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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 大好きなお風呂。ブルーはお風呂が好きでたまらない。
 体調を崩してしまった時でも、熱が無ければ入ろうとするほどのお風呂好き。バスタブに入ってゆったり浸かって、寛ぎの時間。
 今夜もゆっくりと身体を温め、心地良いバスタイムを楽しんだ後で、バスタオルをふわりと。
(ふふっ、幸せ…)
 お日様の匂いのバスタオルが。
 今日は朝から良く晴れた一日だったから。母がバスタオルも外に干して乾かしたのだろう、陽の光をたっぷり吸い込むように。ふわふわのタオルになるように。
 機械でも充分乾かせるけれど、仕上がり具合は同じだけれど。
 陽に当てたタオルはやっぱり違う。機械では出せない太陽の匂い、陽の光を吸うから漂う匂い。
 ふわふわのフカフカに乾いたタオルは肌に気持ち良く、鼻でも感じる幸せの香り。
 こういうタオルに出会えた時には、特に幸せになるけれど。いつも以上に幸せなお風呂上がりになるのだけれども、今日の幸せはもっと大きくて。
 心の底から湧き上がる喜び、なんて幸せなのだろうかと。
 ふわふわのタオルだと、ふかふかのタオルだと跳ねている心。弾んだ心。
 バスタオルを羽織っただけだというのに。お日様の匂いの大きなタオルを一枚羽織って、水気を拭おうとしただけなのに。



(…なんで?)
 何故そんな風に思ったのか。特別な気持ちになったのか。たった一枚のバスタオルで。
 不思議でたまらない、お風呂上がり。
 お日様の匂いのバスタオルならば、天気のいい日には必ず出会えるものなのに。母が出掛けたりしない限りは、ほぼ間違いなく出会えるのに。
(どうして今日は特別なの?)
 身体を丁寧に拭いてみたけれど、分からない。ふかふかのタオルが水気を吸うだけ、濡れた肌が乾いてサッパリするだけ。お湯の温もりを残したままで。バスタブで身体を隅々まで包んだ、熱いお湯の名残を留めたままで。
 拭き終わったバスタオルを専用の籠へと放り込む前に、顔だけを埋めてみたけれど。
 何か分かるかとパジャマ姿でバスタオルに顔を埋めたけれども、掴めない理由。幸せの理由。
 バスタオルは水気を吸ってしまって、もうフカフカではなかったから。
 ふわふわの幸せも、お日様の匂いも、何処かへ消えてしまったから。
 仕方ないから、湿ったバスタオルに別れを告げた。専用の籠へと放り込んで。



 温まった身体で部屋に戻って、腰を下ろしたベッドの端。
 パジャマだけでも寒くはないから、そのまま其処で考え事。お風呂上がりからの考え事の続き。
(バスタオル…)
 どうしようもなく幸せだった。バスタオルを肩に羽織っただけで。
 ふかふかのタオルが濡れた身体を包み込んだだけで。
(それはいつもと変わらないのに…)
 お日様の匂いのバスタオルが気持ちいいのは、普段と同じ。幸せだけれど、当たり前のこと。
 幸せなのだと感じるけれども、ふわふわでお日様の匂いだから。太陽の光を浴びたバスタオルで昼間の幸せが蘇るから。今日は天気のいい日だったと、こんな幸せな出来事があった、と。
 けれども今日は違っていた。いつもの幸せとは違っていた。
 もっと大きな幸福感。満ち足りた気持ちとは少し違って、身体中に幸せが広がった。
 ふかふかのタオルだと、ふわふわのバスタオルに包まれたと。
 自分にとっては当たり前の小さな幸せなのに。湯気を立てているホットミルクやココアを喉へと落とし込む時、ホッとするのと変わらない程度の小さな小さな幸せなのに。
 なのに特別に思えた幸せ、心が弾んだほどの幸せ。
 では、あの気持ちは…。



(…ぼくじゃない?)
 今の自分とは違う自分が連れて来たろうか、あの幸せを?
 たった一枚のバスタオルだけで、太陽の匂いのバスタオルだけで。
(今のぼくとは違うとしたら…)
 それならば分かる。前の自分の記憶が心を掠めたのなら、違う幸せにも出会うだろう。
 前の自分は、今の自分とは全く違った人生を生きていたのだから。
 違う人生ならば幸せの記憶もまるで違うし、同じバスタオルでも見る目が異なる。
(シャングリラにはお日様、無かったしね…)
 白い鯨の公園などを照らした光は人工のもので、洗濯物など干してはいない。乾かしていない。
 そのせいで幸せだと思っただろうか、地球の太陽の光の匂いがするタオルだと。
(…そうなのかな?)
 前の自分も太陽の光は知っていたから。白い鯨の外に出た時は、アルテメシアの太陽の日射しを浴びていたから、それが幸せの記憶なのかと考えた。
 前の自分は眺めるだけしか出来なかった太陽、洗濯物を乾かすことなど出来なかった光。
 きっとそうだと、そういう記憶が幸せを運んで来たのだろうと、遡ってみた前の自分の記憶。
 太陽の記憶は何だったろうかと、バスタオルの幸せと繋がらないかと手繰り寄せていて…。



(アルタミラ…!)
 それだ、と気付いた幸せの意味。バスタオルで感じた幸福の理由。
 アルテメシアの太陽の記憶では無かった、あの幸せを連れて来たものは。バスタオルに包まれて幸福感を覚えたことの引き金、それは前の自分の辛く惨めな時代の記憶。
(…あの頃は何も無かったんだよ…)
 狭い檻と幾つもの実験室。檻から引き出されて歩いた通路といったものしか無かった時代。
 自分の意志では何も出来なくて、持ち物さえも何も無かった。自由に使えるものなどは無くて、心も身体も成長を止めた。
 自分では意識しなかったけれど、育っても未来がありはしないから。何処までゆこうが檻の中が全て、其処から自由に外に出られはしないから。
(バスタオルなんて…)
 何処にも無かった、ただの一枚も。
 お日様の匂いのタオルどころか、くたびれて湿ったバスタオルさえも貰えなかった。そういった物は不要だったから。実験動物にお風呂など要りはしなくて、バスタオルも同じ。
 実験や日々の暮らしで汚れてしまった身体は洗浄用の部屋で洗われた。四方八方から吹き付ける水で洗われ、それが終われば乾燥用の風が壁から吹き出した。
 実験で傷ついた身体が、肌がひび割れようとも、実験動物は乾かされるだけ。
 柔らかいタオルを貰えはしなくて、自分の身体を拭くことも出来ずに乾かされていた。どんなに痛くて転げ回ろうが、悲鳴を上げて蹲ろうが、乾燥用の風は止まらなかった。
 実験動物に優しくしてやる必要は無いと、バスタオルも風呂も、何もかも要りはしないのだと。



 あまりにも惨い時間を、日々を長く過ごしたから、研究所の檻で生きていたから。
 アルタミラから脱出した直後に浴びたシャワーが嬉しかった。燃え上がり崩れゆく星を走る内に汚れてしまった身体を清めてくれたシャワーが、冷水ではなくて熱かった湯が。
 それにシャワーを浴びに行く時、「ほら」と渡されたバスタオルも。
 ハーレイが貰って来てくれたバスタオル。ふわりと乾いていたタオル。
 「要るだろ」と褐色の手が差し出した。
 シャワーを浴びるならタオルが無いと、と大きなバスタオルを渡された。これを使えと。
(あの時のタオル…)
 成人検査を受けるよりも前の記憶は全て失くしてしまったけれど。
 シャワーを浴びたり、バスタブに浸かったり、そうした記憶も微塵も残っていなかったけれど。
 辛うじて覚えていた使い方。シャワーも、ふかふかのバスタオルも。
 熱いお湯で身体中の埃を洗い流して、サッパリした後にくるまったタオル。ふかふかのタオル。乾燥用の風とは違って、身体を優しく包み込んだタオル。何の痛みも感じさせずに、ただ心地良さだけを与えてくれた。肌に残った水気を吸い取り、乾かしてくれた。
 その時に感じた幸福感。ふかふかの手触りが幸せだったバスタオル。
 実験動物から人になれたと、バスタオルを使える人間の世界に戻れたのだ、と。



 後にシャングリラと名を変えた船に乗り込んでからは、当たり前に使えたバスタオル。
 シャワーを浴びに行きたい時には一枚、いつでも自由に使って良かった。様々なものを洗濯する役目を選んだ者たちが、毎日洗ってくれていたから。洗って乾かし、所定の場所に置いたから。
 そこから一枚、好きに取ってはシャワーを浴びに出掛けていた。
 人間だからこそ出来た贅沢、シャワーも、それに乾かすための大きなバスタオルも。
 最初の間は船に備え付けられていたバスタオルを使っていたのだけれども、人類の船から物資を奪うようになると、バスタオルの質はぐんと上がった。専用に運ぶ輸送船から失敬したから。同じ奪うなら上質なものをと、高級品を狙ったから。
 そうして良いものを使っていたから、白い鯨が出来上がった後も。
(タオルはふかふか…)
 青の間のタオルも、仲間たちが使ったバスタオルも。
 肌触りの良いタオルに慣れたら手放せないから、作る者たちも妥協しないで本物を目指した。自給自足の船の中でも良いものは出来ると、作り出せると。



(うん、本当にふかふかだったよ…)
 アルタミラから脱出した直後に使ったバスタオルも、白いシャングリラのバスタオルも。
 乾いた空気をたっぷりと含んでふかふかしていた、お日様の匂いはしなかったけれど。船の中に本物の太陽は無いから、日射しは存在しなかったから。
(だけど、ふかふか…)
 幸せだった、と思い出したから。あのバスタオルが幸せな日々だったのだ、と気付いたから。
 明日、ハーレイに話してみようと思った。自分が見付けた幸せのことを、記憶の彼方から届いたバスタオルの幸せのことを。
 明日は土曜日だから、ハーレイが訪ねて来てくれる日だから、バスタオルのことを。
 忘れないよう、メモを取り出して「バスタオル」と書き、勉強机の真ん中に置いた。こうすれば朝には気が付くだろうし、忘れていても思い出せるから。



 翌朝、目覚めてメモを目にして。
(バスタオルだっけね)
 もう忘れない、と顔を洗いに行ったら、其処でもタオル。ふかふかの感触、お日様の匂いがするタオル。一度戻った記憶は鮮やかで、そのタオルも昨夜の幸福感を届けてくれた。
 ふかふかのタオルは幸せなのだと、こうしたタオルを使える幸せな日々を自分は手に入れたと。
 顔を拭いて、それから朝食を食べて。部屋の掃除を終えて待つ内に、鳴らされたチャイム。待ち人が部屋にやって来たから、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったから。
 母が置いて行ってくれたお茶を飲みながら、早速、タオルの話を始めた。
「ねえ、タオルって幸せだよね。…バスタオルとか」
「はあ?」
 意味が掴めていないハーレイ。怪訝そうな顔をしているハーレイ。
 それはそうだろう、いきなりタオルの話では。しかも「幸せ」などと言われたのでは。
 だから慌てて続きを話した。「アルタミラの後」と。
 初めてシャワーを浴びに行く時、ハーレイにタオルを貰ったよ、と。
 バスタオルを「ほら」と渡してくれたと、「要るだろ」と持って来てくれたと。



「ああ、あれな。…お前、ボーッとしていたからな」
 シャワーの順番、もうすぐだぞ、と言ってやってもボーッとしてて…。
 どうすりゃいいのか分からない、って顔をしてたから、バスタオルを貰いに行って来たんだ。
「そうだった…?」
 覚えていないよ、シャワーがとっても嬉しかったことは覚えているけど…。
 ハーレイがバスタオルをくれたってことも、ちゃんと覚えているんだけれど。
「そのシャワー。…バスタオルもだが、使い方から教えなくちゃいかんのかと思ったぞ、俺は」
 何もかもすっかり忘れちまって、シャワーの浴び方も分からないかと…。
 バスタオルの意味も分かってないかと、一瞬、本気で心配したな。
「いくらなんでも、そこまでは…。ううん、ちょっぴり危なかったかも」
 シャワーの使い方、絵で書いてあったから分かったけれど…。あれが無かったら、お湯と水との切り替えなんかは気が付かなくって、頭から水を浴びていたかも…。うんと冷たいのを。
 それで身体が凍えちゃっても、お湯にすればいいって知らずに最後まで浴びて。
 バスタオルだって、身体を拭く代わりにくるまって震えていたかも、そういう使い方だ、って。
 シャワーを浴びたら寒くなるから、暖かくなるように羽織るんだ、って。
「お前なあ…。やはり危険はあったわけだな、あの時のシャワー」
 ボーッとしていただけじゃないんだな、半分、分かっていなかったんだな。
 シャワーって言葉を覚えてはいても、記憶は曖昧になっていた、と。
 その日の気分で熱い湯にしたり、冷たい水でスッキリしたりといった部分は忘れてたのか…。



 記憶が危うくなっていたなら付き添ってやれば良かったな、とハーレイはフウと溜息をついて。
「…それで、バスタオルだかタオルだかの何処が幸せだと言うんだ、お前は?」
 使い方を間違えそうだったらしいが、どの辺が幸せに繋がるんだ…?
「そっちは今のぼくとも繋がっているんだよ。ふかふかのをいつでも使えるもの」
 お日様の匂いがしているタオルとか、バスタオル。ふかふかのフワフワのタオルのこと。
 前のぼくもタオルを使う時には幸せな気分がしたけれど…。
 今のぼくだと当たり前になってしまっているよね、ほんのちょっぴりだけの幸せ。バスタオルの使い方も危なかったような前のぼくだと、もっと幸せだったのに…。
 お日様の匂いのバスタオルだったら、幸せどころか感激だろうと思うんだけど…。
「なるほどなあ…。それがタオルの幸せってヤツか、やっと分かった」
 お前、青の間でも言っていたしな。ふかふかだ、って。
「やっぱり話していたんだね、ぼく。…前のぼくのタオルの幸せのこと」
「毎日ってわけではなかったがな」
 たまに思い出したように話していたなあ、こういうタオルが使える毎日は幸せだ、とな。
 そういや、前のお前のタオルの幸せ。
 バスタオルだとかタオルだけじゃなくて、もっと他にもあったっけなあ…。



 ふかふかになったタオルの幸せ。それを使える日々の幸せ。
 前のブルーはバスタオルやタオルの他にも幸せを感じていた、と言われたけれど。
 それが何なのか、どういったものでタオルの幸せを噛み締めていたのか、考えてみても欠片さえ思い出せなくて。何処にタオルの幸せがあったか、手掛かりさえも見付からなくて。
「…ハーレイ、それって何処にあったの? 前のぼくが言ってたタオルの幸せ」
 バスタオルとかタオルじゃないなら、何処からタオルの幸せになるの…?
「ん…? タオルそのものではなくてだな…。タオル地ってヤツだ、バスローブだ」
 あれはタオル地で出来ていただろ、風呂上がりにしか着ないわけだが。
「あったね、そういうバスローブ…。お風呂上がりにしか使わないから、贅沢だって?」
 そう言ったのかな、前のぼく。こんなに贅沢な使い方をしているタオルだよ、って。
 お風呂上がりにしか着られない服を作れる生活が出来るんだよ、って。
「いや、そうじゃなくて…。お前が幸せを感じていたのは俺のバスローブだ」
「ハーレイの…?」
 普通のより多めに生地が要るからかな、ハーレイのためのバスローブだと。
 うんと贅沢に作れる時代になったんだ、って眺めていたかな、前のぼくって…?



