忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(ふうむ…)
 これはブルーが喜びそうだ、とハーレイが目を留めたラスク。ブルーの家には寄れなかった日の帰り、いつもの食料品店で。
 ラスクは普段から菓子類の棚に並んでいるのだけれども、見付けた場所は店に入って直ぐの特設売り場。様々な店が出店してくる楽しいコーナー、其処がラスクで有名な店になっていた。
 名前を何度か耳にした店、材料にこだわり、贅沢に焼き上げられていると評判のそれ。二枚ずつ透明な袋で包装されたラスクは如何にも美味しそうだから。
(よし、土産に買って行ってやるかな)
 小さなブルーに土産を買うなら、食べたら消えて無くなるもの。ブルーの方では、手元に置いて眺められるものや、大切に使える品物が欲しいようだけど。文具や小さな置き物の類。
(欲しい気持ちは分かるんだが…)
 フォトフレームとシャングリラの写真集がお揃いだから、と無邪気に喜ぶ小さなブルー。もっと他にも、と願う気持ちは良く分かる。とはいえ、ブルーは十四歳にしかならない子供なわけで。
(残せる土産は、もっと大きく育ってからだな)
 恋人らしくなってからだ、と決めている。小さな間は土産はこういうものでいい。二人で一緒に食べてしまえば無くなってしまう菓子や果物、子供の間はそれが似合いの土産物。
 明日は土曜日、ブルーの家にゆく日だから。丁度いいな、とラスクを買ってゆこうと決めた。
 「一つ下さい」と二枚入りのラスクが幾つも詰められた箱を注文してから、自分用にも小さめの箱を試食用に一つ。美味しいに決まっているだろうけれど、自信を持って勧めるためには一足先に食べておかねば話にならない。「美味いんだぞ」と言ってやりたかったら。



 家に帰って、買って来た食材で手際よく作った満足の夕食。ゆっくりと味わい、片付けをしたらコーヒーを淹れて、さっきのラスク。二枚入りの袋を一つ箱から取り出し、熱いコーヒーが入ったマグカップも持って書斎へと。
 ダイニングで食べてもいいのだけれども、今夜は書斎の気分だから。好きな本たちが囲む空間、其処でのんびり寛ぎながら。
 小さなブルーと二人で写した写真を収めたフォトフレーム。それを飾った机の前の大きな椅子にゆったり腰掛け、コーヒーを一口、ラスクも齧って。
(これは美味いな)
 評判の店と言うだけはある、と一枚目を食べ終えてからパンフレットを開いてみた。買った時に袋に入っていたから、書斎に持って来ておいたもの。読んでおこう、と。
(ほほう…)
 書かれているラスクの作り方。材料のパンから既に特別、ラスクにするために焼くというパン。材料の小麦粉のブレンドにこだわり、焼き加減にも注意を払って。
 砂糖はもちろん高品質だし、驚いたのはバターの使い方。厳選されたバターを溶かした上澄み、それだけを使用するらしい。ゆえにバターのしつこさが無くて、何枚でも食べられそうなラスクが出来る勘定、人気の所以。
(贅沢なもんだな)
 菓子なんだが、と苦笑いした。料理だったら分かるけれども、相手はラスク。美味しいラスクを作り出すためにパンから作って、バターも上澄みだけしか使わないとは、と。
 ラスクは本来、残り物のパンで作る菓子。それをパンから作る贅沢、美味な理由も頷ける。



(専用のパンから作ったラスクなのか…)
 これは心して味わわねば、と二枚目のラスクを暫し観察することにした。ただボリボリと食べてしまっては失礼だろうと、贅沢すぎるラスクに敬意を表して。
(ラスク専用のパンと来やがったぞ)
 そのパンだけを食べてもきっと美味しいのだろう。自分が日頃食べているパン、それよりも味は上かもしれない。小麦粉のブレンドから焼き加減まで、こだわりのパンだと言うのだから。
(…ラスクにするのに最適なだけで、食事用ではないかもしれんが…)
 齧ってみたい気もするな、とパンフレットに載っているパンの写真を眺めていたら思い出した。行きつけの近所にあるパン屋。レストラン部門を併設するほどだし、店で焼き上げたパンが自慢で品揃えも豊富。
 其処で毎年、クリスマスが終わったら売られる限定商品があった。年に一度だけ、クリスマスの後の僅かな期間だけ。
 クリスマスに向けてドッサリと並ぶシュトーレン。箱に入った贈答用から、お茶の時間に気軽に切って食べられる小さなサイズまで。白い砂糖の粉を纏ったシュトーレンの山が出来るけれども、全部売れるとは限らない。クリスマスの日まで切らせはしないし、残ってしまうシュトーレン。
 けれど、クリスマスを過ぎたら売れない。シュトーレンの季節は済んだとばかりに、他の品物が売れてゆく。
(そいつを逆手に取るんだよなあ…)
 もう売れないと判断されたら、売り場から消えるシュトーレン。暫く経ったらお洒落なラスクが現れる。胡桃やレーズンがふんだんに鏤められた贅沢なラスク、その正体はシュトーレン。
 売れ残ったものを切って、バターと砂糖をまぶして焼き上げるだけ。これが人気で、飛ぶように売れる。シュトーレンだった頃より高い値段になっているのに、気にする人など無いラスク。



 あれも贅沢なラスクだった、とクリスマスの後の店の光景を思い浮かべた。新しい年が来てから間もなく並ぶのだったか、あのラスクは。限定商品と書かれた札を添えられ、誇らしげに。
(材料は売れ残りというヤツなんだが…)
 クリスマスが終わって数日の間は割引になるシュトーレン。それでも売れずに残ってしまえば、あの贅沢なラスクに化ける。期間限定の人気商品に。
(ラスクにしなくても、シュトーレンは日が経ったヤツほど美味いんだがな?)
 なのにラスクにしないと売れないのか、とクリスマス用に作られた菓子の不思議さを思う。味はクリスマスの前と後とでガラリと変わりはしないのに。
 クリスマスケーキだったら日持ちの関係で駄目になっても分かるのだけれど、シュトーレンなら日数が経つほど味が馴染んで美味しくなる。シュトーレンを生み出した地域の辺りでは、食べずに一年置いておく人があるほどに。その方が断然美味しいから、と。
(おふくろも置いていたっけなあ…)
 手作りしたものや、店で買って来たシュトーレンを外気に触れないように包んで、初夏の頃まで食料品用の棚に置いていた。この地域では夏が暑いから、流石に夏は越せないだろうと。
 今でも隣町の家に行ったら、棚にあったりするシュトーレン。自分もたまに買って置いておく、味が馴染んだ頃に食べようとパンなどを仕舞っておく棚に。



(…贅沢な時代になったもんだな)
 売れ残りのシュトーレンをラスクにしてしまう件はともかく、ラスクにするパンを焼くなんて。食べるために焼かれるパンと違って、菓子にするためにだけ焼かれるパン。
 それも小麦粉からこだわったパンで、焼き加減までラスクに最適になるように。
(シャングリラの頃だと考えられんぞ)
 焼き立てのパンを食事用にしないで、最初から菓子にしてしまうなんて。
 自給自足で生きていた頃も、前のブルーが物資を奪っていた時代にも、大切な食料だったパン。今の自分が暮らす地域では主食と言ったら米だけれども、あの時代の主食はパンだった。
 食事をするならパンが欠かせなかった船。朝食はもちろん、昼食も夕食もパンはつきもの。そのパンを菓子に変えてしまうことなど有り得ない。
 古くなってしまったパンならともかく…、と二枚目のラスクを袋から出した。これがラスク用のパンから作られた贅沢なヤツか、とガブリと齧る。上等な生まれだけあって流石に美味い、と。



 なんとも贅沢すぎるラスクはサクサクとしていて、しつこくなくて。砂糖の甘さが後を引く味、もっと持って来ておけば良かった。小さい箱でも数は入っていたのだし…、と思った所で。
(…ん?)
 ふと引っ掛かったラスクの記憶。遠く遥かな時の彼方で食べていたラスク。
 前の自分が生きていた船、白いシャングリラにもラスクはあった、と気が付いた。あの白い船でラスクを食べたと、立派なラスクがあったのだったと。
 なにしろ自給自足の船だし、前の自分が食べたラスクの材料は…。
(古いパンだよな?)
 焼かれてから日が経ってしまって、固くなったパンで作られたラスク。専用のパンを焼くのではなくて、残り物のパンから作ったラスク。
 それは間違いないけれど。シャングリラでは馴染みの菓子の一つで、保存にも適した優れもの。パンが残れば厨房のスタッフがラスクにするのが常だったけれど…。
(だが、もっと…)
 身近だったような気がするラスク。単なる残り物から生まれた菓子というだけではなくて、前の自分の思い出の菓子だという記憶。
 前のブルーと食べたのだろうか、それで覚えているのだろうか?
 贅沢ではない、固くなったパンで作られたラスク。シャングリラでは定番の菓子だったから。



 前のあいつと食べたラスク…、と遠い記憶を手繰ってみて。
(うん、食ったな)
 確かに食べた、と頷いた。
 ブリッジでの勤務を終えて出掛けた青の間、ソルジャーとしてのブルーに一日の出来事の報告をしたら、後は二人で過ごせる時間。恋人同士の二人に戻って、肩書きなどは外してしまって。
 その時間が来るのを待ちかねたように、ブルーが紅茶を淹れてくれた。紅茶のお供に菓子などもブルーが用意していた、二人分を。「キャプテンとお茶にするのだから」と。
 その菓子の中にラスクもあった、と残り物のパンから出来ていた菓子を思い浮かべたけれど。
(待てよ…?)
 懐かしいね、と微笑みながらラスクを味わっていたブルー。
 今の子供の指と違って、しなやかで長かった白い指。手袋を外した指がラスクをつまんで、桜の色をした唇に運んで、その唇から零れた言葉。「君のラスク」と。
(そうか…!)
 俺のラスクか、と一気に蘇った記憶。
 あの船で自分がラスクを作った。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。まだキャプテンに就任してはいなくて、厨房が居場所だった頃。
 最初のラスクを作ったのだった、あのシャングリラにあった厨房で。



 あれはいつだったか、皆と食事をしていた食堂。配膳や給仕は他の仲間たちがやっていたから、
調理を終えたら皆と一緒にテーブルに着いた。前のブルーが隣に座って、ゼルやヒルマンたちとも近い席。いつの間にやら、自然と決まってしまった配置。
 そのテーブルで「パンがすっかり固くなっちまってるよ」と、ぼやいたブラウ。「あんたたち、パンを作りすぎたんじゃないのかい」と。
「ちゃんと計算して焼いてくれないとね。これじゃ風味が台無しじゃないか」
 食料が無かった頃ならともかく、なんで今頃、ガチガチのパンを食べなきゃいけないんだい?
「いや、それは…」
 俺たちがヘマをしたわけじゃないんだ、と言い訳ならぬ説明をした。
 パンが残ってしまった理由は、単なる皆の嗜好のせい。普段通りの量を焼いたけれども、パンの他にパスタなども作って出していたから、バランスが崩れて偏った。
 いつもならパンを食べる者たちがパスタをおかわり、それで満足して去って行った結果、減ってしまったパンの消費量。食べる者がいなければパンは残るし、次のパンを焼くのももったいない。まだまだパンはあるのだから。固いパンでも、お役御免だと捨てていいような船ではない。
「本当に普段と同じ分だけ焼いたんだ。作りすぎちゃいない」
 要る分だけ焼くのは無理があるだろうが、毎日、毎日、焼き立てっていうのも難しいんだ。
 焼き立ての日もありゃ、そうでない日もあるってわけで…。今はパンの在庫が山ほどあって…。
 明日くらいまでは固いパンだな、悪いが、我慢して食ってくれ。
 今の固いパンが無くなっちまえば、直ぐに焼き立てのパンを出せるってモンで…。
「それは分かっちゃいるんだけどね」
 食べないことには次のパンは無いし、これは捨てちまって新しいパンを作れとも言えないし…。
 でもねえ…、と愚痴を零したブラウ。
 同じパンなら、もっと美味しく食べたいもんだね、と。



 ブラウの言うことも一理あったし、何より皆に喜んで貰える食事にしたい。パンが固いと愚痴を零すより、こんな食べ方も美味しいものだと思って欲しい。
 だから工夫した、固くなったパンをグラタンに入れて焼き上げたりして。具だくさんのスープも作ったりした、パンを一緒に混ぜ込んで。
 ソースやスープに浸されたパンは柔らかくなるから、固いパンと違って文句は出ない。またかと飽きてしまわれないよう、味付けなどに変化をつけた。
 あくまで食卓に並べられる料理、それしか思い付かなかったけれど。パンを使った菓子類などは考え付きさえしなかったけれど。



 そうやって工夫を重ねていた日々、ある時、炒め物の試作をしていたら。
 またパンが余ってしまいそうだ、と厨房の仲間から入った相談。「グラタンにするか」と返事を返して、炒め物の後はグラタンの試作を始めたのだけれど。今度はどういう味にしようかと、鍋でベースのソースを作っていたのだけれど。
 其処へブルーがやって来たのだった、まだ少年の姿をしていたブルーが。
「何が出来るの?」
 そのソースと、こっちのパンとで何が出来るの、ねえ、ハーレイ?
「固いパンには馴染みのパングラタンだが」
 今日はどういう味にするかな、グラタンに入れる具だって工夫をしないとな?
 いつも同じだと飽きられちまうし、これから研究しようってトコだ。
「パン、余ったんだ…。ハーレイ、いつも大変そうだけど…」
 それって、お菓子にならないの?
「はあ?」
 菓子とは、と驚いて訊き返した前の自分だけれど。ブルーはと言えば、調理台の脇に置いてあるパンを指差して。
「固くなったパン、ちょっとビスケットに似ていない?」
「ビスケットって…。そんなのがパンに似ているか?」
 似ても似つかん代物なんだが、と頭に描いたビスケット。ブルーが奪う物資に混ざっていたり、厨房で焼いたり、平たい菓子なら良く知っている。パンとは違って固い菓子。
「固いトコだよ。そこが似てるよ、ビスケットと固くなったパン」
 ビスケットだったら、立派なお菓子。…固いパンもお菓子にならないかな、って。
「ふうむ…。菓子か…」
 確かに菓子なら、固いヤツでも誰も文句は言わないな。
 ビスケットが固いと苦情が来たことは無いし、嫌な菓子なら食わなきゃいいだけのことだしな。



 ブルーが言い出した、菓子という案。固くなったパンで作る菓子。
 それは考えてもみなかったから、データベースを調べに出掛けた。パンから菓子を作れないかと参考になりそうなレシピを探しに。
 古くなったパンで出来そうな菓子、と調べてみたら、同じグラタンでも菓子のがあった。残ったパンを利用した菓子、マーマレードとバターを塗ったパンと甘いソースで作るもの。
 その名もブレッド・アンド・バタープディング、「ビートン夫人の家政書」という地球が滅びる前のイギリスで編まれた本にも載っていた由緒正しいレシピ。
(…こんな時代から、人間は固くなったパンの使い方で悩んでいたってか?)
 十九世紀の本なんだが、と興味を引かれて関連のレシピを探れば出て来たサマープディング。
 そちらも固くなったパンを使うのが決め手で、後の時代にはパンをわざわざ固くなるまで放っておいてまで作ったらしい菓子だけれども。ベリーを散らした赤紫の姿が美味しそうだけれど。
 これは贅沢すぎて作れない、新鮮なベリーが山ほどあるような船ではないから。仮にあっても、固くなったパンを菓子にするために使うよりかは、もっとベリーが生きる使い方をしたいから。
(固くなったパンと砂糖くらいで何か…)
 出来るものは、と調べ続けて、見付けたのだった、ラスクのレシピを。
 パンをスライスしてバターを塗り付け、その上に砂糖。どちらもたっぷり、それからオーブンで砂糖が溶けるまで焼いてゆくラスク。バターと砂糖が馴染んで縁がカリッとなったら完成品。



 こいつはいい、と書き抜いて戻ったラスクのレシピ。
 オーブンに入れたら十五分もあれば焼けるというから、試作する時はブルーに声を掛けた。例によってパンが余ってしまって固くなったから、「お前が言ってた菓子を作るぞ」と。
 ブルーが見ている前で始めたラスクの試作。パンをスライスして、バターを塗って…。
 どんな具合かと、甘い匂いが漂うオーブンの前で二人で待った。そうして出来上がったラスクを取り出し、冷ましてから「ほら」とブルーに渡してやったら。
「美味しいね!」
 ビスケットよりもずっと美味しいよ。サクサクしていて、それに甘くて。
「うむ。思った以上の出来栄えだな、これは」
 こういう菓子が作れるとはなあ、固くなったパンで。
 お前が菓子だと言ってくれなきゃ、思い付きさえしなかっただろう。今日だって、きっと試作をしてたぞ、グラタンとかの。菓子じゃなくって、いわゆる料理というヤツのな。



 前のブルーが「お菓子にならないの?」と尋ねたお蔭で生まれたラスク。
 これは使えると残りのパンで作ったラスクは好評を博し、パンが固いと苦情を言われる代わりに喜ばれた。とても美味しい菓子が出来たと、これならいくらでも食べられそうだと。
 パンが余れば、固くなったものを使ってラスクに。厨房のスタッフたちも覚えた鉄則、ラスクは船の定番になった。前の自分が厨房を離れてキャプテンになってしまった後も。
 自給自足の船にするための移行期を除けば、シャングリラでよく作られた菓子。パンが余ったらラスクの出番で、誰もが好んで口にしていた。バターと砂糖とパンで出来た菓子を。
 前のブルーは特に…。
(君のラスク、って言ったんだっけな…)
 それは嬉しそうな顔で、ラスクをつまんで。お茶のお供がラスクの時には。
 前の自分はとうに厨房を離れていたのに、「君が初めて作ってくれた」と懐かしそうに。
 二人で食べたと、作る所から側で見ていて、オーブンの前で出来るのを待ったと。



(思い出の菓子か…)
 すっかり忘れちまっていたな、と自分の額を指で弾いた。ウッカリ者め、と。
 ブルーへの土産に持ってゆこうと買って来たくせに、ラスクが何かを忘れ果てていた。ブルーと二人で食べていたことも、ブルーのアイデアで自分が作った菓子だったことも。
 こうなって来たら、自分で作って持って行ってやりたいくらいだけれど。
 白い鯨ではなかった頃のシャングリラの厨房、あそこで作った素朴なレシピでラスクを作りたい所だけれども、それは叶わない。
(手料理を持って行くのはマズイし…)
 古くなったパンを使ったラスクでも、手作りの菓子には違いない。それを持って行けばブルーの母に気を遣わせてしまうし、下手をすれば「先日のラスクの御礼に」と土産を貰いかねない。
 それを避けるには、買ったラスクを手土産にするしかないだろう。「シャングリラの頃の思い出ですから」と言えば問題無いのだから。
(忘れていたくせに、いいものを買ったというわけか…)
 あの船には贅沢すぎるんだがな、と浮かべた笑み。
 ラスク用のパンから焼いてはいないし、バターだって上澄みだけではなかったのだし、と。



 次の日、朝食を済ませて少し経ってから、歩いて出掛けたブルーの家。
 生垣に囲まれた家に着いたら、ブルーの母が門扉を開けに出て来たから。「買って来ました」と渡した、ラスクが入った紙袋。「シャングリラで食べていたんです」と断りながら。
(まるっきり嘘ってわけじゃないしな?)
 前のブルーのアイデアから生まれて来たラスク。「君のラスク」と懐かしんでくれていた頃には恋人だったブルーとの思い出のラスク、その話はブルーの母には出来ない。大切な一人息子の恋の相手が自分だなどとは、口が裂けても言えないから。
(この手の嘘は幾つ目なんだか…)
 申し訳ない気もするけれども、ブルーにはキスも許していないし、ここは大目に見て欲しい。
 いつか「ブルー君と結婚させて下さい」と申し込んで腰を抜かされる日までは、生まれ変わって再び出会った親友同士ということで。
 ラスクも前の生でお茶を飲みながら食べていた菓子で、ソルジャーだったブルーとキャプテンが過ごしたティータイムの思い出を語り合うための土産なのだということで…。



