シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んー…)
大きすぎる目が問題なんだよ、とブルーが覗き込む鏡。自分の部屋の壁にある鏡。
子供っぽい顔の原因はコレ、と。学校から帰って、おやつの後で。
いつもハーレイに「チビ」と言われている自分。前の自分と同じ背丈に育ちたいのに、伸びてはくれない自分の背丈。ハーレイと再会した五月の三日から、ほんの一ミリも。
伸びない背丈も問題だけれど、顔立ちだって子供の顔。せめて顔だけでも少し大人っぽくなってくれたら、ハーレイの態度も変わるかもしれない。
(チビはチビでも、もうちょっと…)
子供扱いではなくて、恋人扱い。キスは許してくれなくても。「俺のブルーだ」と言ってくれる日が増えるだとか。
そうなってくれるといいんだけれど、と思い浮かべる理想の顔立ち。ソルジャー・ブルーだった頃の自分の顔。そっくりそのままの顔は無理でも、もう少し大人びた顔がいいのに、と。
鏡を覗けば、其処に映った子供の顔。丸みを帯びた輪郭も子供、柔らかそうな頬っぺたも。
何処もかしこも子供だけれども、一番の違いは目元だと思う。赤い瞳の色は同じでも、瞳と顔のバランスの違い。クルンと大きな子供らしい瞳、前の自分はこうではなかった。
アルタミラからの脱出直後は、こうだったけれど。今の自分と瓜二つだったけれど。
(育っていったら、こんなに大きな目じゃなかったし…)
それでも、細くも小さすぎもしなかった瞳。大人にしては大きな瞳だったと思う。船で暮らした他の仲間や、キースの瞳と比べてみれば。
(大人にも色々あるけれど…)
今の自分の顔にある目は、誰が見たって子供の目。大人びた目には見えない大きさ。
これが駄目だ、と零れた溜息。この目のせいで子供の顔、と。
なんとかしたい、子供っぽい目。やたらと目立つ大きな瞳。明らかに大きすぎるから…。
(もうちょっと…)
小さくなってくれないものか、と細めてみたら、なんだかキースみたいになった。白目の部分はキースよりかは少ないけれど。
細すぎたかな、と調整したって、前の自分の目にはならない。細めるだけでは駄目らしい。
(縦だけじゃなくて、横も一緒に小さくしないと…)
そうすればきっと、と目元に力を入れてみたのに、狭まってくれない左右の幅。前の自分の目になるどころか、眉間にピッと皺が出来るだけ。
(上手くいかない…)
小さくならない自分の瞳。キースみたいになってしまうか、眉間に皺か。魅力は増さずに、変な顔になる。子供っぽい方がマシなくらいに。
今度こそは、と細めながら幅を狭めようとしたら、さっきより深くなった皺。眉間にくっきりと皺が刻まれ、小さくはなってくれない目。
(これじゃハーレイ…)
眉間の皺は、今も昔もハーレイの顔にくっついている。笑っている時も、消えない皺。
だからハーレイの顔が浮かんだけれども、途端に蘇った遠い遠い記憶。前の自分と眉間の皺。
ソルジャー・ブルーの眉間には、皺は無かったけれど。…そんな写真も無いのだけれど。
でも皺だっけ、とクスッと笑った。あれは確かに眉間の皺。白いシャングリラにいた頃に。
「ちょいと、その顔は頂けないねえ…」
ハーレイみたいになっちまうよ、とライブラリーで声を掛けて来たブラウ。何の本を読んでいた時だったか、考え事をしていたら。
「ぼくの顔がどうかしたのかい?」
何か問題があるだろうか、と本から顔を上げたら、トンとブラウにつつかれた額。
「これだよ、これ」
此処に皺が、とブラウの指がつつくけれども、分からない意味。
「皺だって…? ぼくの額に?」
「出来ちまっていたよ、もう消えたけどさ」
でもね、さっきまでは皺だったんだよ。眉が寄ってて、眉間にくっきり。
ハーレイみたいな顔ならともかく、あんたの顔には皺は駄目だね。絵にならないから。
「…そうなのかい?」
「当たり前だよ、分からないなら自分で鏡を覗くんだね。皺を作って」
まるで似合っちゃいないどころか、酷いもんだよ。さっきも言ったよ、頂けないって。
そんなのが癖になってしまったら大変だからね、皺を寄せながら考え事をするのはやめときな。
みんなも幻滅しちまうから、と笑ってブラウは去って行った。
シャングリラの自慢のソルジャーの額は、滑らかなのが一番なのさ、と。
そういう事件があったんだっけ、と懐かしく思い出したこと。前の自分の眉間の皺。
「分からないなら鏡を見な」と言われたけれども、結局、鏡は見なかった。そんな必要は無いと思ったのか、それとも忘れてしまったのか。だから知らない、眉間に皺を作った前の自分の顔。
(前のハーレイ…)
ブラウが例に挙げたほどだったのだし、白いシャングリラで眉間の皺と言えばハーレイ。他にも何人かいただろうけれど、トレードマークのようだったキャプテン・ハーレイの眉間の皺。
あの皺も含めて、ハーレイの顔が好きだった自分。前のハーレイと恋をしていた自分。
(…前のぼくの顔だと、眉間の皺は駄目なんだけど…)
ハーレイだったら似合うんだよね、と鏡から離れて、座った勉強机の前。どう頑張っても、前の自分の顔は作れないらしいから。瞳は小さくならないから。
無駄な努力をしているよりかは、眉間の皺を考える方がよっぽど有意義。前のハーレイの顔には良く似合っていた、あの皺について。
(最初は皺なんか無かったっけ…)
アルタミラの地獄で出会った頃には、ハーレイの額に皺は無かった。前の自分の額のように。
まだ若かったからだろうか。皺が出来るような年ではなかった、青年時代のハーレイだから。
アルタミラの檻や実験室では、酷い目に遭わされていた筈だけれど、出来なかった皺。耐え難い苦痛を味わった時は、皺だって出来ていたろうに。眉間に寄せていたのだろうに。
出会った頃には無かった皺。前のハーレイのトレードマークの眉間の皺。
(いつ出来たの…?)
あの皺はいつからあるのだろうか、と遠い記憶を手繰ってみる。ハーレイが厨房にいた時代にも皺は無かった。滑らかだったハーレイの額。
前の自分がブラウに指摘された時のように、皺を寄せていることも無かった、と思ったけれど。厨房時代のハーレイはいつも、朗らかだったと記憶していたけれど。
(あったっけ…)
青年だったハーレイの額に見付けた皺。
アルタミラから脱出した船で、食料が尽きると前の自分に打ち明けた時に。船に最初からあった食料、それがもうすぐ尽きてしまうと。一ヶ月分ほどはあるのだけれども、それで全部だと。
せっかく生き延びて脱出したのに、飢え死にするしかない運命。食料が尽きても、補給する術が無いのだから。…何処に行っても、ミュウは追われるだけなのだから。
船の仲間にはまだ明かせない、と話していた時、今から思えば、寄せていた皺。滑らかな額に。
どうすることも出来ないけれども、これからどうしたらいいのかと。
ハーレイの頭を悩ませていた食料問題は、前の自分が解決した。自分でも驚いたほどの強い力を秘めたサイオン、それを使って人類の船から奪った食料。
慣れない間は奪った食料が偏ってしまって、ジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツが溢れるキャベツ地獄もあったけれども、飢える心配は無くなった。
ハーレイは眉間に皺を作らず、せっせと料理を作っていた。ジャガイモ地獄に見舞われた時も、キャベツ地獄になっていた時も。
厨房時代は出来ていなかった、ハーレイの皺。けれども、それを目にした自分。食料が尽きると悩んでいた時、ハーレイの額には確かに皺があったから。
(考え事をする時の癖だったんだ…)
前の自分がブラウに額をつつかれた皺は、たまたま寄せただけだったけれど。普段は皺など全く作りはしなかったけれど、ハーレイは癖。
多分、難しいことを考える時の。手に負えないような難題だとか、全力で取り組む時だとか。
厨房だったら、そこまでの事態は起こらないけれど。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、腕さえあれば乗り切れたけれど。
(ハーレイ、キャプテンになっちゃったから…)
きっと色々あったんだよね、とチビの自分でも想像がつく。前の自分も推したハーレイ。迷っていた所へ出掛けて行って。「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と。
フライパンも船も似たようなものだ、と話したことを覚えている。どちらも命を守るものだと。フライパンで出来る料理も、皆を乗せて宇宙を飛んでゆく船も。
キャプテンの任を受けたハーレイは、それを覚えていてよく言ったものだ。「フライパンも船も似たようなものさ」と、「どっちも焦がしちゃ駄目だからな」と。
けれども、フライパンと船の共通点はその部分だけ。他は全く似ていないもの。
ハーレイはきっと、沢山の苦労をしたのだろう。厨房時代とは違う仕事に就いたのだから。船を纏める役目のキャプテン。そういう者が必要だからと、適任だからと見込まれて。
「船は動かせなくてもいいから」とまで、ヒルマンたちが頼んでいた。操船は慣れた仲間たちがやるから、船を纏めてくれればいいと。
そうだった、と頭に浮かんだハーレイの皺。いつしか眉間に刻まれていたトレードマーク。前のハーレイの額に、またあの皺を見付けたのは…。
(航宙学…!)
亜空間理論や位相幾何学、他にも山ほどハーレイが机に積み上げた本。愛用していた木の机に。
シャングリラを自分で操るために、と専門外の本を読み始めてから、何度も眉間にあるのを見た皺。一度では理解出来ない箇所やら、幾つもの本を調べながら読まねばならない時やら。
そうやって操舵を覚えた後にも、船の中のことを真剣に考える度に出来ていた皺。眉間に何度も刻まれた皺。ブリッジや、ハーレイの部屋や、休憩室で。
腕組みをしたり、目を閉じていたり、ポーズは色々だったけれども、眉間の皺はいつでも同じ。眉を寄せて、深く考え込んで。
(前のぼくの代わりに考えてたんだ…)
ソルジャーだった前の自分は、物資を奪って来るのが仕事。船をシールドで丸ごと包んで守ったこともあったけれども、船の中までは守っていない。様々な設備も、仲間たちの暮らしも。
船を守るのはキャプテンの役目。船体そのものの維持管理から、船での暮らしを守ることまで。食料は充分足りているのか、他の物資は揃っているかと。
眉間に皺を寄せて考えることは、本当に沢山あったのだろう。メンテナンスの進め方やら、前の自分が奪った物資の管理まで。備品倉庫の管理人から報告を聞いて、配分などを決めてゆく仕事。
ハーレイはキャプテンとして船を守って、眉間に皺が出来てしまった。いつの間にやら。
難しい本を何冊も読んでいた頃には、常に刻まれてはいなかったけれど。シャングリラの操舵を引き継いだ時にも、まだ眉間には無かった皺。
けれど、外見の年齢を止めたハーレイの額にはもう、あの皺があった。くっきりと深く。
そうなるまでに、考え事を重ねたから。何度も何度も、眉間に皺を寄せていたから。
(…ハーレイ、考え込むことが多すぎたから…)
キャプテンになったハーレイの前には、難問が山積みだったのだろう。ジャガイモやキャベツが相手の仕事ではなかったから。船の仲間の命を預かっていたのだから。
フライパンなら、料理を作って生きる糧にすればいいのだけれど。船の方だと、そうではない。料理を作る材料を揃えて、料理人を乗せて、出来上がった料理を食べる仲間の安全を守る。
フライパンと船では重みが違う。本当の意味での重量が違うのと同じくらいに。
そんなシャングリラを守り続けて、考え続けて、ハーレイの額に刻まれた皺。眉間にくっきり。
前の自分もちゃんと気付いていたのだろうか?
ハーレイの眉間にいつもあった皺、あの皺が何故出来たのか。
(気付いてたよね…?)
皺が刻まれてしまうよりも前に、眉間を何度も指でつついた記憶があるから。ハーレイの部屋を訪ねた時やら、休憩室で出会った時に。
「考えすぎは良くないよ」と、「此処に皺が」と。
どういう時に出来る皺かを知っていたから、前の自分はそうしたのだろう。ハーレイの気持ちをほぐそうと。気分が変われば、いいアイデアが浮かぶことだって多いのだから。
(でも、普段でも皺が消えなくなるほど…)
ハーレイは船を守り続けた。考え続けたことの証が常に額に刻まれるまで。楽しい気分で笑っていたって、額から消えなかった皺。眠る時にも消えなかった皺。
前の自分がいなくなった後も。メギドへと飛んで、二度と戻らなかった後にも。
歴史の教科書には必ず載っている、偉大なキャプテン・ハーレイの写真。その写真が撮影された時には、前の自分はもういなかった。ミュウの勢力が広がり始めた時代に撮られた写真だから。
その写真でも眉間に刻まれた皺。前の自分の記憶にあるのと、少しも変わっていないけれども。
(前のぼくがいなくなったら…)
皺はきっと、深くなったろう。前のハーレイの孤独を宿して、前よりも深く。
誰も気付いていなかったとしても、写真では見分けられなくても。
前の自分を失くしてしまったハーレイの深い悲しみと孤独、それを何度も聞いているから。前の自分を追うことも出来ず、地球まで行くしかなかったハーレイ。
一人残されたことを思っては、眉間の皺を深くしたろう。どうして自分は生きているのか、と。
(ごめんね…)
独りぼっちにしちゃってごめんね、と前のハーレイに心で謝ってから、ふと覗き込んだ机の上のフォトフレーム。今のハーレイと一緒に写した記念写真。
夏休みの一番最後の日に。庭で一番大きな木の下、ハーレイの左腕にギュッと抱き付いて。その写真の中、とびきりの笑顔のハーレイだけれど。
(今のハーレイも…)
前と同じに、眉間に皺。写真でもそれと見て取れる皺がくっきりと。
今のハーレイも、考え事をし過ぎただろうか。前のハーレイがそうだったように。
けれども、今は平和な時代。前のハーレイが厨房にいた頃でさえも、あの皺は見ていないのに。食料が尽きると打ち明けられた時しか目にしていないのに。
シャングリラの厨房とは比較にならない、蘇った青い地球での暮らし。まるで天国。人間は全てミュウになった世界、争い事はけして起こりはしない。せいぜい、喧嘩。
そういう世界に生まれ変わったのに、何故、ハーレイの眉間には皺があるのだろう。皺が出来るほどの考え事など、今のハーレイには無さそうなのに。
厨房時代のハーレイでさえも癖になってはいなかった皺が、何故、今も…?
謎だ、と考え込んでしまった。今のハーレイの眉間にも皺がある理由。
(今のハーレイに深刻な考え事って、あるの?)
仕事のことは分からないけれど、教師の仕事がそういうものなら、眉間に皺がある教師が多いと思う。考え事をする時の癖が同じなら、ハーレイのようになるのだから。
(そんな先生、いないよね…?)
少なくとも自分は出会っていない。下の学校でも、今の学校でも。
(仕事のせいじゃないんだったら、柔道とか…?)
それなら、プロのスポーツ選手は眉間に皺があることだろう。柔道にしても水泳にしても、癖が同じなら出来る筈。
(…あんまり詳しくないけれど…)
ハーレイが得意なスポーツだから、と新聞記事になっていた時は選手の写真を覗き込んでいる。もしもハーレイがプロの選手になっていたら、と重ねながら。
(見たことないよね、皺がある人…)
まだ一回も見ていないよ、と振り返った記憶。眉間に皺がある選手がいたなら、ハーレイと同じ特徴だけに印象に残っているだろう。「おんなじ皺だ」と。
つまり、スポーツの方でもない。今のハーレイの眉間に皺が刻まれた原因は。
仕事でもないしスポーツでもない、と不思議でならない眉間の皺。どうして今もあるのだろう?
深刻な考え事をしなければならない場面は全く無さそうなのに。今は平和な時代なのに。
(…なんで?)
いったい何が原因だろう、と今度は自分が考え事。遠い昔にブラウに注意されてしまったから、自分の眉間に皺が出来ないよう、気を付けながら。
事の起こりは、自分の眉間の皺だったけれど。大きすぎる目を小さくしようと頑張っていたら、出来てしまった皺なのだけれど。
まさかハーレイがそんな理由で眉間に皺など、作りそうだとも思えない。目の大きさを保とうと努力をし続けた末に、くっきりと皺が刻まれたなんて、きっと無い。
(分かんない…)
あの皺の原因が分からないよ、と小さな頭を悩ませていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、本人に訊いてみることにした。眉間に皺があるハーレイに。
母がお茶とお菓子を置いて去って行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ。皺のことでちょっと訊きたいんだけど…」
「皺?」
なんの皺だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。だから「此処の」と、自分の額を指差した。
「ハーレイ、此処に皺があるでしょ?」
前のハーレイも同じだったよ、若かった頃は無かったけれど…。会った頃には無かったけれど。
だけど、外見の年を止めた時には、皺がくっきり出来ちゃってたでしょ?
今のハーレイにも皺があるよね、って気が付いたから…。前のハーレイとそっくり同じに。
だから訊きたい、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。眉間の皺の近くで穏やかな光を湛える瞳。
「前のハーレイに皺があったのは分かるけど…。考える時の癖だったから」
難しいことを考える時は、いつでも出来てしまっていたでしょ?
前のぼくが何度も注意してたよ、「考えすぎは良くないよ」って。そういう皺が出来るから。
でも、キャプテンの仕事はとても大変で…。考えることが多すぎたから、とうとう皺が消えないままになっちゃった。楽しい時でも皺が消えなくて、寝てる時だって。
…だから、前のハーレイなら分かるんだよ。額に皺が出来たままでも仕方ないって。
だけど、どうして今のハーレイにも同じ皺があるの?
前のハーレイみたいな苦労は絶対してない筈だよ、今はとっても平和な時代なんだから。
「ああ、これなあ…。俺の眉間の、この皺のことか」
出来ちまったのは、癖ってヤツだ。前と同じだ、前の俺の頃と変わっちゃいない。
大した悩みがあるわけじゃないが、考え込んだらやっちまうんだ。こう、眉を寄せて。
ほらな、とハーレイが眉を寄せたら、皺が少し深くなったから。
「…古典、難しい?」
授業で教えてくれる時には、分かりやすく話してくれるけど…。
ぼくたちみたいな子供に教えるためには、うんと勉強しなくちゃいけない?
前のハーレイが航宙学の本を沢山積み上げて読んでたみたいに、いろんな本を山ほど読んで。
「そうでもないが…。好きで教師をやってるんだしな」
学校では教えないような中身の本でも、読みたくなるのが今の俺だし…。難しくなるほど楽しいもんだぞ、意外な発見があったりしてな。
分かりやすく書かれた本だと、深くは読み込めないものなんだ。皮だけしか無い果物みたいで。
難解な本になればなるほど、書かれた時代の作者の世界に近付ける。その時代の空気や、景色や建物。着ていた服やら、食べた物やら…。
全部ひっくるめて分かって初めて、作者の気持ちが理解できるってトコだな、うん。
そんな具合だから、難しい本を読むのも俺は大好きなんだが…。
どういうわけだか、とハーレイは額をコツンと叩いてみせた。
楽しく本を読んでいたって、考え事を始めたら此処に皺が、と。
「この部分はどう読むべきなのか、と悩んだりすると出来ちまうんだ」
学生時代には出来なかったが、いったいいつからそうなったのか…。俺にも分からん。
家を出て、この町で暮らし始めてからの癖ってヤツだな、それまでは言われたことが無いから。
いつの間にやら、そういう癖が出来ちまってた。考え込むと皺を寄せちまう癖。
親父たちの家に帰った時にも、新聞とかを熱心に読んでいたら、つい、やっちまうから…。
おふくろと親父に、何度も注意されたんだがな。前のお前に言われたみたいに、皺が出来ると。
「消えなくなってからでは遅いぞ」と、睨まれたりもしたんだが…。
癖が直らない内に、すっかり皺が出来ちまってた。前の俺だった頃と全く同じに。
「…そんな所まで、前のハーレイの真似、しなくていいのに…」
あの頃みたいな苦労はしてないんだから。
生きていくだけでも大変だった頃とは違うし、大勢の仲間の心配だってしなくていいし。
「まあな。そいつは間違いないんだが…」
今じゃ天国みたいな日々だが、出来ちまったものは仕方ない。…癖なんだから。
ついでに、この皺が無いとお前も困ってしまうんじゃないか?
此処にくっきり、こういう皺が出来ていないとな。
これが無かったら俺らしくないぞ、とハーレイが伸ばしてみせた皺。二本の指でグイと広げて。
滑らかになったハーレイの額。指で押さえているだけなのに、確かにハーレイらしくない。あの皺が消えてしまっただけで。眉間の皺が無くなっただけで。
ホントに変だ、と目を丸くして眺めていたら、ハーレイは「変だったろう?」と元に戻して。
「俺の顔にはコレが無いとな。…自分で鏡を覗き込んでも、皺があるのが普通だし…」
記憶が戻った今じゃ、大切な皺なんだ。無いとキャプテン・ハーレイの顔にならないからな。
それにだ、この皺を褒めてくれた人だっている。俺の眉間に皺が出来たことを。
「褒めるって…。誰が?」
そんな皺を誰が褒めてくれるの、ハーレイのお父さんたちは皺は駄目だと言ってたんでしょ?
