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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 ぼくの勉強机の上。ハーレイとお揃いのフォトフレーム。ハーレイのと、ぼくのとを交換して、ハーレイの手が写真を入れていたフォトフレームがぼくのものになった。ぼくが写真を入れた分はハーレイの家の何処かにある。
 飴色をした木枠のフォトフレームの中、笑顔で写ったハーレイとぼく。ハーレイの左腕に両腕でギュッと抱き付いた、ぼく。夏休み最後の日に庭で写した記念写真。
 眺めるだけで幸せな気持ちが溢れて来るから、毎晩こうして机の前に座る。ハーレイとぼくとが同じ写真の中に居るなんて…。
(…また撮りたいなあ、ハーレイと二人一緒の写真…)
 次の機会はいつになるかも分からないのに、もう欲張りになっているぼく。
 前はハーレイのカラー写真さえも持っていなくて、学校便りの五月号を宝物にしていたくせに。転任教師の着任を知らせる小さなモノクロのハーレイの写真。スーツ姿の生真面目な顔。それでも唯一のハーレイの写真だったから、何度も何度も取り出して見ていた。
 その状態から一足飛びに笑顔のハーレイのカラー写真で、ぼくも一緒に写っている。もう最高の宝物なのに、次の写真が欲しくなる。
 なんて欲張りなんだろう。ずっと長いこと、学校便りしか持っていなかったくせに…。



(…そういえば…)
 自分の欲深さに呆れ果てていたら、ふと懐かしく思い出した。欲張りなぼくの一学期の夢。
(ハーレイの似顔絵が欲しかった頃があったんだよね…)
 夏休みに入る前、まだ学校便りの五月号しかハーレイの写真が無かった頃。欲しくて欲しくて、なんとか手に入れる方法は無いかと頑張り続けたハーレイの似顔絵。
 そう、似顔絵でいいから欲しかった。ハーレイの姿に繋がるものが。
(…似顔絵でもいいって思ってたくせに、写真を撮ったらもう次が欲しくなるなんて…)
 本当に欲張りで欲深いぼく。
 ハーレイの顔を、姿を見られるものなら何でも欲しくなる欲張りなぼく。
 もっとも、前のハーレイの写真だけは、ちょっと…。
(いい顔をしているハーレイの隣には必ず前のぼくがいたんだもの!)
 本屋さんでソルジャー・ブルーの写真集を何冊も積み上げて探してみたのに、腹が立っただけ。前のぼくが独占していたハーレイの写真なんかは要らない。
(…だからハーレイなら何でもいいってわけじゃないけど…)
 何でもかんでも見境なしに欲しいわけではないんだから。
 酷い欲張りじゃないと思いたい。欲が深くても、底無しじゃないと思いたい。
 だけど似顔絵でも欲しかった頃があったんだ。ハーレイの姿を見られるのなら…。



 年度初めに少し遅れて赴任してきた古典の教師。ぼくとは五月三日に出会った。ハーレイの姿を見るなり、ぼくは右の瞳や両肩とかから大量出血を起こしてしまって、それが切っ掛けで二人とも前世の記憶が戻った。
 聖痕現象と診断された謎の出血。ソルジャー・ブルーが最期にメギドで負った傷痕からの出血。二度と同じことが起こらないよう、ハーレイはぼくの守り役になった。出来る限りぼくの側に居ることがハーレイの役目。
 お蔭で前世で恋人同士だったぼくたちは頻繁に会えて、ぼくの家で会う時は甘え放題だけど…。学校ではあくまで教師と生徒。其処はどうしても崩せない。学校ではハーレイを独占できない。
 ハーレイは滅多に怒らない上、雑談を上手く交えて授業を楽しく進めてゆくから、絶大な人気を誇っていた。授業が終わった後も追い掛けて行って、話しながら廊下を歩く生徒も多くって…。
 男子にも女子にも人気のハーレイ。嫌いだと言う生徒などいないハーレイ。
 そんなハーレイの似顔絵を授業中に描く子たちがいた。男子も女子も、よく描いていた。
 特徴を掴んでデフォルメするのが上手いのが男子。格好良く描くのが上手いのが女子。
 授業が終わって休み時間になると話題になるそれは、どれもハーレイを巧みに捉えていて。
 ぼくは欲しくてたまらなかった。似顔絵だけれど、ちゃんとハーレイに見えるから。
(…みんなホントに上手かったしね)
 なのに描いてある場所がとても問題。
 ノートだの教科書だのに描かれたハーレイ。その箇所を破って譲ってくれなんて絶対言えない。ノートも教科書も破り取るなんて論外だったし、第一、ぼくがハーレイを好きなことがバレる。
(ホントのホントに欲しかったんだけどな…)
 特に上手に描いていた子の作品は今でも鮮やかに思い出せる。
 喉から手が出そうな思いで覗き込んでいたノートや教科書。ハーレイが描かれた素敵なページ。



 譲って貰うことが不可能ならば自分で描こう、と決意した。
 何人もがサラサラと描いているのだし、自分にだって描ける筈。幸い美術の成績はトップ。コツさえ掴めば簡単だろう、とチャレンジしたのに、いくら頑張っても似てくれなかった。ハーレイの姿を捉えるどころか、誰を描いたのかも謎の落書き。似顔絵を描くのと美術の成績は別物らしい。
(頑張ったんだけどなあ、ハーレイの似顔絵…)
 ノートと教科書に描き込んでみては溜息な日々。家に帰って改めて眺めても、ハーレイの顔には見えない似顔絵。
 そして教室の前に立つハーレイは授業中に生徒が何をしているか、神様よろしくお見通しで。
 ある日、唐突に言われてしまった。
 平日の夕方、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれた時に、部屋で向かい合って座った途端に。
「おい、ブルー。お前、古典の教科書とノートを此処に出してみろ」
 ハーレイがテーブルを指差した。夕食前だから紅茶と僅かなクッキーが置かれたテーブル。
「えっ…」
 古典の教科書とノートだなんて。今日もハーレイの似顔絵を描いて、今までの作品も消さないで残してある教科書とノート。とても見せられる状態じゃない。
 けれどハーレイはぼくを見詰めて。
「どうした、後ろめたいことが無ければ見せられる筈だが?」
 今すぐ出せ、と腕組みをして睨まれると、ぼくも否とは言えない。仕方なく鞄から取り出して、あえて開かずにテーブルに置いた。それをハーレイの褐色の手が開いてパラリと捲って…。
(…ダメダメダメ~~~っ!)
 捲らないで、という願いも空しく、教科書もノートも見られてしまった。ハーレイの似ていない似顔絵で埋まった、ぼくのとんでもない作品集を。
(…………)
 もう駄目だ、と項垂れるぼくにハーレイの言葉。
「…これは俺か?」
 今日描いたばかりの下手くそな似顔絵を褐色の指がトントンと叩く。
 これは何かの嫌がらせか、とハーレイの眉間に皺が寄るほどに似ていない似顔絵。
 どうすればいいと言うんだろう。
 嫌がらせじゃなくて精魂こめて描いた似顔絵で、だけど下手くそな失敗作だなんて…。



 黙り込んでしまったぼくの姿に、ハーレイは怖い顔をした。
「俺の授業はそんなに退屈だったのか? かなり前から描いているようだが」
「……そうじゃなくって……」
 これ以上、誤解されてはたまらないから、覚悟を決めて口を開いた。
「…みんな似顔絵が上手いんだよ。ぼくよりもずっと…」
「それで毎回、練習なのか? お前な…。いったい俺をどうしたいんだ」
 こういう顔になれと言うのか、と似ていない作品を指差された。変な顔になったハーレイなんか要らない。今のハーレイの顔がいい。ぼくの下手くそな似顔絵そっくりな顔のハーレイは嫌だ。
 でも、ハーレイの似顔絵が欲しいんだけど、と白状する勇気なんかとても無くって。
 似顔絵が上手くなりたいと言った。他の子たちみたいに上手に描いてみたいのだ、と。
「…お前なあ…。教師の似顔絵が上手く描けても成績は上がらないんだぞ?」
「……分かってるけど……」
 だけどハーレイを上手く描きたい。
 誰を描いたのか一目で分かる、ハーレイの似顔絵をぼくも描きたい…。



 嫌がらせかとまで言われてしまった、ぼくの下手すぎるハーレイの似顔絵。
 それを描かれた気の毒なモデルは「うーむ…」と低く一声唸って。
「生憎と俺も、そっち方面の才能ってヤツはサッパリでな…」
 しかしだ、特徴を上手く掴んで描けば似てくると昔、上手いヤツらが言ってたな。
 俺がお前くらいの年の頃かな、今のお前たちみたいに似顔絵を落書きしていたもんだ。
「ハーレイも?」
「まあな。皆がやっているとやりたくなるだろ、ガキってヤツは」
 夢中になり過ぎて先生に見付かったこともあったな、とハーレイが笑う。「そこの馬鹿者!」とボードに書くためのペンが机に飛んで来たらしい。それは素晴らしいコントロールで、狙い違わず目標にヒット。只者ではない、と投げられたハーレイも周りの友達も驚いていたら。
「往年の名投手だったんだそうだ、その先生は。いやもう、あの時は散々だったな」
 お前も将来苦労するぞ、と叱られたんだが、まさか本当にそうなるとは俺も思わなかった。
 教師になった上に、こんな酷い出来の似顔絵を描かれてしまうとはなあ…。
「…ごめん。ホントにわざとじゃないんだってば…」
「そうらしいな? それでだ、お前、俺の顔だと、何が特徴だと思うんだ?」
 まずは其処だ、とハーレイがポイントを指導してきた。
 特徴を掴んでしっかりと描く。それが似顔絵のコツなのだ、と。



「えーっと…」
 ハーレイの特徴と言われても咄嗟に思い付かない。
 褐色の肌……は特徴だけれど、似顔絵を描くのに肌の色は関係無いだろう。色つきの似顔絵など誰も描いていないし、それでもハーレイを描いた似顔絵なのだと分かるのだから。
「髪型…とか? 前のハーレイとおんなじだけど…」
「ああ、まあ…。教師になって暫くしてからはずっとこうだし、特徴の一つではあるだろうな」
 最初の間は違ったんだぞ、とハーレイは思わぬ昔話をしてくれた。今よりもずっと若い頃には、今みたいなオールバックと違って、髪の長さも少し長めで。ハーレイ自身にも不思議らしいけど、アルタミラを脱出した頃の髪型にそっくりだったという話。
「自分じゃ似合うと思ってたんだが、まさか前の俺とそっくり同じにしていたとはな」
「なんでだろうね? ぼくも前のぼくとそっくりおんなじだよ?」
 ママが選んでくれた髪型。パパも「似合うぞ」と言ってくれた髪型。ソルジャー・ブルーだった頃と少しも変わらず、物心ついた時にはとっくに今の髪型。
 ハーレイもぼくも本当に不思議でたまらない。二人とも前世の記憶が戻るまではどんな髪型でも出来た筈なのに、前と同じになっていたことが。
「俺は断じてキャプテン・ハーレイの髪型を真似ていたわけではないぞ」
 こんな風にして下さい、と写真を持って行って理容師に頼んだことはない、と話すハーレイ。
 キャプテン・ハーレイは知っていたけれど、好んで真似たわけではないと。
「仕事柄、こういうのがスーツに似合うかと思ったんだが…」
「ぼくのはママが決めてくれたよ、こんな風にするのが似合いそうね、って」
「なるほどなあ…。お前の場合はまるっきりソルジャー・ブルーだしな?」
 生まれた時からアルビノだろう、と指摘されて「それでこの髪型になったのかな?」と考えた。ぼくの名前はソルジャー・ブルーから取ったものだし、髪型も同じにしたかもしれない。
 小さかった頃は「あらまあ、可愛いソルジャー・ブルーね」って色々な人からよく言われたし、ぼくも悪い気はしなかった。ソルジャー・ブルーは英雄だから。
 もっとも、ぼくに「可愛い」と言ってくれた人の半分以上は女の子と間違えていたんだけれど。



