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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(うーむ…)
 ブルーの家からの帰り道。ハーレイは歩きながら考え込んだ。
 夕食を御馳走になって来たのだけれど。今日は土曜日だから、朝から居座っていたのだけれど。
 お茶にお菓子に、昼食も。運動もせずに、小さなブルーと語り合いながら食べていたけれど。
(…食い足りなかったか?)
 小食のブルーに付き合ったからか、そうでもないのか。お菓子はともかく、食事の時はブルーの母がハーレイの分を多めに盛り付けてくれているのだし、量は充分に足りる筈。
 とはいえ、「おかわりを頂けますか?」とはブルーの前では言えないし…。
(今日の飯はまた美味かったんだ)
 特にキノコたっぷりの炊き込み御飯が。
 あれを炊いたのが自分だったら、軽く三杯は食べただろう。ブルーの母もおかわりをくれたし、二杯は食べた。三杯目も勧められはしたのだが…。
(ブルーに恨まれちまうしな?)
 いつだったか、「頂戴します」と盛り付けて貰った三杯目。それを食べていたら、ブルーの父がこう言った。「ブルー、ハーレイ先生はまたおかわりだぞ? お前も頑張って食べなさい」。
 そうしてブルーの御飯茶碗に追加された御飯、あの時のブルーの顔と言ったら…。
(もう無理だよ、って膨れてたっけな…)
 お腹一杯、と嘆きながらも、ブルーはなんとか食べ終えた。けれども本当に多すぎたらしく。
(ハーレイのせいだ、ってブツブツ文句を言ったんだ、後で)
 ブルーの部屋で飲んだ食後のお茶。その間に散々に文句を聞かされた。ハーレイがおかわりしたせいで自分はこうなったのだと、胃袋がもう限界だと。



 あれ以来、三杯目は控えるように心がけている。勧められても「もう充分です」と返している。時々、ウッカリ忘れるけれど。つい三杯目を頼んでしまって、ブルーにギロリと睨まれる。
(…睨まれてもいいから食えば良かったかな、三杯目)
 それとも、食べ足りなかったせいではないのか、単なる自分の欲求なのか。
 どういうわけだか、にわかにカレーが食べたくなって来た、帰り道。
 キノコの炊き込み御飯を食べて来たのにカレーなのだから、まるで関係ないかもしれない。味が別物、食べ方だって全く違う代物なのだし…。
 そういったことを考えていても収まってくれない、カレーを食べたくなった胃袋。
 一度カレーだと思ってしまえば、あの味が、匂いが頭を支配し始める。スパイスの効いた金色のソース、それをたっぷりと白米にかけてのカレーライスだと、カレーなのだと。



 どうにも止まらない、頭の中でのカレーの行進。ビーフカレーにチキンカレー。ポークカレーにシーフードカレー、と次から次へと現れるカレー。
 そうこうする内に、胃袋の叫びもどんどん大きくなってくるから。今すぐ食べたいと、カレーを食べたいと腹の中で暴れ始めるから。
(寄って行くか…)
 ちょうど目に入った、前方の明かり。煌々と点いているライト。いつもの行きつけの食料品店。カレーを食べよう、と躍り上がっている胃袋を連れて自動ドアをくぐって中に入った。
 入口でグルリと見渡したけれど、今からカレーを作ったとしても美味しくなるのは明日だから。味が馴染んでコクと深みが増すまでの間に、少し置かねばならないから。
(カレーってヤツは、一晩寝かせたのが一番美味いんだ)
 一晩寝かせた味に近付けたければ、鍋を急冷するという手もあるけれど。出来上がったカレーを鍋ごと冷水で冷やして冷ませば、その味に近くなるけれど。
 この時間からカレーを煮込まなくとも、朝食に炊いた白米が家に残っているし…。



(こんな時のための非常食ってな!)
 いわゆるレトルト、白米にかけるだけで立派なカレーライスが出来上がるもの。
 それを並べたコーナーを目指し、その前に立った。実に様々なパッケージ。カレーの種類も迷うほどあるし、カレーを収めたパッケージの仕様もまた様々。
 開けるだけでホカホカと温まるものも、便利で楽だとは思うけれども。
(俺はこっちが好きなんだ)
 断然コレだ、とカレー入りのパックを温めなければ食べられないタイプに手を伸ばした。ビーフカレーでいいだろう。何種類もあるから、パッケージの写真が気に入ったのを一つ。買いたい物は今はこれだけ、レジに出すための籠は要らない。
 カレーをレジへと持ってゆく途中、ふと思い出して笑いが漏れた。
(こいつもレトロなものだよなあ…)
 開けさえすれば温まるカレーがあるというのに、未だに廃れない自分で温めるタイプのカレー。前の自分が生きた頃から、それよりも前から存在したらしい、こういうタイプのレトルト食品。
 それを選んで買ってしまうということは…。
 前の自分が愛用していた羽根ペンと同じでレトロ趣味なのだろうか、今の自分も。
 温める手間をかけねば食べられないタイプの、昔ながらのレトルト食品に惹かれる自分も…。



 カレーだけが入った食料品店の袋を提げて帰宅し、それから鍋に湯を沸かした。カレーが入ったパックを温めるために必要な量の熱湯、この中で温める時間が好きだ。
 沸騰した湯にカレーのパックをそうっと落とし込み、朝、炊いた米も皿に移して温め直して。
(いつもなら握り飯なんだがなあ…)
 ブルーの家に寄って来た日に何か食べたくなったら、握り飯。塩をふったり、具を入れたり。時にはひと手間、焼きおにぎりと洒落込むこともあるのだけれど。
 どうしたわけだか、今夜はカレー。胃袋ごと見事に捕まってしまったカレーライス。
(なんだってカレーだったんだか…)
 悪くはないが、とパックを温めている最中の鍋を見ていて、脳裏を掠めた遠い遠い記憶。
 前の自分もやっていたな、と。
 シャングリラに居た頃、こんな風に湯を沸かしていた。レトルト食品を温めるために。
(あの時代から変わっていないってこった)
 レトロなタイプのレトルト食品、と温まったカレーを白米にかけてテーブルに運んだ。立ち昇る湯気とスパイスの香り。スプーンを手にして頬張りながら、自分の趣味に苦笑する。
(開けるだけで温まるタイプのカレーってヤツも、前の俺の頃からあったんだが…)
 それなのに今も温める手間をかけたいタイプが自分なのか、と。
 つくづくレトロな趣味なのだな、と思った途端に。



(そうだ、あいつに…)
 ブルーのためにと、前の自分がレトルト食品を温めていた。
 今夜の自分がそうだったように、鍋に湯を沸かして一人きりで。キャプテンになるよりも前に、まだ厨房が居場所だった頃に、厨房ではなくて自分の部屋で。
(あいつに作ってやっていたんだ、レトルト食品…)
 正確に言うなら、作るのではなくて温めていたというだけの食品だけれど。
 中身は調理済みの料理が詰められたものだったのだし、作ったわけではなかったけれど。



 シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃。
 自給自足の生活を始めていなかった頃は、食料は奪うものだった。人類が乗った輸送船から。
 それが出来る者はたった一人で、タイプ・ブルーだった前のブルーだけ。
 食料も、それに他の物資も奪いに宇宙を駆けていたブルー。
 コンテナごと奪って戻る物資や食料品には、非常食がよく紛れていた。奪う相手が宇宙船だから多く積み込まれていたのだろう。万一の時に備えて多めに。文字通りの非常食として。
 非常食と言っても、侮れない出来だったそれらの食品。今の時代に食料品店の棚に整列しているレトルト食品と変わらない出来のものばかり。
(開ければ勝手に温まるヤツと、温めなければ食えないヤツとがあったんだ…)
 その点も今と変わりはしない。
 温めなければいけないタイプは手間がかかるから、食料品を収めた倉庫の奥へ突っ込まれるのが常だったけれど。
 自分で温めてまで食べようと思う者も少なかったけれど、それをいいことに失敬していた。
 進んで食べたがる者などいないのだから、と倉庫の奥へと押し込む時に一種類ずつ。
 前の自分は備品倉庫の管理係も兼ねていたから、作業のついでに貰っておいた。



 食料は全て奪うものだったシャングリラ。
 最初の間は奪ってくる時に中身を選べないことも珍しくなくて、食材が偏ったケースも多数で。
 ジャガイモ料理が延々と続くジャガイモ地獄や、キャベツだらけのキャベツ地獄や。
 同じ素材の料理しか無い日々が続けば、人気が出て来る非常食。倉庫の奥から運び出す者たち。これを食べようと、非常食ならば他の料理もあるのだからと。
 そうする輩が少なくないからアッと言う間に開けるだけで温まるタイプの非常食が消えて、次は温めなければ食べられないタイプの非常食の出番。そちらもどんどん減ってゆくから、厨房を担当していた前の自分は「出された食事をちゃんと食べろ」と怒鳴り付けることになったけれども。
 ジャガイモだろうがキャベツだろうが栄養は足りている筈なのだ、と我儘な仲間たちに怒鳴って厨房の料理を食べさせようと努力していたけども。
 そんな日々の中、出される料理を黙々と食べていたブルー。
 食が細いから食べる量こそ少なかったけれど、文句の一つも言おうとせずに。
 皆のためにと食料を奪いに出掛けていたブルーこそが、食事の中身に好きなだけ文句をつけてもいい筈なのに。思う存分に我儘を言って、自分好みの非常食を食べてもいい筈なのに…。



(あいつがそういうヤツだったから…)
 どんなにジャガイモ料理の日々が続いていようが、キャベツ料理が連続しようが、ブルーは何も言わずに出されたものだけを食べたから。他の仲間たちのように我儘を言いはしなかったから。
 そういった時に役立てようとコレクションしていた非常食。倉庫の奥へと押し込める時に一種類ずつ抜き取っておいた非常食。
 湯を沸かすことは自分の部屋でも可能だったから、夕食が終わって皆が自室に引っ込んだ後に、コレクションから一つ選んでコッソリとそれを温めて。
 思念波でブルーを呼んでやった。
 部屋に遊びに来ないか、と。



 ブルーの返事に合わせてタイミングを計り、出来立ての非常食を器に移した。それはホカホカのスープだったり、具だくさんの濃厚なシチューだったり。
 部屋を訪れて、テーブルの上で湯気を立てる器を目にしたブルーは。
「ハーレイ、これ…」
 今日の食事のメニューと違うよ、非常食を出して来たんじゃないの?
「非常食には違いないがな、お前用だ。お前、遠慮して非常食には手を出さないしな」
 食べろ、と促せば、初めての時には酷く遠慮をしたブルー。
 ハーレイも非常食を全く食べてはいないというのに、自分に譲ってどうするのかと。ハーレイが自分で食べるべきだと、ぼくは食堂で食べた食事で充分だからと。
 けれども、自分では食べるつもりなど無かったから。最初からブルー用にと集めておいた中から選んだのだから、「食べないとこいつが無駄になるぞ」と食べさせた。
 冷めてしまっては美味しくもないし、それでは料理が無駄になる。温かい間に全部食べろと。
 お前が奪って来た物資に混ざっていたのだからと、お前には食べる権利があると。
「でも、ハーレイ…」
「いいから食え。冷めて不味くなっちまう前に食っちまえ」
 このくらいの量なら食べられるだろうが、無駄にしないでしっかり食っとけ。
 今を逃したら、当分の間は代わり映えのしない食事が続くんだしなあ、食材が全く同じじゃな。



 食材が偏り、飽きた者たちが非常食を求めて倉庫に侵入し始める度に、部屋で温めてはブルーに食べさせた非常食。
 ハーレイが始めたブルーのためだけの特別な料理は、いつしか定番になってしまって。
 温める頃合いを見定めながら思念を送れば、ブルーは直ぐにやって来た。ある時は空間を越えて瞬間移動で、また別の時は自分の足で通路を歩いて、といった具合に。
「遊びに来たよ」
 でも、君は…。食べに来いとは言わないんだね。いつも「遊びに来ないか」としか。
「誰が聞いているか分からないからな。食べに来いとは言えんだろうが」
 俺が料理をしてるのがバレる。…料理と言っても、ただ温めてるだけなんだがな。
「思念でぼくに呼び掛けてるのに?」
 ぼくだけに思念を送ってるんだし、他の人には届かない筈だと思うんだけど…。
 なのに絶対、「食べに来い」とは言わない所が君らしいよね。
 とても真面目で、それに慎重。
 ハーレイは凄く気が回るんだよ、他のみんながどう思うだろう、って所までいつも考えている。
 みんなは勝手に非常食を出して食べているのに、君は遠慮が先に立つんだ。
 ぼくに食べさせるための非常食でも、それを内緒で作っているのは気が引ける、ってね。



 それでもぼくには分かるけれど、とブルーは笑った。
 「遊びに来ないか」という誘いであっても、食事を用意して待っている時の思念は分かると。
 ハーレイの心が「食べに来ないか」と呼んでいるのがぼくには分かる、と。
「ぼくにばっかり用意してないで、君も食べなきゃ」
 美味しいよ、これ。カボチャの甘味が作りたてみたいな感じのスープ。
「いや、俺は…」
 それはお前のスープなんだし、お前が飲めばいいだろう。そのくらい軽く入る筈だぞ。
「ぼくはそんなに要らないから」
 さっき紅茶を飲んでたんだよ、自分の部屋で。だから全部だと多すぎるんだ。
 ほら、と差し出されたブルーがスープを掬ったスプーン。カボチャのスープが入ったスプーン。
 食べろ、と瞳で、言葉で何度も促されたから、口にしてみて。
「ほう…。こいつは美味いな」
 確かに出来立てのスープと変わらん味だな、言われなければ非常食とは分からんな。
「ほらね、食べてみて良かっただろう?」
 もっと飲んだら?
 沢山あるから遠慮しないで、ハーレイもこれを食べるといいよ。



 始まりはスープ。
 それ以来、ブルーはいいアイデアを思い付いたとばかりに非常食を貰えばお裾分け。
 「ハーレイもこれを食べるといいよ」と、「ぼく一人では多すぎるから」と。
 本当は一人でも食べ切れるくせに、一度その方法に気付いてしまえば分けて当然、ハーレイにも分けるのが正しい食べ方になってしまって。
(今から思えば、まるで恋人同士だな…)
 あくまでお裾分けというものだったから。半分に分けて食べるものではなかったから。
 一つのスプーンで、同じスプーンで食べていた。
 ブルーが差し出して、自分が食べて。
 シチューもスープも、同じ皿から一つのスプーンで、ブルーに掬って貰って食べた。
 もう少しどうかと、遠慮しないでもっと食べてと言われるままに。



(そういうつもりのコレクションではなかったんだが…)
 前の自分が倉庫に入れずに一種類ずつ抜き取っておいた非常食。ブルーのための非常食。
 だが、嬉しかった。
 同じ皿から一つのスプーンでブルーと一緒に食べていた食事。ブルーが「ハーレイの分だよ」と掬って食べさせてくれた、スープやシチューやビーフストロガノフ。
 まだソルジャーではなかったブルーと二人きりで囲んだ秘密の食卓、温めた非常食だけが全てのささやかな食事。仲間たちには内緒の二人だけの宴。
 スプーンは一人分しかないというのに、もう一人分を用意しようとは思い付きさえしなかった。自分のスプーンを取って来ようとは思いもしなくて、ブルーもそうは言わなくて。
 ブルーが掬って差し出してくるのを食べていた。同じスプーンでブルーも食べた。
 それを変だと思うことなく、非常食を二人で食べていた時代が終わるまでそのままだったから。食材の偏りが起こらなくなり、非常食のコレクションが要らなくなるまで続いたから…。



(あの頃から恋をしてたのか?)
 もしかしたら、既に。
 互いに、とうに。
 同じ皿から同じスプーンで食べるなど嫌だと思う代わりに、それが普通だと思っていた。
 自分もブルーも、なんとも思っていなかった。
 スプーンで掬って食べさせたブルーも、食べさせて貰った方の自分も、当たり前のようにそれを続けた。スプーンをもう一本用意することを一度も思い付かないままで。
(…恋人だったら普通だよなあ?)
 前の自分たちはしなかったけれど、互いに「あーん」と食べさせ合うこと。仲の良いカップルがそれをするのを今の自分は何度も見かけた。街のカフェテラスや公園のベンチで何度も、何度も。
(あれと似たようなことをしてたってことは…)
 ブルーは「あーん」とは言わなかったけれど、食べさせてくれていたのだから。
 自分用のスプーンを取って来いとも、自分で掬えとも言いはしないでいたのだから。
(…自覚が無くても、恋だったかもしれないなあ…)
 そう思いながら残り少なくなったカレーライスを口に運んで、スプーンを眺めて。
(このスプーンで、だ…。一緒にカレーを食うことになっても許せるヤツっていうのはだ…)
 小さなブルーは許せるけれども、他には親しか思い浮かばない。隣町に住んでいる両親。
 血が繋がった両親の他にはブルーしかいないということは…。
 やはり前の自分はブルーにとっくに恋をしていて、ブルーの方でも恐らくは、きっと。
(明日はブルーに話してみるか…)
 ブルーがあの頃に恋をしていたかどうか、尋ねてみるのもいいだろう。
 明日は日曜日で、ブルーの家へ行ける日なのだから。



 次の日、昨夜と同じ食料品店に寄って温めるタイプのスープを買った。棚の前で暫し考えた末に二つ選んでレジへと運んで。
 それを荷物の中に突っ込み、ブルーの家まで歩いて出掛ける。門扉の脇のチャイムを鳴らして、二階のブルーに手を振った。もちろんブルーは荷物の中身に気付いてはいない。
 門扉を開けに来たブルーの母に、玄関先でスープの箱を渡して頼んだ。昼食にこれを持って来て欲しいが、温めた後は封を切らずにパックのままで運んで貰えないかと。
「キャプテン・ハーレイだった頃の思い出に繋がっているんですよ」
 あの時代にもこういうスープがありましてね。ブルー君と何度も飲んだものです。
 カップに注がれて届いたのでは、思い出の意味がありませんので…。
「そうですの? 面白そうなお話ですわね」
 パックのままがいいということは、開ける時に何か失敗談でもあったんでしょうか?
 きっと先生とブルーだけに分かる笑い話か何かですわね、ブルーに訊いたら膨れそうですわ。
 あの子ったら、ソルジャー・ブルーだった頃に何をやっちゃったのかしら…。
 いえ、先生に訊こうとは思いませんわよ、ブルーが膨れるだけですものね。
 スープは忘れずに持って行きますわ、とブルーの母は笑顔で約束してくれた。きちんと温めて、封は切らずにスープカップと一緒に運ぶと。



 二階のブルーの部屋に案内され、待っていたブルーと喋って、笑って。
 午前中のお茶の時間は瞬く間に過ぎ、昼食が出来たとブルーの母がトレイを運んで来たけれど。シーフードピラフとサラダはともかく、空のスープカップ。パックに入ったスープが二種類。
 「ごゆっくりどうぞ」と母が去った後、ブルーはテーブルの上を見詰めて。
「なに、これ?」
 このスープって、どうしてカップに入ってないんだろう?
 ママ、作る時間が無かったんだって言いたいのかなあ、今日のスープはレトルトです、って。
「いや、そいつは…。俺が買って来た土産なんだが、どっちがいい?」
 カボチャのスープか、ホウレン草か。書いてあるだろ、その袋に。
「どっちも好きだよ、カボチャのスープもホウレン草も」
 だからハーレイが先に選んでくれればいいよ。ぼくは残った方にするから。
「いいから、選べ。そいつが冷めちまう前に、どっちか一つ」
 遠慮するな、と片目を瞑った。
 これはお前のだと、特別なのだと、あの時のように。
 冷めて不味くなる前に食べてしまえと、これはお前のものなのだから、と。



「ハーレイ、それって…」
 もしかして、とブルーの瞳が丸くなって。
「このスープ、前のぼくたちが食べてた、あの食事の真似?」
 ぼくがハーレイの部屋でコッソリ食べさせて貰った、非常食のスープやシチューとかの?
 ハーレイにも「食べて」ってスプーンで渡して二人で食べてた、あれの真似なの?
「そうさ、今だと自分の分を食うしかないがな」
 お前が俺に食べさせるっていうのは駄目だぞ、今の俺たちがあれをやったらマズイからな。
 それで、お前はどっちにするんだ?
 カボチャか、それともホウレン草か。
「えーっと…。ハーレイに一番最初に食べさせてたのがカボチャのスープだったから…」
 ぼくはカボチャにしておくよ。今のハーレイは食べてくれないらしいけど…。
「当たり前だろ、ああいう食べさせ方ってヤツはだ、恋人同士の定番なんだ」
 チビのお前は知らんかもしれんが、カフェテラスとかでよく見かけるぞ。
「恋人同士って…。あっ、そうか!」
 見たことがあるよ、食べさせ合ってるカップルの人。あれってそういう食べ方なんだ…。
 前のぼくは知らないままだったけれど、今のぼくならちゃんと分かるよ。
「なるほど、今度はチビでも分かる、と」
 前のお前はサッパリ分かっちゃいなかったようだし、俺も気付いちゃいなかったんだが…。
 傍から見てれば、さぞ仲のいいカップルに見えてただろうさ、あの頃の俺たち。
 一緒に食ってただけなんだがなあ、一つの非常食を二人で分けてな。



 しかし今では俺に食べさせるのは禁止だぞ、と小さなブルーに釘を刺してから。
 ブルーがカボチャのスープの封を切るのを見てから、ホウレン草のスープの封を切って、自分のカップへと注ぎ入れて。
「なあ、ブルー。…前の俺たちが非常食を二人で食っていた頃…」
 あの頃、恋をしてたと思うか?
 まるで恋人同士みたいな食い方をしていた俺たちなんだが、お前は恋をしてたと思うか…?
「…どうなんだろう?」
 ハーレイと一緒のスプーンは嫌じゃなかったけど、恋はどうかな…。
 あれもやっぱり恋なんだろうか、ハーレイにせっせと食べさせてあげてたことを思うと?
「うーむ…。お前にもやはり分からんか…」
 どうだったのか、と気になったからな、このスープを買って来たんだが。
 お前が俺に恋をしてたか、その辺が俄かに気になったからな。
「んーと…。恋はどうだか分からないけど、ハーレイはぼくの特別だったよ」
 特別だったから、同じスプーンで食べていたって嫌だなんて気はしなかった。
 ホントのホントにハーレイは特別、ぼくの特別。



 最初からね、とブルーが微笑んだ。
 出会った時から特別だったと、あのアルタミラが滅ぼされた日に会った時から特別だったと。
「アルタミラって…。まさか、あそこで出会った時からの恋なのか?」
 お前に自覚が無かったってだけで、あの時から恋をしていたと…?
「そうかもね、って思うんだ」
 一目惚れってよく言うじゃない。ハーレイがぼくを助け起こしてくれた時から恋してたかも…。
 お前、凄いな、って。小さいのに、って声を掛けてくれた、あの時から。
「そう言われてみりゃ、俺の方でもそうかもなあ…」
 まるで気付いちゃいなかったが、だ。
 あの地獄の中をお前と二人で走れたってことは、お前は俺の特別だったんだろう。
 初めて会ったヤツだというのに、そんな気持ちがしなかった。
 俺だって最初からお前に恋をしてたんだろうな、全く自覚が無かっただけでな。
「そうだといいな…。ぼくも最初からハーレイの特別だったんなら」
 一目惚れして貰えたんなら嬉しいな。
 前のぼくの頃の話だけれども、ハーレイがぼくに一目惚れをしてくれたんだったら。
 だって…。



 今のぼくはハーレイに一目惚れだよ、とブルーが言うから。
 教室で会って、その瞬間に一目で恋に落ちたと言うから。
「それを言うなら俺だってだ」
 お前に出会って、記憶が戻って。
 そうなったらもう、恋に落ちるしかないってな。
 前の俺が恋をしていたお前が戻って来たんだ、たとえチビでも一直線だ。
 他のヤツらは目に入らないし、お前しか嫁に欲しくはないし…。
 これが一目惚れではないと言うなら、この世の中に一目惚れなんぞは無いってことだろ?
「そうだね、ぼくがチビだから、うんと回り道をしなくちゃいけないけれど…」
 このスープだって、ぼくが飲ませてあげると言ってもハーレイは飲んでくれないけれど。
 でもね、前のハーレイがぼくのスープを飲んでくれてた頃、ぼくはまだまだチビだったよ?
 ソルジャー・ブルーみたいに大きく育っていなくて、チビだったよ…?
「そいつは重々、分かっちゃいるが、だ」
 あの頃は恋だと気付いてないから、有難く飲ませて貰っていたんだ。
 恋をしている自覚があったら断っていたな、お前のスプーンで飲むのはな。自分用のスプーンを取って来ていたさ、お前がどうしても俺に食べさせたいと言っていたならな。



 恋人同士のような食べ方をしていたくせに、二人とも気付いていなかった。
 お互い、特別な相手だと思っていながら、それを恋とも思わなかった。
 けれど今度こそは間違いなく一目惚れなのだ、と二人、楽しげに笑い合う。
 この地球の上で出会った瞬間、二人同時に恋をした。運命の相手とまた恋に落ちた。
 そうして、これからも恋をしてゆく。
 小さなブルーが前と同じに育つ日を待って、結婚式を挙げて、永遠の愛を誓い合う。
 二人、いつまでも、何処までも、恋を。
 今度は誰にも隠すことなく、手を繋ぎ合って生きて、恋をしてゆく。
 二人一緒に生まれ変わって来た、青い水の星に戻ったこの地球の上で…。




         温める食事・了

※前のハーレイとブルーが、こっそり二人で食べていたのが非常食。二人で一つを。
 きっとその頃から、お互いに恋をしていたのでしょう。二人とも気付いていなかっただけで。
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 ハーレイが仕事帰りに寄ってくれなかった日。ちょっぴり寂しい、今日の夕食。料理はとっても美味しいんだけれど、ハーレイも一緒に食べたかったな、って。
(ハーレイも今頃、晩御飯かな?)
 料理は得意だと聞いているから、仕事から帰って手早く作って。それとも凝った何かにしようと格闘中かな、食料品店で色々と食材を買い込んで来て。
(どっちもありそう…)
 ハーレイが作る料理だったら、きっと何でも美味しいから。パパッと作った炒飯とかでも、待ち時間が長いオーブン料理や煮込み料理の類でも。
 ぼくも食べたい、って思っていたら。ハーレイの夕食は何なんだろう、と考えていたら。
 そのテーブルでパパが一言。
「ママ、頼んでいたアレは出来てるかな?」
「ええ」
(まだ何かあるの?)
 パパが注文していた料理が出て来るのかな、と思ったんだけど。平日だけれど、お酒だろうか。軽くビールを一杯飲みながら、何かおつまみ、と考えたけれど。



 どうぞ、とママが棚から取って来たもの。それは出来上がった料理やおつまみじゃなくて…。
 小さな箱に刷られたお店の名前で一目で分かった。パパの名刺。
(お仕事用?)
 ママが近所の印刷屋さんに時々作りに行っているから。
 きっとそうだよ、と眺めていたら、「こいつはいいな」って笑顔のパパ。
 お仕事用の名刺じゃなくって、知り合った人に渡す名刺の方だった。かしこまっていない感じの名刺。もっと砕けた、自己紹介を兼ねて気軽に渡せるタイプの名刺。
 ふうん、と見ていただけだけれども。
 この前に作った名刺とデザインが変わっているんだな、って見ただけだけれど…。



 食事が終わって、部屋に戻って考えた。さっきのパパの名刺のこと。
 知り合いに渡す名刺は気分でデザインを変えているけど、お仕事用の方はいつでも同じ。パパの趣味も入っているんだろうけど、うんと堅苦しい印象の名刺。
(お仕事用と、知り合い用と…)
 名刺が二種類、渡す相手が誰かによって渡す名刺も変わってくる。間違えて渡したら、お仕事の時は失礼だったりするんだろう。あの堅苦しい名刺の代わりに知り合い用のを渡しちゃったら。
 名刺はどっちも自分が誰かを表すものなのに、大人は大変。
(ママだと一種類しか無いんだけどね?)
 会社に行ったりするわけじゃないし、知り合った人に渡す分しか作っていない。リボンを結んだ花束が端っこに浮き出している名刺、ママの好みのお洒落な名刺。
 パパが作っている知り合い用の名刺もそれに似ているかな、カクテルグラスやコーヒーカップや色々なものを気分で選んで入れているから。今日の名刺はマグカップだっけ。
 パパが言うには、そういう模様も話の切っ掛けになるらしい。何をお飲みになるんですかとか、そういったトコから始まる会話。お仕事用の名刺はつまんないけど、知り合い用だと面白い。



(名刺、ぼくはまだ持っていないし…)
 子供には名刺なんかを交換する場所も習慣も無いし、当然、名刺は持ってない。
 ぼくが名刺を持つようになる日は、まだまだ先の話なんだ。
(ハーレイのお嫁さんになったら作るんだよ)
 ママが持ってる名刺みたいに、知り合い用のを一種類だけ。今のぼくには将来の夢はお嫁さんの他には何も無いから。仕事をしている姿なんて想像出来ないから。
 ハーレイも「お前は家に居て、俺の送り迎えをしてくれりゃいいのさ」なんて言ってるんだし、きっと仕事はしないと思う。お仕事用の名刺は要らない。
 ハーレイのお嫁さんになった時には、どんな名刺を作ろうか?
 ママのみたいな花束つきの名刺は男のぼくだと少し変かな、お嫁さんならそれでいいのかな?
(…名刺の決まりなんか、ぼく、知らないしね…)
 ハーレイと相談するのが一番だろうか、お嫁さんのぼくにピッタリの名刺。ハーレイと暮らしているんです、って自己紹介をしながら渡すのに相応しいデザインの名刺。
(うん、それがいいよ)
 ぼくはハーレイのお嫁さんだし、と思ったんだけれど。



(…あれ?)
 大人だったら持っている名刺。初めて会った人に渡して自己紹介をする名刺。
 ハーレイだって持っている筈、作っていない筈がない。
(お仕事用と、知り合い用…)
 学校の先生をしているハーレイの名刺と、学校とは無関係の場所で渡す名刺と。パパのが二種類あるのと同じで、ハーレイだって、きっと二種類作っているんだ、自分の名刺を。
(どんな名刺を持ってるんだろ、ハーレイって…)
 それに、その名刺。ぼくの家にはあるんだろうか?
 ハーレイと初めて会った途端に、聖痕現象を起こして病院に運ばれちゃった、ぼく。ハーレイは病院まで付き添ってくれて、その日の夜には家を訪ねて来てくれた。
 おまけにぼくの守り役ってことになってるんだし、自分の名刺をパパとママとに渡していそう。大人同士だったら名刺の交換、それがどうやら基本らしいし…。
(でも、渡していないってこともあるよね…)
 名刺なんかを交換するより、もっと大事な話が色々あっただろうから。
 ぼくの家には無いかもしれない、ハーレイの名刺。どんな名刺か見てみたい名刺。



 でも、訊けない。パパとママには今更訊けない。
 「ハーレイの名刺って、貰ってた?」なんて今頃になって訊いたら何かと思われる。
 ママなら、きっとこう言うんだ。「ハーレイ先生の住所だったら知ってるでしょ?」って。
 だけど気になる、ハーレイの名刺。見たくてたまらない、ハーレイの名刺。
 仕事用のも、知り合い用のも、どっちも一度は見てみたいから。
(ハーレイの名刺…)
 今度ハーレイが来たら訊いてみよう、とメモに書こうとしたけれど。ぼくが学校に行ってる間にママが来たなら、ぼくが名刺を作りたいのかと勘違いをされてしまいそうだし…。
(これで良し、っと)
 パパの名刺を机の端っこに一枚、置いた。
 前に貰った知り合い用のを勉強机に。カクテルグラスの模様が隅っこに浮き出してるのを。



 名刺のことを訊くんだよ、と決心してたら、その次の日。
 ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから、夕食の前にお茶を飲みながら訊いてみた。テーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けて。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイ、名刺は持っている?」
「名刺?」
「そう、名刺。大人は名刺を持っているでしょ、自己紹介用の名刺だよ」
 初めて会った人と交換するヤツ、ハーレイも持っているよね、きっと。
「そりゃまあ…なあ?」
 俺も立派な大人なんだし、もちろん名刺は必需品だが。
「それ、ぼくに見せて」
 見てみたいんだよ、ハーレイの名刺。どんなのかな、って思っちゃって。
「かまわないが…」
 いきなり名刺とは何を言い出すんだ、お前、誰かに名刺を貰ったのか?
「違うよ、昨日、パパのが出来て来たのを見たんだよ」
 それでハーレイのも見たくなっただけ。どういう名刺を渡すのかな、って。
「なんだ、単なる好奇心か」
 そうだろうなあ、チビのお前に名刺を渡すような大人は珍しいからな。



 ほらこれだ、とポケットに入れてあった名刺入れから出て来た名刺は先生の名刺。
 ハーレイが先生をしているぼくの学校の校名と住所が入った、仕事用の名刺。
「…これだけなの?」
 たったこれだけ、ハーレイの名刺?
「これだけって…。まだ何かあるのか?」
「知り合い用の名刺は無いの? お仕事じゃなくて、他の所で出会った人に渡すための名刺」
「ああ、そっちもか」
 名刺と言うから、てっきりコレかと思ったんだが…。
 俺はお前の先生だしなあ、学校の名前が入った方だと考えるのが普通だよな?



 こっちだな、と別の名刺が出て来た。
 テーブルの上に二枚の名刺。仕事用のと、プライベートで使う知り合い用のと。
 ぼくはしげしげと二枚の名刺を見比べてから。
「ハーレイ、この名刺、ぼくの家にもくれた?」
 渡してくれたの、ぼくとハーレイとが出会った頃に?
「ああ。お母さんたちに渡した筈だがな」
 病院だったか、後でお前の家に来た時か、どっちだったか俺も記憶が曖昧なんだが…。
 なにしろ前の俺の記憶が一気に戻った直後だ、どうもハッキリしないんだよな。
「渡したって…。どっちの名刺を?」
「両方だが」
「えーっ!」
 ハーレイ、両方渡しちゃったの、パパとママに?
「当然だろうが、俺の職業も俺の住所も、どっちも必要になるんだからな」
 俺はお前の守り役になるんだ、ついでにキャプテン・ハーレイだぞ?
 教師としての俺も、仕事を離れている時の俺も、どちらも「これからよろしく」だろうが。
「ぼくはそんなの、聞いていないよ!」
 ハーレイの名刺は初めて見たよ、と叫んでしまった。
 今日まで全く知らないままだった宝物。ぼくの家の何処かにハーレイの名刺。
 仕事用のと知り合い用のと、二枚の名刺。
 ぼくが貰ったわけじゃないけど、ハーレイが置いて行ったもの。



(これがハーレイの名刺…)
 よく見なくちゃ、と二枚の名刺を覗き込んでいたら、気が付いた。
 仕事用のも知り合い用のも、何かマークがついている。二枚とも同じマークじゃない。仕事用の名刺と知り合い用では、ついてるマークが違うから。
「これ、なあに?」
 何のマークなの、ハーレイの趣味? これとそれとじゃ違うマークになっているけど…。
「ああ、それはな…」
 先生としてのハーレイが使う名刺に入った二つのマークは、柔道と水泳を教えられるという印。柔道と水泳を表すマークが一つずつ。
 ハーレイは体育の先生じゃないけど、その二つはプロだという印。その気になったら授業だって出来る腕前があるという印。先生同士で交換したなら、そのマークだけで分かるんだって。
「ふうん…。ぼくにはマークじゃ分からないけど…」
 こっちの知り合い用のについてるマークは?
 これも何かの目印なの?
「目印と言うか…。俺の肩書きみたいなモンだな、柔道のな」
 学校の教師をしていない時はこっちの教師ってことになるんだ、と言われてビックリ。ついてたマークはハーレイが所属している柔道の道場を示すマークで、道場の先生だけしか入れられない。
「ハーレイ、柔道の先生だったの?」
 たまに道場に行って教えているって聞いていたけど、先生のマークが貰えるほどなの?
「それなりにな」
 もちろん上には上がいるがだ、学生時代に既に選手にならないかって話があった俺なんだぞ?
 それから二十年近くも経っているんだ、先生と呼ばれる立場にならなきゃ情けないだろうが。



 ぼくが全く知らないままだった、柔道の先生をしているハーレイ。
 考えてみれば選手の誘いが来るほどなんだし、先生になっても不思議じゃない。水泳の方だって選手の話があったんだっけ、と気が付いたから。
「水泳の先生のマークは無いの?」
 学校で先生が出来るってことは、水泳の先生のマークだって持っていそうだけれど…。
「水泳の方は道場ってヤツが無いからなあ…。プロ向けのクラブはあるんだが」
 そういうトコまで出掛けて行くより、ジムで泳いでる方が気楽でいいのさ。
 柔道と違って一人でも出来るスポーツだしなあ、自分のペースが一番だってな。
 だから先生のマークは無いんだ、って笑うハーレイ。学校で教える腕があったら充分だ、って。



(分かる人が見たら、このマークだけでハーレイの腕が分かるんだ…)
 学校で柔道と水泳を教えられることや、柔道の先生をしていることや。
 名刺だけで分かる、ハーレイの中身。
 仕事用のでも、知り合い用でも、どっちもハーレイの特徴が出てる。マークだけで。
 それに知り合い用の名刺の方なら、家の住所も書いてある。もちろん通信番号だって。仕事用の名刺の方でも、学校に居る時のハーレイに繋がる通信番号が刷られているし…。
(ハーレイがぎっしり…)
 ほんの小さな名刺だけれども、ハーレイの情報が詰め込まれている二枚の名刺。
 そう思ったら欲しくなって来た。テーブルの上の二枚の名刺。
 くれるのかな、って期待したのに。



「もういいな?」
 ちゃんと解説もしてやったんだし、もう充分に見ただろう?
 ヒョイと名刺をつまみ上げたハーレイ。名刺入れに戻そうとしているから。
「仕舞っちゃうの?」
「見せびらかすようなモンでもないしな」
 俺の名刺は特に凝ってるってわけでもないし…。単にマークが入ってるだけだ、普通の名刺だ。
 紙だってごくごく基本のヤツだし、模様だって何も入ってないだろ?
 気が済んだか、って二枚の名刺は名刺入れへと戻された。
 そうやって消えた、ハーレイの情報がギュッと詰まった宝物。
 何事も無かったかのように夕食を食べて、「またな」と帰って行ったハーレイ。



(ハーレイの名刺…)
 どうにも諦め切れない名刺。もう一度見たい、ハーレイの名刺。
 次の日、学校から帰って来て。
 おやつを食べた後、ママが庭仕事に出ている間に名刺入れを広げて探してみた。今までにパパやママが貰った名刺を仕舞ったファイルがダイニングの棚に入っているから。
 大きさの割に重たいそれを引っ張り出して来て、床の上に置いてめくってみる。名刺をズラリと並べたページが幾つも、幾つも。
(…どういう順番?)
 ぼくたちが住んでいる地域は昔は日本と呼ばれた辺りで、人の名前は「あいうえお」順になっているのが基本だけれども、そういう順番じゃないみたい。アルファベットの順でもないし…。
 名刺を貰った順番なんだ、と気付くまでの間に少しかかった。ファイルは名刺をしっかり包んでガードしてるから、古い名刺も新品同様、それじゃ全く分からない。
 やっと見付けた、名刺の隅っこに書かれた日付。後に行くほど最近の日付。
(五月の三日…)
 ハーレイと再会した日はその日だから、とページをめくった。今年の五月頃の日付入りの辺りにハーレイが渡した名刺がある筈、と順にめくって…。



(あった…!)
 他の人の名前の名刺と並んで、二枚。忘れようもないハーレイの名刺。
 仕事用のと、知り合い用のと、二枚の名刺がファイルにきちんと収まっていた。マークが入ったハーレイの名刺、ハーレイの情報がギュッと詰まった小さな紙が。
(昨日、見たのとおんなじだよ…)
 見せて貰った名刺とそっくり、水泳と柔道を教えられる資格を示すマークと柔道の道場の先生のマーク。どっちもハーレイを表すマーク。それに住所に通信番号。
(いいな…)
 この名刺がとても欲しいけれども、貰えない。
 パパとママが貰ってファイルに仕舞った大切な名刺、ぼくのじゃないから抜き取れない。ぼくの家に置いてあるからと言って、抜き取って部屋には持って行けない。
 欲しいのに、って覗き込んでいたら、ママが庭から戻って来る音。
(ママだ…!)
 悪いことをしていたわけじゃないけど、慌ててファイルを元の棚へと押し込んだ。動かしたってことが分からないよう、周りの本とかとキッチリ揃えて。
 だって、恋人の名刺を探していたんだもの。欲しいと見惚れていたんだもの。
 ママには気付いて欲しくなんかないし、名刺を探していたことは秘密。



(ハーレイの名刺、欲しいんだけどな…)
 どうすれば貰えるんだろう?
 ダイニングのファイルからは抜き取れないけど、見付けちゃったら、もうたまらない。欲しくて欲しくて我慢できない。ハーレイの情報がギュッと詰まった、あの名刺。ハーレイの名刺。
 持っているのはハーレイだから、と土曜日に訪ねて来てくれたハーレイに言った。
 名刺、頂戴、って。
 なのに…。



「お前の家にはもうあるだろうが」
 俺は渡したと言った筈だぞ、お前のお父さんたちに。
「うん、見付けた」
 名刺を整理してあるファイルに入れてあったよ、ハーレイの名刺。仕事用のも知り合い用のも。
「なら、それだけでいいじゃないか」
 二枚ともちゃんと入ってたんだろ、俺が渡すのを忘れていたなら話は別だが。
「なんで?」
 ぼくの家にあったらそれだけでいいって、どうしてそういうことになるわけ?
「名刺は見せびらかすようなモンじゃないしだ、プリントみたいに配るモンでもないからな」
 一度渡せばそれでいいんだ、何枚も配るものじゃないんだ。
「パパ、配ってるよ?」
 ハーレイに名刺を見せて貰った前の日にだって、名刺、新しいのを作っていたよ。
 前の分をすっかり配っちゃったから作ってるんでしょ、パパは沢山配る筈だよ。
「そいつは交換してるんだろうが」
「交換?」
「まあ、挨拶といった所だな」
 大人は名刺を渡すというのは知ってるんだろ、渡された人は自分の名刺をお返しに渡すっていう一種の決まり事だな。知り合いが増えれば渡す名刺も増えるんだ。だから何枚でも要るってな。
 大人ってヤツは付き合いが広がる一方だしなあ、名刺はいくらでも必要なのさ。
 しかし、一回渡した相手に二度目というのは失礼なんだ。前に会ったことを忘れています、って言うのと同じだからな。前に会った時と仕事や趣味が変わっていたなら話は別だが…。
 そういうわけでだ、お前の家には俺の名刺が既にある。二度目を渡しちゃ失礼ってモンだ。



 大人の挨拶、名刺の交換。
 それをやったら貰えるんだとは分かったけれど。
 ぼくの家にハーレイが二度目の名刺をくれるとなったら失礼だけれど、ぼくが貰うなら話は別。前の名刺はパパとママの分で、ぼくの分ではないんだから。
(ハーレイに名刺を渡しさえすれば、お返しに名刺…)
 貰えるらしい、と思うけれども、問題が一つ。
(ぼく、名刺が無い…)
 子供のぼくは名刺なんかは持ってない。落とし物をした時に分かるように、ってパパから貰った名刺を鞄に入れたりしているくらいの小さな子供で、自分の名刺は存在しない。
 名刺が無ければ交換が出来るわけがなくって、ハーレイの名刺は貰えないけど。
 でも、欲しい。ホントに欲しくてたまらない。
 日曜日にまたハーレイと会ったら、一緒に一日を過ごしちゃったら、もっと欲しくなった。
 ハーレイの名刺、ハーレイの情報がギュッと詰め込まれた二枚の名刺が。



 ぼくの頭は名刺で一杯、大好きなハーレイの名刺で一杯。
 もちろん頭の大部分を占めているのはハーレイだけれど、そのハーレイの名刺だから。
 一晩寝たって忘れられなくて、学校へ行っても頭から消えてくれなくて。
(名刺…)
 この間、ママがパパの名刺を作っていたのは近所の印刷屋さんだったっけ。
 其処へ行ったら作れるのかな、と学校から帰って広げた新聞に、丁度、広告。おやつのケーキも放り出しちゃってチェックしてみた、お店の広告だったけど。
(五十枚から…)
 名刺の印刷は五十枚から承ります、って書かれてた。そんなに要らない。一枚でいい。五十枚も名刺を印刷したって、何処にも配れやしないんだから。友達は名刺を持っていないし…。
 それに印刷するものがない。いわゆる肩書き、仕事というヤツ。
 ママはパパのお嫁さんで、それも立派な仕事の一つで、何も書いてない名刺だけれど。
 いつかハーレイのお嫁さんになった後のぼくも、そういう名刺になるんだろうけど。
 今は十四歳にしかならない子供で、何の仕事もしていないから…。
(一年生、って印刷出来ないよね…)
 学校の生徒は仕事じゃないから。名刺を作りに出掛けようにも、今のぼくでは話にならない。
 印刷屋さんに「どう書きますか?」って訊かれても返事のしようがないんだ、子供だから。



 プロの印刷屋さんで刷って貰うことは出来そうもなさそうな、今のぼく。
 だけどハーレイの名刺は欲しいし、そうするためには名刺の交換、ぼくの名刺は必需品。
(…こうなったら自分で作るしか…)
 あれこれ悩んで考えた末に、パパの名刺のサイズを測って、画用紙に慎重に線を引いていった。縦がこれだけ、横がこれだけ、って。
 失敗するってこともあるから、画用紙いっぱいに引いた線。名刺サイズの四角が沢山。
(十枚くらい切ればいいかな…)
 端が歪んだりギザギザになったりしないように、って息を止めて切り取った十枚の紙。ぼく用の名刺を作るための用紙。どれも立派に名刺っぽく見える真っ白な紙の出来上がり。
 机の上を綺麗に片付け、一枚選んで深呼吸してから頑張ってきちんとペンで書き込んだ。ぼくの名前と、それから住所。下書きも目印の線も書けないんだから、これがホントの真剣勝負。
(…これで良し、っと!)
 ママの名刺みたいに花束は浮き出していないけれども、字だって印刷じゃないけれど。
 なんとか名刺には見えると思う。名刺なんです、って言い張ったなら。



(この名刺で、名刺、貰えるかな…?)
 ドキドキしながら出来上がった名刺を見詰めていたら、チャイムが鳴って。
 仕事帰りのハーレイが来てくれたから、ママがお茶とお菓子を置いてった後で、さっきの名刺を勉強机の引き出しの中から取り出して来て「これ」って差し出した。
 ぼくの手作り、画用紙を切って作った名刺。
「ハーレイ、これ、ぼくの名刺だけれど…」
 これを渡したら、ハーレイもぼくに名刺をくれる?
「ほほう…。手作り感の溢れる名刺ってヤツだな、画用紙を切って手書きってトコか?」
「そうだけど…。やっぱりこういう名刺だと駄目?」
 印刷屋さんで作って貰った名刺でなくっちゃ、ハーレイの名刺、貰えない?
「いや、そこまでは言わないが…。ここまでされたら仕方ないよな」
 お前、よっぽど欲しかったんだな、俺の名刺が。
 俺が作った名刺じゃなくって、印刷屋に頼んだ大量生産品で有難味も何も無いのになあ…?



 まあいいか、と名刺入れを引っ張り出したハーレイ。
 ぼくが渡した名刺と交換、知り合い用の名刺を一枚貰った。
 ハーレイの住所と通信番号が書かれた名刺で、柔道の道場の先生のマークも入ってる。大喜びで受け取ったぼくだけれども、それっきり何も出て来ないから。
 ハーレイの名刺は二種類の筈なのに、一枚きりしか貰ってないから。
「えーっと、ハーレイ…。仕事用のは?」
 ぼく、一枚しか貰っていないよ、名刺、もう一種類あった筈だよね?
「ふうむ…。あっちは仕事用だと話さなかったか、教師としての俺の名刺だと」
 お前、仕事は何なんだ?
 あれを渡すのは仕事で出会った人なんだがなあ、仕事用だしな?
 お前のお父さんたちにも教師としての自己紹介の意味で渡したんだが、あの名刺。
「あっ…!」 
 ごめん、仕事の付き合いでないと渡せないんだね、あっちの名刺。
 あれが欲しいなら、ぼくも仕事用の名刺を作ってハーレイに渡さなきゃ駄目なんだね…!



 ちょっと待って、と勉強机の所へ走って名刺用の紙を取り出した。
(余分に作っておいて良かった…!)
 十枚も用紙を切っておいたから、まだ九枚も残っているから。
 その内の一枚を机の上に置いて、急ぎながらも文字を揃えて書き込んだ。ぼくの名前を真ん中に書いて、後は学年とぼくのクラスと。それに学校の名前も書いて…。
「これでいい? 学校の住所も書いた方がいい?」
「そいつは俺も同じだからなあ、学年とクラスだけでいいだろ。お前の仕事は生徒だしな」
 交換だ、ってハーレイは笑いながら名刺をくれた。
 仕事用のを、柔道と水泳を教えられるって印のマークが入った先生の名刺を。



「ありがとう、ハーレイ! 大事にするよ!」
 この名刺、ぼくの宝物だよ、二枚とも。大切にするね、きちんと仕舞って。
「ああ、俺もな」
 こいつは大切にしないとなあ…。お前の名刺。
「なんで? その名刺、本物じゃないよ?」
 印刷屋さんで作っていないし、ぼくが画用紙を切っただけだし…。
 名刺っぽく見えるようには頑張ったけれど、それ、偽物の名刺なんだよ?
「いやいや、立派な名刺だってな、こいつはな」
 お前が手作りしたんだろう?
 世界に二つとない名刺なんだ、どんな印刷屋に頼んだとしても絶対に作れやしないってな。



 こいつは俺の宝物だ、ってハーレイは二枚の名刺を大切そうに見ているけれど。
 画用紙で作った偽物の名刺を、目を細めながら見ているけれど。
 あんな偽物の名刺なんかよりも、ハーレイがくれた二枚の名刺の方が本物、よっぽど立派。
 ぼくにとってはハーレイの名刺が宝物だし、本物の名刺なんだから嬉しいし…。
 こういうのをなんて言うんだったかな、海老で鯛を釣るって言うんだったっけ?
 画用紙の名刺で本物の名刺を貰ったよ、って喜んでいたら。
「海老で鯛だと? チビだな、お前」
 分かっちゃいないな、そこはお前が喜ぶ所じゃないんだが…。
「どうして?」
 ハーレイの名刺が貰えたんだよ、嬉しくない筈がないじゃない!
 それとも言い方、間違えてるかな、海老で釣るのは鯛じゃなかったかな…?
「いいや、ヒラメでもカレイでもなくて、そこは鯛だが…」
 まあいいさ。俺と結婚しようって頃にはお前も分かるさ、こいつの値打ち。
 名刺欲しさにお前が作った、この偽物の値打ちがな。



 手作りで世界に一枚きりだ、ってハーレイは本当に嬉しそうなんだけど。
 とても大事そうに名刺入れに画用紙の名刺を仕舞っているけど、偽物でもかまわないのかな?
(印刷屋さんで作って貰った、本物がいいと思うんだけど…)
 そう思うけれど、ハーレイがそれでいいと言うなら、いいんだろう。
 画用紙で作った名刺だったけど、海老で見事に大きな鯛を釣り上げられた、ぼく。
 ぼくの宝物が一気に増えた。
 ハーレイの情報がギュッと詰まった素敵な名刺。
 それが二枚も、仕事用のと知り合い用のと、合わせて二枚。
 どっちも大切な宝物。
 ぼくが作った偽物の名刺で貰えた本物の名刺、ハーレイの名刺。
 これの方が絶対、値打ち物だよ、ハーレイに渡した画用紙の名刺なんかより…。




           名刺・了

※ハーレイの名刺が欲しくなってしまったブルー。見せて貰ったら、その分、余計に。
 けれど名刺は「交換するもの」。画用紙で名刺を作ったお蔭で、宝物がまた増えました。
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(あれ?)
 いったい何をしているのだろう、とブルーは少し向こうの道端を眺めた。
 学校の帰り、バス停から家へと歩く道の途中。行く手に下の学校の生徒だと一目で分かる少女が二人。年は十歳くらいだろうか、制服は無いから普通の服。通学鞄も持ってはいないけれど。
(この時間だと…)
 十歳くらいなら授業はとっくに終わっている筈。一度帰って、それから遊びに出て来たらしい。
 少女たちの側の生垣に沿ってコスモスが沢山植えられていた。白やピンクや、色とりどりに。
 その花を千切っては何かしている。一輪千切って、また一輪と。



(悪戯?)
 花を戯れに手折るにしたって、花束にするならいいのだけれど。
 少女たちは花びらを次々と毟ってしまっては、花を捨てているようだから。花びらが無くなった花を捨てては、また別の花を千切っているから、とても褒められたものではない。
(コスモス、駄目になっちゃうよ…)
 いくら沢山咲いていたって、花びらは毟るものではないから。花は愛でるもので、その花びらを毟って捨ててしまうなどは論外だから。
(花だって可哀相だよね?)
 自分が叱るのも変だけれども、あの年頃の子供からすれば充分に「大きなお兄ちゃん」。学校の制服も着ているのだから、多分、効果はあるだろう。「駄目だよ」と一声かければ、きっと。



 家の人が気付いていないのならば、と決心を固めて近付いてゆけば。
(…えっ?)
 生垣の向こうに顔馴染みのご主人。それも熱心に庭の手入れ中。他の作業をしているとはいえ、少女たちが見えない筈はない。コスモスの花を毟っては捨てる二人の少女が。
(じゃあ、黙認なの?)
 あんなに酷い悪戯を何故、と首を傾げたら、少女の歓声。
「好きーっ!」
 明るい声が響いたけれども、もう一人の声が被さった。羨ましそうに「いいな」と言う声。先に叫んだ少女の隣で肩を落として、「私の方は駄目みたい」と。
 少女たちがポイッと投げたコスモス。花びらをすっかり失くしたコスモス。



(あ…!)
 その瞬間に思い出した。
 花占い。コスモスの花とは限らないけれど、花びらを使った恋の占い。
 下の学校に通っていた頃、何度も目にした。様々な花が溢れる花壇の側やら、学校を囲む垣根に沿って植えられた花たちが幾つも咲いている横で。
 花を一輪、手折って、持って。
 花芯を取り巻く花びらを一枚、また一枚と抜き取る度に口にする言葉。
 好き、嫌い、好き。
 花びらを一枚、取って捨てる度に「好き」と「嫌い」を交互に唱えて、花びらが一枚も無くなる時まで続けていって。
 最後に残った花びらを毟る時の言葉が「好き」か「嫌い」かで答えが決まる。花に託した占いの答えが導き出される。
 好き、嫌い、好き。
 花びらの数で恋を占う、少女たちが好きな恋占い。



(それで叱らなかったんだ…)
 コスモスを幾つ毟っていたって、少女たちの方は悪戯ではなくて真剣だから。
 花びらに恋の行方を尋ねて、否と言われても諦め切れずに次の花。望み通りの答えが出たって、更に確認したくなる。どの花も同じ答えをくれるか、何度訊いても同じなのかと。
 それは一種の願い事。
 こうであって欲しいと、こうなればいいと、コスモスの花に願い事をするようなものだから。
 花占いをしている二人の少女を叱る者などいないだろう。むしろ微笑ましく見守るべきことで、最後の一輪を毟ってしまったとしても、叱る大人はいないだろう。



(でも…)
 どう眺めたって、恋には早すぎる少女たち。
 コスモスに「好き」と教えて貰った少女と、「嫌い」と答えを貰った少女。何度やっても答えは同じと思ったのかどうか、並んで去ってゆく小さな背中。
(いったい誰のこと、占ったのかな?)
 下の学校にいた頃に見た花占いでの恋のお相手は、人気のドラマのヒーローだったり、その役を演じる俳優だったり。あの少女たちも、きっとそういう恋の相談。
 今の時代は誰もがミュウで、平均寿命も三百歳を軽く越えるから。恋をする年も遅くなるから、少女たちの年なら、まだまだ子供。ブルーの年でも恋には早い。恋の話など一度も聞かない。
(でも、ぼくには恋人、いるもんね?)
 前の生からの大事な恋人。
 青い地球の上に生まれ変わって再び出会えた、今のハーレイ。
 正真正銘、本物の恋人、コスモスの花に訊くまでもなくて「好き」に決まっているけれど。
(ハーレイがぼくを嫌いな筈がないもの)
 花びらは「好き」と答えるだろう。好き、嫌い、好き、と唱えてゆけば。



 やってみようか、とコスモスの花に手を伸ばしたら。
「ブルー君?」
 欲しいのかい、と家のご主人に声を掛けられた。庭仕事の合間に見ていたらしい。
 気前よくチョキンと枝ごと切って貰ったコスモス。白やピンクや、真ん中に向かって濃い色へと染まる花びらを持った華やかなものや。
 家に飾るならこのくらい、と両手に余るほど渡された。この蕾だって明日には咲くよと、充分に長く楽しめるよ、と。



(コスモス、いっぱい…)
 貰ってしまった沢山のコスモス、思いがけずもコスモスの花束。
 母に渡して生けて貰おうと思ったけれど。大きな花瓶に入れて貰ってリビングにドンと飾るのもいいし、二つに分けてダイニングもいい。
(あの花瓶に入れて貰って、ダイニングのテーブル…)
 そうすればおやつを食べる間も眺められるし、と思ってから。
(花占い…)
 大きすぎる花束を貰ってしまって、頭の中から消えてしまっていた花占い。一輪くらいは自分の部屋に飾っておくのもいいだろう。せっかく貰ったコスモスなのだし、記念に一輪。



 コスモスの花束を抱えて帰って、「頂いたの?」と微笑む母に注文して。
 リビングとダイニング、それから一輪挿しに一輪。
 淡いピンクのコスモスを一輪、ガラスの一輪挿しに生けて貰って勉強机の上に飾った。着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間は、テーブルの花瓶のコスモスを愛でた。
 白にピンクに、もっと濃いピンク。真ん中が濃い色に染まった花など。
 それは賑やかなコスモスの花束、細い糸を編んだレースにも似た緑色の葉も美しい。
(貰っちゃったよ、こんなに沢山)
 あの少女たちが毟った花より、ずっと沢山。手に余るほどの数のコスモスの花。
 これだけの数の花に訊いても、きっと「好き」だと答えるだろう。
 「ハーレイはぼくのことが好き?」と訊いてみたなら、花たちは、きっと。



 おやつを食べ終えて、部屋に戻って。
 勉強机の前に座って、一輪挿しに咲いたコスモスを見ながら考える。
 淡いピンクのこの花もきっと、「好き」と答えてくれるのだろう、と。
(花占い…)
 あの少女たちがやっていたように、花びらを毟れはしないから。
 一輪しかないコスモスを丸坊主にしてはしまえないから、花びらを数えることにした。一枚ずつ順に数えて一周したなら、花は答えをくれるのだから。



 一輪挿しを手前に引き寄せ、目印になってくれる一枚の花びらを決めた。
 持って帰る途中でくっついたものか、それよりも先にミツバチが触れていったのか。ピンク色の花びらに黄色い花粉がほろりと零れて小さな点がついていた。他の花びらにはついていないから、その花びらが出発点。
 そうっと指差し、心の中で問いを投げ掛ける。
(ハーレイはぼくのこと…)
 好き、と唱えた一枚目の花びら。其処から隣へと移って「嫌い」と。
 コスモスの花芯の周りを一周しながら、好き、嫌い、好き…。



(嘘!)
 くるりと一周数え終わった時、「嫌い」と告げてくれた花。淡いピンクのコスモスの花。
 その花はハーレイはブルーを嫌いだと言った。嫌いなのだと、好きではないと。
(ハーレイがぼくを嫌いだなんて…)
 そんなことがある筈がない。ハーレイとは前の自分の頃からの恋人同士で、この地球にも二人で生まれて来た。また出会うために生まれて来たのに、ハーレイが自分を嫌いだなんて…。
(嘘なんだから…!)
 この花は嘘をついたのだ、とブルーはキッと唇を噛んだ。
 でなければ問いを間違えたか。もっと分かりやすいことを訊くべきだったろうか、答えが絶対に揺らがないことを?
 好きか嫌いかという漠然とした尋ね方ではまずかったろうか、その日の気分というものもある。
(ぼくがしつこくキスを強請ってたら、ハーレイ、嫌かもしれないしね?)
 たまには嫌いになってしまうこともあるだろう。あんなチビは知らん、と言いたい時が。



(うん、きっとそうだ…!)
 自分の訊き方が悪かったのだ、と質問を変えることにした。さっきとは別の花占い。
 やり方は全く同じだけれども、花びらをぐるりと一周しながら、今度はこう。
(ハーレイと結婚出来るかどうか…)
 出来る、と最初の花びらから順に数え始めて、できる、できない、できる…。
 淡いピンクのコスモスの花の、花びらの数は同じなのだから。
 数え直した所で増えも減りもしないで同じ数だから、当然、出来ないと出て来たお告げ。
 ブルーはハーレイと結婚出来ないと、結婚することは出来ないのだと。



(そんな…!)
 まさか結婚出来ないだなんて、と愕然としてしまったけれど。
 今度こそ嘘だと思ったけれども、そういった結末も絶対に無いとは言い切れないのが今の生。
 ハーレイは前のハーレイとは全く違った別の人生を生きて来たのだし…。
(ぼくはちょっぴりしか生きてないけど、ハーレイはもっと…)
 三十八歳にもなるハーレイ。十四歳の自分の倍どころではない時間をハーレイは生きた。色々な人と出会って、色々な場所へ出掛けて行って。
 白いシャングリラの中だけが世界の全てだった前の生とは違う。ブルーの他にも大勢の人たちと出会って笑い合って、地球の上ばかりか他の星にも友人がいて…。
 そう、ハーレイはブルーとは違う時間を生きた。前はそっくり同じ時間を、同じシャングリラで過ごしていたのに。まるで違う場所で違う時間を、ハーレイは生きてはいなかったのに。
 別の時間を生きた今のハーレイには、ブルーのそれとは重なり合わない人生があって…。



(ハーレイ、昔はモテたって…)
 水泳と柔道で活躍していた学生時代はモテたと聞いた。
 ハーレイは笑って語らなかったけれど、恋人がいてキスを交わしていたかもしれない。
 キスどころか、その先のことだって。
 その可能性も大いにあった。
 そして、その恋人がハーレイの前に再び戻って来ることも。
 喧嘩別れをした恋人でも、再会したなら恋が再び燃え上がらないとも限らない。ブルーのように子供も産めない同性の相手と結婚するより、女性を妻に迎える方が周りから見ても自然だし…。
(ハーレイ、誰かと結婚しちゃうの?)
 自分以外の誰かを選んで去ってしまうのだろうか、ハーレイは?
 ハーレイだけしか見えない自分をアッサリと捨てて、他の誰かと結婚式を挙げるのだろうか…?
 信じたくないことだけれども、コスモスの花はそう告げた。
 ハーレイと結婚出来はしないと、出来ないのだと。



(どうしよう…)
 突然に崩れ去ってしまった、自分の未来。
 大きく育ってハーレイと一緒に暮らすつもりが、そのハーレイには別の相手がいるという。
 ハーレイと結婚式を挙げる誰かが、共に人生を歩む誰かが。
(…ハーレイと結婚出来ないだなんて…)
 ブルーがガックリと落ち込んでいたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。ハーレイが押したと分かる時間で、窓から見下ろせば門扉の向こうで手を振る影があったけれども。
 暫くしたら母がハーレイを案内して来たけれども、気になる勉強机のコスモス。淡いピンクの、残酷なお告げをくれたコスモス。
 ハーレイはブルーが嫌いなのだと、結婚だって出来ないのだと。



 そのコスモスにチラリチラリと目を遣っていたら、ハーレイもそれに気付いたようで。
「おっ、コスモスか?」
 何処かの家で貰って来たのか、お前の家には咲いてないしな。
 生垣沿いにズラリと植えている家か、バス停から此処まで来る途中の?
「うん…。あの家のおじさんがくれたんだけど…」
 もっと一杯、持ちきれないくらい貰ってしまって、リビングとかにもあるんだけれど…。
「どうした、お前、元気がないな?」
 何かあったか、それとも具合が良くないのか?
「そうじゃないけど…。ハーレイ、ぼくのことは好き?」
 ぼくのこと好き、ちゃんと恋人っていう意味で?
「決まってるだろう」
 でなきゃどうして俺がこの家にしげしげやって来るんだ、守り役ってことにはなっているがな。
 お前のことが好きでなければ、もっと手抜きをする筈だが?
「…結婚してくれる?」
「どうしたんだ、お前。何か変だぞ」
 悪いものでも食ったのか?
 熱でもあるのか、どうも妙だぞ、今日のお前は…?



「だって、コスモス…」
 コスモスの花が花占いでそう言った、とブルーは訴えた。
 ハーレイは自分のことが嫌いで、結婚だって出来ないのだと。
 あのコスモスの花で占ってみたら、そういう答えが出て来たのだと。
「ホントなんだよ、好きか嫌いか、って占ったらハーレイはぼくが嫌いで…」
 結婚出来るかどうか、って占った時は出来ないっていう答えだったんだよ…!
 だからハーレイはぼくが嫌いで、結婚だってしてくれないんだと思っちゃって…。占いの質問を変えてみたって、酷い答えしか出ないんだもの…!
「馬鹿。占いは所詮、占いだぞ?」
 それにだ…。お前がどういう占い方をしたかはともかく、花びらの数。
 何度やっても花びらの数は変わらんだろうが、とハーレイは可笑しそうに笑って言った。
 その花を俺に貸してみろ、と。
 今度は俺が占うから、と。



「ハーレイがするの、花占いを?」
「俺がやったら駄目だということもないだろう」
 デカイ大人でも花占いをする権利くらいは持ってる筈だと思うがな?
 お前に妙なことを吹き込んじまったコスモスらしいが、俺の場合はどうだかなあ…?
 やってみよう、とハーレイが花を指差すから。
 ブルーは一輪挿しごと取って来たコスモスをテーブルにコトリと置いた。ハーレイが「よし」と一輪挿しに手を添え、コスモスの花を観察して。
「ふうむ…。こいつを出発点にするかな、分かりやすいしな」
 ハーレイが選んだ花びらはブルーが選んだのと同じ、黄色い花粉が零れた一枚の花びらだった。それを示して「いくぞ」と合図するハーレイの褐色の大きな手の側、可憐なコスモス。
 淡いピンクのコスモスの花びらを指先でチョンとつついて、ハーレイはそれを数え始めた。
「いいか? お前は俺のことを…」
 好き、嫌い、好き、と…。
 ほほう、嫌いか。嫌われたらしいな、この俺はな。
「そんなこと!」
 違うよ、それは間違ってるから!
 コスモスの花が間違ったことを言ってるんだよ、ぼくはハーレイを嫌いじゃないよ!
 前のぼくだった頃からずっとずっと好きで、今だってハーレイが大好きなのに…!



 コスモスのお告げが間違いなのだ、とブルーは懸命に抗議した。
 花占いの答えは間違っていると、ハーレイを嫌ったことなどは一度も無いと。
「それは光栄だな、一度も嫌われたことが無いとはな。…なら、次だ」
 このコスモスに訊くとするかな、お前は俺と結婚を…。
 する、しない、する、と…。
 しないそうだが?
 お前、俺以外のヤツと結婚するらしいぞ。嫁に行くのか、嫁さんを貰うのか、それは知らんが。
「それは絶対、有り得ないから!」
 ぼくはハーレイとしか結婚しないし、ハーレイのお嫁さんにしかならないよ!
 ハーレイと結婚しないなんてこと、ぼくには考えられないから…!



「ほら、そんなものだ。花占いの答えなんぞはアテにならんさ」
 ついでに、だ。
 ちゃんと見てろよ、もう一度こいつに訊いてみるからな?
 お前は俺のことをだな…。嫌い、好き、嫌い…、と。
 見ろ、好きと出たぞ。
「ホントだ!」
 ハーレイ、こっちが正解なんだよ、間違えないでよ?
「ああ、分かってるさ。さっき訊いてた結婚の方も訊き直すとするか」
 お前は俺と結婚を…。しない、する、しない、する…。
 な、結婚すると言われただろう?
「うんっ!」
 これが本当だよ、花がホントのことを言ったよ。
 ぼくはハーレイと結婚するって決めてるんだし、これが正しい答えだからね…!



 良かった、と胸を撫で下ろしたブルーだけれど。
 コスモスの花が本当のことを言ってくれたと喜んだけれど、その頭をコツンと軽く叩かれた。
「まだ気付かないのか、めでたいヤツだな。俺は二回もやって見せたんだが…」
 お前、最初に選ぶ言葉を間違えたってな。
 好きから始めて嫌いで終わってしまったんなら、次に別の質問をする時には、だ。
 結婚出来るか出来ないのかを尋ねる時には、出来ないって方から始めなければマズイだろうが。最初の言葉の逆の言葉しか出ないんだからな、この花びらの数ではな。
「そっか…」
 確かに言われてみればそうだね、花びらの数は同じだもんね。
 質問を変えても無駄だったんだね、数える時に言う順番の方を変えないと…。
「そういうことだ。それに全く気付かないとは、お前、つくづく間抜けだと言うか…」
 俺が二回も実演したって、仕組みを見抜いて笑うどころか大喜びで感激と来た。
 どうなってるんだ、お前の頭。成績はいい筈なんだがなあ…。
 学年トップは勉強だけでだ、他の方面になると実はサッパリだったってか?



「恋は盲目って言うじゃない!」
 ハーレイとのことを占ったんでなきゃ、ぼくだってもっと冷静になるよ!
 いきなり嫌いって言われちゃったからビックリしちゃって、訊き方を間違えたんだと思って…。
 だから結婚出来るか訊いたら、そっちも駄目だと言われちゃって…!
 ハーレイには昔の恋人とかがいたかもしれない、って思い始めたらもう、ドン底だよ!
 ぼくと結婚しなくったって、結婚相手は他に何人でもいそうだし…!
「なるほどなあ…。悪い方へと考え出したらキリが無かった、と」
 それですっかり落ち込んじまって、俺に直接、訊いてみることにしたんだな?
 俺はお前を好きかどうかと、結婚はしてくれるのかと。
「そうだよ、それが一番早いんだもの…」
 嫌いだし結婚も絶対しない、って言われちゃったら大ショックだけど、聞かないよりマシ。
 ぼくには何の話もしないで、ある日いきなり、他の人と結婚されちゃうよりはね。
「その度胸がありゃ、花占いなんかに頼らなくてもいいと思うが」
 占いは訊きに行くだけの度胸が無いヤツがするものなんだぞ、可能性があるか、無いかってな。
 お前みたいに訊いて確認しようってヤツには、まるで必要無さそうなんだが…?
「たまには確かめたくなるんだよ…!」
 ホントにハーレイはぼくが好きか、って、確かめてみたくなるじゃない!
 ぼくが貰ったコスモスは全部、好きって言うんだと思ってたのに…。
 それなのに逆のことを言うから、ショックでパニックになっちゃったんだよ…!



「おいおい、貰ったコスモスの花が揃いも揃って同じ答えを出すってか…?」
 そいつは凄いな、お前、そこまで自信に溢れていたわけか。
「…それくらい幸せ気分だったんだよ、コスモスの花を貰った時は…」
 ぼくには恋人がちゃんといるから、占ったら「好き」って答えが出るのに決まってる、って。
 考えてみたら、花びらの数は花によって違っていることもあるし…。
 コスモスの花はどれも同じに見えるけれども、あれだけあったら違う数のも混じるだろうし。
 全部が揃って「好き」って言うわけないんだけれどね、コスモスの花。
「さてなあ、そいつはどうだかな?」
 俺がやって見せたろ、占う言葉の順の入れ替え。
 花を選ぶ度に言葉の順も気まぐれに変えていった場合は、「好き」って答えで揃っちまうことも絶対に無いとは言い切れないがな…?
「よっぽど運が良くないと出来ないよ、それ…!」
 ハーレイと結婚するより難しそうだよ、あんなに沢山のコスモスに同じ答えを出させるなんて。
 結婚する方が簡単そうだよ、ハーレイが嘘をついてないなら。
「ついていないさ、嘘なんかつくか」
 俺はお前に嘘なんか言わん。お前が悲しむようなことも決してしない。
 俺はお前しか好きにならんし、お前しか嫁に欲しいと思わん。
 だから安心していりゃいいんだ、コスモスが何と言っていようが鼻先で笑い飛ばしてな。
 この花の方が間違っていると、俺がお前を嫌いになったりするわけがない、と。



 花占いをするなら、ほどほどに。
 たまに戯れに占ってみても、悪い結果よりは俺を信じろ、とハーレイは言った。
 その方がよほど信頼できると、気まぐれな花が告げることより俺の意見が確かだと。
「まあ、世の中には本当に予言をする植物がまるで無いこともないかもしれんが…」
 前の俺たちがいくら探しても、どう頑張っても、見付からなかった四つ葉のクローバー。
 あれは予言をしたかもしれんが、あっちの方が例外だ。
 今の俺たちには未来を予言するような花なんか無いさ、何処にもな。
「…ハーレイが言うなら信じるよ。花占いより、ハーレイを信じる」
 それに、四つ葉のクローバー。
 今のぼくたちは見付けられたしね、自分の家の庭で。ぼくの家の庭にも、ハーレイの家の庭にもあったし、今度は幸せになれる筈だよ、あのクローバーがあるんだから。
「うむ。それが分かっているんならもう振り回されるなよ、花占いに」
 勝手に占って、勝手に一人で思い込んで。
 落ち込んでる所へ俺が来たから良かったようなものの、俺が仕事で遅くなっていたら。
 お前の家に寄る暇がなくて帰っていたなら、お前、明日までドン底だろうが。



 花占いを真に受けるヤツがあるか、と苦笑するハーレイだったけれども。
 小さなブルーが落ち込んだ理由も分からないではなかったから。
 銀色の頭を大きな右手でクシャリと撫でると、パチンと片目を瞑ってみせた。
「とりあえず、ちゃんと正しい結果が出て来て良かったな」
 このコスモスだって言っただろうが。
 俺はお前のことが好きだし、ついでに結婚出来るってな。
「うん。ハーレイが占い、やり直してくれたお蔭だよ」
 ぼくが自分でやっただけだと、正しい答えは出なかったしね。ハーレイがやって見せてくれても占い方、分かっていなかったしね…。
「うんうん、恋は盲目らしいしな。お前の言い分を信じるならな」
 ところで、お前。コスモスの名前、知ってるか?
「コスモスの名前って…。コスモスでしょ?」
「その他に別の名前があるのさ、秋桜だ」
 秋に咲く桜って意味の名前だな、花は桜よりもかなりデカイが…。桜みたいに木でもなければ、葉っぱもまるで別物なんだが、秋桜と言えばコスモスなんだ。
「へえ…!」
 秋桜って、秋に咲いてる桜じゃないんだ…。
 たまにあるよね、秋になって葉っぱが落ちてしまう頃に咲いてる桜。



 そういう桜を知っているよ、とブルーは話した。
 季節外れに咲く桜。秋の終わりに花を咲かせている桜。
「ああ、あれか…。あれは冬桜だ、そういう品種で秋から冬に咲くのが普通だ」
 あれとは違って、普通の桜も秋に咲くことがあるんだが…。気候のせいで秋に花芽が目覚めると咲く。もっとも、冬桜ほどに沢山の花は咲かんがな。
「ふうん…。普通の桜でも秋に咲いてることがあるんだ、ぼくはそっちは見たことがないよ」
 ぼくが知ってるのは冬桜。普通の桜の花は春に見ただけ。
「桜か…。お前の誕生日の頃に早けりゃ咲くよな、桜の花」
「早ければね」
 だけど満開はもっと先だよね、ぼくの誕生日にお花見をするのは無理みたい。
「うんと昔は、その頃にはとうに満開だったって話もあるが…。SD体制よりも前の時代だがな」
 この辺りが日本だった頃。早い年には三月の末に桜が満開だったらしいぞ、そして花見だった。
 お前、桜の花は好きなのか、花は好きだと聞いているが…。
「桜、好きだよ」
 満開も好きだし、咲き初めも好き。散ってしまう頃は少し寂しいけれども、花吹雪だって大好きだよ。満開の時にヒラリと落ちてくる花びらもいいけど、次から次へと舞うのも好き。



「そうか、好きか。桜の花が好きなんだったら…」
 いつか、お前と結婚したら。
 春は桜を見に出掛けようか、俺の車で。
「ホント!?」
 お花見に行くの、車だったら遠い所でも行けるよね。桜が沢山見られる所も、山の奥でも。
「行きたい所に連れてってやるぞ、のんびり桜見物といくか」
 俺が弁当を作ってやるから、そいつを持って。
 花見に行ったら、また花占いをするといい。桜は「好き」としか言わないからな。
 コスモスと違って、大抵の桜はそう言う筈だ。
「どうして?」
 コスモスの名前は秋桜なんでしょ、桜の花とコスモス、何処が違うの?
「ん? そいつはな…」
 桜と言ったら花びらが五枚だ、それ以外じゃ桜らしくない。八重桜とかは別だがな。
 花びらが五枚だけしかなければ、好きで始めりゃ最後はどうなる?
「えーっと…。好き、嫌い…」
 あっ…!
 必ず「好き」で終わっちゃうんだね、桜の花びらで占った時は。
 結婚出来るか出来ないかだって、「出来る」って言ってくれる頼もしいのが桜なんだね…!
「そうなるな。もっとも、結婚しちまった後で…」
 結婚出来るか、出来ないのかって占うヤツはいないと思うが。
 好きか嫌いかを占って遊んでいればいいのさ、俺と一緒に桜を見に行くお前はな。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 ハーレイはぼくを好きなんだよ、って桜が教えてくれるんだね。いつまでも好き、って。



 コスモスの花びらの花占いのせいで、落ち込んでしまったブルーだけれど。
 花占いが告げた言葉にショックを受けてしまったけれども、花占いの答えを見事に逆さに変えたハーレイ。こうだ、と全く逆の答えを導き出してくれたハーレイ。
 そのハーレイが教えてくれた、コスモスの別名、秋桜。
 コスモスは桜に似ていないけれど、秋桜という名前から素敵な未来がチラリと見えた。
 いつかハーレイと結婚したなら、二人一緒に桜見物。
 コスモスの花占いには泣かされたけれど、「好き」としか言わない桜の花の花占い。それを桜の下で占ってみては、ハーレイの心を確かめる。
 気まぐれに桜の花を手にして、好き、嫌い、好き、と。
 答えはいつも「好き」とだけ。
 そしてハーレイの心にもまた、「好き」とだけ。ブルーが好きだと、ブルーだけだと…。




         花占い・了

※花占いにチャレンジしたブルー。「ハーレイは、ぼくのことが好き?」と。
 けれど「嫌い」と出てしまった答え。大ショックなのを、ハーレイが助けてくれました。
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(ヒマワリの花…?)
 こんな季節に、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
 学校から帰って、おやつを食べた後に開いた新聞。紅茶のおかわりを口にしながら。
 その新聞に広がる鮮やかな黄色。見渡す限りの一面のヒマワリ、ヒマワリの畑。
(…ヒマワリだよね?)
 まだ肌寒くはなっていないけれど、とうに秋。ヒマワリと言えば夏の花。太陽さながらに明るい黄色の花を咲かせる、背の高いものではなかったろうか。
(今の季節だと、もう萎れてるよ?)
 夏の終わりには種が実ってきて、重い頭を垂れるヒマワリ。太陽に顔を向けてはいない。実った種が重すぎるからか、夏の間中、上を向きすぎた首が疲れるからか。
 下を向いてしまったヒマワリの花は花びらも萎れて、陽気だった黄色も色褪せてしまう。ピンと張っていた葉だって元気を失い、濃い緑色を失くしてしまうのではなかったか。
(たまに咲いてることもあるけど…)
 咲く時期を間違えてしまったものか、同じ花壇のヒマワリよりも遅れて秋に咲いているのを目にすることもあるけれど。時期を逸した花だけあって、何処かヒョロリとしているものだ。その茎も花も。同じヒマワリでも逞しさが無い。
 夏の日射しを弾き返せそうにないヒマワリの花。暑い夏には萎れてしまいそうな、何処か危うい秋のヒマワリ。



(だけど、この花…)
 記事の写真のヒマワリの花は、夏のヒマワリそのものだった。一面に広がるヒマワリの畑。
 どのヒマワリもすっくと背筋を伸ばして天を仰いで、それは見事な太陽の花。夏の盛りの焦げるような日射しに染め上げられた黄色の氾濫。
(今の写真だよね?)
 日付が昨日になっているから、間違いなく今のものだろう。撮影場所もそう遠くない。
 特別な種類のヒマワリなのかと思ったけれども、記事を読んでみればそうではなかった。普通のヒマワリ、夏に見かけるのと同じヒマワリ。
 種を蒔く時期をずらして咲かせたものだという。この季節ならば充分に咲くと書かれてあった。夏のものより手がかかるけれど、手間さえかければ夏と同じに花開くのだと。



(ふうん…?)
 面白いことをするものだ、と読み進めていけば、ただのヒマワリ畑ではなかった。人を呼ぼうと秋に咲かせたヒマワリの畑。物珍しさで訪れる人が目当てのヒマワリ畑。
(写真好きな人とかが喜びそうだよ)
 それに小さな子供だって、と顔を綻ばせたら、更なる仕掛けが施されていた。ヒマワリ畑の中は迷路で、自由に歩いていいのだという。入場料さえ払えば、誰でも。
 週末ともなれば家族連れで賑わうヒマワリの迷路、長く続いているイベントらしい。車で気軽に出掛けられる場所で、田園地帯ならではの土産物なども買って帰れるから。
(迷路…?)
 それに一面のヒマワリ畑。
 何かが心に引っ掛かる。さっきまでは季節外れのヒマワリしか気にしていなかったけれど、そのヒマワリが迷路になっていると知った途端に。
 自分はこれに出掛けただろうか、幼い頃に?
 記憶には残っていないけれども、父の運転する車に揺られて、母も一緒に。



「ママー!」
 キッチンに居た母に声を掛けた。空になったおやつのカップや皿を手にして。
「あら、どうしたの?」
「あのね、新聞に載っていたんだけれど…」
 ヒマワリの迷路。毎年、秋にやっているんだって書いてあったけれど、ぼく、それに行った?
 小さい頃にパパとママに連れてって貰ってたのかな、ヒマワリの迷路。
 覚えてないけど、とカップなどを手渡しながら尋ねてみれば。
 確かに連れて出掛けたという。今よりもずっと幼い頃に。
「幼稚園の頃だったわねえ…。ヒマワリだ、って喜んでたわよ」
 もう、ピョンピョンと飛び跳ねちゃって。
 早く入ろう、って、早く行こうって大騒ぎだったわ、パパとママの手を引っ張ってね。
「そっか、やっぱり行ったんだ、ぼく」
 ヒマワリだけでは気付かなかったけど、迷路になってるっていうのを読んだら行ったのかもって気がしてきて…。きっとホントに凄かったんだね、ヒマワリの迷路。



 幼かった自分が大喜びしたというヒマワリの迷路。早く入ろうと両親の手を引っ張った迷路。
(でも…)
 そんなに楽しい記憶だったら、もっと温かい、懐かしい気持ちがしないだろうか?
 いくら幼くて忘れてしまったことであっても、ヒマワリの迷路の記事に出会ったなら。心の端に引っ掛かるという頼りなさより、心が弾むとか、そういったこと。
 どうしてその時の高揚した気分の欠片も出ては来ないのだろう、と訝しんでいたら。
「ブルーは迷子になっちゃったのよ」
「えっ?」
 迷子って、ぼくが、ヒマワリ畑で?
 パパやママとはぐれて迷子になったの、あの迷路で?
「そうよ、ブルーったら、ヒマワリがよっぽど好きだったのね。とても背が高い花だったから」
 あんなに高い所に咲いてる、って見上げて、それから見回して。
 ぼくの背よりもずっと高いよ、大きなヒマワリが一杯あるよ、って大喜びで。



 はしゃぎながらヒマワリの迷路に入った幼いブルー。
 中に入れば、見渡すばかりのヒマワリだから。上を見れば大きなヒマワリの花で、周りには太いヒマワリの茎。重なり合った葉の向こう側など見えないくらいに茂った迷路。
 けれども小さな子供の身体は、植えられた茎や茂った葉の間を抜けてゆくことが出来るから。
 最初はヒョイと隣の通路へ移動した。大きな葉の間から両親に手を振り、「ここだよ」と叫んで得意げだった。両親よりも一足先へ進んだと、両親はまだ此処に着かないと。
 「そんなことをしていると迷子になるぞ」と、「戻って来なさい」と父が言ったけれども。
 「平気だよ」と笑っていたブルー。迷子なんかになりはしないと、先に迷路を抜けるのだと。
 そうして次のヒマワリの壁もくぐって、ブルーは見えなくなってしまった。
 小さな子だから出来る壁抜け、両親の身体では出来ない壁抜け。無理に通ればヒマワリが折れてしまうと分かっているから、幼いブルーを追ってはゆけない。
 それでも思念で居場所は分かるのだから、と迷路を辿って追いながら様子を眺めていたら。
 ブルーは突然、火が付いたように泣き出したのだという。
 ママがいないと、ママもパパも何処にも見えなくなったと。



「ママたちからはサイオンで見えていたけど、ブルーの力では無理だったのよ」
 ここよ、って思念を送ったけれども、「ここって、どこ?」って泣きじゃくるだけで。
 あんまり泣くから思念も受け取れなくなってしまって、もう本物の迷子だったわ。
「…それ、今だって出来ないから…!」
 ぼくは透視は全く駄目だし、今でも迷子になれると思うよ、ヒマワリ畑。
「それは無いでしょ、もう大きいから迷路の壁をくぐり抜けては行けないわ」
 小さかったから出来たのよ。今だとヒマワリが折れてしまうわ、ブルーが間を通ればね。



 幼い子供だけの特権、ヒマワリの迷路の壁を抜けること。
 両親はブルーがいる場所へ辿り着こうと急いだけれども、如何せん、迷路。ヒマワリがびっしり植えられた迷路。隣の通路が透けて見えては面白くない、とヒマワリの壁は二列、三列。
 おまけに工夫がこらされた迷路に最短距離などありはしなくて、やっとの思いで追い付いた時、ブルーは監視員に保護されていた。パパとママがいないと泣きじゃくりながら。
「あれで懲りちゃったのかしらね。二度と行きたいとは言わなかったわ」
 ヒマワリの花は好きだったのに、と母が微笑む。
 大好きだったヒマワリは嫌いになったりしなかったけれど、迷路が苦手になったのだろうと。
 遊園地の迷路も入りたがらなかったと、迷路は嫌だと言っていたと。



(そっか、迷子になっちゃったんだ…)
 楽しかった記憶が残っていないのも無理はない、と部屋に戻って勉強机の前で考えた。
 覚えてはいない、迷子の記憶。両親と一緒に入ったヒマワリの迷路。
 ヒマワリの壁をくぐって先へ先へと進んだ自分は、得意満面だったのだろう。両親よりも自分の方が早いと、先に迷路を抜けるのだと。
 けれども広すぎたヒマワリの畑。大きすぎた迷路。
 出口に着く前に力尽きたか、あるいは気が散ってしまったのか。一休みして見回したヒマワリの畑に両親はいなくて、見当たらなくて。
 慌てて探しに走り回ったか、その場で泣いたか、今となっては分からない。
(迷路が苦手になっちゃったなんて…)
 それも覚えてはいなかった。
 迷路は嫌だと言ったことさえ、入りたがらなかったという遊園地の迷路の入口さえも。



 両親が何処にいるのか分からず、ヒマワリ畑で泣き出した自分。
 母の思念も届かなくなるほど、大泣きして監視員に保護された自分。
(前のぼくなら…)
 ヒマワリ畑がどんなに広くてヒマワリが深く茂っていたって、簡単に透視することが出来た。
 両親の居場所も直ぐに分かるし、迷路が如何に複雑だろうと瞬間移動で飛べば一瞬で戻ってゆくことが出来る。迷子にはならず、きっと何度も先に行っては戻ったりして遊んでいたに違いない、と思ってからハタと気が付いた。
(小さかった頃には、ミュウじゃない筈…)
 成人検査を受ける前の自分は何処にでもいる普通の子供だった。金色の髪に青い瞳の子供。今の自分のようなアルビノではなくて、ミュウでもなかった。だから養父母が育ててくれた。
(ミュウの子供なんかは育てないよ…)
 前の自分に付けられた名前、タイプ・ブルー・オリジン。最初に発見されたミュウ。
 成人検査でミュウと判明するよりも前は、ごくごく普通の子供時代を送った筈で。
 今のハーレイが「アルテメシアを落とした後に手に入れたデータだ」と教えてくれた記憶の中の写真で見た養父母に育てられ、十四歳までの日々を過ごした筈で。
 ならば普通の子供だった前の自分も迷っただろうか、養父母と出掛けた何処かの迷路で。
 そして嫌いになったのだろうか、自分が迷子になった迷路が?



(だったら、とっても素敵だよね…)
 迷子が素敵だとは思わないけども、迷子になってしまった経験。
 養父母という育ての親でも、両親と迷路ではぐれてしまって泣きじゃくる気持ちは同じだろう。
 心細くて、一人ではどうにもならなくて。泣くことしか出来ない、幼い自分。
 監視員が来て保護された後も、両親が迎えに来てくれるまでは泣きやむことが出来ない子供。
(前のぼくだって、きっとそうだ…)
 成人検査と、その後に続いた人体実験。記憶はすっかり失くしたけれども、あったかもしれない迷路の記憶。迷子になってしまった記憶。
 そんな体験をしたかもしれない、と思い浮かべれば、前の自分の子供時代と繋がったようで。
 失くした記憶が戻ったようで。
 心がじんわりと温かくなる。前の自分ももしかしたら、と。



 その日、ハーレイは来てくれなくて。仕事帰りに寄ってはくれなくて。
 寂しかったけれど、ヒマワリの迷路で迷った思い出。迷子になってしまった思い出。
 それがあるから、心は夢の世界へと飛んだ。ベッドで眠れば見るだろう夢へ。
(前のぼくの記憶、戻るかも…)
 幼かった頃に迷路で迷った時の記憶が。
 今の自分の遠い記憶と混ざってしまったものであっても、欠片でもいいから戻れば嬉しい。前の自分が取り戻せないままに終わってしまった、失くした記憶が戻るのならば。
(記憶、戻ってくれるといいな…)
 アルタミラを脱出した後、三百年以上も生きていたのに戻らないままで終わった記憶。
 ほんの小さな欠片でいいから、夢の中で見付けて拾い上げたい。
 そんな思いでベッドにもぐって眠りに就いた。
 お気に入りの枕に頭を預けて、上掛けを被って丸くなって。
 そして…。



(あれ?)
 気付けば一面に広がるヒマワリの中に立っていた。
 夢の中だとは思わなかったし、ブルーにとってはそれが現実。パジャマ姿でも本当のこと。今の自分に起こっていること。
 見上げるようなヒマワリの花が幾つも重なった上に、ぽっかりと覗いた青い空。
(誰もいないの?)
 しんという音が聞こえそうなほど、静まり返ったヒマワリ畑。
 見回してもただ、ヒマワリだけ。夏の太陽を思わせる花が見渡す限りに咲き誇るだけ。人の声はおろか、鳥の声さえ、風の音さえ聞こえてはこない。
 しかも小さくなっている自分。
 ヒマワリの間をくぐり抜けても、葉の一枚さえ損ねないほどに幼い身体の自分。
 ガサガサと大きな葉を両手で掻き分け、向こう側へと出てみたけれど。畝の向こうへと出てみたけれども、風景はまるで変わらない。
(どこ…?)
 此処は何処なの、と見回していたら、思い出した。
 そうだ、両親と一緒に来たのだ。父が運転する車の座席に母と並んでチョコンと座って。
 「ヒマワリの迷路に連れて行ってやるぞ」と笑顔だった父の車に乗って。
 果てが見えないヒマワリ畑に歓声を上げて、先頭に立って走ったことは覚えているけれど…。



(はぐれちゃった…?)
 ヒマワリを掻き分けて走る間に。あっちへ、こっちへと気の向くままに迷路をくぐる間に。
(確か、こっちから…)
 こっちの方から来たのだと思う、と真っ直ぐに幾つもの畝を突っ切ったけれど。ヒマワリの間を抜けて行ったけれど、両親の姿は何処にも見えない。他の人にも出会わない。
「パパ、ママ…!」
 精一杯の声で叫んだけれども、声は返って来なかった。風さえも吹きはしなかった。ヒマワリの花が咲いているだけ、太陽のような花が遥か上から見下ろすだけ。
(ぼく、迷子なのに…)
 どうしたの、と訊いてくれる大人も現れないから、どうにもならない。
 自分で出口を探すしかなくて、運が良ければ何処かで両親とバッタリ会うかもしれなくて。
(きっと、こっち…)
 こちらへ行くのが近そうだから、と方向を決めて駆け出した。畝を突っ切るのは、もうやめて。
 道の通りに走っていたなら、いつかは出口に着く筈だと。



 ヒマワリの畝に左右を囲まれた道を走って、曲がって、また曲がって。
 懸命に走っても、いくら走っても出ることが出来ないヒマワリの畑。
 気付けば元に戻っているから。見覚えのある場所に戻ってしまって、其処には自分の小さな靴の足跡が確かに刻まれて残っているから。
(ちゃんと進んでた筈なのに…!)
 何処で間違えてしまったのだろうか、曲がり角を右へ曲がる所を?
 それとも右だと思っていたのが間違いの元で、角は左に曲がるのだったか。
 迷路を抜けるには片方の壁から手を離さないのが鉄則だけれど、夢の中だけに覚えてはおらず、曲がり方だと勘違いをしてブルーは進んだ。右に曲がるか、左に曲がるか、そのどちらかが正しいのだと。右だ、左だと決めて走ってゆくものの、夢の世界ではそれも曖昧で。
(これも左だった…?)
 そうだよね、と曲がっては元に戻ってしまう。元の場所へと戻ってしまう。



(迷路…)
 出られないよ、と幼いブルーは走るけれども。両親を、出口を探して走るけれども、どうしても先へ進めない。今度こそ、と走り出しても、気付けば最初の所へと戻る。
(パパ、ママ、どこ…?)
 息が切れても、泣きじゃくっても。
 迷子になったと泣きながら迷路を走り続けても、誰も来なくて、ヒマワリが咲いているだけで。
 鮮やかな黄色の大輪の花が幾つも幾つも現れるだけで、人影も終点も見えては来ない。
 どんなに走っても、右へ、左へと懸命に曲がり続けても。
 その足元に転がっていた小石、それを踏んづけたと思った瞬間、崩したバランス。
 ぐらりと傾いだ小さな身体。



(あっ…!)
 踏み止まれずに転んだはずみに、打ち付けた右手。
 膝や胸にも土が沢山ついたのだけれど、何故だか右手が痛かった。擦り剥きそうになった膝小僧やら、強かに打った胸よりも、右手。
 土を払えば怪我はしていないようだけれども、皮も剥けてはいないのだけれど。
 僅かな血さえも滲んでいなくて、痣も出来てはいないけれども、右の手が痛くてたまらない。
(冷たいよ…)
 地面が冷たかったのだろうか、右の手が凍えて酷く冷たい。走る気力ももう無くなった。痛くて冷たい、と泣きながらトボトボと歩き続ける。
 もう帰れないかも、とヒマワリの中を。二度と家へは戻れないかも、と冷たく凍える右手に息を吹きかけながら。温まってはくれない右手を左手で擦り、重たい足を引き摺りながら。
 そうしたら…。



「ブルー!」
 やっと見付けた、と声が聞こえた。ヒマワリの壁の向こうから。
「パパ…!」
 そちらへと身体ごと振り向いた途端、ヒマワリを掻き分けて現れた人影。大人が通るには無理がある筈のヒマワリの壁を傷つけもせずに抜けて来た人影。
 その長身の大きな影は父ではなくて…。
「ハーレイ…!」
 褐色の肌に鳶色の瞳。それが誰だか、直ぐに分かった。
 手が冷たいよ、と泣きながら言えば、右の手が凍えて痛いと泣きじゃくりながら訴えれば。
「ああ、分かってる」
 転んじまったんだな、可哀相に。
 温めてやるから、もう泣くな。俺が来たから、大丈夫だからな。



 右手がそっと大きな両手に包まれた。片手だけで右手を覆えそうな手に。
 優しい温もりが凍えた右手を溶かしてゆく。打ち付けた痛みが癒えてゆく。
「よく我慢したな、転んでも歩き続けるなんてな」
 偉いぞ、お前。小さいけれども我慢強いな、ちゃんと歩いていたんだからな。
「でも、ぼく…。泣いちゃっていたよ、それでも強い?」
「強いさ、もう歩けないと泣いていたわけじゃないだろう?」
 手が冷たくて泣くのは仕方ないんだ、転んじまったら誰だって痛い。そいつを我慢しろとは誰も言わんさ、こうして治療も必要になる。
 右手、痛いか? まだ冷たいか…?
 こいつはきちんと治さないとな、痛くも冷たくもないようにな。



 ハーレイの大きな手の温もりはよく効いた。あんなに冷たくて痛かった右手がみるみる温まってゆくのが身体中で分かる。凍えた辛さも、打ち付けた痛みも嘘だったように和らいでゆく。
(あったかい…)
 ハーレイの手は魔法みたいだ、と褐色の手が与える温もりに酔っていたら。
「治ったか、右手?」
 もう痛くないか、冷たくないか?
「うん。ハーレイが温めてくれたから治ったみたい」
 痛くないよ、冷たかったのも消えたし、もう平気。元々、怪我はしていないしね。
「それは良かった。怪我が無いなら温めておけば、後はすっかり元通りだからな」
 すまんな、早く見付けてやれなくて。お前、長いこと独りぼっちで走ってたんだろ?
「ううん、ハーレイに会えたからいいよ。ずっとあのまま独りだったら悲しいけれど…」
 ハーレイが来てくれたからいいんだよ。ぼく、もう、独りぼっちじゃないしね。
「そうか。…さてと、お前を連れてかないとな」
「何処へ?」
「パパとママの所さ」
 お前、頑張って走ったんだろ、パパとママの所へ行こうとして。
 もう走らなくてもかまわないんだぞ、俺が代わりに運んでやるから。



 ヒョイと肩車で持ち上げられた。ハーレイの逞しい両肩の上に。
(ハーレイ、大きい…!)
 自分の身体が小さすぎるから、余計に大きいハーレイの身体。肩に乗せられるとグンと高くなる自分の視点。見上げるようだったヒマワリの花も、今は頭上で揺れていて。
「見えるか、お前のパパとママ?」
 足首を掴んだハーレイに訊かれた。さっき右手を温めてくれた大きな両手で、しっかりと握られ支えられた足。ブルーが肩の上で動いたとしても、其処から落っこちないように。
 ブルーはハーレイの頭に手を置き、伸び上がったけれど。
 両親の姿が見えはしないかと見回したけれど、ヒマワリの方が背が高かった。さっきまでよりは花の高さに近付いたけども、それでも花は頭の上で。
「んーと…。パパとママ、見付からないよ」
 ヒマワリが邪魔をして見えない、と言った。
 自分の背よりもヒマワリの方がずっと高いから、肩車をして貰っても見えないと。
 けれど…。



「ふうむ…。お前には見えないか」
 だが、あっちなんだ。パパとママはあっちの方にいるんだ。
 向こうの方だ、と片方の足首を握っていた手を離して指差すハーレイ。
 握る手は片方になったけれども、肩車は揺らぎはしなかった。頼もしいハーレイの肩車。
「あっちなの?」
「うむ、あっちから声がするからな」
 声と言うより、こいつは思念か…。お前を探しているようなんだが、聞こえないか?
「ぼく、そういうのは駄目なんだよ…」
 ちゃんと聞こえる時もあるけど、大抵、聞こえてないんだよ。
 パパとママの声、ハーレイには聞こえているんだね?
「まあな。お前よりも長く生きている分、こういう探し物は得意だってな」
 直ぐに連れてってやるからな、とズンズン歩いてゆくハーレイ。
 ブルーの両方の足首をしっかり握って、落っことさないように背筋をシャンと伸ばして。
 何処までも広がるヒマワリの中を、ブルーが迷った迷路の中を迷いもせずに。



 何か目印でもあるというのか、でなければ抜けるコツでもあるか。
 角に差し掛かる度に右へ、左へと曲がるハーレイ。「こっちだな」と少しもためらわずに。
 ハーレイの肩の上から眺めるヒマワリ畑の長い迷路は、怖いものではなくなっていた。次の角は右に曲がるのだろうか、それとも左へ行くのだろうか。
(あれっ、右なの?)
 ぼくは左だと思っていたのに、と遥か下にある地面を見下ろせば、幾重にもついた自分の足跡。闇雲に走り続ける間につけた足跡は全て左へと向かっていた。
(これじゃ出られるわけないよ…)
 全ての角で右と左とを試したつもりが、どうやらそうではなかったらしい。今、左へ行くのだと考えたように、この角に来る度、自分は左へ曲がってしまっていたのだろう。
(だけど、ハーレイ、やっぱり凄い…!)
 自分があれほど間違えた道を、迷いもしないで歩いてゆく。正解を選んで進んでゆく。
 それにハーレイの肩車。
 あの広い肩がこんなに素敵な座り心地の椅子に、乗り物になるなんて。
 自分の背よりもずっと高い場所から周りを見られて、ヒマワリの花だって、こんなに頭から近い所で幾つも幾つも揺れているだなんて…。



(もっと…)
 もっと歩いていたいと思った。ハーレイの肩車に乗って、ヒマワリの中を。
 「パパとママ、見えたか?」と訊かれる度に「ううん」と答えを返しながら。
 ハーレイと二人、もっともっと、いつまでも歩いていたい、と思ったのに。
「ブルー!」
 角を曲がったら、母がこちらへ駆けて来た。もちろん父も。
「ハーレイ先生、すみません!」
 息子がお手数をおかけしてしまって…。
 ブルー、一人で先に行ったら迷子になるぞ、と言っただろう?
「ごめんなさい、パパ…」
 ハーレイが見付けてくれたんだよ。ぼくが迷子になっちゃっていたら。
 転んで右手が痛かったけれど、ハーレイが治してくれたんだよ。
「あらあら…。ハーレイ先生、本当にご迷惑をおかけしまして…」
 この子ったら、言っても聞きませんのよ、主人と二人であんなに駄目だと止めたのに…。
「いえ、いいんですよ。これも私の役目ですしね、探すのも右手を治すのも」
 お気になさらず、とハーレイが笑う。
 どちらも自分の役目なのだからと、それを果たしたまでのことだと。
「じゃあな、ブルー。二度と迷子になるんじゃないぞ」
 ヒマワリの迷路には気を付けるんだぞ、お前、迷ったら出られなくなるみたいだからな。
 そういう時は俺が探しちゃやるがだ、ほどほどにしとけよ、ヒマワリの迷路。



 「またな」と軽く手を振って、ハーレイはヒマワリの迷路の向こうへと消えた。
 肩車から降りたブルーを両親に託して、ヒマワリの迷路の角を曲がって。
「ハーレイ…!」
 待って、と叫んだ自分の声で目が覚めた。
 カーテン越しに朝の柔らかな光が部屋に射し込み、庭で小鳥がさえずっている。
(夢…)
 ヒマワリの迷路は夢だったのか、とようやく気付いた。
 右手が凍えて痛かった理由が、転んだからではないことにも。
(ハーレイが探してくれるんだ、ぼくを…)
 あの夢のように独りぼっちで泣きじゃくっていても、右手が冷たいと泣いていても。
 そう、ハーレイならばきっと見付けてくれるのだろう。
 自分が何処で迷っていたって、独りぼっちになっていたって。
 前の生の記憶の欠片を夢で拾うことは出来なかったけれど、もっと嬉しい夢を見た。ヒマワリの迷路は怖かったけれど、ハーレイが来るまでは独りぼっちで泣いていたけれど。



(ハーレイの肩車で歩いていたんだよ、ぼくは)
 一面に広がるヒマワリの迷路を、ハーレイの肩に乗っかって。
 今よりももっと小さくて幼い自分だったけれど、ハーレイの肩に揺られて歩いた。
(もっと、もっと…)
 ヒマワリの中をもっと歩いていたかった。
 肩車に乗って、ハーレイと二人。
(…ヒマワリの迷路…)
 いつかハーレイに強請ってみようか、ヒマワリの迷路に行ってみたいと強請ろうか?
 ハーレイの肩車でヒマワリの迷路を歩いてみたいと、ぼくは迷路が苦手だからと。



(肩車で歩くには大きすぎだ、って言われそうだけれど…)
 迷路に来ている他の人にも笑われてしまいそうだけど。
 でも、ハーレイは力持ちだから。
 前と同じに大きく育ったブルーの身体も、ヒョイと肩車が出来そうだから。
 その肩車で歩いてみたい、とブルーは夢見る。
 まだ他の人は誰もいないような朝の早い時間に、ハーレイの肩車でヒマワリの中を、と。
 「次は右だよ」と、「いや、左だな」などと言い交わしながら、二人で迷路。
 入口から出口までの長い長い迷路を、ヒマワリで出来た迷路の中を…。




            ヒマワリの迷路・了


※小さかった頃に、ヒマワリの迷路で迷子になったらしいブルー。そう聞いた日の夜の夢。
 迷子になってしまった迷路で、助けに現れたハーレイ。肩車で歩けて、幸せですよね。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




除夜の鐘と初詣も済み、冬休みも残り数日ですが。とは言うものの、お正月の方は実は三日目、いわゆる三が日というヤツです。今年の冬は寒さ厳しめになりそうだ、などと話しつつ皆でゾロゾロ会長さんのマンションへと。昨日は初詣で屋台グルメでしたし、今日は普通に…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
おせち沢山揃っているよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。ワイワイ上がり込めば和洋中と素晴らしいおせちがドッサリ、これは食べねば!
「キースにはすっげえ悪いけどよお、やっぱ、おせちはこうでなくっちゃっな!」
サム君が取り皿にドッサリ取り分け、キース君が。
「ウチでも和洋中と揃えたんだが…」
「いや、だから悪いって言ったじゃねえかよ。味とか種類とかじゃなくてよ、おせちは普通に食いてえからなあ…」
衣抜きで、とサム君、パクパク。衣とは天麩羅の衣ではなく、いわゆる法衣。除夜の鐘の後、元老寺で迎えるお正月はサム君とジョミー君も墨染の衣で初詣のお手伝いコースです。豪華おせちが食べられるとはいえ、衣つき。抹香臭いのは御免蒙る、という意味で。
「ぼくも衣は御免だよ! なんで毎年!」
ジョミー君がぼやけば、会長さんが。
「一年の計は元旦にあり、と言うだろう? お正月からビシッと墨染、それでこそ坊主への覚悟も出来るというもので…。君もサムも今年も断ったしねえ、専修コース」
「そりゃそうだけど…」
そうなんだけど、とジョミー君がブツブツ、サム君はボソボソ。
「やっぱ覚悟が決まらねえよ…。全寮制だろ、しかも二年で。一年コースはまだなのかよ?」
「もうすぐだったと思ったが?」
キース君が指折り数えて。
「学寮の建設場所はもう決まったし、土地も買ったと聞いている。あと数年で出来ると思うが、そしたら入学するわけか?」
「えっ、数年? ちょ、ちょっとそいつは早すぎだって!」
せめて十年考えさせろ、とサム君が慌てて、ジョミー君も。
「ぼくは二十年ほど欲しいってば! ううん、三十年でもいいかも!」
行かないからね、と二人揃ってお断り中の専修コースとは、キース君の母校の大学に併設された僧侶養成コースです。ひたすらお坊さんの勉強のみで他の学問はしなくていいため、二年で卒業。それを更に濃縮した一年コースも出来ると噂で、サム君とジョミー君に坊主な未来が着々と…。



「とにかく絶対、行かないからね!」
ジョミー君が喚いた所でいきなり鳴り響く電話の呼び出し音。会長さんはソルジャーなだけに、たまに電話もかかります。三が日でも忙しいのだな、と思っていれば。
「かみお~ん♪ えっ? うん、あけましておめでとうございまぁーす!」
電話を取った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が元気に年賀の御挨拶。やはり仲間の誰かでしょう。ん?
「えとえと、えとね…。おせちはみんなで食べてるんだけど…。うん、うん…」
はて、おせちとは面妖な話題。誰と話しているのでしょう?
「えーっと…。分かった、ブルーに代わるね。…ブルー、ハーレイから電話!」
「切っといて!」
会長さんは見事な脊髄反射でしたが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「でもでも、ハーレイ、おせち用意して待ってるって…」
「いつものことだろ、勝手に一人で空回り! 孤独に食べろって返事しといて!」
「うんっ! あのね、ハーレイ、ブルーがね…。あ、聞こえてた?」
うんうん、それで? と切れない電話。どうなるのだろう、と皆が注目していれば…。
「はぁーい、了解! 待ってるねーっ!」
チンッ! と受話器が置かれたクラシックスタイルのレトロな電話。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がクルリとこちらに向き直って。
「あのね、ハーレイがおせちを届けに来てくれるって!」
「「「えぇっ!?」」」
「みんなの分も買ってあるから無駄にしないで是非食べてくれって、出前でお届け!」
豪華版らしいよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はウキウキと。
「和洋中だけど、どれも専門のお店に頼んだヤツなんだって! 今年は特に気合を入れたから、他の人たちに御馳走するのは勿体ないって!」
「「「他の人?」」」
「なんか毎年、三が日が済んだらお客さん呼んでたみたいだね、うん」
教頭先生が私たちの年始回りに備えてドッサリ買うと聞いていたおせち。教頭先生が冷凍でもして孤独にコツコツ食べているのかと思っていれば、さに非ず。シャングリラ号での部下たちを招き、三が日明けにドカンと振舞っていたようです。
「それって、賞味期限はどうなんでしょう?」
シロエ君が心配そうですが、会長さんは平然として。
「問題無いだろ、三が日のラストにぼくたちが来るかもって想定しているわけだしね? 絶対、長めにしているさ。四日か五日まで楽勝だよ、うん」
それが来るのか、と教頭先生の家の方角を見ている会長さん。おせちのお届け、もうすぐかな?



やがてピンポーン♪ と玄関チャイムの音が。キャプテンである教頭先生、このマンションは顔パスです。管理人さんからの問い合わせもなく、直接入って来られるわけで…。
「わぁーい、おせちー!」
玄関へ飛び跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が戻って来ると、その後ろには大量の重箱が詰まったらしい荷物を背負った教頭先生。
「あけましておめでとう。どうやら全員揃っているな」
「残念ながらね」
それでおせちは、と会長さんがツンケンと。
「置いたらサッサと回れ右する! 君を呼んではいないから!」
「し、しかしだな…、これは私の愛なわけで!」
荷物を降ろした教頭先生、あれこれと説明しながら重箱を並べ始めました。
「和風はパルテノンでも評判の店に注文したんだ。洋風はお前とぶるぅも気に入りのレストランに発注したし、中華もそういう専門店に頼んでおいたのだが…」
どれも気に入ると思うのだが、とズラリ重箱。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が蓋を取るなり大歓声。
「うっわー、すっごーい! ホントに豪華!」
「…無駄に豪華としか言いようがないね」
会長さんはあくまで素っ気なく。
「ぼくへの愛だか何か知らないけど、愛があるなら耐え忍べば? こんな風に嫌味たらしく……未練たらしくと言った方がいいかな、押し付けがましく持ってくるよりは自分で食べる!」
「いや、それは…。それはあまりに勿体ないから、お前たちが来なかった年は…」
「知ってるよ、キャプテンの立場で大盤振る舞い! 人気らしいね、君の家のおせち」
今年もそうすれば良かったのに、と会長さん。
「でなきゃアレだね、君が一人で完食するとか…。耐えてこそだよ、愛というのは」
「…そうなのだろうか?」
「うん。幾歳月もの風雪を耐えて忍べばいつか花咲く時もある……かもしれない。だけど今年は持って来ちゃったし、耐えてる内にはカウントされない」
おせちは皆で美味しく頂く、とニッコリと。
「というわけでね、君の用事は済んだってね。はい、回れ右!」
「…ま、回れ右して帰れば耐えたとカウントして貰えそうなのだろうか?」
「は?」
「幾歳月を耐えろと言うなら耐えてみせるから、カウントしてくれ!」
耐えた内に、と教頭先生、頼み込み。えーっと、耐えても全く無駄だと思いますけどね?



耐えればいずれは会長さんの愛が、と妙な勘違いスイッチが入ったらしい教頭先生。おせちのお届けをしてしまったことで今年は耐えたことにはならないと言われてしまって、なんとかカウントして貰おうと懇願中。
「おせちを届けたことは謝る! しかし皆で食ってくれれば無駄にはならんし、私としてもその方が…。いやいや、それで耐えたと数えて貰えないなら、いっそ背負って帰るから!」
「あー、それはお断り」
もう貰った、と会長さん。
「ぼくの目と舌を喜ばせてくれそうなのも多いしね? 今更持って帰られてもさ」
「しかし、私は耐えたいわけで!」
耐えて愛の花を咲かせたいのだ、と妄想スイッチもオンらしき模様。
「幾歳月が何年先だか分からないのだが、耐えれば花が咲くのだろう? 耐えさせてくれ!」
頼む、と早くも土下座モードで、絨毯に額を擦り付け、耐えたいとの仰せ。
「…うーん…。たかがおせちで耐えられてもねえ?」
「だったら何に耐えればいいのだ、私は耐えて耐え抜きたいのだ!」
土下座ペコペコ、傍から見ればバッタかカエルか。こんな姿で会長さんに頼みごとをしたら墓穴じゃないかという気もしますが、相手はたかがおせちのお届け。大したことにはならないだろう、と私たちは踏んでいました。せいぜい座禅か、三日間ほど肉料理抜きか。しかし…。
「君はそんなに耐えたいわけ?」
「もちろんだ!」
「ぼくへの愛で耐えるんだね?」
「当然だろう! 何か思い付いてくれたんだな!?」
是非言ってくれ、と教頭先生の顔が輝いたものの。
「……じゃあ、八耐」
「…はちたい?」
「知らないかなあ、バイクの八時間耐久レース」
略して八耐、と会長さんは指を一本立てました。
「二人一組で八時間バイクを走らせるんだよ、その間にコースを何周したかで勝者が決まる。君の場合は組む人もいないし、一人で走らせることになるかな?」
それともゼルと組んで走るか、とズズイと迫る会長さん。
「耐えると言ったら八耐が花だね、本物に出ろとは言ってない。ただ八時間を走り抜くだけ! ぼくへの愛があるんだったら孤独な走りも楽勝だろう?」
八時間ほど走ってこい、と言ってますけど、八耐って…。あの有名なバイクレースを教頭先生がたった一人で…?



会長さん曰く、「愛があるなら八耐くらい」。その八耐は夏のものだったと記憶しています。おまけに場所はサーキット。冬の最中に孤独に八耐、ゼル先生と組むにしたって一組だけでサーキットなんて借りられるのでしょうか?
「え、八耐のサーキットかい? この時期、空いてると思うんだけどな」
どう? と会長さんの視線がマツカ君に。
「今ですか? レースに不向きなシーズンですから空いてますけど、使うんですか?」
「「「え?」」」
「あのサーキットは父の会社が持ってるんです」
「「「さ、サーキット…」」」
そんなモノまで持っていたのか、という衝撃の事実。マツカ君も何処まで奥が深いのでしょうか、自家用ジェットだの外国にお城だのと聞いてましたが、サーキット…。
「マツカのお父さんの持ち物だしねえ、八耐用のサーキット。今の時期だと積雪だとか凍結だとかと悪条件が揃ってるけど、どうかな、ハーレイ?」
ぼくへの愛で走ってみる? と会長さんはニコニコと。
「何周できたかは無関係なんだよ、要は八時間を耐えて走ったかどうかでさ…。君がやるならマツカに頼んでサーキットを借りる。さあ、決めたまえ。八耐をやるか、やるなら一人かゼルと組むのか。八耐をやれば耐えた度数はググンとアップする……かもしれない」
「…は、八耐…」
バイクレースか、と青ざめてらっしゃる教頭先生。そういえばスピードが苦手でらっしゃったんでしたっけ。バイク野郎で『過激なる爆撃手』の異名を取っているゼル先生のサイドカーに乗せられての爆走の末に気絶なさったこともあったかと…。
「ん? バイクレースは無理そうだって?」
自分で走らせてもスピードは無理? と尋ねる会長さん。
「君はママチャリが限界だったかもしれないねえ…。二輪車の類」
「…そ、そうなのだ……」
実は原付もキツイものが、と教頭先生、涙の告白。
「八耐は非常に魅力的だが……。体力的には一人八耐も充分いけるという気がするのだが、如何せん、バイクのスピードが…」
無理だ、と泣き顔の教頭先生。
「サーキットまで提供しようと言ってくれるお前の愛は嬉しい。嬉しいのだが、私には…」
「応える術が無いってわけだね、よく分かった」
じゃあ回れ右、と言うのだろうと私たちは疑いもしませんでした。ところが会長さんの口から飛び出した次の言葉は。
「だったら、人力八耐でいこう!」
「「「ジンリキハチタイ?」」」
なんですか、それは? ジンリキハチタイって、何ものですか…?



「人力車で走るレースがあるんだよ、うん」
会長さんは得意げに知識を披露しました。人力車と言っても観光地で走っているアレではなくって、三輪車だとか自作の二輪車とか。二歳から参加可能なレースで、基本は二人で一チーム。正式名称、人力車レース。
「一応、八耐と同じく世界選手権って形になってる。より正式な名前でいくとね、ワールド・エコロジカルカー・チャンピオンシップ、五時間耐久人力車世界選手権!」
「「「じ、人力車世界選手権…」」」
そんなレースが存在したのか、と唖然呆然。けれど会長さんが立ち上げた端末でアクセスした先に公式サイトがしっかりとあって、八耐と並ぶ有名なサーキットが会場で…。
「ね? このとおり人力車レースは存在する。八時間じゃなくて五時間だけど…。これを参考に五時間の所を八時間! マツカのお父さんのサーキットで!」
愛があるなら人力車で走れ、と会長さんはブチ上げました。
「君の自慢のママチャリもいいし、大人には乗りにくい三輪車でもいい。孤独に八時間走り抜いたら、愛の花の蕾が少しくらいは膨らむかもね?」
「…じ、人力八耐……」
教頭先生はグッと拳を握り締めて。
「よし! 私も男だ、やってみせよう!」
「「「おおっ!?」」」
凄い、と息を飲んだ途端に背後でパチパチと拍手の音が。誰だ、と一斉に振り返れば。
「こんにちは。…いや、あけましておめでとうだね、お正月だしね?」
フワリと翻る紫のマント。会長さんのそっくりさんがにこやかな顔で立っています。
「凄いね、豪華おせちが沢山! ぼくのシャングリラのニューイヤーパーティーも今日までだけどさ、流石に三日目ともなると食べ飽きちゃってねえ…」
たまには地球のおせちがいいのだ、と招かれざる客はスタスタと部屋を横切って空いていた席にドッカリ座ってしまいました。
「おまけに何だか楽しそうな話をしてるじゃないか。人力車でサーキットを走るんだって?」
「いや、人力車じゃなくて、エコカーってヤツで…。要は人力で走る車で」
人力車であって人力車じゃない、と会長さんは勘違いをしていそうなソルジャーに解説を。
「君が考えてる人力車は観光客を乗せて走っているヤツだろう? アレじゃなくてね」
「その人力車でいいじゃないか」
そっちの方が絶対にいい、とソルジャーは会長さんに向かって得々と。
「だって、あの人力車なら乗れるんだよ? 君を乗せた車を引っ張って八時間走り抜いてこその愛じゃないかな、耐えるんならね」
どう? と笑顔で言われましても。それの答えは会長さんの心次第では…?



「ホントに本物の人力車かあ…」
ちょっといいかも、と会長さんの心が動いた様子。
「ハーレイが孤独に走るママチャリも良さそうだけれど、負荷をかけるのも楽しそうだね」
「そうだろう? しかも座席に乗っかるのは君! ハーレイの愛を確かめながらね」
ぼくも乗りたくなってきたかも、とソルジャーの思考がズレ始めて。
「ハーレイが引っ張る人力車もいいね、それに乗っかってサーキットをねえ…。でもって、こっちのハーレイと勝負! どっちがより深くパートナーのことを愛しているか!」
「ちょ、ちょっと…! ぼくはハーレイのパートナーじゃないし!」
「ああ、ごめん。予定だったね、君の場合は」
「予定でもないっ!」
そんな予定は全然無い、と会長さんは不快そうですが、レースには興味があるようで。
「君のハーレイも人力車で八耐にチャレンジするのかい?」
「それもいいな、と思ってね。…だけどさ、最初からぼくが乗っていたんじゃハーレイに負荷がかかりすぎだし、ぶるぅを代わりに乗せようかと」
「ぶるぅって…。あの悪戯小僧の大食漢の」
「人力車に乗れるなら大人しいと思うよ、それ自体が悪戯みたいなものだし」
乗っかっているだけでハーレイに負荷が、とソルジャーは「ぶるぅ」の悪戯心をお見通し。
「汗水たらして人力車を引くハーレイを高みの見物だしねえ、きっと喜んで乗ってくれるさ」
「なるほどねえ…。ぶるぅが乗るのか…」
それも良さそう、と会長さんの心は既に人力車へと傾いています。エコカーならぬお客を乗せて走る人力車。教頭先生の負担が余計に増えそうですけど…。
「えっ、そこがポイント高いんだよ! 同じ八耐なら耐えてなんぼで、ただ走るよりは余計な負荷だね。ぶるぅもいいけど、ぼくが乗るのも良さそうだ」
「あっ、君もハーレイへの愛に目覚めた?」
「そうじゃなくって、ぼくの方がぶるぅより重いしね?」
でもハーレイは喜びそうだ、と悪魔の微笑み。
「こういう趣向はどうだろう? 八耐だとマシンの調整だの乗員交代だのでピットインする。これは人力車レースでも同じ。ましてや一人八耐ともなればトイレ休憩や食事が必須で、ピットインしないわけがない」
「それで?」
「ピットインした時にとある条件をクリアしたなら、ぶるぅの代わりにぼくが乗る!」
そして次のピットインまで乗ってゆくのだ、という話ですが。とある条件ってどんなのですか?



耐久レースに欠かせないピットイン。其処で条件をクリア出来たら、人力車のお客が「そるじゃぁ・ぶるぅ」から会長さんに交代になるらしいですけど…。
「どういう条件を出すつもりなわけ?」
ソルジャーの問いに、会長さんは。
「ズバリ、キスだね」
「「「キス!?」」」
「ただし、手の甲! ハードな人力車耐久レースで身体がガタガタになってくる中、いわゆる騎士のキスってヤツかな、あれをビシッと決められた時はぼくが乗っかる!」
おおっ、と広がるどよめきの中、教頭先生が嬉しそうに。
「お、お前が乗ってくれるのか? 人力車に?」
「ちゃんと映画のワンシーンみたいに手の甲にキスを決められたら……ね」
「努力しよう! 帰ったら早速練習だ!」
それでレースはいつになるのだ、と教頭先生、やる気満々。
「私は明日でも明後日でもいいぞ? 冬休みはまだあるからな」
「ふうん? だったら君と一緒にレースをしてくれそうな人の都合を訊かないとねえ?」
「ぼくのハーレイ? ニューイヤーのパーティーの後は比較的平和な日が続くからさ、七日まで休暇を取ってあるんだ。だからいつでもかまわないけど?」
それこそ明日でも明後日でも、とソルジャーがドンと請け合い、会長さんが。
「えーっと、サーキットの手配と人力車と…。マツカ、明日でもいけそうかい?」
「明日ですか? 訊いてみますね」
マツカ君が携帯端末を取り出し、お父さんに電話しています。いつもは執事さん相手が多いんですけど、お父さんもお正月で暇なのかな?
「そう、明日…。かまわない? えっ、人力車も? じゃあ、お願い」
電話を終えたマツカ君は「大丈夫です」と柔らかな笑顔。
「サーキットは好きに使っていいそうです。人力車も用意しておくと言ってましたね、サーキットまでの移動はどうしますか? 父がバスの手配もしておこうかと訊いてましたが…」
「そっちはいいよ、瞬間移動でパパッと行こう」
少し遠いし、と会長さん。
「車だと二時間ではとても着かない。その点、瞬間移動なら直ぐ!」
「分かりました。あっ、サーキット自体は閉まってますけど、設備などは使えるようにしておくそうです。トイレもシャワーもOKですよ」
「ありがとう、マツカ。それじゃ、明日は人力車で八耐レースってことで」
ここは一発、壮行会! と会長さんが拳を突き上げ、ソルジャーの世界からキャプテンと「ぶるぅ」も招いての大宴会が始まりました。教頭先生の豪華おせちは無駄になるどころかゲストを迎えて大いに役立ち、私たちも美味しく頂きましたよ~!



そして翌日。会長さんのマンションへの集合時刻はなんと早朝、六時半。家を出る頃はまだ暗いという有様でしたが、なにしろ相手は八耐です。スタートから八時間走らなくてはいけないのですし、冬の日暮れの早さを思えば八時に始めるのがいいであろう、と会長さんが。
「うう、眠い…」
まだ眠い、とジョミー君が眠い目を擦り、キース君が。
「やかましい! 俺なんかはもっと早起きだったぞ、家を出る前に朝のお勤めがあるんだからな」
早く出掛けると言ったらサボれるかと思ったらしいのですが。アドス和尚に「なら、先にやれ」と命令された上、「俺の分までやっておけ」だったそうで、普段以上にキツかったとか。
「…いつもだったら俺が本堂の掃除をしてだな、お勤めのメインは親父なのに…。なんで一人で全部やらねばならんのだ!」
「でもよ、住職が一人の寺なら普通だぜ、それ」
サム君の指摘はもっともなもので、グウの音も出ないキース君。そんなやり取りをしながら辿り着いた会長さんのマンションでは…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
みんな来てるよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。案内されたリビングには教頭先生にソルジャー、キャプテン、「ぶるぅ」が勢ぞろいしています。
「やあ、来たね。じゃあ、サーキットへ出発しようか」
「そうだね、早い方がコースの下見も出来るしね」
行こう、と会長さんの言葉にソルジャーが応じ、パアアッと迸る青いサイオン。「ぶるぅ」も入って今日はタイプ・ブルーが四人前での瞬間移動で、身体がフワリと浮き上がって…。
「「「うわあ…」」」
広い、としか言葉が出ませんでした。朝日に照らされたサーキット。木立に囲まれていますけれども、F1レースにも使われる其処は本格的なコースが広がり、観客席だって凄いのが…。
「えとえと、此処がスタートする場所?」
一段と幅の広い直線コースのド真ん中。私たちが降り立った場所がスタート地点らしいです。やたら広いと思ったのも当然、この直線コースだけで八百メートルあるのだとか。
「「「は、八百メートル…」」」
その距離は体育の授業の持久走で走らされる距離に二百メートル足りないだけ。学校だとグラウンドを何周も走って叩き出す距離ですが、それに近い距離を直線だとは…。
「この程度で驚いていてはいけないよ? コースの下見はやめといた方がいいかもねえ?」
なにしろ五千八百メートル、と聞かされて絶句。そんな下見は結構ですとも、走る人だけで行って下さいです~!



マツカ君のお父さんが用意してくれた人力車。何処の観光人力車かという立派なものが二台、交換用のタイヤなどもピットに揃っています。八時間も走ればタイヤ交換も必要かもで、そのための工具も置いてあり…。
「教頭先生、人力車の整備なんかが出来るわけ?」
ジョミー君が首を捻って、「さあ?」と同様の私たち。教頭先生はキャプテンと一緒にコースの下見に出掛けていました。会長さんとソルジャー、人力車に乗る「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」も一緒に出掛けましたし、いやはや、皆さん健脚としか…。
「下見だけでも疲れそうだよな?」
サム君がだだっ広いサーキットを眺め、マツカ君が。
「コースは傾斜もありますしね…。ぼくやキースは柔道部で鍛えてますから、走れない距離ではないんですけど」
「マジかよ、こんなの走れるのかよ!?」
「合宿の時は十キロくらいは走ってますよ」
「「「…十キロ…」」」
想像のつかない距離でした。マツカ君でも十キロ走れると言うんだったら、五千八百メートルくらい、と一瞬、考えかけたのですけど。教頭先生とキャプテンが走るコースにゴールは存在しないのでした。レースが終わる八時間後まで同じコースをひたすらグルグル。
「…八時間あったら、どのくらい走れるんだろう?」
ジョミー君の素朴な疑問に答えを返せる人材は皆無。市民マラソンとかなら既定のコースを八時間かかって走り切る人もいるでしょうけど、人力車を引いてのレースだなんて…。
「周回距離を競うんでしたっけ? 教頭先生とキャプテンとで」
シロエ君が確認し、みんなで「うん」と。
「八時間の間に何周出来たか、多かった方が愛が深いとか言ってましたね…」
「うん、言ってた」
確かに言った、とジョミー君。その台詞を吐いていた人は会長さんではなくてソルジャー。昨日の壮行会でキャプテンにそう言って発破をかけてましたっけ…。
「もしもキャプテンが教頭先生に敗北したらさ、どうなるんだろ?」
「怖いこと言うなよ!」
死ぬぜ、とサム君がジョミー君を窘めました。
「俺もよ、体力的には教頭先生の勝ちじゃないかと思うんだけどよ…。有り得ねえだろ、それだけはよ」
バカップルだけに何か秘策がある筈だ、という鋭い読み。あのソルジャーが愛の深さで負けたがるとは思えません。レースに参加を言い出した以上、勝ちに来るかと…。
「ということはさ、教頭先生、負けるんだ?」
「「「うーん…」」」
それこそ会長さんの狙い通りの結末ですけど。ジョミー君の予言は当たるのかな?



私たちがピットで騒いでいる間に下見を終えた教頭先生たちが戻って来ました。人力車レースを始める前にまずは着替えということで。
「…これを着るのか?」
「そして、この笠を被るのですか?」
教頭先生とキャプテンの姿は何処から見ても見事なコスプレ。人力車夫というヤツです。足元だって靴ではなくて地下足袋。慣れない衣装に途惑いながらも人力車がスタート地点に引き出され、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」が乗車。冬ですから二人とも分厚い膝かけ。
「用意はいいかい? ピットイン出来るのは其処だけだからね、それ以外の場所でクラッシュした時は自力で戻って来られなかったらリタイヤだから!」
会長さんが声を張り上げ、ソルジャーも。
「ハーレイ、期待してるよ、ピットイン! 華麗なキスで決めてよね」
「ええ。あなたを乗せて走れるように頑張ります!」
キャプテン、大いに意気盛ん。乗客としては「ぶるぅ」の方が軽くて遙かにマシな筈なのに、ソルジャーを乗せて走る気です。もちろん教頭先生も…。
「ブルー、私がキスをキメたら、お前が乗ってくれるのだな?」
「そうだよ、次のピットインまで乗って行くから!」
ついでにピットインでもう一度キスを決めたら次もそのまま乗ってるから、と会長さんの艶やかな笑み。教頭先生は頬を赤らめ、「是非乗ってくれ」と照れておられて…。
「はい、二人とも並んで、並んで!」
会長さんが二台の人力車の位置を確かめ、午前八時ちょうどにレース開始の号砲が。八時間後にレース終了のチェッカーフラッグが振られるまでの耐久レースがスタートです。
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
「うわぁーい、しゅっぱぁ~つ!」
乗客二人の声が重なり、二台の人力車はエッホエッホと掛け声こそはかからないものの、直線コースを軽快に走ってぐんぐん遠ざかってゆき…。間もなく最初のコーナーを曲がり、私たちの視界からすっかり消えてしまったのですが。



「…なんだか、意外に速くない?」
キャプテンが、とスウェナちゃん。
「教頭先生が速いというのは分かるわよ? でも、キャプテンは運動は…」
「だよね、あんなに飛ばして行っちゃって大丈夫かな?」
一周だけで五千八百メートルだけど、とジョミー君が呟く側から、妙な言葉が。
「狙い目は第二コーナーとS字カーブで、ヘアピンカーブも充分いける。ストレートは誤魔化しが効かないからダメだね、補助が限界」
「「「は?」」」
怪しい台詞の主はソルジャーでした。私たち全員の注目を浴びたソルジャーは。
「うん? 今の台詞の意味かい? ぼくのハーレイが距離を稼げそうな場所を羅列しただけ」
今は第一コーナーに居る、と微笑むソルジャー。
「こっちのハーレイとの距離は順調に開いているから、第二コーナーで一回目の瞬間移動かな。それで稼いで、何処まで飛ばすか…。やりすぎるとバレるし、ヘアピンカーブを抜けたトコかな」
「「「え?」」」
「だから瞬間移動だってば、人力車ごとコースの先に飛ばすわけ。こっちのハーレイを余裕で引き離すことが出来るんだけれど、速過ぎてもズルがバレるしねえ?」
そこそこの距離を保って飛ばす、とソルジャーは一周目にして既に勝負に出ていました。
「ついでにぼくのハーレイが速く走れる理由もサイオンだから! ぶるぅは重石のつもりで乗っかってるけど、ハーレイに負荷はかかっていない。人力車の重みもゼロなんだよね」
引いて走るポーズが少々負担になる程度だ、ということは…。キャプテンは普通にジョギングしているような感じで、教頭先生だけが人力車つきの走行ですか?
「そんなトコだね、こっちのハーレイに勝てさえすれば余裕だしねえ?」
一周走って戻って来る度にピットインだ、とソルジャー、ニヤニヤ。
「ゆっくり休んで、こっちのハーレイの姿が見えたらピットアウト! そして直線コースを抜けたら、第一コーナーから瞬間移動で飛ばすのもいいねえ…」
思い切り最終コーナーまで、と恐ろしい言葉が飛び出しました。其処で休憩、教頭先生が見えなくなったら走り始めてピットイン。つまりキャプテン、走り出した最初の一周目だけは何キロか走るかもしれませんけど、それ以降は殆ど走らない…とか?
「決まってるじゃないか! ぼくを乗せての愛の走行も瞬間移動でガンガン稼ぐよ、こっちのハーレイと並走している間を除けば、もうガンガンと!」
「「「………」」」
教頭先生に勝ち目ゼロなのが見え見えなレース。あっ、キャプテンが戻って来ました、早々にピットインですか~!



足取りも軽く人力車を引き、ピットインしてきた余裕のキャプテン。所定の位置に人力車を停めると、出迎えのソルジャーの手の甲に恭しくキスをして…。
「ブルー。これで次はあなたを乗せられますね?」
「もちろんだよ。寒風吹きすさぶサーキットを二人で熱く走ろう」
固く抱き合い、情熱のキスなバカップル。寒風も何も、実はシールドしてるんじゃないか、と疑いの目を向けた私たちに。
「えっ、シールド? 基本の中の基本だろ、それ」
ソルジャーが答え、会長さんが。
「こっちのハーレイはシールドどころじゃないけどねえ? もう汗だくで走っているし…。おっと、そろそろ帰って来るかな」
どれ、と眺めれば最終コーナーを曲がって来る人力車が見えました。ピットインせずにもう一周はキツそうな感じの走りです。ソルジャーはニンマリ、会長さんはニンマリニヤニヤ。
「さてと、こっちのハーレイがピットインしたら出発だよ?」
「ええ、ブルー。愛の人力車で出発ですね!」
どうぞ、とキャプテンが「ぶるぅ」が降りた後の人力車にソルジャーを乗せて膝かけを。バカップルがイチャイチャ語り合う間に教頭先生が必死の形相で走り込んで来て、入れ替わりに出てゆくソルジャーを乗せた人力車。
「…お、遅れを取ってしまったか…!」
だが頑張る、と教頭先生、人力車を停めて会長さんに駆け寄り、片膝をついて白い手の甲に恭しくキスを。
「ブルー、人力車に乗ってくれるな?」
「いいけど…。君の愛はイマイチ足りないようだね、まさかこんなに遅いだなんてね?」
「いや、頑張って取り返す!」
こうしてはいられん、と特製ドリンクをグイと飲み干し、会長さんが乗り込んで一周目よりも重量を増した人力車を引き出す教頭先生。ソルジャー夫妻の人力車はとっくの昔に見えません。恐らくソルジャーが言っていたとおり、直線コースを抜けるなり瞬間移動でズルを…。
「行くぞ、ブルー! あいつらに追い付け、追い越せだ!」
「頼もしいねえ、頑張ってね?」
行って来るね、と軽く手を振って会長さんは人力車に乗って走り去りました。
「かみお~ん♪ 行ってらっしゃ~い!」
遠ざかってゆく人力車。さて、と振り返れば最終コーナーにソルジャー夫妻の人力車が。もはやズルなんてレベルではなく、インチキだとか言いませんか?



ソルジャー夫妻のズルい工作に気付きもしない教頭先生は頑張りました。キャプテンが引く人力車に滅多に「ぶるぅ」が乗っていないせいで、負けていられないと更に闘志に火が点いて…。
「ブルー、の、乗ってくれるな、今度も続けて!」
「遅い人力車は嫌いなんだけど、約束だしねえ…」
キスをされたら仕方ないか、とピットインの度に会長さんが乗り込むのですから、人力車の重さは常にMAX。それを「うおおお~っ!」と引いて突っ走る教頭先生、身体にガタが来ないわけがなく、次第次第に屁っ放り腰に…。
「ハーレイ、そろそろヤバくないかい?」
「いや、まだまだ!」
腰を庇いながらタイヤ交換をしている教頭先生に会長さんが話しかけたものの、レースを放棄する気は無いようです。手許が覚束ないタイヤ交換、腰がヤバイとなかなか上手くいかなくて…。
「こんにちは~!」
「おや、ついに周回遅れでらっしゃいますか?」
ソルジャー夫妻がピットイン。タイヤ交換でモタついている教頭先生を他所にイチャイチャベタベタ、食料と愛の栄養補給を済ませて「お先~!」と出て行ってしまい。
「…に、二周遅れなど…。断じて二周遅れなどは…!」
取り戻す! と立ち上がった教頭先生の腰の辺りでグキリという音。「うぐぅっ!」という呻き声と額の脂汗とで、何が起こったかは誰の目にも一目瞭然でしたが。
「…あ、あと残り三時間なのだ…!」
こんな所で倒れてはおれん、と教頭先生は必死の形相で人力車を。
「い、行くぞ、ブルー! 私は八時間走るのだ! 耐え抜いて愛を咲かせるのだ…!」
「はいはい、分かった。寒いけど付き合ってあげるよ、だだっ広いコース」
恩着せがましく言う会長さんが寒風避けにシールドを張っていることも、貼るカイロ多数装備なことも私たちは知っていましたが…。
「…八耐だし、これでいいんだよね?」
ノロノロと去ってゆく人力車をジョミー君が見送り、キース君が。
「どうだかな…。伝説のレッドフラッグを俺たちが振る羽目になるかもな?」
「「「レッドフラッグ?」」」
何ですか、それ?
「知らんのか? 昔、本物の八耐の日に台風が来たと聞いている。それでもレースはスタートしたんだが、六時間の時点で打ち切りになった。しかし勝者は其処で決まった。その時にチェッカーフラッグの代わりに振られた旗がレッドフラッグだったんだ」
一応、用意はしてあるようだぞ、とキース君が指差す先にクルクルと丸められた旗。チェッカーフラッグだとばかり思ってましたが、ホントだ、赤いのも置いてあるんだ…。



「…どうするんだい、レッドフラッグ」
振るのかい? とソルジャーがキャプテンとイチャつきながら尋ねて来ました。
「こっちのハーレイ、どう見ても腰が思い切り終わっているけどねえ?」
「先ほど追い越す時に見て来たのですが、相当に悪化しているようですよ」
心配です、とキャプテンも。
「私の愛はブルーに充分に確かめて貰って満足ですし…。レッドフラッグを振って下さっても」
「うん、ぼくたちは全然かまわないんだけど、こっちのハーレイのプライドがねえ…」
「いえ、腰は男の命です! プライドよりも腰が大切です!」
「こっちのハーレイ、その腰の出番が無いからねえ…」
レッドフラッグでレース打ち切りより、壊れてもいいから八耐だろう、と言うソルジャー。私たちもそれが分かってますから、レッドフラッグを振れないわけで…。
「どうしよう…。今度、教頭先生の人力車が来たら振ることにする?」
「俺は御免だ、恨まれたくない」
「ぼくも嫌ですよ!」
そんな調子でレッドフラッグを振れないままに、教頭先生はクラッシュしました。人力車が壊れたわけではなくて、教頭先生の腰がクラッシュ。一歩も動けなくなったらしい教頭先生をコースに置き去りにして会長さんが瞬間移動で戻って来ると。
「八耐どころかクラッシュねえ…。ぼくのハーレイへの愛もクラッシュってね」
「そんなもの、最初から無いんだろうが!」
噛み付くキース君に、会長さんは悠然と。
「ううん、たっぷりと人力車に乗ってあげたしねえ? 寒風の中でサーキットコースに二人きり! あれが愛でなければ何だと!」
だけどゴールも出来なかった上に、バカップルに負けたからには愛もクラッシュ、と冷たい笑みが。ところで教頭先生は何処でクラッシュなさったんですか? 救護班を出さなきゃですから、それだけは教えて下さいです~!




           人力車で走れ・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生がクラッシュなさった、人力車レース。なんともハードなレースでしたけど…。
 伝説のレッドフラッグの話は本当です。振るべきでしたかね、レッドフラッグ?
 今月は月2更新ですから、今回がオマケ更新です。
 次回は 「第3月曜」 6月19日の更新となります、よろしくです~! 

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 こちらでの場外編、6月は、キース君を御用達にするという話が持ち上がり…。
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