シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
夏休みに入って、ブルーがハーレイに会える日は劇的に増えた。平日でも家を訪ねてくれるし、もう嬉しくてたまらない。研修や柔道部の試合などで来られない日があったとしても、ほんの一日だけの我慢で。今日もそういう日だったのだが、ブルーは朝から張り切っていた。
八月初めのよく晴れた空は怖いほどに青く、その向こうの宇宙まで見えそうな気がする。そんな空の下、今日は一人で出掛ける予定。朝食を済ませて時計を見れば丁度いい時間。
支度を整えて家を出ようとしたら、母が「忘れてるわよ」と頭に帽子を被せた。ブルーくらいの年の男子がよく被っているものとは違って、広いつばが頭をぐるっと取り巻く帽子。
「暑くなりそうだから気を付けるのよ。帰りが暑い盛りだったらタクシーに乗って帰りなさい」
暑い中を沢山歩かないよう注意された。ブルーは生まれつき身体が弱くて、無理をすればすぐに倒れてしまう。だから学校に行く時もバス。同じ距離でも自転車や徒歩の生徒が殆どなのに。
「ブルー、ホントに大丈夫? ママが一緒に行かなくていい?」
「うん、平気! 暑くなる前に帰って来るから!」
昼食前には家に帰ると約束をして、ブルーは母に「行ってきます」と手を振った。目指すは町の中心部にある百貨店。今から行けば昼までに充分帰ってこられる。
(…ふふっ)
家から少し先のバス停で目的地行きのバスに乗ったブルーは胸を躍らせていた。
あと三週間と少しで八月二十八日、大好きなハーレイの誕生日が来る。
ハーレイは三十八歳になってしまって、十四歳の自分との年の差が一段と大きく開くけれども。ブルーの年の二倍にプラス十歳、そう思うとちょっぴり寂しいけれど。
(…ハーレイの本当の年はともかく、見かけの年はもう止まってるものね)
再会して直ぐにハーレイは約束してくれた。これ以上の年を取るのはやめて、ブルーが前の生と同じ姿に育つのを待つと。
だから年の差を縮めることは出来なくても、見かけの上での差はこれからは縮まる一方。大きくなればハーレイと一緒に何処へでも行けるし、二人で暮らせるようになる。
(もしハーレイが年を取るのを止めなかったら、どうなったのかな?)
出会った頃にハーレイが話してくれた。もしもブルーに会わなかったら、まだまだ年を取る予定だったと。水泳はともかく、柔道の方は威厳がかなり大切らしい。
(まさかゼルみたいに禿げちゃったりはしないと思うけど…)
それでも金髪に白髪が混じるとか、もう完全に白髪とか。顔に皺だって出来ただろう。
(そうなっちゃう前に会えて良かった!)
前とおんなじハーレイだものね、とブルーの胸が暖かくなる。
自分は小さすぎたけれども、ハーレイは前とそっくり同じ。キャプテンの制服でシャングリラのブリッジに立てば、誰も違いに気付かないだろう。そのシャングリラはもう無いけれど…。
(だけどハーレイはちゃんと居るしね!)
そしてもうすぐ誕生日。その特別な日をお祝いしたくて、ブルーはバスに乗ったのだ。
百貨店の前のバス停で降りて、目的の売り場があるフロアに向かう。ブルーくらいの年頃の子は同じ売り場でも別の品物がお目当てのようで、そちらの方に群れている。しかしブルーが買いたい物は其処には無くて、もっと奥まった静かな所にひっそりと並べられていた。
(わあっ…!)
置いてある場所は記憶にあったが、来るのは何年ぶりだろう。ガラスケースの中に並んだそれに胸が高鳴る。前の生でハーレイが愛用していた羽根ペン。それにそっくりな物もあったし、ペンの軸に繊細な細工を施したものや、目にもカラフルな赤や青や緑の羽根の物など。
(…凄いや…。でもハーレイに似合うのは…)
断然これ! とケースを覗き込み、インク壺や替えのペン先とセットで専用ケースに収められた白い羽根ペンの値札を眺めて愕然とした。ブルーの予算の五倍以上もする値段。
(…た、高すぎるよ…)
他のペンは、と縋るような気持ちでケースの中を隅から隅までガラス越しに確認してみたのに。
(……羽根ペンってこんなに高かったんだ……)
前の生ではハーレイの羽根ペンは人類側から奪った物資に紛れていた品で、輸送用の箱に山ほど詰まっていたから値段なんか考えもしなかった。ハーレイだけしか使わなかったせいで新たに調達することもなくて、使い切る前にハーレイの生は終わったと思う。
(どうしよう…)
一番安い値段のペンでも、ブルーのお小遣いの二ヶ月分。大好きなハーレイへの初めての誕生日プレゼントだから、奮発してお小遣い一ヶ月分はつぎ込むつもりで家を出て来た。なのに一ヶ月分では手も足も出ない、この値段。
(…貯めてあるお金を使えば買えるけど…)
買えないわけではなかったけれども、お小遣い一ヶ月分で買えないからには子供の自分には高価すぎる品だということだ。そんなプレゼントを背伸びして買って、贈ったとして。
受け取るハーレイは本当に喜んでくれるだろうか?
「最近、欲しいような気もするんだ」と言っていたから、売り場に来たこともあるだろう。当然値段も知っているわけで、ブルーが買うには高すぎることも分かる筈。
(……どうしよう……)
でもハーレイにはプレセントしたい。どうせなら最初に「これだ」と思った羽根ペン。思い切り高い値段のペンでも、ハーレイにはそれが一番似合う。
(…………)
他の品物をプレゼントするか、思い切って羽根ペンを買うことにするか。
此処で考えていても買えるだけのお金は持っていないし、今日の所は諦めて帰ることにした。暑くなる前に家に戻らなければ母も心配するだろうから。
航宙日誌の話を聞いた時からブルーの心に刻まれた羽根ペン。その後ハーレイに何度も何度も、「羽根ペン、買った?」と訊いてみたものだ。
しかしハーレイは「使いこなせないような気もするからな」と煮え切らなくて、それでも欲しい気持ちはあるようで。だから誕生日にプレゼントしようと思った。前の生でハーレイが使っていたものと良く似た羽根ペンを買って、机の上に置いて欲しかったから。
(…使えなかったら飾りでいいから、前と同じのをハーレイに持ってほしいのに…)
そして航宙日誌を書いていた頃に思いを馳せて欲しい、とブルーは願う。自分の背丈が今よりも高くて、子供の声ではなかった頃。ハーレイと本物の恋人同士で、毎日キスを交わしていた頃…。
沢山の大切な思い出が詰まった、ハーレイだけしか其処に書かれた文字に宿った思いが読めない航宙日誌。それを綴ったペンそっくりの羽根ペンを贈りたかったのに…。
(……高すぎるなんて……)
買って買えないことはない。けれど十四歳の子供が買うには高価に過ぎるプレゼント。
(…ハーレイにプレゼントしたいのに…)
他の品物なんて思い付かない。来年はまた別の何かを贈るのだろうけれど、今年は羽根ペンしか考えられない。どうしてもハーレイに贈りたかったし、羽根ペンを持って欲しかった。
(…でも……)
高すぎるプレゼントを贈られたハーレイが喜ぶかどうか。「ありがとう」と言ってくれることは絶対に間違いないし、嬉しそうに笑ってくれるとも思う。しかし心の奥の方では「無理をしたな」なんて考えそうだし、却って心配されそうだ。ブルーのお小遣いが減っただろう、と。
(…でも、あげたいよ…)
どうしても羽根ペンが諦められない。あれから毎日考え続けて、ハーレイと会う度にもっと羽根ペンが欲しくなる。大好きなハーレイの机に羽根ペン。その光景まで目に浮かぶようだ。
(…ねえ、ハーレイ…。本当に羽根ペン、あげたいんだけどな…)
今日もハーレイが来てくれていて、最初のお茶はブルーのお気に入りの場所になった大きな木の下の白いテーブルと椅子で。庭の木陰は涼しい風が抜けてゆくけれど、ブルーの心は少し重たい。
プレゼントしたくてたまらない羽根ペンを、どうしたら諦められるんだろう…?
そんなブルーの心の重荷にハーレイが気付かないわけがない。
少し前からたまに見かける、もの言いたげなブルーの瞳。ゆらゆらと揺れる赤い瞳が何を奥底に沈めているのか、何を憂えて波立つのか。思い詰めたような風に見える日もあれば、逆に煌めいている時もあって分からない。
分からないままに時が流れて、赤い瞳はますます深い色を増す。木漏れ日が銀色の髪にチラチラと踊っているのに、ブルーの表情は今も冴えない。
(…流石にそろそろ訊いた方がいいな)
向かい合わせでアイスティーを飲みながら、ハーレイはそう考えた。ブルーが何かに悩んでいるなら、悩みを聞いてやるべきだろう。それは恋人として当然のことで、教師としてもまた同じ。
(ただなあ…。とんでもないコトを言いかねないしな)
自分とキスが出来ない悩みや、それ以上のことを言われても困る。ブルーの望みは「本物の恋人同士」として結ばれることで、その望みには決して応えられない。
(…その手の悩みなら、訊くのは今だな)
二階にあるブルーの部屋とは違って、庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子は家の一階に居るブルーの母が見ようと思えば見られる場所。それだけにブルーもキスを強請ったりしないし、ハーレイの膝に座りもしない。
ブルーの悩みが恋に纏わるものであったなら、この場所で聞いてバッサリ切ろう。
決意を固めたハーレイはブルーに向かって問い掛けた。何か悩んでいるんじゃないか、と。
「俺で良かったら何でも聞くぞ? どうした、最近、何処か変だが」
「………。……羽根ペン…」
「はあ?」
ハーレイは口をポカンと大きく開けた。
羽根ペンとは、あの羽根ペンだろうか? 前世の自分が愛用していた羽根付きの…?
「羽根ペンって、なんだ?」
「……もしかしてもう、買っちゃった?」
縋るような視線に「やはりアレか」と確信したものの。どうしてブルーが羽根ペンのことで悩む必要があるのだろう? さっぱり理由が分からないままに、ハーレイはブルーの問いに答えた。
「いや、まだ買ってはいないんだがな…。どうも使える気がしなくってな」
「そうなんだ…。ハーレイにプレゼントしたいのに…。そう思って買いに行ったのに…」
高すぎて買えなかったんだ、とブルーはポロリと涙を零した。貯めてあるお金を使って買ってもハーレイはきっと喜ばないよね、と…。
「……そうだったのか…。羽根ペンなあ……」
確かに子供のお前が買うには高いな、とハーレイは「うーん…」と腕組みをした。
「しかしだ、お前は俺に羽根ペンを贈りたい、と。…そういうことだな?」
「……うん」
ブルーの瞳が悲しげに揺れる。買いたいけれども、買えない羽根ペン。それをハーレイのために贈りたいのに、どうにもこうにもならないのだ…、と。
どうしてブルーが羽根ペンだなどと考えたのか、心当たりはしっかりとあった。前に羽根ペンの話が切っ掛けになって話して聞かせた前世の自分の航宙日誌。あれ以来、ブルーの中で羽根ペンは特別な存在になったのだろう。前の生での自分との恋を綴った思い出の文具として。
それをブルーがくれると言うなら悪くない。おまけに再会して初の誕生日のプレゼントだ。否は無いのだが、ブルーが買うには高すぎる。どうすれば…、と思いを巡らせた末に。
「ブルー、羽根ペンを俺に買ってくれるか? …少しでいいから」
「…少し?」
キョトンとするブルーに説明してやる。
「羽根の毛筋の一本分か二本分なのかそれは知らんが、要は少しだ。お前が出せる分だけでいい。残りの分は俺が自分にプレゼントするさ、丁度いい機会ってことになるしな」
羽根ペンはやっぱり欲しいからな、とハーレイは片目を瞑ってみせた。
「何度か売り場に行ってみたんだが、どうも決心がつかなかった。…使いこなせる自信が無いし、飾りにするのもなんだかなあ…。だが、誕生日のプレゼントだったら話は別だ」
つまり一種の記念品だろ、とブルーに自分の考えを話す。
「…記念品だったら、使いこなせなくて机の飾りになっちまっても立派に言い訳が立つからな? これは誕生日にお前に貰った飾りで、キャプテン・ハーレイ風の置き物なんです、と」
「キャプテン・ハーレイ風なんだ?」
ブルーはプッと吹き出した。確かにそれっぽい演出にはなるが、ハーレイが羽根ペンを机の上に飾ってキャプテン・ハーレイ風なんて…。ハーレイの前世はキャプテン・ハーレイで、ごっこ遊びなんか始めなくても本物のキャプテン・ハーレイなのに…!
