シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふうむ…)
いいな、とハーレイが目を留めたエスカルゴ。いわゆる食用カタツムリ。生とは違って調理したもの、自宅で焼けば出来上がる品が並べてあった。ブルーの家には寄れなかった日、帰りに覗いたいつもの食料品店で。
特設売り場ではなくて、普通の売り場。こういった洒落た食品も置いたりするから、いつ来ても飽きない店で、手ぶらで帰ったことが無い。
(たまにはエスカルゴも美味いんだ、うん)
せっかくだからと買うことに決めた。エスカルゴの生など買ったことがないし、料理した経験は無いのだけれども、美味しさはよく知っている。味の決め手はエスカルゴバター。
(エスカルゴのブルゴーニュ風だっけな)
そういう名前がついている料理、遠い遥かな昔の地球でつけられた名前。エスカルゴで知られたフランスのブルゴーニュ地方、其処での調理方法だったらしい。
(でもって、今でもブルゴーニュ風なんだ)
ブルゴーニュ地方があった地球は一度滅びて、青く蘇った地球に再びブルゴーニュ地方。自分が住んでいる地域が日本の文化を復興させているのと同じで、ブルゴーニュだって存在している。
(…エスカルゴはどうだか知らんがなあ…)
養殖方法はちゃんとあるのだし、ブルゴーニュ地方に限ったものでもないだろう。エスカルゴは多分、自分が住んでいる地域でも育てている筈だから。
(だが、本家本元を名乗っていそうではあるな)
エスカルゴ料理は此処から生まれました、と高らかに謳っているかもしれない。此処で作るのが本物なんです、と。
地球はすっかり変わってしまって、地形もまるで違うのに。
それ以前に一度滅びてしまって、エスカルゴどころではなかったのに。
今の青い地球に住む人々には、地球と言ったら青い星。遠い昔には死の星だったことも、地球を蘇らせるためにSD体制が敷かれていたことも歴史の彼方の出来事で…。
(多少地形が変わりましたが、って話で済んじまってるなあ…)
前の俺たちの苦労は知るまい、とクックッと喉を鳴らしてしまった。家に帰って、エスカルゴを店の袋から取り出したら。パッケージに書かれた「ブルゴーニュ風」の文字を目にしたら。
(ブルゴーニュも今じゃ普通だしな?)
かつてのフランスの文化で暮らしている地域、その一部分がブルゴーニュ。今は誰もがそういう認識、遠い遥かな昔のブルゴーニュ地方もこうだったろう、といった感覚で。
(俺たちも言えた義理ではないんだが…。日本はこうだと思ってるわけで…)
事実、自分も今の青い地球を当たり前のように享受していた。ブルーと出会って、記憶が戻ってくるまでは。前の自分が目にしていた地球、赤い死の星を思い出すまでは。
(しかしだ、俺にとっては地球はこうなわけで…)
青くて、ブルゴーニュ地方もきちんとあって…、とエスカルゴが詰まった袋の封を切る。蘇った地球に生まれたからには、そのように生きていいだろう。前の自分が苦労した分、今度は楽しく。
(ブルーも一緒にいるんだからな)
まだ十四歳にしかならないブルーだけれども、いずれ育ったら結婚出来る。二人で一緒に暮らす家でも、エスカルゴを食べたりするだろう。
「ブルゴーニュ風と来たもんだぞ」と、「こいつが今では当たり前ってな」などと平和な時代を笑い合いながら。
買ったエスカルゴは全部で六個。焼きやすいように専用の皿までついている。素朴な素焼きで、くぼみが六つ。その一つずつにエスカルゴが一個、エスカルゴバターが詰まった口を上に向けて。
オーブンで焼いてもいいのだけれども、他の料理を作るついでに見ながら焼くのも面白い。
(…そっちにするかな)
香ばしいエスカルゴバターの香りは食欲をそそるし、焼き加減も目で確かめられるから。それでいこうと始めた夕食の支度、エスカルゴに合わせてムニエルやスープとフランス風を意識して。
エスカルゴは熱々が美味しいから、と最後に焼いた。まだ熱い皿ごとテーブルに運んで…。
(トングとフォークは無いんだがな?)
あんなのは店で使うもんだ、と持って来た、ごくごく普通のフォーク。洒落た店だとエスカルゴ専用のトングとフォークが出ることもある。トングで殻をしっかり掴んで、細くて長いフォークを使って引っ張り出す中身。
けれども、そんなものまで要らない、家で食べるなら。普通のフォークで充分間に合う。熱々の殻で火傷しないよう、気を付けて扱いさえすれば。
頬張ったエスカルゴは期待通りの美味しさ、買って帰って正解だった。わざわざ店まで出掛けて食べる必要は無し、と言いたくなるほど。
エスカルゴの身を食べた後には、お楽しみが一つ。たっぷり詰まっていたエスカルゴバター。
熱で溶け出し、皿のくぼみと殻の中とにソースのように溜まっているけれど…。
(こいつは、こうして食ってこそなんだ)
カリッと焼いておいたトーストに溶けたバターを吸わせて口へと運んだ。ニンニクの微塵切りやパセリやハーブを練り込んだバター、それが美味しい。このバターだけを使った料理もあるほど。エスカルゴは抜きで、エスカルゴバターで仕上げる料理。
ガーリックトーストもエスカルゴバターで作れるものだし、炒め物にもよく合うバター。それにエスカルゴそのものの味が入れば、美味しさはもう格別で…。
(エスカルゴの出汁が入っています、ってトコか)
前の自分だったら何と言ったろうか、出汁という言葉が無かった時代。肉汁か、ブイヨンとでも呼んだだろうか、エスカルゴを焼いたら出て来る独特の味の液体を。
ともあれ、エスカルゴバターだけでは出せない風味。エスカルゴのブルゴーニュ風を食べた時にしか味わえない味、バゲットを買って来ておいても良かったかもしれない。
元から固いバゲットはフランス料理向きだし、トーストせずともエスカルゴバターを吸い込んで美味しくなるものだから。
(この次にエスカルゴを買おうって時には、バゲットもだな)
バターだけでも一品作れる味なのだから、と殻の中に残ったバターもトーストにつけて頬張り、次のエスカルゴをフォークで引っ張り出した。中身を食べたら、バターを味わう。ニンニクなどの旨味とエスカルゴの出汁、それが複雑に絡んだ味を。
なんとも美味い、と舌鼓を打つエスカルゴ。御大層にもブルゴーニュ風。地球ならではの味だと言いたいけれども、他の星でも料理の名前は同じだろう。エスカルゴバターを使って作れば、星の名前が何であってもブルゴーニュ風で、味わいもきっとそうは変わらない。
(だが、本家本元は地球でだな…)
ブルゴーニュが少し変わっちまったが、と思い出す地球。前の自分が宇宙から見た赤い死の星。あの頃であれば、ブルゴーニュ地方は地図の通りにあっただろう。生き物の姿が無かっただけで。
まさか蘇るとは夢にも思わなかった地球。前の自分が涙するしかなかった星。
その地球は青い星に戻って、自分も其処に生まれ変わった。地形は変わってしまったけれども、ブルゴーニュ地方がある地球に。ブルゴーニュ風と言ったらあそこ、と誰もが思い浮かべる星に。
エスカルゴのブルゴーニュ風は実に美味しくて、エスカルゴバターも最高で。
買って帰った甲斐があった、と熱々のそれを頬張る内に。
(…待てよ?)
何処かで食べたエスカルゴの記憶。そっくり同じにブルゴーニュ風。
それを大勢で食べた気がする、とても賑やかに。
(誰の披露宴だ?)
結婚式くらいしか思い付かない、大人数でこの手の料理といえば。エスカルゴが出て来るようなテーブルとくれば、多分、パーティーくらいなもの。食料品店の棚にも並ぶエスカルゴとはいえ、学校の給食に出はしないから。少し気取ったレストランとか、そういう所の料理だから。
ブルゴーニュ地方の人にとっては、普段着の味かもしれないけれど。馴染みの家庭料理といった所で、エスカルゴバターを作り置きして「時間が無い日はコレだ」と焼くかもしれないけれど。
(しかしだな…)
今の自分が住んでいる地域はブルゴーニュではなくて、遠く離れた日本なわけで。エスカルゴは洒落た料理な扱い、結婚式の披露宴などのパーティーの席が似合いの料理。
大勢でエスカルゴを食べていたなら、ただの教師な自分の場合は結婚式の披露宴くらい。他には思い当たる節などはなくて、それしか無いと思うのだけれど。
(それにしては、だ…)
妙に賑やかだったような記憶。エスカルゴを食べていたパーティー。
披露宴どころか宴会と呼ぶのが相応しいような、かしこまった所がまるで無いもの。
(そんな豪華な宴会なんぞが…)
あったろうか、と首を捻った。エスカルゴのブルゴーニュ風が出されるような宴会の席。
教師仲間の宴会はそこまで豪華ではないし、学生時代の宴会も同じ。柔道や水泳で遠征した先で歓待されても、エスカルゴほどの豪華料理は出なかった筈。
(…ブルゴーニュ地方に行ってりゃ、それもアリかもしれないが…)
生憎とそういう記憶は無かった、ブルゴーニュ地方を名乗る地域で大会などには出ていない。
(…宴会料理でエスカルゴだぞ?)
考えられん、と頭を振った。きっと何かの記憶違いで、そんな宴会は無かったのだろう。何かのパーティーの記憶と混ざって、食べたと思っているのだろう。
それが自然で、ましてシャングリラにエスカルゴがあった筈もないし、と思った所で…。
(違う…!)
シャングリラだった、と気が付いた。あの船で食べた、エスカルゴを。ブルゴーニュ風を。
青い地球など何処にも無かった遥かな昔に、白い鯨になるよりも前のシャングリラで。
前のブルーが人類の輸送船から奪って来たのを、前の自分たちが初めて目にしたエスカルゴを。
奪った物資は分類されて、調理されたり、分配されたりしていたけれど。食料は主に前の自分が仕分けをしたのだけれども、ある日、その中にエスカルゴがあった。それも大量に。
「なんなんだい、これは?」
野次馬よろしく、やって来たブラウ。「妙なものがある」と連絡をしたら、真っ先に。
「俺にも分からん。…だが、食料には間違いなさそうだ」
食料しか入っていないコンテナの中から出て来たから、と説明している最中に現れたゼル。謎の食材を見るなり一言。
「カタツムリだな、これは」
そうとしか見えん、と梱包されたエスカルゴを指先でピンと弾いたゼル。まだ若かった頃で髪も豊かで、後の姿を思えばまるで別人。前の自分も若かったけれど。
食材は保管庫に仕舞わなくてはいけないけれども、正体不明のカタツムリ。生きてはいない冷凍食品らしき代物、それが山ほど。とにかく冷凍、と倉庫に突っ込んだものの、謎だから。その内の一つを保冷が出来るケースに詰め込み、ゼルたちを呼んだという次第。
とにかく来てくれ、と招集をかけた部屋にはブルーも来たけれど。「カタツムリだよね」と指でつつくだけ、答えを持ってはいなかった。
ヒルマンとエラも同じ意見を述べたけれども、どちらからともなく出た「エスカルゴ」の名前。そういう食べ物があった筈だと、食べられるカタツムリだったと思う、と。
「…これがそうなのか?」
何も書かれていないんだが、と示したカタツムリ入りのパッケージ。製造された日と廃棄処分に回すべき日と、それしか記されていなかった。つまり本当に謎のカタツムリ。
「多分、エスカルゴだと思うのだがね」
調べてこよう、とデータベースに向かったヒルマン。エラと二人で。
謎のカタツムリが詰まった保冷ケースを手にして、調べ物に出掛けた博識な二人。ブルーたちと部屋で待っている間に、答えは直ぐに届けられた。「エスカルゴだったよ」と明快に。
「この殻のままで焼くんだそうだ。中身は出さずに」
どうやらそういう料理らしい、とヒルマンがまだ凍っているエスカルゴをつつくと、エラが。
「エスカルゴのブルゴーニュ風と言うのだそうです、バターを詰めてあるのです」
ニンニクやパセリなどを刻んで練り込んだエスカルゴバター、それが決め手の料理だそうです。中のバターが美味しいらしいですから、零さないように焼くべきかと。
ですから殻のままで調理を、と二人に言われたものだから。
「…ならば試しに焼いてみるかな、試食といくか」
今なら厨房も空いているし、と皆を引き連れて出掛けた厨房。パッケージは上手い具合に十二個入りだったから、一人に二個という勘定。傾かないよう注意して並べて、オーブンへ。
初めてだけに火加減に気を付け、これで焼けたと確信した所で二個ずつ皿に移して渡した。
「本当は専用の道具があるのだそうだよ」
中身を引っ張り出すための、と解説しながらフォークでエスカルゴの身を出したヒルマン。前の自分もそれに倣った、ブルーたちも。熱々のエスカルゴを口に運んだ感想は…。
「美味しいじゃないか、カタツムリだとも思えないねえ…!」
極上だよ、とブラウが絶賛、ゼルも「美味い!」と文句なしで。ヒルマンもエラも、前の自分もエスカルゴの味が気に入った。前のブルーも「美味しいね」と笑顔で頬張った。
中に詰まっていたバターが溶け出したのが美味だったから。捨ててしまうには惜しい味だから、誰からともなく「行儀が悪いが…」と、カタツムリの殻から、バターが零れた皿から食べてみて。
本当に美味しいと頷き合って、ブラウが真っ先に言い出した。
「食べる方法、何かあるんじゃないのかい?」
お皿まで舐めたくなる味なんだよ、このまま捨てるとも思えないけどねえ?
「確かに、あるかもしれないね」
調べてみる価値はあるだろう、と試食の後で、ヒルマンとエラは再びデータベースへ。間もなく二人は調べて来た。エスカルゴを食べた後に残ったバターは食事用のパンにつけて食べると。
「料理のソースと同じ扱いです、マナー違反にはならないそうです」
それにエスカルゴバターというものは…、と続けたエラ。バターだけでも料理に使える頼もしいもので、ガーリックトーストをそれで作ったり、他にも色々な使い道が、と。
試食してみて上々だったから、冷凍倉庫に突っ込んでおいたエスカルゴは他の料理と合いそうな日に焼いて食堂で出した。頭数を数えて、一人に三個。
エスカルゴバターを食べるためのトーストもつけて、ヒルマンが料理名と食べ方を解説して。
美味い、と評判だった味。エスカルゴのブルゴーニュ風という名前の食べ物。地球にあるというブルゴーニュ地方はどんな所かと、思いを馳せた者も多かった。
また食べたいと声は高まったけれど、エスカルゴは物資に混ざっていなくて。
「…ぼくが奪いに行って来ようか?」
前のブルーは探しに出掛けると言ったけれども。
「探すって…。エスカルゴを積んだ輸送船をかい?」
そこまでしなくてもいいんじゃあ…。だって、相手はカタツムリだよ?
無ければ困るっていうものでもなし、現に最初はエスカルゴなんて名前も知らなかったんだし。
わざわざ奪わなくてもいいだろ、エスカルゴくらい。
ブラウの言葉は正しかったから、前のブルーがエスカルゴを探しに出ることは無かった。
偶然積んでいたならともかく、探してまでは要らないだろうと。
そうは言っても、美味しかったことも間違いないから、エラがエスカルゴバターを持ち出した。あのバターだけでも料理に使えるのだから、それを使えば、と。
データベースから引き出して来たというエスカルゴバターの材料と作り方。これをベースにして船にある材料で工夫すれば、と。エスカルゴバターが出来たら、それで料理を、と。
(俺が色々と試作してみて…)
バターにニンニク、パセリといった主な材料が豊富な時に何度も試した。どういう割合で混ぜてゆくべきか、トーストにつけても美味しいエスカルゴバターはどれかと。
エスカルゴバターを作っていた時、前のブルーが覗きに来ては出来上がるのを横で待っていた。出来立てのエスカルゴバターを塗ったトースト、それを楽しみにしていたブルー。
カリッと焼けたガーリックトースト、「エスカルゴ無しでも美味しいよね」と。そんなブルーの意見も取り入れ、「これだ」と自信を持てるのが出来た。
完成品の披露はトーストに塗ってのガーリックトースト、「エスカルゴの味だ」と喜んで食べた仲間たち。「これをもう一度食べたかった」と。
皆の舌にも合う味と分かれば、後は工夫を凝らすだけ。材料のある時に作り置きして、似合いの食材が手に入った時にエスカルゴバターで料理する。意外なことにキノコにも合った。チキンならまだしも、キノコは肉ですらないというのに。
ニンニクやパセリなどを微塵切りにして練り込むバターの味は好評で、シャングリラに定着したエスカルゴバター。
本物のエスカルゴは二度と無かったけれども、ブルゴーニュ風のエスカルゴを積んだ輸送船とは出会わないままになってしまったけれど。
前の自分が厨房を離れた後も受け継がれ、作られていたエスカルゴバター。シャングリラが自給自足の白い鯨に改造されても、エスカルゴバターは残っていた。
(確かムール貝で…)
白いシャングリラで養殖していたムール貝。繁殖力が強くて環境の変化にも強かった上に、身も大きいからシャングリラにはピッタリの貝だった。
あれにも使われていたのだったか、エスカルゴバターは。「同じ貝だから、余計に美味しい」と本物のエスカルゴを食べたことのある者たちが喜んでいた記憶。
「ムール貝でもブルゴーニュ風だ」と、「エスカルゴに一番近い味はこれだ」と。
ムール貝の時にも、やはり添えられていたバターを食べるためのパン。溶けて殻から溢れた分はこれを使えば一滴残らず食べられるから、と。
(…あのバターは俺のレシピだよな?)
多分、その筈だと思う。
確認はしていないけれども、前の自分の舌が「違う」と言わなかったから。エスカルゴバターに使っていた材料、それと同じものは白いシャングリラでもきちんと作っていたのだから。合成品に頼ることなく、ニンニクもパセリも栽培していた。
材料が揃うならレシピを変える必要は無いし、きっとそのままだっただろう。前の自分が厨房で試作を繰り返しては、ブルーに試食をさせていたエスカルゴバター。
(こいつは、ブルーに…)
話さなければ、思い出したからにはエスカルゴのことを。エスカルゴバターを作ったことを。
明日は土曜日だから、あの店に寄って買って行かねば、思い出の味のエスカルゴを。遥かな遠い昔に一度だけ食べた、本物のエスカルゴのブルゴーニュ風を。
次の日、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中に、食料品店で買ったエスカルゴ。少し思案して、一人に六個はブルーにはやはり多すぎだろうと、二人で六個。
(…シャングリラの食堂で出した時にも、一人に三個だったしな?)
これで充分、と保冷用の袋に入れて貰って、生垣に囲まれたブルーの家までのんびり歩いて。
門扉を開けに来たブルーの母に袋を手渡した。「昼食に焼いて貰えますか?」と。
シャングリラの思い出の味なので、と中身を指差して頼んだら。
「…エスカルゴ……ですわね?」
こんな洒落たお料理があったんですか、シャングリラには?
