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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 ぽっかりと夜中に目が覚めた。
 メギドの悪夢を見てしまったわけではなくて、単にぽかりと。何かのはずみで。
 横になったままキョロキョロと部屋を見回したけれど、時計も眺めてみたけれど。
 本当に真夜中、朝までは数時間もある。夜更けと言ってもいいほどの時刻。
(…変な夢でも見たのかな?)
 欠片も覚えていないけれども、意識が浮上するような夢。きっと、そう。
 部屋の中、しんと静まり返った夜気。常夜灯だけがぼんやり照らし出す部屋。



(えーっと…)
 こんな時には目が冴えてしまって眠れないから。
 眠気が再びやって来るまで、明かりを点けて本でも読もうかと思ったけれど。
 あまりワクワクしない本。続きが気になって眠れなくなる本は困るし、パタンと閉じたらそこでお別れ出来る本。
 そういった本はどれだったか…、とベッドの中で考えていて。
(なんだか…)
 何処かで感じた、という気がした。同じ空気を。
 今の自分と似たような感覚を確かに覚えた、何処かで、いつか。
(パパもママも家にいるんだけれど…)
 同じ二階の別の部屋にいると分かっているのだけれど。
 二人ともぐっすり眠っているから、何の気配も伝わって来ない。足音も、扉を開ける音も。耳を澄ませても聞こえない音。自分の息しか聞こえては来ない。
(ぼく一人しかいないみたいだ…)
 けして一人ではないのだけれども、一人だという夜。一人だと感じてしまう夜。
 こんな夜に出会った記憶がある。一人にされたわけではないのに、一人きりの夜に。



(いつ…?)
 幼い頃の出来事だろうか、と今よりもずっと小さかった頃を思い浮かべた。
 両親と一緒に眠っていたのは、幼稚園の頃までだっただろうか?
 それとも下の学校に入ってからも、暫くはそっちに居たのだろうか?
 昼間は自分の部屋で過ごして、夜は両親の部屋で眠った幼かった時代。庭に来たフクロウの声が怖くて、オバケの声に聞こえて泣いた。あれはオバケに違いないのだと両親を起こして笑われた。
 フクロウのオバケが最初に出た時、まだ両親の部屋に居たのかどうか…。
(どうだったっけ?)
 今一つハッキリしていない記憶。定かではない、フクロウのオバケの記憶。
 両親の部屋まで駆けて行ったのか、ベッドで揺り起こしただけなのか。
 それさえも曖昧になっているほど幼かった頃に、子供部屋にベッドが置かれたろうか?
 一人そちらで眠ることになって、一人だと思っていたのだろうか…?



(そうかも…)
 一人ではないけれど、一人きりの夜。
 子供時代の自分が覚えた感覚なのかも、とフクロウのオバケの鳴き声の怖さにブルッと震えた。前にあの声がメギドの悪夢を連れて来たほど、フクロウの声が怖かった。
 ハーレイのお蔭で前ほど怖くはなくなったけれど。フクロウはトトロに変わったけれど。
 きっと子供の頃の夜だ、と一人きりの部屋の静けさに自分を合わせてみた。
(小さい頃なら、もっと天井が高くて…)
 子供用のベッドも今より大きく感じていたのだろう、と想像するけれど。
 何故だか、しっくりこない感覚。
 それは違う、と。子供時代のものではない、と。
(じゃあ、いつの話…?)
 確かにこういう夜があった、と目を閉じてみたり、開いてみたり。
 パチパチと瞬きしたりもしてみた。
 そうする内に…。



(あ…!)
 思い出した、と浮かび上がった一人きりの記憶。一人ではないのに、一人の記憶。
 白い鯨の夜だった。前の自分がそう感じた。
 長くかかったシャングリラの改造が全て完成した夜に。
 ソルジャーの私室として作り上げられた青の間に一人、移った夜に。
 あの夜、確かに一人きりだった。今の自分と同じに、一人。
 白い鯨には大勢の仲間が乗っていたのに、暮らしていたのに、青の間に一人。



 青の間に移る日、ハーレイに案内されたけれども。
 移った先には全ての設備が整えられていて、部屋付きの係も何人も紹介されたけれども。
 それまでの部屋とは比べ物にならない広さの青の間。一人で住むには広すぎる部屋。
 建造する途中で何度も見に来て、ちゃんと分かっていた筈なのに。
 そういう部屋だと分かっていたのに、いざ移ってみると心細いほどに大きな部屋。移る直前まで使っていた部屋が幾つ入るのか、まるで見当もつかない青の間。
 引越しは係がやってくれたから、ブルーは指示をしていただけ。これはこちらに、それは自分で片付けるから、などと荷物の仕分けを見ていただけ。
 引越しが済めば後は一人で、それでも昼の間は良かった。
 シャングリラ中に張り巡らせていた思念の糸。部屋を移ったから、一本ずつ辿って先を確認してみたり、感度はどうかと探ってみたり。
 そうこうする内に夕食の時間、係が運んで来て奥のキッチンで仕上げてくれた。食べる間も給仕してくれ、終わったら食器を洗って片付け、「おやすみなさいませ」と帰って行った。
 やがてハーレイが一日の報告をしに訪れて、「では」と言うから。
 「おやすみなさいませ」と一礼して帰ってゆこうとするから。
「待って。こんな広い部屋にぼく一人かい?」
 もったいなさすぎるほどに広いのだけど、と広大な空間を指し示したのに。
「もちろんです。此処はソルジャーのお部屋ですから」
 他の部屋とは違うのです。どうぞご自由にお使い下さい、ソルジャーのためのお部屋ですから。
 青の間はそういう所なのだ、と誰もが承知しております。この船の者たちは一人残らず。



 それではおやすみなさいませ、と帰って行ってしまったハーレイ。
 テーブルや椅子や天蓋つきのベッドが置かれたスペースにブルーを残して、スロープを下りて。扉が開いて閉まった後には、ブルーだけしかいない空間。青の間に一人。
(明日の朝まで、ぼく一人だけ…)
 朝には朝食の用意をするために係がやって来るのだけれど。
 「何をお召し上がりになりますか?」と訊かれて答えもしたのだけれども、その係が来るまでは部屋に一人きり。誰も青の間を訪ねては来ない。
(おやすみなさい、と言われたんだし…)
 することもないし、眠るのが一番いいのだろうか、とバスルームに行った。今までの部屋のものとは違って、ゆったりと広いバスルーム。これは気に入ったから、バスタブに湯を張り、ゆっくり浸かって寛いだ時間を楽しんだ。
 それからフカフカのバスタオルで水気を拭って、パジャマに袖を通したけれど。
 バスルームの扉から外へと出れば、昨日までとは違う部屋。大きすぎる部屋。



(ぼくのためだけに、こんな部屋…)
 要らないと言ったのに、押し付けられた。ソルジャーだから、と。
 設計図の段階でも、建造中にも目を見開いたけれど、完成品は思った以上のとんでもなさで。
(何の役にも立たないんだけれど…)
 この部屋の大部分を占める巨大な水槽。ブルーのサイオンと相性がいいらしい大量の水を湛えた水槽。表向きはサイオンの補助だけれども、実は演出だと知っている。水など無くてもサイオンに影響したりはしないし、あってもサイオンは増幅されたりしないのだと。
(ただのこけおどし…)
 そう思いつつも、あちこちを歩き回ってみた。パジャマ姿で。
 昼間やっていたように、一通り。スロープの下まで一度下りてみて、上り直して。ベッドなどのあるスペースの奥に隠されたキッチンやバスルームも扉を開けては中を覗いて、入ってみて。
 そこから外へと出て来てみれば、夜も昼も変わらない照明に照らされた部屋。
 天井や水槽は青く沈んで、海の底のよう。
 ベッドやテーブルが置かれた辺りだけが、ほんのりと白く輝くだけの暗い海の底。



(独りぼっちだ…)
 この海の底に、一人きり。独りぼっちで取り残された。
 皆の思念は感じ取れるけれど。
 シャングリラ中に張り巡らせてある思念の糸も辿れるけれども、感じる孤独。
 一人だと、独りぼっちだと。
(広すぎるんだよ…)
 この部屋は、と零した溜息さえもが響いた気がした。
 大きな水槽の水面を揺らして。波紋のように、さざ波のように。
(どうしよう…)
 こんな部屋に一人。広すぎる部屋に一人きり。
 けれども誰も来てはくれないし、係が来る朝まで眠ろうとベッドに潜り込んだけれど。ベッドを上から照らす照明も消してみたけれど。
 ますます暗くなってしまった海の底。本当に海の底にいるよう。
 独りぼっちで夜の海の底、あるいは光も届かないほどの深い海の底に一人きり。これではとてもたまらない。寂しくて眠れたものではない。
(やっぱり点けよう…)
 一度は消した照明を点けた。ベッド周りの青い玉の形の明かりも灯した。
 その方がマシ。同じ海の底でも、周りが明るい分だけマシ。
 ベッドを照らし出す照明は快適に調整されているから、点いたままでも眠れるから。
 でも…。



(本当に一人だ…)
 一人きりだ、とコロンとベッドで寝返りを打った。
 上掛けを被っても訪れない眠気。却って冴えてゆく意識。
 この広大な青の間の周りに居住区は無い。仲間の思念は感じるけれども、横たわる距離。
 ハーレイの部屋もぐんと遠くなった。遠い所に行ってしまった。
 前の部屋なら、気軽に遊びに行ける所にあったのに。先日までハーレイが使っていた部屋。
 そう、ハーレイも引越しをした。一足先に、キャプテン用にと作られた部屋に。
 愛用している木の机は今も変わらないけれど、部屋の主役を務めるけれども、キャプテンだけが使う部屋。航宙日誌や蔵書を並べる棚が設けられた、落ち着いた部屋。
 引越して直ぐに覗きに行ったから知っている。どんな部屋かも、何処に在るかも。
(…ハーレイ、今は何をしているんだろう?)
 ハーレイももう眠ったろうか、とサイオンを使って覗き込んだら、航宙日誌を書いていた。木の机の前の椅子に座って、これも愛用の白い羽根ペンで。
 終わればベッドに入るのだろう。キャプテンの制服を脱いで、シャワーを浴びて。あの部屋にもバスタブが備えられているから、のんびりと浸かるかもしれない。
 バスルームから出たらパジャマを着込んで、大きなベッドへ。ハーレイの逞しい身体に見合ったサイズの広いベッドへ。



(ハーレイの部屋は普通なんだよ…)
 他の仲間たちが住む居住区の部屋よりは広いけれども、まだ普通の部屋。青の間のように巨大な水槽がありはしないし、高すぎる天井があるわけでもない。
 照明だって暖かい色。暗くて深い海の底のような、この青の間とは全く違う。
 いっそハーレイの部屋に瞬間移動で移ろうか、と考えてから。
(逆がいいかも…)
 ハーレイはあの部屋で何の不自由もしていないのだし、孤独も感じていそうにないから。
 居心地の良さそうな部屋なのだから、この青の間を味わわせるのも悪くない。
 よくもこんな部屋を押し付けてくれたと、もっと普通の部屋にしてくれれば良かったのに、と。
(うん、その方が…)
 出来てしまった部屋は仕方ないけれど、せめて意趣返しをしておきたい。青の間を作らせた犯人たちは他にもいるのだけれども、仕返しするならハーレイがいい。
(一番古い友達だしね?)
 ハーレイ自身がそう言った。アルタミラからの脱出直後に、ブルーを紹介する時に。船で出来た友人たちに紹介する時は必ず、「俺の一番古い友達だ」と。
(友達を青の間に連れて来たって、誰も文句は言わない筈だよ)
 瞬間移動で引っ張り込んだら、ハーレイも逃げられないだろう。逃れることは出来ないだろう。
 ましてパジャマでは船内を走って帰れはしないし、実行するならパジャマに着替えてから。
 航宙日誌を書き終えたハーレイがシャワーを浴びて、パジャマを着るのを待った。
 そして…。



「これは一体、何事です!?」
 瞬間移動で連れて来られて、大慌てしているパジャマのハーレイ。パジャマ姿で靴さえも履いていないハーレイ。裸足で立っているハーレイ。
 ソルジャーの衣装ではなくてパジャマだったけれど、大真面目な顔で命令した。ベッドから出て偉そうに立って、「今夜は此処に」と。自分も裸足で。
「君も今夜は此処で眠るんだよ、この青の間で」
「何故です?」
 私の部屋は他にありますし、第一、此処はソルジャーのお部屋なのですが…!
「理由を言えと言うのかい? だったら、此処は広すぎるから」
 独りぼっちになった気分がするんだ、まだこの部屋に慣れていないから。
 みんなの思念は感じ取れるけれど、今までの部屋よりもずうっと遠くて落ち着かない。
 おまけに照明が妙に暗いし、まるで海の底みたいじゃないか。
 一人きりで深い海に沈められたようで、どうにも気分が良くないんだよ。
 ぼくに合わせて調整してはあるんだろうけれど、今までの部屋と何もかもが違いすぎるんだ。
 これじゃ、たまったものじゃない。慣れない間は不眠症になってしまいそうだよ…!



 ソルジャーを神経衰弱にしたいのか、と詰め寄った。
 慣れるまでこの部屋で過ごしてくれと。このままでは眠れそうにもないと。
「し、しかし…!」
 私はキャプテンで、明日も朝食を終えたら直ぐブリッジに行かねばなりません。此処でのんびりしていられるほど、暇なわけではないのですが…!
「大丈夫。朝には君の部屋まで送り届けるから」
 パジャマで走って帰らなくても、瞬間移動で送ってあげる。ほんの一瞬だよ、ぼくにかかれば。
 明日の朝は何時に目覚ましをセットしておけばいいんだい?
 ぼくも君に合わせて起きることにするよ、目覚まし時計のアラームは何時?
「ソルジャー…!」
「ブルーでいいよ。ソルジャーは要らない」
 友達だからね、と微笑んだ。「君の一番古い友達」と。
 その友達を見捨てないで欲しいと、今夜はこの部屋に泊まって欲しいと。
「ですが、ベッドは…!」
 何処かから簡易ベッドでも運ぶと仰るのですか、ソルジャー……いえ、ブルー?
「ベッドだったら、充分広いよ」
 二人分のスペースはあると思うんだ、と天蓋つきのベッドを指差した。
 枠にミュウの紋章が刻まれたベッドを、さっきまで一人で潜っていたベッドを。



 押し問答にはなったけれども、なんだかんだでハーレイも折れた。
 パジャマ姿で船の中を走って逃げられはしないし、靴さえも履いていないのだから。
 ブルーが目覚まし時計をセットし、二人並んでベッドに横になって…。
「ハーレイ。…こうしていると脱出した直後みたいだね」
 アルタミラから、この船で。まだ改造の話さえ無かった頃だけれども。
「ああ、あの頃はたまに二人で眠っていましたね」
 今よりもずっと小さかったあなたと、私と二人で。
 思い出しますね、あの頃のことを…。



 脱出直後のシャングリラ。最初はコンスティテューションという名前だった船。
 人類が捨てて行った船に乗り込み、燃え上がり崩れるアルタミラから逃げ出した。その船の中に部屋は沢山あったから。皆に行き渡るだけの数があったから、ブルーもハーレイも自分用の部屋を貰って一人で使っていたのだけれど。
 ベッドもそれぞれの部屋にあったのだけれど、ハーレイの所にブルーが泊まりに出掛けていた。枕だけを抱えてハーレイの部屋へ、ハーレイが眠っているベッドへ。
 アルタミラの夢を見て怖かった夜に。
 人体実験の夢や、檻に閉じ込められていた頃の夢。
 そうした夢に出会った夜には一人が怖くて、ハーレイの隣に潜り込んだ。
 さほど大きなベッドでもないのに、ハーレイの身体にピッタリとくっついて、落ちないように。ハーレイも腕を回してくれた。ブルーが落っこちないように。



「ブルー、最近はもうあの夢は?」
 アルタミラの夢は見ないのですか、もうすっかり…?
「見ないね、こっちの生活の方が長いから」
 みんなと暮らし始めて長いし、そういう夢を見ているよ。いつも誰かが夢に出て来る。
 ハーレイは大抵、出て来るかな。キャプテンだったり、厨房にいたり、いろんな夢でね。
 でも、アルタミラの夢は見ないよ。見ても脱出する時の夢で、ぼくは一人ぼっちじゃないんだ。
 ハーレイと二人で走っている夢。だから怖くはないんだ、あれは。
「それは良かったです。アルタミラの夢があなたを脅かしていないのなら」
「そう思うのなら、ぼくが気持ちよく眠れるように君も協力してくれないとね」
 こんなガランとした部屋を押し付けるなんて論外だよ。
 いくら上等の部屋であっても、使う方の気持ちがついていかなきゃ意味が無い。
「そうは仰いますが、この部屋は本当にあなたのお身体に合わせた部屋で…」
「こけおどしの水槽も含めてね」
 まさか本気で作るだなんて…。
 ぼくのサイオンと水との相性、誤差の範囲内だとヒルマンたちだって知ってるくせにね…?



