シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(…なんだか、だるい…)
それに寒い、とブルーは震えながらベッドで目を覚ました。
今は秋。今朝は早い冷え込みが来るというから、風邪を引かないよう昨夜は早めに休んだのに。
だるくて、少し熱っぽい。喉にも違和感。
(…手遅れだった?)
昨日、学校でクシャミが何回か立て続けに出た。虚弱体質のブルーにはありがちな風邪の前兆。ただし本物の風邪に至らない時だってある。気温が急に変わった時などに多いクシャミの連発。
風邪を引いてはたまらないから、終礼が済んだら急いで帰ろうと思ったのだけれど。教室を出て校門へと向かう途中の廊下でハーレイとバッタリ出会ってしまった。
大好きなハーレイに会えたからには会釈や挨拶だけで帰りたくない。「ハーレイ先生!」と声を掛けて暫く立ち話をした。人気の高いハーレイは他の生徒に捕まることだって珍しくない。今日は自分の番なのだ、とばかりに話し込んでいたら、ハーレイが「すまん」と遮った。
「今日はこれから柔道部でな。着替えて稽古に付き合わないと」
ブルーの胸がドキンと高鳴った。
(これから行くんだ…!)
朝にはよく見る柔道着のハーレイ。朝練を指導した帰りのハーレイに何度も出会った。けれど、帰る時には滅多に見かけない柔道着を纏ったハーレイの姿。
部活をしていないブルーの下校時刻が早過ぎて、ハーレイが出掛ける時間と合わないのだ。
(そっか、これから柔道部なんだ…)
これは貴重だ、と思ったブルーは思い切って頼み込んでみた。
「少し待ってていいですか? ハーレイ先生が着替えて出掛けるまで」
「なんだ、柔道部を見学したいのか?」
ハーレイが目を丸くしつつも、見学だなんて言ってくれたから。
「えっ、見に行ってもいいんですか?」
「少しならな。…だが、動いていないと体育館は冷える。ちゃんと早めに帰るんだぞ?」
「はいっ!」
朝のグラウンドでの走り込みしか見たことがない柔道部。もちろん柔道という武道があることは知っていたけれど、その程度。
初めての世界を大好きなハーレイつきで見学出来ると聞いたブルーは狂喜した。更衣室まで行く道のりもハーレイと一緒。はしゃぎながら着いた更衣室の前の廊下でハーレイが着替えてくるのを待った。柔道着の上から締めた黒い帯。有段者の印なのだと教えて貰った。
「この上に赤帯もあるんだが…。俺の年ではまだ取れないな」
「そうなんですか?」
「赤帯は九段と十段なんだ。だが、八段が満四十二歳からってことになってるからなあ…」
当分無理だ、と聞かされて指を折ってみる。ハーレイは今、満三十八歳。八月二十八日が誕生日だったから、四十二歳まで残り四年近く。
(あと四年かあ…)
八段まででも四年もあるんだ、と驚いたけれど。
(そうだ、四年後って…!)
四年経ったら、ブルーは十八歳になる。結婚が法律で認められた歳。
十八歳になったらハーレイと結婚するのだ、と心の中ではとうに決めていた。つまりハーレイが赤帯の前段階の八段とやらを取れる歳になる時には、多分結婚出来ている筈。ということは…。
(ハーレイが赤帯を貰える時って、絶対、結婚出来てるよね?)
柔道着の上から締められた黒帯。この黒帯が赤になる頃には、自分がハーレイの隣に居る。赤い帯に届く前の八段とやらも、結婚してから取って欲しいなと思う。
(だって、四年後だよ?)
あと四年。十八歳まで、あと四年…。
ハーレイの黒帯に胸をときめかせながら、ブルーは柔道部の練習場所へと連れて行って貰った。
体育館の中の広い一室、其処が柔道部の練習場所。
ハーレイがブルーと一緒に入った時には既に稽古が始まっていて、最上級の四年生が後輩たちの練習を指導していた。主将だという一番大柄な生徒がハーレイの姿を認めて皆に指示を飛ばす。
「ハーレイ先生がいらっしゃったぞ、全員、礼っ!」
大勢の部員がザッと動いて、全員が正座をしての深い一礼。
(…うわあ……)
凄い、とブルーは息を飲んだ。一糸乱れぬ動きも凄いが、彼らの礼はハーレイに対してのもの。ただ顧問というだけの教師だったら、ここまでの尊敬を集めることは出来ないだろう。柔道の道に秀でたハーレイだからこそ、練習場所に現れただけで皆が一斉に敬意を表する。
そのハーレイはブルーの肩をポンと叩いて、柔道部員たちに呼び掛けた。
「今日はお客さんが来ているぞ。恥ずかしくないよう、気合を入れてやれよ!」
「はいっ!」
稽古に戻る部員たち。ブルーは一番端に畳んで置かれたマットの上へと案内された。
「此処に座って見ているといい。このマットは今日は使わんからな」
「はい、ありがとうございます!」
ペコリとお辞儀し、膝を抱えてマットに座った。厚みがあるから床からの冷えは伝わらない。
(…ふふっ)
素敵な見学場所を貰ったブルーは、初めて目にする柔道部員の練習風景に夢中になった。指導に出掛けたハーレイが檄を飛ばす中、技を掛け合う部員たち。
ハーレイがブルーの守り役なことは知られているから、皆、きびきびと頑張っている。見学中の来客に熱意溢れる姿を披露せねば、と懸命になっているのが分かる。
「こらあっ、そんな技で相手が倒せるか!」
しっかりやれ、とハーレイが叫び、「かかってこい」と何人かの部員を名指しした。殆ど同時にハーレイに飛び掛かる部員たち。恐らくは柔道部の中でも指折りの腕を持つ彼ら。もちろん主将も入っている。それをハーレイは軽くあしらい、次々にマットの上へと投げた。
(ハーレイ、凄い…!)
投げられた部員たちが起き上がって再びかかってゆく。ハーレイは軽々と投げたり倒したり。
(凄い、凄いよ…!)
ほんの少しだけ見学するつもりで来たというのに、ハーレイの技の凄さに惹き付けられて。
柔道の技など全く分からないなりに見惚れている内に、またしても…。
クシャン!
その音を立てたブルーは慌てて自分の口を塞いだが、ハーレイが気付かないわけがない。稽古をつけていた部員たちに「後は皆でやれ」と指示を下して、ブルーの方へと歩いて来た。
「こら! 此処は冷えるから早めに帰れと言っただろうが」
「…ハーレイ先生…」
もう少しだけ見ていたいんです、とブルーは頭を下げたけれども。
「駄目だ。クシャミをしたのを聞いた以上は帰って貰う」
風邪を引く前に家に帰れ、と腕を掴まれて立ち上がらされた。それだけではない。帰ったふりをして外からこっそり覗いていたのでは意味が無いから、とハーレイ自らブルーに付き添い、校門の外まで送り出された。後戻りをして来ないように、と校門の前で腕組みをしての仁王立ち。
「いいか、真っ直ぐ帰るんだぞ? 暫くは此処で見張ってるからな」
「…はい…。ありがとうございました、ハーレイ先生」
未練たらたらで柔道着姿のハーレイにお辞儀し、しおしおと学校を後にした。
それが昨日の夕方のこと。
思った以上にひんやりとしていた外気に包まれながら家の方へ行くバスを待って乗り込み、帰り着くなり直ぐにウガイをして、熱いホットミルクを飲んだのに。
冷えた身体が温まるようにとホットミルクにたっぷりの蜂蜜、シナモンだって入れたのに…。
(……風邪引いちゃった……)
あっさりと風邪を引いてしまった弱すぎる身体。誤魔化そうにも喉の違和感と熱っぽさ。階下に下りたブルーの不調は両親に一目で見抜かれてしまい、その場で熱を測らされた。案の定、微熱があることを無情に告げる体温計。
「駄目でしょう、ブルー! 熱があるわよ」
「口を開けてみろ。…喉が赤いな、風邪を引いたな? 病院に連れて行って貰いなさい」
病院が開く時間まで暖かくして寝ているように、と自分の部屋へと追い返される。少ししてから母がトーストとホットミルクの朝食を持って来たけれど、学校はもちろん休まされてしまった。
(今日はハーレイの授業がある日だったのに…)
ブルーは泣きそうな気持ちだったが、どうにもならない。
朝食を済ませたら暖かい服に着替えさせられ、病院に連れて行かれて、注射に薬。
身体の弱いブルーにとってはどちらも慣れたものだけれども、早く効かないならどちらも嫌だ。注射も薬も、前の生で嫌というほど試された。アルタミラでの研究所時代の過酷な人体実験で。
悲惨だった前世を思い出させる注射と薬。けれど学校へ早く行けるのならば、と我慢した。
それなのに…。
痛い注射も、その場で飲まされた苦い薬も我慢した上、家で飲む薬もドッサリあるのに。
大事を取って明日も休めと言われてしまった。付き添って来た母は素直に頷いている。
(明日も休むの!?)
酷い、とブルーは涙を浮かべた。注射が痛かったからではない。苦い薬のせいでもない。
二日もハーレイに会えないなんて。
二日間もハーレイに会えないだなんて…!
結局、一日、ベッドの中。
ハーレイの授業が行われた筈の学校には行けず、明日も登校禁止の刑。ハーレイの授業は明日は無いけれど、学校に行ければハーレイに会える。ハーレイに会える筈だったのに…。
(…明日もハーレイに会えないなんて…)
大した風邪ではないと思う。喉が少し変だというだけ、微熱があるというだけの風邪。
けれどブルーの身体は弱い。健康な子供だったら二日くらいで治りそうな軽い風邪をこじらせ、肺炎を起こしたことも何度もあった。あわや入院かという騒ぎ。
(…病院の先生が言ってることも分かるんだけど…)
分かるのだけれど、それでも悔しい。この程度の風邪で二日も休まなくてはいけない身体。前の生と同じに弱く生まれた、直ぐに壊れる弱すぎる器。
(…耳だけはちゃんと聞こえるけれども、他はおんなじ…)
もっと健康に生まれたかった。ハーレイと毎日会える身体に生まれたかった。
(…この身体でなくちゃ駄目だってことは分かってるけど…)
弱いけれども、前の生とそっくり同じ姿に出来ている身体。
ハーレイが「さよならも言えなかった」と悔やみ続けた前の自分と同じ姿に育つ筈の身体。
文句を言ってはいけないのだと、この身体だから意味があるのだと分かってはいても涙が出る。風邪を引いたくらいで二日間もハーレイに会えない弱すぎる身体…。
日が落ちても明かりを点ける気になれず、ベッドの中で涙ぐんでいたらチャイムが鳴った。
(…ハーレイ、もしかして来てくれた!?)
もしかしたら、と心が躍った。
しかし、待っていても階段を上がって来る足音はしなくて、どうやらただの来客だったらしい。
(……ハーレイだったら良かったのに…)
あのチャイムがハーレイでなかったのなら、今日はもう駄目。学校帰りのハーレイが立ち寄れる時間を半時間以上も過ぎてしまった。こんな時間から来てはくれない。
(今日はお見舞い、来てくれないんだ…)
とうとうハーレイに会えなかった。会えずに一日が終わってしまう。
それに身体もだるくて重い、と寝返りを打って丸くなる。
昨日は幸せだったのに。
あんなに幸せだったのに…。
ポロリと涙が零れた時。
階段を上がって来る足音を聞いた。母とは違う重い足音。父とも違った、聞き慣れた足音。
(まさか……ハーレイ?)
チャイムの音を聞いてはいない。
なんで、とブルーが思う間も無く扉がノックされ、開けられた。暗かった部屋にパッと明かりが点いて。
「起きてるか? ブルー」
間違えようもない恋人の声と、背が高く頑丈な大きい身体。ブルーはパチリと目を見開いた。
「ハーレイ!?」
「こらこら、起きるな。風邪だそうだな、早く帰れと言ったのに」
俺のせいか、とハーレイが扉を締めた後、入口の側に立ったままで済まなそうに謝るから。
「…ううん、もっと前にクシャミ…」
ぼくのせいだ、とブルーは素直に詫びた。
風邪の兆候かもしれないと思っていたのに、直ぐに帰らずに学校に居た、と。
「ハーレイは悪くないんだよ…。悪いのは、ぼく」
「そうなのか? なら、いいが…」
俺のせいかと心配したぞ、と表情を和らげてベッドに近付いて来るハーレイ。
(…あれ?)
