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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(羊の毛刈り…)
 そんなのあるんだ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 ふわふわ、モコモコの毛皮の羊。その毛を刈って使うことは知っていたけれど…。
(一年に一回か、二回…)
 人間が毛を刈ってやる。バリカンや手バサミなどを使って、すっきりと。毛を刈った後の羊は、丸裸のような身体になってしまうから。毛皮を持ってはいないものだから、季節を選んで。
(風邪を引いちゃったら、大変だものね?)
 雪が降るような寒い季節に、丸裸では風邪を引くだろう。だから毛刈りは春や秋のもの。沢山の羊たちの毛を順番に刈ってゆくのが、牧場の人たち。次はこの羊、と。
 それを体験させてくれる牧場があるらしい。予約が必要な所もあれば、その季節に行けば誰でも出来る牧場だって。親子で挑戦して下さい、と大人用と子供用の作業服がある牧場も。
 一人で一頭刈るのだったら、一時間半くらいと書かれているけれど。
(でも、下手くそ…)
 毛刈りをするのは、素人だから。羊の毛なんか刈ったこともない、初心者ばかり。
 慣れた人が刈ったら、繋がった一枚の毛皮が出来上がるのに、そうはいかない挑戦者たち。毛の塊が幾つもフワフワ、転がることになるという。羊が着ていた毛皮の分だけ。
 けれど毛を刈る前と後では、別の生き物のようになる羊。モコモコだった身体がほっそり、顔も尖って見えてしまって。
 なんだか楽しそうではある。羊の毛を刈ってみるということ。
(ハーレイだったら上手かな?)
 身体が大きいから、余裕たっぷりで刈ってゆけそう。手の届く範囲がうんと広いし、羊の方でも大人しくしそう。「こんな相手じゃ、逃げられないよ」と。
(いつか行くのもいいかもね?)
 ハーレイと二人で、羊の毛刈り。親子用の作業服とは違って、大きいサイズと小さめサイズで。
 いつかデートに行ける日が来たら、二人で暮らし始めたら。
 毛刈りをさせて貰える季節に、ハーレイの車で出掛ける牧場。刈った毛をお土産に貰える牧場もあるというから、其処が楽しいかもしれない。毛の使い道を、すぐには思い付かないけれど。



 ちょっといいよね、と思った羊の毛刈り。牧場だったら、美味しい物も食べられそう。
(覚えておこうっと…)
 いつかハーレイと行きたいから、と考えながら戻った二階の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で、キッチンの母に空のカップやお皿を返して。
 勉強机の前に座って、さっきの記事を思い出す。毛刈りの他にも羊のことが書かれていた。
 とても昔から、人間に飼われていた羊。フワフワの毛が沢山採れるし、肉にもなるし、おまけに乳でチーズも作れる。なんとも便利で、役に立つ家畜。
 ただ、人間が飼育している羊は、改良されてしまっているから、毛を刈らないと…。
(生きていけない、って…)
 毛皮が重くなりすぎて。動き辛いし、伸びすぎた毛が原因で病気になることもある。絡み合った毛は、勝手に抜け落ちてくれないから。人間が刈ることを前提に改良されているから。
 牧場にいるのは、そういう羊。其処から勝手に逃げた羊は、とんでもないことになるという。
 誰も毛刈りをしてくれないから、毛の塊のようになってしまって。保護されて毛を刈って貰えることになっても、もう簡単には刈れない毛。プロ中のプロを呼んでこないと。
(毛が採れて、美味しいチーズも作れて…)
 その上、肉にもなる羊。もっとも羊の乳というのは、牛乳のように飲むには向かない味らしい。加工してチーズにするのが一番、そうすればグンと美味しくなる乳。
 フワフワの毛とチーズと、それから肉と。牛よりも素敵に思える羊。牛だと乳と肉だけだから。
(…なんで、シャングリラで飼わなかったわけ?)
 とても便利な動物なのに、と思った羊。
 船の仲間たちの衣服を賄えるだけの数は無理だとしたって、何頭か飼えば良さそうなもの。皆に行き渡る分が無くても、順番待ちにすればいい。希望者を募って、羊の毛から作った手袋とか。
 子供たちの教材にも、きっとピッタリの羊。さっき新聞で読んだみたいに、毛刈りの体験。
(植物の綿を育てていたんだから…)
 綿の実から生まれる、天然の綿。植物が作り出す天然の繊維。それが採れたら、糸紡ぎまで手でしていたほど。遠い昔の紡ぎ車を、ちゃんと再現して作って。
 あれはヒルマンの提案だったし、羊の名前も挙がりそう。「教材にいいと思うんだがね?」と。羊を何頭か飼っていたなら、子供たちだって喜ぶから、と。



 けれどシャングリラにモコモコの羊はいなかった。白い鯨で飼われていたのは、牛や鶏といった動物。毛と肉と乳が役立つ羊は、ただの一頭もいなかった船。
(羊も飼えば良かったのに…)
 どうして飼わなかったのだろう。大人しい羊は、凶暴な動物とは違うのに。子供たちが毛刈りをしに出掛けたって、蹴ったり噛んだりはしないだろうに。
 それなのに船にいなかった羊。白いシャングリラなら充分に飼えた筈だけど、と不思議に思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、まずは毛刈りの話から。いつか二人で行きたい牧場。
「あのね、ハーレイ…。羊の毛刈りをしたことがある?」
 牧場で飼ってる、モコモコの羊。毛刈りの季節に牧場に行けば、刈らせて貰えるらしいけど…。
 小さな子供も出来るみたい、と持ち出した話題。「ハーレイもやったことがある?」と。
「いや、無いが…。話には聞いてるんだがな」
 生憎と俺は体験してない。牧場で羊を見たことはあるが、それで終わりだ。毛は刈っていない。
 そういう季節じゃなかったかもな、という答え。羊が風邪を引く季節ならば、毛刈りは無理。
「ハーレイ、やっていないんだ…。面白そうだよ、新聞に載っていたんだけれど」
 いつかハーレイと行ってみたいな、羊の毛刈りが出来る牧場。お土産に毛を貰える所がいいよ。毛の使い道は、まだ考えてはいないんだけど…。
「未来のデートの約束か。羊の毛刈りなあ…。確かにユニークではあるが…」
 お前、自分で刈れるのか、と尋ねられた。「羊はデカイぞ?」と。小さく見えても、側に行けば大きいのが羊。人間が背中に乗れるくらいに。
「出来なかったら替わって貰うよ、ハーレイに」
 一頭刈るのに、一時間半くらいなんだって…。疲れちゃった時は、ハーレイ、お願い。
 駄目かな、と強請るように見上げた恋人の顔。「ぼくが途中で疲れちゃったら、替わって」と。
「お前のことだし、そんなトコだとは思ったが…。いいだろう、連れて行ってやる」
 二人で一頭刈ることにするか、俺がお前の分まで刈ることになって一人で二頭分の毛刈りか…。
 俺はどっちでもかまわないがな、お前がやってみたいのならば。
 お安い御用だ、と引き受けてくれた、頼もしいハーレイ。牧場までのドライブだって。



 約束できた未来の計画。ハーレイと羊の毛刈りに行くこと。挑戦できる季節になったら。毛皮を刈られた後の羊が、風邪を引かない季節が来たら。
「ありがとう! いつか行こうね、羊の牧場。うんと楽しみにしてるから」
 でもね…。不思議なんだよ、羊のこと。今じゃなくって、前のぼくたちの頃なんだけど…。
 羊は毛が採れて、肉にもなるでしょ。新聞にはチーズも作れるんだって書いてあったよ、牛乳のようには飲めないけれども、乳からチーズ。
 牛だと、お肉とミルクだけ…。皮も使えるけど、羊みたいに何回も毛は採れないし…。
 羊、とっても役に立つのに、どうしてシャングリラにいなかったのかな…?
 ヒルマンが言い出しそうなのに…。「この船で羊を飼いたいのだがね」って、会議の時に。
 だってそうでしょ、子供たちの教材にピッタリだよ、羊。
 植物の綿を育てたみたいに、羊を飼って毛刈りをしたら、フカフカの毛が採れるから…。それを紡げば糸が出来るもの、綿と同じで。
 紡ぎ車もあったんだから、と今のハーレイにぶつけた疑問。白い鯨にモコモコの羊がいなかった理由は、何故なのか。船で飼ったら、きっと素敵な教材になっていたのだろうに、と。
 そうしたら…。
「お前はいつでもそう言うな。…今も昔も、羊となったら」
「え?」
 どういう意味、とキョトンと見開いた瞳。前にハーレイと羊の話をしたろうか。シャングリラに羊がいなかったことか、あるいは役に立つという方なのか。まるで覚えていないけれども。
(…ハーレイと羊の話なんか、した?)
 毛刈りの記事は今日が初めて、牧場で体験できることすら知らなかった。羊の乳がチーズ作りに向いていたって、飲むには不向きだということも。他にどういう羊の話をしたのだろう…?
「間違えるなよ、今のお前じゃない。前のお前だ、ソルジャー・ブルーだった頃だな」
 前のお前も言い出したんだ。羊がいい、と。…覚えていないか?
 今日と全く同じに羊、と口にされても分からない。前の自分と羊の関係が、欠片さえも。
「羊って…。それって、いつ?」
 前のぼくだよね、羊がいいって言ったわけ…?
 毛刈りをしようとか、教材にいいとか、今とおんなじことを言ったの…?



 白いシャングリラには、いなかったモコモコの毛をした羊。何故いなかったのか、ハーレイなら知っていそうだと思って訊いたのに。キャプテンの記憶をアテにしたのに、貰った返事は予想外。
 前の自分が羊の話をしたと言われても、本当に欠片も思い出せない。
「どうやら忘れちまったようだな、羊を飼い損なったから。…お前が提案した羊なのに」
 悔しさのあまり忘れちまったか、仕方ないからと諦めてそれっきりだったのか…。
 前のお前なら諦めた方だな、悔しがるようなタイプじゃなかったから。物分かりが良すぎて。
 お前が羊だと言い出したのは、牛たちの飼育が軌道に乗ってからだった。新鮮なミルクが充分に採れて、バターもチーズも毎朝、食堂で出るようになって…。
 そんな頃だな、会議の席でこう言ったんだ。「次は羊を飼わないかい?」と。
 俺やヒルマンたちが揃う会議だ、と指摘されたら蘇った記憶。前の自分と、船で羊を飼う話。
「思い出した…!」
 ホントだ、今と全く同じ…。さっきハーレイが言った通りに、今のぼくと同じ考えだったよ。
 前のぼくは新聞を読んでたわけじゃないけど…。自分で調べていたんだけれど…。
 羊はとっても役に立つこと、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。前の自分が生きた時代に。
 白いシャングリラのライブラリー。其処で目にした、羊のデータ。
(…羊って、どんな動物だろう、って…)
 元々、聖書で気になっていた。前の自分が生きた頃にも、唯一、残っていた神が書かれた聖書。本を読んでいても出てくるのが聖書、どういうものかと読んでもみた。神の言葉や預言などを。
 その聖書の中に繰り返し出て来た、神様の羊。
 クリスマスに馬小屋で生まれた神様、その神様を子羊に例えているのが聖書の言葉。人間たちを救うためにと、神が遣わした救い主。
 人間の姿になった神様は、育った後に十字架の上で殺された。罪深い人間たちに代わって、その罪を全て贖うために。自らの身体で、自らの血と、かけがえのない命とで。
 神様は後に復活して天に昇ったけれども、人間のために犠牲になった神様だから、生贄の子羊の姿で出てくる。聖書の中に。「屠られたと見える子羊」などという言い回しで。
 つまり、神様は羊の姿。そして人間も「迷える子羊」。
 神様は牧者で、沢山の羊を飼っている。人間という多くの羊たちを。一頭でも迷子になった羊がいるなら、神様は何処までも探しにゆく。姿が見えなくなった羊を、無事に見付け出すまで。



 神様も人間も、羊に例えられるのが聖書。そして神様が馬小屋で生まれたことを、神様の使いが知らせにゆくのは羊飼いの所。夜に羊の番をしていた者たちが出会った、神様を称える天使たち。
 人間たちを代表して知らせを貰う人たちも羊を飼っていたのだし、きっと羊という動物は…。
(とても大切な動物だったんだろう、って…)
 そう思ったから調べたデータ。姿は写真や絵などで知っていたけれど、もっと詳しく、と。
 羊はどういう生き物なのか。人間とどんな具合に関わり、生活にどう役立ったのか。遠い昔から飼われていたのは、もう間違いない生き物だから。聖書の中にも、羊飼いが登場するほどに。
 興味津々で調べてみたら、大いに役立ちそうなのが羊。
 一頭の羊から何度も毛皮が採れる。纏っている毛を刈ってやったら、また次の毛が生えて来て。
 肉にもなるし、雌の羊なら乳も搾れる。飲むには不向きな味らしいけれど、チーズにしたなら、それは美味しいものが出来るとあったから…。
(みんなの服を作るだけの毛は無理だけど…)
 それだけの羊を飼うとなったら大変だけれど、教材用なら何頭かいれば充分だろう。子供たちが毛を刈ることが出来て、その毛で色々なものを作れる羊。きっと素敵だろう生き物。
(フワフワの毛を刈って、加工して…)
 チーズ作りも、子供たちの役目にするのもいい。船の食堂で供するだけの量は無理だし、チーズ作りをした子供たちが分けて食べるのが一番。余るようなら、希望者を募ってクジ引きで配る。
(そんな風にしたら、誰も文句は言わないし…)
 教材用にと飼う羊でも、世話をしてくれる仲間も現れる筈。子供好きの仲間たちも多いし、動物好きの仲間たちだって。
 そう考えたから、会議の席で提案した。次は羊を飼わないか、と。
「羊じゃと?」
 なんでまた、とゼルが最初に声を上げたから、「いいと思うんだけどね?」と微笑んだ。
「ヒルマンが言い出さないのが不思議なくらいに、羊は素晴らしそうだけど…」
 このシャングリラで飼ってみるには、似合いの生き物だと思う。
 自給自足で生きてゆくのが、今のこの船の方針だろう?
 人類の船から物資を奪う時代は終わって、船で全てを賄う時代。牛が飼えるなら、羊も飼える。
 そして羊は、牛よりも素敵な所があるように思うものだから…。



 子供たちの教材に飼ってみるにはピッタリだ、と会議に出ていた皆に話した。前のハーレイと、長老と呼ばれ始めていた四人とに。
 羊がいたなら、毛刈りをしたり、刈った毛で色々なものを作ってみたり。繊維を針などで絡めてやったら、塊になってフェルトが出来る。紡いでやったら毛糸が作れる。
 フェルトも毛糸も、其処から加工してゆけるもの。色々なものを作り出せるし、牛の毛などとは全く違う。鶏たちが纏う羽根とも。
 羊の乳は飲めないけれども、代わりに美味しいチーズが出来る。牛たちのように肉も採れるし、如何にも役に立ちそうな羊。何度も毛皮を刈れるだけでも、もう充分に。
「とても素敵だと思うんだよ。飼ってみれば、きっと」
 毛皮と肉とチーズだからね、と羊の利用方法を説いた。牛よりもずっと幅が広い、と。
「なるほどねえ…。面白いかもね、あたしは賛成だ」
 乗り気になってくれたのがブラウで、ゼルも賛成した。「わしもじゃ」と髭を引っ張りながら。
「なかなか良さそうな生き物じゃて。毛皮に肉にチーズとなれば」
 牛からは毛は採れんからのう、皮だけで。それも一回限りで終わりじゃ、皮は一頭の牛に一枚と決まっておるんじゃから。しかし羊は、毛皮を何回採っても問題ないんじゃし…。
 どうして今まで羊を飼おうと思い付かんのじゃ、とゼルはヒルマンを睨み付けた。船で飼うには丁度いい羊、それを思い付きさえしないとは、それでもお前は「教授」なのかと。
 ヒルマンの渾名は「教授」で通っていたものだから。…博識なせいで、誰からともなく呼ばれた名前。そういう渾名を持っていながら、羊を思い付かないとは、とゼルが責めたのだけれど。
「…羊なら、私も考えてみたよ。とうの昔に、エラと二人で」
 そうだったね、とヒルマンはエラに同意を求めた。「羊の飼育も、何度か検討した筈だ」と。
「ええ。…ソルジャーが仰る通りの理由で、役立ちそうだと思ったのですが…」
 ヒルマンと調べてゆけばゆくほど、この船には向かない動物なのです。羊というのは。
 羊は群れたがる性質があって、群れが大きいほど安心するとか。…小さな群れでいるよりも。
 とてもストレスに弱い生き物で、そのせいで群れを作るのですよ。
 群れていないとパニックに陥ることもあるほど、羊は仲間といたがるそうです。
 一頭や二頭で飼っていたなら、怯えて病気になるくらいに…、というのがエラの説明だった。
 羊の健康を考えるならば、群れを作れるだけの数を集めて飼わねばならない。しかも群れの形で行動するから、充分に広い放牧用のスペースを確保しなければ、とも。



 シャングリラの中で羊を飼おうと言うなら、群れを形成できるだけの数で。その上、その群れが草を食めるだけの場所が要る。草は人工飼料にしたって、牛のような飼育方法は無理。ストレスで病気になるのを防ぐためには、群れで暮らせる広大な場所が要るのだから。
「今、エラが言った通りだよ。教材用にと、少しだけ飼うのは難しいのが羊でね…」
 かと言って、本格的に飼うとなったら、今度は飼育が大変だ。群れでしか飼えない動物だから。
 それだけの手間暇をかけてやる価値が、あるかどうかとなったらだね…。
 どうなんだね、とヒルマンに言われなくとも分かる。肉なら牛と鶏がいるし、チーズは牛の乳で充分。バターもチーズも足りているから、羊の乳まで無くてもいい。
 羊の毛側も、船では特に必要ではない。繊維は合成品で間に合っているし、ストレスに弱い羊を育てるメリットはまるで無い状態。毛刈りや紡ぐ手間がかかって、却って負担が増すだけの船。
 ヒルマンの言葉を継ぐような形で、エラまでがこう口にした。
「そういった理由で、羊は飼わないことにしようと決めたのですが…。この船では」
 子供たちの教材にする程度の数の羊では、とても上手くはゆきません。
 遠い昔には、牧場から逃げて暮らす羊もいたようですが…。森の中などで、一頭だけで。
 けれど、そういう強い羊は稀なのです。ペットにしようと一頭飼っても、弱ってしまうのが殆どだったそうですから。…群れを作れる仲間がいなくて、心細くて。
 そんな厄介な羊を飼おうということでしたら、羽根枕用のグースも飼いたいくらいです。
 反対されて諦めましたが…、とエラが持ち出したグースの話。羽根枕などの材料に使う、水鳥の羽毛が採れるのがグース。
(…ソルジャー専用の羽根枕だとか、羽根布団だとか…)
 高級な寝具が欲しかったエラ。そのためにグースを飼いたがったけれど、水鳥の飼育には必要な池や、池から上がった時に休憩するスペースなど。
 鶏とは比べ物にならない手間がかかるのがグースで、飼わないと決まったのだった。
(グースなんかと一緒にされたら…)
 羊を飼うのは夢物語だというのが分かる。役立つようでも、現実的ではない羊。
 どうやらシャングリラには向かない生き物、群れを作るだとか、群れで行動したがるだとか。
 飼えない理由を並べられたら、前の自分も諦めざるを得なかった。羊を飼うということを。
 先に考えていたヒルマンとエラが、「無理だ」と結論付けたのなら。博識な二人が熟慮した末に出した結論、それが「飼わない」ことだったなら。



 遠く遥かな時の彼方で、とても残念に思ったこと。せっかく素敵な羊を見付け出したのに、白いシャングリラでは飼えないなんて、と。
 フカフカの毛皮とチーズと肉を与えてくれる、役に立つ家畜。牛よりもいいと考えたのに。
「…そうだったっけ…。前のぼく、ホントにおんなじことを言ってた…」
 シャングリラで飼うにはピッタリだよ、って会議でみんなに言ったのに…。
 ゼルもブラウも賛成だったのに、ヒルマンとエラに「羊は無理だ」って言われておしまい…。
 前のハーレイだって、何も言ってはいなかったけれど、ヒルマンとエラの味方なんでしょ?
 シャングリラのキャプテンだったんだものね、と視線を向けたら、ハーレイは否定しなかった。
「そんなトコだな、キャプテンである以上はな…?」
 より良い船を作ってゆくのが、キャプテンの仕事なんだから…。羊を飼ったら船がどうなるか、其処が一番大切なことだ。いい船になるのか、その逆なのか。
 前のお前も直ぐに羊を諦めたんだし、どっちだったかは分かるよな。羊がいるといい船なのか、困った船になっちまうのか。…前のお前は、ソルジャー・ブルーだったんだから。
 羊がいる船はどうなんだ、と尋ねられたから、肩を落として返した返事。「困った船だよ」と。
「…羊の群れを飼ってしまったら、専用のスペースを作らなきゃ…」
 船で一番大きな公園、羊にあげてしまうとか…。空きスペースを全部潰して、羊用にするとか。
 それでもきっと足りないだろうね、群れになって移動していくんだから…。
 今日はこっちの公園が良くて、明日はあっちに行きたいよ、って…。
 船が羊に占領されちゃう、とチビの自分でも分かること。仲間たちの憩いの場所だった船で一番広い公園、其処を奪ってしまうのが羊。モコモコと群れて、芝生も端から食べてしまって。
 前の自分も、そう思ったから諦めた。仲間たちのために作った公園、それを羊には譲れない。
「キャプテンの俺も、シャングリラを困った船にはしたくなかったからなあ…」
 羊の件では、ヒルマンとエラから何も聞いてはいなかったんだが…。
 俺に相談するまでもなく、「無理だ」と答えを出したんだろう。あの二人だけで。
 なのに、お前が持ち出しちまった。データベースで羊の話を見付けて、嬉しくなって。
 毛皮にチーズに肉となったら、確かにいいことずくめなんだが…。
 それよりも前に、羊の性質が問題だったというわけだ。少しの数では飼えないってトコが。
 俺は黙っているしかないだろ、ただでもガッカリしているお前に反対したくなければ。



 黙っているのが一番だよな、と今のハーレイが話してくれた昔のこと。白いシャングリラで羊の話を持ち出した時に、前のハーレイが守った沈黙の意味。反対でもなく、賛成でもなく。
 キャプテンの立場では、とても賛成できない「船で羊を飼う」ということ。
 けれども、それを口にしたなら、飼いたがった前の自分の心を傷つける。「ハーレイもだ」と。反対する理由が分かっていたって、キャプテンとしては正しいと直ぐに気が付いたって。
「…ハーレイ、黙っていてくれたんだ…。前のぼくのために」
 羊を飼うのは賛成できません、って言ったりしないで、黙っていただけ…。前のぼくがガッカリしちゃっていたから、もっとガッカリさせないように。
 ありがとう、とペコリと頭を下げた。あの日の前の自分の代わりに。
 もしもハーレイまでが「駄目です」と口を揃えていたなら、本当に悲しかっただろうから。
 羊は無理だと、諦めるのが正しい道だと分かってはいても、会議室から出てゆく時には、悲しい気持ちで胸が一杯だったろうから。
「礼を言われるほどのことじゃないんだが…。俺はお前を守りたかっただけだ」
 お前の肩を持ってやれないなら、俺に出来ることは「何も言わない」ことだけだろうが。
 あそこで俺がヒルマンとエラに賛成したなら、お前の心は傷ついちまう。
 いくらソルジャーでも、中身はお前で、ちゃんと心があるんだから…。素敵な思い付きだと胸を弾ませて、羊を飼おうと言ったんだから。
 まさか駄目だと言われるだなんて、お前、思ってもいなかっただろう…?
 違うのか、と向けられた穏やかな笑み。「羊、飼えると思っていたんだろ?」と。
「うん…。データベースで調べた時には、其処まで見てはいなかったから…」
 ずっと昔から人間が飼ってた家畜の一つで、うんと歴史が長い動物。
 だから簡単に飼えそうだよね、って思い込んでて、どういう風に飼育するかは見てなくて…。
 子供を産ませて増やせる程度の羊がいればいいんだよね、って…。
 そう思ってた、と打ち明けた前の自分の思い違い。羊にまるで詳しくなかった前の自分。
「仕方ないよな、お前は家畜のプロじゃないから」
 家畜飼育部の連中だったら、そっちの方まで調べなければと思うんだろうが…。
 ヒルマンとエラも、飼育を検討していたからこそ、其処まで辿り着いたわけだが…。
 ソルジャーだったお前の仕事は、それじゃない。調べなかったのも無理はないよな、羊の性質。



 素人だったら誰でもそうなる、と慰めてくれた今のハーレイ。「ゼルとブラウもだ」と。
 彼らも羊に賛成だったし、羊の飼育が難しいことを知らなかったら船で飼いたくもなる、と。
「前の俺だって、キャプテンという立場でなければ、あそこで賛成していただろう」
 良さそうじゃないか、と思っていたのは間違いない。試しに少し飼ってみるのも悪くない、と。
 しかし迂闊なことは言えんし、話の流れが定まってから…、と様子を見てたら、ああなった。
 俺も反対するしかないのが羊で、飼う方向へと行きそうだったら止めるしかない流れにな。
 幸い、そうはならなかったし、俺は黙っていることにした。…お前をガッカリさせないために。
 お前は羊をシャングリラで飼いたかったのにな…、と今のハーレイは味方してくれる。あの船で羊を飼おうと思って、生まれ変わっても同じことを思ったソルジャー・ブルーに。
「ハーレイ、最初は賛成だったんだね。羊がどういう生き物なのか、知らずに聞いていた時は」
 だけどシャングリラじゃ無理だったんだよ、羊を飼うっていうことは。
 モコモコの群れで暮らしていないと、羊は生きてゆけないから…。少しだけでは飼えないから。
 でも、本当に羊はストレスに弱い生き物なの…?
 大勢の仲間と群れていないと駄目なくらいに、寂しがり屋で弱虫なの…?
 逃げ出して森の中で暮らした羊もいるんだよね、とエラの言葉を思い出す。それに新聞で読んだことも。人間が毛を刈ってやらないと、大変なことになる羊。毛の塊になってしまって。
 そういう羊が発見されたら、プロの中のプロが毛を刈るしかない。すっかり絡んでしまった毛の塊には、並みの人では歯が立たないから。刈ろうとバリカンを手にしてみても。
 今も話題になるほどなのだし、逃げる羊もいるのだろう。群れを離れて一頭だけで。仲間の所に帰りもしないで、伸び放題になった重い毛を身体に抱えて、逞しく生き抜く強い羊が。
「どうなんだか…。今の俺も前の俺と同じで、羊には詳しくないんだが…」
 しかしだ、羊を飼ってる所じゃ、何処でも群れになってるぞ。バラバラじゃなくて。
 この地域だと、でっかい群れで飼ってる所は少ないが…。
 牧場の柵で囲った範囲で放牧してるし、そんなに大きな群れを作れはしないんだが…。同じ羊を飼うにしたって、昔から羊に馴染んでいた地域の文化を復活させた所だと、事情が違うようだな。
 牧羊犬っていうのを、お前も聞いたことくらいはあるだろう?
 人間の手伝いをする専用の犬を飼うほどなんだし、羊の群れも桁違いだ。人間様の力だけでは、とても面倒を見切れない数。それだけの羊の群れを引き連れて、あちこち移動して行くんだから。



 牧羊犬は名前通りに、羊の群れを纏める手伝いをする犬たち。羊たちが群れをはぐれないよう、好きな方へ行ってしまわないよう、吠えたり走り回ったりして大忙し。
 そんな犬たちを使うような地域に行ったら、それは大きな羊の群れ。この地域の牧場で見られる群れとは、まるで違った羊の数。数え切れないくらいの羊。
 道路をゆくのも羊が優先、彼らが道を渡り始めたら、車は止まって通過を待つ。モコモコの羊が次から次へと渡ってゆくのを、モコモコの群れが通り過ぎるのを。
「そんなに大きな群れなんだ…。ちょっと想像がつかないけれど」
 道路をいつまでも塞いでいるほど、次々に羊が出てくるなんて。きっと目の前、真っ白だよね。
 無理に車で通ろうとしたら、羊の海に捕まっちゃうかな…?
 前も後ろも羊だらけで…、と尋ねてみたら、「そうらしいぞ?」と笑うハーレイ。無理やり車を進めたら最後、本当に羊の海の中。前も後ろも、横も羊で埋まってしまって。
「車なんかは岩くらいにしか見えていないんだろうな。避けて通ればいいだろう、と」
 そして本当に巻き込まれるわけで、身動き出来なくなっちまうのが車と中の人間様だ。出たいと思ってドアを開けようにも、次から次へと羊がやって来るんだから。
 群れているのが好きだからこそ、そうなるんだろうな。邪魔な車が道路にあっても、先に行った仲間と一緒に行きたいもんだから。…ちょっと止まって待とうとは思わないわけだ。
 そういや、マザー牧場の羊か…。まさにそうだな、羊の群れは。
 大きな群れになればなるほど、マザー牧場って感じだよなあ…。上手いことを言う。
 きっと本物の羊の群れなんか知らなかっただろうに、とハーレイが感心している言葉。いったい何を指しているのか、誰が語った言葉なのか。
「なに、それ?」
 マザー牧場の羊っていうのは何なの、何処の牧場?
 ぼくは聞いたこともないけれど…、と首を傾げたマザー牧場という名前。其処の羊は、他の羊と違うのだろうか。群れているなら、その性質は普通の羊と同じに思えるのだけれど。
「知らないか? マザー牧場の羊って言葉」
 シロエさ、前の俺たちと同じ時代に生きてたセキ・レイ・シロエ。
 あのシロエがそう言ったんだ。
 E-1077にいた他の候補生たちのことを、マザー牧場の羊だとな。



 初めて耳にした言葉。「マザー牧場の羊」と口にしたのがシロエだったら、マザーが何かは直ぐ分かる。シロエが嫌ったマザー・イライザのことだろうと。
「…それ、有名な言葉なの?」
 マザー牧場の羊って…。マザーはマザー・イライザなんでしょ、候補生たちが羊なんだ…?
 群れだったの、と訊いてみた。ステーションでは個室で暮らしていた筈なのに、群れを作るのが不思議だから。どうやって群れになっていたのか、謎だから。
「本物の群れってわけじゃない。シロエが皮肉を言っていただけだ」
 羊の群れみたいに、マザー・イライザに飼い慣らされて従ってる、と。大人しく言われた通りにして。群れからはぐれようともせずに。
 …シロエが本物の羊の群れだの、性質だのを知っていたとは思えんが…。
 それにしたって、上手い具合に言い当てたよな、と思わんか?
 羊は群れから離れちまったら、ストレスでパニックになっちまう生き物なんだから。他の仲間と違う生き方は出来やしないのが普通の羊だ。…逃げ出して森で暮らす羊は別にして。
 マザー牧場の羊、シロエを調べりゃ、必ず出会うってほどに有名な言葉になってるんだが…。
 その調子だと、お前は調べちゃいないんだな、と尋ねられたから頷いた。
「だって…。前のぼく、シロエを捕まえ損なったから…」
 シロエの船をキースが撃ち落とした時に、シロエの思念がシャングリラを通り過ぎたんでしょ?
 前のぼく、それに気付いてたのに…。「誰かの声だ」って。
 だけどシロエだと思っていなくて、捕まえようともしなかったから…。シロエが最期に紡いでた思い、ぼくは受け止め損なったんだよ。
 シロエは誰かに思いを届けたかったのに…。受け止めていたら、色々なことが変わったのに。
 だから調べていないんだよ、と俯いた。
 セキ・レイ・シロエという名の少年のことは、未だに調べられないまま。歴史の授業で教わったことと、今のハーレイから聞いたことが全て。
 彼の存在を考えただけで悲しくなるから、調べようという気持ちになれない。
 今のハーレイが教えてくれた、マヌカの蜂蜜を入れたシロエ風のホットミルクを、風邪の予防に何度も飲んでいたって。
 シロエが好んだ母の手作りのブラウニーのことを、新聞で読んだお菓子の記事で知ったって。



 調べていないことは知りようがない。「マザー牧場の羊」という言葉。シロエが皮肉たっぷりに評した、候補生たちの姿は薄々分かるけれども。…前の自分は同じ時代に生きていたから。
「なるほどな…。シロエのことは調べていないから知らない、と」
 チビのお前なら、まだ知らなくてもいいだろう。…歴史の授業にも出てこないから。
 マザー牧場の羊ってトコまで教えていたなら、歴史の時間が幾つあっても足りないからな。
 今のお前は、丁度シロエと同じような年頃になるんだが…。マザー牧場の羊と言ってた頃の。
 キースと出会って直ぐの頃に言ったらしいから、というハーレイの指摘で気が付いた。キースと出会った頃のシロエなら、今の自分と変わらない。十四歳にしかならない子供。
 あの時代なら、十四歳は大人の入口だけれど。…成人検査で、養父母とも別れた後だけれども。
「そういえば、そうだね。…今のぼくって、その時のシロエと同い年だね…」
 ぼくはあんなに強くないけど…。シロエみたいに、独りぼっちで生きられないけど。
 群れから離れた羊なんて…、とシロエが駆け抜けた短い生涯を思うと胸が締め付けられるよう。他の候補生たちを「マザー牧場の羊」と詰ったシロエは、群れを離れた羊だったのだろう。
 羊は仲間と群れていないと、生きてゆくのも難しいのに。パニックに陥るほどなのに。
 けれどシロエは群れを離れて、独りぼっちで生きて死んでいった。まるで牧場から逃げた、森で暮らしている羊のように。誰も毛刈りをしてくれないのに、一頭で強く生き抜く羊。
 そのまま一頭で暮らしていたなら、いつか命の灯が消えるのに。刈って貰えない重たい毛皮が、自分の命を奪い去るのに。
「あの頃とは時代が違うだろ? 前のお前は強かったじゃないか」
 ずいぶんと時が流れた今になっても、ソルジャー・ブルーと言えば大英雄だ。メギドを沈めて、ミュウの未来を拓いた英雄。
 シロエなんかに負けちゃいないさ、前のお前も。…いや、シロエよりも遥かに強かった。お前と同じ時代に生きてた、前の俺がそいつを保証してやる。
 時代が違うのは分かる筈だぞ、今のお前は羊の毛刈りに行きたいと言い出すチビの子供だ。羊に夢を見られる時代と、飼うことも出来なかった船で暮らした時代じゃ、まるで違うというもんだ。
 マザー牧場の羊も今ではいないしな、と言われたけれど。本当に今は一頭もいないけれども。
「そうなんだけど…」
 いいのかな、羊に夢を見ちゃって…。毛刈りに行きたい、なんて思って、はしゃいじゃって…。



 同じ羊でもシロエだと…、と悲しい気持ちに包まれる。シロエはどんな思いでマザー牧場の羊と言ったか、羊の群れをどれほど嫌っていたことか、と。
「こらこら、しょげているんじゃない。マザー牧場の羊なんかは、もういないんだ」
 お前は今を生きているんだから、遠慮しないで羊の夢を追い掛ければいいと思うがな?
 青い地球まで来たんだろうが、とハーレイにポンと叩かれた頭。「此処は地球だぞ?」と。
「でも…。シロエも地球に行きたかったのに…」
 自由になって地球に行くんだ、って思いながら死んだ筈なのに…。独りぼっちで…。
 マザー牧場から逃げ出したせいで殺されちゃった、とシロエの悲しい思念波のことを思い出す。深い眠りの底にいてさえ、感じた切ないまでの憧れと想い。地球に向けての。
「昔のことに捕まるんじゃない。シロエの思念を捉えていたのは、前のお前だ」
 此処にいるのは今のお前で、前のお前とは別のお前で…。俺と一緒に羊の毛刈りに行くんだろ?
 結婚したら、俺の車で羊の毛刈りをさせて貰える牧場へ。刈った毛をお土産に貰える所に。
 それに他の地域にも旅をするなら、デカイ羊の群れにも何処かで出会えそうだぞ。
 まだ通り過ぎてくれないな、と待たなきゃいけない羊の群れ。次から次へと道路に出て来て。
 同じ羊なら、そっちの方の夢を見てくれ。前のお前が生きてた時代の、マザー牧場の羊なんかを気にしていないで。…今の時代の、幸せな羊の夢を沢山。
「…いいのかな、それで…?」
 ぼくだけ地球に来ちゃったのに、と拭えない胸の罪悪感。シロエの地球への強い想いに、確かに触れた前の自分。「ぼくは自由だ」と叫んで、飛び去ったシロエ。…暗い宇宙に。
「気にしちゃ駄目だと言っているだろう。あれからどれだけの時が経ったと思ってるんだ?」
 シロエだって、きっと地球まで来ているさ。前も言ったろ、もう人間に生まれただろうと。
 羊の毛刈りも体験済みかもしれないぞ。俺たちよりも、一足お先に。
 何処かの牧場に出掛けて行って…、とハーレイが話してくれるシロエの姿。憧れていた地球に、人間の姿で生まれたシロエ。もしかしたら、とっくに牧場にも行って。
「そうだといいな、今度は本物の羊。…マザー牧場の羊じゃなくて」
 本物の羊にちゃんと会えたら、シロエも羊を大好きになってくれるよね。嫌わないで。
 モコモコの羊はうんと可愛くて、毛だってフカフカなんだから…。
 ぼくだって毛刈りに行きたくなるほど、羊のいる牧場、うんと素敵な場所なんだから…。



 夢が一杯の牧場なんだよ、と本物の牧場に描いた夢。マザー牧場の羊ではなくて、大きな群れになっているモコモコの羊。この地域のだと、大きいと言っても群れの羊は少なめだけれど。
 シロエも羊を好きになっていてくれるといいな、と勢い込んだら、ハーレイが返して来た言葉。
「それなんだがな…。上手く毛刈りが出来たら、じゃないか?」
 失敗してたら羊が嫌いになるかもしれん、というハーレイの読みに、二人で声を上げて笑った。羊の毛を上手く刈れなくて怒る、シロエの姿を想像して。
 「羊なんか、大っ嫌いだ!」とプンプン怒って当たり散らしている、毛刈りに失敗したシロエ。足元には塊になった毛がコロコロ幾つも転がっていて、あちこちが禿げた羊が一頭。
「ふふっ…。きっとシロエは、まだ子供だね」
 お父さんと一緒に挑戦したけど、上手く刈れずにカンカンだとか。
「そうだな、ジョミーが出会った頃みたいな、小さなシロエなんだろう」
 失敗したことを、いつまでも忘れずに覚えてるんだぞ。成人検査はもう無いから。羊は嫌いだと思い続けて大きくなるのか、いつか復讐を果たそうとするか…。
 シロエのことだし、負けん気だけは強そうだから…。きっと復讐に行くんだろうなあ、羊たちのいる牧場まで。「今度は負けない」と、大きくなったら。
 なんと言っても、あのシロエだから…、と言われれば目に浮かぶよう。羊に敵愾心を燃やして、再挑戦に出掛けてゆくシロエが。歴史の教科書でお馴染みのシロエの姿だけれど。
「それじゃ、育ったら牧場に勤めて毛刈りのプロになるのかな?」
 誰よりも上手く毛を刈れるような名人になって、プロの中のプロ。逃げ出しちゃって、毛の塊になってしまった羊の毛だって、上手に刈ってしまえるような…。
「どうなんだろうなあ、相手はシロエだからなあ…」
 羊を捕まえてはブスブス注射していく獣医かもな、というハーレイの想像も面白い。今の時代は誰もがミュウだし、あの姿のシロエが白衣の獣医になっていたって可笑しくない世界。
 「こらっ!」と、「逃げるな!」と羊に叫んで、端から注射してゆくシロエ。幼かった頃に毛を刈ろうとして失敗したから、その復讐に。
 「ぼくは羊に負けないんだから」と、「全部まとめて注射してやる!」と。
 きっと羊は逃げ回るのだろう、白衣のシロエを目にしたら。注射嫌いの今の自分と同じで、羊も痛い注射は苦手で嫌だろうから。



 もしもシロエが地球に来ていたなら、本物の羊に会ったなら。モコモコの群れに出会ったら。
 今度は好きになっていて欲しい、羊たちが作る大きな群れを。
 マザー牧場の羊ではない、本当に本物の羊たち。毛刈りに出掛けて失敗したって、復讐のために戦って欲しい。毛刈りのプロを目指してもいいし、白衣の獣医になるのもいい。
 今の自分も、今度は羊の夢を追うから。
 白いシャングリラでは飼えなかった羊に会いに出掛けて、ハーレイと毛を刈るのだから。
 平和な時代は、本物の羊のモコモコの群れに出会える時代。
 シロエも自分もフワフワの羊の毛を刈るためにと、ハサミで挑戦できるのだから…。



              羊の夢・了


※シャングリラでは飼えなかった動物が羊。その性質のせいですけど、マザー牧場の羊。
 そう言ったシロエは、羊の性質を知っていたかどうか。そのシロエも、きっと今は幸せな筈。
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(ふかふかでフワフワ…)
 それに真っ白、とブルーが眺めた空の雲。部屋の窓から、ガラス越しに。
 学校から帰って、おやつを食べて戻った二階の自分の部屋。ふと目をやったら見付けた雲たち。青空に幾つも浮かぶ雲。ふんわり白くて、ゆっくりゆっくり流れてゆく。
(柔らかそう…)
 見上げたら、まるで雲の絨毯。こんもりと盛り上がった雲なら、雲の峰になる。天国はきっと、ああいう世界なのだろう。雲間から光が射している時は、天使が顔を覗かせるとも聞いたから。
 天使の梯子と呼ばれる現象、前にハーレイが教えてくれた。天使が昇り降りする梯子なのだと。昇り降りする天使の他にも、雲の縁から下を覗いている天使たち。ヒョイと顔を出して。
 それが天国の光景だったら、天国は雲の上にある。水蒸気で出来た雲だけれども、それとは別にある世界。前の自分が雲の上を飛んでも、天国は見えなかったから。
 生きた人間の目には見えない、魂たちが行く世界。何人もの天使が行き交う天国。もしも天国に行ったなら…。
(雲の上で暮らして、足元はフカフカ…)
 足がちょっぴり沈み込むような、真っ白な雲で出来ている世界。何処まで行っても雲の世界で、聳える山も雲なのだろう。前の自分が見下ろしたような、雲の峰が幾つも並んでいて。
 天国が雲の世界だったら、食べ物だって雲かもしれない。青空にぽっかり浮かんだ雲は、綿菓子みたいに見えるから。細い細い糸の砂糖菓子。甘くて幸せな味の綿菓子。
(毟って食べたら、美味しいとか?)
 甘いだけじゃなくて、と考えた。いくら天国でも、綿菓子ばかりの食事だと飽きてしまいそう。この世界にある綿菓子よりも、ずっと美味しい綿菓子でも。
 そうならないよう、色々な味になってくれる雲。なにしろ天国なのだから。
 甘いお菓子でも、オムレツにでも、どんな味にでもなれる雲。今、食べたいな、と思う味に。
(そうなのかもね?)
 天国だもの、と空に浮かぶ雲に思いを馳せる。水蒸気の塊の雲とは違った、天国の雲。此処から見える雲の上にある、本物の天国にあるだろう雲。
 その雲を千切って口に入れたら、欲しい味。食べたいと思う食べ物の味になるだとか、と。
 見た目は雲の塊でも。ふうわりと白い綿菓子でも。



 味だけ変身するのかもね、と広がる想像。天国の雲は色々な味がするのかも、と。
 雲の絨毯を毟って食べたら、食べたい味が口に広がる。食事の後には、雲のデザートだって。
(その方が神様だって、きっと楽だよ)
 天国には大勢の人が来るから、その人たちの数だけ色々な食べ物を用意するより、雲だけの方が省ける手間。「此処では雲を食べるように」と言いさえしたなら、それで済むから。
 天使たちがせっせと料理するより、誰もが好きに雲を千切って、食べたい料理を楽しめばいい。その日の気分で軽い食事や、うんと沢山の品数が並ぶ豪華なコース料理や。
(天国のレストランもいいけど…)
 あったら素敵だと思うけれども、きっと用意が大変だろう。テーブルや椅子は揃うとしたって、其処で供する料理が問題。大勢のお客の注文に応えて、あれこれと出してゆく料理。
 SD体制の頃ならともかく、今の時代や、SD体制に入るよりも前の豊かな地球の時代なら…。
(お料理、沢山…)
 地球が生み出した文化の数だけある料理。和食だけでも凄い数だし、他の文化の料理も山ほど。その上、料理人たちの工夫もあるから、数え切れないバリエーション。
 お客が「これを」と注文する料理、それを端から作るためにと、てんてこ舞いの天使たち。白い翼を背中に背負って、キッチンの中を右へ左へ。
 天使もエプロンを着けるのだろうか、シェフたちが被る帽子なんかも。料理をするなら、それに相応しい格好でないと、白い衣が汚れそう。輝くような天使の衣が。
(それとも、自分でお料理できるの?)
 天国のレストランで出てくる料理は、広く知られた料理だけかもしれない。SD体制が終わった今でも、効率の方を優先で。天使たちが無理なく作れる範囲で、定番のメニュー。
 他の料理が食べたいのならば、キッチンを借りて、好みの料理を自分で作る。材料などを揃えて貰って、「今日はこれだ」と食べたい料理を。
(それもなんだか大変そう…)
 作るのは天国の住人たちなのだけれど、食材を揃えに行く天使。それぞれの所に必要なものを。
 キッチンを借りる人に合わせて、あちらこちらに届けて回る。「此処にはこれ」と。
 調理器具だって、きっと山ほど要ることだろう。お鍋の種類もいくらでもあるし、混ぜるための道具も実に様々。何処にあるかと訊かれる度に、天使が「どうぞ」と出したりもして。



 なんとも大変、と改めて思った天国の食事。食べたい料理も食べられないなら、それは天国とは呼べないから。「こんな所は嫌だ」と思う人が大勢、出て来そうだから。
 誰もが幸せに暮らせる天国、食事も工夫されていた筈。誰でも満足できるようにと。
 ならば、天国の食事はどういうものだったろう。やって来た人が飽きない料理で、喜ばれる味を出していた筈の天国の食事というものは…?
(うーん…)
 確かに食べた筈なんだけど、と記憶の奥を探ってみる。何か手掛かりは無いだろうか、と。青い地球の上に生まれる前には、天国で食事をしただろうから。
 新しい命と身体を貰って生まれ変わる前には、きっと何度も食事していた筈なのに…。
(…思い出せない…)
 何を食べたか、何処で食事をしていたか。フカフカの雲の絨毯の上で暮らしていた頃。
 レストランに行ったか、雲を千切って食べていたのか、それとも料理をして食べたのか。何度も食べた筈だというのに、記憶の欠片も残っていない。美味しかったとも、不味かったとも。
(好き嫌いが無いのが悪かった…?)
 弱い身体に生まれた割には、何でも食べられる今の自分。好き嫌いなどは言わないで。
 前の自分もそうだった。アルタミラの檻で過ごした頃には、食べ物と言ったら餌と水だけ。檻に突っ込まれたそれを黙々と食べて、命を繋いでいたというだけ。希望の光も見えないままで。
 脱出した後も、贅沢を言えはしなかった食事。出された食事がどんな物でも、食べられなければ無くなる食べ物。パンと水しか。
 そういう暮らしが長かったせいで、好き嫌いなど無かった自分。今の自分にも継がれるほどに。
 前の自分はそうだったから、何が出たって食べただろうし、「これは嫌」とも思わないから…。
(覚えるような食べ物、無かった…?)
 天国という所には。生まれ変わっても覚えているほど、印象に残る食べ物などは。
 我儘を言っていなかったせいで、キッチンも借りずに終わっただとか。日々の食事に満足して。
(そうだったのかも…)
 こうして記憶を探ってみたって、まるで覚えていないなら。欠片さえも思い出せないのなら。
 ハーレイと一緒に、何度も食べていた筈なのに。
 青い地球の上に生まれられる日を待っている間に、何度も何度も食べただろうに…。



 ハーレイと二人で食べていたなら、毎日がデートのようなもの。前の自分たちが青の間で食べた朝食みたいに、ハーレイと二人きりのテーブルではなかったとしても。
 他にお客がいたとしたって、デートはデート。天国のレストランに行くというだけ、今の自分の憧れのデートと変わらない。「ハーレイと食事に行きたいな」と描いている夢。
 二人で雲を食べていたなら、二人きり。キッチンを借りていたのだったら、二人きりであれこれ楽しめた筈。作る時から二人なのだし、出来上がった料理を食べる時にも。
 そうは思っても、ハーレイと食べた食事のこと。天国で何を食べていたのか。
(…ハーレイだって、覚えていないよね?)
 好き嫌いが無いという点については、ハーレイも全く同じだから。前の生でも無かったのだし、今のハーレイも変わらない。二人揃って好き嫌いが無いから、それを探す旅を約束したほど。
(結婚したら、好き嫌い探しの旅に行こう、って…)
 色々な場所へ、其処の名物料理を食べに。沢山の食べ物がある今だったら、「これは駄目だ」と思う何かや、「また食べたい」と気に入る何かが、何処かで見付かりそうだから。
 そんな約束を交わすほどだし、ハーレイだって忘れていそうな天国の食事。好きな料理も苦手な料理も無かったのなら、印象に残らないままで。
 それとも欠片くらいは覚えているのだろうか、雲を食べたとか、レストランだったとか。ほんの微かな記憶だったら、ハーレイの中に今もあるのだろうか…?
 訊いてみたいな、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。気になって仕方ないことを。
「あのね、ハーレイ…。天国の食事を覚えてる?」
 どんなお料理を食べていたのか、ハーレイだったら分かるかなあ、って…。
「はあ? 天国の食事って…」
 何の話だ、そんなものを何処で食べるというんだ。地獄みたいな食事だったら覚えてるがな。
 アルタミラで食ってた餌と水だ、と眉間に皺を寄せたハーレイ。「あれは地獄の飯だった」と。
「それの後だよ、アルタミラよりもずっと後の話」
 前のぼくたちには違いないけど、死んじゃった後。…ハーレイも、ぼくも。
 此処に来る前の話だってば、今の地球にね。



