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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 今年もクリスマスシーズンが近付いて来た。
 シャングリラの公園に大きなクリスマスツリーが飾り付けられたら、クリスマスに向けてのカウントダウンだ。公園には他にも小さめのツリー。
 「お願いツリー」と名付けられたそれは、欲しいプレゼントのリクエストを書いて吊るすもの。子供が吊るせばサンタクロースが可愛い願いを叶えてくれるし、大人の場合は専門の係がいるのだけれど。係の他にも虎視眈々と狙っている者たちがいたりする。
 すなわち、意中の人に向けてのプレゼント。年に一度のビッグイベント、気になる相手が吊るしたカードを密かに回収、そしてクリスマスにプレゼントを贈って射止めるのが人気。



(んーと…)
 今年も沢山下がってるよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「お願いツリー」に吊るされたカードをじっと見詰めた。
 今年は何を注文しようか、サンタクロースに?
(去年は大きな土鍋を頼んで、ブルーと一緒に土鍋カステラ作ったもんね!)
 アルテメシアで人気を博した土鍋カステラ、超特大のを作った思い出は今でも胸に燦然と。大好きなブルーに教えて貰って卵を泡立て、特製のオーブンで焼いて貰って黄金色のふわふわのカステラが出来た。大きな土鍋一杯に。
 カステラの寝床にコロンと転がり、食べては眠って、また食べて。
 そんなカステラを何度も作った。ブルーも付き合って作ってくれたし、そういう時には二人で食べた。食の細いブルーは「ぶるぅみたいには食べられないよ」と言ったけれども、それでも美味しそうに食べてくれたし、実際、土鍋に溢れた黄金色のカステラは美味だったから。
 鍋料理のシーズンが終わり、アルテメシアの街から「土鍋カステラはじめました」と書かれたポスターが消える頃まで何度も何度も、心ゆくまで土鍋カステラを作っては食べて…。



(土鍋カステラ、今年も流行っているんだけれど…)
 超特大の土鍋はもう持っているし、作り方だってマスターしたから欲しい時にはいつでも作れる。それに人類が暮らす街へ降りれば、シーズン中なら食べ放題。
(今年は土鍋は要らないよね?)
 他に何か、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は考えた。
 シャングリラ中を悩ませる悪戯小僧なのだけれども、クリスマスツリーが登場したら悪戯の方は当分、お預け。サンタクロースに「いい子なんです」とアピールしないとプレゼントを届けて貰えないから。それどころか…。
(悪い子供は靴下の中に鞭が入っているって聞いたし…)
 大好きなブルーがそう言った。いい子にしないとサンタクロースはプレゼントの代わりに鞭を入れると、悪い子供のお尻を鞭で叩けるようにと。
(今年もいい子にしなくっちゃ!)
 そしてプレゼントを貰うんだよ、と期待に胸を膨らませる。「お願いツリー」で注文した品物の他にも毎年沢山貰えるのだから。
(でも、何を注文しようかなあ…)
 普段は悪戯とアルテメシアでのグルメ三昧に燃えているだけに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に計画性などはまるで無かった。早い時期から「これが欲しい」と考えたりもしなかった。
 それだけに「お願いツリー」が登場して来た今頃になって小さな頭を悩ませるわけで。
(何がいいかなあ…?)
 カラオケマイクも欲しいけれども、もっとビッグなプレゼントもいい。
 何年か前に叶えて貰った、劇場を貸し切ってのリサイタルは最高に楽しかったし…。



 何にしようか、と考え込んでいたら、賑やかな歓声が響いて来た。
 永遠の子供な「そるじゃぁ・ぶるぅ」と変わらないほどの背丈の子たちや、もっと大きな子供たちの声。キャーキャー、ワイワイとはしゃぎながら公園へ駆け込んで来た子供たちだが。
「今日も貰えたーっ!」
「リンゴ、毎日、貰わなくっちゃーっ!」
 クリスマスツリーにはリンゴだよね、と大きなツリーを見上げる子たちの手にはリンゴが乗っかっていた。真っ赤な色のリンゴだけれども、作り物のリンゴ。小さなリンゴ。
(…リンゴ?)
 何だろう、と首を傾げた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
 食べられもしない作り物のリンゴに特に興味は無いと言えば無いが、どうして誰もが小さなリンゴを持っているのか。よくよく見れば、吊るすための紐もくっついているし…。
(クリスマスツリーに飾るのかな?)
 きっとそうだ、と思ったのに。
 子供たちは公園のクリスマスツリーを囲んで走り回った後、リンゴを手にして駆け去って行った。飾りもしないで、しっかりと持って。
(…なんで?)
 クリスマスツリーにはリンゴなのだ、と子供たちは確かに言っていたのに。
 公園のツリーにもリンゴのオーナメントが幾つも飾られているのに、どうして飾らずに持ち去ったのか。それに…。
(毎日、貰わなくちゃ、って言った…?)
 いったい誰がリンゴを配っているのだろう?
 貰えば何か素敵なことでも起こるのだろうか、さっき見た作り物のリンゴは…?



 分かんないや、と不思議に思った「そるじゃぁ・ぶるぅ」だったのだけれど。
 リンゴの謎が解けるまでには、さほど時間はかからなかった。三日ばかり経った頃のこと。いつものようにアルテメシアの街で食べ歩いて、瞬間移動でシャングリラにヒョイと戻って来たら。
「ヒルマン先生、さようならーっ!」
「リンゴ、ありがとうーっ!」
 口々に叫んで、勢いよく通路に飛び出して来た子供たち。例のリンゴを持っている。まだ開いたままの扉の向こうはヒルマンが子供たちに勉強を教える教室、いわば学校。
(…此処でリンゴが貰えるわけ?)
 ならば自分も、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は迷わず教室に入って行った。リンゴが何かは分からないけれど、貰えるものなら是非とも欲しい。真っ赤なリンゴはちょっと素敵だし、子供は誰でも貰えるようだし…。
「おや、珍しいお客様だね」
 片付けをしていたヒルマンが振り返って笑顔を向けてくれた。
「どうかしたのかな、勉強する気になったのかね?」
「そうじゃなくって…。ぼくにもリンゴ!」
 一つちょうだい、と指差した先にリンゴが盛られた籐の籠があった。作り物の赤いリンゴが沢山、籠の中で艶々と輝いている。あんなに沢山あるのだから、と小さな手を開いて差し出したのに。
「…悪いね、あれは御褒美だから…。ぶるぅの分は無いんだよ」
「えーーーっ!」
 どうして、と抗議の声を上げたら。
「授業に出た子に、毎日、一個。リンゴはそういう決まりなんだよ」
 ぶるぅは授業に出ていないだろう、と断られた。自分の授業に出ていない子には御褒美は無いと、だからリンゴはあげられないよ、と。



(…リンゴ…)
 あれが欲しいのに、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は肩を落として教室を出た。
 長い通路を自分の部屋まで歩く間も、真っ赤なリンゴが頭の中でクルクル、クルクル、軽やかに幾つも回り続ける。
(授業に出た子に、一日一個…)
 ヒルマンが教えてくれたのだけれど、赤いリンゴはクリスマスを控えて気分が浮つき、授業に身が入らない子供たちへの対策らしい。
 真面目に授業に出席したなら、一日一個をプレゼント。
 アドベントだとか待降節と呼ばれるクリスマスを待つためのシーズン開始と同時に始まり、初日は真っ赤なリンゴとセットで小さなツリーも配ったそうだ。何の飾りもついていなくて、ただのモミの木、本物ではない作り物。
 子供たちはモミの木に貰ったリンゴを吊るす。順調にいけば毎日一個ずつ増える勘定。
 クリスマス・イブの日、自分のツリーをヒルマンに見せてリンゴの数を数えて貰って、パーティーの前にリンゴの数だけ、お菓子が貰えるという仕組み。
(お菓子、欲しいな…)
 どうせクッキーかキャンディーだろうと思うけれども、自分の方がもっと美味しいお菓子を食べてはいるだろうけれど。
 貰えないとなると惜しくて悔しい。他の子たちは貰えるのに、と。
(ぼくにもリンゴ…)
 頼めばリンゴを貰えるだろうか、リンゴを吊るすためのツリーも?
 けれども自分はリンゴが配られるイベントに気付いていなかったのだし、既に出遅れたと言ってもいい。他の子たちより幾つ足りないのか、例のリンゴは…?
(…ツリーを貰って、足りないリンゴも貰える仕組みって無いのかな?)
 リンゴは惜しい。本当に惜しい。
 部屋に帰り着いて、気分転換にカラオケでも、とマイクを握っても頭にリンゴ。
 頭の中でクルクル、クルクル、回り続ける真っ赤なリンゴ。
「やっぱり欲しいーーーっ!」
 駄目で元々、あわよくば。
 直訴あるのみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はヒルマンの部屋へと瞬間移動で飛び込んだ。



「リンゴちょうだい!」
 挨拶も抜きで叫んでしまった「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
 しかしヒルマンは子供相手の日々でそういったことには慣れていたから、「ほほう…」と髭を引っ張っただけで、驚きも叱りもしなかった。明日の授業の準備だろうか、机で書き物をしていた手を止めて「そるじゃぁ・ぶるぅ」の瞳を見詰める。
「リンゴというのは、さっき言ってたリンゴかな? あれが欲しいと言うのかい?」
「そう! 集めたらお菓子が貰えるんでしょ、クリスマス・イブに!」
 ぼくにもリンゴとツリーをちょうだい、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は頭を下げた。貰い損ねた分のリンゴも貰いたいのだと、クリスマス・イブまでにリンゴを立派に揃えるのだと。
「ふむ…。方法は一応、あるのだがねえ…。貰い損ねた分のリンゴを貰える方法」
「ホント!?」
「ただし、リンゴは授業に出たことの御褒美だから…。授業が終わった後の時間に行う補習に出席したなら、一回に一個。そういう形で貰えはするね」
 病気で休む子供もいるものだから、とヒルマンは説明してくれた。
 つまりはリンゴを揃えるためには、明日から欠かさず授業に出ること。貰い損ねた分が欲しいのなら、その回数分、補習にも。
「…ぶるぅは勉強、嫌いだろう? リンゴのオマケはただのお菓子だよ」
 貰わなくてもいいんじゃないかね、と言われたけれども、欲しいからこそ来たわけで。
「それでもいいから! ぼくにもリンゴ!」
 明日から頑張る、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は食い下がった。忘れないよう授業に出掛けて、補習も必要な分だけ受けると。だからリンゴとツリーが欲しいと。
「ふうむ…。そこまで言うなら、頑張ってみなさい」
 明日からだよ、とヒルマンは立ち上がって奥の戸棚の中からツリーを取り出して渡してくれた。
 何の飾りもついていないツリー、作り物のモミの木のクリスマスツリー。
「いいかね、授業に出たらリンゴが一個。補習が一度で一個だからね」
「はぁーい!」
 ツリー、ありがとう! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は踊るような足取りでヒルマンの部屋を後にした。こうしてツリーを手に入れたのだし、残るはリンゴ。明日から一日一個のリンゴ。
「補習もうんと頑張らなくっちゃ!」
 そしてリンゴを増やすんだもんね、と跳ねてゆく。真っ赤なリンゴを飾るんだよ、と。



 ヒルマンに貰った、ただのモミの木。何の飾りもまだ無いツリー。
 それをワクワクと部屋に飾った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、次の日、勇んでヒルマンが授業を行う部屋へと出掛けて行った。普段だったらアルテメシアでショップ調査か食べ歩きをしている時間だけれども、それは夜でも出来るのだし…。
 机と椅子とが並んだ教室。一番前の席に陣取っていると、ヒルマンがやって来て褒めてくれた。
 「ちゃんと来たね」と、「いい子だね」と。
 間もなく始まったヒルマンの授業。ヒルマンは教室をぐるりと見渡し、微笑んで。
 「今日は初めて来た子がいるから、クリスマスについて復習しよう。どうしてリンゴを配っているのか、クリスマスツリーにはリンゴの飾りを付けるのかをね」
(ふうん…)
 何か理由があったんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は胸を高鳴らせた。リンゴのお菓子は美味しいのだから、きっと食べ物の話なのだと思ったのに…。
「クリスマスツリーを飾る習慣は、SD体制が始まるよりもずっと昔に、地球のドイツという国で始まったのだよ。その国ではクリスマスに劇をすることになっていてね…」
 劇の中身は「アダムとイブの知識の木」。エデンの園にあったと伝わる知恵の木の実で、リンゴのことだと言われるらしい。劇の舞台にリンゴの木を飾る必要があるが、生憎と冬。クリスマスの頃にはリンゴの葉っぱは落ちてしまって、すっかり枯れ木なものだから。
 それでは舞台の上で映えない、と代わりにモミの木が選ばれた。青々とした葉を茂らせているし、赤いリンゴも見栄えがするし…。
「そういうわけだから、クリスマスツリーにはリンゴの飾りが欠かせない。私がリンゴを配っているのも、クリスマスツリーの本来の形を示すためでね…」
 ヒルマンの授業は続いていった。クリスマスツリーに飾る星や杖。どれにも由来があると話して、更にはクリスマスそのものを巡る歴史にまで発展しつつあったのだけれど。
(…なんだか全然、分かんないし!)
 とっても退屈! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は立ち上がった。
 こんな授業を聞いているより、同じクリスマスなら、断然、本物。クリスマスツリーを眺めて、見上げて、周りを走りたいわけで…。
「かみお~ん♪ ツリー、みんなで見に行こうよ!」
 公園のツリー、綺麗だよ! とダッと駆け出すと、小さな子たちがついて来た。これは遊ばねば損だから、と先頭を切って駆けてゆく。いざ公園へと、みんなで楽しく遊ぼうと。



 あまりにも堂々と抜け出して行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」。後に続いた何人かの子供。
 他の子供たちも、我慢して教室に座っているには幼すぎる子が多かったから。
 ブリッジが見える公園のクリスマスツリーの周りはアッと言う間に子供の楽園、それは賑やかな騒ぎになってしまって、ヒルマンの授業は見事に潰れた。
 途中でハーレイやエラが気付いて、子供たちを教室に追い返したけれど。その子たちはヒルマンに大目玉を食らいはしたのだけれども、なんとかリンゴを貰うことが出来た。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」の悪戯に巻き込まれただけで仕方ないのだと、わざとではないと。
 しかし…。
「…ぼくのリンゴは?」
 ぼくにくれる分のリンゴは無いの、と右手を出した「そるじゃぁ・ぶるぅ」の分のリンゴは当然、無かった。授業は潰れてしまったのだし、その犯人がリンゴを貰えるわけがない。
 ヒルマンは「そるじゃぁ・ぶるぅ」を怖い顔で見下ろし、重々しく、こう宣言した。
「やはり君には無理なようだね、私の授業は。もう明日からは来なくていいから」
 補習をしようとも思わないから、と苦い顔つき。
 悪戯小僧は学校なんかに来なくてもいいと、好きに遊んでいるのがいいと。
「…それじゃ、リンゴは?」
「あるわけがないね」
 もちろんクリスマス・イブのお菓子も無いよ、と冷たく突き放されてしまった。
 クリスマスツリーを返せとまでは言われなかったが、何の飾りも無いモミの木につける真っ赤なリンゴはもう永遠に貰えないわけで…。



(どうしよう…)
 ぼくのリンゴ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は半泣きで公園に戻って行った。公園に聳えるクリスマスツリーにリンゴは幾つも飾られているが、それはヒルマンの授業で貰える赤いリンゴとはまるで別物、毟って自分のツリーに飾っても何の効果もありはしなくて。
(リンゴが無かったら、ぼくのお菓子も…)
 クリスマス・イブには貰える筈だった、子供たちのための特別なお菓子。アルテメシアの街に溢れる絢爛豪華なクリスマス用の菓子とは違って、ごくごく素朴なものだろうけれど。
(ぼくだけ一つも貰えないなんて…)
 あんまりだよう、と涙がポロリと零れた所で気が付いた。こんな時のための素敵なアイテム、「お願いツリー」。願い事を書いてツリーに吊るせばサンタクロースが叶えてくれる。
(そうだ、お願いツリーだよ!)
 サンタさんに頼めばきっとリンゴが手に入るんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は目を輝かせた。
 なんて素敵なアイデアだろう。今年のお願い事はこれに決まりで、手に入らない筈のヒルマンが配る真っ赤なリンゴを、一番沢山貰う子供と同じ数だけサンタクロースが届けてくれる。
(リンゴ、リンゴ…)
 それにしよう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「お願いツリー」の側に置かれた専用の用紙を手に取った。ついでにペンも。
(ぼくにリンゴを沢山下さい、っと…!)
 デカデカと書いて、自分の名前も書き付けて。
「これで良し、っと!」
 願い事を書いたカードを吊るして、足取りも軽くホップ、ステップ、それからジャンプ。ウキウキと通路へとスキップしてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」は全く気付いていなかった。
 ヒルマンがリンゴの数に応じてお菓子を配る日はクリスマス・イブ。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「リンゴを下さい」と願いを託したサンタクロースがやって来るのは、そのクリスマス・イブの夜が更けた後だということに…。



 子供ゆえの迂闊さ、ピントのずれた「お願いツリー」の願い事。
 それはたちまちソルジャー・ブルーの知る所となり、ハーレイをはじめブリッジ・クルーも大いに笑った。これではどうにもなりはしないと、願い事など叶いはしないと。
 けれども、そこはソルジャー・ブルー。悪戯小僧の「そるじゃぁ・ぶるぅ」を大切に思い、可愛がっている人物だから。
 例の願い事を吊るした翌日の朝、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はブルーに思念で呼ばれた。すぐに青の間まで来るように、と。
「かみお~ん♪ なあに?」
 何か用事? と瞬間移動で現れた悪戯小僧に、ブルーが炬燵で「これ」と指差す。炬燵の上には定番のミカンがあったけれども、その他に…。
「国語、算数、それからミュウの歴史かな。ヒルマンに借りた教科書だけどね」
 これで一緒に勉強しよう、とブルーに微笑み掛けられた。今日から毎日、一時間。希望するなら補習も可能で、勉強をすればこれをあげよう、と宙に取り出された真っ赤なリンゴ。
「あっ、リンゴ!」
「そうだよ、ヒルマンに頼んで分けて貰った。ぶるぅはみんなと一緒の授業は向かないようだし、ぼくが特別に授業をね…」
 ソルジャーの授業だからヒルマンのよりも短い時間でリンゴが一個、という提案。真面目にやるなら教えてあげると、一時間でリンゴを一個あげると。
「どうする、ぶるぅ? ぼくと一緒に勉強するかい、クリスマス・イブのお菓子のために?」
 リンゴさえあればお菓子は貰えるそうだよ、と聞かされた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は躍り上がって喜んだ。退屈な授業は御免だけれども、大好きなブルーと勉強ならば…。
「ぼく、勉強する!」
 そしてリンゴを貰うんだあ! と元気に答えた悪戯小僧。
 かくして青の間でソルジャー直々の特別授業が始まり、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は毎日、教科書やドリルを抱えて炬燵での勉強会に励んで。
「えーっと、百かける五は…。ひい、ふう、みい…。六百!」
「ぶるぅ、よくよく考えてごらん? ラーメン一個の値段が百としたなら、五個でいくら?」
「五百だよ! あっ、そっかあ…」
 食べ物の計算は得意なんだけど…、と頭を振っている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。そんな調子で毎日勉強、来る日も来る日も勉強と補習。真っ赤なリンゴはしっかり揃って…。



 クリスマス・イブの日、パーティーの前に「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意満面、真っ赤なリンゴを一面に飾ったツリーを抱えてヒルマンが待っている教室に行った。
 大勢の子供が自分のツリーを机に置いていたけれど。
「おめでとう、ぶるぅ。一番は君と…」
 他に何人かの名前が挙げられ、ヒルマンが大きなバスケットからクッキーを一個ずつ包んで連ねた立派な首飾りを首にかけてくれた。一番沢山リンゴを集めた子だけが貰える、一種の勲章。チョコレートのメダルもくっついている。
 その他にリンゴの数に応じてクッキーが貰えて、もちろんこれも一番多くて。
「やったー、クッキー!」
 メダルも貰ったあ! と飛び跳ねて喜ぶ「そるじゃぁ・ぶるぅ」に、ヒルマンが「ソルジャーによくよく御礼を言うんだよ」と言ったのだけれど。
 そんなことなど聞いていないのが「そるじゃぁ・ぶるぅ」で、御礼なんかはスッパリ忘れた。
 そしてチョコレートのメダルがついたクッキーの首飾りを下げてエヘンと胸を張り、パーティーの御馳走をお腹一杯食べて食べまくって、夜になって。
「今日はサンタさんが来るんだもんね!」
 うんと素敵なプレゼントが届く筈なんだよ、とリンゴを飾ったツリーの隣に大きな靴下を吊るし、土鍋の寝床に潜り込んだ。
 ヒルマンのお菓子も貰えたことだし、もう最高のクリスマス。明日の朝にはサンタクロースが届けてくれたプレゼントが溢れているだろう。ドキドキワクワク、眠ったのだけれど…。



「ぶるぅは見事に忘れたねえ…」
 青の間の炬燵でソルジャー・ブルーがクスクスと笑う。その手の中に、お願いカード。クリスマスのプレゼントに間に合うように、と係が回収しておいたカード。
 そのカードには「そるじゃぁ・ぶるぅ」の下手くそな字でこう書き殴ってあった。
 「ぼくにリンゴを沢山下さい」。
 ブルーの向かいでサンタクロースの衣装や真っ白な髭を着けたハーレイが尋ねる。
「それで、ソルジャー…。今年は本気でリンゴですか?」
「ぶるぅのお願い事だしね? サンタクロースは願いを叶えるものだろう?」
 よろしく頼むよ、とブルーが瞬間移動で取り出した木箱。リンゴがギッシリ詰まった木箱。
「去年の土鍋は少々大きすぎたけど…。これくらいなら持てるだろう?」
「もちろんですが…。ぶるぅはこれで怒りませんか? リンゴ箱一杯のリンゴですよ?」
「大丈夫。ちゃんと工夫はしてあるからね」
 これをセットで届けておいて、とブルーがハーレイに手渡した冊子。ハーレイはそれを見るなり頬を緩めて、パラパラめくって中を確かめて。
「なるほど、お考えになりましたね」
「ぶるぅのお願い事を叶えてやるなら、素敵に演出したいだろう?」
「心得ました。では、届けに行って参ります」
 ハーレイはサンタクロースのシンボルとも言える白い袋に冊子を入れると、リンゴ箱を抱えて大股で青の間を出て行った。白い袋の中にはエラやブラウたち、長老からのプレゼント。ハーレイの分も入っている。今年も色々、盛り沢山。
 夜更けのシャングリラの通路をキャプテン扮するサンタクロースが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋へと向かって、寝床になっている土鍋の隣にリンゴ箱などを並べてやって…。



 そして、翌朝。
「クリスマスだあーっ!」
 ガバッと起き上がった「そるじゃぁ・ぶるぅ」はプレゼントを見付けて歓声を上げた。今年も素敵なものが一杯、嬉しくてたまらないけれど。
「…あれ?」
 どれよりも大きく、いいものが入っていそうだと一目で思った箱。木箱だけれども、きっと中には素晴らしいものが、と考えたのに。
「…リンゴ?」
 産地直送と書かれたリンゴ箱からは、甘酸っぱい香りが漂っていた。どう考えても中身はリンゴ。木箱一杯のリンゴなんかがどうして…、と首を捻ってから思い当たった。
(お願いツリーのお願い事…!)
 ブルーの特別授業で毎日リンゴを貰えていたから、喜びのあまり忘れていた。「リンゴを下さい」とサンタクロースにお願いしたまま、書き換えることをド忘れしていた。
 願い事を叶えるのが仕事のサンタクロースは、ちゃんと願いを聞いてくれたわけで…。
(……リンゴ……)
 本物のリンゴが木箱にドッサリ、こんなものを貰ってしまっても…、と自分の間抜けさに愕然としたってもう遅い。今年のサンタクロースからのプレゼントは…。
「リンゴだなんてーっ!」
 こんなの要らない! と叫んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」の心にフワリとブルーの思念が届いて。
『おやおや、ぶるぅ。サンタクロースのプレゼントは全部見たのかい?』
「見たよ、見たけどリンゴばっかり…!」
『そうかな、箱の下に何かがあるようだけれど?』
「箱の下…?」
 えっと、と重たい木箱をサイオンで持ち上げた「そるじゃぁ・ぶるぅ」の目が丸くなった。
「レシピ集…?」
『サンタクロースが集めてくれたようだよ、リンゴのお菓子のレシピをね』
 最新流行のからクラシックなものまで揃っているよ、と大好きなブルーの思念が告げる。本当なのか、と手に取ってめくればその通りで。
「うわあ、見たことのないお菓子がいっぱい…!」
『ぼくから厨房のみんなに頼んであげるよ、ぶるぅが作って欲しいお菓子を全部』
 リンゴ箱のリンゴがある間はね、と言われた「そるじゃぁ・ぶるぅ」の気分はドン底から一転、天にも昇る心地で大歓声で…。



 ピョンピョンと跳ねて喜んでいたら、ブルーの思念がクスッと笑った。
『ぶるぅ、リンゴのお菓子もいいけど、今日は何の日だったっけ?』
「えっ? えーっと…?」
 何だったかな、とリンゴの木箱を見詰めた途端に、シャングリラ中から上がった思念。
『『『ハッピーバースデー、そるじゃぁ・ぶるぅ!』』』
「えっ? えっ、えっ…?」
 忘れてたぁーっ! と叫んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」。クリスマス・イブのリンゴ集めに夢中で誕生日まで忘れ果てていた。それはもう素敵なサプライズ。今日が自分の誕生日なんて。
『ホントに忘れていたのかい? でもね、ケーキはちゃんとあるから』
 ブルーがクスクス笑い続ける。今年も大きなケーキがあるよと、みんなが巨大なケーキを公園に運んでくれるからね、と。
「ありがとう、ブルー! ケーキ、ブルーも食べるよね!」
 リンゴのお菓子も一緒に食べよう! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は青の間に向かって瞬間移動。
 大好きなブルーと誕生日のケーキを食べに行かねば、と。
「行こうよ、ブルー! ぼくの誕生日のケーキを食べに!」
「そうだね、それにリンゴのお菓子も頼まなくちゃね」
 サンタクロースのレシピでね、と微笑むブルー。リンゴ箱一杯分のリンゴのためにと、ありとあらゆるレシピを探したソルジャー・ブルー。サンタクロースに扮したハーレイが届けたレシピ集はソルジャー・ブルーのお手製、この世に、宇宙に一冊しかないレシピ本。
「ブルー、リンゴのお菓子は何がいい?」
「何がいいかな、後で一緒にレシピを見ようか。でも、その前に…」
 お誕生日おめでとう、と頬っぺたにキスが贈られた。公園からは仲間たちの思念が呼んでいる。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、本日をもって満八歳。
 悪戯小僧で、永遠の子供で、リンゴで失敗もするのだけれど。
 ハッピーバースデー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。八歳のお誕生日おめでとう!




         待降節のリンゴ・了


※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、お読み下さってありがとうございました。
 悪戯小僧な「そるじゃぁ・ぶるぅ」との出会いは2007年の11月末でしたね。
 アニテラが放映された年の暮れです、葵アルト様のクリスマス企画での出会いでした。
 期間限定ペットだった「そるじゃぁ・ぶるぅ」に一目惚れ。
 せっせと阿呆な創作を特設BBSに投下してました、それが全ての始まりです。

 悪戯小僧とのドタバタな日々が初創作でした、あれから早くも7年ですねえ…。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」との出会いが無ければ、今のシャン学はありません。
 シャン学が無ければ、ハレブル別館も誕生しておりません。
 原点は「そるじゃぁ・ぶるぅ」なのです、それも悪戯小僧の方の。
 ゆえに年に一回、お誕生日だけは祝ってあげませんとねv

 クリスマス企画の中で満1歳を迎えましたから、今年で8歳の「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
 8歳のお誕生日おめでとう! 

※過去のお誕生日創作へは、下のバナーからどうぞですv
 お誕生日とは無関係ですが、ブルー生存EDも混じっていたりして…(笑)
 ←過去のお誕生日創作などなどv






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 青い地球の上に生まれ変わったブルーとハーレイが再会してから、あと少しすれば三ヶ月。
 ハーレイが教師を務め、ブルーが通っている学校もとうに夏休みに入った七月の末。夏休み前はハーレイがブルーの家を訪ねて来る日は土曜と日曜、平日は滅多に来てくれなかった。その来訪が夏休みのお蔭で劇的に増えて、平日でも朝から夜まで一緒に過ごせる日も多い。
 研修や柔道部で丸一日が潰れない限り、毎日のように自分の家でハーレイに会える。天気のいい日は庭で一番大きな木の下に据えられたテーブルと椅子でお茶を飲んだり、食事することも。もう嬉しくてたまらない日々だが、ブルーには切実な悩みがあった。
 それは全く伸びない背丈。今の学校に入学した春、ブルーの身長は百五十センチちょうど。その後の測定で伸びていることを期待したのに、一ミリも伸びはしなかった。
 自分の部屋のクローゼットに鉛筆で微かに引いた線。床から百七十センチの所に付けた印が前の生でのブルーの背丈で、そこまで大きく育たなければハーレイと本物の恋人同士になれないのだ。
 ハーレイ曰く、ブルーは「立派な子供」。
 子供相手に前世でのような深い関係を持つつもりはなく、キスすらもまだ早いと言われた。額と頬にはキスしてくれるが、そのキスは子供向けのキス。幼い頃から父と母がしてくれるキスと全く変わらず、恋人同士のキスではない。
 ブルーがハーレイにして貰いたいキスは唇へのキスで、前の生では唇を重ねるだけと違って更に深くて甘いもの。そういうキスを交わしたいのに、唇すらも重ねられないこの現実。
 何度も何度もキスを強請っては「駄目だ」と叱られ、断られてきた。
 再会を果たして間もない頃には会う度にキスをしようとして果たせず、酷く寂しい思いをした。流石に三ヶ月近く経った今では「キスは許して貰えないらしい」ともう諦めているのだけれど。
(…でも……)
 毎日のように自分の家で会える夏休みが始まったことで、再び欲が出始めた。学校があった頃は平日は教師と生徒だったし、家ならともかく、学校ではベッタリ甘えるわけにはいかない。それが今では平日だって甘え放題、うんと距離が縮まった気がするわけで。
(…それなのにキスも出来ないだなんて…)
 せっかく恋人同士で過ごしているのに、キスも無し。これではあんまり寂しすぎる。前の生での深くて甘いキスは無理でも、せめて唇を重ねるくらい…。
(ほんのちょっと、ちょっぴりだけでいいから唇にキス…)
 して欲しいな、とブルーは思った。背丈が百七十センチに満たないどころか百五十センチのままでは恋人同士のキスは絶対に無理。それでも大好きなハーレイと唇を重ねてみたい。触れるだけのキスでかまわないから、唇にキスが欲しかった。
 ほんの少しだけ、恋人気分。きっと幸せが胸一杯に満ちるだろうに…。



(ハーレイのキス…。ホントに欲しいな…)
 そう思うけれど、どうすれば唇へのキスを貰えるだろう?
 ハーレイは前に確かにこう言った。「お前へのキスは頬と額だけだと決めている」と。
(…だけど……)
 自分が前世と同じ背丈に育つまでは駄目だと告げたハーレイ自身も、心の奥では揺れている筈。現にブルーがハーレイの家に呼んで貰えない理由は「ハーレイの抑えが利かなくなるから」。
 つまりハーレイも本当の所はブルーにキスをしたいし、その先のこともしてみたいのだ。我慢に我慢を重ねているだけ、大人らしく振舞っているだけで…。
(……だったら可能性はゼロじゃないよね)
 何か方法がある筈だ、とブルーは考えを巡らせ始めた。今までにキスを断られ、叱られた経験は多数。強請っては断られ、キスしようとして叱られ…。
(…ぼくの方からキスしようとするからダメなんだよ、うん)
 どうもそういう気がしてきた。
 ずっとずっと昔、前の生でハーレイと本物の恋人同士であった頃。キスを交わす時はハーレイがブルーの顎を捉え、あるいは身体ごと組み敷いて熱い唇を重ねてきた。もちろん自分から強請ったこともあったが、キスは圧倒的に「貰うもの」であり、求めずとも与えられるもの。
(ということは……)
 ブルーからキスを持ち掛けるよりも、ハーレイがブルーにキスしたくなるようにするのが正しいやり方なのだろう。ブルーはキスを受け取るだけで、主導権はあくまでハーレイに。
(ハーレイがぼくにキスをしたいと思うようにすれば上手くいくかも!)
 そういう方向で考えたことは一度も無かった。ひたすらキスを強請るばかりで、ハーレイがどう思っているかは微塵も考慮していなかった。
 ハーレイだってきっとキスをしたい気分でいる時もあれば、そうでない時もあるだろう。自分は間違えたのかもしれない。キスして欲しいと強請るタイミングだとか、雰囲気だとかを。
(…そういうものって絶対あるよね…)
 今のブルーにはよく分からないけれど、前世でソルジャー・ブルーだった頃は色々とハーレイに気を遣っていた。青の間に来て欲しいと誘う時にも、ハーレイの部屋へ行きたいと強請る時にも。
 二十四時間、いつでも遠慮なく逢瀬を重ねていたわけではない。ハーレイの方もそれは同じで、互いに相手を思いやっては、同じベッドで眠りはしても「おやすみのキス」だけの日もあって。
(…でも、おやすみのキスは貰えたんだよ)
 あれも唇へのキスだった。唇が触れ合うだけの優しいキス。ああいうキスでいいから欲しい。
 でも……。



 キスが欲しいと強請っても駄目、「キスしていいよ」と言ってみても駄目。
 ハーレイにも「キスをしたい気持ち」はあるというのに、未だにキスをして貰えない。雰囲気がまずいのか、強請るタイミングを間違えているか。
(どうすればキスして貰えるんだろう?)
 ハーレイがブルーにキスしたい気持ちになりさえすれば、キスを貰えそうに思うのだけど…。
(…ぼくから頼んでもダメだってことは、ハーレイが自分からそういう気持ちにならないと…)
 そんなことってあるのだろうか、とブルーは前の生での膨大な記憶を遡ってみる。
 本物の恋人同士の時間を過ごす時のキスは論外、何の参考にもなってはくれない。当然のようにキスを何度も交わしていたし、強請ればいくらでもキスしてくれた。強請るまでもなくキスの雨が降り、唇だけでは済まなかった。
(えーっと…。他に頼まなくてもキスされた時は…)
 そちらも星の数ほどあったが、キスを貰ったら恋人同士の時間の始まり。ハーレイの逞しい腕に抱き上げられてベッドに行くのが普通だったし、これまた全く参考にならず…。
(…キスだってして貰えないのに、キスの先までセットだなんて…)
 おやすみのキスだけで充分なのに、と思ったけれども、ハーレイと一緒に寝ていない以上、そのキスは貰えそうにない。本当に触れるだけのキスでいいのに…。
(……あっ!)
 そういえば触れるだけのキスを何度も貰った。おやすみのキスとは違って、起きる前のキス。
 ハーレイと同じベッドで眠って、ハーレイが先に目覚めた時。今と同じ虚弱体質だったブルーはいつもハーレイのキスで起こされていた。「もう朝ですよ」と。「起きられますか?」と。
 恋人同士の熱い時間を過ごした翌朝は言うに及ばず、ただ寄り添い合って眠っただけの次の日もハーレイはブルーの身体を気遣う言葉をかけつつ、唇にキスをしてくれた。ブルーがしっかり目を覚ますまで、幾度も幾度も、触れるだけのキスを。
(…そっか、寝ている時ならいいかも!)
 もしもブルーが眠っていたなら、ハーレイは思い出すかもしれない。前の生でブルーが目覚めるまでキスを繰り返したことを。まるで小鳥がついばむかのように、優しいキスを降らせたことを。
(うん、キスしたくなるかもしれないよね!)
 なにより自分はぐっすり眠っているわけなのだし、キスされたことにも気付かないように見えるだろう。慎重なハーレイだけに声をかけてみて、それで反応が返らなかったら…。
(……ぼくにこっそりキスをするかも!)
 その可能性は大いにある、とブルーは自分の素晴らしいアイデアに拍手を送りたくなった。
 唇に欲しい触れるだけのキス。ぐっすり眠ったふりをして待てば、優しいキスを貰えるかも…!



 名案を思い付いたからには、少しでも早く実行したい。つらつらと考えごとをしていたこの日はハーレイが午後から訪ねて来る日。午前中は柔道部を指導し、昼食の後にプールで軽く泳いでからブルーの家へ。
 夏真っ盛りの日射しの下を学校から歩いて来たハーレイは全く疲れの色も無いのだが、ブルーは母が運んで来たアイスティーを半分だけ飲んでわざと欠伸をしてみせた。
「どうした、ブルー? 今日は眠そうだな」
「うん…。昨夜、ちょっと夜更かししちゃって」
 欠伸も夜更かしも、もちろん嘘だ。しかしハーレイは疑いもせずに。
「いかんな。いくら夏休みでも生活は規則正しく、だ。それでは丈夫になれないぞ」
「でも…。この本を見てると止まらないんだもの」
「なるほどな。…お前の気持ちは分からんでもない」
 ブルーが差し出した本は父に強請って買って貰ったシャングリラの写真集だった。歴史の彼方に消えた白い船だが、ミュウの始まりの船だけあって資料は豊富に残されている。懐かしい青の間、天体の間にブリッジ、公園。そして様々な角度から撮られた船体の背景は宇宙空間や惑星で。
「ね? どの写真だって何時間でも飽きずに見ていられるから…」
「しかし夜更かしは感心せんぞ」
 眉間の皺を深くするハーレイの前で、ブルーはもう一度小さな欠伸をした。
「つい、うっかり…。気が付いたら二時になっちゃってたんだ」
「馬鹿! それで欠伸か、疲れたんだろう」
「…そうみたい…。ちょっとだけベッドで寝てきてもいい?」
 ダメかな? と上目遣いに見上げれば、ハーレイは「そう言ってる間にさっさと寝ろ」と壁際のベッドを指差した。
「適当なトコで起こしてやる。…今から寝るなら四時頃か?」
「三時半でいいよ、ママがおやつを持ってくるから」
「分かった、分かった。食い意地だけは張ってるんだな、いいことだ」
 おやつでもいいから沢山食べろ、と笑うハーレイに「これ」とシャングリラの写真集を渡した。
「ハーレイも同じの持ってるよね? だけどハーレイが暇を潰せそうな本、これしか無いんだ」
「そうか。じゃあ、遠慮なく借りておくとしよう。早く寝てこい」
「…うん。ごめんね、ハーレイ」
 そう言ってベッドにもぐり込み、目を閉じる。おやすみのキスは貰えなかったが、作戦は上手くいきそうだ。とにかく寝たふり、眠っているふりをしなければ…。



 ぱらり。ハーレイが写真集のページをめくる音が時々聞こえる。ブルーと同じでハーレイもあの写真集に見入っているのだろう。ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握った船を。
 ハーレイが見ている写真はどれだろうか、と想像するだけで意識が冴えるから眠ってしまう心配はない。その計算もあって選んだ本だ。
(ブリッジかな? キャプテンの席かな、それとも舵?)
 あるいは青の間なのかもしれない。かつて二人で眠ったベッドの写真を見ているかも、と思うと胸の鼓動が早くなる。それでも懸命に寝たふりを続けている内に、ノックの音と母の声がして。
「あら? まあまあ、この子ったら…。申し訳ありません、ハーレイ先生」
「いえ、私ならかまいませんよ。ソルジャー・ブルーは十五年も眠っていましたからね。…あれに比べたら丸一日でも短いものです」
「それもそうかもしれませんわね。でも、お行儀の悪い子ですみません」
 起きたら叱ってやって下さい、と母が去ってから五分ほど経った頃だろうか。
「おい、ブルー。三時半だぞ、おやつも来たが?」
 軽く肩を叩かれ、「うーん…」と身じろぎだけして丸くなる。
「ブルー? こら、ブルー!」
「…んん……。ハーレ……イ…。もう…ちょっと……」
 この台詞には自信があった。前の生で起きたくないと甘える時に何度も口にした言葉。ついでに表情も再現するべく、瞼は閉じたままで唇を微かに開けて柔らかな笑みを。
 ハーレイが息を飲んだのが気配で分かった。
「…ブルー……?」
 僅かに掠れたハーレイの声。低く、耳元で囁くように。
「……ブルー?」
「……ん……。あと……少し……」
 眠い、と告げて「いや、いや」と首を左右にゆっくりと振れば、ハーレイの大きな手が頬を包み込む。そう、この後がブルーが待ちに待った優しい口付け。「起きる時間ですよ」と告げて温かい唇でブルーの唇を覆い、目覚めを促すための口付け。
(やった…!)
 釣れた、と歓喜するブルーの唇に口付けは降って来なかった。代わりに頬を両側からギュウッと押されて、多分、とんでもない顔にされたと思う。見た人がたまらず吹き出すほどの。
「ちょ、ハーレイ!」
 何するの、と叫んだブルーに答えが返った。
「残念だが、そいつは俺の台詞だ。…よくも騙したな、このハコフグめが」
 よりにもよってハコフグだなんて。押し潰された自分の顔を形容するあまりな言葉に、ブルーはグウの音も出なかった。



「うん、実に見事なハコフグだったな」
 ハコフグが嫌ならヒョットコでもいい、とハーレイは更に酷いモノを持ち出してきた。どちらにしてもブルーの顔は見られたものではなかったのだろう。
 唇にキスを貰うどころか顔をオモチャにされたブルーは拗ねて唇を尖らせたけれど、ハーレイは「いいのか、ますますハコフグになるぞ」と笑いながらブルーの頬を指でつついた。
「膨れるともっと似ると思うが、お前、ハコフグになりたいのか? あれもなかなか可愛いが」
「ハコフグじゃないし!」
 プウッと頬っぺたを膨らませてしまい、ますますハーレイの笑いを誘う。
 こんな筈ではなかったのに。予定通りならハーレイの優しいキスをせしめて御機嫌で目を覚ます筈だったのに…。恋人を捕まえてハコフグだなんて、どうしてこうなってしまったんだろう?
 自己嫌悪に陥りそうなブルーだったが、ハーレイの方は心得たもので。
「ん? …まあ、ハコフグに右の手は無いな」
 ほら、と右手をキュッと握られた。
 前の生で最後にハーレイに触れた手。生の最期に撃たれた痛みでその温もりを失くし、冷たいと泣いたブルーの右の手。その手を握って貰うと嬉しい。ハーレイの温もりがとても嬉しい…。
 癪だけれども、嬉しくなる。ハコフグ呼ばわりもどうでもよくなるくらいに。
「…で、お前は何を企んでたんだ? 夜更かしからしてどうやら嘘のようだが」
「…………」
 そこまで喋ってたまるものか、とブルーは黙り込んだのに。
「言えないのなら俺が代わりに言ってやろうか? …お前、俺を釣ろうとしていただろう」
「えっ?」
「図星だな。正直、俺も騙されかけた。いや、前世のお前を思い出したと言うべきか…。だがな、そう簡単には釣られんぞ。お前の心は正直すぎだ。前のお前なら考えられんが」
 ハーレイが息を飲んだのを聞いた直後から、ブルーの心は期待に溢れた喜びの思念を振り撒いてしまっていたらしい。ゆえにタヌキ寝入りをしているとバレて、その目的まで見抜かれた次第。
「……バレちゃってたんだ…」
「そういうことだ。どうだ、文句があるか、ハコフグ」
「……ごめんなさい……」
 シュンと俯いたブルーの頭をハーレイはポンポンと軽く叩いた。
「俺がお前にキスをしない理由は何度も教えたな? なのに釣ろうとは二十三年ほど早いんだ」
 もう少し経てば二十四年か、と自分とブルーとの年の差を挙げてニヤリと笑う。
「俺を釣るには色気と修行がまだまだ足りない。大きく育って出直してこい。…なあ、ハコフグ」



 ハコフグは釣るんじゃなくって釣られる方か、と散々笑われ、ブルーの企みは見事に砕けた。
 大好きなハーレイの台詞でなければ泣いたかもしれないハコフグ呼ばわりのオマケつきで。
 優しいキスを貰う夢は破れて、頬っぺたまで潰されてしまったけれど。
 ハコフグにされてしまったけれども、それでもハーレイを大好きな気持ちは変わらない。
「…ねえ、ハーレイ。ハコフグって、本物、見たことあるの?」
 図鑑でしか知らない魚の名前を尋ねてみたら。
「あるぞ、それも水族館じゃない。海に行けばな、運が良ければ出会えるんだ」
「ハーレイ、釣ったの?」
「いや、本当に出会ったのさ。俺が潜って泳いでいたらな、バッタリとな」
 俺も驚いたが向こうもビックリしたと思うぞ、と懐かしそうな目をするハーレイは海の中で岩の角を曲がった途端にハコフグと対面したらしい。
「今の地球の海はハコフグまで棲んでいるんだな。…俺がシャングリラで辿り着いた頃には青い海すら無かったのにな…。おまけに今の地球だと陸の上にまでハコフグが居るな」
「…それ、ぼくのこと?」
「ああ。俺の大事なハコフグのことさ、銀色の髪で赤い瞳のな」
 ゆっくりでいいから大きくなれよ、とハーレイの手がブルーの両の頬を優しく包んだ。
「俺を見事に釣り上げられる美人に育つ日を待ってるからな。…それまではキスはお預けだ」
「…うん……」
「もっとしっかり返事しろ。しっかり食べて大きくなったら、嫌というほどキスしてやるから」
 ……それまではキスは額と頬だけだ。
 いいな、ハコフグ。
 酷い呼び名をつけられたけれど、好きでたまらないハーレイの声でそう呼ばれるとハコフグでもいいと思ってしまう十四歳の小さなブルー。
 ハコフグ扱いは多分、今日だけ。
 しかし欲しくてたまらない唇へのキスは、いつ貰えるのか分からなかった。
 けれどいつかは必ず貰える。死の星だった地球の海でさえ、今はハコフグが棲むのだから。
 その地球の上に生まれ変わってハーレイと再会を果たしたブルーの夢が叶わない筈が無い……。




        貰いたいキス・了

※ブルー君、キスを貰い損ねた挙句にハコフグですが…。チビですからねえ?
 今月は第5月曜がございますので、年末にもう一度更新がありますです。

 そして、ハレブル別館とは無関係ですけど、作者が書き手になったルーツ。
 諸悪の根源だか、原点だかのコメディが毎年クリスマスの公開となっております。
 覗いてみたい方は、下のバナーからどうぞv
  ←悪戯っ子「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお話v


※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv





今年もいよいよ夏休み。昨日は恒例の宿題免除アイテムの店で会長さんがガッポリ儲け、今日は朝から会長さんの家のリビングで夏休みの計画を相談しています。数日後には柔道部の合宿が始まり、それに合わせてジョミー君とサム君が璃慕恩院へ修行体験ツアーに行くのですけど。
「…なんだか暗いねえ、副住職」
どうしたんだい、と会長さんの問い。えっ、キース君、暗いですか? 普段通りだと思いますけど…。あれっ、でもギクッとしているような?
「………。なんで分かった」
「そりゃあ、付き合い長いしさ…。それに溜息が今ので五回目」
「「「五回目!?」」」
やっぱり誰も気付いてなかったみたいです。だって朝から普通にコーヒー片手に夏休みプランを練ってましたし、お菓子もパクパク食べてましたし…。
「まあ、一般人にまで見抜かれるようじゃ副住職も失格ってね。自分の悩みは胸にしまって檀家さんと接してこその職業だしさ。…で、溜息の理由は何かな?」
吐いてしまえば楽になるよ、と会長さんが促すと、キース君はフウと溜息を。
「…すまん、今ので六回目なのか? 実は親父が」
「卒塔婆を押し付けてきたのかな? 今年もそういうシーズンだもんねえ」
百本単位? と尋ねる会長さんですが、キース君は首を左右に振って。
「卒塔婆書きなら根性で書けば何とかなる。…しかし、俳句は…」
「「「はいく?」」」
えーっと、ハイクってハイキングとかヒッチハイクとか? なんでそんなモノが、と首を傾げる私たちの姿にキース君は「ははは…」と力ない笑い。
「だよな、俺たちの年はともかく、外見だったらそっちだよな…。いや、実年齢で行っても早過ぎかもしれん。親父が言うのは五七五だ」
いわゆる俳句、とキース君の溜息、七回目。
「住職仲間の俳句の会があってな、親父も籍を置いている。お前もそろそろ入会しろ、と先月頃からうるさくて…。お盆が済んだら句会があるから、そこで仲間に紹介すると」
「入会すればいいじゃないか」
俳句もたしなみの一つだよ、と会長さんが返すと、キース君は八回目の溜息と共に。
「入会したら最後、フリータイムが削られるんだ! 親父は住職だけに仕事が多くてフットワークが軽くはないが、俺は基本が学生だろう? だから大いに参加すべし、と背中をバンバン叩かれた」
月例句会に吟行会に…、と指折り数えるキース君。お寺の住職ばかりの会だけに、平日をメインに沢山企画があるそうです。全部に出席するとなったら、それは確かに大変かも…。



キース君を見舞った俳句な危機。毎週、三日ほど有志が集う催しがあって、どれに出席するのも自由。住職をしている会員さんたちは月参りやお葬式などで忙しいですし、そんな人でも月に一回くらいは出られるようにと予定が多め。でも、キース君は学生ですから全て出席可能です。
「そんな会に無理やり突っ込まれてみろ、学校の方がどうなるか…。柔道部の方も休みがちになるし、俺の人生、真っ暗なんだが」
「だったらサボればいいだろう?」
適当に、と言う会長さんにクワッと噛み付くキース君。
「簡単に言うな、簡単に! 銀青様には分からんだろうが、この手の会は下っ端の仕事が多いんだ。上の方の人は予定を組むだけ、手配するのは下っ端だ。新入会員の若手となれば確実にお鉢が回って来る。しかも暇人なら尚更なんだ!」
会が無い日も連絡係やら取りまとめやら…、と溜息はもはや九回目。
「俺の平日は確実に削られ、フリータイムにも遠慮なく連絡が来まくるぞ。でもって合間に俳句を作らにゃならんし、それも他の会員よりも多めに要求されてくるよな」
「そうだろうねえ、集まりの度に披露は必須だ」
吟行会ならその場で一句、と会長さんが楽しそうに。
「行った先の景色や見たものを織り込んで一句捻るのもいいものだよ? 今日のお菓子は抹茶パフェだけど、これでも充分作れるよね」
夏ならではのガラスの器に、よく冷えた器に浮かぶ露に…、と会長さんはスラスラと。
「はい、一句出来た。こんな感じで即興でいけばいいんだよ」
「「「………」」」
何処から出たのか、立派な短冊。筆ペンで書き付けられた俳句は達筆過ぎて読めません。けれどキース君には読み取れたようで、盛大な溜息、十回目。
「…なんで抹茶パフェからコレが出るんだ…。何処から見ても夏の茶会だ」
それも涼しげな、と読み上げられた句にポカンと口を開ける私たち。打ち水をした露地がどうとかって、これが抹茶パフェからの連想ですか! 会長さんって凄すぎなのでは…。
「ふふ、ダテに銀青の名は背負ってないさ。…だけどキースには少々ハードル高いかな?」
「少々どころか高すぎだ! お盆が済んだら海の別荘だが、その後に句会に連れて行かれて俺の自由は無くなるんだ…」
明けても暮れても俳句漬けの日々、と十一回目の溜息が。そっか、キース君と予定を気にせず遊びまくれる日はもうすぐ終わりになるんですねえ…。



アドス和尚が住職として元老寺にドッシリ構えている以上、いつまでもシャングリラ学園特別生として自由なのだと思い込んでいたキース君の未来。それがいきなり断ち切られるとは夢にも思っていませんでした。それも俳句の会のお蔭でバッサリだなんて、フェイントとしか…。
「俺だって降って湧いた災難なんだ…。まさか俳句の会が来るとは…」
そういう趣味は持ってないのに、と嘆きつつ、溜息はついに十二回目です。気の毒ですし、私たちだって今までどおりの毎日を送りたいですけど、アドス和尚には逆らえませんし…。
「いいんだ、お前たちに頼ってどうなるものでもないからな。…これで終わった、俺の人生…」
俳句と共にはいサヨウナラ、と何処かで聞いたようなフレーズが。会長さんがクスクスと…。
「この世をば、どりゃお暇に線香の煙と共に灰さようなら、……ね。辞世の句としては最高傑作に入ると思うんだけどさ、君はサヨナラしたいわけ?」
「誰がしたいか! だがな、親父はこうと決めたら梃子でも動かん」
「そうだろうねえ…。じゃあ、起死回生のチャンスに賭けてみる?」
「…何のことだ?」
手があるのか、と縋るような目のキース君に、会長さんは。
「ぼくを唸らせるような名句を詠むか、別の意味で思い切り感動させるか。どっちかが出来たら手を貸してもいい。…アドス和尚が君を俳句の会に入れないようにね」
「本当か!?」
「こんなことで嘘はつかないよ。…ところで大食いに自信はあるかい?」
「…大食いだと?」
それが俳句とどう関係が、とキース君の頭上に『?』マークが。私たちだって同じですけど、会長さんはニッコリ笑って。
「ざるそばが美味しい季節なんだよ。新そばと言えば秋だけれどさ、この季節にも夏新そばが採れるわけ。風味じゃ秋に負けていないし、そもそも暑い夏にはざるそば!」
それを思い切り食べ放題、と会長さんが指をパチンと鳴らすと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ 今日のお昼は手打ちそばなの! 十割蕎麦だよ」
採れたての蕎麦粉、百パーセント! と運ばれて来ました、お昼御飯はざるそばです。ワサビもその場ですりおろす本格派。とっても期待出来そうですけど、これが俳句とどう繋がると?
「とにかく食べてよ、美味しい内にね。お代わりもどんどん出来るから」
遠慮なくどうぞ、と会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に勧められるままに。
「「「いっただっきまーす!!!」」」
とりあえず、まずは食べなくちゃ。腹が減っては戦が出来ぬと言いますもんね!



手打ちざるそばのお昼は最高でした。凝ったお料理やお洒落なパスタもいいですけれど、たまには素材で勝負です。おそばの産地まで行って買って来たんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が自慢するだけあって風味たっぷり、ワサビも新鮮。
「美味しかったー! 何枚食べたっけ?」
数えてなかった、とジョミー君が苦笑するほど男の子たちはお代わり三昧。スウェナちゃんと私も量控えめでお代わりしましたし、新そば、クセになりそうですよ~。
「それはよかった。これならキースも何枚食べても平気かな?」
「「「は?」」」
山と積まれたザルを前にして微笑んでいる会長さん。もしや、さっきの大食いの話は…。
「ざるそばを食べまくって量で感動させるか、名句を詠むか。…それが出来たら、ぼくがキースに手を貸そう。他のみんなは普通に食べればいいからね」
「…待て。俺だけがそばを食べまくるのか?」
「うーん…。そういうわけでもないんだけれど、君以外はペナルティー無しって言うか…。ついでに女子は除外しようかな、誘導係も必要だから」
「「「誘導係?」」」
ざるそばを盛るとか、カウントするとかの係じゃなくて誘導係? いったい何を考えているのでしょうか、会長さんは?
「誘導しないと好き勝手な方に行っちゃうからねえ、アヒルってヤツは」
「「「アヒル?!」」」
ざるそばとアヒルがどう結び付くのか、サッパリ分かりませんでした。しかし、会長さんは指を一本立てて。
「ぶるぅが最近ハマッてるんだよ、アヒルレースに。マザー農場で始まっただろう?」
「あー、この夏の期間限定…」
チラシで見た、とジョミー君。私も折り込みチラシで見ました。アヒルちゃん大好きな「そるじゃぁ・ぶるぅ」が喜びそうなイベントだな、と思っていたら既にお出掛け済みでしたか!
「気が向いた時にヒョイと出掛けて、1レース見て帰ってくるわけ。あれでなかなか奥が深いよ、大穴はおろか本命も当たらないんだな」
「ぼくもブルーも負け続きなの! 一回くらいは勝ちたいなぁ…」
お金は賭けてないんだけれど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。レース会場への入場料で馬券ならぬアヒル券ゲットらしいです。勝てば賞品として新鮮なミルク飲み放題とか、揚げたてコロッケ食べ放題とかだそうですが…。



「あんたならサイオンでレースくらいは弄れるだろう?」
なんで負けが、とキース君が尋ね、私たちもコクコク頷きました。賭けたアヒルを突っ走らせることは無理かもですけど、他のアヒルのコースを妨害する程度なら出来そうです。
「それがね…。相手はマザー農場だろう? 職員は全員、サイオンを持った人ばかりだ。何のはずみでレースに影響を与えてしまうか分からない。そうなった場合、反省会があるんだよ」
それに備えてサイオンの検知装置を仕掛けてある、と会長さん。
「あれはサイオンのパターンを分析できるし、影響したのが誰のサイオンなのか即座に分かる。ぼくもぶるぅも例外じゃない。…アヒルレースに来てズルをしました、というのは不名誉なことだと思わないかい?」
「あんた、一応、ソルジャーだっけな…」
「確かにカッコ悪そうですね…」
シロエ君が苦笑いすると、サム君も。
「引っ掛かったのがぶるぅの方でも、監督不行き届きって言われそうだぜ」
「そういうこと! だから盛大に負けっぱなしで、この夏の間に勝てるかどうか…」
一度は勝って食べ放題、と会長さんが御執心なものはミルクや揚げたてコロッケではなく、単なる万馬券、いえ、万アヒル券というヤツでしょう。夏休みに入れば参加者も増えますし、その分、出やすくなるかもです。でも…。ざるそばとアヒルの関係の答えにはなってませんよ?
「ああ、そこは直接の繋がりは無いよ。…アヒルレースに通ってるからヒョコッと思い付いたってだけのことだしね」
「何を?」
分かんないよ、とジョミー君が直球を投げると、会長さんは。
「ん? ヒントは歌と水鳥かなぁ」
「「「…歌と水鳥?」」」
なんじゃそりゃ、と答えはますます藪の中。歌は俳句で水鳥はアヒルのことでしょうけど、ざるそばの歌ってありましたっけ? 少なくとも私たちがカラオケで歌うような流行りの曲ではなさそうです。んーと、演歌か、それとも民謡…?
「違うね、演歌でも民謡でもない。歌と言ったら三十一文字だよ、かるた大会で毎年、下の句を奪い合うだろう?」
「まさか……和歌か? 俳句を通り越して?」
そっちは俺はまるで詠めない、と白旗を上げるキース君。会長さんを感動させる名句を詠むか、ざるそば大食いで感動させるかが条件です。キース君、大食い決定ですかねえ?



俳句どころか和歌を詠む羽目に陥りそうなキース君はズーン…と落ち込み、それでもグッと両の拳を握り締めると。
「俺も男だ、チャンスを逃すつもりはない。和歌がダメなら大食いで行く!」
「そう焦らずに、話は最後まで聞きたまえ。…確かに和歌とは言ったけれどね」
和歌はアヒルと関係が深い、と会長さんはパチンとウインク。
「アヒルじゃないのは確実だけどさ、アヒルも水鳥の内だから…。水鳥っていう括りでいくとね、和歌との繋がりが生まれるわけ。…曲水の宴って知ってるかい?」
「…アレか、酒の入った盃を小川に浮かべて、自分の前に流れて来るまでの間に和歌を作るというヤツか? 俺はこの目で見た事はないが」
神社のイベントとかでよくあるな、とキース君が答え、私たちの知識もその程度。テレビのニュースなどで目にする程度で、特に興味は無かったのですが。
「それで間違ってはいないんだけど…。盃を直接浮かべるわけじゃないんだよ」
「「「えっ?」」」
違ったんですか、そうだとばかり思ってたのに…?
「盃じゃうまく流れない。それで盃を木の台に乗せて流すというのがお約束。その台のことを羽觴と言ってね、水鳥の形をしているんだな」
「「……ウショウ……」」」
「ウは鳥の羽根で、ショウが盃。漢字で書くとこうなるんだけど」
会長さんがメモに書いてくれた『羽觴』の文字はとても覚えられそうにありませんでした。鳥と盃、鳥と盃……。ひょっとして会長さん、曲水の宴をするつもりだとか?
「ご名答。俳句で追い詰められたキースのために、和歌の代わりに俳句を詠んで曲水の宴! ついでに羽觴は本物のアヒルで」
「「「!!!」」」
それで誘導係が必要だなんて言ってたのですね、分かりました。でも、ざるそばは…?
「アヒルの背中に盃じゃ小さすぎるだろう? アヒルにはザルを背負ってもらう。十割蕎麦を盛り付けたザルを背負ってアヒルが流れを下ってくるんだ」
「じゃ、じゃあ、ぼくたち、俳句を作ってざるそばを…?」
ざるそばはともかく俳句は無理! とジョミー君。けれど会長さんはニッコリと。
「そこはきちんとハンデがつくよ。キース以外は詠めなくっても、ざるそばを食べるだけでいい。これ以上もう食べられない、となったら宴を抜けるのもOKだ。でもね…」
キースはそうはいかない、と会長さんの目が据わっています。ハンデ無しのキース君、どうなっちゃうの…?



