シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
ぼくの前世はミュウの長だったソルジャー・ブルー。
でも、知っている人はパパとママと、ぼくを診てくれたハーレイという苗字のお医者さんだけ。
そしてもう一人、お医者さんの従兄弟でぼくの学校の古典の先生、ハーレイもぼくの前世が誰か知っている。そのハーレイが前世でのぼくの恋人なんだ。もちろん今も恋人だけど。
ぼくとハーレイは蘇った青い水の星、地球の上に生まれ変わって再会したんだ。
今、ぼくたちが暮らす地域は遙かな昔に日本という国があった場所。
前の生の頃、SD体制の時代には古い習慣とか伝統なんかは廃れていたように思われてるけど、そんな時代でも神様という概念はあってクリスマスもちゃんと残ってた。
それから長い年月が経って、今、ぼくたちが暮らす地球では、SD体制よりも前の時代の色々な風習を復活させて味わい、楽しんでいる。
例えば、ぼくがハーレイと再会した日の二日後は五月五日で端午の節句。
五月の三日に前世の記憶を取り戻したぼくは、それと同時に血まみれになった。前の生の最期にメギドで撃たれた時の傷痕。お医者さんは聖痕現象と診断したけれど、身体には何の傷も無いのに沢山の血が流れ出したそれ。
あまりに出血が酷かったからと、その週は学校を休むことになった。そのせいで五月五日も家に居たぼくは、ハーレイの授業を聞き損なって…。
次の週にようやく登校出来て、友達に聞いてガッカリしたんだ。端午の節句について習う授業は歴史じゃなくて古典の管轄。ハーレイの授業で柏餅と粽が配られて、みんなで食べたんだって。
柏餅と粽はお店で買えるけど、ハーレイと一緒に食べてみたかった。端午の節句の話を聞いて、柏餅と粽の由来を聞いて。
「先生、桜餅にはどういう由来があるんですか!」なんて質問が飛び出したりして、凄く楽しい時間だったらしい。桜餅には何の由来も無かったけどな、と友達が笑って教えてくれた。
柏餅も粽もハーレイが赴任してくる前から手配されてたお菓子で、ハーレイは古典の授業の一環として食べながら話しただけなんだけど…。授業なんだって分かってるけど、食べたかったな。
だって、大好きなハーレイの授業。ハーレイの声を聞きながら一緒に食べられるだけで、柏餅も粽も特別な味になった筈だと思うから…。
そういう少し変わった授業は当分何も無さそうだな、って思っていたら七夕の話を教わった。
来週が七夕、恋人同士の二つの星が一年に一度、天の川を渡って会う星合いの日だと。
彦星と織姫、アルタイルとベガ。
今では銀河系の中の恒星だって分かってるけど、それを天に住む人だと信じた昔の人たちは幸せだったんだろうなと思う。
その時代、地球は今と同じように、ううん、今よりももっと青くて綺麗だっただろうから。
地球に人が住めない時代が来るなんて誰も思わなかっただろうから。
生活は今よりもずっと不便で厳しい時代だったと思う。でも、地球の上に住んでいられるだけで人間はきっと幸せだったと思うんだ。自分では全く気付いてなくても。
前の生でのぼくとハーレイには地球は無かった。
地球を探して、地球に行きたくてシャングリラで宇宙を彷徨っていた。
そんな記憶があるからだろうか、ぼくは地球に居られればそれで充分かな。友達は将来、何処か他の星で暮らしてみたいとか話してるけど、ぼくは地球しか知らなくてもいい。
遠い昔にシャングリラが潜んだ雲海の星、アルテメシアにも行ってみたいとは思わないし。
アルタイルもベガも、ぼくがシャングリラで長い眠りに就いていた間に地球を探して立ち寄ったらしい。地球が属するソル太陽系の座標が全く掴めなかったから、恒星はもれなく探索の対象で。
だけどアルタイルもベガも、地球を連れてはいなかったんだ。
ハーレイの授業でシャングリラの話が出るわけもなくて、習ったものは七夕に纏わる言葉など。
ぼくたちの年ではもうやらないけど、小さな頃には七夕といえば笹飾りを作って家に飾った。
折り紙の細工や、願い事を書いた短冊を吊るして七夕を待った。七月七日は晴れますように、と天気予報を心配してた。雨が降ると彦星と織姫は会えなくなるって聞いていたから。
七月七日に降る雨のことを何と呼ぶのか、ハーレイの授業で初めて知った。催涙雨だって。天の川の水が増えてしまって会えない二人が泣くからだとか、二人が流す涙だとか。
天の川を渡るための橋も何で出来てるのか知らなかった。カササギという鳥が翼を広げて一列に並んで作る橋。その橋を詠んだ遠い昔の人の歌も出て来た。
一年に一度しか架からない橋。
もしも、ぼくとハーレイが一年に一度しか会えなかったら?
ぼくは前の生の終わりにハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ。もう会えないと、ハーレイには二度と会えないんだと…。
だから一年に一度しか機会が無くても、会えるのならそれで充分嬉しい。
でもやっぱり……一年に一度しか会えないだなんて悲しいとも思う。
きっと、ぼくは欲張りになったんだろう。
この地球の上でまたハーレイに会えて、独りぼっちじゃなくなったから。
ハーレイと二人で地球に居るのに、一年に一度じゃとても足りない。学校で会って、ぼくの家で会って、殆ど毎日会っているけど、それでもまだまだ足りないんだから…。
七夕の授業があった週の土曜日、いつものようにハーレイが訪ねて来てくれて。
「ねえ、ハーレイ。七月七日は晴れるといいね」
そう言ったら「昔は雨になることが多かったんだぞ」って教えてくれた。古典の授業の範囲じゃないけど、昔、この場所に在った日本という国では七月七日は雨の季節の真っ最中で。梅雨という言葉まで存在したほど、雨ばかり続いていたんだって。
「ふうん…。それだと一年に一度会うのも難しそうだね。もしかして毎年、催涙雨だった?」
「さあな? しかしだ、そのまた昔は雨の季節じゃなかったそうだぞ」
「えっ?」
今のこの場所に梅雨が無いのはSD体制崩壊後の地殻変動で地形が変わったせいだと聞くのに、それよりも前に大規模な変動があったんだろうか?
それは全然知らなかったな、と首を傾げたら。
「ブルー、変わったのは地形じゃなくて暦だ。カレンダーだな」
「え? …カレンダー?」
一年が十二ヶ月のカレンダー。SD体制の前も、SD体制の頃も、今の時代もカレンダーは同じ十二ヶ月だと思ってた。地球の公転で決まる筈のそれが変わるだなんて初耳だけど…。
「ずっと昔はカレンダーが別のものだったんだ。今でも売っているだろう? 月のカレンダーを」
「…月齢カレンダーっていうヤツのこと?」
あまり馴染みは無かったけれども、月の満ち欠けを書いたカレンダーなら知っている。
「そうさ、昔はそっちを使っていたんだ。その暦だと七夕の頃には雨の季節は終わった後だ」
「…そうだったんだ…」
なんだか頭がぐるぐるしてきた。
遙か昔のこの地域では、七夕は梅雨で雨ばかり。だけどそのまた前の時代は雨が降らない時期の七夕で、いったいどっちが正しいんだろう?
太陽のカレンダーの方? それとも月のカレンダー?
地球は太陽の周りを一年かけて回ってるんだし、太陽のカレンダーが正しいのかな?
でも、でも、でも。
太陽のカレンダーだと七夕が雨の季節になるなら、月のカレンダーの方がいいな、と思う。
だって、雨の七夕ばかりが続くと彦星と織姫は何年も会えなくなっちゃうから。
彦星はアルタイル、織姫はベガで、神様じゃなくて恒星なんだって分かってるけど…。
でもでも、会えないより会える方がいい。
催涙雨ばかりになってしまいそうなカレンダーより、断然、月のカレンダー。
そう思ったから「月のカレンダーにしてあげたいな」とハーレイに言ったら「そうだな」という答えが返って来た。
もしも、ぼくとハーレイとの間に天の川があって、一年に一度しか会えなかったなら。
その日に雨が降ってしまったら、カササギは橋を架けてくれない。
橋が無くても前のぼくならサイオンの力で飛び越えられたし、会えた筈。
でも、今のぼくは空を飛ぶことも瞬間移動も出来ないんだから、飛び越えられない。
天の川なんかがあったら困る。
一年に一度しか会えない七夕の日が雨になったら、泣いて、泣いて、涙が催涙雨になる。
だけど…。
「ハーレイなら天の川、泳いで渡ってしまえるかもね」
水泳が大好きなぼくの恋人。
学生時代は選手だったほどに泳ぎが上手くて、身体も丈夫なハーレイだったら…。
「お前に会うために泳ぐのか? それなら泳ぐさ、どんなに川幅があったとしてもな」
「…そっか…」
自信あるんだ、と嬉しくなった途端にふと思い出した。
七夕の日に天の川に架かる橋はカササギの橋。沢山の鳥が翼を広げて一列に並んで作る橋。
カササギは小さな鳥だけれども、ハーレイみたいに大きな身体でも大丈夫かな? 重さに負けて潰れないかな、と少し心配になったから。
「…ハーレイは泳いだ方がいいかも…。カササギの橋、ハーレイの体重に耐えられるかな?」
「こら、お前!」
コツン、と頭を小突かれた。
「俺がカササギの橋を踏み抜くってか?」
「踏み抜きそうだよ?」
「お前な…。お前、俺に会いたいのか、会いたくないのか、どっちなんだ」
橋を踏み抜いたら俺はお前に会えないわけだが、とハーレイがぼくを睨んでる。腕組みまでして怖そうな顔をしてみせてるけど、怒っていないって分かってしまう。鳶色の瞳が笑ってるから。
「…ハーレイ、答え、知ってるくせに」
天の川が大雨で溢れていたって、ぼくはハーレイを信じてるから泣かないよ。
きっとハーレイなら泳いでくると思うから。
カササギが橋を架けてくれなくっても、ぼくは泣かない。
泣かずに待っていれば必ず、ハーレイが泳いで来てくれるから…。
「ずいぶんと信用されたもんだな、俺も」
天の川を泳いで渡り切ろうってほどの勢いか、とハーレイは苦笑しているけれど。
「…来てくれないの?」
「いや、泳ぐ。お前が向こう岸に居るなら、どんな川でも俺は泳いで渡ってみせる」
向こう岸が見えないような川でも泳ぎ渡る、と鳶色の瞳の色が深くなった。
「ブルー、お前に会えるんだったら、俺は必ず泳いで行く」
ハーレイが右手を差し出してきて、ぼくの右の手をキュッと握った。
前の生で最後にハーレイに触れた手。ハーレイの温もりを最期まで覚えていたかったのに、銃で撃たれた傷の痛みで温もりを失くしてしまった右の手。
その手を握って、ハーレイはぼくを真正面から真剣な瞳で見詰めた。
「…本当はメギドまで追いたかったんだ。お前を追い掛けて飛びたかった」
「……それはダメだよ、ハーレイはキャプテンだったんだから」
「そう思いたかっただけかもしれん。全てを捨て去る覚悟があったら、あの時、俺は飛べたんだ」
シャングリラもキャプテンの制服も何もかもを…、とハーレイが苦しげな顔になる。
ぼくが飛び去って直ぐに追い掛けていれば、自分もメギドに行けた筈だと。
そうすることが可能な船が格納庫に何機も在ったのだから、と。
「…あの時、俺とお前の間には溢れた天の川があったんだろう。…実際、宇宙があったんだがな。溢れた川を渡る勇気を俺は持ってはいなかった。そしてお前を喪ったんだ」
「違うよ、ハーレイ。…ぼくはジョミーを頼むと言ったよ、君はそのために残ってくれた」
「俺もそうだと思っていた。…しかしな、お前のことを最優先で考えるのなら、俺はお前を追うべきだった。俺がお前を追わなかったから、お前の右手は凍えてしまった」
この手だ、とハーレイはぼくの右手を大きな両手で包み込んだ。
「俺は二度と後悔したくない。天の川を渡らなかった自分の馬鹿さ加減に涙するのはもう沢山だ。…だから俺は渡る。どんなに広い川であろうと、俺はお前の所まで泳ぐ。…いいな?」
「…うん……。ぼくも待ってる。ハーレイが来る、って信じて待ってる」
催涙雨なんか降らせないよ、と言ったけれども。
ぼくの瞳からは大粒の涙がポロリポロリと零れて落ちた。
この涙はぼくの涙だけれども、ぼくはぼくでも前のぼくの涙。
ハーレイと離れて独りぼっちで死んでいったソルジャー・ブルーが天の川のほとりで零した涙。
もうハーレイには会えないのだと、右の手が凍えて冷たいと泣いた。
だけど、向こう岸からハーレイが来る。泳いで渡って来てくれるのだ、と…。
ハーレイとそんな話をしたから、少し切ない気持ちになった。
天の川のほとりに立ち尽くしたまま、ハーレイが泳いでやってくるのを待った前の生のぼく。
本当にハーレイが川を渡って来てくれたから、ぼくたちは地球の上で会えたんだと思う。
だけどそれまでに、ソルジャー・ブルーは一人きりで何度泣いたのだろう。
どのくらいの涙が瞳から零れて雨になったのか、どのくらい一人で待っていたのか…。
前の生でのハーレイの命が尽きたら直ぐに会えたんだろうか?