褒めてくれそうな人、誰もいないと思うんだけど…。
「それがいたんだ、何人もな。ますますキャプテン・ハーレイに似て来たじゃないか、と」
生まれ変わりじゃないのか、と俺に何度も訊いてたヤツら。そういう連中は褒めてくれたぞ。
学生時代からの友達はもちろん、教師になってから出来た友達もな。
後はアレだな、俺の行きつけの…。話してやったろ、この髪型を勧めてくれた人。
俺の恋人を、ソルジャー・ブルー風のカットにしたいと言ってる人だ。
覚えてるだろう、と訊かれて思い出した、ハーレイ御用達の理髪店の店主。
彼が一番喜んだ筈だ、という話。口に出してはいなかったけれど、心の中で喜んだろう、と。
「…ハーレイのファンだっていう人だよね?」
ぼくは一度も会ったことがないけど、凄く熱烈なファンなんでしょ?
「前の俺のな。…今の俺じゃないぞ」
あくまでキャプテン・ハーレイの方だ、今の俺はただの客なんだから。古典の教師で。
とはいえ、お前の髪までソルジャー・ブルー風にカットしたいと言い出す人だし…。
俺が行くと明らかに喜んでるなあ、まるで本物のキャプテン・ハーレイが来たみたいにな。
そういう人たちや、今のお前のためにも眉間の皺は必要なんだ、という主張。
この皺があってこそ、キャプテン・ハーレイそっくりの顔になるんだから、と。
「いいか、さっきもやって見せただろうが。皺が無かったらどんな風になるか」
前の俺みたいな顔にはならんぞ、瓜二つとはとても言えない顔だ。
似てはいたって、決め手に欠ける。これでいいんだ、俺の眉間には皺なんだ。
「そっか…。ハーレイらしく見える顔には必要なんだね」
とても難しいことを考えなくても、出来ちゃった皺。…考え事をする時の癖だったせいで。
「うむ。この皺は無いと駄目なんだ」
それに前の俺だった頃にしたって、知らない間に癖がついて皺になったんだし…。
作ろうと思って出来た皺じゃないし、出来て困っていたわけでもない。この皺が無ければもっと男前に見えただろうとか、考えたことは一度も無かったな。
前の俺はこの皺が嫌いじゃなかった。いつの間にか出来た、俺の相棒なんだから。
「…前のぼくの代わりに、色々考えてくれていたんだよね…。その相棒と」
ハーレイが考え事をしていた時には、いつだって皺があったんだから。…キャプテンの時は。
厨房で料理をしていた頃だと、その相棒はいなかったんだよ。難しい考え事が無いから。
キャプテンになった後にハーレイの顔に住み着いたんだよ、相棒の皺は。
前のぼくは物資を奪ってただけで、考え事はハーレイの仕事。だって、キャプテンなんだから。
「おいおい、俺はそれほど偉くはなかったぞ」
何か決める時は、前のお前も会議に参加してただろうが。ヒルマンもゼルも、ブラウもエラも。
前のお前や、あいつらも一緒に考えていたし、船のみんなで投票もしたし…。
「でも、ハーレイにしか出来ないことも沢山あったよ」
会議で決めても、最終的には現場の判断に任せる、ってヤツ。
そうなった時は、ハーレイが一人で考えていたよ。航路も、船のメンテナンスとかも。
「そのためのキャプテンなんだしなあ…」
他のヤツらに頼ってちゃいかん、それがキャプテンの仕事ってヤツだ。
万一の時には何もかも一人で決めていくんだぞ、普段から経験を積まないとな?
いざという時に困るだろうが、と今のハーレイが言う通り。シャングリラはそういう船だった。
虐げられたミュウの箱舟、何処からも補給の船などは来ない。遭難した時の救援だって。
白い鯨が出来上がった後も、降りられる地面は何処にも無かった。人類軍に見付かったならば、直ぐに攻撃されるだろう船。会議を開いている暇はなくて、直ちに打たねばならない対策。
前のハーレイはそれを一人でこなした。眉間に皺が刻まれるほどに考え続けた成果を生かして。船を動かすのも、戦闘のために必要な指示も。
(…全部、ハーレイに任せっきり…)
初めての本格的な戦闘、ジョミーがユニバーサルの建物を壊して成層圏へと飛び出した時。前の自分はジョミーを追い掛けて船を出たから、ハーレイが一人で執っていた指揮。
シャングリラの浮上を決めたのもハーレイ、その後の進路や戦法を決めていたのも。
揺れるシャングリラで指揮を執り続けて、額をぶつけて傷まで作って。
白いシャングリラを守り抜こうと、前の自分とジョミーを救いに戦わねばと。
それから後も、ハーレイは幾つもの危機を乗り越え、船を進めた。アルテメシアを逃れて宇宙へ旅立った時も、前の自分が深い眠りに就いていた時も。
赤いナスカが滅ぼされた時も、地球を目指しての長い旅路も。
そう考えていたら、思い出した。ハーレイの眉間の皺のこと。
前の自分がいなくなった後、皺は深まったに違いないと。誰も気付いていなかったとしても。
シャングリラに一人残されたハーレイの眉間に、深い皺があったに違いないと。
「ごめんね、ハーレイ…」
前のハーレイの皺、ぼくのせいで酷くなったよね…。前よりも深くなっちゃったよね。
「なんだ、どうした。前の俺の皺なら、気にしなくていいが」
知らない間に出来ていたんだと言っただろうが。
お前のせいだということはないな、俺にそういう癖があったというだけで。
「ううん、そうじゃなくて…。前のぼくがいなくなった後だよ」
前のぼく、ハーレイがどんな思いをするかは、全然、考えていなくって…。
ジョミーを支えてあげて、って頼んで行ってしまって、ハーレイを独りぼっちにして…。
ハーレイ、何度も言っていたでしょ、地球に着くまで辛かったって。あの船で一人だったって。
きっと皺だって深かったんだよ、辛いことしか無いんだから。…いつも悲しくて辛いんだから。
ごめんね、酷いことをしちゃって。
ハーレイの皺が深くなるような、とんでもない目に遭わせちゃって…。
「そういうことか…。安心しろ、俺に自覚は無かった」
辛いことばかりの毎日だったが、皺を寄せていたという自覚は無いな。
なにしろ魂は死んでいたんだ、皺のことなんか考えちゃいない。淡々と仕事をしていただけで。
「…そうなの?」
皺、深そうだと思ったんだけど…。前よりもずっと深かったよね、って。
「それまでと変わらなかったんじゃないか?」
俺に自覚は無かったんだし、指摘したヤツもいなかったしな。
本当に深くなっていたなら、ブラウ辺りが言う筈なんだ。やたらと目ざといヤツなんだから。
「その鬱陶しい皺、いい加減にしな」と、「勝ち戦の時は返上したらどうなんだい?」と。
不景気な顔をしてるんじゃないよ、と如何にも言いそうな感じだろうが。
それに…、とハーレイが浮かべた笑み。
もしかしたら、その時の分の皺が今の俺の顔にあるかもな、と。
「あの時に深くなる代わりにだ、今の俺の方に来ちまったとか…」
深くなろうにも、限界ってヤツがあるだろうしな、皺だけに。…顔の皮膚は厚くないんだから。
そこでだ、深さを溜め込んでおいて、今の俺の眉間にヒョイと引越しして来たとかな。
「皺の引越しって…。深くなる代わりに引越しだなんて…」
そんなことって、ホントにあるの?
引越しちゃったの、前のハーレイの皺が今のハーレイの顔の上に…?
「その方がお前、気が楽だろ?」
深くなってしまっていたんじゃないか、と気にしているより、引越しの方が。
今の俺の顔に引越しして来て、トレードマークになってる方が。
「うん…。引越しの方が、断然いいよ」
前のハーレイの皺が深くなるより、引越しして来た方が皺も幸せになるもんね。
ぼくは皺があるハーレイが好きだし、前のハーレイにそっくりなハーレイが好きな人もいるし。
キャプテン・ハーレイのファンだっていう理髪店のおじさん、皺のお蔭で大喜びだもの。
自分のお店にキャプテン・ハーレイのそっくりさんが来てくれる、って。
きっと皺だって、喜んでるよ。今のハーレイの顔に引越しして来て良かった、って。
本当に皺が引越すかどうかは分からないけれど、軽くなった気持ち。前のハーレイの眉間に一層深く刻まれる代わりに、今のハーレイの眉間に引越しして来たらしい皺。
ハーレイならではの優しい気遣い、前の自分も、今の自分も傷付けまいと。
こういった気配りなども含めて、皺は深まったのだろう。
前のハーレイも、今のハーレイも、色々なことを考えすぎて。考える度に皺を寄せていて。
そう思ったら、愛おしい皺。今もハーレイの眉間にある皺。
「ねえ、ハーレイ…。キスしてもいい?」
「駄目だと何度も言った筈だが?」
前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと、お前、何回叱られたんだ?
「違うよ、唇じゃなくて、ハーレイの皺に」
引越しして来た皺にキスしたいよ、前のぼくのせいで深くなったんだから。
…深くなる代わりに、こっちに引越しして来たんだから。
「俺の皺にか…」
「そうだよ、皺がある場所も額だよね?」
額にキスをするのはいいでしょ、唇は駄目でも頬っぺたと額は。
「俺が言ったんだっけな、それも…」
断る理由は無いってことか…。皺にキスとは、なんとも不思議な感じだが…。
額ならともかく、皺にキスしたって話は俺も初耳だがなあ…。
そう言いつつも、ハーレイは「駄目だ」と叱りはしなかったから。
「ご苦労様」とハーレイの額にキスをした。眉間に刻まれている皺に。
「前のぼくのせいで、深くなっちゃったよね」と、「だから引越しして来たんだね」と。
それでも、この皺が好きだから。眉間に皺があるハーレイが大好きだから。
キスを落として微笑んだ後に、ハーレイからも額にキスを貰った。優しいキスを一つ
「お前は皺を作るなよ?」と。
皺が出来るような考え事などしなくてもいいと、俺が守ってやるんだから、と。
考え事も悩みも、今度も俺が引き受けるから、と。
「いいな、皺なんか作るなよ?」
お前には似合わないんだから。…俺と違って。
「らしいね、ブラウにもそう言われちゃった」
でも、ハーレイのお蔭で前のぼくには出来なかったし、今度もきっと出来ないんだよね?
「当たり前だろうが、お前の額は滑らかでないとな」
美人が台無しになっちまうぞ、と笑うハーレイの眉間に皺。笑っても、今も消えない皺。
前のハーレイの顔から引越しして来た皺は、やっぱりハーレイに良く似合う。
今度は深くさせてしまわないよう、ハーレイと一緒に歩いてゆこう。
いつまでも二人、手を離さずに。
青く蘇った水の星の上で、何処までも二人、幸せな道を…。
眉間の皺・了
※前のハーレイの眉間にあった皺。前のブルーがいなくなった後には、更に深くなった筈。
けれど深くはなっていなくて、皺は引っ越したらしいです。今の幸せな、ハーレイの眉間に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あちこち、赤い実…)
沢山あるよね、と小さなブルーが眺めた木の実。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
道の両側、赤い実をつけた木のある家が幾つも。庭だけではなくて、生垣にも。今は秋だから、木の実の季節。艶やかな赤やら、くすんだ赤。鮮やかな色も、濃い色合いも。
びっしりと赤い実が並ぶ生垣の木はピラカンサ。薔薇だって実をつけていたりする。わざとか、それとも花が咲いた後にウッカリ切り忘れたか。
(食べられる薔薇の実もあるんだよね?)
確かローズヒップ。母のお気に入りのハーブティー。綺麗な赤い色だけれども、ローズヒップも赤いけれども。…ハーブティーにした時の赤は、ハイビスカスの赤だと聞いた。薔薇の実だけでは美しい赤が出てくれないから、ブレンドしてあるハイビスカス。
(ローズヒップの薔薇、どれなのかな?)
一重咲きの薔薇だと母に教わったけれど、そういう薔薇を植えている家が近所にあるかは聞いていないから、分からない。一重咲きの薔薇を育てている家なら、道沿いに幾つかあるのだけれど。
(他に食べられる実…)
棗に、グミに…、と数えながら家へと歩いてゆく。赤い実が一杯の帰り道。
名前を知らない赤い実も沢山。小さなものから、目立つものまで。探し始めると幾つも赤い実。垣根に、庭に。石垣の裾に作ってある細長い花壇にも。
赤い実探しを楽しみながら家に帰ったら、テーブルの上にもあった赤い実の枝。制服を脱いで、おやつを食べに出掛けて行ったダイニング。母が生けたらしい、赤い実が幾つもついた枝。
グミの実に少し似ているけれども、違うと分かる真っ赤な木の実。艶のある赤。
「ママ、これ、何の実?」
「山茱萸よ」
「…サンシュユ?」
「春に黄色い花が咲く木よ、前に教えてあげたでしょう。…忘れちゃった?」
あそこの家よ、と母が口にした場所で思い出した。顔馴染みのご夫婦が住んでいる家。
「そっか、あったね、花火みたいな黄色い花が賑やかに咲く木…」
こんな実になるんだ、と見詰めた赤い実。食べられそうな感じだけれども、母の話では薬になる実。生ではなくて、種を抜いてから乾燥させて作る漢方薬。遠い昔の中国の薬。
(赤い実、一杯…)
秋だものね、と山茱萸の実をチョンとつついた。美味しそうなのに、生で食べても美味しくない実。漢方薬もきっと、苦いのだろう。母は「解熱剤になるのよ」と言っていたから。
(薬なんかより、甘くて美味しい実がいいものね?)
こういう赤い実の方が好き、とフォークに乗っけたケーキのベリー。赤く熟した甘酸っぱい実。秋が旬なのか、季節をずらして栽培したのか、そこまでは分からないけれど。
それでも、秋は赤い実が似合う。庭にも、テーブルの飾りに生けるにも、おやつのケーキの飾りなどにも。自然の恵みの塊だから。太陽が育てて、綺麗に赤く熟すのだから。
美味しかった、と食べ終えたケーキ。空になったお皿と紅茶のカップをキッチンの母に返して、二階の自分の部屋に帰って。
窓から覗いた家の庭にも、赤い実が見える。さっき帰って来た道とは別の方にも、赤い実のある家が幾つも。母が山茱萸の枝を貰って来た家も、その中の一つ。
(色々、赤い実…)
こうして窓から眺める辺りだけでも、赤い実をつけた木が何本も。きっと赤い実は、世界に沢山あるのだろう。この地域にだって、山のようにあるに違いない。
山茱萸の実が何か分からなかったように、名前を知らないものも、まだ見たことが無いものも。
なにしろ、世界は広いのだから。同じ地球でも、地域が変われば植物がまるで違うのだから。
地球の反対側の地域は、季節だって此処と逆様になる。秋ではなくて、春を迎えたばかりの所。そういう地域が秋になったら、赤い実の種類も此処とはきっと…。
(違うんだよね?)
園芸用に植えられた木や、栽培されている果樹の赤い実は同じでも。そっくり同じ赤い実の木もあるだろうけれど、知らない木の実も沢山ある筈。その地域では普通の、ありふれたものでも。
世界は本当に広いから。青く蘇った地球の上には、途方もない数の植物が生えているのだから。
前の自分が生きたシャングリラとは、全く違った豊かな植生。本物の地球と箱舟との差。
(シャングリラだと…)
あった木の実は全部分かるよ、と自信を持って言い切れる。
白い鯨に改造した時、導入された植物たち。何を植えるかは、何度も会議を重ねて決めた。船の中だけで全てを賄い、生きてゆくのに必要なもの。
食べられる実も、観賞用の木がつける実にしても、前の自分は把握していた。会議を経ずには、栽培許可は出なかったから。苗の調達も、前の自分がやっていたから。
白いシャングリラは閉じた世界で、知らない場所など一つも無かった。植物が育つ公園や農場、そういったものが何処にあるかも。
もちろん木の実は分かって当然、名前も形も全部分かっていたんだから、と思ったけれど。
(あれ…?)
不意に頭に浮かんだもの。プカルの実と呼んでいた木の実。シャングリラでは広く知られていた実で、ナキネズミの大好物だった。
前の自分たちが作った生き物、ナキネズミ。思念波を上手く扱えない子供をサポートするよう、人間と思念波で話せるようにと。思念波を中継することも。
そのナキネズミが好んだ木の実が、プカルの実。役に立ってくれたら、皆が御褒美に与えた実。頭を撫でて、「ほら」とプカルの実を一つ。
(プカルって、何の実だったっけ…?)
勉強机に頬杖をついて、思い出そうとしたプカルの実。どんなのだっけ、と。
途端にポンと出て来た木の実はサクランボ。真っ赤に熟した美味しそうな実は、シャングリラで実っていたけれど。前の自分も食べたのだけれど。
(…プカルじゃないよ?)
サクランボは、あくまでサクランボ。桜によく似た花を咲かせたサクランボの木。プカルという名で呼ばれはしないし、そんな渾名もあるわけがない。
サクランボは、サクランボなのだから。…プカルの木ではないのだから。
(プカルの実…?)
あれはどういう木の実だっけ、と遠い記憶を探るけれども、バラバラに浮かぶ赤い色の実。
最初がサクランボだったせいなのか、イチゴやリンゴや、様々なベリー。大きさも形も揃ってはいない。共通点は「赤い」というだけ。それから、どれも食べられる実。
たったそれだけ、出て来てくれないプカルの実。リンゴのように木に実ったのか、イチゴと同じ一年限りのものだったのか。あるいは木とも草とも呼べそうなベリー、そういったものか。
(…ぼく、忘れちゃった?)
プカルの木を。でなければ草を、ベリーのような茂みを作る植物を。
白いシャングリラに、プカルは確かにあったのに。…ナキネズミの好物だった実をつけたのに。
(でも…)
忘れるよりも前に、自分はプカルの木を知らない。木なのか草なのか、それさえも。どんな形の実をつけていたか、全く覚えていないのが自分。サクランボが浮かんだほどなのだから。
(…家の近くには生えてなくても…)
他の地域で育つ植物だったとしたって、前の自分の知識がある筈。今の自分が今日の帰り道で、色々な赤い実を見ていたように。この実の名前は…、と考えながら歩いたように。
前の自分もシャングリラのあちこちを視察したのだから、プカルもきっと見ていた筈。公園か、農場か、何処かできっと。
ナキネズミの好物の実が熟していれば、「これがプカル」と。花の季節にも、プカルの花を。
白いシャングリラで目にした筈のプカルの実。その実をつける木だか、草だか。そこから一つ、毟ってナキネズミに与えていたかもしれないのに。「よくやったね」と、御褒美に一つ。
子供たちと遊ぶのを仕事にしていた前の自分なら、そういう機会もあっただろうに。子供たちのサポートをするナキネズミを、何度も労ってやっただろうに。
どうしたわけだか、思い出せないプカルの実。それを実らせていた植物ごと。
木なのか、それとも草だったのか。プカルの実の形はどうだったのか。
(どうしよう…)
ぼく、本当に忘れちゃってる、と愕然とさせられたプカルの実。すっかり消えてしまった記憶。プカルの実という言葉は覚えているのに、実物の方を忘れてしまった。植物の姿も、実の形も。
(機械に消されたわけじゃないのに…)
前の自分は成人検査で記憶を消されて、繰り返された人体実験で何もかも全て忘れてしまった。育ててくれた養父母の顔も、育った家も、誕生日さえも。
けれども、今の自分は違う。前の自分の記憶を丸ごと引き継いだ筈で、切っ掛けさえあれば遠い記憶が蘇るもの。
そうだとばかり思っていたのに、ぽっかりと抜けたプカルの記憶。空白になっているプカル。
もしかしたら他にも、抜け落ちた記憶があるかもしれない。引き継がれずに失くした記憶。
プカルどころか、もっと様々な記憶を幾つも、自分は何処かに落としただろうか?