 他愛ないことを話している間に、いつの間にか眠ってしまっていた。
 多分、自分が先に眠った。ハーレイよりも。
 夢見心地でハーレイの声を聞いていたような気がするから。「聞いているよ」と半ば眠りながら相槌を打って、呆れられていたと思うから。
 それにハーレイが掛けてくれた上掛け。肩まですっぽり掛け直してくれた。「良い夢を」という優しい言葉も耳に届いた、眠りに落ちる前に。
 そうして一晩ぐっすり眠って目覚まし時計の音で起き出し、約束通りにハーレイを送った。瞬間移動でキャプテンの部屋まで。パジャマ姿も裸足の足も、誰にも見られないように。
 ハーレイは顔を洗ってキャプテンの制服に着替え、朝食を摂りに食堂へと。
 青の間の方にも係が食事を運んで来た。昨日注文しておいた通りのものをトレイに載せて。
 トーストを焼くのと、料理の仕上げは青の間の奥のキッチンで。
 満足のゆく朝食だったけれども、何も文句は無かったけれど。
 やはり慣れない、広い青の間。海の底に沈んでいるような孤独。それに囚われてしまう夜。



 だから、その夜もハーレイを呼んだ。パジャマに着替えてしまうのを待って、瞬間移動で。
 呼び付けられたハーレイの方は、青の間を見回し、眉間に皺を刻んだものだ。
「…またですか?」
 今夜も眠れないと仰るのですか、それで私をお呼びになったと?
「これしか仕方ないだろう。実際、眠れないんだから」
 君には分かっていないんだ。この部屋で一人で眠るというのが、どれほど寂しいことなのか。
 いずれ慣れれば、そんなことなど笑い話になるだろうけれど…。
 一人の方が良く眠れる、と思う日が来ると分かってはいるのだけれど。
 今はまだ一人じゃ無理なんだ。少しでも早く部屋に慣れるよう、君に協力して欲しい。
 君がいなくても眠れるくらいに慣れるためには日数がかかる。
 ちゃんと眠れる部屋とベッドだ、と納得するまで、ぼくの側で眠ってくれないとね。



 キャプテンがいないと眠れないソルジャーでは話にならない、とハーレイを何度呼んだことか。
 パジャマで裸足のハーレイを。
 瞬間移動でヒョイと攫って、あの青の間に慣れるまで。
 一人で眠るのに慣れる頃まで、何度も、何度も。
(そっか、あのベッド…)
 最初からハーレイと使ったのだった。青の間に移った、暮らし始めたその日から。
 ハーレイを呼んで、二人で眠った。大きなベッドで寄り添い合って。
 恋人同士ではなかったけれど。一番古い友達だと思っていたのだけれど…。
(ハーレイ、覚えているのかな…?)
 前の自分たちが恋人同士になるよりも前に、あのベッドで一緒に眠っていたこと。
 青の間を使い始めた最初の夜から、ハーレイが其処に泊まっていたこと。
(…忘れちゃってるかな、どうなのかな…)
 覚えていたら訊こう、と欠伸をした。
 明日は土曜日なのだから。ハーレイが来てくれる日なのだから。
(んー…)
 眠い、と急に襲って来た眠気。
 明かりを点けてメモを書こうとは思わなかった。眠い、と丸くなっただけ。上掛けを引っ張り、コロンと丸く。
 欠伸を漏らして、スウッと息を吸ったらもう眠っていた。メモを、と思う暇さえも無く。



 メモを書き損ねたブルーだけれど。
 書かずに眠ってしまったけれども、幸いなことに、朝、目が覚めたら、夜中の出来事を忘れずに覚えていたものだから。
 前のハーレイと青の間で初めて眠った日のことが記憶に残っていたものだから。
(これは訊かなきゃ…!)
 ハーレイも覚えているのか訊こう、と胸を弾ませて来訪を待った。
 顔を洗って朝食を食べて、部屋を掃除して、ワクワクと。
 早くハーレイが来てくれないかと、チャイムを鳴らしてくれないかと。



 待ち焦がれていたハーレイが訪れ、ブルーの部屋で二人、向かい合わせ。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、ブルーは早速、例の質問を持ち出した。
「あのね、ハーレイ…。青の間のこと、覚えてる?」
 前のぼくの部屋。ハーレイたちが勝手に大きくしちゃった部屋だよ、水槽までつけて。
「…あの部屋のことなら忘れないが?」
 誰が忘れると言うんだ、アレを。あんな部屋は二つと無いんだからな。
「部屋もそうだけど、最初の夜だよ。青の間で最初に過ごした日の夜」
「そういう話は断らせて貰うが」
 チビのお前にゃ、まだ早すぎだ。ちゃんと育ってからにするんだな。前のお前と同じ姿に。
「そっちの最初の方じゃなくって…!」
 違うんだってば、青の間そのものの最初だってば!
 前のぼくが、あの部屋に引越しした日。その日の夜の話だってば…!



 本当に本当の使い始め、と説明をした。
 白い鯨が完成した後、ソルジャーが青の間に移った日のこと。
 その日の夜からハーレイが青の間のベッドに泊まっていたよ、と。
 部屋に馴染めないソルジャーにパジャマ姿で呼ばれて、命令されて泊まっていたよ、と。
「ハーレイ、すっかり忘れちゃってる? 瞬間移動で呼んだんだけど…」
 ぼくの命令、って泊まって行くように言ったんだけど。
「…そういえば…。そういうこともあったな、俺はお前に拉致されたんだ」
 おやすみなさい、と挨拶して部屋に帰った筈だが、青の間に逆戻りしちまった。制服どころか、パジャマに裸足で。このベッドで寝ろ、と言われたっけな。
「思い出した? それから何度も呼んでいたでしょ、ぼくが青の間に慣れるまで」
「うむ。お前、遠慮なく呼んでくれるんだよなあ、俺の都合も考えずにな」
 パジャマに着替えたら一杯やるか、と思っていたって、その前に攫われちまうんだ。
 もういいだろうと、着替えは済んだと、瞬間移動でアッと言う間にな。
「その文句…。言われたっけね、何回も」
 俺の酒をどうしてくれるんだ、って。ちゃんと取り寄せてあげた筈だよ、ハーレイのお酒。
 これだよね、って瞬間移動で運んであげたよ、前のぼくは。
「そりゃまあ…なあ? そのくらいはして貰わんとな」
 俺は夜な夜な攫われてたんだ、酒くらい飲んでもいいだろうが。
 お前も安眠したかったろうが、俺だって酒を一杯やってだ、気分良く眠りたいんだからな。



「ハーレイには迷惑かけちゃったけど…。あれって、運命だと思わない?」
 青の間に引越した日の夜からだよ、その夜から一緒に眠ってたんだよ?
 恋人同士になるよりも前に、あのベッドを二人で使ってたなんて…。運命だよ、きっと。
 前のぼくたち、恋人同士になるって決まっていたんだよ、もう。
「お前、いつでも最初からだと言ってるだろうが」
 出会った時から特別なんだと、俺たちの仲は最初からだ、と。
「そうだっけね…。ハーレイはぼくの特別だっけ…」
 アルタミラで初めて出会った時から、ハーレイとは息がピッタリ合ったし…。
 ぼくに声を掛けてくれたのもハーレイだっけね、ぼくがシェルターを壊した後に。
 二人で幾つも、幾つもシェルターを開けて回ったね、仲間を助けに。
 あの時からもう始まってたんだね、ぼくとハーレイとは一緒に生きて行くんだ、って道が…。



 メギドに滅ぼされたアルタミラで。
 崩れてゆく星の炎の中で、出会って二人で必死に走った。生きようと、仲間を救い出そうと。
 飛び立った船で、二人で眠った。ブルーがアルタミラの悪夢に襲われた夜に。
 その船が白い鯨になった後にも、また二人で。
 青の間が完成してブルーが引越した夜に、大きなベッドで寄り添い合って眠った。恋人同士にはなっていなかったのに。
 そういう仲になる日が来るなど、二人ともまるで思っていなかったのに…。



「ハーレイ、やっぱり運命なのかな?」
 ぼくたちが出会って、ずうっと二人で生きていたこと。
 恋人同士じゃなかった時から、一緒のベッドで眠っていたこと…。
「うむ。今も一緒な所を見るとな」
 運命だろうさ、間違いなく。前の俺たちが出会った時から、この地球で再会したのも全部。
 そいつが運命ってヤツでなければ、運命って言葉を何処で使えばいいのやら…。
 それともお前は運命じゃなくて、腐れ縁って言われた方がいいのか?



 どうなんだ、と訊かれたから。
 「運命だよ!」と即座に返した。きっと運命に決まっているから。運命の恋人同士だから。
 青の間が出来て引越した日の夜から、同じベッドで眠った仲。
 あの部屋に慣れてハーレイの添い寝が要らなくなるまで、何度も何度もハーレイを呼んだ。
 今度は別々の家に住んでいるだけに、添い寝は無理そうなのだけど。
 いつになったら眠れるだろうか、同じベッドで。
 ハーレイの大きな身体にくっついて眠れる日はいつのことなのだろうか…。



「ねえ、ハーレイ…。今度、ハーレイと一緒に寝られるのは、いつ?」
 本物の恋人同士にならなきゃ駄目なの、前みたいに添い寝はしてくれないの?
「さあなあ…? チビのお前が嫁に来たなら、添い寝だろうな」
 それにだ、添い寝なら一度は経験済みだろうが、お前。
 メギドの夢を見ちまった夜に飛んで来ただろ、俺のベッドに瞬間移動で。
 あれっきり二度と飛んでは来ないが、あれも運命の出会いだろうさ。
 一度くらいは添い寝をさせてやろう、と神様が運んで下さったってな、あの夜だけな。
 だからだ、背伸びなんかはせずに、だ…。
 ゆっくり大きくなるんだぞ、と頭をクシャリと撫でられた。
 急がなくていいと、ゆっくりでいいと。時間はたっぷりあるのだから、と。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 分かってるよ、と頷いた。焦らないよ、と。



 出会えたことが運命だから。
 今の生でも、ハーレイと出会えたことが運命なのだから。
 いつか一緒に眠れるだろう。
 今度も添い寝で始まったのだし、いつかは本物の恋人同士。
 ハーレイと同じ家で暮らして、ベッドも二人で同じのを使う。大きなベッドで二人で眠る。
 生まれ変わって来た青い地球の上で、今度こそ何処までも恋人同士で…。




           初めての青の間・了

※前のブルーが一人で眠るには、広すぎたのが青の間という部屋。それに慣れるまでは。
 「不眠症になりそうだから」と、前のハーレイと眠っていたようです。微笑ましいお話。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













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「やはりお前か、ソルジャー・ブルー!」
(え!?)
 嫌というほど聞き覚えのある声。何度となく聞いたキースの声。
 またメギドか、とブルーは慌てたけれど。
 大嫌いで苦手なメギドの悪夢。それが来たかと、しかも夢だと自覚のある方なのか、と泣きたい気持ちになったけれども。
 「…ではないのか」と続いた声。
 場所はメギドに違いないけれど、青い光が溢れる制御室の中に居たけれど。
 「見付けたぞ」と笑顔で近付いてくるキース。その手に拳銃を構えてはいない。それにマツカを従えているし、いつものメギドの悪夢とは違う。
 何かが変だ、と自分の身体を見回してみたら、パジャマを着ていた。ソルジャーの衣装は消えてしまって、代わりにパジャマ。おまけに小さくなっている身体。十四歳の子供の身体。
(…どうなってるの?)
 確かにメギドに居るんだけれど、と目をパチクリとさせている間にキースが側までやって来た。
 背の高いキース。前の自分が会った時より遥かに高い。身体が小さくなっている分、身長の差が大きくなるから。
 自然と見上げる形になってしまい、アイスブルーの瞳の男と向き合った途端。
「ずいぶん探し回ったぞ。今度こそ結婚して貰わんとな」
「ええっ!?」
 仰天したけれども、思い出した。花嫁を探していたキース。自分に白羽の矢が立った。何故だか自分に、チビの自分に。
 危うい所で逃げ出したけれど、結婚式を挙げる途中で目覚めて夢から逃げられたけれど。
 そのキースにまたしても見付かった。探し出されて、キースは笑顔。それは満足そうな顔。
 逃げ出したいと焦ったけれども、覚めない夢。逃れられない夢の中の自分。
 「さあ、行こうか。此処は危ないからな」とキースに腕を掴まれた。
 逃げられないままで拉致されてしまった、またしてもノアへ。キースが住んでいる家へ。



(もう三度目だよ…!)
 キースが花嫁を探している夢。自分が花嫁に選ばれる夢。
 三度目なのだと分かってもいるし、夢だと自覚もあるというのに、一向に覚めてくれない悪夢。
 国家主席になるらしいキースは結婚式の準備を進めている上、機嫌の方も至極良かった。やっと花嫁を見付け出したと、結婚式を挙げて自分のものにするのだと。
 花嫁の正体が何であろうが、キースは全く気にしていない。ブルーという名前もミュウの長だということも充分に承知で、シャングリラにまで結婚式の招待状を送っていた。
 ミュウと人類がとうに和解した世界、シャングリラの皆からも出席すると届いた返事。
(三度目の正直って言うんだよね…?)
 縁起でもない、と夢から逃れようと思うけれども、覚めない夢。
 キースが住む家でマツカに世話され、結婚式に向けて流れてゆく日々。高層ビルに住むキースの家から一歩も出しては貰えない日々。
 大切にされてはいるのだけれど。一部屋貰って、何の不自由もしていないけれど…。



(今度こそ結婚させられちゃうよ…!)
 ウェディングドレスは出来たと聞いたし、結婚式当日のお楽しみだと微笑んだキース。サイズはピッタリに作らせてあるから、きっと似合うと。可愛らしいに違いないと。
(ぼく抜きで話が進んでるなんて…!)
 このまま進めば、また結婚式。今度は逃げ出せないかもしれない。キースと結婚してしまう夢。
 誓いのキスやら指輪の交換、まだハーレイともしていないのに。唇へのキスはまだハーレイから貰えないのに、夢の中でキースにキスされるなんて…。
(それだけは嫌だよ…!)
 ハーレイよりも先にキースとキス。いくら夢でも酷すぎる話。それでも覚めてくれない夢。
 いくら願っても、夢だと自分に言い聞かせても、終わりが来てはくれない夢。



(…逃げるしかないの?)
 夢から逃れられないのならば、夢の中で逃げるしかないのだろうか。何処でもいいから、何処か遠くへ。キースが見付け出せない場所へ。
(きっと、それしか…)
 方法は無い、とキースが仕事に出掛けた隙に窓から逃げようと下を覗いてみたけれど。
 とんでもない高さ。
 人の姿はまるで分からないし、車でさえも小さな記号のよう。動いてゆくから車なのだと分かるだけ。道路を次々と流れてゆくから、たまに止まったりもしているから。
 ビュウと吹き上げて来た強い風。遥か下から吹いて来た風。
(…死んじゃうかも…)
 こんな高さから飛び降りたら。この窓から外へ逃げたなら。
 とはいえ、これは夢だから。自分が見ている夢の世界の中なのだから。
 飛べるかもしれない、と懸命に窓枠をよじ登った。
「危ないですよ!」
 下りて下さい、とマツカが止める声も聞かずに窓から下へと飛んだけれども。
 飛べると信じて飛び降りたけども…。



(やっぱり飛べない…!)
 真っ直ぐに落ちてゆく身体。飛ぶどころではなくて、地面へ向かって一直線に。
(ぼく、死んじゃう…!)
 落っこちて死ぬ、とギュッと目を瞑ろうとしたら聞こえた声。自分の名前を呼んでいる声。
(まさか、ハーレイ?)
 来てくれたのか、と目を見開いたら、落ちてゆく先で両手を広げているキース。受け止めようと足を踏ん張り、「大丈夫だ!」と自信に溢れた表情。
(最悪だよ…!)
 夢の世界なら、キースも自分もきっと怪我一つしないのだろう。
 あんな高さから飛び降りた自分をキースが受け止め、しっかりと両腕で抱えるのだろう。
 「良かったな」と、「危なかったな」と。
 もう最悪なハッピーエンド。
 キースに受け止められるだなんて…、と泣きそうな気分になった所で目が覚めた。
 本物の瞼がパチリと開いて、夢の世界から逃げ出せた。
 カーテン越しに朝の光が射し込む部屋へと戻って来られた。自分のベッドがある部屋へと。



(…あんまりな夢…)
 あれは酷すぎ、とベッドの中で頭を振った。
 横になっていたら、またウトウトと眠ってしまって夢に捕まるかもしれないから。さっきの夢の続きを見たら大変だから、と起き上がってベッドの端に腰掛けることにした。
 まだ着替えるには早い時間だからパジャマのままで。
(…あの夢って、何の呪いなわけ?)
 毎回キース、と唸ったけれど。
 キースに攫われては花嫁にされてしまうんだ、と理不尽な夢に怒りをぶつけたけれど。



(…呪い?)
 呪われているのだろうか、あのキースに?
 もしかしたら、夢の世界で出会うキースが自分に呪いをかけたのだろうか?
 チビの自分を花嫁にしようと、花嫁にするのだと恐ろしい呪いを。
 花嫁にするための呪いの魔法を、この自分に。
(それでチビとか…?)
 一ミリさえも伸びてくれない背丈。どんなに頑張っても少しも伸びない背丈。
 時期が来れば伸びると、そういう時期が来ていないだけだと思っていたけれど、呪いがかかっているかもしれない。大きく育ってしまわないように。チビの姿でいるようにと。
 夢の中で出会うキースが欲しい花嫁はチビの自分で、育った姿の方ではないから。
 育ってしまえばソルジャー・ブルーで、問答無用で撃ち殺される。
(キースが欲しいの、チビのぼくだから…)
 チビの自分を手に入れようとして、育たないようにとかけられた呪い。
 そうだとしたなら、沢山食べても、ミルクを飲んでも、背丈は伸びてくれないだろう。いつまで経ってもチビのまんまで、前の自分と同じ姿にはなれないだろう。
 悪い魔法使いのキースに呪われて。
 大きくなれない呪いをかけられ、背が伸びないままで暮らすしかない。呪いのせいで。