ブルーが頭を悩ませていた羽根ペンの問題は解決した。代金の一部をブルーがお小遣いで払い、残りはハーレイが自分で支払う。これでブルーは羽根ペンをハーレイにプレゼント出来るし、買うハーレイは「記念品」という使いこなせなかった時のための大義名分が手に入るわけで。
「…一緒に買いに行きたかったな…」
行きたいなあ、と呟くブルーにハーレイが返す。
「先生と生徒でかまわないなら、俺は同行を許してやるが」
「つまんないってば!」
ハーレイと二人で腕を組んで買いに行けるのだったら大喜びだが、教師と生徒として行くのでは学校で使う文具の買い出しとまるで変わらない。そしてハーレイは間違いなくブルーを生徒として扱う筈だし、ブルーも「ハーレイ先生」と呼ばねばならず…。
脹れっ面になったブルーの前には、ハーレイが貰って来た羽根ペンのカタログがあった。母から丸見えの木の下ではなく、ブルーの部屋のテーブルの上。母が置いていったお茶やお菓子を脇の方に寄せて、二人でカタログを覗き込む。
「ぼくが買いたかったのは、これなんだけど」
カタログを端から端まで眺めた後で、ブルーはあの日に百貨店で見た羽根ペンはこれだ、と確信した。白い羽根がついていて、インク壺と替えのペン先とペン立てがセット。前の生でハーレイが使っていたペンと驚くほどに良く似た羽根ペン。
「やっぱりコレか…。俺も前から見ていたんだよな、買うんだったらコレにするか、と」
「絶対これだよ、これが一番ハーレイに似合うよ」
「そうだな、これをお前に貰うとするか。…お前の見立てなら間違いないさ」
明日にでも買いに行ってこよう、とハーレイはブルーに約束した。
「カタログを貰ってくる時に確認しておいたが、どれも在庫は沢山あるそうだ。売り切れることはまずありません、と言っていたから間違いなく買える」
「忘れないでよ、このペンだからね!」
「俺も前から欲しかったヤツだぞ、忘れるもんか。…忘れちゃいかんのは配達の日だな。誕生日の朝一番で届く便を指定しておかないと」
その日でなければブルーから貰う意味が無い、とハーレイが笑う。朝一番で受け取ったそれを、ブルーの家に持って来て渡して貰うのだ、と。
「お前の手で俺に渡して貰って、それから箱を開けるのさ。それでこそ誕生日プレゼントだ」
「ふふっ、そうだね。…ぼくは少ししかあげられないけど」
羽根ペンの毛筋一本分だか、二本分だか。それがぼくからのプレゼント。
大好きなハーレイの誕生日には、ハーレイに似合う羽根ペンをプレゼント出来るんだ…。
そうしてハーレイは羽根ペンを買った。
「ちゃんと買ったぞ」と言っていたから、誕生日の前の晩、ハーレイが「また明日な」と帰っていった後で綺麗な封筒を出してきて代金を入れた。羽根ペンを買いに出掛けたあの日に決めていた予算と同じだけ。ぼくのお小遣い、一ヶ月分。今のぼくには、これでも大金。
(えーっと…)
お金だけ入れるのは恋人らしくないし、便箋に何か書こうとした。だけど…。
(これって、もしかしてラブレター?)
そう考えたら何を書いたらいいのか分からなくなって、結局、短くこう書いた。「ぼくのお金、ちゃんと使ってよ?」って。どうしてそういう気がしたのかは分からないけれど、ハーレイは使う代わりに封筒ごと仕舞い込みそうだったから。
八月二十八日は朝から綺麗に晴れて、ハーレイの誕生日をお祝いしているようだった。夏休みの終わりが近いけれども、それでも今日は特別な日。あと三日でハーレイと平日も自由に会える夢の時間が終わるのだとしても、やっぱり最高に嬉しくなる日。
ハーレイはこの日に生まれて来た。
ぼくたちが出会った青い地球の上に、三十八年前の夏のこの日に。
朝早くに目が覚めてしまって、いつもより早く朝御飯を食べて部屋を掃除して、窓辺で待った。大好きなハーレイが歩いてくるのを、生垣越しに手を振ってくれる姿を。
「ブルー、おはよう!」
持って来たぞ、と門扉の前でハーレイが紙袋を高く差し上げた。あの中に羽根ペンの箱がある。母が門扉を開けに出て行って、ハーレイが庭に入って来る。もうすぐだ。もうすぐ、もうすぐ…。
階段を上って来る足音が二人分。ハーレイと、案内してくる母と。扉がノックされてガチャリと開いた。
「おはよう、ブルー」
いつもの穏やかな笑顔のハーレイに「おはよう」と挨拶する間も心臓のドキドキが止まらない。母がお茶とお菓子を用意する間もドキドキしていて、何を話したのか記憶に無い。やっとのことで扉が閉まって、階段を下りてゆく足音が消えて…。
「ハーレイ!」
ぼくはハーレイの大きな身体に飛び付くようにして抱き付いた。
「ハーレイ、お誕生日おめでとう!」
「ははっ、予想以上の大歓迎だな。ありがとう、ブルー。俺も三十八歳か…」
お前より二十四歳も上だ、と笑いながらハーレイが椅子の上に置いてあった紙袋を示す。
「ほら、ブルー。約束通りに渡してくれよ。…お前からの誕生日プレゼントをな」
「うんっ!」
ハーレイの胸から離れて紙袋からリボンのかかった箱を取り出した。ぼくが買いに行った時には買えなかった羽根ペンが入った専用ケース。ちゃんと包装紙で包んである。思っていたよりも重いその箱を、ドキドキしながら両手で持って。
「ハーレイ、これ…。これ、ぼくからのプレゼント…」
「くれるのか? 俺はとっくの昔に今年の誕生日プレゼントを貰ったんだが」
「えっ?」
「お前だよ、ブルー。…お前に会えた。それが最高のプレゼントだった」
そう言って箱ごとギュッと強く抱き締められた、ぼく。羽根ペンよりも嬉しかったとハーレイは何度も繰り返したけど、ぼくは羽根ペンをあげたかったんだ。そう言ってくれるハーレイだから。
それからハーレイがリボンをほどいて、包装紙を外してケースを開けた。
出て来た羽根ペンはぼくが欲しかった羽根ペンそのもので、プレゼント出来たことが嬉しい。
「ハーレイ、これ…。ぼくが払う分」
机の引き出しから持って来た封筒を、ハーレイは受け取ってじっと眺めてから。
「ありがとう、ブルー。お前からのプレゼントは確かに貰った」
中も確かめずに仕舞おうとするから、ぼくは念を押した。
「そのお金、ちゃんと財布に入れてよ? でなきゃプレゼントにならないし!」
「分かってるさ。だがな、受け取って直ぐに中を確かめたり、財布に入れるのはマナー違反だ」
家に帰ったらきちんと入れる、とハーレイは約束してくれたけど…。
大丈夫かな? ちょっと不安が残る。
でも、羽根ペンをケースから出して書く真似をするハーレイがあまりにも様になっていたから、そんな気持ちは何処かへ消えた。前世で航宙日誌を書いていた時の姿が重なって見える。堅苦しいキャプテンの制服と違って、何処にでもある半袖シャツ。それなのに羽根ペンが似合ってる。
「…やっぱりハーレイに似合うね、羽根ペン」
「そうか? …俺に似合うかどうかはともかく、確かに懐かしい感じはするな」
嬉しそうに手を動かしてみるハーレイを見ていたら、ぼくの嬉しさも膨らんでゆく。もう幸せで胸がはち切れそうな気がしてくるほど、嬉しくて幸せでたまらない。
ハーレイがこの地球に生まれて来た日。
三十八回目のその誕生日を一緒に祝えて、あげたかった羽根ペンもプレゼント出来た。
なんて幸せなんだろう。なんて嬉しい日なんだろう。
今日がハーレイの生まれて来た日。この地球の上で、ぼくが生まれるのを待つために…。
ぼくたちが出会って最初に迎えた、二人で祝う誕生日。
パパとママが一緒の夕食の席もハーレイの誕生日をお祝いする御馳走で溢れ返って、ハーレイはパパから「私たちからのプレゼントです」と立派な箱入りのお酒を貰っていたけれど。
その箱と羽根ペンが入った箱とを大事そうに持って、「また明日な」とぼくを一人で置き去りにして家に帰ってしまったけれど…。
でも、今日からハーレイの机の上にはぼくがプレゼントした羽根ペンがある。
今日の日記にぼくのことを書いてはくれないだろうけど、読み返したら思い出せる筈。
日記も航宙日誌と同じで、綴った文字から記憶が見えると思うから。
ハーレイが最初に羽根ペンを使って何か書くのはいつだろう?