 そういうことにしておいて欲しい、と心で詫びながら渡したラスク。
 ブルーの母は「いつもありがとうございます」と礼を言って受け取り、紅茶と一緒に運んで来てくれた。綺麗な器に二枚ずつ入った袋ごと盛って、取り分けるための菓子皿もつけて。
 小さなブルーは「ハーレイ先生のお土産よ」と聞かされて喜び、母の足音が階段を下りて消えた途端に身を乗り出した。
「ハーレイ、ラスクを買いに行ってくれたの、このお店まで?」
 有名なお店だよね、よく広告を見掛けるもの。
 食べたこともあると思うんだけど…。ママのお友達か誰かに貰って。
「いや、買いに出掛けたわけじゃない。いつもの店に来ていたんでな」
 知っているだろ、俺の家の近所の食料品店の特設売り場。
 今週はラスクの店だったらしい、昨日寄ったら売っていたから買って来た。美味いと評判の高い店だし、土産にするのに丁度いいかと…。
 俺用にも買って帰って食ったが、美味かったぞ。まあ、遠慮しないで食ってみろ。
「うんっ!」
 ありがとう、と包装を嬉しそうに破っているブルー。
 二枚入りの中の一枚を愛らしい指でつまんで、パクリと齧って「美味しいね」と弾ける無邪気な笑顔。前のブルーが「君のラスク」と見せた笑みとはまるで違った子供の表情。
「まあな、こだわりの材料だからな」
 パンから作っているんだそうだ。このラスクを作るためだけのパン。
 小麦粉のブレンドにもこだわりました、っていう御大層なパンだ、並みのラスクとは違うんだ。ラスクと言ったら、古くなっちまった固いパンから作るもんだが…。
 こいつは専用に焼かれたパンを使った贅沢なヤツだ、バターも上澄みだけらしい。前の俺たちが暮らした船だとバターは大事な食料だったし、上澄みだけなんていうのはなあ…。
「そうだね、そんな使い方はとても出来ないよ」
 バターの在庫が切れそうだ、って大騒ぎになったこともあったよ、シャングリラでは。
 …アルテメシアから宇宙に逃げ出した時に、牛たちがミルクを出さなくなって。



 シャングリラの話を混ぜてやったのに、ブルーの頭は固くなったパンよりバターの方へと行ってしまった。「お菓子にならないの?」と口にした本人のくせに、パンよりもバター。
 どうやらブルーは思い出さないようだから。放っておいたら、シャングリラの酪農事情に纏わる話を次から次へと始めかねないから、ストップをかけることにした。
「…もっとケチなラスクにしておけば良かったか?」
 こういう有名店のヤツじゃなくって、食料品店の棚に並んでいるような普通のラスク。
「えっ?」
 キョトンとしている小さなブルー。「普通のラスクがどうかしたの?」と。
「そいつの方が良かったのかと思ってな」
 上澄みバターを使ったラスクじゃ、贅沢すぎて思い出せないようだしな、お前。
「何を?」
 思い出せないって、ぼくが何を?
 バターのことなら覚えてるじゃない、シャングリラじゃバターは大事な食料だった、って。
 お料理するのに欠かせなかったし、合成品だと味がガクンと落ちちゃうんだもの。
「…ほら見ろ、お前はまたバターの方に向かって行っちまうんだ」
 バターよりも大事なものがあるだろ、ラスクを作るにはパンが無くっちゃ始まらない。
 こいつはとびきり上等だからな、パンから焼いてるわけなんだが…。ラスクは本来、固くなったパンで作るもんだぞ、シャングリラでさえ嫌われ者だった固いパン。
 そいつを美味しく食べられないかと工夫したのがラスクってヤツだ、シャングリラでもな。
 …覚えていないか、俺のラスクだ。お前といつも二人で食ってた。
 お前、食べる度に言ってただろうが、「君のラスク」と。
「ああ…!」
 思い出した、と叫んだブルー。
 ハーレイのラスク、と。
 シャングリラの厨房で作ってくれたと、初めてのラスクを二人で食べたと。



 端っこを一度掴んでしまえば、戻るのは早かった一連の記憶。
 ブルーはたちまち全て思い出した、シャングリラでラスクが生まれた切っ掛けが前の自分だったことも、試作の時の光景も。甘い匂いが漂うオーブン、その前で出来るのを待っていたことも。
「ハーレイのラスク…。美味しかったよ、このラスクよりも」
 前のぼくが今でも覚えてる味は、このラスクよりもずっと上だったよ。
 …ハーレイが作ってくれたからかな、「お前が言ってた菓子を作るぞ」って。
 どんなお菓子が出来るんだろう、ってドキドキ見ていて、出来上がったのを二人で食べて。
 最初に作ったのがハーレイだったから、ラスクはいつでもハーレイのお菓子だったんだよ。
 ハーレイがキャプテンになっちゃった後も、ぼくにとってはハーレイのお菓子。
 誰が作ったラスクでも全部、ハーレイのラスク。
 だからラスクを食べる時はいつも、「君のラスク」って言ってたんだよ、とても懐かしいお菓子だったから。ハーレイが作ってくれたんだっけ、って思ってたから…。
 それでラスクを持って来てくれたの、前のぼくのことを思い出したから?
 ハーレイのラスクだって言っていたこと、ハーレイ、覚えていてくれたんだね…。
「…まあな。本当の所は、俺も忘れてしまってたんだが」
 評判のラスクを売っているな、と思ったから土産に持って来ようと買ったんだ。
 その段階では何も覚えちゃいなくて、家に帰って食ってた時にもまだ完全に忘れていたな。袋に二枚ずつ入ってるだろうが、一枚目の時は何も思っちゃいなかった。美味いラスクだと思いながら食って、二枚目に齧り付いた所で気が付いたんだ。
 だが、シャングリラにもラスクはあった、という程度でなあ…。
 前のお前と二人で食ってた、ってトコまで行ったら、お前が言ってた「君のラスク」って言葉を思い出したってわけだ。
 そいつが頭に浮かんで来たらだ、後は芋づる式だったな。最初はお前のアイデアだったことも、試作する時にお前を呼んだってことも。
 俺のラスクだと気付いちまえば、どうしてすっかり忘れていたのか不思議なくらいに昔の記憶が戻って来たな。お前と同じだ、お前も一気に思い出したろうが、ラスクのことを。



 前の自分がブルーのアイデアを元に作ったラスク。シャングリラにあったラスクの始まり。
 固くなったパンはお菓子にならないのか、と遠い昔に尋ねたブルーは、青い地球で小さな子供の姿になってしまって、首を傾げて。
「…ハーレイ、今はラスクは作っていないの?」
 料理は今でも得意なんでしょ、ラスクくらいは簡単に作れそうだけど…。
「一人暮らしで作ってもなあ…」
 パンが固くなるほど食材の管理が出来ていないっていうわけじゃないし、たまにウッカリ忘れてしまって固くなっても食べ方はそれこそ色々あるしな。
 わざわざラスクを作らなくても、その日の間にパングラタンとか…。シャングリラの頃だと苦労してたが、一人分くらいはラスク以外の食べ方で充分いけるんだ。
 ついでに、俺の教え子どもはだ、ラスクを作って御馳走しようが、何の有難さも感じてくれん。いつも食わせてる徳用袋のクッキーの味が変わった程度に思うだけだな、間違いない。
 だから今ではラスクは作らん、たまに食いたきゃ店で買えるし。贅沢でない並みのラスクがな。
「そうなんだ…。でも、ハーレイのラスク、また食べたいよ」
 思い出したら食べたくなったよ、ハーレイが作っていたラスク。
「作ってやるさ。今は駄目だが、いつかはな」
 今は手料理は持って来られないから、ラスクも駄目だ。
 しかし、いずれは手料理も持って来られるようになる勘定だし、お前も俺の家に来られる。
 そしたら幾らでもラスクを作って御馳走するから、楽しみにしてろ。
 一緒に暮らせるようになったら、もう好きなだけ食べ放題だぞ、俺が作るラスク。



 クリスマスの季節が過ぎた後にはシュトーレンで作る豪華版もやるか、と誘ったけれど。
 近所のパン屋で割引セールのシュトーレンを買って、胡桃やレーズンがたっぷりと入った豪華なラスクを作ってやろうか、と言ったのだけれど。
「ううん、普通の、あの味がいい」
 シャングリラで一番最初に食べたあの味、あの味と同じラスクをまた食べたいな。
 前のぼくが今でも覚えている味、今日のお土産よりずっと美味しいと思ってるラスク。
 あれを作ってよ、固くなったパンで。…シュトーレンとかの豪華版より。
「かまわんが…。もちろんあれを作ってはやるが、最初はその味で満足でもだ」
 いずれ贅沢を言い出すようになると思うがな?
 このラスクみたいに美味いラスクは作れないかと、パンから作ってバターも上澄みだけを使えば美味しいラスクが出来そうだけど、と俺に色々注文するんだ、美味いラスクの作り方。
「そうかもね…」
 最初は良くても、ずっとハーレイと一緒なんだし…。
 いつも二人でお茶が飲めるし、ラスクも好きなだけ食べられるんだし。
 シュトーレンで作るラスクも欲しいって言い出しそうだね、幸せだらけで贅沢になって。
 前のぼくなら大満足だったハーレイのラスク、もっと美味しくして欲しいよ、って。
「そういうコースだと思うがな?」
 俺はそういう予感がするなあ、今のお前が食べたがるラスク。
 前の俺が作ったラスクのまんまじゃ、いずれ駄目だと言われそうだと思うんだが。



 固くなったパンの食べ方で悩んだシャングリラ。そこから生まれて来たラスク。
 けれども今では、ブルーも自分も、青い地球に生まれ変わったから。
 青い地球で幸せに生きてゆける未来が待っているから、ラスクもきっと贅沢になる。
 最初は嬉しい懐かしい味も、気が付けばすっかり今風になって。
 地球ならではの食材を贅沢にたっぷり使って、地球風のラスクになってしまって。
 それでも二人で幸せな時間、地球風になったラスクを頬張る。
 「ハーレイのラスクだ」と喜ぶブルーと、二人きりの家で過ごすティータイム。
 今はまだ子供の指のブルーが、前と同じにしなやかで長い白い指を持つブルーに育ったら。
 結婚して二人で暮らし始めたら、贅沢な地球風になったラスクを幾つも幾つも作ってやって…。

             ラスクの始まり・了

※固くなったパンから生まれた、シャングリラのラスク。前のブルーのアイデアが発端でした。
 けれど作ったのは前のハーレイで、前のブルーが好んだお菓子。「君のラスク」と。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









PR

(わあ…!)
 ふわり、と浮かんだブルーの身体。舞い上がった空。
 飛べたらいいな、と空を見ていた家の庭から、ふうわりと。芝生から離れて浮いた両足。
 まるで重さを感じないから、体重がある気がしないから。泳ぐように腕で空気をかいたら、上に昇れた。かいた分だけ、透明な空気が満ちている庭をスイと上へと。
 もしかしたら、と腕を動かしたら、まだ昇れる。面白いように、上へ、上へと。
 浮き上がったと思う前には、庭の芝生に立っていたのに。一階の屋根よりも低い所から見上げていたのに、その屋根と同じ高さまで浮いた。自分の部屋を窓から覗ける、外側から。
(…ぼくの部屋…)
 嘘みたい、とガラス越しに眺めた部屋の中。いつもハーレイと使うテーブルも椅子も、勉強机もベッドも窓の向こう側。それを空中に浮かんで見ている、窓の外から。
(もっと上に行ける…?)
 手だけではなくて足も使って泳いでみたら。泳ぐならこう、と両足をパタパタさせたら、さっきまでより速く泳げた。空気の中を。
 部屋の窓より高く上がれた、家の屋根よりも。庭で一番大きな木と同じ高さもアッと言う間で。
 もう一回、と手と足で大きく空気をかいたら、木の上まで昇ってしまった身体。
 普段は下から見上げる梢も、木の下に据えらえた白いテーブルと椅子も、今は自分の下にある。空を泳いで此処まで上がった、屋根よりも、木よりも高い所まで。



 宙に浮かんでいる身体。家も庭も上から見ている自分。
(飛べた…!)
 前の自分だった頃と違って、今の自分は飛べないのに。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、空を飛ぶ力は無い筈なのに。
 けれどもフワフワ浮いている身体、重力の影響を受けない身体。懸命に手足を動かさなくても、ストンと落ちていったりはしない。家の真上にプカプカと浮いて下を観察している自分。
(…こんなに簡単だったんだ…)
 すっかり忘れてしまっていたけれど、空を飛ぶこと。前の自分が自由自在にやっていたこと。
 思い出したら、少しも大したことではなかった。空をかくだけ、空気の中を泳ぐだけ。そうするだけで高く上がれる、泳いだ分だけ昇ってゆける。両腕と足とで泳いだ分だけ、上へ、上へと。
(もっと上まで行けるよね?)
 ぐんぐんと空の中を泳いで、家の屋根も庭で一番高い木の梢も遠くなってゆく。青空と白い雲に向かって泳いだ分だけ、遥か下へと。
 町がオモチャのように見えるほど、高い所まで舞い上がれた空。道を走る車は分かるけれども、人はどれだか分からない。それほどに高い場所まで昇れた、疲れもしないで空を泳いで。
 スイスイと此処まで泳げたのだし、楽々と飛んで来られたのだし…。



 これならハーレイの家へも行けちゃうよね、と考えた。
 「来ては駄目だ」と叱られてしまう家だけれども、ちょっと空から行ってみるだけ。どんな風に見えるか覗いてみるだけ、家の上から。
 もしもハーレイがいないようなら、窓の向こうも見てみたい。自分が来たと知られないように、庭の芝生には下りないで。足を地面につけはしないで、ふわりと宙に浮かんだままで。
(覗くくらいはかまわないよね?)
 一度だけ中を案内して貰った家、それをしっかり見てみたい。あの時は二度と来られないなんて思わなかったし、次の機会にゆっくり見ようと、次の部屋へと急いだから。家の中を少しでも早く見て回りたくて、「隣の部屋はなあに?」とハーレイの袖を引っ張ったりしたくらいだから。
(二階にあったの、寝室と、それから子供部屋と…)
 他にも部屋を見せて貰った、「適当に使っているんだがな」とハーレイが言っていた二階。一人暮らしには広すぎる家だし、特に使い方を決めてはいないと。
(一階へ行けば…)
 リビングにダイニング、キッチンにもあった広い窓。書斎に窓は無かったけれども、何処かから覗けば見えないこともないだろう。書斎の扉が開いていたなら、中の机や本棚なども。
 こんなチャンスを逃す手はない、せっかく空を飛べたのだから。
 家の庭から空を泳いで、此処まで昇って来たのだから。



 ハーレイの家まで飛んでゆこう、と思ったけれど。
 自分の背丈が前の自分と同じになるまで行けはしない家、それを外からコッソリ見ようと小さな胸を弾ませたけれど。
(でも、どっち…?)
 行きたい家は何処だっただろう。どっちへ飛んだらハーレイの家があるのだろう?
 まるでオモチャのような町。遥か下にある自分が住む町、これでは何処に何があるのか、いくら見たって分からない。大きな緑は公園だろうと思うけれども、他のは何がどれなのか。
 あまりに高く舞い上がりすぎて、ハーレイの家が何処にあるのか掴めない。後にして来た自分が住む家、それもどれだか分からない。あの辺りかな、と漠然と思う程度でハッキリしない。
 この状態ではハーレイの家がある場所も分からない、せめて自分の家のある位置と、路線バスが走る大きな通りが何処にあるかを把握しないと。
 家から少し歩いた所のバス停、其処を目印に「こっちの方だ」と考えないと。
(…家が見える高さまで下りないと…)
 あれが間違いなく自分の家だ、と分かる高さに下りなければ。家が見えたらバス停がある通りを探すのも簡単、ハーレイの家がある方向も直ぐに「こっち」と見当がつく。
 それが分かったら、もう一度空を泳いで、ハーレイの家へと飛んでゆく。両手と両足でスイスイ泳いで、何ブロックも離れた場所に向かって楽々と。
 此処まで昇って来られたのだから。息も切らさず、疲れもしないで飛べたのだから。
 でも、下りるには…。



(…どうするの?)
 どうしたらいいの、と空の上で頭を抱えてしまった。
 泳ぐのは簡単だったけれども、下に向かって空気をかいても上手くいかない。両手と両足をバタつかせてみても、覗き込むように上半身を下へ傾けても、沈まない身体。
 空気の中を下へと泳ぐことが出来ない、逆に上へと昇ってしまう。上へ上へと、さっきまでより高い所へ舞い上がる身体。
(どうして上へ行っちゃうの…!)
 泳げば泳ぐほど上へ行く身体、空に昇ってゆく身体。
 プールで泳いだことはあっても、潜ったことは殆ど無いから、やり方が全く分からない。空気をかいても下りてゆけない、下りる代わりに上へゆくだけ。青い空へと昇るだけ。
 闇雲に空気をかけばかくほど、どんどん遠くなってゆく地面。小さく小さくなってゆく町。この有様では、ハーレイの家を目指すどころか…。
(家にも帰れないんだけど…!)
 身体が浮いた、と大喜びで空から見ていた自分の家。窓から覗いた自分の部屋。大好きな両親と暮らしている家、その家にも帰ることが出来ない。
(パパとママ、ぼくを探してくれる?)
 いないと気付けば慌てて探してくれそうだけれど、まさか空とは二人とも思いもしないだろう。サイオンの扱いが不器用すぎる一人息子が空へ昇って行っただなんて。
(…空は探して貰えないよ…)
 疲れてしまって落っこちるまで、浮いているしかないのだろうか?
 こんなに高い空から怪我もしないで、無事に地面に落ちられるだろうか?
(まさか、死んじゃう…?)
 真っ逆様に落ちて、シールドも張れずに固い地面に叩き付けられて。両親にも、家を見たかったハーレイにも会えずに、それっきりで。
(そんな…!)
 楽しかった空は恐怖の場所に変わった、このまま死んでゆくのだろうかと。
 ハーレイと二人で生まれて来た地球、幸せ一杯に暮らせる筈だった未来は此処で消えるのかと。



 泣き出しそうになってしまった空の上。さっきまで楽しく泳いでいた空。
 其処で目覚めた、パチリと開いた自分の瞼。身体の下にはもう空は無くて、しっかり受け止めてくれるベッドの感触。柔らかくて暖かな自分のベッド。
 カーテンの隙間から射し込む光で朝だと分かった。ハーレイが来てくれる土曜日の朝。
(…夢…)
 夢だったんだ、とホッと息をついたら、俄かに惜しい気持ちになった。
 下りられないと、死んでしまうと焦り出す前に感じた心地良さ。何処までも高く昇れた空。
(…もっと飛べたら良かったのに…)
 下りる方法さえ分かっていたなら、夢の中でもハーレイの家へ飛べたのに。青い空を何処までも飛んでゆけたし、もしかしたら隣町までも。
 ハーレイの両親が住む家を探しに、隣町の空へ。庭にある夏ミカンの大きな木が目印、あの木がそうかと空から見付けて、どんな家かと上を何度も回ってみて。
 同じ夢なら、それが良かった。死んでしまうと泣きそうな気持ちで目覚める夢より、空を自由に飛んでゆく夢。ハーレイの家へも、隣町へも、何処までも空を駆けてゆく夢。
(…ぼくの馬鹿…)
 下りる方法を忘れるなんて、と不器用な自分を叱ったけれど。
 空を飛べないことはともかく、夢で飛んだなら下り方だって、と叱り付けたけれど。



