理には欠かせないからな。
うんと美味いぞ、シャングリラの中とは違って地球で育ったハーブなんだから。
ハーブソルトもハーブオイルも、ハーブビネガーも全部、とびきりの味がするってな。
今度こそお前にハーブソルト入りの野菜スープの味を分かって貰わないと、と輝く鳶色の瞳。
あれは絶対に美味いんだから、と。
「また作ってくれるの、ハーブソルト入りを?」
ハーレイ、懲りていないわけ?
前のぼくが駄目だと言った味だよ、今のぼくもきっと、同じことを言うと思うんだけど…。
「だからこそだな、今度こそお前に分からせてやるさ」
ハーブソルトを入れると美味いと、次からはこっちの味にしたいと思うように。
お前が気に入る味になるまで、何度でも挑戦するってわけだ。
前の俺たちと違って、野菜スープの味を試せるチャンスも時間も今度は充分あるんだから。
「でも、ぼくはあの味がいいんだけれど…」
本当にお塩しか入っていなくて、余計な味付けをしてないスープ。
風邪を引いた時の卵入りのは別だけれども、それ以外の時は前のままがいいよ。
ハーレイが作ってくれるスープはあの味なんだし、そのままがいいな。
「そういう頑固な考え方がだ、覆るほどに美味い味があるかもしれないじゃないか」
頑固なお前も、次からはこれだと思っちまうような、ハーブソルトを使ったスープ。
絶対に無いとは言えんと思うぞ、ハーブソルトを馬鹿にしちゃいかん。
入れるハーブで風味がガラリと変わるもんだし、混ぜる割合でも変わってくるんだ。
お前と一緒に暮らし始めたら、あれこれ研究することにするか。
どんな割合でハーブを入れたか、きちんとレシピを書いておいてな。
いつか美味いのを作ってみせる、とハーレイは自信満々で。
そのハーレイの家の庭には、前のハーレイがシャングリラに導入していたハーブが幾つも。
シャングリラにもハーブはあったけれども、好き放題には使えなかったことだろう。必要な分を採ってゆくのが限界だったことだろう。
けれど今では、ハーブを好きなだけ採っていいから。
新鮮なハーブも、保存用にと乾かしたハーブも、使い放題の世界だから。
ハーレイが何度も工夫を凝らして、美味しいスープが出来るかもしれない。ハーブ入りの。
塩とハーブとを半分ずつ混ぜて作ったハーブソルトで味付けをした野菜スープが。
青い地球の上で育ったハーブと、地球で採れた塩とで、美味しくなりすぎた野菜のスープ。
それに出会える時が来たなら、その時は卒業してもいい。
前の自分が頑固に変えさせなかった、野菜スープのためのレシピを。
卒業して、素敵な野菜のスープに変える。
ハーレイが作ったハーブソルト入りに、美味しくなりすぎたお洒落な味の野菜スープに…。
ハーブソルト・了
※シャングリラでハーブを育てるよう提案した、前のハーレイ。最初の調味料も作ったほど。
けれどブルーが好まなかった、ハーブソルトが入った野菜スープ。美味しすぎたのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ママ、お土産だ」
ただいま、と帰って来た父の手に薔薇の花束。真紅の薔薇が何本くらいあるのだろうか。それは大きな、リボンまでついた立派な花束を抱えている父。子供のように楽しそうな笑顔で。
ブルーもたまたま部屋から下りて来た所だったから、何事なのかとビックリしたけれど。
母の方はもっと驚いたようで、目をパチパチと瞬かせて。
「…今日は記念日だったかしら?」
ごめんなさい、私、忘れているかも…。ごくごく普通の夕食なのよ、今日も。
「記念日っていう感じだろう?」
ほら、と父が手渡した薔薇の花束。両手で受け取った母は途惑いながら。
「何の日だったの、本当に思い出せないんだけれど…」
こんなに素敵な花束を貰う資格が無いわね、私ったら。だって、忘れているんだもの。