生のエスカルゴは、今でも大きな食料品店にしか無いと思うんですけれど…。
うちの近所では買えませんわ、と目を丸くしているブルーの母。「凄い船ですね」と。
「いえ、それが…。一回だけしか無かったんですがね、本物は」
ブルー君…。ソルジャーになるよりも前のブルー君が奪って来たんです、輸送船から。
ですが、エスカルゴバターは定番でしたよ、エスカルゴの評判が良かったもので。
色々な料理に使われていまして…、とトーストもつけて欲しいと注文した。エスカルゴバターを味わうために、と。
「あら、バゲットではありませんの?」
バゲットをおつけしようと思っておりましたけれど、トーストですの?
「最初はトーストでしたから。…本物のエスカルゴがあった時には」
後の時代には、バゲットの出番もあったのですが…。エスカルゴではなくてムール貝でしたが、エスカルゴバターを使っていた貝は。
そういった話をしてから、ブルーの部屋へと案内されたわけだから。二階の窓から下を見ていたブルーは保冷用の袋にも当然、気付く。それが母の手に渡されたことも。
母がお茶とお菓子を用意するために部屋を出てゆくなり、桜色の唇から飛び出した質問。
「お土産、なあに?」
持って来たでしょ、ママに渡しているのが見えたよ。何をくれたの?
「まあ、待ってろ」
その内に分かるさ、俺からの土産。
慌てるな、とブルーに返したけれども、母が運んで来たお菓子は手作りだったから。どう見ても土産などではないから、ブルーは首を傾げながら。
「えっと…。ハーレイのお土産は?」
このお菓子、ママのお菓子だよ。ハーレイのお土産、何処へ行ったの?
「もう少し待て。いずれ出てくる」
お母さんが忘れちまったとか、自分のお菓子を優先したとか、そういうわけではないからな。
「もしかして、御飯?」
お昼御飯になるような何かを買ってくれたの、そういうお土産?
「まあな。それだけで腹が一杯になるってヤツでもないが」
ちょっとしたおかずと言った所か。チビのお前でも、あれだけで腹は膨れそうにないし。
「なんだろう? ぼくでもお腹が一杯にならないようなもの…」
だけど立派なおかずなんだね、ハーレイが買って来てくれるんだから。
何処かの名物とか、そういった感じ?
「…名物と言えば名物かもなあ、名前からして」
誰が聞いてもピンとくるのか、そうじゃないのかは分からんが…。
それっぽい名前のものではある。
「ふうん…?」
地名なのかな、それともお店の名前かな?
聞いただけでも分かる人には分かるんです、っていうのもあるしね、お店の名前。
名物と聞いて、昼御飯の時間を楽しみにしていたブルーだけれど。
母が何の皿を運んで来るかと、何度も時計や扉の方を眺めて待っていたのだけれど。昼御飯にと届けられたものは、例のエスカルゴだったから。他はピラフやサラダだったから。
「…エスカルゴ…?」
ハーレイのお土産、エスカルゴだったの、これを持って来たの…?
「うむ。こいつは思い出の味なんだが?」
エスカルゴのブルゴーニュ風だ、ブルゴーニュ地方の名物と言えば名物かもしれんな。
今の時代はどうだか知らんが、地球が滅びてしまう前にはエスカルゴの名産地だったらしいし。
「え…?」
そんな所のエスカルゴがどうして思い出の味なの、前のぼくは地球を知らないよ?
ブルゴーニュって、確かフランスだよね?
前のぼくが生きてた頃には地球は死の星で、フランスも無かったと思うんだけど…。
そこのエスカルゴを食べたくっても、いろんな意味で食べられなかった筈なんだけど…?
どうしたら思い出の味になるの、とキョトンとしている小さなブルー。
まるで忘れてしまっているようだから、「奪って来たろ?」と教えてやった。
「前のお前だ、まだリーダーですらなかった頃だな」
お前が奪った物資の中にだ、山ほどの冷凍のエスカルゴが混ざっていたんだが…。これと同じでブルゴーニュ風のだ、この貝は何かと前の俺にも謎だった。
なにしろ見た目がカタツムリだしな、食えるにしたってどうやって料理をするんだか…。
分からないから招集をかけて、ヒルマンたちと試食したんだが?
ヒルマンとエラが「エスカルゴだ」と正体を解き明かしてくれて、俺が焼いてみて。
「ああ…! あったね、そういうエスカルゴ…!」
とっても美味しかったんだっけ、ハーレイが焼いて、一人に二個ずつ。
エスカルゴも凄く美味しかったけど、バターが美味しかったんだよ。
お行儀の悪い食べ方をしたよ、エスカルゴの殻とか、お皿からまで食べちゃったんだよ。溶けたバターが零れてたから、お皿の分まで。
「思い出したか? エスカルゴのことを」
あの時の食べ方をやってもいいぞ。今日はパンもあるが、せっかく思い出したんだしな。
お母さんに頼んで、食堂で出した時と同じにトーストにして貰ったんだが…。
食堂じゃ流石に皿からはマズイし、ヒルマンとエラが調べたお蔭でパンで食うのも知ってたし。
「そうだっけね。食堂の時にはトーストがついてたんだけど…」
ハーレイと最初に食べた時には、ぼくもお皿を舐めちゃってたし…。
じゃあ、ちょっと…。
お皿の分はトーストにするけど、殻に残ったバターはそのまま食べてみるね。
エスカルゴの身を一個、フォークで引っ張り出して食べた後。
ブルーは殻をヒョイと持ち上げ、中のエスカルゴバターを「美味しい!」と吸っているから。
「気に入ったか? 一人三個って勘定なんだが…」
俺は昨日に六個食ったし、全部お前にやってもいいぞ。食えるんならな。
「んーと…。六個も食べたら、ピラフを残してしまいそうだよ…」
でも美味しい、と二個目の殻からエスカルゴバターを吸っていたブルーが「あれ?」と赤い瞳を見開いて。
「…ハーレイ、このバター、作っていたよね?」
エスカルゴがとっても美味しかったからまた食べたい、っていう仲間が多くて…。
ぼくが奪って来ようかって言ったら、ブラウが、そこまでしなくてもいいじゃないか、って…。
それでエスカルゴバターを作るってことになっていなかった?
美味しいのはエスカルゴバターなんだし、それがあれば、って。
「おっ、思い出してくれたのか?」
前の俺がせっせと作っていたこと、お前、思い出してくれたんだな?
「うんっ!」
ハーレイ、厨房で色々と作り方を考えてたっけ…。どれが一番美味しいだろう、って。
ニンニクやパセリを細かく刻んで、柔らかくしたバターに練り込んじゃって。
出来上がったら「これはどうだ?」ってパンに塗って焼いてくれていたよね、試食用に。
前のと比べてどんな風だ、って訊かれたこともあるし、もっとパセリが多い方がいいか、とか。
エスカルゴバターが完成するまで、何度も食べに出掛けていたよ。
あのバターを塗ったガーリックトースト、ハーレイと何度も食べたっけね…!
完成品が出来上がるまでにトーストを何枚食べただろう、と懐かしそうなブルー。
とても香ばしいトーストが出来ても、ハーレイは納得しないんだから、と。
「あのバター、あれからどうなったっけ…?」
ハーレイが作ったエスカルゴバター、あの後はどうなっちゃったのかな…?
「定番だったぞ、白い鯨になった後もな」
ムール貝で好評を博していたと思うんだが…。
これで作れば同じ貝だから、エスカルゴの味に一番近い、と言うヤツもいて。
ムール貝のブルゴーニュ風って呼ぶヤツもいたぞ、ムール貝のは。
「そうだっけ…! ムール貝にも使っていたよね、エスカルゴバター」
あれ、ハーレイのレシピだった?
ハーレイが作ったエスカルゴバターの味だったのかな、ムール貝で作っていた頃も…?
「多分、そうだと思うんだがな」
俺の舌は違和感を覚えちゃいなかったわけだし、材料は船に揃っていたし…。
何か足りないものがあったなら、レシピを変えるってこともありそうなんだが…。
そうじゃなかったから、俺のレシピのままだろう。
バターをこれだけ使うんだったらニンニクがこれだけ、パセリはこれだけ、と。
だが、確認はしていないからな、誰かが変えていたかもしれん。
もっと美味いのが作れるだろうと工夫したヤツ、絶対に無いとは言えないからな。
今となっては謎なんだが…、と笑ったら。
シャングリラの厨房のレシピは残っていないから、自分の目では確かめられないと、「前の俺のレシピのその後はお手上げなんだ」と、軽く両手を広げて見せたら。
「あのレシピ、今でも覚えてる?」
エスカルゴバターのレシピは、ハーレイの頭に残っているの?
「まあな。単純なもんだし、よく作ってたし…」
厨房の誰かが書き残していたら、俺のレシピか、そうでないかは一目で分かるな。
「じゃあ、作ってよ」
今日のお土産は買ったヤツだけど、ハーレイのレシピでエスカルゴバター。
「手料理は駄目だと言ってるだろうが」
何度言ったら分かるんだ。持って来られるなら、俺だってちゃんと作って来てる。
エスカルゴを買って持ってくる代わりに、あのバターを持って来てトーストってトコか。
「いつか、食べられるようになった時だよ!」
ぼくが前のぼくと同じに育ったら、ハーレイの家にも行けるし、食べたいよ。
ハーレイが作ったエスカルゴバター、こういう味のヤツだったよね、って。
「分かった、腕を奮うとするかな、お前のために」
ガーリックトーストもいいが、ムール貝のブルゴーニュ風も作ってみないといけないな。
俺のレシピで作っていたのか、厨房のヤツらが変えちまったのか。
二人がかりなら謎も解けるだろ、同じ味だったか、違う味だったか。
…いくら昔のことだとはいえ、こうして思い出せたんだからな。
いつかブルーにエスカルゴバターを御馳走する。前の自分が作ったレシピで。
その時には本物の生のエスカルゴも買って来ようか、せっかく地球に来たのだから。青い地球の上にブルゴーニュ地方を名乗っている場所もあるのだから。
「なあ、ブルー。…お前と二人で食おうって時には、本物のエスカルゴのも試してみないか?」
前の俺たちは冷凍で一回きりだったしなあ、そうじゃないのを。
生のエスカルゴを買いに行ってだ、そいつでブルゴーニュ風といこうじゃないか。
ちゃんと今ではブルゴーニュ地方も地球にあるってな、地形はすっかり変わっちまったが。
エスカルゴのブルゴーニュ風が生まれた時代とは、まるで別物のブルゴーニュだが…。
だが、地球だしなあ、エスカルゴバターを作るんだったら本物がいいと思わんか?
でもって、バゲットも用意して、溶けたバターをそいつで食べて。
「本物のエスカルゴでハーレイが作るの? ブルゴーニュ風を?」
凄く楽しみ、ムール貝のブルゴーニュ風とか、ガーリックトーストも楽しみだけど…。
前のハーレイのレシピで本物のエスカルゴのブルゴーニュ風が食べられるなんて、夢みたい。
…そんなの、想像もしていなかったよ、前のぼくは。
「だろう? 今度は二人で工夫するかな、エスカルゴバターを使った料理」
前の俺の時は俺が一人で考えていたが、今度はお前と一緒に暮らすんだしな。
どんどんアイデアを出してみるといいぞ、こんな料理はどうだろう、とな。
「もちろんだよ!」
ハーレイ、料理が得意なんだし、無茶を言っても作ってくれそう。
これのエスカルゴバターがいいよ、って凄くとんでもないのを頼んでも。
「おいおい、とんでもないヤツってか…」
好き嫌いが無いのは知っているがだ、変なのは勘弁してくれよ?
流石に刺身には合いそうにないんだからなあ、エスカルゴバターっていうのはな。
刺身は駄目だ、と言ったけれども、やってやれないこともない。
生の魚では合わないけれども、ソテーしたならエスカルゴバターも合いそうだから。
ブルーが無茶を言うのも楽しいし、自分で無茶をしてみるのもいい。
「前の俺なら、これは有り得ん」と思う食材が山ほど溢れているのが今だから。
前の自分がブルーと二人で作ったエスカルゴバターのレシピ。
それを使って、きっと色々な料理が出来る。
青い地球の上で、美味しいエスカルゴバターを使って、幾つも、幾つも。
ブルーと一緒に味見してみては、「これは美味いな」と得意料理に加えていって…。
エスカルゴの味・了
※前のブルーたちが一度だけ食べたエスカルゴ。そこから生まれた、エスカルゴバター。
シャングリラで受け継がれた前のハーレイのレシピ、今度は青い地球で味わえそうです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えーっと…?)
白い、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、ダイニングでおやつの時間の真っ最中に。
テーブルの上にあった新聞、それを何気なく広げてみたら白い鳥の写真が載っていた。白文鳥のような小鳥だけれども、鳥籠の中でも人間の手の上にいるわけでもなくて。
何処かの屋根らしき所に止まった小鳥の写真に「アルビノ」の見出し、白い雀だと書いてある。そう言われてみれば、白い小鳥の隣にごくごく普通の雀が何羽か。
生まれつき色素を持たないアルビノ、雀の場合は白文鳥みたいな姿になってしまうらしい。瞳の色はよく分からないけれど、桜色とも黄色とも見えるクチバシと足。本当にまるで白文鳥。
(ぼくとおんなじ…)
アルビノだったら自分と同じなのだし、それに姿も愛らしいから。興味津々で記事を読み始めて驚いた。アルビノが珍しいことは分かるけれども、雀の場合。羽は弱くて、飛ぶ力も弱いと書いてある。普通の雀たちよりも弱く生まれてしまった雀。
(ぼくはサイオンがカバーしてくれるけど…)
遥かな昔のアルビノだったら、太陽の光に弱かったらしい。目には光が眩しすぎるから保護するためにサングラス。肌も日焼けする前に火傷してしまう、太陽の光を直接浴びたら。
日光浴どころか、太陽が空に輝く間は自由に出歩けなかったと言う。遠い昔のアルビノならば。
けれども、今は誰もが持つサイオン。それが弱点を補ってくれる、意識せずとも。赤い血の色を透かす瞳は平気で太陽を見上げられるし、肌だって見る間に真っ赤に腫れたりはしない。
前の自分だった頃と同じで、何の不自由もない身体。
不器用なサイオンも、これに関しては全く問題なかったらしい。
生きるのに必要なことだから。呼吸するように自然に備わった力、身体の中を巡るサイオン。
今の時代もアルビノの人間は珍しいけれど、サイオンのお蔭で誰でも普通の生活が出来る。外を駆け回ることも出来れば、太陽の光が強い真夏に海へ出掛けて泳ぐことだって。
(…ぼくだって身体が弱くなければ…)
前と同じに虚弱な身体に生まれなければ、元気一杯の子供だっただろう。弱い身体はアルビノに生まれたからとは違って、身体の中身の問題だから。アルビノゆえの弱点ではないのだから。
(ぼくの身体が弱いだけだよ、アルビノじゃなくても)
つまりは健康に全く支障が無いのが今のアルビノ、人間がアルビノに生まれた場合。
ところが雀だとそうはいかないらしい、羽が弱いというのなら。飛ぶ力までが弱いのなら。
それに…。
(酷い…!)
なんて酷い、と記事の内容に憤ってしまった。真っ白な雀に添えられた記事の次の文章。
羽が弱いだけでも可哀相なのに、白い雀はもっと酷い目に遭うのだという。卵から孵った時には他の雀と同じに見えるし、ほんの僅かだけ皮膚の色が違う程度だけれど。少し育って羽根が生えてきたら、白い羽根が身体を覆うから。兄弟の雀とは違う色の羽根を纏うから。
見掛けが異なるアルビノの雀は、巣から追い出されてしまうのが普通。自分の子供とは違う、と親鳥が外へと捨ててしまったり、兄弟たちに放り出されたり。
だから滅多にいないらしいアルビノ、自分の力で巣から出られるまで育てないから。それよりも前に巣から出されて、死んでしまうのが白い雀の運命だから。
育つことさえ難しいらしいアルビノの雀。ただでも羽が弱いというのに、その羽を使って巣立つ所まで育てて貰えない真っ白な雀。親鳥や兄弟に巣から追い出されて。
(運が良かったの…?)
珍しいという白い雀は運良く難を免れて、此処まで大きく育ったろうか。それとも親鳥や兄弟に恵まれた雀だったのだろうか。色が違うからと嫌いはしないで、優しく受け入れてくれるような。
とにかく雀は飛べる所まで育ったのだし、生きられて良かったね、と微笑んだけれど。
後は元気に暮らしてくれれば、と記事を読み進めたけれど。
(……嘘……)
普通の雀とは見掛けが違った真っ白な雀。人間が見ても同じ雀とは思えない雀。
まるで違うから、交配したがる相手もいないと書かれてあった。一緒に子孫を残そうとする雀は何処にもいなくて、つがいになれはしないのだと。
(そんな…)
同じ写真に写っている雀は、白い雀と同じ巣で育った兄弟なのだろうか?
仲良く屋根に止まっているのに、白い雀のすぐ側に二羽もいるというのに。一緒に餌を見付けに来たのか、羽を休めてお喋り中か。
白い雀も育ったからには大丈夫だとホッと安心したのに、これから先。
親兄弟ではない他の雀は、相手にしてくれないというのだろうか?
見掛けが違う雀だから。雀の色の羽根の代わりに、真っ白な羽根を纏っているから。
恋人が欲しいと思っても。
恋をしたいと囀っても。
(可哀相すぎるよ…)
雄か雌かは知らないけれども、独りぼっちの真っ白な雀。
記事には書かれていない性別、外見だけではきっと判断出来ないのだろう。羽根の模様で見分けようにも、真っ白な雀なのだから。雄か雌かの違いが分からないのだから。
鳥は大抵、雄と雌とで羽根の模様が違うもの。尾羽の形まで違っていることも珍しくない。雀も何処かが違うのだろうか、どれも同じに見えるけれども。
(…でも、この雀がどっちなのかは…)
写真を撮った人にも分からず、それを調べた学者にだって分からなかった。雀に詳しい人間でもその有様なのだし、雀同士なら本能的に避けるのだろう。あれは違うと、雀ではないと。
無事に育った白い雀なのに、恋も出来ずに生きるしかない。恋の相手が現れないから。
そればかりか…。
(殺されちゃうの?)
