シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「こらっ!」
誰だ、とハーレイの注意が飛んだ。
授業中の教室に派手に響いたコインの音。何枚ものコインが落っこちて床に散らばった音。
動かぬ証拠が床に幾つも散っているのだし、逃げ隠れは出来ない、その近辺に居るだろう犯人。ブルーも含めて、教室中の生徒が凍り付く中で。
「…すみません…」
やっちゃいました、と立ち上がった一人の男子生徒が謝った。
昼食に食べたい一品を買える予算があるかどうかと財布の中をコッソリ覗いて、手を滑らせて。慌てて掴もうと握ったはずみに引っ掛けたのだと、財布が破れてしまったのだと。
破れてしまった、コインを入れるための場所。底だか横だかがビリッと破れて、落ちてしまった中身のコイン。
「俺の授業中に昼飯の算段をしてたのか?」
いい度胸だ、とハーレイはフンと鼻で笑った。
「だが、食うことも大切だしな? しっかりと食って身体を作る。それを否定はせん」
「…すみませんでした…」
「かまわんさ。要はお前の財布が空になっちまうだけだからな」
拾って良し、とハーレイは言ったけれども。
財布の中身が空になるとは穏やかではない。没収だろうか、とザワめく教室で、ハーレイが前のボードに書いた文字。
大きく三文字、「秋財布」と。
「秋財布?」
ヒソヒソどころか、今度はどよめき。今の季節は確かに秋だが、秋の財布がどうしたのだろう?
没収と関係するのだろうか、と訝る声やら、まるで分からないと首を捻るやら。
「分からんだろうな、これだけではな。しかし…」
ボードに新たに書かれた文字。秋財布の下に書かれた文字。
伸びやかなハーレイの文字で三文字、「空財布」と。
書き加えた三文字をハーレイは褐色の指で指し示した。
「そらさいふ、なんて読むんじゃないぞ。読み方はあきだ、あきさいふだ」
空いちまった財布。つまり、空っぽの財布の意味だな。
秋に買った財布は空になるんだ、うんと昔のこの辺り…。日本って島国にあった言い伝えだ。
俺が財布を没収せずとも、今、飛び散ったコインの持ち主。そいつの財布は空になるのさ。
破っちまったのなら、財布を買わんといかんしな?
この季節に買えば秋財布だから、もれなく空っぽになっちまうってな。
「…そ、そんな…」
コインを拾い集めた生徒が怯えた声を上げたけれども、ハーレイはまるで取り合おうとせずに。
「ついでに言霊ってヤツは何度も教えてあるな?」
言葉には力が宿るってヤツだ。俺が空財布だと言ったからには空財布だぞ。
お前が買うだろう、新しい財布。たちまち中身が尽きてしまって、立派な空財布になるってな。
「ハーレイ先生!」
縋るような目をする男子生徒に、ハーレイはクルリと背中を向けた。
「知らんな、せいぜい泣いていろ。でなけりゃ、そいつを修理してでも使うんだな」
授業に戻る、と消される文字たち。
秋財布、それに空財布。
ハーレイがかけた恐ろしい呪いに教室中の生徒が震え上がった授業が終わって、昼休み。
食堂に出掛けたブルーがランチ仲間と戻ってくると、例の男子が懸命に財布を縫っていた。針に糸を通して、応急措置なのか、それとも本格的な修復作業か。
家庭科の授業は無い日だったから、何処かのクラスで借りた道具で。
空財布になってはたまらない、と真剣に戦う男子生徒。
財布の買い替えは回避したいと、秋財布だけは買いたくないと。
(怖いよ…)
空財布なんて怖すぎだよ、とブルーはその日の帰りのバスで財布を眺めた。バスの乗車賃は先に纏めて払ってあるから、財布は要らない。とはいえ、今日は財布が気になる。
(今の財布は大丈夫だけど…)
入学前に買って貰った財布。まだ肌寒かった頃に買って貰った、自分の財布。当分の間は新しい財布に買い替えなくても良さそうだけれど。
いつか買うなら秋になる前に早めに買って貰わなければ、と「秋財布」を頭に叩き込んだ。
秋に財布を買ってはいけない。必要になっても、冬まで我慢。空財布になる秋が終わって、次の季節が訪れるまで。
今日のハーレイの授業は実に怖かった、と家に帰っておやつを食べ終えた後にも考えていたら。
空財布なる言霊が飛び出した瞬間を思い出していたら、チャイムの音。
呪いをかけた張本人が、大好きなハーレイが庭を隔てた門扉の向こうで手を振っていた。
そのハーレイと二人、自分の部屋で向かい合わせに座った後。母が置いて行った紅茶とお菓子が乗ったテーブルを挟み、ブルーは例の呪いを口にした。
「ハーレイ、財布…」
「ん?」
「今日の授業だよ。ぼくも気を付けるよ、秋のお財布」
お財布を買うなら、夏か冬かに買うことにする。
「はあ?」
何故だ、とハーレイに問われたから。
「秋に買ったら駄目なんでしょ? 空っぽになる空財布になってしまうから…」
だからね、壊れる前に夏に買っておくとか。壊れかけても大事に使って冬まで待つか。
「なるほどなあ…」
そいつは立派な心掛けだが、とハーレイは頷き、尋ねて来た。
「お前が持ってる今の財布は、入学の時に買って貰ったのか?」
「うん。下の学校と違って、お昼御飯を買わなきゃいけないから」
これから学校に持って行かなきゃいけないものね、ってママが買ってくれたよ。
「なら、最高に縁起がいいってな。お前の財布はいい財布なんだ」
「なんで?」
「秋財布の逆で、春財布さ。春って季節と、財布がパンパンに膨らむ、張るって意味とで」
春財布はお金が増える財布だ。もう入りません、ってくらいにお金が貯まるのが春財布だな。
「…でも、寒かったよ?」
お財布を買って貰った時は。ぼくの誕生日もまだ来てなくって、雪だって…。
三月は春かもしれないけれども、雪が降ってたら冬なんじゃないの?
「そこは心配要らないってな。授業で旧暦、教えただろう?」
二月の三日が節分で季節の分かれ目になる。次の日が立春、それからは春だ。
雪が降ろうが凍っていようが、しっかり春だというわけだな。三月だったら充分に春だ。
「そうなんだ…!」
春財布なんだね、ぼくの今のお財布。
寒い季節に買って貰ったけど、ちゃんと春財布になってるんだね…。
自分の財布は最高の財布の春財布なのだ、とブルーは秋財布の怖さも忘れて嬉しくなった。
いい財布だと褒めて貰えたように思えて気分も最高。
そんなブルーに、ハーレイが「財布といえば…」と紅茶のカップを傾けた。
「俺も今では財布を買うなら絶対に春だ、と春に買うが、だ」
前の俺たちには財布は関係無かったってな。春財布も、それに秋財布も。
シャングリラでは誰も財布なんかを持っちゃいなかったし、第一、金が無かったからな。
「そうだったね」
お金が無いって言葉を聞いたら、今のぼくだと金欠なのかと思っちゃうけど…。
シャングリラはお金の要らない世界で、どんな物でも人類から奪って来てたか、作っていたか。
船の中で必要なものは何でも、係に頼めば手に入ったし…。お金を払って買わなくっても。
必要無いから、人類からもお金は一度も奪わなかったしね。
「たまに紛れていたけどな。前のお前が奪った物資に、人類が使っていた金が」
「混ざっていたけど…」
使っていないよ、ああいうお金は。
アルテメシアに辿り着いてから、人類の世界に潜入班を送り込むこともあったけど…。そういう時にもお金は一切、使わせてないし。
「ああいったものは足が付くからな。あくまでサイオン、それが鉄則だったっけな」
潜入中に物資を手に入れるにも、サイオンで情報を操作してタダで手に入れる。
金は払ったと思い込ませて、痕跡は一切残しません、ってな。
「前のぼくが奪った物資に紛れてたお金、ハーレイ、大事に残していたけど…」
使えないけどお金だから、って捨てずに全部残していたけど、結局、役には立たなかったね。
アルテメシアに落ち着いた後も、使わないままになったんだから。
「そうでもないぞ?」
「えっ?」
何故、とブルーは驚いた。前のハーレイが大切に保管していた人類の通貨。それらの出番は一度たりとも無かった筈ではなかったのか、と。
「前のお前には関係無かった話なんだが、知りたいか?」
「…もしかして、ぼくが死んじゃった後?」
「そうだ」
前のお前がいなくなっちまった後の話だ、それでもお前、知りたいのか?
「聞きたい!」
もしもお金を使ったんなら、どう使ったのか知りたいよ。
何処で使ったのか、あのお金で何が買えたのか。ハーレイ、あれで何を買ったの?
そんなに凄いものは買えないだろうけど、何を買ったのか聞きたいよ…。
前のブルーが人類から奪っていた物資。たまに人類が使う通貨が混ざっていた。
様々なコインや紙幣の類。それらをハーレイは専用の金庫に収めていたのだけれども、ブルーの命があった間に使われることは一度も無かった。
その後も使われないままで終わっただろうと思っていたのに、そうでもないと言われたから。
何処かで出番があったようだから、ブルーは興味津々で訊いた。
それを使って何を買ったか、前の自分がいなくなった後、どう使ったのかと。
「あれなあ…。あれは大いに役に立ったんだ、アルテメシアで」
前の俺たちが最初に落とした星だ、とハーレイはブルーに微笑み掛けた。
「勝ってアルテメシアを手に入れはしたが、人類の社会で金の無いミュウはどうすればいい?」
「奪えないよね…。そんなことをしたら略奪者になってしまうもの」
「そうだろう? 略奪だけは絶対、やってはいけない。だが、俺たちには金が無かった」
山ほど物資があると言うのに、それを買う金を俺たちは持っていなかったんだ。
ジョミーは供出させろと言った。勝ったのだから当然の権利なのだと。
物資はそれでもかまわないんだが…。そうするのが正しい方法なんだが、問題は船の仲間だな。
シャングリラはアタラクシアの上空に停泊してたが、下には地面が見えるだろうが。手に入れた星の大地ってヤツが。
そうなってくると、降りてみたいと言うヤツも出る。それにトォニィたちなら簡単に出られる。
降りて散歩をするだけならいいが、それで済まないのが人間ってヤツだ。
「だろうね、色々なお店があるし…。公園に行けばお菓子を売っていたりもするし」
「うむ。そこでタダで寄越せと言おうものならトラブルだしな?」
ミュウはやっぱり恐ろしいのだと、金を払わずに持って行かれたと怖がられちまう。
それは避けたい。しかしジョミーに進言したらだ、「通貨も供出させるべきだ」と来たもんだ。
「お金まで?」
「ジョミーだからなあ…」
あいつ、前のお前が死んじまった後は、人が変わったようになってたからな。
歴史の本にも書いてあるだろ、ソルジャー・シンが如何に厳しい指導者だったか。
通貨も供出させればいい、と冷たい笑みを浮かべたというジョミー。
けれどハーレイは賛同出来ずに、「考えておきます」と答えを保留し、退出してから。
「思い出したんだ、金庫に仕舞った金があったな、と。あれが使えるかもしれないな、と」
使えるようなら船にある金を使い果たしてから、ジョミーが言ってた供出だな。
その方がいい、と調べさせたら、だ。あの金にはプレミアがついていたんだ。
「なんでプレミア?」
「マザー・システムは物価も統制していた。当然、通貨も管理していたわけで…」
古くなったコインや紙幣は計画的に回収されて、新しいものと入れ替えてゆく。それが鉄則だ。
マザー・システムが統治する世界じゃ、何百年も前の通貨は流通してない。同じコインや紙幣に見えても、全部新しいものなのさ。
シャングリラで保管していたような金は、博物館とかに参考資料が幾らか残っていただけだ。
「じゃあ、前のぼくたちが残しておいたお金って…」
「とんでもない値段で売れたってわけさ」
「アルテメシアで!?」
ミュウに征服された星だよ、頼りにしていたマザー・システムを壊されちゃったんだよ?
それなのに古いお金を買ってくれたの、アルテメシアの何処かのお店が?
「ああ。人間ってヤツは逞しいよな、征服されたってちゃんと商売するってな」
信じてた社会の仕組みがブチ壊されても、世界が丸ごと変わっちまっても。
それでも食わなきゃ生きて行けんし、そのためには稼がなきゃ食えないよな?
お蔭で…、とハーレイは片目をパチンと瞑った。
「俺たちは真っ当な手段で金を手に入れ、無事に買い物に行けたってわけだ」
もっとも、ジョミーは供出にこだわっていたんだが…。
金を手に入れたと報告したって、「そうか」と短く答えただけだった。それどころか、次に調達するべき物資。そいつのリストを俺に作れと、供出の期限はこの日までだと表情一つ変えずにな。
買うつもりなんかはまるで無かった。供出させろの一点張りだ。
「相当、キツかったみたいだしね…。その頃のジョミー」
「別人だったな、本来のジョミーを知ってた俺の目から見ても」
仲間を束ねるソルジャーがそれじゃ、船の中だってピリピリしてくる。張り詰めた空気が流れているんだ、いつだって。
ミュウは本来、繊細だしな?
そうした緊張が長く続くと神経をやられて参っちまう。
だからだ、俺たちが落とした星では出来るだけ自由にさせてやったさ、船のヤツらを。
トォニィたちも含めて、外に出たいと言うヤツら。
出掛けたいなら出歩いていいと、気晴らしに飯でも食って来いとな。
「あのお金で?」
高く売れたっていうお金で御飯を食べに行ったの、トォニィたちも?
征服した星で供出させたお金じゃなくて?
「そうさ、正真正銘、俺たちの金だ。…まあ、元々は前のお前が奪った物資の一部なんだが」
捨てずにきちんと取っておいたから、立派なお金に化けました、ってな。
外へ出たいと希望するヤツらには金額を決めて配っておいた。
決められた自由時間だったが、それでも配られた金を握って出掛けて行ったな、嬉しそうに。
しかし初めてのお買い物ってヤツだ、使い道はなかなかに面白かったぞ。
前のお前を失くしちまって抜け殻みたいだった俺でさえもだ、報告で笑ってしまったもんだ。
「そうなの?」
報告を聞いて笑えるだなんて、みんなは何を買ってたの?
「何にするんだ、って呆れるようなものから、使い道の無さそうなものまでな」
シャングリラの何処で乗るつもりなんだ、と悩むしかない自転車だとか。
自転車はまだマシな方だな、車を買いたいって言い出したヤツらに比べれば。
「車って…。それ、お小遣いで買える値段だったの?」
「掘り出し物を見付けたんだとか言ってたらしいぞ、何人かで組めば買えたらしいんだが…」
乗って走りたい気持ちは分かるが、また次の星へ、それに地球へと向かうんだしな?