「うーむ…。その様子だと、お前、忘れたんだな。せっせと運んでくれていたのに」
「え…?」
 何のことかとブルーは首を傾げたけれど。思い出せないタオルの幸せ、ハーレイのバスローブを運んだ自分。何処から何処へと運んでいたのか、何故バスローブを運んだのか。
 まるで全く記憶には無くて、「どういう意味?」と尋ねてみたら。
「そのままの意味だ、前のお前がやっていたんだ。…流石にアレは隠しておけないからな」
 瞬間移動で運んでくれたぞ、俺の部屋から。戻す時にも瞬間移動で。
 忘れちまったか、俺のバスローブをお前が運んでいたことを?
「ああ…!」
 分かった、とブルーの脳裏に蘇った記憶。
 確かに自分が運んでいた。前の自分が瞬間移動で、タオル地のハーレイのバスローブを。



 白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイと秘密の恋人同士だった頃。
 毎夜のように青の間に泊まっていたハーレイ。ブルーのベッドで眠ったハーレイ。
 朝まで青の間で過ごすからには、シャワーも浴びるし、バスタブにも浸かる。そうなってくると必要だったバスローブ。風呂上がりにだけ纏う、タオル地で出来たバスローブ。
 バスタオルやタオルはハーレイが使っても誤魔化せたけれど。ブルーが多めに使ったらしい、と部屋付きの係は納得して洗濯しに行ったけれど。
 バスローブの方はそうはいかない。数は誤魔化せてもサイズという壁が立ちはだかった。
「ハーレイのバスローブ、大きかったものね…」
「そういうこった。お前のを借りて着るってわけにはいかなかったんだ」
 俺の身体には小さすぎるし、どうにもならん。
 丈は短めで済ませるにしても、肩幅からして違うヤツをだ、無理に着られはしないだろうが。
 大は小を兼ねるって言葉はあっても、逆の言葉は無いんだからな。



 ハーレイが青の間に泊まるからには、バスローブが欠かせないのだけれど。ブルーのサイズでは役に立たないし、ハーレイ用のものを纏うしかない。シャングリラで一番サイズの大きなハーレイ用のバスローブを。
 けれども、替えの下着などと同じで、ハーレイが青の間に持っては来られないバスローブ。船の中を持って歩けはしない。替えの下着やバスローブといった、明らかに泊まりのための荷物を。
 だからブルーが運んでいた。瞬間移動で、バレないように。誰にも見付からないように。
 ハーレイが泊まるための荷物を、大きなサイズのバスローブなどを。
「…忘れちゃってたよ、ハーレイのバスローブを運んでいたこと…」
 あれも一種のタオルだよね、とハーレイを見れば「うむ」と返って来た返事。
「それでだ、お前のタオルの幸せってヤツは、運んでいたって話じゃないぞ」
 お前が俺の部屋に泊まる時には、お前、俺のを使っていたろう。
 大きすぎると、袖は余るし丈も長すぎると言ってはいたがだ、自分のは持って来ないんだ。
 俺のヤツがいいと、これを着るんだと、いつもブカブカのを着て御機嫌だったぞ。
「そうだっけね…」
 そっちもすっかり忘れちゃっていたよ、ぼくがハーレイのを着てたってこと。
 とても大きなバスローブだよね、って思いながら借りていたのにね…。



 大きかったハーレイのバスローブ。袖丈は余ったし、着丈もブルーには長すぎたけれど。身幅も余っていたのだけれども、幸せだった、という記憶。
 ハーレイの身体の大きさを感じて、幸せに浸っていた記憶。
 あのバスローブをまた着てみたい。タオル地で出来た、ハーレイのためのバスローブを。
 だから…。
「ハーレイ、今もバスローブを使ってる?」
 お風呂上がりには着ていたりするの、バスローブを?
「まあな。直ぐにパジャマ、って気分じゃない日はバスローブだなあ…。しかし、お前は…」
 使っていそうにないなあ、チビだしな?
 バスローブなんぞは着る暇も無くて、風呂上がりは直ぐにパジャマだろうが。
「うん…。バスローブなんかは持っていないよ」
 でも、ハーレイが持っているなら、またハーレイのを着たいんだけど…。
 ぼくには大きすぎるバスローブ、今度も着させて欲しいんだけど…。



 着せてくれる? と小首を傾げたけれど。
 ハーレイは首を縦には振らずに、「駄目だ」とすげなく断った。
「駄目だな、結婚するまでは駄目だ」
 お前がどんなに頼み込もうが、強請っていようが、結婚するまで着せてはやれん。
「やっぱり…?」
 駄目なの、ハーレイのバスローブ?
 ぼくが育ってキス出来るようになっても、ハーレイの家へ行けるようになっても、バスローブは着せてくれないの…?
「当然だろうが。けじめだ、けじめ」
 何度も言っているだろうが、と額を指で弾かれた。
 バスローブを着るような状況を先走って作りはしないと、そういったことは結婚式を挙げるまで我慢しておけと。
 まずはプロポーズでそれから婚約、ブルーが待ち望む関係になれるのは結婚してから。
 何処へ行っても後ろめたい思いをせずに済むよう、正しい付き合いをしなくては、と。
「…前のぼくたちには、誰もなんにも言わなかったのに…」
 けじめなんて言葉はハーレイだって一度も言わなかったよ、ぼくは一度も言われていないよ。
「そもそも誰も知らなかっただろうが、前の俺たちの関係のことは」
 知られていなかったし、知らせるつもりも全く無かった。けじめも何もあるもんか。
 前のお前と結婚出来ると言うんだったら、俺もあれこれ考えて動いていただろうがな。



 しかし今度はそういうわけにはいかないのだから、と諭された。
 いつか結婚して共に暮らそうと思うからには、そこに至る道筋を外れないように。けして前後を間違えないよう、後ろめたい気持ちにならぬように、と。
 おまけに、今の互いの立場は教師と生徒。ブルーの守り役でもあるハーレイ。
 そういう関係の二人だからこそ、けじめが大切。正しく、と。
「親父にも厳しく言われてるんだ。俺の顔を見たら注意するんだ、親父はな」
 あんな小さい子に手を出しちゃいかんと、結婚するまで我慢しろと。
 いくら将来を誓ってはいても、それとこれとは別物だってな。
「…キスしてもいいよ?」
 ぼくはちっともかまわないから、キスしてくれてもいいんだけれど。
 ハーレイのお父さんに言い付けやしないし、ちゃんと一生、内緒にするから。
「キスも駄目だと何度も言ってる筈だがな?」
 前のお前と同じ背丈になるまでは駄目だと言った筈だが?
 タオルの幸せとやらを綺麗サッパリ忘れていたついでに、そっちも忘れてしまったか、お前…?



 絶対に駄目だ、と鳶色の瞳に睨まれた。キスも大きくなるまで駄目だと。
 キスさえも駄目では、いつになるやら見当もつかないハーレイのバスローブを借りられる日。
 ブルーの身体には大きすぎるそれを、借りて幸せに浸れる日。
 ガックリと項垂れたブルーだけれども、髪をクシャリと撫でられた。伸びて来た手に。
「そうしょげるな。前のお前もお気に入りだった、俺用のでっかいバスローブだが…」
 いつかお前と揃いで買えるさ、いつかはな。
「お揃い?」
「そうだ。お前、お揃いが大好きだろうが。バスローブも揃いにしようじゃないか」
 前の俺たちでは、そういうわけにはいかなかったが…。
 ある意味、揃いのバスローブではあったがな。シャングリラではバスローブのデザインは一種類だけで、誰でも同じのデザインだったし…。
 男用のと女用の違いは胸の刺繍の色だけだったろ?
 男用が水色で女用がピンクだったかなあ…。ミュウの紋章の形の刺繍。



 しかし今度は色々なデザインのを選べるぞ、と微笑まれた。
 サイズさえあれば気に入ったものをと、色も形も選び放題だと。
「…じゃあ、ぼくのとハーレイのと、両方のサイズがあるヤツを?」
 これがいいな、と思うのがあったら、サイズは色々あるんですか、って訊いてみるわけ?
「そうさ、楽しい買い物だろう?」
 お前がこれにするんだ、と思うのを選べばいい。まずは選んで、それから店員さんの出番だ。
 俺のとお前の、両方のサイズがあるかどうかを調べて貰って、あったら二人で買って帰ろう。
 お前の好みで選んじまって、俺にはまるで似合わなくても、俺はそいつにしておくから。
「うんっ! ハーレイと二人で買いに行くんだね」
 大丈夫だよ、ぼくの好みを押し付けたりはしないから。
 それよりハーレイが選ぶのがいいよ、自分に似合いそうなのを。ぼくがそっちに合わせる方。
 だって、ハーレイのを借りたいんだから。
 また借りて着ようと思ってるんだし、ハーレイに似合うのを選んで買おうよ、お店に出掛けて。
「ふうむ…。お前が借りて着たいと言うなら、そうなるか…」
 俺の好みで選んじまってもかまわないんだな、どうせお前は俺のを借りて着たがるんだから。
 …そうすると俺のは二着要るなあ、そのバスローブ。
 俺が着ようと思っているのに、お前が横から持って行くんだしな…?
 もっとも、脱がせりゃ済むわけなんだが、お前が俺のを着ていたとしても。
 ただなあ、それだと二人揃ってバスローブを着ている時間が無いしな…。
 やっぱり二着か、買う時には。…俺はすっかり忘れてそうだが、二着要るんだということを。



 いつかは揃いのバスローブ。それを二人で買いに出掛ける。
 だからそれまではけじめだな、と念を押されてしまったけれど。バスローブは貸してやらないと言われたけれど。
 アルタミラの檻で生きていた頃には、思いもよらなかった幸福すぎる未来だから。
 白いシャングリラでさえ、夢にも見なかった結婚生活だから。
 文句を言っては駄目だと思うし、膨れもしない。いつか必ず、そういう未来が来るのだから。
「ねえ、ハーレイ。今度はハーレイが泊まるための荷物、運ばなくてもいいんだね」
 今のぼくは瞬間移動も出来ないけれども、運べなくても大丈夫だよね?
「ああ、堂々と同じ家で暮らしているんだからな」
 荷物なんかを運ぶ必要は微塵も無いなあ、家の中で移動するだけだしな?
 二人一緒に暮らしてる家で、誰も文句を言いやしないさ、俺たちだけしかいないんだからな。



 そんな生活だから夜も長いぞ、とパチンと片目を瞑られた。
 土曜日は特に、と。いくら夜更かしをしてもいいのだから、と。
「…うん…」
 意味を考えて、頬が真っ赤に染まったけれど。耳まで赤いかもしれないけれど。
 今度は揃いのバスローブ。二人で選んだバスローブ。
 バスタオルをふわりと身体に巻き付ける時の幸せにしても、前の生より、もっと、きっと…。
 そう考えた心が零れていたのだろう。ハーレイがニヤリと笑みを浮かべた。
「うんうん、バスタオルの幸せだっけな。お前の幸せの記憶の始まり」
 なんなら風呂上がりには俺が拭いてやろうか、バスタオルで?
 そしてバスローブを着せてやる、と…。
 お前のその日の気分に合わせて、お前のサイズのや、俺用のヤツを。
「えーっと…。それってちょっぴり恥ずかしいかも…」
「恥ずかしい? チビのお前はそうかもしれんが…」
 結婚する頃には言わないんじゃないか、その台詞。
 なにしろ俺の嫁さんなんだし、大切に拭いてやるくらいはなあ…?



 前の俺たちならやってたろうが、と指摘されてみれば、そうだった。
 そんな日もあった、ハーレイがブルーの身体をバスタオルでくるんで拭いていた日も。
「いいな、そういう日が来るまでは、だ…。それまでは正しく、けじめだな」
 結婚した後にはけじめは要らんし、楽しみにしとけ。
 俺のバスローブを借りるってヤツも、俺にバスタオルで拭かれる方も。
「うん…」
 今は我慢するしかないんだね?
 ハーレイのバスローブを借りたくっても、結婚まで我慢。
 けじめだなんて言われちゃったら、貸してって頼んでも無駄みたいだしね…。



 「うむ」と大きく頷いたハーレイ。「けじめってヤツが大切なんだ」と。
 言い聞かされるとちょっぴり不満で、けれど、とびきり待ち遠しい。
 その日が来るのが、けじめとやらが要らなくなる日が。
 結婚したなら、ハーレイとお揃いのバスローブ。
 それを着せて貰う、その日の気分で自分のを着たり、ハーレイのを貸して貰ったり。
 お風呂上がりにバスタオルで優しく拭いて貰って、「また後でな」とハーレイはバスルームへ。
 そしてハーレイがバスローブ姿で戻って来たら。
 温まった身体をバスローブに包んで、ブルーの所へやって来たなら。
 二人きりの甘くて長い夜が始まる、この地球の上で。
 生まれ変わって再び出会えた、青い地球の上にあるハーレイの家で…。




             タオルの幸せ・了

※ブルーがバスタオルから感じた幸せ。前の生でのアルタミラの記憶と、その後に得た自由。
 けれど、それだけではなかったのです。前のハーレイのバスローブ。さて、今度は…?
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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(あ…!)
 学校がいつもより早く終わった日の帰り道。バス停から家まで歩く道。
 まだ早い午後、昼下がりといった時間帯。秋の日射しは柔らかなもので、暖かな午後の帰り道。
 歩く途中でブルーが見付けた女の子。
 顔馴染みの夫婦が住む家の庭で昼寝をしていた。背もたれが倒せる籐の椅子で。子供の身体には大きすぎるほどの、それは寝心地が良さそうな椅子で。
 小さな身体の下にはクッション、膝の上には薄い上掛け。気持ち良さそうな昼寝の時間。



(お孫さんだっけ…)
 遠い地域に住んでいる子供。小さい頃から何度か見かけた。この家に遊びに来ている時に。
 会わない間に大きくなったよね、と生垣越しに覗き込んでみる。足を止めて。
 出会った頃のフィシスくらいの年なのだろうか、幼い金髪の女の子。
 前に会った時はもっと小さくて、自分の中にはフィシスの記憶も全く無かった。前の生の記憶は戻っていなくて、フィシスは歴史の中にいた人。
 それが今では事情が違う。昼寝している女の子の髪型がフィシスそっくりだと思ってしまう。
 白いシャングリラに連れて来た頃、フィシスの髪はこうだった。まだ床にまでは届いておらず、長い髪だったというだけのこと。
 だから見た目には特別ではなく、盲目だったということ以外は、ごくごく普通の女の子だった。占いをしたり、その身に地球を抱いていたりと、中身は特別だったけれども。



(んーと…)
 この女の子はフィシスではないという気がするけれど。
 フィシスだと感じはしないけれども、同じ髪型、同じ金髪。出会った頃のフィシスと同じ。
(ちょっぴり似てる…?)
 年恰好と髪型以外に共通点は何も無いのに、何故だか似ている気がするフィシス。遥かな記憶の彼方のフィシスを思い出させる、目の前の少女。
(なんで…?)
 どうしてだろう、と眺めていたら、金色の睫毛が微かに震えて、パチリと開いたその瞳。現れた綺麗な緑色の瞳。
 途端にフィシスはいなくなった。跡形もなく消えて、少女が残った。
「…ブルーお兄ちゃん?」
「あ、うん…。こんにちは」
 ぼくのこと、覚えていてくれた? と訊いたら、笑顔で頷いた少女。覚えてるわ、と。
 椅子から下りて生垣の側までやって来た少女と暫く話をしたけれど。
 少女の祖父母も出て来て見守ってくれていたけれど。



(やっぱり違う…)
 話せば話すほどに、フィシスとは違う。前の自分の記憶に残ったフィシスとは違う。
 似て見えたのは髪型だけ。少女が「それでね…」と無邪気にはしゃぐ度に揺れる、金の色をした長い髪だけ。切り揃えられた前髪と顔を縁取る金色の糸。それだけがフィシス。
 他は何もかも違っていた。顔立ちも違えば、中身も違った。
 幼かったフィシスとは話し方も違う、もちろん話の内容だって。占いの話は欠片さえも無くて、少女の心は今の満ち足りた日々で一杯で。
 友達の話や両親の話、祖父母の話と、くるくると変わる少女の話。相槌を打てば、フィシスとは違う笑顔が返って来る。まるで似ていない笑顔と顔立ち、髪型だけしか似ていない少女。
 何故似ていると思ったのか。
 フィシスに似ていると眺めていたのか、今となってはもう分からない。
 話せば話すほどに、フィシスとは違う。その姿さえもが、フィシスとはまるで違うのに…。



 どのくらい立ち話をしていたろうか。
 明日には自分の家に帰ると言った少女に「また会おうね」と手を振って別れて、家に帰って。
 着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間も、頭に残っていた少女。少しフィシスに似ていると感じてしまった少女。髪型だけしかフィシスと似てはいなかったのに。
(…でも、フィシス…)
 最初は確かに似ていると思った、何故か似ていると。それが不思議で眺めていた。
 おやつを食べ終えても気になる少女。フィシスとは全く違った少女。
 部屋に戻ってから、勉強机の前に座ってまた考えた。
 どうしてフィシスを連想したのかと、全くの別人だったのに、と。
 年恰好と髪型以外は似てはいなくて、それも分かっていた筈なのに、と。



 帰り道で少女を見付けた所から、順に記憶を並べてみて。
 どの辺りまでフィシスだと思っていたのか、それを掴もうと整理していて。
(そうだ、瞳…)
 緑色をしていた少女の瞳。澄んだ若葉の鮮やかな緑。
 あの瞳が開いた瞬間までは、フィシスに似ていると眺めていた。幼い少女の頃のフィシスに。
 閉じていた瞳がそう思わせた。眠っていた少女の閉じた瞳が。
 フィシスの瞳は開かなかったから。
 シャングリラに連れて来るよりも前も、シャングリラに連れて来た後も。
 ただの一度もフィシスの瞼は開きはしなくて、その下の瞳は現れなかった。そう、一度も。
 だから、あの少女が重なった。
 幼かったフィシスと同じ髪型、それに閉じていた瞳。
 開いた途端にフィシスの面影は消えてしまった、緑色の瞳を見た瞬間に。
 少女の顔を彩る二粒の宝石、フィシスの顔には無かった宝石。その欠片さえも無かった宝石。
 けれど…。



(青い瞳…)
 キースのそれに似た、青い瞳。薄い色の青、アイスブルー。
 一面に凍った湖の青だと、それがフィシスの瞳の色だと知ってはいた。気付いてはいた。
 フィシスの瞼は開かなかったけれど、瞼の下に眼球は確かに在ったから。
 あの水槽の中でフィシスが眠っていた頃から知っていた。
 どんな瞳かと覗いてみたから、サイオンで探って覗いたから。
 フィシスの瞳が開かないことに気付いて間もない頃に覗いた、その瞳を。
 視力は全く無かったけれど。
 何の役にも立たない瞳で、瞼が開いてくれないからには、飾りにすらもならなかったけども。
 閉じたままだったフィシスの瞳。
 瞼の下には青い色があると、アイスブルーの瞳なのだと見ることも叶わなかった宝石。
 フィシスの顔を彩りさえもしないで、瞼の下に眠っていた瞳。
 開く所を想像しさえもしなかった。開いたならばどうであろうかと思うことさえも。



(もしも、フィシスの瞳が開いていたら…)
 視力が無くても、瞳が開いていたのなら。
 さっき出会った少女さながらに、アイスブルーの宝石が二つ覗いていたなら。
(そういう人だっていたんだよね…)
 今の時代は医学が進んで治せるけれども、前の自分が生きた頃には盲目の者も少なくなかった。開いてはいても視力の無い目を持っていたケースも珍しくはなくて。
 ただの飾りに過ぎない瞳。用を成さない二つの宝石。
 フィシスの瞳がそれだったならば、シャングリラに連れて行っただろうか?
 サイオンを与え、ミュウにしてまで前の自分は攫ったろうか?
 手に入れたろうか、あの少女を。水槽の中に居た、あのフィシスを…?



