シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…?)
困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。
それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。
会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
待てよ…?
天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。
遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。
それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。
他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。
願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
天使、いるよね?
本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。
前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
俺たちの様子を見に来たってか?
あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。
こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
とても優しいキスだったけれど。
ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。
あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
ケチと言われようが、睨まれようがな。
俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。
そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。
天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。
白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。
我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。
天使が通る時・了
※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
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困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。
それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。
会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
待てよ…?
天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。
遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。
それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。
他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。
願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
天使、いるよね?
本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。
前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
俺たちの様子を見に来たってか?
あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。
こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
とても優しいキスだったけれど。
ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。
あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
ケチと言われようが、睨まれようがな。
俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。
そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。
天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。
白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。
我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。
天使が通る時・了
※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
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「こらあっ、そこ!」
今、何をしてた、と響き渡ったハーレイの声。教室中に、窓のガラスまで揺れそうなほどに。
ブルーも含めて教室の皆が驚いた。いったい何が起こったのかと、誰もが目を丸くしている中。並んだ机の間の通路を、ゆっくりと歩いてゆくハーレイ。一足、一足、踏みしめるように。
やがて止まった、一人の男子生徒の側。彼の机を指でトン、と叩くと…。
「出せ、今のを」
此処に、と促す机の上。「今のを此処に出すんだな」と。
「何もしていません!」
男子生徒は叫んだけれども、顔には「違う」と書かれている。そういう表情なのだから…。
「俺には何か見えたんだがな?」
確かに見たぞ、とハーレイの方も譲らない。「早く出せ」と。
「見間違いです、先生の!」
「…そうか?」
俺はそうとは思わんが、とハーレイが手を突っ込んだ机。「なら、確かめてみるとするか」と。中を探って、引っ張り出して来た漫画の本。「読んでたろうが」と机の上に。
男子生徒は顔色を変えたけれども、それでも懸命に言い張った。
「いえ、この本は休み時間から入れてただけで…」
授業のチャイムが鳴ったんで、此処に入れたんです。別に鞄に入れなくても…。
みんな色々入れてますよね、漫画でなくても。お弁当とか、本だとか…。
漫画の本だって同じなんです、と必死の言い訳。ハーレイに発見されたのだったら、読んでいたことは確実なのに。それでも彼は「やっていない」と繰り返すから…。
「いい度胸だ。なら、手を出せ」
「え?」
目を見開いた男子生徒に、ハーレイはこう言葉を続けた。
「出したくないなら、手を出さなくてもいいんだが…。この距離だったら簡単だからな」
言わない以上は、読むしかなかろう。…お前の心。
手を握れたら俺も楽だが、出さないのなら仕方ない。いいから、そのまま座ってるんだな。
「せ、先生…?」
「お前が潔白だったら謝る。俺の目が節穴なんだから」
だが、違ったなら、宿題をサービスするからな?
お前は授業中に漫画で、俺に嘘までついたんだ。やっていない、と。…さて、読むとするか。
俺か、お前か、どっちの言うことが正しいか…、とハーレイがスウッと細めた目。
「待って下さい!」
読んでました、と男子生徒は白状した。「すみませんでした」と肩を落として、ションボリと。
「やっぱりか…。嘘をつくだけ無駄だってな。こいつは俺が貰っておく」
後で職員室まで取りに来い、と没収されてしまった漫画。それに一人だけに出された宿題。自白した分、サービスだとかで少なめに。他の生徒よりは遥かに多いけれども。
「お前が白状していなかったら、本当はこれだけ出したいトコだ」と、サービスで減らした量を強調されて。
「これに懲りたら他のヤツらも気を付けろ」と、ハーレイは教室の前に戻った。「続けるぞ」と授業の続き。何も起こりはしなかったように。
授業が終わって、ハーレイが去って行った後。男子生徒の机の周りは賑やかだった。他の男子に取り囲まれて、呆れられて。
「馬鹿だよな、お前。…なんで漫画を読んでたんだよ」
ハーレイ先生、背が高いんだぜ。他の先生より、ずっと上から見えるじゃねえかよ。
机の下で読んでいたって丸見えだ、とワイワイと騒ぐ男子たち。「読むなら他の時間だ」とも。
「読みたかったんだよ、続きが気になって…」
丁度いいトコで、授業のチャイムが鳴ったから…。読みたくなるだろ、そういう時って?
「…それで没収されてしまったら、続きどころじゃねえと思うぜ」
ハーレイ先生、丸ごと持ってっちまったじゃねえか。取りに行けるの、放課後だぞ?
それまで全く読めやしねえし、読めねえ上に宿題のオマケも貰っていりゃあ、世話ねえよ。
もう本当に馬鹿としか…。他に言いようがねえってモンで…。
教室中が呆れてるぜ、と男子生徒の友人たちは容赦ない。「女子も馬鹿だと思ってるぞ」と。
「……俺も自分でそう思う……」
俺が馬鹿だった、と項垂れている生徒。ハーレイが「後で」と言ったからには、もう放課後まで読めない漫画。取り戻すまでは、どんなに続きが気になっても。その上、宿題まで出された彼。
(ホントに馬鹿かも…)
分かってないよね、と思ってしまう。ハーレイにバレてしまった時点で、もう隠したって無駄というもの。「やっていません」と嘘をついても、心を読まれておしまいなだけ。
さっきハーレイが言っていたように、「俺か、お前か、どっちが正しい?」と読まれる心。
(タイプ・ブルーの生徒だったら、大丈夫かもしれないけれど…)
心の遮蔽が強くなるから、そう簡単には読まれない。先生が読もうと頑張ったって。
とはいえ、前の自分が生きた頃より増えてはいても、今も少ないタイプ・ブルー。大抵の生徒は心を読まれたら、おしまい。叱られるだとか、没収だとか、宿題を沢山サービスだとか。
放課後になったら、例の男子は「また叱られるよな…」とハーレイの所に出掛けて行った。没収された漫画を返して貰いに、付き添いの友達も何人か連れて。
それを見送った後に家に帰って、いつものようにダイニングでおやつ。母の手作り、熱い紅茶も淹れて貰って、のんびりと。
「御馳走様」と二階の部屋に戻ったら、思い出した男子生徒の顔。今日の出来事、それも古典の授業中のこと。没収されてしまった漫画と、宿題サービス。
(ぼくなら、ハーレイの授業の時間に漫画なんて…)
絶対、読まない、と勉強机の前に座って考える。漫画でなくても、他の本でも。どんなに続きが気になっていても、そんなものより、ハーレイの授業の方が好き。
下を向いて何か読んでいたなら、ハーレイの顔が見られない。大好きな声だって聞き逃すから。心が他所に行ってしまって、恋人を忘れてしまうから。
せっかく、其処にいてくれるのに。学校では「ハーレイ先生」でも。
(他の先生の授業の時でも、やらないけどね?)
バレたら心を読まれるだとか、没収だとか、そういうのとは関係無しに。学校は勉強をする所。先生の授業を聞きに行く場所、休み時間や放課後以外は。
勉強をするために登校したのに、他のことなんて、とんでもない。いつも真面目に聞く優等生。余所見もしないし、他のことをコソコソやったりもしない。
(でも、授業中に他の色々なこと…)
やっている生徒は時々いる。漫画を読むとか、大胆な場合はコッソリお弁当だとか。
どんなことでも、先生にバレたら、今日の生徒と同じコースで…。
(隠すだけ無駄…)
やっていないと主張したって、心の中身を読まれておしまい。「全部、心に書いてあるが」と。
バレた後には叱られる。隠そうとしていたことも含めて、それは厳しく。
下の学校の頃から、何度も見て来た叱られる生徒。先生に心を読まれてしまって、隠そうとしたことの分までお仕置き。宿題サービスとか、先生のお手伝いだとか。
やっていない、と隠しおおせた生徒は一人も見たことが無いのだから…。
(タイプ・ブルーがいなかったんだよ)
きっとそうだ、と考えた。悪さをしていて、先生に見付かった生徒の中には一人も。自分が通う学校では。…下の学校でも、今の学校でも。
そうでなければ、先生もタイプ・ブルーだったか。悪さを発見した先生の方も。
(先生もタイプ・ブルーだったら…)
いくら生徒がタイプ・ブルーでも、敵わない。力不足の子供は勝てない。
心を遮蔽しようとしたって、経験不足。子供なのだし、上手く心を隠せはしない。先生の方が、何枚も上手。タイプ・ブルー同士の対決でも。
(ぼくだって、タイプ・ブルーだけれど…)
力不足とか、経験不足以前の問題。とことん不器用になったサイオン。前の自分の頃と比べて、雲泥の差どころの騒ぎではない。サイオンは無いも同然なくらい。
前と同じにタイプ・ブルーでも。最強の筈のタイプ・ブルーに生まれて来ても。
そのサイオンを上手く扱えないから、心の中身は読まれ放題。先生に横に立たれたら。睨んで、「手を出しなさい」と言われなくても、きっと。
わざわざ手まで握らなくても、とうに心が零れているから。「バレちゃった」と。
(悪い生徒じゃなくて良かった…)
ホントに良かった、とホッと安堵の息をついたら、気付いたこと。
悪さをしていたのが先生にバレて、隠そうとしても無駄だということ。当然だよね、と叱られた生徒を見ていたけれど。「ぼくなら、しない」とも思ったけれど…。
その隠し事、と心を掠めたこと。隠そうとする生徒と、暴く先生との攻防戦。今日までに自分が見て来た勝負は、悉く先生の勝ちだった。どう隠したって、先生に敵いはしないから。
(今の時代だと、普通だけど…)
自分もすっかり慣れていた。隠そうとしても、心を読まれてしまうこと。授業中の悪さが先生にバレたら、何処の学校でも起こるのだろう。
そういう場面に限らなくても、心を読むということは普通。人間はみんな、ミュウだから。
社会のマナーで、読まないのがルールになっているだけ。まだまだ小さな子供同士なら…。
(当てっこだとか…)
そんなゲームをしたりもする。色々な物を一人が隠して、他のみんなで捜しにゆく。隠し場所は何処か、心を読んで。「何処なのかな?」と心を覗き込んで。
そういう遊びで、隠した方も読まれないように努力するもの。サイオンの扱いが上手い子供は、偽の情報を流すことだってある。「あそこだよ」と全く違う場所を心に思い浮かべて。
人気の高い遊びだけれども、サイオンが不器用な自分は全く出来ない。どう頑張っても、隠した子の心が見えないから。覗き込むことさえ出来ない始末。
(ぼくの友達、あのゲームは…)
ルールを変えてくれていた。不器用すぎる自分のために。他の子たちは、元のルールで楽しんで遊べる筈なのに。
(ぼくが何にも読めないから…)
心の中身を読ませる代わりに、言葉でヒントを出す方法。「大きな木だよ」とか、「水がある」とか。大きな木ならば、公園には何本も生えているのに。水がある場所も幾つもあるのに。
ヒントでも充分、楽しめたゲーム。隠し場所は木の側の水飲み場だったり、そんな具合で。
サイオンはまるで駄目な自分も、そうやって遊んでいたけれど。心の中身を読み取れないから、ルールを変えて貰ったけれど…。
(みんなミュウだから、誰も変だと思わないだけで…)
心を読まれるのは、自分の力が足りないから。先生に悪さがバレてしまうのも、遊びで頑張って隠した何かが、発見されてしまうのも。
どちらも、心を隠し通せない自分が悪い。力不足で、自分の責任。
でも…。
隠せずに読まれてしまうこと。心の中身を読まれてしまって、知られること。
(人類だったら…)
今はもう宇宙の何処にもいない、人類と名乗っていた種族。前の自分が生きた時代に、ミュウを殲滅しようと努力した者たち。
彼らだったら、どうだっただろう?
どういう風に感じたのだろう、心を読まれるということを。心の中身を他の誰かが容易く読んでゆくというのに、自分は全く読めはしなくて、欠片も掴めないことを。
(怖くない…?)
そのことが、とても。
人類同士なら何も起こらなくても、ミュウと出会ったら起こる出来事。自分にしか見えない筈の心を、心の中身を知られてしまう。
それが敵意でなかったとしても。好意だとしても、口にする前に。
素敵な何かをプレゼントしようと、驚かせたくて何処かに隠して持っていたって。
(…怖いし、それになんだか嫌だ…)
ぼくだって、と思った「心を読まれる」こと。いつも心が零れてしまって、何かと失敗しがちな自分。ハーレイはもちろん、友達相手にコッソリ計画してみても。
いったい何度失敗したのか、自分でも数え切れないほど。つい最近のことだけでも。
心の中身がバレてしまっても、けして嫌だと思いはしない。怖いと思うことだって無いし、逆に情けない気持ちになるだけ。「ぼくって、駄目だ」と。「また失敗だよ」と、肩を落として。
(今は、誰でもミュウだから…)
そういう世界に生きているから、サイオンが不器用な自分のせいだと思うだけ。もっと器用なら読まれはしないし、不器用なのも自分の個性。
他の人たちには簡単なことが出来なくたって、ミュウには違いないのだから。サイオンは自分も持っているのに、使いこなせないだけだから。
けれど…。
もしもサイオンが無かったら。…不器用に生まれたわけではなくて、自分が人類だったなら。
(…サイオンなんかは持っていなくて、この世界に独りぼっちなら…)
戦争も武器も無い平和な世界が、恐ろしく見えるかもしれない。殺されたり、追われたりしない世界でも。誰も自分を嫌わなくても、とても親切な人ばかりでも。
周りの人たちは、心の中身を読むのだから。言葉にしなくても、「どうぞ」と欲しかったものを差し出して来たり、手を貸してくれたりするのだから。
(ぼくには当たり前だけど…)
不器用なのだし、なんとも思いはしない。物心ついた時には、そういう世界にいたのだから。
自分は上手く読めないけれども、他の人たちは心を読み取る世界。「ぼくって駄目だ」と思っていれば良かった世界。ゲームのルールも変えて貰って。
そんなものだ、と幸せに生きて来たのだけれども、たった一人の人類だったら恐ろしいだろう。心を読まれているというのに、自分の方では欠片も読めはしないのだから。
しかも自分とは異なる種族。家族でもなければ友達でもない、そんな者たちに囲まれて、一人。
(…ミュウが嫌われたの…)
無理もないかも、と今頃、分かった。人類がミュウを恐れた理由。
人の心を食う化け物、と言われた理由も。
ミュウは土足で人の心に踏み込むから。遮蔽できない人類の心、それを端から読み取るから。
恐れ、忌み嫌い、蔑む気持ち。「化け物」とミュウを嘲笑いつつも、人類はいつも恐れていた。この瞬間にも、心を読まれているのだと。自分の心はミュウに筒抜けなのだから、と。
(…アルタミラでも、いつも怖がられてた…)
気味悪がられていた自分。たった一人のタイプ・ブルーで、それは酷い目に遭わされたのに。
自分も人類を恐れていたのに、彼らの方でも怖がっていた。「化け物だから」と、人類とは違う生き物だと。
触れることさえ嫌がる気配を感じたくらいに、ミュウを嫌悪した人類たち。研究者たちも、檻を管理していた者たちも。
そうだったのか、と今になってやっと理解した。人類がどうしてミュウをあんなに恐れたのか。人の心を食う化け物だと忌み嫌ったのか。
(今のぼくは、幸せに育って来たから…)
何も怖がりはしないだけ。自分の心を読まれることも、自分ではまるで読めないことも。
不器用なのだし仕方がない、と残念に思っていたくらい。「もっと器用になりたいよ」と。
けれど突然、今のような世界に放り込まれてしまったら。
此処で幸せに育つ代わりに、ある日いきなり、心を読める人ばかりが住む世界に向かって、突き落とされてしまったら…。
(絶対、怖い…)
怖くて、とても気味悪い。自分は心を読めもしないのに、周りの人々は読むのが普通。どういう仕組みになっているのか、言葉にする前に先回りされる。あらゆる場面で。
自分には、それが出来ないのに。…相手が何を思っているのか、その欠片さえも見えないのに。
(…ホントに怖くて、どうしたらいいか分からなくって…)
きっと外にも出られなくなる。外に出たなら、心の中身を誰もに読まれてしまうのだから。何を考えながら歩いているのか、皆に筒抜けなのだから。
…どうして気付かなかったのだろう。その怖さに。恐ろしさに。
人類がミュウに覚えるだろう恐怖、それを微塵も考えもせずに、歩み寄れると思ったのだろう。ミュウと人類とは手を取り合えると考えた自分。ソルジャー・ブルーだった、前の自分。
あまりにも考えなしだった。人類の心を思うことさえしなかった。
ミュウがサイオンを封印するなら、歩み寄れたのかもしれないけれど…。
(サイオンを持ったままだったら…)
忌み嫌われてしまって当然、恐れられるのも当然のこと。
人類にすれば、歩み寄りたくもないだろう。近付いたならば、一方的に読まれる心。隠す術さえ持っていないのに、勝手に心を覗き込まれて。
ミュウ同士ならば、隠せるのに。読まれたくないことは隠しておけるし、それが出来ないなら、自分の力が足りないだけ。そういう時には、「読まないで欲しい」と伝えることも出来るのに。
人類には心を隠す方法が無かったのだ、と気が付いた。不器用な今の自分と違って、サイオンを持たなかった人類。ミュウならそれを持っているのに、人類は持っていなかった。
サイオンが不器用な今の自分には、少しだけ分かる人類がミュウに覚えた恐怖。
(…間違えちゃってた…)
前の自分の考え方。心から願った、ミュウと人類との共存。
けれども、サイオンを捨てるか、封印でもしない限りは、人類はミュウを怖がるだけ。ミュウに近付いたら、心を読まれてしまうから。「読まないで」と伝えることも出来ずに。
その状態では、歩み寄れていた筈もない、と考えていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。ミュウは怖いね」
「はあ?」
どう怖いんだ、と瞬いた鳶色の瞳。「お前も俺も、ミュウなんだが?」と。
「そうだけど…。人類から見たミュウのことだよ」
「なんだって?」
人類ってことは、前の俺たちの時代の話か、それは?
確かに人類軍と派手に戦いはしたが…。勝ったわけだし、怖かったのかもしれないが…。
「えっとね…。戦いが始まってからじゃなくって、それよりも前」
今日のハーレイ、生徒に注意してたでしょ?
漫画の本を没収してたよ、その前に脅していたじゃない。心を覗けば全部分かる、って。
あれで気が付いたよ、あの力、人類には怖いんだよ。…自分の心を読まれちゃうこと。隠そうとしても隠せなくって、何もかも知られてしまうってこと。
今のぼくだと分かる気がするよ、人類はきっと怖かったんだ、って。
ぼくのサイオン、とことん不器用になって、あの頃の人類とそれほど変わらないんだから。
「なるほどな…。今のお前は、心を読まれないように遮蔽することは出来ないか…」
前のお前ならば完璧だったが、それとは逆というわけだな。
「そう、読むことも出来ないんだよ」
ホントに人類と似たような感じ。…ミュウの世界に一人だけ混じってしまったみたいに。
ぼくは慣れてるから平気だけれども、人類は怖かったと思う。…ミュウが現れたら、心の中身をすっかり読まれてしまうんだから。
その人類とミュウが初めて顔を合わせたのが、前のぼくたちが生きてた時代、と説明した。心を読まれることを恐れる種族と、心を読むのが当たり前の種族。
「前のぼくの考え、間違っていたよ。…そう思っちゃった」
ソルジャー・ブルーは甘かったんだ、って。人類の気持ちをまるで分かっていなかったんだよ。
「分かっていないって…。どういう風にだ?」
前のお前も色々と考えていた筈だが、とハーレイが首を捻るから。
「ミュウのことを理解して貰おう、っていう考え方。…分かり合えると思っていたこと」
人類とミュウは兄弟なんだ、って思ってたけど、それは間違ってはいないんだけど…。
サイオンを捨てなきゃ駄目だったんだよ、本当に分かり合いたかったら。
ミュウだけが人類の心を読めるというのは、ちっとも公平なことじゃないでしょ?
サイオンを捨てることが無理なら、封印する方法を開発するとか…。
「封印するって…。APDか?」
人類のヤツらが開発していた、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あんな具合に、サイオンが効かないようにする道具を、人類が持てば良かったと…?
「違うよ、APDは人類が開発したんだけれど…。人類に作らせていたんじゃ駄目」
作って下さい、ってお願いするんじゃなくって、ぼくたちが開発するべきだったんだよ。
サイオンを無効化する方法を、自発的にね。…人類がミュウを怖がらなくても済むように。
そうしていたなら、人類も考えてくれていたかも…。話し合うことを。
「ふうむ…。そいつは一理あるかもしれないな」
キースの野郎が捕虜になってた時、ジョミーに訊いたそうだ。「星の自転を止められるか」と。
ジョミーは、「やってみなければ分からない」と答えたらしいんだが…。
その時、キースはこう言った。「その力がある限り、分かり合うことは出来ない」とな。
「…そうなんだ…」
星の自転とは違うけれども、人の心を読むのも同じサイオンだから…。
サイオンがあったら駄目ってことだよね、キースがジョミーに言った言葉は…。
遠い昔に、キースがジョミーに投げ掛けた問い。それに、その答えを受けてぶつけた言葉。
キースには見えていたのだろうか。人類とミュウの間に横たわる溝、深い問題の根本が。
前の自分は気付かないままで終わったけれども、キースは見抜いていたろうか?
サイオンという力の怖さも、それがあったら人類がミュウを恐れることも。
「…キース、気付いていたのかな…。どうして人類はミュウを怖がるのか」
ミュウには心を読み取る力があるから、心を隠すことが出来ない人類にとっては怖い存在。
そのままだと分かり合うなんて無理で、サイオンを捨てて来ないと駄目だ、って。
「…多分な。しかし、キースはそれを克服したんだろう」
ミュウはサイオンを持ったままでいたのに、手を取り合う道を選んだんだから。
あいつを褒めたいとは思わないんだが、その点は評価してやってもいい。
ミュウへの恐れを克服出来た所だけはな、とハーレイが言うから、尋ねてみた。
「それが出来たのって…。キース、心を読まれない訓練を積んでいたからかな?」
とても凄かったよ、キースの心理防壁は。…本当にこれが人類なのか、って思うくらいに。
そういう心を持っていたから、他の人類も努力次第で何とか出来ると思ったのかな…?
「むしろ逆だと思うがな? 俺は」
前のお前も、それにジョミーも少しは読んだと聞いているしな、あいつの心。…違うのか?
「そうだけど…。それがあったら、どうして逆なの?」
分からないよ、と瞳を瞬かせたら、「読んだんだろう?」と返った言葉。
「お前もジョミーも、読まれないように訓練していたキースの心を読んじまった」
読まれる恐怖を知ったわけだな、キースが初めて知った恐怖だ。…ミュウの本当の恐ろしさ。
こうして心に入り込むのかと、防ぐ方法は無いらしい、とも。
そいつを思い知らされちまって、その上で色々と考えることになったんだろう。人類の指導者としてな。人類とミュウに分かれた現状をどうするべきか、次の時代にどう繋ぐのか。
ミュウ因子の排除というのも含めて、キースは何年も考え続けた。
そして導き出した結論があれだ。
SD体制もマザー・システムも時代遅れだという、大演説。
自分がグランド・マザーに粛清されても、人類が正しい道を選んで進んでゆけるように、と。
お蔭で今の平和な時代がある、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「キースの選択は正しかった」と、ミュウへの恐怖を克服出来たからこそだ、と。
「あいつが決断していなかったら、もっと長引いていただろう。…地球までの道は」
ミュウの時代が訪れるのも、遅くなっていたに違いないな。
「…キース、偉いね…」
心を読まれて怖かったんなら、徹底的に退治してもいいのに…。そうするつもりだったのに。
ナスカをメギドで焼いた時には、そういうつもりだったんだよ。…一人残らず滅ぼすつもり。
でも、考えを変えちゃった…。いろんな条件が重なったにしても、キースが一人で考えて。
だから偉いよ。グランド・マザーは、そういう風にしろとは絶対、言わないのに…。
マザー・イライザも、そんな風には、キースを育てていない筈なのに…。
「どうなんだかなあ…。偉かったことは確かだろうが…」
時代はミュウに味方していた。トォニィたちが生まれたことも、ジョミーの両親や、スウェナのようなミュウの理解者が現れたことも、その証拠だ。
キースが決断しなかったとしても、いずれはミュウの時代になった。…キースが国家主席の間は無理でも、次の時代か、その次にはな。
「そうだろうけど…。そうなる前にキースが決めたよ、ミュウと一緒に生きてゆくことを」
キースは本当に偉かったんだよ。ミュウを受け入れる決断が出来ただなんて。
ぼくなら、怖くて出来たかどうか…。
心を読まれることの怖さも知ったんだったら、余計にミュウが怖くなりそう。
「…出来そうにないのは、今のお前か?」
前のお前なら、自分がどんな思いをしたって、世界を優先しそうだからな。
「うん…。今のぼくだよ、ミュウの怖さに気が付いた、ぼく」
サイオンがとことん不器用なせいで、今頃、分かったんだけど…。人類の気持ち。
「今のお前は弱虫だしな? そんな考えになっちまうほど」
もしも自分が人類だったら、と考えただけで怖いと思っちまう弱虫。
キースとは違うさ、人類の世界を背負うためだけに作り出されたヤツとはな。
機械に作り出された割には、人間くさいヤツだったが…、という所で止まった言葉。
「おっと、あいつを褒めすぎちまった。…俺としたことが、お前のせいで」
キースの野郎を偉いだなんて、俺の台詞とも思えんな。
まったく…、とハーレイは苦々しい顔。「俺はあいつが嫌いなのに」と。
「ううん、ハーレイもキースを分かってくれているんだな、って嬉しいよ、ぼく」
いつもキースの悪口ばかりで、会ったら一発殴りたいとか、そんなのばかり。
だけど、ハーレイもちゃんと分かってるんだよね。…本当のキースは偉いってことが。
ホントに嬉しい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
ハーレイのキース嫌いは酷くて、何度も心を痛めたから。「ぼくのせいだ」と。
前の自分がメギドで撃たれなかったら、キースは其処まで憎まれていない。撃たれた傷痕と同じ聖痕、それをハーレイが見ていなかったら。
「…俺は分かりたくもないんだが…」
キースの偉さなんていうのは分かりたくないし、認めるつもりも無いんだが?
お前に釣られて、ついつい余計なことまで話してしまっただけで。
俺はキースを許しはしない、とハーレイの眉間の皺が深めになったけれども。
「いつか分かるよ、ハーレイにもね。…そして嫌いじゃなくなるってば」
ハーレイがキースを嫌いになったの、前のぼくを撃ったせいだから…。
でもね、ぼくはハーレイの所に帰って来たでしょ、チビだけど。
まだ小さいけど、大きくなったら、前のぼくと同じになるんだよ。…ホントにそっくり。
だからキースは悪くないってば、ぼくは帰って来たんだから。
「…そいつはキースのお蔭じゃないと思うがなあ…」
あいつは全く関わっちゃいないぞ、お前が生きて帰って来たことに関しては。
これは神様が起こした奇跡で、聖痕までつけて下さっただろうが。
聖痕のお蔭で、キースの罪がバレちまったってな。…前のお前に何をしたのか。
あいつの心は読めなかったが、神様が教えて下さった。あいつが隠してやがったことを。
あの馬鹿野郎が何処に逃げても、見付けた時には、俺は必ず殴ってやる。
生憎とまだ出会えないがだ、許してやるつもりは全く無いぞ。…この手であいつを殴るまでは。
しかし、お前は此処にいるよな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「俺のブルーだ」と、「うんと不器用だが、お前だよな」と。
「…本当にお前なんだろうか、と思っちまうくらいに、サイオンは不器用になっちまったが…」
おまけにチビだが、お前は俺のブルーなんだ。…前の俺が失くしちまったお前。
生きて帰って来てくれたんだよな、もう一度、俺の目の前に。
「そうだよ、これが今のぼく。…人類みたいになっちゃったけど」
サイオンは殆ど使えないから、タイプ・ブルーだなんて、嘘みたいだよね。…誰が見たって。
お蔭で、人類の気持ちが分かったけれど…。ミュウが本当に怖かったんだ、って。
前のぼくの考え、やっぱり間違ってた?
ミュウはサイオンを捨てるべきだったの、でなきゃ封印するだとか…?
サイオンを持ったままで人類と分かり合おうなんて、ぼくの考え、甘すぎたかな…?
「間違っちゃいないさ、前のお前は。…前のお前の考え方は」
今の時代は、人間はみんなミュウばかりだ。誰もがサイオンを持っているだろう?
お前みたいに不器用なヤツでも、サイオンはちゃんと備わっている。それが大切なことなんだ。
普段は心を読んだりしないし、それが社会のマナーでもある。
だがな、派手な喧嘩をしちまった時とか、友達との仲がこじれた時には、サイオンの出番だ。
こういう風に考えてます、と相手に直接伝えられるし、心を読んで貰うことも出来る。
心を読むのが得意じゃないお前も、「読んで下さい」と明け渡されたら読めるだろ?
そうやって誰もが分かり合える世界、そいつがミュウの世界だってな。
心の底から分かり合えるからこそ、平和なんだ。…戦いも無ければ、武器も要らない。
本気の喧嘩は、何処からも起こらないからな。殴り合いになっても、その場限りでおしまいだ。後でよくよく考えてみれば、「悪かったかな」と思うモンだから…。
其処に気付いたら、言葉にしにくい気持ちは心を見て貰う。それで解決しちまうわけで…。
こういう社会は、サイオン抜きでは無理なんだ。…人類に合わせて封印したなら、もう駄目だ。
だから、前のお前は間違っていない。サイオンは人間に必要な進化だったんだから。
「そっか…。サイオンのお蔭で、平和な時代になったんだよね…」
サイオンを封印してしまっていたら、今もミュウ同士で何処かで戦争だったかも…。
お互いの心が分からなかったら、本気の喧嘩がこじれてしまって、戦争になってしまうから…。
間違えていなかったんなら良かった、とホッとついた息。前の自分の考え方。
サイオンはあっても良かったんだ、と。
「…前のぼく、間違えちゃったのかと思ったよ…」
人類から見たら、ミュウはとっても怖そうだから…。そんな感じがしちゃったから。
とても怖いと思われてたのに、怖い力を振りかざしながら「仲良くしよう」って言う方が無理。
それに気付かないで過ごしてたなんて、間抜けだよね、って思っちゃったから…。
でも、間違えてはいなかったんだ…。サイオンが必要な進化だったら。
「当然だろうが、それでこそミュウだ。…ミュウはサイオンを持っていてこそなんだぞ」
そいつを封印しちまうだとか、無効化してまで人類に媚を売ってもなあ…。
何の解決にもなりやしないぞ、平和な時代は来やしない。…サイオン抜きの世界だなんて。
前のお前のことだとはいえ、否定しちゃいかん、自分をな。
間違えたように思えていたって、そいつが正しかったんだから。
「…自分を否定したら駄目って言うなら、ぼくの不器用さは?」
とっても不器用で、思念波もろくに使えなくって…。心はいつも読まれ放題。
ハーレイにも、友達にも、ぼくの考え、筒抜けになってしまうんだけど…。
脅かしてやろう、ってワクワクしてても、その前に気付かれちゃうんだけれど…。
「そいつも俺には愛おしいってな、守り甲斐があって」
もう本当に不器用だからなあ、危なっかしくて見ちゃいられない。
お前ときたら、其処の窓から落っこちたら骨が折れるんだろうし…。池に落ちたら溺れるし。
そうならないよう、俺が一生、お前を守るしかないってな。
前のお前なら、俺が守られる方だったんだが…。
お前を守る、と偉そうなことを言っていたって、シャングリラごとお前に守られていたからな。
前のお前みたいな無茶はするなよ、と釘を刺されたけれど。
鳶色の瞳に見据えられたけれど、ハーレイの心配はもう要らない。
平和な時代に命懸けの無茶はもう出来ないから、それに弱虫になってしまったから…。
今度は守って貰うだけ。
ハーレイに側で守って貰って、幸せに生きてゆけばいいだけ。
不器用すぎて心を読むことも出来ないけれども、読まれる一方なのだけれども。
人類と違って、ちゃんとミュウなのだし、何も怖がらなくてもいい。
周りが器用な人ばかりでも、心を読める人ばかりでも。
みんなが自分を気遣ってくれるし、必要だったら遊びのルールも変えてくれたりする世界。
其処に生まれてハーレイと二人、手を繋ぎ合って生きてゆく。
青い地球の上で、何処までも二人、幸せに微笑み交わしながら…。
読まれる心・了
※人類が何故、ミュウを恐れたのか、今になって理解したブルー。心を読まれる恐ろしさを。
そしてキースは、読まれる怖さを知ったからこそ、あの選択をしたのかも。考え抜いた末に。
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今、何をしてた、と響き渡ったハーレイの声。教室中に、窓のガラスまで揺れそうなほどに。
ブルーも含めて教室の皆が驚いた。いったい何が起こったのかと、誰もが目を丸くしている中。並んだ机の間の通路を、ゆっくりと歩いてゆくハーレイ。一足、一足、踏みしめるように。
やがて止まった、一人の男子生徒の側。彼の机を指でトン、と叩くと…。
「出せ、今のを」
此処に、と促す机の上。「今のを此処に出すんだな」と。
「何もしていません!」
男子生徒は叫んだけれども、顔には「違う」と書かれている。そういう表情なのだから…。
「俺には何か見えたんだがな?」
確かに見たぞ、とハーレイの方も譲らない。「早く出せ」と。
「見間違いです、先生の!」
「…そうか?」
俺はそうとは思わんが、とハーレイが手を突っ込んだ机。「なら、確かめてみるとするか」と。中を探って、引っ張り出して来た漫画の本。「読んでたろうが」と机の上に。
男子生徒は顔色を変えたけれども、それでも懸命に言い張った。
「いえ、この本は休み時間から入れてただけで…」
授業のチャイムが鳴ったんで、此処に入れたんです。別に鞄に入れなくても…。
みんな色々入れてますよね、漫画でなくても。お弁当とか、本だとか…。
漫画の本だって同じなんです、と必死の言い訳。ハーレイに発見されたのだったら、読んでいたことは確実なのに。それでも彼は「やっていない」と繰り返すから…。
「いい度胸だ。なら、手を出せ」
「え?」
目を見開いた男子生徒に、ハーレイはこう言葉を続けた。
「出したくないなら、手を出さなくてもいいんだが…。この距離だったら簡単だからな」
言わない以上は、読むしかなかろう。…お前の心。
手を握れたら俺も楽だが、出さないのなら仕方ない。いいから、そのまま座ってるんだな。
「せ、先生…?」
「お前が潔白だったら謝る。俺の目が節穴なんだから」
だが、違ったなら、宿題をサービスするからな?