(えーっと…?)
 馬鹿な自分を詰っている内に、ハタと気付いた。
 下り方も何も、前の自分はあんな風に飛んではいなかった。空を泳ぎはしなかった。真っ直ぐに飛ぶ時も、白いシャングリラの周りを飛ぶ時も、空をかいてはいなかった手足。
 空を飛ぶために手や足は使っていなかったのだし、下り方を忘れる以前の問題。空の泳ぎ方など知らないのだから、潜り方だって知るわけがない。
(…前のぼく、どうやって飛んだんだっけ…?)
 どうだったっけ、と考えていたら思い出したプール。夏に学校であったプールの授業。水の上にプカリと浮くことが出来た、「確かこういう感じだった」と前の自分を思い浮かべたら。重力から身体を切り離す感覚、その端っこを捕まえたら。
 けれど、参考にしかならないプールの記憶。浮いていただけで、泳ぎは下手だったから。
 前の自分が空を自由に飛んだ方法、それを泳ぎに応用するには記憶が足りなさすぎたから。
 それでもプールで浮くことは出来た、前の自分が浮いていたように。空に浮かんでいたように。
(…ハーレイ、プールでコツを教えてくれるって…)
 水泳が得意な今のハーレイ、そのハーレイが飛び方を思い出す手伝いをしてくれると言う。水の中だと身体が浮くから、何度もプールに通っていたなら空を飛ぶコツが掴めるだろうと。
 そのせいで空を泳いだだろうか?
 今の自分は少しくらいは泳げるのだから、空を泳いで飛んでゆく夢を見たのだろうか?
 下手くそな空の旅だったけれど。
 高く舞い上がった所までは良くても、下りられなくなってしまったけれど。



 落っこちて死ぬ、と泣きそうになった所で終わった空を飛ぶ夢。泳いで高く舞い上がる夢。
 とんでもない結末になってしまった夢だったけれど、恐怖に変わった夢だけれども。
(でも、飛ぶって…)
 空を飛ぶことは気持ち良かった。本当の飛び方とは違って泳いだ空でも、地面から離れて空へと昇ってゆくことは。庭の芝生が、家が、木が、町が、遥か下へと遠ざかることは。
 今の自分が初めて見た夢、青い空をぐんぐん飛んでゆく夢。
(前のぼくの記憶が戻ってからだと、ホントに初めて…)
 幼かった頃には空を飛ぶ夢も見ていたけれども、飛べないようだと気付いてからは見ていない。タイプ・ブルーのくせに飛べない現実、それを認識してからは。
 物分かりが良くなって見なくなったのか、ガッカリして見なくなったのか。
 けれども、こうして夢を見たから。家の庭から空に昇って、遥かな上から町を見たから。
(…ぼくだって飛べる?)
 前の自分がやっていたように、あの青い空を飛べるだろうか。町の上空の飛行は禁止されている今だけれども、飛んでもいいと許可が下りている場所、其処から高く昇れるだろうか。
 前にハーレイが「お前なら綺麗に飛ぶんだろうな」と呟いていたように、天使の梯子と呼ばれる光の中を昇ってゆけるだろうか。今のハーレイに見せたい姿を披露することが出来るだろうか?
(…夢の中では飛べたんだしね?)
 現実の世界でも、いつか飛べそうな気がしてきた。
 とてもリアリティーがあった夢だし、本当になるかもしれないと。空を泳いだことは非現実的な話だけれども、地面を離れて眺めた庭やら、自分の部屋や屋根、それは本物のようだったから。
 本当に身体が宙に浮いたら、きっとこんな風に見えるのだろう、と思うくらいに。



 今は全く飛べないけれども、膨らんだ希望。今の自分だって、と。
 タイプ・ブルーに生まれたのだし、いつか飛べるかもと、もうワクワクと高鳴る胸。
 だから、ハーレイが訪ねて来てくれて、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで座った途端に勢い込んで切り出した。
「あのね、飛べたよ!」
「はあ?」
 飛べたってなんだ、とハーレイの鳶色の瞳が丸くなったから。
「えっと、空…。夢だったけれど…」
 目が覚めたら夢になっちゃったけれど、ぼく、飛べたんだよ。
「夢か…。だろうな、お前が飛べるわけがないからな」
 前のお前の頃ならともかく、今のお前じゃ飛ぶなんてことは出来そうもないし。
「うん…。でも、本当に飛んだんだよ、ぼく」
 家の庭から空に飛んだよ、と説明をした。
 芝生を離れて、窓から覗いた自分の部屋。二階にある窓を外から覗き込んだことなど無いのに、机も椅子も勉強机も、ちゃんとそれらしく見えたのだと。梯子でも架けて覗いたように。
 そういう本物そっくりの眺めで始まり、どんどん上へと昇ってゆく夢。
 この町の遥か上まで昇ったけれども、町だってきっと、空から見たならあんな風だと。夢の中で見た自分の部屋と同じに、きっと本物もああなのだと。



「ほほう…。それで飛べたと言うんだな、お前?」
 夢でも本物そっくりだったし、得意満面で俺に報告している、と…。
 現実のお前も飛べるかもしれんと思っているといった所か、今のお前は?
「…そうだけど…。だって、あの景色、本物そっくり…」
 だからね、きっと予知みたいなもの。
 今はちっとも飛べないけれども、いつかは飛べるようになるんだよ、っていう夢だよ、きっと。
 ぼくも飛べるよ、と笑顔で恋人に自慢したのに、そのハーレイは腕組みをして。
「お前の気持ちも分からないではないんだが…。そう信じたい気持ちも分かるが…」
 そいつは夢の王道だってな、空を飛ぶ夢の。
「え?」
 王道ってなんなの、どういう意味なの?
「ありがちと言うか、有名と言うか…。昔からある夢のパターンだ、その手の夢は」
 何処から見たって本物そっくり、自分が本当に空を飛んだと考えるのが一番自然そうな夢。
 ところが、そういうわけじゃないんだ。ミュウなんか存在しない頃から、人間が何度も見て来た夢だと言われている。SD体制が始まるよりも遥かに昔の時代からな。
 そんな時代に人間は空を飛べやしないし、空を飛ぶための船すらも無い。なのに何故だか、空を飛ぶんだ、夢の中でな。本当は飛べもしないのに。
 …つまりだ、お前の夢もそいつだ、いつか飛べるという予知じゃない。
 現に、そういう空を飛ぶ夢。俺も見たしな、どう間違えても俺が飛べるわけないのにな…?
「ハーレイも見たの、空を飛ぶ夢を?」
 本当に本物そっくりの景色、ハーレイも夢で見たって言うの?
「ガキの頃にな」
 今の年では流石に見ないが、ガキの頃にはよく見てたもんだ。お前が見た夢と同じで空を泳いだことだってあるし、前のお前がやってたみたいにスイスイと飛んでたこともあったなあ…。



 あれで飛べると思い込んじまって飛んだもんだ、とハーレイが苦笑しているから。
「飛んだって…。ハーレイ、やったの、ソルジャー・ブルーごっこを?」
 まさか、と息を飲んでしまったブルー。
 今の時代の男の子たちがよくやるけれども、大人や教師は「やらないように」と注意する遊びが前の自分の真似をすること。空を飛ぼうと高い木などから飛ぶソルジャー・ブルーごっこ。
 もちろん飛べずに落っこちるから、怪我をすることも多いから。
 大人たちは厳しく注意するけれど、それを聞かないのも子供の特権。一種の度胸試しとも言えるソルジャー・ブルーごっこ、怪我をしたって名誉の負傷で英雄扱い。
 それをハーレイがやっていたなんて、とブルーは驚いたのだけれども。
「…実はな、やってみたってな」
 よく考えてみろよ、俺だぞ、俺。
 柔道だの水泳だのと運動ばかりの悪ガキってヤツだ、やっていない方が不思議だろうが。
「だけど、今まで言わなかったじゃない!」
 ソルジャー・ブルーごっこの話は出てたし、ハーレイの武勇伝だって…。
 子供の頃の話は幾つも聞いているのに、ソルジャー・ブルーごっこは聞いていないよ!
「お前が笑うに決まってるだろう」
 なんたって、前のお前は本物のソルジャー・ブルーで、本当に空を飛べたんだからな。
 ついでに今の利口なお前は、ソルジャー・ブルーごっこなんかはしないだろうが。
「…それはそうだけど…」
 無茶をするよね、って見てただけだし、怪我しちゃったら「やらなきゃ良かったのに」と思っていたけれど…。
 でもね、やった子たちを笑いはしないよ、勇気があるのは本当だもの。
 やりもしないで見ていただけの臆病なぼくより、よっぽど英雄。
 だからハーレイのことも笑うよりかは、「流石ハーレイ」って思う方だよ、本当だよ?
 笑わないから教えて欲しいな、ハーレイがソルジャー・ブルーごっこをやった時の話を。



 どんな感じで飛んで行ったの、と尋ねてみたら。
 「ん? それはな…」と教えて貰えたハーレイの過去。空を飛ぶ夢を見てから直ぐの出来事。
 高い木に登って、空を滑るように飛んだと言う。空気をかいて泳ぐのではなくて、真っ直ぐに。
 ソルジャー・ブルーごっこをする子は、大抵、そういうパターンだけれど。
「…ハーレイ、大怪我?」
 高い木だったら、落っこちたら骨が折れちゃう子もいるし…。
 ハーレイも酷い怪我をしちゃったの、骨は折れなくても手とか膝とかが血だらけだとか。
「いや、隣の木に飛び移れた」
 何本か枝を折っちまったが、幹にベタンと抱き付くような感じでな。
 地面まで落ちて行っちゃいないさ、飛び移る時に折れちまった枝で掠り傷が幾つか出来たがな。
「隣の木って…。運が良かったの?」
 飛べなかったけど、落っこちないで済んだのなら。
「そうらしい。ついでに俺の腕前もな」
 もしも駄目ならこいつで行こう、と隣の木に向かって飛んだんだ。
 飛び出す前から決めていたわけだ、飛び移れそうな木が生えている所で飛ばないと、とな。



 万一の時のことは考えていた、と笑うハーレイ。
 空を飛ぶ夢は見られたけれども、ソルジャー・ブルーのように上手く飛べるとは限らないから。
「失敗するってこともあるしな、それに備えて隣の木なんだ」
 俺がやったのはムササビの真似だ、空を飛ぶならアレだろうと。
「…ムササビ?」
「うむ。同じように空を飛ぶヤツだったら、モモンガもいるがな」
 似たような姿をしてるヤツらだが、モモンガはムササビよりも遥かに小さいからなあ…。
 飛んでる姿を見付けやすいのはムササビだろうな、このくらいはあるし。
 空を飛ぶのに膜を広げたら、こんな感じか。ちょっとした空飛ぶ座布団ってトコだ。
 もっとも、ヤツらは飛ぶと言うより空を滑って行くんだが…。
 いくら飛膜を広げたってだ、それと手足をバタバタさせたら飛べる仕組みじゃないからな。
 上手い具合に空気を掴んで飛んで行くのがムササビだな、うん。
 木から木へと飛んで移って行くんだ、膜を一杯に広げて空飛ぶ座布団みたいに。



 翼も無いのに空を飛んでゆく哺乳類。ネズミの仲間に含まれるムササビ。
 長い前足と後足との間にある飛膜、それを広げて滑空してゆく森の生き物。
 その飛び方を頭に置いていた、とハーレイは子供時代にやったソルジャー・ブルーごっこで無事だった理由を教えてくれた。飛べなかったら滑空すること。とにかく隣の木まで飛ぶこと、と。
「そんなわけでだ、俺のソルジャー・ブルーごっこってヤツはだ…」
 失敗はしたが、怪我はしていない。
 うんと高い木の上から飛んだからなあ、無事だったことも含めて英雄だったぞ。まるで飛べずに終わった割には、一種の成功例ってことで。
「凄いね、普通はそこまでしないよ?」
 失敗した時のことまで考えてないよ、ぼくの周りでやってた子たちは。
 高い木から飛ぶんだ、って頑張って登ってた子も、高い塀とかから飛んでいた子も。
「だろうな、普通はそういうモンだ」
 所詮は子供の発想だからな、どうすりゃいいのか思い付く方が珍しいってな。
 俺の場合は親父のお蔭だ、ソルジャー・ブルーごっこをやると話したわけではないが…。
 相談したってわけでもないがだ、本当に親父のお蔭ってヤツだ。
 もっとも、親父の方にしてみりゃ、そんなアイデア、教えたつもりも無いんだろうがな。
 「面白い生き物の巣を見付けたから、今度の休みに連れて行ってやろう」と言っただけだし。



 ハーレイの父が釣りに出掛けて発見したというムササビの棲み家。
 老木の幹に口を開けていた洞、ムササビは其処に住んでいた。夜になったら飛び始めるから、と日がとっぷりと暮れてから観察しに行ったらしい。警戒されないように小さな明かりを持って。
「此処から先は声を出すなよ、と言われたな」
 人間がいると分かっちまったら、ムササビはなかなか出て来ないしな?
 腹が減ったら出てくるだろうが、早めにお目にかかりたいなら静かに待つのが一番なんだ。
 そうやって待って、出て来たムササビ。実に見事に飛んで行ったな、隣の木まで。そこから後はフワリと飛んでは進んで行くんだ、餌を探しに。
 飛んで行っちまったムササビが元の木にまた戻って来るまで、親父と一緒に待ってたなあ…。
「いいな、ムササビ…」
 ぼくは本物、見たことがないよ。
 …動物園にいるのは見たんだろうけど、飛んでなかったし…。
 飛んでないんじゃムササビなんだって分かってないよね、だから本物、知らないんだよ。
 ハーレイにソルジャー・ブルーごっこのやり方を教えた先生だったら、会ってみたいな、本物のムササビ。本当に空を飛んでるムササビ。
「…見たいのか?」
 お前もムササビの観察ってヤツに出掛けたいのか、夜になってから?
「うん。ぼくより上手に飛べるらしいしね、ムササビは」
 ハーレイの先生になれるくらいに上手なんでしょ、ソルジャー・ブルーごっこのための?
「おい、先生って…。お前がソルジャー・ブルーごっこを始めちまったら、俺が困るんだが?」
 今のお前は飛べやしないし、木から隣の木まで飛ぶのも失敗しそうな気がするんだが…。
「見たいだけだよ、ムササビを!」
 ぼくの先生になって欲しいとは思っていないよ、どんな風に飛ぶのか見てみたいだけで…!
「ふうむ…。なら、いつかな」
 俺の先生に会いに行くとするか、大恩人かもしれないが。
 ムササビは人間じゃないわけなんだが、ヤツのお蔭で怪我をしないで済んだんだしな。



 いつか連れてってやるとするか、と微笑むハーレイ。
 俺と二人で遅い時間でも出歩けるようになったなら、と。
「それでだ、お前が見たって言う空を飛んでる夢だがな…」
 ガキの頃の俺もアレで飛べると思ったわけだが、あの夢もけっこう面白いもんだ。
「面白いって…。何かあるの?」
 ハーレイ、あの夢がどういう夢かを知ってるって言うの、夢占いとか…?
「いや、夢占いの方もあるんだが…。夢占いよりも今の時代に相応しい話と言うべきか…」
 空を飛ぶ夢は大昔からあったわけだが、あの夢の正体は思念体だという説がある。
 人間がみんなミュウになってしまった時代ならではの説なんだがな。
「思念体って…。ホント?」
「お前は体験したばかりだが…。ちゃんと景色が見えただろう?」
 本当だったら、見える筈のない景色ってヤツが。
 自分が空を飛ばない限りは、こんな風には見えっこないぞ、という色々な景色。
「そうだよ、だから飛べると思ったんだよ」
 何処から見たって、本物みたいな見え方をしていた夢だったもの。
 そこの窓から覗いたんだよ、この部屋の中を。
 ぼくは外から見たことないのに、ちゃんとそういう風に見えてた。
 不思議だったよ、ぼくがどんどん上に行ったら、部屋の中の見え方も変わっていったもの。この椅子やテーブルの角度が変わって、奥にある家具から先に隠れてしまって見えなくなって。



「其処だな、本当に飛んでいたとしか思えないわけで…」
 しかし本物の自分の身体は、ちゃんとベッドで寝ているわけで。
 そういう時でも身体の外へ出て行けるのが思念体だろうが、身体はベッドに置いたままでな。
 前のお前も得意だったが、生憎と俺は出来ないな。…今でも出来ないヤツが殆どといった所か、思念体になって自由にあちこち出歩くのは。
 だがな、うんと昔は幽体離脱って言葉があったんだ。SD体制が始まるよりも昔の時代。
 魂だけが抜け出すってヤツが幽体離脱だ、概念としては思念体に近いものがある。
 その辺もあって、ああいう夢を見ている時には思念体になっているんだという説なのさ。大昔の人も、俺みたいに思念体にはなれないヤツでも、潜在的には能力がある、と。
 無意識の間に思念体になって出て行った時の夢がアレだ、というわけだな。
「じゃあ、あの夢のぼくも思念体なの?」
 ぼく、思念体になって空を飛んでいたの、だから景色が本物だったの…?
「そこでだ、お前に改めて訊いてみたいが、夢のお前はどうやって飛んだ?」
 どんな風にして空を飛んでいたんだ、飛べたと嬉しそうだったが。
「泳いでたよ?」
 水の中を泳いで進むみたいに、空気をかいて泳いだんだよ。
 泳ぐのと違って楽だったけど…。どんなに上まで泳いで行っても、少しも疲れなかったけど。
「なるほどな。…それで、前のお前の思念体ってヤツは泳いでいたか?」
 身体から出たら泳いでいたのか、思念体は?
「…ううん…。泳いでない…」
 泳いでなんかいないよ、身体ごと空を飛ぶ時と同じ。
 こっちの方、って真っ直ぐ飛んで行くだけで、手も足も少しも使わなかったよ。



 言われてみれば、まるで違うのが思念体の時と、本物そっくりの空を飛ぶ夢。
 思念体だと思えば解決しそうだったけれど、前の自分は思念体の時に泳いでいないし…。
「ほらな、そう証言するヤツらもいるから、思念体説は弱いんだ」
 思念体になって抜け出せるヤツでも、あの手の夢を見るらしくってな。
 どうも違うと、あの夢は思念体になっているわけではなさそうだ、と証言されると反論出来ん。思念体だということになれば、本物そっくりの景色ってヤツも素直に納得出来るんだがな。
「…実際はどうなの、あの夢の正体」
 思念体じゃないなら、どうしてああいう夢を見ちゃうの?
「ただの願望だと言われているなあ…」
 空を自由に飛べたらいいのに、と思う心が見せる夢なんだそうだ。今の所は。
 …その割にハッキリ見えるんだがなあ、色々なものや、空から眺めた景色やら。
 俺がソルジャー・ブルーごっこに自信を持って挑んだほどにだ、空を飛んだとしか思えない夢。
 あの景色だけは今も謎だな、願望にしては出来すぎなんだが。
「そうだよね…。ぼくにもただの夢だとは思えないけれど…」
 だけど思念体とは違うし、あの夢、ホントに何なんだろうね?
「さてなあ…?」
 ミュウしかいない世界になっても、まだ分からんというのがなあ…。
 あの手の夢なら、思念体だのサイオンだので簡単に謎が解けそうな時代になったんだが。



 もっとも、生まれ変わりの仕組みも謎だからな、と指摘されればその通りで。
 今の自分たちが此処にいる理由も解けないのならば、あの夢は…。
「空を飛ぶ夢、神様の悪戯?」
 悪戯なのかな、空を飛べたらこんな景色が見えますよ、って。
「プレゼントかもしれないぞ」
 飛びたい人間は昔からいるしな、そういうヤツらの夢が叶うように神様からのプレゼント。
 今の時代だと、そのプレゼントの意味を間違えちまって、ソルジャー・ブルーごっこになるが。
「んーと…。ひょっとしたら、天使の悪戯かもね?」
 天使は翼が生えているから、寝ている間に魂だけヒョイと持ち上げちゃって。
 天使の力で飛んでいるのに、人間の方は気付いていなくて、自分の力で飛んでるつもり。
「それはありそうだな、悪戯好きの天使もいそうだ」
 お前、そいつに捕まったんだな、でもって空を泳いじまった、と。
 ついでに前のお前が飛べていただけに、今度も飛べるとデッカイ夢を持っちまったんだな。



 今の時代も解けない謎。
 空を飛ぶ夢、まるで本当に自分が飛んでいるかのように。
 最後に怖い思いをする羽目になった夢だけれども、空を泳ぐのは本当に気持ち良かったから。
「…空を飛ぶ夢、また見られるかな?」
 今のぼくでも飛べた気になるし、また見られたらいいんだけれど…。
「夢だけにしとけよ、ホントに飛ぶなよ?」
 俺みたいに無事に済むとは限らないんだぞ、飛んじまったら。
「それはムササビを見てからにするよ。ぼくでも空を飛べるかな、って考えるのは」
 ムササビだって飛べるんだったら、タイプ・ブルーのぼくは充分、飛べそうだもの。
「…ヤツらはソルジャー・ブルーごっこの参考にしかならんのだがな?」
 飛べなかったら隣の木まで、と飛び立つ場所を選ぶ時とだ、飛び立った後に飛べなかった時。
 とにかく隣の木に飛び付こう、と狙いを定めて空に飛び出すだけなんだがなあ…。



 だが、まあ、いいか、とハーレイが片目を瞑るから。
 「お前は本来、飛べる筈だし、ムササビに飛び方、習ってくるか?」と笑うから。
 ソルジャー・ブルーごっこに挑んだハーレイに飛び方を教えた教師を、無事に隣の木へ飛ばせてくれた教師だというムササビをいつか見に行こう。
 森の中に住んでいるムササビ。
 大きな古い木の洞から夜に出て来て、フワリと滑空するムササビ。
 ハーレイの父に棲み家を探して貰って、その近くでハーレイと張り込みをして。
 夜でも二人で出掛けられるようになったなら。
 ハーレイの車で夜のドライブ、ムササビの住む木を見に行けるようになったなら。
 今の自分は飛べないけれども、森を飛んでゆくムササビを見る。
 「ぼくより上手いね」と、「当たり前だろう、俺の先生なんだぞ」と小声で囁き合いながら…。




            空を飛ぶ夢・了

※飛べないブルーが見た、空を飛ぶ夢。どうしてそういう夢を見るかは、今でも謎。
 夢のお蔭で聞けた、ハーレイの子供時代の武勇伝。空を飛ぶための先生は、なんとムササビ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(あ…!)
 積木、とブルーの目を引いた広告。新聞の記事の下に載せられた積木の写真。
 学校から帰って、おやつを食べながらチラリと眺めた新聞、写真に引かれて手に取った。子供の頃に遊んだ積木に似ていたから。色も形も、積木を入れる箱も。
(お子様の遊びに、教育用に…)
 サイオンの練習用にもどうぞ、と書かれた広告。積木で遊ぶ子供の写真と一緒に。
 今の時代は、積木と言ったらそういう玩具。積んだり崩したり、子供ならではの遊びもあれば、積み方を工夫して伸ばしてゆく知能。ここまでは前の自分が生きた時代と変わらないけれど、使い方が一つ加わった。サイオンを扱うための練習用。
 木で出来た積木はさほど重くないし、サイオンで軽く持ち上げられる。まずは浮かせることから始めて、次は動かす、その次は積む。思いのままに、手を使わずに。次は此処だと思った場所に。
 サイオンだけで積木のお城や家が作れたら一人前。
 大人だったら簡単なことで、積木も積めるし、箱にだって元の通りに入れられる。スイと積木が宙を飛んで行って、自分からストンと戻るかのように。最後の一個まで、次々に飛んで。



(ぼくもパパやママと…)
 小さかった頃に積木で遊んだ。箱から幾つも出した積木でお城や家を作っていた。
 せっせと手で積む自分の横から、サイオンで積んでくれた両親。「次は何処だ?」と父が積木を宙に浮かせて訊いてくれたり、母が「此処はどう?」とお城に屋根をつけてくれたり。
 フワリと浮き上がって積まれてゆく積木、両親の腕前に憧れた。手も触れないで積木を動かし、お城や家を作ってゆく。「もっと高く」と頼めば、高く聳える積木の塔も。
 それを見る度、自分だって、と夢見たサイオン。
 今は手でしか積めないけれども、その内にきっとあんな風に、と。積みたいと思った所に積木。手を使わないで箱から出しては、両親がやるようにサイオンで上へ持ち上げて。
 もっとも、積木遊びをやっていた頃、両親は既に期待していなかったらしいけれども。
 タイプ・ブルーに生まれた息子だけれども、サイオンで積木は積めないだろうと。



 前の自分が生きた時代と違って、タイプ・ブルーもそう珍しくはない時代。
 とはいえ、今でもタイプ・ブルーは最強のサイオンを扱えるもので、空を飛んだり、瞬間移動も自由自在にこなすのが普通。人間が全てミュウの今では、幼い頃から才能の欠片が光るもの。
 ところが、前とそっくり同じにタイプ・ブルーの自分ときたら…。
(思いっ切り不器用…)
 生まれて間もない赤ん坊でも、明確な意思にはなっていなくても思念波を紡ぎ出せるのに。
 お腹が空いたとか、もう眠いだとか、漠然とした感情を親に伝えることが出来るのに。
 最強の筈の今の自分は、それさえも出来なかったという。泣きじゃくるだけで、どうしたいのか伝えられない赤ん坊。
 お蔭で母は遥かな昔の時代の母親よろしく、手探りで面倒を見る羽目になった。とんちんかんなこともしていた、お腹が空いたと泣いているのに、あやすとか。眠りたいのにミルクだとか。
 そんな不器用な赤ん坊時代、これでは両親も期待はしない。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、この子のサイオンは普通のレベルにも届きはしない、と。
 そうは言っても、可愛い一人息子だから。タイプ・ブルーには違いないから。
 あるいは劇的に進歩するかも、と思ってもいた、積木で遊びたい一心で。上手く積木を積み上げたくて、箱からヒョイと手も使わないで取り出したくて。



 積木遊びに付き合ってくれた両親、サイオンを使う見本もあれこれ見せてくれたのに。
 崩れ落ちそうになった積木のお城を守って、元のようにしっかり積み直したりしてくれたのに。
(…ぼくの積木は普通の積木…)
 両親が助けてくれなかったら、積木は浮いたりしなかった。スイと飛んで行って収まることも、積み上がることも一度も無かった。
 積木で遊ぶなら両手を使って箱から出して、積むのも自分の小さな両手。それが積木の遊び方。
 幼稚園でも積木で遊んだけれども、積木はやっぱり手で扱うもの。
 サイオンで自在に積める子供は、まだいなかった。浮かせることが出来る子供や、少しだけなら積める子供もいたのだけれども、本当にほんの少しだけ。真似事でしかなかったサイオン。
 年によっては早熟な子供が混じっていたりして、尊敬を集めるらしいけれども。
 たった一人で大人さながら、立派なお城をサイオンだけで積んでみせたりするらしいけれど。
(…ぼくも駄目だったし…)
 普通だったらタイプ・ブルーの子供は積木で才能を発揮するようだけども、駄目だった自分。
 そうでなくても、幼稚園児では思いのままには扱えないのが積木というオモチャ。
 人間が全てミュウになっている、今の時代でも。
 サイオンが当たり前の世界になっても、積木はまだまだ子供がサイオンを練習するための道具。木で出来た積木は軽いから。落っことして誰かに当たったとしても、怪我をしないから。



 懐かしく積木の写真を眺めて、不器用だったと聞く赤ん坊時代の自分に思いを馳せて。
 その頃に苦労をかけたらしい母、手のかかる自分を育ててくれた母に、空になったケーキのお皿などを渡して、「御馳走様」と部屋に帰って。
 勉強机の前に座って、また思い出したさっきの積木。サイオンの練習用にもどうぞ、と書かれていた積木の広告の写真。
(そういえば…)
 前の自分が生きていた頃。
 白いシャングリラで雲海の星に潜んでいた頃、積木のせいでミュウだと発覚してしまった子供も多かった。養父母や教師がそれと気付いて、ユニバーサルに通報されてしまった子供たち。
 前の自分や救助班が急行したのだけれども、救えなかった子供たちもいた。



(積木だったから…)
 他のサイオンの発動に比べて、分かりやすかった子供たちの能力。
 思念波ならば「気のせい」で済むし、心を読んでも「勘のいい子」で済むのだけれども、積木の場合はそうはいかない。ほんの僅かに動いただけなら分からなくても、浮き上がっていたら。宙を飛んで勝手に積み上がったり、箱に戻って行ったりしたら。
 誰が見たって有り得ない現象、サイオンを持たない人類という種族の社会の中では。サイオンが無い人間たちの中では、不気味でしかない宙を飛ぶ積木。
 最初の間は気味悪がって、まさか子供がやっているとは思わないのが人類だったけれど。
 何度もそれが度重なったら、その内に気付く。積木が宙を飛んでゆく時には誰がいるのか、宙を飛ぶ積木で無邪気に遊んで、それが普通だと思っている子は誰なのか。
 そうなれば分かる、この子は変だ、と。
 ミュウという言葉は伏せられていたし、その存在も隠されていた時代だけれども、怪しい子供が見付かったならばユニバーサルに通報していた時代。
 奇妙なことをする子供がいると、こんな子供を放っておいてもいいのだろうか、と。



 あまりにも呆気なく知られてしまった子供たちのサイオン、楽しく遊んだ積木のせいで。此処に積もうと、こっちに置こうと動かしていた木のオモチャのせいで。
(前のぼくが悲鳴に気付いた時には…)
 撃たれてしまった後だったりした、積木を動かすような子供はミュウかどうかを調べることさえ要らなかったから。サイオンがあるに決まっているから、通報されたら処分されるだけ。
 流石に他の子供たちがいる幼稚園などでは撃たれないけれど、其処から家へと帰る途中で現れた大人に連れてゆかれて、それでおしまい。
 何も知らない無垢な子供はユニバーサルから来た刺客とも気付かず、時には歩いて、時には車で一緒に移動し、人目につかない場所で撃たれた。彼らが取り出した処分用の銃で。
 悲鳴を上げた子供はまだマシな方で、悲鳴も上げずに撃たれた子供もいただろう。何が起こっているのかも知らず、ニコニコと銃を見ている間に。
(そんな子供も、きっと沢山…)
 ユニバーサルの通信を傍受していたシャングリラ。「処分終了」という通信だけが入ったことも多かった。通報から処分までの間が短かったら、彼らは遣り取りしないから。
 サイオンの有無を確認する必要が無かった積木の場合は、現場へ急行して終わりだから。
 実験用にと連行された子供は救えたけれども、救えなかった子供も多かった積木。
 撃たれる直前に救い出せた子供はほんの僅かで、ごくごく運のいい子供だけだった。



(…だから、積木は…)
 白いシャングリラにもあったけれども、悲しい玩具。
 楽しく遊ぶ子供の方がもちろん多かったけれど、怖がる子供もたまにいた。積木のせいで自分が迎えた結末、それを知っていた子供たち。撃たれそうになった子供や、連行されてしまった子供。
 積木のせいだと分かっていた子は、他の子供が遊んでいるのを遠くで見ていた。
 自分も積木で遊んだけれども、積木は怖いと。恐ろしい人間がやって来るのが積木なのだと。
(そのままじゃホントに可哀相だし…)
 怖がっている子も可哀相だし、撃たれてしまった子供たちも可哀相だから。白いシャングリラに迎えられなかった子供たちの分まで、積木遊びを存分に楽しんで欲しかったから。
 そういう子供を目にした時には、「怖くないから」と積木遊びを教えてやった。前の自分の強いサイオン、それを惜しみなく披露して。
 瞬間移動で箱からパッと移動させたり、一瞬で箱に仕舞ってみたり。
 そこまでするのは無理だろうけれど、サイオンを使えばこんなことも出来る、と普通に積んだら崩れそうなバランスの悪い塔を作ったり、それは色々と。
 何度もそうして遊んでやる内に、少しずつ笑顔になっていった子。
 積木は怖くないらしい、と。
 この船の中で遊ぶのだったら積木は安全、自分の力を好きに使っていい場所なのだ、と。



 子供たちが遊んでいた積木。悲しい思い出を持っていた子も、積木でサイオンがあると発覚したくらいだから、サイオンでの積木遊びとなったら他の子たちより上手で得意。アッと言う間に積木遊びのリーダーになっていたりした。再び積木で遊び始めたら。
(前のハーレイも積木、やっていたっけ…)
 大きな身体のキャプテンは子供たちに人気だったから。
 養育部門に顔を出した時は、積木遊びの仲間入りもしていた。「こう積むんだぞ」とサイオンを使ったり、子供たちが作った立派な積木のお城を拳で一撃、見事に壊して喝采を浴びたり。
(ハーレイは積木は作ってないけど…)
 木彫りを趣味にしていたハーレイ。お世辞にも上手いとは言えない腕前、ナキネズミを彫ったらウサギになってしまったくらい。今では宇宙遺産に指定されている木彫りのウサギに。
 けれど、実用品なら、なんとか作れた。前の自分が貰ったスプーンがハーレイの最初の木彫りの作品。そういった品は仲間たちにも喜ばれたから、スプーンもフォークも彫っていた。
 積木も実用品だと呼べそうなもので、高度な技術は多分、不要だろうけれど。
 作りたい大きさや形に切った木、それを磨けば出来そうだけれど、ハーレイは作っていなかった積木。子供たちがさぞかし喜んだだろうに、キャプテンのお手製の積木ともなれば。
(作ってあげれば良かったのにね…?)
 ケチなんだから、とクスッと笑った。
 スプーンやフォークは大人が貰ってゆくものだから、御礼も言って貰えたけれども、子供たちのための積木では本当に御礼だけ。ハーレイの好きな酒が貰えることも無いだろうから、その辺りがいけなかっただろうか。



 子供たちに積木をプレゼントしても良かったのに、とケチなキャプテンを思い浮かべる。下手の横好きとしか言えない腕前、実用品しか喜ばれなかったハーレイの木彫り。
 同じ実用品を作るのだったら、積木だって…、とケチっぷりに苦笑したのだけれど。子供たちは御礼の品をくれないから、積木を作ってやらなかったなんて、と。
 そう思って呆れていたのだけれども…。
(…あれ?)
 そのハーレイが挑んでいたような気がする、積木作りに。
 四角く切った木や三角の木や、そういった素材を大切そうに磨いて、引っ掛からないかと何度も手で撫でてみて。他の積木と並べて比べて、狂いが無いことを確かめながら。
 子供たちは御礼をくれないのに。
 積木を貰っても言葉の御礼しかくれはしなくて、ハーレイの好きな酒も、酒のつまみも、何一つくれはしないのに。
(…ハーレイ、ケチじゃなかったんだ…)
 積木を作っていたのなら。子供たちのために作ったなら。
 けれども、それはいつだったろう…?
 前のハーレイが木彫りではなくて、積木作りに励んでいたのは、いつだっただろう…?



 木彫りよりかは簡単そうでも、作る前に手間がかかりそうな積木。どういう形の積木を作るか、箱に収めるようにするなら、どんな形を組み合わせるか。
 養育部門にあった積木の真似をするにしても、寸法を測る所から。この形で長さと幅がこう、と数値を書き出す所から。それに合わせて木を切っていって、削って、磨いて出来上がる積木。
 スプーンやフォークとは違った代物、少し狂えば駄目になる積木。箱にピタリと収まらない上、積木の役目も果たせない。寸法通りに出来ていない積木を積めはしないし、遊べないから。
(…けっこう大変そうなんだけど…)
 それほどの手間と時間とをかけて、前のハーレイが作った積木。子供たちのために作った積木。
 自分も作るのを眺めていたのに、いつだったのかが思い出せない。ハーレイが積木を作っていた時期、それが一体いつだったのかが。
 スプーンやフォークとは比較にならない時間がかかっていたろうに。
 ブリッジで片手間に彫れはしないし、キャプテンの部屋で真剣に取り組んでいたのだろうに。



 前のハーレイが頑張った積木。子供たちにプレゼントした積木。
 いつ作ったのか思い出せない、と考え込んでいたら、仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。丁度良かったと、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「…あのね、積木を覚えてる?」
「はあ?」
 積木ってなんだ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。鳶色の瞳に困惑の色。
「えっと…。シャングリラの積木なんだけど…」
 怖がる子供たちもいたでしょ、積木遊びを。
 …積木遊びでミュウだと分かって、処分されそうになっちゃった子供。撃たれそうな所を助けた子供や、実験用にって連れて行かれる所を助けた子供。
「いたな、お前が積木で遊んでやって…」
 やっと遊べるようになったんだっけな、他の子たちと一緒に、積木。
「うん。積木は怖くなんかないよ、って遊んでみせて」
 それでね、積木なんだけど…。
 ハーレイ、木彫りもやっていたけど、積木を作っていなかった…?
「あ、ああ…。まあな」
 やってやれないことはないだろう、と作ったな、積木。
 …けっこう苦労をしたんだが…。思った以上に大変だったが、積木は確かに作ったぞ。
「やっぱり…!」
 ぼくの記憶違いじゃなかったんだね、ハーレイの積木。
 作ってた時期が思い出せなくて、ちょっぴり自信が無くなってたけど…。
 ハーレイ、ホントに作ったんだね、シャングリラの子供たちのために積木を。



 いつ作ったの、と尋ねたら。
 あの積木を作っていたのはいつだったのか、と勢い込んで問いを投げ掛けたら。
「…一人、死んじまった時のことさ」
「え…?」
 思いもよらなかったハーレイの答え。死んだとは、誰のことだろう…?
 ハーレイが作っていた積木。三角や四角のオモチャとは結び付かない「死」という言葉。
「…忘れちまったか? 悲しい記憶だし、その方がいいとは思うがな…」
 今のお前には要らない記憶だ、前のお前の悲しすぎた記憶の中の一つだ。
 …そうは言っても、お前、聞かなきゃ納得しないだろうからな。
 そんな所は前と同じだ、頑固で決して譲りやしない。…だから話すしかないんだろう。お前には悲しい記憶なんだが、こうして訊かれてしまったからには。
 …死んじまったのはミュウの子供だ、アルテメシアで暮らしてた子供。
 積木遊びでサイオンがバレて、ユニバーサルに通報されて…。
 前のお前が救い損ねた、撃ち殺されちまう直前まで悲鳴を上げなかったとかで。自分が置かれた状況ってヤツが分かっていなくて、銃を向けられるまで何も知らなかった子供。
 あと少し早く気付いていたら、と泣いてたろうが。
 銃を向けられただろう瞬間、そこで気付いて飛び出していれば、と。
 これで何人目になるんだろうかと、また一人助け損なった、と…。