(…ううん…)
 きっと連れては行かなかった。白いシャングリラには迎えなかった。
 いくらフィシスの地球に惹かれても、それを常に見たいと願っていても。
 攫うことなく、サイオンを与えることもなく、時が来たらフィシスと別れただろう。水槽の中のフィシスに別れを告げただろう。
 「君の地球を見るのは今日で終わりだよ」と、「今日まで見せてくれてありがとう」と。
 そうしてフィシスは水槽から出され、別の人生を歩んだだろう。
 貴重な実験のサンプルとして研究者たちに囲まれて暮らすか、あるいは他の人類と一緒の生活をさせられてデータを取られるか。
 いずれにしても、ミュウとは無関係な生。シャングリラなど知らず、サイオンも持たず、ただの人類として生きてゆく道。その人生にミュウの長などは要らないから。
(…最後に記憶を消してお別れ…)
 自分と会っていたフィシスの記憶を消してしまって別れただろう。「さようなら」と。
 あの瞳が開いていたならば。
 視力は無くとも、アイスブルーの瞳が輝いていたならば。



(何もかも見られているような気がするものね…)
 視力が無い分、その瞳は何処も見ていないから。焦点を結びはしないから。
 その分、瞳に映った全て。それを見通すような気がする、奥の奥まで。
 目に見える形に囚われない分、それが持つ本質といったものまで。
(…それにサイオン…)
 フィシスに与えたサイオンの力。ミュウだけが持っている特殊な能力。
 思念波での会話と基礎的な力、それらを分けて与えるだけではフィシスは自由に動けはしない。盲目だから。視力が無いから。
 目を閉じていても見ることが出来る能力、それを与えねばならないけれど。それが無ければ船の中でフィシスは困るだろうから、分け与えなければならないけれど。
 人類は本来、持たない能力。ある筈もない高度なサイオン能力。
 「見る」という力がフィシスの身体にどう作用するかは謎だった。単に見えるようになるというだけか、健康な身体を持っている分、もっと強い力を持つというのか。
 しかも健康なだけではなくて、無から生み出された生命体。マザー・システムが誇る最高傑作。目が見えないという点を除けば、非の打ち所がないフィシスの肉体。
 それほどの器がサイオンを持てば、どう変化するか分からない。思った以上の力を得そうな気がした。「見る」という力に関しては。



 前の自分が、ソルジャー・ブルーが予想した通り、危惧した通り。
 フィシスは未来を「見る」力を得た。ブルーにさえ無かった、予知の能力。神秘の能力。
 もしも瞳が開いていたなら、未来だけでなくて隠されたものまで見たかもしれない。瞳に映ったものの全てを、それらのものの奥底までをも。
 心を読むのとは違った形で奥の奥まで、人の器に宿る思いの底の底まで。
 そうなっていたら、前の自分とハーレイとの恋も見抜かれただろう。一目見ただけで、見えない瞳に自分たちの姿を映しただけで。
(うん、きっと…)
 フィシスがそういう力を持っていたなら、一瞬で知れた。誰にも明かしていなかった恋が。長い年月、隠し通した恋を見抜かれ、知られていた。
 そうなってしまうことを恐れて、フィシスを攫いはしなかったろう。
 見えない瞳が何を見るのか、それが恐ろしかっただろうから。
 サイオンを与えることさえしないで、地球を抱く少女と別れただろう。フィシスが抱く青い地球ごと、フィシスそのものを諦めただろう。
 手に入れることは出来ないと。
 彼女の瞳が何を見るかが分からないから、シャングリラには連れてゆけないと。



 あるいは、力が無かったとしても。
 フィシスに「見る」ための力を与えることなく、盲目のままで連れて帰ったとしても。
 思念波での会話などの基礎の力だけで、船内の移動や日々の暮らしは他の者の手を借りるという形にしておいたとしても。
(目が開いていたら…)
 フィシスの瞳が開いていたなら、見られる度に心が痛む。
 何も見ていないアイスブルーの瞳に自分が映るのを見る度、心の奥がツキンと痛む。
 フィシスの世話はアルフレートがしただろうけれど、彼がフィシスを連れてシャングリラの中を移動しただろうけれど。その時に自分と出会っていたなら、アルフレートはこう言っただろう。
 「ソルジャーがおいでですよ、フィシス様」と。
 そうしてフィシスを自分の方へと向かせただろう。見えぬ瞳でも、あらぬ方を眺めてしまわないように。ソルジャーに礼を取れるように、と。
 フィシスが自分の方を向いたなら、見えない瞳が向けられたなら。
 アイスブルーの瞳に自分の姿が映って、フィシスと向き合うことになる。見えていなくても。
 その度に心がツキンと痛む。
 自分の心はフィシスの上には無いのに、と。
 青い地球が見たくて攫って来ただけで、地球を抱く女神が欲しかっただけ。
 フィシスが自分に向けているようなひたむきな愛などは無くて、地球を欲しただけなのに、と。



 本当に地球だけを愛したわけではないけれど。
 それを見せてくれたフィシスごと愛して慈しんだけども、人形を愛でるのと変わらない愛。
 自分の心を捧げる愛とは違った愛。異なった愛。
 真に心から愛した人なら、他にいるから。フィシスと取り替えるつもりは無いから。
 だから攫えない、攫えはしない。
 フィシスの瞳が開いていたなら、アイスブルーの瞳が自分に向けられるのなら。
 たとえサイオンで「見る」という力を得なかったとしても、盲目のままであったとしても。
 あの目で見られたら辛くなるから。
 フィシスが前の自分にくれたのと同じだけの愛を、想いを、自分は決して返せないから。



(閉じてて良かった…)
 フィシスの瞳。一度も開きはしなかった瞳。
 顔の飾りにすらなりはしなくて、瞼の下に隠されたままで終わったアイスブルー。氷に覆われた湖の青の、誰も知らなかったフィシスの瞳。
 フィシスの瞳が開いていたなら、攫わなかったと思うけれども。
 それは今だからこそ、そう思うだけで、水槽の中のフィシスに出会った頃だったなら。
 フィシスが抱く地球に魅せられ、通い詰めていた頃の自分だったなら。
 我慢出来ずに攫ったかもしれない、瞳が開いているフィシスを。アイスブルーの瞳の少女を。
 「見る」力だけは与えずにおいて、盲目のままで。
 どうしてもフィシスが、地球が欲しいと、アイスブルーの瞳を持った少女を。
(そうなっていたら…)
 自分も心が痛んだろうけれど、ハーレイもきっと困ったと思う。
 フィシスが側に来る度に、きっと。アイスブルーの瞳がハーレイを映す度に、きっと。
 その瞳を持つ少女が慕って愛するブルーを、自分が奪ってしまっているから。
 ブルーの心は決してフィシスに向きはしなくて、ハーレイだけを見ているのだから…。



 そんなことをつらつらと考えていたら、チャイムの音が聞こえて来た。
 仕事帰りのハーレイが鳴らしたチャイムの音。窓から見下ろせば、手を振る人影。門扉の前で。
 そのハーレイと自分の部屋で向かい合わせに座ってから。お茶とお菓子を前にしながら。
「あのね、今日、学校の帰りにね…」
 フィシスに会ったよ、と切り出したら。
 ハーレイが驚いて息を飲むから、「そう思っただけ」と笑ってみせた。別人だった、と。
「赤ちゃんの頃から知ってる子なんだ、ご近所さんのお孫さん」
 ぼくが出会った頃のフィシスくらいになってて、フィシスとおんなじ髪型をしてて…。
 庭の椅子で昼寝をしていたんだよ、今日はお天気が良かったから。すやすやと寝てたよ、気持ち良さそうに。大きくなったよね、って覗き込んだんだけど…。
 瞳が開くまでフィシスに見えた、とあの話をした。
 一連の話。似てもいない少女がフィシスに似ているように思えたのだ、という話。
 澄んだ若葉の緑の瞳をしていた少女。
 ただ目を閉じていたというだけのことで、フィシスを思わせた少女の顔。
 それらを話して、言葉を切って。
 ハーレイを見詰めて、こう問い掛けた。



「もしもだよ。…もしもフィシスの瞳が開いていたら…」
 視力は無くても開いていたなら、ハーレイはどうだったと思う?
「どういう意味だ?」
「冷静でいられたのか、っていう意味だよ。フィシスの前で」
 フィシスの瞳にじっと見られたら、どうだった?
 キャプテンじゃなくて、ぼくの恋人の方のハーレイ。
 ぼくたちのことは何も知らない筈のフィシスが、ハーレイの顔をじっと見上げていたら…?
 視力が無いから何も見えない筈なんだけどね、と説明をしたら。
 ハーレイは「うーむ…」と低く唸った。
「それは確かに落ち着かないな。キャプテンとしての俺はともかく、中身の俺がな」
 何を思って見詰めてるんだ、と心配になってくるだろうな。
 何処かでヘマでもやらかしたのかと、お前とのことがバレちまったかと。
 フィシスはお前を慕ってたしなあ、恋する女性の勘ってヤツでだ、恋敵は俺だと見抜いたとか。
「やっぱりね…」
 ハーレイだってそうなっちゃうんだ、フィシスが側に来て見詰めていたら。
 見えてないだけに、フィシスがいったい何を見てるのか、余計な心配しちゃうよね…。



 ぼくも駄目だ、とブルーは小さな溜息をついた。
 フィシスの瞳が開いていたなら、きっと攫えなかったと思う、と。
 攫うことを諦め、ミュウにもしないで研究所に残しておいただろうと。フィシスが抱いた地球に魅せられ、どんなに焦がれて通い詰めようとも、自分は攫わなかっただろうと。
「もしかしたら、それでも攫っていたかもしれないけれど…。攫っていたら後が大変だよ」
 ぼくもハーレイも落ち着かなくって、フィシスが来る度にハラハラしちゃって。
 瞳が閉じてるのと開いてるのとで、まるで全く違うだなんて…。
 見えないって所は同じなのにね、前のぼくが「見る」力さえ与えてなければ。
 目がパッチリと開いてるだけで、何の役にも立たないんだけれど…。
 それでも怖いよ、フィシスの瞳が開いていたら。
 見えない筈の瞳がじっと見てたら、フィシスには何か見えるんだろうか、って気になるものね。



 ホントに怖い、と肩を震わせたブルーだけれど。
 ハーレイの方は、フィシスの瞳を知らないから。ブルーと違って、瞼の下の瞳を知らないから。
 具体的なイメージが掴めないのか、顎に手を当てて首を捻った。
「フィシスの瞳か…。開いていたなら不安ではあるが、どうも今一つ実感がな…」
 どういう感じの顔になるのか、俺には全く想像がつかん。
 お前が見たっていう女の子じゃないが、瞳を閉じてる顔しか頭に浮かばないんだ。俺はそういう顔しか知らんし、瞳の色さえ分からないからな。
「キースと同じ色だったよ」
「それは…!」
 あのキースと同じだったのか、フィシス。…そんな瞳の色だったのか…。
 知らなくて良かった、という気がするぞ。知っていたなら、俺はフィシスをどう見ていたか…。
 フィシスがキースを逃がしちまったのは事故だと自分を納得させていたが、同じ色の目じゃな。
 どういう生まれか知っていただけに、睨んじまったかもしれないなあ…。
「キースと同じ色っていうのは今だから言えることだよ、ハーレイ。フィシスの方が先」
 ぼくがフィシスと出会った頃には、キースは何処にもいなかったんだし…。
 キースの方が真似してたんだよ、フィシスの瞳の色の真似をね。
 でも、ハーレイの気持ちも分かる。ハーレイはキース、今でもとっても嫌いだものね。



「…お前、それもあってキースを嫌っていないのか?」
 フィシスと同じ瞳の色。そのせいもあるのか、お前がキースを嫌わない理由。
「ううん、瞳の色は少しも関係無いよ」
 キースを作った遺伝子データの元がフィシスだってことも、瞳の色も無関係だよ。
 フィシスとキースは違う人間だし、ぼくがキースを嫌わない理由になりはしないよ、瞳の色は。
 まるで別物なんだもの、とブルーは肩を竦めてみせた。
 同じ色でも違う瞳、と。
 キースの瞳は色そのままに氷の瞳で凍てついていたと、感情すらも凍っていたと。
 フィシスの瞳に感情の色は無かったけれども、その代わり、凍ってもいなかったと。
 何も映していなかった瞳。映すことなく瞼に覆われていた瞳。
 フィシスの意志では瞼は動かず、けして開かなかったから。
 瞼が開いてアイスブルーの瞳が光に晒されることは、ついに一度も無かったから。
 感情を一度も宿すことなく、凍ることもなく、顔の飾りにさえならなかった瞳。
 前のブルーの他には見た者すらも無かった、凍った湖の色を湛えた瞳…。



「だけど、フィシスの瞳が開かなくて良かった…」
 開いていたなら、きっと諦めるしか無かったから…。フィシスをシャングリラに迎えること。
 どんなにフィシスの地球が見たくても、あの目で見られたら困ることの方が多いから。
 地球は欲しくても、困ることが多いと分かっているなら諦めるしか…。
「お前、あの地球、好きだったからな」
 フィシスの地球。身体がすっかり弱っちまっても、お前、あの地球、見ていたものなあ…。
「うん…。あれが好きだったよ、フィシスよりもね」
 フィシスよりも地球が好きだった。フィシスが持ってた青い地球が。
「それを知ってるのは俺だけだがな」
 俺しか知らなかったんだよなあ、お前はフィシスよりもフィシスの地球の方が好きだったこと。
 シャングリラ中がすっかり勘違いしてて、誰も気付かなかったんだよなあ…。



 遠い遠い昔、白いシャングリラがあった頃。
 その船でブルーがフィシスの抱く地球を、飽きずに眺め続けていた頃。
 誰もがブルーはフィシスのことが好きなのだと思い込んでいた。
 恋人とは少し違うけれども。恋とは違った感情だけれど、フィシスを愛しているのだと。
 けれども実の所は違って、ブルーが愛していたのは地球。フィシスの中に在った青い地球。
 それを見せていたフィシス自身も、きっと気付いてはいなかったろう。
 ブルーの想いは地球の上にあると、それを持つがゆえに自分も愛されているのだとは。
 ブルーが自分を女神と呼ぶのは地球を抱くゆえで、それゆえに女神なのだとは…。



「フィシスの瞳が開いていたなら、あの地球だって…」
 後ろめたくて見ていられないよ、ぼくの表情、バレているんじゃないか、って。
 フィシスを見る目とはまるで違うと、地球の方に恋をしているんだ、ってバレてしまいそうで。
「そうだろうなあ…」
 目が見えないんじゃ、じっと目を開けて地球をお前に見せたかもしれんし…。
 そうなってくると、お前も心が落ち着かないよな、本心ってヤツを見抜かれそうでな。
「うん…。だけどフィシスの目は閉じたままで、ぼくはフィシスを攫えたわけで…」
 もしかしたら、フィシスは神様がぼくにくれたんだろうか?
 前のぼくが希望を失わないために。失くさないために…。
「希望って…。俺じゃ足りなかったか?」
 俺がいるだけでは足りなかったって言うのか、前のお前の人生には。
 もっと何度も愛しているって言うべきだったか、前の俺は…?
「ううん、ハーレイの愛は充分貰っていたよ。こんなに貰っていいんだろうか、って思うほどに」
 ハーレイとの愛なら失くさなかったし、希望だって持っていたけれど…。
 それとは違って地球への夢だよ。いつかは地球へ行こう、っていう夢。
「なるほどなあ…。そいつは俺ではどうにもならんな」
 お前を地球まで連れて行ってやる、と約束はしたが、お前に地球を見せてはやれんし…。
 フィシスに頼るしかないってわけだな、地球へ行く夢を持ち続けるなら。



 いつかハーレイと地球へ、と願ったブルーだけれど。
 白いシャングリラで青い地球まで、共に行きたいと願ったけれど。
 命が尽きると気付いた時には、地球をも諦めそうだった。
 どうせ駄目だと、青い地球には辿り着けないと。その前に寿命が尽きてしまうと。
 けれど、もうフィシスが来ていたから。フィシスがとうに船に居たから。
 フィシスが抱いた幻の地球で、挫けそうな心を慰めていた。
 あの青い地球までシャングリラの皆を、と。
 それが自分の務めなのだと、ソルジャーの最後の務めなのだと。
 自分の命は尽きるのだとしても、何処かに道はある筈だから。
 皆を地球へと連れてゆける道が、きっと何処かにある筈だから。
 命尽きる前にそれを見付けて皆を導こうと、地球への道筋をつけておこうと…。



