シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(よしよし、かなり馴染んで来たな)
そろそろ日記もこれで書けそうだぞ、とハーレイは自分が書いた文字を眺めた。特に意味も無く書き連ねた文字。思い付くままに古い短歌や、その辺にある物の名称やら。
それらを書いてくれた文具は、澄ました顔で専用のペン立てに収まっていた。ハーレイの右側、机の上に鎮座している白い羽根ペン。ブルーからの誕生日プレゼント。
小さなブルーは羽根ペンを買おうと百貨店まで出掛けたらしいが、子供が買うには高すぎて。
それでもハーレイに贈りたいのだと悩んでいたから、羽根ペンの一部を買って貰った。ブルーの予算で出せる範囲を。
費用の殆どを自分が支払った羽根ペンだけれど、ブルーに贈って貰った羽根ペン。羽根の部分の一部がブルーの買ったものなのか、それともペン先の一部分なのか。
そんなことは別にどうでもいい。ブルーに「ちゃんと使ってよ?」と渡された羽根ペン代だって使わないまま、机の引き出しに大切に仕舞ってあるのだから。
(こいつはブルーに貰ったんだしな?)
自分で買って来て、ブルーに渡して、誕生日祝いにと贈って貰った。ブルーの手から受け取ったことに意味がある。
ブルーの心がこもった羽根ペン。ブルーがくれた大事な羽根ペン。
あの八月の二十八日から、折を見ては書く練習を続けて来た。
日記を綴る文字が急に変わってしまわないよう、早く自分の手に馴染むよう、と。
(…最初に書いたのはこれだっけな)
目を細めて指先でなぞった、ブルーの名前。今日も書き付けた、ブルーの名前。
幾度こうして書いたのだろうか、前の生からの恋人の名を。羽根ペンをくれたブルーの名前を。
練習を始める前に一度は書いたし、終える時にもブルーの名前。
今日の練習はこれで終わりだ、と締め括る時はブルーと綴った隣に自分の名前も並べて書いた。対の名前だと、自分とブルーは共に生きるのだ、と願いをこめて。
早くこうして二人の名前を並べて書ける日が来ないものかと思いをこめて。
結婚式を挙げ、互いの名前を誓いの紙に並べて記して、それからは常に、何処でも二つ並べて。旅先で宿帳に記す名前も、旅の記念に何か書くにも、いつだって対で。
早くその日を、と夢見る一方、「ゆっくり育って欲しい」とも思う。
まだ十四歳にしかならないブルーに、背丈が百五十センチのままのブルーに、急がずにゆっくり育って欲しいと。
小さなブルーが前の生で失くした子供時代の幸せの分まで、何年、それこそ何十年でも。
(そういえば、前もあいつに貰ったんだな)
いや、貰ったようなものと言うべきか。
前のブルーが奪ったコンテナの中の物資に紛れて詰まっていた、羽根ペン入りの沢山の箱。
そう、前もブルーに羽根ペンを貰った。今度のように一部をではなく、長かった生涯でも全てを使い切れなかったほどの羽根ペンの山を。
(…あの時も羽根ペンの方が後だったんだ…)
今のブルーがくれた羽根ペンは、この家の書斎に机を置いてから何年も経った後に来たけれど。十数年を経た後にやって来たのだけれども、前の生でもそうだった。
羽根ペンよりも先に手に入れた、木で出来た机。ブルーが奪った物資に混ざっていた机。
誰一人として欲しがる者がいなかったそれを、貰って自室に据え付けた。木の温かみが好きで、暇を見付けてはボロ布でせっせと磨いてやった。
貰った頃には、まだキャプテンではなかったけれど。厨房で料理をしていたけれど。
(キャプテンになってくれ、って言われた時にも机を磨いていたんだっけな)
考え事をする時の常で、懸命に机を磨いていた。其処へやって来たブルーの言葉が背中を押したようなものだったな、と思い出す。
「ハーレイがなってくれたらいいな」と言いに来たブルー。
ハーレイになら命を預けられると、自分と息の合うキャプテンがいい、と。
そうしてキャプテンになったけれども、キャプテンの部屋に羽根ペンの姿はまだ無かった。木の机で日誌を一日も欠かさず書いたのだけれど、あくまで普通のペンだった。
シャングリラの何処でも、手で文字を書く場面だったらお目にかかれる普及品のペン。色や形は様々だけども、一目で「ペンだ」と判別可能な文具の一種。
ハーレイ自身も何とも思わず、それを使って日誌を書いた。キャプテンになったからには日々の記録が必要だろうと、後々の役に立つであろうと。
(…日誌と言っても、ノートなんだか日記なんだか…)
物資に混ざっていた、日付を書き込む欄がついたノートが航宙日誌。日記帳にもノートにもなる品だったそれを日誌に選んだ。倉庫にあるのを知っていたから、キャプテン就任が決まった時点で運び出して机に備えておいた。
キャプテンになって、操舵の練習なども始めたのだが。
他にもキャプテンならではの仕事も多かったのだが、まだ後継者が居なかったから。
キャプテンではなく、厨房と兼業でしていた物資の分配を行う者が決まっていなかったから。
駆け出しの候補者を手伝ってやるべく、暇な時には覗きに出掛けた。アドバイスをして、これはこうだと知恵も出してやった。
そんな最中に、コンテナに入ってシャングリラへと運び込まれた羽根ペン。
前のブルーが奪ってしまった、専用の箱に収められた羽根ペンがドカンと詰まった箱。
「…誰がこんなのを使うんだい?」
分配希望者を募るために、と物資の数々を陳列した部屋。蓋を開けて置かれた羽根ペンの箱に、ブラウが遠慮の無い言葉を浴びせた。これは古すぎると、ゴミであろうと。
「そうだな、恐らく誰も希望者はいないだろうな」
居たら驚く、とゼルも「古すぎる」文具とその付属品に呆れてはいたが、こればっかりは分配を初めてみるまで分からない。希望者が何処かに居るかもしれない。
ハーレイは羽根ペンを見た瞬間から「欲しい」と思ってしまったのだし、同じ趣味を持つ仲間がいないとは言い切れない。
(…欲しいんだがなあ…)
けれども分配前の内覧会とも言える、自分たちの下見。其処でキャプテンが奪い去っては…、と諦めて見守ることにした。もしも残ったら貰うことにしようと、一箱くらいは残るだろうと。
ところが、いざ分配が始まってみたら、羽根ペンの箱は全部残った。
ただの一箱も、一箱でさえも引き取った者はいなかった。
分配が終わり、残った物資を倉庫送りや処分品などに仕分ける作業が始まった時。
ハーレイは目を付けていた羽根ペンの箱を一つ持ち上げ、宣言した。
「こいつは俺が貰っておくぞ。残りの箱も倉庫に仕舞っておいてくれ」
次の機会があるかどうかが分からんしな。予備は沢山あるほどいいんだ、捨てるなよ。
「また、あんたかい」
ブラウがフウと溜息をついて、「酔狂だな」という感想がゼル。
前に木の机を引き取ったのもハーレイだったと、今度は羽根ペンを引き取るのかと。ヒルマンやエラも「またか」という顔で見ていたけれども、ブルーは違った。
「そんなに変かな?」
ぼくはハーレイらしいと思うけれどね?
みんなが欲しがらないような物にでも価値を見出せるのは凄いと思うよ、才能だよ。
何でも大切に出来る精神。
そうでなくっちゃキャプテンも務まらないんじゃないかな、広い目で物を見られないとね。
リーダーだったブルーの言葉が効いたか、はたまた見放されたのか。
ゼルたちは分配に使用した部屋から出て行ってしまい、ハーレイは羽根ペンの箱を手に入れた。とりあえず一箱、他は係の者に頼んで備品倉庫へ。
その日の勤務が終わって部屋に戻って、机の上に置いてあった羽根ペンの箱をそうっと開けた。
分配は勤務時間中に行われたから、箱を置きに戻るのが精一杯で。
本当に自分のものになったと、これが自分の羽根ペンなのだと箱の中身をじっと見詰める。分配前の陳列中には見ていただけの品が、今では全て自分のもの。自分だけのもの。
主役の羽根ペンもさることながら、インク壺だの、吸い取り紙だの。
初めて触れる品々に心が躍った。顔が自然と綻ぶのが分かる。
(…俺のものだぞ、これが全部な)
まずはセッティングをしなければ。木の机の上に、ずしりと重いペン立てを据えた。羽根ペンを其処に立てるわけだが、その羽根ペン。
(うーむ…)
真っ白な鳥の羽根で出来たペンにはペン先が既に取り付けてあった。それとは別に、箱の上蓋の内側に留め付けられた幾つものペン先。取り替え可能なペン先たち。
どれも同じというわけではなく、形が違った。恐らくは目的に合わせて使い分けるもの。文字の太さなどが変わるのだろうが、初心者には全く見分けが付かない。
最初から付いていたものでいいだろう、と替えずにペン立てに収めた所で。
「ふうん…」
いつの間にドアが開いていたものか、それとも得意の瞬間移動で現れたか。
まだ少年の姿のブルーが、ハーレイをキャプテンに推したブルーがドアを背にして立っていた。机の上に立てた羽根ペンの方を見ながら近付いて来て、それとハーレイとを見比べて。
「いい雰囲気だね、思った通りにハーレイに似合う」
「そうか?」
「うん」
まだ制服さえ無かった頃。ブルーがソルジャーではなかった頃。
ブルーへの敬語は必要ではなく、普通に言葉を交わすことが出来た。砕けた口調で、アルタミラからの友人として。
しげしげと羽根ペンを眺めたブルーは、こう尋ねた。
「それで航宙日誌を書くわけ?」
「いや、まだだが。慣れないペンで書いたら書き損じるしな」
今日の所はいつものペンだ。航宙日誌は、こいつで書くのに慣れてからだな。
「残念。使い初めをするなら、どんな字になるのか読ませて貰おうと思っていたのに」
「誰が読ませるか、航宙日誌は俺の日記だ!」
「でも、日誌だろう?」
何処でも日誌は引き継ぎ用に書いているもので、書き手以外も読んでいるけど?
「俺には引き継ぎなんかは無いぞ。日記だと言ったら日記なんだ!」
キャプテンが二人いるなら分かるが、俺一人だしな?
誰に引き継ぐ必要も無いし、日誌を書くのも読むのも俺一人だ!
読ませてたまるか、と追い払おうとしたのだけれども、居座ったブルー。
椅子を引っ張って来て、机の脇に座ってしまった少年の姿をしているブルー。
羽根ペンなるものをどう使うのかと、ワクワクしながら待っているのが分かるから。
ハーレイは「言っておくが」とブルーに断った。
「こいつを貰っては来ちまったが、だ。…俺も羽根ペンは本でしか知らないからなあ…」
「そうだったわけ?」
知っているのかと思っていたよ。だから欲しくて貰ったんだな、と。
「おいおい、ヒルマンじゃあるまいし…。俺の知識はたかが知れてる。ペンだとしか知らん」
だが、憧れのペンではあったな、羽根ペン。使ってみたいと思ってはいた。
「いつから?」
「本で挿絵を見た時からだな。主人公が手紙を書いていたんだ、羽根ペンで」
これは何だ、と思わなくても直ぐに分かった。羽根ペンって言葉が出て来たからな。
羽根っていうのは見りゃあ分かるし、そいつで作ったペンなんだな、と。
ブルーが奪った物資に混ざった本や雑誌などは図書室へ。
そう名付けられた部屋に書棚が作られ、閲覧用の机も置かれていた。其処で手に取った本を読み進める内に、出て来た挿絵にあった羽根ペン。主人公が使っていた羽根ペン。
手紙に書くべき事を考えつつ、インク壺にペン先を浸して、書いて。
インクを早く乾かすためにと吸い取り紙で押さえ、書き上がった手紙を読み返していた。
普段、ハーレイが使うペンでは考えられない手間暇のかかる執筆作業。けれど、味わいがあっていいと思った。そういうペンで書いてみたい、と惹き付けられた。
とはいえ、挿絵の人物の服装が示すとおりに古い昔の本だったから。人が地球しか知らなかった時代に書かれた古い本だから、まさか羽根ペンが今もあるとは思わなかった。
とうの昔に消えたものだと、挿絵にしか無い文具なのだと見ていた記憶。
それなのに、一目で惹かれてしまったから。
此処にある木で出来た机と同じく、使いたいと思ってしまったから。
「…もしかしたら俺の養父母の家にあったのかもしれんな、この羽根ペンも」
木の机も羽根ペンも、失くしちまった記憶の中に多分、あったんだろう。
「そうなんだ?」
「羽根ペンが現役で存在するとなったら、俺は見たことがあるんだと思う」
ついでに「いい思い出」ってヤツとセットなんだろうな。
羽根ペンを見たら欲しくなるんだし、きっと羽根ペンにいい思い出が詰まっていたんだ。
「どんな思い出だったんだろうね?」
「こいつを使って遊んでいたってわけではないだろうしなあ…。人をくすぐって遊ぶとかな」
遊べそうだが、それだと「これで書いてみたい」と思う理由にはならん。
こういったペンは改まった時に使うものだ、とヒルマンが言っていたからなあ…。
招待状の返事でも書いているのを見たかもしれんな、パーティーとかの。
「パーティーって、子供が行けるパーティー?」
「そうだと思うぞ、育英都市だと子供同伴のパーティーだろうし」
羽根ペンを使って何か書いていたなら、何日かしたらパーティーに行ける。
そんな記憶があったかもしれんな、機械にすっかり消されてしまう前にはな。
木の机でそいつを書いていたとか、如何にもありそうな話なんだよなあ…。
今じゃ何一つとして覚えちゃいないが、それでもこうして記憶の欠片が残っているのかもな。
「ハーレイはいいな…。ぼくにもそういう温かい記憶があればいいのに」
「いつかは思い出すかもしれんさ、何かのはずみに」
「そうだといいな」
ブラウたちに「変な趣味だ」と笑われてもいいから、何かを思い出したいな。
ハーレイの机と羽根ペンみたいに、いい思い出とセットの何かを。
机の脇に座ったブルーは帰ろうともせずに、椅子に腰掛けて動かない。
お茶を出してやったわけでもないのに動かないから、ハーレイはやむなく切り出した。
「…おい、ブルー。俺はこれから今日の航宙日誌をだな…」
書かなきゃならんし、暇ってわけではないんだが。
「それじゃ羽根ペンの試し書きは?」
「日誌の後だ。まずは仕事だ」
「じゃあ、待ってるよ」
「おい!」
此処で待つ気か、丸見えじゃないか!