ぼくなら絶対今日にするけど、ハーレイは慎重で几帳面だから、沢山沢山試し書きをして上手になったと思う頃まで文章なんかは書かないかもね…。
ハーレイの三十八回目の誕生日。
朝からはしゃぎ過ぎたブルーが疲れてベッドにもぐって、ぐっすり眠ってしまった頃。ブルーの家から何ブロックも離れた場所にあるハーレイの家の書斎はまだ煌々と明りが灯っていた。
机の上には、今日、ブルーから箱ごと手渡して貰ったばかりの羽根ペンやペン立てやインク壺。ずっと昔から其処に在ったかのような気がするそれらを、ハーレイは何度も眺め回しては。
「…見た目と使いやすさは別だな、俺の手にはまだ馴染まんな…」
前はどうしてコレが愛用品だったのか、などと呟きながらもハーレイは嬉しそうだった。広げた紙に幾つも、幾つも、繰り返し書かれたブルーの名前。それがハーレイの試し書き。
羽根ペンの先をインクに浸して、さて何を書こうかと考えた時に浮かんだブルーの名前。意味もない線や丸を書くよりも、それが相応しいと思って書いた。
前の生では『ソルジャー』の尊称無しでは数えるほどしか書いたことがないブルーの名前。その名を尊称抜きで書けるのが普通になった今の生。そしてブルーがくれた羽根ペン。ブルーの名前しか思い付かないまま、何度も、何度も書いて、書き続けて。
「…よし。こんなもんかな」
ハーレイはブルーが昼間に「ちゃんと使ってよ?」と渡した羽根ペン代の入った封筒を出して、その裏側に羽根ペンで丁寧に、それは丁寧に初めての文を書き付けた。「ブルーに貰った羽根ペン代」という短いそれを文と呼ぶのか、古典の教師のハーレイにも自信は無かったけれど…。
「これで良し。今日の記念にピッタリだしな」
インクが乾いたら引き出しの奥に大切に仕舞っておこう、とブルーの顔を思い浮かべて微笑む。使って欲しいと念を押されたが、使う馬鹿などいるものか。
長い長い時を経て生まれ変わって出会えたブルー。前の生から愛し続けてやまないブルー。その大切な恋人が新しい生で初めてくれた誕生日プレゼントの羽根ペン代を使うなど、馬鹿だ。決して使わず取っておこう、と心に決めて。
「…さてと、今日の日記も書かないとな」
そちらは慣れたいつものペンで。切り替えるのは羽根ペンが手に馴染んでから、と考える。机の引き出しから日記を取り出し、今日の天気などを淡々と書き込み、その最後に。
「三十八歳の誕生日。自分に羽根ペンをプレゼントした」と、短く綴った。羽根ペン代の一部を払って贈ってくれたブルーの名前は何処にも書かれていなかったけれど、それがハーレイの日記の流儀。自分がこの日の日記を読む時、脳裏には鮮やかに蘇る。
三十八回目の誕生日を迎え、ブルーから羽根ペンを貰ったことが……。
白い羽根ペン・了
青い地球の上に生まれ変わって再会を果たしたハーレイとブルー。
しかしブルーは十四歳を迎えたばかりの少年であって、ハーレイはブルーの学校の教師。いくら前世の記憶があっても家は別々、立場もあくまで教師と生徒だ。
再会した時にブルーが起こした原因不明の大量出血。聖痕現象と診断されたそれの再発を防ぐという名目の下に頻繁に会えるよう配慮はされたが、二人一緒に過ごせる時間はとても少ない。
毎週末の土曜と日曜、後はハーレイの仕事が早めに終わった時にブルーの家を訪ねる程度。
そういう生活が始まった最初の週末は呆気なく終わり、次の週末まではハーレイの来訪も無し。学校で顔を合わせるだけの日々に、ブルーは毎夜一人で涙を零した。
前の生では毎日会えて、恋人同士の時間を過ごしたハーレイ。そのハーレイに自由に会うことも出来ないだなんて、今の生はなんと寂しいのかと。
けれど時間はきちんと流れて、また週末が巡って来た。土曜日の朝、ブルーは先日までの塞いだ気分もすっかり吹き飛び、いそいそと部屋を掃除して。
ハーレイと二人で向かい合うためのテーブルと椅子の位置を整え、首を長くして来訪を待った。窓から下を見下ろしていれば、颯爽と歩いてくるハーレイ。やがて門扉のチャイムが鳴って、母が出てゆく。ハーレイを案内してきた母は、紅茶と焼き菓子をテーブルに置くと。
「ハーレイ先生、ブルーをよろしくお願いします」
「すみません、こちらこそお世話になります」
挨拶が済んで、母の足音が階段を下りて消えていった。それを待ち兼ねていたブルーは椅子から立ってサッと移動し、ハーレイの膝に腰掛ける。
「またか。…まったく、お前は甘えん坊だな」
「だって…。ハーレイと会える日は殆ど無いもの、学校ではハーレイ先生だもの」
「分かった、分かった。ついでに長い長い間、俺に会えなかったから寂しいわけだな」
「うん…」
だけど会えた、とブルーはハーレイの広い胸に頬を擦り寄せた。
「…メギドに向かって飛んだ時には、もう会えないと思ってた…。いつかハーレイの命が尽きたら会えるかもとは思っていたけど、まさか生きて地球で会えるなんてね…」
「そうだな、まるで奇跡のようだ。俺もお前に会えて嬉しい。もう一度、生きたお前に会えて」
ハーレイはブルーを強く抱き締め、その小さな背を撫でてやる。前の生で死が待つメギドへ飛び去った時は、今よりも大きかったブルーの背中。それを見送るしかなかった辛さが、深い悲しみが小さなブルーの温もりに溶けて癒されてゆく。
十四歳のブルーは小さいけれども、その存在には前の生のブルーと変わらぬ確かさがあって。
「…うん、小さくてもお前はお前だ」
俺のブルーだ、と語りかける声にブルーの心も暖かくなる。
そうだ、自分は帰って来た。誰よりも愛し、求め続けたハーレイの強くて逞しい腕の中に。
ハーレイの胸に甘えていたら、「お茶も飲めよ」と促された。
「お母さんが来た時に置きっ放しはどうかと思うぞ、それに俺だってこれでは飲めない」
「頑張ってみれば? ぼくの頭に零さないように」
「生憎と零さない自信はないな。頭から紅茶を被りたくなきゃ、早く椅子に戻れ」
「……うん…」
もう少しハーレイの膝の上にいたかったけれど、紅茶を飲まずに放っておくのも母に悪いし仕方ない。ブルーは名残惜しげにハーレイから離れ、テーブルを挟んで向かい合った。
すっかり冷めてしまった紅茶をコクリ、コクリ、と飲んでいると。
「お前、三月生まれだったのか。小さいわけだな」
不意にハーレイが口にした言葉がブルーの神経を逆撫でする。
「小さいっていうのは余計だってば!」
それが今のブルーの一番の悩み。十四歳の小さな身体になっているせいで、せっかくハーレイと再会したのにキスすら許して貰えない。とにかく急いで育たなければ、と焦っているのに、キスを禁じたハーレイの口から小さいだなんて聞きたくもない。
そんな心を知ってか知らずか、ハーレイはまたしても笑いながら言った。
「おまけに三月の一番末とは恐れ入った。本当に一番のチビってわけだな、学年一の」
「チビは酷いよ!」
ハーレイの言う通り、ブルーは学年の中で一番小さい。背丈もそうだが、年齢も同じ。遠い昔は春に新年度が始まる学校は四月一日に生まれた者までを「早生まれ」と呼び、前年に生まれた子供たちと同じ学年に組み入れたと聞く。それが今では三月末まで、つまりブルーが一番幼い。
前は大して気にしなかったし、成績だって悪くないから問題無いと考えていた。それがハーレイと再会してから大問題へと発展する。小さいことはマイナスでしかなく、恋の大きな障害で。
(…ハーレイにチビって言われるだなんて…。ホントのことでも酷すぎだってば!)
身体もチビなら年齢も学年一番のチビ。それをわざわざ指摘せずとも…、と恨みがましく恋人を睨み付けていて気が付いた。
背丈はともかく、自分の誕生日。三月末に生まれたことなど、まだハーレイには話していない。
ハーレイは何処で知ったのだろう?
自分は話していないけれども、父か母が知らせていたのだろうか?
教えるよりも前に知られてしまった誕生日。
そういう話題を持ち出さなかった自分が悪いが、なんだか少し悲しい気がする。この地球の上にいつ生まれて来たのか、生まれ変わった生を生き始めたのか。
前の自分の悲しすぎた最期が奇跡に変わった大切な日が今の誕生日。それに相応しく、新しい生への感謝と思いとをたっぷりとこめて、ハーレイにそっと教えたかった。
ぼくはこの日に生まれたんだよ、と。
しかし、今更どうにもならない。ハーレイは知ってしまったのだし…。ブルーは心の中で小さな溜息をつくと、向かい側に座る恋人に尋ねた。
「ハーレイ、ぼくの誕生日を誰に聞いたの?」
父か、それとも母なのか。どちらかだろうと思ったのに。
「ん? 学校のデータベースがあるだろうが」
ハーレイの答えはブルーが予想していた以上に呆気なさすぎるものだった。よりにもよって教師だったら誰でも見られるデータベースとは酷すぎる。
今の自分が生まれて来た日を、生まれ変わって来た奇跡のその日をデータベースで知るなんて。いくらハーレイの仕事が教師で、日常的な作業の一つであってもあんまりだ。誕生日のことは直接尋ねて欲しかった。そしたら心躍らせながら、奇跡の日を教えられたのに…。
「………。調べるよりも前に訊いて欲しかったな」
ポツリと不満を零すブルーに、ハーレイが不思議そうな顔をする。
「なんだ、それは。誕生日にプレゼントを贈って欲しい、と強請る女の子でもあるまいし…って、お前は俺の恋人だったか」
「そうだよ! 酷いよ、勝手に調べただなんて!」
ブルーは八つ当たりじみた感情をハーレイにぶつけ、「すまん」とハーレイが謝った。
「すまない、俺が悪かった。…だがな、言い訳にしか聞こえんだろうが、お前のことを知りたくてやったことなんだ。…今のお前がいつ生まれたのか、知りたくなったら止まらなかった」
教師失格だ、とハーレイは詫びる。生徒の個人情報欲しさにデータベースにアクセスした、と。
「…すまない、ブルー。…もう二度とやらん。それに俺はお前の誕生日だけしか見ていない」
他のデータは何ひとつとして見なかった、と謝り続けるハーレイは嘘をついてはいない。それが分かるから、ブルーはハーレイを責めようなどとは思わなかった。
ハーレイはほんの少し急ぎ過ぎただけ。ブルーに訊きに来るよりも先に、自分だからこそ出来る手段で一刻も早くと急いで知ってしまっただけだ。
寂しい半面、それも嬉しい。仕事上の禁忌を侵してまでも、知りたいと思ってくれたのだから。
ハーレイが謝って、ブルーが咎めずに微笑んで。
誕生日の件が一段落した時、母が来てお茶のセットを入れ替えていった。昼食前だからお菓子の追加は無かったけれども、温かい紅茶が湯気を立てるカップを眺めてハーレイが呟く。
「しかしだ、誕生日がきちんとあるっていうのは嬉しいもんだな」
「…えっ?」
何のことか、とブルーは小さく首を傾げた。誕生日は誰でも持っているもので、ついさっきまで自分の誕生日を巡って危うく喧嘩の危機だったのに…。
するとハーレイが「そうか…」と鳶色の瞳を曇らせた。
「そういえばお前、知らないままで逝っちまったか…。自分が生まれた日がいつだったのか」
「…何の話?」
「前のお前だ。…前のお前は誕生日なんか無かっただろうが」
「あっ…!」
そう言われるまで気に留めたことすら無かった事実。ソルジャー・ブルーであった自分は誕生日など知りもしなかった。成人検査を受けた日までは誕生日は確かに在ったのだろうが、アルタミラでの長く苦しかった日々の中で記憶から零れ落ちてしまい、二度と戻りはしなかった。
けれど、目の前のハーレイの顔。もしかしたらハーレイは知ったのだろうか? 前の自分がいつ生まれたのか、それを知る機会があったのだろうか?
「…ハーレイ…。ハーレイ、ぼくの誕生日を知ってるの? ソルジャー・ブルーの誕生日を」
恐る恐る口にしてみた疑問に、ハーレイは「ああ」と頷いた。
「……アルテメシアを落とした時にな、あそこのデータベースに入っていたんだ」
そしてハーレイは教えてくれた。
前の生でのぼくの宿敵、テラズ・ナンバー・ファイブが後生大事に抱え込んでいたデータの山。其処にはアルタミラでぼくたちが失くしてしまった沢山の記憶が詰め込まれていて、生まれた日のデータもその中に在った。
ソルジャー・ブルーだったぼくの誕生日に、キャプテン・ハーレイの誕生日。
それから顔も思い出せない養父母の名前や写真などもあって、育った家までも分かったらしい。
ハーレイが前の生で見て記憶したそれを、ぼくにも伝えてくれたのだけれど。サイオンを使って映像までをもちゃんと渡してくれたのだけれど、なんだか、なんて言うんだろう…。
まるで実感が湧かなかったし、養父母の名前も姿も育った家すらも、全然ピンとこなかった。
もっと感動の出会いと言うのか、そういうものを期待したのに、他人事のように思えてしまう。どうしてだろう、と考えたけれど、実感を伴っていない記憶だから?
自分が生まれた季節すらも記憶に全く無かったのだから仕方ない。…それにとっくに死んだ後で聞いても、まるっきり意味が無いような…。
そう言ってみたら、生きていた頃にデータを見たハーレイがその時に抱いた感想も全く同じで、ちょっと可笑しかった。
やっぱり失くしてしまった記憶は「忘れる」のとはまるで違うのだろう。忘れたことなら機会があったら思い出せるし、その時に感じた光や匂いも鮮やかに蘇るものなのに…。
ソルジャー・ブルーだったぼくは誕生日さえも失くしてしまって、その日を聞いても特別な日という気がしない。確かにぼくが生まれた日なのに、明日にはすっかり忘れていそうだ。
でも、今のぼくにはちゃんと本物の誕生日があって、生まれた季節も毎年きちんと巡って来る。パパとママが誕生日のケーキや御馳走を用意してくれて、季節までがぼくを祝ってくれる。
冬の間中、寒そうに縮こまっていた草木が一斉に芽吹く春。
あちこちで桜の花が開き始めて、もう少しすれば郊外の野原はレンゲやスミレで一杯になる。
花いっぱいのぼくが生まれた季節。
身体の弱いぼくが寒さで凍えないよう、神様が暖かくなる春を選んで送り出してくれた。ぼくにそう話してくれたのはママで、小さな頃は本気で信じていた。
そして今また、「そうかもしれない」と思ってしまう。
神様はハーレイに会わせてくれたから。ソルジャー・ブルーだった頃のぼくが焦がれた青い星の上で、ぼくはハーレイに会えたのだから……。
そんなことをつらつらと考えた後で、ハタと気付いた。ぼくの今の誕生日もハーレイに知られてしまっているのに、ぼくは今のハーレイの誕生日を知らない。キャプテン・ハーレイの誕生日なら話のついでに聞いたけれども、肝心の今のを聞いてはいない。
だから急いで訊こうと思った。大好きなハーレイの誕生日だもの、絶対に聞いておかないと…。
「ねえ、ハーレイ。…今のハーレイの誕生日はいつ?」
直ぐに答えが返って来ると信じていたのに、ハーレイときたら、ニヤリと笑った。
「当ててみたらどうだ? 出来るモンなら、俺の心を読んでもいいぞ?」
「えっ?」
どうやらハーレイは本気らしくて、笑みを浮かべたままで黙っている。それならそれで、と普段使わないサイオンをハーレイの心に向かって精一杯集中させてみた。
「んーと…。……えーっと……」
思わず声が出てしまうほどに頑張ってみても、表層意識の欠片も見えない。前の生のハーレイの心もそう簡単には読めなかったけれど、今も全然読み取れやしない。もっとも、ぼくは前と違って凄い力を持ってはいないし、サイオンの使い方さえ覚束ないほんの十四歳に過ぎない子供で…。
「どうした、ブルー。もう降参か?」
からかうようにハーレイが腕を伸ばして、ぼくの額を指先で軽く突っつく。
「うー…」
「ほらほら、ガードを少し緩めてやったぞ、少しは読めたか?」
「読めるわけないよ!」
ハーレイが緩めたガードとやらも突き抜けられない今のぼく。鉄壁の要塞みたいに固い心の表面すらも読めはしなくて、降参するしか術が無かった。
これで教えて貰えるだろう、と白旗を掲げたぼくにハーレイは尚も笑顔を崩しもせずに。
「だったらカンで当ててみろ。お前、予知能力は昔から皆無に近かったがな」
「ええっ?!」
「当たるまで気長に付き合ってやるさ。たまにはゲームも楽しいもんだ」
ゲームと言われて思い出した。前の生でハーレイと二人で遊んだゲーム。羽根ペンが好きだったハーレイはゲームもレトロなボードゲームが好みで、チェスとかオセロ。囲碁なんかもした記憶がある。そういう時間は懐かしいけれど、誕生日を当てるゲームだなんて…!