シャングリラに車を乗せては行けんと笑いながら却下したもんだ。
行く先々で車を降ろしてドライブ出来るほど暇じゃないしな、おまけに車は燃料が要る。自転車みたいに人間の力で走るんだったら、少しは譲歩してやったんだが。
「なんだか凄いね、車だなんて」
「ジョミーの耳には入れてないがな、あいつが知ったら怒鳴り散らして説教だ」
たるんでいると、そんなことで地球を目指せるかと。
だが、そういった息抜きってヤツもミュウには必要だったんだ。
ジョミーみたいにタフな神経、他のヤツらは持ってはいない。地球までの道を戦い続けて進んでゆくなら、せめて戦いの無い時くらいは休ませてやらんと駄目だってな。
自転車に車、それが男性陣が買おうとしたものの中でも傑作なもの。
女性の場合は、船では制服と決まっているのに、着る場所の無い服や帽子や靴や。腕一杯に買い込んで帰ったという話を聞く度、ハーレイは笑っていたという。
ミュウもなかなかに強いものだと、逞しく生きられるものらしいと。
そうした愉快な報告を聞いて、最後に必ず返した言葉。辺りを見回し、告げていた言葉。
「ソルジャー・シンには言わなくていい」。
キャプテンの自分の耳に入ればそれで充分だと、多忙なソルジャーを煩わせなくてもいいと。
けれども、それは表向きのこと。
本当は「ジョミーの耳には入れてはならない」という思いから出た、大切な言葉。
地球を目指して戦いだけに明け暮れるジョミーは、そうした小さな平和を望んでいないから。
余暇に費やす時間があったら、楽しみを見付ける時間があったら、それを振り捨てて前へ進めと言いそうなジョミー。実際、そうしていたジョミー。
ジョミーだからこそ出来ることだと告げた所で、ジョミーは決して納得しないし理解もしない。
分かっていたから、ハーレイは全てを自分の胸に収めた。
仲間たちが僅かな自由時間に地上へと降りて、買い物や外食をしていたことを。
「…ハーレイ、頑張ってくれたんだ…。みんなのために…」
シャングリラを地球まで運ぶだけじゃなくて、船のみんなが疲れ切ってしまわないように。
戦いばかりで楽しいことなんて何一つ無い、って日が続かないようにしてくれたんだ…。
「まあな。お前を失くして参っちまってた分、そういう気配りだけは出来たのかもなあ…」
船のヤツらが、俺みたいな抜け殻にならないように。
神経をすっかりやられちまって、それでも機械的に戦い続けるだけの人形にならないように。
そんな思いは確かにあったな、俺の二の舞はさせたくないと。
「やっぱりハーレイはキャプテンなんだね、どんな時でも。船のみんなを守ったんだね…」
ぼくはジョミーを頼むとしか言わなかったのに。
シャングリラのみんなまで、ちゃんと守って。そうやって地球まで行ったんだね…。
「小遣いを用立てて、ジョミーに内緒で遊ばせてやってただけなんだがな」
ジョミーも薄々、気付いていたとは思うんだが…。
切り替えが上手く行ってるんなら、と多分、黙認していたんだろう。無駄な反感を招くよりかは利口だからな。内心、腹を立てていたって、そいつもエネルギーに変えて前へと進みそうだろう?
「うん。…その頃のジョミーをぼくは知らないけど、ジョミーはいつだって前向きだよ」
「いやいや、あれで引きこもってた時期もあったんだがな? しかし基本は前向きなヤツだ」
ともかく、ジョミーが頭ごなしに「駄目だ」と禁止しなかったから。
ノアを落とす頃には「いつかは地球で買い物をしよう」と楽しみにしていたようなんだが…。
「地球で買い物って…。お金、そんなに沢山あったんだ?」
前のハーレイが貯めていたお金が化けたお金って、地球に着く頃にも残ってたんだ…。
「ジョミーが供出にこだわったお蔭で、使い道が全く無かったからな」
地球に向かう頃にはゼルとブラウとエラも船を持っていたが、あれも供出させた船だし…。
人類との戦いに必要な物資は全て供出品で賄うというのがジョミーの方針だったんだ。
食料も、シャングリラやゼルたちの船に必要なものも。
全く金を使ってないんだ、仲間たちの分の小遣いくらいは地球に着くまで充分、持ったさ。
「でも、地球は…。前のハーレイたちが着いた頃の地球は…」
「買い物どころか、降りるだけでも命が危ない有毒の死の星でした、というオチだったな」
その上、どうにか落としたと言っていいのかどうか…。
グランド・マザーとマザー・システムを壊しはしたがだ、俺の命まで終わっちまった。船に居たヤツらには驚きの幕切れっていうヤツだよなあ、ジョミーも死んじまったんだしな。
まあ、俺にとっては万々歳な最期だったが…。買い物がしたかったわけでもないし。
「どうして其処で万々歳なの?」
「お前の所へ行けるだろ?」
地球までは行った、ジョミーも支えた。
胸を張ってお前に会いに行けるし、もうこれ以上は独りぼっちで生きなくってもいいってな。
「そっか…」
ぼくとハーレイ、会えたんだよね?
だから二人で地球まで来られたんだよね、今の青い地球に。
「そりゃそうだろうさ、でなきゃこうして一緒に居ないと思うぞ」
今のお前の部屋で、こうして。向かい合わせで座るためには、まずはお前に出会わないとな。
この青い地球に生まれて来るよりも前に、何処で出会って何処に居たのかは分からないが…、とハーレイは鳶色の瞳でブルーを見詰めた。前の生から愛し続けた、愛おしい人を。
「俺たちは二人で青い地球に来て、いつかは一緒に暮らすってわけだ」
だが、前のお前は買い物も出来ずに逝っちまって。
前の俺も買い物には行かずに終わっちまったし、今度は二人で買い物をせんとな。
せっかくの地球だ、二人であれこれ買い物ってヤツをしようじゃないか。
「春に買ったお財布を持って出掛けて?」
「うむ。秋は御免だ、秋財布はな」
秋って季節も好きなんだがなあ、秋財布はいかん。あれだけは駄目だ。
お前の誕生日に結婚出来るんだったら、結婚記念に春財布も買って贈るんだがな。
「ホント?」
「その頃に俺が忘れていなきゃな」
しかしだ、お前が春財布を買いそびれたままで結婚しちまっても心配要らんぞ。
春財布をお前が持ってなくても、安心して買い物していいんだ。
「どうして?」
「俺の財布から支払うからさ。俺はいつだって春財布だ。財布は春に買っているんだ」
任せておけ、とハーレイは豪快に笑う。
今度は二人で買い物に行こうと、前の生では出来ずに終わった買い物なるものに。
前の自分たちが生きた頃には不可能だった、地球での買い物。
青い地球の上で買い物をしようと、日々の生活に必要なものから、旅の思い出の土産物まで。
沢山の幸せなものを買おうと、春財布を持って二人一緒に…。
秋財布・了
※前のハーレイが残しておいた、奪った物資に紛れた通貨。なんと高値で売れたのです。
お蔭で買い物に行けたミュウたち。地球を目指しての戦いの中でも、少しは息抜き。
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今日はお休み。学校に行かなくていい日だけれども、いつも通りの時間に起きた、ぼく。
朝御飯にミルクと焼きたてのトースト、ハーレイのお母さんのマーマレードをたっぷりつけて。
ハーレイが来てくれる日だって分かっているから、とってもワクワクしてるんだ。
何を話そうか、今日はどんな話が聞けるんだろう、って。
(…ハーレイ、何を聞かせてくれるかな?)
普段の生活の話でもいいし、思い出話もぼくは大好き。柔道に水泳と活発な子供時代を過ごしたハーレイの思い出は、生まれつき身体の弱いぼくにとっては冒険みたいだったりするから。
(早くハーレイ、来てくれないかな…)
欲を言うなら、お休みの日には朝御飯だってハーレイと一緒に食べたいんだけど…。
パパとママも「どうぞ」って何度も誘っているのに、遠慮してるって言うのかな?
「伺います」とは答えてくれないハーレイ。いつだって断ってしまうハーレイ。
だから夏休みに「一緒に夜明けを見てみたいよ」って強請った時に、朝日を見た後、朝露が光る庭の白いテーブルと椅子で食べたくらいで、ハーレイとの朝御飯は夢のまた夢。
まだまだ当分、実現してくれそうにない、ハーレイと食べる朝御飯。
食べ終えた後で部屋に帰って、掃除をして。ハーレイを待ちながら、ちょっぴり溜息。
(…朝御飯、昔は一緒に食べてたんだけどな…)
白いシャングリラで暮らしていた頃。本物の恋人同士だった前のハーレイと、前のぼく。
朝の食事はハーレイと一緒。毎朝、青の間でハーレイと一緒の朝御飯。
夜は一緒のベッドで眠って、朝の食事も二人一緒で。
あの頃がいいな、って思ったりする。朝御飯の時間はうんと幸せだったよね、って。
今みたいに青い地球の上にはいなくて、シャングリラの中が世界の全てだったけど。ハーレイのお母さんのマーマレードなんていう素敵な食べ物も無かったけれど。
(最初からハーレイと一緒だったよ、朝御飯…)
恋人同士じゃなかった頃から。出会ったばかりの、アルタミラを脱出した直後から。
ハーレイが「俺の一番古い友達だ」って仲間たちに紹介してくれた、ぼく。
アルタミラがメギドに滅ぼされた日に、同じシェルターに閉じ込められて出会っただけなのに。二人で幾つものシェルターを開けて仲間を逃がしたけれども、初めての出会いだったのに。
(ハーレイ、ぼくを大事にしてくれてたしね…)
ぼくの方がホントは年上なんだ、って知ったハーレイはビックリしたけど。
見た目どおりに心も身体も子供だったぼくを、気遣って、連れて歩いてくれて。食事はいつでもハーレイと一緒。脱出した日に最初に食べた食事の非常食から、ハーレイと一緒。
非常食と言っても、アルタミラで餌しか食べてなかった前のぼくたちには御馳走だった。包みを開ければ温まる料理と、ふんわり柔らかく膨らむパンと。
とても美味しくて、自由になったと皆が実感した、船で一番最初の食事。
暫くの間は、非常食の食事が続いたけれど。
開けるだけで食べられる非常食が尽きてしまうよりも前に、ハーレイが料理を作り始めてた。
きっと精神がタフだったんだろう、非常食が充分にあった頃から倉庫に入って調べてた。どんな食料が置いてあるのか、それを使って何が作れるかもデータベースを調べたりして。
だから順調に普通の食事が食べられるようになったんだけど。
みんなも今日はどんな料理かと、楽しみに待つようになっていたんだけれど…。
幸せな毎日の食事の裏側で、ハーレイを手伝って料理する人が増えていってた、その裏側で。
誰も知らない、恐ろしいことが始まってたんだ。
ぼくもその日まで全く知らずに、考えもしないで過ごしてたことが。
ある日、夕食の後で、ぼくの部屋を訪ねて来たハーレイ。
ハーレイは後片付けをしなくていいから、「ちょっといいか?」って声を掛けられて、部屋まで一緒に帰ったんだけど。お喋りしながら、二人並んで通路を歩いて。
だから普通に食後の時間を過ごすだけだと思っていたのに、ぼくの部屋で向かい合わせで座った途端に、ハーレイの眉間に微かな皺。あの頃は癖になっていなくて、無かった皺。
とても大きな溜息をついて、ハーレイはポロリと零したんだ。
「弱ったな…」
「どうしたの?」
ハーレイが弱音を吐くなんて珍しいから、キョトンと首を傾げたぼく。ハーレイは「ああ…」と曖昧な返事をしてから、思い切ったようにこう言った。
「どう考えても、あと一ヶ月だ」
「何が?」
「倉庫の中身だ。…そこまでしか食料が残っていない」
「えっ?」
まさか、とぼくは息を飲んだけど、ハーレイは「一ヶ月分なんだ」と繰り返した。
倉庫にはもうそれだけしか残っていないと、非常食を全部使っても、一ヶ月分しか無いのだと。
「此処まで持ったのが奇跡と言えば奇跡なんだが…」
この船は輸送船ってわけでもないのに、食料をたっぷり積み込んであった。
アルタミラから何処かへ出港予定だった船が、メギド騒ぎで放棄されちまったって所だろうな。
この船のヤツらは他の船に移って逃げてったんだ。逃げ足の速そうな他の船でな。
こいつは客船ってヤツじゃないがだ、大勢が乗れる船だってことは分かるだろ?
何処か遠い星まで寄港しないで飛んで行く予定だったんだろう。
だから食料を山ほど積み込んであった。しかし…。
足りないんだ、って頭を抱えるハーレイと一緒に食料品が積まれた倉庫に行ってみた。非常食の残りも詰め込まれた場所。
ぼくの目には沢山に映るけれども、ハーレイの説明を聞くとそうじゃない。一日に消える食材の量と、倉庫に置かれている箱と。
毎日どんどん減っていった末に、非常食を混ぜてみんなに出しても、残りは本当に一ヶ月分。
其処で全ての食料が尽きる。調理されて料理になる食材も、開けるだけで食べられる非常食も。
食料はあと一ヶ月で無くなるのだ、と倉庫で肩を竦めたハーレイ。それからぼくの部屋まで戻る間は無言で歩いて、ドアを閉めたら、ハーレイがドアに大きな背中を預けて。
「…俺たちも此処までっていうことかもな。皆には言えんが」
「此処まで?」
「後は餓死するしかないってこった」
それしか無いな、ってドアから離れて、ぼくを促して倉庫に行く前みたいに向かい合って座った二つの椅子。ぼくたちの間には小さなテーブル。お茶もお菓子も載っていないテーブル。
あの頃はまだ個人の部屋には、そういう物資は無かったから。
「さて、どうするかな…」
この先、いったいどうしたものか、とハーレイはテーブルを指先でトンと叩いた。
「節約しながら食い延ばしていくか、ドカンと豪華に最後の晩餐と洒落込むべきか…」
「最後の晩餐?」
「知らないか? そういう一種のたとえ話さ」
神様が人間の姿で地上に下りておられた時にな、弟子たちと最後に食べた食事だ、最後の晩餐というヤツは。
それに因んで、自分の人生最後の食事。最後になるなら何を食おうか、って話だな。何も記憶に残っちゃいないが、成人検査を受ける前の俺はそういう話をしてたんだろう。友達なんかと。
ブルー、お前は何を食べたい?
つまらない飯を最後に食べるか、うんと豪華に食ってみたいか。
「…終わるしかないの? 最後の晩餐になってしまうの?」
「どう考えてもそれしかあるまい。食料はもう一ヶ月分しか残ってないんだ」
食い尽くしたら其処で終わりになる。
飯も食料も天から降っては来ないからな…、って、死んだら行き先は天国なんだが。
「…ヒルマンたちには?」
「まだ言っていない。あいつらだったら上手くパニックを鎮めそうだし、いずれはな…」
いつかは言わなきゃならんことだが、まだ暫くは皆を普通に過ごさせてやりたいじゃないか。
せっかく船も落ち着いたんだ。片付けも済んで、居心地のいい船になったしな。
「…でも、ハーレイ…。あと一ヶ月だ、って一人で悩むの?」
「その覚悟だが…。誰かに聞いて欲しかったんだろうな、だからお前だ」
チビではあるがだ、船の中では最年長だ。すまんな、ブルー。俺の悩みに巻き込んじまって。
だが、俺だって人間だしな?