「もしもフィシスがいなかったなら…。ぼくはあの時、地球を捨てていたよ」
 地球へ行こう、っていう夢を。地球への希望を。
 持っていたって、着く前に死んでしまうんだから。ぼくは地球には行けないんだから…。
「俺と一緒に行けないからなのか、いつか行こうと約束したのに」
 シャングリラでお前を連れて行ってやると俺は誓ったが、お前の命が持たないからか?
「そう。辿り付けもしない夢の国なんかは要らないよ」
 夢物語と変わらないんだよ、青い地球なんて。
 だけど、ハーレイは来てくれると言ってくれたんだから。ぼくが死んでも、ぼくと一緒に。
 その約束の方が、よっぽど大事。
 …行けもしない地球に行く夢よりもね。
「約束、破っちまったがな。…俺はお前と一緒に行ってはやれなかった」
「それはぼくの方だよ、ハーレイに約束を破らせちゃった」
 ジョミーを頼む、ってシャングリラに縛り付けちゃって。
 前のぼくがフィシスの地球のお蔭で諦めずに済んだ、地球への希望。
 諦めなかったからジョミーを見付けて、みんなが地球まで行けるように道を付けられたけど…。
 フィシスを攫って来ていなかったら、きっとジョミーを見付けていないよ。
 探そうともせずに泣いてばかりで、何もしないままで前のぼくの命は終わっていたよ…。



 フィシスの瞳。閉じた瞼の下に隠された、アイスブルーの色だった瞳。
 それが開いていなかったからこそ、ブルーはフィシスを攫うことが出来た。サイオンを与えて、白いシャングリラに迎え入れて女神と呼び続けた。
 フィシスが抱いた地球が欲しくて攫ったお蔭で、地球への希望を失くさずに済んだ。ジョミーを見出し、次の世代を託すことが出来た。
 フィシスの瞳が開かなかったのは、神からの贈り物なのだろうか?
 地球を抱くフィシスは機械が生み出した命だけれど。
 無から生まれた、神の領域を侵す生命だったのだけれど…。



「ねえ、ハーレイ。…フィシスは機械が生み出したけれど…」
 きっと本当は神様なんだよ、神様が作ってくれたんだよ。
 そして前のぼくにくれたんだと思う、フィシスの地球ごと、前のぼくに。
 フィシスの目が閉じたままだったのもきっと、神様がそうしてくれたんだよ…。
「そうかもしれんな。フィシスの瞳が開いていたなら、お前は攫わなかったと言うし…」
 何よりも、今のお前の聖痕。
 そいつは神様がお前に下さったもので、お蔭でお前に出会えたんだしな。
「うん…。何もかも神様のお蔭だよね、きっと」
 前のぼくがフィシスを手に入れられたのも、ハーレイと地球でまた出会えたのも。
 フィシスの瞳が閉じていたのも、神様のお蔭なんだよね、きっと…。



 地球を抱く女神、フィシスに嘘をついていたけれど。
 ハーレイとの恋を隠したけれど。
 大切なのはフィシスなのだと、女神と呼んで慈しみ、愛しているふりをしていたけれど。
 もしもフィシスの瞳が開いていたなら、つけなかった嘘。
 攫えずに終わっていただろうフィシス。
 フィシスも神がくれたのだろう。前の自分が地球への希望を捨てぬように、と。
 その神が今度は聖痕をくれた。
 ハーレイと地球で巡り会えるよう、今度こそ共に生きられるよう。
 だから今度は幸せになれる。ハーレイと二人、前の自分が夢に見ていた青い地球の上で…。




          フィシスの瞳・了

※開くことは無かった、フィシスの瞳。もしも盲目でも開いていたなら、違っていた未来。
 閉じたままの瞳で良かったのです、前のブルーが地球への夢を抱き続けるためには…。
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(んーと…)
 学校から帰って、おやつを食べながら広げた新聞。カラーで大きくメイクの特集。
 可愛く見せるならこんな感じで、意志の強さを出したいのなら、こうだとか。
 モデルさんの写真も載っているけど、イラストが付いた解説も沢山。メイクのやり方、入門編といったものから凝ったものまで、それは詳しく。
(ふうん…?)
 ぼくにはなんだかよく分からない。下地がどうとか、メイクの前にひと工夫だとか。
(口紅を塗って終わりじゃないんだ…)
 小さい頃からたまに見ていた、ママのお化粧。パタパタはたいたり、鏡と真剣に睨めっこして。
 確かに口紅だけじゃなかった、他のことだってやっていた筈。
(今日だって…)
 口紅だけじゃないんだ、きっと。見慣れたママの顔だけど。こんな顔だと思っているけど。
 お出掛けの時は、もっと綺麗にお化粧するママ。うんと素敵に見えるママ。
 だけど、普段もお化粧してる。夜にお風呂に入った後には、もう口紅をつけてないから。
 つまり昼間はしっかりお化粧、口紅の他にも何かお化粧。



(お嫁さんって…)
 毎日お化粧をしなくちゃ駄目なんだろうか、ママが毎日してるってことは。
 ママはぼくのパパの奥さんなんだし、パパのお嫁さん。
(ご近所さんは…)
 お嫁さん、って立場の人たちの顔を思い浮かべてみたけれど。誰でも口紅、お化粧した顔。
 新聞にメイクの特集なんかが載るくらいなんだし、常識なのかな、お化粧すること。
 ぼくもハーレイのお嫁さんになったら、お化粧しなくちゃいけないのかな?
 お嫁さんらしくしたければ。お嫁さんなんです、って言いたいのなら。
 毎日、鏡に向かってお化粧。この新聞に載ってるみたいに、口紅の他にもいろんなことを。



(お嫁さんでも、ぼくは男だから…)
 お化粧なんかは要らないような気もするけれど。
 口紅も何も、塗らなくていいって気もするんだけれど。
 でも…、とモデルさんの写真を見ながら考えた。モデルさんが着ている服は色々、服の雰囲気に合わせたメイクが何種類も。
(服でメイクが変わるんだったら…)
 ウェディングドレスや白無垢だったら、やっぱりお化粧、要るのかな?
 だって、普通の服とは違う。花嫁さんのための特別な服や着物なんだし、もしかしたら。
(…それ専用のお化粧があるとか…?)
 この特集には載っていないけど。
 普段の服とか、お呼ばれの時とか、普段の暮らしに使えるメイクしか載ってないけど。
(お呼ばれ用のメイクがあるなら…)
 パーティードレスに合わせたメイクがあるなら、ウェディングドレスにもありそうな感じ。このドレスだったら、華やかにとか。清楚にだとか、可愛らしくとか。
(白無垢だって…)
 あるのかもしれない、白無垢専用のメイクってヤツが。何か特別なお化粧の仕方。
 この特集では分からないけれど、花嫁さんのメイクについては書いてないけど。



(うーん…)
 おやつをすっかり食べ終わった後も気になる特集。いろんなメイク。
 下地ってトコから、もう分からない。ベースを塗ったらおしまいじゃなくて、有り得ないような色の下地を上に塗るとか、専用の粉をはたくだとか。お化粧用の粉とは別に。
 頭の中がこんがらがりそう、下地だけなら分かるけど。下地なんだって分かるけど…。
(色付きのを塗ってどうするわけ?)
 肌の色とはまるで違った、薄いグリーンのクリームまである。この部分に、って図解がついてるからには、何か効果があるんだろうけど。お化粧用の粉をはたいたら、よく映えるとか。
 ぼくには全く分からない世界、下地からして謎だらけのメイク。
(難しそう…)
 こんなお化粧、しろと言われても出来そうにない。どうすればいいのか分からない。
 下地だけでも分かってないのに、その後はもっと難しいんだ。眉を描いたり、睫毛を塗ったり。口紅だけで終わりじゃなかったお化粧の世界、頬っぺたにつける頬紅まである。
 おまけに仕上げにつける粉まで、専用のブラシで顔全体に軽くつける粉まで。



 読めば読むほど謎だらけの世界、ぼくにはとっても無理そうなメイク。
 花嫁さんなら、メイクはプロがしてくれるんだろうか?
 それとも自分でやらなくちゃ駄目で、鏡の前に沢山の道具がズラリと並んでいるんだろうか?
 ドレスに合わせてお使い下さい、って、どれでも自由に使って下さい、って。
(…そんなの、とっても困るんだけど…!)
 お化粧無しでは駄目なんだろうか、ウェディングドレスとか白無垢とか。
 自分じゃ出来ませんでした、って、お化粧無しで着てたら笑われちゃうんだろうか?
 あれこれと頭を悩ませていたら、ママが空いたお皿やカップを取りに来てくれて。



「あら、お化粧?」
 何を熱心に読んでいるのかと思ったら…。お化粧の舞台裏を読んでいたわけね、メイク特集。
「うん。こんなに色々あるって思わなかったから…」
 ママ、お化粧って難しいの?
 手間がかかりそうで、こんがらがっちゃいそうなんだけれど…。誰でも出来るの、こんなのが?
「ブルーもお化粧、やってみたいの?」
「そうじゃないけど…。お嫁さんって必ずお化粧しなくちゃいけないの?」
 お嫁さんになったら、毎日毎日、お化粧しないと駄目なものなの?
「人によるわよ、その辺はね」
 ブルーの知ってるご近所さんは、みんなお化粧しているけれど…。
 お買い物とかに行けば、していない人も沢山いるわ。しない主義です、って人も多いし、個人の好みね。しなくちゃ駄目、って決まりは無いのよ。



 そう聞いたから、良かった、って思ったんだけど。
 いつかハーレイと結婚したって、お化粧はしなくてもかまわないんだ、ってホッとしたけど。
 ママは「だけど…」ってメイク特集の記事をチラッと見ながら。
「花嫁さんっていう意味だったら、お化粧は必ずすることになるわね」
「ホント!?」
 どうして花嫁さんだとお化粧をするの、普段はしてない人だってするの?
「そうよ。でないとドレスに負けてしまうでしょ、普通の服とは違うんだもの」
 お姫様みたいな格好をするのよ、お化粧しないとドレスが主役になっちゃうのよ。
「でも…。お化粧するのが下手な人だと、どうなるの?」
 お化粧をしない人もいるなら、どうすればいいのか分からなくなっちゃいそうだけど…。
「花嫁さんのお化粧はプロがするのよ。そういうものよ」
 ドレスも一人じゃ着られないでしょ、お手伝いの人がついてくれるの。お化粧もね。
「ふうん…」
 お化粧のプロまでついてくるんだ、花嫁さんには。
 そういう仕事のプロがいるほど、お化粧って難しいものだったんだね。



 ホントのホントに難しそう、って新聞の記事を指差したら。
 プロがいるのも納得だよ、って、「モデルさんのメイクもプロだよね」ってママに言ったら。
「そうねえ、他の人にお化粧をしてあげるのは難しいかもね」
 お仕事だから慣れているとは思うけど…。自分の顔とは違うわけだし。
「自分でするのは簡単なの? こんなに色々しなきゃ駄目なのに?」
「慣れればね。それにね、全部をしなくちゃいけないわけでもないのよ」
 ママだって全部をしてはいないわ、これとこれとはしていないわねえ…。それに、これも。
 お出掛けの時だけするものもあるし、こういうのも人それぞれね。
「そうなんだ…。ママも全部はやってないんだ」
 だけど口紅だけでもないよね、ぼくには分からないけれど。ママのお化粧。
 慣れたら簡単? って、好奇心満々でママに幾つも質問してたら。
「…ブルー、お化粧、してみたい?」
「えっ?」
 とんでもないことを言い出したママ。
「ちょっと可愛くなりそうだものね、お化粧したら」
「ぼく!?」
 お化粧なんか出来やしないよ、難しそうだな、って見てたんだから!
 出来るわけがないよ、お化粧なんて…!



 ビックリしちゃったぼくだけれども、ママは本気だった。
 お化粧してあげるからいらっしゃい、って二階のママの部屋まで連れて行かれた。
 やってみたい気持ちで一杯になっているらしいママ。ぼくにお化粧してみたいママ。
 ぼくもママには内緒だけれども、興味はあるから。花嫁さんはお化粧するというから。
(利害の一致…)
 ママはぼくにお化粧してみたくって、ぼくはお化粧に興味津々。
 ちょうどいいから、して貰うことに決めたお化粧。
「…下地から塗るの?」
 どれなんだろう、って化粧品の山を眺めていたら。
 ママのドレッサーの前に座ってキョロキョロしてたら、「口紅だけよ」って。
「それだけで充分、可愛くなるのよ」
 他のお化粧品はブルーにはまだ早いわねえ…。子供だものね。
 それに肌だって柔らかくて真っ白、口紅だけでも素敵になるわよ、うんと素敵に。



 ママが手に取った一本の口紅。「これがいいわ」って。
 唇に直接塗るのかと思ったら、もうそこからして違ってた。筆が出て来た。
 紅筆っていう口紅用の筆なんだって。細くて小さな専用の筆。
 お化粧の世界はやっぱり深い、って紅筆を持つママの手元を見詰めた。口紅を紅筆にたっぷりとつけて、塗り重ねてから。
「はい、じっとしててね」
 唇はそのまま、キュッとしないの。それじゃ上手に塗れないわ。
「うん…」
 ママに言われるまま、鏡の中のぼく。唇に塗られていくピンクの口紅。
 なんて表現したらいいんだろう、ふんわりピンクの優しい色。濃すぎない色。
 だけど一目で塗ってると分かる口紅の色で、ぼくの唇の色とは違う。
(えーっと…)
 お化粧なんて、前のぼくでもしたことがない。
 初めての体験、初めての口紅。
 ママは紅筆で上唇から塗って、塗り終わったら下唇で…。



(こうなるわけ?)
 塗り上がったら、鏡の中にお化粧をしたぼくが居た。ピンクの口紅を塗られたぼくが。
 いつものぼくとはまるで違って、ちょっと女の子っぽく見える感じで。
「あら、可愛い!」
 こっちを向いてみて、ってママはニコニコ。可愛く出来た、って。
 「せっかくだからパパにも見て貰いましょうね」って言い出したママ。
 別に反対はしないけれども…。
 お化粧なんて初めてだから、パパに見せたっていいんだけれど。
 鏡の中、ぼくじゃないみたい。ぼくだけど、ホントに女の子みたい…。



 夕食の支度に行くママと別れて、部屋に帰って鏡を覗いた。ぼくの部屋の鏡。
 お化粧したぼくが映ってる。ピンクの口紅でお化粧した、ぼく。
(お嫁さん…)
 いつかハーレイと結婚する時、花嫁のぼくはプロにお化粧して貰うから。
 その頃にはもっと大人びた顔だろうけど、仕上がりはきっとこんな感じになるんだろう。
 下地から塗って粉をはたいて手間のかかったお化粧をしても、口紅はきっとこうだから。ぼくの唇の形が大きく変わるわけじゃないし、口紅の色が違うくらいのことだから。
(もっと濃い色とか、そういうの…)
 だけどイメージは掴めた口紅、口紅をつけたぼくの顔。お化粧した顔。
 前のぼくには出来なかったお化粧。花嫁さんになれなかったから。
 あの頃には思いもよらなかった口紅、それをつけてる今のぼく。
(パパに見せたら、なんて言うかな?)
 可愛いな、って言ってくれるのか、プッと吹き出してしまうのか。
 パパの反応がとっても楽しみ、お化粧の感想を早く聞きたい。
 プロじゃないけど、ママがとっても上手に塗ってくれたから。色を選んで塗ってくれたから…。



 満足するまで鏡を眺めて、それから本を読み始めた。勉強机の前に座って、お気に入りの本を。
 夢中でページをめくり続けてたら、チャイムが鳴って。時計を見るなり、すぐに分かった。
(ハーレイだ!)
 今日は仕事が早く終わって、ぼくの家まで来てくれたんだ。窓に駆け寄って、ハーレイに大きく手を振った。庭と生垣を隔てた門扉の向こうへ、其処に立つハーレイに「早く来てね」って。
 暫くして、ハーレイはママの案内でぼくの部屋に来てくれたんだけど。
 扉が開くなり固まっちゃって、ママもその場で「あらあら…」って。
「ハーレイ先生、すみません。いらっしゃるとは思わなくて…」
(え?)
 申し訳なさそうにしているママ。挨拶もしないで立ってるハーレイ。鳶色の瞳を真ん丸にして。
(…なんで?)
 どうなってるの、と首を捻った途端に思い出した、ぼく。
 口紅、塗ったままだった。
 ぼくの唇にピンクの口紅、お化粧しちゃった顔のまま。
 パパに見せようと思っていたから。ハーレイが来るなんて思ってないから。



(いけない、お化粧したままだった…!)
 落とさなくちゃ、と慌てて唇を手の甲で擦ろうとしたら、ママが「駄目!」って。
「擦ったら広がっちゃうわよ、顔に。口紅の色が」
「え…?」
「早く落としに行かないと。いらっしゃい、ブルー」
 すみません、ってハーレイに謝って、ママはぼくを部屋から連れ出した。
 待ってる間にハーレイがゆっくり出来るようにと、お茶とお菓子を運んでから。
 ハーレイの分と、ぼくの分。テーブルの上に二人分のカップやケーキのお皿や、ティーポット。
 それが揃うまで、ハーレイはぼくの顔をじっと見詰めていたけれど。
 口紅をつけたぼくの姿に、最初は笑っていたんだけれど…。
 ぼくが部屋から出て行く頃には、可笑しそうに笑ってはいなかった。
 笑ってはいたけど、もっと、なんだか違う顔。お腹を抱えて笑ってるのとは違う顔だった。
 鳶色の瞳がぼくを見ていた、ママと部屋から出てゆくまで。