「いや、記念日っぽいというだけでだな…」
そういった風に束ねて貰って、リボン付きでと頼んだんだ。記念日じゃないさ。
帰りに花屋が目に付いたからな、たまにはプレゼントもいいだろうと…。
いつもママには世話になっているし、料理だって、うんと美味しいからな。
「あらまあ…。それで花束のお土産なの?」
凄く大きいわよ、この花束。三十本どころではないでしょ、薔薇。
「安かったからな」
仕入れすぎたのか、たまたま安い時期だったのか…。
店の表に書いてあったのさ、特売だって。それで入って買ったってわけだ。
買わなきゃ損ってモンだろう。どの薔薇も安かったんだから。
本当に薔薇が特売だったかどうか、それは父にしか分からないけれど。
プレゼントして驚かせようと定価で買って帰ったのかもしれないけれども、笑っている父。特売だったから豪華に五十本だと、同じ薔薇なら華やかな真紅がいいだろうと。
大喜びで花束を抱え、香りをたっぷり吸い込んだ後はリボンを解いて生けてゆく母。
薔薇たちが映える大きな花瓶に手際よく入れて、飾ったリビング。ダイニングの大きなテーブルにも一輪、特に美しく見えそうなものを選び出して。
「記念日でもないのに花束だなんて、嬉しいものね。ありがとう」
これだけ沢山貰ってしまうと、今日は特別って気分になるわ。まるでお姫様になったみたいよ。
「そうだろう?」
だから買ったのさ、日頃の感謝の気持ちをこめて。
安売りっていうのに気付いたからには、ドカンと買って帰らないとな。うんと豪華に。
薔薇が一輪あるというだけで、いつもより華やかだった夕食のテーブル。
ハーレイの姿は無かったけれども、笑顔が溢れていた食卓。
少女のようにはしゃいでいた母、父もサプライズが上手く行ったと満足そうに薔薇を見ていた。テーブルに飾られた真紅の薔薇を。
ダイニングのテーブルには、母が育てた薔薇が飾られる日もあるけれど。庭の花たちもハサミで切られて生けられるけれど、あれだけの花束の中から選ばれた薔薇は特別に見える。
今、地上にある真紅の薔薇たちの女王。それがテーブルに誇らかに咲いているかのように。
(…パパ、凄いのを買って来たよね…)
五十本の薔薇の花束なんて、とパチクリと何度もした瞬き。記念日でもないのに特大の花束。
薔薇の香りはリビングに満ちて、ダイニングに飾られた一輪からも漂っていて。
家の空気までが薔薇の香りに染まったかのようで、それは素敵な父の贈り物。五十本の薔薇。
母が庭で育てている薔薇たちでは、あそこまで惜しげもなくは切れない。そんなに沢山の薔薇を切ったら、庭に一輪も残らないから。残ったとしても、哀れな姿になるだろう薔薇の木。
庭に薔薇の花が咲いていたって、特別すぎるプレゼント。
艶やかに部屋を彩る薔薇たち、漂う香りと、喜ぶ母と。
夕食の後は部屋でのんびりしてから、入ったお風呂。パジャマに着替えてベッドの端っこに腰を下ろしたら、また思い出した薔薇の花束。「お土産だ」と母に渡していた父。香り高かった真紅の薔薇たち、見事な薔薇が五十本も。
(流石に二階までは…)
あの薔薇たちの匂いも届かないかな、と思ったけれど。薔薇の香りを含んだ空気は一階だけかと考えたけれど、気付いた間違い。
両親の部屋にも一輪飾ってあるのだった。母が嬉しそうに運んで行っていた、「これはお部屋に飾っておくわね」と。両親の部屋の扉を開けたら、薔薇の香りがするのだろう。部屋の何処かに、真紅の薔薇。五十本の中から選ばれた薔薇。
(あれだけあったら…)
上手に分ければ、家のあちこちに飾れるだろう。
リビングの花瓶にドッサリ生けても、他にも幾つもの使い道。ダイニングのテーブルと、両親の部屋に一輪ずつ飾ってあるように。一輪ずつでも華やかな薔薇。
(…ぼくの部屋には無いけどね?)
