シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「これからの季節もお勧めだぞ」
留鳥ってヤツを狙うなら、ってハーレイの雑談。巣箱の話。
授業中に生徒が退屈してきたら、絶妙のタイミングで色々な話をするんだけれども、今日の話は小鳥の巣箱。古典とはまるで関係ないけど、みんな瞳を輝かせてる。
巣箱を掛けるのにいい場所だとか、時期だとか。渡りをしないで一年中住んでる留鳥だったら、冬の間から巣を作る場所の下見をするから、今の時期もお勧めなんだって。夏に来る小鳥のために掛けてやるなら、春がいい。夏鳥と言っても巣作りが夏、春の終わりには来るものだから。
それと、巣箱に欠かせないもの。蛇除けの工夫。蛇に卵を盗られないように。
「蛇は卵が好物だからな、これは気を付けてやらんといかんぞ」
せっかくの幸運が逃げて行っちまう、って話すから。
卵が幸運のシンボルなのかと考えたけれど、そうじゃなかった。幸せを運んで来るのは鳥の巣の方。庭に小鳥が巣作りをすると、幸運がやって来るんだって。
ずうっと昔の風水っていうヤツ、中国から来て日本でも都を作る時とかに取り入れた思想。その風水だと、庭で小鳥が巣作りをすると吉兆になる。いいことが起こるという前触れ。
「風水の都は分かっているよな?」と話は古典の世界に戻った。四神相応の場所に造られた都、それが平安京なんだぞ、って。玄武に青龍、朱雀と白虎。ハーレイは凄く話が上手い。居眠ってる生徒は誰もいないし、授業をするのに丁度いい雰囲気になったから。
四神相応の都なんかより、ぼくの頭に残った巣箱。小鳥のために作ってやる家。
(巣箱…)
ハーレイの雑談の中身からして、ハーレイも掛けていたみたい。隣町の家に住んでた頃に。庭に夏ミカンの大きな木がある、お父さんとお母さんが暮らしてる家で。
そのせいかどうか、心に残ってしまった巣箱。学校が終わってバスで帰って、バス停から家まで歩く途中の家の庭には巣箱は無かった。裏庭とかにあるかもしれないけれども、ぼくが歩いて帰る道から見える庭には、ただの一つも。
(やっぱり無いよね…)
あったらとっくに気付いてると思う、庭を見るのは好きだから。花も木も、それに来ている鳥や虫たちも。小鳥のための巣箱なんかは、きっと最高に気に入るだろうし…。
(巣箱、あったらいいのにな…)
ハーレイも掛けていたっていうのが大切なところ。風水の吉兆なんかよりも。
本物の巣箱を見てみたいのに、何処の家にも巣箱は無いから、ちょっぴり残念。ぼくの好奇心は巣箱で一杯、だけど何処にも無い巣箱。本物に出会えない巣箱。
でも…。
家に着いて、門扉を開けて入った庭。あそこに巣箱があったらいいのに、って見上げた木の上。庭で一番大きな木。白いテーブルと椅子の上に枝を広げている木。
きっと巣箱が似合いそう、って下から順に見ていった枝。何処に掛けるのが一番だろう、って。
そうしたら…。
(あれ…?)
あったような気がする、あそこに巣箱。どの枝なのかは分からないけれど、巣箱が一つ。小鳥のために作ってある家、お洒落なのが。真っ白なのが。
そういう巣箱が枝にチョコンと、幹から枝が伸びる所に一つ乗っかっていたような…。
だけど、どの枝かが思い出せない。本当に巣箱があったかどうかも。
もしかしたら、ぼくの家じゃなくって、他所の家の庭で見たかもしれない。巣箱だな、って。
どうにも思い出せない巣箱。ぼくの家だったか、そうじゃないのか。
真っ白な巣箱は覚えているのに、お洒落だったってことは覚えているのに…。
(巣箱、本当にあったっけ…?)
だんだん自信が無くなってきたから、おやつの時間にママに訊いたら、やっぱりあった。
ぼくが今よりずっと小さくて、幼稚園に通っていた頃に。ぼくの記憶にあった通りに、庭で一番大きな木の枝に、パパが作ってくれた巣箱が一つ。
「ママ、その巣箱、うんとお洒落な巣箱だよね?」
お洒落でも鳥は入ったの?
小鳥はちゃんと入ってくれたの、お洒落な巣箱でも気にしないで。
「来ていたわよ。何度も覗いて、下見をして…。それから中に巣を作って」
でも、お洒落って…。パパが作ったのよ、巣箱の作り方を調べて。
普通の巣箱だったわよ、って答えたママ。お洒落なんかじゃなさそうだけど、って。
「…どんな巣箱?」
「こんなのよ」
手を出して、ってママが思念で見せてくれた記憶、絡めた手を通してぼくの頭に流れ込んで来た記憶。庭で一番大きな木の幹、枝の上に置かれて掛けてあった巣箱。ごくごく普通の木の巣箱。
そういえばこういう巣箱だっけ、って思い出した。自然の木目が温かそうな巣箱。
丸い穴から小鳥が外をキョロキョロ見ている記憶もあった。飛び立つ所も、戻る所も。
それを見ていたママの目を通して。小鳥を見守る、ママの優しい気持ちと一緒に。
ありがとう、って御礼を言って部屋に戻ったけれど。
ぼくの記憶に残ってた通り、庭で一番大きなあの木に巣箱は掛かっていたんだけれど。
(真っ白じゃなかった…)
お洒落で真っ白な巣箱じゃなかった、ぼくの家の木にあった巣箱は。
ぼくの記憶と違った巣箱。真っ白な巣箱はご近所さんの家のだっただろうか?
今では巣箱を掛けてないけど、ぼくが小さかった頃は掛けていたとか…。
(でも、真っ白でも、鳥って入るの…?)
ハーレイは色については話さなかったし、お洒落な白でも入るんだろうとは思うけど。そういう記憶なんだから。真っ白に塗られた、お洒落な巣箱。小鳥のために作られた家。
だけど、ぼくの家の巣箱じゃない。パパが作った巣箱は普通で、木目がそのまま。
小さかった頃は、ご近所さんの家にも何度も遊びに行ったけど。ママと行ったり、一人で歩いて出掛けたり。おやつを貰って、庭で遊んだりもしていたけれど…。
(巣箱を眺めに、しょっちゅう通っていたんなら…)
もっとハッキリしていそうなのに、巣箱の記憶も、何処の家の庭で見ていたのかも。
ママだって「お洒落な巣箱」と聞いたら思い出しそうなのに。ぼくが気に入って何処かの家まで見に出掛けてた、って。
真っ白な巣箱があった家。お洒落な巣箱を掛けていた家。あれは何処だったんだろう?
(あの巣箱を見て、ぼくの家にも巣箱だったの…?)
パパに強請って作って貰って、庭で一番大きな木に巣箱。ぼくも小鳥の家が欲しい、って。
そうなんだろうか、と思ったけれど。
小さい頃なら、何度も眺めに通う間に、自分の家にも巣箱を欲しがりそうだけど…。
それはともかく、ぼくが巣箱を見ていた家。真っ白な巣箱が掛けてあった木。
何処だったのかがホントに気になる、ぼくの記憶に残ってる巣箱。
(んーと…)
首が痛くなるほど見上げたっていう記憶は無い。巣箱は大抵、高い所にありそうだけど。ママの記憶で見せて貰った、ぼくの家の巣箱も上の方の枝に乗っけてあった。
低めの場所に掛かってたとしても、幼稚園くらいだった頃のぼくなら…。
(見えにくいよね?)
きっと遠くて見えにくいんだ、目が悪いことはなくっても。子供の背はうんと低いんだから。
小鳥が出入りをしていたとしても、巣箱から顔を覗かせていても。
なのに飽きずに眺めていたぼく。
双眼鏡なんかは持っていないのに、巣箱だってきっと、高い所にあっただろうに。
(何の鳥だっけ…?)
ぼくが見上げていた鳥は。お洒落な巣箱に住んでいた鳥は。
それが何だか思い出せたら、色々と思い出せそうだから。巣箱のあった家のこととか、通ってた頃の弾んだ心も鮮やかに蘇りそうな気持ちがするから、頑張っていたら。
どんな鳥だったか思い出そうと記憶をせっせと手繰り寄せていたら、ハーレイの言葉が浮かんで来た。巣箱の雑談をしていた時の。
幸せを運んで来るんだぞ、って。庭に巣を作ってくれる鳥は。巣箱に入ってくれる小鳥は。
(そうだ、青い鳥…!)
幸せを運ぶ、青い鳥。それが入っていた、あの巣箱には。真っ白でお洒落な巣箱には。
ぼくは青い鳥を眺めに通っていた。幸せを運ぶ青い小鳥を。
青い小鳥が住んでる巣箱を見上げに、お洒落な巣箱があった家まで。
やっと見付かった、小さな手掛かり。ぼくが見ていた青い鳥。
(オオルリかな?)
青い小鳥ならオオルリだろうか、ぼくの家に来た青い鳥。
ぼくがおやつを食べていた時、ダイニングの窓にぶつかった小鳥。怪我はしなかったけど、暫く飛べずに羽根を膨らませて立っていた。ビックリしちゃって、真ん丸になって。
お医者さんに連れて行かなくちゃ、って思っていた所へハーレイが来たんだ、あの時は。
ハーレイがいつもより早く来てくれるっていう幸せをぼくにくれた鳥。ぼくの幸せの青い鳥。
オオルリだな、ってハーレイが名前を教えてくれた鳥。
青い小鳥はオオルリくらいしか見たことがないし、巣箱の小鳥もきっとそうだと思ったけれど。
オオルリはいつの季節の鳥なんだろう、と調べかけたけれど。
巣作りをする時期が分かれば、もっと色々思い出せると考えたけれど…。
(ちょっと待って…!)
違う気がする、ぼくじゃない、って。
青い小鳥を眺めていたのは、お洒落な巣箱を見上げていたのは、ぼくじゃないんだ、って。
幼稚園の頃の小さなぼくとは違うぼく。ご近所さんの家で遊んでいたのとは違うぼく。
(前のぼく…?)
ぼくじゃないなら、前のぼくしかいないんだけど。その他にぼくはいないんだけど。
でも、シャングリラに小鳥はいなかった。白い鯨に空を飛ぶ鳥はいなかった。
船の中だけが全ての世界で、小鳥は役に立たないから。蝶と同じで目を楽しませるだけ、そんな生き物は飼えなかった船。自給自足の日々を送る船に、余計な生き物は乗せておけない。
卵を産んでくれる鶏だけしかいなかった白いシャングリラ。
巣箱なんかは必要無かった。それに入る鳥はいないから。巣を作る小鳥はいなかったから。
(だけど、巣箱…)
真っ白に塗られたお洒落な巣箱は確かにあったし、青い鳥だ、っていう記憶。
巣箱に住んでた青い鳥。ぼくの記憶はそうなっている。前のぼくの遠い遥かな記憶の中では。
青い鳥なんて、シャングリラには一羽もいなかったのに。
前のぼくが欲しくて、飼いたいと願った青い鳥。幸せを運ぶ、地球と同じ青い羽根を持った鳥。でも、シャングリラの中では飼えない。青い小鳥は何の役にも立たないから。
青い小鳥が飼えなかったから、代わりにナキネズミだったのに…、って思った途端。
どの血統のナキネズミを育てるか、って話が出た時、青い毛皮のを選んだっけ、って青い小鳥とナキネズミの繋がりを頭に思い浮かべた途端。
(そうだ、ナキネズミ…!)
お洒落な巣箱は青いナキネズミのために掛けたんだった。真っ白な巣箱の正体はそれ。
前のぼくがナキネズミに入って欲しくて、巣箱を掛けようと思い付いた。
ナキネズミは小鳥じゃないんだけれども、気分だけでも青い鳥、って。
木に掛けた巣箱に住んでいたなら、青い小鳥を見ているような気持ちになれそうだ、って。
前のぼくが巣箱を掛けたがった時にはみんなが笑った、ナキネズミが入るわけがないと。巣箱を作るだけ時間の無駄だと、それこそ文字通りに無駄骨だと。
長老たちを集めた会議の席で遠慮なく笑い飛ばされた。ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。
傑作すぎると笑い転げたゼルにブラウに、困ったような顔で笑ったヒルマンとエラ。
「リスなら巣箱もあるのだがね…」
飼う時にもケージに巣箱をセットするし、と髭を引っ張っていたヒルマン。
ナキネズミを開発する段階で飼っていたリスも、巣箱で眠っていたのだから、と。リスの巣箱は小鳥用の巣箱と共通点も多いのだがね、と。
遠い昔の地球の上では、小鳥用にと掛けた巣箱にリスが入って住み着くケースも珍しくなくて、リスは巣箱が好きらしいことは確かだけれど。
「ナキネズミは違うんじゃないのかい?」
見た目からしてまるで違うよ、と笑ったブラウ。大きさだって違うじゃないかと。
それにナキネズミは巣箱で暮らしていないし、巣箱が欲しいと言って来たことも一度も無いと。
「そうじゃな、ヤツらは現状に大いに満足しておるわい」
巣箱が欲しいと言いもせんわ、とゼルも呆れ顔で。エラも「聞いてはいませんね」と頭を振っていた。ナキネズミからそういう要望は無いと、ナキネズミと暮らす子供たちからも巣箱が欲しいと聞いたことは無いと。
もう散々に笑われたけれど、笑い物になってしまったけれど。
ナキネズミのために巣箱だなんてと、誰もが可笑しそうだったけれど。
たった一人だけ、穏やかに微笑んで聞いていたのがハーレイだった。それは変だと笑う代わりに浮かべていた笑み、みんなと違って意見を述べもしなかった。ナキネズミに巣箱は必要無いとも、きっと入りはしないだろうとも。
ハーレイ以外の四人が笑ってくれたけれども、それでも掛けてみたかった巣箱。
青い小鳥を飼ってる気分で、ナキネズミに住んで欲しかった巣箱。
地球が滅びるよりも前の時代は、小鳥用の巣箱にリスが入ったとヒルマンに聞いてしまったから余計に諦め切れない。ナキネズミはリスとネズミを元にして開発された生き物だったんだから。
リスよりはかなり大きいけれど。小鳥よりも遥かに大きいけれど。
それでも巣箱…、とデータベースで資料を調べた、リスが入ったという例を。ヒルマンが話した通りに幾つも出て来た、小さな巣箱から大きなものまで。
フクロウ用なんていう巣箱もあって、それにもリスが住んでいたから。フクロウは身体の大きい鳥で、ナキネズミでも充分に入れそうな巣箱で暮らしていたから。
これは使えそうだと思ったぼく。ナキネズミだって巣箱に入るだろうと。
フクロウ用の巣箱があったと言うなら、その中にリスが住んでいたのなら。
リスの血を引くナキネズミだって、巣箱は嫌いじゃないかもしれない。ゼルたちは笑ってくれたけれども、ぼくの夢は現実になるかもしれない。
青い鳥の代わりにナキネズミ。ぼくが思い描いた通りの景色を、白いシャングリラで。
そう思ったから、ハーレイに頼んで巣箱を作って貰った。木彫りじゃなくて悪いんだけど、と。
「いいえ、木の扱いなら慣れていますからね」
木彫りの評判は相変わらずですし、実用品以外はまるで駄目だと言われていますが…。
実用品ならお任せ下さい、巣箱だったら木彫りよりもずっと簡単ですよ。
削る必要があるのは入口の所だけですし、他の部分は板の寸法を測って切るだけですし…。
組み立てる方も釘さえ打てれば、子供だって作れそうなものですからね。
ハーレイは気軽に引き受けてくれた、ナキネズミのための巣箱作りを。
キャプテンの仕事が終わった後の自由時間に板を切ったり、削ったりして作ってくれた巣箱。
それを真っ白に塗って貰った、シャングリラの白に。
青い小鳥が住む家にするなら、その色がいいと思ったから。楽園という名の船の色が。
そうして巣箱が出来上がったら、「本気だったのか」と呆れてしまったブラウたち。ハーレイと二人で巣箱を見せに行ったら、長老たちの休憩用の部屋へ運んで披露したら。
「まさか本気でやらかすとはのう…」
わしは入らんと思うんじゃが、とゼルが唸って、ブラウも「入りっこないよ」と肩を竦めた。
ヒルマンもエラも「無理だと思う」と言ったけれども、巣箱は出来てしまったから。
真っ白に塗られたお洒落な巣箱が出来ていたから、シャングリラの色をした巣箱なら…、と絵を描いてくれた、フェニックスの羽根のミュウの紋章を。金と赤との羽根の模様を。
エラが器用に、出入り口の上に。
ハーレイが丸く滑らかに削って仕上げた、巣箱の出入り口にミュウの紋章。
巣箱はぐんとお洒落になった。真っ白な色も素敵だけれども、紋章までついているんだから。
完成した巣箱は、ハーレイが公園の木に梯子を架けて取り付けてくれた。
ぼくと二人で掛ける木を選んで、「此処でいいですか?」って枝に乗っけて、幹に固定して。
とても絵になる場所に掛けた巣箱、青い鳥に相応しいお洒落な巣箱。
毎日、毎日、公園まで覗きに出掛けてゆくのに、ナキネズミは入ってくれなくて。
ぼくの自慢の真っ白な巣箱は、いつまで経っても空家のままで。
「ハーレイ、あの巣箱、やっぱり駄目かな…」
ゼルたちが笑い飛ばした通りに、ナキネズミに巣箱は無理だったかな?
いいアイデアだと思ったけれども、未だに入ってくれないし…。中を覗く姿も一度も見ないし、せっかく作って貰ったけれども、無駄骨になってしまったかな…?