弱くなっちまう時もあるのさ、今日みたいにな。
ゆっくり眠れよ、ってハーレイは手を振って部屋を出て行ったけれど。
その夜、ぼくは眠れなかった。
あと一ヶ月で終わりが来る。食料が尽きて、終わりになる。
ハーレイはいつ、ヒルマンたちに話すんだろう?
そして、ぼくたちはどうなるんだろう…?
やっとの思いで逃げて来たのに、食べるものが無くなって死んじゃうだなんて。
暗い宇宙で飢えて死ぬしか無いなんて。
地獄だったアルタミラでも餌はあったのに。飢え死にだけはしなかったのに…。
(そういう実験をされてた仲間はいたかもだけど…)
ミュウは食べなくても平気かどうか。
そんな実験なら、ぼくも受けてた。餌も飲み水も全く与えられずに、何日間も放っておかれた。檻に鏡は無かったけれども、日に日に細くなっていく腕。やせ衰えて力が抜けてゆく足。
ぼくは貴重なタイプ・ブルーだから、死んでしまう前に終わった実験。中断された悪魔の実験。
だけど…。
(あれで死んじゃった仲間もいたかもしれない)
代わりは幾らでもいた、タイプ・グリーンやイエローといった仲間たち。
彼らを相手に条件を変えては、死んでしまうまで実験を続けていたかもしれない。研究者たちはミュウを人だと思っていなかったから。実験動物だと思っていたから。
(…ホントにそういう仲間がいたかも…)
餌も水も貰えず、やせ衰えて息絶えてしまったかもしれない仲間たち。
飢え死にだなんて、そうやって皆が、船の仲間たちが死んでゆくなんて。
ハーレイまでそうなって死んじゃうだなんて…。
(ハーレイ…)
なんとなく、だけど。
ハーレイはぼくに最後の食事をくれそうな気がした。
節約した果ての質素なものでも、うんと豪華な最後の晩餐とやらだったとしても。どんな中身の食事であっても、「お前が食べろ」って。「俺の分はお前にやるから」って。
ブラウたちだって、きっと分けてくれる。一部か、下手をすればハーレイみたいに全部を。
「チビは食べな」って、「あたしたちはこれ以上、育たないからね」って。
そうして食事を分けて貰ったら、ぼくは最後に残るんだろうか。
みんなが死んでしまった後の船で生きて、最後に飢え死にするんだろうか…。
(そんなの嫌だ…)
ぼくが死ぬのはみんなと同じ道を辿るだけだからかまわないけど、ぼくのためにみんなが食事を譲って死んじゃうなんて。
自分の食事をぼくに食べさせて、ぼくよりも先に死んじゃうだなんて。
(絶対に嫌だ…!)
だけど、食料は一ヶ月分だけ。本当に残り一ヶ月分だけ。
どうしても終わりがやって来る。最後の時が、飢え死にする時がやって来る。
(…せっかく自由になれたのに…)
船を手に入れて、自由になって。個室を貰って、船の中を綺麗に片付けて。
これからだ、って時にプツリと終わる人生。終わるしかない、ぼくたちの命。
食べ物はもう無いんだから。あと一ヶ月で無くなってしまって、何も食べられないんだから。
(これで終わりなんて…)
全てが終わってしまうだなんて。
ハーレイやゼルたちと笑い合う時間も、みんなで囲んだ食卓も、全部。
考えただけで恐ろしくなる、ぼくたちに残された生きられる時間。あと一ヶ月。たった一ヶ月。
きっとハーレイはこんな思いをもっと前からしていたんだろう。
食材の残りをチェックする度に、何が作れるかと倉庫の中身を調べに出掛けてゆく度に。
耳に残ってる、ハーレイの言葉。ぼくに言ってた、現実を思い知らされる言葉。
「食料は天から降って来ないしな?」
その通りで天から降っては来ない。それは分かってる。
どんなに欲しいと祈り続けたって、決して降っては来ない食料。もしも天から降って来るなら、とうの昔に倉庫に届いているだろう。これで生きろと、これを食べて皆で生き延びてくれと。
けれど食料は倉庫に届いてはくれず、減ってゆくだけ。食べた分だけ、減ってゆくだけ。
そして終わりがやって来る。
最後の食事を皆で食べ終えて、飢え死にを待つだけの終わりの時が。
ハーレイが、ブラウたちが「食べろ」とぼくに食事を譲りそうな日が…。
(でも…)
ぼくたちのために残された食料は、たった一ヶ月分しか無いんだけれど。
食料は天から降って来なくて、減る一方しか無いんだけれど。一ヶ月で尽きてしまうんだけど。
(飢えて死ぬのは、ぼくたちだけ…)
この宇宙では大勢の人類が食事をしていて、今この瞬間にだって余った食事をドッサリと捨てているかもしれない。まだ充分に食べられる料理を、余ったからと惜しげもなく。
(…余った食事でいいんだよ…)
それがあったら、宇宙のあちこちで余って捨てられる食事があったとしたら…。
ぼくたちは死なずに生き延びられる。飢え死にしないで、ちゃんと命を繋いでゆける。この船のみんなが生き延びるためには、ほんの小さな町で廃棄物にされる余った食事で充分なのに。
星一つ分なんて欲しいと言わない。星の上の都市の区画の中の、そのまた小さな一区画。其処で余って捨てられる食事を貰うことが出来れば、皆が生き延びられるのに。
(本当に残り物でいいのに…)
死なずに済むなら、飢えて死なずに済むと言うなら、残り物だって貰いに出掛ける。
だけど、貰いに行く方法が…。
何処かの星まで残った食事を貰いに出掛ける方法が無い。
だって、ぼくたちはミュウだから。ミュウを乗せた船が降りられる星は何処にも無い。
降りられないなら、残り物だって貰えやしない。貰いに行けやしない…。
宇宙には余った食事があるのに、飢えて死ぬしかないぼくたち。
残り物さえ貰いに行けずに、一ヶ月後には最後の食事を済ませるしかない運命のぼくたち。
天から食料は降って来なくて、残り物さえ貰えないままで。
食べ物が溢れている筈の宇宙で、ぼくたちだけがやせ衰えて死んでゆくなんて…。
(…待って)
余った食事がある筈の宇宙。この船を取り巻く宇宙空間。漆黒の闇に浮かんだ瞬かない星。
(…宇宙空間って…)
アルタミラで受けた人体実験。強化ガラスの檻で受けさせられた実験。
檻の向こうは真空の宇宙だと放り込まれた。放射線が飛び交う、絶対零度の死の空間だと。抵抗なんかは出来る筈も無く、これで死ぬんだと思ったのに。
ぼくは生きてた。死なずに生きてた。
どうやったのかは分からないけれど、恐れおののく研究者たちを中から見てた。
だから、ぼくなら外へ出られる。この船の外へ。
(…御飯、貰いに行けるんだろうか?)
宇宙の何処かで余った食事を、みんなのために。船の仲間に食べて貰うために。
下さいと言ってもミュウに分けてはくれないけれども、食事の残りを捨てていそうな所に行って貰って来られたら。捨てたものなら、無くなっていても人類だって気にしない。
(何処かの星へ…)
人類が住んでいる星へ、と思ったけれども、危険すぎる。
ぼく一人だけが降りるのだとしても、船ごと星に近付いて行けば見付かってしまう。
(…御飯…)
他に食事をしていそうな場所。御飯が余っていそうな場所。
星みたいに警備が厳重じゃなくて、でも人類が食事をしていて…。
(そうだ、船…!)
ぼくたちが乗ってる船みたいなのが、沢山宇宙を飛んでいる。人類を、彼らの食料を乗せて。
それに近付けたら、きっと食事が、残り物じゃなくて本物の食料が手に入るだろう。
(…ぼくなら行ける)
船さえ見付かれば、宇宙を駆けて。多分、宇宙空間を飛んでゆくことが出来る筈。
宇宙どころか船の中でだって、飛んだ経験は無いんだけれど。アルタミラでも飛べるかどうかの実験なんかは無かったけれども、飛べると思った。ぼくは飛べる、と。
食料がまだ一ヶ月分も残っている今の間なら、ぼくの体力は充分に持つ。
(…どうやって奪う?)
船を壊してしまおうか?
全体じゃなくて、食料を積んでいる部分。其処を見付けて外壁を壊せば、中身は外へ流れ出す。真空の宇宙へ吸い出されるから、それを奪って逃げればいい。
(外壁が壊れたら、原因が何かを調べるよりも先に修理の筈だよ)
まさか人間が宇宙を飛んで来るとは思わないだろうし、攻撃どころじゃないだろう。船の修理を急いでいる間に、食料を持って逃げるんだ。
そうすればこの船のみんなが助かる。誰も飢え死にしないで済む。
決めた、とぼくは決意を固めた。
駄目で元々、死ぬよりはマシ。飢えて死ぬよりはずっとマシだから、やってみようと。
次の日の夜、ぼくは夕食の後でハーレイの部屋まで一緒に行って。
「どうした?」って椅子を勧めてくれたハーレイに向かって頼み込んだ。
「ハーレイ、お願い。船を探して」
「船?」
「うん、人類の船。何でもいいから」
船が見付かったら、ぼくが食料を奪ってくるから。船なら積んでいるでしょ、食料。
「お前がか!?」
「大丈夫、ぼくなら宇宙でも平気。それに飛べるよ」
遠い所へでも飛んで行けるよ、ハーレイたちは船で待ってて。
「…しかし…」
「飢え死にするより絶対マシだよ。ヒルマンたちに言ってよ、船を探して、って」
お願い、と懸命に訴えたぼく。
今まではレーダーに機影が映る度に逃げていたけれど。見付からないようにと隠れたけれども、次に来た船。どんな船でも食料は必ず積んでいるから、それを探して、とぼくは頼んだ。
船を見付けたら距離を保って逃げていてくれと、ぼくは必ず帰ってくるから、と。
「ブルー、本気か?」
お前、本気で言っているのか、そんな無茶なこと。食料を奪って来ようだなんて。
「うん。だって、ハーレイ…。ぼくに食事をくれそうだから」
「食事?」
怪訝そうなハーレイに、ぼくは「最後の晩餐…」と昨夜習ったばかりの言葉を返した。
「ハーレイはぼくに、最後の食事をくれそうな気がするんだよ」
「なんで分かった?」
俺は一言も言っちゃいないのに、お前、心を読んだのか?
「ほらね。心なんか勝手に読みはしないけど、ホントにそういう気がしたんだよ」
最後の食事を貰っちゃったら、ハーレイが先にいなくなっちゃう。ぼくに食事を譲った分だけ、先に。なのにハーレイの分を貰っちゃったぼくは、みんなよりも長く生きるんだ。
余計に沢山食べた分だけ、みんなが飢え死にしちゃった後も。この船の中に独りぼっちで。
ぼくは独りで残るのは嫌だ。だから行ってくる。食料を奪いに飛んで行ってくる。
ハーレイが止めたら、それはぼくに独りきりで生き残って泣いてろって言うのと同じなんだよ。
ぼくをそんな目に遭わせたくないなら、ヒルマンたちに言って。
船を探してって、次に人類の船を見付けたら、逃げないでぼくに知らせてって。
根負けしたのか、賭けてみる気になったのか。
ハーレイはヒルマンや、ブリッジに出入りしているブラウたちに相談してくれた。食料の残りが尽きそうなことと、ぼくが奪いに出掛けることを。
そうして許可は得られたけれども、食料は少しずつ減ってゆくから。
食べた分だけ、使った分だけ減ってゆくから、ぼくは毎日、気が気じゃなかった。倉庫を覗いて残りを数えて、ハーレイに訊いて。まだ大丈夫かと、毎晩、訊いて。
このまま船が一隻も来なかったら…、と心配になってきた頃にレーダーが捉えた人類の船。
ブリッジに居たゼルとブラウから「見付けた」と思念が飛んで来た船。
部屋に居たぼくは「行かなきゃ」と通路に飛び出したんだ。
船は多分、客船か輸送船。人類軍の船では無さそうだから、と飛んでいる位置も教えてくれた。
急いで見付けて、とにかく食料。何でもいいから、食べる物を奪って来なくっちゃ…!
ハッチに向かって走るつもりが、気が付いたら宇宙に浮かんでた。
駆けてゆく筈の通路もハッチも飛ばしてしまって、船の外の宇宙にぽっかりと。
(えっ?)
それがぼくの初めての瞬間移動。自分でも全く知らなかった力。
ぼくたちが乗っている船の姿を初めて宇宙で外側から見た。アルタミラから脱出する時は大きく頼もしい船に見えたけれども、やっぱり大きい。
みんなの命を乗せている船。ハーレイにゼルに、他にも沢山、守りたい仲間が乗っている船。
(待ってて、みんな…!)
この船のみんなが死んでしまうなんて、飢え死にだなんて、とんでもないから。
外側からこうして船を眺めたら、一層強く思ったから。
ぼくは真っ直ぐに目標へと飛んだ。ゼルたちに教えられた方向、人類の船がいる方向へ。
(あれだ…!)
最初は光の点だった船。見る間に近付いて、ぼくたちの船と変わらないほどの大きさになった。窓が多いから、きっと客船。食料は充分に積んでいる筈。
(…倉庫…)
船の構造には詳しくないけど、窓の無い部分の何処かだろう、と見当を付けて透視してみて。
見付けた倉庫と、食料が詰まった大きなコンテナ。あれが欲しい、と思ったコンテナ。
途端に、それは魔法みたいにぼくの目の前に浮かんでた。
ぼくが狙ったコンテナの一つ。欲しいと願った、コンテナの一つ。
(これだけあれば…!)
暫くは飢えずに凌げると思う。でも、念のためにもう一個。
次の機会がいつになるかが分からないから、もう一個くらい貰っておいてもかまわない。人類の船は食料が消えたと大騒ぎになってしまうだろうけど、補給すれば済む問題だから。何処かの星で補給するとか、通信を飛ばして輸送船から分けて貰うとか。
(ぼくたちと違って、飢え死にしたりはしないんだものね)
貰っておくよ、と奪った大きなコンテナが二つ。中にぎっしり食料の山。
後は力なんかは要らなかった。
みんなの所へ持って帰るんだ、って強く思うだけで軽々運べた。二つのコンテナはぼくの後から勝手について来て、ぼくとおんなじ速さで飛んだ。
そうして真っ暗な宇宙を駆けて行った先に見えた、まだシャングリラじゃなかった船。名前すら付けていなかった船。だけど、みんなが乗っている船。みんなの命を乗せている船。
(間に合ったよ!)
コンテナに二つ分もの食料。これで飢えない。終わりは来ない。
ぼくはコンテナごと、格納庫の中へと飛び込んだ。飛び出した時と全く同じに、ハッチも通路も通ることなく。
船に戻った、と思念を飛ばしたら格納庫に駆けて来たハーレイ。
ぼくもコンテナもレーダーに映りはしなかったから、ブリッジから肉眼で見付けたゼルたちも。
「ハーレイ、盗ったよ!」
コンテナに二つ、人類の船に載ってた食料。
中身は沢山の野菜と肉とかなんだよ、他にも色々!