きっと会えたと思いたい。
そうでなければ悲しすぎる。今年こそ会える、今年こそ…、って泣きながら待っているなんて。
ソルジャー・ブルーがメギドを沈めた後、数年が経ってSD体制は崩壊した。
だから前のぼくが独りぼっちで待った時間は数年だけだと思いたいけれど…。
催涙雨は数年分しか降っていないと思いたいけれど、こればかりはぼくにも分からない。
生まれ変わって来るまでの間は何処に居たのか、それすらも分からないんだから。
翌日の日曜日には七夕も催涙雨もすっかり忘れてしまって普段どおりのぼくだったけれど、その週の半ば、学校からの帰り道で七夕飾りを見かけた。
バス停から家まで歩く途中にある家の玄関先に、ぼくの背丈くらいの笹飾り。きっと小さい子が居る家だろう、色とりどりの紙の飾りや短冊が幾つも結んであった。
それを見たら思い出したんだ。
ハーレイと話した天の川のこと、天の川のほとりで涙を零していた前のぼくのこと。
今のぼくはハーレイと毎日のように会えるけれども、会えなかったなら…。
一年に一度しか会える日が無くて、その日に会えなかったなら。
どれほど悲しくて寂しいだろう、と考えただけで涙が零れてしまいそうだから。
青く晴れた夏の空を見上げて、心の中で願いをかけた。
催涙雨が降りませんように。
どうか今夜は晴れますように、って。
だって、会えないだなんて寂しすぎるし、悲しくて辛い。
ハーレイは天の川でも泳いで渡ると言ってくれたけど、彦星にそれは難しそうだ。
彦星と織姫がカササギの橋を渡って会えるようにとぼくは祈って、七夕の夜は綺麗に晴れた。
そして次の日に気が付いた、ぼく。
七夕の笹に結ぶ短冊。お願い事を書いて吊るしておくのが七夕だった、と。
背が伸びますようにと頼めば良かった。
お願いするのを忘れただなんて、ちょっと間抜けで誰にも言えない。
失敗だった、ぼくの七夕。
でもハーレイには今日も会えたし、いつかは一緒に暮らせるんだから焦らなくても大丈夫。
天の川でも泳いで渡るとハーレイは言ってくれたから。
ぼくたちは二度と離れないから……。
催涙雨・了
※天の川でも泳いで渡ろうというハーレイ先生。川幅、どのくらいあるんでしょうね?
それでもハーレイは泳ぐのでしょう、二度と後悔しないために。
毎日更新の「シャングリラ学園生徒会室」の方でお馬鹿な私語を始めました。
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青い地球の上に生まれ変わったブルーとハーレイが再会してから、あと少しすれば三ヶ月。
ハーレイが教師を務め、ブルーが通っている学校もとうに夏休みに入った七月の末。夏休み前はハーレイがブルーの家を訪ねて来る日は土曜と日曜、平日は滅多に来てくれなかった。その来訪が夏休みのお蔭で劇的に増えて、平日でも朝から夜まで一緒に過ごせる日も多い。
研修や柔道部で丸一日が潰れない限り、毎日のように自分の家でハーレイに会える。天気のいい日は庭で一番大きな木の下に据えられたテーブルと椅子でお茶を飲んだり、食事することも。もう嬉しくてたまらない日々だが、ブルーには切実な悩みがあった。
それは全く伸びない背丈。今の学校に入学した春、ブルーの身長は百五十センチちょうど。その後の測定で伸びていることを期待したのに、一ミリも伸びはしなかった。
自分の部屋のクローゼットに鉛筆で微かに引いた線。床から百七十センチの所に付けた印が前の生でのブルーの背丈で、そこまで大きく育たなければハーレイと本物の恋人同士になれないのだ。
ハーレイ曰く、ブルーは「立派な子供」。
子供相手に前世でのような深い関係を持つつもりはなく、キスすらもまだ早いと言われた。額と頬にはキスしてくれるが、そのキスは子供向けのキス。幼い頃から父と母がしてくれるキスと全く変わらず、恋人同士のキスではない。
ブルーがハーレイにして貰いたいキスは唇へのキスで、前の生では唇を重ねるだけと違って更に深くて甘いもの。そういうキスを交わしたいのに、唇すらも重ねられないこの現実。
何度も何度もキスを強請っては「駄目だ」と叱られ、断られてきた。
再会を果たして間もない頃には会う度にキスをしようとして果たせず、酷く寂しい思いをした。流石に三ヶ月近く経った今では「キスは許して貰えないらしい」ともう諦めているのだけれど。
(…でも……)
毎日のように自分の家で会える夏休みが始まったことで、再び欲が出始めた。学校があった頃は平日は教師と生徒だったし、家ならともかく、学校ではベッタリ甘えるわけにはいかない。それが今では平日だって甘え放題、うんと距離が縮まった気がするわけで。
(…それなのにキスも出来ないだなんて…)
せっかく恋人同士で過ごしているのに、キスも無し。これではあんまり寂しすぎる。前の生での深くて甘いキスは無理でも、せめて唇を重ねるくらい…。
(ほんのちょっと、ちょっぴりだけでいいから唇にキス…)
して欲しいな、とブルーは思った。背丈が百七十センチに満たないどころか百五十センチのままでは恋人同士のキスは絶対に無理。それでも大好きなハーレイと唇を重ねてみたい。触れるだけのキスでかまわないから、唇にキスが欲しかった。
ほんの少しだけ、恋人気分。きっと幸せが胸一杯に満ちるだろうに…。
(ハーレイのキス…。ホントに欲しいな…)
そう思うけれど、どうすれば唇へのキスを貰えるだろう?
ハーレイは前に確かにこう言った。「お前へのキスは頬と額だけだと決めている」と。
(…だけど……)
自分が前世と同じ背丈に育つまでは駄目だと告げたハーレイ自身も、心の奥では揺れている筈。現にブルーがハーレイの家に呼んで貰えない理由は「ハーレイの抑えが利かなくなるから」。
つまりハーレイも本当の所はブルーにキスをしたいし、その先のこともしてみたいのだ。我慢に我慢を重ねているだけ、大人らしく振舞っているだけで…。
(……だったら可能性はゼロじゃないよね)
何か方法がある筈だ、とブルーは考えを巡らせ始めた。今までにキスを断られ、叱られた経験は多数。強請っては断られ、キスしようとして叱られ…。
(…ぼくの方からキスしようとするからダメなんだよ、うん)
どうもそういう気がしてきた。
ずっとずっと昔、前の生でハーレイと本物の恋人同士であった頃。キスを交わす時はハーレイがブルーの顎を捉え、あるいは身体ごと組み敷いて熱い唇を重ねてきた。もちろん自分から強請ったこともあったが、キスは圧倒的に「貰うもの」であり、求めずとも与えられるもの。
(ということは……)
ブルーからキスを持ち掛けるよりも、ハーレイがブルーにキスしたくなるようにするのが正しいやり方なのだろう。ブルーはキスを受け取るだけで、主導権はあくまでハーレイに。
(ハーレイがぼくにキスをしたいと思うようにすれば上手くいくかも!)
そういう方向で考えたことは一度も無かった。ひたすらキスを強請るばかりで、ハーレイがどう思っているかは微塵も考慮していなかった。
ハーレイだってきっとキスをしたい気分でいる時もあれば、そうでない時もあるだろう。自分は間違えたのかもしれない。キスして欲しいと強請るタイミングだとか、雰囲気だとかを。
(…そういうものって絶対あるよね…)
今のブルーにはよく分からないけれど、前世でソルジャー・ブルーだった頃は色々とハーレイに気を遣っていた。青の間に来て欲しいと誘う時にも、ハーレイの部屋へ行きたいと強請る時にも。
二十四時間、いつでも遠慮なく逢瀬を重ねていたわけではない。ハーレイの方もそれは同じで、互いに相手を思いやっては、同じベッドで眠りはしても「おやすみのキス」だけの日もあって。
(…でも、おやすみのキスは貰えたんだよ)
あれも唇へのキスだった。唇が触れ合うだけの優しいキス。ああいうキスでいいから欲しい。
でも……。
キスが欲しいと強請っても駄目、「キスしていいよ」と言ってみても駄目。
ハーレイにも「キスをしたい気持ち」はあるというのに、未だにキスをして貰えない。雰囲気がまずいのか、強請るタイミングを間違えているか。
(どうすればキスして貰えるんだろう?)
ハーレイがブルーにキスしたい気持ちになりさえすれば、キスを貰えそうに思うのだけど…。
(…ぼくから頼んでもダメだってことは、ハーレイが自分からそういう気持ちにならないと…)
そんなことってあるのだろうか、とブルーは前の生での膨大な記憶を遡ってみる。
本物の恋人同士の時間を過ごす時のキスは論外、何の参考にもなってはくれない。当然のようにキスを何度も交わしていたし、強請ればいくらでもキスしてくれた。強請るまでもなくキスの雨が降り、唇だけでは済まなかった。
(えーっと…。他に頼まなくてもキスされた時は…)
そちらも星の数ほどあったが、キスを貰ったら恋人同士の時間の始まり。ハーレイの逞しい腕に抱き上げられてベッドに行くのが普通だったし、これまた全く参考にならず…。
(…キスだってして貰えないのに、キスの先までセットだなんて…)
おやすみのキスだけで充分なのに、と思ったけれども、ハーレイと一緒に寝ていない以上、そのキスは貰えそうにない。本当に触れるだけのキスでいいのに…。
(……あっ!)
そういえば触れるだけのキスを何度も貰った。おやすみのキスとは違って、起きる前のキス。
ハーレイと同じベッドで眠って、ハーレイが先に目覚めた時。今と同じ虚弱体質だったブルーはいつもハーレイのキスで起こされていた。「もう朝ですよ」と。「起きられますか?」と。
恋人同士の熱い時間を過ごした翌朝は言うに及ばず、ただ寄り添い合って眠っただけの次の日もハーレイはブルーの身体を気遣う言葉をかけつつ、唇にキスをしてくれた。ブルーがしっかり目を覚ますまで、幾度も幾度も、触れるだけのキスを。
(…そっか、寝ている時ならいいかも!)