お前は授業中に漫画で、俺に嘘までついたんだ。やっていない、と。…さて、読むとするか。
俺か、お前か、どっちの言うことが正しいか…、とハーレイがスウッと細めた目。
「待って下さい!」
読んでました、と男子生徒は白状した。「すみませんでした」と肩を落として、ションボリと。
「やっぱりか…。嘘をつくだけ無駄だってな。こいつは俺が貰っておく」
後で職員室まで取りに来い、と没収されてしまった漫画。それに一人だけに出された宿題。自白した分、サービスだとかで少なめに。他の生徒よりは遥かに多いけれども。
「お前が白状していなかったら、本当はこれだけ出したいトコだ」と、サービスで減らした量を強調されて。
「これに懲りたら他のヤツらも気を付けろ」と、ハーレイは教室の前に戻った。「続けるぞ」と授業の続き。何も起こりはしなかったように。
授業が終わって、ハーレイが去って行った後。男子生徒の机の周りは賑やかだった。他の男子に取り囲まれて、呆れられて。
「馬鹿だよな、お前。…なんで漫画を読んでたんだよ」
ハーレイ先生、背が高いんだぜ。他の先生より、ずっと上から見えるじゃねえかよ。
机の下で読んでいたって丸見えだ、とワイワイと騒ぐ男子たち。「読むなら他の時間だ」とも。
「読みたかったんだよ、続きが気になって…」
丁度いいトコで、授業のチャイムが鳴ったから…。読みたくなるだろ、そういう時って?
「…それで没収されてしまったら、続きどころじゃねえと思うぜ」
ハーレイ先生、丸ごと持ってっちまったじゃねえか。取りに行けるの、放課後だぞ?
それまで全く読めやしねえし、読めねえ上に宿題のオマケも貰っていりゃあ、世話ねえよ。
もう本当に馬鹿としか…。他に言いようがねえってモンで…。
教室中が呆れてるぜ、と男子生徒の友人たちは容赦ない。「女子も馬鹿だと思ってるぞ」と。
「……俺も自分でそう思う……」
俺が馬鹿だった、と項垂れている生徒。ハーレイが「後で」と言ったからには、もう放課後まで読めない漫画。取り戻すまでは、どんなに続きが気になっても。その上、宿題まで出された彼。
(ホントに馬鹿かも…)
分かってないよね、と思ってしまう。ハーレイにバレてしまった時点で、もう隠したって無駄というもの。「やっていません」と嘘をついても、心を読まれておしまいなだけ。
さっきハーレイが言っていたように、「俺か、お前か、どっちが正しい?」と読まれる心。
(タイプ・ブルーの生徒だったら、大丈夫かもしれないけれど…)
心の遮蔽が強くなるから、そう簡単には読まれない。先生が読もうと頑張ったって。
とはいえ、前の自分が生きた頃より増えてはいても、今も少ないタイプ・ブルー。大抵の生徒は心を読まれたら、おしまい。叱られるだとか、没収だとか、宿題を沢山サービスだとか。
放課後になったら、例の男子は「また叱られるよな…」とハーレイの所に出掛けて行った。没収された漫画を返して貰いに、付き添いの友達も何人か連れて。
それを見送った後に家に帰って、いつものようにダイニングでおやつ。母の手作り、熱い紅茶も淹れて貰って、のんびりと。
「御馳走様」と二階の部屋に戻ったら、思い出した男子生徒の顔。今日の出来事、それも古典の授業中のこと。没収されてしまった漫画と、宿題サービス。
(ぼくなら、ハーレイの授業の時間に漫画なんて…)
絶対、読まない、と勉強机の前に座って考える。漫画でなくても、他の本でも。どんなに続きが気になっていても、そんなものより、ハーレイの授業の方が好き。
下を向いて何か読んでいたなら、ハーレイの顔が見られない。大好きな声だって聞き逃すから。心が他所に行ってしまって、恋人を忘れてしまうから。
せっかく、其処にいてくれるのに。学校では「ハーレイ先生」でも。
(他の先生の授業の時でも、やらないけどね?)
バレたら心を読まれるだとか、没収だとか、そういうのとは関係無しに。学校は勉強をする所。先生の授業を聞きに行く場所、休み時間や放課後以外は。
勉強をするために登校したのに、他のことなんて、とんでもない。いつも真面目に聞く優等生。余所見もしないし、他のことをコソコソやったりもしない。
(でも、授業中に他の色々なこと…)
やっている生徒は時々いる。漫画を読むとか、大胆な場合はコッソリお弁当だとか。
どんなことでも、先生にバレたら、今日の生徒と同じコースで…。
(隠すだけ無駄…)
やっていないと主張したって、心の中身を読まれておしまい。「全部、心に書いてあるが」と。
バレた後には叱られる。隠そうとしていたことも含めて、それは厳しく。
下の学校の頃から、何度も見て来た叱られる生徒。先生に心を読まれてしまって、隠そうとしたことの分までお仕置き。宿題サービスとか、先生のお手伝いだとか。
やっていない、と隠しおおせた生徒は一人も見たことが無いのだから…。
(タイプ・ブルーがいなかったんだよ)
きっとそうだ、と考えた。悪さをしていて、先生に見付かった生徒の中には一人も。自分が通う学校では。…下の学校でも、今の学校でも。
そうでなければ、先生もタイプ・ブルーだったか。悪さを発見した先生の方も。
(先生もタイプ・ブルーだったら…)
いくら生徒がタイプ・ブルーでも、敵わない。力不足の子供は勝てない。
心を遮蔽しようとしたって、経験不足。子供なのだし、上手く心を隠せはしない。先生の方が、何枚も上手。タイプ・ブルー同士の対決でも。
(ぼくだって、タイプ・ブルーだけれど…)
力不足とか、経験不足以前の問題。とことん不器用になったサイオン。前の自分の頃と比べて、雲泥の差どころの騒ぎではない。サイオンは無いも同然なくらい。
前と同じにタイプ・ブルーでも。最強の筈のタイプ・ブルーに生まれて来ても。
そのサイオンを上手く扱えないから、心の中身は読まれ放題。先生に横に立たれたら。睨んで、「手を出しなさい」と言われなくても、きっと。
わざわざ手まで握らなくても、とうに心が零れているから。「バレちゃった」と。
(悪い生徒じゃなくて良かった…)
ホントに良かった、とホッと安堵の息をついたら、気付いたこと。
悪さをしていたのが先生にバレて、隠そうとしても無駄だということ。当然だよね、と叱られた生徒を見ていたけれど。「ぼくなら、しない」とも思ったけれど…。
その隠し事、と心を掠めたこと。隠そうとする生徒と、暴く先生との攻防戦。今日までに自分が見て来た勝負は、悉く先生の勝ちだった。どう隠したって、先生に敵いはしないから。
(今の時代だと、普通だけど…)
自分もすっかり慣れていた。隠そうとしても、心を読まれてしまうこと。授業中の悪さが先生にバレたら、何処の学校でも起こるのだろう。
そういう場面に限らなくても、心を読むということは普通。人間はみんな、ミュウだから。
社会のマナーで、読まないのがルールになっているだけ。まだまだ小さな子供同士なら…。
(当てっこだとか…)
そんなゲームをしたりもする。色々な物を一人が隠して、他のみんなで捜しにゆく。隠し場所は何処か、心を読んで。「何処なのかな?」と心を覗き込んで。
そういう遊びで、隠した方も読まれないように努力するもの。サイオンの扱いが上手い子供は、偽の情報を流すことだってある。「あそこだよ」と全く違う場所を心に思い浮かべて。
人気の高い遊びだけれども、サイオンが不器用な自分は全く出来ない。どう頑張っても、隠した子の心が見えないから。覗き込むことさえ出来ない始末。
(ぼくの友達、あのゲームは…)
ルールを変えてくれていた。不器用すぎる自分のために。他の子たちは、元のルールで楽しんで遊べる筈なのに。
(ぼくが何にも読めないから…)
心の中身を読ませる代わりに、言葉でヒントを出す方法。「大きな木だよ」とか、「水がある」とか。大きな木ならば、公園には何本も生えているのに。水がある場所も幾つもあるのに。
ヒントでも充分、楽しめたゲーム。隠し場所は木の側の水飲み場だったり、そんな具合で。
サイオンはまるで駄目な自分も、そうやって遊んでいたけれど。心の中身を読み取れないから、ルールを変えて貰ったけれど…。
(みんなミュウだから、誰も変だと思わないだけで…)
心を読まれるのは、自分の力が足りないから。先生に悪さがバレてしまうのも、遊びで頑張って隠した何かが、発見されてしまうのも。
どちらも、心を隠し通せない自分が悪い。力不足で、自分の責任。
でも…。
隠せずに読まれてしまうこと。心の中身を読まれてしまって、知られること。
(人類だったら…)
今はもう宇宙の何処にもいない、人類と名乗っていた種族。前の自分が生きた時代に、ミュウを殲滅しようと努力した者たち。
彼らだったら、どうだっただろう?
どういう風に感じたのだろう、心を読まれるということを。心の中身を他の誰かが容易く読んでゆくというのに、自分は全く読めはしなくて、欠片も掴めないことを。
(怖くない…?)
そのことが、とても。
人類同士なら何も起こらなくても、ミュウと出会ったら起こる出来事。自分にしか見えない筈の心を、心の中身を知られてしまう。
それが敵意でなかったとしても。好意だとしても、口にする前に。
素敵な何かをプレゼントしようと、驚かせたくて何処かに隠して持っていたって。
(…怖いし、それになんだか嫌だ…)
ぼくだって、と思った「心を読まれる」こと。いつも心が零れてしまって、何かと失敗しがちな自分。ハーレイはもちろん、友達相手にコッソリ計画してみても。
いったい何度失敗したのか、自分でも数え切れないほど。つい最近のことだけでも。
心の中身がバレてしまっても、けして嫌だと思いはしない。怖いと思うことだって無いし、逆に情けない気持ちになるだけ。「ぼくって、駄目だ」と。「また失敗だよ」と、肩を落として。
(今は、誰でもミュウだから…)
そういう世界に生きているから、サイオンが不器用な自分のせいだと思うだけ。もっと器用なら読まれはしないし、不器用なのも自分の個性。
他の人たちには簡単なことが出来なくたって、ミュウには違いないのだから。サイオンは自分も持っているのに、使いこなせないだけだから。
けれど…。
もしもサイオンが無かったら。…不器用に生まれたわけではなくて、自分が人類だったなら。
(…サイオンなんかは持っていなくて、この世界に独りぼっちなら…)
戦争も武器も無い平和な世界が、恐ろしく見えるかもしれない。殺されたり、追われたりしない世界でも。誰も自分を嫌わなくても、とても親切な人ばかりでも。
周りの人たちは、心の中身を読むのだから。言葉にしなくても、「どうぞ」と欲しかったものを差し出して来たり、手を貸してくれたりするのだから。
(ぼくには当たり前だけど…)
不器用なのだし、なんとも思いはしない。物心ついた時には、そういう世界にいたのだから。
自分は上手く読めないけれども、他の人たちは心を読み取る世界。「ぼくって駄目だ」と思っていれば良かった世界。ゲームのルールも変えて貰って。
そんなものだ、と幸せに生きて来たのだけれども、たった一人の人類だったら恐ろしいだろう。心を読まれているというのに、自分の方では欠片も読めはしないのだから。
しかも自分とは異なる種族。家族でもなければ友達でもない、そんな者たちに囲まれて、一人。
(…ミュウが嫌われたの…)
無理もないかも、と今頃、分かった。人類がミュウを恐れた理由。
人の心を食う化け物、と言われた理由も。
ミュウは土足で人の心に踏み込むから。遮蔽できない人類の心、それを端から読み取るから。
恐れ、忌み嫌い、蔑む気持ち。「化け物」とミュウを嘲笑いつつも、人類はいつも恐れていた。この瞬間にも、心を読まれているのだと。自分の心はミュウに筒抜けなのだから、と。
(…アルタミラでも、いつも怖がられてた…)
気味悪がられていた自分。たった一人のタイプ・ブルーで、それは酷い目に遭わされたのに。
自分も人類を恐れていたのに、彼らの方でも怖がっていた。「化け物だから」と、人類とは違う生き物だと。
触れることさえ嫌がる気配を感じたくらいに、ミュウを嫌悪した人類たち。研究者たちも、檻を管理していた者たちも。
そうだったのか、と今になってやっと理解した。人類がどうしてミュウをあんなに恐れたのか。人の心を食う化け物だと忌み嫌ったのか。
(今のぼくは、幸せに育って来たから…)
何も怖がりはしないだけ。自分の心を読まれることも、自分ではまるで読めないことも。
不器用なのだし仕方がない、と残念に思っていたくらい。「もっと器用になりたいよ」と。
けれど突然、今のような世界に放り込まれてしまったら。
此処で幸せに育つ代わりに、ある日いきなり、心を読める人ばかりが住む世界に向かって、突き落とされてしまったら…。
(絶対、怖い…)
怖くて、とても気味悪い。自分は心を読めもしないのに、周りの人々は読むのが普通。どういう仕組みになっているのか、言葉にする前に先回りされる。あらゆる場面で。
自分には、それが出来ないのに。…相手が何を思っているのか、その欠片さえも見えないのに。
(…ホントに怖くて、どうしたらいいか分からなくって…)
きっと外にも出られなくなる。外に出たなら、心の中身を誰もに読まれてしまうのだから。何を考えながら歩いているのか、皆に筒抜けなのだから。
…どうして気付かなかったのだろう。その怖さに。恐ろしさに。
人類がミュウに覚えるだろう恐怖、それを微塵も考えもせずに、歩み寄れると思ったのだろう。ミュウと人類とは手を取り合えると考えた自分。ソルジャー・ブルーだった、前の自分。
あまりにも考えなしだった。人類の心を思うことさえしなかった。
ミュウがサイオンを封印するなら、歩み寄れたのかもしれないけれど…。
(サイオンを持ったままだったら…)
忌み嫌われてしまって当然、恐れられるのも当然のこと。
人類にすれば、歩み寄りたくもないだろう。近付いたならば、一方的に読まれる心。隠す術さえ持っていないのに、勝手に心を覗き込まれて。
ミュウ同士ならば、隠せるのに。読まれたくないことは隠しておけるし、それが出来ないなら、自分の力が足りないだけ。そういう時には、「読まないで欲しい」と伝えることも出来るのに。
人類には心を隠す方法が無かったのだ、と気が付いた。不器用な今の自分と違って、サイオンを持たなかった人類。ミュウならそれを持っているのに、人類は持っていなかった。
サイオンが不器用な今の自分には、少しだけ分かる人類がミュウに覚えた恐怖。
(…間違えちゃってた…)
前の自分の考え方。心から願った、ミュウと人類との共存。
けれども、サイオンを捨てるか、封印でもしない限りは、人類はミュウを怖がるだけ。ミュウに近付いたら、心を読まれてしまうから。「読まないで」と伝えることも出来ずに。
その状態では、歩み寄れていた筈もない、と考えていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。ミュウは怖いね」
「はあ?」
どう怖いんだ、と瞬いた鳶色の瞳。「お前も俺も、ミュウなんだが?」と。
「そうだけど…。人類から見たミュウのことだよ」
「なんだって?」
人類ってことは、前の俺たちの時代の話か、それは?
確かに人類軍と派手に戦いはしたが…。勝ったわけだし、怖かったのかもしれないが…。
「えっとね…。戦いが始まってからじゃなくって、それよりも前」
今日のハーレイ、生徒に注意してたでしょ?
漫画の本を没収してたよ、その前に脅していたじゃない。心を覗けば全部分かる、って。
あれで気が付いたよ、あの力、人類には怖いんだよ。…自分の心を読まれちゃうこと。隠そうとしても隠せなくって、何もかも知られてしまうってこと。
今のぼくだと分かる気がするよ、人類はきっと怖かったんだ、って。
ぼくのサイオン、とことん不器用になって、あの頃の人類とそれほど変わらないんだから。
「なるほどな…。今のお前は、心を読まれないように遮蔽することは出来ないか…」
前のお前ならば完璧だったが、それとは逆というわけだな。
「そう、読むことも出来ないんだよ」
ホントに人類と似たような感じ。…ミュウの世界に一人だけ混じってしまったみたいに。
ぼくは慣れてるから平気だけれども、人類は怖かったと思う。…ミュウが現れたら、心の中身をすっかり読まれてしまうんだから。
その人類とミュウが初めて顔を合わせたのが、前のぼくたちが生きてた時代、と説明した。心を読まれることを恐れる種族と、心を読むのが当たり前の種族。
「前のぼくの考え、間違っていたよ。…そう思っちゃった」
ソルジャー・ブルーは甘かったんだ、って。人類の気持ちをまるで分かっていなかったんだよ。
「分かっていないって…。どういう風にだ?」
前のお前も色々と考えていた筈だが、とハーレイが首を捻るから。
「ミュウのことを理解して貰おう、っていう考え方。…分かり合えると思っていたこと」
人類とミュウは兄弟なんだ、って思ってたけど、それは間違ってはいないんだけど…。
サイオンを捨てなきゃ駄目だったんだよ、本当に分かり合いたかったら。
ミュウだけが人類の心を読めるというのは、ちっとも公平なことじゃないでしょ?
サイオンを捨てることが無理なら、封印する方法を開発するとか…。
「封印するって…。APDか?」
人類のヤツらが開発していた、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あんな具合に、サイオンが効かないようにする道具を、人類が持てば良かったと…?
「違うよ、APDは人類が開発したんだけれど…。人類に作らせていたんじゃ駄目」
作って下さい、ってお願いするんじゃなくって、ぼくたちが開発するべきだったんだよ。
サイオンを無効化する方法を、自発的にね。…人類がミュウを怖がらなくても済むように。
そうしていたなら、人類も考えてくれていたかも…。話し合うことを。
「ふうむ…。そいつは一理あるかもしれないな」
キースの野郎が捕虜になってた時、ジョミーに訊いたそうだ。「星の自転を止められるか」と。
ジョミーは、「やってみなければ分からない」と答えたらしいんだが…。
その時、キースはこう言った。「その力がある限り、分かり合うことは出来ない」とな。
「…そうなんだ…」
星の自転とは違うけれども、人の心を読むのも同じサイオンだから…。
サイオンがあったら駄目ってことだよね、キースがジョミーに言った言葉は…。
遠い昔に、キースがジョミーに投げ掛けた問い。それに、その答えを受けてぶつけた言葉。
キースには見えていたのだろうか。人類とミュウの間に横たわる溝、深い問題の根本が。
前の自分は気付かないままで終わったけれども、キースは見抜いていたろうか?
サイオンという力の怖さも、それがあったら人類がミュウを恐れることも。
「…キース、気付いていたのかな…。どうして人類はミュウを怖がるのか」
ミュウには心を読み取る力があるから、心を隠すことが出来ない人類にとっては怖い存在。
そのままだと分かり合うなんて無理で、サイオンを捨てて来ないと駄目だ、って。
「…多分な。しかし、キースはそれを克服したんだろう」
ミュウはサイオンを持ったままでいたのに、手を取り合う道を選んだんだから。
あいつを褒めたいとは思わないんだが、その点は評価してやってもいい。
ミュウへの恐れを克服出来た所だけはな、とハーレイが言うから、尋ねてみた。
「それが出来たのって…。キース、心を読まれない訓練を積んでいたからかな?」
とても凄かったよ、キースの心理防壁は。…本当にこれが人類なのか、って思うくらいに。
そういう心を持っていたから、他の人類も努力次第で何とか出来ると思ったのかな…?
「むしろ逆だと思うがな? 俺は」
前のお前も、それにジョミーも少しは読んだと聞いているしな、あいつの心。…違うのか?
「そうだけど…。それがあったら、どうして逆なの?」
分からないよ、と瞳を瞬かせたら、「読んだんだろう?」と返った言葉。
「お前もジョミーも、読まれないように訓練していたキースの心を読んじまった」
読まれる恐怖を知ったわけだな、キースが初めて知った恐怖だ。…ミュウの本当の恐ろしさ。
こうして心に入り込むのかと、防ぐ方法は無いらしい、とも。
そいつを思い知らされちまって、その上で色々と考えることになったんだろう。人類の指導者としてな。人類とミュウに分かれた現状をどうするべきか、次の時代にどう繋ぐのか。
ミュウ因子の排除というのも含めて、キースは何年も考え続けた。
そして導き出した結論があれだ。
SD体制もマザー・システムも時代遅れだという、大演説。
自分がグランド・マザーに粛清されても、人類が正しい道を選んで進んでゆけるように、と。
お蔭で今の平和な時代がある、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「キースの選択は正しかった」と、ミュウへの恐怖を克服出来たからこそだ、と。
「あいつが決断していなかったら、もっと長引いていただろう。…地球までの道は」
ミュウの時代が訪れるのも、遅くなっていたに違いないな。
「…キース、偉いね…」
心を読まれて怖かったんなら、徹底的に退治してもいいのに…。そうするつもりだったのに。
ナスカをメギドで焼いた時には、そういうつもりだったんだよ。…一人残らず滅ぼすつもり。
でも、考えを変えちゃった…。いろんな条件が重なったにしても、キースが一人で考えて。
だから偉いよ。グランド・マザーは、そういう風にしろとは絶対、言わないのに…。
マザー・イライザも、そんな風には、キースを育てていない筈なのに…。
「どうなんだかなあ…。偉かったことは確かだろうが…」
時代はミュウに味方していた。トォニィたちが生まれたことも、ジョミーの両親や、スウェナのようなミュウの理解者が現れたことも、その証拠だ。
キースが決断しなかったとしても、いずれはミュウの時代になった。…キースが国家主席の間は無理でも、次の時代か、その次にはな。
「そうだろうけど…。そうなる前にキースが決めたよ、ミュウと一緒に生きてゆくことを」
キースは本当に偉かったんだよ。ミュウを受け入れる決断が出来ただなんて。
ぼくなら、怖くて出来たかどうか…。
心を読まれることの怖さも知ったんだったら、余計にミュウが怖くなりそう。
「…出来そうにないのは、今のお前か?」
前のお前なら、自分がどんな思いをしたって、世界を優先しそうだからな。
「うん…。今のぼくだよ、ミュウの怖さに気が付いた、ぼく」
サイオンがとことん不器用なせいで、今頃、分かったんだけど…。人類の気持ち。
「今のお前は弱虫だしな? そんな考えになっちまうほど」
もしも自分が人類だったら、と考えただけで怖いと思っちまう弱虫。
キースとは違うさ、人類の世界を背負うためだけに作り出されたヤツとはな。
機械に作り出された割には、人間くさいヤツだったが…、という所で止まった言葉。
「おっと、あいつを褒めすぎちまった。…俺としたことが、お前のせいで」
キースの野郎を偉いだなんて、俺の台詞とも思えんな。
まったく…、とハーレイは苦々しい顔。「俺はあいつが嫌いなのに」と。
「ううん、ハーレイもキースを分かってくれているんだな、って嬉しいよ、ぼく」
いつもキースの悪口ばかりで、会ったら一発殴りたいとか、そんなのばかり。
だけど、ハーレイもちゃんと分かってるんだよね。…本当のキースは偉いってことが。
ホントに嬉しい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
ハーレイのキース嫌いは酷くて、何度も心を痛めたから。「ぼくのせいだ」と。
前の自分がメギドで撃たれなかったら、キースは其処まで憎まれていない。撃たれた傷痕と同じ聖痕、それをハーレイが見ていなかったら。
「…俺は分かりたくもないんだが…」
キースの偉さなんていうのは分かりたくないし、認めるつもりも無いんだが?
お前に釣られて、ついつい余計なことまで話してしまっただけで。
俺はキースを許しはしない、とハーレイの眉間の皺が深めになったけれども。
「いつか分かるよ、ハーレイにもね。…そして嫌いじゃなくなるってば」
ハーレイがキースを嫌いになったの、前のぼくを撃ったせいだから…。
でもね、ぼくはハーレイの所に帰って来たでしょ、チビだけど。
まだ小さいけど、大きくなったら、前のぼくと同じになるんだよ。…ホントにそっくり。
だからキースは悪くないってば、ぼくは帰って来たんだから。
「…そいつはキースのお蔭じゃないと思うがなあ…」
あいつは全く関わっちゃいないぞ、お前が生きて帰って来たことに関しては。
これは神様が起こした奇跡で、聖痕までつけて下さっただろうが。
聖痕のお蔭で、キースの罪がバレちまったってな。…前のお前に何をしたのか。
あいつの心は読めなかったが、神様が教えて下さった。あいつが隠してやがったことを。
あの馬鹿野郎が何処に逃げても、見付けた時には、俺は必ず殴ってやる。
生憎とまだ出会えないがだ、許してやるつもりは全く無いぞ。…この手であいつを殴るまでは。
しかし、お前は此処にいるよな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「俺のブルーだ」と、「うんと不器用だが、お前だよな」と。
「…本当にお前なんだろうか、と思っちまうくらいに、サイオンは不器用になっちまったが…」
おまけにチビだが、お前は俺のブルーなんだ。…前の俺が失くしちまったお前。
生きて帰って来てくれたんだよな、もう一度、俺の目の前に。
「そうだよ、これが今のぼく。…人類みたいになっちゃったけど」
サイオンは殆ど使えないから、タイプ・ブルーだなんて、嘘みたいだよね。…誰が見たって。
お蔭で、人類の気持ちが分かったけれど…。ミュウが本当に怖かったんだ、って。
前のぼくの考え、やっぱり間違ってた?
ミュウはサイオンを捨てるべきだったの、でなきゃ封印するだとか…?
サイオンを持ったままで人類と分かり合おうなんて、ぼくの考え、甘すぎたかな…?
「間違っちゃいないさ、前のお前は。…前のお前の考え方は」
今の時代は、人間はみんなミュウばかりだ。誰もがサイオンを持っているだろう?
お前みたいに不器用なヤツでも、サイオンはちゃんと備わっている。それが大切なことなんだ。
普段は心を読んだりしないし、それが社会のマナーでもある。
だがな、派手な喧嘩をしちまった時とか、友達との仲がこじれた時には、サイオンの出番だ。
こういう風に考えてます、と相手に直接伝えられるし、心を読んで貰うことも出来る。
心を読むのが得意じゃないお前も、「読んで下さい」と明け渡されたら読めるだろ?
そうやって誰もが分かり合える世界、そいつがミュウの世界だってな。
心の底から分かり合えるからこそ、平和なんだ。…戦いも無ければ、武器も要らない。
本気の喧嘩は、何処からも起こらないからな。殴り合いになっても、その場限りでおしまいだ。後でよくよく考えてみれば、「悪かったかな」と思うモンだから…。
其処に気付いたら、言葉にしにくい気持ちは心を見て貰う。それで解決しちまうわけで…。
こういう社会は、サイオン抜きでは無理なんだ。…人類に合わせて封印したなら、もう駄目だ。
だから、前のお前は間違っていない。サイオンは人間に必要な進化だったんだから。
「そっか…。サイオンのお蔭で、平和な時代になったんだよね…」
サイオンを封印してしまっていたら、今もミュウ同士で何処かで戦争だったかも…。
お互いの心が分からなかったら、本気の喧嘩がこじれてしまって、戦争になってしまうから…。
間違えていなかったんなら良かった、とホッとついた息。前の自分の考え方。
サイオンはあっても良かったんだ、と。
「…前のぼく、間違えちゃったのかと思ったよ…」
人類から見たら、ミュウはとっても怖そうだから…。そんな感じがしちゃったから。
とても怖いと思われてたのに、怖い力を振りかざしながら「仲良くしよう」って言う方が無理。
それに気付かないで過ごしてたなんて、間抜けだよね、って思っちゃったから…。
でも、間違えてはいなかったんだ…。サイオンが必要な進化だったら。
「当然だろうが、それでこそミュウだ。…ミュウはサイオンを持っていてこそなんだぞ」
そいつを封印しちまうだとか、無効化してまで人類に媚を売ってもなあ…。
何の解決にもなりやしないぞ、平和な時代は来やしない。…サイオン抜きの世界だなんて。
前のお前のことだとはいえ、否定しちゃいかん、自分をな。
間違えたように思えていたって、そいつが正しかったんだから。
「…自分を否定したら駄目って言うなら、ぼくの不器用さは?」
とっても不器用で、思念波もろくに使えなくって…。心はいつも読まれ放題。
ハーレイにも、友達にも、ぼくの考え、筒抜けになってしまうんだけど…。
脅かしてやろう、ってワクワクしてても、その前に気付かれちゃうんだけれど…。
「そいつも俺には愛おしいってな、守り甲斐があって」
もう本当に不器用だからなあ、危なっかしくて見ちゃいられない。
お前ときたら、其処の窓から落っこちたら骨が折れるんだろうし…。池に落ちたら溺れるし。
そうならないよう、俺が一生、お前を守るしかないってな。
前のお前なら、俺が守られる方だったんだが…。
お前を守る、と偉そうなことを言っていたって、シャングリラごとお前に守られていたからな。
前のお前みたいな無茶はするなよ、と釘を刺されたけれど。
鳶色の瞳に見据えられたけれど、ハーレイの心配はもう要らない。
平和な時代に命懸けの無茶はもう出来ないから、それに弱虫になってしまったから…。
今度は守って貰うだけ。
ハーレイに側で守って貰って、幸せに生きてゆけばいいだけ。
不器用すぎて心を読むことも出来ないけれども、読まれる一方なのだけれども。
人類と違って、ちゃんとミュウなのだし、何も怖がらなくてもいい。
周りが器用な人ばかりでも、心を読める人ばかりでも。
みんなが自分を気遣ってくれるし、必要だったら遊びのルールも変えてくれたりする世界。
其処に生まれてハーレイと二人、手を繋ぎ合って生きてゆく。
青い地球の上で、何処までも二人、幸せに微笑み交わしながら…。
読まれる心・了
※人類が何故、ミュウを恐れたのか、今になって理解したブルー。心を読まれる恐ろしさを。
そしてキースは、読まれる怖さを知ったからこそ、あの選択をしたのかも。考え抜いた末に。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
寒い季節がやって来ました。今年の冬は意外に早くて、残暑が終わってからの秋が短め。気付けばすっかり冬な雰囲気、風邪だって流行り始めています。私たち七人グループの中でも流行を真っ先に取り入れた人が…。
「ハーックション!」
くっそぉ…、と口を押さえるキース君。早々と風邪を引いてしまって、三日も欠席。ようやっと登校して来たのが今日で、それでもクシャミを連発です。
「…移さないでよね、その風邪」
私たちだって困るんだから、とスウェナちゃん。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来てるんですけど、キース君のクシャミがあるわけで…。
「かみお~ん♪ キースの周りはブルーがシールドしているから大丈夫だよ!」
ウイルスは通さないもんね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースも病院に行くんだったら、シールドして行けば良かったのに…」
「「「は?」」」
キース君は既に風邪を引いています。治療のために病院に行くなら、他の人たちに移さないようマスクでしょうけど、そこをシールドでクリアですか?
