シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「おっ…!」
しまった、って響いたハーレイの声。
床にチャリンと何かが落ちた。もっと重たい音だったのかもしれないけれど。
金属が立てる、独特の音。向かい合わせで座ってたテーブルの多分、真下辺りで。
(また銭亀?)
前にハーレイの財布から零れて落っこちた小さな亀のお守り、それが銭亀。お金が貯まるのと、延命長寿だったかな?
そういう力を持ったお守り、知らなかったぼくは何処かの星のお金だと思ったんだったっけ。
ぼくが拾うよ、ってテーブルの下に潜り込んだら、落ちていたものは亀じゃなかった。銭亀よりずっと大きなもの。鍵が幾つもくっつけられたキーホルダー。
(何の鍵だろ?)
見ただけじゃ何か分からない鍵がドッサリ、ホントに色々。
拾い上げてみたら、そこそこ重い。銭亀だったら何匹分になるんだろう?
(…銭亀も素敵だったけど…)
この鍵だって、何か物語があるかもしれない。それが聞けたら嬉しいんだけどな、鍵たちの話。
キーホルダーを拾って這い出して、「はい」ってハーレイに渡して訊いた。
ワクワクしながら訊いてみた。
何の鍵なの、って。いっぱいあるね、って。
「そりゃまあ、なあ…?」
大人になったら色々と要るさ。年を重ねりゃ、少しずつ増えてゆくもんだ。
お前は持っていないのか、鍵は?
「あるよ、家の鍵」
ちゃんと合鍵、作って貰って持ってるよ。学校へ行く時はいつも鞄に入れてるもの。
使ったことはないけれど、って答えた、ぼく。
実際、一度も無かったから。
ママには「帰って来て鍵がかかっていたなら、自分で開けて入るのよ」って言われてるけれど、そんな場面には出会っていない。ママはいつでも家に居てくれる。
ぼくの身体が弱いからかな、留守番なんかはあまりさせたくないみたい。ちょっと買い物とか、ご近所さんの家に行くとか、そういう時しか留守番をすることはない。
だから学校から戻って家の鍵を自分で開けたことなんか、ホントに一度も無かったんだ。
持ってるってだけの、この家の鍵。一度も使ったことがない鍵。
そう説明したら、ハーレイは「なるほどなあ…」って大きく頷いた。
「確かにお前は普通のガキより弱いからなあ、お母さんだって心配だろうな」
具合が悪くなってないかと、フラフラしながら家に帰って来るんじゃないかと。
おまけに妙に我慢強いと来たもんだ。たとえ具合が悪くったってだ、家に帰って誰もいなけりゃ留守番を始めるんだろ、お前?
普通のガキなら鍵を掛けちまって寝に行く所を、ベッドに入ったりせずに。
「うん、多分…。その内にママが帰って来るしね」
鍵がかかってたら、ぼくが帰ってないかと思ってママも心配しちゃうだろうし…。
それにママの留守に、ご近所さんが何か届けに来るかもしれないし。
「やっぱりなあ…。そういう所は前のお前と変わらんな」
心配させまいとして無理をするんだ、そっちの方が周りはよっぽど心配しちまうものだがな。
ついでに責任感が強くて、頑張っちまう。任されてもいない留守番までな。
…それでだ、お前が持っている鍵、家のだけか?
「そうだけど…。他に鍵って、何かあった?」
ぼくの友達も家の鍵しか持っていないよ、訊いてみたことはないけれど…。多分。
「普段は持ち歩かないんだろうが、だ。自転車の鍵っていうのがあるぞ」
そいつはお前は持ってないのか、自転車の鍵。
「ぼく、自転車には乗らないからね」
乗れないんじゃないよ、って慌てて付け加えた。勘違いされたら癪だから。
ぼくだって自転車くらいは乗れる。うんと頑張って練習したから、乗って走れる。
だけど身体が丈夫じゃないから、自転車は疲れてしまうんだ。クラッとした時には、もう遅い。自転車ごと倒れて怪我をしちゃったことが一回、それ以来、ぼくは乗ってはいない。
ハーレイにもきちんと説明をした。危ないから乗っていないだけ、って。
「お前、自転車にも乗れなかったのか…」
すまん、乗れないんじゃなくて乗らないんだったな。
「そうだよ、危うきに近寄らずだよ!」
パパにもママにも止められてるから、ぼくの自転車、家に無いでしょ?
下の学校の時に怪我した自転車、あれが最後の自転車なんだ。家の近所は走れたけれども、次の自転車、買って貰えなかったんだよ。自転車が小さくなっちゃっても。
「そいつは正しい選択だろうな、お母さんたちにしてみればな」
ガキってヤツはだ、大きくなるほど、自転車に乗って遠くへ行こうとするもんだ。お前の友達もそうだったろうし、そうなりゃ、お前もついて行く。疲れてしまってもついて行くだろ?
そうして何処かで自転車ごと倒れて怪我をしたなら大変だ。家から遠けりゃ遠いほどな。
「うん…。分かってるから、諦めたけど…」
たまに友達が羨ましくなるよ、学校が終わったら自転車に乗って集まろう、なんて時にはね。
今でも時々そう思うけれど、自転車で遠くへ出掛けちゃったら、家でハーレイに会えないし…。
仕事が早く終わったから、って来てくれた時に、帰ってないかもしれないし…。
だからいいんだ、自転車なんかは乗れなくっても。
「そう来たか…。俺が来るから自転車は要らん、と」
実に光栄だな、楽しみに待って貰えるとはな。
しかしだ、そんな調子だと…。自転車の鍵も持たないとなると、こういった鍵とも縁が無いか。
見ても全然分からんだろうな、どの鍵が何の鍵なのか。
「うん…」
いっぱいあるな、って思うけれども、どれがどれだか…。
ハーレイがどういう鍵を持つのか分かっていないし、ホントに見当がつかないよ。
「だろうな、それじゃ解説してやるとするか」
大サービスだぞ、何の鍵かを教えるんだからな。鍵さえあったら、お前もそいつを開けられる。
もっとも、プレゼントする気は全く無いから、開けるチャンスも無いだろうがな。
…いいか、こいつが車の鍵だ。これを失くしたら車には乗れん。
これが学校の俺のロッカー。こっちは柔道部の方で使うロッカーのだ。
そしてこれがだ…。
ハーレイが説明してくれた鍵。キーホルダーについている鍵。
柔道の道場のとか、ジムのだとか。鍵が色々、覚え切れないくらいだけれど。
「ふむ…。こいつは、いつかお前も持つな」
銀色をした小さな鍵。ぼくが持つって、どうしてだろう?
「何の鍵なの?」
その鍵、何に使っているの?
「毎日お世話になっているなあ、俺の家に出入りするのにな」
玄関の鍵だ、俺の家のな。お前もいずれは使うんだろうが?
「あっ…!」
そうだね、その鍵、要るんだね…。一番大事な鍵だものね。
それが無くっちゃ、ハーレイの家には入れないものね…。
ぼくが将来、ハーレイのお嫁さんになるんなら。
あの家に住むなら、ぼくも持つ鍵。お世話にならなきゃいけない鍵。
ハーレイが出掛けて留守の間に買い物に行くには、あの鍵を使って閉めたり、開けたり。
玄関の大きな扉を通って出入りするんだ、まだ二回しか通ったことが無いけれど。
一度だけハーレイの家に遊びに出掛けた時と、メギドの夢を見て瞬間移動で行っちゃった時と。瞬間移動した時は出て来ただけで、入る時は扉を使っていない。
だけど覚えてる、ハーレイの家の玄関の扉。ハーレイが住んでる、あの家の扉。
それの鍵だと思うと嬉しい。その鍵をいつか持てるってことも。
「今は駄目なの?」
その鍵、今はまだ貰えないの?
ハーレイの家の鍵なんだったら、早めに渡してくれたりしない…?
「お前に渡しても、持ってる意味が無いだろうが」
俺の家には来られないくせに、って笑われた。来てもいいって許可は出していないぞ、って。
「そうだけど…。でも、欲しいよ」
「使えない鍵を持っていたって、仕方がないと思うがな?」
鍵ってヤツは使ってこそだぞ、使うために作られているんだからな。合鍵もそうだ。
それとも、お前。俺の留守に空き巣に入るつもりか?
ずいぶん可愛くてチビの空き巣だが、そいつが入り込むのか、うん…?
(空き巣…)
家の人が留守にしている間に、忍び込んで盗みをするのが空き巣。いわゆる泥棒。
そんな悪い人、今の時代にはいないけど。
言葉は今でも残っているから、空き巣が何かはぼくにも分かる。
前のぼくの頃には、まだいた空き巣。マザー・システムが監視してても、いた空き巣。監視網があっても、悪いことをする人たちはいた。それに…。
(潜入班だって、空き巣みたいなものだよね?)
ミュウの子供たちを救い出すために、アルテメシアに送り込んでいた潜入班。彼らは人が住んでいない家を見付けて、人類のふりをして暮らしていた。あれも一種の空き巣だろう。泥棒をしてはいないけれども、住むために必要なエネルギーとかをタダで使っていたんだから。
(んーと…)
潜入班のことを思い出したら、むくむくと頭を擡げて来たもの。
ぼくも空き巣になりたくなった。いつか持てる筈の銀色の鍵を早めに貰って、チビの空き巣に。
(ハーレイの留守に家に入って…)
玄関の扉を合鍵で開けて、堂々と入っていく空き巣。ちょっぴりドキドキする冒険。
きちんと靴を脱いで家に上がって、脱いだ靴はちゃんと揃えて端っこに置くんだ、お行儀よく。
それからあちこち覗いて回って、お茶を飲んだり、お菓子をつまんだり。
入ったからには掃除もしなくちゃ、きっと汚れてはいないだろうけど、しっかり掃除。テーブルとかもピカピカに拭いて、お嫁さんになった時のための練習。
そしてハーレイが帰って来たなら、笑顔で「おかえりなさい」って…。
「おい、筒抜けだぞ、空き巣」
「えっ…!」
零れちゃってた、ぼくの夢。ぼくの心から零れていた夢。
夢中で想像してたからかな、ハーレイに全部バレちゃっていた。空き巣って呼ばれて、おでこをコツンと小突かれた。「悪戯者めが」って。
「この鍵はまだまだ渡せんな」
俺が留守の間に入り込まれていたらたまらん、来るなと言ってあるのにな。
そういう危険があるとなったら、お前が充分に育つまではだ、渡すわけにはいかないってな。
「ハーレイのケチ…!」
ホントにやるとは言っていないよ、ハーレイの留守に入って空き巣。
やってみたいな、って思ってただけで、実行するとは言っていないってば…!
だからちょうだい、って強請ったけれども、合鍵は貰えそうにない。
ハーレイはぼくを綺麗に無視して、次の鍵の説明に移ってしまった。学校のだったか、それとも別の何かだったか、三つほど鍵を見せて貰って「これで全部だ」って言われたけれど。
(えーっと…)
まだ一つ残っている鍵がある。何に使うのか、聞いてない鍵。
ぼくの記憶違いっていうんじゃないんだ、こんな鍵なら一度聞いたら忘れやしない。
うんとレトロな、鍵っぽい鍵。SD体制が始まるよりも前の時代から使われていそうな形の鍵。
だけどちっとも古くない。古く見えるように加工がしてあるだけ。
もしかしたら、鍵じゃないんだろうか?
キーホルダーなんだし、最初からついてた飾りの鍵?
そういったこともありそうだけれど、やっぱりその鍵が気になるから…。
「ハーレイ、これは何の鍵なの?」
何も説明を聞いてないけど、キーホルダーについてる飾り?
「ああ、こいつか…。いずれ要る鍵だ」
今は使っていないからなあ、説明は要らんと思ったんだが。
「いつ使うの?」
「お前と結婚した後だな」
まだまだ当分先のことだな、お前、十四歳だしな?
おまけにチビだし、結婚出来るのはいつのことやら…。それまで出番が無い鍵だ。
「何に使うの?」
「もちろん鍵を掛けるためさ」
それ以外に無いだろ、鍵の使い道なんて。いくら見た目がレトロな鍵でも。
「鍵って…。何に?」
何に掛けるの、鍵なんかを?
結婚したから鍵を掛けるって、いったい何処に…?
急に心配になってきた、ぼく。
ハーレイと結婚したら家の合鍵を貰えるらしいのに、玄関を開けられるようになるのに。自由に家に出入り出来るのに、そうなったら鍵を掛けるらしい、何か。
(それって、ぼくが開けられないように…?)
まさかね、って思ったぼくだったけれど、ハーレイの答えはこうだった。
「鍵を掛ける場所が知りたいってか?」
決まってるだろう、俺の机の引き出しだ。こいつはそのための鍵ってわけだ。
「引き出しって…。ハーレイ、ぼくのこと、疑ってる?」
開けて色々探しそうだ、って。
ハーレイが仕事に行ってる間に、ぼくが中身を調べてそうだ、って…。
「やらないのか、お前?」
「やらないよ!」
本物の空き巣じゃないんだから!
ハーレイの引き出し、勝手に開けたり、中を覗いたりしないよ、ぼくは!
そんなことはしない、って叫んだけれど。
絶対やらない、って言い張ったけれど。
(…でも……)
中身が何だか分からない引き出しが家にあったら、ハーレイがそれをとても大事にしてたなら。
毎日、毎日、そういうハーレイを目にしていたなら、ぼくの気持ちも揺らぎそう。
あの引き出しには何が入っているんだろう、って。
ハーレイは何を大事に仕舞っているんだろう、って。
(…掃除してたら、机だって…)
拭きに行くだろうし、部屋の中を掃除している時にも引き出しはきっと目に入る。大切な何かが入った引き出し、それが何なのかぼくには決して教えてくれない内緒で秘密の引き出しの中身。
その上を、前を何度も掃除して回る内に、とうとう我慢出来なくなって…。
(…やっちゃうかも…)
引き出しの中を覗いちゃうかも、ハーレイのことは全部知りたいから。
どんなことでも知っていたいし、分かっていたいと思うから…。
ぼくの心が零れていたのか、それとも顔に出てたのか。
あの鍵をハーレイが指でつついた。
「ほら見ろ、この鍵は必要なんだ」
悪いお前が開けに来るしな、そう出来ないように鍵を掛けとかないとな。
「そんな…!」
やっぱりぼくを疑ってるの?
まだ子供だもの、ちょっぴり気になることもあるけど、大きくなったらやらないよ…!
前のぼくと同じくらいに大きくなったら我慢出来るよ、今は無理でも…!
それなのに鍵を掛けるなんて酷い、って泣きそうになったぼくだったけれど。
「冗談だ」って笑ったハーレイ。今までのは全部冗談だ、って。
「この鍵はな…。今だからこそ必要なのさ」
現役の鍵だ、ある意味、何よりも大事な鍵だな、こいつはな。
「なんで?」
引き出しの鍵でしょ、どうしてそれが今、必要なの?
「悪いガキどもが手ぐすね引いて狙っていやがるからな」
俺がクラブで指導しているガキどもだ。
あいつらを家に呼んだら文字通り家探しってヤツになっちまうんだな、家じゅう覗いて引っ掻き回して凄い騒ぎになるからなあ…。
俺の秘密を暴きたいのか、単なる好奇心なのか。
プライバシーを守り通したかったら、一ヶ所くらいは鍵を掛けとかんとな?
そのための鍵だ、ってハーレイは片目を瞑ってみせた。
俺の日記を入れてある引き出しにだけは、こいつで鍵を掛けるんだ、って。
「そっか、日記…」
でも、ハーレイの日記は覚え書きでしょ、
見られたって別にいいんじゃないの?
ぼくのことだって書いていないって言ってるんだし、誰が見たって良さそうだけど…。
「忘れちまったのか、前の俺が書いてた航宙日誌」
あれも日記じゃなかったわけだが、前のお前にも一切読ませていなかったろうが。
俺の日記だ、と秘密にしていた筈だぞ、最後までな。
「そういえば…。日記じゃなくても日記なんだね、ハーレイの日記」
「俺にとっては大事な記録というヤツだからな」
航宙日誌の時と同じだ、俺が読んだら書いてないことまで分かるんだ。
それは日記ということだろうが、悪ガキどもにまで見せてやることはないってな。
ヤツらが来る日はこいつで鍵だ、とハーレイの指がつまんだ鍵。
形も古いし、古く見せるための加工もしてある鍵だから。
「レトロな鍵だね、引き出しの鍵」
ホントに飾りかと思っちゃったよ、キーホルダーの飾り。だけどその鍵、使えるんだね?