当てられる気が全くしないハーレイの今の誕生日。ヒントも無ければ手がかりも無しで、何処をどうすれば辿り着けるのか分からないままに考えてみる。
神様がぼくに選んでくれた誕生日は暖かい春が訪れる時期。ハーレイにはいつを選んだだろう?
前の生でも丈夫だったハーレイは今もそっくり同じに丈夫で、スポーツなんかも大好きで。柔道や水泳が得意なほどだし、特に季節を選ばなくても何処でも元気に育てたと思う。
(うーん…。ホントに真冬でも平気そうだよね)
だったら季節はアテにならない。でも…。
(似合う季節なら夏だと思うな)
うららかな春と違って、何もかもが眩しく輝く季節。抜けるような青空と、ぽっかり浮かぶ白い雲とが頭上に広がり、影が一番小さくなる夏。
ハーレイには影は似合わない。前の生でも忍び寄って来る不安という名の影をその身一つで払うかのように、いつだって前を向いていた。だからきっと、今のハーレイも…。
「…もしかして、夏?」
思い付きだけで言ってみたそれに、ハーレイが目を丸くした。
「なんで分かった?」
「お日様が似合いそうだから」
ふふっ、と笑って「当たっちゃったね」と言えば「やられたな…」と、ぼくの大好きな笑顔。
ハーレイの笑顔はとても明るい。大きな身体も、大好きでたまらない声も、明るい夏の日射しがよく似合う。そうか、今のハーレイは夏生まれなんだ…。
「ねえ、七月? それとも八月?」
ハーレイは笑って見ているだけ。でもきっと、夏の真っ盛り。そう思ったから。
「じゃあ、八月!」
「ほう…。なかなかにいいカンしてるな、だが、流石に日までは分からんだろう?」
ゲームは此処まで、とハーレイが告げて。
「同じ八月でも初めだったら良かったんだがな、生憎と俺は終わりの方なんだ。夏休みの終わりが見える頃だな、そいつがとても残念だった」
そう語るハーレイの瞳は懐かしそうに昔を振り返る目で。
「お前くらいの年の頃には、もうちょっと八月が延びないもんかと本気で祈ったこともあったな。そうさ、宿題が終わらなかったんだ。…お前にはそれは無さそうだがな」
夏休みの宿題と戦うハーレイ。それは全然想像出来ない。ぼくが知っている一番若いハーレイの姿は青年だったし、体格も今と殆ど同じ。子供のハーレイってどんなのだろう、と考えながらも、追究することは忘れない。ぼくが本当に知りたいことは…。
「それで、いつなの? ハーレイの今の誕生日って」
「八月の二十八日さ。あと三日しか夏休みが無い」
「あははっ、そうだね!」
「そうだろう? 実に悲惨な子供時代だった」
上の学校へ行ったら夏休みがググンと延びたんだがな、とハーレイが笑う。
柔道と水泳、どっちもやりたくて行った学校の夏休みはうんと長かったらしい。そこでハーレイは先生になれる資格を貰って、先生になって。
それから幾つもの学校で教えて、二週間前にぼくの学校に来た。ぼくも今年の春に入学した。
まるで最初から見えない糸で繋がっていたかのように、ぼくたちは出会ったのだけど…。
(…ぼくもいつか上の学校に行くのかな?)
ハーレイは好きな道を進んで今日まで歩いて、ぼくが居る学校へやって来た。
そんな風にぼくも何処かへ歩いて行くのだろうか、と考えてみたけど分からない。
(…ぼくって、何になるのかな? ハーレイみたいに先生とか?)
先生のぼくも、パパみたいに会社に出掛けるぼくも、なんだか想像がつかないけれど…。
だけど、これだけは分かってる。
上の学校へ行っても行かなくっても、どんな未来になったとしても、必ずぼくが歩いて行く道。
そこにはハーレイがぼくと一緒に立ってて、手を繋いで二人、歩いて行くんだ。
三月はぼくの、八月はハーレイの誕生日が来て、ケーキを買って、お祝いをして。
そうやって何処までも、何処までもぼくたちは歩いて行く。
前の生ではぼくが繋いだ手を離したけれども、今度こそ絶対に離れないから……。
大切な誕生日・了
←ハレブル別館へのお帰りは、こちらv
夏休みまで一ヶ月足らずとなった、とある日の朝。教室で気心の知れた友人たちと他愛ない話をしていたブルーの耳に、少し離れた場所で上がった叫びが届いた。
「えーーーっ!?」
時ならぬ大声に友人たちも一斉にそちらの方を見、其処には数人の男子生徒が群れていて。
「声変わりって、あの先輩が?!」
「嘘だろ、先輩、まだまだ行けそうだったのに!」
「そうなんだけどさ、こないだから喉が調子悪いって言っててさ…」
ワイワイと騒ぐ群れの中心は合唱部所属の男子だった。
「みんな喉を傷めただけかと思ってたんだよ、そしたらなんか違うらしくて」
「んじゃ、夏休みのコンクールはどうなるんだよ?」
「もうメチャメチャだよ、今から代わりに歌えるヤツっていないしさあ…」
俺たちの合唱部の期待の星が、と頭を抱える男子生徒を周りの者が気の毒そうに見詰めている。その輪の中には入らないまでも、ブルーの友人たちも「なんだかなあ…」と複雑な顔で。
「どの先輩だろ、合唱部のことは分かんねえけど」
「期待の星って言ってるんだし、よっぽど上手いか声が凄いかだったんだろうなあ」
「コンクール直前はキツイよね…。合唱部、これから大騒ぎかも」
合唱部はクラブ活動の一つ。十四歳からの四年間を過ごす学校だったが、人類が皆ミュウである今、サイオンが成長速度に影響する者も多かった。ゆえに四年生でも素晴らしいボーイソプラノを保つ生徒もいるから、合唱部の中には少年だけで構成される部門も存在する。
件の男子生徒は其処の所属で、夏休み中に開催されるコンクールでの優勝を狙っていたようだ。それなのに夏休みまで一ヶ月を切った今頃の時期に、期待の星が声変わりだとは…。
「…あればっかりは分かんねえしな、いつ始まるのか」
「早い人は早いって聞くけどね…」
「とりあえず俺たちはまだまだ先かな。…特にブルーは」
「ぼく?」
いきなり自分に話を振られて、ブルーはキョトンと目を見開いた。
「…なんで、そこでぼく?」
「小さいからだよ、決まってるだろ」
「そうだ、合唱部に助っ人に行ってやらねえか? お前、歌だって上手いじゃねえかよ」
仲間たちは賑やかに騒ぎ始めたが、彼らに話を合わせながらもブルーの思考は違う方へと向かいつつあった。
背丈ばかりを気にするあまりに忘れ果てていた前世での声。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃、自分の声は今よりもずっと低くて落ち着いていて、まるで別物だったのでは…。
その日、ブルーは帰宅してからも自分の声が気になって仕方がなかった。
深く考えれば考えるほどに、前世の自分と今の自分の声の違いを思い知らされる。ソルジャーとして皆を指揮していた頃、ブリッジで、あるいは青の間で、何度も何度も指示を飛ばした。
長く潜んだアルテメシアを離れて宇宙へと飛び立った時も、その決断を下したのはブルー。あの時、「ワープしよう」とブリッジに指示した声が今の自分のものだったならば、皆は従ってくれただろうか?
(えーっと…)
ブルーは勉強用の椅子に座って息を大きく吸い込み、精一杯の威厳を保って言ってみた。
「ワープしよう!」
それから録音していた今の声を再生してみてガックリとする。
「……全然ダメだよ……」
もう一度、と試してみても結果は同じ。どう聞いたって子供の声で、ソルジャー・ブルーが下す指示とも思えない。それに…。
(…あれは青の間から言ったんだっけ…。それに叫んでもいなかったし…)
つまりは「ワープしよう!」と勢い込んで叫ぶのではなく、「ワープしよう」。ごくごく普通に話す口調で、けれど重々しく、皆が異論を唱えられない説得力をも声音に乗せていた自分。
今の自分にはそんな芸当、とても出来ない。
録音した声が示すとおりに甲高い声で、まるで劇中の台詞よろしく叫ぶのが自分の精一杯。
(……どうしよう……)
前世の自分とは全く違った子供そのものな自分の声。こんな声でいくらハーレイに「好きだよ」と告げても、実は可笑しいだけかもしれない。「大きくなったらパパと結婚する!」と叫ぶような幼児とレベルはさほど変わらないのかも…。
(…ハーレイが全然相手にしてくれないのも、声のせいかも…)
キスを強請ろうとしては叱られ、「駄目だ」と頭を小突かれる。それはそうだろう、子供の声で「キスしてもいいよ」と誘ってみたって、ハーレイがその気になるわけがない。
一向に伸びてくれない背丈の方もさることながら、声も行く手に高く聳える恋のハードルだったのだ。今の今まで気付かなかったが、声変わりだって急がなければ。
(でも……)
これまた背丈と同じ理屈で、ただ成長を待つしかない。クラスメイト曰く「ブルーは遅そう」。
(…前のぼくって、いつ声変わりしたんだろう?)
懸命に記憶を遡ってみたが、あの頃の自分は忙し過ぎた。気付けば背丈はすっかり伸びていて、声も低く落ち着いたものになっていて…。
(何の参考にもならないってば!)
ブルーは心底、悲しくなった。いつになったら自分の声は昔と同じになるのだろうか…?
その週末。訪ねて来てくれたハーレイとテーブルを挟んで向かい合わせに座ったブルーは、単刀直入に切り出した。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「…ハーレイ、ぼくの声は好き?」
「声?」
唐突すぎるその質問に、ハーレイは何を訊かれたのか分からなかった。ブルーとは恋人同士なのだから「ぼくのこと好き?」なら自然な流れだ。
しかし、好きかと問われたのは声。何処をどうすればその問いになるのか意図が全く掴めない。どう答えればブルーが満足するのか、それすらも分からないままに…。
「…お前の声なあ……。俺は好きだが」
「本当に? 前の声よりも?」
「前?」
今度こそ意味が不明になった。前の声とは何のことか、と暫し考えてハタと思い当たる。
「…前って、前のお前の声か? …ソルジャー・ブルーの?」
「そうだけど…。どっちが好き? 今と、前のと」
「……うーむ……」
ハーレイは腕組みをして視線を天井に向けた。ブルーと再会して間もない頃なら、迷うことなく「前だ」と答えられただろう。前の生で愛して結ばれたブルーは今のブルーよりもずっと大きく、それは美しくて声も甘くて柔らかだった。
けれども今のブルーと二ヶ月近くも日を過ごす内に、年相応に愛らしくて無垢なブルーもいいなと思い始めた自分がいる。背伸びして一人前の恋人気取りで纏わりついてくるブルー。子供らしい声で強請られるキスを「駄目だ」と叱ってはいるが、強請る仕草もまた可愛い。
(…前はゆっくり聞いているどころじゃなかったからなあ…)
その分、今を楽しみたいな、と思う自分が確かに居る。
前世で今と同じ声をしていた頃のブルーは、とうに十四歳ではなかった。アルタミラの収容所で長い時を過ごし、十四歳の姿を留めてはいても皆を指揮するリーダーだった。
後にシャングリラとなる船を奪って脱出した後、ブルーは幼さを残した身体で一人戦い、物資を奪いにその身一つで宇宙を駆けては頑張りすぎて倒れたりもして…。
十四歳の子供の身体に相応しい言葉を喋るよりも前に、小さくても既に戦士だったブルー。皆の命をただ一人背負い、前だけを見詰めて走り続けたブルーの子供らしい声を自分は知らない。
(…そうだ、あいつはいつだって見かけどおりじゃなかった)
それに比べて目の前のブルーはどうだろう。くるくると変わるその表情も、愛らしい唇から飛び出す言葉も十四歳の子供そのもの。背伸びしてみても子供から決して抜け出せはしない。
「……そうだな…」
ブルーが心配になるほどの時間を考えた末に、ハーレイはようやく口を開いた。
「俺は今のお前の声が好きだな、もちろん前のお前の声も好きだが」
「それって両方、好きだってこと?」
「ああ。俺はお前の今の声が好きだ。いつまでも聞いていたいとも思う」
いつかは聞けなくなってしまうが、とハーレイはブルーの赤い瞳を見詰めた。
「俺はな、今の幸せそうなお前が好きなんだ。子供らしい顔で、子供らしい声で、嬉しそうに笑うお前が好きだ。今のお前と同じ姿だった前のお前に、幸せな時があったのかどうか…。お前自身は全く気にしていなかったろうが、今から思えば可哀相でな」
「……可哀相? 前のぼくが?」
「そうだ。お前は俺より年上だったし、それに相応しく生きていたんだと思う。それでも、お前は随分と無理をしていたんだろう。…子供らしく見えたお前の記憶は俺の中には無いからな」
「…だって、子供じゃなかったもの」
その頃の自分の年がとうに成人に達していたことはブルー自身も覚えている。そんな自分が子供らしく振舞う必要などは無かったのだし、第一、子供だからと甘えられる余裕も皆には無かった。
けれどハーレイは「いいや」と首を左右に振ると。
「お前が見かけどおりの年じゃないことは、皆、知っていたさ。……だがな、身体は子供だった。いくらサイオンが強いと言っても体力は子供並みだってことを気遣う余裕が誰にも無かった」
お前に無理をさせ過ぎたんだ、とハーレイは辛そうに顔を歪めた。
「お前が十四歳の姿のままで自分の時間を止めていたのが何故だったのか、今なら分かる。…あの頃は気付きもしなかったんだが、幸せそうな今のお前を見ていれば分かる」
「…なんで? ぼくが子供のままだったのは多分、栄養が不足していたからで…」
「俺だってそう思っていたさ。…しかしだ、あれだけの実験を続けようってヤツらが貴重な唯一のタイプ・ブルーを栄養失調にさせると思うか? 栄養は足りていた筈なんだ」
足りなかったのは別のものだ、と続ける。
「お前に不足していたものはな、幸せってヤツだ。お前には辛い毎日だけしか無くて、育ったって何一ついいことはない。今を保つのが精一杯で、必死に自分の心を守っていたんだろう」
育つよりも、ひたすら現状維持。そのために成長しなかったのだ、と言われればそんな気もしてきた。あの頃は毎日が人体実験の繰り返し。何もかもどうでも良かったけれども、いつかは生きて此処を出るのだと何処かで常に願っていた。そのためだけに自分は成長を止めて待ったのか…。
自分でもまるで気付かなかった、前の生で止めた成長の理由。
それを恐らくは言い当てただろうハーレイの言葉は、更に続いた。
「俺はな、お前が止めていた時の分まで、お前に幸せに過ごしてほしい。子供らしい声で話して、俺の名前を何度も何度も、その声で呼んで欲しいんだ」
そして嬉しそうに笑ってくれればいい、と鳶色の瞳が愛しい者を見守るように細められる。
「…俺はお前の今の声が好きだ。幸せそうに笑う今の小さなお前が好きだ。だからそのままでいてくれ、ブルー。声変わりなんてしなくていいから。小さいままでかまわないから」
それはハーレイの心からの願い。前の生でブルーが失くしてしまった子供としての時の分まで、幸せな時を過ごして欲しい、と。
何かと言えばブルーに「しっかり食べて大きくなれよ」と決まり文句を言ってはいても、小さなブルーを見ていたい。前の生では痛々しいほどの重荷を背負って駆け抜けていった姿だけが記憶に残る幼い戦士が、年相応に幸せに笑って生きる姿を。
何度も何度もブルーにそう言い聞かせて、納得させて、指切りをして。
背丈が百五十センチのままでも、声が幼い子供のままでも、それでいいのだと約束をした。
ブルーには急ぐ必要はなくて、幸せな今を満喫しながらゆっくり成長してゆくのだと。
そうして二人頷き合った後、向かい合って紅茶のカップを傾けていたら、ブルーが尋ねた。
「でも、ハーレイ…。ぼくが今の姿のままだと、本物の恋人同士になれるのはいつ?」
キスを交わすのはブルーの背丈が前世と同じになってから。
ハーレイが決めて、ブルーが渋々「うん」と言ったのは、二人が再会した日から間もない頃。
もしもブルーの背が伸びなければ、キス出来る日すらもやっては来ない。キスの先など夢のまた夢、ブルーが夢見る「本物の恋人同士」になれる日とやらは遙かに遠い未来のことだ。
ブルーにとっては大問題だが、ハーレイにはそれは些細なこと。だから笑って答えてやる。
「ははっ、そうだな、いつになるかな? だが、お前は俺の所に戻って来てくれたんだ。…何十年だって俺は待てるさ、一度はお前を失くしたんだしな」
「……ぼくは小さいままでもかまわないよ?」
「こらっ! 背伸びするなと言ってるだろうが!」
誰が子供を相手にするか、とブルーの頭をコツンと軽く小突いたものの。
(…待てよ? ブルーがこのまま卒業した時はどうなるんだ?)
ゆっくり大きくなれとは言った。今の姿が好きだとも言った。ついでに固く指切りまでも。
しかし本当にブルーが育たなかったなら、四年後に卒業を迎える時もブルーは今と変わらない。
ハーレイが教鞭を執り、ブルーが通う義務教育の最終段階である学校。其処を卒業してゆく生徒は誰でも十八歳か、近日中に十八歳か。
十八歳は結婚が認められる年。
卒業式が終わった後の三月の末にブルーは十八歳を迎えるわけで、結婚出来る年齢になって…。
(…見かけが十四歳の子供ってヤツと結婚するのはどうなんだ?)
それはマズイ、とハーレイの心の中でタラリと冷汗が垂れた。
身近でそういう事例は無いし、噂すら聞いたこともない。けれど十八歳になったブルーは絶対に結婚したがるだろう。
(……諦めて幼年学校へでも行ってくれればいいんだが……)
身体が幼いままであるということは、心も今と全く変わらず幼いまま。いくら前世の記憶があるからと言って、いわゆる本当の結婚生活を送るには心身共に無理が有りすぎる。
ブルーの言う「本物の恋人同士」の関係こそが結婚生活の真の姿なのだし、結婚はちょっと…。
(…しかしだ、ブルーが諦めるとは思えんぞ?)
何が何でも結婚すると言い張るだろう、とハーレイは天を仰ぎたくなった。
諦めないブルーもさることながら、ブルーの両親が何と言うやら…。ただでも大事な一人息子のブルーが同性のハーレイと結婚となればパニックだろうし、そのブルーは見た目が十四歳で。
(……やはり普通に育ってくれと言うべきだったか?)
そうは思うが、小さなブルーも捨て難い。何十年だって見ていられる上に、待てるのだが…。
(結婚するんだ、と言い出した時が実にマズイぞ)
十四歳の子供にしか見えないブルーと結婚という事態になったら何が起こるか…、とハーレイはブルーの方にチラリと目をやる。するとニッコリと嬉しそうに笑い、首を傾げるものだから。
(…いかん、こいつは結婚どころか俺と深い仲になりたい奴だった…!)
俺にそういう趣味は無いんだ、と思いたいのに、ブルーが微笑む。
「ハーレイ、さっきからどうしたの? ぼくはきちんと指切りしたよ。…ホントは早く大きくなりたいんだけど、ハーレイはゆっくりがいいんだよね?」
「あ、ああ…。そうだな、うんとゆっくり幸せになれよ」
「うんっ! だけど結婚するのは忘れないでよ、十八歳になったら出来るんだから!」
ブルーの言葉はハーレイの予想と寸分違わぬものだった。ゆっくり育つと約束しながら、十八歳での結婚を希望。もしもそれまでに前世と同じに育たなかったら、今と見かけが変わらぬブルーが結婚したいと言ってくるわけで…。
(…ほ、本人がいいと言っているなら、それでいいのか?)
ハーレイの向かい側にチョコンと座って無邪気な笑みを湛えるブルー。その身体はソルジャー・ブルーであった頃より遙かに小さく幼いけれども、桜色の唇も透き通る肌も前世そのままで、その顔立ちもまたいずれ花開く美を匂わせるもの。
(……す、少し小さいが…。いや、かなり小さいが、結婚したならかまわないのか?)
ブルー自身が望むからには、体格的に多少無理があっても深い仲になっていいのだろうか。そう思いかけて「駄目だ」と自分自身を叱咤する。
(…俺はよくてもブルーの負担が…。こんな小さな身体には無理だ)
もしも結婚する羽目に陥ったならば我慢あるのみ、とハーレイはテーブルの下で拳を握った。
(ブルーが何と言ってこようが、俺は絶対に手は出さん! 育つまで待つ!)
どんなにブルーが小さかろうとも、結婚して共に暮らす間に少しずつ育ってゆくだろう。上手く運べば真の結婚生活をしたいがために劇的に育つかもしれないのだから。
そう決めたものの、「ハーレイ?」と呼び掛けてくる声に心がグラリと揺らぐ。
(……この声は今しか聞けないんだよな?)
ソルジャー・ブルーよりもずっと高くて愛らしい響きのブルーの声。
この声が前世で何度も耳にしていたあの声のように、腕の中で震え、喘いだならば。
あるいは高く、甘く啼いて掠れたならば…、と頭を擡げようとする欲望。
(いや、いかん! …それだけは絶対にやってはいかんぞ、腐っても俺は教師だからな!)
教え子の前で不埒なことは…、と更に強く、強く拳を握って懸命に耐えているというのに。
「ねえ、ハーレイ?」
約束だよ、と小さなブルーが右手の小指を差し出して来た。
「ぼくが十八歳になったら、結婚! 別に誕生日じゃなくてもいいから!」
「た、誕生日…?」
「うん! その頃ってハーレイ、忙しいよね? 三月の末だし、新婚旅行に行けそうにないし」
年度末と年度初めの教師が多忙なことにブルーは気付いていたらしい。しかし…。
「お前、本気で十八歳で結婚する気か?!」
「…んーと…。とりあえず今日はそのつもりだけど、どうしようかな…」
考え込んでいる様子のブルーに、ハーレイは辛うじて心の平静を取り戻してから。
「今日は、ってことは未定なんだな? 明日になったら気が変わるかも、と」
「明日はどうだか分からないけど、他にやりたいことが出来たら」
「そうか、それなら今、約束をしなくてもな?」
別にいいだろ、と返したハーレイの右手の小指にブルーの右手の小指がグイと絡んだ。
「ダメーッ! 結婚だけは絶対、約束!」
「お、おい、ブルー! 俺の都合も考えろ、ブルー!」
強引に絡められた指ごと一方的に押し付けられてしまったブルーと結婚する約束。
それはブルーの小さな姿と愛らしい声とを伴い、暫くの間、毎夜ハーレイを苛んだけれど。そういう約束を交わしたことすら忘れているのが十四歳の小さなブルー。
ブルーにとってはハーレイと共に歩む未来は約束せずとも、あって当然。
ゆえにブルーは今日も夢見る。早くハーレイと結婚したいと……。
前と違う声・了
←ハレブル別館へのお帰りは、こちらv
今日はハーレイが来てくれる日。
朝食を終えたブルーはいつものように部屋を掃除してテーブルを拭いて、椅子もきちんと向かい合わせになるように据えて。抜かりはないかとグルッと見回し、勉強用の机の上を視線でチェックしていて「あっ…!」と小さく声を上げた。
どうして今日まで全く気付かなかったのだろう。自分の机には無くて当然のものだから?