 いけない、昔話の時間じゃなかった。ハーレイの特徴を見付けないと…。
「鳶色の瞳!」
 ハーレイの瞳は優しいから好きだ。厳しい時でも、何処か優しい。
「おいおい、そこは目の形だとか…。似顔絵に目の色は関係無いぞ」
「でも……」
 ハーレイの大きな鼻も好きだよ、それに大きな唇も。
 前のぼくだった頃から好きだった。ソルジャー・ブルーだった頃から…。
(…キスの時とかね)
 鼻が軽く触れ合って、それから唇。温かくて意外に柔らかいハーレイの大きな唇。
 そう思ったらもう、たまらなくなって。
「ねえ、ハーレイ…」
「なんだ?」
「…ちょっとだけ、キス…」
 お願い、と椅子から立ってハーレイが座っている椅子に近付き、膝の上へと腰掛けた。
「こらっ! 誰がキスの話をしている!」
「だから、ちょっとだけ…。頬っぺたか、額でかまわないから」
「そこしか駄目だと言ってるだろうが!」
 苦い顔をしながらも、ハーレイは頬っぺたにキスしてくれた。
 うん、この唇の感触が好き。
 ぼくの大好きなハーレイの唇…。
 もっと、と強請ろうとハーレイの胸にすり寄った途端に、階段を上ってくる足音。ぼくは慌てて自分の椅子に戻り、ママが扉をノックした。開けはしないで、声だけ掛かった。
「ブルー、もうすぐ御飯が出来るわよ? 出来たら呼ぶからハーレイ先生と降りていらっしゃい」
「はーい!」
 元気よく返事を返したぼく。ママの足音が階段の下に消えたらハーレイに睨まれた。
「それで、似顔絵はどうなったんだ。俺の特徴ってヤツはどうした?」
 ハーレイの眉間に寄せられた皺。この皺はいつもあるんだけれども、睨んだりすると深くなる。
「…その皺かな?」
「分かった、晩飯の後でチャンスをやろう。特別にモデルになってやる」
 ただし、だ。…上手く描けたら、授業中には二度とやるなよ?
 お前が俺を熱心に描いているかと思うと、どうにも気分が落ち着かんからな。



 ぼくはハーレイにチャンスを貰った。堂々と似顔絵を描いていい時間。盗み見しながらの授業中じゃなくて、似顔絵を描くためにある時間。
(頑張らなくっちゃ…)
 高鳴る胸を抑えて、平静なふりを装って。
 パパとママも一緒の夕食を終えて、ハーレイと一緒に二階に戻った。ママが食後の紅茶を持って来てくれて、テーブルの上にティーカップが二つとおかわり用の紅茶が入ったポット。
 明日も学校があるから、ハーレイは遅い時間まで居られない。だけど自分の車で来たってことは帰り道に余計な時間は不要。九時頃くらいまでは居てくれる筈。
(一時間ほどあるもんね?)
 よく観察して、しっかり特徴を掴んで描こう。せっかくだからスケッチブックに大きめに。
 でも、いざハーレイと向き合ってスケッチブックを広げてみたら。
(…なんだか凄く恥ずかしいんだけど……)
 下手くそなぼくの絵を見られることも恥ずかしいけれど、ハーレイがモデル。
 テーブルを挟んで向かい側に座ったモデルがハーレイ。
 大好きな瞳に、鼻に、唇…。
 特徴を捉える前に心臓がドキドキ脈打ち始める。ぼくの大好きなハーレイがモデル。
 いっそ似顔絵じゃなくて、肖像画に挑戦しちゃおうか?
 スケッチブックに大きくハーレイの肖像画。
(……いいかも……)
 似顔絵なんかより肖像画。
 石膏デッサンは得意なんだし、きっと素敵な絵が描ける。
 もっと微笑んでくれるといいな。ぼくの大好きな笑顔がいいな……。



 とにかくデッサン、とハーレイの大まかな輪郭を描こうとスケッチブックに向かったけれど。
 真っ白な紙があるだけのスケッチブックよりもモデルの顔に惹き付けられる。
 デッサンするような暇があったら、もっとハーレイを見ていたい。
 いつもは甘えたりお喋りしたりと忙しいから、顔をゆっくり見るどころじゃない。それが今なら好きなだけ観察していられるし、しげしげ見たってモデルだから別に問題無いし…。
(…ふふっ、顎とか…。ちゃんと剃ってるけど、ハーレイの髭って伸びてきた時に触るとチクチクするんだよね)
 今のハーレイの顎のチクチクをぼくは知らない。
 あれは朝までハーレイと一緒に過ごした、前のぼくだけが知っている手触り。
 手触りと言うより肌触りだろうか、よく頬っぺたを擦り寄せていた。自分の頬でチクチクとする髭の感触を楽しんでいた。
 前のぼくには生えなかった髭。きっと今のぼくも髭は生えない。大きくなっても髭なんか無くて子供みたいな手触りのまま。
(…前のハーレイ、よくぼくの頬っぺたとか顎とかを撫でていたっけ…)
 ぼくがハーレイの顎や頬のチクチクを触りたがる度に「あなたの頬は滑らかですから」と大きな褐色の手で撫でられた。「この滑らかさが好きなのですよ」と、何度も何度もそうっと優しく。
 大好きでたまらないハーレイ。
 前も今も誰よりもハーレイが好きで、いつまでだって見ていたい。
 ぼくの大好きな鳶色の瞳。
 大きな鼻に大きな唇、眉間に刻まれた癖になった皺も、何もかもが好きでたまらない…。



「おい、手がお留守になってるぞ」
 似顔絵はどうした、とハーレイが白紙のままのスケッチブックを鼻で笑った。
「これだけの時間をかけても線の一本も描けんのか…。駄目だな、お前は似顔絵どころか画家にも向かん。どっちも諦めて勉強の方に専念しろ」
 上手い生徒はササッと描くぞ、とハーレイが挙げるクラスメイトの名前。ぼくが似顔絵を譲って欲しいと秘かに思った男子や女子の名が次々と挙がる。
 授業中のハーレイはたまに机の間の通路を歩いてゆくけど、基本は教室の一番前。ボードに字を書きながらの説明だとか、教科書片手の解説だとか。
 一番前から殆ど動くことが無いのに、似顔絵の上手下手まで知っているなんて、いつの間に?
 流石は教師で、生徒のやることは何もかも全部お見通しだ。ぼくがハーレイの似顔絵を描こうと頑張っていたのがバレていたように。
「ふむ。残念だが、もう時間切れだな。そろそろ家に帰らねばならん」
 時計を眺めたハーレイが立ち上がろうとするから、引き止めてみた。
「まだ描けてないよ!」
 上手く描けるとは思わないけれど、もっとハーレイを見ていたい。
 あと五分だけ、ううん、三分でも一分でもかまわないから、ハーレイを観察していたい…。
「時間切れと言ったら時間切れだ」
 俺は帰る、とハーレイはカップに残った紅茶を綺麗に飲み干して椅子から立った。
「スケッチブックが白紙のままとは恐れ入った。これからも授業中に描くつもりなんだな、お前というヤツは」
「……だって……」
 欲しいんだもの、とは言えなかった。欲しくてたまらない似顔絵だけれど。
「だっても何も、お前の場合は描きまくっても致命的に似ないと思うがな?」
 俺とも思えん絵が出来るだけだ、とクックッと喉の奥で笑ってハーレイは家に帰ってしまった。
 残されたものは白紙のスケッチブック。
 ハーレイの肖像画に挑戦どころか、似顔絵すらも描けずに終わった。
 でも……。



「…今は写真を持っているから、もう似顔絵は要らないものね」
 ハーレイと二人で写した写真。夏休みの記念に写した写真。笑顔で写ったハーレイと、ぼく。
 その写真をうんと堪能してから、古典の教科書とノートを取り出して開いてみた。
 写真を撮る前の一学期。
 ハーレイと再会してから夏休みまでの間の授業中に描いた似顔絵。
 ぼくが必死で描いた似顔絵。
 ハーレイの似顔絵欲しさに描いていたものの、あまりの似ていなさに自分で吹き出す。
(…ハーレイが眉間に皺を寄せたの、無理ないかも…)
 嫌がらせか、と尋ねられたほどの悲惨な出来栄え。
 とてもハーレイには見えないどころか、顔を歪める呪いをかけているのかと誤解されそうな酷い似顔絵。それでもぼくは頑張ったんだ。
 時間切れだな、と告げられたあの日から後も積み重ねられた、ぼくの空しい努力の跡。
 まるっきり似ていないハーレイの似顔絵が鏤められた教科書とノート。



 そうやって奮闘したぼくだけれど、二学期に入ってからのノートと教科書にハーレイの似顔絵は一つも無い。似顔絵つきのページ作りは一学期だけで卒業した。
 何故って、ぼくは最高のハーレイの写真を手に入れたから。
 ハーレイの左腕にぼくが両腕で抱き付いていて、おまけにフォトフレームはハーレイのもの。
 もう似顔絵は要らないんだ。
 他の子たちが描く上手い似顔絵も、もう欲しいとは思わない。
 学校便りの五月号は今でも宝物にしているけれど…。
 だって、あれが一番最初のハーレイの写真。生真面目な顔の小さなモノクロの写真だけれども、最初に貰ったハーレイの写真。
 学校で配られたプリントだけど。ハーレイに貰った写真じゃないけど…。
 それでもハーレイが写った最初の写真。ぼくが手に入れた一番最初のハーレイの写真。
 きっといつまでも宝物だよ、学校便りの五月号。
 五月の三日から始まった、ぼくとハーレイとの青い地球での新しい生。
 それを運んで来てくれた五月に貰った、学校便りの五月号。
 あの日の朝のホームルームで配られた学校便りの小さな写真。
 其処にハーレイが載っていることに気付いたのはずっと後だったけれど、大切な宝物なんだ…。




          似顔絵・了

※美術の成績はトップだというのに、似顔絵の腕前は破壊的だったらしいブルーです。
 それでも頑張って描きたかった気持ち、いじらさを分かってあげて下さい。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv




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 ふと目に入った父のスーツ。学校から戻っておやつを食べていたリビングの一角。風を通すためなのだろうか、上着だけがハンガーに掛けてあった。いつも父が仕事に着てゆくスーツ。
(やっぱり大きい…)
 ハーレイの体格には及ばないものの、ブルーの父も背は高い方。従ってスーツも大きいサイズ。ハンガーに掛けられたそれは、ブルーの制服の上着とはまるで大きさが違う。文字通りの大人用と子供用と言っても差し支えは無く、ブルーはその大きさが羨ましくなった。
(…早く大きくなりたいんだけど…)
 父ほどの大きさにはならなくていい。前の生と同じ背丈の百七十センチがあれば充分。そこまで育てば上着のサイズも今ほどの差は開かないだろう。
(でも…。ハーレイはパパよりももっと大きいよね?)
 いつか自分が大きくなっても、ハーレイの上着と並べて掛けたら大きさの違いが分かりそうだ。今の父と自分ほどには違わないだろうけれど、きっとブルーのよりずっと大きい。
(大きい上着かあ…)
 自分の体格よりも大きな上着。それを着てみたらどんな感じがするのだろう?
 背伸びして大人になった気持ちか、あるいは一人前の大人な感覚か。子供には縁の無いスーツ。制服を着るまでは改まった外出用に子供用のを持っていたけれど、それはあくまで子供用。仕事に出掛けるわけではないし、行儀よくしているためだけの服。
(…ちょっとだけ着てもかまわないよね?)
 大人に少し近付けるかも、とブルーは父の上着に手を伸ばした。背が高い父の上着を羽織れば、いいおまじないになりそうだ。そのサイズには届かないまでも、大きくなれる力が宿っていそう。
(んーと…)
 手に取るとズシリと重かった。制服の上着とは全く違う。袖を通して羽織ってみたら。
(…うわあ…。ホントに大きいよ、これ)
 肩にかかる重さもさることながら、余りすぎの肩幅に長すぎる袖。裾だって腰よりもかなり下にあり、案の定、ブカブカとしか言いようがない。
 上着と呼ぶより、これではガウン。上掛け代わりに着て寝られそうなほどに大きな上着。
(…分かってたけど、ぼくって小さい…)
 早く大きくなりたいな、と溜息をついて上着をハンガーに戻しておいた。一日も早くハーレイと一緒に暮らせる背丈になれますように、と願いをこめて。



 父のスーツで勝手なおまじないをしていたことは綺麗に忘れたけれども、その夜、パジャマ姿で自分のベッドに腰掛けた途端に思い出した。
 ガウン代わりになりそうだった父の上着。着て寝られそうだった大きな上着。
 今は秋だから、これから少しずつ寒くなってくる。パジャマ一枚で夜更かし出来る季節はやがて終わって、羽織るものが要るようになるのだけれど。
(…あれ?)
 なんだか着ていたような気がする。カーディガンや子供用のガウンではなくて、もっとズッシリした上着。パジャマの上から確かに羽織っていたような…。
(でも…)
 父のスーツを持って来たりはしない筈。ガウン代わりに父が貸してくれるわけがないから、もし着たとしたら、それは悪戯。目的も無いのにスーツで悪戯なんかはしない。なのに着ていた記憶がある。
 両肩に微かに残った感触。自分には重くて大きすぎる上着。
(…いつなんだろう?)
 もしかしたら父が着せかけてくれたとか?
 お風呂上がりにパジャマ一枚で遊んでいたら「風邪を引くぞ」と羽織らせてくれた?
 そういうこともあるかもしれない、と懸命に記憶を手繰っていて。
(…あっ…!)
 引っ掛かって来た遠い日の記憶。今の家とは違う場所の記憶。
(前のぼくだ…!)
 着ていたものは父のスーツの上着ではなくて、キャプテンだったハーレイの上着。ソルジャーの上着とお揃いの模様があしらってあったキャプテンの制服の上着を着ていた。
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーには大きくて重かった、ハーレイの上着。それを羽織って青の間に居た。ソルジャーの上着とマントの代わりに、ハーレイの上着をしっかりと着て…。
 蘇ってくる懐かしい記憶。ブルーはそれを夢中で追った。