白い雀に生まれた宿命、真っ白な羽根を持っているせいで。
普通の雀は地味な色だから、何処へでも姿を隠せるのに。空を飛んでいても目を引かないのに、白い雀はそうはいかない。木の葉や土などは隠れ蓑になってくれる代わりに、白い羽根の色を逆に目立たせるだけ。空を飛んでも似たようなことで、白い身体が日射しを弾いて輝くだけ。
雀を餌にする天敵の目に付きやすいから、白い雀は狙われる。
前の自分のように狩られて、殺されてしまって、それでおしまい。
恋も出来ずに、それっきりで。鷹や大きな鳥に追われて、弱い羽では逃げ切れなくて。
新聞の写真の白い雀は卵から孵って六ヶ月か七ヶ月くらい。そこまで生きられたことが奇跡で、動物学者も驚くほどの珍しさ。白い雀は育たないから、育っても狩られておしまいだから。
無事に育った白い雀は、こうして新聞記事にもなった。白い雀がいると聞き付け、粘り強く雀が来る場所で待って写真を撮影した人のお蔭で。
なのに…。
(これっきり…)
白い雀と人との出会いは、これっきり。
学者を驚かせ、新聞の紙面を飾った奇跡の雀は、保護しては貰えないのだという。天敵のいない動物園とか、怪我をした鳥などの面倒を見てくれる場所。そういう施設は白い雀を受け入れない。
せっかく大きくなれたのに。
巣から追われず、鷹にも狩られず、此処まで育って来られたのに。
珍しいアルビノの雀がいると、奇跡の雀だと人間が見付けてくれたというのに、その人間は保護しない。白い雀がのびのびと暮らせる施設に収容してはくれない。
自然の生き物は自然のままに。人は手出しをせずに見守る、それが蘇った地球の鉄則だから。
どんなに珍しい白い雀でも、例外になりはしないという。
いつか狩られてしまう現場に写真を撮る人が居合わせたとしても、写真を撮るだけ。天敵の鷹を追い払おうとしてはくれずに、白い雀の最期を撮影して帰るだけ。
自然はそういうものだから。食物連鎖というものだから。
溜息をついて閉じた新聞、アルビノの雀には無いらしい未来。恋も、普通の雀の寿命も。
あまりに雀が可哀相すぎて、部屋に戻っても頭から離れない真っ白な姿。白文鳥かと思った雀。
(ちょっとくらい…)
例外があってもいいのにと思う、こんな時くらい。
自然の掟は分かるけれども、白い雀を保護して助けてやるくらい。
雀が一羽消えたところで、鷹は困りはしないから。他の獲物を探せばいいだけのことで、獲物は沢山いるのだから。白い雀を食べれば特別な栄養になるならともかく、雀は雀なのだから。
それに、白い雀。
自然の中へと置いておいても、恋の相手は見付からない。他の雀とつがいになって子孫を残せる雀だったら、保護してしまえば自然のバランスが少し崩れはするけれど。白い雀に恋をする相手はいないわけだし、自然のバランスは崩れない。
だから助けてやりたいと思う、自分と同じにアルビノの雀。放っておいたら他の雀よりも哀れな最期を迎えるのだから。
(可哀相だよ…)
恋も出来ずに独りぼっちで、狩られて死ぬまで生きてゆくだけ。
飛ぶ力さえも弱い身体で、いつか終わりが来る日まで。
勉強机の前に座って、頬杖をついて。白い雀を待ち受けているだろう運命を思うと、胸の奥から遠い記憶が湧き上がってくる。いつか狩られる真っ白な雀。
(前のぼくみたい…)
メギドでキースに狩られた自分。そう、あれは文字通りに「狩り」だった。
前の自分を殺したいなら、メギドを止められたくなかったのなら、心臓を狙えば良かったのに。たった一発、それだけで終わり。シールドも張れなかった前の自分は倒れておしまいだったろう。
それが出来る腕を持っていたのがキースだったのに、そうする代わりに急所を外した。
(…絶対、わざと…)
三発も続けて狙いを外すわけなど無いから。ただの兵士だったらともかく、メンバーズなら。
キースが何を思っていたかは分からないけれど、楽しんでいたことだけは分かった。前の自分を追い詰めたならば何が起こるか、どうやって仕留めるのがいいかと。
(…狩りを楽しみすぎて失敗…)
最後の一発で仕留めるつもりだったのだろう。「これで終わりだ」と撃ち込んだ弾。シールドを突き抜けて右の瞳を砕いたあの弾、それで獲物を倒すつもりでいたのだろう。
成功するとキースが思い込んだ狩り。獲物を仕留めて、メギドも守れると思っていた狩り。
けれど、生憎と前の自分は反撃の機会を狙っていたから。狩られながらも、どうすればキースの裏をかけるか、懸命に考え続けていたから。
(…巻き込んでやろうと思ってたのに…)
残ったサイオンの最後の爆発、暴走させるサイオン・バースト。それでキースもメギドも纏めて終わりだと思っていたのに、逃げられたキース。駆け込んで来たマツカが連れ去ったキース。
(…あの時、キースが死んじゃってたら…)
SD体制の崩壊までには長い時間がかかっただろう。ミュウと人類との和解までにも。
だからキースを恨みはしないし、憎んでもいない。共に語り合える機会があったら、違う道へと歩んだろうから。キースの地球への固い忠誠、その信念を覆すことが出来たなら。
それが分かるから、前の自分を狩ったキースを、けして恨んではいないけれども…。
(そうだ、ハーレイ…!)
ハーレイはキースが嫌いなのだった、前の自分を狩った男だと知ったから。
嬲り殺しにしようとしたことを知ってしまったから、キースを嫌っているハーレイ。まるで違う生を生きている今も、前の生からの続きを生きているかのように。「あいつを殴るべきだった」と何度も口にしているハーレイ、「知っていたなら殴っていたのに」と。
前の生が終わった日の一日前、死に絶えた地球へと降りたハーレイ。其処でハーレイはキースと再び出会ったけれども、人類側の代表たる国家主席と挨拶を交わしてしまったという。人類側との会談に向けて、ミュウを代表する一人として。
(前のぼくのことを、ハーレイは知らなかったから…)
キースがメギドで何をしたのかを知っていたなら、殴ったのにと悔やむハーレイ。殴れる機会を逃した上に、二度とチャンスは来ないのだと。キースは何処にもいないのだから。
(ハーレイだったら…)
どうするだろうか、白い雀の話をしたら。
前の自分とそっくり同じに、狩られてしまうだろう雀。白い身体が天敵の目を引き、弱い羽では逃げられなくて。普通の雀に生まれていたなら、そんなことにはならないのに。
(…見付かりにくいし、逃げる速さだって、もっと…)
真っ白な姿に生まれたばかりに、狩られるだけの運命の雀。恋も出来ずに狩られて終わり。
あの可哀相な白い雀を、ハーレイだったら助けに行ってくれるだろうか?
キースさながらの鷹に狩られて、死んでしまうしかない白い雀を。
ハーレイだったら、と見えて来た希望。
前の自分と何処か重なる白い雀を、ハーレイは助けてくれるかもしれない。
(えーっと…)
白い雀が見付かった地域は此処から遠いけれども、遥かな昔はオーストラリアという名の大陸があった辺りだけれど。ニュースが届くくらいなのだし、同じ地球には違いない。
その地域で暮らす人たちに向けて、白い雀を助け出すために、何か運動をしてくれるとか。署名活動だとか、そういったことを。例外を認めてくれそうなことを。
前の自分の最期を知っているハーレイならば、と恋人の顔を思い浮かべた。
(…白い雀、前のぼくと少し似ているものね…)
放っておいたら、鷹に狩られてしまうのだから。
前の自分がキースにそうされたように、獲物を求める鷹に殺されてしまうのだから。
頼もしい援軍に思えるハーレイ。白い雀を助けようと言ってくれそうなハーレイ。
(来てくれないかな…)
そしたら早く頼めるのに、と何度も視線を投げた窓。白い雀を助けてやるなら、一日でも早く。此処でこうしている間にも、目立つ身体で何処かを飛んでいるのだろうから。
(…鷹に見付かったらおしまいだものね)
他の雀よりも狙われやすい真っ白な身体、逃げて飛ぶには弱すぎる羽。助けに行くまで頑張って逃げて、と祈るような気持ちで窓の方を何度見ただろう。不意に聞こえたチャイムの音。待ち人が訪ねて来てくれた合図。
窓に駆け寄り、門扉の向こうのハーレイに大きく手を振った。「待っていたよ」と。
やがて部屋まで母に案内されて来たハーレイ。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、もう早速に切り出した。
「あのね…。ハーレイ、白い雀を知っている?」
今日の新聞に載っていたけど、ハーレイ、その記事、気が付いてた?
「いや? …白い雀というのはなんだ?」
白いってことはアルビノなのか、そいつが何処かで見付かったのか?
「そう。…えっとね、昔はオーストラリアだった場所だよ、今は地形が変わっているけど…」
其処で見付かったんだって。真っ白で、白文鳥みたいに見えちゃう雀。
可愛かったけど、その雀、可哀相なんだよ。…ちょっぴり、前のぼくみたい。
「前のお前だと?」
何処が雀と似てると言うんだ、前のお前が?
「…鷹の獲物になっちゃう所…。白い雀は目立つんだって」
普通の雀だったら、そう簡単には見付からないけど、白い身体はよく目立つから…。
それに白い雀は羽も飛ぶ力も弱いんだって。見付かっちゃったら、もう逃げられないよ。
前のぼくがメギドでキースに撃たれた時と同じで、そのまま殺されちゃうんだよ…。
「なるほどなあ…。獲物になるために生まれて来たような雀というわけか」
おまけに弱くて、見付かったら最後、もう逃げ道は無いんだな。
…確かに前のお前に似てるな、メギドでキースに嬲り殺しにされそうだったお前に。
前のお前はキースにとっては格好の獲物で、どう考えても狩りを楽しんでいたようだからな。
あれに似ているな、とハーレイの眉間に寄せられた皺。キースの名前は聞きたくもない、という風に見える表情、ハーレイは今もキースを許していないことが分かる顔だから。
「…じゃあ、助けてあげてくれないかな、雀」
白い雀は保護して貰えないんだよ、今のままだと。…珍しい白い雀なんだ、っていうだけで。
放っておいたら、じきに鷹とかに見付かってしまって獲物になっちゃう。
そうならないように助けてあげてよ、あの白い雀。
「助けるって…。俺がか?」
俺がそいつを助けてやるのか、誰も助けてやらないから、と?
「うん、ハーレイは大人だから…」
ぼくみたいにチビの子供じゃないから、色々と方法を知っているでしょ?
白い雀を保護して下さい、って署名を集めてお願いするとか、その地域の人たちに手紙を書いて保護を頼むだとか。
雀を保護してくれそうな施設、きっと幾つもあるんだろうし…。それを探して片っ端から手紙を出したら、何処かが動いてくれるかも…。
…今は駄目でも、「お願いします」って頼めば保護してくれるかも…。白い雀は珍しいもの。
展示したってきっと綺麗だよ、大勢の人が見に行くだろうし、お願い、ハーレイ。
白い雀を助けてあげてよ、このままだったら前のぼくみたいに鷹に殺されちゃうんだもの…。
お願い、と頭を下げたけれども、ハーレイは難しい顔付きで腕組みをして。
「うーむ…。お前の気持ちは分からないでもないんだが…」
前のお前に似てると言われりゃ、俺も助けてやりたい気持ちもするんだが…。
助ける相手が雀じゃなあ…。いくら珍しくても、雀は雀だ。
「…駄目なの?」
ハーレイでも助けられないの?
白い雀を助ける方法、ハーレイにも思い付かないの…?
「お前もその記事、読んだんだろうが。…それで雀が保護されていないと知ってるわけだ」
記事に書いてある通りだってな。野生の生き物はそのままに、っていうのが地球の基本だろ?
そいつを捻じ曲げちゃいかんってことで、白い雀もそのままなんだ。
雀じゃなくって特別に珍しい生き物だったら、保護するってこともあるんだろうが。
「でも、青い鳥…」
前に青い鳥を飼おうとしてたよ、今のぼく。
ハーレイが「欲張るんじゃない」って言うから逃がしたけれども、ウチに来たオオルリ。
ダイニングの窓にぶつかってしまった青い鳥だよ、ハーレイも一緒に見てたでしょ?
あれは飼っても良かったんだし、白い雀だって誰かが飼っても良さそうなのに…。
オオルリも雀も似たようなものだよ、おんなじ野生の生き物だよ…?
あの青い鳥は飼おうと思えば飼えた筈だ、と主張したら。オオルリを飼ってもかまわないなら、白い雀も飼えそうだけど、と食い下がったら。
「そりゃまあ、まるで駄目ではないが…」
実際、野生の鳥を引き取って面倒を見ている施設もあるしな、絶対に駄目なわけじゃない。
あのオオルリは窓のガラスに勝手にぶつかったわけで、お前が捕まえた鳥ではないし…。
そいつを獣医に連れて行ってだ、後遺症が出たら大変だからと飼ってやるのはお前の自由だ。
しかし、そういう例外を除けば、野生の鳥を飼うというのは難しいな。
さっきも言ったろ、野生の生き物は自然の中にそのまま置いておくのが地球の基本だ。
よほどの理由があれば別だが、保護するなんぞはとんでもない。
何処の施設でもまず断られるぞ、大怪我をした雀を持ち込んだんなら、いけるだろうが。
「それじゃ、白い雀…」
鷹にやられて落っこちてました、っていうんでなければ何処も保護してくれないの…?
「そういうことだ。誰かが拾って連れて行ったら、治療して飼って貰えるだろうが…」
怪我もしないで飛んでいるなら、可哀相だが、諦めるんだな。
狙われて殺されちまいそうだ、っていうのは保護する理由にはならん。
「ハーレイ、酷い…!」
可哀相だよ、あの白い雀…!
自分のせいで白く生まれたわけじゃないのに、白いだけで目立って狙われて殺されちゃって…!
「…それを言うなら、前の俺たちだって、そうだったろ?」
俺たちはミュウになろうと思ったわけじゃない。…なりたくてなったわけじゃないんだ。
だが、人類は俺たちに何をした…?
ミュウだというだけで、ヤツらは俺たちをどう扱ってくれたんだっけな…?
狩られるどころか、もっと酷い目に遭っただろうが、と言われてみればそうだから。
同じ人間で姿形も変わらないのに、実験動物扱いだった前の自分たち。ミュウだというだけで、ただサイオンを持っていただけで。
過酷な人体実験の末に死んでいった仲間も多かったのだし、アルタミラから脱出した後も隠れているしかなくて。挙句の果てに追われもしたから、ナスカは滅ぼされたのだから。
人間だったミュウでもその有様なら、ただ白いだけの雀ともなれば…。
「…仕方ないわけ…?」
羽根の色が他の雀と違うだけだし、誰も助けてくれないの…?
そうなってしまうの、あの雀、あのまま殺されちゃうのを待つしかないの…?
白い雀は、生まれた時から大変なのに…。色が違うから、巣から追い出されることもあるのに。
大きくなっても、恋の相手も出来ないんだよ…?
羽根の色が普通の雀と全く違っているから、つがいになる鳥、いないんだって…。
だからホントに独りぼっちで、その内に殺されちゃうんだよ…?
白い雀に生まれたってだけで、アルビノだったっていうだけで。
何も悪いことをしていないのに、独りぼっちで殺される日を待つだけだなんて可哀相だよ…。
「…そうだったのか…。白い雀は、狙われるだけじゃないんだな…」
独りぼっちになっちまうわけか、そいつは確かに可哀相だと俺も思うが…。
そうは言っても、決まりは決まりだ。
「可哀相だから助けて下さい」と言い始めたらキリが無い。
例外はあくまで例外ってヤツで、そうそう幾つも無いもんだ。白い雀は諦めるしかないだろう。
すまんが、俺にもどうにもならん。…助けてやりたい気持ちはあっても、無理なものは無理だ。
だが…、とハーレイが浮かべた笑み。難しそうな顔から、いつもの穏やかな笑みへ。
「白い雀は可哀相だが、そいつにだって、だ」
もしかしたら…な。まるで救いが無いってわけでもないかもしれんぞ、本当のトコは。
「救いって…。なに?」
あの羽根の色は変えられないのに、飛ぶ力だって弱いのに…。
救いなんか何処にもありそうもないよ、人間が保護してあげない限りは。
「いや、保護されるよりも今のままがいい、と白い雀は思っているかもしれん」
つまりだ、俺みたいなのがいるかもしれん、ということさ。
「えっ?」
ハーレイは何もしないって言ったよ、雀は助けてあげられないって言ったじゃない…!
「本物の俺のことじゃなくてだ、白い雀にとっての俺っていう意味だが…?」
恋人だ、恋人。俺がお前の側にいるように、その雀にだって恋人がいないとは限らないぞ?
白い雀でも気にしやしない、っていう恋人だな、そいつはもちろん普通の姿の雀なわけだ。
つまり運命の恋人ってヤツだ、本当だったら相手にされない筈の雀に恋をしている雀。
俺たちが地球に生まれ変わって出会えたようにだ、白い雀にもいるかもしれないだろうが。
どんな時でも離れやしない、と側にいてくれる恋人の雀。
それがいたなら、独りぼっちじゃないからなあ…。
人間にウッカリ保護されちまったら、その恋人とは離れ離れになっちまうんだぞ、白い雀は。
そうなるよりかは、今のままがいいと思わないか?
少しばかり目立つ羽根の色でも、恋人と一緒に暮らせる方がな。
絶対にいないとは言い切れないんだぞ、そういう恋人。白い羽根でも気にしないヤツが。
現に白い雀を育てた親がいるんだろうが、とハーレイはパチンと片目を瞑る。
白い雀は巣から追い出されるのが普通だというのに、お前の両親のように大切に子供を守って、立派に育ててくれた親が、と。
「巣から追い出さない親がいるなら、恋をするヤツだって無いとは言い切れないからな」
ちょっと違うが、これも個性だと思う雀はいるってことだ。
白い雀の親もそうだし、一緒に育った兄弟だって白い雀を雀だと認めているわけなんだぞ。
他にもいないとは誰も言えんな、白い雀がちゃんと雀に見える雀が。
「…そういえばそうだね…」
親鳥と兄弟が白い羽根でも雀なんだって思っていたから、白い雀はちゃんと大きく育てたし…。
おんなじように雀なんだ、って考える雀がいたって不思議じゃないかもね…。
「な? まるで無いとは言えないだろうが」
そいつは強運な雀だってことは間違いないなあ、無事に育って大人になっているってだけで。
他の巣で生まれたら追い出されちまって死んでいただろうに、いい巣に生まれて来たわけだ。
それだけ運の強い雀だ、恋人だって何処かにいるだろうさ。
「…本当に?」
あの白い雀の恋人の雀が何処かにいるの?
独りぼっちで生きていかなくてもいいの、恋人の雀がいるのなら…?
