シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
秋になったら学園祭に収穫祭。そんなお楽しみの季節が始まる前にキース君を待ち受けているもの、それが秋のお彼岸。元老寺の副住職だけに逃亡不可能、お彼岸に入れば休日はもれなく墓回向。お中日ともなれば法要、散々なシーズンですけども…。
「やっと終わった…」
今年も死んだ、とキース君は放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で討ち死にモード。バナナと梨のパウンドケーキにも手を付けないでソファにグッタリ、よほど疲れたものと思われます。
「えとえと…。キース、大丈夫?」
コーヒー飲む? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。コーヒーも放置でしたっけ…。キース君は「ああ、すまん」とカップを手に取り、ゴクリと一口。それからジョミー君とサム君の方に視線を向けて。
「おい、お前たちもいずれは辿る道なんだからな?」
「ぼくは坊主はやらないから!」
「俺も住職の資格は持ってないしよ」
二人が答えると「甘いな」の一言。
「本格的に修行に入ったら、経験値ってヤツがモノを言う。道場ってトコは厳しいぞ? いきなり役を割り振られる上、出来ませんなんて言おうものなら鉄拳だからな」
住職の資格を取りに行く道場の厳しさを説くキース君。
「噂じゃ、去年の道場な…。何処の寺のバカ息子かは聞いていないが、法要の練習で主役を振られた。だが、やり方が分からないしな? 出来ません、とトンズラしようとして、だ…」
「殴られたとか?」
ジョミー君が訊けば「甘い!」と一声。
「殴る程度は普通だ、普通! そいつはトコトン性根が腐れていたらしくて、指導員の愛の鞭が飛びまくった挙句に足を蹴られて脱臼したそうだ」
「「「だ、脱臼…」」」
なんと恐ろしい話なのだ、と私たちは震え上がりましたが。
「それだけで済んだと思うなよ? 脱臼したから修行出来ません、道場にはもうサヨナラです、と言える世界じゃないからな。その足を引き摺って最終日まで、だ」
「「「うわー…」」」
まさかそこまで厳しいとは…。その轍を踏まないよう、サム君とジョミー君も元老寺で練習しておくべし、ととキース君が説き、ジョミー君が断固拒否する光景は見慣れたものですけれど。
「…そうだ、忘れていた」
お彼岸疲れで綺麗サッパリ、とキース君。忘れていたって、いったい何を?
「…実は、お中日の法要の後の打ち上げの席でな…」
キース君はようやっとパウンドケーキを食べ始めながら。
「檀家さんに頼みごとをされたんだ。どうしたものか、と思って保留にしてあるんだが」
「頼みごとねえ…」
会長さんが興味を抱いたようで。
「保留とはまた、君らしくもない。どういう内容だったわけ?」
「いや、それが…。御祈祷を頼む、といった話で」
「そのくらいなら受ければいいだろ、ぼくたちの宗派も御祈祷をしないわけではないし」
基本は南無阿弥陀仏だけれど、と会長さん。
「璃慕恩院でも最近は護摩を焚くようだしねえ、檀家さんのお願いくらいは聞いてあげれば?」
「……御祈祷で何とかなるものならな」
「え? 合格祈願の御祈祷だってする世の中だよ、結果はお寺に関係ないだろう?」
「そういうわけでもないんだ、それが」
だから保留だ、とキース君は少し困った顔で。
「少なくとも俺と親父ではどうにもならん。頼りにされているのは多分、あんただ」
「ぼく?」
「あんたが掛軸を処理した話はウチの寺では有名だからな」
あの掛軸だ、と挙げられた例は、ずっと昔にソルジャーの世界から「ぶるぅ」が飛び出して来た怪しい掛軸。『月下仙境』という名前でしたか、描かれた月が異世界への出入り口になっていて妖怪だの何だのが湧いて出るから、と檀家さんがアドス和尚に預けたのです。
「あったね、そういう掛軸も…」
「あの掛軸を見事に封印したのが、あんただ。だから今回もきっと…」
あからさまには言われなかったが狙いはあんただ、とキース君。
「しかしだ、モノがモノだけに返事をしかねる状況で…」
「ぼくは何でも歓迎だけど? 貰えるんだよね、御祈祷料は」
「ああ、そこの所は間違いない。お布施はこのくらいで如何でしょうか、と訊かれたからな」
キース君が立てた指が一本ならぬ二本。これはなかなかにゴージャスです。
「へえ…。アドス和尚と山分けしたって指一本かあ…」
引き受けよう、と会長さんは即答したのですけれど。
「あんたはそれでかまわないのか? モノは河童だぞ」
「「「河童!?」」」
またしても妖怪変化の類が出ましたか? 河童と言ったら河童ですよね…?
檀家さんから頼まれたらしい御祈祷のお値段、指二本分。素晴らしいお値段に会長さんは乗り気なのですが、キース君曰く、モノは河童で。
「河童って…。出るのかい?」
何処に、と会長さんが尋ねました。
「そういう噂は聞かないけれども、アルテメシアの川だよね?」
「…川だったらまだいいんだが…」
「沼か池かい? 別に何処でもかまわないけど」
流石は伝説の高僧、銀青様。御祈祷で河童を封印するのか、倒すのか。やる気満々、お布施という名の報酬に釣られて行け行けゴーゴー状態です。
「とにかく出るのを何とかすればいいんだろう? そのくらいならお安いご用さ」
「出る方だったら俺も悩まん!」
保留にはせん、とキース君。
「じゃあ何さ? まさか実害、出ちゃったとか? …出そうだとか?」
河童の子とか、と会長さんがブツブツと。
「そっちだったら産婦人科の仕事だねえ…。河童が来ないようにする方は出来るけれどさ、妊娠しちゃった子供の方はどうにもこうにも」
え。河童の子って…。産婦人科って、人間が河童の子供を妊娠するわけですか?
「そういう事例が遠い昔にはあったと聞くねえ、実際に見た事は一度もないけど」
会長さんによると、河童の子供は言い伝えレベル。とはいえ生まれた例が皆無とは言えず、現に「ぶるぅ」が飛び出して来た掛軸からは妖怪がゾロゾロ出て来たのですし…。
「河童の子供は産婦人科にお任せするよ。それで祟りが怖いと言うなら御祈祷を」
「……子供の方もまるで無関係とは言えんのだが……」
だが、とキース君は苦悩の表情。
「あんた、遺伝子の組み換えとかは出来るのか?」
「え?」
なんで、と会長さんの目がまん丸に。
「それって研究者の仕事だろ? なんで御祈祷が関係するわけ?」
「檀家さんの頼みがそいつだからだ! 有り得ない生物を作ってくれと!」
「「「ええっ!?」」」
有り得ない生物を作れと言う上に、河童の子供も無関係ではない話。もしや人間の胎児を遺伝子組み換え、河童の子供に仕立てようとか?
「…そ、そういうのは倫理的には如何なものかと…」
いくら自分の子供でも、と会長さんは顔色が良くありません。
「どういう目的で河童が欲しいのか分からないけど、人間の子供を河童にするのは…」
「俺はそこまで言っていないが」
壮大な話を作り上げるな、とキース君は苦い顔をしました。
「檀家さんの依頼は河童のミイラだ。そいつを本物の河童に仕立てて将来に備えたいらしい」
「「「は?」」」
今度こそ話が意味不明。本物の河童に仕立てるも何も、河童のミイラは在るのでしょう。そりゃあ河童のミイラってヤツは偽物だらけと聞いていますが、それを遺伝子組み換えとやらで本物に仕立てて将来にどう備えると…?
「分からんか? 河童のミイラは檀家さんの家の家宝でな…。と言うか、昔から屋根裏に宝物があると伝わっていて、だ。最近、家をリフォームするのに大工を入れたら謎の箱が」
屋根裏の梁に古びた大きな箱が結び付けられていたという話。蓋に『河伯』の二文字があって、開けてみたらば河童のミイラ。
「それでだ、檀家さんは今は金には困っていないが、子孫の代にはどうなっているか分からんからな? 今の間に河童のミイラを正真正銘の河童にしたい、と」
そうすれば将来、鑑定に出せば謎の生物として箔がつく上、高く売れるとか見世物にするとか、本当の意味での宝物になるであろう、というのが檀家さんの読み。
「なにしろ現時点では効き目が絶倫だけだからなあ…」
「「「絶倫?」」」
「あれだ、あっちのブルーが目の色を変える絶倫だ。宝物に関する言い伝えの中に、「もしも子孫が絶えそうになったら宝物を探して粉にして飲め」とあったらしい。それで絶倫、早々に子宝に恵まれること間違いなしだと」
「「「へえ…」」」
河童のミイラが精力剤だとは知りませんでした。しかし会長さんが河童の子供が云々などと言ったからには好色な河童が居ても可笑しくないわけで。
「檀家さんが言うには河童のミイラはまず間違いなく偽物らしい。だが、偽物だと分からない時代もあったわけだし、そんな時代に宝物のミイラで絶倫と聞けばプラシーボ効果も…」
プラシーボ効果、すなわち偽薬でも信じて飲んだら効くというヤツ。イワシの頭も信心からで、河童のミイラで子宝も充分ありそうです。
「というわけでだ、子供も無関係では無いとは言った。問題はその先の祈祷の話だ」
出来るのか? とキース君は会長さんを見詰めました。明らかに偽物であろう河童のミイラを「鑑定に出してもバレないレベルの謎の生物」に仕立てられるのか、と。
「うーん……」
腕組みをする会長さん。この段階で無理難題に近いということは分かりました。とはいえ、考え込むからには何か方法が…?
「やってやれないことはない。…ただし、御祈祷料が全然足りない」
その百倍は貰わないと、という強烈な仰せ。
「河童のミイラとやらに半永久的にサイオンを張り巡らせることになるからねえ…。何処を削ってサンプルを採られても、MRIだのCTだので撮影されてもバレないように…さ」
そこまでのサイオンを使うんだったら御祈祷料は安くて百倍、本当だったら千倍貰ってもいいくらいだ、と言われましても。
「お、おい! その檀家さんは裕福ではあるが、河童のミイラにそんなに出すなら…」
「お金で残しておくんだろ? そっちがオススメ」
断りたまえ、と会長さんはバッサリと。
「ぼくの力をアテにしてるんなら、こう言うんだね。「イカサマに加担する気は全く無い。阿弥陀様の前で嘘はつけない、嘘は妄語で五戒に反する」と断られた、と」
「そうか、五戒か…。坊主は五戒を破れんからな」
その線で行くか、とキース君も頷いたのですけれど。
「ちょっと待ったぁーっ!!」
いきなり響いた叫び声。誰だ、と振り返った先に見慣れた紫のマント。
「…河童だって?」
ミイラだってね、とソルジャーが笑顔で立っていました。
「しかも粉にして飲めば絶倫、子宝に恵まれるんだって?」
「いや、だから! そいつはプラシーボ効果というヤツで!」
誰も効くとは言っていない、とキース君は反論しましたが。
「さあ、どうだか…。昔の人の知恵っていうのも侮れないしね、まるで根拠が無いとも言えない。そのミイラ、ぼくに任せてくれたら遺伝子くらいはどうとでも……ね」
「なんだって!?」
「分からないかな、ぼくの世界は技術が遙かに進んでいる。このぼくでさえも人工子宮から生まれてるんだよ、そんな世界に遺伝子を弄る技術が全く無いとでも?」
サイオンなんかは要らないんだよ、とソルジャー、ニッコリ。
「いろんな惑星の環境に合った植物や動物を作り出すとか、人類だってやっている。そんな時代に生まれたミュウが本気のサイオンを使った場合は!」
新種の生き物も作れるのだ、とソルジャーは威張り返りました。そういえばサイオンを使えるナキネズミとやら、ソルジャーが作ったと聞かされたような…?
「ぼくはナキネズミだって作ったんだよ」
新種の生物で生殖能力もちゃんとある、と得意げな顔で話すソルジャー。
「ああいうのを一から作るのに比べたら、河童のミイラの一つや二つを作り替えるくらいは朝飯前でね。だってミイラだし、それ一体だけ作り替えればいいんだろう?」
「…それは確かにそうなんだが…」
「じゃあ、やるよ。報酬の方は別に要らない。お小遣いに不自由はしてないからね」
ソルジャーのお小遣いはエロドクターからの貢物。ランチやディナーに付き合うだけで気前よくポンポンくれるらしくて、そのお小遣いでキャプテンと一緒にこっちの世界で食べ歩きをしたり、素敵なホテルに泊まったり。ゆえにお布施など必要無くて。
「指二本分の報酬だっけ? それは君たちで山分けすれば?」
「せめてお布施と言ってくれ!」
キース君はそう叫びましたが、河童のミイラな依頼の件はどうやら解決出来そうなわけで。
「…あんたがやってくれるのか…。だったら檀家さんの期待も裏切らずに済むが」
「ぼくにドカンとお任せってね!」
ついでに絶倫な成分の入ったミイラだといいな、とソルジャーはウットリしています。
「偽物が多いとか話してたけど、偽物作りに使った材料が絶倫になれる代物だったら期待大! こっちの世界のスッポンとかは効果が素晴らしいしね」
「…河童のミイラはスッポンではないと俺は思うが…」
「とにかく河童のミイラとやらを借りて来てよね、でないと何も出来ないから!」
「その点は俺も承知している。御祈祷をすると言って借りて来る」
現地での御祈祷は難しいのだ、と言えば簡単に借りられるであろう、とキース君。それはそうでしょう、指二本分もの御祈祷料を頂く御祈祷、普通の民家のお座敷なんかじゃ有難さも何もあったものではありません。
「よし、どうせブルーに……いや、こっちのブルーに期待をかけての依頼なんだし、一ヶ月くらい借りておいても問題無かろう。その線でいこう」
「了解。それじゃ、河童のミイラとやらの作り替えにはブルーの家を借りてもいいかな?」
ぼくのシャングリラでやるのはちょっと、と言うソルジャーに、会長さんが「うん」と。
「お布施を山分けしてもいいなら、場所くらい貸すよ」
「オッケー、商談成立ってね!」
河童のミイラを借り出して来い、とソルジャーがキース君に指示を下して、河童プロジェクトがスタートすることになりました。キース君は帰ったら早速、檀家さんに電話をするそうですけど、河童のミイラを拝める日はいつになりますかねえ…?
河童のミイラの作り替え。御祈祷をする、とキース君に連絡を貰った檀家さんは大喜びで翌日の朝に古ぼけた箱を元老寺へ運び込みました。其処から先は会長さんとソルジャーの仕事。まずは会長さんがアドス和尚からお布施を受け取り、瞬間移動で河童入りの箱を自分の家まで。
「いやあ、アドス和尚も気前がいいねえ…」
まさか全額貰えるだなんて、と会長さんは御機嫌です。アドス和尚は元老寺の面子が立って評判が上がれば充分と考えていたらしくって、分け前は不要。指二本分のお布施はまるっと会長さんの懐に転がり込むことに…。
「それで河童のミイラはどうだったわけ?」
偽物だった? とジョミー君。此処は放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋です。
「偽物だろうと思うけど…。まだ確認はしてないんだよ」
どうせだったら皆でジャジャーン! と開けたいじゃないか、と会長さん。
「ブルーが来るのは明日だしね? みんなの目の前で初公開だよ」
「いいですね!」
楽しみです、とシロエ君。
「色々調べてみたんですけど、偽物はサルとからしいですね?」
「サルに細工をするのよね」
私も調べた、とスウェナちゃん。
「いろんな見かけのミイラがあったわ、サイズも色々」
「俺も調べてみたんだけどよ…。すっげえ上手に出来ているよな、それっぽいよな」
サム君も楽しみにしているようです。もちろん私も河童のミイラなんて実物を見るのは初めてですから、ドキドキワクワク。
「大いに期待しててよね。ぼくもサイオンで透視はしてない」
どんなミイラが出て来るやら…、と会長さん。河童のミイラはピンからキリまで、本物としか思えないものからショボイものまであるのだそうで。
「どうせだったら本物っぽいのを希望だよ、うん」
せっかく作り替えるんだから、と言いたい気持ちは分かります。胡散臭いのを作り替えて凄いミイラを作り出すより、それっぽいのがいいですよね!
土曜日の朝、私たちはバス停で待ち合わせてから会長さんのマンションに向かいました。管理人さんに入口を開けて貰って、エレベーターで最上階まで。玄関のチャイムを鳴らすと間もなく扉がガチャリと開いて。
「かみお~ん♪ いらっしゃい! ブルーも来てるよ!」
入って、入って! と飛び跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」の行き先は普段と違う部屋。いつもだったらリビングに通されるか、はたまたダイニングか。けれど本日はまさかの和室で。
「やあ、おはよう」
「一足お先にお邪魔してるよ」
広い和室に会長さんと私服のソルジャーが座っていました。会長さんはピシッと正座で、ソルジャーは体育座りというヤツ。
和室の棚には阿弥陀様が収められた御厨子が安置されていて、その前の畳に大きな古びた木の箱が。阿弥陀様は私たちが特別生になって初めての夏休みに埋蔵金を探していた時、蓮池の底から掘り出した思い出の黄金の阿弥陀様。
古びた木箱が河童のミイラ入りの箱なのでしょう。御祈祷と銘打ったなら阿弥陀様のある部屋が相応しいですが、なんとも大きな木箱です。畳一枚の半分くらいは余裕でありそうな長方形の木箱。古ぼけっぷりも半端ではなく…。
「大きいだろ、これ」
サルだとしたらかなり大きい、と会長さん。
「この国のサルではないかもね。精力剤として輸入してきた特別なサルのミイラとか…」
「サルって精力剤なのかい?」
ソルジャーの問いに、会長さんは「さあ?」と無責任な答え。
「そういう話は聞かないけれども、サルは性欲が凄いからっていう例えで「サル並み」と言うね」
「サル並みだって?」
「そう。性欲の強い男性を指すのにサル並みだ、とね」
「それは凄いね、それじゃ効くかも!」
早く開けよう、とソルジャーが膝を乗り出し、会長さんも。
「百聞は一見にしかずだしねえ、まずは拝んでみるとしようか」
それじゃ一応、と数珠を取り出し、ジャラッと繰ってから朗々と読経。お念仏やら呪文のような真言やらを織り交ぜ、最後にパパッと手で印を切って。
「これでよし、っと。頼まれたからには御祈祷ってヤツもしておかないとね」
なにしろお布施が指二本分、とのお言葉ですけど、それにしては思いっ切り略してませんか?
ともあれ開封のための御祈祷完了、会長さんとキース君が二人がかりで箱の蓋を開け。
「「「うわあ…」」」
蓋に墨で黒々と書かれた『河伯』の二文字はダテではありませんでした。出て来たミイラは大きさの方もさることながら、浮き出た骨格はサルっぽいどころか謎の生物。頭骨はサルと言われればサルに見えなくもないですけれども、身体がまるで違います。
「えーっと…。これってホントにサル…?」
見えないんだけど、とジョミー君が指差し、サム君が。
「なんか違うよなあ、俺が調べた河童のミイラにこんな形のは無かったぜ?」
「私もこういうのは見てないわ」
スウェナちゃんが悩み、マツカ君が。
「頭と手は辛うじてサルでしょうか?」
「ですねえ、水かきがついてますけど…」
よく出来てます、とシロエ君。ミイラの手には水かきもきちんとついていました。水かきはサルの手につけられるとしても、ミイラの身体。どう見てもサルらしくない骨格。
「なんだろう、これ?」
「俺にも分からん」
まさか本物…、とキース君が首を捻る横から、ソルジャーが。
「…ぼくも詳しくはないんだけどさ。地球の生き物には疎いんだけれど、オットセイかな?」
「「「オットセイ!?」」」
どの辺が、と思いましたが、サルよりはオットセイとかアザラシの方が近そうです。会長さんが「ちょっと調べて来る」と部屋を出てゆき、暫くしてから一枚の紙を持って戻って来て。
「…多分、正解」
これがオットセイ、と差し出された紙にはオットセイの骨格標本がプリントアウトされていました。見比べてみるとよく似ています。前足と後ろ足を外してサルの手足と替えたら、こんな感じになるでしょう。ついでに頭もサルと交換。
「オットセイか…。あんた、よくオットセイだと見抜いたな」
「そりゃね、お馴染みの生き物だしね?」
ソルジャーはパチンとウインクして。
「オットセイのパワーは凄いんだよ! まさに絶倫、オットセイの薬は基本の基本!」
オットセイはハーレムを作るんだから、とソルジャー、力説。
「その絶倫のパワーを秘めた薬は効くからねえ…。うんうん、それでキースが言ってた言い伝えとやらが出来たのか…。子孫が絶えそうな時は飲んで絶倫、子宝パワー!」
素晴らしすぎる、とソルジャーは感激してますけれども、オットセイのミイラだったとは…。
河童のミイラの正体はどうやらオットセイとサル。本物の河童でないことは分かりました。この偽物を鑑定に出してもバレないレベルの謎の生物に作り替えるのが御祈祷ならぬソルジャーの仕事。どうするのかな、と私たちは興味津々です。
「やっぱりサイオンを使うのかい?」
会長さんが訊くと、「ナキネズミはそうやって作ったけどねえ…」と、のんびりと。
「でもねえ、これはとっくの昔に死んでる上にミイラだしさ」
そんなに手間暇かけなくても、とソルジャーは「どっこいしょ」の掛け声と共に宙から箱を取り出してきて。
「とりあえず、お手軽に使える薬剤がこれだけ」
箱の蓋が開くと、中にズラリと何種類もの液体が入った試験管。
「ぼくの世界じゃ、学校なんかでこういう実験もするんだな。これに浸すだけで細胞レベルの変化が起こったりもする。学校の実験で新薬発見、なんてニュースも珍しくない」
ぼくは頭からぶっかけられたり水槽に放り込まれたり、と人体実験をされていた時代の怖い話も出て来ました。
「ぼくなんかはタイプ・ブルーだからねえ、何をされても平気だけどさ。ハーレイなんかも防御力に優れたタイプ・グリーンだから問題無いけど、弱いミュウだと免疫系を破壊されちゃって死んじゃうこともあったらしいね」
「「「………」」」
そんな薬を持ち込むな、と誰もが心で思いましたが、ウッカリ声に出してしまって頭からバシャッとかぶる羽目になったら困ります。此処は黙って見守るが吉。ソルジャーはウキウキと防水シートなんかも取り出し、畳の上に「よいしょ」と広げて。
「このシートはねえ、こう折って…。そしてこういう風に曲げれば」
ヒョイヒョイとソルジャーが作業する内に、防水シートは金魚すくいの水槽みたいな形に化けました。便利な物があるのだなあ、と眺めていれば。
「はい、此処に河童のミイラをよろしく」
ソルジャーが会長さんとキース君に促し、その二人が。
「なんで、ぼくが!」
「なんで俺が!」
「適役だから」
ソルジャーはサラリと返して「ほら、早く」と。
「御祈祷を引き受けて来たのは君たちだろう? 力仕事くらいは手伝う!」
此処にミイラ、と防水シートの水槽の底をトントンと。うーん、ミイラって重いんですかね?
「…仕方ない。キース、そっちを持って」
「ああ。壊さないように気を付けてくれよ、檀家さんの家の家宝だからな」
二人がかりで抱え上げられた河童のミイラが水槽の中へ。会長さんとキース君が言うには見た目よりかは相当に軽いらしいです。ソルジャーは「始めようかな」といつの間にやら白衣まで。
「まずは、これ、っと」
河童のミイラの干からびた胴体の上に薬がポタポタ。染み込んだのを確認してから「そして三分間ほど待つ!」と何処のカップ麺かと勘違いしそうな台詞が。三分経ったら「結果を調べる!」と顕微鏡ならぬ万華鏡みたいな筒状の………ルーペ?
「ああ、これかい? これで覗くだけで細胞の状態とかが分かる仕組みで」
ソルジャーは薬剤を染み込ませた部分とそうでない部分を見比べた末に。
「うーん、イマイチ…」
次はコレだ、と別の薬剤をポタポタポタ。また三分間待つのだろうか、と思えば今度は十五分間ほどだとか。薬によって待ち時間も変わるみたいです。
「色々と効き目が違うからねえ、この手の薬も。これなんかは十五分だけに期待出来ると思うんだけど…。DNAの配列なんかも変わったりするし」
「そんな薬を平然と使わないで欲しいんだけど!」
普通の部屋で、と会長さんが文句をつけたのですけど、ソルジャーときたら。
「平気だってば、影響が出ないように一応シールドしてるしさ。試験管から直接飲んだりしない限りは大丈夫だよ、うん」
「だけど!」
「怖いんだったら部屋から出てれば? ぼくが一人で実験するから」
サイオンで覗き見してればいいじゃないか、という意見は至極もっともでした。恐ろしげな薬を次から次へと試す現場に付き合わなくても、リビングとかで中継画面を眺めていればいいわけで…。
「…そうしようか?」
会長さんが私たちをグルリと見回し、キース君が。
「そうすべきだな」
危険すぎる、という意見。白衣のソルジャーは「それがいいね」と頷いて。
「それっぽいのが完成したらお知らせするから、出ていれば? 河童のミイラは壊したりしないよ、大事なものだと分かってるしね」
「じゃ、じゃあ…。そういうことで、君に任せた!」
「俺もあんたに一任する!」
それじゃ、と私たちはダッシュで和室から逃げ出しました。人体実験経験者なんかと同列にされるのは御免です。変な薬を浴びてしまう前に、君子危うきに近寄らずですよ~!
トンズラしてからはリビングでお茶にしようかという案も出ましたが、如何せん、目の前にソルジャーを監視しておくための中継画面。その向こうで河童のミイラ相手に薬剤を試すソルジャーがポタリポタリと液体を垂らしては待つわけですから、飲み物はあまり…。
「かといって菓子を食うのもな…」
どうもイマイチ食欲がな、とキース君。河童ならぬオットセイのミイラは食欲がわくようなモノではありません。仕方ないので飲まず食わずでいる内に昼食時になって。
「もしもーし!」
ぼくの御飯は、と白衣のソルジャーがリビングに。よくもあの状況で食べられるものだ、と感心したものの、人体実験だの戦場だのをくぐり抜けて来た猛者でしたっけ…。
「何も無いわけ? 食べる物とか?」
「えとえと、急いで作るから!」
すぐ出来るから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンに走り、昼食に予定していたらしい秋ナスとブロッコリーのアンチョビパスタが運ばれて来ました。揚げ焼きにしたナスがドッサリ、ニンニクも効いて美味しいですけど。
「……何か?」
ソルジャーが私たちの視線に首を傾げて、会長さんが。
「白衣くらいは脱ぎたまえ! それに手はきちんと洗って来たんだろうね!?」
「洗ってないけどサイオンで殺菌」
「洗いたまえ!!」
もうキッチンでも何処でもいいから、と怒鳴りつける会長さんと、ゲンナリしている私たちと。ソルジャーの性格が大雑把なことは知ってましたが、あんなミイラに薬剤を次から次へと試しまくっている実験中でも手を洗わないで昼御飯ですか、そうですか…。
破壊的としか言いようのないソルジャーの実験は午後も続いて、午後の三時頃。
「出来たーーーっ!!!」
バアン! とリビングのドアが開いて、もはや中継画面も見ないでゴロゴロしていた私たちの前にソルジャーが。
「出来た、出来たんだよ、凄いのが!」
「…正真正銘の河童のミイラ?」
会長さんが返すと、ソルジャーは。
「出来たんだってば、まあ見に来てよ!」
凄いんだから、と興奮気味のソルジャー。これは見るしかないのだろう、と皆で立ち上がり、実験室と化した和室に入ってみれば。
「「「………」」」
いつの間にやらビッグサイズに化けた水槽の中に河童のミイラが薬剤にドップリ浸かって入っていました。つまりは実験成功なわけで、今は全身の細胞だか組織だかDNAだかを丸ごと作り替えている段階である、と…。
「平たく言えばそうだね、うん」
こうして明日まで浸けておけば…、と水槽の中を見下ろしている白衣のソルジャー。
「遅くとも明日の夜には全部の組織が別物に変わる。この世界には全く居なくて、オットセイでもサルでもないっていう凄いミイラが出来るんだけど…」
「出来るんだけど…?」
会長さんが問い返した途端、ソルジャーは。
「このミイラってさ、貰っちゃってもいいのかな?」
「「「はあ?」」」
「ぼくが貰ってもかまわないかな、って訊いてるんだけど」
「それは困る!」
檀家さんの家の家宝だ、とキース君がグッと拳を握りました。
「何を思ってそう言い出したのか知らんが、これは譲れん! 作り替えたのを返さんと!」
「レプリカを返すっていうのはどう?」
これとそっくりに作った偽物、と白衣のソルジャーが水槽を覗き込みながら。
「オットセイとサルで出来てるんだろ、仕組みが分かればレプリカくらい!」
頑張ってみんなで作ろうじゃないか、と提案されても、サッパリわけが分かりません。凄いミイラが完成したとか言っておきながら、なんでレプリカ? もしかして何か失敗しちゃって、水槽から出したら粉々だとか…?
「…うーん…。粉々と言うか、ぼくが粉々にしたいと言うか…」
本当に凄いのが出来たんだから、とソルジャーは実験に使っていた万華鏡もどきを操作し、和室の壁に画像や図などを映し出しました。
「よく見てくれる? これが元々のミイラのデータで、こっちが最終的に得られたデータ。全部の部分がこうなるようにと作り替えてるのがこの水槽の中の液体で…」
「それは分かるよ、だけどデータの意味が読めない」
会長さんにも謎らしいデータは私たちには謎でしかなく、キース君とシロエ君にも意味が掴めない代物で…。
「君たちには意味が不明だったら、文字通り猫に小判だよ。レプリカを作ってそれを返そう、もったいないから」
「「「もったいない?」」」
どの辺が、と画像を眺めても図を見詰めてもソルジャーの意図が分かりません。けれどソルジャーは腰に手を当て、仁王立ちして。
「絶倫パワーが元のミイラの三百倍!!」
「「「三百倍!?」」」
聞き間違いではないだろうか、と耳を疑うその数値。ソルジャーが細かく丁寧に説明してくれても根拠はサッパリ、でも本当に三百倍もの絶倫パワーを秘めたミイラが出来上がりつつあるらしく。
「これほどの薬、ぼくも今までに見た事も聞いたことも無い。ぼくのハーレイに飲ませた場合は小さじ半分でビンビンのガンガン、ヌカロクどころか徹夜でヤッても疲れ知らずに!」
是非とも欲しい、とソルジャーの赤い瞳がキラキラと。
「キース、檀家さんには一ヶ月くらい借りておくって言ったんだろう? それだけあったらレプリカは充分作れるよ! ミイラにするのも古ぼけた風に加工するのも責任持つから、ジャストサイズのオットセイ探しを手伝って!」
「「「オットセイ探し!?」」」
「そう! このミイラから適正なサイズを割り出すから!」
「「「えーーーっ!?」」」
よりにもよって生きたオットセイを探す所からレプリカ作り? しかもミイラに仕立てるだなんて、探し出されたオットセイはもれなくソルジャーにブチ殺されてミイラにされちゃうわけなんですよね? それと手足と頭にするサル…。
「お断りだ!」
キース君が怒鳴り返すまでには三秒もかからなかったと思います。眉を吊り上げ、怒りの形相。
「いいか、俺はこれでも坊主なんだ! 殺生の罪を犯すわけにはいかん!」
「ぼくも同じだね。銀青が殺生をしたとなったら、其処の阿弥陀様にも顔向けできない」
会長さんが同意し、サム君と、普段は坊主を拒否するジョミー君までが僧籍を盾に逃げの姿勢で。残るはシロエ君とマツカ君、スウェナちゃんと私だけですけれど…。
「「「お断りします!」」」
捕まったら最後、殺されるであろうオットセイ探し。そんな作業に加担したくはありません。おまけにサルも探さなくてはいけないかもで、そのサルももれなく殺されるわけで…。
「でも、ぼくはミイラを諦めたくはないんだよ! 絶倫パワーが三百倍!」
どうしても欲しい、と喚くソルジャーに向かって、キース君が。
「やかましい! レプリカとやらを作って頑張れ、同じ手順で出来る筈だろうが、そのパワー!」
「…え? あ、そうか…。そういえばそうかも…」
レプリカの方も弄らなくっちゃいけないのか、とソルジャー、納得。
「河童のミイラを作るんだったね、この世界には無い生物に作り替えなきゃ駄目だったっけ…」
絶倫パワーの前段階でも充分に別物の生物だけど、とソルジャー、ブツブツ。
「そこまで出来たし、もうひと押し、って薬を加えたら絶倫パワー! そうか、一から作ればいいのか、ぼく専用に…」
「そうだと思うぞ、オットセイのサイズも選び放題になるんじゃないのか?」
キース君の言葉にソルジャーは「ああ、なるほど!」と手を叩いて。
「同じ作るなら大きなオットセイがいいねえ、そうするよ! 実験のデータは残らず記録を取ってあるしね」
これこれ、と万華鏡もどきを嬉しそうに覗いているソルジャー。
「このミイラよりもうんと大きなオットセイを捕まえて絶倫パワーを三百倍! うん、こんな小さなミイラなんかよりビッグなサイズで夜もパワフル!」
それでいこう、と大喜びのソルジャーはミイラを寄越せとゴネる代わりに翌日の夜に完成品のミイラを水槽から出し、サイオンで乾かしてキース君に嬉々として引き渡しました。
「ありがとう、キース! これのお蔭で凄い薬が手に入りそうだよ、檀家さんにもよろしくね」
「いや、檀家さんには礼を言われる立場なんだが…。感謝する」
正真正銘の河童のミイラをデッチ上げてくれて礼を言う、と深々と頭を下げるキース君。こうして河童のミイラは『河伯』と墨書された古びた箱へと納められて…。
「あの箱、檀家さんの家の天井裏に戻されたって?」
次の週末、会長さんの家のリビングで会長さんに訊かれたキース君は。
「そうらしい。子孫のために梁に結んでおきました、と報告がてら礼金と菓子折を貰ってな」
これだ、と分厚いお布施の袋と菓子折が。私たちが貰っていいそうです。
「「「やったー!!」」」
貰った、と狂喜しつつも、気がかりは此処には居ない功労者で。
「…オットセイ狩りに行ったらしいね?」
ジョミー君がブルブルと震え、シロエ君が。
「それ、済んだんじゃなかったですか? 今はミイラに加工中だったかと…」
「もう乾燥に入ったらしいよ」
仕事が早い、と会長さん。
「まったく無意味な殺生を…。お蔭でぼくは阿弥陀様への礼拝を増やす羽目になったし!」
「そして当分うるさいだろうな、三百倍のパワーとやらでな…」
キース君の溜息と同時に、全員が超特大の溜息をついて今後を憂えたのですけれど。それから程なく、私たちは受難の日々を迎える事になりました。
「やっぱりアレでなくっちゃいけないんだよ!」
響き渡るソルジャーの怒声は例のミイラを指しての叫び。檀家さんの家の屋根裏で数百年を経て来たミイラは特異な変化を遂げていたらしく、ただのオットセイのミイラを加工したって三百倍のパワーは出ないらしいのです。
「アレは絶対ダメだと言うなら、他の河童のミイラでいいから! とにかく河童!」
ミイラを寄越せ、と押し掛けて来ては騒ぐソルジャー。いっそ盗め、と禁断の入れ知恵を会長さんがやらかしてくれて、檀家さんの家の屋根裏の箱の中から河童のミイラは消えたそうです。
「…やっちゃったよ…」
ブルー除けとはいえ盗みを働けと言ってしまった、と落ち込んでいる会長さん。盗みは嘘をつくのと同じで五戒とやらに含まれるとか。ソルジャーが盗んだ河童のミイラの絶倫パワーでお楽しみの間、私たちも罪滅ぼしにお念仏を唱えるべきなのでしょうか?
「お布施と菓子折、山分けしちゃったもんね…」
「やっちゃいましたね…」
仕方ないか、と檀家さんへのお詫びの気持ちで今日から当分、おやつの前には南無阿弥陀仏のお念仏。きっといつかは罪も消えるとお唱えしましょう、南無阿弥陀仏…。
凄すぎる河童・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
河童のミイラが屋根裏に…、というのは「割とよくある」例かもしれません。
ソルジャーが盗んでしまいましたけど、檀家さんは空の箱を大事に残すのでしょう。
シャングリラ学園、来月は普通に月イチ更新です。windows10 は今も絶望的に駄目です。
次回は 「第3月曜」 9月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、8月は、恒例となったスッポンタケの棚経。ところが…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(あっ…!)
朝、起き上がろうとして覚えた眩暈。ベッドから身体を起こそうとした瞬間に。
ブルーはベッドに引き戻されたけれど。頭が枕に沈んだけれども、少し経ったら。
(…落ち着いた…?)
閉じていた目を恐る恐る開けた。ごくごく普通に天井が見える。見回せば、部屋も。揺れたりはしないし、回りもしない。
(んーと…)
慎重に身体を起こしてみた。両手をついて、そうっと、そうっと。
それから身体の位置をずらして、ベッドの縁に腰掛けてみて。
(…大丈夫だよね?)
気分が悪いとは感じない。立ち上がってみても眩暈はしない。身体が重いわけでもないし…。
本当に具合が悪いのだったら、恐らくこうはいかないだろう。ベッドに座り込むか、力が抜けて床にストンと座ってしまうか。
けれども、両足はきちんと力が入って床をしっかり踏みしめていた。普段と全く変わらない。
(気のせいだったとは思わないけど…)
眩暈は確かに起こしたのだけれど、大したことはない、とブルーは結論付けた。
今日はハーレイが来てくれる日なのだから。
朝から夜まで一緒に過ごせる、土曜日がやっと来たのだから。
(…学校に行く日だったらもう少し…)
慎重に考えもするのだけれど。本当にただの眩暈なのかと、時間をかけて見定めるけれど。
今の自分の体調はどうか、手足を動かして確かめてみたり、軽く体操してみたり。
以前だったら、そんなことすらしなかった。眩暈を起こせば大事を取って休んでいたから、何も行動しなかったけれど、今では違う。学校に行けばハーレイに会うことが出来るから。
(何度も失敗しちゃっているしね…)
ハーレイに会いたくて、ハーレイの授業を聞きたくて。
無理をして登校してしまった後、倒れてしまったり、何日も休む羽目になったり。
結果的にハーレイに会える日が減るという有様、それを重ねれば用心もする。
(でも…)
ハーレイが家に来てくれる方なら、自分は家で待っているだけ。学校に行くより負担も軽い。
それに、さっき眩暈を起こしたこと。
(ママに言ったら連絡されちゃう…)
ハーレイの家に。母は急いで通信を入れて、実はこうだと報告するに違いない。
そしてハーレイは来てはくれないだろう。来ればブルーが休めないから。ベッドで大人しくしているどころか、はしゃいでしまって疲れてしまうに決まっているから。
(絶対、来てはくれないんだよ…)
この家に来ずとも、ハーレイが休日を過ごせる場所は他に幾らでもあるのだから。
ジムへ泳ぎに出掛けてしまうか、柔道の道場へ行ってしまうか。
(内緒…)
眩暈のことを言ってはいけない。両親に知られるわけにはいかない。
両手で頬をパチンと叩いて気合を入れると、背筋をシャンと伸ばして顔を洗いに洗面所へ。鏡に映った自分はいつもと同じで、顔色が悪いわけではなかった。目元も眠たそうではないし…。
(うん、平気!)
これなら決して見破られない、と自信を持った。きちんと着替えてダイニングに行って、両親に朝の挨拶をすると「おはよう」と返って来た笑顔。父も母も全く気付いてはいない。
「ブルー、しっかり食べるんだぞ?」
「朝からそんなに入らないよ!」
パパみたいには食べられないよ、と文句を言いながらの朝食の席。眩暈のことはバレなかった。
お気に入りのマーマレードを塗ったトーストも食べられた。
ハーレイに貰ったマーマレード。ハーレイの母が作った夏ミカンの実のマーマレード。美味しく食べてミルクも飲んだし、自分でも眩暈を起こしたことなど忘れるほど。
食べ終えた後は部屋の掃除で、これも楽々と片付いたから。
(大丈夫!)
もう大丈夫、と嬉しくなった。何処も悪くないと、朝の眩暈は気のせいだったに違いないと。
少しだけ身体が重たいような気もするけれど。
ほんの少しだけ、ほんのちょっぴり。
とはいえ、二度目は起こらない眩暈。身体の重さも、疲れた日ならばよくあることで。
(体育の授業が終わった後だと、こうだよね?)
見学しないで出席した時は、暫く身体が重いと感じる。少し休めば元に戻るし、具合が悪くなるほどでもない。この程度なら…、と身体の重さは気にせず放っておくことにした。
そうして待つ内に、ハーレイが訪ねて来てくれたから。チャイムを鳴らす音がしたから、窓から大きく手を振った。
母の案内で部屋に入って来たハーレイに向かって「おはよう」と元気に挨拶もした。
なのに…。
母がテーブルにお茶とお菓子を置いて去って間もなく、覗き込まれてしまった瞳。
向かい合わせで腰掛けたハーレイの鳶色の瞳が、ブルーの瞳を見詰めるから。
(…バレちゃう?)
眩暈のことがバレてしまってはたまらない。身体が少し重たいことも。
それは困るから、何気ないふりで視線を逸らそうとしたら「駄目だ」と言われた。
嘘をつくなと、その目はそうだと。
「ついていないよ!」
ぼく、嘘なんかはつかないよ!
ホントだってば、ハーレイ、何を言い出すの?
「いや、分かる。…お前のその目は嘘をついてる目だってな」
いったい何を隠してる?
俺には言えないような何かか…?
「何も…」
隠していないよ、嘘じゃないよ。
ハーレイに嘘を言ったりしないよ、ホントだよ!
絶対に嘘をついてはいない、と言い張った。そんなことはないと、ハーレイの思い違いだと。
けれども、本当はそちらの方が嘘だから。言えば言うほど嘘を重ねるわけだから。
何度も重ねて問われる間に、だんだん俯いてしまっていて。
とうとう白状させられた。
朝に起こした眩暈のことを。身体が重いと感じることも。
「馬鹿、寝ておけ!」
そんな時に起きている奴があるか、お前、ただでも弱いんだろうが!
どうしてお母さんたちに言わずに嘘をついたんだ!
「だって…!」
言ったら、ハーレイ、来てくれないから…。
ママがハーレイに連絡しちゃって、ハーレイ、何処かへ行っちゃうから…。ジムとか、道場。
「お前なあ…。俺はそこまで薄情じゃないぞ、お前の具合が悪いというのに遊びに行くほど」
様子を見に来るに決まってるだろう、お前の家まで。
俺はジムには行っちゃいないし、これから出掛けるつもりも無い。
今日は一日、お前の家に居てやるから。
お前がベッドの住人でもな。
だからサッサとベッドに入れ、と叱り付けられた。
お母さんには俺が言ってくるから、と。
「少し具合が悪いようだ、と話してくる。その間にパジャマに着替えておけ」
お前の裸は目の毒だからな、俺にはな。
うっかり見たなら、我慢出来ずに食っちまうかもしれないだろうが。
「ハーレイっ…!」
ブルーは真っ赤になったけれども、ハーレイは悪戯っぽく片目を瞑った。
「冗談に決まっているだろう。お前みたいなチビを食うほど飢えちゃいないが、だ…」
その程度の冗談くらいはサービスしてやるさ、病人だからな。
今ので身体が温まったろ、温かい間に着替えておけよ?
お前のお母さんに話してくるか、とハーレイが部屋を出て行った後。
ブルーはパジャマを取り出したけれど、ふと考えた。
もしも着替えずにいたならば、と。
(…そしたらハーレイの前で着替えだしね?)
シャツもズボンも、下着だってパンツだけを残して他のは全部。脱いでしまって殆ど裸。
お風呂上がりにする時みたいに、そんな姿からパジャマをゆっくり着てみよう。
上から着るのが効果的だろうか、ズボンを先に履くよりも…?
(目の毒…)
パジャマの上だけを着けて足が覗くのと、上半身だけが見えているのと、どちらがいいのか。
よりハーレイの目の毒なのか、と思案を巡らせ、クスクスと笑う。
どちらの着方を選んだとしても、きっとハーレイは目のやり場に困ることだろう。いくら自分が子供であっても、裸は裸。肌の色などは前の自分と全く変わりはしないのだし…。
(ふふっ、ハーレイ、どうするかな?)
さっきの自分がそうだったように真っ赤になるのか、大人の余裕を装うか。
それでもきっと心の中ではドキドキするのに違いない。恋人の裸を見ているのだから。すっかり裸ではないにしたって、限りなくそれに近いのだから。
(どうなるんだろう…?)
楽しみだよね、とパジャマを抱えてベッドの端に腰掛けていたら、ノックの音。
扉が外から軽く叩かれ、ハーレイの声が聞こえて来た。
「グズグズしてないで早く着替えろよ?」
でないと入ってやらないからな。いつまで経っても。
「なんで分かったの!?」
着替えておくって、ぼく、言ったのに…!
「気配ってヤツだ、そいつで分かる」
さっさと着替えろ、そうしないなら俺は帰るぞ?
「待ってよ、それは困るってば!」
ちゃんと着替えるから、帰らないでよ!
ハーレイ、今日は一日いてくれるって言っていたじゃない…!
ブルーの目論見は見事に外れた。ハーレイは何もかもお見通しだった。
渋々、一人きりの部屋でパジャマに着替えて、「もういいよ」と扉の向こうに声を掛ければ。
「よし」と入って来たハーレイ。
それでいいのだと、チビのお前に裸の披露はまだ早いと。
「着替えたんなら、ベッドに入れ」
裸足でボーッと突っ立ってないで、早くベッドに入らんと身体が冷えてしまうぞ。
「うん…」
ゴソゴソとベッドに入って上掛けを引っ張ると、ハーレイが首元まで被せてくれた。その上から大きな手がポンと置かれて、「これでいいか?」と微笑まれる。
上掛けの具合は丁度いいかと、肩までしっかりくるまったかと。
「ありがとう、ハーレイ…」
これくらいでいいよ、あったかいよ。
でも…。
どうして分かるの、ぼくの嘘が?
眩暈を起こしたことを黙っていたのも、着替えないで部屋に居たことも…?
そのことが本当に不思議だったから。
どうして両親にも分からなかった嘘を見抜かれたのかと、着替えなかったことも知られたのかと不思議でたまらなかったから。
ベッドの中から見上げて尋ねると、ハーレイは「それはな…」と椅子を運んで来た。テーブルの所に置いてあった椅子を、いつも自分が座る方の椅子を。
その椅子をベッドの脇に据えると、腰掛けてブルーを見下ろしながら。
「お前、嘘をつくのが下手だからなあ、直ぐに分かるさ」
見てるだけで分かる、これは嘘だと。でなければ何か隠していると。
「心が零れてしまうから?」
ぼくは遮蔽がまるで駄目だから、考えてることが筒抜けなの?
パパやママにはバレなくっても、ハーレイには分かってしまうとか…?
「今のお前はそれもあるがだ、前の時から下手だった」
「前?」
「前のお前さ、ソルジャー・ブルーも嘘をつくのが下手だったんだ」
ただし、そいつは俺限定だったみたいだがな。
他のヤツらは騙されていたし、今のお前のお父さんやお母さんと似たようなものかもしれん。
しかし俺には通じなかった。どんな嘘でも分かっちまったな、嘘だとな。
怪我も病気も見抜いたろうが、とハーレイは言った。
シャングリラの誰もが気付きもしなかった、ブルーが負った怪我や身体の不調。そういった時も自分だけは必ず気付いていたと。ドクターに診せたり、ベッドに送り込んだりしていたと。
「…そう言われればそうだったっけね…」
ハーレイ、いつでも怖い顔をして睨み付けるんだ、ドクターに診て貰いましたか、って。
掠り傷だよ、って言っても連れて行かれたっけ、メディカルルームに。そんなに大した怪我じゃなくても、ちょっと掠っただけの傷でも。
「一事が万事だ、お前はいつでも隠してたからな」
掠り傷だと言われた所で信用できるか、この目で見るまで。実際、包帯を巻くような傷も負っただろうが、掠り傷だと言っていたがな。
「だけど、包帯程度だったよ? 縫うような怪我はしていないってば」
それなのにハーレイ、ホントに大袈裟なんだから…。ノルディに「怪我人です」って言うんだ、ぼくを無理やり引っ張って行って。
「当たり前だろうが、お前は嘘をつくんだからな」
どんな傷でも掠り傷なんだ、俺に信用されなくなっても当然だろうと思うがな?
それに病気の時も同じだ、平気なふりをして歩き回って、無理して悪化させちまうんだ。
誰も気付いちゃいないからなあ、そうなっちまう前にベッドに送り込めるのは俺だけだった。
どうしたわけだか、俺にしてみれば分かりやすい嘘が、他のヤツらは全く分からなかったんだ。
最たるものがメギドだった、とハーレイが零す。
あの嘘だけは見抜きたくなかったと、見抜けたことが辛かったと。
「…誰も気付いちゃいなかったんだ。お前が何を考えていたか」
お前が二度と戻らないこと、戻るつもりが無いということ。
「それは仕方ないよ、ぼくはハーレイにしか言わなかったよ」
ぼくがいなくなってもジョミーを支えてやってくれ、っていうことは。
みんなに知れたらパニックになるし、ハーレイにしか言葉を残せなかった。
ぼくは死ぬとは言わなかったけれど、あの言葉で気付かない方が変だよ、ぼくの気持ちに。
「いや、その前から分かっていたさ」
お前の目でな、とハーレイの顔が辛そうに歪んだ。
あの日に引き戻されたかのように。
ブルーがメギドへと飛んだあの日に、その直前のシャングリラに。
「…ブリッジへ来た時のお前の目。あの目が既に違っていたんだ」
いつものお前の目とは違った。俺には一目で分かっちまった。
お前は決意を固めたんだと、何もかもを捨てるつもりだと。シャングリラも、俺も、お前自身の命も、全部。何も残らない所へ行こうとしているんだと読めちまった。
直ぐにお前を止めたかったが、お前と来たら…。
ナスカへ降りると、ジョミーと一緒に説得に行くとスラスラと嘘をつくんだからな。
「…そうしなければ出して貰えなかったよ、シャングリラから」
あの段階ではメギドだとハッキリしていたわけじゃないけど、とにかく人類軍の攻撃。
それを防ぎに飛んでゆけるのも、命懸けでシャングリラを守って死んでも影響が出ないのも前のぼくしかいなかったし…。
あそこでぼくが出るのを止めたら、シャングリラは沈んでしまうんだから。
「それはそうだが、お前の嘘は上手すぎたんだ」
お蔭でお前が飛んでった後も、誰も気付いちゃいなかった。
お前が戻らないことに。二度と戻りはしないことに…。
それだけに余計、辛かった。
ブリッジの連中が掛けてくる言葉も、ナスカに残ったヤツらへの対処も。
お前が命を捨てようというのに、真っ直ぐに死へと飛んでったのに。俺の周りじゃ、その真実が見えていないヤツらが俺の指示を待っていやがるんだ。
ソルジャー・ブルーが死ぬというのに、長い長いことミュウを守ったお前が死ぬというのに。
…しかもお前は、俺にとってはソルジャー以上の存在だった。
お前が死んだら俺も死ぬんだと、数え切れないほどに誓った、前のお前に。
そのお前が一人で逝っちまうんだぞ、俺をシャングリラに残してな…。
最悪な気分だったんだ、と呻くハーレイ。
あの嘘だけは気付きたくなかったと、少しでも後に知りたかったと。
「お前の目だけで気付くよりはな、言葉の方で気付きたかった」
そうすりゃ少しは、ほんの少しは生き地獄の時間が減ってただろう。
ナスカに降りると嘘をつくお前を見守るヤツらに、イラついたりもしないでな。
お前に置いて行かれちまった俺の地獄は、あの瞬間から始まったようなものなんだ。ブリッジでお前を見送った後は、もう地獄へと一直線だ。
お前を失くして、一人残されて。
…それでも地球まで行くしかなかった、お前の言葉を守ってな…。
「ごめん…」
ぼくのせいだね、嘘をつくのが下手だったから。
ハーレイにも見破れないような嘘をつくべきだったね、普段はともかく、あの時だけは。
「いや、いいさ」
お前が俺に嘘を上手につけないってことを、あの時以外は辛いと思いはしなかったからな。
それまでは散々、役得もあった。だからいいんだ。
「役得?」
なにそれ、ぼくの嘘で何か得でもしてたの、ハーレイ?
「していたとも。数え切れないほどな」
お前の嘘を見抜けたからこそ、ソルジャー・ブルーの世話が堂々と出来た。
恋人同士だと全くバレずに、寝込んじまったお前を見舞って、世話して。
ただのキャプテンだとそうはいかんぞ、何故ソルジャーの世話をするのかと疑われてたな。
ブリッジを抜けて野菜スープを作りに行ってやるだとか…、と例を挙げたハーレイ。
前のブルーが好んでいたスープ。どんなに弱り果てた時でも、それだけは喉を通ったスープ。
何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープは、ハーレイだけが作っていた。厨房の者たちは材料の野菜を用意するだけで、刻む所からハーレイがやった。
普通だったら、そうした仕事は厨房の係がしていただろう。
最初に作ったのがハーレイだとしても、次からはレシピを託された係が作っただろう。
ソルジャー・ブルーが好むスープはこう作るのだと、厨房にレシピが置かれていたことだろう。
けれども、そうはならなかった。
スープを作るのは常にハーレイ、キャプテンだったハーレイだけ。
「少し外す」とブリッジを抜けて厨房に出掛け、野菜を抱えて青の間に行って。奥のキッチンでスープを作っては、ベッドのブルーに食べさせていた。
そう、文字通りに「食べさせた」。
「熱いですよ」とスプーンで掬って、そうっと口へと運んでやって。
ブルーが自分で食べていたことも多いけれども、そうした甘い時間もあった。
ハーレイの手から、一匙ずつ。スープの器が空になるまで、何度も口を開けていたブルー。
誰も気付いてはいなかった。
ハーレイがスープを用意するだけの係ではないということに。
「な? 俺がお前の世話をしてても、誰も変だと思わなかったから出来たんだ、あれは」
まさかお前に食べさせてたなんて、厨房のヤツらでも気付きやしないさ。
俺が野菜を取りに行ったら労ってくれたぞ、「大変ですね」と。
大変どころか、俺はデートに出掛けるんだがな、堂々と仕事をサボッてな。
そういったことが出来たのも、だ…。
俺が最初に見抜くからだな、お前の嘘を。何処も悪くないと平気な顔をしてつく嘘を。
お前をベッドに送り込んでから、ノルディを呼んでいたからなあ…。
ノルディにも一目置かれてたんだぞ、「早めに治療に取り掛かれるので有難いです」と。
病気ってヤツは罹り始めの治療が大切だからな、こじらせてからじゃ遅いしな?
そしてだ、俺はますますお前の専属の係になれたってわけだ、病気の時の。
なんたってノルディのお墨付きだし、俺が一番、お前の体調が分かってるってな。
実に分かりやすい嘘だった、とハーレイが喉の奥で笑うから。
役得だった、と可笑しそうだから、小さなブルーは上掛けの下から問い掛けた。
「じゃあ、今のぼくの嘘は…」
どうなの、ハーレイ?
前のぼくと同じで、やっぱり下手くそ?
「分かりやすいさ、前以上にな」
今日だって見事に見破ったろうが、お前の嘘。
眩暈を起こしたことを黙っていたのも、着替えろと言ったのに聞かなかったこともな。
「それだと、全部バレちゃうの?」
どんなに頑張って嘘をついても、ハーレイにはバレてしまうわけ?
「多分な」
よほど工夫をしない限りはバレるだろうなあ、ついてもな。
工夫したって無駄だという気もしないでもない。前のお前でも俺には敵わなかったんだしな。
余裕たっぷりに言われてしまって、ブルーは唇を尖らせた。
「ぼくだけ嘘がバレちゃうだなんて、不公平だと思わない?」
だって、ぼくにはハーレイの嘘が分からないのに…。
いつだって「冗談だ」って笑われるまで騙されちゃったままだよ、ハーレイの嘘に。
「前のお前の時からそうだな、そいつはな」
俺がついてる嘘ってヤツにだ、気付かないっていうのはな。
「そうだよ、ハーレイ、読ませないんだ。…本当のことは」
読もうとしたって、ガードがうんと固くって。
…その代わり、教えてくれたけれどね。
もう食料が尽きてしまうんだ、って、ぼくにだけとか。
「あったな、そういう事件もな」
お前に教えちまったことを後悔したがだ、結果的には良かったか…。みんな揃って飢え死にってトコを助けられたからな、お前にな。
「ああいう所はいつも読めなかったよ、ずっと後になっても」
「そうか?」
「うん。一度も読めたことがなかった…」
ハーレイが自分一人の胸に収めておこう、って決めた部分は読めなかったんだ。
ぼくがどんなに頑張ってみても、それだけは読めはしなかった。
余計な心配をかけないように、って黙っていたこと、多かっただろうと思うけど…。
シャングリラの中でも、トラブルは色々とあっただろうから。…仲間同士の諍いとかね。
今度もやっぱりそうなのだろうか、とブルーが呟く。
自分の嘘ばかり見抜かれてしまって、ハーレイの嘘は見抜けないのかと。
「今度も同じかな、今日もハーレイにバレちゃったし…」
ハーレイに騙されて笑われちゃってることも多いし、おんなじなのかな…。
「さあな? そいつはどうだかなあ…」
結婚したら一緒に暮らすんだからな、俺が嘘をつく時の癖に気付いたりするかもしれん。
俺は自分じゃ気付いていないが、嘘をついた後にする仕草だとか、そういうのがな。
…だがな、今度は見抜けない方が楽しいぞ?
「なんで?」
ぼくばかりが損をしそうな気がするんだけど…。
「そう悲観するな。ものは考えようってヤツだぞ、嘘によっては分からない方がいいこともある」
今夜の料理は時間が無いから手抜きにするぞ、と言っておいて御馳走を買ってくるとかな。
たまには買って来た飯っていうのも悪くないだろ、家では出来ないようなヤツ。
ドカンと大量に作らなきゃ美味くない料理を何種類もだ、買い込んで来てパーティーだとか。
「ああ…!」
そういうお料理、家で作るなら一種類しか無理だよね…。
沢山作れば同じものばかりを食べることになるし、それじゃ二日で飽きちゃうもんね。
「うむ。だからだ、プロの作った料理を二人前ずつ沢山買うのさ」
そしてズラリと並べ立ててだ、端から味見をするってな。
お互い、好き嫌いが無いのが売りだからなあ、うんと楽しいパーティーになるぞ。
手抜き料理だと思っていたのがパーティーだなんて、嬉しい嘘っていうヤツだろうが?
誕生日だってサプライズだ、とハーレイは笑う。
三月の一番末の日はブルーの誕生日。
何も用意はしていないのだ、と謝っておいて、とびきりのデートに連れ出すとか。
「もちろん用意は周到ってな。店とかにもしっかり予約を入れて」
お前が喜ぶようなプレゼントもきちんと買っておくんだ、お前に気付かれないように。
どういうものを欲しがってるのか、俺はお前に尋ねるわけだが、お前はそうだと分からない。
まるで関係ない話だと思って答えていたのが、実はプレゼントの下調べってわけだ。
そういった嘘を見抜いちまったら、お前、嬉しさ半減だぞ。
「…それじゃ、ハーレイの嘘は分からない方が…」
いいってことかな、今度のぼくは?
「その方がグンとお得だぞ?」
俺はそっちをお勧めするがな、俺にコロリと騙されちまって、最終的にはいい目をする。
それがお勧めコースってヤツだ、素直に嘘を信じておけ。
「うんっ!」
お得だったら、そうするよ。
ぼくが困ってしまうような嘘、ハーレイは絶対、つかないものね…!
前のハーレイもそうだったから、と頷いたブルーだったけれども。
騙されることにしておこう、と決めたけれども、少し心に引っ掛かること。
「でも…。ぼくの嘘の方は損じゃない?」
ぼくの嘘がハーレイにバレちゃうってことは、ぼくはサプライズをしてあげられないよ?
ハーレイのお誕生日とかにコッソリ準備をやっていたってバレちゃうんだけど…。
それは損だと思わない?
ぼくばかりサプライズで喜ばせて貰って、ハーレイはサプライズは無しだなんて…。
「いや、サプライズはもう沢山だ」
メギドだけで、とハーレイが顔を顰めてみせる。
ブルーが目覚めて喜んだのも束の間、メギドへ飛ばれてしまったと。
一生分のをあれでやられたから、サプライズはもう要らないと。
「あれがサプライズって…」
ごめんね、ハーレイ。
嘘が下手な上に、とんでもないサプライズまでやってしまって。
そういうつもりじゃなかったんだけど、ハーレイには酷いサプライズだよね…。
「いいさ、お前は帰って来たしな」
俺よりも年下のチビになっちまったが、ちゃんと帰って来てくれた。
だからいいんだ、謝らなくても。
俺のお前は此処にいるしな…。
嘘の下手なお前、と額をコツンと小突かれて。
少し眠れ、と優しく頭を撫でられる。
俺がついているから少し眠れと、明日は元気になってくれよ、と。
「うん…。うん、ハーレイ…」
帰らないでよ、寝てる間に。ちゃんと夜まで家にいてよ…?
「帰らないさ。約束したろう?」
ジムにも行かんし、道場にも行かん。
その手の嘘はつかないさ。お前の信用を失くしちまうしな、そういった嘘は俺はつかない。
お前が嬉しくなっちまう嘘か、騙されても笑って済むような嘘か。
そんなのだけだな、つくのはな。
今度こそお前を守るんだから、と上掛けをそうっと掛け直されて。
ブルーは「うん」と瞼を閉じた。
ハーレイは決して嘘をつかない。自分が悲しむような嘘はつかない。
目覚めたらきっと、温かな声で「起きたか?」と訊いてくれるハーレイが側にいる筈だから…。
つけない嘘・了
※今も昔も、ハーレイには嘘をつけないブルー。どんな時でも、見抜かれてしまって。
そしてブルーには嘘をつかないハーレイ。今の生では、サプライズという嘘が楽しみかも。
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「おっ…!」
しまった、って響いたハーレイの声。
床にチャリンと何かが落ちた。もっと重たい音だったのかもしれないけれど。
金属が立てる、独特の音。向かい合わせで座ってたテーブルの多分、真下辺りで。
(また銭亀?)
前にハーレイの財布から零れて落っこちた小さな亀のお守り、それが銭亀。お金が貯まるのと、延命長寿だったかな?
そういう力を持ったお守り、知らなかったぼくは何処かの星のお金だと思ったんだったっけ。
ぼくが拾うよ、ってテーブルの下に潜り込んだら、落ちていたものは亀じゃなかった。銭亀よりずっと大きなもの。鍵が幾つもくっつけられたキーホルダー。
(何の鍵だろ?)
見ただけじゃ何か分からない鍵がドッサリ、ホントに色々。
拾い上げてみたら、そこそこ重い。銭亀だったら何匹分になるんだろう?
(…銭亀も素敵だったけど…)
この鍵だって、何か物語があるかもしれない。それが聞けたら嬉しいんだけどな、鍵たちの話。
キーホルダーを拾って這い出して、「はい」ってハーレイに渡して訊いた。
ワクワクしながら訊いてみた。
何の鍵なの、って。いっぱいあるね、って。
「そりゃまあ、なあ…?」
大人になったら色々と要るさ。年を重ねりゃ、少しずつ増えてゆくもんだ。
お前は持っていないのか、鍵は?
「あるよ、家の鍵」
ちゃんと合鍵、作って貰って持ってるよ。学校へ行く時はいつも鞄に入れてるもの。
使ったことはないけれど、って答えた、ぼく。
実際、一度も無かったから。
ママには「帰って来て鍵がかかっていたなら、自分で開けて入るのよ」って言われてるけれど、そんな場面には出会っていない。ママはいつでも家に居てくれる。
ぼくの身体が弱いからかな、留守番なんかはあまりさせたくないみたい。ちょっと買い物とか、ご近所さんの家に行くとか、そういう時しか留守番をすることはない。
だから学校から戻って家の鍵を自分で開けたことなんか、ホントに一度も無かったんだ。
持ってるってだけの、この家の鍵。一度も使ったことがない鍵。
そう説明したら、ハーレイは「なるほどなあ…」って大きく頷いた。
「確かにお前は普通のガキより弱いからなあ、お母さんだって心配だろうな」
具合が悪くなってないかと、フラフラしながら家に帰って来るんじゃないかと。
おまけに妙に我慢強いと来たもんだ。たとえ具合が悪くったってだ、家に帰って誰もいなけりゃ留守番を始めるんだろ、お前?
普通のガキなら鍵を掛けちまって寝に行く所を、ベッドに入ったりせずに。
「うん、多分…。その内にママが帰って来るしね」
鍵がかかってたら、ぼくが帰ってないかと思ってママも心配しちゃうだろうし…。
それにママの留守に、ご近所さんが何か届けに来るかもしれないし。
「やっぱりなあ…。そういう所は前のお前と変わらんな」
心配させまいとして無理をするんだ、そっちの方が周りはよっぽど心配しちまうものだがな。
ついでに責任感が強くて、頑張っちまう。任されてもいない留守番までな。
…それでだ、お前が持っている鍵、家のだけか?
「そうだけど…。他に鍵って、何かあった?」
ぼくの友達も家の鍵しか持っていないよ、訊いてみたことはないけれど…。多分。
「普段は持ち歩かないんだろうが、だ。自転車の鍵っていうのがあるぞ」
そいつはお前は持ってないのか、自転車の鍵。
「ぼく、自転車には乗らないからね」
乗れないんじゃないよ、って慌てて付け加えた。勘違いされたら癪だから。
ぼくだって自転車くらいは乗れる。うんと頑張って練習したから、乗って走れる。
だけど身体が丈夫じゃないから、自転車は疲れてしまうんだ。クラッとした時には、もう遅い。自転車ごと倒れて怪我をしちゃったことが一回、それ以来、ぼくは乗ってはいない。
ハーレイにもきちんと説明をした。危ないから乗っていないだけ、って。
「お前、自転車にも乗れなかったのか…」
すまん、乗れないんじゃなくて乗らないんだったな。
「そうだよ、危うきに近寄らずだよ!」
パパにもママにも止められてるから、ぼくの自転車、家に無いでしょ?
下の学校の時に怪我した自転車、あれが最後の自転車なんだ。家の近所は走れたけれども、次の自転車、買って貰えなかったんだよ。自転車が小さくなっちゃっても。
「そいつは正しい選択だろうな、お母さんたちにしてみればな」
ガキってヤツはだ、大きくなるほど、自転車に乗って遠くへ行こうとするもんだ。お前の友達もそうだったろうし、そうなりゃ、お前もついて行く。疲れてしまってもついて行くだろ?
そうして何処かで自転車ごと倒れて怪我をしたなら大変だ。家から遠けりゃ遠いほどな。
「うん…。分かってるから、諦めたけど…」
たまに友達が羨ましくなるよ、学校が終わったら自転車に乗って集まろう、なんて時にはね。
今でも時々そう思うけれど、自転車で遠くへ出掛けちゃったら、家でハーレイに会えないし…。
仕事が早く終わったから、って来てくれた時に、帰ってないかもしれないし…。
だからいいんだ、自転車なんかは乗れなくっても。
「そう来たか…。俺が来るから自転車は要らん、と」
実に光栄だな、楽しみに待って貰えるとはな。
しかしだ、そんな調子だと…。自転車の鍵も持たないとなると、こういった鍵とも縁が無いか。
見ても全然分からんだろうな、どの鍵が何の鍵なのか。
「うん…」
いっぱいあるな、って思うけれども、どれがどれだか…。
ハーレイがどういう鍵を持つのか分かっていないし、ホントに見当がつかないよ。
「だろうな、それじゃ解説してやるとするか」
大サービスだぞ、何の鍵かを教えるんだからな。鍵さえあったら、お前もそいつを開けられる。
もっとも、プレゼントする気は全く無いから、開けるチャンスも無いだろうがな。
…いいか、こいつが車の鍵だ。これを失くしたら車には乗れん。
これが学校の俺のロッカー。こっちは柔道部の方で使うロッカーのだ。
そしてこれがだ…。
ハーレイが説明してくれた鍵。キーホルダーについている鍵。
柔道の道場のとか、ジムのだとか。鍵が色々、覚え切れないくらいだけれど。
「ふむ…。こいつは、いつかお前も持つな」
銀色をした小さな鍵。ぼくが持つって、どうしてだろう?
「何の鍵なの?」
その鍵、何に使っているの?
「毎日お世話になっているなあ、俺の家に出入りするのにな」
玄関の鍵だ、俺の家のな。お前もいずれは使うんだろうが?
「あっ…!」
そうだね、その鍵、要るんだね…。一番大事な鍵だものね。
それが無くっちゃ、ハーレイの家には入れないものね…。
ぼくが将来、ハーレイのお嫁さんになるんなら。
あの家に住むなら、ぼくも持つ鍵。お世話にならなきゃいけない鍵。
ハーレイが出掛けて留守の間に買い物に行くには、あの鍵を使って閉めたり、開けたり。
玄関の大きな扉を通って出入りするんだ、まだ二回しか通ったことが無いけれど。
一度だけハーレイの家に遊びに出掛けた時と、メギドの夢を見て瞬間移動で行っちゃった時と。瞬間移動した時は出て来ただけで、入る時は扉を使っていない。
だけど覚えてる、ハーレイの家の玄関の扉。ハーレイが住んでる、あの家の扉。
それの鍵だと思うと嬉しい。その鍵をいつか持てるってことも。
「今は駄目なの?」
その鍵、今はまだ貰えないの?
ハーレイの家の鍵なんだったら、早めに渡してくれたりしない…?
「お前に渡しても、持ってる意味が無いだろうが」
俺の家には来られないくせに、って笑われた。来てもいいって許可は出していないぞ、って。
「そうだけど…。でも、欲しいよ」
「使えない鍵を持っていたって、仕方がないと思うがな?」
鍵ってヤツは使ってこそだぞ、使うために作られているんだからな。合鍵もそうだ。
それとも、お前。俺の留守に空き巣に入るつもりか?
ずいぶん可愛くてチビの空き巣だが、そいつが入り込むのか、うん…?
(空き巣…)
家の人が留守にしている間に、忍び込んで盗みをするのが空き巣。いわゆる泥棒。
そんな悪い人、今の時代にはいないけど。
言葉は今でも残っているから、空き巣が何かはぼくにも分かる。
前のぼくの頃には、まだいた空き巣。マザー・システムが監視してても、いた空き巣。監視網があっても、悪いことをする人たちはいた。それに…。
(潜入班だって、空き巣みたいなものだよね?)
ミュウの子供たちを救い出すために、アルテメシアに送り込んでいた潜入班。彼らは人が住んでいない家を見付けて、人類のふりをして暮らしていた。あれも一種の空き巣だろう。泥棒をしてはいないけれども、住むために必要なエネルギーとかをタダで使っていたんだから。
(んーと…)
潜入班のことを思い出したら、むくむくと頭を擡げて来たもの。
ぼくも空き巣になりたくなった。いつか持てる筈の銀色の鍵を早めに貰って、チビの空き巣に。
(ハーレイの留守に家に入って…)
玄関の扉を合鍵で開けて、堂々と入っていく空き巣。ちょっぴりドキドキする冒険。
きちんと靴を脱いで家に上がって、脱いだ靴はちゃんと揃えて端っこに置くんだ、お行儀よく。
それからあちこち覗いて回って、お茶を飲んだり、お菓子をつまんだり。
入ったからには掃除もしなくちゃ、きっと汚れてはいないだろうけど、しっかり掃除。テーブルとかもピカピカに拭いて、お嫁さんになった時のための練習。
そしてハーレイが帰って来たなら、笑顔で「おかえりなさい」って…。
「おい、筒抜けだぞ、空き巣」
「えっ…!」
零れちゃってた、ぼくの夢。ぼくの心から零れていた夢。
夢中で想像してたからかな、ハーレイに全部バレちゃっていた。空き巣って呼ばれて、おでこをコツンと小突かれた。「悪戯者めが」って。
「この鍵はまだまだ渡せんな」
俺が留守の間に入り込まれていたらたまらん、来るなと言ってあるのにな。
そういう危険があるとなったら、お前が充分に育つまではだ、渡すわけにはいかないってな。
「ハーレイのケチ…!」
ホントにやるとは言っていないよ、ハーレイの留守に入って空き巣。
やってみたいな、って思ってただけで、実行するとは言っていないってば…!
だからちょうだい、って強請ったけれども、合鍵は貰えそうにない。
ハーレイはぼくを綺麗に無視して、次の鍵の説明に移ってしまった。学校のだったか、それとも別の何かだったか、三つほど鍵を見せて貰って「これで全部だ」って言われたけれど。
(えーっと…)
まだ一つ残っている鍵がある。何に使うのか、聞いてない鍵。
ぼくの記憶違いっていうんじゃないんだ、こんな鍵なら一度聞いたら忘れやしない。
うんとレトロな、鍵っぽい鍵。SD体制が始まるよりも前の時代から使われていそうな形の鍵。
だけどちっとも古くない。古く見えるように加工がしてあるだけ。
もしかしたら、鍵じゃないんだろうか?
キーホルダーなんだし、最初からついてた飾りの鍵?
そういったこともありそうだけれど、やっぱりその鍵が気になるから…。
「ハーレイ、これは何の鍵なの?」
何も説明を聞いてないけど、キーホルダーについてる飾り?
「ああ、こいつか…。いずれ要る鍵だ」
今は使っていないからなあ、説明は要らんと思ったんだが。
「いつ使うの?」
「お前と結婚した後だな」
まだまだ当分先のことだな、お前、十四歳だしな?
おまけにチビだし、結婚出来るのはいつのことやら…。それまで出番が無い鍵だ。
「何に使うの?」
「もちろん鍵を掛けるためさ」
それ以外に無いだろ、鍵の使い道なんて。いくら見た目がレトロな鍵でも。
「鍵って…。何に?」
何に掛けるの、鍵なんかを?
結婚したから鍵を掛けるって、いったい何処に…?
急に心配になってきた、ぼく。
ハーレイと結婚したら家の合鍵を貰えるらしいのに、玄関を開けられるようになるのに。自由に家に出入り出来るのに、そうなったら鍵を掛けるらしい、何か。
(それって、ぼくが開けられないように…?)
まさかね、って思ったぼくだったけれど、ハーレイの答えはこうだった。
「鍵を掛ける場所が知りたいってか?」
決まってるだろう、俺の机の引き出しだ。こいつはそのための鍵ってわけだ。
「引き出しって…。ハーレイ、ぼくのこと、疑ってる?」
開けて色々探しそうだ、って。
ハーレイが仕事に行ってる間に、ぼくが中身を調べてそうだ、って…。
「やらないのか、お前?」
「やらないよ!」
本物の空き巣じゃないんだから!
ハーレイの引き出し、勝手に開けたり、中を覗いたりしないよ、ぼくは!
そんなことはしない、って叫んだけれど。
絶対やらない、って言い張ったけれど。
(…でも……)
中身が何だか分からない引き出しが家にあったら、ハーレイがそれをとても大事にしてたなら。
毎日、毎日、そういうハーレイを目にしていたなら、ぼくの気持ちも揺らぎそう。
あの引き出しには何が入っているんだろう、って。
ハーレイは何を大事に仕舞っているんだろう、って。
(…掃除してたら、机だって…)
拭きに行くだろうし、部屋の中を掃除している時にも引き出しはきっと目に入る。大切な何かが入った引き出し、それが何なのかぼくには決して教えてくれない内緒で秘密の引き出しの中身。
その上を、前を何度も掃除して回る内に、とうとう我慢出来なくなって…。
(…やっちゃうかも…)
引き出しの中を覗いちゃうかも、ハーレイのことは全部知りたいから。
どんなことでも知っていたいし、分かっていたいと思うから…。
ぼくの心が零れていたのか、それとも顔に出てたのか。
あの鍵をハーレイが指でつついた。
「ほら見ろ、この鍵は必要なんだ」
悪いお前が開けに来るしな、そう出来ないように鍵を掛けとかないとな。
「そんな…!」
やっぱりぼくを疑ってるの?
まだ子供だもの、ちょっぴり気になることもあるけど、大きくなったらやらないよ…!
前のぼくと同じくらいに大きくなったら我慢出来るよ、今は無理でも…!
それなのに鍵を掛けるなんて酷い、って泣きそうになったぼくだったけれど。
「冗談だ」って笑ったハーレイ。今までのは全部冗談だ、って。
「この鍵はな…。今だからこそ必要なのさ」
現役の鍵だ、ある意味、何よりも大事な鍵だな、こいつはな。
「なんで?」
引き出しの鍵でしょ、どうしてそれが今、必要なの?
「悪いガキどもが手ぐすね引いて狙っていやがるからな」
俺がクラブで指導しているガキどもだ。
あいつらを家に呼んだら文字通り家探しってヤツになっちまうんだな、家じゅう覗いて引っ掻き回して凄い騒ぎになるからなあ…。
俺の秘密を暴きたいのか、単なる好奇心なのか。
プライバシーを守り通したかったら、一ヶ所くらいは鍵を掛けとかんとな?
そのための鍵だ、ってハーレイは片目を瞑ってみせた。
俺の日記を入れてある引き出しにだけは、こいつで鍵を掛けるんだ、って。
「そっか、日記…」
でも、ハーレイの日記は覚え書きでしょ、
見られたって別にいいんじゃないの?
ぼくのことだって書いていないって言ってるんだし、誰が見たって良さそうだけど…。
「忘れちまったのか、前の俺が書いてた航宙日誌」
あれも日記じゃなかったわけだが、前のお前にも一切読ませていなかったろうが。
俺の日記だ、と秘密にしていた筈だぞ、最後までな。
「そういえば…。日記じゃなくても日記なんだね、ハーレイの日記」
「俺にとっては大事な記録というヤツだからな」
航宙日誌の時と同じだ、俺が読んだら書いてないことまで分かるんだ。
それは日記ということだろうが、悪ガキどもにまで見せてやることはないってな。
ヤツらが来る日はこいつで鍵だ、とハーレイの指がつまんだ鍵。
形も古いし、古く見せるための加工もしてある鍵だから。
「レトロな鍵だね、引き出しの鍵」
ホントに飾りかと思っちゃったよ、キーホルダーの飾り。だけどその鍵、使えるんだね?
「効き目って意味なら普通の鍵と変わらないってな、こんなのでもな」
ガッチリと鍵は掛かるわけだし、これで充分に役に立つ。
ただ、この通り単純な形だからなあ、合鍵どころかヘアピンがあれば開けられるらしい。試してみたことは一度も無いがだ、空き巣がいたような時代だったら格好の獲物って所だな。
「ふうん…。でも、ハーレイが好きそうな鍵だよね」
「この手の鍵がついてるヤツ、って選んで買った机だからなあ、俺のはな」
木で出来た机って所にも大いにこだわったんだが、鍵の形にもこだわった。こういうのだ、と。
前の俺と違って選び放題だったからなあ、今度の俺はな。
「ハーレイの机…。ぼくはハッキリ覚えていないよ」
書斎にあったな、ってことくらいしか…。後は今度も木の机ってことと。
「お前、一度しか見ていないからな」
家の中を案内してやった時に入っただけだな、書斎はな。
「そう。…二度目はチラッと見えただけだよ」
ハーレイと一緒に歩いてた時、廊下からチラッと見えたけど…。たったそれだけ。
前のハーレイの机の方がお馴染みだよ、って言った、ぼく。
あっちの方なら今でも鮮やかに思い出せるし、色も形も覚えているよ、って。
前のハーレイが使っていた机。味わいが出ると、せっせと磨いた木で出来た机。
「ねえ、ハーレイ。あの机に鍵はあったっけ?」
引き出しに鍵はついていたかな、あの机も…?
「いや、無かった」
鍵なんかついちゃいなかったな、あれは。どの引き出しでも覗き放題、開け放題だ。
部屋付きの係が掃除のついでに開けてたってこともあるんじゃないか?
俺は開けるなとは言わなかったし、掃除をしようと開けて中身を出すとかな。
鍵がついてはいなかったという、前のハーレイが大事にしていた木の机。
つけようか、って話はあったらしいんだけれど、ハーレイはそれを蹴ったって。
鍵は要らないと、必要無いと。
「…なんで?」
キャプテンの部屋の机なんだよ、今のハーレイとは違ったんだよ?
クラブの生徒を相手にするのと、シャングリラの仲間を相手にするのじゃ違いすぎない?
前のハーレイの方が引き出しに鍵が要りそうなのに…。
どうして鍵をつける話を断っちゃったの?
「隠し事は一つで沢山だ」
それ以上あったら隠し切れんな、プライベートな秘密ってヤツは。
「一つ?」
何それ、何を隠していたの?
「分からないか?」
前のお前と恋人同士だったということさ。知られるわけにはいかなかったろ、誰にもな。
その他に何を隠すと言うんだ、わざわざ引き出しに鍵まで掛けて?
ウッカリ鍵つきの引き出しなんぞを貰っちまったら、肝心の秘密がお留守になるぞ。
あれは鍵では守れない隠し事だったんだから、と言われれば、そう。
前のぼくとの恋を引き出しに入れて、鍵を掛けたりすることは出来ない。恋はそういうものじゃない。もしも引き出しに入れられたとしても、そこから溢れて出て来るのが恋。
だって、好きだと思う気持ちは止められないから。
どんどん想いが膨れ上がって、募ってゆくのが恋なんだから。
だからハーレイは引き出しに鍵をつける話を断ってしまったんだろう。
前のぼくとの恋を隠さなければと、そっちの方が遥かに大切だからと。
引き出しの中には入らないものを隠さなければいけないから。気を緩めたら大変だから。
航宙日誌にも一切書かずに、ぼくとの恋を隠し通した。
白いシャングリラが地球に着くまで、前のハーレイの命が終わる時まで…。
「前の俺の鍵は、いわばお前さ」
お前が俺の鍵だったんだ。引き出しに鍵をつけなくても。
「ぼく?」
どういう意味なの、ぼくが鍵って…?
「前のお前だ、前のお前を守るためなら俺は何でも隠せたわけだな」
自分の気持ちも、それ以外のことも。
前のお前が俺だけに明かした秘密なんかも、俺は喋らなかっただろうが。…俺は最後まで誰にも話さなかったぞ、フィシスが本当は何だったのかを。
トォニィが気付いちまった時にも、俺は黙っていただけだ。俺は一切、喋ってはいない。
そうやって守り通した秘密も、今となっては歴史の常識なんだがな。フィシスの生まれも、前のお前がサイオンを与えたということもな…。
「じゃあ、今のぼくは?」
ハーレイの鍵になっているわけ、今のぼくも?
今のハーレイは引き出しに鍵を掛けているけど、今のぼくも鍵の役目をしてるの?
「どうだかなあ…」
鍵だっていう気は全くしないな、今のお前はソルジャー・ブルーじゃないからな。
ただのチビだし、お前、秘密も無いだろうが。
この家に住んでる子供ってだけで、誰もお前に注目したりはしていないしな?
隠すようなことは何も無いからな、って言われちゃった。
残念だけれど、今のぼくは鍵にはならないみたい。前のぼくなら鍵だったのに。
ハーレイが引き出しに鍵をつけるのを断ったくらいに、大切な鍵の役目をしていたらしいのに。
(ちょっぴり残念…)
でも、隠し事なんか要らない時代に生まれたんだし、それでいいかな、と思っていたら。
ハーレイの鍵でなくてもかまわないよね、って考えてたら。
「…待てよ。今でもお前は俺の鍵だな」
間違いない。今のお前も俺にとっては大切な鍵だ。
「どうして?」
隠し事なんか今は一つも無いでしょ、なのにどうして、ぼくが鍵なの?
ぼくがハーレイの鍵になる理由、何処にも無いと思うんだけど…。
「いや、一つデカイのが今もあるんだ」
お前のお父さんやお母さんたちに内緒だ、俺たちのこと。
俺はあくまでキャプテン・ハーレイの生まれ変わりで、お前の守り役なんだろう?
恋人だとは一度も言っていないぞ、しかも当分、秘密だってな。
「ホントだ…!」
ハーレイは何度も来てくれてるけど、パパもママも気付いてないものね。
優しくて親切な先生なんだ、って思ってるだけで、恋人だとは思っていないものね…。
今もハーレイの鍵だったらしい、チビのぼく。
ソルジャー・ブルーみたいに偉くはないけど、ハーレイの鍵になっているぼく。
机の引き出しに掛ける鍵より、ずっと大事な鍵だった、ぼく。
でも…。
「お前は今でも俺の鍵だが、いつかはお役御免になるな」
前と違って、今度は結婚出来るんだ。いつまでも鍵をやってなくてもいいってな。
「うん。パパとママに話してもいい時が来たら、ぼくは鍵ではなくなるんだね」
ハーレイは隠し事をしなくてもいいし、もう鍵なんかは要らないものね。
「うむ。お前は俺の鍵の代わりに、俺の嫁さんになるってわけだ」
結婚式を挙げて、堂々と。お父さんたちにも祝福して貰って、うんと幸せな花嫁にな。
今度こそ俺が守ってやるから、必ず嫁に来るんだぞ?
そしたら家の鍵をやるから、ってハーレイは約束してくれた。
ハーレイの家の玄関を開けることが出来る、銀色をした小さな鍵。
勝手口の方の鍵と一緒に合鍵を作って、キーホルダーに入れて、ぼくに渡してくれるって。
ぼくがいつでも開けられるように、鍵を掛けて家を出られるように。
それに…。
こいつの合鍵も作るとするか、ってレトロな形の引き出しの鍵。
古びた感じに見えるように、と加工してある鍵だけど…。
「ハーレイ、その鍵…」
引き出しの中身は秘密じゃないの?
ぼくが開けたら駄目だから、って言っていたでしょ、冗談だって言い出す前は?
「お前に隠さなければいけないようなものは入れないさ」
隠し事など俺はしないし、そういったものも作りはしない。
しかしだ、一応、鍵が掛かる引き出しになってはいるからなあ…。
出来れば開けないでくれると嬉しいんだがな、俺にもプライバシーがあるってことで。
「開けちゃうかも…」
だって、合鍵はくれるんでしょ?
何が入っているのか覗いてみたいよ、一回くらいは引き出しを開けて。
…駄目……?
「やっぱり、お前は開けるんだな?」
そういう正直なお前も好きだぞ、だからこその合鍵なんだがな。
開けたい時には開けてみればいいさ、俺がどういうつまらないものを入れているのか探しにな。
日記だって読みたきゃ読んだっていいぞ、覚え書きでもかまわないなら。
「それでもいいよ」
ハーレイが書いた日記なんだな、ってページをめくれるだけで幸せ。
結婚式の日くらいは書いてあるんだろうから、そこばかり開いて何度も読むよ。
「こらっ、何度もって…。一度じゃないのか!」
「合鍵は有効に使わなくっちゃね?」
せっかくハーレイがくれた鍵なんだもの。何度でも使うよ、ハーレイの留守に。
家で一人で待っているのが寂しい時には開けてみるんだ、ハーレイが鍵を掛けた引き出し。
そうして引き出しの中身を眺めて、また戻して。
早く帰って来ないかなあ、って鍵を掛けたり、開けたりするんだ。
いいでしょ、ハーレイ?
「参ったな…。そういうおねだりをされちまったら、だ」
うんと言うしかないってな。
好きなだけ開けたり閉めたりしてくれ、それでお前が幸せだったら何も言わんさ。
ただし、お前を喜ばせるような日記を書いてやるほど、俺はサービスしないからな…?
ハーレイは苦笑いしているけれども、ちょっぴり期待しておこう。
ぼくが引き出しを開けるようになったら、日記の書き方が少し変わるかも…。
いつか貰えるらしい鍵。
ハーレイの家の玄関の鍵と勝手口の鍵と、机の引き出しのレトロな鍵。
三つの鍵をキーホルダーに入れて渡して貰って、ぼくはハーレイの日記を読むんだ。
日記が入った引き出しの鍵を、レトロな合鍵でカチャリと開けて。
大好きなハーレイのお嫁さんになって、家の鍵を開けたり閉めたり出来る日が来たら…。
大切な鍵・了
※前のハーレイでも、今のハーレイでも、「大切な鍵」はブルーらしいです。
そんなハーレイの机の引き出しの鍵。いつか合鍵を貰った時には、開けるのがブルー。
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(これを拭いて、っと…!)
テーブルを拭きにかかった、ぼく。
いつもハーレイと使うテーブル、今日はハーレイが来てくれる日だから念入りに。
部屋の掃除は自分でするけど、掃除の仕上げはテーブルなんだ。
パパが「お客さんが来た時に要るだろう?」って椅子とセットで買ってくれたテーブル。ぼくの部屋にすっかり馴染んだテーブル。
(まさかハーレイと使えるようになるなんて…)
そんな日が来るとは思わなかった。ただの重たいテーブルなんだと思ってた。
子供の部屋には少し立派すぎる、椅子とセットになったテーブル。
だけど今ではハーレイと二人で過ごす時には欠かせない。二人分のお茶とお菓子や、食事。沢山載せてもビクともしないし、揺れたりもしない。頼もしくて頑丈なぼくのテーブル。
(今日も綺麗にしておかないと…)
キュッと端っこまで拭き上げた時に、フッと記憶が掠めて行った。
遠い、遠い記憶。こうしてテーブルを拭いていた記憶。
(ぼく、拭いてた…?)
前のぼくだった頃に、テーブルを。白い鯨で、あのシャングリラで。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
(青の間のテーブル、拭いてたけれど…)
部屋付きの係の仕事だけれども、係がいない時にはぼくが拭いてた。専用の布巾を自分で絞ってキュキュッと拭いた。何度も、何度も。
だけど…。
それは違う、という気がした。そのテーブルじゃないと、別のだったと。
(もっと前なの…?)
青の間にあったテーブルじゃなくて、別のテーブル。そういうのを拭いていた記憶。
咄嗟には思い出せないけれど。
テーブルを拭いた布巾をママに返して、部屋に戻って。
あのテーブルは何処のだっけ、って勉強机の前に座って考えてみた。記憶の端っこを掴みやすいよう、何も持ってない手で机を拭く真似をしたりしながら。
(立ってて、大きなテーブルをキュッって…)
青の間にあったテーブルよりも大きかったテーブル。何の飾りもないテーブル。
シンプルで、物さえ置ければいいって感じで。
何処だったろう、とテーブルの記憶を手繰り寄せてみたら。
(厨房…?)
それも昔のシャングリラの。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。
なんでその頃の厨房でテーブル?
前のぼくがテーブルを拭いていたわけ…?
厨房と言えば、前のハーレイが居たけれど。
キャプテンになる前は厨房で料理をしていたけれども、ハーレイの居場所だったんだけど。
(ハーレイ、片付けはしてなかった筈…)
脱出直後でゴタゴタしていた頃はともかく、すっかり厨房に落ち着いた後は片付けなんかはしていない。ハーレイは料理を作ってただけで、片付けは別の係がいた筈。
(お皿洗いも、厨房でお鍋とかを洗うのも…)
専属の係がやっていた。もちろんテーブルも彼らが拭いた。
なのにテーブルを拭いていた記憶。
食堂に並んだテーブルだったら、さほど不思議にも思わないけれど。
ちょっと零したとか、そういった時には拭いただろうから特に変でもないんだけれど。
厨房に置かれたテーブルとなったら話は別で、わざわざ入って行かない限りは接点が無い。
食事をしようと出掛けて行っても、厨房にまでは入らないから。
ハーレイは食事の時間になったら食堂に来てて、もう厨房には居なかったから。
もしもハーレイが厨房に居たなら、覗きに行くこともあっただろうけど…。
だから分からない、テーブルの記憶。どうしてぼくが拭いていたのか、謎のテーブル。
(あのテーブル…)
何に使っていたんだっけ、と其処から始まる記憶の旅。遠い記憶を探る旅。
白い鯨に、あの厨房はもう無かったから。
もっと広くて機能的な厨房、設備だってぐんと充実していた。最終的には二千人にもなった仲間たち。みんなの胃袋を満たす食事を毎日作っていたんだから。
(改造前でも広かったけどね)
コンスティテューションと呼ばれていた頃の船は、乗員がけっこう多かったらしい。それだけに厨房も大きかったし、鍋とかも沢山揃っていた。
その厨房にあったテーブル。シンプルだけども、そこそこ広さがあったテーブル。
(何かを置くから、あのテーブルがあったんだよね?)
椅子が置かれてた記憶は無いから、厨房の係が食事するための場所じゃない。何かを載せておくための場所。置き場所としての広いテーブル。
(…出来上がった料理?)
ううん、それなら盛られた順に食堂の方へと運ばれる筈。じゃあ、何を…?
完成した料理じゃないとすると…、と首を捻ったらヒョッコリ出て来た記憶。
そうだ、あそこで下ごしらえとかをやっていた。沢山の肉に塩を振ったり、野菜を切ったり。
ハーレイも色々なことをしていたけれども、それを見学しに行ったけども。
(…でも、なんでぼくがテーブルを拭いてたわけ?)
いくら見学に出掛けたからって、テーブルを拭くことは無いだろう。後片付けをする係が何人も控えてフライパンや鍋を洗ってたんだし、テーブルだって当然、拭く筈。
(ぼくの出番は無い筈だけど…)
だけどテーブルを拭いていた記憶。下ごしらえ用のテーブルをキュッと。
それをする理由が思い出せない、と悩んでいたら。
チャイムの音がして、ハーレイが訪ねて来てくれた。今は厨房の係じゃなくって、古典の先生のハーレイが。キャプテンでもない、今のハーレイが。
そのハーレイと、ぼくが綺麗に拭いておいたテーブルを挟んで座ってから。
ママが置いてってくれたお茶とお菓子を味わいながら、さっきからの疑問をぶつけてみた。
「ハーレイ。前のぼく、テーブル、拭いていた?」
ぼくってテーブルを拭いていたかな、前のぼくだった頃の話だけれど。
「はあ? 何を寝言を言っているんだ、拭いていたに決まっているだろうが」
お前の綺麗好きには泣かされた、って話もしていた筈だがな?
テーブルどころか洗面所とかまで掃除しようとしていただろうが、いつでもな。
部屋付きの係がいたというのに、ヤツらの仕事まで取っちまって。
テーブルを拭かないわけがないだろ、と呆れた顔をしているハーレイ。
駄目だ、訊き方が悪かった。
ぼくが知りたいのは青の間に居たぼくの話じゃなくって、もっと前のこと。
「青の間が出来るより前のことだよ!」
それよりも前に拭いていたかな、って訊いてるんだよ!
「俺の机だったら、磨きたがっていたが?」
俺がしょっちゅう磨いてたしなあ、やってみたいと何度も挑戦してただろ?
これでいいかと、こんな磨き方でいいのかと。
(そういうこともあったっけ…)
前のハーレイが愛用していた木で出来た机。こうしてやれば味が出るから、とよく磨いていた。
ぼくも磨くのを手伝ったけれど、ハーレイと一緒に手入れをしたけれど。
今は木の机を懐かしむより、テーブルの記憶の方が問題。
「机じゃなくって、厨房のテーブル!」
厨房に置いてあったテーブルなんだよ、下ごしらえとかをしていたテーブル。
あのテーブルをぼくが拭いてたかな、って。
「なんでお前がそれを拭くんだ」
下ごしらえ用のテーブルなんかを拭くようなことが無いだろうが。
「やっぱり記憶違いかなあ…?」
ハッキリしないし、何かとごっちゃになっているかな…?
「そうだと思うぞ、下ごしらえ用のテーブルなんぞをソルジャーに拭かせるヤツはいないな」
どんなに人手が足りなくっても、ソルジャーに拭かせることだけは無いな。
「ソルジャーだった頃のぼくじゃなくって!」
もっと昔、って説明した。
ぼくがソルジャーではなかった頃。ハーレイが厨房に居た頃だよ、って。
そう言ったら、ハーレイは腕組みをして少し考え込んでいたけれど。
ぼくと同じで、遠い記憶を手繰り寄せてたみたいだけれど。
「ああ、そういえば拭いてたな!」
今のお前と変わらないようなチビのお前が、あのテーブルを。思い出したぞ、間違いない。
「やっぱりテーブルを拭いてたの、ぼく?」
ちゃんと片付ける係がいたのに、ぼくがテーブル、拭いちゃっていた…?
「いや。お前がせっせと拭いてた時には、係なんかはいなかったな」
「そんなに昔の話だったの?」
片付ける係も決まってないほど昔だったの、ぼくがテーブルを拭いていたのは?
ハーレイが厨房の責任者だ、って決まるよりも前の頃だった…?
「そうじゃなくてだ、係のいない時間の話だ」
係はいたんだが、いなかった。そういう時にお前が拭いてた。
「えっ?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
係はいたけど、いなかったって…。意味が全然分からないよ?
ますます謎だ、と首を傾げてたら、ハーレイが「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「お前、試作に付き合ってたろうが」
俺が料理の試作をすると言ったら、厨房まで一緒について来て。
フライパンや鍋を覗き込むんだ、「何が出来るの?」とな。
「うん、覚えてる。味見もさせて貰ったよ?」
こんなのが出来たと、こんな感じだと。もうちょっと工夫をするかな、とかね。
「そういった時に拭いていたんだ、あのテーブルをな」
試作をしているような時間だ、片付けをする係にとっては仕事の時間外だったんだ。
厨房にはお前と俺しかいなくて、片付け係も調理係もいなかったってな。誰も片付けをしに来てくれないからなあ、俺が片付けて帰るしかないってトコだったんだが…。
そいつをお前が手伝いに来るんだ、「ぼくもハーレイと一緒にやるよ」と。
要らないと言っても手伝ってたぞ、と言われてようやく思い出した。
厨房でハーレイと二人きり。どんな料理が出来上がるのかとワクワク見てた。味見もしてみた。
何か手伝いをしたかったけれど、料理じゃハーレイに敵いっこない。下手に手伝ったら焦がしてしまうとか、煮過ぎちゃうとか、ロクな結果になりそうにないと思ったから。
せめてぼくでも出来ることを、とテーブルを拭いたり、鍋やお皿を洗ったり。
(テーブルを拭いてただけじゃなくって、お皿とかだって拭いたんだっけ…)
試作中だから、厨房の係はハーレイ一人しかいないから。
せっせと洗って、テーブルも拭いて、お皿は元の棚へと戻して…。お鍋とかだって。
ハーレイの手伝いをしていた、ぼく。
厨房のテーブルをキュッキュと拭いていた、ぼく。
やっと記憶が戻って来た。あのテーブルを拭いていたんだ、って。
懐かしいな、と遠い昔に思いを馳せていたら。
「お前と二人で皿洗いをしたのを覚えているか?」
試作の途中で味見する度に新しい皿を使っていたしな、そこそこ数があったんだ。出来上がったヤツを食った皿も入れたら、何枚くらいあったんだか…。
そいつを二人で洗っていただろ、俺が洗って、お前がすすいで。
「うん、何回も洗ったっけね」
でも、ハーレイの方が早くて上手なんだよ。
いつでも手早く洗ってしまって、「後は俺がやる」って交代だったよ、すすぐ方のも。
仕方ないからお皿を拭くけど、それだってハーレイが途中から持って行っちゃうんだよ。
「俺の方はもう終わったから」って、「お前は拭き終わったのを棚に片付けてくれ」って。
「そりゃまあ…なあ?」
いつも厨房に立ってた俺とだ、そうじゃないお前じゃ違ってくるさ。
俺にとっては毎日やってる仕事なんだし、そいつが遅くちゃ話にならん。皿も鍋もだ、とにかく手早く洗えってな。
手際よく料理をするためのコツは整理整頓、使った道具は役目が済んだら直ぐに片付ける。
それが鉄則、って言うハーレイ。
試作でなくても、みんなの食事を作る時でも。係が来るのを待っていないで洗うくらいの勢いでないと、使いやすい厨房にならないって。
だから慣れてたと、早かったと。お皿を洗うのも、鍋やフライパンを洗うのも。
「今でもお皿を洗うの、早い?」
前のハーレイと同じで早いの、サッと洗ってしまえるの?
「もちろんだ。優勝したほどの腕前だってな」
「優勝って?」
なんなの、何で優勝したの?
「上の学校の時に合宿でやった皿洗いバトルさ」
運動部ってヤツは、合宿の時の料理は自分たちで作ることが多いんだ。料理作りを通してチームワークを高められるからなあ、合宿中に一度は総出で料理だ。先輩も後輩も一緒にな。
そんな料理を食った後でだ、全員参加で皿洗いの腕を競ったわけだ。そいつで優勝したってな。
俺よりも早く洗えるヤツには一度もお目にかからなかったなあ…。
「面白そう…!」
みんなで作って、お皿洗いも競争なんだ?
それで優勝出来たんだったら、ハーレイの腕前、凄いんだね!
「当然だろうが、ダテに料理はしちゃいないぞ」
おふくろと親父に仕込まれたからなあ、料理も魚の捌き方もな。それに二人とも、「後片付けが出来ないようでは料理上手になれやしない」と皿洗いまでキッチリさせてくれたさ。
そういうわけでだ、俺は皿洗いの方も修行に修行を重ねたってことだ。
前の俺より早いかもな、ってハーレイが自慢しているから。
前のぼくたちが生きてた頃より、うんと種類が増えてしまったお皿も器も手早く洗って片付けが出来る腕だと言うから。
「ハーレイの皿洗いの腕前、見てみたいな…」
前のハーレイよりも早いんだったら、ちょっぴり洗って見せて欲しいな。何でもいいから。
お皿でもいいし、このテーブルに置いてあるティーポットだとか、カップだとか。
「おいおい、お前の家では実演出来んぞ、皿洗いはな」
これでも一応、俺は客という扱いになっているんだぞ?
お客さんに皿洗いをさせるような家が何処にあるんだ、よく考えてから言うんだな。
手料理だって持って来られないのに、それを飛び越えて皿洗いなんぞが出来るか、馬鹿。
「…やっぱり無理?」
ハーレイがお皿を洗う所は見られない?
皿洗いバトルで優勝した腕、ぼくの家では見られないわけ?
「当たり前だろうが。理由は言ったろ、この家じゃ無理だと」
結婚するまで諦めておけ。俺の皿洗いを見るのはな。
「そんなに先?」
ハーレイのお嫁さんになるまで見せて貰えないわけ、皿洗いの腕?
前のハーレイよりも早いって言うから、その腕、見せて欲しいのに…。
「ふうむ…。結婚するまで待てんと来たか…」
しかしだ、お前は俺の家には来られないわけで、見ようにも見られる場所が無い。
少しでも早くと言うんだったら、婚約だな。
婚約したなら、俺の家にも堂々と客として来られるし…。
そしたら見せてやってもかまわないがな、俺の手料理とセットでな。
「ハーレイの料理もついてくるの?」
「皿洗いの腕を披露するんだぞ? その皿に俺の料理を載せなきゃどうするんだ」
うんと美味いのを御馳走してやるさ、皿が沢山要りそうなのを。
いろんな形の器を幾つも出すんだったら、和風の料理が良さそうだな。前の俺たちが生きてた頃には無かったヤツだが、今の俺は和風も得意だからな。
「楽しみ…!」
ハーレイが作った天麩羅だとか、茶碗蒸しだとか。
そういうのを食べさせて貰えるんだね、前のぼくが知らなかった料理ばっかりを。
今のハーレイだから作れる料理を御馳走になって、皿洗いも見せて貰えるんだね…!
いつかハーレイと婚約したなら、和風の料理を作って貰って、皿洗いの腕も見られるらしい。
ハーレイだったら、きっと御飯茶碗も茶碗蒸しの器も手早く洗ってしまうんだろう。どんな形をしている器も、まるで平たいお皿みたいに楽々と。
そんなハーレイの腕前を横で見ているのも楽しそうだけど…。
「ねえ、その時はぼくにも手伝わせてよ」
前のぼくみたいにハーレイと一緒に洗いたいな、お皿。和風だったら、お皿の他にも色々な器があるだろうけど…。
「駄目だな、皿を割られちゃたまらん」
特別上等なヤツってわけでもないんだが…。割られたら数が揃わなくなってしまうしな。
お前だって今なら分かる筈だぞ、和風の食事に使う器は模様や形が同じのを探すのは大変だと。
「知っているけど…。ぼく、割らないよ?」
前のぼくだって一度も割っていないよ、厨房でお皿を洗っていた時。
「確かに割ってはいなかったが…」
普通だったら落としてガシャンと割れる所をサイオンで拾っただけだろうが。
ガシャンと砕けてしまう前にだ、ヒョイと拾って戻してたってな。
「落としちゃってた…?」
前のぼく、お皿を割っていないだけで、ホントは何度も落っことしてた?
割れるよりも前に拾い上げただけで、本当は割れるトコだった…?
ニヤニヤしてぼくを見ているハーレイ。
言われてみれば覚えがある気もしてきた。
前のハーレイを手伝おうとして、頑張ってお皿を洗っていた、ぼく。
手を滑らせて落っことしたお皿を「いけない!」ってサイオンで止めていた。床に当たったら、お皿は粉々。その前に止めてしまわなきゃ、って。
前のぼくなら簡単に出来たことだけれども、今のぼくには出来ない芸当。どんなに「止まれ」と念じた所で、お皿は止まりはしないんだ。床まで真っ直ぐ、ノンストップ。そしてガシャンと音がしちゃって、真っ二つになるか、粉々か…。
皿洗いバトルで優勝した腕のハーレイを手伝って洗うどころか、逆に迷惑、足を引っ張る。
砕けたお皿の後始末だとか、濡れちゃった床の掃除だとか。
つまりハーレイのお手伝いなんかは夢のまた夢、「黙って見てろ」と禁止される立場。
だけど、やっぱり手伝いたい。
ハーレイ一人にやらせるだなんて、なんだか、あんまり酷すぎるから…。
「…じゃあ、今のぼくは、皿洗いは…」
やっちゃ駄目なの、お皿を割ってしまうから。
前のぼくみたいにサイオンで止めて拾えないから、お皿は洗っちゃいけないの?
ハーレイのお手伝い、したいのに…。
「その手伝いがだ、手伝いになっていないんだがなあ…。皿を割っちまった時にはな」
割れた皿を片付ける手間が増えるし、床だって掃除をしなくちゃならん。面倒なばかりで少しも楽にならないからなあ、皿洗いの手伝いは断固断る。客のお前は洗わなくてもいいんだしな?
嫁に来たって洗わなくていい、と言いたいトコだが。
俺が洗うから放っておけ、と言いたいんだが、洗うんだな?
お前、どうやら、前と同じで綺麗好きだしな?
「うん。ハーレイが出掛けていたなら、お皿、洗うよ」
その間にぼくが使った分とか、ハーレイが出掛ける前に使った分とか。
ハーレイが帰るまで放っておかずに、ちゃんと洗って綺麗に拭いて。
元の棚まで戻しておくから、留守の間くらいは任せておいてよ。
「任せてもいいが、だ…」
皿、割るなよ?
任せられたからには責任を持ってきちんと洗えよ、割っちまわないように気を付けてな。
「…割っちゃったら?」
割らないように頑張るけれども、もし割っちゃったら、どうしたらいいの?
もちろんハーレイが帰って来たら正直に話して「ごめんなさい」ってちゃんと謝るし、後片付けだってしておくけれど…。
「割っちまったのなら弁償だな」
そいつが筋っていうものだろう?
物を壊したら弁償する。それが世間の常識だってな。
「弁償って…。どうやって?」
ぼくがハーレイにお皿のお金を払ったとしても、そのお金でハーレイが買い直した食器はぼくも使うよ、それって何処かが変じゃない?
ハーレイに払うお金にしたって、ぼくのお小遣い、ハーレイから貰っているんじゃあ…?
結婚した後はハーレイの家で暮らす、ぼく。
ハーレイのお嫁さんになるっていうだけで、多分、仕事はしそうにない、ぼく。
割ったお皿を弁償しようにも、ぼくのお金はハーレイのお金。
もしかしたら、結婚する時にパパとママが幾らか持たせてくれるかもしれないけれど…。
そこから弁償するんだろうか?
何度もお皿を割っていたなら、パパとママから貰ったお金は無くなってしまって一文無しとか?
「もう払えません」ってハーレイに言ったら、どうなるんだろう。
お金がすっかり無くなっちゃったから、もう弁償は出来ません、って泣くしかないとか?
そうしてお皿も洗えなくなって、何も出来ないお嫁さん…?
(…役立たず…)
それしか言葉が浮かんで来ない。
ハーレイの留守にお皿を洗って片付けることも出来ないお嫁さんなんて。
もう駄目だ、って頭の中がぐるぐるしてたら、ハーレイがパチンと片目を瞑った。
「さてなあ、弁償する方法なあ…。お前に金を払えだなんて言えないし…」
皿一枚につき、キス一回にしておくか。
割っちまったら「ごめんなさい」と俺にキスしろ、皿一枚でキス一回だ。
「それなら割っても平気だね!」
キスでいいなら、ぼくも安心。
それにハーレイが帰って来たら直ぐにキスが出来るし、弁償どころか嬉しいくらい。
割っちゃってごめん、ってキスしたらそれでいいんでしょ?
「…喜ばれたんでは弁償の意味が無いんだが…。お前が反省しないとな」
皿一枚でキス一回では駄目なようだな、他に何か…。
よし、皿を割ったら一枚につきキス無し一日…って、こいつは俺が耐えられんか。
目の前にお前がいるというのに、一日もキスが出来ないんじゃな。
「ぼくだって、それは耐えられないよ!」
ハーレイと一緒に住んでいるのに、キス無しなんでしょ?
キスもしないで丸一日なんて絶対無理だよ、もっとマシなのを考えてよ…!
ぼくがお皿を割っちゃった時の弁償方法。
ハーレイはあれこれ考えたけれど、どれも何処かに落とし穴。ぼくを喜ばせるか、ハーレイまで損をしてしまうかの二つに一つで、いい方法はとうとう見付からなかったから。
どんなに考えても弁償も罰も無理みたいだから、ハーレイの顔に苦笑い。
「…仕方ない、気を付けて洗ってくれ」
お前に弁償して貰う方も、罰を与える方法ってヤツも、どうやら一つも適した策が無いらしい。
皿洗いはお前の良心と腕に任せる、割らないように努力してくれよ。
「うん、そうする!」
任せておいてよ、ぼくだって手までは不器用じゃないし。
サイオンはとことん不器用だけれど、手の方はけっこう器用だよ?
だからお皿だって、前のぼくより上手に洗えるんじゃないかと思うな、落としたりせずに。
頑張るね、って言ったけれども。
留守の間のお皿洗いは任せておいて、って言ったけれども。
前にハーレイの家で見かけた、愛用品らしい大きなマグカップ。
あれだけは洗わないで置いておこうか、ハーレイが使ったカップだから。出掛ける前にゆっくりコーヒーを飲んで、「行ってくる」ってテーブルの上に残して行ったカップだから。
ハーレイの温もりが残ったカップ。その内に冷えてしまうけど…。
(きっと嬉しい気分になるんだよ、飲み残しとかで)
カップの底にほんのちょっぴり、コーヒーが入っていた名残。
飲んでやろうと傾けてみても、カップの縁まで流れて来てはくれない僅かなコーヒー。
ハーレイが美味しく飲んで行った後の、じきに乾いて跡だけが残るカップの底のコーヒーの雫。
(見ているだけで幸せだよね?)
これでハーレイが飲んでたんだよ、ってカップを眺めて覗き込むだけで。
時々触って、取っ手に指を通したりして、持ち上げて重さを確かめたりして。
(…でも、コーヒーの残りがくっついたカップ…)
使ったまんまで放っておかれたカップというのは否定できない。
いくらハーレイの名残が残るカップでも、ハーレイが愛用しているマグカップでも。
その内に洗ってしまうかもしれない、綺麗好きなぼく。
お昼御飯を食べたついでに、あるいはおやつを食べたついでに、ぼくが使ったお皿と一緒に。
(ハーレイのカップ…)
今のぼくはサイオンで拾ったりすることは出来っこないから、うんと気を付けて。
他の食器に当たったりしてヒビが入っても困っちゃうから、カップは別にして洗おう。
大好きなハーレイが大切にしているカップを割ったらとっても悲しいから。
ヒビが入ったり欠けたりするのも、悲しくて困ってしまうから…。
気を付けよう、って決心してたら、ハーレイがしげしげとぼくの顔を見て。
「割りそうだな…」
お前、如何にも割りそうな顔だな、そういう風に見えるんだがな?
割っちまったらどうしようか、って考えていないか、さっきからずっと…?
「そんなことないよ!」
割らないように気を付けて洗う方法、どんなのがあるか色々と考えていただけだってば!
だから割ったりしないよ、お皿。お皿も、他のいろんな器も。
絶対割らない、って膨れたけれど。
割ったらぼくだって悲しいんだから、って言ったんだけど。
前のぼくでも割りそうだったお皿、無事に割らずに済むんだろうか?
サイオンで拾い上げられない、ぼく。床に落っこちる前に止められない、ぼく。
(でも、割っても…)
もしもハーレイの大事なお皿を、落っことして割ってしまっても。
使いやすくてお気に入りらしい、あのマグカップが真っ二つになってしまっても。
ハーレイなら、きっと許してくれる。
「ごめんなさい」って頭を下げたら、きっと笑顔で許してくれる。
割ってしまって泣き顔のぼくに、「また買えばいいさ」とキスを落として…。
お手伝い・了
※前のハーレイが厨房にいた頃、せっせと手伝いをしていたブルー。皿洗いまで。
今度も手伝いをしたいですけど、お皿を割ってしまうかも。だけど許して貰えますよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(クッキー…)
それは唐突にやって来た。
学校から帰って、おやつを食べていた最中に。おやつはケーキだったのに。
何故だか急に、食べたくなった。あのクッキーが食べてみたい、と。
(あそこのクッキー、美味しかったもの…)
一度だけ、ハーレイが持って来てくれた。
ハーレイの家の近所にあるという店のクッキー、それを土産に提げて来てくれた。ブルーの家に来られなかった詫びにと、客にはこれを出したのだと。
柔道部の顧問をしているハーレイ。クラブの子たちが遊びに来るから、と来客を優先された時のお詫びがクッキーだった。彼らに出した菓子はこれだと、お前も食べてみたいだろうと。
今の学校だと柔道部員で、それまでにハーレイが居た学校なら水泳部員のこともあったろう。
柔道部であれ、水泳部であれ、あのクッキーはハーレイの客たちの御用達。
(徳用袋って言ってたよね?)
ブルーは箱入りの綺麗な詰め合わせを貰ったけれども、来客用には徳用袋だと聞かされた。作る途中で割れたり欠けたりしたクッキーを詰めた、大きな袋があるのだと。
菓子も食事も山のように食べる生徒たちには上品な詰め合わせセットは向かない。ゆえに徳用、それでもアッと言う間に空にするのがハーレイの家の客たちらしい。
(ホントに本物のお客さんなら、ぼくが貰ったみたいなクッキーを出すんだろうけど…)
それを思えば、自分が貰ったクッキーの方が断然、上。
いわば特別扱いだけれど、それが突然、あまり嬉しくなくなった。
ハーレイの家には行けない自分。来てはいけないと言われた自分。なのに自由に出入りしている柔道部員の生徒たち。招かれたら家じゅうを走り回って、覗いて回るという生徒たち。
彼らの立場が羨ましい。彼らのために用意されるという徳用袋のクッキーだって。
(食べてみたいな…)
割れたり欠けたりしたクッキー。改まった客には出さないクッキー。
それを自分も味わってみたい。特別扱いの澄ましたクッキーなどより、普段着のクッキー。
ハーレイの家に遊びに出掛けた生徒たちに振る舞われるクッキー。
(味はおんなじなんだろうけど、気分が全然違うよね?)
箱に綺麗に並べられていて、欠陥など無いクッキーは所詮、よそゆきの顔。何処に行っても通用する顔、個性がまるで無いクッキー。
けれども徳用袋のは違う。真っ二つに割れてしまったものやら、大きく欠けているのやら。同じ型から生まれたものでも同じ形をしているクッキーは無くて、どれもが違った顔ばかり。
(どのクッキーもきっと、ユニークなんだよ)
賑やかに笑いさざめいているクッキーたちの声が聞こえるようだ。大きな菓子鉢か皿に盛られて出されたクッキー、それらが笑い合う声が。クッキーをつまむ生徒たちと同じに、それは賑やかに楽しそうに。
(…いいな…)
そんなクッキーたちを自分も食べたい。個性豊かなクッキーを食べて、気分だけでもハーレイの客になったつもりで楽しみたい。あの家に自分は行けないけれども、気分だけでも。
(だって、徳用袋のクッキー…)
ハーレイの家に招かれた教え子たちだけが出会えるクッキー、個性溢れるクッキーたち。
割れたり欠けたり、お行儀の悪いクッキーの群れ。
そこから一つつまむだけでも幸せな気分になれるだろう。ハーレイの家に行ったらこのクッキーだと、こんなクッキーたちが「いらっしゃい」と迎えてくれるのだと。
どうにも食べたくなってきたから、クッキーに会いたい気持ちを抱えて部屋に戻った。徳用袋に入ったクッキー、まだ会ったことが無いクッキー。
(食べたいな…)
ハーレイのお客さんになって食べてみたいな、と勉強机の前に座って考えていたら。クッキーな気分を断ち切れずにいたら、運良くハーレイがやって来た。仕事帰りに、チャイムを鳴らして。
(神様が連れて来てくれたんだよ…!)
クッキーが欲しいと頼むように、と連れて来て下さったに違いない。心から欲しいと願っていたから、神様が願いを叶えてやろうと手伝って下さったに違いない。
だから早速、ハーレイに強請った。母がお茶とお菓子を置いて去った後、勢い込んで。徳用袋のクッキーが欲しいと、あれを一度食べてみたいのだと。
しかし…。
「徳用袋か…。お前には向いていないんだがな」
あれはお前に渡すようには出来ていないと思うんだが…。
「なんで?」
割れたり欠けたりしてるだけでしょ、味は普通のクッキーなんでしょ?
あそこのクッキー美味しかったし、ぼくの好みの味だったよ。向いてないことはないと思うな、よそゆきの顔をしてないクッキー、食べたいな…。
ちゃんと揃ったクッキーもいいけど、普段着の顔のクッキーがいいよ。
だって、ハーレイの家に大勢で遊びに行った生徒は、そのクッキーを食べるんだものね。
「味や形は問題じゃないんだ、要は徳用袋のサイズだ」
お前ではとても食い切れない。個別包装だってしてないからなあ、一気に食わんと湿っちまう。一日で全部食えとは言わんが、せいぜい二日か三日ってトコだ。それを過ぎたらもう駄目だな。
「平気だってば、食べ切れないならママたちと分けるよ」
ママもパパもクッキー、大好きだしね。
前にハーレイがくれたクッキー、少しだけ分けてあげたんだけど…。とても美味しいって言っていたから、また貰えたなら大喜びだよ。それも沢山食べられるんなら。
「そんな失礼なことが出来るか!」
お前が一人で食うならともかく、お父さんやお母さんにも分けるだと?
そいつは失礼すぎるってモンだ、俺の人格を疑われそうだ。なんてモノを持ってくるんだとな。
相手は徳用袋なんだぞ、とハーレイは顔を顰めて言った。
来客に出したり、お遣い物に持ってゆくには不向きだからこそ徳用袋に入れられるクッキー。
そんなクッキーばかりを詰めたものなど、土産に持っては来られないと。
アッサリ断られてしまったけれども、諦められない徳用袋。
ハーレイの家に出掛けた生徒たちだけが味わえる個性豊かなクッキー。
駄目だと言われれば余計に欲しい。食べたくて欲しくて、なんとしてでも手に入れたい。
次にハーレイがやって来た時も、また強請ったから。
徳用袋のクッキーが欲しいと、食べてみたいと強請ったから。
「お前、忘れていなかったのか…」
たかがクッキーだぞ、お母さんだって焼いてくれるじゃないか。うんと美味いのを。
それに毎日、手作りの菓子を色々食わせて貰ってるくせに、お前の頭から徳用袋は消えんのか?
「食べ物の恨みって言うじゃない」
しつこいものでしょ、食べ物の恨み。それだから忘れないんだよ。
ハーレイが食べさせてくれなかった、って恨んでいるから、徳用袋のことを覚えているんだよ。ぼくに御馳走してくれるまでは忘れないままでいると思うな、徳用袋のクッキーのこと。
「そう来たか…」
食い物の恨みか、そいつは確かにしつこそうだ。俺は来る度に言われるんだな、あれを食わせてくれなかったと。
仕方ないな、とハーレイは大きな溜息をついた。
なんとか工夫してみよう、と。
ブルーの両親に失礼なことにならない形で徳用袋のクッキーを持ち込む工夫をしよう、と。
そして訪れた週末の土曜日。
ハーレイは自分の荷物とは別に丈夫そうな袋を提げて来た。袋の中身はハーレイの母の手作りのマーマレードが詰まったガラス瓶。夏ミカンの金色が鮮やかなマーマレードは、切れないようにと早めに新しい瓶を持ってくるのが常だった。ブルーの家の朝食に欠かせないマーマレード。
それをブルーの母に手渡した後で、二階のブルーの部屋に案内されて来たハーレイだけれど。
「苦労したぞ」と袋の中から瓶をもう一つ取り出した。
「お母さんにはマーマレードだけを持って来たふりをしておいた」と。
テーブルの上に置かれた大きなガラス瓶。中にギッシリ詰まったクッキー。
覗き込んでみれば、クッキーはどれも割れたり欠けたりしていたから。
「これが徳用?」
徳用袋のクッキーは瓶に詰まっているものだったの、ぼくは袋だと思っていたけど…。
「いや、徳用だけに袋入りだが? 瓶なんかついてくるもんか」
そいつの一部を詰め替えて来たんだ、この瓶にな。
お前にはとても食い切れない量だと言っていただろ、徳用袋。だから一部だ。
こんなサイズの袋だからな、と示された大きさはとてつもないもの、まさに徳用。
「凄いね、そんなに大きな袋だったんだ。クッキーの徳用袋って…」
この瓶だって充分、大きいのに…。ぼく、一日では食べ切れないよ。
「クッキーを入れるなら、このくらいのデカさの瓶でないとな」
せっかくの徳用袋だからなあ、お前が欲しくて何度も強請ったヤツだしな?
そうそう買ってはやれないからなあ、こいつでじっくり味わってくれ。
これだけあったら暫くはクッキー、食えるだろ?
一日にどれほど食うかは知らんが、二日や三日じゃ、多分、食い切れないだろうしな。
マーマレードの瓶に負けないサイズのガラス瓶。瓶の高さは十五センチは軽くあるだろう。
その中にびっしり、色々な色や形のクッキーたち。割れたり欠けたりしているけれども、様々なクッキーが詰め込まれていて。
「こうやって瓶に詰めておけばな、袋と違って湿らないしな」
食べる分だけ出したら蓋を閉めるんだ。そうしておいたら一ヶ月だって大丈夫だぞ。
「ありがとう! 大事に食べるよ、少しずつ。おやつは毎日、ママが用意してくれるしね」
お腹が空いてるわけじゃないから、一日に二つか三つもあれば…。
どのクッキーが美味しいの?
「うん? どれも美味いが、シナモンはちょっと変わった風味だぞ」
黒砂糖ってヤツを使っているんだ、甘さにクセがあるってな。
「シナモンって…。どれ?」
「こいつだ、ここの四角いヤツだ。割れちまって四角じゃないけどな」
それにアーモンドもホロリと崩れる感じがいいんだ、こいつがアーモンドクッキーだ。
でもって、こっちの黒っぽいのがだな…。
ココア風味や、チョコレートチップが入ったものやら。
どのクッキーもハーレイのお勧めらしいけれども、原型を保ったものは無かった。それでも形の想像はつく。きっとこうだと、綺麗に仕上がればこうなのだと。
前に貰った詰め合わせセットの時には無かったクッキー談義がとても嬉しい。
ブルーが熱心に瓶を見ていたら、ハーレイが蓋に手を置いた。
「ちょっと食ってみるか?」
どんな味だか、二つか三つ。上の方に入っているヤツをな。
「うんっ!」
ハーレイも一緒に食べようよ。ぼくが一人で食べるのもいいけど、ハーレイと一緒。
徳用袋を食べる生徒の時もそうでしょ、ハーレイ、一緒に食べてるんでしょ?
ハーレイが瓶の蓋を軽く捻って開けて、それは素晴らしいティータイム。
ケーキのお皿に割れたクッキーを何枚か出して、ハーレイと二人でつまんで食べた。クッキーの説明をして貰いながら、元はこうだと形を教えて貰いながら。
もちろん瓶にはきちんと蓋がされていたから、瓶の中身は湿りはしない。ハーレイはクッキーを隙間なく詰めて来ていたのだろう、瓶にはまだまだギッシリとあって。
「な、割れたクッキーでも美味いだろう?」
残りは楽しんで食うんだな。飯を食うのに差支えない程度にしておけよ。
「うん! 一人でコッソリ食べることにするよ」
ママに見付かったら食べられちゃうしね、このクッキー。
美味しいわね、って言われちゃったらおしまいなんだよ、アッと言う間に無くなっちゃうよ。
この店のクッキーが美味しかったことは両親も覚えている筈だから危険だった。
発見されれば「このクッキーでお茶にしましょう」と階下に運ばれ、それっきりになる。
だから隠す、とブルーはクッキー入りの瓶をチョンとつついた。
クローゼットに仕舞っておくよ、と。
あそこならママも滅多に覗かないから、絶対に発見されないよ、と。
その言葉通り、母が昼食を運んで来る前にクローゼットに突っ込んだ。
ハーレイは「そんな所に隠すのか?」と笑ったけれども、かまわない。ベッドの下よりも安全な筈の隠し場所。クローゼットの扉を大きく開け放たない限り、隅っこまで見えはしないから。
(ふふっ、クッキー…)
ついに手に入れた徳用袋の中身のクッキー。割れたり欠けたりしたクッキー。
その夜、ハーレイが帰って行った後、歯を磨く前に一枚食べよう、とクローゼットから引っ張り出した瓶。どれにしようか、と思案しながら開けようとして。
(開かない…)
固く閉まった瓶の蓋。こういう時には蓋を温めれば開くのだったか、と思ったけれど。
生憎と蓋だけを温められそうなものは部屋には無い。布で擦って温めてみても開かない蓋。
(んーと…)
力一杯、何度も捻って、手が痛くなるまで挑んだけれど。
どう頑張っても開かなかったから諦めた。
なにしろ瓶の中身はクッキー、洗面所に運んで蓋を湯で温める方法は使えないから。
両親に知られずに出来そうな方法は、湯の他に思い付かないから…。
悪戦苦闘して諦めた翌日、日曜日。
訪ねて来てくれたハーレイと部屋で向かい合うなり、母の足音が階下に去るなり、ブルーは瓶をクローゼットから取り出した。
「ハーレイ、この蓋、開かないよ?」
昨日、寝る前に一枚食べようとしたんだけれど…。
蓋が固くて開かなかったよ、一枚も食べられなかったんだよ。
「そうか?」
そいつは残念なことをしたなあ、家にあるのに食い損なったか。
しかしだ、この蓋、そんなに固くはない筈だがな?
ほら、とハーレイが蓋を捻ればポンと簡単に開いた瓶。
ブルーは嬉々として中身を何枚かケーキの皿の上へ移すと、ハーレイに勧めた。
これを食べようと、クッキーも二人で食べようと。
ハーレイの家でしか食べられない筈の徳用袋のクッキーだから。
割れたり欠けたり、お遣い物に持ってゆくにはお行儀の悪すぎるクッキーたちだから。
そうして二人でまたクッキーを食べて、瓶の蓋はハーレイが閉めてくれた。
「湿ると不味くなっちまうしな」と、ブルーがクッキーを皿に移すなり、手早くキュッと。
そのハーレイと二人でクッキーをつまんで、残りが入った瓶はクローゼットの奥に片付けて。
ハーレイの家に行った気分で味わったクッキー、徳用袋のクッキーたち。
(美味しかったな…)
あのクッキー、とハーレイが帰って行った後でクローゼットから瓶を引っ張り出した。
ハーレイと一緒に二度も食べたから、ますます特別になったクッキー。両親には内緒の宝物。
どれを食べようかとガラス越しに眺めて、今夜こそ、と蓋に手を掛けた。
宝物のクッキーを今夜こそ、一つ。
ハーレイお勧めのシナモンもいいし、アーモンドのも美味しかった。チョコレートチップのも、ココア風味も、アーモンドとココアが混じったものも。
心躍らせつつ蓋を捻ったのに、開いてくれない。どう頑張っても開かない蓋。
あんなに楽々と開けていたのに、と大きくて逞しい褐色の手を思い浮かべた途端に気が付いた。
(ハーレイのせいだ…!)
そういえば前に確かに聞いた。
いつもハーレイが持って来てくれる、夏ミカンの金色のマーマレード。あの瓶の蓋も固かった。両親が苦労して開けているそれを、ハーレイは手だけでポンと開けてみせた。蓋を開けるのにコツなどは無いと、自分は捻っているだけだと。
(力持ち…)
固くて開かないと評判らしい、夏ミカンのマーマレードが詰まった瓶。
捻るだけで開けられる人間はハーレイ一人で、マーマレードを瓶詰めにしたハーレイの母でさえ父と二人で開けるという。二人がかりで、サイオンまでも乗せて。
そのマーマレードの瓶を軽々と開けるハーレイが閉めてしまった蓋。「湿ると駄目だ」と固めに閉めておいた蓋。
ブルーの力で開くわけがない。どう頑張っても開く筈がない。
(クッキー…)
食べたいのに、と瓶を見詰めて肩を落とした。
開けたいけれども、開かない瓶。自分の力では開けられない瓶。
父に頼めば、開けてくれるかもしれないけれど。
(開けてくれても、食べられちゃうよ…)
「開けた御礼に一つ貰うぞ?」で済むわけがない。「ママにも一枚」と言いそうな父。
母と二人で一枚ずつ食べれば、もう間違いなく気付かれる。これは美味しいクッキーだと。形は不揃いでみっともなくても、味は素晴らしいクッキーなのだと。
そうなったら二人は確実に思い出すだろう。ハーレイが前に持って来たのと同じものだと。
(気付かれちゃったら、みんなで食べようって言い出すんだよ)
母がお茶を淹れ、父が器にクッキーを入れてティータイム。
クッキーの瓶はそのまま階下に留め置かれて、二度と部屋には持ち帰れない。一人占めにはしておけない。
(それに、一人で食べられるチャンスがあったとしても…)
ダイニングのテーブルで食べていたのでは、ハーレイの家に出掛けた気分になれない。あの家に招かれた気がするからこそ、このクッキーが欲しかったのに。
(仕方ないや…)
クッキーはとても食べたいけれども、次にハーレイが来るまでお預け。
瓶の蓋を開けて貰える時まで、暫くお預け。
ガラス瓶越しにクッキーたちを毎日眺め続けて、水曜日にハーレイが来てくれたから。また瓶を出して来て「開けて」と頼んだ。
クッキーを何枚かケーキが載った皿に移して、今度は自分で蓋を閉めたけれど。
「おいおい、駄目だぞ、そんな閉め方」
もっと力を入れないとな。ギュッと閉めんと湿っちまうぞ。
貸してみろ、と褐色の手が伸びて来て瓶を取り上げた。
止める暇も無く、ハーレイの力で閉められてしまった瓶の蓋。
悲劇は再び繰り返された。
ブルーがどんなに頑張ってみても、瓶の蓋はビクともしなかった。
開かない蓋と空しく戦い続けて、週末が来て。
土曜日、訪ねて来てくれたハーレイにブルーはまた頼まざるを得なかった。蓋を開けてと、この瓶の蓋が開かないからと。
瓶の蓋はいとも容易くポンと開いて、其処からクッキーを何枚か出して。
「ぼくが閉めるよ」と、「湿ってもいいから」と自分の力で閉めたのだけれど。
「俺はそういうのは許せんな」
寄越せ、きちんと閉めてやるから。
湿ってもいいとは、何を言うんだ。それは食べ物を粗末にするってことだぞ、分かってるのか?
いいか、クッキーはな、湿っちまったら美味くないんだ。しっかり閉めておいたら湿らん。
美味いままで置いておけるというのに、湿ってもいいとは感心せんな。
食い物が如何に大事なものかは、お前も承知している筈なんだがな?
前の俺たちがアルタミラから逃げ出した後、その食い物のせいでどうなった?
危うく飢え死にするトコだったぞ、前のお前がいなかったらな。
船に載ってた食料だけでは、いつか終わりが来るんだからな。
あの危機を覚えているだろうが、と言われたらもう反論出来ない。
ハーレイの手が瓶の蓋を固く閉め直すのを見ているしかない。
クッキーたちはブルーの手が届かない世界へ行ってしまって、ガラス瓶の向こう。美味しそうな姿は見えているのに、食べたくても瓶から取り出せない。
「これで良し、っと…」
もう大丈夫だ、こうしてきちんと閉めておけばな。いつでも美味いのを食べられるぞ。
「でも、開かないし…」
ぼくの力じゃ開けられないから、美味しいも何もないんだよ!
どんなにクッキーが美味しくっても、ハーレイが家に来てくれた時しか食べられないし!
「馬鹿だな、お前。サイオン、あるだろ」
そういう時にこそサイオンだってな、サイオンを使えば解決じゃないか。
「サイオン?」
ハーレイ、ぼくがサイオンを上手く使えないこと、知ってるくせに!
タイプ・ブルーだなんて名前だけだよ、とことん扱いが下手なんだよ…!
蓋なんかとても開けられない、と言い返したら。
出来るわけがない、と噛み付いたら。
「開けなくてもいいだろ、お前だったら」
蓋にこだわるから困るってだけだ、要はクッキーが食えりゃいいんだろうが。
瞬間移動で出せばいいのさ、とハーレイの指先がガラス瓶の表をピンと弾いた。
蓋を開けなくてもクッキーは出ると、前のお前なら一瞬だったと。
瓶の蓋はキッチリ閉められてしまい、クッキーたちは瓶の中。
割れたり欠けたり、一つとして同じ形をしてはいない表情豊かなクッキー。
ガラス瓶の中で笑いさざめくクッキーたち。
開けてごらんと、此処から取り出して食べてごらんと。
またハーレイに蓋をされてしまったガラス瓶。
もちろんその夜は開けられないまま、日曜日が来てハーレイに「開けて」と泣きついた。瓶から出て来たクッキーたちを二人でつまんで、また蓋をされた。
「しっかり閉めんと湿るからな」と、「食べ物は大事にしないとな?」と。
そのハーレイが「またな」と帰って行った後の夜、挑んだけれども開かない蓋。ブルーの力では開けられない蓋。
(ハーレイ、蓋にこだわるからだって言ったけど…!)
瞬間移動で出せるものなら苦労はしない。
それが出来るのなら、思念波だって自由自在に操れる筈で、他にも色々とサイオンで出来る。
前の自分がやっていたように、指さえ動かさずにこの部屋の模様替えだって…。
(うー…)
食べたいのに、とガラス瓶の向こうを睨み付けても、動いてくれさえしないクッキー。
瞬間移動で出て来るどころか、位置さえも変えてくれないクッキー。
(…シナモンも、隣のアーモンドも…)
チョコレートチップも、と思い浮かぶものは味ばかり。
美味しいクッキーの味は頭に蘇るけれど、それを口へと運ぶための技は出てこない。瞬間移動のコツもサイオンの力加減も、何一つ出ては来てくれなかった。
ガラス瓶を睨んで瞬間移動を試み、蓋を開けようとしては格闘して。
ブルーの努力は報われないまま、またハーレイが仕事帰りに訪ねて来た。週の半ばに。
悔しいけれども、瓶の中身を食べたかったらハーレイに頼むしかないものだから。
クローゼットの中から引っ張り出したら、ハーレイは瓶を見るなり大笑いした。
「減っていないな」と、「瞬間移動も無理だったか」と。
「お前、食い物の恨みとか言っていたから、その一念でやってのけるかと思ったが…」
出来なかったんだな、瞬間移動で出すというのも。一個も減ってはいないようだしな?
「そうだよ、だから開けてって言ってるじゃない!」
ハーレイが蓋を開けてくれないと、ぼくはクッキー、食べられないんだ。
これが食べたいな、って睨んでいたって、動いてさえもくれないんだもの…!
「分かった、分かった。開けてやるから」
どう固いんだか、この蓋の何処が…。このくらいに閉めておくのは基本だ、でないと湿るぞ。
徳用袋に入ったままで放っておいたクッキーみたいに、ほんの二日か三日ほどでな。
あれはいかん、とハーレイは瓶の蓋を軽く捻って開けた。
ブルーがどんなに頑張ってみても開かなかった蓋を、いとも簡単に片手でポンと。
手が届くようになったクッキーたち。それをハーレイと二人分、とお菓子の皿に移していたら。
「結局、今日もそのコースってか、お前にプレゼントしてやったクッキーなんだが…」
どうやら俺と二人で食うしか道が無いってな、これは。
お前が一人で楽しむようには出来ていないな、このクッキー。
「…そうみたい…」
ぼくの力じゃ開かないんだもの、ハーレイが蓋を閉めてくれたら。
瞬間移動もまるで駄目だし、ハーレイに頼んで開けて貰った時しか食べられないんだよ…。
「ふうむ…。そういうことなら、このクッキー」
諦めるんだな、徳用袋は。
お前がどんなに食べたくっても、向いていないということだ。
次にクッキーを土産に買うとしたらだ、お母さんたちにも充分渡せる綺麗なヤツだな、割れたりしてない箱入りのな。
あっちだったら個別包装になってるんだし、箱の蓋を開けて放っておいても湿らんしな。
徳用袋を買ってやるのはこれっきりだ、と言われたから。
ブルーは慌てて「待って!」と叫んだ。
「徳用袋のクッキーでなくちゃ駄目なんだよ! ぼくが欲しいの、これなんだから!」
ハーレイの家に行った気分で食べられるクッキーが欲しいんだってば、箱入りじゃなくて!
割れたり欠けたりしてるクッキー、そういうクッキーが欲しいんだよ!
瞬間移動で取り出せるように努力するからまた買って、と強請ったけれど。
出来るものか、とハーレイは笑うし、事実、出来ないのがブルーだから。
どう頑張っても出来そうにないのが現実だから。
「…徳用袋が欲しいのに…」
このクッキーがとても気に入ってるのに、これっきり買ってくれないの…?
これでおしまいなの、ねえ、ハーレイ…?
「うむ。諦めるんだな、こいつはお前向きじゃない」
だからだ、当分お預けだってな。安心しろ、いつかは食える筈だぞ、俺の家でな。
お前が客として訪ねて来る時のことを言ってるんじゃないぞ?
結婚して、俺の嫁さんになって。
家に来たガキどもに俺と一緒に「どうぞ」と御馳走出来る時が来たなら、たっぷり食えるさ。
「えーっ!」
そんなに先まで駄目なの、ハーレイ?
徳用袋のクッキーは結婚するまで食べられるチャンスは無さそうなの…?
「当たり前だろ、お前が俺の家に客としてやって来たなら、だ…」
徳用袋の割れたクッキーなんかを出したら、親父やおふくろに酷く叱られちまう。
それがお客さんに向かってすることなのかと、割れたクッキーとは何事だ、とな。
徳用袋のクッキーは結婚するまで駄目だ、と諦めさせられたけれど。
瓶に残ったクッキーたちを食べてしまえば、次のチャンスは何年も先になりそうだけれど。
それでもハーレイも実の所はブルーに甘くて優しいから。
(上手く頼めば、また買って来てくれるかもしれないし…)
諦めないでしっかり覚えておこう、とブルーはクッキーが入った瓶を見詰めた。
割れたり欠けたり、箱に並べて店に出すにはみっともなさすぎたクッキーたちの群れ。
けれども、それらに心惹かれる。
よそゆきの顔をしたクッキーたちより、普段着の顔のクッキーたち。
(ハーレイの家に遊びに行ったら、普通はこっちが出て来るんだしね…?)
だからこそ値打ちのあるクッキー。
ハーレイの家に行った気分に、ハーレイに招かれた気分にしてくれる素敵なクッキー。
(それにハーレイと二人で食べたし、これが無くなるまでは二人で食べるんだし…)
ハーレイに瓶を開けて貰って、二人で仲良く食べたクッキー。
瓶が空っぽになってしまうまで、二人で食べるのだろうクッキー。
こんなオマケまでついてしまったクッキーたちと一度限りでお別れだなんて、とんでもない。
何かのタイミングで思い出したら、徳用袋を強請ってみよう。
あれが欲しいと、あのクッキーが食べたいのだと。
ハーレイの家でしか味わえないという、割れたり欠けたりしたクッキー。
お行儀の悪いクッキーだけれど、あれをもう一度食べてみたいから買って来て、と…。
クッキー・了
※ブルーが欲しくてたまらなくなった、徳用袋に入ったクッキー。手に入ったのに…。
自分の力では開けられない瓶。ハーレイが来ないと食べられないなんて、失敗でしたね。
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