その気になったら貰えただろうに、欲しいかどうかも訊かれなかった。薔薇は沢山あったのに。
欲しかったとも、残念だとも思いはしないけれども、仲間外れになってしまった。この部屋には薔薇が一輪も無くて、薔薇の香りも漂いはしない。
(…子供だし、それに男の子だし…)
多分、普通は訊かないと思う。「薔薇の花、部屋に持って行く?」とは。
それに欲しがりもしないだろう。男の子の場合は、薔薇の花など。
(ピアノとかの発表会に出て、貰ったとしても…)
興味など無いのが男の子だろう、貰った花束の中身には。薔薇であろうと、他の花だろうと。
花束を貰って得意満面でも、たったそれだけ。花の香りや美しさよりも、鼻高々な気分が大切。花束を抱えて記念写真を撮った後には、母親に生けて貰っておしまい。
花束の形を失った花は、男の子の目を楽しませたりはしないだろう。美しく香り高く咲こうが、部屋を豊かに彩ろうが。
花瓶に花があるというだけ、男の子にとっては、それだけのこと。
チラリと眺めることはあっても、花よりも遊びや食べることに夢中。花束を貰った時の嬉しさは覚えていたって、中身の花にはもはや見向きもしないのだろう。
すっかり忘れ去られていそうな、花束だった花たちの末路。元は花束だった花たち。
(ぼくが貰っても、そうなっちゃいそう…)
習い事は何もしていないけれど、もしも発表会などに出掛けて、貰ったとしたら。バイオリンやピアノや、フルートなどの発表会。上手く出来たと、見に来てくれた人に花束を貰ったら。
きっとそうだ、と思ったけれど。
花束を貰う値打ちが無いのが今の自分で、そのせいで薔薇も部屋に一輪も無いのだけれど。
(パパのお土産…)
自分の部屋にも充分飾れる量の花束、五十本もの真紅の薔薇。それを抱えて帰って来た父。
花束を貰って、「記念日だったかしら」と尋ねていた母。記念日には花束がつきものだから。
早い話が、誕生日や何かの記念日だったら…。
(花束、貰えるものなんだよね?)
今はまだ貰う値打ちも無さそうな子供だけれども、いつか大きくなったなら。
ハーレイと結婚して二人で暮らし始めたならば、きっと貰えることだろう。
母が父から貰っているように、誕生日や記念日の度に花束。
その頃には値打ちも分かる筈だし、大喜びで部屋に飾るのだろう。幾つもに分けて、リビングや他の部屋などに。薔薇でなくても、どんな花でも。
待ち遠しいと思えてしまう、自分が花束を貰える日。ハーレイが花束を贈ってくれる日。仕事の帰りに買って帰って、「ほら」と渡してくれるのだろう日。
誕生日や何かの記念日の度に。薔薇はもちろん、ハーレイが贈りたいと思ってくれた花を幾つも束ねた花束。
(前のぼくは花束、貰ってないけど…)
ハーレイとは長く一緒に暮らしていたのに、恋人同士だったのに、ただの一度も。
それにハーレイ以外の誰かも、花束をくれはしなかった。ただの一つも。
前の自分が贈られた花は、子供たちに貰った白いクローバーを編んだ花冠だけ。シャングリラの公園に咲いたクローバー、それを集めて編まれた冠。
花冠は幾つも貰ったけれども、他には貰わなかった花。誰からも贈られなかった花束。
白いシャングリラでは誰もが敬意を表したソルジャー。
なのに花束を貰ってはいない、恋人だったハーレイからも、仲間たちからも。
(エーデルワイスは…)
白い鯨に咲いていた、純白のエーデルワイス。子供たちに高山植物を教えるためにとヒルマンが作ったロックガーデン、其処で開いた「高貴な白」の名前を持つ花。
皆が摘むことを禁じられたそれを、ソルジャーだけは「摘んでもいい」と言われたけれど。
青の間に飾るために摘んで帰ってもいいと許可されたけれど、プレゼントしては貰っていない。ただの一輪も、あの船にいた誰からも。
(前のぼく、断っちゃったしね?)
