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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(えーっと…?)
 ブルーは首を傾げて目の前にある物体を見た。学校から帰って、おやつの後で。
 母に頼まれて荷物を置きに来た部屋、父が普段に使う部屋。そこに地球儀。今の自分が住む星を模して作った地球儀、それが棚の上に飾ってあるから。
(なんで?)
 先日までは無かったと思う。この部屋の棚に地球儀などは。
 そもそもブルーが暮らす家には地球儀が無かった、父も母も持っていなかったから。遠い昔には学校の授業で使われたこともあったと地理の授業で習ったけれども、今の時代はインテリア。
 大きなものから小さなものまで、百貨店などで売られているのが今の地球儀。
 けれども両親にその趣味は無くて、家ではお目にかからなかった。なのに地球儀、棚の上にある小さな地球儀。
 父が欲しくなって買ったのだろうか、と観察してみれば、それの正体はトロフィーだった。優勝記念と文字が刻まれた台座、地球儀を据えてある台座。地球を支える棒にはリボン。



(そういえば…)
 何かの大会で優勝したと言っていた父。会社の仲間が大勢集まる遊びの会。
 土曜日だったか日曜だったか、ハーレイが来ていた日だったから。優勝の話は夕食の席の話題の一つ。父はトロフィーを披露しなかったし、貰ったことさえ聞きはしなかった。
 どうやらその日の記念品らしい、このトロフィー。地球儀の形で台座付き。
(地球儀…)
 小さいけれども本物の地球儀、インテリアとして人気の地球儀。
 作り物の地球を覗き込んでみたら、今とは全く違う大陸。地理の授業で馴染みの地球とはまるで違った形の大陸。
 けれど根拠の無いものではない、歴史の授業で習う大陸たち。それは遥かな昔の地球。
 SD体制が敷かれるよりも前、人がまだ地球に住んでいた頃はこういう形の大陸だった。地球が滅びて人が住めなくなった後にも、辛うじて地形は残っていた。
 ところがSD体制の根幹だったグランド・マザーの崩壊と共に、燃え上がってしまった遠い日の地球。火山の噴火や大規模な地殻変動が起こり、地球はすっかり変わってしまった。
 もっとも、そうした荒療治のお蔭で今の青い地球があるのだけれど。
 汚染されていた海も大地も息を吹き返して、青い水の星が宇宙に蘇って来たのだけれど。
 父が貰ったトロフィーにあるのは、そうなる前の昔の地球。失われてしまった大陸たち。



(フィシスの地球…)
 前の自分が見ていた地球だ、と父のトロフィーの地球を見詰めた。
 今でも地球儀として人気があるのが昔の地球。一度滅びるよりも前の時代の地球を模したもの。
 今の状態を描き出した地球儀もあるのだけれども、好まれるものは断然、こちら。
 なんと言っても、人間を生み出した時代の地球はこうだったから。遠い遠い昔のアフリカ大陸、人間はそこで生まれて地球に広がり、あちこちで多様な文化を築いていった。
 地面の上を歩いて行ったり、海を渡って更に遠くへと進んで行ったり。
 そうした時代に、母なる地球に思いを馳せるなら、地球儀はこうでなければいけない。変わってしまった地形を描いた地球儀を見ても、人間の先祖が旅をした道はその上に見えてこないから。
 アフリカ大陸から始まった歴史、それを辿るなら昔の地球。
 前の自分もこれを見ていた、フィシスの記憶に刻み込まれた青い地球を。
 たとえ機械が刻んだものでも、地球は地球。こういう姿で宇宙の何処かにある筈の地球。銀河の海の中の何処かに、この青い星がぽっかりと浮かんでいるのだと。



 父が貰って来たトロフィー。脳裏に蘇るフィシスの地球。
(触っていいよね?)
 悪戯するんじゃないんだから、と小さな地球儀に手を伸ばした。
 単なる飾りでクルリと回りはしないのだろうか、と触れてみたらスイと動いた地球儀。回そうとした方へと地球が回った、作り物の地球が。昔の地球を模している玉が。
 もうそれだけで弾んだ心。嬉しくなって緩んだ頬。
 小さくても地球、それが自分の手で動く。指先でスイと回してやれる。自転さながらにクルリと回って、見える大陸が変わってゆく。小さな地球儀の表から裏へ、裏から表へ。
 昔の地球でも今の地球でも、肉眼で見てはいないから。
 地球儀のような丸い地球には一度も出会ったことがないから、もう嬉しくてたまらない。これが地球だと、宇宙から見ればこう見えるのだと。
 この地球儀の上に描かれた大陸、それは失われてしまったけれど。
 前の自分が生きた時代の終わりに滅びて、新しい大陸とそれを囲む海とが生まれたけれど。
 今とは違う姿の地球でも、地球は地球。クルリクルリと何度も回した、作り物の地球を。
 父のトロフィーにくっついた地球を、小さいながらも精巧に出来た地球儀を。



 トロフィーの地球を飽きずに眺めて、それから自分の部屋に戻って。
 あのインテリアが人気なわけだと、地球儀を飾っておきたい人が多いわけだと思ったけれど。
 自分の部屋にも欲しいほどだと、また父の部屋へ行ったら回してみようと勉強机に頬杖をついて考えていたブルーだけれど。
(…あれ?)
 さっき回していた、小さな地球。昔の地球を模した地球儀。
 クルリと回せば日本も出て来た、遠い昔の小さな島国。今は無いけれど、今の自分が住んでいる地域は日本が在った場所だから。文化も日本に倣っているから、日本の形は馴染みの形。
 そんな日本が何度も出て来た、地球儀をクルリと回してやれば。独特の形の島たちが。
(前のぼくが見ていたフィシスの地球は…)
 フィシスの記憶に刻まれていた地球、そこに日本は無かったけれど。細長く伸びた島たちの列を目にした記憶は無いけれど。
 SD体制の時代だったから、日本が無いのも頷ける。SD体制が基準に選んだ文化圏の中には、日本は入っていなかったから。日本からは遠く離れた地域が文化の基準で、フィシスの記憶に刻み込むなら、そういう地域にしなければ。日本が一緒に見えたりはしない遠い地域に。
 でも…。



 フィシスが見せてくれていた地球。前の自分が焦がれた地球。
 青い地球を抱く少女だからこそ、フィシスを攫った。機械が無から作ったものでも、どうしても欲しくてミュウにしてまで。
 そうして地球を心ゆくまで眺めたけれども、地球へと向かう旅の記憶が好きだったけれど。
(フィシスの地球は見てたけれども、地球儀って…)
 さっき自分が回した地球儀、それを回した記憶が無い。クルリと回せば自転のように回る地球の模型、地球が好きなら何度も回していそうなのに。
 これがアフリカで、人は此処から長い旅をして…、と人の歴史を辿りそうなのに。
 今もインテリアとして人気の地球儀、百貨店に行けば誰でも買える。昔の地球から今の地球まで揃って並んだ地球儀の中から、好みの一つを選び出して。
 そんな地球儀に前の自分が魅せられない筈が無いのだけれど。
 クルリクルリと何度も回して、いつかは行こうと、この目で見ようと眺めそうだけれど。



(前のぼくは…)
 あんなにも地球に焦がれていたのに、フィシスの地球に酔っていたのに。
 フィシスを攫って来るよりも前は、きっと地球儀だっただろうに。
 クルリと回せば地球の姿を見られる地球儀、それを好んで身近に置いたか、見に出掛けたか。
 小さなものなら青の間に置いておけた筈だし、もっと大きくて立派なものならヒルマンが持っていただろう。子供たちに勉強を教えたヒルマン、彼が教材を保管していた資料室に。
 その他にも地球儀はシャングリラの中にありそうで。
 いつかはと夢見た青い地球の姿、それを表す地球儀は幾つもあった筈。休憩室やら、憩いの場になる公園といった所にきっと幾つも。
(…だけど、地球儀…)
 まるで記憶に残っていない。
 いくら考えても思い出せない、地球儀の記憶が全く無い。
 クルリと回した思い出はおろか、それを目にした記憶でさえも。



(ぼく、忘れちゃった…?)
 焦がれ続けた地球だったけれど、それを模したのが地球儀だけれど。
 フィシスを手に入れ、模型の地球とは比較にならない鮮やかな地球をいつでも眺められるようになったから。望みさえすれば青い地球を見られて、地球儀よりも遥かに美しかったから。
 もう地球儀には興味を失くして、触れさえもしなくなったのだろうか。
 たとえ何処かで地球儀を見ても、ただ其処にあるだけの置物に過ぎず、存在さえも意識しないで記憶の彼方に消えたのだろうか。
 なんとも薄情な話だけれども、それが一番ありそうだから。
(ハーレイに…)
 訊いてみようか、前の自分は地球儀を忘れてしまったのか、と。
 フィシスの地球に魅せられる内に、青い地球へと飛んでゆく旅に酔いしれる内に、以前は好んだ地球儀を忘れ、顧みなくなっていたのだろうか、と。
 ハーレイはきっと酷く呆れることだろうけれど、覚えていないものは仕方ない。
 もしも自分が地球儀を持っていた時期があるなら聞いておきたい、どんな地球儀だったかと。
 青の間に置いて眺めていたかと、その地球儀はいつの間に姿を消してしまったろうか、と。
 誰かに譲ったか、シャングリラの何処かに新たな置き場所を見付けたか。
 それとも自分では持っていなくて、ヒルマンの所へ足繁く通って回していたか…。



(来てくれないかな…)
 今日は寄ってはくれないのかな、と何度も窓の方へと目をやっていたら、チャイムが鳴って。
 その待ち人がやって来たから、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日ね…」
 パパの部屋で地球儀を見付けたんだよ、前には無かったんだけど。
 何かで優勝した記念のトロフィーが地球儀の形で、小さいけれども本物の地球儀。優勝記念って書いた台座に乗っかってるけど、ちゃんとクルンと回せるし…。
 それにね、昔の地球だったよ。今みたいな地形に変わっちゃう前の、昔の地球。
「ほほう…。地球儀ってヤツは人気だからなあ、それも昔の地球の方がな」
 やっぱり夢があるんだろうなあ、昔の地球は。とっくの昔に無くなっちまった大陸とかでも。
「パパの地球儀、綺麗だったよ。小さくてもホントの地球儀だったし。…それでね…」
 ちょっとハーレイに訊きたいんだけど、前のぼくも持っていたのかな?
「何をだ?」
「えっと、地球儀…。全然覚えていないんだけれど…」
 前のぼくが持ってたかどうかも覚えていないし、見かけた覚えも無いんだよ。
 フィシスを攫って、本物みたいな地球をいつでも見られるようになっちゃったから…。そっちに夢中になってしまって、地球儀、どうでもよくなったみたい。
 酷い話だけど、あんなに行きたかった地球。
 その地球とそっくり同じに出来てた地球儀のことを、ぼくはすっかり…。



 忘れちゃったみたい、と話したら。
 ハーレイはきっと呆れるだろうと俯きかけたら。
「いいや、お前は忘れたんじゃない。知らないだけだ」
 酷いも何も、と返った答え。
「えっ?」
 知らないって、何を?
 なんのことなの、忘れたんじゃなくて知らないだなんて。
「地球儀だ。俺も地球儀、知らないからな。…今の俺じゃなくて前の俺だが」
 天球儀だったら知っていたがな、と笑ったハーレイ。キャプテンには必須だったから、と。
 それならばブルーも覚えている。シャングリラにあった天球儀。
 白いシャングリラの位置と他の天体とを関連付けて表示させたり、座標を打ち込んで遠く離れた宇宙の彼方の星雲などを映し出させたり。
 地球があるのは何処だろうかと何度も覗いた、地球を擁するソル太陽系はどの辺りかと。
 ぼんやりと光るホログラムの天球、それを天球儀と呼んでいた。
 いつかは地球の座標を打ち込み、其処に向かって旅立とうと。これに航路を映し出そうと。



 天球儀はあったとハーレイは言ったが、そのハーレイも知らないらしい地球儀。
 前の俺は、と繰り返したハーレイ。
「天球儀は確かにあったんだが…。そう呼んでいたものはあったが、地球儀の方は…」
 生憎と俺も全く知らない、前のお前と同じにな。
「ハーレイも地球儀を知らないだなんて…。もしかして地球儀、無かったの?」
 シャングリラには地球儀が無かったってわけ、ぼくが忘れたわけじゃなくって?
「うむ。地球儀そのものが無かったんだ」
 無かったものなら、覚えているわけがないだろう?
 前のお前は見たことも無くて、シャングリラの中にも一つも無かった。
 もちろん俺だって知らず仕舞いだ、地球儀という代物をな。
「そうだったんだ…」
 無かったんだ、とブルーはポカンと口を開けたけれど、同時に少しホッとした。自分は地球儀を忘れたわけではなかった、前の自分に地球を見せてくれていた地球儀を。
 フィシスが来るまでは何度も眺めただろう地球儀、それを忘れたかと思っていたから。
 無かったものなら記憶に残っていなくて当然、何の不思議も無いのだけれど。
 それ自体は納得出来るのだけれど、無かったと即答したハーレイ。
 尋ねた途端に答えを返したハーレイはいつ知ったのだろう?
 白いシャングリラに地球儀が存在しなかったことを、いつの間に…?



「ねえ、ハーレイ。…なんで気付いたの?」
 地球儀は無かった、って直ぐに答えたでしょ、前から気付いてたんだよね?
 どんな切っ掛けで思い出したの、シャングリラに地球儀が無かったってことを。
「それなんだがな。…お前より少し前のことだが…」
 お前と同じだ、俺も切っ掛けはトロフィーなんだ。
 前に来たから覚えているだろ、俺が幾つも飾っているのを。柔道のだとか水泳のだとか…。
 あれを見ていて気が付いた。前の俺には地球儀ってヤツの記憶が無いぞ、と。
「トロフィーって…。ハーレイのヤツにあったっけ?」
 パパのみたいな地球儀型。ぼくは見覚え、無いんだけれど…。
「地球儀そのままって形のじゃないが、地球つきのトロフィーを持っているんだ」
 トロフィーの飾りの一部が地球の形をしているわけだな、地球を嵌め込んだ塔みたいに。
 金色の塔の天辺が地球になっているな、としみじみ眺めて、昔の地球の方だと思って…。
 トロフィーでも昔の地球が人気なのかと考えてみたが、そいつは柔道のトロフィーだった。
 柔道はSD体制の頃には消されちまってた武術だからなあ、昔の地球なのも当然だよな。



 そのトロフィーを見ていた間に、地球儀型のトロフィーもあると気付いたらしいハーレイ。
 何の競技かは忘れたらしいが、他のクラブが優勝した記念の品が学校に飾ってあったのだ、と。ブルーの父が持っているような地球儀型のトロフィーが。
「あれを思い出したら、地球儀型のが欲しかったと思っちまってなあ…」
 俺が出ていた大会の類に地球儀型のは無かったわけだし、貰い損なってはいないんだが…。
 この中に地球儀型のが一つあったらなあ、と棚を眺めていたってな。
「地球儀型のトロフィーが欲しかったって…。懐かしいから?」
 前のハーレイが辿り着いた地球は青くなかったけど、大陸とかの形は同じだったから?
「いや、そうじゃなくて…。今の俺の趣味だ」
 何かとレトロなものが好きだろ、その辺りは前の俺とどうやら似ているらしい。
 地球儀とくればレトロの極みだ、一つあったらいい感じなのに、と思ったわけだ。
「そっか、地球儀…」
 今は宇宙がぐんと身近で、地球儀なんかを眺めなくても宇宙から本物を見られるんだし…。
 学校の授業でも地球儀の出番は全く無いよね、今の時代は地球儀、レトロなインテリアだよね。
「そういうことだ。如何にも俺の好みのアイテムなわけだ、地球儀ってヤツは」
 今の俺でも、前の俺でも。
 特に前の俺は地球に行こうと思ってたんだし、レトロな地球儀は是非欲しいよな?