「効き目って意味なら普通の鍵と変わらないってな、こんなのでもな」
ガッチリと鍵は掛かるわけだし、これで充分に役に立つ。
ただ、この通り単純な形だからなあ、合鍵どころかヘアピンがあれば開けられるらしい。試してみたことは一度も無いがだ、空き巣がいたような時代だったら格好の獲物って所だな。
「ふうん…。でも、ハーレイが好きそうな鍵だよね」
「この手の鍵がついてるヤツ、って選んで買った机だからなあ、俺のはな」
木で出来た机って所にも大いにこだわったんだが、鍵の形にもこだわった。こういうのだ、と。
前の俺と違って選び放題だったからなあ、今度の俺はな。
「ハーレイの机…。ぼくはハッキリ覚えていないよ」
書斎にあったな、ってことくらいしか…。後は今度も木の机ってことと。
「お前、一度しか見ていないからな」
家の中を案内してやった時に入っただけだな、書斎はな。
「そう。…二度目はチラッと見えただけだよ」
ハーレイと一緒に歩いてた時、廊下からチラッと見えたけど…。たったそれだけ。
前のハーレイの机の方がお馴染みだよ、って言った、ぼく。
あっちの方なら今でも鮮やかに思い出せるし、色も形も覚えているよ、って。
前のハーレイが使っていた机。味わいが出ると、せっせと磨いた木で出来た机。
「ねえ、ハーレイ。あの机に鍵はあったっけ?」
引き出しに鍵はついていたかな、あの机も…?
「いや、無かった」
鍵なんかついちゃいなかったな、あれは。どの引き出しでも覗き放題、開け放題だ。
部屋付きの係が掃除のついでに開けてたってこともあるんじゃないか?
俺は開けるなとは言わなかったし、掃除をしようと開けて中身を出すとかな。
鍵がついてはいなかったという、前のハーレイが大事にしていた木の机。
つけようか、って話はあったらしいんだけれど、ハーレイはそれを蹴ったって。
鍵は要らないと、必要無いと。
「…なんで?」
キャプテンの部屋の机なんだよ、今のハーレイとは違ったんだよ?
クラブの生徒を相手にするのと、シャングリラの仲間を相手にするのじゃ違いすぎない?
前のハーレイの方が引き出しに鍵が要りそうなのに…。
どうして鍵をつける話を断っちゃったの?
「隠し事は一つで沢山だ」
それ以上あったら隠し切れんな、プライベートな秘密ってヤツは。
「一つ?」
何それ、何を隠していたの?
「分からないか?」
前のお前と恋人同士だったということさ。知られるわけにはいかなかったろ、誰にもな。
その他に何を隠すと言うんだ、わざわざ引き出しに鍵まで掛けて?
ウッカリ鍵つきの引き出しなんぞを貰っちまったら、肝心の秘密がお留守になるぞ。
あれは鍵では守れない隠し事だったんだから、と言われれば、そう。
前のぼくとの恋を引き出しに入れて、鍵を掛けたりすることは出来ない。恋はそういうものじゃない。もしも引き出しに入れられたとしても、そこから溢れて出て来るのが恋。
だって、好きだと思う気持ちは止められないから。
どんどん想いが膨れ上がって、募ってゆくのが恋なんだから。
だからハーレイは引き出しに鍵をつける話を断ってしまったんだろう。
前のぼくとの恋を隠さなければと、そっちの方が遥かに大切だからと。
引き出しの中には入らないものを隠さなければいけないから。気を緩めたら大変だから。
航宙日誌にも一切書かずに、ぼくとの恋を隠し通した。
白いシャングリラが地球に着くまで、前のハーレイの命が終わる時まで…。
「前の俺の鍵は、いわばお前さ」
お前が俺の鍵だったんだ。引き出しに鍵をつけなくても。
「ぼく?」
どういう意味なの、ぼくが鍵って…?
「前のお前だ、前のお前を守るためなら俺は何でも隠せたわけだな」
自分の気持ちも、それ以外のことも。
前のお前が俺だけに明かした秘密なんかも、俺は喋らなかっただろうが。…俺は最後まで誰にも話さなかったぞ、フィシスが本当は何だったのかを。
トォニィが気付いちまった時にも、俺は黙っていただけだ。俺は一切、喋ってはいない。
そうやって守り通した秘密も、今となっては歴史の常識なんだがな。フィシスの生まれも、前のお前がサイオンを与えたということもな…。
「じゃあ、今のぼくは?」
ハーレイの鍵になっているわけ、今のぼくも?
今のハーレイは引き出しに鍵を掛けているけど、今のぼくも鍵の役目をしてるの?
「どうだかなあ…」
鍵だっていう気は全くしないな、今のお前はソルジャー・ブルーじゃないからな。
ただのチビだし、お前、秘密も無いだろうが。
この家に住んでる子供ってだけで、誰もお前に注目したりはしていないしな?
隠すようなことは何も無いからな、って言われちゃった。
残念だけれど、今のぼくは鍵にはならないみたい。前のぼくなら鍵だったのに。
ハーレイが引き出しに鍵をつけるのを断ったくらいに、大切な鍵の役目をしていたらしいのに。
(ちょっぴり残念…)
でも、隠し事なんか要らない時代に生まれたんだし、それでいいかな、と思っていたら。
ハーレイの鍵でなくてもかまわないよね、って考えてたら。
「…待てよ。今でもお前は俺の鍵だな」
間違いない。今のお前も俺にとっては大切な鍵だ。
「どうして?」
隠し事なんか今は一つも無いでしょ、なのにどうして、ぼくが鍵なの?
ぼくがハーレイの鍵になる理由、何処にも無いと思うんだけど…。
「いや、一つデカイのが今もあるんだ」
お前のお父さんやお母さんたちに内緒だ、俺たちのこと。
俺はあくまでキャプテン・ハーレイの生まれ変わりで、お前の守り役なんだろう?
恋人だとは一度も言っていないぞ、しかも当分、秘密だってな。
「ホントだ…!」
ハーレイは何度も来てくれてるけど、パパもママも気付いてないものね。
優しくて親切な先生なんだ、って思ってるだけで、恋人だとは思っていないものね…。
今もハーレイの鍵だったらしい、チビのぼく。
ソルジャー・ブルーみたいに偉くはないけど、ハーレイの鍵になっているぼく。
机の引き出しに掛ける鍵より、ずっと大事な鍵だった、ぼく。
でも…。
「お前は今でも俺の鍵だが、いつかはお役御免になるな」
前と違って、今度は結婚出来るんだ。いつまでも鍵をやってなくてもいいってな。
「うん。パパとママに話してもいい時が来たら、ぼくは鍵ではなくなるんだね」
ハーレイは隠し事をしなくてもいいし、もう鍵なんかは要らないものね。
「うむ。お前は俺の鍵の代わりに、俺の嫁さんになるってわけだ」
結婚式を挙げて、堂々と。お父さんたちにも祝福して貰って、うんと幸せな花嫁にな。
今度こそ俺が守ってやるから、必ず嫁に来るんだぞ?
そしたら家の鍵をやるから、ってハーレイは約束してくれた。
ハーレイの家の玄関を開けることが出来る、銀色をした小さな鍵。
勝手口の方の鍵と一緒に合鍵を作って、キーホルダーに入れて、ぼくに渡してくれるって。
ぼくがいつでも開けられるように、鍵を掛けて家を出られるように。
それに…。
こいつの合鍵も作るとするか、ってレトロな形の引き出しの鍵。
古びた感じに見えるように、と加工してある鍵だけど…。
「ハーレイ、その鍵…」
引き出しの中身は秘密じゃないの?
ぼくが開けたら駄目だから、って言っていたでしょ、冗談だって言い出す前は?
「お前に隠さなければいけないようなものは入れないさ」
隠し事など俺はしないし、そういったものも作りはしない。
しかしだ、一応、鍵が掛かる引き出しになってはいるからなあ…。
出来れば開けないでくれると嬉しいんだがな、俺にもプライバシーがあるってことで。
「開けちゃうかも…」
だって、合鍵はくれるんでしょ?
何が入っているのか覗いてみたいよ、一回くらいは引き出しを開けて。
…駄目……?
「やっぱり、お前は開けるんだな?」
そういう正直なお前も好きだぞ、だからこその合鍵なんだがな。
開けたい時には開けてみればいいさ、俺がどういうつまらないものを入れているのか探しにな。
日記だって読みたきゃ読んだっていいぞ、覚え書きでもかまわないなら。
「それでもいいよ」
ハーレイが書いた日記なんだな、ってページをめくれるだけで幸せ。
結婚式の日くらいは書いてあるんだろうから、そこばかり開いて何度も読むよ。
「こらっ、何度もって…。一度じゃないのか!」
「合鍵は有効に使わなくっちゃね?」
せっかくハーレイがくれた鍵なんだもの。何度でも使うよ、ハーレイの留守に。
家で一人で待っているのが寂しい時には開けてみるんだ、ハーレイが鍵を掛けた引き出し。
そうして引き出しの中身を眺めて、また戻して。
早く帰って来ないかなあ、って鍵を掛けたり、開けたりするんだ。
いいでしょ、ハーレイ?
「参ったな…。そういうおねだりをされちまったら、だ」
うんと言うしかないってな。
好きなだけ開けたり閉めたりしてくれ、それでお前が幸せだったら何も言わんさ。
ただし、お前を喜ばせるような日記を書いてやるほど、俺はサービスしないからな…?
ハーレイは苦笑いしているけれども、ちょっぴり期待しておこう。
ぼくが引き出しを開けるようになったら、日記の書き方が少し変わるかも…。
いつか貰えるらしい鍵。
ハーレイの家の玄関の鍵と勝手口の鍵と、机の引き出しのレトロな鍵。
三つの鍵をキーホルダーに入れて渡して貰って、ぼくはハーレイの日記を読むんだ。
日記が入った引き出しの鍵を、レトロな合鍵でカチャリと開けて。
大好きなハーレイのお嫁さんになって、家の鍵を開けたり閉めたり出来る日が来たら…。
大切な鍵・了
※前のハーレイでも、今のハーレイでも、「大切な鍵」はブルーらしいです。
そんなハーレイの机の引き出しの鍵。いつか合鍵を貰った時には、開けるのがブルー。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(これを拭いて、っと…!)
テーブルを拭きにかかった、ぼく。
いつもハーレイと使うテーブル、今日はハーレイが来てくれる日だから念入りに。
部屋の掃除は自分でするけど、掃除の仕上げはテーブルなんだ。
パパが「お客さんが来た時に要るだろう?」って椅子とセットで買ってくれたテーブル。ぼくの部屋にすっかり馴染んだテーブル。
(まさかハーレイと使えるようになるなんて…)
そんな日が来るとは思わなかった。ただの重たいテーブルなんだと思ってた。
子供の部屋には少し立派すぎる、椅子とセットになったテーブル。
だけど今ではハーレイと二人で過ごす時には欠かせない。二人分のお茶とお菓子や、食事。沢山載せてもビクともしないし、揺れたりもしない。頼もしくて頑丈なぼくのテーブル。
(今日も綺麗にしておかないと…)
キュッと端っこまで拭き上げた時に、フッと記憶が掠めて行った。
遠い、遠い記憶。こうしてテーブルを拭いていた記憶。
(ぼく、拭いてた…?)
前のぼくだった頃に、テーブルを。白い鯨で、あのシャングリラで。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
(青の間のテーブル、拭いてたけれど…)
部屋付きの係の仕事だけれども、係がいない時にはぼくが拭いてた。専用の布巾を自分で絞ってキュキュッと拭いた。何度も、何度も。
だけど…。
それは違う、という気がした。そのテーブルじゃないと、別のだったと。
(もっと前なの…?)
青の間にあったテーブルじゃなくて、別のテーブル。そういうのを拭いていた記憶。
咄嗟には思い出せないけれど。
テーブルを拭いた布巾をママに返して、部屋に戻って。
あのテーブルは何処のだっけ、って勉強机の前に座って考えてみた。記憶の端っこを掴みやすいよう、何も持ってない手で机を拭く真似をしたりしながら。
(立ってて、大きなテーブルをキュッって…)
青の間にあったテーブルよりも大きかったテーブル。何の飾りもないテーブル。
シンプルで、物さえ置ければいいって感じで。
何処だったろう、とテーブルの記憶を手繰り寄せてみたら。
(厨房…?)
それも昔のシャングリラの。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。
なんでその頃の厨房でテーブル?
前のぼくがテーブルを拭いていたわけ…?
厨房と言えば、前のハーレイが居たけれど。
キャプテンになる前は厨房で料理をしていたけれども、ハーレイの居場所だったんだけど。
(ハーレイ、片付けはしてなかった筈…)
脱出直後でゴタゴタしていた頃はともかく、すっかり厨房に落ち着いた後は片付けなんかはしていない。ハーレイは料理を作ってただけで、片付けは別の係がいた筈。
(お皿洗いも、厨房でお鍋とかを洗うのも…)
専属の係がやっていた。もちろんテーブルも彼らが拭いた。
なのにテーブルを拭いていた記憶。
食堂に並んだテーブルだったら、さほど不思議にも思わないけれど。
ちょっと零したとか、そういった時には拭いただろうから特に変でもないんだけれど。
厨房に置かれたテーブルとなったら話は別で、わざわざ入って行かない限りは接点が無い。
食事をしようと出掛けて行っても、厨房にまでは入らないから。
ハーレイは食事の時間になったら食堂に来てて、もう厨房には居なかったから。
もしもハーレイが厨房に居たなら、覗きに行くこともあっただろうけど…。
だから分からない、テーブルの記憶。どうしてぼくが拭いていたのか、謎のテーブル。
(あのテーブル…)
何に使っていたんだっけ、と其処から始まる記憶の旅。遠い記憶を探る旅。
白い鯨に、あの厨房はもう無かったから。
もっと広くて機能的な厨房、設備だってぐんと充実していた。最終的には二千人にもなった仲間たち。みんなの胃袋を満たす食事を毎日作っていたんだから。
(改造前でも広かったけどね)
コンスティテューションと呼ばれていた頃の船は、乗員がけっこう多かったらしい。それだけに厨房も大きかったし、鍋とかも沢山揃っていた。
その厨房にあったテーブル。シンプルだけども、そこそこ広さがあったテーブル。
(何かを置くから、あのテーブルがあったんだよね?)
椅子が置かれてた記憶は無いから、厨房の係が食事するための場所じゃない。何かを載せておくための場所。置き場所としての広いテーブル。
(…出来上がった料理?)
ううん、それなら盛られた順に食堂の方へと運ばれる筈。じゃあ、何を…?
完成した料理じゃないとすると…、と首を捻ったらヒョッコリ出て来た記憶。
そうだ、あそこで下ごしらえとかをやっていた。沢山の肉に塩を振ったり、野菜を切ったり。
ハーレイも色々なことをしていたけれども、それを見学しに行ったけども。
(…でも、なんでぼくがテーブルを拭いてたわけ?)
いくら見学に出掛けたからって、テーブルを拭くことは無いだろう。後片付けをする係が何人も控えてフライパンや鍋を洗ってたんだし、テーブルだって当然、拭く筈。
(ぼくの出番は無い筈だけど…)
だけどテーブルを拭いていた記憶。下ごしらえ用のテーブルをキュッと。
それをする理由が思い出せない、と悩んでいたら。
チャイムの音がして、ハーレイが訪ねて来てくれた。今は厨房の係じゃなくって、古典の先生のハーレイが。キャプテンでもない、今のハーレイが。
そのハーレイと、ぼくが綺麗に拭いておいたテーブルを挟んで座ってから。
ママが置いてってくれたお茶とお菓子を味わいながら、さっきからの疑問をぶつけてみた。
「ハーレイ。前のぼく、テーブル、拭いていた?」
ぼくってテーブルを拭いていたかな、前のぼくだった頃の話だけれど。
「はあ? 何を寝言を言っているんだ、拭いていたに決まっているだろうが」
お前の綺麗好きには泣かされた、って話もしていた筈だがな?
テーブルどころか洗面所とかまで掃除しようとしていただろうが、いつでもな。
部屋付きの係がいたというのに、ヤツらの仕事まで取っちまって。
テーブルを拭かないわけがないだろ、と呆れた顔をしているハーレイ。
駄目だ、訊き方が悪かった。
ぼくが知りたいのは青の間に居たぼくの話じゃなくって、もっと前のこと。
「青の間が出来るより前のことだよ!」
それよりも前に拭いていたかな、って訊いてるんだよ!
「俺の机だったら、磨きたがっていたが?」
俺がしょっちゅう磨いてたしなあ、やってみたいと何度も挑戦してただろ?
これでいいかと、こんな磨き方でいいのかと。
(そういうこともあったっけ…)
前のハーレイが愛用していた木で出来た机。こうしてやれば味が出るから、とよく磨いていた。
ぼくも磨くのを手伝ったけれど、ハーレイと一緒に手入れをしたけれど。
今は木の机を懐かしむより、テーブルの記憶の方が問題。
「机じゃなくって、厨房のテーブル!」
厨房に置いてあったテーブルなんだよ、下ごしらえとかをしていたテーブル。
あのテーブルをぼくが拭いてたかな、って。
「なんでお前がそれを拭くんだ」
下ごしらえ用のテーブルなんかを拭くようなことが無いだろうが。
「やっぱり記憶違いかなあ…?」
ハッキリしないし、何かとごっちゃになっているかな…?
「そうだと思うぞ、下ごしらえ用のテーブルなんぞをソルジャーに拭かせるヤツはいないな」
どんなに人手が足りなくっても、ソルジャーに拭かせることだけは無いな。
「ソルジャーだった頃のぼくじゃなくって!」
もっと昔、って説明した。
ぼくがソルジャーではなかった頃。ハーレイが厨房に居た頃だよ、って。
そう言ったら、ハーレイは腕組みをして少し考え込んでいたけれど。
ぼくと同じで、遠い記憶を手繰り寄せてたみたいだけれど。
「ああ、そういえば拭いてたな!」
今のお前と変わらないようなチビのお前が、あのテーブルを。思い出したぞ、間違いない。
「やっぱりテーブルを拭いてたの、ぼく?」
ちゃんと片付ける係がいたのに、ぼくがテーブル、拭いちゃっていた…?
「いや。お前がせっせと拭いてた時には、係なんかはいなかったな」
「そんなに昔の話だったの?」
片付ける係も決まってないほど昔だったの、ぼくがテーブルを拭いていたのは?
ハーレイが厨房の責任者だ、って決まるよりも前の頃だった…?
「そうじゃなくてだ、係のいない時間の話だ」
係はいたんだが、いなかった。そういう時にお前が拭いてた。
「えっ?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
係はいたけど、いなかったって…。意味が全然分からないよ?
ますます謎だ、と首を傾げてたら、ハーレイが「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「お前、試作に付き合ってたろうが」
俺が料理の試作をすると言ったら、厨房まで一緒について来て。
フライパンや鍋を覗き込むんだ、「何が出来るの?」とな。
「うん、覚えてる。味見もさせて貰ったよ?」
こんなのが出来たと、こんな感じだと。もうちょっと工夫をするかな、とかね。
「そういった時に拭いていたんだ、あのテーブルをな」
試作をしているような時間だ、片付けをする係にとっては仕事の時間外だったんだ。
厨房にはお前と俺しかいなくて、片付け係も調理係もいなかったってな。誰も片付けをしに来てくれないからなあ、俺が片付けて帰るしかないってトコだったんだが…。
そいつをお前が手伝いに来るんだ、「ぼくもハーレイと一緒にやるよ」と。
要らないと言っても手伝ってたぞ、と言われてようやく思い出した。
厨房でハーレイと二人きり。どんな料理が出来上がるのかとワクワク見てた。味見もしてみた。
何か手伝いをしたかったけれど、料理じゃハーレイに敵いっこない。下手に手伝ったら焦がしてしまうとか、煮過ぎちゃうとか、ロクな結果になりそうにないと思ったから。
せめてぼくでも出来ることを、とテーブルを拭いたり、鍋やお皿を洗ったり。
(テーブルを拭いてただけじゃなくって、お皿とかだって拭いたんだっけ…)
試作中だから、厨房の係はハーレイ一人しかいないから。
せっせと洗って、テーブルも拭いて、お皿は元の棚へと戻して…。お鍋とかだって。
ハーレイの手伝いをしていた、ぼく。
厨房のテーブルをキュッキュと拭いていた、ぼく。
やっと記憶が戻って来た。あのテーブルを拭いていたんだ、って。
懐かしいな、と遠い昔に思いを馳せていたら。
「お前と二人で皿洗いをしたのを覚えているか?」
試作の途中で味見する度に新しい皿を使っていたしな、そこそこ数があったんだ。出来上がったヤツを食った皿も入れたら、何枚くらいあったんだか…。
そいつを二人で洗っていただろ、俺が洗って、お前がすすいで。
「うん、何回も洗ったっけね」
でも、ハーレイの方が早くて上手なんだよ。
いつでも手早く洗ってしまって、「後は俺がやる」って交代だったよ、すすぐ方のも。
仕方ないからお皿を拭くけど、それだってハーレイが途中から持って行っちゃうんだよ。
「俺の方はもう終わったから」って、「お前は拭き終わったのを棚に片付けてくれ」って。
「そりゃまあ…なあ?」
いつも厨房に立ってた俺とだ、そうじゃないお前じゃ違ってくるさ。
俺にとっては毎日やってる仕事なんだし、そいつが遅くちゃ話にならん。皿も鍋もだ、とにかく手早く洗えってな。
手際よく料理をするためのコツは整理整頓、使った道具は役目が済んだら直ぐに片付ける。
それが鉄則、って言うハーレイ。
試作でなくても、みんなの食事を作る時でも。係が来るのを待っていないで洗うくらいの勢いでないと、使いやすい厨房にならないって。
だから慣れてたと、早かったと。お皿を洗うのも、鍋やフライパンを洗うのも。
「今でもお皿を洗うの、早い?」
前のハーレイと同じで早いの、サッと洗ってしまえるの?
「もちろんだ。優勝したほどの腕前だってな」
「優勝って?」
なんなの、何で優勝したの?
「上の学校の時に合宿でやった皿洗いバトルさ」
運動部ってヤツは、合宿の時の料理は自分たちで作ることが多いんだ。料理作りを通してチームワークを高められるからなあ、合宿中に一度は総出で料理だ。先輩も後輩も一緒にな。
そんな料理を食った後でだ、全員参加で皿洗いの腕を競ったわけだ。そいつで優勝したってな。
俺よりも早く洗えるヤツには一度もお目にかからなかったなあ…。
「面白そう…!」
みんなで作って、お皿洗いも競争なんだ?
それで優勝出来たんだったら、ハーレイの腕前、凄いんだね!
「当然だろうが、ダテに料理はしちゃいないぞ」
おふくろと親父に仕込まれたからなあ、料理も魚の捌き方もな。それに二人とも、「後片付けが出来ないようでは料理上手になれやしない」と皿洗いまでキッチリさせてくれたさ。
そういうわけでだ、俺は皿洗いの方も修行に修行を重ねたってことだ。
前の俺より早いかもな、ってハーレイが自慢しているから。
前のぼくたちが生きてた頃より、うんと種類が増えてしまったお皿も器も手早く洗って片付けが出来る腕だと言うから。
「ハーレイの皿洗いの腕前、見てみたいな…」
前のハーレイよりも早いんだったら、ちょっぴり洗って見せて欲しいな。何でもいいから。
お皿でもいいし、このテーブルに置いてあるティーポットだとか、カップだとか。
「おいおい、お前の家では実演出来んぞ、皿洗いはな」
これでも一応、俺は客という扱いになっているんだぞ?
お客さんに皿洗いをさせるような家が何処にあるんだ、よく考えてから言うんだな。
手料理だって持って来られないのに、それを飛び越えて皿洗いなんぞが出来るか、馬鹿。
「…やっぱり無理?」
ハーレイがお皿を洗う所は見られない?
皿洗いバトルで優勝した腕、ぼくの家では見られないわけ?
「当たり前だろうが。理由は言ったろ、この家じゃ無理だと」
結婚するまで諦めておけ。俺の皿洗いを見るのはな。
「そんなに先?」
ハーレイのお嫁さんになるまで見せて貰えないわけ、皿洗いの腕?
前のハーレイよりも早いって言うから、その腕、見せて欲しいのに…。
「ふうむ…。結婚するまで待てんと来たか…」
しかしだ、お前は俺の家には来られないわけで、見ようにも見られる場所が無い。
少しでも早くと言うんだったら、婚約だな。
婚約したなら、俺の家にも堂々と客として来られるし…。
そしたら見せてやってもかまわないがな、俺の手料理とセットでな。
「ハーレイの料理もついてくるの?」
「皿洗いの腕を披露するんだぞ? その皿に俺の料理を載せなきゃどうするんだ」
うんと美味いのを御馳走してやるさ、皿が沢山要りそうなのを。
いろんな形の器を幾つも出すんだったら、和風の料理が良さそうだな。前の俺たちが生きてた頃には無かったヤツだが、今の俺は和風も得意だからな。
「楽しみ…!」
ハーレイが作った天麩羅だとか、茶碗蒸しだとか。
そういうのを食べさせて貰えるんだね、前のぼくが知らなかった料理ばっかりを。
今のハーレイだから作れる料理を御馳走になって、皿洗いも見せて貰えるんだね…!
いつかハーレイと婚約したなら、和風の料理を作って貰って、皿洗いの腕も見られるらしい。
ハーレイだったら、きっと御飯茶碗も茶碗蒸しの器も手早く洗ってしまうんだろう。どんな形をしている器も、まるで平たいお皿みたいに楽々と。
そんなハーレイの腕前を横で見ているのも楽しそうだけど…。
「ねえ、その時はぼくにも手伝わせてよ」
前のぼくみたいにハーレイと一緒に洗いたいな、お皿。和風だったら、お皿の他にも色々な器があるだろうけど…。
「駄目だな、皿を割られちゃたまらん」
特別上等なヤツってわけでもないんだが…。割られたら数が揃わなくなってしまうしな。
お前だって今なら分かる筈だぞ、和風の食事に使う器は模様や形が同じのを探すのは大変だと。
「知っているけど…。ぼく、割らないよ?」
前のぼくだって一度も割っていないよ、厨房でお皿を洗っていた時。
「確かに割ってはいなかったが…」
普通だったら落としてガシャンと割れる所をサイオンで拾っただけだろうが。
ガシャンと砕けてしまう前にだ、ヒョイと拾って戻してたってな。
「落としちゃってた…?」
前のぼく、お皿を割っていないだけで、ホントは何度も落っことしてた?
割れるよりも前に拾い上げただけで、本当は割れるトコだった…?
ニヤニヤしてぼくを見ているハーレイ。
言われてみれば覚えがある気もしてきた。
前のハーレイを手伝おうとして、頑張ってお皿を洗っていた、ぼく。
手を滑らせて落っことしたお皿を「いけない!」ってサイオンで止めていた。床に当たったら、お皿は粉々。その前に止めてしまわなきゃ、って。
前のぼくなら簡単に出来たことだけれども、今のぼくには出来ない芸当。どんなに「止まれ」と念じた所で、お皿は止まりはしないんだ。床まで真っ直ぐ、ノンストップ。そしてガシャンと音がしちゃって、真っ二つになるか、粉々か…。
皿洗いバトルで優勝した腕のハーレイを手伝って洗うどころか、逆に迷惑、足を引っ張る。
砕けたお皿の後始末だとか、濡れちゃった床の掃除だとか。
つまりハーレイのお手伝いなんかは夢のまた夢、「黙って見てろ」と禁止される立場。
だけど、やっぱり手伝いたい。
ハーレイ一人にやらせるだなんて、なんだか、あんまり酷すぎるから…。
「…じゃあ、今のぼくは、皿洗いは…」
やっちゃ駄目なの、お皿を割ってしまうから。
前のぼくみたいにサイオンで止めて拾えないから、お皿は洗っちゃいけないの?
ハーレイのお手伝い、したいのに…。
「その手伝いがだ、手伝いになっていないんだがなあ…。皿を割っちまった時にはな」
割れた皿を片付ける手間が増えるし、床だって掃除をしなくちゃならん。面倒なばかりで少しも楽にならないからなあ、皿洗いの手伝いは断固断る。客のお前は洗わなくてもいいんだしな?
嫁に来たって洗わなくていい、と言いたいトコだが。
俺が洗うから放っておけ、と言いたいんだが、洗うんだな?
お前、どうやら、前と同じで綺麗好きだしな?
「うん。ハーレイが出掛けていたなら、お皿、洗うよ」
その間にぼくが使った分とか、ハーレイが出掛ける前に使った分とか。
ハーレイが帰るまで放っておかずに、ちゃんと洗って綺麗に拭いて。
元の棚まで戻しておくから、留守の間くらいは任せておいてよ。
「任せてもいいが、だ…」
皿、割るなよ?
任せられたからには責任を持ってきちんと洗えよ、割っちまわないように気を付けてな。
「…割っちゃったら?」
割らないように頑張るけれども、もし割っちゃったら、どうしたらいいの?
もちろんハーレイが帰って来たら正直に話して「ごめんなさい」ってちゃんと謝るし、後片付けだってしておくけれど…。
「割っちまったのなら弁償だな」
そいつが筋っていうものだろう?
物を壊したら弁償する。それが世間の常識だってな。
「弁償って…。どうやって?」
ぼくがハーレイにお皿のお金を払ったとしても、そのお金でハーレイが買い直した食器はぼくも使うよ、それって何処かが変じゃない?
ハーレイに払うお金にしたって、ぼくのお小遣い、ハーレイから貰っているんじゃあ…?
結婚した後はハーレイの家で暮らす、ぼく。
ハーレイのお嫁さんになるっていうだけで、多分、仕事はしそうにない、ぼく。
割ったお皿を弁償しようにも、ぼくのお金はハーレイのお金。
もしかしたら、結婚する時にパパとママが幾らか持たせてくれるかもしれないけれど…。
そこから弁償するんだろうか?
何度もお皿を割っていたなら、パパとママから貰ったお金は無くなってしまって一文無しとか?
「もう払えません」ってハーレイに言ったら、どうなるんだろう。
お金がすっかり無くなっちゃったから、もう弁償は出来ません、って泣くしかないとか?
そうしてお皿も洗えなくなって、何も出来ないお嫁さん…?
(…役立たず…)
それしか言葉が浮かんで来ない。
ハーレイの留守にお皿を洗って片付けることも出来ないお嫁さんなんて。
もう駄目だ、って頭の中がぐるぐるしてたら、ハーレイがパチンと片目を瞑った。
「さてなあ、弁償する方法なあ…。お前に金を払えだなんて言えないし…」
皿一枚につき、キス一回にしておくか。
割っちまったら「ごめんなさい」と俺にキスしろ、皿一枚でキス一回だ。
「それなら割っても平気だね!」
キスでいいなら、ぼくも安心。
それにハーレイが帰って来たら直ぐにキスが出来るし、弁償どころか嬉しいくらい。
割っちゃってごめん、ってキスしたらそれでいいんでしょ?
「…喜ばれたんでは弁償の意味が無いんだが…。お前が反省しないとな」
皿一枚でキス一回では駄目なようだな、他に何か…。
よし、皿を割ったら一枚につきキス無し一日…って、こいつは俺が耐えられんか。
目の前にお前がいるというのに、一日もキスが出来ないんじゃな。
「ぼくだって、それは耐えられないよ!」
ハーレイと一緒に住んでいるのに、キス無しなんでしょ?
キスもしないで丸一日なんて絶対無理だよ、もっとマシなのを考えてよ…!
ぼくがお皿を割っちゃった時の弁償方法。
ハーレイはあれこれ考えたけれど、どれも何処かに落とし穴。ぼくを喜ばせるか、ハーレイまで損をしてしまうかの二つに一つで、いい方法はとうとう見付からなかったから。
どんなに考えても弁償も罰も無理みたいだから、ハーレイの顔に苦笑い。
「…仕方ない、気を付けて洗ってくれ」
お前に弁償して貰う方も、罰を与える方法ってヤツも、どうやら一つも適した策が無いらしい。
皿洗いはお前の良心と腕に任せる、割らないように努力してくれよ。
「うん、そうする!」
任せておいてよ、ぼくだって手までは不器用じゃないし。
サイオンはとことん不器用だけれど、手の方はけっこう器用だよ?