航宙日誌は誰にも見せんと言っただろうが、たとえリーダーでも俺は見せんぞ!
「分かってるよ。ちゃんと向こうで待ってるってば、君のベッドを借りてもいいよね」
椅子の代わりに座って待つから。
それから、あそこに置いてある本。あれも借りるよ、暇つぶしに。
そう言ってブルーは椅子から立つと、ベッドの方へと行ってしまった。其処に腰掛け、膝の上に本を広げてはいるが、ハーレイにしてみれば心配ではある。
なにしろ、ブルー。瞬間移動でアッと言う間に背後に立ってしまえるブルー。
航宙日誌を引っ張り出して開いたものの、ペンを片手にベッドの方へと視線を向けた。
「これから書くから、読みに来るなよ?」
「行かないよ。君の大切な日記なんだろう?」
仕方ないよね、と本のページをめくるブルーがどうにも気になって、気になって。
覗かれてしまわないだろうか、と振り返り、振り返り日誌を書いた。
日付を書く欄があるというだけの、日記にもノートにも使える仕様の航宙日誌。
白い鯨が完成した後には専用の立派な日誌が作られたけれど、それまでの間はノートだったり、正真正銘、日記帳だったこともある。
白い鯨が出来上がった時、ハーレイ自身が時間を作っては順に整理し、何冊かずつ纏めて揃いの表紙を付けて仕上げて、きちんと本棚に並べたけれども。
ブルーを気にしていたせいだろうか、航宙日誌を書き終えるまでに普段の倍はかかったと思う。それでもなんとか書き上がったから、閉じて置き場所へと戻した所で。
「終わった?」
ブルーが顔を上げ、読んでいた本をパタリと閉じた。何の未練も無いらしい。さもありなん、と苦笑いしつつ「ああ」と答えれば、ブルーは本をベッドに置いていそいそと元の椅子に戻った。
ハーレイがベッドに置いていた本は料理の本だし、つまらなかったに違いない。
「日誌が終わったんなら、羽根ペン」
早く、と急かされ、「うむ」と試し書き用の紙を取り出した。インク壺を開け、羽根ペンの先を浸して紙に「ハーレイ」とサインしてみる。
「ふうん…。そうやって使うんだ」
「インクは入っていないからな。で、こいつで、と…」
吸い取り紙を持ち、初めてにしては上手く書けたと思えるサインに押し付けた。余分なインクを吸い取るそれに、ブルーの瞳が丸くなる。
「ああ、そうすれば手が汚れないよね。でも…。普通のペンより面倒じゃない?」
ハーレイらしいとは思うけれども。
机だって大事に磨いてるんだし、ペンをいちいちインクに浸けたり、書き上がった字を乾かしていても別に変とは思わないんだけど…。
「こういった手間をかけてやるのは好きだな、俺の好みというヤツだ」
効率だけを追求するより、過程の方も楽しまないとな?
そういう点では昔に生きてた連中の方が、豊かな人生を送っていたかもなあ…。
こうやって文字を書くにしたって、じっくりと時間をかけて、ってな。
同じ文章を綴るにしても手間と時間がまるで違う、とハーレイは試し書きを続けた。
航宙日誌の中身と少し重なるかもしれない、今日の物資の分配作業。羽根ペンを手に入れられた幸運な出来事を「引き取り手が無かった羽根ペンを貰った」と書き、吸い取り紙で押さえる。
次は…、とペン先をインク壺に浸そうとしたら、ブルーがそれを眺めながら。
「つまりハーレイ、古いものに憧れるタイプなんだね」
「そうなるな」
こいつもそうだし、机もそうだな。どっちも古すぎて誰も引き取り手が無かったからな。
「じゃあ、ぼくにも?」
「はあ?」
意味が掴めず、試し書きを中断してブルーの方へと向き直ってみれば。
「古いものに憧れるタイプだったら、もしかして、ぼくにも憧れたりする?」
古いよ、ぼくは君よりもずっと。
「お前が古いのは年だけだろうが!」
見た目も中身も、俺よりもずっと新しいくせに、古いも何も…。
なんでお前に憧れにゃならん、羽根ペンや机とは違うだろうが!
「やっぱり、そう?」
古いものなら何でもいいのかと思ったんだよ、ぼくなんかでも。
憧れられても困るけれどさ、「引き取り手が無いから貰ってやる」って言われても。
「俺だって要らんぞ、お前なんかは」
机みたいに磨く楽しみも無きゃ、羽根ペンみたいに書く楽しみだって無い代物だぞ、お断りだ。
心配しなくても俺は貰わん、古けりゃ何でもいいってわけではないからな。
「ふふっ、良かった」
古いものだからって憧れられても、ぼくはあげられないからね。
これでも一応、人格はあるし、所有物には向かないんだよ。
「違いないな」
俺の方でも御免蒙る、お前なんかを貰うのはな。
あの時はお互い、笑い合っておしまいだったけれども。
それから長い長い時が流れて、白い鯨が出来上がった後に恋をした。ソルジャーと呼ばれ、青の間に住む美しい人に。あの日のブルーが気高く育った、それは美しいミュウの長に。
そうしてブルーと想いが通じて、身も心も結ばれた恋人同士になれたのだけども。
(…古いものだから憧れた…ってわけではないよな?)
まさかそういう恋ではあるまい、と羽根ペンを巡る会話を思い返して苦笑する。
確かにブルーは年だけは上で古かったけれど、レトロなアイテムというわけではない。
ブルーの何処にも古さを感じたことは無かったし、古いと思ったことさえも無い。
冗談交じりに「ぼくは年寄りだよ」と言っていたって、ブルーの姿は若々しかった。その身体が弱り、死の影が間近になった頃でさえ、ブルーは若かったのだから。
(うん、ブルーはブルーだ)
古いものが好きだから恋をしたのだ、と言うのであれば。
(今のあいつに当て嵌まらんしな?)
十四歳の小さなブルー。見た目どおりに若いどころか幼いブルーは、古くない。
(いや、しかし…)
いくら今のブルーが若いとはいえ、ソルジャー・ブルーの生まれ変わり。
前の生からの恋人なのだし、古いのだろうか。
幼いブルーも、古いものだと言えないこともないのだろうか…?
(古女房という言葉があったな…)
今の自分だから知っている言葉。古典の教師をしている間に覚えた言葉。
もしもブルーにこれを言ったら、膨れっ面になるのだろうか。
「古くない!」と唇を尖らせ、膨れるだろうか、小さなブルーは。
(まさか、古いから好きってわけではないと思うが…)
違う筈だが、と思うけれども。
思いたいけれども、前の自分が好んでいたもの。
誰も引き取り手が無かった代物、木で出来た机と、書くのに手間がかかる羽根ペン。
どちらもレトロで、前の自分の象徴なのだとゼルが笑った二大アイテム。
古すぎたことを否めはしないし、レトロに過ぎる趣味ではあった。
更に…。
(三度目の正直って言葉もあったな…)
まさかブルーが三つめのレトロなアイテムだった、という恐ろしいオチではないのだろうが。
前の自分は確かに古いものに、年上のブルーに恋をした。
恋に落ちてブルーに想いを打ち明け、手に入れて自分のものにした。
誰にも言えない秘密の恋ではあったけれども、結ばれて幸せな時を過ごした。
白いシャングリラで、遠く遥かな時の彼方で。
そうして今も恋をしている。
青い地球の上に生まれ変わって、小さなブルーに恋をしている。
(今度の羽根ペンは、あいつがくれた羽根ペンだからな…)
いつかブルーにラブレターを書ける時が来たなら。
小さなブルーが大きく育って、堂々と恋を語り合える時が訪れたなら。
この羽根ペンでしっかりと想いを綴ろう、とハーレイは紙にブルーの名を書いた。
前の生では、書くことが無かったラブレター。
何処から知れるか分からないから、書かずに終わったラブレター。
それを今度は羽根ペンで書く。
前の生からの恋人のために、その恋人がくれた大切なペンで…。
レトロな趣味・了
※前のハーレイのレトロな趣味。木の机だとか、羽根ペンだとかに惹かれたようです。
そして同じに「古かった」のがブルー。そのせいで恋をしたなんてことは、ないですけどね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ふわり。
学校の帰り、バスを降りて家まで歩く途中で、ブルーの鼻腔をくすぐった匂い。
甘いけれど強い、その独特の秋の花の香。
(あっ…!)
咲いてるんだ、とブルーは脇道に逸れた。角を曲がって二軒先の家、其処の生垣。
(うん、今年も一杯!)
どうして今日まで全く気付かなかったのだろう。
(…ハーレイのことで頭が一杯になってたからかな?)
例年だったら咲き始めて直ぐに誘われるように寄り道するのに、今年は全く覚えが無い。小さな蕾が花開いただけで、いつもの道まで「咲いているよ」と香を漂わせる木たちなのに。
(ごめんね、今年はウッカリしちゃっていたみたい…)
せっかく呼んでくれていたのに、と家を取り囲む木たちに謝った。
ブルーの背丈よりも高い、金木犀で出来た生垣。枝一杯に花を咲かせて誇らしげに立つ木々。
(銀木犀の木もあるんだよね)
あれはこっち、と生垣の角を曲がれば、生垣を越えて道路にまで張り出した白い花の木。香りの高い花をつける木。
(こっちももうすぐ咲きそうだよ)
金木犀の生垣と、見上げるような銀木犀の木。
オレンジ色の花と真っ白な花が咲き揃ったら、普段の道を歩いていたって甘い香りが強く漂い、「こっちだよ」「見においでよ」とブルーを手招き、惹き付けて来る。
小さな頃から大好きな香り。物心つく前からきっと、好きだった香り。
幼い頃には手のひらの中に花を握って持ち帰ったりもした。
(男の子らしくないんだけどね…)
零さないようにしっかりと持って帰って、宝物のように窓辺に置いていたなんて。
可愛らしいと呼ぶには小さすぎる花を器に入れて、香りを楽しんでいたなんて。
すっかり乾いて香りがしなくなってしまうまで、ポプリよろしく子供部屋の素敵なアクセント。あの頃はポプリという言葉もドライフラワーさえも欠片ほども知りはしなかったのに。
(…だけど香りが好きだったんだよ…)
何故この花が好きなんだろう、と生垣に咲き誇る金木犀の花に触れてみた。
集まって咲いているからそれと分かるけれど、一輪一輪は小さくて目立たない四弁の花。
自分の家の庭に無いのが残念だったが、どういうわけだか、花の季節以外は忘れているから。
甘い香りが消えてしまったら、見に出掛けようともしなかったから。
それを良く知るブルーの両親は、金木犀の木を庭に植えようとは言わなかった。
独特の香りが強い花だし、他の花の香をすっかり圧倒してしまうから。
母が丹精している四季咲きの薔薇の香りまでもが、台無しになってしまいそうだから。
(金木犀かあ…)
ハーレイの家の庭にもあるのかな、と呟いたけれど分からない。
一度だけ遊びに出掛けた時には家の中だけを夢中で見ていて、庭までは足を運ばなかった。次の機会が無くなるだなんて思っていないし、また次でいいと窓から眺めていただけ。
(…まさか行けなくなっちゃうだなんて…)
前の生と同じ背丈になるまで、来るなと言われてしまった家。
メギドの悪夢を見た夜に一度だけ、瞬間移動で飛び込んで行ってしまったけれど。一度だけしか飛んでゆけなくて、どうすれば飛べるのか分かりもしない。
(…あの時も庭は見ていないんだよ…)
ハーレイの車で家まで送って貰ったから、ガレージまで庭を横切って行った筈なのだけども。
夢のような時間に目がくらんでいて、庭を観察出来る余裕はまるで無かった。
だから知らない、ハーレイの家の庭を彩る数々の木たち。
金木犀の木も庭の何処かに植えられ、花を咲かせているのだろうか…。
せっかくだからハーレイに訊いてみよう、と一枝貰うことにした。花は華奢だけれど丈夫な葉。ハーレイが暫く来られなくても、花が落ちても、枝だけだったら週末まで持つ。
この生垣に囲まれた家の人とは、小さな頃から顔馴染み。
金木犀の花が欲しくて欲しくて生垣にべったりへばりついていた、幼稚園からの顔馴染み。
気付いた奥さんが「持って行ってね」と枝をハサミで切ってくれたし、ご主人だって「ほら」と分けてくれたことが何度もあった。
そうする内に、とびきりの許可。小躍りしたくなった二人からの言葉。
いつでも一枝取って行っていいと、大きな枝をもぎ取るわけではないのだから、と。
(うん、久しぶりに!)
こうして枝を分けて貰うのは、いったい何年ぶりだろう?
よいしょ、と一枝、小さいのを折った。コップに挿すのに丁度いいくらいの小さな枝を。
香りを楽しみながら大切に持って、元の道へと。
花が零れてしまわないよう、ゆっくり歩いて家に帰ると、母が「あら、金木犀。久しぶりね」とクリスタルの一輪挿しに生けてくれた。
「部屋に飾るんでしょ? 長い間咲いててくれるといいわね」
「うん。ありがとう、ママ!」
コップに挿そうと思っていたのに、母のお気に入りの一輪挿し。
これならばグンと見栄えがする、と嬉しくなった。
勉強机に置いたけれども、もしもハーレイが来てくれたならば、部屋の彩りになるだろう。
制服を脱いで着替えて、母と二人でおやつを食べてから、部屋に戻って。
扉を開けて入った途端に、あの香り。ふうわりと甘く、けれども強く主張する香り。
勉強机の上に飾った金木犀。
引き寄せられるように机の前に座って、ハーレイと自分が写った写真を収めたフォトフレームと交互に見比べ、金木犀の香りを心ゆくまで吸い込んだ。
(いい匂い…)
強すぎて嫌いだ、と言う友達もいるし、両親だって庭に植えてはくれない。薔薇の香りを殺してしまうからと植えてはくれない。
それでも、この花に心惹かれる。花が咲く時期だけ、香りが風に乗る花の季節にだけ、ついつい惹かれて見に行ってしまう。こうして香りを手に入れたくなる。
どうして好きなのか分からないけれど。
何故だか分からないのだけれど…。
(…もしかしたら…)
ひょっとしたら、と心を掠めた微かな、それでいて引っ掛かってくる思い。
これは自分ではないのかもしれない。
金木犀の香りが好きだった人は。甘い香りに惹かれる人は…。
(前のぼくなの…?)
遠く遥かに過ぎ去った昔、白いシャングリラで暮らした前の生の自分。ソルジャー・ブルー。
前の自分の全てだった船。世界の全てと言ってよかった、ミュウの楽園。
あのシャングリラに金木犀の花はあっただろうか、と手繰り寄せた記憶にその木があった。
ブリッジから見える広い公園ではなくて、居住区の方。
皆の憩いの場になるように、と幾つも鏤めた公園の一つにあったと、金木犀が植えてあったと。
何本かあった金木犀の木。今日の帰り道に見た生垣と同じくらいに大きかった木。
(銀木犀だってあったんだよ)
オレンジ色の花と競うかのように、その公園にあった銀木犀。季節ともなれば漂った香り。
でも…。
前の自分は、どういったわけで金木犀の香りを好んでいたのだろう?
金木犀と銀木犀とが植わった公園に、頻繁に足を運んだ覚えも無いのに。
その公園が好きで、花の季節には入り浸っていたという記憶すら残っていないのに…。
(なんで…?)
理由さえ記憶に無いというのに、前の自分だという気がする。
金木犀の香りが好きだった人は前の自分で、それゆえに今も惹かれるのだと。
けれども今でも覚えているのは金木犀があった公園だけ。銀木犀もあった公園だけ。手掛かりにならない、前の生の記憶。
(忘れちゃっただけで、あの公園が一番好きだったとか…?)
思い出せない、と金木犀の枝を見詰めて悩んでいたら、来客を知らせるチャイムの音。
程なくして母に案内され、部屋にやって来た、白いシャングリラの生き証人。
褐色の肌のブルーの想い人は、直ぐに香りに気付いたようで。
「ほほう…。金木犀か」
母がお茶とお菓子をテーブルに置いて立ち去った後で、ハーレイは勉強机の方へ視線を遣った。
「お前の家の庭には無いだろ、珍しいものが飾ってあるな」
いや、金木犀自体は、今の季節には特に珍しくもないんだが…。
「ぼくが貰って来たんだよ。近所にあるんだ、金木犀の生垣に囲まれた家が」
ハーレイの家の庭にも金木犀はあるの?
「いや、植えてないな」
「そうなんだ…。ちょっと残念」
あったらいいな、と思ったんだけど。枝を貰いたくなっちゃう木だし。
「俺の家の庭には植えていないが、親父の家には昔からあるぞ」
生垣じゃなくて一本だけだが、お前の背よりはデカイ木だな。
「ホント?」
「おふくろは薔薇に凝ってるわけじゃないから、こいつだってあるさ」
ガキの頃にはこいつが咲いたら「ああ、秋だな」って思っていたな。
夏の暑さが残っている間は、金木犀の花は咲かないからな。
生まれ育った家には金木犀の木があった、とハーレイが話すから、ブルーは訊いた。
「ハーレイは金木犀が好きだった?」
「いや、特にどうとも思わなかったが…」
言ったろ、秋の花だって。庭から金木犀の花の匂いがしたらだ、もう秋だな、という程度だ。
「…じゃあ、無理かな…」
「どうした?」
金木犀がどうかしたのか、飾ってあるくらいだし、お前にとっては特別なのか?
「…金木犀の香りが好きなんだよ。うんと小さい頃から好きで、生垣にへばりついてたくらい」
この枝を貰って来た家のことだよ、いつでも貰っていいって言って貰えたほど見てたんだ。
花だけ貰って握り締めて帰った時でも、香りが消えるまで部屋に置いてた。
でも、今のぼくじゃないかもしれない、って思っちゃって。
金木犀の香りが大好きだったのは、前のぼくかもしれない、って…。
だって、シャングリラにも金木犀の木があったんだもの。植えてある公園、あったんだもの。
ハーレイだったら覚えてるかと思ったけれども、やっぱり無理かな…。
「ああ、あれな」
思いがけずも返った答えに、ブルーは赤い瞳を丸くした。
ハーレイは「忘れちまったか?」と穏やかに笑む。
「そいつは前のお前だな」
金木犀の香りが好きで、何故なのか思い出せないとしたら。
それは間違いなく前のお前だ、今のお前が金木犀に惹かれる理由が無いなら。
「…知ってるの?」
覚えているの、と驚きに包まれてブルーは尋ねる。自分は忘れてしまったというのに、金木犀の香りに纏わる記憶が無いのに、ハーレイに断言されたから。
今のブルーに金木犀を好む理由が無いなら、それはソルジャー・ブルーのものだと。
「ハーレイ、なんで前のぼくだって言い切れるの?」
「ん? そりゃまあ、なあ…。他にも色々とあった筈だが、始まりが金木犀だしな」
一番最初が金木犀なのさ、お前が言うまで俺も綺麗に忘れていたが。
「…どういう意味?」
「前のお前の女神だ、フィシスだ」
「…フィシス?」
ますますもって分からない、と首を傾げた小さなブルーに、ハーレイは「覚えていないか?」と金木犀の枝を指差した。
「花じゃないんだ、香りの方だな。要するに花の香りってヤツだ」
お前、フィシスは特別だからと…。こう言っても思い出さないか?
「ああ…!」
そうだった、とブルーの脳裏に蘇る記憶。遠く遥かな時の彼方のシャングリラ。
其処に確かに花の香りが、金木犀の香があったのだった…。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが攫って、ミュウの女神に仕立てたフィシス。
無から生み出され、人類とすら言えなかった少女が欲しくてサイオンを与え、手に入れた。
彼女はその身に地球を抱くと、未来を読むとシャングリラに暮らす仲間を騙して。
フィシスは特別だったから。
彼女の正体が何であろうと、ブルーにとっては大切な女神だったから。
幼い頃から皆の制服とは違う服を纏わせ、天体の間の奥に個室を持たせた。
竪琴が得意なアルフレートを世話係に付けて、フィシスはさながらミュウの姫君。
それでも足りなくて、もっと何か…、と思っていた頃。
フィシスと皆との違いを引き立たせるものが欲しいと思っていた頃。
「香水がいいんじゃないのかい?」
長老たちが集まる会議が終わった後の寛ぎのひと時、ブラウが投げ掛けて来た言葉。
「…香水?」
何のことだか咄嗟に分からず、オウム返しに問い返したら。
「昔はあったよ、この船にもね。あんたが色々と人類の船から奪っていた頃」
「アレじゃ、女性の好きな香りじゃ。たまに物資に混ざっておったじゃろうが」
好きなヤツらはつけておったぞ、とゼルが続きを引き継いだ。
すれ違うとほのかに香ったものだと、ふと振り返ったりもしたものだと。
「そういえば…。あったね、確かにそういったものが」
でも…。香水なんかを作れるのかい?
データベースに作り方とかは入っているんだろうけど…。
「花さえあれば出来るじゃろうて。合成よりも本物が良かろう、可愛い女神のためじゃからな」
ヒルマン、その辺はどうなんじゃ?
「作れるだろうね、本物の花で。今の季節だと…」
「金木犀じゃないかしら?」
居住区の公園で花盛りよ、とエラが応じて、ゼルが頷く。
「うむ、咲いておるな」
あれはいい香りじゃ、わしも好きじゃぞ。あの香りがする女神ともなれば素敵じゃろうなあ…。
金木犀だ、と意見の一致を見たのだけれども、遠い記憶になった香水。
今のシャングリラには存在しない香水。
子供にはちょっと強すぎないか、とエラが慎重な意見を出した。かつて香水が流行っていた頃、傍迷惑なほどに強い香りのものもあったと。
香りの強い金木犀はその二の舞になりはしないか、と。
「心配要らないんじゃないのかい?」
程度ものだよ、とブラウがウインクしてみせた。
「みんながつけてるってわけじゃないんだ、ほんのちょっぴりでも効果のほどは充分さ」
少しだけ使えば強すぎたりはしない筈だよ、子供らしくほんの一滴、二滴で足りるだろ?
ふわっと香ればそれでいいのさ、フィシスの身体からは花の香りがするってね。
花の香りを纏った女神。
それは如何にも特別そうで、神秘的とも思えたから。
何よりフィシスの身体から香しい香りがするというのが素晴らしかったから、花の香りの香水を開発させようと決めた。まずは今が盛りの金木犀で。
ヒルマンがデータベースを調べて、見付け出して来た自然素材の本物の香水の作り方。
遠い昔には本物の花だけで香水を作るには大量の花が必要だったらしいけれども。
その時代よりも技術は遥かに進歩していた。僅かな花からでも香り高い香水が作り出せた。
居住区の公園に咲いた金木犀の花から生まれた香水。
フィシスのためにだけ、生まれた香水。
それを一滴、その身に纏ってフィシスは一層、特別になった。
フィシスが歩けば金木犀の花の香りが漂うと、地球を抱く女神は甘く香しい香りがすると。
「…そっか、最初は金木犀の香りだったんだ…」
忘れちゃってた、と勉強机の上の金木犀を見遣るブルーに、ハーレイが「お前なあ…」と呆れたような顔で頭を振った。
「綺麗サッパリ忘れちまうとは、見事なもんだな。金木犀の香り以外は忘れました、ってか」
お前、物凄く喜んでいたじゃないか。ミュウの女神で花の女神だ、って。
それにフィシスも花の匂いがする水を貰った、って大喜びで…。
シャングリラの中でもフィシスの人気が更に高まったぞ、ついでに金木犀の方もな。
「そうだったっけ?」
「金木犀の後も色々な花の香りを作り出していたが、金木犀の香りが一番強かったからな。香水にしなくても花を取ってくるだけで香りがするから、人気だったぞ」
次の年から金木犀の花をこっそり、制服の下に忍ばせる女性がいた筈だが…。
手袋の中とか、襟元とかにな。
「言われてみれば…。いたね、そういうことをしてた人たち」
ほんのちょっぴり入れておくだけで、ふんわり香りがするんだものね。
恋人がいる女性だったら真似たくなるよね、そういったお洒落。
ようやっと思い出してくれたか、とハーレイの手がブルーの頭をクシャリと撫でた。
「金木犀の香りはフィシスだったんだ。フィシスの最初の香りなんだ」
でもって、今なら。
金木犀の花があったら、香水どころか酒だの茶だのを作り始めるんだな、ゼルたちがな。
「なに、それ?」
「男でも楽しめる金木犀さ。金木犀の香りの酒や茶があるんだ」
茶だと、茶の葉に金木犀の花を混ぜ込んで香りを移して。そいつで普通にお茶を淹れたら、花の香りの茶になるんだな。
酒の方だと金木犀の花を酒に漬け込むわけだが、出来上がるまでに三年かかる。白ワインに花を浸けてあってな、香りも強いが甘みも強い酒なんだ。
「ふうん…」
金木犀のお酒、甘いんだ…。
「お前の場合は茶しか無理だな、酔っ払うからな」
「…金木犀の香りがするお酒だったら、欲しい気もするけど…」
「花の香りを年中楽しめる酒だからなあ、金木犀の香水と同じだな。おまけに甘くてお前みたいなヤツでも飲めるタイプだ、あの酒は」
酒だと言わなきゃ、お前、知らずに飲むかもな?
ソーダとかで割って出される場合も多いと聞くから、「金木犀の匂いだ」って嬉しそうにな。
「そうかも…」
飲んじゃって酔っ払ってしまうかも、とブルーは素直に頷いた。
金木犀の香りはとても好きだから、そんな匂いの飲み物があれば喜んで飲んでしまうだろうと。
その香りがするというだけのことで、酒すらも飲んでしまいかねない金木犀。
幼い頃から生垣にへばりついて動かなかったほど、大好きな香りの金木犀の花。
まさか前世の自分が好んだ香りだったとは…、とブルーは部屋に漂う金木犀の香りを追った。
勉強机の上に置かれた一輪挿し。久しぶりに、と手折って来た枝。
「金木犀の香り、好きだったけど…。まさかフィシスの香りだったなんて思わなかったよ」
前のぼくが好きだった花かと思ってたんだよ、でなきゃあの公園が好きだったとか。
意外過ぎてちょっとビックリしちゃった。
「俺もお前が忘れていたことに驚きだ」
前のお前の記憶かもしれない、ってトコまでは行っていたくせに、何故、出ないんだ。
フィシスなんだぞ、前のお前が欲しがって攫って来たんだろうが。
たかが香水の話ではあるが、漠然と「好き」だけで済ませるとはなあ…。
「これがハーレイだったら忘れたりはしないよ、思い出せるよ」
忘れていたって、ちゃんと思い出すよ。切っ掛けがあれば。
「そうなのか?」
「ぼくの一番はハーレイだしね。フィシスも欲しかったけれど、断然、ハーレイ」
だからハーレイのことなら忘れないんだよ、金木犀の思い出がハーレイだったら思い出したよ。
「そいつは非常に有難いんだが…」
光栄でもあるが、とハーレイは金木犀の枝をチラリと眺めた。
独特の甘い香りを振り撒く、小さいながらも香り高い枝を。
「俺のことなら覚えている、と言われてもだ。金木犀の香りは要らんぞ、俺は」
あんな香りを俺がさせていたら、笑いもの以外の何物でもない。
もしもシャングリラでフィシスの香りが移っていたら、だ。ブリッジに立つ俺から金木犀の花の香りがしてたら、似合わないこと夥しいぞ。
絶対、皆が肘でつつき合いとか、サイオンでヒソヒソ話とか。ネタになるんだ、格好のな。
「…金木犀の香りのお酒だったら?」
「そっちだったら頂いておこう、酒には罪は無いからな」
ただし、そいつは前の俺たちの時代には無かったぞ?
さっきも言ったが、金木犀の茶も、金木犀の酒も今だから飲めるものなんだ。
SD体制の時代には消されちまってた文化の一つだ、誰も作りやしなかった。青い地球と一緒に復活して来た文化さ、ゼルたちは作ろうとも思っていなかった、ってな。
今の時代だから金木犀の香りの酒もあるのさ、とハーレイが片目を瞑ってみせるから。
青い地球で咲いた金木犀の花を白ワインに閉じ込め、香りを移した今の時代の酒だと言うから。
「それじゃ、そのお酒、結婚したら買ってみたいな」
金木犀の香りなんでしょ、一年中。飲めなくてもいいから、香りが欲しいよ。
「そうだな、買って来て俺が飲むとするか。お前は舐めるか、見てるだけでな」
他の地域の酒を沢山扱う、でかい店なら置いているからな。
「なんて名前のお酒なの?」
「桂花陳酒さ」
「いつか買おうね、その桂花陳酒」
金木犀の花の時期でもいいけど、違う季節にも。あの香り、ホントに大好きなんだよ。
「…酒はかまわんが、フィシスはいいのか、フィシスの香りの香水の方は?」
俺は香水のことはサッパリ知らんが、売ってるんじゃないのか、金木犀の香りの香水。
「ぼくは男だから、そんな香水、要らないよ。それに…」
金木犀の香りが何だったのかを思い出してくれた、ハーレイの方がずっと大切。
だから金木犀、来年からはハーレイのために桂花陳酒だ、って思うことにするよ。
それを買わなきゃ、って、いつかハーレイと結婚した時には買うんだ、って。
金木犀の花が咲く季節になったら思い出すよ、とブルーは幸せそうな笑みを浮かべた。
幼い頃から惹かれ続けた金木犀の香り。
フィシスの香りも大切だけれど、それよりもずっと君が大切…、と。
金木犀の香り・了
※今のブルーが好きな金木犀の香り。小さかった頃から好きな香りだったのですけれど…。
元々は前のブルーの記憶。フィシスが一番最初につけた香水、それが金木犀なのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらからv
(あっ…!)
学校から帰り、おやつを食べながら眺めた新聞。天気予報欄の上に刷られた青い地球。ごくごく見慣れたコーナーだけれど、ふと思い出した。
フィシスの地球を。前の生の自分が飽きることなく眺め続けた、青かった地球を。
(……地球……)
今のブルーは地球を知らない。知っているけれど、知らないのと同じ。
蘇った青い地球に生まれたブルーだけれども、その地球はいつも足の下にある。前の生で願った「踏みしめる大地」が、ミュウのためどころか自分のために在って、しかも地球。
焦がれ続けた青い水の星。
それなのに、肝心の姿が見えない。青い地球は常に足の下にあって、一粒の青い真珠ではない。海に行けば地球が丸いことが分かる、と言われてはいても、水平線が緩やかな弧を描くだけ。
ブルーが知っている海の景色も水平線と青い空だけで、其処には地球の姿は無かった。
そう、宇宙から見た地球を知らない。暗い宇宙にぽっかりと浮かぶ地球を見たことがない。
(…せっかく地球の上にいるのに…)
天気予報には気象衛星から見た地球が付き物、新聞でも、映像ニュースでも。
夏休みに地球を宇宙から見られるツアーに行こう、と父が約束してくれていたのに、ハーレイと出会って行きそびれた。
旅行などに出掛ける暇があったら再会した恋人と過ごしたかったし、「家に居たいよ」と願った自分。旅行は要らないと父に告げた自分。
けれど…。
(地球…)
見損ねてしまった、宇宙から見る青い地球。
前の自分が焦がれ続けて、幾度となく眺めた青い水の星へと飛んでゆく旅。フィシスの記憶。
あれで見たように、外から見た地球を見てみたい。足の下に在る地球を、地球の外から。
写真や映像などとは違って、ヒトの目が捉えた青い地球。肉眼で捉えた、青い水の星。
それが見たい、と思うけれども、今はもう隣にフィシスはいない。
あんな風に今の地球の姿を、住んでいる星を見てみたいのに、フィシスはいない。地球を見せてくれたフィシスがいない、と溜息をつきかけて気が付いた。
(そうだ、ママ!)
ママ、とキッチンに駆けて行った。
地球が見たいと、ママの記憶の地球を見せて、と。
夕食の支度にはまだ早かったから、母は食材のチェックをしていた手を止めて振り返った。
「…地球?」
「そう、ママが見た地球! ママは地球の外へも旅行に行っているでしょ?」
ぼく、夏休みに行けなかったから…。ママのを見たいよ、ママの記憶に残ってる地球。
「…パパに頼んだ方がいいんじゃないの?」
何度か出張に行っているわよ、ブルーが生まれてからだって。パパの記憶の方が新しいわ。
ママは新婚旅行が最後よ、ブルーが生まれるより前よ?
「それ、この家に帰ってくる?」
「もちろんよ。新婚旅行よ、此処に帰って此処に住むのよ」
「じゃあ、それが見たい!」
お願い、見せて。晩御飯の用意をする前に見せてよ、ママが見た地球。
母は「しょうがないわねえ…」とブルーと一緒にダイニングまで戻って来てくれた。テーブルの上の空いたティーカップや空になったケーキの皿をキッチンに運び、後片付けを済ませて。
「はい、お待たせ」
エプロンを外し、ブルーの隣の椅子に「此処でいいかしら?」と腰掛け、差し出された手。母の白い手。ブルーはキュッと自分の手を絡めた。
かつてフィシスとそうしたように、母と絡め合わせた右手。
前の自分の右の手はメギドで凍えてしまったけれども、今の自分の小さな右手に母の温もり。
「…フィシスになったような気分だわ、ママ」
憧れたのよ、と母が微笑む。
幼い頃にはフィシスがとても羨ましかったと、ソルジャー・ブルーに地球を見せていた女神が。
母にとっては王子様のように思えたソルジャー・ブルー。
フィシスはさながらお姫様といった所で、フィシスになりたかったという。
「…ごめんね、ママ…。ぼくがソルジャー・ブルーだなんて」
ママの夢、叶わなかったのに。
…ママがフィシスになれるどころか、ソルジャー・ブルーのママになっちゃうだなんて…。
「いいのよ、ママはパパに出会って、ちゃんと結婚出来たんだから」
素敵なパパと暮らせる上に、こんなに可愛いソルジャー・ブルーもいるんだものね。
ほら、と目を閉じた母が絡めてくれたサイオン。
「ごゆっくりどうぞ」とクスクス笑って、明け渡してくれた青い地球へと向かう旅の記憶。
「わあ…!」
凄い、とブルーは歓声を上げた。
閉じた瞼の下へと流れ込んで来た、母が見た地球。宇宙船の窓から眺めた地球。
フィシスが見せてくれた地球よりもずっと鮮やかで、地形はすっかり違うけれども青い水の星。蘇った地球の美しい姿。宇宙に浮かんだ一粒の真珠。
宇宙船からシャトルに乗り継ぎ、ぐんぐんと青い海を目指して降下してゆく。
リアリティーのある、本物の地球へと降りてゆく旅。
フィシスの記憶は降下の途中で終わったけれども、母が乗ったシャトルは地球の大地に造られた広い宙港に降りた。ガクン、と揺れてから滑走路を滑り、速度を落として停まったシャトル。
「もっと…!」
ママ、もっと。家に着くまで全部見せて、と願った通りに旅の終わりまで見せて貰った。
ブルーの記憶と殆ど変らない街の通りを車で走って、生垣に囲まれたこの家まで。車のドアから地面に降り立ち、見慣れた門扉の前に立つまで。
「…ソルジャー・ブルー? 如何でしたか?」
母がニッコリ笑ってフィシスを気取るから、どう応えようかと思ったけれど。
前の自分の台詞を口にしたなら、きっと笑い出すに決まっているから、今の自分の言葉にした。溢れ出す喜びを隠さないまま、母にピョコンと頭を下げて。
「ありがとう、ママ!」
綺麗だったよ、ママが見た地球。フィシスの地球よりずっと凄いよ…!
「どういたしまして」
お喜び頂けて嬉しいですわ、と返した母は「はい、フィシスごっこの時間はおしまい」と片目を瞑ってエプロンを着けると軽やかにキッチンの方へと向かった。
楽しかったわ、とブルーに笑みを投げ掛けて。
(…あれがママの地球…)
あんな風に見えるものなんだ、と部屋に戻ったブルーは勉強机の前に座って遠い昔を思い出す。
前の自分が、地球が見たくて攫った少女。
欲しかったフィシス。
青い地球の記憶を抱く少女が、水槽の中に浮かぶ少女が欲しくて欲しくてたまらなかった。
(…偽物の地球の記憶だったなんて、前のぼくは知らなかったしね…)
雲海の星、アルテメシアの育英都市。
偶然入り込んだ研究棟の奥で見付けた、前の自分の宝物。
マザー・システムが無から創った生命だけれど、その身に抱く記憶は本物。流し込まれる膨大な記憶は全て本物、いずれ人類の指導者となるべく機械が送り込む数々の知識。
(だから本物だと思ったんだよ、地球も…)
そういう風に見えるものだと、宇宙を旅して地球に降りる時にはこう見えるのだと。
青く美しい星、母なる地球。
今はまだ何処に在るのかも分からないけれど、これが本物の地球なのだと。
少女が夢見る地球は確かすぎて、実感を伴いすぎていて。
その青い地球に囚われる。見れば見るほど地球に惹かれて、水槽から離れ難くなる。
(…何度見たって、飽きるわけないよ)
あの地球が見たい。幾度でも見たくて、いつまでも見たい。時間が許す限り眺めていたい。
地上に降りる度に通い続けて、通う内にどんどん欲しくなる。地球が、地球の夢を抱く少女が。青い地球の夢を見ている少女はミュウではないのに、人類の指導者になる者なのに。
けれども欲しくて、どうしても欲しくてたまらないから。
(…サイオンは多分、移せる筈…)
水槽の中で眠る少女にサイオンさえあれば、彼女はミュウ。
白いシャングリラへと連れて帰って、ミュウの仲間として保護するべき者。その考えが浮かんだ瞬間、ゴクリと唾を飲み込んだ。
サイオンを移すなどやってみたことは無かったけれども、出来ると思えた。
しかし…。
(…人間じゃない)
ミュウでもない。
無から創られ、今は研究者たちに記号で呼ばれている少女。
いずれ水槽から出された時には、フィシスと呼ばれる予定の少女。
もしもサイオンを移してしまったら、少女が進むべき本当の未来は無くなってしまう。ミュウと判断され、処分される道が待っているだけ。
それを攫って連れ帰ることは簡単だけれど、シャングリラに暮らす仲間への手酷い裏切り。
ミュウの楽園に人類を連れて帰るどころか、人類ですらもない少女。
けれど少女にサイオンを与えてしまったならば、連れ帰る以外に道は無かった。研究所に残せば殺されるだけで、少女は地球の夢ごと消える。泡のように儚く消されてしまう。
自分が少女を欲しがったせいで、サイオンを与えてしまったせいで。
それをやったら、もう後戻りは出来ないから。
少女を失わずに済む方法は仲間に対する裏切りしか無く、それでも欲しくてたまらないから。
どうしても堪え切れなくなってしまったから、勤務を終えて青の間を訪れた恋人の名を呼んだ。
「ハーレイ。…君に相談があるんだけれど」
ぼくは青い地球を見付けたんだよ、地球の夢をいつも見ている少女を。
シャングリラに連れて来たいんだけれど、その子はミュウじゃないんだよ。人類が無から創った生命体。人間じゃないんだ、人間ですらないものなんだよ。
…だけど欲しくてたまらない。
ぼくのサイオンを与えさえすればミュウに出来ると、そうしたら連れて来られると…。
そればかり考えてしまうんだ、ぼくは。
ねえ、ハーレイ。…ぼくはどうすればいいんだろう…?
諦めるべきだと分かっているのに、欲しくて欲しくてたまらないんだよ…。
そう打ち明けた後、ハーレイは腕組みをして長く考え込んでいたけれど。
眉間の皺を常よりも深くし、キャプテンの貌で思案を巡らせていたハーレイだったから、これは駄目だと半ば諦めていたブルーだけれど。
腕組みを解いた恋人の口から零れた言葉は、予想とはまるで違っていた。
「…その少女。…本当に……ミュウに出来ますか?」
「うん、多分」
「ならば、私は聞かなかったことにしておきます」
「えっ?」
何を言うのかと驚くブルーに、ハーレイは穏やかな笑みで応えた。
「あなたは殺されそうだったミュウの少女を救出して来た。それでいいではありませんか」
…いえ、私の記憶も消して下さい。後々を思えばその方がいい。
聞かなかったことにするより、今、聞いた全て。消してしまうのが一番です、ブルー。
「…それは出来ない」
出来ないし、ぼくは決してしないよ。ハーレイにだけは知っていて欲しい。
あの子を船に連れて来ていいと言ってくれるなら、忘れないで覚えていて欲しい。ぼくが連れて来ようとしている少女が何者なのか、どういう存在だったのかを。
「ですが、ブルー…」
「いいんだ、君には知っていて欲しい」
ぼくの我儘を、とんでもない無茶を聞き入れてくれたハーレイだから。
船のみんなを騙すことになっても、ハーレイにだけは相談しようと思ったんだから…。
そうしてミュウにしてしまった少女。サイオンを移してしまった少女。
ハーレイは何度も「まだですか?」とブルーに尋ねてくれた。地球を抱く少女は、あなたの夢の化身の少女はまだこの船に来ないのですか、と。
「まだだよ。…まだかかる」
あの子は水槽の中に居るから。まだ外に出される時期じゃないから。
でも、準備を進めておいてくれるかい?
あの子のために部屋が欲しいんだ。
ぼくがいつでも訪ねられるよう、他の子供たちとは別の部屋がいい。
それに特別な子だからね。地球の記憶を持った子だから、特別扱いでも誰も怪しまないよ。
やがて水槽から出された少女。
盲目のフィシス。
目が見えない彼女を研究者たちは失敗作だと思い始めていたのだけれど。
ブルーが与えたサイオンが何かと結び付いたか、それとも神の気まぐれなのか。彼女がタロットカードで占いをすることを知って、どれほどの喜びに包まれたか。どんなに嬉しく思ったことか。
これで彼女は間違いなく本物のミュウに見えると、それ以上だと。
「ハーレイ、フィシスは未来が読めるよ」
タロットカードというカードなんだ、シャングリラには無い、占い専用に作られたカード。
そのカードで未来を占えるんだよ、とても良く当たると研究者たちが恐れるくらいに。
「それは会える日が楽しみですね」
タロットカードとやらも作らなくてはなりませんね。この船には無いと仰るのなら。
「フィシスの地球は君に一番に見せてあげるよ、約束するよ」
「…まずくないですか?」
何故、私なのか。…私との仲を疑われませんか、そのようなことをなさったら。
「大丈夫。だって、君はキャプテン・ハーレイだから。このシャングリラのキャプテンだから」
ぼくの恋人だとは誰も思わないよ、気が付きはしない。もちろん、フィシスも。
その日が来た朝、死神のカードの上下を入れ替え、救い出したフィシス。
本当は攫って手に入れた少女。そうなるようにと仕向けた少女。
宝物のように大切に両腕に抱いて、白いシャングリラへと連れ帰って。
ミュウの女神だと皆に披露した。
天体の間に船の仲間を集めて、連れ帰った時の白いドレスのままで。
その身に地球を抱く女神だと、それに彼女は未来を読むと。
どよめきの中で、少女の小さな肩に両手を置いて。
「フィシスの地球は…。そうだ、ハーレイ。君に一番に体験して貰おう」
怖くないことを皆に証明するためにもね。どうだい、ハーレイ?
「はい、謹んでお受けいたします」
「ありがとう。こういったことは、やはりキャプテンの役目だからね」
大真面目な理屈をつけて、過ぎた日に交わした約束の通り、ハーレイに地球を一番に見せた。
自分の手よりも遥かに大きな褐色の手を怖がりもせずに、フィシスが差し出した手を握らせて。目を閉じたハーレイの表情が驚きに揺れて、それから一気に引き込まれてゆく。
フィシスが抱く地球の記憶へと、青く輝く水の星へと飛んでゆく旅に。
手が離れた後も、ハーレイの鳶色の瞳はうっとりと夢を見ているかのようで。
「どうでした、キャプテン!?」
「地球は青かったですか?」
口々に問う声に天体の間へと引き戻されたらしいハーレイは「うむ」と仲間たちを見回した。
「…素晴らしかった。本当に地球を見て来たような気持ちがする」
皆もあの地球を見せて貰うといい。
フィシスが疲れてしまわないよう、自己紹介を兼ねて順番に。
「そうじゃな、しかし今日は一人でいいじゃろう」
デカい男で怯えておらんか、見た目は平気そうじゃがな。
ゼルが気遣い、「違いないね」とブラウが頷く。
自己紹介はまたの機会でいいであろうと、今日の所は顔合わせだけにしておこうと。
「お嬢ちゃん。とりあえず、名前だけ覚えてくれるかい? あたしはブラウさ」
「わしはゼルじゃ。そっちがヒルマンで、向こうがエラじゃ」
「よろしくな、フィシス」
「よろしくお願いいたしますね」
このシャングリラへようこそ、フィシス。
エラの言葉が散会の合図。
仲間たちが感嘆の表情で見詰めている中、ブルーはフィシスを天体の間の奥へと導いて行った。
いずれ大切な仲間を迎える予定だ、と改装させておいた部屋まで。
ハーレイがフィシスの正体を伏せつつ、幼い少女が好みそうな部屋にと指揮して作らせた専用の部屋へ。
相部屋で暮らす子供たちとは違って、個室。愛らしい少女に良く似合う個室。
クローゼットに、ベッドに、テーブル。この日に備えてハーレイが用意させたタロットカードを収めた小箱。何もかもが全てフィシスだけのもの、フィシスだけの部屋。
それから彼女の世話係にと、竪琴の得意なアルフレートを側に控えさせて。
フィシスが部屋に馴染むのを見届け、彼女が抱く地球を眺めて戻った青の間。
其処で恋人の勤務時間が終わるのを待ち、やって来たハーレイが一日の報告を済ませるなり抱き付いて「ありがとう」と何度も繰り返した。
「ありがとう、ハーレイ。…君のお蔭だよ、ぼくはフィシスを手に入れられた」
「いえ、ソルジャー…。いいえ、ブルー。私は何もしていませんよ」
あなたが御自分で連れておいでになったのです。全てはあなたのお力ですよ。
「違うよ。君が許してくれなかったら、ぼくは決心出来たかどうか…」
でも、本当は。
ぼくが一番欲しいものは本当はフィシスじゃなくって、君なんだけどね?
「…地球よりもですか?」
「うん。…でも、地球も欲しい。青い地球も見たくてたまらないから、フィシスを攫った」
君も欲しいし、フィシスの地球も欲しい。…ぼくはとっても欲張りなんだよ。
「知っていますよ、本当のあなたがそうであることは」
ソルジャーではない、本当のあなた。
本当のあなたがどんな人かは、ずうっと昔から知っていますよ、そうでしょう…?
(…フィシスの地球かあ…)
懐かしいな、と小さなブルーは勉強机の前で呟いた。
母に見せて貰った記憶の方が遥かに鮮やかで、しかも本物の地球だったけれど。
フィシスが持っていた地球の記憶は偽物だったけれども、それを本物だと信じていた自分。青い地球があると信じて、其処を目指したソルジャー・ブルー。
(…あれはあれで良かったんだと思うけど…)
信じていたから前に進めたし、諦めなかった。仲間たちを、白い鯨を守って命までも捨てた。
(だけど本物の地球は青くなくって、前のハーレイが辿り着いた地球は死の星で…)
ハーレイはどんなにガッカリしただろうか、と考えた所で気が付いた。
今のハーレイは宇宙から見た地球を知っている。見たことがある、と前に話していた。
それも見たい、と欲が出て来た。
母の記憶の地球を見たからにはハーレイの地球も、と。
(ハーレイ、今日は来ないかな…?)
夕食に寄ってくれたらいいのに、と窓の方へと視線をやったら、来客を知らせるチャイムの音。
(来た!)
ハーレイだ、とブルーは窓に駆け寄り、門扉の向こうに佇む人影に手を振った。
母に案内されて来たハーレイと二人、窓辺のテーブルで向かい合う。お茶とお菓子を運んで来た母の足音が階段を下りて消えるなり、ブルーはハーレイに「ねえ」と強請った。
地球が見たいと、宇宙から見た青い地球の記憶が見たいのだと。
「…俺の地球か?」
「うん。それで地球に降りて、ハーレイの家まで行きたいんだけど…」
ママに見せて貰ったのが素敵だったから。
ハーレイのも見たいよ、ハーレイの目が見て来た地球も見てみたいんだよ。
「かまわないが…。お前のお母さんの記憶と同じくらい古いぞ、それでいいのか?」
「えっ?」
ハーレイ、旅行をしてないの?
一人暮らしだから、夏休みとかは旅行に行ってたと思っていたのに…。
「それなんだがな…。どういうわけだか、教師になってからは地球を離れたいと思わなかった」
長期休暇には長い旅行に行ける、っていうのもあって教師を選んだつもりだったんだがな。
最初の一年間は早く仕事に慣れるためにも旅は控えて、次の年からは気の向くままにあちこちの星へ出掛けて行こうと計画を立てていたんだが…。
旅の本まで買ってたんだが、いざ二年目って時になったら地球を離れる気にならなくてな。
しかも此処から、この地域から出たくないんだ。
そういうわけでな、俺は地球から離れるどころか、旅はこの地域専門だ。
今から思えば、お前が生まれちまってたんだな、あの年の終わりに。
お前から遠く離れたくなくて、俺の旅行は狭い範囲になっちまったんだろうな、きっとそうだ。
地球の記憶は古いのしか無いぞ、とハーレイは言う。
自分が最後に地球を離れた頃はまだ両親の家に住んでいて、今の家に戻る記憶ではないと。
ついでに隣町にある両親が暮らす家はまだ秘密だから、其処までは見せてやれないと。
「いいよ、内緒でも。…宙港に降りる所まででいいよ」
「なら、最後のにしておくか。卒業記念旅行の時の。…ソル太陽系からは出ていないがな」
大抵のヤツらは遠い星へと旅をしてたが、俺は行く気にならなかった。
ソル太陽系から出たいと思わなかったんだ。だから同じ趣味のヤツと一緒にフラリとな。
なにしろ同じ星系の中だ、何処へ行っても太陽が遠いか、近いかくらいの違いだったさ。
「他はどういう時に行ったの、地球の外へは?」
「色々だ。親父たちと旅行に行ったり、合宿もしたし、遠征もしたさ」
もっとも、遠征と言っても学生だからな、ソル太陽系の中だけだが。
親父たちと行った旅行もソル太陽系から出ちゃいないんだ。柔道も水泳も、練習を長い間休むと身体がなまっちまうしな?
だから近い所へ行こうと親父たちに言って、帰ってくるなり練習に走って行っていたのさ。
おまけに卒業記念旅行でも外へ出ないで、それから後は出ずじまいで。
結局、俺は地球を離れ難かったってことなんだろうな、記憶が戻っていなくても。
…そしてお前が生まれた後には、もう離れたくはなかった、と。
うんと古いぞ、と苦笑いしながらハーレイが見せてくれた記憶の中の地球。
母の記憶と同じくらいに古いという地球。
けれどもそれは青くて、少しもぼやけた所など無くて。
漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ青い真珠は、前の自分が焦がれた通りの青い水の星。その地球が見る間に近付いて来る。シャトルに乗り継ぎ、青い地球へと降りてゆく記憶。
(ハーレイも見たんだ…)
海面が近くなって、滑るように宙港に着陸するシャトル。窓の外を流れる景色が静かに止まった所で、ハーレイが「この先は秘密だ」と手を離した。
「隣町の親父の家までの道も秘密だ、まだ教えんぞ」
「うん。…ありがとう、ハーレイの地球も綺麗だったよ」
フィシスの地球よりずっと素敵だよ、ぼくも宇宙から地球に帰って来たみたいな気分になるよ。
「そうか?」
「本物なんだな、って分かるもの。ちゃんとシャトルで降りるんだもの」
ハーレイだって知っているでしょ、フィシスの地球。
青い地球に向かって降りて行くけど、絶対、着陸出来ないんだよ。
その前におしまいになってしまうんだよ、スウッと記憶が霞んでしまって。
前のぼくは「この先は秘密なんだな」って思い込んでいたけど、秘密なんかじゃなかったんだ。
青い地球なんかは何処にも無いから、ああしておくしかなかったんだよ…。
だから…、とブルーは微笑んでみせた。
「ハーレイが地球を知ってて良かった。宇宙から見た地球を知ってて、ホントに良かった…」
「何故だ?」
「前のハーレイが見た地球の記憶しか無いんじゃ悲しいでしょ?」
死の星だった地球しか知らなかったら、今のハーレイ、きっと悲しいと思うんだ。
せっかく青い地球の上に生まれて来たのに、ぼくみたいに外から見た地球を知らなかったら。
「…そうかもしれんな」
「それに、ハーレイは前のぼくにフィシスをくれた」
シャングリラに連れて来てもいいんだ、ってハーレイが許してくれたんだよ。
前のぼくが青い地球を好きなだけ見られたのはハーレイのお蔭。
偽物の地球でも、前のぼくにとっては本物の青い地球だったんだ。あの星に行こう、って地球を夢見て頑張れたんだよ、前のぼくは。
ハーレイがフィシスをくれなかったら、ぼくは最後まで頑張れたかどうか…。
だからハーレイには本物の青い地球を見せてあげたいよ、死の星じゃなくて今の地球を。
ちゃんとハーレイが見ていてくれたのが嬉しいんだよ、今の青い地球。
「フィシスか…。俺はお前の我儘を聞いてやりたかったというだけなんだが」
礼を言われるようなことは何もしていないと思うんだがな?
俺が自分のやりたいようにやったってだけで。
「…そうなの?」
「ああ。前のお前が欲しいと言うようなものが、そうそうあったか?」
欲しくて欲しくて、シャングリラの仲間たちまで敵に回そうってほどのものがあったか、それを手に入れるためなら何でもやろうと思うようなもの。
「……無かったかも…」
「そうだろう? 前のお前は、いつだって仲間が最優先で。我儘なんか言いやしなかった」
そんなお前がフィシスを欲しいと言い出したんだ。
仲間を裏切ることになっても欲しいと、どうしてもフィシスが欲しいんだと。
そこまでお前が欲しがるフィシスだ、手に入れさせてやりたいと思うじゃないか。
お前の嬉しそうな顔が見られるなら、俺はそれだけで良かったのさ。
たとえフィシスにお前を盗られる結果になっちまってもな。
「…それだけは無いよ」
無いよ、とブルーは首を横に振った。
「ぼくの一番は、いつでもハーレイ。…フィシスより、地球より、ハーレイが一番」
前のぼくもハーレイに言った筈だよ、本当に欲しいのはハーレイだって。
ホントなんだよ、前のぼくも今も、いつだって、そう。
「…そういや、お前、そう言ってたか…」
「うん。ハーレイがフィシスをくれた時にね」
フィシスよりも、地球よりも、ハーレイが好き。
青い地球もとっても欲しかったけれど、ハーレイのことが何よりも好きで、欲しかった。
そのハーレイと一緒に地球に来られたんだよ、青い地球まで。
だから…、とブルーはハーレイの手にもう一度自分の手を絡める。
小指と小指を添わせて強く絡ませる。
今度こそ二人で地球を見ようと、結婚したら二人で青い地球を見られる旅をしよう…、と。
フィシスの地球・了
※青い地球が見たくて、前のブルーが攫ったフィシス。秘密を知っていたのはハーレイだけ。
今は本物の青い地球へ向かう映像を見られるブルーです。母のも、今のハーレイのも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(今じゃ全く普通なんだが…)
すっかり慣れてしまったんだが、とハーレイは器の中身を眺めた。ホカホカと湯気が立ち昇る、蕎麦。器にたっぷりと入った出汁。
午前中は研修だったから、昼食は外で。それからいつもの、ブルーが通う学校へ。
特に急いではいなかったけれど、早く食べられて満腹感を得られるものを…、と入った店。
丼物やカレーなどにしようか、麺類にしようかと悩むまでもなく、蕎麦を茹でる匂いに惹かれて暖簾をくぐった。
SD体制崩壊後に復活して来た暖簾。日本という小さな島国の文化の暖簾。
そういった古い文化は大好きだったし、暖簾に釣られた部分もかなり大きいだろう。前の生から見慣れた普通のドアを開けるより、暖簾をくぐって入るのがいい。
思った通りに居心地のいい店は賑わっていた。茹でたての蕎麦の美味そうな匂いが漂っている。それに天麩羅や出汁の匂いも。
カウンターに座り、渡されたメニューをざっと眺めて月見天蕎麦に決めた。海老天に卵、これは栄養価も高い。
(此処は天麩羅も美味そうだしな?)
きちんと店で揚げているのが嬉しい所だ。出来合いの天麩羅を乗せるだけの店も多いのに。
(今日の昼飯は大当たりってトコか)
研修さまさま、次にこの辺りで研修があればこの店にしよう、と食べる前から膨らむ期待。店に漂う匂いだけで分かる。質のいい食材を使っているのも、手間暇を惜しんでいないことも。
そうして出て来た月見天蕎麦は思った以上に素晴らしい出来で、蕎麦の茹で加減も出汁もまさに絶品、おまけに海老天も美味かった。卵も、これぞ月見といった趣き。
(これはなかなか…)
次に来る時が楽しみだ、と風味豊かな蕎麦を啜っていた時、不意に浮かんで来た記憶。
(…待てよ?)
こんなものは食べたことが無かった、と前の生での自分が驚く。
こういう食べ物は有り得なかった、と。
(…うーむ…)
今では全く普通なのに。
こうしてフラリと入った店でも、何のためらいもなく注文出来る食べ物なのに。
(…こいつは何とも驚きだな…)
美味いんだが、と再び蕎麦を啜り始めながら、前の生へと思いを馳せて。
(よし、蕎麦だ!)
覚えておかねば、と残り少なくなった器の中身を頭にキッチリ叩き込んだ。大当たりだった、と自分を惹き付けた蕎麦の匂いに感謝する。残りの蕎麦も美味しく食べ終え、勘定を済ませて暖簾の向こうの通りへと出た。
愛車を停めてあった駐車場まで上機嫌で歩き、いざ職場へ。
今日は自分の授業は無いのだけれども、ブルーが通っている学校へと。
研修先で貰った資料などを整理し、明日の授業の準備を済ませて、一息ついたら放課後が近い。柔道部の指導に出掛ける前に…、と今日のあれこれを振り返る内に思い出した蕎麦屋。
(そうだ、蕎麦だったな)
一度思い出したら、もう忘れない。
蕎麦屋でメモを取っても良かったのだけれど、前の生に纏わる記憶だから、と取らなかった。
ふとしたはずみに蘇る記憶は書き留めていたらキリが無いというのもあったけれども、遠い昔の記憶が心をフッと掠める感触が好きだったから。
何度でもそれを味わいたいから、あえて書かずに放っておく。今日の蕎麦だって、今日の間なら忘れないけれど、明日には忘れているかもしれない。
(そうしたら、また楽しめるしな?)
今日の新鮮な驚きを。
月見天蕎麦の器を前にして「有り得なかった」と驚いた時の、前の自分の反応を。
だから書かずに放っておいたが、今日の間は忘れないように。
柔道部で汗を流した後にも忘れないよう、もう一度「蕎麦だ」と繰り返しておいた。
これまた前の生では縁が無かった柔道なるもの。今の生では打ち込んで来た道。
体育館で大勢の柔道部員を指導し、稽古をつけて。共に身体を動かした後も、例の記憶は残っていた。蕎麦屋で頭に叩き込んだ記憶。学校で「蕎麦だ」と繰り返した記憶。
柔道着を脱ぎ、シャワーを浴びて元のスーツに身を包んだ後。
(さて、どうするかな…)
こうした時は、と学校の駐車場に停めた愛車の運転席に座って暫し考えてから車を出した。
ブルーの家に行くまでに少し寄り道、途中の食料品店へ。
専用の籠を提げ、目的の棚の前であれこれ選んで一つ、二つと入れてゆく。
(…こんなもんかな)
全部で六つ。
土産というわけではないのだけれども、これが一番良さそうだから。
ブルーの家の駐車スペースに車を置いて、食料品店の袋を引っ張り出して。
門扉を開けに出て来たブルーの母に「私物ですので」と断っておいた。手土産ではなくて自分の荷物だと、車に置いてはおけないので、と。
ブルーの母は「お帰りになるまで預かりましょうか?」と言ってくれたが、「ブルー君に分けてあげたいんですよ」と笑顔で返す。「実につまらないものなのですが」と。
「あらあら…。いつもお気遣い頂いてしまってすみません」
「いいえ、本当につまらないものなんですよ」
それどころか呆れられそうですが、と袋をポンと叩く。
普通は土産にしないものだと、土産に持ってゆけば礼を失する代物なのだ、と。
「何ですの?」
興味津々のブルーの母に「こんなものですよ」と袋の口を少し開いて見せれば。
「あらまあ…!」
「驚かれるのも無理はないんですがね」
肩を竦めて、「前の私はこういうものを知らなかったんですよ」と苦笑した。
「ブルー君も、今は当たり前に知っているのでしょうが…」
話の種にと買って来ました。ご心配無く、今日の夕食はこれにしたいとは言いませんから。
ブルーの母に案内されて、二階へと。待ち焦がれていたらしいブルーは、母がテーブルにお茶とお菓子を置いて去るなり、ハーレイが自分の椅子の脇に置いた袋の方へ身体を傾けた。
「ハーレイ、それ…。何の荷物?」
「うん? 軽いぞ、俺の夜食にと買って来たんだが…」
たまにはこんなものも食いたくなる。気に入ったのがあれば譲ってやろうと思ってな。
欲しいんだったら土産に一つ分けてやるぞ、とハーレイは身体を屈めて袋を開けた。「ほら」と声を掛けつつ、一つ、二つとテーブルの上に重ねてゆく。
空いたスペースに大きなものから順に乗せていって、崩れないように。
「えーっと…」
ブルーの瞳が丸くなった。
様々な器に入った味も色々のラーメンやうどん、いわゆるカップ麺なるもの。湯を注いで待てば出来上がる即席麺が合計六個。
「一つやるぞ」と言われたものの、ブルーがおやつに食べられそうなものは一個だけ。積まれたカップ麺の山の横、チョコンと置かれたチキンラーメン、それのミニサイズ。
他のカップ麺はどれも大きく、ブルーにとっては夜食どころか一食分で。
「…うーん…」
チキンラーメンと他のカップ麺の山とを見比べては、ブルーが悩んでいるから。
「それにしておくか?」
お前に向いていそうなサイズはそれしか無くてな。
「貰ってもいいの?」
「ああ。ただし、普通の食事もきちんと食べられそうな時に食べろよ」
そら、とチキンラーメンをブルーに渡してやった。他のカップ麺は「邪魔になるからな」と元の袋に戻して床へ。
テーブルの上にはブルーが貰ったミニサイズのチキンラーメンしか無くなったけれど。ブルーは怪訝そうな顔でチキンラーメンを見詰めて、首を傾げた。
「お土産はとっても嬉しいんだけど…。なんでカップ麺?」
「晩飯が麺類ってことはまず無いからな」
「無いね。お昼御飯だったら、お蕎麦もあるけど…」
「その蕎麦だ」
蕎麦だ、とハーレイはニヤリと笑った。
「えっ?」
「蕎麦でもうどんでも、素麺でもいい。ラーメンでもいいが、閃かないか?」
とにかくその手の麺類ってヤツでピンと来ないか、そのためにカップ麺を買って来たんだが。
「閃くって…。何が?」
まるで分からない、といった表情のブルー。そうだろうな、とハーレイも思う。自分も今日まで気付かなかったし、カップ麺というヒントを出してもブルーには分からないだろう。
そのくらいに今や普通の食べ物。何処の家でも食べているもの。
けれども前は有り得なかった、と気付いた以上は、ブルーにだって教えてやりたい。
だから…。
「俺は今日、昼飯を食いに入った蕎麦屋で思い出したんだが…」
この手の食事は有り得ないってな。
「どういう意味?」
「お前、シャングリラで麺をスープに浸して食ったか?」
「麺…?」
「パスタだ、パスタ」
平たいのとか、貝みたいな形のヤツじゃなくって、スパゲティだとか…。要はヌードル。
そういった長い麺ってヤツをだ、スープに浸して食っていたか、と訊いている。
蕎麦とかうどんみたいにたっぷりの汁で、美味しく食っていたかってことだ。
「…そういえば…」
遠い記憶を遡っていたらしいブルーの瞳が、チキンラーメンの容器に向けられたから。
「どうだ、食ってはいなかったろうが?」
「…うん」
ビックリしちゃった。お蕎麦とかは普通に食べていたから、気付かなかったよ。
「俺もシャングリラの厨房に居た頃、スパゲティの類を茹でてはいたが、だ」
茹で汁を捨てたらキッチリ水分を切っていたな、と思ってな。
水気ってヤツは残っちゃいかんと信じてた。
絡んでくっついちまわないよう、オイルかバターがあったら入れてはいたが…。
麺そのものをスープに浸して食おうって発想は無かったな、と。
「それじゃ、ハーレイが買って来たカップ麺って…」
前のぼくたちが全く知らない食べ物なんだ?
今じゃ何処でも売っているのに、あの時代には何処にも無かったのかな?
「無かっただろうな、あったら前のお前が何処かで奪っていた筈だ」
保存食には便利なんだし、積んでいる船もあっただろう。
しかし、前のお前は奪っちゃいない。
前の俺たちの頃には無かったな、とは何度か思ったことがあるんだが…。
カップ麺自体はハーレイも「無かった食べ物」と認識していた。
前の自分たちはこれを知らなかったと、あったなら便利だっただろうに、と。
けれど、深く考えてはみなかった。今日の昼食に蕎麦を食べるまで、何とも思っていなかった。ただ漠然と「無かった食べ物」、そう思っただけのカップ麺。
ところが実際はカップ麺どころか、蕎麦もうどんも無かったのだ。
前の自分たちが生きた頃には。白いシャングリラで前のブルーと共に暮らした遠い昔には…。
「なあ、ブルー。カップ麺が無かっただけじゃないんだ、この手の文化が無かったんだ」
保存食だの非常食だのにカップ麺どころか、スープに浸した麺が無かった。
いや、驚いたぞ、蕎麦屋で食ってる真っ最中にな。
「ホントに普通の食べ物なのにね、お出汁の入った麺類って」
「うむ。味噌とか醤油が無かったってことは考えていたが、蕎麦やうどんは盲点だった」
考えてみりゃあ、蕎麦もうどんも出汁が要るしな、その出汁の文化が消えていた時代に残ってるわけが無いってもんだ。
味付けにしたって味噌や醤油だ、どう考えても無くて当然なんだよなあ…。
今の俺たちはすっかり慣れて、当たり前のように食ってるんだが。
スープに浸した麺類ってヤツは、前の俺たちは知りもしなかったんだ。
実に不思議な食い物が今や普通になっちまったな、とハーレイは笑う。
こういう麺の食べ方をするのは今の自分たちが住む地域の文化で、SD体制の基本となった地域には全く無かった食文化だと。
「スープパスタってヤツがあるだろ、あれも本来の食べ方とは違うそうだしな」
「お店で普通に食べられるよ?」
「この地域ではな。今じゃいろんな料理が食える時代で、パスタの本場にもあるんだが…」
昔はこういう食べ方は無かった、って但し書きつきの料理なんだと前に本で読んだ。
あれも元々は日本って島国の食べ物らしい。
SD体制が始まるよりもずっと昔にパスタの本場にも伝わりはしたが、日本の料理だ。
麺をスープに浸して食うのが普通の場所だから生まれたんだな、スープパスタも。
「ラーメンは日本生まれじゃないんだよね?」
「あれは違うな、七夕とかと同じで中国から来た食べ物だな」
もっとも、日本で独自の進化を遂げちまったから、日本の食文化の一部ではあるが…。
だからこそカップ麺にもラーメンがあるし、カップ麺は日本生まれだしな?
日本って地域の人はよっぽど、麺をスープに浸して食うのが好きだったんだろうなあ…。
「どの辺まであるの、麺をスープで食べる文化って」
「今はどの辺までだろうなあ…」
他の星でも蕎麦屋が無いとは言い切れないから、宇宙規模かもしれないが。
昔は恐らくアジア限定って所だろうなあ、しっかり定着してたのは。
「アジア限定かあ…。マザー・システムが消しちゃうわけだね」
「SD体制の基礎になった文化はアジアの文化じゃなかったからな」
多様な文化を認めなかったのがSD体制ってヤツだからなあ、統治しやすいよう統一ってな。
文化でさえも消そうってヤツらが、ミュウなんかを受け入れてくれる筈が無かったな…。
「そうだね、消しちゃった文化も人類の文化だったのにね…」
せっかく沢山の文化を築いていたのに、統一して消してしまっただなんて。
それをせっせと元に戻したのがミュウだっていうのが面白いよね、SD体制とはホントに逆。
だから危険視されちゃったのかな、前のぼくたち。
「おいおい、そいつは結果としてそうなっただけでだな…」
前の俺たちは文化の復興なんぞを考える余裕も無かったぞ?
まずは人類にミュウの存在を認めさせよう、って段階だったぞ、文化どころじゃなくってな。
「ふふっ、そうだね」
そうだったね、とブルーは頷いたけれど。
遥かな時を超えて生まれ変わった青い地球では、そんな時代は遥かに過ぎ去った昔だから。今の自分たちには無縁とさえ思える遠い昔だから、今の文化の方に惹かれる。
ハーレイに貰ったカップ麺。ミニサイズのチキンラーメンを指でつついて呟く。
「…和食の文化だけじゃなくって、こういう麺まで消えちゃってたんだ…」
お湯を注いで、たっぷりのスープで食べる麺。スープやお出汁に浸かってるのが普通の麺…。
「前の俺たちには想像もつかん食べ物だろうが」
こいつをゼルが見ていたら、だ。何と言うやら…。
「カップ麺にお湯を注いで、出来上がるのを待ってるトコとか?」
「ああ。あいつだったら、時間が来たら迷わずスープごと湯を捨てちまうな」
「それってカップ麺を間違えていない?」
お湯を捨てるのはラーメンとかじゃなくって焼きそばだよ。
「おっ、知っていたのか、カップ焼きそば」
「友達が買って来てくれて家で食べたよ、全部は食べ切れなかったけれど」
美味しかったけど、こんなミニサイズじゃなかったんだもの。おやつに向いていないよ、アレ。
「そうだろうなあ、それをおやつに食わされたのか」
「計算ずくだよ、「お前、こんなに食えないだろうから先に貰っておいてやる」って」
自分の器に沢山持って行ったよ、ぼくの分のカップ焼きそばを。
「そう来たか!」
「うん」
「いい友人なんだか、ずるいんだか…。で、食い切れたか?」
「ぼくの器に残った分はね」
でも、あれ以上あったら無理。ぼくの分まで食べちゃった友達は凄いと思うよ、本当に。
カップ焼きそばは量が多すぎた、とブルーは嘆いて、でも知っていると自慢して。
「ぼくだってお湯を捨てちゃうカップ麺を知ってるんだよ、ホントだよ」
ドキドキしながらお湯を捨てたけど、ゼルだったら普通のカップ麺でもお湯、捨てちゃうよね。湯切口なんかついてなくても、出来上がったらスープごと全部。
「ブラウでもヒルマンでもエラでも捨てるぞ、まず間違いなく」
具まで一緒に捨てちまわないよう、慎重にな。
「うん。そして「美味しくない」って言いそうだよね」
「美味いスープを全部捨てちまっているからなあ…」
具が残ってても不味いだろうさ。
そういうカップ麺は食いたくないなあ、大いに邪道なカップ麺だぞ。
「だよね、スープと一緒に食べなきゃ美味しくないよね」
カップ麺でなくても、お蕎麦とかでも。
茹でた麺だけドカンと出されて「食べて下さい」って言われちゃったら困るよ。
トロロとかウズラの卵がついていたって、お出汁無しでお蕎麦は食べられないよ…。
「ふうむ…。ゼルたちが蕎麦だのラーメンだのを食うと思うか?」
あいつらの前に、今日、俺が食って来た月見天蕎麦。…置いてやったらどうなるだろうな?
最高に美味い蕎麦だったんだが、あいつらの目には美味そうには映らないんだろうなあ…。
「チャレンジしたら美味しいだろうけど、食べるまでがね…」
疑いの目で見られそうだよ、たっぷりのスープに麺が浸かっているんだから。
「こいつは本当に食えるのか、と訊いてくるのは間違いないな」
「ちょっと茹ですぎじゃないのかい、とかね」
言われそうだよ、茹ですぎだって。茹で汁だって捨てていないじゃないか、って。
「実際、麺は茹ですぎたら不味くはなるんだが…」
それにスープに浸かった麺もだ、早く食べないと伸びちまって不味くなるんだが…。
考えてみると面白いよなあ、スープさえ無きゃ伸びないんだしな?
ざるそばなんかは理に適ってるな、食べる分だけ浸すんだしな。
「…前のぼくだとどうなったかな?」
ハーレイが食べた月見天蕎麦、前のぼくも警戒しちゃってたかな?
美味しそう、って眺める代わりに、変な食べ物だと思って見てるだけかな…。
「俺も正直、前の俺でも食えただろうという自信が無い」
まあ、他に食い物が無いとなったら食うんだろうが…。
そして「意外に美味いじゃないか」と思うんだろうが、月見天蕎麦はいいとしてだ。
前の俺がラーメンを食う羽目になったら、まず間違いなくスープは残していただろうな。これは飲めんと、たとえ味付きでも茹で汁なんぞは論外だと。
「えっ、ハーレイ、ラーメンのスープも飲むの?」
「飲んじゃいかんか?」
スープを飲むために散蓮華だって添えてあるだろうが。
「ぼくも少しは飲むんだけれど…」
残すとか残さないとか以前に、あれって全部飲み切れるもの?
ハーレイ、「残していただろうな」なんて言ってるからには全部綺麗に飲んじゃうんだよね?
「当たり前だろうが、美味いスープは飲まんとな」
ああいうスープは少し作っても美味くならないんだ、でっかい鍋で仕込まないとな。
自分の家では作れん味だし、たまに食うなら飲み干してこそだ。
「…凄いね、ハーレイ…」
ブルーは心底、ハーレイを尊敬したのだけれど。
自分にはとても飲み切れない量のスープを平らげるハーレイを凄いと思ったのだけど。
そのハーレイは「ふむ」と小さなブルーを見遣って、唇に笑みを浮かべてみせた。
「なるほどなあ…。お前、頑固親父のラーメン屋には入れません、ってか」
「なに、それ?」
一体どういう意味なのだろう、とキョトンとするブルーに、ハーレイはこう教えてやった。
「スープに自信満々の店だ。飲み切れないと「不味いのか?」と訊かれるんだ」
そして機嫌が悪くなるわけだな、店の親父の。
「……本当に?」
「いるぞ、昔の日本気取りの頑固な親父」
この辺りが日本だった頃には、そんなラーメン屋が幾つもあって有名だったそうだ。
それを気取っているわけなんだが、そういう店に限ってラーメンが美味い。
本当に美味いラーメンを食わせる店に行きたきゃ、スープは飲み干すのが礼儀だってな。
「……嘘……」
ラーメン屋さんって、そんな仕組みになってるの?
ぼく、ラーメン専門のお店に行ったことが無いから知らなかったよ…!
スープを全部飲まなきゃいけないなんて、とブルーが目を丸くしているから。
赤い瞳がすっかり真ん丸になっているから、ハーレイは「うーむ…」と腕組みをして。
「いつかお前を連れて行くとなったら、美味いラーメン屋は無理だな、蕎麦にしておくか」
美味い蕎麦屋に連れてってやるさ、心当たりは幾つもあるしな。
「…ラーメン屋さんだと、ぼくがスープを飲み切れないから?」
「そういうことだ」
お前、どう転んでも飲み切れないだろ、ラーメンのスープ。
美味い店だと大人相手で、お子様用のミニサイズなんかは無いからなあ…。
「ハーレイ、それ…。スープ、ぼくの代わりにハーレイに飲んで貰ったらどうなるの?」
「俺がお前のスープをか!?」
「うん」
それならスープは残らないよ?
残さなかったらお店の小父さん、機嫌が悪くはなったりしないと思うけど…。
「……そいつは想定外だった。代わりに飲むのはアリかもなあ…」
「ホント?」
「頑固親父に思い切り冷やかされそうだがな」
スープ顔負けの熱いカップルだとか、熱々だとか。
店中の視線が集まりそうなくらい、うんと冷やかしてくれそうな気がするなあ…。
「じゃあ、ラーメン」
「なんだと?」
思わぬ言葉にハーレイは目を剥いたのだけれど、ブルーは澄ました顔で答えた。
「お蕎麦よりラーメンを食べてみたいよ、スープを残したら駄目なお店で」
だって、せっかくハーレイと結婚して二人で食べに行くんだよ?
冷やかされてみたい。熱々だって言って欲しいよ、お客さんが沢山来ている所で。
「お前なあ…」
冷やかし希望って、大勢が見ている場所でか、おい?
「そうだよ、今度はちゃんと結婚出来るんだもの」
前は結婚どころか誰にも内緒で言えなかったし…。
今度は堂々と何処でも二人で出掛けられるから、熱々ですねって言われてみたいよ。
「…そんな理由で頑固親父のラーメン屋になあ…」
それがお前の希望なのか、と頭を抱えそうになったハーレイだけども。
前の生から愛し続けた恋人の望みがそれであれば、と心が幸せにほどけてゆくから。
冷やかされたいと口にするブルーが愛らしくて心が蕩けそうだから…。
まあいいか、とハーレイは笑って希望を受け入れてやる。
「分かった、いつかはラーメン屋だな」
お前がスープを飲み切れなければ、俺が代わりに飲むんだな?
「うんっ!」
「よしよし、そして頑固親父に冷やかされる、と」
それは全くかまわないのだが、と恋人に一つ注文を付けた。
頑固親父のプライドを傷つけないよう、少しはスープを努力して飲めと。
飲み干す練習だけでもしておいてくれと、まずはこのミニサイズのカップ麺からだ、と…。
麺とスープと・了
※SD体制の時代には無かったカップ麺。それにスープたっぷりの麺類たちも。
今なら普通にあるのが麺類、いつかは二人で頑固親父のラーメンを食べに行くのでしょう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうむ…)
こういうのに縁は無いんだが、とハーレイは新聞の記事を覗き込んだ。
今日はブルーの家に寄れなかったから、一人で夕食。キッチンの食材を調べてメニューを考え、白米を炊いて、その間に調理。
熱い内に、と出来立てを食べて、後片付けが済めば自由時間だ。SD体制が始まるよりも遥かな昔のこの地域では、教師は家にまで仕事を持ち帰らねばならないくらいに多忙だったと聞く。
しかし今では教師といえども普通の会社員たちと変わらない。むしろ夏休みなどに生徒と同じく長期休暇が取れたりする分、楽な職業と言えるだろう。
遠い昔には大変だったと言われる教師の仕事は技術の進歩とサイオンのお蔭で軽減されて、今や人気の職種だけども。
(…この学校だと、どうなんだろうな?)
教師はハードな仕事だろうか、とリビングのソファで広げた新聞。テーブルの上にはコーヒーを入れた大きなマグカップ。
新聞記事の中、ブルーたちとは違う制服を着た少年たちが明るく笑っていた。別の写真では制服ならぬ作業服。宇宙服を着た写真もあった。
宇宙船のパイロット養成学校の生徒たちの日々を、今日から短期集中連載らしい。
ハーレイが教える学校とはまるで違う世界。
一つ間違えれば大事故になって、自分ばかりか大勢の人々を巻き込みかねないパイロットたち。
(教える方だって命懸けだぞ)
きっと大昔の教師みたいに毎日が大変な学校だろうな、と其処の教師に心でエールを送った。
それからパイロットの卵たちにも。
こういう学校に進んだかつての友人がいた。
同じ道場で柔道の道に励んでいたのに、それは将来に向けてのトレーニングの一環だったからとアッサリと捨てて、パイロット養成学校へ。
柔道は体力と精神力、どちらも欠かせない武道なのだし、責任の大きいパイロットを目指すには打ってつけの世界だったのだろう。
(そこまで読んでの入門なんだし、あいつが選んだ道だしなあ…)
頑張って来い、と笑顔で肩を叩いたけれども、一抹の寂しさが心にあったことは否めない。
自分の方が腕は上だったが、彼も相当な腕の持ち主。
よく大会の代表に選ばれ、何度も一緒に出場していた仲だったから。
その彼は見事にパイロットになり、広い宇宙を飛び回る間に地球よりも好きな星が出来たとかで移り住んで行ってしまって久しい。
宇宙は広くて、パイロットの彼は気の向くままに居を移したのか、あるいは多忙を極めたのか。
いつしか途絶えてしまった連絡。届かなくなった、立ち寄った星からの葉書など。
今では彼が何処に居るのか、住所すらも分からないのだけれど。
(俺の方が先輩だったぞ、おい)
ずっと昔からパイロットだったと、キャプテン・ハーレイだったんだぞ、と記憶の中で今も若いままの友人に向かって語り掛けた。
パイロット養成学校の生徒たちの写真を見ながら、かつての友に。
今も何処かでパイロットなのかと、それともこういう学校で教えているのかと。
(あいつだったら鬼コーチだろうか…)
生徒を怒鳴り付け、訓練に駆り立てる鬼コーチ。教師と呼ぶよりコーチの方がしっくりとくる。
パイロットは命が懸かった職だし、いわゆる教師のイメージではない。
(しかし…)
あいつだったら違うだろうな、と笑みが浮かんだ。
死と隣り合わせの職であっても、彼ならば笑顔を絶やさずに指導するだろう。時には厳しい顔も見せるのだろうが、普段はきっと、生徒たちと一緒に笑い合って、さながら友達付き合い。
(そうなるだろうさ、あいつならな)
自分も穏やかな性格だけども、彼もそういうタイプだった。だから何かと馬が合った。
共に後輩を指導する時も、冗談を飛ばし合いながら賑やかにやった。
道場での練習や試合などは一切手加減しないが、それを離れれば後輩たちとも仲良くやりたい。もっと厳しくするべきだ、と言う先輩もいたのだけれども、そうするつもりはさらさらなかった。
自分も、後にパイロット養成学校に行ってしまった彼も。
指導を請われれば、とことん面倒を見る。
ただし鬼コーチなぞになったりはせずに、年上の良き友、同じ柔道を志す仲間として。
(あいつだったら…)
もしも彼がパイロット養成学校で教師になっているのなら。
不出来な生徒がいたとしたって、怒鳴りはしない。
辛抱強く何処までも付き合ってやって、腕を上げるまで決して投げ出さないだろう。
自分の時間を削ってでも、きっと。
そう思った時、心をフッと掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で持っていた記憶。
(…そういや、俺もそうだったか…)
俺もその手の教師だった、と記憶が浮かび上がって来る。
ブルーが守った白い船。自分が舵を握っていた船。
楽園という名のシャングリラの操舵を、前の自分が教えた者たち。
巨大な船を動かすためには技術だけでなく、才能も要る。操舵士になる、と名乗りを上げた者の全てが適しているとは限らないのだが、とことん付き合って教え込んだ。
なにしろ、シャングリラは大切な船。ミュウの楽園であると同時に箱舟。
失うわけにはいかなかったし、動かせる者は多いほどいい。
一人が病で倒れたとしても、また別の者が。二人目が持ち場を離れる時には、更に次の者が。
交代要員を多く作っておこう、と操舵士を希望した者たちには一通りの技術を身に付けさせた。手ぶらで帰っていった者は一人も無いのが前の自分の自慢でもあった。
(そうやってシドを見付けたんだっけな)
飛び抜けて飲み込みの早かったシドは主任操舵士として船を任せられるほどになったけれども。
シャングリラの操舵が出来る者は他にも何人もいた。
ブリッジどころか農業部門にだって、交代要員として使える者が居たほど。
誰も彼も皆、前の自分が教えた者たち。
どんなに下手でも怒鳴り付けはせず、我慢強く指導し、教えた者たち。
(そして俺は…)
俺も習った方だったっけな、と苦笑した。
船の舵など握ったことさえ無かったというのに、フライパンから舵に持ち替えて。
厨房からブリッジへ居場所を移して、フライパンの代わりに舵を握って。
(フライパンから舵へ、だからなあ…)
実にとんでもない転身。
およそ思い付かない、調理人からパイロットへの百八十度どころではない進路変更。
けれども、やりたかったのだ。
シャングリラを自由自在に操るキャプテンになりたかったのだ。
(今から思えば無茶なんだがなあ…)
正気の沙汰とも思えないのだが、キャプテンの任を受けて最初に申し出たことが操舵の練習。
厨房を離れてキャプテンになろう、と決意した時から決めていたこと。
それは要らない、指揮だけでいい、とゼルやブラウに言われたけれども、譲らなかった。
お飾りのキャプテンなどは要らない。そんな任なら受けてはいない。
ブルーを助けて船を動かせる者になるのだ、と堅く自分に誓っていたから。
とはいえ、いきなり舵を握るわけにもいかないから。また、許しても貰えないから。
最初は暇な時間を見付けてシミュレーション用の部屋に籠った。
シャングリラが人類のものであった頃から備わっていた、パイロットの訓練用の部屋。
かつてコンスティテューションと呼ばれていた船の操縦席を再現したもの。
操縦のために使う舵輪や、星々を映し出す大きなスクリーン。船の位置を教える計器なども。
恐らくは勘が鈍らないよう、非番の者が使った部屋なのだろう。
その部屋に入り、シミュレーターを起動してから舵輪を握る。
ブリッジの者たちがやっているように、「面舵いっぱーい!」などと慣れない声を上げながら、懸命に操縦するのだけれど。
思うように船は動かない。舵を切り過ぎたり、逆に足りなかったり。
(くそっ…!)
避け切れなくて、激突してしまった小惑星。
つい先刻まで鳴り響いていた異常接近を知らせる警告音までが止まってしまって、スクリーンは暗転、無慈悲な「終わり」を告げる文字。
また失敗か、と呻いていたら。
「お疲れ様」
はい、と差し出されたコーヒーのカップ。湯気が立ち昇っている、淹れたてのコーヒー。
自分用の紅茶のカップも一緒にトレイに載せて、ブルーが其処に立っていた。
今の小さなブルーよりも少し育った姿の少年。
ハーレイをキャプテンに推した少年。
キャプテンになってくれたらいいなと、自分の命を預けるのならハーレイがいいと言った少年。
「ハーレイ、休み時間も此処で練習してるわけ?」
見当たらないな、って探していたら、ゼルが教えてくれたんだよ。
ハーレイだったらシミュレーターと格闘している筈だ、と。
「一刻も早く覚えたくてな」
船も動かせないキャプテンなんぞは話にならん。
ゼルたちは指揮さえ出来ればいいと言っているがな、それでは役に立たんだろう。
いざという時、お前の望み通りの場所へと船を運ぶなら、俺がやらんと息が合わない。
「焦らなくても、練習時間は充分あると思うけど…」
「後悔先に立たずと言うだろうが」
あの時、練習しておきゃ良かった、と思う羽目になるのは俺は御免だ。
何が何でもさっさと覚えて、このシャングリラを動かさんとな。
「無理しないでよ?」
キャプテンが倒れてしまったら大変なんだし、ほどほどにね。
でも…。
そんなに難しいのかな、とシミュレーターに向かったブルーはハーレイよりも上手かった。
一通りマニュアルを確認してから始めたけれども、鮮やかな腕。
「面舵」や「取り舵」の掛け声も全く間違っておらず、障害物をかわして避けて船を進める。
それどころか、船の速度を上げた。
ハーレイにはとても操れない速さにスピードを上げて、ぐんぐん船を進めてゆくから。
操船中に私語は良くないというのも忘れて、ハーレイは思わず背後から訊いた。
「お前、いつの間に練習したんだ?」
「初めてだけど」
答えながら大きく舵を切ったブルー。
さっきハーレイが避け損なった小惑星に似た巨大な岩の塊を避け、続いて現れた小惑星をも。
二連続など、ハーレイにはとても避けられはしない。
「初めてで今のは無理だろう!」
俺が何度ぶつかったと思っているんだ、一個目はいけても二個目は未だに無理なんだぞ!
「どうして? ゆっくりしてるよ、このシミュレーター」
「はあ?」
ハーレイはポカンと口を開け、スクリーンに映る星々を眺めた。
ブルーがまたも速度を上げたのだろう、猛スピードで迫る障害物。
「おもかーじ!」
まるでゲームを楽しむかのように、ブルーが操る船はぐんぐん飛んでゆく。
ハーレイにはとても出せない速度で、今までに飛んだどの記録よりも長く遠い距離を。
満足し切ったブルーがシミュレーターを止めた時には、ハーレイは既に酔いそうだった。
速度はとうに最大船速、それで小惑星帯の中を縦横無尽に飛ばれたのではたまらない。
スクリーンの映像を見ているだけで平衡感覚を失ってしまい、目が回ったとでも言うべきか。
「…お前、本当に初めてなのか?」
そうは見えんが、とクラクラする頭を鎮めようと額を押さえつつ訊けば、「うん」という答え。
「さっきも言ったよ、初めてだって。最大船速でもゆっくりしてると思うけど…」
ハーレイの目には凄い速度で飛んで来るとしか見えない、小惑星などの障害物。
それがブルーにはスローモーションのように見えるという。
のろのろと飛んで来るものを避けるくらいは簡単なことで、舵の加減さえ掴めば楽なものだと。
「だって、ぼくはこの船と同じ速さか、もっと速くで飛ぶんだよ?」
そうやって飛んで、物資を奪いに何度も出掛けているんだけど…。
いちいち何かにぶつかっていたら、とてもじゃないけど飛べやしないよ。
「なるほどな…」
そういう理屈か、と腑に落ちたものの、ハーレイには出せない最大船速。
まだ避けられない、二段構えの障害物。
フウと大きく溜息をついて、愚痴を零さざるを得なかった。
「つまり俺はだ、操船でもお前に敵いはしない、と…」
お前に負けているってわけだな、そんなので本当にお前の役に立てるんだろうか…?
「大丈夫。じきに上手くなるよ」
これだけ熱心なんだから。ぼくが保証する。
大丈夫だよ、とブルーは微笑み、空になった二つのカップを手にして去って行った。
ハーレイをキャプテンに推したあの日に、そうしたように。
「ハーレイがなってくれるといいな」と言い残して去った、あの日のように…。
ブルーの期待は裏切れない。
船を操れないキャプテンも駄目だ、と自分自身を叱咤し、シミュレーターと格闘し続けて。
どうにか及第点を出せるようになり、時々様子を見がてらアドバイスに来ていたブリッジの者も「これならいける」と頷いてくれた。
後は実地で慣れるだけだと、船の居心地が多少悪かろうが、皆には我慢して貰おうと。
そうして実際にハーレイがシャングリラの舵を握る日がやって来た時。
ブルーは自分が外に出ると言った。
船は自分がシールドで守るから、操舵にだけ打ち込んでくれればいい、と。
ブルーが瞬間移動で船の外に出た後、ハーレイは生まれて初めて宇宙船の舵なるものを握った。
シミュレーターで使っていた舵輪と同じものだが、問題は船。シミュレーターならば誰も船には乗ってはいない。激しく揺れようが衝突しようが、誰にも影響しはしない。
(…しかし…)
これから自分が動かす船には、ブルー以外の仲間が全員、乗り込んでいる。揺れれば皆の身体も揺れるし、ぶつかれば衝撃。
もっとも、ブルーのシールドがあるから、ぶつかることだけは無いのだろうが…。
けれど、此処で尻込みをするわけにはいかない。
いつかは通らねばならない道だし、シャングリラを意のままに操りたければやるしかない。
「シャングリラ、発進!」
ハーレイは舵輪をしっかりと握り、先導役を務めると言ったブルーを追うべく、シャングリラを自分自身の手で発進させた。
青く強く輝くブルーを追いかけ、暫くは順調な航行だったのだけれど。
(うわっ…!)
取り舵と声を上げる暇さえ無かった。
必死の思いで舵を切ったが、船の行く手に突然、飛び込んで来た小惑星。ブルーがシールドしていなければ派手に激突していただろう。
接近を知らせる警告音は何の役にも立たなかった。
それもその筈、頼みの綱の警告音はもう長い間ブリッジに響きっ放しで、未だに止まる気配さえ無い。上下左右に小惑星や岩の破片が浮かんだ空間。これでは警告は止まりはしない。
(こんな所で練習しなくても…!)
いくら俺がタフでも神経が持たん、と嘆きたくなる心を引き締め、ただ懸命に舵を切る。
ブルーの先導でシャングリラが連れて行かれた先は、障害物多数の空間だった。
行けども行けども次から次へと湧いて出て来る小惑星や岩。ブリッジに響き続ける警告音。
(まだ続くのか…!)
先を飛んでゆくブルーの姿が消えた、と思えば障害物。ブルーが見えている時であっても油断は禁物、ごくごく小さな岩の欠片が航路に鎮座していたりする。
たかが小さな岩であっても、ぶつかった場所が悪かったりすれば宇宙船には命取り。
つまりはそれをも避けて飛ばねばならないわけで、神経が休まる暇が無い。
(習うより慣れろということなのか!?)
そうなのか、とブルーに思念を飛ばす余裕すらもありはしなかった。
終わった後でゼルやブラウまでが「死ぬかと思った」と零したほどのハードな初操舵。
シャングリラは無傷だったけれども、ハーレイは翌朝、死んだように眠りこけて遅刻した。
(あいつは鬼コーチだったんだ…)
やりやがった、と悪態をつきかけたけれど。
(違うか…)
現場で俺をしごいていただけなのか、と思い直した。
考えてみれば船を操っていたハーレイよりも、ブルーの方が遥かに負担が大きかった筈。
シャングリラの船体が傷つかないようシールドしながら、ハーレイを先導していたのだから。
今のブルーより育ってはいたが、まだまだ小さな少年の身体で。
細っこい身体で宇宙を駆けて、ハーレイの技術が及ばない分をカバーし続けていたのだから…。
(そうだな、あいつの方がずっと大変だったんだ)
俺なんかより、とハーレイは呟く。
舵を握っていただけの自分より、船を守らなければいけなかったブルーの方がずっと、と。
ハーレイ自身も「死ぬかと思った」初操舵の日の夜、ブルーは勤務を終えたハーレイの部屋までコーヒーを持って来てくれた。
自分の分の紅茶のカップもトレイに載せて、「お疲れ様」とあの日のように。
シミュレーション用の部屋に差し入れに来てくれた、あの日のようにトレイを持って。
ハーレイが向かっていた木の机の上にカップを並べて、自分用に椅子を引っ張って来ると。腰を下ろすと、ブルーは「ねえ」とハーレイの瞳を覗き込んだ。
「ねえ、ハーレイ。フライパンも船も、焦がさないのが大切だよね」
ハーレイは頑張っていたと思うよ、焦がさないように。
フライパンにはまだまだ敵わないけど、その内に船も上手く動かせるようになると思うよ。
「…知っていたのか、俺の…」
座右の銘とは少し違うが、俺の信条。どっちも焦がしちゃならん、ってヤツ。
「うん。フライパンも船も似たようなものだよ、と先に言ったのは、ぼくだけど…」
半分はぼくが作った言葉だけれども、上手い言葉に仕上がったな、って思ってるんだ。
確かにどっちも焦げちゃ駄目だよ、フライパンも船も。
でもね…。
でも、とブルーはハーレイにコーヒーを勧めて言った。
「本当に焦がさないように頑張ろうという所が凄いよ、お飾りのキャプテンなんかじゃなくて」
ハーレイがシャングリラを動かす日が来るだなんて、思わなかった。
キャプテンになって欲しいと頼みはしたけど、動かしてくれとまでは言わなかったよ。
「お前の信頼、裏切るわけにはいかないからな」
「操舵に慣れた仲間がちゃんといるんだし、任せておいて指揮でもいいのに」
「それだと阿吽の呼吸で動けん」
言ったろ、お前と俺との息が合わないと話にならんと。
ピタリと合わせて動くためには他人任せの操舵なんかじゃ駄目なんだ。
俺がやらんと、俺の思い通りに動く船でないと、お前と息が合わないってな。
「ありがとう。期待してるよ、ハーレイの操舵」
「もちろんだ」
やり遂げてみせるさ、やっと宇宙に漕ぎ出したばかりの俺だがな。
今日はお前の背中を追うのが精一杯だったが、いずれ必ず先回り出来るキャプテンになる。
お前が此処に来るだろう、ってポイントに向けて船を運んで、待っていられるキャプテンにな。
フライパンも船も、焦がさないように。
その一念と、ブルーのハードな指導のお蔭で、シャングリラの癖まで掴むことが出来た。
こう舵を切ればこう動くのだと、こうしたければ此処でこうするのだ、と。
計器に頼っての航行では分からない、シャングリラの癖。
舵輪を回すタイミングだとか、その時々で変わる僅かな力加減だとか。
そういったものを、全て現場で身に付けた。
「今日は此処だよ」と言わんばかりに飛んでゆくブルーを追いかけて飛んで、身体で覚えた。
ゼルたちの「死ぬかと思った」という台詞が少しずつ間遠になっていって、消えて。
もう誰一人として「またキャプテンの練習なのか?」と言い交わさないようになった頃。
ハーレイが舵を握っているのが当たり前になり、名実ともにキャプテンとなった。
そうしてシャングリラの舵を握って、宇宙をあちこち旅して行って。
気付けば誰よりも上手く船を操るキャプテン・ハーレイが出来上がっていた。
どんな場面でもハーレイがいれば安心なのだ、と皆が言うほどのキャプテンが…。
(…何もかもあいつのお蔭だな)
ブルーのお蔭だ、と漆黒の宇宙で青く輝いて先導していた少年の姿を思い出す。
今のブルーよりも少し育った、まだ少年の姿だったブルーを。
(あいつのために、と思ったんだが…)
結局は世話になっていたか、と苦い笑みが漏れる。
ブルーのためにとシャングリラを動かす決意を固めた自分だったけれど。
そのシャングリラの操舵を実地で叩き込むために、ブルーの背中を追いかけて飛んだ。
自分が失敗してしまった時も、ブルーのシールドが助けてくれた。
操舵の練習をしていた間に、シャングリラが焦げかかったことは実際、数え切れないほど。
けれどシャングリラは焦げることなく、ブルーのシールドに守られていた。
だから操舵に集中できたし、フライパンから船の舵へと持ち替えることが出来たのだ。
ブルーが居たから。
まだ少年の姿だったブルーがシールドを張って、いつも先導してくれたから…。
(今度はその分も、あいつに返してやらんとな)
前の生でブルーが自分のために使ってくれた力を、思いを、返してやらねばならないと思う。
シャングリラの操舵からしてブルー無しでは出来なかったし、きっと他にも山ほどある。
前のブルーが自分のためにと、力を、思いを惜しみなく使ってくれた場面が。
(そういったヤツを、今度は返してやりたいんだが…)
返してやりたいと思うけれども、小さなブルーに自分は何をしてやれるだろうか。
今度こそは全力で守ると決めたし、守る力もあるのだけれど。
前のブルーから貰った恩を全て返すには、一生かかっても足りるかどうか…。
(あいつは充分だと言ってくれそうなんだが…)
返さなくてもいいんだよ、と微笑みそうな小さなブルー。
きっと、ブルーは言うのだろうが。
返さなくていいと言ってくれるのだろうが、そう言いそうなブルーだから。
そんなブルーだから、誰よりも幸せにしてやりたいと心から願う。
ブルーを誰よりも幸せにしてやって、守ってやって。
ただ幸せだけをブルーのために。
前の生から愛し続けて、今も愛してやまないブルーを誰よりも幸せにしたいと願う。
そう、今度こそは……きっと。
船長の操舵・了
※操舵に挑んだキャプテン・ハーレイと、鬼コーチだったソルジャー・ブルー。
お蔭でシャングリラを動かせるようになったようです、厨房出身のキャプテンでしたけど。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv