シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
駆け足でやって来た今年の冬。十一月の末には初雪が積もるという有様で、始まったばかりの十二月なんかはどれくらい寒くなるんだか…。元老寺での除夜の鐘の寒さが思いやられる、と誰もがブツブツ。除夜の鐘自体は楽しいのですが、待ち時間が酷く寒いのです。
「あれってなんとかならないんですか?」
シロエ君がキース君に質問を。今日は土曜日、此処は会長さんの家のリビング。あれとはもちろん除夜の鐘で。
「待ってる間が寒いんですよ、今年なんか凍りそうな気がします」
「ぜんざいを用意してあるだろうが。あれで温まって帰って頂ければ問題無い」
「でもですね! おぜんざいは鐘を撞かないと貰えないわけで!」
「当然だろうが」
撞いて下さった方へのお接待だ、とキース君。
「撞きもしないでぜんざいだけというのは有り得ん。それにだ、並ぶのは自己責任だぞ」
除夜の鐘を撞きたいからこそ並ぶんだろうが、と正論が。
「煩悩を流して新しい年を、と真剣にお参りなさる方から、お祭り気分の若い連中までと動機は色々あるんだろうがな…。自分が撞きたくて並んでいるんだ、文句を言うな!」
並ぶ間も修行の内だ、と何やら抹香臭い理屈も。
「寒さに耐えつつキッチリ並んで古い年を締め括るんだぞ、修行だと思って頑張ることだな。そして煩悩を綺麗に洗い流して貰え」
「「「えー…」」」
整理券を出してくれとか、待ち時間も暖かいテントに入れる客人待遇でよろしく頼むとか、そういう方向に行きたかったのに、どうやら今年もダメみたい。不平不満は垂れ流すだけ無駄という気がしてきました。すると…。
「そうそう、洗い流すと言えばさ」
会長さんが横から割り込んで来て。
「今のでパッと閃いたんだよ、納めの悪戯」
「「「納めの悪戯?」」」
なんだそれは、と意味不明。悪戯とくればソルジャーの世界の「ぶるぅ」が悪戯大王ですけど、それを召喚するのでしょうか?
「…ぶるぅは正直、困るんだが…」
キース君が眉を寄せながら。
「あんなのを除夜の鐘に連れて来られたら真面目に困る。元老寺始まって以来の危機になるかもしれんし、いくらあんたでも許可しかねるぞ」
コッソリ連れて来るのも無しだ、と怖い顔。
「其処のぶるぅとそっくりだから、と入れ替えなんぞは御免だからな。あいつだったら鐘を一人でガンガン撞くとか、そのくらい平気でやりそうなんだ!」
「え? でも、元老寺って鐘撞き回数、無制限じゃあ…」
そうだったでしょ、とジョミー君。
「午前一時まで撞き放題が売りで人気だと思ったけどな」
「それはそうだが、それを一人で時間いっぱい撞きそうだろうが!」
「ありそうですね」
シロエ君が「うんうん」と。
「しかも真っ当な鐘だかどうだか…。気付けば三三七拍子とか」
「「「うわー…」」」
鐘で三三七拍子。ゴンゴンゴン、ゴンゴンゴンと撞くのでしょうか。確かに「ぶるぅ」ならやりかねませんし、呼ぶのは止めた方が良さそうです。納めの悪戯は他所でやってくれ、という感じ。出来れば私たちに火の粉がかからない場所で…。
「だよなあ、巻き込まれたくはねえしよ」
「煩悩を流すどころか、酷い目に遭いながら年越ししそうよ」
サム君とスウェナちゃんがブルブルと震え、マツカ君も。
「…納めの悪戯、どうしてもって言うんでしたら場所くらい用意しますから…」
ぶるぅはそっちへやって下さい、とペコリと頭を。
「必要だったら食事もつけます。豪華版で」
「それはとっても魅力的だけど…」
豪華版の食事も捨て難いけど、と会長さん。
「残念ながらぶるぅじゃないんだな、これが」
「「「はあ?」」」
納めの悪戯、「ぶるぅ」じゃないなら誰が何処で何をやらかすと…?
「悪戯とくれば、ぶるぅになるのは無理も無いけどね」
でもぼくだって大好きなんだ、と会長さんは紅茶をコクリと。午前中から集まってのティータイム、来る道中が寒かった愚痴から除夜の鐘が話題になっていたわけですけど。
「納めの悪戯はぼくがやるんだけど、何か意見は?」
「あんたがか!?」
キース君が叫べば、会長さんは「うん」と素直に。
「そしてアイデアは君の煩悩発言から! 洗い流して貰えと言ったろ、あれを使いたい」
「あんたがやらかしてどうする、あんたが!」
銀青様だろうが、とキース君は立ち上がらんばかりの勢いで。
「今年も除夜の鐘を頼もうと思っていたんだが…。そういう動機なら俺は断る! たとえ親父と喧嘩になろうが、大晦日にあんたに元老寺の敷居は跨がせん!」
「除夜の鐘とは言っていないよ、洗い流すとしか」
「煩悩を流すなら除夜の鐘だろうが!」
「ぼくは煩悩とも言わなかったけど?」
洗い流すのは別のモノだ、と会長さん。
「まあ、ある意味、煩悩の塊だとは言えるけれどさ…。ぼくとの結婚を夢見るハーレイの頭を綺麗サッパリ洗い流そうかと」
「「「えぇっ!?」」」
まさか記憶を綺麗サッパリ? いくらなんでも無茶苦茶では、と私たちは止めに入りました。
「それは酷いぜ、いくら教頭先生でもよ」
「そうです、あまりにお気の毒です! 実害があるわけじゃないですから!」
「たまにある気もするけどね…」
でも酷すぎる、と口々に。
「記憶消去は外道すぎるぞ、俺たちの世界でやるべきじゃない!」
あいつの世界だったらともかく、とキース君。此処で言う「あいつ」とはソルジャーのことで、SD体制とやらのせいで十四歳よりも前の記憶が消されてしまって無いと聞きます。しかし…。
「記憶だったらよく消してるだろ、都合が悪いのをチョイチョイとさ」
会長さんも負けてはおらず、そういう事例もあることは事実。
「でもさ、あれはさ、悪戯レベルの軽いヤツでさ!」
根本的な記憶は弄っていない筈だ、とジョミー君が言い、私たちも懸命に反論しました。教頭先生の煩悩とやらが如何に酷くても、それを消すのは如何なものか、と。会長さん一筋に片想い歴が三百年以上、あれは教頭先生の個性の一部で、立派に人格というヤツなのでは…。
あまりに酷すぎる会長さんの納めの悪戯とやら。悪戯の域をとっくに飛び出し、人権侵害と言いはしないかと止めまくっていたら、部屋の空間がユラリと揺れて。
「こんにちは。なんだか派手にやってるねえ…」
フワリと翻る紫のマント。噂をすれば影ですけれども、強い味方になりそうな感じもするソルジャー。記憶消去の長所も短所も、ソルジャーならばプロフェッショナル。
「あんた、来たのか! なら、丁度いい!」
こいつを止めろ、とキース君が会長さんをビシィッ! と指差し。
「教頭先生の記憶を綺麗サッパリ消すと言うんだ、こいつとの結婚に関する夢とか!」
「ああ、なるほど…。それは相当、物騒かもねえ…」
ぼくもお勧めしないけどな、とソルジャーは私たちの味方に回ってくれました。
「キースたちの意見が正しいね。君が洗い流したい煩悩とやらは、こっちのハーレイの根幹を成していると言ってもいい。無くても別に困りはしないよ? 記憶はそういうものではあるけど、消してしまえば影響も出る。…ハーレイの場合は人格が変わってしまうかもねえ…」
消した結果がどうなるのかは自分も正確に予測出来ない、とソルジャーは真顔。
「下手をすると人格が崩壊してしまうことだってある。そうなったらハーレイは病院行きだよ。幼児退行で済めばいいけど、もっと恐ろしい結果になるかも…」
やめておきたまえ、と止めるソルジャー。
「洗い流したい気持ちは分かる。…ぼくとしては理解不可能だけども、君はハーレイの愛が迷惑みたいだし…。でもね、だからと言って人格崩壊のリスクがあるような記憶操作は」
「記憶とは言ってないんだけれど?」
会長さんがフンと鼻を鳴らして。
「ぼくが洗い流したいのはハーレイの頭で、記憶じゃない」
「それを記憶と言うんだよ!」
ハーレイの頭、とソルジャーが指摘しましたが、会長さんは。
「違うね、頭と言ったら頭! しかも洗い流すのはハーレイ自身で、除夜の鐘で流す煩悩みたいに自分の頭を綺麗サッパリ!」
「「「……???」」」
会長さんが何を言っているのか、誰にも分かりませんでした。ソルジャーですらも頭上に『?』マークが見えます。ソルジャーの場合は心を読むという手もあるんですけど、その方法も思い付かないほど謎に飲まれているようですねえ?
「…綺麗サッパリって…何さ?」
何を流すのさ、とソルジャーがようやく口を開きました。教頭先生の記憶とは関係無いと分かって余裕が出て来た部分もあるのか、赤い瞳がテーブルの上を抜け目なくチェック。
「そうだ、聞く前に、ぼくの分のおやつ!」
「かみお~ん♪ 今日のはリンゴのクリームチーズタルトだよ! それと紅茶でいい?」
「うん、お願い!」
「オッケー! すぐ持って来るねー!」
キッチンへと走って行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が間もなく戻って、ソルジャーはタルトにフォークを入れながら話題を再開。
「それで、君はハーレイの何を流すんだって? 記憶以外で頭って、何さ?」
「分からないかなあ?」
頭だけれど、と自分の頭を示してみせる会長さん。
「頭で洗い流すと言ったら、一つしか無いと思うけど?」
「「「…頭?」」」
何なのだろう、と会長さんの頭を眺めたものの、其処には銀色の髪の毛くらい。ソルジャーだったら今は私服じゃないので補聴器とやらをつけてますけど、会長さんの頭には何も無くて。
「すまんが、俺には見当がつかん」
キース君が白旗を上げて、ソルジャーも。
「ぼくも記憶しか思い付かない。…何があるわけ?」
次々に上がるギブアップの声。それに応えて、会長さんは。
「ズバリ、髪の毛!」
「「「髪の毛?」」」
髪の毛を洗い流すと言うのであれば、それはシャンプーのことでしょうか? 綺麗に洗って気分サッパリ、どの辺が納めの悪戯になると…?
「おいおい、洗ってサッパリは普通だろうが」
キース君が突っ込み、シロエ君も。
「教頭先生、普段から綺麗好きでらっしゃいますよ? 部活の後は必ずシャワーで、合宿中でも朝風呂を欠かしてらっしゃいませんが」
「……普通ならね」
普通なら洗って気分サッパリ、と会長さん。それじゃ普通じゃなかったら…?
会長さんの納めの悪戯は教頭先生の頭を綺麗サッパリ洗い流すこと。しかも教頭先生が自分で洗って綺麗サッパリ、洗う対象は髪の毛なのだという話。
「普通にシャンプーで洗った場合は気分サッパリ、髪も綺麗に! …でもさ、シャンプーじゃないもので洗った時にはどうなると思う?」
髪の毛を、と訊かれてキース君が即答で。
「言わせて貰えば、石鹸は駄目だ。…親父はあのとおりツルツルだからな、俺がシャンプーを切らして慌ててた時に「石鹸で洗え」と言いやがった! おふくろが「すぐ取って来る」と言ってくれていたのに、坊主の頭は石鹸でいい、と!」
「…どうなったわけ?」
ジョミー君が尋ね、キース君は。
「もうギシギシというヤツだ! 洗ってる間からギシギシするしな、俺は髪の毛が傷むかと…」
キース君は石鹸の怖さに震え上がって、迷わずリンスを使ったそうです。お風呂場に置いてあったイライザさんのリンスを掴んで、たっぷりと…。
「思い切り薔薇の香りがしたがな、そんなものはもうどうでも良かった。傷むよりかは薔薇の香りだ、下手に傷んだら親父がうるさい」
剃ってしまえと言われそうだ、との言葉に誰もが納得。アドス和尚は坊主頭を御推奨ですし、キース君の髪が見るも無残に傷んでいたなら「見苦しいから」と剃らせそうです。
「うんうん、石鹸でもそのザマだってね」
下手をすれば坊主頭な末路、と会長さんが満足そうに。
「…だったら、抜けるヤツでシャンプーしちゃった時は?」
「「「抜けるヤツ?」」」
「ズバリ、いわゆる脱毛剤! それでハーレイがシャンプーすれば!」
「「「えーーーっ!!?」」」
あまりと言えばあんまりに過ぎる、脱毛剤でのシャンプーとやら。そんなモノで頭を洗ったが最後、キース君みたいに「剃れ」と言われるまでもなく…。
「そう、ハーレイ自ら綺麗サッパリ! 髪の毛を洗い流すってね」
「「「そ、そ、それは…」」」
なんという酷い悪戯なのだ、と全員、ドン引き。これに比べたら「ぶるぅ」が除夜の鐘で三三七拍子をやらかす方が遙かにマシというものです。よりにもよって脱毛剤でシャンプーさせるとは惨すぎですって…。
「…いい悪戯だと思うんだけどねえ?」
一年の締めに相応しい、と言い出しっぺの会長さんはニヤニヤと。
「脱毛剤でシャンプーするのはハーレイなんだし、自己責任でお願いしたい。大事な髪の毛を綺麗サッパリ洗い流してしまう件もさ」
「酷すぎだろうが!」
記憶を消すのも大概だが、とキース君が憤然と。坊主頭に抵抗大だけに、義憤にかられているらしいです。
「全員が賛成したとしてもだ、俺だけは断固反対だ! 髪の毛が無いというのは恐怖だ、あんた、前にも教頭先生にやっただろうが!」
坊主頭のサイオニック・ドリーム、という叫びで思い出しました。あれは何年前だったでしょうか、会長さんが教頭先生を坊主頭にするサイオニック・ドリームをかけ、教頭先生ご自身も「本当に髪の毛を剃られてしまった」と騙された状態で数日間を…。
「そういえばあったね、教頭先生の坊主頭って」
思い出した、とジョミー君。他の面々も記憶が鮮やかに蘇ったようで。
「会長、せめて同じコースにしといて下さい!」
「そうだぜ、いくらなんでも脱毛剤っていうのはよ…」
マジで取り返しがつかねえぜ、とサム君も。
「どれくらい効くのか分からねえしよ、下手したら毛根、逝っちまうんじゃねえか?」
「どうかしら? そこまでの威力、まだ無いような…」
あるんだったら脱毛サロンが流行らないわ、とスウェナちゃん。
「何回かやれば生えなくなるかもしれないけれど…。一回だけでアウトってことはなさそうよ」
「そっか…。だったら洗い流すまではいかないかもね」
洗った時点じゃ二、三本が普通に抜ける程度で、とジョミー君がホッと息をつけば、スウェナちゃんが「それは甘いわ」と切り返し。
「抜ける量だけは半端じゃないわよ、綺麗サッパリも充分ありそう」
「うん、あると思う…」
私もスウェナちゃんに同意しました。脱毛経験は皆無ですけど、広告はよく目にします。塗って暫く待っているだけで綺麗にゴッソリはよくある話で。
「じゃ、じゃあ、やっぱり…」
「綺麗サッパリいっちゃう筈よ、気付かずにそれで洗っていたら」
すぐに流せばいいんだけれど、とスウェナちゃん。普通は脱毛剤でシャンプーをしたら気付きそうだと思いますけど、会長さんが絡んだ場合は気付かない恐れが充分に…。
「…ぼくも賛成しかねるけどねえ?」
ソルジャーが会長さんをギロリと睨んで、心強い味方が再び出現。
「サイオニック・ドリームならまだ許せる。それでもハーレイには恐怖だろうけど、本当にハゲるわけじゃない。…でもさ、脱毛剤でやってしまったら本気でハゲるよ?」
ぼくの世界のよりはマシだろうけど、とソルジャー、ブツブツ。
「ぼくの世界の脱毛剤だとシャレにならない。洗ってる間に抜け始めるかっていう勢いだよ」
「えっ、そんなのがあるのかい?」
それは凄いね、と会長さん。
「だったら、それをハーレイに是非!」
「頼まれたって持って来ないよ、ぼくは絶対反対だからね! ハーレイのために!」
こっちの世界のハーレイであってもハーレイなのだ、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「ぼくのハーレイとそっくりなんだし、ぼくは全力で庇わせてもらう。ぼくの世界にもハゲた場合のお助けアイテムは無いんだよ。あったらゼルはハゲていないね」
何が何でも脱毛剤シャンプーは断固阻止する、と真剣な顔をしているソルジャー。
「いざとなったら、君にサイオニック・ドリームもいいね。犯行に及ぶ前にパパッとかけてさ、こっちのハーレイがフィシスに見えるように仕立てて、君からキスをさせるとか……ね」
「ちょ、ちょっと!」
それは困る、と逃げ腰になった会長さんは両手を上げて。
「じょ、冗談だってば、脱毛の件! いや、半分は本当だけどさ、半分は嘘で!」
脱毛剤だと信じて洗うのはハーレイだけだ、という会長さんの台詞にビックリ仰天。
「「「…う、嘘……」」」
「ホントだってば、いくらぼくでも本物を使う無茶はやらかさないって!」
だけどブルーの世界の脱毛剤は素晴らしすぎる、と会長さん。
「それでウッカリ洗った場合はどうなるんだい?」
「…うーん…。直ぐに気付いて洗い流せば、安全なのかもしれないけどねえ…」
ついでに中和剤でもふり掛けておけば、と答えるソルジャー。
「でもね、持っては来ないからね! 君は信用できないから!」
「嘘だと言っているだろう! ハーレイにはちゃんと本物のシャンプーをプレゼントするさ、少しばかり早いクリスマス・プレゼントだからって前倒しで!」
そして使った所でネタバレなのだ、と会長さんの唇に笑みが。
「それの正体は脱毛剤だ、と思念をお届け! 今年いっぱい、きっと笑える!」
ハゲの恐怖に怯えるハーレイを眺めて納めの悪戯なのだ、と高笑いする会長さんは悪魔でした。そんな悪戯、あの「ぶるぅ」でも思い付きそうにないですけれど…?
「…マジでひでえな…」
「うん、酷い…」
あの「ぶるぅ」よりも悪質である、という結論に達した私たち。ソルジャーも「うん」と同意しました。「ぶるぅ」の場合は本当に脱毛剤を持ち出す可能性がゼロとは言えないそうですけれども、存在しない脱毛剤で延々と脅すような高度な技を持ってはいない、と。
「ぶるぅの悪戯は単純明快、所詮は子供さ。…でもね、君のは悪質だってば」
「騙すだけだよ? …日頃の暑苦しい愛に感謝をこめて大サービス!」
素敵なシャンプーを贈るだけだ、と主張している会長さん。悪質な悪戯だとは思ったものの、パニックに陥る教頭先生は面白いかもしれません。ちょっとだけ見てみたいかも…。
「…酷すぎるけど、笑えないとは言えないねえ…」
ソルジャーも見たい気持ちがあるようで。
「そのシャンプー。…なんならぼくが提供しようか、高級品を?」
持って来たら面子に混ぜてくれるのかい、とソルジャーは先刻までとは逆の方向へ走り出しました。脱毛剤が本物だったら断固阻止でも、嘘と分かれば一枚噛みたいらしいです。
「こっちの世界にもシャンプーは色々あるけどさ…。どうせだったら、ぼくの世界のシャンプーはどう? 強烈な脱毛剤はぼくの世界のだと騙すんだろ?」
嘘の中にも本物を! とブチ上げるソルジャー。
「シャングリラ特製のヤツでもいいけど、人類側の高級品をゲットしてくるよ。今の流行りは何処だったかなあ、アルテメシアからは遠い辺境の星で生産されてる自然素材のヤツなんだよね」
パッケージがとても凝っているのだ、とソルジャーは瞳を煌めかせています。
「SD体制よりも前の時代をイメージしました、ってコトでさ、こっちの世界のシャンプーのボトルにそっくり! だから君の目的にはピッタリだろうと思うんだけど?」
「なるほどねえ…。説明文とかはどうなってるわけ?」
「ん? それはもちろん、大丈夫! ちゃんとシャンプーと書いてあるしね」
幸か不幸か、ソルジャーの世界と私たちの世界の文字は共通でした。会長さんは「よし!」と大きく頷いて。
「その話、乗った! やるなら君の世界のヤツで!」
「了解。それで、やらかすのはいつになるんだい?」
「…楽しむためには早い方がね…」
もう今日にでも始めたいくらい、という会長さんの台詞に、ソルジャーは。
「分かった。ちょっと帰ってゲットしてくる!」
お昼は向こうで食べて来るけど、おやつと夕食はお願いするね、と一言残して姿がパッと消え失せました。会長さんの納めの悪戯、今日から発動しちゃうんですか…?
お昼御飯は豚骨ラーメン。食べる間も会長さんは悪事の話題を嬉々として振り、教頭先生が騙された後の悲劇のルートが描かれてゆきます。本当にハゲるわけではなくても、これは相当に痛いのでは、と思わずにいられない私たちですが。
「…あんた、本気でそれをやるのか?」
「だって、ブルーの世界のシャンプーならぬ脱毛剤だよ? ぼくたちの世界の常識だけでは測れないって部分もあるよね」
ガンガンやるべし、と会長さん。食べ終わってもなお続く話題の真っ最中に、ソルジャー帰還で。
「はい、シャンプー。…盛り上がってるみたいだねえ?」
「それはもう! 君の世界の脱毛剤だよ?」
協力してよね、と会長さんが披露した案にソルジャーがプッと吹き出して。
「う、うん…。か、かまわないけど、それで年末まで突っ走るわけ?」
「突っ走る!」
嘘は貫いてなんぼなのだ、と会長さんが拳を突き上げ、私たちは頭を抱えました。ソルジャーの協力が得られたからには、会長さんはやる気です。教頭先生はハゲの恐怖と戦うだけでなく、とんでもないことになりそうですが…。
「えっ、一年分の妄想の御礼に丁度いいだろ、このくらい!」
この一年もぼくをオカズにあれやらこれやら…、と会長さんは文句たらたら、ソルジャーの方は「それも愛だと思うけどねえ…」と自説を展開。やれ妄想だ、いや愛なのだ、と二人が派手に揉めている間に、ほどよい時間になったらしくて。
「おやつの前に行って来ようか、ハーレイの家までお届け物に」
ぼくからの愛のシャンプーを、と会長さんが手にしたボトルはソルジャーがゲットしてきたもの。ちゃんと男性用なのだそうで、香りもメンズ向けだとか。
「自然素材は貴重なんだよ、ぼくの世界じゃ。…本当はぼくのハーレイに渡したいくらい」
もちろん渡して来たんだけれど、とソルジャーは幸せそうな笑顔で。
「ブルーの言葉を借りておいたよ、前倒しのクリスマス・プレゼントだから、って。…凄く感激してくれちゃってさ、特別休暇を取ってくれるって」
楽しみだなあ、とソルジャーはウットリしています。
「特別休暇が待っている分、今は焦らなくてもいいってね。こっちのハーレイの末路とやらをじっくり観察させて貰うよ、ブルー渾身の納めの悪戯!」
「任せといてよ、ガンガンいくから!」
まずはお届け、と私たちまでが問答無用で青いサイオンに巻き込まれました。身体がフワリと浮く感覚は瞬間移動。行き先は教頭先生の家のリビングですかね、それとも玄関…?
瞬間移動で降り立った場所はリビングでした。仰け反っておられる教頭先生にかまわず、会長さんが極上の笑みで近付いていって。
「こんにちは、ハーレイ。…今年もクリスマスが近付いたよね」
「あ、ああ…。まあ、そうだが…」
体勢を立て直し、ソファから立って挨拶をした教頭先生に向かって差し出されたもの。それは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が可愛らしくラッピングした例のシャンプーで。
「…なんだ、これは?」
怪訝そうな教頭先生に、会長さんは「プレゼントだよ」と綺麗な微笑み。
「クリスマスのパーティーはいつも馬鹿騒ぎになっちゃうからねえ、前倒しで届けに来たってわけ。ブルーに頼んでゲットして貰った、君の男を上げるアイテム」
「男を上げる?」
「うん。ブルーの世界で今、最高に人気のシャンプー! …なんだったっけ、ブルー?」
「辺境の星で栽培された自然素材が売りなんだよ、うん」
香りももちろん本物で、とソルジャーはシャンプーの解説を始めました。教頭先生は会長さんに促されてラッピングを解き、中のシャンプーのボトルを眺めて。
「ほほう…。これがそういうシャンプーですか…」
「そうだよ、髪の艶がグッと良くなるらしいね。ぼくのハーレイにもプレゼントしたんだ。ぼくのハーレイと、それから君と。どっちが先に男を上げるか、ぼくもとっても興味があって」
「ブルーが言うには、これ一本でグッと変わるっていう話だよ」
まずは一本、と会長さんはシャンプーのボトルを指差して。
「素敵な効果を実感出来たら、ブルーに頼めばまた手に入る。…そうだったよね?」
「気に入ったんならフォローするよ? 御礼はお菓子で充分だから!」
ケーキの一つでも買ってくれれば、と言うソルジャーに、教頭先生は大感激。
「あ、ありがとうございます! では、その際には、お好きなケーキを一個と仰らずに、是非ホールで! そのくらいはさせて頂きます」
「いいのかい? それじゃ遠慮なく御馳走になるよ。でも、まずは気に入るか、試してみてよね」
「はい! 早速今夜から使ってみます。ブルーに貰ったプレゼントですし」
クリスマスまでに男を上げてみせます、と燃えておられる教頭先生に、会長さんは。
「喜んで貰えて嬉しいよ。成果を楽しみにしているからね」
「もちろんだ! お前がアッと驚く男に!」
なってみせる、と拳を握っておられますけど。…ヘアスタイルを変えるならともかく、髪の毛の艶が増したくらいで「アッと驚く」いい男にはなれないような気がしますけどね?
シャンプーを届けて瞬間移動で教頭先生の家にサヨナラ、おやつを食べて日が暮れて。夕食は豪華寄せ鍋パーティー、それが終わればお泊まり会。ソルジャーも交えてワイワイガヤガヤ、賑やかに騒いで夜の十時を過ぎた頃…。
「かみお~ん♪ ハーレイ、お風呂みたい!」
観察していた「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声を聞いた会長さんが。
「例のシャンプーは?」
「ちゃんと持ってるよ、それで、どうするの?」
「全力で騙す!」
まあ見ていろ、と会長さんの指がパチンと鳴らされ、中継画面が出現しました。教頭先生がウキウキと服を脱ぎ、お風呂へと。スウェナちゃんと私にはモザイクのサービス付きでの入浴中継、間もなくシャンプータイムに突入。
「…ふむ。これがブルーの世界のものか…」
そしてブルーからのプレゼントか、と嬉しそうにシャンプーのボトルを手にした教頭先生、適量を髪に。両手でガシガシとかき混ぜれば泡立ちは素晴らしいもので、流石は高級シャンプーですが。
『ハーレイ、泡は頭に行き渡ったかい?』
会長さんが思念波で尋ね、教頭先生からも思念で返事が。
『なんだ、見てるのか? なかなか使い心地のいいシャンプーだぞ?』
『それは良かった。…じゃあ、そのままで五分間ほど洗い流さずに!』
『………? そんな説明は書いてなかったが?』
『シャンプーのボトルだったしね?』
笑いが混じった会長さんの思念。
『実は中身は別物なんだよ、その泡を髪に行き渡らせてから五分ほど待つと…』
『……待つと、どうなるんだ?』
『綺麗サッパリ洗い流せるんだよ、髪の毛を! もう一本も残さずに!』
『なんだって?』
咄嗟に意味が掴めない様子の教頭先生に、会長さんはダメ押しとばかりに。
『髪の毛が綺麗に抜けるんだってば、それは脱毛剤だから!』
『だ、脱毛剤!?』
ぎゃあああああ! と凄まじい悲鳴が中継画面の向こうで聞こえて、教頭先生はシャワーのコックを捻ると必死に泡を洗い流し始めました。すっかり泡が流れ落ちてもジャージャーお湯を浴び、その後はバスタブに何度も頭まで潜るという騒ぎ。
「た、助けてくれ! 抜ける、髪が抜けるーーーっ!!」
それは普通に抜けるだろう、というレベルの抜け毛を見て絶叫。本当にお気の毒としか…。
「悪いね、ハーレイ。…騙された方がもっと悪いけどね」
会長さんがパジャマ姿の教頭先生を糾弾中。私たちは再び教頭先生の家にお邪魔し、高みの見物状態です。シャンプーの正体を脱毛剤だと信じ込んでいる教頭先生はまだ真っ青で。
「…ぬ、抜けるのか? この状態だと危ないのか?」
「どうだっけ、ブルー? 君の世界の脱毛剤って」
話を振られたソルジャーは「アレねえ…」と沈痛な面持ちです。
「君は大丈夫だったみたいだけどさ、本当だったら洗ってる間に抜け始めるかって勢いなんだよ。ブルーに頼まれて持っては来たけど、ぼくは反対だったんだ」
「…そ、そこまでの威力ですか…?」
「そう。…おまけに中和剤が無くてさ、やっちゃったらもう、民間療法レベルって感じ」
「民間療法?」
「心理的なモノが大きいらしくて、信じる者は救われる世界」
信じるかどうかは君の自由だ、とソルジャーは会長さんと軽く頷き合ってから。
「SD体制なんかがある世界でも迷信的なモノはあってね、この脱毛剤にはそれが効くんだと言われてる。実際、効果もゼロではないっていう話だけど…。どうする? 君も信じてみる?」
「ど、どういった方法なのです?」
「かぶるんだよ!」
ソルジャーがズバッと告げた言葉に、教頭先生は「カツラですか!?」と。
「かぶる以外に無いのですか、あれを? そこまで抜けてしまうのですか?」
「違うよ、カツラになってしまう前に食い止める道が民間療法! 信じてかぶる!」
「…何をです?」
「毛の生えたモノ!!」
ブッと吹き出しそうになるのを私たちは必死で堪えました。しかし焦りの極致の教頭先生、そんなことに気が付く筈もなく…。
「毛の生えたモノ…? 何ですか、それは?」
藁にも縋る境地の教頭先生に、ソルジャーは「生き物だよ」と回答を。
「何でもいいから毛の生えたモノをかぶっていれば、なんとか抜けずに済むらしい。一ヶ月くらいかぶり続ければ全快するって言われているねえ…」
「ど、どんなモノをかぶればいいのですか?」
「犬でも猫でもかまわないんだけど、一番効くのは…」
「一番効くのは……?」
ゴクリと唾を飲み込む教頭先生。ソルジャーは至極真面目な顔で…。
「毛ガニだってさ」
「毛ガニですか!?」
「うん、毛ガニ。…SD体制の世界だとレアものだからね、そのせいかもねえ……」
洗っている間に髪が抜け始めるという勢いの脱毛剤。中和剤は無く、治すためには民間療法レベルの治療。頭に毛の生えたモノをかぶって一ヶ月ほど、とソルジャーが教えた話は大嘘でした。会長さんが練り上げたネタを披露しただけで、そんな治療法など無いのですが。
「…毛ガニをかぶれば治る……のですか?」
教頭先生は見事に騙され、ソルジャーに縋り付かんばかりの表情。そしてソルジャーも「うん」と重々しく答えました。
「毛ガニが豊富に手に入る世界じゃ、嘘っぽく聞こえるのかもしれないけれど…。ぼくの世界だと毛ガニはレアでね、大金を払ってもコネが無くっちゃ手に入らない。よほどのお偉方しかゲット不可能、それを頭にかぶるとなったら大変だよね」
新鮮な毛ガニを毎日毎日、一ヶ月間も…、と語るソルジャー。
「そんなことが出来る人種は限られた特権階級だけだ。その人たちが毛ガニと言うんだ、多分、毛ガニが一番効くね。…色々試して毛ガニなんだよ、ぼくが思うに」
信じるも信じないも君の勝手だ、とソルジャーは教頭先生の顔を見詰めて。
「毛ガニが嫌なら、その辺の猫でもかぶっておきたまえ。…何もかぶらずにハゲるのもいい。運が良ければハゲずに済むかもしれないからね」
「…で、でも、大抵はハゲるのですね?」
「そう聞くねえ…。だからブルーを止めにかかったのに、毛ガニがあるからかまわないってさ。…ついでにハゲたら縁を切るとか」
「縁を切る!?」
教頭先生の声が引っくり返って、会長さんが冷たい口調で。
「…坊主頭は清々しいけど、ハゲは好みじゃないんだよ。これを機会にキッパリ剃るなら、それもいい。だけど日に日にハゲていくのは最悪だしねえ、近付かないでくれるかな?」
それが嫌なら毛ガニをかぶれ、と会長さんは言い放ちました。
「ぼくへの愛があるんだったら、毛ガニくらいはかぶれるだろう? ハゲないためには努力あるのみ、でなきゃキッパリ綺麗に剃る! ぼくが好きなら選ぶんだね。二つに一つだ」
丸坊主に剃るか、一ヶ月間、毛ガニをかぶるか。
そのどちらかを選ばなければ綺麗さっぱりサヨウナラだ、と会長さんは踵を返して。
「明日以降の君に期待してるよ、ぼくとの関係を維持したければ坊主か毛ガニだ。…一応、毛ガニは二日分だけ置いて行く。その後は自分で考えたまえ」
シーズンだから何処でも売ってるだろう、と宙から取り出したトロ箱を残し、会長さんと私たちは瞬間移動でトンズラしました。トロ箱の中身はもちろん毛ガニ。活けの毛ガニというヤツで…。
「…まさか本気でかぶるとはねえ…」
恐れ入った、とソルジャーが爆笑しています。あれから既に数日が経って、ソルジャーは特別休暇明け。キャプテンにプレゼントしたシャンプーのお蔭でそれは充実した休暇を過ごしたらしいのですけど、その間の教頭先生はといえば…。
「君があれだけ脅したんだし、かぶらない方がどうかしてるよ」
ご協力どうもありがとう、と会長さんは御機嫌でした。教頭先生の頭の上には毎日、毛ガニが乗っかっています。落ちないように手拭いで縛られ、息絶えないよう水をかけられながら。とはいえ、毛ガニの寿命は短く、長持ちしても一日一匹が限界のようで。
「こっちの世界でも毛ガニは安くはないんだよね?」
「ズワイガニよりはかなり安いけど、野菜とかのようにはいかないよねえ…」
そこそこの散財になるであろう、と会長さん。
「大晦日まではかぶらせるんだよ、クリスマス・パーティーも毛ガニ同伴!」
「それはいいねえ、生で拝めて毛ガニに水もかけられるんだ?」
「かみお~ん♪ 毛ガニさん、カッパみたいでしょ?」
ぼくもお水をかけてあげたよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコ笑顔。教頭先生の頭の毛ガニに水をかけたがる先生方や生徒は多くて、けれど何ゆえに毛ガニなのかを語ることが出来ない教頭先生。ソルジャーの世界の存在は極秘、ましてや其処の脱毛剤の治療法など…。
「こっちのハーレイも苦労するねえ、あれって一種のキャラ作りだって?」
「本人がそれを言えなかったら入れ知恵しようと思ってたけど、そこそこ頭は回るようだよ、毛ガニ男だか毛ガニマンだか」
ああいうキャラで大晦日までを突っ走れ! と会長さんが発破をかけるまでもなく、教頭先生は毛ガニをトレードマークにかぶって今日も笑顔でいらっしゃいます。誰が呼んだか、毛ガニマン。頭に毛ガニはけっこうお似合い、会長さんの納めの悪戯、毛ガニ男で大成功です~!
死守する頭髪・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
脱毛剤だと偽って「シャンプーさせる」生徒会長も酷いですけど、その後がもっと…。
「頭に毛ガニを被る」だなんて、効くと思う方がどうかしているんじゃあ…?
それはともかく、シャングリラ学園、4月2日で連載開始から9周年でございます。
よくも9年「書き続けた」モンだ、と自分で自分が信じられないキモチかも…。
アニテラ放映開始から4月7日で10周年。覚えている人の方が少ないだろ、と!
というわけで、4月は感謝の気持ちで月2更新でございます。
次回は 「第1月曜」 4月3日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、3月は、春のお彼岸。スッポンタケの法要がどうのこうのと…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(猫用ケーキ?)
なあに、と新聞を覗き込んだ、ぼく。
猫用ケーキ、言葉のまんま。猫のためのケーキで、人間用とは違ったケーキ。
カラフルなケーキの写真が一杯、いろんな猫用ケーキの特集。
(お誕生日に、御褒美に、おやつ…)
これじゃ人間と変わらない。人間だって、ケーキはそういう扱いだもの。
ぼくの家ではママが作るから、ケーキは珍しくないんだけれど。お菓子作りが得意じゃない人はケーキをお店へ買いに出掛けるし、一番は多分、誕生日用。バースデーケーキ。この記事みたいなホールケーキを買うんだったら、きっと誕生日が多いだろう。
次が記念日、それから御褒美。おやつ用は最後になると思うな、ホールケーキなら。
大きなケーキを家族や友達、食べる人数に合わせて切って。一切れずつお皿に載せて食べるのが人間用のケーキだけれども、猫用ケーキは…。
(ホールケーキで一人前…)
一人って言うか、一匹と言うか。
ペロリと一度に食べ切れるサイズ、そういう分量の小さめケーキ。
何切れかにカットしてあげるってわけじゃなくって、丸ごと一個を盛り付けるみたい。
(これが猫用?)
言われなければ分からないケーキ。綺麗なケーキ。
マジパンやクッキーで作った猫が乗っかってるけど、子供だったら好きそうな感じ。クリームで飾ってミントの葉っぱも。何処から見たって人間用。
(フレッシュクリームたっぷり…)
「猫ちゃんの大好きなフレッシュ生クリームをたっぷりとケーキ一面にデコレーション!」って謳い文句で、ケーキの上には生クリームを絞り出した飾りが星みたいに幾つも鏤めてある。
ぼくの今日のおやつも生クリームたっぷりのケーキなんだけど。
真っ白なクリームが甘くてとっても美味しいんだけれど、猫並みってこと?
ぼくが学校に行ってる間にママが作ってくれたんだけど…。
いろんなベリーを沢山乗っけて、生クリームもたっぷりと塗って。
(煮干しパウダー入りのスポンジ…)
猫用ケーキとぼくのケーキは其処が違った。
ぼくのケーキはふんわりスポンジ、卵の風味が優しいケーキ。味の決め手は泡立てた卵、それにお砂糖だと思う。後はバターとミルクくらいかな、しっとりふわふわ、ママの手作り。
膨らんだスポンジに煮干しパウダーは入っていなくて、猫用ケーキとは別だけれども。
(うーん…)
他にも色々、ケーキの種類。猫用ケーキと書かれたケーキ。
ムースケーキみたい、と眺めたケーキは牛のミンチを贅沢に使った黒っぽい部分と、白い濃厚ミルクムースの二層になっててホントにムース。「至福の牛ムース」っていう名前。
(猫用なんだけど…!)
食べる猫は分かっているんだろうか、「至福」って言葉。説明したって欠伸だけして、ムースに夢中で齧り付きそうな気がするんだけど。
(こっちはなあに?)
ぼくが寝込むとハーレイが作りに来てくれる、野菜スープのシャングリラ風。何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだ野菜のスープ。
それに似てるよ、と思ったケーキは「鴨レバーのカクテルテリーヌ」だった。二層になってて、上が細かく刻んだ野菜のテリーヌ。下の部分が鴨のレバーのムースなんだ。
(野菜スープのシャングリラ風に、こんなムースはついてないから!)
ハーレイが「新作だぞ」ってテリーヌ仕立てを編み出してくれたけれども、ママのテリーヌから思い付いたって言っていたけど、それが限界。野菜スープのシャングリラ風。
ぼくがレシピを変えて欲しくないって頼んだからではあるけれど…。
(猫のケーキは鴨のレバーのムースつき…)
お洒落すぎる猫用カクテルテリーヌ、贅沢すぎる猫用ケーキ。
ぼくより凄い、と目を丸くした。
(これを食べるの、猫なんだけどな…)
世界はなんて広いんだろう。猫用のケーキがあるってだけでも凄いのに…。
よくよく読んだら、牛のミンチも鴨のレバーも最高級品を使ってた。それが自慢の猫用ケーキ。
(人間並み…)
こだわりの飼育方法が売りの牛と鴨。そんなのを使った猫用ケーキ。
考えてみれば最高級品の鴨だの牛だの、普段の食事でパクパク食べてはいないから。
もしかしたら人間以上だろうか?
人間用に出荷するにはちょっと落ちるよ、って部分を使って作ってるにしても、最高級品。猫用ケーキに最高級品の牛だの鴨だのを惜しげもなく。
野菜スープのシャングリラ風だって、猫用になると最高級品の鴨のレバーのムースつき。
(負けたかも…)
人間のぼくが、ニャーと鳴く猫に。
おやつで負けた、とケーキをパクリと頬張った。
猫も喜ぶフレッシュクリームたっぷりのケーキ、煮干しパウダーは入っていないけど。
おやつを食べ終わって部屋に帰ってから、綺麗だったケーキを思い出す。
猫用だなんて思えなかった、普通のケーキにそっくりのケーキ。
(お誕生日に、御褒美に、おやつ…)
ハーレイのお母さんが飼ってたっていう猫のミーシャもあんなのを食べていたかもしれない。
甘えん坊で真っ白なミーシャ。ハーレイが生まれるよりも前から家に居たミーシャ。
とっくに死んじゃったミーシャだけれども、可愛がられていたらしいから。
猫用のケーキ、毎日は無理でも、お誕生日に、御褒美に。
今日はちょっぴり特別だよ、ってミーシャ用のお皿に入れて貰って。
(猫用ケーキかあ…)
こだわりの素材の猫用ケーキ。
猫の身体に悪くないよう、素材を厳選したケーキ。
材料の卵も、フレッシュクリームも、煮干しパウダーも、全部、地球産。
此処は地球だから当然だけれど、他の星から運んで来るより安くつくから当たり前だけど。
それでも地球産、前のぼくが焦がれて行きたいと願った地球の食材で作ったケーキ。
なのに猫用、猫が食べるために作られたケーキ。
(前のぼくでも食べられるよ、あれ)
新聞記事には「人間は食べないで下さい」って書いてあったけれど、大丈夫。
材料をちゃんと読んでみたけど、変なものは入っていなかったから。
小麦に卵に、それからミルク。いろんな野菜に、最高級品の牛と鴨。
(煮干しパウダーくらいだよね)
ケーキにしては変な材料って、これくらい。
牛とか鴨はムースなんだし、ケーキという名前がついているだけでお料理だから。充分に人間が食べられるお料理、牛ミンチのムースに鴨のレバーのカクテルテリーヌ。
(煮干しパウダーのケーキにしたって…)
前のぼくなら、ちょっと生臭い程度のスポンジ、気にしやしない。
憧れの地球のケーキだったら、猫用のケーキだったって。
大喜びで食べた、間違いなく。
地球のケーキだと、地球の食材で作ったケーキが手に入ったと。
(ハーレイにだって御馳走するんだよ)
そういうケーキが手に入ったなら、前のハーレイが青の間に来た時、紅茶を淹れて。
猫用ケーキは小さいけれども、二人仲良く半分ずつで。
ケーキの上に乗った飾りも半分ずつ。
猫の形のマジパンだって、猫の形のクッキーだって。
(食べたかったな…)
前のぼくだった時に、猫用ケーキ。
地球産の食材だけで作った、素敵なケーキ。
(もしもあったら、絶対、食べてる…)
ノアとかアルテメシアとかの猫用ケーキは要らないけれども、食べたいとも思わないけれど。
地球のだったら、間違いなく食べる。あると知ったら、奪って食べる。
(その地球が無かったんだけれどね…)
宇宙の何処かにあると信じた青い地球。焦がれ続けた、青い水の星。
けれども青い星は蘇らないままで、死の星のままで。
マザー・システムは「地球は青い」と嘘を貫き通したけれども、本当は青くなんかはなかった。作物が採れる筈もなくって、地球の食材で猫用ケーキは作れなかった。
だから食べずに済んだんだろうか、猫用ケーキ。
地球の土と水と光が育てた小麦や、地球で育った鶏の卵。そんな材料で出来たスポンジ。煮干しパウダーだって地球の海から獲れた魚の粉なんだから。
(とっても贅沢…)
前のぼくにしてみれば夢のようなケーキ。
たとえ煮干しの味がしたって、猫用と書いてあったって。
(地球の味がするケーキだしね?)
あったら絶対、奪いに行ってる。
アルテメシアに落ち着いた後で、物資は奪わない自給自足の生活をしていた時代でも。
あれは別だと、あのケーキだけは別なんだと。
そうして奪って、ハーレイと食べる。
憧れの地球の食材で出来た猫用ケーキを、二人で分けて。
(ハーレイに呆れられそうだけどね)
猫の上前をはねるんですか、って。
これは猫用のケーキなのですが、って。
だけど特別、地球産のケーキ。地球の食材で作ったケーキ。
猫用だろうが、煮干しパウダーで生臭かろうが、最高のケーキなんだから。
行きたくてたまらない青い地球で育った食材の旨味がギュッと詰まっているんだから。
(やっぱり猫に負けてるよ、ぼく)
今のぼくのおやつも猫に負けたと思ったけれども、前のぼくが。
ソルジャー・ブルーだったぼくが、欲しくて欲しくて奪いに行きそうな猫用ケーキ。
つまりは猫の方がうんと贅沢な食事、地球産の食材で出来た豪華な猫用ケーキ。
(猫の方がいいもの食べてるだなんて…)
大英雄だったソルジャー・ブルーが欲しがるほどの猫用ケーキ。
ソルジャー・ブルーが地球産っていうだけで釣られてしまう猫用ケーキ。
猫のケーキはとっても贅沢、大英雄のソルジャー・ブルーが羨ましくって欲しがるケーキ。
それに…。
(最高級品の鴨のレバーに牛ミンチ…)
シャングリラに鴨はいなかった。卵と鳥の肉は鶏で充分、鴨までは飼わなくてもいいと。鶏さえいれば卵も鳥肉も手に入るのだし、鴨まで育てなくてもいいと。
だから鴨のレバーなんかは無くって、最高級品も何もあるわけなかった。
牛は居たから牛のミンチはあったけれども、所詮は宇宙船の中で育てた牛。地面の上で、牧場を自由に歩き回って育った牛とは違うし、肉の質だって比較にならない。要はただの牛。
鴨のレバーは最初から無いし、牛のミンチは最高級どころか高級品とさえ呼べないレベル。
楽園だったシャングリラだけど、最高級品の食材が売りな猫のケーキは作れない。
完全に敗北、猫のケーキに。
猫が誕生日や御褒美に、おやつに買って貰うという猫用ケーキに。
(前のぼく、ソルジャー・ブルーだったのに…)
大英雄だった前のぼくなのに、猫に負けてる。
ニャーと鳴くだけの猫に負けてる、食べ物のことで。
(おまけに猫用ケーキを奪って喜んで食べそうなんだよ、前のぼく…)
地球産の猫用ケーキに限るけれども、あったら奪う。地球のケーキだと喜んで食べる。
前のぼくよりも猫の方が上、奪わなくっても猫用ケーキを買って貰える。地球産の食材を贅沢に使った猫用ケーキを、いろんな時に。
(猫に負けるなんて…)
英雄のくせに情けないかも、って思っていたら、チャイムの音。お客さんだよ、ってチャイムの音。窓から見たら大きく手を振るハーレイ。
ママが門扉を開けに出て行って、ぼくの部屋までハーレイを案内して来たから。
お茶とお菓子をテーブルに置いてってくれたから、ぼくはお菓子を指差して言った。
「聞いてよハーレイ、猫の方がグルメだったんだよ!」
「はあ?」
どうしたんだ、ってハーレイの鳶色の瞳が丸くなったけど。
「前のぼくより、猫の方がグルメ!」
ホントなんだよ、ホントのホントに猫の方がグルメだったんだよ。
前のぼくはとっても敵わなくって、猫の食事を奪いに出掛けてしまいそう。
あれが食べたいって、どうしてもあれを食べるんだ、って。
だって、本物の地球の食材で出来ているんだもの。
猫用だけれど、地球産だもの…。
こんなケーキがあったんだよ、って話をした。
人間用のケーキなんです、って言ってもおかしくなさそうな出来の猫用ケーキ。
見た目も綺麗で、こだわりの素材。最高級品の牛のミンチに鴨のレバーに…。
一気に喋って、それから訊いた。
ミーシャも猫用ケーキだったの、って。
「どうだかなあ…。おふくろが買ってやってたかもなあ、手作りだったかもしれないが」
俺は全く覚えていないが、猫用ケーキを食っていたなら手作りかもしれん。
おふくろは菓子作りだって得意だからなあ、猫用ケーキも手作りかもな。
「ミーシャのケーキは手作りなの?」
ハーレイのお母さん、猫用ケーキも作れるの?
「本当に作ったかどうかは知らんが、人間用のと同じ材料だろ? 猫用のケーキ」
愛情をこめてやりたかったら手作りだってな。
どんな材料かが分かっていたなら、おふくろなら工夫しそうだぞ。
最初の一個か二個は買って食わせて、ミーシャがそれで喜ぶようなら次から手作り。ミーシャの好物をあれこれ使って、ミーシャ専用ケーキってトコか。
「そっか…」
ハーレイのお母さん、ミーシャ用に作ってあげるんだ…。
ミーシャの好物がたっぷり詰まった、地球産の食材を使った猫用ケーキ。
ということは、ミーシャにも負けているかもしれない、前のぼく。
ハーレイのお母さんが猫用ケーキを買ってあげていたら、その時点で負けているんだけれど。
もしもハーレイのお母さんが猫用ケーキに凝っていたなら、負けるどころの騒ぎじゃない。
猫用ケーキを買って貰う猫は、お店に売ってる種類の中から選んで貰って食べるもの。あっちがいいとかこれがいいとか、喋れない猫は選べやしない。
だけどミーシャは自分の好物を使ったケーキを食べられた可能性がある。ハーレイのお母さんに工夫を凝らして貰って、大好きな魚を使ったムースや、生クリームたっぷりのケーキなんかを。
そうなってくると、ミーシャは前のぼくよりもずっと恵まれた立場。
地球の食材を色々と食べて、好き嫌いもして、好物はこれだと主張して。
その好物を使った猫用ケーキを作って貰って食べていたなら、最高に贅沢な食生活。
前のぼくは地球に憧れるだけで、地球の食べ物は何一つ食べられないまま死んでしまったのに、ミーシャは我儘言いたい放題、好きな材料で猫用ケーキを作って貰って食べたんだから。
前のぼくはミーシャに負けたかもね、と甘えん坊の真っ白な猫を思い浮かべながら訊いてみた。
「ハーレイのお母さん、こだわる方?」
ミーシャが猫用ケーキを気に入ってたなら、専用ケーキも色々作るの?
「愛情はたっぷりだったからなあ、色々作ってやったんじゃないか?」
俺はガキだったから忘れちまったが、魚のムースでも凝ると思うぞ。生クリームの猫用ケーキにしたって、スポンジがミーシャ好みの味になるよう、何度も作って「どう?」と訊くとか。
ミーシャが喜んで食った時のレシピが定番のスポンジになるってわけだ。
「じゃあ、前のぼくはミーシャにすっかり負けちゃってるんだ…」
地球の食材で我儘を言って、好物だけで作って貰ったケーキ。
そんなケーキは食べたくっても食べられなかったのが前のぼくだもの。猫用ケーキでも欲しいと思ってしまうくらいなのに、好物ばかりで作って貰った猫用ケーキがあっただなんて…。
「安心しろ、お前だけじゃない」
「えっ?」
「俺も同じだ、そういうケーキは前の俺だって食えていないだろうが」
前のお前と条件は全く同じなんだぞ、同じシャングリラに居たんだから。
お前がミーシャに負けたと言うなら、俺も敗北してるんだ。
もっとも、ミーシャが猫用ケーキを食ってないなら負けはしないがな。ただの猫だしな。
「そっか、前のハーレイもぼくとおんなじ立場にいたんだっけ…」
地球産のケーキなんかは手に入らなくて、シャングリラの中。
最高級品の鴨のレバーも牛のミンチも無かったっけね…。
そうだった、と思い出した、ぼく。
地球産の猫用ケーキがあると知ったら奪いに出掛けて、ハーレイと分けて…。
「えっとね、ハーレイに御馳走しようと思ってたんだよ、猫用ケーキ」
前のぼくが地球産の猫用ケーキを奪っていたなら、青の間でハーレイと食べるんだよ。みんなに内緒で二人でこっそり。猫用ケーキは小さいけれども、半分に分けて。
「そいつはゴージャスな話だな。お前と二人で地球産のケーキか、猫用でもな」
熱い紅茶を淹れんといかんな、シャングリラ産だから香りの方はイマイチだがな。
「でしょ? うんと素敵なティータイムが出来るよ、地球産のケーキ」
猫用でもホントの地球産なんだし、きっと充分、美味しかったよ。
あの時代に青い地球があったら、猫用ケーキが作られていたら。
ハーレイと二人で食べたかったな、煮干しパウダー入りのスポンジで出来たケーキでも…。
「うむ。最高に美味かったろうさ、地球産の猫用ケーキはな」
地球の食い物っていうだけで美味さが何倍、何十倍にもなりそうだ。猫用に作った菓子でもな。
しかしだ、前の俺たちが猫用ケーキを食ってた場合は本当に笑うしかないんだが。
「なんで?」
猫用ケーキでも地球産だよ。それだけで特別なケーキなんだよ?