ハーレイが持っているトレイ。
嗅覚は落ちている筈だけれども、懐かしい野菜スープの香り。
懐かしいけれど、いつものと違う。
何故、と訝るブルーに向かってハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「気付いたか? 野菜スープのシャングリラ風、名付けて風邪引きスペシャルだ」
ほら、とブルーの目の前に差し出されたトレイ。
少しとろみがつけられた野菜スープにふんわりと溶いてある卵。細い糸のように見えるくらいに溶きほぐされた卵と、細かく刻んで煮込んだ野菜と。
(……風邪引きスペシャル……)
そんな名前は無かったけれども、遠い記憶に刻まれたスープ。
シャングリラで卵が貴重品だった時代に、風邪を引いて寝込んでしまったことが何回かあった。その時にハーレイが作って食べさせてくれた、卵が入った野菜のスープ。
喉を通りやすいようにとろみをつけて、貴重品の卵を落としたスープ。
(…ぼくに食べさせるんだから、って卵を貰って来たって言っていたっけ…)
まだ鶏が数えるほどしかいなかった時代。卵は本当に貴重品だった。一人で一個を食べるなんて贅沢、誰も思いはしなかった。
多分、ぼくだから貰えた卵。ぼく以外には戦える者が居なかったから一人で一個貰えた卵。
(でも、ハーレイが頼まなかったら貰えもしないし、食べられもしないね…)
野菜スープのシャングリラ風は野菜だけしか入らないけれど、これは風邪引きスペシャル。
栄養がつく卵が入ったスープ。それも贅沢に丸々一個。
(そういえば、この味も好きだったっけ…)
一番素朴な基本の調味料だけで煮込んだ野菜のスープと、この卵入りと。
この二つだけはどんな時でも喉を通った。
弱り切った時も、風邪を引いた時も、ハーレイの野菜スープと卵入りの野菜スープがあった…。
ブルーはゆっくりと身体を起こした。このスープなら食べられそうだ、という気がしたから。
起き上がってベッドの端に腰掛けると、ハーレイが側に置いてあったカーディガンを肩に優しく着せかけてくれた。テーブルが寄せられ、スープを満たした皿とスプーンが置かれる。
「卵入りのスープ、思い出したか? しっかり食べろよ」
もう一つ、取って来るから待っていろ。
そう言ってハーレイは部屋を出てゆき、ブルーはキョトンと首を傾げる。
(…もう一つ?)
何だろうか、と考えてみたが分からなかった。
病気の時には野菜スープのシャングリラ風。でなければ、卵入りの野菜のスープ。
(…何なのかな?)
記憶には残っていない食べ物。
卵入りの野菜スープを飲んだら思い出せるか、とスプーンで掬って口に運んでも思い出せない。とろみのついた野菜スープは懐かしいけれど、他に何か食べた記憶は無い。
(…ぼく、忘れちゃった?)
そんな筈はないんだけれど、と悩む内にハーレイがトレイを手にして戻って来て。
「ほら、それと粥だ」
テーブルに載せられた器の中身は、とろとろに煮込んだ粥だった。米だけではなくて、ほぐした鶏のささみと細く刻んだ白ネギを加えて煮込まれた粥。味付けはチキンスープだという。それから隠し味に胡麻油を少し、刻み生姜とニンニクも少し。
「食欲は落ちてないそうだしな? こいつは俺のおふくろの風邪引きスペシャルなんだ。…ネギは風邪に効くと言うんだぞ」
生姜とニンニクも効くらしいな、とハーレイはブルーに粥を勧めた。
ブルーは知らない味だろうけれど、今の自分には馴染み深い味の粥なのだ、と。
(…ハーレイのお母さんのお粥なんだ…)
しみじみと粥の入った器を見詰めて、ふと気が付いたからハーレイに問う。
「これ、シャングリラには無かったよ? ぼくのママには何て言ったの、嘘ついて来たの?」
ハーレイが野菜スープのシャングリラ風を作る時にはブルーの家のキッチンを借りる。この粥もキッチンで作ったのだろう。
ブルーが他の客人かと思ったチャイムが実はハーレイで、スープと粥とを作っていたなら計算は合う。ブルーの両親は野菜スープのシャングリラ風を何度も目にしているから、卵入りがあっても多分、驚きはしない。
けれども、粥は前例が無い。「こういう粥も作っていました」と言えば納得するだろうけれど、この粥はハーレイの母が作る粥。シャングリラで作っていたと申告すれば真っ赤な嘘だが、これは大嘘の産物だろうか…?
(嘘でも、ぼくは嬉しいけどね?)
ハーレイの母の味が食べられることは、とても嬉しい。ただ、ハーレイが嘘をついて来たなら、後で両親にバレないように口裏を合わせておかなければ…。
そう考えたブルーだったけれど、ハーレイは「俺は嘘なんかつかなかったぞ」と片目をパチンと瞑ってみせた。
「いつもは野菜スープのシャングリラ風ばかりだからな。お前のお母さんは俺の料理の腕を疑っていそうで、そいつはどうにも癪じゃないか。たまには真っ当な料理もしておきたい」
俺のおふくろの直伝です、と言って作って来た。
まあ、この程度では簡単すぎてだ、誤解を解くには至らん訳だが…。
しかし少しくらいは評価が上がったと思いたい。あくまで俺の願望だがな。
そう話しながら、ハーレイは粥の器をブルーが食べかけていたスープの器の直ぐ側に寄せた。
「食ってみるか? 俺のおふくろの風邪引きスペシャル」
「うん…」
スープ用とは別に添えられたスプーンで一匙掬って、口にしてみて。
病人食のお粥とは思えない、滋味深い味わいに驚いた。
「美味しい…!」
ホントに美味しい、とブルーは温かい粥を掬って口へと運ぶ。細かくほぐされた鶏のささみと、柔らかくクタクタに溶けた白ネギ。チキンスープを含んだとろとろの米に、ほのかに香る胡麻油。ニンニクと生姜のせいなのだろうか、病人食と言うより、お粥と名の付く料理のようだ。
「ハーレイ、風邪を引いた時にはこれだったんだ?」
「俺は食欲不振になるような繊細なタチじゃなかったからな。とにかくしっかりと飯を食ってだ、栄養をつけてサッサと治した。お前も見習え」
しっかり食べろ、と促しながらハーレイが尋ねる。
「スープはどうだ? 野菜スープのシャングリラ風の風邪引きスペシャル」
「美味しいよ。ハーレイのスープもとっても美味しい」
お粥も、野菜スープのシャングリラ風も、どちらの風邪引きスペシャルもいい。
とても美味しい、とブルーはスプーンで口に運んだ。風邪のせいで違和感がある筈の喉を傷めず通過してゆく卵の入った野菜スープと、ハーレイの母の味だという粥と。
「そうか、美味いか。じゃあ、早く治せ」
風邪引きスペシャル、せっかく作ってやったんだしな。
ハーレイは微笑んでくれるけれども、ブルーは明日も登校禁止を言い渡された身だったから。
「うん…。でも、ぼく、明日も…」
明日も行けない、と涙ぐむブルーの銀色の頭をハーレイの大きな手がポンポンと叩いた。
「分かった、分かった。…明日も作りに寄ってやるから、明後日は元気に登校しろよ?」
「うんっ!」
約束だよ、とブルーが右手の小指を差し出し、ハーレイが「ああ」と褐色の小指を絡めた。
「風邪引きスペシャル、スープと粥とのダブルだな? まあ、任せておけ」
「他には? ハーレイ、他には風邪引きスペシャル、無いの?」
「その元気だったら大丈夫だな。今回は二つもあれば充分、元気になれるさ」
欲張りめが、とコツンと額を軽く小突かれ、ブルーは「ふふっ」と首を竦める。
こういう風邪なら悪くない。また軽いのを引いてみようか、ハーレイの料理が食べられるなら。
他にも何かあるかもしれない、ハーレイの美味しい風邪引きスペシャル……。
風邪を引いたら・了
※ハーレイ先生の風邪引きスペシャル、スープもお粥も美味しそうですよね。
こんなオマケがついてくるなら、ブルーが軽い風邪を引きたくなるのも無理ないかも?
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「…遅くなってしまって悪かったな、ブルー…」
寂しかったか、とハーレイは呟く。
窓から海が見える研修先の宿で鞄から取り出した日記と一冊の写真集。窓の向こうの海はとうに暗くて、沖に漁火が瞬いていた。
海水浴の季節はもう過去のもので、海に入るには寒すぎる秋。夜更けともなれば吹く風も冷たいことだろう。そう思いながら机の上に日記を置く。それの隣に写真集を、そっと。
青い地球を背景にしたソルジャー・ブルーの写真が表紙に刷られた『追憶』という名の写真集。世間に一番広く知られた、正面を向いたソルジャー・ブルー。強い意志を秘めた瞳の底に微かに揺らめく憂いと悲しみ。
キャプテン・ハーレイであった頃のハーレイがブルーを失くした後に懸命に探し、ついに見出すことが叶わなかったブルーの表情。皆の前では見せることが無かったブルーの真の姿を、悲しみと憂いとを捉えた一枚の写真。恐らくは残された映像の中の、ほんの一瞬。
前世の記憶を取り戻す前は「ソルジャー・ブルーといえば、この写真」としか思わなかった。
しかし今では「これこそがブルーだ」という気がする。
前の生で愛したソルジャー・ブルー。美しく気高く、その身をも捨てて皆を守ったミュウの長。
全身全霊で愛した恋人。
何処までも共に、と誓っていながら守ってやれずに失くした恋人…。
その恋人の悲しすぎる最期を収めた最終章を持つ『追憶』の名の写真集。
シャングリラの写真集を探しに行った書店で偶然、見付けた。その場では最後のページまで開く勇気はとても無かった。買って帰って書斎で開いて、前の生の記憶に取り込まれて泣いた。
ブルーの最期を直接写してはいないけれども、人類軍が記録していた映像から起こした何枚もの写真。青いサイオンの尾を長く曳いて暗い宇宙を駆けるブルーの最後の飛翔。メギドの厚い装甲を破り、中へと消えた後はブルーの姿は見えない。
一番最後に、爆発するメギドの青い閃光。ブルーの身体をこの世から消してしまった青い閃光。その瞬間までブルーが生きていたのか、それとも既に息絶えてしまっていたものか。ハーレイには今も分からない。
けれども胸を締め付けられる。この時、ブルーを失くしたのだ、と。
あまりにも辛い写真を収めた写真集だから、滅多にページを繰ることはない。それでもブルーの悲しみを思うと、「ハーレイの温もりを失くした」と泣きじゃくりながら死んだと話した小さなブルーの言葉を思うと、この写真集を忘れることなど出来る筈もなくて。
まして何処かに押し込めてしまうなど出来るわけもなくて、日記と一緒に引き出しに仕舞った。
一日に一度は開ける書斎の机の引き出し。
其処へ仕舞って、自分の日記を上掛けのように被せてやった。
悲しみと憂いを秘めた瞳のソルジャー・ブルーを守るかのように、日記を被せた。
今度こそは自分が守ってやるから、と。
一泊二日での研修に向けての荷造りの時に、引き出しから日記を取り出した。覚え書きのような日記はこれまでも何処へ行くにも持って出ていたし、旅先でも必ず書いていたから。
荷物に入れようとした日記の下から姿を現した写真集。『追憶』という名の写真集。
表紙のソルジャー・ブルーの瞳がとても切なく、寂しげに見えて。
記憶にある声で呼ばれた気がした。
ハーレイ、ぼくを独りにしないで、と。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが幾度となく口にしていた言葉。
青の間で独りになるのは嫌だと、側に居て欲しいと願った言葉。
本当にそれを思っただろう運命の時、メギドへ飛ぶ時は欠片すらも言いはしなかったくせに。
(……ブルー……)
表紙の写真に、切ない瞳に縋り付かれた。
そうでなくても、やがて寒さの冬へと向かう人恋しい季節。
たった一晩だけだとはいえ、引き出しの中にブルーを残して出掛けられないと心が叫んだ。
上掛け代わりの日記を剥がして置いて出ることなど出来なかった。
「…ブルー、お前も一緒に来るか?」
そうかまってはやれないんだが、と言い訳しながら写真集を旅の荷物に仕舞った。
表紙のブルーが傷まないよう、そうっと日記を被せてやって。
研修旅行に来た宿の机、其処に置かれたソルジャー・ブルーが表紙になった写真集。
(…ブルーの写真は置いて来たのにな)
この時間にはもう眠っただろう、小さなブルーを思い浮かべる。
生まれ変わって再び出会ったブルーはソルジャー・ブルーではなく、十四歳の幼い少年だった。ただひたすらにハーレイを慕い、側に居たいと願ってくれる小さな恋人。
蘇った青い地球の上に二人で生まれて、同じ学校の教師と生徒としてまた巡り会った。あまりにブルーが幼すぎるから、キスさえ交わせはしないのだけれど。それでもブルーは確かに恋人。
普通ならば研修に持って来るなら、小さなブルーの写真だろう。
しかし小さなブルーが写った写真は一つだけしか持ってはいない。夏休みの最後の日にブルーの家の庭で写した、二人一緒の記念写真。ハーレイの左腕に小さなブルーが抱き付いた写真。
最高の記念写真だけれども、あの写真はブルーと揃いのフォトフレームにしか入れてはいない。
飴色をした木製のフォトフレーム。
ハーレイが写真を入れたフォトフレームはブルーの家に、ブルーが写真を入れた方はハーレイの家に、交換し合ってそれぞれ納まっていた。ブルーとの写真はその一枚だけ。
あの写真のデータはカメラの中にあるし、何枚もシャッターを切ったからそのデータもある。
けれどプリントアウトしたのは自分の分とブルーの分との、一枚ずつだけ。
データも他の媒体に移してはおらず、フォトフレーム以外の何処にも写真は存在しない。
他人に見られて困るような写真を撮ったわけではなかったけれども、ブルーと恋人同士なのだと意識しているからこそ入れられない。入れてはいけないし、持ってもいけない。
だから小さなブルーの写真は研修には連れて来ていない。
小さなブルーはハーレイの家に残されたフォトフレームの中、ハーレイの左腕に抱き付いた姿で笑っている。それは嬉しそうに、幸せそうに…。
この研修は二日間とも平日だから、小さなブルーはさほど寂しくないだろう。
幸い、ブルーのクラスで授業をする日と重なる日程にもならなかった。学校に自分の姿が無いというだけの二日間だし、仕事の後でブルーの家を訪ねられない平日が続くのもよくあること。
(……しかし……)
『追憶』の名を持つ写真集。
その表紙から自分を見詰めるブルーを家に置いては来られなかった。
強い意志を見せる赤い瞳の底、悲しみと憂いを秘めたブルーを独りきりにはさせられなかった。
メギドで逝ってしまったブルー。
最後まで覚えていたいと願ったという、ハーレイの腕に触れたブルーの右手に残った温もり。
銃で撃たれた痛みの酷さのあまりに、その温もりをブルーは失くした。ハーレイの温もりだけを抱いていたいと、それさえあれば一人ではないとブルーは思っていたというのに。
最期まで持っていたいと願った温もりを失くし、独りきりになってしまったブルー。
独りぼっちになってしまったと泣きながら死んでいったブルーはきっと、この『追憶』の表紙のブルーとそっくり同じ瞳をしていた。
強い意志を宿した瞳の奥深く揺れる悲しみ。
癒えることの無かったこの悲しみが強く出た瞳をしていただろう、と考えただけで胸が塞がる。
(……ブルー……)
ハーレイは痛む自分の胸を押さえた。
実際はブルーの右の瞳は失われていたと知っているけれど、その姿はどうしても思い描けない。
ハーレイの胸の中、独りぼっちで泣きじゃくるブルーは右の瞳を失ってはいない。
両の瞳から涙を流して、「温もりを失くした」と独りで泣いている。
ハーレイがそれを思い出した時は、いつも、いつも、いつも…。
そうして独り泣きじゃくるブルーを、どうして家に独りぼっちで置いて来られよう?
写真集の表紙といえども、其処にブルーは居るのだから。
(…本物のブルーは家でぐっすり寝てるんだがな…)
写真集の表紙を飾るどころか、すっかり小さくなってしまった幼い恋人。
アルタミラで出会った頃そのままの十四歳の姿で帰って来てくれた小さな恋人。
本当はブルーは写真集の表紙などには居なくて、地球の上で生きているのだけれど。ハーレイが暮らしている町と同じ町に住んで、毎日のように学校で、ブルーの家で会っているのだけれど。
それなのに『追憶』の表紙のブルーに囚われる。
悲しげな瞳のソルジャー・ブルーがブルーだと錯覚してしまう。
小さなブルーがちゃんと居るのに、生まれ変わった本物のブルーが居るというのに。
(…今のあいつには家も暖かいベッドもあるし、優しい両親だっているんだし…な)
けれど、『追憶』の表紙に刷られたブルーには自分しかいない。
真っ暗な宇宙に散ってしまった孤独な魂に寄り添ってやれる者は自分しかいない。
あの日にメギドについて行けなかった分、こうして連れ歩いてやるしかない。
悲しい瞳をしたブルーには帰る家もなく、シャングリラにも帰れなかったのだから。瞳に宿した悲しみの色を消してやるには、側に居てやるしかないのだから…。
(あいつがそっくり同じ姿に育つまでは……な)
こうして連れ歩くことになるのだろう。
此処にブルーの魂は無いと分かってはいても、今日のように連れて歩くのだろう。
十四歳の小さなブルーがこの姿と同じ姿になるまで、重ねることはけして出来ないのだろう…。
「ブルー。…遅くなったが、飯にするか?」
ハーレイは『追憶』の表紙のブルーに呼び掛けた。
「俺は研修で食って来たんだが、お前も腹が減っただろう。この辺りはこれが美味いんだぞ」
俺はこの町には詳しくてな、と愛しい前世の恋人に鳶色の瞳を細めてみせた。
学生時代から何度も通った海沿いの町。
ハーレイの生まれ育った町や住んでいる町からは少し遠いが、日帰り出来ないこともない距離。
夏ともなれば海へ泳ぎに来た。
学生時代は仲間と遊びに、教師になってからも何度も。もちろん今の両親とも海水浴が目当てで訪れた。泊まったことも二度や三度ではない。
ハーレイの気に入りの海がある町。遠浅の海岸も、潜って楽しめる岩場も在った。
「ほら、ブルー。これがカニ飯というヤツだ。シャングリラには無かっただろう?」
この町の名物弁当の一つのカニ飯。
悲しい瞳のブルーを一緒に連れて来ようと思った時から、これを買おうと決めていた。
カニ飯は酢でしめられたものが多いのだけれど、この町のものはカニ味噌なども炊き込んである味わい深い炊き込み御飯仕立てが売りだ。カニの身も上にたっぷりと乗せられている。容器のまま温めると炊きたての風味に近くなるから、包装紙だけを剥がして軽く温めた。
蓋を取れば温かな湯気が立ち昇る。
小さなブルーはカニを何度も食べているだろうが、前のブルーは知らないままで逝ってしまった海の幸。地球の海で採れたカニの匂いがふわりと部屋に漂った。
「ブルー、お前が行きたがっていた地球のカニだぞ」
このくらいだったら俺も夜食に食えるしな。
机に向かって弁当を広げ、食べながら『追憶』の表紙を飾るブルーと語り合う。
印刷に過ぎないブルーは喋りはしないけれども、それでも応える声が返ってくる気がした。
「ほら、見えるか? あれが地球の海だ。夜だからかなり暗いがな…」
指差してやれば、ブルーも一緒に夜の海を眺めているような気分になった。
ブルーが焦がれた青い地球の海。
前の自分が辿り着いた時には何処にも無かった、生命を育む海に覆われた母なる地球。
其処へ自分は還って来た。そうしてブルーと海を見ている。
地球に生まれて来た小さなブルーと一緒にではなく、辿り着けなかった方のブルーと。
「…沖の明かりか? あれは星じゃない、漁火だ。漁船の灯だな。ああやって魚を集めるんだ」
この季節だと何だろうなあ、夏だとイカ釣り船なんだが…。
すまん、俺は夏しか詳しくないんでな。そういう漁も出来る時代になったんだ。このカニもだ。
「ん? カニは今の季節はまだ獲れん。もう少し先だ、冬になったらカニを獲るんだ」
だから名物がカニ飯でな、とブルーに説明してやった。
悲しげな瞳が少し穏やかになったように思える。それは錯覚に過ぎないけれども、ハーレイにはブルーの孤独が和らいだ証なのだと感じられた。
ブルーを家に置いて来なくて良かった。
引き出しの中に置いて来ないで、連れて来てやって本当に良かった…。
窓の向こう、夜の海の彼方に浮かぶ漁火。その上に広がる夜空には、幾つもの星。
キャプテン・ハーレイだった頃に着いた地球では、赤く濁った月くらいしか見えなかった。夜の空を彩る筈の星座は汚染された大気に阻まれて見えず、季節の星すら分からなかった。
それが今では、時期さえ良ければ天の川も見える。澄んだ大気が戻って来た地球。水の星として蘇った地球…。
ブルーが地球を目指したからこそ、今の地球が在るとハーレイは思う。
前のブルーが、『追憶』の表紙の悲しい瞳をしているブルーが命を懸けてミュウを守ったから。
「いい星だろう、お前が行きたかった地球。…お前がミュウも、地球も守った」
なのにお前は地球まで行けもしなかった。
赤いナスカさえろくに見もせずに、降り立ちもせずに逝っちまった。
お前がメギドを沈めたからこそ、青い地球が此処に在るっていうのに…。
誰よりも地球に行きたかったお前が地球を見ないで、俺たちだけが地球を見ているなんてな…。
「酷いもんだな、お前は来られなかったのにな?」
だから食べろよ、とハーレイは名物のカニ飯を頬張る。
「俺の奢りだ。カニ飯くらいは好きなだけ食え、ついでに海もしっかり見とけよ」
なあ、とブルーに語り掛ければ、「うん」と返事が聞こえた気がした。
それはかつてのソルジャー・ブルーの声にも、今の小さなブルーの声にも思える声で。
「…分かっているさ、お前も俺と一緒に地球まで辿り着いたんだっていうことはな」
分かっているさ、と瞼に浮かんだ小さなブルーに、『追憶』の表紙に頷き返す。
「しかし、俺は未だにお前を忘れられないんだ」
ソルジャー・ブルーだった時代のお前を。
地球へ行きたいと願い続けて、辿り着けなかった前のお前を。
お前の瞳から最後まで消えることが無かった、深い悲しみと孤独の色を……。
小さなブルーは自分のベッドで眠っている筈の時間だけれど。
ハーレイは前のブルーの姿が刷られた『追憶』の名を持つ写真集の表紙と一緒に夜の海を見る。暗い海に揺れる漁火の群れと、夜空に鏤められた秋の星座と。
名物のカニ飯をブルーと食べて、「美味いだろう?」と問い掛けてやって。
「なあ、ブルー。次の研修も泊まりだったら一緒に行こうな」
連れてってやろう、と微笑みかける。
遠い昔に宇宙の彼方で、メギドで逝ってしまったブルーに。
そのブルーは生まれ変わって地球の上に生きているのだけれども、今はまだ二人が重ならない。十四歳の小さなブルーは今のブルーで、『追憶』の表紙のブルーはソルジャー・ブルー。
全く同じ二人の筈で、同じ魂だと分かっているのに、どうしても二人を重ねられない。
小さなブルーを前にしていてさえ、その後ろに前のブルーの姿が見えてしまう時があるほどに。
いつかは寸分違わず重なり、一人のブルーになるだろうけれど。
今はまだ二人、ブルーが二人。悲しい瞳で見詰めるブルーが、自分しか側に寄り添ってやれないブルーが『追憶』の表紙に独りきりで居る。
いつもは机の引き出しの中で静かに眠っているブルー。ハーレイの日記を上掛け代わりに着て、守られて眠っているブルー。
このブルーを家に独り置いては来られない。それに…。
「俺も一人より二人がいい。あいつは俺と一緒に旅をするには小さすぎるしな?」
恋人なのだと主張している小さなブルー。
ハーレイも小さなブルーを恋人だと思っているのだけれども、旅に連れては来られない。研修のための旅であっても、世間に認められた伴侶だったなら「研修に支障を来さない範囲で」自費での同行が認められるし、空いた時間に観光をしてもいいというのに。
残念なことに小さなブルーは文字通り小さすぎだった。伴侶になるには年齢も不足。
どうやら当分、ハーレイの研修の旅に同行するのは『追憶』の表紙の悲しげなブルー。いつかは小さなブルーが育って重なり、代わりについて来るようになるのだろうけれど…。
「ブルー、当分、よろしく頼むぞ」
明日は焼きカニ飯を買って帰るか、とハーレイは旅の相棒のブルーに笑顔を向けた。
「カニの足を殻ごと炙ってあるんだ。…殻つきは食うのが少し面倒なんだが、それを充分に補える美味さだ、俺が保証する」
買って帰って二人で食おうな。小さなお前には内緒だぞ?