 ママの部屋まで連れて行かれて、また座らされた鏡の前の椅子。
 鏡に映ったぼくは困り顔、ハーレイに見られちゃったから。散々、笑われちゃったから。
 ママがお化粧用のフワッとした白い綿みたいなヤツに数滴、垂らした何か。その綿を「はい」と渡された。湿った綿を。
「これで拭くのよ、しっかり綺麗に」
「うん…」
 口紅を塗っていない所まで広がっちゃったら、大変だから。
 鏡を見ながら少しずつ拭いた。ピンク色に変わっていく綿で。
「…ママ、お化粧って厄介なんだね…」
 塗るのも難しそうだけれども、それを取るのも大変だなんて…。ぼくが思った以上に大変。
「口紅は特にね」
 食べたり飲んだりするでしょう?
 その度に全部落ちてしまったら、お化粧が駄目になっちゃうから…。落ちにくいように作られているのよ、口紅は。工夫してある分だけ、落とすのも手間がかかるわね。
 でもね、お化粧を全部落とすんだったら、顔を洗えば落ちるのよ?
 口紅も何もかも、すっかり全部。そういうものがちゃんとあるのよ、楽に落とせる便利なもの。



 塗ったのは口紅だけだったから。唇だけのお化粧だったから。
 顔まで全部は洗わずに済んで、代わりにリップクリームをママに塗り付けられた。唇が荒れたら痛くなるから、って色のついてないヤツをキュッキュッと。
 それは鏡じゃ分からない。覗き込んでたら「大丈夫よ」ってママが保証してくれた。お化粧とは違って薬みたいなもの、見た目には普通の唇だ、って。
 これで安心、とママの部屋からぼくの部屋へと戻ったら。
 ハーレイのいる部屋へ一人で戻って行ったら…。



 扉を開けたら、ハーレイの視線。ティーカップを持っていたけれど。
「なんだ、本当に落としちまったのか」
「え…?」
 何を言われたのか分からなかった。キョトンとしてたら、ハーレイはカップをコトリと置いて。
「口紅だ、口紅」
 もう跡形もなくなっちまったな、って見詰められた。ハーレイの向かいの椅子に座ったら。
「ママの部屋できちんと落として来たもの。リップクリームは塗ってるけどね」
 口紅を落としたら、塗っておいた方がいいんだって。唇が荒れたら痛くなるから。
 でもね、色付きのヤツじゃないから、さっきみたいに可笑しくないでしょ?
 ハーレイ、大笑いしていたけれども、今は可笑しくない筈だよ。
「大笑いなあ…。最初は確かに笑っちまったが、凄いものを見たと思ったが…」
 俺はあのままでも良かったんだがな?
 お前が口紅、塗ったままでも。
「なんで?」
 面白いからなの、見てたら愉快な気分になるから?
 あんなに可笑しそうに笑うハーレイ、ぼくもそんなに知らないし…。
「それは違うな。笑っちまった俺だったんだが…」
 よく考えたら、そいつは間違いだった。笑うにしたって、可笑しがる方ではなかったんだ。
 少しだけ未来のお前が見られた、あの口紅のお蔭でな。



 いつか嫁に来てくれるんだろうが、って鳶色の瞳が穏やかに笑ってる。
 口紅を塗って俺の所へ、って。
 そういえばお嫁さんはお化粧しているもので、ママは「人によるわよ」って言っていたけど…。個人の好みだと言っていたけど、ハーレイの趣味はどうなんだろう?
 前のぼくだとお化粧どころか、ハーレイのお嫁さんではなかったから。
 恋人同士なことさえ誰にも言えない、秘密の恋人同士だったから。
 お化粧なんかはするわけがなくて、ハーレイだって「して欲しい」と言える状況じゃなくて。
 だけど今度は何もかも違う。
 ぼくはハーレイのお嫁さんになるし、ハーレイの家で暮らすんだから。
 ハーレイが「お化粧をしたお嫁さん」がいいと言うなら、お化粧した方がいいんだろう。ぼくが男でも、ハーレイがお化粧して欲しいなら。
 もしもそうなら、練習しなくちゃいけないから。
 今日みたいなメイク特集を読んで、勉強しなくちゃいけないから…。



「ねえ、ハーレイ。ぼくって、お化粧しなくちゃ駄目?」
「はあ?」
 お前、チビだろうが。これから毎日、ああいう口紅を塗ろうっていうのか?
 チビに化粧は早すぎるように思うがなあ…。
「そうじゃなくって、結婚した後。ハーレイのお嫁さんになった後だよ」
 普段もお化粧、ちゃんとしていた方がいい?
 ハーレイがそっちの方が好きなら、頑張ってお化粧するけれど…。
 さっき未来のぼくって言ったし、お化粧している方が好き?
「馬鹿。そもそも、お前、男だろうが」
 どんなに美人でも、男は男だ。
 お前がしたくてするなら止めんが、俺から化粧をしろとは言わない。
 前のお前は化粧なんかしなくても美人だったさ、何もしなくていいってな。化粧しなくても充分美人だ、誰もが振り返って見そうなほどの。



 だがな…、ってハーレイは微笑んだ。
 花嫁衣装を着るとなったら化粧が要るだろ、って。そういう未来のぼくが見えた、って。
「そっか、お嫁さん…。花嫁さんの方だったんだ、ハーレイが言ってた未来のぼくって」
「うむ。ウェディングドレスを着るにしたって、白無垢を選ぶにしたって、だ…」
 結婚式くらいは化粧すべきだな、いくらお前が美人でも。
 ドレスに負けると思いはしないが、一生に一度の結婚式だし、とびきりの美人を見てみたい。
 こんなに綺麗な嫁さんなんだと、最高の美人を嫁に出来ると、俺だって自惚れたいからな。
「じゃあ、お化粧…。結婚式の時だけでいいんだ、プロ任せので」
 よかったあ…、とホッとしちゃった、ぼく。
 お化粧は結婚式の日だけでいいから、と言われて安心しちゃった、ぼく。
 ママの部屋にあった化粧品とかの数を思うと、あのメイク特集の記事を思うと、お化粧なんかは出来ればしたくなかったから。
 ハーレイの注文だったらするけど、それでもやっぱり困っちゃうから。
 毎日、毎日、下地から塗って、口紅も塗って、仕上げの粉まで。そんなの面倒、とっても面倒。
 落とす時は顔を洗うだけだとママは言ったけど、お化粧自体は簡単なんかじゃないんだから。



「あのね、ぼく…。新聞でメイクの特集を見てて…」
 お嫁さんならお化粧しないと駄目なのかな、って思ってたんだよ、今度はハーレイのお嫁さんになるって決めてるから。
 ハーレイのお嫁さんになるなら要るのかな、って考えていたら、ママが来たから…。
 お嫁さんはお化粧するものなの、ってママに訊いたのが始まりなんだよ。
 ママとお化粧の話をしてたら、「してみたい?」って訊かれちゃって…。
「なるほど、それでお母さんに塗られちまったってわけか、あの口紅」
 お前が自分で塗ったのかと思って仰天したがな、見た瞬間はな。
 お母さんがやたらと慌てていたから、違うらしいと気付いたが…。
「ママが言ったんだよ、せっかくだからパパにも見て貰おう、って」
 可愛くなったし、パパが帰ったら見て貰いましょ、って…。
「なら、本当にあのままで良かったんだがな…」
 落とさなくても、塗ったままで。
 俺は全く気にしないから、お父さんが帰るまで塗ったままでいれば良かったなあ、あの口紅。
 チビのお前に口紅だけに笑っちまったが、よく考えたら、俺の未来の嫁さんなんだ。
 その嫁さんが化粧して迎えてくれたっていうのに、笑っちまった俺はつくづく馬鹿だな。



 惜しいことをしたな、って残念そうにしているハーレイ。
 ちゃんと事情を聞けば良かったと、口紅をそのまま残しておければ良かったと。
 未来の嫁さんが見られたのに、ってハーレイはホントに悔しそうで。
「あのお前とお茶を飲みたかったな」
 口紅を塗ったお前と、二人でお茶を。…このお茶を口紅を塗ったままのお前と。
「ホント?」
 ハーレイ、あんなに笑っていたのに、あのぼくとお茶を飲みたいんだ…?
「当然だろうが、化粧しているお前だぞ? 少しばかりチビで小さすぎるが…」
 そのせいでウッカリ笑っちまったが、あのお前だって今から思えば悪くなかった。
 背伸びして化粧をしたがる女の子なんかだと、ああいう感じになるんだろう。
 チビはチビなりに似合っていたんだ、あの口紅が。
 そう思って見てたら、未来のお前がヒョッコリ顔を出したってな。チビのお前の向こう側から、いつか口紅を塗って嫁に来てくれるお前がな…。



 今はまだホントにチビのぼく。口紅を笑われてしまった、ぼく。
 だけどハーレイは似合っていたって言ってくれたし、嬉しくなった。それに未来のぼくの姿も、ぼくの向こうに見えたと言うから。顔を出したと言ってくれたから。
「…チビのぼくでも、口紅のぼくが良かったの?」
 落とさなくても、あのままのぼくとハーレイはお茶を飲みたかったの?
「ああ。口紅を塗って化粧したお前と、二人でのんびりお茶を飲んで…」
 一緒に菓子も食いたかったなあ、この菓子をな。
 今となっては手遅れなんだが…。お前、口紅、すっかり落としてしまったからな。
 あんなお前に出会えるチャンスは、二度と無いかもしれないのになあ…。
「ハーレイ、それって…。ぼくがいつかはお嫁さんになるって決まっているから?」
 結婚式には口紅なんだ、って思っているから、ぼくの口紅、見たかったわけ…?
「そうだ、俺の未来の嫁さんだからな」
 ウェディングドレスか白無垢かは知らんが、どっちにしたって口紅なんだ。花嫁だしな。
 そういうお前を夢に見るには、お前の口紅、まさにピッタリだったってわけだ。
 まだまだチビでだ、美人と言うより可愛らしいが…。
 口紅を塗っても可愛いだけだが、それでもやっぱり、お前はお前に違いないしな…?



 いつかはな…、って優しいけれども、熱い光を湛えた瞳。鳶色の瞳。
 大きく育った美人のお前が嫁に来るんだ、って、口紅を塗って化粧をして…、って。
 ハーレイの目には、チラリと見えた未来のぼくがきっと残っているんだろう。全体じゃなくて、口紅を塗った唇だけが。未来のぼくの唇だけが。
「…どんなだろうなあ、大きくなったお前が化粧をしたら」
 前のお前とそっくり同じに大きく育って、口紅を塗って化粧をしたら。
 結婚式なら、口紅の他にもプロが色々するんだろうし…。想像もつかん世界だな。まるで銀色の細工物みたいになっちまうかもな、人間どころか天使みたいな。
「…ぼくにも全然分からないよ」
 前のぼくはお化粧、一度もしないで終わっちゃったし…。
 口紅だって塗ってないから、どんな風になるのか自分じゃ想像出来ないよ。
 今日、ママに口紅を塗られただけでも、ちょっと普段と違う顔だと思ったもの。育ったぼくでも同じだと思うよ、元の顔とは違った感じになるんだよ、きっと。
「どうだかなあ? …お前はお前だ、化粧をしようが、そのままだろうが」
 俺にとっては誰よりも美人に見えるお前だ、今は美人とは言いにくいんだが…。チビには美人と言っても似合わん、チビはチビらしく可愛いとか、愛らしいだとか。
 しかし未来のお前は違うぞ、もう間違いなく美人なんだ。化粧しなくても凄い美人だ。
 それが化粧をしたなら、だ…。この世に二人といやしない美人だ、俺は一生、忘れんだろうさ。
 花嫁衣装が似合う美人を、絶世の佳人というヤツをな。
 佳人と言ったら女性限定だが、花嫁なんだし、それでいいだろ?
 毎日化粧をしろとは言わんし、お前の口紅、結婚式の日だけでいいんだからなあ…。



 そういうお前に出会える日が今から楽しみだな、ってハーレイが言うから。
 ぼくが落としてしまった口紅、見ていたかったみたいだから。
 チビのぼくの向こうに未来のぼくをチラリと見ながら、お茶を飲みたかったらしいから。
(あんなに笑っていたくせに…)
 笑い転げんばかりだったくせに、途中から表情が違ったハーレイ。笑いながらも、違う瞳の色をしていたハーレイ。
 あの時、ハーレイは未来のぼくを見ていたんだろう。
 口紅を塗ったぼくの向こうに、チビのぼくの向こうに、未来のぼくを。
 そうして眺めて見送ったぼくが戻って来た時、きっとガッカリしたんだと思う。
 もう口紅は無くなってたから、綺麗に落としてしまっていたから。
 ぼくと違って大人のハーレイは顔に出したりしなかったけれど、ホントに残念だったんだろう。
 惜しいことをしたと、あのぼくとお茶を飲みたかったと言ったハーレイ。
 一緒にお菓子も食べたかったと、口紅を塗ったチビのぼくと一緒に。



(…ハーレイに未来のぼくが見えるなら…)
 未来のぼくを見ている気分でお茶が飲めると言うのなら。
 またいつか塗ってみようか、口紅。ママの口紅。
 チビのぼくでも口紅を塗れば、唇だけは未来のぼくと重なって見えるらしいから。
 お化粧はしたいと思わないけれど、口紅くらいなら塗ってもいい。
 今度はパパにも見て貰うために。
 パパは笑い出すかもしれないけれども、パパに見せると言えばママだって納得するから。
 だってママだって遊びでぼくに塗っちゃったんだし、二度目があっても驚かない。
(うん、口紅…)
 いつかチャンスがあったなら。
 ハーレイが訪ねて来てくれそうな日にママに頼んで、塗って貰って、ハーレイとお茶。
 口紅を塗って、ハーレイと二人でお茶を飲んでお菓子を食べるんだ。
 そうすればきっと未来を先取り、口紅の分だけ、二人で未来へ。
 ぼくは幸せな花嫁さんになった気分で、ハーレイもきっと笑顔なんだと思うから。
 間違いないから、いつか口紅。
 今日は笑われちゃったけれども、慌てて落としてしまったけれど。
 次があったら、笑われない。チビのぼくでも、口紅を塗った唇でも。
 ハーレイと二人、幸せなデート。未来のぼくを口紅の分だけ、ぼくの所へ連れて来ちゃって…。




              口紅・了

※ブルーが塗って貰った口紅。初めてのお化粧。ハーレイにはビックリされましたけど…。
 そのままでいた方が良かったのかもしれませんね。未来の姿を、少しだけ先取り。
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(ほほう…)
 お得なのか、とハーレイは棚を覗き込んだ。
 仕事帰りに寄ったいつもの食料品店。今日はブルーの家に寄れなかったから、早めの時間。
 あれこれと選んで籠に入れながら、蜂蜜の棚まで来たのだけれど。シロエ風のホットミルクには欠かせないマヌカを買いに来たのだけれど。
 其処に躍ったセール中の文字。普段は貼られていない紙が目を引く、カラフルな文字で。
(どれでも二つ買ったら割引なのか…)
 セールの対象になっている品なら、蜂蜜の種類は問わないらしい。マヌカとアカシアをセットで買おうが、マヌカとクローバーの蜂蜜だろうが。
(ふうむ…)
 お得だからといって、蜂蜜を二つ欲しいわけではないけれど。一人暮らしだからそんなに減りはしないし、二つ買ったら次の買い出しまでの期間が延びるだけなのだけれど。
 蜂蜜を二つ買えばお得で、その中にマヌカ。対象品の中にマヌカの蜂蜜が何種類も。



(あいつ、お揃いが好きだからなあ…)
 小さなブルー。お揃いに憧れているブルー。
 出会って間もない頃には、教えてやった白いシャングリラの写真集がお揃いなのだと何度も口にしたものだ。ハーレイと同じ写真集だと、この写真集はお揃いなのだと。
 別々に買った本なのに。自分が先に書店で見付けて「少し高いが懐かしい写真が沢山あるぞ」と話してやったら、小さなブルーは父に強請って手に入れた。シャングリラの写真自体も気に入ったようだが、それ以上に「お揃い」にこだわった。同じ本だと、お揃いの本を持っていると。
(何かと言えば俺とお揃いなんだ)
 そんな持ち物は殆ど無いのに。
 シャングリラの写真集の他には、二人で写した写真を収めたフォトフレームくらいしかブルーは持っていないのに。
(あいつにかかれば、マーマレードだってお揃いだしなあ…)
 夏ミカンの金色のマーマレード。隣町の家で母が作ったマーマレード。
 届けてやる度、お揃いなのだと喜んでいる。朝の食卓の味がお揃いになる、と。



 食べれば無くなるマーマレードさえも、お揃いだと言い出すブルーだから。
 ハーレイの家とお揃いの味だと、瓶に頬ずりしてしまいそうなブルーだから。
 自分が食べるのと同じマヌカを「土産だ」と持って行ってやったら喜ぶだろう。大喜びで何度も瓶を眺めて、お揃いだと笑顔になるだろう。
 明日はブルーの家を訪ねる土曜日だから、丁度いい。
(うん、此処はセットで買うべきだってな)
 同じのを二つ、と籠にマヌカの蜂蜜の瓶を突っ込んだ。
 何種類かのマヌカが置いてあるけれど、味は大体分かっているから、ブルー好みの甘いものを。
 レジに運んでゆけば、「セール中ですから」と割り引いてくれた。二つでかなりお得な値段。
 家に帰って、念のためにと片方を開けて味見してみて。



