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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あっ…!)
 ブルーが思わず目を瞑った突風。いきなり吹き抜けていった風。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。何の前触れもなく、身体の周りを凄い速さで。
 ザアッと響いた、木々の葉っぱが風に靡く音。揃って同じ方向へ。耳の直ぐ側を通った風と、風の音。一瞬の内に。
 顔に、身体に吹き付けた風は、アッと言う間に去ってしまったようだから…。
(ビックリした…)
 行っちゃったかな、と開いた瞳。パチクリと何度か繰り返した瞬き。もう平気かな、と。
 いつもより風があるとは思ったけれども、予想もしていなかった突風。空を見上げたら、真っ青なのに。天気が変わるわけでもないのに。
 雲の流れは少し速いだろうか、空の上だと風はもっと強くて速いものだから。前の自分が飛んでいた空、アルテメシアの空の上でもそうだったから。
 晴れていたって、こういう急な風が吹く日も、たまにある。風は気まぐれだし、青い地球だって気分は色々。突風で人を驚かせるとか、突然に雨を降らせるだとか。
(埃、目に入らなくって良かった…)
 風が巻き上げる、とても細かな埃や砂。目を瞑るのが少し遅れていたなら、入ったかもしれない小さな異物。目玉を苛める、青い地球の欠片。
 地球は丸ごと好きだけれども、目の中にまでは欲しくない欠片。痛いし、それに涙だって出る。涙で上手く流れなかったら、痛いだけでは済まなくて…。
 ぼくの目、真っ赤になっちゃうんだから、と竦めた肩。目の中に入った地球の欠片は、コロコロ転がって目を赤くする。白い部分に細い血管を浮き上がらせて。
 ただでも赤い瞳なのだし、白目まで赤くなってしまってはたまらない。
(見た人、みんなビックリだよ)
 丸ごと赤い瞳なんて、とパチパチ瞬きをしておいた。念のために、と。
 瞬きをすれば、もしも埃が入っていたって、早い間に流れて何処かへ行くだろうから。



 もう突風は大丈夫かな、と歩き始めた家までの道。風はやっぱり普段より強い。さっきのような風には気を付けなくちゃ、と思いながらもキョロキョロしながら歩いていたら…。
(お花…)
 ふと目に留まった、道端の家。生垣の向こう、花壇に幾つも咲いている花。種類は様々、それに色だって。今の季節に咲く花たちを揃えて植えてある花壇。
 綺麗だよね、と眺めたけれども、その花たち。柔らかそうな花びらなのに、どの花も吹いている風に揺れているものだから…。
(破れちゃわない?)
 薄い花びら、と心配になった。茎ごと揺れる花と花びら、どれも繊細そうだから。手で触ったら傷みそうなほどで、まるで蝶たちの翅のよう。
 もしも突風に襲われたならば、裂けて破れてしまいそう。まだ破れてはいないけれども、次のが来たら無事に済むとは思えない。
(…もう吹かないといいんだけれど…)
 あんな風は、と見守る間に、聞こえたゴオッという響き。顔を上げたら、庭の向こうから木々を揺らして吹いて来る風。花たちに襲い掛かるかのように。
(破れちゃう…!)
 お花、と思わず目を瞑りそうになったのだけれど。
 風が花壇を抜けてゆくから、「もう駄目だ」と心で悲鳴を上げたのだけれど。



(あれ…?)
 なんともないよ、と見詰めた花壇。乱暴な風が行ってしまった後で。
 風と一緒に靡いた花たち、折れてしまいそうに見えた細い茎。風が過ぎたら元に戻った。風など吹きもしなかったように、シャンと真っ直ぐ。
 それに破れていない花びら。薄くて風で裂けそうなのに、どの花もまるで傷んではいない。茎も一つも折れていなくて、怪我をしていない花壇の花たち。
(…弱そうなのに…)
 ほんの少しの風で破れてしまいそうなのに、頑丈だった幾つもの花。風に襲われても、どの花も元気に咲いているから…。
 なんだか凄い、と感心した。ぼくよりもずっと強いみたい、と。
 風が巻き上げた地球の欠片が目に入ったら、大変なのが自分だから。白目は真っ赤で、目だって痛くて涙がポロポロ零れるのだから。
 そんな自分より、花たちの方がよっぽど強い。見た目はとても弱そうなのに。
 これならばきっと、もっと強い風が吹いてきたって、花びらが破れはしないのだろう。花びらを支える茎も傷んでしまいはしなくて、今みたいに元に戻るのだろう。
 頼りなく見えても、丈夫な花たち。花びらも茎も、チビの自分より、ずっと頑丈らしいから…。
(これからも、元気で頑張ってね?)
 風に負けずに綺麗に咲いてね、と生垣越しに手を振った。
 見かけと違って、強くて丈夫な花たちに。思いがけない逞しさを見せた花びらや茎に。



 家に帰って、制服を脱いで、おやつの時間。一階のダイニングに下りて行って。
 おやつのケーキと紅茶が置かれたテーブルの上には、母が生けた花。庭で咲いた花たちに、緑の葉たちを幾つか添えて。さっきの花壇で見掛けた花も混じっているから…。
(この花も、うんと頑丈だよね?)
 それに他のも、此処には無い庭の花たちも。強い風でも破れない花びら、折れない茎。
 きっと元から丈夫な花たち、そんな気がする。花たちの種類のせいではなくて。同じ種類でも、弱い花なら、種の間に駄目になるのだろう。
 蒔いてやっても、芽を出さないとか。芽が出たとしても、育たないとか。
(…自然の中だと、勝手に駄目になっちゃうし…)
 花壇の花なら、手入れする人が「これは弱いから」と抜いたりもする。混み合っていたら、他の花たちの邪魔になるから。弱い花のせいで、強い花まで駄目になるから。
 そういった風に丈夫な株が残って、雨や風にも鍛えられて…。
(グンと丈夫になるんだよね?)
 ひ弱そうに見えても、風で破れない強い花びらを持つ花に。倒れない茎を持っている花に。
 だから突風でも大丈夫。頑丈に育った花たちなのだし、そう簡単には負けないから。



 それを思うと、人間だって同じだろう。持って生まれた身体の他にも…。
(日頃のトレーニングが大切…)
 きっとそうだよ、と頬張ったケーキ。人間だって花と同じ、と。
 ハーレイを見ていれば良く分かる。前のハーレイは「身体がなまっちまうしな?」と言っては、せっせと走っていた。まだシャングリラの名前も無かった頃から、船の中を。
 今のハーレイも子供の頃から鍛えているから、前よりも遥かに強い身体を持っている。プロ級の腕を誇る柔道と水泳が、その証拠。鍛えたからこそ、プロの選手にも負けない身体。
 それに比べてチビの自分は、今度も前と同じに弱い。ほんの少しの運動でさえも、身体が悲鳴を上げるくらいに。体育の授業は見学の方が多いくらいに。
(ぼくだって、ちゃんと運動したなら、今より丈夫になれそうだけど…)
 そういう気持ちがしてくるけれども、何回となくそれで失敗したから、もう懲りた。ハーレイのようには強くなれない。今になってから頑張ってみても、身体を壊してしまうだけ。
 弱い身体は、丈夫な友人たちの動きについていけないから。加減を掴めもしないから。
 もっと小さな頃から鍛えておいたなら、と思うけれども…。
(そうしていたなら、今よりマシかも…)
 日々の積み重ねだもんね、と風にも負けない花たちを思う。種の頃から頑張った結果、と。
 だから自分も幼い頃から頑張っていれば、丈夫になっていたかもしれない。今よりも、ずっと。
 けれど、手遅れ。
 鍛えようとしないで大きくなったら、弱い自分が出来上がったから。
 基礎になる身体が全く出来ていないのに、運動しようという方が無理。…今頃になって。



 仕方ないよね、と溜息をついて戻った部屋。座った勉強机の前。
 頬杖をついて、花たちのことを考える。あんなに強い風が吹いても、破れなかった薄い花びら。元が丈夫に出来ているから、傷つきさえもしなかった。花びらも、茎も。
 花たちの強さは、種の頃から培ったもの。芽が出た時には弱かった株が強く育つことも、自然の中ならありそうなこと。「これは弱い」と、他の株のために人間が抜いてしまわなければ。
(…勝手に生えて来たんだったら、混んでない場所もあるだろうしね…)
 運良くそういう場所に生えたら、弱い株でも頑張り次第。雨や風に負けずに力をつければ、強い株にもなれるだろう。頑丈な茎をシャンと伸ばして、繊細そうでも丈夫な花を咲かせて。
(花だって、強くなれるのに…)
 今の自分は丈夫な身体になれそうもないし、あの花たちのようにはいかない。弱く育ったから、風が吹いたら破れてしまう花びらの花。折れて倒れてしまう茎。
 ぼくはホントに弱い花だ、と零れる溜息。見た目通りに弱くて駄目、と。
 何処から見たって、丈夫そうには見えない自分。細っこくてチビで、おまけにアルビノ。色素を持たない真っ白な肌は、弱そうな印象を強くするだけ。
(おんなじように弱く見えても…)
 本当は丈夫な花だったならば、きっと素敵に生きられたのに。
 今よりもグンと大きく広がる可能性。自分が丈夫に育っていたなら、強い身体を作っていたら。



 小さい頃から鍛えて丈夫だったなら、と描いた夢。同じチビでも違う筈だよ、と。
 もしも鍛えた身体だったら、一番最初にやりたいことは…。
(柔道部に入って…)
 ハーレイと一緒に過ごせる時間を増やすこと。柔道部に入れば、ハーレイが教えてくれるから。
 柔道の経験が全く無くても、入れるクラブが柔道部。今の学校から始めた生徒も多い柔道。
(…ハーレイと出会ってからだって…)
 きっと入部は出来る筈。五月三日に再会したから、時期としてはまだ早い方。直ぐに「入る」と言ったなら。入部手続きを頼んだならば。
(初めて柔道をやる生徒とだったら…)
 一ヶ月も差は開いていないし、充分についていけるだろう。後から入った自分でも。
 柔道部に入れば、ハーレイと一緒に朝から練習。走り込みとか、体育館での練習だとか。授業が終わって放課後になれば、本格的な練習の時間。ハーレイの指導で汗を流して。
 それが済んだら、ハーレイの車に乗せて貰って家まで帰る。同じ時間までクラブなのだし、後に会議などの仕事が無い日だったら、ハーレイは家に来てくれるのだから。
(今だと、ぼくは家で待つしかないけれど…)
 柔道部員になっていたなら、ハーレイと一緒の帰り道。車の助手席にチョコンと座って、家まで二人で話しながら。
 家に着いても、ガレージから二階の自分の部屋までハーレイと一緒。
 母が門扉を開ける代わりに、「ちょっと待ってね」と自分が開けて。「入って」と、ハーレイを庭に招き入れて。
 「ただいま」と家に入って行ったら、ハーレイも後から入ってくる。二人一緒に階段を上って、部屋に入る時もハーレイと二人。
(…制服を着替えてる間だけ…)
 外に出て貰うことになるのか、気にせずにエイッと着替えるか。それはハーレイ次第だろう。
 「俺は出ていた方がいいよな」と行ってしまうか、「早くしろよ?」と椅子に座っているか。
(…そのまま部屋にいるかもね?)
 柔道部の練習は柔道着。それに着替えるなら、ハーレイも同じ更衣室かもしれないから。
 いつも着替えを見ているのならば、いくら恋人同士でも…。
 気にしないよね、と浮かんだ笑み。チビが着替えているだけなのだし、問題無し、と。



 ホントに素敵、と夢は広がる。ハーレイと一緒にクラブ活動、家に帰る時は乗せて貰える車。
 今の自分には出来ないことが、簡単に出来る柔道部。…入ることさえ出来たなら。
(お昼御飯も…)
 柔道部員たちがやっているように、たまには食堂でハーレイを囲んで昼御飯。ワイワイ賑やかな彼らの姿を、いつも羨ましく見ているけれど…。
(ぼくだって、あれの仲間入り…)
 大盛りランチをペロリと平らげ、放課後の部活に備えるのだろう。前に食堂で頼んだけれども、自分には多すぎた大盛りランチ。…ハーレイに食べて貰ったランチ。
 けれど柔道部にいる自分だったら、きっと綺麗に食べられる。ランチだけでなくて、授業の間の休み時間にもお弁当。運動部の生徒たちは、そうしているから。
(お弁当、買いに行かなくちゃ…)
 家から持って来たお弁当では、短い時間に食べられない。だからパンとか、おにぎりだとか。
 ハーレイだって、そういうものを買って来ている。昼食の他にも、何処かの店で。
(学校に行く途中で買えばいいんだよね?)
 それが一番、という気がする。
 柔道部に入るほど元気なのだし、バスには乗らずに歩いて通学。きっと走って行ったりもする。別に遅れたわけでもないのに、それこそ元気一杯に。走り込みの前から自主練習。
 そうやって学校まで出掛ける途中で、その日の気分で買うお弁当。パンやおにぎり、道の途中にある店に入って。
 お弁当を買ったら、学校に向かって真っ直ぐ走ってゆくのだけれど…。
(スピードウィルなんか要らないよ)
 ジョミーが学校へ急いで行こうと、履いて走っていた靴なんか。裏に車輪がついた靴。
 そんな靴など履かなくっても、丈夫だったら、サムみたいに走っていけばいい。体力自慢だったサムはジョミーに追い付いたから。
 あれと同じに、みんな追い越して、ぐんぐんと。二本の足の力だけで。



 颯爽と走って学校に着いたら、もうハーレイがいるかもしれない。「おっ、早いな!」と笑顔を向けてくれて。「今日も朝から張り切ってるな」と。
 柔道着を着たら、ハーレイも一緒に走り込み。それが済んだら、体育館で朝の練習。ハーレイに指導して貰って。「こうだ」と手本も見せて貰って。
(いいよね…)
 そんな風に始まる、学校の朝。もしも自分が丈夫だったら、きっと叶っただろう夢。弱い身体に生まれて来たって、ちゃんと鍛えておいたなら…。
 手遅れだけど、と考えていたら、聞こえたチャイム。柔道部の指導を終えたハーレイが、仕事の帰りに来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが丈夫だったらいいと思わない?」
 ぼくの身体だよ。弱いけれども、そうじゃなくて丈夫だったなら、って。
「はあ? なんでまた…」
 いきなりそういう話になるんだ、お前、いったい何をしたんだ?
 新聞に体力作りの記事でもあったか、それに影響されちまっのたか?
「えっとね…。新聞はちっとも関係無くて…」
 今日の帰りに歩いていたら、凄い風が吹いて来たんだよ。ビックリして目を瞑っちゃうほど。
 その後、花壇の花を見掛けて…。
 花びらがとても弱そうだったから、次の風で破れちゃうかと思って心配してて…。
 そしたらホントに強い風が来て、もう駄目だ、って思ったんだけど…。
 花びら、破れなかったんだよ。茎だって少しも傷まなくって、風が行っちゃったら元通りで…。



 弱そうな花が見た目よりもずっと丈夫だった、と説明した。
 あの花みたいに、自分が今と全く同じ姿をしていたとしても、丈夫な身体だったなら、と。
「見掛けは今と同じなんだよ、弱いチビのぼく…」
 でもね、ホントはうんと丈夫で、弱い身体じゃないってこと。
「ほほう…。そいつは愉快だな」
 同じチビでも、今よりも丈夫に出来てるんだな?
 直ぐに倒れて寝込んだりはしない、丈夫な身体を持ったお前か…。
「そう! 素敵でしょ、それ?」
 丈夫なんだし、柔道部にだって入れるよ。今の学校から始めた生徒も多いんでしょ?
 だからね、ぼくも柔道部。ハーレイに会って、ちゃんと記憶が戻った後は。
 他のみんなより遅いけれども、入部届を出しに行くよ。一ヶ月も遅れていないもの。
 柔道部に入ったら、朝の練習からハーレイと一緒。
 放課後の部活はもちろん一緒で、家に帰る時はハーレイの車に乗せて貰って…。
 いいでしょ、ハーレイといつだって一緒。…ぼくの身体が丈夫だったら。
「そりゃいいかもなあ…。お前が柔道部に入ってくれるのか」
 少なくとも帰り道の分だけ、二人で過ごせる時間が増えるな。
 車に乗ってる時間はうんと短いわけだが、それまでの時間も一緒だしな?
 部活が済んだら、お前と二人で駐車場まで歩いて行く、と。
 帰る前に職員室に寄る時も、「ちょっと待ってろ」と、廊下までは一緒に行くわけで…。
 うん、なかなかに素敵じゃないか。お前が言ってる通りにな。



 合宿だって一緒だしな、と言われて胸がときめいた。夏休みにあった、柔道部の合宿。あの時は家でガッカリしていたけれども、柔道部員なら合宿に参加するのが当然。
 そうなってくると、ハーレイの家でのバーベキューとかにも…。
「ねえ、合宿に行けるんだったら、ハーレイが家でやってるヤツ…」
 柔道部員を呼んでるバーベキューとか、ピザを頼んだりするパーティーだとか…。
 ああいうのにも、ぼくも行けるんだよね?
 おやつは徳用袋のクッキーだっていう、ハーレイの家でみんながワイワイ集まる時も…?
「そりゃあ、断る理由は無いな」
 お前が一人で来るんだったら、今と同じで「駄目だ」と言うが…。
 柔道部のヤツらが一緒だったら、事情は全く違うしな?
 そうか、お前が柔道部なあ…。
 入ってくれたら楽しいだろうな、俺としても指導のし甲斐があるし。…お前だけにな。
「ぼくって…。なんで?」
 恋人だからなの、いつも一緒にいられるから?
 練習の時も、家まで車で帰る時にも。
「そいつも大いに魅力的だが、俺がやりたいのは、お前を強くすることだ」
 柔道部に入ってくれた生徒は、全力で指導するというのが俺の信条だしな?
 伸ばせる力は、大いに伸ばしてやらないと…。
 お前に柔道の才能があったら、原石を磨く楽しみってヤツが倍増だ。
 いや、倍どころの騒ぎじゃないな。…なんたって、原石はお前なんだから。



 きっと凄いぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。「騒ぎが目に見えるみたいだな」と。
「こんなに可愛いチビが強いとなったら、間違いなく注目の的ってヤツだ」
 たちまち人気者になるんだろうなあ、大勢がドッと押し掛けて来て。
「え…?」
 人気者って、どういうこと?
 ぼくが強かったら、なんで人気が出るっていうの…?
「簡単なことだ、お前にファンがつくってことさ」
 チビなのに強い選手というのは、柔道の世界じゃ人気だぞ?
 その上、お前は可愛いし…。ソルジャー・ブルーの子供時代にそっくりだしな。
 人気が出ないわけがない。評判を聞いて、ファンが沢山やって来るぞ。
「ぼくのファンって…。学生時代のハーレイみたいに?」
 試合や練習を見に来る人が増えるってこと…?
「そういうこった。まだ義務教育の生徒だからなあ、俺の時ほど凄くはないが…」
 学校に入るには許可も要るしな、上の学校のようにはいかん。
 しかし、学校の外での試合となったら、見に来るヤツらも多いと思うぞ。
 でもって、お前は育ってゆくほど、どんどん美人になっていくから…。
 そうなったら、もう引っ張りだこだな。…俺の出番も無くなりそうだ。
 インタビューとかは、いつもお前ばかりで。俺は後ろで見ているだけで。



 その光景も見えるようだな、と腕組みをして頷くハーレイ。「主役はお前だ」と。
「まさしくヒーローというヤツだよなあ、俺の出番は全く無いぞ」
 お呼びじゃないってことになっちまって。…とにかくお前、っていうことでな。
「そんなことないでしょ?」
 ハーレイだって、柔道の腕は凄いじゃない。ぼくでも勝てそうにないけれど…。
 いくら強くても、まだ学校の生徒なんだし…。
「それはそうだが、考えてもみろ。学校新聞の取材をしてるの、誰なんだ?」
 生徒だろうが、自分たちで取材して新聞を発行しているわけで…。
 教師の俺を取材したって仕方ないしな、読むのは生徒なんだから。
 生徒の視線で書くとなったら、お前を取材しないと駄目だ。…インタビューして記事を書く。
 そいつを読んだ女子生徒たちが、ドッと押し掛けて来るってな。お前目当てで、体育館に。
 柔道部にも、マネージャー希望のヤツらが殺到しちまいそうだよなあ…。
 今の時期は募集していません、と張り紙を出さなきゃ断れないほど、それは大勢。
「マネージャー希望って…。そうなっちゃうの?」
 ぼくがいるだけで、マネージャーになりたい人が増えるの?
「世の中、そういうモンなんだぞ?」
 カッコいい男子が入っている運動部は、マネージャーに苦労しないってな。
 わざわざ募集しに行かなくても、向こうからやって来るもんだから…。
 それと同じで、お前が柔道部にいるってだけでも、マネージャーになりたいヤツがいそうだ。
 しかも、お前は強いわけだし…。
 お前がチビのままだったとしても、人気はきっと凄いと思うぞ。
 学校新聞の記者が来た時は、俺なんか押しのけて取材だ、取材。お前の記事を書かないと…。
 新聞を読んで貰いたかったら、俺の記事よりお前の記事だ。
「…それはちょっと…」
 取材に来られても、ぼく、困るかも…。
 ハーレイの方は見向きもしないで、ぼくだけ取材をして貰っても…。



 なんだか嫌だ、という気がする。自分だけが注目を浴びること。
 ハーレイと一緒にインタビューなら、嬉しいのに。記事にもハーレイの名前が出るなら、写真も一緒に撮ってくれるのなら。
「…ぼくに柔道を教えてくれるの、ハーレイだよ?」
 強くしてくれたのも、ハーレイなんだし…。それに恋人…。
 ホントは恋人同士だってこと、秘密だけれども、記事は一緒でなくちゃ嫌だよ。
「ふうむ…。まあ、師匠抜きでは語れないしな、柔道は」
 その辺を記者に説いてやったら、俺の出番もありそうだが…。記事の隅っこの方でもな。
 お前が上手く説明したなら、俺の記事も大きくなるかもしれん。学生時代の活躍ぶりとか。
 …それで、柔道が強いお前の話なんだが…。
 どうするんだ、プロの道に行くのか?
「…プロ?」
 それってプロの選手ってことなの、プロになれって?
「なれる可能性は充分、高いだろうと思うがな?」
 強いってことは、柔道の素質があるってことだ。そうでなければ、教えても伸びん。
 素質があって強いとなればだ、柔道の指導に力を入れてる上の学校に行ってだな…。
 其処で一層腕を磨けば、プロになるのも夢じゃない。もちろん、俺も教えてやるし…。
 休みの時には、柔道部にいた頃と同じようにだ、個人指導をしてやるってな。
「そんな道には行かないよ!」
 上の学校にも、プロの道にも、ぼくは絶対、行かないってば!
「行かないって…。お前、どうする気だ?」
 せっかくプロになれそうなのに、いったい何をするつもりなんだ?
「決まってるじゃない、ハーレイのお嫁さんになるんだよ!」
 卒業したら、結婚してハーレイのお嫁さん。ぼくはそれしか、やりたいと思ってないんだから!