あいつ、一人前に嫉妬するしな、相手がお前だと余計にな。だから内緒だ。
…そうか、お前を連れて旅に出たのも内緒にせんとな。あいつにバレたら大惨事だしな?
喋るんじゃないぞ、と『追憶』の表紙に片目を瞑る。
「あいつが育って、お前そっくりになった時には、あいつの中に入って一緒に来い」
ずっと一緒だ、とハーレイは『追憶』の表紙に刷られたブルーを指先で撫でた。
「俺はお前を忘れはしない。この瞳のお前を忘れはしない」
お前自身が全てを忘れられる時が来るまで。
生まれ変わったお前の右手が、あいつの右手が二度と凍えなくなる日まで…。
その日が来るまで、俺はお前を決して忘れてしまいはしない。
お前自身が望む時まで前のお前の悲しい瞳を忘れはしないし、いつだってお前の側に居てやる。
今日みたいに二人で旅もしような、地球の美味い物を色々食わせてやるから。
「でないとお前が寂しいだろう? そんな悲しい目をしたままじゃあな…」
……ブルー。
いつまでも、何処までもお前を連れてってやるさ。
お前が望む間は………ずっと。
研修の夜・了
※小さなブルーには内緒で、前のブルーと研修の旅に出たハーレイ。写真集を持って。
今でも忘れられない、大切な人。小さなブルーが気付いたら、嫉妬は確実ですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あっ、ホットケーキだ!)
土曜日の朝、起きて行ったらテーブルに焼き立てのホットケーキ。少ししか食べられないぼくに合わせてママが小さめのリングで焼いてくれる、それ。「一枚だとつまらないでしょう?」と二枚重ねてお皿に載せるために、パパやママのよりも一回り小さめに仕上げてくれるホットケーキ。
熱々を食べたいから、急いで上にバターを乗っけた。それからメープルシロップもたっぷりと。ナイフで切って、フォークで口に運ぶとふんわり軽くて甘い。
(うん、美味しい!)
ホットケーキは特に珍しくもないんだけれども、今日はなんだか胸がときめく。
(…どうしてかな?)
同じテーブルで食べているパパとママとはいつもどおりで、特に変わった様子は無い。土曜日はハーレイが来てくれる日だけど、だからといってホットケーキにときめく理由が分からない。
(ハーレイが来てくれる日はいつもドキドキなんだけど…)
でも、朝御飯にまではときめかないよ?
不思議だな、とホットケーキを頬張っていたら、ふと思い出した。
(そうだ、ホットケーキ!)
今のぼくには、ホットケーキはごくごく普通の朝御飯。おやつに食べる日だってある。
だけど、前のぼく…。
ソルジャー・ブルーだったぼくにとっては、ホットケーキは特別だった。
ホットケーキに本物のメープルシロップ。合成じゃなくてサトウカエデから採れた本物。それをたっぷりとかけて、地球の草を食んで育った牛のミルクのバターを添えて。
それが前のぼくが夢に見ていた朝御飯。
(…今、食べてるのがそうなんだけど…)
そうなんだけど、と、ぼくはバターが染み込んだホットケーキをメープルシロップに浸す。
シャングリラでは採れなかったメープルシロップ。公園にも居住区の庭にもサトウカエデの木は無かったし、いつだって合成のメープルシロップ。
あの頃のぼくは、地球に行けば本物のサトウカエデの森があるって信じていたんだ。
夏は涼しくて冬は寒さが厳しい所に広がるというサトウカエデの森。雪深い冬から春先にかけて木が吸い上げる沢山の水が甘い樹液に変わって、その樹液を煮詰めてメープルシロップが出来る。
知識だけはちゃんと持っていたから、地球に行けば本物のメープルシロップがあると思ってた。
本当は無かったんだけど。
本物のメープルシロップもサトウカエデの木が広がる森も、何処にも無かったんだけど…。
ぼくが夢見た地球は死の星で、有毒の大気と水と、砂漠化した大地。
そうとも知らずに夢を見ていた。地球は青いと、美しい母なる星なのだと。
本当のことを知らないままで、地球に行きたいと夢を見たままで死んでいったぼくは、今にして思えば多分、幸せだったんだろう。
地球の真の姿を知っていたなら、迷いなくメギドへ飛べはしなかった。
ミュウの未来が大切なのだと分かってはいても、きっと迷った。
その一瞬が命取りになって、何もかも終わっていたかもしれない。シャングリラは地球を見ずに沈んで、ミュウは誰一人として地球に着けなくて。
地球だって蘇ることもないまま、今も死の星だったかもしれない…。
(…そう考えると、思い込みって凄いよね?)
今だから分かる、前のぼくの凄い勘違い。
地球は青いと信じていたから前に進めたし、命だって宇宙に捨ててしまえた。
最後の最期で後悔したけど、ほんのちょっぴり後悔したけど…。
ハーレイの温もりを失くしてしまって独りぼっちで泣いたけれども、もう後悔はしなくていい。だってハーレイと二人で地球に居るんだし、今日だってハーレイが来てくれる。
朝御飯を食べて部屋の掃除が終わった頃に、ハーレイが門扉の横のチャイムを鳴らしてくれる。
ホットケーキの朝御飯。
前のぼくが夢見た、本物のメープルシロップと地球の草を食んで育った牛のミルクのバターとを添えた、ふんわりと焼けたホットケーキ。
シャングリラで一番最初に作られた、贅沢で豊かな気持ちになれる朝食。
それがホットケーキを二枚重ねたものだった。
(このホットケーキよりも大きかったけどね)
今のぼくが食べるホットケーキは小さめのリングで焼いたもの。
シャングリラの食堂で皆に出されたホットケーキは、普通サイズのリングで焼かれた。
(パパたちのと多分、おんなじくらい?)
多分そうだね、と思って眺める。
アルタミラを脱出した直後は船に最初から積まれていた食材だけで遣り繰りをして、その食材が無くなった後は人類側の物資を奪った。だけど、それでは危険が伴う。第一、奪いに行ける人材はぼく一人だけ。
そんな方法をいつまでも続けてはいられないから、自給自足の道を目指した。船の中を整備し、農場を作って野菜や家畜を育てていこうということになった。
皆で頑張って自給出来るようにはなったけれども、最初はパンを焼くのが精一杯。
其処から少しずつ進歩を遂げた結果、ホットケーキはまずお菓子として一人一枚で誕生した。
(…一枚きりだったけど、それでもホットケーキだったよ)
合成のメープルシロップはまだ無かったから、砂糖を煮詰めたシロップをかけた。バターだって無くて、合成だった。それでも充分に美味しく感じた、お菓子として食べたホットケーキ。
これを朝御飯に何枚も食べられるようになったらいいね、と皆で話した。
成人検査よりも前の記憶を失くしてしまった前のぼくたちだったけれども、記憶の底の何処かで覚えていたんだ。
幸せだった子供時代の記憶。何枚も重ねたホットケーキの朝御飯…。
前のぼくたちの夢が叶うまでにはかなりかかった。
小麦粉も卵も牛乳も大切な食料だったし、ホットケーキを作るには沢山の砂糖だって要る。
充分な数のパンを毎日焼けるようになって、卵も牛乳も充分な量が皆に行き渡るようになって。
やっと朝食にホットケーキを食べられる時がやって来た。
皆が待ち焦がれた夢の朝食。おやつではなくて、朝御飯のテーブルにホットケーキ。
一人二枚だったけど、充分な厚みのホットケーキに、シャングリラで採れた蜂蜜とバター。
あの日の朝の食堂で目にした皆の笑顔は忘れられない。
(みんな本当に嬉しそうだったものね、「ホットケーキの朝御飯だ」って)
だからホットケーキには思い入れがあった。
当たり前に食べられる時代になっても、ぼくにとっては特別なもの。
何度食べても、幸せな気持ちがこみ上げて来るホットケーキの朝御飯。
(…朝御飯はホットケーキが一番ってくらいに好きだったかも…)
沢山食べられるぼくじゃないけれど、今のぼくみたいに小さめのサイズで焼いて貰って、何枚も重ねて食べていたことも珍しくはない。
何枚も重なったホットケーキは「こんなに沢山食べられる時代になったんだ」という満ち足りた気分を運んで来るから好きだった。
そんなぼくと青の間で朝食を共にしていた前のハーレイは普通サイズで何枚も。
ぼくたちの幸せな朝御飯。
ホットケーキ以外のメニューの時でも、朝御飯は大抵、ハーレイと一緒。
ハーレイが青の間でぼくと朝御飯を食べているのは、一日の始まりに打ち合わせなどをしておくための会食なのだと皆が頭から信じていたから、二人きりでも大丈夫だった。
(食事を持って来てくれるクルーも全然気付いていなかったしね?)
青の間の奥のキッチンで係のクルーが最後の仕上げをする朝食。焼き立てのホットケーキなどの食卓を整えた後は部屋を出てゆくから、本当にハーレイと二人きり。
(あの頃もハーレイは今と同じで沢山食べられたんだよね…)
ハーレイは何枚も重ねたホットケーキの他にもソーセージや卵料理を食べていたっけ。
ぼくはミルクか紅茶があればそれで充分、お腹いっぱい。
紅茶も香り高くはなかったけれども、シャングリラの中で育てた木の紅茶だから充分、贅沢。
そんな朝御飯が幸せな時間だったから。
いつか地球まで辿り着いたら、人類にぼくたちの存在を認めて貰えたなら。
憧れの地球で、朝御飯にホットケーキを食べてみたかったんだ。
焼き立てのホットケーキに、たっぷりと本物のサトウカエデのメープルシロップ。
地球の草を食んで育った牛のミルクのバターを添えて。
(…ホントのホントに、いつかは食べてみたかったんだよ…)
本物のメープルシロップと、地球の草で育った牛のミルクで作ったバター。
どちらもありはしなかった。
夢の朝御飯は食べられなかった。
ぼくは地球まで行けなかったし、ハーレイが辿り着いた地球は死に絶えた星のままだった。
だけど今では青い地球の上で、ぼくもハーレイもホットケーキを好きなだけ食べられる。
(……でも……)
ハーレイと一緒にホットケーキの朝御飯。
二人で朝御飯を食べたいとママに頼めば何とかなるけど、それじゃダメ。
(庭のテーブルなら二人きりだけど、それじゃダメなんだよ)
ハーレイと二人、同じ家に住んで。
同じベッドで二人で眠って、朝になったらゆっくり起き出して、ホットケーキの朝御飯。
ぼくは多分、普通サイズなら二枚が限界。
ハーレイはきっと、今でも沢山。
何枚もホットケーキを重ねて、ソーセージだとか卵料理も食べるんだ。
そういう朝御飯を二人で食べたい。
前のぼくが何度も夢見た、憧れの地球に生まれて来たんだから…。
朝御飯のホットケーキを見て思い出した、ソルジャー・ブルーだった頃のぼくの夢。
ハーレイも覚えているのか知りたくなって、ぼくの部屋で向かい合って直ぐに尋ねてみた。
「ねえ、ハーレイ。…ホットケーキの朝御飯のこと、覚えてる?」
「ホットケーキ?」
「ぼくが食べたかった朝御飯だよ、前のぼくの夢」
覚えてる? と首を傾げてみせたら、ハーレイは思い当たったみたいで。
「そういえば…。お前、地球で食べたいと言ってたんだな、夢の朝飯」
本物のメープルシロップと地球で育った牛のミルクのバターつきで……だったな?
今もお前の夢なのか、それが?