「地球の味だね」って感動しながら食べていたって、可笑しくはないと思うけど…。
感激のあまり泣いていたって、ちっとも変ではなさそうだけど…?
「それはそうだが、前の俺たち。アルタミラに居た頃は餌だぞ、餌」
ケーキなんかがあったか、あそこに。
俺たちが食わせて貰っていたのは餌と水だけだったんだが?
「あっ…!」
ホントだ、餌と水だけだった…。
猫の餌でももっとマシだね、好きなタイプの餌を貰って食べるんだものね。
そんなぼくたちに猫用ケーキって、アルタミラの頃だと贅沢すぎる餌だったんだ…。
地球産の猫用ケーキじゃなくても、猫用に作ったケーキってだけで。
餌と水しか食べられなくって、その餌だってオーツ麦で作った不味いシリアル。栄養だけは充分摂れるけれども、食べる楽しみなんかは無かった。文字通り飼っておくための餌。
地球産の猫用ケーキを食べるどころか、ただの猫用ケーキでさえも貰えなかった、アルタミラ。
ペット以下だった、前のぼくたち。
猫と同じで飼われてはいても、猫はペットで可愛がって貰えて、餌も色々貰える存在。おやつも貰えて、猫用ケーキも。
なのに、前のぼくたちには餌と水だけ、ミルクも貰えはしなかった。
ミュウは実験動物だから。
ペットじゃないから、研究者たちは愛情なんかを与えようとも思わない。彼らだって自分の家に帰ればペットが居たかもしれないのに。猫が居たかもしれないのに。
家の猫には「いい子だな」って、猫用ケーキ。もちろん好物の餌やミルクもたっぷり。
だけどミュウには何もくれなくて、餌と水だけを食べさせてたんだ…。
「前のぼくたち、なんだか悲惨…」
酷い扱いだとは分かっていたけど、猫にだってケーキがあると思ったら惨めだよ。
猫は誕生日とかに猫用ケーキを買って貰えるのに、前のぼくたちは…。
「まあな。人類のヤツらの記念日だ、って時もケーキは出てこなかったし…」
餌が料理になってただけだな、ケーキは無しでな。
自分たちはケーキを食ってただろうに、猫用のケーキくらいは寄越してくれても…。
「前のぼく、相当に悲惨だったのかも…」
猫用のケーキも食べられなくって、餌と水だけ。
アルタミラから脱出した後も、青い地球が無いから地球産の猫用ケーキも食べられなかったよ。
今じゃこだわりの猫用ケーキが売られているのに、最高級品の鴨や牛のもあるのに。
ミーシャだって、ハーレイのお母さんに特製の猫用ケーキを作って貰ったかもしれないのに…。
「俺も同じだと言った筈だぞ、その辺はな」
それに、前のお前が食い物で悲惨な思いをした分、今のお前は恵まれてるぞ。
今度のお前が食っているもの、何もかも全部、地球産だろうが。
毎日の飯も、おやつも、全部。
何から何まで地球で作られた食い物ばかりだと思うがな…?
「そうだけど…。そうなんだけど…」
恵まれてることは分かってるけど、猫用のケーキ。
今のぼくだって凄いと思うよ、素材にこだわっているんだよ?
最高級品の牛のミンチや、鴨のレバーで出来てるケーキ。あんなの、普段に食べられないよ。
それが猫用ケーキなんだよ、「お誕生日に、御褒美に、おやつに」って書いてあったよ。
普段のおやつに食べてるんだよ、こだわりの素材の猫用ケーキ。
猫に負けたよ、ぼくのおやつ。
今のぼくのおやつだって猫に負けちゃってるよ…!
「おい、落ち着け。お前、きちんと記事を読んだか?」
ああいうのは基本的に記念日用のケーキさ、猫用ケーキも人間様のケーキも基本は変わらん。
まずは誕生日で、それから御褒美。気が向いた時に、たまにおやつってトコだ。
猫用ケーキが売られてはいても、毎日食ってはいない筈だぞ。
そういう点では、お母さんがケーキを焼いてくれるお前。
わざわざ買いに出掛けなくっても、しょっちゅうケーキを食ってるだろうが。
今のお前は猫に勝てるさ、ケーキを食ってる回数でな。
「ホント?」
「本当だ。鴨のレバーだの牛のミンチのヤツはともかく、ケーキ勝負ならお前の勝ちだ」
「良かった…!」
前のぼくは猫に負けても仕方ないけど、今のぼくも負けたと思っちゃってた。
ママのケーキは美味しいけれども、最高級品を毎日食べてる猫にはとっても敵わないよ、って。
「ふうむ…。おやつで猫に負けたと思って悲しかった、と」
そんなに猫用ケーキが羨ましかったと言うんだったら。
負けたと思って見ていたんなら、誕生日に、御褒美に、おやつに、ってヤツ。
俺がお前にケーキを作ってやるとするかな、うんと素材にこだわって。
「ハーレイ、ケーキを焼いてくれるの?」
いつなの、ぼくの誕生日とか?
それともおやつに持って来てくれるの、お土産に?
「こら、俺の手料理はお前の家には持って来られないと言ってるだろうが」
ケーキも同じだ、料理と言えないこともないしな。
だから、お前と結婚した後だ。ケーキを作るのはそれからだな。
「そんなに先?」
「待つだけの価値は充分あるだろ、俺の手作りケーキだぞ?」
御褒美はともかく、おやつに幾つも。もちろん誕生日のケーキも欠かせないってな。
その頃に俺が覚えていたなら、いろんなケーキを猫用レシピで。
「ええっ!?」
ハーレイのケーキ、猫用だったの!?
ぼくに作ってくれるケーキは猫用ケーキ…?
「冗談だ。お前がやたら猫用ケーキを連発するから、冗談で言ってみただけだ」
いくら俺でもお前に猫用ケーキは作らん。ミーシャにだったら作ってやるが…。そのミーシャもとっくの昔にいなくなっちまって長いからなあ、猫用ケーキのレシピなんぞは知らないさ。
というわけでな、俺のレシピは人間様用のケーキに限られてるってな。
うんと美味いのを作ってやるから楽しみにしとけ。
フレッシュクリームたっぷりのケーキも、ムースケーキも、いくらでもな。
「うんっ!」
楽しみにしてるよ、ハーレイのケーキ。
結婚したらおやつに食べられるんだね、ハーレイが作ってくれたのを…!
(ふふっ、いつかはハーレイのケーキ…)
どんなケーキが得意なのかな、パウンドケーキはお母さんの味にならないらしいけど。
ぼくのママが作るパウンドケーキがお母さんの味と同じ味だって聞いているから、ママに習ってぼくが焼こうと思ってる。ハーレイのお母さんの「おふくろの味」っていうヤツを。
パウンドケーキはぼくの係で、他のケーキはハーレイが作る。いろんなケーキを沢山、沢山。
(ぼくのおやつをハーレイが作ってくれるんだよ)
誕生日のケーキも、記念日のケーキも、きっとハーレイが作るんだろう。
今から楽しみ、ハーレイのケーキ。
「冗談だ」って言っていたけど、猫用ケーキでもかまわない。
だって、ハーレイが作るケーキは愛情たっぷりに決まっているから。
「ミーシャの猫用ケーキのレシピで作ってみたぞ」って出して来たって、気にしない。
ぼくのために、ってハーレイが作ってくれたケーキだから、ぼくは美味しく食べるんだ。
「ホントに食うのか?」って呆れられても、きっと幸せ、きっと美味しい。
ハーレイが作ってくれたケーキは愛情たっぷり、愛がたっぷり。
美味しいケーキに決まっているんだ、ミーシャの猫用レシピで作ったケーキでも。
煮干しパウダーがたっぷり入ったスポンジで出来たケーキでも、きっと…。
猫用のケーキ・了
※今の時代は、猫用のケーキもある時代。前のブルーよりも恵まれた暮らしをしている猫たち。
「負けた」と思ったブルーですけど、ハーレイが作ってくれるのなら猫用ケーキも歓迎。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
今日は学校が早く終わったから。ぼくの家から近いバス停に着くのも早くて、のんびり散歩。
あちこちの庭や生垣をキョロキョロしながら歩いていたら、幼稚園バスが追い越してった。昔はぼくもお世話になってた幼稚園バス。
少し先で停まって、ちっちゃな子供が降りて来た。お迎えのお母さんもいる。
(ふふっ)
さようなら、ってバスに手を振る男の子。制服も幼稚園の帽子も可愛らしいけど。
肩から下げた通園バッグの他に持ってる小さな袋。お母さんの手作りだろうか、あの中にきっとお弁当。そんなサイズの布袋。
男の子は袋と通園バッグを揺らしながら家に入って行った。お母さんとしっかり手を繋いで。
お弁当箱が弾んでる音が聞こえそうなほど、はしゃいでピョンピョン飛び跳ねながら。
(お弁当箱…)
幼稚園の頃はぼくも持ってた。お気に入りの模様のお弁当箱。お箸とフォークとスプーン入りの箱と一緒にランチョンマットに包んで貰って、袋に入れて。
あんまり沢山食べられないから、お弁当箱は小さかったけど。その代わり中身は色とりどりで、ママが工夫を凝らしてくれた。
(リンゴのウサギとか、タコのウインナーとか…)
一口で食べられそうなサイズのコロッケ、ピックに刺さったハム巻きだとか。
色々と入れて貰って食べてたお弁当だけど、広げるのが楽しみだったんだけれど。
(お弁当、なくなっちゃったんだよ)
学校に上がったら、お昼御飯は給食だった。お弁当の出番はなくなっちゃった。遠足とかに行く時しか持てなくなってしまって、お弁当箱とも滅多に会えなくなっちゃって。
(お弁当箱だって、すっかり普通…)
幼稚園の頃みたいに模様なんかはついていなくて、サイズが優先。誰でも持っていそうな感じのお弁当箱、「ぼくのだよ」って得意になれはしなかった。中身は素敵なんだけど。
今の学校は給食も無くて、お昼は食堂で食べるもの。
部活のある子がランチだけでは足りないから、って休み時間に食べるためのお弁当を持ってたりするけど、学校でお弁当箱はあんまり見ない。もちろん、ぼくも持っては行かない。
(お弁当かあ…)
懐かしいよね、って男の子が入ってった家を眺めて通り過ぎた。
ぼくもあんなに小さかったかな、って。お弁当箱もずいぶん小さいよね、って。
家に帰って、制服を脱いで、それからおやつ。
ママが焼いてくれたケーキを食べながら、ダイニングの窓から庭を見ていて…。
(あれ?)
ぼくはあそこに座っていたよ、って懐かしい記憶が戻って来た。
庭でお弁当を広げていた、ぼく。
うんと小さな、それこそ幼稚園くらいの子供の頃に。
庭の真ん中、ぼくが一人でお弁当。ママはいなくて、パパもいなくて、ぼくだけ一人。
だけどちっとも寂しくはなくて、一人で楽しく食べているんだ。まるで遠足に行ったみたいに、それは御機嫌でニコニコしながら。
(なんで?)
パパもママも一緒にいないというのに、どうして楽しかったんだろう?
お喋りしようにもパパとママは家の中にいるんだし、ぼくは庭だし、無理に決まってる。それに喋ってた覚えもない。ぼくは一人が好きだったんだ。一人きりで食べるお弁当が。
(…お弁当、一人で食べて楽しい?)
幼稚園では友達と食べてた。見せ合いっこして、おかずを交換したりもしてた。一人ぼっちじゃつまらないと思うし、お弁当は賑やかに食べるもの。学校の遠足の時だって、そう。
なのに小さなぼくは一人で、庭の真ん中で楽しくお弁当。
しかも何かを探してた。
お弁当を食べながら何かを探してた記憶。
(…何を?)
一人でお弁当を食べてるだけでも変だというのに、探し物。
食べながら何を探すというのか、座ったままで何が庭で見付かるのか。
(小鳥でも来た?)
それとも生垣の間をくぐって猫でも遊びに来てたんだろうか?
一人で何かを探していた、ぼく。
それが何だか思い出せなくて、いくら考えても出て来なくって。
おやつをすっかり食べ終えちゃっても端っこさえも掴めないから、カップやお皿をキッチンまで返しに行ったついでに訊くことにした。
「ママ! あのね…」
「なあに?」
カップとかを洗い始めたママが手を止めて、タオルで濡れた手を拭いて。
どうしたの、って身体ごと振り向いてくれたから、早速、質問。
「ぼく、庭でお弁当を食べていた?」
「よく食べてたでしょ、ハイキングとかに行けなくなっちゃった時に」
ブルーは身体が弱かったから。
ハイキングに行くのはちょっと無理ね、って時にはお弁当だけ庭で食べていたじゃない。
「そうじゃなくって、ぼくだけ一人でお弁当…」
一人きりだよ、パパもママもいなくて、ぼくだけ一人。
庭の真ん中で一人で食べていた気がするけど、夢だったのかな?
それともホントにやってたのかなあ、一人で食べてもつまらないような気がするんだけど…。
「ああ、あれね」
食べていたわね、って微笑んだママ。
ぼくはホントに一人で食べてたみたいだけれども、どうして一人?
「ママ、ぼくが一人で食べたがった理由、知ってるの?」
ぼくは全然思い出せないけど、ママはどうしてなのか知ってる?
「ええ、知ってるわよ。一人でなくっちゃ駄目なんだよ、って言っていたもの」
パパやママが一緒じゃ駄目だって言って、お弁当を持って出て行くの。
そうしてネズミさんを探していたわよ、庭に座って。
「ネズミ?」
「そうよ、おにぎりを分けてあげなくちゃ、って」
「えっ…?」
なんでおにぎり、ってビックリしちゃった、ぼくだけれども。
思い出しちゃった、ネズミのお話。
幼稚園で聞いて来たのか、それとも絵本を読んだのか。ネズミの国に出掛けたお爺さんのお話。
(おにぎりを落っことすんだっけ…)
おむすびころりん、っていう話だった?
お爺さんが落としたおにぎりがコロコロ転がって行って、ネズミの巣穴に落ちちゃって。
追い掛けて巣穴に入ったお爺さんは、おにぎりの御礼に宝物を貰って帰るんだった。
お爺さんみたいにネズミの国に行きたいな、って庭でお弁当を食べていたぼく。
ネズミが喜ぶのはおにぎりだから、って必ずおにぎりを入れて貰った。
そうだったっけ、と鮮やかに蘇って来た記憶。
おむすびころりん。
そういうお話だったと思う。
ママもお爺さんの話は知ってて、悪いお爺さんのことも覚えてた。
宝物を貰ったお爺さんのことが羨ましくって、ネズミの巣穴におにぎりを押し込んだお爺さん。欲張りなお爺さんは酷い目に遭って、宝物も貰えないっていう結末。
ぼくはおにぎりを押し込むつもりは全く無くって、ネズミが来るのを待っていただけ。
おにぎりが好きなネズミが出て来て、下さいと頼んでくれないかな、って待っていただけ。庭は平らでおにぎりは転がって行かないから。落っことしたって転がらないから。
「ブルーはネズミさんの宝物が欲しかったわけじゃないみたいね?」
宝物の話は聞かなかったわ、ママは一度も。
ネズミさんを待っているんだよ、って言っては一人で出掛けて行くのよ、おにぎりを持って。
「うん…。宝物はどうでもよかったんだよ」
ネズミの国に行ってみたかっただけ。
おにぎりをあげれば行けるんだよね、って庭でお弁当を食べていたのに…。
ネズミはとうとう来なかったみたい、ぼくの所へ。
「それはそうでしょ、ネズミの国に行って来たなら、ブルーは得意でお喋りするもの」
だけどママはブルーから聞いていないものね、ネズミの国のお話は。
いつ頃までやっていたのかしらねえ、庭で一人でお弁当。
「ママ、おにぎり」って何度も何度も頼まれたわよ。
「他のおかずは何でもいいから、おにぎりは絶対入れておいてね」って。
小さかったぼくの憧れだった、ネズミの国。
地面の下にある、ちょっと不思議なお伽話の世界に憧れてたんだ。
そこへ行こうと、せっせとおにぎり。庭で一人でお弁当。
(ぼく、頑張っていたみたい…)
何回くらいやっていたんだろう?
ママが覚えているくらいだから、幼稚園が無い日はいつもやってた?
自分のことだけど傑作だよね、って微笑ましくなる。部屋へ戻る途中も笑いが零れる。
(おむすびころりん…)
ぼくの家でコロコロ転がすんなら、階段くらいしかないんだけれど。
真っ平らな庭でおにぎりを食べながらネズミが来ないか待っていたなんて、流石は子供。部屋に入って窓から庭を見下ろしてみた。
小さなぼくが座っていたのはあの辺りかな、って。
おにぎりを持って、一人で座って、今日こそネズミさんに会うんだよ、って。
窓から離れて、勉強机の前に座って頬杖をついた。
(おにぎり…)
ママがぼくのために何個作ったか、何回くらい作ってくれたのか。おにぎりが入ったお弁当。
それを持って庭に座っていたのに、見付からなかったネズミの国。
とうとうネズミは来てくれなくって、行きそびれてしまったネズミの国。
(…行きたかったんだけどな、ネズミの国…)
身体が弱くてハイキングさえも滅多に行けないぼくだったけれど、冒険の旅がしたかった。家の庭から出発するなら、ネズミの巣穴に入るだけなら弱くても出掛けられるから。
行って来ます、って家の庭からネズミの国へ。
(おにぎりをあげて、巣穴に入って…)
宝物なんかはどうでもいいんだ、ネズミの国さえ見られたなら。冒険の旅が出来たなら。
だって、ちょっぴり英雄気分。
ネズミの国まで行って来たなら。地面の下まで出掛けてネズミの国を見たなら。
英雄になってみたかった、ぼく。
幼稚園でも胸を張って得意でいられる英雄になりたかった、ぼく。
(それどころじゃない英雄だったんだけど…!)
実は本物の英雄だった、誰もが知ってる大英雄だった、チビのぼく。
ぼくじゃなくって、前のぼくだけど。
ソルジャー・ブルーを知らない人なんて誰もいなくて、世界を救った大英雄。正真正銘、本物の英雄、今の世の中、英雄と言えばソルジャー・ブルー。
あの頃のぼくはネズミの国へ出掛けるどころか、星から星へだって飛んで行けてた。生身で宇宙空間を駆けて、とんでもない距離でも一瞬で飛べた。
だけど今のぼくは…。
(おにぎりでネズミの国が限界…)
自分の力で行くんじゃなくって、ネズミの国からの御招待待ち。
招待して貰うために渡すおにぎりだってママのお手製、ぼくが作ったわけじゃない。
なんとも情けない英雄。
しかもそうやって行くつもりだったネズミの国すら行けていないし…。
あまりにも情けなさすぎるかも、って思っていたら、チャイムが鳴って。
窓に駆け寄ってみたら、やっぱりハーレイ。ぼくの恋人。前のぼくだった頃からの恋人。
そのハーレイが部屋に来てくれて、ママがお茶とお菓子を置いてってくれたテーブルを挟んで、二人、向かい合わせ。
もしかしたらハーレイも小さな頃におにぎりを庭で食べていたかも、って気になったから訊いてみることにした。
「ハーレイ、ネズミの国って探した?」
小さかった頃におにぎりを持って、ネズミを探していなかった?
「はあ?」
なんだ、それは。小さかった頃というのはともかく、おにぎりだとか、ネズミだとか。
「おむすびころりん…。ハーレイ、知らない?」
おにぎりを落としたらネズミの国に行けるんだよ。おにぎりの御礼に呼んで貰えるって…。
「ああ、あれか。お爺さんがおにぎりを落とす話だな」
お前、ネズミを探してたのか?
あの話みたいにネズミの巣穴に入ってみたくて、おにぎりを持って探していたのか?
「うん。まだ幼稚園に行ってた頃に…」
ぼくの家の庭で探してたんだよ、ネズミがいないか。
会えたら御馳走してあげなくちゃ、って庭で一人でおにぎり食べてた。
おにぎりが入ったお弁当だよ、おかずは何でも良かったんだけど、おにぎりは必ず要るんだよ。
ネズミにあげるには、おにぎりが無くちゃ。
「おにぎりを一人で食っていただと? いや、おにぎり入りの弁当か…」
チビが一人で弁当だなんて、そこまでして行きたかったのか?
ネズミの国に行きたかった理由を聞きたいもんだな、出掛けて行って何をするんだ?
「別に何も…。行ければいいな、って思っただけだよ」
ネズミの国まで行って来たなら英雄でしょ?
地面の下の世界で冒険なんだよ、家の庭から冒険の旅に行ったんだよ、ってみんなに自慢できるもの。身体の弱いぼくでも、冒険。
「なんだ、宝物を貰いに行くんじゃないのか」
てっきりそうかと思ったんだが、宝物はどうでもいいんだな?
ネズミの国に行くことが大事で、冒険したかっただけってわけだな。
「そう。行って来た証拠に何か欲しいけど、それで充分」
宝物までは要らないよ。ネズミの国に行って来ました、って分かる何かがあればいいんだ。
「欲の無い奴だな、せっかく出掛けて行ったのに…」
まあ、幼稚園くらいの子供だったらそういうものかもしれないが。
宝物よりも先に冒険かもなあ、別の世界を見に行けるだけで充分なのかもしれないな。
「ハーレイは?」
一人でお弁当、食べてなかった?
おにぎりを持って、家の庭で一人。
「俺は一度もやっていないな。いや、庭で一人で弁当を食ったことはあるかもしれないが…」
そもそもネズミを探していない。
ネズミの国に行こうと思っていないし、ネズミにおにぎりをやろうとも思っていなかったな。
「そうなの?」
おにぎりをあげたらネズミの国に連れてって貰えるのに…。ハーレイ、おにぎり、あげないの?
「ネズミにプレゼントするつもりは無い」
握り飯は自分で食うもんだ。俺の好みの具が入ってれば尚更だな。
ただの塩おにぎりにしたって、俺の弁当なんだから。
なんでネズミにくれてやらんといかんのだ。うっかり地面に落としたのなら仕方がないが…。
お前が言ってる話にしたって、おにぎりがネズミの穴に落っこちたのは偶然だろうが。
握り飯をネズミの巣穴に無理やり押し込んじまったら駄目なんだぞ。
ネズミを探してプレゼントとなると、お前、おにぎり、押し付けてないか?
「…そうなのかも…」
だからネズミは来なかったのかな、おにぎりなんか要らないよ、って。
間に合ってます、って断られたかな、ぼくのおにぎり…。
「そうなんじゃないか?」
連れてってくれ、と用意したなら、そいつは巣穴に押し込んでるのと変わらんだろう。
小さかったお前は気付いてなくても、ネズミにしてみりゃ押し売りだってな。
おにぎりをやるから迎えに来い、と偉そうに言われても出てはこないさ。
「そんなつもりじゃなかったんだけど…」
親切の押し売りをやってたのかな、あの頃のぼく。
おにぎりを用意してネズミが来るのを待っていたなら、立派に押し売り?
「でなきゃ罠とも言うかもしれんな、ネズミ用の罠」
おにぎりが餌で、そいつを食ったら案内するしかないっていう罠。
チビの頃のお前を自分の国まで、どうぞいらして下さいとな。
「押し売りどころか罠だったの、あれ?」
なんだか自分が悪者みたいな気がして来たよ。悪いお爺さんと変わらないほど酷い欲張り。
「いいんじゃないか? 小さな子供はそんなもんだろ」
自分が王様みたいなもんだ。思い込んだら一直線だし、そいつはそいつで可愛いじゃないか。
おにぎりを食え、って庭でふんぞり返っていてもな。
どうやらネズミに向かって押し売りをやっていたらしい、ぼく。
おにぎりを食べに出て来たら最後、ぼくを案内しなくちゃいけない罠を仕掛けたらしい、ぼく。
それじゃネズミは来てくれないよね、って自分に溜息が出そうだけれど。
(おにぎり、真剣だったんだけどな…)
押し付けた気持ちは全く無くって、押し売りでも罠でも何でもなくて。
ネズミの国に行ってみたいよ、って思ってだけで、ネズミを困らせるつもりなんかは…。
(でも、連れてってくれ、って頼んでるなら困っちゃうかも…)
あんなに何度も用意したのに、無駄だったらしいぼくのおにぎり。
ママが作ってくれたおにぎり。
お弁当に詰めて、これが大事だと庭で一人で食べてたおにぎり…。
(…おにぎり?)
其処で初めて気が付いた。
ハーレイはなんて言ったっけ?
握り飯とも言っていたけど、確か…。
「ハーレイ。ねえ、ハーレイもおにぎりだよね?」
「はあ?」
なんだ、って鳶色の瞳が丸くなったから、「おにぎりだよ」って繰り返した。
「おにぎりの名前。ハーレイもおにぎりって言っていたでしょ?」
おむすびって言うんじゃなくて、おにぎり。ぼくもおにぎりって呼んでいるけど…。
「ああ、握り飯の呼び方か。おにぎりと呼ぶか、おむすびと呼ぶか」
今じゃどっちでもいいみたいだなあ、好みで呼んでいるんじゃないか?
ただし、おむすびころりんの話。
あの話を「おにぎりころりん」と呼んだ奴には、お目にかかったことが無いがな。
「それじゃ、元々はおむすびなの?」
おむすびって呼ぶのが正しかったの、ずうっと昔は?
おにぎりじゃなくて、おむすびだった?
「そうと決まったわけでもないが…。おむすびころりんの話が出来た頃には、だ」
おむすびと呼ぶ時は形が決まっていたそうだ。
よくある三角形のおにぎり、あの形だけがおむすびだ、とな。
「へえ…!」
三角形のおにぎり、転がりにくい形だと思うんだけど…。
それがコロコロ転がったんなら、ネズミの巣穴に落っこちたなら。
ホントに凄い偶然なんだね、小さかったぼくが庭で待ってもネズミは来なくて当然だよね。
うーん…、と自分の欲深さを思い知らされた、ぼく。
宝物が欲しかったわけじゃなくても、ネズミの国に案内してよ、って言ってるだけでネズミからすれば充分に迷惑だっただろう。
家の庭でお弁当を広げてるだけのチビが「連れて行って」って待っているんだから。
ネズミの国に行ってみたくて、冒険したくて待っているチビ。
そんなのを案内しなくちゃいけない義理なんか無いし、ネズミは笑って見ていただろう。
今日も馬鹿なチビがお弁当を一人で広げてるよ、って、おにぎりを用意しているよ、って。
英雄になりたくて頑張るチビだと、今日も一人でお弁当だと。
(…英雄どころか間抜けだったよ…)
ネズミにさえ鼻で笑われてしまうか、迷惑がられただろう幼稚園時代の小さなぼく。
前のぼくなら大英雄なのに、ネズミの国を旅した英雄にさえもなれなかった、ぼく。
そんなぼくが一人で庭で食べてた、大事なおにぎり。
お弁当に必ず入れて貰った、ママのおにぎりなんだけど…。
「ハーレイ。前のぼくたちの頃には無かったね」
御飯を握って作るおにぎり。白い御飯を食べる時代じゃなかったものね。
「うむ。そういう文化が無かったからな」
おにぎりも無ければおむすびも無いな、三角形をした一番有名なヤツでさえもな。
海苔だって無い時代だったし、おにぎりなんかは作りようがない世界だったんだなあ…。
「今じゃおにぎり、普通なのにね」
お弁当って言ったら、おにぎり。
普通の御飯を入れていた子もたまにはいたけど、小さい頃には大抵、おにぎり。
家によって形は色々だったし、入ってる具だって色々だけれど…。
でも、お弁当の定番だよ?
ぼくがネズミにあげたかった時は、ママがサンドイッチとかを作っちゃったら困るから注文しただけで、御飯が入るお弁当だったら普通はおにぎり。
学校に入ってもお弁当の時はおにぎりが多かったかな。
「俺はお前くらいの年になっても、おにぎりを持って学校に行ってたもんだが?」
食堂が開く昼休みまでは腹が持たんからなあ、弁当だったり、おにぎりだったり。
そいつを休み時間に食うんだ、お前のクラスにもそういう生徒がいるだろう?
おにぎりの日の俺のおにぎりは大きかったぞ、なにしろ弁当の代わりだからな。
このくらいだ、ってハーレイが両手の親指と人差し指で作ってみせた三角形。
ハーレイの手も大きいけれども、その手が示したおにぎりもビックリするほど大きい。ぼくなら半分も食べられやしない、と思ったのに、ハーレイはそれを二個だって。
大きすぎるおにぎりに具を詰めて貰って二個持って、そして学校へ。お昼休みまでの休み時間に二つとも食べて、お昼はもちろん食堂で食べていたっていうから凄すぎる。
しかも大きいだけじゃない。御飯をギュウギュウに固めたおにぎり、それが二個。お昼御飯とは別に二つも、そのおにぎりを持ってない日はお弁当。
(ハーレイ、大きく育つ筈だよ…)
前のハーレイは何を食べて大きく育ったんだろう、って気になるほど。
だけど、その話は訊いちゃいけない。
前のハーレイの記憶は機械に消されて残っちゃいないし、成人検査よりも後に育った分の栄養は餌から摂ったに決まっているから。不味くても栄養だけは満点だった餌のオーツ麦のシリアル。
でも、シリアルで大きく育つためには基礎になった頑丈な身体がある筈。
その身体を作ったお弁当や食事は、前のハーレイを育てたお母さんが作ったんだろう。
あの頃だったらサンドイッチか、それともランチボックスを余計に持たせていたか。
気になるけれども訊いちゃいけない、訊いてもハーレイは答えられない。
(だって、覚えていないんだもの…)
もしも訊いたら、ハーレイだって悲しくなるに決まってる。思い出せない、って。
だから質問を変えなくちゃ。
同じ訊くなら、楽しいことを。ハーレイが笑顔で答えられることを。
せっかくなんだし、やっぱり、おにぎり。
「今のハーレイも、そんなおにぎり食べてるの?」
うんと大きな、そのおにぎり。今でもたまには食べてたりする?
「親父と一緒に釣りに行くなら、持って行ってることもあるなあ」
「お弁当に?」
「いや、おやつだ。釣りってヤツは朝が早かったりするからな」
弁当を持って出掛けて行っても腹が減る。
そういった時には握り飯だな、昼飯までに出して食うんだ。釣りをしながら片手で食えるし。
「釣りの途中に食べてるんなら、ハーレイ、ネズミに会えそうだね」
おにぎりを落っことしちゃって、コロコロ転がって行くんだよ。
ネズミの巣穴にコロンと落ちたら、ハーレイ、ネズミの国に行けるよ。
「俺のおやつだぞ、おやつは自分で食うもんだ。落としてたまるか」
腹が減るだろうが、それにおにぎりもネズミにくれてやるにはもったいない。
「もったいないって…。ハーレイのおにぎり、上等なの?」
ネズミには分けてあげられないほど、上等な中身が詰まってる?
いいお肉で作った時雨煮だとか、新鮮なイクラがたっぷりだとか。
「そこまで具には凝っちゃいないが、釣りに持って行く時の握り飯にはこだわってるのさ」
俺のはクラシックスタイルなんだ。握り飯じゃなくて入れ物がな。
「えっ?」
何か特別なお弁当箱?
おにぎり専用っていうのがあったりする?
「特別と言えば特別だな。弁当箱の売り場には置いてないからなあ、竹の皮」
「竹の皮?」
「タケノコは知っているだろう? あれの皮だな」
竹が生えてくる時に被っている皮。そいつを使って包むんだ、俺は。昔の人の知恵だってな。
「なんで?」
おにぎりを包むのに丁度いい大きさとか幅のものなの、竹の皮って?
「そういった面ももちろんあるがだ、殺菌作用がバッチリなんだ」
衛生面で優れてるんだな、昔の人がどうやって見付け出したかは知らないが…。
ついでに雰囲気もいいだろう?
竹の皮の包みを開いて食うには、釣りに出掛けるような野外が一番似合っているからな。
「それ、食べてみたい…!」
竹の皮に包んだおにぎり、食べてみたいよ。一度、作って持って来てよ。
「いつかはな」
俺の自慢の具を入れて、お前が食べられそうなサイズに握って。
ちゃんと竹の皮に包んでやるがだ、まだまだ当分、先のことだな。
「おにぎりのお土産も駄目なの、ハーレイ?」
「当然だろうが。おにぎりといえども、俺が作って包む以上は俺の手料理になるからな」
お前のお母さんの手前もあるから、おにぎりは駄目だ。諦めるんだな。
「そんな…!」
御飯を握るだけじゃない!
握って固めて海苔を貼るだけでも手料理になるの、ただの御飯の塊なのに…!
酷い、って頬を膨らませたけど、ハーレイは聞いてくれなくて。
駄目なものは駄目だとしか言ってくれないから、ぼくはプウッと膨れたままで。
「おにぎり、結婚してからなの?」
でなきゃ婚約するまで駄目なの、ちょっと御飯を握って固めるだけなのに…。ハーレイのケチ!
「ケチと言われても、そこは譲れん。その代わり、いずれ美味いのを作ってやるから」
それまで待ってろ、俺のおにぎり。
「どんなおにぎり?」
「そうだな、焼きおにぎりとかもいいなあ」
醤油でもいいし、味噌でも美味い。焼き立ては実に美味いんだぞ。
「ホント!?」
ハーレイがおにぎり焼いてくれるの、御飯を固めるだけじゃなくって?
「ああ。そして竹の皮に包んだおにぎりってヤツもやろうじゃないか」
俺の分はデカイ包みで、お前の分は小さめで。そいつを二人で並んで食おう。
「何処で?」
「親父と釣りに行く時だ。お前も連れて行ってやりたいと何度もうるさく言っているしな」
「わあっ…!」
それじゃ何処かの山の中かもしれないね。
おむすびを落としたらネズミの巣穴にコロンと転がって入っちゃいそうな、山の中。
竹の皮の入れ物が似合いそうだね、そういう所で食べるおにぎり。
ハーレイと二人で並んで座って、おにぎりを食べながら釣りなんだね…!
小さかったぼくが庭で待ってたネズミに出会えそうな、いつかハーレイと釣りに行く場所。
ハーレイのお父さんが連れてってくれる、きっと何処かの山の中。
竹の皮で包んだおにぎりを持って出掛けて行くけど、ちゃんとおにぎり、持ってるけれど。
でも、おにぎりは落とさない。
間違ったって落としやしないし、しっかり掴んで食べなくちゃ。
だって、ハーレイが作ってくれたおにぎり。
ネズミなんかにはあげられないんだ、ぼくの大事なおにぎりだから…。
おにぎり・了
※幼かった頃のブルーが行こうとしていたネズミの国。子供らしい夢ではあります。
いつかはハーレイが作ってくれた「おにぎり」を持って二人でお出掛け。素敵ですよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(わあ…!)
鯨、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
学校から帰って、おやつの後に広げた新聞。シロエ風のホットミルクを飲みながら。
(とっても綺麗…)
海を思わせる青いイルミネーションが輝く広場に浮かんだ鯨。写真に添えられた解説によると、ザトウクジラという種類。
夜の広場に浮かび上がったザトウクジラは本物そっくり、空中を泳いでいるかのようで。
(これって実物大なんだ…)
しかも鯨は動くという。新聞の写真では分からないけれど、海で見られる姿さながら、尾びれや身体をダイナミックにくねらせて空を泳ぐのだと。
水族館の前の広場で立体映像を投影中。
ただし夜のみ、夜に水族館まで来ようという人への御礼の期間限定イベントなるもの。
立体映像だけに、鯨が泳ぎ回る範囲は広場の上空だけなのだけれど。
(見たいな…)
水族館のイベントだから、様々な鯨が投影される。ありとあらゆる種類の鯨。
中でも目玉は最大の動物と名高いシロナガスクジラで、それが泳ぐさまを見られるという記事がブルーの心を惹き付けた。
シロナガスクジラ。
前の生で暮らした白い鯨にそっくりだという巨大な鯨。
シャングリラは鯨によく似ていた。意図したわけではなかったけれども、改造の過程でそういう形に落ち着いた。
(人類軍にも鯨に見えてたみたいだしね?)
彼らが名付けたシャングリラの名前はモビー・ディック。SD体制よりも遥かな昔の小説に出てくる白い鯨から取られた名前。
(モビー・ディックはシロナガスクジラじゃないんだけどな…)
シャングリラでキースと対峙した時、彼の心を読んでモビー・ディックの名を知った。キースに逃亡されてから後、ナスカの悲劇に至るまでの間に気付いて苦笑したものだ。
(あっちはマッコウクジラなんだよ)
人類のネーミングセンスはなかなかだったが、モビー・ディックはマッコウクジラ。元になった小説にマッコウクジラとあった筈だ、と些か可笑しく、愉快でもあった。
シャングリラはマッコウクジラに見えはしないと思うのだが、と。
(このイベントだと…)
マッコウクジラも見られるのだろう。
投影の順番は分からないけれど、広場で夜空を見ていれば、きっと。
シャングリラを思わせるシロナガスクジラに、モビー・ディックなマッコウクジラ。
(見に行きたいなあ…)
水族館まで行ってみたいな、と記事と写真を何度も眺める。鯨の立体映像を見に、水族館へ。
ブルーの住む町に海は無かったが、代わりに大きな水族館。
巨大な水槽を泳ぎ回る魚や、色とりどりのイソギンチャクなどの生物も居た。幼い頃には両親と一緒にイルカのショーを見ていたものだ。
充実した水族館だったけれども、流石に鯨はいなかった。水族館で飼うには大きすぎる鯨。
小さな種類の鯨は飼えても、シロナガスクジラはとても飼えない。マッコウクジラも。
だから立体映像で見て貰おうという夜のイベント、夜空を泳ぐ鯨たち。
青いイルミネーションに彩られた広場に浮かぶ姿は、どれほど素敵な光景だろう。次から次へと映し出される実物大の鯨たち。
シロナガスクジラにマッコウクジラ。
前の自分が守った船にゆかりの鯨が実物大で。
(どっちも見たことないんだよ…)
今の自分も知らないけれども、前の自分も本物の鯨を知らなかった。
シャングリラを白い鯨のようだと思ってはいても、それは知識を持っていただけ。データベースから得ていた知識で、生きて泳いでいた鯨は知らない。
(わざわざ探しに行けないしね…)
アルテメシアの海に鯨は居たらしいのだが、泳ぐ姿は見かけなかった。海の上を飛んだり、海に潜って隠れたりもしたのに、出会わなかった。
シャングリラそっくりのシロナガスクジラに会えはしなくて、影さえ一度も見られなかった。
(海の中には居た筈なのに…)
運が良ければ出会えそうだ、と思っていたのに、とうとう会えずに終わってしまった。あの星に辿り着いた時には「鯨が見られるかもしれない」と心躍らせていたというのに。
シャングリラを白い鯨に仕上げた時には、まだ海さえも見ていなかった。
メギドに滅ぼされたアルタミラが在った星、ガニメデに海があったかどうかも覚えてはいない。だから知らない、海というもの。もちろん鯨も知りはしなくて。
いつかは地球の海で本物の鯨を見たいものだ、と夢を見ていた。
母なる地球でシャングリラと鯨が出会えればいい、と。
けれども地球への道は遠くて、辿り着いたのが雲海の星。それでも海はあったから。
そこに鯨がいないものかと、見られないものかと期待したのに、雲海からは海は見えない。外に出た時しか見られはしない。
(偶然に賭けるしかなかったんだよ、アルテメシアで鯨に会うには)
シャングリラが堂々と海の上を飛べたら、きっと鯨も見られただろうが、出来ない相談。
だから更なる夢へと広がる。
鯨を見るならいつか地球でと、青い水の星で鯨を見ようと。
(だけど…)
地球には行けずに終わってしまった。前の自分はメギドで散った。
本物の鯨も見られないまま、ただの一度も出会えないままに。
(鯨…)
見たかったんだけどな、と零れた溜息は前の自分のものだろう。
冷めてしまったホットミルクの残りを飲み干し、名残惜しげに新聞を閉じた。
キッチンの母にお皿やカップを返しに行って、階段を上がって自分の部屋に戻ってから。
(本物の鯨…)
今だと何処で出会えるだろう、と勉強机の前に座って考えた。
水族館には鯨はいない。シャングリラを思わせる巨大なシロナガスクジラを飼ってはいない。
鯨に会うなら、本物の海。何処までも広がる海に行かないと出会えない鯨。
しかも鯨は大きいから。
砂浜に泳いで来たりはしないし、海水浴に出掛けて見られるわけでもなさそうだ。もっと深くて船が通ってゆくような海。そういう所を鯨は自由に泳ぐのだろう。
(ハーレイ、見たことあるのかな?)
水泳が得意な今のハーレイ。
海が好きだし、普通の人なら泳がないような沖にまで泳いで出てゆくと聞いた。
それにハーレイの父は釣りをするから、船に乗って遠い遥かな沖へも一緒に出掛けている筈だ。
(もしかしたら…)
ハーレイは鯨を見たかもしれない。
この地球の上で、シャングリラそっくりのシロナガスクジラが泳ぐ姿を。
出会ったかもね、とブルーが思いを巡らせていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から下を見下ろしてみれば、門扉の向こうで手を振る人影。ブルーの大切な想い人。
母に案内されたハーレイが部屋を訪れ、テーブルを挟んで向かい合わせ。
ブルーは早速、鯨の話を切り出した。
「ハーレイ、鯨を見たことはある?」
「何を今更…。そりゃまあ、俺は見たことが無いが」
前の俺には馴染みだったぞ、シャングリラ。もっとも、大抵は俺は鯨の中だったがな。
「シャングリラじゃなくて、本物の鯨」
大きなヤツだよ、シロナガスクジラを何処かで見てない?
「今の俺がか?」
「そう。ハーレイ、シロナガスクジラに会ったかなあ、って…」
海が好きだから、一度くらいは会ってるかも、って思うんだけど…。
「生憎と俺は見てないなあ…」
「シロナガスクジラ、ハーレイが行くような海にはいないの?」
もっと遠くに行かなきゃ駄目なの、簡単に行ける海では無理?
「そういうわけでもないんだが…」
運の問題っていうヤツもあるな、親父とおふくろは見てるんだがな。
でかかったぞ、って話してくれたが、俺は一緒じゃなかったんだよな、その時にはな。
「そっか…。ハーレイも知らないなら、連れてってくれない?」
シロナガスクジラ、見たいんだよ。だから連れてって欲しいんだけど…。
「何処にだ?」
「水族館」
この町にあるでしょ、あの水族館。
「はあ?」
ハーレイは鳶色の瞳を丸くした。あの水族館にそんな大きな鯨がいたかと、シロナガスクジラを飼っているなど一度も聞いてはいないのだが、と。
「違うよ、本物の鯨じゃなくて…」
立体映像の鯨なのだ、とブルーはハーレイに説明した。
実物大の様々な鯨が夜の広場を泳ぐイベント。それの目玉がシロナガスクジラで、是非とも夜に行ってみたいと。暫くはやっているようだから、と。
「夜だって?」
おまけに水族館の前の広場か、とハーレイは苦い顔をした。
「俺にはお前をデートに連れて行く義務なんぞ無いと思うがな?」
どうしてわざわざ出掛けて行かんとならんのだ。お前を連れて。
「先生と生徒でいいんだよ!」
水族館に出掛けるんだから、引率の先生と生徒で充分。恋人同士じゃなくていいから。
ぼくは鯨を見に行きたいだけで、デートだなんて思ってないから!
「だが、そのイベント。夜しかやっていないんだろうが」
「そうだけど…」
イルミネーションとセットで夜だよ、夜に水族館に出掛けた人だけ見られるんだよ。
「お前の家の門限、何時だ?」
「んーと…。ぼくは門限なんて一度も言われてないけど、何時だろう?」
でも、門限があったとしても。
ハーレイと一緒だったら延びると思うよ、遅い時間になったって平気。きっと、十時でも。
「十時だと? それは相当遅いだろうが」
「でも、鯨…。いろんな鯨を投影するから、何度も見てたら遅くなりそう」
シロナガスクジラ、一回だけ見て帰ってくるなんてつまらないものね。二回は見たいし、時間があるなら三回だって、四回だって。
ハーレイが一緒に行ってくれるんなら、十時を過ぎてもパパもママも何にも言わないよ。だって先生と一緒なんだし、帰りも家まできちんと送ってくれるに決まってるものね。
「家に帰るのが十時を過ぎるとは不健全だな、デートだからな」
子供のデートは門限までには帰るもんだし、それ以前にお前のその年で、だ。
デートなんぞに行こうというのは好ましくないな、おまけに夜のデートとくれば論外だ。
「デートじゃなくて引率だってば!」
先生と生徒で見に行くだけだよ、手を繋ぎたいとか言わないから!
ハーレイとはぐれないように服の裾とかを掴むだけにするから、先生の立場で連れてってよ!
「お前は先生と生徒のつもりでいいかもしれんが…」
俺がそういう気にならないんだ、デートだとしか思えないから駄目だ。
「なんで?」
水族館だよ、学校からでも見学に行ったりする所だよ?
前の学校の時にも行ったし、今の学校でも何年生かで出掛ける筈だと思うんだけど…。
引率の先生、大勢行くから、古典の先生が水族館でも全然おかしくないと思うよ?
「確かに俺も今までに何度か引率で生徒を連れては行ったが…」
そいつは昼間だ、生徒を連れて見学するのは学校があるような時間だろうが。
しかしだ、夜の水族館はな、デートコースの王道なんだ。
「嘘…!」
ハーレイ、嘘をついてない?
ぼくを連れて行くのが嫌だから、って口から出まかせ言ってるんでしょ…!
ただの鯨の投影なのに、とブルーは怒ったのだけれども。
ハーレイが言うには、ブルーが何も知らないだけで。
夜の水族館と前の広場は本当に有名なデートコースで、カップルの姿が目立つ場所。立体映像もイルミネーションも、そういう来客が増えるようにと行われるイベントの一環らしい。子供たちは夜にはあまり来ないし、カップル向け。
「…そんな…。あの鯨、デート用だったの?」
実物大だよ、本物そっくりの映像だよ?
デートじゃなくても見たいって人が沢山いそうなイベントなのに…。
「もちろん、一般客も狙っているさ。期間中はデート目当てじゃない客だって増えるだろう」
それこそ鯨が好きそうなチビも見に行きそうだぞ、帰りはすっかり寝ちまってそうな幼稚園児。
だからお前もお父さんかお母さんに連れてって貰え。
門限の心配は要らんわけだし、ついでに外で食事もするとか。
「でも…。ハーレイと晩御飯、食べられないよ」
鯨の投影を見に出掛ける日は、ハーレイと食事が出来ないんだけど…。
「そこは潔く諦めるんだな。お前、鯨が見たいんだろうが」
鯨と俺とは両立しない、ってコトで鯨を選んでおけ。
「えーっ!」
酷いよ、ぼくはハーレイと食事をしたいのに!
ハーレイが家に来てくれる日に、留守になんかはしたくないのに!
仕事帰りのハーレイが寄ってくれる日は決まってはいない。仕事が早く終われば会えるし、その逆ならば会えずに終わる。夕食の席にハーレイの姿があるかどうかは神様次第。
もしも鯨を見に出掛けた後、ハーレイが家を訪ねて来たなら、食事の機会が一つ無くなる。鯨を眺めに行ったばかりに、ハーレイと食事が出来なくなる。
それだけは嫌だ、とブルーは鯨を頭から追い出しにかかったのに。
見に行きたかった鯨を忘れようと思っているのに、ハーレイは「うーむ…」と腕組みをして。
「留守にしたくないと言うんだったら、俺が来られない日を教えてやろうか?」
この日はちょっと難しそうだな、と思ってる日があるからな。
頑張って仕事を片付ける計画を立てちゃいたがだ、その日は俺は仕事をして。お前はお父さんやお母さんと一緒に水族館に行けばいいだろ、そうすりゃ全て解決だ。
俺との食事を逃しはしないし、鯨だって見に行けるってな。門限の心配も要らんからなあ、気が済むまで何度でも見られるぞ、鯨。
「やだ」
「何故だ? いいアイデアだと思ったんだが」
俺は仕事で来られないんだし、丁度いいだろ、その日に行けば。
「ハーレイが来られない日に決まってるから、って遊びに行くのは嫌だよ、ぼく」
「なんでそうなる」
来られないって言っているんだ、遊びでも何でも自由に過ごせばいいだろうが。
「ぼくはそこまで不真面目じゃないから」
「はあ?」
「ハーレイが頑張って仕事をしてる、って分かっているのに、ぼくだけ、遊び」
そんなの不真面目に決まっているでしょ、恋人が仕事をしてる間に遊ぶだなんて。家で大人しく過ごすべきだよ、そういう日には。
「お前なあ…」
チビのくせして何を言うんだか、普段は普通に過ごしてるだろ?
俺が帰りに寄らないからって、家の手伝いとか勉強ばかりをしてるってわけじゃないだろうが。
本を読むのも立派な遊びだ、水族館へ行くのと大して変わりはしないが?
鯨の投影を見たいんだろうが、とハーレイに勧められたけれども。
確かに鯨は見たかったけれど、そんな方法でしか見られない鯨は要らないから。
ハーレイの仕事と引き換えの鯨は嬉しくないから、ブルーは未練を追い払って言った。
「鯨、諦めるよ…」
きっと御縁が無かったんだよ、最初から。
たまたま記事を見付けたけれども、もしも新聞を読まなかったら、知らなかったと思うから。
「見たかったんじゃないのか、シロナガスクジラ」
シャングリラそっくりの鯨だからなあ、お前、見たくてたまらないだろうに。
諦めちまって後悔しないか、考え直すんなら今の内だぞ。俺が来られない予定の日は、だ…。
「いいよ、その日は知らなくっても。その日、ハーレイが来られなくてもかまわないよ」
水族館に行っておけば良かった、なんて考えたりはしないから。
ハーレイが仕事で来られないって分かっているのに、ぼくだけ遊びに行けないから。
「しかしだな…。せっかく見られるチャンスなんだし…」
行っておけばいいと思うんだがなあ、チビはチビらしく、お父さんたちと。
「いいんだってば、いつかハーレイとデートで見るから」
「デート?」
「夜の水族館、デートコースだから連れて行けないって言ったじゃない」
ハーレイとデートが出来るようになった頃に、またイベントをするかもしれないし…。
そしたらハーレイと見に出掛けるから、その時でいいよ。
デートでゆっくり好きなだけ見るんだ、シロナガスクジラ。モビー・ディックなマッコウクジラとか、他の鯨も沢山、沢山。
「ふうむ…。またイベントをやるって可能性は大いにあるなあ…」
新聞に載ってたくらいなんだし、多分、新しいイベントだろう。
好評だったら定番になって、年に何度もやるようになる。
俺たちがデートに出掛けられる頃にもやっていたなら、二人で行くとするか。俺の車で夜の町を走って水族館まで、お前の知らない鯨を見にな。
そういうデートをしようじゃないか、とウインクしたハーレイが「そうだ」と手を打った。
いいアイデアを思い付いたと、これぞデートだと。
「なあ、ブルー。いつかデートで見ると言うなら、本物の鯨を見に行かないか?」
立体映像もいいが、本物の鯨。水族館じゃなくて、ちゃんと海でな。
「なに、それ?」
そんなのがあるの、海で鯨を見られるの?
いつも必ず鯨がいます、って決まってる場所でも知っているわけ?
「ホエールウォッチングというヤツなんだが…。聞いたことないか?」
「…ホエール…?」
「ウォッチングだ、鯨を見に行くツアーさ」
船に乗って鯨が見られる場所まで行くんだ、いろんな鯨に会えるのが売りだ。
「鯨を見に行くって…」
船に乗っていれば鯨に会いに行けるの、いろんな鯨に?
海に出るなら、うんと大きな鯨もいるよね、それこそシロナガスクジラとかも…!
「うむ。親父とおふくろはそれで見たんだ、釣りの途中ってわけじゃなくてな」
俺に自慢していた、シロナガスクジラ。
ただし、あくまで運らしいんだが…。
この前は見られたから今回も、って風にはいかんらしいな、相手は野生の生き物だしな。
どんな鯨に出会えるのかは、運と鯨の気分次第。
ホエールウォッチングとはそういったものだ、とハーレイはブルーに説明してから。
「どうだ、俺と一緒に出掛けてみるか? ホエールウォッチング」
シロナガスクジラに会えるかどうかは、本当にお前の運次第だがな。
「行く!」
夜の水族館でデートもいいけど、ホエールウォッチングも行ってみたいよ。
ハーレイと一緒に船に乗って行って、シロナガスクジラに会えたらいいな。とっても大きな鯨に会えたら、それがシロナガスクジラだよね?
「ちゃんと説明してくれる人だっているさ、鯨の種類を」
プロだからなあ、影を見ただけで分かるそうだぞ、鯨の名前。
そうして鯨が逃げて行かない距離を保って見せてくれるのさ、ゆっくりとな。
「絶対、行きたい!」
連れて行ってよ、そういうデート。
ハーレイと一緒に本物の鯨に会いに行けるツアー。
立体映像のシロナガスクジラも素敵だけれども、本物の方がいいに決まっているもの…!
「分かった、いつかは連れてってやるさ。ただし、結婚してからだぞ?」
日帰りで行くには遠すぎるからな、泊まりの旅行になっちまうからな。
「泊まりのデートは駄目なの、ハーレイ?」
デートに行けるってことは、ぼくは大きくなってるんだし…。
前のぼくと同じ背丈になってるんだし、泊まりでもいいと思うんだけどな。
結婚してからだなんて言っていないで、デート出来るんなら連れて行ってよ。
「おい。お前を泊まりで連れ出すだなんて、お前のお父さんたちに何と言い訳すればいいんだ」
「えっ、先生と生徒で旅行くらいは普通でしょ?」
ハーレイは家族みたいなものだし、ぼくを旅行に連れてってくれても問題無いよ。
パパもママも「行ってらっしゃい」って言ってくれるよ、大丈夫。
「そのまま教師と生徒で行くならかまわないが、だ」
いずれ結婚するんだろうが。
その時に俺がうんと気まずい立場になるんだ、お前を旅行に連れて行ったりしてればな。
旅行の間は何をしてたか、どういう関係だったのか。
お父さんとお母さんの前で脂汗だぞ、「あの時はすみませんでした」とな。
「えーっと…。それじゃ、結婚よりも前に泊まりの旅行は駄目ってこと?」
「当然だ!」
結婚しないと言うなら別だが、俺と結婚したいんだったら。
その辺はきちんとしておかないとな、デートは日帰りの範囲ってことだ。
元が教師と生徒だからな、とハーレイは厳しい顔をする。
泊まりの旅行などには行かずに、デートは日帰り、門限も厳守。
いくら恋人同士になっても、付き合いはあくまで健全に、と。
「ちょっと待ってよ、健全にだなんて…」
それじゃ、本物の恋人同士になれるのはいつ?
日帰りで門限厳守のデートじゃ、いい雰囲気になれそうな所が少なそうだよ…!
「そういったことは結婚するまでお預けだってな」
お前が大きく育ったからって、すぐにやらなきゃいけないわけでもないんだし。
「そんな…!」
嘘でしょ、ハーレイ?
ぼくがまだまだチビだから、って嘘を言ってるだけだよね?
「いや? 少なくとも、俺はそのつもりだが?」
嘘も冗談も言っちゃいないぞ、お前とそういう関係になるなら結婚式を挙げてからだな。
「酷い…!」
ぼくの背丈が伸びたなら、って言ったじゃない!
どうしてそういうことになるわけ、結婚するまで駄目だなんて…!
「酷くないだろ、お前と一生、付き合うんだからな」
ちゃんと結婚して、一緒に暮らす。お前は俺の嫁さんになる。
誰もが認めるカップルってわけだ、前の俺たちとは違うってな。
秘密の恋人同士じゃない分、けじめはきちんとしておきたい。
お前のお父さんたちに堂々とお前を下さいと言える立場で申し込みたいからなあ、不埒な行為は厳禁だ。泊まりの旅行は論外だな、うん。
結婚前でもキスくらいはな、と笑うハーレイ。
キスくらいならば許してもいいが、その先のことは決して駄目だと。
「ハーレイ、酷いよ…。背が伸びたら、って言ってたくせに…」
前のぼくとおんなじ背丈になるまで我慢しろ、って言うから我慢してるのに…。
背が伸びてもキスしか出来ないだなんて、酷すぎない?
結婚するまで泊まりの旅行も、本物の恋人同士になることだって禁止だなんて…!
「間違えるなよ? 我慢するのはお前だけじゃなくて、俺もだからな」
お前がチビでガキの間は俺も余裕で笑ってられるが、お前が育ち始めたら。
前のお前と同じ姿に育っちまったら、俺だって我慢大会だ。
しかし、お前と結婚したけりゃ耐えるしかないと思ってるわけだ、やましいことはしたくない。
お前のお父さんとお母さんに顔向け出来ないことをしちまったらマズイだろうが。
俺はお前の立場も考えた上で言ってるんだが、お前は不満そうだってことは。
そういう関係になりたいから俺と付き合いたいのか、その関係がお前の目的なのか?
俺と一緒に暮らすことより、俺と結婚することよりも。
「違うけど…」
ハーレイのお嫁さんになって一緒に暮らすのが夢なんだけど…。でも…。
「でもも何もない。そいつが夢なら、まず結婚だ」
それが一番大事なことだろ、俺と一緒に生きてゆくなら。
まずはそいつをクリアせんとな、お前のお父さんとお母さんにきちんと申し込んで。
その代わり…、とハーレイはブルーの銀色の頭をポンと叩いた。
褐色の大きな手で軽く、優しく、そっと諭すように。
「いつか、お前と結婚したら。俺とお前は、あちこちへ旅をするんだろう?」
宇宙から二人で青い地球を見て、その地球の上も気が向くままに。
もちろん、ホエールウォッチングも。
「うん」
「いろんな所へ泊まりで行けるさ、もう遠慮なんかは要らないんだからな」
何処へ行っても恋人同士だ、誰にも隠さなくてもいいだろ?
前の俺たちとはまるで違って、何処でもいつでも恋人同士でいられるってな。
そうしたかったら、まずは結婚。
分かるな、俺とお前の名前を並べて書けるようになるのが大切なんだということは。
「うん…」
結婚してから旅行なんだね、ハーレイと二人。
いろんな所へ出掛けるんだね、泊まりの旅行で二人一緒に…。
鯨も見ようね、とブルーは微笑む。
シャングリラそっくりのシロナガスクジラを見に行ける旅に、船に乗って海へ出る旅に。
そんな旅へと出掛ける日までは、立体投影の鯨が限界。
日帰りで行けて、門限までに家へ帰れる水族館のイベントくらいがデートの限界。
(…ハーレイ、凄く早い時間に家まで送ってくれそうだよ…)
それこそ引率教師と生徒さながらの早い時間に、家の前まで。
名残惜しくて胸に縋っても、キスでお別れ。
(…せっかく二人でデートなのに…)
キスよりも先はお預けだなんて、まるで思いもしなかった。
背丈が伸びれば、前の自分と同じに伸びれば、前と同じに愛し合えると信じていた。
(…だけど、お預け…)
結婚するまでお預けはとても悲しいけれども、ハーレイの言う「けじめ」は分かるから。
誠心誠意、向き合ってくれているからこその言葉だから。
(結婚までは我慢しなくちゃ…)
我慢、と自分に言い聞かせた。
もっとも、明日にはすっかり忘れてまた言うのかもしれないけれど。
ハーレイがそれを口にする度、唇を尖らせて、プウッと膨れて、子供ならではの我儘で。
それは酷いと、結婚するまでお預けだなんて酷すぎるよ、と…。
水族館の鯨・了
※立体投影の鯨をハーレイと一緒に見に行きたい、と思ったブルーですけれど…。
夜のデートは「まだ駄目」だそうで、将来も「早い時間に」帰ることになりそう。でも幸せ。
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学校から帰って、おやつを食べて。それから広げてみた新聞。ニュースも色々載っているけど、その他にも。
(お鍋…)
カラーで刷られたお鍋の特集。でも、お料理の記事でもレシピでもなくて、旅行の広告。紅葉を見に行く旅がズラリと並んでる横に季節を先取り、冬の旅行も受け付け中。
冬って季節を実感するには早いからだろうか、多分、食べ物で目を引こうってことなんだろう。お鍋を食べに出掛けませんか、っていう旅の広告、お鍋の特集。
(…お鍋だけってことはないよね?)
ぼくは身体が丈夫じゃないから、こういうツアーは経験が無い。申し込んでから体調を崩したらキャンセルとかが面倒だから、旅行する時はパパとママとが計画を立てて連れてってくれた。
うんと小さい頃からそうだし、旅行の広告とかを見たって行きたいと思ったことが無いけれど。
ちょっぴり惹かれる、お鍋の写真。
(どんな旅なの?)
コースの説明を読んでみた。お鍋はどうやら夜の食事で、昼の間は好みの所へ観光へ。あちこち出掛けて宿に着いたら、お鍋の夕食が待ってる仕組み。
行き先が何処かでお鍋も変わる。食べたいお鍋を選んで、旅行。
(いろんなお鍋があるみたい…)
名物のお鍋が沢山あるけど、多いのはカニとか牡丹鍋。カニなら海辺で、牡丹鍋なら山の方。
(んーと…)
前世の記憶を取り戻してから、旅行ってヤツに行ってない。
本当だったら夏休みの間に行く予定だった、宇宙から地球を眺める旅にも行きそびれちゃった。パパが約束してくれてたのに、思い出しさえしなかった、ぼく。行きたいと言わなかった、ぼく。
ハーレイと会うことに夢中になってて、夏休みだってそれで頭が一杯で。
夏休みになったら平日でもハーレイが家に来てくれる、って舞い上がってしまって、宇宙旅行は綺麗に忘れた。お蔭でぼくは未だに地球を見たことが無い。宇宙に浮かんだ青い真珠を。
(青い地球もいいけど、海も山もいいよね)
冬だと海は青くないかもしれないけれど。雪が舞ってて灰色なのかもしれないけれども、地球の海。青い水の星を覆った海。これは是非とも見てみたい。
山だって、そう。冬の寒さで山の木は枯れて、雪がしんしん降り積もるだけの景色だとしても、地球の山。前のぼくが辿り着けずに終わった地球の大地に聳えてる山。
前のハーレイたちが地球に着いた時は、地球は死の星だったんだけれど。
つまりは前のぼくが生きて地球まで行っても、青い海も緑の山も何処にも無かったんだけど。
それが今ではちゃんとあるんだし、ぼくはその地球の上に生まれたんだし…。
(海とか山もしっかり見たいよ)
ぼくの中に居る、前のぼくと一緒に。
おんなじ一人の人間のくせに、一緒って言ったらおかしいかな?
だけど今のぼくにとっては当たり前のことに、ぼくは時々、驚いてるから。
「前のぼくはこんなの知らなかった」ってビックリするから、前のぼくと今のぼくは二人で一人だと思うんだ。一人だけれども、二人分の記憶、二人分の心。
(二人分って、得した気分だよね)
それに何より、前のぼくが居たからハーレイに会えた。
誰よりも好きで、好きでたまらないハーレイと地球で巡り会えた。
これが一番、素敵なこと。
あの五月の日に起こった奇跡で、ぼくの聖痕が起こした奇跡。
ぼくは今度こそ、ハーレイと二人で生きて行くんだ。結婚して同じ家で暮らして。
(いつかハーレイと、こういう旅行に行きたいなあ…)
宇宙から青い地球を見に行く旅行は、ハーレイが「行こう」と約束してくれた。地球をゆっくり見るだけの旅に、青い地球を見るためだけの旅行に。
そっちはとっくに約束したから、海や山の旅。この広告に載ってるみたいな旅もしてみたい。
ハーレイと二人、旅先でのんびり景色を眺めて、観光をして。
宿に着いたら、お鍋の夕食。海ならカニ鍋、山の方なら牡丹鍋。
(牡丹鍋はイノシシなんだよね?)
今のぼくも牡丹鍋は食べたことが無いけど、前のぼくたちはそれどころじゃない。
カニすらも食べたことが無かった、前のぼく。
カニもイノシシも、前のぼくたちは食べてないから。一回も口にしていないから…。
(ハーレイと食べに行くのもいいよね、いろんなお鍋を)
牡丹鍋とカニ鍋の他にもお鍋は色々、行き先だって選び放題。
いつかハーレイと結婚したなら、二人で旅行で、二人でお鍋を食べに行くんだ。
(好き嫌いを探しに出掛けよう、って約束もしたし…)
ぼくもハーレイも、好き嫌いってヤツが全く無いから。
前のぼくたちが食べ物で苦労していたせいなのか、何でも食べられるみたいだから。
それでは人生つまらないぞ、ってハーレイが言い出したんだった。「俺たちでも食えないような何かを探しに行こうじゃないか」って。
そういう食べ物が見付からないなら、「また食べたい」って思う何かを見付けに旅をしようと。
(いろんなお鍋を食べに行くなら…)
好き嫌い探しの旅の一環ってコトになるのかな?
それとも単なる旅行なのかな、地球の景色を見に行ったついでにお鍋なのかな?
どっちだとしても素敵だよね、って思ったんだけど。
(まだまだ先の話だったよ…)
フウと溜息をついた、ぼく。
広告のツアーに年齢制限なんかは無くって、赤ちゃんから大人まで誰でも行ける。申し込みさえすれば誰でも、好きな日にちに行きたい旅行に行けるというのに…。
(ぼくはチビだし…)
パパとママに連れて行って貰うんだったら、今年の冬だって行けるけれども。
ぼくが一緒に行きたいハーレイと二人で申し込むには、年も背丈もまるで足りない。
(ハーレイとキスも出来ないチビだと、旅行なんかは…)
絶対に無理に決まってる。外で食事をしたいと言っても断られちゃった、ぼくだから。
ハーレイと再会した五月の三日から、ちっとも伸びてくれない背丈。
百五十センチで止まったままで、一ミリも伸びない、チビのままのぼく。
これが順調に伸び始めたとしても、ハーレイがキスを許してくれると言った背丈は遠すぎる。
前のぼくの背丈と同じの百七十センチ、そこまで伸びないとキスは出来ない。たった一年で二十センチも伸びるわけがないし、あと何年かはかかっちゃう。
(ハーレイとお鍋はまだまだ先…)
ホントに何年先なんだか、って情けなくなった、ぼくだったけれど。
溜息混じりに夢のお鍋の広告が載った新聞を閉じて、部屋に戻って。
勉強机の前に座ってから、ハタと気付いた。
(お鍋…?)
冬になったら、お鍋の季節。
お鍋が売り物の旅の広告が載ってるくらいに、冬と言ったらお鍋の季節。
寒い季節は身体が芯から温まるお鍋。雪が降ってる夜もホカホカ、湯気を立ててる温かいお鍋。
ぼくの家でも冬はお鍋の日が多いから。
ママがあれこれ食材を買って、お出汁やスープを工夫したお鍋が色々、沢山。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれた日も、きっとお鍋があるんだろう。味噌仕立てだとか、醤油仕立てだとか。お肉や魚や、野菜を入れて。
(ハーレイが来るって分かっている日は豪華なんだよ)
カニ鍋とまで行くかどうかは分からないけど、普段のお鍋よりも豪華な具材。
ハーレイはとうにお客様じゃなくて家族みたいな存在だけれど、パパとママは歓迎してるから。ちょっぴり特別、お客様向け。
予告無しにハーレイがやって来た日も、冬ならお鍋。
パパもママも一緒の食卓だけれど、お鍋の種類は選べないけど、ハーレイとお鍋。
(ハーレイと同じお鍋から食べられるんだよ…!)
テーブルの真ん中、ぐつぐつ煮えてるお鍋を囲んで、みんなで夕食。お鍋は一つ。
大きなお鍋がテーブルに一つ、そこから自分が食べる分だけ器に取って。
(大皿料理より凄くない?)
盛り付けてあるのを取り分けるんじゃなくて、お鍋で煮えているんだから。
お料理している真っ最中、って感じのトコから取って、掬って。
お皿に盛られた料理だったら、次に取る人が「やだな」って気持ちにならないように、行儀よく綺麗に取って行かなきゃいけないけれども、お鍋は別。
気軽に掬えて、お鍋って器をみんなで共有、同じ器から一斉に食べているようなもの。
(それって凄い…!)