 ソルジャーだったブルーは大抵、青の間に一人。
 戦いや新しく見付けたミュウの救出に出掛けない時は、シャングリラの中を一巡すればその日の役目はおしまいだった。アルタミラを脱出して間もない時代は皆と賑やかに過ごしていたけれど、ソルジャーとなり、青の間に住まうようになった頃には普通の役割は無くなっていた。
 唯一の戦える存在であって、同時に行く手を指し示すソルジャー。
 年若い者たちにとっては神にも等しい立ち位置となってしまったブルーに、一般のミュウと同じ仕事は回ってこない。戦闘も救出作戦も無くて暇だからといって農作業の手伝いをしようとしても視察扱い、却って作業の手を止めてしまう。掃除を手伝おうとしても同じこと。
 ブリッジに行けばソルジャーの巡視とばかりに皆が緊張するのが分かるし、機関部に出掛けても今の状況を説明するべく誰かが作業を抜けて来てしまう。
 あれこれと色々試してみた末、子供たちの相手をして遊ぶことが一番問題が少ないと分かった。保育部の者たちは恐縮するけれど、子供たちはブルーに懐いてくるから仕事の手伝いをすることは出来る。ブルーが子供たちの相手をしている間に他の作業が可能だから。
 とはいえ、子供たちは眠りに就くのも早い。大人たちより早い時間に夕食を済ませ、ブルーより先に眠ってしまう。ブルーが見付けた小さな仕事は子供たちが夕食に行けばおしまい。
 夜ともなれば船内の巡回にも出掛けられない。公園で散歩は出来るけれども、それ以外の場所を歩いていれば、出会った者に「ご用でしょうか?」と気を遣わせてしまうのが目に見えている。
 仕方ないから、夜になったら本当に青の間で一人きり。
 恋人のハーレイがブリッジでの勤務を終えて来てくれるまでは、たった一人で青の間で過ごす。そのハーレイが忙しい時は独り寂しく待つしかない。本を読むのに飽きてしまっても、一人で飲む紅茶が美味しくなくても、ハーレイにはキャプテンという大切な任務があるのだから。
 そうやって待って、ハーレイを迎えて、愛を交わしたり、ただ添い寝して貰うだけであったり。二人一緒にベッドで眠って、朝になったらハーレイをブリッジへ送り出す。その後はブルーは独りになる。どんなに仲間が大勢いようと、心の底から幸せを感じられる時間は夜まで来ない。



 それが日常だった、ある朝のこと。起き出して制服を着込んだハーレイが言った。
「今夜はこちらに来られないかもしれません」
「…忙しいの?」
「ええ。色々と片付けなければならないことが重なりまして…」
 でも、心配は御無用です。一つ一つは大したことではありません。ただ…。
 私の帰りがあまり遅くなると、あなたがお休みになれませんから。
「理由はそれだけ?」
 ブルーの身体を気遣う言葉は嬉しかったけれど、従うつもりにはなれなかった。「そうです」と答えたハーレイに「遅くてもかまわないから来て」と自分の望みを口にする。
「それだけなら、ぼくは待っているよ」
 先に眠ってしまっているかもしれないけれども、一人にしないで。
 朝に独りで目を覚ますのは嫌なんだ。
 夜中に目覚めて独りぼっちだと気付くのも嫌だということ、君は充分知ってるだろうに。
「…分かりました」
 遅くなるかもしれませんが、とハーレイは約束をして出掛けて行った。
 そういう会話を交わしていたから、遅くなっても仕方がないとは思っていた。けれど…。
(…まだ来てくれない…)
 本当にハーレイが戻るのが遅い。覚悟していたけれど、本当に遅い。
 とっくの昔にシャワーを済ませて、もう長いことベッドに腰掛けて待っているのに。



(寂しいよ、ハーレイ…)
 サイオンで軽く気配を探ると、ハーレイはまだ忙しそうで。どうやら幾つかの部署から幾つもの案件が同時に持ち込まれたらしく、どれもキャプテンの決裁が必要だからと急いでいる。如何にも生真面目なハーレイらしい。明日や明後日に持ち越したって支障の無いものも多そうなのに。
(…そういう所も好きなんだけどね…)
 シャングリラの仲間たちの暮らしが少しでも快適であるようにと、心を砕く優しいキャプテン。ブリッジで見せる厳めしい顔とは正反対の温かい心を持ったハーレイ。
 だからハーレイが好きになった。自分のことよりもブルーのことを大切に思い、いつだって側に居てくれたから。本当に側に居られる時間は短いものでも、心ごと寄り添ってくれたから…。
(まだかな、ハーレイ…)
 早く仕事が終わらないかな、と探ってみれば、また別件でハーレイの部屋を訪ねてゆくクルーの姿が見えて。他にも幾人か順番待ちらしき気配があった。夜間シフトの者も含まれているようだ。これでは半時間やそこらで全て片付きそうもない。優に一時間、あるいはもっと…。
 先に眠るべきかと思うけれども、眠る時にはハーレイが隣にいないと寂しい。
 ハーレイと二人寄り添い合って、生まれたままの姿か、アンダーだけか。
 どちらの格好で眠るにしても、ハーレイの温もりが側に無いとあまりに寂しすぎる。
 シャワーを浴びた後でマントも上着も脱いでいるから、ベッドにもぐれば眠れるのだけれど…。
 どうにも眠ろうという気持ちになれない。
 少しでいいからハーレイの優しい温もりが欲しい。
 ブルーの身体を暖かく包んでくれるもの。包み込んでくれる何かが欲しい…。



 眠れないままに、自分を包んでくれそうな温もりを頭の中であれこれと探し求めていて。
(そうだ、上着…!)
 ハーレイがいつも着ているキャプテンの上着。ブルーとお揃いの模様をあしらった上着。
 あれを羽織れば大きくてきっと暖かい。ブルーはガウンを持っていないけれど、ガウンみたいに暖かく包んでくれると思う。ハーレイの大きな身体を包む上着だし、充分ガウンに出来る大きさ。あれならばハーレイの温もりを身近に感じられそうだ。
(…えーっと…)
 青の間からは少し離れたハーレイの部屋をサイオンで覗く。何度も泊まったことがあったから、ハーレイが制服を仕舞っているクローゼットは直ぐに分かった。ハンガーに掛けられて並んでいるクリーニングを済ませた上着。替えの上着は何着もあったし、一つくらいはいいだろう。
(ちょっと借りるよ)
 机に向かっているハーレイの背中に心の中だけで声をかけた。もちろん思念に乗せてはいない。仕事の邪魔をしては悪いし、かと言って無断で持ち去るのも良心が咎めたから。
 手近な上着を一つ選んで、瞬間移動で失敬した。青の間のベッドに腰掛けたままのブルーの手の中に上着がバサリと落ちて来る。思っていたよりも重たいそれ。同じ模様があしらわれたブルーの上着よりも遙かにズシリと重い。
(大きいし、袖もついてるんだし…)
 重くて当然、とブルーは微笑む。この重い上着を軽々と着こなすハーレイの逞しさを思う。
(…こうして見るとホントに大きい…)
 両手で持って広げてみれば、彼の人の頑丈で大きな身体が直ぐ目の前にあるかのようで。
(ハーレイはこれを着てるんだ…)
 自分のマントと上着はシャワーを浴びた時に脱いでしまって、今はアンダーだけだったから。
 手に入れたばかりの素敵なガウンを早速羽織ってみることにした。まずは袖には腕を通さずに、マントのように肩に掛けてみる。それだけで肩と背中が暖かくなった。ハーレイに合わせてある丈だけに、ブルーが羽織るとハーレイのマントくらいの大きさになる上着。
 両方の腕を通して着れば、まるでハーレイに包まれているようで。
(…ふふっ)
 これを着ていれば寂しくない。ハーレイが側に居てくれるような安心感。
 どっしりと重いキャプテンの上着。いつもハーレイが着ている上着。
 前を掻き合わせて両方の手でキュッと握って、幸せに浸る。
 もう少し待てば、これの持ち主が仕事を済ませて戻って来る。
 あと少し、ほんのもう少し…。



 ブルーが着込んだハーレイの上着。キャプテンの制服の重たい上着。
 今もまだ部屋で仕事をしているハーレイと同じ上着を纏って、その暖かさに包まれて。ブルーは心が安らぐのを覚え、寂しさも和らいだような気がした。
 寂しかった心がハーレイの温もりを感じたからか、俄かに眠気が襲って来て。ハーレイの帰りを待とうと思っているのに、小さな欠伸が立て続けに出る。
(…もうすぐハーレイの仕事が終わる…)
 終わるまで待っていなくては。眠らずに待って迎えなくては、と堪えても欠伸を止められない。ほんの少しだけ横になろう、とベッドにぱたりと倒れ込んだ。眠るつもりは全く無かった。
 横になれば眠気が収まるだろうと、目を瞑らなければ眠りはしないと思って身体を横たえた。
 そう、目を開けていれば眠らずに済む。こうして眠気をやり過ごしてやれば欠伸も止まる。
(…少しだけ…。ほんの少しだけ…)
 眠気が去ったら起き上がるつもり。それが眠気に捕まってしまい、知らず知らずに瞼が閉じた。ブルーはベッドに倒れ込んだまま、ぐっすりと深く眠ってしまった。
 ハーレイの上着を上掛けにして、腰の辺りまですっぽりと包まれたままで…。



「…ブルー?」
 いったい何をしているんです、と呼ばれたブルーは「…ん?」と寝返りを打って目を覚ました。眠い目を擦りながら開けば、直ぐ前に恋人の顔があって鳶色の瞳に途惑いの色。
「…遅くなってしまってすみません。ですが、この格好は何ごとです?」
「…格好…?」
 何を言われているのか分からず、眠気を払おうと伸ばした腕が目に入った。見慣れた自分の腕の代わりにハーレイの腕。それも不格好に余りすぎた制服を纏った腕。
(………?)
 ブルーの半ば寝ぼけた頭が状況を把握する前に、ハーレイの瞳が覗き込んで来た。
「…私の上着が皺くちゃになってしまっているのですが…」
「……君の……?」
 なんで、と口にしかかった所でブルーはようやく気が付いた。
 無断で借りたハーレイの上着。ガウン代わりに着込んでみたらとても暖かくて、幸せで…。
(…そのまま眠ってしまっていたんだ…!)
 カアッと顔が赤くなるのを覚えたけれども、ハーレイに背を向け、ぶっきらぼうに言い放つ。
「君が遅いからいけないんだ。早く包んで」
「…は?」
「上着じゃなくって、君の身体でぼくを包んで。もう遅いから、それだけでいい」
 早く、とブルーは恋人を急かした。
「君が来ないから、代わりに上着で寝る羽目になった。これはもういい。早く脱がせて」
 上着より君の方がいい。早く脱がせて、君が包んで。
「…ええ、ブルー…」
 ハーレイの声に笑いが混じる。この恋人はなんと可愛いのかと、自分が来るのを独りで待てずに上着を持って来てしまったのか、と。愛らしい恋人がしっかりと袖を通して着込んだキャプテンの上着。細くて華奢な身体に纏うには大きすぎて余っている上着。
「ブルー、少し身体を浮かせて下さい。あなたの下敷きでは脱がせられません」
「…うん……」
 そう答えつつも非協力的なブルーの身体から上着を剥がすハーレイが小さな吐息を漏らした。
「…おまけに、私の上着を脱がせるというのは、なんとも妙な感じがするのですが…」
「そうかな? でもこれ、気に入ったんだよ」
 とても暖かくて、君が側に居るような気がする。また遅くなる時があったら借りるよ。
「はあ…」
 困り顔で脱がせていたハーレイ。自分の持ち物のキャプテンの上着を脱がせたハーレイ…。



(借りていたんだ、ハーレイの上着…!)
 小さなブルーは思い出した。前の生で過ごしたハーレイとの時間。青の間で過ごしていた時間。
 そんなことは滅多に無かったけれども、寂しい夜にはハーレイの上着。
 ハーレイの帰りを待ち切れない時、持ち主の部屋からキャプテンの上着を無断で借りた。何着も並んだクリーニング済みの上着の中から一つ選んで、瞬間移動で持ち出していた。
 持ち主のがっしりとした身体に相応しい重みと大きさの上着。それが気に入って何度も借りた。たまに昼間にも羽織っていた。急にハーレイに会いたくなったのに、叶わない時に。用を見付けて呼び出そうにも、キャプテンの仕事が多忙だった時に。
(…大好きだったっけ、ハーレイの上着…)
 ブルーがそれを着ている度にハーレイは苦笑していたけれども、それでも瞳は嬉しそうだった。
 自分の制服を脱がせないと恋人に触れられないとは、と嘆きながらも声に幸せが滲み出ていた。そうしてブルーの身体を包んだ大きすぎるキャプテンの上着を脱がせて、自分の身体で包み込んでくれた。温かくて広い褐色の胸に、逞しい筋肉を纏った腕で。
(本物のハーレイには敵わないけど、上着もとっても好きだったんだよ…)
 何回も借りていたハーレイの上着。
 ガウン代わりに、上掛け代わりにしていたキャプテンの制服の重たい上着…。



 思い出したら、あの上着が急に懐かしくなった。
 今はもう何処にも無い上着。時の流れが連れ去ってしまったキャプテンの上着。
 ブルーが着ていたソルジャーの上着とお揃いの模様があしらわれていたキャプテンの上着。
 存在しないものは着られないから、思考を別の方へと向けた。
(今のハーレイのスーツ、羽織ってみたいな…)
 記憶を呼び戻す切っ掛けになった、昼間に羽織った父のスーツの大きな上着。ハーレイほどではなくても長身な父の上着があの大きさ。ハーレイは父よりもずっと肩幅があって背が高い。
(…ハーレイのだと、パパのよりもっと大きいよね?)
 ブルーには大きすぎた父の上着。それより遙かに大きいだろうハーレイの上着。
 前の生でハーレイの上着を着ていたブルーは今よりも背が高かった。肩幅だって広かった筈。
 今のブルーはソルジャー・ブルーだった頃に比べれば小さな子供。そんな自分が前と同じようにハーレイの上着を借りたら、どれほど余ってしまうのだろうか。
 今のハーレイのスーツの上着は、キャプテンの制服の上着よりも大きくてきっと暖かい。
(でもって、うんと重たいんだよ)
 着てみたいな、とブルーは夢を見るのだけれど。
 週末の土曜日や日曜日に来てくれるハーレイはスーツではないし、着たいと頼み込むなら平日。
(…だけど……)
 平日にこんな思い出話は出来ない。前の生で愛し合っていた頃の話は出来ない。
(…週末に話して、次にスーツで来てくれた時に着せて貰えばいいのかな…?)
 着せてくれるかな、とハーレイのスーツ姿を思い浮かべる。今日も学校でスーツ姿のハーレイに会った。暑い季節にはワイシャツにネクタイだったけれども、今ではスーツが普通のハーレイ。
(ちゃんと頼んだら、着られるかな?)
 一度くらい着せて欲しいんだけど、とハーレイの身体を包むスーツの上着に思いを馳せる。
 着せて貰うなら今がいい。
 結婚したならいつでも着せてくれるのだろうし、勝手に着ることも出来るけれども、今がいい。
 前よりも小さな身体だからこそ、着せて貰う価値がありそうだった。ブルーの身体をすっぽりと包み込むハーレイの大きさ、温かさ。今なら前の何十倍にも感じられるに違いない。
(それにハーレイ、キスも許してくれないしね…?)
 上着くらいは着せて欲しいよ、とブルーは頑丈な身体を持った恋人のスーツの上着を狙う。
 何とかしてあれを着られないか、と懸命に考えを巡らせるけれど、全ては上着の持ち主次第。
 小さなブルーはハーレイのスーツの上着を着せて貰えるのか、拒否されるのか。
 キャプテンだったハーレイすらも苦笑したそれは、今のブルーには些か難しそうだった……。




            羽織ってみた上着・了


※キャプテン・ハーレイの上着をコッソリ拝借していたソルジャー・ブルー。
 とても幸せだったでしょうけど、脱がせる方のハーレイは複雑な気分ですよね…?
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 学校へ向かう路線バスの中。
 ふと気が付いて通学鞄を覗き込んだブルーは顔色を変えた。
(…えっ?)
 いつもの場所にある筈の財布。鞄を開ければ直ぐ分かるそれが見当たらない。まさか、と奥まで手を突っ込んでみたが馴染んだ感触が何処にもない。何度探っても見付からない。
(…そんな……)
 路線バスの乗車賃は財布とは別。鞄に付けている小さなカードを機械が自動で読み取る仕組み。財布が無くても困りはしないが、お金が要る場所はバスだけではない。焦って鞄を探っている間にバスは学校の側のバス停に着いた。



(もしかしたら何処かに挟まってるかも…)
 祈るような気持ちで教室に行って、机の上に鞄の中身を全部取り出してみたのだけれど。逆さにして何度も振ったのだけれど。
(…やっぱり無い…)
 財布は出て来てくれなかった。肩を落として出してあった中身を順に鞄に仕舞い込む。本当なら其処に在った筈の財布。忘れたことなんか無かった財布。
(…なんで?)
 どうしてこうなっちゃったんだろう、とブルーは自分の記憶を探った。財布は外でしか使わないから、いつだって通学鞄の中。たまに何処かへ出掛ける時は外出用の鞄に入れ替えて行って、家に帰ったら直ぐに通学鞄に戻す。財布を鞄以外の所に置いておくことは無いのだけれど…。
(…あっ…!)
 引っ掛かった小さな記憶の欠片。昨日の夜、母にお小遣いを貰って財布に入れた。通学鞄の中が定位置の財布を確かに鞄から出した。
(…それから何をやったんだっけ?)
 母に呼ばれて貰いに行ったお小遣い。ちょうど本を読んでいる時に声を掛けられたから、急いで階下へ下りて行った。鞄から出した財布をしっかりと持って。
 ダイニングで渡されたお小遣いを財布に仕舞って、部屋へ戻った所までは確か。通学鞄に入れるつもりで勉強机の前まで行って…。
(…やっちゃった…)
 広げたままで机に置いて出た写真集。ハーレイとお揃いで持っている本、シャングリラを収めた写真集。開いたページに載っていた写真が前の生の記憶を運んで来たから、手繰り寄せようとして椅子に座った。持っていた財布は…。
(隣の棚に置いちゃったんだ…!)
 ほんのちょっとだけ、懐かしい記憶に浸りたかった。通学鞄を手に取っていたら現実が前の生の記憶を消してしまって追えなくなるかもしれなかったから、写真集の方を優先した。財布は後でもいいと思った。思い出しかけた遠い記憶の方が大切。
 そうやって蘇ってきたシャングリラでの日々がとても懐かしくて、もっともっとと夢中になって写真集のページをめくり続けた。此処でこんなことが、此処でこういう会話があった、と。



 時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 ゼルやヒルマンやブラウたちと交わした言葉や、その表情。日常のほんの小さな一コマ。温かな光景が幾つも幾つも胸の奥から湧き上がって来て、幸せな気持ちで眠りについた。シャングリラの写真集をぱたりと閉じて、幸せな気分を仕舞いたくなくて、棚に入れずに机に置いたままで。
(…朝もそのまま置いて来ちゃった…)
 昨夜の幸せを覚えていたから、学校から戻ったら遠い記憶を追おうと思った。心を空っぽにしてページをめくって、浮かび上がってくる記憶の欠片を拾ってみようと。
 写真集を棚に戻さなかったから、棚の方なんか見ていない。財布を置いた棚なんか見ない。
 探していた財布は今も家に在って、ブルーの部屋の棚の上。母が気付いてくれたら届けてくれる可能性もあったけれども、生憎と部屋の掃除はブルーの習慣。ブルーが学校に行っている間に母が部屋に入ることなど滅多に無い。
(……どうしよう……)
 これではランチが食べられない。
 ノートなどを買う予定は無いから、財布が要る場所は食堂だけ。食の細いブルーは昼休みに少し食べれば充分、それ以外に食堂は使わないけれど、食堂で食べるにはお金が必要。いくらブルーの食が細くても、何も食べずに放課後まではとても持たない。
 こうなった以上、ランチ仲間にお金を借りるしか無さそうだ。誰に頼もうかと思案していて。
(そうだ、ハーレイ!)
 この学校にはハーレイが居る。
 校内ではあくまで教師と生徒で「ハーレイ先生」と呼ばねばならないが、そのハーレイは誰もが認めるブルーの守り役。ある意味、保護者とも呼べる立ち位置。
(…友達に借りるより、ハーレイだよね?)
 ランチ仲間は万年金欠の傾向が強い。特に今の時期、お小遣いを貰っていればいいけれど、まだ貰ってはいなかった場合、ブルーに貸すのは大変そうだ。下手をすればランチ仲間全員が少しずつ出してくれて一人分を捻り出すのがやっとかも…。
 そんな迷惑をかけてしまうより、ハーレイに頼んだ方がいい。財布を忘れたと言わねばならないことは恥ずかしかったが、自分の始末は自分で付けねばならないだろう。



 幸いブルーは登校時間が早い方。
 柔道部の朝練を終えたばかりのハーレイと出くわすこともしばしばで。
 この時間なら他の先生たちも忙しくしてはいない筈だから、大急ぎで職員室へと駆け込んだ。
「ハーレイ先生!」
 目指す人影は職員室の中でもひときわ目立つ大きな体格。出勤してきた他の先生たちと立ち話の最中で、手には熱いコーヒーが入ったマグカップ。そのハーレイがブルーの声で振り返る。
「どうした、ブルー? 朝早くから」
「……えっと……」
 職員室中の教師の視線を一身に浴びたブルーは真っ赤になって俯いた。ブルーの担任の先生まで居る。この状況で口にするのは本当に勇気が要ったけれども。
「…すみません。財布を忘れて来たんです。少しでいいから貸して下さい」
 消え入りそうな声では失礼だから、精一杯に搾り出した声。ハーレイが「ふむ」と呟いて。
「昼飯用か?」
「……そうです……」
 買えないんです、と顔を上げられないままのブルーに、ハーレイは「よし」と答えてくれた。
「分かった。昼休みに準備室に来い」
「えっ?」
「準備室だ。古典の準備室、知ってるだろう?」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
 返事を貰った以上は礼儀正しく、きちんと御礼を言わなければ。他の先生たちの耳にも聞こえる声で答えて、御礼を言って。ペコリと頭を下げたブルーは職員室を出て、扉を閉めた。
(…は、恥ずかしかったあ…)
 まだ心臓が激しく脈打っている。ウッカリ者の自業自得な情けない末路。とはいえ、心配の種は無くなった。ランチ仲間に無理を言ってお金を借りなくて済む。
(…でも……。準備室に来いって、どういう意味かな?)
 もしかするとハーレイが食堂について来て、その場で支払ってくれるのだろうか?
 考えてみれば、理に適った正しいやり方だった。ブルーがいくらのランチを買って食べるのか、今の時点では分からない。ブルーは嘘を言ってお釣りを懐に入れたりはしないけれども、そういう生徒も絶対いないとは言い切れない。同行して必要な分を支払う方が貸すよりもいい。
 きっとそうだ、とブルーは思った。ハーレイが食堂まで一緒に来てくれる。
(…どうせなら一緒に食べてくれたらいいんだけどな…)
 流石にそれは無理だろうけど。ハーレイにはハーレイの都合があるのだろうし…。



 そして昼休みがやって来た。ランチ仲間には「財布を忘れたから」と真実を告げて、待たないで食べてくれるようにと言った。昼休みの食堂はまさに戦場。出遅れれば売り切れるものも多いし、いい席となれば奪い合い。纏まった数の席を取るのは大変だけれど、一人分なら何とでもなる。
(…ホントはハーレイと二人で食べてみたいんだけどな…)
 食堂の隅っこの席でいいから。教師と生徒の会話でいいから、ハーレイと二人…。
 そんなことを考えながら校舎の中を歩いて、辿り着いた古典の準備室。職員室とは別に教科別に設けられた教師の居場所。授業のある時間帯は準備室で待機し、質問なども受け付ける。
「失礼します」
 扉をノックし、カチャリと開けたブルーは目を見開いた。
(あれっ?)
 何人か居る筈の先生たちが一人もいない。正確にはブルーの方を振り向いたハーレイ一人だけ。机は幾つか並んでいるのに、ガランとした古典の準備室。途惑うブルーに声がかかった。
「来たか。…まあ入れ、今日は俺だけだ」
「えっ?」
 扉を閉めたものの、ブルーはキョロキョロと周囲を見回す。他の先生は何処へ消えたのだろう?
「お前、いいカンしているな。実は不器用じゃないんじゃないか? お前のサイオン」
 ハーレイが「来い」とブルーを手招きした。
「他の先生は研修でな。今日は一日、隣町だ」
 まさか全員がいないわけにもいかんだろうが。俺は別の日に済ませたんだ。
 そう言いながら、ハーレイは自分の隣の席から持ち主が留守の椅子を引っ張り出した。
「というわけで、今日は一人だから豪華弁当と洒落込むつもりだったんだが…。そしたら、お前が来ちまった。御馳走するしかないだろうが」
「ええっ?」
「ついでに人目も無いからな。ハーレイ先生じゃなくてハーレイでいいぞ」
 座れ、と椅子を用意されたブルーは信じられない思いで腰掛けた。
 ハーレイと二人で食堂どころか、準備室で二人で食事だなんて。しかもハーレイ先生ではなく、ハーレイと呼んでいいなんて…。
 本当に此処は学校だろうか?
 夢を見ているのではないのだろうか…。



