シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、また新年を迎えました。恒例のお雑煮大食い大会で教頭先生たちに闇鍋を食べさせたり、水中かるた大会で優勝したりと1年A組は新年早々絶好調です。水中かるた大会優勝の副賞は先生方による寸劇だったんですけれど…。
「かみお~ん♪ 昨日の寸劇、最高だったね!」
みんなとっても喜んでたし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今日は土曜日、朝から会長さんの家にお邪魔しています。
「リクエストが沢山あったからねえ、やっぱりやらなきゃ駄目だろうと」
お応えした甲斐があった、と会長さんも。
「ハーレイのバレエは伝説だしさ、たまには披露しておかないと」
「かなり普通じゃなかったがな…」
ただのバレエじゃなかったろうが、とキース君が突っ込むと。
「そりゃまあ…。一応、寸劇ってことになってるし…。先生が二人は必要なんだし」
「あんたが最初にやらかした時は、グレイブ先生も踊っていたと思ったが?」
白鳥の湖の王子役で、とキース君。
「なのに今回は踊りは無しだったぞ、グレイブ先生は」
「演目が赤い靴だしねえ? 踊らなくてもいいんだよ、グレイブは」
最後にハーレイの足を切り落とす役さえ演じてくれれば、と会長さんの返事。昨日のグレイブ先生は一人で何役もこなした挙句に、踊り続ける足を切り落とす首切り役人で…。
「教頭先生の足に一撃、あれは本気がこもってましたよ」
多分、とシロエ君が呟き、サム君も。
「グレイブ先生、一年間、ババを引かされまくっているもんなあ…」
「誰かさんのせいでね…」
誰かが1年A組に来るせいで、とジョミー君。
「本気だって出るよ、足に一撃」
「ぼくのせいだと言うのかい?」
会長さんが訊いて、私たちは揃って首を縦に。会長さんは「心外だなあ…」と頭を振ると。
「グレイブにも娯楽を提供しているつもりだけどねえ? 毎年、毎年」
「娯楽どころか、地獄だろうが!」
娯楽はあんたの勘違いだ、とキース君。その認識で間違ってないと思いますです、グレイブ先生、毎年、毎年、会長さんがやって来るだけで地獄ですってば…。
それはともかく、昨日の寸劇。赤い靴の元ネタはもちろん童話で、靴を履いている限りは踊り続ける呪いがかかった女性のお話。同じタイトルのバレエ映画があるのだそうで、会長さんは童話とバレエを混ぜたのです。
教頭先生は白鳥の湖みたいな白いチュチュに赤いトウシューズで登場、ひたすら色々な踊りを披露し続け、グレイブ先生は赤い靴の童話の靴屋の女将さんとか老婦人とかをこなしまくって、最後が首切り役人なオチ。
グレイブ先生の斧の一撃、教頭先生の踊りが止まっておしまいでしたが…。赤いトウシューズだけが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーということで、勝手に脱げて踊りながら去ってゆくという拍手喝采の寸劇でしたが…。
「何度も訊くがな、なんでグレイブ先生は踊りは無しになっていたんだ!」
踊れる筈だぞ、とキース君。
「バレエの技はサイオンで叩き込まれた筈だし、今だって!」
「分かってないねえ、何年経ったと思っているのさ」
その技を叩き込まれた時から…、と会長さんがフウと溜息。
「グレイブはあれっきりバレエの方は放置なんだよ、誰かと違って」
「「「あー…」」」
教頭先生は今もバレエ教室に足を運んでおられますけど、グレイブ先生については噂も聞いていません。やっぱり習っていなかったんだ…。
「普通は習わないと思うよ、バレエなんかは。ハーレイの方が例外なんだよ」
そして技術がどんどん上がる、と会長さん。
「昨日のバレエも凄かっただろう、回転したって軸足は少しもブレなかったし」
「それはまあ…。技術の凄さは認めるが…」
認めるんだが、とキース君はまだブツブツと。
「教頭先生だけに絞って笑い物にするというのはだな…」
「いいんだってば、グレイブの下手な踊りも一緒に披露するより、あっちの方が!」
そのための題材なんだから、と会長さんは『赤い靴』の利点を挙げました。
「履いてる間は踊りまくるのが赤い靴だよ、自分の意志とは関係無く!」
「それはそうだが…」
「バレエの技術をもれなく披露! ついでにグレイブは斧で一撃、そしてスカッと!」
あれ以上のネタはそうはあるまい、と会長さんは自画自賛。教頭先生のバレエを披露で大ウケでしたし、グレイブ先生が踊ってなくても拍手はとっても大きかったですよね…。
ともあれ、教頭先生のバレエの技が光った昨日の寸劇。実に上達なさったものだ、とワイワイ賑やかに騒いでいたら…。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、とフワリと翻った紫のマント。別の世界からのお客様の登場です。
「ぶるぅ、ぼくにも紅茶とケーキ!」
「オッケー、ちょっと待っててねーっ!」
今日は柚子のベイクドチーズケーキなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッと用意を。ソルジャー好みの紅茶の方も。
「ありがとう! うん、美味しい!」
それでね…、とソルジャーは柚子のケーキを頬張りながら。
「昨日のハーレイの寸劇だけどさ、あれはなんだい? ぼくにはイマイチ分からなくてさ」
「「「は?」」」
「覗き見していたけど、意味が今一つ…。あの靴が問題だったのかな?」
赤いトウシューズ、とお尋ねが。
「履いてる限りは踊り続けるとか何とか言ったし、グレイブが斧で切り付けた後は、あの靴だけが踊りながら去って行っちゃったし…」
「赤い靴の話、知らないのかい?」
もしかして、と会長さん。
「有名な童話なんだけどねえ、君は読んではいないとか?」
「うん、知らない。どういう童話だったんだい?」
まるで知らない、と言うソルジャーのために、私たちは口々に説明していたのですが。
「かみお~ん♪ これで分かると思うの!」
ちゃんと絵本になっているから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が差し出した本。赤い靴の絵本、持っていたんだ…。
「ああ、あれかい? 寸劇に備えての参考資料に買ったんだけど?」
会長さんが答えて、ソルジャーは「ふうん…」と絵本をパラパラめくっていって。
「分かった、赤い靴というのが大切なんだね、主人公はやたらこだわってるけど」
「靴も買えないような子供が初めて貰った靴なんだよ?」
心に残って当然だろう、と会長さん。そのせいで赤い靴が大好きになっちゃうんですよね、あのお話の主人公…。
ソルジャーは絵本がよほど気に入ったのか、何度も読み返してからパタンと閉じて。
「足を切り落とすまで踊り続ける赤い靴かあ…。なんだか凄いね」
切り落とした後まで足だけが踊って行っちゃうなんて、とソルジャーが言うと、会長さんが。
「神様の罰ってことになっているけど、元ネタはそういう病気らしいね」
「「「病気?」」」
なんですか、それは? 踊りまくる病気が存在すると?
「ハンチントン病っていうヤツで…。それじゃないかと言われているよ」
元々は舞踏病と言ったくらいだから、と聞いてビックリ、赤い靴は元ネタがありましたか!
「裏付けってヤツは無いけれど…。その辺から来てるんじゃないかって話」
「ふうん…。踊り続ける病気なのかい?」
そんな病気が、と驚くソルジャー。
「ぼくの世界じゃ聞かないねえ…。舞踏病の方も、ハンチントン病も」
「君の世界だと、根絶済みだと思うよ、それ」
遺伝する病気らしいから、と会長さんが返すと、「なるほどね!」と頷くソルジャー。
「そうなのかもねえ、ぼくの世界は遺伝子治療は基本だからね」
そういう因子は除去するだろう、と流石は未来の医学です。遺伝病くらいは簡単に治せてしまうんだろうな、と皆で感心していたら…。
「でもねえ、赤い靴はとっても使えそうだよ、パワフルだから!」
「「「はあ?」」」
何に使うと言うんでしょうか、赤い靴なんか? ソルジャーの正装は白いブーツですけど、それを赤いブーツにしたいとか?
「うーん…。それも悪くはないんだけれど…。履いている間はサイオン全開っていうのもね」
そして人類軍の船を端から沈める、と怖い台詞が。その船、人が乗ってますよね?
「そりゃ、乗ってるよ! でもねえ、相手は人類だから!」
向こうが殺しにやって来るんだし、こっちから逆に殺したって全く問題無し! とソルジャーならではの見解が。
「赤いブーツでパワフルに殺しまくるのもいいけれど…。どうせだったら、もっと有意義に!」
「何をしたいわけ?」
赤いブーツで、と会長さんが尋ねて、私たちも知りたいような知りたくないような。あれだけ絵本を読んでいたんですし、何か思い付いたことは確かですよね?
赤い靴はパワフルで使えそうだ、と言い出したソルジャー。赤いブーツを履いて人類を殺しまくるという話も出ましたが、それよりも有意義な使い方となると…。
「もちろん、夫婦の時間だよ! パワフルとなれば!」
ハーレイとパワフルにヤリまくるのだ、とソルジャーの口から斜め上な言葉が。
「赤い靴を履くのは、ぼくじゃなくって、ぼくのハーレイ!」
「「「え?」」」
赤い靴はキャプテンの方が履くって、それを履いたらどうなるんですか?
「決まってるじゃないか、夫婦の時間と言った筈だよ! ヤリまくるんだよ!」
赤い靴を履いている限りはガンガンと、とグッと拳を握るソルジャー。
「赤という色は特別なんだろ、こっちの世界じゃ! だから赤い靴!」
ノルディに聞いた、とソルジャーは知識を披露し始めました。
「赤は性欲が高まる色だとかで、赤い下着が流行るって言うし…。健康のために赤いパンツを履く人もいるし、赤は特別な色なんだよ! そこが大事で!」
「…赤い靴の童話は無関係だと思うけど?」
神様がお怒りになった理由はそこじゃない、と会長さん。
「今はともかく、あの童話の時代は教会は厳しかったから…。赤い靴で教会は論外なんだよ」
そしてお葬式の時に赤い靴が駄目なのは今でも同じ、とキッパリと。
「決まりを破った上に、自分を育ててくれた人のお世話もしないで舞踏会に行ってしまうから…。そんなに踊りが好きなんだったら踊り続けろ、という罰だってば!」
「細かいことはいいんだよ! ぼくのハーレイは気にしないから!」
赤い靴の童話はサラッと聞かせるだけだから、と言うソルジャー。
「要はそういう童話があってさ、それに因んだ赤い靴っていうことで!」
性欲も高まる色なんだから、とソルジャーは笑顔。
「この靴を履いてる間はヤリまくれる、と暗示をかければオッケーってね!」
「「「暗示?」」」
「そう! ハーレイは疲れ知らずでヤリまくれるだけのパワーを秘めているからねえ…」
漢方薬のお蔭でね! とソルジャー、得意げ。
「ただねえ、元がヘタレだからねえ…。ぼくへの遠慮があったりするから…」
ぼくが壊れるほどヤリまくれと言っても腰が引けちゃって…、と零すソルジャー。つまりは赤い靴を履かせて、キャプテンの心のタガをふっ飛ばそうというわけですか…?
ソルジャーが魅せられた赤い靴。狙いはどうやら、私の考えで合っていたようで。
「ピンポーン! 赤い靴を履くというのが大切!」
脱がない限りはヤリまくるってことで、とソルジャーは頬を紅潮させて。
「もう最高の暗示なんだよ、赤い靴を履いたらヤるしかないと!」
「なるほどねえ…。赤い靴とは、いいアイデアかもしないけれど…」
靴だけに少々難アリかもね、と会長さん。
「えっ、難アリって…。どの辺が?」
ぼくのアイデアは完璧な筈、と怪訝そうなソルジャー。
「赤い靴はただの靴だけどねえ、暗示をかけるのはぼくなんだよ? ぼくが暗示を解かない限りは、ハーレイはヤッてヤリまくるんだよ!」
「…その暗示。靴を履いてる間だけだろ?」
「そうだけど? だからこその赤い靴なんだよ! 早速何処かでゲットしないと!」
こっちの世界で適当なヤツを買って帰ろう、と言うソルジャーですが。
「買って帰るんだ? …無粋な靴を」
「無粋だって!?」
失礼な! とソルジャーは柳眉を吊り上げました。
「赤い靴の何処が無粋だと? ロマンだってば、赤い靴の話と同じでさ!」
もう永遠にヤリ続ける仕様の赤い靴、と夢とロマンが炸裂しているみたいですけど、会長さんは。
「どうなんだか…。靴を履いてコトに及ぶと言うのはねえ…」
君が気にしないなら、そこはどうでもいいんだけれど、と一呼吸置いて。
「ただねえ、ヤリまくっても脱げない靴を買うとなったら、デザインがねえ…」
下手な靴だと脱げるであろう、と会長さん。
「君の目的は激しい運動を伴うんだよ? それでも脱げない靴となると…」
スニーカーとか、ブーツだとか…、と会長さんは例を挙げました。
「そういう無粋な靴になるけど、君はその手の靴を買うわけ?」
「…そ、そういえば…。ハーレイが普段に履いている靴…」
脱げにくい仕様の靴ではあるけど、運動したら脱げるかも、とソルジャーは「うーん…」と。
「ああいう靴を買おうと思っていたけど、脱げちゃうんだ?」
「多分ね、だからスニーカーとかの無粋な靴だね!」
ロマンも何も無さそうな靴、と会長さん。ソルジャーの野望はこれでアッサリおしまいですかね、赤い靴は脱げてしまうんですしね?
ソルジャーが夢見る赤い靴。履いている限りはキャプテンと大人の時間なのだ、と野望を抱いたみたいですけど、靴はアッサリ脱げるというのが会長さんの指摘。脱げてしまったら靴の呪いならぬ暗示の方も解けちゃいますから…。
「…赤い靴というのは無理があったか…」
ソルジャーが腕組みをして、会長さんが。
「そもそも、靴はそういう時には脱ぐものだしね? 履いたままなんて誰も考えないよ」
路上で襲い掛かる類の暴漢くらいなものであろう、とクスクスと。
「君の暗示がかかっていたなら、暴漢並みの勢いってことも有り得るけれど…。肝心の靴が脱げてしまっちゃ、話にも何もならないってね!」
「…じゃあ、靴下で!」
「「「靴下!?」」」
いったい何を言い出すのだ、と目を剥いた私たちですけれども、ソルジャーの方は本気でした。
「うん、靴下! 靴下だったら脱げないしね!」
それに限る、と頭の中身を切り替えたらしく。
「赤い靴の代わりに赤い靴下! これで完璧!」
「…もう好きにしたら?」
その辺で買って帰ったら、と会長さんが投げやりに。
「今は冬だし、靴下も沢山ある筈だよ。分厚いヤツから普通のヤツまで、選び放題で」
「分かった、買いに行ってくる!」
直ぐ帰るから、と立ち上がったソルジャーに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「んとんと…。お昼御飯は食べないの? もう帰っちゃうの?」
「え、直ぐに帰ると言ったけど?」
「うん、だから…。帰っちゃうんでしょ、靴下を買って」
ちょっと残念、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。お客様大好きだけにガッカリしているみたいです。
「お昼、寒いからビーフシチューにするんだけれど…。朝から沢山仕込んだんだけど…」
「もちろん食べるよ、直ぐに帰るから!」
ちゃんとこっちに帰って来るから、と言われてビックリ、帰るって…こっちに帰るんですか?
「そうだけど? ぼくにも色々と都合があるしね」
じゃあ、行ってくる! とソルジャーは会長さんの家に置いてある私服にパパッと着替えてパッと姿を消しました。赤い靴下を買いにお出掛けですけど、まさかこっちに戻るだなんて…。
赤い靴の童話から、良からぬアイデアに目覚めたソルジャー。履いている限りはヤリまくる靴をキャプテンに履かせるつもりで、それが駄目なら赤い靴下。暗示をかけるらしいですから、靴下を買ったら真っ直ぐ帰ると思っていたのに…。
「ただいまーっ!」
買って来たよ、とソルジャーが紙袋を提げて戻って来ました。会長さんもよく行くデパートの。
「ホントにこの時期、色々あるねえ、赤い靴下! もう迷っちゃって!」
でもシンプルなのが一番だよね、と中から出て来た赤い靴下。キャプテン用だけに大きいです。
「靴下だったら、靴と違ってそう簡単には脱げないし…。これでバッチリ!」
「はいはい、分かった」
それ以上はもう言わなくていい、と会長さん。
「何しに戻って来たかはともかく、そろそろお昼時だから!」
「かみお~ん♪ ビーフシチュー、マザー農場で貰ったお肉なんだよ!」
それをトロトロに煮込んだから、と聞いて大歓声。料理上手な「そるじゃぁ・ぶるぅ」の腕に、マザー農場の美味しいお肉は最高の組み合わせというヤツです。ダイニングに向かってゾロゾロと移動、ビーフシチューに舌鼓。ソルジャーもシチューを口に運びながら。
「これも赤だね、考えようによってはね!」
濃い赤色、と指差すシチュー。
「やっぱり赤にはパワーがあるんだよ、シチューも赤いし、肉だってね!」
生の肉は赤いものなんだし…、とニコニコと。
「赤はパワフルな色で間違いなし! だからね、赤い靴下だって!」
「君の好きにすればいいだろう!」
食事中にまで余計な話を持ち出すな、と会長さんが睨み付けましたが。
「何を言うかな、食事が済んだら忙しくなるし!」
「「「え?」」」
忙しいって…何が?
「赤い靴下だよ、ぼくが暗示をかけるんだから!」
「なんだ、帰るって意味だったのか…。だったら、別に」
今の間に好き放題に喋るがいい、と会長さん。食事が済んだら消えるんだったら、私たちも別に気にしません。赤い靴下だろうが、独演会だろうが、好きにすれば、と思ったんですが…。
「「「教頭先生!?」」」
昼食を食べ終えた私たちを待っていたものは、予想もしていなかった展開でした。食後のコーヒーや紅茶を手にして戻ったリビング、ソルジャーも紅茶を飲んだらお帰りになるものだと信じていたのに、さにあらずで。
「そうだよ、こっちのハーレイなんだよ!」
まずは試してみないとね、と買って来た赤い靴下を手にしたソルジャー。
「履いている限りは解けない暗示をかけられるかどうか、一応、実験しておかないと!」
「迷惑だから!」
そんな実験にハーレイを使うな、と会長さんが怒鳴り付けました。
「ヤリまくるだなんて、困るんだよ! 第一、ハーレイは鼻血体質だから!」
暗示をかけてもヤリまくる前に倒れるから、という意見は正しいだろうと思います。ソルジャーや会長さんが悪戯する度に鼻血で失神、そういうのを何度も見て来ましたし…。
「いきなりそっちはやらないよ! 赤い靴の通りにするんだけれど!」
「「「へ?」」」
「踊る方だよ、踊り続けるかどうかを試すんだよ!」
それならいいだろ、とソルジャーが広げてみせる赤い靴下。
「これはバレエの靴とは違うし、爪先で立って踊るっていうのは無理かもだけど…。とにかく踊り続けるように、という暗示をね!」
「…踊る方かあ…」
そっちだったら害は無いか、と会長さん。
「そういうことなら、好きにしたら? バレエだろうが、フラメンコだろうが」
「フラメンコなんかも踊れるんだ? こっちのハーレイ」
「バレエと同じで隠し芸だよ、バレエほどには上手くないけど」
「分かった、他にも色々な踊りが出来そうだねえ!」
こっちの世界は踊りが多いし、とソルジャー、ニッコリ。
「盆踊りだけでもバラエティー豊かにあるみたいだし…。バレエに飽きたら、それもいいねえ!」
「飽きたらって…。どれだけ踊らせるつもりなのさ?」
「赤い靴下を履いてる限り!」
夜も昼も踊り続けるんだろう、とソルジャーは赤い靴の絵本をしっかり覚えていました。こんなソルジャーに目を付けられてしまった教頭先生、踊りまくる羽目に陥るんですか…?
それから間もなく、ソルジャーが「さて…」とソファから立ち上がったので、出掛けるんだと誰もが思ったんですけれど。
「もうハーレイを呼んでもいいかな?」
「「「え?」」」
呼ぶって、教頭先生を? 此処へですか?
「そうだけど…。踊らせるんなら、家は広いほどいいからねえ!」
ハーレイの家は此処より狭いし、とソルジャーが言う通り、会長さんの家は広いです。マンションの最上階のフロアを丸ごと使っているんですから。
「ハーレイを此処に呼ぶだって!?」
冗談じゃない、と会長さんが言い終えない内にキラリと光った青いサイオン。ソルジャーがサイオンを使ったらしくて、教頭先生がリビングの真ん中にパッと。
「…な、なんだ!?」
何事なのだ、と周りを見回した教頭先生に、ソルジャーが。
「こんにちは。見ての通りに、此処はブルーの家なんだけど…。ちょっと協力して欲しくてねえ、ぼくの大事な実験に!」
「…実験……ですか?」
「そう! 一種の人体実験だけれど、薬を使うわけじゃないから!」
身体に害は無い筈だから、とソルジャーは笑顔全開で。
「害があるとしたら、筋肉痛になるくらいかな? だけど、君は普段から鍛えているし…。そっちの方も平気じゃないかと」
「筋肉痛とは…。それはどういう実験ですか?」
「赤い靴だよ。昨日の寸劇、凄かったねえ!」
君の踊りはぼくも覗き見させて貰ったよ、と踊りの凄さを褒めるソルジャー。
「あれほどの踊りをモノにするには、ずいぶん練習したんだろうねえ?」
「ええ、教室にはずっと通っていますから…」
「頼もしいよ! それなら踊り続けていたって大丈夫だよね?」
「…踊りですか?」
それはどういう…、と尋ねた教頭先生に、ソルジャーが「これ!」と突き付けた赤い靴下。
「この靴下を履いてくれるかな? そしたら分かるよ!」
君が履いてる靴下を脱いで…、と言ってますけど。教頭先生、素直に履き替えるんですかねえ?
「…赤い靴下…」
もしやそれは、と靴下を見詰める教頭先生。
「普通の靴下のように見えますが、赤い靴の話が出て来るからには、履いたら最後、踊り続けるしかない靴下でしょうか…?」
「大正解だよ! 実はね、ぼくが本当に目指す所は踊りじゃなくって…」
「やめたまえ!」
言わなくていい、と会長さんが止めに入りましたが、ソルジャーは。
「誰かが言うなと喚いてるけど、きちんと説明しておかないとね? ぼくが目指すのは、夫婦の時間を盛り上げるための靴下で!」
「…はあ?」
怪訝そうな顔の教頭先生。それはそうでしょう、赤い靴の話とソルジャーの発想が結び付くわけがありません。ソルジャーは「分からないかなあ?」と頭を振って。
「履いてる間はヤリまくる靴下を作りたいんだよ! もうガンガンと!」
自分の意志とは関係なしに無制限に…、と言われた教頭先生はみるみる耳まで真っ赤になって。
「そ、その靴下を作るための実験台ですか…?」
「話が早くて助かるよ! ぼくのハーレイに履かせたくってね、その前に君の協力を…」
お願い出来る? と訊かれた教頭先生、鼻息も荒く「はい!」と返事を。
「喜んでやらせて頂きます! …それで、そのぅ…。私の相手は…」
ヤリまくる相手は誰になるのでしょう、という疑問は尤もなもの。ソルジャーは「えーっと…」と首を捻って。
「ぼくだと嬉しくないんだろうし…。ブルーの方がいいんだよね?」
「もちろんです!」
「ブルーなら、其処にいるからさ…。頑張ってみれば?」
「はいっ!」
この靴下を履けばいいのですね、とソルジャーから赤い靴下を受け取る教頭先生。ソルジャーが先に言っていた踊りの話や筋肉痛の件は頭から抜け落ちてしまったようです。会長さんも気付いたみたいで、怒る代わりにニヤニヤと。
「聞いたかい、ハーレイ? 人体実験、頑張るんだね」
「うむ。…これに履き替えればいいのだな」
赤い靴ならぬ赤い靴下とは面白い、と履いていた靴下を脱いでおられる教頭先生。鼻血体質のくせにやる気満々、赤い靴下を履けばヘタレも直ると思ってたりして…?
教頭先生が脱いだ靴下は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が片付けようとしたんですけど、会長さんが「待った!」と一声。
「そんな靴下、置いておかなくてもかまわないから! 臭いだけだから!」
「…く、臭い…?」
そうだろうか、と衝撃を受けてらっしゃる教頭先生。会長さんはフンと鼻を鳴らして。
「自分じゃ分からないものなんだよ、この手の悪臭というヤツは! ぶるぅ、ハーレイの家に送っておいて!」
「オッケー、洗濯物のトコだね!」
消えてしまった教頭先生の靴下、ご自分の家の洗濯物の籠へと瞬間移動で放り込まれたようです。まだ呆然と裸足で立っておられる教頭先生に、ソルジャーが。
「気にしない、気にしない! ブルーも照れているんだよ!」
「…そ、そうでしょうか…?」
「そりゃあ照れるよ、ヤリまくろうって言うんだよ? さあ、気を取り直して!」
赤い靴下を履いてみようか! と促すソルジャー。教頭先生も「そうですね!」と。
「では、早速…。どちらの足から履いてもいいのですか?」
「特にそういう決まりは無いねえ、履くということが大切だからね!」
「分かりました。それでは、失礼いたしまして…」
よいしょ、と右足を上げて立ったままでの靴下装着。続いて左足にも装着で…。
「「「………」」」
どうなるのだろう、と固唾を飲んで見守っていた私たち。両足に赤い靴下を履いた教頭先生の左足が床に下ろされ、初めて両足で立った途端に。
「「「!!?」」」
バッ! と高く上がった教頭先生の右足、頭の上までといった勢いで。バレエでああいうポーズがあるな、と思う間もなく…。
「「「わあっ!」」」
私たちの声と重なった野太い声。教頭先生が上げた驚きの声で、その声の主は凄い速さでクルクルと回転中でした。左足を軸に、さっき上げていた右足を曲げたり伸ばしたりしながらクルクル、いわゆるバレエの回転技で。
「「「うわー…」」」
本当に踊る靴下だったか、と見ている間もクルクル回転、バレエの技術はダテではなかったようです。トウシューズが無くても回れるんですねえ、それなりに…。
いきなり始まった、教頭先生の大回転。グランフェッテと言うんでしたか、バレエの連続回転技は三十二回転がお約束。グルングルンと回り続けた教頭先生、回り終えたら深々とお辞儀、これまたバレエでやるお辞儀。
「あれ、止まってない?」
お辞儀してるけど、とジョミー君が言い終わる前に、教頭先生の片足がまたバッと上がって、今度は両足でクルクル回転しながら移動してゆきます。あれもバレエの技でしたよね?
「うん。…その内にジャンプも出るんじゃないかな、何を踊るつもりかは知らないけれど」
足任せってトコか、と会長さんが無責任に言った所へ、教頭先生の声が重なって。
「なんなのだ、これは! あ、足が勝手に…!」
「ブルーの説明を聞いていただろ、赤い靴だって!」
それに昨日の寸劇も…、と会長さん。
「赤い靴の代わりに靴下なんだよ、履いてる間は踊り続けるしかないってね!」
「わ、私はそうは聞かなかったが…!」
「ヤリまくれると思ったのかい? ブルーは筋肉痛になるとも言ってたけどねえ!」
まずは踊りで実験なんだよ、と会長さんは声を張り上げました。
「ブルーがかけてる暗示らしいよ、その靴下を履いてる限りは踊り続けろって!」
「そ、そんな…!」
これではただの間抜けでしか…、と叫ぶ間も止まらない足、お得意のバレエの華麗な技が次々と。ソルジャーが「素晴らしいよ!」と拍手して。
「フラメンコとかも出来るんだってね? 次はそっちで!」
「ふ、フラメンコ…!?」
教頭先生にはその気は無かったと思います。けれども、赤い靴下なだけに…。
「「「わわっ!?」」」
優雅なバレエの足さばきから変わったステップ、これは明らかにフラメンコ。会長さんが手拍子を打って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の手にはカスタネットが。
「「「オ・レ!」」」
さあ踊れ! と私たちも手拍子、フラメンコの次は誰が言ったか盆踊り。外の寒さも吹き飛ぶ熱気がリビングに溢れて、教頭先生は次から次へと踊りまくって、踊り狂いながら。
「ま、まだ踊るのか? 止まらないのか…!」
どうして靴下でこんなことに、と叫ぶだけ無駄な止まらない足、赤い靴下で踊る両足。このまま踊るだけなんですかね、あの靴下…。
履いたらヤッてヤリまくれると教頭先生が信じた、赤い靴下。教頭先生の足は休むことなく踊り続けて、たまにお辞儀やポーズなんかで一瞬止まって、また踊るという有様で。
「悪くないねえ、こういうのもさ」
君がハーレイを呼ぶと言い出した時には焦ったけれど、と会長さん。
「ハーレイの家で踊らせておけ、と思ったけれども、これもなかなかオツなものだよ」
「そうだろう? 高みの見物に限るからねえ、他人を見世物にする時はさ」
君の家だからこそ、美味しいおやつを食べながら見られるというもので…、とソルジャーも。
「ハーレイの家で見るんだったら、お菓子とかは持ち込みになっちゃうからね」
「かみお~ん♪ ここなら作って食べられるもんね!」
ハーレイがちょっと邪魔だけど、とヒョイとよけながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」が運んで来てくれるお菓子や飲み物。踊り続けている教頭先生は全くの飲まず食わずですけど。
「…おい、いい加減、止めたらどうだ」
何時間踊らせているんだ、あんた…、とキース君が。
「もうすぐ晩飯になるんだが…。ずっと踊っておられるんだが!」
「ああ、そうか…。晩御飯ねえ、ぼくも食べたら帰って本番が待ってたっけね!」
赤い靴下の本物でハーレイと楽しむんだった、とソルジャー、ようやく気が付いたらしく。
「踊り続けられるってことは分かったし、本番の方も実験しないと…!」
「ちょ、ちょっと…!」
本番って何さ、と会長さんが言うよりも早く、キラリと光った青いサイオン。教頭先生の踊りが止まって、もうヘトヘトといった足取りながらもフラフラと…。
「え、ちょっと…!」
何を、と後ずさりした会長さんの両肩にガシッと置かれた教頭先生の両手。そのまま会長さんを床へ押し倒し、のしかかったからたまりません。
「「「ひいいっ!!」」」
会長さんも私たちも悲鳴で、シロエ君が。
「と、止めないと…! ヤバイですよ、これ!」
「よし!」
行くぞ、と駆け出したキース君たち柔道部三人組でしたけど。
「「「………」」」
まるで必要なかった救助。教頭先生は踊り続けて血行が良くなりすぎていたのか、鼻血の海に轟沈なさっておられました。赤い靴下、効いたみたいですけど、意味は全く無かったですねえ…。
こうして赤い靴下の効果が証明されて、ウキウキと帰って行ったソルジャー。失神してしまった教頭先生を瞬間移動で家へと送り返して、まだ何足も袋に入っていた赤い靴下をしっかり持って。
教頭先生に襲われかかった会長さんはプリプリ怒っていましたけれども、あれは未遂で実害は無かったわけですし…。
「いいけどね…。あの程度だったら、よくあるからね」
ブルーが何かと焚き付けるせいで、とブツブツと。それでも頭に来ているらしくて、憂さ晴らしだとかで、夜は大宴会。ちゃんこ鍋パーティーの後はお泊まりと決まり、夜食も食べて騒ぎまくって、眠くなった人からゲストルームに引き揚げて…。
「…来なかったな?」
あの馬鹿は、とキース君が尋ねた次の日の朝。ダイニングに揃って朝食の時です。
「来てないと思うよ、ぼくは知らない」
最後まで起きていたのはシロエだっけ、とジョミー君が言うと。
「そうですけど…。ぶるぅと一緒にお皿とかをキッチンに運びましたけど、見ていませんね」
「来るわけねえだろ、ウキウキ帰って行ったんだしよ」
あっちの世界で過ごしてるんだぜ、とサム君が。
「赤い靴下、どうなったのかは知らねえけどよ…。基本、夜には来ねえよな」
「そうよね、夜中は来ないわねえ…」
キャプテンが忙しい日は別だけど、とスウェナちゃん。確かに、そういう時しか夜には現れないのがソルジャーです。夫婦の時間とやらの方が優先、こっちの世界に来るわけがなくて。
「…すると、危ないのは今日の昼間か…」
赤い靴下の自慢に来るかもしれん、とキース君が呟き、会長さんが。
「レッドカードだね、もう間違いなく!」
あんな靴下の自慢をされてたまるものか、という姿勢。私たちだって御免ですけど、レッドカードが効かない相手がソルジャーです。意味不明な話を延々と聞かされる覚悟はしておこう、とトーストや卵料理やソーセージなんかを頬張っていたら。
「えとえと…。赤い靴の絵本、誰か見なかった?」
リビングから消えていたんだけれど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。朝一番に片付けに行ったら無かったのだそうで、誰かが持って行ったのかと思ったらしいのですが。
「「「えーっと…?」」」
心当たりのある人はいませんでした。ソルジャーが持って行ったんでしょうかね、キャプテンに赤い靴の話を説明するにはピッタリですしね…?
赤い靴の絵本は出て来ないままで、ソルジャーの方も来ないまま。平和に午前中が終わって、お昼御飯は煮込みハンバーグ。美味しく食べて、リビングに移って紅茶やコーヒーを飲んでいたら。
『誰か助けてーーーっ!!!』
「「「???」」」
誰だ、と顔を見合わせましたが、欠けている面子は一人もいません。気のせいだったか、と紅茶にコーヒー、それぞれのカップを傾けようとした所へ。
『助けてってば、誰でもいいからーーーっ!!!』
「…何か聞こえたな?」
あの馬鹿の声に似ているようだが、とキース君。
「似てるけど…。なんで、ぼくたちに救助要請?」
シャングリラの危機ってわけでもなさそうだけど、とジョミー君が言い、マツカ君が。
「誰でもいいなら、違いますよね?」
「ブルーを名指しじゃねえからなあ…?」
俺たちじゃシャングリラは助けられねえし、とサム君がリビングをキョロキョロと。
「けどよ、助けは要るんじゃねえのか? 何か知らねえけど」
「状況が全く分かりませんしね、どう助けるのかも謎ですよねえ…」
きっと何かの冗談でしょう、とシロエ君が纏めかけたのですが。
『赤い靴下だよ、赤い靴下が脱げないんだよーーーっ!!!』
昨夜からずっとヤられっぱなしで、とソルジャーの悲鳴。
『いくらぼくでも、このままだと本気で壊れるから! もう本当に壊れちゃうから…!』
腰が立たないくらいじゃ済まない、という思念には泣きが入っています。赤い靴下で壊れそうだということは…。
「自分で何とかすればいいだろ、君が暗示をかけたんだから!」
靴下くらいは脱がせたまえ! と会長さんが思念を投げ付けると。
『それが出来たら困らないってば、本当に赤い靴なんだってばーーーっ!!!』
脱げなくなってしまったのだ、とソルジャーの思念は涙混じりで、おまけに何度も乱れがちで。
『今だってヤられまくってるんだよ、もう死にそうだよ…!』
「思念を送ってこられるんなら、脱がせられるだろ!」
君の力なら充分に、と会長さんが言うのも納得です。ソルジャーのサイオンは会長さんとは比較にならないレベルなんですし、赤い靴下を脱がせるくらいは楽勝だと思ったんですけれど。
『ぶるぅだってば、ぶるぅが赤い靴下を…!!!』
赤い靴の絵本を読んだらしい、と泣き叫んでいるソルジャーの思念。キャプテン用にと持って帰った絵本を悪戯小僧の「ぶるぅ」までが読んで、赤い靴下に悪戯したようで…。
『脱げないようにしちゃったんだよ、もう本当に脱げないんだよ…!!』
ぼくもハーレイも努力はしたのだ、という絶叫。
『でも、ハーレイは元々脱げないように暗示をかけてあったし、ぼくはヤられてる最中なだけに、集中するにも限度があるし…。ああっ!』
ダメ、と乱れている思念波。キャプテンにヤられまくっている最中だけに無理もないですが。
『こ、こんな調子じゃ、ぶるぅにも敵わないんだよ…! お願い、誰かーーーっ!!』
ハーレイの赤い靴下を脱がせてくれ、と頼まれたって困ります。救助に行くにはソルジャーの世界へ空間移動が必要な上に、私たちの力で「ぶるぅ」なんかに勝てるかどうか…。
「…まず無理だな?」
俺たちで勝てるわけがないな、とキース君が腕組みをして、会長さんが。
「ぼくとぶるぅでも、二人がかりで勝てるかどうかは謎だしねえ…」
『そう言わないで! 誰か助けてーーーっ!!!』
もう本当に壊れてしまう、と叫ぶ思念に、会長さんは。
「赤い靴の絵本を読んだからには、脱げなくなったら、どうするかは分かっているだろう?」
『ま、まさか…』
「足を切り落とせばいいってね! それが嫌なら、そのままで!」
ヤられておけ! と会長さんが張った思念波を遮断するシールド。普段だったら、ソルジャー相手に効果は全く無いんですけど、今回は…。
「…静かになった?」
もう聞こえない、とジョミー君が耳を澄ませて、シロエ君が。
「どうせ何日か経ったら来ますよ、恨み言を言いに」
「だろうね、助けてくれなかったと文句を言うんだろうけど、自業自得と言うものだし…」
それまで平和を楽しんでおこう、と会長さんが紅茶をコクリと。ソルジャーが持って帰った赤い靴下、エライ結末になったようですけど、赤い靴の話は本来、そういう話。壊れるのが嫌なら足を切り落とせばいいんですから、放っておくのが一番ですよね~!
赤い靴の呪い・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
赤い靴のお話からソルジャーが思い付いたのが、赤い靴下。履いている間は、ノンストップ。
教頭先生で実験も済ませて自信満々、けれど、ぶるぅの悪戯で赤い靴のお話そのもの…。
次回は 「第3月曜」 10月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、9月は秋のお彼岸なシーズン。今年はサボるという方向で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(あれ…?)
なんだかいつもと感じが違う、とブルーが立ち止まった場所。学校からの帰り道。
バス停から家まで歩く途中で、普段と全く同じ道筋。其処にあるのは見慣れた生垣の家なのに。学校がある日は毎日通るし、今朝も通っていった筈。その時は感じなかった違和感。
(えーっと…?)
この家の人は…、と住人の名前を確認しようと眺めたポストで気が付いた。門扉の隣にポストがつけてあるのだけれど…。
(変わっちゃってる…!)
ポストに書かれた名前は同じ。幼い頃から知っている名前で、この家に住む御主人と奥さん。
それは変わっていないのだけれど、ポストのデザインと色がすっかり。見慣れたポストは消えてしまって、違うポストがくっついていた。
(このせいなんだ…)
家に比べれば小さいポスト。生垣のアクセントのように。
だからポストの前に立つまで気付かなかった。小さな箱の存在に。郵便や新聞などを飲み込み、雨や風から守る箱。
あると分かったら、前に見ていた箱との違いは…。
(大きいよね?)
しげしげと見詰めた新しいポスト。まるで変わってしまったデザイン。前のポストは、ごくごく平凡だったと思う。特に目を引くものでもなくて。
けれど今のは、小さな家の形のポスト。屋根の部分が蓋なのだろう。カラフルに塗られて、窓や玄関扉まで。オモチャの家かと思うくらいに。
こんなに違うと、別の人が住んでいるかのよう。書かれた名前は同じなのに。会った時には挨拶している、顔馴染みの御主人と奥さんなのに。
変身を遂げた郵便受け。門扉の隣の小さなポスト。家の印象が変わったくらいに、意外なほどの存在感。家の形をしているとはいえ、本物の家とは比較にならないミニサイズなのに。
ポストでこんなに変わるなんて、と生垣や家全体を見回してから、また見たポスト。カラフルで可愛い小さな家。
(御主人の趣味かな?)