ソルジャーだからと、特別扱いされたいとは思っていなかったから。
仲間たちが摘むことの出来ないエーデルワイスを、青の間にだけ飾るつもりも無かったから。
自ら摘むことを断った以上、贈ってくれる者もいないだろう。ソルジャーの部屋に飾るためにと手折ってまでは。
それに、シャングリラと呼ばれていた船。ミュウの箱舟だった船。
白い鯨になった後には、花の絶えない船だったけれど。
ブリッジの見える大きな公園も、居住区に鏤められていた憩いの場所にも、様々な草花や木々の花たちが幾つも咲いていたのだけれど。
(あの花、切って来て、船のあちこちに…)
飾られていたのだった、皆の心を和ませるために。休憩室やら、多くの仲間が訪れる部屋に。
墓碑公園の白い墓碑にも、花はいつでも手向けられていた。きちんと花輪に編まれたものやら、訪れた仲間が摘んで来た花が。
そんな具合に、白いシャングリラから花が消えることは一度も無かったけれど。
(…でも、花屋さんは無かったんだよ…)
通貨や店が存在しなかったことを抜きにしたって、花屋は作れなかっただろう。あの船で暮らす誰もが毎日、好きなだけの花を買って帰れはしなかったろう。
花の絶えない船といえども、それほどの量の花は無かった。思い付いた時に、欲しいだけの花を個人が抱えて部屋に帰れはしなかった船。
今の自分の父が「土産だ」と買って来たような五十本の薔薇など、皆が欲しがっても揃わない。一人分なら揃ったとしても、皆の分にはとても足りない。シャングリラ中の薔薇を切ったって。
花はあっても、数に限りがあった船。皆が好きなだけ花を貰えはしなかった船。
それを誰もが分かっていたから、白いシャングリラに花束を贈る習慣などは無かった。
記念日を祝うための花束も、個人的なプレゼントとしての花束も、何も。
父が薔薇の花を買って来た店。「安かったから」と、母への土産に真紅の薔薇を五十本も。
仕事の帰りにフラリと立ち寄り、父は抱えて帰ったけれど。
(…シャングリラからは縁の遠いお店?)
父が寄った、花屋という店は。好きなだけの花をドンと買い込み、花束を作って貰える店は。
花はあっても、花屋は無理だったシャングリラ。それだけの花が揃わなかった白い船。
美しい花たちの姿や香りは皆の心を和ませたけれど、生きてゆくのに欠かせないというものとは違う。花が無くても死にはしないし、飢えに苦しむことだって無い。
あれば心を潤すけれども、無いからといって乾いて死んでしまいもしない。白い鯨になるよりも前は、花が何処にでもあるような船ではなかったのだから。
生活に欠かせないものではないから、けして大量には無かった花。皆の癒しになる分だけ。
(花の係だって…)
公園を手入れしていた者たちだけで、花を飾ることを専門にしていた係は一人もいなかった。
シャングリラに飾られていた花の係は、公園担当の者たちが兼ねて、その時々に盛りの花たちを幾つか切っては飾っていただけ。自分が担当していた場所に。
皆が愛でる花さえ、そうだったから。専門の係が必要なかった船だから。
個人用の花など用立てられる船ではなかった、贈り物用の花束などは。
五十本もの真紅の薔薇の花束を個人用にと作れはしなくて、他の花でも事情は同じ。一人分なら工面出来ても、全員の分は無理だった船。花屋など開けるわけがなかったシャングリラ。
(…それでハーレイも…)
花を贈ってくれなかったのだろうか、前の自分に?
抱えるほどの大きな花束はもちろん、ほんの一輪の花さえも。
前の自分は何も貰っていないから。ただの一度も、前のハーレイから花を貰ってはいないから。
(ハーレイ、薔薇が似合わないって言われていたけれど…)
薔薇の花が似合わないと評判だったハーレイだけれど、贈る方なら何も問題は無かっただろう。真紅の薔薇を手にして歩いていたって、プレゼントならば誰も笑いはしなかっただろう。
(…恋人にプレゼントするんだってバレたら、大変だけど…)
ソルジャーの部屋に飾るためだと言ったら、誰もが納得していたと思う。
前の自分は「青の間に飾る花が欲しい」と一度も頼みはしなかったのだし、無欲なソルジャー。皆が摘めなかったエーデルワイスを飾ってもいいと許可が下りても、摘まなかったほど。
そんなソルジャーの部屋に花をと、キャプテン自ら用意していても、誰も疑いはしないだろう。却ってハーレイを褒めたかもしれない、「キャプテンだけあって気が回る」と。皆の気持ちを良く知っていると、ソルジャーの部屋には是非とも花を、と。
ソルジャー用だと言いさえすれば、係の者たちが張り切って揃えそうな花。
「そこの薔薇を一つ」と頼んだとしても、きっと一輪では終わらない。「また咲きますから」と幾つも切って渡しただろう。五十本は無理でも、五本くらいなら。
五本渡して、係はハーレイに「他の公園へもどうぞ」と言ったかもしれない。薔薇が咲いている公園を挙げて、もっと多くの薔薇が揃うと。
白いシャングリラを端から回れば、五十本の薔薇も夢ではなかった。時期さえ良ければ、真紅の薔薇を五十本揃えることだって。
個人用には無理なものでも、ソルジャーの部屋に飾るためなら。
けれども、ハーレイは一度もくれなかった花。五十本の薔薇を贈るどころか、ただの一輪も。
花屋が無かったシャングリラ。そのせいだろうか、仲間たちが花を贈り合ってはいなかった船で暮らしていたから、花を貰えなかったのだろうか?
(…それで貰えなかったわけ?)
白いシャングリラには花屋など無くて、花束を贈り合う恋人たちがいなかったから。
彼らが花を贈れないのに、ソルジャーとキャプテンという立場にいるのをいいことにして、花を贈ってはマズイと思っていたのだろうか、ハーレイは?
その気になったら、真紅の薔薇を五十本でも、ハーレイは用意出来ただろうに。
(…やっぱり、ハーレイ、気を遣ってた…?)
白いシャングリラの仲間たちに。恋人に花を贈りたくても、花屋が無かった船の仲間に。
明日、ハーレイに訊いてみようか、そのせいでくれなかったのか。
薔薇の花束も、エーデルワイスも、ほんの一輪の小さな花も。
明日はハーレイが来る土曜日だから。午前中から、ずっと二人で過ごせるのだから。
一晩眠っても、忘れなかった花のこと。前の自分が貰い損ねた、ハーレイからの花の贈り物。
朝食のテーブルで薔薇の花を見たら、ますます気になり始めたから。もう訊かずにはいられない気分、貰えなかった花の贈り物の謎を解きたくてたまらない。
だからハーレイが訪ねて来るなり、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「…あのね、ハーレイが花をくれなかったの、花屋さんが無かったから?」
そのせいだったの、ぼくにプレゼントしてくれなかったのは?
「はあ? 花って…」
なんでお前に花を贈らなきゃいかんのだ。菓子ならともかく、花はないだろう。
「今のハーレイじゃなくて、前のハーレイだよ」
ぼくに一度も花を贈ってくれなかったよ、花束も、花を一本とかも。
ちゃんと恋人同士だったのに、ハーレイは一度も花を贈ってくれなかったから…。
シャングリラには花屋さんが無かったせいなのかな、って。
他の仲間たちは花のプレゼントを贈れないのに、ソルジャーだから、って特別扱いは出来ないと思っていたのかな、って…。
記念日とかには花を贈るでしょ、恋人に。…そういう花のプレゼントを一度も貰ってないよ。
「おいおい、記念日って…。分かってるのか、前の俺たちには無かったぞ」
記憶をすっかり失くしちまって、誕生日は覚えちゃいなかった。つまり誕生日は存在しない。
ついでに結婚記念日も無いな、前の俺たちは結婚出来ずに終わったんだから。
「…そうだけど…。記念日、確かに無かったけれど…」
そのせいで花をくれなかったの、前のハーレイは?
花を贈れない仲間たちに遠慮したんじゃなくって、ぼくたちに記念日が無かったから…?
「いや、思い付きさえしなかった」
前のお前に、花をプレゼントするってことをな。
思い付いていたなら、仲間たちに遠慮はしてないぞ。
…誰にも言えない秘密の恋人同士だったんだ。だったら、そいつを利用したっていいだろう。
ソルジャーの部屋に飾るためにと、キャプテンの権限で花を集めるくらいはな。
前の俺なら実行したぞ、とハーレイは大真面目な顔だから。その顔からして、本当に前の自分に贈るための花をかき集めたのに違いないから。
「…ハーレイが思い付かなかったの、やっぱり花屋さんが無かったせい?」
花束を買えるお店が無かったせいなの、それで花束を用意しようと思わなかったの?
…花束もそうだし、花だって。
売ってるお店が何処にも無いから、花束も花も思い付かないままだった…?
「花屋が無かったからと言うより、問題は習慣ってヤツの方だな」
シャングリラには全く無かっただろうが、花を贈るという習慣が。
白い鯨になるよりも前は、花は殆ど無かった船だぞ。まるで無かったとは言わないが…。
あの船にだって、少しくらいは花が咲く植物もあったわけだが、それだけのことだ。
その上、記憶をすっかり失くしていたのが俺たちだったし、花を贈ろうという発想が無い。
記念日だろうが、なんであろうが、プレゼントに花だと思わないんだな。
そんな俺たちが白い鯨を手に入れたって、花を贈ろうと思い付くか?
元々無かった習慣なんだし、花が手に入る時代になっても、花は花でしかないってな。
「…そういえば、ぼくもフィシスには…」
お菓子なんかを贈りはしたけど、花は一度も…。
「贈ってないだろ?」
お前がフィシスに贈るんだったら、それこそシャングリラ中の花を集めて贈れたのにな?
フィシスの部屋が埋もれちまうほどの花をかき集めたって、誰も文句は言わなかった筈だぞ。
「そう思う…。フィシス用なら、ホントにドッサリ集められそう…」
だけど、思い付きさえしなかったよ、ぼく。
花の香りの香水は色々と作らせたけれど、花を贈るなんてことは、ちっとも…。
フィシスも欲しいって言わなかったし、余計だったかもね。
…きっとフィシスも知らなかったんだね、花の贈り物があるってことを。
ずっと水槽で育てられてて、機械が教えた知識しか無くて、花は貰っていなかったんだよ…。
ミュウの女神と呼んだフィシスにも、花を贈りはしなかった自分。
フィシスは女性だったのに。
父が「土産だ」と、記念日でなくても薔薇の花束を買って帰った母と同じに女性だったのに。
そのフィシスさえも花を一度も貰わなかったなら、男だった自分に花などは…。
花束はもちろん、ほんの一輪の花にしたって、そんな贈り物は…。
「…前のぼく、花のプレゼントを貰えなくって当然だよね…」
フィシスだって貰っていなかったんだし、男だったぼくが貰えるわけがなかったね…。
花屋さんがあるとか無いとか、そういう問題以前の問題…。
「そうでもないぞ。…お前が俺から花を貰い損ねちまった件に関しては」
思い付かなかった俺が悪かったんだ。お前に花を贈るってことを。
…確かに花をプレゼントするって習慣を持ってはいなかったんだが、チャンスならあった。
エーデルワイスでも贈れば良かった、前のお前に。
「え?」
どうしていきなりエーデルワイスが出て来るの?
薔薇とかじゃなくて、エーデルワイス?
あれは花束に出来るほどには咲いてなかったよ、株が増えてからも。
全部摘んでも大きな花束を作れはしないし、他の花の方がいいんじゃないの?
見栄えだって薔薇の方がずっと上だし、エーデルワイスを贈るよりかは。
清楚な花ではあったけれども、花束に向くとは思えないのがエーデルワイス。
他の仲間たちが摘めない花でも、貴重な花でも、花束にするには地味すぎる花。青の間の光には映える白でも、白い花なら他にも色々。香り高い百合の花だって。
それなのに何故、エーデルワイスの名前が出るのか、本当に不思議だったのだけれど。
「…あの花、お前は何度も眺めに行ってただろうが。また咲いたね、と」
お前が好きな花だと分かってたんだし、ヒルマンたちだって摘んでもいいと許可を出してた。
しかし、お前は一度も摘まずに、静かに見ていただけだった。花が咲く度に。
そんなお前に、「摘んでもいいと思いますが」と何度も声を掛けていたのが俺だ。お前の隣で。
そう言う代わりに、俺がプレゼントすれば良かったってわけだ、エーデルワイスを。
ソルジャー用にと摘むんだったら、何の問題も無かったんだから。
お前があの花を好きだったことは誰でも知ってたんだし、俺が代わりに摘んでいたって、文句は出ない。遠慮しがちなソルジャーだからと、みんな納得しただろう。
そうやって摘んだエーデルワイスを大急ぎで青の間に運んで行っても、不思議に思うヤツなんかいない。萎れちまう前に届けなければ駄目なんだしなあ、走っていたってかまわんだろうが。