(でも……)
あんなに何度も目にしていたのに、と自分の記憶力に少し自信が無くなる。とはいえ、せっかく思い出したからには今度は覚えておかなければ。ハーレイが来たら訊いてみようと思うけれども、会った途端に忘れる方には自信があった。
(ハーレイの顔を見ていられるだけで幸せだものね)
そのハーレイが部屋を訪ねて来てくれる。テーブルを挟んで向かい合って座って、母が用意してくれるお茶とお菓子が揃ったらお喋りをして。食べる暇も無くハーレイの膝に座って甘えてしまう日もあれば、向かい合わせのままの日もあって…。
(いけない、もう違うことを考えちゃってる!)
これでは絶対に忘れてしまう。二人きりの時に尋ねたいから、父や母も交えての夕食の席で思い出しても、もう遅い。
(…んーと……)
忘れないようにするためには…、と考え込んだ末に、ブルーは机の上にペンをコロンと転がしておくことにした。いつもならペンも鉛筆もペン立てにきちんと立ててある。それを片付けずに放置してあれば、いくら自分がウッカリ者でも見た時に思い出すだろう。
何のためにペンを放ってあるのか、ハーレイに何を訊きたいのかを。
案の定、ブルーはハーレイの顔を見るなり質問をすっかり忘れてしまった。大好きな声を聞いて膝の上で甘えて、ようやっと自分の椅子に戻った所で勉強机が目に入って。
「あっ、いけない!」
忘れてた、と叫んだブルーをハーレイが「どうした?」と鳶色の瞳で見詰める。
「お母さんならまだ来ないだろう。それとも、お前がお茶のおかわりを淹れに行くのか?」
母の来訪を減らしたいブルーは自分でお茶を取りに行こうと考えるのだが、これまた毎回忘れてしまう。だからこそのハーレイの発言であって、それもいいなと思ったものの。
「んーと…。そうじゃなくって…」
紅茶のポットはまだ温かいし、取り替えに行くには些か早い。何事かと母が訝りそうだ。それに自分が忘れ去っていたのはまるで別のことで、思い出させるための仕掛けは一度きりしか効果無しかもしれないのだし…。
(…忘れちゃったら大変だものね)
お茶の取り替えなら、この先もチャンスは何度でもある。今日でなくてもかまわない。今は質問を優先しよう、とブルーは向かい側に座るハーレイに赤い瞳を向けた。
「…お茶とは全然関係なくって、訊きたいことがあったんだけど…」
「俺にか? それを訊き忘れたら一大事なのか?」
怪訝そうなハーレイに「…そうでもないけど…」と曖昧に返し、立ち上がって机の上に転がったペンをペン立てに戻す。それから椅子に座り直して、やおら質問を口にした。
「ねえ、ハーレイ。…今も羽根ペン、使ってる?」
「羽根ペン?」
ハーレイの目が丸くなった。それは前世のハーレイが愛用していた白い鳥の羽根で出来たペン。あの時代ですらレトロなペンで、ハーレイの他には誰も使っていなかった。もちろんブルーも例外ではなく、ハーレイの部屋でしか羽根ペンを見た覚えは無い。
羽根ペン自体は人類側から失敬した物資に混じっていたもので、ドカンと一箱はあったと思う。ハーレイ以外に使う者が無いから、とても全部を使い切れはしないと皆で笑い合ったものだ。あのペンたちもシャングリラと一緒に時の彼方に消えたのだろう。
ハーレイが好きだったレトロな羽根ペン。一度だけ遊びに出掛けたハーレイの家の書斎でそれを目にしたかどうか、覚えが無かった。だからこそ訊いてみたのだけれど。
「使ってるわけがないだろう。持ってもいないな」
ハーレイの答えは当然と言えば当然すぎるものだった。今のハーレイは柔道と水泳が好きな古典の教師で、キャプテンだったハーレイではない。あの頃よりも更にレトロなアイテムになった羽根ペンなんかを持っている筈もないではないか…。
やっぱり前世と今の生は違う。
ブルーが十四歳の子供になってしまっているのと同じで、ハーレイにはハーレイの人生がある。羽根ペンを愛用していた頃のハーレイと今のハーレイとは違うのだ、と悲しい気持ちになるよりも先に。
「使ったことなんか無かったんだがな」
ハーレイが指先でテーブルをトン、トン、と軽く叩いて言った。
「…最近、欲しいような気もしてきたんだ。おかしなもんだな、俺の趣味ではない筈なんだが」
その言葉に胸が暖かくなる。ハーレイの中にはやっぱり前世のハーレイがちゃんと居るんだ、と嬉しさと喜びとがこみ上げて来る。ブルーはクスッと笑って答えた。
「おかしくなんかないよ、ハーレイ。…だって、ハーレイの大好きなペンだったもの」
「それはそうだが…。買っちまったとしても使いこなせる自信は無いな」
「平気だってば、すぐ思い出すよ。何回か書けば」
「…そうだといいがな」
羽根ペンにも申し訳ないし、と指をペンを持つ形にして動かすハーレイを眺めていたら、またも疑問が浮かんで来た。それをそのままぶつけてみる。
「じゃあ、日記は?」
「……日記?」
「ハーレイ、いつも航宙日誌をつけてたよ。今は日記はつけていないの?」
「…ああ、あれな…。確かにあったな、そういうヤツも」
日記については触れないハーレイに、ブルーは更に言い募った。
「航宙日誌じゃなくって日記だってば! 羽根ペンと同じで日記も無し?」
「……いや、今も書いてはいるんだが…」
どうにもハーレイは歯切れが悪い。これは絶対に秘密の日記に違いない、という確信がブルーの中に生まれてくる。大きな声では言えない日記。前の生での航宙日誌も「俺の日記だ」と読ませてくれずに隠していたけれど、あれは一応、日誌ではあった。
日誌はシャングリラの日々の出来事を記すものだし、如何に閲覧不可といえどもハーレイ個人の日記ではない。だが、今のハーレイはキャプテンという公人ではなく、普通の教師。日記に色々なことを綴って仕舞いこんでいるかもしれないわけで…。
(ふふっ)
訊いてみちゃおう! と、ブルーは赤い瞳を煌めかせた。
「ねえ、ハーレイ。その日記って、ぼくと会った日のことも書いてある?」
学校じゃなくてぼくの家で、と身を乗り出す。学校で会うのは当たり前だけれど、ブルーの家で会う日は特別。キスさえ許して貰えなくても恋人同士で過ごす時間だ。ハーレイは何処まで書いているのだろう? まさか話の中身まで?
嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちで待っていたのに答えはいとも素っ気なかった。
「なんで一々、日記に書くんだ。休日は大抵、会ってるだろう」
「えーっ!?」
ガッカリしたものの、思い直して尋ねてみた。
「それじゃ、初めて会った日のことは?」
「生徒の付き添いで病院に行った、とは書いておいたが」
「…たったそれだけ?」
あんまりだ、とブルーは唇を尖らせたのだが、ハーレイは涼しい顔で続ける。
「生憎と、俺の日記は覚え書きでな。毎日の出来事とその日の天気くらいで充分だ」
「ひどい!」
劇的な再会を遂げた日ですら、日々の出来事と同じ扱い。生徒の付き添いで病院に行った事実に違いはなくても、其処は「前世で恋人だった生徒」と何文字か足して欲しかった。実はそう書いてあったのかも、と確かめてみたら「いや」と一言で片付けられて。
「ホントのホントに何にも無し? ぼくは血だらけだったのに!」
「大怪我だったらそのように書くが、異常なしじゃな」
どうやらハーレイは本当に何も書かなかったらしい。ブルーの心が不平不満で一杯になる。
「少しくらい書いておいてくれたって…。もしかして、航宙日誌にも何も書かなかったわけ?」
「何って、何をだ?」
「ぼくのこと! ソルジャー・ブルーのことじゃなくって、ぼくのことだよ」
流石にそれは書いていた筈、とブルーは思った。そうでなければ閲覧不可とは言わないだろう。なんと言ってもブルーはキャプテンよりも上のソルジャーで長だったのだから。しかし…。
「書かなかったな、ソルジャーではないプライベートなお前については」
「あれにも書いていなかったわけ!?」
今度こそブルーは泣きそうになった。今はともかく、前世での自分はハーレイと身体も心も固く結ばれた恋人同士。それなのに何ひとつ日記に記されていなかったなんて、悲しいどころか虚しい気分になってくる。いったい自分はハーレイにとって何だったのか。
前の生ですらその扱いなら、キスさえ出来ない今の生では本当に毎日の天気並みだとか…。
あまりのことに瞳から涙がポロリと零れそうになり、慌てて拳でグイと拭った。そのまま俯いてテーブルをぼうっと眺めていたら、大きな手が頭をクシャリと撫でて穏やかな声が降って来る。
「お前な…。そういうのを書いておいた場合に、後で困るとは思わないのか?」
好きでたまらないハーレイの声。悔しいけれども心がふわりとほぐれてしまう。でも…。
「なんで?」
どうして困るの、と顔を上げたブルーの瞳に苦笑しているハーレイが映った。
「いいか、よくよく考えてみろよ? 俺の日誌は超一級の歴史資料で、そっくりそのまま出版されちまっているんだが?」
「あっ…!」
言われてみればその通りだった。手軽に読める文庫本サイズから原寸大まで。歴史書コーナーの定番品で、図書館はもちろん、大きな書店なら揃えているのが当たり前。紙の本からデータベースと至れり尽くせり、いろんな言語でズラリ出揃い、それこそ宇宙の至る所に…。
ブルーはたったの十四歳の子供だったから、航宙日誌に用は無かった。手に取ったことすら一度も無いが、もしもあの中に自分とハーレイとのプライベートな出来事が書かれていたのなら…。
(ど、どうしよう…。ハーレイは書いていないって言っているけど、もしかしたら…!)
ハーレイだって人間なのだし、万が一ということもある。
(…ぼ、ぼ、ぼくとキスをしたとか、ぼくの部屋に泊まっていったとか…!)
恥ずかしすぎる、と真っ赤になったブルーの頭をハーレイがポンポンと優しく叩いた。
「安心しろ。お前とのことは本当に何も書いてはいない。現に誰も気付いていないだろうが」
「…えっ?」
「ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが本当は恋人同士だったってことさ」
誰も知らん、とハーレイが微笑む。
「どんなに細かく読み込んだって、何処にも書いてはいないんだからな」
「…そっか…」
前の生での自分とハーレイの仲は誰も知らない。だから今の両親も当然、知らない。ハーレイと一緒に過ごすためには有難い事実だったけれども、ちょっと寂しい気持ちもした。
シャングリラの中だけが世界の全てだった遙かな昔。其処でハーレイと育んだ恋はブルーの殆ど唯一と呼べる幸せな記憶で、どんなに未来が見えない時でもハーレイが居たから生きていられた。
もしもハーレイが居なかったならば、ソルジャーとして毅然と立っていられたかどうか。脆くも心を病んでしまって、道半ばにして倒れ、朽ち果てていたかもしれない。
その日々が何処にも記されないまま、シャングリラと共に消えてしまっただなんて…。
残っていないことに安堵する半面、悲しくも思う遠い日々のこと。
白いシャングリラをブルーが守って、ハーレイが舵を握っていた日々。他の誰にも悟られぬよう隠し通した仲だったけれど、二人抱き合ってキスを交わして、それから、それから…。
しょんぼりとするブルーの肩にハーレイがそっと手を置いた。
「…どうした。残っていたら困りはするが、無いのも寂しい。…そんな所か?」
「……うん……」
言い当てられて、ブルーは頷く。その瞳に宿る悲しそうな光にハーレイが「そうか」と柔らかな視線を返して、その目をすうっと細めて言った。
「確かに何も残ってはいない。…しかしな、ブルー。俺にだけはちゃんと分かるんだ」
「……何が?」
不思議そうな表情を浮かべたブルーに、ハーレイはパチンと片目を瞑った。
「俺の日誌に書いてあることさ。どの日に何があったのか、とかな」
ハーレイがそれに気が付いたのは、小さなブルーと再会してから間もない頃。
転任教師としての多忙な日々が一段落して、休日はブルーの家を訪ねて束の間の逢瀬。前の生の記憶を取り戻すまでは思いもよらなかった幸せな日々だが、平日の自分はあくまで教師。ブルーと恋を語れはしないし、頻繁に訪ねるわけにもゆかず…。
そんな平日のとある夜のこと、ふと思い付いてデータベースにアクセスしてみた。前世の自分が毎日欠かさず記録していた航宙日誌。それを見ればきっとブルーのことも、と考えたのに…。
(…おいおいおい…)
なんてつまらない日誌なのだ、と我がことながら愕然とした。淡々と日々の出来事を綴った遊び心すらも無い文章。心から愛したブルーのことさえ『ソルジャー』と尊称で記してあるだけ。
(……いくら航宙日誌でもなあ……)
後々、次の世代の標になれば、と思って綴ったものではあったが、それが彼らの目に触れる時は自分は鬼籍に入っている。恥など関係ない身なのだし、戯れに書いた悪戯書きの一つや二つくらいあっても良かった。ブルーとのことも深い友情と受け止めて貰えそうな範囲で記しておけば…。
(…まったく色気のない日誌だな…)
スクロールする内に指が滑って、原文をそのまま記録してあるデータベースに入り込んだ。前の生での自分が綴った文字をそっくり写し取ったもの。それを見た瞬間、思わず息を飲んでいた。
羽根ペンで書かれた文字の微かな滲みに、ペンの運びに、鮮やかに蘇ってくるそれを記していた時の記憶。その時の自分の息遣いまでが聞こえてきそうな、その確かさ。
夢中になって時の記録を遡った。
今やソルジャーとなったブルーに募る想いを打ち明けようか、どうしようかと迷っていた頃。
迷っているのが自分一人ではなかったことに気付いて、秘かに心躍った日のこと。
そして…。
初めてのキスも、初めてベッドを共にした時のことも、何もかもが其処に残っていた。
(……ブルー……)
彼を喪った日に深い悲しみの中で記した日誌を読んでから、ハーレイはデータベースを閉じた。
何もかもが色を失くしたあの日。自分の生すら呪わしく思い、生きる意味すら失ったあの日。
逝ってしまったブルーの許へと旅立つ日だけを、それからの自分は待ち続けていた。そうやって前の生は終わって、気付けば自分は地球の上に居て。そしてブルーも、また地球に居た。
今度の生では、いつが始まりになるのだろう。
ブルーとの日々はとうに始まっているが、まだ十四歳にしかならないブルーはハーレイの想いを全て受け止めるには幼くて無垢で、小さくて。
そう、今、目の前で聞き入っている小さなブルーがあの頃のように大きくなったなら……。
ハーレイの航宙日誌に纏わる話を目を輝かせて聞いたブルーは、もう嬉しくてたまらなかった。他の人間の目には歴史資料としか思えないそれに、前の生での自分とハーレイとの懐かしい日々が全て記してあるという。
「ねえ、ハーレイ。ぼくもハーレイの日誌、読んでみたいな」
「何も書いてないぞ、つまらんことしか」
強請ってみたら、ハーレイの返事は予想通りで。ブルーはもっと我儘を言ってみたくなる。
「だから、ハーレイの解説付きで! データベースなら、ぼくの端末でも読めるから!」
「…………」
ハーレイの眉間にグッと皺が寄り、それは珍しい仏頂面。ブルーはいそいそと勉強机に置かれた端末を起動し、「ほら」とハーレイに画面を示した。
「えーっと…。初めてキスをしたのって、この頃かな? そして初めてベッドに誘われた日は…」
「そういう話をするんじゃないっ! お前、幾つだ!」
「十四歳だよ。だけど年齢制限は無いよ、航宙日誌」
「揚げ足を取るな!」
この馬鹿者、と褐色の手が横から伸びて端末を操作し、消してしまった。素知らぬ顔でテーブルに戻ったハーレイと再び向かい合って座り、ブルーは「うーん…」と小首を傾げる。
「データベースがダメなんだったら、パパに頼んで買って貰おうかな? 本になったヤツを」
「こら! 超一級の歴史資料をオモチャにするな!」
高いんだぞ、と頭をコツンと小突かれた。
「俺の文字をそのまま写したヤツはな、研究者向けの専門書だから普通の本とは違うんだ。買って貰うなら文庫版の航宙日誌にしておけ、全部揃えても専門書よりはうんと安いぞ」
研究者向けの航宙日誌は一巻だけでもブルーが普段に読んでいる本の何十倍もするらしい。遠い昔にそれを綴ったハーレイ自身ですら、購入を躊躇するような高価な本で。
(でも、欲しいなあ…)
読んでみたいな、とブルーは思う。
父とそう変わらない年のハーレイにだって、そう簡単には買えない値段の航宙日誌。全部の巻を買うとなったら大散財だ、とハーレイは言っているけれど…。
(でもいつか、買って読ませてほしいな)
大好きな声の解説つきで、ハーレイの褐色の指でページをなぞって。
そう、ぼくたちが一緒に暮らせるようになったら、あの頃と今とを重ねてみたい。
ハーレイのことを好きになった頃も、キスをした日も、其処には全部あるというから。
(そんな宝物を一人占めするなんてずるいよ、ハーレイ)
きっとブルーには内緒なだけで、ハーレイは今も度々データベースにアクセスしては、遠く昔に過ぎ去った日々の思い出を読んでいるのだろう。自分だけが持っている秘密の鍵を使って、誰にも読めない懐かしく暖かい日々の記録を宝箱からそっと取り出して。
(…ぼくだって読んでみたいよ、ハーレイ。君の声でちゃんと聞かせて欲しいよ、君の記憶を)
シャングリラに居た頃は「俺の日記だ」と読ませて貰えなかった航宙日誌。
こっそり読もうとは思わなかったし、それは失礼だと思っていた。
でも今は違う。航宙日誌は超一級の歴史資料で、図書館にもデータベースにも在って…。
(誰だって自由に読んでいいんだし、読めるんだしね)
いつか絶対、ハーレイが羽根ペンで書いていた文字をそのまま写した航宙日誌を読んでみたい。自分で読んでも日々の出来事しか読み取れないから、もちろんハーレイの解説つきで。
ソルジャー・ブルーが生きていた頃の日誌はもちろん全部欲しいし、いなくなった後に書かれた日誌も。…其処に自分は居ないけれども、ハーレイの想いはきっと残っている筈だから。
(…うん、やっぱり全巻揃えたいよね、キャプテン・ハーレイの航宙日誌!)
いつかハーレイと結婚する時には家に揃えておきたいな、とブルーは大きく夢を膨らませた。
今の生と前の生とを重ねて、比べ合わせて過ごせば幸せはきっと何倍にもなるに違いない。
欲しくてたまらなくなった航宙日誌は、ハーレイに揃えて欲しいのだけれど。
(…ハーレイが嫌がって買わなかったら、パパとママにお願いすればいいよね)
結婚のお祝いに欲しいと頼めば、高価な本でも喜んで買ってくれるだろう。そうしよう、と思うブルーは全く気付いていなかった。
航宙日誌を結婚祝いに買って貰うのなら、ハーレイとの結婚が大前提。
まずはハーレイと結婚したい、と告げる所から始めなくてはいけない現実に気付かないのが子供たる所以。そんなブルーとハーレイの新居が何処になるのか、其処にキャプテン・ハーレイの手になる超一級の歴史資料な航宙日誌がズラリと全巻並ぶのか否か、それはまだ誰も知らない未来…。
遠い愛の記録・了
※いつもハレブル別館にお越し下さってありがとうございます。
こちらは只今、第1&第3月曜更新となっておりますが…。
第5月曜のある月は第5月曜にも更新して月3にしようかな、と考え中です。
しかし本来、ハレブルは 「別館」 、メインは 「シャングリラ学園番外編」。
更新回数は増やさない方がいいのだろうか、とアンケートを実施しております。
拍手部屋にて9月21日までです、ご協力よろしくお願いします。
第5月曜の更新希望が多かった時は、9月29日から第5月曜更新が始まります。
9月29日に更新する場合は、予告を出します。
更新の有無は毎日更新の 『シャングリラ学園生徒会室』 にて御確認下さいv
←ハレブル別館へのお帰りは、こちらv
←アンケート会場へは、こちらからv
御礼ショートショートの下に、アンケートフォームを設置してます。
ブルーの背丈は一向に伸びる気配もないのに、草木はぐんぐん育って、茂って。日射しも肌には痛いほどになって、蝉の鳴く夏がやって来た。間もなく学校も夏休みに入り、終業式の翌日は平日なのにハーレイが訪ねて来てくれて…。
午前中は柔道部の指導をしてきたとかで、来訪は午後。生まれつき身体が弱いブルーには想像も出来ない世界だったけれど、柔道部員は朝の涼しい内に外を走って、その後は体育館で柔道三昧。
「…凄いね…。ハーレイも一緒に走ってきたの?」
「決まってるだろう! 俺がついていれば気合も入るし、俺も運動は好きだしな」
部員たちと一緒に走ってきた上、柔道の技の指導まで。学校からブルーの家までの距離も普通に歩いてきたのだと言うし、ハーレイの体力は凄すぎる。
「ハーレイ。もしかして今も体力、余ってる?」
「そうだな、プールがあったら軽く泳ぎたい気分だな。…学校で少し泳いではきたが」
「ええっ!?」
まさかプールに入ってきたとは思わなかった。それも水泳部の生徒に混じってコースを何往復も泳いだだなんて、少しと呼ぶには多すぎだ。ブルーは水泳の授業は大抵見学、たまに入っても少し泳げば疲れてしまう。コースの端から端まで休み無しなんて絶対に無理だ。
「…ぼくって、ホントに弱過ぎなんだ…」
「しょげるな、頭はいいんだろうが」
それで充分いいじゃないか、とハーレイの手がブルーの頭をクシャクシャと撫でた。
「俺と一緒に走れとは言わんし、泳いでくれとも言わないさ。お前には似合わないからな」
「でも……」
ハーレイと一緒に並んで走ってみたかったな、という気もする。水泳の授業も大嫌いだけれど、ハーレイの隣で泳げるのならば悪くない。それが出来ない自分の身体は…。
「…やっぱりハーレイと走ってみたいし、泳いでみたいな」
「馬鹿! それでお前が寝込んだりしたら、俺は思い切り寝覚めが悪いぞ」
無茶はするな、と言い聞かされる。ハーレイに迷惑はかけられないから、走るのも泳ぐのも我慢あるのみ。出来たらいいな、と夢見るだけで終わりにしておくべきなのだろう。
ともあれ、今日から夏休み。平日でもハーレイが来てくれる日が多くなる。そう、明日だって。
会社から帰った父も交えての夕食の席で、ブルーは普段よりずっと気分が良かった。いつもなら夕食の後はお別れ、土曜日だったら翌日も会えるが日曜の時はそうはいかない。次の週末まで食卓にハーレイの姿は無いわけで…。
(ハーレイ、明日も来てくれるものね。日曜じゃないのに)
考えただけで頬が緩んでしまいそうになる。そんな自分を抑えつけていたら、父が立ち上がって棚からお気に入りのウイスキーのボトルを持って来た。
「ハーレイ先生。休みに入られたことですし、一杯どうです?」
美味いんですよ、と父が勧めてグラスも並べる。
「ありがとうございます。遠慮なく頂戴させて頂きます」
「どうぞ、どうぞ。いつもブルーがお世話になっていますから」
グラスに注がれた琥珀色のそれを、ハーレイは氷も入れずに口に含んでみて。
「…いい酒ですねえ、これはこのままで頂かないと」
「ハーレイ先生、いける口ですね。水割りもなかなかに美味いんですよ」
御遠慮なく、と父は嬉しそうに言い、夕食の後は母がチーズや軽いつまみを用意しての時ならぬ宴会となった。酒が飲めないブルーと母は紅茶とクッキーだったけれども、父たちの話を聞くのも楽しいものだ。
最初の間は仕事の話も混じっていたのが、いつしかブルーとハーレイが共に持っている前の生の記憶へと移っていって。
「シャングリラでは酒といったら合成でしたよ、仕込むなどは夢のまた夢でしてね」
「…そうでしょうねえ、補給の問題もあったでしょうし」
「いえいえ、その前に嗜好品に手間はかけられませんよ。あれば充分、そんなものです」
ブルーが好きだった紅茶にしても、とハーレイはグラスを傾けた。
「香りは二の次、三の次でした。その紅茶も酒も、今では地球の水で淹れたり仕込んであったりと最高の贅沢なんですよ。…思い出す前の私は有難さに気付いていませんでしたが」
実にもったいないことをしてしまいました、とハーレイが笑う。
「酒は色々と飲んできましたし、地酒なんかもあれこれと…。あの頃に記憶が戻っていたなら、格別の美味さだったんでしょうなあ」
「はははっ、そういう楽しみ方もありますか! …お一人で二人分ですねえ」
父とハーレイとの弾む話に、ブルーは微笑みながら聞き入っていた。前世の話は今までにも何度か出てはいたのだが、今日のハーレイは本当に楽しそうに話す。辛かった筈の頃の話を、懐かしい昔話のように…。
次の日、ハーレイは昨日と同じように午後から来てくれた。柔道部に加えて軽く泳いで、歩いてブルーが待つ家まで。その体力もさることながら…。
「ねえ、ハーレイ。お酒ってホントに美味しいの?」
ハーレイと自分の部屋のテーブルで向かい合ったブルーは昨日からの疑問をぶつけてみた。父と二人でグラス片手に大いに語り合っていたハーレイ。二人とも酔っていなかったのに、普段よりも滑らかだった口調は恐らくは酒のお蔭であって…。
「酒か? 美味いぞ、昨日お父さんに御馳走になった酒なんかは、もう最高に美味かった」
「……そうなんだ…」
分かんないや、とブルーは呟く。十四歳の今はもちろん、前の生でもブルーは酒を好んで飲みはしなかった。合成の酒が不味かったというわけではなくて、実のところ、酒に弱かったのだ。
ハーレイの部屋に行けば酒があったし、美味しそうに飲む姿を目にして「ぼくにも」と強請って飲んでみたことも少なくはない。ところが下手をすれば翌日は頭痛の二日酔いコースで、そこまで酷くはなかった時でも身体は熱いしフラフラするしで…。
「お前は酒は駄目だったしなあ…。それで美味いとも思わなかった、と」
ハーレイの指摘に「うん」と頷く。
「だけど今度は飲めるようになってみたいんだけど…」
「何故だ? 無理に飲んでも二日酔いだぞ」
「…そうなんだけど…」
ハーレイと一緒に飲みたいな、とブルーは赤い瞳で見詰めた。
「一緒に走るのは絶対無理だし、泳ぐのだって…。でも、飲むだけなら出来ると思う」
「………。お前、幾つだ? 酒は何歳からだった?」
呆れたような顔のハーレイに「二十歳……」と法律とやらで決まった年を答える。
「話にならんな。まだ六年も先のことだぞ、お前」
それにお前には多分無理だ、とハーレイは指でブルーの額をつついた。
「前と同じで身体は弱いし、すぐに倒れてしまうしな? そういうヤツには酒は向かない」
「体質は変わっているかもだし!」
食い下がるブルーにハーレイが可笑しそうに笑いを堪える。
「そっくり同じに弱いくせして、体質も何もないもんだ。きっとお前は酒にも弱いさ」
「今度は耳は聞こえてるし!」
「生憎だったな、その点は俺も全く同じだ」
補聴器要らずの耳ってな、とハーレイは自分の耳に手をやった。
「しかし、まあ…。お前がそこまで言うんだったら、二十歳になったら飲んでみろ。酔っ払うのも頭痛がするのも俺じゃなくってお前だからな」
二日酔いに効く薬くらいは買ってやろう、と笑われた。やっぱり自分は今の生でもアルコールに弱い身体なのかもしれない。けれど……。
ハーレイと一緒に走るのも無理、泳ぐなんてことも絶対に無理。
どちらもハーレイの大好きな趣味で楽しそうなのに、自分はそれを分かち合えない。それならば父と酒を酌み交わしていた時のハーレイの笑顔、あれを自分も分かち合いたい。運動はとても無理だけれども、酒ならばきっと…。
「…ハーレイと飲んでみたいんだよ。ハーレイが好きなお酒を、一緒に」
「俺が美味いと言ったからか? しかしだな、お前にとっても美味いかどうかは分からんぞ」
「好きになるよ!」
頑張って飲んで好きになるよ、とブルーは言った。
「最初はダメでも何度か飲んだら平気になるかもしれないし! そして好きになる!」
「……お前なあ……」
無理をして飲む馬鹿が何処にいるか、とハーレイがブルーの頭に手を置く。
「それに美味くて飲むならともかく、我慢して飲むのは美味い酒にも失礼だ」
「だけど…! ぼくもハーレイと飲みたいよ!」
ブルーはムキになって返した。昨日はあんなに楽しそうだったのに、と。
「絶対、ハーレイと飲むんだってば! パパしかハーレイと飲めないなんてずるい!」
「…お前のパパなあ……」
問題は其処か、とハーレイはさも可笑しそうに笑い始めた。
「なるほど、お前はお父さんが俺と飲んでいたのが羨ましかったわけだ。…将来、お前が頑張って酒を克服するとしてだな…」
「克服するよ! 絶対、飲めるようになる! 美味しいって言う!」
ブルーが懸命に主張しているのに、ハーレイの笑いは止まるどころか大きくなって。
「ははは、克服するんだな? それはいいとして、酒はだ、二十歳からだ。それは分かるな?」
「分かってるよ!」
「うんうん、お前が十八歳で俺と結婚するなら、俺は当分、お父さんと飲むしかないんだなあ…。お前、二十歳じゃないんだからな」
「えっ……」
予想もしなかったハーレイの言葉にブルーは目を丸くしたのだけれど。
「そうだな、お父さんしかないな。…よし、結婚したらお前の家に住むことにしよう。飲み友達が出来そうだしな」
昨日の酒は実に美味かった、とハーレイがパチンと片目を瞑る。昨夜、父とグラスを傾けていたハーレイの顔は傍で見ていても心が暖かくなるようなもので…。
「ずるい、ずるい、ずるいーっ!!」
それに酷い、とブルーは椅子から立ち上がらんばかりの勢いで抗議した。
「ぼくがいるのにパパとだなんて、そんなのずるいし、酷すぎるよ!」
「仕方ないじゃないか、お前は十八歳なんだから」
二年間ほど我慢しておけ、とハーレイはいとも涼しげな表情で返す。
「なあに、たったの二年の我慢だ。そうすれば二十歳になる。それまでは俺はお父さんと飲むさ」
「絶対やだっ!」
ブルーは今度こそガタンと立つと、テーブルにダンッ! と両手をついた。
「ハーレイがそんな意地悪言うなら、飲めないようにしてやるから!」
「…ん? 俺の大事な酒を捨てる気か?」
「そんなのしないよ!」
いくらブルーが腹を立てても、酒を捨てるような真似は出来ない。自分には飲めない嗜好品でもシャングリラでは貴重だった酒。ましてや合成品ではなくて地球の水で仕込んだ酒ともなれば…。
けれどハーレイが父と二人で酒を酌み交わし、自分が其処に入れないなど論外だ。
そんな結末を迎えるだなんて、とんでもない。それを防ぐには手段は一つ。
ブルーはテーブルについた両手をグッと握ると、ハーレイに向かって宣言した。
「もう決めた! パパと一緒に飲めないように、ハーレイの家に住んでやるからっ!」
「……俺の家にか?」
「そうだよ! 結婚したら絶対、ハーレイの家に住んでやるっ!」
そしたらパパと飲めないもんね、と言い放ったブルーの顔には「ざまあみろ」と書いてあったのだけれど、ハーレイの方はプッと吹き出し、必死に笑いを堪え始めた。それが何故だか分からないブルーは得意の絶頂から突き落とされた怒りも併せて背後に回ると、広い背中をポカポカと叩く。
「ハーレイ、何が可笑しいわけ!? ねえ!」
「いや、まあ、なあ…? ははは、俺の家にお前が来るんだな?」
「そうだってば!」
決めたんだからね、とブルーは唇を尖らせた。
「ぼくが二十歳になったら一緒に飲むから、家で飲み友達は無し! パパとはダメっ!」
「分かった、分かった。結婚したら俺の家に住む、と」
「うんっ!」
勢いよく「うん」と返事してから、ブルーはハタと気が付いた。
ハーレイと一緒に飲むことだけを考えて突っ走ってしまったけれども、自分は何を言ったのだ?
(……も、もしかして……)
結婚したらハーレイの家に行くと宣言しなかったか?
あまつさえ、酒が飲めるようになる二十歳までは二年もかかる十八歳で結婚することを前提に。今の学校を卒業するのが十八歳だし、すぐに結婚出来たらいいなと思ってはいたが…。
(……い、言っちゃった? 十八歳で結婚したいって言っちゃった?)
おまけにハーレイの家で暮らすと言ってしまったし、どうしたら…。
(ダメダメダメ~~~ッ!)
耳の先まで真っ赤に染まったブルーは慌てて口を開いて叫んだ。
「い、今のは無し! ぼくは何にも言ってないから!」
「………。そうだったか? 十八歳で俺と結婚するとか、俺の家に来るとか聞こえたが…」
俺の耳は昔と違って確かなんだが、とハーレイがニヤニヤ笑っている。
「補聴器もしていないしな? お前が十八歳で俺のものになると確かに聞いたが」
「言ってないってば!」
「…ふうん? だったら我慢をするってことだな、十八歳では結婚せずに」
「……そ、それは……」
絶対無理! とブルーは悲鳴を上げた。
恥ずかしすぎる宣言は撤回したいが、結婚が延びるのは何よりも困る。ハーレイがいるのに結婚しないで我慢なんて出来るわけがない。それくらいなら多少、恥ずかしくても…。
「やっぱり言った!」
今のは取り消し、と全身が赤く染まりそうな顔で俯けばハーレイの笑い声が大きく響いた。
「そうか、言ったか。…今日の所は忘れておいてやるよ、お前、脱線しただけだしな」
……酔っ払いの寝言だと思っておくさ。
そう告げたハーレイが囁いた言葉に、ブルーはもうこれ以上は赤くなれないと思ったものだ。
「…寝言はともかく、俺と結婚してくれよ? いつかプロポーズはちゃんとするから」
ハーレイがそれをどんな顔をして言ったのだろう、とブルーが視線を上げた時には何も無かったかのように穏やかで優しいいつもの笑顔。鳶色の瞳も普段通りで、特別な所は何処にもなくて。
(……今のも一応、プロポーズだよね?)
縋るような瞳を向けてみたけれど、答えは返ってこなかった。
夏の午後の日射しに目が眩んで白昼夢を見た、というわけではないと信じたい。
でもハーレイはあまりにも普通で、だからブルーは首を傾げることになる。
ハーレイ、本気?
…それとも、冗談?
ねえ、ハーレイ…。本当に分からないんだけれど…。
そしてハーレイも心の奥で苦笑する。
自分と一緒に酒を飲みたい、と言ってくれるブルーは可愛いけれども、まだまだ子供。
飲み友達の座を自分の父に取られないよう、結婚したら家に来るなどと言い張られても…。
(ブルー、其処はな…。もう少し色気のある理由と言い回しとを選ばないとな?)
それから俺の家に来い、とハーレイはブルーに気取られないよう、小さな姿をじっと見詰めた。
まだ身長が百五十センチしか無いブルー。
ゆっくりゆっくり幸せに育って、いつか前世と同じ背丈になったなら…。
いつまでかかるか分からなくても、それを待つ時間も幸せだった。
遠い昔に失くしてしまった愛するブルーが、自分の許に帰って来たのだから……。
羨ましいお酒・了
※いつもハレブル別館にお越し下さってありがとうございます。
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