ハーレイとおんなじ器から食べてもいいなんて。
普段だったら絶対出来ない、素敵な食べ方が出来るらしいお鍋。
(これからの季節だと、おでんだって…)
おでんもテーブルの真ん中にお鍋。みんなで囲んで一つのお鍋。
温めておかないと冷めてしまうから、おでんのお鍋ごとドカンと出て来る。玉子に大根、練り物色々、コンニャクとかを自分で掬うんだ。
だけど、おでんは、お箸が別。
煮えたぎってるお鍋じゃないから、沸騰したお出汁で消毒ってわけにはいかないから。
取り分けるためのお箸がつく。それで取るのが、おでんのルール。
(でも、お鍋だと…)
具を入れるお箸は別だけれども、煮えた具材を器に取る時は自分のお箸。
ぼくは自分のお箸をお鍋に突っ込むわけだし、パパやママもそう。
ということは、ハーレイだって自分のお箸を突っ込むわけで…。
(ホントにハーレイと一緒のお鍋!)
ハーレイがお箸を突っ込んだお鍋。好きな具材を取って行ったお鍋。
そのお鍋にぼくもお箸を突っ込む。どれを取ろうか、って選んで、取って。
きっと同時にお鍋の中を覗いてる時もあるだろう。ぼくがお箸を突っ込んでいたら、ハーレイも横から突っ込んでるとか。
(ハーレイが何か取ってる時を狙って、ぼくがお箸を突っ込んだって…)
誰も変だと思わない。お鍋はそういうものだから。
煮えた具材は次々に取らなきゃ煮えすぎるんだし、二人同時に取っては駄目だ、なんてルールも無いんだし…。
(ハーレイとおんなじお鍋で、同時…)
想像しただけで心臓がドキドキしてくる。
パパとママとが一緒にいたって、ハーレイと二人でお鍋な気分。
二人きりとはいかないけれども、気分はハーレイと二人でお鍋って感じ。
(それにハーレイ、料理が得意…)
ママがどんなお鍋を用意したって、具材に火が通るタイミングとかを掴めると思う。どれを先に入れて煮ればいいのか、どのくらい煮たら食べるのに丁度いい頃合いだとか。
(そういうの、絶対、得意そうだよ)
鍋奉行って言うんだったっけ?
お鍋の時に、ああだこうだと張り切って指図をしたがる人。
ハーレイはそういうタイプじゃないけど、お鍋の加減が掴めているなら、ぼくが取り分ける時に世話を焼いてくれる可能性大。あれが煮えてるとか、これを取れとか。
今までだったら、そういう役目はママがしてくれていたんだけれど…。
(ママよりもハーレイに世話して欲しいな)
せっかく料理が得意なんだし、遠慮してないで、「しっかり食えよ」って。
お肉も魚も、ハーレイに「ほら」って言われちゃったら、きっと頑張って食べられそう。ママやパパなら「お腹いっぱい」って答える所を、もうちょっと、って。
だってハーレイと一緒のお鍋で、ハーレイはもりもり食べるんだから。
「これも美味いぞ」とか、「もう食わないのか?」なんて、ぼくにせっせと声を掛けながら。
そうやってどんどん食べてるんだし、もしかしたら…。
(食えよ、って取ってくれるかも…!)
ハーレイのお箸で、ぼくの器に。
お勧めの具材をヒョイとつまんで、ホカホカと湯気が立っているのを。
(ハーレイに入れて貰うだなんて、前のぼくだって未経験だよ…!)
シャングリラでお鍋はやってないから。
ポトフやシチューはあったけれども、あれは最初から器に取り分けてあるものだから。
(シャングリラに居た頃は、お鍋なんていう料理、何処にも無いしね…)
みんなでワイワイお鍋を囲む機会は無かった。
お鍋が無いから、ハーレイと二人でお鍋を食べることも無かった。
本物の恋人同士だったけれども、ハーレイが「どうぞ」と具材を取ってはくれなかった。
前のぼくたちは一緒に食事をしていただけ。
キャプテンからソルジャーへの朝の報告、っていう名目で二人で朝御飯を食べていただけ。
(えーっと…)
好き嫌いが無かった、前のぼく。
朝御飯に嫌いな料理なんかがあるわけもなくて、残そうだなんて思わなかった。パンも卵料理もサラダもスープも、出されたものは何でも食べた。
だけど前のぼくも、今のぼくと同じで食が細かったから、多すぎて食べ切れない時もあって。
そんな時にはハーレイに「これも食べて」とお願いしたら、お皿は綺麗に空っぽになった。半分残した卵料理も、手を付けなかったサラダの器も。
(ハーレイはぼくのお皿の料理を食べていたけど…)
ぼくが半分食べてしまったオムレツなんかも、何度も食べていたんだけれど。
その逆の方は全く無かった。一度も無かった。
(ハーレイの分まで貰っちゃおう、っていうほどの好物も無かったから…)
そういうのがあれば、あるいは強請って貰っていたかもしれないけれど。
生憎、そこまでしたい料理は何も無くって、前のぼくはハーレイのお皿から料理を分けて貰ったことが無い。ハーレイの分まで欲しいんだ、って一度も思わなかったから。
(おんなじ器から食べる、って方は…)
二人一緒にサンドイッチの夜食をつまんでいたりしたけれど。
青の間からブリッジのハーレイに思念を飛ばして、来る時に持って来て貰った色々な出前。
ぼくのために、と注文を受けた厨房のスタッフが作った夜食を二人で食べた。サンドイッチなら同じお皿に手を伸ばしては、一切れずつ取って食べていた。
器に盛られたカットフルーツも二人でフォークを突っ込んでたけど、お鍋じゃないから。
ぼくが食べようとしている所へハーレイのフォークが来ることは無いし、逆だって無い。相手の様子を見ながら食べてて、同じ器から食べてるんです、ってドキドキ感はまるで無かった。
カットフルーツもサンドイッチも、食べ方自体は大皿に盛った料理と変わりはしない。
お鍋と違って遠慮のあるもの、行儀が優先されてしまうもの。
(これを食べろ、ってハーレイが取ってくれることだって無かったものね)
フルーツやサンドイッチを「どうぞ」と譲られたことはあったけれども、取ったのは、ぼく。
「ありがとう」ってフォークで刺したり、手に取って口へ運んだり。
ハーレイがフォークで刺してくれたり、手に持ってぼくのお皿に入れたりなんかは無かった。
(前のぼくでも未経験なんだ…)
ほら、ってハーレイが自分のカトラリーや手で料理を取り分けてくれること。
(だけど、お鍋だとハーレイのお箸で取ってくれるとか…)
それは絶対ありそうだよ、って思うから。
パパとママも「面倒見のいい先生だな」って笑顔で見ているだけだろうから。
お鍋に大いに期待が高まる。
ハーレイに世話して貰わなくっちゃ、って。
まだ二人きりのお鍋じゃないけど、素敵な気分で食べられるよね、って。
お鍋がいいな、って夢を見てたら、チャイムの音。
仕事帰りのハーレイが来たから、ぼくは嬉しくなっちゃって。
ハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座るなり、「ねえ」って切り出した。ママが置いてってくれた紅茶とお菓子も気になるけれども、それより、お鍋。
「あのね…。お鍋の季節が楽しみなんだよ」
まだ先だけれど、冬になったらお鍋でしょ?
新聞に広告が載ってたんだよ、いろんなお鍋が目玉の旅行。それでお鍋の季節が楽しみ。
「鍋の季節って…。何かあるのか?」
お前、鍋料理を食べに旅行に行くのか、冬休みとかに?
珍しいなあ、お前が俺と会うよりも食い物の方が優先だとは…。旅行の間は会えないしな?
「違うよ、広告は見てただけだよ、行かないよ!」
せっかくのお休み、ハーレイと一緒に過ごしたいもの。旅行なんかは行かなくていいよ。
「だが、楽しみだと言わなかったか? 鍋の季節が」
鍋を食いに出掛けて行くんでなければ、どう楽しみだと言うんだ、お前?
「冬になったら、ぼくの家でも夕食にお鍋が出て来るんだもの」
今日はお鍋だ、っていう時にハーレイが寄ってくれたら、ハーレイとお鍋が食べられるんだよ。お休みの日でも、ママがお鍋にしようと思ったら、ハーレイとお鍋。
パパとママも一緒に食べるけれども、おんなじお鍋から自分のお箸で食べるんだし…。
それってドキドキしてこない?
ハーレイもぼくも、おんなじお鍋に自分のお箸を突っ込むんだよ?
そんな食べ方、前のぼくたちは一度もやっていないんだから。
恋人同士だっていう気分がするでしょ、おんなじお鍋で、自分のお箸。
「なるほどなあ…。鍋を囲んで恋人気分か」
確かにそいつはそうかもしれん。前の俺たちは鍋なんて食ってはいないからな。
同じ器に自分のフォークやスプーンなんかを突っ込むなんぞはマナー違反だし、やろうと思いもしなかったしな…。
「そうでしょ、ぼくも思い付きさえしなかったよ」
何度もハーレイと食事をしたのに、同じ器から食べていたのってサンドイッチとフルーツだよ?
あれってつまんでいただけだものね、二人で一緒に食べるお鍋とは全然違うよ。
「うーむ…。鍋の方が親しい感じはするなあ、今の世界じゃ親睦とくれば鍋だしな」
俺も友達とよくやったもんだ、鍋ってヤツを。
大勢で鍋を囲んだ後はだ、大いに仲良くなっていたなあ、その日に初めて会った奴でも。
「…ぼくはそういうお鍋の経験、無いけれど…」
お鍋で友達になれるんだったら、恋人同士にもなれそうだよね?
恋人同士で食べに行くにもピッタリなんだよ、お鍋は、きっと。
パパとママはぼくとハーレイが恋人同士ってことは知らないけれども、ハーレイとお鍋。
恋人気分で食べられそうだし、お鍋の季節が楽しみなんだよ。
「ふうむ…。お前のお母さんは何も知らずに鍋料理を用意するわけだな?」
お前がワクワク待っているとも思いもしないで、寒い季節にいい料理だと。
「別にいいでしょ、ぼくがお鍋にしてって頼みに行くわけじゃないんだから」
たまたまお鍋が出て来るだけだよ、ハーレイが家に来てくれた日に。
「それはそうだが…。お前、ろくでもないことを考え付いたな、鍋の広告を見ただけでな」
「お鍋じゃなくって、旅行の広告! お鍋を食べに出掛ける旅行!」
間違えないでよ、ハーレイと旅行に行きたいなあ、って眺めていたから気が付いただけ!
お鍋って素敵な料理だよね、って。恋人同士で食べるのに良さそうな感じだよね、って。
「分かった、分かった。要するに、俺と一緒に鍋なんだな?」
「そう! それでね、ハーレイ、料理が得意って聞いているから…」
お鍋の中身が煮えてるかどうか、見分けるのも得意そうだよね?
ぼくにお鍋を取り分けてくれる?
この辺りの具が煮えているぞ、ってハーレイのお箸で、ぼくの器に。
「そのくらいは別にかまわんが」
しっかり食えよ、と入れてやったらいいんだろう?
お前、放っておいたら取りそうにないし、火が通った分をどんどん取って。
「ホント?」
ぼくの代わりに取ってくれるの、お肉や野菜。ハーレイが器に入れてくれるの、ぼくが取らずに座っていたら?
「お安い御用だ、チビの世話だろ」
「チビ!?」
恋人じゃなくてチビなわけ!?
ハーレイ、恋人の世話じゃなくってチビの世話だと思っているの!?
酷い、とぼくは怒ったけれど。
恋人を捕まえてチビ呼ばわりなんてあんまりだ、って怒ったけれど。
ハーレイはクックッと可笑しそうに喉を鳴らして、こう言った。
「その発想がチビだからなあ…」
チビの世話だと言ったまでだが、そいつがお気に召さないってか?
そうなってくるとホントにチビだな、もうチビだとしか言いようがない。
「何処が?」
ぼくの発想の何処がチビなの、お鍋は恋人気分になれる、ってハーレイ、認めていたじゃない!
それに気付いたの、ぼくなんだよ?
チビじゃないから気が付いたんだよ、お鍋は素敵なお料理なんだ、って!
「鍋そのものに関しちゃそうだが、取り分けてくれ、っていう辺りがな」
お前、俺の箸であれこれ取り分けてくれ、と頼んで来たが、だ。
俺と二人きりで鍋をやってる時ならどうするんだ?
「もちろん堂々と世話して貰うよ、ハーレイに!」
パパやママがいたら、たまには自分で取らなきゃ変だと思われそうだけど…。
二人きりならハーレイに全部やって貰って、ぼくは食べるだけ。
「俺が具を煮て、煮えたヤツからお前の器に入れてやってか?」
「そうに決まっているじゃない!」
誰も見てないなら、ハーレイに任せておくんだから。
恋人気分で世話して貰って、美味しいお鍋を食べるんだよ。ハーレイと二人きりなんだしね。
自信満々で答えた、ぼく。
だけどハーレイは鳶色の瞳に悪戯っぽい光を湛えて。
「うん、間違いなくチビだってな」
今の答えで得意満面になってるようでは、正真正銘、お前はチビだ。
「なんで?」
ハーレイに世話して欲しいって強請ってるんだよ、うんと我儘な恋人だよ?
「二人きりでも、俺は取り分ける係なんだろ?」
これも食えよ、って、お前の器に。
お前が自分の世話をしない分、俺にせっせと世話させるんだろ?
「そうだよ、うんと堂々とね」
何処から見たって恋人なんです、って直ぐに分かるよ、ハーレイが世話をしてくれていたら。
恋人のために取ってあげているんだな、って。
見ている人なんか誰も無くても、うんと熱々の恋人同士でお鍋なんだよ。
「だからチビだと言うんだ、お前は」
俺が器に入れてやるだけで大満足だという所がな。
「どうして?」
ハーレイに世話して貰えるんだよ、もう最高だと思うけど…。
ぼくはお鍋を食べるだけで良くて、自分で取ったり、煮えてるかどうか確かめたりとかは何一つしなくていいんだもの。
恋人に甘やかして貰えるっていうの、誰だって嬉しい筈だけどな。
「その発想を否定はしないが、詰めが甘いぞ、チビだけあって」
まだまだ甘いな、お前は立派にチビだってな。
「そんなことないよ、ちゃんとお鍋を食べさせて欲しいって言ってるじゃない!」
ハーレイのお箸で取って貰って食べたいっていうの、チビだと思い付かないよ!
「それはそうだが、そこで俺にだ」
食わせてくれ、と強請ってこない辺りがチビだと言うんだ、俺は。
「えっ?」
食べさせてよ、って何度も言ったよ、ハーレイに食べさせて貰うんだよ?
ぼくは自分で何もしないから、ハーレイがぼくの世話をしてよね、って。
「その世話の詰めが甘いんだ。恋人に食わせて貰いたいなら…」
お前は口だけ開けりゃいいんだ、「あーん」ってヤツだ。
そうすりゃ俺が口まで運んでやるってな。
「あっ…!」
まるで考えてもいなかった、ぼく。
だけどハーレイが言ってるとおりで、恋人だったら口を開けておねだりさえすれば…。
「やっぱり気付いていなかったな、チビ」
いいか、鍋だと思い切り熱くなってるからなあ、冷ます過程から要るってな。
俺がフウフウ息を吹きかけて、火傷しないよう冷ましてやって。
「ほら、熱いから気を付けろよ」と差し出すわけだな、「あーん」とな。
お前はそいつをモグモグ食ってだ、その間に俺が次のを冷ます、と。
器の出番は全く無いんだ、せいぜいタレをつけるくらいで。
「それ、やりたい!」
取り分けて貰うより、そっちがいいよ。口を開けるだけで食べられるお鍋がいいよ!
「生意気を言うな、思い付かなかったチビのくせに」
俺の箸であれこれ取ってやったら満足なんだろ、チビのお前は。
口まで運んでやらなくっても、自分の箸でちゃんと食べられるってな、偉いな、お前。
そこはチビでも褒めるトコだな、自分で鍋を食えるんだからな。
「うー…」
酷いよ、ハーレイ、そんな話だけ聞かせておいて!
ぼくだってハーレイに食べさせて欲しいよ、ハーレイのお箸でぼくの口まで!
器なんかに入れるんじゃなくて、冷まして「あーん」って食べさせてよ!
お願い、って頭を下げたのに。
いつかは「あーん」で食べさせて、って頼んでるのに、ハーレイは聞こえていないふり。
全然、話に乗ってくれなくて、知らんぷり。
「鍋の季節が楽しみだな」なんて、お鍋の種類を挙げながら。
「一人で鍋を食ってもつまらんからなあ、今年の冬が待ち遠しいな」って。
そうやってお鍋の話だけして、「お前はまだまだ普通に鍋だ」って笑うハーレイ。
パパやママも一緒に、ただのお鍋、って。
「取り分けるくらいはやってやるから、自分で食えよ」って。
意地悪なハーレイ。
恋人同士のお鍋はこうだ、って話だけして、無視するハーレイ。
ぼくに「あーん」と食べさせてやる、って約束をしてはくれないハーレイ。
だけどいいんだ、冬になったらハーレイと一緒にお鍋だから。
夕食のテーブルにお鍋があったら、ハーレイがお箸を突っ込んだお鍋から、ぼくだって食べる。
ハーレイが自分の使うお箸で、ぼくの器に取り分けてくれる。
パパとママが「面倒見のいい先生」って思う程度に、ごくごく自然に。
今はそれだけで充分幸せ、チビのぼくにはきっとピッタリ。
いつかは「あーん」と食べられるんだし、冬が来たならちょっぴり前進。
ハーレイと二人っきりでお鍋を食べることが出来る、うんと素敵な未来に向かって…。
お鍋の食べ方・了
※「ハーレイと食べたい」とブルーが思った鍋料理。けれど、足りていなかった想像力。
同じ鍋なら「恋人同士の食べ方」の方がいいに決まってます。きっと食べさせて貰えますね。
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