…俺は届けるべきだったんだ、前のお前にエーデルワイスを。
花束じゃなくて一本だけでも、前のお前が好きだった花を。
「そっか…。それで、エーデルワイス…」
そのプレゼント、欲しかったかも…。
前のハーレイが摘んで来てくれた、エーデルワイスのプレゼント…。
もしもハーレイから、エーデルワイスを貰っていたら。プレゼントされていたのなら。
きっと大切な、忘れられない思い出の花になっただろう。
前の自分がハーレイから貰った、唯一の花の贈り物。
真紅の薔薇とは比べようもない小さな花でも、一輪だけしか無かったとしても。
花束にはなっていない花でも、ほんの一輪だけのエーデルワイスでも。
それが欲しかったと心から思う、今となっては、もう戻れない昔だけれど。白いシャングリラは時の彼方に消えてしまって、エーデルワイスを見ていた前の自分も、もういないけれど。
「…すまん、全く気が付かなくて」
気が利かないヤツだな、前の俺もな。…お前と何度も見ていたのになあ、エーデルワイス。
それに、お前はスズランの花束の話も、何度も俺としていたのにな…。
「スズラン?」
なんなの、スズランの花束って?
前のぼく、スズランが好きだったっけ…?
「忘れちまったか、シャングリラにあった恋人同士の習慣だ」
言い出しっぺはヒルマンだったな、シャングリラで最初のスズランが咲いた時だったか。
SD体制が始まるよりもずうっと昔の地球のフランス、其処では五月一日の花だと。
恋人同士でスズランの花束を贈り合うんだという話が出て、スズランが増えたら定着したぞ。
若い連中が摘んでいたんだ、シャングリラに咲いてたスズランをな。
「あったね、そういう花束が…!」
だけど、ぼくたちが摘めるスズランの花は何処にも無くて…。
若い恋人たちの分しか無くって、ぼくもハーレイも、スズラン、贈れなかったんだっけ…。
五月一日に恋人同士で贈り合う花束、スズランを束ねた小さな花束。
贈りたくても、自分たちの分のスズランを手に入れられなかったから。自分たちの部屋で育てて贈るわけにもいかなかったから、いつか地球で、と約束し合った。
地球に着いたら、スズランの花束を贈り合おうと。
前の自分はハーレイのために探すつもりだった、森に咲く希少なスズランを。ヒルマンに聞いた森のスズラン、栽培されたものより香りが高いという花を。
そんな夢まで見せてくれたのが、若い恋人たちが贈り合っていたスズランの小さな花束。可憐なスズランを摘んで纏めた、小さな小さな白い花束。
あれがシャングリラにあった、たった一つだけの花の贈り物だったのだろうか?
花を贈る習慣が無かった白いシャングリラで、スズランだけが贈り物にされていたろうか?
恋人たちが想いを託した小さな花束、五月一日のスズランだけが。
公園で摘まれて贈り合われた、小さな小さな花束だけが…。
スズランの他にもあっただろうか、とハーレイに尋ねてみたけれど。
花の贈り物は白いシャングリラにもっと幾つもあっただろうか、と訊いたのだけれど。
「どうだかなあ…。アルタミラからの脱出組には、スズランも関係なかったからな」
誰も摘んではいなかった筈だぞ、若いヤツらがやってただけだ。
花を贈ろうって発想自体が無かった世代が俺たちなだけに、その後から来た習慣となると…。
馴染みが薄くて忘れちまった可能性もあるな、あったとしても。
だから他にもあるかもしれん。…特別な時にはコレだった、っていう花の贈り物がな。
「うん…。あったのかもしれないね」
ぼくはスズラン、忘れちゃっていたし…。
今のぼくになってからも思い出したのに、すっかり忘れてしまっていたし…。
ハーレイもぼくも忘れてしまった花の贈り物、スズランの他にもあったのかもね。
「こればっかりは、今はなんとも分からないんだが…。無いとも言い切れないってことだな」
それでだ、お前、スズランの花束か、薔薇とかの花束か、どっちがいい?
「えっ、どっちって…?」
どういう意味なの、どっちがいい、って?
