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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(あれ…?)
 オレンジの匂い、とブルーが覗き込んだバスルーム。お風呂に入ろうとパジャマを抱えてやって来たのだけれど。
 洗面台がある部屋との境の扉を開けた途端に、湯気と一緒にオレンジの香り。さっきより強くてオレンジそのもの、まるでお風呂にオレンジの木でも生えているよう。
 湯気の向こうのバスタブを見たら、ぽっかりと袋が浮かんでいるから。直ぐに分かった、あれが匂いの正体だと。母が浮かべておいたオレンジ。
(ふうん…?)
 今日はオレンジ風呂の日なんだ、と納得して扉をパタンと閉めた。
 たまにある、オレンジの香りのお風呂。本物のオレンジを浮かべたバスタブ。これからの季節は身体が温まるから、と母が入れておくことがある。バスエッセンスやバスソルトと同じ感覚で。
 ただし、オレンジは丸ごと浮かべても駄目だから。せっかくの成分が何の役にも立たないから。二つに切られて薄い袋に入れられて浮かぶ、熱いお風呂に。
 役に立つ成分は袋を通り抜けてお風呂に、お湯を濁らせてしまう種や皮などは袋の中に。だから濁らない、お風呂のお湯。オレンジの香りが強くても。オレンジを溶かしたようであっても。



 服を脱いで入ったバスルーム。いい匂いのお湯を早速かぶった、シャワーよりも先に。ふわりと身体に纏い付く香り、柑橘系のフレッシュな匂い。
 バスエッセンスではこうはいかない、本物のオレンジにはとても敵わない。母が入れたような、本物のオレンジの香りには。切ったばかりの実から立ち昇る匂いには。
(いい匂い…)
 身体を洗って、浸かったバスタブ。たっぷりのお湯。そこに浮かんだオレンジの袋。手に取るとツンとオレンジの香り、持ってみた手にも香りが移った。アッと言う間に。
(ふふっ)
 ぼくの手がオレンジになったみたい、と眺めた手。その手がツルリとしているから。オレンジの袋から出て来る果汁か皮の成分か、触ってみるとツルツルだから。
 これは面白い、と顔やら肩やら腕に塗ってみた、そのツルツルを。するりと滑りそうな肌。
 見た目に光ったりはしていないのに。ただ濡れているというだけなのに。何故だかツルリとしている手触り、目には見えないオレンジの膜。オレンジの香りの透明な膜。
(傷とかがあったら、しみて痛いんだろうけど…)
 これだけの香りがしていれば、きっと。小さな傷でも、このオレンジの膜をすり込んだなら。
 そういう傷は全く無いから、顔も腕も肩も、塗り付けた分だけ本当にツルツル、スベスベの肌。
 オレンジ風呂は身体が温まるお風呂だけれども、美肌効果もあるのだったか。前に母から聞いた気がする、「肌が綺麗になるお風呂なのよ」と。



 このツルツルを塗り付けていると、オレンジの袋を触っていると、肌が綺麗になるのも分かる。如何にも効きそうなオレンジのお風呂、お風呂上がりの肌もツルツルなのだろう。
(今は関係無いけどね?)
 チビの自分の肌がツルツルでも、スベスベでも誰も喜ばない。褒めてもくれない。せいぜい父か母に頬っぺたをチョンとつつかれる程度、「お餅みたいに柔らかい」と。
 けれど、大きくなったなら。前の自分と同じ背丈に育ったら…。
 美肌効果もきっと必要、オレンジ風呂にも入らなくてはいけないだろう。肌がスベスベになってくれるよう、オレンジを浮かべたバスタブに。
(だって、結婚するんだもんね?)
 前の生から愛したハーレイ、結婚出来る年の十八歳になったら結婚しようと決めているから。
 結婚したなら、今度こそハーレイと二人きりで暮らして、身体中に幾つもキスを貰って…。
 そのためにはきっと、艶やかな肌がいいのだろう。
 ハーレイがキスを落としてくれる時に、優しい感触がするように。手触りだっていいように。
 同じキスなら、同じ手触りなら、ハーレイが喜びそうな肌。



(ガサガサよりかは…)
 荒れてガサガサの肌は論外、乾燥しすぎた肌だって。
 ハーレイと二人で暮らす時には、断然、スベスベの肌がいい。「吸い付くような」とか、磁器のようだとか、そんな風に表現される肌。滑らかで、いつまでも触っていたくなるような肌。
(…お風呂にも気を付けなくちゃ…)
 肌の手入れをしたいけれども、化粧水は自分には似合わないから。使いたい気もしないから。
 前の自分も化粧水など、まるでつけてはいなかった。青の間に化粧水の瓶などは無くて、一度も使いはしなかった。それと同じで今の自分も使いたいとは思わないけれど。
 それでも綺麗にしておきたい肌、スベスベにしたい自分の肌。
 化粧水の類を使わないなら、頼りになりそうなものはお風呂で、今のように身体ごと浸かるバスタブ。そのお湯に工夫をするのが一番、浸かるだけで美肌効果があるお風呂。
(バスソルトとか…)
 バスタブに垂らすバスエッセンスとか、お風呂に入れる様々なもの。オレンジ風呂もその一つ。
 今は母任せで、香りのするお湯が入っている日も、入っていない日もあるけれど。
 母の気分で透明だったり、色がついたりするお風呂。
 オレンジ風呂だと透明だけれど、効果は抜群、スベスベの肌。それに香りもいいお風呂。



 いつかハーレイと結婚したなら、お風呂のお湯を何にするかは自分で決めることになるから。
 ハーレイに「俺はこれだ」というこだわりが無いのだったら、お風呂は好きに決められるから。
(きちんとお手入れ…)
 肌がしっとりとするお風呂。ツルツルのスベスベ、艶々の肌になるお風呂。
 オレンジ風呂だとか、美肌効果のあるバスエッセンスとか、バスソルトとか。そういうお風呂に浸かって肌の手入れをしなければ、と考えていて。
 それに限ると、ハーレイもきっと喜んでくれると、未来の自分の肌を思い描いていて…。
(でも、待って…!)
 自分の肌を磨くお風呂はいいけれど。大切だけれど、ハーレイも入るのだった、そのお風呂に。
 二人一緒に住んでいるのだし、お風呂も同じバスルーム。バスタブも同じ。
 白いシャングリラで暮らしていた頃、「薔薇のジャムが似合わない」と言われていたハーレイ。面と向かってそう言った者はいなかったけれど、ハーレイにだけは「如何ですか?」と尋ねる者が無かったクジ引き、シャングリラの薔薇で作られたジャムが当たるクジ引き。
 クジを入れた箱はブリッジにも持ってゆかれたけれど。ゼルでさえもが「どれ、運試しじゃ」とクジを引いていたけれど、そのクジの箱はハーレイの前をいつも素通りして行った。ただの一度も止まることは無くて、「如何ですか?」と声も掛からなかった。
 誰も不思議だと思いもしなくて、変だとも失礼だと言いもしなくて、クジは素通り。ハーレイに薔薇のジャムは似合わないから、皆がそうだと思っていたから。



 白いシャングリラがあった頃から、長い長い時が流れたけれど。二人で青い地球に来たけれど。
 前と少しも変わらないハーレイ、仕事や立場が変わっただけ。姿は前とそっくり同じで、背丈も顔立ちもキャプテン・ハーレイそのままで。
 つまりは今でも薔薇のジャムが似合わないハーレイ。乙女心の結晶のようなジャムは似合わず、薔薇の花だって似合わない。自分にはそうは思えないけれど、ハーレイ自身もそう考えている。
 そんなハーレイが入るお風呂に、バスエッセンスだの、バスソルトだの。
 肌を綺麗に保ちたいからと、オレンジ風呂もやってみようと思ったけれど…。
(ハーレイに似合うの…?)
 艶やかな肌を保つためのお風呂、肌を滑らかにしてくれるお湯。香りも花やらオレンジやらで。
 自分の肌がスベスベになるのはいいことだけれど、ハーレイの方はどうだろう?
 嫌がられるかもしれない、そんなお風呂は。
 滑らかな肌を作るお風呂で磨いた身体は好きだろうけれど、ハーレイ自身がその巻き添えで同じお風呂に入るのは。花やオレンジの香りのお湯は。



 そうなってくると、お風呂に入る順番を決めるしかないだろう。ハーレイが花などの香りが漂う変なお風呂に入らなくても済むように。被害を及ぼさないように。
(…ぼくの方が先に入ったら駄目…)
 お風呂に花の香りのバスエッセンスやバスソルトを入れてしまうから。
 母が入れているバスエッセンスなどの類は大抵、ふうわりと花の香りがするから。でなければ、今日のオレンジ風呂。そういう香りの柑橘系。
 ハーレイがそれを嫌がりそうなら、お風呂に入るのは、自分が後で。ハーレイがのんびり入った後で、バスソルトとかをポチャンと入れて。たまにはオレンジも浮かべたりして。
 でも…。
(ハーレイが先にお風呂って…!)
 ゆっくり入って、ゆったり浸かって。「お風呂、空いたぞ」と言ってくれるのだろうけれど。
 お前も早く入るといい、と笑顔を向けてくれるだろうけれど、そのハーレイ。お風呂から出て、冷たい水でも飲んでいるかもしれないハーレイ。
 バスローブかパジャマかは知らないけれども、水かコーヒーでも飲みながら…。
(…待っているんだよね?)
 空いたバスルームに向かった自分を、お風呂に入りに行った自分を。
 肌を磨きに出掛けた自分が、お風呂から出て戻って来るのを。



(それって、とっても…)
 恥ずかしいかも、と思ったけれど。
 ハーレイが待っている間に肌を、身体を磨くというのは恥ずかしすぎると思ったけれど。
 先に入っても、それはそれで違う恥ずかしさ。
 バスエッセンスだのバスソルトだのを入れたお風呂に、ハーレイが入りに出掛けても。そういうお風呂でもかまわないから、と後から入ってくれたとしても…。
(待ってるの、ぼくが?)
 ハーレイがお風呂から戻って来るのを、ベッドに腰掛けて、パジャマ姿で。
 それともバスローブを羽織ってだろうか、いい匂いをさせて。磨いたばかりのスベスベの肌で。
 早くハーレイが戻らないかと、まだ少し上気している身体で。
(…ハーレイのために磨いたって感じ…)
 それに間違いは無いけれど。ハーレイが喜んでくれるようにと、自分の肌を磨くのだけれど。
 いい匂いをさせて待つ自分。
 スベスベの肌で、花やオレンジの香りを纏って、「美味しいですよ」と言わんばかりに。



 それでは恥ずかしすぎるから。
 いくらハーレイに食べて貰おうと待っているにしても、頬が真っ赤になりそうな気分。
 そんな思いで待っているのは恥ずかしいから、やっぱり後に入ろうか?
 ハーレイに先に入って貰って、「空いたぞ」と笑顔で声を掛けられたら、バスエッセンスなどは入っていないお湯に「今日はこれ」と美肌効果のあるものを入れて。その日の気分でオレンジでもいい、ゆったりと浸かって、肌が綺麗になるように。
(…でも、やっぱり…)
 お風呂から出たら、「磨いて来ました」という感じ。いい香りをさせて、スベスベの肌。
 考えると顔が熱くなるから、恥ずかしくて火が出そうだから。
 ここはやっぱり、ハーレイも同じ香りを漂わせるお湯で、先に入って貰うべきだろうか。薔薇のジャムが似合わないハーレイだけれど、バスエッセンスが似合わなくてもかまわないから。



 ハーレイは嫌かもしれないけれど。「俺に似合うと本気で思っているのか?」と顔を顰めるかもしれないけれども、ハーレイを先にバスルームへ。ハーレイの身体も同じ香りをさせていたなら、恥ずかしさが少し紛れるから。
(ハーレイが入るのを嫌がったって…)
 その上、ハーレイまでがスベスベの肌になったとしたって、同じ香りを纏って欲しい。二人とも同じ香りがするなら、恥ずかしさも減ってくれるから。
 同じ香りを纏うだけなら、自分が先でもいいのだけれど。先に入ってバスエッセンスを入れて、「お風呂、空いたよ」とハーレイに言えば、ハーレイの身体も同じ香りになるけれど。
 自分が先にお風呂に入って、そのお湯を残しておいたなら。
 それだと、自分がベッドに腰掛けてハーレイを待つことになってしまうから。
 とても恥ずかしい、如何にも準備を整えて待っているようで。
 肌を綺麗に磨いて来ましたと、早く食べてねと、ベッドという名のお皿にチョコンと乗っかっているかのようで。
 ナイフもフォークも準備したからと、後はハーレイが食べるだけだよ、と頬を染めながら、甘い時間を過ごすための大きなお皿の上に座っている自分。
 どう食べるのも好きにしてねと、ナイフとフォークでも、手づかみでも、と。



 そう考えたら、お風呂の順番。ハーレイと暮らす家でお風呂に入る順番。
(やっぱり、ぼくが後の方が…)
 恥ずかしくないだろうか、肌を磨くためのバスエッセンスなどを入れるなら。
 磨いた身体でベッドという名のお皿に座って、食べて貰おうと待っていなくて済むのだから。
 そうでなければ、恥ずかしさが薄らいでくれるようにと、ハーレイも自分と同じ香りを纏う道。先にハーレイに入って貰って、その時に、お湯にバスエッセンス。
 たとえハーレイが「俺はちょっと…」と腰が引けていようが、ハーレイの身体まで上から下までスベスベになってしまおうが。
 薔薇のジャムが似合わないハーレイだけれど。バスエッセンスも無理がありそうだけれど。
(花の香りも似合わないけど、オレンジだって…)
 オレンジ風呂も似合いそうにないんだけどね、と思ったら。
 ぽっかりとお湯に浮かんだ袋はともかく、オレンジの香り、とハーレイの顔を思い浮かべたら。



(えーっと…?)
 オレンジの香りがするお風呂。今、浸かっているオレンジ風呂。
 何かが記憶に引っ掛かる。
 今の自分の記憶ではなくて、もっと遥かに遠い何処かで。流れ去った遠い時の彼方で。
 そういう記憶があるとしたなら、そのオレンジの香りがしていたお風呂は…。
(シャングリラ…?)
 白い鯨でしか有り得ない。アルタミラではお風呂などは無かったのだから。シャングリラの名を持っていた船も、白い鯨になるよりも前は、オレンジ風呂など多分、無い筈。
 けれども白い鯨にしたって、オレンジ風呂などあっただろうか?
 オレンジは栽培していたけれども、それをお風呂に入れただろうか?
 自給自足の船の中では、オレンジも大切な食べ物だから。余ったにしても、お風呂だなんて、と記憶を探って、オレンジの香りを辿っていって…。
(…そうだ!)
 これだ、と捕まえた遠い遠い記憶。前の自分が持っていた記憶。
 あったのだった、白いシャングリラにオレンジのお風呂。
 いつもあったというわけではなくて、備蓄していたオレンジが傷んでしまった時に。廃棄処分にするには惜しい、と考案したのはエラだったか。データベースであれこれ調べて。
 食べるには難のあるオレンジとはいえ、オレンジ風呂なら食べるわけではないから。その成分をお湯を通して貰うだけだから、傷んだ時にはオレンジ風呂。



 傷んだオレンジを切って袋に入れて浮かべるオレンジ風呂。
 女性に人気のお風呂だったけれど、入りたいからと貰ってゆくのは圧倒的に女性だったけど。
(肌がスベスベになるって聞いて…)
 前の自分が貰いに出掛けて行ったのだった。「オレンジ風呂は身体が温まると聞いたから」と。
 もちろん本当の目的は違った、身体を温めたいというわけではなかった。
(だって、スベスベ…)
 女性たちの間で評判だったオレンジ風呂。入れば肌がスベスベになると、綺麗になると。
 だから試してみたいと思った、ハーレイのために。
 ブリッジでの勤務を終えたら訪ねて来てくれる優しい恋人、そのハーレイが喜ぶように。
 オレンジ風呂で肌を磨いて待っていようと、スベスベになって待っていようと。
(でも、今と同じで恥ずかしくって…)
 磨き上げた身体で、オレンジの香りを纏わせた肌で、ハーレイが来るのを待っているのが。
 食べて下さいと言わんばかりに、お風呂上がりで待つ自分。
 そんなことは一度もしていなかったし、恥ずかしすぎて出来そうになくて。
 けれどオレンジ風呂に入って磨きたい肌、ハーレイのために磨き上げたい身体。スベスベの肌で恋人を迎えて喜ばせたいのに、ちゃんとオレンジも貰って来たのに…。



 どうしようかと悩んでいる内にハーレイがやって来たんだった、と思い出した所で。
「ブルー、のぼせるわよ!」
 いつまでお風呂に入っているの、と扉を開けて覗いた母。何分経ったと思っているの、と。
「はーい!」
 直ぐに上がるよ、と慌ててバスタブから出た。危うく、のぼせそうだったお風呂。お湯の温度が丁度良かったから、ついつい浸かり続けてしまった。考え事をしながら、切ったオレンジが幾つも入った袋を「ツルツルになるよ」と両手で揉んだりしながら。
 身体はすっかりオレンジの香り、頭の天辺から足の爪先まで。
 タオルで身体をしっかり拭いても、パジャマを着ても消えない香り。
 オレンジが入った袋が浮かんだバスルームから離れて、二階へと続く階段を上り始めても。足を進めても、オレンジの香りが自分と一緒についてくる。
 消える代わりに、纏い付いて。まるで身体中の細胞に染み込んでしまったかのように。



 部屋に帰ってもオレンジの香り、身体からふわりと立ち昇る香り。
 オレンジの香水をつけたかのように、手からも、パジャマの下の肌からも。
(…この香り…)
 ベッドの端に座って考える。あの時のオレンジの香りと同じ、と。
 「身体が温まると聞いたから」と大嘘をついて、肌をスベスベにしようと手に入れたオレンジ。前の自分がお風呂に浮かべようとしていた、傷んだオレンジ。
 それを入れるための袋まで用意して貰って、後はオレンジを切って袋に入れるだけ。バスタブに熱いお湯を満たして浮かべるだけ。
 そう、この香りを纏いたかったのだった、ハーレイのために。スベスベの肌で待つために。
 けれど恥ずかしくて、入る決心がつかなくて。
 オレンジ風呂の用意も出来ずに、バスタブにお湯を張ることも出来ずに一人で迷い続ける内に。
 勤務を終えたハーレイが何も知らずに来てしまって…。



 青の間のテーブルの上に置かれたままだったオレンジ、五つくらいはあったと思う。他でもないソルジャーの御希望だから、と係の者が多めにくれた。オレンジ風呂用の袋もつけて。
 白い薄布で出来た袋は小さく畳まれていたから、ハーレイの目には入っていなかったようで。
「なんですか、このオレンジは?」
 お召し上がりになるのですか、ブルー?
 それにしては少し皮が乾いているようですが…。このオレンジは傷んでいませんか?
「そうなんだけれど…。君が言う通り、傷んでしまったオレンジなんだけどね」
 貰って来たんだ、お風呂に入れるといいと聞くから…。
「ああ、オレンジ風呂になさるのですか。女性たちに人気のようですね」
 それに身体が温まるとか。ゼルとヒルマンもたまに入っているそうですし…。
「うん。…だから、ハーレイに…」
 喜んで貰いたかったから、と言おうとして、それが言えなくて。「ハーレイに」までで止まった言葉で、ハーレイは見事に勘違いをした。
「私にですか?」
 下さるのですか、身体が温まるようにと、これを…?
 お気遣い下さるほどに冷えていますか、私の身体は、そこまで酷く…?
 一緒にお休みになる時に寒いのでしたら、遠慮なさらずにパジャマをお召し下されば…。
「そうじゃなくて…!」
 君の身体が冷たいだなんて言っていないよ、これはぼくが…。
 オレンジ風呂は、ぼくが入ろうとして…。



 肌が綺麗になると聞いているから、と打ち明けた。
 君のために肌を磨こうと思って貰って来たのだけれど、と。
「…オレンジを貰いに行った時には、身体が温まるらしいから、と言ったんだけれど…」
 本当のことは言わなかったし、係も疑いもしなかったし…。そこまでは良かったんだけど…。
 そこから後がね、どうしても駄目で…。
 磨き上げた身体で君を待ちたかったけど、決心がつかなくて入れなくて…。
 オレンジも切れずにそのままなんだよ、バスタブにお湯も張っていないし…。
 何度も入ろうと思ったけれども、恥ずかしくなって全く駄目で…。
 ぼくの決心がつくよりも先に、君が来てしまって、オレンジ風呂には…。
 入るどころか準備も出来ていない状態、と頬を真っ赤にして俯いた。ぼくは駄目だ、と。
「…そのためのオレンジ風呂でしたか…」
 私のためにと仰ったのは、そういう意味だったのですね。…嬉しいですよ、ブルー。
 あなたが肌を磨こうとなさってらっしゃったなんて…。今でも充分、滑らかな肌を毎晩のように楽しませて頂いているというのに。
「でも、ぼくは…。そうしたいと思ったというだけで…」
 結局、何も出来てはいないし、オレンジだってそのままで…。
 こうして此処に置いておいても、明日の夜にも入れそうにないよ、恥ずかしくて。
 君に打ち明けても、まだ恥ずかしくて入れないんだ、君を待つだけの勇気が無くて。
 肌は綺麗にしたいけれども、君が来る前にお風呂に入っておくなんて、とても…。



 出来ない、と耳まで赤く染まった、恥ずかしさで。
 ハーレイとは何度も身体を重ねているのに、毎晩、逞しい腕に抱かれて眠っているのに。
 けれど、それとオレンジ風呂に入って身体を磨いて待つのとは別で。
 やがて来るだろう恋人のために、先に一人でお風呂に入って肌を美しく磨くのは別で…。
 出来るわけがない、と俯いていたら。無駄になりそうなオレンジたちさえ見られずにいたら…。
「それなら、一緒に入りましょうか?」
 私の肌まで磨く必要は無いと思いますが、あなたがお入りになれないのなら…。
 先に入るのは恥ずかしいからと仰るのでしたら、ご一緒させて頂きますが。…オレンジ風呂。
「…君と?」
 君と一緒に入るのかい、と目を丸くしたら。
 君までオレンジ風呂だなんて、と驚いていたら。
「お風呂でしたら、たまに入っているでしょう?」
 オレンジ風呂ではなくて、普通のお風呂。
 あなたと一緒に入っていることも、特に珍しくはないですからね。此処のバスルームは大きめに出来ておりますし…。バスタブも充分、広いですから。
 あなたと二人で浸かっていたって、まだたっぷりと余裕があるのは御存知でしょう?
 オレンジ風呂でも同じことです、お湯の質が変わるというだけですよ。



 切って来ます、とオレンジを切りに奥のキッチンに行ったハーレイ。切ったオレンジを入れる、例の薄布の袋も一緒に持って。
 その前にバスタブにお湯を張りに行くのも忘れなかった。二人で入るならこの量で、と。お湯が縁から溢れすぎないよう、無駄遣いになってしまわないよう、普段より幾分、控えめの量で。
 間もなくキッチンから戻ったハーレイの手には、オレンジを詰めた袋があって。その袋を笑顔で掲げてみせて、バスルームへと姿を消した。袋をバスタブに浸けておくために。早めに浮かべて、オレンジの成分がたっぷりとお湯に溶け込むように。
 お湯は自動で張れるから。張り終わったら、知らせる音が届くから。
 それを捉えたハーレイがバスルームを確認しに出掛け、穏やかな笑みを湛えながら。
「ブルー、用意が出来ましたよ?」
 あなたの御希望のオレンジ風呂。
 湯加減も丁度いいようです。オレンジの香りがとても爽やかで、気持ち良さそうなお湯ですよ。
 ほら、お入りになるのでしょう?
 行きましょう、ブルー。
「う、うん…」
 君が一緒に入ってくれると言うのなら…。
 ぼくが一人で入るよりかは遥かにマシかな、別の意味で少し恥ずかしい気もするけれど…。



(あの時のお風呂…)
 それからどうなったんだっけ、と記憶を手繰り寄せて真っ赤になった頬。
 思わず両手で押さえてしまった、これ以上、赤くならないように。鏡を見たなら、きっと小さなトマトがいるのだろうけれど。自分の顔をした赤いトマトが、鏡の向こうに。
(…ハーレイ、ぼくを磨いてくれるって…!)
 ゴシゴシと磨き上げられたのだった、柔らかな肌触りの布袋で。オレンジが詰まった布の袋で。
 「此処も磨かないといけませんね」と、身体中を隈なく磨いたハーレイ。
 それは恥ずかしくて、でも気持ち良くて。
 ウットリと身体を委ねている内に、悪戯を始めたハーレイの手と指。
 「ツルツルですよ」と、「オレンジ風呂は本当に肌がスベスベになりますね」と。
 オレンジの袋で磨き上げながら悪戯するから、磨いた場所を確かめるように触れてゆくから。
「ハーレイ、それは磨いているんじゃなくて…!」
 やめて、と触れる手を剥がそうとしたら、「いいんですか?」と覗き込まれた顔。
 「本当にやめていいのですか」と、「まだ磨き足りない場所がこんなに」と滑ってゆく指。
 拒める筈など無かったから。もう気持ち良くて、もっと、もっと、と強請りそうだから。
「馬鹿っ…!」
 ハーレイの馬鹿!
 ぼくを磨くと言ったんだったら、ちゃんと仕事を…。だから、そうじゃなくて…!



 二人で入ったオレンジ風呂。ふざけ合ったバスタブ。
 お湯の中で二人、何度、唇を重ねたことか。お湯が縁から溢れて、零れて、それでもかまわずに腕を、足を絡めて、絡み合って。
 すっかりのぼせそうになるまで戯れ、バスタブの中で愛を交わして。
 茹だりそうになった前の自分をハーレイが逞しい両腕で抱き上げて運んで、ひんやりと肌を包むベッドに下ろされた後は、そのまま眠ってしまったのだったか。
 口移しで水を飲ませて貰って、コクリ、コクリと喉を潤したら、それっきりで。
 オレンジの香りに包まれたままで、ハーレイの腕に抱かれたままで…。



(…オレンジのお風呂…)
 思い出した、と思うけれども、もしもハーレイに話したならば。
 次に会えた時、「オレンジ風呂のこと、覚えている?」と訊いたなら。
(きっと知らんぷり…)
 「なんのことだ?」と問い返す声が聞こえて来そうだ、ハーレイは此処にいないのに。
 「俺は知らんな」と、「オレンジ風呂なら知っているがだ、そいつは今の俺でだな…」と。
 でなければピシャリと叱られて終わり、「チビのくせに」と。
 お前にはまだ早すぎるんだ、と指で額を弾かれて終わり。
(絶対、そう…)
 相手はハーレイなのだから。
 「キスは駄目だ」と叱るハーレイ、何度叱られたか分からない。
 チビの自分は、子供の自分は、恋人だというだけだから。キスも貰えないチビの恋人、いつでも子供扱いの自分。
 オレンジのお風呂は内緒にしておこう、そうして次はゆっくり浸かろう。
 母がまたオレンジ風呂にしたなら、前のハーレイと二人で浸かったバスタブを思い出して。
 オレンジ風呂で磨いて貰った記憶はぼんやりしているけれども、それでも充分に幸せだから。



 ついでに、結婚した後は…。
(お風呂、どっちが先でなくてもいいんだよ)
 小さな頭を悩ませていたことは、綺麗に解決してくれた。オレンジ風呂の記憶のお蔭で。
 肌を磨くのなら、スベスベにするなら、一緒にお風呂。二人でお風呂。
 そのお風呂が自分に似合わなくても、ハーレイは付き合ってくれるのだから。
 前のハーレイがそうだったように、「一緒に入るか?」と尋ねてくれて。
 言葉遣いは変わったけれども、誘いは同じ。「俺と入るか」と、「それでいいだろ」と。



(薔薇のお風呂でもいいのかな…?)
 母のお気に入りの薔薇の香りのバスエッセンス。
 薔薇が似合わないハーレイだけれど、あのエッセンスでも、一緒に入ってくれるだろう。
 父も気にしていないようだし、ハーレイも、きっと。
 薔薇の香りがするバスエッセンスでも、それが自分に似合わなくても…。
(スベスベの肌のぼくがいいよね?)
 しっとりとした肌の恋人の方がいいだろう。スベスベの肌の恋人を愛したいだろう。
 そう思うから、そうに違いないと思ってしまうから。
 ハーレイも恋人の肌を磨きたがるに決まっているから、結婚したなら、二人でお風呂。
 肌が綺麗になるように。スベスベの肌に、ハーレイが喜ぶ肌の持ち主になるように。
 思い出のオレンジ風呂から始めて、二人でお風呂。
 何度も何度もキスを交わして、磨かれて、ふざけて、愛を交わして…。




            オレンジ風呂・了

※オレンジ風呂で肌を磨くべきかどうかで、悩んだブルー。実は前の生でも悩んだのです。
 そして答えは出たのですけど、今のハーレイとオレンジ風呂に入れる日は、ずっと先。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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(今夜は豪華にステーキなんだ)
 よし、とハーレイが取り出したステーキ用の牛肉。夜のキッチンで。
 今日はブルーの家には寄れなかったけれど、学校の休み時間に少し話せた。校舎の廊下を歩いていたら、「ハーレイ先生!」と後ろから呼び止められて。
 学校では自分は「ハーレイ先生」、ブルーも必ず敬語で話す。ブルーの家で言葉を交わす時とはまるで違って。いつもながら見事な言葉の切り替え、その健気さがいじらしくなる。自分から声を掛けなかったら、敬語で話さずにいられるのに。挨拶だけで済ませばいいのに。
(それでも、あいつは話したいんだ)
 教師と生徒の会話でも。恋人同士の会話でなくても、日常の些細な話題であっても。
 「ハーレイ先生!」と笑顔で呼び止めるブルー、「話せるだけで嬉しい」と書いてある顔。もう本当に嬉しそうだから、幸せそうな顔をしているから。
 ブルーの家に寄れなかった日でも、心の中にブルーの笑顔。それが愛おしくて、ついつい笑みが零れるから。いい日だったと、ラッキーだったと自分の心も温かいから。
 たまにはこんな夕食もいい、と買って来た肉。分厚いステーキ用の牛肉。



 やはり熱々を食べたいから。ステーキは焼き上げて直ぐにナイフを入れたいから。
 スープなどから先に作った、メインのステーキが霞まないよう、それでいてバランスが崩れないよう。栄養バランスと、食卓の見栄えと。料理の腕の見せ所。披露する相手はいないけれども。
 準備が出来たら、いよいよステーキ。
 フライパンにオリーブオイルとガーリックのスライス、パチパチとはぜる音がして来たら、肉の出番で。今日の焼き加減はミディアムレアといった所か、もう少し焼くか。
(でもって、仕上げに…)
 ウイスキーを軽く注いでフランベ、上がる焔が気分を高める。肉の焼ける匂いと、青い焔と。
 火が消えた所で、温めておいた鉄板つきの木のプレートに移してやって。ガーリックを乗せて、フライパンの肉汁で手早くソース。
(わさび醤油でもいいんだがな?)
 おろしたてのワサビと醤油で食べるステーキも美味ではある。ステーキと醤油は相性がいいし、ソースの隠し味にもするから。
 前の自分が生きた時代には無かった醤油とワサビを味わう文化。今の時代ならではのお楽しみ。それも悪くはないのだけれども、今夜のソースは正統派で。
 白いシャングリラで暮らした頃と違って、材料は全て本物だけれど。ソースに加えた赤ワインもそうだし、フランベに使ったウイスキーだって合成などではないのだから。



 焼き上がったステーキ、シャングリラの時代とそう変わらない筈のレシピのソース。今夜はその味で食べてみたかった、ブルーと食べているつもりで。
 小さなブルーの家でも夕食にステーキは出て来るのだから、その光景を思い浮かべて。
 ダイニングのテーブル、まだジュウジュウと音を立てるステーキにナイフを入れて口に運んで。
(あいつの肉は小さいんだよなあ…)
 これの半分くらいだろうか、とブルー用のステーキ肉のサイズを考えた。いつ見ても小さすぎるステーキ、ブルーの皿に置かれたステーキ。ブルーの両親が食べるものよりずっと小さな子供用。あれで本当に食べた気がするのだろうかと思うくらいに可愛らしいサイズ、ミニサイズ。
 だから何かとからかってしまう、小さなブルーと食事の量の話になってしまった時は。
 「デカいステーキ肉は食えるか?」だとか、「デカいステーキ肉でもか?」とか。
 からかわれる度に「無理!」と叫んでいるブルー。
 とても食べられるわけなどがないと、自分の小ささを考えてくれと。胃袋もそうだし、十四歳の子供の小さな身体。それでは無理だと、大きな肉など食べ切れないと。
 「チビ」と呼んだら膨れるくせに、そんな時だけ子供だと主張するのが可笑しい、愛らしい。
 子供扱いは嫌いなくせに、一人前の恋人気取りでいるくせに。



 とはいえ、いつかは育つ筈のブルー。前のブルーと同じ背丈に、同じ姿に。
 もう子供だとは言えない姿になるだろうけれど、気高く美しいブルーを再び見られるけれど。
(育ったって、だ…)
 こんなデカいステーキを食うのは無理だな、と頬張る熱々の肉。鉄板のお蔭で少しも冷めない。火傷しそうな熱さがそのまま、口の中に広がる肉汁とソースの絶妙な味。
 半分ほどは食べたけれども、まだ半分もあるステーキ。小さなブルーならとうに悲鳴で、大きく育った後でもそろそろ「まだあるの?」と言いそうな量で。
(前のあいつだって…)
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーも、大きなステーキ肉を食べてはいなかった。これよりも小さな量のステーキ、それがソルジャー・ブルーの好み。
 「もっと大きく」と希望したなら、肉は大きく出来たのに。前の自分がそうだったように、他の者より大きめのサイズ。
 肉の量は個人の好みだから。自給自足の船の中でも、その程度の融通は利いたから。
 前のブルーがそれをしなかった理由は、ソルジャーだったからではないだろう。食べ物のことで色々と遠慮はしていたけれども、ステーキに関しては絶対に違う。
 なにしろ、ソルジャーの肉が一番小さいのでは駄目だろう、と思うような場面であっても、肉はいつでも小さかったから。「この量でないと食べ切れなくて」と。
 残すよりかはこの方がいいし、と小さかった前のブルーのステーキだけれど。



(待てよ…?)
 今も記憶に残るステーキ、前のブルーが好んだ小さなステーキ肉。
 けれども、それを前のブルーと二人で食べたことがあっただろうか。白いシャングリラで、あの懐かしい船で、ブルーと一緒に。
(ステーキは何度も…)
 食べていたが、と蘇る記憶、鮮明なのがソルジャー主催の食事会。前のブルーの名前で出された招待状を貰った者やら、様々な部門の責任者たちとの交流会やら。
 ソルジャー専用のミュウの紋章入りの食器が使われるのが売りで、エラが有難さを説いていた。他の場所では出ない食器だと、此処でしか使われないものなのだと。
(そういう時でも、あいつの肉は小さくて、だ…)
 自分も含めた他の者たち、そちらの肉の方が明らかに大きめ。招待客たちを思い遣るなら、肉のサイズは同じにしておくべきなのに。「遠慮しないで食べるように」と。
 それでも小さい肉にしていたソルジャー・ブルー。「ぼくはこの量しか無理だから」と。



 ソルジャー専用の立派な食器を割らないように、マナー違反もしないようにと、コチコチだった食事会に招かれた仲間たち。見ている方が気の毒になるほどに。
 ブルーも充分に承知していたから、よく目配せをされていた。「頼むよ」と。
 それが来たなら、わざとやっていた大失敗。ナイフをガシャンと取り落としたり、ステーキ肉が皿から飛んで行ったり。エイッとナイフで切ったはずみに皿の外へと、勢いよく。
 そんな具合で、前のブルーとは何度も食べたステーキだけれど…。
(…あれだけなのか?)
 食事会の席だけだったかもしれない、前のブルーと一緒にステーキを食べたのは。
 前のブルーは青の間で食事をするのが普通だったし、そうでなくても自給自足のシャングリラでステーキは貴重だったから。
 同じ肉なら、もっと大勢が揃って食べられる料理。シチューにするとか、他にも色々。
(シャングリラ中が揃ってステーキってことは…)
 無かったのだった、ミュウたちの箱舟だった白い鯨では。
 たまにステーキも食べたくなるから、そういったものも食べたいから。食堂でステーキの食事を提供する時は、仲間たちを希望や都合に合わせて何組かに分けて、順番に。今日はこの組、というグループのために焼かれたステーキ、せっかくなのだし、各自の好みの焼き加減を訊いて。



(それよりも前は、だ…)
 白い鯨が完成する前、食料も何もかも人類の船から奪っていた頃。前のブルーが輸送船から瞬間移動で奪い取っては、持って帰って来ていた頃。
 食料が詰まったコンテナの中に入っていた肉で、ステーキだったこともあったけれども。何度も食べてはいたのだけれども、その時のステーキ。
(二人きりでは食っていないぞ!)
 みんな揃って食堂で食べた、今日はステーキだと賑やかに。
 前の自分がまだ厨房にいた頃はもちろん、ブルーがソルジャーになった後にも。青の間は出来ていなかったから。前のブルーの偉大さを演出するための部屋は、何処にも存在しなかったから。
 ソルジャーもキャプテンも、長老と呼ばれ始めていたゼルたちも、揃って食べていたステーキ。他の仲間たちと一緒に、あの頃の船の食堂で。
 つまりは、ブルーと二人きりではなかったステーキの食事、白い鯨が出来上がる前も、それから後も。ただの一度も二人で食べてはいなかった。常に誰かが同じテーブル、ステーキの時は。



 どんなに記憶を手繰り寄せてみても、他には無かったステーキの記憶。
 前のブルーと二人きりでステーキを食べてはいない。三百年以上も同じ船で共に暮らしたのに。
(…気付かなかった…)
 まるで気付いていなかった、とステーキを眺めてついた溜息。
 小さなブルーと再会してから、何度ステーキを食べただろうか。家でも食べたし、ブルーの家で御馳走になったことも何度もあるけれど。ブルーとステーキを食べたけれども、そのテーブルにはブルーの両親、家族が揃う夕食の席。
 それはそうだろう、ブルーの部屋での昼食にステーキを焼いて出すより、家族団欒の夕食の方が似合いだから。誰に訊いても、同じ答えが返るだろうから。
 そうなってくると…。



(二人きりで食うのは結婚するまで無理なのか?)
 ブルーと二人きりでのステーキ。自分の皿には大きなステーキ、ブルーの皿には小さめのもの。それぞれ好みの焼き加減の肉を、切って食べるというだけなのに。
 たったそれだけのことが叶わないらしい、二人きりで食べるということが。
(結婚までにはデートもするし…)
 その時に二人で食べに行く手もあるけれど。自分の家にブルーを招いて、「今日はこれだぞ」と御馳走してもいいのだけれど。
 それが出来る日がやって来るまで、二人きりでステーキはどう考えても無理そうで。
(うーむ…)
 俄かに重みを増したステーキ、思った以上に貴重なもの。
 白いシャングリラにいた頃と違って、今はそれほど肉は貴重ではないけれど。食料品店へ行けば常にあるものなのだし、食べたいと思えば専門の店も幾つも幾つもあるのだけれど。
(前のあいつとも食ってないんだ…)
 二人きりで食べる機会は一度も無かったから。いつも誰かが一緒だったから。
 今のブルーも、小さい間は二人きりでは食べられないのだし、この先、何年待つことになるか。大きなステーキと小さなステーキ、それを二人きりで食べられる日が来るまでに。
(たかがステーキなんだがなあ…)
 先は長い、と心で零しながら食べた、今も熱さを保ったままのステーキを。木のプレートの上の鉄板、それが温めているステーキを。
 美味いんだが、と。
 しかしブルーと二人きりでは、当分、食べられそうにもないな、と。



 少し寂しかったステーキの夕食、次の日、仕事を終えた帰りにブルーの家に寄れたから。
 小さなブルーにも教えてやろうと、ステーキの話を持ち出した。
「なあ、ブルー。ステーキ、貴重だったんだな」
「えっ?」
 なんでステーキ、とキョトンとしている小さなブルー。赤い瞳を真ん丸にして。
「いや、珍しいって意味ではなくて、だ。…お前の家でも何度も食わせて貰っているし」
 昨夜も一人で焼いて食ってたが、その時にハタと気が付いたんだ。
 前の俺たち、ステーキを二人で食ってはいないぞ、お前と俺との二人きりでは。
「そうだっけ?」
 シャングリラのステーキ、確かに貴重品だったけど…。ステーキは珍しかったけど…。
 でも、ハーレイとは何度も食べたよ、ハーレイの肉はぼくのよりずっと大きかったよ。あんなに沢山食べられるんだ、って感心しながら見ていたもの。凄いよね、って。
「そのステーキだが…。いいか、よく状況を思い出してみろ」
 テーブルにはお前と俺の二人だけしかいなかった、ってことは一度も無い筈だがな?
 食堂で仲間がゾロゾロいたとか、ソルジャー主催の食事会とか。そんなのばかりだ、前のお前と一緒に食べたステーキ。
 二人きりでステーキを食った思い出、お前にも一つも無いだろうが。
「本当だ…!」
 ちっとも気付いていなかったけれど、ホントに一度も食べなかったね、二人きりでは…。
 ステーキ、とっても貴重なんだね、ハーレイと二人きりで食べたことが一度も無いなんて…。



 知らなかった、とブルーも驚いているステーキの貴重さ、一度も二人きりで食べていないもの。前の生では三百年以上も共に生きたのに、同じ船で暮らしていたというのに。
「…いつになったら食えるやらなあ、お前と二人で」
 三百年以上も食い損なったままで来ちまったんだし、今更、大した待ち時間でもないんだが…。せいぜい数年ってトコなんだろうが、気付いちまうと辛いな、うん。
「いつって…。土曜日でいいんじゃないの?」
「はあ?」
 土曜日っていつだ、土曜日にデートに出掛けて食おうというのか、俺と二人で?
 その土曜日が何年先になるのやら、って話を俺はしてるんだがな…?
「違うよ、土曜日は今度の土曜日!」
 今週の土曜日、それでいいんだと思うけど…。ママに頼むから、「お昼にステーキ」って。
 そしたら二人で食べられるじゃない、お昼御飯は此処のテーブルで食べるんだから。
「昼飯に二人でステーキって…。なんて言う気だ、お母さんに!」
 俺が食いたがっているとでも言う気か、確かにそれで間違いは無いが…。
 厚かましいにも程があるだろうが、ステーキを食いたいと俺がリクエストをするなんて!
「ちゃんと言っておくよ、シャングリラの頃の思い出だよ、って」
 ハーレイと話をしていて思い出したから、二人で食べてみたいんだけど、って。
 シャングリラのステーキは貴重品だったし、その頃の気分に浸りたいから二人で食べたい、って言えばママだって納得するよ。
 大丈夫だよ、と笑ったブルー。
 ママならきっと、と。「ぼくの我儘、聞いてくれるよ」と。



 そして土曜日、いつものようにブルーの家を訪ねたら。生垣に囲まれた家まで歩いて行ったら、満面の笑顔で待っていたブルー。二階の部屋で。
「あのね、ママがステーキ、焼いてくれるって!」
 ハーレイと二人で食べられるんだよ、今日のお昼御飯にステーキ!
「ステーキって…。お前、本気で言ったのか?」
 お母さんを騙して注文したのか、これはシャングリラの思い出だから、と嘘八百で?
「だって、食べたい…」
 ハーレイと二人で食べてみたいよ、まだ何年も待つだなんて我慢出来ないもの…。
 シャングリラの思い出には違いないんだし、貴重品だったのも本当だし…。
 ちょっと黙っておいただけだよ、前のハーレイと二人きりで食べたことがないっていうことを。それでステーキが食べられるんなら、もう充分だと思うけど…。
 ハーレイだって、食べたいって言っていたじゃない。…二人きりでステーキ。
「そりゃまあ、そうだが…」
 言い出したのは俺なわけだが、良心が痛まないでもないなあ…。
 とはいえ、お前のお母さんは支度をしてくれてるわけで、昼前になったらステーキの焼き加減を訊きに来てくれるんだろうし…。
 申し訳ない気持ちはするがだ、此処は有難く御馳走になるのがいいんだろうな。
 四の五の言わずに感謝の気持ちで、「頂きます」と。



 ブルーの母が運んで来てくれた昼食。鉄板つきのプレートに載せられたステーキが二枚。熱々のそれは、ハーレイの分の肉が大きくて、ブルーの分は…。
「相変わらずだな、お前のステーキ」
 いつも小さいと思って見てたが、こうして改めて目にしてみると…。
 お子様ランチとまでは言いはしないが、お前の年の男の子用とも思えんサイズだ、小さすぎだ。お前くらいの年のガキなら、それだけだと腹が減りそうだがな?
「ぼくはこれだけしか食べられないよ!」
 もっと大きい肉になったら、もう絶対に食べ切れないから!
 どんなに美味しく焼いてあっても、残してしまうに決まってるから!
「前のお前は、もう少し大きい肉を食えたが?」
 小さめがいい、と言ってはいたがだ、今のお前の肉よりはなあ…?
 そこまで小さな可愛らしい肉ではなかった筈だぞ、前のお前が食ってたステーキ。
「いつか食べられるようになるよ!」
 前のぼくと同じくらいの量なら、大きくなったら食べられるから!
 ちゃんと育ったら食べられるんだよ、前のぼくと同じ姿になるまで育ったら。
 今みたいにコッソリ二人きりじゃなくて、ハーレイと二人で堂々とステーキを食べられるようになる頃には、きっと…!



 ハーレイと本当に二人きりで食べる時なら、もっと大きいステーキ肉でも大丈夫、と無茶としか思えない主張をするから。「このくらいでも」と、ハーレイの皿の肉と変わらない大きさを両手で作ってみせるから。
「おいおい、そんなデカイのを食べ切れるのか?」
 前のお前でも食えなかったぞ、そこまでデカいステーキ肉は。
 まさか忘れちゃいないだろうなあ、前のお前の胃袋のサイズの限界ってヤツを?
「忘れていないよ、だけど大きいのも試してみたいよ」
 ハーレイと二人でステーキなんだよ、三百年以上も一緒にいたのに二人きりでは一度も食べてはいなくって…。
 やっと二人で食べられるんだよ、ちょっぴり欲張ってみたいよ、お肉のサイズ。
 それに、大きすぎて駄目だった時は、ハーレイが食べてくれるでしょ?
 ぼくが残してしまったステーキ、前に学校の大盛りランチを綺麗に食べてくれた時みたいに。
「…俺に残りを食えってか?」
 美味い肉ならいくらでも食えるが、俺が残りを片付けることが大前提なのか、デカイ肉は?
 前のお前はそんな無茶は一度も言わなかったが、デカイ肉に挑戦したいだなんて。
「あの頃は、みんなで食べてたからだよ」
 残りはハーレイに食べて貰うなんてこと、みんなの前では言えないじゃない…!
 そんなの一度も考えてないよ、思い付きさえしなかったよ!
 前のぼくたちが恋人同士なことは誰にも秘密で、ハーレイに甘えることなんか無理で…。
 我儘だって言えやしなかったよ、みんなが周りにいる時には…!



 二人きりなら我儘が言える、と嬉しそうな笑みを浮かべるブルー。
「今度はハーレイと二人きりだよ、周りに誰もいないんだよ?」
 ぼくが我儘を言っていたって、変に思う人はいないんだから。
 ママにだって我儘が通ったんだもの、ハーレイに我儘言ってもいいでしょ、今度のぼくは…?
「お母さんに我儘なあ…。確かに通っちまったな」
 そして何年先になるのか分からなかったステーキ、こうして二人で食ってるってか?
 結婚どころかデートにも一度も行かない内から、お前の部屋で。
「うん。ちゃんと二人きりで食べられたでしょ?」
 パパもママもいなくて、ハーレイと二人。
 思い出の味だよ、ってママに言ったら、また食べられると思うけど…。シャングリラだと貴重品だったんだよ、って言ってあるから、頼まなくても、また焼いてくれるかもしれないけれど…。
 でも、ハーレイとホントのホントに二人きりでステーキ、食べたいなあ…。
 こんな風にコッソリ二人きりじゃなくて、ちゃんと二人で美味しいお店に出掛けて行って。
「俺もそうだな、思いがけなく早く二人で食べられはしたが…」
 お前のお蔭で食べられたんだが、お前の我儘な注文が聞けるステーキってヤツを食いたいな。
 俺のと変わらないほどデカイ肉がいいとか、そういう我儘を聞きながら。
 ついでに、店に行くのもいいが…。
 俺が自分の家で焼くステーキ、自慢の腕も披露したいもんだな、今度の俺は一味違うぞ?
 前の俺も厨房にいた頃に焼いてはいたがだ、あの頃より腕は確かだってな。
 ステーキが身近になっている分、経験値ってヤツが上なんだ。もう段違いだ、ステーキを焼けば前より断然美味いって自信を持ってるぞ、俺は。



 焼き加減はもちろん、ソースも色々…、と挙げていった。
 シャングリラでは合成だった酒が本物になったことやら、前の自分たちが生きた頃には無かった食材が使えることやら。
「一番なのは多分、わさび醤油だな」
 あの時代には考えられなかった食べ方じゃないか、ステーキの。
 ワサビも醤油も無かったからなあ、マザー・システムに文化ごと消されちまってな。
「無かったね…。わさび醤油で食べてみたくても」
 試してみたい、って思ったとしても、お醤油もワサビも無かったんだし…。
 ワサビっていう植物は何処かにあったんだろうけど、海藻と同じで、食べられるものだと思っていなかったものね。
 今だとワサビが無いなんて考えられないけれど…。お刺身もお寿司も、ワサビだけれど…。
「そうだな、ワサビはあったのかもなあ、シャングリラには植えていなかったがな」
 アルテメシアの植物園に行けばあったかもしれんな、ワサビという名前で植えられていて。
 誰も食べ物だと思わなかっただけで、そりゃあいい匂いがしていたかもなあ、美味いワサビの。



 いつか二人でワサビ醤油でステーキを食べてみるのなら…、と提案してみた。
「ステーキ肉を買いに行く前にだ、ちょっとドライブと洒落込まないか?」
 新鮮なワサビを手に入れに出掛けようじゃないか、俺の車で。
「ワサビって…。何処へ?」
 ハーレイ、いいお店、知ってるの?
 其処へ行ったら、新鮮なワサビが買えるお店を?
「店じゃなくてだ、産地直送っていうヤツだな。ワサビ農園までドライブだ」
 ワサビ農園、写真くらいは見たことがないか?
 あれは綺麗な湧き水を使って育てるからなあ、普通の畑とはちょっと違うぞ。
 いいか、湧き水だ、地球の水だ。そいつが沢山湧いていないとワサビは育たないってな。地球の恵みだ、青い地球だからこそ美味いワサビが育つんだ。
 そういう所へ行ってみないか、俺と二人でワサビを買いに。
 前の俺たちが二人きりでは食い損なったステーキ、それを美味しく食べる前にな。



 二人きりでステーキを焼いて食べるなら、地球の水で育った新鮮なワサビ。
 湧き水が育てたワサビを二人で買いに出掛けて、それで作ったワサビ醤油をたっぷりとつけて。
「美味しそう…!」
 買って来たばかりのワサビだったら、きっと素敵な匂いがするね。
 ツンと鼻まで抜けるみたいなワサビの匂い。ワサビ農園もおんなじ匂いがするかな、綺麗な水で育ったワサビが沢山生えているんなら。
「ワサビ、好きか?」
 俺たちに好き嫌いってヤツは無いがだ、お前、ワサビは好きな方なのか?
 前の俺たちは全く知らない味だからなあ、ワサビの味は。
「好きだよ、小さい頃から平気」
 子供向けのお寿司はワサビを抜くでしょ、でもね、ぼくは平気だったんだって。
 幼稚園の頃に、パパとママのお寿司を間違えて食べちゃったことがあってね、二人とも、ぼくが泣き出すと思ったらしいんだけど…。
 ぼくはビックリしたみたいに目を真ん丸にしていただけで、そのまま全部食べちゃった、って。
 「ピリピリするね」ってニコニコしたから、パパもママもポカンと見ていたらしいよ。
「…ほほう、そいつは武勇伝ってヤツだな」
 お前にもあったか、武勇伝が。
 それは誇っていいと思うぞ、幼稚園の頃から大人用の寿司を平気で食えたんならな。
 俺も食ったと親父たちに聞いたが、まさかお前が食ってたとはなあ…。幼稚園に通ってたチビのくせにだ、大人用のワサビたっぷりの寿司。



 小さなブルーはワサビが好きだと言うから。買わねばなるまい、ワサビ農園まで車で出掛けて、採れたばかりの新鮮なものを。ドライブを兼ねて、二人で行って。
「ワサビを買って帰って来たなら、サメ皮のおろしの出番だな」
 おろすにはアレが一番だってな、ワサビにはな。
「サメ皮も地球の海のサメだね、海で獲れるサメ」
 青い地球だからサメもいるんだよね、サメ皮のおろしが作れるサメ。
「サメ皮のおろし、前の俺たちの頃には無かったぞ」
 地球の青い海も無かったわけだが、サメ皮のおろしを作る文化も使う文化も無かったからな。
 ワサビとセットの文化なんだぞ、サメ皮のおろし。
「そういえば…!」
 あるわけないよね、サメ皮のおろし…。
 ワサビを食べようって文化が無いのに、ワサビ用のおろしがあっても使えないものね…。



 前の自分たちが生きた頃には、ワサビも無かったし、醤油も無かった。
 ステーキ肉はあったけれども、二人きりでは食べられなかった。白いシャングリラでステーキは何度も食べたけれども、二人きりで食べたことは一度も無かった。本当にただの一度でさえも。
「ねえ、ハーレイ。二人きりで食べる最初のステーキ、わさび醤油?」
 わさび醤油なの、ハーレイと二人きりで初めて食べるステーキには?
「今、二人だが?」
 俺と二人きりで食ってるじゃないか、お前の我儘とやらのお蔭で。
「本当の意味での二人きりだよ!」
 ハーレイと二人でデートに出掛けて、ワサビ農園でワサビを買って帰って…。それでステーキを食べるんでしょ?
 わさび醤油で、ハーレイと二人きりの初めてのステーキ。
「そいつもいいが…。わさび醤油で食べるステーキも美味いんだが…」
 本当の意味での初めてとなったら、そこはやっぱり伝統の味にしたいじゃないか。
 前の俺たちが何度も一緒に食っていたのに、二人きりではなかったステーキ。
「じゃあ、シャングリラ風にしてみるの?」
 前のハーレイが焼いてた時のレシピでソースを作ってくれるの、ステーキ用の?
 シャングリラにあったステーキ用のソース、元はハーレイのレシピだものね。
「うむ。特に凝ったソースってわけでもなかったがな」
 おまけに材料の方も単純だったな、今みたいに色々と手に入る時代じゃなかったからな。
 あの船でも充分に美味く食えるよう、俺なりに工夫を凝らしてはいたが…。
 そのせいかどうか、俺が厨房から消えた後にも、ソースのレシピを変えようってヤツはゼロで、新しいレシピを作ったヤツさえいなかったってな。



 前の自分が厨房にいた頃、考案したステーキ用のソースのレシピ。
 ブルーと本当に二人きりで食べる初めてのステーキにはそれを使おう、遥かな昔の古いレシピで白いシャングリラのレシピだけれど。今の自分なら、使わないようなレシピだけれど。
 それでも懐かしい味を出したい、前のブルーと二人きりでは食べ損なったステーキだから。
 今度は二人で、二人きりでステーキを食べるのだから。
「…あのレシピだと、今の俺たちには物足りないかもしれないが…」
 材料が本物の地球のヤツだし、案外、変わってくるかもな。
 ステーキにしたって、地球で育った牛の肉を焼き上げるわけなんだし…。
「きっと美味しいよ、ハーレイが焼いてくれるステーキ」
 シャングリラで食べていた頃よりも、ずっと。
 材料もそうだし、ハーレイのステーキを焼く腕もグンと上がってるんでしょ、前よりも?
 それで美味しくならない方が変だよ、とても美味しく出来上がるよ、きっと。
「そうだな、おまけにお前と二人きりだしな」
 前の俺たちは二人きりでは食えなかったが、今度は二人で食えるんだ。
 二人きりで食う最初のステーキは俺の家で焼いて、俺の家でゆっくり食べるとするか。
 シャングリラのソースを作れる人間、俺の他にはいないんだからな。



 いつかは本当に二人きりで食べよう、ステーキを焼いて。
 最初のステーキはシャングリラで食べていた頃のソースを使って、その後は色々工夫して。車でワサビ農園に出掛けて買ったワサビでわさび醤油や、他にも様々なステーキの食べ方。
 今度は二人きりで食べられるから。
 前の自分たちが食べ損なった分まで、何度も、何度も、二人きりで。
 小さな肉しか食べられないくせに、大きな肉でも大丈夫だと我儘を言うらしいブルーに、大きな肉を焼いて熱々のを鉄板に載せてやって。
「えっと…。大きなお肉を食べ切れなかったら、ハーレイ、食べてよ?」
 ぼくがステーキを残しちゃったら、大盛りランチの時みたいに。
「もちろんだ。俺がすっかり残さず平らげてやるさ」
 それでだ、そいつを食い終わったら…。
 その後はお前を食うとするかな、と片目を瞑った。
 極上のステーキよりも柔らかくて美味いお前をな、と。
 ブルーは「ハーレイっ…!」と真っ赤になったけれども、たまにはこういう冗談もいい。
 今はまだキスも出来ない小さなブルーを、ステーキよりも美味しく食べてもいい日。
 その日はずっと先だけれども、小さなブルーはその日を夢見ているのだから。
 いつか、その日もきっと訪れる。
 二人きりでステーキを食べられる日も、ブルーを美味しく食べられる日も…。




           二人で食べたい・了

※前の生では、二人きりで食べたことが一度も無かったステーキ。船で何度も食べたのに。
 初めて二人で食べられましたが、いつかは本当に二人きりで、ワサビ醤油などで美味しく…。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(シャングリラ…)
 こんなにあるんだ、とブルーが覗き込んだ新聞。
 学校から帰っておやつを食べながら、ダイニングで。母が焼いてくれたケーキはすっかり食べてしまったから、残るは紅茶だけだから。新聞を見ていても行儀が悪いわけではないし、と。
 其処に載っていたシャングリラ。前の自分が暮らした船。
 白いシャングリラが、懐かしい鯨が幾つも幾つも並んでいた。カラー写真が、紙面にズラリと。
 けれど本物のシャングリラではなくて、インテリア用のシャングリラ。家を彩るためのもの。
 額装された写真や様々な素材で出来たレリーフ、ポスターもジグゾーパズルもあって。
 精巧な模型も色々とあるし、凝ったものだと手織りのタペストリーまで。



 驚いてしまったシャングリラの数、値段の方にも驚かされた。本物そっくりに作ってある模型も高いけれども、タペストリー。織り上げるまでに手間がかかるから、ポスターや写真とは桁違いに高価。こんなものを誰が買うのだろうか、と思うくらいに。かつて暮らした自分でさえも。
(…シャングリラは飾りじゃないんだけどな…)
 あの白い船はミュウの箱舟、人類から逃れて生きてゆくために造った船。
 優美な姿の白い鯨は好きだったけれど、誇りに思っていたけれど。人類軍の戦艦などよりずっと綺麗だと、美しい船だと、いつも眺めていたけれど。
 飾りではなかったシャングリラ。自給自足で全てを賄い、船の中だけで一つの世界。仲間たちの命を乗せていた船、飾りどころか実用品。無ければ生きてはゆけなかった船。
 それが飾りになっているのが今の世界で、平和の証拠。
 高い模型やタペストリーまでが作られるほどに。そういったものを欲しがる人がいるほどに。



(高いのは別に…)
 シャングリラを織り上げたタペストリーは欲しくないけれど。精巧な模型も要らないけれど。
 前にハーレイと約束をした。いつか二人で暮らす家には、シャングリラの写真を飾ろうと。
 白いシャングリラの写真集はお揃いで持っているけれど、それとは別に。
(雲海の写真…)
 写真集の何処にも載っていない写真、きっと誰一人、撮らなかった写真。
 雲海に浮かぶシャングリラ。それを捉えた写真は一枚も無かった、きっと美しかっただろうに。
 白い雲の海の上に浮かんだ白い鯨は、太陽の光を受けて輝いていたのだろうに。
 雲海の星、アルテメシアに長く潜んでいたけれど。雲の上には出なかった船。いつも雲海の中に隠れていた船、浮上することは死を意味していたから。
 シャングリラの存在を人類に知られ、沈むまで追撃されるだろうから。
 ジョミーを救いに浮上するまで、シャングリラは雲から出なかった。ただの一度も。



 そんな過去を持った船だったから。雲の海といえば隠れ住むもので、それが常識だったから。
 アルテメシアを後にしてからも、人類軍との戦いに勝ってアルテメシアに戻った後にも、雲海は突き抜けてゆくだけのもの。宙港に出入りするために。その惑星の空を飛ぶ時に。
 そのせいかどうか、トォニィがソルジャーだった時代も、何枚もの写真が撮られた時代も、誰も思い付きはしなかった。雲海の上を飛ぶシャングリラを撮影するということを。雲の海の上をゆく白い鯨を、眩く輝く白いシャングリラを写真に収めておくことを。
 宇宙の何処にも残されていない、雲海に浮かぶシャングリラの写真。
 白いシャングリラが時の彼方に消えた今では、もう撮ることすら叶わない写真。
 その幻の写真を作ろうと決めた、いつかハーレイと二人で雲海の写真を撮りに出掛けて。雲海が出来やすい季節に朝早く起きて、暗い内から待ち構えて。
 これだと思う写真が撮れたら、シャングリラの写真と合成して作る。雲海に浮かぶ白い鯨を。
 誰一人として思い付かなかった、白いシャングリラの美しい姿を。



 夢の雲海のシャングリラ。昇る朝日に輝く船。
 そういう写真を飾ろうと決めていたのだけれども、世間にはもっと色々なものがあるらしい。
 模型はともかく、タペストリー。それも高価な手織りだなんて。
(写真集があるくらいだものね…)
 ハーレイとお揃いで持っている写真集。自分のお小遣いでは買えない値段の豪華版だったから、父に強請って買って貰った。それの他にも写真集は様々、手頃な値段のものも沢山。
 ミュウの歴史の始まりの船は、今の時代も一番人気の宇宙船。
 遊園地に行けば遊具もある。幼い子供向けのものから、スリリングな大人向けのものまで。
 自分が幼かった頃には、青い海を走るバナナボートのシャングリラだって見たのだし…。
(…写真を飾るくらいは普通?)
 額装された立派な写真や、貼るだけの安価なポスターやら。
 手織りのタペストリーまであるくらいなのだし、シャングリラに憧れる人なら欲しいのだろう。この新聞に載っているような、インテリアに出来るシャングリラが。
 本物のシャングリラは飾りなどではなかったけれども、飾りになったシャングリラが。



(こんなにあるなら…)
 売り物になっている白いシャングリラが、こんなに沢山あるのなら。
 いつかハーレイと暮らす家にも一つくらいは欲しい気がする、雲海に浮かぶ白いシャングリラの写真の他にも。高価なものではなくていいから、人気のものを。新聞に載るような人気商品を。
 何種類もある大きなポスターでもいいし、大きなジグゾーパズルでも。
 きっと素敵なことだろう。リビングだとか、ダイニングの壁に飾る大きなシャングリラ。
(…でも…)
 それもいいな、と想像してみてハタと気が付いた。
 ハーレイと二人で住んでいるのなら、同じ家で暮らしているのなら。
 その家にはハーレイの教え子たちがやって来る。顧問をしているクラブの部員たちが。
 彼らは家中、端から探検すると言うから。家探しのように、どの部屋も覗いてゆくと聞くから。
 シャングリラの大きなポスターが飾ってあったら、変だと思われるだろうか?
 もしかしたら、この家の住人は生まれ変わりかもしれないと。
 ハーレイと自分の姿が姿なだけに、懐かしい船の写真を飾っているのだと。
(…雲海の写真なら趣味で済むけど…)
 趣味で合成してみたのだと、綺麗だろうと、ハーレイが鼻高々で披露出来そうだけれど、大きなポスターはマズイだろうか?
 自分たちは実は生まれ変わりだと、このシャングリラで生きていたのだと言わんばかりの飾りになってしまうのだろうか、部屋の壁にデカデカと貼ってあったら。
 そうは思うけれど、そんな気持ちもするのだけれど。
 これだけの数のシャングリラを見たら、幾つも並べて載せてあったら…。



 やっぱり、どれか欲しくなる。一つくらい、と思ってしまう。
 白いシャングリラのポスターもいいし、ジグゾーパズルも。懐かしい白いシャングリラ。それが欲しいと、大きな写真を飾ってみたいと。
 見れば見るほど欲しくなるから、欲が出て来てしまうから。新聞を閉じて、空になったカップやお皿をキッチンの母に返して、部屋に戻って来たけれど。勉強机の前に座ったけれど。
(…ぼくたちの船…)
 前の自分が守り続けた白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 ハーレイと出会った場所はアルタミラだったけれども、燃える地獄で出会ったけれど。それから二人、懸命に逃げて、あの船で暮らして恋をした。
 きっと出会った時からの恋で、それと知らずに一目惚れで。
 恋と気付かず、長い長い時を一番の友達同士で過ごして、白い鯨が出来上がってから結ばれた。キスを交わして、愛を交わして。



 だからシャングリラは思い出の船。忘れられない、大切な船。
 飾り物の船ではなかったけれども、インテリアではなかったけれど。
 仲間たちの命を守っていた船、ミュウという種族を乗せた箱舟。
 それは充分に、誰よりも分かっているのだけれども、ハーレイと恋をしていた船。甘い思い出も乗せていた船、誰にも言えない恋だったけれど。
 そんな船だから、前の自分たちが恋を育み、共に暮らした船だったから。
 雲海に浮かぶ写真の他にも、白いシャングリラを飾ってかまわないのなら…。
(飾りたいよ…)
 大きなシャングリラのポスターを。でなければ大きなジグゾーパズル。
 それが実現するかどうかは、ハーレイ次第なのだけど。
 生まれ変わりかと疑われそうだ、と止められてしまったら駄目だけれども。



 でも欲しい、と思う気持ちは消えてくれない。二人で暮らす家に飾ってみたい、と。
 それを頭から追い払えないままで考えていたら、チャイムが鳴って。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、部屋のテーブルで向かい合うなり切り出した。
「あのね…。ハーレイ、シャングリラのタペストリーって知っている?」
 手織りなんだって、タペストリー。凄く高いけど、シャングリラが綺麗に織ってあったよ。
 新聞にいろんな写真が載ってたんだよ、インテリアになってるシャングリラの特集。模型とか、額に入った写真だとか…。レリーフになってるヤツも色々。
「ああ、あるらしいな、手織りのタペストリー」
 とんでもない値段の飾り物だな、酔狂なヤツもいるもんだ。
 同じシャングリラなら、写真の方が実物そっくりだと思うんだがなあ、織物にするより。
「そうだよねえ? ぼくもポスターの方がいいんだけれど…」
 ぼくたちの家に飾ってもいい?
 いつかハーレイと結婚したなら、シャングリラ、飾りたいんだけれど…。
 ハーレイと作ろうって約束している雲海の写真も飾るけれども、大きなポスター。
「はあ?」
 ポスターって、お前…。
 なんだってポスターなんかを飾ろうって言うんだ、雲海の写真じゃ駄目なのか?
 前にお前が言っていたとおり、雲海に浮かぶシャングリラの写真は綺麗だぞ、きっと。
 最高の雲海を撮りに行く所から始めるんだろうが、俺たちの家に飾る写真は。



 それじゃ駄目か、と問われたけれど。雲海の写真もいいのだけれど。
「思い出の船だから何か欲しいよ、ぼくたちで作る写真の他にも」
 あんなに色々売られてるんだし、シャングリラの何かが欲しいんだよ。
 前のぼくたちが暮らしてたんだ、って思い出せるように大きなポスターとか、ジグゾーパズル。
 大きなジグゾーパズルもあったし、そういうのでもいいんだけれど…。
「…シャングリラ・リングじゃ足りんのか?」
 当たるかどうかは申し込まないと分からないがだ、もしも当たったら、シャングリラから作った指輪が手に入るんだぞ?
 それこそシャングリラそのものなんだが、それじゃお前は足りないのか?
「シャングリラ・リングは欲しいけど…。確かにシャングリラそのものだけど…」
 だけど形が残っていないよ、見た目は結婚指輪なんだよ?
 ぼくはシャングリラの姿を見たいよ、白い鯨の。
 ハーレイと暮らした船を見たいんだよ、この船でハーレイと生きていたんだ、って。
「ふうむ…」
 あの船の形が残っていないか、結婚指輪になっちまったら。
 シャングリラの名残の金属で出来た結婚指輪ってだけで、形が違うと言うんだな、お前。



 俺はシャングリラの外見にはさほどこだわらないが…、と続いた言葉。
 お前と違って外側からはあまり見ていない、と。
「いつもモニター越しだったんだ。俺が見ていたシャングリラは」
 アルテメシアに着いてから後は、ずっと雲海の中だったし…。
 前のお前が元気だった頃には、数えるほどしか見ていない。キャプテンの俺が外に出ることは、本当に滅多に無かったからな。
 白い鯨に改造していた最中だったら、視察に出ることも多かったんだが…。
 作業の進捗状況はどうか、何処まで出来上がって来ているのか。俺がこの目で確かめないとな、キャプテンだしな?
 だが、改造が済んじまったら、俺の仕事場は船の中なんだ。新しい船を上手く纏めて、効率よく動かしてやらんといかん。外に出ている暇があったら中で仕事をしろってな。
 ステルス・デバイスのオーバーホールとか、そんな時しか見てはいないな、外からはな。
「あ…!」
 ホントだ、ハーレイ、見ていないんだ…。
 前のぼくは何度も外へ出ていたけれども、ハーレイは外には出なかったっけ…。



 雲海の星に長く潜んでいた間には、ハーレイが肉眼でシャングリラの姿を見ることは無かった。船の外へ出る機会があっても、雲海の中では白い鯨の姿そのものは見られない。
 前の自分がやっていたように、雲の中を透視しない限りは。白い雲の粒を消さない限りは。
 白い鯨が雲海から出て、赤いナスカの衛星軌道上にあった時。
 前のハーレイはシャングリラとナスカを何度も往復していたのだから、乗ったシャトルから白い鯨を目にしていたのだろうけれど。
 その頃にはもう、前の自分は深い眠りに就いていた。十五年間もの長い眠りに。
 ようやく眠りから覚めた時には、あの惨劇が待っていたから。
 ナスカはメギドの炎に焼かれて、前の自分はメギドへと飛んでしまったから…。
 それから後のシャングリラにはもう、前の自分の姿は無かった。
 地球へと向かって旅立った船に、ハーレイは一人きりだった。多くの仲間を乗せた船でも、前の自分たちの約束の地へと向かう船でも。
 幾つもの星を陥落させては、シャングリラは其処に降りたけれども。
 ハーレイも船から降りてシャングリラを仰いだけれども、その船に前の自分はいなくて。
 白い鯨をいくら眺めても、何の感慨も無かっただろう。ハーレイの魂はとうの昔に、前の自分を喪った時に、死んでしまっていただろうから。
 ただの船にしか見えなかったろう、白い鯨の形をした。巨大な白い船だとしか…。



「…じゃあ、ハーレイが知ってるシャングリラは…」
 白い鯨の形をしていた時のシャングリラは、殆どの時は…。
「前のお前が眠っちまっていたか、いなかったかだ」
 元気だった頃のお前とはあんまり結び付かんな、そのせいでな。
 お前が元気だった頃にも見た筈なんだが、寂しかった時代と悲しかった時代。そっちの方が多いわけだな、前のお前が目覚めないままか、いなくなっちまった後ってことでな…。
「…それじゃ、あの船、好きじゃない?」
 ハーレイはあんまり好きじゃないのかな、白い鯨だったシャングリラ…。
「いや、好きだが…」
 キャプテンなんだぞ、嫌いなわけがないだろう。俺が動かしてた船なんだから。
 前のお前が逝っちまった後は、少し複雑だったがな…。
 あれを地球まで運ばんことには、俺の役目は終わってくれない。前のお前の所へ行けない。
 そう考えたら、俺を縛っている厄介な船で、おまけにお前も乗ってはいない。
 好きな船だが好きじゃなかった、誰にもそうは言わなかったが。
 …それでも好きではあったんだろうな、前のお前と一緒に暮らした船だったからな…。



 お前ほどにはこだわらない、と苦笑いされた白いシャングリラの姿そのもの。白かった鯨。
 思い出は船の中なんだ、と。前のお前との思い出も船の中だろうが、と。
「だったら、写真は…。シャングリラの大きなポスターは…」
 やっぱり駄目?
 ハーレイがそれほどこだわらないなら、ぼくが欲しいからって貼ったら駄目かな?
 そんなの貼ったら、生まれ変わりだと思われそうだし…。
 キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーだから、飾ってるんだと思われそうだし…。
「誰にだ?」
 俺たちが生まれ変わりだと誰が思うんだ、そのデカいポスターとやらのせいで?
「…ハーレイの学校の生徒たちだよ」
 顧問をしているクラブの生徒は、家に呼ぶんだって言ってるじゃない。
 今の学校でも、柔道部の子たちが何度も遊びに行ってるんだし…。
「あいつらか…」
 家中を走り回って騒ぐヤツらだな、部屋の扉を端から開けては中を覗いて。
 シャングリラのポスターが貼ってあったら、もちろん発見されるんだろうが…。
 しかしだ、相手はあいつらだしな…。



 甘く見るなよ、とハーレイは一旦、言葉を切って。
「そんな代物を飾ってなくても、あいつらは勝手に話を作っていそうだが?」
 たとえポスターが無かったとしても、格好の餌食というヤツだ。
「え?」
 餌食って…。なんなの、なんで餌食になるの?
 話を作るって、どういう話を勝手に作られてしまうわけ…?
「よく考えてみろよ、お前と俺だぞ?」
 しかも結婚して一緒に暮らしてるんだぞ、結婚指輪まで嵌めて同じ家でな。
 あいつらは寝室だろうが容赦しないで覗くわけだし、そりゃもう派手に騒ぐだろうなあ…。
 本当に結婚しているらしいと、生まれ変わったから今度は結婚したらしいとな。
「今度は、って…。ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイも恋人同士だったって?」
 そういう話にされてしまうの、ぼくとハーレイが結婚したら?
 見た目がそっくり同じだからって、生まれ変わりだと決め付けられちゃって…?
「うむ。その上、適当に尾びれもくっついちまって」
 実は記録に残っていないだけで、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイも本当は結婚していただとか。新婚旅行に行っていたとか、結婚記念日はこの日だとか。
「新婚旅行に結婚記念日って…。そんなの、出来っこなかったのに…!」
 結婚記念日の方はともかく、新婚旅行はどう考えても無理そうなのに…。
 そうなってしまうの、ハーレイの学校の生徒が話を作っちゃったら…?
「ガキなんていうのは、そんなもんだ」
 根も葉もない噂で盛り上がるのが好きで、話を大きく膨らませるのも大好きで。
 ヤツらにかかれば、俺たちの過去は楽しく捏造されるんだろうな、それはとんでもない方向へ。



 シャングリラのデカいポスターが飾ってあろうが無かろうが、と笑うハーレイ。
 この姿だけでとっくに話の種だと、前も結婚していたことにされちまう、と。
「どうするの、それ…」
 大変じゃないの、キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが恋人同士だっただなんて。
 おまけに結婚していただなんて、そんな話になっちゃったら…!
「どうもしないさ、他にも噂は色々流れていそうだからな」
 義務教育中のガキどもなんかは可愛いもんだぞ、今のお前と中身は大して変わらないしな。
 結婚の意味もそれほど分かっちゃいないさ、一緒に暮らしているって程度で。
 だがな、俺の友達やら、お前が結婚する頃のお前の友達。
 そういったヤツらはもっと手強い相手になるなあ、結婚ってことになったらな。
 同じ家で仲良く暮らしてるんです、というだけでは済まないと百も承知なんだし…。
 手を繋いで二人で出掛ける程度じゃないってことも充分知っているしな?
「…結婚の中身…。そっか、その頃なら、ぼくの友達でも分かるかも…」
 ぼくの友達には分からなくっても、ハーレイの友達だったら分かるよね…。
 結婚したら何をするのか、一緒に暮らして何をしてるのか。
 それで生まれ変わりだって思われちゃったら、バレちゃうの、前のぼくたちのことも?
 前のぼくたちが最後まで言わずに隠していたこと、今頃になってバレてしまうの…?
「まさか。本物だと名乗らない限りはな」
 俺たちが本当に生まれ変わりだと言わない限りは、似ているってだけの赤の他人だ。
 面白おかしく噂が立っても、前の俺たちへの評価は揺るがん。
 まるで関係無いカップルが一組いるだけなんだし、むしろ気の毒がられるかもなあ…。
 紛らわしいのが結婚したお蔭で、前の俺たちが墓の中で迷惑していると。
 変な噂を立てられちまって、ソルジャー・ブルーもキャプテン・ハーレイも、いい迷惑だと。



 友人たちが無責任な噂を立てていようが、変わらないという前の自分たちへの視線。
 世間の評価は何も変わらず、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイに瓜二つのカップルがいるというだけ。
 自分たちが公にしない限りは、本当に本物の生まれ変わりだと言わない限りは。
「で、どうするんだ。…名乗るのか?」
 いつか言うのか、本当はソルジャー・ブルーなんだと。
 お前がそうだと明かすんだったら、もちろん俺も付き合うが…。キャプテン・ハーレイだったと名乗る覚悟は出来てるんだが。
 そのせいでどんな噂が立とうが、どんな目で見られることになろうが、俺はお前を全力で守る。今度は守ると決めたからには、相手が何であろうがな。
「まだ決めてない…」
 考えていないよ、まだ少しも。…だって、ぼくはまだ子供だから。
 ハーレイにチビって言われるくらいに小さいんだから、きっと考えも子供なんだよ。子供の頭で考えてみても、正しいかどうかは分からないから…。
 どうしようかな、って考えはしても、そこまでだけ。…こうするんだ、って決めてはいないよ。
 ハーレイが本当のことを話すんだったら、付き合おうとは思うけれども。
「ゆっくりでいいさ、大事なことだ」
 チビのお前には重すぎるしなあ、前のお前の人生ってヤツは。
 いくら記憶を持っていたって、前のお前と同じようには決断出来んし、する必要も無いってな。
 今度は俺がお前を守ってやるんだ、難しい判断を一人でしなくていいんだ、今のお前は。
 俺に相談すればいいのさ、どんなことでも。…お前が本当は誰だったのかを話すかどうかも。
 学者どもに囲まれて、もみくちゃにされたくないって言うなら、黙っているのも一つの手だ。
 俺たちには何の責任も無いんだからなあ、前の俺たちのことに関してはな。



 責任があるのは今の自分の人生だけだ、と微笑むハーレイ。
 今の時代を生きてゆくだけなら、前の自分たちは何の関係も無いと。
「思い出だけを持ってりゃいいんだ、大切にな。前の俺たちが生きた思い出」
 そいつを大事に持ったままでだ、今の幸せをその上に積んでいけばいい。幾つも、幾つも、俺と二人で。
 前の幸せの上に今の幸せ、実にお得な話じゃないか。二人分の幸せを積めるんだからな。普通は一つの人生の上に一人分しか乗せられないだろ?
 今の自分が生きてる分だけ、それしか無いのが普通なんだ。ところが俺たちは前の分まで持って生まれて来たってな。その有難さだけを貰えばいいんだ、前の俺たちの人生からは。
 責任なんかは持たなくていいし、誰も持てとも言わんしな。
 放っておいても噂は勝手に立つものなんだし、それでかまわん。
 噂は所詮噂だからなあ、学者なんぞは見向きもしないさ、真面目に相手をしやしない。
 俺たちが本当に本物なんだと言わない限りは、ただの他人の空似だからな。



 どんな噂が流れていようが、ハーレイの学校の教え子たちが勝手に話を作ろうが。
 今の自分たちは笑って聞き流しているだけでいいと、前の自分たちのことまで気にする必要など何処にも無いと、ハーレイが太鼓判を押してくれたから。
 好きに生きていいと、今を生きろと優しい笑みを浮かべるから。
「じゃあ、シャングリラの写真…」
 ハーレイも嫌いじゃないんだったら、前のぼくたちの船の思い出に飾ってもいい?
 リビングとかダイニングの壁にポスター、貼ってもいい?
「もちろんだ。お前の気に入ったヤツを飾ればいいさ。うんとデカイのを」
 雲海の写真だと、シャングリラはそれほど大きくないしな、主役は雲海なんだから。
 シャングリラの姿を見たいんだったら、ポスターの方がいいだろう。
 お前が欲しいなら、ポスター並みにデカい写真を買うのもいいなあ、きちんと額に入ったヤツ。俺の給料で買えそうだったら、もっと立派なパネルとかでも。
「ううん、普通のポスターでいいよ」
 今のぼくでも買えそうな値段のポスターでいいよ、シャングリラをいつでも見られるんなら。
 壁に飾って、こんな船だった、って懐かしく眺められるんなら。
「そうなのか?」
 あるだけでいいのか、シャングリラの写真が。
 額入りのだとか、立派なパネルに仕立てたヤツとか、そういうのじゃなくてポスターだけで。
「うん」
 あの船の写真を飾れるんなら、それだけで幸せ。
 ハーレイと二人で暮らしてた船を、今のぼくたちが暮らしてる家で一緒に見られるんなら…。



「ふうむ…。俺と一緒に見ようって言うのか、シャングリラの写真」
 だったら、デカいポスターもいいが、ジグゾーパズルにするのはどうだ?
 とびきりデカくて、作るのに床を占領しちまいそうなほど、ピースが多いジグゾーパズル。
「…ジグゾーパズル?」
 それもいいよね、って思ってたけど、ハーレイ、ジグゾーパズルが好きなの?
 前のハーレイが作っていたって覚えはないけど、今のハーレイは好きだったとか…?
「いや。特に好きだということは無いし、ガキの頃に作った程度だが…」
 相手がシャングリラの写真となったら、そいつもいいなと思ってな。
 お前が俺に教えてくれ。
 山ほどの真っ白なピースの中から、これは此処だ、と。シャングリラの此処になるんだ、と。
 お前、そういう見分けをするのは得意だろうが。
 前の俺と違って、あの船を外から何度も見ていたのが前のお前なんだからな。
 ほんの小さな違いだけでも気付く筈だぞ、同じ白でもこれは此処だ、と。
「それを言うなら、ハーレイだってモニター越しに見ていたじゃない!」
 センサーを通した画像で見てても、シャングリラはおんなじシャングリラだよ?
 肉眼で見るか、モニターで見るかの違いしかなくて、条件は同じだと思うんだけど…!



 それにハーレイはキャプテンだった、と言ってやったら。
 前の自分よりもシャングリラの構造に詳しかった筈で、どの角度からの画像であっても、何処の部分が映っているのか分かった筈だ、と指摘したら。
「そうだっけなあ…。言われてみれば、俺の方が詳しかったのかもな」
 小さな傷でも宇宙船には命取りだし、発見したなら補修させないといけなかったし…。
 作業完了と報告が来たら、直ぐに確認していたし…。
 シャングリラの何処の部分がこのピースなのか、と訊かれたら、即答出来るのは俺かもしれん。
 だがな、俺とお前の共同作業で出来るシャングリラもいいもんだぞ。
 床いっぱいにピースを広げて、これは此処だと、これはこっちだと、お前と二人で。
「そうかもね…!」
 あっちだ、こっちだ、って喧嘩になるかもしれないね。
 ぼくは絶対此処だって言うのに、ハーレイは違う場所だって言って。
 二人とも少しも譲らないままで、他のピースを嵌めてって…。
 頑張ってパズルを作っていったら、喧嘩してたピースが嵌まる所を二人とも間違えてたとかね。



 いつか二人で暮らす家には、シャングリラのポスターもいいけれど。
 ジグゾーパズルの白いシャングリラもいい、大きくてピースも沢山のパズル。
 山ほどのピースを床に広げて、ハーレイと一緒にせっせと嵌めて。
 シャングリラを二人で作ってゆこうか、自分たちの手でシャングリラを。白い鯨を。
「ねえ、ハーレイ。ジグゾーパズルなら、シャングリラ、ぼくたちで作れるね」
 ぼくとハーレイのためのシャングリラを、ぼくとハーレイ、二人だけで。
 本物のシャングリラは大勢の仲間が造り上げたけど、今度はハーレイとぼくの二人で。
「おっ、いいな!」
 出来上がったら号令するかな、「シャングリラ、発進!」と景気よくな。
「発進なんだね、ジグゾーパズルのシャングリラの」
 ハーレイが言ってくれるんだったら、本当にぼくたちのシャングリラになるよ。
 ぼくとハーレイ、二人だけのためのシャングリラに。
 シャングリラ、二人で作ってみようよ、ジグゾーパズルで。
 ぼくたちの船を、本物のシャングリラの頃とは違って、飾って眺めるための船をね。



 白いシャングリラは、白い鯨は、大勢の仲間と造ったけれど。
 飾り物の船ではなかったけれど。
 家に飾るための思い出の船は二人で作ろう、ジグゾーパズルのピースを嵌めて。
 床いっぱいにピースを広げて、これは此処だと、それは違うと喧嘩し合って、笑い合って。
 そんな幸せな時間もいい。ジグゾーパズルのピースで喧嘩。
 結局、二人とも間違えていたり、分からないと揃って悩んでみたり。
 いつか結婚したならば。二人一緒に暮らせるようになったなら。
 二人だけで眺める飾り物の船を、白いシャングリラを作ってみよう。
 今の時代は、もう箱舟は要らないから。
 ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、何処までも歩いてゆけるのだから…。




            飾り物の船・了

※今の時代は、白いシャングリラはインテリア。ハーレイと暮らす家にも何か欲しいのです。
 どうせ飾るのなら、ジグゾーパズルがいいのかも。二人で作ったシャングリラの雄姿を。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







(ふうむ…)
 こいつは全く知らなかった、とハーレイが覗き込んだ新聞記事。
 ブルーの家には寄れなかったから、夕食の後でダイニングで。愛用の大きなマグカップに淹れたコーヒー片手に寛ぎの時間。書斎に行く日も多いけれども、今夜はゆっくり新聞を、と。
 その新聞の中、「最後の花」という見出し。添えられたエーデルワイスの写真。真っ白な綿毛に覆われた花が美しい高山植物。最後の花とはどういう意味か、と読み始めたのだけれど。



 エーデルワイス。
 それが地球で最後に咲いていた花。今の蘇った青い地球ではなくて、滅びゆく地球で。
 SD体制に入ると決定した時、人類は全て地球を離れた。誰一人として残ることは出来ず、死の星と化した地球を後にした、宇宙船に乗って。もう二度と見られぬ地球に別れを告げて。
 人の世界は変わってゆくから、生き方も何もかもSD体制の開幕と共に変革されるから。地球にいた人々に次の世代は無かった。幼い子供にも、若い夫婦にも、その胎内の赤子にさえも。
 彼らはいったい、どんな思いで地球を離れて行ったのか。自分たちが残りの生を送るための星へ旅立って行ったのか。記録は殆ど残されていない、彼らも滅びていったのだから。
 母なる地球から遠く離れた植民惑星、其処だけで生きて。SD体制の時代を生きた者たちからは忘れ去られて、マザー・システムからの保護も受けられずに。



 地球を去ってゆく彼らの船。二度と戻らない、戻れない船。
 悲しみの涙が満ちていたろう、地球の大地に永遠の別れを告げてゆく船。
 その旅立ちを地球の上から見送った花がエーデルワイス。滅びゆく地球で開いた最後の花。
 もちろん、人が住めない大地にエーデルワイスが咲けるわけがない。植物などが育ちはしない。人工的に創り出された環境、そんな場所でしか。
 エーデルワイスはユグドラシルの側に咲いていたという。地球の再生を託されたユグドラシル。その中にまだ人はいないけれども、SD体制が人を育てるまでは無人だけれど。
 いつか機械が育てた人類が地球に戻って、ユグドラシルから地球を蘇らせてゆくだろうから。
 マザー・システムとグランド・マザーに守られて青い水の星を取り戻してくれるだろうから。



 いつか必ず、と地球を離れる人々が咲かせたエーデルワイス。
 高く聳え立つユグドラシルの下に、強化ガラスのケースを据えて。中の環境を整えてやって。
 この花が自然に育つ環境が地球に再び蘇るように、と祈りをこめて。
 エーデルワイスは不死と不滅のシンボル、永遠を意味する花だと語り継がれていたから。地球がまだ青い星だった頃に、採集されすぎて絶滅しかかった過去を持っていた花だったから。
 地球が永遠であるように。
 エーデルワイスが滅びることなく生き残ったように、この星もまた蘇るように。
 どうか、と人類が植えていった花。
 自分たちは二度と戻れはしないけれども、地球は永遠であるようにと。
 ガラスケースの中のエーデルワイスはきっと滅びてしまうだろうけれど、その花の代わりに次の花たちが、蘇った地球に新しいエーデルワイスの株が根付いて花開くようにと。



 そうして人類の船は旅立った、エーデルワイスの花を残して。
 エーデルワイスは船を見送った、もう戻らない人類の船を。強化ガラスのケースの中から。白く美しい花を咲かせて、滅びに向かいつつあった地球の大地で。
(SD体制の時代には消されていたデータなのか…)
 新聞記事にはそう書いてあった、当時の人々は知らなかったと。
 ユグドラシルの側に強化ガラスのケースが据えられていたということも、エーデルワイスの花のケースであったことも。
 地球から去って行った人類の思いは知らない方が良かったから。
 管理出産と機械による統治、そんな時代に「最後に人らしく生きた人々」の存在はタブー。遠い星で次の世代も作れず、滅び去っていった人々のことは深く考えない方がいい。
 彼らの思いは、悲しい最期は、SD体制を良しとする世界ではマイナスにしかならないから。
 何を思ってどう生きたのかも、どんな思いで母なる地球を後にしたかも。



 だから封印されていたデータ。かつての多様な文化も消されてしまったけれども、それに纏わるデータ以上に、厳重に。
(誰も知らずにいたってわけか…)
 ユグドラシルの側のガラスケースも、中に咲いていたエーデルワイスも。
 滅びゆく地球に祈りをこめて植えられ、去ってゆく船を見送った最後の花だったのに。人工的に創り出された空間の中で、強化ガラスのケースの中で。
(ケースもその内に割れたんだろうが…)
 SD体制の下で生まれた人類が育ち、ユグドラシルに入る頃には割れてしまっていたのだろう。跡形もなく壊れていたのか、それとも何が入っていたかも分からないようになっていたのか。
 人類はそれに気付かなかった。エーデルワイスを育てたケースに。地球の最後の花のケースに。
 それから長い時が流れて、SD体制が滅びるまで。
 マザー・システムが管理していた、情報の封印が解かれる日まで。
 地球の上に咲いた最後の花が何であったか、どんな思いで人々がそれを残したのか。知られないままで流れた時間。



 前の自分もその時代を生きた、最後の花のことなど知らずに。
 いつか地球へとブルーと二人で夢を見ていても、その地球の上に人類が残したエーデルワイスは知らずに終わった。
 白いシャングリラのデータベースにも、宇宙の何処にも、情報は何も無かったから。封印された情報などは、引き出す術が無かったから。
(最後の花なあ…)
 これがそうか、と新聞記事のエーデルワイスの写真を覗き込む。
 ガラスケースの中とは違って、自然の中での写真だけれど。ハイキングコースの脇に咲いていたエーデルワイスの花だと書かれているけれど。
 エーデルワイス。今の時代にも愛されている高山植物、それを目当てに山に出掛ける人もいる。
 ただ、高い山の花だから。おまけに、今の自分が住んでいる地域にエーデルワイスは…。
(無いんだよなあ…)
 かつて日本と呼ばれた小さな島国、それがあった場所にエーデルワイスの花は無かった。たった一ヶ所だけを除いて、ただ一つだけの山を除いて。



 ハヤチネウスユキソウ。かつての日本のエーデルワイス。
 早池峰山という山の頂でだけ咲いた固有種、他の山には無かったという。だから今でも、其処に行かないと見られない。早池峰山があった辺りに聳える高い山だけに咲くエーデルワイス。
 今の自分は見たことが無いし、見に出掛けたいと思ったことも無いのだけれど。
(待てよ…?)
 白い花を咲かせるエーデルワイス。本などで何度も目にしてきた花。
 星を思わせる花の形に、綿毛に覆われた独特の姿。ふうわりと柔らかそうな花。
 それを自分は知っている。自分ではなくて前の自分が、キャプテン・ハーレイだった自分が。
 前の自分が確かに見ていた、エーデルワイスを。白い星の形をしていた花を。
 本やデータで見たのではなくて、肉眼で。
 手を伸ばしたら触れそうなほどに近い所で、その気になったら摘めそうな場所で。



(何処だ…?)
 エーデルワイスなどを何処で見ただろうか、前の自分は?
 今も昔も高山植物、園芸品種があるという話は耳にするけれど、そうそうお目にはかかれない。現に自分は知らないわけだし、前の自分ともなれば尚のこと。
(シャングリラの中しか有り得ないんだが…)
 そのシャングリラは自給自足で飛んでいた船、宇宙船。高い山などあるわけがない。けれども、自分は確かに目にした。エーデルワイスを、あの白い花を。
(あんなのが何処にあったんだ…?)
 花と言ったら思い出すのは公園だけれど。ブリッジから見えた広い公園、様々な植物が植わった憩いの場所だったけれど。
 思い出せないエーデルワイス。あの公園で見たなら、覚えていそうな筈なのに。
 エーデルワイスが咲いていた場所からも、ブリッジは見えていただろうから。白い花から視線を上げたら、自分の居場所が見えたろうから。



 けれど全く無い記憶。エーデルワイスとブリッジはまるで繋がらない。
 そうなってくると…。
(…公園じゃないのか?)
 バラエティー豊かな植物と言えば、あの公園。子供たちがよく遊んだ公園。
 ただ、公園は他に幾つもあったから。居住区の中などに幾つも鏤められていたから、そういった公園の一つだったろうか?
(しかし、エーデルワイスだぞ?)
 今でも珍しいエーデルワイス。今の自分が一度も目にしていない花。
 それほどに特別な植物なのだし、シャングリラの中で植えるとしたなら、貴重品扱いだった筈。小さな公園に植えるよりかは、ブリッジが見える広い公園、そうなりそうな花なのに。
(どう考えても、あの公園しか…)
 他の公園は規模も小さくて、緑に親しむための場所。栗の木があったり、サクランボだったり、それぞれ特徴があったけれども、エーデルワイスの記憶は無い。
 いったい何処で見掛けたのだと、記憶違いかと遠い記憶を幾つも手繰り寄せて…。



 一向に浮かんでくれない記憶。思い出せないエーデルワイスが咲いていた場所。
 溜息をついて、新聞記事へと落とした視線。花の写真は参考にならず、もう一度、記事を読んでいったら。遠い昔に滅びかけた頃のエーデルワイスのくだりが目に留まった。
 採集されすぎて数が減っても、人はエーデルワイスを求めたから。手に入れようと山に登って、崖から落ちて命を失くした者もいたほど。険しい岩場に生えていたというエーデルワイス。
(あれか…!)
 岩場で一気に蘇った記憶、ヒルマンが作ったロックガーデン。
 名前そのままに岩を配して、高山植物が植えられた公園。空調もそれに相応しくして。
 規模は小さなものだったけれど、中身は本格的だった。他の公園とは違った植生。
 船の中が世界の全てだったから、外の世界には出られないから。
 其処で育ってゆく子供たちのためにと、高山植物を教えてやりたいと言ったヒルマン。
 そういう公園が一つあったら、大人たちの心もきっと豊かになるだろうから、と。



 反対する者は一人も無かったロックガーデン。
 何かといえば「役に立たんわ」が口癖だったゼルも、これには反対しなかった。子供好きだったせいもあるだろう。いつもポケットに子供たちのための菓子を忍ばせていたほどに。
(何を植えるかで会議になって…)
 公園の管理をしていた者たちとヒルマンとで大筋は決まったけれど。
 長老と呼ばれるようになっていた前の自分にゼルやブラウたち、それにブルーが加わった会議で承認されれば、後は公園を作るだけだけれど。
 配られた植物の資料の中で、「これだけは入れたい」とヒルマンがこだわったエーデルワイス。
「なにしろ、シャングリラの白だからね。この花の色は」
 それに…、と説明を続けたヒルマン。
 エーデルワイスの名前は「高貴な白」の意味だという。地球があった頃のドイツの言葉で。白いシャングリラに似合いの花だと、高貴な白を是非植えたいと。
 それにエーデルワイスは元々は薬草、「アルプスの星」と呼ばれて珍重された。美しい姿も目を惹いたから、人に採られて減った野生種。
 一時は絶滅しかかったほどで、採集が禁止されたという。そこまで数が減ってしまっても、高い崖にしか咲かなくなっても、それでも命永らえた花。地球が滅びてしまうまでは。
 採り尽くされそうになってしまったのに、生き残ったというエーデルワイス。
 人類に追われ、アルタミラで星ごと殲滅されそうになったミュウの船には相応しいと。
 この花のように強くあろうと、生き延びようと。



 「高貴な白」の名を持つ植物、人に絶滅させられかかった過去を持っているエーデルワイス。
 ヒルマンのこだわりに誰もが頷き、エーデルワイスがロックガーデンの主役と決まった。それを植えようと、エーデルワイスの庭にしようと。
(前のあいつが奪いに出掛けて…)
 白いシャングリラは、もう略奪とは無縁の船だったけれど。自給自足の船だったけれど、特別なものを導入するには奪ってくるより他にないから。
 そういう時にはブルーの出番で、ロックガーデンに植えたい植物を全て調達して来た。人類側の植物園やら、園芸用の苗を扱う場所やらで。
 それをヒルマンが主導して植えて、岩なども置いて、完成したエーデルワイスの庭。
 「高貴な白」のエーデルワイスが美しく咲いた、他に幾つもの高山植物を従えて。白い花びらを星のように広げ、艶やかな緑の葉をアクセントにして。



「へええ…。こりゃまた、綺麗な花だねえ…!」
 本当に星みたいな形じゃないか、と声を弾ませて見ていたブラウ。
 地球のアルプスは知らないけれども、「アルプスの星」と呼ばれていたのも納得だよ、と。
「高貴な白と言うのも分かるのう…」
 実に不思議な魅力のある花じゃて、しかも高い山にしか咲かんと聞いたら尚のことじゃ。
 わしらの船にピッタリじゃわい、とゼルも褒めちぎった。いい花が咲いたと。
 想像したよりも大きかった花、もっと小さいかと思っていた花。
(指先くらいとまでは言わないんだが…)
 儚く小さな花だと思ったエーデルワイス。それは意外に大きめの花で、遠目にもそうだと分かる白くて美しい星。この花が崖に咲いていたなら目に入るだろう、摘んでみたくもなるだろう。
 白い綿毛に覆われた花。高貴な白の名を持つ、アルプスの星を。
 けれど、白いシャングリラのエーデルワイスは摘むことを禁止された花。大人はもちろん、子供たちさえも。
 「これは珍しい植物だから」と、エーデルワイスの歴史を子供たちに教えたヒルマン。
 一度は滅びそうになったほどの植物、それを摘んではいけないと。
 そういう教育も必要だからと、エーデルワイスの株が増えても禁止令は解かれはしなかった。
 ロックガーデンに幾つもの星が咲いても、高貴な白が鏤められても。



(そして、あいつも…)
 前のブルーも見ていたのだった、エーデルワイスを。咲く度にロックガーデンに行って。
 「この花は地球にも咲くんだよね」と、「今のアルプスはどんなだろうか」と。
 きっとこんな風だ、とロックガーデンを、エーデルワイスを眺めたブルー。地球のアルプスにもエーデルワイスが咲いているだろうと、地球の風に揺れているのだろうと。
 いつも通って眺めているから、飽きずに花を見詰めているから。
「摘んでもいいのではありませんか?」
 あなたならば、と何度も声を掛けたけれど。
 船の仲間たちも、ヒルマンやエラも、「ソルジャーの部屋に飾るのならば」と、摘んでゆくよう勧めたけれども、ブルーはいつでも首を横に振った。
 「ぼくはそこまで特別じゃないよ」と、「エーデルワイスには敵わないよ」と。
 いくら沢山の花が咲いても、けして摘むことをしなかったブルー。
 ただ側でそれを見ていただけで。
 白いエーデルワイスの花の向こうに、焦がれ続けた夢の星を。
 「青い地球でも雪が積もったら、きっと白いね」と。
 白い星だと、この花のように白く輝く美しい星になるのだろうね、と。



 エーデルワイスの白い星に地球を見ていたブルー。前のブルーの憧れの星。
 いつか行きたいと、そこへゆくのだと言っていたのに、前のブルーは辿り着けなくて。
(白い星どころか…)
 赤かった地球。青い水の星は何処にも無かった、死の星があっただけだった。
 遠い昔にエーデルワイスが残された時そのままに。
 地球を去ってゆく人類の船を、エーデルワイスがガラスケースの中から見送った時とまるで全く変わらないままに。
 エーデルワイスのガラスケースはとうに砕けて、風化してしまっていただろうけれど。
 そこに咲いていたエーデルワイスも、塵になって風に舞い上げられて。
 今も戻らない青い地球の上を、赤い星の上を、ただ風に乗って舞っていたかもしれないけれど。



 前の自分はエーデルワイスにこめられた祈りも、存在さえも知らずに地球に降りたけれども。
 ユグドラシルの側で風化したろうガラスケースを、思うことさえなかったけれど。
(最後の花がミュウの船にあったか…)
 地球を目指したシャングリラに。ついに辿り着いた白い鯨に。
 前の自分が地球まで運んで行った船。
 大勢のミュウの仲間たちを乗せて、ヒルマンのロックガーデンを乗せて。「高貴な白」の名前を持つ花を乗せて、白いシャングリラの舵を握って。
 その船が地球を蘇らせた。
 SD体制を、グランド・マザーを破壊し、地球が蘇るための引き金を引いた。
 エーデルワイスを乗せていた船が。
 遠い昔に地球に残された最後の花と同じ花が咲いていた船が。



(まさか、エーデルワイスに呼ばれたってことは…)
 いくらなんでも、花がシャングリラを呼ぶことはないだろうけれど。
 あまりにも不思議な偶然だから。
 シャングリラでいつもエーデルワイスを摘まずに見ていた、ブルーに話してやりたいから。
(明日は土曜日だし…)
 丁度いい時に巡り会った記事、地球の最後の花が載った記事。
 教えてやろう、小さなブルーに。
 この記事のことを。
 遠い昔に人類の船を見送ったという、エーデルワイスの花のことを。



 次の日はよく晴れていたから、歩いてブルーの家に出掛けて。
 ブルーの部屋でお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いてみた。
「エーデルワイスを知ってるか?」
 そういう名前の有名な花だが、そいつをお前は知っているのか?
「うん、知ってる。エーデルワイスの歌があるよね」
 SD体制が始まるよりも前から地球にある歌。学校で習って歌っていたよ。
「エーデルワイスの花を見たことは?」
 写真はもちろん知ってるだろうが、本物のエーデルワイスはどうだ?
「ないよ、本物の花は一度も」
 だって、高い山に咲く花だもの…。植物園にはあるだろうけど。
「前のお前はどうだった?」
 やっぱり知らんか、エーデルワイスは?
「前のぼく…?」
 エーデルワイスなんか知っていたかな、そんなの何処かで見掛けたかな…?
 アルテメシアの山にあったかな、高い山は確かにあったけれども…。



 あんな所にエーデルワイスがあっただろうか、とブルーは暫し考えてから。
「…待ってよ、アルテメシアじゃなくて…。そうじゃなくって…」
 シャングリラで見たような気がするんだけど、エーデルワイス…。
 ハーレイがこうして訊いてるんだし、シャングリラの何処かにあった…よね…?
 思い出せないけど、きっと何処かにエーデルワイス…。
「うむ。俺もすっかり忘れてたんだが、ヒルマンのロックガーデンだ」
 高貴な白って名前だからとか、他にも色々あったっけな。
 ロックガーデンにはエーデルワイスを植えたい、とヒルマンが主張していたわけだが。
「ああ…!」
 ホントだ、エーデルワイスの名前…。
 それに人間に採られすぎちゃった花で、それでも滅びないで生き延びた花で。
 ミュウの船にはピッタリだから、ってヒルマンが欲しがったんだっけ…!



 シャングリラにあった、と手を打ったブルー。
 あそこに出掛けていつも見ていた、と。白い星だと、雪が積もった地球だと思っていたと。
「きっと地球にも咲いてるんだと思ってたんだよ、あの頃のぼくは」
 青い星に戻った地球に行ったら、エーデルワイスも咲いているんだ、って。
「知ってるか? そのエーデルワイスの花なんだが…」
 あの花が最後の花だったそうだぞ。白いエーデルワイスの花がな。
「…最後の花?」
 それってどういう意味なの、ハーレイ?
 何の最後なの、エーデルワイスが最後だなんて…。
「地球だ。今の地球じゃなくて滅びゆく地球のな」
 前の俺たちが生きた頃より、もっと前の時代。
 SD体制に入ることが決まって、人類が地球を離れてゆく時。
 エーデルワイスの花を置いて行ったそうだ、ユグドラシルの側に専用のガラスケースを作って。
 いつか、この花が自然に生きられる青い地球が戻って来るように、と。
 そういう祈りを託された花が、地球の最後の花だったのさ。
 エーデルワイスの花が去ってゆく船を見送っていたんだ、もう誰もいない地球の上で。



 例の新聞記事の中身をブルーに話してやったら。
 地球に咲いていた最後の花はエーデルワイスだったと教えてやったら。
「…その話、前のぼくは知らなかったよ?」
 エーデルワイスの苗を奪いに出掛けた時にも、それから後も。
 花が咲いたら見に行っていたし、エーデルワイスのことも何度も調べていたと思うんだけど…。
「俺も知らんさ、ヒルマンだってな」
 エラだって知りやしなかった。前の俺たちが生きた頃には、何処にも無かった情報なんだ。
 グランド・マザーとマザー・システムが何重にもロックしていたわけだな。
 どう調べたって、何処からも決して出て来ないように。
 グランド・マザーが破壊されない限りは、マザー・システムが消えない限りは。
 そんなわけだから、知ろうとしたって知りようがない。
 あのキースでさえ、きっと調べても辿り着けなかったデータだろう。
 もっとも、あいつは調べようともしなかったろうな、地球を離れた人類のその後なんかはな…。



 厳重に封印されていた記録。
 SD体制が滅びない限りは、出ないようにされていた記録。
 地球の上で最後に咲いていた花、人類の船を見送ったというエーデルワイス。
「そんなの、あるんだ…」
 前のぼくたちが生きてた頃には、どう調べたって誰にも分からなかったって話。
 エーデルワイスのことは知ってたつもりでいたのに、まさか最後の花だったなんて…。
「そういうことらしいぞ、今の時代はエーデルワイスを詳しく調べりゃ出て来るそうだが」
 とはいえ、あまり知られてはいないようだな、新聞の記事になるほどなんだし。
 エーデルワイスは人気の花だが、最後の花ってトコまではな。
「そうだね、みんな知らないんだろうね」
 もっと有名な話だったら、エーデルワイスはもっと大事にされていそうだし…。
 この花が見送ってくれていたんだ、って記念品とかも作られそうだし…。
「まったくだ。エーデルワイスも大々的に宣伝されているだろうしな」
 植物園で咲いていますとか、最後の花を見に行きませんかと山登りのツアーを組むだとか。
 それでだ、前の俺たちの船はエーデルワイスを積んでいたってわけなんだが。
 最後の花と同じエーデルワイスを乗せていた船で、前の俺は地球まで行ったんだが…。



「そういえば…!」
 おんなじ花だね、エーデルワイスだったんだものね。最後の花とおんなじエーデルワイス。
「そのシャングリラが地球まで辿り着いた時に、SD体制は終わったんだ」
 最後の花が咲いていた地球に、エーデルワイスを積んでいた船が着いたらな。
「偶然かな…?」
 エーデルワイスが最後の花だった地球に、エーデルワイスを乗せたシャングリラが着いたらSD体制が終わったなんて。
 地球が青い星に戻った切っ掛けの船が、エーデルワイスを積んでいたなんて。
「さてな…?」
 そいつは分からん、神様にでも訊いてみないとな。
 でなきゃエーデルワイスに訊くとか、どっちにしたって難しそうだが…。



 ロマンチックに言うんだったら呼ばれたんだろう、と片目を瞑った。
 エーデルワイスに、と。
 いつの日か地球が蘇るようにと祈りをこめて置いてゆかれた、最後の花に。
「…そうなの?」
 植物が人を呼ぶなんてことが本当にあるの?
 人じゃなくって、エーデルワイスを呼んでいたのかもしれないけれど…。
 帰っておいで、って。
 その船で地球に帰っておいでって、そしたら地球が蘇るから、って。
「現実の世界じゃどうかは知らんが、古典の世界じゃありがちだよなあ…」
 花だって立派に生き物なんだし、人に化けたりもするんだし。
 花の精霊だっているしな、エーデルワイスの精霊だっていないとは言い切れないからなあ…。
「じゃあ、本当にエーデルワイスが呼び寄せたのかな?」
 地球においで、って、シャングリラを。エーデルワイスを乗せていた船を。
「俺にはなんとも分からんがな…」
 前の俺たちは何も知らなかったし、エーデルワイスで地球と繋がってたとも思わなかった。
 俺はシャングリラの舵を握ってただけで、エーデルワイスの声なんぞは聞きもしなかったがな。



 前の自分たちは何も知らずに、エーデルワイスを植えていたけれど。
 白いシャングリラに、ミュウの船に相応しい花だと思って植えたけれども。
 エーデルワイスは地球の最後の花だった。
 滅びゆく地球で、ガラスケースの中から去りゆく人類の船を見送った花。
 その花が残されて朽ちていった星へ、始まりの花がやって来た。同じエーデルワイスの真っ白な花が、白いシャングリラに乗せられて。
 歴史を変えたシャングリラの中にもエーデルワイスが咲いていた。
 SD体制を終わらせ、地球を蘇らせるための引き金を引いたシャングリラに。
 新しい時代の始まりの船に、青い水の星を呼び戻した船に、始まりの花のエーデルワイスが。



「…トォニィ、知っていたのかな…?」
 最後の花がエーデルワイスだったってことを。人類を見送った花だったことを。
「そいつも謎だな、情報の封印は解けてた筈だが…」
 グランド・マザーは壊れちまって、マザー・システムも破壊されて。
 もう封印する必要は無いし、どんなデータでも自由に引き出せる時代になってはいたんだが…。
 興味が無ければ調べんだろうな、人類がどういう風に地球から去って行ったか。SD体制なんて時代が始まる直前の人類がどう生きたのかは。
 おまけに手掛かりが「最後の花」だぞ、地球に残った最後の花。
 俺が思うに、多分、知らんな。トォニィも、他のシャングリラの連中もな…。
「それじゃ、ぼくたちが知ったのが…」
「最初かもなあ、この話はな」
 地球に残された最後の花と、シャングリラに乗ってたエーデルワイスと。
 同じ花だったとは誰も知らないかもなあ、この宇宙はうんと広いんだがな…。



 白いシャングリラが解体された後、宇宙に散って行った仲間たち。
 トォニィも、シドも、フィシスも白いシャングリラであちこち旅をした後に、それぞれの道へと旅立って行った。他の大勢の仲間たちも。
 彼らが語り伝えていないからには、誰も気付いていなかったろう。
 最後の花と、始まりの花。
 地球に残ったエーデルワイスと、シャングリラが地球まで乗せて行ったエーデルワイスの絆に、最後と最初がエーデルワイスの花で繋がっていたということに。



「エーデルワイスが呼んだんだ…。シャングリラを」
 おいで、って。地球に帰っておいで、って…。
「ロマンチストの極みだがな」
 だが、本当にそうかもしれんな、俺があの記事に気付いたってことは。
 たまたま広げた新聞の記事に、エーデルワイスが最後の花だと書いてあったということはな。
「…エーデルワイス、また見てみたいよ」
 今のぼくは一度も見ていないんだし、そんな話を聞いちゃったら…。
 エーデルワイスが呼んでたのかも、って思っちゃったら、エーデルワイスが見たくなったよ。
 高い山には登れないから、栽培してあるエーデルワイスしか無理だけれども…。
「いつか植物園まで行くか?」
 エーデルワイスが咲いている時期に、俺と二人で。
「うんっ!」
 一緒に行こうね、エーデルワイスの花を見に。
 うんと沢山咲いてるといいな、ヒルマンのロックガーデンみたいに。
 植物園ならきっと上手に育ててるだろうし、沢山、沢山、見られるといいな…。



 小さなブルーもエーデルワイスの花を思い出してくれたから。
 白いシャングリラで見ていたことも、その向こうに地球を見ていたことも思い出したから。
 もしもエーデルワイスの苗が手に入るようならば。
 育ててみるのもいいかもしれない、ブルーと二人で暮らす家の庭で。
 地球を後にする人類の船を見送ったという最後の花を。
 シャングリラが運んだ始まりの花を。
「なあ、ブルー。…エーデルワイス、植物園まで見に行くのもいいが…」
 苗があったら育ててみないか、俺たちの家で。
 ヒルマンのロックガーデンみたいに本格的なヤツは無理でも、ちょっと工夫して。
 そしたら今度は自由に摘めるぞ、エーデルワイス。
 俺たちの庭のエーデルワイスを摘んでる分には、誰も文句は言わないからな。
「それ、いいかも…!」
 育ててみようよ、エーデルワイス。
 最後の花で、始まりの花。いっぱい育てて、白い星を庭に沢山咲かせて…。



 「高貴な白」の名を持つエーデルワイス。
 白いシャングリラで育てていた花、前のブルーは摘まなかった花。
 地球に焦がれて眺めていたのに、けして摘もうとしなかった。
 だから今度はブルーに摘ませてやりたい、白い星の花を好きなだけ。
 エーデルワイスの苗が手に入ったなら、二人で暮らす家の庭できちんと育ててやって。
 地球の最後の花で、始まりの花。
 自分たちしか知らないらしい、エーデルワイスの不思議な繋がり。
 それを二人で語り合っては、白い星の花をブルーに幾つも、思いのままに摘ませてやって…。




            最後の花・了

※滅びゆく地球で最後に咲いていた花は、エーデルワイス。SD体制の時代は秘密でしたが。
 そうとも知らずにエーデルワイスを育てた白い箱舟。本当に、花が呼んだのかも…?
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(あれ…?)
 学校から帰ったブルーが目にしたもの。「ただいま」と覗き込んだダイニングのテーブルで母が見ている葉書だけれど。母が葉書を手にしていること自体は、特に珍しくもないのだけれど。
 何故だか懐かしいような気がした、その葉書。届いた時には家にいなかった筈なのに。
 郵便配達のバイクは学校に行っている間にやって来るもの。だから留守の間に届いた筈で、目にしたわけがないというのに。
(…なんの葉書だっけ?)
 前にも見たことがあるのだろうか。母宛の葉書で、似たようなものを。
 部屋へ行こうと階段を上りながら考えてみる。チラリと見えた絵、その色彩に覚えた懐かしさ。絵が描いてある葉書ならば…。
(色々あるよね?)
 母の友人には絵を描く人も少なくないから。絵が添えてある葉書もよく届くから。
 それだろうか、と思ったけれども、懐かしい理由が分からない。そういう葉書を届けてくる人に会ったことは何度もあるけれど。顔だって知っているけれど…。
(…でも、懐かしい…?)
 葉書を見ただけで懐かしくなるほど親しいだろうか、その人たちと。小さかった頃には何処かへ一緒に出掛けたりしたこともあったけれども…。
(ぼく宛に葉書は来なかったし…)
 絵が描かれた葉書はいつも母宛、それを横から眺めていただけ。この間の人だ、と。色々な顔を思い出せるけれど、葉書を見ただけでピンと来る人の記憶は無くて。
(誰だっけ…?)
 謎の差し出し人、と葉書の主が分からないまま、着替えて下りて行ったダイニング。あの葉書を見せて貰って、おやつも食べて…、と。
 そうしたら…。



 おやつを用意して待っていた母が、「覚えてる?」と笑顔で持っていた葉書。さっきの葉書。
(あ…!)
 懐かしい筈だ、と葉書を見詰めた。母宛の葉書には違いないけれど、描かれている絵。幼稚園の頃に自分が描いた絵、クレヨンを使って時間もかけて。
 鮮やかに蘇って来た記憶。「お家の人に手紙を書きましょう」という幼稚園の企画、先生たちが用意してくれた葉書。字の書けない子もいたりしたから、手紙と言っても絵を描いただけ。
 出来上がった葉書は先生が纏めて出してくれた。宛先を書いて。でも…。
(ぼく、頑張って…)
 宛先も自分で書いたのだった。母に住所を書いて貰った紙を見本に、精一杯の字で。
 その葉書がヒョイと時間を飛び越えて届いた、自分の前に。幼稚園の時に家に届いて、父と母が褒めてくれた記憶はあるのだけれども、それきり葉書は見なかったのに。
「懐かしいでしょ?」
 この絵はブルーが描いたのよ。どう、思い出した?
「うん…。宛先もぼくが書いたんだっけ…」
 凄く下手だよね、ぼくが書いた字。郵便屋さんに笑われそうだよ、読めやしない、って。
 頑張ったつもりだったけど…。今になって見たら恥ずかしいかも…。
「そんなことないわ、上手な字よ。だって、ブルーが幼稚園の頃よ?」
 子供は誰でもこんなものなの、恥ずかしくなんかないのよ、ブルー。
 それにね、この葉書はママたちの宝物だから。
 家のポストに届いた時から、大切な宝物なのよ。ブルーから貰った初めての手紙。郵便屋さんが届けてくれた最初の手紙よ、ブルーが「はい」って渡してくれてた手紙と違って。



 言われてみれば、「手紙ごっこ」は何度もやった。画用紙や折り紙に描いた絵や文字、そういう手紙を父にも母にも手渡していた。「お手紙あげる!」と得意満面、郵便ではない子供の手紙。
(初めての手紙…)
 郵便ポストに届くという意味では、確かに最初の手紙だろう。この葉書が。下手くそな字が少し恥ずかしいけれど、懐かしくも思える幼稚園から出した葉書が。
「ママ、なんでこんなの出して見てたの?」
 何か気になることでもあったの、ぼくの葉書に。今頃になって見てるだなんて…。
「ブルーはブルーね、って思っていたのよ」
 この葉書が家に届いた頃には、ソルジャー・ブルーだとは思いもしなかったわね、って。
「ごめんなさい…。ぼく、変なのになっちゃって…」
 生まれ変わりなんかになっちゃって。それまではずっと、パパとママの子供だったのに。ママが産んでくれたから、ぼくがいるのに…。
「それはいいのよ、前にも話してあげたでしょ?」
 ブルーは少しも変わっていないわ、ちょっぴり記憶が増えちゃっただけ。
 ソルジャー・ブルーの分が余分について来ただけで、ブルーはブルーよ、前と同じよ。この家で暮らして、パパとママの子で。学校にもきちんと通っていて。



 でも…、と優しく微笑んだ母。たまに確認したくなるの、と。
「ブルーはママのブルーよね、って。この家で大きくなったんだわ、って」
 ソルジャー・ブルーでも、ブルーはブルー。
 赤ちゃんの時からこの家で育って、間違いなくママのブルーなのよ、って確かめたくなるの。
 ソルジャー・ブルーは英雄だったけど、今はママたちの子供なんだから、って。
「それで葉書なの?」
 ぼくが初めて出した手紙を見てたの、ぼくが幼稚園に行ってた証拠の?
「そうよ、宝物が役に立っているのよ」
 ママたちが貰った大切な手紙。ブルーは手紙を出してくれたし、こんな頃からずっとママたちの側にいてくれて、今もいるでしょ?
 赤ちゃんの頃の写真もあるけど、ブルーから貰った手紙は特別。幼稚園に行ってた頃のブルーがいたって証拠よ、ブルーが描いた絵と、書いてくれた字。



 母の宝物だという葉書。幼稚園から出して貰った葉書。
 子供が描いた絵と下手くそな宛先、それでも宝物にしている母。遠い地域に住む祖父母たちも、手紙を大事に持っているらしい。ブルーが今までに出したものを、全部。
「全部?」
 お祖父ちゃんたちが全部持っているの、ぼくが書いた手紙を?
 葉書も手紙も、捨てないで全部持ってるの…?
「そうよ、きちんと箱に入れてね。これはブルーから届いた手紙、って」
 誰でも、そういうものなのよ。大切に持ってて、ママみたいに時々、取り出して読むの。
 そしたらブルーが側にいるみたいに思えるでしょう?
 今のブルーも、もっと小さな頃のブルーも。
「えーっ!」
 宝物だって言うの、お祖父ちゃんたちまで箱に仕舞って残しているの?
 ぼくが出した手紙、全部、宝物にされちゃってるんだ…?



 上手に書けた手紙はともかく、下手な手紙も沢山ある筈。小さな頃にはせっせと手紙を書いたりしたから、きっと山ほど。
 まさか宝物になっていたとは思わなかったから、手紙が残っているのはショックで。
(…ホントに下手くそなのが沢山…)
 あんまりだよ、と母に訴えたけれど、「この葉書と同じで宝物なのよ」と笑みが返っただけ。
 祖父母たちにとっては大切なもので、今も見ているかもしれないと。こんな頃もあったと、まだ小さかったと、最初に貰った手紙を眺めているのかも、と。
 そう言われたら、もう敵わないから。勝てはしないから、曖昧に笑っておくしかなくて。
 おやつを食べ終えて部屋に戻ってから、頭を抱えた宝物の手紙。祖父母の大切なコレクション。下手くそな手紙も多いのに。きっと沢山ある筈なのに。
(…捨てちゃって下さい、って手紙を出す?)
 上手に書けている手紙以外は捨てて下さい、と手紙を書いたら、祖父母に届くだろうけれど。
 郵便配達の人がポストに届けてくれるだろうけれど、その手紙だって手紙だから。ブルーからの手紙に違いないから、下手な手紙を捨てる代わりに、その手紙まで残してしまわれそうで。
 「ブルーがこんな手紙を寄越した」と面白がられて、大切に箱に入れられそうで。



(それじゃ駄目だよ…)
 祖父母たちのコレクションがまた増えるだけ。「捨てて下さい」という情けない文面が綴られた手紙はきっと特別扱い、宝箱の一番上に仕舞われてしまうに違いない。捨てるものか、と。
(お祖父ちゃんたちの宝物…)
 手紙を残されていたなんて知らなかったと、恥ずかしすぎると、溜息しか出て来ないけれども。本当に顔から火が出そうだけれど、ハタと気付いた。
 自分だったらどうだろう?
 宝物にしたいような手紙を受け取ったのが自分だったなら。それがポストに入っていたなら。
(ハーレイの手紙…)
 それを自分が貰ったことは無いけれど。ポストに入っていたことも無いし、手渡されたことさえ無いけれど。ただの一度も手紙は貰っていないけれども、貰えばきっと残しておくから。どんなにつまらない用件だろうと、大切に机の引き出しに仕舞っておくのに違いないから。
(お祖父ちゃんたちも一緒…)
 仕方ないか、と手紙の処分はもう諦めることにした。恋人からの手紙も、孫からの手紙も、貰う方にとっては宝物だから。捨ててしまうなど、とんでもないから。
(これからは上手な手紙を書こう…)
 祖父母に宝物にされても、恥ずかしくない立派な手紙。文面はもちろん、字だって綺麗に。そう決めたけれど、これ以上の恥はかくまいと心に決めたのだけれど。
 でも…。



 祖父母の気持ちが理解出来た切っ掛け、恋人からの手紙。ハーレイの手紙。
(…貰っていないよ…)
 今の自分も貰っていないし、前の自分も貰っていない。ただの一度も、葉書でさえも。
 ハーレイの手紙なんかは知らない。どういう手紙を書いて寄越すのか、自分は知らない。一度も貰ったことが無いから。ハーレイの手紙を読んだことが一度も無いのだから。
(今のぼくは駄目でも、前のぼくなら…)
 子供扱いの自分はともかく、本物の恋人同士だった前の自分の方なら、ラブレターの一通くらい貰っていてもいい筈なのに、と思ったけれど。それが当然、と考えたけれど。
 恋人同士には違いなくても、前の自分たちは誰にも秘密の恋人同士。ソルジャーとキャプテンが恋人同士だと明かせはしないし、最後まで隠し続けたのだから、ラブレターなどは…。
(貰えないよね?)
 手紙という形で愛を綴ったら、何処から漏れるか分からない。形にしてはならない恋。
 だからラブレターは一度も貰っていないし、自分も書きはしなかった。前の自分も、ハーレイも持っていなかった。手紙という名の宝物は。ただの一通も、ただ一枚の葉書でさえも。
 そうだったっけ、と納得したのだけれど。



(ちょっと待って…!)
 手紙という名の宝物。今の自分の母も祖父母も、大切にしている自分の手紙。今の自分が書いた手紙が宝物だと聞いたのだけれど。
(…前のハーレイ…)
 前のハーレイの手元には何も残らなかった。宝物どころか、前の自分がいた名残すらも。
 前の自分がいなくなった後、メギドで死んでしまった後。ハーレイは前の自分の銀色の髪の一筋でも、と青の間へ探しに行ったのに。部屋は綺麗に掃除されてしまって、何も残っていなかった。前の自分が綺麗好きだったから、係が掃除をしてしまって。
 係は知らなかったから。前の自分が二度と戻らないとは夢にも思っていなかったから。
 戻ったら直ぐに休めるようにと、整えられていたベッドに、水まで入れ替えられた水差し。前の自分が最後に水を飲んだのかどうか、それさえもハーレイには分からなかった。
 そんな青の間に銀の髪など落ちてはいなくて、前のハーレイは何も持つことが出来なくて。
 前の自分を偲ぶためのものは何一つ無くて、長い年月を独りぼっちで生きて死んでいった。青くなかった地球の地の底で、白いシャングリラを無事に地球まで運んだ後で。



 もしもあの時、手紙を書いておいたなら。
 メギドに向かって飛び立つ前に、ハーレイに宛てて手紙を一通、書いていたなら…。
 ハーレイはそれを宝物にすることが出来ただろう。母が持っていた葉書のように。祖父母の家で箱に仕舞われているらしい、今までに書いた手紙のように。
 前のハーレイはそれを宝物にして、何度も取り出して読めただろう。何度も何度も繰り返して。中身をすっかり暗記するほどに、開かずともすらすらと思い出せるくらいに。
(ラブレターじゃなくても…)
 前のハーレイへの別れの挨拶。長い年月、共に生きてくれたことへの感謝をこめて。
 それを書いてからメギドに行けばよかった、ハーレイに宛てた手紙を残して。
 あんな風に言葉を残すよりも。
 腕に触れて思念を送り込んだだけの、何の形も残らない別れの言葉よりも。



(言葉も残さなきゃいけなかったけれど…)
 ジョミーを支えてやってくれ、という言葉は必要だったけれども。それだけだった別れの言葉。
 「頼んだよ、ハーレイ」と、告げて終わりで、それも必要だったのだけれど。ソルジャーとして言うべきことだったけれど、恋人同士の別れは告げられなかったけれど。
(…あれはブリッジだったから…)
 ブリッジで、皆が周りにいたから。恋人同士だと知られるわけにはいかなかったから。
 だから最後まで、別れの時までソルジャーとキャプテン、そう振舞った。自分もそうだったし、ハーレイの方でも自分を止めはしなかった。これが最後だと分かっていても。二度と会えないと、もう戻らないと気付いていても。
 けれど、手紙を残していたら。それを書いて置いて行ったなら。
 手紙が何処に置いてあろうとも、キャプテン宛の手紙だったら、誰も開けたりしなかったろう。開いて中を読むよりも前に、ハーレイの許へ届けただろう。
 ソルジャーの手紙なのだから。それも最後の、キャプテン宛の手紙。
 内容は機密事項か何かで、シャングリラの今後を左右するかもしれない手紙。キャプテンだけが知るべきことだと、それで充分だと、誰も中身を知ろうとも思わなかっただろう。
 手紙を見付けたのがエラやヒルマンといった長老たちでも、ジョミーであっても。



(ハーレイが死んじゃった後に誰かが見ても…)
 大丈夫な手紙を書けば良かった。恋人同士には見えない手紙を、親しい友からの別れの手紙を。
 「ありがとう」と。「君のお蔭で楽しかった」と、「またいつか会おう」と。
 そういう手紙を残せば良かった、そうすればハーレイは宝物を一つ持っていられた。前の自分の髪の一筋が無かったとしても、代わりに手紙。前の自分が綴った手紙を。
 それがあったら何度でも読めた、前の自分が綴った言葉を、想いを何度も読み返せた。何処にも愛の言葉が無くても、手紙の向こうにそれを読み取れた。「ありがとう」と、「愛していた」と。
 たった一通の手紙さえあれば。「ありがとう」と書かれた手紙があれば。
(ぼくって、馬鹿だ…)
 どうして思い付かなかったのだろう、ハーレイに手紙を残すことを。それを綴ってゆくことを。
 時間は充分にあったのに。下書きをしたり、文を練ったり、そんなことさえ出来ただろうに。
(…手紙なんか書いていなかったから…)
 前の自分が生きていた頃、手紙を書く習慣は無かったから。
 白いシャングリラに郵便配達のシステムなどは無くて、ポストも存在しなかったから。
 ハーレイに宛てて書くのはもちろん、他の仲間たちに宛てても手紙を書きはしなかった。私的な手紙も、公的な手紙も、ただの一度も。
 ソルジャー主催の食事会などには招待状もあったけれども、あれは手紙とは言わないだろう。



 シャングリラには無かった手紙なるもの。
 前の自分も書かなかったし、ハーレイからも届かなかった。レトロな白い羽根ペンで航宙日誌を綴ったハーレイでさえも、手紙は思い付かなかったといった所か。
(でも、ラブレター…)
 愛の手紙を交わす恋人たちならいた。レターセットも存在していた。配達するためのシステムは無くて、自分で届けるか誰かに頼むか、そんな手段しか無かったけれども、手紙はあった。
 ラブレターだの、招待状だの、そういった時のものだったけれど。私的どころか趣味の世界で、そうでなければ演出手段。ソルジャー主催の食事会です、と招待状が出されたように。
 とはいえ、手紙はあったのだから。レターセットも手に入れられたのだから。
(一度くらい…)
 書けば良かった、ラブレターを。前のハーレイに宛てて、想いを綴って。
 恋人同士の仲は秘密だから、「読んだら捨てて」と言ってでも。本当に捨てられてしまっても。
 ハーレイがどんなに恥ずかしがっても、「愛しているよ」と想いをこめて。



 そんな手紙は書かないにしても、別れの手紙。それだけは書いておくべきだった。
 ソルジャーからキャプテン宛のものでも、中身もそういうものであっても。長い年月を白い鯨で共に過ごした、友への別れの手紙であっても。
(…お別れなんだし、もっと欲張りに…)
 最初で最後のラブレターを書いても良かったかもしれない。ソルジャーからキャプテンに宛てた最後の手紙は、誰も開けたりしないから。中を見ようとはしないだろうから。
 ハーレイへの想いを、心のままに。いつまでも好きだと、愛していると。たとえこの身が消えてしまおうとも、魂は君の側にいるから、と。
 そう綴ってから逝くのも良かった、ハーレイへの愛を、想いの全てを。
 手紙を開けようとする者はいないし、内容を知ろうとする者だっていないのだから。
(燃やせ、って書いておいたなら…)
 読み終わったら燃やしてくれ、と書き添えておけば、秘密は漏れなかったと思う。最初で最後の愛の手紙は灰になって消えて、ハーレイの心の中にだけ。前の自分の想いと共に。
(でも、ハーレイは…)
 きっと燃やさずに残しただろう。誰にも気付かれない場所に。
 そうして取り出して、何度も何度も読んでいたろう、「燃やせ」と書き添えられた手紙を。
 流石に地球に降りる前には処分したかもしれないけれど。
 暗殺の恐れもあった地球だから、これは駄目だと燃やしたのかもしれないけれど。



 もしも手紙を残していたら、と考えるほどに、書いておけば良かったと心が締め付けられる。
 どうして思い付かなかったかと、手紙を残すべきだったと。
(ホントに馬鹿だ…)
 時間は沢山あったのに、と自分を責めていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
 これは訊くしかないだろう、とハーレイが部屋に来るのを待った。いつものように向かい合って座って、母の足音が消えてから…。
「ハーレイ、ラブレター、欲しかった?」
「はあ?」
 なんの話だ、と鳶色の瞳が丸くなったから。
「前のぼくからのラブレターだよ、それがあったら良かったかな、って…」
 ママがね、ぼくが幼稚園の時に出した葉書を大切に持っているんだよ。ママの宝物なんだって。
 お祖父ちゃんたちも、ぼくが出した手紙を全部大事に残しているって聞いたから…。
 それで考えたんだよ、前のハーレイのことを。
 前のハーレイ、前のぼくの手紙が残っていたなら、独りぼっちでも少しは辛くなかった?
「お前からの手紙か…。なるほどなあ…」
 そりゃあ、少しは紛れただろうな、前の俺が感じていた孤独。
 手紙を開けば、そこにお前の書いた字と言葉が残ってるんだし…。
 きっとお前の声まで聞こえるような気持ちになっただろうなあ、読んでいる時は。



「やっぱり、そういうことなんだ…。前のぼくの手紙が残っていたら」
 ごめんね、ぼくは思い付かなかった。手紙を書こうと思いもしないでいたんだけれど…。
 ハーレイに手紙を書けば良かった、普段は一度も書いてなくても、お別れの時に。
「お別れって…。メギドの時のことか?」
「うん。…行く前に時間は充分あったよ、長い手紙でも書けたんだよ」
 あんな言葉を残して行くより、手紙を書いておけば良かった。
 キャプテン宛の手紙だったら、青の間にあっても誰も開けたりしないから…。ソルジャーからの最後の手紙で、きっと大事な中身なんだと思うだろうから…。
 誰が見付けても、ハーレイの所へちゃんと届くよ、開けられないで。手紙に何が書いてあったか訊かれもしないよ、機密事項かもしれないから。エラたちにだって言えないような。
 そうやって青の間に残してもいいし、ハーレイの部屋に瞬間移動で届けておいても良かったね。ハーレイの机の上に置くとか、引き出しの中に入れておくとか。
 そういう手紙だよ、ハーレイのための。
 …ぼくが何処にもいなくなっても、ハーレイが寂しくないように。ぼくの手紙を読めるように。
 ぼくからの最後のラブレターなんだよ、最初で最後の。



「…ラブレターなのか?」
 お前が俺宛に書いていく手紙、中身はラブレターだったのか?
 普通の別れの手紙じゃなくてだ、ラブレターを書きたかったのか、お前…?
「それも良かったかな、って思って…」
 前のぼくは手紙を書こうとも思っていなかったけれど、今のぼくだから思うことだけど…。
 同じ手紙を書くんだったら、ラブレターの方がハーレイだって嬉しくない?
 ちゃんと「読み終わったら燃やしてくれ」って書いておくから、ラブレターだよ。
 …残しておいても大丈夫なように、普通の手紙でもいいんだけれど…。
「おいおい、ラブレターってヤツはマズイぞ、マズすぎるってな」
 俺たちの仲がバレちまうじゃないか、そんな手紙を置いて行かれたら。
 お前が「燃やしてくれ」と書いていようが、「捨ててくれ」と大きく書いてあろうが。
 …俺はそいつを捨てられやしない、お前からの最後の手紙なんだぞ?
 しかも最初で最後のラブレターなんぞを貰っちまったら、捨てられるわけがないだろうが。
 燃やせもしないし、そいつはマズイ。
 ラブレターじゃなくて普通の手紙で頼みたかったな、書いてくれると言うならな。
 親友向けの別れの手紙で充分じゃないか、まるで手紙が無いよりは。
 前の俺はお前の手紙なんか一つも持ってはいなかったんだし、そういう手紙で満足だったさ。



 普通の手紙にしておかないと後で色々とマズイことに…、と苦笑するハーレイ。
 前の自分は
手紙を処分出来はしないし、歴史も変わってしまっただろうと。
「いいか、シャングリラに残っちまうんだぞ、前のお前のラブレターが」
 前の俺が死んじまったら、航宙日誌と同じでキャプテンの部屋から発掘されて、だ…。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは本当は恋人同士でしたと、すっかりバレてしまうことになるんだが…。
 シャングリラどころか、宇宙全部に話が広がっちまうんだが…?
「そうなっちゃうかもしれないけれど…。ハーレイが処分しないままなら、そうなるけれど…」
 地球に降りる前なら、どうだった?
 ハーレイ、何度も言っているよね、暗殺されるかもしれないと思っていたってこと。
 暗殺の心配があるんだったら、前のぼくの手紙、処分してから出掛けない…?
「ああ、地球なあ…!」
 地球があったな、あの時は確かに死ぬかもしれんと思って出掛けて行ったわけだし…。
 後に残ってマズイようなものを持っていたなら、処分してから出掛けただろうな。
 しかしだ、前のお前の手紙となったら、処分する代わりに大切に持って降りたかもしれん。
 前のお前が行きたかった地球だ、あんなとんでもない星でもな。
 お前を連れて行くような気持ちで、誰にも見られないよう、服の下に大事に仕舞い込んで。
 「地球に来たぞ」と、「ちゃんと見えるか?」と服の上から何度も押さえて。
 そうやって持って行っただろうなあ、処分するより、俺と一緒に地球へ降りようと。



 前の自分がラブレターを書いて残していたなら。
 「燃やしてくれ」と書いてあっても、ハーレイは大切にそれを持ち続けて、繰り返し読んで。
 最後は地球まで持って行ったと、懐に入れて一緒に地球へ降りたのだろうと話すから。
「それなら処分出来たじゃない。前のぼくの手紙」
 誰もあったと気付きはしないよ、ハーレイの服の下だったなら。
 ハーレイはタイプ・グリーンだったんだし、遮蔽はタイプ・ブルー並みだよ?
 そんなハーレイが何を持っていたか、トォニィにだって分かりはしないし、気が付かないし…。
 前のぼくの手紙、地球の地面の下で燃えてしまったと思うんだけど…?
 どんなに長いラブレターでも、ハーレイのことが好きだってハッキリ書いてあっても。
「…そうか、その手紙、地球で燃えちまうんだな、俺の身体と一緒にな」
 前の俺の身体は何処へ消えたか、誰にも分からないんだし…。
 ユグドラシルがあった辺りで死んだらしい、としか記録も残っていないんだし…。
 なら、バレないのか、前のお前が書いておいてくれたラブレター。
 後生大事に残していたって、そんな手紙があったことすら、誰にも分からないんだな…?
「うん、燃えちゃったらおしまいだからね」
 前のぼくが書いておいた通りに、燃えてしまって消えるんだよ。
 前のハーレイが自分で燃やさなくても、最後まで大事に持っててくれても。
 ぼくの手紙は残りはしなくて、前のハーレイと恋人同士だったこともバレずにおしまい。
 前のぼくが最後に書いた手紙が、ハーレイへのラブレターだったってことも。



 前のハーレイに宛てて書いた手紙は、どんな中身でもハーレイの慰めになっただろうから。
 最初で最後のラブレターを書いて残したとしても、その手紙は誰にも知られることなく、地球の地の底で消えただろうから。
「…ハーレイに残しておけば良かったね、手紙…」
 メギドへ行く前に、レターセットをコッソリ貰って来て。
 親友っぽく書いた手紙でもいいし、最初で最後のラブレターでも良かったし…。
 書いて青の間に置いておくとか、ハーレイの部屋に届けておくとか。
 そしたら、その手紙、ハーレイの宝物になったんだろうし、ハーレイは何度も読み返せたし…。
 本当に書いておけば良かった、どんな手紙でも。ラブレターでも、そうじゃなくても。
「そうだな…。前のお前の手紙というのも良かったな…」
 親友向けの別れの手紙だったら、俺は号泣していただろう。最後まで隠しやがって、と。本当はこんな手紙じゃなくって、別のことを書きたかったんだろうに、と。
 …ラブレターだったら、もっと泣いたな。「燃やしてくれ」と書いてあったら、余計にな。誰が燃やすかと、俺に出来ると思うのか、と。
 お前だけ勝手に逝きやがってと、この手紙の返事を書こうにもお前がいないのに、と。
 親友向けだろうが、ラブレターだろうが、きっと読む度に俺は泣いたんだ。
 書いていた時のお前を思って、お前に返事を書いてやりたいと、何度も何度も。
 だがな…。



 読む度に泣くしかない手紙でも、欲しかったかもな、とハーレイが言うから。
 そういう手紙を貰っていたなら、きっと宝物にしていただろうと、遠く遥かな時の彼方を鳶色の瞳で見ているから。もしもあの時、手紙があれば、と思っているのが分かるから…。
「あのね…。前のぼくは手紙を書かないままになっちゃったけど…」
 ハーレイに手紙を渡せないままで終わったけれど。
 今度はきちんと手紙を書くよ。前のハーレイが欲しかった手紙の代わりに、手紙。
「手紙って…。お前、何処へ行くつもりなんだ?」
 旅行にでも行くのか、お父さんたちと?
 家族旅行に出掛けた先から俺に手紙か、絵葉書とかか?
「ううん、違うよ。ちょっと近くまで」
 ハーレイと結婚した後のことだよ、ハーレイの留守に、ぼくが近所に出掛ける時。
 まだ仕事から帰ってない時とか、柔道の道場に行ってる時とか。
 もうすぐハーレイが帰りそうだけど、と思う時間に、買い物を思い出したりした時のこと。



 行って来ます、と書いたメモの手紙を置いておくよ、と笑ったら。
 直ぐに戻るから、って行き先も書いておくから、早く帰ったら迎えに来てね、って甘えたら。
「近所までか…。それなら許す」
 メモを見付けたら、俺は急いで迎えに行くが…。
 その手の手紙は大歓迎だが、別れの手紙は厳禁だぞ?
 どんなに熱烈なラブレターだろうが、そいつは要らん。前の俺が貰い損ねたヤツはな。
「お互い様だよ、ぼくもそんな手紙は貰いたくないよ」
 ハーレイからお別れの手紙だなんて、もう絶対に要らないからね!
 お断りだし、ぼくも書かない。お別れなんかは無いんだから。
 ずうっとハーレイと一緒なんだし、そんな手紙は書かなくってもいいんだから…!



 そう、今度は二人、何処までも一緒。
 青い地球の上で二人で暮らして、手を繋ぎ合って歩いてゆく。
 死ぬ時も二人一緒なのだから、そうするつもりなのだから。
 別れの手紙は書かなくていいし、そんな機会も巡っては来ない。
 だから普段に、ハーレイに宛ててメモくらい。
 ほんの近所まで出掛けるけれども、ハーレイが帰るまでに戻れそうにない時は、小さなメモ。
 行って来ますと、直ぐに戻るよ、と短い手紙。
 早く帰ったら迎えに来てね、と行き先も書いて、ハートマークも添えたりして…。




               宝物の手紙・了

※前のハーレイに手紙を残して行けば良かった、と思ったブルー。メギドに飛ぶ前に。
 それがあったら、ハーレイも救われた筈なのですが…。書けなかった分まで、今度は幸せに。
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