シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(亜空間理論…)
ハーレイが勉強してたヤツ、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
ふと目に留まった本のタイトル、宇宙船のパイロットを目指す人たちの必読書らしい。亜空間についての知識が無ければ、ワープなど出来はしないから。
(…前のハーレイなんだけれどね?)
亜空間理論の本を読んでいたのは。「サッパリ分からん」とぼやきながらも。
シャングリラのキャプテンに就任した後、操舵の練習を始めたハーレイ。厨房で料理をしていた頃とは、違う世界に飛び込んで行って。
キャプテンには必要なことだから、と懸命に努力し続けていた。操舵は出来なくてもいいという条件付きで、選任されたキャプテンなのに。「船を纏めてくれればいい」と。
けれどハーレイは、それで良しとはしなかった。船を動かせるキャプテンになろうと、専門書を読んでの勉強から。やがてシミュレーターでの練習、ついには実地。
そうして出来たキャプテン・ハーレイ。誰よりも巧みにシャングリラを動かし、細かい癖だって掴んでいた。白い鯨になる前も、後も。
(こっちの本は参考書…)
パイロット養成校での授業について行くための、何種類もの参考書たち。難解そうなタイトルが幾つも、きっと自分が読んだって…。
(分からないよね?)
参考書に書いてある中身。参考書でも、まるで分からない筈。
学校の成績はトップだけれども、パイロットの勉強はしていないから。義務教育の間は、学校で教えはしないから。
亜空間理論も、他の参考書も。…日々の暮らしに必要無いから、義務教育では習わない。
だから分からない、専門分野。パイロットになりたい人たちだけが学ぶこと。
(この辺りは、前のぼくたちが生きてた時代と同じ…)
遠く遥かな時の彼方の、機械が支配していた時代。歴史の授業で学ぶSD体制の時代。
あの時代でも、そうだった。最初は誰もが全く同じ教育を受ける。今の自分が通う学校、其処で教わる義務教育。
授業の中身はSD体制の時代と全く違うけれども、どの子も同じに学ぶということ、その点では前の自分が生きた時代と変わらない。基本の教育は誰でも同じで、知識も同じ。
けれど、その後が変わってくる。あの時代と、今の時代とでは。
(ぼくは行かないつもりだけれど…)
義務教育を終えた後には、上の学校が待っている。其処へ行きたい子供たちのために。
上の学校に進むのだったら、自分がやりたいことを学べる学校へ。
どんな学校でも自由に選んで、好きなコースに入学出来る。これが前の自分の時代との違い。
(パイロットになるための学校だって…)
卒業後の適性検査で落ちてもかまわないなら、今の自分でも志願は出来る。弱すぎる身体では、とてもなれないパイロット。適性検査で落っことされるに決まっている。
それでも学んでみたいのだったら、入学出来るし、卒業も出来る。
今の時代はそういう時代。
「あなたには向いていませんから」と、門前払いは有り得ない。
実力不足で授業についていくのは無理だ、と判断されたら入れないけれど。無理に入っても後で苦労をするだけなのだし、他の学校を勧められるけれども。
今の自分でも入れそうな、パイロット養成校という所。入学資格は多分、あると思う。宇宙船を実際に動かすつもりもないのに、入る人たちはいるようだから。
そういう分野を勉強したい、と入学する人。其処の出身の作家もいるような時代。本物の知識を使って書いているから、パイロットたちに大人気。本格派の宇宙小説だ、と。
(幼年学校だと、パイロットは…)
あるのだろうか、そういう職業を目指すコースも。
幼年学校は、子供ばかりが行く学校。人間が全てミュウになった時代ならではの子供の学校。
義務教育を終えた後にも、心も身体も子供のままの子、そういった子が通う場所。
専門の知識は学ぶけれども、子供でもついてゆけるようにと、ゆったり組まれたカリキュラム。休み時間を多めに取ったり、遊ぶための時間が設けてあったり。
通う子供が困らないよう、義務教育の時代と変わらない雰囲気が売りらしいけれど…。
(勉強したい分野は色々なんだし…)
パイロットを目指すコースもあるかもしれない。
いつか大きく育った時には、適性検査だけで済むように。子供の身体では合格できない、受験も出来ない適性検査。それさえ受ければ、もう直ぐにだってパイロットになれる知識を、子供の間に身につけておく。幼年学校に通う間に。
(幼年学校は嫌だけどね?)
チビのままで育たなかったとしたって、ハーレイと結婚したいから。
十八歳になったら結婚出来る年になるから、チビの自分でもハーレイと結婚出来る筈。せっかく二人で暮らせるのだから、学校になんか行きたくはない。
幼年学校に通いながらの結婚だなんて、絶対に御免蒙りたい。
(パパとママ、ぼくには向いてるつもりでいるんだから…)
冗談交じりに言われもするから、チビのままだと入学手続きをされてしまいそう。学校へ下見に連れて行かれて、「此処がいいから」と入学するよう勧められて。
それは嫌だし、早く大きくなりたいんだけど、と帰った二階の自分の部屋。
幼年学校には入りたくないし、背丈を伸ばして早く大きくならなくちゃ、と。前の自分と同じに育てば、行かなくて済む幼年学校。子供のための学校だけに、入学資格も無くなる筈。
(幼年学校じゃなくっても…)
他の学校でも、行きたくはない。上の学校に進むよりかは、ハーレイと結婚する方がいい。断然そっちで、とうの昔にそのつもり。「上の学校には行かないよ」と。
これにしたって、前の自分が生きた時代との大きな違い。
自由に選べる、この先の進路。義務教育を終えた後には、何をするかも、どう生きるかも。
(前のぼくたちの時代だったら…)
ミュウだと判断されなかったら、成人検査をパスした子供は大人の社会に向けて旅立つ。直ぐに大人になれはしないし、そのための準備段階から。
教育ステーションに移って、四年間、色々な専門コースの勉強をする。それが済んだら、大人の社会の仲間入り。宇宙に散らばる星へと散って。
(だけど、機械が決めてたんだよ…)
一般人になって養父母にだとか、メンバーズだとか、研究者だとか。
教育ステーションでの成績にも左右されるけれども、それよりも前に、何を学ぶのか。どういう勉強をしてゆくのかを、自由に選べはしなかった。
成人検査の時に機械が調べた適性、それに応じて決められた教育ステーション。
優秀だからメンバーズに、とエリートコースに送り込まれたり、どうやら平凡な子供らしいと、一般人向けのステーションに振り分けられたりと。
子供時代には、誰だって夢があっただろうに。
メンバーズ・エリートになりたいだとか、大きくなったらパイロットだとか。
けれど、機械が決めてしまう進路。夢は無視して、適性だけで。
パイロット希望だった子供が、一般人のコースに送られるとか。自分も子供を育ててみたい、と夢見ていた子が、メンバーズの道に送られるとか。
希望が通りはしなかった時代。望んだ道が待っているとは限らなかったSD体制の時代。
望み通りのコースに進んだ子供もいただろうけれど、夢が潰えた子だって沢山。そういう場合は記憶処理だってしただろう。機械にはそれが出来たのだから。
(もしも、前のぼくが成人検査をパスしていたら…)
ミュウだと判断される代わりに、ちゃんと合格していたならば。
どうなったのだろう、前の自分の人生は。どういう風に生きたのだろう…?
(何も覚えていなかったから…)
子供時代の記憶をすっかり失くしていたから、望みのコースが何だったのかも分からない。前の自分が夢見たコースも、なりたいと望んでいたものも。
(ソルジャーじゃないことだけは確かだけどね?)
今の時代も大英雄のソルジャー・ブルー。前の自分はミュウの初代の長だった。
誰に訊いても、ソルジャー・ブルーの職業は「ソルジャー」なのだけれども、ソルジャーは船の仲間たちが名付けてしまった職業。シャングリラにいたミュウたちが。
昔からあった仕事ではないし、それになりたい筈がない。ソルジャー以前に、ミュウにだって。
社会から弾き出された異分子、見付かれば処分されたのがミュウ。
そんな将来を夢見るような子供はいないし、きっと違う未来を望んでいた筈。
ごくごく平凡に子供を育てる一般人とか、研究者だとか、技術者だとか。
(…パイロットだとか、メンバーズとかは…)
今と同じに弱かったのだし、多分、考えてはいなかったろう。なれる筈など無いのだから。
それでも、あった筈の夢。大人になったら、こういう風に生きていこうと。
前の自分が望んだ道。夢見ていたのに、選ぶことさえ出来なかった道。
いくら機械が決めた時代でも、運が良ければ、その入口に立てただろうに。ミュウにならずに、成人検査をパスしていたら。教育ステーションに入れたならば。
(前のぼくの夢…)
何だったのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りに来てくれたハーレイ。
前のハーレイなら、将来の夢は何だったろう、と思ったから問いを投げ掛けた。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで向かい合わせで。
「えっとね…。ハーレイが子供だった時…。大人になったら、何になりたかったと思う?」
どういう夢を持ってたのかな、ハーレイの将来の夢って、何?
「はあ? 何って…。俺は教師だが?」
ガキの頃には、プロの選手を夢見たこともあったんだが…。
教師になろうって夢もあったし、夢はきちんと叶えたぞ。お前も知ってる通り、教師だ。
「今じゃなくって、前のハーレイだよ」
前のハーレイは何になりたかったの、成人検査を受ける前には…?
「おいおいおい…。覚えているわけがないだろう」
今の俺の身体に生まれ変わる前から、そんなの覚えちゃいなかったぞ。
成人検査と、その後の人体実験で記憶をすっかり奪われちまって、何もかも全部。
前のお前もそうだったろうが、子供時代の記憶なんかは無かった筈だ。
「分かってるけど、ちょっと気になっちゃって…」
今だと好きに選べちゃうでしょ、将来は何になりたいか、って。
本当になれるかどうかはともかく、なろうとして頑張ることは出来るよ。それに向かって。
だけど、前のぼくたちが生きた時代は違ったから…。
これになりたい、って夢を持っていたって、機械が「駄目」って言ったらおしまい。
「なりたい」と「なれる」は違った時代、と説明した遠い昔のこと。今とは違った、と。
機械が進路を決めた時代で、個人の希望は通らなかったと。
「前のぼく、何になりたかったか、さっき考えていたんだよ」
もちろん覚えてないけれど…。ハーレイと同じで、何も覚えていないんだけど…。
前のぼくがなりたいと思っていたもの、ソルジャーじゃなかったことだけは確かだから…。
「そりゃそうだろうな、ソルジャーだけは有り得んな」
ソルジャーなんて職業もそうだし、ミュウになるって未来も考えたりしない。
前のお前の将来の夢は、まるで叶わなかったんだな。…何を夢見ていたにしたって。
「でしょ?」
夢とは違いすぎる未来で、きっと想像もしていなかったよ。ミュウの長になる自分なんて。
でも、前のハーレイなら、案外、パイロットになっていたのかも…。
ミュウにならずに、成人検査をパスしていたら。
ぼくが最初に考えてたのは、そっちなんだよ。前のぼくが成人検査をパスしていたなら、どんな未来が待っていたかな、って。
前のぼくが何になっていたかは分からないけど、ハーレイだったらパイロット。宇宙船のね。
成人検査で適正あり、って結果が出ちゃって、そういう教育ステーションに行って。
シャングリラの代わりに、うんと大きな客船とかを動かすんだよ。遠く離れた星から星へ。
「どうだかなあ…。料理人かもしれないぞ」
元は厨房出身なんだし、料理人が向いていたんじゃないか?
パイロットよりかは、前の俺らしい職業のような気がするが…。
「料理人かあ…。その可能性も充分あるよね…」
前のハーレイ、料理も得意だったんだし…。
キャプテンの前は厨房だったし、料理人っていうこともあったかな…?
そっちの道に進んだだろうか、と考えた前のハーレイの未来。成人検査をパスしていたら。
けれど、料理人よりはパイロットの方が優れた人材。社会の役に立つ才能。
機械が判断していたのだから、ハーレイはパイロットになっていたかもしれない。料理人よりも稀有な存在だから。誰にでも出来るものではないから。
「…ハーレイ、やっぱりパイロットになっていたんじゃないの…?」
料理人だと思っていたって、進路は機械が決めてたんだよ?
パイロットの才能を持っているなら、そっちに行かせてしまうんじゃない?
料理が出来る人は沢山いるけど、パイロットになれる人は少ないし…。今の時代も少ないよ。
だから、前のハーレイにパイロットの才能があったら、そのコースになったと思うんだけど…。
「うーむ…。まるで無いとは言い切れないな」
俺の頭の中を探って、パイロット向きだと判断したなら、そういう教育ステーションか…。
パイロットになるための勉強ばかりをするってわけだな、四年間も其処でみっちりと。
「それが前のハーレイの夢だったのかもしれないよ?」
大きくなったらパイロットだ、って宙港とかで飛んで行く船を見上げてたかも…。
その夢を知らずに叶えていたかも、シャングリラで。
前のハーレイはキャプテンだったし、あんなに大きな船を動かしていたんだから。人類の船より遥かに大きい、鯨みたいなシャングリラを。
「いや、俺としては料理人の方だと思うがな?」
前の俺がなりたかったものがあるとしたなら、パイロットよりは料理人だ。
「なんで?」
どうして分かるの、パイロットじゃなくて料理人だ、って。
記憶を全部失くしていたのに、そんなの分からないじゃない。どれがハーレイの夢だったか。
「それがそうでもないってな。…前の俺ってヤツに関しては」
前のお前も知ってた筈だぞ、俺が厨房に入った理由。
厨房で料理をしてるヤツらの手元を見てたら、どうにも危なっかしい気がしてなあ…。
「貸してみろ」って入って行ったら、身体が勝手に動いちまった。こうやって、こう、と。
料理が身体にしみついてたんだ、相当、料理をしていた筈だぞ。…前の俺はな。
パイロットになるのが夢の子供だったら、料理に興味は無いだろう、と言われればそう。
養父母の家でせっせと料理をしている代わりに、きっと宙港に行くだろう。宇宙に飛び立つ船を眺めに、いつか自分もあの船で宇宙を飛んでゆこうと。
「そっか…。じゃあ、前のハーレイが成人検査をパス出来ていても…」
パイロットを育てる教育ステーションに行って勉強しなさい、って言われちゃったら…。
夢が台無しだね、料理人になりたかったなら。…いつもお料理していたんなら。
「きっとガッカリしてたと思うぞ、なんてこった、と」
此処じゃ料理も出来やしない、と溜息の日々というヤツだ。…周りはウキウキだろうがな。
パイロットになれば地球にも飛んで行けるし、憧れの星に一歩近付いたんだから。
「でも、ハーレイはガッカリだよね…。料理人になりたかったんだから」
その進路、変えられないのかな?
途中で変えるの、あの時代だと無理だよね…。パイロットだったら、パイロット。
大きな船を任されるのか、同じパイロットでも下っ端になるかの違いくらいで。
「そんなトコだな。一度決まったら、あくまで其処での成績次第の振り分け程度だ」
もっとデッカイ船が良かった、と思っても、小さな輸送船の交代要員にしかなれないだとか。
でなきゃ、勉強の成果を生かして通信士だとか、整備士だとか…。
進路を丸ごと変えてしまうというのは、結婚以外じゃ無理だった筈だ。
結婚するなら仕方ない、と一般人向けの教育ステーションに送ってくれるってな。
…待てよ、その手があったんだから…。
料理人だって、一般人向けの社会を構成出来たんだから…。
それだ、とハーレイはポンと手を打った。結婚して料理人の養成コースに入ればいい、と。
パイロットになるコースは向いていないから、と一般人向けのコースに切り替え、其処で一生の仕事に決めるのが料理人。元々才能はあったわけだし、なれるだろうと。
「アルテメシアにも料理人は大勢いたからな。育英都市でもレストランは人気だ」
子連れの家族がよく行く場所だし、レストランに勤める料理人の種類も色々だってな。
結婚しないで料理一筋のヤツもいればだ、家に帰れば子供の父親っていうのもいたし…。
つまり、俺でも充分になれた。結婚の道を選んだ時点で、料理人の道も開けるわけだ。
「結婚って…。それで教育ステーションから出て行くだなんて…」
出来るの、途中で変えちゃうなんて?
パイロットになるための勉強を捨てて、一般人向けのコースに移るだなんて…。
「マザーが許してくれればな」
パイロット向けの教育ステーションだと、どういう名前だったか俺は知らんが…。
マザー・イライザしか知らんわけだが、似たようなのがいる筈だ。そいつが結婚の許可を出してくれれば、ステーションから出て行ける。未来の嫁さんと一緒にな。
「だけど…。前のハーレイ、キャプテン・ハーレイになっちゃえるような人材だよ?」
凄い才能を持ってたんだし、無理なんじゃない?
いくら結婚するって言っても、お許し、出そうにないんだけれど…。
「結婚したいと希望を出すのは、進路変更の最強の方法だったという話だが?」
他にも方法はあっただろう。適性あり、と送り込まれても、途中で身体を壊しちまうとか…。
そういう時には仕方ないしな、進路変更もやむをえない。
しかし、自分の我儘を叶えてステーションから出て行くんなら、結婚だ。
そいつが一番強かったわけだ、あの時代に自分の意志で進路を変えるんならな。
スウェナ・ダールトンがそうだったろうが、と挙げられた例。
前の自分は、子供時代しか知らないスウェナ。ジョミーの幼馴染だった少女。
彼女はエリート育成のための教育ステーション、E-1077に行った。其処で幼馴染のサムと再会して、キースと出会った。いつも三人で過ごしたという。
けれど、最後の四年目に変えてしまった進路。メンバーズを目指すエリートをやめて、一般人のためのコースへと。結婚したい相手がいたから、サムやキースに別れを告げて。
「そんなケースでも、マザー・イライザは許可を出したんだ」
本当にスウェナの我儘ってヤツで、それ以外の何でもなかったのにな。
才能だけなら、スウェナは充分、メンバーズになれたそうだから…。サムと違って。
「スウェナって…。あれはマザー・イライザの計算なんじゃあ…?」
サムやシロエもそうだったんでしょ、キースの才能を開花させるためのプログラム。
それだけのために集めた人間、スウェナもその中の一人だったわけで…。
サムと同じで、ジョミーの幼馴染だから。
スウェナをキースに近付けておいて、結婚で離れさせちゃうのも、きっとプログラムだよ。
「そいつは無いな。…キースと出会った方はともかく、離れた方は違うだろう」
もしも計算していたのならば、スウェナがステーションから出て行く時に記憶を処理した。
キースやサムと一緒にいたことは特に処理する必要もないが…。
セキ・レイ・シロエ。…シロエの存在を記憶から消しておかんと、後々、マズイことになる。
なにしろ、ミュウだというだけで選ばれた人間だからな、シロエというのは。
いずれはキースに処分させようと、そのつもりだけで連れて来たんだ。あのステーションに。
その程度の存在だったわけでだ、スウェナがシロエを忘れていたって問題はない。下級生の中の一人に過ぎんし、いつかキースと再会したって、「覚えていない」で済むことだ。
俺がマザー・イライザの立場だったら、計算ずくでスウェナを旅立たせるなら、シロエの記憶は消しておく。特殊な存在を覚えたままだと、万一ってことがあるからな。
現にシロエの記憶を消されないまま、スウェナがいたのが後で厄介なことになるんだから。
「そうだね…」
スウェナがシロエを忘れていたなら、面倒は起きなかったよね…。
前の自分がいなくなった後、ジルベスターからノアに戻ったキース。彼がスウェナから渡されたピーターパンの本。…シロエの遺品。
もしもスウェナが、それに出会った時、シロエを覚えていなかったなら…。
「ピーターパンの本を見たって、スウェナには何の意味も無いよね」
いったいどういう価値があるのか、キースに見せたら何が起こるか。
…スウェナはシロエを覚えていたから、キースが処分したMのキャリアが誰だか分かった。
シロエの名前でピンと来たから、高いお金を支払ってまで本を買い取って…。
だけどスウェナは、シロエの本を知っていたのかな?
ピーターパンの本を持っていたこと、知っていそうにないんだけれど…。シロエの宝物だから。
「そいつは本の持ち主の名前で分かるじゃないか」
あの本をスウェナに売り付けたヤツも、当然、知っていたろうさ。
「セキ・レイ・シロエ」と、シロエが自分で名前を書いておいたんだから。
シロエって名前を聞いちまったら、もう買い取るしかないってな。…スウェナとしては。
「そうだよね…」
キースを動揺させるためには、充分すぎる材料だよ、あれ…。
本にはシロエのメッセージが仕込んであったんだから。キースが誰かを教える映像。
シロエが命懸けで撮影して来た、フロア001の映像…。
前の自分が生きた時代は、まだ伏せられていたその事実。マザー・システムが生きていたから。
だから前のハーレイも知りはしなかった。
セキ・レイ・シロエという少年の名前は、アルテメシアで救い損ねたミュウの子供として覚えていただけ。その後のシロエのことは知らない。彼がどう生きて、何を残したかも。
そのシロエが撮ったフロア001の映像。それがキースに渡ったけれど。
スウェナがシロエを忘れていたなら、そんな事件は起こらない。スウェナはピーターパンの本の価値に気付きはしないし、それを買おうとも思わないから。
けれど、キースは映像を見た後、フロア001へ向かったわけだし…。
「…全部、マザー・イライザの計算だったかもしれないよ?」
スウェナの記憶を消さないままでおいたこと。
後でキースにシロエの本を渡させるように、きちんと計算したんだよ。
だってそうでしょ、キースはシロエのメッセージを見て、フロア001に行ったんだから…。
「お前なあ…。深読みし過ぎだぞ、それは」
いくらマザー・イライザが狡賢くても、相手は紙の本なんだ。…ピーターパンの本は。
そいつがレーザー砲で撃たれた後まで残って、回収されるなんてことは普通なのか?
どう考えても、計算ずくでは有り得ないってな。
しかも宇宙海軍を退役しちまうような、飲んだくれの男がコッソリ隠したままだたったなんて。
そんな所までコントロール出来ると思っているのか、マザー・イライザが?
「…無理そうだね…」
シロエの本が残っていたのもそうだし、回収した人が退役しちゃうのも…。
スウェナが離婚してジャーナリストになっていたのも、宇宙鯨を追い始めたのも。
フロア001のことなら、あの映像が無かったとしても、キースは聞いていたっていうし…。
其処へ行けってシロエに直接言われたらしいし、いつかは自分で行っちゃうよね。
シロエが残した映像なんかは見ないままでも、機会があれば…。
今の時代だから分かること。キースがE-1077を処分したこと。
グランド・マザーの命令で処分しに出掛けた時、キースはフロア001に入った。候補生時代は入る機会が無かった場所へ。…キースが創り出された所へ。
シロエのメッセージが無かったとしても、彼は同じに向かっただろう。其処だとシロエが言っていたから、確かめろと言われていたのだから。
「…キースがフロア001に入れないままで卒業したのも…」
マザー・イライザの計算だものね、まだその時期が来ていないから、って。
入れる時期がやって来たのが、たまたまシロエのメッセージを見た後になっただけだよね…。
「ほらな、やっぱり単なる偶然ってヤツだ」
キースの件は全く絡んでいなかったってな、スウェナの進路変更には。
出会うってトコだけが大切なことで、離れてゆく方はどうでも良かった。…マザー・イライザにとってはな。もう充分に役に立ったし、勝手にしろと言った所だ。
計算ずくなら、シロエの記憶を消してから送り出すからな。…シロエは危険すぎたんだから。
そいつをしないで結婚の許可を出したってことは、機械でも修正不可能だからで…。
恋に囚われちまったヤツらは、言うことを聞きやしないってな。
つまりは、前の俺が結婚しようと考えたなら…。
パイロットのための教育ステーションから、一般人への進路変更は可能ってことだ。
メンバーズになれそうだったスウェナでさえも、結婚を理由にステーションを離れたんだから。
たかがパイロットの卵の俺なら、もっと簡単だったろう。
代わりの人間は幾らでもいるし、パイロットから料理人にはなれる。
運命の相手と恋に落ちたら、パイロットの道にもお別れだってな。
結婚するついでに、料理人になって一般人だ、とハーレイは自信たっぷりだから。
料理人という職業に就いて、何処かの星で平凡な暮らしをするそうだから…。
「ハーレイなら、ホントにやりそうだね」
一般人向けのコースに行くなら、料理人になるのがいい、って。
そういう教育を受けられるステーションに行くって、きちんと料理を勉強する、って。
「おっ、そう思うか?」
前の俺は料理人になれそうだってか?
パイロット向けの教育ステーションを飛び出した後に、一から出直しで勉強をして。
「きっと出来るよ、ハーレイだったら」
厨房で料理を作っていたのに、キャプテンになって船を動かしていたんだもの。
そっちの方がよっぽど凄いよ、料理人からパイロットだよ?
逆の方がずっと、簡単なのに決まっているよ。…難しい本を沢山読んだりしなくてもいいし。
今のぼくが亜空間理論の本を読んでも、意味はちっとも分からないだろうと思うけど…。料理の本なら、多分、分かると思うから。こういう材料で、こう作るんだ、って。
だからね、前のハーレイがパイロットから料理人になるのも、きっと簡単。
料理の基礎は身体が覚えてたんだし、後は勉強するだけだもの。
だけど…。前のハーレイはそれでいいんだけれど…。
どうやら料理人になりかったらしい、前のハーレイ。ただし、パイロットか、料理人か、二つに一つで選ぶのならば。他の選択肢が無かったならば。
前のハーレイの身体が覚えていた料理の基礎とやら。それを生かせる職業が他にもあったとか、単なる趣味に過ぎなかったとか。その可能性もゼロではないから。
とはいえ、前の自分よりは絞り込めそうなのが前のハーレイの夢で、将来、なりたかったもの。料理の腕を生かした職業、料理人というのは大いにありそうだけれど…。
「…前のぼく、何になりたいと思っていたんだろう…?」
ハーレイは料理人の可能性が高いけれども、前のぼくには手掛かりが無いよ。
ホントになんにも覚えていないし、教わらなくても出来る何かも無かったし…。
サイオンは上手く使えたけれども、成人検査を受ける前には、サイオン、使っていないしね…。
「前のお前の将来の夢というヤツか…。今のお前とは違うだろうな」
嫁さんってことはないだろうから、何の参考にもならないぞ。
今のお前は、俺の嫁さんになるっていうのが目標だしなあ、将来の夢で。
「うーん…。前のぼくの夢、お嫁さんではないと思うけど…」
でも、ハーレイには会えたと思うよ。…パイロットでも、料理人だとしても。
ハーレイがどっちをやっていたって、ぼくたち、きっと出会うんだよ。
「違いないな…!」
出会うんだろうな、まさに運命の出会いってヤツで。…きっと何処かで。
でもって、前の俺たちが成人検査をパスして出会うんだったら、お前は年下なんだろう。
俺の方がお前より年上になって、年の差もうんと小さいってな。前のお前と俺よりも。
「…そうなるの?」
ぼくが年下って、どういう理由で…?
「老けたお前じゃ駄目じゃないか。俺とバッタリ出会った時に」
人類同士で出会うんだったら、前の俺たちの年の差だったら、そうなっちまう。
前のお前は、俺より遥かに年上だったわけなんだからな。
成長を止めたチビだったのはミュウだったからだろ、とハーレイは笑う。
人類同士だと、そうはいかないと。身体も心もチビの子供に出会う代わりに爺さんだ、と。
「そいつは困るし、お前は年下でいてくれないと…。俺と釣り合いが取れる程度の」
そしてだ、俺がパイロットから料理人にコース変更しようって時。
結婚相手はお前だろうな。俺より年下に生まれたお前。
何処でお前に出会って惚れて、マザーに申告することになるかは分からんが…。
お前がパイロット養成コースに入れそうな気はしないからなあ、俺が卒業した後だろう。
パイロットになってから、寄った教育ステーションの宙港でバッタリ会うとか、そういうの。
次に来る日は…、と学生のお前に約束しては、デートを重ねて。
結婚しようってことになったら、お前はステーションのマザーに許可を貰う、と。
俺の方は、お前と一緒に暮らせるようにと、パイロットを辞めて料理人の道に行くわけだ。
パイロットのままじゃ、ゆっくり家にはいられないからな。…いつも宇宙を旅してばかりで。
結婚を機会に、料理人になるのが一番だ。そうすりゃ、お前と一緒だしな。
「うん、そうなっていたよね、きっと…!」
前のハーレイとぼくが、成人検査をパスしていても。
…二人ともミュウじゃなかったとしても。
何処かで出会って、結婚して一緒に暮らしていたよね、育英都市は無理だけど…。
男同士のカップルだったら、子供は育てられないから…。
「確かにな。…大人しかいない星に行くしかないな」
咄嗟にはノアしか思い付かんが、他にも幾つもあった筈だし…。
そういう星で二人で暮らして、前のお前は、金髪に水色の瞳なんだな。…アルビノじゃなくて。
「ふふっ、そうだね」
ミュウじゃないなら、そうなるね。…ぼくの目、水色のままなんだよね。
そうなっていたら、今のぼくだって水色の目になっていたのかも…。髪の毛だって金髪で。
でも、ハーレイとは一緒だよね、地球で。…今の青い地球に生まれ変わって。
きっと、どういう道を歩いても、ハーレイと出会ったのだろう。
成人検査をパスしたとしても、教育ステーションに進んだとしても。
何処かで出会って、きっと恋に落ちて、二人で生きて行ったのだろう。互いの進路を、途中から変えてしまっても。
前のハーレイも、前の自分も、機械が決めた進路を変更してでも、結婚の道を選んだだろう。
ハーレイがパイロットから料理人になって、前の自分も教育ステーションを離れてでも。まるで全く違う進路へ向かったとしても、幸せに生きてゆけたのだろう。
そして今度も、ちゃんと出会えた。
ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた。
だから上の学校に入学したりしないで、ハーレイと一緒に歩いてゆこう。義務教育を終えたら、結婚出来るから。…十八歳になるのだから。
前の自分がなりたかったものは謎だけれども、今でも謎のままなのだけれど。
どんな人生を歩んでいたって、きっと何処かでハーレイと会った。
ハーレイに出会って恋をしたから、今度も二人で生きてゆく道。二人一緒に暮らせる道。
その道を早く選びたいから、上の学校には進まない。
前のハーレイが「結婚したい」と料理人のコースに移るのならば、相手はきっと自分だから。
パイロットを辞めて、前の自分を選んでくれるのがハーレイだから。
そういう出会いは出来なかったけれど、きっと何処かで巡り会う二人。
これから先も離れないから、いつまでも二人、手を繋ぎ合って歩いてゆくのだから…。
学校と進路・了
※前のハーレイとブルーが何になりたかったのかは、あの時代にも、今も謎ですけれど…。
どういう道に進んでいたって、きっと二人は出会えた筈。成人検査をパスしていたとしても。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えーっと…?)
猫だ、とブルーが見詰めた張り紙。学校の帰りに、家の近所のバス停で。
学校の近くから乗って来たバス、それを降りたら目に入ったもの。バス停の邪魔にならない所にペタリと貼られて、カラーで刷られた猫の写真。
(迷子…)
たまに見かける迷子捜し。こんな具合に、写真を添えて。
前にハーレイが遅刻して来た休日もあった。ハーレイの家から歩いて来る途中で出会った子猫。その子が迷子だと分かったから。迷子の張り紙があったから。
回り道になってしまうけれども、子猫を送って行ったハーレイ。張り紙に書いてあった住所へ、小さな子猫をしっかりと抱いて。
大遅刻をしたハーレイだけれど、子猫を助けて遅刻だったし、自分も怒りはしなかった。それにお土産も貰ったから。ハーレイが子猫を届けた御礼に貰った、色々なケーキの詰め合わせを。
今日の張り紙も、そういったもの。いなくなった猫を捜して下さい、と。
(ハナちゃん…)
迷子になった猫はハナちゃん、縞模様になった三毛が特徴の猫。茶色と黒の模様の部分が、全部縞になっているらしい。茶色や黒の一色ではなくて。
まだ子供だという小さなハナちゃん。日本風の名前だよね、と読んでいったら…。
(大変…!)
てっきり近所だと思っていた家。ハナちゃんの飼い主が住んでいる場所。
その家は此処からうんと遠くて、何ブロックも離れた所のハーレイの家よりまだ向こう。きっと子猫の目から見たなら、世界の果てかと思うくらいの距離だろう。
小さな身体で、小さな足で、せっせと歩いても帰れない場所。どんなに頑張って歩き続けても。
(どうして…?)
迷子の張り紙が此処に貼られているのだろう。ハナちゃんにとっては、世界の果てより遠そうな場所に。子猫の足では辿り着けそうもない場所に。
(…何かの事故に巻き込まれちゃった…?)
ハナちゃんの家から、こっちの方へと向かうトラックに乗ったとか。何かを配達する車。
子猫は好奇心が強いものだし、飼い主の人が知らない間に潜り込むこともあるだろう。配達用の車はそのまま出発、飼い主の人が届いた荷物を開けたり片付けたりしている内に。
(気が付いたら、ハナちゃん、消えちゃってたとか…?)
慌ててトラックの会社に連絡、そのトラックが次に向かった配達先が此処だったとか。
(そうなのかも…)
だったら本当に大変な事態。ハナちゃんは知らない所に連れて来られてしまって、今でも迷子。
見れば、張り紙の側には、貼ってあるのと同じチラシが何枚も纏めて吊るされていた。
「お願いします」という文字を添えて。「貼って頂けると有難いです」と。
飼い主の人が貼れそうな場所はバス停くらい。他所の家には勝手に貼れない。貼りたくても。
(貰って帰って…)
貼ればいいだろうか、家のポストにも。ハナちゃんが早く見付かるように。
そう思ったから、一枚手にした。「お願いします」と吊るしてあるのを、外して取って。
家に帰って、ちゃんと読んでから貼っておこうと。
でも…。
迷子捜しのチラシを手にして、家へと歩き始めたら。住宅街の道を歩いて行ったら…。
(あちこち、貼ってる…)
家のポストや、門柱などに。
ハナちゃんを捜すための張り紙、協力している家が何軒も。道を曲がって入ってゆく先、其処を覗いても見える張り紙。右に曲がっても、左側でも。
沢山あるよ、と確かめながら帰って行ったら、隣の家にも貼ってあったから。
(ぼくの家には要らないかな?)
お隣さんが貼ってるから、と眺めて持って入ったチラシ。
二階の部屋で制服を脱いで着替えて、おやつの時間に持って下りて行った。ダイニングへ。まだ読み終わっていなかったから。
テーブルに置いたら、おやつを運んで来てくれた母が気付いたチラシ。
「あら、持って来たの?」
家に貼ろうと思ったのね。お隣さんがもう貼っているけど。
「これ、ママも見たの?」
「ええ。お隣さんのも、ご近所のも。…お買い物に行ったお店にも貼ってあったわよ」
「そうなんだ…。ハナちゃんの家、うんと遠くだよ?」
やっぱりトラックに乗って来ちゃったのかな、配達用の…。お店にも貼ってあったんなら。
「読めば分かるわよ、書いてあるから」
ママも読んだの、いったい何が起きたのかしら、って。
「ふうん…?」
トラックに乗って来たんじゃないとか…?
ハナちゃんが自分で歩いて来るには、此処、遠すぎると思うんだけど…。
読んでいなかった迷子の理由。ハナちゃんがどうして行方不明になったのか。
おやつの前に、とチラシの続きを読んでいったら…。
(いなくなった場所、分からないんだ…)
ハナちゃんが消えてしまった場所は、此処ではなかった。トラックに乗ったわけでもなかった。
同じ町でも、此処からは遠い所に住んでいる、飼い主の御夫婦。
奥さんが焼いたフルーツケーキを配るためにと、ハナちゃんも乗せて車で出発。運転は御主人、奥さんは助手席。ハナちゃんは後ろのシートでウトウト眠っていた筈。籠に入って。
町のあちこちへケーキを届けて回って、家のガレージに帰ったら…。
空っぽだったハナちゃんの籠。ハナちゃんはいなくなっていた。
甘えん坊だから、普段は勝手に降りないのに。「降ろして」と、ミャーミャー催促なのに。
それが昨日の夕方のことで、大急ぎで作られた迷子捜しの張り紙が今朝からバス停に。出掛ける時には見なかったけれど、その後で貼られたのだろう。
「ママ…。ハナちゃん、どうなっちゃったの?」
車から一人で降りちゃったなんて、何処で降りたかも分からないだなんて…。
「ママにも分からないけれど…。気になるものを見付けたのよ、きっと」
子猫が飛び付きたくなる何か。それがあったんじゃないかしら?
人間は全く気付かなくても、子猫の目には素敵な何か…、と母が言うのが正解だろう。
籠に入って寝ていたハナちゃん、ふと目覚めたら、ちょっと触ってみたくなる何かが外に。丁度降りようと開けられたドアの、その向こう側に。
とても魅力的で、惹かれる何か。
甘えん坊でも、車を降りたくなるほどに。「降ろして」と頼むより先に。
飼い主の御夫婦が気付かない内に、スルリと降りてしまったハナちゃん。あれが欲しい、と。
まっしぐらに走って行ったのだろうハナちゃん、御主人たちは知らないまま。寝ているとばかり思っていたから、車を出してそれっきり。
(帰れるのかな…)
ちゃんと家まで、と心配でたまらないハナちゃんの行方。
チラシに書かれた範囲はとても広いから。御夫婦がケーキを配った範囲。ハーレイの家の辺りも入っているほど、他の方向にもケーキを配った家が幾つも。
子猫の足では遠すぎる距離で、世界の果てが多すぎる。何処で車を降りたにしても。
おやつを食べ終えて、部屋に帰って眺めたチラシ。迷子捜しのために貼るもの。
隣の家にも貼ってあるから、明日、学校に持って行こうか。二軒並んで貼っておくより、友達の誰かの家が良さそう。このチラシを貼っていないなら。
(ハナちゃん…)
迷子になってしまった子猫。それも昨日から。まだ子猫だから、本当に心細いだろう。家の外で一晩過ごしただけでも、きっと泣きそうな気持ちの筈。自分の家も、御主人たちの車も無くて。
無事に帰れればいいけれど、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれて、勉強机に置いてあったチラシに目を留めて。
「おっ、チラシ…。この辺りにもあったのか?」
俺は車で走って来たから、よく見なかったが…。そういや、あちこち貼ってたかもな。
「え? チラシって…」
ハーレイも読んだの、このチラシを…、と勉強机から取って来た。迷子捜し、と。
「学校の所にもあったからな。お前がいつも乗ってるバス停」
だから俺も一枚貰って帰って来たんだ。家の前に貼っておくかな、と。
「バス停って…。ぼく、帰る時には見てないよ?」
チラシが貼ってあったんだったら、気が付くもの。…降りた時だって、直ぐ分かったから。
猫が迷子になっちゃったんだ、って張り紙を読んで、これを貰って…。
「お前が学校を出た時間には、まだ貼りに来ていなかったんだろう」
それから後に貼りに来たのを、俺が見付けて、チラシも貰った。…車の中に置いてあるがな。
「でも、張り紙は朝からだ、って…」
ママに聞いたよ。ぼくが学校に行った後に貼りに来たみたいだけど…。
「この辺がだろ。…朝から貼ってあるっていうのは」
他所へ行ったら違うわけだな、この張り紙が貼られた時間。
こいつを貼って回る他にも、色々と手を尽くさんと…。何処で消えたか謎なんだから。
ハナちゃんを捜しながら貼って回っていれば時間もかかる、と言われればそう。
張り紙を貼ったら次の場所へと急いで行くより、聞き込みもして行くだろう。フルーツケーキを配った家の近所で、「こういう子猫を見ませんでしたか?」と。
きっと何軒ものチャイムを鳴らして、庭にいる人にも声を掛けて。散歩をしている人にだって。
誰かが手掛かりを知っているかもしれないから。「お願いします」とチラシも渡して。
「ハーレイ…。ハナちゃん、見付かる?」
ちゃんと見付かって家に帰れるかな、自分で歩いて帰れそうにない場所ばかり…。
「大丈夫だろ。こうして張り紙をしておいたらな」
この猫だ、って気付いた誰かが届けに行くか、連絡をしてくれるだろう。此処にいます、と。
俺だって前に見付けてやったし…。迷子だった子猫。
家まで送って行ってる間に、大遅刻になってしまったがな。
「そうだけど…。でも、ハナちゃん…」
まだ子供だし、いなくなったの、昨日だし…。お腹ペコペコで死にそうかも…。
「心配するな。子猫も意外と逞しいもんだ」
猫好きの人は多いからなあ、腹が減ったって顔をしていりゃ、おやつを出して貰えるぞ。迷子の子猫だとは気付いてないから、家の食事に差し支えない程度だろうが…。
少しずつでも、あちこちの家でおやつを貰えば、案外、腹が膨れるもんだ。
それに町中の人が張り紙を見て捜してくれるし、腹を空かせて弱っちまってても見付かるさ。
迷子の子猫がいるらしい、と気が付いた人は、注意して歩いたりするからな。弱っちい鳴き声を聞いたら覗き込んだり、家に帰っても庭にいないか捜してみたり…。
大勢の人がそれをやってりゃ、まず間違いなく見付かるってな。
誰かが見付けてくれる筈だ、とハーレイがチョンとつついたチラシ。迷子になったハナちゃんの写真。「何処で見付かるかは分からないがだ、大丈夫さ」と。
「特徴もハッキリしてるしな。真っ黒とか、真っ白とかじゃないから」
全身のブチが縞模様な上に、三毛と来たもんだ。あれだな、とピンと来る人は多い。
昨日、チラッと見掛けただけでも、「あの猫だ」と。気付けば捜しに出掛けるだろうさ、昨日と同じ場所にいないか。
「そうだといいけど…。誰か、見付けてくれるといいけど…」
ハナちゃんが動けなくなっちゃう前に。…お腹ペコペコで、鳴き声だって出せなくなって。
「心配は要らん、誰かが見付ける。これだけ張り紙を貼っておけばな」
その内に「お蔭で無事に見付かりました」って、御礼のヤツが貼られるさ。これの代わりに。
迷子捜しの張り紙を剥がして、見付かった子猫の元気な写真が刷ってあるのをペタリとな。
まずは子猫の世話が先だし、その張り紙を貼りに来るのは、直ぐってわけではないだろうが…。
しかし…。今はいい時代だよな。
うん、本当にいい時代だ。
「いい時代って…。何が?」
何の話、とキョトンと首を傾げたら。
「これだ、これ。…迷子捜しの張り紙のことだ」
迷子になった一匹の子猫を、町中の人が懸命に捜してくれるってな。
俺やお前も、こいつを貼ろうとしたわけだろう?
お前は貼ろうと持って帰って、俺も車に乗っけてて…。今はそういう時代なんだが…。
前の俺たちはどうだった、とハーレイに投げ掛けられた問い。鳶色の瞳で真っ直ぐ見詰めて。
「…どうなんだ? このハナちゃんじゃなくて、前の俺たち」
ずっと昔の、前の俺たちが生きた時代は…?
「え…?」
前のぼくたちって…。それにハナちゃんって…?
「そのままの話だ。ミュウだ、ミュウ」
ハナちゃんは、こうして捜して貰える。張り紙を見た人たちが捜して、張り紙を自分の家にまで貼って。…この子を助けてやらなければ、と。
だが、前の俺たちが生きてた時代のミュウってヤツは、どうだったんだ?
いなくなっても誰か捜してくれたのか、という質問。
成人検査で発覚したミュウの場合はともかく、もっと幼かったミュウの子供たち。
目覚めの日を迎えた子供が姿を消すのは当たり前だし、誰も変には思わない。それが普通のことなのだから。
けれど、幼い子供は違う。ミュウだと知れて姿を消したら、町から一人子供が消える。昨日まで確かに家にいたのに、突然に。
まるでハナちゃんが消えたみたいに。…何処へ行ったか、飼い主が捜し回っているハナちゃん。
猫のハナちゃんは、今この瞬間も、町中の人が捜しているけれど。張り紙も増えてゆくけれど。
消えたのが前の自分が生きた時代の、幼いミュウの子供だったら…。
「…誰も捜さないね…。ミュウの子供なんか」
ユニバーサルに処分されちゃっていても。…二度と姿を見せなくても。
「捜すどころか、消えた理由をデッチ上げられて終わりだったぞ」
俺たちが助けてシャングリラに迎え入れてた子供も、処分されてしまった子供たちも。
もっともらしい理由を作って、消えちまったことを変に思うヤツが出て来ないように隠蔽工作。
みんな、そいつで納得するから、誰一人捜しやしなかったってな。
「そうだっけね…」
ご近所の人も、学校とかで一緒だった子も、誰も捜しはしなかったよ。
存在ごと消されてしまったんだし、捜す理由が無いもんね…。
そういう時代だったのだ、と蘇って来た遠い遠い記憶。前の自分が知っていたこと。
白いシャングリラで立派に育った、シドも、ヤエも、リオもそうだった。人類の社会から消えてしまった子供。ミュウだと判断された途端に。
ユニバーサルはミュウを端から処分するけれど、その前に救うのがシャングリラ。白い鯨だったミュウの箱舟。…危うい所で救い出したり、もっと早めに船に迎えたり。
そうやって姿を消した子供は、人類が暮らす育英都市では、病死だったり、事故死だったり。
死んだ子供は、もう捜しては貰えない。何処にも存在しないのだから。
「うちの子供は何処かおかしい」と通報したのが養父母だったら、彼らは疑問も抱きはしない。子供が突然消えてしまっても、「死にました」という知らせを受け取っても。
周りの者にも「突然のことで…」と説明するだけ、ユニバーサルからの通知そのままに。
逆に養父母が消えた子供を愛していた場合は、諦めさせられていた時代。
ユニバーサルから来た職員の、「お子さんは行方不明になりました」という一言で。
もう戻らない、と告げられた上に、子供の行方を尋ねられたら「死んだ」と説明するように、と言い含められた。
その養父母が泣いていたって。戻らない子供の名前を何度も繰り返したって。
「これが社会の仕組みですから」と言われた時代。
消えた子供を諦めるのなら、新しい子供を育てられるように手配するから、と。
それを聞いたら、もう本当に諦めるしかない。消えた子供は戻らないから、新しい子を、と。
次の子供を愛してゆこうと、今度こそ立派に育て上げようと。
存在そのものを消された子たち。ミュウに生まれたというだけで。
処分された子も、白いシャングリラで成長した子も、表向きは皆、病死や事故死。死んだ子供は何処にもいないし、誰も捜そうとは試みない。死んだ者は戻って来ないのだから。
「…思い出したか?」とハーレイに瞳を覗き込まれた。「そういう時代だっただろうが」と。
「ある日突然いなくなっても、誰も捜しちゃくれなかったんだ」
前の俺たちが生きた時代に、ミュウに生まれた子供たちは。…殺されていても、逃げ延びても。
今じゃ、迷子の子猫でも捜して貰えるのに…。
このハナちゃんって猫の名前は初めて聞いた、って人までが捜して、張り紙を家に貼るのにな。
「…みんな、存在ごと消されちゃったね…」
そんな子供は何処にもいません、って。…死んじゃったから、もういないんです、って。
死んでしまった子供は捜せないしね、本当に何処にもいないんだから。
「それで納得出来ない親だと、次の子供を用意するからと説得されてな」
どういう子供を育てたいですか、と訊かれちまったら、そっちに心が傾くし…。
いなくなった子供にこだわるよりかは、条件のいい新しい子供を育てたい気持ちになるもんだ。
普通だったら「この子供です」と一方的に渡される所を、少し譲って貰えるんだから。
髪の色とか、瞳の色とか、その辺を好きに選べるだとかな。
「いなくなった子供に似ている子がいい」という希望も、きっと通っただろう。
それで大人しくしてくれるんなら、いそいそと用意したろうな。その条件に合った子供を。
だから親たちも諦めたんだ、とハーレイが眉間に寄せた皺。「酷い時代だった」と。
「…今の時代は、猫が消えても大騒ぎなのに…」
飼い主は必死に捜し回って、知らない人たちだって協力するんだ。見付け出そうと。
なのに、人間の子供が消えても、誰も捜さなかっただなんて…。消えてしまった子供を愛してた筈の、優しい養父母たちでもな。
「…捜した親って、いなかったのかな?」
急に子供が消えちゃうんだよ、元気に学校とかへ送り出したのに。…朝には元気だったのに。
死んじゃいました、って言われたって、それで納得出来る?
行方不明になっちゃったなんて、余計に諦め切れないよ。何処へ行ったか、気になるじゃない。
捜しに行く人、いそうだけれど…。
死んだんだったら死に顔を見たいし、行方不明なら、誰か手掛かりを知ってる人は、って。
「俺たちは知らんぞ、そんなケースは」
前のお前も、俺だって知らん。…一つも耳にしていない。
自分の子供を通報した酷い養父母だったら、嫌というほど知っているがな。
「そうなんだけど…。前のぼくたちは知らないけれど…」
アルテメシアでは見ていないけれど、他の何処かの育英都市で。
前のぼくたちが見ていない場所で、処分されちゃった子を捜し回った人がいたかも…。
シャングリラがいなかった星の子供は、殺されちゃうか、研究施設に送られちゃうか。
どっちにしたって、二度と戻って来ないけれども、その子を捜し回った人たち…。
「さてなあ…。そいつはどうなんだろうな」
あの時代は機械が支配してたし、完璧な管理社会というヤツだから…。
何処も似たようなモンだと思うぞ、アルテメシアじゃない星でもな。
消えた子供を捜そうとする親は何処にもいなかったろう、というのがハーレイの意見だけれど。
そうだったろう、と今の自分も思うけれども、ふと引っ掛かった養父母の顔。
偶然にも、ミュウの子供を二人続けて育てた人たち。前の自分は一人目までしか見ずに終わってしまったけれども、彼らの顔はよく覚えている。…そう、今でも。
「消えちゃった子供…。ジョミーのお母さんたちなら、捜したかもね」
ジョミーは成人検査の後に消えたから、変だと思わなかっただけ。無事に成人検査をパスして、何処かの教育ステーションに行ったと信じていただろうから。
…だけどジョミーが、もっと早くに消えてたら…?
ユニバーサルがミュウだと判断しちゃって、学校の帰りに消えちゃったとか…。前のぼくたちに救出されて、シャングリラに連れて行かれてしまって。
そうなっていたら、捜さない…?
行方不明になりました、って言われたんなら、アルテメシア中を。エネルゲイアにも出掛けて、こういう子供を見ませんでしたか、ってチラシを沢山配って回って。
死んだんだ、って説明されたら、「顔を見させて」って言いそうだよ。会わせて欲しいって。
最後のお別れを言いたいから、って…。ジョミーが好きだった服も着せたい、って。
…きっと絶対、諦めたりしない。ジョミーを育てたお母さんたちなら、ジョミーのことを。
「その可能性は有り得るなあ…」
成人検査の前の日だって、ジョミーを大事にした人たちだ。
あれが普通の養父母だったら、自分たちの方を心配するんだが…。目覚めの日の直前に、とんだ騒ぎに巻き込まれた、とな。このせいで自分たちの評価が下がらなければいいんだが、と。
しかし、ジョミーの養父母は違った。ジョミーばかりを心配していた。
…それに、二人目の子供の時は…。
レティシアの時は、コルディッツにまで行っちまった。子供を離してたまるものか、と。
「でしょ…?」
とても優しい人たちだったよ、ジョミーを育てた人たちは。
コルディッツの時は、前のぼくはもう、とっくに死んでいたんだけれど…。
優しかったジョミーの養父母たち。二人目の子のレティシアと共に、コルディッツにまで行った勇敢な夫婦。ミュウの強制収容所などに行けば命が危ういのに。
けれど、二人は逃げ出さなかった。ジョミーを守れなかった分まで、守ろうとした彼らの子供。
「…あの人たちなら、捜していたと思わない?」
もしもジョミーが消えちゃっていたら。…目覚めの日よりも前に消えたら。
ユニバーサルが何と説明したって、絶対に諦めてしまわないで。…ジョミーは何処、って。
その内に記憶を処理されてしまいそうだけれども、そうなるまでは、必死になって。
「やっていたかもしれないな…。あの二人なら」
お前が言う通りに諦めないで、チラシを配って、手掛かりは無いかと懸命に二人で捜し回って。
そうしただろう、という気がしないでもない。…ジョミーが消えていたならな。
だとすると…。そういう時代がもう、来てたってことだ。
「…時代って?」
どういう時代が来てたって言うの、ジョミーのお母さんたちが諦めずに捜していたのなら…?
「SD体制の時代の終焉ってヤツだ」
機械がコントロールし切れない時代。…管理社会の限界だな。
それまでだったら、「消えた子供は諦めなさい」で済んでいたのが、もう無理だった。
血縁関係の無い子供でさえも、ジョミーのお母さんたちは守ろうとして戦ったんだ。自分たちが行けば守ってやれる、と一緒にコルディッツに行ったくらいに。
機械はそういう教育なんかは、全くしていない筈なんだがな…?
どちらかと言えば、ユニバーサルが何を言おうが、頭から信じるような教育。そいつをせっせと施した筈で、ジョミーの親たちもその教育を受けたのに…。
習ったことより、人間としての感情の方が遥かに強かったんだ。子供を守らなくては、と。
強い愛情を持っていたわけで、それは教わるものじゃない。…自分で身につけていくものだ。
そうやって育んだ子供への愛が、機械を否定したんだな。もう従ってはいられない、と。
ミュウも進化の必然だったが…、とハーレイは腕を組んで続けた。
機械が支配していた時代は終わろうとしていたのだろう、と。ミュウはもちろん、人類の方でもシステムに疑問を感じる時代。「これはおかしい」と考える時代。
だからジョミーの養父母のような人間が現れた。機械に逆らい、子供を守ろうとした人間が。
「…たとえキースの野郎が出て来なくても、SD体制は自滅したんだろう。…遠くない未来に」
既にあちこち綻び始めて、子供が消えたら捜しそうな親がいたんだから。
機械はそうしろと教えなかったのに、自分たちの意志で判断して。…収容所にまで行くほどに。
放っておいても、あのシステムは滅びただろうな、内側から壊れ始めていって。
人類のためのシステムの筈が、その人類たちに背を向けられて。
「そっか…。そうだったかもね…」
人類が疑い始めていたなら、システムの終わりは近いよね。誰も従わなくなったなら。
いくら機械が叫んでいたって、命令を聞く人がいなくなったら駄目だもの。
「うるさい機械だ」ってメンテナンスを放棄されちゃったら、機械は壊れてゆくだけだしね…。
グランド・マザーも、マザー・ネットワークも、何もかも全部。パーツが古くなっても誰も交換しないし、交換用のパーツも作って貰えないから。
…前のぼくたち、ちょっぴり急ぎ過ぎたかな?
のんびり、ゆっくり旅をしていたら、戦わなくてもミュウと人類は和解したかな…?
ジョミーのお母さんたちみたいな人ばかりが暮らす時代が来たら。
子供が消えたら頑張って捜す、そんな人間ばかりになったら…。
「多分な。…その時代は遠くなかった筈だ」
いずれ人類は機械を捨てて、人間らしく生き始めたんだろう。
管理出産のシステムもやめて、俺たちがナスカでそうしたように、自然出産の時代に戻って。
そうやってSD体制が終わっちまえば、人類もミュウも、ちょっと種類が違うってだけだ。同じ人間には違いないから、手を取り合うことになっただろうが…。
だが…、と真剣なハーレイの瞳。「それを待ってはいられなかった」と。
「前の俺たちは急ぎ過ぎちゃいない。…そういう風にも思えるがな」
慌てずにゆっくり構えていたって、ミュウの時代は来ただろう。…今に繋がるミュウの時代が。
しかし、そいつを待っていたんじゃ駄目だった。
それまでに無駄に流される血が多すぎる。機械が統治している限りは、ミュウは端から殺されてゆくだけなんだから。…シャングリラが救えるミュウの命は、ほんの一部に過ぎないってな。
だから、急ぎ過ぎたようでも、あれで良かった。
前の俺はお前を失くしちまったが、それだけの価値はあったんだ。…前のお前が選んだ道。
メギドを沈めてシャングリラを守った他にも、きっと大勢の仲間の命を救った。前のお前は。
あそこでお前が守らなかったら、シャングリラは沈んで、それっきりだ。
SD体制が自滅してゆくまで、ミュウは殺され続けただろう。シャングリラが地球まで行けずに沈んでいたなら、何万というミュウが死んだと思うぞ。
「…そうなのかな?」
もっと早くに終わりそうな気もするけれど…。SD体制と機械の時代。
綻び始めていたんだったら、ミュウが殺される時代の終わりも、そんなに遠くは…。
「それじゃ駄目だと言っただろうが」
前のお前は正しかった。そうに決まっているだろう。
急ぎ過ぎたなんてことはないんだ、あの道が正しかったんだ。
沢山の血が流れたようでも、それが最短距離だった。もっと多くの血が流れるより、あれだけの血で全てを終わらせちまうのが一番だ。
機械を止めて、SD体制そのものを壊しちまってな…。
無駄な血は決して流されちゃいかん、とハーレイは強く言い切った。
平和は早く来るに限る、と。「青い地球だって、こうして蘇ったじゃないか」と。
「あの戦いが無かったとしたら、もっと時間がかかっていたぞ」
SD体制が終わるまでには、もっとかかった。…ミュウも大勢殺されただろう。機械はミュウを認めないから、殺されるしか道は無いってな。SD体制が終わる時まで。
人類たちが「何かが変だ」と気付かない限り、ミュウは殺されるし、和解も出来ん。SD体制も終わりやしない。…それはお前も知ってる筈だ。前のお前が、誰よりもずっと。
実際の歴史よりも長い時間が必要だったことは確かだな。自然に崩壊するのを待つなら。
それに、ミュウと人類の和解もそうだが、地球が見事に再生したこと。
こいつは荒療治が欠かせないしな、のんびりゆっくり和解してたら、青い地球は自分たちの手で作ってゆくしかないんだぞ?
なかなか効果が出ないもんだ、と試行錯誤の繰り返しで。あれこれと研究を重ね続けて。
其処をすっ飛ばして、古い地球をすっかり焼き尽くした後に、今の青い地球があるんだろうが。
お蔭で、こういう迷子の子猫を捜す張り紙もある、というわけだ。
行方不明になっちまった猫を知りませんか、と貼ってある場所、地球の上だろ。
「そうだ、ハナちゃん…!」
見付かったのかな、この張り紙で…?
誰かが見付けて連れてったかなあ、ハナちゃんの家へ。…でなきゃ、連絡してるとか。
ハナちゃんを家で預かってるから、車で迎えに来てあげて下さい、って。
「どうだかなあ…?」
そっちの方は俺にも分からん。子猫ってヤツは気まぐれだしなあ…。
張り紙を見ていない誰かの家でだ、その家の猫と一緒に遊んでいるってことも充分にあるぞ。
子猫を産んだお母さん猫に出会っちまって、他の子猫と一緒に遊んで、食事も一緒。
そうなっていたら、張り紙を見て貰えるのは、いつになるやら…。
まあ、明日には気付くんだろうがな。張り紙は増える一方なんだし、何処かで見かけて。
「この猫だったら、うちにいる子だ」と、大慌てで家に戻って行って。
そうなれば後は早いもんだぞ、送って行くにしても、迎えを頼むにしても。
連絡さえつけば万事解決、ハナちゃんは家に帰れるってな。
心配要らん、とハーレイが言う通り、きっと明日には見付かるだろう。
行方不明になったハナちゃん。縞模様の三毛の小さな子猫を、町中が捜しているのだから。家の表にチラシを貼ったり、あちこちを覗き込んだりして。
明日、学校から帰る頃には、あのバス停に…。
「ありがとう、って張り紙、きっとあるよね」
ハナちゃんは無事に見付かりました、っていう張り紙。…ハナちゃんの元気な写真付きで。
「今頃はもう、貼ってあるかもしれないぞ」
でなきゃ、作っている真っ最中とか。何枚も撮った写真の中から一枚選んで、そいつを使って。
ハナちゃんはグッスリ寝ているかもなあ、「やっと家まで帰って来られた」と。
車の後ろに乗っけてたらしい籠に入って、冒険していた間の夢を見ながら。
「そうかもね…!」
大冒険だものね、一晩も他所にいたんなら…。
何処かの家で大事に飼われていたって、自分の家じゃないんだし…。
冒険の夢を見てるといいよね、ちゃんと大好きな家に帰って。
美味しい御飯を沢山貰って、お腹一杯で、幸せ一杯…。
そうだといいな、とハーレイと眺めたハナちゃんの写真。迷子捜しを頼む張り紙。
(…ハナちゃん、きっと見付けて貰って帰っているよね…)
張り紙のお蔭で、何処かの誰かに。車から降りてしまった場所の近くで、「この猫だ」と。
御主人の家まで送り届けて貰っただろうか、それとも迎えに来て貰ったのか。
(…どっちの方でも、ハナちゃんは家に帰れるものね)
今の時代は、迷子の子猫もきちんと捜して貰える時代。町中の人が捜すハナちゃん。
遠い昔のミュウの子供たちのように、存在を消されはしない時代。とても小さな子猫でも。
だからハナちゃんも、きっと自分の家に帰れる。
今は平和な時代だから。行方不明のままにされたりはしないから。
(…ホントに平和で、幸せな時代…)
此処に来られて良かったと思う、青く蘇った地球の上に。
誰もが優しい、今の時代に。
またハーレイと巡り会って二人、此処で幸せに生きてゆく。
迷子の子猫を懸命に捜す人たちが暮らす、温かな今の時代の地球で…。
迷子の子猫・了
※今の時代は迷子の子猫を、町中が捜してくれるのですけど、SD体制の頃は違ったのです。
人間の子供が消えても、誰も捜さなかった時代。ジョミーの両親なら、捜したのでしょうね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(おや?)
ハーレイが覗いたポストの中。ブルーの家には寄れなかった日、学校から家に帰って来て。
愛車をガレージに入れてやった後の、いつもの習慣。ポストの中をチェックすること。郵便物に夕刊、たまにチラシや町の情報紙なども。
(ふうむ…?)
郵便物が幾つかある中、目を引いた封筒。凝った模様がついてはいないし、珍しい絵柄の切手も貼られていないけれども…。
(あいつからだな)
封筒に書かれた宛名と住所。この家が建っている場所の。その文字たちに見覚えがあった。誰が書いたか直ぐに分かった、懐かしい昔馴染みの友達。
もうそれだけで弾んだ心。彼の顔を見るのが当たり前だった、青春時代に戻ったように。
(楽しかったな…)
あの頃は、と持って入って、早速開けた。夕食の支度を始める前に。裏を返して、差出人の名を確かめただけで。「やっぱり、あいつからだよな」と。
封筒の中から出て来た便箋、畳まれたそれを広げてみたら。
(そうか、地球を離れていたのか…)
久しぶりだ、と書かれた手紙。新しい家にも慣れて来たから、手紙を送ると。地球を離れても、日々の暮らしはそれほど変わらないのだが、と。
封筒を裏返してみたら、本当に変わっていた住所。さっきは全く見ていなかった。見慣れた文字だけで差出人が分かっていたから、住所も彼のものだとばかり。この地球の上の、同じ地域の。
(思い込みってのは、酷いもんだな)
まるで違うと気付かないのか、とコツンと叩いた自分の額。
ソル太陽系でさえもないじゃないかと、見ただけで分からないのかと。ウッカリ者が、と。
手紙を読み終えてから、作った夕食。帰りに買って来た食材で。
味わいながらゆっくりと食べて、後片付けが済んだら、いつものコーヒー。愛用のマグカップに熱いのを淹れて、手紙も持って向かった書斎。其処で手紙をじっくり読もうと。
(…遠くに引越しちまったんだなあ…)
俺に知らせも寄越さないで、と思うけれども、彼らしい。書斎の机で広げた手紙も、もう本当に彼らしいもの。「引越すと知らせたら、みんなに迷惑かけるからな」と。
あの頃の仲間は、皆、それぞれに散っているから。同じ地球でも別の地域に行った者もいれば、家は同じでも仕事であちこち飛び回っている者だっている。それを集合させるとなったら…。
(日を合わせるのに、まずは連絡…)
この日ならば、と決まったとしても、仕事を休む者も出るだろう。遠い地域から旅行鞄を提げて来る者も。たった一日のお別れパーティー、そのためだけに。引越してゆく友に会うためだけに。
(そいつは悪い、と思ったんだな…)
皆が揃って会うだけだったら、機会は何処かである筈だから。
引越す彼を見送るためにと集まらなくても、早い時期から通知が回って、誰もがその日を開けておける会。集まる名目は何だっていいし、「この日にするぞ」と決めさえすれば。
彼だってきっと、次の会には何食わぬ顔で来るのだろう。「久しぶりだ」と、手紙さながらに。
遠い星へと引越したことさえ、会った途端に忘れるほどに。
飄々と、土産でも提げて。「俺の星では、これが美味い」と酒の肴か、酒そのものを。
地球からは遠く離れた星。けれども距離を感じさせない、友からの手紙。今も覚えている、彼がこの地球で暮らしていた場所、其処で出された手紙のように。
昨日か一昨日、彼がポストに入れたかのように。「じきに届くな」と。
(あそこからだと、何日くらい…)
かかって届くものだろうか、と消印を見れば、意外に速い。思ったよりも、ずっと。
たまたま定期便が出るのに間に合ったろうか、地球へと直行する船に。あちこちの星などに寄港しながら飛ぶのではなくて、地球へ真っ直ぐ。
宇宙の中心は、今の時代も地球だから。前の自分が生きた時代は、それは名目だったけれども。
(聖地ってだけで、本当の首都はノアだったんだ…)
死の星だった地球に人は殆どいなかった。地球再生機構だったリボーンの者だけ、廃墟と化した地表に聳えるユグドラシルの住人だけ。
そんな所へ定期便など飛ばないけれども、今なら何処の星からも出る。頻繁に出るか、一週間に一度くらいか、もっと少ない星もあるのか。
けれど何処でも、地球に向かって、真っ直ぐに飛ぶ船はあるものだから…。
(それに乗ったってこともあるよな)
友が投函しただろうポスト、其処から集められて、仕分けをされて。地球宛は此処、と。
上手い具合に定期便が出る日に間に合ったならば、何処の星にも寄港しないで一気にワープ。
(どういう旅をして来たのやら…)
この手紙は、と手紙に訊いても、答えが返るわけがない。
手紙は言葉を話さないから、思念波だって持っていないから。…友の言葉を伝えるだけで。
思いもかけない速さでやって来た手紙。友がいる星から、漆黒の宇宙を地球まで飛んで。
(遠いって書いていやがるのに…)
なんだかなあ、と拍子抜けするほどに早く届いてしまった手紙。
実際、友が住んでいる星は遠いのに。地球からは遥か離れた彼方で、夜空に見えもしないのに。
キャプテン・ハーレイだった頃の記憶を辿ってみても…。
(この速さで手紙を配達しようと思ったら…)
一気にワープしか無いだろう、と出した結論。寄港していては間に合わない。
前の自分が生きた時代の宇宙船でも、今の船でも。
地球までワープで飛んでゆくなら、何処の星にも寄らないのなら…。
(こう、上昇して…)
重力圏を離脱すること、それが肝心。亜空間ジャンプをする時の基本。
懐かしい感覚が蘇って来る。今の自分は宇宙船など動かせないのに、出来るかのように。
遠く遥かな時の彼方で、シャングリラで指揮をしていた自分。
白いシャングリラの舵も握った、シドが主任操舵士になった後にも。重要な時は。やらねば、と自分が思った時は。
他の者ではとても無理だと、自分しかいないと考えた時は。
(地球までの最後のワープっていやあ…)
気分が高揚したものだ。操舵していたのはシドだけれども、地球への最後の長距離ワープ。
ついに地球へ、と躍った心。ブルーが焦がれた地球に行ける、と。
其処で自分の旅は終わって、役目をシドに引き継いだ後は、ブルーの許へ、と。
もっとも、そうして飛んだ先では、メギドが待っていたけれど。
六基ものメギドが狙いを定めて、シャングリラを待っていたのだけれど。
(物騒な時代だったんだ…)
ワープアウトしたら、目の前にメギド。危うく、船ごと焼かれる所。戦場だった漆黒の宇宙。
其処を今では手紙が旅する時代なのか、と友からの手紙を感慨深く眺めたけれど。
(手紙か…)
白いシャングリラで生きた頃にも、手紙というものは一応はあった。SD体制の時代にも。
けれど、シャングリラでは手紙を出してはいない。手紙が届くことだって無い。
船の中だけが世界の全てだった、ミュウの箱舟には必要ないもの。手紙を届ける仕組みなどは。
誰もが船の仲間なのだし、わざわざ手紙を出すまでもない。
せいぜい、招待状くらい。ソルジャー主催の食事会とか、仲間たちが開く集まりなどの。
それに、招待状を出すにしたって…。
(こんな具合に、住所をだな…)
封筒に書きはしなかった。住所などありはしないのだから。皆、シャングリラの住人だから。
受け取る相手の名前を書いたら、それで充分。封筒に書くのは宛名と、差出人の名前だけ。
たったそれだけ、手紙も住所も無かった船がシャングリラ。
(今の俺だと…)
友から届いた、この手紙に返事。「遠い所へ行きやがったな」と、「俺に黙って」と。
手紙を書いたら封筒に入れて、住所や宛名もきちんと書いて、ポストに入れる。学校の近くにもポストはあるし、近所にもあるから、何処だっていい。
すると手紙が宇宙に旅立つ。ワープして遠い星系まで。
直行便に乗らなかったとしたって、幾つもの星に立ち寄りながら、友の星まで、家のポストへ。
返事を書いてやらなければ、と思うけれども、何と書こうか。「俺に黙って引越しやがって」の他には何がいいのだろうか。
「その星の酒は美味いのか?」と書いてやるべきか、「どんな具合だ?」と星の気候でも尋ねてみるか。書きたいことは山ほどあるから、直ぐに書かずに考えて書こう。
遠い星まで旅をする手紙に相応しく。地球からの手紙だ、と懐かしく開いてくれそうなものを。
(手紙を書いたら出せて、届いて…)
相手に中身を読んで貰える。今日の自分がそうだったように。「あいつからだ」と心が弾んで、遠い昔に戻ったように。
なんと幸せな時代だろうか、と気付いた手紙。出せば届いて、それに返事が来る手紙。
白いシャングリラには無かったもの。遠く離れた星の友にも届けられるもの。
古典の授業をしている時には、遥かな昔の手紙についても教えるのに。手紙だけが相手の人柄や教養、そういったものを知る唯一の手段だった時代もあったんだぞ、と話すのに。
(俺としたことが…)
この幸せに気付いていなかったのか、と見詰めた友からの手紙。それが教えてくれたこと。
誰かに手紙を書ける時代は幸せだと。それに手紙が届く時代も。
(灯台下暗し、といった所か…)
お前、古典の教師だろうが、と小突いた額。しっかりしろよ、と。
手紙を出すことが出来る素晴らしい世界、お前は其処に来たんだろうが、と。
(今の暮らしに慣れちまっていて、まるで気付きもしなかったよな…)
シャングリラの時代は違ったことに。白い鯨で生きた頃には、手紙なるものは無かったことに。
手紙を出したら届く幸せ、ポストに手紙が届く幸せ。
ブルーにも話してやることにしよう、せっかく気付いたのだから。
幸い、明日は土曜日なのだし、ブルーと二人で過ごせるから。
次の日も覚えていた手紙。友からの手紙を見るまでもなく。
いい天気だから、歩いてブルーの家に出掛けて、いつものテーブルを挟んで尋ねた。向かい側に座る恋人に。
「お前、ポストを覗きに行くか?」
でなきゃ帰った時に覗くか、ポストの中を?
「…ポスト?」
なあに、とブルーはキョトンとした顔。「どうかしたの?」と。
「ポストと言ったら、郵便が届くポストだが…」
新聞とかも入るだろうが。お前の家の前にもあるヤツ。あれを覗くか、と訊いているんだ。
「んーと…。覗く日もあるし、忘れてる時も…」
だけど、配達の人が来たのが分かった時には、ちゃんと取りに行くよ。ポストのトコまで。
「お前宛の手紙も届くのか?」
ポストまで取りに行くってことは。…それとも、お母さんの代わりに取って来るのか?
「そっちの方だよ、ぼく宛の手紙は少ないし…」
滅多に来ないし、届くのはパパとママ宛ばかり。それをポストまで取りに行くだけ。
「だろうな。お前の年だと、まだまだなあ…」
友達は近所に住んでいるのが殆どだろうし、手紙の出番は無いってな。会って話すのが一番だ。
だが、俺くらいの年になると違う。友達も仕事で他所へ行ったり、引越したりもするからな。
お蔭で、昨日は…。
こんなに遠い所から俺に手紙が来たぞ、と昨日の手紙が投函された星の名を口にした。地球では滅多に聞かないくらいに、遠く離れた星系からだ、と。
「知らない間に、引越しちまっていたらしい。…あいつらしい、とは思うんだがな」
手紙の中身も、普段の調子とまるで同じだ。別の町に引越しましたから、とでもいった感じで。
あんな遠くに行っちまったなんて、今も実感が無いってな。…確かに其処の住所なんだが。
「その手紙…。何日くらいかかって届くの?」
地球まで届いて、ハーレイの家のポストに来るまで、うんと時間がかかるんだよね?
それだけ遠く離れた星なら、手紙を出しても、地球に着くまでに何日かかるか…。
「俺だって、そう思ったんだが…。どのくらいだろう、と消印を見てみたんだが…」
聞いて驚け、手紙はワープして来たらしい。
運よく、地球への直行便に間に合ったんだろう。長距離ワープの連続で飛ぶしな、直行便は。
地球の辺鄙な所で出すのと、多分、変わりはなさそうだ、うん。
「へえ…!」
そんなに短い時間で地球まで来ちゃったの?
ホントに地球から出したみたいだよ、此処からは遠い地域の何処かで。
高い山の上とか、海に潜る人が出して遊べる海の中のポスト、毎日集めはしないだろうし…。
そういう所で手紙を出したら、同じ地球でも、きっと時間がかかっちゃうしね。
遠い星なのに凄い速さ、とブルーの顔が輝くから。「手紙もワープしちゃうんだ…」と、とても感動しているから。
「手紙のワープも凄いんだが…。凄い速さで、俺の家まで来ちまったんだが…」
今の俺たちも凄いってな。ワープして来た手紙に負けないくらいに。
「え?」
凄いって、何が?
今のぼくたちの何処が凄いの、生まれ変わりっていうこととか…?
ハーレイと二人で地球に来ちゃったし、おまけに地球は、前のぼくが思った通りに青いし…。
「そいつも凄いが、手紙だ、手紙」
手紙を出したら届くんだぞ。とんでもなく遠い星に出しても、場合によっては凄い速さで。
それに手紙を貰えもするだろ、お前宛の手紙は滅多に来ないとしても。
「当たり前でしょ、手紙だよ?」
郵便屋さんは、そのために走っているんだから。…配達用のバイクとかで。
他の星まで届けるんなら、バイクじゃ走って行けないけれど…。宇宙船の出番になるけれど。
「うむ。郵便物はコレ、と決まっている袋に入って、貨物室とかに積み込まれてな」
そうやって宇宙を飛んで行ったり、地球の上をバイクで走って行ったりするのが郵便だが…。
シャングリラにあったか、そういうシステム。
出したい手紙は此処に入れろ、とポストがあってだ、係が集めて配りに行くとか。
「…無かったね…。手紙を入れるポストも、それを配りに行く係も」
シャングリラは大きな船だったけれど、郵便のシステム、無かったよ…。
思念波を飛ばせば相手に届くし、そうでなくても、会って話せば済むんだし…。
船の中だけで用事が済むから、手紙なんかは要らないよね。…潜入班からも手紙は来ないし。
「そうだったろうが。…人類の世界には、手紙も存在したんだが…」
だからと言って、アルテメシアに潜入していた仲間たちから手紙は来ないぞ。
シャングリラ宛の郵便物なんか、人類は運んでくれないからな。
もしも住所が書いてあったら、手紙を届けてくれる代わりに爆弾だ。ミュウの船が此処に潜んでいるぞ、と爆撃機を山ほど飛び立たせてな。
手紙なんぞは出せなかったのが前の俺たちだ、と話してやった。今では普通のことなのに、と。
「当たり前だと思ってることが、意外に幸せだったりするな、と気が付いてな…」
あいつから手紙が届いたお蔭で。…返事は何と書いてやろうか、と色々考えている内に。
それで手紙の話をしたんだ、「ポストを覗きに行くか?」とな。
今の平和な時代だからこそ、俺たちにも手紙が届くんだから。…爆撃機が来る代わりにな。
「ホントだね、今は幸せだよね…」
シャングリラはもう何処にも無いけど、今の時代なら、シャングリラ宛に手紙を出せるよ。
飛んでいる間は無理だろうけど、何処かの星に降りた時には、其処で届けて貰えるから。
宇宙を飛んでいる時にしたって、手紙、届くかもしれないね。
物資とかの補給に飛んで行く船に預けておいたら、補給のついでに。
「出来るだろうな、そのやり方も」
実際、やっているようだから…。
俺も詳しい仕組みは知らんが、長距離航路を長い時間をかけて飛ぶ船。客船とかだな。
そういう船だと、乗っている客に手紙を出せるらしいから…。
「この船です」と、船の名前とかを指定しておけば、そいつが住所の代わりってことだ。
届くまでの時間は、きっとタイミングによるんだろう。俺に届いた手紙と同じで。
「補給船が出る時に上手く間に合うとか、その船が何処かに降りる時だね」
あと何日かで此処に入港、って分かっているなら、その星とかに運べばいいんだし…。
タイミングが合えば、アッと言う間に届いちゃうよね、船宛の手紙。
宇宙船にも手紙を出せるだなんて、凄すぎるよ。今のぼくたちが生きてる時代。
前のぼくたちだと、手紙なんかは誰にも出せなかったのに…。
何処からも手紙は届かなかったし、そっちが当たり前だったのに…。
だけど今だと、住所が分かれば、何処にだって、手紙…。
宇宙船でも、うんと遠くの星に住んでる人にでも、ちゃんと手紙を出せる時代で…。
そうだ、と不意に煌めいたブルーの瞳。素敵なことを思い付いた、という顔で。
赤い瞳の小さな恋人、桜色の唇が紡いだ言葉。
「ねえ、ハーレイの家の住所を教えて」
お願い、住所は何処なの、ハーレイ…?
「住所って…。お前、知ってるだろうが、俺の家なら」
一度だけだが、遊びに来たしな。眠ってる間に、瞬間移動で飛んで来ちまった夜もあったし…。
それに名刺もプレゼントしたぞ、欲しがったから。
名刺を見れば分かるだろうが、番地まで全部。
「そっちじゃなくって、隣町のだよ!」
隣町にあるでしょ、ハーレイの家が!
そっちの住所を知りたいんだよ!
「はあ? 隣町って…」
俺が育った家のことなのか、親父とおふくろが住んでる家か?
あそこの住所を聞いてどうする、地図を見て何処か探すつもりか…?
「違うよ、手紙を出すんだよ」
ハーレイのお父さんたちの家に出したいよ、手紙。
いつも夏ミカンのマーマレードを貰っているから、その御礼…。
一番最初は、ぼくにくれたマーマレードだったんだもの。だから、マーマレードの御礼の手紙。
美味しいマーマレードをありがとうございました、って書きたいから…。
「おい、本当にそれだけか?」
マーマレードの礼を書くためだけに、親父とおふくろに手紙なのか?
「んーと…。ぼくが御礼の手紙を出したら、それの返事が貰えるでしょ?」
そしたら文通を始めるんだよ。貰った返事に、ぼくがきちんと返事を書いて。
ポストに入れたら、また郵便屋さんが届けに行ってくれるから…。暫く経ったら、それの返事を書いて貰えて、ぼくの家のポストに届く筈だから。
「こら、お前!」
親父やおふくろと文通だと?
俺に伝言を頼むならいいが、俺は抜かして、直接、手紙を交換すると…?
勝手なことを始めるな、とブルーの頭に軽く拳を落としてやった。痛くないように。
「親父たちと直接、連絡を取ろうとするなんて…」
お前にはまだ早いんだ。早すぎるってな、お前みたいなチビにはな。
「なんで?」
ぼく、手紙だって上手く書けると思うけど…。相手が大人の人でも、ちゃんと。
ハーレイだって知っているでしょ、ぼくの字だとか、文章とかは。
呆れられるような、下手な手紙は出さないよ。挨拶だって、忘れないようにきちんと書くし…。
それに子供でも、大丈夫。
今から覚えて貰っておいたら、将来、絶対、役に立つから。
「ほらな、やっぱり俺の思った通りだ」
お前、文通を始めちまったら、きっと調子に乗り始めるぞ。…最初はただの御礼状でも。
何度も手紙を遣り取りしてたら、おふくろたちが知っているのをいいことにして、すっかり俺の花嫁気取りというヤツだ。
違うのか、チビ?
「えーっと…。それは…」
ぼくだって今から、色々と覚えておきたいから…。
ハーレイのお父さんとお母さんのこととか、どういう風に毎日、暮らしてるのか。
夏ミカンのマーマレードの作り方だって、手紙で教えて貰えるよ。作る時期とか、コツだとか。
そしたら、直ぐに手伝えるから…。マーマレードを作る時には。
「駄目だ!」
一足お先に知ろうだなんて、これだからチビというヤツは…。
そういうことはな、直接会って話を聞くのが一番なんだ!
遠い所に引越しちまった友達とかとは、全くわけが違うんだから!
俺と一緒に出掛けて行って、「はじめまして」の挨拶からだろ、親父たちとは!
俺がきちんと紹介するまで、全部お楽しみに取っておけ、と叱り付けた。悪知恵の回る恋人を。手紙と住所で閃いたらしい、小さなブルーの思い付きを。
「お前、その内に、「写真を送って下さい」とも書いたりするんだろうが!」
俺の親父と、おふくろの写真。…それも色々注文をつけて。
夏ミカンの木の下で写してくれとか、家もちょっぴり一緒に写ると嬉しいだとか。
「そうだけど…」
文通するなら、写真くらいは…。
ぼくの写真はママに頼まないと焼き増せないから、ぼくからは送れないけれど…。
ハーレイのお父さんとお母さんなら、写真、送ってくれそうだから…。
「写真を送って貰おうだなんて、チビのお前には早すぎるんだ!」
もっと大きく育ってから言え、前のお前と同じ背丈に!
俺と結婚出来る年になって、親父たちに挨拶してから貰うことだな、そういう写真。
もっとも、チビのお前が頼んだとしたら、おふくろは喜びそうだがな…。
何処で撮ろうかと、写す場所をあれこれ探し始めて、大張り切りで。
「…ハーレイのお母さん、喜んでくれるみたいなのに…」
ホントに駄目…?
ハーレイのお母さんたちが住んでいる家、住所は教えてくれないの…?
「当然だろうが、お前の良からぬ計画を聞いちまったらな」
逆立ちしたって、俺は教えん。…もちろん、逆立ちはお前だぞ?
そんな芸当、出来っこないのが頑張って披露したとしてもだ、親父たちの住所は教えてやらん。
泣こうが、強請ろうが、駄々をこねようが、絶対に教えないからな!
「ハーレイのケチ!」
頼んでるのに、住所、教えてくれないなんて…。大きくなるまで駄目だなんて…。
ぼく、本当に、ハーレイのお父さんたちに手紙を出したいのに…。
どうしても住所、ハーレイが教えてくれないのなら…。
夏ミカンの木が目印です、って書けば届くかな、と言い出したブルー。隣町宛に。
まるで宇宙船に宛てて手紙を出すように。「この船です」と指定する代わりに、目印になるのが夏ミカンの木。隣町の家のシンボルツリー。金色の実がドッサリ実るから。
(…全部の区域宛てで、それを出されたら…)
ブルーが図書館か何処かで調べて、書き抜いて帰る、隣町の幾つもに分かれた区域。郵便を出す時に必要な住所、それの大まかな区分けの仕方。
それの数だけ手紙と封筒、準備が出来たら区域までを書いて、「夏ミカンの木が目印です」。
住所の代わりに夏ミカンの木。「これを手掛かりに届けて下さい」と。
もしも実行されてしまったなら、届きかねないブルーの手紙。
夏ミカンの木はよく知られているから、手当たり次第に何通も出した内の一つが。
郵便を配達する係だって、ピンと来るだろう。自分が受け持つ区域の中に、そういう家が確かにあると。郵便局の係が「知りませんか?」と尋ねたならば、「ありますよ」と。
分かってしまえば、後は配達。
「夏ミカンの木が目印です」としか書かれていない手紙でも。
あの家のことだ、と他の郵便物と一緒に、郵便配達のバイクに乗せて。
郵便物を順に配る途中で、「この家だな」とポストに入れてゆく手紙。庭の夏ミカンの木を確認してから、「間違いなし」と。
郵便局員たちはプロだし、仕事に誇りを持っている。幼い子供が下手くそな字で書いた、とても読めそうにない住所や宛名も、読み解いて配達するのが彼ら。
だからブルーが出した手紙も、届いて不思議は無いのだけれど。夏ミカンの木だけで、ポストに配達されそうだけれど。
(しかしだな…)
隣町だって、相当に広い。住所を聞いたら「あの辺りだな」と見当はついても、実際に出掛けて歩いてはいない区域も多い。
町全体ということになったら、他にも多分、あるだろう。
夏ミカンの木がシンボルの家が何軒か。近所の人なら、郵便配達の係だったら、「あの家だ」と思う家が、他にも、きっと。
ブルーが全部の区域に宛てて、同じ中身の手紙を出した場合には…。
(そういう家にも届くってわけで…)
庭に夏ミカンの木はあるけれども、両親は住んでいない家。届いた手紙の差出人にも、心当たりなどまるで無い家。
「誰からだろう?」と不思議がるだけで。「隣町の人が出したようだが」と。
ブルーの名前を知らなかったら、封筒を開けて読んでみる筈。手紙を読めば分かるだろうかと、前に夏ミカンの実を幾つか渡した人だったかも、と。
散歩中の人に木を褒められたら、そうしたくなるものだから。「どうぞ」と幾つか袋に入れて。
「荷物にならないなら、持って帰って食べて下さい」と、相手の名前を訊きもしないで。
その中の一人だっただろうか、と開けそうな手紙。本当は他の人宛のもので、開いて読んでも、首を傾げるしかない手紙なのに。
(マーマレードをありがとうございました、だしな?)
ついでに、「結婚したら、ぼくをよろしくお願いします」とも書いてあるのだろう。両親の家に届き損ねた手紙で、ブルーがせっせと綴った自己紹介だから。
(なんのことやら、と家族全員で回し読みだぞ?)
もう間違いなく、そうなる筈。そして手紙の返事が書かれて、ブルーの家に届くことだろう。
「受け取りましたが、人違いです」と。「開けてしまってすみません」とも。
郵便局の者たちが優秀なせいで、如何にも有り得そうな郵便事故。別の家にも届いてしまって、読まれてしまうブルーの手紙。
これは使える、と考えたから、夏ミカンの木を手掛かりに、と企む恋人にこう言った。
「おい、その住所…。夏ミカンの木が目印です、ってヤツなんだが…」
親父たちにも届くかもしれんが、別の家に配達されるってことも充分にあるぞ。
あの町もけっこう広いからなあ、俺が知らない場所も沢山あるってな。その中の何処かに、同じような家があるかもしれん。夏ミカンの木が目印の家が。
其処に届いてしまった時には、「誰からだろう?」と開けられちまって、お前の手紙…。
「読まれてしまうの、知らない人に?」
ハーレイのお父さんたちとは違う誰かに、人違いで…?
「そうなるだろうな。手紙が届いた家の人にとっても、知らない人ではあるんだが…」
住所が合ってりゃ、開けるだろうが。
夏ミカンの木は、確かに庭にあるんだし…。散歩中の人にプレゼントしたことも、きっと何度もある筈だからな。
そいつの礼か、と思って開けてみるだろう。そして中身がお前の手紙だったなら…。
親切に返事をくれるだろうな、「人違いです」と。「間違えて開けてしまいました」とも。
「…そうなっちゃうんだ…」
間違えて他所に届いちゃったら、ぼくの手紙、知らない誰かが読んで…。
それだけじゃなくて、「人違いです」って手紙が来ちゃって、ぼくが大恥…。
「分かったか、チビ」
だから手紙は出さないことだな、そんな目に遭いたくなかったら。
赤っ恥をかいて、俺に泣き付くような末路が嫌だったらな。
「…うん、分かった…」
いいアイデアだと思ったんだけど、失敗したら、とても恥ずかしいから…。
他所の家に届いて読まれちゃったら、ぼく、本当に泣きそうだから…。
出さないよ、手紙を書くのはやめる。…ハーレイのお父さんたちには書かないよ、手紙…。
残念だけど、とブルーが項垂れているから、「仕方ないだろ」と叩いてやった肩。
「チビはチビらしく、大人しくしてろ」と、悪だくみは身を滅ぼすぞ、と。
「安心しろ。いつかは出せるさ、親父たちに手紙」
俺が住所を教えてやるから、そいつを書けばきちんと届く。親父たちの家に。
間違えて他所に届きはしないし、のびのびと好きに書くといい。マーマレードの作り方だとか、お前の知りたいことを山ほど。
文通だって悪くはないなあ、親父もおふくろも張り切るぞ、きっと。
「ホント?」
本当にちゃんと教えてくれるの、ハーレイのお父さんたちの家の住所を?
手紙を書いて文通しちゃってもいいの、ハーレイは抜きで…?
「かまわないぞ。…俺の悪口を書いたって、俺は怒らないってな」
ハーレイはこんなに意地悪なんです、と密告されて、親父の雷が落ちてもかまわん。
お前は好きなように手紙を書けばいいんだ、書きたいことを。…親父たちに知らせたいことを。
親父たちだって、きっと喜ぶ。中身が俺の悪口でもな。
ただし、住所を教えてやるのは、俺と一緒に出掛けてからだぞ?
親父とおふくろに会って、挨拶をして、「はじめまして」じゃなくなってからだ。
「…なんで?」
挨拶に連れて行ってくれるんだったら、もう、結婚は決まってるのに…。
ぼくがお父さんたちと文通してても、おかしくないと思うんだけど…。
「それはまあ…。その点は問題ないんだが…」
住所が分かれば、親父たちの家が何処にあるのか、お前にも分かっちまうだろうが。
地図を広げて、其処を探せばいいんだから。…どんな家かは分からなくても、場所だけは。
それじゃ、つまらないと思わないか?
俺の車で出掛けてゆく時、お楽しみが減ってしまうだろうが。何処で曲がるのか、まだまだ先は長いだろうか、とドキドキ出来なくなっちまうぞ、お前。
「…そうかも…」
場所を知ってたら、そうなっちゃうね…。もうすぐだよね、って分かっちゃう…。
ぼくのドキドキ、減ってしまうよ、ハーレイの言う通りだけれど…。
でも出したいな、とブルーが惜しそうにしている手紙。隣町に住む両親の家へ。
(…夏ミカンの木が目印です、と来やがった…)
それをされたら、届いたかもしれないブルーの手紙。間違って他所に配達されても、正しい家に届く一通もありそうだから。…手当たり次第に、全部の区域に宛てて出されたら。
危ない所だったけれども、これも手紙を出せる時代ならではの、幸せな危機。
前の自分たちが生きた船には、手紙は届きはしなかったから。出すことも出来なかったから。
(…しかし、本当に危険だぞ、こいつ…)
本気で手紙を出しかねないから、ブルーには決して喋らないよう、気を付けなければ。
隣町の家の住所の手掛かり。此処の区域だ、とブルーに教えてしまいそうな何か。
地図に載っていそうな店の名前や、施設は決して口にしないこと。
「夏ミカンの木が目印です」という住所で手紙が届いてしまったならば、文通だから。
小さなブルーが調子に乗るから、花嫁気取りで手紙を交換し始めるから。
まだ結婚も出来ない年でも、チビのままでも、得意になって。
「ハーレイのお父さんたちから手紙が来たよ」と、届く度にウキウキ報告をして。
「もうすぐお嫁さんになるんだから」と、子供のくせに。
キスも出来ないチビのままでも、ブルーならきっと、幸せ一杯で文通するだろうから…。
手紙が届く今・了
※シャングリラの時代は、手紙を出せなかったブルーたち。けれど今では、出せるのです。
宇宙船にでも、届けられる手紙。ハーレイの両親の家にも、いつかブルーが書いた手紙が…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えーっと…?)
ブルーがしげしげと眺めたカード。学校から帰って、おやつの時間に。
母宛に届いたカードだけれども、テーブルの上に置いてあったから。母の友人の一人らしくて、近況などを知らせる文面。飼っている二匹の猫の話に、通っている趣味の教室の話。
短い文でも充分伝わる、差出人が過ごしている日々。カードに添えられた小さな押し花。それも習ったものなのだろうか、カードに貼ってある押し花。傷まないよう、剥がれないよう。
(これ、知ってる…)
ぼく知ってるよ、と思ったカード。花の名前は分からないけれど、優しいカード。
とても懐かしい誰か、と差出人の名前を眺めてみても、何故だかピンと来てくれない。カードと一緒にあった封筒、それに書かれた住所を見ても。
(誰なんだろう…?)
カードは確かに知っているのに、心当たりのない名前。住所の方も。
此処からは少し離れた町。母とお茶の時間を楽しむために来るには遠すぎる。他にも会いに行く人がいるとか、旅行を兼ねてやって来るとかいった距離。
(…ぼく、会ったことも無さそうだけど…)
父や母の友人の家まで、遊びに出掛けたことはある。幼かった頃に、呼んで貰って。
けれど、身体が弱かったのだし、家から近い所だけ。せっかく招待してくれたのに、先方の家に着いた途端に眠ったのでは悪いから。「気分が悪い」と言い出したならば、大変だから。
(こんな所まで行かないよね…?)
わざわざ母の友達に会いに、身体の弱い自分まで。どう考えても、幼い自分だと旅行つき。大人だったら日帰りだって出来そうだけれど、弱い自分は今だって…。
(日帰りなんて、出来そうにないよ…)
朝一番に家を出たって、家に戻る頃には夜になる。そういう所なのだから。
絶対に無理、と思うのだけれど、何度眺めても懐かしい気持ちがするカード。添えられた小さな押し花を見たら、名前も知らない花の姿を目にしたら。
(この押し花のせいだよね…?)
カードに惹かれる理由はそれ。綴られた文字より、押し花の方に目が行くから。
きっとそうだ、と見詰めていたら、通り掛かったカードを貰った人。押し花のカードの持ち主の母。訊いてみたなら分かるだろう、と母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、このカードなんだけど…」
ぼく、これをくれた人に会ったこと、ある?
住所は遠い所だけれども、前は近くに住んでいたとか…?
「昔から其処よ、ブルーが生まれる前から、あの町」
でも、会ったことはあるわよ、ブルーも。今よりも、ずっと小さい頃にね。
用事があってこっちに来たから、って家に寄ってくれて、ブルーも遊んで貰ったから。
「押し花のカード、ぼくも貰った?」
こういう押し花がくっついたカード。この人、ぼくにも出してくれたの?
「カードって…。ブルーはお手紙、出してないでしょ?」
まだ本当に小さかったし、ちょっぴり遊んで貰っただけで…。
お土産のお菓子は貰っていたけど、お礼状を書くような年じゃなかったから…。
貰うわけがないわ、という答え。「カードを貰うには、先に手紙よ」と。
「ブルーが手紙を書いていたなら、ちゃんと返事が来るけれど…」
小さな子供でも、返事を貰えるものだけど…。
そうでないなら、ママ宛ね。「ブルー君にもよろしくね」って。
「…ぼく、このカードは貰ってないんだ…」
貰ったのかな、って思っちゃった。
この人の名前は知らないけれども、カード、懐かしい気がするから…。
押し花がくっついたカードだよ、って思って、「これ、知ってるよ」って…。
「たまに来るから、そのせいじゃないの?」
いつも見ているカードが来た、って。
ママ宛のカード、よくテーブルに置いてあるでしょ?
こういう可愛い押し花付きだと、ゆっくり眺めていたいものだし…。今度も素敵、って。
「…そうなのかな?」
ママが置いてたのを見ていたからかな、押し花のカード…。
おやつの時とかにチラッと眺めて、それで覚えているのかな…?
「押し花のカードをくれる人なら、他にも何人かいるけれど…」
この人のは、いつでも押し花つきよ。花が少ない冬になっても。
本当に花が好きな人なの、それに押し花のカード作りも。…押し花の栞なんかも作ってる人よ。
そのせいで懐かしく思うんでしょ、と説明されたらそうかもしれない。
何度も目にしたカードだったら、「小さい頃から見ているカード」と。
今日はたまたま、心に引っ掛かっただけ。「押し花のカードが届いているよ」と。
ようやく解けたカードの謎。名前も知らない差出人でも、懐かしく思った押し花のカード。
やっと分かったよ、と帰った二階の自分の部屋。おやつをすっかり食べ終えてから。
勉強机に頬杖をついて、さっきのカードを思い出してみる。母に届いた押し花のカード。
(そういうことって、ありそうだものね)
自分宛ではないというのに、心に刻み込まれるカード。それがテーブルに置かれていたら。
とてもいいことがあった日などに、たまたまカードが届いていたら。
(幼稚園から帰って来たら、押し花のカード…)
テーブルの上に置いてあったら、御機嫌な気持ちとセットで覚えてしまいそう。押し花がついたカードまで届いた素敵な日だ、と。
添えられた押し花が可愛いから。温かな手作りのカードだから。
(ぼくに届いたカードなんだよ、ってママから取り上げちゃったとか?)
幼稚園の頃なら、やってしまっていたかもしれない。カードの文字もろくに読めないくせに。
押し花つきのカードが欲しくて、特別なカードが欲しくなって。
母が忘れているだけのことで、強引に貰ってしまったカード。「これは、ぼくの」と。
強請って、母から奪い取って。
如何にも子供がやりそうなこと。欲しい物なら、そのカードが母の持ち物だって。
どうしても欲しいと駄々をこねた末に、大喜びで自分の物にしたカード。押し花つきの。
(きっとそうだよ)
そうしていたなら、懐かしい気持ちにもなるだろう。カードは自分が貰ったのだから。自分宛に来たカードでなくても、嬉しい気分で手にしたカード。「ぼくが貰った」と。
そうに違いない、と頷いたのだけれど。
押し花のカードは幼かった自分が貰ったカードで、大切な宝物だったのだろうと思ったけれど。
(でも、もっと…)
本当に懐かしい気持ち。心の底から湧き上がるように、ふうわりと温かい思い。
まるで身体ごと包み込むように、こみ上げてくる懐かしさ。押し花のカード、と。
これほど懐かしくなるものだろうか?
幼かった頃の我儘だけで。「ぼくに来たんだ」と、母から奪ったらしいカードの思い出だけで。
もっと色々あったにしたって、子供の記憶は頼りないもの。
(三つ子の魂百まで、って…)
今の時代はそう言うけれども、それはあくまで性格のこと。
三歳の頃に起こった出来事、そんなことまで覚えてはいない。百歳でなくても、十四歳でも。
(覚えていたって、ほんのちょっぴり…)
好きだったオモチャや、そういったもの。懐かしいと思い出しはしたって、これほど心を持って行かれるとは思えない。たった一枚の押し花のカード、それを目にしたというだけで。
(…前のぼくなの?)
もしかしたら、と心に引っ掛かったこと。今の自分とは違う自分が見ていただろうか、押し花がついた優しいカードを…?
けれど、そこまで。一向に戻らない記憶。
「押し花のカード」と自分に言い聞かせたって、遠い記憶を探ってみたって。
三世紀以上にわたるソルジャー・ブルーの記憶。とても全部は手繰れないけれど、キーワードがあれば事情は違う。押し花つきのカードだったら、ポンと出て来そうなものだから…。
(やっぱり違う…?)
前の自分の思い出ではなくて、今の自分の方の思い出。母から取り上げてしまったカード。
そっちだろうか、と考え込んでいたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けるなり訊いてみた。
母が運んでくれたお茶とお菓子があるというのに、放り出しそうな勢いで。
「ハーレイ、押し花のカード、知ってる?」
押し花がくっついているカード…。本物の花だよ、それが模様になっているカード。
「あるなあ、色々綺麗なのがな。手作りもあるし、売ってるヤツも」
生徒から貰うことだってあるぞ、女子だと好きなのがいるからな。押し花つきのカード作りが。
「こんなのを作りましたから」って、半分は自慢してるんだな、アレは。
「そうじゃなくって、前のハーレイ…」
今のハーレイは、もちろん知ってて、生徒からも貰うみたいだけれども、前のハーレイだよ。
貰ってたかどうかは知らないけれど、押し花のカードを覚えていない?
今日、ママ宛にカードが来てたんだよ。…押し花のカード。
それがとっても懐かしい気がして、前のぼくかと思うんだけど…。
「…前の俺だと?」
つまりはキャプテン・ハーレイってことだな、押し花のカードの記憶はあるか、と。
シャングリラのことなら、俺の管轄ではあるんだが…。
薔薇のジャムが似合わないという評判だったし、押し花事情に詳しかったとは思えないがな…?
押し花がついていたカードか、と腕組みをして記憶を手繰るハーレイ。
「あったとしたなら、白い鯨の時代だが」と。
「前のお前が奪ったヤツなら、お前が覚えているだろうしな。…忘れたりせずに」
忘れていたって、アレだ、と思い出す筈だ。気になり始めていたんだったら。
だから、お前が手に入れて来たカードじゃない。誰かが作ったカードだってことだ。
押し花のカードを作るとなったら、花がふんだんに手に入らないと作れないんだし…。
そうなると白い鯨なわけだが、あの船の中だとカードってヤツは…。
押し花はともかく、カードがなあ…。
「郵便なんかは無かったものね、シャングリラには」
今の時代は郵便ポストも、郵便屋さんもあるけれど…。
ポストに手紙を入れておいたら、ずっと遠くの星にも手紙を出せるけど…。
「其処が問題だ、シャングリラではな」
いくら頑張って作ってみたって、カードの出番というヤツが無い。
まるで無いってわけではなくても、今の時代とは事情が全く違うんだから。
「限られちゃうよね、作ったカードの使い道…」
招待状くらいしか思い付かないよ、シャングリラでカードを出すんなら。
仲のいい友達に「部屋に遊びに来てね」って出すとか、そんな感じで。
「招待状か…。ああいうのはエラが好きでだな…」
やたらと書き方にこだわってみたり、何かと凝っていたもんだが…。
待て、それだ!
エラだ、とハーレイがポンと打った手。カードと言えばエラだった、と。
「前のお前のためにと作っていたんだ、あいつがな」
お前が言うような押し花のカード、それを幾つも手作りしてた。あの船の花で。
「エラは分かるけど…。前のぼく?」
前のぼく、花が好きだった?
押し花のカードをエラに作って貰うくらいに、前のぼくは花が好きだったの…?
「違う、お前はカードを選んでいたんだ」
エラが作った押し花つきのカードの中から、「これにしよう」と。
直ぐに決めたり、考え込んだり、カードを幾つも見比べながら。
「花が好きだから選ぶんじゃないの?」
どれか一枚選ぶだけなら、迷う必要は無いんだもの。これ、って一つ選んでおしまい。
だけど色々見比べてたなら、前のぼく、花が好きだったんだよ。
どの花を使ったカードを貰うか、決められない時もありそうだものね。素敵な花が沢山あれば。
「花好きだったとは言っていないぞ、俺は一言も」
エラが作ったと言っただろうが、前のお前のために手作り。
その中からお前が選んでたわけで、カードはお前が選ぶためにあった。
思い出さないか、エラがせっせと作っていたのは、招待状ってヤツなんだが…。
押し花つきのカードの他にも、仰々しいのを拵えたってな。
ソルジャー主催の食事会用の招待状を。
「ああ…!」
そういうの、エラが作ってたっけ…。
白い鯨になった後には、食事会なんかを始めちゃって。
あれだ、と蘇って来た記憶。遠く遥かな時の彼方で、ソルジャーだった前の自分。
シャングリラを白い鯨に改造した後、エラが始めたのがソルジャー主催の食事会。とても大袈裟だった行事で、呼ばれるのは船で功績のあった者やら、様々な部門の責任者やら。
開催される時は、招待状が配られた。もちろん、出席する者にだけ。
招待状にはミュウの紋章、金色のフェニックスの羽根。シャングリラの船体にも描かれた模様。
それが如何にも偉そうな感じで、堅苦しく見えたものだから…。
ある日、会議で提案してみた。長老たちが集まる会議。次の食事会は誰を招くか、そんな議題が終わった後に。
「…食事会の招待状だけど…。このデザイン…」
堅苦しすぎるよ、今のはね。まるで昔の王様みたいだ、ミュウの紋章まで描いて。
もう少し、優しい感じの招待状に出来ないのかい?
こんな招待状を貰ってしまうと、受け取っただけで誰でも緊張しそうだけどね?
「ソルジャーにはこれがお似合いです」
船で一番偉いのはソルジャーなのですから、と答えたエラ。
デザインを変える必要は無いと、今の招待状は遠い昔の招待状を真似たものだから、と。
王侯貴族が配ったらしい、晩餐会などの招待状。そのデザインを元に作ったのだ、と。
「…すると、子供たちを呼んだ時でも、これを出そうとするわけかい?」
他のデザインは駄目だと言うなら、小さな子供たちにも、これを…?
「子供たち…ですか?」
ソルジャー、子供たちなどは…。何の仕事もしておりませんし、功績だってありません。
そもそもお呼びになれませんが、と大真面目な顔で返された。
ソルジャー主催の食事会に招かれることは、シャングリラではとても名誉なこと。
その食事会に、子供が招かれることなどは無い、と。
招く理由がありませんから、と切り捨てられた子供たち。シャングリラのために役立つことは、何一つしてはいないから。次の世代を担うとはいえ、どちらかと言えばお荷物だから。
(だけど、前のぼく…)
子供好きだったソルジャー・ブルー。養育部門に出入りもしていた。
他の部署で仕事を手伝おうとしたら、断られてしまうものだから。場合によっては邪魔になる。視察と同じ扱いになって、仲間たちの仕事が中断される。
けれど、養育部門は違った。子供好きなソルジャーが子供たちと一緒に遊んでいたって、止めに来る者は一人もいない。ソルジャーは遊んでいるのだから。
(ぼくが子供たちの相手をしてたら、他の仲間は手が空くんだし…)
別の仕事を進められるわけで、結果的には手伝いになるのが養育部門で遊ぶこと。だから頻繁に出掛けて行っては、子供たちと遊ぶのを仕事にしていた。他に仕事は無かったから。
それだけに、子供たちは親しい存在なのだし、「駄目だ」と言われたら呼びたくなる。
ソルジャー主催の食事会にも、あの子供たちを。
「…子供たちを呼んでも、いいと思うけどね?」
ぼくは子供たちと遊んでるんだし、たまには一緒に食事したって…。
「とんでもありません!」
相手は子供なのですよ。お分かりですか、食事会に出る資格など無いのが子供たちです。
さっきも申し上げましたでしょう、何の功績も上げてはいない、と。
それに仕事もしておりません、とエラに一蹴されてしまった。
単に招かれる資格が無いというだけではなくて、もっと厄介な存在なのが子供たち。
じっとしてなどいられないのだし、食事会など向いてはいない、と。
いけません、としか言わないエラ。子供たちを食事会に招くなんて、と厳しい顔をするばかり。
「本当に駄目かい?」
ソルジャーのぼくが呼びたいと言っても、子供たちは招待出来ないと…?
招待状はぼくの名前で出しているのに、そのぼくが呼んであげたくても…?
「当然です。…いくらソルジャーの御希望でも」
ソルジャー主催の食事会に出席するとなったら、招かれた方も礼儀作法が大切です。
招待して下さったソルジャーに対して、失礼があったら大変ですから。
大人でもそういう席なのですよ、食事会は。
其処へ食事のマナーも覚えていないような子供たちを招待するなんて…。
有り得ないことです、とエラは眉を顰めていたのだけれど。
「食事のマナーねえ…。使えそうじゃないか、そのマナーってヤツがさ」
あたしはいいと思うんだけどね、とブラウが横から割って入った。
ソルジャー主催の食事会だと思うから、子供は駄目なだけ。マナー教室ならいいだろう、と。
「マナー教室ですって?」
何なのです、それは。いったいどういう意味なのです?
「そのまんまだよ、マナー教室さ。ヒルマンも一緒に出りゃいいんだよ、食事会に」
子供たちにマナーを教えるってね。将来、食事会に招待された時に備えてさ。
食事のマナーも分かってないなら、教えてやればいいんだから。…それこそ一から。
現場で教えりゃいいじゃないか、というのがブラウの意見だった。
食事会という名のマナー教室、ミュウの未来を担う子供たちを集めて開くもの。
「面白そうじゃの、食事のマナーを学ばせるんじゃな」
そういうことなら問題ないわい、作法を覚える会なんじゃから。ソルジャーの望みも叶って一石二鳥じゃ、と賛成したゼル。
「私も全く異存はないね。…教育者として」
やると言うなら子供たちを連れて出席しよう、とヒルマンも穏やかな笑みを浮かべた。
子供たちにはきちんと目を配るけれど、子供なのだし、お手柔らかに、と。
思いがけないブラウの提案。食事会という名のマナー教室、それをソルジャーが主催すること。それならば何の問題も無いし、子供たちを呼んでも大丈夫だから。
「エラ。…ヒルマンたちはいいと言っているけれど?」
食事会には違いないけれど、子供向けだからマナー教室だ。これでも駄目だと言うのかい?
ハーレイからも反対意見は出ていないからね、キャプテンも賛成しているわけだ。
この状況でも、まだ駄目だと…?
「仕方ないですわね…」
一理あることは認めます。子供たちには、食事のマナーを覚える機会も大切ですから。
考えましょう、と折れたエラ。「次の会議の議題の一つは、この件です」と。
数日後に開かれた会議の席では、決定事項だった子供たちのためのマナー教室。開催するには、どういう風にすればいいかと。
ソルジャー主催の食事会には欠かせないものが、ミュウの紋章入りのソルジャー専用の食器。
子供たちを招く時には、専用の食器は使わないこと。食堂で使う普段の食器で、メニューも子供向けの料理と皿数に。他にも色々、案が出されていったから…。
これはチャンスだ、と招待状の話を持ち出した。
「あの偉そうな招待状も、なんとかならないのかい?」
デザインは変えられない、と前に言われてしまったけれど…。相手は子供たちなのだし…。
「子供たちだからこそ、正式なものを、と思うのですが」
本物に触れるということは役に立ちます。たとえ招待状一つでも。
専用の食器などを一切使わない分、招待状の方は大人と同じものを配ってこそです。
「そういうものかもしれないけれど…」
子供たちだよ、もう少し優しいデザインにしてあげられないのかい?
紋章は外せないとしたって、もっと子供たちが喜びそうな招待状は作れないのかな…?
可愛らしい絵を添えるとか、と食い下がってみたら、エラは暫く考えてから。
「…絵を添えたのでは、ソルジャーの威厳が保てません。どう見ても子供向けですから」
ですが、仰りたいことは分かります。子供たちのための招待状を、という御意見も。
押し花というのは如何でしょうか、絵の代わりに。
「…押し花だって?」
「はい。…そういうカードを作ったことがあるのです」
作り方を本で読みましたので、どういうものかと試しに幾つか。
この船では出番がありませんから、出来たカードは誰にも出してはおりませんが…。
押し花をあしらったカードなのです、とエラが思念で披露したイメージ。出席していた全員に。
白いカードに貼られた押し花。白いシャングリラの公園で咲いた花たち、それの形に。
押し花だから、生きた花とは色が違っているけれど。色褪せた花や葉っぱだけれども、花の姿は充分に分かる。元はどういう花だったのかも、何処に咲くかも。
「いいね、これなら子供たちだって喜びそうだ」
絵よりもずっと大人びているし、招待状の端に添えたら、いいアクセントになるだろう。
でも、これを誰が作るんだい?
招待状なら、印刷すれば済む話だけれど…。押し花つきの招待状だと、そうはいかないし…。
「私しかおりませんでしょう」
言い出したのは私ですから、子供たちの分の招待状には、私が押し花をつけることにします。
元々、趣味で作っていたものなのですし、それが仕事になるだけです。
嫌いな作業ではありませんから、暇を見付けて作ってゆけば…。
食事会までには充分出来ます、押し花つきの招待状が。
お任せ下さい、とエラが引き受けてくれた、子供たち用の招待状作り。
大人用のと同じカードが出来て来たなら、端に押し花をつけてゆく。一つずつ丁寧に、花の形がよく分かるように。剥がれてしまわないように。
そうやってエラが幾つも作った、子供たちのための押し花つきの招待状。完成したら、青の間に届けに来てくれた。「今回の分は、これになります」と。
押し花の種類は、いつも色々。エラは心を配って選んだ。その時々の花を、公園に行って。
招待状に貼られた押し花、どれ一つとして同じ形になってはいなかったものだから…。
(前のぼく、カードを選んでたんだよ…)
受け取る子供たちの顔を思い浮かべながら、どのカードを誰に送ろうかと。
これはあの子に、これはこの子、と。
招待状を入れる封筒、それに書かれた宛名を眺めて、決めたものから封筒の中へ。全部入れたら部屋付きの係や、ハーレイに渡した。「これを頼むよ」と。
招待状には大人用のと同じに専用の封が施されて、子供たち一人一人に配られて…。
初めての食事会の時には、胸を弾ませて会場にやって来た子供たち。ヒルマンの引率で、騒ぎもしないで行儀よく。きちんと列を乱さずに。
食事が始まったら、はしゃいだ声が弾けたけれども、誰も会場を走り回りはしなかった。大声で叫ぶ子供もいなくて、ヒルマンがマナーを教える時には、真剣だった子供たち。
「いいかね、ナイフはこう使って…」と示されたお手本通りに、子供たちは皆、頑張った。肉や魚を上手く切ろうと、上手に口へ運ぼうと。
そうして食事会は成功、時々やろうということになった。子供たちにも正式な席を、と。
ソルジャー主催の食事会が決まれば、子供向けの時は、招待状のカードに添えられた押し花。
エラが作って、前の自分が子供たちのためにと選び出して。
どの花のカードを、どの子に届けてやろうかと。この花が好きそうな子供は誰か、と。
「…そっか、子供たちのための食事会…」
あれの招待状が押し花のカードだったんだ…。いつでもエラが作ってくれて。公園の花を幾つも探して、季節の花で飾ってくれて。
それで懐かしい気持ちがしたんだ、押し花のカード…。
ママ宛に届いたカードだったけど、前のぼく、押し花のカードを何度も選んでいたから…。
「俺もすっかり忘れていたがな、カードどころか食事会さえ」
子供向けの食事会の時だと、俺は出番が無かったからなあ…。ヘマをしなくてもいいわけだし。
本物の食事会の方なら、招かれたヤツらが緊張する度、お前に目配せされてたもんだ。
「場が和むようにヘマをしろ」とな。
合図されたら、肉を皿から飛ばしちまうとか、ナイフを派手に落っことすとか…。そいつが俺の役目だったが、子供たちだと必要無いし…。
なにしろマナー教室だからな。失敗するのは子供たちの方で、手本はヒルマンだったんだし。
「だけどハーレイ、来ていたじゃない」
子供たちのための食事会でも、ハーレイ、いつも来ていたよ?
ぼくの頼みで失敗をしていないだけ。ちゃんと食事をしていたよ。子供向けの料理ばかりでも。
「出席したというだけだ」
エラがきちんと出ろと言うから…。本物の食事会の時には、キャプテンは必ず出席だからな。
キャプテン用の席に座って、大真面目に食うしかないだろうが。
大人用にと量が多めなだけでだ、子供たちが喜びそうな料理ばかりが出て来たってな。
まあ、好き嫌いは全く無かったんだし、まるで困りはしなかったが。
賑やかだった、子供たちとの食事会。ソルジャー主催の食事会という名のマナー教室。
ソルジャー専用の食器は使わず、割れてもかまわない食堂の食器で、子供向けのメニューで。
招待状にはエラが作った押し花のカード。
正式な招待状の端っこ、其処に貼られた綺麗な押し花。白いシャングリラで咲いた花たち。
食事会に招く子たちを思い浮かべながら、押し花のカードを選んでいた。どのカードを選んで、封筒に入れてやろうかと。この花だったら、あの子だろうかと。
(…子供たちを呼ぶ食事会…)
最後はカリナたちとやったのだったか。ジョミーが来るより、ほんの少し前に。
とうに身体は弱っていたけれど、命の終わりが見えていたけれど。
(…ぼくの思い出、ちゃんと持ってて欲しかったんだよ…)
ニナやカリナや、トキたちに。青い地球まで行く子供たちに。
そう思いながら選んだカード。押し花がついた招待状。これはカリナにと、これはニナにと。
何も知らなかった無邪気な子たちは、いつもと同じに元気一杯。
その姿にずいぶん励まされたのだった。まだ死ねない、と。
ジョミーを迎えて、ソルジャーの跡を継いで貰うまで。白いシャングリラを託すまで。
一緒に食事をしている子たちを、ニナやカリナやトキの未来を託す時まで。
あれが最後の食事会になってしまったけれども、ジョミーのお蔭でナスカまで生きた。ミュウの未来を、新しい世代を見ることが出来た。
赤いナスカで生まれた子たちを、トォニィやアルテラや、タージオンたちを。
七人のナスカの子供たちとは、最後の最後に出会えたけれど…。
「…出来なかったね、食事会…」
ナスカの子たちと出来なかったよ、トォニィやアルテラたちとはね。
ちゃんと会えたのに、食事会は無し。…押し花のカードも選べなかったよ。
「やりたかったのか、食事会?」
あの頃のお前の身体だったら、座っているだけでも辛かったろうに…。
飯はなんとか食えたとしたって、子供たちの前で笑っているのも大変だったと思うんだが…。
「そうだろうけど…。ぼくの分だけ、別のメニューになっていたかもしれないけれど…」
初めての自然出産で生まれた子供たちだよ、招待状を出したいじゃない。
赤ちゃんだったツェーレンとかは無理でも、トォニィやアルテラ。
あの子たちなら、きっと来てくれたよ。招待状の字は読めなくっても、食事会に。
「そうかもなあ…」
カリナやユウイに招待状を読んで貰って、ナスカの家からシャングリラに来て。
ヒルマンと一緒に行儀よく座っていたのかもなあ、どんな料理が出て来るだろう、ってワクワクした顔で。目だって、キラキラ輝かせて。
「うん、きっと…。きっと、そうだったと思う…」
招待状を出せていたなら、トォニィたちと食事会だよ。ホントに小さい子供向けのメニューで。
ナスカで採れた野菜も使って、子供が喜びそうなお料理、色々、作って貰って…。
きっと出来た、と思うけれども、出せなかった押し花のカードの招待状。
前の自分が長い眠りから目覚めた時には、ナスカは滅びに向かっていたから。
子供たちのための食事会をしようと提案するよりも前に、自分の命も終わったから。
「押し花のカード…。トォニィたちには、出せないままになっちゃった…」
それに、今のぼくだと、出す人、いないね。
ソルジャーじゃないから食事会なんかは開けないんだし、招待状も無理…。
「そうでもないぞ。俺のおふくろに出せばいいだろう。親父にだって」
もちろん、お前のお母さんとお父さんにも。押し花のカードで、招待状を。
「え?」
招待状って…。それに、ハーレイのお母さんたちとか、ぼくのママたちって…。
なんでそういうことになるわけ、どういう招待状なの、それは?
「決まってるだろうが、本当に本物の招待状だ」
ミュウの紋章は入っちゃいないが、「家へ遊びに来て下さい」とな。
今じゃなくてだ、ずっと未来の話だが…。まだ何年も先のことだが、お前、結婚するんだろ?
俺の嫁さんになって、俺と一緒に俺の家で暮らす。
そうなった時に出せばいいんだ、押し花のカードの招待状を。
子供用の料理を用意する代わりに、俺が美味いのを作ってやるから。…うんと豪華な料理をな。
「そうだね…!」
ぼくも出せるね、押し花のカードで作った招待状。
ハーレイのお父さんとお母さんにも、ぼくのパパとママにも、「遊びに来てね」って。
子供用の食事会じゃなくって、みんなでパーティー。
ぼくも手伝うよ、パーティーの料理。ハーレイの邪魔をしちゃわないよう、気を付けて。
前の自分がナスカの子たちに、出し損なった招待状。押し花がついていたカード。
けれど、ハーレイが素敵なアイデアをくれたから。
ナスカの子たちに出し損ねた分を、幸せ一杯の今の自分が出せるから。
今度は自分で作ってみようか、エラの真似をして、庭に咲いている花たちを摘んで。
押し花がついた招待状を、温かな手作りの優しいカードを。
大切な人たちの顔を思い浮かべて、これはパパにと、これはハーレイのお父さんに、と。
ママにはこれで、ハーレイのお母さんに出すのは、このカード、と。
きっと幸せが溢れるのだろう、ハーレイと暮らす家の食卓。
大切な人たちを其処に呼ぶために、「遊びに来て下さい」と送る招待状。
前の自分が出し損ねてしまった押し花のカード、それを今度は自分で作って。
出来上がったら、ハーレイと二人でポストに入れに出掛けてゆこう。
大切な人たちの家にきちんと届くようにと、押し花がついた素敵な招待状を…。
押し花のカード・了
※前のブルーが子供たちのために選んだ、押し花つきのカード。食事会への招待状に、と。
ナスカの子たちとは、出来なかった食事会。でも、今度は自分で、カードを手作り出来そう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうむ…)
美味いんだよな、とハーレイが眺めた麩饅頭。
ブルーの家には寄れなかった日、いつもの食料品店で。食材を買いに行ったのだけれど、入って直ぐの特設売り場に麩饅頭。艶々とした笹の葉でクルンと包まれて。
生麩の中に餡が入った麩饅頭。美味だけれども、何処にでも売っている菓子ではないから…。
(買って帰るか)
久しぶりに見たぞ、と「一個下さい」と注文した。麩饅頭は日持ちしない菓子だし、一個だけ。店員も充分に分かっているから、嫌な顔もしないで包んでくれた。会計だって。特設売り場だと、会計は其処でするものなのに。「レジでどうぞ」とは言えないのに。
「またどうぞ」と笑顔で渡してくれた店員。「うちの店の人気商品です」と。
気分良く買えて、他の食材なども揃えて帰った家。夕食を済ませて、片付けの後に緑茶を一杯。急須から注いだ、熱いのを。
(麩饅頭には、こいつが合うんだ)
ほうじ茶よりも、断然、緑茶。コーヒーなどは論外、酒だってまるで話にならない。
せっかくの味が台無しだから。麩饅頭ならではの繊細な持ち味、それを殺してしまうから。
緑茶に限る、と一口飲んで喉を潤し、剥がし始めた麩饅頭を包んだ濃い緑色。艶やかな笹の葉、それを綺麗に巻いて仕上げた三角形。まるで笹の葉のおにぎりみたいに。
こうやって、と解いた笹の葉の包み。中から出て来た麩饅頭。こちらはコロンと丸い饅頭。
美味そうだな、と齧り付いたら、笹の香りと柔らかな生麩。滑らかな舌触りの生麩の皮に、いい素材だと分かる絶妙な味の小豆餡。
(大当たりだぞ、これは)
なんとも美味い、と頬張った。菓子作りだって得意だけれども、麩饅頭は家では作れない。餡は作れても、皮の生麩は無理だから。
やってやれないことはなくても、途方もない手間がかかるから。
買って食べるに限るんだ、と味わって食べた麩饅頭。美味かった、と空になった笹の葉を畳んでいった。クシャリと潰してゴミに出すのは、申し訳ない気がしたから。
大きな笹の葉、艶やかな緑。麩饅頭には笹の葉がつきもの、これでこそだと折り畳んでいて…。
(ん…?)
待てよ、と眺めた濃い緑色。当たり前のように剥いた笹の葉。麩饅頭を包んだパッケージ。この笹の葉はそういったもので、麩饅頭用の個別包装。キャンディーの包み紙のようなもの。
笹の葉は粽などにも使うし、笹の葉で包んだ寿司なども多い。殺菌力があるから、食品に合うと聞いている。中の粽や麩饅頭などや、寿司の類が傷まないように保存出来るから。
挙げていったら多い笹の葉、七夕飾りも笹だけれども。七夕の頃には、あちこちの家で笹飾りを目にするのが普通だけれど…。
(笹の葉、あったか?)
今では当たり前の笹の葉、それを自分は見ていたろうか。前の自分が生きた時代に、遠く遥かな時の彼方で。
(シャングリラに笹は無かったが…)
ブリッジが見える一番大きな公園はもちろん、居住区に幾つも鏤められていた公園だって。どの公園でも笹を見てはいないし、笹の仲間の竹も無かった。
(笹はともかく、竹は大いに迷惑だしな?)
宇宙船には向いちゃいないんだ、と断言出来る。シャングリラの中で竹を育てるのは無理、と。
青竹の藪は美しいけれど、心が和む景色だけれど。
風が通れば届く葉擦れの優しい音や、しなやかに曲がる姿に似合わず、竹は逞しすぎる植物。
竹の地下茎、地面の下でぐんぐんと伸びる根の破壊力は凄いもの。遮断用にと入れた鉄板、その下だって潜って通る。固い地面や床を破って、ある日ニョッキリ顔を出すのがタケノコだから。
あんな代物は植えられない、と考えれば直ぐに分かるのが竹。いくら姿が美しくても。
地下茎を伸ばしての破壊活動、けして楽観視は出来ない。公園だけで止まる筈だ、とは。
(しかし、却下した覚えというのも…)
記憶に無い笹、ついでに竹。
キャプテンとして「駄目だ」と言ってはいないし、「駄目じゃ」と止められた覚えも無い。白い鯨に改造する時、何度も会議を重ねたのに。何を植えようか、育てようかという会議。
どうして笹は無かったろうか、と首を捻って、気付いたこと。
そもそも無かったのだった。笹や竹を植えて観賞しようという文化。それが無かった、白い鯨の時代には。前の自分が生きた頃には。
(今じゃすっかり馴染みなのにな…)
竹も、笹の葉も。こうして麩饅頭を包んであるほど、よく見掛けるのが緑の笹の葉。笹で包んだ寿司があるほど、粽などの菓子が売られるほどに。
(日本の文化というヤツか…)
その一つだな、と頷いた。竹取物語を生み出した日本。遠い昔の小さな島国。
七夕飾りも、考えてみたら、元は笹ではないのだから。別の植物だったのだから。
(前にブルーと七夕の話をしたんだが…)
七夕の頃に、授業で教えた催涙雨。七夕の夜に降る雨のこと。
それについてブルーと話していた時、「天の川も泳いで渡ってやる」と約束をした。二人の間を天の川で隔てられたなら。一年に一度しか会えない恋人、そんな二人になったなら。
七夕の夜に、天の川に架かるカササギの橋。何羽ものカササギが翼を並べて作る橋。
けれど、その夜、雨が降ったら溢れてしまう天の川。カササギの橋は架からない。
そうなった時は、泳いで渡るとブルーに誓った。どんなに広い天の川でも、泳いで渡ると。
ブルーにはそう言ったのだけれど…。
(あいつ、笹飾りだと思っているな?)
七夕の季節に飾られるものは、笹飾り。遥かな昔は、笹飾りではなかったのに。
それにブルーは、白いシャングリラに笹が無かったことにも気付いていない。あの時、竹の話はしたのだけれども、「シャングリラには竹は無かった」で終わりだった筈。
(竹があったら、大迷惑だと俺が話して…)
地下茎を伸ばして破壊活動をする竹は、キャプテンとして許可出来ないと。植えられないぞ、と笑い合っていたという記憶。それで終わって、笹の話はしていなかった。
(…麩饅頭でも買って行くかな)
小さなブルーに、「土産だ」と持って行ってやる麩饅頭。きっと喜ぶことだろう。
幸い、明日は土曜日だから。
麩饅頭を売っていた特設売り場は、明日も営業しているから。
次の日の朝、目覚めた時にも覚えていたのが麩饅頭。それに笹の話。
いい天気だから歩いて出掛けて、途中で昨日の食料品店に立ち寄った。特設売り場で、麩饅頭を二つ。艶やかな笹の葉に包まれたもの。
それを提げてのんびり散歩しながらブルーの家まで、出て来た母に「買って来ました」と渡しておいた。「午前のお茶の時にお願いします」と。
ブルーは二階の窓から目ざとく見ていて、「お土産は?」と訊いて来るものだから。
「じきに出て来るさ、お母さんに頼んでおいたから」
そう言っている間に、届いた緑茶と麩饅頭。ブルーの赤い瞳が輝いて…。
「これがお土産?」
「昨日、買ったら美味かったからな」
絶品だぞ、と褒める言葉は嘘ではない。本当に美味しい麩饅頭だし、笹の葉の話が絡まなくても土産に持って来たいほど。「食べてみろ」と促したら、ブルーは早速、笹の葉を剥いて。
「ホントだ、美味しい…!」
皮も美味しいし、中の餡だって…。それに笹の香りがとっても素敵。
ありがとう、と笑顔で頬張るから。
「その菓子、何か気が付かないか?」
「えーっと…?」
なあに、とキョトンとするブルー。「何か特別な麩饅頭なの?」と。
「特別じゃなくて、平凡なんだが…。麩饅頭と言えば、そういうモンだし」
笹の葉で包んであるもんだろうが、麩饅頭ってヤツは。そうすりゃ皿にもくっつかないし…。
その笹の葉だな、粽も笹の葉で包んであるだろ?
「粽…。今は季節じゃないけれど…」
そうだ、粽、食べ損なっちゃった…!
ハーレイの授業で粽が出た時、ぼくは食べ損なったんだよ…!
端午の節句、と叫んだブルー。端午の節句は五月の五日。
聖痕が現れて救急搬送されたのが五月三日で、念のためにと学校を休まされていたから、端午の節句の粽は食べていないのだ、と。
「…ハーレイの授業だったのに…。古典の時間に、他のみんなは食べたのに…」
ぼくは食べられなかったよ、粽。ハーレイの話も聞き損なっちゃって、後からプリント…。
「そういや、そうか…。端午の節句も俺の管轄だしな」
とんだ藪蛇というヤツか。そいつはすっかり忘れちまってた、あの時の粽。
「…その話じゃないの?」
粽だって言うし、笹の葉の話らしいから…。粽なのかな、って…。
「違う、粽の中身じゃなくって、外側の方だ」
この麩饅頭と同じで、粽を包んでいる笹の葉。あっちは包み方が全く違うわけだが…。
粽だと笹の葉は一枚じゃなくて、何枚も使って巻き上げるんだが…。
笹の葉ってヤツを、前のお前は知っていたのか?
シャングリラの公園とかもそうだし、アタラクシアだのエネルゲイアだの。
何度も地上に降りてたわけだが、前のお前は、笹の葉、何処かで目にしてたのか…?
「…笹の葉…。シャングリラの中には無かったね…」
アルテメシアの山の中でも見ていないかも…。町の中だって。
前のぼく、笹の葉、見たことがないよ。…全然気付いていなかったけど。
「ほらな、お前でも知らないってな」
今じゃ馴染みの植物なんだが、あの時代の文化じゃ、笹の葉ってヤツは使われない。
麩饅頭だの、粽だのはだ、何処にも無かった時代だからな。
ついでに七夕、と挙げた例。笹の葉が欠かせない、今の時代の七夕飾り。
「七夕の時には笹飾りだが、シャングリラには七夕、無かったろうが」
笹も無ければ、七夕も無い。そういう時代だったんだな。…前の俺たちが生きた時代は。
「そうだけど…。今はあるでしょ、七夕がちゃんと」
ハーレイ、ぼくに言ってくれたよ。
もしも、ぼくたちの間に天の川が出来ちゃったら…。七夕の夜に溢れちゃったら、どうするか。
カササギの橋が架からなかったら、ハーレイ、泳いでくれるって…。
ぼくの所まで、天の川、泳いで渡って来てくれるって…。
「覚えてたんだな、その話は」
端午の節句の粽の授業は、綺麗に忘れていたくせに。…俺のプリントを読んだ程度で。
粽を食い損なった事件も、すっかり忘れちまっていたのに。
「だって、七夕の時にお祈りしたもの」
催涙雨が降りませんように、って。雨が降ったら、天の川、溢れちゃうんだから…。
彦星と織姫がちゃんと会えますように、ってお祈りしたから忘れないよ。
「そうなのか?」
お前、彦星と織姫のために、雨が降らないようにとお祈りしてたのか…?
「会えないなんて可哀相でしょ、カササギの橋が架からなくって」
彦星、ハーレイみたいに泳いで渡れはしないだろうし…。天の川、とっても広そうだから。
でもね、そういうお願いしてたら、ぼくのお願い、忘れちゃった…。せっかく七夕だったのに。
短冊に書いてお願いをしたら、叶えて貰える日だったのに…。
「忘れちまったって…。何を頼みたかったんだ?」
「ぼくの背、伸びてくれますように、って…」
前のぼくと同じ背丈にして下さい、って短冊に書けば良かったのに…。
「お前の背丈か、そいつは切実な願い事だな」
チビのままだとどうにもならんし、願い損なったのは残念だったと言うべきか。
だがな…。
願い事ってヤツは、元は短冊に書くものじゃないぞ、とニヤリと笑った。
「あまり知られちゃいないがな」と。
「七夕と言えば、今は短冊になっちまったから…」
SD体制が始まるよりも前の時代に、もう短冊になっていたしな。
「え…?」
まだ七夕があった頃から、短冊になっていたって、なあに?
元は短冊に書くんじゃないなら、願い事は何に書いて吊るしていたの…?
「梶の葉ってヤツだ、桑の葉に少し似ているが…」
もっとデカくて立派な葉だ。それに書くんだ、サトイモの葉についた夜露を集めてな。
夜露そのもので書くんじゃないぞ?
あの時代は筆の時代だからなあ、夜露を使って墨を磨るんだ。他の水では駄目だったそうだ。
そうやって願い事を書いたら、梶の葉を祭壇に吊るしておく。笹飾りじゃなくて、祭壇だった。
芸事が上達しますように、と楽器を飾ったり、五色の糸を飾り付けたり。
「…そうだったの?」
短冊じゃなくて梶の葉っぱで、笹飾りだって無かったの…?
「最初の頃の七夕はな。それが日本の文化だった」
平安時代に貴族が始めて、優雅に歌を詠んだりしたのが七夕なんだ。蹴鞠もしてな。
そいつが何処かで変わっちまって、いつの間にやら、笹飾りと短冊になっちまった、と。
「七夕、変わっちゃったんだ…」
それじゃ、ホントにお願いを聞いて欲しかったら、梶の葉っぱに書かないと…。
ぼくのお願い、お星様にきちんと届けるんなら。
みんなは短冊に書いてるんだし、梶の葉っぱに書いて頼んだら、お願い、聞いて貰えそう…。
正しいお願いのやり方だったら、願い事も叶えて貰えそうだ、と小さなブルーは大真面目な顔。七夕の日にお願いするなら、短冊よりも梶の葉っぱ、と。
「お前なあ…。そこまで頑張らなくてもな?」
梶の葉っぱを探すトコから始めなくっちゃいけないんだぞ。あまり植わっていない木だから。
それにだ、今のお前の願い事なんか、本当に知れたモンだろうが。
せいぜい背丈を伸ばす程度で、叶わなくても困りやしない。…いつかはちゃんと育つんだしな。
前のお前の願い事なら、多分、切実だっただろうが…。
アルテメシア中を端から探し回ってでも、梶の葉っぱに書いて頼みたかっただろうが…。
「うん…。前のぼくなら、そうしたと思う」
それで願いが叶うんだったら、梶の葉っぱを探しに行ったよ。…サトイモの葉についた夜露も。
七夕の時にちゃんと書いたよ、地球へ行くことと、ミュウの未来と…。
「そんなトコだろうな、前のお前は」
梶の葉っぱを探し当てたら、大喜びで書いたんだろう。…これで叶ってくれれば、と。
「それとハーレイだよ!」
「はあ?」
俺って、どうして俺が出てくるんだ?
キャプテンの命令で梶の葉っぱを探せと言うのか、アルテメシアに降りる潜入班のヤツらを動員して。「こういう葉っぱを探して来い」と。
「違うよ、ハーレイそのものだよ」
ハーレイと幸せに暮らしたかったよ、シャングリラで地球まで辿り着いて。
恋人同士だってことも誰にも隠さずに済んで、ハーレイと一緒に暮らすんだよ…。
それをお願いしたかった、と揺れるブルーの瞳。二粒の赤く澄んだ宝玉。
シャングリラに七夕があれば良かったと、梶の葉に願いを書きたかった、と。
「梶の葉も何も…。あの時代には七夕自体が無かったんだぞ?」
笹飾りをする笹も無かったわけでだ、今日はそういう話をしようと麩饅頭をだな…。麩饅頭には笹の葉なんだし、ついでに本物の七夕の話もしてみるか、と。
「本物でも時代で変わったんでしょ、七夕の中身!」
願い事を梶の葉に書いて吊るしていたのが、笹飾りになって短冊だよ?
同じ七夕でも中身が変わっていったんだったら、シャングリラでも七夕、出来たんだよ。
梶の葉っぱに書いてお願い出来たら一番いいけど、それとは違う形でも。
「これがシャングリラの七夕です」って、彦星と織姫にお願いくらいは…。
どんな形になっていたかは知らないけれど。
笹飾りの代わりに何を使ったか、短冊が何になっていたかは分からないけど…。
「うーむ…。シャングリラの七夕か…」
シャングリラ風だか、シャングリラ流だか、とにかくそういう七夕だな?
俺たちの船ではこうやるんです、と強引に七夕をやるってわけか…。
それは思ってもみなかった、と腕組みをして唸ったけれど。とても驚かされたのだけれど。
確かにブルーが言う通り。
本物の日本の七夕でさえも、時代に合わせて変わって行った。梶の葉を吊るしていた祭壇から、短冊を吊るす笹飾りへと。いつの間にやら。
だからシャングリラでも、やろうと思えば七夕は出来た。そういう行事を知ってさえいれば。
シャングリラ風にアレンジして。笹が無いならこれを使おう、と。
「…やってやれないことはなかったな、確かにな…」
だが、前の俺たちは知らなかったんだ。七夕っていう行事そのものを。
知らない行事は出来ないからなあ、誰もやろうと言い出さないから。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…」
願い事が叶うのが七夕なんだよ、とても素敵な行事じゃない。叶わなくても夢が一杯。
そういう行事は何か無かったの、七夕じゃなくても願い事を叶えて貰える行事。
「…万能のは無かったんじゃないのか?」
今でもそうだが、願い事と言えば目的別だろ、おまじないにしても。
この願い事を叶えたいなら、こういうおまじないをする、って具合に。
「うーん…。だったら、やっぱり七夕が一番?」
前のぼくたちは知らなかったけど、夢があるのは七夕だった…?
「夢があるヤツなあ…。あの時代にも、あったかどうかは知らないが…」
幸せになれる菓子ってヤツなら、心当たりがあるってな。
中に入れてあるフェーヴっていう小さな陶器の飾り。そいつが当たれば、一年間は幸運が来る。
そう言われてる菓子がガレット・デ・ロワで、元はフランスの菓子なんだが…。
クリスマス・プディングにも、似たような話がある筈だ。
作る前に中に色々な物を仕込んでおいて、食べる時に出て来た物で未来を占うってヤツ。
金持ちになれたり、運命の相手が見付かったりすると聞いてるな。
そんな菓子だから、中に仕込む物を入れた後には、順番に一度ずつかき混ぜるそうだ。いい物が当たりますように、と。いい物、つまり幸せな物が当たるようにと祈りながらな。
そういう菓子なら今の時代の名物だが、と教えてやったら、「他には?」と訊いた小さな恋人。もっと他にも、幸せになれる行事の類は無いのか、と。
「七夕みたいなのは無さそうだけど…」
何をお願いしてもいいのは、七夕だけしか無いみたいだけど…。
もっと他にも、幸せが来る行事は無いの?
前のぼくたちが生きてた頃でも、何かあったら良かったのに…。
「他には知らんな、俺もそれほど詳しくはない」
そういう研究をしてるわけじゃないし、本とかで読んで「面白いな」と思って覚えただけで…。
前の俺だと、まるで管轄外だろうが。教師じゃなくてキャプテンなんだし。
ヒルマンやエラなら、その手のことにも詳しそうではあるんだが…。
だが、あいつらも…。
七夕は知らなかっただろう。知っていたなら、やっただろうしな。
さっき、お前が言った通りに、夢を託せる行事なんだし…。
一年にたった一度だけでも、好きなことを願える日なんだから。
それこそシャングリラ風にアレンジだろうな、ヒルマンとエラが気付いていたら。
ブリッジが見える一番デカイ公園、あそこに笹飾りの代わりに何かをドカンと立てて。
船の全員が短冊だか、いろんなカードだかを書いて吊るせるように。
全員分の願い事なんだし、小さな笹飾りじゃ間に合わん。どうせ笹なんかは無い船なんだ。笹の代わりに公園の木の出番だな。でなきゃ、専用のポールみたいなのを立てるとか。
大々的に七夕を始めそうだが、全くやっていなかったんだし…。
七夕も知らなきゃ、ガレット・デ・ロワも、クリスマス・プディングの幸運ってヤツも…。
あいつらは知らなかったんじゃないのか、と口にした途端に掠めた記憶。
シャングリラにも幸運の来る行事があった、と。ヒルマンとエラは知っていたんだ、と。
「…あったぞ、ブルー。前の俺たちの船にもな。…幸運が来る行事というヤツが」
一つだけだが、あったんだ。…残念ながら、俺たちのためには無かったが…。
全員の分の幸運は無くて、ごくごく一部に限られていたが。
「一部だけって…。あったって、何が?」
どういう行事があったって言うの、シャングリラに?
誰かが幸運を貰えるんだよね、一部だけでも。…船のみんなの分は無くても。
「うむ。本当にほんの一部だけでだ、相当に運がいいヤツだけしか幸運は貰えない行事だが…」
さっき言ったろ、今の時代の名物の菓子。ガレット・デ・ロワだ。
「えっと…?」
フランスのお菓子だって言ってなかった、それ…?
シャングリラにあったの、今のフランスの名物のお菓子が?
「どういう理由で生まれたのかは知らないが…。俺も覚えちゃいないんだが…」
人類の世界でやっていたのを取り入れたのか、ヒルマンとエラが探し出した行事だったのか。
それは謎だが、ガレット・デ・ロワは確かにあった。
新年の菓子で、一月六日に食べるんだったか…。今の時代は一月六日だし、シャングリラの頃も同じだったろう。どっちもガレット・デ・ロワなんだから。
王様の菓子って意味の名前だ、子供たちのための菓子だった。
ミュウの未来を担うのは子供たちだしなあ…。子供たちを優先してやらんとな?
フェーヴの入ったパイだったぞ、と話してやった。子供たちの人数に合わせて焼かれた、新年の菓子のガレット・デ・ロワ。ただし人数分を焼くのではなくて、それよりもっと少なめに。
「一個のパイにフェーヴが一個。…パイを分ける子供は六人だったか、八人だったか…」
そいつも多分、年によって変わっていたんだろう。食べる資格のある子供の数で。
子供たちだけが切って貰って食べた菓子だが…。
そういや、お前、あの中に混ざっていなかったか?
いつも子供たちと遊んでいたから、「ソルジャーも食べよう」って誘われちまって。
覚えていないか、こう、王冠を被った菓子で…。
王冠と言っても紙で出来たヤツで、金色の紙で作った王冠。それを乗っけたパイなんだが。
「あったっけ…!」
思い出したよ、ガレット・デ・ロワ。
幸運のお菓子で、中のフェーヴが当たった子供は、一年間、幸運が来るんだったっけ。
紙の王冠を被せて貰って、その日は一日、王様になれて…。女の子だったら女王様。
一番偉い子供になるから、好きな遊びをしていいんだよ。その日だけは。
「覚えてたか…。今から思えば、ちょいと怪しい菓子だったかもしれないが…」
俺はもう厨房を離れていたから、ガレット・デ・ロワのレシピは知らん。
だから確かめようがないんだ、本物のガレット・デ・ロワを作っていたのか、偽物だったか。
シャングリラ風にアレンジされてた菓子だったかもしれないなあ…。
中にフェーヴが入るってトコが重要なんだし、菓子の方はそれのオマケだから。
パイの形に焼いておいたらいいだろう、と味や作り方はシャングリラ風。
その可能性は大いにあるなあ、見た目は立派に本物のガレット・デ・ロワだったんだが。
シャングリラ風の七夕ならぬガレット・デ・ロワだ、と浮かべた苦笑い。
今の時代は、ガレット・デ・ロワのコンクールがあるほどだから。人間が地球しか知らなかった時代と全く同じに、その菓子を作る腕だけを競うコンクール。
遠い昔のフランスを名乗る地域だったら、菓子職人になるための試験の課題になるとも聞いた。この菓子を上手く焼けないようでは、菓子職人になる資格は無い、と。
それほどの菓子がガレット・デ・ロワで、多分、決まりも多いのだろう。材料も味も、見た目も細かく吟味されそうな菓子がガレット・デ・ロワ。
白いシャングリラで本物を作れたとは思えない。作れたとしても、素人料理の域を出ないもの。菓子職人の試験には合格しなくて、コンクールなどは夢のまた夢。
(…きっと、そういうトコなんだ…)
今の自分が作る所を目にしたならば、「ちょっと待て!」と言いたくなるような。
「其処はそうじゃない」と、「俺が知ってるレシピじゃ、こうだ」と口を挟みたくなるような。
それでも立派にガレット・デ・ロワ。…白いシャングリラの中だったなら。
陶器で出来た小さなフェーヴを一個仕込んで、オーブンで焼かれたガレット・デ・ロワ。
焼き上がったら、きちんと冷まして、一月六日に子供たちの前へ。
紙で作った金色の王冠、それを被せられて誇らしげだったガレット・デ・ロワ。
囲む子供たちの顔も輝いていた。フェーヴは誰に当たるだろうかと、王様は誰になるのかと。
フェーヴが何処に入っているのか、誰も透視はしないようにと、サイオンは禁止された菓子。
子供たちが取り囲んで見守る中で、養育部門の係の女性が切り分けた。紙の王冠を外してから。一つのパイを分け合う子供の人数分に、均等に。
(切り分ける間は、一番のチビがテーブルの下…)
そういう決まりになっていた。これまた今の時代と同じ。遠く遥かな昔の地球とも。
一番年が小さな子供は、テーブルの下に入るのが役目。切り分ける所が見えないように。
ガレット・デ・ロワが切り分けられたら、テーブルの下から出て来る子供。その子が決めていた菓子の配り方。「これは、あの子」と、「こっちは、この子」と。
(…切る係だって、フェーヴの在り処は見てないからなあ…)
サイオンを封印して切ってゆくのだし、ナイフがフェーヴに当たることもある。そんな時には、押し込まれるフェーヴ。「こっちに入れよう」と選んだ一切れの内側に。
テーブルの下に入っていた子は、それを見ていないものだから…。
(ちゃんと公平に配れるわけだ)
全く何も知らないからこそ、「これは、こっち」と無邪気に決めて。
そうやって菓子を配り終えたら、子供たちが一斉に手にするフォーク。食べ始めた菓子の中からフェーヴが出たなら当たりで、その日の王様、女王様。
それに一年間の幸運、どの子もドキドキしていた行事。
子供だけのイベントだったのだけれど、ただ一人だけ混じっていたのがブルー。
誘われるままに、子供たちと一緒にパイを囲んで。「ソルジャーは、これ」と渡して貰って。
いつもあいつが混じっていたな、と懐かしく思い出していて…。
「あのフェーヴ…。お前、当たっちまっていたぞ」
俺の記憶じゃ一度だけだが、子供たちに誘われて食べに出掛けて。
お前が食べてたパイの中から、見事にフェーヴが出ちまったとかで…。
「あったっけね…。そういう年が」
ぼくもサイオンは使ってないから、まさか入ってるとは思わなかったし…。
ビックリしたけど、ホントにフェーヴ。
子供たちは拍手してくれたけれど、子供たちの幸運、ぼくが貰うわけにはいかないから…。
「譲ろうとしたって言ってたっけな、お前と同じパイを切って貰っていた子に」
何人いたのか忘れちまったが、皆でクジ引きでもするように、とな。
「そうなんだけど…。誰も貰ってくれなかったんだよ」
ぼくは大人だから要らないんだ、って説明したって、子供たちの方が上だったよ。
「それなら、今年は大人用の幸運なんだ」って、「誰かにあげるなら、大人の人」って。
どうしても貰ってくれなくて…。ぼくの幸運…。
「だからと言って、俺の所に持って来なくても…」
お前が貰っておけばいいのに、わざわざ届けに来るんだから。王様の印の紙の王冠。
これはキャプテンに、って俺の頭に被せやがって…。
「あの時も言ったよ、ぼくより君が相応しいんだよ。一年分の幸運だから」
君はキャプテンだったわけだし、船のみんなの幸せを守っていく立場。
シャングリラの一年間の幸運になると思うよ、キャプテンの君が受け取ったらね。
「これを貰って」と、ブルーに被せられた王冠。「シャングリラの一年間の幸運だから」と。
金色の紙で出来た王冠、それを一日、被っていた。ブリッジでも、通路を歩く時でも。
前のブルーがくれた幸運。「シャングリラのために」と貰った幸運。
「…お前の幸運、俺が貰ってしまったのに…」
すっかり忘れちまっていたなあ、今の今まで。
あの日は一日、王冠を被ったままだったのに…。船の仲間も笑ったりしないで、シャングリラの幸運を喜んでくれていたのになあ…。これで一年間、いいことがある、と。
「ぼくも忘れてしまっていたよ。…ガレット・デ・ロワも、ぼくにフェーヴが当たったことも」
ハーレイに幸運をプレゼントしたのも、何もかも、全部。
きっと子供たちのための遊びだったからだね、大人用じゃなくて。…ガレット・デ・ロワは。
こんな風に忘れてしまうほどだし、シャングリラで七夕、やりたかったね。
七夕だったら、大人だって願い事が出来たのに…。好きなことをお願い出来たのに…。
ガレット・デ・ロワだと、幸運を貰えるのは一つのパイに一人だけだよ?
それじゃ駄目だよ、そんな行事だから、ホントに忘れてしまうんだよ。
…大人のくせに、フェーヴが当たっても。
ガレット・デ・ロワで貰える幸運、キャプテンのハーレイに譲りに行っても。
「仕方ないだろ、お前も自分で言ってるだろうが。子供用だと」
遊びみたいなものだったんだし、忘れる程度の行事ってことだ。…一年分の幸運でもな。
「でも、七夕なら、船のみんながお願い事…」
叶うかどうかは分からないけど、色々お願い出来たんだよ?
ガレット・デ・ロワより、七夕の方が、ずっと良かったと思うんだけど…。
どうして無かったんだろう、とブルーはとても残念そうで。「シャングリラ風で良かったのに」などと繰り返しているから、「過ぎたことだろ」とチョンとつついた緑の笹の葉。
麩饅頭を包んでいた艶やかな葉は、少し乾いて来ているけれども、まだ充分に綺麗な緑。
「前の俺たちが生きてた時代は、七夕という文化自体が無かったんだから、仕方がないさ」
ヒルマンもエラも気付かないままで、シャングリラ風の七夕は生まれないままになっちまった。
だが、俺たちは地球に来ただろ、短冊は書いていないのに。
…俺もお前も、七夕の星に何も頼んでいなかったのにな?
それでも地球まで来られたわけで、今じゃ本物の七夕だ。七夕の時には短冊だろうが。
「短冊もいいけど…。梶の葉、探して書いてもいい?」
サトイモの畑も見付けて来ないと駄目だけど…。夜露を集めて墨を磨らなくちゃ。
梶の葉に書くのが本当なんでしょ、七夕の時のお願い事は…?
「その通りだが、何と書くんだ?」
約束事をきちんと守って、梶の葉にサトイモの葉に溜まった夜露の墨で…。
どういう願い事を書くつもりなんだ、そこまで律儀に頑張ってまで…?
「ぼくの身長…」
うんと急いで伸びますように、って書くんだよ。
今のままだと、ハーレイとキスが出来るようになるの、まだまだ先になりそうだから…。
前のぼくと同じ背丈になれるの、何年先だか分からないから…。
「もっとマシなのを思い付け!」
背くらい、いずれ伸びるだろうが、放っておいても!
梶の葉とサトイモの夜露に失礼すぎるぞ、そんなつまらん願い事は!
同じ書くなら、前のお前の願い事のように大きいのを書け、と叱ったけれど。
「ミュウの未来とまでは言わんが、背丈を頼むのは失礼すぎる」と言ったら、ブルーはプウッと膨れてしまったけれど。
(…身長なあ…)
それが梶の葉を探し出してまで頼むことか、と呆れてはいても、ブルーの夢なら叶えたい。
ブルーの願い事だというなら、大きな夢でも、小さな夢でも。
(背丈ばかりは、俺にもどうにも出来ないんだが…)
いつかブルーが大きくなったら、願い事を全て叶えてやりたい。どんな大きな夢だって。
そして自分も願い事をしよう、七夕の時には笹飾りをして。
梶の葉ではなくて短冊に書いて、ほんの小さな願い事でも、ブルーと二人で吊るしてみよう。
「お前の願い事はそれか」と、「ハーレイはそれ?」と笑い合いながら。
短冊を二つ並べて吊るして、他にも飾りを色々とつけて。
今は笹の葉がある時代だから。七夕があって、笹飾りが出来る時代だから。
願い事を書いて吊るしておいたら、叶えて貰える時代だから。
ブルーの夢は、きっと自分が叶えよう。
短冊に書かれた願い事を読んで、「今年はこれか」と、七夕の星たちよりも先に自分が。
誰よりも愛おしい人だから。
前の生から愛し続けて、これからもずっと愛してゆくから…。
笹と七夕・了
※シャングリラには無かった七夕の行事。幸運が来るお菓子を楽しんだのも、子供たちだけ。
もしもあったら、素敵なイベントになっていたのでしょう。本物の笹が無かった船でも。
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