「遠慮しないで食って行け。自慢のクラシックスタイルなんだぞ」
 ハーレイが四角い風呂敷包みを取り出した。机の上に置いて風呂敷を解けば、中から二段重ねになった弁当箱が現れる。行楽の季節に見かけるような黒く塗られた弁当箱。金色の模様も描かれたそれは、まさにクラシックスタイルそのもの。
「…なんだか凄いね…」
 SD体制の時代よりも遙かに古いスタイル。前の生では情報だけしか知らなかった。実物を目にしたことが無かった。その点はハーレイも同じ筈だが、今の好みはこうなのだろうか?
「ははっ、驚いたか? 俺の親父とおふくろはこの手の弁当も好きなんだ。春の桜や秋の紅葉にはピッタリだろうが、こういうヤツが」
 せっかくの文化を楽しまないとな?
 此処は地球だし、ずうっと昔は日本という名の島国だ。由緒ある場所に生まれて来たんだ、昔の人たちが愛した文化を俺たちもうんと楽しむべきだぞ。
 もちろん今風の飯も美味いし、そっちの味だって捨て難いんだが…。
「どうだ、中身もクラシックスタイルというヤツだ。ちなみに全部、俺が作った」
 見ろ、とハーレイが自慢げに開けた二段重ねの弁当箱。上の段には魚の焼き物や野菜の煮物など何種類ものおかずが詰められ、下の段にはキノコたっぷりの炊き込み御飯。行楽弁当として売られているものにも引けを取らない、ハーレイの手作りがぎっしり詰まった豪華弁当。
「ほら、食べろ。お前、好き嫌いは無いんだろうが。…俺と同じで前世の記憶を引き摺っちまって贅沢を言えない舌なんだしな」
「そうだけど…。ぼく、食べていいの? これ、ハーレイのお弁当でしょ? お腹、空かない?」
「安心しろ。俺の非常食ならこっちにある」
 ハーレイが机の下から引っ張り出した袋に詰まったサンドイッチやホットドッグ。授業の合間に買って来たらしいそれはブルーからすれば驚くほどの量だったけれど。
「柔道部の指導は腹が減るしな、いつも買うんだ。今日は多めに買っておいた」
 だから好きなだけ弁当を食べろ、とハーレイは割り箸を机の引き出しから出して来た。ついでに準備室に備え付けの棚から陶器の皿。これまたクラシックな形と模様のもの。
「…これもハーレイのお皿なの?」
「まあな。俺の私物だ。他の先生も色々置いてるぞ。…茶碗も要るか?」
 炊き込み御飯には茶碗が似合う、とハーレイが棚から取って来た茶碗。それもハーレイの私物の茶碗で、持ち主の手に相応しい大きな茶碗。
「これに一杯はお前は無理だな、好きなだけ入れろ。おかずも好きなだけ取っていいぞ」
 取り分けるための割り箸も用意され、ブルーは感激で胸が一杯だった。普段ハーレイが使う器で食べられる上に、ハーレイの手作りのお弁当。本当に夢じゃないんだろうか…。



 お弁当とはいえ、本格的な和風のおかずと炊き込み御飯。ハーレイ御自慢の豪華弁当。
(…どれを貰ったらいいんだろう?)
 ブルーは嬉しい悩みを抱えて所狭しと詰まったおかずを眺めた。さっきハーレイが言った通りにブルーには好き嫌いが無い。前の生でアルタミラの研究所で食事とも呼べない餌を与えられ、脱出した後も耐乏生活が長く続いた。そのせいか、ハーレイともども好き嫌いが全く無いのだが…。
(それとこれとは話が別だよ…)
 出来ることなら全部食べたい、ハーレイ手作りの豪華弁当。しかしブルーの食は細くて、とても全部は食べられない。魚の焼き物を一切れと炊き込み御飯を茶碗に半分も貰えば満腹、他には入りそうもない。美味しそうなおかずが沢山あるのに、どれを選べばいいのだろう?
「おいおい、遠慮しなくていいんだぞ? 好きなだけ食え」
「…食べたいんだけど…。ぼく、沢山は食べられないよ…。ほんの少しでお腹一杯」
 どれにしようか迷っているのだ、とブルーは悩みを打ち明けた。全種類を制覇したいけれども、その前に満腹してしまう。だからお勧めのおかずがあったら教えて欲しい、と。
「ハーレイのお勧めのおかずにするよ。それと御飯を少しでいいよ」
「なるほどな…。お前、少ししか食わないからなあ、しっかり食べろと言っているのに」
 だから大きくなれないんだぞ、と苦笑しながらハーレイは魚の焼き物に割り箸を入れた。小さく割れた端っこをブルーの皿に取り分け、次は野菜の煮物を少し。それから玉子焼きを半分。
「何してるの?」
「試食サイズだ。これなら全種類でもいけるだろうが。気に入ったのがあって入るようだったら、また後で取れ。炊き込み御飯は自分で入れろよ、俺には適量が分からんからな」
 自分で調理したと言うだけあって、ハーレイが取り分けた試食サイズとやらは立派な盛り付けとなってブルーの前に供された。ブルーがお弁当のおかずにするには充分な量。
「お前が食べるならこのくらいか? どれも美味いぞ」
「ありがとう、ハーレイ! このくらいだったら食べ切れるよ、ぼく」
「だったら炊き込み御飯も取っとけ、一緒に食うのが美味いんだ」
「うんっ!」
 ブルーの手には大きすぎるサイズのハーレイの茶碗。其処にキノコの炊き込み御飯を取り分け、ハーレイと二人で「いただきます」と合掌をして。
 ドキドキしながら、ブルーはハーレイが最初に盛り付けてくれた魚の焼き物を頬張った。普通の付け焼きとばかり思っていた鮭。ハーレイ曰く、幽庵焼きとかいう付け焼き。醤油や味醂のタレに柚子を入れてあるのだと聞いて納得した。どおりでほのかに柚子の香りがする筈だ…。



 そうした調子で、ハーレイお手製の豪華弁当は作り方まで凝っていた。煮物も揚げ物もひと手間かけた本格仕上げ。もちろん炊き込み御飯も風味豊かで、冷めているのに気にならない。
「凄いね、ハーレイ。…こんなの作ってこられるんだ…」
「そう毎日はやってられんがな、普段はかき込むだけだしな?」
 一人だからこそゆったり食えるし、豪華にやりたくなるもんだ。
 俺の秘かなお楽しみだ、とハーレイは笑う。部屋を独占して豪華弁当を食べ、ちょっとした行楽気分に浸るのだと。今までの学校でもやってきたというリフレッシュ。旬の素材を自分で調理し、二段重ねの弁当箱に詰めて風呂敷に包んでクラシックスタイルの豪華弁当。
「そして弁当には箸でないとな。…箸の使い方も上手いな、お前」
「パパとママが厳しかったんだ。ちゃんと持てないと恥ずかしいぞ、って」
「うんうん、そいつはいいことだ。俺の親父とおふくろが聞いたら大いに喜ぶ」
 親父は釣りが好きだからなあ、アユなんかは箸で食わんとな?
 早くお前に釣った魚を食わせたい、と言っていたから、上手に食ったら大感激だぞ。
「…ホント?」
「本当だとも。親父は自分でアユを焼くから、綺麗に食べて驚かせてやれ。箸を上手に使ってな。…ところで、だ。味噌汁も飲むか?」
「そんなのもあるの?」
 まさか味噌汁まで作ってきたとは思わなかったから、ブルーは驚いたのだけれども。
「いや、味噌汁は此処の常備品だ。…いわゆるインスタントだな。すまし汁もあるぞ、好きな方を選べ。種類も色々揃っているんだ」
 棚の奥から出て来た何種類もの味噌汁、すまし汁。そのくらいなら、まだ食べられる。ブルーは最中みたいな皮の中に具が詰まっているというすまし汁を選んだ。お湯を注げば花の形の麩などが出て来て面白いのだとハーレイが言うから。
「よし、こいつだな? 器は、と…」
 お湯を沸かす間に棚から二つ出されたお椀。そっくり同じ形だったから、ハーレイの私物が二つあるのかとブルーは思ったが、そうではなかった。
「こいつは此処の備品でな。歴代の古典教師が揃えた、いわばコレクションだ」
 古典の教師は和風の食事が好きな人が多く、インスタントの味噌汁やすまし汁もそのために皆で資金を出し合って揃えているのだという。
 ハーレイはブルーが食べ切れなかった分のお弁当を食べ、ブルーとお揃いのすまし汁を飲んで、「実に美味かった」と御馳走様の合掌をして。



「さて、ブルー。…ここまで来たら食後は緑茶で締めんとな?」
 これまた棚の奥から出て来た急須と湯呑み。ハーレイが湯を適温に冷まして緑茶を淹れる。
「とっておきの玉露なんだぞ、生徒用ではないんだが…。俺の客だし、許されるさ」
 買う時には俺だって出資したしな?
 パチンと片目を瞑るハーレイは悪戯っ子のような瞳をしていた。
 嬉しそうなハーレイと二人、すっきりとした味わいの緑茶で喉を潤し、ブルーのランチタイムは終わった。お腹一杯になったけれども、幸せだった昼休み。
「御馳走様でした、ハーレイ先生!」
「ああ、気を付けて教室に戻れよ、食い過ぎで走ると腹が痛くなるぞ」
「はいっ!」
 ブルーはペコリと頭を下げて廊下に出た。
 夢のようなランチタイムは終わって、教師と生徒に戻ったけれど。
 ハーレイの手作りのお弁当を一緒に食べて、いつもハーレイが教師仲間と食べているすまし汁や玉露も御馳走になった。幸せ過ぎて、誰彼かまわず喋りたくなるような素敵なランチ。
 たまには財布を忘れるのもいいな、と弾む足取りで教室に戻ってゆくブルーはやはり子供で。
 ハーレイの方は、思いがけない来客を迎えた喜びと幸せを一人になった部屋で噛み締めていた。自分以外には誰もいない古典の準備室。教師としての自分の居場所。
(…俺の家だとこう冷静には振る舞えないしな?)
 ブルーに手料理ならぬ手作り弁当を食べて貰えて、しかも二人きりでのランチタイム。
 孤独な昼休みが素敵で豪華な時間に化けた。
 たまには研修の留守番もいい。また次の機会に引き受けてみようか、留守番役を。
 もっとも、ブルーが財布を忘れない限り、二人でランチは出来ないけれど…。




           幸運な忘れ物・了

※財布を忘れてしまったお蔭で、ハーレイと二人で昼御飯。幸運だったブルーです。
 ハーレイ自慢のクラシックスタイルのお弁当、美味しかったでしょうね。
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 ローズマリーのおまじない。
 学校から帰った時にテーブルの上にあった新聞。ママがおやつを用意してくれるのを待つ間に、なんとなく広げてみたんだけれど。たまたま開いた所にチラッと載っていたんだ。
 植物と伝説だったかな。カラーの写真付きのコラムで、その日はローズマリーだった。ハーブとしての使い方や効能の他に、ローズマリーに纏わる伝説なんかが書いてあって。
(わあ…!)
 ローズマリーを使ったおまじないが一つ。ローズマリーの小枝を枕の下に入れて眠ると、未来の夫が夢に出て来るんだって。
(いいな…)
 大きくなったらハーレイのお嫁さんになると決めているぼく。「お嫁さん」という言葉は正しくないかもしれないけれども、ハーレイに貰ってもらうんだから「お嫁さん」だよね。他の言い方をぼくは知らない。「伴侶」じゃ偉すぎるような気がするし…。
 ぼくが「お嫁さん」だと、ハーレイは「夫」。ぼくの未来の夫はハーレイ。
 パパとママにはまだ秘密だけど、ハーレイのパパとママは将来の結婚相手だと認めてくれてる。ローズマリーのおまじないを使えば、きっとハーレイが夢に出て来る。
(このおまじない、いいな…)
 ハーレイの夢はよく見るけれども、ぼくの結婚相手としてじゃないから…。
 夢の中でキスをすることも、愛し合うことも多いというのに、ハーレイと本物の恋人同士として夢の時間を過ごしているのは、いつだって、いつだってソルジャー・ブルー。
 前のぼくがハーレイを独占していて、小さなぼくは入り込めない。どんなに幸せな夢の中でも、ぼくは小さなぼくじゃない。目が覚めると少しガッカリするんだ。また今日もぼくじゃなかった、って。ぼくだったけれど、ぼくの身体じゃなかった、って。
 ハーレイと本物の恋人同士になりたいのに。
 夢の世界の中だけでいいから、本当に本物の恋人同士。おまじないを使えばなれるかも…。