 それで気付いたらしいハーレイ。白いシャングリラには地球儀が無かったと気付いたハーレイ。
 レトロ趣味だった前の自分は地球儀を持っていなかったと。
 木で出来た机や羽根ペンを愛用していたほどなのに、地球儀を持ってはいなかったと。
「そういえば…。ハーレイの部屋に地球儀、無かったね」
 あってもおかしくなさそうどころか、うんとレトロなのを飾っててもビックリしないのに。
 同じ地球儀でもセピア色とか、渋いのを。
「前の俺は地球儀、好きそうだろう?」
 机の上に置いて回してそうだろ、今の時間なら地球はこんな具合に太陽が当たっているな、と。この半分が昼の時間で、残りの部分は夜なんだ、とか。
「うん、ぼくよりもずっと好きそうだよ」
 ぼくは地球儀を見ても地球の模型だと考えるだけで、行きたいって眺めるだけなんだけど…。
 早く本物の地球を見たいな、って憧れるだけで終わりだけれど…。
 ハーレイだったら銀河標準時間に合わせて地球儀を回して光を当てたり、色々やりそう。
 此処から此処まで旅をするなら、海から行くのか陸伝いだとか、ルートをあれこれ考えたりも。



 前のブルーは地球を抱くフィシスを攫って来たほどに本物の地球に焦がれたけれども、本物しか見てはいなかったけれど。
 ハーレイの方は同じ地球でも、地球儀があれば楽しめるタイプ。此処へ行ったらどんな風かと、この場所はどんな気候だろうかと。赤道に近い場所なら暑くて、北極や南極の近くは寒くて。
 けれど一概にそうだとも言えず、海流などでも気候は変わる。地形も大きく影響する。高い空を吹く風によっても異なる、信じられないような場所でも雪がドッサリ積もったりもする。
 前のハーレイなら地球儀でそれを考えただろう、どの地域が温暖で過ごしやすくて、どの地域が人を寄せ付けない厳しい寒さや暑さに見舞われる場所なのかと。
 自分が住むなら此処だろうかと想像してみたり、この川を遡れば何処までゆけるかと指で辿って確かめてみたり。
 地球儀の捉え方がブルーとは違っていたろう、航海図を見るような感覚で眺めただろう。いつか行きたい星の姿を、同じ夢でもブルーよりももっと現実に近い感覚で。
 其処へ行ったら何があるのか、どうなるだろうかと、さながら冒険や探検のように。
 遠い昔に航海図だけを頼りに海へ漕ぎ出し、まだ見ぬ世界の果てに向かって旅をしていた船乗りたちのように。それは確かにある筈なのだと船を進めた者たちのように。



 ハーレイにとっての地球儀は航海図だったのだろう、と考えたブルーだけれど。
 前のハーレイが地球儀を持っていたなら、いつか行くべき星へと導く航海図よろしく夢の場所を探し、其処へと思いを馳せていただろうと思ったけれど。
「あれっ、ひょっとして、前のぼくたちが生きてた頃って…」
 航海図っていうのも無かったのかな、昔の船乗りが使っていた地図みたいなの。
 地球の海を船で旅する時に使っていたヤツ、あれもシャングリラには無かったかな?
 あれもハーレイが好きそうだけれど、ぼくは見た覚えが一度も無いから…。
 前のハーレイだったら地球儀を見ても、航海図みたいな感覚だったかと思うんだけど…。
「そうだろうなあ、前の俺が地球儀を持っていたなら、お前が言ってる通りだろう」
 シャングリラで飛ぶなら海の上にするか、陸の上を飛ぶか。それだけで充分楽しめていたな。
 同じ陸でも何処を飛ぶべきか、ルートを幾つも考えてみたり。
 航海図を見るような気分だっただろうが、その航海図。そいつも地球のは無かったんだ。何処を探しても無い時代だった、シャングリラに無かったというだけじゃなくて。
「…なんで?」
 何処にも無かったなんて、どうして?
 シャングリラだけならまだ分かるけれど、人類の世界にも無かったなんて…。
 地球儀も航海図も無かっただなんて、どうしてそういうことになったの?
「マザー・システムだ」
 あれが隠蔽していたわけだな、本物の地球に纏わる全てを。
 かつて地球にはこういう国が存在したとか、こんな文化があっただとか。断片になったデータは残してあったが、纏め上げられると些かマズイ。
 そいつが存在していた場所を探しに行かれちゃマズイんだ。あの通りに死の星だったしな。
 だから全体像をぼかした、想像をかき立てる地球儀や航海図の類を消した。
 手掛かりが無けりゃ、地球は漠然と青い水の星で、人類の聖地で夢のままだからな。あの時代の人間は物事を深く考えないよう、真実を追究しないようにと仕向けられたのさ。
 地球は何処かにあればいいんだ、どんな星かは知る必要も無いってな。



 ぼかされていたという地球の情報。
 マザー・システムがそのように仕向け、地球そのものを表す地球儀はおろか、地球の海を旅するための航海図すらも消してしまった。
 かつて地球にあった歴史や文化は断片と化して、マザー・システムが統制していた。必要以上のものを引き出されぬよう、人が興味を持たぬよう。
 地球という星に纏わる何もかもがぼかされ、真実は誰にも知らされなかった。
 本当の地球を知る一部のエリートや、地球の再生を託された技術者たちを除けば、誰一人として掴めなかった地球の全貌。それを知ろうとも思わないよう、巧みに構築されていた世界。
 地球儀を回して、地球のどの部分が今は昼間かと考える者はいなかった。
 航海図を眺めて海の渡り方を考える者もいなかった。
 それがおかしいとも気付きはしないで、地球儀や航海図の存在にさえも気付かないままで。



「なんだか酷いね…」
 何もそこまでしなくても、と溜息をついたブルーだけれど。
「そいつがマザー・システムってヤツだ。お前が見ていた地球もだろう?」
「えっ?」
「フィシスの地球だ。…前のお前が憧れ続けた、あの映像の地球だ」
 ソル太陽系の惑星の配列も本物とはまるで違っていたが…。その段階で既に怪しいんだが…。
 具体的には地球の何処へ降りる映像だったのか、と問われてみれば。
 「俺は降りる所まで見てはいないが、お前は降りたか?」と尋ねられれば、降りなかった地球。
 フィシスの記憶で辿る地球へと飛んでゆく旅は、青い海に浮かぶ大陸で終わり。
 あの大陸へと降りるのだな、と思う辺りで旅は終わって、一度も地上には降りられなかった。
 前の自分は全く不思議に思いはしなくて、そういうものだと自然に納得していたけれど。
 フィシスの生まれを知っていただけに、大陸には地球の中枢があって、それゆえに情報がガードされていると、これ以上先には進めないのだと素直に信じていたのだけれど。
 目の前のハーレイにそれを話したら、きっとあそこがユグドラシルだろうと話してみたら。



「その、大陸。…本物だったか?」
 俺は何度も見てはいないし、記憶も曖昧になってるんだが…。
 前のお前が見ていた大陸、本当に本物の地球のだったか?
「本物でしょ?」
 だってフィシスの記憶なんだよ、マザー・システムが植え付けたんだよ?
 本物と違って青い地球でも、あの大陸の場所にユグドラシルがあった筈だと思うんだけど…。
「間違いなく…か?」
 どの大陸だとハッキリ言えるか、今のお前には歴史で習った知識も入っている筈なんだが。
 ユグドラシルが何処にあったか、どういう名前の大陸だったか知っているよな?
「えーっと…?」
 考えてみれば怪しいようにも思える大陸。
 前の自分が地球の中枢だと考えた場所こそがユグドラシルで、何処にあったかは何度も習った、今の自分が。どの大陸かも、当時はどういう形で存在していたかも。
 その大陸と、フィシスの記憶の中で目指した大陸。
 似ていたようにも思うけれども、微妙に違っていた…かもしれない。
 青い海に浮かぶ大陸は鮮やかだったけれど。
 前の自分は魅せられたけれど、そんな形の大陸は無かったと言われれば否とも言えはしなくて。
 やはり偽物かと、騙されたのかと考え込んでいたら。



「今となっては本当か嘘か、確かめようもないわけだが…」
 フィシスとキースの地球の映像、データが残っていないからなあ…。
 そうだと断言出来はしないが、俺は偽物だと思っている。フィシスの記憶の中の大陸。
 あれもぼかされていたのだろう、とハーレイは言った。
 偽の情報だと、本物の地球とは違うものだと。
「…そこまで酷いの?」
 自分たちが作り出したフィシスに入れてあった地球まで嘘なの、まるで嘘なの?
 確かに地球は青かったけれど、それだけでも酷い嘘なんだけれど…。
「そういう時代だったんだ。地球の情報はとことん隠すか、ぼかしていたかだ」
 だから地球儀なんかも無かった、前のお前が知るわけがない。
 忘れたんじゃなくて知らずに終わった、地球儀というものがあったことさえも。
「そっか…」
 知らなかったんならどうしようもないね、人類の世界にも無かったものなら。
 マザー・システムが隠したものなら、地球儀、前のぼくは知りようがないんだものね…。



 前のぼくが好きそうなものだったのに、と項垂れていたら。
 フィシスを攫うよりも前にそれがあったら、地球への夢も膨らんだろうに、と呟いたら。
「そりゃまあ…なあ? だが、無かったものは仕方ないってな」
 しかしだ、今はトロフィーにもなっているだろう?
 お前のお父さんが貰ってくるようなトロフィーが今は地球儀なんだぞ。いい時代じゃないか。
「そうだね、あれで気が付いたんだものね」
 前のぼくが地球儀を知らなかったこと、あのトロフィーのお蔭で分かったし…。
「平和な時代になったってことだ。地球の姿は見放題だし、情報も隠さないってな」
 今じゃ地球儀は自由に買えるし、昔の地球のも今の地球のも好きに選べる。航海図だって専門の店に出掛けて行ったら買える時代だ、昔のヤツから今のヤツまで。
「…地球儀、前のぼくに持たせてあげたかったな…」
 地球はこんな風に見えるんだよ、ってクルクル回して楽しめるように。
 フィシスに出会うよりも前の時代も、地球儀があれば毎日が充実してただろうに…。
「それはそうだが…。前のお前は地球儀さえも持てなかったが…」
 今のお前は地球に生まれて来られただろうが。
 昔の地球儀は役に立たなくなっちまったが、青い星に戻った地球の上に。



 地球儀よりも本物の地球がいいだろうが、と微笑まれたけれど。
 本物の地球が
足の下にあるぞ、と言われたけれども、でも、地球儀も気に入ったから。
 父の部屋で見た地球儀型のトロフィー、それとハーレイの話とで欲しくなって来たから。
「ねえ、ハーレイ。…結婚したら地球儀、買ってくれる?」
 大きいのでもいいし、小さいのでも…。昔の地球のがいいんだけれど…。
「いいな、航海図も買うか」
 そっちも昔の地球のヤツだな、帆船で航海していた頃のを。
「航海図、やっぱりハーレイの趣味なの?」
「レトロっぽいのが好きではあるな」
 うんと昔の古めかしいのが好きなんだ。俺の記憶が戻る前から、何故だか惹かれた。
 レトロ趣味なのか、キャプテン・ハーレイの血が騒いだのかは謎だがな。



 結婚したならそういう部屋を作ろうか、とウインクされた。
 大きな地球儀に航海図。それが似合うよう、書斎を模様替えでもするか、と。
「だったら、ハーレイの部屋風に!」
「はあ?」
 俺の部屋は元からハーレイの部屋だが、それをどうすると?
「違うよ、キャプテン・ハーレイ風の部屋だよ」
 シャングリラの頃のハーレイの部屋。あの部屋、ぼくは大好きだったし…。
 それに航海図も地球儀も似合いそうだから、と提案したら。
「ふむ…。そういうのも悪くはないな」
 もう羽根ペンはあるわけなんだし、他の部分を前の俺風に模様替えする、と。
「素敵でしょ?」
 いいと思うよ、前のハーレイの部屋みたいなの。
 航宙日誌は並んでないけど、代わりに古典の本をズラリと並べるんだよ、棚一杯に。
 そして壁には航海図を飾って、地球儀は何処に置こうかなあ…。
 小さいのだったら机の上だし、床に置くような大きい地球儀も似合いそうだよね。



 前の自分が生きた頃には無かった地球儀、無かったという航海図。
 もしも覚えていたならば。
 ハーレイと結婚する頃までそれを覚えていたなら、書斎の模様替えもいい。
 昔の地球を模した地球儀に、帆船時代の航海図。
 それを使ってハーレイと二人で地球の旅に出よう、昔の地球へ。
 SD体制が敷かれるよりも前、滅びてしまう前の古い地球。
 其処を二人で旅してみよう。
 この辺りはどんな国だったのかと、気まぐれに地球儀を回してみて。
 其処へゆくなら航路はこうだと、此処からゆこうと古い航海図を二人で眺めて…。




          地球儀・了

※前のブルーとハーレイが生きた頃には、何処にも無かった地球儀。それに地球の航海図も。
 フィシスの地球さえ、偽物だったみたいです。けれど今では、レトロな地球儀を飾れる時代。
 拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




さて、恒例の夏休み。柔道部の合宿と、ジョミー君とサム君が送り込まれる璃慕恩院の修行体験ツアーも終わって、今日はワイワイ慰労会。精進料理に一週間耐えたジョミー君とサム君のために真昼間から焼き肉パーティーです。
「やっと終わったあ~! 後は遊ぶだけ!」
夏休みだ、とジョミー君が肉をガツガツ食べている横で、キース君が。
「良かったな。俺の苦労はまだまだ終わらんわけだがな」
「あー、卒塔婆書き…」
お盆だったね、と他人事のようなジョミー君。棚経のお手伝いはしているのですけど、卒塔婆の方にはノータッチです。キース君は来たるお盆に向かって卒塔婆を何十本だか何百本だか。計画的に書いているだけに、そうそう修羅場は無いようですが…。
「今年も山の別荘までには目途をつけるのが目標だ!」
「あと二日ですよ、キース先輩」
「だから明日から缶詰だ!」
此処に来ているどころではない、と悲壮な表情。会長さんの家でダラダラと過ごす時間も魅力的ですが、あと二日。それが過ぎたら山の別荘、マツカ君のご招待でお出掛けの予定。
「缶詰なあ…。頑張れよな」
サム君がキース君の肩をポンと叩いて、私たちは再び焼き肉に興じていたのですが。
「ごめん、ちょっといいかな?」
「「「は?」」」
何が、と視線を向けた先には。
「なんで、あんたが!」
キース君が叫んで、サム君も。
「ぶるぅ付きかよ!?」
肉はねえぜ、とお皿をガード。紫のマントのソルジャーはともかく、隣に「ぶるぅ」。大食漢の悪戯小僧に来られちゃったら、焼き肉どころじゃないですってばー!



「肉はどうでもいいんだ、うん」
それよりコレ、とソルジャーは「ぶるぅ」を指差しました。
「「「???」」」
「見て分からない? いつもとちょっぴり違うようだとか、そういうの」
「「「うーん…?」」」
言われてみれば元気が無いでしょうか? 普段だったらサム君が止めてもテーブルに突撃している筈です。ホットプレートの上の焼き肉も野菜も、ペロリと平らげてしまうのが「ぶるぅ」。
「もしかして食欲不振かい?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは憮然とした表情で。
「それもあるけど、この顔を見て何も思わないかな!?」
「「「顔?」」」
ふっくら、ぷっくり、お子様の顔。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のそっくりさんは膨れっ面で突っ立っています。ソルジャー、「おあずけ」のコマンド出しましたか?
「あのねえ! ぶるぅがぼくに言われたくらいで大人しくするわけがないだろう!」
そんなぶるぅはぶるぅじゃない、ともっともな仰せ。だったら、なんで膨れっ面?
「膨れてるんだよ!」
「うん、見れば分かる」
膨れっ面だね、と会長さん。
「泣きっ面に蜂と言うのか、何と言うべきか…。不満たらたらが顔に出てるよ、物騒すぎだし!」
連れて帰れ、と冴えた一言。
「こんなぶるぅを連れて来られても、悪戯地獄になるだけだから!」
「連れて帰れたら苦労はしないよ!」
「だったら、なんで連れて来るかな、君って人は!」
「一大事だから!」
もう本当に一大事なのだ、とソルジャーはズイと進み出ると。
「ぼくのシャングリラが存亡の危機! だからぶるぅを!」
「…ぶるぅを?」
「こっちで預かって欲しいんだけど!」
「「「ええっ!?」」」
膨れっ面の悪戯小僧を預かれと!? シャングリラが存亡の危機に陥るほどの悪戯小僧を…?



あまりにも酷い頼み事。ソルジャーの手にも負えなくなったらしい「ぶるぅ」を預かったりしたら、私たちだって地獄を見ます。マツカ君の山の別荘にお出掛けどころか、それまでに死屍累々になるのが明々白々、これはお断りしなくては…!
「お断りだね」
会長さんがバッサリ切り捨てました。
「存亡の危機だか何か知らないけど、ぶるぅは君の世界の住人だしね? こっちの世界で揉め事なんかは御免蒙る、連れて帰って」
「だけど、ホントにマズイんだよ!」
だからお願い、とソルジャーはガバッと土下座し、「このとおりだから!」と。
「ちょ、ちょっと…!」
ソルジャーには似合わない土下座。会長さんは慌て、私たちだってビックリですが。
「土下座で済むなら何度でもするよ! だから、ぶるぅを!」
「「「ぶるぅ…?」」」
そういえば何だか様子が変です。いつもだったら、こういう時には調子に乗って悪戯するとか、はしゃぐとか。ソルジャーの土下座なんていう天変地異が起こりそうなものを目にしているのに、「ぶるぅ」はボーッと立っているだけ。
「…ぶるぅ、熱でもあるのかい?」
会長さんが訊くと、ソルジャーはパッと土下座状態から顔を上げて。
「それだけじゃないよ、膨れてるだろう!」
「「「は?」」」
「顔だよ、顔が膨れてるんだよ!」
このとおり、と立ち上がったソルジャーは「ぶるぅ」の頬っぺたを指差しました。
「こう、両方の頬っぺたがプウッと…」
「膨れっ面じゃなかったわけ?」
「天然自然の膨れっ面だよ、頬っぺたが膨れ上がっているんだよ!」
昨日の夜から膨れて来たのだ、とソルジャーに言われてよくよく見れば、膨れっ面ではない感じ。こう、頬っぺたがプクプクぷっくり、虫歯でも放置しましたか?



「…歯医者さんなら君のシャングリラにいるだろう!」
そっちのノルディは歯医者じゃないかもしれないけれど、と会長さん。
「こんな状態になっているなら、真っ先に歯医者!」
「もう行った!」
連れて行った、とソルジャー、即答。
「ぶるぅは歯は痛くないって言ったんだけどね、子供の言うことはアテにならない。それに歯磨きもサボリがちだし、いくら丈夫な歯をしていたってこれは来たな、と」
「それで歯医者さんをガブリとやっちゃって後が無いとか?」
代わりのお医者がいないとか、と会長さんは迷惑そうに。
「こっちのノルディがやってる病院、歯科もやってはいるけれど…。ぶるぅはちょっと…」
「だから預かってくれるだけでいいって言ってるだろう!」
「歯医者さんの手が回復するまで?」
「そうじゃなくって、この頬っぺたの腫れが引くまで!」
プラス数日はダメだったかな、と言われましても。
「腫れが引くまでって…。虫歯は放置じゃ悪化するだけ、治りはしないよ?」
「注射なら打って来たんだよ!」
「「「注射?」」」
ソルジャーの世界は虫歯も注射で治るのでしょうか。歯医者さんと言えばチュイーンでガリガリ、イヤンな音が鳴り響く世界だと思ってましたが、技術がうんと進んだ世界は違います。注射で虫歯が治るならいいな、と誰もが思ったのですけれど。
「そもそも、これは虫歯じゃないから!」
「虫歯じゃない?」
だったら何、と尋ねた会長さんに、返った答えは。
「分からないかな、オタフク風邪だよ!」
「「「オタフク風邪!?」」」
ぎゃああああ! と部屋一杯に響き渡った悲鳴。私、予防注射をしてましたっけ? オタフク風邪の予防接種は義務でしたっけか、それとも任意で打つヤツでしたか?



「ぼ、ぼくってオタフク、打っていたっけ…?」
「俺が知るかよ、自分のことだって分からねえのに!」
ジョミー君とサム君が青ざめ、シロエ君もやはり顔面蒼白。その一方で、キース君とマツカ君は「よく考えたら大丈夫だった」と落ち着いた顔。
「俺は受けさせられてる筈だ。…こんな人生になるとは思っていなかったからな」
「ぼくもです。絶対に受けている筈です」
「なんなんですか、その自信は!」
シロエ君が噛み付くと、キース君は。
「知らないか? オタフク風邪に下手に罹ると、男は子供が出来にくくなる」
「「「は?」」」
「オタフク風邪で睾丸炎を起こすことがあるんだ、そうなると精子の数が減るそうだ」
「ですから、跡継ぎ必須なキースやぼくは罹ると困るわけですよ」
予防接種を受けた筈です、と落ち着き払った二人はともかく。
「じゃ、じゃあ、ぼくたちも下手に罹ったら…!」
「ヤバイってことだな、将来的に!?」
早く「ぶるぅ」を撤去してくれ、と男の子たちは上を下への大騒ぎ。スウェナちゃんと私も顔ぷっくりな病気は御免ですから、壁際に退避したのですけど。
「えーっと…。君たちは全員、受けてるようだよ。オタフク風邪の予防接種」
会長さんの声が神様のお言葉のように聞こえました。それもサイオンで分かるんですか?
「いや、ちょっと記憶の底を探ってみただけ。受けてるかな、って」
「受けてたとしたら幼児か乳児だと思いますが!」
シロエ君の指摘に、会長さんは余裕の微笑み。
「そうだろうねえ、だけど記憶にあるものなんだよ」
そして全員、接種済み…、という頼もしい台詞。それなら「ぶるぅ」がオタフク風邪でも特に問題なさそうです…って、ソルジャーの世界にもワクチンはあるって言いましたよね?
「ブルー。ぼくたちの世界でもこの始末なんだ、ワクチンがあるなら君のシャングリラで対処したまえ、オタフク風邪!」
「そのワクチンが無いんだってば!」
「「「ええっ!?」」」
注射を打ったと言いませんでしたか? 無いんだったら、何処で打ったと?



「…ぼくの世界じゃ、オタフク風邪はとっくの昔に根絶されててしまっていてさ」
ソルジャーが言うには、あちらのドクター・ノルディは「ぶるぅ」を診察するなり隔離室に放り込んだのだそうで。
「それから船内を隈なく消毒、広がらないようにと大騒ぎで…。なにしろワクチンが無いんだからねえ、シャングリラには」
「だったら、君は何処でぶるぅにワクチンを?」
「逆に訊かせて貰うけどさ。オタフク風邪のワクチンってヤツは、発症してから使えるのかい?」
「「「あ…」」」
あれはあくまで予防接種で、治療じゃなかった気がします。それじゃ、「ぶるぅ」が打った注射はワクチンじゃなくて…。
「中身は何だか聞いてないけど、対症療法ってヤツじゃないかな。とにかく腫れが引くまで安静、腫れが引いても暫くの間はウイルスを発散してるらしいから隔離しか無い、と」
だけど相手はぶるぅだから…、とソルジャーは至極真面目な顔で。
「今は熱が出てるし、膨れてるしね? 大人しいけど、腫れが引いたら隔離されてた反動で絶対、悪戯しに行くと思うんだよ」
「それはそうかもしれないねえ…」
頷いている会長さん。
「ね、君だって大体予想はつくだろう? いくら本人が元気になっても、ウイルスを撒きながらシャングリラ中で悪戯されたら、ぼくのシャングリラはホントに存亡の危機なんだってば!」
だからお願い、とソルジャーは再びガバッと土下座を。
「オタフク風邪が普通にはびこる、こっちの世界を見込んでお願い! ぶるぅがウイルスを撒かなくなるまで預かって!」
「で、でも…。ぼくたちはマツカの山の別荘に…」
「ぼくのシャングリラが滅びてもいいと!?」
「それは確かに一大事だけど…」
そもそも「ぶるぅ」は何処でオタフク風邪なんかに…、と会長さんが訊けば。
「間違いなくこっちの世界だと思う。勝手に遊び回っているから」
「そういうことか…。それなら普通にオタフク風邪だね」
それなら対処のしようもあるか、という話ですが。普通じゃないオタフク風邪って、なに?



「ぶるぅ」が罹ったオタフク風邪。ソルジャーの世界では根絶されてしまってワクチンも無し。ゆえに「ぶるぅ」を預かってくれという依頼ですけど、会長さんは何を心配してたのでしょう?
「ああ、それかい? 妙な変異を起こしたヤツだと困ると思って…」
だけどこの世界のオタフク風邪なら無問題だ、と会長さん。
「分かった、ぶるぅは引き受けよう。でもねえ、ぼくたちは山の別荘に行く予定だから…。ハーレイの家に預けようかと思うんだけどね?」
「ああ、ハーレイ! いたね、そういう暇人が!」
忘れていたよ、とポンと手を打つソルジャー。
「君が預かると言ってくれた以上は太鼓判だし、ハーレイに頼みに行こうかな? ぼくのお願いでも喜んで聞くよね、こっちのハーレイ」
「それはもちろん。土下座しなくても「預かれ」と命令すればオッケー!」
「ぼくとしたことがウッカリしてたよ、土下座は必要無かったってね」
最初からあっちに行けば良かった、と笑うソルジャーですけれど。冷静な判断が出来なくなるほど「ぶるぅ」のオタフク風邪は脅威で、ソルジャーとしての責任に追われていたわけで…。
「そういうことだね、ぼくでもパニック。こっちの世界を甘く見てたよ、まさかぶるぅがオタフク風邪に罹るだなんてね」
ただの虫歯だと思ったのに、と言うくらいですし、オタフク風邪という病気自体がソルジャーの頭に無かったのでしょう。ともあれ、「ぶるぅ」はウイルスを撒き散らさない状態になるまで教頭先生の家にお泊まりということですね?
「うん。寝心地がいいよう土鍋も運んでおかなくちゃ…。その前にハーレイに頼まなくっちゃいけないけれども、オッケーは最初から出ているようなものだしねえ?」
「あのハーレイなら断らないね」
「それじゃ、頼みに行ってくる! お騒がせして申し訳ない、パーティーの続きはごゆっくりどうぞ。ぼくはぶるぅを預けたら向こうに帰るから!」
まだシャングリラがゴタついていて…、とソルジャーは「ぶるぅ」を連れてパッと姿を消しました。隔離していたオタフク風邪の患者が船から消えた件とか、色々と情報を操作しないと駄目なのでしょう。それともアレかな、「ぶるぅ」はきちんと船にいます、って方向かな…?



こうしてソルジャーと「ぶるぅ」は消え失せ、私たちは焼き肉パーティー続行。会長さんがサイオンで教頭先生のお宅を覗きましたが、教頭先生、二つ返事で「ぶるぅ」を引き受けたみたいです。早速、土鍋が運び込まれて、ソルジャーは「ぶるぅ」を残してシャングリラへ。
「それにしたって、オタフク風邪ねえ…」
ワクチンが無いとは面倒な、と会長さん。
「根絶しちゃった世界だと要らないとばかりに無いってトコがねえ…」
流石はSD体制の世界、と会長さんが言えば、キース君も。
「俺たちの世界だと考えられない話だな。根絶したと言われる病気でもワクチンは確か、あるんだったな?」
「現役のワクチンがあるかどうかは知らないけれど…。作る用意はしてある筈だよ」
根絶した病原菌だって残してある、と言われて仰天。そんな物騒なものがあったんですか!
「え、だって。何処から再び湧いて出るかも分からないしね?」
「新しい病原菌だって湧くんだからな」
言われてみればそうでした。新しい地域に進出して行けば新しい病原菌が登場することもあったりします。それと同じで、根絶したつもりの病原菌が今も何処かに隠れているかも…。
「そういうことだよ、それに備えてワクチンを作るための株がね」
いざとなったらソレを使ってワクチンを作れるようになっているのだ、という説明。ソルジャーの世界にはそういう備えが無いのでしょうか?
「地球自体が滅びてるしね、病原菌も滅びたって考えかもね?」
それともマザー・システムとやらが完璧に管理しているのかも…、と会長さん。
「こまめに殺菌しまくっていればワクチン不要になるかもしれない。流行った時だけ何処かから調達するかもしれないけれども、それもグランド・マザーとやらの管轄ってね」
「しかしオタフク風邪で存亡の危機か…」
危険ではあるが、とキース君。
「ミュウは虚弱だと言ってやがるし、オタフク風邪でも滅びかねないのか…」
「だろうね、ブルーのパニックぶりから察するに…。だけど解決して良かったよ」
ぼくたちに迷惑の来ない形で、と会長さんは御機嫌です。教頭先生が「ぶるぅ」の悪戯に悩まされるような頃になったら、私たちはマツカ君の山の別荘。教頭先生、「ぶるぅ」のお世話をよろしくです~!



山の別荘でのんびり過ごして、ハイキングに乗馬にボート遊びに。充実の別荘ライフを満喫してきた後は、お盆の準備で忙しいキース君も交えてプールに行ったり、会長さんの家で遊んだり。オタフク風邪に罹った「ぶるぅ」も無事に回復、自分の世界に帰ったのですが…。
「なんだかねえ…」
どうもハーレイがうるさくって、と会長さん。
「夏休みだからドライブしようとか、食事に行こうとお誘いだとか…。モテ期ではないと思うんだけどさ」
「そういうモノもありますけどねえ…」
ちょっと様子が違いますね、とシロエ君。教頭先生のモテ期なるもの、「自分はモテる」という思い込みから会長さんに熱烈なアタックをかます時期。つまり一種の発情期ですが、これは症状が徐々に酷くなっていって、アプローチが熱烈になる傾向が。でも…。
「今度のヤツはは最初の時からフルスロットルでアタックですよ?」
「だからモテ期じゃないんだと思う。だけどしつこい!」
プレゼントだって毎日山ほど、と会長さんが言っている側から管理人さんからの連絡が。プレゼントの山と花束などが届いているから、これから持って行くとのことで…。
「やれやれ、またか…」
「かみお~ん♪ ハーレイの車も来たみたいだよ!」
「なんだって!?」
窓へと走った会長さんと一緒に見下ろせば、確かに教頭先生の愛車。プレゼントが届くタイミングを見計らってのご登場だと思われます。
「この暑いのに、暑苦しい男は顔を出さなくていいんだよ!」
会長さんが毒づいていますが、間もなくチャイムがピンポーン♪ と。玄関を開けに出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が山のようなプレゼントの箱をサイオンで運びつつ、飛び跳ねて来て。
「ブルー、プレゼント、いっぱい来たの! それにハーレイも!」
「ハーレイを家に入れたのかい!?」
「だって、ブルーに用事があるって…」
「冗談じゃないよ!」
こっちに用事は無いんだけれど、と会長さんが言い終わらない内に「ブルー、元気か?」と満面の笑顔の教頭先生。真っ赤なバラの花束を抱えていらっしゃいます。えーっと、確か、この花束を叩き落として踏みにじったらモテ期は終了でしたっけか?



教頭先生の発情期なモテ期。その終幕は会長さんが貰った花束をグシャグシャに潰すことだと聞いています。教頭先生の熱は一気に冷めて「モテない自分」を自覚するとか。ということは、花束登場で終了だな、と誰もが思ったのですが。
「ブルー、この花束を受け取ってくれ。私の気持ちだ」
「迷惑なんだよ!」
花束をベシッと叩き落とした会長さん。リビングの床に落っこちたソレを踏みにじるべく足を上げようとしたのですけど。
「そう照れるな」
「えっ?」
教頭先生の腕がグイと会長さんを引き寄せ、顎を持ち上げて熱烈なキス。教頭先生、ああいうキスって出来たんだ…。
「「「………」」」
私たちがポカンと立ち尽くす内に会長さんは正気に返ってバタバタと暴れ、教頭先生の腕を振りほどいて。
「何するのさ!」
「何って、キスだが? …どうだ、そういう気分になったか?」
「そういう気分?」
「もちろんベッドに行きたい気分だ」
言うなり会長さんをヒョイと抱き上げた教頭先生、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、ベッドメイクは出来てるか? ブルーの部屋の」
「うんっ! 朝一番に済ませてあるよ!」
「それは良かった。やはり初めてはきちんとベッドメイクを済ませたベッドでないとな」
「ちょ、ちょっと…!」
初めてって何さ、と会長さんが手足をバタつかせましたが。
「決まっているだろう、私とお前の初めてだ。夜なら初夜だが、昼間だと何と呼ぶべきか…」
とにかく行こう、と会長さんを抱き上げたままで歩き始める教頭先生。リビングのドアは開けっ放しになってましたから、そのまま廊下へ。
「ちょ、ハーレイ!」
「私も色々と勉強したしな、痛い思いはさせないと思う。優しくするよう努力するまでだ」
「お断りだってばーーーっ!!!」
ギャーギャーと騒ぐ会長さんは連れ去られて行ってしまいました。あのう…。私たち、こういう時にはどうすれば…?



死ぬかと思った、という会長さんが乱れたシャツで戻って来たのは五分ほど経ってからでした。疲れ果てた口調での報告によると、教頭先生は瞬間移動でご自分の家へ飛ばされたとか。
「ついでに車も送っておいたよ、取りに来られたら面倒だから」
「面倒って…。モテ期は終わったんだろう?」
キース君の問いに、会長さんは「終わっていない」と苦い表情。
「それどころかますます絶好調だよ! ぼくの寝込みを襲うのがいいか、それとも家に引きずり込むか、と犯罪まがいのプランを立ててる」
「そうなのか!?」
「瞬間移動で飛ばされちゃったし、不意を突くしか無いと思ったみたいだね。でもって、キスだの何だのと手間暇かけるよりも既成事実だと」
「「「既成事実?」」」
それってまさか、と血の気が引いた私たちですが、会長さんは。
「それで合ってる、既成事実さ。いわゆる強姦、とにかく突っ込んでしまえば自分のものだという発想! 無理やりモノにして、それから結婚!」
「「「け、結婚…」」」
モテ期は花束で終わるどころか、より酷い方に向かっていました。会長さんを強姦だなんて、教頭先生の日頃のヘタレっぷりからはまるで想像がつきません。でも…。
「どういうわけだか、ハーレイは元気モリモリなんだよ! ぼくが暴れても襲って来たしさ、鼻血体質も何処へやらだよ、危うく全部脱がされるトコで…」
「「「全部!?」」」
「そう。…情けないけど、ズボンを下着ごと…って、ごめん、失言」
「「「………」」」
会長さんはその先を語ろうとしませんでしたが、シャツが乱れたどころの騒ぎではなかったらしいことが分かりました。どおりで「死ぬかと思った」な発言が飛び出してくるわけです。
「このままで行くと真面目に危ない。…ぶるぅ、ハーレイを家に入れてはいけないよ」
「でもでも…。ブルーに御用だったら入れてあげないと…」
キャプテンだよ? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。教頭先生なら門前払いもオッケーですけど、シャングリラ号のキャプテンではそうもいきません。なんだか激しい、今度のモテ期。激しいと言うより激しすぎですが、会長さんは無事に逃げ切れるでしょうか?



「…なんでこういう恐ろしいことに…」
今のハーレイならキャプテンとしてでも乗り込んでくる、と怯えまくりの会長さん。
「本来、ヘタレな筈なんだ。いくらモテ期でも、ここまで酷いのをぼくは知らない」
「うん、ぼくだって初めて見たよ」
「「「えっ?」」」
誰だ、と振り返った先にフワリと翻る紫のマント。ソルジャーが「実に凄い」と感心しながら。
「あれこそまさに男の中の男だよねえ、ヤリたい盛りの男ってね! 目的のためには手段を選ばず、断られた後には強姦あるのみ!」
そういう強引な所も実に素晴らしい、とソルジャー、絶賛。
「しかもパワーは衰え知らずで、抜いても抜いてもグングン元気に!」
「「「は?」」」
「ブルーに放り出されたからねえ、ムラムラしながら自家発電の真っ最中! あ、自家発電だと分からないかな? せっせと自分の元気な部分を解放するべく!」
大事なトコロを爆発させては元気モリモリでまた爆発、とソルジャーの喋りは立て板に水。
「あの勢いなら初心者ながらも抜かず六発、ヌカロクも夢じゃないって感じ!」
「「「………」」」
ヌカロクの意味は未だ不明ながら、大人の時間の用語だということは理解しています。つまりはソルジャー、猥談もどきを繰り広げているわけなんですけど、いつもなら「退場!」とレッドカードを突き付けてくれる会長さんはソルジャーの台詞に顔色を悪くしているだけで。
「…ハーレイ、そこまで酷いのかい…?」
「それはもう! 今夜にでも君の家の鍵を壊して寝込みを襲おうかってほどの元気さ!」
なんと素敵な話だろうか、とソルジャーは瞳を輝かせています。
「ぶるぅを預けた甲斐があったよ、オタフク風邪にこんなパワーがあっただなんて!」
「「「オタフク風邪?」」」
「そう、オタフク風邪!」
ハーレイはそれに罹ったのだ、とソルジャーは一枚の紙を取り出しました。何かの数値や文字などがズラリと並んでいますけれども、これって何?



「えっ、これかい? こっちのハーレイの血液検査の結果だけれど?」
ぼくの世界でちょっと検査を、とソルジャーの唇に極上の笑みが。
「ハーレイの異変はぶるぅを預けた後で起こった。それでオタフク風邪の潜伏期間を調べてみたら、ちょうど発症時期と重なる。まさか、と思って見てたんだけど…」
「それで?」
会長さんがようやく服を整え、冷たい声で。
「あのとんでもないモテ期もどきはオタフク風邪の症状だと?」
「もしかしたら、と見ている間に今日の騒ぎになっちゃったしね? これは調べる必要がある、と自家発電に夢中のハーレイの血を一滴貰って検査してみた」
血を採る時の痛みとやらは殆ど無いらしい、ソルジャーの世界の検査用の針。背後から腕をブスリとやられた教頭先生、全く気付きもしなかったとか。
「ぼくのシャングリラじゃ迅速検査ってコトになったら時間はほんの少しだけってね。ちゃんと情報は操作したから、こういう検査をやったことすらノルディは忘れているんだけれど…」
此処、とソルジャーが指差した箇所。それがオタフク風邪への感染を示す項目で、他の数値などからソルジャーの世界のドクター・ノルディが診断を下した結果は「オタフク風邪に罹って絶倫」だという恐るべきもの。
「絶倫だって!?」
会長さんの悲鳴に、ソルジャーは。
「うん。オタフク風邪が治る頃には元に戻ってしまうらしいけど、今はオタフク風邪のウイルスのお蔭で絶倫なんだな、こっちのハーレイ」
「…オタフク風邪はどっちかと言えば、生殖能力に重大な後遺症を残す傾向が…」
「だからね、きっと変異したんだよ、オタフク風邪のウイルスが! だって、罹ったのがぶるぅだし! こっちの世界の人間じゃないし!」
おまけに卵から生まれた人間だというオマケつき、とソルジャーは指を一本立てました。
「ウイルスってヤツは宿主を転々としていく間に変異していくものだろう? ぶるぅは一人で何人前もに相当したんだ、そして絶倫ウイルスが出来た!」
それに罹ったのがこっちのハーレイ、と検査結果を示すソルジャー。
「ぼくの世界のノルディが言うには、このウイルスはオタフク風邪の症状を引き起こす代わりに絶倫パワーを引き出すわけ! 頬っぺたの代わりに大事な部分が腫れ上がる!」
その結果として元気モリモリ、抜いても抜いても腫れて来るのだ、ということですが。教頭先生の大事な部分って、男のシンボルのアレですよねえ…?



頬っぺたがプックリ腫れる代わりに、男性としての大事な部分が腫れ上がってしまうオタフク風邪。
腫れが引くまでは精力絶倫、ヘタレも吹っ飛ぶ元気な男になってしまってムラムラだとか。
「つまりハーレイはモテ期じゃなくって、オタフク風邪! 絶倫風邪でもいいけれど!」
いずれ治るよ、とソルジャーはニコニコしています。
「頭も熱でイッちゃってるから、治った時にはモテ期同様、ケロリと元に戻るって!」
そして再びヘタレに戻る、と話すソルジャーですけれど。
「ぼくにとっては絶倫風邪は非常に魅力的なんだ。だけど、君には迷惑なんだね?」
「迷惑だなんて次元じゃなくって!」
ホントに死ぬかと思ったんだ、と会長さんはブルブルと。
「しかも治るまで絶倫だったら、真面目にぼくの身体が危ない。正体が病気だと分かったからには暫く姿を消すことにするよ、何処かのホテルに隠れるとかさ」
「何もそこまでしなくても…。要はハーレイを閉じ込められればいいんだろう?」
君を襲いに出て来られないように家にガッチリ、と言うソルジャー。
「それはそうだけど…。君がシールドでも張ってくれるのかい?」
「お望みとあらば!」
ぶるぅを預けた責任もあるし、と珍しくソルジャーは殊勝でした。普段のソルジャーならこういう時には教頭先生と会長さんとの結婚を目指して良からぬ画策をする筈ですけど、今回は逆の方向へと行くようです。
「こっちのハーレイのオタフク風邪が完治するまで、家ごとシールドしておくよ。もちろんハーレイが飢え死にしないよう、ちゃんと食料とかは差し入れするし」
「本当かい? そこまでフォローしてくれると?」
「任せといてよ、そうする傍ら、絶倫風邪の研究もね!」
「「「は?」」」
今、研究って言いましたか? オタフク転じて絶倫風邪の?
「うん! とっても魅力的なウイルスだからさ、ぼくのハーレイにも使えないかなあ、って!」
「「「………」」」
そういう目的だったのかい! と誰もが一気に理解しました。そりゃあ、ソルジャーには最高に美味しいウイルスでしょう。オタフク風邪としての症状は無くて、代わりに腫れ上がる男のシンボル。罹っている間は絶倫だなんて、欲しがって当たり前ですってば…。



ソルジャーが教頭先生の家をシールドしてしまったお蔭で、会長さんへの迷惑行為は収まりました。プレゼントなどの注文ルートも遮断しちゃったらしいです。絶倫パワーを持て余している教頭先生、会長さんの抱き枕だの写真だのを相手に過ごしてらっしゃるそうですが…。
「…ちょっと困ったことになってね…」
ソルジャーがヒョイと現れた、私たちが集う会長さんの家。お盆の棚経を控えたキース君が殺気立っているのも気にせず、「困ったんだよ」とボソリと一言。
「何がだ! 俺は来る日も来る日もお盆の準備でキレそうだが!」
キース君の怒声に、ソルジャーは。
「お盆だなんて悠長なことは言ってられない。もう今日明日が勝負なんだよ」
「それは俺もだ!」
お盆の前は戦場なのだ、とキース君。
「卒塔婆の注文は直前でも容赦なく舞い込んで来るし、此処へ来る前も墓回向を手伝わないと親父に文句を言われるし…。棚経に備えて戒名チェックも欠かせないんだ!」
「だけど、お盆はまだ先だろう? こっちは持っても明日くらいで…」
「何の話だ!」
ハッキリ言え、と怒鳴り付けたキース君に、ソルジャーが「うん」と。
「こっちのハーレイの絶倫風邪がさ、明日くらいに完治しそうでさ…。実に困ったと」
「なんで困るんだ! いいことだろうが!」
「ブルーにとってはいいだろうけど、ぼくが困るんだ。まだハーレイにうつせていない」
「「「は?」」」
そう言えば使いたいとか言ってましたっけ、キャプテンに…。ウイルスの研究だけかと思えば、うつす気でしたか、絶倫風邪。
「それが一番の早道だろう? だからぼくのハーレイを何度も「お見舞いに行け」と送り込んでいたのに、うつらない。シールドするな、と言ってあるのにうつらないんだ」
ソルジャーが言うには、キャプテンも絶倫風邪の件は承知で、出来ればソルジャーの望み通りに感染したいと立派な覚悟。ゆえにシールドも張らずに何度もお見舞い行脚をしているというのに未だ罹らず、ウイルスは明日あたり、教頭先生の身体から消滅しそうだとか。



「そのウイルス、取っておかないのかい?」
そうすればシャングリラでゆっくり研究可能なのに、と会長さんが指摘しましたが。
「それはダメだよ、あれもウイルスには違いないしね。シャングリラでウッカリ漏れようものなら絶倫風邪が蔓延しちゃって大変なことに」
「キャプテンが感染するのはかまわないんだ?」
「青の間に隔離するからね!」
ちょっと特別休暇と称して、とソルジャーは胸を張りました。
「だから絶倫風邪をなんとかしてうつしたいんだけれど…。どうやら非常に感染力が弱いらしくて、空気感染も飛沫感染もしないみたいで…」
こんなウイルスをどうやって感染させればいいのだ、と呻くソルジャー。
「期限はホントに明日までなんだよ、出来れば今日中になんとかしたい!」
「うーん…。そういう時には濃厚接触?」
「濃厚接触?」
「そう。体液レベルになって来たなら、弱いウイルスでも充分にうつる」
「体液ね!」
ありがとう、とソルジャーはグッと拳を握りました。
「確かにそれならいけそうだ。早速、ぼくのハーレイを連れて乗り込むよ!」
「ぼくこそ、お役に立てて何より。今は夏だし……って、あれっ?」
いない、とキョロキョロしている会長さん。ソルジャーの姿はありませんでした。
「もう行っちゃった? 最後まで話していないんだけどさ、勘違いをしていないだろうね?」
「「「勘違い?」」」
「うん。夏だから汗をかきやすいしね、汗をかいた手で握手でもすればいけるだろう、ってアドバイスしようと思ったんだけど…。最後まで聞いて行かなかったから…」
大丈夫かな、と首を捻っている会長さん。
「ブルーは体液としか聞いていないし、なにしろ相手はブルーだし…」
嫌な予感がするんだけれど、と教頭先生の家がある方角を眺める会長さんの不安は的中しました。ありとあらゆる不幸な意味で。



「今年の海の別荘、あいつら無事に来られるのかよ?」
「さあ…?」
サム君の問いに、言葉を濁す会長さん。お盆は昨日までで終わって、明日からマツカ君の海の別荘へと出発です。滞在中にはソルジャー夫妻の結婚記念日もあるのですけど。
「…なにしろオタフク風邪だからねえ、ブルーの世界の医療技術で何処まで劇的に回復できるかが勝負だよ、うん」
「教頭先生が罹ったヤツなら何も問題無かったのにね…」
どうせ別荘では部屋にお籠り、とジョミー君。
「今年もダブルベッドのお部屋を用意してあるんですが…。途中からでも来て頂ければ…」
いいんですけどね、とマツカ君も心配しています。キャプテンは絶倫風邪には罹らず、オタフク風邪になったのでした。せっかく教頭先生からウイルスを分けて貰ったのに。
「ディープキスで貰ったと聞いてるな?」
キース君が額を押さえて、スウェナちゃんが。
「握手にしとけば良かったのにねえ…」
「仕方ないさ、中途半端に聞いて帰ったブルーが諸悪の根源なんだ」
だから頑張って看病すべし、と会長さん。オタフク風邪がシャングリラに蔓延しないようにとキャプテンは隔離、あの面倒くさがりのソルジャーが看病をする羽目に陥ったらしいです。でも…。
「なんでウイルス、オタフク風邪になっちゃったんだろ?」
ジョミー君が首を傾げて、シロエ君が。
「ぶるぅはオタフク風邪でしたしねえ、こっちの世界のオタフク風邪が向こうの世界の誰かを経由してこっちでうつると絶倫風邪なんじゃないですか? こっちからうつすとオタフク風邪で」
「「「うーん…」」」
その研究は進めてみたい所ですけど、オタフク風邪と絶倫風邪ではどちらも迷惑。仮説の段階で留めておこう、という結論になりました。教頭先生はすっかり回復、会長さんに乱暴狼藉を働いたことは熱のお蔭で覚えていないらしくって。
「とにかく、ぶるぅのオタフク風邪は二度と御免だよ!」
予防接種を受けさせておくか、と会長さんは真剣に検討しています。悪戯小僧が予防接種に大人しく応じるかどうかはともかく、危険は未然に防ぎたいところ。ハシカに風疹、水疱瘡とか受けさせますかね、まずは母子手帳を捏造しなくちゃダメなのかも…?




          膨らんだ変異・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 悪戯小僧の「ぶるぅ」が罹ったオタフク風邪から、教頭先生がとんでもないことに。
 別の世界を経由したウイルス、恐るべし。おまけに意のままにならない仕様…。
 次回は 「第3月曜」 7月16日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、7月は、お盆の棚経を控えて、対策を立てようと画策中で…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv








「ハーレイ先生、一本どうです?」
 放課後、少し長引いた会議の後で勧められたタバコ。
 同僚が箱を差し出して来た。一本どうかと、気分転換にとライターも手にしているけれど。他の教師たちも「ひと仕事終わった」と咥えて一服している者が多いのだけれど。
「いえ、私は…」
 こちらの方で、とコーヒーのカップを持ち上げた。
 会議の時にはよく出るコーヒー、終わった後には女性教師が主におかわりする飲み物。男性陣はタバコの方が割合が高い。会議の続きのようなカップに注ぐコーヒーよりかは、会議中には駄目なタバコがいいのだろうか、と思うくらいに。
 けれどもハーレイはタバコは吸わない、その趣味が無い。だからコーヒー。
 そうでしたねえ、と笑ってタバコを咥えた同僚。タバコはお好きじゃなかったですね、と。
 プカリと上がった、いわゆる紫煙。あちこちでタバコをくゆらせている男性教師たち。もちろん中にはハーレイと同じコーヒー党もいるのだけれど。緑茶を淹れている者もいるのだけれど。



 会議が長引くくらいだったから、ブルーの家には寄れなかった日。
 買い物を済ませて家に帰って、夕食の後は書斎でコーヒー。愛用の大きなマグカップにたっぷり注いだ熱いコーヒー、それを傾けていたら思い出した。会議の後での同僚との会話。
(どうもなあ…)
 タバコは性に合わないな、とコーヒーを味わいながら考える。タバコよりかはコーヒーだと。
 一息入れるなら断然コーヒー、若い頃から。そういう好み。
 休憩することを「一服する」と言うほどなのだし、本来はタバコで一休みかもしれないけれど。気分転換にはタバコを一服、そういうものかもしれないけれど。
(コーヒーは一服と言わんよなあ…)
 一服つけるとは言わないコーヒー。一服つけるなら言葉の上ではタバコしかない。古典の教師をやっているからそうは思うが、自分が休憩するならコーヒー。タバコではなくて。



 遠い昔には害が多かったと伝わるタバコ。健康被害や依存性やら、それは色々と問題だらけで、あの紫煙までが悪かったらしい。タバコを吸わない人が煙を吸い込むだけでも身体を害した。
 そういったことが判明したから、一時は駆逐されかかったほどのタバコだけれど。
 害があるものだと分かる前には紳士の嗜み、貴族たちが集った晩餐会では食事の後に男性のみが別室に移ってタバコをくゆらせる習わしまでがあったほど。葉巻は高価な贈答品。
 いわば社会に浸透していた一つの文化で、有害だからと排除するには反対の声も高かった。害があるなら無くせばいいと、改良すればいいと唱える声も。
 タバコをこよなく愛する者には、資産家たちも多かったから。彼らは私財を惜しみなく投じて、タバコの改良に励んだという。害の無いタバコ、健康被害の無いタバコ。
 そうした努力が実を結んだ結果、今ではタバコは無害な単なる嗜好品。ガムを噛むのと変わりはしない。気軽に一服、気分転換。
 ゆえに吸っても問題は無いし、男性に人気のタバコなのだが。



(健康云々以前に、だ…)
 何故だか吸う気になれなかったタバコ。吸ってみようと思いもしないで来たタバコ。
 この年になるまで吸ったことが無い、ただの一度も。吸いたいと思ったことすらも無い。
(タバコ自体は別に嫌いじゃないんだが…)
 吸う習慣が無いというだけで、吸っている人を嫌悪しているわけではない。
 タバコなるものにロクな思い出が無いというわけでも全くない。
 父の釣り仲間にはパイプで吸っている人も少なくなくて、どちらかと言えばプラスのイメージ。父はタバコを吸わないけれども、ああいう姿も絵になるな、と。
 釣り糸を垂れて獲物を待ちながらパイプをくゆらせ、のんびりと座る姿はいい。如何にも紳士といった感じで、釣り用のラフな服装であっても大人の余裕を感じるもの。
 箱から出すだけのタバコなどより格好良く見えたパイプのタバコ。あれはいいな、と。



 釣りのお供をしていた頃から見ていたタバコ。パイプのタバコも、普通のタバコも。
 上の学校に進んだ後には吸っていた友人も何人かいた。大人の男の嗜好品だと、タバコで一服。彼らに何度か勧められたが、吸う気になれずに終わってしまった。
 教師になってもタバコは吸わずにこの年まで来た、一本も試さないままで。
(…何故なんだかなあ?)
 未だに御縁が無いままのタバコ。「如何ですか」と縁が生じても「いえ」と返して途切れる縁。
 もしも自分が吸うのだったらパイプだろうか、様になるのは。
 ごくごく普通の紙巻きタバコや、作るのに手間がかかると噂の葉巻などよりパイプのタバコ。
 刻んだタバコの葉を自分でパイプに詰めて一服、吸う前にひと手間かかるのがパイプ。ただ火を点けるだけの紙巻きタバコや葉巻とは違う。
 吸い終えた後もパイプの手入れが必要、灰皿で消して終わりではない。吸い口が目詰まりしたりしないよう、専用の掃除道具もあるのがパイプ。
 レトロな趣味だと思えるパイプは、自分の心を惹き付けそうなものなのに。
 パイプのタバコを嗜む人物が描かれた名画も多いのに。
 SD体制が始まるよりも遥かな昔の絵の中、パイプのタバコ。紙巻きタバコや葉巻ではなくて。



(パイプを買わんと吸えないしな?)
 デザインが豊富で、好みで色々選べるパイプ。自分の手にしっくりと馴染むパイプを探す所から始まるのだから、それだけで楽しそうではある。店に出向いて、どれがいいかと品定め。
 パイプの中には吸えば吸うほど味わいが出るものもあるのだと聞いた、何と言ったか、白い石で出来ているパイプ。水に浮くほど軽い石。それで作られた白いパイプは色が変わってゆくらしい。何度もタバコを吸っている内に、白から黄色へ、光沢と深みのある茶色へと。
 耳にしただけで、如何にも惹かれそうなのに。そういうパイプを持ってみたいと、吸う度に色が深まるパイプを愛用したいと考えそうなのが自分なのに。    
(…なんでタバコは駄目なんだ?)
 紙巻きタバコや葉巻はともかく、パイプのタバコ。
 こだわって選んだ一本のパイプや、使うほどに味わいが増すパイプやら。
 本当に好きそうな感じがするのに、一つ欲しいと店へ探しに行きそうなのに。



(前の俺だって…)
 今と同じにレトロ趣味だった、前の生の自分。
 誰も欲しいと言い出さなかった木で出来た机を愛用していた、磨けば磨くほど味わいが増すと。羽根ペンも気に入りで、ペン先を何度もインクに浸けては航宙日誌を綴っていた。
 あの頃の自分も実に好きそうなアイテムなんだが、とパイプを思い浮かべたけれど。
 どうだったのかと遠い記憶を探ったけれども、結論としては。
(吸っていなかったな…)
 パイプのタバコも紙巻きタバコも、むろん葉巻も。
 前の自分も今と同様、タバコを吸ってはいなかった。吸った記憶も全く無かった。
(前の俺もタバコは吸わなかったか…)
 あの時代にもタバコは確かに存在していた筈なのに。パイプも売られていたのだろうに。
 SD体制が敷かれていた時代、既に健康的だったタバコ。無害に改良されていたタバコ。
 そうでなければマザー・システムが許さない。タバコは抹殺されただろう。多様な文化も消してしまったマザー・システム、タバコの存在を消し去るくらいは何でもない。
 しかしタバコは消されはしなくて、アルテメシアを落とした後には何度も見かけた。人類側との交渉や会議、そういった場に出掛けて行ったら目にしたタバコ。
 なのに自分は吸っていなくて、ゼルやヒルマンも吸っていたという覚えが無いから。



(シャングリラは禁煙だったのか?)
 あれはそういう船だったろうか、と前の自分の記憶を手繰ってタバコを探した。考えてみれば、あの船の中でタバコに出会った記憶は無い。タバコを吸っていた者もそうだし、タバコ自体も。
 紙巻きタバコも葉巻も無ければ、パイプのタバコも見覚えが無い。
 タバコの原料になる葉を栽培していたという記憶でさえも。
(…あの船は禁煙…)
 どうやらそうだ、と気付いた途端に不思議に思い始めたこと。タバコが無かったシャングリラ。
 白い鯨には酒もコーヒーもあったのに。
 合成品やら代用品でも、タバコと同じに嗜好品だった酒やコーヒー、それは船にあった。
 なのにどうしてタバコは無かったのだろう?
 パイプでくゆらせるレトロなタバコは、前の自分も好きそうなのに。
 そういう代物があると知ったら、喜んで吸いそうだったのに。



(…ブルーが手に入れ損なったのか?)
 前のブルーが奪った物資にタバコは混ざっていなかったろうか。
 それならば分かる、タバコが無くても誰も気付きはしないだろうから。成人検査を受ける前には誰もタバコを吸ってはいないし、嗜好品の一つになってはいない。ミュウと判断され、檻の中へと送られた後にはなおのこと。研究者たちはミュウにタバコをくれはしないし、吸うわけがない。
 まるでタバコを知らなかったなら、その味を知らなかったなら。
 前のブルーが奪った物資にタバコが無くても、誰も不満は言わないだろう。存在自体を知らないタバコを欲しいと考えたりはしないし、吸いたくもならない筈だから。
 そんな具合でタバコが無いまま、自給自足で暮らす船へと移行したならタバコは要らない。船でタバコを葉から育てて、吸おうとは誰も考えない。
 きっと最初から無かったのだ、と思ったけれど。
 タバコという嗜好品に出会わないまま、白い鯨は飛んでいたのだと考えたけれど。



(しかし、酒…)
 味を知らなかった嗜好品とくれば、酒も似たようなものだった。
 合成してまで飲んでいた酒、前の自分も好んだ酒。ほんの僅かなワイン以外は全て合成、それが飲まれていたシャングリラ。楽しく飲むなら酒なのだと。
 けれど、子供でも飲みそうな紅茶やコーヒーなどはともかく、酒を知っていた筈がない。どんな味なのか、どう美味しいのか、成人検査を受けるよりも前の子供は知らない。
 どう考えても酒は後から、後にシャングリラと名付けた船で脱出してから覚えたもの。あの船で初めて口にしたもの。
 脱出直後は紅茶の淹れ方も危うかったような自分たち。船で見付けたコーヒーメーカー、それに紅茶の葉を入れたほどに記憶が曖昧だった状態。
 そこから懸命に這い上がる内に、いつしか覚えて飲んでいた酒。警戒したという記憶は何処にも無いから、失くした記憶の中に残っていたのだろう。養父母たちが飲んでいたものだ、と。
 ならば、タバコだって条件は同じ。
 僅かでも物資に紛れていたなら、誰かがタバコに気付いた筈。これは吸えると、火を点けて煙を味わう嗜好品だと。



(なのに全く無かったとなると…)
 やはりブルーが奪い損ねて出会わないままで終わったのか、と考えたものの。
 船にデータは山ほどあったし、暇に任せて調べる時間も充分にあった。人類の社会も、かつての人間たちの歴史も。
 それらを端から調べていたなら、タバコにも出会うことだろう。大人のための嗜好品だと、酒の他にもタバコがあると。そうなってくると…。
(ヒルマンあたりが…)
 頼んでみそうだ、何処かからタバコを手に入れられないものだろうか、と。
 前のブルーが物資を奪うのに慣れてしまって、何を奪うか選べるようになった頃にでも。
 あるいは白い鯨が出来上がった後に、奪う必要が無くなった後に、冗談交じりに。
 この世の中には酒の他にもタバコというものが存在すると、それを試してみたいものだと。
 それを聞いたら、ブルーは出掛けて行っただろう。
 話の種にとタバコを奪って、それがシャングリラの仲間たちの好みに合ったなら…。



(奪ったろうなあ、完成品のタバコも、タバコの苗も)
 シャングリラで是非栽培しようと意気込むブルーが目に見えるようだ。完成品のタバコはこんな出来栄えだから、これを手本にシャングリラでもタバコを作ろうと。
 紙巻きタバコや葉巻を作って、更にはパイプも。
 初期のパイプは略奪品で、やがては自給自足のパイプ。吸えば吸うほど味わいが出るという噂のパイプも、材料になる石を探しただろう。何処かの星では採れるのだろうし、同じ吸うなら評判の高いパイプにしようと。



 発展の過程が容易に想像出来るというのに、シャングリラには無かったタバコ。
 ついぞ見かけることも無いまま、禁煙だった白いシャングリラ。
 白いからと言って、中でタバコを吸っている内に船体の色が変わるわけでもなかろうに。白から黄色に、そして茶色へと色合いが変わる白い石のパイプとは違うのだから。
 あのシャングリラが禁煙だった理由が思い当たらない。タバコが無かった理由が、まるで。
(風紀が乱れるわけではないしな…)
 煙を味わうという一風変わったものであっても、ガムのような感覚なのだから。
 コーヒーと同じで休憩に一服、ブリッジなどの仕事場でなければ吸っても問題無いだろう。休む時には休憩用の部屋や公園へと出掛けるものだし、そこで一服すればいい。
 仕事の合間にプカリと一服、ゼルもヒルマンも似合いそうだが、とパイプを思い浮かべた時。
 あの二人ならばきっとパイプだと、紙巻きタバコや葉巻よりもと考えた時。



(それだ…!)
 シャングリラが禁煙になった理由はそれだった、と鮮やかに蘇って来た記憶。
 ほんの一時期、紫煙がくゆっていたシャングリラ。
 まだ白い鯨にはなっていなくて、ゼルもヒルマンも若かった頃。前の自分も青年と言える外見をしていた時代のこと。そう、キャプテンでさえもなかった時代。
 ある時、前のブルーが奪った物資に大量のタバコが混じっていた。葉巻や刻みタバコではなくて普通のタバコ。紙巻きタバコの箱がドッサリ。
 吸った記憶こそ誰にも無かったけれども、タバコの箱に描かれた絵だけで直ぐに分かった。この箱の中身は火を点けて煙を味わうものだと、ふかして楽しむものなのだと。
 早速、誰かが咥えた一本。火を点けてプカリとふかした一本。
 「悪くないぞ」という感想を待つまでもなくて、我も我もと手を伸ばした。独特の香りが鼻腔をくすぐり、ゆったりと煙が立ち昇るそれに。
 ゼルもヒルマンもタバコが気に入り、嬉しそうに吸っていたものだ。これは落ち着くと、休憩の時にはタバコに限ると。コーヒーよりも先にまずは一本、プカリとタバコ。



 タバコはたちまち人気を博して、休憩といえばタバコになった。
 なにしろタバコは山ほどあったし、それの虜になった者たちがもれなく紫煙をくゆらせるから。
 休憩室はいつも煙だらけで、排煙設備も追い付かないほど。
 いくら健康に害が無くても、タバコに紫煙はつきものだから。休憩室が煙っているものだから。
(女性陣に不評だったんだ…)
 何故だか理由は分からないけれど、タバコを吸わなかった女性たち。一番最初に好奇心から手を出したブラウが激しく噎せた挙句に、「これとは相性最悪だよ」と吐き捨てるように言ったことが原因かもしれない。ブラウが駄目なら自分も駄目だと、女性向けではないらしいと。
 とにかく女性はタバコを吸おうとしなかった上に、休憩室の紫煙に文句を付け始めた。
 いつ出掛けても煙ばかりで見苦しすぎると、これでは全く落ち着かないと。
 アルタミラで煙は散々に見たと、あの燃える星に逆戻りしたようで不愉快だと。



 本当を言えば、アルタミラの地獄で見て来た煙とタバコの煙はまるで別物、同じに見えると言う方が無理があったのだけれど。
 空を焦がした炎と黒煙、それと紫煙が似ているわけもないのだけれど。
 休憩室に溢れる紫煙に嫌気が差した女性陣としては、アルタミラは格好の脅し文句で。とにかく煙はアルタミラだと、もう沢山だと苦情を述べてはタバコの排除に乗り出した。
 タバコを嗜む男性の方も、負けてはならじと懸命に論陣を張ったけれども、タバコの美味しさと良さをせっせと説いたけれども。
(吸わない人間に美味いと主張したってなあ…)
 如何に美味しさを説明されても、それを吸わない女性たちには分からない。
 分かる筈もなくて、タバコを吸う者たちは日に日に肩身が狭くなっていったという有様。時間が出来たと一服しようにも、休憩室に行けば女性にギロリと睨まれる。
 かといって他の場所で吸うには、船の構造上、無理があり過ぎた。各自に割り当てられた部屋や通路や、そういった所で紫煙を上げれば火災を知らせる警報が響いたシャングリラ。
 警報装置を切ることは出来ない、船の安全に関わるから。
 タバコを吸うなら休憩室のみ、けれど其処では女性陣との攻防戦といった日々。



(俺は吸う前に…)
 どんな味かと吸ってみる前に、皆の様子見をしていた間に。
 ほんの数日、吸わずに様子を見ていた間に、まだ少年の面影が残るブルーに訊かれたのだった。十四歳の小さなブルーとそれほど変わらなかった姿のブルーに。
「あのタバコ…。ぼくは吸えないけど、美味しいの?」
 吸っちゃ駄目だと言われてるけど、あれって美味しいものなのかなあ…?
「さてなあ…?」
 俺も一本も吸ってないしな、美味いかどうかは知らないんだが…。
 美味いのかもなあ、あれだけプカプカ吸ってるヤツらがいるんだからな。



 きっと美味しいものなのだろう、とは答えたけれど。
 ブルーの言葉を聞いたばかりに吸えなくなった。吸ってみる機会を逸してしまった。
 皆が紫煙をくゆらせるタバコ、美味しいと吸っているタバコ。
 それをシャングリラに持ち込んだブルーは、奪って来たブルーはタバコを吸えはしないから。
 まだ少年の身体なのだし吸っては駄目だと、皆が挙って止めていたから。
 せっかく自分が奪って来たのに、吸えずに眺めているだけのブルー。美味しいのだろうかと首を傾げるしかないブルー。
 それを知ったら駄目だと思った、自分までが吸ってしまっては。
 ブルーは吸えないタバコを試しに咥えてみるのは、この際、やめにしておこうと。



(仮にブルーが吸ってたとしても、健康被害は無かったんだがな?)
 恐らく実害は無かったと思う、ブラウのように噎せることはあっても。
 美味しくはないと顔を顰めても、身体に害は無かっただろう。煙臭いというだけのことで。
 タバコの害はSD体制が始まるよりも前の時代に除去されていたし、後は好みの問題だけ。
(とはいえ、箱にも書いてあったし…)
 二十歳未満の喫煙は禁止、と書かれていた箱。前のブルーが大量に奪ったタバコの箱。
 あれから遥かな時が流れた今の時代も、タバコを吸うなら二十歳から。
 何の根拠も無いのだけれども、SD体制の時代よりも前から継がれた伝統、大人のアイテム。
 子供はタバコを吸いはしないし、大人になったら吸えるもの。



 そんなこんなで、前の自分もタバコを吸わなかったから。
 休憩室に満ち満ちた紫煙に不快感を覚える女性陣の気持ちが少しは分かった。アルタミラの煙を思い出すとまでは言わなかったが、憩いの場所がこれでは如何なものかと。
 一息入れようとやって来たのに、澄んだ空気が無い休憩室。
 コーヒーの香りにも紫煙の匂いが混ざり込んでくるし、鼻の中にも遠慮なく。
 これはマズイと、タバコを吸わない者たちにとっては有難くない状況だろうと考えたから。
(それで禁煙…)
 シャングリラにタバコは相応しくない、と判断した。ブルーにもそう伝えておいた。
 お蔭でブルーは二度とタバコを奪わなかったし、雑多な物資に紛れていた時は密かに廃棄処分にしておいた。備品倉庫の管理人をも兼ねていたから、その役目ゆえの特権で。
 そうしてタバコはシャングリラの中から消えてしまって、二度と戻っては来なかった。
 白い鯨への改造が済んで、部屋や通路の設備がすっかり新しいものに変わった後も。何が原因の煙なのかを感知出来る火災報知器を備え、紫煙くらいでは警報が鳴らなくなった後にも。



(禁煙でタバコが無かった船…)
 思い出した、と手を打った。
 白いシャングリラを禁煙にしたのは前の自分で、皆からタバコを奪ったのだった。文句の一つも出ずに済んだから、綺麗に忘れていたけれど。
 タバコを愛飲していたゼルやヒルマンたちだって、無いものは無いと諦めて禁煙、そのまま味を忘れたのだろう。タバコをふかしていたことも。
(なにしろ若かった時代だしなあ…)
 ヒルマンは髭を生やしてはおらず、髪だって少しも白くはなかった。ゼルの髪の毛も豊かに頭を彩っていた。遠い遠い日のほんの一時期、短期間だけ吸っていたタバコ。長い年月が流れる内には記憶も薄れていっただろう。どんな味だったか、どんな気持ちで吸っていたのか。
(たまにはタバコを思い出したかもしれないが…)
 栽培しようとは言い出さなかった、ヒルマンもゼルも。
 白い鯨でタバコを作ろうと、タバコを吸いたいとは言わなかった。
(その程度の味っていうことなんだか、それとも言うのが面倒だったか…)
 新しい作物を導入するなら、必ず会議が必要だから。タバコに手を出して噎せたブラウや、煙に閉口していたエラにはいい思い出が無さそうだから。
(反対されたら、タバコ作りは無理なんだしな?)
 ゼルとヒルマンとが忘れたにせよ、言い出せずに終わってしまったにしても。
 白いシャングリラにタバコは無かった、ほんの一時期だけを除いて。全面禁煙で宇宙を旅して、地球にまで行った。
 明日はブルーに話してやろうか、土曜日だから。
 シャングリラは実は禁煙だったと、その必要が無くなってしまった後も、と。



 翌日、ブルーの家に出掛けて。小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「お前、タバコを覚えているか?」
「えっ?」
 タバコってなあに、吸うタバコだよね?
 知っているけど、覚えているかって訊かれても…。学校で何かあったっけ?
「違うな、学校よりもずっと昔の話さ。前の俺たちが生きてた頃のな」
 シャングリラのタバコだ、と怪訝そうなブルーに教えてやった。
 自分でもすっかり忘れていたことを思い出したと、シャングリラはタバコの無い船だったと。
「そういえば、タバコ…」
 前のぼくが一度だけ奪って、それっきりだっけ…。とても人気が高かったのに。
 ゼルもヒルマンも吸っていたのに、エラたちが文句を言ったんだっけ…。
 それでハーレイが二度と奪うなって言って来たから、ぼくもタバコはあの一回きり…。
「な? シャングリラにはタバコ、無かっただろうが」
 あれよりも後に前のお前が奪った物資に、たまに紛れてはいたんだが…。
 何かと騒ぎの元になるから、倉庫に入れずに廃棄処分にしておいた。タバコさえ無ければ平和な休憩室なんだしなあ、わざわざタバコを持ち込むことも無いからな。
 改造が済んだ後ならタバコも栽培出来たんだろうが、吸える場所も沢山あったんだが…。
 ヒルマンもゼルも「タバコを作ろう」と言わなかったし、そのまま全面禁煙ってな。
 シャングリラを禁煙にしちまった犯人、誰かと訊かれたら俺なんだよなあ…。



 もっとも俺は吸っていないが、と苦笑した。
 前のお前が吸えないというのに自分だけ吸うのは悪いと思って吸わなかった、と。
「俺の一番古い友達のお前がタバコを吸えないんだぞ? しかもお前が奪って来たのに」
 そんな状態で俺だけ吸えるか、申し訳なくて吸えなかったな。
 もっとも、お前が「あれは美味いのか」と訊いて来たのが、もう三日ほど後だったら。
 味見に一本、と吸ってしまって、そのままタバコに捕まってたかもしれないが。
 そうなっていたら、一度は全面禁煙にしても、白い鯨に改造した後。
 俺が率先してタバコ作りをしていないという保証は無いなあ、あれは美味いと、もう一度と。
 つくづく思うに、シャングリラを禁煙にするもしないも、俺次第だったかもしれないなあ…。
「えーっと、タバコ…。ハーレイ、似合いそうだけど…」
 似合いそうな気がするんだけれども、どうだろう?
 ゼルたちが吸ってた頃と違って、もっと後の時代。キャプテンになって、もっと年を取って。
 今のハーレイと変わらない姿になった後なら、タバコを吸うのも似合いそうだよ。
 普通の箱のタバコじゃなくって、パイプのタバコ。ああいうタバコが似合うと思うな。
「おっ、お前もそういう気がするか?」
 実は俺もだ、パイプのタバコが好きそうだったと思うんだよな。
 パイプってヤツは普通のタバコより手間がかかるし、掃除なんかも必要なわけで…。
 その辺の所が俺の好みにピッタリだという気がしてな。
 もしもシャングリラにタバコがあったら、断然、パイプだ。きっとパイプをふかしていたな。
 シャングリラの舵を握りながらは流石に無理だが、キャプテンの席なら吸えたかもなあ…。
 タバコなんかは一度も吸わずに終わっちまったがな、俺の人生。



 ついでに今の俺もタバコは全く吸わないんだが、と笑ったら。
 前の自分の記憶のせいかもしれないと肩を竦めておどけて見せたら。
「そうだったの? 一度も吸っていないの、ハーレイ?」
 前のハーレイは分かるけれども、今のハーレイもタバコを吸ったことがないの?
「うむ。吸おうと思ったことが無いなあ、前の俺がそうだったからなのか…」
 パイプなんかは格好いいな、とガキの頃から見ていたもんだが、縁が無くてな。
 普通のタバコも勧められたら断っちまうし、未だに一度も経験無しだ。
「それじゃ、今度は吸ってみる?」
 ハーレイ、ホントに似合いそうだもの、パイプのタバコ。
 ぼくはまだ吸える年にはなっていないし、大きくなっても似合いそうにはないけれど…。
 ハーレイだったらきっと似合うよ、今度はパイプのタバコにしない?
 もうシャングリラの中じゃないから、禁煙も何も関係ないもの。
「いや、いいさ」
 お前は今度も似合わないとか言ってるんだし、俺だけタバコを吸わなくてもな?
 今日まで吸わずに来ちまってるんだ、今更タバコってほどでもないさ。



 タバコを吸おうとは思わないな、と言ったのだけれど。
 小さなブルーが「似合いそうなのに…」と繰り返すから。
 パイプのタバコはハーレイに似合うと、好きそうだったら吸えばいいのにと見上げるから。
 機会があったら吸ってみようか、吸うのにひと手間かかるレトロなパイプのタバコ。
 今度はアルタミラの煙だという苦情も出ないし、何よりブルーのお勧めだから。
 パイプに刻んだタバコの葉を詰めて、ゆったりと紫煙をくゆらすのもいい。
 自分の手に馴染むパイプを探して、それを咥えてのんびりと。
 青い地球の上、ブルーと二人で過ごすひと時、ゆっくりと幸せを噛み締めながら…。





           無かったタバコ・了

※禁煙だったシャングリラ。けれどタバコは、一時期だけ存在していたのです。
 全面禁煙の船にしてしまったのは、前のハーレイ。愛煙家だったら違ったのでしょうね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(ほほう…)
 美味そうだな、とハーレイの目を引き付けたスイートポテト。
 ブルーの家には寄れなかった金曜日の帰り道、寄った馴染みの食料品店。駐車場に車を停めて、店に入って直ぐのコーナー、日曜日までの特設売り場と書かれてあった。
 スイートポテトを専門に売る店、それが出店しているらしい。シナモンをまぶしてサツマイモのように仕上げ、切り口から黄色の中身を覗かせたものや、タルトに仕上げてあるものやら。
 もちろんごくごく普通のものまで、売り場に溢れた艶やかな黄色。金色と呼んでもおかしくない色、サツマイモの甘さを示すかのような蜜色、黄金色。
 サツマイモは元から甘いけれども、スイートポテトはもっと甘くて滑らかな味。それに舌触りもホクホクと甘い。小さなブルーも好きそうな味で、サツマイモは今がシーズンだから。



(土産に買って行ってやるのもいいな)
 明日は土曜日、ブルーの家に出掛けてゆく日。土産にするには丁度良さそうなスイートポテト。店は朝から開いているから、行く前に寄れば出来立ての味を届けてやれることだろう。どの品物も朝一番に店で作って、此処へと運んで来るのだろうから。
(どうせ買うなら、その日に作ったヤツがいいしな)
 スイートポテトは出来立てでなくても美味しいけれども、同じ買うのなら作り立てのものを。
 小さなブルーへの土産なのだし、その日に作ったものがいい。今日から買っておくよりも。
(…ということは…)
 明日に買うなら、試食代わりに買ってみるのもいいだろう。どんな味なのか、買って自分の舌で確かめ、自信を持ってブルーに勧める。「美味いんだぞ」と。



(試食だ、試食)
 そいつが一番、と並べられたスイートポテトを端から順に眺めていった。
 サツマイモを象ったものも面白いけれど、金色をした美味しそうな部分がシナモンの色に隠れてしまって見えにくいから、もっと金色が引き立つものを。
 四角い形に仕上げてあるもの、絞り出したもの、様々なものがあるけれど。
 凝ったものならタルトだろうか、タルト生地の上にスイートポテトがたっぷりと。飾りに絞った模様も綺麗で、さながら金色のクリームが盛られたタルトのようで。
(…こいつがいいかな)
 スイートポテトの金色が見えるし、なによりも手間がかかっている。これを作るにはタルト生地から必要になってくるのだから。スイートポテトを作るだけでは済まないのだから。
(よし、これだな)
 これに決めた、と下見しておいて、他の買い物をしに行った。特設売り場はレジが別物、そこで会計する決まり。箱も出店して来ている店のものに入れて貰える仕組み。
 肉や野菜や、必要なものを選んで買い物、それらを食料品店の袋に詰めて貰って、店を出る前にスイートポテトの売り場へと。
 甘い香りを漂わせている、金色をしたタルトを一つ。店のロゴ入りの小さな箱つきで。



 駐車場に停めていた愛車を運転して家に帰って、夕食の支度。
 慣れた手つきで煮物に焼き物、一人暮らしでも充実の食卓。食べ終えた後は後片付けを済ませ、愛用の大きなマグカップに熱いコーヒーを淹れて書斎へと。
 スイートポテトのタルトを載せた皿も運んで行った。ダイニングで食べてもいいのだけれども、今日は書斎の気分だから。
 お気に入りの椅子にゆったりと座り、コーヒーを一口、それからフォークでスイートポテトを。口に入れるのに丁度いいサイズに切り取って頬張り、舌先で軽く転がしてみて。
(うん、美味いな)
 スイートポテトが売りの店だけに、なんとも風味豊かな味わい。舌触りもいい。
 特設売り場に書かれていたとおり、採れたてのサツマイモで出来ているのだろう。それも甘さが抜群のものを、ふかすだけで食べても充分に甘いサツマイモを使ったスイートポテト。
 砂糖の甘さがくどくないから、きっとそういうスイートポテト。小細工が要らないサツマイモ。
(元のイモから違うんだな、これは)
 うんと甘いイモを使っているな、とスイートポテトの作り方を頭に思い浮かべた。
 サツマイモを加熱して柔らかくして、それを裏ごし。砂糖にバターに、生クリームに卵黄などを加えて練り上げたら好きな形に仕上げて、オーブンで焼いて出来上がりだけれど。
 味の決め手はイモだと思う。サツマイモの味で左右されると、いいイモを使わなくてはと。



(サツマイモってヤツは、土で美味さが決まるんだよな)
 栽培方法に詳しいわけではないけれど。父に教えて貰ったのだったか、サツマイモは砂地がいいらしい。普通の土より、断然、砂地。わざわざ海岸の砂を運んで来て混ぜる畑もあると聞く。
 このスイートポテトの元になったイモも、そういう畑で採れたのだろうか。太陽の光を反射する砂、それに育まれて極上の甘さを中にたっぷり溜め込んだろうか。
 けれども、そういう砂地でなくてもサツマイモは充分に甘くて美味しい。何処のものでも。
(ふかすだけでホクホクするんだ、これが)
 ほんの少しだけ塩をつけると引き立つ甘さ。砂糖が必要無い甘さ。
 石焼きイモならもっと甘いし、砂糖を加えたスイートポテトは名前の通りに甘いもの。口の中のタルトも甘いけれども、サツマイモの甘さを活かした甘さで。



(ジャガイモとはまた違うんだ)
 同じイモでも、ジャガイモの味とは全く違う。ジャガイモもふかして食べられるけれど、まるで違ったその味わい。あちらは菓子と言うより料理の味だ、と思ってしまう。
 裏ごししたならマッシュポテトで、それをタルトの生地に詰めたら菓子ではなくて料理になる。ハムや野菜でも混ぜてやったら、さながらキッシュといった所か。
(ジャガイモの菓子は少ないからなあ…)
 すぐに浮かぶのはポテトチップス、コーヒーには合うが、紅茶には似合いそうもない。あくまでスナック、来客に出せはしないもの。手土産にするのもどうかと思う。
 サツマイモの方ならスイートポテトは立派な菓子だし、和風にするならイモ羊羹。どちらも客に喜ばれそうで、土産に持って行くにもいい。



(サツマイモなあ…)
 ジャガイモとはかなり違うようだな、とスイートポテトを口へと運んだ。菓子にするのが似合うイモだと、甘いイモだけのことはあると。
 幼かった頃にはイモ掘りをしに出掛けたものだ。幼稚園の先生に引率されて。
 砂地ではなくて、隣町の普通の畑で育ったイモだったけれど。それでも掘り立てのサツマイモはとても甘かったと記憶している、農家の人がその場で焼いたりふかしたりしてくれたサツマイモ。
 掘る時からしてもうワクワクしていた、畑一杯に茂ったサツマイモの葉を前にして。
 何処を掘ってもかまわないから、と言われたけれども、土の中のイモはサイズが揃っていない。小さなイモから大きなイモまで、当たり外れの差が大きいから、大きいイモを掘り当てようと。
 幼稚園児ではまだ無い能力、土の中を透視する力。
 ゆえに本当に運で勝負で、誰もが懸命に掘っていた。大きなイモが出ますようにと、一番大きなサツマイモが自分に当たりますようにと。
(俺はけっこう運がいい方…)
 これだ、と選んで掘った蔓には大きめのイモがあったと思う。大喜びした記憶があるから。
 誰よりも大きなイモを掘り当てたか、そこは定かではないけれど。
(ガックリしたって覚えは無いしな、比べたらきっとデカイ方だぞ)
 こんなのだったし、と幼かった自分が誇らしげに抱えていたイモを手で作ってみた。今の自分の手なら片手で持てそうだけれど、幼稚園児の手だと両手サイズで。
 いい思い出だ、と顔が綻んだけれど。懐かしいサツマイモ畑だけれど。



(…ん?)
 思い出と言えば、自分には今の自分よりも前の記憶がある。
 白いシャングリラで生きた記憶が、キャプテン・ハーレイだった頃の記憶が。
 優に三百年以上もある、その記憶。今の自分よりも遥かに長い時間を生きたけれども、その生で食べたサツマイモ。それの思い出が浮かんで来ない。
(…何かありそうな筈なんだが…)
 今の自分だけでもイモ掘りの記憶に、家の庭の焚火で作った焼きイモ、他にも色々。冬になれば石焼きイモを売る車が通るし、母と一緒に呼び止めて買った記憶も鮮やかで。
 たった三十八年だけの人生、それでも沢山ある記憶。サツマイモの思い出、それが幾つも。
 ところが前の自分の思い出は蘇って来なくて、サツマイモはまるで出て来ない。
 前の自分はサツマイモを食べていたのだろうか、と不思議になるほど、どうにも引っ掛からない記憶。思い出が無いサツマイモ。



 そんな筈は…、と遠い記憶を手繰った。前の自分とサツマイモの。
 ジャガイモとはかなり違うと思ったけれども、サツマイモもイモの内だから。食べる物だから、まずは厨房、とキャプテンに就任するよりも前の古い記憶を探ってみた。
 アルタミラから脱出した後は厨房で料理をしていた自分。あれこれ試作もしていた自分。きっとサツマイモの記憶も其処に…、と考えたけれど。
(…料理していた覚えが無いぞ)
 あの独特な形のイモを手に取ったという覚えが無い。皮を剥いたという記憶も。
 ふかしてもいないし、焼いてもいない。包丁を入れた覚えすら無い。
(ジャガイモだったら嫌と言うほど…)
 前のブルーが奪った食材が偏ってしまったジャガイモ地獄。来る日も来る日もジャガイモ中心の料理ばかりで、皆が不満を漏らしていた。何とかしようとレシピを調べて料理し続けた、来る日も来る日もジャガイモを剥いて。
 そんな思い出がジャガイモ地獄で、キャベツ地獄などもあったけれども。
 サツマイモの方は地獄どころか、お目にかかった記憶が無い。料理しようと手にした記憶が。



(あいつが奪って来なかったのか…?)
 前のブルーの略奪品には無かったかもしれない、サツマイモは。
 輸送船から奪う物資は基本的には手当たり次第で、目標を定めて奪うことの方が稀だった。広い宇宙を飛んでゆく内に出会う輸送船、それの荷物を頂戴したから。載せているものを奪ったから。
(サツマイモを積んだ船と出会わなければ、サツマイモは奪って来られないよな…)
 そういうこともあるだろう、と考えたけれど。
 前の自分が厨房に立っていた頃は、サツマイモが無かったのだと一度は納得しかけたけども。



(待てよ…?)
 白い鯨になったシャングリラの広い農場。自給自足で生きてゆくために栽培していた作物たち。
 巨大な船の中、広大な畑があったけれども、サツマイモを見た覚えが無い。サツマイモの葉も、その下の地面で育ったイモも。
(視察に出掛けて、見落としたとしてもだ…)
 農場で何を栽培中なのか、何が収穫出来たのか。報告は全て上がって来た筈で、キャプテンにもデータが届いていた筈。豊作だったか不作だったか、その種のデータも目を通していた。
 それなのに記憶に無いサツマイモ。まるで全く覚えていなくて、思い出さえも無いサツマイモ。



(なんで無いんだ?)
 あんなに目立つイモなんだが、と独得の形と皮の色とを頼りに探っても、やはり無い記憶。
 忘れたにしても薄情すぎる、とサツマイモを使って出来る料理や菓子を端から挙げてみた。
(天麩羅も美味いし、煮物もいいし…。菓子にしたって、スイートポテトに…)
 イモ羊羹に大学イモに…、と思い付く限りのサツマイモのレシピを数えたけれど。サツマイモのカリントウなども挙げたけれども、ハタと気付いた。
(まさか…)
 自分には馴染みの菓子や料理は、どれも昔の東洋のもの。SD体制よりも前の時代は東洋の名で呼ばれた地域のものばかり。日本や中国、そういった国。
(スイートポテトは違うようにも思うんだが…)
 そんな気がするが、西洋で通用しそうなサツマイモの調理法はそれくらいなもの。
 もしかしたら、前の自分が生きた時代には無かったのだろうか、サツマイモは?
 人類を統治しやすいようにと統一されていた当時の文化。
 マザー・システムが築き上げた時代の食文化の中に、サツマイモは入っていなかったろうか?



(まるで覚えていないとなると…)
 その可能性もゼロではないな、と端末を起動し、データベースにアクセスしたら。
 サツマイモの歴史を呼び出してみたら、衝撃の事実が記されていた。
(やはり消されてしまっていたのか…!)
 SD体制の崩壊後に復活、と書かれた注釈。今では昔と全く変わらず広く栽培されている、と。
 ジャガイモと同じく、遥かな昔の南米生まれのサツマイモ。
 大航海時代に発見されて船でヨーロッパへと運ばれたけれど、涼しかった気候が合わなかった。ジャガイモの方は主食としていた地域があるほど、ヨーロッパの文化に根付いたのに。
 涼しい土地では育たないサツマイモは再び船に乗せられ、もっと暖かい植民地へ運ばれ、其処で栽培されたという。
 今、自分たちが住んでいる地域、遠い昔には日本だった国へも運ばれて来たと。やせた土地でも育つ植物だと重宝されたと、飢えた時には蔓までも食べたくらいなのだと。



 マザー・システムに消されていたというサツマイモ。それを食べていた文化ごと。
(そりゃあ…。俺の記憶に無いわけだよなあ…)
 前のブルーが奪って来ないのも当たり前のことで、無かったものは奪えない。
 食べる文化が無かったのだから、シャングリラの中でも栽培しようとするわけがない。
 サツマイモの記憶は無くて当然だった、と腑に落ちたけれど。
 同時に些かショックでもあった、今はこんなに馴染みの深いイモなのに、と。
 冬になったら住宅街を走ってゆく石焼きイモの車は季節を感じさせるものだし、幼かった自分が出掛けたイモ掘りは今も幼稚園児に人気の行事。あのイモ掘りだって…。
(ジャガイモの方だと今一つなんだ)
 そちらも幼稚園の頃に行ったけれども、イモの大きさが違うから。
 サツマイモのように桁外れな大物が出ては来ないから、その辺りからして違っていた。ふかしたジャガイモは美味しかったけれど、焼きジャガイモは無かったというのも大きな違い。
 サツマイモ掘りなら、ふかしたイモも焼いたイモも好みで選べたのに。焼きイモの方は、先生や農家の人と一緒に焚火に入れて、焼き上がるまで火の側で待つ楽しみもあったのに。



 ジャガイモをふかしても美味しいけれども、バターでも塩でもホクホク熱くて美味しいけれど。
 同じふかして食べるのだったら、サツマイモに塩をちょっぴりつけて。それが美味しい、そんな気がする。焼きイモにも出来るサツマイモの方が特別、掘り上げた後の楽しさが違うと。
 料理か菓子かと尋ねられたら、菓子の出番が多いように思えるサツマイモ。
 ジャガイモを潰せばマッシュポテトで、ポテトサラダにもなるけれど。
 料理が主な使い道な上に、菓子と言えばポテトチップスが浮かぶジャガイモよりもサツマイモ。
 甘いサツマイモを潰して裏ごし、生クリームなども加えればスイートポテトで、見た目に洒落た菓子も作れる。手土産に提げてゆけるような。
 ブルーへの土産に、と何の気なしに試食用に一つ買って来たスイートポテトのタルトだけども。
(こいつは…)
 買って帰った甲斐があったな、と嬉しくなった。
 前の自分たちが全く知らなかった味、栽培しようとも思わなかったサツマイモ。
 明日の話題はスイートポテトとサツマイモだと、これで決まりだと。



 次の日、良く晴れた空の下を歩いて出掛けて、昨日の食料品店に寄って。
 特設売り場を覗き込んだら、思った通りに朝一番で作られたスイートポテトたちの金色がズラリ並んでいたから、昨日買ったのと同じタルトを二つ。
 絞り出したスイートポテトが綺麗な模様を描いたタルトを箱に詰めて貰い、足取りも軽く歩いて行った。目指す生垣に囲まれた家に着き、門扉の脇の呼び鈴を鳴らせば二階の窓からブルーが手を振る。手を振り返して、出て来たブルーの母にタルトの箱を渡した。「買って来ました」と。
 ブルーの部屋に案内されたら、小さなブルーが目を輝かせて。
「ねえ、ハーレイ。お土産、なあに?」
 持って来たでしょ、何かの箱を。あの箱、ママに渡したんでしょ?
「見てたのか…」
 目ざといヤツだな、俺の荷物までチェックしやがって。
 まあ、土産には違いないしだ、何だったのかは見てのお楽しみだ。



 すぐに来るさ、と片目を瞑った。お母さんが持って来てくれる、と。
 やがてブルーの母が運んで来たスイートポテト。紅茶のカップやポットも揃って、お茶の時間の始まりだけれど。
「…ハーレイのお土産、スイートポテト?」
 買って来てくれたの、来る途中で?
「いつもの食料品店なんだが…。特設売り場だ、スイートポテトの専門店のだ」
 明日まで期間限定で来てる。昨日見付けて買ってみたんだが…。
 専門店だけあって美味いんだぞ。まあ、食ってみろ。
 うんと甘いぞ、と促してやれば、ブルーはフォークで切り取って口に入れてみて。
「ホントだ、甘いね!」
 それに美味しいよ、サツマイモの甘さが凄く自然で。
 お砂糖とかの甘さじゃなくって、サツマイモの甘さが勝ってる感じ。
 そういうサツマイモを使って作ってるんだろうね、スイートポテトの専門店なら。



 ホントに美味しい、とブルーが嬉しそうに食べているから。
 スイートポテトを頬張っているから、チャンス到来とばかりに質問をぶつけてやった。
「美味いスイートポテトなんだが…。前のお前も好きだったか、それ?」
「えっ?」
 このお店、そんなに前からあるってことはないよね、レシピの問題?
 前のぼくたちはお店に買いには行けないし…。シャングリラのレシピと似てる味なの?
「さてなあ…。要は前のお前がスイートポテトを好きだったかどうか、ってトコなんだが」
 好き嫌いが無かったってことは抜きにして、スイートポテト。
 よく食っていたか、あんまり馴染みが無いか、どっちだ?
「スイートポテト…?」
 前のぼく、何度も食べていたかな?
 それともあんまり食べてなかったか、どっちだったっけ…。



 どうだったろう、とブルーは暫く考え込んで。
 記憶の糸を手繰るかのように、スイートポテトを口に運んで舌で転がしたりもしてみた末に。
「…スイートポテト…。知らないかも…」
 前のぼくは食べた記憶が無いかも、忘れちゃったっていうわけじゃなくて。
 シャングリラで食べた覚えが無いかも、スイートポテトもサツマイモも…。
「な? お前も覚えていないだろ?」
 俺も全く記憶に無いんだ、スイートポテトもサツマイモもな。
 今の俺のサツマイモに関する思い出は山ほどあるがだ、前の俺のが一つも無い。
 そいつはあまりに変じゃないか、と気が付いて調べてみたんだが…。
 俺もお前も全く覚えてない筈だ。スイートポテトを食べるどころか、サツマイモってヤツが何処にも無かった。サツマイモを食べる文化が無くって、サツマイモは植物だったんだ。
 多分、植物園とかにあったんだろうな、サツマイモ。食うためじゃなくて、観賞用に。
 花が咲くこともあるって言うから、葉だか花だか、そういうのを見せる目的でな。



 俺も昨日まで知らなかった、と話してやった。
 白いシャングリラで生きていた頃にはサツマイモが存在しなかったのだ、と。
「まさか全く無かったとはなあ…。今じゃ馴染みのイモなんだが」
 スイートポテトを買った時にも、お前への土産にしようと思って試食用にと買ったくらいで…。
 こんなとてつもない土産話がくっつくだなんて、夢にも思っちゃいなかったさ。
 美味いヤツだろうと、専門店の味なんだぞ、と食わせるつもりだったんだがなあ…。
「ぼくだってビックリしちゃったよ。前のぼくは好きだったのか、って訊かれたって…」
 どうだったかな、って考えちゃったくらいに、スイートポテトは普通の食べ物。
 サツマイモだって秋から冬にはよく食べるものだし、珍しくもなんともないんだけれど…。
 そのサツマイモを前のぼくは全く知らなかっただなんて、なんだか不思議。
 ぼくがすっかり忘れただけだ、って聞かされた方が納得だよ。
「俺もそういう感じだなあ…」
 生まれ変わる時にサツマイモの記憶を落としちまって、まるで思い出せないだけだと言われたら素直に信じるだろう。
 どうにも思い出せやしないがサツマイモは確かにあった筈だ、という気がするんだ。
 しかし、本当に無かったらしい。
 データベースに嘘の情報があるわけがないし、俺はこの目で確認したしな、無かったんだと。



 白いシャングリラの時代には無かったサツマイモ。存在しなかったスイートポテト。
 ブルーがスイートポテトをフォークでチョンとつついて。
「もしも、前のぼくたちの時代にあったなら…」
 子供たちに人気だっただろうね、そう思わない?
「スイートポテトか?」
 甘いからなあ、好かれそうな味ではあるよな、うん。
「ううん、スイートポテトじゃなくって…。サツマイモの方」
 シャングリラの農場で育てていたなら、イモ掘りをして遊べたんだよ。
 ぼくは幼稚園からイモ掘りをしに出掛けたけれども、ハーレイはイモ掘り、行ってない?
「いや、行った。そいつも昨日に考えていたんだ、サツマイモが無かったと気が付く前に」
 同じイモ掘りだったらジャガイモよりもサツマイモだと、そっちの方が楽しかったと。
 大物のイモが入っているのはサツマイモだし、ふかすだけじゃなくて焼いてもくれたし…。
 お前が行ってたイモ掘りの方はどうだった?
「えっとね、ハーレイのと、多分、おんなじ…」
 ハーレイは隣町の幼稚園だから、行った先は別の所だろうけど…。
 ぼくが行った所もふかしてくれたり、焼いてくれたりしていたよ。掘り立てのを。
 ジャガイモ掘りにも行ったけれども、人気はやっぱりサツマイモの方。
 誰が一番大きなのを掘ったか、競争みたいになっていたよ。ぼくも頑張って掘っていたっけ…。
 何番目だったかは忘れたけれども、こんなに大きなヤツも掘ったよ。



 このくらい、とブルーが両手で示した大きさ。
 幼稚園の頃のブルーの手だから、その大きさではなかったろうけれど、そこそこ大きい。
 ハーレイの思い出の中の大きなイモにも負けていないほどのサツマイモ。
 今でさえ思い出せるほど記憶に刻まれた幼い頃のイモ掘り、もしもシャングリラで出来ていたとしたら、大人にも人気だったろう。
 サツマイモを収穫するとなったら、係ばかりに任せていないで、皆で競ってイモ掘りをして…。
「ゼルとかが凄く頑張りそうだね、イモ掘りがあったら」
 掘る方も頑張っていそうだけれども、掘り終わった後のサツマイモ。
 ふかすとか焚火で焼くだけじゃなくて、釜から作って石焼きイモでもやりそうだよ。
「あいつは如何にも好きそうだなあ…」
 ヒルマンに「調べて来い」とか言うんだ、同じサツマイモを焼くにしてもな。
 いろんな工夫を凝らしそうだぞ、資料さえあれば壺焼きイモでも。
「…壺焼きイモ?」
 なんなの、それって?
 そういうサツマイモの焼き方があるの、壺焼きイモって?
「名前の通りさ、釜の代わりに壺で焼くんだ」
 デカイ壺の中に炭を入れてな、その上にサツマイモを吊るして焼く。ホクホクなんだぞ、壺焼きイモは。石焼きイモとは違った美味さだ。
「そうなんだ…」
 ゼルだったら壺から作りそうだよ、壺が無ければ別の工夫をしちゃうかも…。
 「こいつで壺焼きイモと同じ仕組みになる筈なんじゃ」って、信じられないのを持ち出すとか。
 機関長だもの、何を持って来るか分からないよ。ギブリのパーツで作っちゃうとかね。
「やりかねないなあ、ゼルだけにな」
 ギブリどころか、ブリッジのヤツでも使えそうなら転用するぞ。
 「この椅子のパーツが実にいいんじゃ」と俺のシートから何か外して行くとかな。



 如何にもやらかしそうなゼル。焼きイモに凝っていそうなゼル。
 シャングリラにサツマイモがあったとしたなら、焼きイモだけでなくて…。
「スイートポテトも色々出来るぞ、形を工夫してやれば」
 こいつを売ってた店にもあったな、このタルトの他にもいろんな形が。
 形に凝るなら厨房のヤツらの出番だよなあ、スイートポテト。
「そうだね、それも美味しそう!」
 サツマイモが沢山収穫出来たら、スイートポテトも山ほど出来るね。
「うむ。スイートポテトとかの菓子も美味いが、サツマイモの天麩羅もなかなかいけるぞ」
「うん、天麩羅も美味しいよね!」
 お塩で食べても、天つゆで食べても。
 サツマイモの天麩羅も大好きだよ、ぼく。あんまり沢山は食べられないけど…。



 白いシャングリラがあった時代に、天麩羅は無かったのだけど。
 天麩羅を食べる文化も無かったのだけれど、サツマイモがあったらチップスくらいは…、と言い出したブルー。きっと誰かが作っただろう、と。
「薄くスライスして揚げるだけだし、サツマイモのチップス、きっとあったよ」
「そうだな、イモがあったら揚げてみるのは基本だからな」
 ジャガイモだったらフライドポテトにハッシュドポテトだ、サツマイモだって揚げるだろう。
 どう揚げるのが一番美味いか、あれこれと工夫するんだろうな。
 俺だったらサツマイモで何を作っていたやら…。揚げる他にも試すんだろうが…。
 待てよ、サツマイモがあるってことはだ、サツマイモ地獄もあったかもな。
 前のお前が奪った食材、殆どがサツマイモってヤツが。
「そうかもね…」
 やっちゃったかもね、サツマイモ地獄。あればっかりは選べなかったし…。
 ハーレイが早く帰って来いって心配するから、とにかく奪って帰っていたしね。



 白いシャングリラでジャガイモ地獄だった時には、フライドポテトが人気だったけれど。
 サツマイモ地獄があったとしたなら…。
「ハーレイ、人気はスイートポテトだったと思う?」
「そんなトコだろうな」
 フライドポテトが人気だった理由は、ガキの頃の思い出の味ってことになってたし…。
 サツマイモの場合はスイートポテトになるんだろうなあ、甘くて子供が好きそうな味だ。
 人気の味はきっとスイートポテトだ、お前が言ってる通りにな。
「スイートポテト…。ゼルたちにも食べさせてあげたいね」
 シャングリラには無かった味だったんなら、美味しいよ、って。
「ふうむ…。美味いぞ、と教えてやりたいなあ…」
 あいつらが何処かにいるんなら。
 俺たちみたいに生まれ変わって、サツマイモが食える場所で暮らしているならな。
 せっかく気付いた美味い味なんだ、あいつらにも是非、この美味さを知って欲しいよなあ…。



 今は当たり前になったスイートポテトにサツマイモ。
 前の自分たちが生きた頃には、何処にも無かったスイートポテト。
 何処かにいるのなら食ってみてくれ、と心でゼルたちに呼び掛けた。
 ブルーと二人で、スイートポテトを頬張りながら。
 白いシャングリラで共に暮らした仲間。懐かしい仲間。
 今も宇宙の何処かにいるなら、スイートポテトを。今ならではの味を試してくれ、と…。




          スイートポテト・了

※シャングリラには無かったスイートポテト。そもそもサツマイモそのものが無かった時代。
 今では美味しいスイートポテトに、他にも色々。シャングリラの仲間にも披露したい味。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(…ちょっと飛んでるみたいだよね)
 ほんの少し、とブルーはバスの窓から外を眺めた。
 学校からの帰り、乗ったいつもの路線バス。外がよく見えるお気に入りの席。大抵そこに座るのだけれど、普段は気にしていなかった。景色の方に夢中になって。
 普通の車よりも車高の高いバス、人も車も窓よりも下に見えるから。窓から覗いたブルーよりも下を通ってゆくから、飛んでいるようだと思ったバスからの眺め。そう見える視点。
 人の背丈よりもほんの少し上、そのくらいの高さを飛んでいる自分。バスの座席に軽く腰掛け、流れるように飛んでゆく自分。
 今の自分に空を飛ぶ力は無いのだけれども、バスに乗ったままで飛んでいた。地面よりも上を、人の頭よりも高い所を。
(ホントに空を飛んでるみたい…)
 気持ちいいな、と流れる景色を楽しんでいたら、ガクンと止まってしまったバス。何故、と前を見れば信号が赤。途切れてしまった空の旅。せっかく気持ち良く飛んでいたのに。



(信号だなんて…)
 そんなのに引っ掛かるなんて、と残念な気分で動かなくなった景色を見詰めた。前の自分ならば自由自在に飛べたのに、と。
 このバスで飛んだ気持ちになる高さよりも、もっと高い空を。本物の空を。
 雲よりも高い青い空の上を、信号に引っ掛かりもしないで。
 遮られることなく飛べた空の旅、何処へでも飛んで出掛けてゆけた。白いシャングリラから遠く離れて、思いのままに空を駆けることが出来た。
 そんなことは滅多にしなかったけれど。船の仲間たちが自由に出られはしない世界を一人きりで飛んで楽しむことなど、ソルジャーのすべきことではないから。
(でも、たまに…)
 ミュウの未来を考える内に、苦しくなってしまった時とか。
 そういった時には空へ飛び出した、自由に飛んでゆける世界へ。白いシャングリラが潜む雲海を抜けて、ただ遠くへと空を駆けていた。
 フィシスを見付けたのもそんな時だった、空を飛ぶだけでは後ろめたくて、せめて情報収集だけでも、と入り込んだ施設の奥深くで。
 地球を抱く少女を見付け出した後は、自分に何かと言い訳をしては空を飛んでいた。フィシスの許へと、地球を抱く少女に会いにゆこうと。



 前の自分が飛んでいた空、遮るものなど無かった空。
 バスは再び走り出したけれど、景色が流れ始めたけれど。
(車って、不便…)
 空を飛ぶよりずっと不便、とバスを止まらせた信号機に心で溜息をついた。せっかく飛んでいた旅を邪魔された、あの信号機に。飛んでいる気分に水を差された、赤信号に。
(本当に空を飛んでるんなら、信号なんか関係無いのに…)
 地面の上にはなんと無粋なものが聳えているのだろう。赤、青、黄色と色が揃った信号機。車の流れを止めてしまって、飛んでいる気分を台無しにする。色を赤へと変えるだけのことで。
(空には信号、無いんだけどな…)
 止まらなくてもいいんだけどな、と考えながらも空の旅。バスの窓がある高さの空を。
 今の時代は、市街地では空を飛べないけれど。
 信号機が無くても出てはいない許可、市街地の上を生身の身体で飛んでゆくこと。空を飛ぶなら指定された場所、其処でレジャーとして飛べるだけ。そういうルール。
 だから空を飛ぶ力がある人も、町の中ではこういう不自由をするのだけれど。移動する時は車やバスで、信号に引っ掛かるのだけれど。



 つらつらと考えながら飛んでゆく内に、近付いて来た家の近くのバス停。
 降りる合図のボタンを押して、バス停に停まったバスから地面にストンと降り立って。
(たったこれだけ…)
 ほんの少し、と見送った走り去るバスの床の高さ。バス停で降りただけの高さで空を旅していた気分。人の背丈よりも少しだけ上を、バスで上がった視点の分だけ。
 それでも満足だったけれども、前の自分ならもっと高く、と空を見上げた瞬間に。
 青く高く澄んだ空を仰いだ途端に、身体を貫いていった衝撃。



(逆…!)
 逆だったのだ、と初めて気付いた。
 自由なのは前の自分ではなくて、空を飛べない自分の方。バスの窓の高さで空を旅して、信号に旅の邪魔をされたと溜息を零した自分の方。
 前の自分は空を自在に飛べたけれども、本当の意味で自由に飛んではいなかった。空の上を高く駆けていたけれど、降りる地面を持たなかった。
 何処まで飛ぼうと、何処へゆこうと、戻る先は白いシャングリラ。雲海の中に浮かんでいた船。
 たとえ地面に降り立ったとしても、森の中で切り株に腰掛けていても、いつまでも留まることは出来ない。ミュウの居場所は地面には無くて、白いシャングリラの中だったから。
 地面から飛び立ち、其処へと戻ってゆくしか無かった。また空を駆けて、その空の上に浮かんだ船へと。雲海の中に潜む船へと。



 前の自分が飛んでいた空に、邪魔をする信号は無かったけれど。
 赤信号に行く手を阻まれることは無かったけれども、居場所の無かった地面の上にはその信号があったのだった。人類が暮らす町の中には、車が流れていた道路には。
(信号機のルールは今とおんなじ…)
 青なら進めて、赤ならば止まる。車も人もそれは共通。
 知識としては知っていたけれど。アタラクシアやエネルゲイアの上を飛ぶ時は、車も道路も見ていたけれど。
 従いたくても従えなかった信号機。ミュウのためには無かった信号、無かった地面。車も道路も人類のもので、走りたくても走れなかった地面。バスや車でも、自分の足でも。



(地面だって、うんと遠かったんだよ…)
 シャングリラから直接地面に降り立つことは不可能だった。高い高い空を飛んでいたから。
 さっき自分がバスからストンと降りたような具合で降りることは、けして。
 トンと降りるだけで地面に立てはしなくて、前の自分の力をもってしても出来なかったこと。
 遥かな下にある地面との距離は縮まらないから、物理的に無理なことだから。
 地面に着くまで空を飛んでゆくか、瞬間移動で一気に降りるか。前のブルーでさえ二つに一つ。
 ましてシャングリラの仲間たちには、タイプ・ブルーではなかった皆には…。
(絶対に無理…)
 降りたいと望んでも降りられなかった、地面などには。人類のものだった地面の上には。
 新しい仲間を救出するための潜入班にならない限りは、踏みしめることさえ出来なかった地面。赤信号に引っ掛かったと嘆きたくても夢のまた夢、信号機の立つ地面がミュウには無かった。
 潜入班なら信号も地面もあったけれども、交通ルールにも従ったけれど。
 監視システムに怪しまれぬよう、人類と同じに地上で暮らしもしていたけれど…。



(前のぼくの自由と同じで仮のものだよ…)
 空を駆けてシャングリラから地面に降りても、潜入班として降りたとしても。
 留まることは出来はしなくて、帰ってゆく先はシャングリラ。地面など無い空にある船。雲海の外には出られない船、降りる地面を持たなかった船。
 そういう時代に生きた自分と比べてみれば…。
(今はとっても…)
 幸せなんだ、と今頃になって気が付いた。
 赤信号に引っ掛かったと残念に思ったあの信号機も、それがある地面を路線バスに乗って走れることも。当たり前のようにある交通ルールも、それに従って走れることも。



 しみじみと幸せを噛み締めながら家に帰って、おやつを食べて。
 二階の自分の部屋に戻って、また考える。
 今はどれほど幸せなのかと、空を飛んでいた前の自分よりも、どれほど幸せなのだろうかと。
(ぼくは車に乗れないけれど…)
 運転免許を取れる年ではないけれど。
 ハーレイのように自分で車を運転出来たら、もっと幸せな気分だろうか。
 地面の上を走れる車。信号に従って走れる車。
 それも地球の上で、前の自分たちが焦がれ続けた青い地球の上で。



(きっと幸せ…)
 最高に幸せな気分だと思う、地球の地面の上を車で走れることは。
 前の自分たちとは縁が無かった交通ルールも、赤信号で動けなくなることも。
 そうなのだろうという気がするから、ハーレイに訊いてみたいと思った。この幸せにハーレイは気付いていたかと、車で走れることの幸せさに、と。
(…ハーレイ、今日は来てくれるかな…)
 仕事の帰りに寄ってくれるといいんだけれど、と願っていたら聞こえたチャイム。窓から覗けば手を振るハーレイ、応えて大きく手を振り返した。
 訊いてみることにしよう、早速。ハーレイが部屋に来てくれたなら。



 やがて母の案内で現れたハーレイ。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに座って、まずは帰りの路線バスで見た窓の景色から。飛んでいるようだと思ったあの風景から。
「あのね、今日ね…」
 バスに乗ってたら、飛んでいるような気分になったよ。バスの窓の高さで。
 そしたら、赤信号に引っ掛かっちゃって…。飛んでる気分が台無しになってしまったけれど…。前のぼくなら信号なんかは関係なくって、自由に飛べたと思ったんだけど…。
 でも、とバスから降りた後で気付いた話をした。
 前の自分が飛んだ空より、地面を走れる車の方が幸せだよ、と。
「…はあ?」
 空を飛ぶより車って…。そいつはなんだかおかしくないか?
 お前が引っ掛かったって言う赤信号。空に信号は無いんだからなあ、止まる必要も無いんだぞ?
 鳥だって空で止まっちゃいないし、前のお前だってそうだったろうが。



 空を飛ぶ方が遥かに自由そうだが、とハーレイは不思議そうだから。
 市街地の上は飛行禁止な今と違って、前のブルーの頃ならば自由に飛べたと言うから。
「それなんだけど…。同じように空を飛んでいたのがシャングリラでしょ?」
 シャングリラに信号、あったと思う?
 ハーレイはシャングリラを動かしてたけど、赤信号で止まったりすることはあった?
「無かったな。前のお前や鳥と同じで、空に信号機は無いからな」
 一度も止まったことなんか無いな、アルテメシアの空を飛んでた間はな。
 ナスカじゃ上空に停まっていたがだ、あれも赤信号で止まったわけではないからなあ…。
「交通ルールは?」
 横断歩道の手前の方で止まりましょうとか、そういうルールはシャングリラにあった?
「全く無いな」
 航宙学ってヤツで言えばだ、飛ぶためのルールは存在したが…。
 離着陸の時はライトの点滅をどうするかだとか、その手のヤツはあったんだが…。
 使わなくてはいけなくなったのは、アルテメシアを落としてからだ。人類用だった宙港に降りるためには必要だしなあ、他の船とぶつからないために。
 もっとも、落とした星への離着陸以外はルールは殆ど守ってないな。人類軍との戦いの真っ最中だと、ルールも何もあったもんじゃない。守ったら負けだ、がむしゃらに進むのみってな。



「…ほらね、シャングリラにも信号なんかは無かったでしょ?」
 そういうのが無いと自由みたいに思うけど…。自由なんだと思っちゃうけど、それは間違い。
 本当だったら人類の船と全く同じに、ちゃんとルールを守って着陸とかが出来たんだよ。人類がミュウの存在を許してくれていたなら、シャングリラの着陸を許してくれたなら。
 でも、そういうのは出来なくて…。
 前のぼくだってシャングリラと同じ。自由に空を飛んでいたって、地面が無かった。地面の上に降りてみたって、帰って行く先は空に浮かんだシャングリラで…。
 赤信号で止まりたくっても、交通ルールを守りたくても、させては貰えなかったんだよ。地面は人類が持っているもので、ミュウのものではなかったから。
 だけど、今はね…。



 それを守って走れるんだよ、と説明した。
 前の自分たちが行きたいと願った青い地球の上で、と。
「そうでしょ、ハーレイ? ぼくは路線バスとかパパの車に乗せて貰って走るんだけど…」
 赤信号でちゃんと止まるよ、止まらなくっちゃいけない決まり。考えてみたら、とっても幸せ。
 ハーレイはもっと幸せだと思うな、自分で運転してるんだもの。
 地面を走るための決まりを守って、自分の車で地球の上を走っていけるんだもの。
「なるほどなあ…!」
 そいつは全く気付いてなかった、今日までのお前と同じにな。急いでいる時に赤信号になったら舌打ちしたりもするんだが…。そうか、赤信号で止まれるってことは幸せなんだな。
 今の俺の車はシャングリラよりも幸せってことか、赤信号で止まれる分だけ。
「うん。地面の上を走っているから、赤信号があるんだよ」
 おまけに地球の地面なんだよ、地球の上を走っている道路。そこについてる信号機の赤。
 シャングリラだと道路を走りたくっても、いろんな意味で無理があるよね。宇宙船だったし。
「俺の車がシャングリラよりも幸せだったとは気付かなかったな…」
 同じように俺が動かしていても、大きな違いがあったってことか。
 幸せな車、シャングリラに比べりゃずっと小さくて、ブリッジに置いてもまるでオモチャだ。
 そんなに小さな車のくせして、シャングリラよりも遥かに幸せだったってか…。



 信じられない気持ちだが…、とハーレイは車を思い浮かべているようで。
 ちっぽけだとか、シャングリラの通路を走れそうだとか、その小ささを挙げていたけれど。
「そういや、車は外が見えるな」
「えっ?」
 外って、窓の外のこと? そうなの、ハーレイ?
「うむ、外だ。そこがシャングリラと車の大きな違いだ」
 車だとガラスの向こうに外が見えるだろ、路線バスでも普通の車でも。
 シャングリラにも窓は一応あったが、運転するためにある窓じゃなかった。前の俺がブリッジで見ていた景色はスクリーン越しで、それを頼りに舵を切ってた。後はデータに頼ってな。
 ところが車はそうじゃない。俺の目で窓の向こうを見ながら運転するんだ、車ってヤツは。
 赤信号かどうかを見るのもそうだが、この目で見ないとハンドルも切れやしないってな。
「ホントだね…」
 シャングリラと車じゃ全然違うね、運転してるって実感があるのは車だよね。
 スクリーン越しに外を見るんじゃなくって、運転席のすぐ前に外の景色があるんだものね。
「お前、そこには気付かなかったか…」
 自分で運転してないからなあ、無理もないかもしれないが。
 車の免許を取れる年じゃないし、シャングリラだって前のお前は動かしてないし…。
「それもあるけど、前のぼくは自分で飛んでいたんだもの」
 窓なんか無いよ、飛んで行く時に。ぼくの身体だけで飛び出すんだから。
「そうか、視界は遮られないというわけか」
 外の様子はどうなってるか、と調べなくても、情報は全て直接入って来ていたんだな。
 前のお前の目に映ったもの、それを目指して飛んで行くとか、避けるとか…。
 そういう意味では前のお前はシャングリラよりも自由だった、と。
 俺の車に近かったわけだ、前のお前が飛んで行く時に体感していた景色ってヤツは。



 シャングリラに比べて今の車は…、と続けるハーレイ。
「外を見られるっていうのもそうだが、俺の車だというのも嬉しい点だよなあ…」
 仲間の命を預かっているというわけじゃないし、行き先だって俺の自由に選べるからな。地球へ行かねば、と頑張らなくてもいい時代だし…。何より地球に来ちまってるし。
 その地球の上を好きに走って、道路さえあれば何処へだって行けると来たもんだ。
 あれは俺だけのシャングリラってヤツで、進路も運転も俺次第ってな。
「そうだっけね。ハーレイ、前にも言ってたね」
 ハーレイの車、今度はぼくとハーレイだけのためのシャングリラになる予定なんだ、って。
 当分は今の車だけれども、買い替える時にはシャングリラと同じ白もいいな、って。
「そうさ、俺たちのためだけにあるシャングリラだ、あれは」
 俺の隣にお前を乗せなきゃ、完璧じゃないって勘定だがな。
 二人揃って乗って初めて、本当に本物の俺たちだけのシャングリラになってくれるんだ。
 それまでは俺が一人で乗るしかないわけなんだし、少し寂しいシャングリラだが…。
 前の俺がお前を失くした後と違って、お前はこれから乗り込む予定の車なんだしな?
 いつかお前を乗せる時まで、大切に乗っておかんとなあ…。



 綺麗に洗って手入れもして…、とハーレイは嬉しそうだから。
 前の自分のマントの色をした今の愛車を、ブルーが乗るまできちんと維持しておくと言うから。
「ねえ、ハーレイ。ぼくもハーレイの車、運転出来る?」
 乗せて貰えるようになったら、あの車を。前のハーレイのマントの色をした車。
「お前がか?」
 あれをお前が運転するのか、俺の代わりに運転席に乗り込んでか…?
 運転免許を取るって言うのか、と真顔で訊かれた。
 そんなつもりは無かったんだが、と。
 ブルーが乗るならあくまで助手席、運転席には自分が座るつもりだったが、と。
「…そうだったの?」
 ぼくはあの車を運転しないで乗ってるだけなの、長いドライブに出掛ける時でも?
 遠い所に車で行くなら、交代しながら運転していく人も多い、って聞いているけれど…。
「おいおい、俺の体力を甘く見るんじゃないぞ?」
 長距離だって充分に一人で走らせることが出来るんだがな?
 若い頃からドライブしてるし、何より車はシャングリラと違って休憩する場所が沢山あるんだ。適当な場所を見付けて停まって、飯を食ったり一休みしたり。リフレッシュしたらまた走る、と。
 シャングリラじゃそうはいかなかったぞ、何時間でも舵を握りっ放しで立っていたとかな。
 そういう時代を経験したんだ、長距離ドライブなんぞは遊びだ。
 俺は一生、俺が運転手のつもりでいたんだが…。お前と二人で乗って行く予定のシャングリラ。
 しかし、お前が運転免許を取りたいと言うなら話は別で…。
 あれを運転したいと言うなら、運転席にも座ってくれればいいんだがな。



 運転免許を取りたいのか、と訊かれたから。
 俺と交代でドライブするのが好みなのか、と尋ねられたから。
「…どうだろう…」
 どうなんだろう、と考え込んでしまったブルー。
 運転免許があれば車を動かせるけれど、青い地球の上を車で走って行けるけれども。
 シャングリラがミュウの箱舟だった前の生でも、シャングリラを動かしてはいなかった自分。
 白い鯨をただ守るだけで、舵を握ったことは無かった。
 操舵の練習用のシミュレーターなら扱えたのだし、その気になったら操船も出来ただろうに。
 アルテメシアに落ち着く前なら、遊び半分に動かしてみても文句は出なかっただろうに。
 どういうわけだか、ただの一度もシャングリラを動かさずに終わった自分。乗っていただけで、守っていたというだけのことで。
 そうして今では、車は乗せて貰うものだと思っている自分。
 年齢のせいもあるだろうけれど、父の車もハーレイの車も乗せて貰って当然のもの。ハンドルを握る自分の姿は想像も出来ず、握りたいという気も起こらないから。



「…多分、取らない…」
 運転免許を取りたいな、っていう気持ちはしないし、車を運転したくもないし…。
 今の所は運転免許を取ろうって予定は無いんだけれど…。
「なら、取るな」
 取らなくていいぞ、お前が取りたいと思っているんじゃないならな。
 俺の仕事が無くなっちまうし、運転免許は無い方がいい。
 俺はお前専属のキャプテンってヤツでいたいんだ。俺たちのためだけのシャングリラのな。
 でもって、お前を隣に乗っけて、交通ルールに従ってだな…。
「地球の地面を走るんだね?」
 赤信号ならきちんと止まって、青信号になるまで待って。
「そうなるな。その赤信号とかで止まるヤツだが…」
 そいつが自由の証明なんだ、ってことに気付いたと言うんだったら、文句を言うなよ?
 俺と一緒にドライブしていて、自由の証明に出くわしても。
「自由の証明って…。何に?」
 赤信号なら今日も気付いたし、ぼくは文句は言わないよ。交通ルールがあるのが地面で、そこを走れるなら幸せだもの。
 それとも他にもまだ何かあるの、車が止まるためのルールが?
「ルールと言っていいのかどうか…。そこの所は微妙なんだが…」
 赤信号やら、いろんな交通ルールやら。
 ついでに走っている他の車の状況、そんなので起きる渋滞だな。



 たまに起こるという渋滞。
 ズラリと連なった車の行列、それが殆ど進まなくなる。動かなくなる。待てど暮らせど動かない車、少しずつしか進めない車。
 一度渋滞に入ってしまえば、なかなか抜け出せないらしい。上手い具合に別の道へと出られればいいが、それが出来なければ渋滞が消えるまで待っているだけ、待ち続けるだけ。車の中で。
「昔ほどではないらしいがな…。渋滞ってヤツも」
 ずうっと昔、前の俺たちが生きた頃よりも遥かに昔。
 この辺りが日本って国だった頃は、そりゃあ凄いのがあったらしいぞ、車の渋滞。
「凄いって…。どんなものなの?」
 ぼくは渋滞には出会ったことがないけれど…。昔の渋滞は有名だったの?
「らしいな、ニュースになったというくらいだしな。年に二回ほどあったようだが…」
 生まれ故郷だとか、親が暮らしている家だとか。そこへ行こうって車が大渋滞を起こすんだ。
 そうなると見越して早めに出発した車だって、運が悪けりゃ捕まったらしい。
 懐かしい所へ帰ろうって車が引き起こすからな、帰省ラッシュと呼ばれたそうだ。その車たちが行きと帰りとにズラリ行列、そうなるシーズンが年に二回さ。



 SD体制があった頃よりも遥かな昔、この辺りが日本という小さな島国だった頃。
 お正月とお盆に起こっていたらしい酷い渋滞、その名も帰省ラッシュなるもの。
 捕まったら最後、何時間も車の中に缶詰、降りることも出来なかったと言うのだけれど。一休み出来る場所さえ無かったとハーレイに聞かされたのだけれども。
「…その帰省ラッシュ。それに巻き込まれても幸せだよ、きっと」
 まるでちっとも動かなくても、ぼくは幸せ。怒ったりはしないよ、文句も言わない。
「それもやっぱり地球だからか?」
 地球の地面の上を走って、帰省ラッシュに捕まるからか?
 シャングリラだと絶対に捕まりっこない、地面の上のルールに巻き込まれた結果だからか…?
「うん。帰省ラッシュがあるだけ幸せ」
 ちゃんと地面を走れるからこそ、渋滞なんかがあるんだよ。他の車も走ってるんだよ。
 前のぼくたちみたいに降りる地面が無かったら。…降りられる場所が何処にも無ければ、渋滞に遭うことは無いんだから。
 どんなに酷くて長い渋滞でも、地面の上を走れる幸せと隣り合わせのものなんだよ。
「ふうむ…。お前の言葉は正しいんだが、実に正しい意見なんだが…」
 当時のヤツらには分からんだろうな、ひたすら文句を言ってただろうさ。まだ続くのかと、まだ渋滞は終わらないのかと。
 青い地球の上で暮らして、地面を走って。それが当たり前の時代だったし、きっと分からん。
 自分たちがどれほど幸せだったか、どれほど恵まれていたのかさえもな。



 その時代を生きたヤツらには…、とハーレイが腕組みして頷くから。
 ブルー自身も、今日まで全く気付いていなかった地面を走れる幸せだから。
「ねえ、ハーレイ。…他にもきっと色々あるんだろうね」
 地面の上を走れる他にも、赤信号で止まれる他にも。
「何がだ?」
 交通ルールの幸せってヤツか、地球の地面の上ならではの?
「…交通ルールもそうだけど…。当たり前すぎて気付かない幸せ」
 今のぼくたちには当たり前のことで、でも、前のぼくたちには無かったもので。
 気が付いたらビックリしちゃう幸せ、きっと他にも沢山あるよね。
「ああ、多分な」
 お前が気付くか、俺が気付くか。それとも二人で同時に見付けてアッと驚くか…。
 そういうのが山ほどあるんだろうなあ、まだまだ気付いていないだけでな。



 これから二人で幾つも見付けていこうじゃないか、と微笑まれた。
 人生はうんと長いのだからと、いずれは二人で一緒に暮らしてゆくのだからと。
「はてさて、何処で見付かるやらなあ、そういう幸せ」
 お前とドライブしてる最中にヒョッコリ出会ったりしてな。
 車の窓から見えた景色でハッと気付くとか、休憩しようと降りてみた場所で見付けるだとか。
「そうだね、ドライブしてる時にも何か見付かるかもしれないね」
 前のぼくたちには無かった幸せ、赤信号で止まれる幸せみたいに。
 ぼく、ハーレイと一緒だったら、渋滞しちゃった車の中でも…。
 幸せだよ、と笑顔で言った。
 どんな時でもハーレイと二人、一緒だから。
 二人揃って巻き込まれるなら、遠い昔にあったと言われる凄まじい帰省ラッシュでも。
 何時間も車ごと捕まったままで出られなくても、それでもきっと幸せだよ、と。



「帰省ラッシュって…。いいのか、お前」
 あれは本当に桁外れだったらしいんだが…。もうそれだけで消耗しそうな大渋滞で、到着したらバタリと倒れて寝ちまう人もいたらしいんだが…?
「大変そうなのは分かるけど…。ぼくだと身体が丈夫じゃないから、もっと大変だろうけど…」
 それでも、帰省ラッシュって。
 自分のお父さんたちが住んでる家に出掛けるか、結婚相手のお父さんたちの家に出掛けるか。
 とにかく大切な人たちが暮らしてる家へ、会いに出掛ける時に巻き込まれるものなんでしょ?
 それと、そこからの帰り道。自分が結婚相手と暮らしてる家に帰る時。
 そういう時に出会うものなら、うんと幸せなものじゃない。
 青い地球の上にある大切な家と家との間を移動出来るんだよ、ちゃんと本物の家族の家。
 それだけで充分、幸せじゃない。
 ぼくが帰省ラッシュに巻き込まれるなら、ハーレイの家からぼくの家まで帰る途中か、それとも隣町のハーレイのお父さんたちの家へ行く途中なのか…。
 どっちに向かっているにしたって、きっと幸せ。大切な人に会いに行けるし、大渋滞でもきっと幸せ。着いた途端に倒れちゃっても、ぼくは絶対、幸せだよ。



「お前らしいな、倒れちまっても幸せだという辺りがな」
 そうなったとしたら、俺は行き先に着いた途端にスープ作りだ、野菜スープのシャングリラ風。そいつをお前にせっせと食わせて、帰り道の体力を養ってやらんといかんわけだが…。
 それでもお互い幸せだろうな、帰省ラッシュは今は無いがな。
「うん、分かってる」
 今はちょっぴり渋滞するだけ、それも滅多に無いんでしょ?
 だけど赤信号で止まれる幸せに気が付いたんだし、渋滞だってきっと幸せ。
 ハーレイが運転してくれる隣で、ぼくは幸せ気分なんだよ。
「よしきた、それなら二人であちこちドライブだな」
 俺たちのためのシャングリラで。俺がお前の専属の運転手になって。
「そこはキャプテンでしょ、シャングリラだもの」
 ハーレイしか運転出来ない車を運転するなら、キャプテン。車でもキャプテン・ハーレイだよ。
 ぼくとハーレイしか乗ってなくても、シャングリラでキャプテン・ハーレイなんだよ。
「分かった、俺がキャプテンなんだな」
 しかしだ、お前はソルジャーじゃないぞ?
 今度は俺の嫁さんってだけで、隣にチョコンと乗っかってるだけでいいんだからな。



 何もしなくていいんだからな、とハーレイが笑みを浮かべているから。
 俺のシャングリラで走って行こう、と言ってくれるから。
 いつかハーレイと結婚したなら、二人でドライブに出掛けよう。
 赤信号でも渋滞でもいい、ハーレイの車で味わってみよう、地球の地面の上を走れる幸せを。
 きっと免許は取らないだろうから、ハーレイはいつまでもキャプテン・ハーレイ。
 ブルーだけを乗せて走るシャングリラの頼もしいキャプテン、キャプテン・ハーレイ。
 二人きりのドライブで地球を走って、交通ルールを満喫しよう。
 シャングリラには無かった赤信号だの、出会わなかった小さな渋滞だのを…。




           赤信号の幸せ・了

※赤信号に引っ掛かったら、残念な気持ちになるのが今のブルーですけれど。
 前の生では、赤信号には引っ掛かりようが無かったのです。交通ルールを守れるのは幸せ。
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