俺たちは地球に来ちまったわけで、お前はそういうホットケーキを食ってる筈だが…。
「思い出したんだよ、ついさっき! それにぼくの夢、半分だけしか叶ってないよ」
「…半分だけ?」
ハーレイは変な顔をした。それはそうだろう、本物のメープルシロップも地球の草を食んだ牛のミルクで作ったバターもあるのに、何処が半分だけなのか、と。
けれど、ぼくにとっては本当に半分だけしか夢は叶っていないから…。
「半分なんだよ、だってハーレイと一緒に朝御飯を食べられないんだもの…」
ハーレイと一緒に地球まで行って、夢の朝御飯を食べたかったのに。
せっかく二人で地球に生まれて来たのに、家もベッドも別々だなんて。
「…ぼくはハーレイと食べたいのに…。ぼくの夢だったホットケーキの朝御飯…」
ぼくはガックリと項垂れる。
ハーレイと二人、青い地球の上に生まれてホットケーキの朝御飯くらい食べ放題。
本物のメープルシロップも地球で育った牛のミルクのバターもあるのに、ハーレイがいない。
朝御飯のテーブルにハーレイがいない……。
ぼくの気持ちはちゃんとハーレイに伝わったらしい。
鳶色の瞳が細められて、ぼくの大好きな穏やかな笑みが唇に乗る。
「分かった、分かった。俺と一緒に住めるようになったら、朝飯にホットケーキを食うんだな?」
「うん。本物のメープルシロップとバターをたっぷりつけて」
「本物のメープルシロップか…。お前、サトウカエデの森に憧れてたな」
ハーレイは覚えていてくれた。
ぼくが夢見た、サトウカエデの大きな森。地球にはあると信じていた森。
「お前が見たかったサトウカエデか…。そういう森は俺たちの国には無いようだがな?」
「だけど、地球の何処かにあるんだよね? メープルシロップ、売っているもの」
他の星からの輸入品ではないメープルシロップ。地球産のマークがついたメープルシロップ。
でも、何処の地域のものだっただろう?
当たり前に食べていたから、考えたこともなかった今のぼく。
「知らないのか? 地域としてはカナダ辺りだ、SD体制の前と同じだ」
地形はかなり変わったらしいが、とハーレイが採れる場所を教えてくれた。
SD体制の時代よりも遙かな昔から、メープルシロップが採れるサトウカエデで知られた地域。其処にカナダという国が在った頃には国旗の模様がサトウカエデの葉だったほどに。
地球が蘇った後もサトウカエデの森が広がり、雪の季節から春先にかけてがメープルシロップの原料になる樹液を集めるシーズンで…。
「よし、結婚したらサトウカエデの森を見に行ってみるか?」
雪がある季節なら、出来たてのメープルシロップをかけてホットケーキが食えるかもしれん。
「いいね。メープルシロップの元が採れる所を見てみたいな」
どうせだったらサトウカエデの森だけ見るより、樹液を集めている所。
前のぼくの夢だった本物のメープルシロップの原料を集める所を見てみたい。
ハーレイと二人でサトウカエデの森に出掛けて、ワクワクしながら眺めてみたい…。
前よりも大きく膨らんだ夢。
本物のメープルシロップだけじゃなくって、サトウカエデが生えている森。
サトウカエデから樹液を集めて、メープルシロップを作る所だって見てみたい。
うんと欲張りになった、ぼく。
こんなに欲張っていいのかな、と思ってるのに、ハーレイが笑顔でこう言ったんだ。
「知ってるか? 樹液を煮詰めてキャンディーが作れるそうだぞ、雪の上に流してな」
「キャンディー?」
雪とキャンディーが結び付かなくて、ぼくはキョトンとしたんだけれど。
「熱いシロップを雪で冷やすと柔らかく固まる。そいつを棒に巻き付けてやれば、キャンディーが出来るっていう仕組みだな」
「それ、やってみたい!」
なんて面白そうなんだろう。
キャンディーなんかを自分で作れるとは思わなかった。
本物のサトウカエデの樹液からメープルシロップを作るまでの間に、棒付きキャンディー。雪の上に煮詰めた樹液を流して、冷やして固めて棒付きキャンディー。
前のぼくが知らないままで終わったサトウカエデの森からの恵み。
あの時代の死に絶えた地球には無かった、サトウカエデからの素敵な贈り物。
瞳を輝かせて「やりたい」と強請ったら、ハーレイは「ああ」と大きく頷いてくれた。
「前からのお前の夢だったしなあ、ホットケーキとメープルシロップ。それにキャンディーを追加なんだな、今のお前は」
「うん、せっかく地球に生まれたんだもの。ホットケーキの朝御飯に本物のメープルシロップで、それとキャンディーを作ってみたい」
欲張りなぼくの願いごと。
前よりも一つ増えているのに、「うん、うん」と答えてくれるハーレイの優しさが嬉しい。
「行くとするか、サトウカエデの森に」
褐色の大きな手が伸びて来て、頭をクシャクシャと撫でられた。
「連れて行ってやるから、その前にしっかり食べて大きく育ってくれよ。…でないと結婚出来ないからな?」
「うん。…うん、ハーレイ…」
約束だよ、とハーレイの手をガシッと掴んで、褐色の小指とぼくの小指を絡ませた。
サトウカエデの森を見に行く約束。
出来たてのメープルシロップをかけたホットケーキと、煮詰めたサトウカエデの樹液を雪の上に流して作るキャンディー。前よりも増えた夢を叶えるための約束…。
前のぼくの夢だったホットケーキの朝御飯。
青い地球の上でハーレイと二人、ホットケーキの朝御飯。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバターを添えて。
どうやら夢は叶いそうなんだけれど…。
サトウカエデの森を見に行ける上に、煮詰めた樹液を雪の上に流して棒付きキャンディーを作るオマケまでつきそうなんだけど、その前にぼくの背丈が問題。
ハーレイと再会した時の百五十センチから未だに一ミリも伸びない背丈。
クローゼットに微かに付けた小さな印、ソルジャー・ブルーの背丈の百七十センチに届かない。其処まで届いてくれないことにはハーレイとキスさえ出来ないどころか、結婚なんて夢のまた夢。
結婚出来ないとサトウカエデの森には行けない。
ハーレイと一緒に夢の朝御飯だって食べられない。
ホットケーキの朝御飯はもちろん、トーストだって一緒に食べられやしない。
(…大きくなれないと困るんだけど…)
早く大きくなりたいんだけど、と切実な悩みがまた大きくなる。
夢を叶えるには、まずは背丈を伸ばすこと。ソルジャー・ブルーと同じ背丈を手に入れること。
しっかり食べて大きくなれよ、とハーレイは口癖のように言うけれど。
キャプテン・ハーレイだった頃から沢山食べていたハーレイには簡単なことだろうけど。
(…沢山食べるのって難しいんだよ…)
ハーレイと再会してから、沢山食べようと頑張ってみては失敗多数で挫折も多数。
(でも、ホットケーキだったら食べられるかな?)
前のぼくの夢だった朝御飯。憧れだった地球でのホットケーキの朝御飯。
朝御飯にホットケーキを沢山食べたら早く大きくなれるかな?
頑張って三枚食べてみようか、前のハーレイにはとても敵わないけれど。
三枚は基本で、多い時には四枚重ねだって食べていたハーレイ。
それにソーセージと卵料理まで食べるだなんて、ぼくには絶対、無理だけれども…。
一日でも早く大きく育って、ハーレイと結婚したいから。
抱き合って二人キスを交わして、それから、それから……。
ハーレイと本物の恋人同士になって、一緒に暮らして、二人一緒の朝御飯。
いつもはトーストでもかまわないけど、一番の夢はホットケーキ。
前のぼくがずっと夢に見ていた、ハーレイと二人で地球の上で食べるホットケーキの朝御飯。
ハーレイがサトウカエデの森に行こうと言ってくれたから、夢は大きく膨らんだ。
メープルシロップの原料の樹液を集めるのを見て、煮詰めた樹液でキャンディー作り。
膨らんだ夢を叶えるためには、沢山食べて早く大きくならなくちゃ…。
ホットケーキに本物のメープルシロップ、地球の草で育った牛のミルクのバターを添えて。
前のぼくが夢見た朝御飯。
地球に着いたら、食べたいと願ったホットケーキの朝御飯。
ぼくは青い地球の上に生まれて来たから、本物のメープルシロップをたっぷりとホットケーキにかけられる。もちろんバターは地球の草を食んで育った牛のミルクで作ったバター。熱でトロリと溶けたバターを好きなだけホットケーキに塗り付けられる。
(夢の朝御飯が食べられるんだもの、頑張らなくちゃね?)
早く大きくなりたかったら、御飯を沢山食べなくちゃ。
何でも沢山……は難しそうだから、夢の朝御飯だったホットケーキくらいは多めに食べよう。
前のぼくの夢だった、地球の上でのホットケーキの朝御飯。
ハーレイと一緒に食べたいと願っていた夢の朝御飯。
今はハーレイの姿が足りないんだけど、そのハーレイと一緒に朝御飯を食べるために頑張る。
ホットケーキくらいは少し多めに、しっかりと食べて背を伸ばすために。
(…ちょっとずつでも、頑張ったらきっと背が伸びるよね?)
夢のホットケーキはあるというのに、足りないハーレイ。
今のぼくの夢はホットケーキの朝御飯じゃなくて、ハーレイつきの朝御飯。
ハーレイと一緒に、二人きりで食べる朝御飯。
シャングリラに居た頃と「当たり前にあるもの」が逆になってしまった。
(…地球のホットケーキの朝御飯はあるのに、ハーレイが一緒にいないだなんて…)
ハーレイと二人、一緒に暮らして、ゆっくりと起きて朝御飯。
普段はトーストでもかまわないけど、休日はホットケーキを何枚も焼いて食べるんだ。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草を食んでのんびりと育った牛のミルクのバターを添えて。
きっと幸せな朝御飯。
ハーレイと一緒に地球の上で食べる、幸せな夢の朝御飯。
(…まだ半分だけしか叶わないだなんて…)
前のぼくの夢が叶ったのはホットケーキの部分だけ。
肝心かなめのハーレイがいなくて、夢のホットケーキを食べるテーブルにはぼく一人。
パパとママとが居てくれるけれど、ハーレイがいないと独りな気分。
(残り半分は、背が伸びないと叶わないんだけど…)
百五十センチから少しも伸びない、情けないぼくの小さな背丈。
ハーレイとサトウカエデの森を見に行きたいのに、伸びてくれない今のぼくの背丈。
前のぼくからの夢の朝御飯は、まだまだ当分、叶いそうにはないんだけれど。
だけどいつかはきっと叶うよ、サトウカエデの樹液を煮詰めて作るキャンディーつきで……。
ホットケーキ・了
※ソルジャー・ブルーだった頃の夢の朝御飯は食べられるのに、足りないハーレイ。
でも、いつか一緒に行けるのです。サトウカエデの森まで、キャンディーを作りに…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ママが焼いてくれたフルーツケーキ。ラム酒に漬けたレーズンやアプリコット、プルーンとかがたっぷり入って、真っ白なアイシングがかかってる。アイシングの上に載った紫色のアクセント。スミレの花の砂糖漬け。雪の中から顔を出したかのような紫のスミレ。
ぼくの部屋でハーレイと向かい合わせでのティータイム。ハーレイがフォークで紫色のスミレをチョンとつついた。
「…スミレもこうすれば食えるんだよなあ、面白いもんだ」
口に入れればスミレの香りがふうわりと広がる砂糖漬け。ママの手作りではなかったけれども、お菓子のデコレーションとしてお気に入り。ケーキに添えたり、ラスクに載せたり。小さな頃から何度も目にした。そう、今日みたいに。
「シャングリラでは作らなかったよね、砂糖漬け。子供たちが花束にしてたくらいで」
「ああ。こういう洒落た菓子を作って食えるほど優雅な日々でもなかったしな」
シャングリラにもお菓子はあったし、ハーレイと過ごすお茶の時間もあったのだけれど。紅茶は今のように香り高くはなく、お菓子もお洒落なものではなかった。
もっとも、そんなティータイムでも充分すぎるほどに贅沢なもの。アルタミラでの研究所時代を思えばお茶の時間が持てるというだけで夢のようだったし、幸せだった。
そういう暮らしをしていたぼくたちが、今は青い地球の上でティータイム。地球の太陽を浴びて育ったスミレの花の砂糖漬けが載ったケーキを二人で食べてる。なんて幸せなんだろう。こんなに幸せでいいんだろうか。
スミレの花を食べるだなんて、シャングリラに居た頃は思い付かなかった。
公園にスミレは沢山咲いていたけれど、あくまで目で見て楽しむもの。子供たちが摘んで花束にするもの。たまに愛らしいスミレの花束を子供たちがくれた。
「ハーレイも子供たちから貰っていたよね、スミレの花束」
「うんうん、ゼルもブラウも貰っていたな。クローバーとかと一緒で摘み放題だったしな」
子供たちが摘んで作ったスミレの花束。香りがいいから、貰うとガラスのコップに挿して枕元のテーブルに飾っていた。ハーレイは航宙日誌を書いていた机の上に飾った。
「実にいい香りがしたんだよなあ、あの花束は」
「あんなに小さな花なのにね。貰うと幸せな気分になれたよ」
「そうだな、部屋に公園が引っ越して来たような感じがしたな」
限られた空間しか無かったシャングリラの中。公園と居住区に散らばる庭だけが自然を思わせる緑のスペース。其処で咲いたスミレの花束は外の世界も運んで来てくれたように思えたものだ。
「ぼくは好きだったよ、スミレの花束。地面の上に居るような気持ちがしたから」
新しく見付けたミュウの救出や戦闘の時しか、シャングリラの外には出なかった。ぼくの力なら自由に何処へでも行けたけれども、他の仲間たちはそうではないから。
ぼくだけが自由に出歩くことはしたくなかった。そうやって自分に課した禁を破って出るようになったのは、偶然フィシスを見付けた時だけ。フィシスの地球を見に通った時だけ。
だからスミレの花が咲く地上でゆっくりと過ごしたことは無い。シャングリラの中だけがぼくの世界で、スミレの花束は外の世界を夢見るための小さな小道具。
「いつかスミレが咲いている地上で過ごしたいな、と思っていたよ。ハーレイは?」
「俺も同じだ。子供たちを思い切り走らせてやれる時が来ないかと願っていたな」
シャングリラの公園じゃなくて、広い大地で。
走っても走っても果てが無いような、花いっぱいの野原を何処までも……な。
遙かに過ぎ去った時を懐かしんでいたハーレイが「ん?」と顎に手を当てて。
「そうか、しまった…。お前と出会うのが遅すぎたな」
「えっ?」
そりゃあ、再会は早ければ早いほど良かったけれど。
ハーレイともっと早く会えていれば嬉しいけれども、その分、ぼくは今よりもっと小さな子供。ハーレイは何をしたかったんだろう?