「選ばせてやると言っているんだ、今は花屋があるからな」
スズランも買えるし、薔薇だってドカンと買える時代だということだ。
どっちがいいんだ、いずれお前の好きな方を買ってプレゼントしてやるが…?
「んーと…。くれるんだったら、両方がいいな」
スズランの花束は特別なんだし、五月一日には買って欲しいよ。
だけど、薔薇とかの花束も欲しいんだもの。…両方がいいな、スズランも薔薇も。
ママがパパから貰ってたんだよ、記念日でもないのに薔薇の花束。
綺麗な赤い薔薇の花をね、五十本も買って貰っていたから…。
その花束のせいで気が付いたんだよ、前のぼくは花を貰ってないって。
だからいつかは買って欲しいよ、スズランも、薔薇とかの花束も…。
記念日にはプレゼントして欲しいな、と強請ったら。
スズランの花束の他にも花束のプレゼントが欲しい、と欲張りなお願いをしたら。
「そりゃまあ、なあ?」
選ばせてやると言いはしたがだ、お前は俺の嫁さんになるって勘定で…。
嫁さんとなれば記念日に花束をプレゼントするのは当然だな、うん。
…プロポーズの時にも贈ってやろうか、デカい花束。
五十本どころか、百本の薔薇の花束ってヤツを。
「百本も…?」
ぼく、男なのに、薔薇を百本も贈ってくれるの、プロポーズの時に?
そんなに沢山貰っちゃったら、どんな顔をして持って帰るの、この家まで…?
ハーレイが車で送ってくれるのは分かっているけど、それまでの間。
大きな薔薇の花束を抱えてレストランの中とか、町の中とかを歩いて行くわけ…?
なんだか、とっても恥ずかしいんだけど…。
「ふうむ…。だが、欲しそうな顔をしてるぞ、お前」
茹でダコみたいに真っ赤になろうが、それでも持って歩きたいって顔。
百本の薔薇を抱えて幸せ一杯で、俺と並んで歩きたい、ってな。
「分かっちゃった…?」
恥ずかしいのは本当だけれど、ハーレイからなら欲しいんだよ。
前のぼくが貰い損なった分まで、うんと大きな薔薇の花束。スズランの花束も欲しいけど…。
「よし、任せておけ」
五月一日になったらスズラン、記念日には薔薇とかの花束だな?
でもって、プロポーズの時には、お前が幸せ自慢をしながら歩ける花束。
貰いました、って真っ赤な顔して、それでも得意満面になれる百本の薔薇の花束がいい、と。
気が変わったら言うんだぞ?
もっと薔薇の数を増やして欲しいとか、薔薇よりも他の花が欲しい気分になっただとかな。
望み通りの花束を贈ってプロポーズしよう、とハーレイが片目を瞑るから。
いつかは貰えるらしい花束、スズランの花束も、大きな薔薇の花束も。
前の自分は花の贈り物をハーレイから貰い損なったけれど、今の自分は貰えるから。
スズランの花束も、薔薇の花束も貰えるのだから、その日を楽しみにしていよう。
同じ家で暮らせるようになったら、記念日でなくても、きっとハーレイなら花束をくれる。
昨日の夜に、父が「土産だ」と大きな薔薇の花束を抱えて帰って来たように。
ハーレイもきっと、素敵なプレゼントをくれる。
それを貰ったら、二人でゆっくり過ごす部屋の花瓶にたっぷりと生けて、他の部屋にも。
寝室にも、ダイニングのテーブルの上にも、ハーレイに貰った花を飾ろう。
前の自分は貰い損ねた花だけれども、今はいくらでも花を贈って貰えるから。
沢山の花が花屋に溢れる、青い地球の上に来たのだから。
最初に二人で暮らす家に飾る、幸せな花はなんだろう?
ハーレイが抱えて帰って来てくれる花の束。
立派な薔薇の花束を貰っても、スズランの小さな花の束でも、きっと嬉しい。
ハーレイがくれる花ならば。
前の自分が貰い損ねた、花のプレゼントを貰えるのなら…。
花の贈り物・了
※シャングリラには無かった「花を贈る」という習慣。あったのはスズランの花束だけ。
そのスズランも贈り合えなかった二人ですけど、今度はハーレイから花束が、いつの日か…。
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