シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「こう、昔から…」
恋人に逃げられちまった時は…、とブルーのクラスで始まった雑談。
もちろんハーレイ、古典の時間の真っ最中に。集中力が切れてきそうな生徒たちの心を掴んで、授業の方へと引き戻すために。
居眠りしていた生徒だって起きる、雑談の時間。面白い話や怖い話や、中身は色々。聞かないと損だと皆が思うから、何処のクラスでもハーレイは人気。
今日の授業は恋の物語が題材だったし、それに因んだ雑談らしい。恋人に振られる話は多いし、この先はどう続くのだろう?
(追い掛けるのかな…?)
それともプレゼントをするのだろうか、と考えたのに、ハーレイは…。
「恋人を取り戻す色々なまじないがあったわけだが、中には凄いのもあって…」
一番とんでもないのが、だ…。あまりの凄さに、能の題材にまでなっちまった。能だぞ、能。
丑の刻参りを知っているか、と教室の前のボードに書かれた文字。「橋姫」と「鉄輪」。橋姫というのは人の名前で、鉄輪の方が能のタイトル。「かなわ」と読む、とボードを叩いたハーレイ。
こいつが丑の刻参りの起源なんだ、と。
橋姫は恋人を奪われてしまい、嫉妬に狂って生きながら鬼になった人。憎い女性を殺すために。
二十一日間、夜中に鬼のような姿で走って、宇治川という川に浸かった。
頭に被った鉄輪に松明、口にも咥えていた松明。顔や身体を真っ赤に塗って、長い髪を角の形に結って。闇の中を走るその姿だけで、出会った人はショック死したという。鬼だと思って。
そうやって二十一日間、走り続けて、川に浸かって、本物の鬼になった橋姫。
最初は憎い女性を殺して、次はその女性の縁者を殺した。恋人だった男の縁者も端から殺して、ついには誰彼かまわずに。…愛した筈の恋人さえも。
そこまでしなくても良さそうだけれど、昔から怖いのが恋の恨みだ、とハーレイが指差す橋姫の名前。彼女の真似をして、藁人形に釘を打つのが丑の刻参りというわけだ、と。
丑の刻参りは深夜にするもの。橋姫と同じ。松明の代わりに櫛を咥えたりもしたらしい。頭には松明ならぬ蝋燭、それを灯すには鉄輪を被る。橋姫がやっていたように。
「今の時代は無いわけだがなあ、ここまで凄い恋の恨みは」
大事な恋人を盗られちまった、と殺しに行くような人間はいない。…鬼の姿にならなくても。
ミュウの便利な所だな、これは。
恋人と心がすれ違っても、せいぜい喧嘩で、じきに仲直りしちまうから。
こじれた時でも、きちんと思念で話し合ったら、解決するのがミュウならではだ。
残念なことに、俺が教えている古典。此処まで古い言葉でなくても、言葉や手紙じゃ伝わらないことも多いってな。…どんなに努力してみても。
その点、思念は間違いが無い。思った通りのことを伝えて、それの返事も来るんだから。
お蔭で橋姫のようなことをするヤツはいない、とハーレイが言う通り、今は平和な時代。恋人と喧嘩になってしまっても、ちゃんと仲直りが出来るから。
けれど、昔は違ったという。人間がミュウではなかった頃は。
人類は思念波を持たなかったし、こじれてしまえば恋は壊れておしまいだった。
(スウェナだって、離婚したものね…)
自由アルテメシア放送を立ち上げ、国家主席だったキースのメッセージを全宇宙に届けた女性。今の時代も名前が伝わる、ジャーナリストのスウェナ・ダールトン。
元はキースのステーション時代の友人だった。恋を選んで、結婚のためにステーションを離れたスウェナ。子供も育てていたというのに、捨ててしまった恋人と一緒に暮らす生活。
(…子供だったレティシアのことは、大切に思っていたらしいけど…)
夫の方は歴史に名前が残ってはいない。スウェナにとっては、要らない存在だったから。
かつて恋した人だったのに。…メンバーズへの道も捨てたくらいに、愛していたのに。
何処かで起こった、きっと小さなすれ違い。それがこじれて、元に戻せずに、恋は終わった。
前の自分が生きた時代は、そういう時代。スウェナの他にも、離婚した人はいたのだろう。
人類の世界では、心が通じ合わなかったから。思いをきちんと伝える術が無かったから。
今の時代なら、簡単なのに。思念を伝えて、伝えて貰って、それで解決出来るのに。
(だけど、思念波を持ってなかったら、離婚ってことになっちゃうよね…)
もっと酷かったら橋姫だよ、と納得していたら、「そこでだ…」と切り替わったハーレイの話。
橋姫は恋人さえも殺したけれども、そうする代わりに、恋人を取り戻すための、おまじない。
「日本にも色々あったんだが…」と断ってから、「お勧めはコレだ」と出て来たもの。
(…スカボローフェア…)
遠く遥かな昔の地球。人間が地球しか知らなかった時代に、イギリスで生まれた不思議な恋歌。
とても出来そうもない無理難題を幾つも並べて、ハーブの名前を織り込んで歌う。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
四つのハーブのおまじない。スカボローフェアは古い恋歌だから、それに因んで。
新月から次の新月を迎えるまでの間、二十八日間、毎日食べ続ける四つのハーブ。歌の通りに。
パセリとセージとローズマリーにタイム、それで恋人が戻るという。忘れずに食べれば。
「いいか、橋姫は二十一日間で鬼になっちまった」
それも毎晩、鬼のような格好をして川まで走って、水に浸かって。…鬼になるのも大変だよな?
しかし、こっちは二十八日間、四つのハーブを食べるだけでいいというわけで…。
食べるための決まりは全く無いから、好きに料理をすればいい。…ハーブを使った美味いのを。
四種類を入れればいいんだしなあ、肉料理だろうが、魚だろうが、何でもかまわん。
鬼になるために二十一日間も毎晩走るか、二十八日間、美味い料理を食べ続けるか…。
どっちがお得だと思う、と訊かれたから、ワッと盛り上がったクラス。男子も、女子も。
毎晩、夜中に走り続けるより、美味しく作ったハーブの料理。日替わりで色々な料理を作って、食べた方がいいに決まっていると。絶対そっち、と。
(ハーレイ…?)
ぼくに訊いてるの、と見詰めた恋人。教室を見回して、「食う方だよな?」と頷くハーレイ。
本当は自分に訊いたのだろうか、「お前なら、どっちを選ぶんだ?」と。
もしもハーレイが離れて行ったら、殺してしまうか、それともハーブのおまじないか。どちらを選ぶか、それを訊かれているのだろうか、と。
(ぼくなら、絶対、殺さないけど…)
ハーレイの心が離れたとしても。他の誰かに心を移して、去って行こうとしていても。
前の自分も、今の自分も、けしてハーレイを殺しはしない。
「俺の心を取り戻したいなら、こうするんだな」と、スカボローフェアの恋歌のような、それは難しい無理難題を吹っ掛けられても。
縫い目の無いシャツを作るどころか、波と波打ち際の間に一エーカーの土地を見付けるだとか。
水も湧かなければ雨も降らない、涸れた井戸でシャツを洗うとか。
(…やれって言われたら、何だってするよ…)
もちろん四種類のハーブを二十八日間、毎日食べることだって。料理しないで、生のままでも。
そう思うけれど、そのハーレイは、こちらを熱心に見てはくれなくて…。
(生徒を見る目…)
にこやかな笑顔で、「お前もか?」という顔で。「断然、食った方がいいよな」と。
偶然だろうか、スカボローフェアのおまじない。四つのハーブで取り戻す恋人。
ハーレイが雑談の種に選んだ歌が、前の自分たちの恋歌なのは。
(…前のハーレイがふざけて歌っていたから、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツ…)
それを作って贈った自分。ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃に。
縫い目も針跡も無いシャツを作れたら、真の恋人らしいから。スカボローフェアは、そう歌っていたものだから。
(あんなシャツ、ぼくには作れないけど…)
サイオンの扱いが不器用な自分に、奇跡のシャツは作れない。どう頑張っても出来ないこと。
けれど、ハーレイは今の自分に、あの恋歌とシャツの話をしてくれた。「覚えてるか?」と。
スカボローフェアも歌ってくれたというのに、今は本当に生徒を見る目。
(授業中だものね…)
よく考えたら、恋のメッセージが来るわけがない。此処は学校で、教室だから。
ハーレイは教師で、自分は生徒。
スカボローフェアの話はただの偶然、たまたま雑談に出て来ただけ。
(…ぬか喜び…)
ぼくに訊かれたわけじゃなかった、と少し悲しい気持ちだけれど。
でも殺さない、と見詰めるハーレイ、今は教師の愛おしい人。前の生から愛した恋人。
たとえハーレイが去ったとしても、殺す道など選ばない。
憎い恋敵から殺し始めて、恋人までも殺してしまうような道。そんな道など選びはしない。
そうするよりは、四つのハーブのおまじない。「ハーレイが戻りますように」と。
ハーレイの雑談は其処で終わって、戻った授業。「ちゃんと聞けよ?」と、古典の続き。
次の時間は別の授業で、放課後になって、家に帰って。
おやつを食べて部屋に戻ったら、思い出したのがハーレイの雑談。四つのハーブのおまじない。
勉強机の前に座って、きちんと考えてみることにした。…あの時は授業中だったから。
(ハーレイを誰かに盗られちゃったら…)
憎しみで鬼になってしまって、ハーレイまで殺してしまうだろうか。橋姫のように。
それとも、おまじないに頼るだろうか。四つのハーブを、毎日食べるおまじない。
(おまじないだよね…?)
クラスメイトたちは「お得だから」と、そちらを選んでいたけれど。
毎晩せっせと走り続けて川に浸かるよりも、美味しく食べる方がいい。ずっと楽だし、ハーブの料理は舌も心も楽しませるから。
(お得かどうかで考えなくても…)
鬼になる道なんかは選ばないよ、と改めて思う。授業の時にも考えたけれど。
今のハーレイはともかくとして、前のハーレイ。…大勢の仲間たちが周りにいたキャプテン。
ハーレイがヒルマンと去って行っても、ゼルに心を奪われても。
エラやブラウと行ってしまっても、シドやヤエと激しい恋に落ちても。
前の自分が一人残されても、ハーレイが青の間に来なくなっても…。
(きっと、ハーブのおまじない…)
そちらを選ぶことだろう。鬼になるより、ハーレイまでも憎しみで殺してしまう道より。
白いシャングリラが長く潜んだ、雲海の星、アルテメシア。
あの星に月は無かったけれども、月があった地球の暦を調べて、二十八日。新月から次の新月になるまで、月が満ちて、また欠けてゆくまで。
スカボローフェアの恋歌に歌われたハーブ、パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
四種類のハーブを毎日農場からコッソリ盗んで、青の間で食べることだろう。
部屋付きの係が運んで来る食事、それに合わない時があっても。どうやって料理すればいいのか分からなくても、生で頬張るしか無かったとしても。
ハーレイが戻ってくれるのならば、と二十八日間、毎日、ハーブ。一日も欠かさず、ハーレイの姿を思い浮かべながら。
(それで駄目でも…)
ハーレイの心を取り戻せなくても、また新月から二十八日。それが駄目でも、また新月から。
きっとそうして頑張り続ける。四つのハーブを来る日も来る日も、祈りをこめて食べ続ける。
ハーレイの心が戻らなくても、鬼になって殺しにゆきはしないで。
どんなに辛くて悲しい日々が続いたとしても、鬼になる道は選ばない。鬼になったら、恋人まで殺してしまうから。…好きだった筈のハーレイまで。
(そんなの嫌だよ…)
殺したら、もうハーレイに会えはしないから。
鳶色の瞳も、褐色の肌も、金色の髪も、もう見られない。恋した人に二度と会えない。
そんな思いをするくらいならば、自分が耐える方がいい。胸が張り裂けそうな日々でも、溢れる涙が止まらなくても、ハーレイの姿を眺めていたい。
他の誰かのものになっても、ハーレイには生きていて欲しい。
きっと姿を見られるだけでも、愛おしく思うだろうから。悲しい思いを抱えたままでも、恋した人を眺められたら、幸せだった頃を思い出せるから。
辛くても、ハーレイを殺しはしない。それよりは、ハーブのおまじない。
ハーレイの心が戻るようにと、新月の日から二十八日、食べるおまじないの繰り返し。農場から四種類のハーブを盗み出しては、食事に混ぜたり、生で食べたり。
(うん、頑張る…)
お腹を壊したって食べ続けるよ、と思っていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、切り出した。
「あのね、ぼくはハーレイを殺さないよ」
「はあ?」
なんだそりゃ、と鳶色の瞳が丸くなったから、ガッカリした。「通じなかった」と。
「…やっぱり、ただの雑談だったんだ…」
今日の授業の時の雑談…。橋姫の話と、スカボローフェアのおまじない…。
ぼくに向かって訊いているのかと思ったけれども、ハーレイ、普通の顔をしてたし…。
「ああ、あれなあ…」
俺としたことが、ウッカリしてた。やっちまったというヤツだ。
他のクラスで披露しようと思っていたのに…。持ち出すネタを間違えたってな。
気付いた時には、お前が俺を見てたんだ。じっと見詰めて、そりゃあ真剣な顔付きでな。
「…ぼくがいるって気が付いたのに、そのまま話を続けたわけ?」
やめるって選択肢は無かったの?
途中でやめたら、ぼくだって、ハーレイを見るのをやめるのに…。
前を見るのはやめないけれども、「ぼくに話してるの?」って目で訊いたりはしないのに…。
「やめるって…。そいつは駄目だな、話にオチがつかないだろうが」
食うおまじないの方が断然お得だ、って所に持って行かんとな。
でないと、ただの怖い話で終わっちまうじゃないか、丑の刻参りの起源ってヤツで。
色気より食い気って言うほどだしなあ、美味い話で終わらせないと。
おっと、この「美味い」は食い物の方の「美味い」だからな。上手って意味の方ではなくて。
オチのある話は其処まで話してこそなんだ、というのがハーレイの持論。
だから最後まで話したらしい。前の自分たちの思い出の歌を、スカボローフェアの恋歌に纏わる四つのハーブのまじないを。
見詰めていた自分には、気付かないふりで。…本当は途中で気付いたくせに。
「酷いよ、ぼくが見詰めてたのに…」
ぼくに訊いてるの、って本気で思ったくらいなのに。
スカボローフェアの歌だったから…。あれに出て来るハーブのおまじないなんだから。
鬼になって殺すか、ハーブを食べるか。
…授業中だけど、ぼくに向かって訊いてるのかな、って…。
「それで酷いと言ってるわけだな、授業中の俺が取った態度が」
だったら、俺を殺すのか?
恋の恨みには違いないなあ、浮気をしたってわけではないが…。
目の前に恋人がいるというのに、知らん顔をして放っておいたのが俺なんだから。
「…殺さないけど…」
意地悪だよね、って思うけれども、殺さないよ。…鬼になろうとは思わないから。
「そりゃ良かった」
えらいことになった、と焦ったんだよな、お前がいるって気付いた時は。
案の定、まじまじ見るもんだから…。
こいつは酷く恨まれそうだ、と考えたくせに、綺麗サッパリ忘れちまってた。
だから、お前が「殺さないよ」と言い出した時に、間抜けな返事をしちまったわけで…。
殺されたって仕方ないんだが、そうか、殺さずにいてくれるんだな。
命拾いをしたらしい、とハーレイが大袈裟に肩を竦めてみせるから。
「危うく死んじまう所だった」と手を広げるから、「殺さないよ」と繰り返した。
「今のぼくだって、殺さないけれど…。前のぼくだって、殺さないよ」
ハーレイを殺したりはしないよ、絶対に。
お腹を壊しても、ハーブ、食べるよ。…スカボローフェアの四つのハーブを、前のぼくだって。
「前のお前だと?」
どうして前のお前になるんだ、この話で。
俺が恋の恨みを買いそうになったのは、今日の授業で、お前の視線を無視したからで…。
前のお前の出番なんかは、何処にも無いと思うんだがな?
「…もしも、っていう話だよ。前のハーレイとぼくの恋のお話」
ハーレイがゼルやヒルマンとかに恋をして、ぼくの前からいなくなったら。
…エラやブラウたちと行っちゃったら。
それでも恨んで殺しはしないし、頑張ってハーブを食べ続けるだけ。一度で駄目でも、また次の新月から食べ始めて。…それを何回でも、いつまででも。
「おいおい、前の俺には、前のお前しかいなかったんだが…」
他に恋したヤツはいないし、恋をしようとも思わなかったぞ。ただの一度も。
「でも…。分かんないでしょ?」
そういう機会が無かったってだけで、もしかしたら恋をしていたのかも…。
何処かで出会いがあったとしたら、前のハーレイが素敵だと思う誰かに出会っていたら。
ハーレイが誰かに恋をしたなら、ぼくはハーブを食べるんだよ。…農場から毎日、盗んで来て。
「いや、無いな。…俺にはお前だけだった」
お前しか好きにならなかったし、お前は最初から特別だった。
…アルタミラで初めて出会った時から、お前は俺の特別ってヤツで、前の俺の一目惚れなんだ。
恋だと気付くまでの時間が、うんと長かったというだけでな。
だが…。
スカボローフェアのまじないか…、とハーレイが眉間に寄せた皺。
そのまじないを知っていたなら、と。
「…今となっては、どうすることも出来ないんだが…」
ハーブの名前は知ってたんだし、手に入れることも出来たろうにな。…四つとも、全部。
「え…?」
おまじない、知っているじゃない。…だから雑談の時に話したんでしょ?
話すクラスを間違えちゃったみたいだけれど…。ぼくのクラスで喋っちゃったけど。
「そいつは今の俺だろうが。…俺が言うのは、前の俺のことだ」
スカボローフェアは知っていたくせに、生憎と、肝心のまじないの方を知らなかった。
知っていたなら、食い続けたのに。
新月から次の新月までの間、パセリもセージも、ローズマリーもタイムもな。
それこそ新月が来る度に。もう何回でも、二十八日間、食って食い続けていたんだろうに…。
「食べるって…。それ、恋人が戻るおまじないでしょ?」
ハーレイが食べてどうするの。
前のぼく、ハーレイの他に恋人、作っていないよ?
ハーレイしか好きにならなかったし、最後までハーレイ一人だけだよ。
「…其処だ、其処」
俺も最後までお前だけを想っていたんだが…。
お前は先に逝ってしまって、俺は一人で残されちまった。…シャングリラにな。
「ジョミーを支えてやってくれ」と言われちまったら、生きていくしかないだろうが。
いくらお前を追いたくても。…お前の側に行きたくても…。
だから、まじないが欲しかった、と鳶色の瞳がゆっくりと一つ瞬きをした。
「それをやったら、恋人が戻って来るんだろうが」と。
「…俺がまじないをしたかったのは、お前がいなくなっちまった後だ」
恋人の心を取り戻せるなら、魂だって呼べるのかもしれん。…死んでしまった恋人のな。
スカボローフェアは古い歌だし、俺たちの思い出の歌でもあった。
前のお前が作ってくれたろ、縫い目も針跡も無かった亜麻のシャツを。…着るには向いていないシャツでも、あれは俺の宝物だった。歌の通りに、お前が作り上げたんだから。
あんなシャツまであった歌だぞ、それを使ったまじないだったら効きそうじゃないか。
頑張ればお前が帰って来そうだ、俺がハーブを食い続けたら。
パセリとセージと、ローズマリーにタイム。…一日だって欠かさないでな。
「ぼくの魂って…。幽霊だよ?」
身体はメギドで無くなっちゃったし、もう思念体とは呼べないんだから。
ハーレイに呼ばれて戻って来たって、ぼく、幽霊でしかないんだけれど…。
「幽霊だろうが、思念体よりも霞んで透けていようが、それでも良かった。…お前ならな」
俺はお前に会いたかったんだ。…いなくなっちまった、前のお前に。
広いシャングリラの何処を探しても、お前はいなかったんだから。
お前の幽霊を見たという仲間も、誰一人としていなかった。…ミュウの箱舟だったのに。
ミュウは精神の生き物なんだし、幽霊がいれば誰かが気付く。誰の幽霊なのかもな。
なのに、お前は船に戻りはしなかったんだ。…魂まで何処かへ行っちまって。
俺がどんなに会いたがっても、お前の名前を呼び続けても…。
青の間で、キャプテンの部屋で泣き続けたという前のハーレイ。ただ一人きりで。
逝ってしまった前の自分は、幽霊の姿になってさえも、戻って来なかったから。ハーレイだけを船に残して、二度と戻りはしなかったから。
「…ぼくの幽霊…。おまじないでも無理だったんじゃないかな?」
ハーレイが頑張ってハーブを食べても、会えないままになったと思うよ。
きっと、ぼくだって、会いたかったと思うから…。
ハーレイの所に帰りたかったと思うから。…幽霊になってしまっていても。
だけど、戻らなかったんだから…。戻る方法が無かったんだよ、いくら探しても。
「分からんぞ?」
もしもお前が言う通りならば、余計にまじないが効きそうだ。戻る方法が無かったんなら。
お前の力では戻れないなら、俺がお前を呼べばいい。…ハーブを使ったまじないでな。
恋人の心を呼び戻すためのまじないだったら、魂も呼べると思わんか?
お前が何処にいたとしたって、「戻って来い」と。…「俺は此処だ」と。
強い思いは奇跡を起こすと、お前だって知っているだろう?
前のお前がナスカまで生きて辿り着けたのは、ジョミーの思いが強かったからだ。
ジョミーが「生きて」と願ったお蔭で、前のお前は死なずに生きた。本当だったら、十五年間も生きられるわけがなかったのに…。
深い眠りに就いていたって、持ち堪えられはしなかったのに。
「そうだね…」
思った以上に長く生きた上に、最後は大暴れまでしたんだものね…。
あの時、ジョミーが願わなかったら、ぼくの命はアルテメシアで終わっていたよ。寿命の残り、ほんの少ししか無かったから…。ジョミーを追い掛けて飛び出した時は。
だけど、ジョミーが増やしてくれた。…メギドまで沈められたくらいに。
ジョミーを追うのが精一杯だった筈の命も力も、信じられないほど増えちゃった…。
ナスカからジルベスター・エイトまで飛んで、メギドも沈めてしまったなんて。
…メギドの炎も受け止めていたし、ぼくの力、ホントに凄かったよね…。
強い思いが起こした奇跡。前の自分は、確かにそれを知っていた。ジョミーのお蔭で。
それと同じで、ハーレイがハーブを食べていたなら、呼ばれただろうか。「戻って来い」と。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。
前の自分たちの思い出の恋歌、其処に織り込まれた四つのハーブ。新月から次の新月までの間、二十八日間、食べ続けたならば恋人の心が戻るという。
前のハーレイが「戻って来い」とハーブを食べたら、何処にいたってハーレイの声が届くなら。
スカボローフェアのハーブのまじない、それがハーレイの声を届けてくれるなら…。
(…呼んでるんだ、って気付いたら…)
どんな道でも、懸命に戻って行っただろう。ハーレイの許へ、自分を呼ぶ声がする方へ。
戻る方法が見付からなくても、探し出すまで諦めない。
ハーレイの声が届くのだったら、きっと方法はある筈だから。…何処かに道が隠れているから。
その道を行くには、途方もない苦労が伴うとしても。
メギドでの死と同じくらいに、魂が血を流すとしても。
それでも、きっと戻って行った。
道を一足踏みしめる度に、切り裂くような痛みが突き上げて来ても。
歩いた後には血が流れ出して、道が真っ赤に染まったとしても。
(…サイオンなんか使えなくって、シールドも無理で、血だらけだって…)
ハーレイの所へ戻れるのならば、歯を食いしばって歩いただろう。息が切れても、何度も倒れてしまっても。…行けども行けども、道の果てが見えて来なくても。
(…いつかは、帰れるんだから…)
険しくて辛いだけの道でも、其処を抜けたらハーレイに会える。魂だけになっていたって、手を握り合うことも叶わない幽霊になっていたって。
きっと歩いて歩き続けて、辿り着いたと思うから…。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。新月の日から二十八日間、食べれば恋人の心が戻るというハーブ。…前のハーレイがそれを食べてくれたなら…。
「ぼく、戻ったよ。…ハーレイが呼んでくれてたら」
戻って来い、って前のぼくを呼ぶのが聞こえたら。…スカボローフェアのハーブを食べて、前のぼくの心を呼んでいたなら。
ぼくの方でも、頑張らなくっちゃいけなくっても。
四種類のハーブを入れた料理を食べる代わりに、ずっと難しそうなこと。橋姫みたいに、夜中に走って川に浸かるより、もっと大変なことが必要でも。
前のぼくでも苦労しそうな、とんでもない道を歩かないと戻れなかったとしても。
…だって、戻ったら、またハーレイに会えるから…。幽霊になってても、会えるんだから。
「そうか…。お前、戻って来てくれたのか…」
お前まで努力が必要だとしても、俺の所へ。…俺がお前を呼んでいたなら。
知っていれば良かったな、あのまじない。
スカボローフェアの歌は知っていたんだし、もっと調べておけば良かった。あの歌のことを。
前のお前に教えてやった後に、データベースできちんとな。
縫い目も針跡も無いシャツを貰った記念に、あの歌に纏わる言い伝えを全部。
そうしていたなら、まじないだって、きっと見付かったんだろう。
恋人の心を取り戻すには、二十八日間、四つのハーブを食べ続ければいいんだ、とな。
…お前が誰かに恋をして去って行くんだったら、俺は止めたりしなかったろうが…。
お前の幸せを祈って黙って身を引いたろうが、お前がいなくなったというなら話は別だ。
いなくなったお前を呼び戻すために、俺は食い続けていたんだろう。
「俺は此処だ」と、「戻って来い」と、農場で四つのハーブを毟って、きっとその場で。
美味い料理にするよりもずっと、効きそうな感じがするからなあ…。
生のままで食う方が効果的だろう、とハーレイは大真面目だけれど。
「前の俺がそれを知っていたなら、農場に通って食い続けた」と言うのだけれど。
「…ううん、知らなくて良かったんだよ」
スカボローフェアのおまじないは。…前のぼくを、それで呼べたとしても。
幽霊のぼくが戻ったとしても、知らなかった方が良かったと思う。
恋人の心を取り戻すための方法、魂にも使えたとしても…。
「何故だ?」
お前、とんでもない苦労をしたって、戻って来ると言っただろうが。
俺の方だって、生のハーブで腹を壊そうが、胃を傷めようが、気にせんぞ?
それでお前と出会えるんなら、お前が戻って来るのなら。
うんと頼りなくて、触ることさえ出来ない透けた幽霊でも、俺はかまわん。…お前だったら。
「ぼくだって、ハーレイに会いたいけれど…」
会いたかったと思うけれども、頑張って戻って行きそうだけれど…。
もしも戻って会えていたなら、今のぼくたち、此処にいないと思わない?
幽霊のぼくと、生きているハーレイが会ったとしたって、キスも出来そうにないけれど…。
それでも会えて、ずっと一緒にいられるんだよ?
前のハーレイが地球に行くまで、幽霊のぼくはハーレイと一緒。
ハーレイが死んでしまった後には、ちゃんと手を繋いで、天国か何処かに行くんだし…。
もう一緒だから、これでいいよ、って。
生まれ変わって次の命を貰わなくても、充分幸せ、って思っていそう…。
「どうだかなあ…?」
お前、今でも欲張りな上に我儘だしな?
キスは駄目だと何度言っても、懲りずに強請ってくるんだし…。
幽霊になって俺と再会していたとしても、むくむくと欲が出るんじゃないか?
青い地球が宇宙に蘇ったら、「あそこに行こう」と俺に言うとか、俺の手を引いて、ずんずんと歩いて行っちまうとか。
「早く行こう」と、「今度は地球で暮らすんだから」と、勝手に一人で決めちまってな。
「分からないぞ?」とハーレイは疑っているけれど。「お前だしな?」とも言われたけれど。
我儘なチビの自分はともかく、前のハーレイと再会するなら、前の自分の幽霊だから。
メギドでハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きじゃくりながら死んでいったのだから…。
(…どんなに大変な道を歩いて、ハーレイの所へ戻ったとしても…)
血だらけの足で辿り着いても、きっと満足していただろう。ハーレイの顔を見た瞬間に。
パセリとセージとローズマリーにタイム、四つのハーブを頬張るハーレイに会った途端に。
(足が痛かったことも、すっかり忘れちゃって…)
触れられなくても、大きな身体に飛び付くようにして、抱き付くのだろう。
「会いたかった」と、「もう離れない」と。
ハーレイが血だらけの足に気付いて何か言っても、「痛くないよ」と微笑むのだろう。
本当に痛くない筈だから。…ハーレイに会えた喜びだけで、胸が一杯だろうから。
そうして再び巡り会えたら、それ以上は何も望まない。
青い地球まで行けなくても。シャングリラでようやく辿り着いた地球が、死の星のままで、青くなくても。
ハーレイと二人でいられるだけで、充分だから。ずっと離れずにいられるから。
そう思ったから、ハーレイに向かって微笑み掛けた。
スカボローフェアのハーブを使った、恋人の心を取り戻す方法を教室で語った愛おしい人に。
「…前のハーレイは、おまじないを知らなかったけど…」
本当に、それで良かったんだよ。…こうして地球に来られたから。
前のぼくは、ハーレイの所へ戻れなかったんだけど…。幽霊になって戻り損なったけど…。
今はとっても幸せだから。
ハーレイと二人で生まれ変わって、ちゃんと青い地球の上で会えたから。
だからいいんだよ、この方が、ずっと。
幽霊になって戻っていくより、もう一度、二人で生きられる方が…。
「そうだな、お互い、幸せだよな…」
今のお前はまだまだチビだが、いずれ結婚するんだし…。
二人で一緒に生きてゆけるし、幽霊のお前が戻って来るより、お得だな。
橋姫よりもハーブがお得だろう、ってネタを間違えて披露しちまうのも、生きてればこそか。
俺がお前のクラスに出掛けて、大失敗をしちまうのもな…。
今度は幸せに生きていこうな、とハーレイがキュッと握ってくれた手。
遠く遥かな時の彼方で、メギドで冷たく凍えた右手。
あの時、絆が切れてしまったと泣いたけれども、今もこうしてハーレイと一緒。
心はこれからも離れない。
ハーブのおまじないで恋人の心を取り戻すことも、しなくてもいい。
前の生の終わりに一度は離れてしまったけれども、絆は切れなかったから。
ちゃんと二人で地球に来たから、これから先だって、ハーレイと一緒。
前の自分が作り上げたような、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツはまるで作れなくても。
スカボローフェアの無理難題をこなせなくても、ハーレイは許してくれるから。
いつまでも二人、幸せに歩いてゆけるのだから。
だから、四つのハーブを使ったおまじないは二人とも、使いはしない。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。
四つのハーブを使うのだったら、きっと二人で食べるための料理。
いつか二人で暮らし始めたら、ハーレイに一度、強請ってみよう。
「あれを使って、何か作って」と。
「スカボローフェアの四つのハーブ」と、「おまじないだってあるんだよね?」と…。
恋歌のハーブ・了
※前のハーレイには分からなかった、前のブルーの魂を呼び戻すための方法。会いたいのに。
けれど、魂を呼び戻せていたら、今の生は無かったかもしれないのです。それだけで満足で。
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(今度の土曜日…)
お菓子はパウンドケーキがいいな、と考えたブルー。
学校から帰っておやつの時間に、ダイニングで。何かのはずみに、なんとなく、ふと。
頬張っていたのはアップルパイで、パウンドケーキとは似てもいないのに。味も舌触りも、見た目もまるで違うのに。
けれど思い付いたパウンドケーキ。何の飾りも無いシンプルなケーキ、ごくごくプレーンなのがいい。チョコレートもバナナも入っていなくて、小麦粉と卵とバターと砂糖だけで焼くのが。
(ハーレイの大好物…)
好き嫌いが無いハーレイだけれど、大好物はちゃんと存在する。母のパウンドケーキが、そう。
一番幸せそうに食べるケーキで、その時のハーレイの顔が大好き。
(何でも美味しそうに食べているけど…)
見ている方まで幸せになれる顔なのだけれど、パウンドケーキは中でも特別。
ハーレイの「おふくろの味」だから。隣町で暮らすハーレイの母が作るのと同じ味らしいから。
単純なレシピのケーキだというのに、ハーレイが焼いても同じ味にはならないという。
(不思議だよね?)
本当に不思議でたまらないけれど、母のパウンドケーキを食べるハーレイはいつも幸せそうで。子供みたいに嬉しそうな顔の時もあるから、特別なのがパウンドケーキ。
あのハーレイの顔をゆっくり見るなら、土曜が一番。普段の日よりも、時間がたっぷり。
だからパウンドケーキがいい。ハーレイの好きなケーキがいい。
それがいいな、と考えたけれど、パウンドケーキを焼くのは母。頼まないと焼いて貰えない。
何も言わずに放っておいたら、別のケーキが出て来るだろう。でなければパイやスフレだとか。
(ママに注文…)
しなくっちゃ、と思った所へ、母が入って来たものだから。
「ママ!」
「なあに?」
どうかしたの、と尋ねた母。「アップルパイはもう、あげないわよ」と。「食べ過ぎるから」と軽く睨まれたけれど、頼みたいものは今日のおやつではなくて…。
「えっとね…。おやつの話なんだけど…」
今じゃなくって、今度の土曜日。…土曜日のおやつ、パウンドケーキを焼いてくれない?
ハーレイが来てくれる時に、と注文した。「うんと普通のパウンドケーキ」と。
「いいわよ、基本のパウンドケーキね。…余計な味はつけないケーキ」
ハーレイ先生、プレーンなのが、とてもお好きだものね。
「そうでしょ?」
あれが一番好きらしいんだよ、チョコレート味も好きだけど…。バナナ入りでもいいんだけど。
だけどプレーンが大好きみたい、と母に話したハーレイの好み。
一度だけハーレイの家に遊びに出掛けた時にも、持って行ったのがパウンドケーキ。
母だってよく知っているから、「分かったわ」と笑顔で引き受けてくれた。
「パウンドケーキね、土曜日には」
「忘れないでよ?」
「もちろんよ。それに材料は、いつでも家に揃っているから」
買い忘れたりする心配も無いわ、と言って貰えたけれど。
「そうなんだけど…。絶対だよ?」
約束だからね、と母と指切りをした。「忘れないでね」と。
土曜日は絶対パウンドケーキ、と。ハーレイの好きなプレーンでお願い、と。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机の前に座って幸せな気分。頬杖をついて、顔を綻ばせて。
(ふふっ、土曜日はパウンドケーキ…)
ハーレイが好きな「おふくろの味」。幸せそうな顔が見えるよう。「おっ?」と輝かせる顔も。
「こいつは俺の好物だな」と、「この味が実に好きなんだ」と。
食べる前から嬉しそうなのに決まっている。一目見たなら、そうだと分かるパウンドケーキ。
ぼくが注文したんだから、と誇らしげに披露したならば…。
(御礼にキス…)
して貰えるかな、と思うけれども。「流石は俺の恋人だよな」と褒めても貰えそうだけど。
いくらハーレイが大喜びでも、御礼のキスを贈ってくれても…。
(どうせ、おでこか頬っぺたなんだよ)
御礼のキスを貰える場所は。
ハーレイの唇が触れてゆく場所は、額か頬に決まっている。いつも其処にしか貰えないキス。
欲しくてたまらない唇へのキスは、ケチなハーレイが「駄目だ」と言うから。何度強請っても、断られるのが唇へのキス。「前のお前と同じ背丈に育つまでは、俺はキスはしない」と。
(だから御礼のキスだって…)
して貰えても、額か頬に。「これだけなの?」と頬っぺたを膨らませたって。
けれど、ハーレイの笑顔は見られる。幸せそうに食べる顔だって見られる、パウンドケーキさえ用意したなら。…こちらまで幸せになってくるような表情を。
「キスは駄目だ」と叱られたって、パウンドケーキの御礼は聞ける。「ありがとう」と。
「俺の好物、ちゃんと分かってくれているよな」と、「こいつは、おふくろの味なんだ」と。
今のハーレイの「おふくろの味」。それを出せるのが今度の土曜日。
いつかは自分で焼きたいけれども、まだ無理だから母任せ。「焼いてね」と出しておいた注文。
(幸せだよね…)
ハーレイのために、恋人のために用意するケーキ。大好物のパウンドケーキ。
自分で焼いたものでなくても、「食べてね」とハーレイに出せる幸せ。喜んで貰える大好物を。
(ハーレイが好きなパウンドケーキ…)
ママに頼んであるんだものね、と眺めた小指。ちゃんと指切りしたんだから、と。
指切りまでして約束したから、母は忘れはしないだろう。キッチンにもメモを貼っておくとか、部屋のカレンダーに書き込んだりして。「土曜日のおやつはパウンドケーキ」と。
ただ「お願い」と言っただけではないのだから。「約束だよ」と指切りだから。
母としっかり絡めた小指を、指と指とでした約束を、小指を見ながら思い出していて…。
(…あれ?)
よくハーレイとも交わす指切り。何か約束した時は。「忘れないでね」と約束の印。
褐色の大きな手に見合った小指。チビの自分の細っこい指より、ずっと太くて力強い指。
指切りしようと絡めた時には、褐色と白が絡み合う。ハーレイの肌と自分の肌と。あまり意識はしていないけれど、対照的な二本の小指。色も、太さも。
それを互いに絡めて約束、キュッと力をこめる指切り。
時には腕ごとブンブンと振って、「約束だよ?」と念を押したりもする。「破らないでね」と。
指切りの約束は、言葉だけでの約束よりも強いから。
二人の間で交わした約束、それを「破らない」と誓う印が指切りだから。
何度もハーレイと指切りをした。指を絡めて、約束の印。
約束の中身は本当に色々、ほんの数日後に果たされるものや、まだまだ遠い未来のものや。幾つあるのか数えてみたって、きっと山ほどあることだろう。遠い未来の約束だけでも。
(好き嫌い探しの旅に行くのも、宇宙から青い地球を見るのも…)
どれもまだ遠い未来の約束、いつか結婚してからのこと。
最初に約束を交わした時には、指切りはしていないかもしれない。幸せな夢で胸が一杯だから。夢見るだけで、もう充分なほどの幸せすぎる約束だから。
(…でも、何回も…)
思い出す度に、「いつか行こうね」と交わす約束。指切りだって何回もした。好き嫌いを探しに旅をすることも、宇宙から青い地球を見ることも。他にも約束は沢山あって、指切りだって。
何度も何度も交わした指切り、本当に数え切れないほど。ハーレイと小指をキュッと絡めて。
けれども、前の自分たちは…。
白いシャングリラで共に暮らした、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは…。
(指切り、してない…?)
もしかしたら、と気付いたこと。
今の自分は何度もハーレイと指切りしたのに、前の自分はしなかったろうか、と。
互いの指を絡める約束、それを交わさなかっただろうか、と。
そんなことが…、と遠い記憶を探るけれども、覚えていない。指切りをした記憶が無い。
「約束だよ」と交わす指切り、それこそ何度もハーレイとしていそうなのに。
平和な今の時代と違って、明日さえも見えなかった船。其処で懸命に生きてゆく中、約束しない筈がない。それこそ、指をキュッと絡めて。互いの想いを確かめ合って。
今ならほんの小さなことでも、前の自分たちには大きすぎるものが幾つもあった。必ず来るとは言えなかった明日、明ける保証が無かった夜。…シャングリラが沈めば「明日」は無いから。
そういう船で生きていたから、約束するなら指切りが似合い。「約束だよ」と。
指を絡めて約束したなら、普通よりも遥かに強い約束。叶いそうな気持ちも強くなるから、何か約束するなら指切り。…今の時代なら、そこまでしなくていい中身でも。
「そんなことまで指切りなの?」と、笑い出しそうな約束さえも。
たとえば、「今夜また会おう」とか。
夜には必ずハーレイが青の間に来るというのに、そういう決まりになっていたのに。
(…シャングリラの夜は、ちゃんとやって来るとは限らなくって…)
昼の間に人類軍に攻撃されたら、もう来ないかもしれなかった夜。
白いシャングリラが沈んでしまえば、それで全てが終わるから。前の自分たちの命も、恋も。
明日さえも危うかった船。夜が明けても、無事に日暮れを迎えられるとは言えなかった船。
綱渡りのような日々を生きてゆく中、ハーレイと何か約束するなら、指切りだろうと思うのに。それが相応しいという気がするのに、まるで記憶に無い指切り。
どうしたわけだか、ただの一度も。
(…前のぼくは、手袋…)
素手とは違って、いつでも着けていたのが手袋。ソルジャーの衣装を構成するもの。
あれをはめていたせいなのかな、とも考えたけれど。手袋が小指を包んでいたから、指切りには向かなかっただろうか、と思ったけれど。
(手袋、本物の肌と同じで…)
着けたままでも、違和感を感じたことは無かった。水に触れれば濡れたと分かるし、誰かの手に触れれば温もりも分かる。そういう風に感じるようにと出来ていた素材。
手袋をはめたままでいたって、何の不自由も無いように。素肌と同じに思えるように。
もっとも、手袋が出来て間も無い頃には違ったけれど。仰々しいだけの衣装の一部で、快適とは言えなかった品。船にあった布で作られただけで、何の工夫も無かったから。
けれど、技術は日進月歩。白い鯨を作り上げたように、ミュウの技術も進んでいった。ミュウが持つサイオンなどを生かして、改良を重ねたソルジャーの衣装。
手袋は肌の一部と変わらなくなり、それでいて強い防御力を秘めた優れたものに。紫のマントや白い上着も、爆風や高熱に耐え得る強度を備えながらも、着心地の良さを誇れるものに。
(…あの手袋が邪魔だった筈は…)
なかったよね、と今でも分かる。
何かする時に、邪魔だと思ったことは無いから。「外したい」と思いもしなかったから。
手袋のせいではなかった筈だ、と思える指切りをしなかった理由。あの手袋なら、互いに絡めた指の温もりも、強さも伝えてくれたろうから。それが伝わる素材で出来ていたのだから。
(…それに、ハーレイが夜に青の間に来た時には…)
最初にすることは、キャプテンとしての一日の報告。ソルジャーだった前の自分に。
恋人同士になるよりも前から、そう決まっていたスケジュール。一日の終わりに、ソルジャーに報告すべきこと。船を纏めるキャプテンの仕事の締め括り。ブリッジでの勤務を終えたなら。
そのハーレイの報告が済んだら、外した手袋。恋人同士になった後には、「もう要らない」と。
恋人同士の二人なのだし、ソルジャーの衣装は邪魔になるだけ。
だから一番に外した手袋、二人きりの時間の始まりの合図。時には「早く」と促すように外したことも。ハーレイの報告が長く続いて、さして重要でもなかった時は。
「早く報告を終わらせて」と。「待ちくたびれた」と、「それは重要ではないだろう?」と。
ハーレイも意味を知っていたから、「すみません」と浮かべた苦笑。
「もう少しだけお待ち下さい」と、「これがキャプテンの仕事ですから」と。
そう言いながらも、多分、急いで切り上げていた。せっかちな恋人を待たせないよう、長すぎる報告を慌てて纏めて。「以上です」と早く言えるようにと。
報告が終われば、外してしまっていた手袋。「ソルジャーじゃない」という思いをこめて。
此処にいるのは「ただのブルー」だと、そう扱って欲しいのだ、と。
手袋を外した後になったら、もう簡単に出来る指切り。手袋に隔てられることなく、指と指とを絡められるから。褐色の小指と白い小指を、直接絡められるのだから。
二人きりの時間を過ごす間に、幾つも交わしただろう約束。小さなことから、遠く遥かな、まだ見えもしない未来のことも。「いつか地球まで辿り着いたら」と、様々な夢を。
そうでなくても、朝になったら「また夜に」とキスを交わして、指切りだって。
夜が必ず訪れるとは誰も言えない船だったのだし、指を絡めて約束を。「また夜に会おう」と。
恋人同士で約束するなら、本当に似合いそうなのに。…小指を絡め合いそうなのに。
(…キスしていたから、指切りは無し?)
唇を重ねる、恋人同士の本物のキス。強く抱き合って交わしていたから、指切りの出番はまるで全く無かったろうか。キスの方がずっと確かな誓いで、約束に向いていたのだろうか。
その可能性も高いよね、と思ったけれど。
チビの自分には「早すぎる」とハーレイが顔を顰めるから、そうなのかも、と考えたけれど。
(でも、もっと前…)
ハーレイと恋人同士になるよりも前も、指切りをした記憶が無い。
どんなに記憶を遡ってみても、ハーレイと指を絡めてはいない。青の間でも、白い鯨に改造する前の船で暮らしていた頃も。
(…ソルジャーとキャプテンだったから?)
皆を導く立場のソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。そういう肩書きの二人だったし、約束するなら指切りなどより、きちんと言葉か、あるいは書類にサインをするか。
けれど、ハーレイとは一番の友達同士でもあった。ハーレイの「一番古い友達」、そう呼ばれていた前の自分。アルタミラを脱出した直後から、「俺の一番古い友達だ」と。
仲のいい友達同士だったら、交わしていそうに思える指切り。「約束だよ」と。
それとも、一人前の大人だったから、指切りはしなかっただろうか?
小さな子供ではないのだから、と言葉で交わしていた約束。指と指とを絡める代わりに。
そうだったかも、と遠い記憶を遡る。大人同士なら、指切りはしないかもしれない。
今の自分の両親だって、指切りをしてはいないから。…少なくとも、チビの自分の前では。
前の自分たちもそうだったろうか、「指切りは子供がするものだから」と。
(だけど、指切り…)
今と変わらないチビだった頃にも、覚えが無い。心も身体も成長を止めて、子供の姿で過ごしていたのが前の自分。アルタミラを脱出するまでは。…狭い檻の中にいた頃は。
船で宇宙に逃げ出した後も、暫くはチビのままだった。少しずつ育っていったけれども、チビはチビ。船では一人きりだった子供、本当の年齢はともかくとして。
ブラウやヒルマン、ゼルやエラたちも、「子供だからね」と面倒を見てくれていた。サイオンはとても強いけれども、身体も心もまだ子供だ、と。
子供なのだし、ハーレイと指切りしてもいい。「約束だよ?」と指を絡めて。
なのに記憶に無いというのは、ハーレイが大人だったからなのだろうか?
自分はともかく、ハーレイは大人。…指切りはしそうにない大人。
(そうなのかな…?)
本当は指切りしたいのだけれど、「子供っぽいよね?」と遠慮をして。
自分よりもずっと大人のハーレイ、そのハーレイを捕まえて「指切りしよう」とは言えなくて。
そうでなければ、ハーレイの方が「柄じゃないな」と思っていたとか。
大人は指切りしないものだし、子供相手でも「なんだかなあ…」と思うかもしれない。指と指を絡めてみたとしたって、子供の手と大人の大きな手。
今と同じに、ハーレイの手と自分の手とでは、大きさがまるで違うから。
前のハーレイが「こういう時には指切りだろうな」と気付いたとしても、気恥ずかしさを覚えたかもしれない。「俺の柄じゃないぞ」と、「指切りは子供がするモンだしな?」と。
そういうことなら、指切りの記憶は無くて当然。…前のハーレイとは指切りしていないから。
だとすると、今のハーレイは…。何度も自分と指切りをしてくれたハーレイは…。
(ママと同じで、ぼくに合わせてくれていて…)
優しいんだよね、と零れた笑み。前のハーレイも優しかったけれど、指切りはしていないから。
きっと船では仲間がいたから、大人ばかりの船だったから。
(…指切りするような子供は、ぼくだけだったし…)
他の仲間とはしない指切り、それをわざわざするまでもない、とハーレイは考えたのだろう。
指切りが似合いのチビだった自分は、まだハーレイとは友達同士。恋人同士とは違ったのだし、特別扱いしなくてもいい。
「お前だけだぞ?」とコッソリ指切りしなくても。指と指とを絡めなくても。
けれども、今の自分は違う。キスも出来ないチビの子供でも、今のハーレイとは恋人同士。前の生での恋の続きを生きているから、友達同士だった頃とは違う。
(指切りだって、して貰えるよね?)
たとえハーレイの柄ではなくても、大人は指切りしないものでも。…子供同士がするものでも。
「約束だよ?」と指を差し出したら、絡めて貰えるハーレイの小指。
キスは駄目でも、小指は絡められるから。キュッと絡めて、誓いの印に出来るから。
(きっとそうだよ…)
今のぼくだから指切りなんだ、と小指に感じた幸せな想い。チビでも恋人だから指切り、と。
ハーレイは柔道部の生徒たちとは、指切りしないに違いない。どんなに大切な約束事でも、指を絡めはしないだろう。柔道部員たちがまだ子供でも、ハーレイは大人で「柄じゃない」から。
前の自分がチビだった時にそうだったように、指切りは無しで約束だけ。
きっと特別、今の自分だけが。
ハーレイと指切りが出来る子供は、本当に幼い子供を除けば、この世界に自分だけしかいない。
(…ホントに小さい子供だったら…)
小さな小さな手を差し出されたら、ハーレイも指切りするだろうけれど。…しなかったならば、大人げないということになるから。幼い子供の可愛い願いは、聞いてやるのが大人だから。
本当に小さな子供以外で、ハーレイと指切り出来る人間は自分だけ。チビの恋人の自分だけ。
前の自分はチビでも指切り出来なかったけれど、それは恋人ではなかったから。
(…今のぼくだけ…)
ぼくの特権、と胸がじんわり温かくなった所へ聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたから、してみたくなった指切りの約束。今の自分だけが出来ること。
だからテーブルを挟んで向かい合わせで、鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
「ねえ、ハーレイ。…ちょっと指切りしてもいい?」
約束の指切り。ハーレイと指切り、したいんだけど…。
「指切りって…。何故だ?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうだから。
「えっと、約束…。土曜日、来るでしょ?」
今度の土曜日は来てくれるんでしょ、用事があるって聞いてないもの。
「そりゃ、来るが…」
俺はそういうつもりをしてるし、お前の都合が悪いんでなけりゃ、いつもと同じだ。午前中には来ているだろうな、お前の家に。
「だったら約束してもいいよね、「必ず来る」って」
平日だったら、必ずっていうのは無理だけど…。約束したって、用事が出来たら駄目だから。
急な会議が入ったりもするし、他の先生と食事に行くとか、柔道部で何かあるだとか…。
「確かにな。…平日については、出来ん約束ではあるよな、それは」
必ず来るって約束は無理だ。大丈夫だろうと思っていたって、その日になるまで分からんし…。
朝には無かった筈の用事が、放課後に急に出来るというのも珍しくないし。
約束しとくか、土曜日の分は。…其処は間違いなく空いてるからな。
よし、と絡めて貰った小指。ハーレイの強くてがっしりした指。
小指と小指を絡め合わせて「約束だよ」と交わした指切り。「土曜日はぼくの家に来てね」と、「絶対だよ」と。
何度もハーレイに念を押してから小指を離して、幸せな気持ちで微笑んだ。指切りした小指を、反対側の手で確かめながら。
「あのね、指切り…。今もしたけど…」
ぼく、ハーレイの特別だよね?
ちゃんと指切りしてくれるんだし、ぼくはハーレイの特別なんでしょ?
「はあ? 特別って…」
なんだ、そいつはどういう意味だ?
分からんぞ、とハーレイが言うから、「そう?」と返した。
「ハーレイ、柔道部の生徒とだったら、しないでしょ?」
「何をだ?」
「だから、指切り。…だって、ハーレイの柄じゃないから」
「いや…?」
する時はするが、という返事。
柔道部員たちとも指切りはすると、あちらが指を出して来たら、と。
なまじっか力が強いものだから、強引にやられることもあるな、と苦笑いまで。
適当な所で指を離そうと考えていても、「約束ですよ」と、ハーレイの手をブンブン振る生徒がいるらしい。「これだけしっかり約束したから、破らないで下さいね」と。
次の試合で好成績なら、何かおごって欲しいとか。おごってくれるなら、これがいいとか。
「俺の意見は関係無しだ」と、「酷いもんだ」とハーレイが笑う柔道部員たちとの指切り。一度ハーレイと指を絡めたら、離さないらしい逞しい彼ら。
「いやもう、困ったヤツらだってな。…まったく、何が約束なんだか…」
指切りしたから絶対ですよ、と言われちまうと、俺もどうにも出来ないからな。
「…ホントなの?」
ハーレイ、ぼくじゃなくても指切りするの?
頼まれちゃったら、柔道部の生徒が指を出して来ても指切りなの…?
「お前が何を言っているのか分からんが…。指切りくらいは普通だろうが」
柔道部員のヤツらじゃなくても、俺は指切りしているぞ。流石に大人は頼んでこないが…。
頼まれた時は、女の子とでも指切りだな、うん。
「えーっ!?」
女の子って…。学校の子だよね、ハーレイ、頼まれたら女の子とでも指切りするの…?
柔道部員よりも柄じゃなさそうなのに、どうしてなの、と叫んだら、ハーレイも目を丸くして。
「お前の方こそ、どうしたんだ。…柄じゃないというのもサッパリだが…」
それよりも前に、指切りだとか、お前だけが特別だとか、その辺からして謎だってな。
いったい何処から、そういう話になったんだ。指切りは何処から出て来たんだ…?
「…前のぼく…。前のぼく、指切りしていないんだよ、ハーレイと…」
頑張って思い出してみたけど、ホントに一度もしていないみたい。…前のハーレイとは。
恋人同士になって、キスで約束するようになる前も、していないんだよ。指切りは。
チビだった頃にもしていないから、前のぼく、ハーレイに遠慮していたのかな、って…。
だってハーレイは大人だったし、指切りなんて「俺の柄じゃないな」って恥ずかしそうな感じに見えたとか…。それで指切り、頼もうと思わなかったとか。
だから前のハーレイとは指切りしないで、代わりに約束。…多分、言葉だけで。
今のぼくだと、チビでも恋人同士だから…。ハーレイ、指切りしてくれるのかな、って…。
「なるほどな…。それで特別だと思ったわけか」
前のお前がチビだった頃と違って、今は特別。そう考えたのが、俺の指切りなんだな…?
ふむ、と腕組みしたハーレイ。「お前の言いたいことは分かった」と。「しかし…」とも。
ハーレイの顔に浮かんだ穏やかな笑み。「ユニークな発想ではあるが…」と。
「斬新な考えだとも思うが、そいつはお前の勘違いだ」
残念ながら、そういうことになっちまうってな。…お前が特別ってわけではなくて。
「勘違い?」
ぼくが勘違いをしているわけなの、ハーレイの特別だから指切りだ、って…?
ハーレイが、柔道部の生徒とも、女の子とも指切りしてるんだったら、本当にぼくの勘違い…?
「そうだ、勘違いというヤツだ。…いいか、よくよく考えてみろよ?」
お前、いつから指切りしてる?
俺と指切りするんじゃなくてだ、誰とでもいいが、指切りってヤツを。指切りで約束、いつからしている…?
「えーっと…?」
約束する時は指切りだから…。さっきもママと指切りしてたし、小さい頃から…。
友達とだって、大事な約束は指切りだよね、と手繰ったチビの自分の記憶。指切りの記憶。
多分、物心つくよりも前からしていたのだろう。覚えていないだけで、両親たちと。
大切な約束をする時だったら、いつも指切り。両親はもちろん、幼稚園や学校の友達とも。
だから「前から」と答えたけれど。「うんと小さい頃からだよ」と言ったのだけれど。
「俺もそうなんだが…。ガキの頃から、約束と言えば指切りだったが…」
前の俺たちの場合はだな…。少々、事情が異なるってな。
今のお前や俺とは違う、というハーレイの指摘で気付いたこと。前の自分が失くしてしまった、子供時代の記憶というもの。前のハーレイもそれは同じで、何も覚えてはいなかった。成人検査を受ける前のことは、ミュウと判断される前の記憶は、何一つとして。
いつから指切りをやっていたのか、誰と指切りで約束したか。…そんな記憶を持ってはいない。下手をしたなら、指切りをしていたことさえも…。
「…前のぼく、忘れちゃってたの? ぼくだけじゃなくて、前のハーレイも…」
子供の頃の記憶と一緒に忘れちゃっていたの、指切りのことを?
約束する時は指切りなんだ、っていうことを忘れてしまっていたから、指切りしようと思わずにいたの、ハーレイもぼくも…?
「いや、違う。忘れちまったわけではなくて…」
無かったんだ、指切りというヤツが。…小指と小指を絡める約束、それ自体が。
存在しなかったものは出来ないだろうが、俺もお前も。…指切りの無い時代だったんだから。
「…そうだったの?」
前のぼくたち、最初から指切り、知らなかったの…?
「日本の約束の方法だからな、指切りは」
指切りの時に歌う歌だってあるだろうが。嘘をついたら針を千本飲ませる、ってな。
「そういえば…。あるね、指切りする時の歌…」
歌いながら指切りしていないから、忘れちゃってた。…あの歌、古い歌だっけね…。
小さい頃には歌ってたけど、と思い出した昔の童歌。SD体制が始まるよりも遠い昔に歌われた歌。日本という小さな島国で。
普段は全く耳にしないから、すっかり忘れてしまっていた。
幼かった頃に覚えて歌った、指切りの歌。嘘をついたら針を千本飲ませると歌う、約束の歌。
「やっと分かったか? 前の俺たちが生きた頃には、指切りは存在しなかった」
日本の色々な文化と一緒に復活したのが、指切りなんだ。今じゃ当たり前の習慣だがな。
「そうだったんだ…」
前のぼくが覚えていないわけだね、指切りのこと。…やってないよ、って。
だから今のぼく、特別なんだと思ったのに…。ハーレイに指切りして貰えるよ、って…。
ぼくの勘違いだっただなんて、と見詰めた小指。さっきハーレイと絡めた小指。
「土曜日は来てね」と交わした約束。小指と小指をキュッと絡めて。
とても幸せだったのに。…小指同士で交わす約束は、温かくて確かで、幸せなのに。
「…ハーレイと指切り…。前のハーレイと一度もしていないから…」
今のぼくだから出来るんだよ、って思ってたのに…。幸せな気分だったのに…。
「気持ちは分かるが、前のお前、フィシスと指切りをしたか?」
フィシスが小さな子供だった頃に、お前、指切りしてたのか…?
「していない…」
やっていないよ、フィシスとも…。前のハーレイとも、指切りはしていないけど…。
「そうだろうが。…あの時代に指切りが無かったという証拠だ、それが」
子供時代の記憶を失くしちまった前のお前はともかく、フィシスは記憶を消されていない。
しかも機械が育てたわけだし、あの年までに必要な知識は充分に持っていたってな。
そのフィシスでも知らなかったんだ。…約束の時には指切りだってことを。
知っていたなら、前のお前に教える筈だ。約束する時は、こうするものだと。
「そっか…。そうだね、小さかった頃のフィシスなら…」
前のぼくに教えていたんだろうね、指切りの仕方。…ぼくが覚えていなくても。
約束の指切り、前のぼくたちが生きてた頃には無かったなんて…。
とっても素敵な方法なのにね、大切な約束をするなら指切り。
「うむ。幸せな約束のやり方ではある」
相手と絆が出来るっていうか、本物の誓いという感じだな。…言葉だけで約束するよりも。
キスは無理でも、こう、指と指とが絡まるからな、とハーレイが絡めてくれた褐色の小指。
「手を出してみろ」と、大きな手を差し出して。「こうだな」と指切りをする形に。
小指と小指が絡まったけれど、ハーレイの指に小指を捕えられたけれど。
「はてさて…。指切りの形に絡めてはみたが、何を約束するべきか…」
土曜日に来るっていう約束なら、お前に頼まれてやっちまったし…。
他に約束出来るようなことは、いったい何があるやらなあ…。
はて…、とハーレイが考え込むから、ここぞと声を上げてみた。
「それなら、土曜日に来たら、ぼくにキスをすること!」
おでこや頬っぺたにキスじゃなくって、本物のキス。唇にキスだよ、そういう約束。
いいでしょ、指切りで約束したなら、ハーレイ、キスをくれるんだよね…?
嘘をついたら、針を千本。…指切りの約束は絶対だもの。
「それは駄目だな、約束を破った時には俺が針を千本飲むわけだから…」
針を千本飲まされちまっても、俺が納得するような約束をするというのが筋だろう。
同じキスでも、お前が前のお前と同じ背丈に育つまではしない、という約束だな。
そいつでいいだろ、ほら、約束だ。
いいな、とハーレイがしっかり絡めた小指。約束だぞ、と。
「酷い…!」
キスは駄目なんて、そんな約束…!
ぼくだって針を千本なんでしょ、その約束を破っちゃったら…!
ハーレイのケチ、と叫んでしまったけれども、酷い約束をさせられたけれど。
絡めて貰った小指は温かくて、幸せだから。ハーレイの小指に捕まっているのが嬉しいから。
(…ハーレイと指切り…)
遠い昔の日本の約束、前の自分は知らなかった指切り。
今の時代だから出来る約束が指切りなのだし、小指をキュッとハーレイの小指に絡めておいた。
ハーレイと何度もして来た指切り、小指と小指を絡めて約束。
これから先だって、幾つも幾つも、幸せな約束が出来るのだろう。ハーレイと二人で。
その度に小指で約束出来るし、交わしてゆける幸せな約束。
未来の幸せをちょっぴり先取りだよ、と。
こうして小指を絡めるんだよと、ハーレイと幾つも幸せな約束をするんだから、と…。
指切り・了
※前のブルーとハーレイが生きた時代には、指切りの約束は無かったのです。習慣自体が。
今だからこそ、出来る指切り。幸せな約束の方法ですけど、出来ない約束もあるようですね。
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(あれ…?)
ハーレイだ、とブルーが見付けた後姿。朝、学校に入って直ぐに。
校門をくぐって校舎に向かう途中の、グラウンドの端。もう少し行けば最初の校舎。ハーレイは其処に座り込んでいて、こちらを振り向きさえしない。
(何してるの?)
早い時間だから、ハーレイが着ている柔道着。朝の練習の途中なのだろう。他に柔道部の生徒が数人、そちらはハーレイの手許を覗いているようで。
懸命に何かしているハーレイ、柔道部員たちは立ったまま。練習も運動もしていないから、別の用事が出来たのだろうか、ハーレイに?
生徒だけで出来そうな練習もありそうなのに、とハーレイがいる場所をよく見てみたら。
(旗…?)
そういえばあった、と気付いた校旗。雨の日以外は、いつも上がっている旗。
当たり前すぎて存在を忘れがちだけれども、学校の紋章が描かれたもの。風のある日は、青空に高く翻る。曇り空でも、空にはためく学校の旗。
その旗が、今朝は…。
(揚がってない…?)
正確に言えば、半分しか。
ポールの上まで揚がり切らずに止まってしまって、中途半端になっている旗。
それでハーレイがいるのだろうか。旗をきちんと揚げようとして、ポールと格闘中だとか。
きっとそうだ、と考えたから、近付いて行って挨拶した。後ろからだけれど。
「ハーレイ先生、おはようございます」
「おはよう、ブルー」
笑顔で振り向いてくれたハーレイ。座ったままで。「ブルー君」とは違って「ブルー」。
授業中でなければ、たまに「ブルー」と呼んで貰える。「ブルー君」よりも、親しみをこめて。今日はそっちだ、と胸が弾んだけれども、問題はハーレイが此処にいる理由。
「どうしたんですか?」
旗ですか、と尋ねてみたら。
「こいつか? 見ての通りだってな」
壊れちまった、と両手を広げたハーレイ。「あそこで止まっちまってな」と。
朝一番の校旗の掲揚、運動部の生徒の持ち回りらしい。練習で早く登校するから、学校が始まる旗を揚げるには丁度いい。休みの日は揚がらない校旗。
今日は柔道部が当番の日で、所定の場所へ取りに出掛けた旗。それをポールのロープに結んで、高く掲げようとしたのだけれど…。
「ハーレイ先生、すみません」
もっと注意してやるべきでした、と頭を下げた生徒の一人。彼がロープを引いたのだろうか。
「お前のせいじゃないと思うがなあ…」
何処かに引っ掛かっちまったようだ、とハーレイが引っ張ってみるロープ。軽く引いてみたり、力を入れてグイと引いたり。
けれど、ロープはビクともしない。旗と一緒に止まったままで。
「えっと…。サイオンは使わないんですか?」
引っ掛かったんなら、それで動かせませんか、とハーレイに提案したのだけれど。
「人間らしく、が基本だろ?」
社会のマナーで、ルールとも言う。…サイオンは出来るだけ使わないこと。
使えばなんとかなるんじゃないか、っていう時でもな。
此処は学校だから、余計にそうだ、と手で引っ張っているロープ。生徒に教える立場の教師が、そうそうサイオンを使えるか、と。
「だがなあ…。止まっちまった場所も悪いし、なんとかせんと」
「え…?」
どういう意味か、と首を傾げたら、「この旗さ」とハーレイは上を指差した。
「半分しか揚がっていないだろ。本当に丁度、半分ってトコだ」
これは良くない。まるで揚がらない方がマシってもんで…。
おっと、お前たちは気にするなよ?
単なる俺の気分ってヤツだし、旗はシャキッと上まで揚がってこそだしな。
とにかくこいつは、俺がなんとか直すから、と動かないロープと格闘を続けているから…。
(…どう良くないのか、訊けないよね?)
旗が止まってしまった場所。
気になるけれども、此処で自分が質問したなら、柔道部の生徒にも聞こえてしまう。ハーレイが懸命に旗を揚げようとしている理由。「止まっちまった場所が悪い」と。
ハーレイは隠しておきたいわけだし、この話は…。
(後で訊こうっと…)
今日、ハーレイが仕事の帰りに、家を訪ねて来てくれたなら。
それまで旗を覚えていたら。
半分しか揚がっていない旗だと、どうしてハーレイは「良くない」と思ってしまうのか。
忘れないようにしなくっちゃ、と校舎に入って、教室に着くなりメモに書き込んだ。鞄の中から出したメモ帳、それを一枚、破り取って。
真ん中に大きく「旗が半分」、その文字をクルッと取り巻く丸印も。
(これで良し、っと!)
メモを見たなら、きっと思い出すことだろう。さっき見て来た光景を。ポールの途中で止まった旗と、揚げようとしていたハーレイを。
家に帰ったら、一度は必ず開けるのが鞄。制服を脱いで着替える時に。
これに入れたら大丈夫、と目立つ所に突っ込んだメモ。鞄の内ポケットから顔を出すように。
そうやってメモも入れたというのに、授業を幾つも受ける間に忘れてしまった旗のこと。
今日の学校はこれでおしまい、と帰りにグラウンドの側を通ったら…。
(揚がってる…)
ちゃんと上まで、と思い出して見上げたポールの天辺。其処に翻っている校旗。
青い空にパタパタとはためく校旗は、とても誇らしげに広がっていた。見上げていたって、風は少しも感じないけれど、上の方では違うのだろう。いい風が吹いているのだろう。
学校の紋章が描かれている旗、いつもは気にも留めない旗。
ハーレイが上まで揚げておいたのか、他の先生が頑張ったのか。
(どっちなのかな…?)
半分の旗も、旗を揚げた人も気になるけれども、分かるとしたら家に帰ってから。
運よくハーレイが仕事の帰りに寄ってくれたら、どちらの謎も解けるだろう。
旗が半分だと駄目な理由も、旗をポールの上まできちんと揚げておいた先生は誰なのかも。
家に帰っても、忘れないでいた半分の旗。ポールの途中で止まっていた旗。
鞄から出した「旗が半分」と書いてあるメモを勉強机に置いて、おやつを食べに一階に下りた。母が用意してくれたケーキと紅茶でゆっくりしてから、部屋に戻って。
机の上のメモを眺めて、傾げた首。
(なんで駄目なの?)
半分しか揚がっていなかった旗。ハーレイが「良くない」と言っていた旗。
止まった場所が悪いと口にしたのだし、きっとあの場所が駄目なのだろう。揚げようとした旗が止まってしまった、ポールの半ば辺りの所。
そうは思っても、分からない理由。どうして半分揚がった旗は駄目なのか。揚がらない方がまだマシだとまで、ハーレイが嫌った半分の旗。
けれど旗には詳しくないから、いつも「あるな」と見ているだけ。
(前のぼくだって…)
半分の旗は知らないらしくて、遠い記憶も引っ掛かって来ない。知っていたなら、「あれだ」とピンと来るだろうから。遠く遥かな時の彼方で得た知識でも。
(シャングリラに旗は無かったものね…)
白いシャングリラにも、白い鯨になる前の船も。
旗が翻るのを見てはいないし、ミュウとは縁が無かったもの。人類の世界にあっただけの物で、船の外でたまに目にしただけ。
旗を揚げたのは人類の世界。どういう風に揚げていたのか、それさえ興味を抱いてはいない。
だから知らない、半分の旗が駄目な理由も。
前のぼくでも知らなかったことを、今のぼくが知ってるわけがないんだから、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、チャンス到来。
母が運んでくれたお茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「朝の旗、あれからどうなったの?」
途中で止まっちゃってた旗だよ、ハーレイ、揚げようと頑張ってたでしょ?
「アレか…。俺じゃどうにもならなかったし、結局、修理だ」
他の先生たちも来てはみたんだが、引っ掛かったんじゃなくて滑車が壊れていたらしい。
ポールの天辺についてるヤツだな、そいつを使ってロープと旗を動かしてるから…。
帰りにはちゃんと揚がっていただろ?
業者の人を呼んだら直ぐに来てくれたわけで、滑車も無事に直ったってな。
「修理することになっちゃったんだ…」
「当然だろうが、あのままにしておいちゃ駄目だしな」
なにしろ半分揚がっているんだ、其処が大いに問題だ。
あれじゃ縁起が悪くていかん。いくら壊れたからと言っても。
「縁起が悪い…?」
旗が半分しか揚がっていないと、縁起が悪くなっちゃうの…?
どうしてなの、と尋ねてみたら「知らないか?」と覗き込まれた瞳。…鳶色の瞳で。
「半旗、知らんか?」
言葉のまんまだ、半分の旗という意味なんだが。
「半旗…?」
なあに、それ…。そんな言葉は初めて聞いたよ、前のぼくだって知らないよ。
「そうそう無いしな、今の時代じゃ。…半旗ってヤツは」
人間はみんなミュウになっちまって、平和そのものな時代だし…。
色々な技術が進んだお蔭で、事故だって滅多に起こらないしな。
「…事故?」
事故と旗って…。どうしたら半分の旗と事故とが結び付くの?
助けて下さい、って旗を振るんだったら分かるけど…。此処にいます、って振り回す旗。
「そういう旗とは違うんだ。…半旗はポールに揚げておく旗で…」
普段だったら、一番上まで揚げておくのが旗なんだ。…それは分かるだろ?
しかし、誰かが亡くなった時は、半分までしか揚げないってな。その揚げ方を半旗と呼ぶんだ。
弔意を表すって意味になるから、学校の旗がそれだとマズイぞ。
誰も死んではいないわけだし、半旗だなんて縁起でもない。これから事故でも起こりそうでな。
ウッカリ半旗を揚げたばかりに、誰かが事故に巻き込まれるとか。
「そうだね…」
あの旗にそういう意味があるなら、ホントに大変。…縁起が悪いよ。
滑車が壊れて止まった旗でも、見た目は半旗なんだから。
「お前がしつこく訊かなかったから助かった」
あそこで説明する羽目になっていたら、柔道部のヤツら、気にしちまうしな。
半旗を揚げたのはあいつらなんだし、心が落ち着かないってヤツだ。
直ぐに直れば良かったんだが、あのまま授業になっちまったから…。
業者を呼ぼうってことになった時には、あいつらは授業を受けていたしな。
壊れた滑車の修理が出来たのは、一時間目が始まってから。
ハーレイや他の先生たちが色々試して、「駄目だ」と業者に連絡したのが朝のホームルームの後だったから。「これは自分たちの手では直せない」と。
業者が滑車を修理するまで、半旗になったままだった校旗。
それは確かに、半旗の意味を知っていたなら気にするだろう。「まだ直らない」と、柔道部員の生徒たちだって。彼らが校旗を揚げようとしたら、途中で止まってしまったのだから。
弔意を表す半旗にしたのは、柔道部員の生徒たち。…そんなつもりは無かったのに。
「ハーレイ、なんて言っておいたの?」
柔道部員の人たちに。…ぼくはいいけど、あの人たちだって訊いたでしょ?
旗が半分しか揚がっていないと、どうして駄目ってことになるのか。
「俺の気分の問題だ、とだけ説明したさ。…半分だけっていうのは駄目だ、と」
そう言っておけば、「きちんと揚げるのが好きなんだな」とも取れるしな。
旗が途中で止まっちまったら、だらしないようにも見えるから…。良くないってのも、そっちの意味に考えることも出来るだろ。
同じ揚げるならシャキッとしろ、と。上まで揚がらないんだったら、揚げない方がマシだとな。
「そっかあ…。ハーレイなら、それも言いそうだもんね」
柔道は礼を重んじる、って何度も聞いたし、旗もシャキッと。…途中で止まっただらしない旗、他の生徒も見るもんね。運動部が交代で揚げてるんなら。
「そういうこった。多分、それだと思っただろうな、あいつらだって」
まさか半旗とは思うまい。…今の時代は、お目にかかる機会も少ないからな。
揚げるようなことが滅多に無いんだ。運が良ければ一生、見ないで終わると思うぞ。
あの連中にその気があったら、調べているかもしれないが…、とハーレイは顎に手をやった。
上まで揚げるつもりで準備した校旗、それが半旗になってしまった運の悪い柔道部員たち。
「もっとも、調べようと考えたって…。無理かもしれんな」
半旗って言葉を知らなかったら、まるで手掛かりが無いわけだから…。
家に帰って家族に訊いたら、教えて貰えるかもしれないが。半旗って言葉を調べてみろ、と。
「それ、前のぼくも知らなかったよ」
今のぼくじゃなくて、前のぼく…。前のぼくだって知らないままだよ、半旗って言葉。
家に帰ってから考えたけれど、何の記憶も引っ掛かっては来なかったから…。
「だろうな、旗が無かったからな」
天辺まで揚げる旗にしたって、半旗にしておく旗にしたって。
シャングリラには旗は無かったわけだし、前のお前は半旗と無縁だ。…旗が無いんだから。
「作っていないものね、シャングリラでは」
旗は一度も作らなかったし、旗を揚げるポールも無かったし…。
「無かったよなあ、お前のせいでな」
お前がゴネなきゃ、旗だってきっとあっただろうに…。
「えっ…?」
ぼくのせいだなんて、どういうこと?
前のぼくが何かやったっていうの、シャングリラで旗を作れないように…?
「なんだ、忘れてしまったのか。…お前らしいと言えば、お前らしいが」
嫌だったことは忘れちまうんだよな、まるで最初から無かったように。
シャングリラで旗を作ろうって話、パアになっただけで、ちゃんと会議で出た議題なのに…。
白い鯨にデカイ公園が出来上がってだ、アルテメシアに着いた後にな。
あの公園ならブリッジからも良く見えるんだし、旗を揚げるには丁度いい、と。
何処かにポールをドカンと建ててだ、ミュウの旗を毎日、揚げることにしよう、と。
「そうだっけ…!」
ミュウの旗を揚げるんだったっけ…。人類がやっていたみたいに。
白いシャングリラが、アルテメシアの雲海の中に居を定めた後。
この星を拠点に地球を目指そうと、大きな夢を描いていた頃。いつか此処から旅立つのだ、と。
幾つもの夢が広がった船で、ヒルマンとエラが言い出した旗。ミュウのための旗を作ろうと。
人類の世界には、何種類も旗があるという。彼らの集団に合わせた旗が。
首都惑星ノアのパルテノンに行けば、翻っているらしい沢山の旗。地球の紋章が描かれた旗や、人類が暮らす星々の旗。全部はとても掲げられないから、主だった星の分の旗だけ。
言われてみれば、前の自分も目にしていた旗。アルテメシアに降りた時には。
「そういえば、アルテメシアにも旗があったかな…?」
アタラクシアとかエネルゲイアで見掛けたような気がするよ。…そういう旗を。
「あると思うよ、ユニバーサルの前には間違いなくあるね」
地球の紋章の旗とアルテメシアの旗が…、と答えたヒルマン。それと一緒に、エネルゲイアなら其処の紋章が入った旗が。アタラクシアなら、アタラクシアの紋章になる。
常に掲げられている旗が三種類、時には増えるらしい旗。
人類統合軍や国家騎士団、そういった軍の偉い人間が視察に来たなら、それらの旗が。軍全体は地球の紋章を使うけれども、人類統合軍や国家騎士団にも独自の旗があったから。
揚げられる場所が何処であるかを示すのが旗。
育英都市を束ねるユニバーサルなら、その星の旗と育英都市の旗、それに地球の旗。
人類を統べる首都惑星なら、地球の旗と主な星々の旗と。
それに倣ってシャングリラでも、と出された案。地球の紋章の旗の代わりに、ミュウだけの旗。
ブリッジが見える一番広い公園に揚げれば、誰もが目にすることだろう。
人工の光が作り出している船の昼と夜、それに合わせて毎朝、揚げる。夜は下ろして、また次の日の朝に高く掲げて…、と。
揚げる係を定めてもいいし、希望者たちが交代でもいい。とにかく毎朝、ミュウの旗を揚げるというのが大切。このシャングリラはミュウの船だ、と表す旗を。
「良さそうじゃないか、旗ってのはさ」
あたしたちだけの旗なんだろ、と乗り気になったブラウ。「素敵じゃないか」と。
人類が旗を掲げているなら、ミュウにも旗があったって、と。
「わしも賛成じゃな。わしらの船にピッタリじゃわい」
この船だけで生きてゆけるんじゃし…、とゼルも頷いた。自給自足で生きてゆけるよう、作った船が白い鯨だから。何処からも補給を受けることなく、飛び続けられるミュウの箱舟。
もう人類から奪った物資に頼らなくても、誰も困りはしない船。
衣食住の全てを船で賄い、余裕を持って暮らしてゆけるから。
船全体が一つの世界で、小さいながらも自治権を持った星のよう。
社会から弾き出されたミュウでなければ、何処かの星に立ち寄った時は、旗を掲げて貰える船。こういう客人が来ているから、とその星を纏める機関の前に。
アルテメシアなら、ユニバーサルの建物の前に翻るのだろう。
いつも掲げられている三種類の旗、それと並んでシャングリラを表すミュウたちの旗が。
今はまだ、叶わないけれど。
いつになったらその時が来るか、それさえも見えはしないけれども。
そうは言っても、旗を作る案自体は悪くなかった。皆が眺めるミュウのための旗。毎朝、公園に掲げられる旗。
きっと誰もが誇りを胸に、旗を見上げることだろう。これが自分たちの旗なのだ、と。
いつか人類に認められたら、この旗を揚げて貰おうと。
地球の紋章の旗と並べて、ミュウという種族を表す旗を。シャングリラで毎朝、掲げた旗を。
とてもいい案に思えたけれども、心配な点が一つだけ。だからヒルマンに尋ねてみた。
「旗を作ろうというアイデアはいいね。ぼくも賛成だと言いたいけれど…」
その前に一つ、訊いておきたい。…その旗の模様はどうなるんだい?
旗には模様があると言ったね。ミュウのための旗には、どんな模様をつけるんだろう…?
「もちろん、ミュウの紋章だよ」
船の誰もが知っているのだし、あれの他には考えられない。
デザインも素晴らしい紋章だからね、あのまま旗に使えるよ。何処も手直ししなくてもね。
「それは困るよ…!」
何も知らない人が見たなら、ただの模様で通りそうだけど…。
この船の中じゃ、そういうわけにもいかないだろう。模様の意味を誰もが知っているんだから。
どうして赤い色が入るか、あの赤は何を指しているのか。
困る、と顔を顰めた紋章。ミュウの紋章はフェニックスの羽根で、孔雀の尾羽を元にしたもの。
孔雀の尾羽には目玉の模様がついているから、ミュウの紋章にも同じに目玉。
ただし、紋章に組み入れられた目玉は、ソルジャーだった前の自分の瞳。お守りの目玉。
皆の制服にあしらわれた石、赤い石がお守りだったのと同じ。メデューサの目と呼ばれた、遠い昔の地球のお守り。メデューサの目は青い目玉だけれども、ミュウのお守りは赤い瞳だと。
ミュウのお守りが赤い瞳なら、紋章に使う孔雀の尾羽の目玉も赤。
そうしておこう、と赤い目玉がミュウの紋章にも組み込まれていたものだから…。
「ぼくの瞳がミュウの旗にも入るのは、ちょっと…」
困ってしまうよ、ミュウの紋章には例の目玉があるんだから。…制服の赤い石と同じで。
「緘口令を敷いちまってるじゃないか、その件はさ」
いずれは謎になっちまうよ、とブラウは他人事のように言ったし、ヒルマンも大きく頷いた。
「そうだよ、これから新しい仲間も増えてゆくのだし…」
あの赤が何か知らない仲間が、きっと大勢になることだろう。どうして赤い石なのかも。
だから旗には、ミュウの紋章で問題ないと思うがね?
古い仲間も、すっかり忘れてしまっているよ。…我々の旗が地球に翻る頃にはね。
「地球だって…!?」
引っくり返ってしまった声。自分の瞳があしらわれた旗が、憧れの星に掲げられるなんて、と。
けれど、ヒルマンは意にも介しはしなかった。「そうだとも」と笑みを湛えただけ。
「地球まで辿り着いたからには、我々の存在が認められたということだ」
そうなったからには、地球はもちろん、パルテノンや他の場所でも、我々の旗を掲げなければ。
人類が揚げている幾つもの旗と並べて、ミュウの旗を掲げて貰うのだよ。
「それは、ぼくには最悪だから…!」
君たちは良くても、ぼくにとっては最悪のシナリオと言ってもいい。
広い宇宙の何処へ行っても、ぼくの瞳が描かれた旗が風に翻っているだなんてね…!
あんまりすぎる、と拒絶したのがミュウの紋章。それをミュウの旗に描くということ。
赤い瞳は自分の他にはいないわけだし、いたたまれない気持ちがするだけだから。
そう思ったから、別のデザインにするのなら許す、と言ったのに。
白いシャングリラの船体にあしらった、自由の翼とかミュウを表すMの文字とか。他にも意匠があるわけなのだし、旗にはそれを、と推したのに…。
「…あの紋章が使えないんじゃねえ…」
まるでミュウらしくないじゃないか、とブラウが振った頭。「あれがいいのに」と。
「まったくじゃて。…船にも描いてあるというのに」
わしらの船には、あれが似合いの紋章なんじゃ。旗も同じじゃ、わしらの旗にするのなら。
他の模様の旗なぞ要らんわ、とゼルもブラウと同じ意見。
ヒルマンとエラは最初からミュウの紋章を使うつもりだったし、別の案を出す気さえ無かった。
赤い瞳が描かれた紋章を旗に使えないなら、旗など要らない、というのが総意。
キャプテンだった前のハーレイも賛同したから、それっきり…。
「…シャングリラに旗、無かったっけ…」
ミュウの紋章の旗は嫌だ、って前のぼくが反対しちゃったから…。
他のデザインにして欲しい、って言っていたのに、誰も賛成しなかったから…。
「そういうことだ。…お前のせいで旗は無かった」
作ろうって案は出たというのに、お前が却下しちまったんだ。…デザインのせいで。
駄目だと切り捨てられちまったら、もうどうしようもないだろうが。
前のお前はソルジャーだったし、俺たちだってゴリ押しは出来ん。…旗くらいではな。
そういうわけで、あの船では旗は、作られないままになっちまった。
だからだな…。
後にアルテメシアを制圧した時、其処に掲げるミュウの旗は存在しなかった。
かつて追われた雲海の星。旗を作ろうという案が出た時、シャングリラが潜んでいた惑星。
遠い昔に夢見た通りに、アルテメシアにミュウたちの旗を掲げられる時がやって来た。
アタラクシアでも、エネルゲイアでも、都市を統べていたユニバーサルの前に聳えるポールに。
新たな時代の統治者になった、ミュウの存在を表す旗を高々と。
人類側から「旗を掲げたい」と打診されたのだけれど、その旗を持っていなかったミュウ。
「…ジョミーが俺に、「旗をどうしようか」と訊いて来たから…」
ミュウの紋章を入れた旗を作ろうと思ったらしいが、俺は許可しなかったんだ。
そうする代わりに、「ソルジャー・ブルーの御意志だ」と言った。…旗が無いのは。
「ええっ!?」
ハーレイ、ジョミーにそう言ったわけ…?
ぼくが言ったから、シャングリラにミュウの旗は無くって、新しく作れもしないって…?
「何か間違ったことを言ったか?」
全部、本当のことだろうが。…シャングリラに旗が無かった理由も、お前の気持ちも。
それに、お前の思い出を守りたかったしな。
あんなに嫌がっていたんだから。…ミュウの紋章入りの旗は嫌だ、と。
いくらジョミーの時代だとはいえ、それを崩してしまいたくはない。お前が嫌がったデザインの旗を、お前がいなくなった後に作るだなんて。
…ヒルマンたちも同じだったさ、「それで良かろう」と頷いてくれた。
ミュウの旗を掲げたい気持ちはあったようだが、前のお前の思いを大切に守りたい、とな。
ハーレイが許可を出さなかった旗。人類側は「旗があるなら掲げたい」と打診して来たのに。
そして「ミュウの世界に旗などは無い」と返答したジョミー。
どういう理由か訊きもしないで、「それがブルーの意志だったなら」と。
ミュウたちは旗を持たなかったから、旗を作って掲げる代わりに、地球の紋章の旗を下ろした。もう支配者は機械ではないと、彼らの旗は必要無いと。
アルテメシアの旗と、エネルゲイアやアタラクシアの旗を残して。
旗を掲げるためのポールは、一本だけ旗を失った。地球の旗は下ろされてしまったのだし、次の支配者は旗を持たないミュウだったから。
それから後に制圧した星は、何処でも同じ。首都惑星だったノアが陥落した時も。
「…そうだったんだ…。ミュウの旗を揚げて貰う代わりに、地球の紋章の旗を下ろすだけ…」
旗の無いポールが一つ出来たら、ミュウが支配する星だったんだ…?
地球の紋章の旗はもう要らないから、その旗、ポールから下ろしてしまって。
…なんだか寂しい気もするけれども、ミュウの紋章の旗が揚がるよりは、やっぱりマシかな。
前のぼく、とっくに死んじゃってたけど、それでも何処かで見ていたのかもしれないし…。
ジョミーが旗を作っていたなら、「酷い」と泣きたくなっただろうしね。
「そんなトコだな、前のお前は」
強いくせして、おかしな所で泣き虫なんだ。…それに恥ずかしがり屋だったっけな。
制服の石が赤い理由を、ジョミーにも教えずに逝っちまった。
だからジョミーは分かっちゃいないぞ、どうして旗が駄目だったのか。
ソルジャー・ブルーは旗というヤツが好きじゃなかった、と思っていたかもしれないな。
いったい何があったんだろうと、旗を嫌いになった理由は何なんだろう、と首を捻って。
「…そこまでは責任持てないよ…」
前のぼくの意志だってジョミーに言ったの、ハーレイじゃない。
だからハーレイの責任なんだよ、旗が無かった理由でジョミーが悩んじゃったんなら。
「さあ、どうだか…」
俺はお前の気持ちを思って、「旗は駄目だ」とジョミーに言った。
お前、さっき自分で言ってただろうが、死んだ後でも、あの紋章の旗は嫌だとな。
何もかも前のお前のせいってわけで…、とハーレイに真っ直ぐ見詰められた。
「シャングリラに旗は無いままだったし、ミュウの旗だって無かったわけだ」
嫌だと言われたら仕方ないしな、あの紋章の他には考えられなかったし…。ミュウの旗には。
それをお前が却下したから、前の俺たちには旗が無かった。…掲げるためのポールが出来ても、掲げてくれる星を手に入れても。
全部お前のせいだったんだぞ、今の旗もな。
「今の旗…?」
それって何なの、今の旗っていうのは何…?
「あるだろ、宇宙全体の旗。…学校じゃ揚げていない旗だが…」
政府の機関が入ってる場所や、大勢の人が集まる博物館とかに揚がっているヤツ。
地球がデザインされている旗だ、学校の授業でも教わるだろう?
この旗が宇宙のシンボルです、とな。
「知っているけど…。そういう旗はあるけれど…」
ぼくのせいだなんて、なんでそういうことになるわけ?
あの旗のデザイン、前のぼくは全然知らないよ?
地球をデザインするんだったら、こういう旗が素敵だよね、って思ったことも無いけれど…?
「前のお前はそうだったろうな、旗をデザインするとは思えん」
それをやってりゃ藪蛇ってヤツで、「丁度いいから」とミュウの紋章の旗を作られちまうから。
だがな…。ミュウの旗が何処にも無かったというのが問題なんだ。
あれを作る時にミュウの旗があったら、人類側の旗のデザインと絡めりゃ良かった。
ジョミーが「下ろせ」と命じて進んだ、地球の紋章が入った旗だな。
そうすりゃ、ミュウと人類の時代に相応しい旗が出来たのに…。
お互いの旗を半分ずつ使って、これからの時代は旗と同じに手を取り合おう、と。
しかし、肝心のミュウの旗が無かったもんだから…。
人類の旗と組み合わせようにも、旗を持ってはいなかったミュウ。誰も作らなかったから。
組み合わせることが出来ないのなら、と人類側も自分たちの旗を捨てることになった。
宇宙全体を表す旗は、トォニィの時代に、一から新しく出来たデザイン。
ミュウと人類が案を出し合って、新しい時代を象徴する旗を作って掲げた。
その頃にはまだ再生していなかった地球を中心に据えて、宇宙全体を表す旗を。
「お前、旗では、とことん迷惑かけたってな」
全ての始まりの英雄とはいえ、旗の件では、トォニィの代まで迷惑を…。
ジョミーは旗をどうしようかと悩んだ挙句に、俺に「駄目だ」と言われちまったし…。
お前が我儘を言ったばかりに、今の時代まで引き摺ってるわけだ。
ミュウの紋章の欠片さえも無い、ああいう旗が宇宙全体の旗なんだから。
「それでいいんだよ、前のぼくの瞳が今もあるより…!」
運が悪かったら、前のぼくの瞳、今の旗にも入っていたかもしれないから…。
あの旗を今のぼくが眺めたら、ピンと来ちゃうかもしれないから。
此処のデザイン、前のぼくの瞳を使ってるよ、って。
そんなの嫌だよ、恥ずかしすぎるよ…!
シャングリラどころか、地球にも、宇宙全体にだって、ぼくの瞳の旗なんて…。
あれから凄い時間が流れて、今のぼく、やっと地球に来たのに…。
旗が揚がっている所に行ったら、嫌だった旗があるなんて…。
ジョミーが後から作った旗のデザイン、今の時代まで生き残ってしまっているなんて…!
酷すぎるよ、と悲鳴を上げた。考えただけでも恥ずかしいから。
前の自分の赤い瞳をデザインしていたミュウの紋章。それを使ったミュウたちの旗。
今もデザインが残っていたなら、きっといたたまれない気持ちだから。
(穴があったら入りたい、って…)
そういう時に言うんだよね、と考えてしまうような光景。宇宙のあちこちに自分の瞳。
前の自分の瞳だけれども、自分の瞳には違いないから…。
これでいいんだ、と開き直っておくことにした。
ハーレイに教えて貰った旗。
半分しか揚がっていなかった校旗、それのお蔭で分かった事実。
前の自分が反対したから、ミュウには無かったらしい旗。
ジョミーの時代になった後にも、人類たちがミュウの旗を掲げたいと言う時代が来ても。
それに、ミュウと人類が和解した印、そういう旗を共に作ろうという案が出た時も。
(…ミュウの旗、無くても別にいいよね…?)
宇宙全体を表す旗には、今も使われているデザインの方が、きっといい。
ただ組み合わせて使うだけより、ミュウと人類がアイデアを出し合ってデザインした旗。
その方がずっと、新しい時代に相応しい旗だと思うから。
古い時代を引き摺る旗より、平和な時代に似合いの素敵な旗だから。
(…ぼくだって、今はただのチビだし…)
前の自分の瞳の旗は欲しくない。
ハーレイと二人、青く蘇った地球で、平凡に生きてゆきたいから。
ソルジャー・ブルーの記憶を持っていたって、ただそれだけのチビなのだから…。
無かった旗・了
※前のブルーが嫌がったせいで、ミュウの船には無かった旗。後の時代に困ったようです。
星を落としても旗は掲げられず、人類と和解した後も、デザインを混ぜた旗を作れなくて…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今週も平和で事も無く…。残暑も終わってそろそろ秋です。学園祭の準備なんかも始まりそうな気配、クラス展示か催し物か、とグレイブ先生がズズイと迫って1年A組は今年も真面目なクラス展示になるみたい。
とはいえ、私たち特別生には関係無いのがクラスの動向、別行動と決まってますからお気楽に。今日は土曜日、朝から会長さんの家に来ているわけでして。
「かみお~ん♪ 明日は何処かにお出掛けする?」
明日もお天気良さそうだし! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「何処かお勧めの場所ってある?」
穴場で食べ物が美味しくて…、とジョミー君が訊き、シロエ君が。
「遊べる所がいいですよね! 待ち時間無しで!」
「ああ。待ち時間無しは基本だな」
俺もそういう所がいい、とキース君が頷き、何処か無いかと相談が始まったのですが。
「こんにちはーっ!」
いきなり乱入して来た声。紫のマントがフワリと翻って…。
「ぶるぅ、ぼくにもおやつと飲み物!」
「オッケー! ちょっと待っててねー!」
キッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が焼き栗たっぷりのパイと紅茶を運んで来ました。それを「ありがとう」と受け取ったソルジャー、ソファにちゃっかりと腰を下ろして。
「秋だねえ…! これからが素敵なシーズンだよね!」
「あんた、俺たちに混ざる気か!」
今は出掛ける相談なんだが、とキース君。
「あんたが何をしたいのか知らんが、俺たちは静かに過ごしたいんだ!」
「遊びに行くと聞こえたけどねえ? 待ち時間無しの穴場とやらへ」
その行き先の何処が静かなんだか…、とソルジャーはタルトを頬張りながら。
「でもまあ、利害は一致してるし、この際、静かな場所ってことで」
「来る気なのか!?」
あんたまで、とキース君が叫んだのですけれど。
「明日はまだだね、色々と準備が要りそうだから」
「「「は?」」」
準備って何のことでしょう? いずれは一緒にお出掛けって意味…?
「俺たちは二度も同じ所へは行かないからな!」
行くなら勝手に行ってくれ、とキース君がキッパリと。
「いい場所だったら教えてやるから、一人で行くのもデートに行くのも好きにしてくれ!」
「うーん…。それは困るよ、君たちの協力が必須だからね」
「「「協力?」」」
なんとも不穏なこの台詞。遊びに行くのに利害が一致で、協力が必須って何事ですか?
「分からないかな、これからが素敵なシーズンなんだよ!」
何処のホテルも婚礼が一杯、とソルジャーは笑顔。
「ホテル以外にも色々あるよね、結婚式に使う場所!」
「あんた、結婚してるだろうが」
それとも招待されたのか、とキース君。
「俺たちは何も聞いていないが、ノルディが結婚するというのか?」
「するわけないだろ、こっちのノルディは遊び人だよ? だけど結婚式のシーズン!」
そして結婚式には前撮り、と妙な台詞が。
「「「前撮り?」」」
「そう! こっちのブルーも遊んでいたよね、前撮りで!」
ハーレイにタキシードを着せたりして…、と言われて思い出しました。会長さんが豪華なウェディングドレスをオーダー、教頭先生と前撮りなのだと誘い出しておいて陥れた事件。教頭先生、ゼル先生に拉致されてバイクで市中引き回しの刑でしたっけ…。
「あっ、思い出した? その前撮りを、ぼくもやりたくってねえ!」
「「「へ?」」」
間抜けな声しか出ませんでした。前撮りは結婚式の前にやるもの、ソルジャーはとっくに挙式済みです。なんだって今頃、前撮りなんかを…。前後が間違っていませんか?
「前後くらいは間違っていたっていいんだよ! うんと素敵な写真が撮れれば!」
ぼくたちには結婚写真が無くて…、と言われてみればその通り。マツカ君の海の別荘での人前式の挙式でしたし、結婚式そのものもソルジャーの結婚宣言くらいなもので。
「ほらね、結婚写真も無ければ、ウェディングドレスなんかも無くてさ…」
なんとも寂しい結婚式で、とソルジャーはフウと大きな溜息。
「こういうシーズンになると寂しくなるんだ、どうしてぼくには結婚写真が無いのかと!」
だから前撮り! という話ですが、それと穴場がどう繋がると…?
私たちがお出掛けの計画を練っていた行き先は、待ち時間無しで遊べる穴場。ソルジャーも行きたいように聞こえましたけど、其処へ前撮りなどと言われても…。
「君は何しに出て来たわけ?」
ぼくにはサッパリ…、と会長さん。
「いきなり出て来て利害が一致で、協力が必須という君の話と、ぼくたちの話はまるで噛み合っていないんだけどね?」
前撮りなんかは無関係だけど、と会長さんは冷たい口調。
「やりたいんだったら適当な場所を教えてあげるから、其処へ相談に行って来たまえ」
「そうだな、プロの方が何かとお役立ちだな」
衣装の手配からカメラマンまで…、とキース君も。
「璃慕恩院でも仏前式の挙式をやっているから、前撮りにも応じてくれる筈だぞ」
「分かってないねえ、ぼくが求めているのは穴場!」
人が大勢の所はちょっと…、とソルジャーが言うと、会長さんが。
「前撮りだったら、人が多くても大丈夫だから! ちゃんと整理をしてくれるしね」
見物客が多かったとしても写真には絶対写らない、と経験者ならではの証言が。
「会場もカメラマンもプロだし、そこはキッチリ!」
「うーん…。でもねえ、ありきたりな場所はイマイチだしねえ…」
ぼくは穴場を希望なのだ、とソルジャーの話は振り出しへ。
「君たちも穴場に行きたいと言うし、これはチャンスだと!」
「あのねえ…。ぼくたちは遊びに出掛けたいだけで!」
「穴場に行くなら、それに便乗したっていいだろ!」
君たちの素敵な穴場と言えば! とソルジャーは指を一本立てて。
「ズバリ、シャングリラ号ってね!」
「「「シャングリラ号?!」」」
なんでまた、と誰もがビックリ、会長さんも唖然とした顔で。
「シャングリラ号って…。も、もしかしなくても…」
「そうだよ、君たちの世界のシャングリラ号のことなんだけど!」
ぼくの世界のシャングリラを呼ぶのに「号」なんてつけることはしないし、と言うソルジャー。
「シャングリラ号は穴場だと思っていたんだけどねえ、君たちの」
たまに遊びに行ってるじゃないか、と鋭い指摘。それはそうですけど、シャングリラ号って…。
シャングリラ号はワープも出来る宇宙船。普段は二十光年の彼方を航行しています。今の技術では建造不可能な筈ですけれども、会長さんが無意識の内にソルジャーから設計図を貰ったらしくて、立派に完成してしまいました。
私たちの世界では「宇宙クジラ」と呼ばれる未確認飛行物体扱い、そのシャングリラ号で宇宙の旅と洒落込むこともたまにはあって。
「ぼくはシャングリラ号を使いたいんだよ、前撮りに!」
「なんでそういうことになるのさ!」
シャングリラ号は結婚式場じゃない、と会長さんが眉を吊り上げて。
「あれでも一応、いざという時の避難場所でね、遊び場なんかじゃないんだけれど!」
「…本当に? その割に楽しくやっているよね、あの船でさ」
乗り込んだ時はワイワイ騒いでイベントなんかも…、と切り返し。
「それに、充実の食料事情! 肉も野菜も凄いと聞くけど?」
「…そ、それはそうだけど…」
船の中でも生産してるし、乗り込む時には積み込みもするし…、と会長さん。
「だけど、遊びの船じゃないから! 普段は真面目に仕事だから!」
「どうなんだか…。ぼくのシャングリラと違って戦闘も無いし」
ぼくから見れば立派な遊び場、とソルジャーも譲りませんでした。
「だからシャングリラ号を貸してよ、前撮りに!」
正確に言うなら後撮りだけど、という発言。
「あの船だったら、ぼくのシャングリラと基本は全く同じだからね!」
素敵な写真が撮れるであろう、とソルジャーは極上の笑みを浮かべて。
「ブリッジに並んだぼくとハーレイとか、公園だとか、もちろん青の間なんかでも! ぼくはウェディングドレスを着ちゃって、ハーレイはタキシード姿でね!」
そういう写真を撮りたいのだ、とウットリしているソルジャー。
「ドレスとかはこれからオーダーするから、明日ってわけにはいかないけれど…。出来次第、ぼくとハーレイは休暇を取るから、君たちと一緒にシャングリラ号へ!」
そして前撮り! と迫られましても、ソルジャーの存在は極秘なわけで。
「無理だよ、君たちをシャングリラ号には乗せられないよ!」
君たちの存在がバレてしまう、と会長さん。
「そんなことになったらパニックなんだよ、SD体制とか、色々バレるし…!」
そういったことは伏せておきたい、という会長さんの話は本当。バレたらホントに大変ですよ!
ソルジャーたちの存在どころか、サイオンすらも秘密になっているのが私たちの世界です。寿命が長くて老けない人間は受け入れて貰えているようですけど、これから先は分かりません。そこへソルジャーが生きてるハードな世界がバレたら、仲間はパニック間違い無しで。
「いいかい、君にとっては普通のことでも、ぼくたちの世界はまるで免疫が無いからね?」
追われるだけでも経験が無いのに、人体実験だの戦闘だのと…、と会長さん。
「いつかそういう時代が来るかも、ってことになったら大パニックだよ!」
だからシャングリラ号には乗せられない、と大真面目な顔。
「前撮りをしたいなら、ホテルとかでね! 君もソルジャーなら分かるだろう!」
「そりゃあ、もちろん君の言うことも分かるけど…。でも、大丈夫!」
前撮りに行くのはぼくだから、と親指をグッと。
「サイオンの扱いは君とは比較にならないからねえ! 情報操作はお手の物だよ!」
ぼくはもちろん、君たちが乗り込んだことも隠せてしまう、とニッコリと。
「ついでに言うなら、シャングリラ号を呼び寄せることも出来るけどねえ?」
偽の情報を送ってもいいし、他にも方法は色々と…、と恐ろしい台詞。
「この秋は地球に来ないと言うなら、そうやって!」
「ま、待って! 来週、来るから!」
会長さんが叫んでからハッと口を押さえて。
「え、えっと…。い、今のは聞いていないってことで…!」
「もう聞いた!」
バッチリ聞いた、とソルジャーは嬉しそうに。
「来週なんだね、えーっと、暫くは衛星軌道上に滞在予定なんだ?」
「だ、だから、君たちを乗せるようには出来ていないと…!」
「忍び込んだらオッケーじゃないか!」
みんなで行こう! と見回すソルジャー。
「えーっと、こっちの面子が九人、ぼくとハーレイを合わせて十一人、と…」
まだまだ余裕、とソルジャーは天井の方を指差して。
「この人数なら、充分に飛べる! シャトル無しでも!」
「ちょ、ちょっと…!」
本気なのかい、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーは。
「もう決めた! 来週は前撮りに出掛けるんだよ、君たちも連れて!」
シャングリラ号に密航しよう! と凄い話が。普通に乗るんじゃなくて密航するんですか…?
有無を言わさず決まった密航、ソルジャーはウキウキと帰って行ってしまいました。お昼御飯も食べずに、です。キャプテンの時間の都合をつける必要があるとか何とか言って。
「…か、会長…。エライことになっていませんか?」
密航ですよ、とシロエ君。
「いくら会長がソルジャーでもですね、密航がバレたら大変なんじゃあ…」
「その辺はブルーが上手くやるだろ、あれだけ自信に溢れてたんだし」
サイオンの扱い方も桁外れだし…、と会長さんが頭を振りながら。
「密航に関してはバレないと思う、これだけの人数で入り込んでもね」
「前撮りもですか?」
「そっちも上手くやると思うよ、ぼくたちをお供にゾロゾロと」
得意げな顔が見えるようだ、と大きな溜息。
「ウェディングドレスとタキシードを誂えに行くと言ってたからねえ、今日の間に」
「「「あー…」」」
そうだった、と覚えた頭痛。ソルジャーは私たちが仮装用の衣装なんかでよくお世話になる店の本店と言うか、別格と言うか、オートクチュール専門の店に行くんでしたっけ。
「あそこでも情報は誤魔化すんだよね?」
ジョミー君が尋ねて、会長さんが。
「そうだろうねえ、ぼくだと言えはしないしね?」
「店の方では金さえ入ればいいんだろうが…。それにしても…」
前撮りと来たか、とキース君も頭を抱えています。
「シャングリラ号で前撮りだなんて、前代未聞と言わないか?」
「決まってるじゃないか、カップルで乗ってる仲間もいるけど、前撮りはねえ…」
そんな使い方をした仲間は皆無、と会長さん。
「この船も思い出の場所なんです、って記念撮影はしてるだろうけど…。ウェディングドレスまで持ち込んで前撮りなんかはしてないね」
「だったら、あいつが初ってことかよ?」
サム君の問いに、会長さんは。
「前撮りっていうことになればね。ウェディングドレスはお遊びでたまに出て来るけどね」
「「「うーん…」」」
遊びだったら見たことも何度かありました。会長さん主催のお騒がせなイベントとかで。でも、本物の前撮りなんかはソルジャー夫妻が初なんですね…?
穴場へ遊びに行きたいな、と思ったばかりに、とんでもないことに巻き込まれてしまった私たち。よりにもよってシャングリラ号に密航、其処でソルジャー夫妻の前撮り。とっくに結婚しちゃってますから、ソルジャーの言う後撮りってヤツかもしれませんけど。
誰もがガンガン頭痛がする中、次の日も会長さんの家に集まって過ごしていると。
「こんにちはーっ!」
昨日はどうも、とソルジャーが姿を現しました。今日は私服で。
「昨日はあれから、ハーレイとお店に行って来てねえ!」
採寸して貰ってデザインも決めて…、とそれは御機嫌。
「急ぎで頼む、ってお願いしたから、今日は仮縫いに行くんだよ!」
「はいはい、分かった」
君のハーレイもブリッジから抜け出すんだね、と会長さん。
「何時に行くのか知らないけれども、何処かで私服に着替えてさ」
「ピンポーン! ハーレイにはちゃんと渡してあるしね、私服ってヤツを!」
こっちの世界でデートするのに私服は必要不可欠だから、と胸を張るソルジャー。
「ブリッジを抜けて部屋で着替えたら、ぼくと出発!」
「それで間に合いそうなわけだね、君たちの衣装」
シャングリラ号は週明けに戻って来るんだけれど、と会長さんが質問すると。
「もちろんだよ! 明日の夜には出来るらしいよ、だからバッチリ!」
火曜日の朝には取りに行ける、と満面の笑み。
「予定通りに水曜日に密航、木曜日に戻って来るってことで!」
「…君のハーレイの休暇も取れたと?」
「それはもう!」
ついでに「ぶるぅ」に留守番も任せた、とソルジャーの準備は抜かりなく。
「ぶるぅには山ほどカップ麺やお菓子を買ってやったし、それを食べながら青の間で留守番! 万が一の時には連絡が来るから大丈夫!」
いつもと同じで安心して留守に出来るというもので…、と言ってるからには、私たちも密航コースで確定ですね?
「そうだよ、ちゃんと学校に欠席届を出してよね!」
無断欠席でもかまわないけど、という話ですが、それはこっちが困ります。出席義務が無くても真面目に登校が売りの私たち。欠席届はキッチリと出してなんぼですってば…。
こうしてソルジャー夫妻の前撮り計画は順調に進み、火曜日には欠席届をグレイブ先生に出しに行く羽目に。「前撮りに行くので休みます」とは書けませんから、そこはバラバラ。
「キース先輩はやっぱり法事ですか?」
放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でシロエ君が訊くと。
「それしか無かろう、親父にもそう言っておいたし…。大学の同期の寺に行くとな」
そのせいで今日は大荷物に…、と呻くキース君は法衣を持参でした。アドス和尚には「学校の帰りにそのまま出掛ける」と言って来たとかで、衣や袈裟が入った専用鞄を持って来ています。
「キースは家を抜け出すのも大変だよねえ…」
ぼくだと「ブルーの家に泊まりに行く」で済むんだけどな、とジョミー君。
「お坊さんはホントに大変そうだよ、だからなりたくないんだよ!」
「年中無休が基本だよなあ、坊主はよ…」
だけど時間の問題だぜ、とジョミー君の肩を叩くサム君は、ジョミー君とセットで会長さんの弟子という扱い。いずれはお坊さんなコースです。
「時間の問題でも、今は全力で避けたいんだよ!」
ジョミー君が叫ぶと、サム君が。
「それじゃお前は、欠席届になんて書いたんだよ?」
「旅に出ます、って」
「うわー…。家出かよ、それ」
捜さないで下さい、と書けば完璧だよな、というサム君の言葉にドッと笑いが。欠席届は本当にバラバラ、シロエ君は「修行に行って来ます」と書いたそうです。
「修行って…。シロエもついに坊主なのかよ?」
サム君のツッコミに、シロエ君は「いえ」と。
「ぼくとしてはですね、武者修行のつもりなんですが」
「ふうん? でもよ、グレイブ先生的には違うんでねえの?」
坊主に変換されているんじゃねえか、との指摘で起こる大爆笑。多分、そうなっているでしょう。
「ぼくたち、坊主率高いもんね…」
「俺は本職だし、お前もサムも坊主で届けが出ているからなあ…」
男子五人中の三人が坊主という現状ではな、とキース君がクックッと。
「シロエ、お前も坊主予備軍だと書かれていそうだぞ、閻魔帳に」
「えーーーっ!!?」
そんな、とシロエ君の悲鳴で、笑いの渦が。欠席届はやっぱり真面目に書かなきゃですよね?
坊主予備軍なシロエ君をネタに笑い転げて、完全下校の合図が流れてから会長さんの家へと移動。もちろん瞬間移動です。今夜はお泊まり、そして明日には…。
「…密航ですか…」
とうとう明日になりましたか、とシロエ君。
「一泊二日で密航の旅って、そんなの思いもしませんでしたよ…」
「ぼくもだよ。何処の世界に密航なんかするソルジャーがいると!」
シャングリラ号はぼくの指図で動かせるのに、と会長さんも肩を落としています。
「現に今日だって、色々と指揮を…。なのに、どうして…」
このぼくがシャングリラ号に密航、と会長さんが落ち込んでいるのとは対照的に。
「かみお~ん♪ 明日から密航だも~ん!」
御飯もおやつも、準備オッケー! と飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「食料は一杯用意したから、ブルーに頼んで積んで貰うの!」
あっちのブルー、とピョンピョンピョン。
「これだけあったら、食堂のお料理、盗まなくても済むもんね!」
「「「あー…」」」
食事の心配を忘れていました、確かに密航者のために食事は出ません。会長さんがソルジャーであろうが、料理は何処からも出て来ないわけで…。
「どんなのを用意したんですか?」
その食料、とシロエ君がリビングに積み上げられた箱を指差すと。
「色々だよ? カップ麺もあるし、レトルトだって!」
御飯も温めるだけで食べられるから、とニコニコ笑顔。つ、つまり…。
「ぶるぅ、料理はしねえのかよ?」
「そだよ、青の間のキッチンはあんまり大きくないし!」
お湯を沸かしたり、レトルト食品を温めるくらいが限界なの! という返事。
「「「うわー…」」」
食料事情は最悪だったか、と今頃になって気が付きました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の美味しい料理や、シャングリラ号の食堂の自慢の料理は全く食べられないわけです。
「…シロエの欠席届じゃないけど…」
「修行の旅だな…」
此処で修行になってしまうのか、とキース君が左手首の数珠レットを一つ、二つと繰ってます。お念仏ですね、そういう気持ちになりますよねえ…。
その夜は「温かい食事にサヨナラのパーティー」、こんな食事は当分出来ない、と時ならぬ鍋になりました。豪華寄せ鍋、締めは雑炊、それからラーメン。一つの鍋ではないからこその雑炊とラーメン、両方です。食べた後は明日に備えて早寝。だって、夜が明けたら…。
「くっそお、寝心地のいい寝床もサヨナラなのか…」
まさに修行だ、とキース君。これまた寝るまで忘れてましたが、密航する以上はゲストルームに泊まるわけにはいきません。青の間の床に雑魚寝だそうで。
「んとんと、お布団は用意したんだけれど…」
ブルーに運んで貰うんだけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんの家の布団だけに上等でしょうが、問題は床。青の間の床は畳敷きではないわけで…。
「俺の経験からして、床が畳から板になっただけで寝心地がグンと…」
悪くなるんだ、とキース君が語る体験談。璃慕恩院での修行中には畳の部屋で寝ていたらしいですけど、他にも色々あったようです。
「青の間、板よりキツイよね?」
「思いっ切り硬いと思うぞ、俺は…」
覚悟しとけよ、と言われて涙が出そうですけど、密航だけに仕方ありません。青の間に入れるだけまだマシというもの、普通は倉庫とかですし…。
「うん、楽しく密航したいよね!」
そして前撮り! と出ました、ソルジャー。キャプテンも連れて、二人とも私服。
「おはよう、今日からよろしくねーっ!」
「どうぞよろしくお願いします」
お世話になります、と頭を下げるキャプテン。
「前撮りをさせて頂けるとか…。夢のようです、ありがとうございます」
「う、ううん…。それほどでも…」
何のおかまいも出来なくって、と会長さんがオロオロと。
「部屋は雑魚寝だし、食事もレトルトとか、カップ麺とか…」
「いえ、それだけあれば充分ですよ」
そうですね、ブルー? とキャプテンが微笑み、ソルジャーも。
「ぼくたちは耐乏生活が長かったしねえ、寝る所と食べるものさえあればね!」
もう最高に幸せだから、と言ってますけど。そりゃあ、前撮りで密航だなんて言い出しただけに、待遇に文句をつけようって方が間違いですよね?
シャングリラ号で前撮りなのだ、と意気込んでやって来たソルジャー夫妻。カメラはもちろん、こちらの世界で誂えた衣装も持って来ています。ソルジャーは「まずは…」と自分たちの荷物から運び始めました。瞬間移動で衛星軌道上のシャングリラ号まで。
「ぼくは整理整頓ってヤツが得意じゃないから、ぶるぅ、頼むよ」
ぼくに思念の波長を合わせてくれるかな? という注文。
「そしたら何処に置くのか指図が出来るし、それをお願い」
「オッケー! えーっと、ブルーたちの荷物が其処で…」
次はぼくたちの荷物をお願い! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。私たちの荷物が次々と消えて、行き先は宇宙みたいです。キース君の法衣の鞄は残りましたが。
「次が食料かな?」
「その前に、お布団! 敷きやすいように運んでおかなきゃ!」
「了解、布団、と…」
それが此処で…、とソルジャーは布団を運び終えた後、食料の箱も移動させました。荷物はこれで全部ですから、この後は…。
「準備完了! 出発しようか、シャングリラ号へ!」
ぼくが頼んだんだから、ぼくの力で! とソルジャーがパチンと指を鳴らして、たちまち迸る青いサイオン。フワッと身体が浮いたかと思うと…。
「「「わわっ!?」」」
トン、と足が床につき、見回せば其処は青の間でした。シャングリラ号の。
「すげえ…」
マジで宇宙に来ちまった、とサム君が声を上げ、マツカ君も。
「一瞬でしたね、いつも何処かへ行くのと同じで…」
「宇宙を飛んだって感覚は少しも無かったわよ?」
ホントにいつもと変わらないわ、とスウェナちゃん。
「でも、シャングリラ号なのよね?」
「本物のね! 其処に荷物もあるだろう?」
君たちの荷物も、食料や布団も、とソルジャーがそれは得意げに。
「ぼくにかかればこんなものだよ、だから前撮りだって安心!」
もう絶対にバレやしないから、と言うソルジャーによると、青の間は既にシールドされているそうです。清掃係も入ろうという気を起こさないよう、意識に干渉済みだとか。根城は確保したみたいですけど、さて、この先は…?
青の間に陣取ったソルジャー夫妻と、巻き込まれて密航した私たちと。ソルジャーは「いい写真を撮るには時間も必要」と、カメラを引っ張り出しました。
「このカメラ、ぼくの世界のヤツなんだけど…。使い方は至って簡単でね!」
これがシャッターで…、と始まる説明。カメラマンは誰でもいいのだとか。
「写真のセンスが謎だからねえ、要はシャッターさえ切ってくれれば」
ぼくがチェックして素敵な写真を選ぶまで、というアバウトさ。
「その場のノリで誰かが撮影、そんな感じでいいと思うよ」
ただ…、と視線が会長さんに。
「ぼくは前撮りに詳しくないから、経験者に衣装のチェックとかをお願いしたいなあ、と…」
「分かったってば! ドレスの裾とか、そういうのだね?」
「そう! それとポーズの指導もお願い!」
参考書は一応、持って来たから…、と抜け目ないソルジャーは何処かでゲットしたらしい前撮り撮影のマニュアルっぽい冊子を会長さんに「はい」と。
「うーん…。本職用かい?」
「ブライダル専門の写真屋さん向けのね!」
これでよろしく、と渡されたマニュアル本を会長さんがパラパラめくっています。その間にソルジャー夫妻は青の間の奥へ着替えに出掛けて行って…。
「見てよ、これ! レースとパールでうんと豪華に!」
凄いだろう、とソルジャーが披露したウェディングドレスはレースをふんだんに使ったもの。パールも沢山ちりばめてあって、長いトレーンがついていて…。
「ベールにもこだわって貰ったんだよ、ここのレースが高級品で!」
「ふうん…。その調子だとティアラも本物だとか?」
会長さんがつまらなそうに訊くと、「当然だよ!」と自信に溢れた答えが。
「このドレスに似合うティアラをお願い、って探して貰って…。ノルディが奮発してくれちゃってねえ、もう本当に本物なんだよ!」
王室御用達の宝石店から取り寄せましたー! というご自慢のティアラ。お値段は多分、聞いてもピンと来ないでしょう。放っておけ、と思う一方、キャプテンの方は…。
「…この服は変ではないでしょうか?」
「「「いいえ!!」」」
お似合いです、と揃って即答。白いタキシードは似合っていました。ソルジャーのドレスと釣り合うデザイン、あのお店、やっぱりセンスがいいです~!
ソルジャーが送った荷物の中にはブーケも入っていたらしく。間もなく立派な花嫁完成、ソルジャーがキャプテンの腕にスルリと腕を絡ませて。
「はい、前撮りの準備オッケー! 青の間はいつでも撮れるからねえ、まずはブリッジ!」
「「「ブリッジ!?」」」
いきなり中枢に出掛けるのかい! と誰もが驚きましたが、ソルジャーは「うん」と。
「シャングリラ号で前撮りだよ? ブリッジで撮らずにどうすると!」
ぼくたちの姿は見えていないから大丈夫! とシールドの出番、それでも写真は撮れますか?
「撮れるよ、サイオンで細工するから!」
さあ、行こう! とソルジャー夫妻は青の間を出発。バレやしないかとコソコソと続く私たち。通路に出るなり、ソルジャーは…。
「此処でも一枚撮っておきたいね、青の間の入口!」
「そうですね。私たちには馴染みの場所ですし…」
此処で撮りましょう、とキャプテンも。二人は入口を背にして立って、会長さんが。
「えーっと、ブルーはもう少し寄って…。そう、其処で!」
「かみお~ん♪ ドレス、直すから、動かないでね!」
裾はこんな感じがお洒落だと思うの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も例のマニュアル本と自分のセンスとで、いそいそと。
「…仕方ない、俺が写すとするか…」
ジャンケンに負けたキース君がカメラを構えてパシャリと一枚、次は二番手のジョミー君。カメラマンは全員がやると決まってますから、私も一枚。トリがスウェナちゃんで。
「はい、撮りまーす! 幸せそうに笑って下さーい!」
パシャッと撮られた元ジャーナリスト希望のスウェナちゃんの一枚、きっといい出来になったでしょう。ソルジャー夫妻の表情もなかなか良かったですし…。
「ありがとう! ブリッジまでの途中も、いい所があればお願いするよ!」
ソルジャー夫妻はシャングリラ号の中を迷いもしないで歩いてゆきます。自分の世界のと同じ構造の船なんですから、当然と言えば当然ですけど。
「あっ、休憩室! 此処でも一枚!」
「「「はーい…」」」
ちょうど無人で良かったですね、とゾロゾロ入って休憩室でも何枚も。ソルジャーが座ったり、キャプテンと並んで座ってみたりと、椅子を使ってポーズが山ほど。此処だけで何枚撮りましたかねえ、ブリッジに着くまでに疲れそうです…。
あちこちで寄り道撮影しながら辿り着いたブリッジ、さぞかし人が多いのだろうと覚悟して入って行ったんですけど。
「「「あれ…?」」」
人が少ない、と拍子抜け。いつもだったら教頭先生が座っておられるキャプテンの席は空いていますし、ブラウ先生やゼル先生たちの席も無人という有様。他の所も人は少なめで。
「…どうなってるんだ?」
操舵士までがいないんだが、とキース君が言う通り、舵の前も無人。
「普段はこういう感じだけれど?」
オートパイロット、と会長さんが淡々と。
「自動操縦だよ、シャングリラ号の基本はね。衛星軌道上ともなったら、もうお任せ」
何かトラブルでも起きない限りは自動操縦、という台詞に、ソルジャーが。
「らしいね、こっちのシャングリラ号は。…ぼくの世界じゃ有り得ないねえ!」
「まったくです。レーダー係くらいしかいないようですねえ…」
私たちの世界では考えらない光景ですよ、とキャプテンも。
「ですが、これなら皆さんにどいて頂かなくても…」
「うん、素敵な写真が撮れるってね!」
何処から撮ろうか、とソルジャーはウキウキ。
「キャプテンの席もいいけど、まずは舵かな?」
「そうですね。舵輪を挟んで撮りましょうか」
「最初のがそれで、君が舵を握っている姿も撮りたいねえ!」
君の後ろにぼくが立って…、とソルジャーの注文、そういう写真も撮らされました。舵の向こうへ回ってシャッター、お次はキャプテンの席に移って…。
「最初は君が座って、と…。次は交代して…」
「ブルー、二人で座りませんか?」
膝の上に座ればいけますよ、とバカップルならではのキャプテンの発言、その案をソルジャーは嬉々として採用。
「此処まで来たってバカップルなのかよ…」
「密航してまで前撮りって所で、もう充分にバカップルだと思うがな…」
普通やらんぞ、とキース君。自分たちの世界のシャングリラ号を放置で密航、こっちの世界で前撮りしているソルジャーとキャプテンという船のトップな夫妻は確かにバカップルでしょう。自分の世界では無理だからって、前撮りなんかをやりに来るなんて…。
ブリッジでの撮影が済んだら、公園へ移動。芝生に東屋、その他もろもろ、絵になる撮影スポットがてんこ盛りだけに、ソルジャー夫妻はポーズを取りまくり、私たちは写真を撮らされまくり。次は天体の間だと言われましたが…。
「「「えー…」」」
一休みしたい、と誰からともなく漏れた本音に、ソルジャーも「うん」と。
「とっくにお昼を過ぎてたっけね、一度休んで、それから続きを」
「そうですねえ…。夜景に切り替わるまでには時間はまだまだありますし」
キャプテンが頷き、私たちは。
「「「夜景?」」」
「そうだけど? 公園もブリッジも、それに通路も夜は照明が暗くなるしね!」
その時間にも写さなくちゃ、とソルジャーがニコリ。
「公園なんかは徐々に暗くなるし、夕方からは公園で何枚もだよ!」
「「「うわー…」」」
そこまでするのか、と力が抜けそうな足で青の間に戻る途中で、通路の向こうから足音が。一瞬、ドキリとしましたけれども、やって来た人は気付きもしないでスタスタ歩いてゆきました。ブリッジにいた人と同じで、私たちが見えていないのです。
「この程度のことでビクビクしない! もっと堂々と!」
歩け、歩け! とソルジャーにどやされながら戻った青の間、其処での食事は…。
「かみお~ん♪ お湯はたっぷり沸かしたからねーっ!」
「ぼくのに入れてよ、待ち時間が五分みたいだから!」
「オッケー!」
他のみんなも順番にね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ウェディングドレスが汚れないよう、私服に着替えたソルジャーを始め、誰の食事もカップ麺で。
「…同じ麺なら、ぶるぅの特製フカヒレラーメンが食べたかったです…」
シロエ君がポツリと零して、ジョミー君が。
「食堂に行けば、きっとラーメン、あるんだよねえ…」
「あるよ? ラーメンもあるし、担々麺もね」
シャングリラ号の食堂は麺類も豊富、と会長さんもカップ麺を啜りながら。
「密航中でなければ、ぼくなら食べ放題なのに…。我儘も言いたい放題なのに…!」
ネギ多めだとか、チャーシューをもっと増やしてくれとか…、とブツブツと愚痴る会長さん。なまじトップなソルジャーだけに、侘しさは私たち以上でしょうねえ…。
悲しすぎるカップ麺の昼食の後は、またまたソルジャー夫妻がウェディングドレスとタキシード着用、天体の間での撮影から。階段やら、階段の上のフィシスさん愛用の占い用のテーブルと椅子やら、撮影スポットは此処も沢山。それが済んだら色々な場所で写して回って、公園に行って。
「うん、いい感じ! これから暮れていくからねえ…」
「暗くなる直前が一番いいのは何処でしょうねえ…」
もちろん夜景も撮りましょう、とソルジャー夫妻は元気一杯、私たちの方はゲンナリで。
「…まだ撮るのかよ…」
「公園だけでは済まないよ、夜景…」
ブリッジも夜景アリなんだよ、とジョミー君が嘆けば、シロエ君も。
「通路もです。…それに農場も暗くなりますから」
「「「あー…」」」
もうその他は考えたくない、と泣きの涙の私たち。それだけ頑張って撮って回っても、撮影の後の夕食タイムは…。
「えとえと、レトルトカレーと、ハヤシライスと…。ハンバーグとかもあるんだけど!」
「ぼくはハンバーグで!」
「私はカレーでお願いします」
前撮りバカップルはレトルトでオッケー、温めるだけの御飯も粉末スープもまるで気にしていませんけれど。
「…ぶるぅのハヤシライスが食べたい…」
「この際、オムレツでもいいですよ…」
「…食堂に行けば、夜の定食もカツカレーもあるな…」
多分、ハンバーグもあるんだろうな、とキース君でなくても募る侘しさ、会長さんは。
「今夜の定食、ハンバーグどころかステーキだよ。…希望者にはガーリックライスもアリで」
「「「ガーリックライス…」」」
この御飯との差は何なんだろう、と空しさMAX、けれど気にしないバカップル。
「明日は朝一番に公園に行かなきゃいけないねえ!」
「ええ、明るくなる前から待っていましょう」
きっと素敵な写真が沢山撮れますよ、と盛り上がっているソルジャー夫妻。
「「「…夜明け前…」」」
どこまで元気な二人なんだ、と打ちのめされても、只今、前撮りで密航中。逃げ場所は無くて、温かい御飯も食べられなくて…。
「「「………」」」
トドメはこれか、と私たちの心を季節外れの寒風が吹き抜け、青の間に敷かれた何組もの布団。雑魚寝は会長さんの家やマツカ君の別荘でもやってますけど、床が違います。
「…やはり背中にきやがるな、これは」
明日の朝はきっと腰が痛いぞ、とキース君が唸って、シロエ君が。
「布団があるだけマシなんでしょうが…。でも、これは…」
「惨めすぎだぜ、でもって、なんで俺たちだけなんだよ!」
ブルーもだけどよ、というサム君のぼやき。青の間に備え付けの会長さんのベッドは、バカップルのものになっていました。そこにもぐり込んでいるソルジャー曰く…。
「ぼくたちは明日も前撮りだからね、しっかり寝ないといけないんだよ!」
「また撮り直し、というわけにもいきませんから…。やはり睡眠をしっかり取りませんと」
目の下にクマや、ブルーの肌に艶が無いというのは論外です、とキャプテンも。
「それでは、おやすみなさいませ」
「おやすみなさいーっ!」
今夜は睡眠第一だから! とソルジャー夫妻の夫婦の時間は無いようですけど。
「…あのベッドは本来、ぼくのなんだよ…」
背中が痛い、と会長さんがゴソゴソ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ごめんね、ぼくだけ、いつもの土鍋…」
「仕方ねえよな、ぶるぅの土鍋は此処の備品だしよ」
よく寝て明日の食事を頼むぜ、とサム君の声。
「「「…食事…」」」
明日もレトルト三昧だけど、と泣けど喚けど、逃げ出せないのが密航者。それでもなんとか眠れたようで、次の日の朝は…。
「さあ、張り切って前撮りに行こう!」
公園が明るくなる前に! と無駄に元気なウェディングドレスのソルジャーがブチ上げ、私たちは腰や背中を擦りつつ。
「…今日で終わりだよな?」
「終わりですけど、ぼくの気力も尽きそうです…」
前撮りは二度と御免です、とシロエ君が零して、会長さんも「二度と密航してたまるか」と自分の境遇を嘆き中。シャングリラ号でこんな惨めな思いをするとは、人生、ホントに分かりません。ソルジャー夫妻の前撮りアルバム、どうか撮り直しだけはありませんように~!
宇宙で前撮り・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャー夫妻の前撮りならぬ後撮りのために、なんと、シャングリラ号に密航する羽目に。
しかも食事はレトルト三昧、寝る時も青の間の床に布団な悲劇。二度と御免ですよねえ…。
次回は 「第3月曜」 9月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、8月と言えば、お盆の棚経。今年もスッポンタケのために…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(世の中、色々いるもんだな…)
人それぞれか、とハーレイが眺めた新聞記事。ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
今日はダイニングでコーヒーな気分。愛用のマグカップにたっぷりと淹れて、傾けながら広げた新聞。ニュースやコラムや、あれこれと読んでいく内に…。
見付けた記事が、酒のラベルのコレクターたちの特集だった。酒好きな上に、飲んだ記念に酒のラベルを集めてゆく。写真を見れば、アルバムにズラリと彼らの自慢のコレクション。
(集め方のルールも、人によりけりか…)
飲んだ日付の順に貼る者や、酒の種類別に貼ってゆく者。酒の産地で分けている者も。
決まったルールが無いというのが、ラベル集めの魅力の一つ。これに貼るものだ、とアルバムが売られているわけでもない。個人の好みで選べるアルバム、それに貼り方。
(今に始まった趣味じゃないんだな)
SD体制が始まるよりも前の時代から、コレクターたちは存在したらしい。まだ人間が地球しか知らなかった遠い昔から。
今の時代も、地球はもちろん、あちこちの星にコレクター。酒を飲んだら、記念にラベルも。
おまけに、自宅で飲んだ時だけに限らない。コレクターたちが記念に残すラベルは。
(店で飲んでも、そいつのラベルを剥がして貰って…)
持ち帰るのが彼らの流儀。「集めているので、ラベルを下さい」と。
コレクターの数が多いものだから、そういうサービスをしている店も多いという。客のグラスに注いだ後には、「ラベルをお持ちになりますか?」と尋ねる店。
客の方から頼まなくても。店員に「欲しい」と言わなくても。
(そういや、見たな…)
前に見たぞ、と覚えがあった。あれはいつだったか、同僚たちと出掛けたレストラン。普段より洒落た店に入って、料理も酒も楽しんだ時。
隣のテーブルに座っていたのが、ワインのラベルを剥がして貰っていた人だった。「頼むよ」と声を掛けていた紳士。「いつものように貰うから」と。
心得ました、といった風にサッと空のボトルを下げた店員。食後のコーヒーを飲み終えた紳士が席を立つ時、「どうぞ」と渡していたラベル。綺麗に剥がして、乾かしたものを。
ああいうのもあるのか、と見るともなしに眺めていた。「酒のラベルを持ち帰るのか」と。
(俺たちのワインは、安いのだったし…)
味さえ良ければそれで充分、と皆で注文していたワイン。質より量が最優先だ、と。高級な酒を頼まなくても、楽しく飲めれば最高だから。
とにかく量を、と頼んでいたから、ラベルはどうでも良かったけれど。料理に合うなら、何処のワインでも誰も気にしていなかったけれど。
高いワインを頼んだ人なら、ラベルが欲しくなるだろう。趣味で集めている人ならば。
(…手頃な値段のワインにしたって、珍しいのもあるからなあ…)
酒好きが集まる店にだったら、様々な酒も集まるもの。店主のこだわり、味で選んだ各地の酒。それを端から楽しむのならば、コレクターは「欲しい」と言いそうなラベル。
カップルで食事に入った店なら、記念日のワインのラベルを貰いもするだろう。誕生日だとか、一世一代のプロポーズの時のワインとか。
(酒のラベルか…)
急に飲みたい気分になった。こんな夜には酒を一杯、と。
ラベルを集める話だとはいえ、酒の話題には違いないから。楽しみ方の一つがラベル集めだし、酒の余韻を味わうもの。アルバムを広げて、「あの時の酒だ」と頷くラベル。
酒の味やら店の雰囲気、そういったものが詰まったラベル。たった一枚の紙なのに。
面白い趣味もあるものだ、と心は酒へと飛んでゆくから、コーヒーの後で…。
書斎に移って、秘蔵の一本。ワインではなくて、とっておきのボトルのウイスキー。
グラスは二つで、引き出しから出した前のブルーの写真集。『追憶』というタイトルの。表紙に刷られた真正面を向いたブルーは、一番知られている写真。憂いと悲しみを秘めた瞳の。
本当のブルーを捉えた一瞬、何処で撮られたかも分からない写真。恐らくは映像の中の一コマ、後に誰かが見付けた表情。
…前の自分は、この写真を持っていなかったから。前のブルーがいなくなった後、懸命に探した本当のブルーが写った写真。けれど一枚も見付けられずに、前の自分は逝ったのだから。
後の時代の誰かのお蔭で、こうして此処にいるブルー。写真だけれども、「これがブルーだ」と思える一枚。前のブルーと向き合っているような気分になるから、こうして机に置いてやる。
グラスを軽く掲げてみせて…。
「お前も飲むか?」
飲めないことはよく知ってるが、と注いでやったブルーの分。「ほら」と写真集のブルーに差し出し、コトリと置いて。
「今夜は付き合え」と自分のグラスを傾けながら、「美味いんだぞ」と微笑み掛ける。
ブルーは酒が駄目だったけれど、それでも飲もうと努力していた。悪酔いしたって、酷い頭痛に苦しんだって。前の自分が好んでいたから、「ぼくも飲むよ」と何度も強請って。
遠く遥かな時の彼方に消えてしまったソルジャー・ブルー。前の自分が失くしたブルー。
今は地球の上に、生まれ変わったブルーがいるけれど。小さなブルーが戻ったけれども、今でも忘れられない恋人。気高く美しかった人。
たまに、こうして語りたくなる。ブルーは生きているというのに、前のブルーと。
「…前のお前と飲んでるんだし、こういうのも記念の酒かもな」
俺が一人で飲むのと違って、お前と一緒だ。…今夜はな。
ん?
記念の酒って、どういう意味だってか。さっき、面白い記事を読んだもんだから…。新聞でな。
店に出掛けて酒を飲んだら、ラベルを貰って帰るんだそうだ。コレクターなら。
もっとも、こいつはワインじゃないからなあ…。
俺が一本飲んじまわないと、ラベルを剥がして貰って帰るのは無理そうだが。
ワインだったら軽いモンだが、ウイスキーを一本飲むとなるとだ、俺でも一晩かかっちまう。
それに一気に飲んじまうよりは、ゆっくり飲みたいのがこの手の酒で…。
ラベルを貰おうというんだったら、ボトルをキープするのがいいんだろうな。
…お前は知らんか、ボトルキープなんぞは…。
シャングリラには無かったしなあ、そういう洒落た習慣は。
そもそも酒を飲ませる店が全く無かったわけだし、ボトルキープがあるわけがない。
お前が知らないのも無理はないってな、今じゃ普通のことなんだが。
ボトルキープ、と写真集の表紙のブルーに語る。自分のボトルを店に預けておくのだ、と。
「今はそういう時代なんだ。俺だって店で酒が飲める、と」
それも本物の酒ばかりをな。合成なんて、今の時代じゃ何処にも無い。
お前と酒を飲むことは滅多に無かったが…。いいモンなんだぞ、本物の酒は。
酔っちまう所は同じだがな、と前のブルーが悪酔いしたのを思い出す。酒に弱くて、苦手だったブルー。それでも飲もうと重ねた努力。悉く無駄になっていたけれど。
(…飲めないヤツが頑張ってもなあ…)
不味いと文句を言った挙句に悪酔いなんだ、と苦笑い。そうなっても懲りなかったんだが、と。
ブルーは全く飲めなかったから、ゼルやヒルマンと飲んでいた酒。飲みたい気分になったなら。
彼らとグラスを傾けた酒は、最初の頃には本物だった。
ウイスキーもラムも、ブランデーもワインも、正真正銘、本物の酒。前のブルーが奪った物資に酒が混じっていた時は。
白い鯨になった後には、もう合成の酒しか無かった。自給自足で生きてゆく船では、酒を仕込む余裕が無かったから。酒に回せるだけの収穫、それを得られはしなかったから。
どれも合成だったんだっけな、と過ぎ去った時の彼方を思う。
今はこうして本物の酒で、ブルーのためにも注いでやっているけれど。俺の秘蔵の酒なんだ、と持って来たけれど、前の自分の酒は違った。同じ秘蔵でも合成ばかり。
白いシャングリラが出来た後には。…前のブルーと恋人同士になった頃には。
「なあ、ブルー。…今の時代は、酒と言ったら本物ばかりで…」
本物だからこそ、酒のラベルのコレクターだっているんだが…。アルバムに貼っているんだが。
前の俺たちだと、ラベルを集めてみたってなあ…?
粋なコレクションにはなりそうもないな、第一、ラベルが無かったから。
合成の酒にラベルなんかは…、とウイスキーのボトルを指で弾いて、気が付いた。秘蔵の酒にもラベルが貼られているのだけれども、それを目にして思い出したこと。
そうじゃなかった、と。前の自分も同じにラベルを見ていたのだと。
「…違うな、俺が間違えちまってた。ずいぶん昔になっちまったから…」
今の俺の目が見て来たものも多いから。…酒にしたって、何にしたって。
シャングリラにもあったんだっけな、酒のラベルというヤツは。
合成の酒でもかまうもんか、とゼルたちが作っていやがった。…色々なのを。
それにコレクションだってしてたんだっけな、あいつらは。
ゼルとヒルマン、あの二人は酒が好きだった上に、酒のラベルのコレクターでもあったんだ…。
懐かしいな、と細めた目。遠い昔の飲み友達。あいつらがラベルを集めていた、と。
前のブルーが奪った酒。人類の輸送船から様々な物資を奪うついでに、本物の酒も奪って来た。たまたまだったり、「丁度あったから」と酒入りのコンテナを狙って奪い取ったり。
本物の酒を何本も飲んでいる内に、いつの間にやら始まっていたラベルのコレクション。
最初は偶然、手に入れた高級なワインから。
ヒルマンが調べて、「これは滅多に無いワインだよ」と記念にラベルを剥がしておいた。二度とお目にはかかれないだろうし、飲んだ記念にするのだと。
(…あれが始まりで、その後だって…)
高級品に出会った時やら、美味しかったと思えた酒。
そういう酒をすっかり飲んでしまったら、ゼルもヒルマンもラベルを残した。「記念品だ」と。
専用のアルバムに貼っていたラベル。「こんなにあるぞ」と自慢していた。
白い鯨が出来上がった後は、もう増えなかったコレクション。本物の酒は無くなったから。
けれども、こだわりたかったゼルとヒルマン。
酒のラベルのコレクターとしては、酒が入っただけの瓶など、許せるものではなかったらしい。酒はそれらしい姿でないと、と注文をつけたボトルの形。「こういうのがいい」と。
合成ラムやウイスキーなど、どれも専用のボトルが出来た。形だけで区別がつくように。
そして大切なのが酒の素性を表すラベルで、合成品でもラムはラム。ブランデーだって。
(あいつら、ラベルにもこだわったんだ…)
本物の酒があった時代に、彼らが集めたコレクション。幾つもアルバムに貼られたラベル。
それを元にして作られたラベル。合成品でも本物らしい味わいを、と。
白いシャングリラで作り出された、合成品の酒と専用のボトル。きちんとラベルを貼り付けて。酒が飲めない者が見たって、一目で中身が分かる瓶。ラムだとか、ウイスキーだとか。
初めの間は、その程度で済んでいたラベル。中身が分かれば充分だろう、と。
ところが船で長く暮らして、余裕が出来たら変わって来た。同じ酒なら、もっと楽しくと。同じ飲むなら味わい深くと、気分だけでも豊かにやろう、と。
ヒルマンとゼルはラベルに凝った。本物の酒があった時代は、ラベルのコレクターだったから。
どうせやるなら、とデータベースから引き出して来た、高級な酒のラベルのデータ。
それをそっくり真似て印刷、ボトルにペタリと貼ったのが彼ら。
「中身は合成だってのに…。どれを飲んでも同じ味しかしないってのに…」
いろんな銘柄にしてしまいやがった、ウイスキーもラムも、ブランデーもな。
ワインの方だと、何年ものだ、とラベルを貼るんだ。作ったばかりのワインにだって。
数え切れないほどの銘酒をせっせと捏造していたわけだが、覚えているか?
今のお前はどうだろうなあ…。
酒どころじゃないチビのお前が、ラベルまで覚えているのかどうか…。
この続きはあいつと話すとするか、と瞑った片目。
今のお前も酒は駄目だし、飲める年でもないんだがな、と。
「…というわけで、続きは明日だ。今のお前に話してやろう」
楽しみにしてろ、明日になるのを。酒のラベルの話なんだし、お前とも縁が無さそうだがな。
おやすみ、ブルー。
いい夢を見ろよ、と引き出しに仕舞った写真集。自分の日記を上掛け代わりに被せてやって。
それが済んだら、ブルーの分にと注いだ酒も飲み干した。「美味いんだがな」と。
こんなに美味い酒が飲めないのがブルーなわけで…、とクックッと笑う。
前のブルーも飲めなかったけれど、今度のブルーも酒は恐らく駄目だろうから。
明日はブルーに酒のラベルの話をたっぷり聞かせてやろう。土曜日なのだし、朝から出掛けて。
のんびり二人でお茶を飲みながら、白いシャングリラの思い出話を。
次の日の朝も、酒のラベルの話は覚えていたけれど。小さなブルーに話すつもりだけれど。
(酒は持っては行けないしな…)
十四歳にしかならないブルーに、酒を飲ませるわけにはいかない。酒を飲むなら二十歳から、というのが今の時代のルールだから。
話だけだ、と歩いて出掛けたブルーの家。朝食を済ませて、丁度いい時間に着くように。
ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合わせ。早速、ブルーに問い掛けてみた。
「お前、シャングリラの酒を覚えているか?」
白い鯨になった後だな、本物の酒が無かった時代。…酒と言ったら合成ばかりで。
「お酒って…。いつも悪酔いしてたけど?」
ハーレイが美味しそうに飲むから、美味しいのかな、って分けて貰って。
だけど、美味しくないんだよ。それに、飲んだら胸やけがしたり、頭がとても痛くなったり…。
あんなのの何処が美味しいんだろうね、今でも分からないんだけれど…。
変な飲み物、とブルーが唇を尖らせるから。
「悪酔いなあ…。他には?」
お前が酒が苦手だったというのは、俺もハッキリ覚えているが…。
他には何か覚えていないか、あの船の酒。
「…乾杯のワインをハーレイに飲んで貰っていたよ」
新年のお祝いに飲むワイン。…あれだけは本物だったよね。ちゃんとブドウの実から作って。
でも、本物でも、ぼくには同じ。飲んだら酔っ払ってしまうだけ。
だから一口飲んだ後には、いつもハーレイに渡していたよ。
「その程度か…」
覚えてるのは、悪酔いするってことだけか…。ワインの話も悪酔い絡みなんだし。
「どうしたの?」
他に何かあるの、お酒のことで?
ぼくが忘れてしまってる話、ハーレイ、何か思い出したの…?
なあに、と小さなブルーが訊くから、「まあな」と浮かべてみせた笑み。
「ラベル、覚えていないかと…。酒のラベルだ」
酒の瓶にはラベルがあるだろ、今のお前は知ってる筈だぞ。…お父さんだって飲むんだから。
「…ラベル?」
瓶に貼ってあるヤツのことだよね、ウイスキーとか、ワインとか…。
いろんな模様がついているけど、お酒のラベルがどうかしたの?
「そのラベル…。白い鯨になったシャングリラじゃ、色々とデッチ上げていたんだが…?」
ゼルとヒルマンがやっていたんだ、あいつらは酒好きだったから…。
本物の酒があった時代は、酒のラベルをコレクションしていたほどだったしな。
その時代に培った知識と言ったら聞こえはいいが…。そいつを悪用していたとも言う。
合成の酒に上等な酒のラベルを貼るんだ、データベースから引き出した情報を元に印刷してな。
それだけじゃないぞ、作ったばかりのワインのボトルに何年ものだ、というヤツをだな…。
貼っちまうんだ、と話してやったら、「あったっけね…!」と煌めいたブルーの瞳。
「思い出したよ、ワインのボトル。…乾杯用だった赤ワイン…」
古いワインほど、上等なワインになるんだっけ?
それに、美味しいワインが出来た年のも、とてもいいワインってことだったよね。
「うむ。今の時代は当然そうだが、あの頃もそうだったんだろう」
ヒルマンたちがそう言ってたしな、「長く寝かせておいたワインは美味いものだ」と。
それからワインの当たり年。…あんな時代に、本物の当たり年があったかどうかは怪しいが…。
今の時代なら、もう間違いなく本物の当たり年だがな。
美味いブドウがドッサリ実って、最高の時期にいい天気が続いて、上手い具合に収穫出来て。
そいつを使ってワインを仕込めば、極上のワインが出来るってわけだ。
当たり年というのは、そういうモンだし…。
前の俺たちが生きた時代の当たり年ってヤツは、今から見たならお粗末だろうさ。
テラフォーミングが一番進んでいたノアですらも、最高のブドウは育たなかったんだろうしな。
今とは事情がまるで違うぞ、と教えてやった当たり年。美味しさが違ったろうワイン。
けれども、当たり年というのはあった。人類の世界には存在していた当たり年のワイン。それを何年も寝かせたワインも、当たり年でなくても長く寝かせて味わい深くなったワインも。
ゼルとヒルマンは、それらを真似た。シャングリラで作った本物のワインに貼るラベル。
たった一年しか寝かせていないワインのボトルに、古い年号。当たり年やら、長く寝かせてあるワインなのだと偽って。
真っ赤な嘘のラベルだけれども、船の仲間たちも楽しみ始めた。同じワインを作るのならばと、凝るようになったラベルのデザイン。その道のプロのゼルとヒルマンの意見を聞いて。
今年のワインに入れる年号は何にしようかと、どんなデザインのラベルがいいかと。
「あのラベル…。合成のワインのボトルにも貼ってあったよね」
どれを見たって、何年ものとか、何年も寝かせてあるだとか…。嘘ばっかり。
面白かったけどね、ラベルだけで美味しいワインの気分になれるなら。…他のお酒だって。
前のぼくは飲みたくなかったけれども、お酒の好きな仲間たちなら。…前のハーレイも。
「そういうことだな。気分だけでも、ということだ」
極上の酒のラベルが貼ってあったら、ただの瓶詰の酒よりいいだろうが。
ゼルたちが思い付かなかったら、その可能性も高かったんだぞ。どの酒にだって同じボトルで、ラベルの代わりにシールが貼ってあるとかな。中身はコレだ、と書いてあるだけの。
「…それが美味しくないっていうのは、ぼくでも分かるよ」
今のぼくでも分かっちゃう。…だって、ジュースを買ったりするもの。
こういうジュース、ってワクワクするのが瓶とか缶のデザインで…。開ける前から味が楽しみ。
もしも全部が同じデザインなら、買う時だって楽しくないよ。
こんな味だと嬉しいよね、って瓶とか缶で想像するのに…。搾り立てとか、粒入りだとか。
「なるほどなあ…。ジュースも同じか」
そうかもしれんな、ただのガラス瓶に詰めてあるだけのジュースじゃつまらん。
瓶にラベルがあってこそだな、何処で育った果物を使って、何処の会社が作ってるのか。
気分だけでも本物の酒に近付けよう、と作られていたのがシャングリラにあった偽物のラベル。合成の酒が詰まっているのに、貼ってあるラベルは本物そっくり。
「…前の俺たちの船じゃ、酒のボトルに貼る偽物のラベルは普通だったが…」
合成品のワインにだって、当たり年のワインだと大嘘つきなラベルが貼られていたんだが…。
そんな船でも、本物のワインは特別だったぞ。
少しだけしか作れなかったが、乾杯用の赤ワインだけは、そりゃあ素晴らしいラベルだった。
「特別って…。何かあったっけ?」
デザインだったら、仲間たちのアイデアを募っていたし…。
本物のワインもそうだろうけど、デザインするのに何か約束事でもあった…?
「デザインじゃないな、それよりも後だ」
毎年、ラベルが出来上がって来たら、お前がサインを入れていたんだ。
「え?」
サインって…。ぼくが、ワインのラベルに?
「その通りだが?」
保証します、とソルジャーのサイン。…他のワインとは違うんだから。
合成でもなければ、混ぜ物も無しの本物のワインだったしな。それをお前が保証してた、と。
ソルジャーのサインが入っていたなら、そのラベルつきのワインは間違いなく本物なんだ。
「やってたね…!」
忘れちゃっていたよ、そんなこと。
ぼくはお酒が苦手だったし、あのワインだって一口しか飲まなかったから…。
忘れてた、とブルーがコツンと叩いた額。「頑張ってサインしてたのに」と。
シャングリラで作られた本物のワイン、新年を迎えた時の乾杯に使われた赤ワイン。それだけで無くなってしまったけれども、ボトルは一本だけではなかった。船の仲間は多いのだから。
そのボトルに貼られていたラベル。仕込まれた年号は嘘八百が書かれていたって、中身は本物。
きちんとブドウから作ったワインで、直ぐに分かるよう、ブルーが入れていたサイン。
「ぼくは、お酒は飲めないのに…」と苦笑しながら、一枚ずつ。
実際、ブルーは乾杯さえも苦手だったのだけれど、それでも毎年、サインに工夫を凝らした。
ワインのラベルが出来て来たなら、サインを何処に入れようかと。
デザインを損ねてしまわないように、気を付けて。時には字体を変えたりもして。
「あのラベル、人気が高かったんだぞ」
毎年、引っ張りだこだったってな。ワインのボトルが空になった後は。
「人気って…。誰に?」
本当に本物のワインだったし、お酒が好きだった仲間たちかな?
ゼルたちみたいに、本物のワインのラベルをコレクションしてた人が多かったとか…?
「そういうヤツらもいたんだろうが…。欲しかったのかもしれないが…」
とても言い出せなかっただろうな、ライバル多数というヤツだから。…それも強いのが大勢だ。
同じ酒好きなら、勝負のしようもあっただろうが…。欲しいと声も上げただろうが…。
生憎と、あれを欲しがってたのは、ゼルたちじゃなくて、女性陣だったんだ。
なにしろ、ソルジャーのサインだからなあ、船の女性たちの憧れの。
そいつが入ったラベルなんだし、欲しい女性が列を成すってな。
酒好きの男がウッカリ混ざろうもんなら、もうジロジロと見られたろうさ。
いったい何しに来やがったんだ、と冷たい目で。ただの酒好きは引っ込んでろ、とな。
前のブルーのサインのお蔭で、絶大な人気を誇っていたのが本物のワインに貼られたラベル。
それを求めて船の女性たちが集まるけれども、全員の分があるわけがないし、奪い合い。
新年を祝った乾杯の後は、希望者が厨房に押し掛けて。
空になったボトルから剥がされるラベル、それを一枚貰いたいからと、クジ引きなどで。
小さなブルーは、案の定、騒ぎを知らなかったらしい。赤い瞳をキョトンと見開いて…。
「そうだったんだ…。ワインのラベルなんかでクジ引き…」
お酒好きの男の人たちが貰えないほど、女の人たちが押し掛けてたなんて知らなかったよ。
ワインのラベルを取り合わなくても、サインくらいなら、いくらでもしてあげたのに…。
ぼくに「お願い」って言ってくれたら、ちゃんとサインをしてあげたのに…。
「お前、全く分かっていないな。…なんでラベルの奪い合いなのか」
前のお前はソルジャーなんだぞ、雲の上みたいな存在だ。…デカイ青の間で暮らしてるような。
それを捕まえて頼めるか、おい?
サインして下さい、と言える勇気を出せるような女性がいたと思うか…?
「…難しいかもね…」
ぼくに薔薇のジャムをくれてた人たちも、直接、届けに来なかったから…。
試食用のは持って来たけど、その後はずっと、部屋付きの係に渡してたから…。
サインを頼むのは難しそうだね、ぼくは気にしなかったのに…。
いくらでも書いてあげたのに、と小さなブルーは言うのだけれども、前のブルーも同じだったと思うけれども。…ソルジャー・ブルーは雲の上の人で、誰もサインは頼めなかった。
そんなわけだから、前のブルーのサインを手に入れるための、唯一の手段がワインのラベル。
本物のワインにだけ貼られるラベルで、本物の証にソルジャーのサインが添えられたから。
前のブルーに憧れていた船の女性たちは、ワインのラベルのコレクションを作っていた。
自分だけの小さなコレクション。そっと眺めて楽しむもの。
けして全部は揃わないのに。
船で作られていた本物のワイン、その数よりも多かったのがラベルを欲しがる女性たち。いくら頑張ってクジを引いても、毎年の分は手に入らない。外れてしまう年の方が多くて、貰えない。
分かっていたって、彼女たちが続けたコレクション。
運よく手に入れた年のラベルを、アルバムにペタリと貼り付けて。
ラベルに刷られた偽の年号、それとは別に、本当の年号を多分、アルバムに書き入れて。
毎年の分が揃わなくても、揃えられるような強運の女性がいなくても。
一枚だけでもラベルがあったら、充分に宝物だから。前のブルーのサインが入った、最高の宝物だったのだから。
コレクターだった女性たちが作ったアルバム、それを目にする機会は無かった。酒好きの仲間は集めたラベルを披露したがるものだけれども、あくまで同好の士が相手。
それと同じで、女性たちの場合も、見せ合う相手はコレクター仲間。自分のアルバムには欠けているラベル、それを羨んだり、求められて自分のラベルを見せたり。
「前のお前がサインしたラベル…。剥がされた後は、見てないな…」
女性陣に仕舞い込まれてしまって、俺の前には出て来なかった。アルバムはあった筈なんだが。
ついでに前のお前と違って、俺の方のサインは誰も集めちゃいなかったな…。
「ハーレイ、人気が無かったものね…。女の人には」
ぼくには信じられないけれども、薔薇のジャムも薔薇も似合わないとか言っちゃって…。
ハーレイだってカッコいいのに、誰も分かってくれないんだよ。
「そうなんだよなあ、女性には全くモテなかったな」
俺のサインがあったとしたって、集めちゃくれなかっただろう。
それに本物の酒は、あのワインしか無かったし…。
キャプテンがサインして、品質を保証できるような代物は何も無かったな。シャングリラでは。
「お酒、本物が他にもあったら、ハーレイのサインもあったのにね」
これは間違いなく本物だから、ってキャプテンのサイン。…ウイスキーとかに。
「いや、その場合もサインするのは、お前だろう」
まるで飲めなくても、それとこれとは話が別だ。
ソルジャーとキャプテンでは重みが違うし、其処はお前がサインしないと。
「…ハーレイに譲るよ、そっちの方は」
ワインだったら新年を祝う乾杯用だし、大切な儀式に使うためのお酒だったけど…。
それ以外なら、何の儀式も無いから、本物でもただの嗜好品。
本物ですよ、っていう印があったら充分なんだし、キャプテンのサインでいいんだってば。
「そう来たか…。確かにただの酒ではあるな」
貴重な本物の酒だってだけで、船の仲間が揃って飲むってモノでもないか…。
キャプテンのサインで充分だろうな、酒が飲めないソルジャーを引っ張り出さなくても。
そっちだったら誰かが集めてくれただろうか、と思ったサイン。前のブルーのサインと違って、サイン目当てではない誰か。酒好きなラベルのコレクター。
「これは本物の酒のラベルだ」と、剥がして大切にアルバムに貼って。もしかしたら、ヒルマンたちだって。前に集めたコレクションの続きに、「これも」とペタリと貼り付けて。
俺のサインは全く抜きで…、と考えてしまったラベルの価値。
ソルジャーのサイン入りだった時は、酒よりも値打ちが高いのがサイン。けれどもキャプテンがサインしたなら、高くなるのは中身の価値。…本物の酒だ、と思った所で気が付いた。
時の彼方に消えてしまったワインのラベル。…前のブルーがサインしたもの。
「あのラベル…。残っていたら大した値打ち物だろうな」
たかがワインのラベルなんだが、宇宙遺産になったんじゃないか?
年号がまるで出鱈目だろうが、デッチ上げだろうが、そんなことは気にもされないで。
「…なんで?」
どうして宇宙遺産になるわけ、ただのワインのラベルだよ?
それに年号だってメチャクチャ、当たり年とかを適当に刷っていただけなのに…。
「ワインの方はどうでもいいんだ、本物なんだという印の方だ」
お前がサインしてたんだろうが、一枚一枚、きちんと自分で。…ソルジャー・ブルーと。
其処が大事だ、前のお前のサインは残っていないんだ。…ただの一つも。
俺の日誌は残っているがな、超一級の歴史資料にされちまって。
「本当だ…!」
ソルジャー・ブルーのサインです、っていうのは聞いたこと無いよ。
ホントに何処にも残っていないね、あったら宇宙遺産かも…。
ワインのラベルに書いたサインでも、それが残っていたんなら。…誰かが残しておいたんなら。
だけど残っていないみたい、とブルーは暫く考え込んで。
「えーっと…。宇宙遺産は無理だけれども、今のぼくが書けばいいのかな?」
きっとサインは同じだろうから、今のぼくがサイン。…ソルジャーは抜きで。
「サインって…。どうするんだ、何にサインするんだ?」
ソルジャーは抜きでサインだなんて、と尋ねたら。
「いつかね、ハーレイとお酒を飲んだら、その記念に」
デートに行ったら、ハーレイがお酒を頼む時だってありそうだから…。
そういう時には、ラベルを剥がして貰うんだよ。お店の人にお願いして。
剥がしたラベルを持って帰ったら、ぼくがサインを入れるのはどう?
今のぼくだから、値打ちは少しも無いけれど…。ただの記念にしかならないけれど。
「貰って帰るって…。お前、知ってるのか、そのサービスを?」
「サービスって?」
「酒のラベルをくれるってヤツだ」
店で頼めば、ラベルを剥がして貰えるってな。…その日に飲んだ酒の記念に。
「知らないよ?」
ぼくはお酒は飲めないから…。興味も無いから、そんなの初耳。
「だろうな…。お前が知っているわけがないな」
酒は飲めないし、まだまだチビだし、何処かで見たって忘れちまうのが関の山ってか。
レストランでもやっているから、出会っているかもしれないがな。…忘れただけで。
今の時代もコレクターがいて、そういうサービスをする店があるんだ、と教えてやった。
本当の意味でのコレクターもいるし、記念日だからと貰って帰る人だって、と。
「ラベルを集める趣味は無くても、記念日は別だ、というのもあるからなあ…」
特別な日のデートとかなら、その時に頼んだ酒のラベルを残しておこう、と。
「そうなんだ…。だったら、貰って帰らなきゃ!」
ハーレイとのデートの記念なんだよ、ラベル、貰って帰らないと…。
ちゃんと貰って、帰ってからぼくがサインをするよ。
シャングリラでラベルにサインしていた頃と同じに、何処に書こうか考えたりして。
どんなサインを入れるのがいいか、書き方とかにも工夫をして。
「いいかもなあ…」
同じラベルのワインを飲んでも、お前が工夫をしてくれるってか。
今日のサインは此処に入れようとか、こんな風に書いたらいいだろうか、とか。
そいつは大いに楽しみだよなあ、アルバムも買って来ないとな。
この日に飲んだワインなんです、と説明も添えておけるヤツ。
お前と店で一緒に飲むならワインだろうし、俺の秘蔵の酒のラベルも貼らないと…。
飲めないくせして、お前、絶対、強請るんだから。
お前と二人で空けた酒には違いないから、そいつもお前のサイン入りでな。
よろしく頼むぞ、と言ったら「うん」と頷いたブルー。「ちゃんと書くよ」と。
ブルーは約束してくれたのだし、いつか結婚したならば。
一緒に暮らせる時が来たなら、酒のラベルを増やしてゆこうか。
シャングリラの女性は全てのラベルを集め損ねてしまったけれども、今の自分は出来るから。
二人で空けたボトルの数だけ、ブルーのサインがついてくるから。
幸せのラベルのコレクション。
店や家で飲んだ、ブルーとの記念。
ブルーは酒が苦手なままでも、飲めなくてもサインをくれるから。
サインが入ったラベルを幾つも幾つもアルバムに貼って、二人で眺められるのだから…。
記念のラベル・了
※シャングリラの女性たちに大人気だった、前のブルーのサインが入ったワインのラベル。
今も残っていたら、宇宙遺産になっていた筈。今のブルーのサインは、ハーレイとの記念に。
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