小さなぼくを連れて野原へ行こうと思ったんだろうか、スミレを摘みに?
キョトンとするぼくの目の前、ハーレイはスミレの砂糖漬けをフォークでつつきながら呟く。
「もう二日ほど早ければ…。いや、四月の間に出会うべきだった」
「なんで?」
たったの二日ほど早いだけでいいの?
四月の間だとか、ほんの少ししか早くないけれど…。
「忘れちまったか? 俺たちが会ったのが五月三日で」
「そうだけど?」
「五月一日と言えばスズランの花束の日だったろうが。この地域には無いようだがな」
「あっ…!」
それを聞くまで忘れていた。五月一日はスズランの日だった。
「今もフランスではやってるらしいぞ、今の地球でのフランス地域だ。…いわゆる文化の復活ってヤツで」
「そうなんだ…」
SD体制の時代には無かった、かつてフランスと呼ばれた地域。地球が青い星として蘇った後、その名を冠した地域が生まれた。ぼくたちの住む地域が日本で通っているように、フランスだって地球の上に在る。遙かな昔のフランスの文化を追い求めて楽しんでいる地域。
「お前に堂々と贈っても問題無いんだよなあ、今の世界じゃ。なにしろ日本にはスズランの文化が無いからな? …ついでにスズランも山ほどあるんだ、シャングリラと違って」
「うん…」
あるね、とぼくは頷いた。
鈴の形をした白い花を沢山つけるスズラン。
シャングリラでは公園に咲いていただけだけれど、今の世界なら公園だけじゃなくて個人の家の花壇やプランター、もちろん花屋さんにだってある。
珍しくもないスズランの花。でも、シャングリラでは特別だった。
愛する人への五月一日の贈り物。
贈られた人に幸運が訪れますように、と祈りをこめて贈るスズランの花を束ねた花束。
シャングリラの公園で初めてのスズランが花開いた年に、ヒルマンが皆に説明してくれた。
恋人同士で贈り合ったり、夫から妻へ、妻から夫へ。
遠い昔には、わざわざ森までスズランの花を探しに出掛けて摘んでいた時代もあるらしい。森に咲くスズランは香りが高くて希少価値があるから、と後の時代には五月一日には高値で売られた。子供たちが森まで採りに出掛けて、たった一本のスズランが栽培種の花束と同じ値だったり。
小さなスズランの花を前にして、ヒルマンが語った遙か昔の素敵な習慣。
ぼくはハーレイにスズランの花束を贈りたくなった。
沢山の幸運が訪れるようにと祈りをこめて、五月一日にスズランを摘んで。
ハーレイはぼくに贈りたくなった。
ぼくが幸せになれるようにと、五月一日にスズランの花を摘んで束ねて。
でも、スズランの花は花束に出来るほど沢山咲いてはいなかった。
増えて来た頃にはそれを必要とするカップルたちがいて、ぼくとハーレイの分は無かった。
ぼくたちは誰にも仲を明かせない、秘密の恋人同士だったから。
五月一日にスズランの花束を作りたいのだと、誰にも言えはしなかったから…。
スズランの株は順調に増えて、花束を幾つも作れるようになったのに。
五月一日になると恋人たちが公園や居住区の庭で摘んでいるのに、ぼくたちはそれを微笑ましく見守るだけの立場で、スズランの花束は手に入らない。
いくらスズランの花が増えても、贈りたい人に贈れはしない。
五月一日が何度も巡って、ある年、ハーレイが「やはり今年も無理でしたね」と溜息をついて。
「いっそ私の部屋で育てようかとも思うのですが…。そうすれば私の分ですから」
「バレるよ、掃除に来たクルーに」
ハーレイの気持ちは嬉しかったけれど、部屋にスズランの鉢だかプランターだかを置くなんて。何をしているのか直ぐに知られる。スズランは特徴があり過ぎるから。
「私が好きで育てている花だと言えば問題無いかと」
「それはそうだけど、五月一日に花がそっくり消えた理由を何と説明するんだい?」
シャングリラでは広く知られた五月一日の恋人たちの贈り物。ハーレイがスズランの花を好きかどうかはともかくとして、五月一日を境に花が消えれば誰かに贈ったということになる。この船の何処かに恋人が居て、その恋人のためにスズランを育てていたのだと知れる。
「どう考えても直ぐにバレるよ、恋人用のスズランだった、と」
「…確かに…。そうではない、と言い訳するのは難しいかもしれませんね…」
いい考えだと思ったのですが、とハーレイが残念そうな顔をするから。
「ぼくの青の間でも同じなんだよ。…君がスズランを育てて贈ってくれると言うなら、ぼくだって君に贈りたいけれど…」
この部屋はこんな造りだから。
スズランを育てられそうな自然な光が降り注ぐ場所はもれなく人が入って来る。ベッドの周りは言わずもがなだし、奥のキッチンとかにも人が入るし…。
君のためにスズランを育てたくても、こっそり育てられそうにない…。
二人して自分の部屋でスズランを育てられないことを嘆いて、残念がって。
それでもお互いに贈りたかった。
贈られた人に幸運が訪れるという、五月一日の恋人たちの贈り物。スズランの花を束ねた花束。ぼくはハーレイに贈りたかったし、ハーレイはぼくに贈りたかった。
いつかは贈ってみたいものだ、と語り合った末に。
「いつか…。そうですね、いつか、地球に着いたら」
ハーレイの鳶色の瞳がぼくを見詰めた。
「そうしたらスズランもきっと沢山手に入るでしょう。その時はあなたに贈りますよ」
いつか地球に着いて、五月一日が巡って来たら。
あなたのためにスズランの花束を作って、幸運が訪れるようにと祈りをこめて…。
「うん、ぼくも。…ぼくもスズランの花束をプレゼントするよ」
ハーレイのためにスズランを探すよ、ヒルマンが言ってた希少価値が高いという森のスズラン。地球の森が広くても、ぼくなら探せる。ハーレイには無理でも、ぼくは出来るよ。
「お気持ちはとても嬉しいのですが…。それでは私の愛が足りないような気がするのですが…」
ハーレイが困ったように口ごもるから、「いいんだよ」とぼくは微笑んだ。
「いいんだよ、それで。ハーレイはぼくに沢山の愛をくれているもの、それに沢山の幸せだって。ぼくはハーレイを幸せにしてあげたいんだ、いつも貰ってばかりだから」
「いえ、私こそあなたを幸せにして差し上げたい。あなたはいつも、皆のためにだけ…。御自分のことはいつも後回しで、皆の幸せばかりを祈っていらっしゃるから…」
「ううん、その分の幸せは皆からも、そしてハーレイから沢山貰っているよ」
ハーレイが居てくれるから幸せなんだよ、ぼくはシャングリラの誰よりも…。
いつか地球へ行って、お互いにスズランの花束を贈り合う。
それがぼくたちの夢だった。五月一日が巡って来る度に白いシャングリラでそれを思った。
恋人たちのためのスズランの花を束ねた花束。
ぼくたちが贈りたいと願い続けて、贈れずに終わった夢の花束。
ハーレイがスミレの砂糖漬けを眺めながらフウと大きな溜息をつく。
「…いつの間にかお前は眠ってしまって、五月一日どころじゃなかった…」
「うん…。寝てしまったね、アルテメシアから旅立って直ぐに」
眠るつもりは無かったのだけれど、弱り切った身体はそれを許してくれなかった。
毎晩、青の間に来てくれていたハーレイに「おやすみ」といつものように言って眠って、まさかそれきり目覚めないだなんて思わなかった。
深い深い眠りの底に沈んでしまった、前のぼく。
それでもハーレイは毎晩、ぼくを訪ねて来てくれた。眠り続けるぼくに語り掛けてくれた。
子守唄まで歌ってくれていたことを、夏休みの間にハーレイから聞いた。
今のぼくが小さな頃に大好きだった「ゆりかごの歌」。前のぼくが眠りの底で聞いていた歌。
眠っていたぼくには一瞬とも思えた時だったけれど、ハーレイにとっては十五年間。
十五年もの間、ぼくはハーレイを独りきりにして眠ってしまった…。
「…ごめんね、ハーレイ…。十五年も眠ってしまったままで」
「初めの間は直ぐに起きると思ったんだがな…。そう深刻には考えなかった」
なのに、お前は何年経っても一向に目覚める気配すらなくて。
五月一日にブリッジから見ると、公園でスズランを摘んでいる恋人たちが目に入るんだ。
幸せそうにしている恋人たちを見るのが辛かった。俺の恋人は眠っているのに、と。
しかしだ、ものは考えようだ。
お前は深く眠っていたから、もしかしたら……と俺は思った。
体力的にとても無理だと諦めていたが、お前は地球まで行けるんじゃないか、と。
もしもお前が俺と一緒に地球まで辿り着けたなら。
そうしたらお前にスズランの花束を贈るんだ、とな。
そういう夢を見ていたんだ、とハーレイが昔語りをするから。
夢が叶わなかったことを知っているぼくは、「ごめん」と俯くしかなかった。
「…ごめん。いなくなってしまって、本当にごめん…」
ぼくは地球まで行けなかった。
ハーレイのささやかな夢にも気付くことなく、一人でメギドへと飛んでしまった。
別れの言葉すら告げもしないで、「頼んだよ、ハーレイ」と次の世代を託しただけで。
「…ごめん。…ごめん、ハーレイ……」
「いや、いいんだ。俺の勝手な夢だったしな」
それに俺には思い出している暇など無かった。
五月一日どころじゃなくなってしまったからな、シャングリラ中が。
地球を目指して進むことと戦いだけに明け暮れていたし、いつだって空気が張り詰めていた。
スズランを摘んでいた恋人たちの中の何人もをナスカで亡くして、トォニィたちの世代はきっとスズランの花束なんぞは知らなかったろう。
トォニィの恋人はアルテラだったが、あいつらがスズランを摘んでいるのは見なかった。もしも見ていたなら五月一日だと気付いた筈だし、お前との約束も思い出していたんだろうが…。
とうとう一度も思い出さないまま、俺は地球まで行ってしまった。
地球に着いても、その地球があの有様ではな…。
スズランの咲く森など在りはしないし、水も大気も酷いもんだった。
お蔭で俺は思い出しもせず、地球の地の底で死んじまった。
そして今頃になって思い出したというわけだ。
五月一日といえばスズランの花束を贈る日だったな、と…。
「まったく…。なんで今まで忘れてたんだか」
情けないな、とハーレイは眉間の皺を指先で揉んで。
「…五月一日はとっくに過ぎちまった上に、出会ってもいなかったんではどうしようもないな」
「そうだね、二日ほど遅かったよね…」
ぼくがハーレイと再会した日は五月の三日。スズランを贈る日は終わってしまった後だった。
今、ぼくたちが住んでいる地域にスズランを贈り合う習慣は無いから、それよりも前に出会っていたって思い出さずにいた可能性も高いんだけれど…。
でも、ハーレイは思い出したから悔しいらしい。
「来年の五月に覚えているといいんだが…。この地域にスズランの花束を贈る文化が無いだけに、思い出せるか微妙だな」
その代わり、覚えていたら堂々とお前に贈れるわけだが。
「ママにはなんて説明するの? ぼくにスズランの花束なんて…」
ぼくだって一応、男の子だから。
花束を貰うのは変だと思う。何かのお祝いならばともかく、普通の日に花束、それもスズラン。
だけどハーレイは「ん?」と、ちょっぴり悪戯っ子みたいな表情で。
「恋人に贈るって部分は省略だ。幸運が来ると聞いていまして、って言って持って来るさ」
もしもお前のパパやママに気付かれてしまったって、だ。俺の勘違いだと思われて終わりだ。
俺は古典の教師だしな?