(よし!)
 薬っぽくはないな、と大きく頷いた。
 マヌカには癖のあるものも多くて、小さなブルーは一番最初にそれに当たった。薬っぽい味に。
 シロエ風のホットミルクを飲めば身体が温まるからと、右手が凍えるメギドの悪夢を避けられるからと勧めてやったら、母に「作って」と頼んだブルー。
 シナモン入りでマヌカ多めのセキ・レイ・シロエ風を頼んだブルー。恐らく勇んでシロエ風のを飲んだのだろうに、生憎と母が買ったマヌカが薬っぽい味だったものだから。
 「薬っぽい味だよ!」と聞かされた苦情。マヌカのせいだと、お母さんに試食して選んで貰えと言ってやったら、それから後には何も文句を言わなくなった。
(薬っぽいのは駄目なんだ、あいつ)
 あくまで甘いマヌカでなければ、小さなブルーのお気には召さない。その点、今日のは及第点。これなら自信を持って贈れる、「土産だぞ」と。
 明日はブルーにプレゼントだ。自分の家のとお揃いのマヌカを。



 翌日の土曜日、開けていない方のマヌカの瓶を小さな紙袋に入れて提げて出掛けて。
 ブルーの部屋に案内されて、お茶とお菓子が出て来た後に袋から出してテーブルに置いた。
「ほら、土産だ」
 小さなブルーはガラスの瓶に貼られたラベルを観察しながら。
「…マヌカ?」
「ああ。シロエ風のホットミルクには欠かせないしな」
 飲んでるんだろ、少し冷える夜は。ホットミルクは温まるからな。
「うん、でも…。なんでくれるの?」
 マヌカなんか一度も貰っていないよ、ハーレイからは。もっと普通の蜂蜜だって。
「割引だったからな。二つ買ったらお得だと書いてあったんだ。セールってヤツだ」
 たまにはお揃いもいいだろう、とウインクしてやった。
 お前はお揃いが大好きだからと、このマヌカは俺とお揃いだと。



「ありがとう!」
 案の定、感激しているブルー。マヌカの瓶に頬ずりしかねないほどに。
 予想通りの反応とはいえ、この調子だと自分の母に「今度からマヌカはこれにしてね」と、指定しそうな勢いだから。プレゼントしたのと同じものを買おうとしそうだから。
「おいおい、次からマヌカは必ずコレにしようとか思うなよ?」
 俺の定番ってわけじゃないんだ、買う度に色々変えてるからな。その中の一つというわけだ。
 お前がコレだと決めて買っても、俺は違うのを食っているかもしれないからな。
「そうなの?」
 いつも決まったヤツじゃないんだ、ハーレイのマヌカ…。
「うむ。何種類かを渡り歩いているってトコだな、今度はコレだ、と」
 今回はお前の舌に合わせて甘いのを選んだ。薬っぽいのは嫌なんだろ、お前?
 俺はああいうのも嫌いじゃないが、と話してやったら。
「えーっと…。渡り歩くって、同じマヌカの蜂蜜だけで?」
 他の蜂蜜も色々あるのに、マヌカを渡り歩いているの?
「まあな。前にはそこまでしていなかったが…」
 何も考えずに買ってたんだが、シロエ風だってことになるとな。
 シロエが好きだったマヌカってヤツはどれだろうか、と想像したくもなるってもんだ。シロエを追うなら一つに決めてしまうよりもだ、色々な味を試さないとな?
 薬っぽいのから甘いヤツまで、その時の気分で色々と買えば、どれかがシロエと重なりそうだ。



 シナモンミルクをマヌカ多めで。それがシロエが好んだミルク。
 前のブルーはシロエの声を聞いたというから、最期の思念をどうやら捉えていたらしいから。
 ハーレイにとってもシロエは少し特別な存在になった。彼に近付きたくなった。
 だからこれだと決めていないマヌカ、シロエが好んだ味はこれだと分からないマヌカ。なにしろ味わいが違いすぎるから、どれとも決められないマヌカ。
 小さなブルーは貰ったマヌカの瓶を見詰めて、不思議そうに蓋をチョンとつついた。
「マヌカの蜂蜜…。どれもマヌカなのに、どうして味が違うんだろうね?」
 薬っぽかったり、甘かったり。…全部が薬っぽい味とかだったら分かるんだけど…。
「木が育った土地によるんだろうな。土の性質とか、気候だとか」
 元々が癖のある花の蜜なだけに、うんと違いが出るんだろう。同じマヌカの花でもな。
「ふうん…? 花の蜜の味が変わるんだ?」
「マヌカは味の差が大きいんだろうな、他の花の蜂蜜と違ってな」
 蜂蜜にも色々種類があるだろ、アカシアだとかレンゲだとか。花の種類で風味が違うし、好みの蜂蜜を選ぶわけだが…。マヌカはそいつを一種類の中でやってるわけだな、いろんな味で。



「そっか…。色々な種類の花の蜂蜜、あるものね」
 味だけじゃなくて色まで違うよ、透明だったり、白っぽかったり…。うんと濃い色のも。お店にズラリと並んでるのを見たら、まるでジュースの瓶みたいだよ。同じ蜂蜜でも種類が色々。
「そうだな、今度は選び放題になったってな」
「えっ?」
 何が、とブルーがキョトンとするから「蜂蜜だ」と答えてやった。今度は好きに選べると。
「シャングリラじゃ選べなかっただろうが。蜂蜜と言ったら、単に蜂蜜だ」
 いろんな花の蜜を集めたヤツでだ、一種類には絞れなかったろう?
 あの花の蜂蜜を食ってみたい、と思い付いても、出来たのはせいぜい味見くらいか…。蜜の量がそんなに無かったからなあ、シャングリラ中の仲間が好きに選べるほどにはな。
 ついでにマヌカは影も形も無かったぞ。シャングリラの何処を探してもな。
「そうだっけね…」
 蜂蜜はあっても、クローバーの蜂蜜だけとか、そんな風には出来なかったね。
 あの船の中で咲いていた花、全部の蜜を集めて混ぜるのだけが精一杯で。



 シロエ風のホットミルクを作りたくても、マヌカが無かったシャングリラ。
 もしもマヌカの木があったとしても、その蜜だけで蜂蜜を作れはしなかった。シャングリラ中の仲間に行き渡るだけの量の蜜が採れはしないから。マヌカの蜜だけでは足りないから。
 花の種類の数だけの蜂蜜が作れることなど、けして無かったシャングリラ。
 人類は贅沢に暮らしていたのに。
 教育ステーションの生徒に過ぎないシロエでさえもが、マヌカを注文出来たのに。
 ステーションの中で蜂蜜は作っていなかったろうに。
 シロエが好んだマヌカの蜂蜜は、宇宙船で何処からか運ばれて来ていたものだったろうに。
 ただの生徒が好みの蜂蜜を選んで食べられた教育ステーション。
 自給自足でやっていたのに、蜂蜜の種類を選べなかったシャングリラ。
 その差はかなり大きいな、とハーレイが記憶の彼方の白い船へと思いを馳せていたら…。



「そういえば、シャングリラのミツバチ…」
 小さなブルーが白い船の名前を口にしたから。
「ん?」
 シャングリラのミツバチがどうかしたのか、お前も蜂蜜、気になるのか?
「えーっと…。蜂蜜の方もそうなんだけど…。それを集めていたミツバチだよ」
 今でもいるのかな、あのミツバチ。…前のぼくたちが飼ってたミツバチ。
「ああ、あれな…!」
 特別なミツバチだったっけな、と頷いた。
 普通のミツバチとは違っていたと、見た目には同じだったけれども、と。
「思い出した、ハーレイ?」
 あのミツバチって、その辺を飛んでいるのかな?
 今でも何処かで飛んでいるかな、花の蜜を集めに、何処かでせっせと。



「いや、あれは…。あいつらは地球にはいないだろうなあ…」
 恐らく、いない。今の地球は遠い昔とそっくり同じに戻されちまったらしいしな。
 ヤツらには向いていないのさ。昔の姿を取り戻した地球は。
「…やっぱり?」
 探したって飛んでいないんだ…。前のぼくたちがお世話になったミツバチ。
「もしかしたら、研究施設に行ったら飼っているかもしれないが」
「そういうものなの?」
 ナキネズミみたいに絶滅しちゃったっていうわけじゃないのかな、あのミツバチは。
「今だってテラフォーミングの技術ってヤツはあるんだからな」
 人間が住める星になるよう、改造する技術は今の時代も現役なんだ。そうなってくると、あれも必要になるだろう。ナキネズミと違って役に立つんだ、あのミツバチは。
 更に改良が進んだかもしれんが、何処かにはいるさ。地球じゃなくても、何処かの星にな。
「そうかもね…」
 植物を植えて育てるんなら、ミツバチ、必要になるものね。
 最初からうんと広い範囲を緑化できない環境だったら、あのミツバチの出番だよね…。



 シャングリラで自給自足の生活をしようと皆で取り組み始めた頃。
 花粉を運ぶ虫が必要だから、とミツバチを導入しようとした。
 けれど…。
「例のミツバチなんだがね」
 長老たちが集まる会議の席でヒルマンが髭を引っ張った。
「何か問題があるのかい?」
 ブルーの問いに、ブラウがヒラヒラと手を振りながら。
「普通のミツバチだと駄目なんだってさ、この船ではね」
「どういう意味だい?」
 重ねて投げ掛けられた質問。答えを返したのはエラだった。
「空間が限られ過ぎているのです、ソルジャー」
 シャングリラの中だけでは難しいでしょう、という説明。
 ミツバチを育ててゆくために必要な沢山の花。農場ならばともかく、これから作る予定の公園。そういった場所にはミツバチは適応できない、と。



「要するに、空間が狭すぎるのだよ」
 沢山のミツバチが生活出来るだけのスペースが無い、というヒルマンの指摘。彼らを養うための花の蜜にしても、公園などでは充分に確保できないと。
「それなら、ミツバチの数を減らせば…」
 花の数やスペースに見合った数のミツバチを飼えば、とブルーが言ったが、ヒルマンは首を横に振った。それではミツバチの社会が成り立たないと。僅かな数では巣も作らないし、次の世代さえ生まれないのだと。
「ミツバチってヤツはそうらしいよ」
 厄介だよねえ、と腕組みしたブラウ。何の蜂でもかまわないなら、狭いスペースでも飼育は可能らしいけれども、そうなると肝心の蜂蜜がそれほど採れないらしい。ミツバチは名前の通りに蜜を集めてくれるというのに、他の蜂では蜜は二の次、三の次。
「困ったもんじゃ。同じ飼うなら、蜂蜜は是非とも欲しいんじゃがのう…」
 蜂を飼うならミツバチじゃろう、とゼルもしきりと言うのだけれど。
 そのミツバチは沢山の蜂で構成された巣を作る性質を持っていた。女王蜂を頂点に暮らす彼らが巣を分ける時は、山ほどの蜂が群れを成してついてゆくらしい。
 このくらいだそうだよ、とヒルマンが両手で示した巣分かれの折のミツバチの塊、それは小さな鍋ほどもあって。どのくらいのミツバチが詰まっているのか、百や二百では済まないだろう。
 彼らを小さな公園に放しても、直ぐに飢えるに決まっている。蜜が足りなくて。



「…では、公園でミツバチを飼うのは諦めろと?」
 他の蜂にするしかないのだろうか、と尋ねたブルーに、ヒルマンは「いや」と答えを返した。
「解決策は一応、あるのだがね。…人類もこうした問題に直面したらしくてね」
 そういったミツバチを作り出したらしい、という解説。
 テラフォーミング用に開発された特殊なミツバチ。広大なスペースや充分な蜜が無い惑星でも、生きてゆけるように改良されている品種。
 普通のミツバチよりも狭い範囲で巣作りをするし、巣を構成するミツバチの数も遥かに少ない。小さな公園の中であっても、充分に活動できるという。
「そのミツバチは何処に行けば手に入るんだい?」
 居場所が分かるなら、ぼくが行って奪ってくることにするよ。この船に必要なものなんだから。
 見当を付けてくれるかい、と申し出たブルー。ぼくが行こう、と。
「そういった研究をしている所か、テラフォーミング中の惑星になるね」
 ヒルマンが挙げれば、エラが「研究所の方が確実でしょう」と補足した。
「女王蜂から蜜を集める働きバチまで、ミツバチの社会が丸ごと必要ですから。同じ巣箱を奪いにゆくなら、一ヶ所で纏めて飼育している研究所のケースから奪った方が…」
「そうじゃな、混じり気なしで手に入りそうな場所も研究所じゃろう」
 他の虫だの、菌だのを持ち込まずに済むのは研究所で飼育しているものじゃろう、というゼルの言葉は確かに正しかったから。
 シャングリラの中に余分な虫や雑菌などは持ち込まないのが一番だから。
 研究所を狙おうということになった。テラフォーミングを手掛けるための研究所を。



 目標の惑星を絞り込み、人類に発見されない場所にシャングリラを停船させておいて。
「行ってくるよ」
 直ぐに戻る、と宇宙空間へと飛び立ったブルー。
 首尾よく研究所の中に入り込み、幾つも並んだケースの中からミツバチの巣箱を奪って戻った。今ある農場をカバーできる数だけのミツバチの巣箱を。
 その日からミツバチは働き始めて、後はヒルマンが必要に応じて増やしていった。
 改造が済んで白い鯨が出来上がってからは、あちこちの公園に巣箱が置かれた。広さに応じて、花の数に応じてミツバチの巣箱を一個、二個と。
 ミツバチは休まず働いていたから、いつでも蜜が集まった。
 農場でなくても、居住区に鏤められた小さな憩いの場からも、漏らさずに蜜を。花をつける木や草花があれば、シャングリラ中から集めることが出来た蜂蜜。
 巣箱を開けて取り出しさえすれば、トロリとした蜂蜜が手に入った。



「でも、あの蜂蜜…」
 種類は一つだけだったんだよね、とブルーが呟く。花は沢山あったけれども蜂蜜は一つ、と。
「ブレンドしちまっていたからなあ…」
 選ぶ自由も何もなくって、全部ひっくるめて蜂蜜だった。この花のがいい、と味見をしたって、皆に行き渡りはしないんだ。混ぜて使うしかなかったってな、シャングリラじゃな。
「うん…。今はホントにいろんな蜂蜜があるのにね」
 シャングリラにあったミツバチの巣箱も、中身は色々あったのに…。
 公園の巣箱と農場の巣箱でも違っただろうし、公園のだって、公園ごとに違っていたかも…。
 だけど混ぜたら全部おんなじ、ただの蜂蜜になっちゃってたよね。
 いつ見ても普通の金色をしてて、濃さだってまるで変わらなくって…。
 ブレンドする前に味見して回れば楽しかったのかな、あの蜂蜜。巣箱を端から開けてみて味見。
「馬鹿、刺されちまうぞ、そんなことをしたら」
「前のぼくだよ、シールドがあるよ」
 ちょっぴり開けてみればよかった、ミツバチの巣箱。
 どんな蜂蜜が入っているのか、味見しとけば良かったかも…。



 ちょっと残念、と惜しそうなブルー。好奇心いっぱいの小さなブルー。
 ソルジャー・ブルーは開けなかったけれど、小さなブルーなら巣箱を開けたがるだろう。中身を見たいと、此処のミツバチが集めた蜂蜜を味見してみたいと。
(確かに、巣箱の置いてある場所で味は違っていたんだろうが…)
 前の自分も味見して回りはしなかった。
 キャプテンだったけれど、巣箱のある場所を確認したりはしたけれど。
 蜂蜜の出来はどんな具合かと、順調に採取出来ているかとデータのチェックはしていたけれど。
 今から思えば、惜しいことをした気がしないでもない。
 白いシャングリラのあちこちに置かれたミツバチの巣箱が時の彼方に消えた今では。青い地球の上に生まれ変わって、セールの蜂蜜を選べる今では。
(どんな蜂蜜があったんだかなあ…)
 公園の花たちを思い浮かべる。
 季節によって、公園によって違っていた花、様々な花たち。
 農場で咲く花も色々だった。畑と牧場ではまるで違うし、ミツバチが集めて回っていた蜜も全く違ったのだろう、巣箱によって。それが置かれた場所によって。
 けれども、大勢が暮らす船だから。何種類もの蜂蜜を揃えて楽しむ余裕は無かったから。
 一種類の花のものだけを集めた蜂蜜は一度も作れなかった。
 常にブレンド、農場やあちこちの公園のものを。
 色も味わいもまるで変わり映えのしない、金色の蜂蜜が出来ていただけ…。



「ねえ、ハーレイ。シャングリラの蜂蜜、一種類しか無かったから…」
 混ぜちゃった分しか無かったから、とブルーがマヌカの瓶を指先でそっと撫でてみて。
 蜂蜜の色をガラス瓶越しに覗き込みながら、ラベルに刷られたマヌカの花の写真を見ながら。
「シャングリラにマヌカを植えていたって無駄だったろうね」
 こういう蜂蜜、採れないんだよね。シロエは教育ステーションでも食べていたのに…。
 ぼくたちの船じゃ無理だったんだね、他の花の蜂蜜と混ざってしまって。
「まあな。…しかしだ、それ以前にマヌカは役に立たんぞ」
 公園に植えるというなら別だが、農場に植えて栽培するにはマヌカは不向きな植物だしな。
 栽培自体は難しくないが、マヌカそのものが観賞用の花だと言うか…。
「え? でも、蜂蜜…」
 マヌカの蜂蜜、風邪の予防に効くんじゃないの?
 風邪を引いた時にも殺菌作用があるから効く、って、ハーレイ、言っていたじゃない。
「そういう程度の植物だってな、蜜には殺菌作用があるが…」
 薬としても使えるんだが、その他の部分。あまり役には立たないんだよなあ、宇宙船の中では。
 葉はハーブティーになるが、ただそれだけだ。
 この写真みたいな花は咲いても、実は食べられない。公園向きの植物ってわけだ、マヌカはな。



「それじゃ、シャングリラにマヌカを植えてみたって…」
 他の蜂蜜と混ざってしまって無駄って言う前に、マヌカが役に立たないんだ?
 公園に植えて、花が咲いたら「綺麗だなあ」って見に行くだけで。
「そうなるな。いくら蜂蜜に効果があっても、ブレンドしちまえば意味が無いしな…」
 病人用に、って別に取っておけるほどの量の蜂蜜が採れるなら別だが。
「他の花に比べて、うんと沢山の蜜が採れるわけでもないんだね?」
 マヌカを植えてある所の巣箱だけ、蜂蜜の量が多めになるっていう花でもないんだ?
「そのようだ。蜜の量が多いという話は知らないからな」
 沢山採れると有名だったら、そのように書いてあるだろう。俺はそういうデータは知らん。
「ハーレイ、マヌカに詳しいね」
「シロエ風のホットミルクをお前に勧めた以上はな」
 マヌカが何かも知らないようでは、全く話にならないだろうが。
 どういう花から採れる蜂蜜かは、きちんと押さえておくべきだってな。



 マヌカの蜂蜜だけは以前から知ってはいたが、とハーレイは笑う。
 たまに両親が買っていたから、と。
「ハーレイのお父さんたちって…。風邪の予防に?」
 風邪の季節になったらマヌカの蜂蜜を買うの?
「そんなトコだな、シロエ風にはしちゃいないがな」
 ついでに言うなら、俺の家では風邪の予防には主に金柑だしなあ…。
 マヌカを買っても薬代わりに使うよりかは、ただの蜂蜜と同じだな、うん。トーストに塗ったりして食っちまう、と。
「金柑…。あの甘煮のこと?」
 ハーレイがくれた、金柑の甘煮。お父さんたち、マヌカよりも金柑だったんだ…。
「当然だろうが。家の庭で採れるし、おふくろが山ほど煮るんだし…」
 そっちの方が馴染みの味ってな。ヒョイとつまんで風邪の予防だ、あの金柑を。
 お前、おふくろの金柑、ちゃんと食ってるか?
「うん、一応…」
 風邪を引きそう、って感じがした日は食べてるよ。ハーレイにも叱られちゃったから…。
「要するに、あまり食ってはいないな?」
 マズイと思った時だけしか食っていないんだな、お前?
「だって、金柑、もったいないし…」
 食べたら減っちゃうよ、金柑の甘煮。ぼく専用だよ、って言ってあるけど…。
「馬鹿。いくらでもあると言ってるだろうが」
 金柑の季節の終わり頃には余っちまって菓子にするほど作るんだ、あれは。
 お前が食うなら、いくらでも貰って来てやるから。



 風邪を引く前にしっかり食っとけ、とブルーの頭を軽く小突いた。
 引いてからでは手遅れだろうが、と。
「いいな、きちんと食うんだぞ?」
 風邪の予防には金柑だ。マヌカも悪くはないんだがなあ、金柑もよく効くからな。
「でも、引いちゃったら…。喉が痛くなる風邪だったら…」
 あの甘いのをまた食べられるから、とチラチラと見ている小さなブルー。
 前に喉風邪を引いてしまった時に持って来てやった、透明になるまで煮詰めた金柑。金色の飴のような柔らかい金柑をブルーは狙っているようだから。
 あわよくばあれをもう一度、と企んでいるらしい気配がするから。
「…分かった、おふくろが煮詰めた金柑だな? お前はあれを食ってみたい、と」
 そういうことなら、たまに食わせてやる。
 喉風邪なんかは引いてなくても、俺が来た時の土産にな。
「ホント?」
 お土産にくれるの、あの金柑を?
 ハーレイのお母さんが煮詰めた金柑、ぼくに食べさせてくれるんだ…?
「ああ。俺もケチではないからな」
 今日だって土産を持って来ただろ、頼まれてもいないマヌカをな。
 お前がお揃い、喜びそうだと買って来たんだ、金柑くらいはお安い御用だ。
 だから、喉風邪を引いちまう前に食っておくんだぞ、金柑の甘煮。
「うんっ!」
 金柑も食べるし、マヌカもホットミルクに入れるよ。
 風邪の予防にちゃんと使うよ、ハーレイが買って来てくれたマヌカだもの。



 ハーレイとお揃い、とブルーがマヌカの瓶を幸せそうに眺めているから。
 それは嬉しそうに顔を綻ばせて蜂蜜の瓶を見詰めているから、ハーレイの胸まで温かくなる。
(やっぱりお揃いが好きなんだな、こいつ)
 小さなブルーが大好きなお揃い、持ち物でなくても喜ぶお揃い。
 またいつか買ってやりたいと思う。
 二つでお得なフェアがあったら、ブルーの分と自分の分とで二つ。
 そうして一つをブルーの所に持って来てやろう、「お揃いのものが好きだったよな」と。
 マヌカでなくても、蜂蜜でなくても、こういう風に食べて無くなってしまうもの。
 お揃いの持ち物を買ってやるには早すぎるから。
 いくら恋人でも、小さなブルーは十四歳にしかならない子供だから。



 お揃いの持ち物を幾つも持てない代わりに、食べれば消えてしまうもの。
 そういうお揃いを作ってやろうと、買って来てやろうと思ってしまう。
 ハーレイとお揃いのマヌカを貰った、と幸せ一杯のブルーの心が弾んでいるから。
 お揃いなのだと喜びに跳ねているから、ブルーが喜ぶお揃いの食べ物を、機会があれば。
(もう牛乳はお揃いだっけな)
 四つ葉のクローバーのマークの牛乳、ブルーの家にも自分の家にも届く牛乳。
 その牛乳にお揃いのマヌカを入れたら、お揃いのホットミルクが出来る。
 シナモンを振って、セキ・レイ・シロエ風のお揃いのホットミルクの出来上がり。
(うん、ホットミルクまでがお揃いなんだ)
 小さなブルーも、その内に気付くことだろう。お揃いなのだ、と。
 気付いた時には大喜びで飛び跳ねそうなブルーだから。
 お揃いの味だと、シロエ風のホットミルクがお揃いになったと、幸せに浸りそうだから。
 また買ってやろう、お揃いが好きな小さなブルーに。
 食べて美味しいお揃いのものを。
 お揃いの持ち物を幾つも持てない間は、幾つも、幾つも、食べたら消えるお揃いのものを…。




              お揃いの蜂蜜・了

※ブルーがハーレイに教えて貰った、シロエ風のホットミルクと、マヌカの蜂蜜。
 今度はお揃いの蜂蜜を貰えたようです。シャングリラでは無理だった、マヌカの蜂蜜を…。
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(此処は…)
 ハーレイは周りを見回した。
 暗くガランとした、深い海の底を思わせる青い空間。明かりは点いているけれど、暗い。全体を明るく照らし出しはしない。
 全容が全く掴めない場所。天井は何処か、壁は何処なのか。何処かに確かに在る筈だけれど。
 それは青の間。ブルーの、ソルジャー・ブルーの私室。その入口。
 其処に自分が立っていた。たった一人で。



(何故、此処に…)
 青の間はもう、無くなったのではなかったか。白いシャングリラと共に。
 最後のソルジャーだったトォニィが解体を決めて、消えてしまったのではなかったか。
 それなのに何故、と訝りつつ。
 ふと見れば、足元に白い花びら。何の花かは分からないけれど、白い花びらが一枚、はらりと。
(花びら…?)
 青の間に花はあったろうか、と視線を上げて初めて気付いた。
 入口から奥へと緩やかに昇るスロープの両脇、埋め尽くすように白い花々。これといった種類があるわけではなくて、それはとりどりに様々な花たち。
 八重の花やら一重の花やら、大輪の花から小さな花まで。どれもが白い。白い花たち。
 まるでシャングリラ中の白い花たちを全て集めて来たかのように。
 白い鯨のあちこちに鏤められた幾つもの公園、其処に咲く花を端から摘んで来たかのように。
 白ければいいと、種類も何も問いはしないと、白い花を全て。
 咲き初めのものから満開のものまで、あれもこれもとかき集めたように。



(白い花…?)
 それ以外の色は一つも無い。青も、紫も、桃色の花も。
 ブルーは白い花が好きだったろうか、これほどに白ばかりを飾らせるほどに…?
(これでは、まるで…)
 結婚式か何かのようだ、と首を傾げた途端に思い当たった。
 葬儀なのだ、と。
 白は白でも婚礼のための白い花たちではなくて、弔いの花。送るための花。
 ソルジャー・ブルーを。
 今は亡き人の魂を送り出すために、青の間に飾られた白い花たち。
 スロープの両脇を埋めて、それが行き着く所まで。一番上にあるブルーのためのスペースまで。
 円形をしている其処の周りにも無数の白い花たちが見えた。遠すぎて形は掴めないけれど、取り巻くように飾られた白い花たち。ブルーの死を悼んで捧げられた白。白い花々。



(あそこに…)
 海の底を思わせる青の間の中、其処だけ淡い光を纏ったブルーのベッド。
 ソルジャー・ブルーが寝起きしていた天蓋つきのベッド。
 何度となく其処で夜を過ごした。ブルーを抱き締め、共に眠った。
 誰も気付きはしなかったけれど。ベッドの持ち主に恋人がいたことも、そのベッドで恋人と愛を交わしていたことも。
(…ブルー…)
 誰よりも愛したソルジャー・ブルー。気高く美しかった恋人。
 その恋人があそこに、あそこのベッドに、一人、眠っているのだろう。
 永遠の眠りに就いたブルーが。鼓動を止めてしまったブルーが。
 白い花に埋もれて、たった一人で。
 生前と同じにソルジャーの衣装とマントを身に着け、ただ一人きりで。
 この部屋には誰もいないから。
 葬儀の準備は全て整っているようだけども、ブルーの亡骸を見守る者さえいないようだから。
 誰もが忙しくしているものなのか、はたまた夜更けで皆は寝静まっているものなのか。



「ブルー…!」
 誰一人いないのは、あんまりだから。
 ブルーの魂も寂しがるから、側に居てやろうとベッドに向かって声を張り上げた。
 俺が来たからと、直ぐに其処まで行ってやるからと。
 駆け出そうとした時、脇をスルリと通り抜けた影。
 いつの間に誰が入って来たのか、と思えば、それは小さなブルーで。
 十四歳のブルー。少年の姿をしているブルー。
 ハーレイの方を振り返るでもなく、声を掛けていったわけでもなくて。
 小さなブルーはスイと通り過ぎて行った、ハーレイなど見えていないかのように。



(なんで、あいつが…)
 あのブルーが此処に居るのだろうか、と首を捻る間に、ブルーはスロープを登ってゆく。
 細っこい身体で、細っこい足で。
 白い花々に飾られた道を、上へと、ベッドの在る方へと。
 ぼうっと浮かび上がる天蓋つきのベッド。ソルジャー・ブルーの亡骸が眠っているベッド。白い花たちに取り巻かれて。弔いの花たちの中に埋もれて。
 もしも其処へと着いてしまったら…。
(死んでしまう…!)
 小さなブルーも。
 生きている小さなブルーの命も無くなってしまう。
 自分の亡骸に引き摺り込まれて。死の淵の底へ引き込まれて。
 けれどブルーは分かってはいない。きっと全く気付いてはいない。
 このスロープを登り切ったら何があるのか、自分の身に何が起こるのかも。
(此処はあいつの部屋でもあるんだ…!)
 小さなブルーに生まれ変わる前は、此処で暮らしていたのだから。
 ただ懐かしさだけで、前の自分の部屋だというだけで上を目指しているのだろう。かつて何度も歩いた道を。前の自分が慣れ親しんでいたスロープを、上へ。
 その先に何が待つかも知らずに、白い花たちが意味するものも知らずに。



「行くな、ブルー!」
 駄目だ、と叫んだ声は届かず、ブルーは振り向きさえしない。
 止めようと駆け出した足がツルリと滑った。踏み出した分だけ、後ろに戻った。
 まるで氷のようなスロープ。滑って前へと進めないスロープ。
 いや、本当に凍り付いていた。
 スロープの脇に見える水槽の水面は凍っていないのに。部屋の空気も凍てていないのに。
 それなのに凍り、鈍い光を放つスロープ。
 緩やかな弧を描くスロープだけが氷の坂となっていた。登ろうとする者の足を拒絶する氷。前へ進もうと踏み出す分だけ、後戻りさせる氷の道に。



(くそっ…!)
 登ろうとしては逆に滑って、ただの一歩も進めはしなくて。
 ふと足を見れば、いつの間にか履いていたキャプテンだった頃の自分の靴。制服までをも纏っていた。前の自分が着た制服を。
 この忌々しい靴が悪いのだ、と脱ぎ捨てようとしたけれど。
 靴さえ脱いだら滑らないだろうと、足から抜こうとしたのだけれど。
(脱げない…?)
 足から離れてくれない靴。手で掴んでみても脱げない靴。
 その間にもブルーは登ってゆく。小さなブルーは歩いてゆく。
 死への階段を、氷のスロープを、滑りもせずに。
 ハーレイに背を向け、細っこい足で、小さな歩幅で。



「ブルー! 行っては駄目だ!」
 止まれ、と声の限りに叫んだけれども、小さなブルーには届かない。
 それにブルーは気付いてもいない。
 懸命に止めている声があることも、何故その声が止めるのかも。
 懐かしさからか、好奇心からか、立ち止まりもせずに登ってゆくブルー。
 スロープの上に着いてしまったら、自分の亡骸があるというのに。近付いたら最後、自分の命もそれに飲み込まれてしまうというのに。
(止めなければ…!)
 何としても、と花を千切ってスロープに撒いた。
 白い弔いの花たちを毟り、自分の行く手に撒き散らした。
 氷の坂で靴が滑るというなら、こうすればマシになるだろう。滑り止めに花を散らしたら。
 弔いの飾りは台無しになってしまうけれども、今はそれどころではないのだから。



「止まるんだ、ブルー!」
 花を千切っては散らして、踏んで。
 前に進めるようにはなった。花は無残な姿になってゆくけれど、登れるようになったスロープ。
 そうして懸命に追ってゆくのに、縮まらない距離。
 止まってくれない小さなブルー。どんどん登ってゆくブルー。
 前の自分が暮らした場所へと、今は葬儀のために白い花で飾られたスペースへと。
「ブルー…!」
 絶叫しながら花を千切り、撒いて。
 滑り止めにと踏みしめ続けて、やっとの思いで登り切って。
「…ハーレイ?」
 どうかしたの、と小さなブルーが振り返ったけれど。
 天蓋つきのベッドの側まで近付いていた足を止めてくれたけれど。
 その身体が揺らめき、消えてしまった。瞬きする暇さえも与えずに消えた。
 赤い瞳の残像を残して、一瞬の間に。
 小さなブルーは声も上げずに吸い込まれて消えた。
 ベッドに眠った亡骸の中に。前の自分の、呼吸も鼓動も止めてしまった器の中に。



「ブルー…!」
 慌てて駆け寄り、ベッドの亡骸を抱え起こした。
 ソルジャーの衣装を着けた身体を、冷たくなってしまった身体を。
 ベッドの上には一面の花。ソルジャー・ブルーを送るための花。どれも白くて、ただ一面に。
 その花たちが折れて潰れてゆくのもかまわず、懸命にブルーを揺さぶったけれど。
 傍目には眠っているとしか見えない、美しい亡骸を揺すったけれど。
 開かない瞼、閉じたままの睫毛。
 赤い瞳は開いてくれない。小さなブルーを吸い込んだままで、飲み込んだままで。
 もう永遠に目覚めないブルー。
 後は死の国へと旅立つだけのブルーの魂。
 小さなブルーも中に居るのに、その魂も一緒に溶けているというのに。
 揺すっても、揺すっても起きないブルー。目覚めてはくれない、永遠の眠り。
 白い花の中で。
 ベッドを埋め尽くす白い花たちの中で、ブルーは二度と目覚めはしない。死んでしまったから。
 こんなに安らかな顔だけれども、傷の一つも無いのだけれど。
 その肉体は滅びてしまって、息も鼓動も戻ってはこない。小さなブルーを閉じ込めたままで。



(失くしちまった…)
 前と同じに失くしてしまった。小さなブルーを、戻って来てくれた小さなブルーを。
 ようやく取り戻した筈のブルーを、目の前で連れてゆかれてしまった。
 自分が間に合わなかったから。
 もっと早くに追い付いていれば、小さなブルーを止めていたなら、間に合ったのに。
(俺はまた失敗しちまったんだ…)
 まただ、とブルーの亡骸を抱き締めて泣いた。
 前も、今度も追い切れずに失くした。ブルーを捕まえられずに失くした。
 同じだ、と泣いて、泣き崩れて。
 目覚めてくれない亡骸を抱いて、冷たい身体を腕に抱いて泣いて…。



(…朝?)
 泣き濡れた目を開けば、朝で。
 まだ部屋の中は薄暗いけれど、耳に届いた鳥の声。白いシャングリラにはいなかった小鳥。
 青の間はもう何処にも無かった。
 腕に重さが残る気がする、冷たくなってしまったブルーの亡骸も。
(…夢か…)
 夢だったのか、と身体を起こして頭を振った。
 ゾクリと走った恐怖と悪寒。氷のスロープの冷たさが背中に貼り付いたように。
 酷い悪夢だった。そうとしか言えない、恐ろしかった夢。恐ろしすぎる夢。
 けれども、ソルジャー・ブルーの葬儀。
 出来なかった葬儀。
 白いシャングリラではしてやれなかった、出来ずに終わったブルーの葬儀。