「そう思っておけば気が楽だろう?」
前のお前は、白い雀に似てはいたんだが、前の俺が側にいたってな。
それと同じで、白い雀も前のお前みたいに、幸せに生きていけるかもしれん。
運命の恋人と出会って、一緒に巣作りをして。
仲良く暮らしていくかもしれんぞ、学者たちだってビックリしちまう結末ってことで。
白い雀にも未来が無いとは限らないぞ、と微笑むハーレイ。
普通の雀に生まれなくても、幸せな未来が待っているかもしれないのだから、と。
「…ただし、キースに狩られてしまわなければ、だが…」
お前が言ってた狩りの獲物だ、雀の場合は鷹なんだがな。
運悪く鷹に出会っちまったら、白い雀はそれで終わりだ。前のお前がそうなったように。
…鷹は獲物を嬲り殺しにするような真似はしないだろうがな。
「キース…。撃たれた時はとても痛かったけれど…」
そのせいでハーレイの温もりまで失くしてしまったけれども、キースは役目を果たしただけ。
マザー・システムが命じた通りにミュウを殲滅しようとしただけ、前のぼくまで含めて、全部。
どうして嬲り殺しにしようとしたのか、それは今でも分からないけれど…。狩りをしていたってことは分かるよ、一撃で倒せば良かったのに。
…でもね、ぼくは別に、キースのことは…。恨んでいないよ、あれはキースの役目だったから。
もっと違う形で出会っていたなら、キースとも分かり合えていたんだと思うから…。
「…お前はいつでもキースを庇うな、あんな酷い目に遭ったというのに」
あれはキースの役目だったと、仕方がないと、お前は許してしまうんだ。
だからだ、それと同じことだな、白い雀が鷹に狩られて死んじまったとしても。鷹の方は獲物を捕まえただけで、自分の仕事をしたってだけだ。
鷹のキースは自分の役目を果たしただけだと思っておけ。自分のために獲物を捕ったか、子供のために捕まえたのか…。いずれにしたって遊びではなくて、必要だから狩りをしたわけだ。
…もっとも、俺なら怒り狂うんだがな。
何が役目だと、お前を殺してしまったくせに、と。
「そっか、ぼくがハーレイに言ってることと同じなんだね、恨んじゃ駄目、って」
キースは何も悪くないから、ぼくも恨んでいないんだから、って。
白い雀が鷹に捕まっても、それと同じで、怒ったりしちゃ駄目なんだね…。
「そういうことだな」
鷹は獲物を捕まえなくては生きていけんし、それがたまたま白い雀になったってだけだ。
白い雀が目立っていたのが運の尽きだな、普通の雀なら見付からなかった可能性もあるんだし。
しかし…、とハーレイの鳶色の瞳が優しい色を湛える。
白い雀が幸せになれるといいんだがな、と。
「俺たちには何もしてやれないがだ、せっかく生まれて来たんだからなあ…」
そして大きく育ったわけだし、俺たちみたいに幸せに生きて欲しいよな。
お前が助けてやりたかったほど、前のお前に似ているんだし。
「うん、本当に似ているんだよ…」
だから幸せになって欲しいよ、鷹に捕まったりせずに。
独りぼっちで生きるんじゃなくて、ちゃんと一緒に暮らせる恋人も見付けて欲しいよ…。
「うむ。二人で祈ってやるとするかな、そいつのために」
俺たちに出来ることと言ったら、それくらいしか無いんだからな。
「そうだね…!」
お祈りだったら神様に届いて、聞いて貰えるかもしれないし…。
自然の中で暮らす生き物のことも、神様はきちんと見てるんだろうし…。
それがいいよね、お祈りするのが。
白い雀が幸せに生きていけますように…、って。
保護してやることは出来ない雀。真っ白な身体のアルビノの雀。
遠い地域に生まれた小さな雀だけれども、ハーレイと二人、天に祈った。
前の自分に少し似ている、白い雀の幸せを。
白い雀に恋人は出来ないと言われていたって、運命の恋人が見付かるように。
恋人と出会って、白い姿でもキースのような鷹に狩られないで。
幸せに生きて、ちゃんと未来を築けるように…、と。
いつかハーレイと結婚して二人で歩いてゆく道、白い雀にもそれと同じ道を歩んで欲しい。
青い地球の上で、恋人と生きてゆける道。
何処までも、いつまでも手を繋ぎ合って、幸せに歩いてゆける道を…。
アルビノの雀・了
※ブルーが見付けた、アルビノの雀の記事。前の自分と重なるのに、助けてやれないのです。
けれど、その雀にも恋人がいるかも。幸せになれるよう、祈るのがブルーに出来ること。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あいつ、あの日は此処にいたんだ…)
ハーレイの目にふと留まったソファ。ブルーの家には寄れなかった日、帰って来た家で。自分の家だから何の遠慮も要らないとばかりに、鞄をドサリと投げ出した。ソファの上へと。
それから着替えを済ませて戻って、放り出してあった鞄を端にきちんと置き直そうとして。
(…此処だったんだ…)
此処にブルーが座ってたんだ、と小さな恋人の姿を思い出した。このソファにチョコンと座った恋人、パジャマ姿だった小さなブルー。
どうして気付かなかったのだろう。今日まで何度もソファに座ったし、鞄も何度も置いたのに。着替え用の服を置いて出掛けて、此処で着替えることもあるのに。
たった一度だけブルーを座らせたソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
ブルーと出会って間もない頃に。メギドの悪夢に襲われたブルーが恐怖に怯えながら眠った夜。瞬間移動など出来ない筈のブルーが此処まで飛んで来た。何ブロックも離れた此処まで、寝ていた自分のベッドの中へと。
(あの夜は俺もパニックだったしなあ…)
寝ぼけ眼で「何かがベッドにいる」と感じて、母の猫かと思った自分。隣町の家にいた真っ白な猫のミーシャが来たなと、潰してしまってはマズイだろうと。
けれども、自分の子供時代にミーシャはいなくなっていたから。何かが変だと手で探ろうとした時、耳に届いたブルーの寝言。「ハーレイ」と漏らして、「会いたいよ」と。
何が起こったのか、それで分かった。前のブルーと同じ背丈に育つまでは家に来るな、と言っておいたブルーが瞬間移動でやって来たのだと。自分でも知らずに、無意識の内に。
(…実際、アレは驚いたんだ…)
小さなブルーが自分のベッドに飛び込んで来た上、懐にもぐり込んで来たのだから。
今とは違って、再会してから間もない頃。
前のブルーと長く過ごした恋人同士だった頃の記憶が勝っていたから、ブルーを求める気持ちもあった。幼い身体でもブルーは同じにブルーなのだし、身体ごと手に入れてしまいたいと。
そうは思っても、無垢で小さなブルーにはまだ早すぎる行為。いくらブルーがそれを望んでも、心も身体も耐えられはしないと分かっていたから、懸命に自分を抑えていた。
「家には来るな」と釘を刺したのも、その一つ。ブルーが家に遊びに来た時、見せた表情が前のブルーと重なったから。思わず抱き締めてしまいたくなる前のブルーに見えたから。
(…重なっちまったら、もう止まらないんだ…)
たとえブルーが幼くても。悲鳴を上げても、もう止まらない。力の限りに抱き締めるどころか、強引にキスして、服も剥ぎ取って…。
そうならないよう、「来るな」と言っておいたブルーが同じベッドに入って来た。眠ったままで胸に縋り付いて来た、これでパニックにならない方が不思議だろう。
(ウッカリ俺まで眠っちまったら、何をやらかすか…)
なにしろブルーがいるのだから。腕の中で眠っているわけなのだし、そのまま自分が夢の世界の住人になれば、前のブルーと同じつもりで眠りこけながら何をするやら…。
指が、手が、眠るブルーの身体にけしからぬことをしてしまいそうで。悪ふざけの範囲で済めばまだしも、それで済まなくなったなら。ブルーのパジャマを脱がせるだとか、その下の肌を探ってズボンの中まで手を入れるだとか…。
(そいつは大いにマズイんだ…!)
ブルーはきっと眠りながらでも、そういった行為に応えるから。幼い心も、小さな身体も眠りの前には何の歯止めにもなりはしなくて、前のブルーの動きをなぞってしまうだろうから。
一度ブルーが応えてしまえば、きっととんでもないことになる。気付けば小さなブルーの身体を組み敷いてしまって、もう本当に止まれない所まで行っていそうな予感がしたから。そうなってもブルーは微塵も困りはしないだろうけれど、自分の方は…。
(取り返しのつかないことをやっちまったと、きっと一生…)
悔やみ続けることだろう。ブルーが大きく育った後にも、二人で暮らせるようになっても。
それだけは御免蒙りたいと、いくらブルーは平気だとしても自分の良心が咎めるから、と朝まで必死に抑え続けた自分の劣情。ブルーが欲しいとざわめく心。
眠っても駄目だし、欲望に負けてブルーに触れてしまえば、もうおしまいで。ブルーは腕の中にいるのだけれども、「愛おしい」と思う以上の気持ちを持ってしまえば破滅するだけで。
朝まで眠らずに耐えて耐え続けて、ようやくブルーが目覚めてくれて。
「ハーレイの家に来られたんだね」と無邪気に喜ぶブルーと一緒に寝室を出て、階段を下りて、リビングに来て。
「此処に座れ」と座らせたソファ。一人用ではなくて、ゆったりと座れる大きなソファ。
ブルーが座ったのは、その一度きり。あの朝にチョコンと腰掛けたきり。
(遊びに来た日は座っていないし…)
教え子を招くようなつもりで、ブルーを家に呼んでやった日。前のブルーとそっくりな貌をするブルーに驚き、心をかき乱された挙句に「大きくなるまで来るな」と告げねばならなかった日。
けしからぬ気持ちになっては駄目だ、と心の何処かで考えていたのかどうなのか。
この部屋でブルーと話す時には、一人用のソファに腰掛けて向かい合っていた、これとは別の。二人で並んでも充分すぎる余裕のあるソファ、これではなくて。
リビングの端の、大きなガラス窓越しに庭が見える場所。其処にブルーと座っていた。
けれども、ブルーがベッドに飛び込んで来た後に迎えた朝。あの朝はブルーを此処に座らせた、何も思わずに。広いソファの方がいいだろう、とパジャマ姿の小さなブルーを。
(あいつが一人で座るだけだっていうのも、あったんだろうな)
自分はブルーの家に通信を入れたり、顔を洗って着替えたりと用があったから。ブルーと一緒に腰掛けて話すどころではなくて、するべきことがあったから。
ブルーが一人で座るだけなら、邪心の入る余地などは無い。ソファはただの椅子で、一人用でも大きなものでも、座り心地が良ければそれでいいのだから。
(それっきりか…)
あの朝だけか、と眺めるソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
此処に腰掛けたブルーを見たくなっても、ブルーは来ないし、招きも出来ない。
今はまだ。
十四歳にしかならないブルーが大きく育って、前のブルーと同じ姿になるまでは。
柔道部員たちが押し掛けて来た日は、このソファも寿司詰めになるのだけれど。冬の寒い日に、木の枝にギュウギュウと連なって止まるメジロさながらの光景だけれど。
メジロ押しだか、寿司詰めだかの賑やかな教え子たちの集団、そんな見慣れた光景よりも。
(…此処にあいつなあ…)
此処にブルーがいてくれればな、と思いが募る。けして叶いはしないけれども、小さなブルーが前と同じに育つ日までは無理だけれども。
(…柔道部員どもとは、まるで値打ちが違うんだ)
端から端までギュウ詰めに座って、その連中の膝の上にも乗ろうという輩がいるくらい。もっと座れるとメジロ押し並みにギュウギュウとやって、零れ落ちたりしているくらい。
そういう彼らも面白いけれど、見ていて飽きはしないのだけれど。彼らがギュウギュウ押し合うソファより、満載になって溢れるソファより、ブルーが座っているソファがいい。
(小さなあいつは、もう呼べないし…)
いつか大きく育つ時まで、待っているしか無いのだけれど。
ソファに気付いたら、其処にブルーが座っていたのだと思い出したら、いて欲しいブルー。
柔道部員たちのメジロ押しも愉快で笑えるけれども、ブルーに座って欲しいものだと。
そう思ったから、夕食の後はコーヒーを淹れて、そのソファに座ることにした。熱いコーヒーを満たした愛用の大きなマグカップ。それを片手に「今日は此処だ」と。
自分がドッカリ腰を下ろしても、大人が二人は楽に座れる余裕があるソファ。柔道部員たちなら四人は基本で、大抵、五人は詰まっている。「もっと詰めろ」と、「まだいけるだろ」と。
そのソファの丁度真ん中あたりに座って、隣にブルーがいるつもり。マグカップを持っていない方の手、その手でブルーの肩を抱けたなら、と。
ブルーは苦手なコーヒーだけれど、隣に座るのを嫌とは言うまい。「ぼくは紅茶の方がいい」と紅茶を手にしていそうだけれども、きっと隣に座ってくれる。
早くその日が来ないものかと、此処にブルーがいてくれれば、と誰もいない隣に溜息をついて。いつになったら此処にブルーが来てくれるのかと、空っぽの隣を眺めていて。
(…そうだ)
ブルーなら家にいるじゃないか、とマグカップをコトリとテーブルに置いて向かった書斎。あの書斎にはブルーがいるのだった、と。
よくコーヒーを飲んでいる書斎、本たちに囲まれた憩いの空間。其処に据えてある机の上には、小さなブルーの写真を収めたフォトフレーム。夏休みの終わりにブルーと写した記念写真。
フォトフレームの中、自分の左腕にギュッと抱き付いた笑顔のブルーに「すまん」と詫びて頭を下げて。そうっと開けた机の引き出し、日記の下から引っ張り出した写真集。
正面を向いた前のブルーの写真が表紙に刷られた、『追憶』のタイトルを持つ写真集。最終章はメギドへと飛ぶ前のブルーの最後の飛翔で始まり、爆発するメギドで終わっている。
悲しくて辛い本だけれども、前のブルーが愛おしいから。こうして自分の日記を上掛け代わりに被せてやって、いつも引き出しの中に。泊まりの研修にも持ってゆくほど愛おしいブルー。
これだ、と大切にリビングへ運んだ写真集。それをソファの上、自分の隣に置いたら、ブルーが其処にいるかのようで。前のブルーが幻となって、隣に座っているかのようで。
これでいいのだと、今夜はブルーと二人なのだと、少し温くなったコーヒーを口にしながら。
「なあ、ブルー…」
いつかは座ってくれるんだよな?
今はこういう写真しか無いが、ちゃんと本物のお前になって。俺の隣に、この姿で。
…おっと、ソルジャーの衣装はもう要らないんだぞ、お前の好きな格好でいい。普段着だろうがパジャマだろうが、俺は全く気にしないからな。
此処に座ってくれればいいんだ、俺の隣に。…お前の苦手なコーヒーを飲めとは言わないから。
そうは言っても、お前は飲みたがるんだよな、と語り掛けても返らない返事。
写真のブルーは何も言わずに見上げてくるだけ、瞳の奥深く悲しみと憂いを揺らめかせて。前のブルーが強くあろうと隠し続けた真の表情、それを湛えた眼差しで。
どの写真よりも有名なそれを見詰めて、前のブルーに思いを馳せて。
「今はゆっくりしていい時代だぞ」と、「俺の家だから、のんびりしてくれ」と、和らぐ筈などないブルーの表情を和らげたいと話し掛けていて…。
そこで気付いた、これが初めてではないと。
こうしてブルーと語り合った時間、それが確かにあった筈だと。
ブルーと話していた記憶。今と同じに、前のブルーと。
けれどブルーは幻ではなくて、もちろん写真であったわけもなくて。
(待てよ…?)
青の間には一つも無かったソファ。一人用さえ無かったのだから、二人用などある筈もない。
なのに、並んで座った記憶。前の自分の隣に座っていたブルー。
ソファに腰掛け、隣を向いたらブルーがいた。前のブルーが微笑んでいた。そうして二人並んで話した、何度も何度も語り合っていた。
まるで今夜の自分のように。前のブルーの写真集と隣り合わせに座って、答えが無くても自分の想いを語り掛けては、話しているつもりで頬を緩める自分のように。
青の間にソファは無かったというのに、あれは一体、何処だったろう?
何処でブルーと並んで座っていたのだろうかと、遠い記憶を懸命に手繰り寄せていて…。
(そうか、俺の部屋か…!)
あそこだった、と蘇った記憶。
白いシャングリラの中、広かった前の自分の部屋。キャプテン・ハーレイが暮らしていた部屋。仕事柄、様々な者たちが出入りするから、応接用のスペースも設けられていた。寝室や航宙日誌を書いていた部屋とは違った空間。其処に置かれていた応接セット。ソファとテーブル。
前のブルーが訪ねて来た時は、ソファで語らうのが常だった。
恋人同士の仲になるまでは低いテーブルを挟んで向かい合わせで、前の自分が淹れた紅茶などをお供に笑い合ったり、地球への夢を語り合ったり。
そうして恋が実った後には…。
(あいつが俺の隣にいたんだ…)
もう向かい合わせに座ることは無くて、いつも並んで座ったソファ。
ブルーの居場所は前の自分の隣で、すぐ側にあった前のブルーの温もり。たまに向かい合わせで座った時にも、いつの間にか隣に来ていたブルー。前の自分の隣に座っていたブルー。
横を向いたら、其処にブルーの笑顔があった。幸せそうに微笑む顔が。
わざわざ肩を抱き寄せなくても、ブルーの方から自然ともたれて来ていた記憶。前の自分の肩に身体を預けてしまって、眠くもないのに目を閉じていたり。…そう、幸せを噛み締めるように。
(あいつが俺の部屋に来たがったのは…)
ソファのせいでもあったのだろうか?
青の間には無かった、二人並んで座れる場所。並んで腰掛け、語り合える場所。
今の時代も、恋人たちは並んで座るのが常だから。白いシャングリラでも、そうだったから。
ブルーはそれを真似てみたくて、恋人同士で座る気分を味わいたくて、ソファが備えられていた前の自分の部屋を訪ねて来たのだろうか…?
それだけではないと思うけれども、ソファも理由の一つだったろうか、と。
(どうなんだかな…)
真相を小さなブルーに訊いたら、喜ばせるだけの質問だけれど。
ソファが関係していようが、まるで全く無関係だろうが、問われたブルーは間違いなく赤い瞳を輝かせて喜ぶだろうけれども。
尋ねてみようか、明日は土曜日だから。ブルーの家へ行く日だから。
(…お前は知っているんだろうがな…?)
どうだったのかを俺に教えてくれはしないんだろうな、と問い掛けた写真集の表紙のブルー。
答えは返って来なかったけれど、憂いを秘めた顔のブルーが一瞬、微笑んだようにも見えた。
「思い出してくれたんだね」と。
ぼくたちのことを、君の部屋のソファに並んで座っていたことを、と。
その夜は前のブルーとソファで過ごして、それから書斎で日記を書いて。その日記を『追憶』の上にそっと被せて、「おやすみ、ブルー」と引き出しを閉めた。
一晩眠ってもソファの思い出を覚えていたから、頭にきちんと残っていたから。小さなブルーに尋ねてみようと、ブルーの家へと歩いてのんびり出掛けて行って。
生垣に囲まれた馴染みの家に着いて、二階のブルーの部屋で向かい合わせに腰掛けてから質問をヒョイと投げ掛けてみた。
「お前、ソファのことを覚えているか?」
ソファと言ったら家具のソファだが…。こういう椅子とは違って、ソファだ。
「ハーレイの家の?」
うん、覚えてるよ、リビングに置いてあったよね。大きなソファにも、一人用のにも座ったよ。どっちも座り心地が良くって、フカフカのソファ。
「いや、それじゃなくて…」
今の俺の家にあるソファじゃなくてだ、前の俺の部屋の…。
「え?」
ブルーがキョトンと首を傾げるから、「キャプテンの部屋にあったヤツだ」と説明をした。
「忘れちまったか、前の俺の部屋にあったソファ」
キャプテンの部屋には客も来るしな、応接セットがあったわけだが…。ソファとテーブルが。
お前、座っていたろうが。いつでもソファで俺の隣に。
「ああ、キャプテンの部屋のソファ…!」
あったっけね、と嬉しそうに頷いたブルー。
大きなソファが置いてあったと、あれは青の間には無かったものだと。
来客が多いキャプテンの部屋ならではの家具で、ソルジャーの部屋には無かったっけ、と。
ブルーはキャプテンの部屋のソファも、青の間にソファが無かったことも思い出したから。前の自分たちの部屋にあった家具の違いに気付いてくれたから。
これはチャンスだと、昨夜からの疑問をぶつけることにした。ブルーはソファが好きだったのか否か、それを訊くのが自分の目的なのだから、と。
「よし、ソファがあったことは思い出したな? それでだな…。お前に訊いてみたいんだが…」
前のお前が俺の部屋に来たがっていたのは、あのソファのせいか?
「…ソファ?」
ソファのせいって、どういう意味なの?
前のハーレイの部屋は好きだったけれど、何度も泊まりに行っていたけど…。
「いや、もしかしたら、あのソファに座りたくて来ていたのかもな、と思ってな…」
友達同士だった頃には向かい合わせで座ったもんだが、恋人同士になってからは、だ。いつでも俺の隣に座っていたしな、前のお前は。
たまに向かい合わせで座った時にも、気が付いたら俺の隣に来てた。当たり前のように。
…だからだ、お前、あのソファに座ろうとして来ていたのかと思ったんだが…。
青の間にソファは無かったからなあ、並んで座れはしなかったからな。
どうだったんだ、と尋ねたら、ブルーの顔が花が開くようにふわりと綻んで。
「うん、そうだよ」
あのソファに座りたいから行ってたんだよ、ハーレイの部屋に。
ソファが目当てじゃない時だって、もちろん何度もあったけど…。ソファが無くても、行きたい部屋ではあったんだけれど。
…だって、ハーレイの部屋だから。ハーレイのためにあった部屋だから、何処もハーレイの色で一杯。緑とかそういう色じゃなくって、ハーレイの好きな色なら何でも。机も床も、壁の色もね。
あの部屋の全部が好きだったけれど、ソファに座るのも大好きだったよ。
すっかり忘れてしまっていたけど、あのソファ、お気に入りだったんだよ…。
ソファそのものもハーレイらしくて好きだったけれど、ハーレイの隣が好きだった、とブルーは笑みを浮かべて答えた。前のハーレイの隣に並んで座るのが、と。
「あそこでしか並んで座れなかったしね…」
どんなにハーレイの隣に座りたくっても、あのソファだけしか無かったから。
「…そうか?」
お前、しょっちゅう俺の隣にくっついていたと思うんだが…。
もたれていたり、俺の腕にギュウッと抱き付いていたり。
「それはそうだけど…。間違いないけど、そういう時にはベッドだったよ」
ベッドの上とか、ベッドの端に並んで座っていた時だとか。そんな時だよ、くっついてたのは。
だけど、椅子はね、ハーレイの部屋のソファだけだった。
ハーレイと同じ椅子に並んで座れる所は、あのソファだけしか無かったんだよ…。
公園のベンチや、シャングリラの中を移動するための小さな車両の座席やら。
そうした場所なら並んで座ったことも珍しくなかったけれども、ソルジャーとキャプテンの貌で座っていただけ、とブルーに言われてみれば。
確かにそういう記憶しか無くて、休憩中のソルジャーの隣に座って話をするとか、視察の途中に隣り合わせで座ってゆくとか、それだけのこと。同じ椅子に並んで腰を下ろしていても。ベンチや座席で隣り合っていても、あくまでソルジャーとキャプテンだった。
「…ハーレイと恋人同士で並んで座っていられる椅子は、本当にあのソファだけだったんだよ」
シャングリラはうんと広かったけれど、あそこだけが誰にも見付かる心配が無かった場所。
どんなに二人でくっついてたって、恋人同士なんだって分かる話をしてたって。
あの船の中に、恋人たちのための場所は幾つもあったのに…。
公園のベンチも、休憩室とかに置いてあったソファも、恋人たちが並んで座ってたのに。
「そういや、そうだな…」
仲良く並んで座っているな、ってヤツらを見掛けることが多かったっけな。
並んで座るってだけじゃなくって、手を繋いでたり、肩を抱いてたりしたっけな…。
「でしょ?」
だから、あのソファが好きだったんだよ。あそこなら並んで座れるから。
恋人同士の気分になれたよ、他の恋人たちみたいに公園とかではなかったけれど。
何処でも恋人同士の顔をして堂々と並べはしなかったけれど、あのソファは別。ハーレイの肩にもたれていたって、くっついてたって、何の心配も無かったんだもの。
…キャプテンの部屋に断りも無しに入ろうって人は無いものね。誰か来たなら、パッと離れて、ハーレイの向かいに座り直せばいいんだから。
でなきゃ瞬間移動で逃げてしまうとか、誤魔化す方法は山ほどあったし…。
だけど、そんなことは一度も無かったんじゃないかな、行ってたのはいつも夜だったから。
本当に素敵なソファだったよ、と小さなブルーは懐かしそうで。
どうして今まで忘れていたのかと、あのソファがとても好きだったのにと遠く遥かな時の彼方に消え去った船を、キャプテンの部屋を、其処にあったソファを思い浮かべているようだから。
「…お前、やっぱり、アレが目的だったんだな?」
あのソファに座ろうと思って来ていたんだな、俺の部屋まで。
「それだけってわけじゃないけどね」
ハーレイの部屋も好きだったと言ったよ、何処を見たってハーレイの色で。
航宙日誌を書いてるハーレイを眺めているのも大好きだったし、お酒を飲んでるハーレイも…。
青の間だと見られないものばかりが揃っていたから、いつ出掛けたって楽しかったよ。
それにね、ハーレイと過ごせる時間。
恋人同士でいられる時間も大切だったよ、ソファだけに限った話じゃなくて。
キスとか、その先のことだとか…、と小さなブルーがチラリと意味ありげな視線を寄越すから。
(…そうだ、あのソファでも…!)
二人並んで座っていたから、隣同士でくっつき合っていたのだから。
ソファに座ったまま、キスを交わしたりしたのだった。ただ触れるだけのキスとは違って、恋人同士の深いキス。そのまま溶け合ってしまえそうなほどに熱くて激しいキスを。
ふざけ合ったこともあったのだった、ベッドに行く前の恋人同士の戯れの時間。互いの肌を探り合ったり、ブルーの補聴器を外してしまって柔らかな耳を味わってみたり。
流石にソファでは愛は交わしていないけれども。
そういう気分になって来たなら、ブルーを抱き上げてベッドに運んでいたけれど…。
実はとんでもない場所だったのか、と今頃になって思い出したソファ。
小さなブルーに質問したのはマズかったろうかと、藪蛇だったかと慌てた所で手遅れなのだし、此処は平静を装っておくのが一番だろう。ブルーが何処まで覚えているかは謎だから。忘れている可能性も高いのだから、自分さえ口を噤んでおけば、と。
そんな祈りが天に届いたか、ブルーはキスだの本物の恋人同士だのと言いはしないで。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくもハーレイに質問があるんだけれど…」
訊いていいかな、ソファのことで。
「ん?」
ソファがどうかしたか、前のお前が好きだったソファか、前の俺の部屋の?
「ううん、そうじゃなくて…。今度もソファに並んで座っていいんだよね?」
今のハーレイの家にあるソファ。
あの大きなソファ、ハーレイと並んで座っちゃってもかまわないよね…?
「もちろんだ」
どうして駄目ってことになるんだ、お前、俺の嫁さんになるんだろうが。
俺と一緒に暮らすわけだし、あのソファはお前のためのものでもあるわけだ。
俺が仕事に行ってる間に寝転んで本を読んでいようが、昼寝しようが、お前の自由だ、誰からも文句は出ないってな。
キャプテンの部屋にあったヤツはだ、俺の私物か、そうでないのか微妙だったが…。
仕事用って側面もあったわけだし、半分ほどは公共の物かもしれなかったが…。
今度は違うぞ、明らかに俺の私物だからな。好きに使ってかまわないんだ、昼寝でもなんでも。
そうでなくても、柔道部のヤツらに既に蹂躙されている。
ヤツらが来たなら、あのソファは遠慮なく奪い合いなんだ、挙句の果てにはメジロ押しってな。ギュウギュウ詰まって、端っこのヤツが零れ落ちてる有様だぞ。それでも足りずに上に乗るヤツも現れるわけだ、他のヤツらの膝の上にな。
だからお前も好きに使え、と許可を出してやった。
今はまだまだ早すぎるけども、いつか大きく育った時には、まずは二人で並んで座る所から。
結婚したなら、ソファはブルーのものでもあるから、もう本当に好き放題に。昼寝をしようが、寝そべって本を読んでいようが、どんな風にも使っていいと。
「お茶を飲んだり、菓子を食ったりするのなんかは基本だな。ソファ本来の使い方だし」
何に使おうが、俺は小言を言いはしないぞ。
お前なら大事に使うだろうしな、柔道部のヤツらみたいな無茶はしないで、それは大切に。
「ありがとう、ハーレイ! ぼくのソファにもなるんだね、あれは」
それなら、今度はキスだけじゃなくて、もっと他にも…。
「はあ?」
キスとはなんだ、と背中に冷汗が流れたけれども、冷静なふりで訊き返したら。
「えーっと…。前は一応、遠慮してたし…」
前のハーレイの部屋にあったソファはね、ハーレイがさっき言ってた通りだったし…。
ハーレイの部屋のソファではあったけれども、ハーレイの私物かどうかは難しくって…。
だから、遠慮はしていたんだよ。
これよりも先はちょっとマズイかもしれないよね、って。
あのソファはヒルマンやゼルや他の仲間たちも座るソファだったから、と染まっている頬。
そういうソファでは流石にどうかと、前の自分も考えて遠慮していたと。
「…キスと、ちょっぴりふざけ合うくらいは大丈夫かな、って思ったけれど…」
ベッドの代わりにするっていうのはあんまりかな、って。
このままソファで出来たらいいのに、って思っていたって、ハーレイにベッドに運ばれちゃっておしまいだったし、やっぱりそういうことだよね、って…。
ぼくから強請っちゃ駄目だと思って、ソファでは我慢をしていたんだよ。
とても大好きな場所だったんだし、本当はあそこをベッド代わりにしたかったけど…。
だからね、今度はソファでもお願い。キスだけじゃなくて、ホントはベッドですることまで。
「こら、お前…!」
キスも駄目だと言っているのに、何の話をしてるんだ…!
第一、お前は何歳なんだ、十四歳にしかなっていないだろうが…!
背伸びしてベラベラ喋ってる中身、今のお前には意味が分かっているかも謎だぞ、馬鹿者が…!
子供のくせに、とブルーを叱り付けたけれど。
小さな子供が何を言うかと、前と同じに育ってから言えと顔を顰めてやったけれども。
「…でも、ソファの話…。言い出したのはハーレイだよ?」
ハーレイが先にぼくに訊いたんだよ、あのソファのことを覚えてるか、って。
あれに座りたくてハーレイの部屋に行ってたのか、って質問したのはハーレイじゃない…!
「だから訊きたくなかったんだ…!」
お前を喜ばせるだけかもしれん、と思ってはいたが、真相ってヤツを知りたかったし…。
それだけを訊ければ充分なんだと腹を括ってやって来たのに、お前ときたら…。
余計なことまで思い出しちまって、ソファの使い方の注文だと?
今のお前に似合いのソファの使い方はだ、昼寝と寝そべって本を読むことだ…!
チビが、とブルーの額を拳で軽くコツンと小突いたけれど。
ブルーは「ハーレイが先に言ったくせに」と膨れっ面をしているけれど。
(…まあ、いずれはな?)
小さなブルーが前と同じに育ちさえすれば、今度は二人でソファに座れる。今はまだ二人並んで座れないソファに、隣り合わせで。
最初はそこから、隣同士で仲良く座って、お茶やお菓子や、他愛ない話。
ブルーの肩を抱いたりしながら、微笑み交わして、くっつき合って。
そうして始まる、今の生でのブルーとのソファの使い方。恋人同士での座り方。
二人並んでソファに座って、それからキスも、その先のことも、前の生では無理だったことも。
ブルーも自分も遠慮していて、出来なかったソファの使い方。
あのソファをベッド代わりに使ってみようか、いつかブルーと結婚したら。
同じ家で暮らして、同じソファを使える時が来たなら。
ブルーもあのソファの持ち主になって、昼寝に使うような時が来たなら。
それもいいな、と零れそうな笑みを今は懸命に堪えるけれど。
小さなブルーを喜ばせてしまう結果を招かないよう、威厳を保っておくけれど。
いつかはブルーと使いたいソファ。恋人同士の熱い時間を、甘い営みをあのソファの上で…。
二人のソファ・了
※前のハーレイのキャプテン時代に、部屋にあったソファ。前のブルーのお気に入りの場所。
恋人同士で並んで座れる所は、その一つだけ。今の生でも、素敵な場所になりそうです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(うー…)
暑い、とブルーが思わず零した学校からの帰り道。路線バスを降りて家まで歩く途中で、口からポロリと漏れた一言。本当に暑く感じるから。
夏の季節はとうに終わって、秋と呼ぶのが相応しい今。カレンダーでも、日々の気温も、草木の様子も空の色も。なのに何故だか暑く思えてしまう今日。長袖の制服が身体に絡み付くよう。
(…ホントに暑い…)
ハーレイは今日の古典の授業で「小春日和」と言っていたけれど。秋らしくない暖かすぎる日、それを指すのが小春日和という言葉。遥かな遠い昔にこの地域にあった小さな島国、日本の言葉。アメリカでは「インディアン・サマー」と呼ばれていたらしい、遠い昔に。
小春日和は晩秋のものだとかで、こう付け加えていたハーレイ。「正確には、小春日和ってヤツには少しばかり早いんだがな」と、「季節外れの残暑と言うべき所かもな」と。
(小春日和でも、季節外れの残暑でも…)
気温が高すぎ、と零れる溜息。学校や路線バスは空調が効いていたけれど、外へ出たなら空調は無くて。日射しが痛いとまでは思わなくても、夏が戻って来た気分。
実際の気温は、きっと夏には及ばないけれど。真夏だったら涼しく感じる程だろうけれど。
(…でも、暑いよ…)
この季節には珍しい、汗ばむ陽気。制服が夏服でない分、余計に。
あまりに暑くて、家に帰ったら冷たいものが欲しいけれども。
(アイスは無理…)
ひんやりと溶けるアイスクリームが食べたいけれど、母は買ってくれてはいないだろう。作ってくれているわけもない。
夏の盛りの頃ならともかく、今は秋。本来だったら涼しい季節にアイスクリームを食べるなど、身体に悪いと母は考えるに決まっているから。丈夫ではないのが自分だから。
それでも冷たい何かが欲しい、と祈るような気持ちで家まで帰って。
門扉を開けて庭を通り抜け、玄関の扉に辿り着くなり、中に入るなり「ただいま」の続きに奥に向かって叫んでしまった、「お帰りなさい」と出て来た母に。
「暑かったー!」
とても暑かったよ、もうヘトヘトだよ…!
「そうねえ、暑い日になっちゃったわね。疲れたでしょう、早く着替えていらっしゃい」
冷たいものを用意してあげるから、と笑顔の母。着替えたらダイニングにいらっしゃい、と。
「ありがとう、ママ!」
一気に元気が湧き上がって来た。家までの道は暑かったけれど、冷たいものが待っているらしいダイニング。おやつの時間を過ごすテーブル。
(もしかして、アイス?)
母がわざわざ口にするからには、その可能性もあるだろう。買い物に行ったか、庭仕事なのか、外の暑さをじかに感じて、その中を帰って来る自分のために用意してくれたとか…。
(買ってくれたのかな、それとも作った?)
どちらにしたって期待出来る、と大喜びで着替えを済ませた。半袖は流石に叱られそうだから、薄手の長袖。制服よりはずっと涼しくなった。
後は冷たいアイスクリームで身体の中から冷やすだけ、と階段を下りて行ったのだけれど…。
ダイニングのテーブルに着いて、ワクワクしながら待った自分の前にコトリと置かれたグラス。心を躍らせたアイスクリームの代わりにグラスで、パフェなどの類にも見えないから。
「なにこれ…」
これはなあに、と指差したグラス。うっすらと露はついているけれど、氷も入っていないから。
「ミルクセーキよ。ちゃんと冷たい牛乳を使って作ったのよ」
シロエ風のホットミルクよりいいでしょう、と微笑む母。今日は暑いから、これの方が、と。
確かにシロエ風のホットミルクよりはいいけれど。マヌカの蜂蜜がたっぷり入った温かい牛乳を出されるよりかは、この方がずっとマシだけれども。
「…アイスじゃないんだ…」
うんと暑かったから、アイスクリームが欲しかったのに…。
冷たいものってママが言うから、もしかしたら、って期待してたのに…。アイスクリーム。
「あら、材料は似たようなものよ。アイスクリームも、ミルクセーキも」
どっちも牛乳と卵とお砂糖で出来るの、作り方と冷やし方の違いで変わるのよ。
アイスクリームも作れるけれども、それじゃ身体に悪いでしょう?
暑いのは今だけ、夕方になったら一気に冷えてくると思うわ。だから身体を冷やしちゃ駄目よ。
ミルクセーキに氷も入れていないでしょう。このくらいがいいのよ、ブルーの身体とお腹には。
冷やしすぎは本当に良くないの、という母の心遣いに我儘は言えないから。
今のハーレイの好物だというパウンドケーキも焼いてくれてあるから。
文句は言えない、アイスクリームが出て来なくても。ミルクセーキしか無いテーブルでも。
仕方なく飲むことにしたミルクセーキ。氷も浮かんでいないグラス。
外側に露がついていたって、きっとそれほど冷えてはいない。冷たい牛乳を使った分だけ、その分だけの冷たさなのに違いない。
そう考えたら悔しくなる。同じ材料で出来ると言うなら、アイスの方が良かったのに、と。
(でも、今日はハーレイが好きなパウンドケーキ…)
母が焼くパウンドケーキは、ハーレイの母が作るパウンドケーキと同じ味だと聞いている。別の人が作ったとは思えないほどに似ていると。それを知って以来、特別なパウンドケーキ。
ミルクセーキをお供に食べるおやつは、パウンドケーキなのだから。
それに小春日和という言葉をハーレイの授業で教わったから。
いい日なんだと、きっと幸せな日なのだろうと思うことにして、ミルクセーキをグラスから一口飲んだら。コクリと喉へと送り込んだら。
(あれ…?)
知っている味、と弾んだ心。
この味をぼくは知っているよ、と。
(…当たり前でしょ?)
味は知っていて当然だもの、と呆れてしまった自分の反応。喜んでいる自分の舌と喉。
ミルクセーキなら幼い頃から何度も何度も飲んでいるのだから、お馴染みの味。暑い夏が過ぎて御縁が無くなっただけで、この夏だって何度も飲んでいた筈。
それをそこまで喜ばなくても、と自分の単純さに驚かされる。小春日和の暑い日に飲んだ冷たい飲み物、それだけで嬉しくなるのだろうか、と。
でも…。
(ハーレイ…?)
何故だか浮かぶハーレイの顔。パウンドケーキが好きな恋人の顔。
ミルクセーキを夏休みに二人で飲んだだろうか?