日本の文化なら間違えはしないが、フランスの文化は範疇外だ。
「ハーレイ、勘違いで済ませる気なんだ?」
「それが一番安全だろうが、お前との仲がバレるよりかは勘違いで恥をかく方がマシだ」
もっとも、勘違いで通りそうな古典の教師ってだけに。
来年の五月一日にスズランの花束を覚えている自信も無いわけなんだが…。
忘れていたらすまん、とハーレイが謝る。
本当に済まなそうな顔をしていて、心がキュッと痛くなったから。
「お互い様だよ、ぼくだって忘れていると思うよ」
大丈夫、とぼくはハーレイに笑ってみせる。
思い出したばかりの今はスズランの花束のことがとても懐かしくて、五月一日よりも二日遅れで再会したことが残念だけれど、きっと夜には忘れていそう。フルーツケーキに乗っかったスミレの花の砂糖漬けで思い出したけれども、これを食べ終えたら忘れていそう。
ママのお気に入りのデコレーション。甘いスミレの砂糖菓子。
「ハーレイ、忘れてしまってもいいよ。ぼくも忘れてしまうと思うし」
「…そうか? 来年の手帳はまだ買っていないが、カレンダーに覚え書きを書いておいても…」
新しい年のカレンダーを買う度に、前の年のカレンダーと突き合せながら必要な予定を書き写すことにしているらしいハーレイ。
今年の五月一日の所に「スズランの花束の日」と書いておけば忘れない、と言うのだけれど。
帰宅するまでに忘れないように、メモを書いてポケットに入れようと言ってくれたのだけれど。
「ううん、こういうのって「思い出す」からいいんだよ」
思い出した時が幸せなんだよ、とハーレイの嬉しい申し出だけを貰っておくことにした。
カレンダーにもメモにも書かなくていい。
ぼくたちの思い出は沢山あるから、いちいち予定にしなくてもいい。
予定を書いたら縛られてしまって、嬉しい気持ちが少しだけ減ってしまうから…。
何かの機会にまた思い出して、その日が五月一日だとか。
五月一日の前の日だったとか、そういう方が絶対いい。
幸運は何処からかやって来るもので、予定を決めて来るものじゃない。
だから忘れてしまっていい。
スズランの花束をぼくにくれる五月一日は、ひょっこり思い出した時でいい。
「でも、ハーレイ…」
今日はこのまま忘れてしまっていいんだけれど。
ぼくもきっと忘れてしまうんだけれど。
いつか二人で思い出そうね、そしてスズランを採りに行こうよ。
「いいな、二人で採りに行くのか?」
「うん。どうせ贈るんなら、お店に売ってるスズランよりも、森のスズランがいいと思わない?」
ヒルマンが言ってた森のスズラン。
栽培種のスズランよりも希少価値が高い、いい香りがする森のスズラン。
何処にスズランの咲く森があるのか、ぼくは全く知らないんだけど…。
「そうだな、今の地球なら俺だって森のスズランを見付けることが出来そうだしな」
行くか、とハーレイはぼくの大好きな笑顔になった。
「もっとも、お前が大きく育ってくれんことには二人で出掛けられないわけだが」
「ぼく、頑張って大きくなるよ。だから二人で採りに行こうよ、森のスズラン」
「ふむ…。この辺りだと何処に咲くのか、きちんと調べておかんとな?」
そしてお前より沢山採るぞ、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
ぼくの花束よりも大きなスズランの花束を作って、ぼくに贈ってくれるって。
「ぼくもハーレイより沢山見付ける! ハーレイに沢山幸せになって欲しいもの!」
前のぼくだってそう決めてたもの、と決意表明しておいた。
こんな風に約束し合って、意地を張り合っても、明日にはきっと忘れてるんだけど…。
それでもいつか、ぼくたちはきっと思い出す。
思い出して二人、手を繋いで春の森へと出掛けてゆくんだ。
森に咲いている香り高いスズランの花を探しに、五月一日に二人一緒に…。
スズランの花束・了
※シャングリラにあった、スズランの花束を贈り合う習慣。恋人たちが摘んで。
ソルジャーとキャプテンでは無理でしたけれど、今度はスズランを贈り合えるのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(まだ育たないよ…)
土曜日の朝、ハーレイが訪ねて来る前に部屋の掃除を終えたブルーはクローゼットに付けた印を見上げて溜息をついた。床から百七十センチの所に鉛筆で微かに引いた線。ソルジャー・ブルーの背丈と同じ高さに引いた線まで育たない限り、大好きなハーレイとキスも出来ない。
(本当に全然、育たないんだけど…)
ハーレイと出会った時の百五十センチから伸びない背丈。一ミリさえも伸びてはくれない。印の高さに届いてくれる日はいつになったら来るのやら…。
そこまで背丈が伸びた時には、クローゼットに付けた印も忘れているかもしれないけれど。今のブルーには大問題で、クローゼットを見上げれば溜息しか出ない。
(クローゼットかあ…)
印を付けるまでは特に気にしていなかった。ただ其処に在るというだけの家具。
(でも…)
そういえば、と遠い日の思い出が蘇って来た。このクローゼットに纏わる思い出。子供の頃に、此処に隠れた。幼稚園から学校に入って間もない頃に、クローゼットに。
その頃、学校で流行ったかくれんぼ。
ブルーは隠れるのが下手で、いつも真っ先に見付かってしまうから。
両親はどうだか試したくなった。隠れた自分を見付けられるか、見付けることが出来ないのか。
(ちょっとだけ…。ちょっと試してみたいだけだよ)
小さな子供は下校時刻が早かったから、帰宅時間は午後のおやつの時間よりも前。ブルーが家に帰り着いた時には、母がお菓子作りの真っ最中のことも多かった。
「ブルー、もう少ししたらケーキが焼けるわよ」
待っていてね、と母が声を掛けて来たから「うんっ!」と返事をして、二階にある自分の部屋へ入るなり、キョロキョロと周囲を見渡した。
何処に隠れるのが一番なのか、と眺め回してみる。カーテンの陰は直ぐバレそうだし、ベッドの下も覗き込まれたら終わり。
(んーと…)
息を潜めていられそうな場所で、自然に隠してくれそうな場所。
クローゼットの中がいいかもしれない。まさかブルーが入っているとは思うまい。
(…服とかを入れる場所だしね?)
それにクローゼットはブルーの部屋の家具の中でも一番大きい。実に頼りになりそうな家具。
(うん、此処がいいや)
ブルーはクローゼットの扉を開けて中へもぐり込み、内側から扉をパタンと閉めた。途端に暗くなってしまって、サイオンの扱いが不器用なブルーには何も見えなくなったけれども。
(このくらいでちょうどいいんだよ)
自分の手さえ見ることが出来ない真っ暗闇。
これなら充分にブルーを隠してくれるだろう。最高の隠れ場所を見付けた、と嬉しくなった。
両親は自分を見付けることが出来るだろうか…?
隠れている間に階下で父の声が聞こえた。
いつもよりも早い帰宅時間。仕事が早く終わったのだろうか、とブルーの胸がドキンと高鳴る。父は夜まで帰って来ないと思っていたから、クローゼットには二回隠れるつもりだった。一度目は母を試して、二度目が父。思いがけない父の帰宅のお蔭で、隠れるのは一度で済みそうだ。
(パパが捜しに来るのかな? それともママかな?)
どちらが部屋に来るのだろう、とクローゼットの中で膝を抱えて座りながら。
(…まだかな?)
そろそろケーキが焼き上がる頃。父が居るなら直ぐにティータイムだと思うけれども…。
「ブルー! ブルー、おやつよー!」
母が呼んでいる声が聞こえた。普段のブルーなら、これだけで階下へ駆けてゆく。母が部屋まで呼びに来ずとも、待ち兼ねていたおやつ目当てに駆け下りてゆくが。
(…我慢、我慢…)
此処で飛び出したら何のために隠れているのか分からない。おやつのケーキも気になるけれど、それよりも先にかくれんぼ。両親は自分を見付けられるか、無理なのか。
「ブルー? ケーキが焼けてるわよー?」
母がさっきよりも大きな声で呼び掛け、階段を上がって来る足音がした。母の軽やかな足音とは違って、ゆっくりと落ち着いた父の足音。ブルーには音しか聞こえなかったが、やがて部屋の扉がカチャリと開いて。
「ブルー、おやつだぞ?」
おや。…いないのか?
部屋じゃなかったのか、と聞こえた父の独り言。
(やった!)
父には見付けられないのだ、とブルーの心は躍り上がった。
学校でやっているかくれんぼの時は、捜されもせずに見付かっている。ブルーの隠れ場所を目にした鬼は迷わず真っ直ぐに近付いてきて容赦なく「見付けた!」とタッチしてしまう。
けれど、クローゼットを目にしているのに「いないのか」と呟く父はブルーを見付けられない。もう嬉しくて小躍りしそうになったブルーの居場所は、その瞬間に父に知れていた。
かくれんぼが苦手なブルーが見付かってしまう理由は、その思念。「見付かりませんように」と懸命に祈る気持ちが零れ出ていて、鬼に容易く拾い上げられる結果。
今の場合は「見付からなかった!」と大喜びした思念を父に拾われ、父の視線はクローゼットの中の悪戯息子に向けられたのだけれど。
ブルーの意志を尊重するべく、父はそのまま出て行った。
見付かっていないつもりのブルーよりも、父の方が二枚も三枚も上手。階下に戻ると母に息子の隠れ場所を教え、それから二人で捜し回る。あちこちの扉を開けたり閉めたり、ブルーの部屋まで覗きに来たり。ついには庭まで捜している声が聞こえてきて…。
(まだかな、おやつ…)
かくれんぼは上手くいったけれども、少々上手くやり過ぎた。おやつのケーキに辿り着けない。
(…今日のケーキは何なのかな?)
早く見付けて食べさせてよ、と願うブルーは本当にかくれんぼが下手だった。鬼に見付からずに済んだ子たちが姿を現すタイミングが何処かを知らなかった。
いつも真っ先に見付かってしまうから、かくれんぼの終わりは「見付かった時」と頭から信じて疑いもしない。鬼が降参してしまった時には出てもいいのだと気付いていない。
(…パパ、ママ、まだあ…?)
捜す声はとっくに止んでしまって、両親はブルーの分も用意してケーキを食べているのに、全く気付かず出てゆきもしない。かくれんぼは鬼が見付けてくれるまで続くものだと思っているから。その鬼たちが降参するなど、思いもよらないことだったから。
(…ケーキ、まだかな…)
今か今かと待ちくたびれて、おまけにクローゼットの中は暗くて。
いつの間にかブルーはぐっすり眠ってしまって、様子を見に来た父に抱えられて運び出された。眠ったままベッドに横たえられて眠り続けて、揺り起こされた時には夕食の時間。
おやつのケーキは食べ損なった。
かくれんぼに失敗したらしいことも、ベッドで眠っていたから分かった。
なんとも情けない遠い日の思い出。かくれんぼは一向に上達しなくて、流行っていた間はいつも真っ先に見付けられては悔しい思いをする日々で…。
(そうだ、かくれんぼ…!)