 生まれ変わる前は天国にいたと思うんだけど、と続けた話。きっといただろう、雲の上の世界。
「ぼくもハーレイも、天国で何か食べた筈だと思うんだけど…」
 何も食べていないとは思えないしね、食事も出来ない世界なんてつまらなさそうだから。
 天国があるのは雲の上でしょ、此処から見える本物の雲の上じゃないけど…。雲の上を飛んでた前のぼくだって、天国を見てはいないから。
 でも天国は雲の上にあるものだから…。いったい何を食べていたのか、気になっちゃって。
 雲を千切って食べていたとか、レストランがあったとか、自分でお料理してたとか。
 ハーレイは何か覚えていないの、天国で食べた食事のことを…?
 ほんのちょっぴりでいいんだけれど、と期待した恋人の返事。何かヒントがありはしないかと。綿菓子を見た覚えがあるとか、雲の欠片を千切っただとか。
 けれど…。
「おいおい、俺が覚えていると思うのか?」
 覚えていたなら、とっくの昔に話しているぞ。「これは天国でも食ってたよな」と、思い出話。
 何かのはずみに思い出したら、そいつを土産に持って来たりして。「懐かしいだろ?」と。
 生まれ変わってくる前のことは、お前と一緒だっただろうっていうことくらいしか分からない。
 それだって記憶は全く無いしな、何処にいたのかも謎だと何度も言っただろうが。
 お前と暮らした思い出さえも無い有様だぞ、食事なんかは覚えていない。何を食ったか、お前と二人で食っていたのかも。
 覚えているかと訊かれても無理だ、とハーレイの方もお手上げだった。天国で何を食べたかは。
「やっぱり無理…?」
 ハーレイも覚えていないんだ…。天国にも食事はあった筈だと思うのに…。
 雲を千切って食べていたとか、天使がやってるレストランに食べに行ったとか。
 綿菓子みたいに見える雲だけど、いろんな味になりそうな気がしてこない?
 これが食べたい、って思って食べたら、思った通りの味になる雲。それが一番良さそうだよ。
 今はお料理、うんと沢山ある時代だから…。
 大勢の人が自分の好みで注文したなら、天使も大忙しだもの。あれを作って、次はこれ、って。
 そうなるよりかは、好きな味になってくれる雲が良さそう。
 でなきゃ自分でキッチンを借りて、好きな料理を作るだとかね。



 どういう仕組みになっていたのか知りたくなるでしょ、と眺めた雲。「ちょっと残念」と。
 あの雲の上で二人で暮らした筈なのに、と。
「いつもハーレイと一緒なんだよ、食事も一緒。…デートみたいに」
 レストランに行くならホントにデートで、二人で雲を食べていたって、やっぱりデート。
 キッチンを借りてお料理するのも、二人なら素敵だったのに…。忘れてしまって覚えてないよ。
 ハーレイと食べた天国の食事、と零れた溜息。二人で食べた筈なのだから。
「そうなんだろうな、きっとお前と一緒に食べていたんだろうが…」
 レストランに出掛けて行くにしたって、雲を千切って頬張ってたって。…俺の隣にはお前だな。
 しかしだ、食事の話をするなら、お前の方が先輩なんだぞ。俺よりも、ずっと。
 天国暮らしというヤツが…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「お前の方が馴染み深いんだ」と。覚えているなら、俺よりもお前の方だろう、と。
「なんで?」
 どうしてハーレイの先輩になるわけ、ぼくの方が?
 ちっとも思い出せないぼくが…、と首を捻った天国の食事。それに暮らしも、先輩なんて、と。
「お前なあ…。今じゃお前がチビなわけでだ、俺よりも後に生まれて来たが…」
 天国の方はそうじゃないだろ、俺よりも先に行ってたろうが。…俺を一人で残してな。
 シャングリラに置いて行っちまったぞ、と持ち出された前のハーレイとの別れ。一人でメギドに飛んでしまって、ハーレイを残して行ったのが自分。ジョミーを支えてやってくれ、と告げて。
「そうだっけ…。ぼくの方が先だね、天国へ行ってしまったのは」
 ハーレイよりも早く着いてしまったんなら、ぼくが先輩…。早く天国に着いた分だけ。
「分かったか? お前は俺の大先輩ってことになるんだ、天国では」
 一足お先に着いてるんなら、天国のことにも詳しいだろう。もちろん、天国の食事にだって。
 お前も食事をしただろうしな、俺が後から着くよりも前に。
 雲を千切って食っていたなら、それが美味いと知っているわけで…。
 天使がレストランをやっていたなら、色々な料理を食ってた筈だ。時間は充分あったんだから。
 俺が遅れて着いた時には、お勧めの料理を色々と教えてくれそうだがな?
 これが一番美味い料理だとか、とても人気の高い料理はこれだとか。



 天国の食事に詳しそうだぞ、と言われてみれば、その通り。ハーレイよりも先に着いたなら。
 メギドで命を失くした後には、空に浮かんだ雲の上の世界にいたのなら。
(ぼくが天国に行ってたんなら…)
 天国という世界にいたのだったら、するべきことがあった筈。ハーレイを待っている間に。雲の上の世界で、一人で何度も食事をしたなら、そういう日々を過ごす間に…。
(ハーレイが喜びそうな食べ物…)
 それを探して待ったのだろう。雲の下の世界に置いてきてしまった恋人のために。
 天国に行けば、もう戦いなど無い世界。身体も衰弱してはいないし、何処へでも好きに出掛けてゆける。雲の絨毯の上を歩いて、雲の峰だって自分の足で登って越えて。
(空を飛べるの、天使だけかもしれないものね?)
 背に翼を持つ神の使いが飛ぶ世界では、人間は飛べないかもしれない。生きていた頃には楽々と飛べた、白い雲の上や雲の峰の上を。
 タイプ・ブルーのミュウだとはいえ、天国に行けば「ただの人間」。神様や天使の方が偉いし、翼を持たない人間は歩くだけだとか。
 それが天国でも、ガッカリはしない。戦いが無ければそれで充分、弱っていた身体が元気だった頃と同じになったら、もう最高に素晴らしい気分。「なんて素敵な世界だろう」と。
(…ハーレイにも教えたくなるよ…)
 ぼくはこんなに幸せだから、と手紙を書いて。雲の上から白いシャングリラに向かって投げて。
 けれど手紙は届けられないし、思念波だって届かない。ハーレイがいる世界と雲の上の世界は、全く違うものだから。雲の下に白い鯨が見えても、別の世界を飛んでいる船だから。
(ぼくの幸せ、ハーレイには分けてあげられないし…)
 それが無理なら、いつかハーレイが来た時のために、天国ならではの美味しい食べ物。あれこれ調べて知っておきたい、ハーレイが喜びそうなもの。
(ぼくはお酒もコーヒーも駄目で…)
 ハーレイには付き合えなかったけれども、それも探してみたのだろう。
 雲の絨毯の上をせっせと歩いて、雲の峰を幾つも越えていって。空を飛ぶ力は持たなくても。
 天国で空を自由に飛んでゆけるのは、翼を持った天使に限られていても。



 自分の二本の足で歩くしかない、雲の上の世界。空を飛んではゆけない天国。飛べたらどんなに楽だろうかと思ったとしても、歩いて探し回っただろう。ハーレイが喜ぶ食べ物を。
 まるで飲めないコーヒーやお酒も、頑張って色々と情報集め。コーヒー好きな人を見付けて話を聞いたり、お酒が好きな人たちに質問してみたり。「どれが一番美味しいですか?」と。
 皆の意見が分かれていたなら、苦手だけれども、ちょっぴり味見。
 雲を千切ったお酒だったら、それが大好きな人が千切ったのを分けて貰って。「こんな味か」と舌で覚えて、次は自分で千切れるように。…同じ味になってくれるよう。
(それなら、ちゃんとハーレイに…)
 「美味しいんだよ」と差し出せるだろう。色々な味がする、お酒の雲を。
 ブランデーもラムも、ウイスキーだって。白いシャングリラには無かった本物、合成品ではない様々なお酒。「こういう味のもあるんだって」と雲を千切って、何種類でも。
 お酒を飲ませる店があるなら、やっぱり出掛けて自分で味見。好きな人たちのお勧めを。
 飲んだ次の日は頭が痛くてフラフラだろうが、かまわない。胸やけがして寝込んでしまっても。
 いつか出会えるだろうハーレイ、恋人のための下見だから。頑張って味見をした結果だから。
(コーヒーだって、負けないんだから…)
 今の自分も同じに苦手な、あの苦味。砂糖とミルクをたっぷり入れても、まだ駄目な苦さ。
 それでも負けずに味見しただろう、コーヒー好きな天国の住人たちが勧めるものを。コーヒーの味がする雲だったら、その雲を。喫茶店にあるなら、カップに入ったコーヒーを。
(白い鯨になった後には、本物のコーヒー、無くなっちゃって…)
 代用品のコーヒーだけしか無かった船。チョコレートの代用品が作れるイナゴ豆がそれで、今の時代は健康食品。前にハーレイが持ってきてくれた。「懐かしいだろう?」と。
 白いシャングリラには無かった本物、お酒も、それにコーヒーも。
 どちらもハーレイが好きだったもので、前の自分は苦手な飲み物。「何処が美味しいんだい?」などと何度も苦情を言ったけれども、ハーレイのためなら頑張れた。雲の上での本物探しを。
(うんと美味しい、コーヒーとお酒…)
 それを求めて、広い天国を歩き回ったことだろう。雲の絨毯が何処までも広がる平原も。聳える雲の峰を登って、そのまた向こうに住んでいる人に会いに出掛けることだって。
 空を飛んではゆけなくても。空を飛ぶのは天使たちだけで、歩くより他に道は無くても。



 どんなに沢山歩いたとしても、きっと天国なら疲れない。もう衰弱した身体ではないし、誰もが元気でいそうな場所。お酒を飲んだら二日酔いでも、コーヒーが舌に苦くても。
(好きな人たちなら、そんなことにはならないんだから…)
 二日酔いをする自分の身体が不向きなだけで、コーヒーの苦みも好みの問題。それと身体の疲労とは別、何処までだって歩いてゆける。ハーレイの好きなものを探しに。
 コーヒーもお酒も頑張って探すし、もちろん他の食べ物だって。
 美味しいと評判の料理があるなら、必ず食べに出掛けてゆく。自分の舌で確かめに。ハーレイが喜びそうな料理か、目でもきちんと確認して。
 好き嫌いが無いハーレイだけれど、美味しいものは「美味しい」と分かる舌の持ち主。その舌を喜ばせるだろう食べ物、それを幾つも見付けなければ。…ハーレイのために。
(先に天国に行ったんだったら、やらないわけがないもんね?)
 雲の上にある天国から下を覗いたら見える、苦労している前のハーレイ。
 白いシャングリラのキャプテンとして、毅然とブリッジに立っている姿。舵を握っている姿も。
 前の自分がいなくなった後は、独りぼっちで船に残されて。それでも懸命に地球を目指して。
(…前のぼくが頼んじゃったから…)
 ジョミーを支えてやってくれ、とハーレイにだけ伝えた思念。メギドに向かって飛び去る前に。
 それが無ければ、ハーレイは追って来たのだろうに。
 小型艇でメギドまで飛んで来るとか、何度も誓ってくれた通りに薬で命を断っていたとか。
 けれど「駄目だ」とハーレイを縛った、前の自分が遺した言葉。生きてジョミーを支え続けて、地球まで辿り着いてくれと。
(…ハーレイを独りぼっちにしたのは、前のぼくだし…)
 地球までの辛く長い道のり、それを歩ませたのも前の自分の言葉。
 恋人を失くして独りぼっちで、ハーレイは辛いだけなのに。誰にも言えない深い悲しみと辛さ、その淵に沈んでいたというのに。
 天国からは全てが見えるけれども、何も出来ないのが自分。
 「ぼくは幸せだよ」と伝える思念も短い手紙も、雲の上からは届けられない。
 ハーレイがどんなに苦しんでいても、前の自分を想って涙していても。
 白いシャングリラが飛んでいる場所と、天国は違う場所だから。けして重ならない世界だから。



 キャプテンの務めを黙々と果たし続けるハーレイ、独りぼっちで地球までの道を。大勢の仲間が船にいたって、癒えることのない悲しみの中で。
(でも、シャングリラが地球に着いたら…)
 ミュウの未来を手に入れたならば、ハーレイはきっと天国にやって来るだろう。後継者だって、とうの昔に決めていたから。…前の自分の寿命が尽きると知った時から、シドを騙して。
(主任操舵士で、いずれはキャプテン…)
 ハーレイの腕が鈍った時には交代を、という名目で選ばれたシド。船を纏めてゆくキャプテンは大任なのだし、早い内から仕事を覚えた方がいい、と。
 本当は、ハーレイが前の自分を追うために決めた後継者なのに。前の自分の命が尽きたら、後を追って死へと赴くために。
 キャプテンを継ぐシドがいるなら、地球でハーレイの役目は終わる。ミュウの時代をジョミーが掴み取ったなら。側で支える者がいなくても、ジョミーが自分の足で歩んでゆけるなら。
 その時が来たら、ハーレイは追って来てくれる筈。さりげなくシドに引継ぎを済ませて、部屋に隠していた薬を飲んで。…致死量を超える睡眠薬を。
 身体が永遠の眠りに就いたら、ハーレイの魂が天国に来る。雲の絨毯が広がる世界へ。
 長い年月、苦労をかけてしまったハーレイ。前の自分の我儘だけで。独りぼっちで船に残して。
 そのハーレイを労うためにも、きっと準備をしていただろう。前の自分は。
 天国でも評判の美味しいお酒や、コーヒー好きが挙って褒めるコーヒー。それを端から味見してみては、「この味だよね」と舌に覚えさせるとか、味わえる場所を覚えるだとか。
 此処で食事をするのがいいとか、これを是非、食べて欲しいとか。自分の目と舌で確かめて。
 ハーレイが来たらお酒にコーヒー、様々な料理でもてなそうと。
(…前のぼくは、お料理しなかったけど…)
 厨房出身だったハーレイは料理が得意なのだし、天国に来たら料理をするかもしれない。出来る環境があったなら。色々な食材が揃うのならば。
(キッチン、貸して貰えるんなら…)
 下見に行ったことだろう。自分は全く使えなくても、誰かが使っている時に。
 どんな所か、どういう料理を其処で作れる場所なのか。作った料理を食べるテーブル、其処には何人座れるのかと。キッチンを借りる手続きなんかも、天使たちに訊いておいたりして。



 考えるほどに、前の自分がやっていそうな天国の食事についての調査。
 雲を千切って食べる場所でも、レストランがあっても、キッチンを借りて作れる仕組みでも。
「…前のぼく、いっぱい調べていそう…」
 ハーレイが来たら食べて欲しくて、いろんなお料理。それにお酒やコーヒーとかも…。
 自給自足の船になったら、お酒もコーヒーも本物は無くなっちゃったから…。
 「お疲れ様」って御馳走したくて、飲めないお酒も頑張ったかも…。苦いコーヒーも、いろんな人から話を聞いたり、教えて貰って飲んだりして。
 きっと山ほど調べていたよ、と天国での自分の行動を思う。雲の絨毯の上を歩き回って、聳える雲の峰だって越えて行っただろう。空を飛べないなら、自分の足で。
「天国じゃ空を飛べないってか? それはそうかもしれないなあ…」
 翼を持ってる天使がいるなら、人間は歩くだけかもしれん。前のお前でも、飛べはしなくて。
 それでも歩いて下調べをしたと言うんだったら、お前は間違いなく大先輩だ。天国でのな。
 天国の料理がどんな風かは、俺よりもお前が詳しそうだが…。大先輩な上に、下調べだから。
 なのに覚えていないのか、とハーレイにジロジロ見られた顔。「忘れたってか?」と。
「…仕方ないじゃない、本当に覚えていないんだから…。雲を食べたかどうかもね」
 だけど料理はハーレイの方が得意なんだよ、前のぼくよりも。
 天国のキッチンを借りていたなら、その辺のことを覚えていないの…?
 何かを刻んでいた記憶だとか、煮込んでたとか…、と尋ねた料理の手順。下ごしらえからやっていそうだし、ハーレイが思い出さないかと。
「それを言うなら、天国で俺が料理をしたのは、当然、お前のためでだな…」
 俺が食いたくて料理するよりは、お前のための料理だ、うん。これが美味い、と評判を聞いて。
 そうやって作ってやった料理を忘れたとなると、それも薄情な話だよな?
 俺は頑張っていたんだろうに。…美味い料理を食って欲しくて、レシピを集めて。
 何年天国で暮らしていたんだ、俺とお前は。何度料理を作ったんだか、天国の俺は。
 お前のためにとキッチンを借りて…、とハーレイが言う長い歳月。地球に生まれるまでの時間。
「…慣れ過ぎちゃって、忘れちゃったとか?」
 ハーレイが作ってくれる料理が、当たり前のことになってしまって。
 何度も何度も食べていたなら、慣れてしまうと思わない…?



 とても素敵なお料理でもね、と考えたこと。「忘れちゃうかも」と。
 死の星だった地球が青く蘇るくらいに長い時が流れ去ってゆく間、来る日も来る日もハーレイの料理。「二人で食べに出掛けてゆくより、二人きりの食事がいいだろう?」と。
 毎日のようにキッチンを借りて、作って貰える色々な料理。ハーレイが腕を振るい続けて。
 出会って直ぐには感激の涙を流したとしても、厨房時代の姿を思い出したとしても…。
 それが普通になってしまったなら、日常のことになったなら。
「…前のぼく、ハーレイのお料理のことを、忘れちゃうかもしれないよ?」
 ハーレイが朝のパンから焼いてくれてて、色々なお料理をしてくれていても。…同じのは滅多に出ないくらいに、工夫を凝らしていてくれたって。
 だって、それが普通なんだもの。ハーレイがキッチンに立っているのも、お料理するのも。
 珍しかったら、ちゃんと覚えていそうだけれど…、と今の自分の考えを述べた。キッチンに立つ姿を殆ど見なかったならば、「そんなこともあった」と記憶に残るものだけれども。
「うーむ…。俺の料理が普通になってしまっていたってか?」
 そのせいで忘れちまったというわけなんだな、俺が料理をしていたんなら。…天国ってトコで。
 確かにそいつが日常となれば、そうなることもあるかもしれん。
 毎朝、お前を起こしてやっては、飯を食わせていたんなら。「出来てるぞ?」と肩を揺すって。
 お前が眠い目を擦りながら起きたら、二人で朝飯。俺が焼いたパンや、オムレツなんかで。
 もちろん昼飯も俺が作って、晩飯も俺が作っていた、と。キッチンを借りてたにしても。
 それが毎日続いていたなら、忘れちまっても仕方がないか…。お前には普通のことなんだから。
 俺が作った飯を食うのが、とハーレイがフウと零した溜息。「無理もないよな」と。
 どんなに素敵な日々が続いても、幸せ一杯の毎日にしても、日常だったら当たり前のこと。今の平和な時代にすっかり慣れているのと同じ。毎日感激したりはしないし、普通なのだから。
「ね、そうでしょ?」
 前のぼくが薄情だったんじゃなくて、幸せに慣れてしまってたから…。
 考えてみてよ、どれくらいの間、ハーレイが作ってくれた食事を食べていたのか。
 死の星だった地球が今では青い星だよ、前のぼくたちが生きた時代は歴史のずっと向こうで…。
 それだけの間、毎日、毎日、ハーレイが作った食事ばかりを食べてたら…。
 すっかり普通になってしまって、もう特別じゃないんだから。幸せなのが当たり前でね。



 それに天国にいたんだから、と窓の向こうを指差した。夕焼けの色に染まり始めた雲を。
 白くてふわふわだった綿菓子、今は何の味がするだろう。雲を千切って食べたなら。天国にいる人たちは誰でも、雲を千切って美味しく食べているというなら。
「あの雲の上が天国でしょ? 人間の目には見えないけどね」
 前のぼくにも見えなかったけれど、天国はあそこ。雲の上にある、とても素敵な所。前のぼくが天国に行った時にも、戦いなんかは無かった筈だよ。ミュウと人類とが戦っていても。
 前のぼくがハーレイに御馳走したくて、お酒やコーヒーのことを習った人たち。きっと人類で、ミュウじゃないよね。…ミュウは端から殺されてたから、詳しいわけがないんだもの。
 そんな時代でも平和だったのが天国なんだし、SD体制が終わった後には、もっと素敵な場所になったよ。うんと幸せに暮らせる場所に。
 其処でハーレイと二人だったら、それだけで幸せ一杯じゃない。食事のことは抜きにしたって。
 雲を千切って食べていたとしても、毎日、一緒なんだから…。
 もう離れずに済むんだものね、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「幸せが当たり前なんだよ?」と。
「ただでも幸せ一杯な上に、それが当たり前の食事だってことで、忘れるんだな?」
 俺が作った料理はもちろん、いろんな味に変わる不思議な雲を食べていたって。
 天国に着いて、初めて雲を食った時には驚いていても。…俺の方だって。
 お前に勧められて食ってビックリでもな、とハーレイも目をやった雲。「あれを食うのか」と、天国の食べ物の記憶を探るかのように。
「うん、ハーレイも忘れちゃったんだよ。毎日がとても幸せすぎて」
 それに幸せが当たり前すぎて、毎日の食事は、もっと当たり前で。毎日食べていたんだもの。
 前のぼくが「天国では雲を食べるんだよ」って教えた時には、凄くビックリしててもね。
 お酒の味がする雲を千切って、「美味しいよ」って渡したりしたら。
 食べるまで信じそうにないよね、とクスクス笑った。前の自分が悪酔いしながら、恋人のために舌で覚えたお酒の味。「こういう味の雲なんだよ」と味見だけして、懸命に。
 それをハーレイに渡したとしても、雲のお酒は見た目では分かって貰えそうにない、と。
「ありそうだよなあ…。俺まで忘れちまったってこと」
 極上の雲の酒を幾つも飲んでいたって、それが普通になっちまったら…。
 今日はこいつを飲むとするか、と雲を千切って飲んでいたなら、そいつが俺の日常だよなあ…。



 慣れてしまって忘れちまった可能性ってヤツは大いにあるな、とハーレイも納得の天国の食事。何度も二人で食べた筈なのに忘れてしまって、お互いに思い出せない理由。
 とても幸せだったのに。ハーレイが作っていたにしたって、雲を千切っていたにしたって。
「幸せに慣れて忘れちまうとは、なんとも残念な話だよなあ…」
 俺もお前も、間違いなく食っていたんだろうに。天国で食べられる食事ってヤツを。
 なのに欠片も出て来ないなんて、実にもったいない話だ。料理したにしても、雲を食ってても。
 …前の俺たちが生きてた間に食ってたものなら、いくらでも思い出せるのにな?
 ジャガイモ地獄やらキャベツ地獄やら、苦労続きだった時代の料理も、白い鯨の美味い料理も。
 アルタミラの狭い檻で食ってた、不味い餌まで今でも思い出せるんだが…。
 あのとんでもなく不味いヤツだ、とハーレイが顔を顰める餌。好き嫌いが無いハーレイさえも、アルタミラの餌だけは別だという。生まれ変わった今になっても。
 前にハーレイが出掛けたパン屋のレストラン部門、其処で開催されたイベント。シャングリラで生きた歴代のソルジャー、三人の食事を再現する企画。ソルジャー・ブルーの朝食になったのは、アルタミラで餌として食べたシリアル。そのシリアルは今も変わらず不味かったらしい。
「前のぼくが食べた食事だったら、ぼくだって思い出せるけど…。生きていた時の分ならね」
 美味しかった料理も、不味かった餌も、ちゃんと覚えているんだけれど…。
 きっと天国のは、とっても美味しかったんだよ。頬っぺたが落っこちそうになるほど。
 ハーレイが作ってくれた料理を食べてたにしても、雲を千切って食べてたにしても。
 本当にとても美味しい料理、と笑みを浮かべた。「美味しすぎて忘れちゃったかもね」と。
「おいおいおい…。とびきり美味い食事だったら、忘れそうにはないんだが?」
 いくら普通になっちまっていても、欠片くらいは覚えていそうだ。
 こんなに美味い料理があるのか、と感動したなら俺は忘れはしないと思うぞ。料理の名前や形は忘れてしまったとしても、美味かったことは記憶に残って。
 これでも料理人の端くれなんだ、とハーレイが自分の顔を指す。「俺は厨房出身だぞ?」と。
「普通だったら、そうだろうけど…。ぼくたちがいたのは天国だよ?」
 雲の上にあって、人間の目には見えない天国。…神様と天使がいるような所。
 とても素敵な場所なんだものね、同じくらいに美味しい料理は地球にも無いかもしれないよ?
 天国の食事に負けない料理。この味だよね、ってピンとくる味は。



 きっと地球にも無い味なんだよ、と話した天国の食事の美味しさ。ハーレイがキッチンを借りて作っていたとしたって、雲を千切って食べる不思議な食事にしたって。
 天国で食べた美味しい食事は、青い地球でさえも食べられない。天国だけでしか味わえなくて、もう一度それを食べたいのならば、天国に行くしかない食事。この世界の何処にも無い食事。
「本当にとっても美味しかったから、ハーレイにも思い出せないんだよ」
 前のぼくだって少しも思い出せなくて、お料理だったか雲だったのかも分からなくて。
 だって、最高に美味しいんだから。何処を探しても、生きてる間は出会えないのが天国の食事。天国に行って食べない限りは、その美味しさには会えない料理。
 それで神様が忘れさせちゃったってこともあるでしょ、ぼくとハーレイの記憶を消して。
 せっかく生まれ変わって来たのに、食べに帰りたくならないように。
 あれをもう一度食べてみたいよ、って帰りたい気持ちにならないように。…食事のせいで。
 ぼくたちは生まれ変わりだものね、と前の生からの記憶を思う。其処での食事は忘れないのに、消えてしまった天国で食事をしていた記憶。
 雲の絨毯の上の世界で、ハーレイと食べた筈なのに。まるでデートのようだったろうに。
「そういうことも無いとは言えんな、なにしろ相手は天国だから。…神様の国だ」
 機械がやってた記憶処理とはまるで違って、生きて行くのに困らないように記憶を消した、と。
 天国の美味い食事を恋しがっては、「早く帰りたい」と思わないように。
 この世の何処にも無い美味さならば、そう考えることもありそうだ。また食べたい、と。
 だが、天国の食事がどれほど美味いにしたって、お互い、地球に来たんだからな?
 前のお前の夢だった食事が出来る地球だぞ、ホットケーキの朝飯だって。
 地球の草で育った牛のバターと、本物のメープルシロップをつけて…、とハーレイが覚えていてくれた夢の朝食。前の自分が「いつか地球で」と夢を見ていたホットケーキの朝食。
「そう! それに砂糖カエデの森に出掛けて、キャンディーも作って食べなくちゃ」
 樹液を煮詰めてメープルシロップを作る季節に、雪の上で固めて作るキャンディー。
 それは絶対に食べに行きたいし、今のぼくの夢。砂糖カエデの森に行くこと。
 好き嫌い探しの旅も出来るね、ハーレイと。
 いろんな地域に出掛けて行っては、名物を食べて探すんだよ。好きなものとか、嫌いなものを。
 前のぼくたちが苦労したせいで、今のぼくたちにも、好き嫌いが無いのが残念だから…。



 青い地球まで来られたんだし、うんと沢山食べなくっちゃ、と思ったけれど。
 とても美味しかったから忘れてしまった天国の食事、それの分まで美味しいものを、と未来への夢を描いたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。地球で食べたもの、ちゃんと覚えて帰れるかな?」
 天国まで忘れずに覚えて帰って、天国でまた食べられるかな…?
 雲を千切って食べる場所でも、キッチンを借りてハーレイに作って貰える場所でも。
 お気に入りの味を忘れてしまっていたらどうしよう、と心配になった。天国の食事を今の自分が忘れたみたいに、天国に着いたら地球の食事を忘れるのでは、と。
「気の早いヤツだな、今から考えなくてもだ…」
 そう簡単に忘れやしないさ、天国だったらどんな料理でも揃うんだろう。…天国だから。
 地球で好きだった味はこれじゃない、と思った時には、お前の好みに味が変わると思うがな?
 雲の食事ならそうなるだろうし、俺が作って食べさせるんなら、お前の好みに作ってやる。
 だがな、その前に、これから俺の自慢の料理や、色々な料理を食うんだろうが、と苦笑された。
 「天国の食事は忘れちまっても、美味い料理が山ほどだぞ」と。
 天国に行く前に地球でしっかり食べてくれ、とハーレイが注文をつけるから。
「そうだったっけ…。まだまだこれからだったよね…」
 ハーレイが作ってくれる食事も、あちこちへ食べに出掛ける料理も。…まだこれからだよ、結婚しないと無理なんだから…。デートは出来ても、旅行は無理…。
 それに今だとハーレイが作る料理も無理、と項垂れた。チビの間は家に遊びに行けないから。
「分かったようだな? まずは結婚しないと駄目だ」
 美味い料理を二人で好きなだけ食べられるようになるには、俺と一緒に暮らさないと。
 天国でそうしていたようにな…、とハーレイがパチンと瞑った片目。「まずは其処からだ」と。
 前のハーレイと二人で過ごした天国、地球に生まれて来る前には。長い長い間。
 天国で何を食べていたかは全く思い出せないけれども、きっと幸せだった筈。
 美味しい食事をハーレイに勧めて、キッチンで作って貰ったりもして。
 それを今度は青い地球の上で楽しもう。
 雲の絨毯の上を歩く代わりに、地球の地面を歩いて行って。
 白い雲を千切って食べる代わりに、ハーレイと二人でキッチンに立ってみたりもして。
 今度は二人で生きてゆけるから。いつまでも何処までも、ハーレイと歩いてゆけるのだから…。



             天国の食事・了


※青い地球に生まれ変わって来るまでの長い長い間、天国にいた筈のハーレイとブルー。
 けれど天国で何を食べていたのか、二人とも思い出せないのです。それもまた、きっと幸せ。
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(えっ…?)
 なあに、とブルーが大きく見開いた瞳。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 庭などを見ながらの帰り道だけれど、ふと足元に視線をやったら影法師。道路の上に落ちている様々な影。木の影もあるし、家などの影も。もちろん自分の影だって。
 影を作り出す元の姿を真似ているのが影法師。木でも、自分にくっついた影も。面白いよね、と幾つもの影を見ながら歩いていたら、それが動いた。いきなり、大きく。
 だからビックリ、木は動かない筈だから。なのにゆらりと揺れ動くから。
 いったい何が、と動いている影を見詰めていたら、「ニャア?」と上の方から聞こえた声。
(…猫…)
 影の正体は猫だった。影法師みたいに真っ黒な猫。赤い首輪をくっつけた。
 木登りの途中か、それとも木から降りて来たのか。直ぐ側にある家のベランダから飛んで、木の枝にヒョイと降り立って。
 名前も知らない猫だけれども、声を掛けたら道に出て来た。木の枝を伝って下へ降りて来たら、最後は道路にジャンプで着地。生垣を飛び越えるようにして。
 影法師を身体にくっつけたまま。道路に立ったら、黒い身体を綺麗に映した影法師。
(尻尾にも影…)
 しなやかに動く誇らしげな尻尾、その影も道に描かれている。猫の動きに合わせて、揺れて。
 人懐っこい猫と暫く遊んで、「じゃあね」と撫でて別れを告げた。「ぼくは帰るから」と。猫の方でも分かったらしくて、帰って行った生垣の向こう。
 影法師を連れて、今度は生垣をくぐり抜けて。さっき登っていた木がある方へ。
 木の下に着いたら、それは素早く登って行った。みるみる内に上へ上へと、一階の屋根の高さになったら、思った通りに飛び移ったベランダ。影法師ごと空をちょっぴり飛んで。
(ビックリしちゃった…)
 見えなくなった猫の影法師。ベランダの向こうに消えてしまって。開いていた窓から部屋の中に入ったのだろう。飼い主がいる、居心地のいい家に。
 影法師には驚かされたけれども、まさか昼間からオバケが出たりもしないだろう。太陽が明るく照らす内から、黒くて大きなオバケなどは。
 けれど可笑しい、猫の影法師。オバケみたいにビックリしたのは確かだから。



 家に帰って、ダイニングでおやつを食べた後。二階の自分の部屋に戻って、また思い出した猫の影法師。「ホントにビックリしたんだっけ」と。
 正体は猫の影だったけど、と窓から見ると影が幾つも。庭の木々の影や、他の家に差す影だって見える。どの影も全部、向いているのは同じ方向。太陽の光が照らす側とは反対に。
 例外なんかは一つも無くて、お行儀よく並ぶ影法師。家の屋根のも、庭の木たちのも。
(揃ってて当たり前だよね…)
 帰り道に見た影法師だって、どれも向いていた方向は同じ。自分の影も猫の尻尾も、生垣などが落としていた影も。影法師は太陽とは逆に出来るもので、どの影だってお揃いだから。
(ぼくのも、猫のも、全部おんなじ…)
 ちゃんとお揃いになるんだから、と思ってからハッと気が付いた。
 同じ方へと向く影法師は、当たり前ではないことに。揃うとは限らないことに。
(今だからだよ…)
 影法師を見るのが今の自分だから、そうだと思い込んでいただけ。幼い頃からそれに馴染んで、影をくっつけて生きて来たから。何処に行くにもついてくる影、何にでもある影法師。
(ぼくが手を上げたら影も上げるし、猫が動いたら猫の影だって…)
 尻尾の影まで一緒に動くけれども、太陽とは逆に向くのだけれど。
 前の自分が生きた頃には違っていた。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラにいた頃は。
 白い鯨になる前の船で、長く宇宙を旅した頃にも。
 船の中では、影が出来るのは同じ方向とは限らない。宇宙船の中には太陽は無くて、人工の光が照らしていただけ。太陽に似せてあった光や、単なる照明に過ぎないものや。
 光源が違っていたわけなのだし、同じ方へと向いたりはしない影法師。光源が何処かで変わった方向、ブリッジが見える一番大きな公園でさえもそうだった。
 太陽を思わせる光が照らしていたのだけれども、太陽とは違った人工の光。公園の中でも場所が変われば、違う方を向いた影法師。さっきは右にあった筈なのに、今は左にあるだとか。
 アルテメシアの地面に降りれば、もちろん影は同じ方へと揃って向いていたのだけれど…。
(船のみんなは知らないよね?)
 潜入班やら救出班の者を除けば、船の外には出られないから。
 ミュウだと知れたら殺される世界、そんな危険な地上に降りてはゆけないから。



 あの船の仲間たちは知らなかったんだ、と気付かされた、同じ方を向く影。白いシャングリラに猫はいなかったけれど、ナキネズミなら自由に走り回っているのもいた。牛や鶏とは違うから。
 けれど仲間たちやナキネズミの影。それが何処でも同じ方へと出来はしないし、公園の中でさえ違っていた船。いったい誰が気付くだろうか、影法師の向きは何処でも変わらないなんて。
(太陽が動いていくのに合わせて変わるだけだよ…)
 朝なら、日の出とは逆の方向に。夕方だったら、夕日とは逆に。
 昼の間は太陽が動いてゆくのに合わせて変わってゆく。さっきまで此処にあったのに、と思った影が動いているのはよくあること。太陽はどんどん動いてゆくから。
 その太陽を持っていなかったシャングリラ。宇宙を旅した時代は当然のことで、アルテメシアの雲海に潜んだ後だって同じ。太陽は雲を照らしたけれども、シャングリラの中は照らさないから。
 それじゃ無理だ、と思った影。同じ方向を向く影法師。
 でも、ナスカなら…、と頭に浮かんだ赤い星。トォニィたちが生まれたナスカ。
 前の自分は一度も降りずに終わったけれども、あの星だったらあった太陽。其処で色々な野菜を育てて、四年も暮らした仲間たち。若い世代が離れ難くて、そのせいで悲劇が起こったほどに。
 あそこだったら影法師だって同じ方へと向いた筈だよ、と考えたのはいいのだけれど。
(太陽が二つ…)
 そうだったっけ、と思い出した赤いナスカの太陽。
 ジルベスター星系の中心に存在していた恒星は二つ、いわゆる連星。太陽が二つあった場所。
(前のぼく、太陽は気にしてなくて…)
 そちらに背を向ける形で飛んだ、死が待つメギド。
 赤いナスカは第七惑星、人類の名ではジルベスター・セブン。それを滅ぼそうとメギドが狙いを定めていたのは、第八惑星、ジルベスター・エイトの陰だったから。
 太陽から離れる方へと向かって飛んだ自分は、全く意識していなかった。連星のことを。
(…太陽が二つある場所だったら、影法師は…)
 どうなったわけ、と想像さえも出来ない自分。
 前の自分も、連星のある惑星に降りた経験などは無かったから。
 太陽が二つある連星は今の自分も教わるけれども、「そういう星もある」という所まで。惑星の上に出来る影法師のことは習わない。どちらを向くのか、どんな具合に見えるのかは。



 これは困った、と思った赤いナスカの影法師。あの星に降りた仲間たちが見たろう幾つもの影。どちらを向いていたというのか、まるで見当もつかない自分。
 仲間たちはナスカに降りていたのに、前の自分は降りなかったから。…ただの一度も。
(…影法師のこと、ハーレイだったら分かるよね?)
 キャプテンだった前のハーレイ。古い世代はナスカを嫌ったけれども、ハーレイは別。どちらの世代の肩も持ってはいけない、仲間たちを纏め上げるためには。古い世代も、新しい世代も。
 だからナスカを嫌わなかったし、キャプテンなのに何度も降りた。船を離れて。
 そのハーレイなら影法師も知っているだろう。どちらを向いて出来ていたのか、太陽が二つある惑星ではどうなのか。
 訊いてみたくて、来てくれないかと思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、影法師って同じ方向に出来るよね?」
 太陽が作る影法師。何の影でも、全部おんなじ方を向くでしょ。そうだよね?
「なんだ、いきなりどうしたんだ?」
 影法師ってヤツはそういうもんだが…。お前、影法師で遊んでたのか?
 帰り道とか学校とかで、とハーレイは怪訝そうな顔。「もっと小さい子なら分かるが」と。
「違うよ、影を見ていただけ。今日の帰りに、バス停から歩いてくる時に」
 いろんな影が道にあるよね、って眺めていたら、影が動いてビックリしちゃって…。
 正体は猫だったんだけど…。猫の影法師のオバケだったよ、ベランダから木に飛び移った猫。
 影が動くからオバケみたいに見えちゃった、と報告したら。
「そりゃ面白いな。しかし、オバケに影はあるのか?」
 真っ黒な影のオバケだったら聞いたこともあるが、オバケの影なあ…。
 お前は出会ったらしいがな、と質問された。「オバケに影はあるものなのか」と。
「…オバケって、影が無いものなの?」
「幽霊だと無いと言われているなあ、思念体にも影は無いだろ?」
 オバケの場合はどうなんだか…。最初から影で出来上がってるオバケには影は無さそうだぞ。
 影だと影は出来ないだろうが、木の影とかの影は無いんだから。



 他のオバケもそうかもしれん、と言われてみれば一理ある。影が無いかもしれないオバケ。猫の影法師のオバケに影は無かったから。猫にくっついた影に、もう一つ影は出来ないから。
(猫の影法師は、本物のオバケじゃないけれど…)
 本物のオバケにも影は無いかな、と考えていたら、「オバケの話じゃないだろう?」という声。
「お前が俺に話したいのは、別のことだと思うがな。…同じ影でも」
 さっき影法師と言っていたよな、その影法師がどうかしたのか?
 何か興味を引かれることでもあったのか、と尋ねられたから頷いた。訊きたいものは影法師。
「えっとね…。影って、今だと全部おんなじ方に揃って出来るけど…」
 太陽と逆の方に出来るのが影法師。誰の影でも、何の影でも。…猫でも、木や家の影だって。
 影っていうのはそういうもので、アルテメシアでもそうだったけど…。ナスカはどうなの?
「はあ? ナスカって…」
 あのナスカだよな、前の俺たちが手に入れたナスカ。…あそこの影がどうだと言うんだ?
 もちろん影法師はあったわけだが、とハーレイはやはり覚えていた。赤いナスカの影法師を。
 覚えているなら、影の向きも知っているだろう。どう見えたのか、どちらを向いていたのかも。
「影が出来るのは分かるけど…。ナスカには太陽があったんだものね」
 船の中と違って、本物の太陽。人工の照明で出来る影だと、向きはバラバラなんだけど…。
 船で一番大きな公園、あそこにあった影法師の向きも揃っていなかったんだけど…。
 今だと空に太陽は一つで、影法師が出来る方向は同じ。…アルテメシアでもそうだったよ。
 だけどナスカは、太陽が二つあったから…。あそこの太陽、連星でしょ?
 太陽が二つあったんだったら、影の方向、バラバラだった?
 二つの太陽が別々の影を作ってしまって、同じ方向には出来なかったの…?
 でなきゃ影法師がズレるとか、と問い掛けた。一つの太陽に影法師が一つ、それが二つで出来る影も二つ。重なった部分と重ならない部分、そういう二重の影だったろうか、と。
「二重の影なあ…。そんな影ではなかったな」
 上手い具合に揃ったんだろう、違和感は何も無かったから。影が二つということもなくて。
 足元を見れば影があったし、建物とかにも普通に影だ。何かあるなら影もセットで。
 太陽が二つあるからと言って、妙な星ではなかったな。…少なくとも影に関しては。
 どちらかと言えば、地面の色が奇妙な星に思えたもんだ。何処まで行っても赤いんだから。



 地球とは違う星だと思った、とハーレイが語るナスカの色。赤かった大地。二つの太陽が落とす影よりも、そちらの印象が強かったという。影が落ちる赤い地面の色が。
「太陽で出来る影の方向がズレているとか、そういうことは無かったし…。普通の影だな」
 影法師ならば、今と同じに揃ってた。太陽が昇れば影が出来るし、沈めば消える。
 だが、日時計には向かなかっただろうな、あの星は。…太陽が二つもあったんでは。
 向いちゃいない、とハーレイが口にした日時計の名前。耳慣れない時計。
「…日時計?」
 どうして日時計なのだろう、とキョトンとしたら、「知らないか?」と返った穏やかな笑み。
「日時計ってヤツは、太陽の光を使って時間を計る時計なんだが…」
 仕組みの方もごく単純でだ、棒を立てるだけでいいんだぞ。一番単純な日時計ならな。
 その辺にある棒でいいんだ、という説明。簡単な日時計の作り方。
「あるらしいよね、そういうの…。本物は見たこと無いんだけれども、本で読んだよ」
 時計が無いから日時計を作ろう、っていう話。それで時間が分かるから。
 あれも棒だったと思う、と前に読んだ本の記憶を辿る。冒険物語だっただろうか…?
「おっ、正統派のを読んだんだな。そいつが一番正しいヤツだぞ、日時計を作る目的としては」
 なんと言っても、日時計は世界最古の時計なんだから。…人間が最初に作った時計。
「ホント? 日時計が世界で一番古いの?」
 時計は色々あるけれど…、と本で読んだ色々な時計を思い浮かべてみる。水を使うものや、香が燃える時間で計るものやら、遠い昔の時計は沢山。
「日時計らしいぞ、文字の形で残っていないというだけで」
 これは昔の日時計だよな、と誰もが思う遺跡が幾つもあったらしい。滅びる前の地球の上には。
 オベリスクっていうのを聞いたことはないか、昔のエジプトに建ってた柱みたいな記念碑。
 そいつも実は日時計だった、という話だ。単なる記念碑だけではなくて。
 同じ建てるなら人間の役に立つ方がいいしな、と聞かされたオベリスクならば知っている。遠い昔のエジプトのファラオ、彼らが建てた巨大な柱。戦勝記念や、自分の権威を示すために。
「…オベリスク、日時計だったんだ…」
 それじゃ元の場所に無いと駄目だよね、日時計に使っていたんなら…。
 後の時代の人間が他所に持ってっちゃったりしたらしいけれど、それじゃ駄目だよ…。



 元の場所に置いておかないと、と心配になったオベリスク。今の時代は、もう無いけれど。
 オベリスクを建てたファラオがいなくなったら、他の国へと運ばれてしまったオベリスク。古い昔の建造物だし、値打ちがあると思われて。
 けれど運んで行けたのだったら、もう使っている人もいなかったろうか。大勢の人たちが使っていた時計ならば、強引に運んで行こうとしたなら猛反対が起きそうだから。
(…きっとそうだよね、いくら植民地とかにされてても…)
 時計は生活に欠かせないから、誰もが反対しただろう。「それが無いと何も出来ない」と。何を何時に始めればいいか、分からないなら仕事をするのも難しい。予定通りに動けなくて。
 もう使う人はいなかったんだ、と思う昔のオベリスク。砂に埋もれて忘れられていたか、もっと正確な時計が作り出されていたか。
 世界最古の時計などより役立つ時計。より正確に時を刻む時計が…、と考えた所で恋人の趣味に気が付いた。白いシャングリラでアナログの時計を好んだハーレイ。キャプテンの仕事には、その時計は向いていないのに。正確無比な時計が要るのに、それとは別に持っていた。だから…。
「じゃあ、ハーレイも日時計が好き?」
 太陽の光の時計が好きなの、今もはめてる腕時計だとか、そんなのよりも…?
「日時計って…。何処からそういうことになるんだ?」
 俺の好みが日時計だなんて、とハーレイはまるで気付いていない。自分の趣味というものに。
「ハーレイ、レトロ趣味じゃない。…前のハーレイだった頃から」
 羽根ペンが好きで、木で出来た机が大好きで…。それに時計もアナログの時計。…キャプテンの部屋にも置いていたでしょ、うんと正確な時計よりもずっと好きだから、って。
 お蔭で前のぼくまで好きになったよ、と挙げた青の間にあった置時計。文字盤の上を回る秒針、一時間で一周してくる長針。十二時間かけてやっと一周回れる短針。
 それらが静かに時を刻むのが好きだった。前のハーレイが好んだ時計。
「レトロ趣味だから日時計だってか?」
 いくら俺でも、其処までは…。レトロな趣味は変わっちゃいないが、日時計までは欲しくない。
 アナログの時計で充分だってな、前の俺だった頃と同じで。
 それに砂時計だ、こいつは前の俺の頃には持ってなかった。今ではカップ麺を作る時の友だが。
 考えてもみろよ、日時計は昼の間だけしか使えない時計なんだから。



 生活の役に立たないぞ、とハーレイが指摘した致命的な欠点。人間が昼の間しか活動しなかった時代はともかく、今は役立ってはくれない日時計。太陽が出ている間だけしか計れない時間。
「人間の生活ってヤツに合わせて、時計も進歩していったんだ。日時計から次の時代へと」
 暗い夜にも時間が分かる時計を作って、より正確で細かく計れる時計の時代がやって来た、と。
 もっとも、そういう時計が幅を利かせる今でも、地球だと凄い日時計が出来る。
 時間ピッタリ、アナログの時計の短針だったら負けません、というヤツが。
 銀河標準時間にだって…、と言われたらピンと来た時計。今の時代も時計は地球が標準だから。様々な星に標準時間が存在したって、銀河標準時間は地球の時間に合わせたもの。
「そうだね、夜の間は計れないけど、一日はキッチリ二十四時間…」
 二十四時間の間に太陽が昇ってまた沈む星は、地球が代表になってるもの。前のぼくたちだった頃から、ずっとそう。…人間が一番最初に生まれた星の、地球の時間が大切だから。
「その通りだ。ただし、銀河標準時間を計りたいなら、イギリスでないと無理なんだがな」
 あそこでないと計れやしない。ずっと昔にグリニッジ標準時を計った地点に行かないと。
 其処の地面に棒を刺したら、銀河標準時間が計れる。昼の間しか計れなくても、きちんとな。
 棒よりも正確な日時計だったら、もっと正しく計れるんだが…。
 その日時計は、ナスカじゃ無理だ。銀河標準時間でなくても、ナスカ時間でも計れやしない。
 あそこにあった二つの太陽、そいつが邪魔をしちまって…、という話。棒を立てても、ナスカの時間を計れそうな日時計を作って据え付けてみても。
「計れないって…。どうして日時計だと計れないの?」
 太陽は二つあったけれども、影の方向は同じだったんでしょ?
 バラバラの影になるんじゃなければ、日時計、使えそうだけど…。地球と同じで。
 一日が二十四時間の時計じゃないだろうけど、と首を傾げた。ナスカの自転に合わせた日時計、それならばきっと作れた筈。ナスカの一日を昼の間だけ計る時計を、赤い大地に置けたのに、と。
「其処が大いに問題なんだ。太陽が二つあったってトコが」
 影の方向は確かに同じだったが、一緒に昇って一緒に沈んだわけじゃない。…あの太陽は。
 片方が昇って影が差したら、其処から一日が始まるんだが…。
 その太陽を追い掛けるように、じきに二つ目が昇って来る。そして遅れて沈むってわけで…。
 片方が沈んでも片方が空に残っているから、日時計の影は消えないってな。



 それが連星の厄介な所というヤツで…、とハーレイは説明してくれた。二つの太陽の周りを公転していた星がナスカだけれども、自転速度と二つの太陽との関係が問題。
 二つの太陽が落とす影を頼りに時間を計るのは難しかった。アルテメシアや地球のような太陽が一つの星とは違う。必ず必要になる補正。影を頼りに計ろうとしても。
「今の時間はこのくらいだ、と計りたいなら補正が要る。此処でこれだけ、と」
 それじゃ正確に計れないじゃないか、棒を一本立てただけでは。…計る度に補正が要るんだぞ?
 人間が一々計算しては、「影が此処なら時間はこうだ」と弾き出さないといけない日時計。
 そんな日時計が役に立つのか、と言われれば無理。昔の人間たちのようには出せない、ナスカの太陽を使った時間。太陽が二つあるせいで。
「本当だ…。時間の補正をしなきゃいけない日時計なんて、日時計の意味が少しも無いよ」
 時計が無いから日時計にしよう、って作ってみたって、役に立たない…。計算しないと使えない時計じゃ、とても面倒なだけだから。…使える人だって限られちゃうよ。
 機械仕掛けの時計じゃないと無理だったんだね、ナスカでは。世界最古の時計じゃ無理…。
 太陽が昇る間だけしか使えなくても、人間が地球で生きてゆくにはピッタリの時計だったのに。
 その日時計が使えないような不自然な星だったから、入植に失敗しちゃったとか?
 シャングリラがナスカを見付けるより前に、破棄していった人類たちは…?
 人間の生活に合わない星なら仕方ないよね、と考えたナスカが捨てられた理由。いくら水などが少ない星でも、入植前には調査をした筈だから。
 その星でやってゆけるかどうか。移民団を送るだけの価値がある星か、それとも直ぐに撤退することになりそうな星か。入植するには様々な設備も必要なのだし、きちんと計算されていた筈。
 時間を無駄に費やさないよう、結果が出せると見込んだ星しか移民団など送りはしない。成果が上がりもしない星には、最初から目を向けないから。
 けれど人類はナスカを捨てた。…ジルベスター・セブンという名の星を。
 子供まで連れて移り住んだ家族もあったというのに、彼らは星を離れて去った。短い命を其処で終えた子の墓碑を残して。白いプラネット合金で出来ていたという、詩の一節が刻まれた墓碑を。
「時間だけで捨てはしないだろうが…。日時計なんかには、最初から頼っちゃいないからな」
 太陽が二つある星だろうが、一つだろうが、日時計の時代ってわけじゃないから関係ない。
 だが、日時計が無理な星だというのは、大いに関係していたかもな…。



 ナスカって星に関しては、とハーレイは窓に目をやった。もうすぐ沈んでゆく太陽の光に。
「可能性があるのは、時間の感覚というヤツか。…人類がナスカを捨てちまった理由」
 それだったかもしれないな、と繰り返された「時間の感覚」と言う言葉。ナスカにあった二つの太陽、それが災いしたかもしれない、と。
「え?」
 時間の感覚って…。それって、いったいどういう意味?
 太陽が二つあったら駄目だって言うの、それで時間を計ってたわけじゃなくっても…?
 どうして星を捨ててしまうの、と疑問をぶつけた。やはりナスカは不自然な星で、破棄せざるを得ない何かがあったのか、と。日時計が作れない星だったがゆえに。
「俺は時間の感覚という言い方をしたが…。体内時計が狂っちまったんじゃないかと思ってる」
 体内時計は知っているだろ、人間が自分の身体の中に持っている時計。自分の目で見て、時間が分かる時計じゃないが…。生きてゆくには必要な時計。起きたり、身体を休めたりして。
 前の俺たちだって船で作っていたよな、人工的に昼と夜とを。
 白い鯨に改造する前の船だった頃も、きちんと作っていただろうが。明かりの強さを調整して。
 昼の間は明るく照らして、夜になったら控えめにする。…周りは真っ暗な宇宙でもな。
 昼と夜とがあった筈だぞ、とハーレイが話す遠い昔のこと。農場も公園も無かった船でも、昼と夜とが確かにあった。窓の外はいつも暗くても。漆黒の宇宙を旅する船でも。
「そうだけど…。ああやって昼と夜とを作っておかないと…」
 決まった時間に起きて食事とか、寝る時間とかが上手くいかないから、そうしてたわけで…。
 起きたままでいたら疲れてしまうし、夜になったら寝なくっちゃ、って…。
 夜勤の人は別だけどね、と思い出す、白い鯨になる前の船。明かりが煌々と灯るのが昼で、夜は明かりが落とされていた。皆が集まる食堂さえもが暗くなっていた「夜」の時間帯。
「ほらな、時間は大切なんだ。今は昼なのか、夜かってことが」
 昼と夜とを作っておいたら、体内時計は狂わない。夜勤で働くヤツらにしたって、いつも夜勤をしちゃいなかった。シフトを組んでは、ちゃんと夜にも寝てたんだ。…船で作った夜なんだが。
 そうやって体内時計を整えていれば、健康に暮らしてゆくことが出来る。虚弱な身体でも、疲れすぎたりしないでな。…それは人類でも同じなわけで…。
 ナスカはそいつを駄目にしちまう星だったかもな、太陽が二つあったんだから。



 あの星の時間だけってことなら、それほど問題は無かっただろうが、とハーレイは語る。地球の時間と同じ二十四時間で自転するのでなくても、多少は前後していても。
「人間ってヤツは、この地球で生まれた種族だから…。二十四時間の一日が一番合うんだ」
 それを誰もが分かっているから、銀河標準時間がある。それぞれの星の時間とは別に。
 体内時計もそれと同じで、基本は二十四時間だ。今の時代も、前の俺たちが生きた時代も、そのまた前の遠い昔にも。
 俺たちがナスカと呼んでいた星に入植したのも、そういう人類たちだった。あの星で生きようと降り立ったんだが、生憎とあの太陽だ。空に二つもある太陽。
 一つ昇ったら、たちまち光が射してくる。日の出で、朝が来るってわけだ。人間の体内時計ってヤツは、狂っちまったら朝の光を浴びると元に戻ると言われたほどだから…。
 太陽が一つ昇った途端に、身体の中では朝が始まる。其処で太陽が一つだったら、それが沈んでいった後には夜なんだが…。
 ナスカって星はそうじゃなかった。朝だ、と皆に教えた太陽、それが沈んでも二つ目がまだ空にある。一日の終わりを教える代わりに、「まだ夜じゃない」と残っていてな。
 そんな星だと体内時計がメチャメチャになってしまうだろうが、というのがハーレイの説。前後して沈む太陽とはいえ、同時には沈んでゆかないから。…昇る時にも一つずつだから。
「でも…。それで人類が撤退したなら、ミュウもおんなじなんじゃない?」
 ナスカに降りようって決めたのはいいけど、人類と同じ道を辿って。
 二つの太陽に振り回されて、体内時計が狂ってしまって…。ミュウはただでも弱いんだから。
 人類よりも先に参りそうだよ、と思ったナスカの環境のこと。二つもあったナスカの太陽、その太陽が体内時計を駄目にするなら、ミュウも人類と変わらない筈、と。
 虚弱に生まれついた分だけ、早く訪れそうな終焉。あの星に定住したならば。…ナスカの悲劇が起こらなければ、人類が星を捨てたよりも早く、ナスカを離れていたのでは、と考えたけれど。
「違ったんだろうな、ミュウってヤツは」
 身体は弱く出来てたんだが、今の時代はすっかり丈夫な種族になっているだろう?
 ちゃんと進化した成果が出たのが今って時代で、前の俺たちの時代はまだ駆け出しの頃だった。
 それでもミュウは、人類よりかは進化した種族だったから…。
 恐らく有利に働いたんだろうな、同じ星に入植してみても。…太陽が二つある星だって。



 虚弱なようでも適応しやすかったのだろう、という星がナスカ。人類が捨てていった星。
 彼らに入植を諦めさせた二つの太陽、そのせいで体内時計が狂い始めても、何処かで上手く調節して。弱い身体が壊れないよう、何度も時計を整え直して生きていたミュウ。あの赤い星で。
「…そんなことって、あるの?」
 ミュウの方が人類よりも強かったなんて、適応しやすい種族だったなんて…。
 前のぼくたちが生きた頃には、みんな何処かが欠けていたのに。…それを補うためにサイオンを持っているんだ、ってヒルマンも何度も言っていたのに…。
 今のミュウだと違うけどね、と自分の周りを考えてみる。前と同じに弱く生まれた子供が自分。すぐに熱を出すし、体育の授業も見学の方が遥かに多い。けれど友人たちは丈夫だし、ハーレイも丈夫。ハーレイは前も頑丈だったけれど、聴力が弱くて前の自分と同じに補聴器で…。
(でも、ハーレイもぼくも、今は補聴器なんか要らないし…)
 本当に丈夫になったのだ、と今のミュウなら納得がいく。けれども前の自分の頃はどうだろう?
 人類よりも強い部分があったなんて、と信じられない気持ち。サイオンという力以外で、人類に勝る能力を秘めていたなんて、と。
「お前が信じられない気持ちは分かるが、あると思うぞ。…少なくとも俺は」
 今の時代は、あちこちに人が住んでるが…。もちろんジルベスター星系にだって。
 前に話してやっただろうが、牧草地に向いてる星の話を。そういう星が出来ている、とな。
 住める星の数が増えていったのは、テラフォーミングの技術が向上したお蔭だと言うが、本当は人間が一人残らずミュウになってる時代のせいなんじゃないか?
 太陽が二つある星だろうが、ちゃんと適応できる人間。ナスカでの俺たちがそうだったように。
 いいや、違うか…。元々、人類にも備わっていた力ではあるか…。
 地球の時間と全く同じな、二十四時間の間だけならな。
 その程度なら人類でも適応出来た筈なんだ、というハーレイの言葉が分からない。ミュウよりも狂いやすかったのが人類の体内時計ならば、何処でも条件は同じだろうに、と。
「…どういうこと?」
 地球の時間と同じだったら、人類でも平気だったって言うの?
 ナスカに太陽が二つあっても、ナスカの一日が地球と同じで二十四時間ほどだったら…?



 そうだと言うの、と投げ掛けた問い。本物のナスカはそうではなかった。前の自分は体験してはいないけれども、白いシャングリラにいたから分かる。目覚めていたほんの短い間に知った。
 皆が「ナスカ」と呼ぶ星のことを。シャングリラにあった昼と夜とは、ナスカのそれとは幾らか違っていたことも。
「分かりやすく説明するんなら…。白夜ってヤツを知ってるだろう?」
 お前のことだし、その目で見てはいないんだろうが…。夜になっても明るいってヤツ。
 同じ地球だが、太陽が一向に沈まない場所があるってことを。
 北極の方と南極の方だな、と聞かされた白夜。もちろん言葉は知っている。そうなる仕組みも。
「えっと…。夏になったらそうなるんだよね、お日様が高く昇ったままで、沈まなくって」
 場所によっては沈むけれども、沈んでも直ぐに昇って来ちゃって、明るいから白夜。
 昼間がうんと長いんだよね、と思い浮かべる沈まない太陽。その代わり、冬は暗くて長い。夏の明るさとは全く逆に、太陽が昇って来ない冬。昇っても見る間に沈んでしまって、真っ暗な夜。
「その白夜になる場所なんだが…。夏はとにかく日が長すぎて、冬の季節は短すぎるから…」
 慣れていないと、耐えられやしないと言われてた。人間が地球しか知らなかった遠い昔はな。
 それを見ようと旅に出掛けても、楽しめるのはほんの数日だ。明るすぎて夜も眠れやしないし、冬の方なら暗くて気分が沈んじまって。
 長い日程を組んでいたって、降参とばかりにホテルに逃げ込む人間たちも多かった。ホテルなら部屋を暗くしてゆっくり眠れもするし、暗い季節でも明るい所で過ごせるから。
 しかしだ、ホテルが建ってたくらいなんだし、その同じ場所に人間が暮らしていたんだぞ?
 それもホテルが出来る前から、人工の夜や昼を自由に作り出せる場所が生まれる前から。
 文字さえ持っていなかった頃でも、もう人類は其処で暮らしてた。他の所へ行こうともせずに、その環境に慣れて「済めば都」とばかりにな。
 元から人類が持っていた能力、そいつを更に伸ばしたのがミュウという種族なのかもしれん。
 白夜だろうが、太陽が二つの連星だろうが、その環境で生きてゆけるように進化を遂げて。
 きっとそうだな、と感慨深そうにしているハーレイ。「確証は無いが」と言いながらも。
 人類が捨てたナスカという星、其処を天国だと喜んでいた仲間たち。彼らは二つの太陽を苦にもしないで、赤いナスカに根を下ろしたから。
 その星で植物たちを育てて、自然出産児のトォニィたちまでが生まれたほどだったから。



 人類が生きるには不向きだった星を、天国のようだと称えたミュウたち。失いたくないと撤退を拒み、命を落とした者も多かった星。メギドの炎が襲った時にも、離れようとせずに。
 彼らにとっては、本当に天国だったのだろう。日時計が作れない不自然な星でも、二つの太陽が体内時計を狂わせるような星であっても。…彼らは其処に馴染んだのだから。
「ねえ、ハーレイ。ミュウはやっぱり、人類から進化したんだね」
 進化の必然だったって言うけど、本当にそう。
 人類には不向きだった星でも、ちゃんと暮らしてゆけたなら。…トォニィたちだって、みんなの身体が内側から変になっていたなら、きっと生まれて来なかったもの。
 ただでもミュウは弱かったんだし、体内時計が狂っちゃっていたら、寝込んでしまって。
 ナスカで暮らすどころじゃないよ、と仲間たちの姿を思い出す。か弱く見えても、実は強かった仲間たち。人類が破棄した赤い星でも、立派に生きてゆけたミュウたち。
「そのようだな。前の俺は気付いちゃいなかったが…」
 ナスカで生き生きしていたヤツらや、今の時代の元気なヤツらを思うとな。
 人類よりもずっと優れた適応能力、それを持っていたのがミュウだったんだろう。身体は虚弱に出来ていたって、うんと頑丈で何処にでも合う体内時計というヤツを。
 あいつらだったら白夜でもきっと平気だったぞ、と微笑むハーレイ。「昼が長くて素晴らしい」などと言いかねないと。太陽の光を燦々と浴びて、疲れ知らずではしゃぎ回って。
「そうだったかもね…。船の中には太陽は無いし、影法師だって向きがバラバラなんだもの」
 だけど白夜なら、太陽が一杯。影法師だってずっと消えずに、身体にくっついているものね。
 そうだ、日時計…。太陽で時間が分かる日時計、白夜の所でも作れるの?
 地球の上だから大丈夫だよね、と尋ねたら。きっと作れて、使える筈だと思ったら…。
「昼がある季節だったらな」
 太陽さえ昇れば使えるだろうが、暗い季節はどうにもならんぞ。肝心の太陽が出ないんだから。
 太陽が顔を出してくれなきゃ、影は何処にも出来やしない。それじゃ無理だと思わんか?
 真っ暗な夜が続く季節に日時計は無理だ、と返された。大真面目な顔で。
「うーん…」
 日時計だものね、太陽が無いと時間を計れはしないよね…。
 ナスカみたいに二つあっても困るけれども、太陽が無いと補正するのも無理みたい…。



 二つの太陽が昇るナスカなら、出来る影。棒を一本立てておいたら、影が動いて日時計になる。太陽が二つ昇るお蔭で、上手く時間は計れないけれど。補正が必要になるのだけれど。
 それでは役に立ちはしないし、無理だと思ったナスカの日時計。ハーレイにそれを教えられて。
 けれど地球なら作れる日時計、昼の間は本物の時計と同じように使えそうなのに…。
「そっか…。地球でも日時計、無理な所があるんだね」
 二十四時間できちんと回る星でも、太陽が昇ってくれないと…。棒を立てても影が無いから…。
 使えないね、と頷かざるを得ない白夜がある地域。白夜の季節は日時計が活躍しそうだけれも、太陽が沈む冬には全く使えない。やっと日の出だと思っても直ぐに、早い日暮れが訪れるから。
「俺たちが住んでる地域だったら、丁度いい感じなんだがな」
 銀河標準時間は無理だが、棒を一本、立ててやるだけで出来ちまうから。簡単なヤツは。
 昔だったら、庭の飾りにもしていたらしいぞ。色々な形の日時計を置いて。
 庭に合わせてデカい日時計から小さいのまで、とハーレイが指差す窓の向こう。暮れて来た庭が見えるけれども、ずっと昔は庭に日時計を置いていた人たちも多かったらしい。
「庭に日時計って…。本当に?」
 飾りにするわけ、棒を一本立てるだけじゃなくて…?
「お洒落なヤツだと、いいアクセントになるからな。時間も分かって一石二鳥だ」
 凝ったヤツから個性的なのまで、持ち主のセンスで飾ってた。今でも売られているんだがな。
 あまり見かけるものじゃないが…、という言葉通り、今の自分も見たことは無い。いつも帰りに歩く道でも、家から近い住宅街でも。けれど日時計は、世界最古の時計だという話だから…。
「ハーレイ、欲しい気持ちにならない?」
 庭に日時計を置きたくなったりしないの、前のハーレイだった頃からレトロな趣味じゃない。
 アナログの時計を持ってたほどだよ、今だと日時計、欲しくならない…?
「其処までは要らんと言った筈だが?」
 この腕時計だってアナログなんだし、家に帰れば砂時計もある。それで充分なんだがな、俺は。
 日時計を庭に置きたいと思ったことは無いしだ、別に欲しくもないんだが…?
 俺は要らんな、とハーレイは興味が無さそうだけれど。
 日時計を庭に飾ろうという趣味などは無くて、アナログの時計で満足しているようだけれども。



 ナスカでは無理だった太陽の時計。遥か昔に地球で生まれた、最古の時計らしい日時計。
 それに惹かれるから、そそのかしてみることにした。欲しがろうとしない恋人を。
「でも、ハーレイ…。此処は地球だよ、ぼくたちは地球に生まれ変わって来たんだよ?」
 昼の間は二十四時間の時計とそっくり同じに時間が分かる、日時計が作れるんだけど…。
 ナスカじゃ作れなかった日時計、此処なら作れる筈なんだけど…。欲しくないの?
 うんとレトロで素敵じゃない、と畳み掛けた。「庭にあったらお洒落だよね」と。
「…なんだ、お前が欲しいのか?」
 俺の話をしてるんじゃなくて、と覗き込んで来た鳶色の瞳。「日時計、お前の趣味なのか」と。
「ちょっぴりだけど…。ハーレイほど詳しくないもの、ぼくは」
 だけど世界で一番古くて、地球だから作れる時計なんでしょ。一日が二十四時間なのは…?
 地球のお日様が作る時計、と夢を見ずにはいられない。きっと素敵な時計だから。
「そういうことなら、日時計を置いてもかまわんが…」
 お前専用の野菜畑の側に作るか、野菜スープのシャングリラ風のために作っておく畑。スープの出番がまるで無ければ、お前が元気な証拠ってことで…。野菜はサラダで食えばいいしな。
「なんで畑に日時計になるの?」
「農作業の時間を知るのにいいかと思ってな。畑なら日もよく当たるから」
 ピッタリだろうが、と言われた日時計の設置場所。畑の側とは、まるで思いもしなかった。
「…日時計、ぼくはお茶の時間を知りたいんだけど…」
 お日様が教えてくれる時間に合わせてお茶。もうすぐだよね、って用意をして。
「日時計だぞ? 庭まで行っては確認するのか、お茶の時間までどのくらいあるか」
 壁の時計とか置時計の方が、現実的だと思うがな…?
 畑だったら作業しながら見られるぞ。あと少しやったらお茶にするか、といった具合に。
 丁度いいじゃないか、とハーレイが笑う日時計の置き場。畑仕事が一段落したら、二人でお茶。
「ぼく、畑仕事、そんなに出来るかな…」
 もう少ししたらお茶にしよう、って言われるくらいに頑張れるのかな…?
 途中で疲れてしまいそう、と始めない内から音を上げた。ぼくには無理そうなんだけど、と。
「さてなあ…?」
 始めてみないと分からないよな、お前の頑張り。直ぐに疲れて嫌になるのか、続けられるか。



 お茶の時間まで休憩しないで出来るといいな、と可笑しそうにしているハーレイだけれど。
 「頑張れよ」と、励ましてもくれるのだけれど…。
「お前の言うような、お茶の時間。そいつを知りたいだけだったら…」
 とても小さな日時計もあるから、そういうのを置いてもいいかもな。日の当たる窓の側とかに。
 オモチャなのかと思いそうなヤツでも、精巧なのはあるもんだ。
 このくらいだな、とハーレイが手で示す大きさ。手のひらに乗りそうなほどに小さな日時計。
「ハーレイ、とっても詳しいじゃない」
 大きさまで知っているんだったら、見に行ったことがあるんじゃないの…?
 本物を売っているお店に、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「日時計のことに詳しすぎない?」と。
「それはまあ…。ああいったものも嫌いではないな」
 最近はめっきり御無沙汰なんだが、日時計を扱っている店なんかも。
「ほらね、レトロな趣味じゃない」
 前のハーレイだった頃から少しも変わっていないよ、今のハーレイも前とそっくりだよ。
 いつか日時計、欲しくないの、と問いを投げ掛けたら、今度は否定されなかった。「まあな」と照れたような顔だし、欲しくないわけではないらしい。太陽を使う世界最古の時計。
 いつかハーレイと暮らし始めたら、日時計を置いて使ってみようか。
 太陽が二つあるナスカでは無理だったけれど、地球なら本物の日時計が出来る。
 晴れた日にしか使えないけれど、ロマンチックで素敵だから。
 地球の太陽が今の時間を教えてくれるのが日時計だから。
 それを覗いて、「もうすぐかな?」とお茶の用意を始めてみたい。
 ハーレイと二人、ゆっくりと楽しむ午後のひと時。
 地球の太陽が照らす庭が見える窓辺や、庭に据えたテーブルと椅子などで。
 小さな日時計を持っていたなら、それが作る影が動いてゆくのを二人で眺めているのもいい。
 太陽を使った世界最古の時計。
 青い地球だからこそ使える日時計、太陽の光と逆の方に出来る影を使った時計の針を…。



               日時計・了


※太陽が二つあったナスカですけど、人類が入植を諦めた理由の一つは、それだったかも。
 人類は適応出来なかった環境、其処を天国だと喜んだミュウは、強かったのかもしれません。
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(円山応挙…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞記事。「幽霊の絵だ」と。
 学校から帰って、おやつの時間に広げた新聞。其処に載っていた、遠い昔の日本で描かれた絵。まだ人間が地球しか知らなかった頃で、円山応挙は江戸時代の絵師。
 今は失われた本物の絵。白い着物で悲しげな顔の女性の幽霊。長い黒髪も何処か寂しそう。この絵の大切なポイントは足で、女性には足が描かれていない。
(幽霊には足が無いもので…)
 足の無い絵が多く描かれたけれども、この女性の絵が最初だという説がある。地球が滅びるより遥か昔の、円山応挙が生きた時代に近い頃から。
(こういうの、日本だけだったんだ…)
 足が無かった日本の幽霊。本物の日本があった頃には、足の無い幽霊を見た人が多かった。白い着物で足はぼやけて見えないもの。「足が無かったから幽霊だ」という目撃談まで。
 けれど、この絵が描かれる前には幽霊には足があったという。足が無くなったのは、円山応挙の絵が有名になってから。円山応挙が最初でなくても、足の無い幽霊の絵が広まったせい。
(絵の影響って、凄いよね…)
 幽霊には足が無いものだ、と日本中の人々が思い込むほど。絵を見た人も、見て来た人から話を聞いた人までも。足の無い幽霊に出会った人も多いというから、本当に凄い影響力。
(でも…)
 幽霊の足音を聞いた人もいたし、足のある幽霊は後の時代も健在。すっかり消えてしまわずに。
 新聞記事には、そっちの方が本当なのだと書かれている。「幽霊にも足はあったのです」と。
 要は人間の思い込み。想像力が生んだ産物、それが「足が無い」日本の幽霊。新聞にある絵は、如何にも「幽霊らしい」から。足が描かれていないだけのことで。
(これを見ちゃったら、怖かっただろうし…)
 暗闇の中で幽霊のような人に会ったら、「足が無かった」と頭から思ってしまいそう。暗がりで見えなかっただけでも「無かったんだ」と思い込む「足」。目撃談を聞いた人も同じ思い込み。
 そうやって消えた、昔の日本の幽霊の足。円山応挙か、他の誰かの絵のせいで。
 他の国には、足音だけの幽霊だって多かったのに。足が無いなら、足音などはしないのに。



 面白いね、と眺めた白い着物の幽霊の絵。「このせいで、幽霊の足が消えちゃったなんて」と。
 絵を描いた画家も、きっとビックリだったろう。「幽霊らしく」と狙った効果が、幽霊から足を消したのだから。…本当は足がある筈なのに。
(幽霊の正体…)
 新聞には絵の話しか書かれていないけれども、「思念体だ」というのが今の定説。人間の身体を離れて動ける、魂のようなものが思念体。優れたミュウなら、それで身体を抜け出せる。ベッドの上に横たわったままで、遠い場所まで行くだとか。椅子に座ったままで隣の部屋に行くだとか。
 もっとも、今の時代は人間は一人残らずミュウ。
 思念体はごく普通のものだし、「サイオンは使わないのがマナー」の時代でなければ、至る所で出会うだろう「思念体の人」。向こうが透けて見える身体の、昔の人の目には幽霊のような。
 けれども、思念体が普通になってしまった今の時代は…。
(幽霊、何処にも出ないんだけど…)
 昔の人たちがとても恐れた、生きている人に害を及ぼす幽霊。恨んでいる相手を取り殺したり、狂気の淵へと追いやったり。
 そういう怖いものも出ないし、ただ暗がりに立っているだけの幽霊も出ない。ずっと昔は、同じ所に立ち続けている幽霊の話も多かったのに。
 幽霊が出なくなった理由は、平和になって恨みなど何も無くなったからだ、と考えられている。特定の相手はもちろんのことで、様々な場所にも、恨みの心を残す必要が無い時代。
(宇宙船とかの事故があったって…)
 やはり出ないと言われる幽霊。遠い昔なら、事故の現場には幽霊が出たものなのに。
 人を乗せた船が海で沈没したなら、其処に出たのが船幽霊。通り掛かった船に乗っている人を、捕まえて仲間にしようとした。海の水を汲んでは船に注いで、船ごと沈んでしまうようにと。
 なのに、今ではまるで聞かない幽霊の話。誰も見ないし、出会いもしない。
(死んじゃった人は、次の人生に行っちゃうんだよ、きっと)
 生まれ変わりの自分だからこそ、そう言える。時を飛び越えて来たソルジャー・ブルー。それが自分で、前の自分だった頃の記憶も取り戻した。
 前の自分は辛い時代を生きたけれども、今では違う。青い地球まで蘇った世界。
 平和な時代の続きは平和に決まっているから、事故の現場に残るより…。



(天国に行って、また新しく生まれる順番…)
 それを待つ方がずっといい。死んだら、真っ直ぐに向かう天国。「死んでしまった」とクヨクヨするより、いつまでも其処に残っているより。
 この世界に残ってしまった分だけ、次の人生が遅れるから。残っていたって、新しい命と身体は貰えない。神様がそれをくれはしないし、新しく生まれることは出来ない。
 新しい命を貰いさえすれば、また人生を生きられるのに。記憶は失くしてしまうけれども、次の人生が待っている。温かな家族に大勢の友達、美味しい食事も、旅に出掛けることだって。
 その道を行かずに幽霊になって残っていたなら、楽しみ損ねてしまうだけ。他の人たちは、もう新しく生きているのに。広い宇宙の何処かの星で。
 そのことに誰もが気付いているから、もう幽霊は出ないのだろう。「次の人生を楽しもう」と、天国に行ってしまうから。幽霊になるより、ずっといいから。
(ぼくとハーレイは、うんと長いこと待ったんだけど…)
 死んでから直ぐには生まれ変われないで、気が遠くなるほどの時が流れた。こうしてもう一度、新しい命と身体を貰えるまでに。
 死の星だった地球が青く蘇るほどに、流れてしまった長い長い時。すっかり変わっていた世界。
 そうなった理由は、前とそっくり同じ姿に育つ身体を欲しがったせいだ、と思っている。
(違う姿で出会ったとしても、ハーレイを好きになるけれど…)
 ハーレイもそう言ったけれども、どうせなら同じ姿がいい。前と少しも変わらない身体。遺伝子データを調べてみたなら別のものでも、見た目は同じに見える姿が。
 おまけに二人一緒でないと、と強く願ったから、その分、余計にかかった時間。生まれ変わってこられるまでに。
(ぼくだけとか、ハーレイだけだったなら…)
 どちらか片方だけだったならば、同じ身体も少しは見付けやすかっただろう。…神様だって。
 けれど揃えるのは難しかったから、ハーレイと自分は今まで待った。新しい命と身体を貰って、次の人生を生き始めるまでに。
(それに、地球…)
 前の自分が地球にこだわったことも、遅れた理由の一つだと思う。焦がれ続けた青い地球。その地球の上に生まれたい、という願いを叶えて、同じ身体も用意するのは大変だから。



 長くかかった待ち時間。今の時代は幽霊さえも出ないくらいに、誰もが次の人生に向かって出発しているらしいのに。「新しい命と身体を貰おう」と、天国へ真っ直ぐに飛んで行って。
(だけど、幸せ…)
 待っただけの甲斐はあったものね、と戻った二階の自分の部屋。新聞を閉じて、キッチンの母に空になったカップやお皿を返して。
 勉強机に頬杖をついて、さっきの続きを考える。ハーレイと二人で青い地球に来られて、幸せな今。前の自分が夢見た以上に、素敵な未来の地球に来られた。青くて幸せ一杯の星に。
 でも…。
(前のぼく、悲しかったのに…)
 独りぼっちで迎えた最期。右手に持っていたハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きながら死んだソルジャー・ブルー。
 「もうハーレイには二度と会えない」と、「絆が切れてしまったから」と。
 冷たく凍えてしまった右手。泣きじゃくりながら死んだというのに、幽霊になりはしなかった。そういう話は伝わっていない。ソルジャー・ブルーの幽霊を見たという話。
 メギドの残骸にソルジャー・ブルーが出たとも聞かない。手つかずで放っておかれた残骸、その跡を片付けにトォニィたちが向かった時には。白いシャングリラで、多分、花束も持って。
 トォニィたちは悲しい歴史が残る跡地で、前の自分のために祈りを捧げてくれた。それから皆で残骸をきちんと片付け、次はナスカへ慰霊の旅に。
(その時はもう、ハーレイだって…)
 地球の地の底で死んでしまった後。ジョミーや長老たちと一緒に、燃え上がる星で。
 ハーレイはとうに死んでいたから、きっと二人で何処かへ行った後だったろう。天国だったか、それとも二人きりで暮らせる幸せな何処か。…そういう所へ、手を繋ぎ合って二人一緒に。
 そうして行ってしまった後なら、ソルジャー・ブルーの幽霊が出るわけがない。トォニィたちがメギドに行っても、その魂はもういないのだから。
 けれど、それまでの間の自分。
 ハーレイと二人で旅立つまでの前の自分は、どうだったろう?
 メギドの残骸は放置されたまま、宇宙空間に浮かんでいた。人類には片付ける余裕など無くて、航行する船に注意をしていただけ。「残骸に気を付けるように」と。其処に自分はいたろうか?



 散らばっていたメギドの残骸。衝突したら大変だから、人類の船は注意しながら航行していた。大きな残骸にぶつかったならば、大事故に繋がりかねないから。
 恐らくは残骸との衝突を避けて、距離を取っただろう人類の船。軍の船も、民間船だって。
 直ぐ側を通る船も無いような場所で、幽霊になってメギドの跡地にいたなら、なんとも悲しい。誰も恨んではいなかったけれど、泣きじゃくりながら死んだのだったら残りそうな思い。
 「もう一度ハーレイに会いたかった」と、「独りぼっちになってしまった」と。
 恨みではなくて、残した思い。それも人間を幽霊にする。とても寂しい、独りぼっちの幽霊に。
 前の自分もそうなったろうか、ハーレイに想いを残していたから、あのメギドで…?
(そんな所で、幽霊になって待っていたって…)
 ハーレイは来やしないんだから、と思った所で気が付いた。
 前の自分が会いたかったハーレイは、シャングリラで地球に向かったけれど。メギドの跡地には来るわけがなくて、待っているだけ無駄なのだけれど…。
 今の時代は出なくなった幽霊、誰も幽霊に出会いはしない。それでも昔の話は沢山、幽霊が出た時代の目撃談が幾つも伝わる。子供たちにも人気の怪談、今の自分も聞いたり、読んだり。
(タクシーに乗ってく幽霊の話…)
 人間が地球しか知らなかった時代は、かなり有名だったという。辛うじて月まで行った程度の、遠い昔の地球での話。
 自分の家までタクシーに乗ってゆく幽霊とか、何処かまで乗る幽霊だとか。道でタクシーを拾うものだから、運転手はまるで気が付かない。新聞に載っていた絵とは違って、足もあるから。
 知らずに乗せてしまう幽霊、目的地に着いて「着きましたよ」と振り返ったら、消えている客。
 つまり幽霊は、タクシーに乗って移動していた。自分の行きたい場所に向かって。
(前のぼくだって、メギドの所で待ってたら…)
 宇宙に幾つも散らばる残骸。それに座って待っていたなら、人類の船が通っただろう。回避する航路を取っていたって、船体の灯で気付く筈。「あそこを船が通っている」と。
 船が通るなら、タクシーのようには使えなくても、何隻もの船を乗り継いで行けば…。
(シャングリラにだって…)
 いつかは辿り着けたのだろう。あの懐かしい白い鯨に。
 ミュウの版図が拡大する中、次から次へと乗り継いだなら。乗組員やら乗客の話を頼りに情報を集めて、白い鯨を追って行ったら。
 「今はあそこだ」と見当をつけて。其処へと向かう船を見付けて、乗り換えて追い続けたなら。



 そうすればきっと着けたんだ、と閃いた白いシャングリラに帰ってゆける方法。幽霊だったら、人類の船をタクシー代わりに、乗せて貰って行けばいい。運賃なんかは払わずに。
 遠い昔の幽霊だって、乗車賃は払わなかったから。心優しい運転手たちは、家に帰ろうと乗った幽霊たちの気持ちを思って、それを肩代わりしたという。お客を乗せたら、会社に分かる仕組みになっていたから、誰かが支払うべき運賃。「幽霊を乗せた」と言いはしないで、自分がそっと。
(タクシーの運転手さんに払わせちゃったら、とっても申し訳ないけれど…)
 人類の船に無賃乗車をするのだったら、心は少しも痛まない。どうせ誰一人、気付きさえしない幽霊になったミュウの乗客。食事もしないし、船の設備も使わない客。
 無賃乗車なら、簡単に出来た。「あれに乗ろう」と決めた船へと飛んでゆくだけで。
(前のぼく、それに気が付かなかった…?)
 タクシーとは違って宇宙船だから、正確に言うなら無賃乗船。そうすればいいということに。
 人類の船に乗ればいいのに、気付きもしないで、ボーッとメギドの残骸に座っていたろうか…?
 シャングリラは何処へ行ったのかと。…今頃は何処を飛んでいるかと、独りぼっちで。
(前のぼく、タクシーなんて知らなかったから…)
 もちろん言葉は知っていたけれど、アルテメシアでタクシーも目にしていたのだけれど。本でも何度も読んでいたから、知識だけは持っていたのがタクシー。けれど無かった、乗った経験。
 路線バスにさえ、乗った記憶がまるで無かったソルジャー・ブルー。子供時代にはきっと乗っただろうに、成人検査と人体実験の末に忘れてしまった、公共の交通機関というもの。
 そのせいでタクシーを思い付きさえしないで、ただシャングリラを待っただろうか。ハーレイが舵を握っている船、懐かしい白い鯨が通りはしないかと。
 地球へと向かう旅の途中で、運よく此処を通り掛かってくれればいいのに、と独りぼっちで。
(前のぼくの馬鹿…)
 幽霊になった記憶は全く無いのだけれども、そうだったなら。
 思いを残して幽霊になって、タクシー代わりの船に乗らずに、メギドの跡地でぼんやりと一人、白い鯨が通るのを待っていたなら、大馬鹿者でウッカリ者。
(人類の船に乗って行ったら、幾つも乗り継いで、シャングリラに着いて…)
 再会できただろうハーレイ。思念体が幽霊の正体だったら、再会した後は側にいられた。
 前の自分を失くして一人で悲しみ続けた、ハーレイの心を慰めることも出来たのに。



 戻る方法はあったんだ、と今頃になって気付いた自分。幽霊になってメギドにいたなら、人類の船を探せばよかった。独りぼっちで座っていないで、タクシー代わりに乗ってゆける船を。
(大失敗…)
 前のぼくってホントに馬鹿だ、と頭を抱えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり謝った。迂闊だった前の自分のことを。
「ごめんね、ハーレイ。気が付かなくて…」
 ホントにごめん。ぼくの失敗…。ウッカリしていて、うんと大馬鹿…。
「はあ? 失敗って…。お前は何をやらかしたんだ?」
 今日の授業じゃ何も無かったと思うんだが…。俺が教室を出て行った後で何かあったのか?
 お前が俺の株を下げていたのか、俺が授業中にやったミスでも暴露して…?
 それも勝手な勘違いで、とハーレイに覗き込まれた瞳。「俺はミスしていないしな?」と。
「違うよ、そういうのじゃなくて…。ハーレイは関係ないんだってば」
 ぼくが一人で失敗していて、失敗したのは今のぼくじゃなくて…。
 前のぼくだよ、幽霊になっていたんだったら、大失敗…。前のぼくが幽霊だったらね。
「幽霊だって? …どういう意味だ?」
 前のお前の幽霊の話は知らないが…。シャングリラの中にはいなかったからな、お前の幽霊。
 いたなら評判だっただろうし、俺だって会いに出掛けてる。…幽霊になったお前でも。
 それなのに何処で幽霊になると言うんだ、シャングリラの中じゃないんなら…?
「メギドだよ。幽霊は思いを残した場所に出るって言うじゃない」
 今は幽霊が出ない時代だけど、ずっと昔の幽霊は、そう。自分が死んだ場所に出るとか、とても行きたかった場所に行くだとか…。
 幽霊の話で有名なのがあるでしょ、タクシーに乗って行く幽霊。自分の家まで乗ったりするの。
 前のぼくが幽霊になったかどうかは分かんないけど…。
 もしも幽霊になっていたなら、メギドでぼんやりしてたかも…。残骸にポツンと座ってね。
 前のぼくは今のぼくと違って、タクシーに乗るのを知らなかったから…。
「なんだって?」
 どうして其処でタクシーになるんだ、宇宙にタクシーは飛んでいないと思うんだが…?
 それに前のお前とタクシーの話も、俺にはサッパリ謎なんだがな…?



 何処からタクシーが出て来るんだか、とハーレイは怪訝そうな顔。それはそうだろう、メギドで死んだソルジャー・ブルーとタクシーが繋がるわけがない。
 今の自分が考えてみても、「前のぼくはタクシー、知らなかったよ」と思うくらいに無縁だった乗り物。ただの一度も乗っていなくて、乗る機会さえも無かったタクシー。
「えっとね…。前のぼくがメギドで幽霊になっていたのかも、っていうのは分かるでしょ?」
 前のぼくの幽霊は誰も見ていないけれど、それは消えちゃった後だったせいなのかも…。
 トォニィたちがメギドの残骸を片付けに行った時には、もうハーレイも死んじゃっていたし…。
 前のぼくはハーレイと一緒に天国か何処かに行ってしまって、いなくなった後。
 それまではメギドにいたのかも…。独りぼっちで残骸に座って、真っ暗な宇宙を眺めながら。
 人類の船が通っていたって、残骸を避けて飛ぶわけだから…。誰も見ないよ、前のぼくの幽霊。いつもポツンと座っていたって、その直ぐ側を通らないなら、船の窓からは見えないよね?
 それだと見落としてしまうだろうし、前のぼくの幽霊、ホントはあそこにいたのかも…。
 前のハーレイが迎えに来てくれるまでは、メギドにいたかもしれないんだよ。
 誰も知らなかったソルジャー・ブルーの幽霊が…、と幽霊のことから説明した。其処から話していかないことには、タクシーの話も出来ないから。
「メギドにお前の幽霊か…。前のお前の幽霊なあ…」
 それはあるかもしれないな。寂しい話になってしまうが、まるで無かったとは言い切れん。
 前のお前は泣きじゃくりながら死んだわけだし、幽霊になれる資格は充分あった。
 誰にも恨みは持っていなくても、この世に思いが残っていたなら、幽霊になるそうだから…。
 なっていて欲しくはないんだがな、とハーレイがフウと零した溜息。鳶色の瞳も悲しげだから、きっと前の自分を想ってくれているのだろう。
 恋人のことが心残りで幽霊になってしまうなんて、と。そうなったならば、ハーレイにはとても悲しい結末。ソルジャー・ブルーが天国に行かずに、ハーレイのことを想い続けていたのなら。
 それに気付いたから、「間違えちゃ駄目」とハーレイを軽く睨んだ。
「ハーレイのせいじゃないってば。前のぼくが幽霊になっちゃっていても」
 前のぼくが自分で選んだ道だよ、そうするつもりは無かったとしても。
 ハーレイのことを忘れられなくて、それで幽霊になっちゃったんなら、前のぼくは平気。
 メギドで独りぼっちにしたって、ずっとハーレイのことを好きなままでいられたんだから…。



 真っ直ぐに天国へ行ってしまうよりも幸せだよ、と心配性な恋人に微笑み掛けた。地球への道を進み続けるハーレイを天国から見守り、手を貸せたならばいいけれど…。
(きっと手なんか貸せないんだろうし、ただ天国から見てるってだけで…)
 悲しみさえも無いと聞く天国。そんな所で安穏と暮らして、ハーレイが独りぼっちで歩み続ける姿を「見ているだけ」の日々なんて酷い。それよりは同じ独りぼっちで想い続ける方がいい。
 メギドでポツンと一人きりでも、白い鯨は見えなくても。
「ホントだよ? ぼく一人だけで天国に行くより、ハーレイと同じ世界にいたいよ」
 幽霊になったぼくの姿に、誰も気付いてくれなくても。
 人類の船は残骸を避けて飛んでゆくから、幽霊のぼくを怖がってくれる人もいないままでも。
 それでね…。
 もしも、前のぼくがシャングリラに行けていたとしたなら、ハーレイ、どうした?
 幽霊のぼくが船に戻ったら…、と投げた質問。それがタクシーに繋がるから。
「戻るって…。お前、どうやって戻るつもりだったんだ?」
 前のお前は幽霊になってメギドの跡地にいるんだろうが、と丸くなった瞳。そんな所から戻れはしないし、「現に、お前は来なかった」とも。
「そうなんだけど…。それをハーレイに謝ったんだよ、さっきのぼくは」
 気が付かなくて失敗したって言ったでしょ。ウッカリしていた大馬鹿者だ、って。
 メギドで幽霊になっていたなら、シャングリラに行ける方法だってあったんだよ。幽霊だしね。
 幽霊だけが使える方法が…、と小首を傾げてみせた。「ハーレイ、知らない?」と。
「…幽霊って…。魂は一日で千里を駆けるって言うが、そのことか…?」
 凄い速さで飛んで行けると昔から言われているんだが…。前のお前は瞬間移動で飛べたしな。
 生きてる時から速かったんだし、幽霊はもっと速いってことか?
 自分の力に全く気付いていなかったのか、とハーレイは見当違いなことを言い出した。幽霊なら速く飛べたというのに、シャングリラを追い掛けて来なかったのか、と。
「ううん、前のぼくが持ってた力じゃなくて…。もっと普通の幽霊にだって出来ることだよ」
 今の時代は幽霊はいないらしいけど…。見たっていう話も聞かないけれど…。
 ずっと昔の話は今でも残っているでしょ。その中に沢山あるんだってば、幽霊が移動する方法。
 ハーレイもきっと知ってる筈だよ、タクシーに乗って行く話。



 自分の家までタクシーに乗って帰る幽霊とか、何処かまで乗って行く幽霊、と例を挙げてみた。今の自分も幾つも聞いたり、本で読んだりした話を。
「運転手さんは幽霊だって知らずに乗せて、目的地までちゃんと走って行って…」
 着きましたよ、って後ろを向いたら消えちゃってた、っていう話。
 幾つもあるから、ハーレイも知っていそうだけれど…。タクシーに乗った幽霊のこと。
 お金は払ってくれないみたいだけどね、と真面目な顔で言ったら、「あれか…」と頷いてくれた恋人。「昔、よくあったらしいよな」と。
「俺も色々と話は知ってる。運転手さんが乗車賃を払っておいたってことも」
 幽霊は払ってくれないからなあ、仕方ないよな。
 だが、運転手さんたちも優しかったという話だから…。家に帰りたかったんだろう、と誰一人、怒りやしなかった、とも伝わってるし。うんと長い距離を乗せてしまった人だって。
 しかしだ、そいつを前のお前がどう使うんだ…?
 宇宙にタクシーは飛んでいないぞ、とハーレイはまだ分かってくれない。ソルジャー・ブルーが幽霊だったら、どうやってシャングリラに戻るのかを。
「タクシーだってば、前のぼくもそれで帰るんだよ。…タクシーに乗って」
 確かに本物は飛んでないけど、船は幾つも飛んでいたから…。人類軍の船も、民間船も。
 メギドの残骸を避けていたって、船の光は見える筈だよ。幽霊のぼくの所から。
 それが見えたら船まで飛んで行ってね、後はタクシーみたいに乗せて貰えばいいと思わない?
 何処へ行く船でもかまわないから、乗っていれば何処かの星に着くんだろうし…。
 運が良ければ、最初の船でも噂を耳にするかもね。…モビー・ディックとか宇宙鯨の。
「おい…。人類の船でシャングリラを追い掛けようっていうのか?」
 目撃情報とかを頼りに、船を幾つも乗り継いだりして。…タクシー代わりに無賃乗車で…?
 そうやって俺たちを追って来るのか、とハーレイが驚いた顔で瞬きするから「うん」と答えた。
「お金なんかは払わなくても誰も困らないでしょ、本物のタクシーじゃないんだから」
 それに幽霊だし、御飯を食べたりしないもの。船の物資は減ったりしないよ。
 何隻も船を乗り継いでいったら、きっとシャングリラに追い付けたんだと思うんだけど…。
 何処かの星で同じ宙港に着陸するとか、宇宙ですれ違うことになるとか。



 噂を頼りに追い掛けて行けば捕まえられるよ、と自信たっぷりに宣言した。
 タクシーの代わりに、人類が乗った宇宙船で追うシャングリラ。いつかは必ず追い付いた筈で、船に戻れていたと思う、と。
「今のぼくなら無理だろうけど、前のぼくだよ? きっと出来たよ」
 その方法さえ思い付いていたら、メギドなんか直ぐに離れたってば。人類の船の光が見えたら、もう大急ぎで乗り込んで。…行き先なんかは気にもしないで。
 そうやって旅を始めたとしても、前のぼくなら辿り着けたと思うんだけど…。
 きっとシャングリラに帰れた筈なのに、前のぼく、ウッカリしちゃってて…。ホントに失敗。
 幽霊だったらタクシーに乗って行けばいいのに、タクシー、知らなかったから…。
 乗ったことなんか一度も無いから、思い付かずにメギドで座ったままだったみたい…。
 ホントにごめん、と謝った。
 ハーレイの所に戻る方法があったというのに、そうしなかったソルジャー・ブルー。ぼんやりと座っていただけだったらしい、前の自分の幽霊のことを。
「そういうことか…。前のお前がタクシーってヤツを知っていたなら、戻れたんだな?」
 ただし、お前が幽霊になっているっていうのが大前提だが…。
 天国に行ってしまっていたなら、その方法は使えないんだが…。
 そうなっちまうと、俺も悩むな。お前が戻って来てくれるんなら、幽霊でもかまわないんだし。
 幽霊のお前は辛いんだが…、と考え込んでしまったハーレイ。
 天国に行けずに幽霊になったソルジャー・ブルーは辛いけれども、シャングリラに戻れるのなら話は別らしい。たとえ幽霊の姿でも。…メギドからタクシーに乗って戻って来た恋人でも。
「…ハーレイ、もしも幽霊のぼくが船に戻ったら、どうしてた…?」
 シャングリラを頑張って追い掛け続けて、何処かの星で追い付いた、ぼく。
 一番最初はハーレイの所へ会いに行くから、ハーレイ、ビックリするだろうけど…。
 仕事が終わって部屋に帰ったら、幽霊のぼくがいるんだから。…「ハーレイ、ただいま」って。
 そういう幽霊に出会ったら…、と尋ねてみた。「ハーレイは、それからどうするの?」と。
「決まってるだろう、お前を思いっ切り抱き締めるんだ。…透けちまっていても」
 触れようとしても触れられなくても、お前はお前なんだから…。誰よりも大事な俺の恋人。
 ついでに、誰にも言わんだろうな。ソルジャー・ブルーが戻ったことは。



 俺の部屋に大切に隠しておくんだ、とハーレイは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 「お前は俺の所に戻って来てくれたんだし、俺のものだ」と。
「隠しておきたくもなるだろうが。…誰も気付いていないんだから。船のヤツらは」
 お前がブリッジに戻ったんなら、隠しておくのはとても無理だが…。他のヤツらも気付くから。
 しかし真っ先に俺の部屋に来たなら、まだ誰一人として気付いちゃいない。
 そんな幸運、俺が見逃すと思うのか…?
 せっかく恋人が戻って来たのに、他のヤツらに知れちまったら、恋は秘密のままなんだぞ?
 それだと、お前が生きていた頃と何も変わらん。お前が幽霊になっていたって。
 そういう思いをするのは辛いし、部屋にこっそり隠しておくのが良さそうだがな…?
 誰もお前がいることに気付かないように…、と一人占めをする気でいるハーレイ。幽霊になった前の自分が船に戻ったら、キャプテンの部屋に隠しておいて。まるで宝物か何かのように。
「いいね、それ。…シャングリラのみんなには内緒だなんて」
 ハーレイ、ちゃんと恋人同士なんだね、幽霊のぼくと。
 ソルジャー・ブルーだったぼくじゃなくって、ただのブルーで恋人だったぼくと…。
 内緒にしておいてくれるんだ、と胸がじんわり温かくなった。船に戻ろうとは思ったけれども、その先のことは考えてさえもいなかったから。
 ただ「戻ろう」というだけで。戻り損ねた前の自分の、迂闊さを嘆いていただけで。
 考えてみれば、船に戻っても皆に知れたら、「ソルジャー・ブルー」でしかいられない。幽霊の姿になっていたって、前と同じに皆を導くしかないのだろう。
 …そのために戻ったと思われて。ハーレイの所に戻ったのだとは言えもしなくて、恋は変わらず秘密のまま。命を失くした後になっても、ハーレイの側だけにいられはしない。
 そんな自分を、ハーレイは「隠す」と言い切ってくれた。船の仲間に見付からないよう、自分の部屋にこっそりと。…幽霊になった恋人だけれど、恋を大切に守り抜くために。
「内緒にするのが一番いいし、戻って来てくれたお前のためだ」
 ソルジャーの役目を続けるために戻ったのなら、俺はお前を止めやしないが…。
 俺の所に来たってことは、お前にその気は無いんだからな。
 戻って来たのは俺の恋人で、ソルジャー・ブルーじゃないってことだ。俺の所に戻って来たくてタクシーに乗って、やっとシャングリラに着いたんだろう…?



 お前の気持ちを大切にしてやらないと…、と優しい瞳で見詰められた。幽霊になってまで戻って来たなら、もうソルジャーにはさせないから、と。
「死んじまった後までソルジャーだなんて、それじゃお前も辛いだろう?」
 俺の側でゆっくり休めばいいんだ、生きてた間に頑張り続けた分までな。…死んじまうほどに。
 もっとも、お前に触れようとしても無理なんだろうし、キスさえ贈れはしないんだろうが…。
 そうだとしても、お前が何処にもいないよりかは、ずっといいしな?
 いつもお前と一緒にいられる、とハーレイが描いてくれる夢。前の自分が死んでしまった後に、幽霊になって白いシャングリラに戻っていたら、という幸せな夢。
 思念体でも姿を消すことは可能なのだし、部屋を出る時はそうしていればいいという。いつでもハーレイの側を離れず、ブリッジに行く時も、会議も一緒。
 誰も気付きはしないから。…ハーレイの側には、幽霊の恋人がついていることに。
「なんだか素敵…。いつもハーレイと一緒なんだね」
 生きてた頃よりずっと素敵だよ、ブリッジでも食堂でもハーレイと一緒。
 前のぼくには、そんなこと出来なかったのに…。ハーレイの側にくっついて過ごすことなんて、もう絶対に無理だったのに…。
 ハーレイはキャプテンで忙しかったし、ソルジャーのぼくでも一日中、側にいるのは無理。
 でも、幽霊なら、ホントにいつでも一緒なんだね…。
 誰も気付きやしないんだもの、と幸せな気持ち。たとえ身体も命も失くしていたって、どんなに心が満たされていたことだろう。ハーレイの側を離れることなく、いつも一緒にいられたら。
「お前がいるのがバレちゃマズイし、外では声は掛けられないがな」
 それに思念も無理かもしれん。…鋭いヤツが船にいたなら、見抜かれることもありそうだから。
 視線しか向けてやれなかったかもしれないが…、と言われたけれど。
「充分だってば、視線だけでも。ハーレイの目がぼくを見てくれればね」
 壁を眺めるふりをしてても、ぼくにはちゃんと分かるもの。「見てくれた」って。
 気付いたら、ぼくもハーレイを見詰め返すから。…ハーレイの手を握ったりもして。
 思念体だから触れない手だけど、ぼくの気持ちは伝わるだろうし…。
 何も言わずに立っていたって、ハーレイならきっと分かるでしょ?
 ぼくにもハーレイの気持ちが分かるよ、言葉も思念も貰わなくても。



 キャプテンの部屋から外に出たなら、寄り添うことしか出来ない幽霊。言葉も思念も皆の前では交わせないから、本当にただ側にいるだけ。思念体さえも、ハーレイにしか捉えられない淡い姿にしてしまって。…もう文字通りに幽霊の自分。
 それでも心は通じただろう。いつも一緒にいられただろう。
 二人きりの部屋に戻った時には、触れ合えなくても恋人同士の優しい時間。地球を目指して続く戦いの日々が激しくなっていっても、ハーレイの心を癒せた筈。
 激務に追われる恋人の側にそっと寄り添い、ソルジャー・ブルーとして生きた頃よりも、ずっと役立てたことだろう。「ただの恋人」なのだから。ハーレイに安らぎを与えるだけの。
「…前のぼく、そうすれば良かったのにね…」
 タクシーに乗って帰るってことを思い付いて。…シャングリラを宇宙船で追い掛けて行って。
 ハーレイの所に帰っていたなら、ハーレイの役に立てたのに…。
 独りぼっちにしてしまう代わりに、いつだって側にいられたのに…。
 気付かなくってホントにごめん、と頭を下げた。幽霊になっていたなら、本当に大失敗だから。
「そんなに何度も謝らなくても、俺は気にしちゃいないんだが…。むしろお前が心配だ」
 幽霊になって側にいたなら安心だったが、メギドで一人じゃ可哀想だから。
 俺の所に来るべきだったな、お前。…タクシーに乗ったことは無くても、宇宙船を幾つも眺める間に思い付いて。「あれに乗ろう」と、タクシー代わりにして。
 いや、しかし…。いなかったのが正解かもしれん。俺の側には。
 お前がメギドで一人寂しく座っていたにしたってな…、とハーレイが言うものだから。
「いない方がいいって…。どうして?」
 独りぼっちでメギドにいるより、ハーレイの側がいいに決まっているじゃない。
 なのにどうして、と問い掛けた。「どうして、いなかった方がいいなんて言うの?」と。
「…俺は地球まで行ったんだぞ。そいつをよくよく考えてみろ」
 辿り着いた地球は死の星だったわけで、お前が最後まで憧れた星があの有様だ。
 お前、見るなり泣いちまうだろうが。夢がすっかり砕けてしまって、消えてしまって。
 だから知らない方がいいんだ、とハーレイは気遣ってくれるけれども、死の星の地球。青くない地球を前の自分が目にしていたなら、どうなったろうか。
 幽霊になってハーレイと一緒に辿り着いたら、其処に死の星があっただなんて。



 前の自分が夢見た地球。焦がれ続けた青い水の星。それの代わりに死の星を見たら、涙が零れたことだろう。ハーレイたちが驚き、悲しんだように。
 幽霊の瞳でも涙は零れて、何粒も頬を伝っただろう。けれど…。
「…そうだね、泣いてしまうと思う…。ハーレイたちと同じで、きっと本当に悲しくて…」
 でも、ハーレイが一緒だよ?
 ぼくが死の星を見て泣いている時も、隣にはハーレイがいてくれるから…。
 夢だった星は何処にも無くても、ハーレイと二人で地球を見たなら、ぼくは満足だと思う。青くなくても、生き物は何も棲めない星でも。
 それに一緒に地球に降りられるよ、もうそれだけで充分じゃない。残念に思うことはあっても、地球に着いたらミュウの未来が手に入るから。
 ぼくは平気だよ、そんな地球でも。SD体制を終わらせるために行くんだから。
 どんな星でも満足だから、と口にした後で気が付いた。前のハーレイは地球に降りた後、地の底深くで命尽きたのだったと。燃え上がり、崩れゆく地球から脱出できずに。
 ならば、ハーレイと地球に降りたら…、と途切れた言葉。自分たちの恋がバレたろうか、と。
「バレるって…。そういや、ゼルたちが一緒だったな」
 あそこで俺が死んじまったら、俺たちの恋がバレるってか…?
「そうならないかな…。みんなが死んだら、ぼくと同じで幽霊みたいになるわけだから…」
 ぼくの姿も見えてしまうよ、それまではハーレイにしか見えない姿でくっついていても。
 見えた途端に、どうしてぼくが一緒にいるんだろう、ってことになるから…。
 それとも嘘をつけばいいのかな、「迎えに来たよ」って。
 ぼくは先に死んでいるんだものね、と考え付いた言い訳。それなら少しも変ではないし、と。
「嘘としては上出来なんだがな…。誰も疑いやしないだろう。しかし、その後が問題だ」
 ゼルたちも一緒に行くことになるぞ、天国まで。…お前、迎えに来たんだからな?
 俺と二人で恋人同士で行くんじゃなくって、賑やかな旅になりそうだが…?
 それでいいのか、と尋ねられたから「困るってば!」と悲鳴を上げた。
「困るよ、そんなの…。ずっとハーレイと一緒にいたのに、なんで最後にそうなっちゃうの?」
「迎えに来たんじゃそうなっちまうし、咄嗟の嘘が命取りってな」
 とっくに命は失くしていたって、命取りってことでいいだろう。みんな揃って天国行きだと。



 恋人同士で旅立ちたいなら、お前はメギドにいた方が…、と言われればそういう気もしてきた。
 ハーレイも自分も独りぼっちで寂しいけれども、そっちだったらハーレイの命が尽きて出会えた途端に、恋の続きが始まるから。
 魂は千里を駆けると聞いたし、ハーレイが駆けて来てくれるのだろう。幽霊になって、メギドの残骸にポツンと座っていたら。
 タクシーに乗ることさえも思い付かずに、ぼんやりと一人で暗い宇宙にいたならば。
「…前のぼく、やっぱりメギドにいたのかな…?」
 ソルジャー・ブルーの幽霊の話は聞かないけれども、見た人が誰もいなかっただけで…?
「さてなあ…?」
 そいつは俺にも謎なわけだが、前の俺はお前を何処かで見付け出したんだろう。
 お前が俺を迎えに来たなら、ゼルたちと一緒に旅立つコースになっちまうからな、賑やかに。
 二人で旅に出ようと言うなら、俺がお前を探さないと。
 でないと賑やかに天国行きだぞ、とハーレイが指摘する通り。そういう具合に旅立ったのなら、此処にはいないことだろう。シャングリラの仲間とずっと一緒で、二人きりにはなれないまま。
「そっか…。それじゃ、やっぱりメギドなのかな?」
 前のぼくはメギドで独りぼっちで、残骸に座ってハーレイを待っていたのかな…?
「そうかもしれんし、違うかもしれん。…こればっかりは、今の俺たちには知りようもないし」
 だが、きっといつかは分かるだろうさ。俺たちは其処に還るんだから。
 お前と二人で其処へ還って、また地球の上に生まれてくる、という寸法だ。
 まだまだ先の話だがな、とハーレイが話す遠く遥かな未来のこと。いつか命が終わった時。
「そうだよ、今度はハーレイと一緒なんだから」
 ハーレイと一緒でなくちゃ嫌だよ、死ぬ時も二人一緒でなくちゃ。
「お前、そうしたいらしいしなあ…」
 俺より長生き出来る筈なのに、寿命の残りは捨てちまって。…もったいないと思うんだが。
 もう少し一人で生きてみようと思わないのか、と訊かれたけれど。
「嫌だってば!」
 今度こそ絶対にハーレイと一緒。
 二人で幸せに生きた後には、ハーレイと一緒に死ぬんだからね…!



 ハーレイと一緒でなくちゃ嫌だ、と褐色の小指に小指を絡めて指切りをした。
 「約束だよ」と何度も念を押しては、繰り返し。
 指をほどいては、また絡め合わせて指切りの約束。「ずっと一緒」と。
 死んだ時にも、幽霊になって待っているより、待って貰うより、一緒がいい。
 二人一緒に旅に出たなら、どちらも待たなくていいのだから。
 何処かにある筈の世界に向かって、手を繋ぎ合って還ってゆけばいいのだから。
 前の自分はタクシーに乗ってハーレイの所へ行きそびれたから、二度と失敗したりはしない。
 いつまでも、何処までも、ハーレイと一緒。
 青い地球の上で生きた後にも、還ってゆく場所で過ごして再び、地球に生まれてくる時にも…。



            幽霊のぼく・了


※幽霊になる資格はあった筈なのに、ソルジャー・ブルーの幽霊を見た人は一人も無し。
 メギドの残骸にポツンと一人でいたなら、人類の船を乗り継いでシャングリラを追えたかも。
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←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(キース君かあ…)
 今は珍しくない名前だよね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 SD体制を崩壊させた英雄の一人、国家主席だったキース・アニアン。彼は人類で、ミュウではなかった。その上、機械が無から作った生命。
 けれども彼は強く生きたし、ミュウの時代を築く礎にもなった人間。お蔭で人間が全てミュウになった今でも、誰もが名前を知っているキース。遠い昔の英雄として。
 彼の名前を子供につける親も多いから、「キース」の名を持つ子供は多い。今の学校にも何人かいる、キースと同じ名前の生徒。姓は「アニアン」ではないけれど。
 この新聞に写真があるのも、そういう「キース君」たちの一人。此処からは少し遠い所で、下の学校に通っている子。まだ十歳で…。
(キースって言うより、シロエみたい…)
 丸顔だから、幼い頃のシロエのよう。本物のシロエではない、と確信出来るけれども。もちろんキースの方でもない子。瞳の色が全然違うし、雰囲気だってまるで違う子。
 幼い間は違うにしたって、育ってもきっと違うだろう。シロエにもキースにもならない。中身は全く別人だろうし、見た目もきっと。
(生まれ変わって来たのは、ぼくとハーレイの二人だけ…)
 そうなのだろう、と前から思っていること。
 今の自分とハーレイは前とそっくり同じ姿に生まれて来た上、前世の記憶も取り戻したけれど。チビの自分が育った時には、二人とも本当に前の通りになるけれど。
(ぼくに聖痕が現れるまでは、二人とも何も知らなかったし…)
 生まれ変わりだと気付きもしないで生きていた。ハーレイの方は、三十七年間も。チビの自分も十四年間、まるで知らなかった自分の正体。まさかソルジャー・ブルーだったなんて。
 神様に聖痕を貰ったくらいの、奇跡のような生まれ変わりでも、この有様。
(それに聖痕、最初は怖かったくらいだから…)
 自分が別の人間だなんて、と怖かったのが記憶を取り戻す前。今の自分が消えてしまいそうで。
 奇跡でさえも「怖い」と怯えた自分のことを覚えているから、いないのだと分かる前世の記憶を持って生まれた人間。同じ世界に前の自分の知り合いがいたって、前とは違う人間だろうと。
 仮にキースやシロエがいたとしても、前の生の記憶を持ってはいないと。



 今の自分とハーレイだけしか、生まれ変わって来ていない世界。前の生の記憶を持った形では。奇跡は簡単に起こりはしないし、本当にきっと二人だけ。
 もっとも、そういう事情は全く抜きにしたって…。
(このキース君は別人だよね)
 ぼくが出会ったキースとは、と眺める写真。輪郭だけならシロエに似ているキース君。生まれて直ぐには未来の姿は分からないから、こんなことだってあるだろう。
(ぼくの学校にも、名前だけがキースの生徒がいるしね?)
 彼がそうだ、と言われなければ分からないキース。まるで似ていないものだから。
 新聞の写真のキース君だって、何処にでもいる「英雄のキース」と同じ名前の男の子。キースの名前を貰っただけ。両親が「キースのように強く」と名付けた名前で、本物のキースとは違う。
 けれど、新聞に載っているだけあって…。
(…日本一周…)
 遠い昔の小さな島国、日本を名乗っている今の自分が住んでいる地域。日本だった頃とは地形がすっかり変わったけれども、日本は日本。かつて日本があった辺りに生まれた島国。
 キース君は今の日本を一周する旅をしているという。
 サイクリングが趣味のお父さんと一緒に、幼い頃から子供用の自転車で走り続けて。下の学校に入る前から、もう乗っていたという子供用自転車。小さな足で、せっせとペダルを踏んで。
 そうやって始めた日本一周。長い休みには家から遠く離れた所を沢山走って、週末だって家から行ける範囲の所を走り続けて…。
(今度の週末にゴールイン…)
 周り尽くした、今の日本。一度に周ったわけではなくても、日本を一周できる道路を。
 北の端から南の端まで、西も東も、自転車で走ったキース君。雨の日だって、走れそうだと判断したなら、ペダルを踏んで。風が強い日も、暑い夏休みも、寒さが厳しい冬休みも。
 そのキース君が今度の週末、お父さんと一緒に、住んでいる町に向かって走る。日本一周の旅を達成するための最後の道を。
 キース君の家からは少し離れた町を出発点にして。
 「最後は此処の道を走ろう」と、旅の最初に決めていた道路。ゴールになる町に向かって出発、朝にスタートするという。夕方までには家に着くよう、お父さんと二人で自転車を漕いで。



(なんだか凄い…)
 たったの十歳、なのに自転車で日本一周。一度に周ったわけではなくても、積み重ねた距離。
 子供の足でも走れる範囲で、お父さんに決めて貰った分を。「この休みには、これだけ」と。
(ぼくは自転車…)
 辛うじて乗れるというだけのことで、自分の自転車も持ってはいない。弱い身体は直ぐに疲れてしまうし、友達と一緒に走ってゆけはしないから。
 十四歳になった今でも自転車で走れる自信は無いのに、この子は走った。幼い頃から。
 日本をぐるりと一周するだけの道を走って、週末にはゴール。だから新聞記事にもなる。近くに住んでいる人たちなら、最後の旅を道沿いで応援できるから。「頑張って!」と。
 キース君とお父さんが乗った自転車、それが向こうからやって来たなら、手を振って。
(小さいのに、よく頑張ったよね…)
 ホントに凄い、と日本一周だけでも感動するのに、十歳のキース君の次の目標。一人旅が出来る年になったら、今度は一人で日本一周。お父さんと一緒に走った道を一人で走る。
 やり遂げた後は、世界一周の旅に出たいという。もちろん自転車、一人旅で。
(凄い夢だよ…)
 ぼくの夢よりずっと大きい、と感心しながら戻った二階の自分の部屋。キース君が載った新聞を閉じて、空になったカップやケーキのお皿をキッチンの母に返してから。
 勉強机の前に座って、さっき読んだ記事を考える。まだ十歳なのに自転車で日本一周、もうすぐゴールするキース君。旅を終えたら、次の目標に向かって走る。
 一人旅をするには小さすぎるし、二回目の日本一周に行くか、トレーニングを積んでゆくのか。
 未来の大きな夢に向かって、自転車で走るキース君。いつかは世界一周なんだ、と。
 それに比べて自分ときたら、将来の夢はお嫁さん。ハーレイと一緒に旅もするけれど…。
(ぼく一人だと、隣町だって怪しいかも…)
 きちんと辿り着けるかどうか。ハーレイの両親が暮らす、庭に夏ミカンの大きな木がある家に。
 自転車で走ってゆけはしないし、車も運転できない自分。車の免許は取れそうにない。
 歩いて行くなどもっと無理だし、路線バスに乗るしかないのだろう。直通のバスがあれば安心、乗り込めば運んでくれるから。
 けれど乗り換えだと、間違えて違うバスに乗ってしまいそう。気付けば知らない町にいるとか。



 隣町さえ、辿り着ける自信が無い自分。直通の路線バスが無ければ、一人きりでは。ハーレイの車に乗ってゆくなら、眠っていたって着けるけれども。
 遠いもんね、と思い浮かべた隣町。とても歩いて行けない距離で、バスに乗るしかないけれど。
(キース君なら…)
 その年だったら、自転車に乗って走って行ってしまうのだろう。隣町くらい、軽々と。
 日本一周の旅に比べれば、近所を散歩するようなもの。きっと十歳のキース君にとっても。今の自分が結婚できるのは十八歳だし、キース君が同じ年になるには八年もある。八年間も練習できる自転車、今でも充分凄いのに。もっと上手くと、もっと速くとトレーニングを積んでゆく日々。
 十八歳になった頃には、この町から隣町まで走るどころか、ずっと遠くの町からだって自転車で走り抜くだろう。隣町までの距離を、何日もかけて。
 うんと遠くの町から走り始めるのならば、其処までは路線バスなどで行くのだとしても…。
(自転車も一緒に乗せて貰って、一人旅だよ)
 上の学校に行く年でもあるから、十八歳なら、きっとそう。一人旅での日本一周、そういう旅に出る頃だから。今のキース君の目標なのだし、世界一周の夢に向かって一人で日本一周。
 旅費を安く上げるためにも工夫を凝らして、自転車の旅。何処まで行ったら安い宿があるのか、下調べをして。「此処で泊まれたら楽なのに」と思う所に高い宿しか無ければ、テントとか。
 一人で自転車の旅をするほどだったら、テントも楽に張れる筈。天気が急に悪くなりそうなら、宿のある場所まで走れないこともあるだろう。不測の事態に備えてテントで、高い宿しか無ければテント。宿泊費は全くかからないのだし、一番安く上がる宿。
(ぼくとは比較にならないってば…)
 負けた、と思ったキース君。まだ十歳の子供だけれども、ぼくよりも上、と。
 今の年でも自転車に乗って走ってゆける隣町。「すぐ隣だよ?」と子供用の小さな自転車で。
 育った後にはもっと強くて逞しくなるし、とても敵わないキース君。夢は一人旅で日本を一周、それを終えたら世界一周なのだから。
(大きくなったら、世界一周…)
 いつかハーレイと旅をしていたら、キース君が横を走って行きそう。
 日本からは遠く離れた地域で、自転車に乗って、颯爽と。
 旅慣れた様子で荷物なども積んで、向かい風でも負けはしないで。



 そうなるかもね、と思う未来のこと。何処かで出会う、大きくなったキース君。
 ハーレイのお嫁さんになるだけの自分と違って、目標に向かって走る途中の。八年後だったら、日本の中で出会うのだろう。それでも充分、凄すぎる。一人旅で自転車、それだけのことで。
(うー…)
 ぼくは自転車にも乗れないのに、と悲しい気持ち。キース君に負けたと思い知らされる時。
 ハーレイの車でドライブに出掛けて、一休みしようと入った店にキース君も入って来るだとか。店のドアを開けて、「一番安いのは何ですか?」と。
 お腹が空いても、高い食事をしていたのでは旅費が高くなるだけ。店に入るなら、一番安いのを頼むだろう。メニューも見ないで、サッと尋ねて。
(ハーレイ、声を掛けちゃいそう…)
 もしもキース君が入って来たなら、何が一番安い料理か訊いたなら。
 ハーレイは自分もスポーツをやるし、同じ雰囲気を感じ取って。自転車と柔道は違うけれども、水泳も全く別なのだけども…。
(きっと分かるよね、どっちもスポーツなんだもの…)
 自分の身体を動かさないと、自転車は前に進みはしない。どんなに険しい坂道だって、自転車のペダルを踏まないと少しも登れはしない。自転車だって、立派なスポーツ。旅ともなれば。
 ハーレイのことだから、自転車で日本一周の旅の途中だと聞いたら、きっと大感激。キース君の年を聞いたら、なおのこと。
 「まだ若いのに凄いもんだな」と、何か御馳走したりもして。「頑張れよ」と肩を叩いて。
 「俺の嫁さんとは、えらい違いだ」とも言うかもしれない。自転車にも乗れやしないから、と。
(いいんだけどね…)
 そう言われようが、ハーレイが「凄い子に会った」と喜ぼうが。その子の名前がキース君でも、ハーレイは気にもしないのだろう。いくらハーレイがキース嫌いでも、同じ名前というだけで嫌うわけがない。其処まで心が狭くはないし、キースと「キース君」は別。
 せっかくだからと記念写真も撮るかもしれない、キース君と。
 「お前よりずっと頑張ってるぞ」と笑って、「お前も入れ」と三人で写す記念写真。ドライブの途中で会った凄い子、自転車で日本を一周しているキース君と話をした記念に。



 今のハーレイの心を鷲掴みにしそうなキース君。自転車で頑張るスポーツマン。自転車が好きな人は多いけれども、キース君ほどの子は滅多にいない。大勢いるなら、新聞に載りはしないから。
 十歳の今でも敵わない子で、育ったらもっと敵わない。自転車に乗って日本一周、世界一周。
(ホントに、ぼくの負けだってば…)
 前のぼくが会ったキースの方なら負けないけどね、と負け惜しみ。キース君が名前を貰った筈の英雄、キース・アニアン。あっちの方なら、負けてはいない。互角に戦えたのだから。
(今のぼくだと負けるけれども、前のぼくなら…)
 メギドでだって、マツカが救いに来なかったならば、刺し違えていた。キースを道連れに死ねた筈だし、実力は互角。むしろ自分の方が上かも、と思った所で気が付いた。
 本物のキースは、キース君とは違ったことに。
 前の自分ならキースに負けてはいなかったけれど、そのキース。彼はどういう人間だったか。
(…本物のキース…)
 前の自分が出会ったキースには、自転車で一緒に走ってくれるお父さんどころか、養父母さえもいなかった。機械が無から作った生命、水槽の中で育ったキース。育ての親も持たないままで。
(そこはフィシスと同じだけれど…)
 フィシスもそういう生まれだったけれど、その先が違う。フィシスは前の自分が攫った。水槽の中でフィシスが見ていた、青い地球へと向かう夢。前の自分が魅せられたもの。
 彼女が抱く青い地球が欲しくて、ミュウにしてまで手に入れた。自分のサイオンを分けて、白いシャングリラの仲間たちを皆、欺いて。
 「ユニバーサルで生まれたミュウの少女だ」と、「青い地球を抱くミュウの女神だ」と。
 そうやって迎え入れたフィシスはシャングリラで生きて、機械からは自由になった人生。彼女を処分しようとしていた研究者たちとも、無縁なままで。
(ぼくがフィシスをミュウにしなかったら…)
 フィシスは機械の言うがままに生きていたのだろう。人類を導く理想の指導者、そういう立場に祭り上げられて。盲目だろうが、女性だろうが、一切を考慮されないで。
 その運命から逃れたフィシス。生まれのことやナスカの悲劇を巡ってトォニィに責められたりもしたって、最後はとても幸せに生きた。船の仲間たちに全てを明かした後は。
 カナリヤの子たちを立派に育てて、幼稚園の先生にもなって。今も伝わる「フィシス先生」。



 機械が無から作ったものでも、フィシスは自由に生きたと思う。生まれのことで悩みはしても。自分の正体に気付いた後には、白いシャングリラで苦しんでいても。
 誰もフィシスに「こう生きろ」などと命令しないし、自分の意志で選び取れた道。どういう風に生きてゆくのか、どの道を歩んでいけばいいかと。
(だけど、キースは…)
 フィシスと違って、機械が敷いたレールの上を歩むことしか出来なかった。彼が育った水槽から外に出た後は。「キース・アニアン」として目を覚ました後は。
 E-1077への入学時期に合わせて、水槽から外に出されたキース。その段階から既に、全て計算されていた。友達として、サムと出会わせるとか。宇宙船の事故に対処させるとか。
 SD体制に逆らい続けたシロエも、キースを育てるために連れて来られた。ミュウ因子を持った少年を一人、と選び出されて。
 キースが気付いていなかっただけで、友達のサムも、キースを敵視していたシロエも、何もかも与えられたもの。「キースに相応しい者」として。
 サムとスウェナはジョミーの幼馴染の二人だったし、ミュウを知るのに役に立つ。キースが何も知らない頃から準備されていた、ミュウの長との出会いに備えたプログラム。
 シロエも同じにミュウを知るため、それにキースに「人を殺す」ことを教えさせるためにと用意された。殺す相手が全て敵とは限らないのだと、ステーション時代のキースに教えるために。
 それからフロア001のこと。キースが自分の生まれを知る日に備えて、蒔いておくべき疑問の種。いつか真実を知った時にも、けして動揺しないようにと。
(誰と出会って、誰と友達になるのかまで…)
 周到に用意していた機械。キースが彼らと知り合うように、計算ずくで。
 親友だったサムも、キースが殺したシロエも、マザー・イライザが出会わせた。そうなるように時を選んで、自然な形で顔を合わせるようにして。
(キースが自分の自由に出来たの、ほんのちょっぴり…)
 機械が関与しなかったことは、マツカに出会って彼を生かしていたことくらい。マツカの正体を知っても隠し続けたキース。自分の側近にしておいたならば、誰も調べはしないから。不審な点があったとしたって、「まさか」と一笑に付されるだけ。キースの側近がミュウだなんて、と。



 最後まで誰も気付かなかったマツカの正体。キースを庇って斃れた時も、人類側は誰一人として見なかった。サイオンを使ってトォニィと戦うマツカの姿を。
(SD体制が崩壊した後に…)
 トォニィが語って、明らかになった「キースの側にミュウがいた」こと。マツカがミュウだった事実は直ぐに宇宙に広がり、ミュウと人類の距離を一気に縮めた。「本当に同じ人間なのだ」と。
 キースが其処まで考えた上でマツカを側に置いていたのか、そういったことは分からない。長い時が流れた今になっても。
 マツカを側近にしていた他には、サムの病院に何度も見舞いに出掛けていたこと。子供に戻ってしまったサムを見舞っても、機械には何の益も無い。それに費やす時間があるなら、もっと仕事をすればいのにと考えただろう。グランド・マザーなら、きっとそうだった筈。
 けれどキースはそうする代わりに、かつての友を訪ねていた。多忙な任務の合間を縫って。
 ミュウとの戦いが激しくなっても、やはり同じに。…部下たちを待たせて、サムの病院へと。
(それくらいしか、キースには…)
 無かった自由。自分の意志で側に置けたのはマツカだけ。他の部下たちは、グランド・マザーが選んで配属したのだから。キースの役に立つ、優秀な人材で固められた周り。
 「コーヒーを淹れるしか能が無い」と揶揄されたマツカと、心が子供に戻ったサム。それだけがキースが「選べた」者。側近としてミュウのマツカを、友として、かつての親友を。
 本当に僅かだけだった自由。他には何も無かっただろう。キースが自分の好きに出来たことは。
(…キース、選べなかったんだ…)
 自分の生まれも、生きてゆく道も。
 機械に無から作り出されて、水槽の中で育ったキース。養父母も与えられないで。
 フィシスよりもずっと長い期間を水槽の中しか知らずに生きて、目覚めたら大人社会への入口。機械が与えた友やライバル、サムやシロエと出会って別れたステーション時代。
 全ては機械の手のひらの上で、自分が何かを知った後には、一層縛り付けられた。自分を無から作った機械に、それを命じたグランド・マザーに。
 E-1077を処分してみても、キースの生まれは変えられない。マザー・イライザに作られ、育てられたこと。…人類を導く指導者になるべく、無から生み出されたこと。
 どちらもキースを縛り続けて、知る前よりも失くした自由。自分が何かを知った後には。



 キースがE-1077を処分した時には、アルテメシアがミュウの手に落ちていた。SD体制の時代に存在してはならない異分子、ミュウが反撃に転じた時代。
 それから次々に陥落した星、負け知らずだった人類軍が敗れたという知らせばかりが届いた筈。国家騎士団にも、人類統合軍にも。
 きっとキースには見えていただろう人類の未来。「このままではミュウに敗れる」と。
(だけど、人類の指導者になるしかない、って…)
 そのために作られた生命なのだし、受け入れるしかなかった運命。国家騎士団総司令から、軍を離れてパルテノンへと。初の軍人出身の元老、それが指導者の道への始まり。
 人類の敗色が日に日に濃くなる中でも、キースには無かった逃げる場所。他の元老たちが愚かな分だけ、キースが努力するしかなかった。国家主席の座に就いてまで。
 ミュウの時代が来ると分かっても、グランド・マザーからミュウ因子の真実を知らされても。
 ミュウは進化の必然なのだと、いずれ世界はミュウのものになると悟っても。
(…それでも逃げられなかったんだよ…)
 人類の指導者として作られた生命だったから。他の生き方は出来なかったから。
 普通の生まれの人間だったら、マザー・システムにも見切りを付けられただろう。所詮は機械の言うことだから、と切り捨てて。
 キースも最終的にはそうしたけれども、もっと早くに。
 機械との因縁が何も無ければ、他の人間たちと全く同じに人工子宮から生まれていれば。機械が無から作ったからこそ、キースは縛り付けられた。自分を作り出した機械とシステムに。
(そのために作った人間なんだ、って言われちゃったら…)
 逆らうことなど出来なかっただろう。幼い子供ならばともかく、軍人として育ったキースには。
 長い年月、メンバーズとして培った強い意志やら理性。それらが逃げ道を塞いだだろう。臆病な者なら逃げられても。「こんな道は嫌だ」と、後をも見ずに走り去っても。
(…もしもキースが、逆らう道を選んだら…)
 たちまち導き手を失う人類。見る間にミュウに敗れてしまって、劣等種に成り下がるしかない。
 本当はそうではなかったのに。ミュウは対話を望んでいただけ、共に歩みたかっただけ。
 けれど機械は認めはしないし、キースもそれに従った。人類を導く者として。ミュウは忌むべき存在なのだと、最後の一人まで滅ぼすべきだと。



 そうやって生きたキースの側には、ミュウのマツカがいたというのに。グランド・マザーが何を言おうと、キースには分かっていた筈なのに。…ミュウがどういう存在なのか。
 ああいう生まれでなかったならば、異を唱えることも出来ただろう。もっと早くにミュウと手を結び、SD体制を倒すことだって。
 SD体制を維持するために作り出された、理想の指導者という立場。それがキースを呪縛した。真実を知る者は誰もいなくて、知ったシロエは死んだ後でも。
 E-1077を処分した後も、けして変えられない生まれ。機械が自分を作ったのなら、自らの責務を全うすべき。自分の意志はどうであろうと、グランド・マザーの導きのままに。
(…そんな生き方、可哀想すぎるよ…)
 前のぼくの方がよっぽどマシだ、と今頃になって思い知らされた。
 シャングリラの格納庫でキースと対峙した時、彼の生まれを見抜いたけれど。フィシスと同じに機械が作った生命だろうと気付いたけれども、それだけのこと。
 そうして生まれたキースの方には、まるで考えが及ばなかった。前の自分に残された時間、そのことばかりを考えていて。…生まれ変わった今になっても、自分のことだけで手一杯で。
(…キースが来たから、目を覚まして…)
 白いシャングリラを守るためにと、命を捨てた前の自分。
 ハーレイの温もりだけを右の手に持って、一人きりでメギドを目指して飛んだ。其処でキースに何発も撃たれ、失くしてしまった右手の温もり。
(ハーレイとの絆が切れちゃった、って…)
 もう二度と会えはしないのだ、と泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。冷たく凍えた右手の記憶は、今も自分の中にある。その悪夢を見て飛び起きる夜があるほどに。
 それでもキースを許しているから、ハーレイのように嫌いはしない。キースは自分の生きるべき道を生きていただけで、けして悪人ではないのだから。
 機会があったら話してみたい、と何度思ったことだろう。違う出会い方をしていたならば、友になれたと思うから。ミュウと人類でも、憎み合わずに、理解し合って。
 そういう夢を何度も描いて、今のハーレイにも話したのに。その度に顔を顰められては、恋人が心に負わされた傷の深さを思って辛かったのに…。
 肝心のキースには思い至らなかった。どれほど辛い人生だったか、彼が負わされた重荷には。



 キースには選べなかった生き方。自分の意志ではどうしようもなくて、選ぼうとも思わなかっただろう。そのように育てられたから。機械が彼を育てた後には、メンバーズの道があったから。
(思い通りに生きるなんてこと…)
 自分の自由に生きることなど、キースにとっては罪だったろう。上官の命令には従うものだし、それが出来ないなら軍人ではない。軽蔑すべき一般人。
 だからこそ自分を厳しく律して、私情は抜きで生き続けた。例外はマツカを生かして側に置いたことと、かつて親友だったサムの病院を何度も見舞っていたこと。
 それだけがキースの精一杯の自由、機械の命令を無視してやっていただろうこと。けれど、それ以上は無理だった。彼の生まれと受けた教育、その後の生き方が邪魔をして。
(好きに生きたら規律違反で、おまけに機械が無から作った生命で…)
 機械が指導者になれと言うなら、そう生きるしかなかっただろう。ミュウ因子の真実を知っても直ぐには動けずに。…人類の指導者だったから。
(…キースの好きに決めていいなら、その時点で和解しちゃっても…)
 国家主席の命令ならばと、途惑いながらも従っただろう人類たち。キースがグランド・マザーを停止させても、やはり同じに従った筈。最初の間は混乱しても、国家主席の命令だから。
 そういう道もあったというのに、キースは選びはしなかった。
 最後まで人類のことを考え、彼らのために最良の道を進み続けた。「自分自身で考えろ」というメッセージを残して、彼らに選ばせた道。キースの方から押し付けないで。
 ジョミーと二人でグランド・マザーの所へ行った時には、とうに答えを出していたのに。
 マザー・システムはもう時代遅れだと、機械の時代は終わらせねばと心を決めていた筈なのに。
 それでもキースは「人類の指導者」であろうとした。
 その責任を果たそうと剣まで握って戦い、それが悲劇を招いてしまった。
 グランド・マザーは、キースが人類の代表者だと捉えていたから。自分たちが生み出した理想の指導者、キースが反旗を翻すなどは有り得ないと。
(だから、キースの言葉尻を捉えて…)
 SD体制の続行は承認された、と誤った答えを弾き出した機械。
 その誤りに気付いたキースが逆らった時は、もう何もかもが遅すぎた。粛清されるしかなかったキース。機械は彼の思考を理解できずに、異分子だと判断を下したから。



 生まれて初めて自分のやりたいようにやったら、キースの命に打たれたピリオド。それも自分を作らせた機械、グランド・マザーの手によって。
 其処までの日々を、キースは懸命に生きたのに。ほんの僅かな自由しかない、生き方も選べない人生。そのようにしか生きられないまま、それが自分の道なのだからと茨の道を。
(…前のぼくだって、酷い目に遭っていたけれど…)
 アルタミラで地獄を味わわされて、脱出した後も幾つも重なった苦労。シャングリラがミュウの箱舟になっても、消せはしなかった深い悲しみ。ミュウの未来を案じ続けて。
 ソルジャーになってしまったけれども、やたら偉そうな肩書きや制服などを除けば、自分自身で選んだ道。「嫌だ」と思いはしなかった。「この道を行こう」と選んで生きた。
 キースに何発も撃たれた末に、泣きじゃくりながら死ぬことになったメギドにしても…。
(そうするしかない、って追い込まれたわけじゃ…)
 けしてなかった、前の自分。
 誰も「行け」とは言わなかったし、どちらかと言えばきっと止められた方。何をしようと考えているか、それが仲間に知れたなら。…前のハーレイが「駄目です」と腕を掴むとか。
 ハーレイにだけは「ジョミーを支えてやってくれ」と思念で伝えていたから、ハーレイがそれに逆らったならば、皆に取り押さえられていただろう。ブリッジの者たちが総がかりで。
 ジョミーがいても、ソルジャー・ブルーは失えない。船の誰もがそう考えただろうから。
(絶対、止める方だよね…)
 そうだろうから、皆には嘘をついて出た。「ナスカに残った仲間たちを説得しに行く」と。
 つまりは自分で選んだ道。これで死ぬのだと分かっていたって、自分の意志で。
 ハーレイとの別れは辛かったけれど、ミュウの未来が欲しかったから。…自分の命と引き換えにそれが手に入るのなら、命など惜しくはなかったから。
 誰に強制されたわけでもない人生。前の自分は思ったままに生きたというのに、それとはまるで逆様だったキースの人生。機械に無理やり歩まされたと言っていいほど。
(キース、ホントに可哀想だよ…)
 あんな機械に縛られちゃって、とキースが気の毒でたまらない。
 フィシスのように逃がしていたなら、別の人生があっただろうに。もっと彼らしく生きてゆける道が、自分の意志で歩める道がキースにも待っていたろうに。



 もしも、と考えるキースのこと。前の自分がフィシスと同じに攫っていたなら、どういう人生を歩んだろうか、と。
 キースはジョミーと同い年だし、フィシスくらいの年でシャングリラに連れて来ていたら、先に船にいたミュウの少年の一人。ジョミーと喧嘩したキムたちのように。
(キースなら喧嘩しないだろうし、ジョミーの友達には丁度よくって…)
 いい補佐役になっていたのかも、と思っていた所へチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速ぶつけた自分の考え。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、キースは可哀想だったと思わない?」
 ハーレイはキースが大嫌いだけど、そのキース。とっても可哀想なんだけど…。
「はあ?」
 あいつの何処が可哀想なんだ。お前、自分と間違えていないか、前のお前と。
 可哀想だったのはお前だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「あの野郎め」と、メギドでのことを持ち出して。ハーレイは聖痕を目にしているから、嫌うのも無理はないけれど…。
「それとは別だよ、キースが生きた人生のこと。メギドはほんの一部分でしょ?」
 キースはナスカを滅ぼした後も生きたけれども、自分で生き方、選べなかったよ。
 …キース君みたいに目標を立てて、それに向かって頑張るとかは。
「誰だ、そりゃ?」
 キース君と言っても、今の学校にも何人かいるが…。どのキース君だ、何処のクラスだ?
 学年の方も教えてくれ、とハーレイは見事に勘違いした。そうなるくらいに、今の時代は何人もいる「キース君」。SD体制を倒した英雄、キース・アニアンの名前を貰った子供。
 本物のキースは、彼らのようには生きられないで終わったのに。自分の生き方を選んだ途端に、機械に命を絶たれたのに。
「ううん、ぼくの学校の生徒じゃなくって、今日の新聞…」
 キース君っていう子供が載ってたんだよ、まだ十歳の男の子。
 小さい頃から自転車に乗ってて、お父さんと一緒に日本一周の旅をしてるんだって。
 その旅が今度の週末でゴールらしくて、キース君の夢も載っていて…。
 一人旅が出来る年になったら、今度は一人で日本一周。…もちろん自転車に乗って。
 日本一周の旅が済んだら、次は世界を一周だって。



 小さいけれども凄い子だよ、とキース君のことを説明した。
 いつか旅先で出会いそうな子で、ハーレイも好きになりそうだよね、と。
「世界一周の旅の途中か、日本一周の時にバッタリ会うか…。だって自転車なんだもの」
 お店で休憩だってするでしょ、一番安いものを頼んで。きっとそういう旅なんだよ。
 ぼくたちがいるお店に入って来たら、ハーレイ、声を掛けそうじゃない。自転車で旅行中だって聞いたりしたら、何か御馳走してあげそう…。「頑張れよ」って。
「そりゃまあ、俺も頑張っているヤツは好きだから…。自転車のスポーツマンだしな?」
 柔道や水泳とは違う道だが、御馳走したくもなるだろう。俺たちのテーブルに呼んでやって。
 しかし、何処から本物のキースに繋がるんだ?
 その自転車で走るキース君が…、とハーレイは怪訝そうな顔。「自転車だろう?」と。キースが自転車に乗っていたとは聞かないが、とも。「メンバーズだから当然、乗れるんだろうが」と。
「自転車は関係ないんだよ。キース君の夢の方が問題」
 キース君には未来の目標があって、いつか自分の力で掴んでいくけれど…。
 これからも自転車で走り続けて、一人旅が出来る年になったら、日本一周に出掛けるけれど…。
 世界一周の旅にも行くよね、日本一周が終わったら。…何処から周るか、計画を立てて。
 だけど、本物のキースには無理だったんだよ。そういう目標とか、夢を持つこと。
 キースが生きていく道は全部、機械に決められちゃっていたから…。水槽の外に出た時からね。
 友達にはサムが丁度いいとか、ライバルにシロエを連れて来るとか…。何もかも全部。
 フィシスはぼくが攫ったけれども、キースは攫わなかったから…。
 二人ともおんなじ生まれだったのにね、と零した溜息。フィシスは自由に生きたけれども、逆の道を歩まされたのがキース。機械の手許に残ったばかりに、機械に縛られた人生。
「おいおい、同じ生まれって…。お前、あんなのが欲しかったのか?」
 キースの野郎も、フィシスのと同じ青い地球を持っていたんだが…。前の俺も見たが、キースの地球まで欲しかったのか、前のお前は?
 フィシスの地球だけじゃ足りなかったか、と鳶色の瞳が丸くなる。「欲張りだな」と。もう一つ地球が欲しかったのかと、まさかキースの分までとは、と。
「地球が欲しかったわけじゃないけれど…。そうじゃないけど…」
 フィシスと同じように育っている子がいるんだったら、欲しかったかも…。知っていたなら。



 同じ実験でキースを育てていると知っていたら、と見詰めたハーレイの瞳。優しい鳶色。
「前のぼくがそれを知っていたなら、攫ったかも…。フィシスくらいの年の頃にね」
 もう少し育ってからでもいいかな、キースはジョミーと同い年だから貰っておいたら素敵だよ。
 機械が作ったことは内緒で、フィシスみたいにミュウにしちゃって。
 ジョミーの友達に、きっとピッタリ。喧嘩を売るようなタイプじゃないから、ジョミーが喧嘩を売りに行っても買わないよ。辛抱強く説得しそうで、ジョミーも話を聞いてくれるかも…。
 船から飛び出して行かないかもね、と披露した考え。キースだったら、きちんと筋道立てて話をするだろう。ジョミーが「ぼくはミュウじゃない」と怒り出しても、黙って最後まで聞いてから。
「うーむ…。キースが説得するって言うのか、あの暴れ馬だったジョミーをなあ…」
 歴史がすっかり変わりそうだが、それは確かにそうかもしれん。
 お前がシャングリラに連れて来ていたら、俺の大嫌いなキースには育ちそうもない。
 大人しいミュウの少年ってトコだな、シャングリラの中で大暴れをしたメンバーズとは別人で。喧嘩っ早いキムたちよりも腕は立つのに、それを一度も振るいはしない優等生。
 いい人材に育ったろうさ、とハーレイも頷くものだから。
「ハーレイもそう思うでしょ?」
 ジョミーの補佐役にもなってくれそうで、青い地球の映像もちゃんと持っていて…。
 キースもきっと幸せだったよ、あんな風に生きて死んでゆくより。機械に人生を縛られ続けて、自分のやりたいようにやったら殺されてしまった人生よりも…。
 本物のキースは、あの生き方でも後悔はしていないだろうけど…。
 あれで満足だっただろうけど、シャングリラに来てたら別の人生を生きられたわけで…。
 フィシスが自由に生きたみたいに、キースもジョミーと一緒に地球を目指して戦ったりして…。
 そっちの方がずっと素敵で、幸せだったと思うんだよ。機械に捕まったままで生きてゆくより。
 前のぼく、失敗しちゃったのかな…。
 キースに気付かなかったこと、と項垂れたけれど。
 もしもキースがフィシスと同じに作り出されて育っていたこと、それに気付いたなら、ミュウの未来も変わっただろうと思ったけれど…。



「仕方ないだろ、フィシスの時とは場所が違った」
 お前がフィシスを攫ったせいで、実験の場所がE-1077に移っちまったから。
 ミュウが攫って逃げたってことは、人類にも分かっていたんだろうし…。処分し損ねてミュウに攫われたんでは、ヤツらも嬉しくないからな。
 二の舞は二度と御免だとばかりに、宇宙に移動したってことだ。ミュウが近付けないように。
 フィシスがどうしてミュウになったか、其処までは掴んでいなかったろうが…。
 それでも実験場所は移すだろうな、とハーレイが指摘する通り。キースはE-1077で機械が作り出したから、前の自分は知りようがない。キースが作られたことさえも。
「あの実験、終わりだと思ってたのに…」
 フィシスを作って外に出したら、ミュウになっちゃったんだから…。
 大失敗だし、そんな実験はもうしないだろう、って…。
「俺も続けるとは思わなかった。フィシスで失敗した以上はな」
 せっかく無から作り出しても、ミュウになっては意味が無い。人類の指導者は人類でないと…。
 だからやめたと思っていたのに、懲りずに続けていやがったんだ。ミュウの来ない場所で。
 それで生まれたのがキースってわけで、もしも宇宙でなかったら…。フィシスと同じ所で続けていたなら、前のお前が攫いに行った、と。
 …キースの野郎にも違う人生、実はあったのかもしれないんだな。
 前のお前が攫ってシャングリラに連れて来ていれば…、とハーレイも驚く別の人生。キースには違いないのだけれども、まるで全く違ったキース。そういうキースがいたのかも、と。
「うん、メンバーズになってナスカに来ちゃう前から船にいるんだよ」
 本物のミュウとは違うけれども、ミュウの仲間になってるキース。メンバーズにはならないで。
 ジョミーの友達で補佐役なんだよ、キースなら、とても優秀だから。
「そう考えれば、流石の俺でも殴りたい気持ちが多少失せるが…」
 あいつが歩み損ねた人生、そっちに行ってりゃ、仲間だったかもしれないとなると…。
 だがな、世の中、結果が全てなんだ。
 お前が何を考え出そうが、本物のキースはああいう極悪人でだな…。
 前のお前に酷いことをしたメンバーズには違いない。ミュウのキースはいなかったから。



 とても許す気にはなれないな、と鼻を鳴らしているハーレイ。「俺は許さん」と。
 「前のお前を撃ったようなヤツは、極悪人だ」と。
「…やっぱり駄目?」
 ハーレイはキースを許せないって言うの、可哀想な人生だったのに…。
 前のぼくをメギドで撃ったのだって、機械がそういう風に育てたからだったのに…。
「当然だろうが、誰が許すか。前の俺はあいつを殴り損ねてしまったんだぞ」
 地球の上で顔を合わせていたのに、殴るどころか挨拶をしてしまったのが前の俺なんだ。とても許す気になれはしないし、何処かで会ったら殴り飛ばしてやりたいんだが…。
 しかし、さっきのキース君なら話は別だ。自転車で頑張って走っている子。
 キースの野郎と名前が同じってだけの小さなスポーツマンだぞ、とハーレイが褒めるキース君。
 「その子だったら好きになれるし、御馳走しようって気にもなるよな」と。
 本当にいつか、何処かで会うかもしれないけれど。自転車に乗って、日本一周の旅や世界一周の旅をしているキース君に出会うかもしれないけれど…。
(…本物のキースのことだって…)
 ハーレイに好きになって欲しい、と今だって思う。キース君のように気に入ってくれれば、と。
 前の自分のことをハーレイは何度も繰り返すけれど、いつか自分も前の自分と同じ姿に育つ筈。
 ハーレイと結婚式を挙げる時には、前の自分と同じに育っているわけだから…。
(前のぼくの姿を取り戻したら、今のハーレイのキース嫌いを直さなくっちゃね?)
 キース嫌いが直らないままだとハーレイも辛いし、自分も悲しい。キースが機械のせいで歩んだ人生、その悲しさに気付かされたら、なおのこと。
 違う人生を歩んでいたなら、キースも自由に生きられた。新聞に載っていたキース君のように。
 だからハーレイのキース嫌いを直して、あの自転車のキース君に会えることがあったなら…。
(ハーレイに、「おっ、キース・アニアンと同じ名前か!」って、楽しそうに…)
 心の底から笑顔になって欲しいと思う。
 「俺はキースのファンなんだ」と肩を叩いて、「何かおごるぞ」と指差すメニュー。
 「遠慮するなよ」と、「うんと高いのを頼んでいいぞ」と。
 辛い人生を生きた本物のキース、そのキースのことも好きなハーレイになってくれたらいい。
 今は無理でも時が流れて、自転車で一人旅をしているキース君に会える頃になったら…。



              キースの道・了


※キースと同名の子供から、ブルーが考えたこと。本物のキースは選べなかった生き方。
 前のブルーが攫っていたなら、別の人生があったのでしょう。そうならなかったのがキース。
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