夏休みでなくても、ミルクセーキが似合いの季節に。初夏の頃とか、残暑だとか。
(そうなのかも…)
部屋では確かに飲んだ筈。今日のよりも冷たいミルクセーキを、氷が浮かんでいたものを。部屋だけでなくて、きっと庭でも飲んだのだろう。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子がある場所、初めてのデートの思い出の場所で。お気に入りの庭のテーブルと椅子。
あそこだったら、何でも特別に思えるから。デートの気分で過ごしているから、ミルクセーキも素敵な味がしたのだろう。今日のデートはミルクセーキ、と。
(…でも…)
一度は納得しかけたけれども、それにしては妙に懐かしすぎる。ミルクセーキの味わいが。喉をスルリと滑り落ちて行った味が、滑らかで甘い独特のコクが。
舌と喉とが喜んだ味が、その記憶が何故か遠すぎる。庭のテーブルと椅子で飲んでいたのなら、間違いなく夏のことなのに。夏の終わりでも残暑の頃でも、一つ前の季節のことなのに。
けれど遥かに遠い気がする、さっき心が弾んだ味。ミルクセーキの味を知っているのだと喜んだ心、飛び跳ねた心は夏よりも前のものに思えて。
(なんで…?)
ミルクセーキは夏のものなのに。それにハーレイとミルクセーキを飲んだ夏なら、今年の夏しか無い筈なのに。
どうしてそういう風に感じるのか分からない、とミルクセーキをもう一口。
まさか前のぼくだったわけでもあるまいし、と。
そうしたら…。
牛乳と卵黄、それから砂糖。滑らかになるまで泡立て器で混ぜたミルクセーキ。喉の奥へと滑り落ちた味、舌に残った優しい甘さ。
(ハーレイのだ…!)
思い出した、と蘇った記憶。遠い遠い昔、遠く遥かな時の彼方で飲んだミルクセーキ。白い鯨になる前の船で、シャングリラと呼ばれていた船で。
あの船の厨房で、前のハーレイがミルクセーキを作ってくれた。まだキャプテンの任に就いてはいなくて、あそこで料理をしていた頃に。
「まあ、飲んでみろ」とハーレイが差し出したミルクセーキ。作り立てのものを。
(…あの味だっけ…)
知っている筈だ、とミルクセーキを味わってみる。この味だったと、同じ味だと。
(…牛乳と卵と、それからお砂糖…)
たったそれだけの材料で出来る飲み物だけれど。今の自分には珍しくもないものだけど。
シャングリラで飲んだミルクセーキの味は、とても大切な思い出だから。
(此処のテーブルで考えてるより…)
部屋で懐かしい記憶を追いたい、時の彼方の遠い記憶を手繰り寄せたい。ミルクセーキの味だけ舌に残して戻って、部屋でゆっくり。
(うん、この味…)
こういう甘さで、この舌触り、と舌と喉とに覚え込ませて。ハーレイが好きなパウンドケーキも慌てずにしっかり味わってから、空になったお皿やグラスをキッチンの母に返しに行って。
「御馳走様」と二階へと続く階段を上った、一刻も早く戻らなくては、と。
そうして戻った自分のお城。青の間とは比べようもない小さな部屋でも、今の自分が住んでいるお城。勉強机の前に座って、頬杖をついて遠い記憶の中に浸った。
(ハーレイのミルクセーキ…)
あの味だった、と舌と喉とに残っている味を思い出す。あれとおんなじ、と。
シャングリラが自給自足の船ではなかった、ハーレイが厨房にいた時代。食料は全て前の自分が人類の輸送船から奪って手に入れ、ハーレイはそれを料理していた。食材が偏ってしまった時でも工夫を凝らして、皆を飽きさせないように。あれこれ試作し、様々なものを。
何かと言えば試作品を作っていたハーレイに、ある時、「厨房に来ないか」と声を掛けられた。栄養のつくものを飲ませてやろう、と。
栄養を摂るなら料理だとばかり思っていたから、新作のスープかシチューだろうと思ってついて行ったのに。飲むならそれだと考えたのに。
「…なあに?」
ハーレイが用意した材料はたったの三つで、しかも一つは砂糖だから。砂糖の入ったシチューやスープは知らないけれど、と首を傾げて何が出来るのか尋ねたら。
「いいから、見てろ」
こいつはだな…。シチューでもスープでもなくてだな…。
ハーレイがパカリと割った卵は、白身は使わないようで。他の器に入れて冷蔵庫の中へ片付けてしまった、「こっちは何に使うかな…」などと言いながら。
牛乳と卵黄、それから砂糖。ボウルの中で泡立て器でシャカシャカ手際よく混ぜて、「ほら」と作ってくれた飲み物。ガラスのコップにたっぷりと注いで渡された。
「ミルクセーキだ、そういう名前の飲み物なんだ」
ちょっと美味いぞ、この前、コッソリ作ってみたからな。少しだけの量で。
卵の料理を作っていた時に、とハーレイが悪戯小僧のような笑みを浮かべて保証するから。
「ふうん…?」
ミルクセーキって言うんだ、これ?
卵の黄身しか使わないなんて、なんだかとっても贅沢そうだね…。
興味津々でミルクセーキなるものをコクリと飲んだら、甘くて、卵黄のせいかコクがあって。
ハーレイが自信を持って勧めたわけだと、誘われたわけだと嬉しくなった。餌と水しか無かったアルタミラ時代のせいで好き嫌いは全く無いのだけれども、美味しいものは分かるから。美味しい食べ物を口にしたなら、幸せが胸に広がるから。
「美味しいね、これ。…ミルクセーキ」
ハーレイ、ぼくのために作ってくれたの、コッソリ試してみてたってことは?
「偶然、レシピを見付けたからな。しかしだ、この通り、材料がなあ…」
卵の白身は使わないと来た、飲み物にしては贅沢すぎだ。他のヤツらには出せんぞ、これは。
だが、栄養はたっぷりあるし…。背も伸びそうだから、お前に作ってやることにした。
「背が伸びるって…。ホント?」
ミルクセーキでぼくの背が伸びるの、本当に?
「作るのを見てたろ、牛乳が入っているからな。背を伸ばすんなら牛乳だぞ」
おまけに骨も丈夫になるんだ、お前にピッタリの飲み物じゃないか、ミルクセーキは。
頑張って早く大きくならんとな、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
お前はずっと子供の姿でいたんだから、と。
もう成長を止める必要は無いし、こいつを飲んで大きくなれよ、と。
(ミルクセーキで背が…)
伸びるぞ、と微笑んでくれたハーレイ。卵黄で栄養もつくからと。
ただ、材料が贅沢だから。食堂で他の仲間たちにも飲ませていたなら、卵白が余りすぎるから。嗜好品とも言える飲み物にそれは出来ない、と頭を振っていたハーレイ。食料事情が安定しないと作れはしないと、この船の中で牛乳も卵も賄えるようになれば別なんだが、と。
それでも、ハーレイはミルクセーキを作ってくれた。「一人分ならなんとかなるさ」と、何度も厨房に呼んでくれては、「コッソリだぞ」と念を押して。「お前の分しか無いんだから」と。
(そうだったっけ…)
他の仲間が厨房にいない、試作の時間。ハーレイが好きに厨房を使える時間。
そういう時に何度も作って貰った、ミルクセーキを。「作ってやるから」と厨房に呼ばれて。
牛乳と卵黄と砂糖から作る栄養たっぷりの甘い飲み物、背が伸びるというミルクセーキ。何度も飲ませて貰っていたのに、ハーレイが厨房にいなくなったら、ミルクセーキはなくなった。
シャングリラのキャプテンになったハーレイはもう、厨房には立たなかったから。厨房で試作をすることは無くて、ミルクセーキをコッソリ作れはしなかったから。
飲めなくなってしまったミルクセーキ。作ってくれるハーレイがいなくなったから。ハーレイは前と変わらずいたのだけれども、居場所が変わってしまったから。
(あれっきりだっけ…?)
ミルクセーキは消えてしまったんだっけ、と遠い記憶を探ってみる。前の自分の背はぐんぐんと伸びて、年齢を止める所まで育ったけれど。ミルクセーキの助けは無かった、背が伸びる美味しい飲み物はもう貰えなかった。
(…他の栄養で伸びたんだよね?)
前のぼくの背、と溜息をつく。ミルクセーキが無くても栄養は充分に摂れたし、牛乳も卵も他の食べ物に入っていたのだから、と。
ハーレイが作るミルクセーキで伸ばせなかったことは寂しいけれど。あれで育ったのなら幸せも大きかっただろうに、と思うけれども、ハーレイは別の所で助けてくれたから。
キャプテンとして船を纏めて、リーダーと呼ばれていた自分を補佐してくれたし、ソルジャーになった後にもずっと右腕でいてくれたのだし、ミルクセーキを残念がっても仕方ない。
「コッソリだぞ?」と作ってくれていたミルクセーキよりも、ずっと自分の役に立つことをしてくれていたのがハーレイだから。キャプテン・ハーレイだったのだから…。
そうは思っても、寂しい心。ハーレイが作るミルクセーキは消えたのだった、と。
(あんなに優しい味だったのに…)
前のハーレイのミルクセーキ、と遠い遥かな記憶を手繰れば、不意に現れたハーレイの笑顔。
とびきりの笑顔のハーレイが青の間に立っていた。「懐かしいでしょう?」と。
キャプテンの制服をカッチリと着込んだハーレイの手にあった、厨房のトレイ。青の間へ食事を運ぶ係が使っているものと同じトレイで、上にはグラス。ミルクセーキが入ったグラスが二つ。
持って来てくれたのだった、懐かしい飲み物を厨房から。
こういう贅沢な飲み物が作れるくらいに、シャングリラの食料事情は安定しましたよ、と。
「覚えていらっしゃいますか、ブルー?」
ミルクセーキですよ、私が厨房の責任者だった頃には何度も作っていたものですが…。
これを堂々と作れる時代になりました。卵も牛乳も、もう当たり前のものになりましたからね。
「…君が作ってくれたのかい?」
グラスは二つあるようだけれど、君の分まで作れたのかい?
ぼくが作って貰っていた頃には一人分だけで、君は味見に少し飲んでいただけだったのに。
「いえ、残念ながら…。材料は豊富にあるのですが…。私の分まで作れるのですが…」
ここで私が「自分でやるから」と作り始めたら、大変なことになりますよ。
いくら厨房の出身だったと知られていたって、初めての筈のミルクセーキを慣れた手つきで作り始めたら、昔のコッソリがバレますからね。作る機会がいつあったんだ、と。
「それもそうだね、君の手際が良すぎるわけだね」
あれだけ何度も作ってたんだし、わざと失敗してみせたのでは不自然すぎるし…。
バレないためには作らないのが一番いいよね、ミルクセーキは。
ハーレイが厨房でコッソリ作っていたミルクセーキ。シャングリラの中だけで卵も牛乳も賄える時代になった今では、バレても時効で笑い話で済みそうだけれど。
キャプテンが盗みはやっぱりマズイと、ソルジャーが一人だけ贅沢な飲み物を飲んでいたこともマズイだろうと、ミルクセーキの話は隠しておくことになった。
「犯罪者は私だけなのですが…」
厨房で盗みを働いていたのは私一人で、あなたはミルクセーキを飲んでらっしゃっただけで…。
「コッソリなんだと知っていて飲んでいたわけだからね、共犯と言うんじゃないのかな?」
ぼくが「作って」と頼んだわけではないけれど…。「作るな」とも言っていないから。
「なるほど、止めてらっしゃらないなら、共犯なのかもしれませんね」
卵の貴重さは、あなたも充分に御存知でしたし…。
飲み物に仕立ててしまうよりかは料理するのが本当だろうと、承知しておられたわけですし。
それでも「やめろ」と仰らないまま、作る所を御覧になっていらっしゃったということは…。
犯罪行為を放っておいでになったのですから、リーダーらしからぬ行動ですね。
「そうだろう?」
だから共犯だよ、ぼくだって。
一生隠しておくしかないってことなんだろうね、君が本当はミルクセーキを作れることは。
どうやら二人して犯罪者らしい、と笑い合って飲んだミルクセーキ。
ハーレイが作ったものではなかったけれども、とても懐かしい味がする、と。
牛乳と卵黄、それから砂糖。白い鯨になったシャングリラだからこそ出来る贅沢、誰もが飲めるミルクセーキ。ずっと昔に飲んでいたとは言えはしないと、作っていたことも秘密にせねばと。
(あれから何度も…)
頼んだのだった、ハーレイが青の間へ来る時に「ミルクセーキを持って来て」と。
とっくに背丈は伸びていたのに、とうの昔に年齢も止めてしまっていたのに。
だから笑っていたハーレイ。ミルクセーキを満たしたグラスを持ってくる度に。
「これを飲んでも、あなたの背丈はもう伸びませんよ?」
私があなたに作っていた頃とは、すっかり事情が違うのですが…。
シャングリラの食料事情も変わってしまいましたが、あなたのお身体にもミルクセーキはとうに必要ないのでは…?
「骨を丈夫にするんだよ。牛乳が入っているんだから」
牛乳と言えばカルシウムだろう、骨が丈夫になる筈だよ。ミルクセーキを飲んでいればね。
そんな屁理屈を言いながら飲んだ。年齢を止めてしまった身体の骨が丈夫になるなどと言えば、ノルディに笑い飛ばされたろうに。「そういうことはありませんよ」と、「カルシウムはとっくに足りているものと思われますが」と。
それでも、かつてはハーレイが作ってくれていたミルクセーキ。その懐かしい味が飲みたくて、何度もハーレイに注文していた。「本当は君が作ったミルクセーキが飲みたいのに」と。
恋人同士になった後にも、何度その望みを口にしたことか。
「君が作ったのが飲みたいな…」
共犯だったことがバレてもいいから、またあのミルクセーキを作って欲しいな。
こうしてミルクセーキを飲むとね、君が作ってくれていた頃を思い出すんだよ、今でもね。
「野菜スープが限界ですよ」
ソルジャーのためにキャプテンが何か作るとなったら、あれくらいです。
あのスープでしたら、誰もが承知しておりますし…。ブリッジを抜けて作りに行っても、変だと思う者は一人もいませんが…。
ミルクセーキとなったら話は別です、ソルジャーのお好きな飲み物を何故キャプテンがわざわざ作りに行くのです?
野菜スープは私のレシピだと知られていますから、誰かに「任せる」と言わない限りは作るのは私の仕事でしょうが…。ミルクセーキは既にレシピがあるのですからね、厨房に。
それを私が作っていたなら恋人同士なのがバレますよ、と指摘されればそうだから。他の仲間に仲を疑われ、本当にバレるかもしれないから。
ハーレイが作るミルクセーキを味わえないことは、仕方ないとは思ったけれど。
「でも、いつかまた飲んでみたいよ」
君が作れそうなチャンスが来たなら、あの懐かしいミルクセーキを。
「では、シャングリラが地球に着いたら作りましょう」
地球に着いたら、ソルジャーもキャプテンも、お役御免になるでしょうから。
肩書きが無くなってただのミュウになれば、恋人同士だと皆に明かしても大丈夫ですし…。
私たちの仲を隠さなくても良くなったならば、また作りますよ。地球に着いたら。
あなたのためにミルクセーキを、とハーレイは約束してくれたけれど。
地球の牛乳や卵黄や砂糖、それを使って作ると言ってくれたのだけれど。
(…ぼくの寿命が…)
尽きると分かって、夢は儚く消えてしまった。地球へ行く夢。白いシャングリラで辿り着く夢。
自分がシャングリラを守り続けて、ハーレイが舵を握って、いつか。青い地球まで。
その夢は消えて、ミルクセーキも頼まなくなった。飲めば悲しくなってしまうし、胸がツキンと痛くなるから。「ハーレイが作るミルクセーキはもう飲めない」と涙が零れてしまうから。
(それっきり…)
ハーレイに「ミルクセーキを持って来て」とは頼まなくなって、やがてジョミーを船に迎えて。
前の自分は深い眠りに就いてしまって、目覚めた時には永遠の別れが待っていた。たった一人でメギドへと飛んで、別れてしまった前のハーレイ。
飲めなくなったミルクセーキ。
前の自分は死んでしまって、ミルクセーキを頼むことさえ出来なくなってしまったから…。
幸せな思い出も沢山あるのだけれども、最後は悲しい思い出しか無いミルクセーキ。
前のハーレイにもう一度作って貰えないまま、終わってしまったミルクセーキ。
(…ハーレイ、覚えているのかな?)
今も覚えてくれているのだろうか、あの懐かしい飲み物を。皆には内緒でコッソリ作って、前の自分に飲ませてくれていたミルクセーキを。
訊いてみたい、と窓の方へと視線を向けたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄れば、門扉の所で手を振るハーレイ。
最高のタイミングで来てくれた恋人、仕事の帰りに寄ってくれたハーレイ。母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去ってゆくなり、勢い込んで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ。…ミルクセーキを覚えてる?」
「ミルクセーキ?」
覚えてるかって…。俺にわざわざ訊くってことはだ、レシピの話ってわけじゃなさそうだな?
たまに作って飲んではいるがだ、そいつのことではないんだろうな…?
「…今も作るの、ミルクセーキを?」
前のハーレイが作ってたんだよ、まだ厨房にいた頃に。卵の黄身しか使わないなんて、凄く贅沢だった時代に。…飲み物のためにだけ、そういう使い方をしたらマズイだろう、っていう頃に。
前のぼくのために作ってくれたよ、「コッソリだぞ」って。ぼくの分しか無いんだから、って。
「ああ、あれなあ…!」
ミルクセーキを作っていたんだっけな、前の俺もな。
前のお前がチビだった頃に、厨房に呼んでは「背が伸びるぞ」って。
だが、キャプテンになっちまった後は、コッソリ作りには行けなくて…。シャングリラの改造が済んでミルクセーキが作れるようになった時には、コッソリがバレるから作りに行けなくて。
バレてもいいから作ってくれ、って前のお前が言い出した頃には、お前との仲がバレそうで…。
地球に着いて恋人同士だと言えるようになったら、作ってやるって約束したんだっけな…。
とうとう作ってやれなかったな、とハーレイも思い出したから。
「前のお前は、ミルクセーキを頼むことさえしなくなっちまって、それっきりだったな」と深い溜息をついたから。
「…それは仕方ないよ、前のぼくの寿命が尽きると分かってしまったら…」
もう頼みたくはなかったんだよ、ハーレイが作るミルクセーキは二度と飲めないんだから。
厨房の誰かが作ったヤツでも、飲んだらハーレイのミルクセーキを思い出しちゃうし、飲めずに死んでしまうんだってことを思い知らされちゃうんだし…。
だから飲まなくなっちゃったんだよ、ミルクセーキは。
ハーレイに届けて貰ったとしても、思い出よりも悲しさの方が強くなるのに決まっているから。
「…そうだったな…。俺が約束を果たしてやれる日が来ない以上は、辛いだけだな…」
いつか必ず作ってやるから、と言ってやれた間は温かな思い出の味だったろうが…。
そんな日は来ないと分かっちまったら、悲しい味にしかならないからな…。
「うん。…それで頼まなくなっちゃったけれど、それまでは大好きだったんだよ」
誰が作ったミルクセーキでも、前のハーレイが作ってくれてたミルクセーキを思い出すから。
あの味だった、って幸せだったし、コッソリ作ってくれてた姿も覚えていたから。
…前のハーレイは、前のぼくにもう一度作ってくれないままで終わってしまったけれど…。
前のぼくがメギドで死んでしまって、それっきりになってしまったけれど。
…今度はぼくに作ってくれる?
今のハーレイのレシピでいいから、またミルクセーキ。
「作ってもいい時が来たらな」
俺がお前に手料理ってヤツを御馳走するとか、家に呼んでやることが出来る日が来たら。
お前が前のお前とそっくり同じ姿に育って、キスもデートも出来るようになったら、またアレを作って飲ませてやろう。
コッソリじゃなくて、堂々とだ。材料はあるし、俺たちの仲も隠さなくてもいいんだからな。
今は駄目だぞ、と言われたけれど。
前と同じに育たない内は、ミルクセーキも作ってやらないと釘を刺されたけれど。
「…まあ、焦らずにゆっくり育つことだな、今度は約束を守ってやれるんだし」
お前がきちんと大きくなったら、うんと美味いのを作ってやるさ。
ミルクセーキのレシピも今は色々あるわけなんだが、前の俺のレシピでやっても美味い筈だぞ。
今は材料がいいからな。牛乳も卵も、それに砂糖も、地球のヤツを使うわけなんだし…。
シャングリラの頃とも、前のお前が奪ってた頃のヤツとも、まるで違った味わいだぞ、うん。
「そうだね…!」
ハーレイが作ってくれる野菜スープも、今はとっても美味しいんだし…。
レシピを変えてしまったのかな、って思ったくらいに、同じ野菜でも美味しいんだし。
牛乳も卵も、ずっと美味しいに決まっているよね、あの頃よりも。
ハーレイが作るミルクセーキも凄く美味しくなっているよね、ハーレイの腕が落ちてなければ。
「こら、俺の料理の腕前は前より凄いと何度言ったら分かるんだ…!」
前の俺よりも色々な料理を作っているのが今の俺だぞ、腕が落ちるわけないだろう。
あまりの美味さにお前の頬っぺたが落っこちるようなミルクセーキを飲ませてやろう。
頬っぺたが落ちて行方不明になっちまわんよう、しっかり押さえておくことだな。
「落っこちてもいいよ」
行方不明になっちゃってもいいよ、ハーレイが作るミルクセーキがまた飲めるなら。
美味しく全部飲み終わってから、落ちた頬っぺたを探しに行くよ。
だって、ハーレイも一緒に探してくれるに決まっているもの。
「押さえておけって言っただろうが」って、ぼくのおでこをコツンとやって。
シャングリラでハーレイが作った頃とは違って、白い鯨で注文していた頃とも違って、今ならば地球の食材で作ったミルクセーキ。牛乳も卵も、それに砂糖も、青い地球のものばかりだから。
前の自分が生きた頃には無かった贅沢な食材、ミルクセーキはきっと美味しいに違いない。
本当に頬っぺたが落っこちるほどに、行方不明になりそうなほどに。
前の自分がミルクセーキを飲まないようになってしまってから、長い長い時が流れたけれども、約束が叶う。青い地球の上で。
ハーレイがまた、ミルクセーキを作ってくれる。
最初のミルクセーキがいつになるかは分からないけれど、その後はもう何度でも飲める。
いつか結婚して二人で暮らす家で作って貰って、あの思い出のミルクセーキを。
ハーレイと二人、何度も何度も、「あの味だよね」と微笑み交わしながら…。
ミルクセーキ・了
※前のハーレイが厨房にいた頃、ブルーだけに作っていたミルクセーキ。贅沢だった飲み物。
けれど手作りはその時代だけで、それっきり。次に手作りして貰えるのは、青い地球の上で。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。春うららかな日に登校してみれば、なんだか面子が足りないような。いつもだったら一番に登校するほどの真面目人間が…。
「あれっ、キースは?」
ジョミー君がキョロキョロと見回し、サム君が。
「そういや今日からだったっけか…。なんかボランティアって言ってたじゃねえかよ」
「そういえば…」
聞いてましたね、とシロエ君も。
「三日間ほどお休みでしたか? 何処へ行くのかは聞いてませんが」
「それじゃ、今週はお休みなのね」
三日間なら金曜までね、とスウェナちゃん。キース君のボランティアはお馴染みですけど、内容の方は実に様々。他のお寺のお手伝いやら、文字通りのボランティア活動やら。
「キース、今回は何なのかな?」
ジョミー君の疑問に答えられる人はいませんでした。要するに誰も突っ込んでは聞いていなかったという結果です。朝のホームルームで出欠を取るグレイブ先生に期待するしかないですが…。
「キース・アニアン。欠席だな」
金曜日まで、と呆気なく流され、行き先はおろか欠席理由も謎のまま。これは放課後まで待つしかなくて…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
放課後に出掛けた、生徒会室の奥に隠された溜まり場、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋では。
「やあ、来たね。キースが足りないみたいだけどね」
どうぞ座って、と会長さんが。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はいそいそとイチゴたっぷりのベイクドチーズケーキを切り分けてくれて、紅茶やコーヒーなどの飲み物も。
「えとえと…。キースはボランティアだよね?」
「うーん…。あれもボランティアと言うのかなあ…」
難しいね、と会長さん。ということは、ボランティアという名のタダ働きに出掛けて行きましたか? 先輩さんのお寺のお手伝いとか、そういうの…。
「ちょっと違うね、異業種交流会と言っておくのが早いかな?」
「「「は?」」」
異業種交流会って何でしょう?
「そのまんまのヤツだよ、璃慕恩院の主催でキリスト教との交流会でね」
「キース先輩、そんなのに出席させて貰えるほど偉かったんですか!?」
ああいうのはトップが出るんですよね、とシロエ君。言われてみればその手の記事には偉そうなお坊さんとかの写真が載っているもので、キース君もそういうレベルに実は達していたんですか?
「まさか。…キースがそこまでのレベルだったら、欠席は明日だけって所だね」
「「「えっ?」」」
「お偉いさんの出番は明日の会議だけ。でもねえ、会議の他にも親睦会とか、茶話会だとか。こう色々と細かいおもてなしの行事があるから…。手始めが今日の夕食会で」
そういった各種行事を円滑に進めるためには裏方が必須。璃慕恩院で普段からお役目のある人の他にも動員がかかり、キース君はそれに出掛けたのだとか。
「璃慕恩院かよ…。それじゃ、働いた分のバイト料とかは出ねえな、全く」
サム君が呟き、会長さんが「うん」と。
「お手伝いは名誉なことだからねえ、どちらかと言えば参加料を支払わなければならないほどのイベントだねえ? 支払ってでも手伝いたい、って坊主は山ほどいるわけで…」
「だったら、キースはエリートなのかよ?」
「そういうわけでも…。単に動員しやすいだけだね、自分のお寺の仕事を簡単に抜けられる上に、自由に休めるシャングリラ学園特別生だし!」
要は便利な助っ人なのだ、と言われると何だか気の毒なような。名誉な仕事でもタダ働きの日々が今日から金曜までですか…。
璃慕恩院までお手伝いに出掛けたキース君。金曜日まではキッチリ欠席、さて、土曜日はどうなるのだろう、と思っていれば「俺も行くぞ」と金曜の夜に思念波が。「どうせブルーの家だろう?」と集合時間を尋ねてきて…。
「あっ、キース、おはよう!」
ジョミー君が手を振る土曜日の朝。会長さんのマンションから近いバス停にキース君が降り立ちました。タダ働きが三日間の割には元気そうです。
「久しぶりだな、三日ぶりのシャバだ」
「シャバって…。キース、苦労したわけ?」
ジョミー君が訊くと、「それほどでもないが」という答え。後はワイワイ近況報告、会長さんの家の玄関まで行ってチャイムを鳴らして…。
「かみお~ん♪ キース、お帰りなさい~っ!」
入って、入って! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。私たちはリビングに通され、桜の餡をサンドしたふんわりブッセが出て来ました。キース君は「有難いな」と合掌すると。
「こういった菓子も久しぶりだ。…俺たちには所詮、おさがりだからな」
「「「おさがり?」」」
「言っただろうが、裏方だった、と。裏方なんぞのための菓子は無い。お偉いさんたちから「ご苦労様」と頂けるだけだ、菓子の残りを」
しかも種類がバラバラなんだ、とキース君。裏方さんの数が多いだけに、纏まった数が無いおさがりのお菓子は寄せ集め。お饅頭やらお煎餅やら、クッキー、マドレーヌなど実に様々。
「というわけでな、裏方同士で集まっていても、なかなか菓子が揃わなくってな…」
「なんか思いっ切り大変そうだね…」
お菓子だけでも、とジョミー君が言うと、「まあな」と返事が。
「そういった菓子を融通し合っている内に、だ。三日目ともなれば好みが分かって譲り合いとか、交換だとか…。なかなか有意義な日々ではあった。坊主だけではないからな」
「キリスト教の裏方さんもいたのかよ?」
サム君の問いに、キース君は。
「来ていたぞ? ただなあ、あっちはバラエティー豊かで…」
「「「えっ?」」」
裏方さんがバラエティー豊かって、何なのでしょう? キリスト教なんかはサッパリですけど、バラエティーに富んでいるものですか?
「キース先輩、それって服装とかですよね?」
確認したのはシロエ君でした。
「確か色々あるんですよね、お坊さんと一緒で階級別に」
「いや、そういうのとは別口だ。今度の交流会は修道会とのヤツだったからな、それこそ色々な修道服ってヤツが揃っていたわけで…」
「「「修道服!?」」」
それってアレですか、シスターですかね? なんか色々とあるらしいのは知ってます。アルテメシアで見かけるヤツだと茶色とか…。
「ああ、シスターももちろん居たが…。シスターが一番モロに出るなあ、バラエティーの豊かさ」
「なんで?」
なんでシスター、とジョミー君が不思議そうに。
「分からんか? 相手は女性だ、異教徒の男性と一緒に仕事はしない、という宗派もある」
そうかと思えばフレンドリーな宗派もあったりして…、と溜息が。
「記念写真を撮りましょう、と言い出すシスターがいるかと思えば、すれ違っても会釈だけとか…。そっち系だと、修道士の方も難しいんだ」
「「「へ?」」」
「会の方針が沈黙らしい。余計なお喋りの類は厳禁と来たもんだ。しかし喋らんと仕事が出来んし、何処まで喋っていいものやら…」
距離の取り方が実に難しかった、とキース君。
「この菓子、お食べになりますか、と訊いたら「ありがとうございます、大好物です」なんて言ってくるから、これはいけると喋ろうとしたら…」
「駄目なのかよ?」
「こう、穏やかに微笑まれてだな、「お互い、静かに祈りましょう」と来たもんだ。あちらさんは飯の時間も黙って祈っているらしい。黙って食え、というのは仏教の方でももちろんあるが…」
俺たちの宗派も修行中だとそうなんだが、とキース君。
「しかしだな! たかが菓子を食う時間くらいは息抜きだろうが!」
「祈りましょう、はキツイかもですね…」
ちょっとぼくには無理そうです、とシロエ君。
「ご苦労様でした、キース先輩。毎日、祈りの日々だったんですね?」
「うっかり気に入られてしまったもんでな!」
お菓子の時間も祈りましょう、という修道士に気に入られたらしいキース君。何かと言えば一緒に作業で、掃除や部屋の設えやら。三日間、キッチリ沈黙ですか…。
璃慕恩院の異業種交流会だか、親睦会だか。お偉いさんたちはもちろん交流、お手伝いの裏方同士も積極的に交流すべし、という方針で。キース君たちも顔馴染みの坊主仲間よりもキリスト教な人たちとの親睦が奨励されていたとか。
「ところがだ。沈黙なんぞが基本のヤツらと交流したいヤツはそうそういないし、気に入られた俺はババを引いたというわけだな。行きましょう、と声を掛けられたらおしまいだ」
作業も一緒なら、食事も隣同士で祈りながらの三日間。坊主仲間と羽目を外したくても、霊的な会話とやらに誘われてしまって宗教談義。
「宗教談義はいいのかよ?」
「それは許されるらしくてな…。お蔭様であちらさんの事情もかなり分かったが…」
俺には絶対、真似は出来ん! とキース君。
「必要最低限しか喋れない日々だぞ、ストレスが溜まって死にそうだ!」
この三日間だけでも死にそうなんだ、と相当に沈黙がこたえた模様。でもでも、他のお坊さんとかと喋れるチャンスもあったわけですよね?
「それはあったが、上の方でも俺が気に入られているらしい、と事実を把握しているからな? 他の連中にも指示が出るんだ、キースの交流の邪魔をするな、と」
「だったら、本気で沈黙の三日間だったのかよ?」
「あの修道士に気に入られてからはな!」
一日目の昼には既にロックオンされていた、とキース君の激白。朝一番に璃慕恩院に出掛けて、裏方同士で挨拶をして。その後の掃除で偶然、一緒の担当になって何故か気に入られたという話。
「俺は外見がコレなお蔭で、他の連中と違って酒だ女だと派手に遊んだことは一度も無いしな…。恐らくその辺を見抜いたんだろう、あちらさんは完全に禁欲だ」
「らしいね、そもそも修道院から外へは出ないと言うからねえ…」
会長さんが相槌を打って、キース君が。
「あんた、知ってるのか?」
「少しくらいはね。選挙と病院に行く時だけしか出ないっていうのが基本だろ? 坊主みたいに寺を抜け出して遊ぶわけにはいかないねえ…」
「そのようだ。霊的会話とやらのついでに聞きはしたがだ、本当に神が全てのようだな」
祈りのための沈黙らしい、とキース君はそれなりに情報を引き出して来た様子。つまりは間の取り方が上手かったと言うか、必要最低限の会話で済ませるスキルがあったと言うべきか。そりゃあ相手に気に入られますよ、異業種でも話が通じるんなら…。
キース君と三日間、一緒だったらしい修道士。名前は聞いたそうですけれども、お互い、住所の交換は無し。メールアドレスなんかは論外、三日間だけのお付き合いだったらしくって。
「二度と会うことも無いんだろうが、だ…。あの沈黙の日々はキツかった…」
「仏教でも私語厳禁ってトコはあるんだけどねえ?」
会長さんが混ぜっ返せば、キース君は。
「表向きだろうが、表向き! 私語厳禁の時間が終わった後には喋りまくりで、山奥の寺でもタクシーを呼んで街に繰り出すとかは基本だろうが!」
「まあねえ、食事は精進料理と言いつつ、お寿司を食べていたりもするし…。坊主はどうしても羽目を外すね、何処かでね。中には真面目な人もいるけど、お寺が丸ごとってことは無いねえ…」
外出禁止を真面目に守って沈黙の日々なんてとてもとても、と会長さん。
「それを思うと、異業種ながら学ぶべき所も多いってことになるけれど…」
「沈黙は金と言うからな…。あそこまで徹底しろとは言わんが、黙って欲しいヤツならいるな」
「「「は?」」」
「誰とは言わんが、俺たちに迷惑をかけまくるヤツだ」
あいつが沈黙の欠片だけでも守ってくれたら…、という台詞で誰のことだか分かりました。会長さんがレッドカードを叩き付けてる相手です。何かと言えばアヤシイ話をしたがるソルジャー、その手のアヤシイ話だけでもせずに沈黙してくれていれば…。
「沈黙してくれたら平和だろうねえ…」
毎日が変わるね、とジョミー君。会長さんも大きく頷いています。
「あの手の話に関しては沈黙、それだけで平和になるんだけどねえ…。聞きたい人なんか誰もいないし、気付いてくれればいいんだけどね」
「分かるよ、そういう時間に沈黙するのはいいことだよね!」
「「「!!?」」」
何故このタイミングで湧いて出るのか。紫のマントのソルジャーが現れ、ソファにストンと腰を下ろして。
「ぶるぅ、ぼくにも紅茶とブッセ!」
「かみお~ん♪ 紅茶はミルクティーだよね?」
「そう! 今日のブッセに合いそうだからね!」
桜餡だよね、と嬉しそうですが。何処から話を聞いていたのか、そもそも何しに来たんだか…。
ソルジャーが沈黙してくれたなら、という話の真っ最中に現れてしまった当のソルジャー。ミルクティーと桜のブッセが前に置かれると、早速ブッセを頬張りながら。
「ああいう時間に沈黙っていうのは素敵なんだよ、うん」
「分かっているなら沈黙したまえ!」
会長さんがすかさず切り込みました。
「君はこれから喋らなくていい。まるで喋るなとまで言いはしないから、その手のヤツだけ!」
「ぼくの努力でどうなるものでもないからねえ…」
「「「は?」」」
沈黙は自分で守るもの。自分自身で努力しないと出来ないことだと思いますが?
「その手の時間の沈黙は別! 黙らせよう、って意志が無いとね!」
「じゃあ、沈黙!」
黙ってくれ、と会長さんが命令すると。
「そうじゃなくって…。猿ぐつわだとか、手で押さえるとか、こう、無理やりに!」
それが燃える、と妙な発言。何のことだ、と私たちは首を傾げましたが。
「分からないかな、真っ最中の話だよ! 声が出せないっていうのは燃えるよ、本当に!」
「退場!」
会長さんがレッドカードをピシャリと叩き付けると、ソルジャーは。
「まだまだ話の途中なんだよ! 昨日ね、ノルディとランチに出掛けて、たまたまそういう話になって…。あのシチュエーションは燃えるんだけどさ、ぼくのハーレイには向いてなくって…」
なにしろヘタレなものだから、と溜息をフウと。
「猿ぐつわなんて絶対、出来っこないし…。自分でしたんじゃ馬鹿みたいだし、たまには口を押えてみてよ、って言うんだけどねえ…。ぼくは燃えるけど、ハーレイの方は…」
とことん腰が引けているのだ、と嘆くソルジャー。
「仕方ないかな、って思っていたらさ、こっちも似たような話をしてるし…。耳寄りな言葉も聞こえて来たし! 沈黙は金、って言ったよね?」
「確かに言ったが、分かっているなら黙ってくれ!」
キース君が返すと、ソルジャーは。
「その、沈黙は金って言葉で閃いたんだよ! ちょっと素敵なイベントが!」
「「「イベント?」」」
「そう、イベント!」
実に楽しいイベントなのだ、と言っていますが、どういうイベント…?
「沈黙は金って言うほどなんだし、これは人間の金の方にも効くのかな、とね」
「さっさと退場!」
もう帰れ、と会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーは我関せずで。
「金と言ったら大事な部分! 黙っていればエネルギー充填、すっごいパワーが出るのかな、なんて思っちゃったけれど、どうなんだか…」
「君のハーレイで試せばいいだろ、効くかどうか!」
猿ぐつわでも何でもやってくれ、と会長さんは半ば捨て鉢。ところがソルジャーの方は「そういうのはちょっと…」と乗り気ではなく。
「ぼくのハーレイには効きっこないねえ、その手の趣味が無いからね? こっちのハーレイも多分、効かない。それを承知で遊んでみたいと!」
「…誰で?」
「もちろん、こっちのハーレイで!」
黙って貰うイベントなのだ、とソルジャーは顔を輝かせながら。
「ライブラリーで読んだことがあるんだよ! 黙っていないと魔法が解ける、という話! 魔法じゃなくって呪いを解くんだったかな…」
タイトルは忘れてしまったけれども白鳥なのだ、という話。白鳥に変えられてしまった王子たちを妹のお姫様が助けるそうで。
「ああ、あれね…。黙ってイラクサの帷子を編むんだったか、それなら知ってる」
でも、その話をどうすると、と会長さんが訊けば。
「黙って編み物をして貰うんだよ、こっちのハーレイに! そして編み物をやってる間はぼくがせっせと妨害を!」
喋って貰う方向で、とソルジャーはニヤリ。
「当然、タダでは編まないだろうし、編み終えた時はぼくと一発! ただし黙って最後まで編めば、という御褒美だけどね!」
「ちょ、ちょっと…!」
「どうせヘタレだし、一発なんかは無理じゃないかと思うけど? でもねえ、それでも一発ヤれるようなら、沈黙は金に効くっていうことが証明されるし!」
万一、沈黙が効いた場合はぼくのハーレイでも試してみよう、と抜け目ない策。でもでも、黙って編み物だなんて、教頭先生はイラクサの帷子を編むんでしょうか…?
「えーっと…。それって、ハーレイはイラクサを編むのかい?」
痛そうだけど、と会長さんが。
「あれは葉っぱと茎とに棘があるしね? でもまあ、ハーレイの手なら問題ないかもだけど…」
面の皮と同じで手の皮も厚い、と酷い言いよう。けれどソルジャーの答えはといえば。
「イラクサの帷子なんかを何に使うと! 使えないし!」
もっと実用的なものがいいのだ、と瞳がキラリ。
「「「実用的?」」」
「そう、実際に使えるもの! レースなんかは実にいいねえ、あの太い指でせっせと大判のストールとかね! 編み上がったらぼくが使わせて貰うよ、有難くね!」
ぼくのハーレイとの夫婦の時間に…、とソルジャーの目的は予想以上に良からぬものでした。素肌にレースもいいものだとか言っていますが、それを教頭先生が編むと…?
「決まってるだろう、同じ編むなら使えるもの! それも有意義に!」
是非ともレースを編んで貰う、とニヤニヤニヤ。
「仕事が仕事だけに、学校では喋るしかないからねえ…。その間の沈黙は免除するけど、それ以外! 一切喋らず、沈黙を守ってレースを編みつつ、あわよくば金も!」
大事な部分もエネルギーが充填出来ればいいな、と欲が丸出し。あまつさえ…。
「エネルギー充填を目指すんだしねえ、妨害もエロい方向で! ぼくとハーレイとの夫婦の時間をダイレクトにお届けするんだよ! 中継で!」
「やり過ぎだから!」
それは絶対に鼻血で死ぬから、と会長さんが止めに入りました。
「ハーレイはヘタレで鼻血体質ってコト、君だって知っているだろう! レース編みが鼻血で駄目になるのは間違いないよ!」
「さあ、どうだか…。沈黙するぞ、って気合を入れていたら乗り切れるかもね?」
編んでる間は中継画面も見られないし、と言われてみればその通り。レースを編みつつ余所見だなんて絶対に無理に決まっています。
「つまりさ、チラリと画面に目を走らせては編み続ける、と! 編み上がった時はぼくと一発、それを夢見て編んでいたなら、金だってエネルギー充填で!」
「…早い話が、止めるだけ無駄っていうことなんだね、君の計画は?」
「そういうこと!」
ハーレイにはレースを編んで貰う、とソルジャーはカッ飛んだ方向へと。キース君が仕入れて来た沈黙のネタとは真逆に走っていませんか…?
ソルジャーという人は思い込んだら一直線。沈黙が効くかもしれないというのと、教頭先生で遊んでみたいのと目的は二つ。こうと決めたら梃子でも動かず、お昼御飯の時間まで大いに盛り上がった末に、教頭先生の家へ出掛けると言い出して…。
「後はハーレイとの直談判! 編んでくれると決まった時には、もう今夜から!」
レースを編んで貰うのだ、とブチ上げつつもピラフをパクパクと。シーフードと菜の花のピラフは美味しいんですけど、ソルジャーの悪だくみが無ければもっと美味しく…。
「ホントだよ。黙って欲しいのは君だったのにさ」
誰もが同じ考えだったらしくて、会長さんがソルジャーに文句を付けましたが。
「別にいいだろ、ぼくが黙るなんて最初から誰も期待はしてないだろうし!」
「「「………」」」
そう来たか、としか思えない答え。ソルジャーに沈黙して欲しかったのに、黙るどころか喋りまくって教頭先生を追い込む方へと。教頭先生、果たして黙ってレースを編みますかねえ?
「編むと思うよ、ハーレイだしね!」
御褒美をチラつかせてやればいくらでも、とソルジャーは自信たっぷりでした。
「どんなレースにしようかなあ…。ぼくのマントくらいのサイズで編んでくれれば素敵だけどねえ、ぼくのハーレイとの時間がグッと楽しく!」
「ハーレイにレース編みの技術があるとでも?」
「無いだろうから面白いんだよ、一から始めるレース編み! 始めたからには最後まで! たとえ喋って御褒美がパアになろうとも!」
そのくらいのリスクは覚悟して貰う、と恐ろしい台詞が。
「パアになっても編ませる気か!?」
そこで終わりにならないのか、とキース君が訊くと、「ならないねえ!」と明快な答え。
「ぼくはレース編みの大判のストールも欲しい気持ちになって来たんだ、それも手編みだよ? 夫婦の時間が贅沢なアイテムでうんと充実、豪華に演出!」
もちろん真っ白なレースなのだ、とソルジャーはウットリと夢見る瞳で。
「花模様が幾つも繋がるのがいいかな、ロマンティックで」
「かみお~ん♪ お花模様のレース編みなら、編めるようになる本、持ってるよ!」
「本当かい!?」
「レース編み、やってたことがあるしね!」
こんなのはどう? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が宙からヒョイと取り出した本がドサドサドサッと何冊も。レース編みまでやってましたか、「そるじゃぁ・ぶるぅ」…。
ソルジャーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の本を参考にして編んで貰うレースを決めました。花模様の連続、大きさはマントと同じサイズで。
「よし、これでいこう! ハーレイが受けてくれるんだったら、糸を買って!」
「えとえと、糸もね、買うんだったら、お店、案内するからね~!」
意気投合してしまったソルジャーと「そるじゃぁ・ぶるぅ」。糸はソルジャーが買い、必要な道具は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のを貸すようです。此処まで決まれば後は教頭先生のお宅訪問、瞬間移動での電撃訪問あるのみで…。
お昼御飯の片付けが済んだら、教頭先生のお宅へ出発。有無を言わさず巻き込まれてしまった私たちも青いサイオンにパアアッと包まれて…。
「うわあっ!?」
仰け反っておられる教頭先生。これも毎度のパターンだよね、と思っている間にソルジャーが。
「こんにちは。今日はね、君に提案があって」
「提案…ですか?」
「そう! 沈黙は金って知ってるかい?」
「それはまあ…。これでも古典の教師ですから」
それが何か、と怪訝そうな教頭先生に、ソルジャーは「それは良かった」と満足そうに。
「色々あってね、沈黙は金に効くんじゃないかと思ったわけ! 君も持ってる、その金だよ!」
いわゆる大事な部分のことだね、と教頭先生の股間にチラリと視線を。
「…き、効くとは…。いったいどういう…?」
「文字通りの意味だよ、喋れないのは燃えるものだし…。ヤッてる時にね、口を押さえられたら堪らないんだ、だから君なんかも同じじゃないかな、と!」
我慢することでパワーが高まる、とソルジャーは自説を展開しました。
「黙っている間にエネルギー充填、まさに弾けんばかりのパワー! それを目指して黙って貰おう、と思うんだけれど、ただ黙るっていうだけではねえ…」
「私が黙ればいいのですか?」
「話が早くて助かるよ。こういう話を知っているかな、白鳥にされた王子を助けるために黙ってイラクサを編む妹姫。喋ってしまうと王子は助からないらしくって…」
「あの話ですか…」
知っています、と答えた教頭先生に向かって、ソルジャーは。
「それの真似をして欲しいんだよ! 黙って黙々とレースを編むんだ、君の場合は!」
これでお願い、とレース編みの本が突き付けられましたけれど。教頭先生、そんなの、お受けになりますか…?
「お花模様のレース編み…」
これを編めと、と教頭先生がレース編みの本のページを覗き込んだら、ソルジャーが。
「そうなんだよねえ、このパターンを幾つも繋いでいったら大きなサイズになるらしいし…。ぼくやブルーのマントくらいに仕上げてくれれば文句なし!」
「そこまでですか!?」
そんなサイズを編むのですか、と教頭先生は唖然呆然。
「わ、私はレース編みなどは…。それに、それほどのサイズを編むとなったら、どれほどかかるか…。第一、黙って編むんですよね、そのレースは?」
「そうだけど? ただし、学校へ行ってる間は免除だから! 黙るのは家の中だけだから!」
「し、しかし…」
「君にも美味しい話じゃないかと思うんだけどね? ぼくはさ、沈黙が金かどうかを試してみたいと言っただろ? だから黙って最後まで無事に編み上げられたら、ぼくと一発!」
溜め込んだエネルギーで一発やろうじゃないか、とソルジャーはズイと踏み出しました。
「ブルーそっくりのぼくと一発だよ? 絶対、悪い話じゃないって!」
「で、ですが、私は、初めての相手はブルーだと決めておりまして…!」
「パワーが溜まれば、ブルーだろうが、そうでなかろうが! 一発ヤリたい気分になるって!」
ぼくの身体で練習してくれ、とソルジャーに言われた教頭先生、ウッと詰まって。
「…れ、練習…」
「そう、練習! ぶっつけ本番で失敗するより、ぼくの身体で稽古をね!」
手取り足取り教えるから、と殺し文句が。
「この提案を受けてくれたら、編み上がった時には最高の時間を約束するよ。でもね…。もしも途中で喋っちゃったら、練習の話は無かったことに! 君にはレース編みのノルマだけが残る」
レース編みは最後まで仕上げて貰う、とキッツイ台詞で。
「の、ノルマ…」
「それくらいのリスクは覚悟しないとね? 白鳥の王子の話だってそうだろ、最後は処刑の危機だった筈だと思うけどねえ?」
「そ、そうでした…」
「じゃあ、ノルマ」
処刑までされるわけじゃなし、とレース編みのノルマの登場ですけど、教頭先生、黙ってレースを編む方に行くか、断るか、どっち…?
「…喋ってしまえばノルマだけが残るわけですか…」
教頭先生はレース編みの本を広げて編み方をチェックし、それから暫く考え込んだ末に。
「私も男です、やってみましょう! 要は黙って編むのですね?」
「やってくれるのかい? だったら契約成立ってことで!」
ソルジャーは満面の笑みで教頭先生と握手を交わすと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の方に視線を。
「編んでくれるらしいよ、道具をよろしくお願いするね」
「かみお~ん♪ 糸も沢山買わなくっちゃね!」
「それじゃ二人で用意しようか、道具と糸と」
「オッケー!」
行ってくるねー! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の元気な声が響いて、二人の姿が消え失せました。教頭先生は「レース編みか…」と本を眺めておられますけど。
「…スケベ」
会長さんの冷ややかな声に、教頭先生の顔が凍り付いて。
「い、いや…! こ、これはだな…!」
「言い訳のしようも無いと思うんだけどねえ、編み上げたらブルーと一発だろう?」
ただし一言も喋らなければ、と冷たい微笑み。
「ブルーは沈黙は金って言葉も実践したいようだしねえ? おまけに遊びが半分なんだよ、君が黙って最後まで編めなかった場合に備えてノルマも課していたくらいだしね」
「…どういう意味だ?」
「喋ってしまう方向で妨害をするって言ってたけれど? エロい方向で!」
毎日毎晩、夫婦の時間を中継でお届けらしいんだけど、と聞かされた教頭先生は一気に耳まで真っ赤に染まってしまって。
「ま、毎晩…?」
「うん、毎晩。それでも喋らずにせっせと編む! 最後まで!」
喋らずに編み上がった時だけがブルーの美味しい御褒美、と会長さんの笑みは冷ややかで。
「どうだろうねえ、喋らずに編み上げられるのかな? そういうエロい妨害付きで?」
「う、うう…。しゃ、喋らなければいいわけで…」
「ふうん、挑戦するわけなんだ? ヘタレ返上で頑張るのかな? まあ、既に契約は成立しちゃっているからねえ…」
ブルーは糸を買いに行っちゃったし、と会長さんは冷淡でした。契約成立で編むしかないのだと、今更白紙には戻せないのだと。そして…。
「糸、買って来たよーっ!」
これで充分、足りると思うの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が紙袋を抱え、ソルジャーがレース編みの道具が入っているらしい箱を手にして戻って来ました。
「それじゃ今日からよろしく、ハーレイ。ぼくたちはこれで失礼するけど、喋っちゃ駄目だよ?」
しっかり監視してるんだから、とソルジャーが。
「ぼくのサイオンを舐めないようにね? 君が喋ったか喋らないかくらいは簡単に分かることなんだしね」
こうやって、とソルジャーの手が教頭先生の背中をバンッ! と。
「な、何ですか!?」
「ん? 今のでぼくのサイオンの波長の一部を君のとシンクロさせたわけ。君がウッカリ喋ったりすれば、「しまった」という感情が心に生まれる。それがダイレクトに伝わる仕組み!」
喋った瞬間にバレるから、とソルジャーは自信たっぷりで。
「だからね、君が御褒美を貰える資格を失くした時には隠し通せはしないからね? ノルマだけが残るし、そこを間違えないように」
「…わ、分かっております…」
「それと、ブルーから聞いているかもしれないけれど。沈黙で金のパワーを高めるためにね、これから毎晩、ぼくとハーレイとの夫婦の時間を中継画面でお届けするから!」
「ほ、本当だったのですか、その話は!?」
教頭先生、やはり疑っておられたようです。ソルジャーは「嘘じゃないよ?」とクスッと笑って。
「ぼくはハーレイとの時間に夢中だからねえ、中継はぶるぅに任せるつもり! 元から覗きが大好きな子だし、喜び勇んで中継するよ!」
その妨害に負けないように、と激励された教頭先生は。
「…が、頑張ります…! 喋ったら最後、ノルマしか残らないわけですし…」
「よく出来ました。それじゃ始めてくれていいからね、レース編み!」
マントのサイズは縦横がこれだけ、と書き付けたメモを差し出すソルジャー。教頭先生はそれを受け取り、レース編みの本に挟みました。マントサイズのお花の模様のレース編み。どのくらいかかるか分かりませんけど、その間、ずっと沈黙ですか…。
私たちが瞬間移動で立ち去った後に、教頭先生はレース編みの本を広げて道具を取り出し、いざ挑戦。私たちの方は午後のおやつを口にしながら中継画面での見物です。
「教頭先生、本気で編むんだ…」
レースなんか、とジョミー君が言えば、マツカ君が。
「ノルマだっていう話ですしね…。そうなれば編むしかないでしょう」
「契約、成立しちゃいましたしね」
どう転んでも編むしか道は無いですよ、とシロエ君も。とはいえ、素人がレース編み。お花模様でマントサイズなんかが編めるのだろうか、と案じていれば。
「えっとね、ハーレイ、筋は良さそうだよ?」
見れば分かるの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がニコニコと。
「初めての人でも編める本だけど、コツを掴んでいるみたいだし…。綺麗なレースが編めると思うな、お花模様のレースのマント!」
真っ白だよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーも瞳を煌めかせて。
「そりゃね、マントサイズのレースともなれば花嫁衣装を意識したいしねえ…。色は白しかないと思って! 素肌に纏える真っ白なレース!」
手編みで出来ててうんとゴージャス、と大いに悦に入っているソルジャー。沈黙の方はもはやどうでもいいのだろうか、と思いましたが。
「えっ、金かい? 無駄だろうとは思うけれどさ、出来れば頑張って欲しいものだねえ…。沈黙を守れば金のパワーも高まるとあれば、ぼくのハーレイにも真似させたいし!」
そして充実の夫婦の時間を! とソルジャー、グッと拳を。
「そのためにも今夜から妨害あるのみ! こっちのハーレイが沈黙していられないような凄い映像を生中継でバンバンお届け!」
きっと「ぶるぅ」も張り切るよ、とソルジャーだって張り切っています。教頭先生、妨害に耐えて無事に沈黙を守れるでしょうか? それとも残るはノルマだけとか…?
その夜は春らしい豪華ちらし寿司の夕食を御馳走になって解散。教頭先生に異変が起きたら、会長さんから速報の思念が入ると聞いていましたが、何も無いまま次の日になり、日曜日。
「…何も起こらなかったようだな…」
俺は正直、反省している…、とキース君が沈痛な面持ちでバス停からの道を歩きながら。
「こんな方向に話が転ぶと分かっていたなら、あんな話はしなかったんだが…」
「仕方ないですよ、キース先輩。場外から乱入して来る人の動きまでは読めませんから」
不可抗力です、とシロエ君の慰めが。私たちも口々に「責任を感じる必要は無い」と言いつつ、会長さんの家まで辿り着いてみれば。
「かみお~ん♪ ハーレイ、かなり編んだの!」
筋がいいよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。その隣ではソルジャーが。
「沈黙の方も頑張ってるよ。昨夜は遠慮なくやらかしたけれど、一言も喋らなかったようだね」
集中力が半端ではない、と大絶賛。中継していた「ぶるぅ」は音声の方も大音量で流したらしいのですけど、教頭先生は黙々とレースを編んでいただけで。
「…もしかして、マントサイズが仕上がるでしょうか?」
精神力はお強いですよ、とシロエ君が青ざめ、キース君が。
「まずいな、俺はブルーに殺されるのか?」
あのレース編みが無事に仕上がってしまったならば…、と震え上がっているキース君。レース編みのマントが沈黙を守って出来上がったなら、ソルジャーが教頭先生に…。
「「「………」」」
ヤバイ、と誰もが顔面蒼白、キース君の処刑も覚悟しましたが。
「沈黙は金…ね。ハーレイ、確かにヘタレなりにもパワーを蓄えつつあるようだけど!」
ブルーの読みもある意味、当たっていたようだけど、と会長さんがフンと鼻を鳴らして。
「そうそう美味しい思いをさせてはあげないってね。もっとも、ぼくが何もせずとも、その内に自爆しそうだけどねえ?」
「うん…。多分、今夜か明日くらいかと…」
こっちのハーレイの我慢の限界、とソルジャーが少し残念そうに。
「なまじ万年童貞だから…。溜まったパワーを持て余しちゃって派手に爆発、何か叫ぶんだよ」
「その叫び、何か賭けようか? ぼくは「一発」が入ると見たね」
「ぼくもだけどね?」
君たちは何に賭けるのかな? と言われましても、困ります。会長さんとソルジャーが始めたトトカルチョには入れそうもない私たちですが、教頭先生も今日明日で夢が砕けそう。沈黙を破った後にはノルマで、ただ延々とレース編みの日々。教頭先生、ご苦労様です~!
沈黙に耐えろ・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が沈黙しながらレース編み。まあ、間違いなく喋って終わりなコースですけど。
そしてキース君がロックオンされた修道士の方は、本当に実在する宗派です。厳しさ最高。
次回は 「第3月曜」 7月15日の更新となります、よろしくです~!
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こちらでの場外編、6月は、梅雨で雨なシーズン。キース君には、それで悩みが。
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