シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(届かない…)
まだまだ無理、とブルーが見上げたクローゼット。
学校から帰って、おやつを食べて。自分の部屋に戻った後で、クローゼットが目に入ったから。見た目は普通のクローゼットで、ずっと前からあるのだけれど。部屋に馴染んだ家具だけれども。
この春から一つ、秘密が出来た。特別になったクローゼット。
正確に言うなら春ではなくて初夏かもしれない。鉛筆で微かな印をつけた時から、秘密が一つ。前の自分の背丈の高さに引いた線。クローゼットに書いた目標、こうして見上げて溜息をつく。
五月の三日に出会ったハーレイ、再会を遂げた前の生からの自分の恋人。
直ぐにでもキスをしたかったのに。抱き合ってキスして、それから、それから…。
恋人同士の絆を確かめ、前とすっかり同じように。離れていた時を取り戻すように、ハーレイと愛を交わしたかったのに。
キスさえも駄目と言われてしまった、今の自分は子供だから。十四歳にしかならない幼い子供。
そんな子供にキスは早いと、前の自分と同じ背丈に育つまでは駄目だと叱った恋人。それまではキスは頬と額だけ、唇へのキスはしてやらないと。
そう言われたから、クローゼットに印をつけた。前の自分の背丈の高さを床から測って。
母に見付かって叱られないよう、鉛筆で微かに引いておいた線。床から百七十センチの所に。
(あと二十センチ…)
今の自分の背丈はたったの百五十センチ、百七十センチまではまだ遠い。二十センチもの大きな違いで、それに加えて問題が一つ。前の自分の背丈との差の二十センチ。
これが少しも縮んでくれない、一ミリさえも縮みはしない。春はとっくに過ぎてしまって、夏も終わって秋なのに。草木も子供もよく育つ夏が、育ち盛りの年の夏休みがあったのに。
(ちっとも縮まらないんだけれど…)
伸びてくれない自分の背丈。百五十センチから伸びない背丈。
ハーレイと再会した日から全く変わらないままで、ハーレイにかかれば「チビ」の一言。チビはチビだと、お前はほんの子供なんだ、と。
クローゼットに秘密の印をつけた時には、直ぐに育つと思ったのに。二十センチの差はみるみる縮んで、前の自分の背丈になる日が順調に近付くと思っていたのに。
そうだと思って浮かれていたのに、まるで伸びてはくれない背丈。未だに卒業出来ないチビ。
一ミリずつでも育ってくれたら、チビと笑われはしないのに。
「キスは駄目だ」と叱るハーレイも、子供扱いをやめてくれるだろうに。
それなのに一ミリも伸びない背丈。チビで子供の姿の自分。
縮まらない差も問題だけれど、それに加えて。
(あの高さの視点…)
前の自分の背丈になったら、この部屋がどう見えるのか。二十センチ伸びたら、部屋の見え方はどう変わるのか。チビの自分の視点ではなくて、前の自分の視点で見た部屋。
あの線を引いた日、ちゃんと確かめた。こんな感じ、と見回した部屋。
床から二十センチ離れて、今の背丈に二十センチをプラスして。
背伸びしたわけでも、爪先立ちしたわけでもなくて、フワリと床からサイオンで浮いた。自分の身体を浮き上がらせて、印の高さに頭を合わせた。前のぼくの背はここまでだった、と。
まるで違って見えた部屋。二十センチも背が高くなると、普段は見えないものまで見えた。棚の上に置いた物の角度も違って見えたし、他にも色々。
いつかはこんな風に見えるようになるのだから、と何度も浮いたり、床に下りたり。
今の自分との違いを楽しみ、そこまで育つ日を夢見て浮いた。この高さまで育つのだから、と。
心を弾ませて何度も浮いてみた高さ、前の自分と同じ視点で眺めた部屋。こう見えるんだ、と。前のぼくの目でこの部屋を見たら、こんな感じに見えるんだよ、と。
楽々と浮いて、身体を浮かせて、また下りてみて。
高揚した気分で味わった世界、前の自分と同じ背丈に育ったら見えるだろう世界。
けれど…。
全然無理、とクローゼットの印を見上げて溜息をついた。
二十センチの差が縮まらないことも問題だけれど、あの日、自分が見ていた世界。いつか育てば見える筈の世界。
それが見えない、どう頑張っても。いくら睨んでも、少しも近付かない印。
(やっぱり浮けない…)
あれ以来、浮けた試しがない。前の自分の背丈の高さに並べられない、自分の頭。床から浮いて並べはしなくて、両足は床についたまま。ほんの一ミリも浮いてはくれない。
前と同じにタイプ・ブルーに生まれたけれども、今の自分はとことん不器用。サイオンの扱いが上手くいかない、思念波さえもろくに紡げないレベル。
空は飛べないし、身体も浮かない。どう頑張っても、自分の意志では浮き上がれない。
クローゼットに印をつけていた日は、前の自分が現れたのか、と思うくらいに浮かない身体。
今日も印を睨み付けるけれど、床から離れてくれない足。印の高さまで浮けない身体。
(いつもそうだけど…)
クローゼットの印を見る度、努力するけれど何も起こらない。今の自分の身体は浮かない。
元々、不器用だったサイオン。
ハーレイの家まで無意識の内に飛んでしまった瞬間移動も、たった一度きり。
(あれって、前のぼくだった…?)
瞬間移動の件はともかく、クローゼットに印をつけた日。
前の自分の背丈はこれだけ、と身体を浮かせて、この部屋を眺めていた自分。小さな自分の目で見る部屋との違いに感動していた自分。
浮いたり下りたり、何度も何度も試して遊んだ。いつかここまで育つんだから、と。
あの日の自分は、自分には違いなかったけれど…。
(前のぼくかと思っちゃうよ…)
遠く遥かな時の彼方から、前の自分が来たのかと。今の自分の身体を使って遊んだのかと。
そういうこともあるかもしれない、今の幸せを味わいたくて前の自分が現れることも。自分でも意識しない間に、ヒョイと現れて小さな身体を好きに使ってゆくことも。
(どうせだったら、ぼくに尋ねてくれればいいのに…)
使っていいかと訊いてくれれば、もちろん「うん」と元気に答える。そして、自分も前の自分に頼んでみる。少し力を貸して欲しいと、サイオンを使ってみたいんだけど、と。
(そしたら身体も浮かせられるし、空も飛べるし、瞬間移動も…)
出来るんだけど、と思うけれども、自分は二人もいないから。自分同士で会話が成り立つわけがないから、無理なものは無理。前の自分の力を借りることなどは夢物語。
今日も浮けない、と諦めた末にトンと床を蹴った。
この高さまで、と飛び上がってみた、百七十センチの所につけた印の高さまで。
ほんの一瞬だけ目に入った世界、前の自分の視点から見た自分の部屋。これだ、と大きく弾んだ心。育ったら部屋はこう見えるんだ、と。
けれどもストンと落っこちた身体、床へと戻ってしまった両足。もう見えはしない、前の自分と同じ背丈で眺める世界。今よりも二十センチ育って大きくなったら、見える筈の世界。
ずっと眺めていたいけれども、ジャンプしないと届かない高さ。それも一瞬だけ、すぐに身体は床へと落ちてしまうから。
また見たいのなら、床を蹴るしかないけれど。ジャンプするしかないのだけれど…。
(何度も飛べない…)
床に落ちたら音がするのだし、階下の母にもきっと聞こえる。一度くらいなら気にもしないし、何か落としたのか転びでもしたかと、首を傾げるくらいだろうけれど。
何度も繰り返し飛んでいたなら、何をしているのかと部屋まで様子を見に来そうだから。「何の音なの?」と尋ねられるだろうから、何度もジャンプは繰り返せない。
クローゼットの印の高さに自分の頭を合わせたくても。前の自分の背丈で眺める、まるで違った部屋の景色を心ゆくまで見てみたくても。
(あと二十センチ…)
今の自分には届かない世界、そこまで伸びてくれない背丈。いつ育つのかも分からない背丈。
さっき一瞬、ジャンプしてそれを体験したから。こう見えるのだ、と部屋を見てしまったから。
今日はどうしても味わってみたい、前の自分と同じ背丈で眺める世界。
クローゼットに印をつけた日、何度も試していたように。この高さだと何度も眺めたように。
けれども自分は浮けはしないし、ジャンプも何度も出来はしないから。
(えーっと…)
椅子に乗ったのでは高すぎる。二十センチどころか、もっと高さがあるのが椅子。
本を積んだら上手い具合にいきそうだけれど、本を踏むのは行儀が悪い。積み上げた上に立ってみるなど、とんでもない。一番良さそうなものではあるのだけれど。
(いい高さのもの…)
二十センチくらいの高さで、乗ってもペシャンと潰れないもの。何か無いかと見回したけれど、生憎と何も見付からないから。丈夫な箱なども何も無いから。
(大は小を兼ねる、って…)
そう言うものね、と勉強用の椅子をクローゼットの側まで運んで行った。二十センチよりも高いけれども、無いよりはマシ、と。
クローゼットの隣に置いた椅子。その上に上がってみたけれど。
座面の上に両足で立ってみたけれど、椅子の高さは二十センチより高いから。前の自分の背丈の印は目の高さよりも下になってしまって、それに合わせるなら屈むしかなくて。
(やっぱり違うよ…)
これじゃハーレイみたいだし、と高くなりすぎた自分の視点を嘆いた所で気が付いた。
(そうだ、ハーレイ!)
前の自分よりも背が高かったハーレイ、今ほどではなくても充分にあった背丈の差。前の自分が背伸びしてみても、ハーレイの背には敵わなかった。
それほどに背丈の高いハーレイだけれど、この椅子があれば、そのハーレイの視点で見られる。この部屋がハーレイにはどう見えているか、どんな景色を見ているのかを体験できる。
前の自分の背丈の視点も気になるけれども、それよりも高く出来るのだから。椅子が高い分だけ上へと視点を移せるのだから、ハーレイの世界を見てみたい。
あの鳶色の瞳が見ている部屋を。ハーレイの視点から眺めた自分の部屋を。
そう考えたら、もう止まらない。それが見たくてたまらない。
(んーと…)
椅子の高さが足りるかどうかが気になったけれど、どうやら足りてくれそうだから。ハーレイと今の自分の背丈の違いを、ちゃんと補ってくれそうだから。
(よし!)
やろう、と勉強机から取って来た物差し。それと透明な接着用のテープ。
前の自分の背丈の高さを書いた印の上、ハーレイとの身長の差を物差しで測った。今でも忘れていないから。二十三センチ違った背丈。ハーレイの背丈は百九十三センチ、前も、今でも。
流石に印はつけられないし、と持って来ていた透明なテープ。五センチほどの長さに切って来たそれを、クローゼットにペタリと貼り付けた。ハーレイの背丈はこの高さ、と。
(出来た!)
ハーレイの頭の高さは此処、と大きく頷いて、椅子からピョンと飛び下りて。物差しを勉強机に返して、それから椅子の上へと戻った。ハーレイの世界を味わうために。
透明なテープを貼った高さに、自分の頭を合わせてみて。椅子の上で慎重に姿勢を整えて。
こうだ、と固定したハーレイの視点と同じ筈の高さ。その高さから部屋を見回して大満足で。
(そっか、ハーレイにはこう見えてるんだ…)
勉強机や、いつも二人で使うテーブルと椅子や、本棚などが。
いつも自分が見ているのとはまるで違った、その見え方。前の自分の背丈以上に高い場所から、ハーレイはこういう風に見ている。今の自分が住んでいる部屋を。今の自分の小さなお城を。
新鮮な景色に驚いていた間は良かったけれど。
キョロキョロしていた間は幸せだったのだけれど、ふと目に入ったクローゼットに書かれた印。鉛筆で微かに引いた線。前の自分の背丈の高さに。
それはずいぶん下の方にあって、二十三センチの差はとても大きい。そして今の自分の方だと、その印よりも更に二十センチも下に頭があるわけで…。
(すっごくチビ…)
今の自分の背丈の印は無いけれど。クローゼットに書いてはいないけれども、二十センチの差と二十三センチの差は、それほど大きく違わないから。
ハーレイの背丈の高さで見ている自分が見下ろした印、そこまでの差が二十三センチ、そこから下へと同じくらいに見下ろした所が今の自分の頭の高さ。頭の天辺。
ハーレイはいつもそれを見ている、この高さから。今の自分の小さな頭の天辺を。
(…四十三センチ…)
見上げるように背の高いハーレイ、その差は分かっていたけれど。四十三センチも違うと何度も思ったけれども、こうして見たことは無かったから。
小さな自分が見上げるばかりで、ハーレイの視点から眺めた自分がどんな風かは、まるで考えもしなかったから。
(…ぼくって、こんなにチビだったんだ…)
ハーレイがキスもしてくれないわけだ、と肩を落として椅子から下りて。
改めてテープの高さを見上げた、ハーレイの背丈はあんなに高い、と。あそこから見れば自分は本当にチビで子供で、どうしようもなくて。
キスしようにも腰をどれほど屈めればいいのか、ハーレイにすれば笑い事かもしれないわけで。とんでもないチビが一人前にキスを強請ると、笑っているかもしれないわけで…。
子供扱いされるわけだ、と納得せざるを得ない状況。
ハーレイの視点が分かったら。椅子の上に上がってそれを見てみたら、ハーレイの瞳が見ている世界を自分で確認してみたら。
(ホントのホントに、チビで子供で…)
キスが駄目でも仕方ないかも、と項垂れていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄れば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
仕事帰りに来てくれたことは嬉しいけれども、とんだ不意打ち。大慌てで椅子を抱えて運んで、勉強机の所に戻したから。剥がし忘れた透明なテープ。クローゼットに貼り付けたテープ。
ハーレイの背丈はこの高さ、と自分がペタリと貼り付けたテープ、それを剥がすのを忘れていたことに気付いた時には既に手遅れ。もうハーレイの声がしていて、母の声もして。
(…剥がしに行けない…)
今から椅子を運んで行っても間に合わない。なんとかテープを剥がせたとしても、椅子を抱えて戻る途中で二人が入って来るだろう。扉を軽くノックして。「入るわよ?」と母が扉を開けて。
その時に椅子を運んでいたなら、大ピンチだから。運ぶ途中ならまだいいけれども、椅子の上に上がってテープを剥がしている時だったら、ピンチどころかアウトだから。
(…バレませんように…)
どうかハーレイが気付かないでいてくれますように、と心で祈った。
もしもバレたら、子供っぽさが倍になるから。笑われてしまうに決まっているから。
そのハーレイが部屋に来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶とお菓子をお供に話す間も、気になってしまうクローゼット。
貼ったままのテープも心配だけれど、それを使って体験していたハーレイの世界。高い視点から眺めた部屋。とても小さいのだろう自分。
こうして腰掛けていたら、それほど酷くは違わないけれど。四十三センチの差は無いけれど。
(…だけど、チビ…)
やっぱりチビ、とクローゼットを見てしまうから。ついつい視線を遣ってしまうから。
「なんだ、あそこに何かあるのか?」
クローゼットに、とハーレイの視線もクローゼットに向けられた。透明なテープがある方に。
「ううん」
なんでもないよ、ちょっと見ただけ。
「そういうわけではなさそうだがな? お前、何度もチラッと見てるぞ」
何か隠してあるのか、中に?
隠し事は直ぐにバレるもんだぞ、隠そうとすればするほどにな。
「中じゃないよ!」
「ほう…?」
中じゃないと来たか、ならば外だな、クローゼットの?
語るに落ちるとはこのことだな、と笑ったハーレイ。
自分で白状したようだが、と。クローゼットの外に何があるんだ、と鳶色の瞳が覗き込むから。
「何も…」
何も無いってば、外側にも!
中にも外にも何も無くって、ホントに見ていただけなんだってば…!
「むきになる辺りが、ますますもって怪しいってな。そう思わないか、自分でも?」
本当に何も無いんだったら、キョトンとしてると思うがな。「何かあるの?」と逆に訊くとか。
それをしないで慌ててるトコが、何かあるんだという動かぬ証拠というヤツだ。
クローゼットの外側なあ…。お前が見ていた感じからして…。
おっ、あのテープか。普通、クローゼットにテープは貼らないよな?
ポスターでも貼ろうというならともかく、透明なテープだけっていうのは。
ふむ、とハーレイが椅子から立ち上がって出掛けて行って。
クローゼットに貼られたテープを「俺の背の高さだ」と眺めているから。この高さに貼ることに何の意味が、と指でテープに触れたりするから。
隠すだけ無駄だと観念した。きっとハーレイにはバレるんだから、と。
「…ハーレイの背の高さを体験したくて…」
ぼくの部屋がどんな風に見えてるのかな、って気になっちゃって…。
それで貼ったんだよ、そのテープ。椅子に上がってその横に立って、ぼくの頭を合わせてみて。
ハーレイになったつもりで見ていたんだよ、この部屋の中を…。
「そういうことか…。俺の背の高さを真似たってことは、だ」
椅子に上がってまでやってたんなら、椅子に上がらないと届かないことも分かっているな?
そうまでしないと俺の背まではとても届かない、今のお前の背丈ってヤツも分かっただろう。
自分が如何にチビなのかってことも、よく分かったか?