「それもあるけど…。シールドしてたら、風邪は引かなかったと思うの!」
だってブルーがそう言ってたもん、ということは…。キース君の風邪は病院仕込み?
「悪かったな! 病院仕込みで!」
そんなつもりは無かったんだ、とキース君は仏頂面。
「俺はこれからのシーズンに備えて予防接種に行っただけで…」
「それってインフルエンザかよ?」
サム君が訊くと、「ああ」と返事が。
「坊主が引いたら話にならんし、毎年、受けているんだが…。それを受けに行って貰って来た」
マスクを持って行くのを忘れた、と無念そう。
「俺の隣に明らかに風邪なご老人が座ってしまってな…。あからさまに席を移れもしないし…」
それは坊主としてどうかと思う、という姿勢は正しいですけど、そのご老人から貰ったんだ?
「そうなるな。…予防接種の副作用かと思ったんだが、どうやら違った」
本物の風邪だ、とまたまたクシャミ。全快するまでは遠そうですねえ…。
流行の最先端を行ってしまったキース君。インフルエンザに罹ってしまえばお坊さんの仕事は出来ませんから、予防接種は当然でしょう。けれど、受けに行った先で風邪を貰って三日も休んだのでは本末転倒とか言いませんか?
「そうなんだが…。月参りにも行けなかったし、親父が文句をネチネチと…」
「「「あー…」」」
気の毒に、と合掌してしまった私たち。キース君は月に何度か遅刻して来て、そういう時には月参りです。檀家さんの家をお坊さんスタイルで回って来た後、制服に着替えて登校なパターン。それがズッコケちゃったんですねえ、風邪のせいで?
「風邪もそうだが、声の方がな…。掠れてしまって出なかったわけで、どうにもならん」
「喉は坊主の命だからねえ…」
マスクしてても声さえ出ればね、と会長さん。
「一人しかいないお寺なんかだと、マスクで月参りもしたりするから…」
「親父にもそう言われたんだ! 情けないヤツだと!」
ついでに親父に借りまで出来た、と呻くキース君。行く予定だった月参りをアドス和尚が引き受けた結果、凄い借りが出来てしまったのだそうで…。
「どういう形で返すことになるのか分からんが…。最悪、お盆まで持ち越しかもな」
「「「お盆?」」」
「卒塔婆だ、卒塔婆! あの時の貸しだ、と俺に卒塔婆書きのノルマがドカンと…」
「「「…卒塔婆書き…」」」
それは毎年、夏になったらキース君を苦しめている作業。山ほどの卒塔婆をアドス和尚と手分けして書いているそうですけど、そこまで借りを返せないままだと…。
「…もしかして全部も有り得ますか?」
シロエ君の言葉に、キース君は。
「…大切な檀家さんの分は親父が書くんだろうが…。最悪のケースも考えないと…」
出来ればそれまでに分割の形で返しておきたい、と苦悶の表情。
「とにかく風邪は二度と御免だ、気を付けないと…」
なんだってこうなったんだか、と言いたい気持ちは分かります。インフルエンザの予防接種に出掛けて風邪って、空しいにも程がありますよねえ…。
とはいえ、無事に終わったのがキース君の予防接種で、次の週には風邪も全快。土曜日も会長さんの家に集まってダラダラ過ごしていたんですけど。
「こんにちはーっ!」
キースの風邪が治ったってね、と現れた別の世界からのお客様。「ぼくにもおやつ!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に注文をつけていますけれども、野次馬ですか?
「うーん…。野次馬ってわけでもないんだけれど…」
予防接種のことでちょっと、と妙な台詞が。
「「「予防接種?」」」
「うん。…キースは風邪を引いちゃったけれど、インフルエンザには罹らないんだよね?」
「それはまあ…。多分、としか言えないが」
罹る時には罹るらしいし、とキース君。
「あんたの世界ではどうだか知らんが、俺たちの世界では当たり外れがあるからな」
「当たり外れって?」
「打ったワクチンと同じウイルスなら罹らないんだが、別物だと罹る」
インフルエンザのウイルスには種類が幾つかあるからな、とキース君が説明を。
「運が悪いと、別のを端から貰ってしまって罹るケースも皆無ではない」
俺の知り合いにもコンプリートをしたヤツが…、と恐ろしい実話。お坊さん仲間の人らしいですけど、去年の冬にインフルエンザをコンプリートしたらしいです。ワクチンを打ったヤツ以外の。
「…それはある意味、強運だとか言いませんか?」
普通はそこまで出来ませんよ、とシロエ君が言うと。
「俺もそう思う。そいつ自身もそう思ったらしくて、宝くじを大量に買ってみたそうだ」
「へえ…。当たったのかよ、その宝くじ」
サム君の問いに、キース君は。
「当たったらしいぞ、金額は教えて貰えなかったが…」
「「「…スゴイ…」」」
宝くじが当たるんだったら、インフルエンザのコンプリートもいいでしょう。熱とかで多少辛かろうとも、大金がドカンと入るんですしね?
話は宝くじへと向かいましたが、横から止めに入ったソルジャー。「ぼくはワクチンの話をしたいんだけど」と。
「ワクチンって…。何さ?」
君の世界ならインフルエンザのワクチンもさぞかし完璧だろう、と会長さん。
「こっちの世界じゃ、今年はコレが流行りそうだ、っていうのを作って予防接種だけど…」
「あんたの世界の技術だったら、全部纏めていけるんじゃないか?」
医療は進んでいるんだろう、とキース君も。
「それで嘲笑いに来たというわけか。ただでも風邪を貰ってしまった俺の場合は、ワクチンの方もハズレを引いていそうだと!」
「…そうじゃなくって…。ぼくの世界にも無いワクチンについての話なんだよ」
「「「無い!?」」」
ザッと後ろへ下がりそうになった私たち。椅子さえなければそうなったでしょう。
「き、君はどういうウイルスについて語りたいわけ!?」
悲鳴にも似た会長さんの声、私たちも気分は同じです。ワクチンが無いような感染症がソルジャーの世界のシャングリラで流行してるんだったら…。
「頼む、帰ってくれ!!」
俺たちにそれを移す前に、とキース君。
「ウイルスってヤツは侮れないんだ、健康保菌者というのもいるんだ!」
「そうだよ、君は罹っていないつもりでいてもね、実は罹っていてウイルスを撒き散らしているってこともあるから!」
シールドだって効くのかどうか…、と会長さんは震え上がっています。
「どんなウイルスか分からないけど、君子危うきに近寄らず! 用心に越したことはないから!」
「そうです、とにかく帰って下さい!」
話の方は落ち着いたらまた聞きますから、とシロエ君も。
「初期段階での封じ込めってヤツが大切なんです、終息してから来て下さい!」
「シロエが言ってる通りだってば、早く帰ってくれたまえ!」
この部屋は直ぐに消毒するから、と会長さん。別の世界のウイルスだなんて怖すぎな上に、ワクチンが無いと聞いたら恐怖は倍どころか無限大ですから~!
こうして追い出しにかかっているのに、ソルジャーは悠然とソファに腰掛けたままで。
「移る心配なら大丈夫! 移った人は一人も無いしね」
「だけど患者がいるんだろう!」
残りは全員、君も含めて健康保菌者ということも…、と会長さんが指を突き付けました。
「君のシャングリラでは耐性のある人が多いとしてもね、こっちの世界は別だから!」
「そうだぞ、俺は風邪だけで沢山なんだ! この冬は!」
これ以上の感染症は御免蒙る、とキース君も言ったのですけど。
「…アレは普通は移らないと思うよ、罹ってるのはずっと昔から一人だけだし」
「そういう油断が怖いんだよ!」
感染症には色々あるから、と会長さん。
「潜伏期間が二十年とかいうのもあるしね、おまけにワクチンは無いんだろう?」
「そうなんだよねえ、そもそも作ろうと思っていなかったから!」
「「「は?」」」
「ワクチンって方法を思い付かなかったんだよ、対症療法しか考えてなくて!」
それと精神論だろうか、と言ってますけど、病気の人に精神論って、気力で克服しろっていう意味ですか?
「そんなトコだね、精神を鍛えれば克服できると! ヘタレくらいは!」
「「「ヘタレ?」」」
「そう、ヘタレ! 患者はぼくのハーレイなんだよ、君たちも知っている通り!」
どうしようもなくヘタレなのがハーレイ、とソルジャー、ブツクサ。
「ぶるぅが覗きに来たら駄目だし、そうでなくてもヘタレるし…」
「…それは感染症とは違うんじゃないかと思うけど?」
君のハーレイだけの問題だろう、と会長さん。
「第一、ワクチンを作るだなんて…。あれはウイルスの抗体ってヤツを作るわけでさ、ウイルスも無さそうなヘタレの抗体をどうやって作ると?」
「…ウイルスだとは限らないけど、抗体だったら作れそうだと思うんだよ!」
キースの風邪のお蔭で思い付いた、とソルジャーが目を付けた予防接種だのワクチンだの。キャプテンのヘタレにワクチンだなんて、そんなのホントに作れますか…?
ソルジャーが感染症を持ち込んだわけではないらしい、と分かってホッと一息ですけど、今度はワクチンが問題です。キャプテンのヘタレに効くワクチンが作れるかどうかも問題とはいえ、既に発症してるんだったら、ワクチンを作っても無駄なんじゃあ…?
「それがそうでもないんだよ。劇的に効くって例もあるから!」
ワクチンを後から接種しても、と言うソルジャー。
「こっちの世界はどうか知らないけど、ぼくの世界じゃとにかくワクチン! 駄目で元々、ガンガン打つって方向で行くねえ、感染症には!」
なにしろ宇宙は広すぎるから…、という話。新しい惑星に入植するにはリスクがつきもの、未知のウイルスが潜んでいることもあるそうです。そういう時にはワクチン開発、患者にどんどん打つらしくって。
「これが効くってこともあるんだよ、だからワクチンは後からでもいける!」
「…まあ、ぼくたちの世界でも、そういう例は皆無じゃないけど…」
たまに奇跡のように治ってしまう人が…、と会長さん。打つ手が無いという感染症の重症患者にワクチン接種で、治るという例。
「でもねえ…。ヘタレはウイルスじゃないし、本人の気の持ちようだから…」
「あながちそうとも言い切れないよ? 何か原因があるかもだしね!」
だから抗体を作りたいのだ、と言ってますけど、どうやって…?
「簡単なことだよ、ハーレイは二人いるからね!」
こっちの世界に更にヘタレなハーレイが! とソルジャーは教頭先生の家の方へと指を。
「あのハーレイを使ってワクチン製造! 抗体を作る!」
「…それなら、わざわざ作らなくても…。とうに抗体、出来ていそうだよ?」
三百年以上もヘタレてるんだし、と会長さん。
「ヘタレ続けて三百年以上、きっと抗体もある筈で…」
「それじゃ駄目なんだよ、その程度だったら、ぼくのハーレイも抗体を持っていそうだし!」
あれも元からヘタレだから、と言われてみればその通りです。キャプテンにだって出来ていそうな抗体、それでもヘタレのままだとなると…。
「そう、もっと強力な抗体ってヤツが必要なんだよ!」
より重症なヘタレに対応出来る抗体! とグッと拳を握るソルジャー。より重症なヘタレに対応って、そんなワクチン、作れますか…?
ソルジャー曰く、キャプテンに打つためのワクチンは教頭先生を使って製造。しかも強力な抗体が必要、より重症なヘタレに対応出来るように、ということですが…。
「…君はいったい何をする気さ、ハーレイに?」
ぼくにはサッパリ分からないけど、と会長さんが尋ねて、私たちも「うん」と。ソルジャーは「そうかなあ?」と首を傾げて。
「簡単なことだと思うけど? ハーレイが重症なヘタレになったら、抗体だって出来るしね!」
「「「…重症?」」」
今でも充分に重症だろうと思いますけど、まだ足りないと?
「足りないねえ! ヘタレ具合じゃ、ぼくのハーレイとどっこいと見たね!」
環境のせいで余計にヘタレて見えるだけだ、と言うソルジャー。
「ブルーがハーレイを受け付けないから万年童貞、それが災いしているだけ! もしもブルーとデキていたなら、ヘタレ具合は似たようなものかと!」
こっちのハーレイがヤレる環境にいたとしたなら、鼻血体質もとっくに克服しているだろう、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「ぼくのハーレイも、最初の間は、何かと遠慮がちだったしねえ…」
今のようなハーレイになれるまでには色々と…、とソルジャーは昔語りモードに入ろうとしましたけれども、会長さんが素早くイエローカードを。
「その先、禁止! 今はワクチンの話だから!」
「…そうかい? これからが面白いんだけど…。でもまあ、いいか…」
大切なのはワクチンだから、とソルジャーは気持ちを切り替えたようで。
「要は、こっちのハーレイを今よりヘタレに! その状態になれば、強い抗体が出来るんだよ!」
「…今よりヘタレって、どんな具合に?」
ちょっと想像つかないんだけど、と会長さんが訊くと。
「それはもちろん、ヘタレMAX! 君の顔もまともに見られないとか、そういうレベル!」
出会っただけで顔を赤くして俯くだとか…、とブチ上げるソルジャー。
「その辺はサイオンでどうとでも出来るよ、ハーレイの精神をチョイと弄れば!」
「…わざとヘタレにしてしまうと?」
「その通り! 君にも悪い話じゃないから!」
ハーレイで色々と苦労をしてるじゃないか、と笑顔のソルジャー。それは確かに間違ってませんねえ、教頭先生の思い込みの激しさはピカイチですしね?
教頭先生をサイオンで重度のヘタレに仕立てて、ヘタレの抗体を作ろうというソルジャーの案。日頃から教頭先生に一方的に愛されている会長さんからすれば、悪い話ではないわけで…。
「なるほど、ハーレイが今よりヘタレにねえ…」
そうなればぼくも追われないだろうか、という呟きにソルジャーが。
「まるで追われないとは言わないけれど…。君への愛は消えないからね! でもさ…」
せいぜい「読んで下さい」とラブレターを渡して逃げ去る程度、と溢れる自信。
「そのラブレターだって、小学生だか幼稚園児だか、ってレベルになるのは間違いないね!」
「そうなんだ? だったら、ぼくは当分の間、平和に生活出来るってことか…」
「お金を毟るのは難しいかもしれないけどね!」
ヘタレたら貢ぐ度胸があるかどうか、と言ってますけど、会長さんは。
「お金に不自由はしてないし…。ハーレイが静かになると言うなら、多少のことは我慢するよ。どうせいつかは治るんだろう? 重度のヘタレも」
「そりゃあ、永遠にっていうわけじゃないよ」
ワクチンが出来たら用済みだから、とソルジャー、アッサリ。
「で、作ってもいいのかな? ヘタレのワクチン」
「面白そうだし、やってみたら? …ヘタレの抗体があるかどうかは謎だけど」
「ありがとう! それじゃ早速…」
「ハーレイに相談しに行くのかい?」
ワクチン作りの、と会長さんが訊いたのですが。
「相談なんかをするとでも? 逃げられるに決まっているじゃないか!」
自分がヘタレになるだなんて、とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「ぼくはハーレイに会いに行くだけ、そして話をしてくるだけ!」
「…それでどうやったらヘタレになるのさ?」
「サイオンで意識の下に干渉! 細かい作業をするなら会わないとね!」
遠隔操作では上手くいかないものだから…、と本気のソルジャー。
「ぼくと楽しくお茶を飲んでから送り出したら、ヘタレ発動! もう重症の!」
それは凄いヘタレが出来るであろう、とソルジャーはソファから立ち上がりました。
「行ってくるから、サイオン中継で様子を見ててよ。ヘタレのワクチン、頑張らなくちゃ!」
善は急げ、と瞬間移動で消えたソルジャー。行き先は教頭先生の家ですよね?
会長さんの家に残された私たちの前には、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継の画面を出してくれました。教頭先生のお宅が映っています。ソルジャーがチャイムを押していますが…。
「どちらさまですか?」
「ぼくだけど?」
それだけで分かったらしい教頭先生、いそいそと玄関の扉を開けに出て来て。
「これはようこそ…! 寒いですから入って下さい」
「ありがとう。…君の家にホットココアはあるかな?」
「ああ、好物でらっしゃいましたね。…直ぐにご用意いたしますから」
リビングへどうぞ、と教頭先生はソルジャーを招き入れてキッチンでホットココアの用意を。クッキーも添えて歓迎モードで、自分用にはコーヒーで。
「…それで、本日の御用件は?」
「ちょっとね、ぼくのハーレイの健康のことで相談が…。かまわないかな?」
「もちろんです。私で分かることでしたら」
「助かるよ。…実は体質のことで悩んでいてさ…。あれって改善できるものかな?」
君は頑丈そうだけれども、ぼくのハーレイの方はちょっと…、と言うソルジャー。
「君ほど体力とかは無いだろうしね、もっと頑丈になってくれたら色々と…」
「何か問題でもあるのですか?」
「夫婦の時間のパワーってヤツだよ、頑丈になれば長持ちするかと…」
あっちの方も、と意味深な台詞に、教頭先生は「そうですねえ…」と顎に手を当てて。
「生憎と私は、そちらの方では経験が無くて…。ですが、可能性としては有り得ますね」
「じゃあ、君の体力をぼくのハーレイが身に付けたならばパワーの方も…」
「増してくるかもしれません。…断言することは出来ませんが…」
「分かった。だったら、ちょっと協力してくれるかな?」
データを取ってみたいから、とソルジャーが何処からか出した注射器。教頭先生は「血液の方のデータですか?」と目を剥きましたが、ソルジャーは。
「ぼくの世界は医療も進んでいるからねえ…。血液検査で色々なことが分かるんだよ」
「そうでしたか。では、どうぞお好きなだけお取り下さい」
教頭先生が袖をまくって、ソルジャーが「そんなに沢山は要らないから」と採血を。注射器に一本分っていう量ですねえ、教頭先生には大した量でもないんでしょうね。
ソルジャーは教頭先生に「献血の御礼」と頬にキスして帰って来ました。瞬間移動で。教頭先生は感激の面持ちで頬を触っていらっしゃいます。ちっともヘタレていませんよ?
「それはどうかな? その場でヘタレちゃ、つまらないしね」
じきに効果が、とソルジャーが指差している中継画面。教頭先生、嬉しそうに頬を撫でていらっしゃったのが、いきなりボンッ! と真っ赤な顔に。
「「「???」」」
何事なのか、と思いましたが、教頭先生は両方の頬に手を当てると…。
「…き、キスをして貰えたとは…。まさか頬に…」
嬉しいけれども恥ずかしすぎる、と教頭先生とも思えぬ台詞が。
「ど、どうすればいいのだ、私は…! か、顔がどんどん熱くなるのだが…!」
なんという恥ずかしい、いや嬉しい、と怪しすぎる反応、いったいどうなっているのでしょう?
「ほらね、ヘタレに拍車がかかった! たったあれだけで顔が真っ赤に!」
後はどんどんヘタレてゆくだけ、とソルジャーはニヤニヤしています。
「ヘタレる前の血液は採ったし、キッチリと保存しておいて…。重症のヘタレに抗体が出来た頃にもう一度採血してから比較して、と…」
「そうか、比べれば分かるんだ? 違いがあれば」
ヘタレの抗体があるのかどうかは知らないけれど、と会長さんが大きく頷いています。
「抗体らしきものが見付かったら、それでワクチンを作るんだね?」
「そういうこと! ぼくは頑張るから!」
ワクチンなんかは作ったこともないんだけれど、と言うソルジャーはド素人でした。そんなのでワクチンが作れるでしょうか、素人なのに…?
「任せといてよ、ダテにソルジャーはやってないから!」
「「「は?」」」
「ソルジャー稼業をやってる間に、研究所にだって潜入したから!」
研究者たちと一緒に仕事もしたから大丈夫! と自信たっぷり、あちらの世界のドクター・ノルディの情報も参考にするそうです。ただしコッソリ忍び込んで。
「さっき採ったハーレイの血液だってね、メディカルルームで分析だから!」
そしてヘタレのワクチンを作ろう! と拳を突き上げているソルジャー。ヘタレの抗体だの、ワクチンだのって、どう考えても無理じゃないかと思いますけどね…?
そんなこんなで始動してしまった、ヘタレのワクチンを作るプロジェクト。ソルジャーに重症のヘタレになるよう仕掛けをされた教頭先生は…。
「…ずいぶんヘタレて来たよね、あれは」
ぼくに会ったら俯くんだから、と会長さんがクックッと笑う週末。今や教頭先生は会長さんの前では恋に恋する乙女さながら、視線を上げることすら出来ない始末。会釈しながら脇を通り過ぎ、頬を真っ赤に染めて通過で。
「あんた、面白いからと頻繁に出歩いているだろうが!」
普段だったら学校の中は滅多に歩いていないくせに、とキース君。
「わざわざ教頭室のある本館まで行ったり、教頭先生の授業が終わった頃合いで出て来たり…」
「出歩かないと損だろう? あんなハーレイ、そうそう見られやしないんだから!」
楽しんでなんぼ、というのが会長さんの持論です。教頭先生は自分がどうしてヘタレたのかも分かっておられず、自分で集めた会長さんの写真や抱き枕も正視出来ない状態らしくて。
「ぼくの写真はまだマシなんだよ、ブルーの写真は完全にアウト」
見るだけで鼻血、とクスクスと。
「ブルーがせっせと贈ったからねえ、きわどいのを…。今までだったら夜になったら楽しんでオカズにしていたけれども、もう駄目でさ」
「「「おかず?」」」
「けしからぬ気分になりたい時の必須アイテム!」
それを見ながら盛り上がるのだ、と説明されて分かったような、分からないような。…ともあれ、今の教頭先生はオカズとやらも要らない状態なんですね?
「そうらしいねえ、孤独に噴火するだけの度胸も無いようだね!」
「かみお~ん♪ ブルーの写真に「おやすみ」のキスも出来ないみたい!」
頬っぺたが真っ赤になって駄目なの! と言う「そるじゃぁ・ぶるぅ」も覗き見をしているみたいです。いつもだったら会長さんが止めているのに、それをしないということは…。
「…お子様が見ていても大丈夫なレベルにヘタレちゃいましたか…」
凄いですね、とシロエ君が教頭先生の家の方角へ目を遣り、サム君も。
「そこまでっていうのが半端じゃねえよな、ラブレターも来ねえっていうのがよ…」
「渡せる度胸は既に無さそうだよ?」
俯いて横を通るようでは、とジョミー君。日を重ねるごとに酷くなるヘタレ、果たして何処までヘタレるのやら…。
教頭先生がヘタレまくって二週間。もはや会長さんと会ったらサッと物陰に隠れるレベルで、熱い視線だけが届くそうです。心拍数も上がりまくりで、口から心臓が飛び出しそうなほどにドキドキな恋する乙女だとか。
「…まだヘタレるのかな?」
もう相当に重症だけど、とジョミー君が首を捻っている土曜日、会長さんの家のリビング。空気がユラリと揺れたかと思うと、ソルジャーがパッと御登場で。
「こんにちは! そろそろヘタレの抗体が出来ていそうだからねえ!」
今日は採血に来てみましたー! と注射器を持参。でも、教頭先生はヘタレまくりで、ソルジャーとお茶なんかを飲める状態ではありませんけど?
「そこの所は、ぼくもきちんと考えた! ぼくなりに!」
この姿で行けば無問題! とソルジャーの姿がパッと変わってキャプテンに。えーっと、サイオニック・ドリームですかね、その姿って…?
「そうだけど? この格好なら、ハーレイだって気にしないからね!」
ちょっと行ってくる! と瞬間移動で消えたソルジャー、いえ、キャプテン。私たちが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の中継画面を覗き込んでいると、ソルジャーは例によってチャイムを鳴らして。
「こんにちは、お邪魔致します」
「…は?」
どうしてあなたが、と出迎えた教頭先生はキャプテンの正体に気付かないまま、リビングでコーヒーなんかを出しておられます。ソルジャーは怪しまれないように熱いコーヒーを傾けながら。
「…いえ、先日、ブルーがこちらで相談に乗って頂いたとかで…。体質のことで」
「そういえば…。血液検査の結果はどうだったのでしょう?」
「とてつもなく健康でいらっしゃることが分かりましたね、もう驚きです」
私などではとてもとても…、とキャプテンの演技を続けるソルジャー。
「それでですね、追加の検査をしたいそうですが、ブルーは時間が取れないのだそうで…」
「ああ、それで代理でいらっしゃったというわけですか」
「はい。ブルーに送って貰いました。…そのぅ、失礼ですが…」
「血ですね、どうぞご遠慮なく」
お取り下さい、と袖をまくった教頭先生。キャプテンならぬソルジャーとも知らずに血液提供、後はコーヒー片手に健康談義。ヘタレるのは会長さんやソルジャー相手だけなんですねえ、まったく普通に見えますってば…。
キャプテンのふりをして出掛けたソルジャーは、やがて嬉しそうに帰って来ました。
「やったね、ハーレイの血液をゲット!」
あれだけあったら比較も出来るし、と教頭先生の血はソルジャーの世界へ送られたようです。帰ったら直ちに分析開始で、ヘタレの抗体が見付かった時はワクチン作りに入るとか。
「無事に見付かるといいんだけどねえ、ヘタレの抗体!」
「…ぼくにはあるとは思えないけどね?」
そんな代物、と会長さんが頭を振っていますが、ソルジャーは「きっとある筈!」と譲りません。
「あれだけ酷いヘタレなんだよ、今のハーレイは! そうでなくてもハーレイはヘタレだし、二人ともそうだし…。調べれば何かが見付かる筈で!」
「それが見付かったらどうするわけ?」
「決まってるだろう、もう最初からの目的通り! ぼくのハーレイにワクチンを打つ!」
そしてヘタレを克服なのだ、とソルジャーの主張。本当にヘタレの抗体があるなら、ワクチンも夢ではないんでしょうけど…。
「抗体さえあれば、ワクチンは出来る! もう別人のように生まれ変わったハーレイだって出来る筈だよ、それでヘタレが治るんだから!」
どうしてこんな簡単な方法に今まで気付かなかったんだろう、とソルジャーは自分の頭をコツンと叩いて。
「キースの風邪には感謝してるよ、お蔭でアイデアが生まれたからね!」
「い、いや…。俺は普通に予防接種に出掛けただけで、だ…」
「それは毎年行っているだろ、ぼくだって知っていたんだし…。風邪を貰ってくれたからこそ、予防接種とワクチンに注目出来たんだよ!」
君が今回の功労者だ、とキース君の手をグッと握って握手なソルジャー。
「ワクチンが見事に完成したなら、君に感謝状を贈らないとね!」
「い、要らん! 俺はそういうつもりで風邪を引いたわけではないんだし…!」
明らかに腰が引けているのがキース君。それはそうでしょう、ソルジャーからの感謝状なんて、欲しいような人は誰もいませんし…。
「要らないのかい? …ぼくのシャングリラじゃ凄く有難がられるけどねえ…」
ソルジャーからの感謝状は、と重ねて言われても「要らん」と断るキース君。ソルジャーは「欲が無いねえ…」と呆れて帰ってゆきました。おやつも食事も食べずにです。ワクチン作りをするつもりですね、そのために急いで帰りましたね…?
重症のヘタレな教頭先生の血液を採って帰ったソルジャー。今頃はヘタレる前の血液のデータと比較検討中だろうか、とワクチンの話に花が咲いている夕食の席。今夜は会長さんの家にお泊まり、寒いですから豪華寄せ鍋でワイワイと。其処へ…。
「あった、あったよ、ヘタレの抗体!」
もう間違いなくアレに違いない、とソルジャーが姿を現しました。白衣ですけど、本気で研究してたんですか?
「当たり前じゃないか、ちょっとノルディの意識を弄って、メディカルルームの設備を借りて!」
分析していたら前は無かったものを発見! と頬を紅潮させるソルジャー。
「アレこそヘタレの抗体なんだよ、あれを増やしてぼくのハーレイに打ってやればね!」
「…ヘタレが治ると?」
会長さんが自分の器に肉を入れながら尋ねると。
「そうだと思うよ、だってヘタレの抗体なんだし! こっちのハーレイの重症のヘタレから生まれた奇跡の産物、あの抗体から夢のワクチン!」
「はいはい、分かった。…寄せ鍋は食べて行くのかい?」
締めはラーメンと雑炊だけど、と会長さんが誘ったのですが、ソルジャーは。
「そんな時間は無いってね! こんな時こそ、ぼくの普段の食生活の出番!」
栄養剤だけで充分足りる、と消えてしまったソルジャーの姿。寸暇を惜しんでワクチン開発、そんな所だと思われます。でも、ヘタレの抗体って本当に存在するんでしょうか?
「…どうなんだか…。確かに今のハーレイは重症のヘタレだけれど…」
ヘタレはウイルスじゃないと思う、と会長さん。
「俺もそう思う。…ウイルスなら感染しそうだからな」
でもって、あいつが確実に感染している筈だ、とキース君。
「あれだけ濃厚に接触していれば、移らないわけがないと思うぞ。…ヘタレのウイルス」
「そうですねえ…。でも、移ってはいないようですしね?」
ヘタレるどころか逆ですから、とシロエ君も。
「健康保菌者という線もありますけれど…。それにしたって、感染してれば多少はヘタレが…」
「…出そうだよねえ?」
あんなにパワフルなわけがない、とジョミー君だって言っていますし、私だってそう思います。ソルジャーがヘタレていないからには、ヘタレのウイルスは無いでしょう。抗体だって無いと思いますけど、ソルジャーは何を発見したと…?
存在しない筈のヘタレのウイルス、ついでに抗体。けれどソルジャーは教頭先生の血液から何かを発見した上、ワクチンを開発したわけで…。
「聞いてよ、ついに出来たんだよ!」
ヘタレのワクチン! とソルジャーが降ってわいた一週間後。例によって会長さんの家で過ごしていた週末、ソルジャーは最高に御機嫌で。
「完成したのが二日前でさ、直ぐにハーレイに打ったわけ!」
「ちょ、ちょっと…! 安全性も確かめないで!?」
いきなり使ってしまったのか、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーはケロリとしたもので。
「え、問題は無いだろう? こっちのハーレイが持ってた抗体なんだし、最初から人間が持ってたわけで…。しかも瓜二つのハーレイだからね!」
そのまま使って問題無し! と胸を張ったソルジャー。
「それにさ、ワクチンは凄く効いたんだよ! もうハーレイはヘタレ知らずで!」
「ま、まさか…」
「本当だってば、現に昨日もガンガンと! あまりの凄さにぶるぅが土鍋から出て来ていたけど、見られていたってヘタレなかったし!」
大満足の夜だったのだ、とソルジャーは意味不明な言葉をズラズラと並べ始めました。会長さんが柳眉を吊り上げ、レッドカードを叩き付けて。
「退場!!!」
「言われなくても、帰るから! ヘタレが治ったハーレイと楽しく過ごしたいしね!」
特別休暇も取ったんだから、とソルジャーは得意満面です。
「あ、そうだ。…こっちのハーレイはワクチンを作る必要があるから、まだまだ当分、ヘタレのままで置いておくからね!」
「…ワクチンはもう出来たんだろう?」
「もっと強力なのが欲しいじゃないか! もっとヘタレたら、抗体だって凄いのが!」
君もハーレイがヘタレてる間は楽が出来るし…、とソルジャーは一方的に語りまくって姿を消してしまいました。ヘタレのワクチンは完成した上、効果もあったみたいです。あのソルジャーが大満足なレベルとなると…。
「…おい、ヘタレのウイルスは存在したのか?」
「そうらしいね…」
この世界にはまだまだ謎が多い、と会長さんが深い溜息。ヘタレのウイルス、あったとは…。
次の日は日曜、ソルジャーは再び会長さんの家に現れ、ワクチンの効能を熱く語りまくり。会長さんがレッドカードを叩き付けたら、「おっと、続き!」と慌てて帰りましたけど…。
「…途中で抜けて来やがったのか…」
迷惑な、とキース君。ソルジャーはキャプテンがシャワーを浴びている間に来たのです。
「…続きってことは、まだまだやるってことですよねえ…」
シロエ君が大きな溜息、サム君が。
「汗をかいたらシャワーだって言ってやがったしなあ、また来るぜ、きっと」
「体力勝負の運動なんだって言っていたしね…」
汗もかくよね、とジョミー君。ソルジャーが言うにはキャプテンのパワーは上がりまくりで、熱棒とやらもガンガン熱くなりつつあるとか。発熱してなきゃいいんですけど…。
「…待てよ、発熱…?」
もしかしたら、と会長さんが考え込んで。
「…キース、それからシロエにマツカ。…ハーレイは先週、鼻風邪を引いてなかったかい?」
「そういえば…。何度か鼻をかんでいらっしゃったな」
「ええ、そうです。それが何か?」
ただの鼻風邪でしたけど、と答えるシロエ君たち。会長さんは「それか…」と腕組みをして。
「それだよ、ヘタレの抗体とやら! ハーレイが持ってた風邪のウイルス!」
「「「ええっ!?」」」
「ブルーはそれを培養したわけ、でもって感染したのが向こうのハーレイで…。風邪で頭がボーッとしちゃって、ヘタレな気持ちが消えたと見たね!」
「「「あー…」」」
ボーッとしてれば、有り得ないこともやりかねません。それじゃキャプテン、只今、順調に発熱中だというわけですか?
「うん、多分…。風邪が治れば、きっと正気に戻ってヘタレになるかと…。鼻風邪の症状が出ていないから分からないんだよ、風邪だってことが!」
だけどブルーはワクチンの効果だと思っているから…、と頭を抱える会長さん。
「効いたと信じているってことはさ、またワクチンを作ろうとするんだよ、ハーレイで!」
「…これからが風邪のシーズンだしなあ、抗体とやらも出来ていそうだな…」
ヤツの勘違いに過ぎないんだが、とキース君が呻いてもソルジャーは聞く耳を持たないでしょう。まあ、会長さんには平和な状態が続くんですから…。
「…冬の間は教頭先生、ヘタレっぱなしかよ?」
「そうなってしまうみたいですねえ…」
風邪のウイルスだと気付かない限りは、とサム君とシロエ君が顔を見合わせ、私たちも。
「…これでいいのかな?」
「あいつがヘタレの抗体なんだと思っているんだ、放っておこう」
俺たちには実害が無いようだから、とキース君。会長さんにも教頭先生からの熱いアタックとかが一切無いわけですし…。
「それじゃ、ヘタレのウイルスは存在していたってことでいいですね?」
シロエ君が纏めにかかって、会長さんが。
「ブルーが自分で気付くまではね、真実に」
いつかは派手な風邪のウイルスに当たって気付くであろう、という見解。その日が来るまで、キャプテンは風邪のウイルスでパワーアップな日々らしいです。教頭先生はワクチン作りのためにヘタレにされたままですけれども、それで平和になるんだったら重症のヘタレも大歓迎です~!
ヘタレの抗体・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君が貰った風邪から、ソルジャーが思い付いたのがヘタレのワクチンを作ること。
そして開発したわけですけど、抗体の正体はまるで別物。まあ、平和ならそれでいいかも…?
次回は 「第3月曜」 6月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月といえばGWですけど、連休が終わった後の話で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
寒い季節がやって来ました。今年の冬は意外に早くて、残暑が終わってからの秋が短め。気付けばすっかり冬な雰囲気、風邪だって流行り始めています。私たち七人グループの中でも流行を真っ先に取り入れた人が…。
「ハーックション!」
くっそぉ…、と口を押さえるキース君。早々と風邪を引いてしまって、三日も欠席。ようやっと登校して来たのが今日で、それでもクシャミを連発です。
「…移さないでよね、その風邪」
私たちだって困るんだから、とスウェナちゃん。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来てるんですけど、キース君のクシャミがあるわけで…。
「かみお~ん♪ キースの周りはブルーがシールドしているから大丈夫だよ!」
ウイルスは通さないもんね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースも病院に行くんだったら、シールドして行けば良かったのに…」
「「「は?」」」
キース君は既に風邪を引いています。治療のために病院に行くなら、他の人たちに移さないようマスクでしょうけど、そこをシールドでクリアですか?
「それもあるけど…。シールドしてたら、風邪は引かなかったと思うの!」
だってブルーがそう言ってたもん、ということは…。キース君の風邪は病院仕込み?
「悪かったな! 病院仕込みで!」
そんなつもりは無かったんだ、とキース君は仏頂面。
「俺はこれからのシーズンに備えて予防接種に行っただけで…」
「それってインフルエンザかよ?」
サム君が訊くと、「ああ」と返事が。
「坊主が引いたら話にならんし、毎年、受けているんだが…。それを受けに行って貰って来た」
マスクを持って行くのを忘れた、と無念そう。
「俺の隣に明らかに風邪なご老人が座ってしまってな…。あからさまに席を移れもしないし…」
それは坊主としてどうかと思う、という姿勢は正しいですけど、そのご老人から貰ったんだ?
「そうなるな。…予防接種の副作用かと思ったんだが、どうやら違った」
本物の風邪だ、とまたまたクシャミ。全快するまでは遠そうですねえ…。
流行の最先端を行ってしまったキース君。インフルエンザに罹ってしまえばお坊さんの仕事は出来ませんから、予防接種は当然でしょう。けれど、受けに行った先で風邪を貰って三日も休んだのでは本末転倒とか言いませんか?
「そうなんだが…。月参りにも行けなかったし、親父が文句をネチネチと…」
「「「あー…」」」
気の毒に、と合掌してしまった私たち。キース君は月に何度か遅刻して来て、そういう時には月参りです。檀家さんの家をお坊さんスタイルで回って来た後、制服に着替えて登校なパターン。それがズッコケちゃったんですねえ、風邪のせいで?
「風邪もそうだが、声の方がな…。掠れてしまって出なかったわけで、どうにもならん」
「喉は坊主の命だからねえ…」
マスクしてても声さえ出ればね、と会長さん。
「一人しかいないお寺なんかだと、マスクで月参りもしたりするから…」
「親父にもそう言われたんだ! 情けないヤツだと!」
ついでに親父に借りまで出来た、と呻くキース君。行く予定だった月参りをアドス和尚が引き受けた結果、凄い借りが出来てしまったのだそうで…。
「どういう形で返すことになるのか分からんが…。最悪、お盆まで持ち越しかもな」
「「「お盆?」」」
「卒塔婆だ、卒塔婆! あの時の貸しだ、と俺に卒塔婆書きのノルマがドカンと…」
「「「…卒塔婆書き…」」」
それは毎年、夏になったらキース君を苦しめている作業。山ほどの卒塔婆をアドス和尚と手分けして書いているそうですけど、そこまで借りを返せないままだと…。
「…もしかして全部も有り得ますか?」
シロエ君の言葉に、キース君は。
「…大切な檀家さんの分は親父が書くんだろうが…。最悪のケースも考えないと…」
出来ればそれまでに分割の形で返しておきたい、と苦悶の表情。
「とにかく風邪は二度と御免だ、気を付けないと…」
なんだってこうなったんだか、と言いたい気持ちは分かります。インフルエンザの予防接種に出掛けて風邪って、空しいにも程がありますよねえ…。
とはいえ、無事に終わったのがキース君の予防接種で、次の週には風邪も全快。土曜日も会長さんの家に集まってダラダラ過ごしていたんですけど。
「こんにちはーっ!」
キースの風邪が治ったってね、と現れた別の世界からのお客様。「ぼくにもおやつ!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に注文をつけていますけれども、野次馬ですか?
「うーん…。野次馬ってわけでもないんだけれど…」
予防接種のことでちょっと、と妙な台詞が。
「「「予防接種?」」」
「うん。…キースは風邪を引いちゃったけれど、インフルエンザには罹らないんだよね?」
「それはまあ…。多分、としか言えないが」
罹る時には罹るらしいし、とキース君。
「あんたの世界ではどうだか知らんが、俺たちの世界では当たり外れがあるからな」
「当たり外れって?」
「打ったワクチンと同じウイルスなら罹らないんだが、別物だと罹る」
インフルエンザのウイルスには種類が幾つかあるからな、とキース君が説明を。
「運が悪いと、別のを端から貰ってしまって罹るケースも皆無ではない」
俺の知り合いにもコンプリートをしたヤツが…、と恐ろしい実話。お坊さん仲間の人らしいですけど、去年の冬にインフルエンザをコンプリートしたらしいです。ワクチンを打ったヤツ以外の。
「…それはある意味、強運だとか言いませんか?」
普通はそこまで出来ませんよ、とシロエ君が言うと。
「俺もそう思う。そいつ自身もそう思ったらしくて、宝くじを大量に買ってみたそうだ」
「へえ…。当たったのかよ、その宝くじ」
サム君の問いに、キース君は。
「当たったらしいぞ、金額は教えて貰えなかったが…」
「「「…スゴイ…」」」
宝くじが当たるんだったら、インフルエンザのコンプリートもいいでしょう。熱とかで多少辛かろうとも、大金がドカンと入るんですしね?
話は宝くじへと向かいましたが、横から止めに入ったソルジャー。「ぼくはワクチンの話をしたいんだけど」と。
「ワクチンって…。何さ?」
君の世界ならインフルエンザのワクチンもさぞかし完璧だろう、と会長さん。
「こっちの世界じゃ、今年はコレが流行りそうだ、っていうのを作って予防接種だけど…」
「あんたの世界の技術だったら、全部纏めていけるんじゃないか?」
医療は進んでいるんだろう、とキース君も。
「それで嘲笑いに来たというわけか。ただでも風邪を貰ってしまった俺の場合は、ワクチンの方もハズレを引いていそうだと!」
「…そうじゃなくって…。ぼくの世界にも無いワクチンについての話なんだよ」
「「「無い!?」」」
ザッと後ろへ下がりそうになった私たち。椅子さえなければそうなったでしょう。
「き、君はどういうウイルスについて語りたいわけ!?」
悲鳴にも似た会長さんの声、私たちも気分は同じです。ワクチンが無いような感染症がソルジャーの世界のシャングリラで流行してるんだったら…。
「頼む、帰ってくれ!!」
俺たちにそれを移す前に、とキース君。
「ウイルスってヤツは侮れないんだ、健康保菌者というのもいるんだ!」
「そうだよ、君は罹っていないつもりでいてもね、実は罹っていてウイルスを撒き散らしているってこともあるから!」
シールドだって効くのかどうか…、と会長さんは震え上がっています。
「どんなウイルスか分からないけど、君子危うきに近寄らず! 用心に越したことはないから!」
「そうです、とにかく帰って下さい!」
話の方は落ち着いたらまた聞きますから、とシロエ君も。
「初期段階での封じ込めってヤツが大切なんです、終息してから来て下さい!」
「シロエが言ってる通りだってば、早く帰ってくれたまえ!」
この部屋は直ぐに消毒するから、と会長さん。別の世界のウイルスだなんて怖すぎな上に、ワクチンが無いと聞いたら恐怖は倍どころか無限大ですから~!
こうして追い出しにかかっているのに、ソルジャーは悠然とソファに腰掛けたままで。
「移る心配なら大丈夫! 移った人は一人も無いしね」
「だけど患者がいるんだろう!」
残りは全員、君も含めて健康保菌者ということも…、と会長さんが指を突き付けました。
「君のシャングリラでは耐性のある人が多いとしてもね、こっちの世界は別だから!」
「そうだぞ、俺は風邪だけで沢山なんだ! この冬は!」
これ以上の感染症は御免蒙る、とキース君も言ったのですけど。
「…アレは普通は移らないと思うよ、罹ってるのはずっと昔から一人だけだし」
「そういう油断が怖いんだよ!」
感染症には色々あるから、と会長さん。
「潜伏期間が二十年とかいうのもあるしね、おまけにワクチンは無いんだろう?」
「そうなんだよねえ、そもそも作ろうと思っていなかったから!」
「「「は?」」」
「ワクチンって方法を思い付かなかったんだよ、対症療法しか考えてなくて!」
それと精神論だろうか、と言ってますけど、病気の人に精神論って、気力で克服しろっていう意味ですか?
「そんなトコだね、精神を鍛えれば克服できると! ヘタレくらいは!」
「「「ヘタレ?」」」
「そう、ヘタレ! 患者はぼくのハーレイなんだよ、君たちも知っている通り!」
どうしようもなくヘタレなのがハーレイ、とソルジャー、ブツクサ。
「ぶるぅが覗きに来たら駄目だし、そうでなくてもヘタレるし…」
「…それは感染症とは違うんじゃないかと思うけど?」
君のハーレイだけの問題だろう、と会長さん。
「第一、ワクチンを作るだなんて…。あれはウイルスの抗体ってヤツを作るわけでさ、ウイルスも無さそうなヘタレの抗体をどうやって作ると?」
「…ウイルスだとは限らないけど、抗体だったら作れそうだと思うんだよ!」
キースの風邪のお蔭で思い付いた、とソルジャーが目を付けた予防接種だのワクチンだの。キャプテンのヘタレにワクチンだなんて、そんなのホントに作れますか…?
ソルジャーが感染症を持ち込んだわけではないらしい、と分かってホッと一息ですけど、今度はワクチンが問題です。キャプテンのヘタレに効くワクチンが作れるかどうかも問題とはいえ、既に発症してるんだったら、ワクチンを作っても無駄なんじゃあ…?
「それがそうでもないんだよ。劇的に効くって例もあるから!」
ワクチンを後から接種しても、と言うソルジャー。
「こっちの世界はどうか知らないけど、ぼくの世界じゃとにかくワクチン! 駄目で元々、ガンガン打つって方向で行くねえ、感染症には!」
なにしろ宇宙は広すぎるから…、という話。新しい惑星に入植するにはリスクがつきもの、未知のウイルスが潜んでいることもあるそうです。そういう時にはワクチン開発、患者にどんどん打つらしくって。
「これが効くってこともあるんだよ、だからワクチンは後からでもいける!」
「…まあ、ぼくたちの世界でも、そういう例は皆無じゃないけど…」
たまに奇跡のように治ってしまう人が…、と会長さん。打つ手が無いという感染症の重症患者にワクチン接種で、治るという例。
「でもねえ…。ヘタレはウイルスじゃないし、本人の気の持ちようだから…」
「あながちそうとも言い切れないよ? 何か原因があるかもだしね!」
だから抗体を作りたいのだ、と言ってますけど、どうやって…?
「簡単なことだよ、ハーレイは二人いるからね!」
こっちの世界に更にヘタレなハーレイが! とソルジャーは教頭先生の家の方へと指を。
「あのハーレイを使ってワクチン製造! 抗体を作る!」
「…それなら、わざわざ作らなくても…。とうに抗体、出来ていそうだよ?」
三百年以上もヘタレてるんだし、と会長さん。
「ヘタレ続けて三百年以上、きっと抗体もある筈で…」
「それじゃ駄目なんだよ、その程度だったら、ぼくのハーレイも抗体を持っていそうだし!」
あれも元からヘタレだから、と言われてみればその通りです。キャプテンにだって出来ていそうな抗体、それでもヘタレのままだとなると…。
「そう、もっと強力な抗体ってヤツが必要なんだよ!」
より重症なヘタレに対応出来る抗体! とグッと拳を握るソルジャー。より重症なヘタレに対応って、そんなワクチン、作れますか…?
ソルジャー曰く、キャプテンに打つためのワクチンは教頭先生を使って製造。しかも強力な抗体が必要、より重症なヘタレに対応出来るように、ということですが…。
「…君はいったい何をする気さ、ハーレイに?」
ぼくにはサッパリ分からないけど、と会長さんが尋ねて、私たちも「うん」と。ソルジャーは「そうかなあ?」と首を傾げて。
「簡単なことだと思うけど? ハーレイが重症なヘタレになったら、抗体だって出来るしね!」
「「「…重症?」」」
今でも充分に重症だろうと思いますけど、まだ足りないと?
「足りないねえ! ヘタレ具合じゃ、ぼくのハーレイとどっこいと見たね!」
環境のせいで余計にヘタレて見えるだけだ、と言うソルジャー。
「ブルーがハーレイを受け付けないから万年童貞、それが災いしているだけ! もしもブルーとデキていたなら、ヘタレ具合は似たようなものかと!」
こっちのハーレイがヤレる環境にいたとしたなら、鼻血体質もとっくに克服しているだろう、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「ぼくのハーレイも、最初の間は、何かと遠慮がちだったしねえ…」
今のようなハーレイになれるまでには色々と…、とソルジャーは昔語りモードに入ろうとしましたけれども、会長さんが素早くイエローカードを。
「その先、禁止! 今はワクチンの話だから!」
「…そうかい? これからが面白いんだけど…。でもまあ、いいか…」
大切なのはワクチンだから、とソルジャーは気持ちを切り替えたようで。
「要は、こっちのハーレイを今よりヘタレに! その状態になれば、強い抗体が出来るんだよ!」
「…今よりヘタレって、どんな具合に?」
ちょっと想像つかないんだけど、と会長さんが訊くと。
「それはもちろん、ヘタレMAX! 君の顔もまともに見られないとか、そういうレベル!」
出会っただけで顔を赤くして俯くだとか…、とブチ上げるソルジャー。
「その辺はサイオンでどうとでも出来るよ、ハーレイの精神をチョイと弄れば!」
「…わざとヘタレにしてしまうと?」
「その通り! 君にも悪い話じゃないから!」
ハーレイで色々と苦労をしてるじゃないか、と笑顔のソルジャー。それは確かに間違ってませんねえ、教頭先生の思い込みの激しさはピカイチですしね?
教頭先生をサイオンで重度のヘタレに仕立てて、ヘタレの抗体を作ろうというソルジャーの案。日頃から教頭先生に一方的に愛されている会長さんからすれば、悪い話ではないわけで…。
「なるほど、ハーレイが今よりヘタレにねえ…」
そうなればぼくも追われないだろうか、という呟きにソルジャーが。
「まるで追われないとは言わないけれど…。君への愛は消えないからね! でもさ…」
せいぜい「読んで下さい」とラブレターを渡して逃げ去る程度、と溢れる自信。
「そのラブレターだって、小学生だか幼稚園児だか、ってレベルになるのは間違いないね!」
「そうなんだ? だったら、ぼくは当分の間、平和に生活出来るってことか…」
「お金を毟るのは難しいかもしれないけどね!」
ヘタレたら貢ぐ度胸があるかどうか、と言ってますけど、会長さんは。
「お金に不自由はしてないし…。ハーレイが静かになると言うなら、多少のことは我慢するよ。どうせいつかは治るんだろう? 重度のヘタレも」
「そりゃあ、永遠にっていうわけじゃないよ」
ワクチンが出来たら用済みだから、とソルジャー、アッサリ。
「で、作ってもいいのかな? ヘタレのワクチン」
「面白そうだし、やってみたら? …ヘタレの抗体があるかどうかは謎だけど」
「ありがとう! それじゃ早速…」
「ハーレイに相談しに行くのかい?」
ワクチン作りの、と会長さんが訊いたのですが。
「相談なんかをするとでも? 逃げられるに決まっているじゃないか!」
自分がヘタレになるだなんて、とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「ぼくはハーレイに会いに行くだけ、そして話をしてくるだけ!」
「…それでどうやったらヘタレになるのさ?」
「サイオンで意識の下に干渉! 細かい作業をするなら会わないとね!」
遠隔操作では上手くいかないものだから…、と本気のソルジャー。
「ぼくと楽しくお茶を飲んでから送り出したら、ヘタレ発動! もう重症の!」
それは凄いヘタレが出来るであろう、とソルジャーはソファから立ち上がりました。
「行ってくるから、サイオン中継で様子を見ててよ。ヘタレのワクチン、頑張らなくちゃ!」
善は急げ、と瞬間移動で消えたソルジャー。行き先は教頭先生の家ですよね?
会長さんの家に残された私たちの前には、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継の画面を出してくれました。教頭先生のお宅が映っています。ソルジャーがチャイムを押していますが…。
「どちらさまですか?」
「ぼくだけど?」
それだけで分かったらしい教頭先生、いそいそと玄関の扉を開けに出て来て。
「これはようこそ…! 寒いですから入って下さい」
「ありがとう。…君の家にホットココアはあるかな?」
「ああ、好物でらっしゃいましたね。…直ぐにご用意いたしますから」
リビングへどうぞ、と教頭先生はソルジャーを招き入れてキッチンでホットココアの用意を。クッキーも添えて歓迎モードで、自分用にはコーヒーで。
「…それで、本日の御用件は?」
「ちょっとね、ぼくのハーレイの健康のことで相談が…。かまわないかな?」
「もちろんです。私で分かることでしたら」
「助かるよ。…実は体質のことで悩んでいてさ…。あれって改善できるものかな?」
君は頑丈そうだけれども、ぼくのハーレイの方はちょっと…、と言うソルジャー。
「君ほど体力とかは無いだろうしね、もっと頑丈になってくれたら色々と…」
「何か問題でもあるのですか?」
「夫婦の時間のパワーってヤツだよ、頑丈になれば長持ちするかと…」
あっちの方も、と意味深な台詞に、教頭先生は「そうですねえ…」と顎に手を当てて。
「生憎と私は、そちらの方では経験が無くて…。ですが、可能性としては有り得ますね」
「じゃあ、君の体力をぼくのハーレイが身に付けたならばパワーの方も…」
「増してくるかもしれません。…断言することは出来ませんが…」
「分かった。だったら、ちょっと協力してくれるかな?」
データを取ってみたいから、とソルジャーが何処からか出した注射器。教頭先生は「血液の方のデータですか?」と目を剥きましたが、ソルジャーは。
「ぼくの世界は医療も進んでいるからねえ…。血液検査で色々なことが分かるんだよ」
「そうでしたか。では、どうぞお好きなだけお取り下さい」
教頭先生が袖をまくって、ソルジャーが「そんなに沢山は要らないから」と採血を。注射器に一本分っていう量ですねえ、教頭先生には大した量でもないんでしょうね。
ソルジャーは教頭先生に「献血の御礼」と頬にキスして帰って来ました。瞬間移動で。教頭先生は感激の面持ちで頬を触っていらっしゃいます。ちっともヘタレていませんよ?
「それはどうかな? その場でヘタレちゃ、つまらないしね」
じきに効果が、とソルジャーが指差している中継画面。教頭先生、嬉しそうに頬を撫でていらっしゃったのが、いきなりボンッ! と真っ赤な顔に。
「「「???」」」
何事なのか、と思いましたが、教頭先生は両方の頬に手を当てると…。
「…き、キスをして貰えたとは…。まさか頬に…」
嬉しいけれども恥ずかしすぎる、と教頭先生とも思えぬ台詞が。
「ど、どうすればいいのだ、私は…! か、顔がどんどん熱くなるのだが…!」
なんという恥ずかしい、いや嬉しい、と怪しすぎる反応、いったいどうなっているのでしょう?
「ほらね、ヘタレに拍車がかかった! たったあれだけで顔が真っ赤に!」
後はどんどんヘタレてゆくだけ、とソルジャーはニヤニヤしています。
「ヘタレる前の血液は採ったし、キッチリと保存しておいて…。重症のヘタレに抗体が出来た頃にもう一度採血してから比較して、と…」
「そうか、比べれば分かるんだ? 違いがあれば」
ヘタレの抗体があるのかどうかは知らないけれど、と会長さんが大きく頷いています。
「抗体らしきものが見付かったら、それでワクチンを作るんだね?」
「そういうこと! ぼくは頑張るから!」
ワクチンなんかは作ったこともないんだけれど、と言うソルジャーはド素人でした。そんなのでワクチンが作れるでしょうか、素人なのに…?
「任せといてよ、ダテにソルジャーはやってないから!」
「「「は?」」」
「ソルジャー稼業をやってる間に、研究所にだって潜入したから!」
研究者たちと一緒に仕事もしたから大丈夫! と自信たっぷり、あちらの世界のドクター・ノルディの情報も参考にするそうです。ただしコッソリ忍び込んで。
「さっき採ったハーレイの血液だってね、メディカルルームで分析だから!」
そしてヘタレのワクチンを作ろう! と拳を突き上げているソルジャー。ヘタレの抗体だの、ワクチンだのって、どう考えても無理じゃないかと思いますけどね…?
そんなこんなで始動してしまった、ヘタレのワクチンを作るプロジェクト。ソルジャーに重症のヘタレになるよう仕掛けをされた教頭先生は…。
「…ずいぶんヘタレて来たよね、あれは」
ぼくに会ったら俯くんだから、と会長さんがクックッと笑う週末。今や教頭先生は会長さんの前では恋に恋する乙女さながら、視線を上げることすら出来ない始末。会釈しながら脇を通り過ぎ、頬を真っ赤に染めて通過で。
「あんた、面白いからと頻繁に出歩いているだろうが!」
普段だったら学校の中は滅多に歩いていないくせに、とキース君。
「わざわざ教頭室のある本館まで行ったり、教頭先生の授業が終わった頃合いで出て来たり…」
「出歩かないと損だろう? あんなハーレイ、そうそう見られやしないんだから!」
楽しんでなんぼ、というのが会長さんの持論です。教頭先生は自分がどうしてヘタレたのかも分かっておられず、自分で集めた会長さんの写真や抱き枕も正視出来ない状態らしくて。
「ぼくの写真はまだマシなんだよ、ブルーの写真は完全にアウト」
見るだけで鼻血、とクスクスと。
「ブルーがせっせと贈ったからねえ、きわどいのを…。今までだったら夜になったら楽しんでオカズにしていたけれども、もう駄目でさ」
「「「おかず?」」」
「けしからぬ気分になりたい時の必須アイテム!」
それを見ながら盛り上がるのだ、と説明されて分かったような、分からないような。…ともあれ、今の教頭先生はオカズとやらも要らない状態なんですね?
「そうらしいねえ、孤独に噴火するだけの度胸も無いようだね!」
「かみお~ん♪ ブルーの写真に「おやすみ」のキスも出来ないみたい!」
頬っぺたが真っ赤になって駄目なの! と言う「そるじゃぁ・ぶるぅ」も覗き見をしているみたいです。いつもだったら会長さんが止めているのに、それをしないということは…。
「…お子様が見ていても大丈夫なレベルにヘタレちゃいましたか…」
凄いですね、とシロエ君が教頭先生の家の方角へ目を遣り、サム君も。
「そこまでっていうのが半端じゃねえよな、ラブレターも来ねえっていうのがよ…」
「渡せる度胸は既に無さそうだよ?」
俯いて横を通るようでは、とジョミー君。日を重ねるごとに酷くなるヘタレ、果たして何処までヘタレるのやら…。
教頭先生がヘタレまくって二週間。もはや会長さんと会ったらサッと物陰に隠れるレベルで、熱い視線だけが届くそうです。心拍数も上がりまくりで、口から心臓が飛び出しそうなほどにドキドキな恋する乙女だとか。
「…まだヘタレるのかな?」
もう相当に重症だけど、とジョミー君が首を捻っている土曜日、会長さんの家のリビング。空気がユラリと揺れたかと思うと、ソルジャーがパッと御登場で。
「こんにちは! そろそろヘタレの抗体が出来ていそうだからねえ!」
今日は採血に来てみましたー! と注射器を持参。でも、教頭先生はヘタレまくりで、ソルジャーとお茶なんかを飲める状態ではありませんけど?
「そこの所は、ぼくもきちんと考えた! ぼくなりに!」
この姿で行けば無問題! とソルジャーの姿がパッと変わってキャプテンに。えーっと、サイオニック・ドリームですかね、その姿って…?
「そうだけど? この格好なら、ハーレイだって気にしないからね!」
ちょっと行ってくる! と瞬間移動で消えたソルジャー、いえ、キャプテン。私たちが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の中継画面を覗き込んでいると、ソルジャーは例によってチャイムを鳴らして。
「こんにちは、お邪魔致します」
「…は?」
どうしてあなたが、と出迎えた教頭先生はキャプテンの正体に気付かないまま、リビングでコーヒーなんかを出しておられます。ソルジャーは怪しまれないように熱いコーヒーを傾けながら。
「…いえ、先日、ブルーがこちらで相談に乗って頂いたとかで…。体質のことで」
「そういえば…。血液検査の結果はどうだったのでしょう?」
「とてつもなく健康でいらっしゃることが分かりましたね、もう驚きです」
私などではとてもとても…、とキャプテンの演技を続けるソルジャー。
「それでですね、追加の検査をしたいそうですが、ブルーは時間が取れないのだそうで…」
「ああ、それで代理でいらっしゃったというわけですか」
「はい。ブルーに送って貰いました。…そのぅ、失礼ですが…」
「血ですね、どうぞご遠慮なく」
お取り下さい、と袖をまくった教頭先生。キャプテンならぬソルジャーとも知らずに血液提供、後はコーヒー片手に健康談義。ヘタレるのは会長さんやソルジャー相手だけなんですねえ、まったく普通に見えますってば…。
キャプテンのふりをして出掛けたソルジャーは、やがて嬉しそうに帰って来ました。
「やったね、ハーレイの血液をゲット!」
あれだけあったら比較も出来るし、と教頭先生の血はソルジャーの世界へ送られたようです。帰ったら直ちに分析開始で、ヘタレの抗体が見付かった時はワクチン作りに入るとか。
「無事に見付かるといいんだけどねえ、ヘタレの抗体!」
「…ぼくにはあるとは思えないけどね?」
そんな代物、と会長さんが頭を振っていますが、ソルジャーは「きっとある筈!」と譲りません。
「あれだけ酷いヘタレなんだよ、今のハーレイは! そうでなくてもハーレイはヘタレだし、二人ともそうだし…。調べれば何かが見付かる筈で!」
「それが見付かったらどうするわけ?」
「決まってるだろう、もう最初からの目的通り! ぼくのハーレイにワクチンを打つ!」
そしてヘタレを克服なのだ、とソルジャーの主張。本当にヘタレの抗体があるなら、ワクチンも夢ではないんでしょうけど…。
「抗体さえあれば、ワクチンは出来る! もう別人のように生まれ変わったハーレイだって出来る筈だよ、それでヘタレが治るんだから!」
どうしてこんな簡単な方法に今まで気付かなかったんだろう、とソルジャーは自分の頭をコツンと叩いて。
「キースの風邪には感謝してるよ、お蔭でアイデアが生まれたからね!」
「い、いや…。俺は普通に予防接種に出掛けただけで、だ…」
「それは毎年行っているだろ、ぼくだって知っていたんだし…。風邪を貰ってくれたからこそ、予防接種とワクチンに注目出来たんだよ!」
君が今回の功労者だ、とキース君の手をグッと握って握手なソルジャー。
「ワクチンが見事に完成したなら、君に感謝状を贈らないとね!」
「い、要らん! 俺はそういうつもりで風邪を引いたわけではないんだし…!」
明らかに腰が引けているのがキース君。それはそうでしょう、ソルジャーからの感謝状なんて、欲しいような人は誰もいませんし…。
「要らないのかい? …ぼくのシャングリラじゃ凄く有難がられるけどねえ…」
ソルジャーからの感謝状は、と重ねて言われても「要らん」と断るキース君。ソルジャーは「欲が無いねえ…」と呆れて帰ってゆきました。おやつも食事も食べずにです。ワクチン作りをするつもりですね、そのために急いで帰りましたね…?
重症のヘタレな教頭先生の血液を採って帰ったソルジャー。今頃はヘタレる前の血液のデータと比較検討中だろうか、とワクチンの話に花が咲いている夕食の席。今夜は会長さんの家にお泊まり、寒いですから豪華寄せ鍋でワイワイと。其処へ…。
「あった、あったよ、ヘタレの抗体!」
もう間違いなくアレに違いない、とソルジャーが姿を現しました。白衣ですけど、本気で研究してたんですか?