ざるそばを背負ったアヒルが泳いでくるらしい曲水の宴。和歌の代わりに俳句を詠めばいいそうですけど、詠めなくっても罰は無し。その例外がキース君で。
「曲水の宴はキースが俳句の会から逃れられるかどうかを賭けたイベントだ。つまり主役はキースになる。主役が敵前逃亡はマズイ。キッチリ俳句を詠まなくちゃ」
制限時間内に、と会長さんの赤い瞳が悪戯っぽく輝いています。
「曲水の宴はルールにもよるけど、歌を詠めなかったら罰盃っていう時もある。それに因んでキースも罰盃! 俳句を詠み損なった場合は、ざるそば追加で」
二枚食べろ、と会長さん。
「そして宴は一回きりではないからね? さっき言ったろ、他の男子は抜けるのもアリ、って。君が名句を見事捻り出すか、でなきゃ感動の大食いエンドか。どっちかになるか、あるいは君が棄権するまでアヒルは何度でも泳いでくるから」
「「「………」」」
凄すぎる、と私たちはゴクリと唾を飲み込み、キース君の顔を凝視しました。こんな恐ろしい宴でもキース君は参加するのでしょうか? それとも諦めて俳句の会に御入会…?
「…受けて立とう」
後ろは見せん、と言い切ったキース君に誰からともなく拍手がパチパチ。会長さんは満足そうに。
「うん、それでこそ男ってね。ぶるぅ、手打ちそば、打ち放題だよ」
「わーい! アヒルちゃんが背負ってくれるんだね!」
頑張るもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大喜びです。アヒルは会長さんがマザー農場から借りるそうですけど、会場になる小川は何処に…?
「それなんだけどさ…。マツカのお祖父さんの別荘に池と小川があったよね? アルテメシアの北の方の…。貸して貰えると嬉しいんだけど」
「いいですよ。いつにしますか?」
空いている日を調べさせます、とマツカ君が執事さんに連絡を取り、曲水の宴の日が決まりました。柔道部の合宿とジョミー君とサム君の修行体験ツアーが終わった二日後、マツカ君のお祖父さんの別荘で。本物のアヒルとざるそばだなんて、ぶっ飛び過ぎてる気もしますけどね。



こうして男子たちが合宿へ、修行へと旅立った後、スウェナちゃんと私は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお供で夏を満喫。フィシスさんも一緒にプールに行ったり、教頭先生の車でドライブしたり。もちろんマザー農場のアヒルレースにも参加して…。
「うーん、今日もやっぱり負けが込んだか…」
大穴なんか狙うんじゃなかった、と呻く会長さんにフィシスさんが。
「レースの前に言いましたでしょ? 私と同じアヒルに賭ければ間違いありませんわ、って」
「君を信じないわけじゃないけど、大穴は男のロマンなんだよ」
「かみお~ん♪ 大穴、狙わなくっちゃね!」
夏の間には絶対、勝つ! と会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」。占いの名手、フィシスさんの助言も聞かないようでは勝てないのでは、と思うのですけど…。
「あんな調子で勝てるのかしら?」
スウェナちゃんも同じ意見のようです。
「そうでしょ、なんだか危なそうよね…」
負け続けで終わりじゃないかしら、と返していると、フィシスさんが。
「私もそれに賛成ですわ。ギャンブルは確実に勝ってこそですの、万馬券よりコツコツ地道に」
今日は揚げたてコロッケに致しましょうか、とフィシスさん。お告げに従って同じアヒル券を選んだスウェナちゃんと私は揚げたてコロッケ食べ放題のコースです。食堂に行ってチケットを見せ、熱々を頬張る私たちの前では、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が串カツを。
「ね、ぶるぅ。食べ放題より色々と食べる方が楽しいよね」
「うんっ! 串カツの次はポテトがいいな♪」
今日も沢山食べるんだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は御機嫌でした。こんな二人に勝利の女神が微笑む日なんて来るのでしょうか? 無理じゃないかな、この夏いっぱい…。



アヒルレースに興じる内に日は過ぎ、精悍な顔になった柔道部三人組とサム君、憔悴しきったジョミー君の御帰還です。歓迎パーティーで一日が潰れ、その翌日が曲水の宴の最終打ち合わせ。明日は瞬間移動でマツカ君のお祖父さんの別荘へ出掛け、其処でアヒルとざるそばと…。
「女子はアヒルの誘導を頼むよ、違う方向へ行こうとしたらコレをね」
目の前にポイと投げるだけ、とアヒルが大好きな穀物、オートムギの袋が示されました。なんとも楽なお役目です。男の子たちは小川の側に座ってアヒルが来るのを待ち、アヒルの背中からざるそばのお皿を取って渡す役目は会長さんが。
「ついでに俳句も採点ってね。キースの短冊が白紙だった時は、ざるそば追加! 他のみんなはペナルティー無し、好きなだけ新そば食べ放題で」
「「「やったぁ!」」」
「くっそぉ、明日は絶対に勝つ!」
何処かで聞いたような台詞をキース君が口にし、大食いだか名句作りだかに燃えてますけれど。
「えーっと…。追加二名でお願いできる?」
「「「!!?」」」
誰だ、と一斉に振り返った先でフワリと翻る紫のマント。会長さんのそっくりさんがスタスタと部屋を横切り、ソファにストンと腰掛けて。
「ぶるぅ、ぼくにもアイスティー」
「オッケー! それとお菓子もだね!」
待っててね、と駆けて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がアイスティーとグレープフルーツのシャルロットのお皿を運んで来ました。ソルジャーはウキウキとシャルロットにフォークを入れながら。
「明日のイベント、ぼくとハーレイも来たいんだけど…。ざるそばの量は足りるよね?」
「何を考えているのさ、君は!」
そんなにざるそばが食べたいのか、と会長さんが叫ぶと、ソルジャーは。
「ざるそばじゃなくて、なんだっけ…。俳句だったっけ? それがやりたい」
「「「へ?」」」
なんでまた、と目が点になる私たち。ソルジャーとキャプテン、俳句なぞとは全く縁がなさそうですけど、いつの間にか始めていたのでしょうか?
「五七五で詠めばいいんだろ? 本式のヤツだと長すぎて無理だけど、そっちだったら出来るでしょう、ってノルディに言われてやりたくなった」
「「「………」」」
よりにもよってエロドクター。なんで何処から、エロドクターが湧いたんですか~!



「なんだか面白そうだったしさ…」
アヒルでざるそば、とソルジャーはシャルロットをモグモグと。
「あっちで覗き見してたんだよね。それでどういうイベントなのかが気になって…。ノルディにランチのお誘いをかけて質問してみた」
「…それで?」
冷たい口調の会長さんですが、ソルジャーが怯むわけもなく。
「お勧めですよ、と言ってたよ。なかなかそういうチャンスは無いから、この際、ぜひとも雅な雰囲気を体験なさってきて下さい、と」
「…全然、雅じゃないんだけれど?」
「分かってる。でもさ…。ノルディが言うには、俳句に変更されている分、初心者でも参加しやすいって…。ぼくもハーレイも一応、稽古はしてるんだ」
五七五のね、とまで食い下がられては断れません。下手に断ったらSD体制がどうこうという反論不可能な必殺技が出るのも必至。会長さんは頭を抱え、キース君も額を押さえていますけれども…。
「…仕方ない…。二人追加だね、君とハーレイ」
「ありがとう! ハーレイもきっと喜ぶよ。明日は遅刻しないよう気を付けるから」
今夜は控えめにしておくね、と言うなりソルジャーは消えてしまいました。お皿は空っぽ、アイスティーもしっかり飲み干してしまって氷だけが。
「なんで、あいつらまで来やがるんだ…」
俺の人生が懸かっているのに、とキース君は深い溜息。ことの始まりの最初の溜息からカウントしたら何十回目だか、とっくの昔に数百回を越えて増殖中か。恐らく家でも吐いてるでしょうし、千の大台に乗ってるのかな…?



キース君の苦悩とはまるで無関係に乱入してきたソルジャー夫妻。翌日の朝、会長さんのマンションに行くと私服の二人が先に到着していました。
「おはようございます。初心者ですが、今日はよろしくお願いします」
「ぼくも初心者だし、お手柔らかにお願いするよ。あ、キース以外はペナルティー無しだね」
心配無用か、と手を握り合って二人はイチャイチャ。こんなバカップルに割り込まれた日には、キース君、名句を捻り出すどころじゃないかも…。
「くっそぉ…。シャットアウトだ、あいつらは視界から消してやる!」
集中あるのみ、とキース君が睨み付ける先にアヒルのケージが。マザー農場から借りて来たアヒルが一羽、のんびり座って羽づくろい。
「かみお~ん♪ お蕎麦の用意も出来たし、お出掛けする?」
「そうだね、キースの覚悟も決まったようだ」
出掛けようか、と会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにゲストのソルジャーの青いサイオンが重なり合ったかと思うと身体が浮いて…。瞬きする間にマツカ君のお祖父さんの別荘の庭に到着です。執事さんが手配しておいてくれたらしく、小川の脇には緋毛氈を敷いた席が七ヶ所。
「いいねえ、すぐにでも始められそうだ。席順はどうする?」
お好きにどうぞ、と会長さん。
「積極的に詠みたがってる初心者を最初に据えるかい? キースの自信がつきそうだけど」
「え、その初心者って、ぼくたちのこと?」
それは照れるな、とソルジャーがキャプテンを見上げると、キャプテンも。
「そうですねえ…。出来れば目立たない最後の方が…」
「だよね、お前もそう思うよねえ?」
「乱入しといて選ぶ権利があると思うわけ!?」
今日の主役はキースだから、と会長さんが眉を吊り上げ、キース君は。
「…いや、初心者を踏み台にして詠んでいたのでは名句はとても…。俺は何処でも気にしない。場に飲まれるようでは大食いの道しか無いと言うことだ」
「ふうん? いい覚悟だねえ、評価はしよう。それじゃ、ブルーはハーレイと一緒に最後の二ヶ所に行くんだね?」
「うん。ハーレイが川上に座るんだ」
「へえ…。なかなかに度胸があるねえ」
こっちのハーレイとは大違い、と教頭先生のヘタレっぷりと比べて会長さんがクスクスと。バカップルの席は決まりましたし、後は適当に散るようですよ~!



キース君が選んだ席は男子五人のド真ん中。ジョミー君、サム君と流れてきた後に一句を詠んで、次へと流すポジションです。詠んだ俳句は短冊に書き、会長さんに手渡す仕組み。全員が席に着き、ざるそばを背負ったアヒルがスタートして…。
「ダメだったぁ~!」
詠めなかった、とジョミー君があっさりギブアップ。会長さんがアヒルの背中から取ったざるそばを麺つゆにつけてズルズルと。新しいザルを「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッと会長さんに手渡し、アヒルが背負ってサム君の前へ…。あっ、ダメダメ、そっちじゃないってば~!
「ナイス! そんな調子で誘導よろしくお願いするよ」
投げ込んだオートムギを食べるべく、アヒルはクルッと軌道修正。サム君の前でざるそばが取られ、サム君は会長さんに白紙の短冊を。やはり簡単には一句詠めないみたいです。
「さてと、キースはどうなるやら…」
鼻でせせら笑う会長さんの声にも無反応なキース君が短冊に筆を走らせ、アヒルが前に到着しました。ざるそばを渡した会長さんが「追加は無しか…」と舌打ちをして短冊に手を。
「俳句の出来はそこそこかな? まあ、頑張って」
「分かっている。いきなり名句が捻り出せたら苦労はせん」
今の一句はウォーミングアップだ、と嘯いているキース君。次の場所に陣取ったシロエ君も負けじと提出したようです。その次のマツカ君も心得があるらしく、会長さんが笑顔で短冊チェック。アヒルはいよいよ初心者なキャプテンの前に到着ですが…。
「頑張ります!」
「「「は?」」」
何も声に出して気合を入れなくても、とドッと笑いが広がる中で、キャプテンは。
「今日もあしたも、ヌカロクで!」
バシャッ! と水音が響き、会長さんが滑らせた手からざるそばがザルごと小川の中へ。
「あーーーっ、ブルー、落っことしちゃダメーーーっ!」
素早く「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオンで拾い上げたものの、食べるのはどうかということで交換に。い、今、なんて言いましたっけ、キャプテンは? 短冊を渡された会長さんの顔が引き攣っています。
「え、えーっと…。これは何かな…?」
「俳句ですが?」
五七五にしたつもりなのですがダメでしょうか、とキャプテンは至極、大真面目。俳句ってあんなのでしたっけ? それにヌカロクって何なのでしょうか、未だに分かってないんですけど…。



斜め上な俳句をかましてくれたキャプテンでしたが、悪意はまるで無いようです。会長さんは頭痛を堪えてアヒルの背中にざるそばを乗せ、終点のソルジャーの所にアヒルがスイーッと。
「ありがとう」
ざるそばを渡されたソルジャーは艶やかに微笑むと。
「期待してるよ、思い切り」
「「「へ?」」」
アヒルに? それともざるそばに? 会長さんが短冊を手に取り、顔を顰めて。
「何さ、これ! 俳句じゃないし!」
「違うよ、ちゃんと五七五! それにハーレイの俳句とセットにするならこうだろう!」
ダメなんだったら書き直す、と短冊を奪い返したソルジャーの筆がサラサラと動き…。
「頑張って、シックスナイン、ヌカロクと! …これで文句は無いだろう?」
「き、君は…。君はいったい、どういうつもりで…」
ブルブルと震える会長さんと、「シックスナインって何だっけ?」と顔を見合わせる私たちと。俳句にしても何か変だね、と思念で囁き合っていると、ソルジャーが。
「だってアレだろ、川を挟んで向かい合ってさ、恋の歌を交わすと聞いたけど?」
ノルディが確かにそう言っていた、とソルジャーは自信満々です。曲水の宴ってそんなのでした? 私たち、イマイチ、詳しくなくて…。
「ノルディに何と質問したのさ!?」
会長さんが怒鳴り付け、ソルジャーは。
「えーっと…。名前を思い出せなかったから、キの付く行事で和歌を詠むんだ、って」
「………。それはノルディの勘違いだよ…。そっちは乞巧奠だってば!」
「「「キッコウデン?」」」
「七夕の行事さ。男女に分かれて天の川に見立てた白い布を間に挟んで、明け方まで恋の歌を交換し合うという習わしが…」
よりにもよって勘違いか、と会長さんが嘆いても既に手遅れ。ソルジャーは自分の思い込みを直そうなどとは思っておらず、もちろん帰る気など毛頭なくて…。



「やりましょう、四十八手もヌカロクも」
キャプテンが詠めば、ソルジャーの返歌。
「ヌカロクを超えて励んで、今夜もね」
もう何度目になるのでしょうか、男の子たちが食べ飽きて座を去ったというのにバカップルの歌は止まりません。いい加減、お腹いっぱいになりそうな頃なのに…。
「ダメだね、後ろにあっちのぶるぅがいるんだよ」
「「「ぶるぅ!?」」」
あの大食漢の悪戯小僧か、と私たちが目をむくと、会長さんが溜息交じりに。
「食べ飽きたらよろしくと言ってあったらしいね、あっちの世界にブルーが転送してるんだ。なにしろ底なしの胃袋だけに、どれだけ食べても大丈夫かと」
「そ、それじゃキースの大食いの線は?」
どうなっちゃうの、とジョミー君が心配そうに見詰める先にはアヒルとざるそば。会長さんがヒョイと取り上げ、キース君の前にざるそばを。
「頑張りたまえ。大食いか、一句捻るかだ。…いいね?」
「うう…。分かっている。あいつらには負けん」
歌でも大食いでも絶対に負けん、と歯を食いしばるキース君の努力を嘲笑うように。
「お望みとあらば一生ヌカロクで!」
「ヌカロクはいいね、今夜もヌカロクで!」
「「「………」」」
終わったな、と私たちはキース君に心の底から同情しました。大食い勝負はソルジャー夫妻の後ろに
「ぶるぅ」がいては勝てるわけがなく、胃袋の限界も近い筈。更に俳句とも呼べない迷句が飛び交う中では名句を捻るなど、まず無理で…。
「…………」
会長さんに短冊を差し出すキース君の額に脂汗が。もう無茶するな、と誰もが叫び出したい気持ちでした。でも、ここで止めたらキース君は俳句の会に入会するしか道が無く…。
「…ん? これは……」
会長さんの目が短冊に釘付けになり、キース君に「筆ペンを貸して」と短く一言。そしてサラサラと何やら書き加えています。もしかしてついに失格ですか? キース君の人生、終わりましたか?