(ああしてやるつもりだったんだ…)
 シャングリラ中の白い花を集めて、青の間に飾って、ベッドに眠るブルーの周りにも。
 ブルーを悼む仲間たちの心を白い花に託して、その中にブルーを眠らせてやって。
(最後の一輪は俺が置くんだ…)
 キャプテンがそれを眠るブルーの胸に置いても、顔の側にそっと置いてやっても。
 誰も咎めはしなかったろう。
 ブルーの右腕であったキャプテンなのだし、それを置くのが相応しい、と。
 別れの口付けは出来ないけれども、代わりに花を。
 最愛の恋人の死出の旅路に添えてやる花を、心をこめて。「愛している」と心の中で呟いて。
 そうしてブルーを送り出してやって、全てが終わってしまったならば。
 葬儀を終えたら、後を追って死ぬ。隠し持っていた薬を使って、ブルーの後を追ってゆく。
 何処までも共にと誓っていたから。一緒にゆくと誓いを立てていたから。
(…なのに、叶わなかったんだ…)
 その思いが夢を招いただろうか、前の自分の悲しい記憶が。
 ブルーの後を追ってゆくどころか、葬儀すら出来ずに終わった記憶が。



(だがなあ…)
 してやりたかった葬儀はともかく、小さなブルーを奪われた。
 目の前で奪われ、失くしてしまった。
 亡骸になった前のブルーに奪い取られて、連れてゆかれて。
 小さなブルーは自分に気付いてくれたのに。
 「ハーレイ?」と振り向き、「どうかしたの」と愛らしい声を掛けてくれたのに。
 抱き締める前に消えてしまった、前のブルーに吸い込まれて。亡骸の中に取り込まれて。
 揺すっても目覚めなかった亡骸。戻っては来なかった小さなブルー。
 ただ泣き続けて、泣き崩れていただけの悲しすぎた夢。小さなブルーを失くした夢。



(たとえ前のあいつが望んだとしても…)
 ブルーは一人しかいないのだから、そんなことなど起こり得ないと頭では分かっているけれど。
 あんな悪夢を見てしまった後は、二人いるような気さえしてしまう。前のブルーと、今の小さなブルーの二人が。
 もしもメギドで死んでしまった前のブルーが欲しがったとしても、小さなブルーは渡せない。
 ブルーの望みは何でも叶えてやりたいけれども、これだけは決して譲れはしない。
 小さなブルーを渡しはしないし、共に連れては行かせない。
 前のブルーがどんなに望んで、欲しいと願って訴えたとしても。
(俺ごと連れて行こうって言うなら、いいんだがな…)
 ブルーの亡骸に、死んだ魂に引き摺られるままに死んでゆくのもいいだろう。
 小さなブルーごと連れてゆかれるのならば、そういう最期も悪くはない。
 ブルーを失くして一人残るより、共に逝く方がずっといい。
 前の自分は独り残されて、白いシャングリラで地球へまで行った。前のブルーが望んだから。
 けれども今の小さなブルーは残れと言いはしないだろう。自分が一緒に逝くと言ったら、止める代わりに手を繋ぐだろう。
 行こうと、何処までも一緒に行こうと。



(そういえば、あいつ…)
 生まれ変わって来た、小さなブルー。青い地球の上で出会ったブルー。
 今度は一緒に、と何度も聞いた。何処までも一緒だと、けして離れはしないのだと。
 小さなブルーに頼まれてもいる。
 「ハーレイの寿命が先だと言うなら、ぼくも一緒に連れて行って」と。
 一人残されて生きるのは嫌だと、自分の命が短くなっても一緒に行きたいと頼み込まれた。
 そうするために心の一部を結んで欲しいと、鼓動が同時に止まるように、と。
 まだ結んではいないけれども、いつか結婚したならば。
 ブルーの想いが変わっていなければ、サイオンで心を結ぼうと決めた。共に逝けるように。
(それなのに置いて行かれちまった…)
 とびきりの悪夢、ブルーを失くしてしまう夢。
 前のブルーに小さなブルーを連れて行かれてしまう夢。



(とんだ悪夢を見ちまったもんだ…)
 俺としたことが、と溜息をついた。
 同じ小さなブルーの夢なら、もっと生き生きとしている夢。生気に溢れた小さなブルーの笑顔を夢で見たかった、と思った所で気が付いた。今日は土曜日だったのだ、と。
 週末の土曜日、ブルーの家を訪ねてゆける日。
(…あいつに会えるな)
 すっかり夜が明けて明るくなったら。
 小さなブルーの家に行っても、迷惑でない時間になったなら。
(うん、学校のある日でなくて良かった)
 平日だったら、仕事が終わるまでブルーの家には行けないから。
 小さなブルーを見かけたとしても、抱き締めたりは出来ないから。
 その点だけは今日で良かったと思う。あれは夢だと、ただの夢だともうすぐ分かる筈だから。



 気分を落ち着けるために、朝食は少し多めに食べた。
 現実というものを意識するには、食べるのがいい。朝食をしっかり味わいながら噛み締め、香り高いコーヒーで目を覚ますのが。
 とはいえ、やはり心が騒ぐ。小さなブルーを失くした悪夢がまだ胸の奥で騒いでいる。
(あいつに何事も無ければいいが…)
 前の自分も今の自分も、予知能力などありはしないけれども、恐ろしい。虫の知らせという言葉だってあるし、嫌な予感ほど当たるもの。
 小さなブルーも酷い夢を見て泣きじゃくったとか、あるいは病に臥せったとか。
(まさかな…)
 そんなことはあるまい、と思いはしても消えない恐怖。消えてくれない悪夢の記憶。
 冷たかったブルーの亡骸の重さと、失くしてしまった小さなブルーと。
(気のせいだ、俺の気のせいってヤツだ…)
 ブルーはピンピンしている筈だ、と自分を叱咤し、朝食の後片付けを済ませて家を出た。自然と足が早くなる。ブルーの家へと、早く着かねばと。



 生垣に囲まれたブルーの家。その前に着いて門扉の脇のチャイムを鳴らせば、二階の窓から手を振るブルー。小さなブルー。
 それだけで肩の力が抜けた。何も無かったと、ブルーは元気に生きていると。
 悪夢のことはもう忘れよう、と自分自身に言い聞かせたけれど。あれは夢だと、ただの恐ろしい夢だったのだと、言い聞かせながらブルーの部屋に着いたけれども。
 ブルーの母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去るなり、ブルーに訊かれた。
「ハーレイ、どうかしたの?」
 テーブルを挟んで向かいに座った小さなブルーが、赤い瞳で見詰めてくるから。
「…分かるか?」
 今日の俺は何処か違うのか、うん…?
「えっとね…。ちょっぴり寂しそうなんだよ」
 いつものハーレイ、そんな顔なんかしないのに…。何かあったの、寂しくなること。
「ふうむ…。なら、来てくれるか?」
「え?」
「来てくれるか、と言っているんだ、お前にな」
 此処だ、と膝を指差した。椅子に座った自分の膝を。此処に来て座ってくれないか、と。



 普段はブルーが強請って座る膝の上。ハーレイの方から「来い」とは滅多に言わないから。
 それも来てまだ間もない時間に手招きなどはしないから、ブルーはキョトンと目を丸くした。
「…いいの?」
 座っちゃっていいの、本当に?
「うむ。俺がそういう気分だからな」
 ほら、と椅子を引いて膝を叩いてやったら、ブルーは早速やって来た。それは嬉しそうに座った小さな身体を胸に抱き寄せ、強く抱き締めて。
「ああ、お前だ…」
 お前だな、と背を撫でていたら、ブルーがクイと顔を上げて、見上げて。
「ハーレイ、変な夢でも見た?」
 ぼくがメギドの夢を見ちゃうみたいに、嫌な夢とか…?
「当たりだ。それもとびきりのをな」
「どんな?」
「お前のメギドよりかは遥かにマシだが…」
 痛いわけじゃないし、殺されちまうってわけでもないし。
 だが、独りぼっちになっちまう所は似ていたな…。前の俺の夢を見たってわけではないが。



 訊かれるままに夢の話をしてやった。
 白い花に埋め尽くされた青の間、氷になってしまったスロープ。
 酷い夢だったと、あんな夢は一度も見たことがないと。
「…縁起でもないな、お前の葬式だなんて…」
 同じ白でも、婚礼の花なら良かったんだが。
 花嫁のブーケも白いドレスには白を合わせることが多いし、教会の飾りも白い花が多いし…。
「お葬式って言うけど、前のぼくでしょ?」
 ホントに一回死んでるんだもの、お葬式でもいいんじゃないの?
「それはそうかもしれないが…。お前を連れて行かれちまった」
 お前まで一緒に死んじまったんだ、だから縁起でもない夢だ、と…。
 もっとも、昔の日本って国じゃ、死んじまう夢っていうのは悪い夢ではなかったそうだが…。
 逆に吉だと言ったらしいが、どうにも気分が落ち着かなくてな…。
「その夢…。悪い夢ではないと思うよ、ぼくも一緒に死んじゃってても」
「何故だ?」
 お前、夢占いってヤツに詳しかったか、俺は授業で喋っちゃいないと思うがな?
 たった今、お前に話した分よりも詳しく話した覚えは無いんだが…。
 夢が吉だと言われてる理由、お前は前から知っているのか?
「ううん、知らないけど…」
 縁起がいいかどうかも初めて聞くけど、これだけは確か。
 ハーレイ、前のぼくのお葬式、したかったんだよ。したいと思ってくれていたんだよ、ずっと。



 だから夢の中でしてくれたんだ、と微笑むブルー。
 お葬式をするなら魂が無いと出来はしないと、それで自分が一緒に連れて行かれたのだ、と。
「前のぼくと今のぼく、魂は二人で一つしか無いと思うから…。吸い込まれちゃった」
 魂が入っていないと駄目だ、って吸い込まれたんだよ、前のぼくの身体に。
 せっかく準備が出来てるんだもの、お葬式の主役がいなくちゃ駄目だよ、ぼくの魂。
「うーむ…。お前は変な夢、見なかったのか?」
 俺がとんでもない夢を見ていた時、お前はぐっすり眠っていたのか?
「うん、夢はなんにも見てないよ。なんにも見ないで眠ってたんだし、暇なんだから…」
 ハーレイの夢に行ってあげれば良かったね、と言われたから。
 その夢の中にぼくも行けたら良かったのにね、とブルーが言うから。
「馬鹿、死ぬぞ!」
 死んじまうんだぞ、あの夢の中に出て来たら!
 前のお前に吸い込まれちまって、お前はすっかり消えちまった。死んじまったんだ、前のお前に引き摺られてな。
「ぼくは慣れてるから平気だよ。夢の中で死ぬのは」
 何度もキースに撃たれてるしね、それに比べたらずっとマシだよ、ハーレイの夢。
 痛くなさそうだし、ちょっぴり眠いとか、そんな感じの夢じゃないかな、ぼくにしてみれば。



 たまにお葬式だって経験したい、とブルーは無邪気な笑みを浮かべた。
 一度もして貰ったことが無いから、と。
「前のぼくはメギドで死んじゃって終わりだったし、お葬式は体験していないんだよ」
 どんな感じかも分からないから、ハーレイが見た夢、ぼくの立場で見たかったな。
 前のぼくのお葬式っていうヤツを。
「お前なあ…」
 逞しいヤツだな、葬式の夢まで体験してみようってか?
 俺は最悪な気分だったのに、あの夢の中の俺の立場はどうなるんだ。
 チビのお前まで失くしちまった、ってドン底だったぞ、もう泣くことしか出来なかったが…。
 目が覚めた後もスッキリしなくて、お前に何かあったんじゃないかと怖かったんだが…。
「死んじゃう夢は吉なんじゃないの?」
 ハーレイ、さっきそう言ったじゃない。いい夢なんでしょ、ぼくが死ぬ夢。
「…そういう解釈もあるってこった」
 しかしだ、夢を見ちまった気分まで変わるってわけじゃないしな、最悪な夢は最悪な夢だ。
 俺にとっては最低最悪、酷い夢としか言えない夢だったってな。
「そんな夢がどうして、いい夢になるの?」
 ぼくが死んじゃった夢で、ハーレイはとっても悲しいのに…。どうしてそれがいい夢なの?
 夢占いって言っていたよね、死んじゃう夢が吉になる理由は何なの、ハーレイ?
「…お前、いいように解釈するなよ? いいか、恋人が死んじまう夢っていうヤツは、だ…」
 二人の関係に何か進展があるだろう、っていう意味になるんだそうだ。
 恋人同士で進展だったら、いい意味にしかならんだろうが。結婚だとか、婚約だとか。
 それで吉だというわけだな。
 もっとも、こいつは夢占いだし…。その通りになると決まっちゃいないぞ、夢は夢だ。



 所詮は夢占いに過ぎない、と言ってやったのに、ブルーは満面の笑顔になった。
 ハーレイが素敵な夢を見てくれたと、何か進展があるかもしれない、と。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイがその夢、見たんだったら、ぼくが進展させてもいいよね?」
 キスしてもいいよ、一歩前進だよ?
 結婚とか婚約とかじゃないけど、うんと進展するんだけれど…?
「馬鹿。いいように解釈するなと言っただろうが」
 俺はその手には乗らないからな。いくら最悪な夢を見たって、お前の思い通りにはならん。
 うかうかと乗せられてキスしちまうほど、俺は弱くはないってな。
「…残念…」
「残念も何も、キスは駄目だと俺は前から言ってる筈だぞ」
 ブルーの額を指でコツンと小突いてやった。まだ膝の上に居るブルーの額を。
 小さなブルーは「いたっ!」と額を押さえて、膨れっ面になったけれども。
 そのまま暫くプウッと膨れていたのだけれども、それが収まると…。



「ハーレイ、ぼくのお葬式の夢…。なんだか凄すぎるんだけど…」
 そんなに沢山の白い花だなんて、ホントにシャングリラ中からかき集めないと足りないよ。
 ハーレイ、凄いのを計画していたんだね、前のぼくのためのお葬式。
「当然だろうが。前のお前はソルジャー・ブルーだ」
 そのくらいやっても誰も文句は言わないぞ。足りないと言われるほどかもしれんな、エラあたりからな。もっと盛大にやれと、ソルジャーを送るためなのだから、と。
 俺は恋人のためにやってるわけだが、誰も気付きやしなかっただろう。流石はキャプテンだと、ソルジャーに相応しい立派な葬儀だと騙されてな。
 だが、実際は…。
 俺は計画していた葬式どころか、お前のための葬式さえも…。



 してやれなかった、とハーレイは唇を噛んだ。
 赤いナスカが滅ぼされたために、大勢の仲間が死んだから。大勢が死んでしまったから。
 ブルーだけのために花を集めることは出来なくて、合同になってしまった葬儀。
 それにジョミーがアルテメシアに行くと決めたから、葬儀は簡素に、花も花輪が幾つかだけ。
 ハーレイが思い描いた葬儀とはまるで違った、ブルーの葬儀。
 青の間を飾る白い花たちは無くて、亡骸さえも無かったブルー。最後の別れを告げることさえも出来ずに別れて、それきりだった。ブルーはメギドから戻らなかった。
 亡骸を抱き締めることも叶わず、白い花で飾って静かに送ってやることも…。



「…色々と悲しかったんだ、俺は…」
 前のお前を送ってやれなかったこと。おまけに追っても行けなかった。
 お前にジョミーを頼まれちまって、生きて行くしかないっていうのに…。お前の葬儀も出来ずにいたんだ、こうして送ろうと前から決めていたのにな…。
「ごめんね、ハーレイ…。だけど今度は、そんなの関係ないからね」
 死ぬ時もハーレイと一緒だもの、と強く抱き付かれて。
 そうだったな、と小さなブルーを抱き締め返した。
「お前が言っていたんだったな、死ぬ時も二人一緒に行こう、と」
「そうだよ、ぼくが決めたんだもの。ハーレイと一緒」
 ぼくの命が短くなっても、ハーレイと一緒に行くのがいい。
 独りぼっちで生きていたって、そんなのちっとも嬉しくないから。
 ハーレイだって、そう思うでしょ? 二人一緒に行くのがいい、って。
「…お前がそれでかまわんのならな」
 寿命が短くなっちまってもかまわないなら、一緒に行こう。今度こそ、何処までも一緒にな…。



 行こう、と小さなブルーを抱き締め、柔らかな頬にキスを落とした。
 温かなブルー。生きているブルー。
 悪夢は幸せな時に変わって、小さなブルーが腕の中にいる。膝の上にチョコンと腰を下ろして。
(うん、お前だ…。俺のブルーだ…)
 前のブルーも小さなブルーも、ブルーはブルー。どちらも同じ一つの魂。
 青い地球の上でブルーと幸せに生きて、伴侶として同じ家で暮らして。
 今度は置いて行かれもしないし、行ったりもしない。
 満ち足りた生を二人で生きたら、手を繋いで共に帰ってゆこう。
 何処だったのかは分からないけれど、此処へ来る前に二人で居た場所へと。
 そうして、またいつか生まれて来よう。
 ブルーと二人でこの地球の上に、幸せな時を生きるために…。




          夢の中の別れ・了

※前のハーレイには出来なかった、前のブルーの葬儀。恋人を送ってやりたくても。
 あまりにも悲しい夢でしたけれど、生まれ変わっても覚えているほど辛かったんですね…。
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