「うん…」
情けないほど小さかったよ、今のぼく。
ハーレイから見たら本当にチビで、うんと子供で。頭の天辺、ずうっと下にあるんだもの…。
「分かったようだな、今のお前のチビさ加減が」
こいつを貼っただけの甲斐はあったというわけだ。
俺の背丈を体験しようと、頑張って椅子の上に上がって、高さも測って。
用が済んだならもう要らないな、と軽々と剥がされてしまったテープ。
ハーレイはそれを指先で丸めて屑籠に捨ててしまっただけ。ポイと放り込んだら自分の椅子へと戻って来たから、背丈の印は気付かれなかった。
透明なテープを貼った場所から二十三センチ下に、鉛筆で引いてあった線。一日も早くその高さまで、と何度も見上げている目標。
そっちの方はバレずに済んだ、とホッとしていたら、問い掛けられた。
「お前、俺の背なんかが憧れなのか?」
前の俺と少しも変わりはしないが、お前、この高さに憧れてるのか?
「…ほんのちょっぴり…」
凄いよね、って思っちゃったよ、ハーレイの背の高さ。
ぼくなんかホントにチビでしかなくて、ぼくの頭はハーレイから見たら、ずっと下にあって…。
「憧れるのはお前の勝手だが…。体験してみるのも勝手なんだが…」
そんなにデカくなってみてどうするんだ、馬鹿。
憧れと体験するのはともかく、お前が本当に俺と変わらない背丈に育っちまったら。
俺と釣り合いが取れなくなるぞ、と弾かれた額。
普段はそれほど困らないにしても、結婚式はどうするつもりなんだか、と。
「白無垢ならいいが、ウェディングドレスを着るとなるとなあ…」
それに似合う靴を履くことになるし、そうなれば踵の高い靴だし、俺より背が高くなっちまう。
俺にも踵の高い靴を履いてくれってか?
その手の靴も無いことはないが、まさか俺の背でそいつを履くことになるとはなあ…。
しかし、本当になるかもしれん。今度のお前はデカくなるかもしれないからな。
「えっ?」
デカくなるって、もしかして、前のぼくよりも?
ハーレイと同じくらいに育つって言うの、今度のぼくは?
「そうならないとも限らないな、と可能性ってヤツを言ってるまでだ」
あまりにもチビの間が長いし、今は一ミリも伸びないままだし…。
少しも育たずに止まっている分、伸び始めたら派手に伸びるかもしれん。見る間にぐんぐん背が伸びていって、気付いたら俺と変わらんくらいになっているとか。
「そんな…!」
ハーレイと同じくらいに育つなんて嫌だよ、ぼくはそこまで育たなくてもいいんだよ!
結婚式の時に、ハーレイが背を高く見せる靴を履くようなことになるなんて…!
前のぼくと同じ背丈がいい、と叫んでしまった。
そうでないと困る、と。
「でないと、ハーレイと並んで歩く時だって困るよ…!」
ハーレイに手を繋いで貰って、「こっちだぞ」って連れてって貰おうと思っているのに…。
まるで背丈が変わらないんじゃ、引っ張って貰っても頼もしさが全然無いじゃない…!
それに手だって、ハーレイの手と大きさが変わらなくなっちゃうんだよ?
大きな手だな、って思えなくなって、ぼくは寂しくなっちゃうんだけど…!
「俺も大いに困るんだが…」
前とそっくり同じお前がいいんだがなあ、俺だって。
お前が言ってる通りのことだな、俺の方にしても。
今度はお前を守ってやる、って言っているのに、お前が俺と変わらないほどデカいんじゃあ…。
守るも何も、お前は充分、一人でやっていけそうじゃないか。デカいんだから。
そいつは俺も御免蒙りたいもんだ、俺と同じくらいにデカいお前は。
チビのお前が育たないのは、可愛いから全く気にならないが…。
育ち始めるのも楽しみではあるが、俺と変わらない背まで育つのは勘弁してくれ。
やっと育って前のお前と同じになったと思った途端に、それよりデカくなられたんじゃなあ…。
俺の立場はどうなるんだ?
一瞬でお前を失くしちまう、とハーレイが浮かべた苦笑い。
前のお前が戻って来たと思った途端に、お前はいなくなっちまうんだ、と。
「お前はちゃんと生きてるんだが…。俺の前にお前はいるんだが…」
俺の知ってるお前はアッと言う間に育っちまって、いなくなる。
代わりに前の俺の知らないデカいお前がいるってわけだな、俺と変わらないほどデカいお前が。
「そこまで大きくならないよ!」
前のハーレイが知らないぼくになったりしないよ、ぼくはぼくだよ!
「そればっかりは分からんぞ?」
育ち始めてみないことには、何処で止まるかは誰にも分からん。
お前のサイオンが器用だったら、これはマズイと思った所で成長を止めれば済むんだが…。
前のお前の背丈を越えてしまいそうだ、と気付いたら止めりゃいいんだが。
そしたら見た目にそれほど変わりはしないんだろうが、お前のサイオン、不器用だしなあ…。
止めるなんてことは出来そうもないし、どんどん育つ一方だってな。
「きっと止まるよ、前と同じで!」
前のぼくとおんなじ背丈で止まる筈だよ、育ち始めても…!
「どうだかなあ…」
現に今だって、前のお前とは全く違った育ち方をしているわけだしな?
前のお前は長いこと成長を止めてしまっていたが、あれは未来に何の希望も無かったからで…。
今の状況とはまるで逆様で、今のお前は育ちたいわけで。
少しでも早く育ちたいんだと焦っているのに、一ミリも育っていないだろ、お前?
背を伸ばそうと毎朝飲んでいるミルクが一気に効き始めるとか、と言われたから。
今まで全く無かった効果が何処かに蓄えられていて、効きすぎるかも、と脅されたから。
「そんなの、ぼくも困るんだよ…!」
効かなくても頑張って飲んでいるのに、飲んだ分だけ、貯金みたいになってるだなんて!
育ち始めたらぐんぐん育って、前のぼくの背を追い越しちゃって。
もう止めたい、って思っているのに止まらなくって、どんどん、どんどん、伸びるだなんて。
ハーレイと同じくらいの背丈になるまで、止められないままで育つだなんて…!
あんまりだよ、と泣きそうになった。
それくらいならチビの方がいい、と。育たないままの方がいい、と。
「チビでいいのか?」
お前、大きくなりたいんだろうが。
チビのままだとキスも出来んが、俺と変わらないくらいにデカくなるよりはチビでいいのか?
「…ハーレイと同じになっちゃうよりはね…」
おんなじ背丈になってしまって、手の大きさだって変わらなくなって。
手を繋いで歩いても、グイグイ引っ張って貰えなくなってしまうよりかはチビのままでいいよ。
うんと大きくなっちゃうよりかは、チビの方がずっといいんだよ…。
ハーレイとキスを交わせなくても、唇へのキスが貰えなくても、チビの方がマシ。
キスは駄目でも強い両腕で抱き締めて貰えて、甘やかして貰えて。
チビならハーレイに甘え放題、優しく扱って貰えるけれど。子供扱いでも、ハーレイの腕に包み込んで貰えるのだけれど。
ハーレイと同じ背丈になってしまっては、そうはいかないから。
手の大きさまで変わらなくなって、「こっちだぞ」と引っ張って貰えもしないから…。
「まあ、大丈夫だとは思うがな」
チビのままでいい、と悲観しなくても、無駄にデカくはならんと思うぞ。
面白いから脅してはみたが、前のお前と同じ背丈で止まるだろうなあ、お前の背丈。
「ホント…?」
ぼく、自分では止められないんだよ、育つのを。
これでいいや、って思った所で止められる自信、ぼくには少しも無いんだけれど…。
「神様が下さった身体だからなあ、お前も俺も」
俺は全く意識なんかはしていなかったのに、前の俺と全く同じ背丈に育ったんだ。一ミリさえも違いはしないぞ、前の俺とな。
だから、お前もそっくり同じに育つだろうさ。お前が頑張らなくても、勝手に。
年を取るのも自然に止まってしまう筈だぞ、前のお前と全く同じに育ったならな。
心配は要らん、とハーレイの手が伸びて来て髪をクシャリと撫でたけれども。
お前は俺のブルーなんだから、と太鼓判を押して貰えたけれど。
「しかしだ…。デカくなったお前って、どんなのだろうな?」
俺と全く変わらんくらいにデカく育ったら、お前はどういう風になるんだ?
「そんなの、想像しなくていいから!」
大きすぎるぼくなんて、ぼくは絶対、嫌なんだから!
「チビのお前は、前のお前も今のお前も知っているがだ、デカい方はなあ…」
前の俺は一度もお目にかかっちゃいないし、可能性があるのは今の俺だな。
まず無いだろうと思いはしてもだ、どんな感じか気にはなるなあ、デカいお前も。
「チビのぼくでいいよ!」
育たないままのチビのぼくでいいよ、大きくなりすぎるのは嫌だから!
育っても前のぼくと同じで、それよりも大きく育つつもりは無いんだから…!
大きすぎるぼくは想像しないで、と悲鳴を上げた。
ハーレイと同じ背丈に育ったぼくなんかは、と。
「そうか? 俺はそれでも美人だろうとは思うんだが…」
背が高すぎても、美人は美人だ。きっとスラリと背が高いんだぞ、俺と違って。無駄にゴツゴツしてはいなくて、透き通るような肌をしていて。
前のお前がそうだったように、誰もが思わず振り返るような凄い美人の筈なんだが…。
俺と釣り合いが取れるって意味では、断然、前のお前だな。あのくらいの背丈が丁度いい。
でなければ、チビか。
今のお前と変わらないままの、チビで小さな子供のお前か。
「チビでも釣り合い、取れてるの?」
ハーレイの背の高さになって眺めてみたら、ぼくはホントにチビなんだけど…。
椅子に上がって見下ろしてみたら、ぼくの頭はハーレイの目より、ずうっと下に見えていそうな感じにしか思えなかったんだけど…。
「同じ背よりかはチビの方がいいだろ、守り甲斐もあるし」
うんとチビなら、前のお前よりも大切に守ってやれるってもんだ。
それこそ俺が保護者ってヤツだな、チビのお前の手を引っ張って迷子にならないように。
「俺の手を離しちゃ駄目なんだぞ」って言い聞かせながら、チビのお前とデートってことだ。
もしもお前が疲れちまったらヒョイと抱き上げて歩くのもいいな、チビなんだしな?
お前もチビの方がいいんだろうが、と笑われたけれど。
デカくなるよりはチビなんだろうが、と念を押されてしまったけれど。
ハーレイと変わらない背丈に育ってしまって、甘えられなくなるよりは…。
(チビの方がいいに決まっているよね?)
クローゼットにつけた前の自分の背丈の印はまだ遠いけれど、チビでいい。
育ちすぎてしまうよりかは、チビの方が。
ハーレイに甘やかして貰える低い背丈の、チビの自分の方がいい。
チビでも釣り合いは取れるらしいし、ハーレイと釣り合いが取れるチビ。
前の自分と同じ背丈に育てないなら、チビでいい。
ハーレイの隣にいるのが似合う姿の自分がいい。
何処までも二人でゆくのだから。いつまでも二人、手を繋いで歩いてゆくのだから…。
ハーレイの背丈・了
※ハーレイの視点で眺める世界が気になったブルー。そして試してみたのですけど…。
今の自分がハーレイの背丈に育ってしまったら、大変なことに。前と同じがいいのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(今日は、ハーレイ…)
多分、来られない、とブルーがついた小さな溜息。学校から帰って、おやつの時間に。
母が焼いてくれたケーキはとても美味しいけれど。シロエ風のホットミルクもホッとする甘さが優しいけれども、いつものように弾んだ気持ちにならない。自然と綻んではくれない顔。
(ハーレイは会議…)
そう聞かされていた、数日前から。長引きそうな会議だから、と。
会議にも色々な種類があって、時間通りに終わるものやら、早めに終わることが多いものやら。逆に長引くのが常のものまで、今日の会議はそのタイプ。時間通りにはまず終わらない。
(…早めに終わって来てくれたこともあるけれど…)
駄目だった時の方が圧倒的に多いから。ハーレイの予告通りに会議は長引くものだから。仕事の帰りに寄ってはくれない、今日はハーレイが来てくれない日。
もちろん、毎日来てくれるわけがないけれど。来てくれない日も多いけれども、最初から駄目と分かっているのと、そうでないのとは違うから。
普段だったら、おやつを食べる間もときめく心。今日はハーレイに会えるだろうか、と。
けれども、今日は弾まない心。ハーレイは来てはくれないのだから。
望みがゼロではないけれど。もしかしたら、会議が早く終わるかもしれないけれど。
(期待しちゃ駄目…)
来てくれるかも、などと考えてはいけない、何度もそれで悲しい思いをしているから。やっぱり来てはくれなかったと、肩を落としたことが何度も何度もあったから。
ともすれば沈んでしまいそうな気持ち。暗くなってしまいそうな瞳と顔付き。
こんな日に限って、母が「今日は学校、楽しかった?」と自分用の紅茶のカップを手にして来たテーブル。母はハーレイの予定を聞いてはいないし、聞いていたって「夕食を何にしようかしら」などと考える程度。会議が早く終わったとしたら、どんなメニューが喜ばれるだろうと。
(ママはなんにも知らないしね…)
ハーレイの予定も、ハーレイが息子の恋人なことも。
だから本当の気持ちを隠して、懸命に明るく振舞った。「それでね…」と友達の話などもして。今日も学校は楽しかったと、授業も分かりやすかったよ、と。
母と話をしていた間は良かったけれど。
笑って気分も紛れたのだけれど、その反動で余計に沈んでしまった気持ち。「御馳走様」と母と別れて、自分の部屋に戻った途端に。
今日はハーレイは来ないのだった、とテーブルと椅子を眺めて溜息。ハーレイが来たら、二人で使うテーブルと椅子。二つある椅子の片方はハーレイの指定席。
その指定席に座る恋人に会えないのだ、と思うと零れる溜息、テーブルと椅子に背中を向けた。見たら溜息が漏れるから。あのテーブルと椅子の出番が無い日、と心が沈んでしまうから。
(これじゃ駄目…)
きっとハーレイも喜ばない、と勉強机の前に座って、視線を遣った机の上。温かみのある飴色の木のフォトフレームの中、ハーレイの笑顔。夏休みの最後の日に二人で写した記念写真。
庭で一番大きな木の下、好きでたまらないハーレイの笑顔。左腕に抱き付いた自分も笑顔。
(うん、この顔…!)
この顔が好き、と頬を緩めた。ハーレイの笑顔が一番好き、と。
誰よりも好きな恋人の笑顔、いつも自分に向けてくれる笑顔。それが写真の中にあるから。
励まされた気分で本を広げた、昨夜から読んでいる本を。
続きを読もうと、ハーレイも写真の中から笑顔で見守ってくれているし、と。
けれど、やっぱり…。
沈みそうになる心を奮い立たせて向き合った本の中身は、さっぱり頭に入って来ない。ページをめくって先に進んでも、文字を目で追っているだけのこと。何ページか読んだら、さっきの所まで戻る羽目になった。読み落としてしまっていた部分。これでは話が繋がらない。
(ぼくって駄目だ…)
ハーレイも見てくれているのに、とフォトフレームの写真を眺めた。
とびきりの笑顔で写ったハーレイ。見るだけで幸せになれそうな笑顔。そのハーレイの左腕には自分がギュッと抱き付いている。両腕でギュッと、それは嬉しそうに。
写した時の気持ちが心に蘇る写真、思いがけなくハーレイと写せた記念写真。それまでは写真は一枚きりしか持っていなかった、今のハーレイが写った写真は。ほんの小さなモノクロのしか。
再会して直ぐに記念写真を撮りそびれたから、ハーレイの写真はまるで無かった。学校で貰った転任教師の着任を知らせるものだけしか。学校便りの五月号しか。
それを何度も何度も眺めて、宝物にして。今もきちんと大切に持っているけれど。
ハーレイの方でも写真が欲しいと思ったらしくて、夏休みの記念に撮ろうと言われた。それなら自然でいいじゃないか、と。
カメラを持って来てくれた上に、お揃いのフォトフレームまで買って来てくれて。
庭で一番大きな木の下、母がシャッターを切ってくれた写真。ハーレイと二人で写した写真。
(写真の中のぼくは、幸せなのに…)
最高に幸せだった夏の日、ハーレイの左腕に抱き付いてカメラに笑顔を向けた日。
あの日は幸せだったのに。とても幸せで、ハーレイも側にいてくれたのに。
ぼくは違う、と零れ落ちそうになった涙。
独りぼっちだと、今日はハーレイは来ないんだから、と。
ポロリと涙が本に落ちた途端。いけない、と慌てて拭き取った途端。
(違う…!)