短冊に加筆している会長さん。私たちが無言でつつき合っていると、会長さんは短冊をキース君の手にスッと返して。
「…君の歌だ。今日、即興で作りました、とアドス和尚に渡したまえ」
「「「………???」」」
「君の歌はぼくの心を打ったよ、だけどまだまだレベルが足りない。銀青として添削しておいた。君とぼくとの共作なんだし、堂々と提出できるだろう。清書して渡せば俳句の会には誘われないさ」
息子の方が上手いだなんてアドス和尚のプライドがね…、とクスクス笑う会長さん。
「君の本気が見たかった。ざるそば大食いで根性を見せたら、ぼくの句を渡そうと思っていたんだけれど…。よく頑張ったね、まさか俳句で突破するとは思わなかったな」
「…俺は負けんと言っただろう…。あいつらにだけは、絶対に…負けん…」
だがもう食えん、とギブアップしたキース君に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が胃薬を渡す中、私たちは万歳三唱でした。頑張りましたよ、キース君。これで俳句とサヨナラですよ~!
「負けません! あなたのために何発も!」
「負けないで、ヌカロク超えで頑張って!」
えーっと…。ざるそばを背負ったアヒルはキース君の前でゴールインだと思ったのですが…。
「あいつら、セルフざるそばかよ?」
サム君が呆れ、シロエ君が。
「そうみたいですね。ざるそばだけは山ほど残っていますもんねえ…」
いつまで続けるつもりでしょう、と溜息が幾つも上がる庭の小川をアヒルがスイスイ下ってゆきます。背中にざるそば、下る先にはバカップル。勘違いを貫きまくった二人のお蔭でキース君の名句が生まれたのですし、放っておくしかないんですけど…。
「えとえと、アヒルちゃん、疲れないかなぁ?」
心配そうな「そるじゃぁ・ぶるぅ」に、会長さんが。
「疲れたら勝手に岸に上がるよ、アヒルも馬鹿じゃないんだからね。キースだって此処まで頑張ったんだ、アヒルレースにもきっと勝てる日が来るさ」
「かみお~ん♪ 目指せ、大穴だね!」
バカップルも大概ですけど、この二人だってアヒルレースにかける根性は見上げたものかもしれません。そのせいでキース君はざるそば地獄でバカップル地獄になったんですけど、俳句会からの逃亡、おめでとう。アドス和尚に名句を見せて、晴れて自由の身ですよ、万歳!




        俳句と新蕎麦・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 シャングリラ学園番外編、今回が年内最後の更新です。1年、早いですね~。
 ハレブル別館の始動でご心配をおかけしましたが、無事故で1年、突っ走りました。
 来月は 「第3月曜」 更新ですと、今回の更新から1ヵ月以上経ってしまいます。
 ですから 「第1月曜」 にオマケ更新をして、月2更新の予定です。
 次回は 「第1月曜」 1月5日の更新となります、よろしくお願いいたします。
 皆様、どうぞ良いお年を~!

  
 そして、本家ぶるぅこと悪戯っ子な 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、今年のクリスマスに
 満8歳のお誕生日を迎えます。一足お先にお誕生日記念創作をUPいたしました!
 記念創作は 『待降節のリンゴ』 でございます。
 TOPページに貼ってある 「ぶるぅ絵」 のバナーからお入り下さいv
   ←こちらからは直接入れます!
 毎日更新の場外編、 『シャングリラ学園生徒会室』 にもお気軽にお越し下さいませ~。

毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、12月は暮れのご挨拶のお歳暮で不安な雲行きに…?
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv



 六月初めのある日、登校したブルーは朝のホームルームで今後の人生を左右するであろう大切なプリントを受け取った。他の生徒にとっては何ということもなく、話題にもならない一枚の紙。
 それはプールの授業の開始を控えて保護者が記入する、生徒の健康調査票。
 六月半ばから体育の授業は水泳になるが、プールに入れる状態かどうかを確認するための調査がこのプリントだ。入れない生徒は事情に応じて見学、もしくは教室で自習。
 生まれつき身体の弱いブルーは毎年、これで引っ掛かる。入れないわけでは無かったけれども、実に細かい注意が必要。
 最たるものが「十分ごとに水から上がって五分の休憩」。他にも気温や水温、天候などに応じてプール禁止の指示が出たりするが、一番重要とされているのが休憩だった。
 ブルーは体温の調節が上手く出来ない。体温よりも低い水に入れば当然のように体温が下がり、下がりすぎると体調を崩すことになる。それゆえに水から上がっての休憩が必須。
 世の中便利に出来ているもので、ブルーがプールに入る時には浮遊型の小型ロボットがピタリとくっついて追って来た。十分ごとに審判よろしく「休憩!」とプールサイドへ追い上げ、五分間は水に入らないようキッチリ監視。
 去年までは大して気にしなかったし、追い上げられる前に疲れてしまって休んでいることも多々あったけれど、今年は違った。
 普通の生徒は体育の教師の指示があるまでプールの中に入りっ放しで、それが当たり前。
 ブルーは「プールに入りっ放し」の世界を体験したくなったのだ。



 忘れもしない五月の三日に再会を果たした前世での恋人。
 ソルジャー・ブルーだった自分が愛したキャプテン・ハーレイ。ミュウたちの船、シャングリラの舵を握っていた船長。
 そのハーレイがブルーと同じく青い地球の上に生まれ変わって、ブルーが通う学校に教師として姿を現した。出会った瞬間、ブルーの身体に浮かび上がった前の生での最期の傷痕。聖痕現象と診断された大量出血が切っ掛けとなってブルーとハーレイの前世の記憶が蘇り…。
 以来、週末ごとに逢瀬を重ねて、平日もハーレイの時間が取れれば束の間の逢瀬。
 そんな日々の中で、ブルーは知った。今のハーレイの充実した生を、自分と出会うまでの年月、何を楽しみにしていたのかを。
 運動が好きな今のハーレイ。特に柔道と水泳は賞を取ったり記録を更新したりするほどの腕で、どちらも捨て難いらしい。学校の教師を始めてからも柔道部か水泳部の顧問をやってきたという。現にブルーが通う学校でも柔道部の顧問を務めていた。
 ハーレイが大好きなスポーツの世界。知りたかったし憧れもしたが、身体が弱くて運動も苦手なブルーには些か敷居が高すぎた。柔道なんか出来はしないし、水泳だってろくに泳げはしない。
(でも……)
 プールくらいなら入れるよね、とブルーは考え始めていた。
 泳げなくてもプールに入れば水の世界が近くなる。ハーレイが自由自在に水を掻いて泳ぐ世界に自分も足を踏み入れられる。
 けれど、十分ごとにブルーをプールサイドへと追い上げてしまう小型ロボットが邪魔だった。
 ピタリとブルーの頭上にくっついて進み、「休憩!」とうるさく繰り返すそれ。そんな邪魔者が追って来たのでは水の世界に浸るどころか、興醒めとしか言いようがない。
(…アレさえなければいいんだよ、うん)
 監視されずに思う存分、ハーレイの大好きな水の世界を満喫したい。
 そう考えるブルーの目指す所は監視ロボット抜きでの水泳の授業。その前提として必要なものが今日配られた健康調査票だ。自分の人生を左右する紙を、ブルーは大事に鞄に仕舞った。



 持ち帰った健康調査票。
 母に渡すと、早速かかり付けの医師の診断書を見ながらの記入が始まる。プールに入れる水温や気温、天候などの細かい指示。最たるものが例の休憩なのだが、ブルーは横から注文をつけた。
「ママ。それ、書かないで空けておいてよ」
 言い訳はちゃんと練ってある。
「監視ロボットくっつけてるのって、ぼくくらいだよ。…ぼくだってもう十四歳なのに」
「でも、ブルー。こういうのに年は関係ないのよ」
「関係あるって! ちゃんと自分で時計を見るから! 小さい子供じゃないんだから!」
 監視ロボットつきだと格好悪い、とブルーは唇を尖らせた。
「あんなの誰も連れていないし、ぼくだけだもの!」
「格好悪いって言ったって…。仕方ないでしょ、ブルーは身体が弱いのよ?」
「でも嫌だ!」
 押し問答の末に、母は「そうねえ…」と記入を保留にした。
「パパが帰ったら訊いてみましょう。多分、駄目だと思うけど」
「…でも、嫌だもの…」
 格好が悪い。これだけが決め手。
 母には全く通じない手だが、父なら了承するかもしれない。此処まではブルーの計算通りに事が運んだ。祈るような気持ちで父の帰宅を待ち、健康調査票を突き付ける。
「ねえ、パパ。…監視ロボット、もうくっつけたくないんだけれど…」
「どうしたんだ? アレが無いと誰も時間を計ってくれないぞ。先生だって忙しいんだ」
 そう諭す父に「嫌なんだもの」と訴えた。
「子供みたいでカッコ悪いよ、自分のことなら自分で出来るよ!」
「…うーん、格好悪いと来たか…。確かに気になる年頃かもなあ、身体はうんと小さいけどな?」
「普通だよ!」
「いやいや、充分チビだと思うが、中身はそうじゃないってことだな」
 よし、と父の手がブルーの頭をポンと叩いた。
「それじゃ自分で面倒を見ろ。しかしだ、何かあったら次から監視ロボットつきだぞ」
「うんっ!」
 ブルーは心で「やった!」と快哉を叫び、父が母に「書かないでやろう」と件の部分をブルーに任せる決断を下す。それを受けて母が「挙手した時に適宜休憩させて下さい」と書いた健康調査票を宝物のように持って、翌日、提出。
 これで今年は好きなだけプールに入っていられる。ハーレイが大好きな水の世界に…。



 今の学校で初めての水泳の授業は午後からだった。気がかりだった気温も水温もクリア、絶好のプール日和の青空の下で、ブルーは颯爽とプールサイドに繰り出す。
「あれっ、ブルー、監視ロボットは?」
 前の学校からの友人に訊かれ、ブルーは「いないよ」と得意げに返した。
「ちょっと丈夫になったから…。無しで大丈夫になったから!」
「へえ…! そいつはいいよな、アレ、うるさいしな!」
 ニッと笑って親指を立てた友人は、自由時間にブルーと遊んでいて監視ロボットに邪魔をされた経験多数であった。遊びが最高潮に達していたって「休憩!」とうるさく叫ぶロボット。無視していれば気付いた教師が駆け付け、ブルーを引っ張って連れて行ってしまう。
「アレがいなけりゃ自由ってことだな、今年から?」
「うん!」
 満面の笑みで答えるブルーは御機嫌だった。キラキラと日射しを反射する水も、真っ青に晴れた雲ひとつ無い空も、きっとハーレイが大好きなもの。そして満々と水を湛えたプールも…。
 準備運動を終えて水に入って、最初は自由に過ごせる時間。泳ぐ者やら、水のかけ合いに興じる者やら。ブルーは満足に泳げないから、首だけを出して身体を沈めてみる。浮力で軽くなる身体。
(…わあっ…!)
 前の生で空を飛んでいた時の記憶が蘇ってきた。今は飛ぶなんて出来ないけれども、飛べたならこんな感じだろうか?
(……んーと……)
 こうかな? と身体の力を抜いたら、プカリと仰向けに水面に浮いた。去年までは出来なかった技。前の生での感覚が役に立ったのだろうか。見上げる空も、揺れる身体も気持ちいい。
「ブルー、すげえな! 浮かべるようになったのかよ?」
 泳いで近付いてきた友人に褒められ、気分は上々。これがハーレイの好きな水の世界なんだ、と嬉しくなった。この調子なら下手な泳ぎも上手になっているかもしれない。
(そうだといいな…)
 泳ぎたいな、と期待したのだが、そうは上手くは運ばなかった。浮かべば泳げるというものではなく、それなりの技術が欠かせない。前世の記憶はまるで役立たず、水泳の技量を調べるタイムは悲惨な結果に終わってしまった。でも…。
(…ハーレイは凄く速いんだよね? ホントに凄いや…)
 一番速いタイムを出した生徒でもハーレイには敵わないだろう。その生徒の速さをプールサイドではなく、同じ水の中で体感出来たことが嬉しい。監視ロボットつきであったら何度も休憩時間を挟まれてしまい、タイム計測の間中ずっとプールに居るなんて出来ないわけで。
(良かったあ…)
 長い間プールに入っていられて、とブルーは大感激だった。休憩のことなどすっかり忘れ去り、水の世界に浸ったままで。



 ハーレイが大好きな水の世界は思った以上に気持ちが良くて。以前のブルーが監視ロボットつきだったことを知る友人たちの心配を他所に、うんと泳いで沢山遊んだ。
 もっともブルーの泳ぎは下手くそ、友人たちの指導を受けても全く上達しなかったけれど。失敗して何度も水を飲んだし、かなり疲れてしまったけれども、それでも水の世界は楽しい。
(…ハーレイは上手に泳ぐんだよね…)
 こんな風かな? とイメージどおりに泳ごうとしては失敗ばかり。ゴボッと沈んだり、ゲホゲホ噎せ返る羽目になっても、ハーレイが大好きな水の世界に居るだけで心に幸せが満ちる。
(ハーレイが好きな世界なんだ…)
 前の生で自分が焦がれた地球。今はその地球の上に居るけれど、あの頃に地球を思っていた時のような気持ちでハーレイは水の世界に惹かれるのだろうか…。
 その水の世界に自分が居る。なんて幸せなんだろう。なんて気持ちがいいんだろう…。
(…これがハーレイの大好きな世界…)
 ずっと居たいな、と思ってしまう。けれど授業には終わりがあって、チャイムが鳴って。
 後ろ髪を引かれるような思いでブルーはプールを後にした。水を湛えて光るプールが遠くなる。ハーレイの大好きな水の世界が…。
(でも、またプールの時間があるもんね!)
 監視ロボットに邪魔をされずに過ごした時間は最高だった。次のプールの授業では友人たちから泳ぎのコツを沢山々々教えて貰おう。
 少しでもハーレイに近付きたいから。ハーレイの大好きな世界を味わいたいから…。



(ふふっ、今日はホントに楽しかったな)
 プールを満喫したブルーは大満足の内に終礼を終えて、弾む足取りで学校を出た。ハーレイにも帰り際に廊下で出会って挨拶出来たし、もう嬉しくてたまらない。その気分のまま家の方に向かうバスに乗り込み、空いていた席に座って暫く経って。
(…あれ?)
 ちょっと寒い、とブルーは肩を震わせた。空いていればいつも好んで座る窓際の席。こんな風に寒さを感じたことなど無かったように思うのだけれど…。
(冷房、効きすぎてるのかな?)
 バスの空調は乗客の人数や居場所を計算した上で弾き出される。常に最適な気温になるよう調整されている筈だったが、たまにはこんな日もあるのだろう。
(機械は完璧なんかじゃないしね)
 そのことは誰よりもよく知っている。かつてSD体制が敷かれていた時代、許し難い過ちを犯し続けてミュウを迫害したマザー・システム。あれに比べればバスの空調ミスなど可愛いものだ。
(…でも、もう一枚、シャツがあればいいのに)
 でなければ肩に羽織れるタオルとか。生憎と水泳のために持って来たタオルは濡れてしまって、羽織れば逆に冷えるだけ。
(アルタミラよりはマシなんだけどね…)
 人体実験で放り込まれた絶対零度のガラスケースや、超低温の実験室。あの時の寒さに比べればマシ、と車内の寒さに震えるブルーは知らなかった。
 バスの空調は狂ってなどおらず、快適に保たれていることを。
 自分が寒いと感じる理由は、長時間を過ごしすぎたプールで体温を奪われたせいであることを。



 十分ごとに水から上がって休憩を五分。体温が下がりすぎてしまわないよう、ブルーが守るべきプールでのルール。
 何のために監視ロボットが自分を追っていたのか、ブルーは理解しているつもりで実は出来てはいなかった。自分の身体の弱さを棚に上げ、やりたいことを最優先。その辺りが十四歳の子供たる所以で、結果は実に惨憺たるもの。
 家に帰り付いても震えは止まらず、あまりの寒さに制服のままベッドにもぐり込んだ。上掛けを頭の上まで被って身体を丸めて、懸命にやり過ごそうとするのだけれど。
(……寒い……)
 それに冷たい、とブルーは右手をキュッと握った。
 前の生で最後にハーレイに触れた手。その手に残ったハーレイの温もりを最期まで覚えていたいと願っていたのに、撃たれた傷の痛みの酷さで失くしてしまって悲しくて泣いた。
 ハーレイに会えた喜びの中でいつしか薄れた悲しみの記憶。けれど右手が冷たいと感じた時には思い出さずにいられない。
(…冷たいよ、ハーレイ…。とても冷たい…)
 冷たくて痛い、と凍える右手と胸の奥深くに蟠る深い悲しみとを涙を流して訴えてみても、側に求めるハーレイは居ない。ブルーは冷たいベッドにただ一人、独りぼっちで丸くなるだけ。
 同じ地球の上に、同じ町にハーレイが居るというのに温めてくれる手は何処にも無かった。
(…寒いよ…。ハーレイ、手が冷たいよ…)
 泣きながら眠ってしまったブルーの体温は戻らず、母が様子を見に来たことにも気付かないまま眠り続けて、やがて夕食の時間になって。
「ブルー、晩御飯よ? どうしたの、ブルー!?」
 真っ暗な部屋と、ベッドにもぐって死んだように動かないブルー。慌てて駆け寄った母の悲鳴で目覚めたブルーは「…ママ……」と弱々しい声を返すのが精一杯だった。
 発熱とは違い、その反対。ぐったりとしたブルーの冷え切った身体は平熱どころか下がりすぎていて、母に上掛けを追加された上、熱すぎるほどのホットミルクまで飲まされた。
「…ブルー。プールで休憩を忘れたんでしょう?」
「……ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声で答えたブルーは母に叱られ、翌日の登校も禁止されるという有様。ハーレイに会うために無理をしてでも行きたい学校。それなのに…。
(…ハーレイに会えない……)
 こんなに右手が冷えて冷たくて、凍えるのに。こんな時だからこそ会いたいのに。
(……ハーレイ……)
 冷たいよ、と母に押し込まれたベッドでブルーは右の手を握り、ハーレイの名を何度も繰り返し呼び続けた。温もりを失くしてしまった手が冷たい、と…。



 その夜は悲しい夢ばかりを見ていたような気がする。
 右の手が冷たかったから。前の生の最期に冷たくて泣いた、右の手が凍えてしまっていたから。
 目覚める頃には体温も戻り、身体もずいぶん軽くなっていたが登校は許して貰えなかった。それどころか母は学校に欠席の連絡を入れるついでに健康調査票の訂正を届け出たと言う。
「格好悪いとか、そういう問題じゃないのよ、ブルー。身体が一番大切でしょう!」
 母の怒りはもっともなもので、ブルーは反論する術が無い。父も「そういう約束だったしな」と母の肩を持ち、水泳の授業は次から監視ロボットつき。
 ハーレイが好きな水の世界と無制限に戯れられる機会を奪われ、ブルーの気分はドン底だった。おまけに今日一日はハーレイに会うことも出来ず、家で大人しくしているしかない。
(……あんなに楽しかったのに……)
 プールは本当に楽しかった。いつまでも入っていたいと思った。
 けれど憧れた水の世界はブルーの身体に合わないもの。体温を奪い、悲しい記憶まで呼び起こすほどの非情さすらも帯びた世界で、厳しいもの。
(…でも、ハーレイの大好きな場所なんだ…)
 そのことが酷く辛くて悲しい。
 ハーレイが好きな水の世界が自分には向いていない事実も、自由に入ってゆけないことも。



 日が暮れるまでベッドの中で、あるいは上で膝を抱えて丸くなっていた。
 弱すぎる身体も悲しくて情けなかったし、ハーレイに会えずに終わる一日も辛い。すっかり暗くなってしまった部屋で涙がポロポロと頬を伝った。
(……ハーレイ……)
 自分とハーレイとの間に横たわる距離。現実の距離も、水の世界で隔てられた距離も、今のブルーには遠すぎる。どうすればいいと言うのだろう。どうすれば距離が縮まるのだろう?
 答えが見つかる筈も無かった。
 ブルーは水には長く入っていられないのだし、ハーレイの家は何ブロックも離れた先で。今日が休日なら家を訪ねて来てくれるけれど、平日に来てくれることは少なくて…。
(…ハーレイ……)
 会いたいよ、と昨夜一晩中、凍えていた右の手をキュッと握って呟いた時にチャイムが鳴った。客人の来訪を告げる門扉の脇にあるチャイム。
 もしや、とブルーの心臓が跳ねる。もしかしたらハーレイが来てくれたのかも、と。



 間違っていたら悲しすぎるから、期待はしないようにしていた。それでも胸がドキドキ脈打つ。階段を上がる足音がしないか、扉をノックする音がしないか。
 好きでたまらないハーレイの声が自分の名前を呼びはしないか…。
「……ブルー?」
 軽いノックの音が聞こえて、部屋の扉がカチャリと開いた。そして明かりが点けられる。絶対に聞き間違えはしない声。見間違う筈もない褐色の肌の、大きな身体をした恋人。
「…大丈夫か、ブルー? 明日は学校に来られそうか?」
 ハーレイがベッドの脇に置かれた椅子に腰掛け、穏やかな声で問い掛けた。
「プールで冷えすぎちまったそうだな。また食事をしてないんじゃないかと、スープを作りに来てやったんだが…。どうする、俺のスープにしておくか?」
 前の生でハーレイが作ってくれていた素朴なスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、味付けは基本の調味料だけ。青の間のキッチンでコトコトと煮込まれたそれが大好きだった。
 今の生でもブルーが寝込むとハーレイがたまに作りに来てくれる。ハーレイ曰く「野菜スープのシャングリラ風」。そのスープの味も捨て難かったが、今、欲しいものは…。
「…スープもいいけど……」
 手が冷たい、と差し出した右手をハーレイがギュッと握ってくれた。ハーレイはブルーの右手が凍える理由を知っている。何故冷たいのか、どうして凍えてしまうのかを。
 自分の温もりを移すかのように大きな両手で包み込みながら、時折、擦ったりもして。ブルーの心が温もりに満たされ、その頬が幸せに緩むのを待って、ハーレイはもう一度尋ねてきた。
「もう充分に温かそうだが、明日も休む気か? それとも俺のスープを飲むか?」
「…明日も休むのは嫌だけど…。今日はスープより、ハーレイの手がいい」
 まだ冷たくて凍えそうだから、とブルーは右の手を温めてくれとハーレイに強請る。
「まったく…。そもそも、なんだってプールで無茶をしたんだ」
「……ハーレイの好きな水だったから」
「は?」
「…ハーレイが大好きなプールだったから、同じ世界を感じたかった…」
 失敗をしてしまったけれど。
 そう言ったブルーの言葉にハーレイの手が一瞬、微かに震えて。



「……大馬鹿者が」
 お前は馬鹿だ、と罵ったくせに、ハーレイの腕はブルーを広い胸へと抱き込んだ。
「…本当に馬鹿で無茶だ、お前は。…何も変わっていやしない」
 一人でメギドへ飛んだお前だ、と息が止まるほどに強く抱き締められて。
「…何もかも一人で勝手に決めて、無茶をして…。俺はお前に一緒に生きて欲しいと思うが、俺と全く同じ道を歩けとは決して言わない。俺の道がお前にもピッタリ合うとは限らないんだ」
「……そうみたいだね…。ぼくにプールは無理みたいだけど、それでも嬉しかったんだ」
 …少しだけハーレイの世界が分かった。
 そう話したらハーレイの腕の力がもっと強くなり、息をするのも苦しいほどで。でも…。
「…ハーレイ、ぼくが温めて欲しいのは右手。…それにね…」
 やっぱり野菜スープも欲しいかな。
「それだけ我儘が言えるようなら、もう平気だな」
 出来るまで少し待ってろよ、とハーレイが野菜スープを作りに階下のキッチンへ下りてゆく。
 部屋を出てゆくその背を見ながら、ブルーはそれは幸せそうな笑みを浮かべた。
(…ハーレイ…。無茶をしちゃってごめんね、ハーレイ)
 野菜スープを作りに来てくれてありがとう。
 ぼくの凍えてしまった右手を温めてくれてありがとう…。
 君の大好きな水の世界はぼくの身体には厳しすぎたけど、それでも体験出来て良かった。
 あれが今の君が大好きな世界。ふわりと身体が浮き上がる世界。
 君が大好きな世界だったから、無茶をしてでも見たかった。
 もう学校では次の機会は無さそうだけれど、いつか大きくなったなら…。
 君と一緒に暮らせる時が訪れたならば、もう一度、君と見てみたい。
 無茶だと君は怒るだろうけど、見たいんだ。だって、君の大好きな世界だから……。




        君の好きな世界・了


※お読み下さってありがとうございました!
 ブルー君を追い掛けていた「浮遊型の小型ロボット」のモデル、お気付きでしょうか。
 アニテラでジョミーがサッカーしていた時の審判ロボットですv

 作品世界を壊さないよう、私語は控えておりますが…。
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 夏の初めの土曜日の朝。いつものように部屋の掃除を終えたブルーは、閉じた窓から下を眺めてハーレイが来るのを待っていた。少し前までハーレイが来る日は窓を開け放っていたのだけれど、そうするにはもう暑すぎる季節。生まれつき身体の弱いブルーは暑さにも弱い。
(…ハーレイ、まだかな…)
 今日は朝から良く晴れているし、ハーレイは歩いて来るだろう。眩しい日射しに目を細めながら待っていたブルーの瞳が待ち人を捉える。
(あっ、半袖!)
 その姿に胸がドキリと跳ねた。学校では長袖のワイシャツを着ているハーレイ。今週は今日より暑い日もあったというのにハーレイは長袖、ボタンも襟元までキッチリ留めていた。
 そんなハーレイが半袖姿で、襟元も大きく開いたラフなシャツ。家で過ごすのと同じ服装で来てくれたのだ、と実感できる。ブルーの家を訪ねて来る時、ハーレイはいつも普段着なのだが、より寛いだ姿に思える半袖シャツがなんだか嬉しい。
(…ふふっ)
 早くもっと近くで見たいな、とブルーは窓に張り付いた。門扉の前で待っているハーレイ。母は急いで開けに行ったのに、それでも遅いと感じてしまう。
(半袖かあ…)
 シャングリラでは見なかったよね、と幸せな気分に包まれた。アルタミラの研究所から脱出した直後は半袖シャツだったけれど、研究所を思い出させる半袖の服は皆に不評で、自分の身体に合う服が手に入った者から順に長袖に切り替わっていったと記憶している。
 一番身体が大きかったハーレイは最後の方。それでも一ヶ月もかかりはしなかった。
 いつしか半袖に対する抵抗が無い世代が増えても、シャングリラのクルーは基本は長袖。長老と呼ばれるようになったハーレイやゼルたちはもちろん長袖、プライベートでも長袖で…。
 遠い過去に思いを馳せている内に扉がノックされ、母がハーレイを案内してきた。
「ブルー、おはよう。今日は暑いな」
「うん。ハーレイの半袖を見たら分かるよ」
 母が用意したアイスティーとお菓子を前にして向かい合う。扉が閉まって、足音が階段を下りて消えると二人きりの時間。
 ブルーは半袖姿のハーレイをまじまじと見詰め、袖から覗いた逞しい腕に見惚れたのだけれど。
(…あれ?)
 もしかして、もしかしなくても。
 ハーレイのむき出しの腕を目にすることなど、ソルジャーとしては一度も無かったのでは…。
 ソルジャー・ブルーだった前世で何度も見ているけれど、その時の自分はソルジャーではなく、ハーレイもまたキャプテンではない時しか腕など見せなかったのでは…?



(…そうだったっけ…!)
 ブルーの鼓動が早くなる。
 前の生でハーレイのむき出しの腕を目にしていたのは、青の間か、もしくはハーレイの部屋で。バスローブの袖から覗いた腕とか、肩に羽織った大判のタオルの下からだとか。
 今の半袖から覗いているほどの範囲の肌が見える時と言えば、ベッドで愛し合う時とその前後。それ以外では見ていないのだ、と気付いたブルーは頬がカッと熱くなるのを感じた。
(…ど、どうしよう……!)
 ハーレイに変に思われる、とキュッと目を瞑ったのがまずかった。頬が赤らんだだけならさして気に留めずに流されていたかもしれないけれど、俯き加減で目を閉じた上に頬が赤くては…。
「どうした、ブルー?」
 大きな手が頬に触れてきて、ブルーはますます真っ赤になった。
 前の生ではこうして目を閉じている時に頬に触れられたら、続いてキスが降ってきた。それから逞しい腕にふわりと抱き上げられてベッドに運ばれ、ハーレイがキャプテンの制服を脱いで…。
 筋肉に覆われた褐色の腕。
 二人きりの時間を、恋人同士の時を過ごす時しか見ることが無かったハーレイの腕。
「……ブルー?」
 もうダメだ。ブルーは俯いたままでキュッと閉じていた瞼を開くと、両方の頬に触れている恋人を上目遣いに睨んで小さく叫んだ。
「…ハーレイのバカッ!」
「な、なんだ、いきなり?」
 驚いて手を離したハーレイに「バカッ!」ともう一度叫んでやった。
 自分の気持ちが、ドキドキ脈打つ鼓動の早さが分からないなんて酷すぎる。こういう時はなんて言えばいいんだったっけ?
 鈍感な恋人にぶつける言葉で、「バカ」よりももっとピッタリな言葉があった筈。
(…えーっと、えーっと……)
 懸命に考えるブルーの心も知らずに、またハーレイが「どうしたんだ?」と頬に触れて来た。
 とっくに耳の先まで赤いだろうに、もっと赤くなれと言わんばかりに頬を優しく撫でる手。普段なら甘えて頬を擦り寄せてしまうのだけれど、今日ばかりは違う。
(酷いってば…!)
 こんなに真っ赤になっているのに、この仕打ち。この無神経さ。その瞬間にパッと閃いた。
「デリカシーに欠けているってば!」
 ブルーの愛らしい唇から放たれたそれに、ハーレイは文字通りポカンと口を開けたのだった。



 脹れっ面になったブルーからハーレイが事情を聞き出すまでには、かなりかかった。
 完全に機嫌を損ねたブルーは拗ねてしまって唇を固く引き結んでしまい、そのくせにチラチラと赤い瞳がハーレイを見ては逸らされる。そして不自然に赤い頬。
 何事なのか、と慌てたハーレイはブルーの好きな菓子を自分の分も譲ってやったり、機嫌を取るべく小さな右の手をそっと握ってやったり。
 前の生の最期にハーレイの温もりを失くしたと泣いたらしいブルーは右手を握ってやると喜ぶ。赤ん坊をあやすようなものだな、と思ったことまであったくらいに小さな右手は温もりを求める。その右の手を握り、もう片方の手で何度も何度も撫でてやる内に、ようようブルーは口を開いた。
 そして聞かされた「バカ」の理由は、実にとんでもないもので。
「…つまりだ。…俺は半袖シャツを着ているだけで、デリカシーに欠けているんだな?」
 ハーレイはフウと溜息をついた。
「仕方ないな、次から長袖で来るか。今日の所は勘弁してくれ…って、そいつはダメだな」
 デリカシーに欠けるんだったな、とさっきよりも深い溜息をつくと椅子から立ち上がった。
「…ハーレイ?」
 怪訝そうなブルーにこう答える。
「一度帰って着替えて来るさ。ついでに昼飯も食ってくるから、また後でな」
「えっ……」
 ブルーの表情がみるみる変わった。ブルーの家から何ブロックも離れたハーレイの家。そこまで歩いて往復するだけでも一時間では終わらない。そこへ昼食の時間が加わると、ハーレイの帰りは早くて昼過ぎ、下手をすればもっと後になるかもしれないわけで…。
 縋るような赤い瞳が「行かないで」と揺れているのを承知の上でハーレイは軽く手を振った。
「じゃあな、また来る」
「ダメッ…!」
 行っちゃ嫌だ、とブルーが部屋を出ようとするハーレイの腕に両腕でギュッとしがみ付く。
 離すまいと力をこめて身体ごとピタリとくっついているブルーの頭をハーレイは笑いながら軽くポンポンと叩いてやった。
「…ほら見ろ、克服できたじゃないか。もう半袖でも大丈夫だな?」
「…あっ……!」
 直視出来なかった筈のハーレイの腕に密着している自分に気付いたブルーは真っ赤になったが、もうハーレイに文句は言えない。それに恥ずかしさも何処かへ吹き飛んだ気がするし…。
「……ごめんなさい……」
 八つ当たりしちゃった、とブルーは素直に謝った。最初は嬉しいと思った半袖。それなのに自分一人で勝手に怒って、膨れて、拗ねて。
(……ぼくって子供だ……)
 ごめんなさい、と謝るブルーを、ハーレイは笑って許してくれた。



 こうしてブルーは半袖姿のハーレイにも慣れ、心臓がやたらと脈打つことも無くなった。初めて見た日に感じたとおりの気取らない姿を見られることが嬉しく、心浮き立つ間に夏休みが来て。
 平日でもハーレイが訪ねて来る日々が始まったものの、毎日というわけにはいかない。ハーレイの仕事は教師なのだし、夏休み中でも研修もあれば、顧問を務める柔道部で一日潰れることも。
 しかし部活のある日も基本は午前中のみ、午後になれば学校で昼食を済ませたハーレイが来る。そういう日には朝から首を長くして待つのが常となったある日。
「…ハーレイ、まだかな…」
 ブルーは壁の時計を見上げた。もうすぐ正午で、母と階下で昼食の時間。食べ終えて部屋に戻る頃にはハーレイの部活もとうに終わって、昼食か、あるいはプールで泳いでいるか。
(…ホント、ハーレイ、凄すぎだよね)
 夏休みの初日に教えて貰った柔道部がある日のハーレイ自身のスケジュール。朝から柔道部員と一緒に走って、それから技の指導など。部活が終わればプールに出掛けて軽く泳いでくるという。水泳部の生徒たちに混ざってコースを何往復もするのが「軽く」だなんて信じられないけれど。
 その後はブルーがバスで通う距離を歩いて家までやって来るわけで…。
(…プールで泳いだ後だし涼しい、って言っているけど暑いよね…)
 ブルーにはとても無理な芸当。運動も無理だし、暑い盛りに歩くのも無理。
「ブルー、そろそろお昼にしましょう!」
 母の呼ぶ声に「はーい!」と返事し、ブルーは軽い足取りで階下に向かった。ハーレイも今頃は食事だろうか? 早く来てくれるといいのだけれど…。



 昼食が済んで部屋に戻って、また時計を見る。ハーレイが来る時間まではもう少しあって、多分今頃は食事か、プールか。食べた後に直ぐに泳げるハーレイは凄い。
(…今日もお昼の後だよね、きっと)
 その方が涼しく歩いて来られる、と前にハーレイが言っていた。きっと髪の毛は軽く撫でつけただけで、太陽の光で乾かしながらの道中だろう。
(もうプールから上がったかな?)
 ザバッと水から出て来る姿を思い浮かべた、その瞬間に。
(ダメダメダメ~~~ッ!)
 ブルーは真っ赤になった顔を両手で覆った。
(…は、は、裸……!)
 どうして今まで全く気付かなかったのだろう。ハーレイは昔から水泳が得意だったと聞いていたから、颯爽と泳ぐ姿ばかりを想像していて服装にまで気が回らなかった。
 プールで泳いでいるということは水着姿で、どう考えても最小限の部分しか覆われていない。
 いつだったかハーレイの前で膨れてしまった半袖どころの騒ぎではなくて、殆ど裸。前の生では愛し合う時かその前後にしか見てはいなかったハーレイの身体。
(…………)
 たとえ水着を着けていたって直視出来ない、とブルーは耳の先まで熱くしたのだけれど。
(……でも……)
 その一方で見たい気もする。今の生ではキスすら許してくれないハーレイ。その先となればいつになるやら見当も付かず、本物の恋人同士として結ばれる日は遠そうで…。
(………それまでは見られないんだよね?)
 前の生で強く抱き締めてくれたハーレイの身体。華奢だった前世の自分と違ってガッシリとした筋肉質の褐色の身体を思い出すと胸がドキドキしてくる。
 キスすらダメでも、その先のことはもっとダメでも、気分だけでも…、とブルーは思った。あの懐かしい身体を見てみたい。そうしたらきっと幸せ一杯、希望も膨らむに違いない。いつかは必ずあの身体と…、と夢見るだけでも幸せな気分が訪れる筈で。
「…見に行きたいな……」
 そう呟くともう止まらなかった。ハーレイがプールで泳ぐ姿を、いや、プールから上がった水着姿のハーレイを見たい。夏の暑さは苦手だけれども、見られるのならば外出くらい…!



 しっかり決意を固めたブルーはハーレイの来訪を胸を高鳴らせて待ち、自分の部屋で二人きりになって向かい合うなりアイスティーも飲まずに切り出した。
「ねえ、ハーレイ。…次に柔道部がある日って、いつ?」
「……明後日だが?」
 だから明日は朝から来られる、とハーレイは普段どおりにアイスティーを飲んでいるのだが。
「えっとね、明後日、行ってもいい?」
「何処にだ? 用事があるなら別に止めはせんが、俺は来なくてかまわないのか?」
 ブルーの目的が何処にあるのか知らないハーレイの返事は些か的外れだった。しかしブルーは気にするでもなく、ニッコリ微笑む。
「帰りはハーレイと一緒がいいな。ぼくと一緒にバスに乗ってよ」
「は?」
「だ・か・ら! 明後日はぼくも学校に行くから、プールが済んだら帰ろうよ」
「お前、明後日は登校日だったか?」
 一向に噛み合ってこない会話に、ブルーは「もうっ!」と焦れながら。
「そうじゃないってば、ぼくは見学! ハーレイを見に行くんだってば!」
「……柔道部をか? それは構わないが、だったらプールはやめておくかな」
「なんで?」
「帰りが遅くなるだろう? その分、余計に暑くなるしな。昼飯もお前の家で食べるか」
 お母さんの手を煩わせないように何か適当に買って帰るか、というハーレイの意見は至極当然なものなのだけれど、それではブルーの目指す所から大きく外れる。ブルーが見たいのは柔道部ではなくて水着姿のハーレイで…。だから「ダメッ!」と即座に叫んだ。
「お昼は別にどうでもいいけど、プールはダメっ!」
「だから入らないと言っただろうが」
「違うよ、プールは入らなきゃダメ! ぼくはプールを見に行くんだから!」
「………プール?」
 プールはハーレイの担当ではなく、あくまで趣味の範疇である。どうしてブルーが柔道部ならぬプールなんぞを見学したいと希望するのかサッパリ分からず、ハーレイは首を捻るしかなかった。
「なんでプールを見たいんだ? 俺は適当に泳いでるだけで、指導は全くしていないんだが」
「水泳のことはよく分かんないけど、ハーレイ、プールじゃ水着だよね?」
「当然だろうが、プールだぞ?」
「だったら充分! ぼくは水着が見たいんだから!」
 行っていいよね? と強請るブルーの真意が全く掴めないまま、「ああ」と答えそうになった所でハーレイの勘が働いた。もしやブルーがプールにこだわる理由は…!



「おい、ブルー」
 嫌な予感に襲われながらも顔には出さずに、ハーレイは赤い瞳を見詰めた。
「…お前、いつだったか俺に言ったよな? デリカシーに欠けるとか、そういうことを」
「えっ?」
「俺が半袖で初めて来た日だ。…そう言ったお前に同じ台詞を二度も言われたくはないからな…。いいか、俺はプールじゃ水着一丁で、半袖どころの騒ぎじゃないぞ」
 分かっているのか? と顔を覗き込めば、ブルーの頬がみるみる赤く染まって。
「………それでもいいよ」
 そう答えて下を向いてしまったブルーの姿に、ハーレイは己の勘が当たっていたことを知った。ブルーがプールに来たがる目的は、あろうことか水着姿の自分を見るため。それも格好いいとかの憧れの気持ちでは無く、同じ憧れでも至ってけしからぬ発想からで…。
「ブルー、お前な…」
 ハーレイはフウと大きな溜息をついた。
「お前、ロクでもないことを考えてるな? 俺の裸の一歩手前を見たいんだろうが」
「…………」
 沈黙は金とは誰が言ったか、今の場合は全く当てはまらない。ブルーが下手に言い訳するより、その沈黙こそが何を考えていたかの動かぬ証拠だ。
 まったく、年相応に小さくて幼いくせに、何を考え付くのやら…。
 苦笑いしたいハーレイだったが、いくらブルーが子供であっても譲れないものは存在する。水着姿目当ての見学などは言語道断、それはキッパリ断らなければ。
「ブルー。…そういう不純な目的を持って神聖な水泳部の活動場所を覗きに来るな」
 いいな、と念を押せばブルーがキッと視線を上げた。
「誰も絶対、気が付かないって!」
「そりゃそうだろうさ、傍目にはチビが居るだけだしな」
「チビは酷いよ!」
 噛み付いてきたブルーに、ハーレイは「そうか?」と笑ってみせる。
「俺の目には小さなお前が映るが、それでも俺には大きな脅威だ」
「…何が?」
「お前がだよ。…小さくてもお前は俺のブルーだ。そのお前が良からぬ目的を持ってプールの俺を見に来たとなれば、俺はとっても困るんだがな?」
「どうして?」
 見てるだけだよ、と首を傾げるブルーは分かっていない。そんなブルーが愛しいけれども、この愛くるしい赤い瞳でまじまじと水着姿を見詰められたら……。



「……お前なあ……」
 ハーレイは眉間の皺を深くしつつも、唇には笑みを湛えて言った。
「お前がそういう目で見ていると気付いちまったら、俺はプールから出られんだろうが」
「恥ずかしいのはハーレイだけだよ、ちゃんと水着を着てるんだもの」
「だから余計に出られないんだ、どうしてくれる」
「なんで?」
 何故ハーレイがプールから出られないのか、ブルーは不思議でたまらなかった。
 いくら自分が眺めていたって気にせずに出ればいいものを…。ドキドキするのは自分だけだし、ハーレイには関係ない筈だ。いつもどおりにすればいいのに、どうして出られないのだろう? 
 キョトンとしているブルーの額をハーレイの指がチョンとつついた。
「なあ、ブルー。お前、いつも俺になんて言っているんだ? 本物の恋人同士とやらはどうした」
「えっ…???」
 それに気が付いたから、見に行きたいのに。
 そう言わんばかりの顔をしたブルーに向かって、ハーレイは「ん?」と微笑みかけた。
「長い間やらなかったら忘れちまったか? 俺はどうやってそういうことをしてたんだっけな?」
「…そういうことって?」
「お前と本物の恋人同士になる時だ。そういう時には…」
「あっ…!」
 其処まで言われて、ブルーはようやく気が付いた。ハーレイが水着で覆っている部分。その下にあるものがどう変化を遂げ、前の生での自分を愛したのかを…。
 もしも自分が見ていたばかりに、同じ変化が起こったら。
 ハーレイはプールから出られないだろうし、それは確かにマズすぎる。でも、でも、でも…。
「ハーレイのバカッ!」
 ブルーはまたしても耳の先まで真っ赤に染めると、「バカバカバカッ!」を連発した。
 気付かなかった自分も悪いが、前の生での秘めごとについて具体的に説明しなくても…!
 こういう時に叫ぶ台詞は、確か前にも叫んだ言葉で…。
「デリカシーに欠けているってば!」
 桜色の唇から飛び出した叫び。
 かくしてハーレイは二度目の罵声を浴びせられたわけだが、その表情は「してやったり」と言わんばかりのものだった。
 これでブルーはプールには来ない。これから先も思う存分、水を満喫できるのだ。



 あまりと言えばあんまりであり、当然と言われれば当然とも言うべき理由で門前払い。
 プール見学の夢が空しく潰えたブルーは、ハーレイがプールで泳いでいるであろう時間に時計を眺めては小さくも熱い溜息をつく。
 今の生では当分見られそうもないハーレイの褐色の大きな身体。
 それを自分が目にする時には、多分、本物の恋人同士。その日が来るまでは見られそうになく、だからこそ余計に想いが募る。
 前の生で自分を抱き締めてくれた、あの逞しくて大きな身体。
 自分が大きく育った時まで見られないなんて酷いと思うし、お預けだなんて酷すぎる。
(…やっぱり、ちょっとだけ見たいんだけどな…)
 でもハーレイは困るかな、と「デリカシーに欠けた」例の発言を思い出す。
 大好きなハーレイを困らせることはしたくなかったし、諦めるしかないのだけれど。
(……でも見たいよね……)
 この時間には、学校のプールかプールサイドに水着姿のハーレイが居る。
 自分には決して見せてくれない褐色の身体を惜しげなく晒して、夏の日射しの下に居る。
(…見たいんだけどな…)
 でもダメだよね、とブルーは前の生へと思いを馳せる。
 あの褐色の大きな身体が自分を包んで、愛してくれた遠い日のこと。
 幸せに満ちた恋人同士の熱い時間を再び手に出来る日まで、どれだけ待てばいいのだろうか…。



 同じ頃、ハーレイの方も水から上がってプールサイドをぐるりと見渡す。
 見学者用の屋根のある場所にも、柵の向こうにもブルーはいない。
(よしよし、ちゃんと言い付けを守っているな)
 見たい気持ちは分からんでもないが、と心の中で呟きながら着替えのためにロッカー室へと歩くハーレイには実は前科があった。
 まだ夏休みに入る前のこと。自分の授業が無い空き時間にプールの脇を歩いていたら。
「おーい、ブルー!」
 そう叫ぶ男子の声が聞こえた。ブルーという名の生徒はこの学校には一人しかいない。反射的に声がした方を振り向こうとしてハッタと気付いた。
 声がしたのはプールから。ブルーのクラスが水泳の授業中なのだ。
(…水着か!)
 水着のブルーか、とハーレイの鼓動が早くなった。
 今の生では当分先まで拝めそうもないブルーの裸身。水着つきでも拝んでみたい。
(……す、少し小さいが…。いや、かなり小さすぎるんだが…!)
 だが見たい、と透き通るような白い肌への想いが募る一方で。
(いや、いかん! これでは覗きと変わらないぞ…!)
 教え子の水着姿を覗くなんぞは最低なんだ、と自分自身を叱咤したものの。
(しかしだ、俺が体育の教師だったら当たり前のように見るわけだしな?)
 たまたま古典の教師になったが、体育教師の選択肢も無かったわけではなかった。もしも体育の教師として出会っていたなら水着姿は拝み放題、見て当然の職だったわけで…。
(よしっ!)
 葛藤の末に「俺は今だけ体育教師だ」と自分自身に言い訳をして「えいっ!」とばかりに視線を向けたブルーが授業中の魅惑のプール。
 其処にブルーは居なかった。正確に言えば期待通りのブルーが居なかったと言うべきか…。
(…ブ、ブルーは見学だったのか…!)
 見学者用の屋根の下の椅子にチョコンと座った制服のブルー。その赤い瞳が自分を捉える前に、と慌てて走り去った日から、もうどのくらい経ったのか。
「……あの時の罰が当たったかもなあ……」
 夏休みの間中、居もしないブルーの影に脅かされるのだろうか、とハーレイは深い溜息をつく。
 とはいえ、やはりブルーは愛おしい。今日も急いで行ってやらねば、と気持ちを切り替え、服に着替えて暑い日射しの下へ出た。
(待ってろよ、ブルー。もうすぐ行くから)
 道の照り返しもなんのその。恋人の許へと歩くハーレイの足は疲れ知らずで軽かった。




          夏に着る物・了





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