「それはまあ…。無理もないでしょう、公園にはナキネズミがいませんからね」
一匹も住んではいませんよ。住んでいないものは巣箱に入りはしません。何かのはずみに興味を引かれて覗き込みはしても、恐らくそれっきりでしょう。
「そういえば…」
よく見掛けるから忘れていたよ。
ナキネズミは公園にいるものなんだと思っていたけど、あれは住んではいないんだっけね…。
ブリッジが見える広い公園。お洒落な巣箱を掛けた場所。
公園に行けばナキネズミの姿はあるんだけれども、其処に住んでるわけじゃなかった。他の場所から来ていただけ。子供たちのお供で公園まで。
ナキネズミは思念波を上手く扱えない子供たちをサポートするために作った生き物、子供たちと一緒に暮らすのが仕事。ナキネズミを必要とする子に一人一匹、その子の部屋がナキネズミの家。
だから公園まで遊びに来たって、子供と一緒に帰ってゆく。自分が暮らしている部屋に。
そんなナキネズミが巣箱を見たって、住もうと思うわけがない。
ぼくが見ていない間に入口から中に入ったとしても、遊び場所だと考えるだけ。一休みするのにいい場所があったと思ったとしても、住んではくれない。自分の家は別にあるんだから。
失敗だった、ぼくの考え。ナキネズミには必要無かった巣箱。
それじゃ入らない、って溜息をついた、ナキネズミは住んでくれないと。ナキネズミ用の巣箱は無駄だったんだ、って肩を落としたら。
「大丈夫でしょう、場所を変えれば入りますよ」
ブリッジから何度か見掛けましたからね、ナキネズミが巣箱を覗いているのを。
入る所を見てはいませんが、嫌いではないと思います。ですから、巣箱の場所を変えれば入ると私は考えますが…。
「変えるって…。何処へ?」
「農場ですよ。暇なナキネズミはあそこで暮らしていますからね」
子供たちのサポートをしていない時は、ナキネズミは農場に住んでいるでしょう?
牛小屋にいたり、飼料置き場に入り込んでいたり、自分好みの場所を見付けて勝手気ままに。
一匹くらいはきっといますよ、巣箱を気に入るナキネズミも。
巣箱はそっちへ移してみましょう、ナキネズミが住んでいる所へ。
ハーレイは公園の木にまた梯子を架けて登って、巣箱を外して農場の方に移してくれた。農場に植えてあった木を端から調べて回って、此処にしましょう、って。
収穫の時以外は手のかからない木を一本選んで、その木に梯子を架けて登って。
何の木だったかは忘れたけれども、大きかった木。頑丈な幹にお洒落な巣箱が取り付けられた。真っ白なシャングリラの色の巣箱が、ミュウの紋章つきの巣箱が。
次の日に様子を見に行ってみたら、もうナキネズミが巣箱の中を覗いてた。ぼくが下から見てる間に、どんな具合かと出たり入ったりし始めた。大きなフサフサの尻尾を揺らして。
ナキネズミの尻尾が巣箱の中へと消えて行ったり、入口から顔を覗かせて外を見回してみたり。巣箱を見付けたそのナキネズミは、お洒落な巣箱が気に入ったようで。
邪魔をしないよう、そうっと帰って、また次の日に出掛けて行ったら、ナキネズミは一匹増えていた。昨日のナキネズミのお嫁さんが来てた、白い巣箱に。
(それで住み着いて…)
フクロウ用の巣箱だったから、お嫁さんも一緒に充分入れた。お洒落な巣箱はナキネズミが住む家になってくれて、前のぼくは満足したんだった。
青い鳥の巣箱がシャングリラに出来たと、青い鳥が巣箱で暮らしていると。
本当は青い鳥じゃなくって、青い毛皮のナキネズミが住んでいたんだけれど…。お洒落な巣箱の住人はナキネズミの夫婦だったけど。
(ハーレイのお蔭…)
ナキネズミ用の巣箱作りも、ナキネズミがちゃんと巣箱に入ってくれたのも。
ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも「無理だ」と笑ったナキネズミの巣箱。巣箱なんかに入りはしないと皆が言ったのに、ハーレイは無理だと言いもしなくて、笑いもしなくて。
巣箱まで作って、木に取り付けてくれて、前のぼくの自己満足に付き合ってくれた。青い小鳥を飼いたかったぼくの、ナキネズミ用の巣箱なんていう無茶な思い付きに。
ハーレイが手伝ってくれたお蔭で叶った夢。前のぼくの夢。
ナキネズミが見事に住み着いた巣箱は、もう笑われはしなかった。ゼルもブラウも農場にあった巣箱を見上げて、「次は子供の出番だ」なんて話をしていた。きっとその内に可愛いナキネズミの子供が生まれて、巣箱から顔を出すんだろうと。外へ出て来る日が楽しみだと。
真っ白でお洒落な巣箱に住んでたナキネズミ。前のぼくの夢の青い鳥。
ハーレイのお蔭で飼うことが出来た、青い鳥の巣箱を何度も何度も眺めにゆけた。ナキネズミの子供も無事に生まれて、巣箱を見上げたら小さいのが外を見てたりもした。
とても幸せだった、ぼく。青い鳥の巣箱が此処にあるんだ、って。
(御礼、言わなきゃ…)
あの巣箱の御礼を、ハーレイに。
前のぼくはもちろん御礼を言ったけれども、今のぼくからも。巣箱のことを思い出したからには御礼を言いたい、今のハーレイに。あの時は巣箱をありがとう、って。
そう思っていたら、チャイムが鳴って。仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。
ぼくの部屋で二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、笑顔を向けた。
「あのね…。思い出したよ、ハーレイの巣箱」
ハーレイが作った巣箱のことをね、今日の雑談のお蔭で思い出せたよ。
「はあ?」
なんでお前が俺の巣箱を知っているんだ、今の家では作っていないぞ。親父の家で暮らしていた頃に作って掛けはしたがだ、その話、お前にしていたか?
俺は話した覚えなんか無いが、何かのついでに話したっけか…?
「ううん、今のハーレイの巣箱じゃないよ。前のハーレイだよ」
ハーレイが作って掛けてくれたよ、ナキネズミの巣箱。
ゼルたちは笑い転げたけれども、ハーレイだけは笑わなくって…。フクロウ用の大きなサイズの巣箱を作って、真っ白に塗ってくれたんだよ。
「ああ、あれなあ…!」
あったな、ナキネズミの巣箱。やたらお洒落で、ミュウの紋章まで描いてあったのが。
最初は公園の木に取り付けたっけな、あそこにナキネズミは一匹も住んでいなかったのにな?
前のお前が「入ってくれない」ってガッカリしていて、農場の木に取り付け直して。
そしたら直ぐに住み着いたんだったな、ナキネズミが二匹。可愛い子供まで生まれちまって。
「あの巣箱…。嬉しかったんだよ、ありがとう」
青い鳥を飼ってる気分になれたよ、ナキネズミの巣箱はハーレイのお蔭。
ハーレイが作って掛けてくれなきゃ、ぼくは巣箱を持てなかったし…。青い鳥を飼う夢はきっと叶わなかったよ。ナキネズミだったけど、あれは青い鳥。前のぼくの青い鳥だったんだよ。
「いや…。そんなに礼を言ってくれなくても…」
俺も充分、楽しんだしなあ、あの巣箱作り。俺の木彫りは評判がいいとは言い難かったが、あの巣箱は皆に褒められたしな?
洒落た巣箱も作れるんじゃないか、と辛口のブラウにまで言って貰えたし…。
いい思い出ってヤツだ、ナキネズミの巣箱。ちゃんとナキネズミも住んでたからな。
今度はいいのか、ってハーレイに訊かれた。俺の巣箱は要らないのか、って。
「…巣箱?」
またハーレイが作ってくれるの、前みたいに?
「うむ。青い鳥、今ならいけるかもしれんぞ」
巣箱を作って掛けておいたら、青い鳥が入ってくれるかもしれん。
「ホント!?」
本当に本物の青い鳥なの、青い鳥が巣箱に住んでくれるの…?
「運が良けりゃな。前に見ただろ、俺と一緒に青い鳥を。オオルリってヤツを」
あのオオルリも巣箱の中に巣を作るんだ。何処に巣を作ろうかと探している時に、上手い具合に巣箱に出会えりゃ、いいものがあったと中に入って。
ただなあ、山の中で暮らすことが多い鳥だしな…。オオルリだけを狙って巣箱を掛けにゆくなら山の中ってことになっちまうんだが。
「山の中って…。それじゃ滅多に見に行けないよ、入ってくれても」
家の庭だとオオルリは無理かな、巣箱を掛けても来てはくれない?
「まるで駄目ではないかもしれんな」
お前の家でガラスにぶつかっていたし、住宅街でも気にしないオオルリもいるかもしれん。緑と餌とが充分にあれば、生きてゆくのに困りはしないし…。
まずは巣箱を掛けることだな、オオルリに来て欲しければな。
巣箱さえあったら鳥が入るさ、って。オオルリでなくても、青い鳥とは違っても。
「お前の家でも入ってたんだろ、あそこの木に巣箱があった頃には?」
白い巣箱ではなかったようだが、お前のお父さんが作った巣箱。
「うん。普通の巣箱だったけど…」
ママの記憶で見せて貰ったよ、住んでた小鳥が飛んでゆくのを。巣箱に帰ってくる所も。
「ほらな、そんな具合で巣箱を掛ければ小鳥はやって来るもんだ」
今度は本物の鳥に入って貰って、幸せの鳥といこうじゃないか。
今日の授業で話してやったろ、庭で鳥が巣を作るというのは吉兆だ、とな。
青い鳥でなくても幸せが来るんだ、巣箱に小鳥が住んでくれれば。
前のお前の願い通りに青い鳥が巣箱に入ってくれれば最高なんだが、さて、どうなるか…。
巣箱が好きで住宅街も好きなオオルリ、飛んで来てくれるといいんだがな。
俺が巣箱をまた作ってやる、って片目を瞑ってくれたハーレイ。
今のハーレイは木彫りをやっていないけど、前のハーレイが作ってくれた巣箱みたいにお洒落な巣箱を。シャングリラと同じに真っ白な巣箱を、もう一度。
「…ねえ、白い巣箱でも鳥は入ってくれるよね?」
ナキネズミじゃなくって、本物の小鳥。…白は駄目だってことはないよね?
「その点は全く心配要らんな、真っ白な巣箱も売られてるからな」
真っ白どころか、赤とか青とか。そりゃあカラフルで洒落た巣箱が売られてるってな。
つまりは鳥は入るってことだ、白い巣箱でも、赤でも青でも。
「じゃあ、前と同じで真っ白がいいな」
シャングリラの白に塗ろうよ、巣箱。ハーレイが真っ白に塗ってくれたら、絵はぼくが描くよ。
「絵というと…。エラが描いてたあの紋章か」
前の俺たちのミュウの紋章なんだな、今度はお前が描いてくれる、と。
そいつが出来たら、巣箱を掛ける木を二人で選んで、俺が梯子を架けるわけだな。
「此処でいいか」って、お前に訊いて。
鳥が住みやすそうな場所で、俺たちからもよく見える場所。そこに巣箱を掛けに登る、と。
オオルリが入ってくれるといいな、ってハーレイも本物の青い鳥を期待してくれているから。
ぼくも本物の青い鳥が住んでる巣箱を何度も見上げたいから、いつかは巣箱。
お洒落な巣箱を青い地球の上で木の上に掛けよう、ハーレイと二人で暮らす家で。
幸せが来るという庭の鳥の巣、それを巣箱で青い鳥に作って欲しいから。
前のぼくが見ていた真っ白な巣箱、ミュウの紋章つきのお洒落な巣箱。
結婚したらそれを二人で作って、青い鳥を待とう。
青い鳥でなくても、幸せの鳥がきっとやって来る、ナキネズミじゃなくて本物の鳥。
ハーレイと二人で巣箱を見上げて、幸せな日々。
本物の地球に来られたんだと、今度こそ何処までも二人一緒に行けるんだから、と…。
青い鳥の巣箱・了
※前のブルーが欲しがった巣箱。シャングリラに小鳥はいなくても、気分だけでも、と。
そして巣箱に入ってくれたナキネズミ。今度は地球の木に、本物の鳥が入る巣箱を。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(え…?)
何、とブルーは足を止めた。思わず握った階段の手摺。
学校から戻って二階の部屋へと上がる途中で、何の前触れもなく覚えた違和感。
(なんなの…?)
どうしたのだろう、と考えたけれど、分からない。躓いたり滑ったりしたわけではなくて、足を傷めたわけでもなくて。爪先でトンと階段を軽く蹴ってみたけれど、足に異常は無さそうで。
どちらかと言えば、気分の問題。
階段を上りたくない気分で、このまま立ち止まってしまいたいような…。
(身体の具合…?)
体調が悪くなる前触れかもしれない、今は体力を使いたくないと。階段を上るより静かに座っていた方がいいと、此処で腰掛けている方がいいと訴える身体。
それくらいしか思い付かない理由。きっとそうだという気もするけれど。
(…でも、こんな所に座っていても…)
階段は座り心地のいい椅子とは違うし、身体も冷やしてしまいそうだから。却って悪化しそうな体調、同じ座るなら自分の部屋まで行った方がいい。椅子もベッドもある部屋まで。
(部屋で一休み…)
暫く大人しくしていよう、と残りの階段をゆっくり上った。
まだ違和感を覚えたままで。上りたくないと思う気持ちを抱えたままで。
階段の上まで上り切ったら、違和感は綺麗に無くなったから。
二階の廊下に着いた途端に消えてしまったから、原因は間違いなく階段だったわけで。
(やっぱり、身体…)
身体が悲鳴を上げたのかもしれない、此処で休憩していたいと。階段など上りたくないと。
そうだとしたら、それは嬉しくない兆候で。
今の間にきちんと落ち着かせないと、寝込んでしまう結果を招かないとも限らない。気付かずに溜めてしまった疲労は、突然、爆発するものだから。夜にはなんともなかった身体が、次の朝には全く言うことを聞いてくれなくて、ベッドから出られないことも多いから。
(体育の授業が悪かった…?)
さほど日射しも強くなかったし、たまには普通の子と同じように…、と挑んだサッカー。木陰で休む代わりに走った、足が速くはないけれど。ボールも上手く蹴れないけれど。
それでも楽しかったサッカー、夢中になって過ごした時間。体育の先生に「少し休みなさい」と注意されるまで走り回った、太陽の下で。
あのサッカーのせいかもしれない、自分では分からないけれど。体調を崩すほどの負担をかけたつもりは少しも無いのだけれども、疲れる理由があったとしたならサッカーくらい。
気を付けなくては、これ以上、疲れないように。身体に負担をかけないように。
部屋で制服を脱いで着替えて、椅子に座って一休み。今すぐにだって動けるけれども、さっきの違和感が心配だから。知らずに疲れを溜めていそうだから、念のために。
時計を眺めて、五分ほど椅子で時間を過ごして、おやつを食べにまた一階へ。階段を下りて。
(気を付けなくちゃ…)
ふらついたりしたら大変だもの、と手摺を握って慎重に。一足、一足、踏み締めながら。
幸い、下りる時には何も起こらず、一階に着いたら、もう安心で。
(…栄養補給…)
おやつは食事ではないけれど。栄養バランスの取れたものとは違うけれども、それでも幾らかの栄養は摂れる。甘い砂糖は疲れが取れるし、小麦粉やクリームもエネルギーに変わる。紅茶だって身体に水分をくれる、知らない間に抜けてしまった水分を補給してくれる。
(おやつを食べたら、きっと良くなるよ)
サッカーで使った分のエネルギーと、身体から抜けた水分と。それが少しは戻るだろうから。
おやつも馬鹿に出来ないのだから、と頬張ったケーキをしっかりと噛んだ、噛めば消化が早まるから。エネルギーに変わるまでの時間が短くなるから。
紅茶もおかわりをして水分補給をしようと努めた、自覚は無くても水分不足かもしれないから。
栄養なのだ、と意識しながら食べ終えたおやつ。身体に効いてくれるだろうと。
キッチンの母に空になったお皿やカップを返して、「御馳走様」と部屋を目指した。あの階段を上って二階へ。今度はきっと大丈夫、と思うけれども、ゆっくり、ゆっくり。
そうしたら…。
(あ…!)
不意に蘇って来た記憶。
こうして階段を上った、何処かで。
こんな風にゆっくりと階段を上った、確かに自分が。
遠く遥かな記憶の彼方で、今の自分とは違う自分が。ソルジャー・ブルーだった前の自分が。
(何処で…?)
いったい何処で上ったのだろう、今と同じに階段などを。
家に帰って直ぐに上った時に感じた違和感、「上りたくない」という気分。あの時の気分は前の自分のものだった。上りたくない気持ちを抱えて上った、白いシャングリラの中の何処かで。
それが何処だか思い出せない、一足、一足、上ってみても。
あの階段が何処にあったか、どうして「上りたくない」と思いながら上っていたのかも。
思い出せないまま、階段の上まで着いたから。
上りたくない気分が
前の自分のものだったのなら、体調不良を心配しなくても良さそうだから。部屋に戻って本棚から出した写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。
ハーレイとお揃いのそれを勉強机の上で広げて、パラパラとページをめくってみて。
(階段…)
シャングリラの中で階段といえば、思い付くのは非常階段くらいなもの。巨大な白い鯨の中では階段は不向きな移動手段で、別の階層へ行くなら専用の乗り物を使うのが普通。
それに段差の代わりにスロープ、足が不自由な仲間もいたから。車椅子でも移動しやすいよう、緩やかなスロープが設けられていた。
シャングリラは階段の多い船ではなかった、目に付く所に階段は殆ど無かった筈で。
例外は天体の間と公園くらいで、その階段は写真集にも載っているけれど。
(何処なんだろう…)
前の自分が上っていた階段。
上りたくない気分を抱えて上った階段は何処にあったろう…?