 お前と恋人同士になった後の最初の犠牲者だった、と悲しげに歪むハーレイの顔。
 だから放っておけなかった、と。
「…俺の腕の中で毎晩泣くんだ、お前がな」
 自分はこうして此処にいるのに、あの子は何処にもいないんだ、と。
 助け損ねたから死んでしまったと、これから育って楽しいことが沢山あった筈なのに、とな…。
「そうだったっけね…」
 思い出したよ、あの子の顔も名前も。
 シャングリラの仲間じゃなかったけれども、墓碑公園に名前があった子だっけ…。
 ハーレイ、作ってくれたんだっけね、あの子が生きた記念に積木を。
 あの子が何も知らずに遊んでた積木、大好きだった積木遊びの積木を作ってやろう、って。
「うむ。…正直な所、かなり苦労をしたんだがなあ、あの積木」
 木彫りと違って僅かな狂いが命取りだし、とんだことになったと思いもしたが…。
 それでも作ってやりたかったし、始めたからには投げ出せないしな。
 お前と二人で考えたじゃないか、どんな積木にするのかっていう所から。
 あの子が家で遊んだ積木のデータってヤツを、前のお前が手に入れて来て…。
 そいつを元にして作ったんだぞ、そっくり同じになるように。
 まるで全くそっくりな積木、寸法も形も、木の色がそのままで色つきじゃなかった所までな。



 殺されてしまった子供のお気に入りだった、木の色と温もりが優しかった積木。
 本物の積木はユニバーサルが運び出して処分してしまったけれども、データは消されずに残っていたから。子供の養父母が暮らしている家、その家の記録に入っていたから。
 前の自分が盗み出したのだった、積木のデータを。寸法も、形も、その色合いも。
 ハーレイはそれを元にして新しい積木を作った、シャングリラで育てた木材を使って。白い鯨で栽培していた、木材にするための木から採れた素材で。
 三角や四角、何種類もの形と大きさ。それに合うよう、寸法を測って、きちんと切って。
 積木にするために切り取った木たち、三角や四角の形をした木。
 それが好きだった子が入れていたのと同じ大きさの箱も作って、その箱に綺麗に収まるように。少しの狂いも出ずにピタリと箱に片付けられるよう。
 木がささくれ立って子供たちが手を怪我しないようにと、角なども丁寧に丸くして。
 ハーレイが幾つもの積木用の木を切って、磨いて。
 何度も何度も手で撫でさすって、「これで大丈夫ですね」と微笑むまでには、相当に長い時間がかかった。木彫りが幾つ作れるだろう、と前の自分が思ったくらいに。
 キャプテンの部屋でハーレイが作っていた積木。仕上げの磨きを何度も重ねていた積木。



 そうやって出来上がった積木の箱に、元になった積木の持ち主だった子の名前は書かずにおいたけれども。殺されたミュウの子供は何人もいたし、特別扱いは出来なかったけれど。
 今までに救い損ねた子供たちの分も、と「子供用」とハーレイが箱に大きく書いた。積木遊びでミュウだと気付かれ、殺されてしまった子供たちの思い出にしておこう、と。
 積木は子供用で当たり前なのに。
 わざわざ「子供用」と箱に書かなくても、大人たちが来て横から奪いはしないのに。
 キャプテンお手製の積木は人気で、子供たちは誰もが遊びたがって。
 他に積木は幾つもあるのに、奪い合いだったハーレイの積木。「子供用」と書かれていた積木。
 順番待ちだと年かさの子が言い聞かせていることもあったし、喧嘩になっていたこともあった。どうしても自分が遊びたいのだ、と譲らない子供同士で大喧嘩。
 子供たちは加減を知らずに喧嘩をするから、積木は空を飛んだりもした。サイオンや小さな手で掴み出されて、喧嘩相手の身体を目がけて。
 もちろん叱られた子供たち。
 養育部門のスタッフたちやら、怖い顔をしたヒルマンやらに。
 「そんなことをするなら積木は駄目だ」と、「倉庫に仕舞っておくことにする」と。
 そうなる度に泣いて謝った子供たちだけれど、また懲りないで喧嘩をしていた。
 「キャプテンの積木で遊ぶのは自分だ」と、「今日は自分が遊ぶ番だ」と、それは賑やかに。



 大人気だった前のハーレイが作った積木。
 積木遊びでサイオンがあると知られてしまって、殺された子供たちがいたという証の積木。
「…あの積木、どうなったんだっけ?」
 前のぼくが子供たちと遊んでいた頃には、養育部門に置いてあったけど…。
 キャプテンが作った積木なんだ、って子供たちも知っていたけれど…。
「あれはトォニィの時代まであったぞ、少なくともトォニィがガキの頃には」
 ナスカが平和だった頃だな、ヤツらがナキネズミの尻尾を掴んで持ち上げてたようなガキの頃。
 レインもとんだ災難だったさ、尻尾を掴まれて逆さ吊りだぞ。
 そういうヤツらが遊んでたってな、あの積木で。
「…本当に?」
 ハーレイの積木、トォニィたちも使ってたんだ?
「ああ、久しぶりの子供たちだしな」
 アルテメシアを離れちまって、子供の救出はもう無かったし…。
 積木で遊んでいたユウイやカリナも、すっかり大きくなっちまって。
 ようやく出番が来たってトコだな、長いこと養育部門と一緒に放っておかれた積木ってヤツの。
「そうなんだ…」
 考えてみれば十五年だものね、前のぼくが眠っていた間。
 アルテメシアを出てからナスカに着くまでに十年以上も経ってるんだし、子供たちだって大きく育ってしまうよね。積木なんかでは遊ばなくなって。
 …ハーレイの積木、それでもきちんと何処かに残してあったんだね…。



 アルテメシアを離れた白いシャングリラの片隅で眠っていただろう積木。
 前のハーレイが作り上げた積木、「子供用」と箱に大きく書かれていた積木。
 赤いナスカで生まれた子たちは知っていただろうか、その箱の積木が作られた理由を。
 誰が作って子供たちのために与えたのかを、どんな思いがこめられた積木だったのかを。
「…トォニィたち、知っていたのかな…?」
 あの積木は誰の思い出だったか、誰が作った積木だったのか。
「まるで知らなかったってことは無かっただろうな」
 由来の方まではどうだか知らんが、俺が作った積木だってことは知ってた筈だぞ。
「そうなの?」
「俺は直接教えちゃいないが、養育部門のヤツらは積木を知ってたわけだし」
 大人気だったキャプテンの積木がこれだ、ってことはシャングリラのヤツなら誰でも知ってる。
 トォニィたちにも話しただろうな、この積木は俺の手作りなんだ、と。
 凄い人気の積木だったと、自分たちが育った頃には奪い合いの喧嘩もあったヤツだと。
「じゃあ、トォニィたちは、ぼくとハーレイが作った積木で遊んでくれたの?」
 …ぼくはデータを盗み出しただけで、積木を作ったのはハーレイだけど…。
 ちゃんと積木にしてくれたのは、前のハーレイなんだけど…。
「そうなるな。前のお前と俺が作った積木がヤツらのオモチャだったんだ」
 レインの尻尾を掴んで逆さ吊りにするようなヤツらだからなあ、積木も空を飛んでたろうさ。
 奪い合いでなくても、喧嘩をするなら投げてしまえとサイオンでブンと。
 でなけりゃ握ってブンと投げるか、そしてヒルマンたちが説教だな、うん。



 あの頃はトォニィたちも可愛いもんだったが…、と笑うハーレイ。
 見た目も中身もほんの子供で、ヒルマンたちの雷が落ちたらベソもかいた、と。
「実に可愛い時代だったな、デカくなったら物騒なことも考えてたが」
 みんな殺してシャングリラを乗っ取ってしまおうかだとか、ガキならではの発想だ。
 聞こえちゃいないつもりだったんだろうが、ヤツらの溜まり場、ちゃんと把握はしてたしな?
 ジョミーじゃなくても筒抜けだってな、あの物騒な台詞ってヤツは。
「…そうだったよね…」
 前のぼくはとっくに死んじゃってたけど、ハーレイが聞いて覚えていたし…。
 今のぼくにもバレちゃっているよ、その台詞は。
 …でも、やらなかったよね、ナスカの子たち。皆殺しにまではしないとしたって、目障りな人は殺しちゃえ、って思いそうだけど…。それだけの力もあっただろうけど。
 それをしないでシャングリラに乗っていてくれたんだし、ハーレイが作った積木にこもっていた気持ちも少しは役立ったのかな、仲間を大切にしたかった気持ち。
 シャングリラに乗ってる子供たちのために、って遊び道具を作った気持ちも。
「…多分な。あいつらなりに理解はしてたんだろうさ」
 俺が作った積木で遊んだ子供時代は、誰のお蔭で存在したのか、そのくらいのことは。
 前のお前がシャングリラを守って、子供たちを大勢救い出して。
 …ユウイもカリナも、ハロルドもだ、シャングリラに来ることが出来なかったら殺されていた。
 自分の親たちが何処から来たのか、それを考えたら無茶は出来んぞ、トォニィたちも。
「だったら、積木を作っておいて良かったね」
 トォニィたちのお父さんたちも、小さい頃にはあの積木で遊んでいたんだし…。
 沢山の思い出が詰まった積木を乗せていた船がどれだけ大事か、それも分かっただろうしね。
「そうだったんだろうな、あの積木も役には立ったんだろう」
 前の俺があれを作った理由は、悲しい理由だったがな…。
 楽しい筈の積木遊びでサイオンがあるとバレてしまって、殺されちまった子供たちを忘れないでいてやるためにと作った積木だったんだがな…。



 前の自分が救い損ねた子供たち。
 ミュウだと断定されてしまった積木遊びで通報された子たち、救い出す暇さえ無かった子たち。
 けれど、悲しい最期を迎えた子供たちの分まで、未来は生まれた。
 あの子供たちを思ってハーレイが作った積木で遊んで育った、ナスカの子たちが未来を作った。前の自分がメギドを沈めて守り抜いた白いシャングリラを地球まで導いてくれた。
 ジョミーだけでは勝てなかったかもしれない地球を目指しての戦いの旅路、トォニィたちが命を懸けて勝ち取ってくれた地球までの道。
 白い鯨は地球に辿り着き、SD体制の時代は終わった。死の星だった地球は燃え上がり、炎から再び青い命の星が生まれた。まるで炎の中から蘇るという不死鳥のように、青い水の星が。
 人類と機械が支配していた時代も終わった、ミュウの時代の幕が開いた。
 積木遊びを楽しむ子供が殺されることの無い時代。
 サイオンでヒョイと積木を積んでも、箱から出しても、器用だと却って褒められる時代。
 今の自分は積木遊びも出来ないくらいに不器用だけれど、手でしか積木を積めないけれど。



「ねえ、ハーレイ。あの子たちはどうしているんだろう…」
 前のぼくがシャングリラに連れて来られなかった、積木遊びでバレてしまって殺された子たち。
 サイオンって言葉も知らずに遊んで、そのせいで殺されちゃった積木の子供たち…。
「なあに、心配要らないってな。今はすっかりミュウの時代だ」
 何処かにいるさ、俺たちみたいに。
 前の記憶は失くしちまっているんだろうが、この宇宙の何処かにいる筈だぞ。
 もしも子供の姿でいるなら、今度は楽しく積木遊びをしているだろうな。手で積む友達を馬鹿にしながら、こう積むもんだ、とサイオンで積んで。
 積木遊びじゃ自分が一番才能があると、それは得意そうな顔をしてな。



 今は積木で好きなだけ遊べる時代だからな、とハーレイは自信たっぷりだから。
 あの子供たちも、きっと幸せでいるのだろう。
 自分たちのように生まれ変わって、今度は好きに積木を積んで。サイオンを器用に使う子供だと皆に褒められて、もっと上手に積めるようになろうと頑張って。
 だから…。
「…ハーレイ、積木、また作ってくれる?」
 前のハーレイが作ったみたいに、温かで優しい手触りの積木。
「積木って…。なんのためにだ?」
 何をするんだ、積木なんかで。…欲しいと言うなら、作れるかどうか考えはするが…。
「ぼくのサイオンの練習用だよ」
 今の積木はそういうものでしょ、サイオンの練習用にもどうぞ、って書いてあったよ、広告に。
 ハーレイが作ってくれた積木なら、買った積木よりも愛がこもっている分、頑張れるかも…。
 ぼくは積木を浮かせることさえ出来ないけれども、また積めるようになれるかも…。
「おいおい、頑張らなくてもいいと言ったろ」
 サイオンの練習用の積木なんかは、今のお前には要らないんだ。
 今の不器用なお前でいいんだ、頑張ることはないってな。
 つまりだ、俺の積木も要らない。サイオンを伸ばすための積木は無くていいんだ、今のお前は。



 今度は俺が守るんだから、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
 サイオンを伸ばす必要は無いと、だから積木は作らないぞ、と。
(ハーレイの積木…)
 今の時代なら、あの子供たちも幸せ一杯で積んでいそうな幾つもの積木。サイオンで幾つも高く積んでは、褒められていそうな積木遊び。
 そういう子供たちのためにと前のハーレイが心をこめて作った積木も、今なら幸せの積木。
 子供たちへの愛が詰まった、手作りで温もりのある積木。
 そんな幸せの積木が欲しい気持ちもするけれど。
 欲しいと思ってしまうのだけれど、幸せだったらハーレイから沢山、沢山貰えるのだから。
 いつかハーレイと結婚したなら、両手を一杯に広げたとしても持ち切れないほど、零れるほどの幸せを貰えるに決まっているのだから。
 前のハーレイが作ったような積木は作って貰えなくても…。
(…ぼく、幸せで一杯だよね?)
 ハーレイと二人、積木売り場であれこれ眺めて、指差したりして。
 「買ってくれる?」と強請ったりもして、「要らないだろうが」とコツンと額を小突かれて。



 そう、今は積木はもう要らない。
 サイオンでは積めもしないけれども、それでいいのだとハーレイが言ってくれるから。
 今度は守って貰えるのだから、サイオンは伸ばさなくていい。
 ハーレイと二人、手を繋ぎ合って何処までも歩いてゆくのだから。
 積木遊びで殺されてしまった悲しい子たちも、幸せに生きているだろう時代。
 幸せが満ちた今の時代で、青い地球の上で、ハーレイと二人、幸せに生きてゆくのだから…。




             子供用の積木・了

※サイオンの訓練には、ピッタリの積木。けれどミュウが処分された時代は、沢山の悲劇が。
 そんな時代に、前のハーレイが作った積木。シャングリラの子たちに愛された玩具。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(んーと…)
 ブルーが目を留めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間にダイニングで。
 テーブルの上に載っていた新聞、何気なく開いて見付けた誕生日用の料理の特集。特に珍しくもない筈なのに、幾つも並んだ写真の中の一枚が目を引いた。
 思わず息を飲んだくらいに。
(食べたいってわけじゃ…)
 ないと思う、おやつのケーキを食べた所だし、お腹が空いてはいないから。
 けれど気になる一枚の写真、他の写真は「ふうん?」と眺めただけなのに。誕生日パーティーに似合いの料理特集、一枚の写真に様々な料理の取り合わせ。「こんな感じで如何でしょう」と。
 彩りも鮮やかなパエリアが主役の料理だったり、ちらし寿司がメインの和風だったり、大人から子供まで主役に合わせて提案された幾つものパーティー料理のメニュー。
 この手の特集はよく組まれるから、本当に見慣れた紙面の筈。美味しそうな料理を捉えた写真も色々と見たし、食の細い自分は「これは何かな?」と思う程度で。
 わざわざ覗き込もうとはしない、息を飲むほど惹かれもしない。「美味しそう!」と思うよりも前に「食べ切れないよ」と現実がヒョイと顔を出すから。
 母に強請って写真の通りのパーティー料理にして貰ったって、食べ切れないで挫折するから。
 なのにどうして惹かれるのだろう、たった一枚の料理の写真に…?



 目新しい所があるわけでもない、ごくごく平凡なパーティー料理。他の写真の料理と比べたら、如何にも定番、要は誰でも喜びそうな料理の取り合わせ。それこそ子供から大人まで。
 けれども、どうにも心を捉えて離さない写真。自分の瞳を引き寄せる写真。
(何処が…?)
 好き嫌いが全く無い自分だけに、ますますもって分からない。好き嫌いがあれば「好物ばかりを集めた素敵な食卓」で「夢の食卓」、そう思うこともありそうだけれど。
(ぼくの大好物ってこともないよね…?)
 チキンの丸焼きに、テリーヌに、パテ。スープにサラダに…、と順に料理を眺めていたら。
(…あれ?)
 何故だか記憶にあるような気がする、この料理が。写真の中の取り合わせが。
 もしかしたら自分は、これを見たことがあるのだろうか?
 写真ではなくて、本物の料理。母が作ったパーティー用の料理が、写真の通りにテーブルの上にズラリと並ぶのを。
 それならば分かる、何故だか心惹かれる理由も。目を留めた訳も。
 幼かった頃の誕生日パーティー、大喜びではしゃいだ記憶が胸に残っていたのだろう。あの日の料理だと、まるでそっくりだと飛び跳ねる心。
 きっとそうだ、と心が躍った。いつの誕生日かは分からないけれど、母に確認しなくては、と。



 子供時代の素敵な思い出、幼稚園の頃か、下の学校に入って間もない頃か。
 記憶がハッキリしないのだから、その辺りだろう、とワクワクしていた所へ扉が開いて。
「あっ、ママ!」
 上手い具合に入って来た母。通り掛かっただけかもしれないけれども、呼び止めて「これ!」と例の写真を指差した。こういう料理を誕生日に作ってくれただろうか、と。
「もちろんよ。ブルーのお誕生日だものね」
 チキンもテリーヌも作ったわよ。…ええ、この写真にあるお料理は全部。
「じゃあ、この写真はやっぱり、ママのお料理…」
 見たような気がしたんだよ。他の写真は何とも思わないけど、これはドキッとしちゃったんだ。
 本物を見たことがあったんだったら、ビックリするのも不思議じゃないよね。
 ぼくがすっかり忘れちゃっていても、お料理の記憶、残ってたんだ…!
「それはそうかもしれないけれど…。ママは作ってあげたんだけれど…」
 でもねえ、ブルーはいつも少ししか食べないでしょう?
 お誕生日に作ったお料理、ブルーに合わせて少なめにしてあったから…。



 この写真そっくりにテーブルに並べたことは一度も無いわ、と母は料理を覗き込んだ。
 チキンの丸焼きは主役になるから、それだけは丸ごと一羽分。写真と同じになるのは其処だけ。他の料理はテリーヌがこのくらい、サラダはこのくらい、スープの器がこのくらい…、と。
 料理の量と盛り付けた器の例まで挙げられてみれば、まるで違うとブルーにも分かる。自分用のパーティー料理が並んだテーブルと、この写真は少しも似ていないと。
 共通点はチキンの丸焼き、それだけでは此処まで惹かれはしない。他の部分が違うのでは。
「…それじゃ、違うの、ママのお料理とは?」
 ぼくは確かに見たんだと思ったんだけど…。
 ママが違うって言うんだったら、本か何かで見たのかな、これ…?
「さあ…。それはママにも分からないけれど、誕生日パーティーのお料理なの?」
「うん、きっと。誕生日のだ、っていう気がするから」
 パーティーをする日は色々あるけど、これは誕生日のお料理だよ、って。
「だったら、ソルジャー・ブルーじゃないの?」
「えっ?」
「ソルジャー・ブルーよ、ブルーはソルジャー・ブルーだったんでしょ?」
 その頃のお誕生日のお料理じゃないの、この写真。
 シャングリラで食べて、その思い出が残っているとか…。
「それは無いと思うよ…」
 ソルジャー・ブルーだけは絶対に無いよ、前のぼくっていうことは無いよ。
 こんなお料理、誕生日に食べたことが無いから。



 誕生日を覚えていなかったから、と説明したら。
 ハッと息を飲み、口に手を当てた母。その瞳がみるみる悲しそうな色を湛えて。
「…ごめんなさいね、ママがウッカリしてたわ」
 ブルーは誕生日がいつだったのかも忘れてしまっていたのよね…。
 何も覚えていなかったのよね、成人検査よりも前にあったことは全部、忘れてしまって…。
「ううん、ママが謝らなくてもいいよ」
 ママのせいなんかじゃないんだもの、あれは。全部、機械のせいなんだから。
 ぼくは平気だよ、忘れちゃったのは前のぼくだし、ずうっと昔のことなんだし…。
 今はママの子で、誕生日だってちゃんとあるもの。



 だから平気、と笑顔で母に返したけれども、やはり気になる写真の料理。
 自分はこれを何処で見たのか、今も記憶に残っているほどに印象的だった取り合わせ。誕生日のパーティ用には定番の料理、斬新なわけでも特別なわけでもないというのに。
「…誰の誕生日だったのかなあ?」
 友達の家で見たんだったら、それっきり忘れていそうだけれど…。
 ぼくにはとっても食べ切れないや、ってビックリはしても、覚えていそうにないんだけれど…。
 とても特別だったって感じがするんだよ、このお料理が。
「シャングリラにいた頃に見たんじゃないの?」
 ブルーじゃなくって、ソルジャー・ブルーが。
 こういうお料理、シャングリラでも充分、作れたんじゃないかと思うわよ、ママは。
「…鶏はいたから、チキンの丸焼きは作ってたけど…」
 他のお料理も、作ろうと思えば作れそうだけど…。材料は船にあった筈だし。
「ほらね、きっと誰かの誕生日よ。シャングリラで見たのよ、このお料理を」
「…そうなのかな?」
「ソルジャー・ブルーには誕生日は無くても、子供たちにはあったんでしょう、誕生日」
 アルテメシアで助けた子たちは、誕生日を覚えていた筈よ。成人検査を受けていないんだから。
「ホントだ、子供たちにはあったんだっけね、誕生日!」
 お祝いもあったよ、せっかくの誕生日なんだから。
 成人検査の時にミュウだと分かって怖い目に遭った子供たちでも、誕生日は特別。
 育ててくれた人たちと祝った幸せな思い出が沢山あったし、成人検査とは別だったんだよ。



 成人検査の日は十四歳の誕生日。前の自分が生きた頃には「目覚めの日」と呼ばれて、養父母に別れを告げる日だった。
 普通は記憶を処理されてしまい、もう養父母とも会えないけれど。
 その日にミュウの力に目覚めてシャングリラに連れて来られた子供は、養父母と暮らした日々を忘れはしなかった。それまで一緒に誕生日を祝ってくれた父と母とを。
 だから目覚めの日に何があろうと、どんな酷い目に遭っていようと、特別だった誕生日。
 白いシャングリラに迎えられた後も、彼らは誕生日を祝って貰って喜んでいた。成人検査よりも前に救い出されて、船に来た子と同じように。
 「今日は誕生日だから」と用意された特別な料理を楽しみ、幸せそうな顔をしていた。
 十四歳の誕生日だった、目覚めの日に彼らを襲った恐怖。
 その体験さえも、誕生日パーティーというイベントの前では霞んで消えてしまって、船で出来た友達に囲まれて、嬉しそうだった子供たち。
 大人になった後も彼らは毎年、誕生日を祝い合っていた。友達を集めて、毎年、毎年。



 母のお蔭で思い出すことが出来た、シャングリラにいた子供たちのための誕生日。
 シャングリラのことは、母も自分が話した分だけ、色々と覚えてくれているから。今日のように思い出してくれたりもするから、頼もしい。
 前の自分を忌み嫌わないで、そっくり丸ごと受け止めてくれる母の優しさと温かさが。二人分になってしまった記憶も、途惑うことなく受け入れてくれる心の広さが。
 その母は例の写真を見ながら。
「思い出せるといいわね、これ」
 誰のお誕生日かはママには分からないけれど、きっと大切なパーティーでしょう?
 今でも覚えているほどなんだし、ソルジャー・ブルーの大事な思い出の一つじゃないの?
「うん…。ぼくもそういう気がするけれど…」
 誰だったのかな、前のぼくが覚えているほどの大切なパーティーだなんて。
 誰のお祝いだったのかなあ、このお料理…?
「この新聞記事、切って行ったら?」
 何度も見てたら思い出せるかもしれないわよ、何かのはずみに。
 机の前に貼っておくとか、引き出しの中に仕舞っておくとか。
「…いいの?」
「せっかくだものね。パパだって何も言わないわよ、きっと」
 新聞は読んでから出掛けたんだし、裏側の記事はパパが好きそうな記事でもないし…。
 切っちゃっていいわよ、パパが「なんだ?」って不思議がったら、ちゃんと説明しておくから。



 記憶の手掛かりに持って行きなさい、と貰った切り抜き。ハサミでチョキチョキ切った新聞。
 それを手にして自分の部屋に戻ったけれど。
 勉強机の前に座って、料理の写真と向き合ったけれど。
(うーん…)
 いくら頑張っても思い出せない、写真の中の料理の記憶。自分の心を惹き付けた料理。
 チキンの丸焼きに、スープにテリーヌ、パテにサラダに…、と並んだテーブル。
 確かに自分は見たと思うのに、何処だったのかも分からない。白いシャングリラの食堂にあったテーブルだったか、子供たちがよく集まっていた部屋のテーブルか、それすらも。
 誕生日パーティーが開かれた場所は色々、子供たちが自分で好きに選べた。その日の主役になる子が選んだ、この場所がいい、と。
 そんなわけだから、ヒルマンが授業をしていた教室、其処で祝った子だっていた。公園を選んでガーデンパーティー気分の子供だっていた、展望室を選んだ子だって。
 とびきりの場所で開かれたパーティーの料理だったろうか、この写真は?
 こういうアイデアもあったのか、と前の自分が驚いたほどの穴場と言おうか、素敵なスペース。子供ならではの柔軟な発想、それが生かされたパーティーの料理だったとか…?



 けれども戻ってくれない記憶。料理も、それが披露された場所も。
(ハーレイだったら…)
 もしかしたら、覚えているのだろうか?
 元は厨房の出身なのだし、料理に対する関心は前の自分よりも遥かに高かったろう。同じ料理を目にしたとしても、「俺ならこうする」と考えてみたり、「いい出来だ」と心で頷いていたり。
(…でも、誕生日…)
 子供たちのための誕生日パーティーに、ハーレイは呼ばれていただろうか?
 ソルジャーだった自分は子供たちと遊ぶことが多かったし、それを仕事にしていたほど。船での仕事を手伝いたくても、皆が遠慮して何の役目もくれなかったから。
 「ソルジャーがなさることではありません」と断られてしまった仕事の数々、仕方ないから養育部門を手伝った。子供たちと一緒に遊ぶ分には、誰も文句を言わなかったから。スタッフの仕事も楽になるから、仕事のつもりで子供たちの相手。
 それだけに、誕生日のパーティーに出席したことも多い。会議などが入っていなければ。
 ハーレイの方はどうだったろうか、と記憶を手繰って。
(うん、たまには…)
 白いシャングリラの舵を握っていたキャプテン・ハーレイ、穏やかな笑顔のキャプテンは人気があったから。子供たちにとても好かれていたから、誕生日パーティーにも招かれていた。
 ブリッジの仕事を抜けられそうなら参加していた、前の自分と同じように。



 そうなってくると、ハーレイが覚えているかもしれない。
 自分には思い出せないパーティー料理を目にした記憶があるかもしれない、白い鯨で。
(ハーレイが来たら訊くんだけれど…)
 料理の写真は貰ったのだし、「これだよ」と見せて訊くことが出来る。得意ではないサイオンを使って自分の記憶を見せなくても。
 今日は仕事の帰りに寄ってくれるか、どうなのだろう、と考えていたらチャイムが鳴って。そのハーレイが来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
 例の切り抜きを持って来てテーブルに置いて、「これなんだけど」と。
「あのね、この料理を覚えてる?」
 此処に写っている料理。ハーレイ、覚えていないかな…?
「はあ?」
 覚えてるかって…。俺がチキンの丸焼きを食ったかと訊いているのか、その質問は?
「そうじゃなくって、これ全部だよ。チキンもパテも、テリーヌもサラダも」
 全部纏めて一つなんだよ、シャングリラのだと思うんだけど…。
 きっと子供たちの誕生日パーティーの時の料理で、こういう風にズラッと並んで。
「…俺には全く見覚えが無いが?」
 チキンもそうだし、テリーヌもパテも、スープもだな。
 どれも全く覚えちゃいないぞ、シャングリラの料理だと言われればな。



 誕生日パーティーの料理としては、と断言された。
 こういう料理は有り得ないと。
「いいか、子供の誕生日パーティーなんだぞ。そこの所をよく考えてみろ」
 子供のパーティーにここまではしないな、今の時代なら普通なんだろうが…。
 シャングリラの食料事情ってヤツからすればだ、この手の料理は大人向けだな。チキンを丸ごと一羽分だぞ、子供たちに出すなら丸焼きじゃなくて他の料理だ。同じ鶏を一羽分にしても。
「そういえば…。丸焼きはちょっと豪華すぎるね」
 子供たちだと、丸焼きを綺麗に食べるというのも難しそうだし…。肉が沢山残りそうだし。
 そうなっちゃうより、チキンを使った他の料理を作った方が良さそうだものね…。



 ハーレイの指摘の通りに豪華すぎる料理。
 チキンの丸焼きもそうだけれども、他の料理も白いシャングリラで作るとしたなら、手間や味が分かる大人向け。スープはともかく、テリーヌやパテは。
 子供たちのための特別となれば、せいぜいケーキ。誕生日パーティーのテーブルで主役を務める甘いケーキで、子供たちの年の数だけ蝋燭を立てて…。
(ケーキ…?)
 そこで引っ掛かった、ケーキの記憶。
 ケーキだった、と料理と一緒に浮かび上がったケーキだけれど。
 チキンの丸焼きにテリーヌにパテ、スープやサラダと盛り沢山に並んだテーブル、其処には当然ケーキの姿もあったのだけれど。
(…箱…?)
 新聞に載っていた写真によく似た食卓の上に、ケーキの箱。
 明らかに買って来たケーキだと分かる紙箱、その中に入っていたケーキ。箱から出されないで、紙箱のままで。
 どんなケーキかも分からないケーキ。
 生クリームたっぷりのケーキだったか、フルーツで飾られたケーキだったか、それすらも謎。
 箱に仕舞われたままなのだから。大皿に載ってはいないのだから。



「シャングリラじゃない…!」
 ママでもないよ、と叫んだら。間違いないよ、と声を上げたら。
「おいおい、それが何故分かるんだ?」
 何処で見たかも思い出せないと言っているくせに、急にキッパリ違うだなんて…。
 どういう根拠で言っているんだ、シャングリラでもお前の家でもないと。
「ケーキだよ。…ケーキの紙箱が置いてあるんだよ」
 ぼくが覚えてる、この写真に似た料理が並んだテーブルの上に。
 お店で誕生日用とかの大きなケーキを丸ごと買ったら、専用の箱に入れてくれるでしょ?
 ああいう箱だよ、ケーキは箱に入ったままで置いてあるから…。
「そいつは確かに有り得ないな。お前の家でも、シャングリラでも」
 シャングリラだったら、ケーキは紙箱に入って売られちゃいないし、その光景はまず無いな。
 お前の家だと、誕生日ケーキはお母さんが手作りするんだろうし…。
 仮にお前が「お店で売ってるケーキがいい」と強請って買って貰ったとしても、紙箱のままっていうのはなあ…。
 パーティーの時には、箱から出して皿に載せなきゃ話にならん。
 でないとケーキの見せ場も無ければ、蝋燭を飾って吹き消すことも出来ないし…。食事の後でと思っていたなら、傷まないように冷蔵庫に入れておくだろうしな。



 ますます深まってしまった謎。
 テーブルに並んだ料理はともかく、紙箱に入ったままで置かれたケーキは…。
「誰のだろ…?」
 あのケーキの箱、誰のだったんだろう…?
 箱がああいう大きさなんだし、もう間違いなく誕生日パーティーだと思うんだけれど…。
「前のお前か?」
 成人検査を受けるよりも前に、誕生日を祝って貰った時の記憶か?
「分からない…」
 そうかもしれない、っていう気もするけど、どうなんだろう?
 とても大切な料理なんだ、って思ってるんだし、その可能性もゼロじゃないけれど…。



 前の自分の誕生日か、と問われてみれば「違う」と即座に否定は出来ない。
 チキンの丸焼きにテリーヌにパテ、今の自分を一目で惹き付けてしまった料理の写真。こういう料理を何処かで見たと、確かにこういうテーブルだった、と。
 けれど、前の自分が生きていた頃でさえ、全く無かった誕生日の記憶。
 祝って貰った思い出どころか、この世に生まれた日付でさえも。
 前の自分が死んでしまった後で、シャングリラが向かったアルテメシア。あの雲海の星で戦いの火蓋が切って落とされ、勝利を収めて、テラズ・ナンバー・ファイブを倒して。
 やっと手に入れた膨大なデータ、地球の座標を含んだその中に前の自分のデータもあった。前のハーレイが記憶したそれを、今の自分が教えて貰った。誕生日のことや、養父母のことや。
 生まれ変わって今の自分になるまで、知らなかったままの誕生日。思い出せなかった、養父母の顔や暮らしていた家。
 そんなにも遠い、前の自分の誕生日。いつだったのか、誰と一緒に祝っていたのか、遥かな時の彼方へと消えた今頃になって知った日付と、養父母の顔と。
 その誕生日の料理の記憶が、今頃戻って来るだろうか?
 前の自分が生きた頃でさえ、思い出そうと懸命に足掻いた前の生でさえ、戻らなかった記憶。
 ついに戻っては来なかった記憶…。



(成人検査で殆ど消えて…)
 記憶を手放せと命じた機械の声。次々に消去されていった記憶。
 それが悲しくて、嫌で、耐えられなくて。
 手放すものかと抵抗したのが引き金になって、ミュウに変化してしまったのが自分。金色だった髪は銀髪に変わり、水色だった瞳は色を失って血の赤になった。
 ミュウになった上に、姿もアルビノに変わった自分は、もはや人間扱いはされず、ただの動物。
 実験動物として檻に入れられ、繰り返された人体実験の末に残った記憶も全部失くした。
 忌まわしい成人検査の記憶だけを残して、他のことは全部。
 一種の健康診断なのだと思い込んでいた検査の直前、それは覚えているのだけれど…。
 順番を待っていた部屋の壁に映った、金髪だった頃の自分の姿。今と同じに子供の姿で、周りを見回したりもして。
 これから始まる検査で全てが変わってしまうなどとは、思いもせずに。



 何も知らなかった無邪気な自分。成人検査の正体も知らず、健康診断だと思っていた自分。
 機械がそのように仕向けたとはいえ、なんと自分は馬鹿だったのか。
 それから後の長い長い生は、成人検査との戦いの日々。ミュウを弾き出そうとする機械に抗い、何人の仲間を救い出したことか。
 記憶を消してしまう成人検査。ミュウに変化する引き金にもなる成人検査。
(…成人検査…?)
 それが心にふと引っ掛かった、あの食卓と重なった。
 チキンの丸焼きにテリーヌにパテ、ケーキの紙箱が置かれたテーブル。
 誕生日を祝うために作られた数々の料理、それを用意して貰った子供の名前は…。



「そうだ、ジョミーだ!」
 あの料理を食べようとしていた子供はジョミーなんだよ!
「ジョミーだと?」
 おい、あのジョミーか、ソルジャー・シンだったジョミーのことか…?
「うん、この写真とそっくりだった。ジョミーが作って貰ってた料理…」
 目覚めの日の前祝いにパーティーしよう、って、前の日の夜にジョミーのお母さんが…。
 ケーキはお父さんが買って来たんだよ、仕事の帰りに。ジョミーのために。
 …ジョミーは心理検査をされてしまって、パーティーどころじゃなかったけれど。
「ジョミーの祝いの料理って…。お前、そんなの覚えていたのか」
 料理に興味があったようには思えなかったがな、前のお前は。
 俺が厨房にいた頃は、手伝ったりもしてくれていたが…。
 チキンが丸焼きになっていようが、捌いてソテーになっていようが、気にしないと言うか…。
 パーティー用の豪華料理でも、普通の飯でも、要は食えれば充分と言うか…。
「そうなんだけれど…。ジョミーの食事は、見ていたからね」
 次の日に迎えに行くと決まっていたジョミーだよ?
 しかも、前のぼくを継ぐソルジャー候補。
 気にならない筈がないじゃない。いざとなったら予定を早めて救出しなくちゃいけないし…。
 実際、ユニバーサルに心理検査を捻じ込まれたよね、強引に。
 そんな時だから、ずっと見ていた。…ジョミーのお母さんが料理を作っていた所も。



 キッチンで腕を奮っていたジョミーの母。
 スープを仕込んで、テリーヌにパテに、それからサラダ。丸ごとのチキンにたっぷりの詰め物、オーブンで焼き上げて、足に飾りの紙とリボンを巻いて。
 自分もあんな風だったろうか、と眺めていた。
 記憶は失くしてしまったけれども、育てられた家で最後に食べた母の手作りの料理。父も一緒に囲んだのだろう、目覚めの日を迎える前の夜の食卓。
(あの頃は、何処の家でもパーティー…)
 目覚めの日が何かを子供は知らなくて、養父母も機械に記憶を書き換えられた後だったから。
 記憶を消される日だとも思わず、人生の節目の一大イベント。
 育てた子供の巣立ちを祝ってパーティーをするのが普通で、家で開くか、食事にゆくか。
 前の自分がどちらだったかは分からないけれど、きっと家だという気がした。母が作ってくれた料理で、父も一緒に囲んだ食卓。
 温かかっただろう、パーティーの夜。ケーキもあったに違いない。
 母の手作りか、ジョミーと同じに父が買って来たのか、目覚めの日を祝う大きなケーキ。蝋燭を立てて、火を点して。
 十四歳を表す数の蝋燭を吹き消しただろう、フウッと力一杯に吹いて。
 養父母に優しく見守られる中、明日は巣立つのだと、誇らしげに。
 ジョミーのように養父母との別れが悲しく辛かったとしても、心配させまいと得意げな顔で。



 母の心尽くしの料理を、父が買ったケーキを、ジョミーはその夜に食べ損なったけれど。
 ケーキを手にした父が帰った時には、心理検査の真っ最中という有様だったけれど。
(…だからケーキは箱に入ったまま…)
 紙箱に入れられたままのケーキを自分は見ていた、ジョミーはどうかと見守る間に。
 昏々と眠るジョミーの側にも立ったけれども、養父母の様子も、祝いの料理も眺めていた。箱に入ったままのケーキも、翌日の朝食に回すことになった冷めた料理も。
(…ジョミーは、次の日…)
 心理検査を受けたことなどすっかり忘れて、母が作った祝いの料理を食べて出掛けた。ケーキも朝から切って貰って、養父母と囲んだ旅立ちの食卓。
 ジョミーは「さよなら!」と叫んで家を飛び出して行ったけれども。
 それが別れだと分かっていたけれど、羨ましかった。
 養父母と過ごした温かな時間、自分は失くしてしまった時間。欠片さえも残っていない思い出。
 こんな風に自分も旅立ったのかと、ほんの少しでも思い出せればいいのにと。



「それに、ジョミーは忘れなかったんだよ…」
 前のぼくが成人検査を妨害したから、お母さんが最後に作ってくれた食事を。
 目覚めの日の朝に温め直した料理だったけど、何を食べたか、どんな味だったか、覚えたままでシャングリラにやって来たんだよ…。
 だから余計に、ぼくも忘れなかったんだろうね、ジョミーのお母さんが作った料理を。
 今頃になっても、これがそうだ、って思い出せるくらいに覚えてしまって。
「そういや、そうだな。ジョミーは忘れちゃいなかったんだな、前のお前が見ていた料理」
 この写真とそっくり同じだった、っていうパーティーの料理を覚えてたんだな、忘れないで。
 前の俺たちは何も覚えちゃいなかったが…。
 料理どころか、育ててくれた親の顔さえ、綺麗サッパリ忘れちまって何も残らなかったんだが。
「あの時代は普通は忘れちゃったよ、何を食べてから出掛けたかなんて」
 養父母の顔だって霞んでしまって、ハッキリしないのが成人検査の後なんだもの。
 料理なんかは忘れてしまって当たり前だよ、誰だって。
 それを忘れずに覚えていたジョミーは、とても幸せだったよね…。
 シャングリラに来た子供たちの中にも、そういう子供は何人もいたと思うけど…。
 ジョミーが覚えていたっていうのは、きっと大きな力になったよ。
 前のぼくみたいに忘れてしまったソルジャーじゃなくて、ちゃんと覚えていたソルジャー。
 もしかしたら、トォニィたちを生み出したアイデアの元も、そういう所から来ていたかもね。
「そうかもなあ…」
 育ての親でも、きちんと思い出が残っていたのは大きいかもな。
 家族というのは大事なもんだと、親子の絆はとても強いと、何処かで気付いていたかもなあ…。



 そのせいでホームシックになっていたが、と笑うハーレイ。
 せっかく安全な場所に来たのに、家に帰ろうとしていたんだが、と。
「あれでお前は酷い目に遭って…。ただでも残り少なかった力を使っちまって…」
 危うく死んじまう所だったんだぞ、ジョミーを助けに飛び出して行ったまではいいが…。
 ついでにリオもだ、巻き添えにされて心理検査を受けさせられて。
 前のお前が帰してやれと言ったばかりに、とんでもない結果になったんだがな?
 シャングリラまで浮上させる羽目に陥っちまって、人類軍との戦闘だ。
 ジョミーをしっかり閉じ込めておけば、ああいうことにはならなかったと思うわけだが。
「…まあね。でも、分かるよ。今のぼくなら、ジョミーの気持ちが」
 あの時は「頭を冷やしてこい」っていうつもりでシャングリラから家に帰したけれど…。
 帰ったって何も残っていやしない、って分からせるつもりでいたんだけれど…。
 ジョミーにしてみれば人攫いの所から逃げ出せたような気持ちだっただろうね、家に帰る時は。
「確かにな…」
 人攫いだったろうな、前のお前も、俺たちも、みんな。
 ジョミーにとってはシャングリラは本当に人攫いの船で、箱舟には思えなかったんだろうな…。



 あの頃の自分たちには分からなかった。
 どうしてジョミーが、あんなに帰りたがったのか。
 成人検査が失敗に終わって銃撃された上に追われていたのに、家に帰ろうと考えたのか。
「今のぼくなら、帰っちゃうよ。…ジョミーみたいに」
 家に帰ったら殺されちゃうよ、って言われたとしても、帰ってみるよ。
 本当か嘘か分からないんだし、家に帰ったら、パパとママが守ってくれる筈だし…。
 きっとジョミーがやったみたいに、「家に帰して」って怒って帰って行っちゃうんだよ。
「俺でも間違いなく帰るだろうなあ…」
 誰がなんと言おうが、自分の目玉で確かめるまでは信じないってな。
 殺されるだなんて嘘を言いやがって、と怒鳴り散らして出て行くだろうな、シャングリラから。
 ジョミーみたいに船を出しては貰えなかったら、盗み出してでも逃げるだろう。
 どうやって操縦するのかサッパリ分からなくても、ヤケクソってヤツだ。
 こんな人攫いの船にいるよりよっぽどマシだと、こうすりゃエンジンがかかるだろうと。
「…ハーレイ、そこまでやっちゃうんだ?」
「当たり前だろうが、人攫いの船から逃げなきゃいけないんだぞ?」
 帰して下さいとお願いしたって無駄となったら、後は行動あるのみだ。
 俺が間違ってはいないんだったら、道は自然と開けるってな。
 …もっとも、あの時代にそれをやってりゃ、撃墜されるか、墜落するかのどっちかだがな。



 ある日突然、両親と引き裂かれてしまったら。
 知らない所へ連れてゆかれて、其処で生きろと言われたなら。
 今の自分なら、耐えられはしない。ハーレイでさえも、家へ帰ろうとして逃げると言うから。
「…ぼく、酷いことしちゃったかな…」
 ジョミーに悪いことをしちゃったのかな、お母さんたちから引き離しちゃって…。
「いや、間違ってはいなかったんだが…」
 お前が妨害しなかったなら、ジョミーは成人検査を無事にパスして行ったんだろうし。
 そうなっていたら、シロエみたいになってしまったか、何もかもを忘れて普通に生きたか。
 どっちにしたって養父母の記憶は薄れちまうし、料理のことまで覚えちゃいないぞ。
 そいつを覚えたままでいられたんだし、ジョミーは幸せだったんだ。
 最初の間は派手にお前を恨んだだろうが、後になるほど感謝してたさ、自分がどれほどラッキーだったか気付いたら。
 何一つ忘れずにいられるのは誰のお蔭かってことに気付けば、もう恨んだりは出来んだろう。
 お前に直接、礼を言うことは無かったとしても、感謝の気持ちはあった筈だぞ。



 あれで良かったんだ、とハーレイは大きく頷くけれど。
 前の自分がジョミーをシャングリラに連れて来たことは正しかったと言ってくれるけれど。
「…だけど、やっぱり…。ちょっと罪悪感…」
 お母さんの料理を思い出しちゃったら、悪いことをしたって思っちゃう。
 ジョミーはお母さんが作った料理をもう一度食べたかったんだろうな、って…。
「そう思うんなら、謝っとくか?」
 何処にいるかは分からないがだ、この際、ジョミーに。
 俺も一緒に謝ってやるから、頭でもペコリと下げておくんだな。
「うん、そうする…」
 窓に向かって謝ればいいかな、外にいるのは確かなんだし。
 方向がちょっと違っていたって、きっと届くよね、ジョミーの所に。



 ごめん、とハーレイと二人で窓に向かって謝った。
 ジョミーの姿は見えないけれども、其処にジョミーがいるつもりで。
 知らない世界に連れて行ってごめん、と。
 お母さんの料理が二度と食べられない船に乗せてしまって本当にごめん、と。
「…ジョミーも何処かで幸せになってくれてるといいな」
 今度はお母さんの料理を好きなだけ食べて、お父さんが買って来るケーキを何度も食べて。
「そうだな、何処かで幸せにな」
 この写真みたいな料理を作って貰って、誕生日のパーティーをして貰って。
 お母さんたちと別れさせられずに、そのまま幸せに大きくなって…。
 俺たちみたいに、うんと幸せな人生を生きてくれるといいなあ、ジョミーもな。
「うん…。うん、ぼくたちも今度はきちんと覚えているものね」
 パパもママもいるし、ずうっと一緒。
 結婚式にも来て貰えるもの、パパもママも、ハーレイのお父さんたちも…。



 そうだよね、と訊けば「そうだな」と柔らかな笑みが返って来たから。
 今度は本当に幸せに生きてゆける、ハーレイと二人、生まれ変わって来た青い地球の上で。
 誕生日のパーティーを何度も開いて、皆で賑やかに食事をして。
 いつかはハーレイの両親も一緒に誕生日のパーティーを開くのだろう。
 結婚して「お父さん」「お母さん」と呼べる時が来たら。
 今はいつまでも覚えていることが出来る父と母の顔、温かな家や家族で囲む食事のテーブル。
 其処に新しい両親が増える、ハーレイの父と母とが加わる。
 ハーレイと二人、幸せな道を一緒に歩み始めたら。
 同じ屋根の下で暮らすようになって、いつも二人で過ごせるようになったなら。
 今度はハーレイと何処までも一緒。
 手を繋ぎ合って、いつまでも二人、誕生日パーティーを何度も何度も開きながら…。




            誕生日の料理・了

※ブルーの記憶に残っていた、誕生日パーティー用らしき料理。それも前のブルーの記憶。
 その正体は、ジョミーの誕生日用の料理だったのです。ジョミーが好きだった、お母さんの。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(えーっと…)
 学校の帰りにブルーが乗り込んだ路線バス。空席は幾つもあるのだけれども、お気に入りの席が塞がっていた。ぼくは此処、と決まったように腰掛ける場所に先客の姿。
 仕方ないから、こっちでいいか、と別の席に座って、普段とは違う角度の車内を見回していて。
(あ…)
 ふと目に入った車椅子の絵をあしらったマーク。自分が座った座席ではなくて、別の席の側に。バスの壁にペタリと貼り付けてあった、此処の座席は優先席です、という印が。
 今日のように空いているバスなら意味の無いマーク。混み合って大勢が乗っている時に、効果を発揮するマーク。
 「この席が必要な方にお譲り下さい」と、「必要も無いのに座っていてはいけませんよ」と。
 車椅子のマークがついているけれど、それは遥かな昔からの伝統。SD体制が始まるよりも前の時代から使われていた、優先席を表すマーク。誰が見ても一目で分かるようにと。
 遠い遠い昔、地球が滅びるよりも前に生まれた由緒あるマーク。



(そういえば…)
 ハーレイの授業の雑談で聞いた、優先席の歴史というものを。
 古典とは何の関係も無いのだけれども、一種の薀蓄。「車椅子のマークは、古典と同じくらいに長い歴史があるんだぞ」と。かぐや姫の話や源氏物語などよりかは千年ほど新しいんだが、と。
 車椅子のマークが表している優先席。車内が混んだら、必要な人に譲るのが決まりの座席。
 その席は昔はお年寄りのためのものだった。それと身体が不自由な人。
 お年寄りは足腰が弱いものだから、席があるなら譲るべきだという時代。身体が不自由な人でも同じで、立たせておくなど言語道断と生まれた優先席。
 もっとも、車椅子のマークを貼っておこうが、座席に「優先席」と書いておこうが、座席の色を変えておこうが、効果があるとは言えなかった時代でもあったらしいけれど。
 車椅子のマークが生まれた頃の地球では、人間は人類だったから。ミュウとは違って自分勝手な人間が多かった人類だけに、優先席も車椅子のマークも無視されがちな社会だったという。空いている時に座るならばともかく、必要な人が乗って来たって寝たふりをして座っているとか。
 授業で聞いたクラスメイトは「信じられない」と驚いていたけれど。
 人類とはそんなに酷いものかと、だからこそミュウを平気で虐げたのかと騒いだけれど。
(仕方ないよね、本物の人類を知らないんだし…)
 今は誰もがミュウだから。
 人類との戦いも遠い歴史の彼方の出来事、見て来た者など誰もいない世界。
 その世界から生まれ変わって来た、ハーレイと自分を除いては、きっと。ただの一人も。



 すっかり変わってしまった世界。地球は一度は滅びたのだし、SD体制の時代もあった。地球は再び蘇ったけれど、その地球はミュウが暮らす世界で、車椅子のマークが出来た時代とは…。
(違うんだよね、優先席だって…)
 歴史あるマークは今も使われているけれど。バスの壁に貼られているけれど。
 そんなマークを貼っておかずとも、席は自然に譲られるもの。「どうぞ」と席が必要な人に。
 とはいえ、譲る心は大切だから、と子供たちが学べるように貼ってあるのが今の時代で。
(優先席に座る人にしたって…)
 お年寄りも身体の不自由な人も、昔とはまるで意味合いが違う。
 医学が進歩したお蔭で、治らない障害は無くなった。車椅子も、松葉杖も治療中の期間だけしか使われない。それを使っている人にとっては一時的なもので、いずれ要らなくなってゆくもの。



(お年寄りの杖はお洒落なアイテムなんだし…)
 遥かな昔の紳士よろしく杖を持つだけで、それに決して頼ってはいないお年寄り。杖が無くても全く平気で、スタスタ歩いてゆけるのが普通。
 その上、車椅子などの人が滅多にいないのと同じで、老人の姿をしている人も珍しい。ミュウは外見の年齢を止めてしまえるから、三百歳でも若い人は若い。前の自分がそうだったように。
 年を取っている人は自分の好みで老けているだけ、だから身体も達者なもので。
(あんな席には…)
 座りたいとも思っていないし、座る必要も全く無い。杖をついていても、急ぐ時には杖を抱えて走り出したりするのだから。邪魔だとばかりに小脇に抱えて、それは元気に。
 彼らが座りたがらないからには、優先席は文字通りに身体の不自由な人のものだけれど。医学の進歩で減ってしまった、車椅子の人や松葉杖の人。
 優先席に座る権利を持っている人が殆どいないのが今の時代で、車椅子のマークが貼られた席はあっても、混んでいる時に小さな子供を連れた人が「どうぞ」と勧められる程度。
 ハーレイの雑談で聞いた遠い昔とは、まるで違った優先席。



 つらつらと考えながらバスに乗っていた間も、優先席は空いたままだった。他に座席は幾らでもあるし、混んで来たって、本当の意味で必要な人は滅多に乗っては来ないのだろう。
 お年寄りには意味が無い席、松葉杖などの人くらいしか必要とはしていない席。そういう座席があるということを、「必要な人には席を譲る」ことを子供たちに教える車椅子のマーク。
 「ハーレイが言っていた通り、昔とは意味がホントに違う」と思いながら降りたいつものバス。
 其処から家まで歩いて帰って、ダイニングでおやつを食べる間に、また思い出した。
 あまり意味の無い優先席。身体の不自由な人はともかく、お年寄りには不要な席。年を取っても元気一杯、杖はお洒落なアイテムだから。
 第一、あまり見掛けないお年寄り。今日のバスでも見なかった。



(お祖母ちゃんたちだって…)
 遠い所に住んでいるから、滅多に会えない祖父母たち。通信で声を聞くくらい。
 その祖父母たちも、そんなに年を取ってはいない。「お年寄り」にはとても見えない、何処から見たって父や母よりも年上な程度。何歳くらいと言えばいいのか、直ぐには思い付かないけれど。
(ぼくが生まれた頃には、まだ年を取るのを止めてなかった…?)
 どうだったっけ、と悩むくらいに若い祖父母たち。お洒落な杖さえ似合わない姿。お年寄りには見えないのだから、杖をついたら「怪我ですか?」と訊かれるだろう、きっと。足を怪我したから杖の出番かと勘違いをされてしまうオチ。
 年を取っている知り合いと言えば誰だったろう、と考えたけれど。
 生憎と自分の周りにはいない、親戚も近所の人たちも老人とまで言える姿になってはいない。
 そうなってくると…。



(ハーレイのお父さんたちくらい?)
 年を取るのを止めると決めたのが、今年の夏の終わりだから。それまでは年を取り続けたから、祖父母たちよりも年を取っている筈。
 ハーレイの両親に会ったことは無いし、姿も知らないままだけれども。
 ヒルマンに少し似ているというハーレイの父は、きっと…。
(お年寄りだよね?)
 足腰は充分すぎるほど達者で、釣りが大好きなハーレイの父。魚が釣れる場所があるなら山にも登るし、暗い内から海にも出掛ける行動派。
 とにかく元気なハーレイの父だけに、ヒルマンほどに年を取っているかは分からない。真っ白な髭を蓄えていたヒルマンは、今の時代なら最高齢の部類に入るだろう。外見の年は。



 テーブルの上にあった新聞を広げてみたって、見当たらない年を取った人の姿。街をゆく人々を捉えた写真も、郊外の景色を楽しむ人々を写したものにも、お年寄りと言える姿は無くて。
 子供か、若いか、祖父母たちくらいか、そんな見掛けの人ばかり。雑踏の中も、自然の中も。
(一人もいないよ…)
 端から探した新聞の写真。遠く離れた他の地域の写真もチェックしてみたけれども、老人らしき背格好の人さえ見付からない。
 つまりは広い地球でも希少なお年寄り。ごく少数派の、年を取るのが好きな人。
(ホントのホントに少ないんだ…)
 前の自分が生きた頃には大勢いたのに、と思ったけれど。
 人が集まる場所に行ったら、お年寄りの姿は当たり前のようにあったのだけれど。
(あれ…?)
 ちょっと待って、と自分自身に問い掛けた。前の自分に。ソルジャー・ブルーだった自分に。
 大勢いた筈のお年寄り。あちこちで姿を見掛けたけれども、それは人類が暮らす場所だけだったような気がしないでもない。前の自分が何度も降りたアタラクシアの育英都市。
 白いシャングリラにも年を取った人間が大勢いたかと尋ねられたら自信が無い。
 ミュウの箱舟だった船には、お年寄りの姿が多かったろうか…?



 唐突に浮かんで来た疑問。前の自分が暮らしていた船。
 記憶を探って確かめなければ、と部屋に戻ってゆっくり時間を取ることにした。キッチンの母に空になったお皿やカップを渡して、「御馳走様」とピョコンと頭を下げて。
 そうして座った、自分の部屋の勉強机の前の椅子。机の上に頬杖をついて遠い記憶を手繰る。
(んーと…)
 前の自分が目にした大勢の老人たち。人が沢山集まっていれば、お年寄りの姿も混じっていた。少なくとも人類が暮らす育英都市では、そうだった。
 アタラクシアでもエネルゲイアでも、養父母の役目を終えて引退生活をしていたのだろう人々の姿を幾つも見掛けた。夫婦や仲間同士で連れ立っていたり、一人で外出中だったり。
 白いシャングリラの外の世界では珍しくもなかった老人たち。
 ミュウの子供を救出するための下見の時やら、情報収集のために降りた時やら、人類が生活している世界に行く度、何度も見掛けた老人の姿。人混みの中に混じっていた。
 けれど…。



 シャングリラの中はどうだったろう、と馴染んだ船に視点を移せば、消えてしまったお年寄り。老人らしき姿が見付からない。大勢の仲間が乗っていた船で年寄りと言えば…。
(ゼルとヒルマンだけ?)
 長老と呼ばれた二人の他には思い浮かばない高齢者。お年寄りという言葉が似合う人間。
 白い髭がトレードマークだったヒルマンと、禿げ上がった頭がよく目立ったゼル。彼らの他には男も女も思い付かない、老人らしき姿は見当たらない。
 いくら記憶を掻き回しても。遠い記憶を手繰ってみても。
(ぼく、忘れちゃった…?)
 まさか、と順に挙げてゆく名前。白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。
 ソルジャーだった自分が彼らを忘れる筈が無い、と指を折りながら数えてゆく。船の中心だったブリッジから始めて、機関部や農場、厨房に養育部門に、メディカル・ルームに…。
 一通り数え終わったけれども、仲間たちの顔も名前も浮かんだけれど。
 重なってこない、年を取った仲間たちの顔。
 ゼルとヒルマンの二人の他には、誰一人いない老人の姿をした仲間。



 念のために、とアルタミラから一緒だった古参の仲間を数え直したけれども、その中にも一人も見当たらない。ゼルとヒルマンを除いては。
(もしかして、他にはいなかった…?)
 あの二人しかいなかったろうか、白いシャングリラに乗っていた老人は。
 実年齢はともかく、外見の上ではお年寄りと呼べる人間が他にいなかったろうか、あの船は…?
 それとも自分が忘れ去っただけで、シャングリラにも老人は何人もいたのか、それが謎。
 もしも忘れたのなら酷い話で、ソルジャー失格な気分になる。
(生まれ変わる時に、何処かに落として来ちゃったにしても…)
 忘れた仲間に申し訳ない、と溜息をつきながら悩んでいたら、チャイムが鳴った。窓から覗くと門扉の向こうで手を振るハーレイ。
 応えて大きく手を振り返して、「丁度良かった」と頷いた。
 ハーレイだったら、きっと覚えているだろう。長年キャプテンを務めたのだし、シャングリラの仲間たちの姿がどうであったか、年を取った仲間がいたかどうかも。



 部屋に来てくれたハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。お茶とケーキもそこそこにして、早速、ハーレイに問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ゼルとヒルマンなんだけど…」
 年寄りだったことは覚えているよね、あの二人が…?
「そりゃあ、間違えても忘れはせんが…。どうかしたか?」
 ゼルとヒルマンがどうかしたのか、夢にでも出たか、あいつらが?
「そうじゃなくって…。他にも年を取った仲間はいたっけ?」
「はあ?」
 なんだ、とハーレイが鳶色の瞳を丸くしたから。
 思い出せないんだよ、と白状した。
 みんなの名前は覚えているのに、ゼルとヒルマンの他にも年寄りがいたかどうなのかを、と。
「…酷いでしょ?」
 生まれ変わってくる時に落っことして来ちゃったのかな、みんなの顔を。
 若い顔しか覚えていなくて、頑張っても思い出せなくて…。
 今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないけど、これじゃソルジャー失格だよ。
 みんながどういう顔をしてたか、すっかり忘れてしまったなんて。



 自分でも情けないんだけれど、とブルーは頭を振ったのだけれど。
 ハーレイの方はクッと短く喉を鳴らして、「年寄りなあ…」と笑みを含んだ声で。
「いるわけないだろ、あいつらの他に」
「えっ?」
「お前の記憶で合っているんだ。シャングリラで年寄りと言ったら、あいつらだけだ」
 好きに年齢を止められたしなあ、年寄りなんぞはいやしなかった。ゼルとヒルマンの他にはな。
 そもそも、何のための長老だったんだ?
 そこの所をよく考えてみろよ、どうしてゼルとヒルマンは年を取ったんだっけな…?
「えーっと…」
 前のぼくが若すぎたからだったっけね、ソルジャーなのに。
 それじゃ睨みが利かないから、ってゼルたちが年を取ったんだっけ…。



 言われてみれば、自分たちの威厳を保つためにと年を取り続けたゼルやヒルマンたち。
 他の仲間が若い姿なら、年を重ねれば自然と重みが増すだろうから、と止めなかった外見年齢。
 後に長老と名付けられたのも、姿の関係なのかもしれない。年齢だけなら同じような仲間は他に何人もいたのだから。アルタミラからの古参だったら、誰でも長老なのだから。
 とはいえ、エラとブラウは早めに外見の年を重ねるのを止めてしまったけれど。ヒルマンたちのようになるまで老けずに、髪に白髪も混ざらない内に。
 ハーレイだって、ゼルたちよりは遥かに若かった。他の仲間たちよりは年かさと言うだけ、まだ老人とは言えない姿。今と同じで、せいぜい中年、初老と呼ぶにもまだ早かった。



 その差は何処から来たのだろう、と不思議に思った前のハーレイと長老の四人。
 同じように年を取ってもいいのに、何処で違いが生じただろう、と首を傾げたら。ハーレイにはそれだけで通じていたのか、あるいは心が零れていたか。
 言葉にする前に答えが返った、ハーレイから。
「前の俺たちの外見の違いというヤツか? それはだな…」
 簡単なことだ、エラとブラウは女心だ。
 少しでも若い方がいいと思うのが女性ってヤツで、あのくらいの年が限界だったわけだな。
 まだまだ充分、女性らしい魅力が漂う姿で、なおかつ年も重ねてとなると、あの辺りだった。
 もっと老けたら綺麗じゃなくなると思ったってことだ、あの二人はな。
「…ハーレイは?」
 ハーレイはどうなの、女心じゃなくって男心とか…?
 あれよりも老けたらカッコ良くないとか、そう思ってあそこで止めちゃったの?
「俺は船を操る関係上な…」
 シャングリラの操舵は場合によっては力仕事だ、何時間だって立ちっ放しってこともある。
 それに機敏に反応出来なきゃ話にならんし、キビキビ動ける身体を持っていないとな…?



 ウッカリ年を取りすぎるとマズイ、と笑うハーレイ。
 自分の好みと言うだけだったら、もっと年を取っても良かったんだが、と。
「今の俺だって、そういうつもりでいたからなあ…。お前に出会って止めちまったが」
 年を取るってことに関しちゃ、俺は取りたい方なんだ。
 前の俺だって、キャプテンという仕事をやっていなけりゃ、どうなっていたか分からんぞ。
 これが俺かとお前が驚くくらいの姿になってたかもなあ、もっと年を取って。
「…じゃあ、ヒルマンとゼルは?」
 どうして二人だけ、あそこまで年を取っちゃったの?
 ヒルマンもゼルもすっかり白髪で、ゼルはツルツルに禿げちゃっていたよ。髪の毛が薄くなって来たかも、って気が付いた所で年を止めていたら、あんな風に禿げたりしなかったのに…。
 ヒルマンにしたって、あそこまで年を取らなくてもいいと思うんだけどな。
 シャングリラにお年寄りは二人だけだった、って聞いたらなおのことだよ、適当な所で止めれば普通で済んだのに…。
 エラとかブラウとか、ハーレイみたいに。



 あの二人は年を取りすぎだったと思うけれど、と呟いたら。
 やり過ぎだろうと、ゼルとヒルマンの姿と他の仲間たちの姿を頭の中で比べていたら…。
「あいつらの姿は、完全に趣味だ」
 俺と同じだ、年を取るのが趣味だったんだ。だからヤツらは後悔してない。白髪だったことも、綺麗サッパリ禿げちまったことも、あいつらにとっては趣味の副産物ってな。
「…趣味だったの?」
 あれってゼルたちの趣味だって言うの、シャングリラで二人だけしかいなかったお年寄りの姿。
 そりゃあ、今でもああいう姿が好きな人はたまにいるけれど…。
「俺が言うんだ、間違いない」
 あの二人とは数え切れないほど一緒に酒を飲んだし、飲み友達っていうヤツだ。
 ただの友達ならばともかく、飲み友達に嘘は言わんだろう。
 酒が入れば本音も出るしな、普段は言わない文句や愚痴も出てくるもんだ。
 あいつらの愚痴は散々聞いたが、白髪や禿げについては一度も聞いちゃいないぞ。むしろ自慢の種ってヤツだな、ヒルマンの髭とゼルの頭はな。
 「わしの頭はよく光るんじゃ。上等なんじゃ!」と磨き始めたとか、「この髭は君が生やしても似合わないだろうねえ、品の良さとは逆になりそうだよ」と得意げに何度も引っ張ってたとか…。
 頭が光る件はともかく、髭の方は確かに否定出来んな。
 俺がヒルマンみたいな髭を生やしてたら、見た目はまるで海賊だろうし…。そう思わないか?



 飲み友達だけに間違いはない、と説得力のある言葉。
 愚痴も本音も山ほど聞いて来たから、二人が年を重ね続けたのは明らかに趣味だ、と。
「だが、あいつらの他には知らないなあ…。そういう趣味の持ち主はな」
 少なくとも、俺たちの船にはいなかった。トォニィの代になったら誰かいたかもしれないが。
 俺たちの時代には見事に全員、若かったわけだ、俺ですら年を取ってた部類だ。
 お前の記憶に無くて当然っていうことになるな、年寄りに見えた仲間ってヤツは。
「それじゃ、あの二人だけが例外だったの?」
 他のみんなには年を取ろうっていう趣味が無くて、若い姿のままだったんだ…?
「そうなるな。シャングリラでは貴重な年寄りってことだ、あの二人の他にはいないわけだし」
 船の中を隈なく捜し回っても、他の年寄りは何処にもいなかった。若いヤツなら山ほどいたが、年寄りとなると二人だけだぞ、ゼルとヒルマンだけだったんだ。
 …それでだ、お前、知ってるか?
「何を?」
 ゼルとヒルマンのことはハーレイには敵わないけれど…。
 ぼくが知ってるのはソルジャーとして分かる範囲で、愚痴や本音は詳しくないよ?
「都市伝説っていうヤツなんだが」
 知らないか、そいつ?
「都市伝説…?」
 なんなの、それって、どういう意味?
 都市伝説っていう言葉も知らないけれども、そんな言葉、シャングリラにあったっけ…?



 まるで知らない、とキョトンとしてしまったブルーだけれど。
 それも当然、都市伝説とは今のハーレイが得意な雑談のネタの中の一つで。
 SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。この地域の辺りにあった小さな島国、日本という国で使われた言葉が「都市伝説」。
 まことしやかに囁かれる噂をそう呼んだと言う。根拠も無いのに、本当のように伝わる話。
「その都市伝説。シャングリラは都市ではなかったわけだが…」
 閉じた世界で、あの船の中が世界の全てっていうヤツが殆どだった船だが…。
「何かあったの、都市伝説が?」
 本当かどうかも分からないのに、何か噂が流れていたの…?
「うむ。ゼルとヒルマンに関するヤツがな」
 今の俺なら「都市伝説か」と思うわけだが、あの頃はそういう上手い言葉は無かったなあ…。
「どんな噂なの?」
「それはだな…。シャングリラに来たガキどもは必ず、一度は聞くってヤツでだな…」
 何処からともなく耳に入るんだな、その噂。
 遊び仲間のガキが喋るとか、とっくに大人用の制服になった先輩が耳打ちしに来るとかな。
 その噂が、だ…。



 ハーレイが言うには、都市伝説とは「ゼルとヒルマンは年を止めるのに失敗した」という噂。
 ああなりたくなければサイオンの猛特訓をしろ、と囁かれていた白いシャングリラの都市伝説。
「えーっ!」
 知らなかった、とブルーは仰天した。
 ソルジャーとしてシャングリラを守り続けたけれども、一度も耳にはしていない噂。子供たちの間でまことしやかに流れ続けた都市伝説。
 しかも根拠は本当に無いし、それどころか噂は間違いだから。
 ヒルマンもゼルも自分の意志で年を取り続けていたと言うから、あまりにも酷い間違いで。
 二人の名誉にも関わることだし、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
「…誰がそんな噂を流したの?」
 酷すぎるじゃない、都市伝説にしたって無責任だよ!
 前のぼくがそれを知っていたなら、絶対、違うって子供たちに言いに出掛けたのに…!
「いや、その必要は無いってな。なにしろ、噂を流していたのは…」
 あいつら自身だ、ゼルとヒルマンが積極的に関わってたわけだ。実はこうだ、と。
「…なんで?」
 自分の名誉の問題なんだと思うけど…。失敗したなんて、とってもカッコ悪いんだけど…!
「そう脅してやれば頑張るだろうが、ガキどもが」
 でないと適当にサボっちまうしな、シャングリラに来ればもう安全だし…。
 人類に追われた時の恐怖も、喉元過ぎれば何とやらってな、直ぐに忘れるガキだけにな。



 とんでもなかった都市伝説。ゼルとヒルマンが年寄りだった理由に纏わる恐ろしい噂。
 サイオンの訓練をきちんとしないと年を取ってしまうと、サボッた末路は白髪やハゲだと。
 ゼルとヒルマンが流した噂のお蔭で、訓練をサボらず頑張ったという子供たち。
 あの二人のようになっては駄目だと、なんとしても年を止めなければ、と。
「ヤエなんかは特に必死だったようだな、サイオンの訓練」
「…ヤエ?」
「うむ。覚えてるだろ、ブリッジの眼鏡の女の子だ」
 ルリと同じくらいにチビの頃からブリッジにいたな、あのヤエは。
 …って、お前はルリはチビの頃の方が馴染みがあるのか、アルテメシアじゃチビだったし…。
 大きくなったルリはメギドに行く前にチラッと見ていただけってことだな。
「そうだけど…。大きくなったなあ、って見ていたよ」
 仲間たちが揃ってこんな風に大きく育てるように、と思って見てた。
 そのためにもシャングリラを守らなくちゃって、ナスカの仲間も助けなくちゃ、って。
 でも、ルリじゃなくてヤエがどうかした?
 前のぼくがまだ元気だった間に、すっかり大人になっちゃってたけど…。
「それがだ、ヤエはあの外見を保っていたが、だ…」
 どうやら死力を尽くしたらしいな、若さを保つという方向で。
 他の方面で凄い才能を持っていたから、まさか若さにこだわってたとは思わなかったが…。



 ブリッジで主に分析を担当していたヤエ。
 メカにも強くて、地球へ向かう時、トォニィたちが乗る戦闘機の開発や整備を手掛けて、ゼルの船にステルス・デバイスを搭載したほど。
 それほどの才媛が若さを保とうと努力していたと言う、でないとモテもしないから、と。
「若さって…。モテるって、そうなるわけ?」
 ヤエほどの才能があったら、別にモテなくてもいいんじゃあ…。
 他の仲間たちから注目されるし、尊敬だってして貰えるし…。
「いやいや、モテも大切だぞ?」
 今の俺だから分かるんだがなあ、注目と尊敬だけじゃ人生に潤いってヤツが無いんだな。
 うん、今ならヤエに言ってやれるな、「人生、まだまだ捨てたモンじゃないぞ」と。
「…言ってやれるって…。その話、なんでハーレイが知ってるの?」
 ヤエがホントはモテたかったってこと、誰に聞いたの?
「トォニィとアルテラが仲良く喧嘩をしてた時にだ、愚痴ってたのを聞いちまった」
 あいつらは青春してるというのに、自分は駄目だとガックリしてなあ…。
 格納庫でトォニィの専用機を整備していた時だな、シンクロ率を上げるとか言って調整中で。



 偶然聞こえただけなんだがな、と苦笑するハーレイ。
 格納庫の今の様子はどうか、と覗いたモニターの向こうの出来事だった、と。
 若さを保って八十二年になるというのに、トォニィたちの方が青春しているなんて、と格納庫で嘆いていたらしいヤエ。整備中の専用機の影で肩を落として、滂沱の涙で。
「そうなんだ…」
 ヤエったら、きっと必死に頑張ったんだね、ゼルとヒルマンの噂を聞いて。
 ああなっちゃったら終わりだと思って若い姿を保っていたのに、努力は空振りだったんだ…?
「そのようだ。モテてたんなら、ああいう嘆きは出てこないからな」
 とはいえ、あの事件、前のお前が死んじまった後のことだがな。
 トォニィはすっかりデカくなってたし、他のナスカの子たちも成長していたし…。
「ハーレイ、笑った? ヤエの台詞を聞いちゃった時」
「もちろんだ。…声にも顔にも出せなかったが」
 ブリッジにいたんじゃ笑えないしな、その分、必死に顰めっ面だ。
 もしかしたら誰かに怖がられてたかもな、何かミスして怒鳴られるんじゃないかと勘違いして。
「それなら、良かった…」
 声に出せなくても、顔に出すことも出来なくても。
 今も覚えてて、ぼくに話してくれるくらいに可笑しいと思ってくれたんだったら…。



 その時、ハーレイが笑えたのなら、それで良かった、と微笑んだ。
 ぼくが死んだ後にも、ハーレイが笑っていてくれたなら、と。
「そりゃあ、たまにはな?」
 笑いだってするさ、どんなにドン底な気分でいたって、俺も人間には違いないんだ。
 色々と話してやっただろうが、前のお前が死んじまった後に起こった愉快な話を。
 地球へ向かう途中に立ち寄った星で、とんでもない買い物をしていたヤツらの話とかをな。
「うん…。でも、こうして聞けると嬉しいよ」
 ハーレイがブリッジで笑いを堪えてた顔が見えるみたいだよ、その時の顔。
 誰かに言おうにも言えやしないし、真面目な顔をしてるしかないし…。
 その上、ヤエが戻って来るんでしょ、暫く経ったらブリッジに?
「まあな。…もう、あの時の俺と言ったら…」
 笑いを堪えるだけで精一杯だったな、ヤエの顔を見るなり吹き出しそうでな。
 もう懸命にキャプテンの威厳を保ったわけだが、今の俺なら、ヤエを呼び出しだな、休憩室に。
 でもって、何も知らないふりして、何か飲み物でも勧めてやって。
 日頃の努力を労いながらだ、ふと思い付いたみたいに「人生は長いぞ」と話すんだ。
 いつか花が咲き、実もなるもんだと、俺もお前ほど若けりゃもっといいんだが…、とな。
「ハーレイが言うと、説得力があるのか無いのか、謎だよ、それは」
 薔薇のジャムが似合わないんだもの…。そのハーレイに言われても…。
「そこがいいんだ、強く生きろというメッセージだ」
 俺ですら諦めていないんだぞ、とアピールだな。この年になっても努力してるんだぞ、と。
「そっか、そういう方向なんだね」
 だったら、ヤエが聞いたら励みになったかも…。
 まだまだ諦める年じゃないって、ハーレイよりも見た目も年も若いんだから、って。



 思いがけない素敵な話を聞けたけれども。
 都市伝説だの、ハーレイが耳にしていたヤエの話だのと、思い出話が幾つも出て来たけれど。
 もしも、シャングリラで二人きりの年寄りだったゼルとヒルマンが今、いたならば…。
「ねえ、ハーレイ…。あの二人、今なら若いと思う?」
 前のぼくたちが生きてた頃より、年を取った人はグンと少なくなっちゃったけど…。
 ゼルたちだったらどうするんだろう、今の時代に生まれて来たら…?
「どうだろうなあ…。時代に合わせて若い方を選ぶか、年を取るのか…」
 そいつは謎だな、と首を捻るハーレイ。
 けれど、シャングリラで二人きりだった年寄りの二人、都市伝説まで流した二人。
 あの二人なら、今の時代に生まれても、きっと…。
「おんなじだろうね?」
 年を取るのが趣味なんだ、って白髪になったり、禿げちゃったりで。
「多分な、俺もそういう気がする」
 周りのヤツらが何と言おうが、我が道を行くというヤツだ。
 二人揃って友達同士に生まれていたなら、もう無敵だな。
 若いヤツらは話にならんと、人間、年を重ねてこそだと、酒を飲んでは演説だぞ、きっと。



 蓄えた髭まで白くなろうが、頭がすっかり禿げ上がろうが。
 あの姿が好きだったというゼルとヒルマン、趣味で年を取った二人だから。
 白いシャングリラで二人きりだった年寄りの二人、白髪やハゲが自慢だった二人。
(…きっと、好みは変わらないよね?)
 お年寄りの姿が珍しくなった今の時代に生まれたとしても、きっと、あんな風に。
 シャングリラで暮らした頃と同じに年を重ねて、その姿が自慢なのだろう。
 今はすっかり意味が変わった優先席。
 お年寄りのためにあるのではない、車椅子のマークが貼られた座席。
 もちろん其処に座りもしないで、二人とも、元気一杯で。
 自分とハーレイが地球での毎日を満喫しながら生きているように、ゼルたちも、きっと。
(うん、きっと…。そうだといいな、ゼルとヒルマンも、ぼくたちみたいに)
 今は平和になった宇宙で、青い地球の上で、前の自分たちが生きた時代の思い出話。
 これからも幾つも語り合っては、幸せな今を生きてゆく。
 ハーレイと二人、手を繋ぎ合って、いつまでも、何処までも、幸せの中を…。




          年を重ねた人・了

※ゼルとヒルマンの他には一人もいなかった、シャングリラの老人。趣味で年を重ねた二人。
 そのせいで生まれた都市伝説やら、ヤエの話が聞けて嬉しいブルー。素敵な思い出話が沢山。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]