もしもブルーが眠っていたなら、ハーレイは思い出すかもしれない。前の生でブルーが目覚めるまでキスを繰り返したことを。まるで小鳥がついばむかのように、優しいキスを降らせたことを。
(うん、キスしたくなるかもしれないよね!)
なにより自分はぐっすり眠っているわけなのだし、キスされたことにも気付かないように見えるだろう。慎重なハーレイだけに声をかけてみて、それで反応が返らなかったら…。
(……ぼくにこっそりキスをするかも!)
その可能性は大いにある、とブルーは自分の素晴らしいアイデアに拍手を送りたくなった。
唇に欲しい触れるだけのキス。ぐっすり眠ったふりをして待てば、優しいキスを貰えるかも…!
名案を思い付いたからには、少しでも早く実行したい。つらつらと考えごとをしていたこの日はハーレイが午後から訪ねて来る日。午前中は柔道部を指導し、昼食の後にプールで軽く泳いでからブルーの家へ。
夏真っ盛りの日射しの下を学校から歩いて来たハーレイは全く疲れの色も無いのだが、ブルーは母が運んで来たアイスティーを半分だけ飲んでわざと欠伸をしてみせた。
「どうした、ブルー? 今日は眠そうだな」
「うん…。昨夜、ちょっと夜更かししちゃって」
欠伸も夜更かしも、もちろん嘘だ。しかしハーレイは疑いもせずに。
「いかんな。いくら夏休みでも生活は規則正しく、だ。それでは丈夫になれないぞ」
「でも…。この本を見てると止まらないんだもの」
「なるほどな。…お前の気持ちは分からんでもない」
ブルーが差し出した本は父に強請って買って貰ったシャングリラの写真集だった。歴史の彼方に消えた白い船だが、ミュウの始まりの船だけあって資料は豊富に残されている。懐かしい青の間、天体の間にブリッジ、公園。そして様々な角度から撮られた船体の背景は宇宙空間や惑星で。
「ね? どの写真だって何時間でも飽きずに見ていられるから…」
「しかし夜更かしは感心せんぞ」
眉間の皺を深くするハーレイの前で、ブルーはもう一度小さな欠伸をした。
「つい、うっかり…。気が付いたら二時になっちゃってたんだ」
「馬鹿! それで欠伸か、疲れたんだろう」
「…そうみたい…。ちょっとだけベッドで寝てきてもいい?」
ダメかな? と上目遣いに見上げれば、ハーレイは「そう言ってる間にさっさと寝ろ」と壁際のベッドを指差した。
「適当なトコで起こしてやる。…今から寝るなら四時頃か?」
「三時半でいいよ、ママがおやつを持ってくるから」
「分かった、分かった。食い意地だけは張ってるんだな、いいことだ」
おやつでもいいから沢山食べろ、と笑うハーレイに「これ」とシャングリラの写真集を渡した。
「ハーレイも同じの持ってるよね? だけどハーレイが暇を潰せそうな本、これしか無いんだ」
「そうか。じゃあ、遠慮なく借りておくとしよう。早く寝てこい」
「…うん。ごめんね、ハーレイ」
そう言ってベッドにもぐり込み、目を閉じる。おやすみのキスは貰えなかったが、作戦は上手くいきそうだ。とにかく寝たふり、眠っているふりをしなければ…。
ぱらり。ハーレイが写真集のページをめくる音が時々聞こえる。ブルーと同じでハーレイもあの写真集に見入っているのだろう。ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握った船を。
ハーレイが見ている写真はどれだろうか、と想像するだけで意識が冴えるから眠ってしまう心配はない。その計算もあって選んだ本だ。
(ブリッジかな? キャプテンの席かな、それとも舵?)
あるいは青の間なのかもしれない。かつて二人で眠ったベッドの写真を見ているかも、と思うと胸の鼓動が早くなる。それでも懸命に寝たふりを続けている内に、ノックの音と母の声がして。
「あら? まあまあ、この子ったら…。申し訳ありません、ハーレイ先生」
「いえ、私ならかまいませんよ。ソルジャー・ブルーは十五年も眠っていましたからね。…あれに比べたら丸一日でも短いものです」
「それもそうかもしれませんわね。でも、お行儀の悪い子ですみません」
起きたら叱ってやって下さい、と母が去ってから五分ほど経った頃だろうか。
「おい、ブルー。三時半だぞ、おやつも来たが?」
軽く肩を叩かれ、「うーん…」と身じろぎだけして丸くなる。
「ブルー? こら、ブルー!」
「…んん……。ハーレ……イ…。もう…ちょっと……」
この台詞には自信があった。前の生で起きたくないと甘える時に何度も口にした言葉。ついでに表情も再現するべく、瞼は閉じたままで唇を微かに開けて柔らかな笑みを。
ハーレイが息を飲んだのが気配で分かった。
「…ブルー……?」
僅かに掠れたハーレイの声。低く、耳元で囁くように。
「……ブルー?」
「……ん……。あと……少し……」
眠い、と告げて「いや、いや」と首を左右にゆっくりと振れば、ハーレイの大きな手が頬を包み込む。そう、この後がブルーが待ちに待った優しい口付け。「起きる時間ですよ」と告げて温かい唇でブルーの唇を覆い、目覚めを促すための口付け。
(やった…!)
釣れた、と歓喜するブルーの唇に口付けは降って来なかった。代わりに頬を両側からギュウッと押されて、多分、とんでもない顔にされたと思う。見た人がたまらず吹き出すほどの。
「ちょ、ハーレイ!」
何するの、と叫んだブルーに答えが返った。
「残念だが、そいつは俺の台詞だ。…よくも騙したな、このハコフグめが」
よりにもよってハコフグだなんて。押し潰された自分の顔を形容するあまりな言葉に、ブルーはグウの音も出なかった。
「うん、実に見事なハコフグだったな」
ハコフグが嫌ならヒョットコでもいい、とハーレイは更に酷いモノを持ち出してきた。どちらにしてもブルーの顔は見られたものではなかったのだろう。
唇にキスを貰うどころか顔をオモチャにされたブルーは拗ねて唇を尖らせたけれど、ハーレイは「いいのか、ますますハコフグになるぞ」と笑いながらブルーの頬を指でつついた。
「膨れるともっと似ると思うが、お前、ハコフグになりたいのか? あれもなかなか可愛いが」
「ハコフグじゃないし!」
プウッと頬っぺたを膨らませてしまい、ますますハーレイの笑いを誘う。
こんな筈ではなかったのに。予定通りならハーレイの優しいキスをせしめて御機嫌で目を覚ます筈だったのに…。恋人を捕まえてハコフグだなんて、どうしてこうなってしまったんだろう?
自己嫌悪に陥りそうなブルーだったが、ハーレイの方は心得たもので。
「ん? …まあ、ハコフグに右の手は無いな」
ほら、と右手をキュッと握られた。
前の生で最後にハーレイに触れた手。生の最期に撃たれた痛みでその温もりを失くし、冷たいと泣いたブルーの右の手。その手を握って貰うと嬉しい。ハーレイの温もりがとても嬉しい…。
癪だけれども、嬉しくなる。ハコフグ呼ばわりもどうでもよくなるくらいに。
「…で、お前は何を企んでたんだ? 夜更かしからしてどうやら嘘のようだが」
「…………」
そこまで喋ってたまるものか、とブルーは黙り込んだのに。
「言えないのなら俺が代わりに言ってやろうか? …お前、俺を釣ろうとしていただろう」
「えっ?」
「図星だな。正直、俺も騙されかけた。いや、前世のお前を思い出したと言うべきか…。だがな、そう簡単には釣られんぞ。お前の心は正直すぎだ。前のお前なら考えられんが」
ハーレイが息を飲んだのを聞いた直後から、ブルーの心は期待に溢れた喜びの思念を振り撒いてしまっていたらしい。ゆえにタヌキ寝入りをしているとバレて、その目的まで見抜かれた次第。
「……バレちゃってたんだ…」
「そういうことだ。どうだ、文句があるか、ハコフグ」
「……ごめんなさい……」
シュンと俯いたブルーの頭をハーレイはポンポンと軽く叩いた。
「俺がお前にキスをしない理由は何度も教えたな? なのに釣ろうとは二十三年ほど早いんだ」
もう少し経てば二十四年か、と自分とブルーとの年の差を挙げてニヤリと笑う。
「俺を釣るには色気と修行がまだまだ足りない。大きく育って出直してこい。…なあ、ハコフグ」
ハコフグは釣るんじゃなくって釣られる方か、と散々笑われ、ブルーの企みは見事に砕けた。
大好きなハーレイの台詞でなければ泣いたかもしれないハコフグ呼ばわりのオマケつきで。
優しいキスを貰う夢は破れて、頬っぺたまで潰されてしまったけれど。
ハコフグにされてしまったけれども、それでもハーレイを大好きな気持ちは変わらない。
「…ねえ、ハーレイ。ハコフグって、本物、見たことあるの?」
図鑑でしか知らない魚の名前を尋ねてみたら。
「あるぞ、それも水族館じゃない。海に行けばな、運が良ければ出会えるんだ」
「ハーレイ、釣ったの?」
「いや、本当に出会ったのさ。俺が潜って泳いでいたらな、バッタリとな」
俺も驚いたが向こうもビックリしたと思うぞ、と懐かしそうな目をするハーレイは海の中で岩の角を曲がった途端にハコフグと対面したらしい。
「今の地球の海はハコフグまで棲んでいるんだな。…俺がシャングリラで辿り着いた頃には青い海すら無かったのにな…。おまけに今の地球だと陸の上にまでハコフグが居るな」
「…それ、ぼくのこと?」
「ああ。俺の大事なハコフグのことさ、銀色の髪で赤い瞳のな」
ゆっくりでいいから大きくなれよ、とハーレイの手がブルーの両の頬を優しく包んだ。
「俺を見事に釣り上げられる美人に育つ日を待ってるからな。…それまではキスはお預けだ」
「…うん……」
「もっとしっかり返事しろ。しっかり食べて大きくなったら、嫌というほどキスしてやるから」
……それまではキスは額と頬だけだ。
いいな、ハコフグ。
酷い呼び名をつけられたけれど、好きでたまらないハーレイの声でそう呼ばれるとハコフグでもいいと思ってしまう十四歳の小さなブルー。
ハコフグ扱いは多分、今日だけ。
しかし欲しくてたまらない唇へのキスは、いつ貰えるのか分からなかった。
けれどいつかは必ず貰える。死の星だった地球の海でさえ、今はハコフグが棲むのだから。
その地球の上に生まれ変わってハーレイと再会を果たしたブルーの夢が叶わない筈が無い……。
貰いたいキス・了
※ブルー君、キスを貰い損ねた挙句にハコフグですが…。チビですからねえ?
今月は第5月曜がございますので、年末にもう一度更新がありますです。
そして、ハレブル別館とは無関係ですけど、作者が書き手になったルーツ。
諸悪の根源だか、原点だかのコメディが毎年クリスマスの公開となっております。
覗いてみたい方は、下のバナーからどうぞv
←悪戯っ子「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお話v
六月初めのある日、登校したブルーは朝のホームルームで今後の人生を左右するであろう大切なプリントを受け取った。他の生徒にとっては何ということもなく、話題にもならない一枚の紙。
それはプールの授業の開始を控えて保護者が記入する、生徒の健康調査票。
六月半ばから体育の授業は水泳になるが、プールに入れる状態かどうかを確認するための調査がこのプリントだ。入れない生徒は事情に応じて見学、もしくは教室で自習。
生まれつき身体の弱いブルーは毎年、これで引っ掛かる。入れないわけでは無かったけれども、実に細かい注意が必要。
最たるものが「十分ごとに水から上がって五分の休憩」。他にも気温や水温、天候などに応じてプール禁止の指示が出たりするが、一番重要とされているのが休憩だった。
ブルーは体温の調節が上手く出来ない。体温よりも低い水に入れば当然のように体温が下がり、下がりすぎると体調を崩すことになる。それゆえに水から上がっての休憩が必須。
世の中便利に出来ているもので、ブルーがプールに入る時には浮遊型の小型ロボットがピタリとくっついて追って来た。十分ごとに審判よろしく「休憩!」とプールサイドへ追い上げ、五分間は水に入らないようキッチリ監視。
去年までは大して気にしなかったし、追い上げられる前に疲れてしまって休んでいることも多々あったけれど、今年は違った。
普通の生徒は体育の教師の指示があるまでプールの中に入りっ放しで、それが当たり前。
ブルーは「プールに入りっ放し」の世界を体験したくなったのだ。
忘れもしない五月の三日に再会を果たした前世での恋人。
ソルジャー・ブルーだった自分が愛したキャプテン・ハーレイ。ミュウたちの船、シャングリラの舵を握っていた船長。
そのハーレイがブルーと同じく青い地球の上に生まれ変わって、ブルーが通う学校に教師として姿を現した。出会った瞬間、ブルーの身体に浮かび上がった前の生での最期の傷痕。聖痕現象と診断された大量出血が切っ掛けとなってブルーとハーレイの前世の記憶が蘇り…。
以来、週末ごとに逢瀬を重ねて、平日もハーレイの時間が取れれば束の間の逢瀬。
そんな日々の中で、ブルーは知った。今のハーレイの充実した生を、自分と出会うまでの年月、何を楽しみにしていたのかを。
運動が好きな今のハーレイ。特に柔道と水泳は賞を取ったり記録を更新したりするほどの腕で、どちらも捨て難いらしい。学校の教師を始めてからも柔道部か水泳部の顧問をやってきたという。現にブルーが通う学校でも柔道部の顧問を務めていた。
ハーレイが大好きなスポーツの世界。知りたかったし憧れもしたが、身体が弱くて運動も苦手なブルーには些か敷居が高すぎた。柔道なんか出来はしないし、水泳だってろくに泳げはしない。
(でも……)
プールくらいなら入れるよね、とブルーは考え始めていた。
泳げなくてもプールに入れば水の世界が近くなる。ハーレイが自由自在に水を掻いて泳ぐ世界に自分も足を踏み入れられる。
けれど、十分ごとにブルーをプールサイドへと追い上げてしまう小型ロボットが邪魔だった。
ピタリとブルーの頭上にくっついて進み、「休憩!」とうるさく繰り返すそれ。そんな邪魔者が追って来たのでは水の世界に浸るどころか、興醒めとしか言いようがない。
(…アレさえなければいいんだよ、うん)
監視されずに思う存分、ハーレイの大好きな水の世界を満喫したい。
そう考えるブルーの目指す所は監視ロボット抜きでの水泳の授業。その前提として必要なものが今日配られた健康調査票だ。自分の人生を左右する紙を、ブルーは大事に鞄に仕舞った。
持ち帰った健康調査票。
母に渡すと、早速かかり付けの医師の診断書を見ながらの記入が始まる。プールに入れる水温や気温、天候などの細かい指示。最たるものが例の休憩なのだが、ブルーは横から注文をつけた。
「ママ。それ、書かないで空けておいてよ」
言い訳はちゃんと練ってある。
「監視ロボットくっつけてるのって、ぼくくらいだよ。…ぼくだってもう十四歳なのに」
「でも、ブルー。こういうのに年は関係ないのよ」
「関係あるって! ちゃんと自分で時計を見るから! 小さい子供じゃないんだから!」
監視ロボットつきだと格好悪い、とブルーは唇を尖らせた。
「あんなの誰も連れていないし、ぼくだけだもの!」
「格好悪いって言ったって…。仕方ないでしょ、ブルーは身体が弱いのよ?」
「でも嫌だ!」
押し問答の末に、母は「そうねえ…」と記入を保留にした。
「パパが帰ったら訊いてみましょう。多分、駄目だと思うけど」
「…でも、嫌だもの…」
格好が悪い。これだけが決め手。
母には全く通じない手だが、父なら了承するかもしれない。此処まではブルーの計算通りに事が運んだ。祈るような気持ちで父の帰宅を待ち、健康調査票を突き付ける。
「ねえ、パパ。…監視ロボット、もうくっつけたくないんだけれど…」
「どうしたんだ? アレが無いと誰も時間を計ってくれないぞ。先生だって忙しいんだ」
そう諭す父に「嫌なんだもの」と訴えた。
「子供みたいでカッコ悪いよ、自分のことなら自分で出来るよ!」
「…うーん、格好悪いと来たか…。確かに気になる年頃かもなあ、身体はうんと小さいけどな?」
「普通だよ!」
「いやいや、充分チビだと思うが、中身はそうじゃないってことだな」
よし、と父の手がブルーの頭をポンと叩いた。
「それじゃ自分で面倒を見ろ。しかしだ、何かあったら次から監視ロボットつきだぞ」
「うんっ!」
ブルーは心で「やった!」と快哉を叫び、父が母に「書かないでやろう」と件の部分をブルーに任せる決断を下す。それを受けて母が「挙手した時に適宜休憩させて下さい」と書いた健康調査票を宝物のように持って、翌日、提出。
これで今年は好きなだけプールに入っていられる。ハーレイが大好きな水の世界に…。
今の学校で初めての水泳の授業は午後からだった。気がかりだった気温も水温もクリア、絶好のプール日和の青空の下で、ブルーは颯爽とプールサイドに繰り出す。
「あれっ、ブルー、監視ロボットは?」
前の学校からの友人に訊かれ、ブルーは「いないよ」と得意げに返した。
「ちょっと丈夫になったから…。無しで大丈夫になったから!」
「へえ…! そいつはいいよな、アレ、うるさいしな!」
ニッと笑って親指を立てた友人は、自由時間にブルーと遊んでいて監視ロボットに邪魔をされた経験多数であった。遊びが最高潮に達していたって「休憩!」とうるさく叫ぶロボット。無視していれば気付いた教師が駆け付け、ブルーを引っ張って連れて行ってしまう。
「アレがいなけりゃ自由ってことだな、今年から?」
「うん!」
満面の笑みで答えるブルーは御機嫌だった。キラキラと日射しを反射する水も、真っ青に晴れた雲ひとつ無い空も、きっとハーレイが大好きなもの。そして満々と水を湛えたプールも…。
準備運動を終えて水に入って、最初は自由に過ごせる時間。泳ぐ者やら、水のかけ合いに興じる者やら。ブルーは満足に泳げないから、首だけを出して身体を沈めてみる。浮力で軽くなる身体。
(…わあっ…!)
前の生で空を飛んでいた時の記憶が蘇ってきた。今は飛ぶなんて出来ないけれども、飛べたならこんな感じだろうか?
(……んーと……)
こうかな? と身体の力を抜いたら、プカリと仰向けに水面に浮いた。去年までは出来なかった技。前の生での感覚が役に立ったのだろうか。見上げる空も、揺れる身体も気持ちいい。
「ブルー、すげえな! 浮かべるようになったのかよ?」
泳いで近付いてきた友人に褒められ、気分は上々。これがハーレイの好きな水の世界なんだ、と嬉しくなった。この調子なら下手な泳ぎも上手になっているかもしれない。
(そうだといいな…)
泳ぎたいな、と期待したのだが、そうは上手くは運ばなかった。浮かべば泳げるというものではなく、それなりの技術が欠かせない。前世の記憶はまるで役立たず、水泳の技量を調べるタイムは悲惨な結果に終わってしまった。でも…。
(…ハーレイは凄く速いんだよね? ホントに凄いや…)
一番速いタイムを出した生徒でもハーレイには敵わないだろう。その生徒の速さをプールサイドではなく、同じ水の中で体感出来たことが嬉しい。監視ロボットつきであったら何度も休憩時間を挟まれてしまい、タイム計測の間中ずっとプールに居るなんて出来ないわけで。
(良かったあ…)
長い間プールに入っていられて、とブルーは大感激だった。休憩のことなどすっかり忘れ去り、水の世界に浸ったままで。
ハーレイが大好きな水の世界は思った以上に気持ちが良くて。以前のブルーが監視ロボットつきだったことを知る友人たちの心配を他所に、うんと泳いで沢山遊んだ。
もっともブルーの泳ぎは下手くそ、友人たちの指導を受けても全く上達しなかったけれど。失敗して何度も水を飲んだし、かなり疲れてしまったけれども、それでも水の世界は楽しい。
(…ハーレイは上手に泳ぐんだよね…)
こんな風かな? とイメージどおりに泳ごうとしては失敗ばかり。ゴボッと沈んだり、ゲホゲホ噎せ返る羽目になっても、ハーレイが大好きな水の世界に居るだけで心に幸せが満ちる。
(ハーレイが好きな世界なんだ…)
前の生で自分が焦がれた地球。今はその地球の上に居るけれど、あの頃に地球を思っていた時のような気持ちでハーレイは水の世界に惹かれるのだろうか…。
その水の世界に自分が居る。なんて幸せなんだろう。なんて気持ちがいいんだろう…。
(…これがハーレイの大好きな世界…)
ずっと居たいな、と思ってしまう。けれど授業には終わりがあって、チャイムが鳴って。
後ろ髪を引かれるような思いでブルーはプールを後にした。水を湛えて光るプールが遠くなる。ハーレイの大好きな水の世界が…。
(でも、またプールの時間があるもんね!)
監視ロボットに邪魔をされずに過ごした時間は最高だった。次のプールの授業では友人たちから泳ぎのコツを沢山々々教えて貰おう。
少しでもハーレイに近付きたいから。ハーレイの大好きな世界を味わいたいから…。
(ふふっ、今日はホントに楽しかったな)
プールを満喫したブルーは大満足の内に終礼を終えて、弾む足取りで学校を出た。ハーレイにも帰り際に廊下で出会って挨拶出来たし、もう嬉しくてたまらない。その気分のまま家の方に向かうバスに乗り込み、空いていた席に座って暫く経って。
(…あれ?)
ちょっと寒い、とブルーは肩を震わせた。空いていればいつも好んで座る窓際の席。こんな風に寒さを感じたことなど無かったように思うのだけれど…。
(冷房、効きすぎてるのかな?)
バスの空調は乗客の人数や居場所を計算した上で弾き出される。常に最適な気温になるよう調整されている筈だったが、たまにはこんな日もあるのだろう。
(機械は完璧なんかじゃないしね)
そのことは誰よりもよく知っている。かつてSD体制が敷かれていた時代、許し難い過ちを犯し続けてミュウを迫害したマザー・システム。あれに比べればバスの空調ミスなど可愛いものだ。
(…でも、もう一枚、シャツがあればいいのに)
でなければ肩に羽織れるタオルとか。生憎と水泳のために持って来たタオルは濡れてしまって、羽織れば逆に冷えるだけ。
(アルタミラよりはマシなんだけどね…)
人体実験で放り込まれた絶対零度のガラスケースや、超低温の実験室。あの時の寒さに比べればマシ、と車内の寒さに震えるブルーは知らなかった。
バスの空調は狂ってなどおらず、快適に保たれていることを。
自分が寒いと感じる理由は、長時間を過ごしすぎたプールで体温を奪われたせいであることを。
十分ごとに水から上がって休憩を五分。体温が下がりすぎてしまわないよう、ブルーが守るべきプールでのルール。
何のために監視ロボットが自分を追っていたのか、ブルーは理解しているつもりで実は出来てはいなかった。自分の身体の弱さを棚に上げ、やりたいことを最優先。その辺りが十四歳の子供たる所以で、結果は実に惨憺たるもの。
家に帰り付いても震えは止まらず、あまりの寒さに制服のままベッドにもぐり込んだ。上掛けを頭の上まで被って身体を丸めて、懸命にやり過ごそうとするのだけれど。
(……寒い……)
それに冷たい、とブルーは右手をキュッと握った。
前の生で最後にハーレイに触れた手。その手に残ったハーレイの温もりを最期まで覚えていたいと願っていたのに、撃たれた傷の痛みの酷さで失くしてしまって悲しくて泣いた。
ハーレイに会えた喜びの中でいつしか薄れた悲しみの記憶。けれど右手が冷たいと感じた時には思い出さずにいられない。
(…冷たいよ、ハーレイ…。とても冷たい…)
冷たくて痛い、と凍える右手と胸の奥深くに蟠る深い悲しみとを涙を流して訴えてみても、側に求めるハーレイは居ない。ブルーは冷たいベッドにただ一人、独りぼっちで丸くなるだけ。
同じ地球の上に、同じ町にハーレイが居るというのに温めてくれる手は何処にも無かった。
(…寒いよ…。ハーレイ、手が冷たいよ…)
泣きながら眠ってしまったブルーの体温は戻らず、母が様子を見に来たことにも気付かないまま眠り続けて、やがて夕食の時間になって。
「ブルー、晩御飯よ? どうしたの、ブルー!?」
真っ暗な部屋と、ベッドにもぐって死んだように動かないブルー。慌てて駆け寄った母の悲鳴で目覚めたブルーは「…ママ……」と弱々しい声を返すのが精一杯だった。
発熱とは違い、その反対。ぐったりとしたブルーの冷え切った身体は平熱どころか下がりすぎていて、母に上掛けを追加された上、熱すぎるほどのホットミルクまで飲まされた。
「…ブルー。プールで休憩を忘れたんでしょう?」
「……ごめんなさい……」
蚊の鳴くような声で答えたブルーは母に叱られ、翌日の登校も禁止されるという有様。ハーレイに会うために無理をしてでも行きたい学校。それなのに…。
(…ハーレイに会えない……)
こんなに右手が冷えて冷たくて、凍えるのに。こんな時だからこそ会いたいのに。
(……ハーレイ……)
冷たいよ、と母に押し込まれたベッドでブルーは右の手を握り、ハーレイの名を何度も繰り返し呼び続けた。温もりを失くしてしまった手が冷たい、と…。
その夜は悲しい夢ばかりを見ていたような気がする。
右の手が冷たかったから。前の生の最期に冷たくて泣いた、右の手が凍えてしまっていたから。
目覚める頃には体温も戻り、身体もずいぶん軽くなっていたが登校は許して貰えなかった。それどころか母は学校に欠席の連絡を入れるついでに健康調査票の訂正を届け出たと言う。
「格好悪いとか、そういう問題じゃないのよ、ブルー。身体が一番大切でしょう!」
母の怒りはもっともなもので、ブルーは反論する術が無い。父も「そういう約束だったしな」と母の肩を持ち、水泳の授業は次から監視ロボットつき。
ハーレイが好きな水の世界と無制限に戯れられる機会を奪われ、ブルーの気分はドン底だった。おまけに今日一日はハーレイに会うことも出来ず、家で大人しくしているしかない。
(……あんなに楽しかったのに……)
プールは本当に楽しかった。いつまでも入っていたいと思った。
けれど憧れた水の世界はブルーの身体に合わないもの。体温を奪い、悲しい記憶まで呼び起こすほどの非情さすらも帯びた世界で、厳しいもの。
(…でも、ハーレイの大好きな場所なんだ…)
そのことが酷く辛くて悲しい。
ハーレイが好きな水の世界が自分には向いていない事実も、自由に入ってゆけないことも。
日が暮れるまでベッドの中で、あるいは上で膝を抱えて丸くなっていた。
弱すぎる身体も悲しくて情けなかったし、ハーレイに会えずに終わる一日も辛い。すっかり暗くなってしまった部屋で涙がポロポロと頬を伝った。
(……ハーレイ……)
自分とハーレイとの間に横たわる距離。現実の距離も、水の世界で隔てられた距離も、今のブルーには遠すぎる。どうすればいいと言うのだろう。どうすれば距離が縮まるのだろう?
答えが見つかる筈も無かった。
ブルーは水には長く入っていられないのだし、ハーレイの家は何ブロックも離れた先で。今日が休日なら家を訪ねて来てくれるけれど、平日に来てくれることは少なくて…。
(…ハーレイ……)
会いたいよ、と昨夜一晩中、凍えていた右の手をキュッと握って呟いた時にチャイムが鳴った。客人の来訪を告げる門扉の脇にあるチャイム。
もしや、とブルーの心臓が跳ねる。もしかしたらハーレイが来てくれたのかも、と。
間違っていたら悲しすぎるから、期待はしないようにしていた。それでも胸がドキドキ脈打つ。階段を上がる足音がしないか、扉をノックする音がしないか。
好きでたまらないハーレイの声が自分の名前を呼びはしないか…。
「……ブルー?」
軽いノックの音が聞こえて、部屋の扉がカチャリと開いた。そして明かりが点けられる。絶対に聞き間違えはしない声。見間違う筈もない褐色の肌の、大きな身体をした恋人。
「…大丈夫か、ブルー? 明日は学校に来られそうか?」
ハーレイがベッドの脇に置かれた椅子に腰掛け、穏やかな声で問い掛けた。
「プールで冷えすぎちまったそうだな。また食事をしてないんじゃないかと、スープを作りに来てやったんだが…。どうする、俺のスープにしておくか?」
前の生でハーレイが作ってくれていた素朴なスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、味付けは基本の調味料だけ。青の間のキッチンでコトコトと煮込まれたそれが大好きだった。
今の生でもブルーが寝込むとハーレイがたまに作りに来てくれる。ハーレイ曰く「野菜スープのシャングリラ風」。そのスープの味も捨て難かったが、今、欲しいものは…。
「…スープもいいけど……」
手が冷たい、と差し出した右手をハーレイがギュッと握ってくれた。ハーレイはブルーの右手が凍える理由を知っている。何故冷たいのか、どうして凍えてしまうのかを。
自分の温もりを移すかのように大きな両手で包み込みながら、時折、擦ったりもして。ブルーの心が温もりに満たされ、その頬が幸せに緩むのを待って、ハーレイはもう一度尋ねてきた。
「もう充分に温かそうだが、明日も休む気か? それとも俺のスープを飲むか?」
「…明日も休むのは嫌だけど…。今日はスープより、ハーレイの手がいい」
まだ冷たくて凍えそうだから、とブルーは右の手を温めてくれとハーレイに強請る。
「まったく…。そもそも、なんだってプールで無茶をしたんだ」
「……ハーレイの好きな水だったから」
「は?」
「…ハーレイが大好きなプールだったから、同じ世界を感じたかった…」
失敗をしてしまったけれど。
そう言ったブルーの言葉にハーレイの手が一瞬、微かに震えて。
「……大馬鹿者が」
お前は馬鹿だ、と罵ったくせに、ハーレイの腕はブルーを広い胸へと抱き込んだ。
「…本当に馬鹿で無茶だ、お前は。…何も変わっていやしない」
一人でメギドへ飛んだお前だ、と息が止まるほどに強く抱き締められて。
「…何もかも一人で勝手に決めて、無茶をして…。俺はお前に一緒に生きて欲しいと思うが、俺と全く同じ道を歩けとは決して言わない。俺の道がお前にもピッタリ合うとは限らないんだ」
「……そうみたいだね…。ぼくにプールは無理みたいだけど、それでも嬉しかったんだ」
…少しだけハーレイの世界が分かった。
そう話したらハーレイの腕の力がもっと強くなり、息をするのも苦しいほどで。でも…。
「…ハーレイ、ぼくが温めて欲しいのは右手。…それにね…」
やっぱり野菜スープも欲しいかな。
「それだけ我儘が言えるようなら、もう平気だな」
出来るまで少し待ってろよ、とハーレイが野菜スープを作りに階下のキッチンへ下りてゆく。
部屋を出てゆくその背を見ながら、ブルーはそれは幸せそうな笑みを浮かべた。
(…ハーレイ…。無茶をしちゃってごめんね、ハーレイ)
野菜スープを作りに来てくれてありがとう。
ぼくの凍えてしまった右手を温めてくれてありがとう…。
君の大好きな水の世界はぼくの身体には厳しすぎたけど、それでも体験出来て良かった。
あれが今の君が大好きな世界。ふわりと身体が浮き上がる世界。
君が大好きな世界だったから、無茶をしてでも見たかった。
もう学校では次の機会は無さそうだけれど、いつか大きくなったなら…。
君と一緒に暮らせる時が訪れたならば、もう一度、君と見てみたい。
無茶だと君は怒るだろうけど、見たいんだ。だって、君の大好きな世界だから……。
君の好きな世界・了
※お読み下さってありがとうございました!
ブルー君を追い掛けていた「浮遊型の小型ロボット」のモデル、お気付きでしょうか。
アニテラでジョミーがサッカーしていた時の審判ロボットですv
作品世界を壊さないよう、私語は控えておりますが…。
コメントとか頂くのは大好きであります、拍手部屋からお気軽にどうぞ。
毎日更新の「シャングリラ学園生徒会室」の方でレスつけさせて頂きます。
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←バカ全開です、ご注意下さい!
夏の初めの土曜日の朝。いつものように部屋の掃除を終えたブルーは、閉じた窓から下を眺めてハーレイが来るのを待っていた。少し前までハーレイが来る日は窓を開け放っていたのだけれど、そうするにはもう暑すぎる季節。生まれつき身体の弱いブルーは暑さにも弱い。
(…ハーレイ、まだかな…)
今日は朝から良く晴れているし、ハーレイは歩いて来るだろう。眩しい日射しに目を細めながら待っていたブルーの瞳が待ち人を捉える。
(あっ、半袖!)
その姿に胸がドキリと跳ねた。学校では長袖のワイシャツを着ているハーレイ。今週は今日より暑い日もあったというのにハーレイは長袖、ボタンも襟元までキッチリ留めていた。
そんなハーレイが半袖姿で、襟元も大きく開いたラフなシャツ。家で過ごすのと同じ服装で来てくれたのだ、と実感できる。ブルーの家を訪ねて来る時、ハーレイはいつも普段着なのだが、より寛いだ姿に思える半袖シャツがなんだか嬉しい。
(…ふふっ)
早くもっと近くで見たいな、とブルーは窓に張り付いた。門扉の前で待っているハーレイ。母は急いで開けに行ったのに、それでも遅いと感じてしまう。
(半袖かあ…)
シャングリラでは見なかったよね、と幸せな気分に包まれた。アルタミラの研究所から脱出した直後は半袖シャツだったけれど、研究所を思い出させる半袖の服は皆に不評で、自分の身体に合う服が手に入った者から順に長袖に切り替わっていったと記憶している。
一番身体が大きかったハーレイは最後の方。それでも一ヶ月もかかりはしなかった。
いつしか半袖に対する抵抗が無い世代が増えても、シャングリラのクルーは基本は長袖。長老と呼ばれるようになったハーレイやゼルたちはもちろん長袖、プライベートでも長袖で…。
遠い過去に思いを馳せている内に扉がノックされ、母がハーレイを案内してきた。
「ブルー、おはよう。今日は暑いな」
「うん。ハーレイの半袖を見たら分かるよ」
母が用意したアイスティーとお菓子を前にして向かい合う。扉が閉まって、足音が階段を下りて消えると二人きりの時間。
ブルーは半袖姿のハーレイをまじまじと見詰め、袖から覗いた逞しい腕に見惚れたのだけれど。
(…あれ?)
もしかして、もしかしなくても。
ハーレイのむき出しの腕を目にすることなど、ソルジャーとしては一度も無かったのでは…。
ソルジャー・ブルーだった前世で何度も見ているけれど、その時の自分はソルジャーではなく、ハーレイもまたキャプテンではない時しか腕など見せなかったのでは…?
(…そうだったっけ…!)
ブルーの鼓動が早くなる。
前の生でハーレイのむき出しの腕を目にしていたのは、青の間か、もしくはハーレイの部屋で。バスローブの袖から覗いた腕とか、肩に羽織った大判のタオルの下からだとか。
今の半袖から覗いているほどの範囲の肌が見える時と言えば、ベッドで愛し合う時とその前後。それ以外では見ていないのだ、と気付いたブルーは頬がカッと熱くなるのを感じた。
(…ど、どうしよう……!)
ハーレイに変に思われる、とキュッと目を瞑ったのがまずかった。頬が赤らんだだけならさして気に留めずに流されていたかもしれないけれど、俯き加減で目を閉じた上に頬が赤くては…。
「どうした、ブルー?」
大きな手が頬に触れてきて、ブルーはますます真っ赤になった。
前の生ではこうして目を閉じている時に頬に触れられたら、続いてキスが降ってきた。それから逞しい腕にふわりと抱き上げられてベッドに運ばれ、ハーレイがキャプテンの制服を脱いで…。
筋肉に覆われた褐色の腕。
二人きりの時間を、恋人同士の時を過ごす時しか見ることが無かったハーレイの腕。
「……ブルー?」
もうダメだ。ブルーは俯いたままでキュッと閉じていた瞼を開くと、両方の頬に触れている恋人を上目遣いに睨んで小さく叫んだ。
「…ハーレイのバカッ!」
「な、なんだ、いきなり?」
驚いて手を離したハーレイに「バカッ!」ともう一度叫んでやった。
自分の気持ちが、ドキドキ脈打つ鼓動の早さが分からないなんて酷すぎる。こういう時はなんて言えばいいんだったっけ?
鈍感な恋人にぶつける言葉で、「バカ」よりももっとピッタリな言葉があった筈。
(…えーっと、えーっと……)
懸命に考えるブルーの心も知らずに、またハーレイが「どうしたんだ?」と頬に触れて来た。
とっくに耳の先まで赤いだろうに、もっと赤くなれと言わんばかりに頬を優しく撫でる手。普段なら甘えて頬を擦り寄せてしまうのだけれど、今日ばかりは違う。
(酷いってば…!)
こんなに真っ赤になっているのに、この仕打ち。この無神経さ。その瞬間にパッと閃いた。
「デリカシーに欠けているってば!」
ブルーの愛らしい唇から放たれたそれに、ハーレイは文字通りポカンと口を開けたのだった。
脹れっ面になったブルーからハーレイが事情を聞き出すまでには、かなりかかった。
完全に機嫌を損ねたブルーは拗ねてしまって唇を固く引き結んでしまい、そのくせにチラチラと赤い瞳がハーレイを見ては逸らされる。そして不自然に赤い頬。
何事なのか、と慌てたハーレイはブルーの好きな菓子を自分の分も譲ってやったり、機嫌を取るべく小さな右の手をそっと握ってやったり。
前の生の最期にハーレイの温もりを失くしたと泣いたらしいブルーは右手を握ってやると喜ぶ。赤ん坊をあやすようなものだな、と思ったことまであったくらいに小さな右手は温もりを求める。その右の手を握り、もう片方の手で何度も何度も撫でてやる内に、ようようブルーは口を開いた。
そして聞かされた「バカ」の理由は、実にとんでもないもので。
「…つまりだ。…俺は半袖シャツを着ているだけで、デリカシーに欠けているんだな?」
ハーレイはフウと溜息をついた。
「仕方ないな、次から長袖で来るか。今日の所は勘弁してくれ…って、そいつはダメだな」
デリカシーに欠けるんだったな、とさっきよりも深い溜息をつくと椅子から立ち上がった。
「…ハーレイ?」
怪訝そうなブルーにこう答える。
「一度帰って着替えて来るさ。ついでに昼飯も食ってくるから、また後でな」
「えっ……」
ブルーの表情がみるみる変わった。ブルーの家から何ブロックも離れたハーレイの家。そこまで歩いて往復するだけでも一時間では終わらない。そこへ昼食の時間が加わると、ハーレイの帰りは早くて昼過ぎ、下手をすればもっと後になるかもしれないわけで…。
縋るような赤い瞳が「行かないで」と揺れているのを承知の上でハーレイは軽く手を振った。
「じゃあな、また来る」
「ダメッ…!」
行っちゃ嫌だ、とブルーが部屋を出ようとするハーレイの腕に両腕でギュッとしがみ付く。
離すまいと力をこめて身体ごとピタリとくっついているブルーの頭をハーレイは笑いながら軽くポンポンと叩いてやった。
「…ほら見ろ、克服できたじゃないか。もう半袖でも大丈夫だな?」
「…あっ……!」
直視出来なかった筈のハーレイの腕に密着している自分に気付いたブルーは真っ赤になったが、もうハーレイに文句は言えない。それに恥ずかしさも何処かへ吹き飛んだ気がするし…。
「……ごめんなさい……」
八つ当たりしちゃった、とブルーは素直に謝った。最初は嬉しいと思った半袖。それなのに自分一人で勝手に怒って、膨れて、拗ねて。
(……ぼくって子供だ……)
ごめんなさい、と謝るブルーを、ハーレイは笑って許してくれた。
こうしてブルーは半袖姿のハーレイにも慣れ、心臓がやたらと脈打つことも無くなった。初めて見た日に感じたとおりの気取らない姿を見られることが嬉しく、心浮き立つ間に夏休みが来て。
平日でもハーレイが訪ねて来る日々が始まったものの、毎日というわけにはいかない。ハーレイの仕事は教師なのだし、夏休み中でも研修もあれば、顧問を務める柔道部で一日潰れることも。
しかし部活のある日も基本は午前中のみ、午後になれば学校で昼食を済ませたハーレイが来る。そういう日には朝から首を長くして待つのが常となったある日。
「…ハーレイ、まだかな…」
ブルーは壁の時計を見上げた。もうすぐ正午で、母と階下で昼食の時間。食べ終えて部屋に戻る頃にはハーレイの部活もとうに終わって、昼食か、あるいはプールで泳いでいるか。
(…ホント、ハーレイ、凄すぎだよね)
夏休みの初日に教えて貰った柔道部がある日のハーレイ自身のスケジュール。朝から柔道部員と一緒に走って、それから技の指導など。部活が終わればプールに出掛けて軽く泳いでくるという。水泳部の生徒たちに混ざってコースを何往復もするのが「軽く」だなんて信じられないけれど。
その後はブルーがバスで通う距離を歩いて家までやって来るわけで…。
(…プールで泳いだ後だし涼しい、って言っているけど暑いよね…)
ブルーにはとても無理な芸当。運動も無理だし、暑い盛りに歩くのも無理。
「ブルー、そろそろお昼にしましょう!」
母の呼ぶ声に「はーい!」と返事し、ブルーは軽い足取りで階下に向かった。ハーレイも今頃は食事だろうか? 早く来てくれるといいのだけれど…。
昼食が済んで部屋に戻って、また時計を見る。ハーレイが来る時間まではもう少しあって、多分今頃は食事か、プールか。食べた後に直ぐに泳げるハーレイは凄い。
(…今日もお昼の後だよね、きっと)
その方が涼しく歩いて来られる、と前にハーレイが言っていた。きっと髪の毛は軽く撫でつけただけで、太陽の光で乾かしながらの道中だろう。
(もうプールから上がったかな?)
ザバッと水から出て来る姿を思い浮かべた、その瞬間に。
(ダメダメダメ~~~ッ!)
ブルーは真っ赤になった顔を両手で覆った。
(…は、は、裸……!)
どうして今まで全く気付かなかったのだろう。ハーレイは昔から水泳が得意だったと聞いていたから、颯爽と泳ぐ姿ばかりを想像していて服装にまで気が回らなかった。
プールで泳いでいるということは水着姿で、どう考えても最小限の部分しか覆われていない。
いつだったかハーレイの前で膨れてしまった半袖どころの騒ぎではなくて、殆ど裸。前の生では愛し合う時かその前後にしか見てはいなかったハーレイの身体。
(…………)
たとえ水着を着けていたって直視出来ない、とブルーは耳の先まで熱くしたのだけれど。
(……でも……)
その一方で見たい気もする。今の生ではキスすら許してくれないハーレイ。その先となればいつになるやら見当も付かず、本物の恋人同士として結ばれる日は遠そうで…。
(………それまでは見られないんだよね?)
前の生で強く抱き締めてくれたハーレイの身体。華奢だった前世の自分と違ってガッシリとした筋肉質の褐色の身体を思い出すと胸がドキドキしてくる。
キスすらダメでも、その先のことはもっとダメでも、気分だけでも…、とブルーは思った。あの懐かしい身体を見てみたい。そうしたらきっと幸せ一杯、希望も膨らむに違いない。いつかは必ずあの身体と…、と夢見るだけでも幸せな気分が訪れる筈で。
「…見に行きたいな……」
そう呟くともう止まらなかった。ハーレイがプールで泳ぐ姿を、いや、プールから上がった水着姿のハーレイを見たい。夏の暑さは苦手だけれども、見られるのならば外出くらい…!
しっかり決意を固めたブルーはハーレイの来訪を胸を高鳴らせて待ち、自分の部屋で二人きりになって向かい合うなりアイスティーも飲まずに切り出した。
「ねえ、ハーレイ。…次に柔道部がある日って、いつ?」
「……明後日だが?」
だから明日は朝から来られる、とハーレイは普段どおりにアイスティーを飲んでいるのだが。
「えっとね、明後日、行ってもいい?」
「何処にだ? 用事があるなら別に止めはせんが、俺は来なくてかまわないのか?」
ブルーの目的が何処にあるのか知らないハーレイの返事は些か的外れだった。しかしブルーは気にするでもなく、ニッコリ微笑む。
「帰りはハーレイと一緒がいいな。ぼくと一緒にバスに乗ってよ」
「は?」
「だ・か・ら! 明後日はぼくも学校に行くから、プールが済んだら帰ろうよ」
「お前、明後日は登校日だったか?」
一向に噛み合ってこない会話に、ブルーは「もうっ!」と焦れながら。
「そうじゃないってば、ぼくは見学! ハーレイを見に行くんだってば!」
「……柔道部をか? それは構わないが、だったらプールはやめておくかな」
「なんで?」
「帰りが遅くなるだろう? その分、余計に暑くなるしな。昼飯もお前の家で食べるか」
お母さんの手を煩わせないように何か適当に買って帰るか、というハーレイの意見は至極当然なものなのだけれど、それではブルーの目指す所から大きく外れる。ブルーが見たいのは柔道部ではなくて水着姿のハーレイで…。だから「ダメッ!」と即座に叫んだ。
「お昼は別にどうでもいいけど、プールはダメっ!」
「だから入らないと言っただろうが」
「違うよ、プールは入らなきゃダメ! ぼくはプールを見に行くんだから!」
「………プール?」
プールはハーレイの担当ではなく、あくまで趣味の範疇である。どうしてブルーが柔道部ならぬプールなんぞを見学したいと希望するのかサッパリ分からず、ハーレイは首を捻るしかなかった。
「なんでプールを見たいんだ? 俺は適当に泳いでるだけで、指導は全くしていないんだが」
「水泳のことはよく分かんないけど、ハーレイ、プールじゃ水着だよね?」
「当然だろうが、プールだぞ?」
「だったら充分! ぼくは水着が見たいんだから!」
行っていいよね? と強請るブルーの真意が全く掴めないまま、「ああ」と答えそうになった所でハーレイの勘が働いた。もしやブルーがプールにこだわる理由は…!
「おい、ブルー」
嫌な予感に襲われながらも顔には出さずに、ハーレイは赤い瞳を見詰めた。
「…お前、いつだったか俺に言ったよな? デリカシーに欠けるとか、そういうことを」
「えっ?」
「俺が半袖で初めて来た日だ。…そう言ったお前に同じ台詞を二度も言われたくはないからな…。いいか、俺はプールじゃ水着一丁で、半袖どころの騒ぎじゃないぞ」
分かっているのか? と顔を覗き込めば、ブルーの頬がみるみる赤く染まって。
「………それでもいいよ」
そう答えて下を向いてしまったブルーの姿に、ハーレイは己の勘が当たっていたことを知った。ブルーがプールに来たがる目的は、あろうことか水着姿の自分を見るため。それも格好いいとかの憧れの気持ちでは無く、同じ憧れでも至ってけしからぬ発想からで…。
「ブルー、お前な…」
ハーレイはフウと大きな溜息をついた。
「お前、ロクでもないことを考えてるな? 俺の裸の一歩手前を見たいんだろうが」
「…………」
沈黙は金とは誰が言ったか、今の場合は全く当てはまらない。ブルーが下手に言い訳するより、その沈黙こそが何を考えていたかの動かぬ証拠だ。
まったく、年相応に小さくて幼いくせに、何を考え付くのやら…。
苦笑いしたいハーレイだったが、いくらブルーが子供であっても譲れないものは存在する。水着姿目当ての見学などは言語道断、それはキッパリ断らなければ。
「ブルー。…そういう不純な目的を持って神聖な水泳部の活動場所を覗きに来るな」
いいな、と念を押せばブルーがキッと視線を上げた。
「誰も絶対、気が付かないって!」
「そりゃそうだろうさ、傍目にはチビが居るだけだしな」
「チビは酷いよ!」
噛み付いてきたブルーに、ハーレイは「そうか?」と笑ってみせる。
「俺の目には小さなお前が映るが、それでも俺には大きな脅威だ」
「…何が?」
「お前がだよ。…小さくてもお前は俺のブルーだ。そのお前が良からぬ目的を持ってプールの俺を見に来たとなれば、俺はとっても困るんだがな?」
「どうして?」
見てるだけだよ、と首を傾げるブルーは分かっていない。そんなブルーが愛しいけれども、この愛くるしい赤い瞳でまじまじと水着姿を見詰められたら……。
「……お前なあ……」
ハーレイは眉間の皺を深くしつつも、唇には笑みを湛えて言った。
「お前がそういう目で見ていると気付いちまったら、俺はプールから出られんだろうが」
「恥ずかしいのはハーレイだけだよ、ちゃんと水着を着てるんだもの」
「だから余計に出られないんだ、どうしてくれる」
「なんで?」
何故ハーレイがプールから出られないのか、ブルーは不思議でたまらなかった。
いくら自分が眺めていたって気にせずに出ればいいものを…。ドキドキするのは自分だけだし、ハーレイには関係ない筈だ。いつもどおりにすればいいのに、どうして出られないのだろう?
キョトンとしているブルーの額をハーレイの指がチョンとつついた。
「なあ、ブルー。お前、いつも俺になんて言っているんだ? 本物の恋人同士とやらはどうした」
「えっ…???」
それに気が付いたから、見に行きたいのに。
そう言わんばかりの顔をしたブルーに向かって、ハーレイは「ん?」と微笑みかけた。
「長い間やらなかったら忘れちまったか? 俺はどうやってそういうことをしてたんだっけな?」
「…そういうことって?」
「お前と本物の恋人同士になる時だ。そういう時には…」
「あっ…!」
其処まで言われて、ブルーはようやく気が付いた。ハーレイが水着で覆っている部分。その下にあるものがどう変化を遂げ、前の生での自分を愛したのかを…。
もしも自分が見ていたばかりに、同じ変化が起こったら。
ハーレイはプールから出られないだろうし、それは確かにマズすぎる。でも、でも、でも…。
「ハーレイのバカッ!」
ブルーはまたしても耳の先まで真っ赤に染めると、「バカバカバカッ!」を連発した。
気付かなかった自分も悪いが、前の生での秘めごとについて具体的に説明しなくても…!
こういう時に叫ぶ台詞は、確か前にも叫んだ言葉で…。
「デリカシーに欠けているってば!」
桜色の唇から飛び出した叫び。
かくしてハーレイは二度目の罵声を浴びせられたわけだが、その表情は「してやったり」と言わんばかりのものだった。
これでブルーはプールには来ない。これから先も思う存分、水を満喫できるのだ。
あまりと言えばあんまりであり、当然と言われれば当然とも言うべき理由で門前払い。
プール見学の夢が空しく潰えたブルーは、ハーレイがプールで泳いでいるであろう時間に時計を眺めては小さくも熱い溜息をつく。
今の生では当分見られそうもないハーレイの褐色の大きな身体。
それを自分が目にする時には、多分、本物の恋人同士。その日が来るまでは見られそうになく、だからこそ余計に想いが募る。
前の生で自分を抱き締めてくれた、あの逞しくて大きな身体。
自分が大きく育った時まで見られないなんて酷いと思うし、お預けだなんて酷すぎる。
(…やっぱり、ちょっとだけ見たいんだけどな…)
でもハーレイは困るかな、と「デリカシーに欠けた」例の発言を思い出す。
大好きなハーレイを困らせることはしたくなかったし、諦めるしかないのだけれど。
(……でも見たいよね……)
この時間には、学校のプールかプールサイドに水着姿のハーレイが居る。
自分には決して見せてくれない褐色の身体を惜しげなく晒して、夏の日射しの下に居る。
(…見たいんだけどな…)
でもダメだよね、とブルーは前の生へと思いを馳せる。
あの褐色の大きな身体が自分を包んで、愛してくれた遠い日のこと。
幸せに満ちた恋人同士の熱い時間を再び手に出来る日まで、どれだけ待てばいいのだろうか…。
同じ頃、ハーレイの方も水から上がってプールサイドをぐるりと見渡す。
見学者用の屋根のある場所にも、柵の向こうにもブルーはいない。
(よしよし、ちゃんと言い付けを守っているな)
見たい気持ちは分からんでもないが、と心の中で呟きながら着替えのためにロッカー室へと歩くハーレイには実は前科があった。
まだ夏休みに入る前のこと。自分の授業が無い空き時間にプールの脇を歩いていたら。
「おーい、ブルー!」
そう叫ぶ男子の声が聞こえた。ブルーという名の生徒はこの学校には一人しかいない。反射的に声がした方を振り向こうとしてハッタと気付いた。
声がしたのはプールから。ブルーのクラスが水泳の授業中なのだ。
(…水着か!)
水着のブルーか、とハーレイの鼓動が早くなった。
今の生では当分先まで拝めそうもないブルーの裸身。水着つきでも拝んでみたい。
(……す、少し小さいが…。いや、かなり小さすぎるんだが…!)
だが見たい、と透き通るような白い肌への想いが募る一方で。
(いや、いかん! これでは覗きと変わらないぞ…!)
教え子の水着姿を覗くなんぞは最低なんだ、と自分自身を叱咤したものの。
(しかしだ、俺が体育の教師だったら当たり前のように見るわけだしな?)
たまたま古典の教師になったが、体育教師の選択肢も無かったわけではなかった。もしも体育の教師として出会っていたなら水着姿は拝み放題、見て当然の職だったわけで…。
(よしっ!)
葛藤の末に「俺は今だけ体育教師だ」と自分自身に言い訳をして「えいっ!」とばかりに視線を向けたブルーが授業中の魅惑のプール。
其処にブルーは居なかった。正確に言えば期待通りのブルーが居なかったと言うべきか…。
(…ブ、ブルーは見学だったのか…!)
見学者用の屋根の下の椅子にチョコンと座った制服のブルー。その赤い瞳が自分を捉える前に、と慌てて走り去った日から、もうどのくらい経ったのか。
「……あの時の罰が当たったかもなあ……」
夏休みの間中、居もしないブルーの影に脅かされるのだろうか、とハーレイは深い溜息をつく。
とはいえ、やはりブルーは愛おしい。今日も急いで行ってやらねば、と気持ちを切り替え、服に着替えて暑い日射しの下へ出た。
(待ってろよ、ブルー。もうすぐ行くから)
道の照り返しもなんのその。恋人の許へと歩くハーレイの足は疲れ知らずで軽かった。
夏に着る物・了
ハーレイと再会してから、もうすぐ一ヶ月になるんだけれど。
週末は必ずハーレイが来てくれて、平日だって時間が取れれば夕食を一緒に食べたりしている。前の生でメギドへ飛んだ時には思いもしなかった、この奇跡。
あの日、メギドで失くしてしまった最後にハーレイに触れた手に残った温もり。それを失くしたことが悲しくて、もうハーレイには会えないんだと、独りぼっちになってしまったと心の奥深くで泣きながらソルジャー・ブルーだったぼくの命は終わった。
右の手が冷たくて泣いた遠い日のぼく。凍えた右手が失くした温もりは二度と戻ってこないと、ハーレイから遠く離れた所で独りぼっちで死んでゆくのだと。
それなのに、ぼくはハーレイに会えた。
ずっと見たかった青い地球の上で、ハーレイと生きて巡り会えた。
ぼくは十四歳の子供で、ハーレイは二十三歳も年上の先生だったけれど、ぼくたちは会うことが出来たんだ。これが奇跡で無いと言うなら何だろう?
そう、奇跡でしか有り得ない。
だから神様は絶対に居る。ぼくたちの目には映らないだけで、神様は何処かに居る筈なんだ。
今から思えば、十四歳の誕生日に奇跡は始まっていたんだと思う。
だって、ハーレイと再会した場所は十四歳になった子供が行く学校。
それにソルジャー・ブルーだったぼくのサイオンが目覚めた日だって、いつだったのか記憶にも残ってはいない十四歳の誕生日。
前の生の頃は十四歳の誕生日は誰でも『目覚めの日』だった。成人検査を受けて養父母や育った家と別れて、大人の世界へ歩み出してゆく日。
成人検査に落っこちたぼくは大人の世界へ出てゆく代わりにミュウになった。
オリジンと呼ばれて残酷な人体実験ばかりの日々だったけれど、其処からソルジャー・ブルーの記憶が始まる。
だから十四歳の誕生日はきっと、ぼくにとって特別だったんだ。
ハーレイに会える日までのカウントダウンがあの日に始まり、ぼくたちは地球で再び出会った。
最高の奇跡が起こったその日に、ぼくの身体に現れた前の生での最期の傷痕。
その兆候だった右の瞳からの一番最初の出血の日は…。
十四歳の誕生日の次の日、四月の一番最初の日にあった今の学校の入学前の説明会。
ママと二人で出掛けて行った。其処で「はじめまして」と挨拶をした校長先生が言ったんだ。
「ずっと昔は十四歳の誕生日を目覚めの日と呼び、別の人生が始まる日でした。その時代に苦しめられていたミュウを救うために立ち上がってくれたソルジャー・ブルー。命を捨ててミュウの未来を守ってくれた彼のお蔭で、あなたたちは此処に居るのです」
後はお決まりの「頑張って勉強して下さい」とかだったと思う。
ジョミーと、ぼくをメギドで撃ったキースも今では英雄だったけれども、こういう挨拶で最初に必ず出て来る名前はソルジャー・ブルー。
ぼくの名前と同じ「ブルー」と、パパとママがぼくに「ブルー」と名付けた理由の同じ瞳の色と髪。それがちょっぴり誇らしくなって、恥ずかしくも思う学校でよく聞く先生の話。
前の学校でも何かと言えば「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」とか、ジョミーやキースの名前まで出る長ったらしい挨拶だとか。
もう充分に聞き飽きていたし、ぼくは行儀よく座っていたけど他の子は欠伸なんかをしていた。
それから後は学校生活のごく簡単な説明があって、入学式の案内も。全部済んだらママと一緒に家に帰って、貰って来たプリントなんかを読んで…。
その日の夜になって初めて、右目の奥がツキンと痛んだ。
校長先生の挨拶で聞いたソルジャー・ブルーという名前。それに反応したんだと思う。
自分の部屋で本を読んでいた時、急に右目から零れた赤い血。
怪我したのかと酷く驚いたし、見えなくなるのかと泣きそうになった。右の瞳が傷ついたんだと思ったから。見えなくなっても移植再生手術で治るけれども、そんなのは嫌だ。生まれつき身体がとても弱くて学校も休みがちなぼく。入学する前に手術のために入院だなんて…!
半ばパニック状態で鏡を覗き込んでみたら、ぼくの瞳に傷は無かった。血だって一筋流れ落ちた後はもう出なかったし、目もちゃんと見える。
新しい学校を最初から休むなんて嫌だったから、ママたちには黙っていることにした。
それが最初に血を流した日。
誕生日の三日ほど前にパパが読んでいた本を覗き込んだらミュウの歴史で、ソルジャー・ブルーの名前も写真もあった。でも、その時は平気だったんだ。
右目の奥は痛まなかったし、もちろん血だって出なかった。
だから十四歳の誕生日にぼくの中で何かが変わって、今の奇跡の日に繋がったんだと信じてる。
生まれ変わったハーレイに会って、ソルジャー・ブルーだった頃の記憶が戻って…。
特別だった十四歳の誕生日。
お祝いのケーキを食べていた時には知らなかったけど、あの日が奇跡の始まりなんだ。
パパとママの見ている前で右の瞳から赤い血が出て、病院に連れて行かれた日。
四月の二十七日だった。
ぼくを診てくれた先生が『聖痕』という言葉を教えてくれた。
そして笑って言ったんだ。先生と同じ名字の従兄弟がキャプテン・ハーレイそっくりだ、って。その人は学校の先生をしていて、もうすぐぼくの学校に来ると。
もし会った時に右の瞳から血が流れるようなら、ぼくはソルジャー・ブルーの生まれ変わりかもしれないと聞いて怖かった。
だって、ぼくは十四歳になったばかりの子供。伝説の英雄みたいなソルジャー・ブルーと同じだなんて言われても困る。そんなことになったら、どうしたらいいか分からない。
絶対に違うと思いたかった。ぼくは普通の十四歳の子供で、ソルジャー・ブルーの生まれ変わりなんかじゃないと。
どうか生まれ変わりじゃありませんように、と神様に毎日お祈りをした。神様はお祈りを聞いてくれたらしくて、それからは歴史の授業でソルジャー・ブルーの名前を聞いても大丈夫だった。
ぼくの右目から血は流れなかったし、初代のミュウについて習う時間も終わった。
これでもう、ぼくは大丈夫。ぼくはソルジャー・ブルーじゃなかった。
血が流れたのは聖痕とかいう不思議な現象かもしれないけど、それはそれ。
ソルジャー・ブルーの傷痕を写していただけだったら、ぼくはソルジャー・ブルーじゃない。
違って良かった、とホントに思った。
ぼくが本当はぼくじゃないなんて怖すぎる。ぼくはぼく。
ソルジャー・ブルーじゃなくて良かった、と本当にホッとしてたんだ。
奇跡なんて知らなかったから。生まれ変わることが幸せだなんて、夢にも思わなかったから…。
そして奇跡の日がやって来た。
きっと一生忘れはしない、五月三日の月曜日。
いつもどおりに学校に行って、本を読んでいたら友達が言った。古典の先生が変わる、って。
普通だったら先生は途中で変わらないけど、その先生は前の学校で欠員が出たから着任するのが遅れたらしい。「宿題出さねえ先生だといいな」って友達が言って、ぼくは笑った。
情報通の友達と違って、ぼくは何にも知らなかったんだ。その先生が誰なのか、なんて。病院の先生が話してくれた「キャプテン・ハーレイそっくりの従兄弟」が、その人だなんて…。
授業開始のチャイムが鳴って、教室に入って来た新しい先生。
教科書に載ってるキャプテン・ハーレイにそっくりな姿を目にした途端に、右目の奥がズキンと痛んだ。今までの痛みとは桁違いな痛み。右の瞳を潰されたような痛さに呻くよりも前に、両方の肩に、左の脇腹に走った激痛。
撃たれたんだ、と直ぐに分かった。黒い髪の男がぼくを撃った。
地球の男。ミュウの敵のメンバーズ・エリート、キース・アニアン。
激しい痛みと、溢れ出す血と。床に倒れてゆくぼくの中で鮮明に蘇ってくる記憶。銃で撃たれた傷の痛みがぼくに全てを思い出させた。ぼくの記憶を取り戻してくれた。
ぼくはミュウの長、ソルジャー・ブルー。
倒れたぼくを抱き起こしてくれた逞しい腕は、ぼくが愛したキャプテン・ハーレイのものだと。
それから後のことは覚えていない。
酷い痛みと出血のせいで気を失ったぼくは、救急車で病院に搬送された。病院へと走る救急車の中で、ハーレイがぼくの手を握って「大丈夫だからな」「すぐ病院に着くからな」と何度も何度も呼びかけてくれたらしいんだけれど、ぼくは覚えていないんだ。
覚えているのは、傷の痛みが思い出させてくれたこと。ぼくは誰なのか、誰を愛していたのか。
病院の先生が『聖痕』と診断を下した何の傷痕も残さなかった傷が、ぼくに奇跡を運んで来た。ハーレイの記憶を戻したのもまた、ぼくが起こした大量出血。
ぼくたちが再び出会うために現れた奇跡の傷痕。
本物の聖痕は神様の身体の傷らしいけれど、ぼくの傷だって奇跡なんだから聖痕っていう名前は好きだ。ぼくにとっては大切な傷。痛かったけども、傷のお蔭でハーレイと再会出来たんだから。
ずっとずっと昔、人間たちの世界に下りた神様が身体に負った傷痕。
その傷と同じ傷が身体に現れることを、昔の人たちは聖痕と呼んでいたらしい。
ぼくの身体に現れた傷は神様が負った傷の痕じゃなくて、前の生でぼくが撃たれた傷痕。
ソルジャー・ブルーだったぼくが撃たれて、痛みの酷さで最期まで覚えていようと思った大切な温もりを失くした傷痕。右手に残ったハーレイの温もりを消してしまった悲しい傷痕。
その傷痕をぼくの身体に刻み付けたのは誰なんだろう?
本物の聖痕は、神様が強い信仰を持った人の身体に刻むものだと信じられていた。
もしもそうなら、ぼくの傷痕も神様が刻んでくれたんだろうか?
ぼくがハーレイと巡り会えるように、ハーレイがぼくを思い出せるように。
うん、きっと神様のお蔭だと思う。
だってぼくたちは地球に生まれたし、離れ離れじゃなくてきちんと出会えた。
神様が起こしてくれた奇跡なんだもの、大切に生きていかなくちゃ…。
今度こそ温もりを失くさないように。
冷たくて泣きながら死んでいったぼくの右手が、二度と凍えてしまわないように。
神様がくれた奇跡の命を大切に生きて、いつかハーレイと結婚するんだ。
今はまだキスも出来ないけれども、大きくなったらキスを交わして、それから、それから…。
「ブルー? 何を考えてるんだ?」
ハーレイの声で我に返った。ずいぶん長い間、考え事をしていたような気がしていたのに、目の前のテーブルに置かれた紅茶のカップからはまだ温かい湯気が上がってる。
此処はぼくの部屋で、さっきハーレイが訪ねて来てくれて向かい合わせで座ったんだっけ。すぐ側にハーレイが居てくれる嬉しさでボーッとなってしまって、そのまま色々と考えちゃって…。
だからハーレイにも話してみた。十四歳だから出会えたのかな、って。
そうしたら…。
「俺が十四歳の時には、そういう目出度いイベントは何ひとつ無かったんだがな」
ハーレイが「うーん…」と頭を掻いた。
「柔道の大会で優勝したのと、水泳で記録を出した程度だ。俺の学校の記録を一つ更新したな」
その他には特に何も無かった、とハーレイは笑っているけれど…。それだって充分凄いと思う。柔道の大会で優勝するのも、水泳で学校の新記録を出すのも、どっちもぼくには絶対に無理だ。
ついでに、ぼくがそういうことをやったらパパもママも大喜びでお祝いしてくれそうだけど…。
思ったままを口にしてみたら、ハーレイは「はははっ」と大笑いをして。
「そうか、あれも目出度いイベントなのか。俺の家では普通に扱われただけで」
「そうだよ、ぼくの家ならパーティーだよ!」
「なるほど、なるほど。イベントの方でも人を選ぶか、そうだったのか」
あれが目出度いとは知らなかったな、と可笑しそうに笑い続けるハーレイ。
どうやらハーレイが十四歳の誕生日を迎えた時には何も無かったみたいだけれど…。
だけど、ぼくの十四歳の誕生日は特別だったと思う。
ぼく限定の特別イベントだったんだろうか、ハーレイと再会出来た奇跡は?
だってハーレイが十四歳の子供だった頃には、ぼくは生まれていなかったんだし…。
そう考えていて、ふっと気付いた。
ハーレイが生まれてから、ぼくが生まれるまでの間に二十三年間もある。
その間、ぼくは何処にいたのかな?
一人ぼっちで居たんだろうか、と思うけれども、分からない。
でも、なんでそういう風に感じるのか、どうしてなのか…。一人だった気がしないんだ。
いつも誰かがぼくの側に居て、ふんわりとした温もりに包まれていたような…。
メギドで失くした筈の温もりを、ぼくは持っていたような感じがする。
もしかしたら、ハーレイと一緒に居たんだろうか?
死の星だった地球が蘇るまでの長い長い時を、ハーレイと過ごしていたんだろうか?
きっと時間なんか無いような場所にハーレイと二人で居たんだよね、と思いたい。
思いたいけれど、自信がないや。
だけど聖痕なんていう凄い奇跡があるなら、そういう場所もあるかもしれない。
きっとそうだよ、ぼくはハーレイと二十三年間も離れて一人ではいられないから…。
時間の無い場所で二人過ごして、青い水の星が蘇って。
其処に前世のハーレイそっくりに育つ器が出来て、ハーレイは生まれ変わって行ったんだ。
「待ってるからな」って、ぼくに手を振って、ぼくの大好きな笑顔を見せて。
そして時間が無い場所だったから、ぼくもハーレイが行ってしまった後は独りぼっちで待たずに済んで直ぐに生まれて来たんだと思う。
この地球の上に、ハーレイを追って。
二十三年間もの時間さえ、一瞬に変えてしまった神様。
ぼくとハーレイとをもう一度会わせてくれた神様。ぼくの身体に傷痕を刻んでくれた神様。
沢山の奇跡が始まった日が、ぼくの十四歳の誕生日。
身体が弱いぼくが凍えないよう、暖かくなる春を選んで神様が送り出してくれた三月の末の日。
学年で一番の年下だけれど、奇跡の始まりになった誕生日だから、この日が大好き。
ぼくが生まれた三月の末。三月の三十一日から始まった奇跡を、ぼくは一生忘れないよ…。
奇跡の始まり・了