ブルーの頭に突如として閃いた思い付き。
(…ハーレイはぼくを見付けられるかな?)
前の生では、ブルーが何処に居てもハーレイは直ぐに見付けてくれた。
かくれんぼをしていたわけではない。ブルーが姿を隠していただけ。かくれんぼではなく、姿を誰にも見られたくなかった。ソルジャーとしての務めの重さに苦しむ姿を、弱い自分を知られてはならないと思って隠れた。
半ば公の場である青の間では弱い姿を見せられないから、誰も来ない倉庫や、機関部の奥の奥、滅多に点検の者たちも来ない狭い通路や。
そうした場所で膝を抱えて蹲っていると、直ぐにハーレイが捜しに来た。捜すというほど時間は経っていないというのに、「捜しましたよ」と微笑みながら。
そしてブルーの隣に黙って座り込んで温もりを分けてくれたり、そうっと肩を抱いてくれたり。ブルーの心が癒えるまで待って、それから外へと連れ出してくれた。
いつもいつも寄り添っていてくれた、優しいハーレイ。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが愛したキャプテン・ハーレイ…。
(…今だって分かる筈だよね?)
ハーレイだもの、とブルーは確信に満ちた表情になる。ハーレイならきっと見付けてくれる。
ブルーが何処に隠れていようと、今のハーレイでも見付けられる筈。
よし、と隠れることにした。
部屋の窓から外を見下ろし、やって来たハーレイが門扉の前に立つのを確かめてクローゼットの中にもぐり込む。内側からパタンと扉を閉めれば、子供の頃と同じ真っ暗な闇。
(だけど、ちょっとは上手になったものね)
サイオンの扱いは不器用なりに、外の気配くらいは探れるようになった。瞳を扉の方に凝らすと部屋の様子を見ることが出来る。いわゆる透視という能力。滅多に使わないブルーのサイオン。
そうやって見ていると、母がハーレイを案内して来て部屋の扉を開けて。
「あらっ?」
いないわ、と驚きの声を上げる母。
「何処へ行ったのかしら、あの子ったら…」
「直ぐ戻りますよ、他の部屋に用事でもあるのでしょう」
「そうですわね…。ハーレイ先生、どうぞこちらへ」
母はハーレイに椅子を勧めて、「お茶の用意をして来ますわね」と部屋から出て行った。足音が階段を下りて遠ざかり、ハーレイは椅子にのんびりと座る。
(あれっ?)
ハーレイがブルーに気付いた様子は無い。クローゼットの方に視線も向けない。
(…ハーレイ、鈍くなっちゃったのかな? それとも…)
お茶の用意が整った後で、クローゼットを開けて不意打ちだろうか。もしかしたら、父のように抱き抱えて運び出してくれるとか…?
ブルーは暗闇の中で頬を紅潮させた。ハーレイが気付かない筈がないから…。
クローゼットに潜んだブルーの思念は実はハーレイに筒抜けだった。しかしハーレイは素知らぬ顔で椅子に腰掛け、ブルーを待っているふりをする。其処へブルーの母が入って来た。
「ハーレイ先生、お茶とお菓子をお持ちしましたわ。…ブルーは?」
「まだなのですが…。お心当たりは?」
問われた母は困り顔で。
「それが…。書斎には居なかったんですけれど…。もう本当に、あの子ったら、何処に?」
「お気になさらず。私の用事はこちらに伺うことですしね」
もっとも用事の相手が居ないようですが、とハーレイが笑い、母が「戻って来たら叱ってやって下さいね」と息子の非礼を詫びてから部屋の扉を閉める。
「ブルー! ブルー、何処なの?」
ハーレイ先生が待っていらっしゃるわよ、と遠ざかってゆく声。足音も階下へと消え、ブルーは胸を高鳴らせた。
(ハーレイ、来るかな…)
クローゼットの扉を開けての嬉しい不意打ち。それだけで充分嬉しいけれども、逞しい腕に抱え上げられてクローゼットから出して貰えればもっと嬉しい。
(抱えて欲しいな…)
寝たふりをしていれば抱えて出してくれるだろうか?
そうしようか、とドキドキしているのに。
(…えっ、来ない?)
ハーレイはクローゼットの方を見もせず、ゆっくりとティーカップを傾けた。いつものとおりに砂糖を入れて、スプーンで軽くかき混ぜてから。どうやらブルーを待っているらしい。
(…もしかして、全然気付いていないの?)
まさか、とブルーは縋るような視線をクローゼットの扉越しに向けたが、それでも気付く様子は無い。明確な思念は向けていないけれど、こうすれば気配は届きそうなのに…。
(ハーレイ、鈍くなっちゃった?)
前のハーレイなら直ぐに見付けてくれたのに。
ブルーが何処に隠れていようと、捜し出して寄り添いに来てくれたのに…。
一方、紅茶を飲んでいるハーレイはと言えば。
(…本当に不器用になったな、あいつ)
ハーレイはとうに気が付いていた。ブルーがクローゼットに隠れていることも、今この瞬間にもクローゼットの中から自分の方を見ていることにも。
(不器用と言うか、不器用すぎて可愛いと言うか…)
この部屋に足を踏み入れた瞬間、感じたブルーの弾んだ心。
前の生でと同じように自分を見付けて欲しいと、見付けられるであろうという気持ち。もちろん隠れた場所も分かった。ブルーの表情までもが手に取るように。
全てを一瞬で見抜いたハーレイは、ブルーの母にだけ届く思念を送った。
クローゼットに隠れていますよ、ソルジャー・ブルーだった頃も時々姿を消していました、と。
私がブルーを捜すのが得意だったことを思い出してやっているのでしょう、と。
そうやって送った思念の後はブルーの母と一緒に芝居を打っていたわけで。
(…俺がとっくに気付いているのも分かっていないとは天晴れとしか…)
悠然とお茶を飲み、ケーキを食べる。クローゼットには視線も向けない。
(はてさて、いつになったら気が付くやら…)
普段は観察する暇がないブルーの部屋をあちこち眺めて楽しんだ。クローゼットはたまに視界を掠めてゆくだけで、棚に並んだ本の背表紙やら、きちんと整えられたベッドやら。
もっとも、ベッドは其処で眠るブルーを思うだけで身体の奥が熱くなるから少しだけ。それでも上掛けの模様や枕カバーなどの好みがブルーらしくて笑みが浮かんだ。
勉強机の上には自分のと揃いのフォトフレーム。
ハーレイが写真を入れたフォトフレームをブルーの分と交換したから、元は自分の持ち物だったフォトフレームがブルーの机に飾ってある。飴色の木枠のフォトフレームの中、幸せそうな笑顔のブルーと自分。
(あの写真を撮って良かったな)
ブルーがフォトフレームを大切にしていることが一目で分かった。昨夜も眠る前に見詰めていた気配が残っている。自分以外は気付くことすら出来ないだろうブルーの想い。
どんな微かな思念でさえも、ブルーのものなら必ず拾えると自負しているのに。
(まだ気付かんとは恐れ入った)
クローゼットの中の小さな恋人。
見付けて貰えないことが不満で、頬を膨らませつつある小さな恋人…。
ブルーの我慢は限界に達しそうだった。
(酷いよ、ハーレイ! 気が付かないの!?)
ぼくは此処なのに、ぼくよりもお茶とケーキなの?
あんまりだ、と捜してもくれない恋人に腹を立てるブルーと、面白がっているハーレイと。
(鈍いな、ブルー。いい加減、気付け)
ふむ、とハーレイは立ち上がってブルーの勉強机に近付いて行った。家探しをするつもりなどは無いのだけれども、悪戯小僧はこらしめねば。
(えっ、ハーレイ? …何をする気?)
ブルーはギクリと身を強張らせた。
勉強机に引き出しは幾つかあったが、一番上の引き出しの中にブルーの宝物が仕舞ってある。
学校便りの五月号。転任教師の着任を知らせる小さな記事とモノクロ写真のハーレイが載った、ブルーの大切な宝物。いつでも取り出して眺められるよう、一番上にして収めてあった。
(開けられたら直ぐに見付かっちゃうよ…!)
ハーレイの写真が載っているから宝物にした学校便り。それを見られるのは恥ずかしい。
いくらハーレイが相手であっても、恥ずかしいから知られたくない。
あんな小さなモノクロ写真を宝物にして持っているなんて…!
切羽詰まったブルーの思念はもちろんハーレイにも届いてはいたが、その中身まではハーレイもあえて読んではいない。勉強机に何かがある、という程度。
(何か隠しているらしいな?)
ブルーが大切な物を入れていそうな引き出しはどれか、と手近な取っ手に手を掛けてみた。
それが一番上の引き出し。ブルーが危惧した学校便りの入った引き出し。ブルーはとても隠れていられず、クローゼットの扉を乱暴に開けて飛び出した。
「酷いよ、ハーレイ!」
何をするの、と両手で引き出しを開けられないよう押さえ付ければ。
「酷いのはお前の方だろうが」
コツン、とハーレイが拳で軽くブルーの頭を小突いた。
「丸分かりだったぞ、隠れていること。お母さんにも思念で伝えておいたしな」
「えっ…」
息を飲むブルーに、ハーレイは「悪戯者めが」と咎める視線を向けて。
「で、開けられると困るというわけなんだな、この引き出し」
…何を仕舞っているんだ、うん?
問われたブルーは言葉に詰まった。
「…………」
ハーレイの写真が載った学校便りだなどと白状出来るわけがなかった。
どう勘違いをされてもいいから黙っていよう、と覚悟を決めた。
それなのに……。
「ふむ。…お母さんに内緒のラブレターだな、女の子から沢山貰ったんだな?」
ハーレイが口にした言葉のあまりの酷さに、沈黙の覚悟は呆気なく砕けた。
「そんなの、貰ったことないよ!」
たとえラブレターを貰ったとしても、女の子なんかよりハーレイが大事。
ブルーはハーレイのとんでもない誤解を解くべく、慌てて叫んだ。
「そんなものなら直ぐ捨てるけれど、学校便りは捨てないよ!」
「……学校便り?」
ポカンとしていたハーレイだったが、ブルーが絡めばカンが働くのも早い。
あれか、と直ぐに思い至った。ブルーの学校に赴任した直後に配られた筈の学校便りの五月号。自分の着任を知らせる記事とモノクロ写真が載っていた号。
勉強机の上に飾ってあるフォトフレームの写真を撮るまで、ブルーはハーレイの写真を持ってはいなかった。ハーレイの写真が欲しくて「キャプテン・ハーレイの写真でもいいから」と写真集を探しに出掛けた話も聞いている。
そんなブルーが如何にも大切に持っていそうな学校便りの五月号。たった一つきりのハーレイの写真が刷られた、学校便りの五月号…。
「そうか、俺の写真が載ってた学校便りか。…あれがお前の宝物なのか」
「……うん……」
消え入りそうな声で答えたブルーを、ハーレイはグイと抱き寄せた。
もう愛おしくてたまらない。
クローゼットに隠れるような幼くて小さな恋人だけれど、その愛らしさがたまらない…。
力任せの抱擁の後で、ブルーは椅子に腰掛けたハーレイの膝に乗せられた。
かくれんぼをしていた件は不問で、ハーレイはただ嬉しそうな顔でブルーの頭をクシャクシャと撫でる。銀色の髪を何度も何度も、ブルーの大好きな褐色の手で。
「うんうん、お前は実に可愛い。隠れるのが下手でも、隠すのが下手でも、実に可愛い」
「…どうせ、どっちも下手くそだよ…」
隠し通そうとした学校便りは喋ってしまってバレてしまった。
クローゼットに隠れていたのも最初からバレていて、隠れたことにすら全くなっていなかった。
かくれんぼも隠し事も下手くそで不器用なブルーだけれども、なんだか心がドキドキと弾む。
(…やっぱりハーレイは今でも凄い…)
ホントに凄い、とブルーはハーレイの広い胸に頬を擦り寄せた。
隠れていた場所も、隠していたものも、何もかもお見通しとしか言えないハーレイ。
前の生からブルーの居場所を誰よりも早く捜し当てては、そっと寄り添ってくれたハーレイ。
今でもハーレイはやっぱり凄い。
ぼくのことは何でも分かってるんだ、と…。
かくれんぼ・了
※ブルーのことなら、何でもお見通しなのがハーレイ。前のハーレイも、今も。
学校便りが宝物なのがバレてしまっても、ブルーは幸せ一杯です。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv