シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
庭で一番大きな木の下、ぼくのお気に入りの白いテーブルと椅子が置いてある。あそこで何度もハーレイと過ごした。ハーレイが来ない日に、ママと座ったことも何度か。パパとだって。
最初は白くなかったけれど。
ハーレイが持って来てくれた、キャンプ用のテーブルと椅子だったんだけど…。
まだ夏休みが始まる前で、だけど季節は光が眩しい、木漏れ日がとっても綺麗な頃。ハーレイと二人、其処に座ってドキドキしながら午前中のお茶の時間を楽しんだ。
テーブルの上にあった、懐かしいシャングリラの姿。白い鯨の形に見えた木漏れ日。ハーレイが見付けて教えてくれた。
お日様が動いて無くなってしまうまで、シャングリラの形が消えてしまうまで二人で眺めた。
遥かな昔にぼくたちが暮らした船の姿を、地球の太陽が作り出してくれたシャングリラを。
(あの日もパウンドケーキだったんだよ)
木漏れ日のシャングリラを映すテーブルで食べていたお菓子。
ハーレイの好物のケーキだから、ってママが焼いてくれた。ぼくのママが焼くパウンドケーキはハーレイのお母さんのパウンドケーキとおんなじ味がするんだって。
(ぼくもハーレイに焼いてあげられるようになりたいな…)
ママと同じ味のパウンドケーキ。ハーレイが自分で作ってみたって、お母さんの味にはならないらしいパウンドケーキ。
それを焼くのがぼくの夢だけど、今はまだ無理。
ぼくの背丈は百五十センチから伸びないままで、ハーレイとキスも出来ないから。結婚どころかプロポーズもして貰えないチビで、結婚の準備にって料理の練習なんかは出来ない。
(絶対、ママに怪しまれるしね…)
今の所は諦めるしかない、ママにパウンドケーキの焼き方やレシピを教わること。
だけどいつかは習わなくっちゃ、と決めている。ぼくの大好きなハーレイのために。
そんな決心までしているぼくの、一番最初のデートの場所。
庭で一番大きな木の下、今のとは違うものだったけれど、テーブルと椅子とを置いて座った。
忘れられない、大切なデート。
ハーレイとぼくの初めてのデート。
光のシャングリラが揺れるテーブルで、ハーレイの好きなパウンドケーキと…。
(それに冷たいレモネード!)
氷が入った涼しげなグラスは、よく冷えて露を纏ってた。
酸っぱくて甘いレモンのジュースをハーレイと二人、ストローで飲んだ。
テーブルの上の木漏れ日のシャングリラに見守られながら、うんと幸せな時間を過ごした。
(庭でレモネードも、あの日が初めてだったんだっけ…)
身体が弱いぼくはパパやママと庭でピクニックしていたことも多いんだけれど。
山や野原に出掛ける代わりに庭でお弁当を食べたりしたけど、レモネードは庭で飲んでない。
庭でピクニックをしてた頃のぼくは小さかったから、レモネードは出ては来なかった。ごくごく普通にミルクだったり、子供向けの甘いジュースとか。
ちょっぴり酸っぱいレモネードはぼくの記憶には無くて、ハーレイと飲んだあれが初めて。
今の季節は、冷たいレモネードはもう似合わないけれど。
飲むならホットで、ってほどに寒くもないから、ママはレモネードを作らないけど…。
(レモネードかあ…)
よく冷えたレモネードが懐かしくなった。
氷を浮かべたレモネード。あの日の、ぼくの初デートの味。
(パウンドケーキは今だって焼いているのにね…)
「ハーレイ先生がお好きだものね」って、パウンドケーキを作るママ。ぼくのおやつにも何度も出て来て、その度に「ハーレイのお母さんの味なんだな」って思いながら食べるパウンドケーキ。
だけど出て来ない、レモネード。
ぼくのおやつにも、ハーレイが来てくれた時のお茶にも、今はレモネードは出て来ない。
もうちょっと寒くなったらママに頼もうかと思ったけれども、温かいのだと少し違うんだ。
ぼくの初デートの思い出の味は、氷が入ったレモネード。
暑い季節が似合う飲み物、涼しさを感じさせてくれる飲み物。
身体の芯から温まるための湯気の立つレモネードとは違うと思うし、それじゃ別物。
ぼくはあの日に飲んだレモネードが飲みたいのに。
冷えたレモネードが飲みたいのに…。
だけど次の夏まで出会えそうにない、あの日の飲み物。うんと冷たいレモネード。
あれが飲みたい、って勉強机の前に座って頬杖をついて考えていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄って見下ろしてみると、やっぱりハーレイの姿があって。
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったけれども、いつもの紅茶。お菓子と一緒にママが運んで来た紅茶。
やっぱりレモネードは出やしない。あの日のレモネードは出て来やしない…。
「…レモネード…」
つい唇から零れてしまった、残念な気持ち。
ハーレイが「ん、どうした?」って訊いてくるから。
「レモネードがいいな、って思うんだけど…」
紅茶じゃなくって、レモネード。とっても飲みたい気分なのに…。
「お母さんに頼めばいいじゃないか」
今日は無理だが、明日のおやつにはちゃんと作って貰えるだろう?
明日になったらもう要らない、って気分がするなら、その程度のものさ。
大して重要なわけじゃないんだ、今のお前のレモネード気分。
「それじゃ違うんだよ!」
「はあ?」
何処が違うと言うんだ、お前。
どうしても今でなくては駄目だと言うならただの我儘だぞ、ガキと変わらん。
それともアレか、お母さんの作るレモネードじゃなくて、売ってるヤツが飲みたいのか?
気に入りの味でも見付かったか?
ハーレイが怪訝そうな顔をするから、ぼくは唇を尖らせて言った。
「ママのレモネードには違いないけど、これからの季節はダメなんだよ」
「どういう意味だ?」
「初デートの味のレモネード!」
冷えたレモネードがいいんだよ。それが飲みたいから、ホットじゃダメ!
「あ、ああ…」
アレな、と答えるハーレイの目がなんだか遠い。焦点がずれた鳶色の瞳。
「…どうかした?」
「いや…。そういや冷たいレモネードだったな、あの日はな。…その話か」
なんだか素っ気ないハーレイ。
もっと懐かしんでくれてもいいのに、ぼくたちの初デートだったんだから。それにデートだって言い出したのはハーレイの方で、そのためにテーブルと椅子を持って来たんだ、って…。
ぼくが「いつもと違う場所で食事をしてみたい」って前に強請ったのを覚えててくれて。
それなのに反応が鈍いハーレイ。目の焦点までずれてたハーレイ。
ホントにおかしい。絶対、おかしい。
ぼくは変なことを口にした覚えなんか無いし、レモネードって言っただけなのに。
初デートの日に飲んだのと同じレモネードが飲みたいって言っただけなのに…。
疑問と不満が膨らむ、ぼく。
ぼくたちの記念すべき初デートの日のこと、ハーレイはなんて思っているんだろう?
何を食べたか、何を飲んだか、そんなのどうでも良かったとか?
デートなんだぞ、って言ってくれたのも、お愛想みたいなものだったとか?
「…ハーレイ、懐かしくないの?」
ぼくとハーレイとの初めてのデート。あの日が初めてだったのに…。
「そりゃ懐かしいさ」
懐かしくないわけがないだろ、今のお前との初デートだしな?
「だったら、なんで遠い目、してたの?」
ぼくは見てたよ、ハーレイの目が遠かったのを。
「なんでもない」
ちょっと考え事をしていたもんでな、そのせいだろう。
「そんなことない!」
考え事なんて、嘘に決まってる。だって、直前まで会話は途切れてなかったんだから。
どうして、とぼくは問い詰めた。
冷たいレモネードの何処がいけないのか、初デートの何処が悪いのか、と。
聞き出すまでは諦めない、って気迫が伝わったんだろう。
ハーレイは眉間に皺を寄せると、腕組みをして「うーむ…」と低く唸った。
「お前に言ったら、やたらと喜びそうだしなあ…」
「何が?」
ぼくは怒り出したい気分だけど?
初デートとレモネードを軽くあしらわれて、頭に来そうな気持ちなんだけど。
それがどうやったら喜ぶ方に行ってしまうのか、全然サッパリ分かんないけど!
「…初デートでレモネードな所が問題なんだ」
「えっ?」
「そいつのせいで俺は遠い目になって、お前は知ったら喜びそうだ、と」
いいか、初デートでレモネードだ。
どうやらお前は俺が喋るまでは諦めそうもないからなあ…。
黙ったままだと膨れっ面になって怒りそうだし、仕方ない、腹を括るとするか。
ハーレイはフウと溜息をつくと、まだ腕組みは解かないままで。
「…あの日は何とも思わなかったし、今、ようやっと気が付いたんだが…」
「何に?」
ねえ、ハーレイ。初デートでレモネードって何かおかしな意味でもあったの?
「ずうっと昔の話なんだが…。SD体制が始まるよりも遥かに昔のことなんだが…」
それも、この地域限定だぞ。此処が日本って小さな島国だった頃。
…初めてのキスはレモンの味だ、っていう噂がな。
「ええっ!?」
どうしてレモン?
初めてのキスがなんでレモンの味になるわけ?
「そういう歌詞の歌が流行っていたんだ、「レモンのキッス」ってタイトルのな」
当時の地球で有名だった男性歌手の娘が歌った曲をだ、日本で別の歌手が歌った。
元の曲は「レモンのキッス」ってタイトルでもなきゃ、歌詞も全く違ったらしいが…。
そいつが由来だ、それで初めてのキスはレモンの味ってことになったんだ。
もっとも、レモンの味って噂は、後にはイチゴに変わっちまったそうだがな。
しかし始まりはあくまでレモンだ、初めてのキスはイチゴ味じゃなくてレモンの味だ。
…もう分かるだろ?
初デートでレモネードだと言われた俺の目が一瞬、遠かった理由。
ポカンと口を開けちゃった、ぼく。初めてのキスはレモンの味…。
「…それも古典の範囲なの?」
「少し違うな、古い本なんかを調べていったら偶然出会った情報ってトコか」
面白いな、と思ったから忘れずにいたんだな。あの日は綺麗に忘れ去っていたが。
「…じゃあ、あの日に飲んだレモネードって…」
初めてのキスの味だったの!?
初デートで初めてのキスの味の飲み物を一緒に飲んだの、ぼくとハーレイ?
「そういうことになるようだぞ」
うんと昔のこの地域ならな。初めてのキスはレモンの味だって言うんだからな。
「…もっと味わって飲めば良かった…」
せっかくのレモネードだったのに…。
レモンの味がする飲み物なのに、初めてのキスの味だったのに…。
「おい、落ち込むな」
俺だって綺麗に忘れていたんだ、仕方ないだろ。
それに落ち込んでも、今の季節に冷たいレモネードは多分、作って貰えないだろうさ。
お前が勝手に買うならともかく、お母さんは作ってくれないな。
身体を冷やすと良くないからなあ、お前みたいに弱すぎるチビは。
耳寄りな話を聞いたというのに、過ぎてしまった冷たいレモネードが飲めるシーズン。
それに初デートの時には気付きもしないで飲んでしまった、初めてのキスの味だから…。
「…ハーレイ。あの日、初めてのキスもしました、ってことにしておいてもいい?」
ハーレイ、キスしてくれないんだもの。
初めてのキスの味のレモネードを二人で飲んだし、あれがぼくたちの初めてのキス。
「お前が勝手に想像するのはかまわんが…」
あの時だけだぞ、あの日だけだ。
今後、レモネードを出して来たって無駄だからな。
あくまで初めてのキスの味なんだ、初めてが何度もあったら困る。
あれっきりだ、とハーレイは苦い表情だけど。
それでも瞳は笑ってるから、お許しは貰えたんだろう。あのレモネードが初めてのキス。
だけど…。
「…だけど、レモンの味だったっけ?」
「何がだ?」
「前のぼくたちの初めてのキス」
レモンの味がしてたんだっけ…?
「おっと、そこまでにして貰おうか」
お前の話にはそうそう釣られん。昔話もたまにはいいがな、キスの話はお断りだ。
その先となったら御免蒙る、俺は一切、応じないからな。
聞きもしないし聞いてもやらない、と見事に突っぱねてくれたハーレイ。
前のぼくたちの初めてのキスを語る代わりに、別の方へと行っちゃったんだ。
「そもそも、シャングリラでレモンと言えば、だ」
どちらかと言えば料理用だったぞ、レモネードじゃなくて。
ジュースはオレンジとかブドウとか…。小さな子供でも飲めるジュースがメインだろうが。
「そうだったっけ…」
今のぼくも小さい頃にはレモネードは飲んでいなかったよ。
小さい子供は酸っぱいのとか、炭酸入りでシュワシュワするのが苦手だったりするものね。
「うむ。だからシャングリラでレモネードは決して定番ではない」
いつでも飲めるってわけじゃなかったから、前のお前はレモンの味にさほど思い入れってヤツは無いってな。少なくとも俺の記憶には無い。
レモンよりかはオレンジだったな、前のお前がこだわりを示した柑橘類は。
もっとも、そいつも「シャングリラにオレンジがあって良かった」って言ってた程度だが。
あれがジョミーの好物だから、と。
「ああ、オレンジスカッシュ…!」
ジョミーがシャングリラに連れて来られてしょげていた時、よく運ばせたよ。
厨房に思念を飛ばして作って貰って、お菓子を添えてジョミーの部屋まで。
でも…。前のぼくだってレモネードをたまに飲んでたよ?
「たまにだろうが、レモネードがジュースのメニューに入ってた時に」
注文してまで作らせてないぞ、前のお前は。
親しみがあったレモンってヤツは料理の方だと思うがな?
「…そうなんだけど…」
肉料理にちょっと添えてあったり、魚料理に搾ってみたり。
前のぼくがレモンで思い出すものは、そっちの方が多いんだけど…。
シャングリラでもレモンは栽培してた。だけど、ハーレイが言う通り。
レモネードを作るためのレモンじゃなくって、料理用に育てていたレモン。たまにレモネードになったりするけど、大抵は料理に使われていた。あとは…。
何だったっけ、と考えていたら、とっくに腕組みを解いてたハーレイがニッと笑って。
「そういや、今日の紅茶は助かったな」
「えっ?」
「ミルクティーだしな?」
お好みでどうぞ、とミルクつきだ。こいつは実に有難いってな。
「そうだ、レモンティー!」
シャングリラにもあった、レモンティー。スライスしたレモンが添えられた紅茶。
今のぼくの家でも、ママがお菓子やその日の気分で選んでる。
ミルクかレモンか、どっちを添えて持ってくるかを。
こんな話になると分かっていたなら…。
「…レモンティー…」
ママに頼んでおけばよかった、と項垂れた、ぼく。
もしもレモンティーを頼んでいたなら、ハーレイと二人、レモン味の紅茶を飲めたんだ。
「おいおい、レモンの味ってヤツはだ、初めてのキスに限るんだがな?」
二回目以降はカウントされんぞ、それは初めてじゃないからな。
お前はレモンにこだわっているが、何度お前とレモンティーを飲んだと思っているんだ。
ついでに料理の付け合わせの方でも何度も食ったな、レモンをな。
「それじゃ、初めてのキスの味なのは、あの日に飲んだレモネードだけ!?」
「そうなるな」
「酷い!」
どうして一回きりしかダメなの、ぼくは気付いてもいなかったのに!
「うんと嬉しい偶然だろうが、初めてのデートでレモンの味の飲み物なんだぞ」
初めてのキスの味のレモンだ、そいつを詰め込んだレモネードだ。
「酷いよ、あの時、ぼくには教えてくれなかったくせに!」
「さっきも言ったろ、忘れていたんだ、俺だってな」
「本当に?」
「本当だとも」
覚えていたなら、思い出していたなら、こっそり耳打ちしてやったさ。
こいつは初めてのキスの味だと、初めてのキスはレモンの味って言うんだ、と。
お母さんたちから丸見えの庭のテーブルでもな。
「そっか…。ホントに忘れていたんだ、ハーレイ…」
聞きたかったな、あのデートの日に。
レモネードを飲みながら聞きたかったな、初めてのキスはレモンの味だ、っていう話。
今頃になって分かっただなんて、なんだか残念…。
あの時のレモネード、初めてのデートで初めてのキスの味だったのに…。
「お前には申し訳ないが…。時間は元には戻せないってな」
あの時は俺と一緒にレモネードを飲んだな、って思い出すしかないってことだ。
レモネードだったと、初めてのキスの味だったんだ、と。
「…前のぼくたちの初めてのキスも、ちゃんとレモンの味だった?」
「それに関しては話してやらん、と言っただろうが」
もちろん味なぞ教えてやらん。本当にレモンの味だとしてもな。
「ハーレイ、やっぱり覚えているの?」
「どうだかな?」
お前みたいにチビじゃない分、記憶はハッキリしているかもな?
前のお前とキスをした頃と変わらない姿になっているしな、記憶もうんと鮮やかかもなあ…。
「お願い、教えて!」
前のぼくたちの初めてのキス。
レモンの味だったか、そうじゃないかだけでもいいから教えて、お願い、ハーレイ!
「駄目だな、チビのお前にはレモネードまでだ」
俺とキスさえ出来ない子供のお前に教えられるのは、レモンの味のキスまでだ。
あの日のレモネードは初めてのキスの味だったな、って思い出すだけで我慢しておけ。
「ハーレイのドケチ!」
意地悪でドケチで、ぼくを苛めて遊んでるんだ!
いい思い出を自分一人だけでしっかり抱えて、ぼくには分けてくれないんだから!
プウッと膨れた、ぼくだけれども。
前のぼくたちが初めて交わしたキスの味さえ、思い出せないぼくなんだけど。
(レモネード…)
今のハーレイとの初めてのデート。
庭で一番大きな木の下、木漏れ日のシャングリラを見ていたデート。
幸せだったあの日に初めてのキスの味の飲み物を飲んでいたと分かって、嬉しくなった。
初めてのキスはレモンの味。
そう歌われた、遠い遥かな昔の地球の日本にあった曲。
ぼくとハーレイは日本という島国があった地域に生まれて、其処で出会った。
そして初めてのデートをした日に、一緒にレモンの味を纏った甘くて冷たい飲み物を飲んだ。
初めてのキスは交わせてないけど、キスの代わりにレモンの味がするレモネード。
向かい合って飲んで、二人で話した。
木漏れ日のシャングリラを眺めて遠い昔を懐かしみながら、二人きりの時間を庭で過ごした。
あれがぼくたちの初めてのデート。
初めてのキスの味のレモンをたっぷり使ったレモネードつきで、木漏れ日の下で。
(初めてのデートでレモネードだよ?)
ハーレイが忘れちゃっていたから、あの時には聞けなかったけど。
初めてのキスを交わす代わりに、レモンの味のレモネード。
今のぼくには交わせないキスがどんな味なのか、気分だけでも、ってレモネードがあった。
知らずに飲んでしまったけれど。
気付かずに飲んでしまったけれども、あれが初めてのキスの味。
(ちゃんとレモネードが出て来てたなんて…)
ママが作って、ハーレイの好きなパウンドケーキと一緒に庭まで運んでくれたレモネード。
初めてのキスの味のレモンをギュッと詰め込んだ、甘くて酸っぱいレモネード。
だから…、と胸が温かくなった。
やっぱりぼくとハーレイの間には、きちんと運命の糸があるんだ。
前のぼくたちを結んだ糸は切れてしまったのか、無かったのかは分からないけれど。
それは永遠に分からないけど、今はある筈の運命の糸。
ぼくとハーレイの小指にはきっと、赤い糸が結んであるんだよ。
神様が結んでくれた糸。
いつかはハーレイとホントにキスして、ちゃんと結婚出来る糸。
その日が来るよう、ぼくとハーレイとを繋いでくれてる、小指に結ばれた赤い糸…。
(初めてのキス…)
ぼくがハーレイと初めてキスを交わす時には、レモンの味がするんだろうか?
遠い昔の歌のとおりに、ハーレイが教えてくれたとおりに。
それとも、いつの間にかレモンと入れ替わっちゃったらしいイチゴの味?
どっちなのかな、と心がときめく。
レモンか、イチゴか、どっちの味がするんだろうと。
(…前のぼくは覚えていないものね…)
前のハーレイと初めて交わしたキスの味を覚えていない、ぼく。
ハーレイは覚えているみたいなのに、思い出せない、ちっぽけなぼく。
思い出せたら、レモンかイチゴか、今すぐにだって分かるのに…。
でも、いつか。
(きっと、前のぼくたちの初めてのキスの味だって、ぼくは思い出せるよ)
その時が来たら。
もう一度、ハーレイと初めてのキスが出来たら。
それまでの間はレモネードの味だったってことで我慢しておこう、初デートの時の。
初めての時しか意味が無いみたいだから、これから先にぼくがレモネードを飲んだとしたって、そのレモネードはキスじゃなくって「ただの飲み物」なんだけど…。
冷たくっても温かくっても、レモン味ってだけのただの飲み物なんだけど…。
それを思うとちょっぴり残念な、味わい損ねたレモネード。
初めてのデートで木漏れ日の下で、ハーレイと飲んだ冷たくて酸っぱいレモネード。
だけどやっぱり嬉しくなるんだ、初めてのデートで初めてのキスの味だから。
初めてのキスの味がするという、レモンの味の飲み物だから。
そんなレモネードが出て来たってことは、運命の糸があるって印。
ぼくとハーレイ、お互いの小指に赤い糸。
その糸で繋がって、距離がどんどん短くなって。
いつか必ず結婚するんだ、レモンの味がするかもしれない初めてのキスを交わしてから…。
レモンの味・了
※ハーレイとの初めてのデートの思い出、レモネード。今の季節は冷たいのは無理。
其処へ聞かされたレモンの味とキスの関係、初めてのキスの味が気になるブルーです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうん…)
普段よりも早く目覚めたブルーは、朝食が出来るのを待つ間にダイニングのテーブルに置かれた新聞を広げていたのだけれど。
ふと目に留まった占いコーナー。今日一日の運勢なるものが記されていた。
(星座別かあ…)
ぼくの星座は何だったっけ、と確認してから牡羊座の欄をチェックし、ラッキーだと知っていい気分になる。最高にツイている星座。十二個の星座の中でもダントツの一位。今日は一日、最高にツイているらしい。
(ハーレイは、っと…)
いそいそと恋人の星座を確かめ、乙女座の欄を覗き込んでみて愕然とした。誰よりも大切な想い人が属する乙女座は本日、最低最悪の運勢だった。十二星座の中で最下位、要注意という印までがついたアンラッキー。
(……嘘……)
こんな占い、当たりっこない、と思ったのだけれど。
(タロット占いだったんだ…)
よく読んでみれば、それはタロット占いを得意とする人が書いたコーナー。
前の生の頃、フィシスが得意としていたタロット占い。驚くほどに当たったフィシスの占い。
あながち馬鹿に出来はしない、と「タロット占い」との謳い文句に青ざめた。
今現在でも予知能力は神秘の能力。
確実に未来を読める能力者は皆無だったし、フィシスほどの能力は誰も持っていない。
とはいえ、まるで当たらないというわけでもなかった。漠然とした形でなら占える未来。
例えば、人気の恋占い。
今の恋人と結婚出来そうか、まるで希望は無さそうなのか。その程度ならば当たることもある。だから恋人と大喧嘩になってしまった男女が占い師の所へ駆け込んでゆく。
「私たちに未来はあるのでしょうか」と、「謝った方がいいのでしょうか」と。
そして「未来はあります」と聞いて関係修復に努めたカップルは成婚率が高いと聞くから。
占いは当たる時には当たるのだろうし、ましてやタロット占いとなれば…。
(どうしよう…)
とことんツイていないらしい、今日のハーレイ。もう心配でたまらないけれど。
自分が最高にラッキーなことさえ忘れてしまうくらいに、心配でたまらないのだけれど。
(どうツイてないのか分からないよ…)
母が「トーストもオムレツも出来てるわよ?」とお皿を置いてくれても生返事。まだ占いの欄を横目で見ながらトーストを齧り、オムレツを頬張るという始末。
(…アンラッキーって…)
ハーレイの身に何が起こるのだろう?
それさえ分かれば防ぎようもあるのに、と縋るような気持ちで見詰めてみても細かい解説は一切無かった。そもそも占いの結果として出た、タロットカードの記載が無かった。
どういうカードが乙女座に出たのか、それが分かれば…、と考えたのだが。
(カードの意味…)
忘れちゃった、と空っぽになった頭の中の引き出しの中身に衝撃を受ける。
小さなブルーは綺麗に忘れてしまっていた。
前の自分が、ソルジャー・ブルーが熟知していた筈の、タロットカードが持っている意味を。
これではカードがきちんと書いてあってもどうにもならない。
読めもしない未来、参考にすらも出来ない手掛かり。
(…今日のハーレイ、どうなっちゃうの?)
そればっかりを考えていたら、両親の声が聞こえて来た。
「遅刻するわよ?」
「早起きしたからってのんびりしすぎだ、バスに間に合わないんじゃないか?」
「ええっ!?」
壁の時計はとんでもない時刻になっていた。慌てて二階の部屋に駆け戻り、通学鞄を引っ掴んで飛び出す羽目に。なんとかバスには間に合ったけれど、占いはすっかり頭から消えた。
いつも乗ってゆくバスに揺られて、学校の近くのバス停で降りて。
その頃には普段と全く変わらない気分、背筋を伸ばして校門を入った所で出会った人物。朝練の指導を終えたばかりの、スーツに着替える前の柔道着のハーレイ。
朝一番に会えるだなんてツイている、と思った途端に思い出した。
(アンラッキー…)
今日の自分は最高にツイているのだけれども、ハーレイの方はそうではなかった。
現にこうしてツイている自分。ならば、その逆のハーレイは…。
「…ハーレイ先生?」
おはようございます、と挨拶するのも忘れたブルーだけれど。ハーレイは笑顔を向けてくれた。
「おはよう、ブルー。俺に何か用か?」
「…えっと…。ハーレイ先生、今日は気を付けて」
「何の話だ?」
怪訝そうに問われた所へ、柔道部の生徒たちが「ハーレイ先生!」とワッと走って来たから。
ブルーの持ち時間は其処で終了、占いの結果を告げ損ねたままで終わってしまった。
告げられなかった、ハーレイへの忠告。
今日はとてつもなくツイていないから気を付けて、と注意を促したかったのに。
(言い損ねちゃった…)
大丈夫だろうか、と気もそぞろな内に二時間目になって古典の授業。いつものように扉を開けて現れたハーレイに変わった様子は全く無い。
けれども古典の授業があること自体が、ブルーにとってはラッキーだから。
(アンラッキー…)
ツイている自分とは真逆に位置するハーレイが気になってたまらない。
ハーレイに何が起こるのだろう。どういった風にツイていないというのだろう?
(…もしかして、怪我…?)