それとも奥さんの方だろうか、と考え込んでいたら、出て来た御主人。庭の手入れをしに、家の裏からクルリと回って。
「ブルー君?」
今、帰りかい、と穏やかな笑顔。
「こんにちは! えっと…」
訊いていいのかな、と迷ったポスト。どう切り出せば…、と出て来ない言葉。そうしたら…。
「ポストだろう?」
すっかり変身したからねえ、と可笑しそうに近付いて来た御主人。ポストの側まで。
生垣越しにポストの屋根を触って、「こう開けるんだよ」と上げてくれた蓋。やっぱりパカリと屋根が開く仕掛け。窓と玄関はただの飾りで、そちらの方は開かないらしい。
けれど、飾りの窓と玄関。それも開きそうに見えるくらいに、きちんと作り込まれたポスト。
御主人の話では、遠い地域に住む娘さんからのプレゼント。結婚して、其処に引越して行った。その娘さんが子供たちと一緒に選んだポスト。
「素敵なポストを見付けたから」と届けられた箱。お孫さんが描いた絵や手紙もついて。
そういうわけで、御主人が取り付けた新しいポスト。前のポストは外してしまって。
「あっちの地域だと、こういうのが普通らしいんだけどね。娘が言うには」
家の形は当たり前だそうだよ、他にも色々あるらしくって…。車なんかの形のも。
せっかく送ってくれたんだから、と付けてみたけれど、この家には、どうも…。
前のポストの方がいいような、と御主人は何処か心配そうだから。
「似合っていると思うけど…」
このポストも、と触ってみたポスト。窓と玄関はホントに飾りだ、と。
「そうかい? これも似合うかい?」
「ホントはちょっとビックリしたけど…。気が付いた時は」
いつもと感じが違ったから。…なんでだろう、って立ち止まっちゃった。この家の前で。
「そうだろうねえ、ポストは家の顔だから」
家の感じも変わると思うよ、これが変わってしまっただけでね。
「え…?」
家の顔って…。家の形のポストだから、っていう意味じゃないよね?
キョトンとしたら、「まあね」とポストの屋根をつついた御主人。
「普通は玄関のことを言うんだけどね。…家の顔と言えば」
ただ、この辺りだと、どの家も生垣ばかりだし…。庭もあるから、玄関は道を通る人の目には、直ぐに飛び込んでは来ないだろう?
だからポストが顔なんだよ。こういう人が住んでいます、といった所かな。
「そっか…!」
分かった、と顔を輝かせたら、御主人はポストを指差した。
「私はこんな顔になったらしいよ、この家の顔はこうだから。…なんだかねえ…」
「ハンサムだと思う!」
とても素敵なポストだもの。まるで本物の家みたいで。
「ありがとう、ちょっと自信がついたよ。…このポストとも仲良くやっていけそうだ」
実は恥ずかしかったものでね、と照れた御主人。「前のポストは地味だったのに」と。
とはいえ、今日からはこういう顔だし、どうぞよろしく、と。
カラフルなポストの家と別れて、自分の家まで帰って来て。
(ポストって、家の顔なんだ…)
まじまじと眺めた、門扉の横にあるポスト。ごくありふれた形のポストで、さっきの小さな家の形のポストのようにはいかないけれど。パッと人目を引きはしないけれど…。
(でも、お隣のとは違うしね?)
何処の家のも似たようなポスト、それでも何処か違うもの。大きさや素材や、塗ってある色で。家の前からグルリと見渡せる範囲に、そっくり同じポストは無い。ただの一つも。
さっきの御主人が言った通りに、ポストは家の顔なのだろう。郵便物を届けてくれる人も、新聞配達をしている人も、この顔を見ながら入れるのだろう。「此処は、こういう顔の家だ」と。
そうなってくると…。
(ハーレイが見てるの、ぼくの顔なの?)
いつもハーレイが鳴らすチャイムも、ポストと同じに門扉の側。きっとポストも見ている筈。
「ブルーの顔だな」と眺めているのか、それとも父か、あるいは母の顔なのか。
(…どの顔なわけ?)
ポストには父と母の名前と、自分の名前。誰の顔でも良さそうだけれど、家の顔なら家族全員が揃うのだろうか?
(家の形のポストは、おじさんの顔だって言ってたし…)
ならば、このポストも父の顔になるのか、悩ましい所。父らしいと言えば父らしいポスト。母の顔にも思えたりするし、なんとも謎なポストの正体。
家の顔なのは確からしいけれど、いったい誰の顔なのかが。
考え込みながら暫く見詰めて、門扉を開けて入った庭。本物の家の顔らしい玄関、其処を通って家の中へと。自分の部屋で着替えを済ませて、おやつを食べにダイニングに行くと…。
「ブルー、家の前で何をしてたの?」
直ぐに入らずに立っていたでしょ、と母に訊かれた。何処かの窓から見ていたのだろう。
「ポストを見てた…」
「あら。郵便、来てた?」
お買い物の帰りに、持って入って来たんだけれど…。あれから後にまた来たのかしら?
それとも取り忘れた分があったかしら、と母が見ている庭の方。ポストがある辺り。
「見てただけだよ、ポストは家の顔だから」
「家の顔…?」
ポストがそうなの、と怪訝そうな母。きっと玄関がそうだと思っているだろうから…。
「あのね…。ホントは玄関のことらしいんだけど…」
今日の帰りに聞いたんだよ。ママも知ってるでしょ、あそこの家。
ポストが違うのに変わっちゃってて、おじさんが「この家の顔なんだよ」って…。
玄関は道から見えないけれども、ポストは何処も見えるから…。家の顔がポストなんだって。
そう言ってたよ、と説明したら、「そういう意味ね」と微笑んだ母。「確かにそうね」と。
「道を通っていくだけの人なら、玄関よりもポストの方だわ」
庭とかも見て歩くけれども、住んでいる人の名前はポストに書いてあるんだし…。
家の顔になるわね、ポストだって。…玄関だけじゃなくて。
「そうでしょ? それでね…」
うちのポストは、パパの顔になるの?
それともママなの、うちのポストはどっちなの…?
「どっちって…。どうして?」
「ポストが変わっちゃってた家のおじさん、あのポストが自分の顔だって…」
今日からこういう顔になるから、よろしく、って言っていたんだけれど…。
「それはたまたま、おじさんの方に会っちゃったからよ」
おばさんも一緒の時に会ったら、二人分の顔ってことになるわよ。…きっと、そう。
家の顔でしょ、おじさんもおばさんも、そのポストから分かる顔ってことね。
うちだと、パパやママはもちろん、ブルーの顔も入るのよ。ポストの顔に。
「…ホント?」
ぼくの名前も書いてあるけど、あのポスト、ぼくの顔にもなるの…?
「ええ、そうよ。家の顔だから、みんなの顔よ」
パパもママもブルーも、ああいう顔ね。ポストが家の顔になるなら。
ポストを見た人には分かるわけね、と母に教えられて、「なるほど」と納得したポスト。家族の顔は全部ポストが代表してくれて、父も母も自分も、あのポストの顔。
特に変わったポストでなくても、ポストは家の顔だから。どの家のも、何処か違っているから。
おやつを食べ終えて部屋に戻って、また考えてみたポストのこと。勉強机に頬杖をついて。
門扉の脇にある小さなポストに、父や母の他に自分の顔もあるのなら…。
(ハーレイは、ぼくの顔だって見てるんだ…)
あそこに立って待っている間に、あのポストに。チャイムを鳴らしてから、母が迎えに出てゆくまでに。ほんの少しの間だけれども、ポストを見たなら、其処にはチビの自分の顔も…。
(見えるんだよね?)
そう思ったら、ポストを磨いてあげたい気分。柔らかな布でキュッキュッと。
もっと素敵になるように。ポストと一緒に素敵な自分を、ハーレイに見て貰えるように。
そのハーレイの家のポストは、どういう形だっただろう?
(えーっと…?)
一度だけ遊びに出掛けた時に、ドキドキしながら鳴らしたチャイム。門扉の所にポストもあった筈だから、と記憶を辿って思い出してみて…。
(ハーレイらしいよ)
一人暮らしなのに、沢山入りそうだったポスト。家族が大勢暮らしていても。
きっと教師をやっているから、郵便物が多いのだろう。書類がギッシリ詰まった大きな封筒も。そういった物がはみ出さないよう、新聞だって奥まで入るようにと大きめのポスト。
ハーレイならば、そうするだろう。後から困ってしまわないよう、余裕たっぷりにしておいて。
人柄が滲み出ているハーレイのポスト。
本当にポストは家の顔なんだね、と考えたけれど…。
(…家の顔…?)
不意に浮かんだシャングリラ。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた船。
あの船にポストはあっただろうか?
船に乗っていた仲間たちにとっては、シャングリラが家のようなもの。そのシャングリラには、ポストなんかは…。
(あるわけないよね…)
ミュウに郵便は届かないから、シャングリラにポストを作っても無駄。家の顔ならぬ、船の顔になるポストは無かった。
そして船の中でも無かった郵便。仲間同士で手紙を遣り取りするためのシステムは無くて、郵便配達は無かった船。だから個人の部屋にだって…。
(…ポスト、要らない…)
届く郵便物が無いなら、作る必要が無いポスト。仲間たちの顔のポストは要らない。それぞれの部屋はあったけれども、部屋の顔になるポストは無かったと思う。
居住区を思い浮かべてみたって、無かったポスト。通路にドアが並んでいただけ。
(それじゃ、招待状とかは…?)
ソルジャー主催の食事会には、欠かせなかったものが招待状。エラが考案した仰々しいもの。
出席者には招待状を出したわけだし、何処かに届けられた筈。それは何処に届いたのだろう?
首を捻って考えたけれど、招待状を届けに行ってはいない。誰が配ったかも覚えていない。
(ぼくが貰った招待状は…)
薔薇のジャムを作っていた女性たちからの招待状。白いシャングリラに咲いていた薔薇、それを使って香り高いジャムが作られていた。量が少ないから、希望者はクジ引きだったけれども。
前の自分はクジを引かずに一瓶貰って、ジャムが出来る度にお茶会に招待されていた。ジャムを作る女性たちだけの内輪のお茶会、其処に招かれて行っていたものの…。
(招待状を持って来たのは、部屋付きの係…)
ソルジャーだった自分はポストを覗いていないし、青の間にポストは無かった筈。あったなら、何度も覗いてみたろう。ソルジャーは暇だったのだから。
何か届いていないだろうか、と覗きに行くには格好の場所が郵便受け。
青の間には無かった、と言い切れるポスト。其処に招待状が届けられたら、係よりも先に覗きに出掛ける。何も届いていない時でも、きっと何度も覗いてみる。
(…暇だったものね?)
部屋付きの係は常に控えているわけではないし、ポストを覗くのは格好の暇つぶし。あの部屋にポストがあったとしたなら、入口しか考えられないから。長いスロープを下りて行った先の。
(あそこまで歩いて行って、覗いて…)
ポストに何か入っていたなら、ウキウキと手にして戻るのだろう。空だったとしても、この次は何かあるといいな、と考えながら戻ってゆく。もしもポストがあったなら。
(…覗くだけでも楽しいしね?)
入口から離れたベッドからでも、サイオンで中は覗けるけれど。そうはしないで、歩いてゆく。これも大事な仕事とばかりに、部屋付きの係に任せはしないで。
(でも、覗いてはいないんだから…)
青の間には存在しなかったポスト。覗きたくても、無かったポスト。前の自分の部屋の顔。
ならば、他の仲間たちの部屋はどうだったろう?
ポストを目にした覚えが全く無い居住区。どの部屋も全部、揃いの扉。通路にズラリと。
其処に暮らす仲間たちに出された、ソルジャー主催の食事会への招待状。誰の部屋にもポストが無いなら、招待状は何処に届いたのだろう?
確かにエラが印刷させていたし、御大層な封筒まであったのに。
まるで分からない、招待状の届け方。ポストがあったら、其処に入れれば済むけれど…。
いくら記憶を手繰り寄せてみても、見た覚えが無いポストというもの。今の時代なら、ポストは家の顔なのに。何処の家の前にもあるものなのに。
(まさか、手渡ししてたとか…?)
白いシャングリラの仲間たちの部屋に、ポストは無かったのだから。…それでも招待状を出していたなら、出席する仲間に直接渡すしか無さそうな感じ。配る係が「どうぞ」と捕まえて。
それだと目立ちそうだけれども、ソルジャー主催の食事会なら、いいのだろうか。
(…エラが強調していたものね、招待されるのは名誉なことだ、って…)
他の仲間たちも見ている所で招待状を渡していたなら、余計に名誉な感じではある。招待された仲間は嬉しいだろうし、目にした仲間も「いつかは自分も」と励みに考えたりもして。
(やっぱり、手渡し…?)
そうだったかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれたから、早速訊いてみることにした。今日もハーレイが見ていただろう、家のポストを思い浮かべて。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラにポストは無かったよね?」
「はあ?」
ポストだって、と丸くなった鳶色の瞳。「ポストというのは郵便ポストか?」と。
「郵便受けだよ、何処の家にもポストはあるでしょ?」
ハーレイの家にも、ぼくの家にも。
今日ね、ご近所さんが「ポストは家の顔だから」って言っていたんだよ。
ぼくの家だと、パパとママとぼくの顔になってて、ハーレイの家だとハーレイの顔。
でも、シャングリラだと、ポストはあった…?
居住区の部屋には、仲間たちが住んでいたけれど…。ポスト、無かったような気がして…。
「家の顔か…。言われてみれば、ポストはそういう感じだな」
住んでいる人の個性が出てくる代物ではある。似たようなポストでも色が違うとか。
だが、シャングリラには、郵便というシステムそのものが無かったからな…。
今の時代とは事情が違うぞ、とハーレイが口にする通り。前の自分の記憶でも同じ。
シャングリラに郵便が無かったからには、きっとポストも無かっただろう。そんな船の中で何か届けるとしたら、さっき自分が考えたように…。
「…だったら、招待状は手渡しだった…?」
ソルジャー主催の食事会には、招待状があったでしょ?
エラが立派なのを印刷してたし、封筒だって…。あれは他の仲間も見ている前で渡してた?
みんなの部屋にポストが無かったんなら、そういうことになっちゃうよね…?
「まさか。招待状なら、きちんと部屋に届けていたさ」
そうでなければ変だろう。いったい何処で渡すと言うんだ、仕事場だとか食堂か?
ただのメモならそれでもいいが、ソルジャーからの招待状だぞ?
そいつを食堂だの、機関部だので渡すだなんて…。ソルジャーの威厳が台無しだろうが。
エラが絶対に許しやしないぞ、「なんということをするのです!」とな。
「招待状、部屋に届けてたんだ…」
いそうな時間に、部屋の扉をノックして?
そういえばチャイムもついていたかな、居住区の部屋は。
「おいおい、其処まで面倒なことをしなくても…。あの部屋にだって、一応は…」
郵便受けはあったんだ。其処に入れておけば、住人が留守でも届くってな。
「あったの、郵便受けなんか…?」
シャングリラには郵便、無かったのに…。招待状を入れるためにだけ、作ってたとか?
「そうじゃない。郵便受けという名前がついてもいなかった」
ただの書類の差し入れ口だな、俺の部屋にもあっただろうが。
作っておかんと不便じゃないか。いろんな部署での会議とかもあるし、先に資料を配るとか…。
そういった時に突っ込んでおくための場所があってだ、招待状も其処に配ったわけだな。
部屋の住人が戻って来るまで待てるもんか、と言われてみれば確かにあった郵便受け。そういう名前は無かったけれども、留守の間にも、書類などを部屋に入れられるようにと作られたもの。
キャプテンの部屋の扉の内側、時々、書類が入っていた。束になっていたり、一枚だったり。
(…ハーレイが部屋にいる時だって…)
急ぎではない書類だったら、其処からコトンと入れられたもの。キャプテンの仕事は、ブリッジだけではなかったから。部屋に持ち帰って片付ける仕事や、航宙日誌を書くことだって。
ハーレイの部屋で仕事が終わるのを待っている間に、何か書類が届いた時。「何か来たよ?」と覗きに出掛けて、「ほら」とハーレイに渡したりもした。時にはメモを読み上げたりも。
(…うん、メモだって入ってた…)
都合のいい時間に連絡を、と書かれたメモやら、他にも色々。
遠い記憶が蘇るけれど、やはり無かったという記憶。キャプテンの部屋には、郵便受けと呼べるものが備わっていたのだけれど…。
「…それ、青の間には無かったよ?」
前のぼくの部屋には、郵便受けは…。あったら覗きに行った筈だし、無かったと思う…。
「お前の場合は必要無いしな、そんな仕組みは」
ソルジャーなんだぞ、用があったら直接出向いて話をするのが礼儀ってもんだ。
書類にしたって、渡すんだったら部屋付きの係を通さないと…。
ソルジャーが自分で届いてるかどうかを調べに出掛けて、それを読むなんて言語道断だってな。
エラが聞いたら、思いっ切り顔を顰めるぞ。「ソルジャーのお手を煩わせるなど、いったい何を考えているのです!」って声が何処かから聞こえて来ないか、そりゃあ物凄い剣幕でな。
しかし、青の間には必要無くても、仲間たちの部屋には必要だった。郵便受けの親戚がな。
「だけど、それ…。家の顔にはならないね…」
書類の差し入れ口っていうだけなんだし、何処の部屋でも同じだよ。個性はゼロ。
扉の脇についてただけでしょ、幅も形もそっくりのが。…一番便利なサイズのヤツが。
「そもそも家じゃないからな」
中に住んでる人間はいても、あれを家とは呼びにくいよなあ…。
それぞれの城には違いなくても、我が家と言えるレベルにまでは達していなかったから。
ただの部屋だ、とハーレイが指摘する通り。居住区の部屋は家とは違った。
キャプテンなどの部屋を除けば、どの部屋も全く同じ構造。間取りはもちろん、内装でさえも。
あの時代でも、人類が暮らす世界だったら、自由に変更出来たのに。同じ高層ビルにあっても、個人の好みで内装も間取りも変えられたのに。
けれど、シャングリラでは不可能だった。自給自足で生きてゆく船では、個人の自由にならないことも多かったから。これが最適な構造なのだ、と決められた部屋は変えられない。
個人で変更出来た範囲は、家具とそれを置く場所くらい。他は全く同じ部屋。
「…シャングリラ、なんだか寂しい船だね…」
どの部屋も、まるで同じだなんて。…住んでいる人が違うだけなんて…。
ポストを家の顔にしたくても、どの部屋も同じじゃ無理だよね。同じ部屋しか無いんだから。
「そうだな…。同じ部屋がズラリと並んでたんだし、病院みたいな感じだが…」
考えようによってはホテルにもなる。そっちならそれほど寂しくないぞ。
「ホテル?」
「うむ。似たような部屋が並ぶだろうが、ホテルってトコも」
豪華ホテルだと、そうでもないがな。…全部の部屋が違う内装になっていたりして。
しかし、一般的なヤツなら、同じフロアならどの部屋も似たり寄ったりだ。…そうだろう?
それにシャングリラには、スイートルームもあったわけだし…。其処もホテルと同じだな。
「スイートルームって?」
あったっけ、そんな立派な部屋が?
キャプテンの部屋とか、長老の部屋なら大きかったけど…。あれのことなの?
「そんなケチくさいヤツじゃなくって、もうとびきりのスイートルームだ」
お前やフィシスの部屋だな、うん。…普通の仲間の部屋だったら、幾つ入ることやら…。
「あの部屋、そういう扱いになるの?」
「当然だろうが、特大だぞ?」
青の間にしても、天体の間にしても、とてつもない広さを誇ってたわけで…。
あれがスイートルームでなければ、なんだっていう話になるぞ。…ホテルならな。
「…スイートルーム…」
うんと高くて豪華な部屋のことだよね、それ?
立派なホテルとか豪華客船にあって、他の部屋とは桁違いの広さと設備がある部屋で…。
青の間はスイートルームだったのだ、と聞かされた途端に、こけおどしだった無駄に広い部屋が立派な部屋に思えて来た。まるでフィシスの部屋のように。
ハーレイが言うスイートルームは、フィシスの部屋の方でも同じ。天体の間の奥にあった部屋。
天体の間は皆が集まるホールを兼ねていたのだけれども、普段は基本的には無人。其処を自由に使っていたのがフィシスで、フィシスの居間のようなもの。
フィシスの部屋に住みたかった女性は、きっと大勢いただろう。天体の間に置かれたテーブルと椅子でお茶を楽しんだり、広い部屋をゆったり散歩してみたり。
(フィシスみたいなドレスは無くても、うんと贅沢な気分だよね…?)
同じお茶でも、居住区の部屋で飲むより断然いい。お姫様になった気分になれる部屋。
フィシスの部屋が女性の憧れだったら、青の間で暮らしたかった男性も多かっただろうか…?
そちらもスイートルームなのだし、とハーレイに尋ねてみたのだけれど。
「えっとね…。前のぼくの部屋、欲しかった仲間が大勢いたかな?」
青の間で暮らせたら素敵だよね、って思っていた男の人たち、多かったのかな…?
「お前の部屋か…。誰もいなかったんじゃないのか?」
一度も調べてみたことは無いが、そんな仲間はいないと思うぞ。
「いないって…。青の間、スイートルームなんだよ?」
フィシスの天体の間と同じなんだし、シャングリラの中のスイートルーム。うんと広くて。
青の間はどうか知らないけれども、フィシスの部屋には、憧れてた女の人、多い筈だよ。
あそこを一人で好きに使えて、お茶だってゆっくり飲めるんだから…!
「そっちは大勢いただろう。調べなくても想像がつく」
だがな、青の間だと多分ゼロだな。…暮らしたがるヤツは誰もいなかったと思うんだが…?
「青の間の何処がいけないの?」
フィシスの部屋と同じで広いよ、明るくないのが嫌われるのかな…?
「違うな、責任つきって所だ」
「責任…?」
なんなの、それ…。責任つきって、どういうこと?
「その通りの意味だ。…青の間は誰の部屋なんだ?」
あそこに住んだら、ソルジャーなんだぞ。シャングリラを守ってゆかなきゃならん。
フィシスの方なら、ちょっとくらい夢も見られるが…。ソルジャーはなあ…。
憧れるどころの騒ぎじゃないぞ、とハーレイは重々しく瞬きをした。
フィシスならばミュウの女神というだけ、未来が読めれば充分な存在とも言える。そういう力を持っていたなら、誰でもなれそうな女神がフィシス。天体の間で暮らせる女性。
タロットカードで未来を読み取り、それを告げれば良かったフィシス。告げた未来にフィシスは何の責任も無い。嵐が来ようが、災いだろうが、それを避けるのはフィシスの仕事ではない。
だから誰でも夢を見られる。フィシスのように暮らせたら、と。
けれど、ソルジャーはそうではない、と語るハーレイ。白いシャングリラを、仲間たちの未来を守ってゆくのがソルジャーの役目。青の間に住むなら、その仕事までがついて来る。
居住区の部屋で暮らしていたなら、守って貰う方だったのに、ガラリと変わってしまう生活。
守られる者から、守る者へと。
導かれる立場から、導く者へと。
ソルジャーはそういう存在だから。青の間を居室にするのだったら、ソルジャーとして生きねばならないから。
そうだろうが、と真っ直ぐに見詰めるハーレイ。「違うのか?」と。
「責任ってヤツが重すぎるってな、ソルジャーの方は」
フィシスだったら、責任はうんと軽いんだがなあ…。未来さえ読めりゃいいんだから。
だがソルジャーだと、そうはいかない。未来さえ変えていかなきゃならん。…前のお前がやったみたいに、自分を犠牲にすることになっても。
お前がメギドに行っちまう前から、誰だって承知していただろうさ。ソルジャーが背負っている責任ってヤツも、それがどれほど重いものかも。
青の間に住めば、もれなくそれがついてくる。…誰も住みたがらないな、そんな部屋には。
どんなに広くて立派だろうが、住み心地が良さそうに見えていようが。
「…青の間、スイートルームなのに…」
嫌われちゃうわけ、少しも人気が無いってわけ…?
フィシスの部屋なら住みたい人が大勢いるのに、青の間はゼロになっちゃうだなんて…。
「当たり前だろうが。ウッカリ其処に入ったが最後、とんでもない責任を背負うんだから」
値段が高すぎて泊まれないような、豪華ホテルのスイートルームの方がまだマシだ。
そっちだったら、コツコツ貯めれば泊まれる日だって来るからな。泊まる値打ちも充分にある。
責任つきの青の間よりかは、誰だってそっちを選ぶだろうさ。
「そういうものなの?」
青の間だって、スイートルームみたいなものなのに…。他の部屋とは違うのに。
「個性の無い居住区の部屋にいたなら、守って貰える立場だからな」
間取りや内装を変えられなくても、住めば都というヤツだ。ミュウの楽園には違いない。其処に住んでりゃ、人類の手から一応は逃れられるんだから。
せっかく気楽な部屋があるのに、責任つきの部屋に移りたいか?
それも船全体を守る立場のソルジャーなんかを、やりたいヤツはいないだろうな。
というわけでだ、青の間という名前のスイートルームは、誰一人、希望しないってな。
フィシスの部屋なら大人気でも、青の間の方は予約どころか問い合わせも来ない状態だろうさ。
「うーん…」
問い合わせる人もゼロってわけなの、青の間だと…?
予約したい人だって誰もいなくて、泊まりたい人は一人もいないんだ…?
なんとも酷い、と頭を抱えたくなった青の間。喜ばれないらしいスイートルーム。無駄に広くて立派だった部屋は、本当に役立たずで誰も欲しがらなかった部屋。
スイートルームでもその有様か、と溜息を零していたのだけれど。
「…お前の部屋はスイートルームだったが…。とびきり上等の部屋だったんだが…」
他の部屋にも個性はあったぞ。…青の間ほどではなかったがな。
「個性って…。何処に?」
「部屋の顔だな、家の顔とも言えるかもしれん」
どの部屋にもあった郵便受けだ。…そういう名前じゃなかったんだが。
「無いって言っていたじゃない!」
ただの部屋だって言ったの、ハーレイだよ?
何処も同じで、郵便受けだって全部おんなじ。部屋の顔も何も、あるわけがないよ…!
「それがだ、少しはあったってな。…誰の部屋にも」
中には全くこだわらないヤツもいたが、そうでなければ、ささやかな工夫はあったんだ。
同じような扉が並ぶわけだし、此処が自分の部屋なんだ、という主張だな。
郵便受けの所に、ネームプレートをつけているヤツが多かった。…番号の他に。
ネームプレートをつけるって所で、まずは個性の表れだろうが。
そのプレートの文字の書き方、それに凝ってるヤツもいた。こだわりのサインをしてみるとか。
他にも色々、自分ならではの工夫だな。
ちょっとした飾りをくっつけてみたり、絵をあしらったり、出来る範囲で。
覚えていないか、と尋ねられたら、ぼんやりと浮かんで来た記憶。
白いシャングリラの居住区の部屋と、扉の横のネームプレート。書かれた名前を確認する前に、住人が分かる部屋が幾つもあった。プレートの色とか、添えられた飾りやイラストなどで。
女性だけではなくて、男性でも。舵輪の飾りをあしらった者や、他にも様々。
「…あったね、色々なネームプレートが…」
シャングリラでも、ポストは家の顔だったわけ?
家じゃなくって部屋だったけれど、それでも其処に住んでる仲間の顔だったんだ…?
「そうなるな。お前の部屋には、肝心のポストが無かったんだが…」
住んでいます、っていうネームプレートにこだわりたくても、ポストが無いと…。
残念だったな、前のお前は。…部屋はあっても、家の顔を貰い損なったんだな。
「そうだよ、おまけに喜ばれないスイートルームだったよ!」
うんと広い部屋なんかを押し付けられてて、それなのにポストは無しなんだよ…!
「気持ちは分かるが、そう怒るな」
今度は俺と同じポストを持てるだろうが。
まだまだ先だが、俺と一緒に暮らす時には、俺たちの家の顔のポストなんだぞ?
俺とお前の名前を書いてだ、家の前にそいつを取り付けるわけで…。
「本当だ…!」
ハーレイとぼくの顔になるんだね、家の顔のポスト。
今のポストから、二人用のポストに変えちゃっていいの?
「もちろんだ。こういう話にならなくてもだ、お前の好みを訊かんとなあ…」
どういうポストを選びたいのか、まずは其処から考えないと…。
個性溢れるポストがいいとか、地味でもいいから使い勝手のいいのだとかな。
俺たちの家に相応しいポストにしようじゃないか、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「前のお前は、ポストを持ってなかったしな?」と。
せっかく言って貰えたのだし、いつかハーレイと結婚する時は、ポストも二人で選んでみよう。
どんなポストが売られているのか、それを調べて、あれこれ探して。
今日の帰りに見掛けた家のポストみたいに、イメージがガラリと変わってもいい。
ハーレイと二人で暮らし始めたら、ハーレイらしい顔をしている今のポストから、二人の顔に。
ポストは家の顔だから。
ハーレイと自分の顔になるのが、二人で暮らす家の前にあるポストなのだから…。
家とポストと・了
※シャングリラには無かった、郵便ポスト。家の顔ですけど、工夫した人もいた郵便受け。
船の中でも、個性が出ていたネームプレート。今度は、ブルーも郵便ポストを持てるのです。
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(んーと…)
気持ち良さそう、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
青い海辺で、ヤシの木に架かったハンモック。大きな二本のヤシの木の幹、それの間に。両方の端を幹に結んで、架け渡して。
写真を撮るためだからだろうか、誰も乗ってはいないけれども…。
(乗ってみたいな…)
このハンモックに。此処からは遠い南の地域の、海辺に架かった白いハンモック。
きっと気持ちがいいのだろう。上に寝転んでも、座るようにして乗っかっても。
ゆらゆらと揺れて、まるで青い空に浮いているようで。ハンモックではなくて、見えない空気に支えられて。
前の自分は飛べたけれども、それとは違う感覚だろう。自分の力で浮いているより、こうやって浮ける方がいい。ハンモックの上に乗っかって。青い海と空を眺めながら。
写真に写った広い海も空も、南国の青をしているから。
もう本当に真っ青な空と、目が覚めるように青い海。前の自分が焦がれた青より、地球の青より濃い青色。澄んだ青色、海も空も。
(こういう青空…)
それに海だって、自分は知らない。写真や映像で知っているだけ。
こういった空や海がある場所、南の地域に旅をしたことが一度も無いから。
(前のぼくだって…)
知らない青空、濃い青の海。場所によってはサンゴ礁があって、緑色にも見える海。
白いシャングリラが長く潜んだ、アルテメシアには無かった南国の景色。一面の雲海に覆われた星は、テラフォーミングされた星だったけれど…。
(…ヤシの木が普通にあるような場所は…)
何処にも無かったのだった。
南国の植生が似合う場所には、築かれなかった育英都市。アタラクシアもエネルゲイアも、ごくありふれた気候だったから。人間が暮らすのに丁度いい気温の、標準的な。
前の自分が生きた時代は、それが普通の都市だった筈。
テラフォーミング中の星を除けば、何処の星でも似たり寄ったり。人間が生きてゆければ充分、多彩な気候を作り出すより、標準型の都市がいい。その方が何かと便利だから。
(…育英都市だと、そうなっちゃうよね?)
どの子供たちも同じ環境、それで育てるのが一番いい。教育はもちろん、暮らす場所だって。
生まれ育った環境によって、人は変わってゆくものだから。南国育ちの子供だったら、大らかな子に。寒さが厳しい場所で育てば、辛抱強い頑張り屋。
そういう傾向があると聞くから、あの時代ならば差が出ないようにしていただろう。育英都市を設けるのならば、アルテメシアのような気候の場所にしようと。
(大人が暮らしている星だったら…)
酷寒の星もあったと思う。資源の採掘用などで。
暑すぎる星も、同じ理由で存在していただろうとは思う。
けれど、こういう南国の景色。ヤシの木にハンモックを吊るしたりして、楽しめる場所は…。
(何処かにあった…?)
娯楽のためにと、標準型ではない気候にした都市。南国風に整えられた環境。
あの時代にもあったのだろうか、人間がのんびり生きられる場所。其処に子供の影が無くても、大人たちが人生を満喫してゆける場所。
ヤシの木にハンモックを架けて。青い海と空を眺めて、風に吹かれて。
暖かい星なら出来ただろうか、と考えてみた南国風の都市。
資源の採掘や軍事拠点に使わないなら、育英都市も作らないなら、可能かもしれないヤシの木が育つ暖かな場所。此処なら出来る、と海を作って、整備していって。
余裕が無い星だと出来ないよね、と前の自分が生きた時代の宇宙を思い浮かべていたら…。
(ノア…!)
ふと思い出した、首都惑星ノア。人類の最初の入植地。
地球を思わせる青い星だったけれど、白い輪が「違う」と告げていた。地球には無かった、白い色の輪。あれは氷で出来ていたのか、それとも白い岩だったのか。
肉眼で見たことは無かったけれども、前の自分も知っていた星。あそこには、確か…。
(あったと思う…)
ヤシの木が生えている海辺。そういう記憶。
あった筈だ、と言い切れるけれど、どうして知っているのだろう?
ノアの知識は持っていたものの、南国風の景色まで。海辺に生えていた筈のヤシの木、濃い青の空と海までを。
(…ソルジャーとして必要なの?)
その知識は、と問い掛けた時の彼方にいた自分。ソルジャー・ブルーだった自分。
地球ならともかく、ノアのヤシの木や海辺の景色。
同じノアでも、パルテノンに纏わる情報だったら、まだ分かるけれど。パルテノンがヤシの木に囲まれていたなら、青い海辺にあったのなら。
そう思うけれど、まるで引っ掛からないパルテノンのこと。
ヤシの木があった景色の辺りに、人類の最高機関は無かったらしい。少しも繋がらない記憶。
パルテノンとは別だったと分かる、ノアの海辺に生えたヤシの木。
(なんで…?)
どうしてヤシの木が出て来ちゃうわけ、と戻った二階の自分の部屋。…新聞を閉じて。
あの新聞が始まりだよね、と座った勉強机の前。海辺のヤシの木とハンモック。
(…前のぼく、なんでヤシの木なんか…)
知っていたの、と不思議でたまらない。
首都惑星だったノアの知識は必要だとしても、ヤシの木を知っていた理由。ノアにはヤシの木が生える海辺があるのだ、と。
役に立ちそうもない知識なのに、前の自分は覚えていた。何処かで目にしただけだったならば、直ぐに忘れてしまったろうに。膨大な記憶の海に沈んで、それきりになって。
なのに忘れずに、今でも思い出せるなら…。
(ハンモックに乗りたかったとか…?)
記憶にあるのはヤシの木だけれど、其処に吊るしたハンモック。それに揺られて、青い空と海を見たかったとか。…今の自分が写真を眺めて、「乗ってみたいな」と思ったように。
まさかね、と否定しかけたけれども、可能性としては…。
(ゼロじゃないかな?)
白いシャングリラで生きる間に、色々な夢を描いていたのが自分だから。
焦がれ続けた、青い地球に。
いつか地球まで辿り着いたら、あれもこれもと描いた夢。青い地球でやりたかったこと。
もしかしたら、ヤシの木の記憶も、その中の一つ。ヤシの木と、その幹に吊るすハンモックと。
ノアにはヤシの木があるのだと知って、「いいな」と思って抱いた夢。
きっと地球にもあるだろうから、ヤシの木にハンモックを吊るしたいと。
アルテメシアでは見られない青の海と空とを、ハンモックに揺られながら楽しむ。青い地球まで辿り着けたと、こんな景色も見られるのだと。
前の自分が憧れそうな夢。地球の海辺で、ヤシの木に吊るすハンモック。
寝転んで乗ったり、座って乗ったり、それは素敵に違いないから。南国の青い空と海とを、風に揺られて心ゆくまで。…ハンモックがゆらゆら揺れる間に、ウトウトと眠ったりもして。
(そうなのかも…?)
本当にハンモックだったのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、前のぼく…。ヤシが好きだった?」
好きだったのかな、今でも思い出せるほど。…今のぼくになっても、忘れないほど。
「はあ?」
ヤシってなんだ、と見開かれた瞳。鳶色の瞳が、「何事なんだ」と。
「ヤシの木だってば、暖かい所に行けばあるでしょ」
それにハンモックを吊るしたりもするよね、海の側に生えてるヤシの木だったら。
「あるなあ、ヤシの木も、そいつに吊るすハンモックも」
南の方だと名物ってヤツだ、旅の案内でも定番だ。のんびり過ごしてみませんか、とな。
しかし、どうして前のお前になるんだ?
ヤシが好きだったか、と俺に訊くなんて、何処からヤシになったと言うんだ。
「えっと…。ヤシの木とハンモックの写真…」
新聞に載ってて、今のぼくでも、こういう景色は見てないよ、て思ったんだけど…。
前のぼくも知ってるわけがないけど、それなのに…。
覚えてたんだよ、前のぼくが。ノアのヤシの木、知ってたんだよ。ノアにあった、って。
だから、ハンモックに憧れたかな、って…。
ヤシの木だけだと、「そういう木だな」で終わりそうだけれど、ハンモックがあれば話は別。
いつか地球まで辿り着いたら、海辺で乗ってみたいよね、って思っていそう。
「なるほどなあ…」
それでヤシだと言い出したのか。ヤシの木と、吊るすハンモックと。
ヤシな、と大きく頷くハーレイ。「確かにお前の夢ではあった」と。
「ついでに、お前が考えた通り、ハンモックもセットになってたな」
前のお前の夢の中では、ヤシの木と言えばハンモックだ。そいつを吊るして楽しもうと。
「やっぱり、そう?」
それでノアのも知ってたのかな、あそこにヤシの木が生えていたこと。
前のぼくは肉眼でノアを見ていないけれど、ちゃんと覚えているんだよ。ノアの景色を。
データベースの情報だろうね、ヤシの木が生えている海辺。
きっと地球にもあるだろうから、早く本物のヤシの木を地球で見たいよね、って…。
「最終的には、そういう夢になっていたんだが…。逆だ、逆」
前のお前が考えた順番、逆だってな。
「逆?」
どういう意味なの、逆だなんて。…考えた順番が逆って、なに?
「そのままの意味だ、文字通りに逆というヤツだ」
地球よりも先に、ノアのヤシの木があったんだ。白い鯨を作る時にな。
「え…?」
ノアが先だなんて、それにシャングリラの改造って…。ヤシの木は何処で出て来るの?
前のぼくの夢、なんでシャングリラに繋がってるの?
「覚えていないか、いろんな公園、作ったろうが」
ミュウの楽園にするんだから、とデカイ公園の他にも幾つも。…居住区の中に。
ヤシの木とハンモックも、その時にあった話だな。
南国風って案が出たんだ、会議の席で。言い出したのはゼルとブラウだ、そいつがいいと。
「そうだっけね…!」
思い出したよ、ノアのヤシの木。あの二人が写真を持って来たっけ…。
シャングリラを改造しようという時、何度も開かれた様々な会議。大人数での会議はもちろん、長老の四人とソルジャーとキャプテンだけの会議も。
南国風の公園の案は、長老たちが集まる席で出て来た。六人だけの小さな会議で。
ブラウとゼルが欲しがったもの。船に作ろうと考えた公園。
ヤシの木を植えて、それにハンモックを吊るす。二本のヤシの間に架け渡してもいいし、一本のヤシの幹に吊るす方法も。
「ノアではこうだ」と、資料の写真を出して来た二人。珍しくヒルマンとエラではなくて。
「楽しそうだと思わないかい、こういうのもさ」
海は無いけど、ヤシを植えることは出来るじゃないか、というのがブラウの提案。
「その海もじゃ、本物は無理でも映像という手があるからのう…」
上手い具合に投影したなら、海辺の気分を出せるじゃろう。波の音も流してやればいいんじゃ。
シャングリラの中に南国風の公園なんじゃぞ、まさに楽園というヤツじゃ。
夢じゃ、ロマンじゃ!
現にノアでは、こうやって実現しておるわい、とゼルが指差したヤシの木の写真。ハンモックが吊るされ、その向こうには青い海と空。
ノアの海は人工とはいえ、本物の海。シャングリラで海は不可能だけれど、映像技術で補うと。
公園を幾つも作るわけだし、一つくらいはこういう公園も、と。
ヤシの木を植えて、ハンモック。遊び心が溢れる公園。映像の海が広がる公園。
南国風に整えるのだし、制服では暑いほどの場所。きっと楽しい公園になる、と二人は言った。
「制服なんかは脱いじまってさ、のんびりするのに良さそうだよ」
あたしたちだって、とてもマントは着てられないね。制服抜きの公園ってのも素敵じゃないか。
それにヤシの実は食べられるって話だよ、とヤシの木の写真をつついたブラウ。写真の中では、実などは実っていなかったけれど。
「ヤシの木にも色々あるそうじゃぞ」
食えるヤツならナツメヤシにココヤシ、他にも美味いのがあるかもしれん。
ヤシもそうじゃし、南国風の気温に調整するなら、他の植物も育てられるでな、とゼルも語ったヤシの木の魅力。実が食べられる所もいいんじゃ、と。
二人はヤシの木を推したけれども…。
「ヤシの実か…。それは全員に行き渡るのかね?」
ナツメヤシにしても、ココヤシにしても、とヒルマンが述べた自分の意見。船の仲間たちに実を配れないなら、私は賛成出来ないが、と。
「そうですよ。でなければ不公平なことになります」
たった一つの公園でしか、ヤシの実が採れないというのなら。…皆に配る分が採れないのなら。
美味しい実ならば、貰えない者から不満が出ます。貰えないとはどういうことか、と。
私も賛成出来ません、とエラもヒルマンと同じ考え。
実をつける木を育てるのならば、皆に等しく行き渡るだけの数を育ててゆくべきだ、と。
農場ほどには大規模でなくても、何処の公園でも実をつける木たち。
南国風の公園でしか育たないヤシは、皆が平等に実を食べられないなら、許可出来ないと。
居住区に作る小さな公園の一つ、植えられるヤシの木は多くはない。一番広くなりそうな場所を選んだとしても、皆に行き渡るだけの実など採れない。どう考えても不可能なこと。
ゼルとブラウは顔を見合わせ、二人で相談し合ってから。
「それなら、眺めるだけのはどうじゃ」
ヤシの実は食えなくてもいいじゃろう。美味い実がなる木しか植えないわけではないし…。
南国風の景色を演出するために、ヤシの木を植えてやればいいんじゃ。
それでどうじゃ、とゼルは方針を切り替えた。公園のヤシの木は観賞用だ、と。
「あたしもそれでいいと思うよ、ヤシの木は充分、使えるからね」
ハンモックを吊るせば、ゆったり海辺の気分ってヤツだ。映像で出来た海でもね。
そういう公園、一つくらいはあったって…、とブラウも諦めなかったけれど。
「映像の海は確かに素敵でしょうが…。ハンモックの方が問題です」
皆が平等に使えるのですか、それを使いたいと思った時に?
順番待ちをしている間に、休憩時間が終わるようではいけませんよ、とエラが顰めた眉。
公園は憩いの場所になるのだし、皆が満足出来ないと…、と。
「難しいだろうと思うがね…。ヤシの木の数には限りがあるから」
ハンモックは幾つも吊るせないよ、とヒルマンも乗り気にならなかった。ヤシの木と映像の海がある公園、それは人気が高くなるに決まっているのだから。ハンモックだって、乗りたがる仲間が列を作って並ぶだろうから。
「どう思うかね?」とヒルマンが意見を尋ねたハーレイ。キャプテンの考え方はどうだ、と。
「…キャプテンとしては、それは賛成出来かねます」
争いの種にはならないでしょうが、やはり不満は燻るかと…。その公園で遊び損ねた者の間で。
いずれは飽きて順番待ちの列が無くなるとしても、それまでの期間が厄介です。
ソルジャーはどう思われますか?
魅力的ではあるのですが、とハーレイに問われた南国風の公園。ヤシの木とハンモック、それに映像の海が売り物になるという公園。
「…素敵だろうとは思うけれども、不平等な公園というのもね…」
公園の趣旨から外れているような気がするよ。作るからには、やっぱり皆が楽しめないと…。
良くないだろう、と前の自分も退けた。南国風の公園を作るという案を。
他の仲間たちに諮るまでもなく、反対多数で通らなかった、ヤシの木とハンモックがある公園。映像の海を投影しようと、ゼルとブラウが言った公園。
けれど、白い鯨が出来上がった後に…。
(海辺にヤシの木…)
それにハンモック、とデータベースで改めて調べてみた情報。ふと思い付いて。
出て来た写真と映像たち。一気に惹き付けられた風景。
ゼルとブラウがこだわった理由はこれだったのか、と真っ青な海に目を奪われた。青い空にも。
アルテメシアには無い色の青。空も、海の青も。
その青を背にして並ぶヤシの木、其処に架かったハンモック。吹き渡る風が見える気がした。
青く煌めく海を渡って、ヤシの梢の葉を鳴らして。吊るされたハンモックを揺すっていって。
(…乗っかってる人の写真もあって…)
一人で寝転んでいる人もいれば、二人並んで腰掛ける人も。本を読んでいる人だって。
見るからに気持ち良さそうだった、ノアの海辺のハンモック。ヤシの木陰も、白い砂浜も。
(きっと、地球なら…)
地表の七割が海の地球なら、このノアよりも広い海辺があるのだろう。
ヤシの木が並ぶ砂浜を一日歩いたとしても、まだまだ先が続くのだろう。砂浜も海辺も、ヤシの木だって。二日歩いても、三日歩いても、青い海辺も空も砂浜も、その果てがまるで見えなくて。
きっとそうだ、と思った地球。
南国風の公園どころか、歩いても果てが見えない海辺。何処まで行っても続くヤシの木、砂浜も青く透き通る海も。濃い青色が眩しい空も。
それを見たい、と食い入るように眺めた映像。それから写真。ノアの海辺に生えたヤシの木。
まずはノアまで、そして青い地球へ。
白いシャングリラで宇宙を旅して、ミュウの存在を人類に認めさせて。
いつか地球まで辿り着いたら、ヤシの木がある広い海辺で、ハンモックに。濃い青色をした空を見上げて、南国の青に染まった海が奏でる波の音を聴いて。
(あれで行きたくなっちゃって…)
前のハーレイとの夢に追加した。地球に着いたら、やりたいことの一つとして。
ヤシの木がある海辺に出掛けて、ハンモックに揺られて過ごすこと。南国の風を味わうこと。
友達同士だった頃から、地球でやろうと決めていた。恋人同士になった後にも。
ハンモックに乗るなら二人でもいいし、並べて吊られたハンモックに乗って過ごすのもいい。
どちらでも、きっと素敵だから。語らいながら風に揺られて、真っ青な空と海を眺めて。
鮮やかに蘇って来た記憶。前の自分が夢に見たこと。
「そっか、前のぼくの夢だったんだ…」
ヤシの木と、それにハンモック。地球にもあるよね、って思い込んでて…。
あの頃の地球には、青い海なんか無かったのに。…ヤシの木だって、何処にも無かったのに…。
ノアにあったから、とても素敵に見えたから…。
いつかハーレイと地球に着いたら、ハンモックに乗ろうと思っていたんだっけ…。
「元々はゼルとブラウの夢なんだがな」
あいつらが夢を見ていなかったら、前のお前はどうだったんだか…。
公園の案にもアッサリ反対していたからなあ、お前だけでは思い付かなかったかもしれないな。
ゼルとブラウは遊び心の塊だったが、前のお前は違ったし…。
わざわざノアのデータを調べて、ヤシの木とハンモックを見付けたかどうか、怪しいモンだ。
「そうかもね…」
ヤシの木のことは本で知っていたけど、ハンモックは知らなかったかも…。
知っていたって、ヤシの木に吊るすことまでは多分、知らないよ。興味津々で調べないから。
シャングリラの中だと、ハンモックの出番は無いんだもの。
あったとしたなら、何かの理由でベッドが足りなくなっちゃった時。床で寝るのも難しい、ってことになったら、ハンモック、吊るすだろうけれど…。
「シャングリラでやるなら、そいつだろうなあ…」
まるで大昔の船みたいだな、実際、使っていたらしいしな?
船室がうんと狭い船だと、人数分のベッドが置けないから。下っ端はコレだ、とハンモック。
偉いヤツらは、もちろんベッドで寝ていたんだが。
船長だったら船長室だ、と教えて貰った遠い昔の船のこと。まだ帆船の時代だった頃。それより後の時代になっても、使われていたハンモック。狭い船では。
シャングリラでは出番が無くて良かった、とホッと安堵の息をついたら…。
「船はともかく、今のお前はどうなんだ?」
ハンモック、と鳶色の瞳に見詰められた。そいつの出番はありそうか、と。
「えっ…?」
出番って…。ぼくの部屋には、ちゃんとベッドが置いてあるから…。
きっと出番は無いと思うよ、この部屋が駄目でも、ゲストルームにベッドがあるしね。
「そうじゃなくてだな…。寝床に使う話とは別だ、前のお前の夢の話だ」
今のお前も、ハンモック、乗ってみたいのか?
新聞で見たと言っていただろ、ヤシの木に吊るしてあるヤツを。
今の地球にはちゃんとあるんだ、前のお前が夢に見た通りのハンモックがな。
お前もそいつに乗ってみたいか、と訊いているんだが…。
「えーっと…。気持ち良さそうだと思うけど…」
乗ってみたいな、って思っていたけれど…。前のぼくの夢を忘れていても。
あれに乗っていたら、青い空に飛んで行けそうだから。
今のぼくは空を飛べないけれども、ハンモックに乗ったら空に浮けるよ。ハンモックに揺られて空を見てたら、きっと本当に飛んでる気分。風だって周りを吹いていくでしょ?
それにね、前のぼくの夢を思い出したから…。
本当にあれに乗ってみたいよ、ぼくだけじゃなくて、ハーレイと。
前のぼくがやりたかったみたいに、ハーレイと二人で、ヤシの木に吊るしたハンモック。
同じハンモックに乗ったっていいし、隣同士で吊るしてあるのに乗るのもいいよね。
今のぼくだって乗りたいみたい、とハーレイに話したハンモック。真っ青な空と海がある場所、ヤシの木が何本も並ぶ海辺で。南国の青が広がる中で。
「前のぼくの夢、今なら叶いそうだから…」
本物の地球のヤシの木もあるし、ハンモックだって吊るしてあるんだから。
「今のお前も乗りたいわけだな、前のお前と全く同じに」
なら、いつか行くか?
今は無理だが、お前が大きく育ったら。…俺と結婚して、旅に行けるようになったなら。
「連れてってくれるの?」
ヤシの木がある所へ、ハンモックに乗りに…?
ハーレイと二人で乗りに行けるの、ヤシの木に吊るしたハンモックに…?
「もちろんだ。前のお前の夢は叶えると約束しただろ、地球でやろうとしていた夢は」
思い出したなら、端から全部。…旅に出るのも、何をするのも。
今のお前の夢でもあるなら、叶えないわけがないってな。お安い御用というヤツだ。
ハンモック、乗りに行こうじゃないか。前のお前の夢を叶えるのに、ピッタリの場所へ。
ああいう場所は山ほどあるしな、お前が好きに選ぶといい。何処へ行くかは。
「…幾つもあるんだ、ヤシの木にハンモックを吊るしてる場所…」
地球は広いものね、海があってヤシの木が生えている場所も、きっと沢山。
何処にしようか迷っちゃうかも、あんまり沢山ありすぎて…。
「そうなるだろうな、前の俺たちが生きた頃とは違うんだから」
あの時代だと、前のお前の夢が叶う場所は、ノアくらいだったことだろう。他の星だと、多分、余裕が無かったろうさ。ヤシの木が自然に育つ海辺を作れるほどには。
しかし今なら、そういう星も少なくないぞ。テラフォーミングの技術が進んでいるからな。
そして地球だと、御覧の通りというわけだ。
前のお前が夢見た通りに、すっかり青い水の星だしな?
暖かい南の方に行ったら、海辺にヤシの木は珍しくもないという寸法だ。ハンモックを吊るして昼寝も出来れば、のんびり本も読めるってな。
行列を作って並ばなくても、好きな所に吊るして貰って。それこそ朝から晩までだって。
星空の下で乗っているヤツもいるわけで…、とハーレイが話してくれた、ハンモック事情。青い海と空が夜の色に染まって、降るような星が瞬く頃にも、ヤシの木にハンモックはあるらしい。
其処で眠りたい人もいるから、星空を見たい人もいるから。
「ハンモック、夜も乗れるんだ…。昼間だけじゃなくて…」
そんなの、思いもしなかったよ。前のぼくも、今のぼくだって。
星を見るのも素敵だろうね、波の音が良く聞こえそう。…昼間よりも、ずっと。
ハーレイはヤシの木、見たことがある?
植物園の温室とかじゃなくって、本当に海辺に生えているヤシ。
「もちろん、あるぞ。…ハンモックにも乗ってるが?」
船でのベッド代わりじゃなくてだ、ヤシの木に吊るしてあるヤツに。
「…ハーレイ、先に乗っちゃったんだ…」
ぼくと乗ろうね、って約束したのに、先に一人で…。
約束したのは前のぼくだから、今のぼくとは違うんだけど…。
「すまん、あの時はまだ、お前のことを思い出してはいなかったから…」
ヤシの木がある所まで来たら、コレだよな、と何も考えずに乗っちまった。一緒に行ってた連中とな。一人に一つで、そりゃあのんびりと…。
お前との約束、覚えていたなら、「俺は乗らない」と別行動にしたんだが…。
一人で海に泳ぎに行くとか、サイクリングに出掛けるだとか。
「…分かってるけど、ちょっと残念…」
ハーレイと一緒に乗りたかったよ、青い地球でハンモックに乗る時は。
二人一緒にドキドキしながら、どんな感じか、ヤシの木とハンモックを何度も眺めて。
「俺もだな…。なんだって、先に一人で乗っちまったんだか…」
お前と一緒に俺もワクワクしたかった。こいつは初めて乗るモンだが、と。
船なら嫌と言うほど乗ったが、ヤシの木に吊るしたハンモックなぞは前の俺だって知らないし。
初めて乗るなら、お前と乗りたかったのに…。それが最高だったのに…。
とんだ失敗をしちまった。記憶さえ戻っていたならなあ…。
お前とはまだ出会ってなくても、俺にはお前がいたんだってことに気付いていたら…。
これじゃ、お前と出掛けて行っても、感動ってヤツが少なめで…。そうだ!
ハンモックは先に乗っちまったが…、とハーレイが浮かべた楽しそうな笑み。
「ヤシの木の方なら、愉快なヤツが残っているぞ」と。
「とびきりのヤツだ、今の時代の地球ならではだな」
サルにヤシの実を採って貰わないか、という提案。それなら俺も初めてだから、と。
「…サル?」
サルって何なの、ヤシの実を採るなら、動物のサルのことだよね…?
「そのサルさ。そういう文化を復活させてる地域があるんだ」
人間が地球しか知らなかった時代に、サルを使ってヤシの実を採っていたんだな。木に登るのはサルの得意技だし、人間がやるより早いから。
其処へ出掛けて、「お願いします」と注文をしたら、サルに命令してくれるんだ。ヤシの木から実を採って来い、とな。
すると目の前で、サルがヤシの木に登っていって、だ…。ちゃんと実を抱えて戻って来る。
その実を「どうぞ」と渡して貰って、俺たちが頂戴するわけだ。
ココヤシだからな、中のジュースを美味しく飲む、と。
サルの飼い主が、殻を割ってストローを刺してくれるから。
「面白そう…!」
それは食べられるヤシの実なんだね、ゼルとブラウが公園に植えようと思っていたヤシ。
船のみんなに行き渡らないから、駄目だって言われちゃったヤシ…。
「そうなるな。だが、俺たちが旅で出掛ける先なら、ヤシの実だってドッサリだ」
なにしろ本物の地球だからなあ、ヤシの木も山ほどあるってな。…もちろん、実だって。
俺とお前がおかわりしたって、ヤシの実は減りもしないんだろう。ヤシだらけだから。
「それなら、何度も頼めるね。また見たいから、ってサルにヤシの実」
喉が渇いたよ、って思う度に注文してたって。…他にもお客さんが大勢いたって。
「大丈夫だろうな、其処ならヤシの実は珍しくもないモノなんだから」
この話は俺の教師仲間から聞いたんだ。其処へ行くなら、是非やって来い、と。
俺は話を聞いただけだし、この目で見てはいないから…。
お前とヤシの木を見に行く時には、其処にしよう、と勧めてくれたハーレイ。
その場所も海辺で、見渡す限りにヤシの木が続いているそうだから。白く輝く砂浜だって。
「ハーレイ、其処って、ハンモックもあるよね?」
ヤシの木に吊るしたハンモック。…それに乗るのも大切なんだよ、約束だから。
前のぼくたちだった頃から、地球に着いたら、二人で乗ろうっていう約束…。
「あるに決まっているだろう。でなきゃ、お前を誘わないってな」
ちゃんと聞いたから間違いはない。俺に教えてくれたヤツだって、ハンモックに乗ってのんびり過ごしていたそうだ。それこそ朝から晩までな。
ついでに海辺にコテージがあって、其処に泊まれる。窓の下は直ぐに海なんだ。
泊まった部屋から泳ぎに行けるのが売りらしいから、俺が潜りに出掛けて行ったら、美味い魚も獲れるってな。頼めばそいつを料理してくれると聞いてるが…?
「ホント!?」
なんだか凄いね、ハンモックに乗れるだけじゃないんだ…。
サルがヤシの実を採って来てくれて、中のジュースをストローで飲めて…。
それに魚も獲れちゃうんだね、泊まってる部屋から潜りに出掛けて。
「うむ。なかなかにいいと思わんか? …ハンモックはウッカリ乗っちまったが…」
お前のことを覚えていなくて、俺だけ先に乗って失敗したんだが…。
その分、しっかり埋め合わせってヤツをしないとな。今の俺に出来る限りのことを。
せっかく二人で地球に来たんだ、前の俺は死の星だった地球しか見られなかったが…。
お前はそれすら見られなかったが、今じゃ立派な本物の青い地球だしな?
ハンモックにも乗りに行かなきゃいかんし、他にも約束は山ほどだ。
お前と地球まで来られたからには、どれも端から叶えてやるのが俺の役目というヤツだよな。
今を大いに楽しまないと、とハーレイが約束してくれたから。
青い地球まで二人で来たから、いつかヤシの木を見に出掛けよう。
前の自分が憧れた景色を、真っ青な空と海を従えて、すっくと伸びている本物のヤシを。
南国の海辺でヤシの木を仰いで、夢だったハンモックにも二人で乗ろう。
ハーレイと同じのに揺られてもいいし、隣同士のハンモックだって。
濃い青の空と海を眺めて、星が降る夜に乗るのもいい。風に揺られるハンモックに。
そうやって二人、のんびりと過ごす。
喉が渇いたら、サルが採って来てくれたヤシの実の中のジュースを飲んで。
ハーレイがコテージから海に潜って、「美味そうだぞ」と獲った魚を二人で食べて。
(きっと、幸せ…)
二人で乗ろう、と約束していたハンモック。
先にハーレイが一人で乗ってしまったけれども、そのくらいはきっと小さなこと。
本物の地球に来られた幸せ、その大きさに比べたら。
前の自分が夢に見ていた、青い水の星でハーレイと二人で生きる幸せ。
それを大いに楽しんでゆこう、ハーレイがそう言ってくれたから。
いつかは二人でハンモックに乗って、ヤシの木を見上げられるのだから…。
ヤシの木の夢・了
※前のブルーの夢の一つだった、地球でハンモックに乗るということ。ヤシの木に吊るして。
ハーレイは記憶が戻る前に乗ってしまいましたけど、そのお蔭で増えた、幸せな未来の約束。
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「こう、昔から…」
恋人に逃げられちまった時は…、とブルーのクラスで始まった雑談。
もちろんハーレイ、古典の時間の真っ最中に。集中力が切れてきそうな生徒たちの心を掴んで、授業の方へと引き戻すために。
居眠りしていた生徒だって起きる、雑談の時間。面白い話や怖い話や、中身は色々。聞かないと損だと皆が思うから、何処のクラスでもハーレイは人気。
今日の授業は恋の物語が題材だったし、それに因んだ雑談らしい。恋人に振られる話は多いし、この先はどう続くのだろう?
(追い掛けるのかな…?)
それともプレゼントをするのだろうか、と考えたのに、ハーレイは…。
「恋人を取り戻す色々なまじないがあったわけだが、中には凄いのもあって…」
一番とんでもないのが、だ…。あまりの凄さに、能の題材にまでなっちまった。能だぞ、能。
丑の刻参りを知っているか、と教室の前のボードに書かれた文字。「橋姫」と「鉄輪」。橋姫というのは人の名前で、鉄輪の方が能のタイトル。「かなわ」と読む、とボードを叩いたハーレイ。
こいつが丑の刻参りの起源なんだ、と。
橋姫は恋人を奪われてしまい、嫉妬に狂って生きながら鬼になった人。憎い女性を殺すために。
二十一日間、夜中に鬼のような姿で走って、宇治川という川に浸かった。
頭に被った鉄輪に松明、口にも咥えていた松明。顔や身体を真っ赤に塗って、長い髪を角の形に結って。闇の中を走るその姿だけで、出会った人はショック死したという。鬼だと思って。
そうやって二十一日間、走り続けて、川に浸かって、本物の鬼になった橋姫。
最初は憎い女性を殺して、次はその女性の縁者を殺した。恋人だった男の縁者も端から殺して、ついには誰彼かまわずに。…愛した筈の恋人さえも。
そこまでしなくても良さそうだけれど、昔から怖いのが恋の恨みだ、とハーレイが指差す橋姫の名前。彼女の真似をして、藁人形に釘を打つのが丑の刻参りというわけだ、と。
丑の刻参りは深夜にするもの。橋姫と同じ。松明の代わりに櫛を咥えたりもしたらしい。頭には松明ならぬ蝋燭、それを灯すには鉄輪を被る。橋姫がやっていたように。
「今の時代は無いわけだがなあ、ここまで凄い恋の恨みは」
大事な恋人を盗られちまった、と殺しに行くような人間はいない。…鬼の姿にならなくても。
ミュウの便利な所だな、これは。
恋人と心がすれ違っても、せいぜい喧嘩で、じきに仲直りしちまうから。
こじれた時でも、きちんと思念で話し合ったら、解決するのがミュウならではだ。
残念なことに、俺が教えている古典。此処まで古い言葉でなくても、言葉や手紙じゃ伝わらないことも多いってな。…どんなに努力してみても。
その点、思念は間違いが無い。思った通りのことを伝えて、それの返事も来るんだから。
お蔭で橋姫のようなことをするヤツはいない、とハーレイが言う通り、今は平和な時代。恋人と喧嘩になってしまっても、ちゃんと仲直りが出来るから。
けれど、昔は違ったという。人間がミュウではなかった頃は。
人類は思念波を持たなかったし、こじれてしまえば恋は壊れておしまいだった。
(スウェナだって、離婚したものね…)
自由アルテメシア放送を立ち上げ、国家主席だったキースのメッセージを全宇宙に届けた女性。今の時代も名前が伝わる、ジャーナリストのスウェナ・ダールトン。
元はキースのステーション時代の友人だった。恋を選んで、結婚のためにステーションを離れたスウェナ。子供も育てていたというのに、捨ててしまった恋人と一緒に暮らす生活。
(…子供だったレティシアのことは、大切に思っていたらしいけど…)
夫の方は歴史に名前が残ってはいない。スウェナにとっては、要らない存在だったから。
かつて恋した人だったのに。…メンバーズへの道も捨てたくらいに、愛していたのに。
何処かで起こった、きっと小さなすれ違い。それがこじれて、元に戻せずに、恋は終わった。
前の自分が生きた時代は、そういう時代。スウェナの他にも、離婚した人はいたのだろう。
人類の世界では、心が通じ合わなかったから。思いをきちんと伝える術が無かったから。
今の時代なら、簡単なのに。思念を伝えて、伝えて貰って、それで解決出来るのに。
(だけど、思念波を持ってなかったら、離婚ってことになっちゃうよね…)
もっと酷かったら橋姫だよ、と納得していたら、「そこでだ…」と切り替わったハーレイの話。
橋姫は恋人さえも殺したけれども、そうする代わりに、恋人を取り戻すための、おまじない。
「日本にも色々あったんだが…」と断ってから、「お勧めはコレだ」と出て来たもの。
(…スカボローフェア…)
遠く遥かな昔の地球。人間が地球しか知らなかった時代に、イギリスで生まれた不思議な恋歌。
とても出来そうもない無理難題を幾つも並べて、ハーブの名前を織り込んで歌う。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
四つのハーブのおまじない。スカボローフェアは古い恋歌だから、それに因んで。
新月から次の新月を迎えるまでの間、二十八日間、毎日食べ続ける四つのハーブ。歌の通りに。
パセリとセージとローズマリーにタイム、それで恋人が戻るという。忘れずに食べれば。
「いいか、橋姫は二十一日間で鬼になっちまった」
それも毎晩、鬼のような格好をして川まで走って、水に浸かって。…鬼になるのも大変だよな?
しかし、こっちは二十八日間、四つのハーブを食べるだけでいいというわけで…。
食べるための決まりは全く無いから、好きに料理をすればいい。…ハーブを使った美味いのを。
四種類を入れればいいんだしなあ、肉料理だろうが、魚だろうが、何でもかまわん。
鬼になるために二十一日間も毎晩走るか、二十八日間、美味い料理を食べ続けるか…。
どっちがお得だと思う、と訊かれたから、ワッと盛り上がったクラス。男子も、女子も。
毎晩、夜中に走り続けるより、美味しく作ったハーブの料理。日替わりで色々な料理を作って、食べた方がいいに決まっていると。絶対そっち、と。
(ハーレイ…?)
ぼくに訊いてるの、と見詰めた恋人。教室を見回して、「食う方だよな?」と頷くハーレイ。
本当は自分に訊いたのだろうか、「お前なら、どっちを選ぶんだ?」と。
もしもハーレイが離れて行ったら、殺してしまうか、それともハーブのおまじないか。どちらを選ぶか、それを訊かれているのだろうか、と。
(ぼくなら、絶対、殺さないけど…)
ハーレイの心が離れたとしても。他の誰かに心を移して、去って行こうとしていても。
前の自分も、今の自分も、けしてハーレイを殺しはしない。
「俺の心を取り戻したいなら、こうするんだな」と、スカボローフェアの恋歌のような、それは難しい無理難題を吹っ掛けられても。
縫い目の無いシャツを作るどころか、波と波打ち際の間に一エーカーの土地を見付けるだとか。
水も湧かなければ雨も降らない、涸れた井戸でシャツを洗うとか。
(…やれって言われたら、何だってするよ…)
もちろん四種類のハーブを二十八日間、毎日食べることだって。料理しないで、生のままでも。
そう思うけれど、そのハーレイは、こちらを熱心に見てはくれなくて…。
(生徒を見る目…)
にこやかな笑顔で、「お前もか?」という顔で。「断然、食った方がいいよな」と。
偶然だろうか、スカボローフェアのおまじない。四つのハーブで取り戻す恋人。
ハーレイが雑談の種に選んだ歌が、前の自分たちの恋歌なのは。
(…前のハーレイがふざけて歌っていたから、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツ…)
それを作って贈った自分。ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃に。
縫い目も針跡も無いシャツを作れたら、真の恋人らしいから。スカボローフェアは、そう歌っていたものだから。
(あんなシャツ、ぼくには作れないけど…)
サイオンの扱いが不器用な自分に、奇跡のシャツは作れない。どう頑張っても出来ないこと。
けれど、ハーレイは今の自分に、あの恋歌とシャツの話をしてくれた。「覚えてるか?」と。
スカボローフェアも歌ってくれたというのに、今は本当に生徒を見る目。
(授業中だものね…)
よく考えたら、恋のメッセージが来るわけがない。此処は学校で、教室だから。
ハーレイは教師で、自分は生徒。
スカボローフェアの話はただの偶然、たまたま雑談に出て来ただけ。
(…ぬか喜び…)
ぼくに訊かれたわけじゃなかった、と少し悲しい気持ちだけれど。
でも殺さない、と見詰めるハーレイ、今は教師の愛おしい人。前の生から愛した恋人。
たとえハーレイが去ったとしても、殺す道など選ばない。
憎い恋敵から殺し始めて、恋人までも殺してしまうような道。そんな道など選びはしない。
そうするよりは、四つのハーブのおまじない。「ハーレイが戻りますように」と。
ハーレイの雑談は其処で終わって、戻った授業。「ちゃんと聞けよ?」と、古典の続き。
次の時間は別の授業で、放課後になって、家に帰って。
おやつを食べて部屋に戻ったら、思い出したのがハーレイの雑談。四つのハーブのおまじない。
勉強机の前に座って、きちんと考えてみることにした。…あの時は授業中だったから。
(ハーレイを誰かに盗られちゃったら…)
憎しみで鬼になってしまって、ハーレイまで殺してしまうだろうか。橋姫のように。
それとも、おまじないに頼るだろうか。四つのハーブを、毎日食べるおまじない。
(おまじないだよね…?)
クラスメイトたちは「お得だから」と、そちらを選んでいたけれど。
毎晩せっせと走り続けて川に浸かるよりも、美味しく食べる方がいい。ずっと楽だし、ハーブの料理は舌も心も楽しませるから。
(お得かどうかで考えなくても…)
鬼になる道なんかは選ばないよ、と改めて思う。授業の時にも考えたけれど。
今のハーレイはともかくとして、前のハーレイ。…大勢の仲間たちが周りにいたキャプテン。
ハーレイがヒルマンと去って行っても、ゼルに心を奪われても。
エラやブラウと行ってしまっても、シドやヤエと激しい恋に落ちても。
前の自分が一人残されても、ハーレイが青の間に来なくなっても…。
(きっと、ハーブのおまじない…)
そちらを選ぶことだろう。鬼になるより、ハーレイまでも憎しみで殺してしまう道より。
白いシャングリラが長く潜んだ、雲海の星、アルテメシア。
あの星に月は無かったけれども、月があった地球の暦を調べて、二十八日。新月から次の新月になるまで、月が満ちて、また欠けてゆくまで。
スカボローフェアの恋歌に歌われたハーブ、パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
四種類のハーブを毎日農場からコッソリ盗んで、青の間で食べることだろう。
部屋付きの係が運んで来る食事、それに合わない時があっても。どうやって料理すればいいのか分からなくても、生で頬張るしか無かったとしても。
ハーレイが戻ってくれるのならば、と二十八日間、毎日、ハーブ。一日も欠かさず、ハーレイの姿を思い浮かべながら。
(それで駄目でも…)
ハーレイの心を取り戻せなくても、また新月から二十八日。それが駄目でも、また新月から。
きっとそうして頑張り続ける。四つのハーブを来る日も来る日も、祈りをこめて食べ続ける。
ハーレイの心が戻らなくても、鬼になって殺しにゆきはしないで。
どんなに辛くて悲しい日々が続いたとしても、鬼になる道は選ばない。鬼になったら、恋人まで殺してしまうから。…好きだった筈のハーレイまで。
(そんなの嫌だよ…)
殺したら、もうハーレイに会えはしないから。
鳶色の瞳も、褐色の肌も、金色の髪も、もう見られない。恋した人に二度と会えない。
そんな思いをするくらいならば、自分が耐える方がいい。胸が張り裂けそうな日々でも、溢れる涙が止まらなくても、ハーレイの姿を眺めていたい。
他の誰かのものになっても、ハーレイには生きていて欲しい。
きっと姿を見られるだけでも、愛おしく思うだろうから。悲しい思いを抱えたままでも、恋した人を眺められたら、幸せだった頃を思い出せるから。
辛くても、ハーレイを殺しはしない。それよりは、ハーブのおまじない。
ハーレイの心が戻るようにと、新月の日から二十八日、食べるおまじないの繰り返し。農場から四種類のハーブを盗み出しては、食事に混ぜたり、生で食べたり。
(うん、頑張る…)
お腹を壊したって食べ続けるよ、と思っていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、切り出した。
「あのね、ぼくはハーレイを殺さないよ」
「はあ?」
なんだそりゃ、と鳶色の瞳が丸くなったから、ガッカリした。「通じなかった」と。
「…やっぱり、ただの雑談だったんだ…」
今日の授業の時の雑談…。橋姫の話と、スカボローフェアのおまじない…。
ぼくに向かって訊いているのかと思ったけれども、ハーレイ、普通の顔をしてたし…。
「ああ、あれなあ…」
俺としたことが、ウッカリしてた。やっちまったというヤツだ。
他のクラスで披露しようと思っていたのに…。持ち出すネタを間違えたってな。
気付いた時には、お前が俺を見てたんだ。じっと見詰めて、そりゃあ真剣な顔付きでな。
「…ぼくがいるって気が付いたのに、そのまま話を続けたわけ?」
やめるって選択肢は無かったの?
途中でやめたら、ぼくだって、ハーレイを見るのをやめるのに…。
前を見るのはやめないけれども、「ぼくに話してるの?」って目で訊いたりはしないのに…。
「やめるって…。そいつは駄目だな、話にオチがつかないだろうが」
食うおまじないの方が断然お得だ、って所に持って行かんとな。
でないと、ただの怖い話で終わっちまうじゃないか、丑の刻参りの起源ってヤツで。
色気より食い気って言うほどだしなあ、美味い話で終わらせないと。
おっと、この「美味い」は食い物の方の「美味い」だからな。上手って意味の方ではなくて。
オチのある話は其処まで話してこそなんだ、というのがハーレイの持論。
だから最後まで話したらしい。前の自分たちの思い出の歌を、スカボローフェアの恋歌に纏わる四つのハーブのまじないを。
見詰めていた自分には、気付かないふりで。…本当は途中で気付いたくせに。
「酷いよ、ぼくが見詰めてたのに…」
ぼくに訊いてるの、って本気で思ったくらいなのに。
スカボローフェアの歌だったから…。あれに出て来るハーブのおまじないなんだから。
鬼になって殺すか、ハーブを食べるか。
…授業中だけど、ぼくに向かって訊いてるのかな、って…。
「それで酷いと言ってるわけだな、授業中の俺が取った態度が」
だったら、俺を殺すのか?
恋の恨みには違いないなあ、浮気をしたってわけではないが…。
目の前に恋人がいるというのに、知らん顔をして放っておいたのが俺なんだから。
「…殺さないけど…」
意地悪だよね、って思うけれども、殺さないよ。…鬼になろうとは思わないから。
「そりゃ良かった」
えらいことになった、と焦ったんだよな、お前がいるって気付いた時は。
案の定、まじまじ見るもんだから…。
こいつは酷く恨まれそうだ、と考えたくせに、綺麗サッパリ忘れちまってた。
だから、お前が「殺さないよ」と言い出した時に、間抜けな返事をしちまったわけで…。
殺されたって仕方ないんだが、そうか、殺さずにいてくれるんだな。
命拾いをしたらしい、とハーレイが大袈裟に肩を竦めてみせるから。
「危うく死んじまう所だった」と手を広げるから、「殺さないよ」と繰り返した。
「今のぼくだって、殺さないけれど…。前のぼくだって、殺さないよ」
ハーレイを殺したりはしないよ、絶対に。
お腹を壊しても、ハーブ、食べるよ。…スカボローフェアの四つのハーブを、前のぼくだって。
「前のお前だと?」
どうして前のお前になるんだ、この話で。
俺が恋の恨みを買いそうになったのは、今日の授業で、お前の視線を無視したからで…。
前のお前の出番なんかは、何処にも無いと思うんだがな?
「…もしも、っていう話だよ。前のハーレイとぼくの恋のお話」
ハーレイがゼルやヒルマンとかに恋をして、ぼくの前からいなくなったら。
…エラやブラウたちと行っちゃったら。
それでも恨んで殺しはしないし、頑張ってハーブを食べ続けるだけ。一度で駄目でも、また次の新月から食べ始めて。…それを何回でも、いつまででも。
「おいおい、前の俺には、前のお前しかいなかったんだが…」
他に恋したヤツはいないし、恋をしようとも思わなかったぞ。ただの一度も。
「でも…。分かんないでしょ?」
そういう機会が無かったってだけで、もしかしたら恋をしていたのかも…。
何処かで出会いがあったとしたら、前のハーレイが素敵だと思う誰かに出会っていたら。
ハーレイが誰かに恋をしたなら、ぼくはハーブを食べるんだよ。…農場から毎日、盗んで来て。
「いや、無いな。…俺にはお前だけだった」
お前しか好きにならなかったし、お前は最初から特別だった。
…アルタミラで初めて出会った時から、お前は俺の特別ってヤツで、前の俺の一目惚れなんだ。
恋だと気付くまでの時間が、うんと長かったというだけでな。
だが…。
スカボローフェアのまじないか…、とハーレイが眉間に寄せた皺。
そのまじないを知っていたなら、と。
「…今となっては、どうすることも出来ないんだが…」
ハーブの名前は知ってたんだし、手に入れることも出来たろうにな。…四つとも、全部。
「え…?」
おまじない、知っているじゃない。…だから雑談の時に話したんでしょ?
話すクラスを間違えちゃったみたいだけれど…。ぼくのクラスで喋っちゃったけど。
「そいつは今の俺だろうが。…俺が言うのは、前の俺のことだ」
スカボローフェアは知っていたくせに、生憎と、肝心のまじないの方を知らなかった。
知っていたなら、食い続けたのに。
新月から次の新月までの間、パセリもセージも、ローズマリーもタイムもな。
それこそ新月が来る度に。もう何回でも、二十八日間、食って食い続けていたんだろうに…。
「食べるって…。それ、恋人が戻るおまじないでしょ?」
ハーレイが食べてどうするの。
前のぼく、ハーレイの他に恋人、作っていないよ?
ハーレイしか好きにならなかったし、最後までハーレイ一人だけだよ。
「…其処だ、其処」
俺も最後までお前だけを想っていたんだが…。
お前は先に逝ってしまって、俺は一人で残されちまった。…シャングリラにな。
「ジョミーを支えてやってくれ」と言われちまったら、生きていくしかないだろうが。
いくらお前を追いたくても。…お前の側に行きたくても…。
だから、まじないが欲しかった、と鳶色の瞳がゆっくりと一つ瞬きをした。
「それをやったら、恋人が戻って来るんだろうが」と。
「…俺がまじないをしたかったのは、お前がいなくなっちまった後だ」
恋人の心を取り戻せるなら、魂だって呼べるのかもしれん。…死んでしまった恋人のな。
スカボローフェアは古い歌だし、俺たちの思い出の歌でもあった。
前のお前が作ってくれたろ、縫い目も針跡も無かった亜麻のシャツを。…着るには向いていないシャツでも、あれは俺の宝物だった。歌の通りに、お前が作り上げたんだから。
あんなシャツまであった歌だぞ、それを使ったまじないだったら効きそうじゃないか。
頑張ればお前が帰って来そうだ、俺がハーブを食い続けたら。
パセリとセージと、ローズマリーにタイム。…一日だって欠かさないでな。
「ぼくの魂って…。幽霊だよ?」
身体はメギドで無くなっちゃったし、もう思念体とは呼べないんだから。
ハーレイに呼ばれて戻って来たって、ぼく、幽霊でしかないんだけれど…。
「幽霊だろうが、思念体よりも霞んで透けていようが、それでも良かった。…お前ならな」
俺はお前に会いたかったんだ。…いなくなっちまった、前のお前に。
広いシャングリラの何処を探しても、お前はいなかったんだから。
お前の幽霊を見たという仲間も、誰一人としていなかった。…ミュウの箱舟だったのに。
ミュウは精神の生き物なんだし、幽霊がいれば誰かが気付く。誰の幽霊なのかもな。
なのに、お前は船に戻りはしなかったんだ。…魂まで何処かへ行っちまって。
俺がどんなに会いたがっても、お前の名前を呼び続けても…。
青の間で、キャプテンの部屋で泣き続けたという前のハーレイ。ただ一人きりで。
逝ってしまった前の自分は、幽霊の姿になってさえも、戻って来なかったから。ハーレイだけを船に残して、二度と戻りはしなかったから。
「…ぼくの幽霊…。おまじないでも無理だったんじゃないかな?」
ハーレイが頑張ってハーブを食べても、会えないままになったと思うよ。
きっと、ぼくだって、会いたかったと思うから…。
ハーレイの所に帰りたかったと思うから。…幽霊になってしまっていても。
だけど、戻らなかったんだから…。戻る方法が無かったんだよ、いくら探しても。
「分からんぞ?」
もしもお前が言う通りならば、余計にまじないが効きそうだ。戻る方法が無かったんなら。
お前の力では戻れないなら、俺がお前を呼べばいい。…ハーブを使ったまじないでな。
恋人の心を呼び戻すためのまじないだったら、魂も呼べると思わんか?
お前が何処にいたとしたって、「戻って来い」と。…「俺は此処だ」と。
強い思いは奇跡を起こすと、お前だって知っているだろう?
前のお前がナスカまで生きて辿り着けたのは、ジョミーの思いが強かったからだ。
ジョミーが「生きて」と願ったお蔭で、前のお前は死なずに生きた。本当だったら、十五年間も生きられるわけがなかったのに…。
深い眠りに就いていたって、持ち堪えられはしなかったのに。
「そうだね…」
思った以上に長く生きた上に、最後は大暴れまでしたんだものね…。
あの時、ジョミーが願わなかったら、ぼくの命はアルテメシアで終わっていたよ。寿命の残り、ほんの少ししか無かったから…。ジョミーを追い掛けて飛び出した時は。
だけど、ジョミーが増やしてくれた。…メギドまで沈められたくらいに。
ジョミーを追うのが精一杯だった筈の命も力も、信じられないほど増えちゃった…。
ナスカからジルベスター・エイトまで飛んで、メギドも沈めてしまったなんて。
…メギドの炎も受け止めていたし、ぼくの力、ホントに凄かったよね…。
強い思いが起こした奇跡。前の自分は、確かにそれを知っていた。ジョミーのお蔭で。
それと同じで、ハーレイがハーブを食べていたなら、呼ばれただろうか。「戻って来い」と。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。
前の自分たちの思い出の恋歌、其処に織り込まれた四つのハーブ。新月から次の新月までの間、二十八日間、食べ続けたならば恋人の心が戻るという。
前のハーレイが「戻って来い」とハーブを食べたら、何処にいたってハーレイの声が届くなら。
スカボローフェアのハーブのまじない、それがハーレイの声を届けてくれるなら…。
(…呼んでるんだ、って気付いたら…)
どんな道でも、懸命に戻って行っただろう。ハーレイの許へ、自分を呼ぶ声がする方へ。
戻る方法が見付からなくても、探し出すまで諦めない。
ハーレイの声が届くのだったら、きっと方法はある筈だから。…何処かに道が隠れているから。
その道を行くには、途方もない苦労が伴うとしても。
メギドでの死と同じくらいに、魂が血を流すとしても。
それでも、きっと戻って行った。
道を一足踏みしめる度に、切り裂くような痛みが突き上げて来ても。
歩いた後には血が流れ出して、道が真っ赤に染まったとしても。
(…サイオンなんか使えなくって、シールドも無理で、血だらけだって…)
ハーレイの所へ戻れるのならば、歯を食いしばって歩いただろう。息が切れても、何度も倒れてしまっても。…行けども行けども、道の果てが見えて来なくても。
(…いつかは、帰れるんだから…)
険しくて辛いだけの道でも、其処を抜けたらハーレイに会える。魂だけになっていたって、手を握り合うことも叶わない幽霊になっていたって。
きっと歩いて歩き続けて、辿り着いたと思うから…。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。新月の日から二十八日間、食べれば恋人の心が戻るというハーブ。…前のハーレイがそれを食べてくれたなら…。
「ぼく、戻ったよ。…ハーレイが呼んでくれてたら」
戻って来い、って前のぼくを呼ぶのが聞こえたら。…スカボローフェアのハーブを食べて、前のぼくの心を呼んでいたなら。
ぼくの方でも、頑張らなくっちゃいけなくっても。
四種類のハーブを入れた料理を食べる代わりに、ずっと難しそうなこと。橋姫みたいに、夜中に走って川に浸かるより、もっと大変なことが必要でも。
前のぼくでも苦労しそうな、とんでもない道を歩かないと戻れなかったとしても。
…だって、戻ったら、またハーレイに会えるから…。幽霊になってても、会えるんだから。
「そうか…。お前、戻って来てくれたのか…」
お前まで努力が必要だとしても、俺の所へ。…俺がお前を呼んでいたなら。
知っていれば良かったな、あのまじない。
スカボローフェアの歌は知っていたんだし、もっと調べておけば良かった。あの歌のことを。
前のお前に教えてやった後に、データベースできちんとな。
縫い目も針跡も無いシャツを貰った記念に、あの歌に纏わる言い伝えを全部。
そうしていたなら、まじないだって、きっと見付かったんだろう。
恋人の心を取り戻すには、二十八日間、四つのハーブを食べ続ければいいんだ、とな。
…お前が誰かに恋をして去って行くんだったら、俺は止めたりしなかったろうが…。
お前の幸せを祈って黙って身を引いたろうが、お前がいなくなったというなら話は別だ。
いなくなったお前を呼び戻すために、俺は食い続けていたんだろう。
「俺は此処だ」と、「戻って来い」と、農場で四つのハーブを毟って、きっとその場で。
美味い料理にするよりもずっと、効きそうな感じがするからなあ…。
生のままで食う方が効果的だろう、とハーレイは大真面目だけれど。
「前の俺がそれを知っていたなら、農場に通って食い続けた」と言うのだけれど。
「…ううん、知らなくて良かったんだよ」
スカボローフェアのおまじないは。…前のぼくを、それで呼べたとしても。
幽霊のぼくが戻ったとしても、知らなかった方が良かったと思う。
恋人の心を取り戻すための方法、魂にも使えたとしても…。
「何故だ?」
お前、とんでもない苦労をしたって、戻って来ると言っただろうが。
俺の方だって、生のハーブで腹を壊そうが、胃を傷めようが、気にせんぞ?
それでお前と出会えるんなら、お前が戻って来るのなら。
うんと頼りなくて、触ることさえ出来ない透けた幽霊でも、俺はかまわん。…お前だったら。
「ぼくだって、ハーレイに会いたいけれど…」
会いたかったと思うけれども、頑張って戻って行きそうだけれど…。
もしも戻って会えていたなら、今のぼくたち、此処にいないと思わない?
幽霊のぼくと、生きているハーレイが会ったとしたって、キスも出来そうにないけれど…。
それでも会えて、ずっと一緒にいられるんだよ?
前のハーレイが地球に行くまで、幽霊のぼくはハーレイと一緒。
ハーレイが死んでしまった後には、ちゃんと手を繋いで、天国か何処かに行くんだし…。
もう一緒だから、これでいいよ、って。
生まれ変わって次の命を貰わなくても、充分幸せ、って思っていそう…。
「どうだかなあ…?」
お前、今でも欲張りな上に我儘だしな?
キスは駄目だと何度言っても、懲りずに強請ってくるんだし…。
幽霊になって俺と再会していたとしても、むくむくと欲が出るんじゃないか?
青い地球が宇宙に蘇ったら、「あそこに行こう」と俺に言うとか、俺の手を引いて、ずんずんと歩いて行っちまうとか。
「早く行こう」と、「今度は地球で暮らすんだから」と、勝手に一人で決めちまってな。
「分からないぞ?」とハーレイは疑っているけれど。「お前だしな?」とも言われたけれど。
我儘なチビの自分はともかく、前のハーレイと再会するなら、前の自分の幽霊だから。
メギドでハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きじゃくりながら死んでいったのだから…。
(…どんなに大変な道を歩いて、ハーレイの所へ戻ったとしても…)
血だらけの足で辿り着いても、きっと満足していただろう。ハーレイの顔を見た瞬間に。
パセリとセージとローズマリーにタイム、四つのハーブを頬張るハーレイに会った途端に。
(足が痛かったことも、すっかり忘れちゃって…)
触れられなくても、大きな身体に飛び付くようにして、抱き付くのだろう。
「会いたかった」と、「もう離れない」と。
ハーレイが血だらけの足に気付いて何か言っても、「痛くないよ」と微笑むのだろう。
本当に痛くない筈だから。…ハーレイに会えた喜びだけで、胸が一杯だろうから。
そうして再び巡り会えたら、それ以上は何も望まない。
青い地球まで行けなくても。シャングリラでようやく辿り着いた地球が、死の星のままで、青くなくても。
ハーレイと二人でいられるだけで、充分だから。ずっと離れずにいられるから。
そう思ったから、ハーレイに向かって微笑み掛けた。
スカボローフェアのハーブを使った、恋人の心を取り戻す方法を教室で語った愛おしい人に。
「…前のハーレイは、おまじないを知らなかったけど…」
本当に、それで良かったんだよ。…こうして地球に来られたから。
前のぼくは、ハーレイの所へ戻れなかったんだけど…。幽霊になって戻り損なったけど…。
今はとっても幸せだから。
ハーレイと二人で生まれ変わって、ちゃんと青い地球の上で会えたから。
だからいいんだよ、この方が、ずっと。
幽霊になって戻っていくより、もう一度、二人で生きられる方が…。
「そうだな、お互い、幸せだよな…」
今のお前はまだまだチビだが、いずれ結婚するんだし…。
二人で一緒に生きてゆけるし、幽霊のお前が戻って来るより、お得だな。
橋姫よりもハーブがお得だろう、ってネタを間違えて披露しちまうのも、生きてればこそか。
俺がお前のクラスに出掛けて、大失敗をしちまうのもな…。
今度は幸せに生きていこうな、とハーレイがキュッと握ってくれた手。
遠く遥かな時の彼方で、メギドで冷たく凍えた右手。
あの時、絆が切れてしまったと泣いたけれども、今もこうしてハーレイと一緒。
心はこれからも離れない。
ハーブのおまじないで恋人の心を取り戻すことも、しなくてもいい。
前の生の終わりに一度は離れてしまったけれども、絆は切れなかったから。
ちゃんと二人で地球に来たから、これから先だって、ハーレイと一緒。
前の自分が作り上げたような、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツはまるで作れなくても。
スカボローフェアの無理難題をこなせなくても、ハーレイは許してくれるから。
いつまでも二人、幸せに歩いてゆけるのだから。
だから、四つのハーブを使ったおまじないは二人とも、使いはしない。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。
四つのハーブを使うのだったら、きっと二人で食べるための料理。
いつか二人で暮らし始めたら、ハーレイに一度、強請ってみよう。
「あれを使って、何か作って」と。
「スカボローフェアの四つのハーブ」と、「おまじないだってあるんだよね?」と…。
恋歌のハーブ・了
※前のハーレイには分からなかった、前のブルーの魂を呼び戻すための方法。会いたいのに。
けれど、魂を呼び戻せていたら、今の生は無かったかもしれないのです。それだけで満足で。
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(今度の土曜日…)
お菓子はパウンドケーキがいいな、と考えたブルー。
学校から帰っておやつの時間に、ダイニングで。何かのはずみに、なんとなく、ふと。
頬張っていたのはアップルパイで、パウンドケーキとは似てもいないのに。味も舌触りも、見た目もまるで違うのに。
けれど思い付いたパウンドケーキ。何の飾りも無いシンプルなケーキ、ごくごくプレーンなのがいい。チョコレートもバナナも入っていなくて、小麦粉と卵とバターと砂糖だけで焼くのが。
(ハーレイの大好物…)
好き嫌いが無いハーレイだけれど、大好物はちゃんと存在する。母のパウンドケーキが、そう。
一番幸せそうに食べるケーキで、その時のハーレイの顔が大好き。
(何でも美味しそうに食べているけど…)
見ている方まで幸せになれる顔なのだけれど、パウンドケーキは中でも特別。
ハーレイの「おふくろの味」だから。隣町で暮らすハーレイの母が作るのと同じ味らしいから。
単純なレシピのケーキだというのに、ハーレイが焼いても同じ味にはならないという。
(不思議だよね?)
本当に不思議でたまらないけれど、母のパウンドケーキを食べるハーレイはいつも幸せそうで。子供みたいに嬉しそうな顔の時もあるから、特別なのがパウンドケーキ。
あのハーレイの顔をゆっくり見るなら、土曜が一番。普段の日よりも、時間がたっぷり。
だからパウンドケーキがいい。ハーレイの好きなケーキがいい。
それがいいな、と考えたけれど、パウンドケーキを焼くのは母。頼まないと焼いて貰えない。
何も言わずに放っておいたら、別のケーキが出て来るだろう。でなければパイやスフレだとか。
(ママに注文…)
しなくっちゃ、と思った所へ、母が入って来たものだから。
「ママ!」
「なあに?」
どうかしたの、と尋ねた母。「アップルパイはもう、あげないわよ」と。「食べ過ぎるから」と軽く睨まれたけれど、頼みたいものは今日のおやつではなくて…。
「えっとね…。おやつの話なんだけど…」
今じゃなくって、今度の土曜日。…土曜日のおやつ、パウンドケーキを焼いてくれない?
ハーレイが来てくれる時に、と注文した。「うんと普通のパウンドケーキ」と。
「いいわよ、基本のパウンドケーキね。…余計な味はつけないケーキ」
ハーレイ先生、プレーンなのが、とてもお好きだものね。
「そうでしょ?」
あれが一番好きらしいんだよ、チョコレート味も好きだけど…。バナナ入りでもいいんだけど。
だけどプレーンが大好きみたい、と母に話したハーレイの好み。
一度だけハーレイの家に遊びに出掛けた時にも、持って行ったのがパウンドケーキ。
母だってよく知っているから、「分かったわ」と笑顔で引き受けてくれた。
「パウンドケーキね、土曜日には」
「忘れないでよ?」
「もちろんよ。それに材料は、いつでも家に揃っているから」
買い忘れたりする心配も無いわ、と言って貰えたけれど。
「そうなんだけど…。絶対だよ?」
約束だからね、と母と指切りをした。「忘れないでね」と。
土曜日は絶対パウンドケーキ、と。ハーレイの好きなプレーンでお願い、と。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机の前に座って幸せな気分。頬杖をついて、顔を綻ばせて。
(ふふっ、土曜日はパウンドケーキ…)
ハーレイが好きな「おふくろの味」。幸せそうな顔が見えるよう。「おっ?」と輝かせる顔も。
「こいつは俺の好物だな」と、「この味が実に好きなんだ」と。
食べる前から嬉しそうなのに決まっている。一目見たなら、そうだと分かるパウンドケーキ。
ぼくが注文したんだから、と誇らしげに披露したならば…。
(御礼にキス…)
して貰えるかな、と思うけれども。「流石は俺の恋人だよな」と褒めても貰えそうだけど。
いくらハーレイが大喜びでも、御礼のキスを贈ってくれても…。
(どうせ、おでこか頬っぺたなんだよ)
御礼のキスを貰える場所は。
ハーレイの唇が触れてゆく場所は、額か頬に決まっている。いつも其処にしか貰えないキス。
欲しくてたまらない唇へのキスは、ケチなハーレイが「駄目だ」と言うから。何度強請っても、断られるのが唇へのキス。「前のお前と同じ背丈に育つまでは、俺はキスはしない」と。
(だから御礼のキスだって…)
して貰えても、額か頬に。「これだけなの?」と頬っぺたを膨らませたって。
けれど、ハーレイの笑顔は見られる。幸せそうに食べる顔だって見られる、パウンドケーキさえ用意したなら。…こちらまで幸せになってくるような表情を。
「キスは駄目だ」と叱られたって、パウンドケーキの御礼は聞ける。「ありがとう」と。
「俺の好物、ちゃんと分かってくれているよな」と、「こいつは、おふくろの味なんだ」と。
今のハーレイの「おふくろの味」。それを出せるのが今度の土曜日。
いつかは自分で焼きたいけれども、まだ無理だから母任せ。「焼いてね」と出しておいた注文。
(幸せだよね…)
ハーレイのために、恋人のために用意するケーキ。大好物のパウンドケーキ。
自分で焼いたものでなくても、「食べてね」とハーレイに出せる幸せ。喜んで貰える大好物を。
(ハーレイが好きなパウンドケーキ…)
ママに頼んであるんだものね、と眺めた小指。ちゃんと指切りしたんだから、と。
指切りまでして約束したから、母は忘れはしないだろう。キッチンにもメモを貼っておくとか、部屋のカレンダーに書き込んだりして。「土曜日のおやつはパウンドケーキ」と。
ただ「お願い」と言っただけではないのだから。「約束だよ」と指切りだから。
母としっかり絡めた小指を、指と指とでした約束を、小指を見ながら思い出していて…。
(…あれ?)
よくハーレイとも交わす指切り。何か約束した時は。「忘れないでね」と約束の印。
褐色の大きな手に見合った小指。チビの自分の細っこい指より、ずっと太くて力強い指。
指切りしようと絡めた時には、褐色と白が絡み合う。ハーレイの肌と自分の肌と。あまり意識はしていないけれど、対照的な二本の小指。色も、太さも。
それを互いに絡めて約束、キュッと力をこめる指切り。
時には腕ごとブンブンと振って、「約束だよ?」と念を押したりもする。「破らないでね」と。
指切りの約束は、言葉だけでの約束よりも強いから。
二人の間で交わした約束、それを「破らない」と誓う印が指切りだから。
何度もハーレイと指切りをした。指を絡めて、約束の印。
約束の中身は本当に色々、ほんの数日後に果たされるものや、まだまだ遠い未来のものや。幾つあるのか数えてみたって、きっと山ほどあることだろう。遠い未来の約束だけでも。
(好き嫌い探しの旅に行くのも、宇宙から青い地球を見るのも…)
どれもまだ遠い未来の約束、いつか結婚してからのこと。
最初に約束を交わした時には、指切りはしていないかもしれない。幸せな夢で胸が一杯だから。夢見るだけで、もう充分なほどの幸せすぎる約束だから。
(…でも、何回も…)
思い出す度に、「いつか行こうね」と交わす約束。指切りだって何回もした。好き嫌いを探しに旅をすることも、宇宙から青い地球を見ることも。他にも約束は沢山あって、指切りだって。
何度も何度も交わした指切り、本当に数え切れないほど。ハーレイと小指をキュッと絡めて。
けれども、前の自分たちは…。
白いシャングリラで共に暮らした、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは…。
(指切り、してない…?)
もしかしたら、と気付いたこと。
今の自分は何度もハーレイと指切りしたのに、前の自分はしなかったろうか、と。
互いの指を絡める約束、それを交わさなかっただろうか、と。
そんなことが…、と遠い記憶を探るけれども、覚えていない。指切りをした記憶が無い。
「約束だよ」と交わす指切り、それこそ何度もハーレイとしていそうなのに。
平和な今の時代と違って、明日さえも見えなかった船。其処で懸命に生きてゆく中、約束しない筈がない。それこそ、指をキュッと絡めて。互いの想いを確かめ合って。
今ならほんの小さなことでも、前の自分たちには大きすぎるものが幾つもあった。必ず来るとは言えなかった明日、明ける保証が無かった夜。…シャングリラが沈めば「明日」は無いから。
そういう船で生きていたから、約束するなら指切りが似合い。「約束だよ」と。
指を絡めて約束したなら、普通よりも遥かに強い約束。叶いそうな気持ちも強くなるから、何か約束するなら指切り。…今の時代なら、そこまでしなくていい中身でも。
「そんなことまで指切りなの?」と、笑い出しそうな約束さえも。
たとえば、「今夜また会おう」とか。
夜には必ずハーレイが青の間に来るというのに、そういう決まりになっていたのに。
(…シャングリラの夜は、ちゃんとやって来るとは限らなくって…)
昼の間に人類軍に攻撃されたら、もう来ないかもしれなかった夜。
白いシャングリラが沈んでしまえば、それで全てが終わるから。前の自分たちの命も、恋も。
明日さえも危うかった船。夜が明けても、無事に日暮れを迎えられるとは言えなかった船。
綱渡りのような日々を生きてゆく中、ハーレイと何か約束するなら、指切りだろうと思うのに。それが相応しいという気がするのに、まるで記憶に無い指切り。
どうしたわけだか、ただの一度も。
(…前のぼくは、手袋…)
素手とは違って、いつでも着けていたのが手袋。ソルジャーの衣装を構成するもの。
あれをはめていたせいなのかな、とも考えたけれど。手袋が小指を包んでいたから、指切りには向かなかっただろうか、と思ったけれど。
(手袋、本物の肌と同じで…)
着けたままでも、違和感を感じたことは無かった。水に触れれば濡れたと分かるし、誰かの手に触れれば温もりも分かる。そういう風に感じるようにと出来ていた素材。
手袋をはめたままでいたって、何の不自由も無いように。素肌と同じに思えるように。
もっとも、手袋が出来て間も無い頃には違ったけれど。仰々しいだけの衣装の一部で、快適とは言えなかった品。船にあった布で作られただけで、何の工夫も無かったから。
けれど、技術は日進月歩。白い鯨を作り上げたように、ミュウの技術も進んでいった。ミュウが持つサイオンなどを生かして、改良を重ねたソルジャーの衣装。
手袋は肌の一部と変わらなくなり、それでいて強い防御力を秘めた優れたものに。紫のマントや白い上着も、爆風や高熱に耐え得る強度を備えながらも、着心地の良さを誇れるものに。
(…あの手袋が邪魔だった筈は…)
なかったよね、と今でも分かる。
何かする時に、邪魔だと思ったことは無いから。「外したい」と思いもしなかったから。
手袋のせいではなかった筈だ、と思える指切りをしなかった理由。あの手袋なら、互いに絡めた指の温もりも、強さも伝えてくれたろうから。それが伝わる素材で出来ていたのだから。
(…それに、ハーレイが夜に青の間に来た時には…)
最初にすることは、キャプテンとしての一日の報告。ソルジャーだった前の自分に。
恋人同士になるよりも前から、そう決まっていたスケジュール。一日の終わりに、ソルジャーに報告すべきこと。船を纏めるキャプテンの仕事の締め括り。ブリッジでの勤務を終えたなら。
そのハーレイの報告が済んだら、外した手袋。恋人同士になった後には、「もう要らない」と。
恋人同士の二人なのだし、ソルジャーの衣装は邪魔になるだけ。
だから一番に外した手袋、二人きりの時間の始まりの合図。時には「早く」と促すように外したことも。ハーレイの報告が長く続いて、さして重要でもなかった時は。
「早く報告を終わらせて」と。「待ちくたびれた」と、「それは重要ではないだろう?」と。
ハーレイも意味を知っていたから、「すみません」と浮かべた苦笑。
「もう少しだけお待ち下さい」と、「これがキャプテンの仕事ですから」と。
そう言いながらも、多分、急いで切り上げていた。せっかちな恋人を待たせないよう、長すぎる報告を慌てて纏めて。「以上です」と早く言えるようにと。
報告が終われば、外してしまっていた手袋。「ソルジャーじゃない」という思いをこめて。
此処にいるのは「ただのブルー」だと、そう扱って欲しいのだ、と。
手袋を外した後になったら、もう簡単に出来る指切り。手袋に隔てられることなく、指と指とを絡められるから。褐色の小指と白い小指を、直接絡められるのだから。
二人きりの時間を過ごす間に、幾つも交わしただろう約束。小さなことから、遠く遥かな、まだ見えもしない未来のことも。「いつか地球まで辿り着いたら」と、様々な夢を。
そうでなくても、朝になったら「また夜に」とキスを交わして、指切りだって。
夜が必ず訪れるとは誰も言えない船だったのだし、指を絡めて約束を。「また夜に会おう」と。
恋人同士で約束するなら、本当に似合いそうなのに。…小指を絡め合いそうなのに。
(…キスしていたから、指切りは無し?)
唇を重ねる、恋人同士の本物のキス。強く抱き合って交わしていたから、指切りの出番はまるで全く無かったろうか。キスの方がずっと確かな誓いで、約束に向いていたのだろうか。
その可能性も高いよね、と思ったけれど。
チビの自分には「早すぎる」とハーレイが顔を顰めるから、そうなのかも、と考えたけれど。
(でも、もっと前…)
ハーレイと恋人同士になるよりも前も、指切りをした記憶が無い。
どんなに記憶を遡ってみても、ハーレイと指を絡めてはいない。青の間でも、白い鯨に改造する前の船で暮らしていた頃も。
(…ソルジャーとキャプテンだったから?)
皆を導く立場のソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。そういう肩書きの二人だったし、約束するなら指切りなどより、きちんと言葉か、あるいは書類にサインをするか。
けれど、ハーレイとは一番の友達同士でもあった。ハーレイの「一番古い友達」、そう呼ばれていた前の自分。アルタミラを脱出した直後から、「俺の一番古い友達だ」と。
仲のいい友達同士だったら、交わしていそうに思える指切り。「約束だよ」と。
それとも、一人前の大人だったから、指切りはしなかっただろうか?
小さな子供ではないのだから、と言葉で交わしていた約束。指と指とを絡める代わりに。
そうだったかも、と遠い記憶を遡る。大人同士なら、指切りはしないかもしれない。
今の自分の両親だって、指切りをしてはいないから。…少なくとも、チビの自分の前では。
前の自分たちもそうだったろうか、「指切りは子供がするものだから」と。
(だけど、指切り…)
今と変わらないチビだった頃にも、覚えが無い。心も身体も成長を止めて、子供の姿で過ごしていたのが前の自分。アルタミラを脱出するまでは。…狭い檻の中にいた頃は。
船で宇宙に逃げ出した後も、暫くはチビのままだった。少しずつ育っていったけれども、チビはチビ。船では一人きりだった子供、本当の年齢はともかくとして。
ブラウやヒルマン、ゼルやエラたちも、「子供だからね」と面倒を見てくれていた。サイオンはとても強いけれども、身体も心もまだ子供だ、と。
子供なのだし、ハーレイと指切りしてもいい。「約束だよ?」と指を絡めて。
なのに記憶に無いというのは、ハーレイが大人だったからなのだろうか?
自分はともかく、ハーレイは大人。…指切りはしそうにない大人。
(そうなのかな…?)
本当は指切りしたいのだけれど、「子供っぽいよね?」と遠慮をして。
自分よりもずっと大人のハーレイ、そのハーレイを捕まえて「指切りしよう」とは言えなくて。
そうでなければ、ハーレイの方が「柄じゃないな」と思っていたとか。
大人は指切りしないものだし、子供相手でも「なんだかなあ…」と思うかもしれない。指と指を絡めてみたとしたって、子供の手と大人の大きな手。
今と同じに、ハーレイの手と自分の手とでは、大きさがまるで違うから。
前のハーレイが「こういう時には指切りだろうな」と気付いたとしても、気恥ずかしさを覚えたかもしれない。「俺の柄じゃないぞ」と、「指切りは子供がするモンだしな?」と。
そういうことなら、指切りの記憶は無くて当然。…前のハーレイとは指切りしていないから。
だとすると、今のハーレイは…。何度も自分と指切りをしてくれたハーレイは…。
(ママと同じで、ぼくに合わせてくれていて…)
優しいんだよね、と零れた笑み。前のハーレイも優しかったけれど、指切りはしていないから。
きっと船では仲間がいたから、大人ばかりの船だったから。
(…指切りするような子供は、ぼくだけだったし…)
他の仲間とはしない指切り、それをわざわざするまでもない、とハーレイは考えたのだろう。
指切りが似合いのチビだった自分は、まだハーレイとは友達同士。恋人同士とは違ったのだし、特別扱いしなくてもいい。
「お前だけだぞ?」とコッソリ指切りしなくても。指と指とを絡めなくても。
けれども、今の自分は違う。キスも出来ないチビの子供でも、今のハーレイとは恋人同士。前の生での恋の続きを生きているから、友達同士だった頃とは違う。
(指切りだって、して貰えるよね?)
たとえハーレイの柄ではなくても、大人は指切りしないものでも。…子供同士がするものでも。
「約束だよ?」と指を差し出したら、絡めて貰えるハーレイの小指。
キスは駄目でも、小指は絡められるから。キュッと絡めて、誓いの印に出来るから。
(きっとそうだよ…)
今のぼくだから指切りなんだ、と小指に感じた幸せな想い。チビでも恋人だから指切り、と。
ハーレイは柔道部の生徒たちとは、指切りしないに違いない。どんなに大切な約束事でも、指を絡めはしないだろう。柔道部員たちがまだ子供でも、ハーレイは大人で「柄じゃない」から。
前の自分がチビだった時にそうだったように、指切りは無しで約束だけ。
きっと特別、今の自分だけが。
ハーレイと指切りが出来る子供は、本当に幼い子供を除けば、この世界に自分だけしかいない。
(…ホントに小さい子供だったら…)
小さな小さな手を差し出されたら、ハーレイも指切りするだろうけれど。…しなかったならば、大人げないということになるから。幼い子供の可愛い願いは、聞いてやるのが大人だから。
本当に小さな子供以外で、ハーレイと指切り出来る人間は自分だけ。チビの恋人の自分だけ。
前の自分はチビでも指切り出来なかったけれど、それは恋人ではなかったから。
(…今のぼくだけ…)
ぼくの特権、と胸がじんわり温かくなった所へ聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたから、してみたくなった指切りの約束。今の自分だけが出来ること。
だからテーブルを挟んで向かい合わせで、鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
「ねえ、ハーレイ。…ちょっと指切りしてもいい?」
約束の指切り。ハーレイと指切り、したいんだけど…。
「指切りって…。何故だ?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうだから。
「えっと、約束…。土曜日、来るでしょ?」
今度の土曜日は来てくれるんでしょ、用事があるって聞いてないもの。
「そりゃ、来るが…」
俺はそういうつもりをしてるし、お前の都合が悪いんでなけりゃ、いつもと同じだ。午前中には来ているだろうな、お前の家に。
「だったら約束してもいいよね、「必ず来る」って」
平日だったら、必ずっていうのは無理だけど…。約束したって、用事が出来たら駄目だから。
急な会議が入ったりもするし、他の先生と食事に行くとか、柔道部で何かあるだとか…。
「確かにな。…平日については、出来ん約束ではあるよな、それは」
必ず来るって約束は無理だ。大丈夫だろうと思っていたって、その日になるまで分からんし…。
朝には無かった筈の用事が、放課後に急に出来るというのも珍しくないし。
約束しとくか、土曜日の分は。…其処は間違いなく空いてるからな。
よし、と絡めて貰った小指。ハーレイの強くてがっしりした指。
小指と小指を絡め合わせて「約束だよ」と交わした指切り。「土曜日はぼくの家に来てね」と、「絶対だよ」と。
何度もハーレイに念を押してから小指を離して、幸せな気持ちで微笑んだ。指切りした小指を、反対側の手で確かめながら。
「あのね、指切り…。今もしたけど…」
ぼく、ハーレイの特別だよね?
ちゃんと指切りしてくれるんだし、ぼくはハーレイの特別なんでしょ?
「はあ? 特別って…」
なんだ、そいつはどういう意味だ?
分からんぞ、とハーレイが言うから、「そう?」と返した。
「ハーレイ、柔道部の生徒とだったら、しないでしょ?」
「何をだ?」
「だから、指切り。…だって、ハーレイの柄じゃないから」
「いや…?」
する時はするが、という返事。
柔道部員たちとも指切りはすると、あちらが指を出して来たら、と。
なまじっか力が強いものだから、強引にやられることもあるな、と苦笑いまで。
適当な所で指を離そうと考えていても、「約束ですよ」と、ハーレイの手をブンブン振る生徒がいるらしい。「これだけしっかり約束したから、破らないで下さいね」と。
次の試合で好成績なら、何かおごって欲しいとか。おごってくれるなら、これがいいとか。
「俺の意見は関係無しだ」と、「酷いもんだ」とハーレイが笑う柔道部員たちとの指切り。一度ハーレイと指を絡めたら、離さないらしい逞しい彼ら。
「いやもう、困ったヤツらだってな。…まったく、何が約束なんだか…」
指切りしたから絶対ですよ、と言われちまうと、俺もどうにも出来ないからな。
「…ホントなの?」
ハーレイ、ぼくじゃなくても指切りするの?
頼まれちゃったら、柔道部の生徒が指を出して来ても指切りなの…?
「お前が何を言っているのか分からんが…。指切りくらいは普通だろうが」
柔道部員のヤツらじゃなくても、俺は指切りしているぞ。流石に大人は頼んでこないが…。
頼まれた時は、女の子とでも指切りだな、うん。
「えーっ!?」
女の子って…。学校の子だよね、ハーレイ、頼まれたら女の子とでも指切りするの…?
柔道部員よりも柄じゃなさそうなのに、どうしてなの、と叫んだら、ハーレイも目を丸くして。
「お前の方こそ、どうしたんだ。…柄じゃないというのもサッパリだが…」
それよりも前に、指切りだとか、お前だけが特別だとか、その辺からして謎だってな。
いったい何処から、そういう話になったんだ。指切りは何処から出て来たんだ…?
「…前のぼく…。前のぼく、指切りしていないんだよ、ハーレイと…」
頑張って思い出してみたけど、ホントに一度もしていないみたい。…前のハーレイとは。
恋人同士になって、キスで約束するようになる前も、していないんだよ。指切りは。
チビだった頃にもしていないから、前のぼく、ハーレイに遠慮していたのかな、って…。
だってハーレイは大人だったし、指切りなんて「俺の柄じゃないな」って恥ずかしそうな感じに見えたとか…。それで指切り、頼もうと思わなかったとか。
だから前のハーレイとは指切りしないで、代わりに約束。…多分、言葉だけで。
今のぼくだと、チビでも恋人同士だから…。ハーレイ、指切りしてくれるのかな、って…。
「なるほどな…。それで特別だと思ったわけか」
前のお前がチビだった頃と違って、今は特別。そう考えたのが、俺の指切りなんだな…?
ふむ、と腕組みしたハーレイ。「お前の言いたいことは分かった」と。「しかし…」とも。
ハーレイの顔に浮かんだ穏やかな笑み。「ユニークな発想ではあるが…」と。
「斬新な考えだとも思うが、そいつはお前の勘違いだ」
残念ながら、そういうことになっちまうってな。…お前が特別ってわけではなくて。
「勘違い?」
ぼくが勘違いをしているわけなの、ハーレイの特別だから指切りだ、って…?
ハーレイが、柔道部の生徒とも、女の子とも指切りしてるんだったら、本当にぼくの勘違い…?
「そうだ、勘違いというヤツだ。…いいか、よくよく考えてみろよ?」
お前、いつから指切りしてる?
俺と指切りするんじゃなくてだ、誰とでもいいが、指切りってヤツを。指切りで約束、いつからしている…?
「えーっと…?」
約束する時は指切りだから…。さっきもママと指切りしてたし、小さい頃から…。
友達とだって、大事な約束は指切りだよね、と手繰ったチビの自分の記憶。指切りの記憶。
多分、物心つくよりも前からしていたのだろう。覚えていないだけで、両親たちと。
大切な約束をする時だったら、いつも指切り。両親はもちろん、幼稚園や学校の友達とも。
だから「前から」と答えたけれど。「うんと小さい頃からだよ」と言ったのだけれど。
「俺もそうなんだが…。ガキの頃から、約束と言えば指切りだったが…」
前の俺たちの場合はだな…。少々、事情が異なるってな。
今のお前や俺とは違う、というハーレイの指摘で気付いたこと。前の自分が失くしてしまった、子供時代の記憶というもの。前のハーレイもそれは同じで、何も覚えてはいなかった。成人検査を受ける前のことは、ミュウと判断される前の記憶は、何一つとして。
いつから指切りをやっていたのか、誰と指切りで約束したか。…そんな記憶を持ってはいない。下手をしたなら、指切りをしていたことさえも…。
「…前のぼく、忘れちゃってたの? ぼくだけじゃなくて、前のハーレイも…」
子供の頃の記憶と一緒に忘れちゃっていたの、指切りのことを?
約束する時は指切りなんだ、っていうことを忘れてしまっていたから、指切りしようと思わずにいたの、ハーレイもぼくも…?
「いや、違う。忘れちまったわけではなくて…」
無かったんだ、指切りというヤツが。…小指と小指を絡める約束、それ自体が。
存在しなかったものは出来ないだろうが、俺もお前も。…指切りの無い時代だったんだから。
「…そうだったの?」
前のぼくたち、最初から指切り、知らなかったの…?
「日本の約束の方法だからな、指切りは」
指切りの時に歌う歌だってあるだろうが。嘘をついたら針を千本飲ませる、ってな。
「そういえば…。あるね、指切りする時の歌…」
歌いながら指切りしていないから、忘れちゃってた。…あの歌、古い歌だっけね…。
小さい頃には歌ってたけど、と思い出した昔の童歌。SD体制が始まるよりも遠い昔に歌われた歌。日本という小さな島国で。
普段は全く耳にしないから、すっかり忘れてしまっていた。
幼かった頃に覚えて歌った、指切りの歌。嘘をついたら針を千本飲ませると歌う、約束の歌。
「やっと分かったか? 前の俺たちが生きた頃には、指切りは存在しなかった」
日本の色々な文化と一緒に復活したのが、指切りなんだ。今じゃ当たり前の習慣だがな。
「そうだったんだ…」
前のぼくが覚えていないわけだね、指切りのこと。…やってないよ、って。
だから今のぼく、特別なんだと思ったのに…。ハーレイに指切りして貰えるよ、って…。
ぼくの勘違いだっただなんて、と見詰めた小指。さっきハーレイと絡めた小指。
「土曜日は来てね」と交わした約束。小指と小指をキュッと絡めて。
とても幸せだったのに。…小指同士で交わす約束は、温かくて確かで、幸せなのに。
「…ハーレイと指切り…。前のハーレイと一度もしていないから…」
今のぼくだから出来るんだよ、って思ってたのに…。幸せな気分だったのに…。
「気持ちは分かるが、前のお前、フィシスと指切りをしたか?」
フィシスが小さな子供だった頃に、お前、指切りしてたのか…?
「していない…」
やっていないよ、フィシスとも…。前のハーレイとも、指切りはしていないけど…。
「そうだろうが。…あの時代に指切りが無かったという証拠だ、それが」
子供時代の記憶を失くしちまった前のお前はともかく、フィシスは記憶を消されていない。
しかも機械が育てたわけだし、あの年までに必要な知識は充分に持っていたってな。
そのフィシスでも知らなかったんだ。…約束の時には指切りだってことを。
知っていたなら、前のお前に教える筈だ。約束する時は、こうするものだと。
「そっか…。そうだね、小さかった頃のフィシスなら…」
前のぼくに教えていたんだろうね、指切りの仕方。…ぼくが覚えていなくても。
約束の指切り、前のぼくたちが生きてた頃には無かったなんて…。
とっても素敵な方法なのにね、大切な約束をするなら指切り。
「うむ。幸せな約束のやり方ではある」
相手と絆が出来るっていうか、本物の誓いという感じだな。…言葉だけで約束するよりも。
キスは無理でも、こう、指と指とが絡まるからな、とハーレイが絡めてくれた褐色の小指。
「手を出してみろ」と、大きな手を差し出して。「こうだな」と指切りをする形に。
小指と小指が絡まったけれど、ハーレイの指に小指を捕えられたけれど。
「はてさて…。指切りの形に絡めてはみたが、何を約束するべきか…」
土曜日に来るっていう約束なら、お前に頼まれてやっちまったし…。
他に約束出来るようなことは、いったい何があるやらなあ…。
はて…、とハーレイが考え込むから、ここぞと声を上げてみた。
「それなら、土曜日に来たら、ぼくにキスをすること!」
おでこや頬っぺたにキスじゃなくって、本物のキス。唇にキスだよ、そういう約束。
いいでしょ、指切りで約束したなら、ハーレイ、キスをくれるんだよね…?
嘘をついたら、針を千本。…指切りの約束は絶対だもの。
「それは駄目だな、約束を破った時には俺が針を千本飲むわけだから…」
針を千本飲まされちまっても、俺が納得するような約束をするというのが筋だろう。
同じキスでも、お前が前のお前と同じ背丈に育つまではしない、という約束だな。
そいつでいいだろ、ほら、約束だ。
いいな、とハーレイがしっかり絡めた小指。約束だぞ、と。
「酷い…!」
キスは駄目なんて、そんな約束…!
ぼくだって針を千本なんでしょ、その約束を破っちゃったら…!
ハーレイのケチ、と叫んでしまったけれども、酷い約束をさせられたけれど。
絡めて貰った小指は温かくて、幸せだから。ハーレイの小指に捕まっているのが嬉しいから。
(…ハーレイと指切り…)
遠い昔の日本の約束、前の自分は知らなかった指切り。
今の時代だから出来る約束が指切りなのだし、小指をキュッとハーレイの小指に絡めておいた。
ハーレイと何度もして来た指切り、小指と小指を絡めて約束。
これから先だって、幾つも幾つも、幸せな約束が出来るのだろう。ハーレイと二人で。
その度に小指で約束出来るし、交わしてゆける幸せな約束。
未来の幸せをちょっぴり先取りだよ、と。
こうして小指を絡めるんだよと、ハーレイと幾つも幸せな約束をするんだから、と…。
指切り・了
※前のブルーとハーレイが生きた時代には、指切りの約束は無かったのです。習慣自体が。
今だからこそ、出来る指切り。幸せな約束の方法ですけど、出来ない約束もあるようですね。
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