(どうしよう…)
 本当に呪いかもしれない、という気がして来た。
 三度も夢で出会ったキース。チビの自分を花嫁にしようと目論むキース。
(呪いを解くには…)
 どうすればいいのか、と考え込んでいて、ハタと気付いた。
 呪いを解くには真実の愛。王子様のキス。
(白雪姫だって、オーロラ姫だって…)
 王子様のキスで呪いが解けた。お姫様のキスで呪いが解けるカエルの話もあった筈。
 自分はハーレイと結婚することになっているのだし、王子様はきっとハーレイだろう。キスさえ貰えれば呪いは解けて、背丈が伸びるに違いない。
 それなのに今は貰えないキス。前の自分と同じ背丈に育つまでは、と貰えないキス。
 けれども事情が事情だから。
 キスを貰わないと背丈が伸びてはくれないわけだし、呪いを解かねば背は伸びないから。
(今日は土曜日…)
 駄目で元々、ハーレイに相談しようと決めた。
 今の自分の王子様。呪いを解くためのキスが出来るのは、きっとハーレイだけなのだから。



 朝食を食べて、部屋の掃除をきちんと済ませて。
 まだか、まだかと待ち侘びていたら、チャイムの音が聞こえて来た。窓に駆け寄れば、手を振るハーレイ。大きく手を振り返して、王子様を待った。呪いを解ける王子様を。
 母がお茶とお菓子を置いて行った後、テーブルを挟んで向かい合わせに座ってから。
「あのね、ハーレイ…。呪いって信じる?」
 そう切り出したら、ハーレイは「はあ?」と鳶色の瞳を瞬かせた。
「呪いってなんだ、何の話だ?」
「呪いだよ。魔法使いとかが呪いをかけるでしょ?」
 ああいう呪い。ハーレイは存在していると思う? 呪いの魔法。
「うーむ…。俺たちは生まれ変わりなわけだし、お前には聖痕まであったからなあ…」
 呪いが無いとは言えないな。無いと言い切る自信は無いが…。
 どうしたんだ、お前。いきなり呪いの話だなんて?



「…ぼくね、呪われてるみたい」
「呪うって…。誰にだ?」
 誰がお前を呪うと言うんだ、こんな平和な今の世界で?
 勘違いっていうヤツじゃないのか、たまたま偶然が重なっただけで。
「でも…。呪ってるのはキースなんだよ」
「キースだと!?」
 何故だ、とハーレイに真顔で訊かれたから。
 「お前、キースを嫌ってはいないだろうが」とキース嫌いのハーレイに尋ねられたから。
「…それとこれとは別問題だと思う…」
 ぼくがキースを嫌ってなくても、嫌っていても。
 キースの方では全く関係ないんじゃないかな、呪いをかけてる相手は今のぼくだから。
 前のぼくとは無関係な所で目を付けて呪っているだけだから…。
「サッパリ話が分からないんだが、何処からキースが出て来たんだ?」
 それにどうして呪いになるんだ、俺に分かるように説明してくれ。
 俺の嫌いなキースの名前が山ほど出ようが、そこは我慢して聞いてやるから。



「えーっと…。ぼく、また夢を見たんだよ。結婚式の」
 キースと結婚させられちゃう夢。キースがぼくをお嫁さんにしようと企んでる夢。
「ああ、あのシリーズの三回目か」
 確か三回目になる筈だよなあ、お前が俺に喋っていない分があるなら知らんが。
「あれってシリーズだったわけ?」
「聞かされてるだけの俺にしてみればな。…八つ当たりもされるが」
 で、今度は何をやらかしたんだ?
 今度の夢では、お前、どういう目に遭ったんだ…?
「聞いてよ、ハーレイ! 酷いんだよ…!」
 いつもと同じで始まりはメギド。ぼくはまたキースに捕まっちゃって…。
 こうだ、と夢の話を全部聞かせた。
 危うい所で目が覚めたけれど、夢の中の自分が考えたような三度目の正直ではなさそうだと。
 結婚式場に行かなかったから、カウントされないに違いないと。



「…それで?」
 目が覚めたんなら充分じゃないかと思うがなあ…。三度目が来たって、所詮は夢だろ?
 どうしてそいつが呪いになるんだ、しかもキースの呪いだなんて。
「目が覚めてから気が付いたんだよ、これはキースの呪いだって」
 呪われてるんだよ、あのキースに。今まで気付いていなかったけれど…。
「どんな呪いだ?」
 夢を見るように呪われてるのか、結婚式のシリーズを最後まで見ろと。
 キースと結婚式を挙げるまでは何度でも見るっていうのか、そのシリーズを?
「ううん、そっちの方がマシ。もっと深刻な問題なんだよ」
「深刻って…。どんな具合にだ?」
「ぼくの背丈が伸びない呪い…」
「なんだそりゃ?」
 お前の背丈って、伸びないようにと呪ったら何か得をするのか、そのキースは?
「大きくなったら、お嫁さんには出来ないしね?」
 育っちゃったらソルジャー・ブルーで、キースは撃つ方に行っちゃうから…。
 チビのぼくでないと、お嫁さんには出来ないんだよ。だから大きくならないように。前のぼくと同じに育たないように、キースが呪いをかけているんだ。
 ぼくがいつまでも、チビのまんまでいるように。育たないように…。
「あのなあ…。お前、まだ寝ぼけてはいないだろうな?」
 背丈が伸びない呪いをかけられたってか、あのキースに?
 前のお前を撃ったキースが、今度は魔法使いになって戻って来たってか…?



 キースがどうすれば魔法使いになるというのだ、と呆れるハーレイ。
 いくらなんでも有り得ない、と。
「お前、冷静に考えてみろよ? お前の聖痕は不思議ではあるが、魔法とは違う」
 生まれ変わりだって魔法じゃないんだ、神様がやって下さったことだ。
 奇跡が存在することは俺も認めはするがだ、魔法となったら信じ難いな。
 おまけにキースが魔法使いになるなどと…。あいつだったら、魔法よりも現実重視だろうが。
 そういうタイプだ、キースってヤツは。
 魔法を習いに出掛けるキースなんぞは全く想像出来んぞ、俺は。
「だけどぼくの背、伸びないし…。ちっとも伸びてくれないし…」
「それは確かだが…」
 だからと言って呪いと結び付けるのはどうかと思うが…。個人差ってヤツもあるからな。
「でも…。試してみる価値はありそうなんだよ」
「何をだ?」
「キースの呪いを解く方法」
 ぼくの背丈が伸びない呪いは、これで解けると思うから…。
 もしも呪いがかかっていたなら、これを試せば背だって伸びようになると思うんだけどな。
「その方法をキースが喋ったのか?」
 呪いかどうかも分からないのに、夢の中で何かを言ったのか、キース?
「ううん、王道」
 大抵の呪いはこれで解けるよ、間違いないよ。
 だからキースの呪いだってきっと、この方法で解けると思うけど…。



 呪いを解くにはハーレイの協力が必要なんだよ、とブルーは説明した。
 眠りの呪いもカエルの呪いも王子様やお姫様のキスで解けると、呪いを解くにはキスなのだと。
「だからお願い、協力して!」
 ぼくにかかった呪いを解いてよ、キースの呪いを。
「俺にどうしろと?」
 何をすればいいんだ、俺の協力とやらいうヤツ。
「ハーレイだって分かってるでしょ、呪いはキスで解けるんだよ?」
 ぼくにキスしてくれたら解ける筈だよ、キースにかけられてしまった呪い。
 お願い、ハーレイ。ぼくにキスして。
「ふうむ…。やはりそういうことになるのか」
 仕方ないなあ、呪いを解くにはキスしかないんだ、ってことになったら。
 要は呪いを解けばいいんだな、俺がキスして。



 よし、と椅子から立ち上がったハーレイ。
 ブルーの方へとやって来たから、瞳を閉じて待っていたのに。
 王子様が唇にキスをくれる、とワクワクしながら待っていたのに、額にキスを落とされたから。
「それじゃ駄目だよ!」
 呪いが解けない、と文句を言った。
 額ではなくて唇にキスだと、呪いを解くキスは唇にしてくれなくては、と。
 なのに…。
「解かなくていいだろ、そんな呪いは」
 キスだと言うから一応、キスはしてやったが…。唇へのキスにはまだ早いしな?
 何度も言ったな、前のお前と同じ背丈になるまではキスはしてやらない、と。
「だけど…! その背丈になれない呪いがかかってるんだよ、今のぼくには…!」
 どんなに頑張ってミルクを飲んでもチビのままだよ、呪いなんだから。
 それをハーレイが解いてくれなきゃ、ぼくの背丈はいつまで経っても伸びないんだけど…!
「解かなくてもいいと言っている。背丈の伸びない呪いってヤツは」
「なんで?」
 ハーレイはぼくがチビでもいいの?
 チビのまんまでキスも出来ないようなのがいいの、ねえ、ハーレイ?
「…チビのお前も俺は好きだし、ゆっくり大きくなれとも何度も言っているがな…?」
 急がなくていいんだ、背を伸ばそうと。のんびり育てばいいのさ、お前は。
 チビなのは呪いなんかじゃない。現実問題としてキースがいない。
「えっ…?」
「何処にもキースはいないじゃないか。…違うのか?」
 俺もお前も、一度もキースに会ってはいない。だから呪いも存在しない。
 キースがいたなら、考えてやる。呪いなのかもしれない、とな。



 お前の夢の中だけの話だろうが、とキスをアッサリ断られてしまった。
 そんな呪いなどありはしないと、あるわけがないと。
 存在していないキースが呪いをかけることなど有り得ないのだし、呪い自体が存在しないと。
 自分の椅子に戻ったハーレイ。キスは済んだと、額へのキスで充分だと。
「でも、ぼくの背…。ホントに一ミリも伸びていないよ、ハーレイと会った五月から…!」
 呪いじゃなければ何だって言うの、ぼくの背、絶対、呪われてるよ…!
「そう言われてもだ、呪いを解くにはキスなんだろうが。唇へのキス」
 本当に呪いがかかっているなら、俺も真面目にキスしてやるが…。
 今の時点じゃ、お前が一人で思い込んでるってだけで、呪いが解けるって方法もそうだ。呪いの解き方はキスだけじゃなくて色々とあるぞ? 本当にキスで解けるのかどうか…。
 結婚出来る年になっても呪われていたら、考えてもいい。
 お前がチビのままで十八歳の誕生日ってヤツが来てしまったなら、その時はキスをしてやろう。
 俺のキスで呪いが解けるかもしれんし、チビのままだと嫁に貰うにも色々と問題があるからな。
「そんな…!」
 十八歳になるまで駄目だって言うの、キスは無し?
 ぼくにかかった呪いを解いてはくれないの?
 キースが呪いをかけているのに、チビのぼくと結婚しようと思って呪っているのに…!



 このままじゃキースと結婚で…、と叫んだら。
 次に夢を見たら三度目の正直で結婚式を挙げてしまうかもしれないのに、と訴えたら。
「当面の問題は、そっちだろうが。お前が見ている夢のシリーズ」
 背丈が伸びない方じゃなくて、と指摘された。
 夢で何度も会っているキースの方が問題なのだ、と。
 メギドの悪夢とは全く別の夢のシリーズ、そちらではキースは小さなブルーを花嫁にするべく、虎視眈々と狙っている。メギドまで探しにやって来る。
 逃げても逃げても追い掛けて来るし、高層ビルから飛び降りたブルーを受け止めようと両の手を大きく広げるほど。受け止められると自信を持って。受け止めてみせると両手を広げて。
 どうやらキースは小さなブルーが心底欲しくて、花嫁にしようと夢の世界で待っているから。
 ブルーに呪いをかけたキースがいるのだとしたら、夢の中。
 かけられた呪いは背丈が伸びない呪いではなくて、ブルーが花嫁になる呪い。夢の中でキースの花嫁になるという呪い。
 キースはそれをかけたのだろう、とハーレイは言った。夢の世界に住むキースが。



「そうかも…。それでシリーズになっちゃうのかも…」
 ぼくがキースのお嫁さんになるまで、あの夢、続いていくのかも…。
 もしかしたら、結婚しちゃった後までも続くシリーズなのかな?
 キースが呪っているんだとしたら、夢の世界でぼくに呪いをかけたんだったら。
「その可能性もゼロではないな」
 俺が思うに、そのシリーズ。
 本当は呪いなんかではなくて、お前がキースを嫌っていないせいで見てるんだろうが…。
 本当のキースはいいヤツだったと、友達になりたかったと思っている心が、夢の中だと間違った方に行ってしまって結婚シリーズになるんだろうが…。
 呪いなんだと思いたいなら、夢の世界のキースの呪いってことでも別にかまわん。
 でもって、そっちの呪いはだな…。



 夢の世界の俺に解いて貰え、と突き放された。
 ブルーが見ている夢の世界に居るだろうハーレイ、そのハーレイのキスで解ける、と。
「それ、絶対に無理だから!」
 あの夢のシリーズ、ハーレイはぼくを祝福してたり、神父さんの格好で結婚式場の祭壇の前で、式を挙げようと待ち構えていたりするんだから!
 ぼくにキスして呪いを解くどころか、ぼくがキースとキスする方へと仕向けるんだもの!
 その内にホントにキースとキスだよ、祭壇の前で誓いのキス…!
「…そうは言うがな、そのシリーズの俺はそうかもしれんが…」
 お前の夢の世界ってヤツの全体を見ればどうなんだ?
 他にも俺は出て来る筈だぞ、まるで全く出てこないことは無さそうだと俺は思うがな…?
「ハーレイの夢は見るけれど…。よく見るんだけど…」
 呪いを解いて、って夢の中でどうやって頼めばいいの?
 あのシリーズ以外の夢を見ている時には、キースのシリーズ、忘れてるのに…!
 ハーレイのキスなんか貰えやしないよ、どう頑張っても無理だってば…!
「本当か? …要はキスだろ、呪いを解くには俺からのキス」
 お前、夢の世界では俺と一度もキスしてないのか?
 ただの一度もキスしていない、なんてことは絶対に無い筈だがな…?
 それともチビになったお前は夢も見ないのか、前の俺と過ごしていた頃の夢は?
 青の間でも、俺の部屋でも、何度も何度もキスしてやったが、そういう夢は一切見ないのか?
 どうなんだ、うん?
 チビのお前が見る俺の夢は健全なお子様仕様ってヤツで、キスの一つも無いってか…?



「うっ…」
 言葉に詰まってしまったブルー。
 みるみる耳まで真っ赤に染まって、もうアタフタとするしか無かった。
 前のハーレイと過ごしている夢を見たら、キスを交わすのは当たり前のこと。青の間だったり、前のハーレイの部屋であったり、場所は変わりはするけれど。
 キスを交わして、それから、それから…。
 小さなブルーには許されていない、それは甘くて幸せな時間。本物の恋人同士ならではの時間。愛を交わして、互いに溶け合う。幸せに溶けて、ただ酔いしれて…。
 目覚めた後にも温もりが、熱さが残っている夢。前のハーレイの熱が身体に残っている夢。
 キスは幾つも、幾つも貰った。唇どころか、身体中に。
 ハーレイのキスを貰っていない場所を探す方が難しいほどに。
 そんな場所は一つも無かったから。前の自分は身体中にキスを貰ったのだから…。



「…ふむ。やっぱり山ほど貰ってるんだな、俺からのキス」
 その顔を見れば一目で分かる、とハーレイが唇の端を笑みの形に吊り上げた。
 隠しても無駄だと、隠すだけ無駄だと。
「……そうだけど……」
 仕方なく答えたら、ピンと額を弾かれた。指先で軽く。
「ほらな、お前の呪いの件。…キスで呪いが解けるのなら、だ…」
 俺は充分、協力している。夢の世界の俺が贈ってるキスで呪いも簡単に解けるだろうさ。
 ただし、キースの夢のシリーズの俺は、協力どころじゃなさそうだがな。
 生憎と俺が見ている夢じゃないから、そればっかりはどうにも出来ん。
 お前が自分で頑張って逃げるか、夢の中でキースを引っぱたくか。
 こっぴどく振ればキースも懲りるんだろうが、お前、どうやら、振ってないしな?
 大人しく捕まって閉じ込められてる辺り、まるでキースを嫌いってわけじゃないんだろう。
 夢の中だけに間違った方向に行っちまうんだなあ、お前がキースに持ってる感情。
 嫌っていないと、友達になれたに違いないと思っているせいで結婚シリーズになっちまう、と。
 そのシリーズ、俺も今後が楽しみではある。
 お前がキースを振って終わるか、めでたく結婚しちまうのか、とな。



 結婚式を挙げてしまったら慰めてやるから、と笑われた。
 そうなった時は、結婚祝いにケーキくらいは買ってやろうと。
 土産にケーキを持って来ようと、家の近くに美味いケーキ屋もあるのだから、と。
「酷い! お祝いにケーキだなんて!」
 それだと、あの夢のハーレイとちっとも変わらないじゃない!
 「おめでとうございます」って祝福をしたり、神父さんの格好で祭壇の前に立ってたり…。
 ぼくがキースと結婚するのを喜んでるのが、あのシリーズのハーレイなんだよ?
 お祝いにケーキを買って来るなら、あのハーレイと全く同じなんだけど…!
「だが、お前。ケーキの類は大好きだろうが」
 美味いのを買ってやろうと言うんだ、そこは喜んで受け取るべきだと思うがな?
 甘い物を食ったら、幸せな気持ちになるからなあ…。
 夢でキースと結婚しちまって、ガックリ来ているお前でも、だ。美味いケーキで立ち直れるさ。俺のお勧めのケーキってヤツを、祝いにと買って来てやるんだからな?
 どんなのが好みだ、旬のケーキか? それとも店の定番品か?
「うー…」
 ケーキはとっても気になるけれども、旬のも定番のも食べたいけれど!
 キースとの結婚祝いだなんて!
 ぼくをキースと結婚させない道を選んではくれないんだ?
 夢の世界のキースが呪いをかけたんだとしても、ハーレイ、解いてはくれないんだね…?



「当然だろうが。夢の世界でかけられた呪いは俺の管轄ではないってな」
 仮に呪いがかかってたとしても、解くのは夢の世界の俺だ。
 そっちの俺からは充分な数のキスを贈っているようだしなあ、呪いもいずれは解ける筈だぞ。
 どんなにお前が呪われてたって、夢でキースと結婚したって。
 俺からのキスはやれないな。チビの間はキスはしないと、してやらないと決めたんだしな?
「酷いよ、ハーレイ! ぼくはホントに呪われてるかもしれないのに…!」
 キースと結婚する呪い。チビのまんまで、背が伸びないようにされちゃう呪い。
「さっきから言っているだろう。背丈が伸びない呪いってヤツは有り得ないし、だ」
 キースと結婚しちまう夢にしたって、お前の心の問題だってな。
 そんな呪いは何処にも無いんだ、俺に解いてやる義理は無い。
 俺からのキスは、お前が大きくなるまでは駄目だ。
 前のお前とそっくり同じ背丈になったら、そういう姿に育ったなら。
 嫌と言うほどプレゼントするさ、俺からのキスを唇にな。



 欲しければ早く大きくなれ、とキスをすげなく断られた。
 呪いが解けるかもしれないキスを。王子様からの魔法のキスを。
 前と同じに大きく育てば、あの夢のシリーズも見なくなるだろうと言われたけれど。
 キースのことなど思い出している暇も無いほど、幸せにしてやるとハーレイは約束したけれど。
(三度目の正直…)
 あのシリーズでキースと本当に結婚してしまったら。
 そんな日が来たなら、呪いを解こうという気になってくれるだろうか?
 キスを贈って呪いを解こうと、例の夢から、背丈の伸びない呪いから自分を解き放とうと。
 でも…。
(きっと無理…)
 結婚してしまう夢を見たなら、お祝いにケーキをプレゼントしようと言い出したようなハーレイだから。旬のケーキか定番のケーキか、どっちがいいかと訊くほどだから。
(…呪いなんて、きっと無いんだ、ホントに…)
 キースの呪いかとも思ったけれども、ハーレイの方がきっと正しい。
 背丈の伸びない呪いなどは無くて、大きくなるまでハーレイのキスは貰えない。唇へのキスは。
 仕方ないから、背を伸ばそう。
 少しでも早くハーレイからキスが貰えるように。唇へのキスが貰えるように。
 どうすれば背丈が伸びてくれるか、まるで見当もつかないけれど。
 まずは毎朝、欠かさないミルク。それとしっかり食べること。
 いつかはきっと、背だって伸びる。前の自分と同じ背丈に、ハーレイとキスが出来る背丈に…。




          王子様のキス・了

※ブルーが見てしまった、キースとの結婚式の夢。もう三度目で、シリーズとも呼べるほど。
 こんな夢を見る呪いを解くには、王子様のキスだと思ったのに…。甘くなかったですね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









 土曜日の朝と言うには少し遅い時刻、ブルーの家へと歩いて向かう途中。
 ハーレイの鼻腔をくすぐった美味しそうな匂い。何処からなのか、と探さなくても目に入った。いつも出掛ける食料品店の表に露店が一つ。フライドポテトを揚げている露店。
 もう子供たちが買おうとしている。頬張っている子供もいる。
 朝食は済ませて来たのだろうに。土曜日なのだし、普段よりも遅めの朝食だろうに。
(おやつってヤツは別腹なんだな)
 大きなサイズを注文している子供の姿が可愛らしい。食べ切れるのだろうか、あんなに沢山。
(食い切れなくても、昼飯前までかかって食っても満足なんだろうとは思うがなあ…)
 イモは揚げ立てに限るんだが、と苦笑した。フライドポテトは揚げ立てが美味い、と。
 ホクホクの揚げ立てにパラリと塩を振ったばかりのをつまむのがいい。まだ熱い内に、冷めない間にすっかり食べてしまうのがいい。
 フライドポテトは揚げ立てが一番、冷めてしまっては風味が落ちる。熱い間に食べ切れる分だけ揚げてこそだと、食べてこそだと思うけれども。
(小さいサイズで買ってる子供がいないってのがなあ…)
 目先の美味さに囚われるんだな、と足を止めて微笑ましく見守った。幼かった頃の自分も大きなサイズを買っただろうか。冷めても食べていたのだろうか…。



(俺のことだし、デカイのを買っても食い切れたような気もするんだが…)
 温かい内に、ペロリと全部。記憶に無いほど幼い頃なら、冷めてしまったとか、食べ切れないで家に持って帰ったとか、そうした事態も起こっていたかもしれないけれど。
(フライドポテトなあ…)
 そういえば、前はよく食べていた。もう子供ではなくなった後に。今の家で暮らし始めた後に。
 ビールのつまみに、フライドポテトに合いそうな酒を飲む時のつまみに、カラリと揚げて。
 枝豆を茹でるのと似た感覚で、フライドポテト。適当な大きさのジャガイモを選んで、薄い皮を剥いたらスティック状に切って。
 油を熱して揚げる間も、酒を、ビールをお供に何本かつまみ食い。口の中を火傷しそうな熱さの揚げ立てを一本ヒョイとつまんで、モグモグと。揚げている内から至福の時間。
 全部揚げたら皿に移して、ダイニングに、あるいは書斎に運んで食べていた。ビールを飲んでは何本かつまみ、酒を飲んでは何本かつまんで、冷めない間に、美味しい間に。



(あいつと会うようになって…)
 小さなブルーの家に出掛けて過ごすようになって、そういったことも忘れていた。一人暮らしの楽しみ方を、醍醐味を忘れたと言うべきか。
 酒もビールも飲むのだけれども、ジャガイモの皮を剥く所から始めるフライドポテトは御無沙汰していた。もっと手早く作れるものやら、チーズやナッツに座を奪われてしまって久しい。
 久しぶりに嗅いだ揚げ立ての匂いに、食べたい気持ちが掠めるけれど。
 酒は無くとも、フライドポテトだけで充分に満足出来そうだけれど。
(…食いながら行くか?)
 揚げ立てを買って、道々、齧りながら。ホクホクの味を楽しみながら。
 それもいいな、という気がした。いい年をした大人がフライドポテトを食べながらの散歩、手にした袋から一本出しては頬張りながらの愉快な道中。
 ブルーはなんと言うだろう?
 「フライドポテトを食いながら歩いて来たんだぞ」と話してやったら、「本当に?」と赤い瞳が丸くなるのか、「いいな…」と羨ましそうな顔をするのか。
 子供ならば大抵、大好物のフライドポテト。きっとブルーも好きだろうから。
(いっそ、あいつにも…)
 買って行ってやるか、と露店を眺めた。揚げ立ての匂いを漂わせる露店。
 ブルーの家まで持ってゆくなら少し冷めるが、温め直して貰ったならば、と思った所で。



(そうだ、イモ…!)
 ジャガイモだった、と遠い記憶が蘇って来た。イモだと、フライドポテトだったと。
 前のブルーがまだソルジャーでは無かった頃。ただ単純にリーダーと呼ばれるようになるよりも前の、今と変わらない姿の少年だったブルー。人類の船から食料や物資を奪っていたブルー。
 その頃のブルーは前の自分に懐いていたから。よく厨房に来ていたから。
 手が空いている時にブルーが顔を出したら、ジャガイモを揚げてやっていた。皮を剥いて切って油でカラリと。塩をパラリと振りかけて。
 前のブルーが来ると尋ねていた。「食べるか?」と。
 フライドポテトを食べたくないかと、食べたいのならば揚げてやるぞ、と。
(これは買わんと…)
 買わなければ、とフライドポテトの露店に向かった。
 単なる酒のつまみではなかったフライドポテト。前の自分の思い出の味。前のブルーの思い出が詰まったフライドポテト。今の今まで、思い出しさえしなかったけれど。
 こうなれば買ってゆくしかあるまい、歩く途中で冷めてもいいから。
 露店の前に立って「二つ」と頼んだ。小さなサイズで二つ頼むと、持ち帰り用に包んでくれと。
 本当だったら、ブルーの目の前で自分で揚げてやりたいけれど。
 そうしたい人が買ってゆくために、後は揚げるだけのイモも売られているのだけれど。
(…揚げるのは簡単なんだがなあ…)
 ブルーの家のキッチンで二人きりとはいかないから。
 それでは思い出話が出来ない、とイモを揚げるのは諦めた。
 シャングリラの頃の思い出です、と話せばキッチンを借りられるだろうし、イモを揚げるくらい手料理の内にも入らないから、その点は問題無いのだけれど。
 ブルーの母への遠慮は必要無いのだけれど…。



 冷めにくいよう、包んで貰ったフライドポテト。提げられる小さな紙の袋もついて来た。
 袋を提げてブルーの家へと向かう途中も心が弾んだ。
 思い出したと、フライドポテトの記憶を見事に拾い上げた、と。
 生垣に囲まれたブルーの家に着いて、門扉の脇のチャイムを鳴らして。開けに来たブルーの母に事情を話して、冷めて来ているだろうフライドポテトを温め直して欲しいと頼んだ。
 シャングリラで食べていたんです、と言えばそれだけで通じたから。
 「キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーの思い出のフライドポテトですのね」と納得して貰えたから、「よろしくお願いします」とフライドポテトが入った袋を手渡した。
 量はそんなに多くないけれど、フライドポテトも一種のおやつには違いないから。
 「お菓子の量も調節して下さい」と付け加えるのを忘れなかった。
 小さなブルーが食べ過ぎてしまわないように。昼食が入らなくならないように。



 二階の窓から手を振っていた、ブルーの部屋に案内されて。
 テーブルを挟んで向かい合うなり、ブルーはハーレイの周りをキョロキョロと見回した。
「ハーレイ、荷物は?」
 もう一つあった小さな袋はどうしたの、と問われたから。
「見てたのか? 目ざといヤツだな」
「うん、お土産かと思ったんだけど…。何かお土産。でも…」
 お菓子はママのお菓子だよね、とテーブルの上を見詰めるブルー。ケーキ皿には口当たりの軽いシフォンケーキが載っているけれど、小さなブルーは気付いていない。小さめなことに。
 フライドポテトの量の分だけ、ケーキのサイズが小さいことに。
 お茶もお菓子も揃っているから、余計に気付かないのだろう。もう一品あるということに。
 だから…。
「まあ、待ってろ。荷物のことなら直ぐに分かるさ」
「えっ?」
 あれって、やっぱりお土産だった? 何かくれるの、ねえ、ハーレイ?
「いいから、暫く俺と喋りながら待つんだな」
 またお母さんが来る筈だから、と言ってやればブルーは待ち遠しげに扉の方ばかり見ている。
 目の前に恋人がいるというのに、扉が恋人であるかのように。
(俺は扉に嫉妬はせんが…)
 この辺りはやはり子供だな、と面白く観察してしまう。
 注意せずとも恋人同士の会話などせずに、「ママ、まだかな?」と扉の向こうに夢中だから。



 やがて階段を上がる足音が聞こえて、扉が軽くノックされて。
「ハーレイ先生、お待たせしました」
 温まりましたわ、揚げ立てには敵いませんけれど…。
「すみません…! お手数をおかけしまして」
「どういたしまして」
 お役に立てて良かったですわ、とブルーの母が置いて行った二つの皿。その上に盛られて湯気を立てている、ホカホカの細く切られたジャガイモ。油でカラリと揚げられたイモ。
「…フライドポテト…?」
 どうして、とブルーが訊いてくるから。
 ずいぶん変わったお土産だけど、と温め直されたフライドポテトを眺めているから。
「好きだったろ、お前?」
 フライドポテト。温め直してもけっこういけるぞ、熱い間は。
「好きだけど…。小さい頃から、揚げ立てを何度も買って貰ったけど…」
 ママだってたまに揚げてくれるし、美味しいんだけど。…ハーレイにそういう話、したっけ?
「いや、お前はお前でも前のお前だ。好きだったろうが」
「前のぼく?」
 案の定、キョトンとしているブルー。自分と同じで忘れてしまっているのだろう。あの船の中で食べていたことを、前の自分が揚げていたことを。
 そうなるのも無理も無いとは思う。
 フライドポテトを揚げていた頃は、お互いにキャプテンでもソルジャーでもなかったから。前の自分がキャプテンになってしまった後には、もう揚げたりはしなかったから。
 ブルーが厨房に遊びに来ることも、前の自分が厨房に立つことも無かったのだから…。



 けれども、思い出して欲しいフライドポテト。前のブルーとの思い出の味。
 一本つまんで、「覚えていないか?」とブルーに尋ねた。
「こいつを、だ。よく揚げてやったぞ、前の俺がな」
 前のお前が厨房に来たら、「食うか?」と訊いては、ジャガイモを剥いて。
「ああ…! ハーレイのフライドポテト…!」
 思い出したよ、揚げてくれてた。ぼくのおやつに、ってフライドポテトを何度も、何度も。
「そうだ、そいつだ。…生憎と俺が揚げたんじゃなくて、買って来ただけだが…」
 おまけに揚げ立てじゃなくて、温め直したヤツなんだが…。
 まあ、食ってみろ。フライドポテトは温かい間が美味いんだからな。
「前のハーレイもそう言っていたね、揚げ立てを食べるのが美味いんだぞ、って」
 火傷するくらい熱いのもうんと美味しいから、って揚げてる間にも分けてくれたよ。まだ全部を揚げたわけじゃないのに、「ほら」って、つまんで。
「冷めると美味くないからな、イモは」
 特にフライドポテトってヤツは。
 揚げたばかりのホクホクしたのを食ってこそだな、こいつはな。
 …おっと、こいつもなかなかいけるぞ、お前のお母さん、上手く温め直してくれたんだなあ…。



 シャングリラで食ってたあの味だ、とハーレイはフライドポテトを頬張った。小さなブルーも。
 白い鯨ではなかったシャングリラで食べた、フライドポテト。熱々の揚げ立て。
 その誕生はジャガイモ地獄だった頃。
 前のブルーが奪った食料の大部分をジャガイモが占めた、ジャガイモ地獄。
 地球が滅びてしまうよりも前の遥かな昔は、ジャガイモを主食にしていた地域もあったという。ジャガイモだらけでも大丈夫な筈だと、何とかなると努力したハーレイと厨房の者たち。
 ありとあらゆるジャガイモ料理を作ったけれど。
 ブルーが調達して来た食料を無駄にしないようにと、頑張ったけれど。
「今日もジャガイモか…。もう飽きたな」
「まったくだよ。たまにはジャガイモ抜きの食事を食べたいねえ…」
 そんな台詞ばかりが流れる中。食事の時間が訪れる度に聞こえて来る中。
 意外なことに、好評だったフライドポテト。
 単純に切って揚げただけのもので、味付けも振った塩だけなのに。
 ジャガイモそのものの料理だというのに、何故だか、皆に好まれた。誰も文句を言わなかった。
 そうと分かってからは、フライドポテトを添えることにした。
 ジャガイモだらけの料理に一品、フライドポテト。それを食べる時だけは誰もが笑顔で、不平も不満も無かったから。熱い間にと、皆が一番に食べていたから。



 あまりに不思議なフライドポテト。添えるだけで笑顔を引き出す食べ物。
 ジャガイモ地獄の日々の中でも、「美味い!」と喜ばれて好かれたフライドポテト。
 何か理由があるのだろうか、とヒルマンがデータベースで調べた結果。
「例のフライドポテトなんだが…。子供の頃に食べたようだね」
 どうやら、そういう食べ物らしい。家でも作りはするのだが…。どちらかと言えば家の外。
 それを専門に揚げている店で買うのが多いようだ。遊園地などの露店でね。
「なるほどねえ…! あれは遊園地の味だったのかい」
 まるで覚えちゃいないんだけどさ、遊園地にも行った筈だしねえ…。楽しかったに違いないね。
 その時に食べたものだったんだ、と舌が覚えていたってことだね、フライドポテト。
 分かった、とブラウがポンと手を打ち、たちまち広がったフライドポテトの由来なるもの。
 思い出の味か、とシャングリラ中の皆が納得した。
 失くしてしまった楽しい記憶と結び付いているらしいフライドポテト。
 それで飽きないのかと、これだけは美味しく食べられるのか、と。



 ジャガイモ地獄の中、どんな料理でも黙々と食べていたブルー。
 文句の一つも言わずに何でも食べたけれども、フライドポテトが特別な所は皆と同じで。
 食堂でハーレイと並んで食事しながら、添えられた揚げ立てのフライドポテトを頬張りながら。
「ねえ、ハーレイ」
「ん?」
「ぼくのフライドポテトの思い出、どんな思い出だったんだろう?」
 なんにも思い出せないけれども、これを食べると幸せな気持ちになるんだよね…。
 美味しいなあ、って思うんだ。美味しかったな、って、また食べたいな、って。
 何処で食べたのかな、遊園地かな? それともパパかママに強請って何処かの露店?
「さあなあ…」
 何処だったんだろうな、ヒルマンの話じゃフライドポテトの露店は多かったらしいしな?
 公園にもあれば、街角にだって。何処でも子供が主役でな。
「ハーレイの思い出も気になるよね。フライドポテトとセットの思い出」
「まあな。だが、思い出の場所が何処であれ、だ…」
 俺はお前よりもデカイのを買って食っていたのに違いないさ、と笑って言った。
 フライドポテトを買う時に選ぶ、自分の胃袋に見合ったサイズ。
 この身体だから、と。子供の頃にも大きかったに違いないと。
「そうかも…!」
 きっとハーレイ、一番大きなサイズだね。大人の人が買って行くような。
「お前は一番小さいのかもな」
 今だって食が細いんだしなあ、デカイのを買っちゃいないだろう。
 でなきゃ、食えると強請ってデカイのを買って、最後までは食べ切れなかったとかな。
 それだって、いい思い出だ。残りはお前の養父母が食べてくれたんだろうし、うんと愛されてた時代の素敵な思い出なんだ。残念ながら、俺たちは全部失くしちまったわけなんだがな…。



 誰もが喜んだフライドポテト。
 記憶は失くしても、舌に残っていた露店の味。幸せな思い出を閉じ込めた味。
 ジャガイモを切って揚げただけなのに、塩を振りかけただけなのに。
 厨房の責任者だったハーレイにとっては、忘れられない食べ物となったフライドポテト。まるで魔法のように思えて、ジャガイモを見る度に思い出したものだ。その調理法を。
 だからジャガイモ地獄が終わった後にも、たまにブルーに揚げてやった。
 手が空いている時にブルーが来たなら、「食べるか?」と訊いて「うん」と答えが返ったら。
 ジャガイモの皮を剥いてトントンと切って、熱した油でジュウジュウと揚げて。揚げる間にも、早く揚がった分をブルーに「熱いぞ」と渡してやっていた。
 軽く塩を振って、「これがホントの揚げ立てってヤツだ」と、「火傷するなよ」と。
 揚げ終わったら、塩をパラリと振りかけて皿に盛り、熱々のをブルーと二人で食べた。カラリと揚がったホクホクのフライドポテトを二人で。
 齧りながら、何かを思い出さないかと期待もしていた。この味が引き金になって何かを、と。
 失くした子供時代の記憶。フライドポテトが大好きな理由。
 お互い、記憶は一つも戻りはしなかったけれど。欠片さえ戻って来なかったけれど。
 何度も何度も、揚げ立てのフライドポテトを二人一緒に頬張った。
 「熱い間が美味いんだから」と、あの船にあった厨房で。
 幸せだった、前のブルーとの思い出。
 フライドポテトに纏わる記憶はブルーとの思い出になってしまった。あの頃に追っていた記憶の欠片を探すのではなくて、前のブルーと結び付いてしまったフライドポテト。
 二人で食べていたフライドポテト…。



「俺が思うに、あの頃、既にお前はだな…」
 お前に俺がフライドポテトを揚げてやっていた頃。
 俺としては友達に振舞うつもりでせっせと揚げてたんだが、そいつは俺の勘違いってヤツで。
 実はお前は、とっくの昔に…。
「ハーレイの特別だった、って言うの?」
 まだ恋人ではなかったけれども、ハーレイにとっては特別な何か。友達じゃなくて。
「そういう気持ちがしないでもない」
 お前のために揚げてやろう、ってジャガイモの皮を剥き始めたら気分が弾んでいたしな。うんと美味いのを食わせてやろうと、今日も揚げ立てを御馳走しようと張り切っていた。
 お前の記憶が戻るといいなと、こいつで戻るといいんだが…、とな。
「ぼくはいつでも言ってるよ。会った時から特別だよ、って」
 アルタミラでハーレイと初めて出会った時から、特別。
 ハーレイはぼくの特別なんだよ、って何度も言ったよ、最初からだよ、って。
「そうだっけな…。俺にとってもお前は特別だったんだろうな」
 お前以外の誰かが来たって、フライドポテトを食わせてやろうとは思わなかったし。
 ゼルが長居をしていた時にも、ヒルマンが覗きに来てくれた時も。
 一度も揚げてはやらなかったなあ、フライドポテト。
 食ってみるか、って試作品を食わせた思い出ってヤツは星の数ほどあるんだがな。



 前のブルーにしか揚げてやらなかったフライドポテト。
 もう充分にブルーは特別だったのだろう。前の自分がそうだと気付いていなかっただけで。
「フライドポテトなあ…。お前にしか揚げてやらなかった、ってトコで気付けば良かったな」
 俺はお前を特別扱いしてるんだ、ってことに気付けば、その他にだって。
 あれこれと色々あったかもしれんな、お前が特別だった証拠が。
 そいつを知ってりゃ、もっと早くにお前に打ち明けていたかもしれん。お前が好きだと、恋人になってくれないか、と。
 ところがどっこい、俺ときたら恋だと気付くまでに何年かかったんだか…。
 シャングリラが白い鯨になっても、まだ友達だと思ってた。つくづく馬鹿だな、鈍いヤツだ。
 フライドポテトのことだけに限らず…、と苦笑いしながら小さなブルーと二人でつまんだ。
 まだホクホクとしているフライドポテトを。揚げ立ての味に近いものを。
 ハーレイが揚げたわけではないけれど。
 揚げ立てでもなくて、持って来る間に冷めてしまって、温め直されたものだけれども。
 それでもフライドポテトだから。
 前の自分たちが食べたフライドポテトと、まるで違うというわけではないから…。



「またハーレイに揚げて欲しいな、フライドポテト」
 お土産でも嬉しいんだけど…。ハーレイの揚げ立て、食べたかったな。
「そいつは俺も、一応、考えてはみたんだがなあ…」
 フライドポテトの露店を見ていて記憶が戻った時に、とハーレイは食料品店の側で巡らせていた考えを思い返して頭を振った。
 揚げればフライドポテトになるイモを買おうと思えば買うことは出来た。そういう商品も扱っていたから、「揚げていない物を」と頼めば済んだ。
 皮を剥かれて切られていたイモ。露店に山と積んであったジャガイモ。計って貰って生のイモを買えば、そういうイモを買いさえすれば。
 小さなブルーが見ている前で揚げてやることが出来ただろう。キッチンを借りて。
 ブルーが寝込んでしまった時には野菜スープを作っているキッチン。何度も借りて使っていた。
 フライドポテトを揚げるくらいは手料理というわけでもないから、ブルーの母を恐縮させる心配だって無かっただろう。
 シャングリラでの思い出の料理だと、それを再現してみたいのだ、と言えば分かって貰えた筈。
 快く貸して貰えただろうキッチン、揚げるための鍋も、それに油も。
 けれど…。



「俺がキッチンで揚げていたなら、その場で思い出話が出来んぞ」
 そこが問題だし、イモを揚げるのは諦めたんだ。揚げてないイモもあったんだがなあ、ちゃんとフライドポテト用に切ってあるイモ。家で揚げようって人は量り売りをして貰えたんだが。
「思い出話って…。大丈夫だったんじゃないの、ママがいたって、パパも覗きに来てたって」
 本当に前のハーレイが揚げていたんだから。ジャガイモの皮を剥くってトコから始めて。
 そういう話を二人でしてても、パパもママも変には思わないよ?
 シャングリラの昔話の一つなんだ、って聞いてるだけだと思うんだけど…。
「それは確かにそうなんだが…。揚げてたってことだけで話が済めばいいんだが」
 もっと色々話したくなっちまった時に困るじゃないか。そう思ったから揚げるのはやめにした。
 現にお前が俺の特別だった、って話が出て来てしまったろうが。
 お父さんやお母さんの前でその手の話は出来ないぞ。後で、ってことにするしかないんだ。
「…そっか、後からになっちゃうんだ…」
 フライドポテトを揚げ終わって部屋に行くまで話が出来ないんだね。
 思い出した、っていうものがあっても、キッチンだったら黙っているしかないものね…。
「そういうことだ。思い出して直ぐに話せるっていうのと、後まで黙っておくのは違うぞ」
 忘れちまいはしないだろうがだ、新鮮な驚きが消えちまう。
 あれはこういうことだったのかと、後で忘れずに話さなければ、と何度も頭で繰り返す内にな。



 そうなったのでは感慨が薄れちまう、とフライドポテトを揚げることを断念した理由をブルーに説明したら。こんなわけでやめておいたのだ、と説いてやったら。
「じゃあ、今度揚げてよ、フライドポテト」
 思い出話はたっぷりしたから、前のぼくがハーレイの特別だったフライドポテトを揚げてよ。
 ぼくにだけ揚げてくれてたんだな、って噛み締めながら眺めることにするから。
 前のぼくの頃に戻ったつもりで、ハーレイが揚げるの、見ているから。
 ジャガイモの皮から剥いてくれなくても、フライドポテト用のを揚げてくれればいいから。
 お願い、とブルーに頼まれたけれど。強請られたけれど。
「もうお母さんに話しちまったからなあ、フライドポテトの思い出ってヤツ」
 全部を喋ったわけじゃないがだ、フライドポテトを持って来た理由は話しちまった。
 そいつを今度は揚げるとなったら、そこまで大事な食べ物なのか、と興味を持たれてしまうぞ、きっと。どんな思い出か知りたいだろうし、話してくれとも言われるだろう。
 無理やり聞こうってほどに強引じゃなくても、一緒に夕食を食ってる時とか。
 前のお前に揚げてやってた、お前が俺の特別だった、っていう思い出。
 そうそう披露したくはないなあ、特別だったと気付いちまった今ではな。



 またいつかな、と言い逃れたら。
 興味を持たれないくらいに時間が経つか、揚げても妙だと思われないようなタイミング。そんな機会が訪れたなら…、と逃げを打ったら、ブルーは残念そうにしていたけれど。
 フライドポテトを揚げる姿は見られないのか、と肩を落としていたのだけれど。
「…結婚したら揚げてくれる?」
 ハーレイと結婚した後だったら、フライドポテトを揚げてくれる…?
「もちろんだ。露店で売ってるイモを買ってくるようなケチな真似はしないぞ、一から作る」
 前の俺が何度もやってたみたいに、ジャガイモの皮を剥くトコからだな。
 うんと美味いのを揚げてやるから、それを楽しみに待っていろ。揚げてる途中で味見ってヤツも前と同じにつけてやるから。「火傷するなよ」って渡してたヤツな。
「ホント!?」
「うむ。誰にも遠慮しないで二人きりで暮らせる家なんだしな?」
 キッチンも有効に使いたいじゃないか、フライドポテトも楽しくいこう。
 前の俺たちは何の記憶も思い出すことは出来なかったが、だ…。
 今度の俺たちはきっと色々思い出せるぞ、今、思い出した分よりも沢山、フライドポテトの思い出ってヤツを。
 前のお前と俺とで食べてたフライドポテトだ、山ほど思い出が詰まっているさ。
 俺が揚げて、お前が横からつまんで。
 そうする間にも次から次へと懐かしい記憶が戻るんじゃないか、お前も、俺もな。



 そして今のお前のフライドポテトの思い出はどんな具合なんだ、と訊いてみる。
 何か楽しい思い出はあるかと、今度はちゃんと思い出せるかと。
「うんっ! えっとね、遊園地でママに買って貰って、いっぱい食べて…」
 食べ切れなくって、持って帰って食べたいな、って思ってたのに。
 パパが「冷めると美味しくないぞ」って、「パパが食べておこう」って食べちゃった…。
 何度もそういう目に遭ったけれど、フライドポテトを買う時には欲張っちゃうんだよ。
 食べ切れないに決まっているから小さいのにしなさい、って言われても駄目。一番小さいヤツにしておきなさい、ってママが言っても、パパが言っても、もっと大きいの。
 流石に、一番大きいのが欲しいとまでは欲張らなかったけどね。
「うーむ…。お前らしいと言えば、お前らしいな」
 妙な所で頑固だからなあ、前のお前とそっくりで。
 うんうん、デカいフライドポテトか。お前の腹には入り切らんな、まして今よりチビではな。



 聞かせて貰ったブルーの幸せな思い出。今のブルーの思い出の中のフライドポテト。
 遊園地で「欲しい」と駄々をこねる姿が見えるような気がした。今よりもずっと小さなブルーが足を踏ん張り、大きいのがいいとフライドポテトの露店の前で。
 きっと他でもやったのだろう。遊園地でなくても、フライドポテトの美味しそうな匂いが漂って来たら。揚げている露店に出会ったら。
「お前、今度はフライドポテトの思い出を山ほど持っていそうだが…」
 そういう幸せな思い出を増やして行こうな、フライドポテトの他にもな。
 前の俺たちがフライドポテトで幸せな気持ちになっていたように、幸せを運んでくれる思い出。
「うんっ! ハーレイと二人で沢山思い出を作らなくっちゃね」
 幸せな思い出を沢山、沢山。
 思い出すだけで幸せになれるものを沢山、ハーレイと二人で見付けようね。
「ああ、食い物に限ったことじゃなくてな」
 その辺を散歩して、買い物に行って。ドライブや旅行や、前の俺たちがやってないことを端から経験していくとしよう。幸せな思い出を増やすためにな。



 偶然出会った、フライドポテトの露店が運んで来てくれた記憶。
 前の自分が持っていた記憶。
 ブルーのためにだけフライドポテトを揚げていたのだと、ブルーは特別だったのだ、と。
 いつか、結婚したならば。
 またブルーのためにフライドポテトを揚げよう、ジャガイモの皮を剥く所から始めて。
 揚げながらブルーに「熱いぞ」と揚げ立てを渡してやって、キッチンで二人。
 前の思い出を拾い集めながら、今の思い出を語りながら。
 フライドポテトの思い出だけでも、きっと一度で語り尽くせはしないだろう。
 だから何度も、何度も揚げる。
 ブルーのためにフライドポテトを、揚げ立てが美味しいカラリと揚がった思い出の味を…。




           フライドポテト・了

※シャングリラでハーレイが揚げていたフライドポテト。前のブルーが来た時にだけ。
 その頃から、きっとブルーは特別だったのでしょう。わざわざ作ってあげたいくらいに。
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(えーっと…)
 学校の帰り、ブルーが乗り込んだバス。学校の側のバス停から。
 お気に入りの席が空いていたから座ったけれど。窓の外を眺めていたのだけれど、次のバス停で乗り込んで来た親子連れ。父親と、小さな男の子。
 幼稚園くらいに見える男の子と、若い父親。ブルーの父より若々しい見た目。
 今の時代は人間はみんな、ミュウだから。好みの姿で自分の年を止めてしまえるから、若くても外見どおりの年とは限らない。あの子の父親だって、そうかもしれない。
 でも…。
(見た目通りの年だったら…)
 並んで席に座った親子。子供がせがんで、始めた手遊び。ブルーの席からよく見える。笑い合う声も聞こえて来る。それは微笑ましい光景。仲の良い親子。
(年の差、ぼくとハーレイよりも…)
 小さいのだろうか、もしかしたら?
 あの男の子くらいの年頃だった自分が、何処かでハーレイと出会っていて。
 知り合いになって、並んでバスに乗っていたなら、周りの人にはどう見えたろうか?
 男の子が五歳だったとしたなら…、と指を折ってみて。
(ハーレイ、二十八歳か二十九歳なんだ…)
 今のハーレイのその頃の姿は知らないけれども、前のハーレイならアルタミラで出会って一緒に居たから想像がつく。どんな外見だったのかが。
 そのハーレイが五歳の自分とバスの座席に二人並んで座っていたら…。



(もしかしなくても、お父さんと子供?)
 きっと、そうとしか見えないだろう。親子にしか見て貰えないだろう。
 肌の色がまるで違うと言っても、ブルーはアルビノなのだから。褐色の肌の父親の子でも、何の不思議もありはしないし、「アルビノなんだな」と思われるだけ。
 顔立ちが少しも似ていなくても、ハーレイと二人で乗っているのだし、「母親の方に似た子」と誰もが受け止め、それでおしまい。ハーレイと誰かの間の子供。ハーレイの息子。
(…ハーレイの子供になっちゃうだなんて…)
 そう勘違いされちゃうなんて、と親子連れの乗客をポカンと見詰めた。そうなるのか、と。
 ハーレイにチビと言われる理由がよく分かった。
 背丈の問題だけではなかった。
 足りない年齢、大きすぎる年の差。父親と子供で通る年の差。
 ハーレイから見れば、自分は明らかにチビなのだろう。背丈だけではなくて、年齢までが。



(前のぼくなら、年では負けていなかったのに…!)
 負けていないどころか遥かに年上、それを知ったハーレイが目を剥いたくらい。「お前、俺より年上だったのか…」と。
 ただ、アルタミラの研究所の檻で生きていた間、身体も心も成長を止めてしまっていたから。
 檻の中でも成長していたハーレイからすればチビではあった。外見そのまま、成人検査を受けた時のまま、十四歳の子供。
 だからハーレイも最初は気付かなかった。ブルーの方が年上だとは。
 生まれた年がSD暦の何年なのかを口にするまで、年上のつもりだったハーレイ。知った後でも態度は変わりはしなかったけれど。中身は子供なのだから、と優しく接してくれたけれども。
(だけど、ぼくの方がずっと年上…)
 その点に関しては今よりも有利。ハーレイにチビと言わせはしない。
 年上だったせいで、前のハーレイよりも遥かに先に寿命を迎えてしまったけれど。
 死んでしまうのだと、ハーレイと離れて死の世界へ連れて行かれてしまうと泣いたけれども。
 それさえ除けば、特に問題があったわけでもない。前の自分がハーレイよりも年上だったことは何の障害にもならなかった。友達になるにも、恋をするにも。
 けれど…。



(今のぼくだと、ああなっちゃうんだ…)
 幼い頃に出会っていたなら、二人一緒にバスに乗ったら、何処から見たって立派な親子。父親と子供、そんな風にしか見て貰えない。
 ブルーの方がずっと年下だから。ハーレイがずっと年上だから。
 下手をすれば、今の年であっても。今の自分がハーレイと二人でバスに乗っても。並んで座席に腰掛けていたら、父親と子供に見えるかもしれない。親子で何処かへ出掛けるのだな、と。
(うーん…)
 育ったならば少しはマシだろうか?
 親子なのだ、と思われない程度に年の差は縮まってくれるだろうか?
 ハーレイはもう外見の年を止めているのだし、後は自分が育つだけ。外見の差も縮まるだけ。
 前の自分が年を止めたのと同じ姿で成長を止めようと思っているから、多分、十八歳くらいか。結婚出来る年になる頃、その辺りで止める予定の成長。
(ハーレイとぼくは、二十四歳違うんだから…)
 出会った五月には二十三歳違ったけれども、ハーレイの誕生日が来て二十四歳違いになった。
 十八歳で年を止めるなら、ハーレイとの年の差は二十歳。単純に計算するならば。



(お父さんと子供でも…)
 通らないこともなさそうだった。
 結婚出来るようになる年は十八歳。結婚して直ぐに子供が出来たら、そのくらいの年の差。
 若い父親と、その息子。ハーレイと自分の年齢の差は親子と言ってもおかしくはない。
(じゃあ、ハーレイと二人で出掛けたら…)
 親子に見られてしまうのだろうか、何処へ行っても?
 バスで並んで座っていたって、二人で食事をしていたって。
 ちゃんと結婚しているのに。恋人同士でデートの途中で、バスに乗ったりしているのに。
(…お父さんと子供…)
 あんまりだ、とグルグル考えていたら、いつものバス停を通り過ぎそうになって。
 慌てて「降ります!」と叫んで前へと走った。鞄を抱えて、降りる方のドアへ。



 失敗しちゃった、とバスを降りたら、窓から手を振っている子供。さっきの子供。
 振り返してやったら、父親の方も手を振ってくれた。手を振る親子を乗せて走って行ったバス。見えなくなるまで手を振り返して、バス停から家へと歩き始めて。
(仲良し親子…)
 あの二人は何処へ行くのだろう?
 家へ帰るのか、それとも遊びに出掛けてゆくのか。
 明らかに親子だと分かる二人だったけれど、あれが自分とハーレイだったら…。
(結婚した後でも仲良し親子?)
 もしかしたら分かって貰えないかもしれない。恋人同士で並んでいたって。
 恋の経験を持つ大人はともかく、子供には。
 さっきの子のように幼い子供には、親子なのだと思われるかもしれない。親子でバスに揺られているのだと、親子で出掛ける途中なのだと。
(ハーレイと結婚してるのに…!)
 親子だなんて、とショックだったけれど、それが現実。
 今の年ならどう見ても親子、育った後でも危うい年の差。十八歳と三十八歳。
 それ以上はもう縮められない。
 自分の姿が前とは変わってしまうから。前の自分よりも育ってしまって、前のハーレイが愛した姿を見せられなくなってしまうから…。



(なんだか酷い…)
 トボトボと歩いて家に帰って、着替えを済ませて。
 おやつを食べながら母に訊いてみた。何気ない風を装いながら。
「ねえ、ママ…。ハーレイ先生とぼく、並んでいたら親子に見える?」
 それとも友達同士になるかな、どっちだと思う?
「親子じゃないの? 知らない人が見た時でしょう?」
「やっぱり、親子に見えちゃうの?」
「当たり前でしょ、パパとハーレイ先生、いくつ違うと思っているの?」
 年はそんなに変わらないこと、ブルーだって知っているでしょう?
 ハーレイ先生とブルーは似ていないけど、親子に見えるか、友達同士か、っていうんだったら、答えは親子ね。そういう年の差。
 パパのお友達が家に遊びに来たことは何度もあるけど、ブルーのお友達にはなってないでしょ?
 ブルーは遊んで貰っていたけど、お友達とは違うものね?
 ハーレイ先生でも、何も知らない人から見ればおんなじなのよ。
 パパのお友達と遊んでいます、っていう風になるか、似てない親子か、親戚くらいね。
 友達同士だと思うような人は、誰もいないんじゃないのかしら…。
 本当はお友達だけれども、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったからでしょ?



 母にまで言われてしまった親子。友達同士よりかは親子。
 そういうことになってしまうのか、と部屋に戻って考え込んだ。勉強机に頬杖をついて。
 これはマズイと、ハーレイとバスには乗れないと。
 二人並んで乗っていたなら、さながら今日の親子連れ。父親と子供にされてしまう。恋人同士で乗っているのに、デートに出掛ける途中なのに。
(…出掛けるんなら車だよね?)
 車だったら、きっと安心。
 ハーレイが運転して、自分は助手席。これならデートだ、と思ったけれど。
(…お母さん抜きのドライブに見える?)
 助手席に乗るべき母親は留守番をしていて、息子が助手席に座っているように見えるだろうか。父親と息子だけでの外出はさして珍しくもないのだし…。例えば釣りとか、山登りとか。

(…車でもやっぱり間違えられちゃう?)
 それでも車には二人きり。他の乗客はいないわけだし、そうそう人目につかないだろう。信号で止まっても覗き込むような人はいないし、親子連れだと思われはしない。
 車の方が安心だよね、と考えたけれど。
(じゃあ、バスには…)
 乗れないのだろうか、仲良し親子と勘違いされたくないのなら。
 ハーレイと二人、バスの座席に並んでゆくことは無理なのだろうか?
 何処かへ行こうと、今日はバスだと乗り込むことは。



(でも、ハーレイの車があるしね?)
 バスは駄目でも車があるから、と思ったけれども、問題が一つ。
 運転するのはハーレイなのだし、自分の方を向いて話しては貰えない。バスに乗っていた親子のように遊びも出来ない。
 ハーレイと手遊びをしたいわけではないけれど。手を繋げればそれで充分だけれど。
 それが出来ないのが、ハーレイの運転する車。
 ハーレイの目は前を見詰めていなければ駄目だし、両手はハンドルに持ってゆかれる。車を操る方が優先、鳶色の目も大きな両手も、ブルーの相手をしてはくれない。
(バスだったら…)
 座席に二人、並んで座れる。並んで好きなだけ話が出来るし、手だって繋げる。ハーレイの肩にもたれて乗っても行ける。
 眠くなったらもたれて、眠って、「そろそろ着くぞ」と起こして貰える。
(だけど、ハーレイと仲良し親子…)
 誤解されそうなバスの中。
 恋人同士だとは思って貰えず、親子なのだと間違えられそうなバスの中。



 ハーレイと乗るなら車か、バスか。
 いったいどちらがいいのだろう、と悩んでいたらチャイムが鳴って。
 仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから、早速、訊いてみることにした。母が運んで来たお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせで。
「えーっと…。ハーレイ、車かバスかどっちがいい?」
「はあ?」
 何の前置きもなく投げ掛けた質問、ハーレイに通じるわけがない。意図に気付いて貰えない。
 返って来た答えは「バスは運転出来んからなあ…」という的外れなもの、バスを運転するための免許は持っていないというハーレイ。
「バスはな、免許が別なんだ。普通の車よりも大きいからな」
 シャングリラよりはずっと小さいが…、とハーレイは白い鯨を持ち出した。あの船も動かすには資格が必要だったが自分は持っていなかったと。しかし今ではそういうわけにもいかないと。
 無免許では運転出来ない世界。ブルーが乗りたくてもバスを運転してはやれない、と大真面目な顔で言われたから。
「ううん、ハーレイが運転するんじゃなくって…」
 運転手さんが運転するバス。ぼくが学校へ行くのに乗ってるようなバスのことなんだけど…。



 こうなんだよ、と最初から順を追って話した。
 バスの中で出会った親子連れのこと、それに母との会話のこと。自分があれこれ考えたことも。
 ハーレイと二人でバスに乗ったら親子連れだと思われそうだと、車の方がいいだろうか、と。
 車にハーレイを取られてしまうけれども、恋人同士ならば車だろうか、と。
「うーむ…。確かに車を運転するなら、お前がお留守になっちまうが…」
 運転しながら横は向けんし、ハンドルから手を離すわけにもいかんしなあ…。
 しかしバスだと親子連れだと思われちまう、と言われりゃそういう気もするし…。
「ハーレイも車の方がいい? バスよりも車」
 覗き込まないと、誰が乗ってるのか分かりにくいし、間違われにくいと思うんだけど…。
 だけど車はハーレイの手と目を持ってっちゃうし…。手を繋いだりも出来ないし…。
「なるほどなあ…。バスだと俺の目も手も、お前の相手だけをしていられるか…」
 いつかはお前と二人でドライブに行こう、と楽しみにしてたが、バスと来たか。
 俺はバスなんぞは、まるで考えてはいなかったんだが…。



 そいつもいいな、とハーレイが微笑む。
 バスでゆく旅も、なかなかに面白いものなのだ、と。
「…バスの旅?」
 それって路線バスじゃなくって、観光バスで行く旅行のこと?
 学校の遠足とかで乗るようなバスで旅行をするの?
「行ったこと、ないか? バスで旅行は」
 色々なヤツがあるんだがなあ、お前は遠足でしか乗ってないのか、観光バスは?
「うん…。バスでなくても、普通の旅行は疲れちゃうから行ったことがないよ」
 いつも両親が計画を立てた旅行だった、と説明した。
 生まれつき身体が弱いブルーは、祖父母に会いに遠い地域へ出掛けただけでも熱を出したから。決まったスケジュールで旅をするなど難しそうだ、と何処へ行くにもツアーは無し。
 初めてのツアーになる筈だったのが父が約束してくれた宇宙から地球を眺められる旅で、本当は夏休みに行く予定だった。けれども出会ってしまったハーレイ。再会した前の生からの恋人。
 そのハーレイと一緒にいたくて、過ごしたくて。
 夏休みのツアーは父に頼みもしなかった。行きたいと言うのも忘れていた。
 だから知らない、バスの旅どころかツアーなるもの。
 観光バスには学校の行事で乗って行っただけで、それすらも休みがちだった、と。



「そうだったのか…。しかしだ、宇宙旅行をしようって程度には少し丈夫になったんだな?」
 夏休みに予定があったのなら、と訊かれたから。
「うん。…パパが短い旅行だったら行けそうだな、って言ってくれたし…」
 地球を見る旅は宇宙船に乗って行くだけで、あちこち見て回るわけじゃないしね。疲れた時には部屋で休めるから、ちょうど良さそうだ、ってパパとママが…。
 大丈夫だったら、もっと他にも旅行をしよう、って話になっていたんだよ。
「ふうむ…。それなら、まずは俺の車でドライブってトコから始めてバスの旅だな」
 車の方が小回りが利くし、いつでも休憩出来るんだが…、とハーレイは車の利点を挙げた。二人きりだから好きな時間に行って帰って来られるけれども、便利なものではあるけれど。
 バスでなければ行けない場所も存在していて、其処に行くならバスの旅だと。



「…それって、何処なの?」
 車だと駄目でバスならいいって、どういう場所なの、ねえ、ハーレイ?
「自然を大切にしている場所だな、高い山にある高原とかな」
 他の地域だとライオンなんかが住んでいる場所を走ったりもする。地球の上だけでも幾つくらい存在してるんだかなあ、そういう所。
 この地域で野生のライオンを見るのは無理だが、高原に行けば雷鳥がいるぞ。
「雷鳥? あれに会えるの?」
「普通は山を登って行かなきゃ会えないが…、だ。バスの旅なら高原まで運んでくれるしな」
 後はハイキングの気分で歩けば、雷鳥に会える。運が良ければヒナを何羽も連れたヤツにな。
「ヒナを何羽も? 行列してるの、雷鳥のヒナが?」
「そうさ、親鳥の後ろについて行くんだ、小さいのが何羽もヨチヨチとな」
 見てみたいだろ、そういうの。高山植物だって沢山あるぞ。自然ってヤツがたっぷりなんだ。
 だから人間が大勢で押し寄せないよう、車は禁止でバスだけってな。
 どうだ、バスの旅、行ってみたい気がしてきたか?
「うんっ!」
 雷鳥のヒナの行列に会ってみたいよ。それで大丈夫だったら、もっと他にも。ライオンとかにも会ってみたいし、いろんな所へ行ってみたいな、ハーレイと。



「よし。バスの旅なら二人並んで座って行けるし…」
 それから、お前の夢の宇宙旅行。約束したろう、いつか宇宙から地球を見ようと。
 あれも並んで座るシートだぞ、観光バスとは違うがな。
「そういえば…」
 宇宙船のシート、そうなってるね。ぼくは乗ったことがないけれど…。
「なあに、いつかは乗ることになるんだ、俺と一緒に」
 宇宙船でも観光バスでも、きっとカップルに見て貰えるさ、とハーレイは極めて楽観的で。
「どうしてそうだと言い切れるの?」
「ん? それはだな…。なにしろ俺がお前に惚れてるからなあ、そのせいだな」
 二人並んで座ったからには、お前の肩とか抱いてるだろうし。
 そんな具合でくっついていれば、恋人同士だと一目で分かるだろうが。
「でも…。仲のいい親子とか友達だったら…」
「肩は組むってか?」
「うん」
 そういうのと間違えられるんじゃないの? ぼくとハーレイ、男同士のカップルだもの。
 恋人同士だって思うよりも先に、親子か友達。
 そんな組み合わせと勘違いされて、最悪、ハーレイとぼくは親子なんだよ、仲良しの親子。



 どうにも心配でたまらない、世間の勘違い。
 せっかく恋人同士で並んで座っているのに、友達どころかハーレイと親子。
 それは嫌だ、と思うからこそ、バスに乗るのは諦めようかと悩んでいたのにバスの旅。ついでに宇宙船の旅。どちらも親子と間違えられる危険と隣り合わせだ、とブルーが訴え掛けたら。
「だったら、キスだな。こいつで間違いなく恋人同士だ」
 頬っぺたや額にキスするんじゃないぞ、今はまだ禁止しているキスだ。これなら誰でも分かってくれるさ、恋人同士なんだとな。
「…やっていいの、人前でキスなんか?」
 頬っぺたとかなら普通だけど…。親子とかでもやっているけど、そんなキスをしても大丈夫?
「周りに大人しかいなかったらな」
 子供が見てたら流石にマズイが、大人だったら見ないふりをしててくれると思うぞ。
「見ないふりって…。それって、とっても恥ずかしいんだけど…!」
 キスをしてるの見えてるんでしょ、だけど見てないふりだなんて…!
 逆に注目してるんじゃないの、あそこの二人はキスをしてるな、って…!
「それはそうだが、親子でいいのか?」
 俺と親子のままでいいのか、勘違いされて、お前が俺の息子ってことで。
「親子は困るよ!」
「ならば、ベッタリといこうじゃないか」
 恥ずかしがってなんかいないで、堂々とキスだ。周りが注目していようとな。



 前のお前の憧れだろう、とハーレイは片目を瞑ってみせた。
 憧れていたと、何度も口にしていたと。
「…前のぼくって…。何に?」
「忘れちまったか? お前が教えてくれたんだが…。こういう言葉を見付けた、とな」
 バカップル、と紡がれた言葉。
 馬鹿とカップルとを組み合わせた造語、前のブルーが見付け出した遠い昔の呼び方。周りに人が大勢いようが、ベッタリくっついた恋人たちをそう呼んだという。バカップル、と。
「ハーレイっ…!」
 たちまち思い出した遠い記憶に、ブルーは真っ赤になってしまった。耳の先まで。
 バカップルという言葉を見付けて、それがなんとも幸せそうに思えたから。前の自分たちの仲は誰にも内緒で、決して明かせなかったから。
 羨ましかったバカップル。真似てみたい、と憧れた。バカップルと呼ばれた恋人たちに。
 気分だけでも、とハーレイを巻き込んで青の間でやっていたバカップルごっこ。
 ブリッジでの勤務を終えたハーレイに大きな綿菓子を一個持って来させて、二人で食べた。同じ綿菓子を間に挟んで、それぞれの側から食べて進んで、最後にはキス。
 そんな遊びを何度もしていた。バカップルだと、バカップルならではの食べ方なのだ、と。



「お前、俺にもやらせてたろうが、バカップルの真似」
 綿菓子の食い方、前にも土産に持って来てやって話したよな…?
 今度は誰にも遠慮しないでバカップルになれるし、キスしてもいいと思うんだが…。
 そういうのは嫌か、人前でキス。
 親子連れと間違われている方がいいか、バカップルだと思われるよりも…?
「ううん…。親子連れよりバカップルだよ」
 ちょっぴり恥ずかしいけれど…。ううん、とっても恥ずかしいけれど、バカップルがいい。
 ハーレイと恋人同士なんだ、って分かって貰える方がずっといいよ、間違えられてるよりも。
 ちゃんと結婚してるのに親子だと思われていたんじゃ、あんまりだもの。
「まあな。…しかしだ、俺に言わせれば…、だ」
 別にキスまでしなくたってだ、ベッタリくっついていれば充分、分かって貰えそうだがな…?
 お前、まるっきり忘れちまっているみたいなんだが、結婚指輪。
 前の俺たちには無かった指輪が今度はあるんだ、それで大抵、気付くんじゃないか?
 小さな子供は分からんだろうが、お前くらいの年になったら知ってるだろうが。
 左手の薬指に嵌まった指輪は何の意味だか、揃いの指輪を嵌めていたならカップルだな、と。



「…そっか、指輪…」
 すっかり忘れてしまっていた。まるで気付きもしなかった。
 前の自分たちには縁が無かったものだから。嵌めてみたくても、嵌められなかった二人だから。
 それに白いシャングリラに結婚指輪は無くて、誰も嵌めてはいなかったから…。
「ほらな、忘れていたんだろうが。…いや、知らないと言うべきか…」
 今度は指輪が必須なんだぞ、結婚式を挙げる時には。
 お互いに指輪を交換しなくちゃ、結婚式を挙げる意味が無いってな。俺がお前の左手に嵌めて、お前が俺の左手に嵌めて。
 …そうして揃いの指輪が出来るってわけだ、左手の薬指に俺たちの結婚指輪。
 お前は完全に忘れただろうし、こいつも思い出しておけ。…シャングリラ・リング。
「…シャングリラ・リング?」
 なんだったっけ…。えーっと…。ああ、思い出した!
 シャングリラで出来た指輪だった、とブルーは叫んだ。白いシャングリラの指輪だっけ、と。
 遠い昔にトォニィが決めて、役目を終えたシャングリラ。
 その船体の一部だった金属が今も残っているという。結婚を決めたカップルのために、そこから作られるシャングリラ・リング。年に一回、決まった数だけ、抽選で。
 それをハーレイと申し込もうと決めたのだった。白いシャングリラの指輪を、と。
「お前、やっぱり忘れていたな? そして、俺はだ…」
 約束した通り、ちゃんと覚えていたぞ?
 貰えるといいな、シャングリラ・リング。同じ結婚指輪なら断然、そいつだよなあ…。



 当たるかどうかは運次第だけども、出来るならば嵌めたいシャングリラ・リング。
 それが駄目でも、左手の薬指には結婚指輪。揃いの指輪。
 親子連れなら嵌めてはいないし、友達同士でも嵌めてはいない。
 ハーレイの言う通り、わざわざキスなど交わすまでも無く、恋人同士だと指輪が周りに知らせてくれる。結婚式を挙げた二人なのだと、カップルなのだと。
 けれども二人でバスに乗るなら、宇宙船に乗ってゆくのなら。
 二人並んで座席に座ってゆくのだったら、バカップルの旅もいいかもしれない。
 前の自分が憧れていたバカップル。綿菓子を食べて遊んだバカップルごっこ。
 今度は結婚出来るのだから。結婚して旅をしているのだから。
 親子ではないと、恋人同士の二人なのだと、結婚指輪を嵌めていたってバカップル。
 恥ずかしい気持ちはあるのだけれども、周りに人がいても、キスを交わして。



 「バカップルもいいね」と小さな声で頬を染めながら呟いたら。
 そんなのもいいね、と鳶色の瞳を見上げたら…。
「うむ。俺もたまには運転しないで触りたいしな、お前にな」
 ちゃんと顔を見て話が出来てだ、両手も空いているのがいいな。
 バカップルとまではいかなくっても、並んで座って出掛けたいもんだ。運転席と助手席に別れて乗るんじゃなくって、本当に並べる席に座って。
「それじゃ、最初は…」
 二人並んで座って行くだけでいいの、結婚指輪を左手に嵌めて。
 そういうのを何度かやって慣れたら、いつかバカップルになってみるとか…?
「俺のお勧めはそいつだな。まずは普通のバスでデートと洒落込んでみるか?」
 結婚指輪を嵌めていたなら、親子連れだと間違えられることも無さそうだしなあ…。
 それでも誰かが間違えてたなら、二人で手でも繋いでみるか。



 バスの旅への練習も兼ねて、普通のバスでの外出から。
 いきなり旅行に出掛けるのではなくて買い物くらい、と誘われたから。
 行ってみようか、そういうデートに。
 ハーレイと二人、お揃いの結婚指輪を左手の薬指に嵌めて街まで買い物に。
 行き先は特に何処とも決めずに、あちこち回って、買い物とデート。
 親子連れだと間違えられないかどうか、路線バスの座席に二人で並んで座って。
(うん、結婚指輪を嵌めていたなら、大丈夫!)
 きっと恋人同士だと分かって貰える、と思うけれども、こればっかりは分からない。
 ハーレイとの年の差は大きいのだから、親子でも通りそうなのだから。
 周りを時々窺いながらの、路線バスでの二人掛けのシート。
 其処にハーレイと並んで座って、デート。
 もしも親子連れだと間違えられそうな気配がしたなら、ハーレイにベッタリ甘えてみよう。
 バカップルはちょっぴり恥ずかしいから、もたれかかって、手を繋いで。
 「肩を抱いて」と強請ってみるとか、それくらいがきっと限界だろうけれども…。




           バスで並んで・了

※ハーレイと乗るなら、バスか車か。考え込んだブルーですけど、提案されたバスでの旅。
 きっと素敵な旅になる筈。前のブルーが憧れていた、バカップルの夢も実現できそうですね。
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(あ…!)
 学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で吹き抜けた風。ブルーの側を吹いていった風。
 さして強くはなく、髪がふわりと揺れた程度のものだったけれど。
 花の匂いが混じっていた。何かの花だ、と分かる匂いが。
(何処…?)
 キョロキョロと辺りを見回したけれど、咲いていない花。庭一杯には無さそうな花。花を一面に咲かせた木だって見当たらない。風が何処からか連れて来ただけの、見えない花。
 何の花だったかも、ピンとくるものがまるで無かった。ほんの一瞬のことだったから。花だ、と気付きはしたのだけれども、風は直ぐに通り過ぎたから。
(うんと沢山、咲いていそうな感じだったけど…)
 そうでなければ強い香りを放つ花。百合とか薔薇とか、香り高い花は多いから。
(だけど薔薇でも百合でもなくて…)
 もしかしたら香りは強いけれども、控えめに咲く花なのだろうか?
 せっかくだから見てみたいのに、風はもう吹いては来なかった。花の匂いも漂って来ない。
(ちょっと残念…)
 花は嫌いではなかったから。
 むしろ好きな方で、「何の花なの?」と訊いてしまうタイプ。今の花だって、見たいけれども。
(何処から来たのか分からないしね…)
 風が来た方向へ歩いてゆけば、と思っても、住宅街の中だから。
 他所の家の生垣や塀を乗り越え、庭を突き抜けないと真っ直ぐ進めはしないから…。



 仕方ない、と花を探すのを諦めて再び歩き始めたら、今度は美味しそうな匂いがして来た。
 明らかに料理だと分かる匂いで、きっと早めの夕食の支度。
(家に帰ったらケーキの匂いがするのかな?)
 オーブンから漂う、ケーキの焼ける匂い。それともタルトか、あるいはパイか。
 帰る時間に合わせて焼いてくれている日も多いから、そういう匂いがするかもしれない。凝ったケーキなどは早めに作ってお裾分けに行くこともあるけれど…。
(今日はケーキだ、って気がするんだよ)
 何故だかケーキな気分がした。パイでもタルトでもなくて。
 自然と早まる、ブルーの足。早く家へと、ケーキの匂いがする家へと。
 見慣れた生垣が見えて、近付いて来て。
 門扉を開けて庭に入ったら、鼻腔をくすぐったお菓子の匂い。甘いケーキが焼き上がる匂い。



(当たり…!)
 この匂いならばケーキだろう、と玄関を入って、「ただいま!」と奥に向かって叫んで。
 匂いに引かれるままに、手を洗う前にキッチンを覗きに行けば。
「おかえりなさい」
 ちょうど焼けた所よ、と母が冷ましているパウンドケーキ。
 ハーレイの好きなパウンドケーキ。
 母が焼くそれは、ハーレイの母のパウンドケーキと同じ味がすると聞くから、ブルーにとっては特別なケーキ。いつかは自分も同じ味がするのを焼いてみたい、と夢見るケーキ。
(ふふっ、特別…!)
 今日のおやつは大当たりだよ、と眺めていたら母に注意された。
「ブルー、おやつは手を洗ってウガイをしてからよ?」
 それに着替えもちゃんと済ませて。それまでは駄目。
「うんっ!」
 分かってるってば、と急いで洗面所に行った。手を洗って、風邪を引かないようウガイもして。
 部屋で着替えて、階段を下りてダイニングへ。
「はい、どうぞ」
 笑顔の母とパウンドケーキが待っていた。お皿に一切れ、ハーレイの好きなパウンドケーキが。



(ハーレイのお母さんの味…)
 きっとハーレイも隣町の家で、ワクワクしながら食べたのだろう。何度も、何度も。
 その特別なパウンドケーキが出て来たからには、飲み物はホットミルクにしてみたい。合わせてみたい。マヌカたっぷり、シナモンを振ったセキ・レイ・シロエ風。
 パウンドケーキが大好きな人に教えて貰った飲み物に。
「ママ、ぼく、今日はホットミルクがいいな」
「シロエ風のね?」
「そう!」
 お願い、と頼んで作って貰ったホットミルクと、パウンドケーキと。
 おやつは大満足だった。母が作るお菓子はいつでも美味しいけれども、今日は格別、特別な日。
 ハーレイの母が焼くというのと同じケーキを食べられたから。
 今はまだ行けない隣町にあるハーレイの両親が住んでいる家、其処で焼かれているケーキ。
 いつかは自分も「ママの味だよ!」と驚きながら食べるのだろう、パウンドケーキ。
 早くその日が来ますように、とホットミルクを飲み干した。
 ミルクを飲めば背丈が伸びるというから、毎朝欠かさないミルク。今日は二杯目だと、これだけ飲んだら効果もきっと、と。



 食べ終えて「御馳走様」とキッチンの母にカップとお皿を返して、部屋に戻って。
 窓越しに庭を眺めたら、ふと思い出した。帰り道で出会った匂いのことを。
(ぼくの家、やっぱりケーキの匂いだったよ)
 それも特別なパウンドケーキが焼ける匂いで、オーブンから庭へと流れていた。流石にケーキの種類まで分かりはしなかったけども、ケーキの匂い。それが美味しく焼き上がる匂い。
(あの匂いも、きっと風があったら…)
 もっと先まで運ばれて鼻に届いただろう。家の庭に入るよりも前から、ケーキを焼く匂い。どの辺りまで届くものかは分からないけれど、帰り道で出会った見えない花の匂いのように。
(風って不思議だ…)
 そう思ってしまう。
 何処にも見当たらなかった花の香りを運んでいた。パウンドケーキの匂いだって、きっと。
(美味しそうなケーキの匂いがするな、って思ってる人が何処かにいるよ)
 何処で焼いているケーキだろう、と。
 もう少し時間が後になったら、この家の匂いは変わる筈。母が支度する夕食の匂いに。
 その匂いも風に乗って運ばれてゆくのだろう。道を歩いている誰かの許へと。
 様々な匂いを運ぶ風。運んで来る風。
 花の匂いも、ケーキの匂いも。
 夕食を作る匂いも、何種類もあるに違いない。家の数だけ、メニューの数だけ。



(そういえば…)
 前の自分は風の匂いがしていたのだ、とハーレイに聞いた。
 ソルジャー・ブルーは風の匂いがした、と。ナキネズミのレインがそう言っていた、と。
 けれども、風には匂いが無いから。匂いを運ぶのが風だから。
(今日だって、花の匂いとお料理の匂いと、それからケーキ…)
 吹く場所によって、風が出会った相手によって匂いは変わるし、違うものになる。同じ風でも。
 前の自分が風の匂いだと聞かされた時には、大いに焦った。
 もしや硝煙の匂いではないかと、レインが知っている風の匂いはそれくらいでは、と。
 ハーレイとあれこれ考えた末に、確か雨上がりの風だという結論になったのだったか。ナスカの大地に雨が降った後、吹き抜けた風。
 それがブルーの匂いだったと、ソルジャー・ブルーが纏っていた風の匂いだったと。



(今のぼくだと…)
 纏う匂いは日によって変わる。
 食べたものやら、使ったボディーソープやら。一日の間にも何度も変わるに違いない。
 前の自分にしても、それは同じだと思うけれども、何故か風の匂い。
 赤いナスカの雨上がりの風。前の自分が知らない匂い。ナスカには降りずに終わったから。赤い星に降る雨の雫も見ないままで終わってしまったから。
 それなのに雨上がりの風の匂いだと言って貰っても、少し困ってしまうのだけれど。
(青の間の匂いだったんだよね、きっと)
 レインはそれしか知らなかったから。青の間でしか会わなかったから。
 前の自分が起きていた間も、長い眠りに就いた後にも。他は格納庫で一度きり。
 青の間に風は無かったけれども、あそこに湛えられていた大量の水。その匂いが多分、レインが知っていたブルーの匂い。水の匂いと、雨上がりの風の匂いの二つが繋がった末に…。
(前のぼくの匂いが風なんだよ)
 なんとも不思議な捉え方。風だなんて、と。
 悪い気持ちはしないけれども。何処までも自由に吹いてゆける風は、前の自分も好きだった。
 風に乗って遠く地球へまでも飛んでゆけたなら、と自由な風に憧れてもいた。
 その風の匂いが前の自分の匂いと知ったら、嬉しいけれど。
 物騒な硝煙の匂いでないなら、雨上がりの風の匂いなら。
 でも…。



(ハーレイの匂いは何だったんだろ?)
 前のハーレイ。白いシャングリラの舵を握っていたキャプテン・ハーレイ。
 レインは何と例えたのだろう、ハーレイを?
 前の自分の匂いが風だったならば、ハーレイの匂いは何だったろう…?
(もう厨房にはいなかったし…)
 レインが生まれた頃には、ハーレイはとっくにキャプテンになってしまっていたから。
 ブリッジでキャプテンの席に座って指揮をしていたか、舵を取っていたか。
 そんなハーレイから料理の匂いはしなかった筈。厨房に居たなら、料理の匂いになるけれど…。
(ハーレイの匂いって、何になるわけ?)
 ブリッジには大勢の仲間が居たのだし、ブリッジの匂いがハーレイの匂いにはならないだろう。ゼルやブラウも同じ匂いがするのだから。
(…ハーレイだけが持ってる匂いって言うと…)
 もしかしたら野菜スープの匂いかも、と考えた。野菜スープのシャングリラ風。
 あの頃にそんな洒落た名前は無かったけれども、ハーレイが作ってくれていたスープ。青の間のキッチンで何度も作って食べさせてくれた。前の自分が寝込んだ時に。
(とっても優しい匂いなんだよ、あのスープ…)
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。温かなスープ。
 ハーレイの匂いはあれだったろうか、野菜スープの優しい匂いがしたろうか?
 前の自分は長く眠ってしまっていたから、レインがあれを知っていたかは分からないけれど。
 ハーレイは「お前にしか作ってやらなかった」と言っていたから、どうなのか。



(…レインをジョミーに渡す前には…)
 ジョミーを覚えて貰わなくては、と青の間に何度も連れて来させた。
 そうした時にレインは出会っていたかもしれない、野菜スープをキッチンで作るハーレイに。
(でも、そのくらいしか…)
 野菜スープとの接点を持っていなかっただろう、ナキネズミのレイン。
 ハーレイの匂いを何に例えたのか、どんな匂いだと言ったのか。
(…ハーレイに訊いてみたいんだけどな…)
 来てくれないかな、と思っていたらチャイムの音。この時間ならばハーレイだろうか、と窓辺に行ったら門扉の向こうで手を振るハーレイ。
 これは是非とも訊いてみなければ、ハーレイが部屋に来てくれたなら。
 前のハーレイは何の匂いがしたのか、レインは何と言ったのかを。



 ブルーの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。
 母が運んで来たパウンドケーキに、ハーレイは顔を綻ばせた。大好物だと、おふくろの味だと。
 美味しそうに食べるハーレイに、「ねえ」と声を掛けて例の疑問をぶつけた。
「ハーレイは何の匂いなの?」
「はあ?」
 臭いか、とクンと腕を嗅いだハーレイ。
 柔道部の指導をしては来たのだが、シャワーは浴びた、と言われたから。
「ごめん、同じハーレイでも前のハーレイ…」
 前のハーレイは何の匂いか、って訊いたんだけど…。
「なんだ、前の俺か。…って、なんで匂いの話になるんだ?」
 唐突すぎるぞ、お前の質問。何処から風が出て来たんだ?
「えーっと…。帰りに花の匂いがする風が吹いて来たけど、周りに花が無かったんだよ」
 何の花かも分からずじまいで、それから家まで歩く途中に他所の家の晩御飯の匂いとか…。
 家に帰ったらケーキの匂いで、風って色々運ぶんだよね、って考えていたら思い出したんだ。
 前のぼくは風の匂いだったっけ、って。
「…レインか。そういや、お前に話してやったんだっけな」
「うん。ハーレイは何の匂いがしたの?」
 前のハーレイの匂いは何なの、それを知りたいと思ったんだけど…。



 きっと教えて貰えるだろう、とブルーは期待したのだけれど。
 どんな答えが返って来るかと、それは心を躍らせたのだけれど…。
「知らん」
「えっ?」
 ハーレイの返事は呆気なさすぎるものだった。「知らん」と一言、答えにすらならない答え方。その結末にブルーはポカンと口を開けたのだけども、ハーレイは「知らん」と繰り返した。
「俺は本当に知らないんだ。前の俺がどういう匂いがしたかを話したヤツはいなかったしな」
 厨房に居た頃は「おっ、美味そうだな!」と言うヤツもいたが、キャプテンになった後にはな。
「でも…。前のぼくは風の匂いだ、って…」
「そいつはレインが言ったわけでだ、俺に関しちゃレインは何にも言わなかったぞ」
 何の匂いだとも聞いちゃいないな、俺も、ついでにゼルたちのもな。
 フィシスは花の匂いがする、とは確かに聞いたが、他のヤツらの匂いは知らん。俺も含めて。
「ハーレイ、レインと色々喋っていたんじゃあ…」
 そういう話を聞いたことがあるよ、青の間でレインと話してた、って。
 前のぼくがいなくなった後。…青の間に出掛けてレインが来てたら、レインとお喋り。
「したさ、お前の思い出話ばかりをな」
 あいつしか聞いちゃくれなかったさ、人類との戦いの最中ではな。
 フィシスはお前に貰ったサイオンが薄れちまって引きこもっていたし、行っても会えない。
 レインだけが聞いてくれていたんだ、俺がお前の話をしたい時にはな…。



 思い出話に終始したから自分の匂いなどは知らない、と言われてしまった。
 前のブルーが女神と呼んでいたフィシスの匂いしか聞いてはいない、と。
「そんな…」
 前のハーレイの匂い、分からないって言うの?
 レインが喋ってくれていなかったなんて、どうすれば分かるの、何の匂いか。
「お前が自分で思い出したらいいだろう?」
 レインとは比べ物にならないくらいに長い年月、俺と暮らしたと思うがな?
 三百年以上も一緒にいたんだ、レインの鼻より前のお前の鼻の方が遥かに正確そうだが…?
「それはそうかもしれないけれど…。覚えていそうで覚えていないよ」
 野菜スープの匂いしか…。今のハーレイも作ってくれてる、野菜スープのシャングリラ風。
「なら、それだ。そいつが前の俺の匂いだ」
 レインは何も言ってはいないが、お前の鼻がそうだと言うなら、そいつだな。
「ううん、違うよ。ハーレイの匂い、もっと他にもあった筈で…」
 そっちを知りたいと思うんだけど…。レインだったら知っていたかもしれないのに…。
「他にもって…。何故だ?」
 どういう根拠でそう言うんだ、お前?
「スープを作っていない時のハーレイの匂いだよ」
 絶対あったよ、ハーレイの匂い。野菜スープの匂いの他にも。



 ベッドでいつも吸い込んでいた、とブルーは遠い昔の記憶を語った。
 野菜スープとは違った匂い。胸一杯に吸った匂いの記憶。
 それがハーレイの匂いだったと、幸せだった、と。
「…知りたいんだよ、前のハーレイの匂い。これだ、っていう何か」
 お願い、心当たりはない? これかもしれない、って思い当たるもの。
「うーむ…。俺の匂いなあ…。しかも前の俺か…」
 どうなんだか、とハーレイが腕組みをして自分の記憶を懸命に探っているようだから。
 ブルーは紅茶を飲みながら待って、暫くしてから尋ねてみた。
「何か分かった? 前のハーレイの匂いの手掛かり」
 どんな小さなことでもいいから、つまらないようなことでもいいから、ハーレイの匂い。
「…ボディーソープの匂いじゃないのか?」
 あれはけっこう残りやすいぞ、シャワーを浴びたら必ず使っていたからな。
「ボディーソープって…。青の間のヤツなら、ぼくもハーレイも同じのを使っていたんだし…」
 あれとは違う気がするんだけれど…。もっと別の匂い。
 なんて言えばいいのか、とにかくハーレイの身体からしていた匂いなんだよ。いつも、いつも。
「要するに思い出せないんだな?」
 嫌というほど嗅ぎ慣れちゃいたが、具体的には何も出てこない、と。
「うん」
 そうだよ、嗅いだら直ぐに気付くと思うんだけど…。
 あの匂いがしたら、前のハーレイの匂いはこれだったんだ、って当てる自信はあるんだけれど。
 だけど、ちっとも思い出せなくて…。ハーレイ、手掛かり、持っていないの?



 何でもいいから端から挙げて、と頼んだのに。
 教えて欲しいと頼み込んだのに、ハーレイは鼻でフフンと笑った。
「思い出せないなら、まだお前には要らないってこった。前の俺の匂い」
「どうして?」
 幸せになれる匂いだったし、今だって知りたくてたまらないのに…!
「チビのお前には野菜スープの匂いだけあれば充分だってな」
 あれなら思い出せるんだろう?
 何度も作ってやってるんだし、あの匂いなんだと思っておけ。前の俺の匂いはスープだとな。
「酷い…! あれじゃないんだ、って言ってるのに!」
 野菜スープの匂いの他にもホントにあったよ、ハーレイの匂い。それは間違いないんだから!



 手掛かりの欠片くらいはちょうだい、とブルーは強請った。
 せめてヒントをと、何の匂いか分かっているならヒントを教えて貰えないか、と。
「これに似てるとか、そういうヒント。そしたら当ててみせるから…!」
「ヒントも何も…。ズバリ言うなら、そいつは俺の体臭だからな」
 前のお前がベッドで幸せに嗅いでいたなら、俺そのものの匂いなんだ。前の俺のな。
 犬なんかは嗅ぎ分けが得意だろうが、と嗅覚の鋭い動物を例に持ち出された。
 自覚が無くても匂いはする、と。前のブルーもそういう匂いを嗅いでいたのだ、と。
「…前のハーレイの匂いそのもの?」
 あれがハーレイの匂いだって言うの、ぼくは全く思い出せないのに…!
「仕方ないだろうが、お前、チビだし」
 当分、俺そのものの匂いなんかを嗅げるチャンスは無いわけだしな?
 いくらベッタリくっついてみても、服の匂いが間に入る。
 今のお前にはそれが似合いだ、でなけりゃ野菜スープの匂いだ。前の俺の匂いを思い出すには、まだまだチビで早すぎるってな。



 そうは言われても、ブルーは諦め切れないから。
 前のハーレイそのものの匂いを思い出したい気持ちを捨ててしまうことは出来ないから。
 食い下がってやろう、と問い掛けた。
「ハーレイの好きな食べ物の匂いも混じっていたとか?」
 好き嫌いは全く無かったけれども、それでも何かそういったもの。
「それを言うなら酒かもしれないなあ…」
 酒は間違いなく好きだったぞ。前のお前が苦手だった分だけ、敏感になっていたかもしれんな。酒とコーヒー、どっちも前の俺が好きで飲んでたヤツなんだが…。お前はどちらも駄目だっけな。
「お酒…。どうだったんだろ、コーヒーは違うと思うんだけど…」
 パパとママもたまに飲んでいるけど、ハーレイの匂いだ、って思わないしね。
 ハーレイもコーヒーが好きだったっけ、って眺めてるだけで。
「何を食ったのかは、ある程度、影響するらしいがな」
 特に匂いの強い食べ物。ガーリックを食ったら次の日まで残るって話もあるが…。
「それじゃ、やっぱり食べ物の匂い?」
 前のハーレイの匂い、何かの食べ物と重なってたの…?
「さてなあ…」
 生憎と自分の匂いだからなあ、まるで自覚が無いってな。
 毎日、ガーリックを丸齧りしてれば「ガーリックだ」と言ってやれたかもしれないが…。
 そこまで強烈な匂いの食い物、毎日、食ってはいなかったしなあ…。



 いつかは思い出せるだろうさ、と微笑むハーレイ。
 俺と結婚して一緒に暮らし始めたら…、と。
「この匂いだった、って気付く日もきっとあると思うぞ、毎日一緒に過ごしていればな」
 でなきゃ、今でも前の俺と全く同じ匂いがしているか…。
 酒もコーヒーも合成じゃなくて本物ばかりを飲んでいるしな、俺にも謎ではあるんだが。
 恵まれた食生活を送っている上、運動だって毎日しているからな?
 まるで同じとはいかないかもなあ、それでもたまには「これだ」って匂いに出会える筈だぞ。
「その匂いが今、欲しいんだけど…」
 少しくらいは違っていてもいいから、ハーレイの匂い。今のハーレイの匂いでかまわないから。
「早すぎだ!」
 チビのお前が知ってどうする、それが何の役に立つと言うんだ?
 結婚してから「同じ匂いだね」と懐かしむ分には微笑ましいがな、チビには要らん。
 俺そのものの匂いなんぞは、お前みたいなチビが知るには早すぎるんだ。



 どうしても知りたいと言うのなら…、と鳶色の瞳に見詰められた。
 教えてやらないこともないから、聞き漏らさないよう、今から言うことをしっかり聞けと。
「いいか? 朝は分厚いトーストを二枚、卵を二個か三個のオムレツ」
 トーストの厚さはこんなものか、と指で厚さを示された。
「うん、それで?」
 ずいぶん分厚いトーストだけれど…。ぼくのトーストの倍くらいありそうなんだけど…?
「それとソーセージだ、ハーブ入りでも何でもいいな。そいつを焼いて、だ…」
 サイズにもよるが、このくらいのヤツなら三本ってトコか。後はサラダか野菜スティックだな、ミルクはホットでも冷たくてもいい。
「…うん、それから?」
「これで全部だ、とりあえずこれで朝の匂いがスタートだ」
 今、言った通り、自分の身体で試してみろ。確認してやるから、最初から言え。
 分厚いトーストを二枚、ってトコから間違えないよう、最後まで全部。
「えーっ!」
 まさかハーレイ、食べろって言うの、今のを全部?
 ぼくが食べるの、朝からそんなに沢山だなんて、どう考えても無理なんだけど…!
「お前が知りたいと言うから教えてやったんだが?」
 俺の匂いの作り方。お前、そいつが知りたいんだろう…?



 この通りにすれば再現できる、とハーレイが真顔で言うものだから。
 朝は分厚いトーストを二枚でスタートなのだ、とオムレツやソーセージを並べ立てるから。
「…ホント?」
 本当にそれで再現できるの、ハーレイの匂い?
「うむ。ついでに昼飯はたっぷりと、だな」
 こいつは特に決まっちゃいないが、前にお前が挫折していた大盛りランチ。
 あれくらいの量は必要になるな、それだけ食わんと俺の身体は維持出来んしな…?
「無理だってば!」
 朝御飯がお腹に残ってそうだよ、お昼になっても!
 大盛りランチを食べるどころか、普通のランチも殆ど残してしまいそうだよ…!
「なら、仕方ないな。俺の匂いを再現するのは諦めろ」
 どうせお前はコーヒーも酒も飲めないんだから、完璧に真似をするのは無理だ。
 それにだ、どう頑張ってもお前の匂いと混ざるしな?
 俺みたいな大人と、お前みたいなチビだとそれだけで匂いが違う筈だぞ。
 もっと言うなら、自分の匂いは自分じゃ分からんものだしな?
 お前が俺の言った通りに実践したって、出来た匂いは分からない、ってな。
「ハーレイの意地悪!」
 それにケチだよ、匂いくらいは教えてくれてもいいじゃない!
 ぼくに教えたって減りやしないし、無くならないでしょ、ハーレイの匂い!



 ケチだと、酷いと、ブルーは膨れた。唇を尖らせてむくれてしまった。
 それこそがハーレイから見ればチビの証拠になるのだけれども、ブルーが気付くわけがない。
 プンプン怒って、意地悪な恋人を睨み付けていたら。
「ふうむ…。なら、こいつだ」
「えっ?」
 ほら、と鼻先に差し出された大きな褐色の手の匂い。
 ほんの一瞬、掠めた匂い。
(ハーレイの匂い…!)
 この匂いだった、と遠い記憶の彼方で自分が跳ねた。前の自分が、「ハーレイだ」と。
 何度となく嗅いだハーレイの匂い。胸いっぱいに吸い込んで、幸せに酔っていた匂い。
 その匂いだ、と自分の記憶が叫ぶから。喜びに跳ねて踊っているから。
「もう一度…!」
 お願い、ハーレイ、もう一度だけ!
 何の匂いに近かったのかが、今のじゃ掴めなかったから…。
 今度はしっかり嗅いで覚えるから、もう一度やってよ、お願い、ハーレイ…!
「そうはいかんな。お前がどういう魂胆でもって探している匂いか、俺は知っているしな?」
 不純な目的のために提供するのは一瞬だけで充分だ。
 さっきのアレが一瞬ってヤツだ、もう一瞬は過ぎちまったんだ。過ぎた時間は戻らんぞ?
 もう期限切れだ、俺が提供した一瞬はな。
 ケチでも意地悪でもなかったろうが、と余裕たっぷりのハーレイの笑み。
 恋人のために最大限に譲歩してやったと、探し物を一瞬、確かに提供したのだと。
「…期限切れなの? たったあれだけで?」
「チビには贅沢すぎる時間を充分、くれてやったと思うんだがな?」
 もっとしっかり嗅ぎたいのならば、育って大きくなることだ。
 前のお前みたいに俺にくっついていられるようになるまで、諦めておけ。
 そうしてプンスカ膨れるチビには、まだ早すぎる匂いだからな。



 それきりハーレイは二度と匂いを与えてはくれず、「またな」と手を振って帰って行った。
 停めてあった自分の愛車に乗って。前のハーレイのマントの色をした車に乗って。
 そして次の日、目覚めて朝の食卓に着いたブルーは。
(分厚いトーストを二枚に、卵が二個か三個のオムレツ…)
 焼いたソーセージとサラダか野菜スティック、それからミルク。ホットでも冷たいミルクでも。
 ハーレイに聞いた通りにしたなら、それを食べれば少しハーレイに近付くけれど。
 昨日、一瞬だけ鼻を掠めたハーレイの匂い。
 あの懐かしい匂いを作って、心ゆくまで吸い込んで幸せに浸りたいけれど。
(自分の匂いは分からない、って…)
 きっと挑戦するだけ無駄だ、と溜息をつきかけて、あっ、と気付いた。
 テーブルの上のマーマレード。大きなガラスの瓶に詰まった、夏ミカンで作ったマーマレード。
 ハーレイがいつも持って来てくれる、ハーレイの母の手作りの金色。
 このマーマレードの匂いだけはきっと、ハーレイの朝の食卓にあるのと同じだから。
 ハーレイも食べている筈だから。



(トーストにバターをたっぷり塗って…)
 それがハーレイのお勧めの食べ方、バターの金色とマーマレードの金色が複雑に絡み合った味。
 「こうやって食べるのが美味いんだぞ」と教えて貰った。
 マーマレードだけで食べるよりもと、同じ食べるならより美味しく、と。
 キツネ色に焼けたトーストにバターを塗り付け、溶けてゆく上からマーマレードの金色を載せて匂いを一杯に吸い込んだ。香ばしいトーストの匂いとバターと、マーマレードが溶け合った香り。
(うん、この匂い…!)
 ハーレイに教わった食べ方の匂い、とトーストの端をカリッと齧った。とろけるバターとキツネ色のトースト、それに夏ミカンのマーマレード。口の中に広がる幸せの味。
 今はこれだけで我慢しておこう。
 ハーレイも嗅いでいるだろう匂いで、幸せの香りのトーストだけで。
 いつかはきっと、ハーレイと二人、朝の食卓でこれを食べられる筈だから。
 その頃にはきっと、ハーレイの匂いもしっかりと掴めている筈だから。
 似た匂いは何かと探さなくても、いつでも隣にハーレイの匂い。
 前のハーレイの匂いと同じ匂いのハーレイと二人、いつまでも幸せに暮らすのだから…。




           知りたい匂い・了

※ブルーが思い出した、ハーレイの匂い。「これだったんだ」と分かったのに…。
 同じ匂いを作るためには、とんでもない量の食事が必要。トーストの匂いだけで、今は幸せ。
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