放課後に行う柔道部の指導で怪我をするとか。
ハーレイの腕前は生徒とは比較にならないけれども、生徒を庇っての怪我なら有り得る。体勢を崩した生徒を受け止めたはずみに足を捻るとか、腕の筋を傷めてしまうとか。
(カードがちゃんと書いてあったら…)
ツイていないと告げたカードが何だったのかさえ、新聞に載っていたならば。
占いの過程で出て来たカードも全て書かれていたなら、ツイていない中身を絞れただろう。何が災いの元になるのか、どうすればそれを避けられそうかも。
(…でも…)
でも、とガックリと項垂れる。
今の自分はカードの意味を忘れてしまった。タロットカードが書かれていても分からない。
どう読み解くのか、そのカードが何を意味するのかも。
「ブルー君?」
自分の名を呼ぶハーレイの声。
当てられていた、と気付いて慌てて立ち上がった。後ろの男子が囁いてくれる。読むべき箇所は教科書の何処か、どのページの何行目からなのかを。
ハーレイに名前を呼ばれて当てられることは、ブルーにとってはラッキーな出来事。
何処を読むのか教えてくれた友人に心で感謝しながら音読しつつも、ブルーはハーレイを見舞う不幸がどうしても頭から離れなかった。
(…結局、あの後、会えなかったよ…)
家に帰って、おやつを食べて。
もう一度ダイニングのテーブルで新聞を眺めたけれども、変わらない結果。
今日の牡羊座は最高にラッキー、乙女座は逆に最低最悪のアンラッキー。
自分は本当にツイていたのに、ハーレイはどうなってしまったろうか。
今の時間は柔道部の部活の真っ最中。
生徒を庇って怪我をしてしまっていないだろうか?
足を捻ったり、腕を傷めたり、大変なことになっていないだろうか…?
(カードさえ新聞に書いてあったなら…)
二階の自分の部屋に戻って、机の前で考え込んだ。
夏休みの一番最後の日に庭でハーレイと二人、写した記念写真を眺めて。
けれど…。
新聞にカードが書いてあっても無駄なのだった、と思い出す。
タロットカードの解説無しでは、今の自分は読み解けはしない。
すっかり忘れてしまったから。
色々な絵が書かれたカードが持っている意味を、綺麗に忘れてしまったから。
(前のぼくって…)
どうやって全てのタロットカードを頭に叩き込んだのだったか。
熟知していたカードの意味。
カードが正しい向きである時と、上下が逆様の時で意味が変わるといったことさえも。
幼いフィシスを救い出した日、フィシスの心を真っ黒な不安で塗り潰していた死神のカード。
文字通りに死を意味するカードの向きを変え、逆様にしてみせた。
上下が入れ替わってしまった死神のカードは再生の意味。死地からの生還。
もう、それだけしか覚えてはいない。
他のカードの意味は何一つ、正しい向きに置かれた時の意味さえ。
前の生でフィシスがカードを繰っていた時は、眺めながらあれこれ考えたのに。
出て来たカードが何を示すのか、自分なりに読もうとしていたのに…。
けれども、何処で覚えたのだろう?
前の自分はタロットカードが持つ意味を何処で知ったのだろう?
(…シャングリラにはタロットカードなんかは無かったよ…?)
アルタミラを脱出した直後はもちろん、白い鯨が出来上がった後にも無かったタロットカード。
フィシスが来るまで、タロットカードは船に存在しなかった。フィシスの占いに必要だから、とデータベースから情報を引き出し、専用のカードを作らせた。
それまではカードと言えばトランプ、戯れにトランプ占いをしていた者たちもいた。
けれども無かったタロットカード。
では、何処で…?
何処で自分はタロットカードの意味を覚えて来たのだろう?
(んーと…)
遠い記憶を探ってゆく内、「門前の小僧」とハーレイの古典で習った言葉が頭を掠めた。
それだ、と閃いた「門前の小僧習わぬ経を読む」という遥かな昔の古い諺。
教わらなくとも、見聞きする内に知らず知らずに覚えること。
幼いフィシスが水槽から出され、如何にも女の子が好みそうな個室を与えられた後。
何度もこっそり様子を見に忍び込んで、そして覚えた。
フィシスが繰っていた、タロットカードと呼ばれるカードの意味を。
占いのためだけに作られたカードが持っている意味を、それを繰っては一喜一憂するフィシスの心を読み取りながら。
そうやってカードの並べ方までをも覚えていたから。
あの日、占いの一番最後に出て来た死神のカードの上下を入れ替えられた。
フィシスの未来を示すカードを、死を意味していたカードを逆様に変えて意味をも変えた。
死神のカードが示した未来は自分が変えると、変えてみせるとフィシスに教えた。
その後のことは、逆様になった死神のカードの意味そのまま。
フィシスはシャングリラへと迎え入れられ、死の影は二度と近付かなかった。
(でも…)
ハーレイに迫る不幸を退ける力も、避けるための道を教える力も自分には無い。
たとえ新聞に占いの結果を示すカードが載っていたって、今のブルーには読み解けない。
今日は最低最悪にツイていないというハーレイの乙女座。
極め付きのアンラッキーな今日のハーレイ。
どうすればハーレイを救えるだろうか、と「手遅れかも」と悩んでいる間にチャイムの音。この時間に来客を知らせるチャイムが鳴ったということは…。
(あっ…!)
駆けて行って見下ろした窓の向こう側、庭を隔てた門扉の所に見間違えようもない恋人の姿。
ハーレイが夕食を食べに寄ってくれるとは、もう最高にツイているけれど。
(アンラッキー…)
自分が最高にツイているなら、ハーレイは逆。
ツイていればいるほど、その逆のハーレイは不幸の連続…。
(アンラッキー…)
その言葉が消えてくれないから。
夕食が出来るまでの間、部屋で向かい合ってお茶を飲む時、ハーレイに顔を覗き込まれた。
「ん、どうした?」
どうも元気が無いようだが…。何処か具合でも悪いのか?
「ううん。…ハーレイ、今日はいいことあった?」
「おっ、分かるか?」
相好を崩すハーレイにブルーは驚く。
「…あったんだ、いいこと…」
「なんだ、知っていたんじゃなかったのか?」
てっきり地獄耳ってヤツかと思ったんだが…。たまたま来合わせた生徒もいたしな。
職員室でな、研修で出掛けてたヤツが「土産だ」って美味い蕎麦饅頭を配ってくれたんだ。
其処の町でしか売ってないから、行かないと買えん名物でな。
ほら、お前にも貰って来てやったぞ、余った分があったからな。
「わあ…!」
思いがけなく、お土産まで貰ってしまったけれど。本当にツイているのだけれど。
(アンラッキー…)
最高にツイている自分とは逆の運勢を持ったハーレイが心配でたまらない。
「どうした、蕎麦饅頭、食わないのか?」
皮も中身も実に美味いんだぞ。それとも夕食に響きそうか?
「一個くらい、平気」
薄い包装を剥いで頬張れば、香ばしい皮とくどさのない餡。
名物と言うだけのことはある出来の蕎麦饅頭で。
「美味しい…!」
「そりゃ良かった。貰って来た甲斐があったってな」
「ありがとう、ハーレイ!」
とっても美味しいお饅頭だよ、とブルーは貰った蕎麦饅頭を綺麗に食べた。
ハーレイが貰って来てくれたお饅頭だと、喜びと幸せに浸りながら。
お土産に名物の蕎麦饅頭。職員室で配られたもののお裾分け。
普通の生徒なら貰えないもので、おまけにハーレイが貰って来てくれたもの。
ますますもってラッキーだけれど。
(アンラッキー…)
自分がツイていればいるほど、逆のハーレイはドン底だから。
蕎麦饅頭を美味しく食べ終えた後は心配になるし、表情も暗いものになる。
そんな風にくるくると変わるブルーの様子に、ハーレイが気付かない筈などが無くて。
「おい、ブルー。なんだか変だぞ、今日のお前」
舞い上がったり、暗くなったり。
まるで一定していないんだが、何か心配事でもあるのか?
「だってハーレイ、アンラッキー…」
「はあ?」
「アンラッキーなんだよ、今日のハーレイ!」
ぼくは最高にツイているのに、ハーレイはツイてないんだよ。
そしてホントにぼくはツイてるから、ハーレイのことが心配なんだよ…!
「お前なあ…」
アンラッキーの根拠が何かを訊き出したハーレイは、呆れたような顔で笑った。
「その占いがたとえ当たっていたとしてもだ、乙女座のヤツが何人いるんだ」
この地球の上に何人いると思っているんだ、この町だけでも何十人では済まないぞ。
それが全員アンラッキーなら、今日は救急車がてんてこ舞いかもしれないな。
お前はたまたま占い通りに大当たりの牡羊座だったらしいが…。
牡羊座でもドン底のヤツはいると思うぞ、俺たちの学校だけでもな。
今日、上の学年で抜き打ちテストをしたから、あの学年の牡羊座は殆ど不幸な筈だが。
「…牡羊座なのにドン底って…」
そういうものなの、今日の占い。
ぼくの学校でもツイてない人がいるくらい?
あれってけっこう当たるんだな、ってハーレイのことを本気で心配してたのに…!
「おいおい、冷静に考えろよ?」
フィシスほどの予知能力を持った人間は、今の時代までに流れた長い時間にも一人もいない。
そいつはお前も知っているよな?
そのフィシスでさえ、個人の未来をきちんと読むのは無理だったぞ?
シャングリラの未来を占えはしても、乗ってたヤツらを星座別になんか占っていない。
それどころか、前のお前の未来でさえも正確に読めてはいなかったろうが。
「…そういえば…。ただ漠然と読んでただけだね」
「もしも完全に読めていたなら、ナスカが燃えてしまったあの日。フィシスはお前を離さんさ」
どんな理由を付けたか知らんが、とにかく離しやしなかったろう。
離したらお前はメギドに行くって、フィシスには分かっているんだからな。
「見送ってくれたよ、「行ってらっしゃい」って」
ぼくは補聴器を預けたのに。
驚いてはいたけど止めなかったよ、ちゃんと見送ってくれていたよ。
「ほら見ろ、占えていなかったんだ」
フィシスは前のお前みたいに強くはなかった。
お前の未来が見えていたなら、止められないと分かっていたって縋り付いたさ。
見送らなければ、と心で思っても感情がついていかないってヤツだ。
お前はフィシスの腕を振りほどいて行く羽目になったと断言出来るぞ、間違いない。
「…だけど、ぼくがフィシスをシャングリラに連れて来た日の朝…」
死神のカードは確かに出てたよ?
フィシスが占っていた未来。死神のカードは確かにあったよ、ぼくはこの目で見たんだから。
カードを見たフィシスが怯えていたから逆様にしたよ、死神のカード。
そうすれば再生の意味になるから。まるで反対の意味になるから…。
「危機が迫っていたからだろうさ、それもフィシスの上にだけな」
それとも、たまたまだったのか。
偶然に出ただけのカードかもしれんな、その死神は。
「…たまたま?」
「もしも本当に未来を読んで、死神のカードを出せたのならば、だ」
前のお前がどうなるかだって占えた筈だ、同じ理屈で。
あれほどにお前を慕っていたフィシスが、目覚めたお前の未来を占わなかったとは思えない。
だが、死神のカードは出はしなかった。
不吉な予兆を示すカードは出たかもしれんが、死神のカードは出なかったんだ。
だからこそ「行ってらっしゃい」と言えた。
死神のカードを目にしていたなら、「行っては駄目です」と絶対に止める。
お前だって、そう思わないか?
フィシスには「行ってらっしゃい」と送り出せるほどの強さは無かった、ってな。
未だに伝説の占い師と名高い、前のブルーが女神と呼んでいたフィシス。
そのフィシスにさえ確かな未来は読めなかった、とハーレイは言う。
読めていたならフィシスはメギドへと向かうブルーを阻止しようと縋り付いただろう、と。
「…それじゃ、小さかったフィシスが怯えた死神のカードは…」
「本当にたまたまだったのさ。偶然の巡り合わせってヤツだ」
でなきゃ、ナスカでも出た筈なんだ。
フィシスがお前を占った時に、その時と同じように死神のカードが。
「…ぼくはわざわざ、死神のカードを逆にしたのに…」
小さなフィシスが怖がらないよう、逆にしてから連れ出したのに。
「それはそれで別にいいんじゃないか?」
まるで無駄にはなっていないさ、フィシスの信頼は勝ち取れただろう。
前のお前には未来さえも変える力があると、自分を助けてくれたんだ、とな。
助けるから、とカードでメッセージを伝えてみせて、その通りの結果を出したんだから。
「…死神のカード、たまたま出ただけだったんだ…」
「俺の推測に過ぎないわけだが、そいつで当たっていると思うぞ」
占いなんてそういうものさ。
あのフィシスでさえもその有様だ、前のお前の真の未来を読み取れなかった。
だから新聞の占いごときが当たるか、今日の俺はツイているってな。
「ツイているって…。本当に?」
蕎麦饅頭を貰った他にも何かあったの、ツイていること。
「あったとも。…お前が心配してくれた」
一日中、俺を思っていてくれた。俺の心配をしてくれていた。
それだけでもう最高じゃないか、これをラッキーと言わずにどうする。
お前の心を一人占めだぞ、お前は俺のことだけをひたすら考えてくれていたんだからな。
「えーっと…」
そうなのかな、とブルーは考えたけれど。
一日中、心に引っ掛かっていた言葉はやはり心配で、それがポロリと口から零れた。
「だけど新聞には、アンラッキーって…」
ツイてないかもしれないんだよ。
たかが占いってハーレイは言うけど、でも、やっぱり…。
「安心しろって、俺には最強のお守りってヤツがあるからな」
「最強って…。ハーレイ、何か持ってるの?」
凄いお守り、何処かで買って持ってたりする?
「分からないか?」
これだ、これ。
こいつがそうだ、とハーレイが指差す、ブルーの顔。
「…なに?」
「赤い瞳だ、お前のな。前の俺たちの服に付いてた赤い石さ」
魔除けのお守り、付けていたろう?
青いメデューサの目のお守りの代わりに、お前の赤い目。
「ちょ、ちょっと…!」
「そいつが俺を一日中、見守ってくれてました、ってな。どんな不幸でも避けられるぞ」
死神のカードも逆様に変えてしまえたお前だ、アンラッキーを避けるくらいは軽いだろ?
まさに最強のお守りってヤツだな、お前の瞳は。
シャングリラで制服を作った時にシンボルに決まった赤い石。
遥かな昔の地球にあったという、青い魔除けのメデューサの目のお守りに因んだ赤い石。
メデューサの青い瞳の代わりに赤い瞳が皆を守ると、ブルーの瞳が魔除けなのだと。
ハーレイはそれを持ち出した上に、今のブルーの瞳がそうだと言うから。
最強のお守りなのだと言うから。
「でも、ハーレイ…。凄い力を持っていたのは前のぼくだよ?」
今のぼくだと、死神のカードを逆様には出来ても、フィシスを助けられないよ?
だって、サイオン、とことん不器用…。
「俺にとっては今も同じさ、お前の瞳が見ていてくれるなら頑張れる」
不幸なんかは跳ね飛ばさんとな、お前を心配させてはいかん。
だから不幸に遭いはしないし、巻き込まれたりもしちゃいられない。
というわけでな、俺には一生、不幸ってヤツは来そうにないな。
最強のお守りの赤い瞳が俺を見ていてくれる以上は。
「…そうなるわけ?」
だったら、ぼくはどうなるんだろう?
そういうお守り、持っていないよ。ぼくのお守りは何になるの?
今日は最高にツイていたけど、ツイてない日はどうすればいいの…?
「お前は俺が守ってやるさ」
今度こそ俺が必ず守ると言っただろうが。
俺がお前のお守りってヤツだ、目だけと言わずに身体ごとな。
つまり、お前にも不幸は来ない。お前に近付く不幸ってヤツは、俺が端から投げ飛ばすんだ。
柔道でエイッと投げ飛ばすように、不幸も投げてしまえってな。
俺たちの未来にはラッキーしか無いさ、とハーレイは笑う。
不幸を避けるお守りを互いに持っているのだから、と。
ブルーの赤い瞳がハーレイのお守り、ブルーのお守りはハーレイ自身なのだから、と。
ブルーが守って、自分が守って。
互いが互いのお守りとなって不幸を退け、幸せだけを拾ってゆこう、と。
「そっか、お守り…」
ちゃんと二人とも持っているんだ、とブルーは微笑む。
不幸を避けるためのお守りを、互いのために自分自身が持っているのだ、と。
(アンラッキーなんて無いのかもね?)
きっとそうだね、と自分たちの未来を思い描いた。
今はまだ離れて暮らしているから心配だけれど、結婚したならお互いに守り合うのだから。
不幸が近付いて来ることはないし、幸せだけを拾い集めながらハーレイと二人で歩いてゆく。
もっとも、ブルーは見守るだけ。赤い瞳で見守るだけ。
今度の生ではハーレイが守る。
前の生で守れなかった分まで、不幸を端から投げ飛ばしながら…。
占いとタロット・了
※新聞のタロット占いでは、アンラッキーな今日のハーレイ。心配なブルーですけれど…。
ハーレイが言うには、最強のお守りはブルーの瞳。それに占いは当たるとは限らないのです。
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クー、クルックー。
鳩か、とダイニングの窓から庭を眺めたハーレイは「おっ?」と顔を綻ばせた。
朝食の途中、庭の方から聞こえた鳴き声。普通の鳩かと思ったのだけれど。
公園などで見かける鳩。野生のキジバトとは鳴き声が違う。何処かの公園から飛んで来たな、と考えた鳩。予想通りの姿の鳩が庭の木の枝に止まってはいたが。
(伝書鳩か…!)
珍しいな、と目を凝らした。鳩の片方の足にチラリと見えた、足の色とは異なった色。
サイオンを使えば、ある程度の距離なら双眼鏡のように拡大して見ることが出来る。サイオンの扱いが不器用になってしまった小さなブルーには出来ないけれども。
(ふうむ…)
やはり、とハーレイの笑みが深くなった。
鳩の足に見付けた、色が異なっている部分。其処に異物がくっついていることが判別できた。
そうではないか、と思ったからこそサイオンを使って見てみたわけだが。
色が違って見えた部分の正体は足輪。
鳥の個体の識別用に、と研究者が付けることも多いが、この種の鳩ならそうではない。鳩の飼い主が付けた足輪で、自分の鳩だと見分けるための認識票。
その足輪に付けられた小さな筒。
レース用の鳩かと思ったけれども、これならば違う。レース用の鳩なら足輪だけだ。
(こいつは本物の伝書鳩だぞ…!)
愛好家が使う、通信用の伝書鳩。レース用とは違った鳩。
ブルーに話してやらなければ、とハーレイは枝に止まった鳩の姿を頭にしっかり叩き込んだ。
その日、運良く早めに終わった仕事。いそいそと学校の駐車場に停めた愛車に乗り込み、目指す家へと出掛けて行った。来客用のガレージに車を置いてチャイムを鳴らせば、二階の窓にブルーの姿。軽く手を振り、門扉を開けに来たブルーの母に案内されて二階へと。
紅茶と、夕食に差し支えない程度の菓子と。
テーブルに置かれたそれを前にしてブルーと二人で向かい合って座り、早速、話した。
「今朝、鳩を見たぞ」
「ぼくは雀も見かけたよ?」
鳩だって見たよ、と得意げに庭を指差すブルーに訊いてみた。
その鳩は足輪を付けていたか、と。
「…足輪?」
「お前ではちょっと見えないかもな」
サイオンで遠くを見られないしな、付いてても分からないかもなあ…。
「ううん、其処の木の枝に止まっていたから、良く見えたよ」
枝で羽繕いしていたけれども、足輪なんか付いていなかったよ。
「そいつは残念な話だな。俺の見た鳩とは違うようだ」
俺の家とは離れてるからな、別の鳩が遊びに来てたんだろうな。
足輪の話は予想通りにブルーの興味を引いたらしくて。
赤い瞳を煌めかせながら、ブルーは問いを投げ掛けて来た。
「ハーレイの見た鳩、足輪が付いてた?」
「付いていたとも。おまけに筒もな」
「筒?」
キョトンとしている小さなブルー。
個体識別用の足輪ならばさして珍しくないが、筒などは付いていないから。
「手紙を入れておくための筒さ」
伝書鳩ってヤツを知らないか?
俺は今朝、そいつに出会ったんだが。
「伝書鳩?」
知らないよ、とブルーは首を傾げた。
「ふうむ…。だが、レース鳩は知っているだろう?」
「なあに、それ?」
どっちも、ぼくは聞いたことが無いよ。
伝書鳩とか、レース鳩とか、それって鳩の種類なの?
「そうか、知らんか…。前の俺たちの時代には無かったからなあ、どっちの鳩も」
種類としては、ごくごく普通の鳩なんだが。
野生のじゃなくて、公園とかで飼ってるヤツだな。
餌を撒いたらわんさと集まる、ああいった鳩と同じ鳩さ。
どちらも知らない、と答えたブルーに、ハーレイは説明してやった。
伝書鳩とはどういうものかを、思念ではなく、きちんと言葉で。
「今じゃ二種類あるんだがなあ、レース用の鳩と、伝書鳩と」
元々はレース用の鳩はいなくて、伝書鳩の方だけだった。
鳩の帰巣本能を使っているのさ、遠くで放すと自分の家へと飛んで帰って行くからな。そういう風に育てた鳩をだ、通信手段に役立てていたのが伝書鳩だ。
足に手紙をくっつけてやれば、そいつを運んでくれるんだな。空を飛ぶからうんと早いし、通信手段が発達していなかった時代は重宝されていたらしい。
ついでに手紙だけじゃなくって、荷物も運んでいたそうだ。背中に荷物を結んでおけば目的地にきちんと届けてくれる。鳩が背負える程度の重さの荷物しか駄目だが、凄かったんだぞ。
人間じゃ簡単に辿り着けないような僻地へ、薬や血清を運んでいたのさ。沢山の人の命を救った偉い鳩なんだ、薬とかを運んだ伝書鳩は。
「へえ…!」
ハーレイが見たのはどんな鳩なの、とブルーが訊くから、手と手を重ねて思念で伝えた。
こんな鳩だと、これが足輪でこれが筒だ、と。
伝書鳩の姿を知ったブルーは、「ぼくも見たかったな…」と羨ましそうで。
「この筒に手紙が入っているの?」
「そうなるな。うんと昔なら、秘密の暗号文とかな」
SD体制よりも前の話だぞ、そんなのは。今の伝書鳩が運ぶ手紙は、ただの手紙だ。
レース用の鳩が殆どなんだが、こういうのが好きな愛好家ってヤツもいるんでな。レースよりも手紙だ、昔ながらの伝書鳩だ。
俺が見た鳩は、手紙を遠くへ運ぶ途中で休憩してたっていうことさ。
「面白いね。レース用の鳩は何をするの?」
「もちろんレースだ、目的地までの飛行時間を競うんだ」
どれだけの時間をかけて着いたか、飛行時間で勝負が決まる。今じゃそっちが殆どだそうだ。
前の俺たちの時代はどっちも無くって、今の世界ならではの遊びだが…。
レース鳩には手紙を入れる筒などは無くて足輪だけだ、とハーレイはブルーに教えてやった。
「その足輪がまた、よく出来ていてな。鳩が家まで飛んで帰って着いた時間を記録するんだ」
そういう仕組みになっているからズルは出来ない。
放した時間も、着いた時間も正確なデータがあるんだからな。
この仕掛け自体はSD体制より前の時代にも存在してたが、レース鳩ごと消えちまってた。SD体制の管理社会には役に立たない趣味だしな?
レース鳩ってヤツも、伝書鳩が通信手段の発達で要らなくなったからこそ出来たんだが…。
そのレース鳩も、伝書鳩の方も、前の俺たちが生きてた頃には無かった。
今はあちこちの星にレース鳩を飼う愛好家がいるが、どの星の鳩が一番速いかはデータからしか割り出せないんだ。一緒に飛ばせて競わせることは不可能なのさ。
なにしろ帰巣本能だしなあ、地球の鳩なら地球の上でしか使えない。他の星から鳩を連れて来てレースをするのは無茶ってもんだ。放した途端に迷子になるのがオチだしな。
伝書鳩だって其処は同じだ、そいつが育った星の上でしか手紙を運んで行ったりは出来ん。
ついでに片道のみってな。
放された場所から自分の家まで、その逆は飛んで行けないんだ。
「そっか、片道だけなんだ…」
返事は運んでくれないんだね、と納得していたブルーだけれど。
突然、「そうだ!」と声を上げて瞳を輝かせた。
「伝書鳩だと片道だけど…。それ、ナキネズミだったら往復出来るよ」
手紙や荷物を運んで、届けて。
「受け取りました」って返事を持たせてやったら、ちゃんと戻って来るじゃない。
片道じゃないよ、往復便だよ、ナキネズミ。
「ああ、ナキネズミな!」
確かに往復出来ただろうなあ、あいつらだったら。
伝書鳩よりも役立つわけだが、あいつらはもう何処にもいないな…。
「うん…」
いなくなっちゃったね、ナキネズミ。
動物園にも、何処の星にもナキネズミはもういないんだっけね。
手紙や荷物を運んで往復出来そうだったナキネズミ。
シャングリラに居た頃、ブルーたちが作り出した思念波での会話が可能な生き物。前のブルーが後継者に選んだジョミーにも一匹渡しておいたほどに、重要な役割を担った生き物だったけれど。
そのナキネズミは消えてしまった。
ハーレイとブルーが青い地球の上へと生まれ変わるまでの間に、時の彼方へ消え去った。二人が生まれた地球の上にも、何処の星にもナキネズミはもういなかった。
前のブルーが幸せの青い鳥の代わりにと、青い毛皮の個体を育てさせたナキネズミ。
地球の色と同じ青を纏った、大きな尻尾のナキネズミ…。
何故ナキネズミがいなくなったか、ハーレイもブルーも知っていた。前世の記憶が戻る前から、学校で習ったミュウの歴史の一環として。
ハーレイは「ナキネズミか…」と前の自分たちが作り上げた生き物の名を呟いた。
「生殖能力が衰えていったらしいな、世代が替わる度に少しずつ…な」
そうして子供が滅多に生まれなくなって、生まれても次の世代が出来なかったり。
頑張って繁殖させようとしても、まるで駄目だったと教わったっけな…。
「元が作った生き物だしね?」
ちゃんと繁殖させるんだったら、遺伝子とかを操作してやらないと。
でないと子供が生まれなくなるよ、繁殖させるために作ったわけじゃないんだから。
だけど、絶滅させないために、って身体をいじるのは良くないよ。
「うむ。自然界に存在していた生き物だったら、手助けってことになるんだろうが…」
ナキネズミはそうじゃないからな。
動物愛護の観点から、ってコトで放っておいたようだな、新たに作り出したりもせずに。
あいつらをどうやって作り出すのか、そうしたデータはあった筈だが。
「滅びていくのがナキネズミにとっては自然の法則ってヤツだったんだと思うけど…」
最後のナキネズミは寂しかったろうね。
仲間は一匹も残っていなくて、広い宇宙に独りぼっちで。
雄だったって習ったけれども、お嫁さんもいなくて、子供もいなくて。
「さあな?」
そいつはどうだか分からないぞ。
大切に飼われていたって話で、飯は食い放題、遊び放題。
自分はナキネズミなんだってことも忘れて、案外、元気にやってたかもな。
こういう姿の人間なんだ、と思い込んでて、人間の友達を沢山作って。
「そうかもね!」
そんな風に幸せに暮らしていたんだったら嬉しいな。
前のぼくが作らせてしまったんだもの、ナキネズミっていう生き物を…。
時の彼方へ消えてしまったナキネズミ。歴史の本やデータにしかいないナキネズミ。
本物のナキネズミを見たことがある人も、とうに時の流れの向こうへと消えた。
けれど、ブルーは知っているから。
前の自分がナキネズミを作らせたことも、どんな生き物だったかも鮮やかに思い出せるから。
ふと思い付いて、口にしてみた。
「ナキネズミ…。伝書鳩のことを知っていたなら、使いたかったな」
前のぼくは伝書鳩もレース鳩も全く知らなかったんだけれど。
「どう使うんだ?」
不思議そうな顔をするハーレイに、ブルーはニッコリ笑って返した。
「お使いだよ」
「…お使い?」
「そう、お使い!」
前のぼく、ハーレイに出前を注文してたでしょ?
青の間からブリッジに思念を飛ばして、「来る時にコレを持って来て」って。サンドイッチや、お菓子や、フルーツ。ハーレイに届けて貰っていたでしょ?
それの代わりに、ナキネズミに手紙を持たせるんだよ。
ブリッジのハーレイにラブレターとか。
「ラブレターだと!?」
なんだそれは、とハーレイは仰天したのだけれど。ブルーは澄ました顔で続けた。
「ラブレターだよ、内緒の手紙」
ナキネズミは思念波で伝言も伝えられたけれども、思念波、筒抜けだったしね?
ぼくたちが声に出すのと同じで、周りのみんなに聞こえちゃうでしょ、伝言の中身。
ナキネズミの思念波は人間と喋るための手段で、内緒の話には向いてなかった。
だから個人的なお使いに使えないのが難点だったけど、手紙をくっつけておくのなら別。
これを届けて、って相手を教えたら一直線だよ。
「そしてブリッジに寄越すのか?」
ラブレターつきのナキネズミってヤツを、俺の所へ寄越そうってか?
「うん」
いいアイデアだと思わない?
ナキネズミに手紙を持たせるんなら、足輪じゃなくって首輪になるかな。
首輪に筒をくっつけておいて、それに手紙を入れるんだよ。
「お前なあ…」
ハーレイは特大の溜息をついた。
「ナキネズミに手紙を配達させる案は悪くないが、だ」
手紙の中身が問題だ。
お前から俺へのラブレターなぞを、ブリッジで読めると思うのか?
「ソルジャーからの伝言です、ってことにしとけば誰も見ないよ」
覗き込んだりしないよ、きっと。
ソルジャーがキャプテンに宛てて出した手紙だよ、特別な手紙に決まっているよ。
キャプテン以外は読んじゃいけない、極秘の手紙が届くんだよ。
「機密事項というわけか…」
確かに安全な伝達方法ではある。
思念と違って漏れはしないし、通信のように傍受も出来んか。
「そう、シャングリラの最高機密」
ぼくとハーレイの仲、誰も知らないしね?
実はそういう仲なんです、って書いてあるのがラブレターだよ。
それが最高機密でなければ何だって言うの、ホントのホントに極秘の中身。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことは誰も知らない。
共にシャングリラの命運を左右する立場に居たから、明かせなかった。二人きりで過ごせる時を除けば、甘い言葉を交わせはしない。恋を語るなど、とても出来ない。
ましてやシャングリラの中枢と言えるブリッジともなれば、恋人同士として振る舞うどころではないのだけれど。
ブルーは其処へラブレターを届けさせると言い出した。ハーレイに宛てて書いたラブレターを、ナキネズミの首輪に付けた筒に入れて。
ハーレイは「うーむ…」と眉間に皺を寄せると。
「前の俺たちの仲は必死に隠し通していたのに、そんな中で堂々と寄越すのか」
よりにもよってブリッジの俺に、お前が書いたラブレターを。
「ブリッジにも思念波は送っていたよ?」
出前を頼むついでに「愛してるよ」だとか、何度も送っていたじゃない。
恋人なんです、って思念は何度も送ってたけど、それじゃつまらない。
ラブレターっていうのがいいんだよ。ちゃんと形になってる手紙で、愛の告白。
「…俺は返事を書くのか、それに?」
往復便とか言っていたよな、返事が要るんじゃないだろうな?
「要るに決まっているじゃない!」
ナキネズミは青の間に戻ってくるんだよ?
ぼくがラブレターを送っているのに、空っぽの筒を持たせて帰すつもりなの、ハーレイは?
それって、恋人としては最低じゃない?
ラブレターが仕込まれた筒を付けたナキネズミがハーレイの許へやって来たなら、返事が必須。書いて貰わねば、とブルーは言い張る。
でなければ恋人失格なのだと、自分への愛が足りないと。
「ぼくが愛をこめて書いた手紙を無視ってことだよ、返事無しなら!」
恋人だったら、直ぐに返事を書かなくちゃ。
気の利いた言葉は期待しないけど、きちんと愛がこもった手紙を。
「…そうするよりも前に、まずは暗号の開発からだという気がするが」
万一ってことも考えてみろ。
暗号だったら誰も読めんし、何の心配も要らないが…。
普通に書かれた手紙なんぞはどうかと思うぞ、お前から俺へのラブレターだぞ?
ソルジャーとキャプテンは恋人同士だとバレたらどうする、シャングリラ中が大騒ぎだ。
「平気だってば」
大丈夫だよ、ハーレイがぼくの書いた手紙を落としたりしない限りは絶対バレない。
一人でコッソリと読んで、内ポケットに大事に仕舞っておいたら大丈夫だよ。
落としたり、失くしてしまったり。
そうならないよう、細心の注意を払っておいてよ、ぼくから届いたラブレター。
「俺にそこまでの責任を負えと!」
バレないように手紙を読んで、部屋に戻るまで厳重に保管しておけと?
「そうだけど?」
ついでに返事もちゃんとお願い。
その辺のメモに書いたヤツでいいから、ラブレターの返事。
ナキネズミの首輪の筒に入れておいてよ、ぼくが返事を待ちくたびれているんだから。
ロマンティックだよね、とブルーは微笑む。
人目があるどころの騒ぎではない、シャングリラの中枢部であるブリッジ。其処を舞台に誰にも言えない秘密の恋を語り合うために、ラブレター。ナキネズミに持たせたラブレター。
ブルーが書いたラブレターを首の筒に入れて、ナキネズミがハーレイの所まで行く。ハーレイはそれを読み、返事を書く。返事はナキネズミの首に付いた筒に。
そうしてナキネズミは青の間に戻り、ブルーが筒から返事を取り出す。ハーレイが書いてくれた手紙を、自分への想いが熱く綴られたラブレターを。
ハーレイからのラブレターを読むブルーの側では、無事にお使いを終えたナキネズミが御褒美を貰っていることだろう。
きっと、好物のプカルの実。普段は限られた数しか貰えないそれを、専用の器にたっぷりと。
「うん、プカルの実が一番いいよね、ナキネズミへの御礼」
またお使いに行ってくれるよ、とブルーはハーレイに同意を求める。プカルの実はナキネズミのためだけに栽培されていた植物の実だが、お使い用に株を増やすのもいいと。
「毎日お使いして貰うんなら、それ専用に何本か植えておくとか…」
「おい、ラブレターは毎日来るのか!?」
「ハーレイ、毎日だと嬉しくないの?」
邪魔だって言うの、ぼくからの手紙。
ぼくがハーレイのためにって書いたラブレター、毎日届いたら嬉しくないの?
ハーレイ、昼間はブリッジに居るから、会いに行っても恋人同士の話なんかは出来ないのに…。
代わりにラブレターを出そうと言うのに、それ、要らないって言い出すの?
「い、いや…。そ、そんなことは…!」
「だったら、毎日」
ぼくは毎日、ラブレターを書くよ。ナキネズミに毎日届けて貰うよ、そして返事を貰うんだ。
ハーレイ、書いてくれるよね?
返事を書いてナキネズミに持たせてくれるよね?
ナキネズミが空っぽの筒をくっつけて帰って来たりしたら、うんと怒るよ?
ハーレイが青の間に来た時に平手打ちだってしちゃうかもだよ、最低だ、って。
恋人がくれたラブレターに返事を書かないだなんて、ホントのホントに有り得ないから!
ナキネズミの首輪にくっついた筒には、必ず返事を入れておくこと。
そうやってラブレターを交わし合ってこそのナキネズミだ、とブルーは力説して譲らない。
片道だけしか手紙を運べない伝書鳩とは違ったナキネズミ。
届けた先から返事を受け取り、持って帰れるナキネズミ。
それを生かさない手は無いのだと、ラブレターには返事を書くものなのだと。
「せっかくお使いしてくれるんだよ?」
手ぶらで帰すなんて、ナキネズミにだって失礼だよ。
返事を書いたから届けてくれ、って頼むのが礼儀ってものだよ、ハーレイ。
「…俺はあの時代に伝書鳩を知らなくて良かったという気がして来たぞ」
知っていたなら、ナキネズミのヤツが毎日ブリッジに来るんだろう?
「ブルーの手紙を持って来たよ」と、筒をくっつけた首輪をつけて。
俺はそいつは御免蒙る、手紙の内容がいつバレるかと生きた心地もしないじゃないか。
「そうかな、ぼくは素敵だと思うんだけれど」
ハーレイがとんでもないヘマをしなけりゃ、手紙の中身はバレないよ?
それに返事も、「機密事項だ」って言えば覗かれないから堂々とブリッジで書けるしね。
ナキネズミのお使い、絶対にいいと思うけどなあ…。
伝書鳩と違って、ナキネズミは往復してくれるんだし。
「頼むから、ラブレターだけは勘弁してくれ…!」
伝書鳩代わりに使いたいなら、荷物を持たせて差し入れくらいにしておいてくれ、とハーレイは悲鳴を上げたけれども。
首の筒に手紙を入れる代わりに、勤務中には厳禁とされるアルコール。合成ラムかウイスキーを少し、ほんのちょっぴり届けてくれ、と代替案。お菓子に入れる程度の量をコッソリ、ブリッジで頑張る自分に差し入れてくれ、と頼んだのだけれど。
「それでハーレイへの愛を示せるなら、それでもいいけど…」
ぼくへの返事は何が届くわけ?
ナキネズミのお使いは往復なんだよ、ぼくにも何かくれるんだよね…?
「それはマズくないか!?」
ソルジャーがキャプテンを労うのならば話は分かるが、逆はどうなんだ。
俺から何かを届けたりしたら、俺たちの仲を疑われるぞ…!
「それじゃ、帰りはラブレターでいいよ」
ぼくからの愛を受け取りました、って手紙を書いてよ、ラブレター。
お酒を入れておいた器に入れてくれていいから、ナキネズミに持たせて帰らせてよね。
「…どう転んでも俺はラブレターを書く羽目になるのか…!」
差し入れが来ても、手紙が来ても。
俺は書くしかないってわけだな、ラブレターを…。
なんてこった、とハーレイが天井を仰ぎ、ブルーはコロコロと可笑しそうに笑う。
往復が出来るナキネズミは手紙の返事を運んでこそだと、ラブレターを運ばせるべきだと。
そうして二人で笑い合ったけれど、全ては遥かな遠い昔の話で夢物語。
伝書鳩代わりになりそうだった、便利なナキネズミはもういない。
青い地球にも、広い宇宙の何処を探しても…。
伝書鳩・了
※伝書鳩ならぬ、伝書ナキネズミ。伝書鳩よりは役に立ちそうですけれど…。
運ぶ手紙の中身によっては困り物。青の間とブリッジでラブレター交換、ハーレイは大変。
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好き嫌いの無い、ぼくだけど。
食べられる量はちょっぴりなくせに、食べられないっていう食べ物は無いんだけれど。
うんと小さい頃からそうだし、今だってそう。
パパとママは「何でも食べるから、大きな病気はしなかったのかも」って言ってるくらい。すぐ寝込んじゃう弱い身体でも、大きな病気はしたことが無い。
好き嫌いが無い理由ってヤツは、どうやらぼくの前世が関係しているらしい。
アルタミラの研究所に捕まってた頃は、食事どころか餌と水だけ。文字通りの餌。それを食べて命を繋いでいたから、脱出した後に出て来た食事は非常食でも美味しかったんだ。
初期のシャングリラでは食材が偏ることもあったし、調味料だって限られていた。だけど調理がしてある食べ物。餌じゃなくって、人間の食べ物。
本物の食事を味や食材で好きだの嫌いだのと言いやしないし、食べられるだけで充分、幸せ。
そんな時代を経験したから、前のぼくには好き嫌いが存在しなかった。今のぼくも前世の記憶が戻る前から、それを引き継いでいたんだろう。
そういったわけで、好き嫌いは全く無いぼくだけれど。
前のぼくの記憶を取り戻してからは、時々、あれっと思ってしまうことがある。
いつもの食卓、いつもの料理にいつもの食材。
食べ慣れたもので、見慣れたもの。ママが作ってくれた食事で「あれっ?」と驚く。
これ初めてだよ、とか、珍しいな、って。
前のぼくの記憶が反応するんだ、「見たことない」とか「珍しいものだ」って。
調理法はもちろん、食材にだって。
前のぼくが知らなかった料理は山ほどあるけど、食材もそう。
知っていたって、滅多に食べられなかった食材だとか。
今のぼくとの間のギャップにビックリさせられる、料理や食材。でも新鮮な驚きではある。
最初は確か、海老フライだった。
ハーレイと再会して、聖痕現象を派手に起こして、記憶が戻って間もない頃。
夕食のテーブルに普通に出て来た海老フライ。
海老だなんて、と感動した。
前のぼくは海老を知っていたけど、白い鯨が出来上がった後には食べた記憶が無かったから。
海老は今では珍しくない。小さな海老から大きな海老まで、種類も色々。
その海老を使って、ママが海老のチリソース炒めを作ってくれた。ハーレイも一緒の夕食の席。
シャングリラでは一度も食べなかった味。チリソース炒めは食べてはいない。
だから「海老だな」って、前のぼくの記憶が蘇って来て、食後のお茶の時にハーレイに訊いた。ぼくの部屋のテーブルで、向かい合わせに座りながら。
「ハーレイ、海老は覚えてる?」
「海老?」
「前のぼくが調達してた海老だよ、あったでしょ?」
人類の船から奪って来てたよ、海老だって。
海老を乗っけた輸送船があったら、ちゃんと失敬して来たんだから。
「ああ、海老な!」
覚えてるぞ、とハーレイは直ぐに思い出してくれた。前のぼくが奪った海老のことを。
「前のお前、生簀ごと盗って来てたんだっけな、生きてるヤツだと」
「うん、魚も生きてたら生簀ごとだよ」
沢山の量でも長持ちするしね、生きたままなら。
これは使える、って判断した時はそっくり貰ってしまってたんだよ。
「あの海老は実にデカかったよなあ、一番最初に生簀ごと盗って来ちまったヤツ」
「ふふっ、伊勢海老?」
だって、山ほど生簀に入っていたんだもの。
みんながお腹いっぱい食べられそうだし、これは貰っておかなくっちゃね、って。
「…そいつで俺は苦労したんだぞ、痛かったし」
ロブスターと違ってハサミが無いから、挟まれることは無かったが…。
その代わり、殻が棘だらけみたいなモンだからな。
前の俺は全く知らなかったが、うんと昔はアイツを使ってシェフの卵をしごいてたそうだ。
「ホント!?」
「うむ。SD体制よりもずっと昔の頃の話だな、この辺りが日本って国だった頃の」
伊勢海老って名前は日本の地名がついてるほどだし、名産品だ。
レストランでも出て来るわけだが、仕入れた伊勢海老を洗う係がシェフの卵さ。
手袋なんかははめずに洗えと、綺麗に洗えて一人前だと大量の伊勢海老を洗わせるんだ。
「…痛そうだよ?」
「そりゃあ痛いさ、しかし一人前のシェフを目指すなら頑張らないとな?」
痛いんです、と休んでるようじゃ料理を教えて貰えない。
俺も伊勢海老でしごいてみれば良かったなあ…。厨房のヤツら。
「自分で洗っていたじゃない」
「タイプ・グリーンを舐めるなよ?」
海老を傷めない加減が分かれば、手にシールドを張ればいいしな?
ただ、その加減を掴むまでの間に素手で洗った伊勢海老の数が多すぎたんだ!
俺の手でも実に痛かった、ってハーレイは自分の手を眺めてる。
自分の手だって傷だらけになった伊勢海老なんだし、ぼくの手だったら大惨事だって。
「手の皮の厚みが違うからなあ、俺とお前じゃ」
「そうだね、ぼくも伊勢海老を洗うのを手伝おうとは思わなかったよ」
ハーレイ、痛いって言っていたもの。それに見るからに痛そうだったし、伊勢海老の殻。
「まあ、苦労して洗った甲斐はあったがな。デカイ海老だけに」
「食べられる部分が沢山だものね。そう思ったから生簀ごと貰っておいたんだよ」
でも、海老かあ…。
シャングリラの改造が完成した後は、海老の料理はもう無かったよね。
「海老は養殖しなかったからな」
魚と一緒に飼うのは無理だし、専用の場所を作らなければ、ってほどのモンでもないからな。
生きて行くのに必須の食材じゃなかった所が大きいか…。
そうか、海老を養殖してないってことは、食ったことのないヤツらもいたんだなあ…。
ナスカで生まれた子供たちなんかは食ってないんだ、トォニィとかな。
もっとも、アルテメシアを落とした後なら、食おうと思えば食えたんだが。
手に入れた星じゃミュウも自由に出歩けたからな、案外、食っていたかもしれんな。
「そっか…」
地球に辿り着く前でも、海のある星なら海老はいるしね。
初めて見た、って言いながら何処かで食べていたかもね、トォニィたちも。
想像したら、ちょっぴり嬉しくなった。
前のぼくが会ったナスカの子たちは、地球に着くまでに欠けてしまったけれど。揃って地球には着けなかったけど、それまでの間に手に入れた星で自由時間はあったんだ。
トォニィはアルテラたちと一緒に出掛けて、海老の料理を食べたかもしれない。こんな食べ物は見たことがないと、珍しいから食べてみようと。
「トォニィ、アルテラと一緒に海老を食べたかもね?」
「その可能性は大いにあるな。あいつらの中身は子供なんだし、好奇心ってヤツも旺盛だ」
自由時間に何か食うなら、見慣れたものより知らない料理を食おうってな。
海老は如何にも選ばれそうだが、あの時代だったら海老フライとかか…。
生憎と海老天は無かったからな。
「天麩羅そのものが無かったものね…」
「和食の文化が消えていたからな」
「チリソース炒めはあったのかな?」
「さてなあ…」
そいつは俺も調べていないな、どうなんだろうな?
恐らくは消えていたと思うが…。
海老のチリソース炒めを食わせる店がだ、地球の何処にでもあったとは考えられん。
何処ででも食えて大人気だった寿司さえも消してしまったヤツらが、わざわざ残すか?
SD体制時代の文化の基礎にと選ばれた国は、チリソース炒めの国じゃないんだからな。
基本になる文化だけを残して、他の文化は消してしまったSD体制。
それでもデータは残っていたから、シャングリラでもSD体制よりも前の時代の本が読めたし、色々と研究出来たんだけど。
毎日の食事を変えていこうって発想はまるで無かった前のぼくたち。
せっかく自由の身になったんだし、ミュウならではの食文化だって作れたのに。人類と全く同じ食材から違う料理を作れたというのに、そうしなかった。そういう風にはならなかった。
きっと機械が意識の底深くに刷り込んでたんだ、逸脱していってしまわないように。
自由になったようでも、SD体制の軛から逃れられなかった前のぼくたち。
食文化を変えられなかった、ぼくたち…。
「ねえ、ハーレイ。シャングリラでは海老にはお塩だったね、一番最初は」
「焼いただけでな」
伊勢海老を焼いて塩だけだなんて、もったいない話だったんだが…。
いや、贅沢とも言えるかもしれんが、あれだけの数だ。
うんと豪華に色々な料理を作れただろうな、今だったらな。
「シャングリラでも海老フライとかは作っていたよ?」
「卵があった時にはな」
だが、海老と卵が揃うんだったら…。
あの頃の俺が、天麩羅を知っていたならなあ…。
「どうするの?」
「ん? 海老フライの代わりに美味い天麩羅も作れるが、だ」
小さな海老しか無かった時でも、デカい海老に見える天麩羅ってヤツを作れたのさ。
もちろん、食ったら中身は小さいとバレるわけだが…。
バレるまでは立派な天麩羅に見えるし、ちょっとした遊び心だな、うん。
「そんなの、あるんだ?」
中身は小さいのに、大きな天麩羅。
ねえ、どうやって作るの、ハーレイ?
「言っておくが、今は存在しないぞ。そういう海老の天麩羅は」
そんなのを出せば文句を言われるからな。
ずうっと昔にあった天麩羅さ、SD体制よりも遥かな昔の日本にな。
海老が高価な食材だった頃に生まれたらしいぞ、海老よりも衣の方がデカイ天麩羅。
ハーレイが教えてくれた、紛い物みたいな海老の天麩羅。最悪だと中身は尻尾くらいだって。
丼に乗せたり、お蕎麦に入れたり、豪華に見せるための天麩羅。
どうしてそんなの知っているの、と訊いてみた。古典の範囲じゃなさそうだから。
「あながち古典と無縁じゃないがな」
「えっ?」
「昔の本を読んでたんだが、そいつに謎の言葉が出て来た」
天麩羅学生と書いてあってな、注釈を読めばそいつの意味は分かったが…。
ついでだから、とデータベースで調べていた時に引っ掛けた。衣だけがデカくて、中身は小さい海老の天麩羅をな。
「天麩羅学生って、ぼくも初めて聞くけど…。なんなの、それ?」
「偽学生だ。その学校には通ってないのに、学生のふりをしているヤツだ」
「なんで天麩羅?」
「天麩羅はメッキの意味だったのさ」
どんな食材でも包み込んで立派に見せちまう。
そいつの極端な例がコレだ、と載っていたのが衣ばかりの海老の天麩羅ってわけだ。
「へえ…!」
天麩羅にそんな意味があっただなんて、と驚いたけれど。
メッキってことは、それは褒め言葉じゃないんだよね?
天麩羅はとても美味しいのに。
衣ばかりが大きいっていう海老の天麩羅だと、ガッカリしちゃうかもしれないけれど…。
「天麩羅、メッキって意味なんだ…」
悪い意味だよね、そのメッキって?
表面だけってことだもんね。
「うむ。シャングリラはメッキじゃ作れないってな」
見かけだけ立派でも強度不足じゃ話にならん。
中までキッチリ本物でこそだ、でなけりゃ丈夫な船は作れん。
「シャングリラは海老じゃなくって鯨だよ?」
「きちんと改造してあったからな」
こけおどしの船なら、たとえ見た目が鯨であろうが海老の天麩羅と何も変わらん。
本物の海老の天麩羅じゃなくて、衣ばかりのヤツのことだぞ?
なりばかりデカくてどうにもならん、って辺りがそいつにそっくりだ。
もっとも、シャングリラはそういう船ではなかったが…。
人類軍の旗艦よりも遥かにデカイ船だったんだが、ちゃんとしっかりした船だった。
人類の船にはついてなかったシールドも装備してたしな?
おまけにステルス・デバイスつきだ。
元の船には無かっただろうが、ステルスなんぞは。ついでにサイオン・キャノンとかもな。
「あの船、ゼルが頑張ったよね」
サイオンを生かして、いろんな設備を付け加えて。
「ヒルマンもな。ゼルと二人であれこれやってたっけな」
あいつらがいなけりゃ出来ていないさ、シャングリラは。
白い鯨に仕上げるどころか、シールドさえ出来ていなかったかもな…。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
最初は白い鯨じゃなかった。人類のものだった船にシャングリラと名付けただけだった。
それを巨大な船に改造して、完全な自給自足が出来る世界を作った。
広い公園だの、展望室だのと皆の希望を詰め込んで。
メッキじゃなくって、自分たちで採掘して来た資源を使った船体。元の船より丈夫な船体。
装甲用に使った素材のせいで、シャングリラは白い鯨になった。
白く輝く頑丈な船に、誰が言い出したんだったか…。
遠い昔の地球の文字の一つ、ギリシャ文字。アルファベットの元になった文字で、その中にMと同じ文字があった。その字は「ミュー」と呼ぶそうだから、と船にあしらうことに決まった。Mのままでは「エム」と読めるから、独特な形の小文字の方で。
それから、翼。何処へでも自由に飛んでゆくことが出来る翼の模様。
ミュウを表す文字と、自由の翼と。
この二つが船の上部に描かれたけれども、これとは別に、制服と同じシンボルマークも。
ブリッジ関係者の制服に施す、羽根の形のシンボルマーク。由来はフェニックスだった。地球に伝わる伝説の鳥で、永遠に死ぬことがない。
それにあやかろうと思ったけれども、フェニックスは架空の鳥だから。データベースで示される絵の羽根は色々、これだと決まったものが無かった。
困っていたら、エラが探して来たデータ。昔の地球で高度な文化を築いたとされる東洋と西洋。フェニックスは西洋のものだけれども、東洋では鳳凰という鳥が霊鳥。不老不死の鳥。姿は細かく決まっているらしく、尾羽は孔雀なのだという。
孔雀の尾羽なら一目で分かるし、それを使おうと決まったんだけど。制服の袖や手袋には金色の羽根があしらわれていたんだけれど。
そのままのデザインではシャングリラの船体にしっくり来ないから、と簡略化された。ついでに金色一色ではなく、赤い色まで加わった。
エラ曰く、孔雀の尾羽の模様は目玉。だから魔除けのぼくの目の赤。ミュウの制服についている石と同じで、赤い色の目玉の魔除けのお守り。それをシャングリラにもつけておこう、と。
出来ればやめて欲しかったけれど、孔雀の羽根はとうにシンボルだったから。その羽根に目玉がつくに至った神話までをエラに持ち出されたから、仕方ない。
そんなこんなで、シャングリラにまでぼくの瞳の色のお守りとやらがついてしまった。みんなの制服の石と違って、普段は目には入らない分、前のぼくも忘れがちだったけれど。
白い鯨のデザインはとっても気に入ってたのに、あれだけは今でもちょっと癪に障る。
前のぼくの瞳の色のお守り、シャングリラにまでつけなくったって…!
それはともかく、シャングリラは見事に変身を遂げた。白い鯨が完成した。
人類から物資を奪わなくても、自分たちだけで生きてゆける船。完全な自給自足が出来る船。
発見されないためのステルス・デバイス、攻撃を受けた時に防げるサイオン・シールド。それに万一の時には迎撃可能なサイオン・キャノンも備わった。
名前だけじゃない、本物の楽園になったシャングリラ。前のぼくたちの夢を詰め込んだ船に。
「…ハーレイ、改造中だった時のシャングリラは天麩羅みたいだと思わない?」
「天麩羅?」
「そう、天麩羅。どんどん大きくなっていくけど、ステルス・デバイスとかは無いしね」
もちろんサイオン・シールドだって。
中身はちょっぴり、外側だけが大きいんです、って海老の天麩羅そのものじゃない?
ハーレイが言ってた、中身ちょっぴりの海老の天麩羅。
「言われてみれば天麩羅かもなあ…」
前のお前が頑張っていたから、何も起こらなかったんだが。
人類軍の船が近くを航行中でも、逃げられない時もあったしなあ…。
ああいう時にはお前がシールドしてたんだっけな、ヤツらに発見されないように。
「無人の惑星に降ろしてた時も、シールドで隠してあったしね」
「宇宙空間では無理な作業もあったからなあ、重力が無いと」
あの頃は確かに天麩羅だったな、お前のシールドっていうメッキの衣つきの。
「うん、鯨のまるごとの天麩羅だよ」
だけど鯨は外側だけで、中身が詰まってないんだよ。
スカスカの鯨で、衣だけが立派な海老の天麩羅みたいなものだよ、あの頃のシャングリラ。
「ふうむ、天麩羅のシャングリラなあ…」
懐かしいな、とハーレイがぼくの目を見て笑ってる。そんな時代が確かにあったと、あの頃には色々苦労もしたと。
「鯨の天麩羅が出来上がって、だ。それで終わりじゃなかったからな」
ステルス・デバイスが本当に役に立つのかどうかをチェックする必要があったしな?
わざわざ人類の船の航路を横切って行こうというんだ、あれは俺でも怖かった。
いざとなったらお前が何とかしてくれるとは分かっていても、だ。
俺としてはサイオン・キャノンも使う覚悟でいたからなあ…。
「ハーレイ、やるって言ってたものね」
普通の船でも、場合によっては撃ち落とすって。
「俺たちの存在を知られるわけにはいかんしな?」
それくらいなら事故で消えて貰うさ、宇宙空間ではよくあることだ。
操船ミスで爆発しちまう船だってあるし、そういった事故で片付くからな。
「だからと言って、人類軍の輸送船の航路を横切らなくてもいいと思うけどね?」
「いや、一般人が乗った船を落とすよりかは良心の呵責ってヤツが無いしな」
ヤツらがミュウの船だと気付くかどうかはともかくとして。
俺たちからすればヤツらは敵だし、撃ち落としたって問題無いだろうが。
「それで本気でやっちゃう所がハーレイだよ…」
ステルス・デバイス、効かなかったら大変だったよ?
サイオン・キャノンだってちゃんと照準を合わせて撃てたかどうか…。
「サイオン・シールドはとうにテストを済ませていたぞ」
最初の攻撃はそいつで防げる。出来るだけお前に頼らずにやらねば、と思っていたな。
「結局、何も起こりはしなかったけどね?」
「上手く成功したんだよなあ、あんなにデカイ船が横切ってくのに…」
ヤツら、気付きもしなかった。
あれがシャングリラが本当の意味で楽園になった瞬間だったよな。
前のぼくがシャングリラの船体の上に立ってハラハラする中、通って行った人類軍の輸送船。
自分たちの航路を横切った船があるとも知らずに、その船がまだ居ると気付きもせずに。
ゼルとヒルマンの指揮で搭載されたステルス・デバイスは完璧だった。
「人類の船に見付からない、っていうのは何より安心だものね」
「うむ。いくら頑丈な船を造っても、逃げ回ってばかりじゃどうしようもない」
楽園どころの騒ぎじゃないしな、自給自足だって危ういモンだ。
下手すりゃ修理ばかりに追われて、資材の補給に飛び回るとかな。
そうならない船がついに出来たんだ、って嬉しかったな、あの時には。
「ぼくだってとても嬉しかったよ、これで安心して寝込めるって」
「そうだろうなあ、改造中はお前の負担が大きかったしな」
他の船が来る度にシールドを張ったり、色々とな…。
シャングリラが動けない時に限って通るんだよなあ、船ってヤツが。
「それは気のせいだと思うけどね?」
普段はハーレイが早めに気付いて避けていただけで、船はいつでも飛んでたよ。
だから、おあいこ。
ハーレイの力じゃ避けられない時はぼくがシールド、普段はハーレイが避けるのが仕事。
「そうなのか?」
「うん、そうだったよ」
ぼくはそうだと思っていたよ。
もちろん、前のぼくだけど…。今のぼくはシールドどころじゃないしね。
「違いないな!」
お前、とことん不器用だしな?
まあいいじゃないか、その分、今度は俺がお前を守るんだからな。
シャングリラで頑張ってくれていた分、のんびりしろよ、ってハーレイがぼくの頭を撫でる。
もうシャングリラは守らなくていいと、白い鯨を守る必要は無いのだから、と。
衣ばっかりの海老の天麩羅だったらしい、改造中だった頃のシャングリラ。
大きいばかりで役に立たない、自力で船すら避けられなかった時さえもあったシャングリラ。
だけどシャングリラは改造が済んで、立派な海老の天麩羅になった。
衣で大きく見せるんじゃなくて、中身がしっかり、きっちり詰まったシャングリラ。
シャングリラは本物の天麩羅になった。
鯨だけれども、うんと立派な本物の海老の天麩羅に。
そのシャングリラは、時の流れが遠くへ連れ去ってしまったけれど。
ぼくはハーレイと青い地球の上、シャングリラの思い出を語り合ってる。
あれは立派な天麩羅だったと、本物の海老の天麩羅だった、と…。
船と天麩羅・了
※海老の天麩羅に例えられてしまったシャングリラ。改造中だと、衣ばかりの天麩羅です。
けれど改造が済んだ後には、中身がしっかり詰まった天麩羅。ミュウの箱舟になりました。
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(うーん…)
やっぱりダメか、と溜息をついた、ぼく。
夕食もお風呂もとっくに済ませて、自分の部屋でパジャマなんだけど。寝るにはちょっぴり早い時間で、こんな夜にはたまに挑戦するんだけれど。
(今度のぼくは前のぼくとは違うのかな?)
まだ小さいってことを除けば、見た目はそっくりだと思う。それに身体だって、アルタミラでは小さいままだった。脱出するまで成長を止めたままでいたから、今のぼくと同じだった筈。
それなのに…。
(まるでダメだなんて、全然、似てない…)
とことん不器用なぼくのサイオン。
タイプ・ブルーとも思えないレベルの、前のぼくとは似ても似つかないぼく。
小さい頃からそうだったせいで、特に気にしていなかったけれど。
ハーレイに出会って前の生での記憶が戻って、ソルジャー・ブルーだったと思い出したから。
そうなると今の不器用さが情けないから、何とかしたいって気持ちにもなる。
ちょっと練習しようかな、って思った時にはコレが定番。
勉強机の上に、水差しとコップ。
夜中に水が飲みたくなりそうな気がする夜には、時々持ってくる、ぼく専用の。
ぼくが寝込んでしまった時なら、ママが置いてってくれるけど。
枕元に置いて、食事の度に水を取り替えてコップも洗ってくれるんだけれど。
普段はぼくの部屋には水差しは無くて、コップだって無い。
ぼくが自分で運んで来る日は、喉が渇きそうな気がした夜だけ。
その水差しの水をコップに注いで、じーっと眺めて頑張ってみる。
表面がちょっぴり動かないかと、さざ波は無理でもごくごく小さな揺れとか、波紋。
だけど「揺れた?」と感じた時には、ぼくの身体も動いてた。夢中になって机に触ってたとか、足を動かしてしまっていたとか。
まるで動いてくれない水。コップの中に澄ました顔して収まってる水。
どんなに見てても何も起こらなくて、いつだって結局、飲む羽目になる。
そのままコップに入れておいたら、零しちゃうかもしれないから。
常夜灯しか点けてない夜中に起き出したりして、引っ掛けちゃうかもしれないから。
(今日も全然、ダメだったよ…)
動いてくれなかった水をクイッと飲み干して、コップを置いた。
コップの底に残った雫を、「濡れてますよ」って言わんばかりの雫を見詰めてみるけれど。
(…やっぱりダメかあ…)
透明なガラスのコップの底に貼り付いて残った水。傾けても飲めない、ちょっぴりの水。
明日の朝までにはすっかり乾いて痕跡さえも消えていそうな、コップを満たしていた水の名残。
(こんなにちょっぴりでもダメだなんて…)
ガックリと肩を落としたぼく。
雫さえも動いてくれやしない、と溜息しか出ない。
水差しとコップを自分で部屋まで持って来た時のお決まりの行事。
何度繰り返しても同じパターンになっちゃう行事…。
覆水盆に返らず、だなんて言うけれど。有名な言葉なんだけど。
前のぼくには、そんな言葉は意味が無かった。
似たような意味の、類語って言うの?
「後悔先に立たず」は何度も痛感したけど、「覆水盆に返らず」は無意味だったんだ。
前のぼくには当てはまらない言葉だったから。それが当てはまりはしなかったから。
覆水を盆に返せたぼく。
引っくり返って零れちゃった水を、文字通りお盆に返せたぼく。
だから今になって練習している、水差しとコップ。
コップに注いだ水を元の水差しに戻せないかと、水差しの中に戻せないかと。
未だに上手くいかないどころか、その気配さえも無いんだけれど。
前のぼくなら簡単に出来た。
水差しからコップに注がれた水を、一滴も残さずヒョイと水差しに戻せたんだ。
もちろん、手なんか使ったりせずに。
コップから水差しに手を使って注ぎ入れるんじゃなくて、一瞬の内にサイオンだけで。
(前のぼくがやった、一番最初は…)
アルタミラから脱出してきた船を、シャングリラと名付けて間もない頃だったか。
まだ小さかったぼくは、ハーレイにくっついてシャングリラの中を歩いてた。
アルタミラがメギドの炎で燃え上がった時に、一緒に走って仲間を助けて回ったハーレイ。あの日に初めて会ったというのに、そんな気がしなかった優しいハーレイ。
ぼくはハーレイが誰よりも好きで、心までが子供のままだったぼくには頼れる大人。身体だって大きくて、頼もしい大人。
厨房で食事作りの責任者みたいな立場になったハーレイは、口癖のようにぼくに言ってた。
「しっかり食えよ」って、「食わないと大きくなれないぞ」って。
ハーレイが料理をしている時には覗きに行ったし、試作品の味見もさせて貰った。味見だけじゃハーレイに申し訳ないから、手伝ってジャガイモを剥いたりもした。
出来上がった食事はいつでも、ハーレイと一緒に食べていた。
それにブラウたち、後に長老と呼ばれた四人。
ハーレイは料理作りの責任者って立場で、料理が完成してしまった後は暇になるから。
後片付けだってしなくていいから、ぼくたちと食事が出来たんだ。
厨房も食堂もあった初期のシャングリラだけど、船体は後の白い鯨よりも遥かに小さかった。
その船の中で、飲み水はとても大切なもの。
シャワーや洗濯に使う生活用の水は循環させて使っていたけど、飲み水は全くルートが違った。
飲んだり、料理をするための水は別のルートで供給されるという仕組み。
前のぼくたちが手に入れて乗り込んだ船は、そういう風に出来ていた。
多分、宇宙を飛んでいた船はどれも似たようなものだろうけど。
輸送船だって、客船だって。
人類軍の艦船だって、そんな仕組みになってたろうけど…。
(生活用の水を使い回して、それを飲むだなんて嫌だものね)
いくら綺麗に濾過してあっても、消毒されてても、シャワーとかの水を飲みたくはない。
アルタミラの研究所に捕まっていた頃でさえも、飲み水はちゃんとあったんだから。
前のぼくたちがシャングリラと名付けた船を造った人類だって、同じ考えだったんだろう。
(飲むための水は、別でなくっちゃ)
飲用水は料理にも使って、食べた後の食器もその水で洗って。
汚れてしまった水は浄化用のシステムへ送られていって、また飲み水へと姿を変える。
だけど飲用水は料理専用ってわけじゃなくって、船のみんなも飲んでいるから。喉が乾けば水を飲むんだし、人間の身体は一日に大量の水分が必要なもの。
厨房で使った水を浄化して循環させるだけでは、必然的に足りなくなる。そうならないように、生活用水の一部を高度に浄化するシステムも備わっていたんだけれど。
要は、それだけ。
前のぼくが奪って来るなら別だけれども、飲用水と呼べる水の量には限りがあった。
生活用の水も、最初の内こそ量の加減が掴めなくって、シャワーを使うのに時間制限があったりしたけど、直ぐに慣れてそれは無くなった。
大丈夫だって分かったから。生活用の水は充分にあって、好きに使えると分かったから。
だけど、飲み水。
システムの処理の限界量を超えてしまったら、無くなってしまう。
節水を心がけると言っても、人間の身体が必要としている水分の量を減らせはしない。
計算の上では、足りる筈だと結論が出てはいたんだけれど。
もしもシステムが故障するとか、不測の事態を考えてゆけば飲み水はやっぱり貴重なもの。
シャングリラが白い鯨になった頃には、予備のシステムも出来て心配無かった。
でも、それよりも前の時代は…。
「いざって時には、これを使えば」ってゼルたちが非常用の浄化システムを作り上げるまでは、飲み水は大事なものだったんだ。無くなってしまえば、生活用の水で代用するしかないから。
きちんと消毒されてあっても、別のルートで出来た水しか無いんだから…。
食事の時にコップに一杯分の水。
もちろんおかわり出来たけれども、最初に全員に配られる分はコップに一杯。
大切に飲もう、とみんなが思った。
零さないように、うっかりコップを倒してしまって無駄になったりしないように。
そうやって気を配る日々だったけれど。
誰もが注意をしてたんだけど…。
「あっ、すまん!」
ある日の食堂、バシャッと零れたハーレイの水。コップが隣のぼくの方へと倒れた。
肘が当たったか何かだろうけど、「大変!」と咄嗟に思ったことは確か。
だって、大切な水なんだから。
零しても代わりは貰えるけれども、その分、船の飲み水の量が減るんだから。
「すまん、すまん。…お前、濡れちまったな」
俺としたことが失敗だった、とハーレイが謝った相手は、ぼく。
大慌てで走って行ったかと思うと、厨房のものらしきタオルを掴んで戻って来た。
「すっかり濡れてしまったか? 着替えた方がマシなくらいか?」
ハーレイはぼくの隣に屈んで、服を拭こうとしてくれたけれど。
「ううん、濡れてないよ」
ぼくはちっとも濡れていないよ、ほら、水なんかついてないでしょ?
「ありゃ?」
思い切り零れたと思ったんだが…。殆ど飲んでいなかったからな、満杯に近かった筈なんだが。
「反射的に元に戻したんじゃないの?」
ちゃんとコップに残ってるよ、水。
ハーレイ、うんと反射神経がいいんだよ。
「そうかもなあ…」
テーブルのコップには水が半分くらいは残ってた。
一度は倒れて零れた証拠に、コップの外側には水滴がついて流れていたけど。
床だって厨房の係が駆け付けて来て、モップで拭いていたんだけれど…。
「お前、本当に濡れなかったのか?」
ちょっとした騒ぎになっていた事件が落ち着いた後で、ハーレイがぼくに訊いて来た。コップに新しい水を足して満たして、それを飲みながら。
「濡れなかったよ、ハーレイもぼくの服を見たでしょ?」
「しかし…」
お前の方へと倒れたんだぞ、あのコップ。
水は半分も零れちまったし、床にだって沢山零れてた。
お前だって水を被ったとばかり思ったがなあ、濡れちまった床と同じくらいに。
「ぼくも飛んで来たと思ったけれども、ぼくには全然かかっていないよ」
きっと此処まで飛ばなかったんだよ、零れた水。
床に飛んじゃった分が全部で、ぼくには届かなかったんだよ。
「なら、いいが…」
すまんな、危うく濡れ鼠にしちまうトコだった。
貴重な水を零した上に、被害者まで出したら赤っ恥だ。
当分の間は肩身が狭かったろうなあ、船が噂でもちきりってな。
その時はぼくも全く気付いていなかった。
ぼくに向かって飛んで来た水をサイオンでそっくり受け止め、コップに戻していたなんて。
だけど、その次。
そんな事件は忘れてしまって、平穏な日々が流れていた頃。
食堂でハーレイがぼくの分と、自分の分とのおかわりの水を貰いに行ってくれた時。
両方の手に水が入ったコップを持っていたハーレイに、通り掛かった仲間がぶつかった。
「おっと…!」
危ない、とハーレイは揺れたコップを支えたけれど。
傾いた拍子に飛び散った水をぼくは見ていた。コップの縁から飛び出した水を。
(水…!)
零れちゃう、とぼくが思った途端に。
「うん…?」
水が勝手に戻らなかったか、とハーレイがコップを持ったままで言った。
「勢いよく零れたように見えたが、コップに戻って来なかったか…?」
零れるどころか一杯だぞ、水。
ついでに床だって濡れていないし、水が自分で戻ったとしか…。
周りのみんなも同じことを口々に言い出した。
水は確かに戻っていったと、コップに向かって戻ったのだと。
「まさか、誰かがサイオンで…」
「出来るか、そんな器用なこと?」
相手は水だぞ、おまけに予測不可能だったぞ?
誰が咄嗟に反応するんだ、そんな速さで。
光や音ほど速くはなくても、あんな速さに対応出来るか?
有り得ないな、って会話が広がったけれど。
船には一人だけ、桁外れなミュウが乗っかっていた。
「まさか…」
みんなの視線がぼくに集まった。
たった一人しか存在してない、宇宙空間だって生身で平気なタイプ・ブルー。
宇宙空間を駆けて、人類の船から瞬間移動で物資を奪える最強のミュウ。
「そうか、ブルーか…」
可能性ってヤツは大いにあるな、とハーレイがぼくの居たテーブルに戻って来て。
「ちょっと試すか、お前かどうか」
ハーレイは自分のと、ぼくのコップをテーブルに置くと、厨房からトレイを持って来た。普段の配膳に使ってるヤツで、その上にコップがもう一つ。水が三分の一ほど入ったコップ。
「俺がこいつを引っくり返す。お前は水を受け止めてみろ」
でもってコップに戻してみるんだ、さっきみたいに。
お前、前にもやってたんじゃないか?
俺がコップをお前に向かって倒した時に。
「無茶だよ、ハーレイ!」
出来ないよ、そんな器用なこと!
それに無駄になるよ、ハーレイが零しちゃった水…!
「安心しろ。そのためのトレイだ、こいつに充分、収まる量だ」
お前が失敗しちまった時は、食器を洗った水と一緒に浄化システム行きってな。
ハーレイがゴトンと倒したコップ。
無理だよ、とぼくは悲鳴を上げたけれども。
零れる筈の水は零れていなくて、ハーレイが素早く元通りに起こしたコップの中。
トレイは濡れてもいなかった。零れた筈の水は全部コップに入ってた。
みんなが「凄い」と叫んでる。手品みたいだと、流石はタイプ・ブルーだと。
(…ぼくがやったの?)
意識してなんかいなかったのに。
受け止めようなんて思っていなくて、サイオンを使った覚えも無いのに。
貴重な水だと、無駄になっちゃうと慌てただけなのに、少しも零れなかった水。
ぼくがコップに戻してしまったらしい、ハーレイが零したコップの水…。
それが船のみんなが意識した最初の瞬間だった。
零れた水さえ元に戻せる、前のぼくの力。
食堂でおかわりの水を配って歩く係が足を滑らせた時も、水は綺麗に元に戻った。水を満たした大きな水差しの中に、何事も起こりはしなかったように。
その時に派手に飛び散った水は、ハーレイが零してみせた量とは比較にならなかったから。
ぼくのサイオンは凄い、と誰もがビックリしてた。
あんな量の水でも操れるのかと、しかも心の準備も無しに…、と。
そう、ぼくが集中していなくたって、「貴重なんだ」と瞬時に受け止められた水。
意識すればもっと簡単に出来た。思い通りに水を操れた。
シャワーから降り注ぐ水をサイオンで丸めて、大きな水玉を作ってみたり。
逆に器に貯めておいた水を、無数の水滴に変えて宙へと浮かべてみたり。
ぼくがそうやって遊んでいたことを、前のハーレイは知っていたから。
「見て、こんなのも出来るんだよ」って得意になって見せたりしていたから。
ハーレイだって面白がって、あれこれと話題にしたりする。
「次はこんなのを試さないか」とか、「コップ無しでも水が飲めそうだよな」とか。
そんな無駄話をしていた場所は、厨房だったりもしたんだけれど。
ハーレイが料理の試作をしていて、他の係は別の所で下ごしらえをしてる時なんかも多かった。その日もハーレイはフライパンを握って試作の最中。
「お前、ホントに水なら何でも出来そうだよなあ、水の彫刻とかでもな。おっと…!」
危ない、とハーレイがフライパンを揺すった、アルコール分を飛ばすフランベ。
「これだけの材料、そうそう揃いはしないからな」と挑戦していた、肉のフランベ。
ビックリするほど炎が上がって、ぼくも「危ない!」って叫んでたけれど。
上がりすぎた炎は勝手に下がった。厨房の天井を焦がす代わりに、大人しいサイズに収まった。
「…今の、お前か?」
お前、水だけじゃなかったのか。
火と水ってのは性質がまるで違うモンだが、今のもお前がやったんだよな?
「…多分ね」
天井が焦げちゃう、と思ったもの。
でも、本当にぼくかどうかは分かんないよね。
肩を竦めたぼくだったけれど、それで思い付いて試してみたら炎もちゃんと操れた。
水だけじゃなくて、炎でも自由に操れたんだ。
だけど…。
やがてハーレイが厨房の責任者からキャプテンになって、船もすっかり落ち着いて来て。
そうこうする内に、ぼくはソルジャー。
リーダーと呼ばれる代わりに、ソルジャー。
白い鯨は出来ていなくて改造案の段階だったけれども、シャングリラのみんなに制服が出来た。畑なんかも作り始めて、着々と未来への準備が始まる。
シャングリラを本物の楽園にしようと、素晴らしい船に改造しようと。
そのためには物資も必要だけれど、サイオンの研究もしなくちゃならない。
せっかくサイオンを持ってるんだし、それを生かして色々なことが出来る筈だ、という話。
シールドを張れる力が応用出来たら、船にだってシールドが張れる筈。
更に進めれば、船の姿さえ消してしまうことも可能だろう。船の姿を消す、いわゆるステルス。
タイプ・イエローが特に優れる攻撃力は武器に活用出来そうだった。
今は武装さえしていない船に、ミュウならではの方法で武器を搭載出来る。普通の武器なら使う度に弾薬などの補給が必要だけれど、サイオンだったら補給は要らない。
多くの可能性を秘めたサイオン。
前のぼくの力に頼らなくても、ある程度ならば船を守っていけそうなサイオン…。
そうして研究を進めてゆく中、サイオンを測定出来る装置を自作したのがゼル。
ぼくだと針が振り切れるだとか言っていたけど、将来のためには役立つ装置。
それを色々と改良する内に、前のぼくが食堂で披露してしまった水の事件を思い出したらしい。そこまでは良かったんだけど…。
ある日、ヒルマンがぼくを訪ねて来た。「少し話があるのだがね」と。
「サイオンの相性?」
なんだい、それは。話というのはそれなのかい?
「ゼルが新しい装置を作ったのだよ」
どういった物質が個々人の能力を引き出すのに一番役立ちそうか、と調べる装置だ。
「ふうん…?」
「ちなみに、私とゼルの場合なのだが…」
ヒルマンまでが開発に加わっていたらしい。案を出すだけかと思っていたのに。
「それって、結果が出てるってことは、人体実験したわけだよね?」
「せめて、試したと言ってくれないかね?」
サイオンの研究をするには不可欠なのだよ、そういったことも。
もちろんアルタミラの研究者のような無茶はしないさ、医療検査と似たようなものだ。
一部の有志も測定してみて、どうやら有効らしいと分かった。
それでだ、ソルジャーの場合は水と相性がいいのではないか、という話なのだが…。
「測定させてくれるかね?」という申し出。
痛くないなら、とオッケーした。
アルタミラで地獄を経験しちゃっているから、苦痛を伴う実験なんかは絶対に御免蒙りたい。
だけど、その手の検査でないなら、引き受けなくてはならないだろう。
なにしろサイオンの研究自体は、シャングリラの未来に関わることだから。
相性とやらを調べて何にするのかは分からないけれど、仲間たちの役に立つかもしれないし…。
では早速、と先に立ったヒルマンに案内されて出掛けた部屋。
ゼルが待っていて、測定用らしき機械があった。その隣に置かれた簡易ベッド。
服を脱ぐのかと思ったけれども、手袋を外して袖を捲り上げて。ブーツも脱いで、膝下辺りまでアンダーを捲って、現れた素肌に電極みたいなのを幾つか貼られた。それと、こめかみ。
その状態でベッドに寝かされ、暫くの間、何か測っていたようだけれど。
電流が流れてくるわけでもなく、特に何ということもなかった。ぼくはベッドに寝ていただけ。
ヒルマンが「もう終わったから」と電極を外してくれて、ぼくが手袋とブーツを元の通りに身に着ける間に、測定結果は出ていたらしくて。
「…ふむ、やはり水か」
「火よりは水じゃな、他の何よりも水が一番上じゃわい」
ヒルマンとゼルが話しているから、服を整えたぼくは機械を横から覗き込んだ。
「どんなデータ?」
「いや、まあ…」
こういった感じなのだがね、とヒルマンに見せて貰ったグラフみたいなもの。
これが水だ、と示された項目の数値は確かに他より高かったけれど…。
「…ちょっとだけだよ?」
ほんの少ししか高くないじゃないか。誤差の範囲だと言えそうだけれど?
「そう言えないこともないのだが…。水ということでいいじゃないかね」
せっかく作った装置なのだし、こういう結果が出たということで。
ゼルと私の研究の成果だ、誤差の範囲でも一応、データは出ているのだよ。
「うむ、その通りじゃ」
何の役にも立ちはせんがな、あえて言うなら水なんじゃ。
水と相性がいいということじゃな、ソルジャーが持っておるサイオンは。
それから間もなく、シャングリラ中にこんな噂が広がった。
ぼくのサイオンは水と相性がいいと、ぼくの力を引き出すためには水が一番いいのだと。
食堂での一件を覚えていた仲間が多かったことも、多分、災いしたんだろう。
誰もが素直に納得しちゃって、ぼくには水だということになった。
根拠になった例のデータを見もしないで。誤差の範囲だと気付きもしないで。
だけど、あくまでゼルとヒルマンの個人的な研究みたいな代物。
他の人たちのデータを測りもしないし、お遊びなんだと思っておいた。自分たちが作った装置を試してみたくてやったんだろうと、あれは一種の娯楽だろうと。
(…ホントに遊びだと思っていたのに…)
そうした実験に付き合ったことさえ忘れていた頃、白い鯨に青の間を作られてしまったんだ。
ぼくのサイオンは水と相性がいいのだから、と巨大な貯水槽付きで。
前のぼくのサイオンを高めるための貯水槽だと、ソルジャーの部屋には必要なのだと。
水と相性がいいと言っても、そんな部屋が役に立たないことはゼルもヒルマンも知ってたのに。ハーレイだって知っていたのに、作られてしまった巨大な青の間。
ハーレイは面と向かっては言わなかったけど、青の間ってヤツはこけおどし。
前のぼくを、ソルジャー・ブルーだったぼくを、派手に演出するための。
(…水だなんて、誤差の範囲だしね?)
だけど、前のぼくが確かに見ていたデータ。
他の物質との相性を示すものより、ほんのちょっぴり、高かった数値。
だからサイオンの練習をするんだったら、水だと思っているんだけれど。
水を相手に頑張ってみるのが一番だろうと思うんだけど。
(…それなのに、ピクリとも動かないってば!)
今夜も動かせなかった水。
水差しからコップに注いでみたけど、水差しに戻せなかった水。
やっぱり今のぼくには無理かな、覆水を盆に返すのは…。
水との相性・了
※前のブルーには簡単に出来た「覆水を盆に返す」こと。水と相性が良かったサイオン。
誤差の範囲内だったというのに、大きな貯水槽があった青の間。演出も大事ですけどね…。
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