(だって、ハーレイのお嫁さんだものね?)
 未来の夫が夢に出て来る、ローズマリーのおまじない。
 それを使って見る夢だったら、ハーレイはぼくの夫に決まってる。キスくらいきっと出来る筈。運が良ければその先だって…。
(いつも前のぼくに盗られちゃうけど、ぼくがハーレイのお嫁さんなら話は別だよ)
 ソルジャー・ブルーにハーレイを持って行かれてしまわない夢。
 ぼくの夫のハーレイの夢。
(…絶対、素敵な夢が見られるよ)
 だからおまじないをしようと思った。ママと一緒におやつを食べた後、ママが片付けをしている間に庭に出掛けた。ハーブが植えてある庭の一角。料理に使うミントやタイム、オレガノなんかが植わった中に、ローズマリーもちゃんと在る。濃い緑の葉をたっぷりと茂らせた小さな木。
 その木から一枝、ポキリと折り取って失敬してきた。寝るまでに萎れてしまわないように、水を含ませた紙を枝の切り口に巻き付けておくのも忘れなかった。
 夕食を済ませてお風呂に入って、机に飾ったハーレイとぼくが写った写真を眺めて過ごして。
(ふふっ、ハーレイの夢を見るんだもんね)
 パジャマ姿のぼくはローズマリーの小枝を手に取り、枕の下にそうっと入れた。ローズマリーの強い香りがぼくの手からフワリと立ち昇る。如何にも効きそうな、頼もしい移り香。
(きっとハーレイに夢で会えるよ)
 ぼくの夫になるハーレイ。どんな夢が見られるんだろう?
 枕の下に入れたローズマリーと、ぼくの手に残った移り香と。普段は部屋に無い香りに包まれ、ドキドキしながら眠りについた。
 今夜はきっと、ハーレイの夢。前のぼくにハーレイを盗られない夢…。



 幸せを夢見てベッドで眠ったぼく。
 でも…。
「やはりお前か、ソルジャー・ブルー!」
 気付けば、ぼくはメギドに居た。あの地球の男、キース・アニアンが銃口をぼくに向けている。もうどうなるかは分かっていた。
(酷いや、夢じゃなかったの!?)
 普段のぼくなら、此処で夢だと気付きはしない。前の生での記憶のとおりに進んでゆく夢。銃で撃たれて、痛みのあまりにハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きながら独り死んでゆく。
 幾度となく繰り返し見て来た夢。いつも泣きながら目を覚ます夢。
 ところが今日のぼくは違った。夢の中のぼくはローズマリーの小枝をしっかり覚えていたから、夢だと気付いて泣きそうになった。
 ハーレイの夢を見ようと思っていたのに、よりにもよってメギドの夢。
 おまじないなんて効かなかった。ローズマリーの小枝は未来の夫の夢の代わりにメギドの悪夢を運んで来た。ぼくは撃たれてまた死んでしまう。
(これじゃ逆だよ、ハーレイを失くす夢なんて…!)
 だけど、どうすることも出来ない。いくら泣きそうでも、夢の中身は変えられない。
 そうしたら…。



「ソルジャー・ブルー……ではないのか。子供か」
 何をしている、と銃をホルスターに仕舞って、寄って来るキース。
 其処はメギドだけど、メギドじゃなかった。あの忌まわしい青い光が満ちたメギドの制御室には違いないけれど、ただそれだけ。発射までのカウントダウンも止まってしまって、そういう機能を持った部屋だというだけのこと。
 ぼくも十四歳のぼくになってて、おまけにパジャマ。
(…どうなってるの?)
 何が何だか分からないぼくの直ぐ目の前にキースが来た。その手に体温計みたいな簡易サイオン測定装置。それがぼくの喉に当てられて、ピピッと鳴って。
「タイプ・ブルーか。…サイオンレベルは危険性なし、と」
 そう、今はこういう機械がある。サイオンタイプが瞬時に分かって、サイオンを扱えるレベルも判別できる。前の生と同じタイプ・ブルーのくせに不器用なぼくは危険性ゼロ。喧嘩でサイオンを使ってしまって相手がケガとか、そういうトラブルすら起こさないレベル。
 ぼくのサイオンを測ったキースは腰をかがめて、アイスブルーの瞳でぼくを見詰めた。背が高いキースと小さなぼくでは、そうしないと顔を覗けないから。
「それで、こんな所へ子供が一人で何をしに来た?」
 何故なんだろう、このキースは怖い感じがしない。危険な地球の男でもない。
 国家騎士団の制服を着てはいるけれど、ぼくへの殺意も感じはしない。
「…だって、未来の結婚相手に会えるって……」
 素直に喋ってしまっていた。
 ぼくったら、なんでキースにこんなことを話しているんだろう?
 それに右手にローズマリーの小さな枝。
 メギドの夢を見る度に冷たく凍える筈の右手に、枕の下に入れて眠ったローズマリー。
 ……なんで?
 どうして変なことが起こっているんだろう?



 メギドの夢でキースと話をしたことは無い。いつも問答無用で撃たれて、それっきり。
 なのに、この夢のキースは違った。屈んで視線を合わせてくれたし、厳しかった表情も穏やかなそれへと変わって。
「奇遇だな。俺も結婚相手を探していてな」
「えっ?」
 見たこともないキースの笑顔。それに結婚相手って言った?
 ぼくが声さえ出せない間に、キースは「マツカ!」と大きな声で背後に向かって呼び掛けた。
(あっ…!)
 メギドでチラッと見かけたマツカ。ぼくが道連れにしようとしていたキースを救い出して逃げたタイプ・グリーンのミュウだった。
 マツカを見たのはその一瞬だけ。でも今は色々と知っているから、普通に出て来た。キースのと似た国家騎士団の制服を纏って、キースに向かって敬礼する。
「マツカ、こいつだ。こいつが俺の結婚相手らしい。見ろ、ローズマリーを持っている」
「本当ですね。おめでとうございます、キース」
 ちょ、ちょっと待って。
 ぼくはハーレイに会いに来たのに!
 ハーレイに会いたかったのに…。
 違うと懸命に抗議したけれど、キースは「照れるな」と笑っただけ。
 マツカはぼくに「パジャマだと此処は寒いですよ」なんて言いながら、自分の上着を羽織らせてくれた。国家騎士団の制服の上着。まさか夢で着るとは思わなかった。
 でもでも、そんな場合じゃなくって、何かが絶対間違ってるから!
 ぼくはキースの結婚相手ではないし、ローズマリーの小枝だってそのために持っていたわけじゃない。ハーレイの夢を見ようと思って枕の下に入れただけなのに、どうしてキース?



 勘違いだと主張したって、所詮は子供の言うことだから。
 キースにもマツカにも聞き流されて、アッと言う間に話はしっかり進んでしまった。
 流石は夢で、全く整合性が無い。
 ミュウと人類はとっくに和解してしまっていた。メギドなんて無かったことになってた。
 ぼくは地球だか、見たこともない首都惑星ノアだかに連れて行かれて、キースが住んでいる家の一室を充てがわれていた。ぼくの世話はマツカがしてくれていて、未来のキースの伴侶扱い。
 キースは嬉しそうにしている上に、ぼくが小さな子供なことも全く気になんかしていない。
「結婚式にはお前の仲間も呼ばないとな」
 上機嫌であれこれ決めてゆくキース。
 ぼくの意見は聞いてもくれない。もちろん逃がしてなんかくれない。逃げ出したくても瞬間移動すら出来ないぼくは家から一歩も出られない。
(助けて、ハーレイ! 助けに来てよ!)
 思念波も上手く紡げないぼく。何処に居るのかも分からないハーレイに助けを求めることなんか出来やしない。手紙を書いて届けようにも、ぼくは家から出られない。
 そうこうする内に結婚式の招待状が作られてしまって、代表でハーレイが来ることになった。
(もしかして、ぼくを助けに来てくれるの?)
 映画で見たようなワンシーン。
 結婚式場からぼくを攫って逃げるハーレイ。
 きっと、そういう夢なんだ。未来の夫が出て来るだけの夢より、うんとドラマティックな演出。
 ハーレイと一緒に逃げてハッピーエンド。
 キースなんかと結婚するのは腹立たしいけど、最後はハッピーエンドなんだよ…。



 ついに結婚式の日が来て、ぼくはドレスを着せられた。
 ふんわり膨らんだ歩きにくい純白のウェディングドレス。白いレースのベールを被せられた頭に花の飾りを乗っけられてしまい、お揃いの花をメインに作った白いブーケも持たされた。
「お綺麗ですよ」
 付き添いのマツカに褒められたって、ぼくはちっとも嬉しくない。キースのお嫁さんなんて。
(…ドレスはハーレイと選びたかったんだよ!)
 だけど今更どうにもならない。キースが待つチャペルへ行くしかない。エスコート役のマツカの腕に掴まってバージンロードを歩くしかない。
(ハーレイ、何処で助けに来てくれるのかな…)
 バージンロードを歩く間か、キースと並んで祭壇の前に立った瞬間か。
 早くハーレイがぼくを攫いに来てくれないか、と考えながらチャペルに入って衝撃を受けた。
 招待者の席に笑顔のハーレイ。心からぼくを祝福している顔。
『ブルー、おめでとうございます』
 ご丁寧に喜びの思念波まで届けてくれて、バージンロードを歩いてゆくぼくに嬉しげな顔。赤い絨毯の先にはタキシードのキースが待っているのに。
 ぼくと結婚の誓いを交わそうと、ぼくが着くのを待っているのに…。



(酷い、ハーレイ!)
 ぼくを攫って逃げるどころか、祝福されてぼくはキースのお嫁さん。
 まだ小さいのに、このままキースのお嫁さん…。
(…なんで? どうしてハーレイのお嫁さんじゃないの?)
 ポロリと涙が零れそうになった時、ブーケの中のローズマリーに気が付いた。
 花嫁のブーケに挿し込まれたローズマリーの小枝。愛の貞節と永遠を祈って挿し込まれる小枝。この小枝が新居の庭に根付けば幸せになれると伝えられてきたローズマリー。
(……ローズマリーだ……)
 独特の香りがする細い葉を沢山つけた緑の小枝。未来の夫の夢を見たくて、ハーレイが出て来る夢が見たくて枕の下に入れて眠った小枝。
 それなのに、ハーレイじゃなくてキースが来た。ハーレイにキースとの結婚を祝福された。このローズマリーが諸悪の根源。
(ハーレイがぼくの結婚式を祝いに来るなんて…!)
 白いブーケからローズマリーの小枝を乱暴に抜き取って、それでハーレイの頬っぺたを思い切り引っぱたいてやって叫んだ。
「あんまりだよ!」
 ハーレイのお嫁さんになりたかったのに。
 そのためにローズマリーを採って来て枕の下に入れていたのに…!



 其処でパチリと目が覚めた。
 もう明け方で、小鳥が鳴いてる。今日は土曜日の朝だっけ…。
 ハーレイが来てくれる土曜日の朝。いつもは幸せな気分で一杯なのに、今朝は最悪。
 もう少し目が覚めるのが遅かったなら、キースと結婚してしまう所だった。
 ハーレイはぼくを攫って逃げてくれなくて、ぼくの結婚を祝ってくれた。
 強引にキースの未来の花嫁に決められてしまって、キースの家で暮らしていたぼく。ハーレイが助けに来てくれるのだと思い描きながら我慢をしていた。
 いつかはきっとハッピーエンド。
 そう思いながらウェディングドレスも着たのに、ハーレイは攫いに来てくれなかった。
 枕の下を探ってみれば、ローズマリーの緑の小枝。夢の中でハーレイの頬っぺたを叩いた小枝。
 ぼくが勝手におまじないをして、ああいう夢を見たんだけれど。
 ハーレイは何も悪くはないんだけれども、酷すぎて悔しくてどうにもならない。
 ぼくがキースのお嫁さんだなんて。
 それをハーレイが祝福してくれるなんて、悲しいどころか腹が立つってば…!



 とってもとっても腹が立ったから、来てくれたハーレイに八つ当たりをした。
 ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら夢の話をして、薄情すぎると怒りをぶつけた。
「なんでお祝いしに来るわけ? 攫って逃げてくれる代わりに!」
「お前が勝手に見た夢だろうが、俺には救助義務は無い」
「そんなことない! あの夢、ぼくには本物だから!」
 ぼくはあの夢の中に居たんだから、とこじつける。夢から逃げ出せなかったぼくは、夢の中から動けない。つまりは夢の世界が本物、本物のぼくは夢の世界に居たのだ、と。
 そうしたら、ハーレイは「ああ、なるほど…」とポンと手を打って。
「うんうん、それで昨夜の俺の夢にはお前が出て来なかったんだな。…別の場所に居たと言うなら仕方ない。災難だったな、今度は二人で同じ夢を見よう」
 なんて笑って言うから、ぼくは椅子からガタンと立ち上がった。
「どうした、ブルー?」
「直ぐ戻って来る!」
 部屋を飛び出して階段を駆け下り、玄関から庭へ。
 昨日、胸をときめかせて覗き込んだハーブが幾つも植わった一角。ぼくの不幸を笑うハーレイに仕返しするにはこれしかない。
 ローズマリーの小枝をポキリと折り取った。
 ぼくと同じ目に遭えばハーレイだって、ぼくの気持ちが分かるって…!



 庭で採って来たローズマリーの緑の小枝。「はい」とハーレイに差し出した。
「これを枕の下に入れて寝てみて。ぼくが使ったおまじない」
 ね? と意地悪く微笑んでやった。
「きっとゼルとかヒルマンとかが来るよ。ちゃんと結婚してあげてよね」
 ぼくも夢の中でハーレイを祝福してあげるから。
 おめでとうって言ってあげるから。
「でもね、ぼくを引っぱたくのは無しだよ? ハーレイがやったら大人げないでしょ?」
 大人が子供を叩いたりしたらみっともないよ、と注意をしたら。
「…俺は嫁さんを貰う立場で、誰かの夢に出る方なんだが?」
 そういう夢を見る立場ではない、とハーレイはニヤリと笑みを浮かべた。
「そのおまじないで夢に出るのは未来の夫というヤツだろう? 未来の嫁さんではないぞ」
 従って俺には効かない筈だ。
 俺がヒルマンだのゼルだのの夢に出るならともかく、その逆は無いな。
「どうだ、ブルー? 文句があるか?」
「……………」
 ぼくはとんでもない夢を見たのに。
 ハーレイと結婚したかったのに、酷すぎる夢を見てしまった。
 笑い飛ばしてくれたハーレイを同じ目に遭わせてやろうと目論んだのに、ローズマリーの小枝のおまじないは効かないだなんて…。
 プウッと頬っぺたを膨らませていたら、ハーレイがローズマリーの小枝をヒョイと摘んだ。
「こいつは俺には効かないらしいし、お前、もう一度試してみるか?」
 ほら、と渡されそうになったから「要らない!」とハーレイの手ごと突き返す。
「嫌だよ、今度こそ結婚させられそうだし!」
「どうだかな? 俺と結婚出来るかもしれんぞ、試す価値はある」
「もう嫌だってば、ローズマリーは!」
 ケチがついたおまじないなんか二度と御免だ。
 次は上手く行くかもしれないと夢見る気持ちは多少あるけど、失敗したら大惨事。キースと結婚なんか嫌だし、ゼルとかヒルマンでも嫌だ。
 ぼくが結婚したい相手はハーレイだけ。
 ハーレイと結婚出来る夢なら、おまじないに頼る価値もあるんだけれど…。



 酷い目に遭って、ハーレイに当たり散らしたおまじない。
 未来の夫が、大好きなハーレイが夢に出て来る筈だったおまじない。
 ローズマリーの小枝は懲りたけれども、諦め切れない未来の夫を夢に見ること。だって、ぼくが見る夢の中ではハーレイの相手はいつだって、いつだってソルジャー・ブルー。ハーレイと本物の恋人同士でキスを交わせて、幸せの中に浸るのはいつもいつもソルジャー・ブルー…。
「…ハーレイの夢が見たかったのに…」
 結婚する夢が見たかったのに、と項垂れていたら、ハーレイにあっさり見抜かれた。
「お前の目的は結婚じゃないな? それとセットのキスだの何だの、そういうのだな?」
「な、なんで分かるの!?」
「図星か。…そうだろうとは思ったんだが、今の答えでハッキリ分かった」
 鎌をかけられて引っ掛かった、ぼく。真っ赤になってももう遅い。
「いいか、その手のおまじないはな、相手の姿が見えたらラッキー程度のものなんだぞ? チビのくせして欲張るからそういうことになる」
「……そうなのかな?」
「多分な。未来の結婚相手を見るだけだったら、俺はこういうのを聞いたことがあるが」



 結婚式で貰えるケーキ。
 ウェディングケーキの一部だったり、お土産用の別のケーキだったり。
 とにかく結婚式で貰ったケーキの欠片を使った、おまじない。
 ケーキの欠片をお気に入りのハンカチに包んで枕の下に入れて眠れば、未来の結婚相手に出会う夢が見られるとハーレイに教えて貰ったけれど。
 そんな特別なケーキを貰うアテは無いし、キースの夢だって懲り懲りだから。
 仕方ないから、寝る前にハーレイとぼくが一緒に写った大切な写真にお祈りをする。
 どうか今夜は幸せな夢を見られますように。
 大好きなハーレイと過ごす素敵な夢が見られますように…。
(ソルジャー・ブルーじゃ駄目なんだよ、うん)
 幸せになるのはぼくでなくっちゃ。
 前のハーレイは前のぼくのだけど、今のハーレイはぼくのもの。
 だから盗らないでよ、ソルジャー・ブルーだった、ぼく。
 前のハーレイは盗らないって約束するから、今のハーレイを盗らないで。
 自分にお願いって変だけれども、ホントのホントにお願いだから。
 ぼくのハーレイをぼくにちょうだい……。




            おまじない・了

※よりにもよって、キースのお嫁さんになる夢を見てしまったブルー。
 ハーレイに八つ当たりまでしていましたけど、自業自得と言いますよね、これ…?
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





 それは本当に些細なきっかけ。元はおやつのチェリーパイ。学校から帰ったブルーを待っていた母のお手製のパイだった。今は秋だから、ブルーの家がある地域の周辺でサクランボは採れない。パイのサクランボは甘いシロップに漬けられた保存用だったのだけれど。
 母と二人でのティータイム。チェリーパイのお供はホットのミルクティー。
(んー…)
 美味しい、とパイを味わっていて思い出す。
 ハーレイと再会して間もない頃が生のサクランボの旬だった。母が作ってくれたタルトや、器に盛られた赤いサクランボをハーレイと一緒に何度も食べた。休日の土曜と日曜はもちろん、平日も頻繁に会っていたから、二人で幾つサクランボを食べたのだろう。
 十個や二十個で済むわけがない。もっと沢山、五十個くらいか。あるいは一人で五十個以上?
(…シャングリラの頃だと有り得ないよね?)
 ブルーはチェリーパイをフォークで切って口へと運んだ。その部分だけでサクランボが二個。



 シャングリラにも在った、サクランボ。前の生でハーレイと暮らしていた船。
 公園と、居住区に散らばる幾つかの庭にサクランボの木が植えてあった。花は心を和ませるから花の咲く木を、と選ばれた一つがサクランボ。桜によく似た花が咲く上に、サクランボが出来る。花を楽しむだけの桜を植えるより、サクランボにしようと言い出したのは誰だったのか…。
(ゼルだったかな? それともヒルマンだったっけ?)
 言い出しっぺが誰だったのかは忘れたけれども、ブルーもサクランボの木がいいと思った。花を愛でた後に食べられる実が出来るだなんて、まさに一石二鳥だから。
(…そういう木って多かったよね…)
 桃やアンズの木も植えた。そんな果樹たちに確実に実を結ばせるためにミツバチの世話になっていた。公園や庭の一角に置かれたミツバチの巣箱。子供たちのいい教材だった。
 果樹もミツバチも、人類側から失敬したもの。シャングリラで増やして、きちんと世話をした。気温の調節、それに水やり。細やかな世話に果樹たちは豊かな実りで応えてくれた。
 けれどサクランボは食べ切れないほどに採れはしないし、たっぷり食べるのは子供たち。大人はデザートに添えられる程度で、チェリーパイやタルトはシーズンに一度あったらいい方。
 そんなサクランボが、ソルジャーだったブルーには特別に多めに届けられた。
 たった一人きりの戦える者で、シャングリラを守る神にも等しい存在だと皆が崇めていたから。ブルー自身は「ぼくはそんなに偉くはないよ」と否定したけれど、皆の思いは変わらない。温かい心遣いを「ありがとう」と受ければ皆が喜ぶ。ソルジャーが喜んで下さった、と。
(全然、偉くはなかったんだけどね?)
 でもサクランボは美味しかったな、と青の間に届けられた沢山の赤い実に思いを馳せた。



 ブルーが一人で食べてしまうには勿体ない数のサクランボ。皆はブルーが毎日少しずつ食べたと信じ込んでいたが、実の所は二人で分けて食べていた。
 毎夜、青の間を訪れるハーレイ。前の生で愛したキャプテン・ハーレイ。そのハーレイと二人、赤く熟したサクランボの実をゆっくりと味わい、甘酸っぱい恵みを楽しんでいた。
 青の間にサクランボが届けられたら、保存しておく冷蔵庫。其処から食べる分だけ取り出して、ガラスの器に盛って。テーブルで二人、向かい合いながらサクランボを一つずつ摘んで食べた。
「ハーレイ、今年のサクランボもよく実ったね」
「ええ。あなたの瞳のように赤くてとても綺麗ですよ、それに美味しい」
 ハーレイが真っ赤なサクランボの軸を武骨な指で摘んで、艶やかな実とブルーの瞳とを見比べた後で口に入れると、舌先で転がす。まるでブルーの赤い瞳を口に含んでいるかのように。
「ぼくの目は食べられないと思うんだけれど?」
 意地悪くブルーが笑ってみせれば。
「いえ、こうすれば食べられますよ」
 椅子から立ち上がったハーレイがブルーのすぐ隣に来ると、腰をかがめて口付けて来た。唇ではなく、瞳を目掛けて。思わずブルーが瞑った瞼に、ハーレイのキス。そうっとサクランボを味わうように、赤い瞳を食べるかのように。
(まさかキスとは思わなかったよ)
 両目とも食べられてしまったっけ、と懐かしく思い出していて。
(……キス?)
 そういえば、もう一つキスの思い出があった。
 真っ赤に熟れたサクランボの実と、ハーレイのキスと。



(そうだ、サクランボの軸を口の中で…)
 母が焼いたチェリーパイを頬張りながら、ブルーはシャングリラでの遠い日々を思った。
 キャプテンだったハーレイに教えて貰った話。サクランボの軸に纏わる小さな思い出。
「ブルー、この軸を口の中で結ぶことが出来ますか?」
「軸?」
「ええ、こんな風に」
 ブルーの目の前でハーレイはサクランボの実を食べ、残った軸を口に含んで暫くしてから。
「…如何ですか?」
 サクランボの種を捨てる器にハーレイの舌がポトリと落とした軸。緑色の軸はクルリと結ばれ、元の真っ直ぐではなくなっていた。
「ハーレイ、サイオンを使ったのかい?」
「いいえ、使っていませんが? 舌を使って結んでみました」
「舌で?」
 驚いたブルーは早速挑戦してみたけれども、上手くいかない。そもそも舌をどう使うのかすらも分からない。悪戦苦闘した末に「駄目だ、ぼくには才能が無い」と軸を器に放り出せば。
「御存知ですか、ブルー? 口の中で軸を結べる人はキスが上手いのだそうですよ」
「キスが?」
 ならば結べない自分はキスが下手なのだろうか、とブルーは愕然とした。
「…ハーレイ、ぼくはキスが下手かな?」
「さあ、どうでしょうか? 私は簡単に結べるのですが…」
 ほんのちょっとしたコツなのですよ、とハーレイがサクランボを食べ、その軸をまた舌で見事に結んでみせる。本当に簡単そうに見えるのだけれど、ブルーにはコツが分からないそれ。
 ハーレイは軸を上手く結べて、ブルーはどう頑張っても結べなかった。
 それ以来、サクランボが実る度に二人で遊んだ、サクランボの軸。
 口の中で結べる人はキスが上手いとハーレイに教わったサクランボの軸…。



「ブルー? なんだか嬉しそうね?」
 母の声でブルーは我に返った。此処はシャングリラでも青の間でもなく、今は母と二人のティータイム。サクランボだって生ではなくて、シロップ漬けのチェリーパイで…。
「え? う、うん、ちょっと…」
 頬が赤くなりそうなのを懸命に堪え、落ち着くためにミルクティーをコクリと一口。
「えっとね、昔の…。ううん、前のぼくのことを思い出してた」
 シャングリラにもサクランボの木があったんだよ、と思い出話をしておいた。公園などに在って花と実を両方楽しんでいたと、ミツバチの巣箱も置いていたのだと。
「あらあら…。凄かったのねえ、シャングリラって」
「でしょ? それでね、ぼくはソルジャーだったからサクランボを沢山貰えたんだよ」
 他の大人より沢山貰った、と話したけれども、軸の話はしなかった。ハーレイと二人で食べたと懐かしそうに語っただけ。青の間で二人で食べていたのだ、と。
 そうして、母におやつを強請る。
 土曜日にハーレイが訪ねて来る時、またチェリーパイを焼いて欲しい、と。



 サクランボの軸とキスの話など知らない母は、夕食の席で父にシャングリラの話を聞かせた。
 可愛い一人息子のブルー。
 前世はソルジャー・ブルーだった小さなブルーの思い出話は、両親だって共有したい。十四歳の小さなブルーが前の生で何を眺めていたのか、どんな暮らしをしていたのか、と。
「ほう、シャングリラにもサクランボの木があったのか…」
 感心する父に、母が「凄いでしょ?」と自分のことのように得意げに微笑む。
「この子ったら、ソルジャーだから沢山貰っていたんですって、サクランボの実を」
「なるほど、ソルジャーの特権だな」
 父も嬉しそうな顔で笑った。まるで今のブルーが賞でも貰って来たかのように。
「その思い出のサクランボか。…うん、いい話を聞いたな、ママ」
「ブルーが言うのよ、ハーレイ先生にもチェリーパイをお出ししたい、って」
「そうだろうなあ、思い出したんなら当然だろう」
 誰だって思い出は懐かしいものだ、と父は可愛い息子に「なあ?」と笑顔を向けて。
「チェリーパイと一緒に生のサクランボもハーレイ先生に御馳走しようか。どうだ、ママ?」
「そうね、輸入物が入って来ている頃よね。そうしましょ、ブルー」
「ホント!?」
 ブルーは歓声を上げて喜んだ。
 チェリーパイだけで充分なのだと思っていたのに、輸入物の生のサクランボ。チェリーパイだとサクランボの軸はついていないが、生のサクランボなら軸もついていて思い出そのまま。
 きっと素敵な土曜日になる。チェリーパイと生のサクランボ…。



 ブルーが住んでいる、遠い遠い昔は日本という島国があった地域。此処でのサクランボの季節はとうに終わってしまったけれども、青い地球の反対側の地域は今がサクランボの採れるシーズン。
 待ちに待った土曜日、母は約束通りにチェリーパイを焼いて生のサクランボも用意してくれた。
 訪ねて来たハーレイとのブルーの部屋でのティータイム。テーブルの上にチェリーパイとは別に新鮮な赤いサクランボ。ガラスの器に盛られた瑞々しく光る生のサクランボ。
「ねえ、ハーレイ。…シャングリラのサクランボ、覚えてる?」
 ブルーはサクランボを一つ、摘み上げて尋ねた。
「ああ。お前と二人で毎年、食ったな」
 あれもこういうサクランボだった、とハーレイも懐かしそうに一つ摘んで眺める。
「じゃあ、軸は? 軸で遊んだのも覚えている?」
「…軸?」
「うん。ハーレイは軸を上手く結べて、ぼくは結べなかったんだよ」
 赤い実をパクリと食べたブルーが指に残った軸を弄び、ハーレイは「うーむ…」と低く唸った。
「……やっぱりそういう魂胆だったか……」
「バレちゃってた?」
「チェリーパイだけなら気付かなかったが、こうして生のを出されるとな」
 悪戯者め、とハーレイが軽くブルーを睨んで。
「お前、お母さんには何て言ったんだ? 軸の話なんぞは黙っていたろう、悪戯小僧」
「ハーレイと食べたってちゃんと言ったよ、サクランボ」
「俺が言うのは軸の話だ。口の中で軸を結ぶ話はどうなったんだ」
「……言うわけないよ……」
 言えるわけないよ、とブルーは唇を尖らせた。
「そんなの言ったらママにバレちゃう。…ハーレイはぼくの恋人だ、って」
「別にそうとも限らんのだがな?」
 競い合うヤツも世の中には居る、とハーレイが笑う。
「俺は出来るだの、コツを教えろだのと友達同士で騒ぐヤツらも居るもんだ。男にとっては大問題だしな、キスが上手いか下手かというのは。そういう話も知らん子供がサクランボなんぞ…」
 まあ見てろ、とハーレイは摘んでいたサクランボの実を食べた後に軸を口の中へ。ブルーの目の前でハーレイの口の周りが動いたかと思うと、種を入れる器にヒョイと結ばれた緑色の軸。
 前の生での記憶そのままに、クルンと結ばれたサクランボの軸…。



「凄い、やっぱり出来るんだ!」
 悪戯小僧と詰られたこともすっかり忘れて、尊敬の眼差しになるブルー。
 今のハーレイもやっぱり凄い、と褐色の肌の恋人にまじまじと見惚れたのだけれど。
「ん? 記憶を取り戻す前から俺は出来たが? 競い合うヤツも居ると言っただろうが」
 学生時代はよくやったもんだ、とハーレイは柔道と水泳に夢中だった若い日の思い出を語った。サクランボが出回る季節でなくても、何かのはずみに軸を結ぶ話。出来る、出来ないで騒いだ末に軸つきのシロップ漬けを買って来て腕を競ったり、その腕を披露する相手の有無で笑ったり。
「血気盛んな若い男が集まると凄いぞ、結ぶ腕前まで競い合いだ」
「結ぶ腕前?」
「こんなに短い軸でも結べる、と自慢するのさ。俺は二センチの軸でも結べた」
「二センチ!?」
 たった二センチのサクランボの軸。器に盛られたサクランボの軸はそれより長いし、遙かな昔にシャングリラで食べたサクランボの軸も長かった。
 前のハーレイが口の中で結んだサクランボの軸は二センチよりずっと長かった。
 ならば、ほんの二センチしかない軸を結ぶことが出来る今のハーレイは…。
「じゃあ、ハーレイ…。キスは前よりもっと上手いの?」
「…どうだかな?」
 こんな動機でチェリーパイだの生のサクランボだのを持ち出すヤツには教えられんな。
 それより、お前も今度は上手くなったらどうだ?
 ハーレイの鳶色の瞳が悪戯っぽい光を帯びてブルーを捉える。
「……前のぼくって、下手くそだった?」
 ブルーは俄かに心配になった。
 サクランボの軸を口の中で結ぶことが出来なかったソルジャー・ブルー。それが前の自分。
 あの頃は気にしていなかったけれど、自分はキスが下手だったのだろうか…?



 キスが下手だったかもしれないソルジャー・ブルー。
 小さなブルーはハーレイにキスを強請っては断られて来たが、強請るからには自信があった。
 今の身体は小さいけれども、中身の方は一人前。キスだってちゃんと出来るのだ、と。
 それなのに前の自分のキスが下手なら、今の自分もキスは下手くそ。ソルジャー・ブルーだった頃のキスしか出来ないのだから、下手くそということになる。
(…ぼくって下手なキスしか出来ない…?)
 どうしよう、と落ち込みそうになって来た。どんよりと項垂れるブルーの額にハーレイの褐色の指が伸びて来て、ピンと弾いて。
「おいおい、キスも出来ないチビのくせして落ち込むな。…前のお前だが、俺はキスが下手だとは思わなかったぞ」
「ホント!?」
「本当だ。…ただ、如何せん、比較対象が…な? お前以外に知らなかったし」
「…えっ……」
 思わぬ言葉にブルーは絶句し、その意味を暫く考えてから慌てて口を開いた。
「も、もしかしてハーレイ、今は誰かとキスしたことある!?」
 比較対象というのは、そういうこと。比べる誰かがいないことには上手いか下手か分からない。今のハーレイは自分以外の誰かとキスをしたのだろうか?
(…ハーレイ、ぼくよりずっと年上…)
 学生時代はモテたとも聞く。たまたま結婚しなかっただけで、キスも、もしかしたらキスよりも先の色々なこともハーレイは経験済みなのだろうか…?
(……ぼくだけなんだと思っちゃってた……)
 ハーレイの相手は自分だけだと思っていたのに、それは間違いなのかもしれない。記憶が戻ったハーレイはブルーの恋人だけれど、それよりも前のハーレイは自由。恋をするのもキスをするのもハーレイ次第で、モテていたなら恋の一つや二つどころか、十も二十も……。
(……あんまりだよ……)
 それは困る、と泣きたい気分になってくるけれど、時間は逆に流れない。
 大好きなハーレイが自分以外の誰かとキス。何人もとキスを交わしていた上、その先のことまでとっくの昔に……。



 ぽたり。
 ブルーの赤い瞳から涙が零れてテーブルに落ちた。
 ハーレイは自分一人のものではなかった。きっと他にも沢山、沢山……。
「…ハーレイ、前に恋人、いたんだ…。ぼくよりも前に、誰かとキスして……」
 後は言葉にならなかった。ただポロポロと涙が零れる。
 大好きなハーレイを盗られてしまった。生まれて来るのが遅かったばかりに、誰かがハーレイを盗ってしまった。こんなにハーレイが好きなのに。ハーレイのためだけに生まれて来たのに…。
「…泣くな、馬鹿。…泣くんじゃない」
 お前だけだ、とハーレイの大きな手がブルーの頭をクシャリと撫でた。
「仮に誰かが居たとしてもだ、今の俺にはお前だけだ。…俺はお前しか好きにならない」
 俺を信じろ、と鳶色の瞳がブルーを真っ直ぐに見詰めて深い色に変わる。
「俺にはお前だけなんだ。一生、お前一人しかいない。…お前以外には誰も要らない」
「……ホント?」
「本当だ。やっとお前を見付けたというのに、どうやって他を向けと言うんだ」
 お前だけしか欲しくはない。
 俺の隣に居てくれるヤツはお前だけしか欲しくはない。
 だから大きくなってくれ、ブルー。
 ゆっくりでいいから、前のお前と同じ姿に。その日までキスは出来ないんだからな。
「…うん。…うん、ハーレイ……」
 大きくなる、とブルーは涙を拭って答えた。
 早くハーレイとキスが出来るよう、頑張って早く大きくなるから…、と。



 何度も繰り返し「お前だけだ」と言って貰って、ようやっと涙が止まったブルー。
 その顔に笑みが戻るのを待って、ハーレイはサクランボを一つ摘み上げた。
「いいか、泣き虫。…俺には一生お前だけだが、心配だったら練習しておけ。キスじゃなくって、サクランボの軸だ。上手く結べたらキスも上手くなる」
 俺の腕前はこの通りだ、と軸を短く折ったハーレイ。自慢していた二センチほどの長さ。それを口に入れ、舌で見事に結んで見せた。それから悠然とサクランボを食べる。
「どうだ、お前もやってみるか? そのために用意していたんだろう、サクランボ?」
「そうだけど…。そうなんだけど!」
 二センチなんて無理に決まっているから、ブルーは長い軸を口に含んだ。しかしどうにも上手くいかない。結ぶどころか曲げることさえ出来はしないし、ズルをしようにもサイオンだって扱えはしない。意のままにならないサクランボの軸。
「うー…」
 どう頑張っても結べないまま、吐き出すしか無かったサクランボの軸。ハーレイが結んだものと見比べて情けなくなり、やはり自分はキスが下手かもと考えてしまう。
(…下手くそだなんて…。ぼくのキス、うんと下手くそだなんて……)
 ハーレイに何と思われるだろう?
 前よりも上手にサクランボの軸を結べるハーレイ。二センチしかない軸を結べるハーレイ。
 キスが上手くなったハーレイからすれば、前と変わらない自分のキスは下手くそ…。
「おい。また何かとんでもないことを考えてるな?」
 顔に出てるぞ、と大きな手がブルーの頭をポンポンと軽く優しく叩いた。
「安心しろ、キスはお前としかしない。…そして下手くそでも、それがお前のキスなんだ。…俺にとっては何よりも甘い。この世で最高のキスなんだ、ブルー」



 そう言ったハーレイはサクランボを摘み、また軸を口の中でヒョイと上手に結んでいたから。
 自分も頑張った方がいいのだろうか、とブルーは真剣に悩んだけれども、軸つきのサクランボは毎日手に入らない。シロップ漬けでも毎日は無理で、生の果実は季節が過ぎれば姿が消える。
 ほんの少しの間、サクランボに夢中で「買って」と強請っていたブルー。
 父や母が見ていない時に口の中で軸を結ぼうと練習したブルー。
 けれど努力が実を結ぶ前に、新鮮な赤いサクランボの実は母が行く店から消えてしまった。
 シロップ漬けは沢山食べれば飽きるし、もうサクランボはいいか、と思った。練習をするなら、また来年。この地域でサクランボの実が採れる季節に頑張ればいい。
(うん、来年になったらきっと出来るよ、上手になるって!)
 シャングリラに居た頃よりも沢山のサクランボが食べられる今。
 練習の材料には事欠かないから、前の生よりも上達するに違いない。ソルジャー・ブルーだった自分に出来なかった偉業を成し遂げるのだ、と小さなブルーは自分に誓った。
 今度の生こそ、サクランボの軸を口の中で見事に結んでみせる。
 ハーレイは二センチの軸を結べるようになっているのだし、自分だってきっと出来る筈。
(うん、絶対に大丈夫!)
 勝負は来年、と固く誓いを立てていたくせに。
 無垢な子供はすぐに忘れて、ハーレイが誰かとキスをしたかも、という不安も時の流れに消えて忘れる。
 そうして小さなブルーは夢見る。
 いつか自分が大きく育って、ハーレイとキスを交わす日の夢を…。




            サクランボ・了

※サクランボの軸を口の中で結べる人は、キスが上手だと言われても…。
 頑張っていたらしいソルジャー・ブルー。果たしてキスは下手だったんでしょうか…?
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