だからお皿だって、前のぼくより上手に洗えるんじゃないかと思うな、落としたりせずに。
頑張るね、って言ったけれども。
留守の間のお皿洗いは任せておいて、って言ったけれども。
前にハーレイの家で見かけた、愛用品らしい大きなマグカップ。
あれだけは洗わないで置いておこうか、ハーレイが使ったカップだから。出掛ける前にゆっくりコーヒーを飲んで、「行ってくる」ってテーブルの上に残して行ったカップだから。
ハーレイの温もりが残ったカップ。その内に冷えてしまうけど…。
(きっと嬉しい気分になるんだよ、飲み残しとかで)
カップの底にほんのちょっぴり、コーヒーが入っていた名残。
飲んでやろうと傾けてみても、カップの縁まで流れて来てはくれない僅かなコーヒー。
ハーレイが美味しく飲んで行った後の、じきに乾いて跡だけが残るカップの底のコーヒーの雫。
(見ているだけで幸せだよね?)
これでハーレイが飲んでたんだよ、ってカップを眺めて覗き込むだけで。
時々触って、取っ手に指を通したりして、持ち上げて重さを確かめたりして。
(…でも、コーヒーの残りがくっついたカップ…)
使ったまんまで放っておかれたカップというのは否定できない。
いくらハーレイの名残が残るカップでも、ハーレイが愛用しているマグカップでも。
その内に洗ってしまうかもしれない、綺麗好きなぼく。
お昼御飯を食べたついでに、あるいはおやつを食べたついでに、ぼくが使ったお皿と一緒に。
(ハーレイのカップ…)
今のぼくはサイオンで拾ったりすることは出来っこないから、うんと気を付けて。
他の食器に当たったりしてヒビが入っても困っちゃうから、カップは別にして洗おう。
大好きなハーレイが大切にしているカップを割ったらとっても悲しいから。
ヒビが入ったり欠けたりするのも、悲しくて困ってしまうから…。
気を付けよう、って決心してたら、ハーレイがしげしげとぼくの顔を見て。
「割りそうだな…」
お前、如何にも割りそうな顔だな、そういう風に見えるんだがな?
割っちまったらどうしようか、って考えていないか、さっきからずっと…?
「そんなことないよ!」
割らないように気を付けて洗う方法、どんなのがあるか色々と考えていただけだってば!
だから割ったりしないよ、お皿。お皿も、他のいろんな器も。
絶対割らない、って膨れたけれど。
割ったらぼくだって悲しいんだから、って言ったんだけど。
前のぼくでも割りそうだったお皿、無事に割らずに済むんだろうか?
サイオンで拾い上げられない、ぼく。床に落っこちる前に止められない、ぼく。
(でも、割っても…)
もしもハーレイの大事なお皿を、落っことして割ってしまっても。
使いやすくてお気に入りらしい、あのマグカップが真っ二つになってしまっても。
ハーレイなら、きっと許してくれる。
「ごめんなさい」って頭を下げたら、きっと笑顔で許してくれる。
割ってしまって泣き顔のぼくに、「また買えばいいさ」とキスを落として…。
お手伝い・了
※前のハーレイが厨房にいた頃、せっせと手伝いをしていたブルー。皿洗いまで。
今度も手伝いをしたいですけど、お皿を割ってしまうかも。だけど許して貰えますよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(クッキー…)
それは唐突にやって来た。
学校から帰って、おやつを食べていた最中に。おやつはケーキだったのに。
何故だか急に、食べたくなった。あのクッキーが食べてみたい、と。
(あそこのクッキー、美味しかったもの…)
一度だけ、ハーレイが持って来てくれた。
ハーレイの家の近所にあるという店のクッキー、それを土産に提げて来てくれた。ブルーの家に来られなかった詫びにと、客にはこれを出したのだと。
柔道部の顧問をしているハーレイ。クラブの子たちが遊びに来るから、と来客を優先された時のお詫びがクッキーだった。彼らに出した菓子はこれだと、お前も食べてみたいだろうと。
今の学校だと柔道部員で、それまでにハーレイが居た学校なら水泳部員のこともあったろう。
柔道部であれ、水泳部であれ、あのクッキーはハーレイの客たちの御用達。
(徳用袋って言ってたよね?)
ブルーは箱入りの綺麗な詰め合わせを貰ったけれども、来客用には徳用袋だと聞かされた。作る途中で割れたり欠けたりしたクッキーを詰めた、大きな袋があるのだと。
菓子も食事も山のように食べる生徒たちには上品な詰め合わせセットは向かない。ゆえに徳用、それでもアッと言う間に空にするのがハーレイの家の客たちらしい。
(ホントに本物のお客さんなら、ぼくが貰ったみたいなクッキーを出すんだろうけど…)
それを思えば、自分が貰ったクッキーの方が断然、上。
いわば特別扱いだけれど、それが突然、あまり嬉しくなくなった。
ハーレイの家には行けない自分。来てはいけないと言われた自分。なのに自由に出入りしている柔道部員の生徒たち。招かれたら家じゅうを走り回って、覗いて回るという生徒たち。
彼らの立場が羨ましい。彼らのために用意されるという徳用袋のクッキーだって。
(食べてみたいな…)
割れたり欠けたりしたクッキー。改まった客には出さないクッキー。
それを自分も味わってみたい。特別扱いの澄ましたクッキーなどより、普段着のクッキー。
ハーレイの家に遊びに出掛けた生徒たちに振る舞われるクッキー。
(味はおんなじなんだろうけど、気分が全然違うよね?)
箱に綺麗に並べられていて、欠陥など無いクッキーは所詮、よそゆきの顔。何処に行っても通用する顔、個性がまるで無いクッキー。
けれども徳用袋のは違う。真っ二つに割れてしまったものやら、大きく欠けているのやら。同じ型から生まれたものでも同じ形をしているクッキーは無くて、どれもが違った顔ばかり。
(どのクッキーもきっと、ユニークなんだよ)
賑やかに笑いさざめいているクッキーたちの声が聞こえるようだ。大きな菓子鉢か皿に盛られて出されたクッキー、それらが笑い合う声が。クッキーをつまむ生徒たちと同じに、それは賑やかに楽しそうに。
(…いいな…)
そんなクッキーたちを自分も食べたい。個性豊かなクッキーを食べて、気分だけでもハーレイの客になったつもりで楽しみたい。あの家に自分は行けないけれども、気分だけでも。
(だって、徳用袋のクッキー…)
ハーレイの家に招かれた教え子たちだけが出会えるクッキー、個性溢れるクッキーたち。
割れたり欠けたり、お行儀の悪いクッキーの群れ。
そこから一つつまむだけでも幸せな気分になれるだろう。ハーレイの家に行ったらこのクッキーだと、こんなクッキーたちが「いらっしゃい」と迎えてくれるのだと。
どうにも食べたくなってきたから、クッキーに会いたい気持ちを抱えて部屋に戻った。徳用袋に入ったクッキー、まだ会ったことが無いクッキー。
(食べたいな…)
ハーレイのお客さんになって食べてみたいな、と勉強机の前に座って考えていたら。クッキーな気分を断ち切れずにいたら、運良くハーレイがやって来た。仕事帰りに、チャイムを鳴らして。
(神様が連れて来てくれたんだよ…!)
クッキーが欲しいと頼むように、と連れて来て下さったに違いない。心から欲しいと願っていたから、神様が願いを叶えてやろうと手伝って下さったに違いない。
だから早速、ハーレイに強請った。母がお茶とお菓子を置いて去った後、勢い込んで。徳用袋のクッキーが欲しいと、あれを一度食べてみたいのだと。
しかし…。
「徳用袋か…。お前には向いていないんだがな」
あれはお前に渡すようには出来ていないと思うんだが…。
「なんで?」
割れたり欠けたりしてるだけでしょ、味は普通のクッキーなんでしょ?
あそこのクッキー美味しかったし、ぼくの好みの味だったよ。向いてないことはないと思うな、よそゆきの顔をしてないクッキー、食べたいな…。
ちゃんと揃ったクッキーもいいけど、普段着の顔のクッキーがいいよ。
だって、ハーレイの家に大勢で遊びに行った生徒は、そのクッキーを食べるんだものね。
「味や形は問題じゃないんだ、要は徳用袋のサイズだ」
お前ではとても食い切れない。個別包装だってしてないからなあ、一気に食わんと湿っちまう。一日で全部食えとは言わんが、せいぜい二日か三日ってトコだ。それを過ぎたらもう駄目だな。
「平気だってば、食べ切れないならママたちと分けるよ」
ママもパパもクッキー、大好きだしね。
前にハーレイがくれたクッキー、少しだけ分けてあげたんだけど…。とても美味しいって言っていたから、また貰えたなら大喜びだよ。それも沢山食べられるんなら。
「そんな失礼なことが出来るか!」
お前が一人で食うならともかく、お父さんやお母さんにも分けるだと?
そいつは失礼すぎるってモンだ、俺の人格を疑われそうだ。なんてモノを持ってくるんだとな。
相手は徳用袋なんだぞ、とハーレイは顔を顰めて言った。
来客に出したり、お遣い物に持ってゆくには不向きだからこそ徳用袋に入れられるクッキー。
そんなクッキーばかりを詰めたものなど、土産に持っては来られないと。
アッサリ断られてしまったけれども、諦められない徳用袋。
ハーレイの家に出掛けた生徒たちだけが味わえる個性豊かなクッキー。
駄目だと言われれば余計に欲しい。食べたくて欲しくて、なんとしてでも手に入れたい。
次にハーレイがやって来た時も、また強請ったから。
徳用袋のクッキーが欲しいと、食べてみたいと強請ったから。
「お前、忘れていなかったのか…」
たかがクッキーだぞ、お母さんだって焼いてくれるじゃないか。うんと美味いのを。
それに毎日、手作りの菓子を色々食わせて貰ってるくせに、お前の頭から徳用袋は消えんのか?
「食べ物の恨みって言うじゃない」
しつこいものでしょ、食べ物の恨み。それだから忘れないんだよ。
ハーレイが食べさせてくれなかった、って恨んでいるから、徳用袋のことを覚えているんだよ。ぼくに御馳走してくれるまでは忘れないままでいると思うな、徳用袋のクッキーのこと。
「そう来たか…」
食い物の恨みか、そいつは確かにしつこそうだ。俺は来る度に言われるんだな、あれを食わせてくれなかったと。
仕方ないな、とハーレイは大きな溜息をついた。
なんとか工夫してみよう、と。
ブルーの両親に失礼なことにならない形で徳用袋のクッキーを持ち込む工夫をしよう、と。
そして訪れた週末の土曜日。
ハーレイは自分の荷物とは別に丈夫そうな袋を提げて来た。袋の中身はハーレイの母の手作りのマーマレードが詰まったガラス瓶。夏ミカンの金色が鮮やかなマーマレードは、切れないようにと早めに新しい瓶を持ってくるのが常だった。ブルーの家の朝食に欠かせないマーマレード。
それをブルーの母に手渡した後で、二階のブルーの部屋に案内されて来たハーレイだけれど。
「苦労したぞ」と袋の中から瓶をもう一つ取り出した。
「お母さんにはマーマレードだけを持って来たふりをしておいた」と。
テーブルの上に置かれた大きなガラス瓶。中にギッシリ詰まったクッキー。
覗き込んでみれば、クッキーはどれも割れたり欠けたりしていたから。
「これが徳用?」
徳用袋のクッキーは瓶に詰まっているものだったの、ぼくは袋だと思っていたけど…。
「いや、徳用だけに袋入りだが? 瓶なんかついてくるもんか」
そいつの一部を詰め替えて来たんだ、この瓶にな。
お前にはとても食い切れない量だと言っていただろ、徳用袋。だから一部だ。
こんなサイズの袋だからな、と示された大きさはとてつもないもの、まさに徳用。
「凄いね、そんなに大きな袋だったんだ。クッキーの徳用袋って…」
この瓶だって充分、大きいのに…。ぼく、一日では食べ切れないよ。
「クッキーを入れるなら、このくらいのデカさの瓶でないとな」
せっかくの徳用袋だからなあ、お前が欲しくて何度も強請ったヤツだしな?
そうそう買ってはやれないからなあ、こいつでじっくり味わってくれ。
これだけあったら暫くはクッキー、食えるだろ?
一日にどれほど食うかは知らんが、二日や三日じゃ、多分、食い切れないだろうしな。
マーマレードの瓶に負けないサイズのガラス瓶。瓶の高さは十五センチは軽くあるだろう。
その中にびっしり、色々な色や形のクッキーたち。割れたり欠けたりしているけれども、様々なクッキーが詰め込まれていて。
「こうやって瓶に詰めておけばな、袋と違って湿らないしな」
食べる分だけ出したら蓋を閉めるんだ。そうしておいたら一ヶ月だって大丈夫だぞ。
「ありがとう! 大事に食べるよ、少しずつ。おやつは毎日、ママが用意してくれるしね」
お腹が空いてるわけじゃないから、一日に二つか三つもあれば…。
どのクッキーが美味しいの?
「うん? どれも美味いが、シナモンはちょっと変わった風味だぞ」
黒砂糖ってヤツを使っているんだ、甘さにクセがあるってな。
「シナモンって…。どれ?」
「こいつだ、ここの四角いヤツだ。割れちまって四角じゃないけどな」
それにアーモンドもホロリと崩れる感じがいいんだ、こいつがアーモンドクッキーだ。
でもって、こっちの黒っぽいのがだな…。
ココア風味や、チョコレートチップが入ったものやら。
どのクッキーもハーレイのお勧めらしいけれども、原型を保ったものは無かった。それでも形の想像はつく。きっとこうだと、綺麗に仕上がればこうなのだと。
前に貰った詰め合わせセットの時には無かったクッキー談義がとても嬉しい。
ブルーが熱心に瓶を見ていたら、ハーレイが蓋に手を置いた。
「ちょっと食ってみるか?」
どんな味だか、二つか三つ。上の方に入っているヤツをな。
「うんっ!」
ハーレイも一緒に食べようよ。ぼくが一人で食べるのもいいけど、ハーレイと一緒。
徳用袋を食べる生徒の時もそうでしょ、ハーレイ、一緒に食べてるんでしょ?
ハーレイが瓶の蓋を軽く捻って開けて、それは素晴らしいティータイム。
ケーキのお皿に割れたクッキーを何枚か出して、ハーレイと二人でつまんで食べた。クッキーの説明をして貰いながら、元はこうだと形を教えて貰いながら。
もちろん瓶にはきちんと蓋がされていたから、瓶の中身は湿りはしない。ハーレイはクッキーを隙間なく詰めて来ていたのだろう、瓶にはまだまだギッシリとあって。
「な、割れたクッキーでも美味いだろう?」
残りは楽しんで食うんだな。飯を食うのに差支えない程度にしておけよ。
「うん! 一人でコッソリ食べることにするよ」
ママに見付かったら食べられちゃうしね、このクッキー。
美味しいわね、って言われちゃったらおしまいなんだよ、アッと言う間に無くなっちゃうよ。
この店のクッキーが美味しかったことは両親も覚えている筈だから危険だった。
発見されれば「このクッキーでお茶にしましょう」と階下に運ばれ、それっきりになる。
だから隠す、とブルーはクッキー入りの瓶をチョンとつついた。
クローゼットに仕舞っておくよ、と。
あそこならママも滅多に覗かないから、絶対に発見されないよ、と。
その言葉通り、母が昼食を運んで来る前にクローゼットに突っ込んだ。
ハーレイは「そんな所に隠すのか?」と笑ったけれども、かまわない。ベッドの下よりも安全な筈の隠し場所。クローゼットの扉を大きく開け放たない限り、隅っこまで見えはしないから。
(ふふっ、クッキー…)
ついに手に入れた徳用袋の中身のクッキー。割れたり欠けたりしたクッキー。
その夜、ハーレイが帰って行った後、歯を磨く前に一枚食べよう、とクローゼットから引っ張り出した瓶。どれにしようか、と思案しながら開けようとして。
(開かない…)
固く閉まった瓶の蓋。こういう時には蓋を温めれば開くのだったか、と思ったけれど。
生憎と蓋だけを温められそうなものは部屋には無い。布で擦って温めてみても開かない蓋。
(んーと…)
力一杯、何度も捻って、手が痛くなるまで挑んだけれど。
どう頑張っても開かなかったから諦めた。
なにしろ瓶の中身はクッキー、洗面所に運んで蓋を湯で温める方法は使えないから。
両親に知られずに出来そうな方法は、湯の他に思い付かないから…。
悪戦苦闘して諦めた翌日、日曜日。
訪ねて来てくれたハーレイと部屋で向かい合うなり、母の足音が階下に去るなり、ブルーは瓶をクローゼットから取り出した。
「ハーレイ、この蓋、開かないよ?」
昨日、寝る前に一枚食べようとしたんだけれど…。
蓋が固くて開かなかったよ、一枚も食べられなかったんだよ。
「そうか?」
そいつは残念なことをしたなあ、家にあるのに食い損なったか。
しかしだ、この蓋、そんなに固くはない筈だがな?
ほら、とハーレイが蓋を捻ればポンと簡単に開いた瓶。
ブルーは嬉々として中身を何枚かケーキの皿の上へ移すと、ハーレイに勧めた。
これを食べようと、クッキーも二人で食べようと。
ハーレイの家でしか食べられない筈の徳用袋のクッキーだから。
割れたり欠けたり、お遣い物に持ってゆくにはお行儀の悪すぎるクッキーたちだから。
そうして二人でまたクッキーを食べて、瓶の蓋はハーレイが閉めてくれた。
「湿ると不味くなっちまうしな」と、ブルーがクッキーを皿に移すなり、手早くキュッと。
そのハーレイと二人でクッキーをつまんで、残りが入った瓶はクローゼットの奥に片付けて。
ハーレイの家に行った気分で味わったクッキー、徳用袋のクッキーたち。
(美味しかったな…)
あのクッキー、とハーレイが帰って行った後でクローゼットから瓶を引っ張り出した。
ハーレイと一緒に二度も食べたから、ますます特別になったクッキー。両親には内緒の宝物。
どれを食べようかとガラス越しに眺めて、今夜こそ、と蓋に手を掛けた。
宝物のクッキーを今夜こそ、一つ。
ハーレイお勧めのシナモンもいいし、アーモンドのも美味しかった。チョコレートチップのも、ココア風味も、アーモンドとココアが混じったものも。
心躍らせつつ蓋を捻ったのに、開いてくれない。どう頑張っても開かない蓋。
あんなに楽々と開けていたのに、と大きくて逞しい褐色の手を思い浮かべた途端に気が付いた。
(ハーレイのせいだ…!)
そういえば前に確かに聞いた。
いつもハーレイが持って来てくれる、夏ミカンの金色のマーマレード。あの瓶の蓋も固かった。両親が苦労して開けているそれを、ハーレイは手だけでポンと開けてみせた。蓋を開けるのにコツなどは無いと、自分は捻っているだけだと。
(力持ち…)
固くて開かないと評判らしい、夏ミカンのマーマレードが詰まった瓶。
捻るだけで開けられる人間はハーレイ一人で、マーマレードを瓶詰めにしたハーレイの母でさえ父と二人で開けるという。二人がかりで、サイオンまでも乗せて。
そのマーマレードの瓶を軽々と開けるハーレイが閉めてしまった蓋。「湿ると駄目だ」と固めに閉めておいた蓋。
ブルーの力で開くわけがない。どう頑張っても開く筈がない。
(クッキー…)
食べたいのに、と瓶を見詰めて肩を落とした。
開けたいけれども、開かない瓶。自分の力では開けられない瓶。
父に頼めば、開けてくれるかもしれないけれど。
(開けてくれても、食べられちゃうよ…)
「開けた御礼に一つ貰うぞ?」で済むわけがない。「ママにも一枚」と言いそうな父。
母と二人で一枚ずつ食べれば、もう間違いなく気付かれる。これは美味しいクッキーだと。形は不揃いでみっともなくても、味は素晴らしいクッキーなのだと。
そうなったら二人は確実に思い出すだろう。ハーレイが前に持って来たのと同じものだと。
(気付かれちゃったら、みんなで食べようって言い出すんだよ)
母がお茶を淹れ、父が器にクッキーを入れてティータイム。
クッキーの瓶はそのまま階下に留め置かれて、二度と部屋には持ち帰れない。一人占めにはしておけない。
(それに、一人で食べられるチャンスがあったとしても…)
ダイニングのテーブルで食べていたのでは、ハーレイの家に出掛けた気分になれない。あの家に招かれた気がするからこそ、このクッキーが欲しかったのに。
(仕方ないや…)
クッキーはとても食べたいけれども、次にハーレイが来るまでお預け。
瓶の蓋を開けて貰える時まで、暫くお預け。
ガラス瓶越しにクッキーたちを毎日眺め続けて、水曜日にハーレイが来てくれたから。また瓶を出して来て「開けて」と頼んだ。
クッキーを何枚かケーキが載った皿に移して、今度は自分で蓋を閉めたけれど。
「おいおい、駄目だぞ、そんな閉め方」
もっと力を入れないとな。ギュッと閉めんと湿っちまうぞ。
貸してみろ、と褐色の手が伸びて来て瓶を取り上げた。
止める暇も無く、ハーレイの力で閉められてしまった瓶の蓋。
悲劇は再び繰り返された。
ブルーがどんなに頑張ってみても、瓶の蓋はビクともしなかった。
開かない蓋と空しく戦い続けて、週末が来て。
土曜日、訪ねて来てくれたハーレイにブルーはまた頼まざるを得なかった。蓋を開けてと、この瓶の蓋が開かないからと。
瓶の蓋はいとも容易くポンと開いて、其処からクッキーを何枚か出して。
「ぼくが閉めるよ」と、「湿ってもいいから」と自分の力で閉めたのだけれど。
「俺はそういうのは許せんな」
寄越せ、きちんと閉めてやるから。
湿ってもいいとは、何を言うんだ。それは食べ物を粗末にするってことだぞ、分かってるのか?
いいか、クッキーはな、湿っちまったら美味くないんだ。しっかり閉めておいたら湿らん。
美味いままで置いておけるというのに、湿ってもいいとは感心せんな。
食い物が如何に大事なものかは、お前も承知している筈なんだがな?
前の俺たちがアルタミラから逃げ出した後、その食い物のせいでどうなった?
危うく飢え死にするトコだったぞ、前のお前がいなかったらな。
船に載ってた食料だけでは、いつか終わりが来るんだからな。
あの危機を覚えているだろうが、と言われたらもう反論出来ない。
ハーレイの手が瓶の蓋を固く閉め直すのを見ているしかない。
クッキーたちはブルーの手が届かない世界へ行ってしまって、ガラス瓶の向こう。美味しそうな姿は見えているのに、食べたくても瓶から取り出せない。
「これで良し、っと…」
もう大丈夫だ、こうしてきちんと閉めておけばな。いつでも美味いのを食べられるぞ。
「でも、開かないし…」
ぼくの力じゃ開けられないから、美味しいも何もないんだよ!
どんなにクッキーが美味しくっても、ハーレイが家に来てくれた時しか食べられないし!
「馬鹿だな、お前。サイオン、あるだろ」
そういう時にこそサイオンだってな、サイオンを使えば解決じゃないか。
「サイオン?」
ハーレイ、ぼくがサイオンを上手く使えないこと、知ってるくせに!
タイプ・ブルーだなんて名前だけだよ、とことん扱いが下手なんだよ…!
蓋なんかとても開けられない、と言い返したら。
出来るわけがない、と噛み付いたら。
「開けなくてもいいだろ、お前だったら」
蓋にこだわるから困るってだけだ、要はクッキーが食えりゃいいんだろうが。
瞬間移動で出せばいいのさ、とハーレイの指先がガラス瓶の表をピンと弾いた。
蓋を開けなくてもクッキーは出ると、前のお前なら一瞬だったと。
瓶の蓋はキッチリ閉められてしまい、クッキーたちは瓶の中。
割れたり欠けたり、一つとして同じ形をしてはいない表情豊かなクッキー。
ガラス瓶の中で笑いさざめくクッキーたち。
開けてごらんと、此処から取り出して食べてごらんと。
またハーレイに蓋をされてしまったガラス瓶。
もちろんその夜は開けられないまま、日曜日が来てハーレイに「開けて」と泣きついた。瓶から出て来たクッキーたちを二人でつまんで、また蓋をされた。
「しっかり閉めんと湿るからな」と、「食べ物は大事にしないとな?」と。
そのハーレイが「またな」と帰って行った後の夜、挑んだけれども開かない蓋。ブルーの力では開けられない蓋。
(ハーレイ、蓋にこだわるからだって言ったけど…!)
瞬間移動で出せるものなら苦労はしない。
それが出来るのなら、思念波だって自由自在に操れる筈で、他にも色々とサイオンで出来る。
前の自分がやっていたように、指さえ動かさずにこの部屋の模様替えだって…。
(うー…)
食べたいのに、とガラス瓶の向こうを睨み付けても、動いてくれさえしないクッキー。
瞬間移動で出て来るどころか、位置さえも変えてくれないクッキー。
(…シナモンも、隣のアーモンドも…)
チョコレートチップも、と思い浮かぶものは味ばかり。
美味しいクッキーの味は頭に蘇るけれど、それを口へと運ぶための技は出てこない。瞬間移動のコツもサイオンの力加減も、何一つ出ては来てくれなかった。
ガラス瓶を睨んで瞬間移動を試み、蓋を開けようとしては格闘して。
ブルーの努力は報われないまま、またハーレイが仕事帰りに訪ねて来た。週の半ばに。
悔しいけれども、瓶の中身を食べたかったらハーレイに頼むしかないものだから。
クローゼットの中から引っ張り出したら、ハーレイは瓶を見るなり大笑いした。
「減っていないな」と、「瞬間移動も無理だったか」と。
「お前、食い物の恨みとか言っていたから、その一念でやってのけるかと思ったが…」
出来なかったんだな、瞬間移動で出すというのも。一個も減ってはいないようだしな?
「そうだよ、だから開けてって言ってるじゃない!」
ハーレイが蓋を開けてくれないと、ぼくはクッキー、食べられないんだ。
これが食べたいな、って睨んでいたって、動いてさえもくれないんだもの…!
「分かった、分かった。開けてやるから」
どう固いんだか、この蓋の何処が…。このくらいに閉めておくのは基本だ、でないと湿るぞ。
徳用袋に入ったままで放っておいたクッキーみたいに、ほんの二日か三日ほどでな。
あれはいかん、とハーレイは瓶の蓋を軽く捻って開けた。
ブルーがどんなに頑張ってみても開かなかった蓋を、いとも簡単に片手でポンと。
手が届くようになったクッキーたち。それをハーレイと二人分、とお菓子の皿に移していたら。
「結局、今日もそのコースってか、お前にプレゼントしてやったクッキーなんだが…」
どうやら俺と二人で食うしか道が無いってな、これは。
お前が一人で楽しむようには出来ていないな、このクッキー。
「…そうみたい…」
ぼくの力じゃ開かないんだもの、ハーレイが蓋を閉めてくれたら。
瞬間移動もまるで駄目だし、ハーレイに頼んで開けて貰った時しか食べられないんだよ…。
「ふうむ…。そういうことなら、このクッキー」
諦めるんだな、徳用袋は。
お前がどんなに食べたくっても、向いていないということだ。
次にクッキーを土産に買うとしたらだ、お母さんたちにも充分渡せる綺麗なヤツだな、割れたりしてない箱入りのな。
あっちだったら個別包装になってるんだし、箱の蓋を開けて放っておいても湿らんしな。
徳用袋を買ってやるのはこれっきりだ、と言われたから。
ブルーは慌てて「待って!」と叫んだ。
「徳用袋のクッキーでなくちゃ駄目なんだよ! ぼくが欲しいの、これなんだから!」
ハーレイの家に行った気分で食べられるクッキーが欲しいんだってば、箱入りじゃなくて!
割れたり欠けたりしてるクッキー、そういうクッキーが欲しいんだよ!
瞬間移動で取り出せるように努力するからまた買って、と強請ったけれど。
出来るものか、とハーレイは笑うし、事実、出来ないのがブルーだから。
どう頑張っても出来そうにないのが現実だから。
「…徳用袋が欲しいのに…」
このクッキーがとても気に入ってるのに、これっきり買ってくれないの…?
これでおしまいなの、ねえ、ハーレイ…?
「うむ。諦めるんだな、こいつはお前向きじゃない」
だからだ、当分お預けだってな。安心しろ、いつかは食える筈だぞ、俺の家でな。
お前が客として訪ねて来る時のことを言ってるんじゃないぞ?
結婚して、俺の嫁さんになって。
家に来たガキどもに俺と一緒に「どうぞ」と御馳走出来る時が来たなら、たっぷり食えるさ。
「えーっ!」
そんなに先まで駄目なの、ハーレイ?
徳用袋のクッキーは結婚するまで食べられるチャンスは無さそうなの…?
「当たり前だろ、お前が俺の家に客としてやって来たなら、だ…」
徳用袋の割れたクッキーなんかを出したら、親父やおふくろに酷く叱られちまう。
それがお客さんに向かってすることなのかと、割れたクッキーとは何事だ、とな。
徳用袋のクッキーは結婚するまで駄目だ、と諦めさせられたけれど。
瓶に残ったクッキーたちを食べてしまえば、次のチャンスは何年も先になりそうだけれど。
それでもハーレイも実の所はブルーに甘くて優しいから。
(上手く頼めば、また買って来てくれるかもしれないし…)
諦めないでしっかり覚えておこう、とブルーはクッキーが入った瓶を見詰めた。
割れたり欠けたり、箱に並べて店に出すにはみっともなさすぎたクッキーたちの群れ。
けれども、それらに心惹かれる。
よそゆきの顔をしたクッキーたちより、普段着の顔のクッキーたち。
(ハーレイの家に遊びに行ったら、普通はこっちが出て来るんだしね…?)
だからこそ値打ちのあるクッキー。
ハーレイの家に行った気分に、ハーレイに招かれた気分にしてくれる素敵なクッキー。
(それにハーレイと二人で食べたし、これが無くなるまでは二人で食べるんだし…)
ハーレイに瓶を開けて貰って、二人で仲良く食べたクッキー。
瓶が空っぽになってしまうまで、二人で食べるのだろうクッキー。
こんなオマケまでついてしまったクッキーたちと一度限りでお別れだなんて、とんでもない。
何かのタイミングで思い出したら、徳用袋を強請ってみよう。
あれが欲しいと、あのクッキーが食べたいのだと。
ハーレイの家でしか味わえないという、割れたり欠けたりしたクッキー。
お行儀の悪いクッキーだけれど、あれをもう一度食べてみたいから買って来て、と…。
クッキー・了
※ブルーが欲しくてたまらなくなった、徳用袋に入ったクッキー。手に入ったのに…。
自分の力では開けられない瓶。ハーレイが来ないと食べられないなんて、失敗でしたね。
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(ふうむ…)
久しぶりに、とハーレイはコーヒーを淹れながら考えた。
ブルーの家に寄れずに帰って来たから、食後の時間はたっぷりとある。こんな夜には…。
長らくやらなかったカフェ・ロワイヤル。
小さなブルーと再会してからは、多分、一度も。
ブランデーに浸した角砂糖に火を点け、溶けた砂糖を入れて飲むコーヒー。目で、舌で楽しめる洒落た飲み物。ゆっくりコーヒーを飲みたい時にはピッタリなのだが…。
(暖かかったからな)
五月の三日にブルーと出会った。前の自分の記憶も戻った。
それから季節は初夏へ、夏へと移り変わって、暖かいどころか暑すぎたほど。そういう季節には思い出さない、飲みたい気分にならない飲み物、カフェ・ロワイヤル。
けれども、今の季節には合う。秋の夜長によく似合う。これから訪れる寒い冬にも。
熱いコーヒーも悪くないのだが、ひと手間かけて楽しみたいならカフェ・ロワイヤル。
(豪快にやるのが俺流なんだ)
専用のスプーンを置いているような店で出される、お洒落なソーサーつきのカップも来客用にと揃えてはある。しかし、それよりマグカップ。愛用の大きなマグカップがいい。
(寛いで飲むなら普段のカップがいいってな!)
此処は自分の家なのだから。好きな時間にコーヒーが飲める場所なのだから。
カフェ・ロワイヤル用のスプーンも要らない。
マグカップの上に渡して置いてもバランスを崩さない、大きめのスプーンがあればいい。
何度も家で作っているから、どのスプーンが一番使いやすいかも分かっているし…。
(うん、こいつだな)
銀色のスプーンを一本取り出し、コーヒーを満たしたマグカップと一緒にトレイに載せた。
それに角砂糖と、小さな器にブランデーを少し。
(後は、と…)
カフェ・ロワイヤルにはこれだ、とトレイにそれを載せたら出発だ。
リビングもいいが、やっぱり書斎。あそこの机がいいだろう。小さなブルーにプレゼントされた羽根ペンが置かれている机。ブルーと二人で写した写真も飾ってある机。
其処が落ち着く、とトレイを手にして歩いて行った。
この秋、初めてのカフェ・ロワイヤル。それを飲むならあの部屋がいいと。
書斎に運んだマグカップ。それを机に置き、明かりを落とした。足元を照らす常夜灯だけ。
カップの上にスプーンを渡して、角砂糖を一個、スプーンに載せて。
その角砂糖の上からブランデーをそうっと注いでやる。スプーンが一杯になるだけの量を。
(ボトルから直接っていうのは駄目なんだよなあ…)
最初の頃はそれで失敗したものだ。どうしてもついてしまう勢い、スプーンが傾いて落っこちてしまう角砂糖。カフェ・ロワイヤルにはなってくれずに、ただのブランデー入りのコーヒー。
失敗を重ねて、諦めた。この部分だけは自分流では無理なようだと、店で供される時の淹れ方に倣ってやるしかないと。ブランデーを小さな器に移して、そこから静かに注ぐべきだと。
(何回、失敗したんだか…)
スプーンごとコーヒーに落下して行った角砂糖は幾つあったのか。
今ではすっかり慣れたものだし、そんな失敗も過去の笑い話になったけれども。
角砂糖とブランデーを載せたスプーンは、マグカップの上で平衡を保っているけれど…。
準備が出来たら、ライターの出番。
煙草の類はやらないけれども、家には常に置いている。蝋燭などに火を灯したいならライターが無くては話にならない。今の時代でも、火を点けるためのライターはあった。
(…こいつはマッチじゃいけないんだ)
今でもマッチはあるけれど。
箱で擦れば火が点くマッチはレトロなアイテムとして人気だったし、自分も持っているけれど。
(その辺りは前の俺と似てるな)
わざわざマッチを買いたがるというレトロ趣味。
前の自分が木で出来た机や羽根ペンを好んだのとよく似ている、と頬が緩んだ。
カフェ・ロワイヤルにもマッチが似合うと素人は思うだろうけれど。
暗くした部屋で角砂糖に火を点けるのだったら、そういった道具が似合いそうだと考えがちではあるのだけれど。
(そいつは絶対、厳禁だってな)
カフェ・ロワイヤルにはマッチは合わない。
マッチの匂いが角砂糖に移ってしまうから。せっかくの風味を台無しにしてしまうから。
ライターの火を角砂糖に近付け、火を点けて。
そこから上がった青い炎に息を飲んだ。
(ブルー…!)
前のブルーのサイオン・カラー。
それを思わせる炎が揺れる。ブランデーが燃える青い炎が、角砂糖を包んだ青い炎が。
(前のあいつだ…)
ブルーの色だ、と青い炎に魅せられた。
暗い宇宙を駆けてゆく時、ブルーの身体を包んでいた色。青く輝くサイオンの光。
その青を纏っていたブルー。前の自分が愛したブルー。
小さなブルーは愛らしいけれど、前のブルーは気高く、そして美しかった。
誰よりも愛したソルジャー・ブルー。メギドで逝ってしまったブルー…。
炎が消えて、我に返って。
溶けた角砂糖をコーヒーに入れて、部屋の明かりを点けた所でふと考えた。
(あいつと飲めば良かったなあ…)
青い炎を上げるカフェ・ロワイヤルを、前のブルーと。
机の引き出しの中、日記を上掛けに被せてやっている写真集の表紙に刷られたブルーと。
『追憶』というタイトルがついたソルジャー・ブルーの写真集。表紙には青い地球を背景にした前のブルーの写真があった。
正面を向いた、一番有名なブルーの写真が。悲しみと憂いを秘めた瞳のブルーの写真が。
その写真集を出して、一緒にカフェ・ロワイヤルを楽しめば良かった、前のブルーと。あの青い炎を、前のブルーのサイオン・カラーを思わせる色を。
失敗だったな、と思ったけれど。
(いや、あいつは…)
コーヒーも酒も駄目だったな、と苦笑した。
どちらも苦手で好まなかったソルジャー・ブルー。
カフェ・ロワイヤルなどを飲めと言っても、きっと喜ばないだろう。顔を顰めるだけだろう。
こんな飲み物はとても飲めないと、コーヒーと酒を合わせたものなど、と。
(あいつは飲みやしないよなあ…)
嫌そうな顔が見えるようだ、と前のブルーを思い浮かべてみたのだけれど。
これを見たならどんな顔をするのだろうか、と遠い記憶の中のブルーの、それらしい表情を探し求めようとしたのだけれど。
(そうだ、あいつが点けてくれたんだ)
不意に蘇って来た記憶。思い出しさえしなかった記憶。
前の生で飲んだカフェ・ロワイヤル。
それを飲む時、前のブルーが角砂糖に火を点けてくれていた。いつも、いつも、いつも。
最初はただの友達として。
面白そうなことをしているから、とカフェ・ロワイヤルを飲む時は、いつも。
遥か時の彼方、白いシャングリラで暮らしていた頃。
青の間で好奇心一杯で尋ねたブルー。
「ハーレイ、何を始めるんだい?」
コーヒーだってことは分かるんだけどね、ブランデーだのライターだのって…。
ブランデーはともかく、コーヒーを飲むのにライターなんかが要るのかい?
「そのようです。こういう飲み方を見付けまして…」
カフェ・ロワイヤルと呼ぶそうです。
面白そうな飲み方ですから、あなたにもお見せしようかと…。まだ試してはいないのですが。
「ふうん…?」
ぼくの分までは作らなくていいよ、コーヒーは好きじゃないからね。
だけど見学させて貰うよ、カフェ・ロワイヤルとかいうものを。
ブリッジでの勤務が終わった後のティータイム。
ソルジャーだったブルーに一日の報告を済ませ、青の間で二人でお茶を飲むのが常だった。
ブルーは紅茶で、自分もそれに付き合ったけれど、たまにはコーヒー。
そんな日々の中、データベースで見付け出して来たカフェ・ロワイヤル。同じ試すならブルーの前で、とブランデーとライターを用意して行った。
シャングリラにコーヒーの木は無かったから、代用品のキャロブのコーヒー。ブランデーも合成だったけれども、カフェ・ロワイヤルは作れる筈だと、それをブルーと二人で見ようと。
ソーサーつきのカップにコーヒーを淹れて、カップの上にスプーンをそうっと渡した。その上に角砂糖を一つだけ載せ、小瓶に入れて来たブランデーを注ぐ。スプーンの縁まで、ひたひたに。
青の間の照明は元々強くはなかったけれども、更に落として、それからライター。
角砂糖に火を灯した途端に、上がった炎。青の間の光でも青と分かる炎。
「へえ…!」
これは凄いね、角砂糖に火が点くなんて。
「綺麗な火ですね、ここまでとは…」
百聞は一見に如かずと言いますが、こんなに美しい火だとは思いませんでした。
もっと赤いかと、炎らしい色かと思ったのですが…。
角砂糖を包み込んで揺れていた、青かった炎。
ぼくの色だ、とブルーが笑った。
ぼくのサイオン・カラーとまるで同じだと、角砂糖がタイプ・ブルーになったと。
炎が消えた後、溶けて崩れた角砂糖を落としてかき混ぜて出来たカフェ・ロワイヤル。ブルーは味見だと飲みたがったものの、やはり一口で音を上げた。
「見た目は綺麗だったんだけど…。味はやっぱりコーヒーだよ」
おまけにブランデーの味までするし…。いつものコーヒーよりも倍は酷いね、この味はね。
「そうでしょうか?」
私には味わい深いのですが…。コーヒーも酒も好きですからね。
「君の好みは理解しかねるよ、こと飲み物についてはね」
なんだってコーヒーなんかがいいのか、お酒なんかが好きなのか…。
ぼくには全く理解出来ないし、分かりたいとも思わないね。
でも…。
次からはぼくが点けてあげるよ、とブルーは笑顔で言った。
この飲み物は苦手で飲めないけれども、君が気に入ったと言うのなら、と。
「それに見た目は悪くないからね、カフェ・ロワイヤル」
ぼくのサイオン・カラーと同じ色だし、角砂糖が燃えるというのも面白いし…。
君が準備をするんだったら、次からはぼくが手伝うよ。
もうライターは用意しなくていいからね。
持って来なくてもいい、と笑みを浮かべたブルー。
そしてサイオンで火を点けてくれた。
カフェ・ロワイヤルの用意をする度に、指先一つで。角砂糖をスッと指差すだけで。
自分は決して飲まなかったけれど。
苦くて酒の味までするから嫌だと、この趣味は理解出来ないと。
けれど、恋人同士になって暫く経った頃。
身も心も結ばれ、二人きりで過ごす時には手袋をはめなくなったブルーの手に、ライター。
カフェ・ロワイヤルの用意をしていた間に、何処からか取り出したらしいライター。
ブルーならば瞬間移動で簡単に持って来られるとは思うけれども。
「それで点けるのですか?」
サイオンではなく、と訊いてみれば。
「ひと手間かけたいと思うじゃないか」
恋人のために、と返った答え。
指先一つで点けていたのでは有難味が無いと、ここはライターを使うべきだと。
「あなたのサイオンでも同じですよ」
サイオンを使って頂くのですから、同じことです。
ライターよりも簡単だなどと、手間を惜しんでサイオンなのだと私は思いはしませんが…。
「でも、やってみたい」
君のためだからね、ライターの力を借りてみたいよ。
ぼくの手を使って操作しないと、ライターでは火は点かないんだしね。
そうは言ったものの、ブルーは普段にライターを使いはしないから。
火を点けたことなど無いに等しいから、おっかなびっくり、点けていたブルー。
角砂糖に火が点いて炎が上がると、文字通り後ろに飛び退いた。
手が焦げるとでも思ったのだろうか、その目は丸く見開かれていて、こう言ったものだ。
やはりサイオンの方が楽だと、ライターで点けるのは少し怖いと。
「怖いだなどと…。ライターが怖いと仰るのですか?」
それとも燃え上がった火の方でしょうか、ほんの小さな炎ですよ?
蝋燭の炎とさほど変わらないと思うのですが…。
もっと大きな炎であっても、あなたの身体を傷つけることなど出来ないでしょうに。
「うん。ぼくなら火傷はしないんだけどね」
アルタミラでも散々に実験されたし、あそこから逃げる時にも炎をくぐって走っていたし…。
今だってアルテメシアに降りる時には、炎を隠れ蓑にしたりもするよ?
でも…、と手袋をはめていない白い右手に左手で触れていたブルー。
手袋が無いと少し怖いと、怖いような気がするのだと。
ソルジャーの衣装は炎や爆風からブルーの身体を保護するように出来ていたから、そう思うのも無理は無いだろう。手袋など無くとも大丈夫なのに、無いと頼りなく思えるのだろう。
真空の宇宙を生身で駆けてゆける力を持っているのに、手袋などよりブルー自身が持つ防御力の方がずっと上なのに。
けれども、手袋が無いことを怖がるブルー。それはブルーが守られたいと思っている証。
ソルジャーとして守る立場に立ち続けて来たブルーだけれども、ブルーも同じ人間だから。弱い部分も持っているのだから、守りたい。守ってやりたい。
だから、その手の甲に口付けた。恭しく。
「なんだい、ハーレイ?」
急に芝居がかったことをして…。これは何かの悪戯かい?
「火を点けて下さった御礼ですよ」
サイオンではなくて、ライターで。
怖い思いをなさったのでしょう、そこまでのことをして下さった御礼をさせて頂きました。勇気溢れる、あなたの右手に。
「ぼくの右手に…?」
君が御礼を言ってくれるんだ、ぼくは火を点けただけなのに。
サイオンじゃなくてライターだったし、火を点けたのはライターなんだけれどね…?
手の甲への口付けが本当に嬉しかったのだろう。
それからもカフェ・ロワイヤルの用意をする度、怖いと言いつつライターで点けていたブルー。
火が上がると慌てて逃げていたけれど、サイオンはたまにしか使わなかった。
ひと手間かけたいと、君のためにとライターにこだわっていたブルー。
カフェ・ロワイヤルは飲まなかったけれど。
苦くて酒の味もするからと、味見さえも滅多にしなかったけれど。
(今のあいつなら…)
小さなブルーなら、どうなるのだろう?
前と同じにコーヒーが苦手な小さなブルー。酒が飲める年でもないブルー。
(しかしだ、思い出したなら…)
またライターを持ち出すのだろうか、そして怖いと騒ぐのだろうか?
悪戯心が頭を擡げる。
明日は土曜日だから、やってみようか、ブルーの家で?
前のブルーが火を点けてくれたカフェ・ロワイヤルを、小さなブルーの目の前で。
次の日、午前中からブルーの家に出掛けて、ブルーと二人でのんびり過ごして。
両親も交えての夕食の後で、ブルーの母に頼んだコーヒー。小さなブルーはコーヒーが駄目だと分かっているから、自分の分だけ。
カフェ・ロワイヤルをして見せたいので、用意をお願い出来ますか、と。
ソルジャー・ブルーとの思い出です、と、シャングリラでもやっていたのです、と。
(嘘をついてはいないしな?)
そう、全くの嘘ではない。
前のブルーと友達同士であった頃から、カフェ・ロワイヤルを飲んでいたのだから。
火を点ける道具が途中で変わってしまっただけで。
前の自分とブルーとの仲が、恋人同士に変わっただけで…。
夕食を食べたダイニングから二階のブルーの部屋に戻って、待っている間に用意が出来て。
ブルーの母がトレイにコーヒーの入ったカップと、紅茶のカップとを載せて来た。
ソーサーつきのコーヒーカップの隣に置かれたブランデー入りの器や、大きめのスプーン。
それらを並べた母が「ごゆっくりどうぞ」と出て行った後で、ブルーが紅茶を前にして訊いた。
「カフェ・ロワイヤルって、何?」
コーヒーだろうけど、何か特別なコーヒーなの?
「忘れちまったか?」
前のお前は何度も見ていた筈だがなあ…。俺が飲むのを。
手伝ってもくれていたんだけれどな、お前は覚えていないかもなあ…。
カップの上にスプーンを渡して、角砂糖を載せて。
ブランデーを注いで準備する間に、どうやらブルーは思い出したらしく。
部屋の明かりを消して常夜灯だけになった途端に、サッとライターを手に取った。
「ぼくが点けるよ」
点けてあげるよ、前のぼくがいつも点けていたでしょ?
ハーレイがカフェ・ロワイヤルを飲みたい時には、いつだって、ぼくが。
「怖いくせに」
火が点いた途端に逃げていたくせに、チビのお前に点けられるのか?