それでね…、と戦利品を説明しようと得意だったぼくを抱き締めて、泣いたハーレイ。
無事で良かったと、帰って来てくれて良かったと。
「本当に心配したんだぞ、ブルー…!」
お前、レーダーに映らないから。何処へ行ったのかも分からないから。
帰ってくる時も全く手掛かりが無くて、ちゃんと俺たちの船を追って来られるのか心配で…。
お前だけが先に死んじまったらどうしようかと、本当に気が気じゃなかったんだ…!
それから後は奪ってばかりの日々だったけれど。
最初の一度でコツを掴んでしまっていたから、もう幾らでも奪えたんだけど…。
(たまに失敗しちゃうんだよね)
とにかくコンテナ、って奪ってくるから、やたらジャガイモだらけとか。キャベツばかりが多い時とか、偏ることが何度もあった。
ハーレイが苦労して料理をしていたジャガイモ地獄や、キャベツ地獄や。
ゆっくり中身を品定め出来たら、あの手の失敗は無かったと思う。
だけど、ハーレイが心配するから。早く戻らないと心配するから、奪う速さが最優先。品定めをしている時間があったら、一秒でも早く船に帰ること。
(…半分はハーレイのせいだったかもね、ジャガイモ地獄)
キャベツ地獄も…、と考えていたら。
「おい、ブルー?」
「あっ、ハーレイ!」
いきなり聞こえた、ハーレイの声。ママの案内でぼくの部屋に来た、今のハーレイ。
おはよう、とぼくは身体ごと振り向いて笑顔で応えた。
ハーレイのことを考えていたよと、最初に食料を奪った時のことなんだよ、と。
ママが「あらあら…」って笑ってる。「楽しそうね」って、「ブルーの思い出話なのね」って。
お茶とお菓子をテーブルに置いてってくれたママ。
飢え死にしそうだった危機の話だとは思ってないよね、そういう思い出なんだけど…。
今のぼくには想像もつかない、恐ろしかった思い出話だけれど。
でも、思い出になってしまったから。
前のぼくの記憶の一つに過ぎない思い出だから、今、話すのならお茶とお菓子が似合うんだ。
ハーレイと二人、向かい合わせで紅茶のカップを傾けながら。
「あれなあ…。俺は本当に生きた心地もしなかったんだ」
やれやれ、って頭を振ってるハーレイ。
ぼくが船から飛び出してった後、戻って来るまで怖くて怖くてたまらなかったと。
二度と戻って来ないんじゃないかと、ぼくがあのまま戻らなかったらどうしようかと。
「大丈夫だって言っといたのに」
ぼくなら宇宙空間でも平気なんだ、って何度も説明しておいたのに…。
「お前に教えるべきじゃなかったと真剣に後悔したんだぞ。食料の残りがもう無いって」
あんな無茶をやらかすと分かっていたなら、俺は決して教えなかったな。
「だけど、そのお蔭で生き延びられたよ、前のぼくたち」
最後の食事だか、晩餐だか。
それをハーレイから貰った後だと手遅れなんだし、食料が減って弱ってからでも駄目だった。
あのタイミングで聞いていたから間に合ったんだよ、船を探すのも、奪いに行くのも。
「そうだな、実際、そうなんだが…」
もう食料が尽きちまうんだ、って皆に言うしかない時だったら、既に手遅れだったんだろうが。
俺だってそうだと分かっちゃいるが、だ。
それでも未だに後悔してるな、チビだったお前に俺の悩みをぶつけちまったこと。
すまん、とハーレイが謝るから。もう時効だよ、と笑った、ぼく。
とっくの昔に時効なんだと、前のぼくの時から時効だったと。
「そうでしょ、ハーレイ? ぼくは嫌だと言った筈だよ、独りぼっちで船に残るの」
ハーレイの最後の食事を分けて貰って、一番最後に飢え死にするなんて絶対嫌だ、って。
「それはそうだが…。前のお前も自分が決めたと何度も言ってはいたんだが…」
お前にウッカリ言っちまったのは前の俺だし、チビのお前には重すぎだよな。
食料の残りがもう無いだなんて、あと一ヶ月で無くなるだなんて。
お蔭でみんなの命が助かったにしても、チビだったお前に無理をさせたのは俺なんだ。
前はお前に散々、世話になっちまったから。
食い物のせいで悩ませた上に、その後も長いこと、お前が奪った食料で生きていたんだから。
その分、今度は嫌というほど食わせてやるさ。
俺が作る料理も、二人で何処かへ食べに出掛ける料理ってヤツも。
「うん、ハーレイ。御飯、沢山食べに行こうね」
結婚したら沢山食べに行こうね、そして家でも食べ切れないほど。
ぼくは沢山食べられないけど、それでも沢山。
ハーレイと二人で、幸せな御飯。
だって今度は、間違ったって飢え死になんかしない、青い地球の上にいるんだから…。
残された食料・了
※アルタミラから脱出したブルーたちが直面した危機。あと1ヶ月で尽きる食料。
最後の食事を譲ってくれそうなハーレイたちを救ったのが、前のブルーの略奪の始まり。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(わあっ…!)
ブルーの瞳を引き付けた、それ。学校帰りの路線バスの中。
座った席から見るともなしに見たバスの前方、運転席のすぐ脇の所。
バスを降りる人が取ってゆけるよう催しなどのチラシが吊られている場所だけれど、「釣り」と書かれた二文字が目に入った。
ハーレイの父が好きだという釣り。しかも「一日釣り名人」と謳ったチラシ。
「釣り」の二文字がグンと大きく強調されたそれが、もう気になってたまらない。
(どんなのかな?)
考えただけでドキドキしてきた。
子供向けのイベントのようだけれども、対象年齢はどのくらいだろう?
自分も子供には違いないのだし、ああいうイベントに行けたなら…、と胸が高鳴る。
(んーと…)
もっと詳しく見たいと思うが、今のブルーはサイオンの扱いがとことん不器用。チラシの場所に狙いを定めて拡大しては眺められない。
チラシを取って来れば済むものとはいえ、こんな日に限って前の方の座席が埋まっているから、取りに行くなら鞄を置いて行き、再び戻って来なければ…。
(…降りる時に貰えばいいんだよね)
バスに乗っている時間は短いのだから、ほんの少しの間の我慢。降りる時に貰えばいいチラシ。
自分くらいの年が対象のイベントだったら…、と夢が膨らむ。あのイベントに行きたくなる。
一度もやったことが無い釣り。ハーレイの父が大好きな釣り。
ハーレイから「俺の親父は釣りが好きでな」と聞かされるまでは、さして興味の無かった釣り。友人が休日に釣りに行くのだと話していたって、羨ましいとは思わなかった。
けれど今では憧れの釣り。
ハーレイの父が、ブルーを連れて行ってやりたいと思ってくれているらしい釣り…。
チラシから目を離せないまま、バスはいつものバス停に停まり、降りる時に目的のものを貰って降りた。「一日釣り名人」の文字が躍ったチラシ。
バス停に降りるなり、走り去るバスを振り向きもせずにチラシを覗き込んだのだけれど。
(えっ?)
澄んだ川の写真がメインに刷られた、「一日釣り名人」のイベント。
対象年齢はまさにブルーの学校に通う子供たちの年。下の学校に通う子供向けにも同時開催。
(ぼく、行けるんだ…!)
釣りへの道が一気に開けて、グッと近付いたような気がする。
歩きながら読みたいくらいだけれども、あまり褒められたことではないし…。
(そういう時に限って、ご近所さんに会っちゃうんだよ)
すれ違うとか、生垣越しに「お帰りなさい」と声を掛けられるとか、「こんにちは」とか。
チラシに夢中で生返事をしては失礼なのだ、ということくらいは充分に分かる。ブルーの年なら「微笑ましい」と済ませてくれるだろうけれど、それはつまりは子供扱い。
(子供じゃないしね!)
十八歳になったら結婚しようと決めている以上、子供扱いは御免蒙りたい。チラシの中身は気になるのだけど、もうすぐ結婚する自分に相応しく、此処は礼儀を優先で。
読みたい気持ちをギュッと押さえ付け、ブルーはチラシを鞄に仕舞った。
家に帰って、制服から普段着に着替える暇ももどかしく、部屋で立ったまま読んでみたチラシ。鞄の中から引っ張り出して来た、大切なチラシ。
(釣り入門…!)
学校に通う年齢の子供たちのための一日講習会。初めて釣竿を握る子供でも釣り名人に、というコンセプト。だから「一日釣り名人」。
秋は釣りを始めるのにピッタリの季節だと書かれてあった。冬を越すための「荒食い」とやら。魚たちが活発に餌を食べるから、初心者の腕でも釣りやすいという。
チラシの写真の川に棲んでいる、鯉やフナにウグイ、ハゼといった魚。それらを釣ろう、と魚の写真も載っていた。写真の下には魚たちの大きさと紹介文も。
その上、「一日釣り名人」。釣り名人たちが大勢、指導に来てくれるらしく。
(ハーレイのお父さん、これに来るとか!?)
釣り好きな上に名人なのだと聞いていた。海でも川でも出掛ける釣りの達人なのだと。
もしも隣町から来て参加するなら、是非会ってみたい。
ハーレイは「ヒルマンに少し似ているぞ」と話してくれただけで、顔は教えてくれなかったが、向こうはブルーの姿を知っているのだし、一目で気付いてくれるだろう。
(ぼくみたいな子は珍しいものね)
銀色の髪に赤い瞳のアルビノの子供。きっと自分だと分かって貰える。
(声を掛けてくれるかもしれないし…!)
釣りだけではなくて、ハーレイの父に出会えるかもしれない素敵なイベント。
行ってみたい、と思ったけれども。
(土曜日なんだ…)
ハーレイが来てくれる土曜と日曜。いつも待ち遠しい、週末の二日間の休日。
その片方の日がイベントの日では、選ぶまでもなく参加は見送り、家でハーレイと過ごしたい。
けれど、ハーレイに何か予定が入って、来られない日だと言うのなら…。
(断然、釣りだよ!)
家に居るより、釣りに行きたい。「一日釣り名人」の講習会に出掛けてみたい。
憧れの釣りを体験できるし、運が良ければハーレイの父に会って話が出来るのだから。
(…この日、どうかな…)
ハーレイの予定はどうなっているのだろうか、とチラシを見ていたら、母の声。
「ブルー、おやつよ!」
下りて行かないから呼びに上がって来たのだろう。多分、階段の半ば辺りから呼んでいる声。
「はーい!」
大切なチラシを勉強机に置くと、ブルーは部屋を飛び出した。母の姿はもう見えない。代わりに漂う、美味しそうな匂い。甘く優しい、ホットケーキらしき幸せな匂い。
ダイニングに入ると、思ったとおりにホットケーキが焼き上がっていた。食の細いブルーが満足出来るようにと小さめに焼かれ、二枚重ねてお皿の上に。
早速、バターを乗せてメープルシロップをたっぷりとかけて。
ナイフで切って頬張る間も、「一日釣り名人」のチラシが頭を離れず、つい笑みが零れる。
もしかしたらと、釣りに出掛けてハーレイの父に会えるのかも、と。
「どうしたの? 今日はずいぶん御機嫌ね」
学校でいいことがあったのかしら、と母が訊くから。
「あのね、ママ…。今日、バスで貰ったチラシにね…」
嬉しさのあまり、もう喋らずにはいられない。こんなイベントを見付けたのだと、釣りが習えるイベントなのだと。
「釣り?」
「うんっ! 一日釣り名人だって!」
「ブルーは釣りをやってみたいの?」
母の不思議そうな顔でハタと気が付き、「ちょっとだけね」と慌てて答えた。
(いけない、ママはハーレイのお父さんのことは知らないんだ…!)
これではどうして自分が釣りをしたいと言い出したのか、まるで見当が付かないだろう。下手に言い訳をすれば、何をポロリと話してしまうか分からない。
(…ハーレイのお父さんだけで済めばいいけど…!)
ハーレイのことが好きでたまらないとか、そのハーレイの父が好きな釣りだから憧れるとか。
そういう話をしてしまったら、ハーレイとの仲が明るみに出る。
これはマズイ、と冷汗が出そうになったのだけれど。
「そういえば、ハーレイ先生のお父さんがお好きだったかしら?」
(…た、助かった…)
ブルーは心底、安堵した。
いつもは不満一杯の両親も交えてのハーレイとの夕食。両親は「子供の話し相手をするのは大変だろう」とハーレイを気遣い、せっせと声を掛けているから。ハーレイをブルーから奪ってしまうから、嬉しくない時間だったのだけれど。
そのお蔭で釣りの話を母が知っていたのか、と「嬉しくない時間」に感謝したい気持ち。
「うん、ハーレイの話を聞いている内に興味が出ちゃった」
釣りって、ぼくでも出来るのかなあ、って。
「それで、行ってみるの?」
「ハーレイが来られない日だったらね」
土曜日なんだよ、ハーレイが来る日。ハーレイに予定が入っているなら、釣りに行きたい。
「ブルーは本当にハーレイ先生が大好きねえ…。一緒に行って頂いたら?」
「大人は駄目なイベントじゃないかな、子供向けだし…」
下の学校の子なら、保護者付きかもしれないけれど。ぼくの年だと駄目じゃないかな?
そうは言ったものの、胸に生まれた微かな期待。
部屋に戻るなり手に取ったチラシには、保護者同伴は下の学校の子供たちだと書かれてあった。ブルーの年では一人か、友達同士でのグループ参加。つまりハーレイとは一緒に行けない。
(せっかくママのお許しが出たのに…)
母の後押しがあれば、ハーレイも断ることは出来なかっただろう。ブルーを連れて行ってやって欲しいと頼まれたならば、理由も無いのに断る方が難しい。
(ハーレイと一緒に出掛けられるチャンスだったのに…)
こんな機会は二度と無いだろうと思うのだけれど、ブルーの年では要らない保護者。ハーレイと一緒に行けないイベント。
(でも、ハーレイのお父さんが…)
釣り名人のハーレイの父が来るイベントなら、それだけで充分、値打ちはあった。顔を知らない自分からは声を掛けられないけども、もしも見付けて貰えたならば。
(ハーレイのお父さんに挨拶出来るんだよ!)