もっと悲しい独りぼっちを知っている。今の自分よりも、ずっと悲しい独りぼっちを。
前の自分が迎えた最期。
たった一人でメギドまで飛んで、周りに仲間は誰もいなくて。ハーレイからも遠く離れて、もう本当に一人きりで。
それでも自分は一人ではないと、これさえあればと右の手に持っていた温もり。ハーレイの腕に触れた手が感じて覚えた温もり、それを抱き締めて逝くつもりだった。ハーレイの腕の温もりを。
なのに失くした、撃たれた痛みで。
銃弾が身体に撃ち込まれる度に温もりは薄れて、最後に右の瞳を撃たれて。視界が真っ赤に塗り潰された後に、もう温もりは残らなかった。ほんの僅かな欠片さえも。
冷たく凍えてしまった右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。
独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ、もうハーレイには会えないのだと。温もりはもう消えてしまったと、右の手が冷たいと泣きじゃくりながら。
あの時の孤独に比べたら。絶望的な独りぼっちでの死に比べたら、今は…。
(ずっと幸せ…)
独りぼっちとはとても言えない、ハーレイとは会えないだけなのだから。今日は会えなくても、別の日がある。また会えるのだし、何度でも会える。
二度と会えないわけではなくて。
前の自分がそうなったように、たった一人で、独りぼっちで死んでゆくのではなくて、これから先もハーレイに会える。今日は駄目でも、また別の日に。何度も、何度も、何度だって。
(ぼくはハーレイに会えるんだから…)
こんな所で泣いたら駄目だ、と自分自身を叱り付けた。
前のぼくより、ずっと幸せなんだから、と。独りぼっちじゃないんだから、と。
今は部屋で独りぼっちだけれども、写真の中からハーレイが見ていてくれるのだし…。
大好きな笑顔のハーレイの写真。見るだけで幸せになれそうな笑顔。
それがあるから、一人きりの部屋でもハーレイの笑顔を見ることが出来て…。
(写真…?)
ハッと気付いて覗き込んだ写真。飴色をしたフォトフレーム。
勉強机の上に飾って、毎日見ている写真だけれど。「おやすみなさい」と写真の中のハーレイに挨拶したりもするけれど。
前の自分は持っていなかった、写真を飾ってはいなかった。誰よりも愛した恋人の写真を。飾るどころか持っていなかった、こんな風に一人の時に眺めるための写真の一枚すらも。
(前のぼくは、いつでも本物のハーレイを見られたから…)
今と違って自由自在に操れたサイオン、ハーレイが広いシャングリラの何処にいようと、望めば姿を垣間見られた。笑顔ではなくて厳しい顔の時も、忙しそうな時もあったけれども。
それでも姿は見られたのだし、もう充分に満足だった。ハーレイは今はあそこにいる、と。
(…それに、写真は…)
飾りたいと思ったとしても、飾れなかった。恋人同士だったことは秘密だったし、青の間に飾るわけにはいかない。誰が目にするか分からないから。
(サイオンで隠しておくにしたって…)
二人で写した写真が無かった、今の自分が持っているような意味での二人きりの写真は。
同じ写真に収まってはいても、ソルジャーの貌とキャプテンの貌。
二人一緒の、自分たちのための記念写真は写せなかった。撮ろうとも思っていなかったけれど。それが欲しいとさえ思わなかったほど、隠すのが当たり前の恋だったから。
ハーレイの写真を持っていなかった上に、二人一緒の記念写真も無くて。
それを撮りたいとも、飾りたいとも思わないままに、前の自分は生きて死んでいった。右の手が冷たいと泣きじゃくりながら、本当に独りぼっちのままで。
なのに…。
(ぼく、ホントに幸せになっちゃたんだ…)
独りぼっちで暗い宇宙で死んでいった筈が、ハーレイと二人で青い地球の上に生まれ変わって。
また巡り会えて、今では独りぼっちではなくて、一人の時でも写真が一緒。
今日のように寂しくてたまらない日も、ハーレイの写真が目の前にある。机の上からハーレイが笑顔で見ていてくれる。「元気出せよ?」と言わんばかりに。
そのハーレイの左腕には、自分がくっついているけれど。両腕でギュッと抱き付いている自分が羨ましくてたまらないけれど、その瞬間を自分も確かに過ごした。夏休みの一番最後の日に。
庭で一番大きな木の下、幸せな時間を切り取った写真。
ハーレイと二人、母が構えたカメラに向かって最高の笑顔。シャッターが切られる度に笑って、もっと素敵な笑顔にしようと、最高の記念写真にしようとカメラに向かって。
写真を撮った日、幸せだった自分。今も一人ではない自分。
ハーレイは写真の中で笑顔で、それを見ている自分がいて。本物のハーレイは会議中でも、今は会えないというだけのことで。
けして自分は一人ではない、独りぼっちになってはいない。前の自分とはまるで違って。たった一人で死ぬしかなかった、前の自分の悲しみに満ちた最期と違って。
それを思えば、今の自分は…。
(ぼくって、幸せ…)
前よりもずっと幸せなんだ、と思ったらポロリと零れた涙。瞳から溢れて、机に落ちた。
えっ、とビックリしたけれど。
泣くつもりなどは無かったのに、と慌てたけれども、溢れ出した涙は止まらない。さっき零した涙とは違って、幸せの涙。幸せすぎて溢れ始めた涙。
次から次へと蘇る思い出、泣いているのは自分ではなくて前の自分の方かもしれない。
白いシャングリラで前のハーレイと二人で過ごした幸せな日々。愛して、愛されて、満ち足りた時を重ね続けて、長い時を生きた。二人一緒に。
幾つも、幾つもの幸せの記憶、それを思うと涙が溢れる。あの幸せな日々が帰って来たと。またハーレイと生きてゆけると、もっと幸せに生きてゆけると。
前の自分が今も大切にしている幸せの記憶は、あの頃は誰にも言えなかったけれど。白い鯨では誰にも言わずに、秘めておくしか無かったけれど。
今度は誰に話してもいい。今の自分の幸せのことは、誰に話してもかまわない。
こんなに幸せなことがあったと、幸せなのだと、他の誰かに話したい気持ちになったなら。
今はまだ誰にも話せないけれど、いつかハーレイと結婚したなら。
教師と教え子という仲でなくなったら、堂々と手を繋いで歩ける恋人同士になったなら。
そうだ、と其処で気が付いた。
前の自分には出来なかったこと。今の自分には当然のことで、もう決まっている未来のこと。
(ハーレイと結婚出来るんだ…)
いつか自分が大きくなったら、結婚出来る十八歳を迎えたら。
前の自分たちの恋は最後まで誰にも言えなかったけれど、今度は皆に祝福されて結婚式。二人で結婚指輪を交わして、互いの左手の薬指に。
結婚指輪が左手にあれば、薬指に光っていたならば。誰でも一目で分かってくれる。恋人同士の二人なのだと、結婚して幸せに二人で暮らしているのだと。
(…前のぼくたちは、誰にも言えなかったのに…)
ソルジャーとキャプテンという立場にいたから、明かすわけにはいかなかった。いつか地球まで辿り着いたら、お互いの立場から自由になれたら、と夢を描いていただけで。そんな日が来たら、この恋を明かしてもいいのだろうと。
(だけど、そんな日は来なくって…)
前の自分の寿命が尽きると分かった時に潰えた夢。叶いはしないと諦めた夢。
けれど、今度は夢とは違う。夢のように儚く消えはしなくて、いつか必ず訪れる未来。今はまだいつとも分からないだけで、その日は何処かで待っている。この先の未来の時間の何処かで。
おまけに、ハーレイと結婚することを知っていてくれる人たちが、隣町に二人。
庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでいる、ハーレイの両親が自分たちの結婚を待っていてくれる。新しい子供が一人増えたと、自分のことを新しい家族だと思ってくれて。
(まだ結婚もしていないのに…)
もう子供だと言って貰えて、マーマレードの瓶まで貰った。庭の夏ミカンの実でハーレイの母が作ったマーマレードの大きな瓶を。
金柑の甘煮を詰めた瓶も貰った、庭で採れた金柑の実をハーレイの母が甘く煮たものを。風邪の予防に食べるといいと、喉の痛みにもよく効くからと。
なんと幸せなのだろう。もう結婚が決まっている上に、それを知っている人までが二人。
まだ十四歳にしかならない自分を、新しい家族だと言ってくれる人が、もう二人も。
今度はハーレイと結婚出来るし、その日は必ずやって来るから。
(幸せすぎるよ…)
頬をポロポロと伝い落ちる涙。幸せの温かい涙。
今日はハーレイが来てくれなくても、会議で来られない日でも。今日が駄目でも、また次の日。明日が駄目でも、またその次に。
順送りに駄目な日が続いていっても、週末に会える。いつまでも会えずに終わりはしない。
(今日が駄目でも、次があるんだ…)
シャングリラで暮らした頃と違って、確実に来ると分かっている明日。沈んだ太陽は青い地球の反対側を照らしに行っただけで、次の日の朝には昇って来るから。明けない夜は無いのだから。
今の平和な時代の地球では、明日が無くなることはない。
白いシャングリラが世界の全てだった頃には、明日が来るとは誰にも言い切れなかったけれど。
夜の間に人類軍の船に見付かって沈められれば終わりなのだし、そうでなくても空を飛んでいる宇宙船では万一ということもあるのだから。事故が起こっても緊急着陸出来はしないし、脱出先もありはしないのだから。
前の自分たちには来ると言い切れなかった明日。無くなるかもしれなかった明日。
それを今ではいつまでも待てる、明日が駄目ならその次の日に、と。
ハーレイに会える日を待ち続けられる、今日が駄目ならその次の日にと、また次の日にと。
(ホントに幸せ…)
明日が無くなったりはしないし、いつかハーレイと結婚出来る。消えない明日が幾つも続いて、その先の何処かで結婚式の日が待っている。自分とハーレイが其処へ着くのを。
それにハーレイと二人で来られた、青い地球の上に。
前の自分が辿り着けずに終わってしまった青い星の上に、あの時代には無かった青い地球に。
(…ハーレイと地球で結婚なんだよ…)
結婚して、地球で二人で暮らす。同じ家に住んで、いつもハーレイと二人。
ハーレイと暮らせる幸せな未来も、前の自分が焦がれ続けた青い水の星も、何もかも自分は手に入れられる。何もしなくても、幸せが手の中に降ってくる。
前の自分が夢見た以上に。
こうなればいいと思い描いた夢よりもずっと、大きな幸せが今の小さな自分の身体を包み込む。
まだ育ってはいないのに。
まだ小さいのに、約束されている幸せな未来。いつかは必ず来ると決まっている、明日の続きの何処かの明日。ハーレイと結婚式を挙げる日。
もう止まらない、幾つもの涙。頬にポロポロと零れ続ける幸せの涙。
涙の粒が幾つも幾つも、勝手に零れ落ちてくる。前の自分がメギドで泣きじゃくった以上の数の涙が、後から後から溢れる涙が。
(メギドだったら、もうとっくに…)
前の自分は死んでしまっていただろう。これほどの涙を流すよりも前に。
ハーレイの温もりを失くしてしまったと、もう会えないのだと泣きじゃくりながら、前の自分は死んでいったけれど。涙の中で死んだけれども、これだけの時間を泣いてはいない。こんなに長く泣き続けてはいない、長く感じていただけで。
時間にすればほんの一瞬、長かったとしても一分か二分。
前の自分は覚えていないし、第一、時計など見てもいないのだけれど。メギドが爆発して沈んだ時間も、今の自分はまるで知らないのだけれど。
(でも、こんなには…)
泣いてはいないし、時間も無かった。
それなのに、今は幸せな自分が泣き続けている。悲しみではなくて、幸せのせいで。今の自分がどれほどの幸せに包まれているか、それに気付いてしまったせいで。
溢れて止まらない幸せの涙。頬を濡らし続ける温かな涙。
それを流れるままにしていたら、耳に届いたチャイムの音。門扉の脇にあるチャイム。
(ハーレイ!?)
まさか、と窓に駆け寄ってみれば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。会議は終わったと、俺は間に合ったと知らせるように。今日の会議は長引くのが常で、終わる筈が無いと思っていたのに。
ハーレイの方でも、そう思ったから今日は会議だと聞かされたのに。
今日は会えないと思っていたから涙が零れて、その涙から今の温かな涙が生まれて、泣き続けて今まで泣いていたのに。
(…ハーレイが来てくれるだなんて…)
いったい自分は、どれほど幸せなのだろう。
今日の続きを待っていなくても、もうハーレイが来てくれた。今の自分には明日の続きも、そのまた続きも、いくらでも明日があるというのに。
それを待てるのも幸せなのだと幸せの涙を流していたのに、明日を待たなくてもいいなんて。
ハーレイが来てくれて、もう待たなくてもいいなんて。
(…いけない、涙…!)
泣いてちゃ駄目、と溢れそうになる涙をグイと拭って、涙の跡も分からないよう綺麗に拭いた。壁の鏡を覗き込んで。目元が赤くなっていないか、それもきちんと確認して。
ようやく止まった幸せの涙。泣いていたことに気付かれないよう、しっかりと止めて、ニイッと笑顔も鏡で作った、悪戯っ子の笑みの形に。普通の笑顔だと、また幸せで泣きそうだから。幸せの涙が溢れそうだから、悪ガキ風に。酷い悪戯でも仕掛けたように。
(これでよし、っと…!)
ぼくの笑顔じゃないみたい、と自分でも吹き出しそうな顔。お蔭で涙も引っ込んだ。こんな顔は一度もしたことがないと、どんな悪さをしでかしたのかと考えただけで。物凄い悪戯小僧になった自分を少し想像してみただけで。
(…ママの花壇が丸坊主とか?)
それをやったらこんな顔、とププッと笑って、可笑しくなって。もう大丈夫、といつもの自分の顔に戻ってハーレイを待った。いつものぼくだ、と。
そうやって準備万端整えたけれど。
ハーレイも母も泣いていたことには全く気付かず、テーブルの上にお茶とお菓子が揃ったまではいいのだけれども、向かい合わせで座ったら。ハーレイが指定席の椅子に腰を下ろしたら。
ついつい見てしまう、ハーレイの顔。写真のハーレイの笑顔もとても素敵だけれども、本物にはやはり敵わない。ハーレイがとびきりの笑顔でなくても、ごくごく普通の顔付きでも。
(幸せだよね…)
今日もハーレイが来てくれたし、と恋人の顔を見てばかりだから。いつも以上にじっと見詰めてしまうものだから、とうとうハーレイが自分の顔を指差した。
「俺の顔に何かついてるか?」
ケーキの欠片でもくっついてるのか、どの辺りだ?
「ううん、そうじゃなくて…。幸せだな、って」
「はあ?」
何が幸せなんだ、お前は。俺の顔ばかり見て、いったい何があると言うんだ?
「えーっと…。ハーレイ、今日は来られないかも、って聞いていたから…」
今日は会えなくて一人だよね、って思ってて…。独りぼっちだ、って悲しくなって。
でもね、よくよく考えてみたら、独りぼっちじゃなかったんだよ。ハーレイは会議に行っているだけで、今日は駄目でもいつか来てくれるし…。ハーレイの写真も飾ってあるし。
独りぼっちっていうのは、前のぼくが死んじゃった時みたいなので、あの時に比べたら、ぼくは独りぼっちでもなんでもなくて…。一人で家にいるっていうだけ、じきに一人じゃなくなるしね。いつかハーレイは来てくれるんだし、そしたら一人じゃなくなるでしょ?
ぼくはとっても幸せなんだよ、今のぼくは。
前のぼくと違って今は幸せ、と話したら。
うんと幸せになったんだから、と付け加えたら、ポロリと零れてしまった涙。温かな涙。
しっかりと止めた筈だったのに。悪戯小僧の顔まで作って止めたのに。
「おい…?」
どうしたんだ、お前。目が痛むってわけじゃなさそうだが…?
「えっとね…。ぼく、ハーレイが来る前に…」
泣いてたんだよ、幸せすぎて。今のぼくはとっても幸せなんだ、って気が付いて。
そしたら涙が止まらなくなって、ハーレイが来たから頑張って止めて…。
鏡の前でこんな顔までやって止めたのに、また止まらなくなっちゃった…。
ね、この顔をしても無理なんだよ。ママの花壇を丸坊主にしたらこんなのかな、って思っても。凄い悪戯小僧になったつもりでニイッてやっても、もう駄目みたい…。
また止まらなくなってしまった涙。次から次へと溢れて零れる幸せの涙。
ハーレイが目の前にいるだけで。今の自分は幸せなのだと考えるだけで、もう止まらない。
さっきはピタリと止めてくれた筈の、悪戯小僧の顔を作っても。ニイッと笑っても、ハーレイはそれを笑うどころか、優しく笑んでくれるから。「そういう顔は初めて見たな」と、子供らしくていい表情だと褒めてくれるから。
「チビらしくていいぞ、そんな顔をしているお前もな」
普通じゃやらない顔なんだろうが、俺はそういう顔も好きだぞ。元気一杯に見えるしな。
「…笑わないの? ハーレイ、笑ってくれればいいのに…」
ぼく、自分でも吹き出したのに…。
ハーレイが笑ってくれなかったら、涙、ちっとも止まりやしないよ。
ますます幸せになっちゃうから。ぼくが幸せだと、どんどん涙が出て来ちゃうから…。
「なるほどなあ…。幸せの涙が止まらないってか」
お前のあの顔、俺がウッカリ褒めちまったから、必殺技も効かなくなったと。
「うん。あの顔をしたら止まってたのに…」
酷い顔だよね、って鏡を見てたら、止められたのに。
ハーレイ、あの顔、褒めるんだもの。ぼくを幸せにしちゃうんだもの。
そうでなくても、ハーレイが来るまで、ぼくはポロポロ泣いちゃってたのに…。
今のぼくには明日も、その次も、その次もあって。
今日はハーレイに会えなくっても、またいつか会えて。
そうやってずっと先へ行ったら、何処かに結婚式の日もあるんだよね、って思ったら…。
前のぼくだと結婚式は夢だったのに、今度は夢じゃないんだよね、って思ったら…。
「ふうむ…。あれこれ考えるほど涙が止まらない、と」
どんどん幸せになってしまって、涙が出るって言うんだな?
やっとのことで止めたというのに、また止まらなくなっちまった、と。
「そう。…ホントのホントに止まらないんだよ」
見れば分かるでしょ、さっきからちっとも止まってくれないんだから。こんな顔をしても。
褒めちゃ駄目だよ、ぼくの涙、もっと酷くなるから…!
「…そう言うのなら、褒めないが…」
笑えと言うなら笑いもするがな、今からそんな調子だと…。
お前、これから先に何回泣くやら。この俺のせいで。
「え?」
これから先って…。今日じゃなくって、もっと別の日?
「そういう意味だが?」
俺はお前を幸せにすると言っているだろ、いつでもな。今度こそお前を幸せにしてやるんだと。
いいか、そのためには、結婚して一緒に暮らすわけだが…。その前に、だ。
まずはプロポーズをしなきゃいかんな、俺と結婚してくれと。
それから婚約、こいつはプロポーズとは別の日になるぞ。お前のお父さんたちのお許しが無いと婚約するのは無理だしな?
お前、どっちも泣きそうじゃないか。
幸せすぎて泣くんだったら、プロポーズの時も、婚約の時も。
結婚式までに二回は泣いて、結婚式でも泣くだろ、お前?
その後も、俺と二人で暮らす家に着くなり泣いちまうのは確実で…。
俺は何回お前を泣かせりゃいいんだ、うん…?
結婚した後も、何かといったらお前がポロポロ泣き出しそうだが…?
「何度でもいいよ」
ぼくは何回泣かされてもいいよ、何度涙が止まらないようになっちゃっても。
ハーレイがぼくを泣かせるんなら、ぼくは何回泣いたっていいよ。
幸せすぎて泣くのなら…、と止まらない涙。後から後から溢れ続ける温かな涙。
こんなに幸せな涙だったら、泣き続けてもいいと思ったのに。このままでいいと思ったのに。
「しかしだ、今は止めなきゃな?」
そいつを止めんとマズイじゃないか。俺がお前を泣かせたんだし、苛めたのかと思われちまう。
晩飯までに止めておかんと…、と手招きされて膝に乗せられて、抱き締められて。
「止まりそうか?」と抱き込まれたままで尋ねられたら、またまた涙が溢れ出すから。
「駄目みたい…」とグイと顔を上げた、「止まらないよ」と。
そうしたら…。
「分かった、今日はオマケしてやる。俺が泣かせたのは間違いないしな」
額でも頬でも無いんだが、と唇で優しく吸い取られた涙。メギドで撃たれた右の瞳から。
「どうだ?」と、「止まったか?」と訊かれたけれども、余計に溢れてしまうから。幸せの涙が止まらないから、キッと睨み付けた。
「これで止まるわけないじゃない!」
幸せになるほど止まらないんだよ、止まらないのはハーレイのせいだよ!
「だったら、左目はオマケは無しでだ、ハンカチだな」
俺のハンカチでゴシゴシしてやる、逃げるなよ?
「酷い…!」
なんで左目はハンカチになるわけ、右目との差がありすぎだよ!
ハンカチで痛くする気なんでしょ、そしたら不幸になりそうだから…!
せめてハーレイの指で拭き取ってよ、と強請ったら。
指で優しく拭われた涙。「これでいいか?」と。
もちろん、それで涙が止まるわけがない。ますます溢れて、零れるばかりで。
ハーレイが「ほらな」と指で頬を弾く、「ハンカチの方がゴシゴシ痛くて止まりそうだが」と。
「今からこんなに泣いていたんじゃ、本当にこの先、何度お前は泣くやらなあ…」
俺は何回、お前を泣かせちまうんだか。…苛めているってわけじゃないのに。
「何度でもだよ」
何十回でも、何百回でも。ハーレイは何度でもぼくを泣かすよ、今日みたいに。
きっと涙が止まらなくなるよ、ぼくが大きくなった後でも。
だって、ハーレイと暮らすんだから。
結婚して、うんと幸せに二人で暮らしていくんだから…。
きっと何回も何回も泣くよ、と涙は溢れて止まらない。
頬を転がり落ちる涙が。温かな幸せの涙の粒が。
まるで全く止まらないけれど、止まりそうな気配も見えないけれど。
今は幸せに泣かせて貰おう、未来の幸せを思いながら。
プロポーズに婚約に結婚式に、と幸せの数を数えながら。
きっとハーレイなら、ちゃんと泣き止ませてくれるから。涙を止めてくれるから。
夕食の支度が出来たと母が来る前に、優しい言葉で、優しく抱き締めてくれる腕で。
零れる涙ごと幸せで包んで止めてくれるから、それまでは涙が溢れるままで…。
幸せの涙・了
※ブルーの瞳から溢れた幸せの涙。前の生でメギドで流した涙よりも、ずっと長く、多く。
止まらなくなった幸せの涙は、これからも何度も流れる筈。今の人生が幸せすぎて。
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「それじゃ、明日な!」
約束し合ってる、ぼくの友達。明日は土曜日だから、みんなで買い物。いつものお休みの日とは違う待ち合わせ、公園とかじゃなくってバス停。
みんなは町の一番賑やかな場所へ出掛けてゆくんだ、路線バスに乗って。百貨店だとか本屋さんだとか、色々なお店がある所へ。
「ブルーも一緒に行かねえか?」って誘われたけど、いつもと同じで断った。「ハーレイ先生が来てくれるから」って。
そう断ったら、「いいなあ…」って羨ましがられてしまった、「ハーレイ先生かあ…」って。
ハーレイはみんなに人気があるから、いつだって、こう。みんなと遊びに行けない理由を話すと誰もが「いいな」って。ハーレイを独占出来るなんて、って。
そんな調子だから、みんなに笑顔で手を振った。「また月曜日に!」って。
みんなも「おう!」って手を振り返してくれて、クラブに、家にと分かれた行き先。寄り道する子もいたりするから、方向はホントにバラバラなんだ。校門だって一ヶ所じゃないし…。
ぼくはバス通学だから、正門から外へ出るんだけれど。歩きながら心が弾んでた。明日は土曜日なんだから。みんなは買い物に出掛けるけれど…。
(ハーレイが来てくれるんだものね?)
朝御飯を食べて、部屋の掃除を済ませて待ってたら鳴るチャイムの音。ハーレイが来たっていう合図。晴れた日だったら歩いて来るし、雨が降ってたら車のハーレイ。
土曜日と日曜日は、用事が無ければハーレイが家に来てくれる。二人で一緒に夜まで過ごせる、晩御飯だって一緒に食べられる。晩御飯はパパとママもいるダイニングだけど…。
ハーレイが来られない時は早めに連絡を入れてくれるし、明日はなんにも聞いてないから、もう間違いなく会える筈。ぼくがウッカリ寝込んじゃっても、お見舞いに来てくれたりして。
絶対に会える筈の土曜日、とても楽しみ、って思ってたのに。
明日は一日ハーレイと一緒、って胸をときめかせて帰りのバスに乗り込んだのに…。
家に帰って、制服を脱いで、おやつを食べに下りて行ったダイニング。
ママが焼いてくれたケーキと熱い紅茶で、大満足の時間なんだけど。ふと思い出した、帰り際にみんながしていた約束。明日はバス停、って決めてた約束。
(買い物かあ…)
普段とは違う、みんなの休日の過ごし方。いつもだったら、公園とかで集まって近所で遊ぶのが定番だけれど。誰かの家に押し掛けてったり、サッカーなんかをしてみたり。
お昼御飯やジュースやおやつは買ったりするけど、近くのお店で買えるもの。下の学校の頃から知ってるお店や、今の学校で出来た友達の馴染みのお店で。
でも、明日の買い物は違うんだ。バスに乗って出掛けて、町の真ん中まで。
何を買うとも決めてなかった、目的の物があるわけじゃない。これを買うんだ、って誰も決めてなくて、お小遣いを持って出掛けてゆくだけ。いろんなお店を覗いて回って、みんなが思い思いの物を買うんだと思う、お小遣いの範囲で買えそうな何か。
(お昼御飯だって…)
目に付いたお店に入るんだろう。あっちだ、こっちだ、って相談しながら。
何を食べるかも気分次第で、おやつだって。町の真ん中だと、お店も沢山あるんだから。
(…友達と買い物…)
考えてみれば、ぼくは友達と買い物に出掛けたことが無かった。町の真ん中なんかへは。一人で出掛けたことはあるけど、それは用事があるからで…。
(本屋さんとか、ハーレイの羽根ペンを買おうとしてた時とか…)
きちんと目的の決まった買い物、たったそれだけ。用事が済んだら真っ直ぐ帰るし、一人だから食事もしていない。そうじゃない時は、パパやママが一緒。
ちょっぴり惜しい気持ちがしてきた、明日の買い物。みんなが出掛けてゆく買い物。
(でも、ハーレイ…)
明日はハーレイが来てくれるんだし、そっちの方が断然いいよね、と気分を切り替えた。買い物なんかに行くよりずっと、って。
キッチンのママに空いたお皿やカップを返して、部屋に戻って。勉強机の前に座ったんだけど、またまた浮かんで来た友達の顔。明日は買い物に出掛ける、みんな。
(みんなで買い物…)
きっと楽しいに違いない。何の目的も決めずに買い物、お小遣いだけを持って出掛けて。色々なお店を覗いて回って、買う物だってバラバラなんだろう。これに決めた、って言った誰かの趣味が悪いと笑い合ったり、そう言いながらも釣られちゃったり。
(趣味が悪い筈のを、みんなで揃って買っちゃったりね)
だって、遊びに行くんだから。買い物も遊びなんだから。「信じられねえよ」なんて笑う間に、何故だか素敵に思えてくるってことも充分ありそう。「いいかもなあ」って。
無駄遣いなんかもするかもしれない、お小遣いはたっぷり持って来たから、って。気が付いたら残りがほんの少しで、バス代も危ないくらいだとか。
そういう話はよく聞くから。
ぼくの友達がやったわけじゃないけど、他の友達が買い物に出掛けてやらかした愉快な体験談。今の学校の先輩たちの噂だって聞いた、バス代まで使い果たして歩いて帰った話なんかも。
考えるほどに楽しそうな買い物、友達と出掛ける町の真ん中。
(ハーレイの来ない日に誘われたんなら…)
行ってみたかった、と思ったけれど。ハーレイに何か予定が入っている日だったら行けたのに、って残念な気持ちになったんだけれど。
(ちょっと待って…!)
それじゃ、ハーレイに「来て欲しくない」って言ってるみたい。ハーレイに予定が入ってたら、って考えるなんて。ハーレイはわざわざ来てくれるのに。ぼくを訪ねて来てくれるのに。
(ハーレイを裏切ってるみたい…)
明日はハーレイと会うっていうのに、友達と買い物に行きたいだなんて。ハーレイが来られない日だったら良かったのに、と考えるなんて。
ハーレイはぼくの一番なのに。誰よりも好きで、好きでたまらないのに、ハーレイと会うよりも友達と買い物をしたかったかも、って思うだなんて。
これじゃ、あんまり酷いから。どう考えても、酷すぎるから。
(ぼくって、最低…)
ブルッと首を振って、追っ払った。買い物に行きたがってるぼくを。
これじゃ駄目だと頭の中から、首をブンブンと横に振って。
でも、夜になっても、また思い出して。
行きたくなってしまった買い物、友達と出掛ける楽しそうな買い物。町の真ん中の大きなお店を覗いて回って、端から入って。自分の趣味とは違うものまで、ウッカリ買ってしまったりして。
(ぼくでも、きっと釣られちゃうんだよ)
みんなと違って元気に走り回ったり出来ないくせして、スポーツ用の帽子を買っちゃうだとか。お揃いだよ、って大喜びで。被って出掛ける場所も無いのに。
帽子で済んだらまだマシな方で、いつ使うんだか悩みそうな物まで買っちゃいそう。真面目とは言えない柄のノートとか、ふざけたデザインの文房具だとか。
(いっぱい買っちゃって、お小遣いの残りがバス代だけとか…)
みんながそういう勢いだったら、ぼくだって巻き込まれていそうな感じ。「まだいけるぜ」って肩を叩かれて、「そうだよね!」って財布を開けちゃって。バス代があれば充分だよね、って。
一度も行ったことのない買い物、友達と一緒に大散財。
ぼく一人だと絶対やらない無茶な買い物、友達とだから出来る買い物。
やっぱり行ってみたかった気がする、友達と都合が合ってたら。ハーレイが来ない予定の土曜日だったら、みんなと買い物。
ハーレイを裏切るみたいだけれども、酷い考えなんだけど。
それでも、ちょっぴり思ってしまう。みんなと買い物に行きたかったな、って。
一晩眠って、土曜日の朝になったのに。ハーレイが来てくれる日の朝なのに。
よく晴れてるから、ハーレイは颯爽と歩いて来る筈で、二人で夜まで過ごせる日なのに…。
(今日は買い物…)
晴れて、絶好の買い物日和。みんなはバスで出掛けてゆく。傘が要らないから、うんと身軽に。雨に濡れないから、お店からお店へ移動するのも楽々で。
だけど、ぼくは家でお留守番。みんなと一緒にお店を回りに行けはしなくて、この家で過ごす。ハーレイは訪ねて来てくれるけれど、ぼくの部屋と、庭のテーブルと椅子がせいぜいで…。
(買い物、楽しそうなのに…)
みんなの待ち合わせ時間は何時だっけ、って溜息をついてしまいそうになる。ぼくはこの家から出られないのに、買い物になんか行けないのに。
「どうしたの、ブルー?」
具合が悪いの、ってママに訊かれた。朝から元気が無いみたいだけど、って。
「ううん、なんでもないよ」
ちょっと夜更かししちゃったから…。まだ眠いのかな、そんなつもりはないんだけど。
大丈夫、部屋の掃除を始めたらシャキッと目が覚めるから!
ママは「それならいいけど…」って言ってくれたし、パパも「夜更かしは駄目だぞ」って注意をしただけ。ぼくが心で何度もついてた溜息のことはバレなかったけれど。
(買い物に行きたかった、ってこと…)
ママにまで気付かれちゃった、ぼく。
ぼんやりしていた頭の中身はともかく、何処か変だ、って。
こんな調子じゃ、今日は危ない。買い物のことは考えないようにしないと、ハーレイにも変だと思われる。具合が悪いのかと心配されたら、ぼくの良心が痛んじゃう。
だって、病気になったんじゃなくて、ハーレイを裏切っているんだから。ハーレイと過ごすより買い物がいい、って酷いことを考えているんだから。
ホントに酷いし、最低なぼく。恋人が訪ねて来てくれるのに。
だけど頭から消えてくれない、みんなの楽しそうな顔。買い物しながら笑い合う顔。
朝御飯が終わって、「御馳走様」って部屋に帰っても、掃除をしても。
門扉の脇のチャイムが鳴って、ハーレイが手を振る姿が見えても。
とっても危険なぼくの考え、ハーレイと会うよりも友達と買い物、って。
もちろんハーレイと過ごせる方が嬉しいんだけど、買い物だって面白そうだと思うから。
(ハーレイに気付かれないように…)
もう絶対に考えちゃ駄目だ、って買い物のことは頭の中から追い払ったのに。
部屋に来てくれたハーレイとテーブルを挟んで向かい合わせに座って、お茶とお菓子で午前中をゆっくり過ごしていたのに、何かのはずみに目に入った時計。その針が指してる、今の時刻。
みんなが待ち合わせをしていた時間はとっくに過ぎてて、もうバスは町の真ん中に着いて…。
(今頃、みんなは…)
きっとお店に入ってる。買い物をしてるか、買い食い中か。何を買おうかと端から覗いて回っているのか、何処かのお店で品定め中か。
(素敵な物とは限らないんだよ)
変な物とか、可笑しすぎる物とか、そういった物に捕まってしまって、ウッカリ財布をパカッと開けて。みんなで買おうと、揃ってお金を払っているとか…。
(そんな買い物も楽しいよね?)
家に帰ってから「なんで買っちゃったんだろう」って、自分でも笑っちゃいそうな物。買ってた友達の顔を思い浮かべて、「みんな馬鹿だ」って大笑いしそうな傑作な物。
考え始めたら、もう止まらない。
ぼくの頭はお留守になってた、うわの空ですっかり心がお留守。ハーレイと話をしてることさえ忘れちゃってて、生返事。多分、「うん」とか、曖昧に返事してたと思う。
暫くはそれで済んだんだけれど、とうとう「おい?」って訊かれちゃった。テーブルを軽く指で叩いたハーレイ、ぼくの注意を引くように。
「お前、具合でも悪いのか?」
なんだか変だぞ、さっきからずっと。
「ううん、なんでもない…!」
なんでもないよ、って慌てたけれども、もう手遅れで。
ハーレイは鳶色の瞳でじっと見詰めて、ぼくの心まで覗き込むように。
「そうは全く思えないんだが…。いつものお前らしくもないし」
俺の話に生返事なんて、どう考えてもおかしいぞ。
身体は何ともないと言うなら、問題は心の方ってヤツか…?
悩みがあるなら打ち明けてみろ、ってハーレイは真面目な顔だから。
本当に心配してくれているって分かる顔だから、これ以上、嘘はつけなくて。知らないふりでは押し通せなくて、仕方ないからボソリと言った。
「…ぼく、ハーレイを裏切ったみたい…」
「はあ?」
裏切ったって…。なんなんだ、それは?
「ハーレイより買い物を取っちゃったんだよ」
「どういう意味だ?」
買い物だなんて、いつ買い物に行ったんだ、って怪訝そうなハーレイ。「俺が来た時に買い物で留守をしていたことは無い筈だが」って。
「ううん、本当に買い物に行ったってわけじゃないけれど…」
頭の中で行ってたんだよ、心だけ出掛けていたんだよ。
思念体で抜け出すっていうんじゃなくって、ただの想像。今のぼくは思念体にはなれないし…。
こんな風かな、って想像していただけ。
お店を回って、変な買い物なんかもしちゃって。
どうしてそうなっちゃったのか、って心が買い物に出掛けた理由を話したら。
ハーレイを裏切ってしまった理由も、「ごめん」ってきちんと謝ったら。
「なるほど、友達と買い物に行ってみたかった、と…」
俺が来る予定が無かったら。来られない日だったら、そっちに行きたかったんだな?
友達と買い物に出掛けたことが無いから、みんなと一緒にバスに乗って。
「うん…。ハーレイと会う方がいいに決まっているんだけれど…」
だけど、買い物もしてみたかったな、って心がお留守になっちゃった…。
ハーレイを二重に裏切っちゃったよ、買い物がいいな、って思ったことと、うわの空とで。
「そいつは別にかまわんが…。お前だって、遊びたい年頃だしな」
俺の都合で来られない日もあったりするんだ、この次からは連絡してこい。
「何を?」
「お前の都合が悪いんだ、とな」
俺が時々やっているのと同じ具合に、お前の方から断ってくればいいだろう。
子供の予定は急に決まったりするもんだしなあ、前の日の夜でも俺は気にせん。明日は駄目だと連絡が来たって、次の日の過ごし方は色々あるさ。道場にも行けるし、ジムだってあるし。
遠慮しないで断っていいぞ、とハーレイの許可は出たけれど。
「そうすれば次は買い物に行けるだろ?」とお許しを貰えたんだけれども、ハーレイと会うのを断って買い物に行くなんて…。友達と出掛けてゆくなんて…。
(絶対、行けない…)
もしも行ったら、今日の逆。買い物の最中に心がお留守で、友達に「どうした?」って訊かれてしまう。「なんか変だぜ」って、「気分が悪いんだったら言えよ?」って。
だから、買い物は絶対に無理。友達と一緒に行くのは無理。
変な物とか、可笑しな物とか、そういう物を買いには行けない。大散財でバス代だけしか残ってないとか、悲惨な末路を迎えるのも。
(でも、買い物…)
ぼくの心を捕まえた買い物、どうしてそれをしてみたいのか、ってことになったら。
突き詰めてみたら、パパやママ抜きの買い物ってことで、だけど一人の買い物じゃなくて。
パパやママじゃない誰かが一緒で、それが楽しそうってことだから。
変な物は別に買わなくてもいいし、大散財でなくてもいいし…。
要は誰かと一緒に買い物、パパやママとは違う誰かと買い物をしたいだけなんだから…。
(そうだ、ハーレイ…!)
ハーレイと買い物に行けばいいんだ、って気が付いた。友達じゃなくて、ハーレイと。
二人でお店を覗いて回って、目的の買い物の他にも色々眺めて。こんなのがあるとか、こういう物も売られているんだと見ているだけでも充分楽しい。
ハーレイと二人で出掛けるんなら、変な物なんかは買わないけれど。可笑しな物だって買ったりしないし、大散財だってしないけど。
だって、ハーレイが必要な物を買うだけだから。それのオマケで、ぼく用の物があったら買うというだけだから。
でも、買い物には出掛けられるし、お腹が空いたら食事だって出来る。歩き疲れたら、ちょっと休憩、って一休みしてジュースとかだって。
友達との買い物にこだわらなくても、ハーレイと出掛けられればいい。それならハーレイと同じ予定で動けるんだし、ハーレイを断らなくてもいいし…。
それに決めた、って浮かんだ名案。ハーレイと買い物をしに行こう、って。
だから…。
「ねえ、ハーレイが連れて行ってよ」
ハーレイと会う予定を断る代わりに、ハーレイがぼくを連れてってよ。
「何処へだ?」
お前を何処へ連れて行くんだ、この俺が?
「買い物だよ!」
何でもいいから、ハーレイと買い物。ハーレイが買い物に行くついでに。
文房具だとか、柔道で使う物だとか…。そういう物は町の真ん中まで買いに行くでしょ、ぼくも一緒に連れて行ってよ。
ぼくの買い物はしなくていいから。出掛けたついでに何か見付けたら、買うだけでいいから。
「駄目だな、お前と買い物なんかは」
文房具だろうが、柔道のだろうが、御免蒙る。どうしてお前を連れて行かねばならんのだ。買い物に行くなら一人で出掛ける、俺はガキではないんだからな。
「なんで?」
二人一緒だと楽しいと思うよ、ハーレイだって。文房具だったら、どれがいいか意見を訊いたり出来るし、柔道で使う物なら、ぼくに色々と知識を披露できるでしょ?
「それはそうだが…。それこそデートというヤツだろうが」
「え?」
ただの買い物だよ、デートじゃないよ。お腹が減ったら食事もするかもしれないけれど…。喉が乾いたら、ジュースも飲むかもしれないけれど。
「おいおい、お前の頭の中では、デートと言ったら食事だけなのか?」
違うだろうが、買い物に行くのもデートの内だぞ?
俺の持ち物を買うにしたって、お前が一緒にくっついていれば、そいつは立派なデートだが?
二人で店を見て回ったり、ついでだからと食事してれば、もう充分にデートだがなあ…?
嘘、って思った、ぼくだけれども。
よく考えたら、ホントにハーレイの言う通り。ハーレイと二人で買い物に出掛けて、目的の物を買った後には食事をしたり、ジュースを飲んだり。
友達と行くなら遊びだけれども、それを恋人とやっていたら…。
「…デートだね…。ハーレイと買い物して、食事…」
前に何処かで食事をしたい、って強請ったら「それはデートだ」って言われたけれど…。
買い物のついでに食事するのも、それと同じでデートになるよね…。
「間違いないだろ?」
それにだ、さっきも言った通りに、二人で買い物に行くってヤツ。
そいつは立派にデートなんだぞ、食事に行くのと同じくらいに。
自分の物を買いに行くから付き合ってくれ、って連れて行くにしても、恋人同士で店に行くのはデートの内に入るんだよなあ、恋人同士だからこそだしな?
赤の他人と買い物に行きはしないだろうが。自分用の物を買おうって時に。
買い物に行くのも、立派なデート。そう聞いちゃったら、余計に行きたい。
友達と一緒に変な物とかを買いに行くより、ハーレイと買い物に行きたくなって。
「いつか、買い物…」
連れて行ってよ、買い物もデートだって言うなら、いつか。
「いつかはな」
お前が大きくなってからだな、チビの間は話にならん。まずは大きく育たないとな。
「んーと…。先生と生徒でも、買い物は駄目?」
ぼくは柔道部の部員じゃないから、柔道の物は駄目かもだけど…。
文房具とかなら、ハーレイも学校で使う物だし、ぼくが一緒に行くのは駄目…?
「お前、そういうのが楽しいのか?」
俺が文房具の店に出掛けて、教師用のノートとかを選んで。
教材用にとこれをこれだけお願いします、と注文する横に制服を着て突っ立ってるのか?
学校でそれの係なんです、って顔して、真面目に。
俺の仕事に付き合ったからには、ジュースくらいは御馳走するがな。だが、それだけだぞ?
用が済んだら、俺はお前とサッサと別れて家に帰ってしまうんだがな?
「…楽しくないね…」
ハーレイが家まで送ってくれるんだったらいいけれど…。お店でお別れなんだよね?
「当たり前だろうが、なんで家まで送らんといかん」
教師と生徒で買い物に行くなら、学校の用事の延長だぞ?
余計な売り場を覗く暇なんぞも無いな、目的の物を買ったら終わりだ。
俺と一緒に買い物に行くのはお楽しみに取っておけ、って言われちゃった。
いつか買い物でデートでいいだろ、って。
「買い物でデートって…。何を買いに行くの?」
変な物じゃないよね、ハーレイはとっくに大人なんだし…。デートに行く頃には、ぼくも大きくなってるわけだし。
でも、まだ変な物を買いたい年かもしれないけれど…。
「まあなあ…。十八歳だと、まだまだ変な物も買うんだろうなあ…」
これがハーレイに似合いそうだ、って変なシャツを押し付けられそうな気もしないではない。
お揃いで着ようっていうわけじゃなくて、単にお前が笑いたいだけで。
そして如何にもやりそうな気がする、今のお前は前のお前じゃないからな。うんと幸せに育った分だけ、とんでもないことも言い出しそうだ。
是非着てくれ、と押し付けられたら、俺はもちろん着てやるが…。
そいつを着込んで町も歩くし、ドライブにだって行ってやるがだ、学校は勘弁してくれよ?
俺にも教師の威厳ってヤツが必要だしなあ、流石に学校で変なシャツはな…。
「ハーレイ、変なシャツでも着てくれるんだ?」
ぼくが選んだら、誰が見たって笑うシャツでも。可笑しくて笑い転げるシャツでも。
「それでこそ恋人ってモンだろうが」
そこで怒って着ないようでは、心が狭くて話にならん。
しかしだ、もっと真っ当な物も、お前と買いに出掛けないとな。
あれこれ約束してるだろうが、って。
結婚したら二人お揃いで持ちたい物とか、家に置きたい物だとか。
結婚してから買ってもいいけど、結婚前には一杯、買い物。二人一緒に暮らし始めたら、直ぐに色々使えるように。お揃いのお茶椀とか、お箸とか、他にも、もっと。
「それって、とっても忙しそうだね…」
お茶椀だけでも迷いそうだよ、どれにしようか、あちこちお店を覗いて回って。
やっと決めたら次はお箸で、もっと他にも一杯買わなきゃいけなくて…。
買い物でデートをしてると言うより、買い物だけでヘトヘトになってしまいそうだけど…。
「そうならんように、計画を立てておかんとなあ…」
今日の買い物はこれとこれで、といった具合に、回りやすいように。
途中で休憩するための店も、食事する店もきちんと予約を入れておくとか…。
だが、安心しろ。
必要な物を選びに出掛ける買い物にもいつかは行かなきゃならんが、その前にもちゃんと連れて行ってやるさ。お前が可笑しなシャツを見立ててくれそうなデートに、ゆっくりとな。
他にも買い物は色々できるぞ、いろんな所で。
買い物をするためのデートじゃなくって、普通のデート。
それの途中で見付けたお店で、ちょっとしたものを買ってみるとか。
ハーレイの車でドライブに出掛けて、通り掛かった場所や行き先でお土産物とか。
「お前の買い物、そういうトコから始めるんだな」
そうやって買い物をするのに慣れたら、買い物デートだ。二人で街に繰り出そうじゃないか。
変なシャツを選んでくれるんだったら喜んで着るし、恨みもしないぞ。
学校に着ては出掛けられんが、お前と一緒に出掛ける時には着てやるからな。お前が笑い転げていようが、周りのヤツらが俺のセンスを疑おうが。
「うん、お小遣い、貯めておくよ!」
ハーレイと沢山買い物をしなきゃいけないから、財布が空っぽにならないように。
結婚する前の買い物をする時にお金が足りなくて困らないように、今からきちんと。
頑張って沢山貯めておくね、って宣言したのに、プッと吹き出しているハーレイ。
ぼくのお財布、空っぽになると思ってるんだろうか、大散財で。
「笑わなくてもいいじゃない!」
ハーレイに変なシャツを買っても、ぼくはお金を全部使ったりしないから!
バス代だけしか残らないような、そんな使い方はしないように気を付けるから!
だって、買う物、一杯あるし…。
結婚する時までに買わなきゃいけない物のお金は、残しておかなきゃいけないんだから…!
「お前、その金、全部自分で払うってか?」
それだと俺の立場が無いぞ?
俺と一緒にデートに出掛けて、お前が財布を出してるんじゃなあ…。
変なシャツくらいは買ってくれてもかまわないがだ、その他のヤツは俺が支払う。変なシャツの金だって俺が払ってかまわないなら、俺が自分で買うんだがな?
「でも…。お金、買い物に行ってる友達とかは…」
全部、自分で払ってるんだよ、今日だって。
バス代だけしか残らなくなっても、買い物に行くなら自分でお金を払うものでしょ?
「そいつらは遊びに行ったんだろうが。デートじゃなくて」
遊びとデートじゃ違うってもんだ、デートとなったら俺が払うのが筋だってな。
変なシャツだけは是非買いたい、と言うんだったら止めはしないが、お前が自分の財布から金を出すのはそういう時くらいで充分なんだ。
お前は俺よりうんと若いし、自分で稼いだわけでもないだろう?
俺は自分で稼いでいる上、お前より遥かに年上なんだ。デートの時には俺が払わんとな、食事もそうだし、買い物にしても。
ドライブに出掛けてパパやママにお土産を買おうって時にも、ハーレイが買ってくれるって。
ぼくのお財布の出番はいつになるんだろう?
ハーレイに変なシャツを買ったら、それでおしまいになるんだろうか?
「そうだな、変なシャツの他にとなると…。迷子になった時かもな」
ドライブにしても、何処かへデートに行った時にしても。
「迷子?」
えーっと…。それって、ぼくが一人で家まで帰るための交通費?
ぼくは勝手に帰ったりしないよ、ハーレイを置いて。
「そりゃそうだろうが。俺もお前を見付けてやりはするが、それまでの間だ」
一人きりでも腹は減るだろ、喉も乾くし。
そういった時に、自分で何かを食べたり飲んだりする分の金は、お前の財布から出すんだな。
俺が側にはいないわけだし、自分で払うしかないだろうが。
「それはそうかも…」
ハーレイがいないなら、ぼくが払うしかないもんね。
見付けて貰えるまでの間に、お腹が空いたら、パンを買ったり、ジュースを飲んだり。
もしもデートで迷子になったら、自分の財布から食べる物と飲み物を買うお金。
ぼくが使うお金はたったそれだけ、後はハーレイに変なシャツを買ってあげる分だけ。それだと少しもお金は減らない、本当にほんの少しだけ。
食べ物と飲み物の分のお金も、ハーレイに買ってあげた変なシャツのお金も、またパパたちからお小遣いを貰って元に戻っていそうだから。
「…ぼくのお小遣い、減らないよ?」
減った分だけ、またお小遣いが貯まりそうだし…。ぼくのお小遣い、減らないんだけど…。
「なあに、その内、お父さんたちから貰う生活も終わりだってな」
嫁に来ちまったら、もうお小遣いは貰えんだろうが。
お前の面倒は俺が見るんだし、お父さんたちはお役御免だ。
たまに貰えることはあっても、今と同じようにはいかないってな。
だからきちんと貯めておけよ、って笑うハーレイ。
迷子になった時に備えて、って。
「…結婚しても迷子?」
いつもハーレイと一緒にいるのに、それでも迷子になっちゃうと思う?
デートならまだ分かるけれども、結婚した後に迷子だなんて…。
「分からんぞ?」
十八歳で結婚するなんて言ってるんだし、俺に変なシャツを買いそうな年で結婚だろうが。
まだまだ子供だ、迷子になることも充分有り得る。
もっとも、結婚した後の、お前の財布。
何度も迷子になった挙句に空になったら、俺が元通りにきちんと補充をしてやるんだがな。
財布が空っぽになりはしないから、安心して迷子になってくれ、って片目を瞑られたけど。
迷子になってお腹が空いたら、美味しいものを沢山食べてもいいらしいけど。
ハーレイがぼくを見付けてくれるまで、のんびり出来るお店で、いろんなものを。
ぼくのお財布の中身で色々、食べたり、飲んだり。
いつかはハーレイと二人で買い物、ぼくのお財布の出番は迷子になった時だけ。
結婚した後も、迷子の時だけ。
でも、きっと迷子にはならないと思う、ハーレイと結婚した後は。
デートの時だと分からないけど、結婚したら。
だって、ハーレイと手を繋いで歩いてゆくんだから。
結婚したらずっと一緒で、ハーレイと二人、何処までも歩いてゆくんだから…。
買い物・了
※友達に買い物に誘われたブルー。けれど休日はハーレイと過ごす予定で、行くのは無理。
いつかはハーレイと買い物ですけど、それは楽しいデートになりそう。買う物も一杯。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(おっ…?)
ハーレイの目に留まったシュークリーム。
ブルーの家には寄れなかった金曜日の帰り道、いつもの食料品店で。パンと一緒にちょっとしたケーキやシュークリームを置いている場所もあるのだけれども、それとは別の特設売り場。
店の入口から近い所にショーケースが据えられ、それは色々なシュークリームたちが出番待ち。声を掛ければ専用の箱に詰めて貰える、人気の店のシュークリーム。
中のクリームの味も様々なら、形の方もバリエーション豊か。小さなものから大きなものまで、白鳥の形に仕上げたものも。焼き色はとても美味しそうだし、中から覗いたクリームだって。
店の名前もよく耳にする。素材にこだわる評判の店。特設売り場は今週末まであるそうだから。
(ブルーに…)
小さなブルーへの土産にいいな、と覗き込んだ。
ブルーの母もシュークリームを焼いたりするから、重なってしまうかもしれないけれど。それに手作りの菓子と比べてしまうようで悪い気もするけれど、これは特別。
(人気の店です、って言えばいいしな?)
話題作りに持ってゆくなら、きちんと断れば問題無いから。小さなブルーに買ってやろうと決心した。明日の朝に寄って、買ってゆこうと。
そうと決めたら、試食もしておくべきだから。一番人気だというカスタードと生クリーム入りのシュークリームを買って、パンフレットも貰って帰った。何を買って行くか検討しようと。
夕食の後で片付けを済ませて、愛用のマグカップに淹れた熱いコーヒー。シュークリームの皿と一緒に書斎に運んで、コーヒー片手に、早速、試食。
(これはなかなか…)
絶妙な焼き加減のシュー皮、中のカスタードも生クリームも評判どおりに美味なもの。甘いのに少しもくどくない。幾つでも食べられそうな味。コーヒーのお供に、三つも四つも。
(もっと買っても良かったなあ…)
他の味のものを。チョコレートだとか、イチゴが入ったものだとか。
こうなってくると、ブルーへの土産に何を買うかも悩ましい。大きさや形で決めればいいか、と単純に考えていたのだけれども、味も考慮に入れなくては。ブルーが喜びそうな味。
もっとも、ブルーは好き嫌いなど無いのだけれど。弱い身体や年齢からして、如何にも多そうな好き嫌い。それが全く無いのがブルーで、その点に関しては自分も同じ。
幼い頃から、まるで無かった好き嫌い。前の生で食料事情に悩まされたからか、アルタミラでの餌があまりに酷すぎたのか。多分、そういったことが今も影響しているのだろう。
好き嫌いの無いブルーだからこそ、何を買おうか迷ってしまう。一番人気のものを選ぶか、他の味のにしてみるか。それとも形や大きさで選ぶか、なんとも決め難いシュークリーム。
(どれにするかな…)
普通の形のシュークリームもいいし、白鳥の形もブルーが喜びそうではある。可愛らしいと。
専門店ならではの大きなシュークリームもいい。普通のものなら三個くらいになりそうなのも。中のクリームの味になったら本当に色々、どうしようかとパンフレットを眺めていたら。
ふと目についた、クロカンブッシュ。小さなシュークリームを円錐形に積み上げたもの。それは本店のみでの販売、注文して作って貰う品。店に行っても並んではいないクロカンブッシュ。
好みの味と、積み上げるシュークリームの数とを決めてご注文下さい、と書かれてあった。
(ほほう…)
SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。
クロカンブッシュは、フランスという国の伝統的なウェディングケーキだったという。結婚式の他にも誕生日や祝い事のためにと作られていた、小さなシュークリームを積み上げたタワー。
積んだだけでは崩れてしまうから、飴などで固めて高くしてゆく。シュークリームの塔の高さが高いほど幸せがやって来るから、高く積み上げるものだとも。
円錐形の塔の天辺には、新郎新婦の像を据えたり、飴細工の薔薇やドラジェを飾ったり。
結婚式では、新郎新婦がクロカンブッシュを小さな木槌で割ってゆく。結婚式に出てくれた人にシュークリームを一つずつ配り、皆に祝福して貰えるように。
今の時代も、かつてフランスがあった辺りの地域では結婚式用に人気が高いクロカンブッシュ。誕生日などの祝い事にもよく使われる、と書かれたパンフレット。
伝統のお菓子は如何ですかと、ご注文に応じてお作りします、と。
小さなシュークリームを積み上げて出来た、円錐形の食べられるタワー。遥かな昔のフランスで生まれたウェディングケーキ。
(クロカンブッシュなあ…)
食べたことは無いけれど、写真は何度も見たことがあった。そういう菓子だと思っていたから、由来を考えもしなかった。シュークリームで作った塔だと、幾つも積み上げてあるのだと。
白鳥の形のシュークリームと同じで、シュークリームの形のバリエーション。そうだと今日まで思い込んでいたのに、伝統あるウェディングケーキだったとは。
(菓子の歴史までは、俺の守備範囲じゃないからなあ…)
気が向いたら調べてみる程度。クロカンブッシュは自分のアンテナに引っ掛からずに来たから、知らずに過ごしていたらしい。由緒あるケーキだったのに。
(俺が出席した結婚式のケーキは、どれも普通のケーキだったしな…)
何段にも重ねた真っ白なウェディングケーキや、新婦の手作りの大きなケーキや。結婚式の度にウェディングケーキを見て来たけれども、クロカンブッシュは見なかった。
地味だからだろうか、純白の生クリームで飾ったものやら、細かい細工が美しいシュガーケーキなどとは違って。シュークリームを積んだ塔では、飾り立てるにしても限度があるし…。
けれどもパンフレットのクロカンブッシュに妙に惹かれる。写真よりも、その由来の方に。
新郎新婦が木槌で割るとか、参列者に配るものだとか。
このパンフレットで初めて知った筈なのに。ウェディングケーキだとも思っていなかったのに。
(…何処かで見たのか?)
結婚式で一度も見ていないからには、映画かドラマ。自分でもすっかり忘れているだけで、その手のもので見たかもしれない。結婚式とパーティーの区別もついていないような子供の頃に。
そんなものかと思ったけれど。他に心当たりは全く無いから、記憶に残らないほど遠い昔。幼い自分が見たのだろうと、両親と一緒に映画かドラマだと考えたけれど。
(それにしては…)
心に引っ掛かり過ぎる。ただ掠めてゆくだけの欠片とは違う、ただの記憶の断片とは。
クロカンブッシュを木槌で割るのも、集まった人々にシュークリームを配るのも。式の参列者に一つずつ。クロカンブッシュを割って外した、小さなシュークリームを一人に一つ。
(味まで思い出せそうな気が…)
配られたシュークリームの味を。中のクリームや、皮にくっついた塔を固めていた飴の味やら、クロカンブッシュを形作っていた小さなシュークリームの味を。
自分は出会ったことも無いのに、映画かドラマでチラと目にしただけなのに。
(食い意地が張っているにしたって、程があるぞ)
子供だった頃の自分の瞳には、クロカンブッシュが魅力的に映ったというのだろうか。あの塔を壊して食べてみたいと、きっとこういう味がするのに違いないと。
(三つ子の魂百まで、と言うにしたってなあ…)
意味合いは少し違うけれども、子供時代の鮮烈な体験だったら、記憶に残りもするだろう。苦笑するしかないけれど。なんと食い意地の張った子供かと、味まで想像していたのかと。
(おふくろに強請ればよかったのにな?)
頼めば作って貰えたと思う、子供でも食べ切れそうなサイズのクロカンブッシュを。菓子作りが得意な母のことだから、強請りさえすれば数日の内に。早ければ次の日にでも出来ていそうな母の手作りのクロカンブッシュ。
(…なんで頼まなかったんだ?)
頼めない理由でもあったのだろうか、父に叱られた直後だったとか。それとも母につまみ食いがバレて、おやつ抜きの刑でも食らっていたというのだろうか?
それにしたって、ほとぼりが冷めれば頼めそうな気がするクロカンブッシュ。この年になっても思い出せるのだし、どうして頼まなかったのだろう。作って欲しいと、母に一言。
味まで思い出せそうなのに。中のクリームも、皮にくっついた飴の味も…、と思った途端。
(シャングリラか…!)
知っている筈だ、と鮮やかに蘇って来た記憶。小さなシュークリームの味。
前の自分が暮らしていた船、あの船にあった、クロカンブッシュが。シュークリームを高く積み上げた塔が、飴で固めて作られた塔が。
自分はそれを食べたのだった。木槌で割られて、配られた小さなシュークリームを。シュー皮についた飴の味の記憶も、クリームの味も本物の記憶。前の自分が食べたのだから。
(これはブルーに…)
買わねばなるまい、クロカンブッシュを真似られるような小さなシュークリームを。本物よりは小さいけれども、積み上げて見せられるシュークリームを。
土産に何を買ってゆくかは、もう決まった。大きなカップに幾つも詰められたシュークリーム。味は色々あるようだけれど、一番人気のもののミニサイズでいいだろう。試食用にと買って帰った生クリームとカスタード入りの、これと同じ中身のシュークリームで。
翌日、クロカンブッシュの記憶を大切に抱いて、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中に、昨日の食料品店へ。シュークリームの特設売り場の前に立ち、ショーケースの中を指差した。
「一つ下さい」と、小さなシュークリームが詰まったカップを。ブルーと二人で食べるには量も丁度いいサイズ、目的のものも充分に作れるサイズ。シュークリームを積み上げた塔を。
店のロゴ入りの紙袋に入れて貰ったそれを提げて、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。門扉の脇のチャイムを鳴らして、出て来たブルーの母に紙袋を渡した。「買って来ました」と。
人気の店が来ていたので、と詫びを言うのも忘れなかった。菓子作りが得意なブルーの母には、菓子の手土産は失礼だから。
「それから、出して頂く時なんですが…。取り皿の他に、大きな皿をつけて頂けますか?」
このシュークリームを積み上げたいので、そのための皿が欲しいんですが。
「あら、クロカンブッシュになさるんですか?」
よろしかったら作りましょうか、と訊かれたから。
実はシャングリラの思い出なのだ、と正直に答えた。前の自分とブルーが生きていた船にあった菓子だと、だから自分の手で積みたいと。
ブルーは忘れているだろうから、目の前で積んで見せたいのだと。
「それもあって、買って来たんです。ご面倒をおかけしますが…」
「いいえ、きっとブルーも喜びますわ」
お気遣い下さってありがとうございます。大きなお皿、持って行きますわね。
それから間もなく、二階のブルーの部屋に運ばれて来た紅茶とシュークリーム。テーブルの上にティーポットとカップ、シュークリーム用の取り皿と、それとは別に大きな皿が一つ。
ブルーの母が「ハーレイ先生のお土産よ」とシュークリーム入りのカップを置いて行ったから。
「買って来てやったぞ、いつもの店で売ってたからな」
日曜日までの出店なんだ。昨日、試食用にと買ってみたんだが、美味かったぞ。
「ホント? ここのシュークリーム、人気なんだってね!」
お店の名前を聞いたことがあるよ、ぼくは食べたことが無いんだけれど…。
ハーレイが食べて美味しかったんなら、もう絶対に美味しいよね!
でも、なんでお皿が余計にあるの?
取り皿があれば充分なように思うけど…。先にそっちのお皿に入れるの、カップの中身を?
「そのデカイ皿か? そいつにはちゃんと意味があるのさ、だから頼んだ」
お前のお母さんには直ぐに通じたが、お前の方はどうだかなあ…。
まあ、見てろ。この皿はこう使うんだ。
シュークリーム入りのカップの蓋を開け、中から一つ取り出して皿へ。その隣へと、また一つ。
幾つか使って小さな円が出来たら、その上へ次のを積んでゆく。二段目が出来たら、三段目を。
カップの中身は沢山あるから、四段目も五段目も作れそうで。
バランスが崩れないよう、三段目を均等に積み上げていたら、ブルーが首を傾げて尋ねた。
「それ、なあに?」
シュークリームを積み上げて行ったら何か出来るの、そうなの、ハーレイ?
「出来るとも。本当はこんな風に積むだけじゃなくて、崩れないように工夫するんだが…」
飴なんかで固めてやるんだがなあ、知らないか?
クロカンブッシュって名前の菓子でな、シュークリームで出来た塔なんだが。
「んーと…」
そういう名前は知らないけれども、言われてみたら見たことあるかも…。
お菓子屋さんに飾ってあったよ、本物かどうかは分からないけど。シュークリームは砂糖菓子と違って長持ちしないし、作り物だったかもしれないけれど…。
ちょっと美味しそうって思ったんだっけ、シュークリームの塔だったから。
見掛けただけで食べたことはない、と答えるから。
クロカンブッシュという名前の方も初耳だった、と積まれたシュークリームを見ているから。
「本当にそうか? お前、知らないのか、クロカンブッシュを?」
これから四段目を積むんだが…。食ったことも無ければ、名前も知らん、と。
「うん。だって、お店で見ただけだもの」
飾ってあったけど、お菓子の名前は無かったし…。買って貰ったわけでもないし。
ずいぶん高く積んであるよね、ってシュークリームを見ていただけだよ。
「なるほどなあ…。だったら、前のお前はどうだった?」
「えっ?」
前のって…。前のぼくのこと?
「他に誰がいるんだ、前のお前というヤツが。ソルジャー・ブルーだったお前の他に」
前のお前は知ってた筈だぞ、クロカンブッシュの名前も、味も。
シャングリラで作っていただろうが。これよりはデカいシュークリームだったが、普通のよりは小さめのヤツを塔みたいに高く積み上げて。壊れないよう、飴で固めて。
結婚式と祝い事の時に作った菓子だが、お前、やっぱり忘れていたのか…。
「ああ…!」
そういえばあったね、クロカンブッシュ。
だからハーレイ、シュークリームを買って来てくれたんだ?
「そういうことだ。…もっとも、俺も忘れてしまっていたがな」
土産にシュークリームを買って行くか、と試食用のを買って帰って…。パンフレットを見ながら何を買おうかと考えていたら、クロカンブッシュが載っていてな。
注文して作って貰うらしいが、そいつが気になって仕方なかった。食った覚えも無いのにな。
どういうことだ、と不思議だったが、前の俺が食っていたってわけさ。
白いシャングリラで一番最初に結婚式を挙げた恋人たち。アルタミラからの脱出組で、長い時をかけて育んだ恋。
シャングリラの改造も無事に終わって、ミュウの楽園が出来たから。自給自足の白い鯨で暮らす限りは、何の心配も無くなったから。
結婚したい、と言い出した二人。華やかな式は要らないけれども、二人で生きてゆきたいと。
反対する理由は何も無かったし、白い鯨には二人用の部屋も出来ていたから、其処へ移れば結婚生活が始まるけれど。直ぐにでも結婚出来るのだけれど、祝福したいと誰もが思った。せっかくの結婚なのだから。本当だったら、ウェディングドレスも要るのが結婚式だから。
けれど、シャングリラではウェディングドレスは作れない。たった一度しか袖を通さない贅沢な衣装は流石に無理で、次のカップルのために残しておいても、サイズが違えば役に立たない。白いドレスは諦めざるを得ず、結婚式は普通の制服で。
そんな調子だから、出来る範囲で二人の結婚を祝う何かを、と皆が声を上げた。何かしたいと、二人のために特別な何かをして祝福を、と。
自給自足の船の中では、工夫出来そうなものは食べる物。
結婚式にはウェディングケーキが登場するから、とケーキを作ろうという話もあったけれども。それが一番良さそうだ、と決まった所で、ヒルマンとエラがクロカンブッシュを持ち出した。遠い昔のフランスのウェディングケーキだったらしい、とデータベースで調べて来て。
「高く積み上げるほど幸せが来ると言うのだよ。クロカンブッシュは」
船の人数分を積み上げれば高くなるじゃないかね、とヒルマンが言って、エラからも。
「ケーキを作れば、均等に分けるのに困りそうですが…。クロカンブッシュなら簡単です」
同じ大きさのシュークリームを積むのですから、一人一個ずつ。とても公平だと思います。
それに、祝福の気持ちも溢れるでしょう。結婚する二人が一つずつ割って配るのですから。
「いいねえ、そいつは楽しそうじゃないか」
うんと賑やかな結婚式になるよ、とブラウが賛成、ゼルも「そうじゃな」と頷いた。
「皆に一つずつじゃ、割るのも時間がかかりそうじゃぞ。その間は式が続くんじゃからな」
結婚式にはピッタリじゃわい、と長老たちの意見が揃って、作ると決まったクロカンブッシュ。人数分の小さなシュークリームを積み上げ、飴で固めて作ったタワー。
結婚式の日に新郎新婦が二人一緒に木槌を手にして、割って配って、皆が二人を祝福した。一つずつ配られたシュークリームを頬張り、二人の未来が幸福なものであるように、と。
クロカンブッシュの評判は良くて、それからは結婚式の度に作った。結婚式は滅多に無いから、他の祝い事の時にも作られていたクロカンブッシュ。皆で賑やかに祝いたい時に。
「そうだったっけ…」
これはみんなでお祝いしなくちゃ、ってことになったら作っていたね。
普通のケーキの時もあったけど、クロカンブッシュは特別だっていう感じがしたものね…。
「俺が作るって話は覚えているか?」
「ハーレイが?」
クロカンブッシュを作るって言うの、そんな話があったっけ…?
「あったぞ、そいつも是非とも思い出して欲しい所なんだが…」
前のお前と話していたんだ、クロカンブッシュを作ろうとな。
いつかシャングリラで地球に辿り着いて、人類がミュウの存在を認めてくれたら。もうあの船の中だけで生きなくてもよくて、ミュウが地上で暮らせる時がやって来たなら。
その日が来たなら、ソルジャーもキャプテンも要らなくなるから、もう俺たちは必要無い。
実は恋人同士だったと明かしてもいいし、それを明かせる日が来たら…。
「作るんだっけね、クロカンブッシュ…」
ぼくとハーレイの結婚式のための、うんと大きなクロカンブッシュを。
「そうだ、俺がまた厨房に戻ってな」
俺たちのためのクロカンブッシュを作れる頃には、仲間だってぐんと増えてるんだろうが…。
たとえ何人に増えていようが、俺が一人で作るんだ。シュー皮も、中のクリームも。
固めるための飴もたっぷり鍋で作って、ついでに飾りの飴細工もな。
ソルジャーもキャプテンも要らなくなったら、前の自分たちの仲を明かして。
そうして二人で積もうとしていた、仲間の数と同じだけの小さなシュークリームを。ハーレイが作ったシュークリームを二人で積み上げ、ハーレイが作った飴で固めながら。
クロカンブッシュは高く積むほど幸せが来るというから、公園の天井にまで届いたとしても。
空を飛べた前のブルーはともかく、ハーレイは梯子をかけて登って積まねばならない高さでも。
そんなクロカンブッシュを夢見た、いつか二人で作りたいと。
地球に着いたら、ずっと恋人同士だったと明かしてもいい日が訪れたなら、と。
白いシャングリラでクロカンブッシュが配られる度に。
祝いの小さなシュークリームが一個、青の間やブリッジに届く度に。
何を祝うためのものであっても、ソルジャーとキャプテンには必ず届けられた祝福のための菓子だったから。
ほんの内輪の祝い事で作られたクロカンブッシュでも、必ず一個、届いていたから。
「ハーレイとぼくのクロカンブッシュ…。作れなかったね」
いつか作ろうって言っていたのに、作れないままで終わっちゃったね…。
「お前がいなくなっちまったしな」
俺が思ってたのとは違う形で逝っちまった。
お前を見送るつもりだったのに、その後で俺も追い掛けていくつもりだったのに…。
クロカンブッシュは作れなくても、俺たちは何処までも一緒だってな。
ブルーの寿命が尽きてしまうと分かった後には、とても辛かったクロカンブッシュ。
作りましたから、と木槌で割られて、それぞれに一個ずつ届けられる度に。
小さなシュークリームが配られる度に、悲しみが心に溢れてきた。
自分たちはこれを配れはしない、と。二人で夢見たクロカンブッシュを作れる日は来ず、割って配れる日も来ないのだと。
「お前の寿命が尽きちまう、って分かっちまったら、もう夢なんかは見られないしな…」
クロカンブッシュは作れないんだ、って分かっているのに、祝い事があったらシュークリームが届くんだ。あれが辛かったな、見る度に悲しくなっちまったが…。
それでも祝福の菓子だったからな、悲しんでいないで祝ってやるのがキャプテンだしな?
「うん、ぼくたちには届くんだよ。どうか祝福して下さい、って」
ぼくはソルジャーだし、ハーレイはキャプテンだったんだし…。
誰だって祝福して欲しいものね、他の誰よりも前のぼくたちに。
そうなんだ、って分かっていたから、「おめでとう」ってお祝いしていたけれど…。
ちゃんと幸せを祈っていたけど、あれはホントに辛かったよね…。
白いシャングリラの仲間たちは誰も、本当のことを知らなかったから。
ハーレイもブルーも、クロカンブッシュの小さなシュークリームを貰いたいのではなくて、配る方になりたかったのだ、ということに気付きもしなかったから。
クロカンブッシュが作られる度に、ハーレイにもブルーにもシュークリームが一つずつ。祝福を願う小さなシュークリームが。
「お前、いつでも残していたよな、俺が行くまで」
いつも食べずに取っておくんだ、クロカンブッシュのシュークリームが届けられる度に。
「うん…。ハーレイと一緒に食べたかったから」
でも、ハーレイの分のシュークリームは青の間には届かなかったしね…。当たり前だけど。
ハーレイの分はブリッジに届くか、お祝いの席で貰って食べるか、どっちかだもの。
「お前の分を二人で食ってたっけな」
小さいのをナイフで二つに切って。俺が半分、お前が半分。
「ハーレイと一緒にお祝いに出席できない時にはね…」
出席したくても、身体が言うことを聞かなくなっちゃった後は、いつも半分ずつだったよね。
だけど、その方が嬉しかったよ、ハーレイと二人きりだから。
ハーレイと二人でクロカンブッシュのシュークリームを食べられるんだから。
ぼくたちは配れないんだけれど…。
配れないままで、クロカンブッシュを作れないままで、ぼくの寿命は尽きちゃうんだけど…。
「作れなかったことは仕方ないんだが…。それは俺にも分かってたんだが…」
お前の寿命は尽きちまうんだ、って覚悟はしてたというのにな。
その後のことも決めていたのに、お前だけ先に行きやがって。
俺をシャングリラに一人残して、追い掛けていくことも出来ないようにしやがって…。
「ごめん…」
本当にごめん。でも、あの時は仕方なかったんだよ。
ハーレイまでいなくなってしまったら、シャングリラは地球まで行けやしないから…。
「いいさ、そいつが前のお前の生き方だしな」
寿命が尽きると泣いていたくせに、俺と離れて死んでしまうと泣きじゃくってたくせに、いざとなったら一人きりで飛んで行っちまったんだ。
右の手が凍えて冷たかった、と言っていたって、あの時、お前は俺と別れる方を選んだ。
シャングリラに残れば、俺と一緒に死ねていたかもしれないのにな。
自分のことより、ミュウの未来を大事にしたのが前のお前だ。
俺はそいつを恨んじゃいないし、お前を責めようとも思いはしないさ。
それで、だ…。今度は作るか?
「何を?」
「決まってるだろうが、クロカンブッシュだ」
前の俺たちが作れなかったクロカンブッシュ。今度は作ってもかまわんだろうが、俺もお前も、ソルジャーでもキャプテンでもないんだからな。
ウェディングケーキはそれにするか、と片目を瞑った。
土産に買って来たシュークリームを積み上げた塔の、一番上に乗った小さなシュークリーム。
それをつまみ上げて、そっと戻して、出来上がった塔を指差しながら。
こんな具合に俺が作ろうかと、シュークリームも前からの約束通りに俺が作って、と。
「何人分のシュークリームになるのか知らんが、シャングリラの頃に比べればなあ?」
とんでもない数になりはしないし、俺の家のオーブンを使ってコツコツ焼いても間に合うさ。
クリームだって出来ると思うぞ、俺の家のキッチンで充分にな。
シャングリラのヤツらの人数分だと、あの船のデカい厨房が無ければとても無理だが。
「クロカンブッシュを作るんだったら、シュークリーム作り、ぼくも手伝う!」
ママに教わって、ぼくも作るよ。シュー皮を焼いて、クリームを作って…。
ハーレイと一緒に頑張って作るよ、今のぼくなら作り方をママに習えるんだもの。
前のぼくだったら、厨房で見てるだけしか出来なかったけど、今のぼくなら手伝えるよ!
「作りたいと言うなら、止めはしないが…」
お前、シュークリームなんかは作ったことも無いんだろうが。
そうでなくても料理は調理実習だけだろ、シュークリームはあれでなかなか難しいんだぞ?
失敗しちまったら目も当てられんし、作るよりも積む方でいいんじゃないのか?
元々、二人で積み上げる予定だったんだ。
前の俺たちの頃に決めてたとおりに、俺が作って、二人で積んで。
無理しなくっても、それでいいと俺は思うがな?
「そうかも…」
ハーレイの足を引っ張っちゃうより、出来上がったのを二人で積む方がいいのかも…。
今日のはハーレイが積んでくれたけれど、本物のクロカンブッシュを作る時には、二人で一緒にシュークリームを積んで、飴で固めて。
小さなブルーへの土産にと買った、シュークリームを積み上げた塔。
それを二人で崩しながら食べた、上から一個ずつ外していって。
飴で固めたわけではないから、木槌で割る代わりに指でつまんで。
「美味しいね」と顔を綻ばせるブルーに、「美味いだろ?」と微笑み掛けながら。
「結婚式の時には、これに負けないのを作れるように頑張らんとな」と。
前の自分たちは作れないままで終わったけれども、今度は作れる、クロカンブッシュを。
結婚式に来てくれる人たちの数が白いシャングリラの仲間たちの数には及ばないから、凄い高さにはならないけれど。ほどほどの高さになるだろうけれど。
クロカンブッシュを結婚式まで覚えていたなら、ブルーと二人で手作りしよう。
シュークリームを自分が作って、ブルーと二人でそれを積み上げて。
やっと配れると、約束してから長い長い時が経ってしまったけれど…、と。
幸せになろう、ブルーと一緒に。
青い地球の上で二人、結婚式を挙げて。
祝福してくれる人たちに一人一つずつ、クロカンブッシュの小さなシュークリームを配って…。
シュークリーム・了
※シャングリラにあった、クロカンブッシュ。結婚式やお祝い事で配られたシュークリーム。
前のブルーたちも配る時を夢見て、配れないまま。今では配れるお菓子なのです、結婚式に。
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(かぐや姫…)
とっても早く育つんだよね、とブルーはコクリと紅茶を飲んだ。学校から帰っておやつの時間。母が焼いておいてくれたケーキと、熱い紅茶とで。
今日のハーレイの授業で出て来た、かぐや姫の話。竹取物語という正式名称だけだったけれど。遠い遥かな昔にこの地域にあった小さな島国、日本の古典。竹取物語は日本最古の物語だぞ、と。
それよりも先に書かれた物語は無かったらしい、竹取物語。
日本の古典を学ぶ上では常識なのだから、忘れてしまっていないだろうな、という確認。
授業ではそれだけだったのだけれど、ふと思い出した。かぐや姫は早く育つのだった、と。
(どのくらいだっけ…?)
竹の中から見付かるほどだから、生まれたばかりの赤ん坊よりも小さな子供。きっと手のひらに乗るほどの子供。大きさは忘れてしまったけれど。
とにかく小さいかぐや姫。なのに見る間にすくすく育って、アッと言う間に大人になる。大勢の求婚者がやって来るほどの大人に、それは美しい姫君に育つ。
一年もかかっていなかったと思う、かぐや姫が大人になるまでに。ほんの数ヶ月、三ヶ月くらいだったような気もする。
三ヶ月にしても、一年にしても、竹の中に入っていたような子供が一人前に成長するには短い、信じられないほどに短い時間。
今の自分は十四年もかかって育って来たのに、まだ子供だから。
前の自分と同じ背丈を目指しているというのに、手が届かないその背丈。あと二十センチ、今の自分との差はあまりに大きい。
いったい何年かかることやら、目標の背丈になるまでに。百七十センチに育つまでに。
(かぐや姫みたいに育てたらいいのに…)
竹から生まれて、みるみる成長したように。一年もかからずに大人の姿に育ったように。
かぐや姫は日毎に大きくなったというのに、自分ときたら、全く逆で。少しも伸びてはくれない背丈。ハーレイと再会した五月の三日から、一ミリさえも伸びてはいない。
育ち盛りの筈なのに。子供も草木も育つ季節の夏も過ぎて今は秋なのに。
きっと育つと思っていたのに、百五十センチから伸びない背丈。伸びずに止まっている背丈。
このまま育ってくれなかったら、自分の未来はどうなるのだろう?
百五十センチのままだったら。いつまで経ってもチビだったら。
まさか一生、子供の姿ということは無いだろうけれど。いずれは育つだろうけれど。
育ち始める時が問題、いつになったら前の自分と同じ背丈になれるのか。前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイはキスも許してくれない。そういう決まり。
だから育ってくれなかったら…。
(ハーレイと結婚出来ないとか?)
それが一番の心配事。背が伸びないことを考える時の。
結婚出来る年になっても今と同じにチビだったら、と。十八歳になっても、前の自分と同じ姿に育たないままでいたならば、と。
ハーレイに「駄目だ」と断られそうな、十八歳で結婚すること。キスも出来ないチビの姿では、そう言われても仕方ない。十八歳だと主張したって、見た目は子供なのだから。
でも…。
(かぐや姫だって育つんだしね?)
竹から生まれて、アッと言う間に大人になったかぐや姫。
それに比べれば、自分は此処までちゃんと育って来たのだから。ほんの二十センチだけ育ちさえすれば、前と同じになれるのだから。
ぼくにもきっと望みはあるよ、とケーキの残りを頬張った。残りはたったの二十センチ、と。
今は全く伸びないけれども、伸び始めたなら早い可能性もある。かぐや姫さながら、それまでの遅さが嘘だったように僅かな期間で成長するとか。
数ヶ月は無理でも、一年だとか。十八歳を迎える前の一年で大きく伸びるとか。
夏休みだけで数センチも伸びる子供もいるから、ゼロとは言えない可能性。二十センチを一年で割れば、無理なく伸びられそうだから。
おやつを食べ終えて、キッチンの母に空いたお皿やカップを返して。
部屋に戻って、勉強机の前に座って頬杖をついた。さっき考えていた、かぐや姫のこと。
(かぐや姫の絵本…)
持っていたかな、と記憶を探ったけれども、多分、無い。
幼稚園にはあったけれども、家には無かった筈だと思う。竹から生まれた小さなお姫様の物語。可愛らしい絵で綴られていた絵本は、どちらかと言えば女の子向けの本だったから。
(…本当は違うみたいだけどね?)
作者は恐らく男だろう、とハーレイの授業で教わった。今日の授業とは、また別の時に。日本で最初の物語はこれ、と竹取物語の名が挙がった時に。
元々は漢文で書かれていたという。漢文は男性向けの学問、女性は滅多に習わなかった。漢文を書くには教養が要るし、男性が書いたと考える方が自然なのだと。
漢文で書かれた物語だから、読者の方も男性だった可能性が高い竹取物語。物語の主役はお姫様でも、男性向けに書かれた物語。
今は女の子向けの本だけれども、可愛い絵本になっているけれど。
日本で一番古い物語、それが竹取物語。竹から生まれた小さな姫君がアッという間に育つ物語。
(うんと歴史がある話だから、ぼくだって…)
凄い速さで育てるかもしれない、かぐや姫のように。一年どころか、数ヶ月で。前の自分と同じ背丈に、ハーレイとキスが出来る背丈に。
百五十センチまでは育ったのだし、あと少しだから。二十センチ伸びればいいだけだから。
今はちっとも育たないけれど、残りは二十センチだけなのだから。
(いざとなったら、ギリギリでだって…!)
十八歳まで通う今の学校、卒業すれば義務教育は終わりで、結婚だって出来る年になる。三月の末に生まれた自分は、十七歳の内に卒業式を迎えるけれど。
その学校に通う間はずっとチビでも、もう卒業だという間際になって伸び始める可能性もある。急にぐんぐん育ち始めて、卒業する時には前と全く同じ背丈になっているかもしれないし…。
(うん、諦めたら駄目なんだよ!)
もしも今のまま育たなくても、チビのままで卒業の日が迫って来ても。
ハーレイに「チビでは駄目だ」と断られたって、婚約しておく価値は充分にある。もし育ったら結婚して、と頼んでおいて、卒業間近のギリギリの所で急成長して滑り込み。
前の自分と全く同じ背丈に育って、十八歳を迎えたら見事に結婚、ハーレイと暮らす。
(チビのままだったら、それもいいかも…)
卒業する日が、十八歳の誕生日が近付いて来たら、とにかく婚約、そして成長する方に賭ける。卒業までの残り期間で、誕生日までの数ヶ月で。
かぐや姫は一年もかからずに育って、一人前の大人になったのだから。
そこまで無茶は言わないのだから、僅かな期間で二十センチくらい伸びたっていい。ハーレイとキスが出来る背丈に、結婚してもいい背丈に。
「育つかもしれないから婚約してよ」とハーレイに頼み込んでもいい。上手くいったらチビから大人に急成長して、結婚というゴールに辿り着けるのだから。
チビのままでも諦めないこと、と考えていて。
ハーレイが「駄目だ」と苦い顔をしようが、婚約だけでも、と未来を思い描いていて…。
(そうだ、トォニィ…!)
かぐや姫どころか実例があった、とポンと手を打った。遠い昔の物語ではなくて、本当に育った子供たち。赤い星、ナスカの子供たちの例が。
前の自分が目撃していた、急成長した子供たち。ナスカで生まれた七人の自然出産児。
白いシャングリラの格納庫で初めて会った時には、トォニィは三歳にしかならない幼児だった。仮死状態に陥ったトォニィをキースが放り投げたから、慌てて両手で受け止めた記憶。
救助が来るまで抱いていたトォニィの身体はとても幼く、軽かったのに。
メギドの炎が赤いナスカを焼き払おうとした時、前の自分が張ったシールド。地獄の劫火を受け止めるべく張り巡らせたそれを、トォニィたちが強化してくれた。突然現れた子供たちが。
トォニィも、他の六人の子たちも、そのためだけに急成長して。
サイオンを使えるレベルの身体になるまで成長を遂げて、白いシャングリラから飛んで来た。
数ヶ月どころか、ほんの一瞬で大きく育って。かぐや姫でも敵わない速さで成長して。
だから…。
(頑張ったら充分、間に合うんだよ!)
前の自分と同じ背丈に育つこと。あと二十センチ、背を伸ばすこと。
数ヶ月もかけて育たなくても、その気になったら一日もかからずに成長できる。前の自分と同じ背丈に、同じ姿に育つことが出来る。
かぐや姫のような架空の物語ではなくて、実例を自分が見たのだから。前の自分の瞳が捉えて、今も覚えているのだから。
(ほんの一瞬で大きくなれるんだから…)
数ヶ月もあれば充分、間に合う。背丈を二十センチ伸ばすくらいは、きっと充分に。
(トォニィたちは二十センチどころじゃなかったものね…)
一瞬で背丈をグンと伸ばして、飛び出して来たナスカの子供たち。彼らはその後も成長し続け、アルテメシアに着いた時にはトォニィは青年の姿になっていた。月日はさほど経っていないのに。子供が大人に成長するほど、時は流れなかったのに。
前の自分が見ていた実例、一瞬の内に大きく育ったトォニィやナスカの子供たち。赤いナスカが滅ぼされた後も、育ち続けたトォニィたち。
ならば、自分もきっと成長出来るだろう。あと二十センチの分の背丈を、一瞬でだって。
(一瞬は無理でも、一ヶ月もあれば…)
数ヶ月もあれば、間に合うと思う。前と同じに育てると思う。実例がちゃんとあるのだから。
(ぼくだって、きっと…!)
今の背丈から育たなくても、チビのままでも、卒業間際にグンと背丈を伸ばせばいい。チビから大きく育てば間に合う、十八歳になったら結婚すること。ギリギリだろうと、間に合ったなら。
(ちゃんと育ったら、ハーレイも結婚してくれるものね)
望みが出て来た、と嬉しくなった。
今は少しも育たないままで、チビだと言われているけれど。本当にチビで子供だけれども、もう心配はしなくてもいい。
ハーレイがいくらチビだと言っても、結婚までには育つから。前とそっくり同じに育って、チビ呼ばわりはもうさせないのだから。
チビのままでも、とにかく婚約。卒業式を迎える前に。
それから急いで大きく育って、十八歳になったら結婚なんだ、と夢を見ていたら来客を知らせるチャイムが鳴って。仕事帰りのハーレイが来たから、胸を高鳴らせて切り出した。
母がお茶とお菓子を置いて行ってくれたテーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、かぐや姫の話なんだけど…」
今日の授業で言っていたでしょ、日本で最初の物語だから忘れるなよ、って。
「質問か?」
授業時間中に訊き忘れたのか、と鳶色の瞳が瞬きするから。
「ううん、そうじゃなくて…。ぼくもあんな風に育つからね」
「はあ?」
育つってなんだ、なんの話だ?
俺にはサッパリ分からないんだが、お前は何を言いたいんだ…?
「かぐや姫だよ、凄い速さで育ったでしょ?」
竹から生まれて、大人になるまで一年もかかっていない筈だよ。
かぐや姫みたいにぼくも育つよ、今はチビでも、チビのまんまで十八歳になっちゃいそうでも。
急いで育って前のぼくとおんなじ背丈になってみせるよ、ハーレイとキスが出来る背丈に。
絶対に間に合わせるよ、と自信をもって宣言した。十八歳までには必ず前と同じに育つと。
かぐや姫と同じくらいの時間をかけて育ってゆくなら充分間に合うし、トォニィたちがナスカでやったようにするなら一瞬でだって、と。
「だからね、チビでも婚約してよ?」
十八歳になったら結婚出来るし、ぼくが十七歳になったら婚約。卒業までには婚約だよ。
「チビでも婚約って…。お前が育っていない時のことか?」
今と同じにチビのまんまで、見た目は今と変わらないガキで。
そういう姿で十七歳になっていたって、婚約しろっていう意味なのか?
「うん。チビでもいいでしょ、婚約くらいは」
「そりゃあ、いざとなったらチビのままでも貰ってやるって話はしたが…」
チビのお前でも嫁にしてやると言いはしたがだ、それはお前が十八歳になってからだぞ。
結婚出来る年になってもチビだったならば、仕方ないから貰ってやると…。
そういう場合は、婚約するのは十八歳になってからだな、それよりも前というのは無しだ。
何処から見たってチビのお前に、十八歳になったら結婚しようと婚約を申し込むのはなあ…。
それは流石に気が早すぎる、と腕組みをして渋られたから。
十八歳になるまで待てと、婚約するのはその後でいいと言われたから。
「それより前でも平気だってば!」
ぼくはきちんと育つんだから!
十八歳の誕生日までには、チビのぼくではなくなるんだから!
「間に合わせるってか、急いで育って?」
前のお前と同じに育って、それで結婚しようと言うのか?
「そうだよ、かぐや姫みたいに育つんだよ!」
かぐや姫の話は作り話かもしれないけれども、トォニィたちはホントに育ったじゃない!
あれと同じで育つ筈だよ、残りはたったの二十センチだし!
「ふうむ…。その意気込みは素晴らしいが、だ…」
お前、サイオン、使えるのか?
タイプ・ブルーなことは本当らしいが、そのサイオンを生かせてないのがお前だろうが。
「え?」
育つのにサイオンも何もないでしょ、ぼくは背を伸ばそうとしてるだけだよ?
本当に必要な時になったら、凄い速さで背が伸びるから。
「おいおい…。かぐや姫はともかく、トォニィたちの方はだな…」
多分、サイオンが関係していた筈だぞ、決定的な証拠やデータは無かったが…。
ノルディにも全く分からなかったが、サイオン抜きでは考えられん。
皆を守ろうという強い気持ちがサイオンと結び付いてだ、大きく育った筈なんだ。
あいつらが自分で言っていたからな、「大きくならないと守れなかった」と。ただ、サイオンをどういう具合に使ったのかは、最後まで謎のままだったがな…。
トォニィがソルジャーになった後にも、その辺の記録は残されていない。大きくなりたいと強く願ったと、そのせいで大きく育ったのだと回想していた程度でな。
自分でも分かっていなかったんだろう、どうやって成長していったのか。人類軍との戦いの中で必死に育って、それだけで精一杯だったんだろうな、きっと。
ついでに急成長をした子供の例はあれしか無いが、という話。
ナスカの子供たちの他には、急激な成長を遂げた例など皆無なのだ、と。
「…嘘…」
ハーレイが言う通り、サイオンのせいで育ったんだとしても。
人間はみんなミュウになったよ、トォニィたちの他にも育った人はいたんだと思うけど…。
誰でもサイオンを持ってるんだし、大きくなりたい、って思えばサイオンに結び付くでしょ?
「いや、本当だ。トォニィたちの他には誰一人いない」
今ではタイプ・ブルーも珍しくないが、そういう時代になっても一人も出ない。
前の俺たちが生きてた頃から、今までの間に長い長い時が流れたわけだが…。ただの一人も出て来ないままだ、トォニィたちのように育ったヤツは。
俺が思うに、種の存続がかかっていたから、奇跡みたいなものだったんだろうな。
ミュウという種族が生き残るために、神様が起こして下さった奇跡。
「でも、奇跡って…。ぼくがトォニィたちに会った時には…」
ハーレイが聞いていたのと同じで、自分の力で頑張ったみたいに言ってたよ?
育たないと守れなかったから、って。大きくならなくちゃいけなかった、って…。
だから奇跡じゃないと思うけど、トォニィたちが頑張っただけで。
「その後の世界でも、頑張ろうとしたヤツらは後を絶たなかったと思うがな?」
早く育とうと、大きく育ってやりたいことが幾つもあるんだと、努力したヤツら。
現に俺だって、そう願ったもんだ。
柔道にしたって、水泳にしたって、身体が育てば出来ることがググンと増えるんだしな?
トォニィたちの話は歴史の授業で習うからなあ、あんな具合に育ってみたいと大真面目に思っていたもんだが…。
同じような夢を見ているヤツらも何人もいたが、誰も成功しちゃいないってな。
かぐや姫を上回る速さで大きく育った、七人のナスカの子供たち。
彼らの話は今も伝わるから、彼らのように早く育ちたいと願う者たちも後を絶たない。もちろん中にはタイプ・ブルーも多くいた筈で、条件は同じなのだけど。
今に至るまで、成功例は一つも無いのだという。ただの一人も成し遂げていない。
歴史に残ったナスカの子たちの急成長は、あの時だけの奇跡。ミュウが滅びてしまわないよう、神が起こした奇跡の出来事。
「じゃあ、トォニィたちは…」
ただのタイプ・ブルーっていうだけじゃないの、奇跡の子供たちだったの?
あれっきり二度と同じような人間が出て来てないなら、トォニィたちは特別だったの…?
「多分な。かぐや姫みたいなものだったのかもな、月の都の人間じゃないが」
人間の中に生まれては来たが、月から来たような特別な子供。
月に帰って行きはしなかったが、同じミュウでも、何処かが違っていたんだろうなあ…。
ナスカが月の都だったかもな、と語るハーレイ。
トォニィたちが来た月の都はナスカだったかもしれないと。あの時だけしか無かった星だ、と。
「でも、ナスカって…。人類が入植していた星でしょ?」
ナスカじゃなくって、ジルベスター・セブンっていう名前で。
人類が捨てて行っちゃった後で、ジョミーたちが見付けて入植して…。
だからその前からナスカはあったよ、トォニィたちが生まれた頃だけじゃなくて。
「そのナスカだが…。人類が入植していた頃には、子供が育たなかったらしいぞ」
大人には全く影響は無いが、どうしたわけだか子供が育たん。そんな星ではどうにもならんし、マザー・システムはナスカを捨てたらしいな。
「そうだったの?」
「うむ。俺も最初は知らなかったが…」
その手の情報はシャングリラのデータベースには無くて、捨てられた植民惑星というだけで。
ならばいいかと入植を決めて、後から分かったことなんだよなあ…。
ナスカに降りたジョミーが見付けた、古い小さな天文台。
側にあった白いプラネット合金の墓碑、其処に彫られていた銘文。
「誰が私に言えるだろう。私の命が何処まで届くかを」。SD体制が始まるよりも遥かな昔の、リルケの詩から取られたそれ。
リルケの詩集を好んだ子供のためにと建てられた墓碑、ハーレイも墓碑を見たという。天文台のある家に飾られた、その子と家族の肖像画も。
養父母に連れられて入植した子は育たなかった。リルケの詩集が好きだった子は。
他の養父母と共に来た子も、誰一人として。
子供が育たない原因は掴めず、人類はナスカを去って行った。この星は駄目だと。
そういった情報を得た頃にはもう、トォニィがカリナの胎内に宿って育ちつつあって。どうやらミュウには影響が無いと、無事に子供が育つようだと、そのまま留まり続けたという。
本当にこの星が子供の育たない星であるなら、カリナが子供を宿す筈が無いと。
「子供が育たない星だったって…。あのナスカが?」
なのにトォニィたちが生まれたの、そんな星で?
人類の子供は育たないのに、ミュウの子供はちゃんと育ったの…?
「奇跡のようにな。…人類とミュウでは違っていたのか、それとも神様が起こした奇跡か…」
俺は奇跡だと思っている。あの頃は人類とミュウの違いだと考えていたが…。
今から思えば奇跡なんだろうな、誰もが揃ってタイプ・ブルーで、凄い速さで成長して…。
神様が下さった奇跡の子供ということなんだろう、ナスカの子たちは。
本来、子供が育たない筈の星で生まれて来たんだからな。
「…知らなかった…」
ナスカがそういう星だったなんて、今の今まで知らなかったよ。人類が捨てた星ってことしか。
「あまり知られていないからなあ、トォニィたちが生まれた背景ってヤツは」
成長した後の活躍ばかりが注目されてて、その前の平凡な子供時代は霞んじまって。
俺だって、前の俺だった頃の記憶が無ければ知らんままだぞ、ナスカがどういう星だったかは。
本当だったら、子供が育たなかった筈の赤い星。
白いシャングリラのデータベースに情報があれば、けして入植していなかった。自然出産で次の世代を育ててゆこうと、ナスカを選んだのだから。
たとえ人類の子供であろうと、子供が育たないからと廃棄された星に降りたりはしない。子供を産んで育ててゆくには、まるで適さない星なのだから。
けれど船には情報が無くて、何も知らずに入植したナスカ。星の正体が分かった時には、新しい命が育まれていた。子供が育たない筈の星で。生まれてくる筈も無さそうな星で。
「ナスカはミュウのための星だったんだろうなあ、人類には捨てられた星だったが」
あの星でトォニィたちが生まれて、そこで歴史が変わって行った。
自然出産に戻る切っ掛け、トォニィたちが無事に生まれたからこそだしな。
「でも、ナスカ…。砕かれちゃったよ?」
ミュウの星だったせいで、メギドに焼かれて砕かれちゃった…。
歴史が変わった星だけれども、ナスカは何処にも残っていないよ。
「あれ以上、あったら駄目だったんだろう。かぐや姫が月に帰ったように」
奇跡の子供は七人いれば充分だろう、と神様も思っておられたんだろうな、それで足りると。
もっと長くナスカに留まっていても、子供は生まれなかったかもしれん。
でなけりゃ、生まれてもトォニィたちみたいな奇跡の子供にならなかったとか、そういった風になっていたんじゃないか?
あの星は期限付きの奇跡の星だったんだ。…ミュウが未来を築くための。
トォニィたちが生まれた月の都で、トォニィたちが月に帰らないよう、月が姿を消したってな。
月の都がなくなっちまえば、かぐや姫は帰れないからなあ…。
トォニィたちを育てた月の都。七人の奇跡の子たちが生まれた月の都が赤い星、ナスカ。
赤いナスカはミュウの未来を築くための月で、役目を終えたら月は姿を消したというから。月の都に帰れないよう、月の方が消えていったというから。
「…トォニィたちが月に帰れないように、って消えたにしては…」
ナスカが消えちゃった時の犠牲者、多すぎない?
前のぼくはともかく、ナスカで死んじゃった仲間たちの数が多いんだけど…。
いくら奇跡の星にしたって、月の都ってことにしたって、あんまりじゃない…?
「それを言うなら、かぐや姫の話も酷いもんだが?」
かぐや姫の絵本や子供向けの本では、それほど酷くは書かれていないが…。
求婚したヤツらの末路を知っているのか、かぐや姫に無理難題を出されたヤツら。
一番悲惨な貴公子なんかは、命を落としてしまうんだがな?
ツバメの子安貝を取りに行かされた中納言はだ、その時に落っこちて腰を傷めて、その傷が元で最後には死んでしまうんだぞ。
他の貴公子も散々な目に遭う、と聞かされてみれば酷いから。
絵本などで漠然と知っていた以上に酷い末路で、その上、かぐや姫は何もかもを忘れて月の都に帰って行ってしまうから。
「ナスカって…。月の都って言うより、かぐや姫だったの?」
ミュウが見付けた、竹の中に入っていたお姫様。
竹から出て来る宝物の代わりにトォニィたちをくれたけれども、その後はもう知らない、って。
勝手にしなさい、って月に帰ってしまって、それっきりだとか…。
ナスカで死んでしまった仲間は、かぐや姫に振り回されちゃった求婚者みたいな立場だとか。
「さあなあ…?」
あの星がかぐや姫だったのか、月の都か、そいつは分からん。
だが、トォニィたちをくれた奇跡の星なのは確かだ、ナスカが無ければトォニィたちは生まれて来なかったんだからな。
トォニィたちがいなけりゃ、前の俺たちやジョミーがどう頑張っても、シャングリラは地球には行けなかっただろう。
ナスカが月の都だろうが、かぐや姫だろうが、あの星は奇跡の星だったんだ。
それはともかく…。
お前の夢見る未来は無いな、と額をピンと弾かれた。
凄い速さで成長するのは多分無理だぞ、と。
「トォニィたちにしか出来なかったことだ、あれ以来、誰も出来てはいない」
ミュウの時代がここまで続いても、誰も成功していないんだ。
トォニィたちだったからこそ起こせた奇跡だ、いくらお前でも真似は出来んな。
タイプ・ブルーに生まれていようが、元はソルジャー・ブルーだろうが。
生まれ変わりがせいぜいってトコで、それ以上の奇跡は神様も起こして下さらんだろう。
「うー…」
ぼくは大きくなりたいのに…!
ちっとも育たないチビのままだと、ホントのホントに困っちゃうのに…!
十八歳になっても今と同じでチビのままだったら、ハーレイと結婚出来ないのに…!
「まあ、いいじゃないか」
そんなに急いで育たなくても、時間はたっぷりあるんだからな?
トォニィたちは早く育ちはしたがだ、その代わり、子供時代が短かっただろうが、違うのか?
今のお前よりも遥かに小さいガキの頃から戦い続けて、死んじまった子もいたんだぞ。
それを思えば、お前はずうっと恵まれてるんだ、育たなくても誰も困らん。
お前は困ると言うかもしれんが、社会ってヤツには全く影響しないだろうが。
前のお前と全く違って、守らなければいけない船も仲間も無いんだし…。
今度はのんびり育てばいいだろ、トォニィたちの真似なんかせずに、子供時代をうんと楽しめ。
育っちまったら、もう子供には戻れないんだから、チビの間はチビの時間を楽しむことだ。チビだからこそ言える我儘とか、許されるようなことだとか。
そういったことが山ほどあるんだ、チビの時間もいいもんだぞ。
チビでもいつかは嫁に貰ってやる、とハーレイは微笑んでくれたから。
かぐや姫やトォニィたちのように凄い速さで成長するのも、どうやら望みは無さそうだから。
(…チビだった時はチビのままでも…)
ナスカの思わぬ話も聞けたし、今日の所はこれでいいのだろう。
子供が育たない筈の星で生まれた、奇跡の子たち。奇跡のように育ったナスカの子たち。
前の自分がメギドを沈めてミュウの未来を守ったあの日に、あの子たちにも奇跡が起こった。
今に至るまで例が無いという、信じ難い速さで育った子たち。
赤いナスカが月の都か、かぐや姫かは分からないけれど、あの星で奇跡が起こったように。
今の自分が青い地球の上に生まれ変わったこともまた、神が起こした奇跡だから…。
焦らずに待とう、前の自分と同じ姿に育つ日を。
自分と同じに生まれ変わって来た、ハーレイと結婚出来る日を。
いつかは必ず、育つ日が来る。
ハーレイと二人、手を繋いで何処までも歩いてゆける。
赤い星ではなくて、青い地球の上で。
いつまでも二人、手を繋ぎ合って、何処までも続く幸せな道を、互いに微笑み交わしながら…。
かぐや姫・了
※かぐや姫のように急成長した、ナスカの子たち。そんな例は他には無いままなのです。
そして子供は育たない筈の、ナスカという星。赤いナスカは、月の都だったかもしれません。
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