前のお前でも怖がったんだぞ、もっとデカイ火でも軽くシールド出来たくせにな。
「それは覚えているけれど…。でも…」
ライターで点けるの、ぼくだったよ。前のぼくもライターで点けてたってば、怖くっても。
ぼくの係、と譲らなかったブルーだけれど。
ブランデーが染み込んだ角砂糖にライターで火を点けたけれども。
「火…!」
悲鳴にも似た声が上がって、引っ込められた小さな手。
「ほら見ろ、やっぱり…」
怖いんだろうが、そいつは一気に燃え上がるからな。アルコールだけに早いんだ。
しかし角砂糖に火は点いた。
コーヒーカップの上で青い炎が揺らめいている。角砂糖を包んで溶かしながら。
「綺麗な青だね…」
ちょっとビックリしちゃったけれども、とっても綺麗。
「お前の色さ」
前のお前のサイオン・カラーはこいつに似ていた。お前も自分の色だと言ったぞ、この色がな。
「そうだけど…。そう言ったけれど…」
今のぼくには出せない色だよ、サイオンが上手く使えないから。
こんなに綺麗な青が見えるほどの、強いサイオンは出せないみたい…。
「そうらしいな?」
飛べないどころか、思念波も上手く使えないレベルと来たもんだ。
前のお前と全く同じなタイプ・ブルーに生まれたくせにな。
火が消えて、明かりをもう一度点けて。
崩れた角砂糖をコーヒーに溶かし込んでいたら、ブルーが呟く。
「あれがぼくの色…」
青い火の色とおんなじ色…。
「そうさ。多分、今のお前には出せない色がだな」
頑張ってみても、前のお前と同じってわけには行きそうにないし…。
しかしだ、今度のお前はそれでいいんだ。守らなければならないものなど無いんだからな。
俺が何度も言っているだろ、今度は俺がお前を守るんだ、って。
「うん…」
それはとっても嬉しいけれども、ハーレイに守って欲しいけど…。
でも、とブルーはカフェ・ロワイヤルが入ったコーヒーカップを見詰めた。
サイオンで点火は無理だけれども、今度も点けてあげたいと。
ハーレイがカフェ・ロワイヤルを作る時には、ライターで自分が火を点けるのだと。
今日もなんとか点けられたのだし、これからだって、と。
「ハーレイのために点けてあげたいよ」
だって恋人なんだから、と差し出された手。小さな白い手。
キスが欲しいと、この手の甲にと。
いつもハーレイはキスをくれたと、前の自分がライターで火を点けた時にはいつも、と。
「そこまで思い出しちまったのか…!」
ライターで点けたってトコまでじゃなくて、そんなのも思い出したのか…!
「うん、思い出した。ちゃんとライターで火を点けてあげたよ」
だからちょうだい、ハーレイのキス。
手の甲だったら唇じゃないし、貰えそうだと思うんだけど…。駄目…?
「なんだってチビの手の甲なんぞに俺がキスしないといかんのだ!」
お前へのキスは頬と額だけだ、何度もそう言った筈だがな?
手の甲は頬でも額でもないし、当然、駄目だと決まってるってな。
「ハーレイのケチ…!」
ぼくは頑張って火を点けてたのに、ハーレイ、御褒美くれないんだ?
チビだって言うだけで御褒美も無しで、ハーレイだけ美味しくカフェ・ロワイヤルを飲むって、あんまりじゃない…!
「知らんな、お前が勝手にやったんだしな」
どうしても御褒美を寄越せと言うなら、味見させてやるが。
美味いぞ、お前が火を点けてくれたカフェ・ロワイヤル。飲むんだったら分けてやるがな?
「そんな御褒美、要らないよ!」
前のぼくだって苦手だった飲み物、ぼくが飲めるわけないじゃない!
酷いよ、ハーレイ、チビだと思って馬鹿にして…!
小さなブルーは膨れたけれども、放っておいた。
手の甲に恭しくキスを贈るにはまだ早すぎる、小さなブルー。十四歳にしかならないブルー。
素知らぬふりをしてカフェ・ロワイヤルのカップを傾けていたら、赤い瞳に見詰められて。
いつかハーレイと結婚したら、とブルーが強請る。
ライターで火を点けてみていいかと、キスをくれるかと。
「ハーレイがカフェ・ロワイヤルの準備をしてたら、火を点けていい?」
ちゃんとライターで火を点けてあげるから、手の甲にキスをしてくれる…?
「結婚した後なら、別にかまわないが…」
キスは駄目だと止める理由も無いからな。
火を点けてくれるというのも大いに有難いがだ、そいつは俺からキスを貰うためか?
手の甲にキスを貰いたいから、お前が火を点けにやって来るのか…?
「ううん、そういうつもりじゃないよ」
もちろんキスは欲しいけど…。
今のぼくはサイオンでは火を点けられないから、どうしてもライターになっちゃうんだよ。
ちょっと火傷が怖いけれども、頑張ればきっと上手になるよ。
逃げなくっても、慌てなくっても、角砂糖に火を点けられるようになってみせるよ。
そうなれるように練習するよ、と微笑まれた。
ハーレイのために、と。
「だって、ハーレイのためなんだもの。前のぼくだってそう言っていたよ」
ひと手間かけたいって、恋人のためだからそうするんだ、って。
サイオンで一瞬で点けていたのを、ライターに切り替えて頑張ってたもの、前のぼくだって。
「うーむ…。お前が練習なあ…」
どうしてもやりたいと言うんだったら、止めはしないが。
キスだってきちんと贈ってやるがだ、気を付けて練習してくれよ?
お前は前のお前と違って、小さな火だって避けられそうにないんだからな。
強大な防御能力を持っていながら、手袋が無いと火を怖がっていたソルジャー・ブルー。
前の自分と二人きりの時だけ、手袋を外していたブルー。
けれども今のブルーは手袋などははめていなくて、今も小さな白い手が見える。
いつかは前と同じに華奢で細い指の、それは美しい手になるのだろうけれど。
今はまだ幼さが残る子供の手。十四歳の子供に似合いの手。
この手が大きく育ったところで、サイオンの扱いが上達するとは思えない。前のブルーと同じになるとは思えない。
ライターを持って火を点ける時に、失敗したなら火傷しそうな手なのだけれど。
角砂糖と一緒に炙られてしまって「熱い!」と大騒ぎしそうだけれど。
(…そいつもいいかな)
何度か失敗をやってしまって、痛い目に遭ってもブルーは懲りはしないだろう。
頑固な所は前のブルーと変わらないから。こうと決めたら、きっと譲りはしないだろうから。
おっかなびっくり、ライターで火を点けてくれるブルー。
カフェ・ロワイヤルは飲まないくせに。
苦い上に酒の味までがすると、自分は決して飲まないくせに。
(それでも、きっとこいつなら…)
目の前で瞳を輝かせている小さなブルー。
ハーレイのために練習するのだと、ライターを持って頑張るのだと決意しているブルーならば、きっと本当に点けてくれるだろう。
カフェ・ロワイヤルを飲もうと準備する度に、火傷しながらでも角砂糖に火を。
自分は飲めないと、それは苦手だと、言いつつも味見するのだろう。
(でもって、苦いと文句を言うんだ)
自分には理解出来ない趣味だと、とんでもない味の飲み物だと。
(そうなった時は、口直しをさせてやらんとな…?)
ブルーが好きそうな甘いもの。
角砂糖でもいいし、キャンディーでもいい。それを口へと落とし込んでやって、ブルーの口から苦さが消えるのを待ってやる。
カフェ・ロワイヤルを味わいながら、ブルーを見守り、待っていてやる。
そうして、笑顔が戻ったならば。
もう苦くないと笑みが戻って来たなら、顎を捉えて、キスを交わして。
甘い甘い二人きりの夜が始まる。
カフェ・ロワイヤルの苦味など欠片も残らない、甘い甘い夜が。
そんな夜を二人で、何度も、何度も。
青い地球の上で、いつまでも二人、何処までも共に。
今度こそ二人離れることなく、何度も何度もカフェ・ロワイヤルの角砂糖に火を灯しながら…。
角砂糖の火・了
※前のブルーが、火を怖がりながらも使っていたライター。ハーレイのためにと。
生まれ変わったブルーも頑張りましたが、ご褒美のキスは未来にお預けらしいです。
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「いたっ…!」
週末、ブルーの部屋でのお茶の時間の真っ最中。向かい側に座ったブルーが上げた小さな悲鳴。
右目を擦ろうとしているから。
「どうした?」
右目、どうかしたのか、痛いのか?
「…何か入ってしまったみたい…」
チクチクして変な感じだよ。さっきほど痛くはないけれど…。
「見せてみろ」
椅子から立って、ブルーの隣に行った。屈み込んで小さな顔を覗き込む。
宝石のように赤い右目の瞼を指でそうっと押さえ、日の光で見ると、銀色の睫毛。
細い睫毛が白目の部分に貼り付いていた。たった一本、細い細い銀色の睫毛だけれど。
(こいつは痛いな…)
経験があるから痛さは分かる。
睫毛にチクリと刺された瞳が痛くなることも、その後に訪れる不快感も。
「…何だった?」
指を離せば、ブルーの瞳が見上げて来るから。
「睫毛だ。俺が取ってやってもいいんだが…。俺の指ときたら、この太さだし…」
お前の目にはデカすぎだってな、指のサイズが。
サイオンで取ってやるにしたって、力加減がどうだかなあ…。
指もサイオンも加減するのが難しそうだ、とハーレイは苦笑してみせた。
自分の目ならば何とでも出来るがブルーの目では、と。
「いいよ、ちょっぴり痛くったって」
ハーレイが取ってくれるんだったら、取れた後には痛くないしね。
「それはそうだが、ウッカリ傷でも出来ちまったら…」
目の傷ってヤツは侮れないんだぞ、目に見えないような傷がうんと尾を引くこともある。
しかも自分じゃ気付かない内に悪化するしな、痛いと自分で気付く頃には酷くなってて、病院に何度も通う羽目になったりするもんだ。
毎日、毎日、目薬を差して、傷が治ったか診て貰って…。
厄介なことになりたくなければ、そいつは自分で取るべきだな。
「ぼくがやっても同じことだと思うけど…」
サイオンは無理だし、自分の指で取るしかないよ?
ティッシュで取るのは難しいんだもの、無駄に擦ってしまうだけで。
「そのまま大きく目を開けておけ」
「えっ?」
「知らないのか、こういった時には王道だろうが」
目玉をグッと見開いておくんだ、そうすりゃ涙が出て来るからな。
瞬きが出来ないと自然と涙が流れるもんだ。そいつで目に入ったゴミや睫毛を洗い流す、と。
騙されたと思って頑張ってみろ。いいか、瞬きするんじゃないぞ。
瞬きをしたら涙は出ない、とブルーに教えてやったのに。
小さなブルーは我慢出来ずにパチパチ瞬きしてしまうから、一向に流れ出さない涙。
それでは睫毛が流れてくれる筈もないから、「指で押さえろ」と指導した。
「目の上と下とを指で押さえてやるんだ、親指と人差し指でグイッと広げてやれ」
瞬きなんかが出来ないようにな、目玉をしっかり出してやるんだ。
「ハーレイ、やってよ」
押さえといてよ、ぼくが瞬き出来ないように。
「なんで俺が!」
確かに力の加減は要らんが、どうしてそこまで面倒を見ることになるんだ、うん?
幼稚園に行ってるようなガキじゃあるまいし、自分でやれ。
「うー…」
ハーレイにやって欲しかったんだよ、甘えてみたくなるじゃない!
目の中に睫毛が入ったんだよ、痛いんだよ?
「知らんな、たかが睫毛だろうが」
風でゴミでも入ったんなら、俺ももう少し慎重になるが…。
刺さっちまったかと心配もするが、睫毛と分かれば慌てることもないってな。
自分の面倒は自分で見ろ。チビと言われたくなければな。
「ハーレイのケチ!」
いつだってチビって言ってるくせに!
こんな時だけ一人前に扱うだなんて、ホントのホントにケチなんだから…!
膨れっ面になったブルーだけれども、言われた通りに自分の指で右目を開いて押さえながら。
「…変な顔じゃない?」
ぼくの顔、変になってないかな、右目だけグッと開けちゃってるから。
「それはまあ…な。変でない筈がないってな」
けっこう笑える顔だぞ、お前。顔の作りが台無しってトコだ。
「酷い!」
ハーレイがやらせているくせに!
自分でやれって言ったのハーレイのくせに、笑える顔だなんて酷すぎだってば!
「俺がやっても同じことだと思うがな?」
片方の目だけがデカイわけだし、傍から見てれば変な顔にしか見えないぞ。
文句を言わずに我慢していろ、ちゃんと涙が出て来るまでな。
やがて流れてきた涙。
赤い瞳からポロリと零れて、幾粒も頬を伝って落ちて。
「…ハーレイ、取れた?」
これだけ涙が出たら睫毛も一緒に流れちゃったかな、目の外に?
「もう痛くないか?」
「うん、多分…」
ブルーが指を外して右目を何度か瞬かせてみる。どうやら睫毛は取れたようだけども。
「流れ落ちる前に瞬きしてたら、奥の方に入っちまうってこともあるしな」
下の瞼の縁に入れば痛まないから、後で出て来てまたチクチクとしたりするぞ。
そいつも困るし、見ておくか。
ついでに拭くか、とハンカチを出した。
普段使いの白いハンカチ、それをズボンのポケットから。
ブルーの顔を濡らした涙を拭って、右目を調べて。
大丈夫だな、と頷いた。
「よし、取れた。睫毛は何処にも見当たらないから、流れたんだな、涙と一緒に」
それに涙も普通の涙だ、何も心配ないってな。
「普通って?」
涙は涙だよ、普通って、なに?
「血じゃないってことだ」
「ああ、右目…」
そういえば最初は血だったっけね、ハーレイが見たぼくの右目の涙。
聖痕で流した血の涙だから、ハーレイ、ビックリしちゃっただろうね…。
記憶が戻る前も、戻った後も。
ぼくの右目はどうなったんだ、って。
でも、とブルーは笑みを浮かべた。
そんなことより、と。血の涙よりも、と。
「…どうかしたか?」
「久しぶりだな、って」
ホントに久しぶりなんだよ。こうして見るのは。
「何がだ?」
「ハーレイのハンカチ」
「ハンカチ?」
このハンカチがどうかしたのか、いつもポケットに入れているがな?
スーツの時にはズボンじゃなくって、上着のポケットにも入れたりするが…。
「そうじゃなくって…。持っていたでしょ、前のハーレイ」
ハンカチを上着のポケットに入れて、いつでも持っていたじゃない。
「あれか…。あれなら確かに久しぶりだろうな、お前、長いこと寝ちまってたしな」
アルテメシアから逃げ出した直後に眠っちまって、十五年か…。
目が覚めたらナスカの騒ぎの真っ最中だったし、お前はメギドに行っちまったし…。
俺のハンカチには出会わず終いで飛んじまったなあ、メギドにな。
「前のハーレイが持ってたハンカチ、白かったけど…」
今のも白いね、白いハンカチだね。
だから思ったのかな、久しぶりだって。これはハーレイのハンカチなんだ、って。
見せて、とブルーは元の椅子に戻ったハーレイの方へと手を伸ばした。
ハンカチを見せてと、よく見たいからと。
そうして強請って、渡してやったハンカチを両手で広げてみて。
「名前、書いてないよ?」
何処にもハーレイって書いてないけど、このハンカチ。
「おいおい、子供じゃあるまいし…」
名前なんかを書くわけないだろ、俺みたいなデカイ大人がな。
お前だって書いてはいないだろうが、持ち物全部に自分の名前。ノートとかには書いてあってもハンカチにまでは書かないだろう?
「そうだけど…。ぼくもハンカチには書いてないけど…」
でも、イニシャルの刺繍とかは?
大人の人だってイニシャルを入れていることはある筈だけど…。
「そんな上等のじゃないからな」
イニシャル入れのサービスがあるほど高いハンカチは買ってない。ハンカチは使えれば充分だ。高級品なんかを選ばなくても、普通の白のでいいってな。
「前のハーレイのには、ついていたのに…」
「あれはイニシャルではなくてだな…!」
もっと偉そうなハンカチだった、と苦笑いした。
イニシャルの代わりに紋章入りのハンカチだったと、紋章の刺繍が入っていたと。
「そうだよ、ミュウの紋章だったよ」
前のハーレイのハンカチの刺繍、ミュウの紋章だったよね…?
白いシャングリラの船体にも描かれていた紋章。
フェニックスの羽根を表す金色の中に、前のブルーの瞳の赤。ミュウにとってのお守りの赤。
それは本来、ソルジャーだったブルーの持ち物にだけ入る紋章。
なのに…。
「お前が入れさせたんだろうが!」
あの紋章を俺のハンカチに!
お前専用の紋章の筈が、俺のハンカチに刺繍させやがって!
「だって…。ぼくばかりだと恥ずかしいじゃない」
ぼくの持ち物だけが紋章入りだなんて、ぼくはそんなに偉くはないのに…。
そう言ってるのに、食器にまで紋章を入れられちゃって、ソルジャー専用にされちゃって。
仲間たちと食事会を開く度にエラが説明するんだ、ぼく専用の食器なんだ、って。
お蔭で来た人はカチンコチンで、どうにもこうにもならないから…。
ハーレイにいつも頼んでいたでしょ、ちょっと空気を和ませてくれ、って。
「やらされてたなあ、わざと失敗するんだったな」
切った肉が皿から飛んで行くとか、そういったヤツを。
しかしだ、お前専用の紋章が恥ずかしいからと、俺まで巻き込まなくてもなあ…?
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーの食器。
今の時代も復刻版が出ている食器は全て紋章入りだった。
食器もそうだし、青の間にあったベッドの枠にも紋章が刻み込まれていた。
あちこちに鏤められた紋章。ソルジャーだけが使える紋章。
それをブルーは恥ずかしがって、ある日とうとう、こう言い出した。
「ハーレイ、紋章のことなんだけど…。君の持ち物にも入れるべきだよ」
ぼくだけじゃなくて、君が使う物にもミュウの紋章。そうするのがいいと思うけれどね?
「何故です?」
あれはソルジャーでらっしゃるからこそ、入れると決まった紋章ですが?
皆を導く立場におられるソルジャーだからこそ、あの紋章をお使いになれるわけですし…。
それを私の持ち物に入れるなど、変ではないかと思うのですが。
「おかしくはないよ、ハーレイには入れる権利があるよ」
このシャングリラのキャプテンじゃないか、君がいないとシャングリラは前に進めない。
ソルジャーの次に偉いと思うよ、キャプテンはね。
だからあの紋章を入れてもかまわないと思うんだけどな、君の持ち物に。
「いいえ、キャプテンはただのキャプテンです」
慣れれば誰でも出来る仕事です、ソルジャーとは全く違います。
それに居場所はブリッジですから、と逃げを打った。
キャプテンの私室は青の間のように広くもないし、紋章を入れるような立派な家具は無いと。
食事会にしてもキャプテン主催のものなどは無いし、専用の食器も必要無いと。
けれどブルーは諦めなかったらしく。
紋章の話をしていたことなど忘れ果てた頃に、青の間で二人でお茶を飲んでいたら。
「ハーレイ、この前に話した紋章だけどね」
覚えているかな、君の持ち物にもミュウの紋章を入れるべきだ、っていう話。
「まだ仰るのですか?」
あの紋章をあしらうような家具も無ければ、食器も要らないと申し上げていた筈ですが…。
相応しい持ち物が無いのですから、紋章を入れる必要は無いと考えますが。
「それなんだけど…。丁度いいのがあったんだよ」
紋章を入れるのにピッタリのものが。誰もが納得しそうなものが。
「何なんです?」
「君のハンカチ」
これ、とポケットから引っ張り出された。
自分の椅子から立って来たブルーに、ポケットの中身のハンカチを。
ブルーはハンカチを手にして椅子に戻って、広げてみせた。
何の変哲もない白いハンカチを、模様すらも無いシンプルなものを。
「ぼくの服にはポケットが無いし、こういうハンカチを持ち歩いたりはしないしね?」
つまり、ぼくにはハンカチなんかは特に必要無いわけで…。
「それで?」
「これに入れればいいんじゃないかと…。ミュウの紋章」
「なんですって!?」
あの紋章はソルジャー専用の、と言ったけれども、ミュウの紋章だと躱された。
それを個人的に使える立場がソルジャーなだけで、ソルジャー専用と決まったわけではないと。
ソルジャーがハンカチを持たない以上は、シャングリラでソルジャーに次ぐ立場だと皆が認めるキャプテン、そのキャプテンのハンカチにミュウの紋章を入れるべきだと。
「エラも言ったよ、こういったものにも刺繍をすると」
持ち主が誰か、一目で分かるようにとね。ハンカチにも紋章を刺繍していたのだ、と。
「誰がです?」
ハンカチにまで紋章だなどと、持ち主だなどと…。誰がそんなことを?
「昔の人だよ、SD体制が始まるよりもずっと昔の王様や貴族」
そういう人たちにとっては、自分の持ち物に紋章を入れさせるのは当然だったらしいけど?
ハンカチにだって、紋章の刺繍が入っているのが当たり前ってこと。
「私はそんなに偉くないのですが!」
ただのキャプテンで、王様でも貴族でもありません。それなのに真似てどうするのです!
「それを言うなら、ぼくだってね」
偉くもないのに真似てるんだけどね、昔の王様や貴族たちの真似。
ソルジャー専用の食器なんかは極め付けだよね、そこまで偉くもないくせにね。
専用の紋章入りの食器はそういう人種の持ち物だろう、とブルーは言った。
遠い昔の王侯貴族。彼らが作らせ、それを使っていたのだと。
どうやら、あれからエラと二人で悪だくみをやらかしていたらしい。現時点ではブルーだけしか使っていないミュウの紋章を、キャプテンにも使わせることが出来はしないかと。
あれこれ調べて、選ばれたものがハンカチだったといった所か。
「…というわけでね、エラもヒルマンたちも賛成なんだよ」
君のハンカチにミュウの紋章を入れること。
模様を染めるよりも刺繍にしようと、ハンカチに紋章を入れる時には刺繍だったから、と。
君は白いハンカチが好みらしいし、刺繍も同じ白い糸でね。
「それは決まっているのですか!?」
やたらと話が具体的ですが、決まっているのではないでしょうね?
「とうに決定事項だけれど?」
キャプテン抜きの秘密会議でね。
メンバーはもちろん長老たちとぼくで、シャングリラの最高機関ということになる。
たとえキャプテンが抜けていたって、そのキャプテンについての会議なんだし…。
何の問題も無いと思うよ、キャプテン抜きで決めていたってね。
キャプテンの処分を決める会議に、キャプテンが必要無いのと同じで。
秘密会議とやらが何処で開かれたものかは知りたくもなかった。
調べた所で、彼らは尻尾を出さないだろうけれど。
そして…。
「ほら、君のハンカチ」
出来たと言うから、青の間に届けさせたんだ。君の部屋の方に届けさせたら、見なかったことにしかねないしね、君の場合は。
ソルジャーのぼくから手渡されたら、使うより他に無いだろう?
明日からポケットに入れて出たまえ、ブリッジにね。
ちゃんと中身を確認して、とブルーから手渡された箱。一日の終わりの報告のためにと出掛けた青の間で渡された箱。
それはハンカチを入れてあるにしては、妙に大きな平たい箱で。
けれど重さはさほど無かったから、広げた形で入っているのだろうと蓋を開けたハーレイは目を剥いた。
白地に白い糸でミュウの紋章を刺繍した部分が見える形で畳まれたハンカチ、白い刺繍の紋章がズラリ。ずらして詰められたハンカチの数は二枚や三枚ではなくて…。
「こんなにですか!?」
ハンカチはこんなに要らないのですが、五枚もあれば充分ですが…!
「基本はダースだとエラが言ったよ、王様や貴族がこういったものを作らせる時はね」
毎日、取り替えるものだろう?
そういう品物はダースで作っておくものらしいよ、だから今回はそれだけ作った。
とりあえず、それで様子を見てみて…。次からはもっと増やしてもいいね、作らせる数を。
箱に一杯、一ダースもあったミュウの紋章入りのハンカチ。
ブルーに直接手渡されては、知らなかったふりなど出来はしないし、隠せもしない。次の日からポケットにそれを入れたけれど、引っ張り出す度に気恥ずかしかった。
白いハンカチに白い糸だし、目立つわけではないのだけれど。
それでも何処か恥ずかしいもので、そそくさとポケットに突っ込んだものだ。
(…なんたって紋章入りなんだしな?)
そんなハンカチは誰一人として持ってはいないし、ブルーが言うには王侯貴族の習慣なるもの。
ただのキャプテンには過ぎた品だと、贅沢すぎると気が引けもした。
しかしブルーは許してはくれず、毎日、あのハンカチを持っているかと尋ねてはチェック。服のポケットから出させて調べて、使っていることを確認していた。
(…くたびれてくる前に次のを発注されちまったんだ)
使用状況をチェックされていたから、新しいハンカチが作られて届き、今度もダースで。十二枚もの新品を前にして狼狽えていても、ブルーは涼しい顔だった。
「ぼくの気持ちが少しは分かって来ただろう?」と。
専用の紋章を作られてしまった恥ずかしさを君も味わうといいと、そのハンカチはこれから先も君専用に作らせるからと。
(まったく、前のあいつときたら…)
それでもいつしか、慣れて普通になったけれども。
白いハンカチに白い刺繍でミュウの紋章、それが自分のハンカチなのだと。
前の自分にそれを押し付けたブルーの涙も、幾度となく拭っていたのだけれど…。
(キャプテン・ハーレイのハンカチか…)
そういうハンカチを持っていたなと、白地に白の刺繍だったなと思い出していたら。
遠い記憶の彼方から出て来たハンカチの手触りを懐かしく思い返していたら。
「ねえ、ハーレイ。あのハンカチの復刻版ってあるのかな?」
前のぼくの食器は復刻版が出てるよ、シャングリラの食堂の食器もね。
キャプテン・ハーレイのハンカチなんかも売られているかな、デパートとかに行けば?
「あのハンカチなあ…。そいつは多分、無いんじゃないか?」
探すだけ無駄だと俺は思うぞ、あのハンカチの復刻版は。
「なんで?」
ミュウの紋章入りのハンカチなんだよ、シンプルだから使えそうだけど…。
食器なんかよりも出番も多いし、値段も高くはならないだろうし。
ハンカチ売り場に並べておいたら、きっと人気の商品になると思うのに…。
「人気商品も何も、存在自体が知られていないぞ」
あのハンカチのことを航宙日誌に書いてはいないし、俺しか使っていなかったしな。他の誰かに貸し出すようなものでもないだろ、ハンカチは?
俺のハンカチにあの紋章が入っていたこと、知らなかったヤツらも多いんじゃないか?
同じシャングリラで暮らしていたって、白いハンカチを愛用しているって程度の認識でな。
「もったいない…!」
あのハンカチは記録に残らなかったわけ?
ハーレイ専用に作らせてたのに、すっかり忘れられちゃったわけ…?
ミュウの紋章入りの白いハンカチ、前のぼくもとっても気に入ってたのに…!
それじゃ注文して作ろうよ、と小さなブルーは言い出した。
復刻版が無いと言うなら注文で刺繍を入れればいいと、あのハンカチをもう一度、と。
「作れないことはないでしょ、ハーレイ?」
ミュウの紋章は今もデザインとしてきちんと残ってるんだし、大きさとかを指定すれば。
こんなハンカチを作りたいんです、って注文したって、きっと不思議だとは思われないよ。あのデザインが好きな人なんだな、って勝手に思い込んで作ってくれるよ。
「…それは確かにそうなんだが…」
あれに良く似たハンカチを探して、刺繍する場所や大きさを決めれば出来るだろうが、だ。
そんなものを作って何にするんだ、どう使うんだ?
「ぼく専用」
「ぼく専用って…。今度はあれをお前が持つのか?」
「ううん、今日みたいに使って欲しいな、って」
ハーレイのポケットからヒョイと出て来て、ぼくのためだけに。
ぼくの涙を拭いてくれたり、他にも色々。
何処かに出掛けて、手を洗った時に「使え」って渡してくれるとか…。
「ふうむ…。お前専用のハンカチなあ…」
そうは言われても、俺のポケットに入っている以上は、いろんな相手に使うと思うが。
同僚の先生に「ちょっと貸してくれ」と言われて手を拭くために貸すとか、クラブのガキどもに貸してやるとか。
いくらお前が自分専用だと主張したって、そいつは無駄だと思うんだがな?
デートの時しか使わない、って決まりにするなら話は別だが。
「うー…」
それじゃ駄目なんだよ、とっておきのハンカチってわけじゃないんだから!
いつもハーレイのポケットにあって、いつでも出せるのがいいんだよ!
ハーレイ専用のハンカチだけれど、ぼく専用。
そういうハンカチにしたいんだから…!
前のぼくみたいにしたかったのに、とブルーが唇を尖らせるから。
あのハンカチで何度も涙を拭いて貰ったと、今日のように優しく拭いてくれたと膨れるから。
「そのこと自体は否定しないが…。俺だって忘れたわけではないが、だ」
子供の鼻だって拭いてやったぞ、公園や通路で転んじまってベソをかいてた子供のな。
涙どころか鼻水まで出て、そりゃあ凄まじい泣き顔だったが、それを拭くのもあのハンカチだ。俺のポケットにはアレしか入っていないんだからな?
「えっ…!」
そういえばハーレイ、よく子供たちの涙を拭いていたっけ…。
だけど涙や鼻水でグシャグシャになったハンカチ、ぼくは一度も見てないよ?
ハーレイがあのハンカチを持ってるかどうかをチェックしていた頃にも見てないけれど…。
「当たり前だろ、誰が汚れたハンカチをそのまま持ち続けるんだ」
汚れちまったら、新しいヤツと取り替える。でなきゃハンカチを持つ意味が無い。使いたい時に使えないようじゃ、全く話にならないだろうが。
幸か不幸か、お前、いつでもダースで作らせてくれていたしな?
スペアは山ほど持っていたんだ、ブリッジにも予備が置いてあったぞ。いつでも部屋まで取りに帰れるとは限らないしな、そういった時に備えてな。
だから俺のハンカチはいつでも綺麗だったんだ、と腕組みしてニヤリと笑ってみせた。
汚れたハンカチは洗濯に回して、新品同様になって戻ってくる。それをポケットに忍ばせる。
「つまりだ、お前の涙を拭いてたハンカチ、その前の日にはガキの鼻水を拭いてたかもな?」
流石に前の日ってことはないかもしれんが、いちいち印を付けちゃいないし…。
運が良ければ、お前にしか使わなかったヤツが一枚か二枚くらいはあったかもしれん。
しかしだ、どう考えてもガキの鼻水とお前の涙の両方を拭いたハンカチが圧倒的多数ってことになるんだろうなあ、ガキの方がしょっちゅう泣いてたからな。
「そうなっちゃうわけ…?」
ぼく専用だと思っていたけど、洗って綺麗になった段階でぼくに使っていただけで…。
前の日には転んだ子供の涙や鼻水を拭いたハンカチだったの、ねえ、ハーレイ…?
「今頃になって気付いたのか、お前?」
俺のハンカチの使い道くらい、きちんと把握するべきだったな。
持ち物チェックをやっていたなら、使い道の方もしっかりチェックをしておかないとな…?
「そんなことまで気が回らないよ…!」
ハーレイ専用のハンカチだよね、って見てただけだよ、ぼくの涙を拭いてくれた時に…!
ぼくが大泣き出来る場所って、ハーレイの前しか無かったから…。
ぼくの涙を拭いてくれる人も、ハーレイだけしかいなかったから…!
自分専用のハンカチだったと思っていたのに、と盛大に嘆くブルーだけれど。
そのハンカチの使用状況を指摘されればその通りだから、ブルーはグウの音も出ない。そうではないと、それは違うと反論することは出来ないわけで。
「分かったな? あのハンカチの復刻版を作ったとしても、お前専用にはならないさ」
前のお前の時と同じだ、ガキの鼻水もお前の涙も一緒くただ。
今度はガキどもが少しデカくて、鼻水じゃなくて洗った手を拭くって違いくらいだな。
「酷いよ、ハーレイ…!」
何度も鼻水って言わなくってもいいじゃない…!
前のぼくの涙も子供たちの顔も同じハンカチで拭いていた、って言い方だって出来るのに…!
何度も何度も鼻水、鼻水、って、ハーレイ、ぼくを馬鹿にしていない…!?
あんまりだよ、と文句をつけるブルーだけれど。
ハンカチの思い出が台無しになったと苦情も述べているのだけれども、あのハンカチ。
白地に白い糸の刺繍の、ミュウの紋章入りのハンカチに未練はたっぷりとあるようだから。
もう一度あのハンカチを目にしてみたいと、自分専用に出来るならばと考えているのが手に取るように分かるから。
(またあのハンカチを作られるのか…?)
キャプテン・ハーレイだけが持っていた白いハンカチ。ミュウの紋章入りのハンカチ。
まさか作りはしないだろう、と思うけれども、いつかブルーと結婚したなら。
ある日、ブルーが笑顔で差し出してくるかもしれない。
軽いけれども大きな箱を。包装された平たい箱を。
あのハンカチを注文したのだと、君専用だと、一ダースほども。
今度はぼくのためだけに使ってくれるよね、と甘えた声で念を押しながら…。
白いハンカチ・了
※キャプテン・ハーレイが持っていた白いハンカチ。ミュウの紋章が刺繍された品。
前のブルーの涙を拭ったハンカチですけど、他にもあった使い道。子供たちのお世話用。
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