地球に生まれてくる時に。…今の自分に生まれ変わる時に。
プカルくらいならまだいいけれど、と思い浮かべた恋人の顔。前の生から愛したハーレイ。
二人で地球に生まれたけれども、プカルを忘れてしまっているのが自分だから。
(ハーレイのこと、忘れていたら嫌だな…)
それも、とっても大切なことを。
ナキネズミの好物だったプカルみたいに、前のハーレイの大好物とかを。
(好き嫌いは無い筈だけど…)
今の自分と全く同じで、好き嫌いが無いという今のハーレイ。前の生で酷い目に遭った食べ物、餌と水しか与えられなかったアルタミラの檻で生きていた頃。脱出した後も、ジャガイモ地獄だのキャベツ地獄だのと苦労した時代があったから。贅沢なことは言えなかったから、そのせいで。
前の自分たちの記憶が何処かに残っていたのか、今の生でも無い好き嫌い。ハーレイだって。
そうは言っても、前のハーレイにもあった嗜好品。今も好物のコーヒーや酒。
今の自分はそのくらいしか覚えていないけれども、抜け落ちた記憶があるのなら。プカルの実が思い出せないほどなら、前のハーレイにも何か好物があったかもしれない。
ナキネズミが好きだった、プカルのように。
今の自分が忘れているだけで、前のハーレイが好んだ何か。
それを忘れてしまったかも、と考えたら心配になって来た。心当たりはまるで無いのに、記憶に無いというだけの何か。前のハーレイが好きだった何か…。
恋人の好物を忘れていたらどうしよう、と思わず抱えてしまった頭。プカルの記憶が無い頭。
抱えた所で、何も浮かびはしないけれども。前のハーレイが好きだったものは、欠片さえも姿を見せてはくれないけれど。
(忘れちゃったの、それともハーレイの好物は無いの…?)
どっちなのだろう、と悩んでいた所へ聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、打ち明けた。
「あのね、ぼく…。ハーレイの好物、忘れてるかも…」
忘れちゃったかもしれないんだよ。ハーレイは何が好きだったのか。
「はあ? 忘れたって…」
なんの話だ、俺の好物を忘れたっていうのは、どういう意味だ?
「大好物だよ、ハーレイが好きな食べ物だよ!」
それを覚えていないかも…。すっかり忘れちゃってるかも…。
「俺の大好物ってか? それを言うなら…」
お前のお母さんが焼くパウンドケーキってトコだな、直ぐに浮かぶのは。
美味いからなあ、おふくろのパウンドケーキとそっくりな味っていうのがいいんだ。
「今じゃなくって、前のハーレイだよ!」
前のハーレイの大好物って、なんだったの?
「なんだ、そっちか。前の俺なら、酒とコーヒーだな」
シャングリラを改造してから後は、酒は合成になっちまったし、コーヒーは代用品のキャロブのヤツになっちまったが…。それでも、好物に変わりはないってな。
ついでに、どっちも前のお前が苦手だった分、余計に美味い気がしたなあ…。
俺にはこいつの味が分かると、満足な気分に浸れたからな。優越感ってヤツかもしれん。
いや、禁断の味と言うべきか…。前のお前が苦手だったせいで、飽きるほど飲めなかったしな。
酒とコーヒー、これに限る、とハーレイは自信たっぷりだった。あれは美味かった、と。
その二つならば、今の自分の記憶にあるのと変わらない。忘れてはいないし、記憶は確か。
けれどプカルのことがあるから、まだ安心とは言い切れなくて…。
「お酒とコーヒー…。ホントにそれだけ?」
他にも何かあったんじゃないの、前のハーレイが好きだったもの。大好物の何か。
「お前なあ…。何を必死になっているんだ、酒とコーヒーだと言っただろうが」
それしか咄嗟に思い付かんぞ、前の俺だと言われても。…俺の好物、お前も知ってる筈だがな?
「でも…。ぼく、本当に忘れていそう…」
お酒とコーヒーは覚えているけど、本当に他には何も無かった?
前のハーレイが大好きな食べ物、お酒とコーヒーの他には何も無かったの…?
「無かったが…。今の俺と同じで、好き嫌いってヤツが無かったからな」
なんでも食えたし、なんでも美味い。そう思っていたのが前の俺だが…。
どうしたんだ、何かあったのか?
前の俺の好物を知りたいだなんて、今更、訊くまでも無さそうなんだが…?
「そうなんだけど…。本当だったら、訊かなくってもいいんだけれど…」
忘れてる例を思い出したんだよ、ハーレイのことじゃないけれど…!
大好物だった物が思い出せなくて、とっても困っていたんだよ…!
だから、ハーレイのことも忘れてしまっているのかも、って…。
前のハーレイが大好きだった食べ物のことも、ぼくは忘れていそうなんだよ…!
プカルの実が何か分からない、と目の前の恋人に白状した。遠い昔に、白いシャングリラで共に暮らしたハーレイに。
「…ナキネズミが好きだったプカルの実だよ」
あれが少しも思い出せなくて、どんな実なのか分からなくって…。
プカルそのものも覚えていないよ、木だったのか、草か、そんな基本のことだって…。
いくら考えても分からないから、前のハーレイの好物だって、忘れていたっておかしくないよ。
「なるほど、プカルか…」
プカルと言ったらプカルじゃないか。簡単なことだ、ナキネズミどもの好物だよな。
「ハーレイ、プカルを覚えているの?」
どんな実だったか、ちゃんと忘れずに覚えているわけ…?
「当たり前だ。…もっとも、お前がプカルと言うまで忘れていたが」
俺も一応、キャプテンだしな?
船のことなら、しっかり把握しておかないとな。ナキネズミも船に乗ってたんだし。
「じゃあ、ぼくにも分かるように教えて」
プカルはどういうものだったのか。…どんな実が出来て、どんな植物だったのか。
「だからプカルだ」
さっきも言ったろ、プカルはプカルだ。ナキネズミが好きなヤツなんだ。
「それじゃ、ちっとも分からないよ!」
もっと詳しく、きちんと説明してくれないと…。ぼくは言葉しか知らないんだから!
忘れているぼくが思い出せるように、プカルのことを説明してよ。
今だと何処に生えているのか、植物園に行ったら見られるのかとか、そういったことを…!
どういう実をつける植物がプカルだったのか。自分は覚えていないけれども、ハーレイは覚えているらしいから。この際、教えて貰わなければ、と意気込んだ。
記憶から抜けてしまったプカルを思い出せたら、他にも何か出て来るかも、と。忘れてしまった様々なことが。小さなことでも、つまらないような出来事でも。
「ふうむ…。プカルは何かと訊かれたら…」
コレだな、とハーレイが指差したケーキ。母の手作りのミルフィーユ。果物といえば、スライスしたイチゴが挟まっているけれど。ホイップクリームの中から覗いて、上にも飾ってあるけれど。
「…イチゴ?」
ハーレイ、これがプカルだって言うの?
「そうだが?」
他に果物は入ってないだろ、そいつがプカルの実なんだが?
「でも…。これ、どう見てもイチゴだよ?」
ママが作る所は見てなかったけど、普通のイチゴ。…変わったイチゴじゃないと思うけど…。
「だが、プカルだ。…お前の知りたいプカルの実だ」
どれがプカルかと訊かれりゃ、これだ。間違いなくこいつはプカルなんだ。
「嘘つき!」
ハーレイの嘘つき、ぼくが覚えていないと思って!
酷いよ、そんな大嘘をついて…!
「誰が嘘をつくか。…俺は真面目に答えてるんだぞ、あのシャングリラのキャプテンとして」
話しているのは今の俺だが、プカルが何かを答えているのは、キャプテンだった前の俺なんだ。
イチゴは本当にプカルだったし、そうだな、今だとプカルってヤツは…。
うん、この季節なら柿もプカルに入るかもなあ、渋柿は駄目だが、富有柿とか。
「柿!?」
渋柿は駄目で、富有柿って…。柿がプカルに入るって、なに…?
今でこそ馴染みの柿だけれども、柿はシャングリラに無かった植物。前の自分が生きた時代に、柿を食べる習慣は無かったから。
SD体制が崩壊した後、蘇った多様な食文化。青い水の星に戻った地球では、遠い昔の国などの特色を取り入れている。この地域だと日本風だから、柿の木を植えて、その実を食べる。
生で食べたり、干し柿にしたり、食べ方は色々。庭で育てる人も少なくない。
とはいえ、本当に今の時代ならではの果物が柿で、シャングリラの時代にある筈がない。なのに柿の実がプカルだなんて、ハーレイは何を言っているのだろう?
「…ハーレイ、ぼくをからかっていない?」
さっきはイチゴで、今度は柿って…。ぼくを騙して面白いわけ?
「騙すって…。お前、ホントにプカルを忘れちまっているのか…」
綺麗サッパリ忘れたんだな、まるで覚えていないんだな?
「だから、そう言ってるじゃない!」
何がプカルか、ぼくに教えて欲しいって…!
植物園にあるんだったら、見に行ったっていいくらいだよ。本物のプカルが見られるんなら…!
「その話も本気だったのか…。植物園って言っていたのも」
見事に忘れちまったか、プカル。…いや、お前が忘れたのはプカルじゃないな。プカルの実だ。
イチゴも柿もプカルだと言っても、お前、嘘だと怒るんだから。
「当たり前だよ、意味がちっとも分からないよ!」
イチゴと柿だと、何処も少しも似ていないじゃない…!
それに、シャングリラに柿の木は無かったんだから!
今の時代の果物なんだし、柿がプカルになるわけがないよ、ハーレイの馬鹿!
嘘をついた上に騙すなんて、とプンスカ怒って膨れたけれど。仏頂面になったけれども、何故か笑っているハーレイ。それは可笑しそうに、クックッと。
「…まあ、普通に考えればそうなるだろうな、柿もプカルだと言われちゃなあ…」
お前が怒るのも無理は無いんだが、本当のことだから仕方ない。俺は嘘なんかついていないし、騙して遊んでいるわけでもない。
いいか、よくよく考えてみろよ?
イチゴは赤くて、柿だって熟せば赤くなる。…それくらいのことは分かるだろ?
大切なのは其処だ、赤けりゃ何でもプカルなんだ。イチゴだろうが、柿だろうが。
「えっ?」
赤いとプカルって…。イチゴも柿もプカルだって言うの、赤い実だから…?
「うむ。そもそもプカルは、人間の言葉じゃなかったからな」
いくら調べても出ては来ないぞ、前の俺たちの時代のデータベースを隅から隅まで探しても。
シャングリラのなら、入っていたかもしれないが。…誰かが後から付け加えてな。
「なに、それ…」
人間の言葉じゃないなんて。…データベースにも入っていないって、プカルって…なに?
暗号だったってことはないよね、赤い実はプカルと置き換えるだとか。
「おい、暗号って…。そりゃまあ、暗号も必要だった時代だが…」
なんだってナキネズミの好物を暗号で呼ぶんだ、シャングリラ中の人間が。
お前、本当に忘れたんだな、プカルのことをすっかり全部。
プカルは赤い実の暗号ではない、とハーレイはイチゴをフォークでつついた。これもプカルで、柿の実もプカル、と。
「…プカルってヤツは、ナキネズミの言葉だったんだ」
人間の言葉じゃないというのは、文字通りの意味というわけだな。…動物の言葉なんだから。
「ナキネズミ…?」
いつも普通に話をしてたよ、ナキネズミは。そうでなきゃ、みんな困るじゃない…!
思念波を上手く扱えない子供に渡してたんだよ、ナキネズミ語じゃどうにもならないよ…!
「その通りだが…。最初から人間の言葉を話してたわけじゃないだろうが」
元はネズミとリスだったんだぞ、ネズミやリスが人間の言葉を喋るのか?
そういうヤツらを色々弄って、出来上がったのがナキネズミだ。…思念波で会話が出来る動物。
開発初期のナキネズミの時代だ、赤い実がプカルだったのは。
ハーレイが言うには、ナキネズミという生き物がようやく姿を現した頃。まだ毛皮の色も様々なもので、青い毛皮を持った血統を育ててゆこうと決まった頃。
ナキネズミたちは、船で自由に生きていた。研究室から解き放たれて、白いシャングリラの中を走り回って。
青い毛皮を持ったナキネズミは子供たちのサポートに向けて、教育を受けていたけれど。毛皮の色が違うナキネズミは、欲しがった仲間のペットになった。思念波で話が出来るのだから。
そういう時代に、ナキネズミ同士が出会ったら交わしていた会話。青い毛皮でも、他の色でも、同じナキネズミ同士で色々。
彼らの言葉と、人間の言葉が混ざったものを。思念波だったり、鳴き声だったり。
「その内にだな…。プカルちょうだい、と厨房に出たんだ」
「プカル…?」
「ああ。チビのナキネズミが一匹な」
青い毛皮のチビではあったが、まだ教育は受けていなかった。ほんの子供じゃ、早すぎるしな。
ナキネズミの社会しか知らなかったチビだ、そいつが厨房に迷い込んだんだ。
美味い匂いがしてたんだろうな、飯を作っている場所だけにな。
チョロッと入って来たもんだから、「何か食べるか」と厨房のヤツらが訊いたんだが…。
そしたら返事がプカルだったわけだ、「プカルちょうだい」と。
「そっか…! いたね、そういうナキネズミが…!」
思い出したよ、プカルが欲しいと言ったんだっけ…。
笑い話になったんだっけね、あの時のプカルも、プカルの実も…!
そうだったっけ、とポンと打った手。チビのナキネズミが欲しがったプカル。
けれど、厨房にプカルは無かった。そういう名前の食べ物は、何も。欲しがられても、プカルが何か分からなかった厨房にいた仲間たち。
優しかった彼らは、ナキネズミの注文を無視する代わりに、ヒルマンとゼルを呼ぶことにした。何がプカルか分からないから、ナキネズミを開発した責任者の二人を。
ナキネズミだけに通じる特別な言葉でもあるのか、と。研究室で使った専門用語だとか。
そういう用事で呼ばれたと聞いて、面白そうだと、ブラウとエラも厨房に出掛けた。前の自分とハーレイも。
丁度、暇な時間だったから。夕食の後の。厨房の者たちは、翌日の仕込みをしていた時間帯。
其処へ行ったものの、ヒルマンとゼルは首を捻った。心当たりが無かったプカル。そんな言葉は教えていないが、と。
謎が解けないまま、チビのナキネズミに尋ねたヒルマン。
「いったい、どれがプカルなんだね?」
プカルちょうだい、と頼むからには、何処かにプカルがあるんだろう?
好きに取っていいよ、私たちにはプカルが何か分からないからね。
どれでもお取り、とヒルマンが促し、ゼルも「そうじゃな」と頷いた。分からないなら、選んで貰えばいいのだから。
もし食べさせてはいけないものなら、「駄目だ」と取り上げればいいだけのこと。ナキネズミにとっては毒になるものや、消化の悪い食べ物だったら。
チビのナキネズミは厨房の中をキョロキョロと見回し、「これ!」と真っ赤なイチゴを抱えた。小さな二本の前足で。
『これ、プカル。…みんな、プカル、言ってる』
プカルはこれ、と届いた思念波。「食べてもいい?」と。
「なんだ、イチゴのことだったのかい…!」
あたしたちには分からない筈だよ、イチゴはイチゴだと思ってたしねえ…。
それがあんたのプカルなのかい、いいよ、お食べ。
ブラウが許してやったものだから、チビのナキネズミはイチゴにガブリと齧り付いた。欲しいと強請ったプカルの実に。
ヒルマンとゼルが呼び出されたプカルは、真っ赤なイチゴ。きっとナキネズミは、何か勘違いをしたのだろう。イチゴという言葉を覚える代わりに、間違えてプカル。
「みんな言ってる」とチビのナキネズミは言ったけれども、「みんな」とはチビのナキネズミ。子供のナキネズミばかりの集団の中で、イチゴをプカルと呼んでいるのに違いない。人間だって、幼い子供は独特な言葉を使うのだから。それと同じで、イチゴがプカル。
変な言葉があるものだ、と皆で笑って散会になった。「一つ賢くなった」と笑い合って終わり。
ところが、暫く経った頃。長老たちが集まった席で、ヒルマンが話題にしたプカル。
「この前のプカルなんだがね…。実は、厨房から昨日、連絡が来てね」
またナキネズミが来たらしいんだが…。リンゴをプカルと言ったそうだよ、これが欲しいと。
もちろんナキネズミはリンゴを食べるし、そのまま与えたらしいんだがね。
…しかし、プカルだ。この間はイチゴがプカルだったのに、今度はリンゴがプカルなんだよ。
「何かおかしくないかい、それ?」
ちょいと変だよ、イチゴとリンゴじゃ味も見た目も別物じゃないか。
あたしだったら間違えないけどね。記憶をすっかり失くしていたって、別の果物は別だろう?
違う名前で呼ぶけれどね、とブラウが不思議がる通り。
イチゴとリンゴは似ても似つかないし、同じプカルでは有り得ない。チビのナキネズミの語彙が足りないか、それとも言い間違えたのか。あるいは、プカルと言ったら貰えるだろうと、リンゴもプカルと呼んだのか。
厨房で初めて貰った食べ物がイチゴだったから。その時に「プカルちょうだい」と頼んだから。厨房で果物を貰う時には、どれも「プカル」と呼ぶのが一番なのだと考えたとか…。
謎が生まれたら、その謎を解いてみたくなるもの。今日は時間もあることだし、と問題のチビのナキネズミを連れて来させた。ナキネズミ担当の飼育係に連絡を取って。
厨房ではなくて会議室だから、ヒルマンが実物の代わりに見せた映像。ナキネズミが好む色々な果物、それを端から映していって。「どれがプカルか、教えて欲しいね」と。
そうしたら…。
『これ、プカル!』
サクランボを見るなり、思念波で叫んだナキネズミ。サクランボの季節ではなかったけれども、ナキネズミの子供時代は長いものだから、食べた経験はちゃんとある。サクランボもプカル。
そうなるのか、と次々に変えていった映像、赤い実が映ると「プカル!」という思念。赤い実はどれもプカルだった。イチゴもリンゴも、サクランボも。赤いベリーも、残らずプカル。
「そうかい、そういうオチだったのかい…」
赤けりゃ全部プカルなんだね、どんな果物も。参ったねえ…。
こりゃ、この子だけの問題じゃないよ、と天井を仰いで困り顔だったブラウ。他のナキネズミも赤い実は全部プカルなんだろう、と。
「ナキネズミ語じゃな、わしらの言葉とはまた違うんじゃ」
仕方ないのう、こいつらにも言葉はあるんじゃし…。ナキネズミ同士で話す間に、言葉が出来ていたんじゃな。…赤い実はプカル、といった具合に。
過渡期なんじゃし、こういうことも起こり得るじゃろ、とゼルが引っ張っていた自慢の髭。今は人間と話す時間よりも、ナキネズミ同士の会話が多い状態だから仕方がない、と。
「人間との接触が増えれば、変わるだろうね」
我々の言葉の方が身近になるから、プカルもイチゴやリンゴに変わっていくだろう。
そうでなければ、子供たちとのコミュニケーションにも困るだろうからね。
今の間だけの現象だよ、とヒルマンもゼルと同意見だった。ナキネズミ語は消えて、人間と同じ言葉が自然に残ってゆく筈だと。
ナキネズミ語だった、プカルの実。赤い実はどれでも、イチゴもリンゴもプカルの実。
その内に直ってゆくだろうから、と無理に直さないで放っておいたら、プカルの方が定着した。人間にとっても覚えやすかったプカル。ナキネズミの言葉で赤い実はプカル、と。
覚えてしまえば、ナキネズミと話していて「プカル、食べるか?」とやってしまいがち。大人も子供も、イチゴやリンゴを手にして「プカル」と言ってしまうもの。
言葉が拙い幼子相手に、そうするように。わざと幼い言葉遣いで話し掛けるように。
そうやって皆が赤い実を「プカル」と呼んでみせたものだから、ナキネズミの言葉が直るわけがない。気付けば赤い実は、全部プカルになっていた。
人間の方がナキネズミに合わせて、プカルはプカル。白いシャングリラに特有の言葉。
「そうだったっけ…。プカル、ナキネズミの言葉だったんだっけ…」
前のぼくもウッカリ言っちゃったんだよ、青の間にヒョコッと出て来た時に。
「プカル、食べるかい?」って、テーブルにあった赤い果物を指差して。
あれじゃ絶対、直らないよね…。みんながプカルって言うんだから。
「そういうこった。…だから柿でもプカルなんだ」
赤く熟せばプカルになるんだ、富有柿とかは。…渋柿だって、いずれはプカルだ。普通の柿より時間はかかるが、あれも熟せば甘いんだから。
「うん、知ってる。実がトロトロになった頃には、甘いんだよね」
パパとママに聞いたよ、干し柿にしなくても食べられる、って。スプーンで掬って。
でも、ナキネズミは、もういないけどね?
人間が手を加えすぎた生き物だから、って弄らないでおいたら、繁殖力が落ちてしまって…。
そのまま絶滅してしまって。
「いいんだ、それで。…生き物は自然に任せておくのが一番いい」
だが、あいつらが今もいたなら、柿は立派にプカルなんだぞ。渋柿は赤くなったというだけじゃ食えんし、プカルと呼びにくい代物だがな。
お前はプカルを忘れてはいたが、言葉だけだ、とハーレイは説明してくれた。プカルそのものは忘れていないと、イチゴもリンゴも、サクランボも覚えているだろうが、と。
「ナキネズミが果物を食っていたことを覚えていれば充分だな、うん」
プカルの実は赤い実のことなんだから。…綺麗に忘れてしまっていたがな、本当に。
「良かった、ナキネズミの好物を忘れていたんじゃなくて…」
どれがプカルか分からなかっただけで、赤い果物は全部プカルなんだし、ホッとしたよ。
覚えていたなら大丈夫だよね、ハーレイの好物もきっと忘れていないと思う。
前のハーレイが好きだった食べ物、ナキネズミ語で呼びはしないもの。
「いや、忘れてるな、今のお前は」
酒とコーヒーだと言っていたよな、なら、間違いなく忘れている。
ナキネズミ語で呼んでたわけじゃないんだが、お前の口から出て来ないからな。
「忘れてるって…。何を?」
ハーレイの好物を忘れているって、どんな食べ物?
「俺の一番の好物ってヤツは、お前だろうが。赤い実も二つくっついているな、目の所に」
美味かったんだ、前のお前はな。…本当に何よりも美味かった。
そいつを忘れて酒とコーヒーだと言ってる辺りが、チビならではだ。
前のお前なら、それは上手に俺を誘ったものなんだがなあ、食って欲しいと。
チビのお前はまだ食えないが、と悪戯っぽい笑みを浮かべたハーレイ。
頬が真っ赤に染まったけれども、一番の好物だと言って貰えたのが嬉しいから。
酒やコーヒーより、ハーレイが好きな食べ物が前の自分だったというのだから。
(…顔の赤い実って、ぼくの目だよね…?)
前の自分とそっくり同じに育った時には、またハーレイに食べて貰おう。
チビの間は無理だけれども、いつか大きく育ったら。
赤い実が二つ、と言われた赤い瞳ごと。
顔についている、ハーレイが好きな赤い実のプカルも、育った身体も、丸ごと全部。
赤い瞳もプカルだから。赤い実は全部、プカルだから。
そして幸せな時を過ごそう、ハーレイと二人。
甘い時間を熱く溶け合って、何度も何度も、甘くて優しいキスを交わして…。
プカルの実・了
※ナキネズミの好物だった、プカルの実。どういう実なのか思い出せずに、焦ったブルー。
けれど「プカル」は、ナキネズミたちの言葉だったのです。赤い実だったら、何でもプカル。
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「ずっと昔の、この地域では、だ…」
香りが重要だった話は前にもしたな、とハーレイが語る古典の授業。遠い昔の日本の話。
SD体制が崩壊した後、燃え上がった地球。それまでの地形はすっかり変わって、大陸の形まで変わったけれど。
今、ブルーたちが暮らす辺りは、かつて日本と呼ばれた小さな島国があった辺りの地域。古典の授業では日本の古典について習うし、香りの話は確かに聞いた。手紙や着物に焚きしめた香り。
また面倒な勉強か、と退屈しているクラスメイトたち。欠伸をしている生徒だって。
けれども、ハーレイが教室の前のボードに書き付けた文字。
「色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰(た)が袖ふれし宿の梅ぞも」。
ついでに「古今和歌集 よみ人知らず」とも。
えっ、と動いた教室の空気。今日の授業は和歌とは関係無かったから。
「…授業の続きだと思っていたな? お前たち」
そろそろ眠いと顔に書いてあるぞ、と笑ったハーレイ。こういう時には息抜きだよな、と。
ハーレイ得意の雑談の時間、今日は古典にも関係があるというのだろうか。なにしろボードには和歌が書かれたし、香りの話も出ていたから。
どういう話をするのだろう、とブルーもキョトンと眺めている中、ハーレイが始めた歌の解説。前のボードに書いてある和歌。
「この歌はだな…。梅は姿よりも香りの方が愛おしく思える、と詠んでいるわけで…」
いったい、この庭の梅は、誰の袖が触れたせいで、こんなに香しいのか、という歌なんだ。
授業でやったろ、衣服に香を焚きしめていた時代だった、と。そのための道具もあったしな。
季節の香りや、流行りの香りを踏まえた上でだ、自分だけの香りを作っていた。作り方や材料に工夫を凝らして、自分らしく。それがだな…。
貴族だけのものではなくなっていった、と広がってゆく話。古典の授業の範囲を離れて。
衣服に香を焚きしめた時代は、特権階級しか持てなかった香。あまりにも高価な物だったから。
けれど、時代は変わってゆく。貴族でなくても、香というものに出会える時代へ。
室町時代には、香を衣服に焚きしめる代わりに、持ち歩く者が増えてゆく。其処で、ハーレイが書いた古今和歌集の歌が浴びた脚光。
この歌を元に名付けた「誰が袖」という匂い袋が流行ったから。香を詰めた袋。
片方の袖にだけ入れることは縁起が良くない、と思われた時代に出来た「誰が袖」。二つを長い紐の両端につけて、首から下げて。着物の中を通すようにして、両方の袂に入れて使った。
それが最先端のお洒落で、歩けば「誰が袖」の香りも一緒についてくる。
古今和歌集の歌そのままに、いい香りがした着物の袖。
それが後の時代の匂い袋の始まり。一個だけでも気にしなくなって、片方の袂や胸元に。
最初は貴族だけが楽しんだ香は、庶民の文化に溶け込んだ。持ち歩いたり、着物と一緒に箪笥に入れて、そっと香りを移したり。
「他の地域だと、サシェってヤツだな」
ハーブや香料を入れておくんだ、匂い袋を作るみたいに。服に香りを移すんだが…。
縫い付けて使うこともあったと言うから、誰が袖とあまり変わらんな。そっちの方も。
…でもって、匂い袋もサシェもだ、自分の匂いを印象付けるのが目的ってトコか。
この歌のように、「誰の袖だろう」と思って貰えたら最高なわけだ。素敵な人に違いない、と。
香りの効果は、昔の話だけではないぞ。今の時代も立派に生きてる。
「これが私の香りなんです」と印象付ければ、相手の中で存在感が増すんだな。
そこでだ、恋人に会う時は、いつも同じ香水をつけて行くとか、使い方は色々あるわけで…。
お前たちにはまだまだ早いが、覚えておいて損はない。…香りってヤツは大切だとな。
「誰が袖」だけでも覚えておけ、と終わった雑談。
匂い袋なら今も買えるし、と。
(…匂い袋…)
小さな巾着のような、布製の袋。ふうわりといい香りが漂う袋。
母が持っているから、見たことはある。わざわざ買いに出掛けなくても。
サシェだって、母がクローゼットに入れていた。「いい匂いがするのよ」と、端っこの方に。
だから、「ふうん…」と思っただけ。今日の雑談は匂い袋とサシェの話、と。
特に何とも思わないまま、ハーレイの授業は終わったけれど。
家に帰って、おやつの時間に母に会ったら、思い出した。ケーキと紅茶を運んで来てくれた母。その瞬間に、「匂い袋だっけ」と。
母の服から、何かの香りがしたというわけではないけれど。香水もつけていないけれども。
匂い袋もサシェも、母の持ち物だからだろう。そういえば、と頭に浮かんだハーレイの雑談。
(恋人に会う時は、同じ香水…)
ハーレイはそう話していたから、「ちょっといいかも」と考えた。自分を印象付けられる香り。雑談では「お前たちにはまだまだ早い」と言われたけれども、チビでもちゃんと恋人はいる。前の生から愛し続けた、ハーレイという恋人が。
だから、「ハーレイに会うなら匂い袋」と。…香水はとても子供向けとは思えないから。
「ママ、匂い袋、ある?」
多分ある筈、と母に尋ねた。あったら持って来て欲しい、と。
「あるけれど…。どうしたの?」
匂い袋なんか、何に使うの?
学校に持って行きたい…ってことは無いわよね?
「んーと…」
持って行きたいわけじゃないけど、学校は関係無いこともなくて…。
「ふふっ、ママにも分かったわ。…ハーレイ先生ね?」
授業で出たのね、匂い袋のお話が。あれも昔の日本のものだし、古典にも出て来そうだものね。
はいどうぞ、と部屋から持って来てくれた母。
絹なのだろうか、淡い色の小さな布袋の香りは優しいけれども、子供の自分にはどうだろう?
香水が似合わないのと同じで、あまり似合わないような気がする。落ち着いた、大人びた香り。これを自分が漂わせていたら、無理をして背伸びしているような…。
(…ぼくには、ちょっと合わないみたい…)
母の持ち物だからだろうか。…匂い袋を扱う店に行ったら、他の香りもあるのだろうか?
「ママ、匂い袋…。子供向けっていうのはないの?」
この匂いは、なんだか大人っぽいから…。もっと小さな子供向けのは?
「そうねえ…。匂い袋は、どれも似たような感じだから…」
子供も好きそうな匂いになるのは、サシェの方かしらね。あれも中身によるけれど…。
これなら少し香りが柔らかいわ、と母が部屋まで取りに出掛けてくれたサシェ。小さな布の袋を手のひらに乗せて貰ったら、ふわりと漂うラベンダーの香り。
(…匂い袋よりはマシだけど…)
ラベンダーもやっぱり、チビの自分には似合わない。ハーレイと会う時につけていたって、失笑されるだけだろう。「お前、俺の話を真に受けたのか?」と、「子供にはまだ早すぎだ」と。
これは駄目だ、と諦めるしかない、匂い袋とラベンダーのサシェ。きっとハーレイは笑うだけ。どちらの香りを纏っていても。
だから…。
「ありがとう、ママ。…これ、返すね」
「…あら、もういいの?」
ブルーの部屋に持って行ってもいいのよ、欲しいんだったら。
「ううん、どんな匂いか分かったから」
ちょっぴり知りたかっただけ。…子供にも似合う匂いなのかな、って。
だけど、思っていたより大人の匂い。サシェだって、ぼくよりも大きな人向けだよね。
匂い袋とサシェの実物を見せてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
勉強机の前に座って頬杖をついた。ちょっと残念、と。…匂い袋もサシェも、家にあったのに。わざわざ買いに出掛けなくても、母が「はい」と出して来てくれたのに。
(…ぼくには似合わない匂い…)
子供向けじゃない、と零れた溜息。チビの自分は、ハーレイに香りで印象付けられないらしい。匂い袋やサシェを使って、いつでも同じ香りを纏って。
せっかく素敵な恋の裏技を聞いたというのに、子供だからまだ使えない自分。匂い袋は無理で、サシェだって駄目。どちらも役に立ってはくれない。
もっと大きくならないと…、とクローゼットに視線を投げた。前の自分の背丈の高さに、鉛筆で微かに引いた線。此処からはまるで分からないけれど、そこまで育たないと香りは無理、と。
ソルジャー・ブルーと同じ姿になったら、きっと香りも似合うだろう。前の自分はサシェも匂い袋も使っていなかったけれど、大人の姿ではあったのだから。
(…似合う匂いも、絶対、あるよね?)
大きくなったら考えなくちゃ、とハーレイの雑談を思い返した。恋人に会う時は同じ香水、と。
前の生から恋人同士の二人なのだし、要らないような気もするけれど。
香りで印象付けるまでもなく、ハーレイは迷わず自分を選んでくれそうだけれど。
「俺のブルーだ」と、今でさえ言ってくれるのだから。…キスを許してくれないだけで。
とっくの昔に恋人同士で、今度は結婚する二人。
匂い袋やサシェの香りを纏わなくても、ハーレイはプロポーズをしてくれそうだけれど…。
(それじゃ、ハーレイは?)
チビの自分とは違って、大人のハーレイ。そのハーレイには、何か香りがあっただろうか。
雑談には出て来なかったけれど、遥かな昔に貴族たちが焚きしめていた香り。男性も自分で香を作ったりしていたほどだし、今の時代も男性用の香水が幾つも売られている筈。
女性だけのものではないのが香りで、男性だって香りで自分を印象付けるもの。今も昔も。
チビの自分は香りがサッパリ似合わないけれど、立派な大人のハーレイなら使いこなせる筈で。
あんな雑談をするくらいだから、ハーレイの香りもありそうで…。
(コーヒーに、お酒…)
直ぐに浮かんで来る、ハーレイが好きな飲み物の匂い。食べ物よりは特徴があるし、ハーレイの側にあっても少しも可笑しくない匂い。コーヒーに、お酒。
それから…、と考えてみるのだけれど。
自分が知っているハーレイの匂いというものは…。
(ハーレイでしかないんだよ…)
お酒でもコーヒーでもなくて、と鼻腔をふわりと掠めた匂い。ハーレイは来ていないけれども、鼻が覚えている匂い。ハーレイの身体はこういう匂い、と。
甘えて胸にくっついていたら、よく分かる。とても心地良くて、心がほどけてゆく匂い。
優しくて、それに温かくて。…幸せな気持ちが、胸一杯に溢れて来て。
(前のハーレイも、おんなじ匂い…)
キャプテン・ハーレイだった頃のハーレイからも、同じ匂いがしたのだろう。
今のハーレイとは全く違ったキャプテンの制服を着ていたけれども、きっと、そう。
くっついた時に、「違う」と思ったことが無いから。
いつでも前と全く同じに、吸い込みたくなる匂いだから。…ハーレイが好き、と。
そう、「好き」という気持ちが溢れる匂い。幸せになれるハーレイの匂い。
前の自分も好きだった。逞しくて広い胸に抱かれて、ハーレイの匂いに包まれるのが。…まるで温かな毛布さながら、くるまっているのが大好きだった。前のハーレイが纏う匂いに。
今もハーレイは同じ匂いがするから、今の自分も幸せに酔える匂いだから。
(あの匂い…)
持ち歩けたらいいのに、袋に詰めて。大好きな匂いを詰め込んで。
雑談で知った「誰が袖」のように。匂い袋や、サシェみたいに。…ハーレイの匂いを詰め込んだ袋。小さいけれども、ハーレイの匂いがする袋。
持って歩けたなら、きっと幸せ。時々、そっと取り出してみては、胸一杯に香りを吸い込んで。
(それだと、ぼくがハーレイになっちゃう?)
自分らしい香りを纏う代わりに、ハーレイと同じ匂いだから。ハーレイの匂いを纏うのだから。香りで印象付けられはしないし、恋人と同じ香りをさせても、意味は全く無さそうだけれど…。
でも、ハーレイの匂いが詰まった袋があったなら。
小さなそれを、持ち歩けたら。
(いつも幸せ…)
ハーレイが側にいない時でも、二人一緒にいるようで。広い胸に甘えているようで。
あの匂いがふわりと漂うだけで。…鼻腔を掠めてゆくだけで。
(ベッドに持って入ったら…)
枕の上に乗せておいたら、ハーレイが隣にいてくれるような気分になれるに違いない。直ぐ側に温かなハーレイの匂い。…前の自分も好きだった匂い。
独りぼっちで眠るベッドでも、きっと幸せなのだろう。ハーレイの匂いがありさえすれば。
母が見せてくれた小さな匂い袋や、サシェに詰まった恋人の匂い。
それがあれば、と膨らむ思い。ハーレイの匂いがする袋、と。
恋人の香りが漂う匂い袋。ハーレイの匂いが詰まった袋。中から幸せな、大好きな匂い。
(欲しいな…)
そういう匂い袋を一つ。ハーレイの匂いを纏った袋。
どうすれば、それを作れるだろう?
本物の匂い袋やサシェだと、中身は香料やハーブだけれど。ハーレイの匂いを作るなら…。
(香水って言ってた…)
自分を印象付けたいのならば、恋人に会う時は同じ香水をつけてゆくのが効果的。
ハーレイは確かにそう言ったけれど、香水を使っているのだろうか。何か好みの香水があって、それを使っているというなら、ハーレイの匂いの袋は作れる。
その香水を買えばいいのだから。ハーレイが使う香水の匂いが、ハーレイの匂いなのだから。
香水の名前を教えて貰って、小さな袋につけるだけ。中の綿とか、袋そのものにつけるとか。
(駄目で元々…)
どんな香水か訊いてみたい、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、香水、使ってる?」
使っているなら、それの名前、教えて欲しいんだけど…。
「はあ?」
香水ってなんだ、それに名前って…。いったい、何の話なんだ?
「ほら、ハーレイの匂い、あるでしょ?」
ハーレイがいつも、させている匂い。それのことだよ、こうすれば分かるよ。
椅子から立って、ハーレイの方へと回り込んで。
大きな身体にギュッと抱き付いて、胸一杯に匂いを吸い込んでみて。…この匂いだ、と身体中の細胞が喜んでいるから、幸せな気持ちが満ちてくるから。
「ハーレイの匂い…」
今もしてるよ、これが欲しいよ。…ぼく、この匂いが欲しくって…。
だから香水、と名残惜しい気持ちで離れて、元の椅子へと腰を下ろした。香水、教えて、と。
「香水って…。なんでそういう話になるんだ」
俺の匂いというのは理解出来たが、其処でどうして香水なんだ?
「今日のハーレイの授業だってば。…誰が袖の話、していたでしょ?」
二つくっついた匂い袋で、名前の元はこの歌なんだぞ、って。
それから、自分を印象付けたいんだったら、恋人に会う時は同じ香水をつけることだ、って。
…家に帰って、ママに頼んで、匂い袋とサシェとを出して貰ったけれど…。
どっちも子供向けの匂いはしなくて、もっと大人の人に似合いそう。…大人っぽい匂い。
それでね、ぼくは匂い袋とかを持っても似合わないみたい、って思ってる内に…。
欲しくなったんだよ、ハーレイの匂いがする袋。…小さいけれども、ハーレイの匂い。
それがあったら、いつでもハーレイの匂いと一緒。ハーレイと一緒の気分になれそうでしょ?
だって、ハーレイの匂いなんだから。
…ぼくの匂いがハーレイの匂いになっちゃうけれども、そういう匂い袋が欲しいよ。
作りたいから、ハーレイの香水の名前を教えて、と繰り返した。買いに行くから、と。
「もし高くっても、お小遣いを貯めて買わなくちゃ。…ハーレイの香水と同じ香水」
ハーレイの匂いは、前のハーレイも今のハーレイも同じだもの。
うんと幸せになれる匂いで、大好きな匂い。…だからハーレイの香水、教えて。
何処で売ってるのかも教えてくれたら、もう最高に嬉しいんだけど…。
なんていう名前なの、ハーレイが使っている香水は…?
「…なるほどな…。それで香水だと言い出したのか」
教えてやりたいのは山々なんだが、俺からもお前に一つ訊きたい。
…前の俺は香水、使っていたか?
キャプテン・ハーレイが香水をつける所を、前のお前は見ていたのか…?
「えーっと…?」
前のハーレイの香水だよね?
つけている所、見ていたのかな…。思い出したら、香水の名前も分かるのかな?
シャングリラでも香水、作っていたものね。…フィシスのために花の香りのとかを。
フィシスのは天然素材だったけど、合成の香水もあった筈だし…。
合成だったら、人類の世界にあった香水と同じ名前をつけてたのかな?
…前のぼくたちの頃の香水の名前、今も使われているのかな…。
とても人気の定番だったら、そういうことも充分ありそうなんだけど…。
ハーレイからのヒントだろうか、と心が弾んだ香水の話。キャプテン・ハーレイが使った香水。
それの名前を思い出せたら、ハーレイが答えを言うよりも前に、手に入りそうな香水の名前。
(…なんていう香水だったっけ…?)
全然覚えていないんだけど、と思いながらも手繰った記憶。前の自分が持っていた記憶。
キャプテン・ハーレイ愛用の香水だったら、青の間にも置いていただろう。シャワーの後には、シュッと一吹きしただろうから。…そうでなければ、指先でそっとつけるとか。
(どんな形の瓶だっけ…?)
大きさはどれくらいだっただろうか、と懸命に記憶を遡ったけれど。まるで記憶に無い香水瓶。バスルームには置いていなかったし、他の場所にも無かったと思う。
(何処に置いてたの…?)
前のハーレイの動きを辿れば分かるのかも、と二人で過ごした夜の光景を思い浮かべてみた。
ブリッジでの勤務を終えた後に青の間に来ていたハーレイ。逞しい胸に抱き締められた途端に、ハーレイの匂いに包まれた。…幸せが満ちる、あの匂いに。
そのままベッドに行く時もあれば、ハーレイがシャワーを浴びに行くことも。
熱くて甘い時を過ごして、ハーレイの腕の中で眠ったけれど…。
(…シャワーを浴びに行ってた時でも、ハーレイの匂い…)
そうだった、と蘇って来た遠い遠い記憶。朝まで自分を広い胸に閉じ込めていたハーレイ。
ハーレイの匂いに包まれて幸せに眠ったけれども、シャワーを浴びた後でベッドに来た時は…。
消えてしまっていた匂い。ボディーソープやらお湯の匂いで、すっかり洗い流されて。
あの匂いがする香水をつけてはいなかった。…シャワーを済ませて来たハーレイは。
けれども、いつの間にか、ハーレイが纏っていた匂い。
香水をつけにベッドを出てはいないのに、前の自分を朝まで優しく包み込んだ匂い。
あれは何処から来ていたのだろう、ハーレイは香水をつけに行ってはいなかったのに…?
どう考えても、ハーレイが香水をつけに出掛ける暇は無かった筈。ベッドから出ないのだから、香水は何処からも出て来そうにない。…ベッドの側に置いていたならともかく、それ以外では。
(だけど、香水の瓶は無かったよ…?)
ベッド周りの棚などは部屋付きの係の目に触れるから、置いてはおけなかったと思う。それでも置いていたのだったら、前の自分が目に付かないようシールドを施していただろう。
そうなってくると、ハーレイの匂いだと思っていたのは香水ではなくて、ハーレイそのもの。
(…ハーレイが持ってる匂いなんだ…)
シャワーを浴びて匂いが消えても、朝には纏っていたのだから。まだ服も着ていなかったのに。
あれはハーレイの身体の匂い、と気付いた途端に赤らんだ頬。逞しい身体を思い出して。チビの自分はキスさえ許して貰えないけれど、前の自分はあの身体と…。
恥ずかしくなって俯きながら、それでも目だけはハーレイの方へ。
「…香水、つけていなかった…」
前のハーレイは香水をつけていないよ、ぼくは一度も見ていないもの。
…だけど、いつでもハーレイの匂い。ちゃんとハーレイの匂いがしてたよ。
「そうだろうが。…今の俺も前と同じだが?」
香水なんぞはつけていないし、買ってもいないな。…俺の趣味ではないからな。
でもって、お前のその顔つきからして…。
分かったらしいな、あれは香水の匂いじゃないと。俺の身体の匂いだった、ということがな。
ハーレイの口から聞かされた正解。やはり香水ではなかった匂い。ハーレイの身体が持つ匂い。それが欲しいと思うけれども、香水ではないと言うのなら…。
「じゃあ、ハーレイの匂い、どうすればいいの?」
あの匂いを作るには、どうしたらいいの?
…ハーレイの匂いが欲しいのに…。匂い袋に入れておきたいのに。
「そうだな…。俺の匂いの作り方か…」
まずは、朝起きたら、軽く体操するかジョギング。その日の気分次第ってトコだ。庭の手入れも悪くないなあ、草を毟ったり、芝生を刈ったり。
それから朝飯、分厚いトーストを二枚は欲しい。田舎パンでも、そのくらいの量で。
パンにはおふくろのマーマレードと、美味いバターと。そいつを塗ってる日が多めだな。
卵料理も忘れちゃいかんぞ、オムレツもいいし、スクランブルエッグも、ベーコンエッグも…。固ゆで卵や半熟もいいな、ポーチドエッグもいいもんだ。
ソーセージも焼いて、卵料理と一緒に食うのが好きだな、うん。…新鮮な野菜のサラダとかも。
飲み物はコーヒー、野菜ジュースや牛乳もいい。こいつも、その日の気分で決める。
…朝飯はだいたい決まってるんだが、昼飯と晩飯は色々だなあ…。必ずコレだ、というのは特に無いから、そっちは何でもいいだろう。しっかり食えれば。
後は晩飯の後にコーヒーを一杯、酒も適度に。ウイスキーでもブランデーでも、日本酒でも。
…そんなモンだな、俺の生活。
俺の身体はそういう毎日が作っているから、これを参考にするといい。
前の俺とはまるで違うが、同じ匂いがするというなら、今ので問題無いだろう。
これで出来る、と言われたけれど。…ハーレイの匂いの作り方だと言われたけれど。
ハーレイの匂いは卵料理の匂いではないし、トーストや田舎パンとも違う。焼いたソーセージの匂いもしないし、コーヒーや酒の匂いだって。
全部混ぜたら出来るのだろうか、そういったものを。それとも、何か秘訣があるのか。
作る方法が分からないから、首を傾げて尋ねてみた。
「…どうやって作るの、今、聞いたヤツで?」
どうすればハーレイの匂いが出来るの、トーストとかを全部混ぜるの?
「お前なあ…。それだと、とんでもない匂いになると思わないか?」
コーヒーにブランデーなら、いい匂いにもなるってもんだが…。他はどうだか…。ソーセージを焼く時にブランデーを加えてやったら、ちょいと美味いかもしれないが。
しかし、コーヒーを入れて焼いたら、美味いソーセージにはならないぞ。卵料理にもコーヒーは合わん、混ぜちまったら。別々に食ってこそだってな。味も、匂いも。
つまりだ、俺が言ったヤツを美味しく食うのが俺の匂いの作り方だが…。食べる前の軽い運動も含めて、俺の匂いになるんだろうが…。
お前が全部、その通りに真似をしてみたとしても…。お前の匂いにしかならないだろうな。
俺の匂いが出来る代わりに、お前らしい匂い。…お前は、お前なんだから。全く別の人間で。
「ハーレイの匂い…。作れないの?」
ぼくが頑張っても、ぼくの匂いになっちゃうの?
朝に体操して、ハーレイとおんなじ朝御飯をママに作って貰って食べても…?
「当たり前だろうが、誰だって違うものなんだから」
身体の匂いは人それぞれだし、俺とお前じゃ体格からして違うんだしな?
同じ匂いになるわけないだろ、よっぽど匂いのキツイ料理を揃って食べでもしない限りは。
ハーブ料理だの、ガーリックだの…、とハーレイが挙げた匂いの強い料理。けれども、そうした料理を二人で食べても、同じ匂いはほんの少しの間だけだ、と。
食べ物の匂いは抜けてしまって、元の匂いに戻るから。ハーレイはハーレイの、自分は自分の。
どうやらハーレイの匂いは作れないらしい。…ハーレイにしか。
「…ハーレイの匂い、欲しいのに…」
匂い袋に入れておきたいのに、作れないなんて…。ハーレイの匂い、大好きなのに。
前のぼくだった頃から、ずっと好きな匂い。いつでも側にあればいいのに…
「お前にはまだ早いだろうが。…授業の時にも言った筈だが?」
恋人に会う時は同じ香水をつけるといい、という話。…それと同じだ、俺の匂いもまだ早い。
いずれ嫌というほど嗅ぐことになるさ、俺と一緒に暮らし始めたら。
俺の匂いを作らなくても、お前にも匂いが移るくらいに。…一晩中、側にいるんだから。
「そうかもね…。前のぼく、ハーレイの匂いに包まれて眠っていたし…」
いつもハーレイの匂いがしてたよ、幸せな匂い。…だから大好きな匂いなんだよ。
でも…。匂いが移るって言うんだったら…。
もしかしたら、前のぼく、ハーレイの匂いがしていたのかな?
一晩中、ハーレイと一緒だったし、朝になったらハーレイの匂い…?
「多分な。…シャワーを浴びていなければな」
食事係が変な顔をしたかもしれんな、ソルジャーからキャプテンの匂いがすると。
…朝飯を作りにやって来た時に。
「えっ…!」
前のぼくから、ハーレイの匂いって…。夜の間に匂いが移って、そのままになって…?
朝にシャワーを浴びてなかったら、ハーレイの匂いがしていたの、ぼく…?
まさか、と驚いてしまったけれど。ハーレイの匂いが移ったとしても、一時的なものだと思っていたけれど。
(いつも、朝にはシャワーを浴びていたけど…)
病気で寝込んでしまった時には浴びなかったシャワー。そんな元気は無かったから。
そういう時にも、ハーレイは一晩中、側で眠ってくれていた。前の自分を胸に抱き締めて。夜に具合が悪くなったら、看病だって。
ハーレイの匂いに包まれて眠って、次の日の朝はシャワーを浴びないまま。食事係が朝の食事を作りに来た時も、ベッドに入ったままだったから…。
「ハーレイ…。前のぼく、具合が悪かった時は、朝にシャワーを浴びなかったけど…」
あの時のぼくは、ハーレイの匂いがしていたのかな…?
寝てる間に移ってしまったハーレイの匂い、ぼくの身体に残ってたかな…?
「どうだかなあ…?」
残っていたとしても俺には分からん、自分と同じ匂いなんだから。
…嗅いで確かめたりもしないし、どうだったんだか…。
俺の匂いをさせていたのか、お前の匂いの方だったのか。
考えたことすら無かったからなあ、お前に俺の匂いが移ってしまうということをな。
まるで気にしていなかったから、とハーレイはフウと溜息をついた。
もしも匂いが移ったとしたら、誰か気付いていたかもな、と。
「だ、誰が…?」
誰が匂いに気付いたっていうの、やっぱり食事係とか…?
ハーレイが最初に思い付いたの、食事係のことだったもんね…?
「いやまあ、あれは単なる思い付きで…。朝一番にやって来るのは食事の係だったしな」
食事係は食事を作るのが仕事なんだし、そっちに集中していたんだから大丈夫だろう。…周りの匂いに気を取られていたら、美味い料理は作れないしな。
第一、青の間のキッチンでやっていたのは最後の仕上げだ。トーストを焼いたり、卵料理を注文通りに作ったり、と。最高に美味い匂いが漂うトコだぞ、お前の匂いにまでは頭が回らんだろう。
そうでなくても、人間の鼻では分からないだろうと思うんだが…。
お前に移った俺の匂いを嗅ぎ分けられるほど、鋭い嗅覚は持っていないと思うわけだが…。
これが動物だと、いい鼻を持っているのがいるからな。…ナキネズミだとか。
「ナキネズミ…。そう言えば、たまに遊びに来てたね」
子供たちのサポートをしていない、暇なナキネズミが。朝からヒョイと顔を覗かせて。
…可愛らしいから、「おいで」って遊んでやっていたけど…。寝込んだ時でも、ベッドに入れてやったりしていたけれど。
気付かれてたかな、ハーレイの匂い…。
ナキネズミ、誰かに喋ったのかな、「ソルジャーからキャプテンの匂いがしたよ」って。
「さてなあ…?」
他の人間がいる所までは、喋りに行きはしないんじゃないか…?
食事係は相手にしてはくれんし、他の仲間も朝は忙しくしているヤツらが殆どだからな。
子供たちは時間があっただろうが、ナキネズミを見たら触りに行くから、自慢の毛皮がすっかりクシャクシャにされちまう。…朝っぱらからオモチャになりたい気分じゃないだろうさ。
だから行かんな、あいつらは。…不思議な匂いだと思ったとしても。
せいぜいナキネズミ同士の話程度だろう、と笑うハーレイ。
ねぐらにしていた農場に帰って、「今日はキャプテンの匂いだった」と。
「…バレちゃってたかな、ぼくとハーレイが恋人同士なんだってこと…」
ぼくからハーレイの匂いがするのは、そのせいなんだって気付かれてたかな?
ナキネズミ、ベッドにも入ってたんだし、ハーレイの匂いがするものね…?
ぼくだけじゃなくて、枕もシーツもハーレイの匂い…。
「それはないだろ」
人間だったらピンとくるヤツもいたかもしれんが、ナキネズミだぞ?
鼻がいいから匂いが分かるというだけのことで、其処から推理を始めはしないさ。
動物だしな、とハーレイは即座に否定したのだけれど。
…ナキネズミは思念波の扱いが下手な子供たちのパートナーとして作った動物。ネズミとリスを組み合わせながら、あちこち弄って、思念波が使える生き物を誕生させた。
子供たちと自由に会話出来るように、思念波の中継も手伝えるように。
そういう風に作った生き物、ナキネズミは自分で考えもする。…他の動物たちに比べて、人間に近い考え方を。…人間だったらどうするだろう、と拙いながらも推し量ることも。
人間に近い思考回路を持った動物がナキネズミならば、ただの動物とは違うのだから…。
もしかしたら…、とハーレイと顔を見合わせた。
全部のナキネズミが気付いたことは無かったとしても、一匹くらいはいたかもしれない、と。
勘の鋭いナキネズミ。…ソルジャーからキャプテンの匂いがしている理由を見抜いた一匹。
「…いたんじゃないかな、一匹くらいは…?」
そういえば、ぼくをじいっと見ていたナキネズミがいたよ。…時々、首を傾げながら。
ベッドにもぐってはゴソゴソ出て来て、ぼくの顔を見て何度も匂いを嗅いでた。
…なんていう名前の子だったのかは忘れたけれど…。ハーレイの方も見てたよ、あの子は。
ひょっとしたら、気付いていたのかも…。ぼくに「恋人?」って訊かなかっただけで。
「うーむ…。そいつは怪しい感じだな…。俺の方まで見ていたとなると」
でもまあ、他にはバレてないしな?
多分、俺やお前の心が読み取れなくて、確信が持てなかったんだろう。…恋人同士だと。
もしもしっかり見抜いていたなら、ナキネズミの間で噂になって…。其処から子供たちの耳にも入っていたかもしれん。「内緒だよ?」とナキネズミどもが耳打ちしてな。
そうなっていたら、子供の「内緒」はアテにならんし、シャングリラ中にバレたってか。
…ナキネズミが一匹、お前の匂いに気付いたばかりに、俺たちのことが。
「危なかったね、そんなの思いもしなかったよ…」
ぼくからハーレイの匂いがするとか、ナキネズミがそれに気が付くだとか。
「まったくだ。…とんだ所に危険が潜んでいたってな」
とはいえ、俺たちの仲はバレなかったし、もう心配は要らないわけだ。
今度は結婚するんだからなあ、匂いは心配しなくてもいい。
俺と一緒に暮らす以上は、お前から俺の匂いがしてても、不思議でも何でもないんだから。
たっぷりとお前に移してやろう、とウインクされたハーレイの匂い。
今は作れはしないけれども、匂い袋に入れておくことは出来ないけれど。
(…ハーレイの匂いで、大好きな匂い…)
いつか好きなだけ嗅げる日が来る、温かな胸に抱き締められて。
眠る時はもちろん、ソファで一緒に座る時にも。…床に座っている時でも。
結婚して二人で暮らす時には、幸せたっぷりの中で包まれる匂い。
それを想うと、胸がじんわり温かくなる。
きっといつかは、大好きな匂いを自分にも移して貰えるから。
ナキネズミが首を傾げた匂いを身体に纏って、ハーレイと二人、幸せな朝を迎えられるから…。
匂い袋と恋人・了
※ブルーが欲しくなったハーレイの匂い。前のハーレイも、同じ匂いがしたのですけど…。
前のブルーに移ったハーレイの匂いに気付いたらしい、ナキネズミ。危ない所だったのかも。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も暑い季節の到来、夏真っ盛りで口を開けば「暑い」な毎日。やっと一学期も終わったから、と夏休みの初日は会長さんの家へ。クーラーの効いた部屋で夏休みの計画を練るわけですけど、パターンは定着しつつあります。
まずは明日から始まる合宿、これは柔道部の三人組。そっちの合宿期間に合わせてジョミー君とサム君が璃慕恩院行き、子供向けの修行体験ツアー。本来は二泊三日の所を会長さんの顔で延長戦。帰って来たら愚痴祭りになるのが恒例行事。それが終われば大抵は山の別荘行きですが…。
「…くっそお、今年は俺は地獄だ…」
地獄なんだ、とキース君がカレンダーを見てブツブツと。今の時期にはお盆に向けての卒塔婆書きの筈、大量の卒塔婆の注文が舞い込みましたか?
「いや、そうじゃなくて…。卒塔婆の数は例年とさほど変わらんのだが…」
「お父さんの分まで回って来たとか?」
ありがちだよね、とジョミー君。元老寺の住職なアドス和尚はサボリがお好き。キース君が副住職になって卒塔婆を書くようになると、あれやこれやと理由をつけては自分のノルマを押し付ける傾向があるわけで…。
「親父か? ある意味、親父絡みではあるんだが…。卒塔婆も絡んで来るんだが!」
「…だったら、お父さんの分が全部来たとか?」
旅行とかで逃げられちゃって、とジョミー君が重ねて訊くと。
「その方がまだマシな気がする…」
「「「は?」」」
卒塔婆のノルマは半端な数ではないと毎年聞かされています。アドス和尚の分を丸ごと押し付けられたら何本なんだか、ちょっと見当もつきません。凄い労力が要りそうですけど、そっちの方がマシって何事…?
「書くだけだったら、さほど暑くはないからな。少なくとも炎天下で書くことはないし」
「…だろうね、卒塔婆は普通は外で書かないし」
例外も無いことはないんだけれど、と会長さん。
「小さいタイプの卒塔婆とかなら、お彼岸やお盆も外で書いて渡したりするけれど…」
それにしたって仮設テントがあるものだよね、という話。それじゃキース君が言う地獄とやらは仮設テントの卒塔婆書きでしょうか、でも…。
「元老寺のソレ、中で受け付けだと思うんだけど」
春のお彼岸にタダ働きで書かされてる、とジョミー君が。そういう光景を目にした年もありました。
キース君が仮設テントで卒塔婆書きにはなりそうもないのが元老寺。キーワードは炎天下というヤツなんでしょうか、今年の夏は猛暑の予報ですしね?
「…墓回向を一人でやるのかよ?」
もしかして…、とサム君がブルッと震えて、私たちも。
「「「うわー…」」」
それはキツそうだ、と思い浮かべた元老寺の墓地。裏山にあって、だだっ広くて、墓地だけに木陰も殆ど無くて。それを一手に引き受けとなると、どう考えても地獄です。
「…強く生きろな、いつかは俺も手伝いに行ってやるからよ」
まだ無理だけどよ、と人のいいサム君。
「坊主養成コースに入っちまったら、墓回向、出来る筈だしよ」
「そうだな、大いに期待しているが…。生憎と俺の地獄は墓回向じゃない」
「いったいどうい地獄なんです、キース先輩」
ぼくたちは素人集団ですからお寺のことは分かりません、とシロエ君が正面からアタック。キース君は「火焔地獄だ」と答えましたが。
「「「火焔地獄?」」」
それは聞くだに暑そうです。とはいえ、まさか本物の地獄に出掛けるわけではないでしょうし…。
「文字通り、火との戦いなんだ! この暑い中で!」
壮絶なバトルが待っているのだ、と言われても…。キース君の宗派、護摩焚きはしないと何度も耳にしています。それなのに火とのバトルって…なに?
「お焚き上げだ!」
「あー、裏山でやってるよねえ…。アドス和尚が」
たまに見るよね、とジョミー君。キース君の家の裏山には何度か入ったことがあります。そういう時にアドス和尚が焼却炉で何か燃やしているのがお焚き上げですが、それが地獄?
「普段のお焚き上げなら大したことではないんだが…。俺も時々、やってるんだが!」
「グレードアップしたのかよ?」
焼却炉がデカくなったとか…、とサム君が言うと。
「そのコースなら、むしろ歓迎だ! 同じ地獄でも時間が短縮できるからな」
「「「え?」」」
「焼却炉のサイズは変わっていない。そいつで卒塔婆を山ほど焼くんだ、今年の俺は!」
書いた卒塔婆よりも多い卒塔婆を…、と嘆いてますけど、なんでそんなことに?
「分からないのか、お盆と言えば卒塔婆だぞ? 檀家さんが墓まで持って行くんだぞ?」
そして墓のスペースには限りがある、とキース君。
「新しい卒塔婆を置くとなったら、空きスペースが必要なんだ! つまりは古い卒塔婆を撤去しないと、持って行っても置けんのだ!」
新しい卒塔婆を置きたかったら、卒塔婆の整理。古い卒塔婆にサヨナラなわけで…。
「…もしかしなくてもよ、お前、回収した卒塔婆、一人で焼くとか…?」
まさかな、とサム君が尋ねましたが。
「そのまさかだ! 古い卒塔婆を端から回収、そこまでは墓地の管理をしてくれている人に任せられるが、お焚き上げの方は資格が無いと…」
「うん、無資格で焼いたらゴミを焼いてるのと変わらないねえ…」
住職の資格は必須アイテム、と会長さん。お焚き上げってそういうものですか?
「そうだよ、しっかり読経しながら焼いてこそ! でないとホントにただのゴミ処理」
「…ブルーが言ってる通りでな…。例年なら親父と分業なんだが、ウッカリ親父に借りを作ったのがマズかった」
「「「借り?」」」
「…それについては聞かないでくれ。坊主のプライドが粉々になる」
ちょっとしたヘマをしたみたいです。アドス和尚がそれをフォローしたってことでいいですか?
「そういう線だな、その借りを返せと押し付けられた。…お焚き上げを全部!」
「じゃあ、先輩の火焔地獄というヤツは…」
「少なくともお盆までの間の何処かで丸一日は焼却炉との戦いだ!」
この際、一気に片付けてやる、と言ってますけど、日を分けた方がマシなんじゃあ…?
「毎日やるより、一日で済ませた方が気分がマシなんだ!」
まだ残っていると思うよりもマシ、と前向きなんだか、後ろ向きなんだか。とにかく一日はそれで潰れて、遊びに出掛ける暇が無さそうだ、と…。
「そうなるな。…どうせお盆が待っているんだ、火焔地獄もその一つだと思っておけば…!」
お盆は地獄の釜の蓋も開くしな、と絶妙な例え。ふむふむ、一足お先に地獄体験、と…。
「間違えるな! お盆の間は地獄は休みだ、一足先も何も、完全に開店休業なんだ!」
地獄でさえも休みだというのに、なんだって俺が…、と再びブツブツ。卒塔婆って厄介なものだったんですね、書いたら終わりじゃなかったんだ…。
「…例年だったら親父と手分けで、朝の涼しい内とかに少しずつ焼いてたんだがな…」
全部となったら一気に焼く! と根が真面目ゆえの凄い選択。頑張って、としか言えません。卒塔婆はゴミには出せませんしね…。
「そもそもゴミではないからな…。どんなに雨風でくたびれててもな」
「シュレッダーにかけるってわけにもいかないしねえ…」
分かるよ、と会長さんがキース君の肩に手をポンと。
「頑張るんだね、火焔地獄」
「銀青様に激励されたら、やる気も湧いては来るんだがな…」
それでも地獄、と大きな溜息。炎天下で一人でお焚き上げな夏、気の毒としか…。
「お焚き上げかあ…」
卒塔婆ってエコじゃなさそうだね、とジョミー君が妙な発言を。エコって、いったい…?
「エコだよ、エコ! えーっと…エコロジーだっけ?」
地球に優しいっていうエコのこと、と言われてみれば。
「…エコじゃねえなあ、確かにな。思いっ切り燃やしちまうんだしよ…」
お寺でなければ文句が来るよな、とサム君が言う通り、煙がモクモクなあの焼却炉は住宅街では使えません。家の落ち葉を焼いていたって文句が出るのが今の御時世。
「燃やすっていうのもマズイですけど、リサイクルだって出来ませんしね…」
シロエ君が頷き、ジョミー君が。
「うん、そこなんだよ! 燃やすしかなくって、リサイクル不可ってエコじゃないな、と」
「お前な…。卒塔婆を捕まえてエコも何も!」
しかし…、とキース君も腕組みをして。
「お盆の迎え火も近所迷惑で出来ない昨今、いずれは卒塔婆も変わるかもなあ…」
エコな方へ、と考え中の副住職。エコな卒塔婆って、リサイクルですか?
「変わるとしたなら、その方向だな。古い卒塔婆を燃やす代わりにリサイクルだろう」
今の素材では無理なんだが…、というのは間違いない話。卒塔婆の素材は木材なだけに、リサイクルしても卒塔婆の形で戻って来てはくれないでしょう。素材から変えるしかないんですね…。
「そういうことだが、どんな卒塔婆になるのやら…」
俺には全く見当がつかん、とキース君。でもでも、世の中、エコな方へと進む風潮、いずれは卒塔婆のお焚き上げだって出来なくなるかもしれませんし…。
「お焚き上げが出来なくなる時代ねえ…」
来るかもね、と会長さん。
「もしも卒塔婆もエコでリサイクルな時代が来たって、ぼくが処分をしたいブツはさ、どうにもならないわけなんだけどさ…」
「「「は?」」」
不燃ゴミでも抱えてましたか、会長さん? それなら早めに連絡して回収を頼むとか、分別可能な代物だったらきちんと分けてゴミに出すとか…。
「そうしたいのは山々だけどさ、ゴミに出したら犯罪者だしさ…」
「「「犯罪者!?」」」
どんなゴミを家に置いているのだ、と驚きましたが、考えてみれば会長さんはソルジャーです。ワープまで出来るシャングリラ号が存在するだけに、有り得ないゴミを持っているかも…。
「…まあね」
有り得ないゴミには違いないね、という返事。やっぱり、そういうゴミですか~!
会長さんが溜め込んだらしい、ゴミにも出せないゴミとやら。シャングリラ号の仕組みは私たちにはサッパリですけど、あれと通信するための設備、壊れてもゴミに出せないとか…?
「うん、出せない。…そのままでは無理」
出すんだったら専門の仲間に頼まないと…、と会長さん。元が何だったか分からないように分解した上でゴミだか、リサイクルだか。希少な金属などは仲間がリサイクルしているらしいですけど、そういうシステムがあるんだったら、有り得ないゴミもそっちに出せば?
「ダメダメ、頼まれた方も犯罪者になってしまうから!」
あれは共同正犯になるんだろうか、と法律用語が飛び出すからには、そのゴミとやらを処分した場合、裁ける法律があるわけですね?
「あるねえ、いわゆる刑法ってヤツが」
「「「刑法…」」」
法律の方はサッパリですから、刑法自体がイマイチ分かっていないんですけど…。
「刑法の中のどれなんだ?」
キース君が質問を。法律を勉強したかったのだ、と普通の学生だった頃に聞いた覚えがあります。お坊さんになるんじゃなくって、法律家。夢は捨てたとかで、今は副住職ですけれど。こういう話になって来たなら、俄然、興味が出て来るのでしょう。
「…どれと言われたら、ズバリ、百九十九条になるね」
「「「百九十九?」」」
はて…、とオウム返しな私たちでしたが、キース君だけが顔色を変えて。
「まさか、あんたがゴミに出したいのは人間なのか!?」
「「「人間!?」」」
何処からそういう発想に…、と顔を見合わせれば、キース君が。
「刑法で百九十九と言ったら、殺人罪だ!」
「「「ええっ!?」」」
殺人って…。それじゃ、会長さんがゴミに出したいものって、ホントに人間なんですか?
「…残念なことに人間なんだよ」
宇宙に捨てれば足がつかないかもしれないけれど、と恐ろしい台詞。いったい誰を殺したいと?
「決まってるだろう、ハーレイだよ! それと、殺したいわけじゃないから!」
ゴミに出せたらスカッとするな、と思っただけだ、と会長さん。
「あの暑苦しいのを分別して出すとか、リサイクルとか…。きっとスッキリするだろうと!」
「「「…ゴミ…」」」
教頭先生をゴミに出したいだなんて、そこまで言いますか、オモチャどころかゴミですか…。
「…ん? オモチャだって、いつかはゴミなんだしね」
気に入らないオモチャは直ぐにゴミになったりするし…、と会長さんは澄ました顔で。
「そうでなくても人に譲るとか、バザーに出すとか、こう、色々と…。でも、ハーレイの場合はそういうわけにもいかなくて…」
「当たり前だろうが!」
ゴミと一緒にするヤツがあるか、とキース君が怒鳴りましたが。
「…でもねえ…。たまに出したくなっちゃうんだな、ゴミステーションに」
粗大ゴミで、と会長さん。
「でなきゃリサイクルって書いて出すとか、捨ててみたい気分! 夏休みは特に!」
生ゴミがうっとおしい季節だから…、と生ゴミにまで転落しました、教頭先生。ゴミに出すのもバザーに出すのも、リサイクルだって無理だと思うんですけどねえ?
「無理だからこそ、ぼくの夢なんだよ! 一回くらいは捨ててみたいと!」
「あんた、少々、酷すぎないか?」
卒塔婆でもゴミじゃないんだが…、とキース君が突っ込みましたが、会長さんときたら。
「なら、ハーレイは卒塔婆以下だね、ぼくにとっては!」
ゴミに出したい代物だから、と会長さんが言った所で空気が揺れて。
「こんにちはーっ!」
紫のマントがフワリと翻り、ソルジャー登場。私たちがいるリビングを横切り、空いていたソファに腰を下ろすと。
「ぶるぅ、ぼくにもおやつと飲み物!」
「かみお~ん♪ ちょっと待っててねーっ!」
はい、とソルジャーの前に置かれた夏ミカンを丸ごとくり抜いたゼリー。くり抜かれた中身がゼリーになって詰まっています。それとよく冷えたレモネードと。ソルジャーは早速、ゼリーにスプーンを入れながら。
「…途中から聞いてたんだけど…。ハーレイをゴミに出したいんだって?」
「出したくもなるだろ、あんなモノ!」
夏は生ゴミが臭い季節で…、とまたも出ました、生ゴミ発言。
「だけど出したって回収どころか、ゴミ収集の人にしてみれば、ゴミステーションにホームレスだか酔っ払いだかが転がってるな、って感覚だろうし…」
「そりゃ、回収はしないだろうねえ…」
普通に死ぬしね、とソルジャーもゴミ収集車は理解が出来ている様子。生ゴミが入った袋をガガーッと粉砕しながら走るんですから、教頭先生を入れようものなら、それこそ刑法百九十九条とやらでゴミ回収の人が捕まりますよ…。
会長さんが出したい生ゴミ、いや粗大ゴミ。けれどソルジャーにしてみれば…。
「あのハーレイをゴミに出すだなんて! もったいないから!」
それくらいなら貰って帰る、と斜め上な台詞。持って帰るって、教頭先生をですか?
「そうだけど? それともバザーで売ってくれるのかな?」
買えるんだったら是非買いたい、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「ぼくのハーレイ、昼間はブリッジなものだから…。退屈でたまらないんだよ!」
「…それで、あの生ゴミが欲しいって?」
ゴミなんだけどね、と会長さん。
「君が貰って帰った所で、究極の鼻血体質だし! おまけにヘタレで、君だってきっと後悔すると思うけど? とんだゴミを引き取ってしまったと!」
「うーん…。もちろん、そういう目的の方で使ってみてもいいんだけどねえ…」
もっと他にも使い道がね、とソルジャーはニヤリ。
「こっちのハーレイ、一人暮らしだしさ…。家事全般は出来るんだよね?」
「それはまあ…。炊事に洗濯、掃除も出来る筈だけど?」
「それだけ出来れば充分じゃないか!」
決して粗大ゴミなどではない、とソルジャー、絶賛。
「ゴミっていうのは何の役にも立たないからこそゴミなわけでさ…。ぼくが引き取って有効活用、きちんと仕込めば素敵な下僕に!」
「「「下僕?」」」
「そう、下僕。ぼくの召使いと言えばいいのかな? 是非とも欲しいね、ゴミに出すなら」
夏休みの間だけでもゴミに出さないか、とソルジャーは会長さんに持ち掛けました。責任を持って回収するから、ハーレイをゴミに出してくれ、と。
「うーん…。ゴミって、ゴミステーションに?」
「ゴミステーションがいいなら、それでかまわないよ? 捨ててあったら持って行くから」
「ゴミ収集車が来る前にかい?」
「決まってるじゃないか!」
大事なお宝をゴミ収集車なんかに譲れるものか、と本気で回収するつもり。会長さんの方はどうしたものかと考え込んでいましたが…。
「分かった、それならゴミに出してみよう」
「本当かい!?」
「燃えるゴミの日と燃えないゴミの日、どっちがいい? 生ゴミは燃えるゴミだけど」
「好きな方でいいよ?」
どっちでもオッケー、とソルジャーが親指を立ててますけど、教頭先生、本当にゴミに…?
「えーっと…。燃えるゴミの日は…、と…」
会長さんがカレンダーを眺めて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと、明日も燃えるゴミの日なんだけど…。みんなお留守になっちゃうよ?」
合宿だよ、という声に、会長さんは。
「そうだったっけ…。同じ出すなら、見ている人が多い日でなきゃ…」
「それ以前にだな!」
キース君が声を荒げました。
「教頭先生がいらっしゃらないと、明日からの合宿が成り立たないんだ! ついでに夏休み中も柔道部の部活はあるんだからな!」
捨てるな、馬鹿! とストップが掛かったというのに、会長さんは鼻でフンと笑うと。
「…合宿の間は君たちも留守だし、ハーレイも泳がせておくことにしよう。でも、戻って来たら捨てることに決めた! 夏休みの間は!」
「本当に捨ててくれるのかい?」
ぼくが拾っていいのかい、と嬉しそうなソルジャーと、似たような表情の会長さんと。
「捨てる神あれば拾う神ありとも言うからねえ…。捨てたら、拾えば?」
「喜んで!」
捨てる前には連絡してよ、とソルジャーは念を押しました。出来るだけ早く拾いたいから、と。
「了解。ぼくも犯罪者にはなりたくないし…。そうだ、ハーレイが自分でゴミステーションに行けば解決だよねえ、ぼくが捨てたってことにはならない!」
「…こっちのハーレイ、自分からゴミステーションに行くとは思えないけど?」
そんなしおらしいキャラではあるまい、とソルジャーが指摘しましたが。
「ううん、やり方によっては行くね! 大喜びでね!」
合宿が終わって最初のゴミの日にしよう、と会長さんはカレンダーに印を付けに。日付を赤い丸で囲んで戻って来て。
「あの日に捨てるから、拾いに来てよ。燃えるゴミの日だから、早めにね」
「言われなくても早く来るけど…」
ハーレイを拾いに来られるんだし、とソルジャーが言うと、会長さんが指を左右にチッチッと。
「甘いね、燃えるゴミの日を甘く見すぎだよ! この日には色々とルールがあって!」
「…ルール?」
「早く出し過ぎるとカラスなんかが食べに来るしさ、それに臭いし…。夜が明けてから捨てる、という暗黙のルール! 夏の夜明けは早いから!」
早い時間に出したんです、と嘘をついて前の夜から捨てている人もいるのだそうで。ソルジャーの到着が遅かった場合、教頭先生は生ゴミと一緒にいる時間がうんと長めになるらしいですよ?
朝はゆっくり寝坊したいのがソルジャーなる人。一方、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は早起きタイプで、朝一番に教頭先生をゴミステーションに捨てるとなったら三時半には起きるとか。
「ぼくが自分で捨てに行くんじゃないけどねえ…。ハーレイが歩いて行くんだけれど!」
だけど回収される過程は見たいし早起きをする、と会長さん。
「ハーレイだって早起きなんだよ、夜明けと同時にゴミステーションに到着しろ、と言っておいたら時間厳守で出掛けるから!」
「…それじゃ、ぼくまで三時半起き?」
「ハーレイを早く回収したいのならね!」
生ゴミの匂いが染み付いた後でもかまわないならごゆっくり、と会長さんはニコニコと。
「ハーレイがゴミステーションに座っていたって、他の人はゴミを捨てて行くしね? ハーレイにはキッチリ言っておくから、他の人が捨てに来た時の言い訳!」
「…なんて?」
どんな言い訳、とソルジャーが訊いて、私たちも答えを知りたい気分。いったいどんな言い訳をすれば、他の人が怪しまずにゴミを捨てられると?
「アートだよ!」
「「「アート?」」」
「芸術って意味のアートだってば、そういう理由でパフォーマンスが色々あるだろ?」
実に便利な言葉だから、と会長さんは胸を張りました。
「ハーレイ自身がアートなんだよ、いわゆる芸術作品なわけ! ゴミとしてゴミステーションに座っていることで完成する芸術、そういうものだと自分で言わせる!」
「「「………」」」
あまりと言えばあんまりな言い訳、けれども立派に通りそうな言い訳。芸術家には多い奇人変人、そういう人だからこそ作れるアート。ゴミステーションでゴミを気取ってゴミになり切る芸術家だって、決していないとは言えませんし…。
「ダメ押しするなら、この世には芸術作品になった便器もあるから!」
「「「便器?」」」
便器と言ったらトイレに置いてあるアレなんでしょうか、あれが芸術? ソルジャーだって「嘘だろう?」と目を丸くしてますけど、本当に便器が芸術ですか?
「間違いないねえ、便器以外の何物でもないね!」
こんな感じ、と思念波を使って伝達された代物は紛うことなき便器でした。作った人の署名がしてあるというだけの本物の便器、しかし作品のタイトルは『泉』。これが芸術作品だったら、教頭先生がゴミステーションでアートになっても…。
「問題無し!」
だからこの日に決行する、と決めてしまった会長さん。合宿明けは荒れそうですねえ…。
こうしてキース君たち柔道部三人組は翌日から合宿、サム君とジョミー君は璃慕恩院へ。男子が全員留守の間は、スウェナちゃんと私はフィシスさんも交えてプールに買い物、他にも色々。合宿などを終えた男子が戻って来たら…。
「かみお~ん♪ みんな、お疲れ様~!」
今日は焼き肉で慰労会! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が用意してくれて、会長さんの家で焼き肉パーティー。ソルジャーもちゃっかり混ざっています。なにしろ明日は…。
「いよいよ明日だね、ハーレイがゴミに出される日はね!」
楽しみだなあ、とソルジャーが焼き肉をタレに浸けていますが、会長さんは。
「まだ本人には言ってないけど、まず間違いなくゴミに出るね!」
自分からね、とニンマリ、ニヤニヤ。
「ゴミに出されたら、君が回収して行くんだし…。そのための説得、君も行くだろ?」
「もちろんさ! ハーレイにゴミになって貰わないことには、ぼくは貰って帰れないしね!」
いつ行くんだい、とソルジャーが訊くと。
「焼き肉パーティーが終わってからだよ、昼間で充分!」
明日の朝はハーレイに早起きして貰わないといけないから…、と会長さん。ゴミステーションに朝一番に出掛けるためには早起きだ、と。
「そうだっけねえ…。で、何処のゴミステーションに捨てられるんだい、ハーレイは?」
「捨てた気分を味わいたいから、ぼくが行ってるゴミステーション!」
いつもはぶるぅが捨ててるけれど、と会長さんが言うと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「んとんと…。ブルー、寝てたりするしね、ぼくの方がうんと早起きだもん!」
重たいゴミでも平気だもん、と家事万能の「そるじゃぁ・ぶるぅ」ならではの台詞。小さい身体でもサイオンを使って楽々ゴミ捨て、両手に提げても行けるようです。
「あんた、ゴミ捨てまでぶるぅにやらせてたのか!」
キース君が呆れましたが、会長さんは全く気にしない風で。
「本人が好きでやってるんだし、それで問題ないんだよ! ゴミ出しルールはぼくより詳しい!」
「えとえと…。ブルー、時々、間違ったものを捨ててるしね…」
燃えないゴミを入れてるバケツに燃えるゴミとか…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんでもミスする時にはミスするんですね、ゴミ出しルールの間違いかあ…。
焼き肉パーティーが終わった後は、爽やかな冷たいミントティー。それを飲んでから、瞬間移動でいざ出発。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、ソルジャーの青いサイオンがパアッと光って。
「「「お邪魔しまーっす!」」」
挨拶付きで飛び込んだものの、教頭先生はリビングのソファで仰け反ってしまわれました。それでもアタフタと用意して下さった冷たい麦茶とお煎餅。会長さんがお煎餅を齧りながら。
「ハーレイ、ぼくは君を捨てたいと思っていてね」
「は…?」
「ほとほと愛想が尽きたんだよ、君に! でも捨てようにもゴミに出せないし、と悩んでたら…」
「ぼくが貰おうと思ってね!」
捨てる神あれば拾う神あり、とソルジャーが得々として名乗り出ました。
「ブルーが君を捨てると言うなら、ぼくが拾いに来るんだよ! どうだい、この夏休みはぼくのシャングリラで過ごしてみるとか!」
海の別荘に行く時までくらい…、とソルジャーの提案。気に入ったならば夏休み一杯、いてくれてもいいと。
「…で、ですが…。私が行ったらお邪魔なのでは…」
「ううん、全然! 君さえ良ければ、ぼくとハーレイとの愛の時間に混ざってくれてもかまわないからね!」
むしろ歓迎、と笑顔のソルジャー。
「ヘタレで鼻血体質の君にはそれほど期待してないし、その、なんて言うか…。片付け係? そういうのをやって暮らしてくれれば」
「片付け係…ですか?」
「ぼくは片付けが苦手なタイプで、青の間は常にメチャメチャなんだよ。ぼくのハーレイが片付けようと頑張ってるけど、片付けなんかに貴重な時間を割くのは嫌いで」
片付けよりも夫婦の時間が最優先! とソルジャーはグッと拳を握りました。
「そんなわけだから、片付け係がいると助かるなあ、と…。捨てられてくれる?」
「は、はあ…。そのぅ、捨てるというのは…」
「ブルーが捨てた気分を味わいたいって言っているから…。後はお願い」
はい、交代! とソルジャーが会長さんに合図を送って、今度は会長さんの番。教頭先生をゴミに出したいと言い出した張本人は極上の笑みで。
「難しいことではないんだよ、うん。君さえゴミになってくれるなら」
「…ゴミ?」
「そう、文字通りのゴミってね!」
用意はキッチリして来たのだ、と言ってますけど、用意って、なに…?
教頭先生をゴミに出したい会長さん。「ゴミだよ、ゴミ」とポケットに手を突っ込むと。
「種も仕掛けもありません、ってね。ゴミにはコレ!」
超特大! と引っ張り出されたゴミ袋。燃えるゴミ用の指定のマークが入った袋で、それの一番大きいタイプを「ジャジャーン!」と効果音つきで広げて見せて。
「この通り、ぼくはゴミ袋を買ったんだ。君をゴミに出すための袋をね」
「…そ、それで…?」
「明日の朝、これをポンチョみたいに被ってさ…。ぼくのマンションの横のゴミステーションに座っていれば、回収係がやって来るから!」
ブルーが寝坊さえしなかったなら、夜明けと共に…、と会長さん。
「夏は夜明けが早いからねえ、わざわざ早起きをしてやって来るブルーを待たせないためにも、朝の三時半には着いてて欲しいね、あそこにね!」
「…座っているだけで迎えが来るのか? ゴミステーションに」
「そう! 君がブルーのシャングリラで夏休みを過ごすんだったら、座ること!」
それからねえ…、と会長さんは例の言い訳を教頭先生に吹き込みました。ゴミを捨てに来た人に出会った場合は「アートなんです」と答えるように、と。
「ぼくのマンションは仲間しか住んでいないけど…。ご近所の人も使っているしね、あのステーションは。立地の関係というヤツで」
前の晩から捨てておこうという不届き者もいるからゴミはある筈、と会長さんはニコニコと。
「そういうゴミの隣に座って、ブルーを待つ! 来ない間は芸術作品!」
アートのためならぼくも一肌脱ぐことにする、とダメ押しが。
「ぼくは普段はゴミ捨てしないし、ぶるぅの係なんだけど…。君をゴミに出した気分を味わうためには見に行かないとね、ゴミステーション! そしてゴミ捨て!」
ブルーよりも先に到着してゴミを出してやる、と会長さんは宣言しました。
「いいかい、このぼくが生ゴミを捨てに行くんだよ? 君が座って待ってる所へ!」
「…そ、そうか、お前も来てくれるのか…」
それは嬉しい気持ちではある、と教頭先生、ゴミを捨てられても感激の様子。自分自身がゴミ扱いな上に、会長さんがゴミを捨てに来るのに。
「お前がゴミを捨てに来るなら、やはり頑張って其処に座りに行かんとな」
「そうそう、その意気! でもねえ、ぼくが捨てた生ゴミの袋を漁ったりしたらいけないよ?」
それはアートの精神に反する、と会長さんはキッチリと釘を。
「ゴミはゴミらしく、座っているだけ! 他のゴミ袋は荒らさない!」
「分かった、私もゴミ奉行なわけではないからな…」
いちいちチェックをしたりはしない、と教頭先生。本気で捨てられるつもりですよ…。
決まってしまったゴミ出し計画。教頭先生は夏休みの間は留守にする、という届けをあちこちに出してしまって、気分はすっかりソルジャーが暮らすシャングリラへと。
「…つまり、私の仕事というのは青の間の片付けなのですね?」
「それと、料理が出来るんだったら、おやつをよろしく」
材料はちゃんと用意するから、とソルジャーもワクワクしています。
「おやつ係ですか…。甘い物は苦手なのですが…。作って作れないことはないかと」
「じゃあ、お願い! ぼくの青の間、ぶるぅとハーレイしか出入りしないしね、君が増えてもバレやしないって!」
食事だって一人前くらいは誤魔化せるし、と教頭先生を貰う気満々、拾う気満々。キャプテンにも既に相談済みらしく、了解は得てあるそうでして。
「青の間の奥に簡易ベッドを置くから、そこで眠ってくれればいいから! 気が向いた時は、ぶるぅと一緒に覗きをしててもかまわないからね!」
混ざってくれても歓迎するから、と言われた教頭先生、耳まで真っ赤で。
「…た、楽しみにしております…」
明日ですね、とカレンダーをチェックし、会長さんに貰ったゴミ袋を見て。
「これを被ってゴミステーションにいれば、来て下さる、と…」
「そうだよ、君を拾いにね!」
頑張って早起きしなくっちゃ! とソルジャーが拳を高く突き上げ、会長さんも。
「その前にぼくがゴミ捨てだよ! 捨てた気分を存分に!」
「かみお~ん♪ 明日はブルーがゴミ捨てなんだね!」
頑張ってねー! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。えーっと、私たちの方はどうすれば…?
「え、君たちかい? アートを見たいと言うのなら…」
ぼくの家に泊まって中継で見れば、と会長さん。いつものサイオン中継です。それで見られるのならば、ちょっぴり見たいような気も…。
「オッケー、それじゃ全員、今夜は泊まりということで!」
「やったあ、今夜はお客様だあ~!」
晩御飯の後もゆっくり出来るね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねています。おもてなし大好き、お客様大好きだけに、急な泊まりも嬉しいらしくて。
「ねえねえ、帰りに泊まりの荷物を取りに行ったら? 瞬間移動で送るから!」
「それが良さそうだね、ぼくの家へ帰る前に一旦、解散ってことで」
家へ帰って荷物をどうぞ、と瞬間移動でそれぞれの家へ。私も自分の部屋まで送って貰いました。荷物を詰めたら、思念波で合図。直ぐに会長さんの家へと移動出来ましたよ~!
夜は屋上でバーベキュー。生ビールやチューハイなんかも出て来て、ソルジャーは飲んで食べまくって帰ってゆきました。いい感じにエネルギーをチャージ出来たから今夜も楽しみだ、と。
「…御機嫌で帰って行ったけど…。明日の朝、ちゃんと起きるのかな、アレ」
目覚ましをセットしろと言い忘れた、と会長さんが心配してますけれども、もう連絡がつかないそうです。ソルジャーは恐らく大人の時間の真っ最中で、意識がこっちに向いていないとか。
「そういう状態のブルーには連絡不可能なんだよ」
「…忘れて寝てなきゃいいんだがな…」
教頭先生がただのゴミになってしまわれるんだが、とキース君。けれど会長さんは「別にそれでもいいんじゃないか」という答え。
「ただのゴミにはならないと思うよ、アートだからね!」
「…ゴミ収集車が来るまでですか?」
シロエ君の問いに、会長さんは。
「そうなるねえ…。上手くいったら誰かが新聞に写真を投稿してくれるかも!」
「「「うわー…」」」
そんなことになったら写真が世界中に散らばらないか、という気がします。投稿した人が誰かに送って、其処から一気に拡散するとか…。まさか、まさかね…。
私たちの方は徹夜で騒いで、夜明け前。会長さんが「来た!」と声を。
「ハーレイが来たよ、ゴミステーションまで歩いてね」
「「「歩いて?」」」
車じゃないのか、と思いましたが、ソルジャーの世界へ行くんですから、車は自分の家に置いておく方が安心です。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継の画面を出してくれて、まだ暗い中を歩いて来た教頭先生の姿が見えました。普段着姿でゴミ袋持参。
「ふむ、この辺りか…」
ゴミもあるしな、と前の晩から置かれていたらしいゴミ袋の脇にドッカリ、体育座り。例のゴミ袋をポンチョのように頭から被れば、足先まで余裕でカバーです。頭だけが出たテルテル坊主スタイルとでも言うべきでしょうか?
「…座っちゃったよ…」
大真面目だよ、とジョミー君がポカンと口を開け、会長さんが。
「ぼくはゴミ捨てに行ってくるよ。ぶるぅ、生ゴミの袋は今日は一つで良かったっけ?」
「うん、右側のバケツの分だけ!」
「オッケー、それじゃ捨てに行こうかな、アートに花を添えるためにね」
ゴミの間違いじゃないのかい! と誰もが心でツッコミ、暫くすると中継画面にゴミ袋を提げた会長さんが。それを教頭先生の真横にドサッと放り出すと、「おはよう」の挨拶を綺麗に無視。
「ゴミは本来、喋らないものだよ? 理由を訊かれない限りはね」
じゃあね、と立ち去り、戻って来ました、私たちの所へ。間もなく朝一番のゴミ捨てらしい仲間がゴミステーションに現れて…。
「こんな所で何をなさってらっしゃるんです?」
「いや、ちょっとしたアートで、パフォーマンスのつもりなんだが…」
「はあ…。学校の方のお仕事でしょうか、夏休みなのに大変ですね」
では失礼して…、とゴミ袋を置いて去って行った仲間。お次は仲間ではなくご近所の人で、教頭先生、同じく言い訳。そうこうする内、ゴミは増えてゆき、夏だけに…。
「…匂うんじゃないの?」
臭そうだよ、とジョミー君。その瞬間にユラリと空間が揺れて。
「どうしよう、寝坊しちゃったんだけど…!」
あのハーレイ、ゴミ臭くなってるんだけど、とソルジャーは慌てまくりの顔で。
「回収前に洗っていいかな、こっちの世界で?」
「それはハーレイと相談したら? あ、またゴミが増えた…」
臭そうなゴミが、と会長さんは知らん顔。ついでに通りすがりの人がカメラを構えています。アートだと聞いて撮っているらしく…。
「とにかく君が回収したまえ! あのゴミを!」
「臭くなってるから、それは嫌だと!」
いくら青の間が散らかっていてもゴミの匂いはまた別物だ、とソルジャーが騒ぐ間にも増えるゴミ。カメラを構える人も増えて来ました、挙句の果てに…。
「か、会長…。写真がアップされちゃいました!」
新聞じゃなくて…、と携帯端末を持ったシロエ君がブルブルと。携帯端末で見られるってことは、その写真は…。
「「「拡散コース…」」」
ゴミに混じってソルジャーの迎えを待ってらっしゃる教頭先生、下手をすれば地球規模で写真がバラ撒かれてしまうことでしょう。ゴミのアートとして。
「だから、さっさと回収しろって言ってるのに!」
会長さんが怒鳴って、ソルジャーが。
「あれはゴミだよ、もう完全に…。いくらぼくでも、ゴミは欲しくないし…」
またの機会に、とソルジャーの姿が消えてしまって、逃げたようです。教頭先生、ゴミ袋の被り損ですが…。
「まあ、いいか…。ハーレイをゴミに出した気分は味わえたからね」
収集車が来るまでにゴミ袋がどれだけ増えるかな…、と会長さんは楽しそう。例の写真は凄い勢いで拡散中かと思われますけど、あれはアートでいいんでしょうか? タイトルをつけるなら何になるんですか、やっぱり『ウィリアム・ハーレイ』ですか~!?
捨てたい芸術・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ゴミステーションに捨てられてしまった、教頭先生。拾って貰える筈なのに、スルー。
気の毒ですけど、どうしようもないコース。しかも写真が拡散中って、泣きっ面に蜂かも。
次回は 「第3月曜」 8月17日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、7月とくれば夏休み。満喫したい所ですけど、問題があって…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(ふうむ…)
やはり羽根枕が一番人気か、とハーレイが眺めた新聞記事。夕食の後で、ダイニングで。
ブルーの家には寄れなかったから、一人でのんびり食べた夕食。片付けを済ませて、コーヒーを淹れて、今夜はダイニングでゆっくりと。
書斎に行くのもいいのだけれども、新聞を読むならダイニング。そういう習慣。夕刊をじっくり読みたかったから、書斎は後で。日記を書きに、夜は必ず入る部屋だから。
(羽根枕なあ…)
広告というわけではない記事。たまたま枕を取り上げただけ。今はこういう枕が人気、と。
枕に詰める様々な素材。色々な素材が載っているけれど、羽根が一番人気だという。ふんわりと空気を含んで膨らむ、水鳥の羽根が詰まった枕。
(なんたって、天然素材だしな?)
前の自分が生きた時代から、ずいぶんと長く流れた時。死の星だった地球が青く蘇り、その上に人が戻れるほどに。
時が流れた分、技術も進歩したのだけれども、SD体制の頃に流行った合成品は不人気な時代。食べ物を合成で作りはしないし、他の物だって、天然素材が一番なのだといった風潮。
そんな具合だから、今の技術なら作れそうな気がする水鳥の羽根も、合成品は存在しない。全て本物、羽根枕の中身は水鳥が身体に纏っていた羽根。
その羽根枕が一番人気だと書いてあるのだし、こだわりたい時代なのだろう。寝心地の良さと、天然の素材で出来ていること。頭を柔らかく包み込む枕。
同じ天然素材の中では、ソバ枕も人気が高いらしい。しっかりした枕を好む人だと、ソバ枕。
なるほど、と熱いコーヒーをコクリと一口。枕の中身は今も昔も色々だな、と。
(前の俺の頃には、蕎麦は無くてだ…)
蕎麦を食べるという食文化そのものが消されていたから、ソバは栽培されなかった。植物園にはあったかもしれないけれども、ただの植物。その実から蕎麦粉を作りはしないし、ソバの実の殻を詰めた枕もあるわけがない。…あの時代には何処にも無かったソバ枕。
とはいえ、枕の素材は今と同じに色々とあって、羽根枕もちゃんと存在していた。本物の水鳥の羽根が詰まった、軽くて柔らかかった枕が。
けれど…。
(アルタミラだと、枕も無しだったんだ…)
成人検査でミュウと判断され、人間扱いされなくなった前の自分。実験動物に過ぎない生き物、狭い檻の中で生きていた。餌と水だけを与えられて。
檻なのだから、布団も枕も貰えはしない。ゴロリと床に転がるだけで、頭の下は固い床だった。実験の後で、激しい頭痛に苦しんでいても、無かった枕。床で寝るしかなかった檻。
苦痛だけの日々を送り続けて、突然に訪れた破滅の時。星ごと燃やされそうになった日。
逃げ出せないよう閉じ込められた堅固なシェルター、それをブルーが破壊した。自分よりも幼い少年だと思った、前のブルーが。
ブルー自身も驚いたらしいサイオンの爆発、お蔭で脱出できたシェルター。後はブルーと二人で走って、多くの仲間を助け出した。崩れゆく星で、幾つものシェルターを開けて。
その間に仲間が確保していた、逃れるための宇宙船。人類が捨てていった船。それに乗り込み、燃え上がる星を後にした。
操船に慣れていなかったせいで、ゼルの弟を喪ったけれど。
離陸する時には閉めねばならない、乗降口を閉めなかったから。ブリッジの者たちも、乗降口にいた前の自分たちも、閉めることを思い付かなかったから。
吸い出されるように外に放り出され、ゼルの手から離れて落ちて行ったハンス。助かる筈だった仲間を一人失い、闇雲に宇宙へ飛び立っていった。自由になれる星の海へと。
とにかく逃げねば、という思いだけだった、アルタミラからの脱出劇。初めて出会った、大勢の仲間。研究者たちはミュウ同士が顔を合わせないよう、厳重に管理していたから。
前のブルーとも初対面なら、ゼルもヒルマンも、他の仲間たちも。
彼らと食べた最初の食事が嬉しかったことを覚えている。非常食だったけれど、封を切るだけで温まった料理と、ふわりと膨らんでくれたパン。「食べ物なのだ」と覚えた感動。餌とは違うと、これは人間が食べるものだと。
(でもって、枕の方もだな…)
寝られる場所を探していたら、見付かった寝具。毛布やシーツや、幾つもの枕。
それを使って寝るのだと分かった、色々なもの。どれも快適だったけれども、最高に気に入った寝具が枕。頭を乗せて横になったら、「これだ」と心に湧き上がった喜び。
(頭は覚えていたってわけだ…)
記憶をすっかり失くしてはいても、その感触を。かつては頭の下にコレが、と枕のことを。
檻の床とはまるで違った、頭を支えて包み込む枕。その心地良さだけで訪れた眠気。ゆらゆらと眠りの海に誘われた、あの時の枕。
(毛布とかの方は、それほどでもなかったんだよなあ…)
くるまってホッとしたけれど。温かいものだ、と思ったけれども、枕ほどではなかった感激。
欲しい寝具を一つ挙げるなら、「枕だ」と即答出来ただろう。「これがあればいい」と。
毛布やシーツは無かったとしても、枕があれば。…あの檻でだって、枕があったら、気持ち良く眠れる日もあったのでは、と思ったくらいに。
他の仲間たちも、枕への思いは同じだったらしい。寝具の中では枕が最高、と。
アルタミラの檻では、枕など持っていなかったのに。…毛布もシーツも無かったのに。
(みんな枕に慣れちまったから、枕が変わると…)
寝られない者も出て来たのだった、その内に。
船の名前がシャングリラに変わり、船での暮らしに誰もが馴染み始めたら。…アルタミラの檻の記憶が薄れていったら、より心地良く眠りたくなるもの。
檻にいた頃は、床に転がれば眠れていたのに、いつの間にやら、馴染みのベッドと馴染みの枕。中でも枕が眠りの質を左右するから、自分好みの枕を使いたくなった仲間たち。
前のブルーが奪った物資に枕があったら、枕の取り合い。
(枕投げは、やっちゃいないがな?)
そちらの方は、今の平和な時代ならでは。様々な文化が復活して来た時代の、この地域に息づく愉快な文化。合宿などでの子供のお楽しみ、沢山の枕が宙を飛ぶ。
シャングリラで枕投げはしなかったけれど、それを彷彿とさせる枕の奪い合いの記憶。ブルーが手に入れた物資の中から、枕を幾つも引っ張り出しては奪い合った仲間。
「これは俺の頭にピッタリなんだ」と主張してみたり、「これも試したい」と食い下がったり。自分好みの枕が欲しくて、まさに取り合い。
枕の数が充分にあっても、「こっちがいい」とか、「これが欲しい」とか。
絶大な人気を誇った枕だけれども、前の自分は加わらなかった奪い合い。
備品倉庫の管理人をしていた時代も、キャプテンの任に就いた後にも、自分用の枕は一番最後に貰いに行った。残っている枕で充分だったし、特にこだわりも無かったから。
ところが、前のブルーも同じで一番最後。船の仲間に行き渡った後で倉庫に貰いにやって来た。渡す係だった自分の所へ、「新しい枕が欲しいんだけど」と。
枕はブルーが奪って来たのに。…ブルーが調達した物なのに。
誰よりも優先権がある筈のブルーが、最後に貰いに来なくても…、と思ったから。
「先に貰っておけばいいのに…」
お前が手に入れた枕なんだぞ、好きなのを一番に選んでもいいと思うがな?
「ぼくはどれでも寝られるんだよ。…だから最後でいいんだってば」
アルタミラの檻で過ごした時代が長いから、と微笑んだブルー。
誰よりも長くあそこにいたから、どんな枕でもあれば充分幸せなんだ、と。
(あいつ、そう言うもんだから…)
自分が手に入れた枕に全くこだわりもせずに、仲間たちを優先してしまうブルー。どんな枕でも眠れる自分は最後でいい、と。
けれど、誰よりも長く辛い思いをしたブルーこそが、心地良い眠りを手に入れるべきだと思った自分。やっと訪れた人間らしく暮らせる時代なのだし、快適な枕で眠って欲しいと。
そうは思っても、ブルーは枕を選ばないから。…最後にしかやって来ないから。
(前の俺も、枕には詳しくなかったし…)
エラを捕まえて尋ねたのだった。食器の素性を調べるために、何度も倉庫に来ていたエラ。裏に描かれたマークをチェックし、どんな食器かと興味津々で。
そんなエラだから、枕にも詳しいと踏んでいた。詳しくなくても、きっと調べて来てくれると。
「ちょっと教えて欲しいんだが…。枕ってヤツは、どれがいいんだ?」
どの枕が一番いい枕なのか、そいつを教えて欲しくって…。
俺は倉庫の管理をしてはいるがだ、どういう枕がいいヤツなのかが分からなくてな。
「そうねえ…。好みにもよると思うんだけど…」
高級な枕と言うんだったら、羽根枕だわ。あれが一番、高い筈なの。
水鳥の羽根が詰まっているのよ、とても軽くて柔らかい枕。私も一つ貰ったけれど…。寝心地の方は、もちろん最高。それまでの枕とは全く違うわ。
「そうなのか…。羽根枕なんだな?」
分かった、次に羽根枕が手に入ったら、気を付けてチェックしてみよう。
今までは何とも思っていなかったんだが、最高と聞けば、どんな枕か気になるからな。
エラには「ブルー用だ」とは言わなかったけれど、頭に叩き込んだ羽根枕。
次にブルーが奪った枕をコンテナの中から運び出す時、羽根枕を一つ、探し出して倉庫に取っておいた。仲間たちが奪い合う場所には出さずに。
このくらいのことは許されるだろうと、自分用にと選んだわけではないのだから、と。
そしてブルーが「枕はある?」と貰いに来た時、倉庫の奥から取って来て。
「ほら、この枕。…取っておいたぞ、お前の分だ」
いつも残った枕ばかりを持って行くだろ、だから残しておいたんだが。
「えっ?」
ぼくはどれでも寝られるんだし、そんなの、取っておかなくっても…。どれでもいいのに。
「いいから、一度、こいつで寝てみろ」
寝心地が違う筈なんだ。…とっておきの枕なんだから。
「とっておきって…。なに?」
何処か違うの、いつもの枕と?
確かに、とても軽い枕だと思うけど…。
「羽根枕だ、エラのお勧めだ」
そいつが一番、いい枕なんだそうだ。…俺は使ったことが無いんだが、エラは使ってる。
とにかく、一度、試してみろ。枕ってヤツは馬鹿に出来んぞ、他のヤツらは奪い合いだしな?
持って行け、と羽根枕を渡して、次の日、ブルーに出会ったら。
枕の使い心地はどうだった、と訊くよりも前に、ふわりと綻んだブルーの顔。
「ハーレイ、羽根枕、フワフワだね」
とても柔らかくて、気持ち良くって…。アッと言う間に眠っちゃっていたよ。
「そうか。…良かったか、アレ?」
「うん。同じ枕でも、あんな枕もあるんだね…」
今までの枕と全然違う、とブルーは嬉しそうだったから。羽根枕はブルーに合ったようだから。
次からは、ブルーに羽根枕を渡すことにした。他の仲間たちの目に触れないよう、倉庫の奥へと運び込んでおいて。争奪戦の場所には、出しもしないで。
キャプテンになって備品倉庫を離れる時には、次の管理人に選ばれた仲間に…。
(羽根枕を一つ、残しておけ、って…)
伝えておくのを忘れなかった。ブルーが来たら渡すように、と。
羽根枕があったら、ブルーに一つ取っておくこと。それも管理人の役目の内だ、と。
仕事を引き継いだ仲間は約束を守り、ブルーの枕はいつでも羽根枕だった。フワフワの柔らかな羽根枕。争奪戦でも人気が高かったそれを、いつも一つだけブルーのために。
ブルーはやがてソルジャーになって、いつしかエラにも羽根枕のことが知れていたから。
元は人類のものだった船を、白い鯨に改造することが決まった時に…。
「羽根枕じゃと?」
なんの話じゃ、とゼルが訊き返した会議の席。議題は枕の話ではなくて、新しい船で飼う家畜のこと。卵を沢山産む鶏だの、ミルクを出してくれる牛だのと。
「ええ、羽根枕です。…羽根枕はもちろん、御存知でしょう」
そのためにグースを飼いたいのですが、と言い出したエラ。
ソルジャー用に、と。
「なんだね、それは?」
グースは分かるが、ソルジャー用とは…、とヒルマンが首を捻ったら。
「ソルジャーの枕は、いつも羽根枕だったのです」
今も羽根枕を使っておいでですし、ずっと前からそうでした。ハーレイが倉庫の管理をしていた頃から、羽根枕を使っていらっしゃるのです。寝心地がいい枕ですから。
それに高級な枕だそうです、とエラは話した。羽根枕は高級品なのだと。
白い鯨が完成したなら、青の間に住むことになるソルジャー・ブルー。皆が敬うべき存在。
ソルジャーには高級品の枕が相応しいのだ、と主張したエラ。
出来れば羽根布団も欲しいと、高価な布団は青の間のベッドに映えそうだから、と。羽根枕も、羽根布団も、中に詰めるのは水鳥の羽根。…その水鳥が、グースと呼ばれるガチョウだった。
「グースは特に役立つわけでもないのですが…」
卵と肉は食べられます。鶏とさほど変わりません。それに、鶏の羽根では、羽根枕も羽根布団も作れませんから…。
ソルジャーに羽根枕を使って頂くためにも、是非グースを、とエラはグースを推したけれども。
「他にどういう使い道があると言うんじゃ、羽根枕だの羽根布団だのはともかくとして…」
卵と肉なら鶏だけで充分じゃわい、とゼルが髭を引っ張り、ヒルマンもいい顔をしなかった。
「使い道は置いておくとしてもだ、水鳥の飼育は難しそうだと思うがね…」
鶏のようにはいかんよ、グースは。…余計な手間がかかるだろうしね、水鳥だけに。
「やってみる価値はある筈です。飼育数に合わせて小さな池を作ってやれば…」
飼えるというデータを見ましたから。大きな池を作る必要はありません。
水鳥ですから、体重で足を傷めないよう、池はどうしても要るようですが…。
「鶏で充分だと思うけどねえ?」
そうやってソルジャー専用の枕や布団ってヤツを作ってもさ…。
誰がそいつを見に行くんだい、と呆れたブラウ。「ソルジャーのベッドの見学なんて」と。
「…ぼくだって、そんな枕や布団は要らないよ」
卵や肉なら分かるんだけどね、ぼくのためだけの枕や布団の材料に鳥を飼うのはちょっと…。
その分の手間とスペースをもっと、有効に使うべきだと思うよ。
「でも、ソルジャー…!」
羽根枕はソルジャーのお気に入りではありませんか…!
あの羽根枕が無くなるのですよ、船でグースを飼わなかったら…!
「…みんなと同じ枕の何処がいけないんだい?」
それで充分だと思うけれどね、ソルジャーの枕。…羽根枕にこだわるつもりは無いよ。
ぼくに羽根枕は必要無い、というブルーの一言で、エラの意見は却下された。
エラの他には、誰一人として羽根枕にこだわりはしなかったから。…羽根布団にも。
こうしてグースは船で飼われず、水鳥の羽根が詰まった枕は手に入らなくなってしまった。白い鯨は自給自足でやっていく船。人類からは何も奪わず、船の中だけで全てを賄うのだから。
ブルーの枕は、羽根枕から普通の枕に変わった。船の仲間たちの枕と同じ中身の。
(しかし、あいつは、特に何とも…)
言わなかったのだった、寝心地のことは。羽根枕の代わりに、快適なものが作られたから。船の仲間たちが研究を重ね、皆の意見を取り入れながら開発していた枕の素材。
ただ、ある日、ブルーがポツリと零した、羽根枕のこと。まだ恋人同士ではなくて、友達として青の間を訪ねて行った時に。
「ハーレイ、ぼくの枕だけれど…。羽根枕でなくても、これで充分、よく眠れるよ」
無駄にグースを飼わなくて良かった。エラは飼おうとしていたけれども、可哀相だし…。
羽根を毟られてしまうだなんてね、この船の中だけで暮らした末に。…地面も無い場所で。
それに、今頃、気付いたんだけど…。エラも、ぼくと同じ立場だったということに。
「は?」
同じとは…。ソルジャーはエラの意見に反対なさっておられたのでは?
あなたが反対なさいましたから、グースは飼わないことに決まったと記憶しておりますが…?
「飼わない、という所だよ。…エラもこの船で鳥を飼うのを、諦めざるを得なかったんだ」
覚えてないかな、ぼくも鳥を諦めさせられたよ。…エラよりも前に。
幸せの青い小鳥を飼いたかったけれど、グース以上に役に立たない鳥だったからね。青い姿しか取り柄が無くて、ただの愛玩用だから。
…やっぱり、この船に鳥は必要無いんだろう。役に立つ鶏以外の鳥は。
グースも、それに青い鳥もね…。
何の役にも立たないから、とゼルたち四人に反対されて、青い小鳥を諦めたブルー。地球と同じ青を纏った幸せの鳥を、飼ってみたいと夢見ていたのに。
叶わなかったブルーの望み。シャングリラで役に立たない鳥を飼うこと。
エラがグースを諦めるよりも早い段階で、潰えてしまったブルーの夢。シャングリラには青い鳥などは要らないと。…囀るだけの小鳥などは、と。
(そうか、ブルーだけじゃなかったのか…)
エラもだったか、と思い出した顔。グースは駄目だと切って捨てられ、悔しそうな顔をしていたエラ。「小さな池が必要なだけで、卵も肉も手に入るのに」と。それに羽毛も。
シャングリラで鳥を諦めざるを得なかった人間は、前のブルーだけではなかった。幸せの小鳥を諦めたのがブルーで、羽根枕の材料にもなるグースを諦めたのがエラ。
(グースも駄目なんじゃ、青い鳥の方はもっと無理だな)
青い小鳥は卵を産みはするだろうけれど、食用にするには向かない卵。小さすぎて、食べるには不向きな卵。…その上、身体の小さい小鳥は肉にもならない。食べられる部分が無いに等しくて。
グースの方なら、肉も卵も食べられるのに。…羽根で羽根枕も作れるのに。羽根布団だって。
そういうグースも却下されたのが、シャングリラ。飼えはしない、と。
(…あいつがどんなに欲しがったって、青い鳥はなあ…)
エラがグースを諦めたほどだし、白い鯨では飼えなかっただろう。幸せの鳥は。…青い色をした羽根の他には、何の取り柄も無いような鳥は。
せっかく思い出したのだから、明日はブルーに話してやろうか。
「シャングリラで鳥を飼うのを諦めたヤツは、お前だけではなかったようだぞ」と。
丁度いいことに、明日は土曜日。ブルーの家を訪ねてゆく日で、思い出話にピッタリだから。
次の日の朝、目覚めても覚えていた羽根枕のこと。…それから、エラが飼いたがったグース。
是非ともブルーに話さなくては、と朝食を済ませて、颯爽と歩き始めた青空の下。空を仰げば、飛んでゆく鳥も見える今の平和な世界を。…白いシャングリラとは違った、青い地球の上を。
そうして歩いて、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。
ブルーの部屋で、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで問い掛けた。
「お前、羽根枕を覚えているか?」
「え?」
羽根枕って…。フワフワのだよね、なんで羽根枕?
覚えているかって訊かれても…。ママから何か聞いて来たわけ?
ぼくが小さい頃に悪戯したとか、遊んでいる内に破れて中身が出ちゃったとか…?
「さてなあ…。お母さんからは何も聞いちゃいないが、お前、そういうのをやらかしたのか?」
子供ってヤツにはありがちだからな、枕を投げたり、サンドバッグにしてみたり…。
「やっていないよ、そんなのは!」
うんと小さい頃にだったら、やったかもだけど…。覚えていないかもしれないけれど…。
「ふうむ…。お前が今よりチビの頃だし、枕に負けていそうではある」
羽根枕といえども、デカイのを投げようとして転ぶだとかな。…そんなお前も可愛いだろうが、俺が言うのはチビのお前のことじゃない。
覚えているか、と言っただろう?
シャングリラだ。…あの船で前のお前が使ってた枕。
羽根枕のことを覚えていないか、俺がお前のためにと取っておいたヤツ。
「ああ…!」
ハーレイ、ぼくにくれたんだっけね、羽根枕を。
倉庫の奥に残しておいてくれて、「使ってみろ」って。…これが一番いいんだから、って…。
とても寝心地が良かったんだっけ、と思い出したブルー。あの羽根枕、と。
「…どんな枕でも寝られるから、って言ってたけれど…」
それに実際、そうだったけど。…でも、気持ちいい枕だよね、って思ったんだよ、羽根枕。
ハーレイが「良かったか?」って訊くから、「今までの枕と全然違う」って答えたら…。
ぼく用の枕は、いつも羽根枕になっちゃった。ハーレイも、次の倉庫の係も、羽根枕を一つだけ残しておくようにしてくれたから…。
「そりゃまあ、なあ…? お前が手に入れた枕なんだし、優先権はお前にあるだろ?」
お前、遠慮して取りに来ないから、それなら残しておこう、とな。…羽根枕を一つ。
気に入りの枕だと分かってるんだし、先に選んで取っておいても問題無かろう。…キャプテンになる時も、ちゃんと次の係に伝えておくのを忘れなかったぞ。羽根枕を一つ、お前用に、と。
そうやって羽根枕をお前に使わせてたのを、いつの間にかエラが知ってしまって…。
お蔭で愉快なことになっちまったんだ、ずうっと後になってからだが。
シャングリラを改造する時のことなんだがな、とブルーの瞳を覗き込んだ。白い鯨だ、と。
「…自給自足の船にするには、どういう家畜を飼えばいいかと何度も会議を重ねていたが…」
その席で、エラがグースを飼いたいと言い出したんだ。…ソルジャー用に。
「グースって…。それに、ソルジャー用って…」
なんだっけ、そんな話があったっけ…?
ぼくは覚えていないけれども、グースってガチョウのことだったかな…?
「うむ。グースは雁とかガチョウとかだが、エラが言ってたグースはガチョウだ」
卵も肉も食える鳥だが、エラの目的は其処じゃなかった。…グースの羽根だ。
羽根枕の中身は水鳥の羽根で、そいつがグースの羽根だったから…。
エラは羽根枕用にグースを飼おうとしたんだ、お前用の羽根枕を作るために。
ソルジャーには高級品の枕が相応しいからと、グースを飼って羽根枕で…。出来れば羽根布団も欲しいと言い出したのがエラだ、青の間のベッドに映えるだろうと。
つまりは、ソルジャー用の枕と布団のために、グースを飼おうとしたってわけで…。
ゼルもヒルマンも、もちろんブラウも反対意見に回っちまった。…グースなんか、とな。
「あったっけね…! 羽根枕のためだけにグース、って…」
卵も肉も食べられるから、ってエラは頑張ってたけれど…。鶏と違って手間がかかるし…。池も作らなきゃいけないし。
それだけの手間とスペースがあれば、他の家畜が飼えそうだから…。
前のぼくも「要らない」って断ったんだよ、羽根枕なんか。…羽根布団だって。
エラはガッカリしていたけれども、あれでグースの話はおしまい。…要らないんだもの。
「其処だ、其処。…グースは要らない、ってトコなんだが…」
役に立たないとまでは言わんが、手間がかかるから飼えなかった鳥だ。誰かを思い出さないか?
あの船で鳥を飼うのを諦めたヤツは、エラの他にもいただろうが。
「…そっか、前のぼく…。エラよりも前に、青い鳥を諦めたんだっけ…」
幸せの青い鳥を飼いたかったけど、役に立たないって言われてしまって。…青い小鳥なんか…。
可愛がるだけの小鳥なんかは、シャングリラで飼っても意味が無いから…。
青い鳥、本当に欲しかったのに…、とブルーは遠く遥かな時の彼方を思ったようで。
「…ぼくだけってわけじゃなかったんだね、あの船で鳥を飼うのを諦めたのは」
エラも諦めさせられたんだね、青い鳥じゃなくって、グースだったけれど。
青い鳥よりは役に立つけど、鶏の方がもっと役に立つから…。それに世話するのが楽だから。
「そういうこった」
お前の他にもエラというお仲間がいたようだぞ、と教えてやりたくってな。
昨日、枕の記事を読んでて、羽根枕のことを思い出したんだ。…前のお前やエラのことを。
枕の素材は今も色々あるんだがなあ、羽根枕が一番人気らしいぞ。今の時代も。
「ふうん…。羽根枕、今でも一番なんだ…」
フワフワだものね、人気があるのも分かるけど。…前のぼくも大好きだったけど…。
…んーと、ハーレイ…?
「なんだ?」
どうかしたのか、何か質問か?
「えっとね、羽根枕、買ってくれるの、ハーレイ?」
「はあ?」
羽根枕って…。買うって、誰にだ?
「今のぼくにだよ、今度もぼくに羽根枕をくれるのかな、って…」
…今すぐってわけじゃないけれど…。ちゃんと大きくなってからだけど。
「そりゃ、欲しいなら…」
お前が羽根枕がいいと言うなら、もちろん買ってやらないとな?
二人で選びに行こうじゃないか。…お前の頭にピッタリのヤツを。
枕も選び放題だぞ、と片目をパチンと瞑ってやった。専門店で色々試してみて、と。
「前のお前のための枕は、奪った物資の中から選ぶしかなかったが…」
今度は山ほど置いてある店で、好きな枕を選べるってな。大きさも厚みも、色々なのを。
「うん。…それに枕も、今度は二つ置けるしね」
「二つ?」
お前、二つ重ねるのが好みなのか?
ホテルとかだと、二つ置いてあるのも珍しくないが…。お前の枕は一つのようだが?
二つの方がいいと思っているんなら…。二つ買ってやろう、好きな枕を。
「そうじゃなくって…。青の間には二つ置けなかったよ」
ハーレイの分を置きたくっても、置いたらバレてしまうもの。…ぼくの他にもベッドを使ってる誰かがいる、って。
「お、おい…!」
二つっていうのは、そういう意味か?
片方は俺の枕ってわけか、二つ置けると言っているのは…?
「そうだけど…? 青の間の頃だと、ホントに枕は一つだけしか無かったから…」
特大の枕が一つだけだよ。…こんなに大きな枕なんかを貰っても、って思ったくらいの。
あの枕もエラのこだわりだったよ、「ソルジャーですから、特別です」って。
「そうだった…!」
羽根枕を諦めさせられたエラが、代わりに考え出したんだった。
どうしても特別にしたかったんだな、ソルジャーの枕というヤツをな…。
羽根枕のためだけにグースは飼えない、と却下されたエラが推したのが大きな枕。
青の間に置かれた立派な寝台、それに負けない威厳のあるものを、と。
ベッドの幅と同じだけの幅を持っていた枕。枕投げではとても投げられそうになかった枕。前の自分たちが生きた時代に、枕投げなどは無かったけれど。
「あの枕…。最初の間は、大きすぎると思ったんだけど…」
枕とも思えない大きさだよ、って見ていたんだけど、ああいう枕で良かったみたい。
ハーレイが泊まって行くようになったら、丁度いいサイズになったもの。
枕を二つ置かなくっても、ハーレイの枕がちゃんとあったよ。二人で使っても充分なのが。
「大きすぎると思っていた、って…。お前、寝心地に特に文句は…」
使い心地は如何ですか、と俺が訊いても、「いい具合だよ」と言った筈だが…?
もっと小さいものに取り替えますか、と念を押しても。
「どんな枕でも寝られたんだよ、前のぼくはね。…大きすぎても」
アルタミラの地獄を誰よりも長く経験していたから、って前のハーレイにも言ったけど?
大きすぎる程度で寝られないなんて文句を言いはしないよ、枕があるだけで幸せなんだし…。
それにね、「大は小を兼ねる」という言葉があるじゃない。
だから、いいかと思ったんだよ、わざわざ小さい枕を作って取り替えなくても。
エラが羽根枕の代わりに押し付けた、大きすぎる枕。前のブルーには本当に大きすぎたのに。
…前の自分も、大きすぎないかと気遣って何度も尋ねていたのに、「これでいいよ」という答えしか返って来なかった。
今から思えば、「どんな枕でも寝られるから」と言っていたのがブルーだったのに。…羽根枕で眠るようになる前は。ブルーのために、と羽根枕を一つ、残しておくようになるよりも前は。
「…俺としたことが…。お前の言葉を真に受けちまって、失敗したのか…」
デカすぎる枕を前のお前に使わせてたのか、寝心地のことも考えずに。
お前だったら、どんな枕でも「これでいいよ」と言うんだろうに、すっかり忘れちまっていて。
「いいんだってば、ホントにどれでも寝られたからね」
それから、大は小を兼ねるってヤツ。
本当に兼ねたよ、かなり後になってからだけど。…ハーレイも一緒に使ってたしね。
大きな枕が置いてあったから、ハーレイがぼくのベッドに泊まって行ってもバレなかったよ。
あの枕はうんと役に立ったし、大きな枕があって良かったと思わない…?
ハーレイと本物の恋人同士になっていたって、誰も気付かなかったんだから。
「…藪蛇だったな、とんだ話になっているような気がするんだが…」
俺は羽根枕の話をしててだ、その目的は鳥を飼うのを諦めたのはエラもだ、ってことで…。
「エラの話は、もう聞いたってば」
それよりも、枕。…今度は二つ。ハーレイの分と、ぼくの分とで。
「デカイのを一つ置くんじゃなくてか?」
今もデカイの、売られていると思うんだが…。羽根枕もあると思うんだが。
「二つがいいな、買うんだったら」
ハーレイの分の枕を置いても、何の心配も要らないんだもの。
ぼくのと二つ並べてあるのが普通なんだよ、結婚して一緒に暮らすんだから。
今度はフワフワの羽根枕を二つ。前は二人で大きな枕を一つだったけれど、今度は二つ。
ベッドに枕を二つ並べて、それで寝心地を確かめてから、前のように二人で一つに戻すか、二つ並べておくのがいいかを考える、とブルーが言うから。
「気が早すぎる!」
今から枕の心配なんかをしなくていいんだ、チビの間から!
そういう話は、前のお前と同じ背丈になってからにしろ!
枕が一つか、二つかなんかは、チビのお前には早すぎるんだ…!
「ハーレイが先に言い出したくせに!」
ぼくは枕の話なんかはしてもいないよ、その記事だって読んでないから!
羽根枕のことも、エラがグースを飼いたがったことも、すっかり忘れていたんだから…!
ハーレイが自分で言い出したんでしょ、羽根枕だ、って…!
ぼくが枕の話をしたって、怒る権利は無いと思うけど…!
「ハーレイのケチ!」とブルーは膨れているけれど。
羽根枕の話は藪蛇だったけれど、たまにはこんな日もいいだろう。
いつかはブルーと二人一緒に暮らすのだから。…堂々と結婚出来るのだから。
二人で暮らせるようになったら、また羽根枕から始めよう。
前の自分はブルーに一つだけ渡したけれども、今度は二つ、並べて置いて。
ブルーの分と、自分の分と。
前のブルーが羽根枕で眠っていた時代には、恋人同士ではなかった二人。
恋人同士になった時には、もう羽根枕は何処にも無かった。
(…今度は、二人で羽根枕なんだ…)
エラが飼いたがったグースの羽根が、たっぷりと詰まった羽根枕。フワフワの枕。
きっと幸せに眠れるだろう。
ブルーと二人、それぞれにピッタリの枕を選んで、それを並べて。
白いシャングリラには無かった羽根枕。
前のブルーが気に入っていた、あの羽根枕と同じグースの羽根が詰まった、羽根枕で…。
羽根枕の夢・了
※シャングリラで人気だった羽根枕を、ブルーのために取っておいたハーレイ。必ず一個。
白い鯨に改造された後、ブルーの枕は大きすぎる枕に。けれど結果的には、大きい枕で正解。
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