天体の間の階段は違う気がする、この美しい部屋ではないと。
公園にあった階段も違う、皆の憩いの場だった公園、そこの階段でもないと。
けれども自分は、前の自分は確かに上った、「上りたくない」という気持ちを抱えて。それでも階段を上るしかなくて、たった一人で上っていた。
(ぼくが一人だと…)
余計に場所が限られてくる。白い鯨でソルジャーが何処かへ行くとなったら、大抵は誰かが付き従った。ハーレイや、他の仲間やら。
一人で歩いてゆく時といえば私的な外出、行き先はフィシスの所だったり、公園だったり。
そうした時には心は弾んでいるものだったし、階段を上りたくない気分になるとは思えなくて。
いったい何処で一人だったかと、青の間に階段は無かった筈だし、と考えていて…。
(違う…!)
思い出した、と遠い記憶の中からぽっかりと浮かび上がって来た階段。
青の間にあった、階段が一つ。あの部屋はスロープが印象的だったけれど、それとは全く違った場所に。スロープの代わりの非常階段などとは違って、まるで違った目的のために。
青の間を常に満たしていた水、それを湛えた貯水槽。其処へと下りるための階段が一つ、部屋の一番奥の所にひっそりと在った。
貯水槽のメンテナンス用の階段、係の者しか使わなかった階段だけれど。実用本位で飾りなども無くて、二人も並べば一杯になりそうなほどの幅しか無かったけれど。
(あれを下りてた…)
前の自分が。
青の間の一番奥に出掛けて、貯水槽へと続く階段を。
誰もいない時に、ただ一人きりで。
メンテナンスや貯水槽の視察をするのではなくて、隠れたい時に。深い悲しみに心を満たされ、泣きたい気持ちに囚われた時に。
青の間のベッドや椅子でも泣いたけれども、それだけではとても足りない時には階段を下りた。自分しか抱えられない悲しみ、自分であるがゆえの悲しみ。
それが心を塞いだ時には、あの階段を下りていた。此処なら自分一人きりだと、誰も来ないと。誰も自分を見付けはしないし、閉じ籠もっていても許されそうだと。
(ぼくの寿命が尽きてしまうって…)
それが分かってから、何度あの階段を下りただろう。何度、その下に隠れただろう。
一番下の段に座って、俯いて泣いた。
其処から見える暗い水面を、静まり返った水の面を見下ろして泣いた。
焦がれ続けた地球には行けない、辿り着けずに死んでしまうと。自分の命はもうすぐ終わると、それを止める術などありはしないと。
自分の命が尽きてしまうことも悲しいけれども、ミュウの未来はどうなるのか。シャングリラは何処へ向かうというのか、自分が死んでしまったならば。
後継者としてジョミーを見出した後も、本当にそれで上手くいくのかと、幼すぎるソルジャーに皆が従ってくれるだろうかと尽きなかった悩み。自分の寿命がもっとあれば、と。
(みんなの前ではとても言えない…)
自分の心が揺れているなど、悲しみに満ちているなどと。
皆の前では弱さを見せるわけにはいかない、船に不安が広がるから。けして悲しみを知られてはならない、自分の心の中だけに留めておかなければ。
だから階段を下りて、隠れて。部屋付きの係の気配がしたら上った、長老たちが来た時にも。
階段を上り、何気ない風で、さも奥にいたと言わんばかりに出て行った。
いつもと変わらない表情に戻り、悲しみも涙も拭い去って。
階段を上ってゆく時に「強い自分」に切り替えていたから、誰も気付きはしなかった。青の間の奥で前の自分が泣いていたことも、階段を下りていたことも。
気付いていた人間はたった一人だけ、その一人だけしか知らなかった。
(…前のハーレイだけ…)
青の間を訪ねて来たのがハーレイの時だけは上がらなかった。階段を上ってゆかなかった。一番下の段に座って、水面を見下ろして動かずにいたら、上から下りて来たハーレイ。
「やはり此処でしたか」とだけ、声を掛けて。
そうして隣に腰を下ろした、何も訊かずに。黙って側に寄り沿ってくれた。
ハーレイが階段を下りて来る度、二人、何度も、何度も座った、あの階段に。水を覗いて座っていた。狭い階段に二人並んで。
ハーレイと二人で座る時には、要らなかった言葉。思念もまるで必要無かった。
言わずとも、わざわざ伝えなくとも、ハーレイは分かってくれていたから。悲しみに満たされてしまった心を、どうしようもない悲しみのことを。
ただ寄り添っていてくれたハーレイ、その温もりだけで充分だった。一人ではないと、悲しみを分かち合ってくれる恋人が直ぐ側にいると、そう思うだけで。考えるだけで。
溢れ出しそうな悲しみをハーレイにぶつけてしまわなくても、ハーレイは全て受け止めてくれているのだからと。
黙って二人で座り続けて、時にはハーレイに抱き締めて貰って、キスを一つ。
それだけで良かった、何の言葉も慰めも要りはしなかった。
ハーレイがいてくれるだけで。隣に座っていてくれるだけで、二人で水面を見ているだけで。
そうして心が落ち着いた後で、立ち上がって階段を上っていった。元の部屋へと。
ハーレイは後から上って来た。
二度と下りる気にならないようにと、笑顔を向けて。
けして言葉にはしなかったけれど、「大丈夫ですよ」と、「私がお側におりますから」と。
(あの階段…)
青の間の奥にあった階段、前の自分が下りた階段。
それを上る時の気持ちを思い出したのだった、あの違和感は。今の自分の家だけれども、階段を上る途中だったから。何のはずみか蘇った記憶、こうして階段を上っていた、と。
上りたくない気分の時の自分の心。
まだ悲しみは癒えていないのに、ソルジャーの顔で上に戻らねばならない時の。
(ハーレイが来た時は…)
階段の一番下の段に二人、並んで座って過ごした時は。
上る時には悲しくなかった、胸も痛くはなりはしなくて、晴れやかな気分で上っていった。上に戻ろうと、部屋にゆこうと。もう大丈夫だと、こんな所にいなくても、と。
階段を下へと下りてゆく時は悲しかったのに、辛かったのに。
自分の居場所は其処にしか無いと、其処に隠れて涙するより他に道は無いと思っていたのに。
ハーレイが来てくれるだけで悲しみが癒えていった階段。
黙って二人で座っているだけで、何もしないで二人で水面を見ているだけで。
(ハーレイ、覚えているのかな…?)
あの階段のことを。前の自分と並んで座った、青の間の奥の階段のことを。
自分はすっかり忘れていたから、ハーレイも忘れてしまったろうか。あそこに階段が一つあったことも、二人並んで腰掛けたことも。一番下の段に座って、暗い水面を見ていたことも。
どうなんだろう、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊こうと思った。階段のことを。
母がお茶とお菓子を置いて行ってくれたテーブルを挟んで、向かい合わせ。
直ぐに訊いてもいいのだけれども、もったいないような気もするから。あの階段に二人で座った思い出はとても大切だから。
少し回り道をしようと思った、ハーレイが覚えていないなら。自分と同じに忘れたのなら、他の階段の話からだ、と。だから…。
「ハーレイ、階段、覚えてる?」
シャングリラにあった階段のこと。ハーレイは今でも覚えている…?
「怪談だと?」
幽霊の話は記憶に無いが、と首を捻っているハーレイ。幽霊でなければ何だったろう、と。怖い話は無かったように思うが、妖怪の類でも出ただろうかと。
「そうじゃなくって…!」
階段が違うよ、上ったり下りたりする階段!
シャングリラの階段、忘れちゃった…?
「そっちの方か…。その階段もあまり無かったぞ」
天体の間と公園の他には、階段らしい階段は作っていなかった筈だが…?
「うん、非常階段くらいしかね」
あれにも一つも写っていない、と勉強机の上に置かれたシャングリラの写真集を指差した。
でも階段はあったんだよ、と。天体の間と公園の他にも、とても大切な階段が一つ、と。
「大切な階段って…。そんなの、あったか?」
あの船は基本はスロープだったぞ、乗り物が使えなくなった時にも足の悪いヤツらが不自由なく移動出来るようにな。非常階段は作業用のヤツで、作業員くらいしか使わなかったが…。
キャプテンの俺が知らない階段、シャングリラには無いと思うがな?
「あったよ、とても大事な階段」
君との思い出の階段なんだよ、ぼくには宝物みたいな階段。
「…何処にだ?」
「青の間」
あそこにあった、と口にしてみたら、息を飲んだハーレイ。
吸い込んだ息の音が聞こえたくらいに、鳶色の瞳が大きく見開かれたほどに。
きっとハーレイは思い当たったに違いないから。あの階段だと気付いたろうから。
「覚えてた?」
ぼくが言ってる階段のこと。青の間の奥にあった階段。
「…今、思い出した」
忘れちまっていたが、青の間と言われたら思い出した。あそこの奥に階段があって…。
お前が泣いてた、とハーレイの顔が辛そうに歪む。
あの階段ではいつもお前が泣いていたんだ、と。
「泣いていないよ」
ハーレイが隣に座ってくれてた時には、ぼくは泣いたりしなかったよ。一人きりの時には泣いていたけど、ハーレイと二人の時には泣いていないよ。
「確かに泣いてはいなかったが…。泣き顔をしてはいなかったんだが…」
お前の心が泣いていたんだ、とても悲しいと。悲しくて辛くて、どうしようもないと。
「…そうかもね…」
ハーレイには伝わっていただろうしね、ぼくの心が。
声にも思念にもしてはいなくても、ハーレイは分かってくれてたし…。
ハーレイが「泣いていた」って言うなら、ぼくはいつでもあの階段で泣いていたんだろうね…。
寿命が尽きると知るより前にも、辛かった時や悲しい時。
あの階段をよく下りていた。誰にも言えない、ぶつけられない思いを抱えて。
一番下の段に座って俯いていたら、水面を見詰めてじっとしていたら。
部屋付きの係も長老たちも来ない時には、ハーレイが何度も付き合ってくれた。まるで最初から知っていたように、階段を下りてゆくのを何処かから見て、急いでやって来たかのように。
そう、ハーレイはあの階段に自分が下りてゆくことを、下りそうな時を見抜いていた。そうだと気付いて部屋に来てくれた、階段を下りて来てくれた。
黙って隣に座るためだけに、二人並んで水面を眺めるためだけに。
アルタミラから一緒だった仲間を病気で亡くした日の夜も。
救い出せなかったミュウの子供がいた時も。
一人きりで泣いていた前の自分の隣に、気付けばハーレイの姿があった。涙は止まって、二人で並んで腰掛けていた。あの階段の一番下の段に、黙って水面を見下ろしながら。
「お前、いつでもあの階段で…」
一人で下りては泣いていたんだ、誰にも打ち明けようともせずに。
全部一人で抱え込んじまって、あそこに座って一人きりで。俺が行くまで、ずっと一人で…。
「部屋でも泣いていたけどね?」
ハーレイの前ではいつも泣いていたよ、何度も泣いてしまっていたよ。
泣いていいんだって分かっていたから、ハーレイの前では泣いていたよ。
…あの階段を下りていた時は、ハーレイが側にいなかった時。悲しくて辛くて我慢出来なくて、でもハーレイはいなくって…。
そういう時に下りて泣いてたんだよ、あそこなら誰も来ないから。
誰か来たなら直ぐに分かるし、急いで上れば気付かれないし…。
前のぼくの秘密の隠れ場所だったよ、あの階段の一番下は。
そしてハーレイとの思い出の場所。あそこでハーレイと並んで座って、水を眺めて…。そういう思い出、数え切れないほどあったのに…。ハーレイと何度も座ったのに…。
今日まで忘れてしまっていた、と打ち明けたら。
どうして思い出さなかったのだろう、と自分の記憶に出来ていた穴を嘆いたら…。
「忘れていたっていいんじゃないか?」
少なくとも俺は責めはしないな、お前が忘れちまっていたこと。
俺も忘れていたっていうのもあるがだ、お前が綺麗に忘れていたのが嬉しくもあるな、階段ごと抜け落ちちまっていたのが。
「…なんで?」
薄情だとは思わないわけ、ハーレイはいつも付き合って座ってくれていたのに…。
黙って隣にいてくれたのに、それをすっかり忘れてたんだよ、ぼくときたら。
「それでいいんだ、何も覚えていないくらいで丁度いいだろ」
あの階段でのお前の思い出、悲しかったことや辛かったことしか無いんだろうが。
一人きりで泣くしかないって時しか下りてないんだ、前のお前は、あの階段を。悲しい時だけの隠れ場所なんかを後生大事に覚えておく必要は無いってな。
悲しいことは忘れちまうに限るさ、生まれ変わってまで抱え込んで覚えておかなくても。
前のお前が泣いた記憶まで、しっかり抱えていなくてもいい。忘れていいんだ、そんなのはな。
水に流すと言うだろうが、とハーレイが片目を瞑ってみせる。
前のお前の悲しみは全部、水が持って行ってくれたんだろう、と。
階段の一番下に座っていつも見ていた、青の間の水が。
「…そうなのかな?」
あの水が持って行ってくれたから忘れちゃってたのかな、階段のこと。あの階段を下りていったことも、ハーレイと二人で座ってたことも。
「そう思っておけ、あの水も役に立ったんだと」
前のお前には散々苦情を言われたが…。こんなデカイ貯水槽つきの部屋なんて、と何度も文句を言われたもんだが、あの水が役に立ったってな。
前のお前が生きてる間は何の役にも立たなかったが、死んじまった後に出番が来たんだ。
あの階段と、階段で泣いてたお前の悲しみ。全部纏めて持ってっちまった、文字通り水に流して綺麗サッパリ消したってことだ。
「うん…」
そうだったのかもね、あの水はホントに何の役にも立たなかったけど…。
前のぼくのサイオンが水と相性が良かったから、って増幅装置なんだと思われてたけど…。
本当はただの演出でしかなくて、ソルジャーの部屋らしく見せるための仕掛けみたいなもので。
あの水には何の意味も無いんだから、って思っていたけど、水だったから水に流せたのかな…?
こけおどしだった青の間の水。何の役目も果たさなかった貯水槽。
メンテナンス用の階段まで設けられていたのに、あの水はそこに在ったというだけ。広い部屋を満たしていたというだけ。
けれど、あの水は悲しみを持って行ってくれたのだろうか?
前の自分が一人で抱えた、あの水を見ながら涙していた悲しみを流してくれたのだろうか…?
「多分な」
俺が勝手にそう思うだけだが、そのくらいの役には立たんとな?
最後まで無駄だと言われ続けて終わるよりかは、前のお前の悲しみや涙。そいつを抱えて消えてこそだろ、水なんだからな。
「そっか…」
本当にそうかもしれないね。
ずうっと前のぼくの側にあった水だし、ホントに最後に役に立ったかもしれないね。前のぼくが死んだら、あの水が見ていた悲しい記憶を水に流してくれたのかもね…。
悲しかった時や、辛かった時。一人で抱えて泣くしかない時。
何度となく下りた階段だけれど、一番下に独り座って水を見ていた場所なのだけれど。
十五年もの長い眠りから覚めて、たった一人でメギドへ向かって飛び立つ前。青の間で過ごしていた筈だけれど、階段を下りた記憶は無い。水を眺めていた記憶も。
ハーレイにそれを話したら…。
「…その記憶。水が持って行ってくれたんじゃないか?」
「え…?」
どういう意味なの、ぼくは階段を下りたっていうの?
下りていたことをすっかり忘れてるだけで、本当はあそこに座っていたの…?
「そうじゃないかという気がするな。…お前が下りていたんだとしたら」
もしもお前が、あの時、下りていたのなら。
あの階段を下りて座っていたなら、どれほど泣いていたことか…。
お前は全てを知っていたんだしな、もうすぐ死ぬことも、俺が追い掛けてはいけないことも。
もちろん地球だって見られないままで、たった一人で死んじまうんだ。
そういったことを一人で抱えて、お前があそこで泣いていたなら。
お前の隣に俺は座りに行けなかったし、お前は本当に独りぼっちで泣いて、泣きじゃくって…。
どのくらい泣いていたかは知らんが、俺が下りて行ってやれなかった分まで、代わりに水が見ていただろう。泣いていたお前を、お前の抱えた悲しみと涙を。
そいつを最後に全部あの水が持って行って水に流した、だからお前は覚えていない。今のお前に生まれ変わる時に、その記憶を持っては来なかったんだな。
本当を言えば、下りていないのが一番なんだが、と言われたけれど。
下りたかもしれない、あんな時だから。
三百年以上もの長い時を生きて、青の間が出来てからも長い長い時を其処で過ごして、その間に何度あの階段を下りたことだろう。
辛かった時に、悲しい時に。たった一人で階段を下りて、水面を眺めて座った自分。
その人生がもうすぐ終わるという時、それも一人きりで死んでゆくのだと悟っていた時、下りてゆかない筈がない。
辛く苦しい心を抱えて。ハーレイとの別れを思って張り裂けそうな心を抱いて、あの階段を。
きっと自分は階段を下りた、一番下の段に座っていた。水面を見詰めて、一人きりで。
この階段でも独りなのだと、ハーレイは忙しくて持ち場を離れられないからと。
そうしてどのくらい座っていたのか、あの水を一人、眺めていたのか。
立ち上がった自分は階段を上り、ブリッジへ向かったのだろう。最後の言葉をハーレイに託して飛び立つために。永遠の別れを告げにゆくために。
けれど、何処にも無い記憶。
確かに階段を下りただろうに、欠片すらも見当たらない記憶。ほんの僅かな痕跡さえも。
「…ぼく、本当に忘れちゃったのかな?」
あの階段を下りていたのに、下りていたこと、すっかり忘れてしまったのかな…?