「当たり前じゃないか、ちょっとノルディの意識を弄って、メディカルルームの設備を借りて!」
分析していたら前は無かったものを発見! と頬を紅潮させるソルジャー。
「アレこそヘタレの抗体なんだよ、あれを増やしてぼくのハーレイに打ってやればね!」
「…ヘタレが治ると?」
会長さんが自分の器に肉を入れながら尋ねると。
「そうだと思うよ、だってヘタレの抗体なんだし! こっちのハーレイの重症のヘタレから生まれた奇跡の産物、あの抗体から夢のワクチン!」
「はいはい、分かった。…寄せ鍋は食べて行くのかい?」
締めはラーメンと雑炊だけど、と会長さんが誘ったのですが、ソルジャーは。
「そんな時間は無いってね! こんな時こそ、ぼくの普段の食生活の出番!」
栄養剤だけで充分足りる、と消えてしまったソルジャーの姿。寸暇を惜しんでワクチン開発、そんな所だと思われます。でも、ヘタレの抗体って本当に存在するんでしょうか?
「…どうなんだか…。確かに今のハーレイは重症のヘタレだけれど…」
ヘタレはウイルスじゃないと思う、と会長さん。
「俺もそう思う。…ウイルスなら感染しそうだからな」
でもって、あいつが確実に感染している筈だ、とキース君。
「あれだけ濃厚に接触していれば、移らないわけがないと思うぞ。…ヘタレのウイルス」
「そうですねえ…。でも、移ってはいないようですしね?」
ヘタレるどころか逆ですから、とシロエ君も。
「健康保菌者という線もありますけれど…。それにしたって、感染してれば多少はヘタレが…」
「…出そうだよねえ?」
あんなにパワフルなわけがない、とジョミー君だって言っていますし、私だってそう思います。ソルジャーがヘタレていないからには、ヘタレのウイルスは無いでしょう。抗体だって無いと思いますけど、ソルジャーは何を発見したと…?
存在しない筈のヘタレのウイルス、ついでに抗体。けれどソルジャーは教頭先生の血液から何かを発見した上、ワクチンを開発したわけで…。
「聞いてよ、ついに出来たんだよ!」
ヘタレのワクチン! とソルジャーが降ってわいた一週間後。例によって会長さんの家で過ごしていた週末、ソルジャーは最高に御機嫌で。
「完成したのが二日前でさ、直ぐにハーレイに打ったわけ!」
「ちょ、ちょっと…! 安全性も確かめないで!?」
いきなり使ってしまったのか、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーはケロリとしたもので。
「え、問題は無いだろう? こっちのハーレイが持ってた抗体なんだし、最初から人間が持ってたわけで…。しかも瓜二つのハーレイだからね!」
そのまま使って問題無し! と胸を張ったソルジャー。
「それにさ、ワクチンは凄く効いたんだよ! もうハーレイはヘタレ知らずで!」
「ま、まさか…」
「本当だってば、現に昨日もガンガンと! あまりの凄さにぶるぅが土鍋から出て来ていたけど、見られていたってヘタレなかったし!」
大満足の夜だったのだ、とソルジャーは意味不明な言葉をズラズラと並べ始めました。会長さんが柳眉を吊り上げ、レッドカードを叩き付けて。
「退場!!!」
「言われなくても、帰るから! ヘタレが治ったハーレイと楽しく過ごしたいしね!」
特別休暇も取ったんだから、とソルジャーは得意満面です。
「あ、そうだ。…こっちのハーレイはワクチンを作る必要があるから、まだまだ当分、ヘタレのままで置いておくからね!」
「…ワクチンはもう出来たんだろう?」
「もっと強力なのが欲しいじゃないか! もっとヘタレたら、抗体だって凄いのが!」
君もハーレイがヘタレてる間は楽が出来るし…、とソルジャーは一方的に語りまくって姿を消してしまいました。ヘタレのワクチンは完成した上、効果もあったみたいです。あのソルジャーが大満足なレベルとなると…。
「…おい、ヘタレのウイルスは存在したのか?」
「そうらしいね…」
この世界にはまだまだ謎が多い、と会長さんが深い溜息。ヘタレのウイルス、あったとは…。
次の日は日曜、ソルジャーは再び会長さんの家に現れ、ワクチンの効能を熱く語りまくり。会長さんがレッドカードを叩き付けたら、「おっと、続き!」と慌てて帰りましたけど…。
「…途中で抜けて来やがったのか…」
迷惑な、とキース君。ソルジャーはキャプテンがシャワーを浴びている間に来たのです。
「…続きってことは、まだまだやるってことですよねえ…」
シロエ君が大きな溜息、サム君が。
「汗をかいたらシャワーだって言ってやがったしなあ、また来るぜ、きっと」
「体力勝負の運動なんだって言っていたしね…」
汗もかくよね、とジョミー君。ソルジャーが言うにはキャプテンのパワーは上がりまくりで、熱棒とやらもガンガン熱くなりつつあるとか。発熱してなきゃいいんですけど…。
「…待てよ、発熱…?」
もしかしたら、と会長さんが考え込んで。
「…キース、それからシロエにマツカ。…ハーレイは先週、鼻風邪を引いてなかったかい?」
「そういえば…。何度か鼻をかんでいらっしゃったな」
「ええ、そうです。それが何か?」
ただの鼻風邪でしたけど、と答えるシロエ君たち。会長さんは「それか…」と腕組みをして。
「それだよ、ヘタレの抗体とやら! ハーレイが持ってた風邪のウイルス!」
「「「ええっ!?」」」
「ブルーはそれを培養したわけ、でもって感染したのが向こうのハーレイで…。風邪で頭がボーッとしちゃって、ヘタレな気持ちが消えたと見たね!」
「「「あー…」」」
ボーッとしてれば、有り得ないこともやりかねません。それじゃキャプテン、只今、順調に発熱中だというわけですか?
「うん、多分…。風邪が治れば、きっと正気に戻ってヘタレになるかと…。鼻風邪の症状が出ていないから分からないんだよ、風邪だってことが!」
だけどブルーはワクチンの効果だと思っているから…、と頭を抱える会長さん。
「効いたと信じているってことはさ、またワクチンを作ろうとするんだよ、ハーレイで!」
「…これからが風邪のシーズンだしなあ、抗体とやらも出来ていそうだな…」
ヤツの勘違いに過ぎないんだが、とキース君が呻いてもソルジャーは聞く耳を持たないでしょう。まあ、会長さんには平和な状態が続くんですから…。
「…冬の間は教頭先生、ヘタレっぱなしかよ?」
「そうなってしまうみたいですねえ…」
風邪のウイルスだと気付かない限りは、とサム君とシロエ君が顔を見合わせ、私たちも。
「…これでいいのかな?」
「あいつがヘタレの抗体なんだと思っているんだ、放っておこう」
俺たちには実害が無いようだから、とキース君。会長さんにも教頭先生からの熱いアタックとかが一切無いわけですし…。
「それじゃ、ヘタレのウイルスは存在していたってことでいいですね?」
シロエ君が纏めにかかって、会長さんが。
「ブルーが自分で気付くまではね、真実に」
いつかは派手な風邪のウイルスに当たって気付くであろう、という見解。その日が来るまで、キャプテンは風邪のウイルスでパワーアップな日々らしいです。教頭先生はワクチン作りのためにヘタレにされたままですけれども、それで平和になるんだったら重症のヘタレも大歓迎です~!
ヘタレの抗体・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君が貰った風邪から、ソルジャーが思い付いたのがヘタレのワクチンを作ること。
そして開発したわけですけど、抗体の正体はまるで別物。まあ、平和ならそれでいいかも…?
次回は 「第3月曜」 6月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月といえばGWですけど、連休が終わった後の話で…。
(美味しそう…)
それに綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
評判が高い料理のお店で、いつも予約で一杯らしい。行くなら予約をするのが一番。でないと、席が無いことの方が多いから。キャンセルが出ても、直ぐに埋まってしまうから。
それでも通り掛かった人が「空いてますか?」と尋ねるほど。店の表に出ている料理の写真が、これと同じに美味しそうだから。添えられたメニューも素敵だから。
(予約無しでも、運が良ければ入れるんだ…)
急なキャンセルは、ありがちなもの。友達と行こうと予約したのに、友達が来られないだとか。家族で行こうと計画したのに、誰かの都合が悪くなったとか。
けれど確実に入りたいなら、予約すること。この日の何時にお願いします、と。
(お休みの日にはハーレイが来るから、行かないけどね?)
両親と食事に出掛けてゆくより、ハーレイと過ごす方がいい。母が作った料理を食べて、お茶やお菓子も楽しんで。
どんなに料理が美味しそうでも、お店に行くより家にいる方がいいんだから、と考えながら読み進めた記事。お料理なんかに釣られないよ、と。
そうしたら、驚かされたこと。「行かないんだから」と思った、このお店は…。
(小さな子供は…)
予約をしたって入れない店。雰囲気を壊してしまうから。
子供連れなら、予約の時に訊かれる年齢。「お子様は何歳でらっしゃいますか?」と。その子の年が足りなかったら、断られてしまう。予約なしでも変わらないルール。「何歳ですか?」と。
(ぼくの年だと、大丈夫だけど…)
ちょっぴり酷くないだろうか、と思った「小さな子供は入れない」決まり。
美味しそうな料理が出される店なら、子供だって食べてみたいだろうに。家族の誰かが出掛けて来たなら、話を聞いて行ってみたくもなるのだろうに。
(なんだかガッカリ…)
お店への夢が壊れてしまった。最初は一目で惹かれたのに。…料理の写真を目にしただけで。
同じように写真を眺めた子供も、きっと大勢いるのだろうに。お店に入れない年の子でも。
その子供たちの夢が砕けてしまう店。「行きたいよ」と強請ってみたって、行けないのだから。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を思い出す。美味しそうだった料理の写真も。
(あんなに素敵な料理のお店…)
子供だって入っていいと思う、と消えない不満。「ホントに酷い」と。
自分は入れる年だけれども、入れない年の子供たちのことを思ったら。あの記事を見て、お店に行きたくなった子供も可哀相だけれど、もっと可哀相な子供もいそう。
(お店の前には、料理の写真とメニューが出してあるんだから…)
通り掛かって食べたくなる子もいるだろう。「これ、美味しそう!」と、歓声を上げて。
其処で普通のお店だったら、「此処で食べよう」と家族で入ってゆけるのに。ワクワクしながら店の扉を開けて入れるのに、あの店の場合はそうはいかない。
きっと写真やメニューと一緒に、注意書きも添えてあるのだろう。小さな子供は入れないこと。子供はそれに気付かなくても、大人は気付く筈だから…。
「入りたいよ」と駄々をこねても、「子供は駄目なお店だから」と言われてしまう。そう書いてある、と指差されて。「入っても、外に出されてしまうよ」と。
もしもそんな目に遭ったとしたなら、心が傷ついてしまいそう。「どうして駄目なの?」と。
目を真ん丸にして父や母を見上げて、「嘘でしょ?」とも。
(ぼくなら、泣きそう…)
両親と街を歩いていた時、そういう店に出会ったら。何も知らずに料理に惹かれて、入りたいと思った素敵なお店。「此処がいいな」と足を止めたのに、「ブルーは駄目」と言われたら。
「ブルーの年だと入れないよ」と父が教えてくれたなら。母も「そうね」と頷いたなら。
いつも優しい筈の両親、その両親に「駄目」と引っ張られる手。
「此処は駄目だから、他のお店」と、「他にもお店は沢山あるから」と。
食べたい料理は、この店にしか無さそうなのに。メニューの写真はそういうものだし、何処にも同じものは無いのに。
分かっているのに、入れないお店。小さな子供はお断りの店で、子供の我儘は通らないから。
きっとホントに泣いちゃうんだよ、と光景が目に浮かぶよう。お店の表で踏ん張って泣くことはしないけれども、涙がポロポロ零れるだろう。「どうしてなの?」と。
美味しそうなのに、自分は入れないお店の料理。それが食べたいのに、子供は入れて貰えない。納得出来るわけがないから、泣きながら店を離れるのだろう。「ぼくは駄目なの?」と、振り返りながら。「あそこのお店が良かったのに」と。
歩く間も、止まらない涙。他のお店に入った後にも、まだポロポロと零れそう。
父がメニューを広げてくれて、「こんなのもあるぞ」と指差したって、母が「これも素敵よ」と言ったって。それがどんなに美味しそうでも、本当に食べたかった料理は…。
(…入れなかったお店の料理…)
今いる店には無い料理。だから注文して料理が来たって、またまた溢れ出しそうな涙。此処でもこんなに美味しいのならば、さっきのお店はもっと美味しい筈なのに、と。
(好き嫌いが無いのと、食べたいかどうかは別だから…)
泣きながら食べていそうな料理。子供が喜びそうなプレートで出て来ても。可愛らしい子供用のエプロンなんかを着けて貰っても、スプーンやフォークが子供用の特別なデザインでも。
(その内に涙は止まるだろうけど…)
御機嫌で食べるのだろうけれども、それまでの間。悲しい気持ちが消えない間は、涙が幾つも。
「どうして子供は入れないの?」と。
何も悪いことはしていないのに。お店に迷惑をかけてはいないし、入りたかっただけなのに。
写真の料理がとても美味しそうで、食べてみたいと思ったから。それが食べたくなったから。
けれど、入れもしなかった店。「小さな子供は入れませんよ」と、入る前から断られて。
そうなったならば、悲しくてたまらないだろう。自分がその目に遭ったとしたら、ポロポロ零すだろう涙。別のお店に入った後にも、其処で料理が出て来た後も。
(だって、断られちゃったんだから…)
小さな子供だというだけで、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた気持ち。
どう考えても、あんまりだから。小さな子供を断る店など、酷すぎるから。
「あのね、ハーレイ…。今日の新聞、酷いんだよ」
読んだら悲しくなって来ちゃった、と鳶色の瞳の恋人に報告。「あんまりだよ」と勢い込んで。
「酷いって…。お前の悪口でも書いてあったのか?」
今のお前ってことは無いから、前のお前だな。…ソルジャー・ブルー。
大英雄の悪口というのも珍しいが、とハーレイは派手に勘違いをした。「どう酷いんだ?」と。
「そうじゃないけど…。ぼくの悪口じゃないんだけれども、似たような感じ…」
ぼくが今より小さかったら、きっと悪口になるんだよ。子供は駄目です、って言うんだから。
新聞に記事が載ってたんだよ、小さな子供は入れないお店。
美味しそうなお店だったのに…。お料理の写真、とっても素敵だったのに。
でもね、小さな子供は入っちゃ駄目なんだって。…ハーレイ、酷いと思わない?
「…たまにあるだろ、そういう店」
多くはないが、珍しいとも思わないな、というのがハーレイの意見。驚いたことに。
「そうなの? それじゃ、ハーレイは酷いと思わないわけ?」
お店のやり方が正しいって言うの、小さな子供は入れないんだよ?
「まるで間違ってはいないと思うぞ。ゆったりと落ち着いて食事したい人も多いんだから」
そういうつもりで店に入っても、小さな子供がいたんじゃなあ…。
子供はどうしても賑やかに騒いじまうモンだし、走り回ったりする子もいるだろうが。
一緒に遊べる子がいなくたって、元気な子供はじっとしていないぞ?
お気に入りの歌を歌い出すとか、ナイフやフォークを振り回すとかな。
他のお客さんの気持ちを考えてみろ、とハーレイは店の肩を持つ方。店の雰囲気を保つためには必要なことで、小さな子供は駄目というのも不思議ではない、と。
「お客さんのために作った決まりだ。ごゆっくり食事をなさって下さい、というサービスだ」
子供が走り回っていったんじゃ、どうにも落ち着かないからな。歌にしたって。
「…そうじゃない子も沢山いるよ?」
大人しく座って食事をする子。…小さかった頃の、ぼくだって、そう。
パパやママとはお喋りしたけど、大きな声ではなかったと思う…。歌を歌ったりもしないよ。
それにお店で走りもしない、と言ったのだけれど。
「俺も充分、分かっちゃいるが…。店の方でも、そいつは承知しているぞ」
だがな、店が選んじゃ駄目だろうが。入って来た客の品定めってヤツは良くないぞ。
同じ子供でも、この子は店に入ってもいいが、この子は駄目だ、って言われて嬉しいか?
店に入ったら振り分けられてだ、入れる子供と断られる子に分かれちまうのは。
「それは嫌かも…。お店の人が決めるんだよね?」
ぼくは入れる方の子供でも、他の子供が断られるのを見たら楽しくなくなっちゃうよ。
いくら美味しいお料理が出ても、きっと、とっても悲しい気持ち。
断られてションボリ出て行く子供を見ちゃったら。…あの子も食べたかったよね、って…。
「分かったか。そうならないよう、最初から纏めて断ってるんだ」
大人しく出来る年になるまで、子供は全部駄目だとな。行儀のいい子も、そうでない子も。
それならそういうルールなんだし、お客さんにも失礼じゃない。
子供連れで入っちゃ駄目な店だ、と思うだけだし、不愉快な思いをすることもない。他の誰かの子供が食事をしてるというのに、自分の子供は断られちまって、ムッとするとか。
色々な人のことを思えば、一番安心なルールだな。
ゆっくり食事をしたい人にも、子供と一緒に楽しく食事をしたい人にも。
そうだろうが、と説明されたら、分からないでもないけれど。ハーレイの言葉が、きっと正しいけれども、それでも心に引っ掛かること。
ゆっくり食事をしたい大人も、子供連れの大人も、「これはルールだ」と分かるのだけれど。
小さな子供は、そんなルールは分からない。現に自分も、ハーレイに聞くまで怒っていたほど。なんという酷い店だろうか、と。
「それがルールかもしれないけれど…。だけど、子供は傷ついちゃうよ?」
小さいだけで、お店に入れないなんて。…美味しそうでも、お料理、食べられないなんて…。
ぼくならホントに泣いてしまうよ、入れても貰えないんだから。
「そうなっちまう子もいるんだろうが…。其処は前向きに考えないとな」
いつか入れる時は来るんだ、大きくなったら。そしたら此処に食べに来よう、と思うべきだぞ。
負けるもんかと、大きくなって来てやるんだから、と。
「…そういうものなの?」
ぼくだと、ポロポロ泣いていそうだけれど…。あのお店、ぼくは入れないんだ、って。
「いつまでも泣いちゃいないだろう? その内に機嫌も直るしな」
最初は悲しい気持ちになっても、何処かで考えを切り替えるもんだ。その日は無理でも、もっと先でも。…ある時、そいつに気付くってな。「大きくなったら行けるじゃないか」と。
ずっと子供のままじゃないから、いつかは行ける。店に入れる時が来るんだ。
もっとも、お前はチビのままでだ、少しも育ちやしないんだが。
「それは余計だよ、あのお店、ぼくでも入れるよ!」
ぼくの年なら入れるんだけど、入れない子が可哀相…。新聞の写真で行きたくなった子も、街で見掛けて入りたくなった小さな子供も。
「これが食べたい」ってパパやママに言っても駄目なんだよ?
此処は子供は駄目なお店、って言われておしまい。…どうして駄目なのか、分からないのに。
ハーレイが教えてくれたようなこと、小さな子供じゃ、聞いても意味が掴めないのに…。
お行儀のいい子ほど可哀相、と訴えた。お店の雰囲気を壊さないのに、小さな子供というだけで駄目。入れる資格は充分あるのに、年が足りないというだけで。
「そうでしょ、年の問題だけだよ?」
お店の人が入っていいかを決めるよりかはマシだろうけど、やっぱり可哀相だと思う。
あと一週間で入れる年になるんです、っていう子供だって入れないんだから。
「まあな。そういう意味では、可哀相かもしれないが…」
しかし、大きくなったら入れる。どんな子供でも、店が決めてる年になったら。
いつまで経っても入れて貰えないってわけじゃないだろ、其処はデカイぞ。
将来に夢と希望が持てるし、たかが料理の店にしたって、入れる時が必ず来るというのはな。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
お店の話と違うみたいに聞こえるんだけど…。お料理を食べに行く話とは。
「気付いたか? 前の俺たちの頃の話だ、今じゃとっくに昔話になっちまったが…」
あの時代にミュウに生まれちまったら、いつまで経とうがミュウのままだぞ。
いくら待っても、人類になれるわけじゃない。
小さな子供は大きくなれるが、ミュウは人類にはなれないだろうが。
どう頑張っても、人類の仲間入りをするのは無理だったんだ。一人前の人類にはなれん。
小さすぎて店に入れない子は、何年か待てば入れるが…。
前の俺たちはそうじゃなかっただろう?
人類の仲間入りなど出来やしないし、人類が入る店にも入れないままだ。…違うのか?
「そうだったっけ…」
人類とミュウは、違う生き物だと思われてたから…。
同じだとは思って貰えなかったし、人間だとさえ、誰にも思われないままで…。
今とはまるで違ったのだ、と思い出した時の彼方でのこと。
ミュウに生まれたというだけのことで、人間扱いされなかった前の自分たち。人類とは違うと、滅ぼすべきだと言われた種族。発見されたら処分されるか、研究施設に送られるか。
「…ホントだ、お店に入れる時なんて、絶対、来なかったよね…」
お店は人類のためだけにあって、人類が出掛けて行くための場所。…ミュウじゃなくって。
ミュウがお店に入ろうとしても、バレたら殺されちゃうんだから…。
「そういうことだな。…いくら大きく育っていこうが、ミュウは何処までもミュウなんだ」
シャングリラにしか居場所は無くてだ、人類の仲間入りは出来ない。人類になれやしないから。
それに比べりゃ、小さな子供が店に入れないっていう決まりくらいは可愛いもんだ。
いつかは必ず入れるんだし、子供の方も我慢しないとな。
少々、悲しい思いをしようが、そいつは小さい間だけのことで済むんだから。
「それでも酷いと思うけど…」
前のぼくたちよりはマシだけれども、悲しくなるのは子供なんだよ?
お店の決まりの意味も分からない小さな子供で、ポロポロ泣くしかないんだもの。
「酷いも何も、社会のルールでマナーなんだぞ。その店ならお前は入れるようだが…」
酒を飲むために入る店だと、お前でも無理だ。
もう文字通りに門前払いだ、中に入れては貰えないってな。…酒を飲める年じゃないんだから。
「そっちは仕方ないけれど…。駄目なことくらい、分かるけど…」
料理のお店はそうじゃないでしょ、お店の雰囲気だけのことだよ?
お料理は子供でも食べられるもので、食べたくなる子供、きっと沢山いる筈なのに…。
「さっきも言ったが、将来に希望が持てるだろうが」
大きくなったら食べに行くんだ、と入れる年になるのを夢見る。
次に店の前を通った時には、「前より少し育ったから…」と料理の写真を見るわけだ。
あとどのくらいで入れるだろう、と指を折って数えたりもして。
来年になったら入れそうだ、と胸を膨らませたり、早く誕生日が来てくれないかと思ったり。
前の俺たちにそれが出来たか、と問い掛けられた。将来に希望を持つということ。
「漠然としたヤツじゃ駄目なんだぞ? 具体的な目標になっていないと」
この日が来たら確実に叶う、という希望。…待っていれば必ずやって来る未来。
小さな子供は入れません、って店に入りたかったら、入れる年になればいいんだが…。
そういう夢を持つということ、前の俺たちに出来たのか…?
どうなんだ、と瞳を覗き込まれて、横に振るしかなかった首。「出来なかった」と。
「…前のぼくたちには、必ず貰える未来なんか何も無かったよ…」
地球に行こう、って思っていただけ…。地球に行ったら、ミュウも認めて貰えそうだから。
だけど、その日がいつになるかは分からなかったし…。来るかどうかも分からないまま。
それでも、地球に行くっていう目標が無いと、何も出来ないままだから…。
いつ行けるのかは、まるで見当もつかなくっても、それだけが希望…。
「ほら見ろ、前の俺たちには必ず貰える将来の希望は何も無かった」
誰でも貰えたものと言ったら、実験室とか、檻だとか…。ついでに殺されちまう結末。
実験室や檻でいいなら、誰だって入れて貰えたが…。
前のお前みたいなチビの子供でも、ちゃんと入れては貰えたんだが。
小さな子供は入れません、とは言われないでだ、他のヤツらと同じようにな。
「一緒にしないでよ、実験室と料理のお店を」
全然違うよ、料理のお店は入れなかったら悲しいけれど…。実験室とか檻だと、逆。
入れて貰えない方がずっといいんだし、断られた方がいいんだもの。
「そうか?」
一緒にしたっていいと思うがな、希望ってヤツを語るためには。
今の平和な時代だからこそ、一緒に語っちまっていいんだ。
希望が無かった前の俺たちのことと、小さすぎる子供は入れない店の話とをな。
今だから出来る話なんだ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。今のお前と俺だから、と。
「前の俺たちだった頃には、まだ見えてさえもいなかった。…ミュウの時代というヤツは」
そんな時代が来ればいい、と思ってはいても、いつ来るのかさえ分からなかった。
「小さな子供はお断りです」という料理の店なら、断られたって次があるんだが…。いつかその子が大きくなったら、ちゃんと店には入れるんだが…。
しかしミュウだと、そうはいかなかった。前の俺たちが生きた時代は。
人類の店にミュウは決して入れやしないし、入れる時だって来なかったんだ。大きくなろうが、ミュウは人類にはなれないからな。…いつまで経ってもミュウのままで。
ミュウの時代を掴むことさえ、夢物語だったのが前の俺たちだ。…長い長い間。
その点、今だと同じミュウでも大違いだぞ?
入っていい時まで待ちさえしたなら、どんな店でも入れて貰える。小さな子供は駄目な店でも、今のお前が門前払いを食らってしまう、酒を飲ませてくれる店でも。
「まだ入れません」と断られたって、何年か待てば堂々と店に入れるってな。小さかった子供は大きく育つし、チビのお前も大人になるから。
…いい時代だと思わんか?
同じミュウ同士で、「今はまだ駄目です」とも言えるんだから。
ミュウがルールを作っているんだ、人類じゃなくて。
小さな子供は入れない店も、チビのお前は断られちまう酒を飲ませる店にしたって。
前の俺たちの時代だったら、どんなルールも人類が決めていただろう?
同じ世界にミュウもいたのに、ミュウの意見は一切、抜きで。
人間扱いさえしようとしないで、何もかも人類のためだけにあった。色々な店も、店のルールも人類のためだ。…ミュウのためじゃなくて。
社会のルールがミュウを認めていなかったんでは、そうなっちまって当然だがな。
そんな時代が終わった今では、ミュウのルールだ、とハーレイは笑う。人類のルールは、何処を探しても残っていないと。
「元は人類のルールだったのを、ミュウが引き継いでるヤツも多いが…」
それだってミュウが決めたことだろ、「このルールは今も役に立つから使おう」と。
もう人類のルールじゃないんだ、ミュウが選んで「使おう」と決めた時点でな。
小さな子供は入れません、って店のルールも、元を辿ればSD体制よりも前の時代に遡る。まだ人間が地球しか知らなかった時代に、そういう店が生まれたそうだ。
だから元々は人類のルールだったわけだが…。そいつが今ではミュウのルールになったってな。
「ホントだ、そういう考え方も出来るね」
今のぼくたちの世界のルールは、人類が決めたルールじゃなくって、全部ミュウのルール…。
社会のルールも、色々なお店が作ったルールも。
それに何でも、「ミュウだから駄目」ってわけでもないし…。
小さな子供が入れないお店は、まだ小さすぎるから、っていうだけだものね。…小さな子供には可哀相でも、前のぼくたちが生きてた時代のミュウよりはマシ。
いつか大きくなった時には、お店に入っていいんだから。大きくなるまでだけの我慢で。
「そうなんだよなあ、お前は憤慨してたがな」
俺が来た途端に、「酷い」だなんて言い出して。…何のことかと思っちまったぞ。
お前は可哀相だと言うがな、あれはあれでだ、幸せなルールというヤツだ。
ちょっぴり意地悪なように見えても、子供にとっては励みにもなる。将来の夢で希望だな。
早く大きくなるんだ、と。
大きくなったら今は入れない店に入れて、美味い料理が食べられる。世界がグンと広がるんだ。そういう夢を持たせてくれるぞ、あのルールはな。
断られた時にはガッカリだろうし、泣いちまう子供も多いだろうが…。
其処の所を通り過ぎたら、待っているのは未来への夢だ。「大きくなろう」と、そしたら店にも入れるんだ、と。
もっとも俺は、お前にはゆっくり育って欲しいが…。
早く大きくなろうとしないで、今の幸せを味わいながら、子供らしく過ごして欲しいんだが。
何度も言ったろ、前のお前が失くしちまった子供時代の分までな。
今のお前は幸せに生きてゆけるんだから。…本物のお母さんたちと一緒に住んで。
慌てて大きく育つんじゃないぞ、と釘を刺された。まるで育たなくて、背丈も伸びないのが悩みなのに。今のハーレイに出会った時から、背は一ミリも伸びていないのに。
だから意地悪な恋人を見詰めて、こう訊いてみた。
「えっとね…。今日の新聞に記事が載ってた、小さな子供は入れないお店…」
あのお店、ぼくの年なら入れるけれど…。お料理、とっても美味しそうなんだけど…。
ハーレイ、食べに連れて行ってはくれないよね?
お店の話からミュウの話にもなっちゃったんだし、お店、一緒に行きたいんだけど…。
「駄目だな、デートになっちまうから」
お前と食事に行くとなったら、そいつは立派にデートだぞ?
その上、小さな子供は入れない店と来たもんだ。どう考えても、落ち着いた店に決まってる。
デートに使うかどうかはともかく、ゆっくりと食事を楽しむ店だな。俺が教え子たちと一緒に、ワイワイ出掛ける店と違って。
そんな店にお前を連れて行けるか、前のお前と同じ背丈に育っているなら別だがな。
「やっぱり…?」
「当たり前だろうが、これも何度も言った筈だぞ。デートは大きくなってからだ、と」
そういう話を持ち出すお前は、俺とデートに出掛けられる日を目指しているわけで…。
いつか必ず叶う将来の希望ってヤツが、お前の場合はデートなんだ。他にも色々ある筈だが。
店に入れない小さな子供も同じことだな、デートの代わりに店に入れる日を目指すんだ。
今は駄目でも、一人前の小さな紳士や淑女になろう、と。
そうすりゃ店の扉は開くし、美味しい料理を食べに入れる。子供ながらも、胸を張ってな。前は入るのを断った店が、今度は「どうぞ」と恭しく迎えてくれるんだから。
それでも酷い店だと思うか、お前が言ってた店のこと。
いつか入れるようになった時には、店の魅力もグンと大きく増しそうだがな?
前は入れなかったのに、と堂々と入って行く時には。…扉の向こうはどんな世界だろう、と。
テーブルや椅子はどんなのだろうと、料理の他にもお楽しみが山ほどあるだろうから。
「そうかもね…」
子供は駄目です、って断られてから、ずっと入りたかったんだから…。
夢だって大きく膨らんでるよね、断られないでスッと入れたお店より。食べたいお料理も増えていそうだよ、何度も何度も、お店の前を「まだ入れない…」って通っていた間に。
自分ならきっとそうなるだろう、と思ったこと。まだ入れない夢のお店は、憧れの店。通る度に膨らむだろう夢。扉の向こう側を夢見て、美味しそうな料理の写真を眺めて。
前の自分が、青い水の星に焦がれたように。まだ座標さえも掴めない地球、其処へ行こうと夢を描いたように。
前の自分と違う所は、店の扉は待てば必ず開かれること。子供にとっては長い時間でも、ほんの数年、待ちさえすれば。…店に入れる年にさえなれば。
其処が地球との違いだよね、と前の自分が辿り着けなかった青い星を思った。あの頃には地球は死の星のままで、青くはなかったのだけど。…青い地球は夢でしかなかったけれど。
その青い地球に来たのが今の自分で、世界のルールはミュウが決めたルール。前の自分が生きた時代は、ミュウという種族は店に入れもしなかったのに。
そう考えたら、ふと思い出した。前にハーレイから聞かされたこと。
「…ねえ、ハーレイ…。前のぼくたちが生きた時代は、お店、人類のためのものだったけど…」
アルテメシアを落とした後には、シャングリラの仲間も買い物に出掛けられたんだよね?
嬉しかったかな、初めてお店に入れた時は。…前のハーレイが配ったお小遣いを持って。
「そうに決まっているだろう? 買い物がそれは凄かったんだ、と話してやったぞ」
いったい何をする気なんだ、と思うような物まで買って来ちまって…。
出番が無さそうな自転車だとか、いつ着るんだと呆れるような服をドッサリ山ほどだとか。
無理もないがな、世界がいきなり大きく開けたんだから。
データくらいしか見られなかった店って所に、客として入って行けるんだからな。
気が大きくなって羽目も外すさ、とハーレイが苦笑するものだから。
「それと同じかな、今はお店に入れない小さな子供が、いつかお店に入れるようになる時も?」
夢が一杯で、胸だってきっとドキドキしてて…。
あれも食べよう、これも食べよう、って欲張りながら入るのかもね。沢山食べられないくせに。
子供なんだし、今のぼくより、もっと少ししか食べられるわけがないんだけれど…。
それでも欲張って注文するとか、注文しようとしてお父さんたちに止められるとか。
「うむ。初めての買い物に出掛けて行ったヤツらと全く同じだろうな」
しかも子供だから、もっと凄いぞ。夢も一杯、憧れ一杯、ついでに我儘一杯ってな。
さぞかし凄い光景だろうさ、とハーレイは大きく頷いた。シャングリラの仲間の比ではないと。
「ようやく店に入れた子供たちの感激は俺が保証するから、入れてやらない店を恨むな」
小さな子供を断るからには、そうする理由があるんだから。
他のお客のことを色々考えた上で、決めたルールだ。それに子供連れの親たちの方も、不愉快な気分にならないように。「あの子は良くて、うちの子供は駄目なんて」というのは嫌だろう?
最初から纏めて断っておけば、大勢の人が嫌な思いをしなくて済む。
断られた子供は可哀相だが、いつかは入れて、店への夢も憧れも膨らむわけだから…。
そうそう悪い話じゃないだろ、ミュウに生まれただけで酷い目に遭った時代に比べたら。…店に入れる権利どころか、生きる権利も無かったのが前の俺たちだしな?
「うん…。でも、ハーレイと一緒に行きたいなあ…」
あのお店、今のぼくでも入れるのに…。チビだけれども、小さい子供じゃないんだから。
ハーレイと二人で出掛けて行ったら、ちゃんと食事が出来るのに…。
でも連れて行ってくれないんだね、と尖らせた唇。「ハーレイのケチ!」と。
「それも理屈は同じだろ。…小さな子供は入れないのと、根っこの所は同じだってな」
俺と出掛けてゆくとなったら、それはデートになっちまうから…。
今のお前だと、デートが出来る背丈に育っていないんだ。店に入るには、まだ年が足りない子供みたいに。…二十センチほど足りていないな、お前の背丈。前のお前と同じになるには。
だがな、お前もいつかはデートに行けるんだ。俺と一緒に。
前のお前と同じに育てば、どんな店でも、デートだから、と堂々とな。
それを楽しみに待てば待つほど、デートの魅力も増すってもんだ。まだ入れない店の扉を眺める間に、どんどん夢が膨らむみたいに。…デートの魅力もそれと同じだ、きっと凄いぞ?
初めてのデートに行くとなったら、約束した時から夢がキラキラしちまってな。
「…もう相当に待ったんだけど…」
ハーレイにうんと待たされてるから、夢は一杯なんだけど…。憧れも、デートの魅力だって。
キラキラしすぎて、目が眩みそう。…それでもデートはまだ行けないの?
「まだだな、お前はチビなんだから」
ゆっくり育てと言っているだろ、今を楽しめ。…これはさっきも言ったことだが。
未来の夢もたっぷり見ながら、デートに行ける日を待つんだな。いつか必ず行けるんだから。
子供時代は今だけだぞ、とハーレイに念を押されたから。
「慌てるんじゃない」と、「急いで育つな」と、鳶色の瞳が優しい光を湛えるから。
少しも育たないチビだけれども、いつかデートに出掛けられる日を楽しみに待っていればいい。
ハーレイが「デートは駄目だ」と言うのも、意地悪ではなくて、ちゃんと理由がある。
つい「ハーレイのケチ!」と膨れてしまっても、唇を尖らせてしまっても。
(…ぼくが大きくなるまでは駄目…)
前の自分と同じ背丈に成長するまで、キスをするのも、デートも駄目。
それはハーレイが決めたルールで、小さな子供は入れない店と同じこと。今はそういうルールを守って、じっと我慢をするべき時。
ハーレイとの間のルールが大切、それを守ってゆくことも。
いつか必ず、デートに行ける日がやって来る。前と同じに大きくなったら、ハーレイとデートに出掛けてゆける。
今はデートに行けないルールが、「行ってもいい」と許してくれるから。
同じルールの筈だけれども、「駄目だ」から「いいぞ」に変わってくれる。
その日が来たなら、ハーレイと一緒に初めてのデート。
楽しみに待って、待って待ち続けて、幸せ一杯で出掛けてゆける。
ハーレイと二人で何処へでも行けるし、どんな店にも入ってゆける、今のルールが変わった時。
同じルールのままなのだけれど、前と同じに育ったら。
デートに行ける姿に成長したなら、必ずデートに誘って貰えて、幸せな時を過ごせるから…。
入れない店・了
※小さな子供は入れて貰えない、美味しそうな料理の店。憤慨したブルーですけれど…。
大きくなったら、もちろん入ってゆけるのです。未来に希望を持てる世界が、今という時代。
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それに綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
評判が高い料理のお店で、いつも予約で一杯らしい。行くなら予約をするのが一番。でないと、席が無いことの方が多いから。キャンセルが出ても、直ぐに埋まってしまうから。
それでも通り掛かった人が「空いてますか?」と尋ねるほど。店の表に出ている料理の写真が、これと同じに美味しそうだから。添えられたメニューも素敵だから。
(予約無しでも、運が良ければ入れるんだ…)
急なキャンセルは、ありがちなもの。友達と行こうと予約したのに、友達が来られないだとか。家族で行こうと計画したのに、誰かの都合が悪くなったとか。
けれど確実に入りたいなら、予約すること。この日の何時にお願いします、と。
(お休みの日にはハーレイが来るから、行かないけどね?)
両親と食事に出掛けてゆくより、ハーレイと過ごす方がいい。母が作った料理を食べて、お茶やお菓子も楽しんで。
どんなに料理が美味しそうでも、お店に行くより家にいる方がいいんだから、と考えながら読み進めた記事。お料理なんかに釣られないよ、と。
そうしたら、驚かされたこと。「行かないんだから」と思った、このお店は…。
(小さな子供は…)
予約をしたって入れない店。雰囲気を壊してしまうから。
子供連れなら、予約の時に訊かれる年齢。「お子様は何歳でらっしゃいますか?」と。その子の年が足りなかったら、断られてしまう。予約なしでも変わらないルール。「何歳ですか?」と。
(ぼくの年だと、大丈夫だけど…)
ちょっぴり酷くないだろうか、と思った「小さな子供は入れない」決まり。
美味しそうな料理が出される店なら、子供だって食べてみたいだろうに。家族の誰かが出掛けて来たなら、話を聞いて行ってみたくもなるのだろうに。
(なんだかガッカリ…)
お店への夢が壊れてしまった。最初は一目で惹かれたのに。…料理の写真を目にしただけで。
同じように写真を眺めた子供も、きっと大勢いるのだろうに。お店に入れない年の子でも。
その子供たちの夢が砕けてしまう店。「行きたいよ」と強請ってみたって、行けないのだから。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を思い出す。美味しそうだった料理の写真も。
(あんなに素敵な料理のお店…)
子供だって入っていいと思う、と消えない不満。「ホントに酷い」と。
自分は入れる年だけれども、入れない年の子供たちのことを思ったら。あの記事を見て、お店に行きたくなった子供も可哀相だけれど、もっと可哀相な子供もいそう。
(お店の前には、料理の写真とメニューが出してあるんだから…)
通り掛かって食べたくなる子もいるだろう。「これ、美味しそう!」と、歓声を上げて。
其処で普通のお店だったら、「此処で食べよう」と家族で入ってゆけるのに。ワクワクしながら店の扉を開けて入れるのに、あの店の場合はそうはいかない。
きっと写真やメニューと一緒に、注意書きも添えてあるのだろう。小さな子供は入れないこと。子供はそれに気付かなくても、大人は気付く筈だから…。
「入りたいよ」と駄々をこねても、「子供は駄目なお店だから」と言われてしまう。そう書いてある、と指差されて。「入っても、外に出されてしまうよ」と。
もしもそんな目に遭ったとしたなら、心が傷ついてしまいそう。「どうして駄目なの?」と。
目を真ん丸にして父や母を見上げて、「嘘でしょ?」とも。
(ぼくなら、泣きそう…)
両親と街を歩いていた時、そういう店に出会ったら。何も知らずに料理に惹かれて、入りたいと思った素敵なお店。「此処がいいな」と足を止めたのに、「ブルーは駄目」と言われたら。
「ブルーの年だと入れないよ」と父が教えてくれたなら。母も「そうね」と頷いたなら。
いつも優しい筈の両親、その両親に「駄目」と引っ張られる手。
「此処は駄目だから、他のお店」と、「他にもお店は沢山あるから」と。
食べたい料理は、この店にしか無さそうなのに。メニューの写真はそういうものだし、何処にも同じものは無いのに。
分かっているのに、入れないお店。小さな子供はお断りの店で、子供の我儘は通らないから。
きっとホントに泣いちゃうんだよ、と光景が目に浮かぶよう。お店の表で踏ん張って泣くことはしないけれども、涙がポロポロ零れるだろう。「どうしてなの?」と。
美味しそうなのに、自分は入れないお店の料理。それが食べたいのに、子供は入れて貰えない。納得出来るわけがないから、泣きながら店を離れるのだろう。「ぼくは駄目なの?」と、振り返りながら。「あそこのお店が良かったのに」と。
歩く間も、止まらない涙。他のお店に入った後にも、まだポロポロと零れそう。
父がメニューを広げてくれて、「こんなのもあるぞ」と指差したって、母が「これも素敵よ」と言ったって。それがどんなに美味しそうでも、本当に食べたかった料理は…。
(…入れなかったお店の料理…)
今いる店には無い料理。だから注文して料理が来たって、またまた溢れ出しそうな涙。此処でもこんなに美味しいのならば、さっきのお店はもっと美味しい筈なのに、と。
(好き嫌いが無いのと、食べたいかどうかは別だから…)
泣きながら食べていそうな料理。子供が喜びそうなプレートで出て来ても。可愛らしい子供用のエプロンなんかを着けて貰っても、スプーンやフォークが子供用の特別なデザインでも。
(その内に涙は止まるだろうけど…)
御機嫌で食べるのだろうけれども、それまでの間。悲しい気持ちが消えない間は、涙が幾つも。
「どうして子供は入れないの?」と。
何も悪いことはしていないのに。お店に迷惑をかけてはいないし、入りたかっただけなのに。
写真の料理がとても美味しそうで、食べてみたいと思ったから。それが食べたくなったから。
けれど、入れもしなかった店。「小さな子供は入れませんよ」と、入る前から断られて。
そうなったならば、悲しくてたまらないだろう。自分がその目に遭ったとしたら、ポロポロ零すだろう涙。別のお店に入った後にも、其処で料理が出て来た後も。
(だって、断られちゃったんだから…)
小さな子供だというだけで、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた気持ち。
どう考えても、あんまりだから。小さな子供を断る店など、酷すぎるから。
「あのね、ハーレイ…。今日の新聞、酷いんだよ」
読んだら悲しくなって来ちゃった、と鳶色の瞳の恋人に報告。「あんまりだよ」と勢い込んで。
「酷いって…。お前の悪口でも書いてあったのか?」
今のお前ってことは無いから、前のお前だな。…ソルジャー・ブルー。
大英雄の悪口というのも珍しいが、とハーレイは派手に勘違いをした。「どう酷いんだ?」と。
「そうじゃないけど…。ぼくの悪口じゃないんだけれども、似たような感じ…」
ぼくが今より小さかったら、きっと悪口になるんだよ。子供は駄目です、って言うんだから。
新聞に記事が載ってたんだよ、小さな子供は入れないお店。
美味しそうなお店だったのに…。お料理の写真、とっても素敵だったのに。
でもね、小さな子供は入っちゃ駄目なんだって。…ハーレイ、酷いと思わない?
「…たまにあるだろ、そういう店」
多くはないが、珍しいとも思わないな、というのがハーレイの意見。驚いたことに。
「そうなの? それじゃ、ハーレイは酷いと思わないわけ?」
お店のやり方が正しいって言うの、小さな子供は入れないんだよ?
「まるで間違ってはいないと思うぞ。ゆったりと落ち着いて食事したい人も多いんだから」
そういうつもりで店に入っても、小さな子供がいたんじゃなあ…。
子供はどうしても賑やかに騒いじまうモンだし、走り回ったりする子もいるだろうが。
一緒に遊べる子がいなくたって、元気な子供はじっとしていないぞ?
お気に入りの歌を歌い出すとか、ナイフやフォークを振り回すとかな。
他のお客さんの気持ちを考えてみろ、とハーレイは店の肩を持つ方。店の雰囲気を保つためには必要なことで、小さな子供は駄目というのも不思議ではない、と。
「お客さんのために作った決まりだ。ごゆっくり食事をなさって下さい、というサービスだ」
子供が走り回っていったんじゃ、どうにも落ち着かないからな。歌にしたって。
「…そうじゃない子も沢山いるよ?」
大人しく座って食事をする子。…小さかった頃の、ぼくだって、そう。
パパやママとはお喋りしたけど、大きな声ではなかったと思う…。歌を歌ったりもしないよ。
それにお店で走りもしない、と言ったのだけれど。
「俺も充分、分かっちゃいるが…。店の方でも、そいつは承知しているぞ」
だがな、店が選んじゃ駄目だろうが。入って来た客の品定めってヤツは良くないぞ。
同じ子供でも、この子は店に入ってもいいが、この子は駄目だ、って言われて嬉しいか?
店に入ったら振り分けられてだ、入れる子供と断られる子に分かれちまうのは。
「それは嫌かも…。お店の人が決めるんだよね?」
ぼくは入れる方の子供でも、他の子供が断られるのを見たら楽しくなくなっちゃうよ。
いくら美味しいお料理が出ても、きっと、とっても悲しい気持ち。
断られてションボリ出て行く子供を見ちゃったら。…あの子も食べたかったよね、って…。
「分かったか。そうならないよう、最初から纏めて断ってるんだ」
大人しく出来る年になるまで、子供は全部駄目だとな。行儀のいい子も、そうでない子も。
それならそういうルールなんだし、お客さんにも失礼じゃない。
子供連れで入っちゃ駄目な店だ、と思うだけだし、不愉快な思いをすることもない。他の誰かの子供が食事をしてるというのに、自分の子供は断られちまって、ムッとするとか。
色々な人のことを思えば、一番安心なルールだな。
ゆっくり食事をしたい人にも、子供と一緒に楽しく食事をしたい人にも。
そうだろうが、と説明されたら、分からないでもないけれど。ハーレイの言葉が、きっと正しいけれども、それでも心に引っ掛かること。
ゆっくり食事をしたい大人も、子供連れの大人も、「これはルールだ」と分かるのだけれど。
小さな子供は、そんなルールは分からない。現に自分も、ハーレイに聞くまで怒っていたほど。なんという酷い店だろうか、と。
「それがルールかもしれないけれど…。だけど、子供は傷ついちゃうよ?」
小さいだけで、お店に入れないなんて。…美味しそうでも、お料理、食べられないなんて…。
ぼくならホントに泣いてしまうよ、入れても貰えないんだから。
「そうなっちまう子もいるんだろうが…。其処は前向きに考えないとな」
いつか入れる時は来るんだ、大きくなったら。そしたら此処に食べに来よう、と思うべきだぞ。
負けるもんかと、大きくなって来てやるんだから、と。
「…そういうものなの?」
ぼくだと、ポロポロ泣いていそうだけれど…。あのお店、ぼくは入れないんだ、って。
「いつまでも泣いちゃいないだろう? その内に機嫌も直るしな」
最初は悲しい気持ちになっても、何処かで考えを切り替えるもんだ。その日は無理でも、もっと先でも。…ある時、そいつに気付くってな。「大きくなったら行けるじゃないか」と。
ずっと子供のままじゃないから、いつかは行ける。店に入れる時が来るんだ。
もっとも、お前はチビのままでだ、少しも育ちやしないんだが。
「それは余計だよ、あのお店、ぼくでも入れるよ!」
ぼくの年なら入れるんだけど、入れない子が可哀相…。新聞の写真で行きたくなった子も、街で見掛けて入りたくなった小さな子供も。
「これが食べたい」ってパパやママに言っても駄目なんだよ?
此処は子供は駄目なお店、って言われておしまい。…どうして駄目なのか、分からないのに。
ハーレイが教えてくれたようなこと、小さな子供じゃ、聞いても意味が掴めないのに…。
お行儀のいい子ほど可哀相、と訴えた。お店の雰囲気を壊さないのに、小さな子供というだけで駄目。入れる資格は充分あるのに、年が足りないというだけで。
「そうでしょ、年の問題だけだよ?」
お店の人が入っていいかを決めるよりかはマシだろうけど、やっぱり可哀相だと思う。
あと一週間で入れる年になるんです、っていう子供だって入れないんだから。
「まあな。そういう意味では、可哀相かもしれないが…」
しかし、大きくなったら入れる。どんな子供でも、店が決めてる年になったら。
いつまで経っても入れて貰えないってわけじゃないだろ、其処はデカイぞ。
将来に夢と希望が持てるし、たかが料理の店にしたって、入れる時が必ず来るというのはな。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
お店の話と違うみたいに聞こえるんだけど…。お料理を食べに行く話とは。
「気付いたか? 前の俺たちの頃の話だ、今じゃとっくに昔話になっちまったが…」
あの時代にミュウに生まれちまったら、いつまで経とうがミュウのままだぞ。
いくら待っても、人類になれるわけじゃない。
小さな子供は大きくなれるが、ミュウは人類にはなれないだろうが。
どう頑張っても、人類の仲間入りをするのは無理だったんだ。一人前の人類にはなれん。
小さすぎて店に入れない子は、何年か待てば入れるが…。
前の俺たちはそうじゃなかっただろう?
人類の仲間入りなど出来やしないし、人類が入る店にも入れないままだ。…違うのか?
「そうだったっけ…」
人類とミュウは、違う生き物だと思われてたから…。
同じだとは思って貰えなかったし、人間だとさえ、誰にも思われないままで…。
今とはまるで違ったのだ、と思い出した時の彼方でのこと。
ミュウに生まれたというだけのことで、人間扱いされなかった前の自分たち。人類とは違うと、滅ぼすべきだと言われた種族。発見されたら処分されるか、研究施設に送られるか。
「…ホントだ、お店に入れる時なんて、絶対、来なかったよね…」
お店は人類のためだけにあって、人類が出掛けて行くための場所。…ミュウじゃなくって。
ミュウがお店に入ろうとしても、バレたら殺されちゃうんだから…。
「そういうことだな。…いくら大きく育っていこうが、ミュウは何処までもミュウなんだ」
シャングリラにしか居場所は無くてだ、人類の仲間入りは出来ない。人類になれやしないから。
それに比べりゃ、小さな子供が店に入れないっていう決まりくらいは可愛いもんだ。
いつかは必ず入れるんだし、子供の方も我慢しないとな。
少々、悲しい思いをしようが、そいつは小さい間だけのことで済むんだから。
「それでも酷いと思うけど…」
前のぼくたちよりはマシだけれども、悲しくなるのは子供なんだよ?
お店の決まりの意味も分からない小さな子供で、ポロポロ泣くしかないんだもの。
「酷いも何も、社会のルールでマナーなんだぞ。その店ならお前は入れるようだが…」
酒を飲むために入る店だと、お前でも無理だ。
もう文字通りに門前払いだ、中に入れては貰えないってな。…酒を飲める年じゃないんだから。
「そっちは仕方ないけれど…。駄目なことくらい、分かるけど…」
料理のお店はそうじゃないでしょ、お店の雰囲気だけのことだよ?
お料理は子供でも食べられるもので、食べたくなる子供、きっと沢山いる筈なのに…。
「さっきも言ったが、将来に希望が持てるだろうが」
大きくなったら食べに行くんだ、と入れる年になるのを夢見る。
次に店の前を通った時には、「前より少し育ったから…」と料理の写真を見るわけだ。
あとどのくらいで入れるだろう、と指を折って数えたりもして。
来年になったら入れそうだ、と胸を膨らませたり、早く誕生日が来てくれないかと思ったり。
前の俺たちにそれが出来たか、と問い掛けられた。将来に希望を持つということ。
「漠然としたヤツじゃ駄目なんだぞ? 具体的な目標になっていないと」
この日が来たら確実に叶う、という希望。…待っていれば必ずやって来る未来。
小さな子供は入れません、って店に入りたかったら、入れる年になればいいんだが…。
そういう夢を持つということ、前の俺たちに出来たのか…?
どうなんだ、と瞳を覗き込まれて、横に振るしかなかった首。「出来なかった」と。
「…前のぼくたちには、必ず貰える未来なんか何も無かったよ…」
地球に行こう、って思っていただけ…。地球に行ったら、ミュウも認めて貰えそうだから。
だけど、その日がいつになるかは分からなかったし…。来るかどうかも分からないまま。
それでも、地球に行くっていう目標が無いと、何も出来ないままだから…。
いつ行けるのかは、まるで見当もつかなくっても、それだけが希望…。
「ほら見ろ、前の俺たちには必ず貰える将来の希望は何も無かった」
誰でも貰えたものと言ったら、実験室とか、檻だとか…。ついでに殺されちまう結末。
実験室や檻でいいなら、誰だって入れて貰えたが…。
前のお前みたいなチビの子供でも、ちゃんと入れては貰えたんだが。
小さな子供は入れません、とは言われないでだ、他のヤツらと同じようにな。
「一緒にしないでよ、実験室と料理のお店を」
全然違うよ、料理のお店は入れなかったら悲しいけれど…。実験室とか檻だと、逆。
入れて貰えない方がずっといいんだし、断られた方がいいんだもの。
「そうか?」
一緒にしたっていいと思うがな、希望ってヤツを語るためには。
今の平和な時代だからこそ、一緒に語っちまっていいんだ。
希望が無かった前の俺たちのことと、小さすぎる子供は入れない店の話とをな。
今だから出来る話なんだ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。今のお前と俺だから、と。
「前の俺たちだった頃には、まだ見えてさえもいなかった。…ミュウの時代というヤツは」
そんな時代が来ればいい、と思ってはいても、いつ来るのかさえ分からなかった。
「小さな子供はお断りです」という料理の店なら、断られたって次があるんだが…。いつかその子が大きくなったら、ちゃんと店には入れるんだが…。
しかしミュウだと、そうはいかなかった。前の俺たちが生きた時代は。
人類の店にミュウは決して入れやしないし、入れる時だって来なかったんだ。大きくなろうが、ミュウは人類にはなれないからな。…いつまで経ってもミュウのままで。
ミュウの時代を掴むことさえ、夢物語だったのが前の俺たちだ。…長い長い間。
その点、今だと同じミュウでも大違いだぞ?
入っていい時まで待ちさえしたなら、どんな店でも入れて貰える。小さな子供は駄目な店でも、今のお前が門前払いを食らってしまう、酒を飲ませてくれる店でも。
「まだ入れません」と断られたって、何年か待てば堂々と店に入れるってな。小さかった子供は大きく育つし、チビのお前も大人になるから。
…いい時代だと思わんか?
同じミュウ同士で、「今はまだ駄目です」とも言えるんだから。
ミュウがルールを作っているんだ、人類じゃなくて。
小さな子供は入れない店も、チビのお前は断られちまう酒を飲ませる店にしたって。
前の俺たちの時代だったら、どんなルールも人類が決めていただろう?
同じ世界にミュウもいたのに、ミュウの意見は一切、抜きで。
人間扱いさえしようとしないで、何もかも人類のためだけにあった。色々な店も、店のルールも人類のためだ。…ミュウのためじゃなくて。
社会のルールがミュウを認めていなかったんでは、そうなっちまって当然だがな。
そんな時代が終わった今では、ミュウのルールだ、とハーレイは笑う。人類のルールは、何処を探しても残っていないと。
「元は人類のルールだったのを、ミュウが引き継いでるヤツも多いが…」
それだってミュウが決めたことだろ、「このルールは今も役に立つから使おう」と。
もう人類のルールじゃないんだ、ミュウが選んで「使おう」と決めた時点でな。
小さな子供は入れません、って店のルールも、元を辿ればSD体制よりも前の時代に遡る。まだ人間が地球しか知らなかった時代に、そういう店が生まれたそうだ。
だから元々は人類のルールだったわけだが…。そいつが今ではミュウのルールになったってな。
「ホントだ、そういう考え方も出来るね」
今のぼくたちの世界のルールは、人類が決めたルールじゃなくって、全部ミュウのルール…。
社会のルールも、色々なお店が作ったルールも。
それに何でも、「ミュウだから駄目」ってわけでもないし…。
小さな子供が入れないお店は、まだ小さすぎるから、っていうだけだものね。…小さな子供には可哀相でも、前のぼくたちが生きてた時代のミュウよりはマシ。
いつか大きくなった時には、お店に入っていいんだから。大きくなるまでだけの我慢で。
「そうなんだよなあ、お前は憤慨してたがな」
俺が来た途端に、「酷い」だなんて言い出して。…何のことかと思っちまったぞ。
お前は可哀相だと言うがな、あれはあれでだ、幸せなルールというヤツだ。
ちょっぴり意地悪なように見えても、子供にとっては励みにもなる。将来の夢で希望だな。
早く大きくなるんだ、と。
大きくなったら今は入れない店に入れて、美味い料理が食べられる。世界がグンと広がるんだ。そういう夢を持たせてくれるぞ、あのルールはな。
断られた時にはガッカリだろうし、泣いちまう子供も多いだろうが…。
其処の所を通り過ぎたら、待っているのは未来への夢だ。「大きくなろう」と、そしたら店にも入れるんだ、と。
もっとも俺は、お前にはゆっくり育って欲しいが…。
早く大きくなろうとしないで、今の幸せを味わいながら、子供らしく過ごして欲しいんだが。
何度も言ったろ、前のお前が失くしちまった子供時代の分までな。
今のお前は幸せに生きてゆけるんだから。…本物のお母さんたちと一緒に住んで。
慌てて大きく育つんじゃないぞ、と釘を刺された。まるで育たなくて、背丈も伸びないのが悩みなのに。今のハーレイに出会った時から、背は一ミリも伸びていないのに。
だから意地悪な恋人を見詰めて、こう訊いてみた。
「えっとね…。今日の新聞に記事が載ってた、小さな子供は入れないお店…」
あのお店、ぼくの年なら入れるけれど…。お料理、とっても美味しそうなんだけど…。
ハーレイ、食べに連れて行ってはくれないよね?
お店の話からミュウの話にもなっちゃったんだし、お店、一緒に行きたいんだけど…。
「駄目だな、デートになっちまうから」
お前と食事に行くとなったら、そいつは立派にデートだぞ?
その上、小さな子供は入れない店と来たもんだ。どう考えても、落ち着いた店に決まってる。
デートに使うかどうかはともかく、ゆっくりと食事を楽しむ店だな。俺が教え子たちと一緒に、ワイワイ出掛ける店と違って。
そんな店にお前を連れて行けるか、前のお前と同じ背丈に育っているなら別だがな。
「やっぱり…?」
「当たり前だろうが、これも何度も言った筈だぞ。デートは大きくなってからだ、と」
そういう話を持ち出すお前は、俺とデートに出掛けられる日を目指しているわけで…。
いつか必ず叶う将来の希望ってヤツが、お前の場合はデートなんだ。他にも色々ある筈だが。
店に入れない小さな子供も同じことだな、デートの代わりに店に入れる日を目指すんだ。
今は駄目でも、一人前の小さな紳士や淑女になろう、と。
そうすりゃ店の扉は開くし、美味しい料理を食べに入れる。子供ながらも、胸を張ってな。前は入るのを断った店が、今度は「どうぞ」と恭しく迎えてくれるんだから。
それでも酷い店だと思うか、お前が言ってた店のこと。
いつか入れるようになった時には、店の魅力もグンと大きく増しそうだがな?
前は入れなかったのに、と堂々と入って行く時には。…扉の向こうはどんな世界だろう、と。
テーブルや椅子はどんなのだろうと、料理の他にもお楽しみが山ほどあるだろうから。
「そうかもね…」
子供は駄目です、って断られてから、ずっと入りたかったんだから…。
夢だって大きく膨らんでるよね、断られないでスッと入れたお店より。食べたいお料理も増えていそうだよ、何度も何度も、お店の前を「まだ入れない…」って通っていた間に。
自分ならきっとそうなるだろう、と思ったこと。まだ入れない夢のお店は、憧れの店。通る度に膨らむだろう夢。扉の向こう側を夢見て、美味しそうな料理の写真を眺めて。
前の自分が、青い水の星に焦がれたように。まだ座標さえも掴めない地球、其処へ行こうと夢を描いたように。
前の自分と違う所は、店の扉は待てば必ず開かれること。子供にとっては長い時間でも、ほんの数年、待ちさえすれば。…店に入れる年にさえなれば。
其処が地球との違いだよね、と前の自分が辿り着けなかった青い星を思った。あの頃には地球は死の星のままで、青くはなかったのだけど。…青い地球は夢でしかなかったけれど。
その青い地球に来たのが今の自分で、世界のルールはミュウが決めたルール。前の自分が生きた時代は、ミュウという種族は店に入れもしなかったのに。
そう考えたら、ふと思い出した。前にハーレイから聞かされたこと。
「…ねえ、ハーレイ…。前のぼくたちが生きた時代は、お店、人類のためのものだったけど…」
アルテメシアを落とした後には、シャングリラの仲間も買い物に出掛けられたんだよね?
嬉しかったかな、初めてお店に入れた時は。…前のハーレイが配ったお小遣いを持って。
「そうに決まっているだろう? 買い物がそれは凄かったんだ、と話してやったぞ」
いったい何をする気なんだ、と思うような物まで買って来ちまって…。
出番が無さそうな自転車だとか、いつ着るんだと呆れるような服をドッサリ山ほどだとか。
無理もないがな、世界がいきなり大きく開けたんだから。
データくらいしか見られなかった店って所に、客として入って行けるんだからな。
気が大きくなって羽目も外すさ、とハーレイが苦笑するものだから。
「それと同じかな、今はお店に入れない小さな子供が、いつかお店に入れるようになる時も?」
夢が一杯で、胸だってきっとドキドキしてて…。
あれも食べよう、これも食べよう、って欲張りながら入るのかもね。沢山食べられないくせに。
子供なんだし、今のぼくより、もっと少ししか食べられるわけがないんだけれど…。
それでも欲張って注文するとか、注文しようとしてお父さんたちに止められるとか。
「うむ。初めての買い物に出掛けて行ったヤツらと全く同じだろうな」
しかも子供だから、もっと凄いぞ。夢も一杯、憧れ一杯、ついでに我儘一杯ってな。
さぞかし凄い光景だろうさ、とハーレイは大きく頷いた。シャングリラの仲間の比ではないと。
「ようやく店に入れた子供たちの感激は俺が保証するから、入れてやらない店を恨むな」
小さな子供を断るからには、そうする理由があるんだから。
他のお客のことを色々考えた上で、決めたルールだ。それに子供連れの親たちの方も、不愉快な気分にならないように。「あの子は良くて、うちの子供は駄目なんて」というのは嫌だろう?
最初から纏めて断っておけば、大勢の人が嫌な思いをしなくて済む。
断られた子供は可哀相だが、いつかは入れて、店への夢も憧れも膨らむわけだから…。
そうそう悪い話じゃないだろ、ミュウに生まれただけで酷い目に遭った時代に比べたら。…店に入れる権利どころか、生きる権利も無かったのが前の俺たちだしな?
「うん…。でも、ハーレイと一緒に行きたいなあ…」
あのお店、今のぼくでも入れるのに…。チビだけれども、小さい子供じゃないんだから。
ハーレイと二人で出掛けて行ったら、ちゃんと食事が出来るのに…。
でも連れて行ってくれないんだね、と尖らせた唇。「ハーレイのケチ!」と。
「それも理屈は同じだろ。…小さな子供は入れないのと、根っこの所は同じだってな」
俺と出掛けてゆくとなったら、それはデートになっちまうから…。
今のお前だと、デートが出来る背丈に育っていないんだ。店に入るには、まだ年が足りない子供みたいに。…二十センチほど足りていないな、お前の背丈。前のお前と同じになるには。
だがな、お前もいつかはデートに行けるんだ。俺と一緒に。
前のお前と同じに育てば、どんな店でも、デートだから、と堂々とな。
それを楽しみに待てば待つほど、デートの魅力も増すってもんだ。まだ入れない店の扉を眺める間に、どんどん夢が膨らむみたいに。…デートの魅力もそれと同じだ、きっと凄いぞ?
初めてのデートに行くとなったら、約束した時から夢がキラキラしちまってな。
「…もう相当に待ったんだけど…」
ハーレイにうんと待たされてるから、夢は一杯なんだけど…。憧れも、デートの魅力だって。
キラキラしすぎて、目が眩みそう。…それでもデートはまだ行けないの?
「まだだな、お前はチビなんだから」
ゆっくり育てと言っているだろ、今を楽しめ。…これはさっきも言ったことだが。
未来の夢もたっぷり見ながら、デートに行ける日を待つんだな。いつか必ず行けるんだから。
子供時代は今だけだぞ、とハーレイに念を押されたから。
「慌てるんじゃない」と、「急いで育つな」と、鳶色の瞳が優しい光を湛えるから。
少しも育たないチビだけれども、いつかデートに出掛けられる日を楽しみに待っていればいい。
ハーレイが「デートは駄目だ」と言うのも、意地悪ではなくて、ちゃんと理由がある。
つい「ハーレイのケチ!」と膨れてしまっても、唇を尖らせてしまっても。
(…ぼくが大きくなるまでは駄目…)
前の自分と同じ背丈に成長するまで、キスをするのも、デートも駄目。
それはハーレイが決めたルールで、小さな子供は入れない店と同じこと。今はそういうルールを守って、じっと我慢をするべき時。
ハーレイとの間のルールが大切、それを守ってゆくことも。
いつか必ず、デートに行ける日がやって来る。前と同じに大きくなったら、ハーレイとデートに出掛けてゆける。
今はデートに行けないルールが、「行ってもいい」と許してくれるから。
同じルールの筈だけれども、「駄目だ」から「いいぞ」に変わってくれる。
その日が来たなら、ハーレイと一緒に初めてのデート。
楽しみに待って、待って待ち続けて、幸せ一杯で出掛けてゆける。
ハーレイと二人で何処へでも行けるし、どんな店にも入ってゆける、今のルールが変わった時。
同じルールのままなのだけれど、前と同じに育ったら。
デートに行ける姿に成長したなら、必ずデートに誘って貰えて、幸せな時を過ごせるから…。
入れない店・了
※小さな子供は入れて貰えない、美味しそうな料理の店。憤慨したブルーですけれど…。
大きくなったら、もちろん入ってゆけるのです。未来に希望を持てる世界が、今という時代。
(ふうむ…)
どれにするかな、とハーレイが眺めたメニュー。
今日は午前中だけの研修、そちらの方は済ませて来た。学校に行く前に食事にしよう、と入った店で渡されたメニュー。「此処なら、ゆっくり出来そうだな」と選んだ店。
学校に行くのは急がないから、たまには一人でのんびり昼食。そんな気分で入ったものの…。
(ランチセットでいいんだが…)
悩んじまうな、と思うのがランチセットの中身。メインの料理が一種類ではなかった店。どれを選んでも値段は全く変わらないのに、四種類もあった。それほど広くはない店なのに。
(食後はコーヒーで決まりなんだが…)
紅茶かどうかは悩まない。コーヒー好きだし、キャプテン・ハーレイだった頃からコーヒー党。其処は簡単に決まるのだけれど、料理の方はそうはいかない。
(どれも美味そうな感じだし…)
メニューに添えられている写真。皿に盛られた四種類の料理、食欲をそそるものばかり。これは困った、と眺める中で惹かれたのが期間限定の文字。
(この料理だけは入れ替わるんだな)
四種類の中で、その枠だけが。一月ごとに変わってゆくのか、シーズンごとか。あるいは店主の気分で変わるのかもしれない。
つまりは次に店に来たって、あるとは限らない料理。同じ注文するのだったら、そういう料理を頼むのがいい。またこの店に来るかは謎だし、次の機会は無いにしても。
(一期一会って言葉もあるしな?)
こいつを食えるのは今日だけなのかもしれないぞ、と期間限定のパスタに決めた。他の三種類も魅力的だし、捨て難いけれど。
大ぶりなサンドイッチは、如何にも食べ応えがありそうな感じ。グツグツと音を立てていそうなグラタンだって、スパイスが効いていそうなカレーの方も。
それでも期間限定がいい、と選んだメニュー。直ぐに届いたサラダの皿。バゲットも、バターを添えて二切れ。
(カレーにしてたら、このバゲットは無いんだっけな)
どんな具合か、と少し千切って頬張ってみたら、なかなかの味。此処で焼くとは思えないから、パン専門の店から仕入れているのだろう。きっと店主のこだわりの店。
いいバゲットを出して来る店は、料理も期待出来るもの。この店に入って正解だった、と自分の勘を褒める間にパスタの方もやって来た。
七種類の豆を使ったというピリ辛のパスタ。ミートソースもたっぷりと。
(うん、美味い!)
パスタで当たりだ、と口に運びながら眺めた周り。他の席の様子も目に入るから。
ピリ辛のパスタで満足だけれど、他の三種類の料理を選んだ人たちもいる。熱々のグラタンや、カレーの皿や。思った通りに大きいサイズのサンドイッチを齧る人だって。
きっと、どの料理も美味しいのだろう。パスタでなくても、グラタンやサンドイッチでも。この店だったら、味は間違いなさそうだから。
(ランチセットでなきゃ、もっと色々あるわけで…)
パスタだったらソースが変わって、サンドイッチは中身が変わる。入った時に眺めたメニューに幾つも載っていた料理。写真もつけて。
(単品にしても良かったかもな?)
同じパスタを頼むにしたって、ランチセットとは違ったものを。少し高めになったとしたって、食後のコーヒーが別料金になったって。
それだけの価値がある味なんだ、と味わうパスタ。「他のも美味いに違いない」と。
(ちょっと早まりすぎたってか?)
俺としたことが、と少し残念な気分。パスタがとても美味しい上に、バゲットもいい店だから。こういう店なら、どんな料理も満足の味になる筈だから。
もっとゆっくり周りを見てから決めるべきだった、とパスタを頬張る。いくらメニューに写真があっても、やはり実物には敵わない。どんな具合に盛られて来るかも、どう食べるかも。
(…みんな美味そうに食ってるからなあ…)
サンドイッチも良さそうだよな、と目が行ってしまう。「あのサイズなら齧り甲斐がある」と。上品で小さいものよりも。
(大きすぎても、こういう所じゃ食べにくいんだが…)
丁度いいサイズになっているのが心憎い。店主のセンスがいいのだろう、と一目で分かる。他の料理も、きっと店主の自信作。
(見回してから決めりゃ良かったなあ…)
多分、余計に悩む結果になっただろうけれど、時間はたっぷりあったから。メニューを眺めて、他の客たちの料理を眺めて、またメニューへと戻ったり。
(学校の方は、別に行かなくてもいい日なんだし…)
研修があった日は、そうなっている。午前中だけで終わったのなら、午後は自由に使っていい。遊びに行こうが、家でゆったり過ごしていようが、何処からも文句は出ないもの。
(俺が勝手に学校に行こうとしているだけで…)
何時に着いても、同僚たちが驚くだけ。「今日は研修でお休みなのでは?」と。
そういう日だから、メニューで悩んでいたっていい。店に迷惑をかけない程度の時間なら。直ぐ決めなくても、「決まったら呼びます」と言ったって。
急ぎ過ぎたか、と思うけれども、これが性分。
仕事がある日はサッサと決めるし、そうそう悩みはしないもの。ランチセットにするか、単品にするか、それが最初に決めること。大抵は其処で決まる注文。
今日はたまたまランチセットが四種類あって、少し迷ってしまったけれど。
俺のスタイルはそうなんだ、と思う注文する方法。食事を楽しみたい時はともかく、食べるだけなら悩まない。どれが自分の目的に合うか、ただそれだけで選んでゆく。
量をたっぷり食べたいのならば、これだとか。急いで食べて店を出るなら、これがいいとか。
(俺だけじゃなくて、前の俺にしたって同じだからな)
しかもあっちはキャプテンだった、と苦笑い。今よりもずっと多忙な日々で、そうそうのんびりしてはいられない。食事も、それに休憩も。
前の俺だった時からの癖だ、と考えなくても分かること。食事よりも仕事が最優先だ、と。他の仲間が食べている料理、それを見てから決める余裕などあるものか、と。
そんな暇などあるわけがない、と思った所でハタと気付いた。前の自分が生きていた船。
(選べたか…?)
シャングリラの食堂で、食べる料理を。昼食にしても、夕食にしても。白い鯨になった船でも、料理を選んで食べられたのか、と辿った前の自分の記憶。「それは無理だ」と。
選べるわけがなかった料理。食堂は店ではないのだから。食事は栄養を摂るためのもので、皆の身体を養う場所。胃袋を満たすことは出来ても、あれこれ選んで食べられはしない。幾つも並んだ料理の中から選ぶことさえ出来なかった船。
厨房の者たちが「今日はこれだ」と決めた料理が、出て来た船がシャングリラ。トレイに載せて渡されるだけで、「これを」と注文などは出来ない。
(せいぜい、朝の卵の調理方法…)
その程度だった、と思う選べたメニュー。朝食の卵をどう料理するか、それは選べた。固ゆでにするか、半熟か。目玉焼きがいいか、オムレツなのか。
けれど、それだけ。他の料理を選べはしなくて、注文も出来なかった船。「あれが食べたい」と思っていたって、それが出る日を待つ他はない。
「今日、食べたい」と思っても。…ライブラリーで読んだ本に出て来て、食べたい気分になっていたって。仲間たちとの他愛ない話、それで話題になったって。
(おいおいおい…)
贅沢すぎるぞ、と見詰めた皿。なんてこった、と。
七種類の豆を使ったピリ辛パスタ。自分で選んだ料理だけれども、前の自分には出来なかった。四種類ものランチメニューを出されはしないし、選ぶことだって無かったから。
そうやって一つ選んだというのに、目移りしていたのが自分。サンドイッチも良さそうだとか、単品にして他のパスタでも良かったろうか、と。
(時間はたっぷりあったのに、なんて考えてたぞ?)
贅沢者め、と額をコツンと叩きたい気分。他の客たちがいなかったなら。
前の自分は多忙だったけれど、時間に余裕があった時でも料理を選べはしなかった。食堂の中を眺め回しても、誰のトレイにも同じ料理しか無かったから。同じ皿に盛られた同じ料理だけ。
(いつも一種類だったんだ…)
メインの料理も、サラダなども。
厨房の係に注文する時、出来たことは量の調整くらい。「多めに」だとか、「少なめに」とか。それが出来たら、もう充分に満ち足りた気分になれた船。
(俺の場合は大盛りだったが…)
少なめの仲間も多かった。たまに食堂に出て来たブルーも「少なめ」の一人。好き嫌いはまるで無かったけれども、食べられる量は、けして多くはなかったから。
(この時間だと…)
ブルーも学校で食事だろうか。ランチ仲間と食堂に出掛けて行って。
名前はシャングリラと同じに食堂だけれど、今のブルーが通う学校の食堂も料理を色々選べる。定番のランチセットは毎日一種類でも、他に幾つもある単品。オムライスとか、パスタとか。
だからブルーも選んだだろう。「今日はこれにしよう」と、食堂で。
(俺もあいつも、とんでもない贅沢をしてたってわけか…)
何を食べようかと、迷って選ぶ料理だなんて。悩む時間が短かろうとも、選ぶというだけで既に贅沢。シャングリラでは選べなかったから。料理は出て来るだけだったから。
(あいつに話してやらないとな?)
如何に贅沢に暮らしているのか、今の時代の素晴らしさを。
今日は帰りにブルーの家を訪ねてゆけるし、その時に。本当だったら休んでいい日に、予定外の仕事は来ないから。「これで帰ります」と、学校を出ればいいのだから。
そうやって出勤した学校。案の定、驚いた同僚たち。「またですか」と。研修を終えて出勤したことは何度もあるから、予想はしていたようだけれども。
やろうと思った仕事と、柔道部の指導。それが済んだらブルーの家へ。今日の研修は愛車も一緒だったし、ごくごく短い時間で着いた。歩くよりも、ずっと早い時間で。
ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合うなり投げ掛けた問い。
「お前、今日の昼飯は何だった?」
食堂で何を食べたんだ、と訊いてやったら「ランチだよ?」と答えたブルー。
「いつも食べてるランチセット。…お昼御飯がどうかしたの?」
「なんだ、他のにしなかったのか。色々あるのに」
たまにはランチセットじゃないのも食えばいいのに…。お前、大抵、ランチだよな?
「ランチセット、いつも美味しそうだから…。それに今日のはハンバーグ」
人気なんだよ、ハンバーグの日は。…ぼくの友達、全員、ランチセットにしていたもの。
いつもは違う友達だって、とブルーは説明してくれた。ハンバーグの時の人気の高さ。すっかり売り切れてしまう日だってあるらしい。遅く来た子が食べ損ねるほど。
「なるほどな。ちゃんとお前も選んだってわけだ」
「え? 選ぶって…。何を?」
ぼくはいつものランチセットで、とブルーはキョトンとしているけれど。
「飯だ、飯。…お前がランチセットを選ぶの、美味そうだからだろ?」
ついでに今日は人気メニューのハンバーグの日で、お前も大満足だった、と。
それはお前が数ある食堂のメニューの中から、ランチセットを選んだということになる。他にも色々あるんだから。お前の好みがランチセットだというだけで。
実はな、俺も今日は昼飯を選んでて…。学校じゃなくて、外の店だが。
「外のお店で昼御飯って…。ハーレイ、今日は研修だったの?」
普段は学校で食べているでしょ、食堂とか、お弁当だとか。お店で食べていたなら、研修?
「よく分かったな。午前中だけのヤツだったがな」
だから昼飯を食った後には、学校に行って来たんだが…。
休んでもいいことになっていたって、ついつい、足が向いちまうんだ。
柔道部の指導もして来たんだぞ、と話してから昼食に戻した話題。「美味い店だった」と。
「出て来たバゲットが美味かった。ああいう店にハズレは無いんだ」
そういうトコまで気を配る店は、美味いと相場が決まってる。そして本当に美味かったんだが、食ってる途中で気が付いた。
とんでもない贅沢をしてるんだな、と。
「贅沢って…。ハーレイ、高いお店に入ったの?」
一人で行くより、デートとかに使うような店。…そういうお店で食べて来たの?
ぼくも一緒に行きたかったよ、とブルーが言うから、「デートにはまだ早いだろうが」と叱ってやった。「前のお前と同じ背丈に育ってからだ」と。
「それに、お前は勘違いしてる。俺が食ってた店は普通の店だぞ、ありきたりの」
値段も普通なら、店構えもごくごく普通だったが…。ランチセットは多かったかもな。四種類もあって、其処から選べたモンだから…。メインの料理を。
其処が俺の言う贅沢なんだ。料理ってヤツを選べる所。
お前もランチセットにしようと選んだわけだが、今の俺たちならではだぞ、これは。
…シャングリラの食堂、飯時に行って料理を選べたか?
白い鯨になる前はもちろん、白い鯨で立派な食堂が出来た後にも。
「…選ぶって…。そんなの、シャングリラじゃ無理だったっけね…」
ホントだ、ハーレイが言う通りだよ。今のぼくたち、凄い贅沢をしているみたい。学校の食堂、ランチセットの他にも色々あるから…。ぼくもそっちを頼んでる日も、たまにあるから。
でも、シャングリラだと、食事の時間の料理は全部決まってて…。
これはどうしても食べられない、っていう人がいた時は…。
「駄目ならこれにしておくんだな、とドンと出ただろ、選べもしないで」
その日の厨房の都合に合わせて、予備に作ってある料理。食えない連中向けのヤツ。
両方駄目だ、と言い出すヤツが出ないようにと、その辺は考えてあったんだがな。
「そういう仕組みだったっけ…」
ぼくは好き嫌いが無かったけれども、あった仲間は、みんなそう。
係に「食べられません」って言ったら、別のトレイを渡されるんだよ。みんなと違う料理のが。
だけど、選べたわけじゃないよね。…最初からそれに決まってるんだし、選ぶのは無理。
あれは選ぶと言わないよね、とブルーも頷いている通り。
白い鯨になった後でも、まるで選べなかった食堂。大勢の仲間が食べに行くのに、メニューさえ存在しなかった。選ぶことなど出来ないのだから、メニューがあったわけもない。
朝、昼、晩と三度の食事は、厨房の係が決めていた。栄養バランスなどを考慮し、様々な食材を組み合わせて。飽きが来ないよう、味付けや調理方法を変えて。
「…前のお前の朝飯だったら、選べたんだがな」
食堂で食うんじゃなかったからなあ、青の間で俺と食ってただけで。…それ専門の係もいたし。
しかし、あれでもメニューがあったわけではないし…。
卵料理を選べた所は、他のヤツらと同じだった。食堂で選べた唯一の料理が朝の卵だっけな。
前のお前と俺の特権は、それの他にも少し注文出来たってトコで…。
トーストよりもホットケーキがいいとか、焼いたソーセージもつけてくれとか。
そんな程度の注文だったぞ、前の俺たちが選べた朝飯。
「係はいたけど、無茶なんか言えなかったよね…」
朝御飯を作りに来てくれるんだし、もうそれだけで贅沢だから…。他のみんなと違うんだもの。
その気になったら、我儘、言えただろうけれど…。
食堂だって、夜食だったらサンドイッチとかも注文出来たから…。誰が頼みに行ってもね。
「晩飯が済んだら、厨房が暇になるからな」
後片付けと次の日の仕込みくらいで、大忙しってわけじゃないもんだから…。
だが、船のヤツらが次から次へと食べにやって来る飯時は無理だ。別の料理はしていられない。
食事を食べに来たヤツらだって、悩んで決めてる時間は無いぞ。メニューが無いから。
其処で何かを迷うとしたなら、「苦手なんだが、どうしようか」ってトコだけだ。
「これは食えない」と申し出て別の料理を貰うか、我慢して食っておく方にするか。
どっちにしたって早く決めないと、他の仲間が迷惑なんだ。
「…行列して受け取る所だったものね、食堂は…」
自分の順番が回って来たら、係にトレイを渡されるだけ。
渡される前に「別のがいい」って言っておいたら、時間は無駄にならないけれど…。
トレイが来てからそれを言ったら、次の仲間を待たせちゃうものね。
料理の見本は、いつも一応、出ていたけれど…。苦手な人用の別の料理の見本も。
白いシャングリラにも無かったメニュー。選ぶことなど出来なかった料理。トレイに載せられ、渡されるだけ。その料理が苦手だった場合は、代わりのものを。
「…あれは選ぶとは言えないだろうな、苦手だから替えてくれというのは」
食べられる料理がそれしか無いから、そっちを選んだだけなんだから。
今日の俺みたいに、美味そうなのが幾つも揃った中から、選ぶってわけじゃないんだし…。
お前のランチセットにしたって、他の料理は食べられないってことでもないし…。
いつ見ても美味そうだから選ぶわけだろ、ランチセットを?
今の俺たちには、何を食おうかと選ぶ自由も、そいつで悩める場所も幾つもあるんだが…。
「贅沢だよね、本当に…。シャングリラの頃と比べたら」
あの船で料理を好きに選べて、食べられた時ってあったっけ?
夜食用の注文が出来る時間以外で、そういう自由がある時間。これがいいな、って。
「無かったな。あの船じゃ、料理の注文は出来ん。夜食の時間帯なら、なんとかなったが…」
その代わり、注文出来る料理も少ない。厨房のヤツらと、食材の在庫次第だから。
好きに選んで食べるとなったら、パーティーの時に皿の上から選べた程度で…。
あれにしたって、料理そのものは選べやしない。皿に盛り付けて出されたヤツが全部だから。
もっと他のが食べたいんだが、と思っていたって、注文するのは無理だったからな。
ついでに言うなら、皿の上から選べた料理も、今のバイキングには敵わんぞ。
色々あるだろ、バイキングの料理。ホテルの朝飯とかにしたって。
朝飯でも料理がドッサリだ、と広げた両手。卵料理やサラダで終わりじゃないんだから、と。
「シャングリラで好きに選べた料理…。バイキングにも負けちゃうね…」
朝御飯のヤツにも負けてしまうよ、トーストもホットケーキも、白い御飯もあるんだもの。
料理も山ほど置いてあるよね、サラダだけでも何種類も。
朝からお肉もお魚もあって、和風のも、中華風だって。…シャングリラのパーティーよりも上。
今はそういう時代なんだし、お料理、選べて当たり前だよね。
何にしようか悩めるだなんて、ホントに贅沢なんだけど…。
ミュウの箱舟だった船。楽園という名のシャングリラ。白い鯨は自給自足で生きてゆける設備を誇ったけれども、所詮は閉じた楽園だった。
食料に不自由しない船でも、今の時代の朝食バイキングにさえも勝てなかった船。パーティーの時に並べた料理の中身でさえも、まるで勝負にならなかった船。
そんな具合だから、普段の料理を選べはしない。食事の時間に、何を食べようかと迷いたくても無かった選択肢。皆と同じものか、それが苦手な人用に作られた予備の料理か、その二つだけ。
選ぶ自由が無い船なのだし、メニューを広げて眺める贅沢だって無い。
「…つくづく贅沢になったもんだな、俺たちも」
今日の俺は写真付きのメニューを眺めて悩んで、お前は食堂に張り出してあるメニューだろ?
ランチセットの中身はコレ、って書いてあるヤツと、いつも貼ってあるオムライスとか。
シャングリラじゃ、そいつも出来なかったな。夜食を注文するにしたって、訊くだけだから。
厨房に出掛けて、「何が作れる?」と。…サンドイッチの中身にしても。
「あの船にはメニュー、無かったもんね」
こういう料理があるんです、って書いてあるものは無かったよ。写真付きのも、字だけのも。
厨房で出て来るものしか無くって、見本が置いてあっただけ。今日の食事はこういう料理、ってトレイに載せて。…苦手だったら「替えて下さい」って言えるようにね。
「メニューなあ…。どういう料理かを書くだけだったら、無かったこともないんだが?」
生憎と写真は無かったがな、と今日の店で見たメニューと比べてみる。頭の中で。
白いシャングリラで目にしたメニューと、今日の贅沢なメニューとを。
「メニュー、シャングリラにあったっけ?」
そんなの、見たこと無いけれど…。メニューがあったら、みんなが眺めていそうだけれど。
覚えてないよ、とブルーが言うから、「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「ソルジャー主催の食事会だと作っていたぞ」
一種の記念品ってヤツだな、出席者が持って帰れるように。ソルジャーと食べた料理の中身を、何度も思い出せるようにと。
エラが張り切っていただろうが。これが無くては話にならん、と。
テーブルに置いてあったもんだが、と両手で示したメニューのサイズ。二つ折りだ、と。それを広げて立ててあったと、書かれた順に料理が出たが、と。
「ソルジャー専用の食器に盛られて、そりゃあ仰々しく…」
でもって、係がメニューの通りに言ってたぞ。魚のポワレでソースがどうとか。
「…あれ、メニューなの?」
エラはメニューだと言っていたけど、あれだと選べないじゃない。書いてある通りに、出て来るだけで。…一番上から順番に。
今日のハーレイが見て来たメニューと全然違うよ、とブルーが首を傾げるから。
「選ぶメニューとは違うがな…。あれもメニューの一種ではある」
そしてシャングリラでは、唯一のメニューだったんだ。あの船でメニューと言ったらアレだ。
今なら店に出掛けて行ったら、ああいうコース料理でも選べるヤツがあるのに…。
俺が悩んだメニューみたいに、メイン料理を選ぶとか。スープも選べるヤツだとか…。
「そうだよね…。あるよね、そういうの…」
ぼくは少ししか食べられないから、レストラン、滅多に行かないけれど…。
そういうメニューで選んだことなら、何度かあったよ。
お肉よりかは、お魚の方がお腹一杯にならないかも、って魚料理にするとかね。
スープが選べる所だったら、ポタージュじゃなくてコンソメスープ。
ポタージュスープは、お腹一杯になっちゃうから…。
「少なめに入れて」ってお願いしたって、あまり少なくはならないものね。
コース料理のような凝ったものでも、肉か魚か、選べる店があるくらい。スープの種類も。
けれどシャングリラでは無理だった。メニューを広げて、食べたい料理を選ぶこと。今の時代はブルーの学校の食堂でさえも、色々選べるものなのに。ランチセットは一種類でも、他の何かを。
今日の昼食に入った店なら、ランチセットのメイン料理を四種類の中から選べたのに。
「今だと選ぶの、当たり前になってしまったからなあ…」
俺が物心ついた頃には、もうメニューを見て選んでた。写真付きなら、指差してな。小さすぎて字なんか読めないチビでも、そうして選べたもんだから…。
俺もすっかり慣れちまっていて、今日まで気付きもしなかった。メニューを眺めて、色々選べる贅沢ってヤツに。
気付いたからには、これからはゆっくり選ばないと、とは思うんだが…。
また直ぐにサッと決めちまいそうだ、仕事のある日は。…外で一人で食ってるんなら、その日は暇なんだろうにな。今日と同じで、本当は休んでしまっていい日。
「それって、前のハーレイがキャプテンだったから?」
前のハーレイ、いつも仕事が沢山あって…。食事も休憩も早めに切り上げてたでしょ、少しでも早くブリッジに戻るのがキャプテンだから、って。
そうやって急いでいたりするのに、子供たちの相手はしてあげるんだよ。放っておかずに。
ハーレイらしいな、って思ってた。…あの頃を身体が覚えてるのかな、仕事のある日は、サッと食事を決めてしまうの。急がなくちゃ、って前のハーレイが…?
「俺もそのせいかと思ったんだが…。よく考えたら、運動をやってたせいかもな」
柔道にしても、水泳にしても、練習も合宿も時間厳守だ。むしろ早めに、と叩き込まれる。朝は早起き、飯も急いで食べなきゃならん。それも、しっかりよく噛んで、だぞ?
そう仕込まれたのが俺なわけでだ、飯をのんびり食っていたせいで遅れるなんぞは論外だ。
きっとそっちの方なんだろうな、メニューを見て直ぐに決めちまうのは。
前の俺でも、同じようにしそうではあるが…。前の俺はメニューで選んでないしな。
「そっか…。シャングリラでは、お料理、選んでないものね…」
だけど、前のハーレイなら、ホントにやりそうだよ。メニューを見せたら、直ぐに選ぶこと。
「これから仕事がありますから」って、短い時間で食べられそうなお料理とかをね。
前のハーレイでも、きっとそうだよ、とブルーにまで言われてしまうほど。
青い地球の上に生まれ変わっても、新しい命と身体を貰っても。平和な時代にやって来たって、仕事の時には大急ぎ。じっくり料理を選んでいいのに、メニューを見るなり決めてしまうくらい。
「お前にだって、そう見えるのか…。だったら、前の俺かもなあ…」
前の俺も混じっているかもしれんな、急いで決めようとしちまうこと。…仕事のある日は。
しかしだ、前の俺だと選ぶ自由も無かった料理を、今は色々選べるわけで…。
仕事の時は無理かもしれんが、いつかお前とデートの時には、ゆっくりと悩むことにするかな。
どれにしようか、お前も一緒に、あれこれ悩んでみようじゃないか。
好き嫌いは無くても、選びたいだろ、お前だって?
今日も選んでいたようだしな、と提案してやった、メニューを広げて悩むこと。いつかブルーが大きくなったら、二人でデートに出掛けて行って。メニューが豊富な店に入って。
「もちろん選んでみたいよ、ぼくも」
シャングリラの時代は抜きにしたって、選ぶの、楽しそうだから…。色々選べるお店だったら。
でも、選ぶのに困っちゃうかもしれないね。
メニューのお料理、どれも美味しそうで。…今日のハーレイが迷ったみたいに。
四種類の中から選ぶだけでも、迷ったんでしょ、と見詰めるブルー。仕事のある日に入ったお店だったのに、と。
「そういう時のハーレイだって悩むんだったら、ぼくはホントに迷っちゃうよ」と。
「だったら、全部頼んじまえばいいじゃないか」
悩むくらいなら、端から頼んで食っちまえ。時間はたっぷりあるんだから。
メニューを広げて悩む時間も山ほどある上、食べる時間もゆったり取れるぞ。
前の俺たちの頃と違って、仕事が待ってるわけじゃない。
デートに出掛けて行こうって日だぞ、店が営業している間は、のんびり食ってていいんだから。
そうするべきだ、と勧めてやったのだけれど。「全部頼んで食べてしまえ」と言ったけれども、困ったような表情のブルー。「無理そうだけど…」と。
「ハーレイ、それ…。ぼくが食べ切れると思う?」
前のぼくだって、食堂に行ったら「少なめに」って頼んでいたんだよ?
ぼくが大きくなった時にも、同じことになると思うけど…。お料理が多いと、お腹一杯。
食べたいお料理を全部頼んでも、絶対、食べ切れないんだから。…お腹一杯になってしまって。
「お前の場合は、そうなるだろうな」
前のお前も、今のお前も、あまり沢山食べられそうにはないんだが…。
お前が注文しようって時は、俺とデートの真っ最中だぞ?
俺がお前と一緒なわけで、同じテーブルにいるんだから…。お前が食べてみたい料理を、シェアすることも出来るってな。
「シェア…?」
なあに、とブルーは不思議そうだから、「知らないか?」と微笑み掛けた。
「料理を二人で分けるんだ。皿を二人分、貰ってな」
そうすりゃ、お前が食わなかった分は、俺が綺麗に平らげてやれる。お前が幾つ頼んでいても。
でなきゃ、お前と俺とで全く別の料理を頼んで、途中で交換するだとか。
俺はお前が食べてみたい料理を食うことにするから、適当なトコで「取り替えて」とな。
「それって、とっても楽しいかも…!」
色々頼んで、ハーレイと分けて食べるのも…。ハーレイとお料理を交換するのも。
どっちも素敵で、やってみたいよ。美味しそうな料理を、一つだけ選べなかった時には。
だけど、やっぱり食べられる量は少ないだろうし…。
欲張って沢山頼んじゃっても、お腹一杯だと、ぼくはどうにもならないから…。
選べるお料理の数は少なくなりそう、とブルーは残念そうな顔。「お店の人にも悪いもの」と。いくら助けて貰ったとしても、食べ切れなくなってしまうなら、と。
「…そうでしょ、ハーレイ? お料理してくれる人に悪いよ」
お腹一杯になってしまったら、せっかくのお料理、食べられないもの…。
まだありますよ、って運んで来てくれても、ぼくは見ているしかないんだもの。ハーレイが全部食べる所を、「それ、美味しい?」って訊くだけで。
そんなの、ホントに失礼だから…。あまり沢山頼んじゃ駄目だよ、いくら悩んでしまっても。
だから少ししか頼めないよ、というのがブルーの悩み。メニューで選べる時代ならでは。
前の自分たちが生きた頃なら、悩む必要さえ無かったこと。選ぶ料理が無かったから。メニューさえも無い船だったから。
「少ししか頼めないってか…。そういうことなら、また行けばいいだろ、続きを食べに」
「続き?」
「そのままの意味さ。次のデートで、この前の続き、と食べに行くんだ」
何度もやってりゃ、いくらお前が少しずつしか食べられなくても、メニューを制覇だ。それこそ端から端まで食えるぞ、料理も、それにデザートだって。
「それもいいかも…。おんなじお店でデートなんだね」
美味しいお料理、どんなのか、全部食べるまで。…メニューにあるのを、ホントに全部。
「いいか、必ず限定品から食べるんだぞ?」
今日の俺もそいつで決めたんだ。期間限定と書いてあったから、ある間に、とな。あの店にまた行くかどうかは別にして。
旬の素材で作る料理も多いからなあ、制覇するなら先に押さえるのは限定品だ。
「分かった、いつでも食べられるお料理は後回しだね」
「そういうこった。…ついでに、店に入る前にも沢山悩めるぞ」
何の料理を食べに行こうか、というトコからな。今の時代は料理の種類も山ほどだから。
「贅沢すぎだよ、今のぼくたち…」
メニューだけでも悩めそうなのに、食べに行けるお店の種類も一杯。
シャングリラの食堂の頃が嘘みたいだよね、あの食堂でも、充分、美味しかったのに…。
だけど素敵、とブルーの瞳が未来の夢に煌めいているから、デートの時にはゆっくり悩もう。
今の時代は選べる料理に、選べる食事が出来る店。
いつかブルーとデートの時には、何処に入るか、まずは食事をする店から。
ブルーと二人で悩むのもいいし、いったい何処へ連れて行こうかと一人で調べて悩むのもいい。
店を決めたらブルーと入って、今度はメニューを広げて悩む。
自分も、ブルーも、ずらりと並んだ料理の中から、どれを選んで食べようかと。
シャングリラにいた頃と違って、今は色々選べるから。
二人で違う料理を頼んで、分けて食べてもいいのだから。
そしてブルーが望むのだったら、幾つも頼んでシェアだっていい。
同じ料理を分けて食べるのも、きっと幸せだろうから。
そうやって何度も店を訪ねて、メニューを制覇するのもいい。
ブルーと二人で通い続けて、すっかり店の馴染みになって。
気に入りの席も覚えて貰って、其処に座って、料理と一緒にブルーの笑顔も堪能して…。
選べる料理・了
※今のハーレイやブルーにとっては、料理を選ぶのは当たり前。店でも、学校の食堂でも。
けれど、シャングリラでは違ったのです。何を選ぶか悩める今。デートの時にも悩んでこそ。
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どれにするかな、とハーレイが眺めたメニュー。
今日は午前中だけの研修、そちらの方は済ませて来た。学校に行く前に食事にしよう、と入った店で渡されたメニュー。「此処なら、ゆっくり出来そうだな」と選んだ店。
学校に行くのは急がないから、たまには一人でのんびり昼食。そんな気分で入ったものの…。
(ランチセットでいいんだが…)
悩んじまうな、と思うのがランチセットの中身。メインの料理が一種類ではなかった店。どれを選んでも値段は全く変わらないのに、四種類もあった。それほど広くはない店なのに。
(食後はコーヒーで決まりなんだが…)
紅茶かどうかは悩まない。コーヒー好きだし、キャプテン・ハーレイだった頃からコーヒー党。其処は簡単に決まるのだけれど、料理の方はそうはいかない。
(どれも美味そうな感じだし…)
メニューに添えられている写真。皿に盛られた四種類の料理、食欲をそそるものばかり。これは困った、と眺める中で惹かれたのが期間限定の文字。
(この料理だけは入れ替わるんだな)
四種類の中で、その枠だけが。一月ごとに変わってゆくのか、シーズンごとか。あるいは店主の気分で変わるのかもしれない。
つまりは次に店に来たって、あるとは限らない料理。同じ注文するのだったら、そういう料理を頼むのがいい。またこの店に来るかは謎だし、次の機会は無いにしても。
(一期一会って言葉もあるしな?)
こいつを食えるのは今日だけなのかもしれないぞ、と期間限定のパスタに決めた。他の三種類も魅力的だし、捨て難いけれど。
大ぶりなサンドイッチは、如何にも食べ応えがありそうな感じ。グツグツと音を立てていそうなグラタンだって、スパイスが効いていそうなカレーの方も。
それでも期間限定がいい、と選んだメニュー。直ぐに届いたサラダの皿。バゲットも、バターを添えて二切れ。
(カレーにしてたら、このバゲットは無いんだっけな)
どんな具合か、と少し千切って頬張ってみたら、なかなかの味。此処で焼くとは思えないから、パン専門の店から仕入れているのだろう。きっと店主のこだわりの店。
いいバゲットを出して来る店は、料理も期待出来るもの。この店に入って正解だった、と自分の勘を褒める間にパスタの方もやって来た。
七種類の豆を使ったというピリ辛のパスタ。ミートソースもたっぷりと。
(うん、美味い!)
パスタで当たりだ、と口に運びながら眺めた周り。他の席の様子も目に入るから。
ピリ辛のパスタで満足だけれど、他の三種類の料理を選んだ人たちもいる。熱々のグラタンや、カレーの皿や。思った通りに大きいサイズのサンドイッチを齧る人だって。
きっと、どの料理も美味しいのだろう。パスタでなくても、グラタンやサンドイッチでも。この店だったら、味は間違いなさそうだから。
(ランチセットでなきゃ、もっと色々あるわけで…)
パスタだったらソースが変わって、サンドイッチは中身が変わる。入った時に眺めたメニューに幾つも載っていた料理。写真もつけて。
(単品にしても良かったかもな?)
同じパスタを頼むにしたって、ランチセットとは違ったものを。少し高めになったとしたって、食後のコーヒーが別料金になったって。
それだけの価値がある味なんだ、と味わうパスタ。「他のも美味いに違いない」と。
(ちょっと早まりすぎたってか?)
俺としたことが、と少し残念な気分。パスタがとても美味しい上に、バゲットもいい店だから。こういう店なら、どんな料理も満足の味になる筈だから。
もっとゆっくり周りを見てから決めるべきだった、とパスタを頬張る。いくらメニューに写真があっても、やはり実物には敵わない。どんな具合に盛られて来るかも、どう食べるかも。
(…みんな美味そうに食ってるからなあ…)
サンドイッチも良さそうだよな、と目が行ってしまう。「あのサイズなら齧り甲斐がある」と。上品で小さいものよりも。
(大きすぎても、こういう所じゃ食べにくいんだが…)
丁度いいサイズになっているのが心憎い。店主のセンスがいいのだろう、と一目で分かる。他の料理も、きっと店主の自信作。
(見回してから決めりゃ良かったなあ…)
多分、余計に悩む結果になっただろうけれど、時間はたっぷりあったから。メニューを眺めて、他の客たちの料理を眺めて、またメニューへと戻ったり。
(学校の方は、別に行かなくてもいい日なんだし…)
研修があった日は、そうなっている。午前中だけで終わったのなら、午後は自由に使っていい。遊びに行こうが、家でゆったり過ごしていようが、何処からも文句は出ないもの。
(俺が勝手に学校に行こうとしているだけで…)
何時に着いても、同僚たちが驚くだけ。「今日は研修でお休みなのでは?」と。
そういう日だから、メニューで悩んでいたっていい。店に迷惑をかけない程度の時間なら。直ぐ決めなくても、「決まったら呼びます」と言ったって。
急ぎ過ぎたか、と思うけれども、これが性分。
仕事がある日はサッサと決めるし、そうそう悩みはしないもの。ランチセットにするか、単品にするか、それが最初に決めること。大抵は其処で決まる注文。
今日はたまたまランチセットが四種類あって、少し迷ってしまったけれど。
俺のスタイルはそうなんだ、と思う注文する方法。食事を楽しみたい時はともかく、食べるだけなら悩まない。どれが自分の目的に合うか、ただそれだけで選んでゆく。
量をたっぷり食べたいのならば、これだとか。急いで食べて店を出るなら、これがいいとか。
(俺だけじゃなくて、前の俺にしたって同じだからな)
しかもあっちはキャプテンだった、と苦笑い。今よりもずっと多忙な日々で、そうそうのんびりしてはいられない。食事も、それに休憩も。
前の俺だった時からの癖だ、と考えなくても分かること。食事よりも仕事が最優先だ、と。他の仲間が食べている料理、それを見てから決める余裕などあるものか、と。
そんな暇などあるわけがない、と思った所でハタと気付いた。前の自分が生きていた船。
(選べたか…?)
シャングリラの食堂で、食べる料理を。昼食にしても、夕食にしても。白い鯨になった船でも、料理を選んで食べられたのか、と辿った前の自分の記憶。「それは無理だ」と。
選べるわけがなかった料理。食堂は店ではないのだから。食事は栄養を摂るためのもので、皆の身体を養う場所。胃袋を満たすことは出来ても、あれこれ選んで食べられはしない。幾つも並んだ料理の中から選ぶことさえ出来なかった船。
厨房の者たちが「今日はこれだ」と決めた料理が、出て来た船がシャングリラ。トレイに載せて渡されるだけで、「これを」と注文などは出来ない。
(せいぜい、朝の卵の調理方法…)
その程度だった、と思う選べたメニュー。朝食の卵をどう料理するか、それは選べた。固ゆでにするか、半熟か。目玉焼きがいいか、オムレツなのか。
けれど、それだけ。他の料理を選べはしなくて、注文も出来なかった船。「あれが食べたい」と思っていたって、それが出る日を待つ他はない。
「今日、食べたい」と思っても。…ライブラリーで読んだ本に出て来て、食べたい気分になっていたって。仲間たちとの他愛ない話、それで話題になったって。
(おいおいおい…)
贅沢すぎるぞ、と見詰めた皿。なんてこった、と。
七種類の豆を使ったピリ辛パスタ。自分で選んだ料理だけれども、前の自分には出来なかった。四種類ものランチメニューを出されはしないし、選ぶことだって無かったから。
そうやって一つ選んだというのに、目移りしていたのが自分。サンドイッチも良さそうだとか、単品にして他のパスタでも良かったろうか、と。
(時間はたっぷりあったのに、なんて考えてたぞ?)
贅沢者め、と額をコツンと叩きたい気分。他の客たちがいなかったなら。
前の自分は多忙だったけれど、時間に余裕があった時でも料理を選べはしなかった。食堂の中を眺め回しても、誰のトレイにも同じ料理しか無かったから。同じ皿に盛られた同じ料理だけ。
(いつも一種類だったんだ…)
メインの料理も、サラダなども。
厨房の係に注文する時、出来たことは量の調整くらい。「多めに」だとか、「少なめに」とか。それが出来たら、もう充分に満ち足りた気分になれた船。
(俺の場合は大盛りだったが…)
少なめの仲間も多かった。たまに食堂に出て来たブルーも「少なめ」の一人。好き嫌いはまるで無かったけれども、食べられる量は、けして多くはなかったから。
(この時間だと…)
ブルーも学校で食事だろうか。ランチ仲間と食堂に出掛けて行って。
名前はシャングリラと同じに食堂だけれど、今のブルーが通う学校の食堂も料理を色々選べる。定番のランチセットは毎日一種類でも、他に幾つもある単品。オムライスとか、パスタとか。
だからブルーも選んだだろう。「今日はこれにしよう」と、食堂で。
(俺もあいつも、とんでもない贅沢をしてたってわけか…)
何を食べようかと、迷って選ぶ料理だなんて。悩む時間が短かろうとも、選ぶというだけで既に贅沢。シャングリラでは選べなかったから。料理は出て来るだけだったから。
(あいつに話してやらないとな?)
如何に贅沢に暮らしているのか、今の時代の素晴らしさを。
今日は帰りにブルーの家を訪ねてゆけるし、その時に。本当だったら休んでいい日に、予定外の仕事は来ないから。「これで帰ります」と、学校を出ればいいのだから。
そうやって出勤した学校。案の定、驚いた同僚たち。「またですか」と。研修を終えて出勤したことは何度もあるから、予想はしていたようだけれども。
やろうと思った仕事と、柔道部の指導。それが済んだらブルーの家へ。今日の研修は愛車も一緒だったし、ごくごく短い時間で着いた。歩くよりも、ずっと早い時間で。
ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合うなり投げ掛けた問い。
「お前、今日の昼飯は何だった?」
食堂で何を食べたんだ、と訊いてやったら「ランチだよ?」と答えたブルー。
「いつも食べてるランチセット。…お昼御飯がどうかしたの?」
「なんだ、他のにしなかったのか。色々あるのに」
たまにはランチセットじゃないのも食えばいいのに…。お前、大抵、ランチだよな?
「ランチセット、いつも美味しそうだから…。それに今日のはハンバーグ」
人気なんだよ、ハンバーグの日は。…ぼくの友達、全員、ランチセットにしていたもの。
いつもは違う友達だって、とブルーは説明してくれた。ハンバーグの時の人気の高さ。すっかり売り切れてしまう日だってあるらしい。遅く来た子が食べ損ねるほど。
「なるほどな。ちゃんとお前も選んだってわけだ」
「え? 選ぶって…。何を?」
ぼくはいつものランチセットで、とブルーはキョトンとしているけれど。
「飯だ、飯。…お前がランチセットを選ぶの、美味そうだからだろ?」
ついでに今日は人気メニューのハンバーグの日で、お前も大満足だった、と。
それはお前が数ある食堂のメニューの中から、ランチセットを選んだということになる。他にも色々あるんだから。お前の好みがランチセットだというだけで。
実はな、俺も今日は昼飯を選んでて…。学校じゃなくて、外の店だが。
「外のお店で昼御飯って…。ハーレイ、今日は研修だったの?」
普段は学校で食べているでしょ、食堂とか、お弁当だとか。お店で食べていたなら、研修?
「よく分かったな。午前中だけのヤツだったがな」
だから昼飯を食った後には、学校に行って来たんだが…。
休んでもいいことになっていたって、ついつい、足が向いちまうんだ。
柔道部の指導もして来たんだぞ、と話してから昼食に戻した話題。「美味い店だった」と。
「出て来たバゲットが美味かった。ああいう店にハズレは無いんだ」
そういうトコまで気を配る店は、美味いと相場が決まってる。そして本当に美味かったんだが、食ってる途中で気が付いた。
とんでもない贅沢をしてるんだな、と。
「贅沢って…。ハーレイ、高いお店に入ったの?」
一人で行くより、デートとかに使うような店。…そういうお店で食べて来たの?
ぼくも一緒に行きたかったよ、とブルーが言うから、「デートにはまだ早いだろうが」と叱ってやった。「前のお前と同じ背丈に育ってからだ」と。
「それに、お前は勘違いしてる。俺が食ってた店は普通の店だぞ、ありきたりの」
値段も普通なら、店構えもごくごく普通だったが…。ランチセットは多かったかもな。四種類もあって、其処から選べたモンだから…。メインの料理を。
其処が俺の言う贅沢なんだ。料理ってヤツを選べる所。
お前もランチセットにしようと選んだわけだが、今の俺たちならではだぞ、これは。
…シャングリラの食堂、飯時に行って料理を選べたか?
白い鯨になる前はもちろん、白い鯨で立派な食堂が出来た後にも。
「…選ぶって…。そんなの、シャングリラじゃ無理だったっけね…」
ホントだ、ハーレイが言う通りだよ。今のぼくたち、凄い贅沢をしているみたい。学校の食堂、ランチセットの他にも色々あるから…。ぼくもそっちを頼んでる日も、たまにあるから。
でも、シャングリラだと、食事の時間の料理は全部決まってて…。
これはどうしても食べられない、っていう人がいた時は…。
「駄目ならこれにしておくんだな、とドンと出ただろ、選べもしないで」
その日の厨房の都合に合わせて、予備に作ってある料理。食えない連中向けのヤツ。
両方駄目だ、と言い出すヤツが出ないようにと、その辺は考えてあったんだがな。
「そういう仕組みだったっけ…」
ぼくは好き嫌いが無かったけれども、あった仲間は、みんなそう。
係に「食べられません」って言ったら、別のトレイを渡されるんだよ。みんなと違う料理のが。
だけど、選べたわけじゃないよね。…最初からそれに決まってるんだし、選ぶのは無理。
あれは選ぶと言わないよね、とブルーも頷いている通り。
白い鯨になった後でも、まるで選べなかった食堂。大勢の仲間が食べに行くのに、メニューさえ存在しなかった。選ぶことなど出来ないのだから、メニューがあったわけもない。
朝、昼、晩と三度の食事は、厨房の係が決めていた。栄養バランスなどを考慮し、様々な食材を組み合わせて。飽きが来ないよう、味付けや調理方法を変えて。
「…前のお前の朝飯だったら、選べたんだがな」
食堂で食うんじゃなかったからなあ、青の間で俺と食ってただけで。…それ専門の係もいたし。
しかし、あれでもメニューがあったわけではないし…。
卵料理を選べた所は、他のヤツらと同じだった。食堂で選べた唯一の料理が朝の卵だっけな。
前のお前と俺の特権は、それの他にも少し注文出来たってトコで…。
トーストよりもホットケーキがいいとか、焼いたソーセージもつけてくれとか。
そんな程度の注文だったぞ、前の俺たちが選べた朝飯。
「係はいたけど、無茶なんか言えなかったよね…」
朝御飯を作りに来てくれるんだし、もうそれだけで贅沢だから…。他のみんなと違うんだもの。
その気になったら、我儘、言えただろうけれど…。
食堂だって、夜食だったらサンドイッチとかも注文出来たから…。誰が頼みに行ってもね。
「晩飯が済んだら、厨房が暇になるからな」
後片付けと次の日の仕込みくらいで、大忙しってわけじゃないもんだから…。
だが、船のヤツらが次から次へと食べにやって来る飯時は無理だ。別の料理はしていられない。
食事を食べに来たヤツらだって、悩んで決めてる時間は無いぞ。メニューが無いから。
其処で何かを迷うとしたなら、「苦手なんだが、どうしようか」ってトコだけだ。
「これは食えない」と申し出て別の料理を貰うか、我慢して食っておく方にするか。
どっちにしたって早く決めないと、他の仲間が迷惑なんだ。
「…行列して受け取る所だったものね、食堂は…」
自分の順番が回って来たら、係にトレイを渡されるだけ。
渡される前に「別のがいい」って言っておいたら、時間は無駄にならないけれど…。
トレイが来てからそれを言ったら、次の仲間を待たせちゃうものね。
料理の見本は、いつも一応、出ていたけれど…。苦手な人用の別の料理の見本も。
白いシャングリラにも無かったメニュー。選ぶことなど出来なかった料理。トレイに載せられ、渡されるだけ。その料理が苦手だった場合は、代わりのものを。
「…あれは選ぶとは言えないだろうな、苦手だから替えてくれというのは」
食べられる料理がそれしか無いから、そっちを選んだだけなんだから。
今日の俺みたいに、美味そうなのが幾つも揃った中から、選ぶってわけじゃないんだし…。
お前のランチセットにしたって、他の料理は食べられないってことでもないし…。
いつ見ても美味そうだから選ぶわけだろ、ランチセットを?
今の俺たちには、何を食おうかと選ぶ自由も、そいつで悩める場所も幾つもあるんだが…。
「贅沢だよね、本当に…。シャングリラの頃と比べたら」
あの船で料理を好きに選べて、食べられた時ってあったっけ?
夜食用の注文が出来る時間以外で、そういう自由がある時間。これがいいな、って。
「無かったな。あの船じゃ、料理の注文は出来ん。夜食の時間帯なら、なんとかなったが…」
その代わり、注文出来る料理も少ない。厨房のヤツらと、食材の在庫次第だから。
好きに選んで食べるとなったら、パーティーの時に皿の上から選べた程度で…。
あれにしたって、料理そのものは選べやしない。皿に盛り付けて出されたヤツが全部だから。
もっと他のが食べたいんだが、と思っていたって、注文するのは無理だったからな。
ついでに言うなら、皿の上から選べた料理も、今のバイキングには敵わんぞ。
色々あるだろ、バイキングの料理。ホテルの朝飯とかにしたって。
朝飯でも料理がドッサリだ、と広げた両手。卵料理やサラダで終わりじゃないんだから、と。
「シャングリラで好きに選べた料理…。バイキングにも負けちゃうね…」
朝御飯のヤツにも負けてしまうよ、トーストもホットケーキも、白い御飯もあるんだもの。
料理も山ほど置いてあるよね、サラダだけでも何種類も。
朝からお肉もお魚もあって、和風のも、中華風だって。…シャングリラのパーティーよりも上。
今はそういう時代なんだし、お料理、選べて当たり前だよね。
何にしようか悩めるだなんて、ホントに贅沢なんだけど…。
ミュウの箱舟だった船。楽園という名のシャングリラ。白い鯨は自給自足で生きてゆける設備を誇ったけれども、所詮は閉じた楽園だった。
食料に不自由しない船でも、今の時代の朝食バイキングにさえも勝てなかった船。パーティーの時に並べた料理の中身でさえも、まるで勝負にならなかった船。
そんな具合だから、普段の料理を選べはしない。食事の時間に、何を食べようかと迷いたくても無かった選択肢。皆と同じものか、それが苦手な人用に作られた予備の料理か、その二つだけ。
選ぶ自由が無い船なのだし、メニューを広げて眺める贅沢だって無い。
「…つくづく贅沢になったもんだな、俺たちも」
今日の俺は写真付きのメニューを眺めて悩んで、お前は食堂に張り出してあるメニューだろ?
ランチセットの中身はコレ、って書いてあるヤツと、いつも貼ってあるオムライスとか。
シャングリラじゃ、そいつも出来なかったな。夜食を注文するにしたって、訊くだけだから。
厨房に出掛けて、「何が作れる?」と。…サンドイッチの中身にしても。
「あの船にはメニュー、無かったもんね」
こういう料理があるんです、って書いてあるものは無かったよ。写真付きのも、字だけのも。
厨房で出て来るものしか無くって、見本が置いてあっただけ。今日の食事はこういう料理、ってトレイに載せて。…苦手だったら「替えて下さい」って言えるようにね。
「メニューなあ…。どういう料理かを書くだけだったら、無かったこともないんだが?」
生憎と写真は無かったがな、と今日の店で見たメニューと比べてみる。頭の中で。
白いシャングリラで目にしたメニューと、今日の贅沢なメニューとを。
「メニュー、シャングリラにあったっけ?」
そんなの、見たこと無いけれど…。メニューがあったら、みんなが眺めていそうだけれど。
覚えてないよ、とブルーが言うから、「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「ソルジャー主催の食事会だと作っていたぞ」
一種の記念品ってヤツだな、出席者が持って帰れるように。ソルジャーと食べた料理の中身を、何度も思い出せるようにと。
エラが張り切っていただろうが。これが無くては話にならん、と。
テーブルに置いてあったもんだが、と両手で示したメニューのサイズ。二つ折りだ、と。それを広げて立ててあったと、書かれた順に料理が出たが、と。
「ソルジャー専用の食器に盛られて、そりゃあ仰々しく…」
でもって、係がメニューの通りに言ってたぞ。魚のポワレでソースがどうとか。
「…あれ、メニューなの?」
エラはメニューだと言っていたけど、あれだと選べないじゃない。書いてある通りに、出て来るだけで。…一番上から順番に。
今日のハーレイが見て来たメニューと全然違うよ、とブルーが首を傾げるから。
「選ぶメニューとは違うがな…。あれもメニューの一種ではある」
そしてシャングリラでは、唯一のメニューだったんだ。あの船でメニューと言ったらアレだ。
今なら店に出掛けて行ったら、ああいうコース料理でも選べるヤツがあるのに…。
俺が悩んだメニューみたいに、メイン料理を選ぶとか。スープも選べるヤツだとか…。
「そうだよね…。あるよね、そういうの…」
ぼくは少ししか食べられないから、レストラン、滅多に行かないけれど…。
そういうメニューで選んだことなら、何度かあったよ。
お肉よりかは、お魚の方がお腹一杯にならないかも、って魚料理にするとかね。
スープが選べる所だったら、ポタージュじゃなくてコンソメスープ。
ポタージュスープは、お腹一杯になっちゃうから…。
「少なめに入れて」ってお願いしたって、あまり少なくはならないものね。
コース料理のような凝ったものでも、肉か魚か、選べる店があるくらい。スープの種類も。
けれどシャングリラでは無理だった。メニューを広げて、食べたい料理を選ぶこと。今の時代はブルーの学校の食堂でさえも、色々選べるものなのに。ランチセットは一種類でも、他の何かを。
今日の昼食に入った店なら、ランチセットのメイン料理を四種類の中から選べたのに。
「今だと選ぶの、当たり前になってしまったからなあ…」
俺が物心ついた頃には、もうメニューを見て選んでた。写真付きなら、指差してな。小さすぎて字なんか読めないチビでも、そうして選べたもんだから…。
俺もすっかり慣れちまっていて、今日まで気付きもしなかった。メニューを眺めて、色々選べる贅沢ってヤツに。
気付いたからには、これからはゆっくり選ばないと、とは思うんだが…。
また直ぐにサッと決めちまいそうだ、仕事のある日は。…外で一人で食ってるんなら、その日は暇なんだろうにな。今日と同じで、本当は休んでしまっていい日。
「それって、前のハーレイがキャプテンだったから?」
前のハーレイ、いつも仕事が沢山あって…。食事も休憩も早めに切り上げてたでしょ、少しでも早くブリッジに戻るのがキャプテンだから、って。
そうやって急いでいたりするのに、子供たちの相手はしてあげるんだよ。放っておかずに。
ハーレイらしいな、って思ってた。…あの頃を身体が覚えてるのかな、仕事のある日は、サッと食事を決めてしまうの。急がなくちゃ、って前のハーレイが…?
「俺もそのせいかと思ったんだが…。よく考えたら、運動をやってたせいかもな」
柔道にしても、水泳にしても、練習も合宿も時間厳守だ。むしろ早めに、と叩き込まれる。朝は早起き、飯も急いで食べなきゃならん。それも、しっかりよく噛んで、だぞ?
そう仕込まれたのが俺なわけでだ、飯をのんびり食っていたせいで遅れるなんぞは論外だ。
きっとそっちの方なんだろうな、メニューを見て直ぐに決めちまうのは。
前の俺でも、同じようにしそうではあるが…。前の俺はメニューで選んでないしな。
「そっか…。シャングリラでは、お料理、選んでないものね…」
だけど、前のハーレイなら、ホントにやりそうだよ。メニューを見せたら、直ぐに選ぶこと。
「これから仕事がありますから」って、短い時間で食べられそうなお料理とかをね。
前のハーレイでも、きっとそうだよ、とブルーにまで言われてしまうほど。
青い地球の上に生まれ変わっても、新しい命と身体を貰っても。平和な時代にやって来たって、仕事の時には大急ぎ。じっくり料理を選んでいいのに、メニューを見るなり決めてしまうくらい。
「お前にだって、そう見えるのか…。だったら、前の俺かもなあ…」
前の俺も混じっているかもしれんな、急いで決めようとしちまうこと。…仕事のある日は。
しかしだ、前の俺だと選ぶ自由も無かった料理を、今は色々選べるわけで…。
仕事の時は無理かもしれんが、いつかお前とデートの時には、ゆっくりと悩むことにするかな。
どれにしようか、お前も一緒に、あれこれ悩んでみようじゃないか。
好き嫌いは無くても、選びたいだろ、お前だって?
今日も選んでいたようだしな、と提案してやった、メニューを広げて悩むこと。いつかブルーが大きくなったら、二人でデートに出掛けて行って。メニューが豊富な店に入って。
「もちろん選んでみたいよ、ぼくも」
シャングリラの時代は抜きにしたって、選ぶの、楽しそうだから…。色々選べるお店だったら。
でも、選ぶのに困っちゃうかもしれないね。
メニューのお料理、どれも美味しそうで。…今日のハーレイが迷ったみたいに。
四種類の中から選ぶだけでも、迷ったんでしょ、と見詰めるブルー。仕事のある日に入ったお店だったのに、と。
「そういう時のハーレイだって悩むんだったら、ぼくはホントに迷っちゃうよ」と。
「だったら、全部頼んじまえばいいじゃないか」
悩むくらいなら、端から頼んで食っちまえ。時間はたっぷりあるんだから。
メニューを広げて悩む時間も山ほどある上、食べる時間もゆったり取れるぞ。
前の俺たちの頃と違って、仕事が待ってるわけじゃない。
デートに出掛けて行こうって日だぞ、店が営業している間は、のんびり食ってていいんだから。
そうするべきだ、と勧めてやったのだけれど。「全部頼んで食べてしまえ」と言ったけれども、困ったような表情のブルー。「無理そうだけど…」と。
「ハーレイ、それ…。ぼくが食べ切れると思う?」
前のぼくだって、食堂に行ったら「少なめに」って頼んでいたんだよ?
ぼくが大きくなった時にも、同じことになると思うけど…。お料理が多いと、お腹一杯。
食べたいお料理を全部頼んでも、絶対、食べ切れないんだから。…お腹一杯になってしまって。
「お前の場合は、そうなるだろうな」
前のお前も、今のお前も、あまり沢山食べられそうにはないんだが…。
お前が注文しようって時は、俺とデートの真っ最中だぞ?
俺がお前と一緒なわけで、同じテーブルにいるんだから…。お前が食べてみたい料理を、シェアすることも出来るってな。
「シェア…?」
なあに、とブルーは不思議そうだから、「知らないか?」と微笑み掛けた。
「料理を二人で分けるんだ。皿を二人分、貰ってな」
そうすりゃ、お前が食わなかった分は、俺が綺麗に平らげてやれる。お前が幾つ頼んでいても。
でなきゃ、お前と俺とで全く別の料理を頼んで、途中で交換するだとか。
俺はお前が食べてみたい料理を食うことにするから、適当なトコで「取り替えて」とな。
「それって、とっても楽しいかも…!」
色々頼んで、ハーレイと分けて食べるのも…。ハーレイとお料理を交換するのも。
どっちも素敵で、やってみたいよ。美味しそうな料理を、一つだけ選べなかった時には。
だけど、やっぱり食べられる量は少ないだろうし…。
欲張って沢山頼んじゃっても、お腹一杯だと、ぼくはどうにもならないから…。
選べるお料理の数は少なくなりそう、とブルーは残念そうな顔。「お店の人にも悪いもの」と。いくら助けて貰ったとしても、食べ切れなくなってしまうなら、と。
「…そうでしょ、ハーレイ? お料理してくれる人に悪いよ」
お腹一杯になってしまったら、せっかくのお料理、食べられないもの…。
まだありますよ、って運んで来てくれても、ぼくは見ているしかないんだもの。ハーレイが全部食べる所を、「それ、美味しい?」って訊くだけで。
そんなの、ホントに失礼だから…。あまり沢山頼んじゃ駄目だよ、いくら悩んでしまっても。
だから少ししか頼めないよ、というのがブルーの悩み。メニューで選べる時代ならでは。
前の自分たちが生きた頃なら、悩む必要さえ無かったこと。選ぶ料理が無かったから。メニューさえも無い船だったから。
「少ししか頼めないってか…。そういうことなら、また行けばいいだろ、続きを食べに」
「続き?」
「そのままの意味さ。次のデートで、この前の続き、と食べに行くんだ」
何度もやってりゃ、いくらお前が少しずつしか食べられなくても、メニューを制覇だ。それこそ端から端まで食えるぞ、料理も、それにデザートだって。
「それもいいかも…。おんなじお店でデートなんだね」
美味しいお料理、どんなのか、全部食べるまで。…メニューにあるのを、ホントに全部。
「いいか、必ず限定品から食べるんだぞ?」
今日の俺もそいつで決めたんだ。期間限定と書いてあったから、ある間に、とな。あの店にまた行くかどうかは別にして。
旬の素材で作る料理も多いからなあ、制覇するなら先に押さえるのは限定品だ。
「分かった、いつでも食べられるお料理は後回しだね」
「そういうこった。…ついでに、店に入る前にも沢山悩めるぞ」
何の料理を食べに行こうか、というトコからな。今の時代は料理の種類も山ほどだから。
「贅沢すぎだよ、今のぼくたち…」
メニューだけでも悩めそうなのに、食べに行けるお店の種類も一杯。
シャングリラの食堂の頃が嘘みたいだよね、あの食堂でも、充分、美味しかったのに…。
だけど素敵、とブルーの瞳が未来の夢に煌めいているから、デートの時にはゆっくり悩もう。
今の時代は選べる料理に、選べる食事が出来る店。
いつかブルーとデートの時には、何処に入るか、まずは食事をする店から。
ブルーと二人で悩むのもいいし、いったい何処へ連れて行こうかと一人で調べて悩むのもいい。
店を決めたらブルーと入って、今度はメニューを広げて悩む。
自分も、ブルーも、ずらりと並んだ料理の中から、どれを選んで食べようかと。
シャングリラにいた頃と違って、今は色々選べるから。
二人で違う料理を頼んで、分けて食べてもいいのだから。
そしてブルーが望むのだったら、幾つも頼んでシェアだっていい。
同じ料理を分けて食べるのも、きっと幸せだろうから。
そうやって何度も店を訪ねて、メニューを制覇するのもいい。
ブルーと二人で通い続けて、すっかり店の馴染みになって。
気に入りの席も覚えて貰って、其処に座って、料理と一緒にブルーの笑顔も堪能して…。
選べる料理・了
※今のハーレイやブルーにとっては、料理を選ぶのは当たり前。店でも、学校の食堂でも。
けれど、シャングリラでは違ったのです。何を選ぶか悩める今。デートの時にも悩んでこそ。