 プロの選手になるなんて…、と膨らませた頬。プロになったら、きっと大変だろうから。
 ハーレイと結婚出来たとしたって、毎日、試合と練習ばかり。ろくに一緒に過ごせはしなくて、ただ忙しいだけの日々。家にいたって、ハーレイと練習かもしれない。
「…ハーレイ、ぼくがプロになったら、練習しろって言いそうだよ…」
 もっと強くなるには練習だから、って、お休みで家にいたって練習…。
「それはまあ…。そうなるだろうが、お前、そいつは嫌なんだな?」
 だからプロにはならない、と…。どんなに才能があったとしても。
 ということは、お前、俺と一緒にいるだけのために、柔道部に入部するってか?
「…駄目なの?」
 入っちゃ駄目なの、柔道部には…?
 強くなったらプロの選手になろうって人しか、入っちゃ駄目…?
「駄目とは言わんが…。プロになれないのが殆どなんだし、其処の所は気にしないんだが…」
 もったいないな、と思ってな。…お前に凄い才能があっても、捨てちまうのかと…。
 その才能が欲しくてたまらないヤツ、きっと大勢いるんだろうにな。
 もっとも、俺もそいつを言えた義理ではないんだが…。
 プロの選手になるっていう道、捨てて教師になっちまったから。…柔道も、それに水泳もな。



 あまり強くは言えないか…、とハーレイが苦笑しているから。
 それでもやっぱり「もったいないと思うがなあ…」とも言うものだから。
「えっとね…。プロの選手にならなくっても、丈夫なぼくなら、いいこともあるよ」
 だって、柔道が出来るくらいに丈夫なんだし…。
 結婚した後も、ハーレイに迷惑かけないよ。病気になったりしないんだもの。
 今のぼくだと、しょっちゅう寝込んで、ハーレイが困ってしまいそう…。
「丈夫なお前だと、俺が楽だってか?」
 確かにそうなんだろうがな…。丈夫だったら寝込みもしないし、仕事に行くにも安心だが…。
 俺としてはだ、守り甲斐がある方が嬉しいな。
 強いお前も悪くないんだが、今みたいに弱いお前の方が。
「…弱いぼくって…。ホントに弱くて、ちょっと無理をしたら倒れちゃうよ?」
 ハーレイ、そっちの方が好きなの?
 ぼくの身体が丈夫だったら、迷惑かけたりしないのに…。
 仕事に行く前に、寝込んでしまったぼくの世話とか、食事の用意とかしなくていいのに…。
「そういう面倒は要らんだろうな、お前が丈夫に出来ていたなら」
 ついでに心配も要らないわけだし、仕事の間中、ずっとお前を気にしなくてもいいんだが…。
 昼休みとかに学校を抜けて、具合はどうかと家に帰らなくてもいいんだろうが…。
 強いお前よりは、弱いお前の方がいい。
 …前のお前が強すぎたからな、今度は弱いお前がいいんだ。



 俺の好みはそっちの方だ、と言われたけれど。前の自分も、今と同じに弱かった。ひ弱な身体を持っていたから、何かと言えばハーレイに迷惑をかけていた自分。
 食事が喉を通らない時には、ハーレイがスープを作ってくれた。青の間の奥のキッチンで。
 恋人同士になるよりも前から、何度も作って貰ったスープ。白い鯨が出来る前から。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ、優しいスープを。
 そんな自分が、強かった筈がないわけだから…。
「前のぼく…。ちっとも強くなかったよ?」
 今と同じで、弱かったよ。…しょっちゅう寝込んで、ハーレイに野菜スープを作って貰ってた。
 野菜スープのシャングリラ風だよ、今も作ってくれてるじゃない。
 ぼくが寝込んでしまった時には、仕事の帰りに、わざわざ作りに来てくれたりして。
「前のお前も、身体は間違いなく弱かった。今のお前と、其処は全く同じにな」
 チビの間も、育った後にも、前のお前はとても弱くて、強いとは言えやしなかったが…。
 強かったのは、お前の中身だ。長いことソルジャーをやっていた分、お前の心は強すぎた。
 誰にも弱みを見せはしなくて、俺の前でしか泣きはしなかったほどに。
 だから、お前は飛んでっちまった。…たった一人で、メギドへな。
 俺に「さよなら」のキスもしないで行っちまうくらい、前のお前は強かったんだ。
 後でメギドで泣いたらしいが、それでも後悔してないだろうが?
「…うん、してない…」
 ハーレイの温もりを失くしちゃったことは、辛かったけど…。
 とても悲しくて泣きじゃくったけど、メギドに飛んだことは後悔してないよ。
「…今でも俺にそう言えるくらい、強かったのが前のお前だな。…何度メギドの夢を見たって」
 今のお前はメギドの夢が怖いチビだが、前のお前は違うんだ。強すぎたってな。
 強すぎると、お前、無茶をするから…。
 そうならないよう、弱いお前の方がいい。俺が何度も面倒を見る羽目になっても。
 学校に「少し遅れます」と連絡をしては、お前を病院に連れて行くのが当たり前でも。
 病院から連れて帰ったお前をベッドに寝かせて、昼飯を作ってから仕事に出掛けて…。昼休みになったら、飯を食わせに家に帰らなきゃいけなくても。
 …そういう弱いお前でいいんだ、その方がいい。
 強いお前だと、俺はまたしても、とんでもない目に遭いそうだからな。



 あんな思いはもう沢山だ、とハーレイが呻くメギドのこと。前の自分が一人で出掛けて、二度と戻らなかった場所。
 …ハーレイを置いて逝ってしまった自分。白いシャングリラに、独り残して。
 前の自分は、確かに強かったのだろう。今の自分には無い強さ。とても持てない、強すぎる心。
 だから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今のぼくなら、平気だってば。…身体が丈夫に出来ていたって」
 だって、弱虫なんだもの。一人でメギドに行けやしないし、ハーレイがいないと寂しいし…。
 そんなぼくだから、大丈夫。柔道がとても強いぼくでも。
「どうだかなあ…。メギドには行けそうもないんだが…」
 それは分かるが、妙な所で頑固だろ、お前。…前と同じで。
 丈夫だったら、たまに風邪でも引いたりした時に…。俺に心配かけちゃ駄目だ、と隠して黙って頑張った末に、すっかりこじらせちまうとか。
 さっさと病院に行けばいいのに、「大したことはないよ」と我慢しすぎて。
「…それはあるかも…」
 ぼくは弱いから、直ぐに倒れて寝込んじゃうけど…。
 強かったとしたら、頑張りそう。ハーレイは仕事で忙しいんだし、我慢しなくちゃ、って。
「ほら見ろ、言わんこっちゃない。俺が思った通りだろうが」
 そうなっちまうから、お前は弱い方がいい。弱い身体のままのお前で。
 弱くても充分、無茶をするだろ、今のお前も。
 熱があるのに学校に行こうと頑張ってみたり、体育の時間に無理をしすぎたり。
「そうだけど…。そうなっちゃうのは、ぼくの身体が弱いからで…」
 小さい頃からきちんと鍛えて、強い方がいいかと思ったのに…。
 柔道部にだって入れるんだし、結婚したって、ハーレイに迷惑かけずに済むから。
「お前なあ…。俺は何回、お前にこれを言ったんだか…」
 今度は俺が守るんだ、とな。…今度こそ、俺がお前を守ると。
 前の俺はお前を守ると何度も言ったが、いつでも言葉だけだった。…俺は守られていた方だ。
 守ると言いつつ、前のお前に守られて生きていたってな。シャングリラごと。
 だから、今度はお前を守る。…守るほどの危険が無いような世界に来ちまったがな…。



 見掛け通りのお前でいい、と握られた右手。メギドで冷たく凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、前の自分が泣きじゃくった手。
 それをハーレイは両手で包んで、温かな笑みを浮かべてみせた。
「お前は、弱いお前でいいんだ。…ひ弱な今のお前のままで」
 強くなろうなどと、思わなくてもいい。強くないお前で充分だってな。
 柔道部に入って貰えないのは残念ではあるが、いつかは一緒に暮らせるんだし。
「本当に…?」
 弱くてもいいの、強いぼくなら色々なことが出来そうなのに…。
 ハーレイと一緒に柔道が出来て、ジョギングにだって行けそうなのに。
「お前、柔道、続けるつもりは無いんだろ? 凄い才能があったとしても」
 俺と結婚するために放り出しちまうんなら、そんな強さも才能も要らん。
 今のお前は、俺と旅行に行ける程度の強さがあればいいってな。
 それだって足りなきゃ、俺が背負って歩いてやるから。…旅先で倒れちまったら。
「うん…!」
 弱いぼくでもかまわないなら、柔道部のことは諦める…。
 とっても素敵な夢だけれども、夢は夢だから、うんと素敵に見えるんだものね…。



 前のぼくだって、地球に幾つも夢を見てたよ、と握り返したハーレイの手。右手でキュッと。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が描いていた夢。
 それはこれから、ハーレイと二人で叶えてゆく。生まれ変わって来た、この地球の上で。
 青い地球の上で生きる今の自分は、ひ弱な花でもいいらしい。
 帰り道に見た花たちのような強さは無くても、風でペシャンと潰れる花でも。
 今度は守って貰えるから。
 ハーレイがいつも守ってくれるし、弱い身体のままでいい。
 鍛え損なった身体だけれども、ハーレイは弱い身体の方がいいと言ったから。
 強い風が吹いたら、負けてしまう花でかまわない。
 今の自分は、弱い花。頑張らなくてもペシャンと潰れて、世話をして貰えばいいのだから…。




              ひ弱な花・了


※丈夫な身体なら素敵だったのに、と考えたブルー。柔道部に入ることも出来そうです。
 けれど、ハーレイの好みは「弱いブルー」。今度こそブルーを守りたいのです、前と違って。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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(なんだか色々…)
 石鹸なのに、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 天然素材の石鹸、色々。そういう特集。オリーブオイルやアーモンドオイルで作った石鹸、牛乳からも作れる石鹸。様々な石鹸があるのだけれども、驚いたのが世界最古の薬局の石鹸。
(…十三世紀って…)
 いつなの、と指を折っても足りないくらいに、遠い昔に生まれた薬局。人間が地球しか知らずに生きていた頃、薬局は修道院だった。薬と言ったらハーブだったから、それを育てる場所が薬局。
 そういう修道院の一つから生まれた薬局、其処が作っていた石鹸。何百年も同じ製法で。
 修道院での処方そのまま、何も変えずに。天然素材にこだわり続けて、いい石鹸を。
(でも…)
 地球の大気が、大地が汚染されていったら、その石鹸も作れなくなってゆく。滅びゆく地球は、緑が自然に育ちはしない。そんな星では、もう材料が手に入らないから。
 そうして消えてしまった石鹸。処方だけが後の時代に残った。かつてこういうものがあった、と書き残されて。最古の薬局も、地球から消えた。
 ついには人間も離れざるを得なかった、母なる地球。青い水の星を蘇らせるためだけに、機械が治めるSD体制を敷いて。
 前の自分が生きていたのは、そういう時代。地球は死の星のままだったという。
(今ならではです、って…)
 SD体制が崩壊した後、多様な文化が戻って来た時代。青い地球まである宇宙。
 石鹸だって、原料も作り方も自由に出来る。世界最古の薬局が作っていた石鹸も、遠い昔と全く同じに作られるらしい。天然の材料だけを使って。
(石鹸の世界もそうなんだ…)
 青い地球の上、あちこちの地域は気候も色々。それぞれの場所に合わせた石鹸、オリーブだとか牛乳だとか。他にも何種類もあるのが石鹸、前の自分が生きた時代には無かったものが。



 ふうん、と興味深く読んで、二階の部屋に帰った後。
 勉強机に頬杖をついて、石鹸について考えてみた。今の時代は色々なものがあるけれど…。
(前のぼくたちだと…)
 アルタミラの檻で生きていた頃は、石鹸どころか洗浄液。お風呂に入れはしなかった。入りたい気持ちも多分、無かった。実験動物のように洗われただけで、それだけが全て。
 「入れ」と放り込まれた洗浄用の部屋で、何もかも自動で。酷い火傷を負っていたって、手加減さえもされないで。
(石鹸なんて…)
 考えることも無かった筈。身体を洗うためのものなど、自分で使えはしないから。
 その地獄から脱出した後、嬉しかったのが初めてのシャワー。やっと人間になれた気がした。
(あれで、お風呂が大好きになって…)
 具合が悪くても入っていたほど、前の自分はお風呂好き。そのせいなのか、今の自分も。
 お風呂好きだった前の自分だけれども、その時に使っていた石鹸は…。
(一番最初は…)
 船のバスルームにあった石鹸。シャワーを浴びに出掛けて行ったら、其処に置かれていた石鹸。それを使って洗った身体。ボディーソープもあったけれども、石鹸を使ったような気がする。
(ボディーソープだと、洗浄液みたいな感じだから…)
 避けたのだろうか、無意識の内に。「少し怖い」と。記憶は定かではないけれど。
 少し経ったら、石鹸にするか、ボディーソープか、気分で決めるようになっていたから。今日はこっちを使ってみよう、と目に付いた方を。



 船に最初からあった石鹸、ボディーソープといったもの。倉庫に山と積まれていたって、使えば消えて無くなってゆく。毎日の暮らしに欠かせないもので、誰もが使うものだから。
 船の備品が尽きた後には、前の自分が奪って来た。人類の輸送船から、石鹸だって。他の物資を奪うついでに、「これも」と失敬してしまって。
(いろんな石鹸…)
 沢山あったよ、と思い出す石鹸やボディーソープの類。香りも色も、実に様々。
 あんな時代だけに、天然素材ではなかったのだろうけれど。天然素材を使っていたって、恐らくほんの少しだけ。オリーブ石鹸と書いてあっても、オリーブオイルは僅かしか入っていないとか。
 きっとそうだ、と思うけれども、その石鹸。様々な香りや色の石鹸。
(どうやってたっけ?)
 皆の好みが分かれていそうな、石鹸たちの配り方。色も香りも、本当に様々だったから。
 希望者を集めて分配したのか、好みは無視してバスルームに置いておいたのか。今度はこれ、と一方的に決めてしまって、個人の希望はまるで聞かずに。
 物資が限られていた船なのだし、その可能性も充分にある。流石に花の香りがする石鹸などを、男性用のバスルームに置きはしないだろうけれど。
 男性用だと思われるものを、女性用のバスルームに置くことだって。
 そうは言っても、やはりあるだろう石鹸の好み。選びたい仲間はきっといた筈。



 分配したのか、有無を言わさず備え付けの形だったのか。シャングリラで使っていた石鹸。
(どっちだったの…?)
 覚えていない、と首を捻って考え込んでいたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊こうと思った。石鹸のことを。
(…ハーレイだったら、きっと覚えているよ)
 キャプテンになる前は、備品倉庫の管理人も兼ねていたのだから。物資を分配する係だって。
 訊くのが一番、とテーブルを挟んで向かい合うなり、石鹸の話を持ち出した。
「あのね、石鹸って、色々だよね」
「はあ? 何の話だ?」
 お前、石鹸が欲しいのか、と怪訝そうな顔になったハーレイ。慌てて「違うよ」と話の続き。
「欲しいってわけじゃないけれど…。今の時代は石鹸が色々。天然素材の」
 今ならではです、って書いてあったよ、新聞に。
 天然素材だけで出来てる色々な石鹸、今だから作れるんだ、って…。
「まあ、そうだろうな。前の俺たちが生きてた時代じゃ無理だ」
 原料があっても、とてつもなく高くついただろうし…。それに文化も限られていたし。
 石鹸なんぞは洗えればいい、と合成だろうな。シャングリラじゃなくて、人類が生きてた世界の方でも。…天然素材ばかりで量産するのは無理だったろう。入っていたって、少しだったろうな。
 もっとも、そういう時代にしたって、パルテノンのヤツらは使っていたかもしれないが。
 うんと贅沢に作らせた石鹸、まるで無かったとは言えないしな。
「使ってたかな…?」
 材料は確かに、無いってわけではないものね…。作ろうとしたら高くつくだけで。
「あいつらは特権階級だからな、やりかねないぞ」
 こういう石鹸を作って届けろ、と命令するだけで済むんだから。自分たちが使う分だけ、特別に材料を集めさせてな。
「…それ、アドスとかが…?」
 あんな人たちが使っていたわけ、天然素材の石鹸を…?