「はじめまして」と頭を下げて、「これからよろしく」と握手だって出来る。ブルーのためにと指導に付いてくれるかもしれない。
そういったことを考えて行けば、ハーレイと一緒に出掛けられなくても美味しいイベント。
たとえ一人でも行かねばなるまい、と決心した所で来客を知らせるチャイムが鳴って。
「ほほう、お前、釣りに出掛けるのか?」
仕事帰りに寄ってくれた恋人に例のチラシを見せると、興味深げに眺めているから。
「ハーレイが来られない土曜日ならね」
家で一人より、これに行くよ。釣り名人になれるみたいだから。
「俺の用事なら、いくらでも作るが? 久しぶりに道場へ指導に行くのもいいな」
「それは無し!」
作るのはダメ、とブルーは意地悪な恋人に釘を刺した。
「で、どうなの、この日は?」
「生憎と何の用事も無かったな…」
「じゃあ、ハーレイと家に居る」
「おいおい、たまにはこういうのもだな…」
お前、身体が弱いから。…アウトドアってのは殆ど経験無しだろ、一度くらいは行ってみろ。
せっかく興味を持ったからには、やってみるのも悪くはないぞ。
「ママもハーレイと一緒に行って来たら、って言ってくれたけど…」
「俺とか!?」
「うん。ママがそう言ってくれたのに…。ハーレイ、一緒に行けないみたい…」
此処、と保護者同伴は下の学校のみ、と記された箇所を示してブルーは溜息をついた。デートのお許しが出たというのに、イベントの参加条件がそれを許してくれないのだ、と。
「でもね、ハーレイのお父さんがこれに来るんだったら、行ってもいいかな、って」
そうは思ったよ、ハーレイ無しでも行こうかな、って。
「フライングで親父に会うつもりか!」
「駄目?」
会ってみたいよ、ハーレイのお父さんに。
ぼくはハーレイのお父さんを知らないけれども、お父さんはぼくを知っているよね?
顔もチビなのも知ってるんだし、きっと見付けて貰えるよ。
ハーレイのお父さんに会えるんだったら、一人でも行ってみようかなあ…、って。
「お前なあ…。しかしだ、親父はこれには来ないぞ」
親父もこの手のイベントは好きだが、こいつに親父は参加しないな。
「嘘ついてない? ぼくが行こうとしてるから、って」
「ついていない。その日は親父は釣り仲間たちと海に行くんだ、船を雇って海釣りだ」
俺にも予定を知らせて来たのさ、おふくろも一緒に泊まりで行くから留守にするぞ、と。
「そっか…。だったら、ハーレイと家!」
釣りは行かずに家で過ごすよ、だから予定を入れないでね。ちゃんと来てよ?
「うーむ…。実に不純な動機だったな、お前の一日釣り名人への参加希望は」
しかし、親父が聞いたら喜ぶだろうな。どんな動機であれ、お前が釣りをやりたがったなんて。
「ホント?」
「ああ。親父は根っから釣り好きだからな、お前にも教えたくってたまらないんだ」
俺にしょっちゅう言ってくるんだ、あの子を連れて来る気は無いかと。
お前が自然の中で遊べて、釣りも楽しめるような川や湖。そういう所へ行かないか、とな。
この町にも、ハーレイの父が住む隣町にもあるという自然と触れ合える沢山の場所。
ブルーは山や野原しか知らないけれども、川や湖には「釣り」という楽しみがあるらしい。山や野原に出掛けた時に目にしてはいたが、特にやりたいとも思わなかった釣り。
水に糸を垂れている人たちは釣りをしているのだ、と両親は教えてくれたけれども。
待っていれば魚が釣れる筈だと言われて眺めていた程度。釣れた、と感心していた程度。
だから大物が釣れたと歓喜する現場を見たことも無ければ、次から次へと釣り上げてゆく光景も映像でしか知らないから。
釣りの楽しさを体感していないから、釣り名人の父を持った恋人に訊いてみる。
「ハーレイは釣りって、やったことある?」
「もちろんだ。お前にも教えたいって言い出す親父が、俺に教えないわけがないだろう?」
川でも釣ったし、海でも釣ったぞ。今度親父が行くヤツみたいに、船からの釣りもやってるさ。
「そうなんだ…。シャングリラでは釣りはやらなかったね」
前のぼくもハーレイもやっていないね、釣りなんか。
「必要無いしな」
わざわざ糸を垂らして釣らなくっても、係が掬っていたからな。育てた魚を、必要な分だけ。
「でも、子供たちのために、やらせてあげれば良かったね」
今日はこれだけ魚が要るから、頑張って釣ってみて下さい、って。係が掬うより楽しそうだよ、子供たちも、それを見ている大人も。
「そうだな、ゼルあたりが張り切って指導しそうだな。ヒルマンもな」
釣竿を作って、餌をつけてやって。竿を上げるタイミングなんかを付きっきりで。
「いっそ大人もみんな揃って、シャングリラで釣り大会をすれば良かったかもね」
誰が一番沢山釣ったか、それだけで充分、ゲームが出来たよ。
普段は係が網で掬ってても、月に一回とか釣り大会を開催してたら、人気のイベントになったと思うんだけどな…。今度こそ自分が優勝するとか、次は負けないとか。
「うむ。どうして思い付かなかったもんかな、魚を養殖していたのになあ…」
「やっぱり自然が無かったからだよ、こういう川とか」
自然に流れて魚が棲む川、とブルーはチラシの写真の川を指差した。
シャングリラに川の流れは無かったと、自然の流れを模した水は流れていなかったと。
「ビオトープってヤツを作りゃ良かったのか?」
「…ビオトープ?」
なあに、とブルーは首を傾げた。
まるで知らない響きの言葉。けれども聞いたような気もする。遠い昔に、あの白い船で。
白いシャングリラで耳にしたのか、あるいは本で読んだのか。
けれども、今は知らない言葉。今の地球には存在しないか、失われてしまったものなのか…。
「うん? 今の地球には要らんものだな、ビオトープはな」
生物社会の生息空間。元々はそういう意味だった。
地球の環境破壊が進んだ時代に大切にされた概念だったが、そこから転じて小さな水辺。学校や公園なんかに水辺を作って、小魚とかを飼っていたのさ。そうして生態系と自然を再現しようと。
今の地球では自然はしっかり守られているし、ビオトープなんかは必要ない。
これからテラフォーミングをしようって星なら、本来の意味でのビオトープが必要だろうがな。
「そっか、小さな水辺なんだ…。そういう公園、一つくらいはあれば良かったかも…」
公園は幾つもあったのだし、とブルーは白い鯨を思い浮かべた。
ブリッジが見えた一番大きな公園を筆頭に、居住区の中に鏤められた幾つもの小さな公園たち。その一つに水辺を作れば良かった。
そうしていたなら、釣りをしようと思ったかもしれない。
自然の水辺を模した公園が一つあったなら、魚を釣って楽しもうと考えていたかもしれない。
白い鯨に、小さな水辺をもしも作っていたならば…。
あれば良かったと、今になって思うビオトープ。白いシャングリラに自然を模した小さな水辺。
前の自分も考えたことがあるのだろうか。だから聞いた気がするのだろうか、と思った言葉。
けれどシャングリラにビオトープは無くて、釣りをしようとも考えないままで。
「ビオトープ…。なんで作っていなかったんだろう、シャングリラの中に」
「そりゃまあ、なあ…。シャングリラじゃ虫を飼えなかったしな?」
「虫?」
「ミツバチくらいしか飼っていなかったろうが、役に立たない虫は要らないと」
ビオトープを作るならトンボを飼ったり、蛍を育てたりするもんだ。
「そういうものなの?」
「本格的なヤツを目指すんならな。水草と魚だけでは生態系を再現したとは言えん」
幼虫の餌になる小さな貝とかも要るし、トンボや蛍が生きてゆくための草も必要になる。人間の憩いの場としての公園とは全く違ってくるんだ、シャングリラには向かないな。
自給自足で生きて行くための船の中には、ビオトープを作る余裕は無かったんだ。
「…ハーレイ、なんでそんなに詳しく知っているの?」
「キャプテンだった頃に調べてみたのさ、船の居心地を良くしようとな」
公園に改善の余地は無いかとか、次に木を植える時は何にしようかとか、よく調べていた。
そういった中でビオトープってヤツにも出会ったんだが、使えないな、と思ったな。
魅力的だし、子供たちの教育にも向いていそうではあるが、俺たちにそんな余裕は無いな、と。
「ビオトープまで辿り着いてたんなら、釣りはどうだったの?」
釣りっていう遊びが存在するって、気付かない筈がないよね、ハーレイ?
「もちろん気付くさ、魚の棲んでる水があったら釣りだとな」
しかしだ、そいつは遊びの一種だろうが。
これは違うな、と撥ねちまったな。魚をわざわざ釣らなくっても、網で掬う方が早いしな?
「うー…。ハーレイ、真面目すぎなんだよ!」
「そう言うお前はどうなんだ。俺と違って、外で見てたろ?」
アルテメシアの海の方に行きゃ、釣りをしていた人間たちも居た筈だがな?
「あれが釣りっていうヤツなんだな、と思っただけだよ!」
じっと見ていたわけじゃないから、楽しいのかどうかも分からなかった。
今のぼくの方がよっぽどマシだよ、釣り上げる所をちゃんと見たことがあるんだもの。
「その点は前の俺も同じだ、実感ってヤツが伴わなくてな」
釣り糸を垂らせば魚がかかると、餌に食い付いて釣り上げられるというデータを見ても、だ。
そこまでしなくても網で掬えば簡単なのに、と考えちまった。
食うための魚を調達するなら、効率的にやらんとな?
さっさと掬って厨房に運ぶのが一番だろうと思っちまったし、それでいいんだと考えていた。
同じ魚なら厨房に届ける前にも楽しめたのにな、みんなで釣りをしていたならな。
「…ホントだよ。自分が食べる魚は自分で釣るとか、楽しみ方は幾らでも…」
「そうだな、自分で釣っていたなら、美味かったろうなあ、その魚」
ついでに自分が釣った魚は、自分で料理をしていいとかな。
そしたらキャプテンになった俺でも、たまには懐かしの厨房で料理が出来たんだよなあ…。
自分が食べる魚は自分で釣るとか、自分で料理をしていいだとか。
どちらも、シャングリラでは無理だったビオトープとは違って、白い鯨で出来たこと。
ほんの少し発想を変えてやるだけで楽しめた筈の、養殖していた魚たちを使って出来たこと。
何故それすらも思い付かずに、魚を網で掬っていたのか。
係のクルーに必要な分だけ掬わせておいて、それが一番だと思っていたのか。
釣りというものが存在すると知っていながら、釣りをしようと考えなかった自分たち。
シャングリラでも釣りを楽しめる場所は、場面はあった筈だというのに。
皆で腕を競う釣り大会とか、厨房で使う魚を子供たちに遊びを兼ねて釣らせるだとか…。
可能だった筈の釣りの楽しみに気付きもしないで、魚を飼っていたシャングリラ。
ただ食べるためにだけ魚を飼育し、釣り糸の代わりに網で掬ったシャングリラ。
ブルーはフウと溜息をついて、前の自分たちの失敗なるものに頭を振った。
「…釣りが出来たのに、しなかったなんて。やっぱり駄目だね、作り物の楽園」
前のぼくもハーレイも間抜けすぎるよ、それで楽園だと思っていたなんて。
「うむ、限界があったようだな、想像力だか、発想だかの」
そして今ではビオトープさえも死語になっちまった青い地球まで来たわけで…、だ。
「そうだよ、だから今度はハーレイと釣り!」
一日釣り名人には行かないけれども、ハーレイと釣りをするんだよ。
本当に釣りがしたくなったし、ハーレイと釣ってみたいんだもの。
「分かった、分かった。いつか行こうな、釣りは俺でも教えてやれるんだが…」
お前、親父にも習いたいんだろ、名人の技。ついでに遊びに出掛けたいんだな、親父が見付けた自然一杯の川や湖に。
「うんっ! 船で行く海の釣りもやりたい!」
約束だよ、とブルーはハーレイの小指に自分の小指をキュッと絡めた。
釣りの名人に釣りを教わるのだと、ハーレイと一緒に釣りもしたい、と。
シャングリラでは出来なかった釣り。
思い付きさえしなかった釣りを、青い地球の上で。
ハーレイと並んで釣り糸を垂れて、柔らかな風が吹いてゆく中で。
あるいは青い海の上で二人、船から長い竿を伸ばして、何が釣れるかと語り合いながら…。
釣りに行きたい・了
※シャングリラには無かった「釣り」というもの。魚は網で掬っていただけ。
いくら楽園でも、船での暮らしには発想の限界があったようです。釣りは楽しいのに。
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(…無い…)
此処にも無いよ、とブルーは勉強机の脇の床に座って項垂れた。
昨日の夜からの探し物。ハーレイに聞いた海の話が心に残って、お風呂の中で思い出した物。
小さな頃に海で拾った真っ白な貝殻。
拳みたいな形の巻貝、今から思えばタカラガイの仲間。
拾った時には大きかったけれど、今の自分なら手のひらに収まるくらいだろう。
(白くてコロンとしてたんだよ…)
父が「ウサギ貝」だと教えてくれた。本当の名前は海兎貝だが、ウサギ貝の方が通りがいいと。
ウサギはとても好きだったから、貝の名前も気に入った。
真っ白でコロンと丸いウサギの貝。海に住んでいる、海兎の貝。
それに何よりも、海の音。
(…海のウサギの貝だものね)
耳に当てると中から海の音が聞こえた。海のウサギが聞いていた音。
父と母が教えてくれたとおりに、家に帰ってから耳に当てても海の音はちゃんとついて来た。
海辺のホテルに泊まっていた時は、窓の向こうの海の音かと思っていたのに。
(海の音が聞こえる貝なんだよ)
ハーレイが好きな海の音を届けてくれる貝。海の音が中から聞こえてくる貝。
確かに自分は持っていたのだ、と思い出したから、お風呂の後で探していたのに、見付からないまま諦めてベッドに入った。
遅くまで探して体調を崩せば、ハーレイに会える学校に行けなくなってしまうから。
(…色々、考えたんだけどなあ…)
今日こそは見付け出してみせる、と学校へ行く路線バスの中から考え続けて、見当を付けた勉強机の一番下の引き出しの奥。
大切な物を仕舞う場所は全て探したのだし、恐らく落っこちたのだろう、と。
(引き出しの奥に引っ掛かっちゃって、下に落ちること、あるものね…)
けれど引き出しの一番奥に貝は無かった。コロンと丸い、海のウサギは居なかった。
其処に居なければ、もう一つ下。
更に下へと落ちたのであれば、一番下の引き出しを抜かないとブルーには拾えないのに。
前の自分なら、こんな時には瞬間移動で取り出せた。サイオンで引き出しの下を覗いて、其処に落ちている海のウサギを見付けてヒョイと一瞬で出せた。
けれども今のブルーには無理。海のウサギが落ちている場所を透視すら出来ない。
行く手を阻む大きな引き出し。勉強机の引き出しの中でも、一番大きな深い引き出し。
(…重たいよ、これ…)
引っ張り出して抜いたら、元に戻せそうもない重さ。中身を空にしてみても重かった。これではどうにもなりはしない、と溜息をつく。
父が帰ったら、抜いてくれるように頼んでみようか。この下に宝物を落としたのだ、と。
けれど、それでも無かったとしたら…。
海のウサギは此処に居るのだ、と引き出しの奥を覗くけれども、自信が無い。
引き出しの下を見られないから。
コロンと落ちている筈の海のウサギは、今のブルーには見えないから。
(…何処にあるの…?)
幼い自分が大切にしていた、海の音が中から聞こえる貝。
白くてまあるい、ウサギそっくりのウサギ貝。
あの貝が今、欲しいのに。海の音を聞かせて欲しいのに…。
店で売っている貝殻ではなくて、正真正銘、自分が海で拾って来た貝。海辺で拾った海の音。
ハーレイの大好きな海の世界の音を聞かせてくれる貝。
真っ青な海と、波の音。
ハーレイが話してくれた海の話を、海の音を聞きながら思い出したいのに…。
(…そうだ、ハーレイ!)
失くしてしまった宝物。探しているのに、出て来てくれない白い貝殻。
ハーレイは探し物が得意だった、と遠い記憶が蘇って来た。
遠い遠い昔、ハーレイとシャングリラの中だけで暮らしていた頃。
そのシャングリラがまだ白い鯨ではなかった昔に…。
「あれが見当たらないんだけどねえ…」
何処だろうか、と首を捻ったブラウに、ハーレイが「あれとは?」と問い返した。
人類のものだった船に名を付けただけの、シャングリラ。名前だけは楽園と立派だった頃。
「あれだよ、あれ」
「ああ、あれな」
そいつだったら…、と備品倉庫にしていた部屋の一つに入って行ったハーレイは「これだろ」と箱を抱えて戻って来た。予備のリネン類が詰められた箱の中の一つで、枕カバーと書かれた箱。
「そうだよ、これ、これ!」
助かったよ、と箱を受け取ったブラウがおどけた表情で尋ねる。
「アレで通じたかい?」
「前後の話で大体な」
「そりゃどうも。じゃあ、貰ってくよ」
ありがとう、と立ち去るブラウを見送りながら、側で全てを見ていたブルーは首を傾げた。
予備の枕カバー。
ブラウの探し物は薄々感じ取れたけども、ハーレイもそれを読んだのだろうか?
漠然とした思念をきちんと読み取り、倉庫から出して来たのだろうか?
だとすればハーレイのサイオン能力も相当なものだ、と思ったのに。
「いや。俺はそこまで器用じゃないしな」
ブラウの姿が見えなくなった後、その質問をハーレイに向かって投げ掛けてみたら、返って来た答えがそれだった。
「あれはアレとしか分かりゃしないし、ブラウの話からアレかと思っただけなんだが…」
そのくらいは誰でも出来るんじゃないか、話さえきちんと聞いていればな。
ヒントってヤツは詰まってるもんだ、だから「アレ」でも通じるわけだ。
「でも、ハーレイ。…ブラウだけじゃなくて、いつも色々探していない?」
アレって言ってくる人は珍しいけど、探し物。
しょっちゅう倉庫に入っているように思うんだけどな。
「そりゃまあ、頼まれれば探してやるさ」
見付からないって困ってるんなら、俺が探してやらんとな?
探し出せないなら安請け合いをしては駄目だが、いつでも俺は見付けて来るだろ?
「うん。…あれも凄いな、って見てるんだけど…」
「凄くはないさ。コツはな、整理整頓だ」
整理しておきゃ見付かるもんだ、とハーレイは笑う。何処に何があるかを分かりやすく整理し、詰め込んでおけば目的の物を引っ張り出せると。
最初は二人で片付けただろ、と、お前と二人でやっただろうと。
そう、一番最初はそうだった。ハーレイと二人で始めた作業。
(…二人で掃除をしてたんだっけ…)
アルタミラから脱出して間もない頃に、一人ずつ部屋が割り当てられた。
心が落ち着いてくればプライバシーも気になってくるし、プライベートな空間が欲しいと要望も出る。船は充分に大きかったから、一人に一部屋。
貰った部屋の管理は各自の仕事。気が乗らないなら荷物が積まれたままでもかまわなかったし、綺麗にしろとは誰も言い出さない段階。
アルタミラでは狭い檻の中だけで暮らしていたから、雑然と荷物が置かれていようが部屋は充分広いと感じる。船の通路に積まれた箱なども、避けて通ればそれで済むこと。
ところがブルーには、その状態は好ましいものとは思えなくて。
(…ぼくって、前のぼくの時から綺麗好きだしね…)
自分の部屋を片付けて居心地のいい空間に仕上げた後は、通路も綺麗に掃除したくなった。歩くための場所に荷物を置いておくより、通路は通路。避けなくても真っ直ぐに歩ける通路。
けれども、どうすればいいのだろう?
ただ端の方へ寄せるだけでは根本的な解決になりはしないし、片付かない。どうしたものか、と考えながら出掛けて行ったハーレイの部屋。
脱出の直前に初めて出会った仲だというのに、「俺の一番古い友達だ」と気遣ってくれる友人の部屋。その部屋もすっかり片付いていたから、「通路…」と口から零れた言葉。
ハーレイの部屋も片付いているのに、と気になった通路。荷物を避けながら歩いて来た通路。
「ん? …通路がどうかしたか?」
怪訝そうな顔をしたハーレイに、思い切って言った。
「通路に積んである荷物…。片付けたら歩きやすいかな、って…」
「それで?」
「ちゃんと片付けたいんだけど…。今みたいにゴチャゴチャしていないように」
通路が済んだら、放ってある部屋だって片付けたいな。
この船の中をきちんと綺麗に、何処へ行っても邪魔な荷物とかが無いように。
「いいんじゃないか? いつかはやらんといかんことだしな」
此処で暮らして行くんだったら、そういったことも必要になる。放っておいたらメチャクチャになるだけで、勝手に片付くわけじゃない。
お前がそう思ったのも切っ掛けっていうヤツだろう。やるか、二人で。
サイオンは出来るだけ使わず、身体を使って手と足で。
運動を兼ねて自分の身体を動かすべきだ、というのがハーレイの動かぬ信条で。
せっせと二人で汗を流して通路に置かれた荷物を運んで、空いた部屋へと片付けていった。順に整理し、似たようなものは集めて積み上げ、箱ごとに中身が何かを書いて。
(…最初の間は分からない物もあったんだよね)
何に使うのか見当がつかず、保留になった箱が幾つもあった。それはそれで纏めておいて、箱に「不明」の文字と手掛かり。どういった形の物だったとか、何で出来ているように見えたか。
飛び抜けて身体の大きいハーレイはともかく、小さなブルー。
船で一番身体が小さく、見た目も少年のブルーが頑張って片付けをしているのだから、まずゼルたちが手伝い始めて、いつしか船の仲間たちが総出の作業となった。
思ったよりも早く船の中は整理され、通路も人間専用としての本来の機能を取り戻して…。
それがハーレイの仕事の始まり。
本人は厨房で調理をしていたけれども、最初は食材の管理から。食料の在庫を常に把握し、船にあるものだけで料理を作った。何があるかを、どれから使うかを計算しながら。
ブルーが食料と一緒に物資も奪って来るから、食料を倉庫などに運び入れた後に、残りの物資を仕分けして仕舞うことになる。
個人の役に立ちそうなものは、希望者を募って公平に分配。
船全体で使うものなら、目的別に備品倉庫へ。箱に中身が書かれていなければ、何の箱か一目で分かるように書き、埋もれてしまわないように様々な品物のリストも作って。
物資の仕分けや備品倉庫への搬入作業は、ハーレイ以外の者も手伝っていたのだけれど。
備品倉庫の基礎を作ったのがハーレイだったから、どういった品が何処に運ばれたか、置かれているかはリストを見ずとも把握出来ていたと言っていい。
こういう品なら何処の倉庫で、其処のどの辺り、と簡単に見当を付けられる。
大抵の物の在り処はハーレイの頭に入っていたから、さながら備品倉庫の管理人。
ブラウではないが、「あれ」などという要領を得ない問い合わせをする者もいたし、目的の物が見付からないと訊きに行く者も。
どれもにハーレイは気軽に応じて、求められる品を出してくるから。
待たせることなく備品倉庫から出してくるから、ますます頼りにされてゆく。
「見当たらない物があるならハーレイに訊け」とまで言われたくらいに。
(…うん、自分が何処かで失くした物まで訊きに行くんだよ)
いつも期待に応えたハーレイ。
船の中で誰かが置き忘れた物まで、きちんと管理していたハーレイ。船の備品なら、それが本来あるべき場所へと。そうでなければ、持ち主不明の遺失物として専用の場所へ。
そうした管理能力なども買われて、ついにはキャプテンになったのだけれど…。
(…そっか、ハーレイの探し物の才能、ぼくの部屋だと無理なんだ…)
此処はハーレイが整理した部屋ではないから。ハーレイが整えたわけではないから。
「見当たらない物があるならハーレイに訊け」と頼られた能力は発揮されない。
ブルーの部屋では出来るわけがなく、海のウサギは見付けられない。
それでも…、と期待したくなる。
ハーレイならばと、あのハーレイなら失くしてしまった海のウサギを見付け出すかも、と。
もしかしたら…、と勉強机で考え込んでいたら、来客を知らせるチャイムの音。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから、母がお茶とお菓子を置いて出て行くのを待って頼んでみた。例の引き出しを引っ張り出せるかと、引っ張り出してから元に戻せるかと。
「ん、こいつか?」
椅子から立ったハーレイは引き出しを確かめ、両手でグッとしっかり掴んで。
「…よっ、と!」
引き出しの中身を出しもしないで、軽々と引っ張り出されたそれ。ブルーの腕には空の状態でも重すぎたそれを、楽々と引っ張り出してくれたけれども。
覗き込んでみた奥の暗がりに、ブルーの探し物の姿は無かった。
引き出しの下に落ちたのだろうと思った、海のウサギは居なかった。
「…ありがとう…。引き出し、元に戻してくれる?」
溜息と共に頭を引っ込め、逞しい腕を持つ恋人に頼んだ。
「もういいのか?」
「…うん。…無かったから……」
「ほう…?」
引き出しを元に戻してくれたハーレイは何かを言いたそうで。
テーブルを挟んで向かい合わせに座り直した後も、鳶色の瞳が「どうした?」と問い掛けてくるように見えるから。
つい、その表情に甘えたくなった。
探し物が得意だったハーレイならばと、この部屋でも見付けられるのかも、と。
引き出しを引っ張り出してくれたハーレイ。元に戻してくれたハーレイ。
探し物をしていることは、きっと分かっているだろうから。
ブルーは「ねえ」と、恋人に甘えることにした。
「ハーレイ、今でも探し物は得意?」
「はあ?」
「前のハーレイだよ、うんと昔のシャングリラの頃。探し物の天才だったでしょ?」
みんな言っていたよ、「見当たらない物があるならハーレイに訊け」って。
「あったな、そういう言葉もなあ…」
懐かしいな、と鳶色の目が細められる。
「それで、お前の探し物というのは何なんだ? 引き出しの下には無かったそうだが…」
ちゃんとハサミを持ってお願いしてみたか?
「ハサミ?」
「古い昔のおまじないさ。ハサミを持ってお願いするんだ」
お前の机にもあるだろ、ハサミ。
まずアレを持って、刃先を下に向けてだな…。それから目線よりも上に持ち上げるんだ。
そうやってハサミにお願いしてみろ、声には出さなくてかまわないから。
「これを失くしてしまいました。早く見つかりますように」ってな。
俺に頼むよりも先にハサミに頼め。駄目で元々と言うだろう?
古典の教師ならではの知識か、それとも古い物が好きだと聞くハーレイの両親の知恵なのか。
ハサミのおまじないなるものを教わったブルーは、両手でハサミを持ってみたけれど。
刃先を下にして願ってみたけれど、それで出て来る筈も無くて。
(…ウサギ貝、何処に行っちゃったんだろ…)
引き出しの下には居なかったウサギ。白くてコロンと丸い海のウサギ。
ハサミを所定の位置に戻して、ガッカリしながら椅子に腰掛けると、ハーレイに訊かれた。
「何を探しているんだ、お前?」
「…宝物……」
海の音がする貝を探しているとは言えなかった。恥ずかしくて。
ハーレイの好きな海の音が聞こえるウサギ貝を探しているのだ、とは。
「宝物なあ…。見付からないのか?」
「うん。昨日の夜から探しているのに…」
ぼくの宝物は全部、机の引き出しにちゃんと仕舞ってある筈なのに…。
「宝物、本当に其処だけか?」
「えっ?」
「机の引き出しだけなのか、と訊いているんだ。お前が宝物を仕舞っておく場所」
宝物ってヤツは生きてる間にどんどん増えるぞ、分けていないか?
増えすぎちまって他の何処かに仕舞っていないか、その宝物。
「あっ…!」
そういえば、とブルーは思い出した。自分でもとうに忘れてしまっていたことを。
ずいぶん前に、母に綺麗な缶を貰った。
元々はお菓子が沢山詰まっていた缶。パカリと蓋が開く、青く美しい地球が印刷された缶。
蓋に青い地球、缶の四方はソル太陽系の星たちと宇宙。一目で魅せられて欲しかった缶。
(…前のぼくの記憶は、あの頃は戻っていなかったのに…)
それでも缶が欲しいと思った。青い地球とソル太陽系と宇宙を鏤めた缶が。
母に強請って、約束をして。
中のお菓子が無くなった後で、貰って大切にこの部屋に運んで来て。
あの缶を何処に仕舞っただろう?
青い地球が浮かんだ宝物の缶を、自分は何処に仕舞ったのだろう…?
それこそハサミにお願いしたい気分だったが、部屋をぐるりと見回してみて。
(そうだ、クローゼット!)
小さな自分が潜り込んでいた。母に貰った缶を抱えて、奥の奥へと。
(うん、きっと、あそこ…!)
開けて覗いてみたクローゼットの奥の隅っこ、今よりも小さな自分が隠した缶が入っていた。
身体ごと手を伸ばし、手にした途端に蘇る記憶。
この缶の中に確かに仕舞った。
幼かった頃の宝物の幾つか、うんと大切で特別な宝物たちを。
(…青い地球が綺麗な缶に入れたよ…)
あの頃の自分は、青い地球がどんなに価値のあるものか、全く知らなかったのに。
前の生で焦がれた星であることさえ知らずに生きていたのに、宝物を仕舞おうと考えた。そして大切に隠しておこうとクローゼットの奥の隅に置き、取り出しては中身を眺めていた。
(ぼくの宝物…)
取り出した缶の蓋を開ければ、コロンと丸い白い貝殻。
探し回っていたウサギ貝。
海のウサギが缶の中に居た。他の宝物たちと顔を並べて、誇らしげに。
「あった…!」
見付かった、とブルーは宝物の缶から海のウサギを持ち上げた。
遠い記憶では大きかった貝は、思ったとおりに今の自分の手のひらに収まる大きさで。
白いウサギを手のひらに乗せて、艶やかに光る身体を撫でる。
「ハーレイ、やっぱり探し物の天才なんだね!」
「そういうわけでもないんだが…。まあ、あれだ。お前よりも長く生きてる分、経験でな」
増えちまったら、分けて仕舞うしかないだろう?
最初は身近な場所に仕舞って、増えたら今度は宝物置き場を作るってな。
で、なんでそいつを探していたんだ?
「えっ?」
えーっと…、と言葉に詰まったブルー。
海のウサギは見付かったけれど、探していた理由は海の音。
ハーレイが大好きな海から聞こえる音が聞きたくて探していたとは、とても言えない。
恥ずかしくて言えたものではない、と頬を真っ赤に染めたけれども。
そうなればハーレイが訊かずに済ませるわけがない。
どうしてブルーが頬を染めるのか、その貝殻に何の意味があるのかと。
ハーレイは赤くなったブルーに「うん?」と探るような目を向け、片目を瞑った。
「俺が探してやったんだ。教えて貰う権利はあると思うがな?」
ウサギ貝だろ、その白い貝。
なんでお前が探していたのか、理由を訊いたら赤くなるのか。
まさかウサギの目の色を真似てみましたってわけでもあるまい、どうして顔が赤いんだ、お前。
「…ハーレイの意地悪…」
ブルーは唇を尖らせながらも、渋々、意地悪な恋人に向かって白状した。
「……海の音だよ」
「海?」
「…ハーレイの好きな、海の音。それが聞きたかった」
昨日、海の話をしてくれたでしょ?
あれを聞いたら海に行きたくなったけれども、近くに海が無いんだもの。
海の音だけでも聞きたいのに、って考えていたら思い出したんだ。
小さな頃に海で貝を拾って、持って帰ったら家でも海の音が聞こえたんだ、って。
また聞きたい、って思って探していたんだよ。
海の音だけでも聞いてみたい、って…。
ハーレイが好きな音がどんなのか、この貝で聞いてみたいって…。
「…参ったな…」
俺のせいか、とハーレイは照れたように頭を掻いて。
少し赤くなった頬をブルーに悟られないよう、「ほら」とウサギ貝を指差した。
「せっかく見付かった貝なんだしな? 耳に当ててみろ」
暫く黙っていてやるから。
海の音がするか、ちゃんと確かめてみるんだな。
「うん」
素直に耳に当てたブルーが、目を閉じて貝から流れて来る音に聞き入っているから。
ハーレイは「どうだ?」と小さなブルーに尋ねた。
「それで海の音、聞こえるか?」
「…聞こえてるよ、海の波の音…」
うんと遠くから、と赤い瞳が姿を現し、音を聞きながら瞬いた。
「ハーレイ、この音が好きなんだね」
波が浜辺に打ち寄せる音。…貝が聞かせてくれている音。
この音がする浜辺からずっと遠くの沖まで、泳いで行くのが大好きなんだね…。
「まあな。沖へ出ちまったら波の音はせんし、浜辺でのんびり寝転んでいるのも好きだがな…」
そうやって波の音を聞いているのも好きだが、間違えるなよ?
俺の一番は海じゃなくって、その音を聞きたいと探してくれたお前の方さ。
一番好きなものはお前だ、海よりもずっと大事なんだから、覚えておけ。
「…ホント?」
「本当だ。…だが、当分はお前と海には行けんしなあ…」
それまでは音だけで我慢しててくれ、俺が探してやった貝から聞こえる海の音で。
見付かったんだからそれでいいだろ、海の音の貝。
いつか一緒に海に行こうな、とハーレイが微笑む。
俺の車で本物の海へ、本物の地球の青い海の音を聞きに行こう、と。
「連れてってくれる?」
「もちろんだ。お前にも俺の好きな世界を見せてやらんとな」
しかしだ、俺が海で泳いでたら、お前は留守番になっちまうしなあ…。
二人で一緒に浜辺を歩いて貝殻でも拾うか、海水浴の代わりにな。
「…海のウサギをまた拾えるかな?」
「そいつはどうかな、運次第だな」
だから今度は失くすんじゃないぞ、そのウサギ貝。
また拾えるとは限らないからな。
「失くしたらまた探して貰うよ、ハーレイはちゃんと見付けてくれるから!」
「こらっ、その前に失くさないよう気を付けろ!」
コツン、と頭を軽く小突かれ、ブルーは首を竦めて笑った。
ハーレイが居るから失くしてしまってもまた見付かるよと、直ぐに見付けて貰えるんだよ、と。
海の音がする、コロンと丸いウサギ貝。
海のウサギを見付け出してくれたハーレイの腕を、ぼくは信じているんだから、と…。
探し物の天才・了
※探し物が得意だったのが前のハーレイ。船の仲間たちから頼りにされるくらいに。
今のハーレイも見付けてくれた、海の音を運んでくれる貝。いつかは二人で本物の海へ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
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(やっぱり、子供だ…)
鏡に映った、子供の顔。十四歳の小さなぼく。
背丈がちっとも伸びてくれないから、顔立ちだって変わってくれない。子供っぽい顔で、少しも大人びてくれやしないし、パパもママも、それにハーレイも子供扱いしてくれるんだ。
大好きなハーレイと再会した日から、変わらないぼく。
五月の三日から変わらないまま、背丈が百五十センチのまま。
(うーん…)
これで慣れちゃったんだけど。
いつまでもこれだと困るけれども、もう慣れた。
ハーレイだって「ゆっくり育てよ」って言ってくれるし、時が来たらきっと育つんだろう。
大きくなりたいって焦らなくっても、その時が来たら、きっと自然に。
(それでもミルクは欠かさないけどね?)
毎朝、必ず一杯のミルク。幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶に入ったミルク。
早く背丈が伸びますように、って祈りをこめてミルクを飲むことは忘れない。
今のぼくの大切な習慣がこれで、背丈が伸びないことを除けば悩みも無くて幸せ一杯。
優しいパパとママがいる家で暮らして、ハーレイだって家を訪ねて来てくれるんだ。いつか結婚出来る日までは「またな」って帰って行っちゃうけれども、ハーレイはちゃんと来てくれる。
おまけに青い地球に住んでて、本当に幸せ一杯のぼく。
(だけど…)
ぼくと全く同じ顔をしていた、前のぼく。
アルタミラの研究所に閉じ込められてて、来る日も来る日も人体実験ばっかりだった。檻の中に独り、仲間と話せる機会すら無くて、心も身体も成長を止めた。
あの頃のぼくは、心まで子供のままだったのに。
成人検査を受けた時から変わらないままで、今のぼくと同じ十四歳の子供の筈だったのに。
(どうして頑張れたんだろう…)
アルタミラがメギドに滅ぼされた日に、ハーレイと二人で沢山の仲間を助け出したぼく。
幾つものシェルターを開けて回って、閉じ込められてた仲間たちを救い出したぼく。砕けてゆく星の上を走って、メギドの炎に焼かれた地獄の中を走って。
(今のぼくと変わらない筈なんだけどな…)
遠い記憶の中にいるぼくは、今のぼくとおんなじチビで、子供で。
あの日、初めて研究所の外の世界を見たってくらいに、記憶も失くしてしまってた。今のぼくと違う所はサイオンだけ。タイプ・ブルーが持ってるサイオンを使えたっていう所だけ。
(そこだけしか違わないんだよ…)
今のぼくより長く生きてても、それに見合った心も身体も持ってないんじゃ、ぼくとおんなじ。
それなのに違った、前のぼく。今のぼくより、ずっと頑張っていた前のぼく。
(…アルタミラなんて…)
いくらサイオンが強いと言っても、メギドで壊れた研究所の外の世界は燃え盛る地獄。
あんな所を、今のぼくなら走れない。
研究所では靴さえ履いていなくて裸足で、今のぼくなら地面が熱くて走れやしない。瓦礫で足の裏が痛くて痛くて、走るどころか歩くのがやっと。
(それに真っ赤に燃えてるんだよ…)
空まで炎に染まってた世界。この世の終わりを、星の最期をそのまま描いた恐ろしい世界。
ハーレイが側についててくれても、足が竦んで動けなくなる。
怖くて一歩も歩けなくなる。
ハーレイに抱えて走って貰えば、他の仲間を助けに行けるかもしれないけれど…。
(…でも…)
やっぱり、今のぼくには怖い。思い出しただけで怖くてたまらない。
空を焦がすほどに大きな炎は見たこともないし、地面が割れてゆく地震だって知らない。
前のぼくは両方知っているけど、今のぼくはどっちも知らないんだ。
(…あの火だけでも怖すぎだよ…)
ぼくが知ってる一番大きな火は、キャンプファイヤー。
休んでしまったこともあったけど、前の学校のサマーキャンプで囲んだ炎。
あれは楽しい火で、怖くなかった。とても大きい火だったけれども、大人がついてて見守ってた火。点火してから燃え上がるまでをワクワクしながら待っていたんだ、友達と一緒に。
(雨が降らないように、お祈りもしたよ)
キャンプファイヤーが出来なくなったら困るから。
楽しい時間が無くならないよう、晴れるようにとみんなでお祈りしていたくらい。怖くなかったキャンプファイヤー。
マシュマロを焼いて食べたりしたから、火の近くだって行ったんだ。
(頬っぺたとかが熱くなるんだよ)
火の粉だってパチパチ飛んでいたけれど、平気でマシュマロを焼いていたぼく。もっと焼こうと棒に刺しては、キャンプファイヤーの側まで行っていたぼく。
だけど、メギドの火なんか知らない。空が真っ赤に染まる火なんかは見たことがない。
今のぼくが見たら腰が抜けるか、気絶しちゃうか、どっちかなんだ。
地震だって、そう。
今のぼくが住んでる地域は、昔の日本が在った辺りになるんだけれど。
日本は地震が多かったらしいと聞いているけど、今は地震は滅多に無くって、揺れたことすらも分からないくらい。たまにカタッと小さな音がして、何の音かと思う程度で。
だから激しく揺れ動く地面も地割れも知らない。
アルタミラでハーレイと二人で走った、波打つような地面を知らない。それに地鳴りも。
今のぼくがあんな地震に遭ったら、腰が抜けるか、気絶しちゃうか。
とてもじゃないけど走れやしないし、他の誰かを助け出すなんてことも出来っこない。
(前のぼく、なんで頑張れたんだろ…)
ハーレイが居たから頑張れたってわけではないと思うんだけど…。
今のぼくならハーレイが居ても、気絶しちゃうか、腰が抜けるか。
でも、前のぼくもハーレイが声を掛けてくれるまでは座り込んでいたし、腰が抜けてた?
「お前、凄いな」って助け起こしてくれたハーレイ。
もしもハーレイに出会わなかったら、腰が抜けたままで逃げ遅れちゃった?
船に乗れずに、アルタミラと一緒に前のぼくの命も終わっちゃってた?
ぼくがなんとかしなくっちゃ、って閉じ込められてたシェルターを壊しはしたけれど…。ぼくと一緒のシェルターだった人たちが逃げられただけで、前のぼくはあそこで死んじゃってた?
そういうことも起こっていたかもしれない。
ハーレイが助け起こしてくれなかったら、ハーレイと出会っていなかったなら。
それでも頑張った前のぼく。ハーレイと二人で、大勢の仲間を助け出したぼく。
なのに、今のぼくは同じチビでも、うんと弱虫。
子供の頃にはフクロウのオバケが怖くて泣いたし、雷だって怖かったんだ。今だって前のぼくが見たメギドの炎や地震が怖くてたまらない。
こんなぼくが今、アルタミラの地獄で役に立つとは思えない。気絶しちゃうか、腰を抜かすか。
ぼくは弱虫になっちゃった…?
前のぼくとそっくり同じ顔でも、すっかり弱虫になっちゃった…?
(メギドだって…)
アルタミラを壊したメギドじゃなくって、前のぼくが宇宙に沈めたメギド。
白い鯨を、仲間たちを守ろうと命と引き換えに沈めたメギド。
今だって後悔はしてないけれど。
ハーレイの温もりを失くしてしまって冷たく凍えた右手はともかく、やり遂げたんだって思っているけど…。
あれで良かったと、ああして良かったと少しも後悔してないんだけど。
そう考えてるのは、ぼくが引き継いでる前のぼくの部分。前のぼくが良かったと思ってるんだ。自分の役目をちゃんと果たせたと、やるべきことをやったんだと。
それに引き換え、今のぼく。
メギドまで飛べる力すら全く持ってない上、飛んで下さいって言われたら逃げる。
飛ばなきゃいけないことになったら、怖くて逃げ出してしまうと思う。
だって、独りぼっち。
仲間なんか誰もいない所へ、敵ばかりの所へ独りぼっちで飛んで行かなきゃいけないんだから。
おまけに行ったら確実に死ぬ。
メギドと一緒にぼくの命も尽きてしまって、生きて戻って来られやしない。
(…死んじゃうに決まっているんだもの…)
死んでしまったらパパにもママにも二度と会えないし、ハーレイにだってもう会えない。
ハーレイは例外で、また会えるのかもしれないけれど。今みたいに会えるかもしれないけれど。
神様が「また会えますよ」って言ってくれても、絶対に嫌だ。
メギドなんかに飛びたくはないし、行きたくもない。
だって、死んじゃう。
御飯もおやつも全部なくなる。
この部屋にだって、帰って来られなくなっちゃうんだもの…。
(前のぼくって…)
どうしてあんなに強かったんだろう。
メギドを沈めた頃は子供じゃなかったけれども、前のぼくの記憶は残っているから。
今のぼくの中に残っているから、今のぼくが大きく育った時にはどう考えるか想像がつく。今のぼくには、絶対に無理。大きくなっても、前のぼくみたいに強くはなれない。
(…前のぼく、ホントに強すぎなんだよ…)
ぼくには真似の出来ない強さ。それが不思議でたまらない。
(なんで平気でいられたの…?)
前のぼくがナスカで目覚めた時。キースを取り逃がしてしまった後。
死んじゃうんだってことが分かっていたのに、どうしてハーレイの邪魔をしないで青の間に居ることが出来たんだろう?
逃げ出しもせずに平気な顔して、シャングリラに居られたんだろう…?
フィシスには会いに行ったけど…。
行ったけれども、フィシスを慰めて帰って来ただけ。自分の運命は話さなかったし、同じ予感を抱くフィシスに「大丈夫」とまで言ってのけた、ぼく。
(ホントのホントに強すぎだってば…)
今のぼくには逆立ちしたって言えない言葉。
自分が不安でたまらないのに、他の人まで心配している余裕なんか無い。
その上、前のぼくが誰よりも会いたいと願ったハーレイ。本物の恋人同士だったハーレイ。
長い眠りから覚めたというのに少しだけしか会えなかったし、二人きりじゃなくてゼルたちまで居た。ソルジャーの立場でハーレイと会った。
たったそれだけ、ほんの僅かな青の間でハーレイと話せた時間。
(あれっきり会えなかったのに…)
次に会える時は前のぼくの命が終わる時だと知っていたくせに、何も言わずに見送ったぼく。
ゼルたちと青の間を出てゆく背中を、追い掛けもせずに見ていたぼく。
ハーレイは「船が落ち着いたら、スープを作りに来ますから」って約束してくれたけれど、その野菜スープを食べられることは二度と無いんだって、知っていたぼく。
それなのに何一つ言わなかったなんて、ぼくには信じられない強さ。
(…大きくなっても、ぼくには無理だよ…)
今のぼくなら、我慢できずに我儘を言う。
ブリッジで忙しくしているハーレイに思念を送って、「スープを作りに来てよ」って頼む。
夜だって青の間に居て欲しいと強請るし、その内、ポロッと言っちゃうんだ。
「ぼく、死んじゃうよ」って。
「死にたくないよ」って。
決して言ってはならない言葉を、心に仕舞っておくべき言葉を。
そしたらハーレイは抱き締めてくれて、ぼくをメギドへは行かせないだろう。
ぼくだって怖くて、ハーレイの側から離れたくなくて、行けなくて。
白い鯨は沈んでしまって、それっきりなんだ。
前のぼくがメギドを止めなかったら、そうなるしか道は無いんだから。
おまけにとても弱虫なぼくは、白い鯨が沈みそうな時にハーレイを呼んでしまうと思う。
一緒にいて、って。
怖いからぼくと一緒にいて、って、青の間でぼくを抱き締めていて、って。
そして本当にシャングリラが沈みそうなら、ハーレイはぼくの所に来てくれるんだろうか…。
(…ぼくの恋人だけど、キャプテンなんだよ…)
キャプテンだった、前のハーレイ。シャングリラの船長だったハーレイ。
船が沈む時、船長は最後まで船に残らなきゃいけなかった、って時代があった。
今は違うけど。
残ったお客さんがタイプ・ブルーだったりしたら、逃げなかった船長は無駄死にだから。下手に残れば船長だけが死んだりするから、今はそういう決まりは無い。
でも、前のぼくたちが生きていた頃は、まだその精神も決まりも生きていた筈。
(…ハーレイなら、どうしていたんだろう…)
前のぼくを選んで青の間に一緒にいてくれたのか、最後までブリッジを離れなかったか。
どっちなんだろう、と悩むまでもなく、ハーレイが取りそうな動きは分かる。
(きっと、ブリッジ…)
責任感が強かったハーレイ。
前のぼくが最後に残した言葉を守って、シャングリラを地球まで運んだハーレイ。
そんなハーレイがブリッジを捨てるわけがない。最後までシャングリラの舵を握ってブリッジに立っているだろう。白い鯨が沈む時まで、シャングリラが最期を迎える時まで…。
(…やっぱり、ぼくは独りぼっちだ…)
メギドへ飛んでも、飛ばなくっても、独りぼっちで死んでしまうぼく。
弱虫のぼくでも、独りぼっちで青の間で泣きじゃくりながら死んじゃうらしい。
側にいてほしいハーレイがいないと、ブリッジに行ってしまって帰って来ないと。
(…ぼくがシャングリラを守らなくても、ハーレイはちゃんと守るんだ…)
本当に守れるかどうかはともかく、キャプテンとしての仕事は最後までやり遂げる。ブリッジを離れず、最後まで指揮を執り続ける。少しでも長く持ちこたえるよう、白い鯨が沈まないよう。
そうすることが出来るハーレイは強くて、泣いてるだけのぼくは弱虫。
メギドに飛べないぼくは弱虫。
そうなんだな、って溜息をついた。
今のハーレイも精神はとても強そうなんだし、最後までブリッジに立てそうだよね…。
すっかり弱虫になってしまった、今のぼく。
ハーレイはそうじゃないんだろうな、と考えていたら、仕事帰りに寄ってくれたから。
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせでお茶を飲みながら訊いてみた。
「ハーレイ、前より弱虫だと思う?」
「誰がだ?」
「今のハーレイ。…前のハーレイより弱虫だな、って思うことはある?」
「そりゃまあ、なあ…。随分と弱くなったと思うが」
生きるか死ぬか、って目にも遭っちゃいないし、何より平和な世界だからな。
青い地球に生まれて、呑気に生きて。
前よりも強い筈がないだろ、格段に弱くなってるぞ、きっと。
そう言って笑ったハーレイだけれど、ぼくみたいな弱虫の筈は無いから。
きっと強いに決まっているから、質問をちょっと変えてみた。
「じゃあ、アルタミラで走ることは出来る?」
メギドの炎で燃えてた地獄を、今のハーレイでも走ることが出来る?
「走れるさ、お前と一緒ならな」
アルタミラってことは、お前も一緒にいるんだろう?
それで走れなきゃ男が廃るな、何のために鍛えているんだ、ってな。
「ぼくが腰を抜かしてしまっていたら?」
腰が抜けてたら、ぼくは一緒に走れないんだけど…。走るどころじゃないんだけれど…。
「そしたらお前を抱えて逃げるさ、他のシェルターを開けて回るのは諦めるな」
「ホント?」
「腰を抜かしているってことはだ、そいつは今のお前なんだろ?」
「うん」
弱虫になってしまったぼくだよ、メギドの火も地震も怖いんだよ。
「なら、仕方ない。そんなお前でも、閉じ込められてたシェルターくらいは壊せるだろうしな」
あれだ、火事場の馬鹿力っていうヤツだ。
俺の家まで瞬間移動で飛んで来ちまったろ、一回だけな。メギドの夢が怖かったとかで。
人間、追い詰められた時には凄い力が出るもんだ。
シェルターを壊した力もそいつだったと思うまでだな、他のシェルターまでは手が回らんと。
だからだ、腰を抜かしたチビのお前を抱えて逃げるさ、船のある方へ。
お前さえ俺の腕の中に居りゃ、今の俺でもアルタミラは充分走れるな、うん。
「それじゃ、メギドは?」
「はあ?」
今の話とは別なのか、ってハーレイが訊くから、「ナスカの方」って説明した。同じメギドでもナスカの方だと、ナスカを燃やしたメギドなんだ、と。
「あれでナスカが燃えちゃう前にね…。ぼくが「もうすぐ死ぬんだ」って言ってたら…」
ぼくはもうすぐ死んでしまうんだ、って言っていたなら、スープを作りに来てくれる?
野菜スープを作るためにブリッジを抜けて来てくれる?
「予知なのか、それは。…死ぬってヤツは」
「漠然とね」
なんで死ぬのかは分かってないけど、シャングリラを守って死ぬんだな、って。
みんなの命を守るために死ぬってことしか分かってないけど…。
「…そいつはスープを作るどころの騒ぎじゃないな」
俺はブリッジを離れて青の間に詰めるぞ、キャプテンの権限を行使してな。そして指揮する。
青の間からでも指揮は出来るだろ、ある程度の設備はあるんだからな。
「ホント?」
「ああ。ついでにメギドにも行かせないさ」
お前が行くと言っても止める。
行かせたら死ぬと分かっているんだ、俺は全力で止めるってな。
何があっても行かせやしない。たとえメギドの第一波が来たって、俺はお前を引き留めるぞ。
弱虫のお前なら止められる筈だ、とハーレイが言うから。
俺の力でも青の間に引き留めておける筈だ、と自信たっぷりに言い切るから。
ぼくは、そうなった時に何が起こるか、おっかなびっくり、口にしてみた。
「シャングリラ…。沈んじゃうよ?」
ぼくがメギドを止めなかったら、シャングリラは沈んでしまうんだよ?
第一波の被害は食い止められても、次の攻撃が来たらおしまいなんだよ…?
「分かっているさ。とりあえずブリッジに走って行って、だ」
被害状況を確認した上で、必要な指示を出したらトンズラだな。
「トンズラ…?」
「逃げるって意味の言葉だ、逃げるってことだ」
「何処へ?」
「青の間に決まっているだろう。指揮を執る、と言って逃げるさ、青の間までな」
誰も怪しんだりはしないぞ、青の間にはお前が居るんだからな。
前のソルジャーの側で指揮を執るなら、ブリッジよりもいい知恵が出るかと思う程度で。
それっきり俺が戻らなくっても、別に問題無いだろう?
どうせシャングリラは沈むんだ。死んじまったら誰も文句を言いに来ることは無いからな。
後のことは俺は一切知らん、と鼻でフフンと笑うハーレイ。
古典の授業風に表現するなら「三十六計逃げるに如かず」だなんて、言ってるハーレイ。
とんでもないことを聞いちゃったような気がするから。
「まさか、ハーレイ…」
それって、ブリッジを放り出すって意味なんじゃあ…?
「お前の側に居るってことだ。シャングリラが沈む瞬間までな」
「でも、キャプテンは…。今と違って、前のぼくたちの頃のキャプテンは…」
「船を離れなきゃいいんだろうが」
最後までな。俺は船から離れちゃいないぞ、ちゃんと青の間に居るんだからな。
「屁理屈だよ?」
ブリッジにいなきゃ駄目なんじゃないの、そんな時には?
沈みそうなら、キャプテンはブリッジに詰めていないと駄目なんじゃないの…?
「いいんだ、俺は自分に正直に生きる。もう懲りた」
「前のぼくの時に?」
「ああ。前のお前を行かせちまって、嫌と言うほど懲りたんだ」
もしも同じ状況が巡って来るなら。
そしてお前がメギドに飛ぶ前に、俺に全てを打ち明けるような弱虫だったら。
俺はお前を離しはしないし、お前と一緒にシャングリラごと宇宙に沈んでやるさ。
それでいいだろ、お前だって?
最後まで俺と二人でいられて、独りぼっちじゃないんだからな。
「…そうなんだけど…」
ハーレイと一緒にいられるんなら嬉しいけれど、と答えたけれども、手放しで喜べない気がして来たぼく。
二人一緒に死ぬのはいいけど、シャングリラは沈んでしまうんだから…。
「ねえ、ハーレイ。…それをやっていたら、ぼくたち、地球に来られたと思う?」
今の地球に二人で来られたと思う?
二人揃って好きなようにやって、シャングリラを沈めてしまっていたら。
「…青い地球ってヤツが存在しないんじゃないか?」
俺たちが好き勝手にした罰かどうかは置いておいて、だ。
シャングリラが沈んでしまっていたなら、ミュウの時代が来ていたかどうか…。
この地球だって無事に蘇ったかどうか、まるで見当が付かないからなあ…。
全く別の道を歩んで、結果は同じって可能性もゼロではないが。
しかし、今の俺たちが習う歴史じゃ、前のお前のお蔭でミュウが生き延びて、ミュウと人類とが手を取り合って。マザー・システムから地球を守って、蘇らせたってことになっているしな。
この青い地球は前のお前がいなけりゃ存在しない、って教わるだろう?
「そういえば…。もしかして、地球に来られたことって、御褒美?」
神様がくれた御褒美なのかな、逃げずにちゃんと頑張ったから。
「そうかもしれんな、前のお前が頑張った分の」
ついでに俺が無茶をやらかさずに、シャングリラをきちんと守った分もか?
お前と一緒にシャングリラごと沈む方へは行かずに、地球まで運んで行きました、ってな。
御褒美かもな、ってハーレイも頷いたから。
青い地球に来られたことが神様のくれた御褒美だったら、次はどうなるのか、ちょっぴり心配。
弱虫になってしまったぼくには、御褒美は何も来ないんだろうか?
「…それなら今度も頑張らないと、次の御褒美、貰えないかな?」
今みたいに凄く素敵な御褒美、今のぼくだと貰えないかな…?
「欲張るな。分相応って言葉があるだろ、今の俺たちには小さなつづらで充分だってな」
授業で言ったろ、舌切り雀。
自分が背負える小さなつづらを貰って帰ったお爺さんには宝物でだ、欲張って大きい方を貰ったお婆さんにはオバケでした、って昔話だ。
分相応の御褒美ってヤツを神様はちゃんと下さるさ。小さなつづらに一杯分な。
「前のぼくみたいに頑張らなくても、小さな御褒美、貰えるんだ?」
「多分な」
「なんの御褒美だろ?」
何を頑張ったら、神様が御褒美をくれるのかな?
「俺の嫁さんを頑張ればいいんじゃないか?」
今度のお前の目標はそれだろ、俺の嫁さん。
それをきちんとやっておいたら、頑張った御褒美を神様が用意して下さると思うぞ。
「そっか!」
ハーレイのお嫁さんを頑張ればいいのか、と納得した、ぼく。
弱虫になってしまったぼくでも、お嫁さんなら頑張れそう。アルタミラの地獄を走れなくても、メギドを沈められなくても。
大好きなハーレイのお嫁さんなら、頑張れなんて言われなくても頑張れる。
弱虫のぼくでも出来そうなこと。ハーレイのために出来そうなことが沢山、沢山。
「お料理とかを頑張ればいいんだね!」
ハーレイが好きな、ぼくのママが焼くパウンドケーキ。
あれを覚えて焼けるようになるとか、ハーレイのお母さんと一緒にマーマレードを作るとか。
もちろん、普通のお料理も!
「そんなに頑張らなくてもいいぞ? 俺も料理は得意だからな」
どちらかと言えば食わせたい方だ、お前は俺が作った料理を食ってくれれば充分なんだ。
俺が喜んでいればそれでいいのさ、嫁さんになって俺の家にお前が居てくれれば。
「それで御褒美、貰えちゃうの?」
「貰えると思うぞ、今の俺たちに見合ったのをな」
前の俺たちほど凄くないから、今よりも凄いのを下さいと言っても無理だろうが…。
凄いと言っても、今の世界じゃこれが普通の生活だしな?
今よりも落ちるってことだけは無いさ、御褒美と名前が付くからにはな。
幸せの量は増える筈だ、ってハーレイが笑顔で話してくれるから。
前のぼくたちと今のぼくたちとの違いほどには増えなくっても、幸せは増える筈だと言うから。
「どんな御褒美を貰えるのかな?」
「さてなあ…。俺はお前と一緒だったら何でもいいが」
お前と一緒に暮らせるんなら、もうそれだけで幸せだからな。
「ぼくも。…ハーレイと一緒だったら、それで充分」
きっとそれだね、次の御褒美。ハーレイと一緒。
ハーレイのお嫁さんを頑張っておいたら、次もハーレイと一緒なんだよ。
「そういう褒美なら、いつまでも貰っておきたいもんだな」
「うん。弱虫なぼくでも貰えるといいな、次の御褒美」
御褒美を貰って、ハーレイと一緒。それが欲しいよ、次の御褒美に。
「うむ。貰えるように神様に御礼を言っておけばいいんだと思うぞ、幸せです、って」
「もう何回も言ってるよ?」
ハーレイと会えて幸せです、って。青い地球に来られて幸せです、って。
「もっとだ。一生、御礼を言わんとな? 幸せだったら」
「そっか、一生分なんだね。一生、ハーレイと一緒で幸せです、って言っていたら、きっと…」
またハーレイと一緒なんだね、弱虫のぼくでも。
前のぼくみたいに強くなくても、弱虫のぼくでもかまわないんだね?
ハーレイが「うむ」って微笑んでくれて、ぼくの心は幸せな気持ちで一杯になった。
弱虫になってしまったぼくだけれども、それに見合った小さな御褒美。
うんと背伸びして頑張らなくても、神様はちゃんと見ていてくれる。
弱虫のぼくには、小さな御褒美。
だけど、それだけで充分すぎるし、欲張りたいとも思わない。
ハーレイといつまでも、何処までも一緒。
それがぼくには、何よりも最高の御褒美だから…。
弱虫なぼく・了
※前に比べて、弱虫になったと自覚している今のブルー。「メギドだって無理」と。
けれど今度も、きっと御褒美は貰える筈。小さなつづらの分の幸せでも、ハーレイと一緒。
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