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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(今度の土曜日…)
 お菓子はパウンドケーキがいいな、と考えたブルー。
 学校から帰っておやつの時間に、ダイニングで。何かのはずみに、なんとなく、ふと。
 頬張っていたのはアップルパイで、パウンドケーキとは似てもいないのに。味も舌触りも、見た目もまるで違うのに。
 けれど思い付いたパウンドケーキ。何の飾りも無いシンプルなケーキ、ごくごくプレーンなのがいい。チョコレートもバナナも入っていなくて、小麦粉と卵とバターと砂糖だけで焼くのが。
(ハーレイの大好物…)
 好き嫌いが無いハーレイだけれど、大好物はちゃんと存在する。母のパウンドケーキが、そう。
 一番幸せそうに食べるケーキで、その時のハーレイの顔が大好き。
(何でも美味しそうに食べているけど…)
 見ている方まで幸せになれる顔なのだけれど、パウンドケーキは中でも特別。
 ハーレイの「おふくろの味」だから。隣町で暮らすハーレイの母が作るのと同じ味らしいから。
 単純なレシピのケーキだというのに、ハーレイが焼いても同じ味にはならないという。
(不思議だよね?)
 本当に不思議でたまらないけれど、母のパウンドケーキを食べるハーレイはいつも幸せそうで。子供みたいに嬉しそうな顔の時もあるから、特別なのがパウンドケーキ。
 あのハーレイの顔をゆっくり見るなら、土曜が一番。普段の日よりも、時間がたっぷり。
 だからパウンドケーキがいい。ハーレイの好きなケーキがいい。



 それがいいな、と考えたけれど、パウンドケーキを焼くのは母。頼まないと焼いて貰えない。
 何も言わずに放っておいたら、別のケーキが出て来るだろう。でなければパイやスフレだとか。
(ママに注文…)
 しなくっちゃ、と思った所へ、母が入って来たものだから。
「ママ!」
「なあに?」
 どうかしたの、と尋ねた母。「アップルパイはもう、あげないわよ」と。「食べ過ぎるから」と軽く睨まれたけれど、頼みたいものは今日のおやつではなくて…。
「えっとね…。おやつの話なんだけど…」
 今じゃなくって、今度の土曜日。…土曜日のおやつ、パウンドケーキを焼いてくれない?
 ハーレイが来てくれる時に、と注文した。「うんと普通のパウンドケーキ」と。
「いいわよ、基本のパウンドケーキね。…余計な味はつけないケーキ」
 ハーレイ先生、プレーンなのが、とてもお好きだものね。
「そうでしょ?」
 あれが一番好きらしいんだよ、チョコレート味も好きだけど…。バナナ入りでもいいんだけど。
 だけどプレーンが大好きみたい、と母に話したハーレイの好み。
 一度だけハーレイの家に遊びに出掛けた時にも、持って行ったのがパウンドケーキ。
 母だってよく知っているから、「分かったわ」と笑顔で引き受けてくれた。
「パウンドケーキね、土曜日には」
「忘れないでよ?」
「もちろんよ。それに材料は、いつでも家に揃っているから」
 買い忘れたりする心配も無いわ、と言って貰えたけれど。
「そうなんだけど…。絶対だよ?」
 約束だからね、と母と指切りをした。「忘れないでね」と。
 土曜日は絶対パウンドケーキ、と。ハーレイの好きなプレーンでお願い、と。



 おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
 勉強机の前に座って幸せな気分。頬杖をついて、顔を綻ばせて。
(ふふっ、土曜日はパウンドケーキ…)
 ハーレイが好きな「おふくろの味」。幸せそうな顔が見えるよう。「おっ?」と輝かせる顔も。
 「こいつは俺の好物だな」と、「この味が実に好きなんだ」と。
 食べる前から嬉しそうなのに決まっている。一目見たなら、そうだと分かるパウンドケーキ。
 ぼくが注文したんだから、と誇らしげに披露したならば…。
(御礼にキス…)
 して貰えるかな、と思うけれども。「流石は俺の恋人だよな」と褒めても貰えそうだけど。
 いくらハーレイが大喜びでも、御礼のキスを贈ってくれても…。
(どうせ、おでこか頬っぺたなんだよ)
 御礼のキスを貰える場所は。
 ハーレイの唇が触れてゆく場所は、額か頬に決まっている。いつも其処にしか貰えないキス。
 欲しくてたまらない唇へのキスは、ケチなハーレイが「駄目だ」と言うから。何度強請っても、断られるのが唇へのキス。「前のお前と同じ背丈に育つまでは、俺はキスはしない」と。
(だから御礼のキスだって…)
 して貰えても、額か頬に。「これだけなの?」と頬っぺたを膨らませたって。
 けれど、ハーレイの笑顔は見られる。幸せそうに食べる顔だって見られる、パウンドケーキさえ用意したなら。…こちらまで幸せになってくるような表情を。
 「キスは駄目だ」と叱られたって、パウンドケーキの御礼は聞ける。「ありがとう」と。
 「俺の好物、ちゃんと分かってくれているよな」と、「こいつは、おふくろの味なんだ」と。



 今のハーレイの「おふくろの味」。それを出せるのが今度の土曜日。
 いつかは自分で焼きたいけれども、まだ無理だから母任せ。「焼いてね」と出しておいた注文。
(幸せだよね…)
 ハーレイのために、恋人のために用意するケーキ。大好物のパウンドケーキ。
 自分で焼いたものでなくても、「食べてね」とハーレイに出せる幸せ。喜んで貰える大好物を。
(ハーレイが好きなパウンドケーキ…)
 ママに頼んであるんだものね、と眺めた小指。ちゃんと指切りしたんだから、と。
 指切りまでして約束したから、母は忘れはしないだろう。キッチンにもメモを貼っておくとか、部屋のカレンダーに書き込んだりして。「土曜日のおやつはパウンドケーキ」と。
 ただ「お願い」と言っただけではないのだから。「約束だよ」と指切りだから。
 母としっかり絡めた小指を、指と指とでした約束を、小指を見ながら思い出していて…。
(…あれ?)
 よくハーレイとも交わす指切り。何か約束した時は。「忘れないでね」と約束の印。
 褐色の大きな手に見合った小指。チビの自分の細っこい指より、ずっと太くて力強い指。
 指切りしようと絡めた時には、褐色と白が絡み合う。ハーレイの肌と自分の肌と。あまり意識はしていないけれど、対照的な二本の小指。色も、太さも。
 それを互いに絡めて約束、キュッと力をこめる指切り。
 時には腕ごとブンブンと振って、「約束だよ?」と念を押したりもする。「破らないでね」と。
 指切りの約束は、言葉だけでの約束よりも強いから。
 二人の間で交わした約束、それを「破らない」と誓う印が指切りだから。



 何度もハーレイと指切りをした。指を絡めて、約束の印。
 約束の中身は本当に色々、ほんの数日後に果たされるものや、まだまだ遠い未来のものや。幾つあるのか数えてみたって、きっと山ほどあることだろう。遠い未来の約束だけでも。
(好き嫌い探しの旅に行くのも、宇宙から青い地球を見るのも…)
 どれもまだ遠い未来の約束、いつか結婚してからのこと。
 最初に約束を交わした時には、指切りはしていないかもしれない。幸せな夢で胸が一杯だから。夢見るだけで、もう充分なほどの幸せすぎる約束だから。
(…でも、何回も…)
 思い出す度に、「いつか行こうね」と交わす約束。指切りだって何回もした。好き嫌いを探しに旅をすることも、宇宙から青い地球を見ることも。他にも約束は沢山あって、指切りだって。
 何度も何度も交わした指切り、本当に数え切れないほど。ハーレイと小指をキュッと絡めて。
 けれども、前の自分たちは…。
 白いシャングリラで共に暮らした、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは…。
(指切り、してない…?)
 もしかしたら、と気付いたこと。
 今の自分は何度もハーレイと指切りしたのに、前の自分はしなかったろうか、と。
 互いの指を絡める約束、それを交わさなかっただろうか、と。



 そんなことが…、と遠い記憶を探るけれども、覚えていない。指切りをした記憶が無い。
 「約束だよ」と交わす指切り、それこそ何度もハーレイとしていそうなのに。
 平和な今の時代と違って、明日さえも見えなかった船。其処で懸命に生きてゆく中、約束しない筈がない。それこそ、指をキュッと絡めて。互いの想いを確かめ合って。
 今ならほんの小さなことでも、前の自分たちには大きすぎるものが幾つもあった。必ず来るとは言えなかった明日、明ける保証が無かった夜。…シャングリラが沈めば「明日」は無いから。
 そういう船で生きていたから、約束するなら指切りが似合い。「約束だよ」と。
 指を絡めて約束したなら、普通よりも遥かに強い約束。叶いそうな気持ちも強くなるから、何か約束するなら指切り。…今の時代なら、そこまでしなくていい中身でも。
 「そんなことまで指切りなの?」と、笑い出しそうな約束さえも。
 たとえば、「今夜また会おう」とか。
 夜には必ずハーレイが青の間に来るというのに、そういう決まりになっていたのに。
(…シャングリラの夜は、ちゃんとやって来るとは限らなくって…)
 昼の間に人類軍に攻撃されたら、もう来ないかもしれなかった夜。
 白いシャングリラが沈んでしまえば、それで全てが終わるから。前の自分たちの命も、恋も。



 明日さえも危うかった船。夜が明けても、無事に日暮れを迎えられるとは言えなかった船。
 綱渡りのような日々を生きてゆく中、ハーレイと何か約束するなら、指切りだろうと思うのに。それが相応しいという気がするのに、まるで記憶に無い指切り。
 どうしたわけだか、ただの一度も。
(…前のぼくは、手袋…)
 素手とは違って、いつでも着けていたのが手袋。ソルジャーの衣装を構成するもの。
 あれをはめていたせいなのかな、とも考えたけれど。手袋が小指を包んでいたから、指切りには向かなかっただろうか、と思ったけれど。
(手袋、本物の肌と同じで…)
 着けたままでも、違和感を感じたことは無かった。水に触れれば濡れたと分かるし、誰かの手に触れれば温もりも分かる。そういう風に感じるようにと出来ていた素材。
 手袋をはめたままでいたって、何の不自由も無いように。素肌と同じに思えるように。
 もっとも、手袋が出来て間も無い頃には違ったけれど。仰々しいだけの衣装の一部で、快適とは言えなかった品。船にあった布で作られただけで、何の工夫も無かったから。
 けれど、技術は日進月歩。白い鯨を作り上げたように、ミュウの技術も進んでいった。ミュウが持つサイオンなどを生かして、改良を重ねたソルジャーの衣装。
 手袋は肌の一部と変わらなくなり、それでいて強い防御力を秘めた優れたものに。紫のマントや白い上着も、爆風や高熱に耐え得る強度を備えながらも、着心地の良さを誇れるものに。
(…あの手袋が邪魔だった筈は…)
 なかったよね、と今でも分かる。
 何かする時に、邪魔だと思ったことは無いから。「外したい」と思いもしなかったから。



 手袋のせいではなかった筈だ、と思える指切りをしなかった理由。あの手袋なら、互いに絡めた指の温もりも、強さも伝えてくれたろうから。それが伝わる素材で出来ていたのだから。
(…それに、ハーレイが夜に青の間に来た時には…)
 最初にすることは、キャプテンとしての一日の報告。ソルジャーだった前の自分に。
 恋人同士になるよりも前から、そう決まっていたスケジュール。一日の終わりに、ソルジャーに報告すべきこと。船を纏めるキャプテンの仕事の締め括り。ブリッジでの勤務を終えたなら。
 そのハーレイの報告が済んだら、外した手袋。恋人同士になった後には、「もう要らない」と。
 恋人同士の二人なのだし、ソルジャーの衣装は邪魔になるだけ。
 だから一番に外した手袋、二人きりの時間の始まりの合図。時には「早く」と促すように外したことも。ハーレイの報告が長く続いて、さして重要でもなかった時は。
 「早く報告を終わらせて」と。「待ちくたびれた」と、「それは重要ではないだろう?」と。
 ハーレイも意味を知っていたから、「すみません」と浮かべた苦笑。
 「もう少しだけお待ち下さい」と、「これがキャプテンの仕事ですから」と。
 そう言いながらも、多分、急いで切り上げていた。せっかちな恋人を待たせないよう、長すぎる報告を慌てて纏めて。「以上です」と早く言えるようにと。



 報告が終われば、外してしまっていた手袋。「ソルジャーじゃない」という思いをこめて。
 此処にいるのは「ただのブルー」だと、そう扱って欲しいのだ、と。
 手袋を外した後になったら、もう簡単に出来る指切り。手袋に隔てられることなく、指と指とを絡められるから。褐色の小指と白い小指を、直接絡められるのだから。
 二人きりの時間を過ごす間に、幾つも交わしただろう約束。小さなことから、遠く遥かな、まだ見えもしない未来のことも。「いつか地球まで辿り着いたら」と、様々な夢を。
 そうでなくても、朝になったら「また夜に」とキスを交わして、指切りだって。
 夜が必ず訪れるとは誰も言えない船だったのだし、指を絡めて約束を。「また夜に会おう」と。
 恋人同士で約束するなら、本当に似合いそうなのに。…小指を絡め合いそうなのに。
(…キスしていたから、指切りは無し?)
 唇を重ねる、恋人同士の本物のキス。強く抱き合って交わしていたから、指切りの出番はまるで全く無かったろうか。キスの方がずっと確かな誓いで、約束に向いていたのだろうか。
 その可能性も高いよね、と思ったけれど。
 チビの自分には「早すぎる」とハーレイが顔を顰めるから、そうなのかも、と考えたけれど。
(でも、もっと前…)
 ハーレイと恋人同士になるよりも前も、指切りをした記憶が無い。
 どんなに記憶を遡ってみても、ハーレイと指を絡めてはいない。青の間でも、白い鯨に改造する前の船で暮らしていた頃も。
(…ソルジャーとキャプテンだったから?)
 皆を導く立場のソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。そういう肩書きの二人だったし、約束するなら指切りなどより、きちんと言葉か、あるいは書類にサインをするか。
 けれど、ハーレイとは一番の友達同士でもあった。ハーレイの「一番古い友達」、そう呼ばれていた前の自分。アルタミラを脱出した直後から、「俺の一番古い友達だ」と。
 仲のいい友達同士だったら、交わしていそうに思える指切り。「約束だよ」と。
 それとも、一人前の大人だったから、指切りはしなかっただろうか?
 小さな子供ではないのだから、と言葉で交わしていた約束。指と指とを絡める代わりに。



 そうだったかも、と遠い記憶を遡る。大人同士なら、指切りはしないかもしれない。
 今の自分の両親だって、指切りをしてはいないから。…少なくとも、チビの自分の前では。
 前の自分たちもそうだったろうか、「指切りは子供がするものだから」と。
(だけど、指切り…)
 今と変わらないチビだった頃にも、覚えが無い。心も身体も成長を止めて、子供の姿で過ごしていたのが前の自分。アルタミラを脱出するまでは。…狭い檻の中にいた頃は。
 船で宇宙に逃げ出した後も、暫くはチビのままだった。少しずつ育っていったけれども、チビはチビ。船では一人きりだった子供、本当の年齢はともかくとして。
 ブラウやヒルマン、ゼルやエラたちも、「子供だからね」と面倒を見てくれていた。サイオンはとても強いけれども、身体も心もまだ子供だ、と。
 子供なのだし、ハーレイと指切りしてもいい。「約束だよ?」と指を絡めて。
 なのに記憶に無いというのは、ハーレイが大人だったからなのだろうか?
 自分はともかく、ハーレイは大人。…指切りはしそうにない大人。
(そうなのかな…?)
 本当は指切りしたいのだけれど、「子供っぽいよね?」と遠慮をして。
 自分よりもずっと大人のハーレイ、そのハーレイを捕まえて「指切りしよう」とは言えなくて。
 そうでなければ、ハーレイの方が「柄じゃないな」と思っていたとか。
 大人は指切りしないものだし、子供相手でも「なんだかなあ…」と思うかもしれない。指と指を絡めてみたとしたって、子供の手と大人の大きな手。
 今と同じに、ハーレイの手と自分の手とでは、大きさがまるで違うから。
 前のハーレイが「こういう時には指切りだろうな」と気付いたとしても、気恥ずかしさを覚えたかもしれない。「俺の柄じゃないぞ」と、「指切りは子供がするモンだしな?」と。
 そういうことなら、指切りの記憶は無くて当然。…前のハーレイとは指切りしていないから。



 だとすると、今のハーレイは…。何度も自分と指切りをしてくれたハーレイは…。
(ママと同じで、ぼくに合わせてくれていて…)
 優しいんだよね、と零れた笑み。前のハーレイも優しかったけれど、指切りはしていないから。
 きっと船では仲間がいたから、大人ばかりの船だったから。
(…指切りするような子供は、ぼくだけだったし…)
 他の仲間とはしない指切り、それをわざわざするまでもない、とハーレイは考えたのだろう。
 指切りが似合いのチビだった自分は、まだハーレイとは友達同士。恋人同士とは違ったのだし、特別扱いしなくてもいい。
 「お前だけだぞ?」とコッソリ指切りしなくても。指と指とを絡めなくても。
 けれども、今の自分は違う。キスも出来ないチビの子供でも、今のハーレイとは恋人同士。前の生での恋の続きを生きているから、友達同士だった頃とは違う。
(指切りだって、して貰えるよね?)
 たとえハーレイの柄ではなくても、大人は指切りしないものでも。…子供同士がするものでも。
 「約束だよ?」と指を差し出したら、絡めて貰えるハーレイの小指。
 キスは駄目でも、小指は絡められるから。キュッと絡めて、誓いの印に出来るから。
(きっとそうだよ…)
 今のぼくだから指切りなんだ、と小指に感じた幸せな想い。チビでも恋人だから指切り、と。
 ハーレイは柔道部の生徒たちとは、指切りしないに違いない。どんなに大切な約束事でも、指を絡めはしないだろう。柔道部員たちがまだ子供でも、ハーレイは大人で「柄じゃない」から。
 前の自分がチビだった時にそうだったように、指切りは無しで約束だけ。
 きっと特別、今の自分だけが。
 ハーレイと指切りが出来る子供は、本当に幼い子供を除けば、この世界に自分だけしかいない。
(…ホントに小さい子供だったら…)
 小さな小さな手を差し出されたら、ハーレイも指切りするだろうけれど。…しなかったならば、大人げないということになるから。幼い子供の可愛い願いは、聞いてやるのが大人だから。



 本当に小さな子供以外で、ハーレイと指切り出来る人間は自分だけ。チビの恋人の自分だけ。
 前の自分はチビでも指切り出来なかったけれど、それは恋人ではなかったから。
(…今のぼくだけ…)
 ぼくの特権、と胸がじんわり温かくなった所へ聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたから、してみたくなった指切りの約束。今の自分だけが出来ること。
 だからテーブルを挟んで向かい合わせで、鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
「ねえ、ハーレイ。…ちょっと指切りしてもいい?」
 約束の指切り。ハーレイと指切り、したいんだけど…。
「指切りって…。何故だ?」
 なんでまた、とハーレイは怪訝そうだから。
「えっと、約束…。土曜日、来るでしょ?」
 今度の土曜日は来てくれるんでしょ、用事があるって聞いてないもの。
「そりゃ、来るが…」
 俺はそういうつもりをしてるし、お前の都合が悪いんでなけりゃ、いつもと同じだ。午前中には来ているだろうな、お前の家に。
「だったら約束してもいいよね、「必ず来る」って」
 平日だったら、必ずっていうのは無理だけど…。約束したって、用事が出来たら駄目だから。
 急な会議が入ったりもするし、他の先生と食事に行くとか、柔道部で何かあるだとか…。
「確かにな。…平日については、出来ん約束ではあるよな、それは」
 必ず来るって約束は無理だ。大丈夫だろうと思っていたって、その日になるまで分からんし…。
 朝には無かった筈の用事が、放課後に急に出来るというのも珍しくないし。
 約束しとくか、土曜日の分は。…其処は間違いなく空いてるからな。



 よし、と絡めて貰った小指。ハーレイの強くてがっしりした指。
 小指と小指を絡め合わせて「約束だよ」と交わした指切り。「土曜日はぼくの家に来てね」と、「絶対だよ」と。
 何度もハーレイに念を押してから小指を離して、幸せな気持ちで微笑んだ。指切りした小指を、反対側の手で確かめながら。
「あのね、指切り…。今もしたけど…」
 ぼく、ハーレイの特別だよね?
 ちゃんと指切りしてくれるんだし、ぼくはハーレイの特別なんでしょ?
「はあ? 特別って…」
 なんだ、そいつはどういう意味だ?
 分からんぞ、とハーレイが言うから、「そう?」と返した。
「ハーレイ、柔道部の生徒とだったら、しないでしょ?」
「何をだ?」
「だから、指切り。…だって、ハーレイの柄じゃないから」
「いや…?」
 する時はするが、という返事。
 柔道部員たちとも指切りはすると、あちらが指を出して来たら、と。
 なまじっか力が強いものだから、強引にやられることもあるな、と苦笑いまで。
 適当な所で指を離そうと考えていても、「約束ですよ」と、ハーレイの手をブンブン振る生徒がいるらしい。「これだけしっかり約束したから、破らないで下さいね」と。
 次の試合で好成績なら、何かおごって欲しいとか。おごってくれるなら、これがいいとか。



 「俺の意見は関係無しだ」と、「酷いもんだ」とハーレイが笑う柔道部員たちとの指切り。一度ハーレイと指を絡めたら、離さないらしい逞しい彼ら。
「いやもう、困ったヤツらだってな。…まったく、何が約束なんだか…」
 指切りしたから絶対ですよ、と言われちまうと、俺もどうにも出来ないからな。
「…ホントなの?」
 ハーレイ、ぼくじゃなくても指切りするの?
 頼まれちゃったら、柔道部の生徒が指を出して来ても指切りなの…?
「お前が何を言っているのか分からんが…。指切りくらいは普通だろうが」
 柔道部員のヤツらじゃなくても、俺は指切りしているぞ。流石に大人は頼んでこないが…。
 頼まれた時は、女の子とでも指切りだな、うん。
「えーっ!?」
 女の子って…。学校の子だよね、ハーレイ、頼まれたら女の子とでも指切りするの…?
 柔道部員よりも柄じゃなさそうなのに、どうしてなの、と叫んだら、ハーレイも目を丸くして。
「お前の方こそ、どうしたんだ。…柄じゃないというのもサッパリだが…」
 それよりも前に、指切りだとか、お前だけが特別だとか、その辺からして謎だってな。
 いったい何処から、そういう話になったんだ。指切りは何処から出て来たんだ…?
「…前のぼく…。前のぼく、指切りしていないんだよ、ハーレイと…」
 頑張って思い出してみたけど、ホントに一度もしていないみたい。…前のハーレイとは。
 恋人同士になって、キスで約束するようになる前も、していないんだよ。指切りは。
 チビだった頃にもしていないから、前のぼく、ハーレイに遠慮していたのかな、って…。
 だってハーレイは大人だったし、指切りなんて「俺の柄じゃないな」って恥ずかしそうな感じに見えたとか…。それで指切り、頼もうと思わなかったとか。
 だから前のハーレイとは指切りしないで、代わりに約束。…多分、言葉だけで。
 今のぼくだと、チビでも恋人同士だから…。ハーレイ、指切りしてくれるのかな、って…。
「なるほどな…。それで特別だと思ったわけか」
 前のお前がチビだった頃と違って、今は特別。そう考えたのが、俺の指切りなんだな…?



 ふむ、と腕組みしたハーレイ。「お前の言いたいことは分かった」と。「しかし…」とも。
 ハーレイの顔に浮かんだ穏やかな笑み。「ユニークな発想ではあるが…」と。
「斬新な考えだとも思うが、そいつはお前の勘違いだ」
 残念ながら、そういうことになっちまうってな。…お前が特別ってわけではなくて。
「勘違い?」
 ぼくが勘違いをしているわけなの、ハーレイの特別だから指切りだ、って…?
 ハーレイが、柔道部の生徒とも、女の子とも指切りしてるんだったら、本当にぼくの勘違い…?
「そうだ、勘違いというヤツだ。…いいか、よくよく考えてみろよ?」
 お前、いつから指切りしてる?
 俺と指切りするんじゃなくてだ、誰とでもいいが、指切りってヤツを。指切りで約束、いつからしている…?
「えーっと…?」
 約束する時は指切りだから…。さっきもママと指切りしてたし、小さい頃から…。
 友達とだって、大事な約束は指切りだよね、と手繰ったチビの自分の記憶。指切りの記憶。
 多分、物心つくよりも前からしていたのだろう。覚えていないだけで、両親たちと。
 大切な約束をする時だったら、いつも指切り。両親はもちろん、幼稚園や学校の友達とも。
 だから「前から」と答えたけれど。「うんと小さい頃からだよ」と言ったのだけれど。
「俺もそうなんだが…。ガキの頃から、約束と言えば指切りだったが…」
 前の俺たちの場合はだな…。少々、事情が異なるってな。



 今のお前や俺とは違う、というハーレイの指摘で気付いたこと。前の自分が失くしてしまった、子供時代の記憶というもの。前のハーレイもそれは同じで、何も覚えてはいなかった。成人検査を受ける前のことは、ミュウと判断される前の記憶は、何一つとして。
 いつから指切りをやっていたのか、誰と指切りで約束したか。…そんな記憶を持ってはいない。下手をしたなら、指切りをしていたことさえも…。
「…前のぼく、忘れちゃってたの? ぼくだけじゃなくて、前のハーレイも…」
 子供の頃の記憶と一緒に忘れちゃっていたの、指切りのことを?
 約束する時は指切りなんだ、っていうことを忘れてしまっていたから、指切りしようと思わずにいたの、ハーレイもぼくも…?
「いや、違う。忘れちまったわけではなくて…」
 無かったんだ、指切りというヤツが。…小指と小指を絡める約束、それ自体が。
 存在しなかったものは出来ないだろうが、俺もお前も。…指切りの無い時代だったんだから。
「…そうだったの?」
 前のぼくたち、最初から指切り、知らなかったの…?
「日本の約束の方法だからな、指切りは」
 指切りの時に歌う歌だってあるだろうが。嘘をついたら針を千本飲ませる、ってな。
「そういえば…。あるね、指切りする時の歌…」
 歌いながら指切りしていないから、忘れちゃってた。…あの歌、古い歌だっけね…。
 小さい頃には歌ってたけど、と思い出した昔の童歌。SD体制が始まるよりも遠い昔に歌われた歌。日本という小さな島国で。
 普段は全く耳にしないから、すっかり忘れてしまっていた。
 幼かった頃に覚えて歌った、指切りの歌。嘘をついたら針を千本飲ませると歌う、約束の歌。
「やっと分かったか? 前の俺たちが生きた頃には、指切りは存在しなかった」
 日本の色々な文化と一緒に復活したのが、指切りなんだ。今じゃ当たり前の習慣だがな。
「そうだったんだ…」
 前のぼくが覚えていないわけだね、指切りのこと。…やってないよ、って。
 だから今のぼく、特別なんだと思ったのに…。ハーレイに指切りして貰えるよ、って…。



 ぼくの勘違いだっただなんて、と見詰めた小指。さっきハーレイと絡めた小指。
 「土曜日は来てね」と交わした約束。小指と小指をキュッと絡めて。
 とても幸せだったのに。…小指同士で交わす約束は、温かくて確かで、幸せなのに。
「…ハーレイと指切り…。前のハーレイと一度もしていないから…」
 今のぼくだから出来るんだよ、って思ってたのに…。幸せな気分だったのに…。
「気持ちは分かるが、前のお前、フィシスと指切りをしたか?」
 フィシスが小さな子供だった頃に、お前、指切りしてたのか…?
「していない…」
 やっていないよ、フィシスとも…。前のハーレイとも、指切りはしていないけど…。
「そうだろうが。…あの時代に指切りが無かったという証拠だ、それが」
 子供時代の記憶を失くしちまった前のお前はともかく、フィシスは記憶を消されていない。
 しかも機械が育てたわけだし、あの年までに必要な知識は充分に持っていたってな。
 そのフィシスでも知らなかったんだ。…約束の時には指切りだってことを。
 知っていたなら、前のお前に教える筈だ。約束する時は、こうするものだと。
「そっか…。そうだね、小さかった頃のフィシスなら…」
 前のぼくに教えていたんだろうね、指切りの仕方。…ぼくが覚えていなくても。
 約束の指切り、前のぼくたちが生きてた頃には無かったなんて…。
 とっても素敵な方法なのにね、大切な約束をするなら指切り。
「うむ。幸せな約束のやり方ではある」
 相手と絆が出来るっていうか、本物の誓いという感じだな。…言葉だけで約束するよりも。



 キスは無理でも、こう、指と指とが絡まるからな、とハーレイが絡めてくれた褐色の小指。
 「手を出してみろ」と、大きな手を差し出して。「こうだな」と指切りをする形に。
 小指と小指が絡まったけれど、ハーレイの指に小指を捕えられたけれど。
「はてさて…。指切りの形に絡めてはみたが、何を約束するべきか…」
 土曜日に来るっていう約束なら、お前に頼まれてやっちまったし…。
 他に約束出来るようなことは、いったい何があるやらなあ…。
 はて…、とハーレイが考え込むから、ここぞと声を上げてみた。
「それなら、土曜日に来たら、ぼくにキスをすること!」
 おでこや頬っぺたにキスじゃなくって、本物のキス。唇にキスだよ、そういう約束。
 いいでしょ、指切りで約束したなら、ハーレイ、キスをくれるんだよね…?
 嘘をついたら、針を千本。…指切りの約束は絶対だもの。
「それは駄目だな、約束を破った時には俺が針を千本飲むわけだから…」
 針を千本飲まされちまっても、俺が納得するような約束をするというのが筋だろう。
 同じキスでも、お前が前のお前と同じ背丈に育つまではしない、という約束だな。
 そいつでいいだろ、ほら、約束だ。
 いいな、とハーレイがしっかり絡めた小指。約束だぞ、と。
「酷い…!」
 キスは駄目なんて、そんな約束…!
 ぼくだって針を千本なんでしょ、その約束を破っちゃったら…!



 ハーレイのケチ、と叫んでしまったけれども、酷い約束をさせられたけれど。
 絡めて貰った小指は温かくて、幸せだから。ハーレイの小指に捕まっているのが嬉しいから。
(…ハーレイと指切り…)
 遠い昔の日本の約束、前の自分は知らなかった指切り。
 今の時代だから出来る約束が指切りなのだし、小指をキュッとハーレイの小指に絡めておいた。
 ハーレイと何度もして来た指切り、小指と小指を絡めて約束。
 これから先だって、幾つも幾つも、幸せな約束が出来るのだろう。ハーレイと二人で。
 その度に小指で約束出来るし、交わしてゆける幸せな約束。
 未来の幸せをちょっぴり先取りだよ、と。
 こうして小指を絡めるんだよと、ハーレイと幾つも幸せな約束をするんだから、と…。




             指切り・了


※前のブルーとハーレイが生きた時代には、指切りの約束は無かったのです。習慣自体が。
 今だからこそ、出来る指切り。幸せな約束の方法ですけど、出来ない約束もあるようですね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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(あれ…?)
 ハーレイだ、とブルーが見付けた後姿。朝、学校に入って直ぐに。
 校門をくぐって校舎に向かう途中の、グラウンドの端。もう少し行けば最初の校舎。ハーレイは其処に座り込んでいて、こちらを振り向きさえしない。
(何してるの?)
 早い時間だから、ハーレイが着ている柔道着。朝の練習の途中なのだろう。他に柔道部の生徒が数人、そちらはハーレイの手許を覗いているようで。
 懸命に何かしているハーレイ、柔道部員たちは立ったまま。練習も運動もしていないから、別の用事が出来たのだろうか、ハーレイに?
 生徒だけで出来そうな練習もありそうなのに、とハーレイがいる場所をよく見てみたら。
(旗…?)
 そういえばあった、と気付いた校旗。雨の日以外は、いつも上がっている旗。
 当たり前すぎて存在を忘れがちだけれども、学校の紋章が描かれたもの。風のある日は、青空に高く翻る。曇り空でも、空にはためく学校の旗。
 その旗が、今朝は…。
(揚がってない…?)
 正確に言えば、半分しか。
 ポールの上まで揚がり切らずに止まってしまって、中途半端になっている旗。
 それでハーレイがいるのだろうか。旗をきちんと揚げようとして、ポールと格闘中だとか。