 前の自分は知らないアドス。元老の一人だったけれども、キースに消された。旗艦ゼウスで。
 歴史の授業で習う範囲だから、アドスのことは知っている。どう考えても天然素材の石鹸などは似合いそうにない、でっぷりと太っていた男。
 ハーレイも「アドスなあ…」と苦笑しているのだから、やっぱり似合わないのだろう。
「あいつが高級石鹸か…。天然素材で贅沢に作った石鹸、アドスが使っていたってか?」
 身体を洗ったら、ついでに頭も石鹸で洗っちまいそうな感じだが…。
 まさに猫に小判ってヤツだな、アドスが使っていたんなら。
 あいつに使わせるくらいだったら、前のお前に使わせてやりたかったよなあ…。高級石鹸。
「前のぼく? …なんで?」
 そんなもの使ってどうするの、とキョトンとしたら、「決まってるだろうが」という返事。
「凄い高級石鹸なんだぞ、きっと肌にもいい筈で…。そいつを使えば肌を磨ける」
 お前はただでも美人だったし、磨き甲斐があるというもんだ。一層、綺麗になれるんだから。
 俺も嬉しいし、船のヤツらも喜んだだろう。
 美人のソルジャーがもっと綺麗になってみろ。自慢の種が増えるってな。
「…それはどうでもいいけれど…。高級石鹸を使いたかったとも思わないけど…」
 その石鹸だよ。ハーレイ、シャングリラの石鹸の配り方、覚えてる?
「配り方だと?」
「そう。前のぼくが人類の船から奪った石鹸、色々だったよ。色も香りも」
 石鹸も、それにボディーソープも、いろんな種類があったでしょ?
 これが欲しい、って思った仲間もいただろうけど、バスルーム、一人に一つじゃなかったし…。
 石鹸とかも、いつもおんなじ種類があるとは限らないんだし…。
 希望者を集めて分配してたか、バスルームに備え付けだったのか。それを覚えていなくって…。
 備え付けだと、選ぶ自由は全く無くなっちゃうけれど…。



 どうだったのかな、と瞳を瞬かせたら、「なんだ、そんなことか」と笑ったハーレイ。そいつは俺の得意分野だと、ダテに備品倉庫の管理人をやってはいない、と。
「ああいうのは好みが分かれるからなあ…。そういう時には押し付けるよりも…」
 配っちまうのが一番だってな、希望者に。これが好きだ、と欲しがるヤツらに。
「そうだったの?」
 だけど、それだと、他の人たちの分の石鹸は?
 欲しい人たちが持ってっちゃったら、足りなくなってしまわない…?
「其処はきちんと考えてたさ。癖のない石鹸やボディーソープは共用ってことで」
 そういうのを先に取り分けておいて、バスルームの方に回すんだ。備え付けって扱いだな。
 石鹸の類にこだわらないヤツは、備え付けのを使ってた。洗うだけなら何でもいい、と。
 そうでないヤツは、持って出掛けて行ったんだ。バスルームに行く時は、自分用のを。
 お前も記憶を辿ってみたなら、思い出せると思うがな…?
 あの船の中の石鹸事情、と言われたけれど。
「えーっと…?」
 覚えていない、と傾げた首。
 バスルームと言えば、初めてのシャワーが嬉しかったことと、ソルジャーになった途端に、皆と分けられてしまったこと。
 エラがソルジャー専用のバスルームを設けてしまったから。他の者たちが使うことが無いよう、決められてしまったソルジャー専用のバスルーム。
 其処にも石鹸とボディーソープはあった。その程度しか覚えていない石鹸。
 ハーレイにそう話したら…。
「そのバスルームを貰う前にはどうだったんだ?」
 貰ったと言うか、押し付けられたと言うか…。そうなる前のお前だな。



 石鹸を持ってバスルームに出掛けて行ったのか、という質問。着替えの他に、石鹸なども持って行ったのか、と。
「そいつが鍵になるってな。お前、石鹸、持っていたのか?」
 バスルームに行くなら、これも、と忘れずに自分の石鹸。部屋の何処かに仕舞ってたヤツを。
「持って行っていないよ、石鹸なんか」
 わざわざ持って出掛けなくても、バスルームに置いてあるんだし…。
 しないよ、そんな面倒なこと。石鹸が無いなら、持って行かなきゃいけないけれど。
「それはお前がそうだっただけで、こだわるタイプじゃなかったってことだ」
 どんな石鹸が置いてあっても、何の不満も無いんだな。今度はこれか、と思う程度で。
 しかしだ、そうやって石鹸を持たずに出掛けた、お前の周りはどうだった?
 先にシャワーを浴びたヤツに会うとか、次に入ろうとしてやって来たヤツらのことなんだが。
「…思い出した…!」
 ホントだ、それが鍵だったよ。凄いね、ハーレイ…。ぼくはすっかり忘れてたのに。
 石鹸のことを考えていても、思い出せずにいたことなのに…。
 凄い、と感心させられたこと。ハーレイが今も忘れずにいた、希望者たちに配った石鹸。
 バスルームに出掛けて行った時には、石鹸やボディーソープを持った仲間たちが何人かいた。
 すれ違う時に目にすることもあったし、ふわりと香りがして来たり。
 石鹸そのものは見えない時でも、髪や身体から漂った香り。直ぐにそれだと分かった香り。
 纏う香りは様々だったし、本当に好みがあったのだろう。希望者に配られる石鹸の中に、それがあったら欲しい香りが。貰わなければ、と名乗りを上げたくなる石鹸が。



 前の自分は全くこだわらなかったけれども、仲間たちは違ったらしい石鹸。より正確に言えば、こだわる仲間も少なくなかったらしい石鹸。
 ハーレイが言うように、希望者向けの分配の時には、出掛けて行って手に入れていた仲間たち。自分好みの石鹸があれば、「欲しい」と声を上げてまで。
「自分用の石鹸、持っている人、いたっけね…」
 石鹸も、それにボディーソープも。きっと分配される時には、必ず覗きに行ってたんだね。
 欲しい石鹸とかが出ているかどうか、いつでもチェックしてないと…。
「そういうことだな。好みのヤツが常にあるとは限らんし…」
 前のお前が奪った物資の中身次第だし、見付けたら貰っておかなきゃならん。同じ好みのヤツが多けりゃ、尚更だ。貰える時に貰っておかんと、切らしちまうからな。
 俺もキャプテンになる前はずっと、配る係をしてたから…。
 石鹸のことは良く覚えてる。貰いに来るのは女性の方が多かった。香りがいいのを欲しがって。
 男だったら、ゼルがこだわる方だったぞ。
「ゼル…?」
 石鹸なんかを貰いに行ったの、あのゼルが…?
 ハーレイが配っていた頃なんだし、うんと若かった頃だよね…?



 意外な名前を聞かされたけれど、お洒落だったらしい若き日のゼル。自分好みの石鹸が無いか、チェックするのを欠かさなかった。分配の時には必ず出掛けて行って。
 考えてみれば、後に髭にこだわったくらいなのだし、その片鱗。きっとあの髭も、石鹸と同じに気を配って手入れしていたのだろう。
 髭と言ったら、ゼルと並んでヒルマンも髭が自慢だったから…。
「ヒルマンは…?」
 やっぱり石鹸にこだわっていたの、ゼルみたいに?
 配られる時には出掛けて行って、欲しい石鹸、貰ってたのかな…?
「あいつは別にそれほどでも…。たまに覗きに来た程度だな」
 話の種になりそうなのを探していた、といった感じか。興味津々で眺めてはいたが、貰うことは滅多に無かったからな。
 そして、配っていた俺にしてみりゃ、お前が全くこだわらないのが不思議だったぞ。
 石鹸をあれこれ奪って来たのは、お前のくせに。
「どれでも全部、同じじゃない。どれも石鹸だよ、洗えればね」
 色も香りも、ただのオマケで…。こだわらなくても、少しも困りはしないもの。
「そう言ってたなあ、ずっと後にも」
 俺が石鹸を配る係を離れて、キャプテンになって…。それよりもずっと後のことだが。
「後って…?」
「白い鯨になった後だな、シャングリラが。…ずっと後だと言ったぞ、俺は」
 お前、ソルジャー専用の石鹸、断っちまったろうが。
 石鹸なんかはどれも同じで、洗えればそれでいいんだから、と。
「なに、それ?」
 ソルジャー専用の石鹸だなんて、それをバスルームに置こうとしたわけ?
 もう青の間は出来ていたから、あそこに置くのにピッタリだとか…?
「それに近いが、少し違うな。石鹸作りが先だったから」
 オリーブ石鹸みたいに他の石鹸も作れるだろう、って話が船で出た時だ。
 覚えていないか、オリーブ石鹸。
「あったね、そういう石鹸も…」
 それで欲張ったんだっけ…。もっと凄いのも作れそうだ、って。



 自給自足で生きてゆくために、白いシャングリラで育てたオリーブ。食用油は欠かせないから、何本も植えて世話をして。
 オリーブの木たちは大きく育って、どれもドッサリ実をつけた。オリーブオイルが沢山採れて、一部の者たちが挑んでみたのが石鹸作り。オリーブオイルから作る石鹸。
 その石鹸がいいと評判になって、欲が出たのが石鹸を作っていた仲間たち。データベースで色々調べて、他の石鹸も作れそうだと考えた。牛乳を使った石鹸なども。
 牛乳石鹸が上手く出来たら、作りたくなったのが長い歴史を誇った高級石鹸だった。人間がまだ地球しか知らなかった時代に生まれて、人気を呼んでいた石鹸。
 船で材料は揃うのだけれど、オリーブや牛乳のようにはいかない。あっても量が少ない原料。
 素晴らしい石鹸が出来上がったって、とても皆には配れない。少しだけしか作れないから。
 それでも作りたくなるのが人情。
 オリーブ石鹸も牛乳石鹸も評判なのだし、もっといい石鹸を作ってみたい。それが高級石鹸ともなれば、なおのこと。
 けれど、作っても皆に配れない所が大いに問題。
 石鹸作りをしていた仲間は、考えた末に、エラの所へ出掛けて行った。この案だったら、きっと賛成して貰える、と。
 相談を受けたエラの方でも、「これはいい」と思ったものだから…。



 ある日、長老たちが集まる会議でエラが提出した議題。それが石鹸、しかもソルジャー専用だと言うから、驚いたのが前の自分。いったいどうして石鹸なのか、と。
「ぼく専用の石鹸だって?」
 誰が言い出したんだい、それを。…ぼく専用という意味も教えて欲しいね。
 石鹸だけでは分からないよ、とエラに尋ねたら。
「いい案だと思うのですけれど…。言い出したのは、石鹸を作っている者たちです」
 御存知でしょう、オリーブ石鹸を最初に作り始めた者たちを。
 今では牛乳石鹸も作っております、どの石鹸も評判です。石鹸作りの腕には自信があるとか。
 ソルジャー専用の石鹸を作りたいとの話で、私の所にやって来ました。
 如何でしょうか、とエラが乗り気になった石鹸。
 遠い昔に人気を博した高級石鹸、地球で最古の薬局が作っていたものらしい。その薬局の基盤になった修道院での、処方そのままの作り方で。
 天然素材にこだわるだけに、シャングリラでは僅かな量しか作れない。仲間たちに配れるだけの量は無理だし、ソルジャー専用に作ると提案されたけれども。
「ぼくの分しか作れない高級石鹸だなんて…。そんな贅沢なものは要らないよ」
 そうでなくても、ぼくは石鹸にこだわるタイプじゃないからね。…昔からずっとそうだった。
 石鹸は洗えれば充分なんだし、どんな石鹸でもかまわない。原料も香りも、全部含めて。
 その高級な石鹸だけれど…。
 どうしても作りたいのだったら、作った人たちが使えばいい。趣味の作品なら、他の仲間に遠慮することはないからね。配らなくては、と考える必要も無いだろう?
 ぼくはいいから、作りたい仲間で趣味の品として使うようにと伝えて欲しい。
 いいね、ソルジャー専用の石鹸なんかは、ぼくは欲しくはないんだから。



 断ってしまった、ソルジャー専用の石鹸を作ること。必要無いと考えた自分。
 今から思えば、今日の新聞に載っていた石鹸の中の一つだろう。世界最古の薬局が作った石鹸、それに修道院生まれの処方。エラの話と重なる部分が幾つもあるから。
 あの石鹸は、その後、どうなったろう…?
 作りたかった仲間たちは本当にそれを作ってみたのか、作らないままになったのか。
「ハーレイ、前のぼくが断っちゃった石鹸だけど…」
 ソルジャー専用の石鹸を作る話は消えちゃったけれど、石鹸の方はどうなったのかな?
 作りたがってた仲間が作って使っていたかな、そうすればいい、って言っておいたけど…。
「あの石鹸か? お前が断っちまったから…」
 諦めちまって、それっきりだ。自分たちで使うのはどうかと考えたんだろう。
 しかしそいつが、フィシスが来てから再燃したぞ。丁度いい、と思ったらしくてな。
「…そうだったっけ…」
 それもすっかり忘れていたけど、フィシス専用になったんだっけね、あの石鹸。
 ソルジャー専用の代わりに、フィシス専用。
「思い出したか?」
 フィシスだったらミュウの女神で、ソルジャーに引けを取らないからな。
 専用の石鹸を持っていたって、誰も文句を言いはしないし…。
 お前も文句は言わなかった。ソルジャー専用の石鹸の時は、一言で切って捨てたくせにな。
「文句なんか言うわけないじゃない。フィシス用だよ?」
 フィシスにだったら、素敵な石鹸があったっていいと思ったから…。
 そうでしょ、フィシスは特別だったんだもの。前のぼくにとっても、仲間たちにとっても。
 青い地球を抱いてて、未来が読めて…。本当に女神そのものだったよ。
 機械が無から作ったものでも、フィシスはミュウの女神で特別。



 フィシスのために専用の石鹸を作りたい、と再び持ち上がった話。石鹸を作る仲間たちから。
 前の自分が船に連れて来た、青い地球を抱く幼いフィシス。彼女が美しく成長してから、彼らは話を持って来た。前と同じにエラを通して。
 ソルジャー専用の石鹸などは要らないけれども、フィシス用だったら話は別。こちらから頼みに行きたいくらいで、反対したりはしなかったから…。
 嬉々として石鹸作りを始めた仲間たち。必要な材料を全部揃えて、フィシスのための石鹸を。
「…あの石鹸…。フィシスが使っていたんなら…」
 フィシスから花の匂いがしたのは、香水じゃなくて石鹸の香りだったのかな?
 花の匂いがする石鹸も色々あったから…。フィシス用なら、そういう石鹸にしていそう。
 ソルジャー用だと、花の匂いは無しだろうけれど。
「いや、石鹸と香水じゃ、全く違うぞ。石鹸の匂いは長くは持たん」
 風呂上がりに会ったら分かる程度の匂いだろう。石鹸だな、と。
 前のお前が、バスルームの近くで気付いた他の仲間の石鹸の匂いも、その時だけだろ?
「そっか…。お風呂上がりのフィシスの匂い…」
 石鹸の香りはそれなんだ、と気付いたけれども、肝心の香り。
 お風呂上がりにフィシスが纏った筈の香りを、前の自分は知らなかった。
 会ったことが無かったものだから。…夜はハーレイと一緒だったから、フィシスを訪ねて行きはしなくて、まるで知らない。
 フィシスからどんな匂いがしたのか、石鹸の香りは何だったのか。



 愕然とさせられた、その事実。何十年もフィシスの側にいたのに、ミュウにしてまで攫って来たほど彼女が欲しかったのに。…フィシスが抱く地球の映像が。
 なのに自分は知らないらしい。フィシスに、ミュウの女神に与えた、特別な石鹸が漂わせたろう香り。あの時代には希少だったという高級石鹸、それがどういう香りだったか。
「…前のぼく…。フィシスの石鹸、どんな匂いか知らなかったよ!」
 作るように、って注文したのに、匂いを知らずにいたみたい…。
 お風呂上がりのフィシスには一度も会ってないから、知らないんだよ…!
「うーむ…。お前、夜には俺と一緒だったし…」
 行かないだろうな、フィシスの部屋には。それは不思議じゃないんだが…。
 フィシスの石鹸の匂いを知らないままだってか?
 そいつは由々しき問題なんだが、生憎と俺も、石鹸の処方は知らんしなあ…。
 オリーブ石鹸や牛乳石鹸の作り方だって知らんし、フィシス専用の方を知るわけがない。
 まるで興味が無かったもんでな、訊きに行こうとも思わなかった。見学だって。
 キャプテンの仕事には入らないだろうが、石鹸作りの方法を書き留めておくというのは。
 これが石鹸の配り方なら、場合によっては航宙日誌に書いただろうがな。
 石鹸が不足しそうな時でもあったら、後で参考にするために。



 前のハーレイの管轄ではなかった石鹸作り。フィシスが使った特別な石鹸、それの香りも成分も知らないらしいキャプテン。知ろうとも思っていなかったから。
 ハーレイの記憶に今もあるのは、最古の薬局と修道院生まれの処方だったという言葉だけ。今の自分と全く同じで、何の手掛かりにもなってはくれない。
 ただ…。
「えっとね…。あの石鹸、今もありそうだけど…」
 フィシス専用に作った石鹸。新聞に書いてあったから…。
 今の時代は昔と同じに作れるらしくて、あの石鹸もちゃんと復活しているみたいだよ?
「俺も話に聞いちゃいるがだ、一種類しか存在しないというわけではないぞ」
 さっきお前が言っただろうが、フィシス用なら花の匂いにしていそうだと。ソルジャー用だと、花の香りは抜きで作りそうだが…。なんと言ってもフィシス用だし、花の香りは欲しい所だ。
 本物の石鹸もそれと同じで、香りが幾つかある筈だから…。
「そうなの?」
 一種類しか無いわけじゃないんだ、今は復活している石鹸…。
 それじゃ、フィシス用に作っていた石鹸と同じのは…。その中の一つってことになるわけ?
「多分、そういうことだろう」
 自信を持ってフィシス用にと言い出したからには、きちんとデータがあっただろうしな。
 ソルジャー用に作ろうとしていた時とは違ったんじゃないか、処方ってヤツが。
 どういう風に配合するとか、入れる香料はこれだとか。
「だったら、フィシス用の石鹸、どれだったのかは分からないね…」
 一種類しか無いんだったら、それに決まっているんだけれど…。
 幾つもあるなら香りも違うし、フィシスの石鹸、見付からないよね…。
「残念だがな…」
 せっかく同じ石鹸があるというのに、手掛かりが何も無いんじゃなあ…。
 この香りだった、と誰かが教えてくれないことには、どうにもこうにも…。



 お前も知らないらしいからな、とハーレイがついた大きな溜息。フィシス専用の石鹸の香り。
 石鹸は確かにあったのに。作っていた仲間が確かにいたのに、幻になってしまった石鹸。
 今の時代は、その石鹸と同じ石鹸が作られるのに。昔と同じ処方のままで。
「…フィシスの石鹸、ホントに残念…」
 前のぼく、匂いも知らないままになっちゃって…。今のぼくにも分からないなんて…。
 石鹸が一種類しか無いんだったら、買いに行ったら分かるのに…。
「まったくだ。俺も残念だが、こればかりはなあ…」
 そうだ、お前がいつか試すか?
 端から試せば、もしかしたら見付かるかもしれん。
「えっと…?」
 試すって、なあに?
 何を試すの、どうやればフィシスの石鹸がどれか見付け出せるの?
「簡単だってな、端から試すと言っただろう?」
 例の石鹸、買って使ってみればいいんだ。チビのお前が大きくなったら。
 俺と一緒に暮らし始めたら、石鹸を買って使うわけだな。どれかは謎だし、一種類ずつ。
 前のお前は、前の俺よりは遥かに沢山、フィシスに会っていたんだし…。
 石鹸の匂いを嗅いでいる内に、この香りだ、とピンと来るのがあるかもしれん。
 毎日使い続けていたなら、記憶を呼び戻すチャンスも多くなるからな。
 石鹸の匂いは長く残りはしないが、微かに残ることもあるから…。お前が忘れてしまった記憶の中に、それが無いとは言い切れない。
 でもって、俺も同じ匂いでピンと来たなら、そいつがフィシスの石鹸なんだ。
 前の俺だってフィシスとは何度も会っているから、「これだ」と気付くだろうからな。
 もっとも、お前が探してくれんと、俺では見付け出せそうもないが…。



 石鹸だったら買ってやるから、順に使って探さないか、と言われたフィシスの香り。フィシスのためにと仲間たちが作った、特別な石鹸と同じ石鹸。
 その香りを石鹸を使って探す。お風呂で何度も泡立てる内に、戻って来るかもしれない記憶。
 小さな泡が弾けたはずみに、石鹸の香りがフイと鼻腔を掠めた時に。
「楽しそうだね、そのアイデア」
 石鹸を買って、毎日使って探すだなんて…。そんなの思い付かなかったよ。
 だけど、それなら見付かりそう。…これだったよ、って思う石鹸。フィシスの香りも。
「悪くないだろ? それに、相手は石鹸だからな」
 お前を磨くことも出来るし、俺にとっても嬉しい話だ。石鹸に感謝しないとな。
「磨くって…。ぼくを?」
 ハーレイ、石鹸で何をするつもり?
「分からないか? 磨くと言ったろ、それに石鹸だぞ」
 どれがフィシスの石鹸なのかは知らないが…。
 お前がそいつを見付け出すまでの間はもちろん、見付けた後にも石鹸で綺麗に磨くんだ。
 俺の大事な宝石を。…お前の身体をせっせと磨いて、ピカピカに磨き上げるってな。
「ちょ、ちょっと…!」
 ハーレイがぼくを洗うって言うの、ぼくが自分で洗うんじゃなくて?
 毎日使えって言っていたから、ぼくが使うんだと思ってたのに…!
「お前が使うのには違いないだろ、その石鹸で洗うものはお前なんだから」
 自分で洗うか、洗って貰うかの所が違うというだけだ。
 石鹸の香りは変わりやしないぞ、洗おうが、洗って貰おうが。
 それにだ、お前がピンと来た時に、俺がお前と一緒にいたなら話は早い。
 風呂を出てから、「これだったよ」と報告する手間が省けるぞ?
 俺は一緒にいるわけなんだし、その場で「これか」と確認すればいいんだから。
「んーと…」
 石鹸はいいけど、ハーレイとお風呂…。
 ぼくが自分で洗うんじゃなくて、ハーレイに洗って貰うんだ…?



 なんだか恥ずかしい気がするけれども、きっとハーレイと暮らす頃には大丈夫だろう。とっくにチビではなくなっているし、もう結婚しているのだから。
 それに、気になるフィシスの石鹸。白いシャングリラで仲間が作った、天然素材の特別な石鹸。
 どんな香りか、どれがフィシスの石鹸だったか、分かるものなら知りたいから…。
 いつかハーレイと暮らし始めてから、石鹸のことを思い出したら、二人で買いに出掛けようか。
 遠い昔に世界最古の薬局が作った、修道院生まれの処方だという石鹸の復刻版を。
 種類が幾つもあるらしいから、順番に一つずつ使ってフィシスの石鹸を探す。
 これがそうだ、と思う香りが見付かるまで。毎日石鹸を使い続けて。
「…ハーレイ、ホントにぼくを磨いてくれるんだね?」
 お風呂で毎日、石鹸で。…洗って、磨いて。
「もちろんだ。俺に任せておけってな」
 フィシスよりも綺麗な、俺の自慢の嫁さんになってくれるように、せっせと磨いてやろう。
 石鹸を泡立てて、お前を洗って、それこそ月みたいにピカピカにな。
「ぼくにフィシスよりも綺麗になれって…?」
 それは無理だと思うけど…。フィシスの方がずっと綺麗だと思うんだけど…。
「他のヤツらはどうだか知らんが、俺にとっては、お前の方が上だった」
 フィシスがミュウの女神だろうが、お前の方が遥かに美人だ。
 そう思っていたし、今も変わっちゃいないってな。
 チビのお前でも、フィシスよりもずっと、魅力的な俺のブルーなんだから。



 お前が大きくなった時には、より美しく磨いてやろう、とハーレイが片目を瞑るから。
 石鹸を買ったら、本気で磨いてくれそうだから、頬を染めながらも広がる夢。
 ハーレイと結婚した時に覚えていたなら、石鹸を買いに二人で出掛けてゆこう。
 今の時代だからこそ誰でも手に入れられる、世界最古の薬局が作ったのと同じ石鹸を。
 白いシャングリラでフィシスが使った、特別な石鹸と同じらしいのを。
 どれがそうなのか分からないから、端から試して、それでハーレイに磨いて貰う。
 フィシスよりも綺麗になれるよう。
 ハーレイの自慢のお嫁さんになるよう、毎日、二人でお風呂に入って。
 遠く遥かな時の彼方の、フィシスの石鹸を探しながら。
 これがそうだ、と思う香りに出会える時まで、ハーレイにせっせと磨いて貰って、幸せな時。
 フィシスの石鹸が見付かった後も、きっとハーレイは磨いてくれる。
 「俺の大事な宝石だからな」と、お月様みたいにピカピカに…。




            特別な石鹸・了


※シャングリラで、ソルジャー専用に作ろうとした石鹸。後に、フィシス専用の石鹸に。
 今も同じ石鹸があるというのに、分からない種類。結婚したら、二人で見付けたいですよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




今年も桜の季節がやって来ました。お花見大好きなソルジャーまでが押し掛けてくる季節です。今日は土曜日、せっかくだからと山桜一杯の名所へお出掛け、もちろん反則技の瞬間移動で。ついでにお花見の場所も穴場を探して飛び込んだので…。
「いいねえ、周りに人がいないというのはね!」
貸し切り最高、と笑顔のソルジャー。今日はキャプテンと「ぶるぅ」も一緒で、私たちはドッサリお弁当を持参。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が腕を奮ってくれて…。
「かみお~ん♪ 今日のお弁当、ちらし寿司だよ!」
それとおかずが一杯なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ちらし寿司が詰まったお弁当箱が配られ、おかずの方はまた別です。好みのおかずを選び放題、桜を見ながらの昼食タイムですけれど。
「うーん…。ちらし寿司かあ…」
ちらし寿司ねえ、とお弁当箱を見詰めているソルジャー。豪華な具がたっぷり乗っているのに、何か文句があるのでしょうか?
「えとえと…。ちらし寿司、嫌いだったっけ?」
今まで聞いていないんだけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も心配そうです。
「他のお弁当がいいんだったら、大急ぎで買って来るけれど…」
今から作ったんじゃ間に合わないし、と言われたソルジャーは。
「そういうわけじゃないんだけれど…。ちらし寿司は大歓迎なんだけど…」
「だったら、素直に喜びたまえ!」
ぶるぅが朝から作ったんだから、と会長さん。
「おかずとセットで頑張ったんだよ、ぶるぅはね! 君のぶるぅの分まで山ほど!」
「かみお~ん♪ ぶるぅのお弁当、美味しいよね!」
もういくらでも食べられそう! と大食漢の「ぶるぅ」はガツガツと食べ始めています。凄い勢いで食べまくりますから、「ぶるぅ」の分は別にしてあるほどで。
「ほらね、ぶるぅを見習いたまえ! 文句をつけない!」
会長さんが睨むと、ソルジャーは。
「文句ってわけじゃないんだけれど…。同じお寿司なら…」
「特上握りが良かったと?」
出来上がってから文句をつけるな、と会長さんがギロリ。特上握りにしたかったんなら、リクエストするとか、持参するとか、それくらいはして欲しいです。用意して貰ったお弁当に文句をつけるだなんて、最低ってヤツじゃないですか…。



豪華ちらし寿司なお弁当に不満があるらしいソルジャー。てっきり特上握りな気分なのかと思ったんですが。
「握り寿司じゃなくって…。巻き寿司なんだよね」
「「「巻き寿司?」」」
それはとっても地味じゃないか、と考えたものの、巻き寿司も色々。とても太くて具だくさんのもあったりしますし、そういうヤツならお花見にだって良さそうで。
「そっか、巻き寿司…。買った方がいい?」
欲しいんだったら行ってくるけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「巻き寿司だったら、いろんなお店ですぐ買えちゃうし!」
「いいよ、ブルーに睨まれそうだし…。今度御馳走してくれれば」
お花見シーズンも今週でおしまいみたいだから、と言うソルジャー。
「次の土曜日にでもパーティーしようよ、ブルーの家でさ」
「オッケー! パーティーなんだね、巻き寿司で!」
うんと豪華に用意しとくね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大喜び。お客様大好き、おもてなし大好きなだけに、パーティーと聞くと大張り切りで。
「ぶるぅも一緒に来るんでしょ? パーティーだから!」
「…どうだろう? そこはちょっと…」
「そろそろ君のシャングリラが危なそうかい?」
お花見に繰り出し続けたからねえ、と会長さんが。
「ソルジャーとキャプテンが揃ってサボリで、普段だったら留守番しているぶるぅも一緒に来ちゃっているし…。人類軍にでも目を付けられたと?」
「そうでもないけど、ぶるぅは残した方がいいかな」
ハーレイと二人でお邪魔するよ、と早くも決まってしまった予定。明日もみんなで揃ってお出掛け、今年のお花見の総決算ですが、それとは別に巻き寿司パーティー?
「うん、その方がぼくもいいんだよ。明日のお花見はスポンサーもいるし」
「まあねえ、お花見で毟るのはお約束だしね?」
豪華弁当も予約済みだし、と会長さん。明日は最後のお花見ですから、有名店の豪華弁当を予約してあります。支払いはスポンサーという名の教頭先生、それだけに一緒にお花見するわけで。
「ハーレイがいると何かと面倒ではあるかな、確かにねえ…」
それに巻き寿司までは食べ切れないし、と会長さんも納得の様子。豪華弁当と巻き寿司、両方食べても平気なのって、「ぶるぅ」くらいなものですしね?



そんなこんなで、次の土曜日は巻き寿司パーティー。教頭先生もおいでになっての豪華弁当なお花見も済んで、平日は学校なんですけれど。
「巻き寿司パーティーって…。手巻き寿司だよね?」
ジョミー君が確認している、放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「うんっ!」と元気良く。
「パーティーなんだもん、手巻きだよ? それが一番!」
「だよねえ、具だって好きに選べるし…」
いろんなのを組み合わせちゃっていいんだし、とジョミー君が言えば、サム君も。
「それが手巻きの醍醐味ってヤツだぜ、あれもこれもって詰め込んでよ!」
「…詰めすぎると溢れてしまうわけだが?」
海苔からはみ出してしまうんだが、とキース君。
「欲もほどほどに、という教訓ではある」
「キース先輩、手巻き寿司パーティーに教訓なんかは要りませんから!」
法話もしないで下さいよ、とシロエ君がフウと溜息。
「ぼくたちは賑やかにやりたいんです。湿っぽい法話はお断りです」
「法話は別に湿っぽいとは限らんのだが?」
笑いを取るための法話もあるが、と言われましても、法話は法話で。
「そういうのは求めてないんだよ!」
ただの手巻き寿司パーティーだから、とジョミー君。
「それにさ、ブルーも来るんだよ? 法話はするだけ無駄っぽいけど」
「それは言えるぜ、あいつら、絶対、聞いてねえしな」
ついでに教訓にもしやがらねえぜ、とサム君が。
「二人揃って来るってことはよ、もうバカップルに決まっているしよ…。法話どころじゃねえってことだぜ、どう考えても」
「「「あー…」」」
そうだった、と頭痛を覚える私たち。ソルジャーとキャプテンが「ぶるぅ」抜きで来ると噂の手巻き寿司パーティー、繰り広げられる光景が目に見えるようです。
「…二人であれこれ巻くんだな、きっと…」
そして「あ~ん♪」と食べさせ合うんだ、とキース君が呻いて、会長さんも。
「それしか無いねえ、どう考えても…」
覚悟はしておいた方がいいね、と言われなくても酷い頭痛が。今度の土曜はバカップルかあ…。



逃げ場所も無いまま迎えた週末、会長さんの家へと出掛けて行った私たち。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は朝早くから市場であれこれ買い込んだそうで。
「かみお~ん♪ いいお魚とか、いっぱい買って来たからね!」
「海苔もいいのを用意してあるよ、何処かの馬鹿は忘れて楽しみたまえ」
バカップルは見なければ済むわけなんだし、と会長さん。
「いくら「あ~ん♪」とやっていようが、ぼくたちは無視の方向で!」
「当然だろうが、誰が見るか!」
あんな阿呆は御免蒙る、というキース君の言葉に、私たちも「うん」と。バカップルが勝手に盛り上がる分には、見なければいいだけのことですから。
「ぼくたちは食べればいいんですよね」
せっせと巻いて、とシロエ君が言い、マツカ君も。
「手巻き寿司は自分で作るんですから、自然と集中できますよ、きっと」
「そうよね、巻かなきゃ食べられないものね」
まるで話にならないものね、とスウェナちゃん。寿司飯と具とを巻いてる間は視線を他へは向けられませんし、バカップルどころではないわけで。手巻き寿司パーティー大いに結構、せっせと巻こうと考えていたら…。
「こんにちはーっ!」
「お邪魔します」
空間を超えてソルジャー夫妻が登場、二人揃って私服です。これは食べる気満々だな、と思っている間に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「用意、出来たよーっ!」と呼びに来て。ゾロゾロとダイニングに向かって移動で、大きなテーブルにドッサリと…。
「「「わあ…!」」」
凄い、と歓声、幾つもの大皿に盛られた手巻き寿司の具。海苔も寿司飯もたっぷりとあって、「ぶるぅ」がいたって大丈夫そうなほどの量ですけれど。
「…これはなんだい?」
「「「は?」」」
ソルジャーの台詞にポカンと口を開けた私たち。
「なんだい、って…。君の希望の巻き寿司パーティーなんだけど?」
それ以外の何に見えると言うんだ、と会長さんも呆れ顔です。何処から見たって手巻き寿司パーティー仕様のテーブル、お好み焼きとか鍋パーティーとは違いますけど?



先週のお花見で「ちらし寿司より、巻き寿司の方が良かった」と文句をつけたソルジャーの希望で開催が決まった、本日の手巻き寿司パーティー。なのに「なんだい?」って、ソルジャーはいったいどうしたのでしょう?
「あんた、早くもボケたのか?」
そこのブルーより百歳ほど若い筈なんだが、とキース君。
「あんたが希望したんだろうが! 今度の土曜日は巻き寿司がいいと!」
「そうだけど…。でも、これは…」
「何か分からない具があった?」
珍しいのも仕入れて来たし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「分からなかったら、なんでも訊いてね! ぼくでもいいし、ブルーにだって!」
「…具のことじゃなくて…。ぼくが言うのは巻き寿司で…」
「手巻き寿司だよ?」
これからみんなで巻くんだもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「座って、座って!」と声を掛けてくれて、私たちは席に着いたんですけど。ソルジャー夫妻も並んで座りましたけど…。
「…ブルー、巻き寿司ではないようですね?」
キャプテンが言って、ソルジャーが。
「違うようだねえ…」
注文の仕方を間違えただろうか、とテーブルの上を見回すソルジャー。だから手巻き寿司だと言ってますってば、何が違うと?
「これは自分で巻くヤツだし…。巻き寿司じゃないよ」
巻き寿司と言えばロールケーキみたいなヤツで、とソルジャーは両手で形を作ってみせました。
「こんな風に丸くて、細長くって…。全体に海苔が巻いてあってさ」
「そうです、中身は色々ですが…」
キュウリだったりトロだったり…、とキャプテンも。
「同じ巻き寿司の中に何種類もの具が入ったのもありますが…」
「とにかくロールケーキなんだよ、そういう形で海苔がビッチリで!」
それが巻き寿司! とソルジャーが説明、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が目を丸くして。
「…えっと、普通の巻き寿司だったの?」
手巻き寿司じゃなくて、細長く巻く方のヤツだったの、とテーブルの上をキョロキョロと。その巻き寿司なら分かります。同じ巻き寿司でも、ミニサイズのスダレみたいな巻き簾を使って巻いていくアレのことですね…?



どうやら違ったらしい巻き寿司、手巻き寿司ではなかった巻き寿司。ソルジャー夫妻は「これはこれで美味しいんだけどねえ…」などと言ってますけど、食べるつもりではあるようですけど。
「間違えちゃった…」
巻き寿司の意味が違ったみたい、とガックリしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「気にすんなよ、ぶるぅのせいじゃねえし」
普通はこっちの方だと思うだろうし、とサム君が慰め、シロエ君も。
「パーティーって言ったら、手巻き寿司ですよ。間違ってません!」
「ただの巻き寿司では盛り上がらんだろうなあ…」
今一つな、とキース君だって。
「だから手巻きでいいと思うが」
「そうだよ、ぶるぅは頑張って用意してくれたんだし…」
朝から市場にも行ってくれたし、とジョミー君も言ったんですけれど。
「でもでも…。お客様には、おもてなしの心が大切だもん…」
なのに注文を間違えちゃったなんて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は具材を乗っけたお皿をまじまじと眺め、それからタタッと駆け出して行って。
「「「…???」」」
どうするのだろう、と思っていたら、戻って来た手に大きなお皿。それにお箸も。
「これと、これと…」
それから、これ! とお皿の上に具材をヒョイヒョイ。もしかして、巻こうとしてますか?
「うんっ! お寿司の御飯はまだまだあるから、作ってくる!」
キュウリもあったし、他にも色々、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「みんなは先に食べ始めててよ、すぐに出来るから!」
「でもですね…!」
そこまでしなくていいんじゃあ、とシロエ君が止めに入りました。
「ただの我儘なんですよ? 巻き寿司の方がいいというのは!」
「そうだぜ、また今度ってことにしとけよ」
ぶるぅも一緒に手巻き寿司しようぜ、とサム君が誘ったのですが。
「ううん、おもてなしは大切なの!」
ちょっと待っててねー! と飛び出して行ってしまった「そるじゃぁ・ぶるぅ」。帰って来るのを待とうかとも思いましたが、それだと逆に気を遣わせてしまいます。申し訳ない気もするんですけど、ここはお先に頂いてますね~!



手巻き寿司の具と、家にあるらしい食材を使って巻き寿司を作りにキッチンへ出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。小さな子供に作らせておいて自分たちは先に食べるというのも酷いですが。
「ぶるぅはあれでいいんだよ。気にしてないから!」
遠慮しないで食べて、食べて! と会長さん。
「巻き寿司を作るのも大好きだしねえ、ぶるぅはね。それに食事もちゃんとしてるし」
「「「え?」」」
「手巻き用の具材でお刺身気分! ちょっと御飯に乗せたりもして!」
海鮮丼風に楽しんでるから、という会長さんの言葉で一安心。巻き寿司をギュッと一本巻いたら、海鮮丼を食べているとか。
「それならいいか…。海鮮丼も美味いしな」
俺たちも手巻き寿司を楽しもう、とキース君が言うまでもなく、何処かの誰かが。
「はい、ハーレイ! 君、こういうのも好きだろう?」
「ありがとうございます! では、あなたにも…」
こんな感じで巻いてみました、と差し出すキャプテン、「あ~ん♪」とやってるバカップル。
(((馬鹿は見ない、見ない…)))
あっちを見たら負けなのだ、と自分の手巻き寿司を巻くのに集中、食べる時にはバカップルはサラッと無視しておいて。
「美味しいですねえ、流石はぶるぅの仕入れですよ」
活きがいいです、とシロエ君が絶賛、ジョミー君も。
「甘海老なんかもう、プリプリだよ? これ、さっきまで生きてたんだよね?」
「もちろんさ。ぶるぅはそれしか買わないよ」
生簀で泳いでいるのが基本、と会長さん。
「他の魚も生簀か活け締め、イカなんかも獲れたてに限るってね!」
それにお米もこだわりのヤツを炊いてるし、という解説に聞き入っていたら。
「かみお~ん♪ 巻き寿司、お待たせーっ!」
こんな感じで作って来たよ! と飛び跳ねて来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」。大皿の上に盛られた巻き寿司色々、太さも色々。
「すげえな、そんなに作ったのかよ!?」
「時間、殆どかかってませんよね?」
それにとっても美味しそうです、とシロエ君。綺麗に切られた巻き寿司の断面は彩り豊かです。何種類ほど作ったんでしょうね、ホントに仕事が早いですってば…。



ソルジャーのご注文の巻き寿司を盛り付けた大皿がテーブルの真ん中にドンッ! と置かれて、取り皿も。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「沢山食べてね!」とニコニコ笑顔で。
「足りなかったら、また作るから! すぐ作れるから!」
どんどん食べて! と言われたソルジャーですけど。
「…これってさあ…」
違うんだけど、と見ている大皿の上。今度こそ本物の巻き寿司が出たのに、まだ文句が?
「何処が違うと言うのさ、君は!」
巻き寿司だろう! と会長さん。
「ぶるぅが頑張って作ったんだよ、これの他にどういう巻き寿司があると!?」
それともアレか、と会長さんは眉を吊り上げて。
「御飯の方を外側にして巻くヤツの方を言うのかい、君は!?」
「…そうじゃないけど…。巻き方はこれでいいんだけれど…」
「具材の方なら、文句を言わない! 家にあるものでこれだけ出来たら上等だから!」
干瓢とかは直ぐには戻らないんだから、と会長さんが言う通り。短時間では戻らない上に、味付けだってしなきゃ駄目ですし…。入っていなくて当然でしょう。
「もっと色々欲しいんだったら、買いに行くしかないってね!」
「…そういう意味でもなくってさ…」
「じゃあ、何だと!?」
文句があるならハッキリ言え! と怒鳴り付けられたソルジャーは。
「…この巻き寿司は切ってあるから…」
「「「はあ?」」」
切るも切らないも、巻き寿司はこうやって盛り付けるもの。各自が一切れずつ取って食べるのが巻き寿司の常識、それでこその巻き寿司パーティーですが…?
「…でも、切らないのもあるだろう?」
「それは単なるお店の方針!」
家でお好きにお切り下さい、という店だから、と会長さん。
「好みの厚みというのもあるしね、その手のお店もありはするけど…」
「えっとね、巻き寿司、家で切るのは難しいらしいよ?」
ぼくはなんとも思わないけど、失敗しちゃう人が多いらしいの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。そういう話は聞いてます。寿司飯が上手に切れないだとか、形が潰れてしまうとか。上手に切れない人にとっては、切ってある方が断然、有難いですよね?



「そるじゃぁ・ぶるぅ」が切って持って来た巻き寿司に文句があるらしいソルジャー。切っていない方が迷惑だろうと誰もが考えたのですけれど…。
「そりゃあ、そうかもしれないけれど…。ぼくが食べたい巻き寿司はさ…。切ってないから」
「「「え?」」」
ソルジャーと言えば不器用が売りで、巻き寿司なんかを綺麗に切れるとは思えません。それなのに切っていないのが好みって、まさかキャプテンが切るのでしょうか?
「切ってないって…。だったら、誰が切ってるのさ?」
会長さんもそこを突っ込みましたが。
「誰も? ぼくは切らないし、ハーレイもね!」
「切らないでどうやって食べているわけ?」
巻き寿司なんかを、と会長さんが更に重ねて尋ねると。
「そのままに決まっているだろう! 巻き寿司と言ったら、丸かじりだよ!」
恵方に向かって丸かじりだ、と飛び出した台詞。
「「「恵方!?」」」
恵方と言ったらその年の縁起のいい方向。そっちに向かって巻き寿司を丸かじりするとなったら、恵方巻とか言うような…。節分限定品だったような…。
「そうだよ、こっちの世界の節分のだよ!」
あの日は何処でも切っていない巻き寿司を売っているよね、とソルジャーは笑顔。
「ぼくもハーレイも、あれが好きでねえ…。ただねえ、あれはさ…」
「食べるのがとても難しいのです、私もブルーも未だに上手く食べられないのです」
もう長いこと頑張り続けているのですが、とキャプテンが補足。
「節分の度にブルーと挑戦しているのですが…。今年も頑張ったのですが…」
「難しいって…。相手は恵方巻だよね?」
ぼくもぶるぅも食べるけど、と会長さん。
「あれってそんなに難しいかな、君たちはアレで苦労をしているかい?」
どう思う? と訊かれましたから。
「俺は特に…。太巻きに挑むというなら別だが」
キース君が答えて、ジョミー君も。
「途中で誰かに話し掛けられて、どうしても返事をしなくっちゃ、っていうのでなければ…」
「いけるよな、普通?」
困らねえぜ、とサム君が。恵方巻なら、自分に合ったサイズを選べば楽勝ですけど?



節分に食べる恵方巻。それが難しいと言うソルジャー夫妻ですが、巻き寿司がいいと言い出した原因はそれなんでしょうか、食べるコツを習いたかったとか?
「そう、それなんだよ! この機会にと思ってさ!」
こっちの世界じゃ恵方巻は常識みたいだし、とソルジャーが膝を乗り出して。
「ぼくたちの世界に恵方巻は無いけど、君たちには馴染みの食べ物だしね!」
「…恵方巻にはコツも何も無いと思うけど?」
恵方に向かって黙って食べるというだけで、と会長さん。
「さっきジョミーが言ってたみたいに、喋っちゃったら終わりなだけでさ」
「そういうことだな、黙って食うのがお約束だ」
喋ったら福が逃げるからな、とキース君が言うと、ソルジャーは。
「ぼくたちだって、それは知ってるんだよ! でも、それ以前に食べる方がさ…」
「恵方に向かって丸かじりの段階で躓くのですが…」
本当にどうにもなりませんで、と嘆くキャプテン。
「今年こそは、と気合を入れても、失敗ばかりで…」
「そうなんだよ! 今年も福を逃したんだよ!」
丸かじりが出来なかったから、とソルジャー、ブツブツ。
「だからさ、ちらし寿司を見て思い出したついでに、恵方巻のプロに教わろうと!」
「プロって言うのかな、こういうのも…」
単に食べてるだけなんだけど、と会長さんが呆れて、シロエ君も。
「節分のイベントっていうだけですよね、豆まきとセットで」
「俺もそう思うが、そういう文化が無い世界となればコツが要るのか…?」
たかだか恵方巻なんだが…、と首を捻っているキース君。
「黙って食ったらそれで終わりだぞ、コツと言うより根性か辛抱の世界じゃないのか?」
「ああ、辛抱ね! …それは足りないかもしれないねえ…」
ぼくたちの場合、とソルジャーがキャプテンに視線を遣ると。
「その可能性はありますねえ…。辛抱ですか、それと根性だと」
「根性は要るぜ? デカいのを食おうと思った時はよ」
ギブアップしたら終わりだからよ、とサム君が言うと、ソルジャーは。
「うん、君たちはやっぱりプロみたいだねえ! 是非ともコツを習いたいんだけど!」
「私からもよろしくお願いします。お手本を見せて頂けたら、と…」
よろしく、と揃って下げられた頭。恵方巻を食べるお手本ですって…?



手巻き寿司パーティーを繰り広げる筈が、どう間違ったか恵方巻。切った巻き寿司では話にならないとソルジャーが主張するだけに…。
「分かった、とりあえず手巻き寿司パーティーが終わってからっていうことで…」
でないと色々と無駄になるし、と会長さんが。
「今も食べながら話してるけど、巻き寿司も出たし…。とにかく、これは食べておかないと」
「まったくだ。手巻き寿司はネタが新鮮な内だし、巻き寿司も出来立てが美味いしな」
作り置きでは話にならん、とキース君も。
「これだけあるんだ、ちゃんと食わんとぶるぅに悪い」
「そうですよ。巻き寿司なんかは、わざわざ作って貰ったんですし…」
恵方巻の件は食べてからにしましょう、とシロエ君が言った途端に、ソルジャーが。
「ありがとう! お手本を見せてくれるんだね?」
「えっ? え、ええ…。それはまあ…」
どうしてもということであれば、とシロエ君。
「でも、参考になるんでしょうか? 食べるだけですよ、巻き寿司を?」
「だけど、丸かじりをするんだろう? そこが大切!」
プロならではのコツを是非教わりたい、と繰り返すソルジャー。
「辛抱と根性だったっけ? それを聞けただけでも大いに収穫だったからねえ、そうだよね?」
ねえ? と話を振られたキャプテンは。
「ええ、本当に。…素晴らしい話を伺えました、来て良かったです」
ありがとうございます、と深々と頭を下げるキャプテン。なんとも不思議でたまりませんけど、ソルジャー夫妻は恵方巻に深い思い入れがあるようで…。
「恵方巻ねえ…。そこまで言うなら、やるしかないねえ…」
食べ終わってお腹が落ち着いたら、と会長さん。
「コツがどうこうと言ってるからには、練習なんかもするんだろうし…」
「練習もさせて貰えるのかい? 有難いねえ、ねえ、ハーレイ?」
「そう願えると嬉しいです。…恵方巻は私たちの念願ですから」
どうかコツを、とキャプテンにまでお願いされると断れません。もう恵方巻のお手本を見せるしかなくて、そうなってくると…。
「ぶるぅ、後で巻き寿司を二十本ほど…。具は適当なのでかまわないから」
「オッケー! 恵方巻にいいサイズのヤツだね!」
分かったぁ! と会長さんの注文に飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。なんだって春に恵方巻なんていうことになるのか、お花見シーズンもとっくに終わりましたが…?



こうして何故だか恵方巻。手巻き寿司と巻き寿司でお腹一杯になった私たち、午後のおやつは元から要らない気がしてましたが、おやつどころか…。
「…恵方巻は節分なんだがな…」
節分の次の日が立春でだな、とキース君が巻き寿司の山を眺めています。切られていない巻き寿司が二十本はあって、私たちの技の出番待ちで。
「節分の次の日からが春でしたよね?」
その春はとっくに真っ盛りですが、とシロエ君。
「桜の季節が終わったからには、春も半分過ぎていそうな気がするんですが…」
「じきに立夏だよ、ゴールデンウイークが終わったらね」
そしたら暦の上では夏の始まり、と会長さんが壁のカレンダーへと目を遣って。
「…今のシーズンになって恵方巻なんて、正気の沙汰とも思えないけどねえ…」
「かみお~ん♪ ちゃんと美味しく作ったよ!」
丸かじりしやすい中身にしたの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「太さもリクエストを聞いて作ったし、みゆもスウェナも大丈夫だよね?」
「「…大丈夫だけど…」」
この太さなら充分いけるけど、と返事したものの、恵方巻。季節外れにもほどがあります、ソルジャー夫妻は期待に満ちた瞳で見詰めていますけど…。
「…仕方ない、食うか」
揃っていくぞ、とキース君が合図し、恵方巻を持った私たち。
「今年の恵方はあっちでしたか?」
シロエ君が確かめ、会長さんが。
「それで合ってる。それじゃ、揃って…」
「わぁーい、みんなで恵方巻ーっ!」
黙って、黙って! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が叫んで、総員、ピタリと沈黙。恵方巻は恵方に向かって無言で食べること。これが大切、これが鉄則。
「「「………」」」
モグモグ、モグモグ。節分の夜じゃないんですから、本物の恵方巻とは違いますけど、お手本はきちんと真面目にやらなきゃいけません。喋ったら駄目、喋ったら駄目…。
「よし、食ったぞ!」
こんな感じだ、とキース君が一番、他のみんなも次々と。スウェナちゃんも私も「そるじゃぁ・ぶるぅ」も食べ終えましたけど、ソルジャー、コツは分かりましたか?



「えーっと…」
大切なのは根性と辛抱、と呟くソルジャー。そうです、それが大切です。食べてる途中でどんなに可笑しいことがあっても笑っては駄目で、巻き寿司の量がどんなに多くても丸ごと一本食べないと御利益は貰えないもの。
「…根性と辛抱は分かったかなあ、今ので大体」
「そうですね。…皆さん、真面目にお手本を見せて下さいましたし」
とても勉強になりました、と頷くキャプテン。
「ただ…。私たちの積年の課題をクリアするには、もう一つ、恵方の問題が…」
「そうだっけねえ! そこも外せないポイントだよねえ、本当に」
恵方を向かなきゃ意味が無いし、とソルジャーが。
「…二人揃って恵方を向いて食べたいんだけどね、どうすれば食べられるんだろう?」
「「「はあ?」」」
どうすればって…。たった今、みんなで恵方に向かって食べてましたよ、恵方巻?
「二人って…。君たち二人のことかい、揃ってというのは?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは「うん」と。
「これがどうにも難しくって…。未だにクリア出来そうもなくて」
「難しいって…。見本を見ただろ、二人どころか九人も恵方を向いてたけれど?」
余所見さえしなければいける筈! と会長さんが恵方を指して。
「あっちなんだ、と恵方を向いたら余所見をしない! そこがポイント!」
「それしか無かろう、あんたたちの場合は余所見したいかもしれんがな」
バカップルだけに隣が大いに気になるとか…、とキース君。
「しかし、恵方巻をきちんと食べたいのなら、だ。余所見は駄目だな」
「そうです、せめて食べ終わるまでは我慢ですよ」
根性と辛抱で耐えて下さい、とシロエ君も言ったのですけれど。
「…耐えるだけなら、なんとかなりそうなんだけど…」
「ええ。そちらの方は、根性と辛抱で持ち堪えることも出来そうですが…」
私も努力してみますが、とキャプテンが。
「ですが、二人で恵方を向くというのが…。もう本当に積年の課題で…」
いったいどうすればいいのでしょう、と悩みまくられても困ります。解決するには辛抱あるのみ、余所見をしないことが大事だと思いますけどねえ…?



恵方巻を食べるには恵方に向かって黙々と。食べ終えるまでは沈黙、それが鉄則。巻き寿司を一本食べるだけの時間も我慢出来ないのがバカップルというヤツなのでしょうか。会長さんも両手を広げてお手上げのポーズで。
「…食べる方は耐えられても、恵方を向けないって言われてもねえ…」
どれだけ辛抱が足りないのだ、と呆れ果てた顔。
「それだと今から練習あるのみ、ぼくたちが応援してあげるから頑張るんだね!」
練習用の恵方巻ならそこに沢山あるんだから、と指差す巻き寿司。
「節分じゃないから、恵方巻とは呼べないけれど…。それを二人で食べて練習!」
「…応援をしてくれるのかい?」
「二人きりでも気が散ってるなら、いっそエールを送った方がマシそうだからね!」
さあ持って! と言われたソルジャー夫妻は、恵方巻をそれぞれ持ちましたけれど。
「はい、食べて! 余所見しないで、恵方はあっち!」
会長さんが示した方向、それを見ているソルジャー夫妻。
「…どうする、ハーレイ?」
「コツは教えて頂きましたし、練習してもいいのですが…。でもですね…」
いささか恥ずかしくなって来ました、とヘタレならではの発言が。
「応援して下さるのは嬉しいのですが、なにしろ私は…」
「分かってるってば、見られていると意気消沈だというのはね! でもねえ、これは恵方巻!」
本当に本物の巻き寿司だから、と促すソルジャー。
「節分の夜とは違うわけだから、ここは思い切って頑張ってみる!」
「は、はい…。ですが、恵方を向く件は…」
「誰かが教えてくれると思うよ、これだけのプロが揃っていればね!」
「そ、そうですね…。では、恥ずかしさは根性で耐えるということで…」
頑張りましょう、と恵方巻をグッと握ったキャプテン。
「それで、恵方はあなたが向かれる方向で?」
「決まってるじゃないか、毎年、そういう約束だろう!」
恵方を向くのはぼくが優先! と妙な台詞が。優先も何も、二人揃ってそっちを見たらいいだけなのでは…、と誰もが思ったのですけれど。
「では、ブルー。…ここは失礼して…」
「うん、練習をしないとね!」
ゴロリと絨毯に転がったソルジャー、恵方巻、寝ながら食べるんですか…?



いったい何をする気なのだ、と驚いてしまったソルジャーのポーズ。寝転んで恵方巻を食べようだなんて、喉に詰まったらどうするのでしょう?
「…どうかと思うよ、その姿勢はね!」
気が散るわけだ、と会長さんが文句をつけました。
「恵方巻をいつ食べているのか、それで大体分かったってば! そんな時間に食べる方が無理!」
ベッドに行く前に食べたまえ! という声で納得、ソルジャー夫妻は大人の時間の真っ最中に恵方巻を食べていたようです。それでは二人で恵方を向くどころか、気が散りまくりになって当然で。根性と辛抱が必要なわけだ、と誰もが溜息、超特大。けれど…。
「ちょっと待ってよ、まだこれからが大切で!」
「そうなのです。ブルーが恵方を向くわけですから、私の方がですね…」
こんな感じになるのですが、とソルジャーの上に四つん這いになってしまったキャプテン。恵方巻を持った手は床から離れてますけど、他の手足で身体を支えて。
「「「………」」」
どういうポーズだ、と頭の中に乱舞している『?』マーク。キャプテンの頭が向いている方向はソルジャーとは真逆、ソルジャーの足の方向に頭があるわけで。
「…こうです、この状態で毎年、恵方巻をですね…」
「ハーレイ、百聞は一見に如かずだってば! ここでみんなに見て貰わないと!」
「そうでした…。お知恵を拝借するには、まず食べませんと…」
黙って恵方巻でした、とモグモグと巻き寿司を丸かじりし始めたキャプテン。ソルジャーの方も食べてますけど、ホントにどういう食べ方なんだか…。って、会長さん?
「ちょっと訊くけど!」
そこの二人! と、会長さんが仁王立ちに。
「「………」」
返事は返って来ませんでした。恵方巻タイムだけに、当然と言えば当然ですが。
「黙っているのは分かるんだけどね、君たちが毎年食べているのは本当に恵方巻なんだろうね?」
「「「え?」」」
恵方巻って…。それ以外の何を食べるんですか?
「…よし、食べた!」
「ええ、食べられましたね!」
やはり根性と辛抱が大切でしたね、と笑顔のキャプテン。ちゃんと恵方巻は食べてましたけど、キャプテン、恵方を向いていませんでしたよ、ソルジャーと逆方向でしたし…。



「…こんな感じになっちゃうんだけど…。揃って恵方を向ける方法って、何かありそう?」
恵方巻のプロに教えて欲しい、と起き上がって来たソルジャーとキャプテン。
「食べる間は辛抱っていうのは分かったんだよ、そこは耐えるから!」
「私も根性で耐えてみせます。今もなんとかなりましたから」
恵方巻を無事に食べ終えられましたから、とキャプテンは自信を持った様子で。
「ですが、ブルーが恵方を向いている限り、私の方は逆を向くしかないわけでして…」
「そこを解決したいんだよ! ぼくとハーレイ、二人揃って恵方を向いて食べたいからね!」
プロの意見を是非よろしく、とソルジャーの瞳に期待の光が。
「それさえ分かれば、来年からは最高の恵方巻だから!」
「ぼくはさっきも訊いたけどねえ、もう一度訊かせて貰っていいかな?」
本当に恵方巻を食べているんだろうね、と会長さん。
「まさか、恵方巻とは全く違う物を食べてはいないだろうね…?」
「「「へ?」」」
違う物って…、と首を傾げた私たちですが、ソルジャーは。
「分かってくれた!? ぼくたちの節分の恵方巻はね、もう特別で!」
「そうです、お互い、一本ずつを大切に食べているわけでして…」
ついついウッカリ声が零れてしまう辺りが問題でして…、とキャプテンの頬が気持ち赤めで。
「けれど、そちらは根性と辛抱で耐えればいいと教わりましたし…。後は恵方が問題で…」
「そうなんだよねえ、ハーレイも恵方を向ける方法って無いのかな?」
節分の夜はシックスナインで恵方巻! とソルジャーは高らかに言い放ちました。
「「「…しっくすないん…?」」」
それって69の意味なんでしょうか、69って数字がどうしたと…?
「出て行きたまえ!!!」
やっぱりそうか! と激怒している会長さん。ソルジャー夫妻は何をやらかしたと?
「待ってよ、恵方の問題がまだ…!」
「クルクル回せば解決するだろ、ベッドごと! ぶるぅに回して貰うとか!」
「ああ、ぶるぅ! それはいいねえ、回して貰えばいいかもねえ!」
一瞬ずつでもお互いに恵方、とソルジャーが叫んで、キャプテンが。
「それは考えもしませんでしたね、回して貰えばお互いに恵方を向けますねえ…!」
プロに相談した甲斐がありました、と大喜びのキャプテン、ソルジャーと固く抱き合ってキス。バカップル的には何かが解決したようですけど、恵方を向くのにベッドを回すって…?



「…あいつらは何がしたかったんだ?」
恵方巻の残りを持って帰りやがったが、とお悩み中のキース君。私たちだって分かりません。ソルジャー夫妻が恵方巻を食べる時のポーズも、シックスナインとかいうものも。
「…何だったんでしょう、節分の夜はシックスナインだそうですが…」
シロエ君が顎に手を当て、サム君が。
「分かんねえけど、ブルーがブチ切れていたってことはよ…」
「ヤバイ話だって意味だよねえ…?」
恵方巻の何処がヤバイんだろう、とジョミー君。本当に何処がヤバイんでしょう?
「分からなくてもいいんだよ! 君たちは!」
どうせ理解は出来ないから、と会長さんが溜息をついて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ 来年の節分、ブルーたちも呼ぶ?」
恵方巻、うんと沢山作るから! と言ってますけど、会長さんは「呼ばなくていい!」とバッサリ切って捨てました。と、いうことは…。
「…恵方巻ってヤツは、あいつらの世界じゃ猥褻物か?」
キース君の問いに、会長さんが。
「あの二人に関してはそういうことだね!」
今日の記憶は手放したまえ、と言われたからには、忘れた方がいいのでしょう。ソルジャー夫妻が節分の夜に食べる恵方巻、来年からは「ぶるぅ」がベッドを回すとか。乗り物酔いしないといいんですけどね、年に一度の恵方巻ですし、美味しく食べたいですもんね…?




            お寿司の好み・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ちらし寿司より巻き寿司なのだ、というソルジャーの注文。しかも切らずに丸ごとだという。
 恵方巻の食べ方の指南を希望はいいんですけど…。こんな結末、忘れるしかないですよね。
 次回は 「第3月曜」 11月15日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、10月といえば行楽の秋で、何処かへお出掛けしたい季節で…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv










(空を飛ぶ鯨…?)
 なあに、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 新聞に載っている写真。空を飛ぶ鯨、見出しも同じで「空を飛ぶ鯨」と書いてある。
(本物なの?)
 まさかね、と見詰めた鯨の写真。向こうの空が透けて見えている不思議な鯨。
 けれど確かに空の上だし、かなりの大きさ。白いシャングリラほどではないけれど…。
(凄く大きいよ?)
 下に一緒に写った景色と比べてみても。家や木立がオモチャみたいに見えるから。
 立体映像か何かだろうか、昼間に撮られた写真だけれど。映像を投影するのだったら、夜の方が適しているのだけれど。邪魔な光が少ないから。
(これ、シャングリラの再現ってことはないよね?)
 白い鯨のようにも見えたシャングリラ。今の時代も人気を誇る宇宙船。本物はとうに時の流れに連れ去られたのに、遊園地の遊具などにもなって。
 そのシャングリラが飛んでゆく姿を空に投影するなら、忠実に再現するだろう。シャングリラの形そのものを描き出すだろう。
 写真にあるような、海に棲んでいる本物の鯨を描くよりは。ヒレや尾までも備えた鯨を、大空を泳ぐ鯨の姿を映し出すよりは。
 とても大きな映像だけれど、どうして鯨なのだろう。
 何かのイベントの呼び物だったか、鯨が好きな人がやったのだろうか、と記事を読んだら…。



(偶然なんだ…)
 鯨は自然の産物だった。多分、そう呼んでもいいだろう。
 ムクドリの群れが作った空を飛ぶ鯨。向こうが透けて見えるのも当然、小さなムクドリが何羽も集まった群れなのだから。よくよく見たら点の集まり、一つ一つが一羽のムクドリ。
 渡りの途中で、ある町の上で、偶然こういう形になった。鯨そっくりに見える群れに。
 この地域のムクドリは渡りをしないけれども、遠く離れた他の地域では渡りをするらしい。空を見上げた人が見付けた、空を飛ぶ鯨。ムクドリの群れ。
 たまたまカメラを持っていたから、写して新聞に写真が載った。「空を飛ぶ鯨」と。
(ホントに鯨そっくりだよ…)
 鯨の形で暫く飛んで行った後は、色々な形に変化したという。沢山のムクドリたちの群れ。点にしか見えない鳥たちが描いた、空を飛ぶ鯨。
(凄いよね…)
 これなら、きっと襲われない。天敵が来ても大丈夫。
 ムクドリの身体は小さいけれども、群れになったら巨大な鯨。白いシャングリラのような。
 大きな鯨を襲うものなど、空には飛んでいないのだから。
 空を飛ぶ鯨が目に入ったなら、大慌てて逃げてゆくだろうから。捕まってしまわないように。



 鳥って賢い、と感心しながら戻った二階の自分の部屋。
 一羽一羽は弱いけれども、群れになったら空を飛ぶ鯨を作り出す。何処にも敵などいない鯨を。
 小さな鳥たちを狙う天敵、彼らが近付けないように。怖がって逃げてゆくように。
(他の形も強いんだよ、きっと…)
 ムクドリの群れは、鯨の形から色々に変化したそうだから。新聞にそう書かれていたから。
 いったいどんな形だろうか、と想像してみる。鯨の後は何の形になったのだろう、と。
 一目で強いと分かるものだし、ライオンにもなったかもしれない。空飛ぶライオン。
 鯨以外の写真も見てみたかった、と考える内に聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、早速話した。
「あのね、鳥って賢いね」
 凄く頭がいいみたい…。身体はあんなに小さいのに。
「はあ? 賢いって…」
 そりゃまあ、鳥にも色々いるが…。お前、どういう鳥に感心させられたんだ?
「ムクドリなんだけど…。此処からは遠い地域のムクドリ」
 其処だと、ムクドリは渡りをするんだって。その途中に、何処かの町で撮られた写真で…。
 群れの形が空を飛ぶ鯨だったんだよ。本当に本物の鯨みたいで、立体映像かと思っちゃった。
 大きな鯨の形をしてたら、天敵が来たって平気だよね。鯨の方が強いに決まっているもの。



 だから頭がいいと思う、と説明した。小さな鳥でも、集まったら天敵を寄せ付けないから。
 群れの形を変えていっても、鯨と同じくらいに強いんだよ、と。
「そっちの写真は、新聞に載っていなくって…。空を飛んでる鯨だけ…」
 鯨から形を変えていった、って書いてあったのに、ちょっぴり残念。他の形も見たかったよ。
 ライオンとかでも良さそうだけど…。
 ハーレイは何の形だと思う、ムクドリの群れが作ったのは?
「別に何でもいいだろうが。鯨だろうが、ただのデッカイ群れだろうが」
「駄目だよ、強い生き物でなくちゃ。でなきゃ、天敵に狙われちゃうよ?」
 普通の群れで飛んでいたなら、空は危険が一杯だよ。
「お前なあ…。鯨に感動したのは分かるが、落ち着いてよく考えてみろよ?」
 ムクドリの天敵は何なんだ、とハーレイに尋ねられたから。
「えっと…。鷹とか?」
 この地域の鷹とは違うだろうけど、鷹はあちこちに棲んでるものね。
「そんなトコだが、そいつらは鯨と戦うのか?」
「え?」
「鷹だ、鷹。たまに、自分よりデカイ魚と戦う鳥もいるようだが…」
 そいつはそういう羽目に陥っただけで、狙った魚の大きさを読み間違えた結果だってな。
 普通はしないし、自分の足で掴めるサイズの魚を狙いに行くもんだ。鷹だって。
 だから鯨が強いかどうかも、空を飛ぶ鳥たちは知らんだろうが。鷹も、ムクドリも。
 もちろんライオンが強いってことも、ヤツらは全く知らん筈だが?
「そうなのかも…。じゃあ、なんで鯨?」
 どうして空を飛ぶ鯨の形をしてたの、ムクドリの群れは?
「偶然だろうな、どう考えても」
 お蔭で新聞の記事にもなった、と。鯨が空を飛ぶんだから。
 群れってヤツはだ、要はデカけりゃ、それでいんだ。…どんな形でも。



 鳥の群れはそのためにあるんだから、と言うハーレイ。
 渡り鳥でなくても、沢山の鳥が集まっているのだと周りに知らせるために。
「デッカイ群れを作って飛んでりゃ、敵だってそうそうやっては来ない」
 逆に自分が襲われかねないってことなんだからな。殺されはしないが、つつかれるとか。
 小さな鳥でも、集まれば強い。いくら鷹でも、寄ってたかって攻撃されたら負けちまうぞ。目を狙われたらおしまいだからな、他の鳥の相手をしている内に。
 そうならないよう、天敵の方もデカイ群れには近付かない。来たとしたって、長居はしない。
 端っこをチョイと失敬するだけで逃げちまうさ。
「…端っこって?」
 失敬するって、どういうこと?
「群れの端っこを飛んでいる鳥を捕まえるんだ。一番狙いやすいから」
 他の鳥にも気付かれにくい場所だしな。来たってことが。
「群れの端っこ、危ないの…?」
 端っこの所を飛んでいる鳥は、群れになってても危ないわけ…?
「当然だろうが、盾になるヤツがいないんだから」
 中の方にいたなら、上にも下にも、前も後ろも、他の仲間が飛んでるわけで…。
 鷹が狙うのは、囲まれた中にいる鳥よりかは、周りの鳥ってことになるだろ?
 それがいないのが端を飛ぶ鳥で、それを素早くサッと掴んで、逃げて行くってな、鷹とかは。
 他の鳥たちに気付かれる前に、一羽貰えばいいんだから。



 天敵だって無駄な危険は冒さない、と言われてみればその通り。
 群れを作って飛んでいる鳥は、どれを捕まえても同じ種類の鳥なのだから。端っこでも、群れの真ん中でも。
 ならば、端っこの鳥を捕まえるのが賢いやり方。近付いてサッと掴んで逃げれば、他の鳥たちは攻撃して来ない。整然と飛び続けるだけで、追っては来ない。
 端を飛ぶ鳥を捕まえるのと同じ理屈で、群れを離れて遅れそうな鳥も狙われる。弱っている、と目を付けられたら、遅れるのを待って、攫われてしまう。鋭いクチバシで、鋭い爪で。
「そんな…。遅れちゃった鳥は仕方ないかもだけど…」
 端っこを飛んでいるだけの鳥は、其処にいるだけで危ないじゃない。…真ん中よりも。
「ちゃんと危険は承知だってな、そういう場所を飛ぶからには」
 隙を見せたらおしまいなんだし、頑張って飛んでゆくわけだ。自分を守るためにもな。
 飛んでゆく列から外れないよう、天敵に狙われないように。
「…鳥の世界にもクジ引きはある?」
 端っこの鳥は危ないのなら、と尋ねてみた。真ん中を飛ぶ鳥は安全だというのだから。
「クジ引きだと?」
「そう。本当にクジは引かないだろうけど、クジ引きみたいに」
 今日は此処を飛んで下さいね、って決めるためのクジ引き。端っこだとか、真ん中だとか。
 クジ引きじゃないなら、みんなで相談して決めるとか…。今日は此処、って。



 何かある筈、と考えた鳥たちが飛んでゆく場所。群れの中でも色々な場所があるのなら。危険な場所と安全な場所に分かれるのなら。
 クジ引きのように、公平に飛ぶよう決めてゆくとか、譲り合いとか、相談だとか。
 けれど、ハーレイは「無いな」と答えた。鳥の世界に、そういう仕組みは無いようだ、と。
「ありそうに見えるのが群れなんだが…。飛ぶためのルールというヤツが」
 しかし、そいつは存在しない。少なくとも、渡りをする時には。
 何処を飛ぶとか、そんなことは決めちゃいないんだ。
「…クジ引き、無いの?」
 それに相談したりもしないの、今の言い方だと、そういう風に聞こえるけれど…?
「うむ。家族単位で飛ぶ時だったら、別なんだろうが…」
 初めて空へと飛び立ったような子供連れなら、親が守ってやるからな。飛び方を教えて、天敵がいないか目を配って。
 渡りのためにと集まる時にも、鳥はそうしているかもしれん。初めての渡りをする子を連れて。
 だがな、渡りのための群れには、リーダーはいない。
 群れを纏めるヤツがいないなら、相談だってするわけがない。お前が言うようなクジ引きもな。
 渡りの時には、ルールは一つ。ただし、人間が考えるようなルールとは違う。
 他のヤツらにぶつからない、という規則だけで飛んでいるんだそうだ。
 一羽だけスピードを上げてしまったら、前のにぶつかる。隣の鳥との距離を取り過ぎても、逆に縮め過ぎても、やはりぶつかることになる。…他の鳥とな。
 ぶつかることを避けて飛ぶなら、他の仲間と同じ速度で、同じように飛んでいかんとな。
 そうやって飛べば、全体を見れば綺麗な群れが出来るってことで…。
 ルールはたったそれだけなんだし、其処へ天敵がやって来たなら、遅れたら終わり。運悪く端にいたって終わりだ。他の仲間は飛び続けるのに、一羽だけ捕まっちまってな。
 本当に運だけで決まっちまうのが鳥の世界だが、人間の世界はそうじゃないから…。
 お前じゃなくても、こういう仕組みだと考えがちだな、人というのは。



 よくある誤解というヤツだが、とハーレイが話してくれたこと。鳥たちの渡りを、人間の基準で考えてしまって、生まれた俗説。
 渡りを何度も経験している強い鳥たちは、先頭や端で仲間を纏めて飛び続けるもの。
 リーダーもその中にいそうだけれども、実は安全な場所を選んで飛んでいる。周りには盾になる他の鳥たち、けして天敵には攫われない場所。
 そういう所を飛んでいないと、リーダーを失って群れが崩れてしまうから。
 群れを纏める鳥たちに向けて、指揮をしながら飛んでゆける場所にいるのがリーダー。
「前の俺たちで言えば、俺が先頭や端っこを飛ぶ鳥になるっていうわけだな」
 皆を纏めていかなきゃならんし、何かあった時は最後まで船に残るのがキャプテンなんだから。
 天敵が襲って来た時にだって、俺が対処をすべきだろう。他の仲間を守るためにな。
 そしてお前は安全なトコだ、天敵に捕まらないように。
「…それ、逆じゃない?」
 前のハーレイとぼくは逆だと思うよ、危ない所を飛んでたのはぼく。
 みんなの命を守らなくちゃ、ってメギドに飛んで行ったんだから。…だから端っこ。
 ちゃんと鷹から守ったんだよ、他のみんなを。
 ぼくは捕まっちゃったけど…。鷹に捕まったから、メギドで死んでしまったけれど。
「そのメギドだが…。ジョミーがいなけりゃ、お前はどうした?」
「ジョミーって?」
「トォニィたちも入るだろうな。…お前が飛んで行っちまった時だ」
 あの時、お前の他にはタイプ・ブルーが一人もいなかったとしても、行ったのか?
 ジョミーもトォニィも、桁外れのサイオンを持っていないミュウなら、お前はどうしてたんだ?
「それは…。もしもジョミーやトォニィたちが…」
 タイプ・グリーンだとか、タイプ・イエローだったらどうするか、ってことだよね?
 ぼくが一人きりのタイプ・ブルーで、他には誰もいなかったなら…。



 どうしたのだろう、と考えたことさえ無かったこと。
 ジョミーは前の自分が選んだ後継者だったし、タイプ・ブルーだからこそ彼を選んだ。ミュウの未来を託すために。きっと自分の代わりになるから、皆を地球へと導くから。
 そのジョミーがいて、他にトォニィたちもいた。タイプ・ブルーの子供が七人も。
 ミュウの未来を、白いシャングリラを充分に任せられる者たち。ジョミーも、ナスカで生まれたトォニィたちも。
 だから彼らに後を託して、一人メギドへと飛んだけれども。それでいいのだと考えたけれど。
 もしもあの時、彼らが其処にいなかったなら。…タイプ・ブルーではなかったならば…。
「…前のぼく、行けていないかも…」
 ううん、行けない。…メギドにはとても行けないよ。
 タイプ・ブルーが一人もいないと、誰もみんなを守れないから。
 …死にそうなぼくでも、残っていたなら、誰もいないよりかはマシに決まっているんだから。
「ほら見ろ、お前は安全な所を飛ばなきゃいけなかったんだ」
 天敵が来たって大丈夫な場所で、リーダーとして飛んでいたってな。俺たちを指揮して。
 俺はお前の指示の通りに皆を纏めて、端っこを飛ぶ鳥だった。先頭だったかもしれないが…。
 お前は長いことリーダーの場所で飛び続けた後、ジョミーに後を譲ったってな。
 リーダーは安全に飛び続けてこそだ、どんな時でも。…群れを守ってゆくためには。



 前のお前が飛ぶべき場所は其処だった、というのがハーレイの考え方。
 危険な場所には飛び込んでゆかずに、他の仲間を盾にしてでも安全な場所を飛ぶリーダー。
 そうだったのかも、と納得しかけたけれども、メギドの他にもあった例。前の自分が飛び込んで行った危険な場所。…まるで群れの端を飛ぶ鳥のように。
「メギドの時はそうかもしれないけれど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
 だけど、ジョミーを連れ戻すために出て行った時は…。
 アルテメシアの衛星軌道まで昇ってしまったジョミーは、ぼくが追い掛けて行ったんだよ?
 ジョミーを無事に連れ戻せたなら、ぼくの代わりになるんだし…。それに、あの時は…。
「お前しか行けるヤツがいなかったから、行くのも仕方ないってか?」
 安全な場所を離れるべきじゃない筈の、リーダーの鳥でも行くしかなかったと言うんだな?
 あれにしたって、どうだかなあ…。
「他に方法は無かったよ?」
 ぼくが行かなきゃ、誰もジョミーを連れ戻せないし…。あんな所からは。
「俺に言わせりゃ、お前が勝手に行っちまっただけだ」
 お待ち下さい、と止めただろうが。…お前が出ようとしていた時に。
 ジョミーを追うから、シャングリラを少し浮上させろと言われはしたが、俺は止めたぞ。
「止められたけど…。それは覚えているけれど…」
 でも…。誰もいなかったよ、前のぼくの他には。
 ジョミーを追い掛けて連れ戻すことが出来る人間、ぼくしかいなかったんだから…。



 どう考えても、他に方法は無かったと思う。前の自分が出て行く他には。
 ジョミーは人類軍の戦闘機に追われて飛び続けていたし、誰も危険を冒せはしない。あんな中で救助艇は出せない、ジョミーを迎えに行く船などは。
 けれど、ハーレイは「違うな」とゆっくり瞬きをした。
「そいつはお前の思い込みだ。…実際それで成功したから、余計に間違えちまうんだ」
 自分の選択は正しかった、と今でも思っているんだな。
 だが、実際はそうじゃない。あそこでお前が行かなかったら、俺が方法を考えた。
 そういう時こそキャプテンの出番だ。あらゆる知識を総動員して、何か手は無いかと検討する。
 小型艇を何機も発進させてだ、ジョミーの救出に向かうヤツ以外は、全部囮にするとかな。
 うん、なかなかにいい方法じゃないか。…たった今、思い付いたんだが。
「危ないよ、それ…!」
 囮だなんて危険すぎるよ、端っこを飛ぶ鳥と同じで捕まっちゃう…。
 人類軍の戦闘機の群れに追い掛けられて、一つ間違えたら、全部撃ち落とされてしまうよ。
「キャプテンだった俺を甘く見るなよ?」
 小型艇の遠隔操作は出来たぞ、囮に使う程度だったら。サイオンを使って援護させれば、小回りだって利くってな。本来の機体の性能以上に。
 ジョミーの救出に向かう船には、仲間が乗っていないと駄目だが…。囮の方には誰も要らない。
 それに囮は逃げ回るだけだ、どうとでも出来る。ただの陽動作戦なだけで。
 壊されちまっても、次々に出せば済むことだろうが。滅多に使わない船なんだから。
 あんな騒ぎの最中だからこそ、それに紛れて打つ手はあった。
 シャングリラも浮上させてただろうが、人類軍の注意を引き付けるために。
 あの要領でいけば、小型艇でもジョミーは充分、救出できた。
 …俺が打つ手を考える前に、お前が行ってしまっただけだ。
 リーダーが飛ぶべき安全な場所から抜け出しちまって、自分から危険に向かってな。



 メギドの時にしたってそうだ、と鳶色の瞳に見据えられた。「お前が無茶をしただけだ」と。
「今のお前に何度も言ったろ、あの時もワープは可能だったと」
 お前がメギドを止めに行かなくても、ナスカを完全に放棄するなら、間に合ったんだ。
 ジョミーはナスカをウロウロしてたし、その前にはリオも踏ん張っていた。
 その気になったら、シェルターに残っていた連中を強制的に連れ戻す方法はあった。俺が判断を下しさえすれば、そのための船を降下させたり、色々とな。
 ナスカに誰もいなくなったら、ワープして逃げればいいだけだろうが。メギドは放って。
 要はお前が命知らずになっちまっただけだ、ジョミーがあそこにいたばかりにな。
 ジョミーさえいれば後は大丈夫だ、と思ったからメギドに行ったんだろうが。
 上手い具合にトォニィたちもいたし、自分が欠けても問題は無い、と。
「…そうかも…。さっきもハーレイに訊かれたけれど…」
 タイプ・ブルーが前のぼくだけだったら、メギドに行ってはいないだろう、って。
 確かにそうだよ、それじゃ行けない。…ぼくしか仲間を守れないなら。
 アルテメシアで、ジョミーを追い掛けて飛び出して行った時だって…。
 ぼくがあそこで死んでしまっても、ジョミーがいるから大丈夫、って思ってた…。
 ジョミーに追い付いて、ぼくの気持ちを伝えさえすれば、後はジョミーがやってくれる、って。
 地球へ行くことも、ミュウの未来を守るのも…。



 指摘されたら、自分でも否定出来ないこと。
 安全な場所を飛ばねばならないリーダーだったのが前の自分で、群れを指揮して飛ぶのが仕事。天敵の餌食になってはならない。仲間を、群れを守りたければ。
 リーダーが鷹に攫われたならば、群れは散り散りになるのだから。群れが散ったら、もう天敵の思う壺。端を飛ぶ鳥を狙わなくても、どの鳥でも好きに捕まえられる。
 バラバラになってしまった鳥たち、それは襲って来ないから。自分が逃げることに必死で、他の仲間が襲われていても、助けようとして飛んで来たりはしないから。
(…前のぼくがいなくなっちゃったら…)
 消えてしまうのがミュウの未来で、仲間たちを守ることは出来ない。
 ジョミーがいないか、いたとしてもタイプ・ブルーではなかったらば…。
 ミュウの未来を彼に託して、飛び去ることは出来なかっただろう。命の焔が消える時まで、船に残って仲間たちを守ろうとしていた筈。メギドの劫火がナスカを燃やしてしまおうとも。
 前の自分はリーダーの役目をジョミーに譲ったからこそ、無茶な飛び方が出来ただろうか?
 天敵の餌食になると承知で、メギドに向かって飛んだのだろうか?
「…前のぼく、無茶をし過ぎちゃったの…?」
 安全な場所を飛んでいたのに、新しいリーダーが来てくれたから…。
 ジョミーが来たから、もう大丈夫、って端っこを飛ぶ鳥になっちゃった…?
 端っこの方で群れを纏めて飛んで行く鳥に。…鷹に捕まっちゃう場所を飛ぶ鳥に…。
「その通りだってな。お前、本当なら、安全な所を飛ぶべきなのに…」
 新しいリーダーが来たにしたって、側で補佐するべきなのに。こう飛ぶんだ、と。
 端っこを飛ぶのは俺に任せて、リーダーの側を離れないでな。
「それじゃ、ハーレイが危ないよ!」
 いつも端っこを飛んでるんでしょ、鷹とかが来たらどうするの?
 捕まっちゃうかもしれないんだよ、端っこを飛んでいる鳥は捕まえやすいなら…!
「なあに、俺なら大丈夫だ。体力自慢の鳥が飛ぶ場所なんだからな」
 先頭や端っこを飛んで行くのは、そういう鳥だ。渡りに慣れてて、体力にも自信たっぷりの鳥。
 でなきゃ群れなど纏められんぞ、沢山の仲間がいるんだから。
 現に地球まで飛んで行ったからな、前の俺は。シャングリラを運んで、地球までの道を。
 だからだ、…もしもお前が、無茶をしないで引退しただけの鳥だったなら…。



 リーダーの役目を譲っただけの鳥だったならば、守って飛んだ、と鳶色の瞳に見詰められた。
 「俺は、そうする」と。「前のリーダーだったお前を守る」と。
 群れの端を飛んで、新しいリーダーの指揮に従いながら。大勢の仲間を纏め上げながら。
 危険な場所を飛び続けながら、見詰める先には、いつも引退した前のリーダー。
 その鳥が弱って群れから遅れてしまわないよう、天敵に狩られてしまわないよう。
「お前が遅れそうになった時には、俺がお前の側を飛ぶんだ」
 遅れてるぞ、と注意してやって、何か来たなら追い払って。鷹でも、鷲でも。
「…そんなことが出来るの、ホントに? …ハーレイにとっても天敵だよ?」
 ぼくが遅れそうになっているなら、もう本当に群れの端っこ…。
 鷹や鷲の姿が見えた時には、手遅れのような気がするけれど…。後は捕まっちゃうだけで。
「心配は要らん。端を飛ぶ鳥ならではの頭の使いようだな」
 仲間たちを呼べばいいだけのことだ。攻撃じゃなくて、防御の方で。
 群れの形を変えてやるのさ、遅れそうなお前に天敵が近付けないように。
 周りを飛んでくれる仲間が来るよう、群れの形を変えてしまえば状況も変わる。
 遅れそうな鳥はもう見付からないから、鷹や鷲だって近付きにくい。
 無理をして端っこのを捕まえようとしたなら、群れの形がまた変わっちまって巻き込まれて…。
 大勢の鳥に嫌と言うほどつつかれちまって、ボロボロになるかもしれないんだぞ?
 そうなっちまう前に、向こうから逃げて行くってな。
 俺は群れの形を変えるだけだが、それで立派にお前を守れる。
 鯨の形に見える群れを作って飛んでいたなら、別の形になるように。逆ってこともあるだろう。
 遅れそうな鳥を守って飛ぶのに、最適な形に組み替えるんだな。群れの形を。



 そんな風に飛びたかったのに…、とハーレイは悔しそうだから。
 前の自分が無茶をする鳥でなかったならば、守って飛んで、群れの形まで変えたらしいから。
「…あの鯨、そういう鯨だったのかな…?」
 ムクドリの群れが作った鯨。あれも仲間を守るために鯨になっていたかな?
 それとも、その後に変わった形が、遅れそうな仲間を守るための形だったのかな…?
「有り得るかもなあ、前の俺たちの姿に当て嵌めてやるならな」
 俺がその群れにいたとしたなら、お前がリーダーをやってる間は、端っこを飛んでお前の指揮に従うわけだ。仲間たちにも気を配りながら。
 誰かが遅れてしまいそうだな、と判断したなら、群れの形を変えてやって守る。空を飛ぶ鯨や、他にも色々。…仲間を守って飛んでゆくのに、適した形を指示してな。
 そして、お前が引退した後は、お前を守って飛び続ける。
 前の俺たちなら、地球に着くまで。
 ムクドリの群れなら、渡ってゆく先に無事にみんなが辿り着くまで。
 そいつが俺の理想なんだが、しかしだな…。



 さっきも言ったろ、とハーレイが浮かべた苦笑い。「こいつは人間の考え方だ」と。
「俺たちは人間に生まれて来たから、こう考えてしまいがちなんだが…」
 鳥の世界にも、群れを指揮するリーダーがいたり、渡りに慣れた鳥が飛ぶ場所があったりすると考えちまうわけなんだが…。
 本物の鳥の渡りってヤツはそうじゃない。ルールは一つで、ぶつからないこと。
 それさえ守れば、リーダー無しでも、きちんと見事な群れを作って飛んでゆけるってな。
 実際、リーダーはいないんだ。慣れた鳥が先頭を飛ぶってことも無いらしい。
 お互いに疲れちまわないよう、順に入れ替わりながら飛んでゆく。前の方を飛ぶと、どうしても消耗しちまうし…。ほど良いタイミングで順番を変えて、目的地まで旅をするわけだ。
「…それって、なんだか寂しくない?」
 とっても長い旅をするのに…。広い海だって越えてゆくのに。
 リーダーは無しで、旅に慣れてる仲間が案内してもくれなくて、みんな揃って飛んでいるだけ。
 天敵が来ても、端っこの鳥が消えちゃうだけでおしまいなんでしょ?
 他の仲間が助けに来てくれるってこと、そんな群れだと難しそうだよ。
 せっかく大勢の仲間で飛ぶのに、寂しい感じ…。もっとみんなで助け合ったら幸せなのに。
「それはそうだが…。こいつはあくまで、渡りの時だ」
 長い旅をするために集まった群れだと、こうなるという話でだな…。
 家族の時には違うかもしれん、と言っただろうが。親鳥が子供を守って飛ぶとか。
 そんな家族も、渡りの時にはバラバラなのかもしれないが…。
 つがいの相手を一生変えない鳥だっているし、そういう場合はどうなるんだか…。
 渡りの間はバラバラに飛んでも、休憩の時には集まってるかもしれないぞ。眠る時にはつがいの相手を呼び寄せるだとか、家族がきちんと揃うだとかな。
「そっか…。そうかもしれないね」
 渡りの時でも、家族や恋人が一緒だといいな。…休憩する時くらいはね。
 だって、あんまり寂しすぎるもの。リーダーもいなくて、纏める仲間もいないだなんて…。



 ハーレイが前の自分たちに重ねた話をしてくれたから、鳥たちの群れに見てしまう夢。
 天敵から身を守るためにと、集まって海を越えてゆく鳥。遠い場所まで、長い渡りをして。
 長くて大変な旅だからこそ、助け合って飛んで欲しいのに。
 リーダーの鳥や、旅に慣れた鳥が群れを纏めているといいのに、鳥たちの旅は違うらしい。前の自分たちが地球を目指した旅路とは。
 皆を地球へと送り出すために、前の自分が犠牲になった白いシャングリラの旅路とは。
 まるで違う、と思ったけれども、不意に気付いた素敵なこと。旅をしてゆく鳥たちの群れは…。
「ねえ、ハーレイ。…鳥たちの群れにリーダーはいないらしいけど…」
 前のぼくたちとは違うけれども、あの鳥たちは最初から地球にいるんだね。
 空を飛ぶ鯨の形になってたムクドリの群れも、渡りをする他の鳥たちも。
 地球を目指して飛ばなくっても、地球の上を飛んでいるんだよ。どの鳥も、青い地球の空を。
「そういや、そうか…。前の俺たちとは、其処も違うな」
 頑張って地球を目指さなくても、最初から地球の上なのか…。卵から孵った時から、ずっと。
 そう考えると、前の俺たちよりも遥かに恵まれた旅をしているんだな。あの鳥たちは。
 ついでに、前の俺たちの頃は、渡り鳥ってヤツはいなかった。
 地球はもちろん、何処の星にも、渡ってゆく先が無かったってな。
 テラフォーミングされた星の上では、生きられる場所が限られてたし…。ノアでさえも、渡りは無理だった筈だ。あそこが一番、テラフォーミングが進んだ星だったが。
 それが今では、地球は立派に蘇っているし、他の星でも渡りをする鳥がいるからなあ…。季節に合わせて旅をする鳥、あちこちの星にいるらしいしな?



 今ならではの光景ってヤツだ、とハーレイが語る鳥たちの群れ。渡りの季節に空をゆく鳥。
 いつか渡り鳥の群れに出会ったならば、鳥のハーレイを探してみようか。
 あれがそうかも、と端っこを飛んでいる鳥を。群れの形を変える合図をしそうな鳥を。
「えっと…。この辺りだと、渡り鳥の群れを見るのは難しそうだけど…」
 見られそうな場所があるんだったら、いつかハーレイと行ってみたいな。
 鳥のハーレイを探したいから。…渡りに慣れた熟練の鳥で、群れを纏めて飛んでいる鳥。
 天敵が来ないか見張りをしていて、他の仲間を守って端っこを飛んでく鳥だよ。
「おいおい、鳥の世界にリーダーはいないと言っただろ」
 渡りの時には、リーダーの鳥はいないんだから。…普段の暮らしなら、いるらしいがな。群れで暮らしている鳥だったら、リーダー格の鳥ってヤツが。
 しかし、渡りの時にはいない。ぶつからない、というルールがあるだけだ。
 群れの端っこを飛んでいる鳥も、たまたま其処にいるだけだぞ。何の役目も持ってやしない。
「…分かってるけど、気分だけでも、鳥のハーレイを探してみたいよ」
 仲間を守って飛んで行く鳥、前のハーレイみたいだもの。
 シャングリラの舵をしっかり握って、仲間たちを地球まで運んだから…。
「お前の言いたいことは分かるが…。そういう鳥は何処にもいないんだ」
 渡り鳥の群れには、前の俺みたいな役目の鳥はいやしない。いくら探しても、見付からないぞ。
 いもしない鳥を探すよりかは、俺と一緒に飛んでゆかないか?
「ハーレイと飛ぶって…。どういう意味?」
 今のぼくは少しも飛べないのに…。ハーレイだって空は飛べないのに…。
「俺がお前を守ってやるということだ。…この地球の上で」
 今度こそお前を守ると何度も言った筈だぞ、俺が一生、お前を守って飛んでやるから。
 鳥の世界でも、きっと家族で飛ぶ時だったら、親鳥が子供を守るんだろうし…。
 一生相手を変えない鳥なら、つがいの相手と一緒の時には必ず守っているだろうからな。
 それと同じだ、俺がお前を守ってやる。前のお前を守り損ねた分まで、一生、俺が守るんだ。
 だから、前の俺みたいに見える鳥を探しに、一緒に出掛けてゆくよりはだな…。



 二人で幸せに飛んでゆこう、と言って貰えたから、鳥たちのように二人で飛ぼう。
 ハーレイと一緒に、この地球の上で、幸せに。
 空を飛ぶ力は持っていないから、本当は歩いてゆくのだけれど。
 広い空を一緒に飛んでゆく代わりに、手を繋ぎ合って未来へ歩くのだけれど。
 それでも飛んでゆける空。
 鳥のように空を舞う力が無くても、二人なら、きっと幸せだから。
 青い地球の上を、いつまでも、何処までも、ハーレイと飛んでゆけるのだから…。




              渡り鳥の群れ・了


※渡り鳥の群れと、前の自分たちを重ねて語ったハーレイ。ブルーは無茶をしすぎたのだと。
 確かに、その通りだったかもしれません。渡り鳥の群れには、リーダーはいないそうですが。
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(あっ、赤ちゃん…!)
 可愛い、とブルーが見詰めた親子連れ。学校からの帰りの路線バスで。
 母親に抱かれた赤ちゃんと、幼い娘を膝に座らせた父親と。街に出掛けた帰りなのだろう。良く見える場所に座っているから、つい見てしまう赤ちゃんの姿。
 まだ小さくて、一歳にもなっていないのだろうか。ニコニコ笑顔が可愛らしい。
(トォニィみたいな髪の毛だよ…)
 お揃いの色、と眺めた赤ちゃん。フワフワの巻き毛もトォニィのよう。
 名前はトォニィなんだろうか、と考えたけれど、違った名前。あやす母親が呼んだ名前は、全く違うものだった。トォニィとは似ても似つかない名前。
 けれど、何故だか良く似合う。「あの子はそういう名前なんだ」と。
(みんなトォニィとは限らないよね…)
 あの髪の色で、巻き毛の子供は。
 中にはトォニィもいるだろうけれど、誰もが名付けてしまったら…。トォニィだらけで、きっと困ってしまうと思う。将来、幼稚園に入った時とか、学校に行った時とかに。
(先生が名簿で呼ぶなら、大丈夫だけど…)
 そうでない時、大勢の子供の群れに向かって「トォニィ」と呼んだら、みんなが振り向く。あの髪の色の子たちが、一斉に。
 それは如何にも大変そうだし、トォニィでなくて正解だろう。赤ちゃんの名前。
 本当にトォニィを思わせるけれど。…前の自分が会ったトォニィ、あの子が赤ちゃんだった頃の姿はあんな具合、と。
(今のハーレイに見せて貰ったしね?)
 赤ん坊時代のトォニィの姿。だからそっくりだと思う。本物だったトォニィに。
 可愛いよね、と赤ちゃんを見詰めて、大満足。
 トォニィが赤ん坊だった頃には出会っていないけれども、きっとああいう風なんだよ、と。
 一人っ子で姉はいなかったけれど、両親と一緒で、可愛がられて。



 見惚れてしまっていた赤ちゃん。今は失われた赤いナスカが、平和だった時代を思いながら。
 その内に着いた、自分が降りるバス停。降りようとして席を立ったら、手を振って来た女の子。父親の膝に座った、赤ちゃんの姉。そういえば、その子はこちらを見ていた。何回も。
 挨拶しなきゃ、と「バイバイ」と手を振り返したら…。
「ソルジャー・ブルー!」
 バイバイ、と笑顔が弾けた女の子。「またね」と大きく振られた手。バスから降りても、懸命に手を振っていた。伸び上がって、こちらの方を見ながら。バスが動き出して、走り去るまで。
(…ソルジャー・ブルー…?)
 ぼくが、とポカンと見送ったバス。
 トォニィに似てる、と見ていた赤ちゃんの幼い姉には、ソルジャー・ブルーに見えていた自分。チビだけれども、確かにそっくりだから。銀色の髪も赤い瞳も、髪型だって。
(…それで何度も見てたんだ…)
 自分が弟の方を見ている間に、あの子はあの子で、「あんな所にソルジャー・ブルー」と。
 まだ幼稚園くらいの女の子なのに、「見付けちゃった」と目を丸くして。
 ほんの小さな女の子でも知っていた名前。ソルジャー・ブルーと呼ばれた前の自分の顔も。
(何処から見たって、幼稚園だよ?)
 学校に行くには小さすぎると思うんだけど、と女の子の顔を思い返したけれど。
 よく考えたら、今の自分も幼稚園の頃には知っていた。
 ソルジャー・ブルーという名前を。どういう顔をしていた人かも。
 今の自分の名前は、彼に因んだ名前。アルビノの子供に生まれて来たから、両親が付けた。遠い昔のミュウの英雄、ソルジャー・ブルーの名前を貰おうと。
 けれど、自分の名前が「ブルー」でなくても、さっきの女の子くらいの年なら、もう知っていたことだろう。ソルジャー・ブルーという人のことを。



 ミュウの時代の、青い地球の礎になった偉大なソルジャー・ブルー。
 歴史の授業では必ず習うし、学校に上がる前から何処かで聞く名前。今の時代に生まれたら。
(…大英雄だしね…)
 それにしたって有名過ぎだよ、と溜息をついて帰った家。自分の方では、赤ちゃんのトォニィにすっかり夢中だったというのに、赤ちゃんの姉が見ていたものは…。
(トォニィに似てる弟じゃなくて、ぼくの方…)
 しかもソルジャー・ブルーのつもりだったなんて、と考えてしまう、おやつの時間。母がお皿に載せてくれたケーキを食べながら。
 どうして前のぼくだけが、と。赤ちゃんのトォニィがいたというのに、と。
 トォニィそっくりの弟を自慢すればいいのに、ソルジャー・ブルーの方を見ていた女の子。赤い瞳に銀色の髪で、ただ似ているというだけのことで。
(トォニィだって、英雄だよ?)
 記念墓地にはトォニィの墓碑は無いのだけれども、ミュウの英雄には違いない。ジョミーの跡を継いだソルジャーだったし、ミュウの時代の基盤を築き上げたのだから。
 そのトォニィに似ていた弟、そっちは放ってチビの自分に夢中だった幼い女の子。
(…あの子に小さなお兄ちゃんがいて、その子がジョミーそっくりでも…)
 きっと注目を浴びたのは自分。ジョミーに似ている兄よりも、やっぱりソルジャー・ブルー。
 なんとも酷い、と思うけれども、そうなるのが目に見えている。
(トォニィじゃ駄目で、ジョミーでも駄目で…)
 キースだって、駄目に違いない。ジョミーと同じに英雄だけれど、小さなキースがお兄ちゃんで一緒にいたとしたって、女の子の目が向くのは自分。ソルジャー・ブルーにそっくりだから。
(注目されるの、前のぼくばかり…)
 後の二人のソルジャーの方も、もっと有名でいいと思うのに。
 ソルジャー・ブルーと同じくらいに、ジョミーも、それにトォニィだって。
(一応、人気はあるんだけどね…)
 写真集だって出ている二人。今の時代も人気のソルジャー、ジョミーとトォニィ。
 それなのに、なんで駄目なんだろう、と頬張ったケーキ。
 前のぼくばかり目立たなくてもいいのに、と。トォニィたちにも目を向けてよ、と。



 おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
 勉強机に頬杖をついて、さっきからの続きを考える。前の自分だけが目立っていること。
(校長先生の挨拶、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」は定番だけど…)
 下の学校でも何度も聞いたし、今、通っている学校でも。入学式とか始業式の時の、お決まりの言葉。こうして学校で学ぶことが出来るのも、ソルジャー・ブルーのお蔭だから、と。
(…ミュウの時代にならなかったら、学校どころじゃないものね…)
 ミュウは人類に処分されるか、檻に入れられて実験動物にされてしまうか。学校に通うなど夢のまた夢、生きる権利さえも無かったのが前の自分たち。
 確かに前の自分は「始まりのソルジャー」だったのだろう。初代のミュウたちを乗せていた船、それを守って生きたから。守るために命も捨てたのだから。
 そうは言っても、目立ち過ぎだと思う。…こうして記憶が戻って来たら。
 前の自分の跡を継いだジョミーはとても頑張ったのだし、もっと評価をされるべき。ジョミーがしたこと、それは本当に大きくて凄いことだったから。
(SD体制を倒して、自然出産だって…)
 ジョミーが「命を作ろう」と言わなかったら、トォニィたちは生まれていない。赤いナスカで、ミュウの大地で生まれた子たち。
 彼らは揃ってタイプ・ブルーで、あの子供たちがいなかったなら…。
 ミュウが地球まで辿り着くには、長い時間がかかっただろう。ジョミーの代で行けたかどうか、それすらも分からないくらい。
 ナスカの子たちは、誰もがソルジャー級だったから。戦いを有利に進めることが出来たから。



 その子供たちが生まれた切っ掛け、「命を作ろう」というジョミーの宣言。
 完璧な管理出産の時代に、それを実行に移したジョミー。もう一度、自然出産を、と。
(トォニィだって凄いんだよ…)
 初めての自然出産児。もうそれだけで、前の自分よりも凄いと思う。
 母親の胎内で育った子供。SD体制が始まって以来、そんな子供は何処にもいなかったのに。
 そうやって子供が生まれることさえ、人間は忘れかけていたのに。
 生まれからして凄いトォニィ、誕生自体が歴史の節目。機械の時代の終焉の兆し。
(前のぼくだと、ミュウ因子を持っていただけの子供…)
 トォニィと同じタイプ・ブルーでも、全く違う。
 機械が組み合わせた交配で生まれた、偶然と言ってもいい産物。ジョミーも同じで、人工子宮で育てられた子供。あの時代は、それが普通だったけれど。
(でも、トォニィは本物の…)
 お母さんから生まれた子供なんだよ、と考えた所で気が付いた。
 帰りのバスでも「トォニィみたい」と、赤ちゃんを眺めていたけれど。その赤ちゃんより目立つ前の自分はどうなんだろう、と思ったけれど。
(…前のぼく、ちゃんと知っていたっけ…?)
 キースが人質に取ったトォニィ、あの日、格納庫で出会った時に。
 「人質を一人、解放しよう」とキースが無造作に投げた、幼いトォニィを受け止めた時に。
 トォニィがどういう子供なのか。
 どれほどの価値を持っているのか、どうやって生まれた子供なのかを、前の自分は…。



(えーっと…?)
 遠い記憶を手繰ったけれども、まるで気付いていなかった自分。
 「子供が危ない」と守っただけ。満足に動けもしない身体で飛び出しただけ。
 トォニィを庇って床に叩き付けられて、思念波も紡げなかったほど。ナキネズミのレインの力が無ければ、ブリッジに連絡も出来なかったほどに。
 それでもトォニィを腕にしっかり抱えてはいた。「早く手当てをしなければ」と。
 トォニィは酷い怪我をしていて、仮死状態。早く手術を、と祈ったけれども、たったそれだけ。腕の中にいる幼い子供が、何者なのかは知らなかった。医療班が駆け付けて来るまで、ずっと。
(だったら、いつ…?)
 いつなのだろうか、ナスカの子たちの正体に気が付いたのは?
 医療班はトォニィと自分をメディカル・ルームに搬送しただけ、彼らから何も聞いてはいない。もちろんドクター・ノルディからも。
 何も聞かされた覚えは無いというのに…。
(フィシスに会いに行った時には…)
 もう知っていた。
 赤いナスカで、あの子供たちが生まれたことを。
 自然出産で生まれたのだと、トォニィの他にも、母の胎内から生まれた子たちがいるのだと。



 けれど、全く記憶に無い。
 フィシスに会った時には知っていた子たち、彼らに会った記憶が無い。トォニィにだって、その正体を知った後には…。
(…会っていないよ?)
 それなのに何故、前の自分は、トォニィたちのことを知っていたのだろう。誰からそれを聞いていたのか、まるで記憶に残っていない。
 どうしてだろう、と考え込んでいたら、仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれた。チャイムを鳴らして、「よう」と笑顔で。
 きっとハーレイなら知っている筈、と早速、切り出したトォニィたちのこと。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ…」
「なんだ?」
「前のぼく、ナスカの子たちに会っていないよ」
 トォニィには格納庫で会ったけれども、他の子たちには。
「何を言うんだ、会っただろうが。…メギドの炎を防いだ時に」
 どの子も揃っていたじゃないか。それをジョミーに託してしまって、お前は一人きりでメギドに行っちまったんだ。
 …誰にも応援を頼みもしないで、たった一人で。
「その前だよ…!」
 まだシャングリラもナスカも無事だった頃だよ、逃げたキースが戻って来る前…。
 その時のぼくは、自然出産で生まれた子供たちのことは知っていたけど、会っていなくて…。
 SD体制始まって以来の、初めての自然出産児だなんて、とっても凄いことなのに…。
 会ってみたいと思う筈なのに、どうして会っていないんだろう?
 ぼくに話をしてくれた人は、あの子供たちに会わせようと思わなかったわけ…?
 会わせるつもりが無いんだったら、話す必要、無さそうなのに…。
「おいおい…。そんな酷いことを考える筈が無いだろう」
 本当だったら、前のお前に一番に知らせたいほどのニュースなんだぞ、トォニィのことは。
 お前が目覚めたら話したかったし、前の俺だってそのつもりで…。
 いや、待てよ…?



 そういやそうか、と翳ってしまったハーレイの顔。ほんの一瞬だったけれども。
 「結果的には、そうなっちまったのか…」と、小さな溜息を一つ零して。
「…前のお前には、報告しかしていなかったんだ。目覚めた後は」
「え?」
 目覚めた後って…。どういうこと?
「起きる前なら、話していたということさ。…眠り続けていたお前にな」
 お前の所を訪ねた時には、全部話した。カリナが身ごもった時から何度も、眠るお前の枕元で。
 ゆりかごの歌も歌ってやったろ、トォニィのための子守歌だったからな。
 …いつかお前が目覚めた時には、ゆっくり話そうと思っていた。俺がこの目で見たことを。
 もちろん、あの子供たちも紹介して。
 だが、前のお前が目覚めた時には、トォニィは重傷を負っていただろう。意識も無かった。他の子たちはナスカにいたし…。
 そんな時だったから、「実は、あの子たちは…」と報告がてら話しただけだ。
 前のお前を、ゼルたちと一緒に見舞った時に。
「…そうだったっけ…」
 ホントだ、ハーレイが言う通りだよ。
 前のぼくは自然出産のことも、子供たちのことも、聞かされただけ…。
 キースが船で起こした騒ぎや、脱出したキースを連れて逃げたミュウがいた話と一緒に…。
 それにカリナが死んじゃったことや、シャングリラの被害状況とかも…。



 すっかり忘れてしまっていた。前の自分がナスカの子たちの存在を知った時のこと。
 他の色々な報告と一緒に、自然出産の子供が七人、生まれたのだと聞いただけ。
 トォニィもそうだと知ったけれども、重傷だったから面会謝絶。会ったとしても話は出来ない。他の子供たちは、あの時には、まだナスカの自分の家にいたから…。
(ナスカ、船からでも見られる力は持っていたけど、使えなくて…)
 十五年もの長い眠りから覚めたばかりの弱った身体は、サイオンを自在に使いこなせなかった。船からナスカを見られるほどには。
 充分に回復していたのならば、どんな子たちか見られただろうに。…青の間から。
 けれど出来ずに、「そういう子たちが生まれたのだ」とだけ知った。
 SD体制始まって以来、初めての自然出産児。母の胎内から生まれた子供。ミュウという種族の未来を担う子。
(幸せに育って欲しい、って…)
 一番初めに考えたことは、それだった。
 記念すべき自然出産児の子供たちの未来に、幸多かれと。幸せな未来を掴んで欲しいと。
 会えたら彼らを祝福しようと、この目で見たいと強く願った。
 トォニィの怪我も跡形も無く治るようにと、目覚めたら話し掛けたいと。
 「はじめまして」と、「君がトォニィ?」と。
 自分に残された時間が少ないことは悟っていたのだけれども、ミュウの未来を生きる子だから。



 最初は本当にそうだった。…トォニィにも、他の子供たちにも、会って話をしたかった。
 そう思ったのに、次々と昏睡状態に陥った子たち。治療のためにと、ナスカからシャングリラに運び込まれて来た子供たち。
 それで気付いた異変の兆候。フィシスが恐れた不吉な風。…赤いナスカに死の風が吹く。
(変動の予兆なんだ、って…)
 眠り続ける子供たち。彼らの眠りが示しているのは、ナスカに訪れるだろう滅びの時。
 そう思ったから、子供たちを見舞いに出掛けなかった。
 彼らの誕生を知った時には、姿だけでも船から見たいと願ったのに。会って話したかったのに。
 今、出掛けたなら、眠る彼らを見られるのに。
(…だけど、あの子たちは…)
 次の時代を生きてゆく子たち。これから訪れる破滅を乗り越え、ミュウの未来へゆく子供たち。
 彼らはこれから生きてゆくのだ、と考えただけで竦んだ足。
 下手に会ったら、きっと泣き出すだろうから。…眠る子供たちを見ただけでも。
(ぼくの命は尽きるのに…)
 ナスカで尽きる予感がするのに、子供たちはミュウの未来を生きる。
 自分の旅は此処で終わって、青い地球へは行けないのに。青い星は夢で終わるのに。
 けれど、トォニィたちの命はこれから。
 ミュウの未来を生きて、生き抜いて、きっと地球まで行くのだろう。
 そんな彼らには、とても会えない。
 彼らの未来が羨ましすぎて、泣き出すことが分かっているから。
 その場では涙を堪えたとしても、青の間に一人、戻った途端に、涙は堰を切るだろうから。



 会えはしない、と思った子たち。自分は見られない、青い地球まで行く子供たち。
(あれって、嫉妬してたんだよね…)
 未来を生きる子供たちに。寿命が尽きる自分と違って、輝かしい未来を持つ子供たちに。
 今から思えば、我慢して会っておけば良かった。一人一人に祝福の言葉を贈るべきだった。前の自分が妬んだ子たちは、七人揃って地球には着けなかったから。
(…アルテラも、コブも、タージオンも…)
 地球を見ないで逝ってしまった。ミュウの未来を作るためにだけ、戦って暗い宇宙に散った。
 彼らにも夢があっただろうに。
 あんな時代に生まれなかったら、子供らしく生きて育ったろうに。
 今の自分が、こうして生きているように。両親に愛されて、幸せに育って来たように。
 なのに、未来が無かった彼ら。…前の自分が嫉妬した未来、それを持ってはいなかった子たち。
 ああなるのだったら、前の自分は、なんと酷いことをしたのだろう。
 「あの子供たちには未来があるから」と、嫉妬して会わなかっただなんて。
 会えば自分が辛くなるから、顔を出しさえしなかったなんて。
 本当だったら、誰よりも先に、言葉を贈るべきだったのに。
 前の自分が後継者にと選んだジョミー、彼が望んで生まれた子たち。ミュウの未来を担ってゆく七人の子供たち。
 ミュウの未来をよろしく頼むと、ジョミーと一緒にどうか地球へと、頼むべきだった子供たち。
 それをしないで、前の自分は殻の中に一人、籠っていた。
 自分は行けない地球を見る子たち、彼らには未来があるのだから、と。



 なんとも、みっともない話。…前の自分の、ソルジャー・ブルーとも思えない行動。
 どうしようかと迷ったけれども、抱えていても仕方ない。それに自分は生まれ変わりで、弱虫でチビの子供だから、と今のハーレイに打ち明けた。「ホントはね…」と。
「…前のぼく、トォニィやナスカの子たちに、会えるチャンスがあったのに…」
 話をするのは無理だったけれど、お見舞いだったら行けたのに…。
 だけど行かずに、放っておいてしまったんだよ。…あの子たちは地球に行くんだから、って。
 ぼくは見られない地球を見られる、幸せな子供たちだから、って…。
 みっともないよね、ホントに酷い…。自分のことしか考えてなくて、おまけに嫉妬…。
 あの子供たちは、揃って地球には行けなかったのに…。アルテラたちは死んじゃったのに…。
「みっともないって…。それが普通だろ?」
 人間としては、ごくごく普通の感情だ。自分よりも恵まれているヤツが、羨ましいと思うのは。
 この野郎、と思っちまうのも。
 相手が小さい子供だろうが、やっぱり考えちまうだろうが。「お前は幸せでいいよな」と。
 人間たるもの、そうでなくちゃな、いくらソルジャー・ブルーでも。
 ミュウの初代のソルジャーだろうが、人間には違いないんだから。
「…それが普通って…。本当に…?」
 今のぼくなら仕方ないけど、前のぼくはソルジャーだったんだよ?
「だからこそだな、普通な部分も持っていないと辛いじゃないか。お前自身が」
 お前も最後に人間らしく嫉妬してたか、と俺は嬉しく思っているぞ。
 何の未練も無かったみたいに、真っ直ぐに飛んでっちまったから…。
 もう戻れないと分かっていたのに、前の俺まで捨ててしまって、メギドへな。
「……ごめん……」
 ホントにごめんね、ハーレイを置いて行っちゃったこと…。独りぼっちにしちゃったこと。
 どんなに辛いか考えもせずに、ぼくの形見も残さないで…。
「謝るな。…とっくに終わったことなんだからな」
 それに、あの時は、あれが最善の道だと俺も思っていたんだし…。
 後からよくよく考えてみれば、道は他にも幾つもあった筈なんだがな。



 俺だって選択を誤ったんだ、とハーレイは優しく慰めてくれた。「お前だけじゃない」と。
 「前のお前の嫉妬の方が、選択ミスとしては、よっぽどマシだ」と。
「…お前は子供たちに言葉を贈り損なっただけで、嫉妬も人間にはありがちだが…」
 前の俺のミスは、それどころじゃない。…前のお前を失くしちまった。
 ナスカに残ろうとした仲間たちも大勢喪ったわけで、キャプテンの判断ミスの結果だ。あの時点ではベストを尽くしたつもりでいたって、今から思えば痛恨のミスというヤツなんだから。
 アレに比べりゃ、前のお前の嫉妬くらいは可愛いモンだな。
 そういや、お前…。
 あの子たちのことは、殆ど知らんか。…今のお前が知っているだけで。
「シャングリラでは会わないままだったけれど、ちゃんと会えたよ?」
 メギドの炎を受け止めた時に、ナスカの上空で。
 いきなり成長しちゃっていたから、トォニィ以外は小さかった頃を知らないけれど…。
 それでも一人残らず会えたし、気を失ってた子供以外は声も聞けたよ。
 …ペスタチオとツェーレンは、ジョミーが連れて帰る前には、ぼくが抱えていたんだから。
「だが、その程度しか知らんだろうが。…直接はな」
 お前が知ってる、あの子たちが生まれてからのこと。トォニィも、それにアルテラたちもだな。
 色々なことを知ってる筈だが、それは知識で記憶じゃない。
 今の俺が教えてやったこととか、歴史の授業で習ったことが殆どを占めているんじゃないか?
 お前が直接目にしたものは、ほんの少ししか混ざってなくて。
「…そうなのかも…」
 トォニィだって、会ったのは二回だけだったし…。他の子たちは一回きりだし…。
「もったいないなあ、歴史的な時に生きてたのにな」
 SD体制始まって以来の、初めての自然出産児だぞ?
 前のお前が起きてさえいれば、歴史的瞬間に立ち会えたのに…。
「そうだね…」
 生きていたけど、見損ねちゃったね。…人の歴史が変わる所を。
 人間が人工子宮からじゃなくって、お母さんのお腹から生まれる時代に戻ってゆくのを…。



 前の自分は同じ時代に生きていたのに、眠っていたから何も知らない。
 ジョミーが命を作ろうと決めて、それが実行に移されたことも。自然出産の子供たちがナスカで生まれたことも。
 最初に生まれたトォニィに会っても、その特別さに気付かなかった前の自分。どういう生まれか知っていたなら、もっと大切に抱き締めたろうに。…格納庫で救助を待つ間に。
 「この子が本物の子供なのか」と、「母親の胎内から生まれた子か」と。
 身動きも出来ないほどに弱っていたって、残った力で撫でたり、頬をすり寄せたりもして。
「…前のぼく、ホントに、もったいないことしちゃったね…」
 トォニィが生まれる前から起きていたなら、とてもワクワクしたんだろうに…。
「まったくだ。あの時の賑やかだった空気を知らないなんてな」
 ナスカに入植した時以上に、船も、地上もお祭り騒ぎという有様だ。子供が生まれるんだから。
 俺たちは日々、カリナの出産を心待ちにしていたわけでだな…。
 ん?
 駄目だな、お前は知らなかった方が良かったんだな。…眠ったままで正解だった。
「知らなかった方がいいって…。何を?」
 もったいないって先に言ったの、ハーレイじゃない。なのに、知らなくていいなんて…。
「知らない方がいいことも、世の中には色々あるからな」
 トォニィが生まれた時のことだ。そいつが大いに問題で…。あれは、お前じゃ耐えられないぞ。
「耐えられないって…。何に?」
「出産の痛みというヤツだ」
 凄かったんだ、とハーレイは顔を顰めるけれど。
「何、それ…?」
「だから痛みだ、出産の時の。…トォニィが生まれて来た時のな」
 歴史の授業じゃ、其処まで教えないからなあ…。医者になるための学校だったら別だろうが。
 トォニィを産む時にカリナが味わった痛み、それが俺たちを襲ったってな。
 実は、病室にノルディが張らせた、思念波シールドが破れちまって…。



 病人や怪我人の苦痛を外の人間が共有しないようにと、ノルディが開発した技術。それが思念波シールドだった。サイオンを持つミュウは、手を打たなければ苦痛も共有してしまうから。
 カリナの出産の時にも張られたけれども、不足していたシールドの強度。ノルディが読んだ古い医学書、それに基づいて設定された数値は弱すぎた。
 自然出産が普通だった時代の人間が書いた医学書なのだし、書き手の経験で記された中身。この程度だ、と書かれた内容、ノルディも「そういうものだ」と思った。シールドを設定する時に。
 けれど、違っていた現実。自然出産が消えた時代の人間には、予測不可能だったのが痛み。
 思念波シールドは破れてしまって、皆が痛みを共有した。
 それはとんでもない苦痛というのを、ハーレイもエラも、ゼルも、ジョミーたちも。
 トォニィが無事に生まれて来るまで。…元気が産声が上がった瞬間まで。



 あれは酷かった、とハーレイはフウと大きな溜息をついた。
「お前、寝ていて良かったな。…本当にな」
 もしも、お前が食らっていたなら、残り少なかった命の焔が消し飛びかねん。
 せっかくトォニィが生まれて来たって、俺たちはソルジャー・ブルーを喪うわけで…。
「前のぼくが痛みで死んじゃうだなんて…」
 そんなに凄い痛みだったの?
 前のぼくならソルジャーだったし、アルタミラでも酷い目に遭ったし、痛みに強そう…。
 だけど、駄目なの?
「それを言うなら、前の俺やゼルだって、アルタミラからの生き残りだぞ?」
 長い年月が経ってはいたが、普通よりかは痛みってヤツに強かったかと…。
 だが、アレは駄目だ。…痛みの質が違うってな。
 いかん、思い出したら、なんだか痛くなって来た。今の俺の記憶じゃないっていうのに。
「今のハーレイでも、やっぱり痛いの?」
 柔道だったら投げられたりもするから、今度も痛みに強そうなのに…。
「言っただろうが、痛みの質が違うんだと。…そういった類の痛さとはな」
 尋常じゃないぞ、あの痛みは。
 しかしだ、今は自然出産の時代なんだし…。
 俺のおふくろも、お前のお母さんも、同じ思いをしてくれたんだな…。俺たちのために。
 カリナがトォニィを産んだ時のと、同じ痛みを味わって産んでくれたってことだ。
「そうなるよね…。ぼくもハーレイも、今は本物のママなんだから…」
 だったら、ぼくも知りたいよ。
 前のハーレイたちが共有した痛み、どんなのか、ぼくも知りたいんだけど…!
「おい、お前、今は弱虫だろうが」
 ついでにチビだし、あんなのを食らったら気絶するぞ。…聖痕でも気絶してただろうが。
「あれも痛かったから、大丈夫だよ」
 少しくらいなら、きっと平気だと思うから…。
 ハーレイが今も覚えてるんなら、ちょっとだけ…。
 ほんのちょっぴりでかまわないから、ぼくにも記憶を見せて欲しいな。



 お願い、と頼み込んで、ハーレイに絡めて貰った褐色の手。
 フィシスの地球を見ていた時と同じ要領で、前のハーレイの記憶を送って貰ったけれど…。
「いたたた…!」
「ほら見ろ!」
 言わんこっちゃない、とパッと離されたハーレイの手。「痛かったろうが」と。
「…うん、痛かった…」
 お腹がとっても、と手を当てていたら、「これからだぞ?」と笑うハーレイ。
「今のは、ほんの序の口だってな」
「…まだ酷くなるの?」
「そういうことだな。生まれるまでは、もう酷くなる一方で…」
 どんどん痛くなっていくんだが、続き、見てみるか?
 今は俺から手を離したが、もっとしっかり握ってやるから。…お前が逃げられないように。
「…見てみたい気はするけれど…。でも…」
 気絶しちゃったら、ママが困るし…。病院にだって、連れて行かれるかもしれないし。
「賢明だな。…好奇心だけで見るというのも感心しないし」
 なにしろ、俺のおふくろや、お前のお母さんも味わった痛みなんだから。
 それにカリナは、あんな痛みに耐えてトォニィを産んだんだ。…本当の命を作るためにな。
 チビのお前は、今のヤツで充分だろうと思うが…。
 いつか、俺が気絶したお前の面倒を見てやれるようになったら、味わってみるか?
 痛いとはいえ、貴重な体験には違いない。トォニィ誕生の時の記憶だからな。
 俺以外には誰も知らんし、痛みは記録出来ないんだから。
「…考えとく…」
 さっきの、とっても痛かったから…。
 もうちょっとアレが酷くなったら、本当に気絶しそうだから…。



 今のぼくは前より弱虫だもの、と肩を震わせたけれど、いつかハーレイと結婚したら。
 同じ家で二人で暮らし始めたら、その時は…。
 気絶しても面倒を見て貰えるなら、記憶の続きを見せてくれるように頼んでみようか。
 少しだけでも本当に酷く痛かったけれど、今の時代は、自然出産の時代だから。
 命はあれと全く同じに、紡がれて生まれて来るのだから。
 本来の出産の形だったのに、SD体制の時代は消えていたのが自然出産。
 カリナがそれを取り戻したから、出産は元の姿に戻った。人間が機械に統治される時代、それも自然出産児だったナスカの子たちの力のお蔭で崩壊した。
 あの子供たちがいなかったならば、出来ていないこと。ジョミーとキースの力だけでは。英雄と呼ばれる前の自分が、ソルジャー・ブルーがいただけでは。
 だからこそ、しっかり見ておきたいという気持ちがする。トォニィを産んだ時のカリナの痛み。前のハーレイたちが味わったという、苦痛の記憶を。



(本当の英雄、前のぼくじゃなくって、カリナかもね…)
 今も語られるソルジャー・ブルーなどではなくて、トォニィを生み出した母親のカリナ。
 其処から歴史が始まったから。…本当の意味でのミュウの歴史が。
 人工子宮から生まれた子供ではなくて、母親の胎内で育まれた子供。本物の子供。
 今の自分も、ハーレイもそうやって生まれて来たから、英雄はカリナかもしれない。
 人が人らしく生きてゆく世界、それを取り戻した切っ掛けの英雄。
(…英雄の座なら、いつでも譲ってあげるんだけど…)
 ジョミーやトォニィにも譲りたいけれど、カリナにだって。
 心からそう思うけれども、カリナが聞いたら断られそうな気がしないでもない。
 カリナにとっては、前の自分が、きっと英雄だろうから。
 赤いナスカへ皆を導いたソルジャー、ジョミーを連れて来た英雄。一番最初のミュウたちの長。
 そんな所だ、と思うから…。
(困っちゃう…)
 ホントに厄介、と竦めた肩。
 誰に英雄を譲ろうとしても、どうやら難しそうだから。
 けれども、今の自分は普通の子供なのだし、良かったと思う。
 ソルジャー・ブルーにそっくりなだけの、アルビノなだけの、ただのブルー。
 もう英雄でも何でもないから、ハーレイと二人で幸せに生きてゆけばいい。
 いつかハーレイと結婚式を挙げて、何処までも一緒。
 気絶したって、ハーレイが「大丈夫か?」と面倒を見てくれる、幸せな日々が来るのだから…。




             本物の子供・了


※前のブルーが格納庫でトォニィを受け止めた時は、知らなかった自然出産児だということ。
 そして報告を受けても、ナスカの子たちには会わなかったのです。彼らの未来に嫉妬をして。
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