水が何もかも流してしまって、下りた記憶も、あそこで泣いてた時の記憶も…。
「それだと俺は嬉しいがな」
お前が下りていたんだったら、その記憶が無いのが俺は嬉しい。悲しい記憶はもう要らんしな。
メギドで凍えちまった右手の分だけで充分だろうが、それ以上は無い方がいい。
お前の記憶を消しちまったのが水だとしたなら、あの部屋は最後にお前の役に立ったんだ。青の間はただのこけおどしだったが、水の方は前のお前を守った。
最後に階段に座ったお前は独りぼっちで、俺はいなくて。
その俺の代わりに水が頑張った、お前が泣いてた記憶ごとすっかり流しちまってな。
「…ハーレイの代わりに水だったの?」
ハーレイが隣に座ってくれる代わりに、水が綺麗に消してくれたの、前のぼくの記憶。
最後にとっても悲しかったのを、思い出せないように流しちゃったの…?
「お前が忘れたんだとしたらな」
あの階段を最後に下りていったのに、何も覚えていないなら。
欠片も思い出せずにいるなら、あの水が流してくれたってことだな、悲しかった記憶。
もう思い出さなくてもかまわないから、と手招きされて、ハーレイの膝の上に座らされて。
強い両腕で抱き締められた。広い胸へと抱き込まれて。
あの階段のことは忘れておけ、と。
思い出しても悲しいだけだ、と。
「いいな、あの階段には悲しい記憶しか無いんだからな」
前のお前は泣く時だけしか下りちゃいないし、あんな階段のことは忘れておくのが一番だ。
間違ってもメギドへ行く前の記憶を探すんじゃないぞ、あの階段を下りたかどうかなんてな。
「でも、階段…。ハーレイのことは思い出したよ」
ハーレイが一緒に座ってくれていたってこと。ぼくの隣に、いつも黙って。
二人で並んで水を見てたよ、あの思い出はとても大切なんだよ。
「おいおい、お前は泣いてたんだぞ?」
俺が隣に座ってた時も、お前の心は泣いていたんだ。だから俺は黙って座っていたのに…。
前のお前の悲しい記憶とセットの思い出だろうに、それでも大切なのか、お前は?
「大切だよ。…だって、ハーレイから優しい思い出を貰ったもの」
黙って隣に座っててくれて、ぼくが落ち着くまで側にいてくれて。
階段を上ろうっていう気分になるまで、何も言わずについててくれたよ。
だから、あの階段は大切なんだよ、ハーレイと一緒に座った階段。二人で座った階段だもの…。
いつも階段を下りて来てくれた、優しいハーレイ。並んで座ってくれたハーレイ。
そのハーレイが思い出すなと言うのだから。思い出さなくていいと言うのだから。
メギドへと向かう前のことはもう、考えない方がいいのだろう。
あの日、階段を下りたのかどうか、其処に座っていたのかどうかは。
青の間の水が持って行って流してくれた悲しみ、それはもう思い出さない方がいいのだろう。
遠く遥かな昔の悲しみは流れ、こうして地球に来たのだから。
青い地球の上に生まれ変わって、幸せに生きてゆけるのだから。
ハーレイと二人、手を繋ぎ合って、何処までも二人。
もう階段には悲しみを抱えて座らなくてもいいのだから。
いつか二人で座る時には、幸せの中で。
階段に並んで腰を下ろして、お弁当だとか、ソフトクリームだとか。
きっとそういう風になるから、二人で並んで座る階段は幸せな場所に変わるのだから…。
下りた階段・了
※青の間の奥にあった、貯水槽へと下りる階段。前のブルーが泣くための場所だったのです。
けれどメギドに向かう前には、下りた記憶が全く無いまま。水が悲しみを消したのかも。
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(ほう…!)
珍しいな、とハーレイが目を留めたイチゴの山。
ブルーの家には寄れなかった仕事帰りの日。いつもの食料品店だけれど、今の時期に露地もののイチゴとは、と。普通は春がシーズンだから。
しかも果物のコーナーではなくて特設売り場。色々な店が出店してくる売り場で、特産品などがよく置かれている。このイチゴもきっと、何処かの名産。時期外れなのが売りなのだろう。
(石垣イチゴ…)
そう書いてあった、売り場に置かれた小さな看板に。
石垣イチゴとは何だろうかと思ったけれども、「石垣で育てるイチゴです」という謳い文句も。石垣と言われても意味が分からないものの、真っ赤に熟れて美味しそうではある。まるで宝石。
綺麗なものだ、と覗き込んでしまった、ブルーの瞳の色だから。瑞々しい赤は自然の恵みで命の輝き、小さくて愛らしい恋人の瞳のようだから。
熟したイチゴの赤に惹かれて佇んでいたら、店員に声を掛けられた。「如何ですか?」と。
食料品店の店員ではなくて、イチゴと一緒にやって来た店員、このイチゴが育った場所から出張して来たという。イチゴは毎朝届くけれども、自分は出店期間中は町に滞在していると。
「この時期のは珍しいんですよ」
通常は一月から五月がシーズンなんです、との説明。やはりイチゴは春のものだった、一月とは妙に早いけれども。温暖な地域で作っているなら、一月もシーズンになるのだろうか。
それでも季節は五月頃まで、イチゴの品種を変えて今の時期に収穫しているらしい。やっている農家は多くない、とも。
それで興味を持った所へ「風邪の予防にいいですよ」という店員の言葉、ビタミン豊富でミカンよりもいいという話だから。五粒も食べれば一日分になると聞かされたから。
(ブルーに…)
風邪を引きやすい、小さなブルー。前と同じに弱く生まれてしまったブルー。
隣町の実家で母が作っている金柑の甘煮を届けてやったり、風邪の予防に気を配ってやっているブルーだから。
イチゴもいいか、と考えた。明日は土曜日でブルーの家に出掛けてゆくから、土産にいい。新鮮だし、粒も大きいし…。何より露地もの、イチゴは春がシーズンなのに。
「一つ下さい」
赤いイチゴが盛られたパックを一つ買ったら、「どうぞ」とパンフレットもついて来た。それに店員の「メロンよりも甘いイチゴですよ」という言葉も。
他にも食料品を買い込み、家に帰って。
真っ赤なイチゴが傷まないよう、一番に冷蔵庫に大切に仕舞って、夕食の支度。買って来た魚を焼いている間に、味噌汁に野菜の煮物なども。炊き立ての御飯でゆっくりと食べて、寛いで。
片付けが済んだら熱いコーヒー、愛用のマグカップにたっぷりと淹れた。
(パンフレットも読んでおくかな)
せっかく貰ったのだから、と石垣イチゴのパンフレットとマグカップを手にして向かった書斎。机の前に座ってコーヒーを一口、パンフレットを開いてみたら。
(ふうむ…)
売り場に「石垣で育てるイチゴです」と書かれていたのが謎だったけれど、本当に石垣を使って栽培しているイチゴだった。石垣を使うから「石垣イチゴ」。そういうイチゴの育て方。
栽培風景の写真と説明、それから石垣イチゴの歴史。
(由緒あるイチゴだったのか…)
知らなかった、と呟いた。石垣イチゴの名前も、歴史も。
なんとも古い、石垣イチゴが歩んで来た道。前の自分など比較にならない古さの石垣イチゴ。
SD体制が始まるよりも遥かな昔の日本で生まれた栽培方法、一部の地域で行われていた。日本全体ではなくて、ほんの一部で。
あの店員も言っていた独特の甘さで人気を博したけれども、やがて廃れた。
地球が滅びてしまったから。イチゴを育てられる土が無くなり、水も汚染され、石垣でイチゴを育てられる場所は何処にも無くなってしまったから。
その上、小さな島国、日本。SD体制の時代に文化は継がれず、石垣イチゴも消えてしまった。今は復活しているけれども、立派に作られてパンフレットまであるけれど。
(石垣イチゴなあ…)
イチゴは畑のものなんだが、と熱いコーヒーを口にしながら考えていて。
石垣イチゴは初めて聞いたと、日本の文化は奥が深いと、かつて日本があったこの地域の歴史を思い浮かべていて。
石垣イチゴが生まれた頃には日本の風景はどうだったろうかと、自然も豊かだったろうかと遠い昔に思いを馳せていたのだけれど。
(一月からイチゴだったとはなあ…)
冬の最中に甘いイチゴが栽培出来たのが強みだったという石垣イチゴ。偶然だったとも、工夫を凝らした結果だったとも伝わるけれども、石垣に植えたイチゴは冬でも実をつけたという。温室を設けてやらずとも。
太陽の光で温まった石垣、その温かさがイチゴを育てた。輻射熱で甘いイチゴが実った、それが石垣イチゴの始まり。
だから今でも一月からがシーズン、普通のイチゴのシーズンと同じ五月まで採れる石垣イチゴ。今日、買ったイチゴはそれの変わり種で、秋に実るように育てた品種だったけれど。
ともあれ、石垣で育てるイチゴ。
畑ではなくて石垣でイチゴ、誰の発想だったのだろう。どう考えても、イチゴは畑に植えるのが普通だろうに。でなければ鉢やプランター。平たい所で育てるもの。
パンフレットには石垣の写真が載っているけれど、そこにイチゴがズラリと植わって、赤い実をつけているのだけれど。
実に変わった風景だと思う石垣イチゴが実った畑。いや、石垣を畑と呼ぶのかどうか。イチゴを栽培しているからには畑に含まれそうだけれども、畑のイメージとは全く違う。
(畑と言ったら、やっぱり平地…)
斜面に畑を作っている場所でも、段差を設けて平らな地面を確保するのが常識で。石垣なんぞは聞いたことも無いと、石垣イチゴが初めてなんだ、とコーヒーのカップを傾けていたけれど。
(ん…?)
何故だか何処かで見たような気がする、石垣にイチゴ。
赤いイチゴが実った石垣、それを目にしていたような記憶。パンフレットの写真そのままに赤いイチゴが石垣に実っている光景を。
(…親父たちと出掛けて行ったのか…?)
幼い頃に、と思ったけれども、石垣イチゴは今も一部の地域のみでの栽培。そういう地域に家族旅行で出掛けたという記憶は無い。
イチゴ狩りには何度か行ったけれども、石垣でイチゴを摘んだだろうか?
自分が忘れてしまっているだけで、両親と旅行に行ったのだろうか?
旅をした場所が何処かも分からないほどに幼かった頃、石垣イチゴに出会ったろうか…?
(石垣でイチゴ…)
確かに見たんだ、と遠い記憶を振り返っていたら、どうにもおかしい。
赤いイチゴと石垣の記憶は少しずつ鮮やかになって来たけれど、視点が違う。石垣を眺めている視点の高さが、石垣に向かった自分の目の高さが。
幼い子供の背丈では、こうはならないような…、という視点から見ている石垣、赤いイチゴと。
(…何故だ?)
少なくとも学校に上がってからは行っていない筈だ、と断言出来る。イチゴ狩りの季節に両親と旅に出掛けた地域は全部挙げられるし、石垣イチゴが採れる場所とは重ならないから。
記憶にある視点で眺められる背丈になった頃ともなれば論外、もう絶対に行ってはいない。
そうなってくると父に背負われて眺めていたのか、あるいは石垣イチゴの産地でなくても、同じ方法で栽培していたイチゴ農園があったのか。
(何処で見たんだ…?)
しかもどうやって、と妙な記憶を手繰っていたら。
子供らしくない視点の高さで眺めた筈の石垣イチゴを懸命に探り続けていたら…。
(シャングリラか…!)
とんでもない記憶が蘇って来た、あまりにも意外すぎる記憶が。
キャプテン・ハーレイだった頃の記憶が、前の自分が舵を握った白いシャングリラの思い出が。
あの船にあった、石垣イチゴが。白い鯨になったシャングリラに。
畑とは別に、ヒルマンの趣味で。
調べ物が好きで博識だった、好奇心もまた旺盛だったヒルマンの趣味の産物として。
元は人類のものだった船を改造して生まれた、巨大な白いシャングリラ。
完全な自給自足の暮らしが軌道に乗って皆に余裕が生まれて来た頃、ヒルマンが会議の席でこう言い出した。ゼルとブラウとエラ、それにブルーとキャプテンだった前の自分が集った席で。
「石垣イチゴを作ってみようと思うのだがね」
どうだろうか、という提案。石垣イチゴなど、誰も聞いたことが無かったから。
「なんだい、それは?」
イチゴの種類というヤツかい、と返したブラウ。そういう種類のイチゴがあるのかと、木イチゴなどといったベリーの一種なのかと。
「いいや、そうではなくてだね…。全く普通のイチゴなのだが…」
甘いそうだよ、普通よりも、とヒルマンが話した石垣イチゴ。
データベースで見付けたのだという、遠い昔の栽培方法。それも広い地球の上でたった一ヶ所、日本という国の一部分だけで行われていた方法で。
石垣イチゴは石垣に植える、畑ではなくて。石垣の石と石との間に植えてゆくのが石垣イチゴ。石垣の輻射熱で甘く美味しい実が出来るらしく、ヒルマンはそれを試してみたくて。
「石垣じゃと? …畑ならまだ分かるんじゃが…」
どうしてイチゴが石垣なんじゃ、とゼルが首を捻り、皆も同様だったけれども。
ヒルマンが「これが証拠でだね…」と出して来たデータ、石垣イチゴは本当にあった。遠い昔の地球の上に。小さな島国の一部の地域に。
「このように石垣に植えるわけだし、石垣は傾斜しているし…」
畑ほど広い場所は取らないのが石垣イチゴでだね…。農場の端でやってみたいと思うわけだよ、上手く出来れば儲けものだからね。
農場の端の方は、壁があるというだけだったから。
その壁の一部に沿って石垣を作るというから、止める理由は誰にも無かった。空いたスペースの有効活用、その一環で良かろうと。
石垣イチゴを作ると決まれば、面白がって手伝った者も少なくなかった。石垣を積む機会などは公園を除けば全く無かったわけだし、その石垣が畑になると言うのだから。
白いシャングリラの中に積まれた石垣、本物の石を採掘して来て、ヒルマンの指図で。イチゴが傷んでしまわないよう、石を滑らかに加工して、きちんと組み合わせて。
そうして出来上がった石垣の畑、石垣を畑と呼べるかどうかは意見が分かれたけれども、作物を植えるからには畑だろうと唱える者も多かった。
その石垣の隙間に植え付けられたイチゴの苗。畑のイチゴと同じ苗を植えた筈なのに…。
(美味かったんだ、あれが)
太陽の光を模した照明、それが作物を育てた農場。照明の当たり具合も畑と石垣でさほど違いがある筈もなくて、水やりや肥料も石垣の方に特に工夫を凝らしたわけでもなかったのに。
石垣で実ったイチゴはヒルマンが「甘いそうだよ」と言った通りに甘かった。畑のイチゴよりも遥かに甘くて、まるで魔法のイチゴのように。
味見してみて皆が驚いた、どう考えても石垣よりかは畑の方がイチゴに良さそうなのに、と。
石垣の隙間から生えたイチゴは、如何にも窮屈そうだったのに。畑でのびのびと育ちたいように見えていたのに、美味しく実った石垣イチゴ。畑のイチゴよりも甘い実をつけた石垣イチゴ。
(前のあいつに届けさせたら…)
とても美味しいイチゴだから、と大ぶりのものを器に盛って青の間のブルーに届けたけれど。
前の自分が「如何ですか?」と感想を聞きに出掛けて行ったら、イチゴは全く減っていなくて。
「美味しかったよ」と微笑んだブルー、「味見はしたから、ぼくはいいよ」と。
一粒貰えばもう充分だと、残りのイチゴは子供たちのおやつに持って行って、と。
石垣イチゴの栽培はそれからも長く続いたけれども、収穫の度に「ソルジャーに」と見事な実が幾つも届けられたけれど、その殆どはいつも「子供たちに」とブルーが譲った。
「甘いイチゴは子供たちが食べるべきだよ」と笑んでいたブルー。「子供たちは甘いものが好きだし、イチゴも甘いほど喜ぶだろう?」と。
いくら届けても、何度届けても、ブルーが食べたのはほんの少しだけ。いつも味見だけ。
「美味しいイチゴは子供たちに」と。「子供たちは船の宝物だから」と。
白いシャングリラの農場の端に積まれた石垣、其処で実った石垣イチゴ。
本当に甘くて美味しいイチゴで、畑のイチゴより素晴らしいと評判だったけれども、ヒルマンは常に笑っていたものだ。「私の腕前のせいではないよ」と、「これは石垣の魔法なのだよ」と。
そうして、こうも付け加えていた、「地球の太陽で作ればもっと甘くて美味しいだろうね」と。
太陽を模した照明ではなくて、本当に本物の地球の太陽。
母なる地球の命を育む太陽の光、それを浴びれば石垣イチゴはもっと美味しくなるだろうと。
(それだったのか…!)
俺が買って来たイチゴはヒルマンが夢見た地球のイチゴだったか、と今日の出会いに感謝した。
いいものを買った、と顔が綻ぶ。
買った時にはまるで気付いていなかったけれど、石垣イチゴという言葉も忘れていたけれど。
石垣イチゴとは何のことかと思ったけれども、遠い昔に出会っていた。白い鯨で、前のブルーと暮らした船で。
シャングリラで見ていた石垣イチゴが地球の上にあった、本物の石垣イチゴになって。遠い昔に石垣イチゴが作られていた日本が在った場所で、本物の地球の太陽を浴びて。
(あいつ、覚えているんだろうか…?)
ブルーは今でも覚えているのだろうか、シャングリラにあった甘いイチゴを。
農場の端の石垣で実った石垣イチゴを、あの特別なイチゴのことを…?
次の日、石垣イチゴのパックを紙袋に入れて提げ、ブルーの家に出掛けて行って。
生垣に囲まれた家の門扉の脇のチャイムを鳴らして、現れたブルーの母に石垣イチゴのパックを手渡した。「午前のお茶に添えて頂けますか」と。
そうは言ったものの、イチゴだから。どういった形で出て来るだろうかと、イチゴに合うお茶はあったろうかと考えていたら、ブルーの部屋に届けられたお茶はフルーツティーで。
石垣イチゴが盛られた器と、シフォンケーキと、ガラスのポットにフルーツティー。オレンジにリンゴ、ブドウやキウイ。カットされたフルーツに茶葉を加えて、熱い湯を注ぎ入れたもの。
(なるほどなあ…)
これならイチゴにピッタリだな、と眺めていたら、ブルーがイチゴの器を指して。
「イチゴって…。これ、お土産?」
シフォンケーキはママが焼いてたし、このイチゴ、ハーレイのお土産だよね?
「ああ、美味そうなイチゴだったからな」
昨日、いつもの店で見付けたんだ。風邪の予防にいいそうだぞ。「メロンよりも甘いですよ」と言っていたから、土産にするかと思ったんだが…。
「ふうん…? メロンよりも?」
なんだか凄そうなイチゴだけれど…。どうかな、ホントに甘いのかな…?
一粒口に運んだブルーは「甘い!」と瞳を輝かせた。赤く熟れたイチゴにも似た瞳を。
ハーレイも「どれ」と一つ頬張り、その美味しさに心で大きく頷く。「あのイチゴだ」と。白いシャングリラで食べていたイチゴ、ヒルマンの石垣イチゴがもっと甘くなった、と。
小さなブルーが「ホントに甘いよ!」と喜んでいるから、パンフレットを見せてやった。持って来ていた石垣イチゴのパンフレットを。
「石垣イチゴ…?」
えーっと…。そういう種類のイチゴじゃないんだ、石垣で育てるイチゴなんだ…?
「そうだ、お前は覚えていないか?」
こういうイチゴ。石垣から生えてるイチゴってヤツを?
「石垣って…。ぼく、イチゴ狩りには行ったけど…」
パパとママにも連れてって貰ったし、幼稚園からも行ったんだけど…。
イチゴは畑に生えてたよ?
石垣に生えてるイチゴなんかは見たこともないし、畑に座って摘んだだけだよ?
こんなイチゴに見覚えは無い、とブルーが言うから。
立ったままでイチゴを摘んだ覚えも全く無い、とパンフレットの写真を見詰めているから。
「…やっぱりお前も忘れちまったか…。俺も忘れていたんだがな」
石垣イチゴって書いてあっても、何のことかと思ったほどだ。馴染みのイチゴだったのにな。
「えっ?」
どういう意味なの、石垣イチゴって有名なイチゴ?
このパンフレットだと、此処に書いてある場所でしか作ってなさそうだけど…?
「今の地球だとそうなるんだが…。前の俺たちなら知っていたんだ」
知っていたどころか、食っていたぞ。あのシャングリラで石垣イチゴを。
「…シャングリラで?」
石垣イチゴなんかがあったっけ?
ずっと昔の日本でやっていた栽培方法です、って書いてあるんだけど、石垣イチゴ…。
信じられない、という顔のブルーだけれど。
無理もないとは思うけれども、自分は思い出したから。昨夜、記憶が蘇ったから。石垣イチゴは確かにあったと知っているから、「ヒルマンのだ」と話してやった。
農場の端で作っていたが、と。石垣を積み上げて石垣イチゴを、と。
「うんと甘くて美味かったんだが、思い出せないか?」
畑で作ったイチゴより甘いと評判だったが…。ヒルマンがやってた石垣イチゴ。
「ああ…! あったね、そういえば…!」
前のぼくに、って大きい実ばかり選んで届けてくれたよ、採れる度に。
とっても甘くて美味しかったけど、ぼくばかり食べちゃ悪いから…。子供たちが喜ぶに決まっているから、いつも持ってって貰ったんだっけ…。子供たちに分けてあげて、って。
「そうだ、そいつだ」
あれがヒルマンの石垣イチゴだ、仕組みはこいつと変わらんようだな。
シャングリラの方が一足お先に作っていたらしいぞ、石垣イチゴ。
「うん…。思い出したらビックリしちゃった」
消えちゃっていた作り方でも、イチゴの苗は同じだったから作れたんだね、石垣イチゴ。
石垣だけあったら出来るんだものね、イチゴの苗はあったんだから。
あの石垣イチゴの本物がこれになるんだね、と艶やかなイチゴを赤い瞳がまじまじと見る。
まさか本物に出会えるなんてと、今の地球の上に石垣イチゴがあるなんて、と。
「うむ。俺も本当に驚いたんだが…。最初の間は今の俺の記憶かと思ったもんだ」
ガキの頃に出掛けたイチゴ狩りの記憶だと思ってたんだが、目の高さが違ったんだよなあ…。
そりゃそうだろうな、前の俺とガキの頃の俺とじゃ、頭いくつ分、背が違うんだか…。
「ふふっ、そうだね。でも、そのせいで分かったんだね」
シャングリラに石垣イチゴがあったってことも、ヒルマンが作っていたことも。
ぼくはすっかり忘れちゃってて、「シャングリラだ」って言われても思い出せなかったのに…。
「普通はそうだろ、今の地球の文化がシャングリラにあったとは誰も思わん」
農場にあった石垣イチゴの記録の方もどうなったやら…。
資料として何処かに残っていたって、石垣イチゴだとはまず気付かれないぞ。石垣イチゴ作りをやってる農家の人が資料を見たなら、ピンと来るかもしれないがな。
「そうかもね…」
石垣イチゴは此処にしか無いってパンフレットにも書かれているし…。
ずうっと昔にシャングリラで作っていたなんてことは、よっぽどでないと気が付かないよね…。
前の自分たちが食べていたというのに、忘れ去っていた石垣イチゴ。白いシャングリラの農場の端でヒルマンが作っていた石垣イチゴ。それは甘くて美味しかったけれど、畑で作ったイチゴより遥かに甘かったけれど。
「…やはり本物には敵わんな。ヒルマンのよりもずっと甘いぞ、このイチゴは」
メロンよりも甘いと言っていたのはダテじゃないなあ、実に美味いってな。
「ホントだよね。ヒルマンのイチゴも美味しかったけど…」
甘いイチゴだと思っていたけど、このイチゴには勝てないね。うんと甘いもの、このイチゴ。
おんなじ石垣イチゴだけれども、やっぱり地球のイチゴだからかな…?
「ヒルマンも何度も言ってただろうが、地球で作ればもっと甘いと」
地球の上で石垣イチゴを育てて、本物の地球の太陽の光を浴びさせてやれば。
そいつで温まった石垣で作ってやったとしたなら、もっと甘くて美味いイチゴが出来るってな。
「ヒルマン、正しかったんだね」
石垣イチゴを作ろうだなんて思い付いただけあって、分かってたんだね。
シャングリラで作っても美味しいけれども、地球で作ったらもっと美味しい、って。
「地球の太陽と、地球の上で積み上げた石垣だからな」
シャングリラの中とは比較にならんさ、人工の照明と本物の太陽じゃ全く違う。石垣はそれほど変わらんとしても、太陽のエネルギーが凄いからなあ…。まるで変わってくるんだろうな。
同じ野菜でも地球のは美味いと、今の俺たちは知ってるんだし…。
石垣イチゴだって同じことだな、ヒルマンの予言は大当たりだ。とびきり美味い石垣イチゴで。
前のお前が食わなかった分まで食べるといい、と促してやった。
石垣イチゴはこれから先にもいくらでも食べることが出来るのだから、と。
「俺が持って来た分はこれで終わりだが、俺たちは地球に来たんだしな?」
嫌というほど食うことが出来るぞ、石垣イチゴ。
遠く離れた他所の地域で作ってるんなら、そう簡単には食えないが…。
同じ地域で採れるからには、気を付けていれば食べ放題だ。取り寄せて貰うことも出来るし。
「でも、シーズン…。石垣イチゴのシーズンじゃないよ、今の季節は」
此処にも一月から五月って書いてあるんだし…。
今だと食べ放題ってほどには無いんじゃないかな、石垣イチゴ。
「時期外れではあるな、買う時にもそう聞いたしな」
品種を変えて作っているから、この季節に採れると言ってたな。やってる農家は少ないらしい。普通は一月から五月なんだという話だから、今の季節に食べ放題とはいかないかもなあ…。
シーズンではないらしい石垣イチゴ。
けれども甘くて、美味しいから。それにシャングリラでも作っていた石垣イチゴだから。
この甘いイチゴを追い掛けたくなる、ブルーと二人で来た地球の上で。
「いつかはイチゴ狩りに行くのもいいかもしれんな」
今は無理だが、お前と二人で出掛けられるようになったらな。
「イチゴ狩り?」
石垣イチゴでもイチゴ狩りに行けるの、畑とは違うみたいだけれど…。
「書いてあるだろ、そのパンフレットに。イチゴ狩りの季節」
シーズン中ならやっています、と書いてあるからには、イチゴ狩りが出来る所があるわけだ。
ただし、お前が知っているようなイチゴ狩りとはまるで違うな、石垣イチゴは山だしな?
山の斜面を利用して石垣を作っているってことはだ、ヒルマンのヤツのようにはいかんぞ。
シャングリラの石垣イチゴは壁沿いに作ってあったからなあ、平らな床を歩いてゆけばイチゴが摘めたが、本物の石垣イチゴは山だ。坂を登らないとイチゴは摘めんな、山だからな。
ちょっと傾斜がキツそうだが…、とパンフレットの写真を指差した。
石垣イチゴの栽培風景を遠くから写した写真。山の斜面に幾つも石垣、段差が幾つも。
小さなブルーは「んーと…」と写真を眺めながら。
「休みながらだったら、登れるかな?」
歩いて登るしかなさそうな場所だし、休み休みで。ちょっと摘んだら、休憩して。
「なんなら俺が背負ってやろうか?」
お前が大きく育った後でも、それほど重くはないからな。歩けないなら背負ってやるが…?
「イチゴ狩りで?」
それじゃイチゴが摘めないじゃない!
ハーレイの背中に背負われていたら、ぼくの手、イチゴに届かないよ?
大きな背中に邪魔をされちゃって、イチゴが摘めそうにないんだけれど…!
「それもそうか…。だったら、石垣と石垣との間。其処を背負って登ってやろう」
石垣の一つ一つは平らに据えてありそうだから、そこでイチゴを摘んでだな…。
もう一つ上の石垣のを摘みに行こうと言うなら、俺が背負って運んでやる、と。一段登ったら、お前を下ろして、二人で摘んで。また登るんなら、お前を背負って。
そういうのはどうだ、登る時だけ俺の背中で。
「うん、それならいいかも…!」
ぼくもイチゴを自分で摘めるし、登る時は休んでいられるし…。
そういう風にしてくれるんなら、石垣イチゴでも疲れずに摘みに行けるよね…!
行ってみたいよ、と小さなブルーは乗り気だから。
シャングリラの頃よりも甘く美味しくなった石垣イチゴを摘みに行きたいようだから。
いつかブルーと出掛けてゆこうか、このパンフレットに書かれている場所までイチゴ狩りに。
山の斜面を登る自信が無さそうなブルーを背中に背負って、石垣イチゴが実る斜面を登って。
遠い昔にヒルマンが「きっと地球ならもっと甘くなる」と語っていた石垣イチゴを摘みに。青い地球の上に積まれた石垣と、本物の地球の太陽と。それが育てた石垣イチゴを。
「ねえ、ハーレイ。この石垣イチゴ、ヒルマンに…」
届けたいな、とブルーが甘い果実を見ているから。
前の自分たちが食べた頃より、甘くなった地球の石垣イチゴを届けたいのだと、赤い瞳を遥かな昔の白いシャングリラに向けているから。
「俺たちが食ったら届くだろうさ、ヒルマンにもな」
きっと美味いと喜んでくれるぞ、これが本物の地球の石垣イチゴなのか、と。
でもって自慢をしてくれるかもな、「地球で作れば、本当に甘くなっただろう?」と。私の説は正しかったと、地球で証明して貰えたと。
もしかしたら、ヒルマンも、もう食ったかもな、地球の石垣イチゴ。
俺たちよりも先に地球に生まれて、石垣イチゴを栽培してるかどうかを調べて。
遠い地域に住んでいたって、ヒルマンだったらきっとやって来るぞ。本物の石垣イチゴがあると分かれば、美味いかどうかを確認しにな。
「ヒルマンだったら、やりそうだよね」
シャングリラの頃の味と比べて、納得して帰って行くんだよ。美味しかった、って。
「ついでに他にも色々と食って帰るかもなあ、ヒルマンだしな?」
きっと石垣イチゴだけでは済まんぞ、この地域の文化ってヤツを下調べするに決まってるんだ。前の俺たちが生きた頃には無かった食い物、あれこれ試して帰るんだろうなあ…。
ヒルマンが地球に生まれたかどうかは分からないけれど。
本物の地球の石垣イチゴを食べたかどうかも謎だけれども、懐かしい白いシャングリラ。農場の端で石垣イチゴが育っていた船、遠く遥かな時の彼方に消えた船。
そのシャングリラに呼び掛けるように、ブルーと二人、窓の外の青い空を見上げた。
本物の石垣イチゴのある地球に来たと、本物の地球の石垣イチゴはとても甘いと。
いつかは二人でイチゴ狩りに行こう、山の斜面の石垣で育つ本物の石垣イチゴを食べに。
地球の太陽と石垣の熱と、それで育った甘いイチゴを。
もしもブルーが疲れそうなら、背中に背負って山を登ろう、イチゴを摘みにゆくために。
そうして二人、笑い合いながら、甘いイチゴを摘んで食べよう。
そんな幸せな休日もいい。ブルーと二人で、石垣イチゴを摘んでは、互いに微笑み合って…。
石垣イチゴ・了
※甘くて美味しい石垣イチゴ。今は、地球の日本だった場所で作られているのですけれど…。
前のブルーたちが生きた頃には、シャングリラの農場にあったのです。懐かしい味。
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(それでも地球は動いている…)
ふうん、とブルーは新聞を眺めた。
学校から帰って、おやつの時間。ダイニングのテーブルで、紅茶と母が焼いてくれたケーキと。ケーキを食べ終えて熱い紅茶のおかわりを注ぎ、新聞を開いてみたけれど。
其処に見付けた記事の一つで、ガリレオ・ガリレイの有名な言葉だと書かれていた。SD体制が始まるよりも遥かな昔の天文学者で物理学者で、哲学者。天文学の父と呼ばれた偉人。
そのガリレオが地動説を唱えて有罪になった時の言葉が、「それでも地球は動いている」。
(地動説の人は、確か…)
ガリレオの前にもいた筈だけれど、と記事を読み進めれば名前が出て来た。コペルニクス。彼が地動説を打ち出すまでは天動説だった、全ての天体は地球を中心にして動いていると。
今の時代も、前の自分が生きた時代も、天動説など笑い話でしかないけれど。
何処の星系でも、惑星は星系の中心にある太陽、恒星の周りを回るもの。太陽の方が動いたりはしない、惑星は太陽に従うもの。
誰でも知っている常識だけれど、遠い遥かな昔は違った。地球が宇宙の中心だった。
もっとも、地球は今の時代でも宇宙の中心のようなものだけど。人間を生み出した母なる星で、前の自分が生きた頃には「人類の聖地」とされたのだけれど。
だからこそSD体制までが生まれた、死の星と化した地球を再び蘇らせようと。人間の生き方を変革してまで、青い水の星を残そうとして。
SD体制は結局、地球を元には戻せなかった。体制の崩壊が引き金になった、青い水の星が再び宇宙に戻るための。
地球の地の底に据えられていたSD体制の根幹、巨大コンピューターだったグランド・マザー。
前のブルーが選んだ次のソルジャー、ジョミーがそれを破壊した時、地球も炎に包まれた。死の星は燃え上がり、地殻変動までも起こした、そうして地球は蘇った。
汚染された大地も海も飲み込み、浄化したから。
地形はすっかり変わったけれども、また水の星が帰って来た。母なる地球が。
そうして地球に人が戻って、宇宙の中心を地球に定めた、最低限の機関だけを地球の上に置き、他の機関は分散させて。地球を損なうことが無いよう、注意を払って。
見上げるような高層ビルなど建ってはいない、今の地球。
自然が溢れる星だけれども、宇宙の中心は何処かと訊かれれば誰でも答える、地球にあると。
そうは言っても、本物の宇宙は地球を中心に動きはしない。天動説には戻らない。
ソル太陽系の太陽を回る惑星の一つ、それが地球には違いない。
「それでも地球は動いている」と言われた通りに、今も太陽の周りを回り続ける第三惑星。
ブルーの目を引いた記事に載っていたのはガリレオ衛星、ガリレオの地動説の裏付けになったと伝わる星たち。ジュピターを回る四つの衛星、ガリレオの時代でも地球から観測出来た星たち。
それを子細に観察する内、ガリレオは気付いた、ジュピターの周りを回っていると。
ならば地球もと、この地球も太陽の周りを回っているであろうと、ガリレオが考えた衛星たち。
イオとエウロパ、ガニメデ、カリスト。
(全部ゼウスの愛人なんだ…)
遠い昔のギリシャ神話から付けられた名前、ジュピターの衛星に相応しく。ジュピターといえばゼウスのことだし、そのジュピターを回る星だから。
イオもエウロパも、カリストもゼウスの愛人の名前、前の自分と因縁があったガニメデも。
ただ、ガニメデだけが男の愛人、ゼウスが愛した美少年。
他の星たちは妖精だったり、王女だったりと色々だけれど、女性だから。女性の名前がついた星だから、ガニメデだけが異色の星で。
(…そのせいで壊されたわけじゃないよね?)
今は三つしか無いガリレオ衛星、ガニメデは姿を消してしまった。宇宙の営みの中で時の流れに消えたのではなくて、人の手によって。
SD体制の時代にメギドが壊した、消えてしまった異色のガリレオ衛星。
一つだけ、男性の名前だったのに。美少年の名が付けられたのに。
ジュピターが愛した少年はいなくなってしまった、女性ばかりが残ってしまった。
そういう意図でメギドが使われたわけではないけれど。ただの偶然なのだけれども。
(前のぼくたち…)
自分も、それにハーレイたちも。
ガニメデにあった育英都市で生まれた、アルタミラで。其処で育って、ミュウになった。
成人検査よりも前の記憶は失くして、養父母も家も覚えてはいない。
微かに残った記憶にある星、アルタミラの空に浮かんでいた星。月とは比較にならない大きさ、それは確かにジュピターだけれど。
星の表面を覆っていた雲、独特の模様はソル太陽系のジュピターそのものだけれど。
前の自分も、他の仲間たちも、誰も気付きはしなかった。頭上の星がジュピターだとは。
ソル太陽系の中にいたのだとは。
まるで知らずに其処を離れた、何処へとも進路を定めないままに。
メギドの炎に滅ぼされた星から脱出した船、それで宇宙へ旅立った。今は逃げようと、何処かへ逃げねばならないのだと。
それとも知らずに、地球とは逆の方へ向かって。
ソル太陽系の外へと向かった、何も知らずに母なる地球から遠ざかっていった、遥か彼方へと。
(あの日、進路を逆に取っていたら…)
アルタミラから脱出した後、逆の方向へと向かっていたら。
太陽が輝く方へと進路を向けていたなら、どうなったろうか。太陽そのものを目指さなくても、その方向へと船を進めていたならば。
まるで無かった選択肢ではない、前の自分たちは地球の座標を知らなかったし、ソル太陽系だと気付いてもいなかったのだから。
船のデータベースにも無かったデータで、何処へ行くのも自分たちの自由だったのだから。
第一、知識がまだ浅かった。
自分たちの居場所も正確に掴めていたかどうかが怪しいくらいに、宇宙の旅では素人だった。
だから進路も定めずに飛んだ、とにかくアルタミラから離れなければ、と。
逃げる方向は地球の方でも良かった、何も考えてはいない旅路で行き先も無かったのだから。
もしもあの時、太陽の方に向かっていたら。地球の方へと向かっていたなら…。
(前のぼくたち、地球に着けた…?)
船に積まれていた食料が尽きて、飢え死にするよりも前に地球へと。
青い水の星ではなかったけれども、それが地球だと気付かなかったかもしれないけれど。
それとも、地球に辿り着く前に。
(グランド・マザーに…)
わけも分からないままに殺されたろうか、あの船をまだシャングリラと名付けない内に。船での暮らしがそこまで豊かにならない間に、撃墜されていたのだろうか。
許可も得ないで地球へ向かう船だと、これは怪しいと見咎められて。
一方的に通信を入れられ、警告をされて、ミュウの船だと判断されて。
(多分、そう…)
撃墜されてしまっただろう、地球を守るための警備部隊はあっただろうから。
前の自分たちでは辿り着けなかった、きっと地球へは。青くない地球でも、死の星であっても。
それを思えば、地球からは逆の方へと旅立った進路で良かったのだと思うけれども。
すぐ側にあったジュピターの正体を見抜けなかったことも、幸いだったと思うけれども。
(今は常識…)
かつてアルタミラがあったガニメデ、消えてしまったガリレオ衛星。
それはジュピターの衛星だった、と。
ミュウの歴史はソル太陽系から始まったのだと、ジュピターから旅が始まったと。
新聞記事には、そこまでは書かれていないけれど。
ガリレオの功績を語る記事だし、ガニメデのその後は何も書かれていないけれども。
新聞を閉じて、紅茶の残りをコクリと飲んで。
キッチンの母に空いたお皿やカップを返して、部屋に戻って。
勉強机の前に座って、頬杖をついた。ダイニングで読んだ新聞の記事と、前の自分たちと。
ガニメデは地球と全く同じに、ソル太陽系にあったのに。すぐそこに地球があったのに。
(長すぎた旅…)
前の自分たちの、地球までの旅路。いつか行こうと焦がれた地球。
その地球が同じ星系の中にあると気付かず、逆の方へと旅立ってしまった自分たち。地球からはどんどん遠ざかって行った、それと知らずに。まるで違った宇宙の彼方へ、別の星系へと。
けれどもそれがミュウを救った、お蔭で地球へと辿り着けた。
船を改造して白い鯨を完成させて、雲海の星に長く潜んでジョミーを見付けて。
前の自分は地球まで行けずに終わったけれども、シャングリラは地球に辿り着くことが出来た。
そうしてSD体制は終わり、ミュウの時代がやって来た。
シャングリラが地球まで辿り着いたから、新しい世代のミュウたちを乗せて行ったから。
ジョミーにトォニィ、ナスカの子たち。
長い旅の末に加わった仲間、彼らがSD体制を終わらせ、未来を拓いてくれたから。
(もし、真っ直ぐに地球に向かっていたら…)
逆の方へと旅立つ代わりに、地球の方へと向かっていたら。
自分だけは地球を見たかもしれない、ただ一人だけ生き残って。
乗っていた船が撃墜されても、前の自分ならばシールドを張って宇宙に浮かんでいそうだから。無残に砕けた船の残骸、その中を漂っていそうだから。
暗い宇宙に独り浮かんで、地球を見詰めていたかもしれない。
青くなかったと泣きじゃくりながら、それに仲間は誰もいなくなってしまったと。
タイプ・ブルーの自分だけしか、生き残ることは出来ないから。
(ハーレイだって…)
自分の側からいなくなっていた、あの時、地球へ向かっていたら。
撃墜された船と一緒に消えてしまっていた、ハーレイの命も皆と同じに。
あるいは偶然助けられたろうか、その瞬間に一緒にいたら。船が発見され、攻撃された時に同じ場所に二人でいたならば。
(まだハーレイはキャプテンじゃないし…)
恋人でもなくて、ただの友達。アルタミラから脱出する時、共に仲間を助けて回ったけれども、それが初めての出会いだったから。
前のハーレイの言葉を借りるなら「一番古い友達」になるし、友達ではあった。
アルタミラを出てから地球に着くまで、どのくらいかかったかは分からないけれど。
(ワープしてないなら…)
ジュピターから地球まではかなりかかった、親しくなるだけの時間は充分にあった。ハーレイは少年の姿だった自分を気遣ってくれたし、何かと面倒を見てくれたから。
前の自分の方が年上なのだと知った後にも、「でもチビだしな?」と優しく接してくれたから。
きっと二人で過ごす時間が多かったろう。食事の時にも、何か作業をしている時も。
だから…。
地球を前にして船が撃墜されたら、ハーレイと二人。
前の自分が咄嗟に張り巡らせたシールド、その中にハーレイも一緒にいたかもしれない。
(ぼくとハーレイと、二人っきり…)
仲間たちを亡くして、船も失くして。
暗い宇宙に放り出されて、どうしただろうか、前の自分は。
残骸と化した船の欠片と、青くなかった地球が世界の全てになったら。
(ぼく一人だったら…)
泣き暮れる内に殺されただろう、グランド・マザーに。
撃墜した船に生き残りがいないか、念入りに調べさせるだろうから。アルタミラで殲滅した筈のミュウが脱出して地球に向かったとなれば、徹底的に消そうとするだろうから。
そして自分も何もしないまま、力尽きてシールドが解けてしまって、殺されて終わり。
けれど、ハーレイと二人だったら。
ハーレイと二人で生き延びていたら…。
(…倒してたかも…)
なんとしてでも、グランド・マザーを。自分たちを殺そうとしている機械を。
ハーレイと二人、生き残るために。
グランド・マザーを倒さない限り生きられないなら、地球の地の底まで飛び込んで行って。
(でも、グランド・マザーを壊していたら…)
制御を失った地球は燃え上がり、結局、死んでいただろう。
脱出するための船も見付けられずに、ハーレイと二人。ジョミーとキースがそうなったように、地球の地の底に閉じ込められて。
それでも地球は蘇ったろう、今の青い地球があるように。
ミュウも自然と生まれて来たろう、ミュウの排除を命じる機械はもう無いのだから。SD体制も壊れていったのだろうし、きっと時代の流れは同じ。
今と同じにミュウの世界が、青い地球が出来ていただろう。
前の自分たちが長い回り道をしていない分だけ、きっと三百年ほど早めに。
死の星だった地球で何が起こったか、真実を知る者も無いままに。
リボーンの職員たちがいたユグドラシルは当時もあったと思うけれども、そんな施設に立ち寄る暇があったら、真っ直ぐに地下を目指したろうから。
ハーレイと二人、誰にも姿を見られることなく、地下に向かっていただろうから。
(そうなっていたら…)
グランド・マザーを倒した英雄ではあっても、誰も自分たちのことを知らない。
撃墜したミュウの船の生き残り、それだけのことしか分からない。
どんな姿をしたミュウだったか、何という名前だったのかも。ハーレイと二人だったことさえ、気付かれずに終わっていたかもしれない。
そんな自分たちでも二人で生まれ変われただろうか、こんな風に?
蘇った青い水の星の上に、前と全く同じ姿で生まれて再会出来ていたのだろうか…?
(恋人同士ってわけじゃないしね…)
ただの友達、親しい友達だったというだけのこと。
それとも恋人同士になったのだろうか、二人きりになってしまった後の短い間に。
地球で必死に戦う間に、グランド・マザーの許へと向かう間に。
どうなんだろう、と考えているとチャイムが鳴って。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けてみた。
自分が考えた「もしも」のこと。
アルタミラから真っ直ぐに地球に向かっていたなら、ハーレイと二人で生き残ったら、と。
「ぼく、絶対に頑張っていたと思うんだよ。ハーレイと生きていたいから」
殺されちゃったらおしまいだから、グランド・マザーを倒そうとしたよ、きっと。
倒しさえしたら何とかなる、って思っただろうし、その後のことなんか考えないで。
「なるほどなあ…。お前が行くと言うんだったら、俺も間違いなく付き合ったろうな」
どうせ一人じゃ生き残れないし、チビのお前が頑張ってるのに留守番をするというのもなあ…。
俺もお前と一緒に行ったな、足手まといにならないのならな。
「ハーレイだったら大丈夫だと思うよ、ぼくより丈夫だったもの。今と同じで」
走ったくらいで疲れたりしないし、グランド・マザーの所まで充分行けるよ。
それでね、ぼくがグランド・マザーと戦う間も、ハーレイはきっと大丈夫。
ジョミーが戦った時にキースは巻き添えになっていないし、ハーレイは応援しててくれれば…。
だけど、グランド・マザーを倒しちゃったら、ぼくたち、助からないんだよ。
ジョミーたちと同じで外に出られなくて、多分、崩れた岩の下敷き…。
「そうだろうなあ、トォニィだってジョミーを連れては出られなかったという話だし…」
お前だけなら逃げられたとしても、俺まで逃げるのは無理そうだな。
「ぼくが一人で逃げると思う? ハーレイと二人で生き残ったのに、ぼく一人だけで?」
そんなことはしないよ、ハーレイを置いて逃げるだなんて。
恋人同士じゃなくてもしないよ、友達だって置いては行かないよ…!
その友達…、とブルーはハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
「ハーレイとぼくは友達同士で生き残って、そして死んじゃうんだけど…」
グランド・マザーを壊したせいで地球が燃え上がって死んじゃうけれども、そういう風になっていたって、ハーレイと二人で生まれ変われたかな?
恋人同士じゃなくて、友達同士の二人でも。…今みたいに、青い地球に二人で。
もしかしたら恋人同士になれていたかな、っていう気もするけど、短い時間で恋人は無理…?
「ふうむ…。お前と二人で生き残ってだ、グランド・マザーを倒すまでの間にということか?」
「うん。やっぱり時間が足りなさすぎるし、恋人同士にはなれないかな…?」
休憩なんかはしていられないし、ゆっくり話も出来ないし…。
ハーレイとの友情が深くなるだけで、恋をしている暇はなさそうだよね…。
「いや、そうと決まったわけではないぞ」
恋人同士になってた可能性はあるな、俺とお前と、二人で必死に走るんだからな。
「…え?」
二人で走ると恋人同士って、なんなの、それは?
走ることと恋と、どう考えても繋がりそうにないんだけれど…?
「普通に走っていたんじゃ無理だな、必死というのが大事な所だ」
吊り橋効果ってヤツがあるのさ、恋をする時に。そいつじゃないかと思うわけだな、この場合。
お前のクラスではしてなかったか、と訊かれたハーレイが得意とする雑談。授業中に生徒たちが居眠らないよう、退屈しないで集中出来るよう、気分転換にと始める雑談。
それの一つが吊り橋効果で、揺れる吊り橋を二人で渡ると恋に落ちるというもので。
「吊り橋って…。どうして吊り橋で恋をしちゃうの?」
その吊り橋は何か特別な橋ってことはないよね、この吊り橋でないと駄目だとか…?
「うむ。どの吊り橋でもかまわんようだな、揺れさえすればな」
吊り橋は渡ると揺れるからなあ、精神的に緊張するわけだ。そいつを二人で共有するとだ、恋に落ちるという仕組みらしい。同じ怖い目に遭った者同士、心の距離が縮まるんだな。
「えっと…。それじゃ、ハーレイとぼくも、それだって言うの?」
ハーレイと二人で必死に走れば、吊り橋効果で恋をするわけ?
「まさに吊り橋状態だからな、グランド・マザーの所まで行こうと走るんならな」
吊り橋どころの騒ぎじゃないんだ、死ぬか生きるかっていう場面だろうが。
辿り着けなきゃ死んじまうわけだし、生きるためには走るしかない。
そうやって必死に走ってゆくなら、吊り橋以上に緊張してるし、元から友達同士なんだし…。
お前が転びかけたら俺が支えるとか、手を繋ぎ合って走ってゆくとか。
いつの間にやら友情から恋に変わっていたって、俺は少しも驚かないな。
たとえ短い時間であっても、お互いに恋に落ちていたかもしれない、と語るハーレイ。
二人で懸命に走る間に、と。
「グランド・マザーの所に駆け込む頃には、見事に恋人同士ってことだ。…お前がチビでも」
あの頃のお前は今と同じにチビの姿で、中身も子供だったわけだが…。
チビでも恋が出来るってことは、今のお前で証明済みだろ?
俺だってチビのお前に恋をしてるし、チビはチビなりの恋ってな。
グランド・マザーを倒した後には、とんでもない結末が待ってるんだが…。
俺もお前も、生き残るどころか、死んじまうしかないんだが…。
ちゃんと最後まで抱き締めていてやるさ、チビのお前を。俺の大事な恋人としてな。
「…恋人だって言ってくれるの?」
ぼくのこと、好きって言ってくれるの、恋人だったら。
「どうだかなあ…。そいつは状況次第ってヤツだ、お前の方に合わせるからな」
お前がどういう風に話すか、俺のことをどんな風に思っているか。
俺を好きだと思ってくれているなら、もちろん「好きだ」と告白するな。
もうすぐ命が尽きる時でも、お前と一緒に崩れて来た岩の下敷きになっちまう瞬間でもな。
「…それなら、ハーレイと二人で生まれ変われてた…?」
今のぼくたちみたいに生まれ変わって、また出会えたかな…?
最後の最後だけが恋人同士で、それまでは友達同士だったハーレイとぼくでも。
ほんの少しの間だけしか、恋人同士じゃなかったとしても。
「神様が評価して下さったならな」
よく頑張ったと、これが褒美だと、生まれ変わらせて下さったら。
前のお前が頑張ってたから、今の俺たちは青い地球に来られたみたいだしなあ…。
「…ハーレイと二人で死んじゃう方のぼく、前のぼくよりずっと偉いよ?」
グランド・マザーを倒しちゃうんだよ、メギドを沈めるだけじゃなくって。
それにハーレイだって偉いと思うよ、ぼくと二人でグランド・マザーを倒すんだから。
ハーレイは力を使ってないけど、ぼくと一緒にグランド・マザーの所まで走って行くんだし…。
ぼくがグランド・マザーを倒さなくちゃ、って決心するのもハーレイと二人だからだもの。
ハーレイが生き残ってくれていたから、ぼくは生き残る道を選ぶんだもの。
二人で一緒に生き残るために、グランド・マザーを倒すんだもの。
…それで失敗しちゃうんだけど…。グランド・マザーを倒しちゃったら、地球がメチャメチャになってしまうだなんて思っていなくて、結局、死んでしまうんだけど…。
ハーレイと二人で生き残る代わりに、二人一緒に死んじゃうんだけど…。
「グランド・マザーを倒すお前か…。確かに前のお前よりも遥かに上ってヤツだな」
前のお前はメギドを沈めてミュウの未来を守ったわけだが、グランド・マザーを倒すと来たか。
たった一人でSD体制をブチ壊すんだな、もう間違いなく前のお前以上の大英雄だ。
しかし、お前がやったってことが誰にも知られていないからな…。
ミュウの生き残りの仕業ってだけで、何処の誰かも分からない。名前も謎なら、姿も謎で。
誰もお前を褒めちゃくれない、記念墓地だって作っては貰えないわけで…。
いや、それでこそか。
誰も知らない英雄だからこそ、神様の評価も上がるってことか…。
「そういうものなの?」
有名になるより、そうじゃない方が神様はいいと思ってくれるの?
誰でも名前を知っているような前のぼくより、何処の誰かも分からないぼくの方が上なの?
「お前にそういうつもりがなくても、有名になって尊敬されてる英雄よりは、だ…」
神様の他には誰も知らない、うんとちっぽけなヤツが頑張った方がいいんだろうな。
王子様の像についてた宝石や金を剥がして、貧乏な人に運んでやってたツバメの童話があるのを知らないか?
王子様の像はすっかりみすぼらしくなって、ツバメも冬が来て死んじまった。みすぼらしい像は町に相応しくない、と捨てられちまうが、神様はちゃんと見ておられたんだ。王子様の像が沢山の人を救っていたのも、ツバメが死ぬまで手伝ったことも。
「えーっと…。天使が天国に運んで行くんだった?」
王子様の心臓と、死んだツバメと。町で一番尊いものを持って来なさい、って神様に言われて。
「おっ、知ってたか?」
そいつで合ってる、王子様もツバメも天国で幸せに暮らすんだろうが、最後はな。
自分を犠牲に多くの人を救っていたのに、誰にも気付かれないままで終わってしまった、王子の像と一羽のツバメと。それが「町で一番尊いもの」だと神は知っていた、天から見ていた。
広く知られた立派な功績も素晴らしいけれど、この童話のように誰も知らない、神の他には知る者のいない自分の身を捧げて世界に尽くした者たち。
神様はそういう人たちをより高く評価するものだ、とハーレイが大きく頷くから。
名前すら誰にも知られないままで、グランド・マザーを倒していたなら、前のブルーよりも高い評価になるのだろうと語るから。
あの時、ソル太陽系を出てはゆかずに、逆の方へと。地球のある方向へ向かったとしても、今の幸せはあるのだろうか。
ハーレイと二人、生まれ変わって、この地球の上で。
今と同じに恋人同士で、幸せな時を共に過ごせたろうか…?
「多分な」
神様は何もかも御存知なんだし、ちゃんと二人で生まれ変われたさ。
「ホント…?」
ハーレイと二人で、恋人同士で、また会えてた…?
「俺とお前の絆だからな」
きっとこうして青い地球の上にいたと思うぞ、生まれ変わって。今と全く同じようにな。
その方がお前は幸せだったか、前のお前が本当に生きた人生よりも…?
「なんで…?」
どうしてそっちが幸せになるの、うんと短い人生なのに…。
ハーレイと一緒にいられた時間もずっと短くて、恋人同士でいられた時間も少しだけなのに…。
「それはそうだが、最後まで俺と一緒にいられたわけだろう?」
グランド・マザーを倒した後には、俺と一緒に死んじまうんだぞ。
俺が最後まで抱き締めててやるし、お前は独りぼっちじゃないんだ。俺の温もりを失くしたりはせずに、最後まで俺と一緒だってな。
右手が冷たく凍える暇も無かったろうが、と言われたけれど。
ハーレイと二人きりで死の星だった地球を走ってゆくのも、幸せだったかもしれないけれど。
「…でも、シャングリラのみんな…」
ゼルもヒルマンも、ブラウも、エラも。
そっちの道だと誰もいないよ、地球に着く前に船は撃墜されるんだから。
ぼくとハーレイしか助からなくって、他の仲間は死んでしまって…。それは嫌だよ、同じ旅なら一緒がいいよ。
地球までの道がどんなに遠くても、ぼくだけが地球を見られずに死んでしまっても。
「そうだな、みんながいないんだよな…」
俺とお前は幸せになれても、他のヤツらがいないわけだな、真っ直ぐに地球に向かっていたら。
あの時、そっちに舵を切ってたら、シャングリラのヤツらと旅をすることは無かったんだな…。
白いシャングリラで共に旅した仲間たち。アルタミラを離れて皆で旅をした、広い宇宙を。
アルテメシアに辿り着いた後にも、長い長い時を共に過ごした、良き友として、仲間として。
だから回り道でも良かったのだろう、地球とは逆の方へ向かって旅立ったけれど。
真っ直ぐに地球の方へと向かって、結果が同じことであっても、グランド・マザーもSD体制も崩壊していたとしても。
「…みんなと一緒の旅がいいよね、ハーレイと二人きりになっちゃうよりも」
うんと回り道して、地球までの道が遠くなっても。
「ああ、そうだな」
みんなで旅をしてこそだよなあ、あのシャングリラで。
本当にとんだ回り道だったが、ソル太陽系から出発してって、また戻るという旅だったがな…。
名前も残らない英雄としてグランド・マザーを倒す代わりに、二人きりで地球を走る代わりに。
ソルジャーとキャプテンになって、船はシャングリラに、白い鯨へと姿を変えた。
そうして長い旅を続けて、前の自分は地球を見られずに終わったけれど。
ハーレイが一人で地球まで行ったけれども、きっとこちらの旅路が正しい。
楽園という名の船で旅して、三百年以上も仲間たちと同じ船で暮らして。
たとえ結果は同じであっても、自分の最期が幸せでも。
真っ直ぐに地球の方へと向かって、ハーレイの腕の中で最期を迎えたとしても、そんな旅より。
「ねえ、ハーレイ。やっぱり、みんな一緒の旅でないとね」
ゼルもヒルマンも、エラも、ブラウも。他のみんなも、あのシャングリラで。
「それでこそ今が幸せだからな、前の俺たちの旅の思い出が山ほどだってな」
お前との恋の思い出もそうだ、数え切れないほどあるだろうが。
地球でお前と二人きりの最期も悪くはないがだ、思い出がたっぷりある人生の方が味わい深い。
そういう時間を生きられたんだし、俺は後悔してないなあ…。
シャングリラで生まれた沢山の思い出、それがあるから。
三百年以上の思い出の数は、短い旅ではとても得られはしないから。
地球があったのとは逆の方向への旅立ちでいい。
ソル太陽系から、ジュピターの衛星だった星から遥か遠くへ旅立ったけれど。
間違いであってもきっと正しい、その旅路が。
ハーレイと二人、地球の地の底で命尽きるより、仲間たちと共に旅をした日々。
それがあったから、今が幸せなのだろう。
生まれ変わって来た青い地球の上で、遠い昔の思い出を二人、懐かしく語り合えるのだから…。
回り道だった旅・了
※実はガニメデの側にあったジュピター。近かった地球という存在。旅を始めた時点では。
逆の方へと向かっていたなら、全てが変わっていた可能性が。けれど、長かった旅が大切。
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「弘法筆を選ばず」。
ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。
筆っていうのはアレだよね、ってピンと来たけど。動物の毛とかで出来ているヤツで、書くには墨を使うもの。文字を書く筆はレトロだけれども、今もきちんと存在してる。
(前のぼくたちが生きてた頃には無かったけれど…)
絵を描くための筆はあっても、字を書く筆は何処にも無かった。そういう文化が無かったから。だけど今では復活している、筆で字を書くという文化。書道家なんて人だっている。
今の時代に筆と言ったら、絵筆ではなくて文字を書く方。「筆を選ばず」もそれだと思う。
(でも、弘法って…?)
なんのことだか分からない。筆の一種で「弘法筆」っていうのがあるんだろうか、とハーレイの字を眺めていたら、「どうだ、分かるか?」っていう声がして。
始まったハーレイお得意の雑談、居眠りそうな生徒もガバッと起きちゃう。面白かったり、他の学校の友達とかに披露したくなったり、そういう中身が詰まっているから。
「弘法筆を選ばず」は、SD体制が始まるよりもずっと昔の日本のことわざなんだって。弘法は偉いお坊さんのことで、死んじゃった後も弘法大師って呼ばれて大勢の信者さんがいたくらい。
そのお坊さんは字がとても上手で、三筆っていう字の上手い三人に数えられたほど。綺麗な字を書くには立派な筆が要るんじゃないか、って思っちゃうけど、そうじゃない。弘法大師ほどの人になったら、どんな筆でも上手に書いちゃう、立派な文字をスラスラと書く。
それが「弘法筆を選ばず」、名人は道具を選ばない。文字を書く人も、彫刻なんかをする人も。名人は何でも使いこなせる、安物の筆でも、くたびれちゃった筆でも。
名人だったら、同じ道具でも立派な文字やら、工芸品やらを仕上げるから。それでこその名人、本当に優れた腕を持つ人は、何を渡されても人並み以上の技を発揮するものだから。
自分の字とかが下手くそなことを、道具のせいにしちゃ駄目だ、って。もっと練習したら見事な字が書けるんだし、練習不足なだけなんだから、って。
クラスのみんなは目を輝かせて聞いていたけれど。
今日も楽しい話を聞けたと、勉強になったとノートに書く子もいたけれど。ぼくはノートに書くよりも前に、他の方に頭が行っちゃった。肝心要の弘法大師の方じゃなくって、筆の方。
(…ハーレイ、羽根ペン、使えてるかな?)
夏休みの終わりが其処に見えてた、まだ暑かった八月の二十八日。その日がハーレイの誕生日。
前のハーレイが愛用していた羽根ペン、今のハーレイは持っていなかったから。前のハーレイの記憶が戻って「欲しい気もする」とは言っていたけど、買うとは言っていなかったから。
誕生日に羽根ペンを贈ろうと思った、前のハーレイのと似た羽根ペンを。航宙日誌を書いていたような、白い羽根ペンをプレゼントしようと。
だけどお小遣いの一ヶ月分では無理だった羽根ペン、子供のぼくには高すぎた。それでも諦めることは出来なくて、悩んでいたら助け舟。ハーレイと二人で買うことになった、白い羽根ペンを。ぼくとハーレイ、二人のお金で。
(殆どハーレイが出したんだけど…)
それでも羽根ペンは無事に贈れた、ハーレイは白い羽根ペンを持っているんだけれど。
気になってしまった、ほんのちょっぴり。「弘法筆を選ばず」と聞いて。
ハーレイはあの羽根ペンでスラスラと書いているんだろうか?
羽根ペンの箱には色々なペン先が入っていたけど、どれを使っても楽々と書くのか、これ以外は駄目だというのがあるのか。
筆ならぬペン先を選んでいるのか、選ばないのか、気になってしまう。ハーレイの場合はどっちだろうかと、名人は選ばないんだけれど、と。
ハーレイの授業はまだ続いたから、その内に忘れてしまった、ぼく。授業の中身の方が大切。
学校を出る時もすっかり忘れていたんだけれども、家に帰って、庭に入ったら思い出した。前にこの庭で拾ったっけ、って。
ぼくの羽根ペン、鳩の羽根。見付けて拾った大きめの羽根、それを大切に持っていた。羽根ペン気取りで、ハーレイとお揃いになった気分で。
文字を書こうと頑張っていたら、折れちゃったけれど。力を入れすぎて折れてしまって、それでおしまい。泣く泣く屑籠に捨てるしかなくて、あれっきり手に入らないけれど。
羽根ペンだっけ、って考えた途端、頭に浮かんだハーレイの雑談。それから羽根ペン。
(ハーレイの羽根ペン…)
使えてるかどうか、やっぱり気になる。それまでのペンと全く同じに使えているのか、ペン先を選んでいるのかどうかも。
ダイニングでおやつを食べる間も、部屋に帰っても、ぼくの頭から消えない羽根ペン。白い羽根ペン、ハーレイと二人で買った誕生日プレゼント。
あの羽根ペンはどうなったのかな、と勉強机に頬杖をついて考えていたら、チャイムの音。
仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせで話せる時間が出来たから。早速訊こうと口を開いた、羽根ペンのこと。
「あのね…。ハーレイ、筆を選ぶ?」
「はあ?」
なんのことだ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。きっと雑談のことは忘れているから。
「今日の雑談だよ、ぼくのクラスの。…弘法筆を選ばず、って話してたでしょ?」
名人は道具を選ばない、って。筆でも、何でも。
「ああ、あれな。…あれがどうかしたか?」
「ハーレイはどうなのかな、と思ったから…。ハーレイの羽根ペン、どんな感じ?」
いろんなペン先がセットだったけど、どれでもスラスラ書けちゃうの?
それとも筆を選ぶみたいに、これでしか上手く書けないっていうのがあったりする?
「…そう来たか…。あの雑談で俺の羽根ペンを思い出したか、参ったな」
藪蛇だとは言わないが…。
「弘法筆を選ばず」と自分で喋ったからには、言い訳みたいになっちまうんだが…。
あの羽根ペンなあ…。
少し違うんだ、ってハーレイは困ったような笑顔になった。
ちゃんと書けるけど、何処か違うって。
「…どういう意味?」
何が違うの、ハーレイがそれまで使ってたペンと違う気がするの?
「いや、そうじゃなくて…。それまでのペンとは違っていたって当たり前だろ?」
なにしろ羽根ペンだ、ペンの軸が羽根で出来ている分、重さからして違うしな。頼りないくらい軽い気がしたし、使い勝手がまるで違った。それにインクもペンの中から出ては来ないし…。
慣れるまでに多少時間はかかるさ、それだけ違ったペンとなればな。
しかしだ、前の俺は羽根ペンを使ってたんだし、じきに慣れると思ってた。こいつが俺の愛用品だと、これで書くのが一番だと。
実際、今じゃ気に入っているし、あれで書くのが好きなんだが…。
どうも何処かが違うんだ。前の俺のと、前の俺が使っていた羽根ペンの書き心地と。
あれこれ試してみたんだが…、ってフウと溜息をついたハーレイ。
羽根ペンの箱にセットされてたペン先を色々と取り替えてみては、次々に試したらしいけど。
きっとどれかが手に馴染む筈だと書いてみたけれど、前のハーレイの羽根ペンとは違うって気がして、違和感が消えてくれないんだって。どれで書いても、いくら書いても。
「弘法筆を選ばず、って…。ハーレイ、自分で言ったんだよ?」
前のハーレイ、羽根ペンで書くのが得意だったと思うんだけど…。今は駄目なの、あれは違うと言うんだったら、ハーレイ、筆を選んでいるよね?
「だから、書けるとは言ってるだろうが」
字が書けないとは言っていないぞ、下手な字になるとも言ってない。
最初の間は慣れてないから、力加減が上手くいかなくて歪んじまった字だってあるが…。それは誰でも経験するだろ、よほどの名人ならばともかく。
俺はあの羽根ペンが悪いと言いはしないし、そのせいで字が下手になったと文句も言わん。俺の字は今も昔も同じで、羽根ペンで書こうが、それまでのペンを使って書こうが、変わらないぞ。
もう羽根ペンには慣れているから、字は書ける、って。
どのペン先をセットしたって、文字の太さや硬さが変わる程度で、ハーレイが書きたいと思った通りの字がスラスラと書けるらしいんだけど…。
「しかし何処かが違うんだよなあ…。前の俺のペンと」
あの羽根ペンとは違っているんだ、どのペン先をつけてみたって。
前のと全く同じにはならん、俺のじゃないって気がするんだよなあ…。前の俺と羽根ペンの長い付き合い、今の俺と今の羽根ペンとの付き合いとは比較にならないからな。
「書き心地が違うって言っていたよね、ペンそのものじゃなくってペン先だよね?」
字を書く時の感じだったら、ペン先が違うっていう意味だよね…?
前のハーレイが使ってた羽根ペンと今の羽根ペン、ペン先が違っているってこと…?
「どうやら、そういうことらしいな」
選んじゃいかんとは思うんだがなあ、「弘法筆を選ばず」だしな。
前の俺が使っていたペン先がいい、なんていうのは俺の我儘ってヤツなわけだし…。
だが…、とハーレイが教えてくれた話。ペン先についての、お得意の雑学。
前のぼくたちが生きてた時代も、今の時代も、ペン先はとても丈夫に出来ているけれど。ペンと一緒について来たものは、簡単に駄目にはならないけれど。
ずうっと昔は、ペン先といえば消耗品。すぐに潰れて買い替えるもの。ペンをよく使う人なんかだと纏め買いをしていたくらいに、ペン先の寿命は短かったみたい。
そういう時代に、自分好みの線が書けるよう、ペン先を工夫していた人たちがいた。ペンで絵を描く漫画家さんたち。同じペンでも、描きたい絵柄は人それぞれだし、その絵に似合ったペン先で描こうと、使い始める前にひと工夫。どうやっていたかは、人によって違う。
それに、ペン先についてる切れ込みの長さ。ほんのちょっぴり、人間の目では分からないほどの僅かな長さの違いで、書ける線が変わってしまったりもした。
字を書く人たちは全く気付かなかったらしいけど、絵を描く人たちは気が付いた。前と違うと、このペン先では前のような絵が描けないと。
それくらいに凄い、人間の手が持っている感覚。僅かな違いも見抜いてしまった、ペン先の方が違うのだと。自分の技術は前と全く変わらないのに、ペン先のせいで腕前を発揮出来ないと。
そういう話を聞いてしまったら、ハーレイのペン先が違うというのも分かる気がする。
「弘法筆を選ばず」だけれど、やっぱり筆も大切だよね、って。ハーレイの場合は筆と違って、ペン先ってことになるんだけれど。
そうしたら…。
「俺は選んでもいいと思うんだよなあ…。筆ってヤツを」
実際、選んでいたんだしな。弘法筆を選ばず、なんて言われているのに。
「え?」
誰が選んでたの、何の名人?
ハーレイが言ってた、ずっと昔の凄く有名な漫画家さんとか…?
「漫画家どころか、本家本元だ」
弘法大師だ、「弘法筆を選ばず」の弘法大師が筆を選んでいたって言うなあ…。
あの雑談にはオマケがあった。ハーレイが授業で話していなかっただけで。
実は本物の弘法大師は選ばないどころか、選んでた。筆というものを。
授業で聞いた、三筆って人。弘法大師が生きた時代の、字が上手だった三人の人。弘法大師と、嵯峨天皇と、橘逸勢っていう人たち。
その中の一人、嵯峨天皇に弘法大師が四本の筆を贈ったけれど。その時の言葉は、こうだった。この四本の筆を書体に合わせて使い分けて下さい、と。
書きたい文字に合わせて筆を変えろとアドバイス。ちゃんと記録に残ってる。
つまり、弘法大師も本当の所は筆を選んでいたってこと。「弘法筆を選ばず」どころか、反対に筆を選んでた。字の名人にだってアドバイスしてた、「筆を選んで下さいね」って。
「…じゃあ、あのことわざはどうなっちゃうの?」
弘法大師が筆を選んでいたなら、「弘法筆を選ばず」は間違いってことになるんだけれど…。
「史実とは違うってことになるなあ、記録にあるのは逆のことだからな」
しかし、ことわざは立派に出来ちまったんだし、後の時代の人たちはそっちの意味で使ったわけだし、頭から駄目だと言うことも出来ん。
これはなんとも難しいなあ、間違っています、と訂正しようにも「弘法筆を選ばず」と書かれた文章ってヤツは膨大な量があるからな。そいつを端から直していったら凄い手間だし、文章だって書いた人の持ち味が無くなっちまうし…。
放っておくしかないんだろうなあ、「弘法筆を選ばず」はな。
弘法大師がやっていたのとは逆のことわざが出来ちゃったらしい、「筆を選ばず」。一人歩きをしちゃった言葉。弘法大師は選んでいたのに、「弘法筆を選ばず」って。
弘法大師でも筆を選んでいたなら、ハーレイも筆を選んで良さそうだけど。筆じゃなくってペン先だけれど、ハーレイの手にしっくりと馴染むペン先を選べそうだけど…。
「ハーレイ、あの羽根ペンにセットしてあったペン先が違うと言うんだったら…」
前のハーレイのペン先は無いの、前のハーレイが使っていたヤツ。
「…前の俺?」
あれか、キャプテン・ハーレイが使っていたペン先のことか?
「うん。あれの復刻版とかは?」
それを買ったらピッタリじゃないの、同じペン先なんだから。復刻版なら、きっと同じに作ってあると思うよ、それこそ切れ込みの長さまで。うんとこだわって、本物そっくり。
ちょっと高いかもしれないけれども、買ってみる価値はあると思うな。
「おいおい、そんなのがあると思うのか?」
キャプテン・ハーレイ愛用のペン先なんかが、売られていると思っているのか?
あるとしたらだ、少々値段が高くなろうが、羽根ペンとセットで売りそうだがな…?
羽根ペンの売り場でそいつを見たか、って訊かれたら…。
ハーレイに羽根ペンを贈ろうと思って出掛けた時には見ていない。もしもあったなら、そっちにしたくてショーケースの中を見詰めていたに違いないから。
ぼくの予算より遥かに高くて手が出なくっても、「これがハーレイの羽根ペンなんだ」って。
「…そういえば、売り場では見なかったけど…」
キャプテン・ハーレイと言えば羽根ペンなんだ、って凄く有名な話だよ?
航宙日誌は羽根ペンで書かれていたって話も有名なんだし、ハーレイの羽根ペン、復刻版とかがありそうだけど…。売り場に並べるほどじゃなくても、取り寄せとかで。
「生憎とそいつは存在しないな、俺はとっくに調べたってな」
羽根ペンが欲しい気分になってきた時に、そいつを一番に探したんだ。
どうせ買うならキャプテン・ハーレイの羽根ペンがいいだろ、高くついても前の俺のをそっくり再現してあるヤツが。しかし何処にも無かったってな、キャプテン・ハーレイの羽根ペンはな。
「…なんで無いわけ?」
シャングリラの食器の復刻版とかは売られてるんだよ、ソルジャー専用のヤツ以外のも。食堂で普段に使っていたのも、ちゃんと復刻版が売られているのに…。
「分かっているのか、俺の羽根ペンだぞ?」
正確に言えば前の俺だが、俺が使っていた羽根ペンなんだぞ、そこを冷静に考えてみろよ?
ソルジャー・ブルーやジョミーたちとは全く違うぞ、人気の高さというヤツがな。
何処にニーズがあると言うんだ、って苦笑された。
ただでもレトロな文具の羽根ペン、そういったものが好きな人しか買わないアイテム。その上、キャプテン・ハーレイの羽根ペンの復刻版だと、ハードルが二重に高いって。
「俺ですら、羽根ペンを買うかどうかで躊躇ったんだぞ」
キャプテン・ハーレイの生まれ変わりで同じ記憶を持っていてさえ、暫く悩んでいたってな。
高いし、買っても使いこなせる自信が無かったし…。
お前がプレゼントしたいと言ってくれなきゃ、未だに買わずにいたかもしれん。売り場を何度も覗きに行っては、もう少し考えてからにするかと回れ右してな。
「そうだったっけね…」
ハーレイでも買うまでに時間がかかったんだものね、普通の人だともっと悩むかも…。
キャプテン・ハーレイを好きな人がいても、羽根ペンは安くはないんだし…。
せっかく買っても持ち歩けるタイプのペンとは違うし、やっぱりハードル高そうかなあ…。
復刻版は出ていないらしい、キャプテン・ハーレイの白い羽根ペン。
実際、キャプテン・ハーレイ愛用の羽根ペンが飛ぶように売れるとは思えない。シャングリラの食堂の食器だったら実用的だけど、羽根ペンの方はそうじゃないから。
それに食器はシャングリラに乗った気分になれるし、あの船に乗ってた誰が好きでも、その人と一緒に食事な気分。ソルジャー専用の食器はあっても、ソルジャーが食堂の食器を使わなかったということはないし、前のぼくもジョミーも使ってた。トォニィだって、きっと。
だけど、キャプテン・ハーレイの羽根ペンは違う。それを買ってもキャプテン・ハーレイにしか思いを馳せられはしなくて、しかも部屋に居る時のハーレイ限定、ブリッジじゃない。ハーレイはブリッジに羽根ペンを持っては行かなかったから。
キャプテン・ハーレイのファンが買うにも、羽根ペンはちょっぴり厳しそう。羽根ペンよりかはシャングリラの舵輪をあしらったレターセットだとか、そういう物が喜ばれそう。
でも…。
「ハーレイの羽根ペン、データは残っていないのかな?」
どんなペン先がついていたとか、そのペン先は何処で作ったものだったとか…。
「そいつは分からん」
俺もそこまでは調べていないし、どうなんだか…。前の俺の羽根ペン、歴史的な価値があるとも思えん代物だしなあ…。
「価値はどうだか知らないけれど…。トォニィは前のぼくたちの部屋を残していたよ?」
ハーレイとお揃いで持ってるシャングリラの写真集にも、前のハーレイの部屋が載ってるし…。あの部屋の机に羽根ペンがちゃんと置いてあるから、羽根ペンは最後まであったんだよ。
トォニィがシャングリラの解体を決めるまで、羽根ペンは残っていた筈だから…。キャプテンの部屋に置かれていたんだろうから、データ、あるかもしれないね。ペン先の分も。
「そうだな、シャングリラの資料を端から引っくり返せばな」
誰かが記録していたかもしれん、すっかり平和になった時代に。シャングリラの全てを記録しておこうと、あんなペン先に至るまでな。
「…データがあるなら、復刻版を作ってくれればいいのに…」
「そいつは些か難しそうだな、今に至るまで一度も作られていないんだからな」
さっきも言ったろ、キャプテン・ハーレイの羽根ペンはハードルが二重に高いと。
商品を作るからには売れないと駄目だし、あまり売れそうにない羽根ペンではなあ…。
それにペン先は自分で工夫していたものだし、と言うハーレイ。
ずっと昔のことだけれども。
なのに全く工夫もしないで、自分に合ったペン先が欲しいと考える方が我儘だろう、って。
ハーレイに聞いた替えのペン先を纏め買いしていた時代もそうだし、その前の時代は…。
「羽根ペンって、鳥の羽根のままだったの?」
ペン先がくっついていたわけじゃなくって、羽根のままなの…?
「うむ。羽根の先を切って使っていたんだ」
そいつをインクに浸してやればだ、ストローと同じで羽根の空洞がインクを吸うし…。
中にインクが入っている間はスラスラと書ける仕組みだな。そう沢山は入ってくれないが。
羽根ペンの仕組み、ぼくの推理は当たってた。
庭で拾った鳩の羽根で気取ったぼくの羽根ペン、あれを使っていた頃の推理。
羽根ペンの始まりは鳥の羽根をそのまま使うんだろうと、先っぽを切って書いたんだろうと。
そう思ったから、鳩の羽根でも充分に羽根ペン、ぼく専用だと大事にしてた。先っぽを切ったら失敗した時にもったいないから、切らずに書いていたけれど。尖った羽根の先でせっせと。
それでもポキリと折れてしまって、もう羽根ペンは無いんだけれど。
本物の羽根ペンは、あの頃にぼくが考えた通り、羽根の先を切って書くものだった。切った先を丈夫にするために軽く焼いたりもした。
そういう時代が過ぎた後には、ペン先の時代がやって来た。今みたいに丈夫なペン先と違って、纏め買いしてた消耗品。ペンを使って絵を描く人たちがペン先に工夫をしていた時代。
羽根の先を切って書いてた時代も、消耗品だったペン先の時代も、使いやすいよう、人は色々と工夫を重ねて来たんだから。
羽根の切り口を軽く焼いたり、自分の好みの線が描けるようペン先を工夫してみたり…。
そんな時代が幾つも幾つも重なった後に、今のハーレイのペン先がある。前のハーレイが使ったペンとは違ったペン先、書き心地が違うらしいペン先。
「俺が思うに、今の俺のペン先も、時代に合ったヤツなんだろう」
時代に合わせて進化して来て、今の時代ならこれがピッタリのペン先ですよ、ということだな。
俺には違和感のあるペン先でも、他の人たちは何も思わん。
むしろ書きやすいと思うんじゃないか、このペン先は素晴らしいとな。
「そうなの?」
ハーレイにはピンと来ないヤツでも、他の人が使えば素敵なの?
どれも書き心地のいいヤツばかりで、もっと他のがいいなんてことは思いもしなくて。
「多分な」
そうでなければ、あのペン先がセットになってはいないだろう。
羽根ペンのセットを売り出す前には色々とデータを集めた筈だぞ、どんなペン先がいいのかを。
沢山の人にアンケートをしたり、実際に書いて試して貰ったり…。
そうやって発売された自信作なわけだな、あの羽根ペンとセットのペン先たちは。誰が書いても手に馴染むヤツで、書き心地も多分、最高だろうな。
俺の手が時代遅れなんだ、って笑ったハーレイ。
キャプテン・ハーレイの時代からもペン先は進化を重ねて、今の時代はあのペン先だ、って。
書き心地もきっと今風なんだ、って、最先端だ、っておどけるけれど。キャプテン・ハーレイも驚く最新の羽根ペンなんだ、って笑っているけど、ハーレイは少し寂しそうで。
時代遅れだと笑う瞳の奥にちょっぴり、昔を懐かしむ光があって。
それがハーレイの本心なんだ、って分かるから。
本当は前のハーレイと同じペンが欲しくて、それで書きたいんだと思うから…。
「ハーレイの羽根ペンの復刻版、出して貰えないかな?」
何処かの会社が作らないかな、キャプテン・ハーレイの白い羽根ペン。
「ニーズが無いって言ってるだろうが、この俺が」
キャプテン・ハーレイだった俺が言うんだ、ニーズが無いと。発売したって、まず売れないな。
だがなあ…。
出しちまった、ってハーレイが浮かべた苦笑い。
何の話かと思ったんだけど、羽根ペンの会社にお願いの手紙。今のハーレイの羽根ペンを作った会社に手紙を書いて出したんだって。
「キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版を出して貰えませんか」って。
同じ羽根ペン愛好家として、あの時代と同じペン先で書いてみたいと、それが夢です、と書いた手紙を郵便ポストに入れたと言うから。
発売されたら必ず買います、と羽根ペンで書いて出したと言うから。
「…出るかな、それ?」
ちゃんと発売して貰えるかな、キャプテン・ハーレイのと同じペン先。
データがあったら作れそうだし、ペン先だけなら羽根ペンほど高くはならないし…。羽根ペンが好きな人だって興味を持ちそう、どんな書き心地のペン先だろう、って。
「俺としては出て欲しいんだがな」
いろんなペン先を付け替えて使えるのが羽根ペンの良さだ、それこそ使い分けるんだな。書体に合わせるとか、自分の好みだとか…。「弘法筆を選ばず」の逆で、弘法大師のアドバイス通り。
そういう使い方を楽しんでるのが羽根ペン愛好家というヤツだからな、キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版でも飛び付きそうではあるんだ、うん。
キャプテン・ハーレイのファンでなくても、SD体制の時代のペン先ってヤツを試したいとな。
「そっか…。それなら、ぼくも手紙、出すよ」
羽根ペンの会社の住所を教えて、ぼくも欲しいって手紙を書くから。
一人だけから手紙が来るより、二人目から来たら、会社の方でも売れそうだって考えそうだし。
「…チビの字でか?」
どう考えても、自分で羽根ペンを買えそうな大人の字じゃないんだが…。
説得力があると思うか、今のお前が書いた手紙に?
「うー…」
そうかも…。今のぼくが書いても「子供からか」って笑われちゃうかも、それでおしまいかも。
ちゃんと読んでは貰えなくって、商品開発の参考データにはならないかも…。
「弘法筆を選ばず」だけど。
名人だったら、どんな筆でも、どんなペンでも綺麗で立派な字を書くんだけど。
チビのぼくの字じゃ、何処から見たって子供の字。弘法大師のアドバイス通りに大人用のペンを使って書いても、羽根ペンを買えるお客様の字にはならないから。
パパの部屋からペンを持ち出しても、どう頑張っても、大人の字なんか書けないから。
「…今は無理だけど、大きくなったら何通も出すよ」
ちゃんと大きく育ったら。前のぼくと同じに大きくなったら、ぼくの字、大人の字になるから。
そしたら羽根ペンの会社に手紙を何通も書くよ、キャプテン・ハーレイのペン先と同じペン先を作って貰えませんか、って。
「お前も書いてくれるのか?」
羽根ペン、お前は使わないのに…。前のお前も使ってないのに。
「ハーレイのペン先、あると嬉しいでしょ?」
前のハーレイのと同じ書き心地のペン先、それがあったら。
最先端のペン先もいいかもしれないけれども、無理に慣れるより、時代遅れでも昔のペン先。
「まあな」
あのペン先にもう一度会えたら、俺は感動するだろうなあ…。
お前にまで手紙を出して貰って、復刻版がちゃんと発売されたら。俺の記憶に残った通りの書き心地のペン先、あれが帰って来てくれたらな。
お前が大きく育つよりも前に実現するかもしれないけどな、って言ってるハーレイ。
ペン先だけなら手間も開発費もそれほどじゃないし、って。
だけどニーズが無さそうなのがキャプテン・ハーレイの羽根ペンだから。
キャプテン・ハーレイのペン先だって、どう転ぶかは分からない。
ぼくが大きく育った頃にも出ていなかったら、まだハーレイが悲しそうだったら手紙を出そう。
ハーレイの羽根ペンを作った会社に、大人の字で。
「キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版をお願いします」って。
ぼくは羽根ペンは使わないけど、ハーレイの羽根ペンを借りて、頑張って書いて。
「弘法筆を選ばず」だけど。
ハーレイにはやっぱり、あのペン先で書いて欲しいから。
これが馴染むと、俺のペンだと、あの頃のままの書き心地を楽しんで欲しいから。
ハーレイの羽根ペン、白い羽根ペン。
前のハーレイが使っていたのと同じに、ペン先までがそっくり同じでいて欲しいから。
だって、ハーレイの大好きなペン。
ハーレイには白い羽根ペンが似合うし、そう思って贈ったんだから。
いつか出て欲しい、復刻版。
キャプテン・ハーレイと同じペン先、それが出るまで、お願いの手紙を書き続けなくちゃ。
何度も、何度も、ハーレイのために手紙を書こう。
大好きなハーレイの嬉しそうな顔を見たいから。
幸せそうに羽根ペンを使う姿を、ハーレイの隣で見ていたいから…。
選びたいペン先・了
※今のハーレイがブルーに貰った、白い羽根ペン。見た目は、前のハーレイのと全く同じ。
けれど書き心地が違うらしいのです。前のハーレイのペンの復刻版、出て欲しいですよね。
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