 きっとそうだ、と考えたから、近付いて行って挨拶した。後ろからだけれど。
「ハーレイ先生、おはようございます」
「おはよう、ブルー」
 笑顔で振り向いてくれたハーレイ。座ったままで。「ブルー君」とは違って「ブルー」。
 授業中でなければ、たまに「ブルー」と呼んで貰える。「ブルー君」よりも、親しみをこめて。今日はそっちだ、と胸が弾んだけれども、問題はハーレイが此処にいる理由。
「どうしたんですか?」
 旗ですか、と尋ねてみたら。
「こいつか? 見ての通りだってな」
 壊れちまった、と両手を広げたハーレイ。「あそこで止まっちまってな」と。
 朝一番の校旗の掲揚、運動部の生徒の持ち回りらしい。練習で早く登校するから、学校が始まる旗を揚げるには丁度いい。休みの日は揚がらない校旗。
 今日は柔道部が当番の日で、所定の場所へ取りに出掛けた旗。それをポールのロープに結んで、高く掲げようとしたのだけれど…。
「ハーレイ先生、すみません」
 もっと注意してやるべきでした、と頭を下げた生徒の一人。彼がロープを引いたのだろうか。
「お前のせいじゃないと思うがなあ…」
 何処かに引っ掛かっちまったようだ、とハーレイが引っ張ってみるロープ。軽く引いてみたり、力を入れてグイと引いたり。
 けれど、ロープはビクともしない。旗と一緒に止まったままで。
「えっと…。サイオンは使わないんですか?」
 引っ掛かったんなら、それで動かせませんか、とハーレイに提案したのだけれど。
「人間らしく、が基本だろ?」
 社会のマナーで、ルールとも言う。…サイオンは出来るだけ使わないこと。
 使えばなんとかなるんじゃないか、っていう時でもな。



 此処は学校だから、余計にそうだ、と手で引っ張っているロープ。生徒に教える立場の教師が、そうそうサイオンを使えるか、と。
「だがなあ…。止まっちまった場所も悪いし、なんとかせんと」
「え…?」
 どういう意味か、と首を傾げたら、「この旗さ」とハーレイは上を指差した。
「半分しか揚がっていないだろ。本当に丁度、半分ってトコだ」
 これは良くない。まるで揚がらない方がマシってもんで…。
 おっと、お前たちは気にするなよ?
 単なる俺の気分ってヤツだし、旗はシャキッと上まで揚がってこそだしな。
 とにかくこいつは、俺がなんとか直すから、と動かないロープと格闘を続けているから…。
(…どう良くないのか、訊けないよね?)
 旗が止まってしまった場所。
 気になるけれども、此処で自分が質問したなら、柔道部の生徒にも聞こえてしまう。ハーレイが懸命に旗を揚げようとしている理由。「止まっちまった場所が悪い」と。
 ハーレイは隠しておきたいわけだし、この話は…。
(後で訊こうっと…)
 今日、ハーレイが仕事の帰りに、家を訪ねて来てくれたなら。
 それまで旗を覚えていたら。
 半分しか揚がっていない旗だと、どうしてハーレイは「良くない」と思ってしまうのか。



 忘れないようにしなくっちゃ、と校舎に入って、教室に着くなりメモに書き込んだ。鞄の中から出したメモ帳、それを一枚、破り取って。
 真ん中に大きく「旗が半分」、その文字をクルッと取り巻く丸印も。
(これで良し、っと!)
 メモを見たなら、きっと思い出すことだろう。さっき見て来た光景を。ポールの途中で止まった旗と、揚げようとしていたハーレイを。
 家に帰ったら、一度は必ず開けるのが鞄。制服を脱いで着替える時に。
 これに入れたら大丈夫、と目立つ所に突っ込んだメモ。鞄の内ポケットから顔を出すように。
 そうやってメモも入れたというのに、授業を幾つも受ける間に忘れてしまった旗のこと。
 今日の学校はこれでおしまい、と帰りにグラウンドの側を通ったら…。
(揚がってる…)
 ちゃんと上まで、と思い出して見上げたポールの天辺。其処に翻っている校旗。
 青い空にパタパタとはためく校旗は、とても誇らしげに広がっていた。見上げていたって、風は少しも感じないけれど、上の方では違うのだろう。いい風が吹いているのだろう。
 学校の紋章が描かれている旗、いつもは気にも留めない旗。
 ハーレイが上まで揚げておいたのか、他の先生が頑張ったのか。
(どっちなのかな…?)
 半分の旗も、旗を揚げた人も気になるけれども、分かるとしたら家に帰ってから。
 運よくハーレイが仕事の帰りに寄ってくれたら、どちらの謎も解けるだろう。
 旗が半分だと駄目な理由も、旗をポールの上まできちんと揚げておいた先生は誰なのかも。



 家に帰っても、忘れないでいた半分の旗。ポールの途中で止まっていた旗。
 鞄から出した「旗が半分」と書いてあるメモを勉強机に置いて、おやつを食べに一階に下りた。母が用意してくれたケーキと紅茶でゆっくりしてから、部屋に戻って。
 机の上のメモを眺めて、傾げた首。
(なんで駄目なの?)
 半分しか揚がっていなかった旗。ハーレイが「良くない」と言っていた旗。
 止まった場所が悪いと口にしたのだし、きっとあの場所が駄目なのだろう。揚げようとした旗が止まってしまった、ポールの半ば辺りの所。
 そうは思っても、分からない理由。どうして半分揚がった旗は駄目なのか。揚がらない方がまだマシだとまで、ハーレイが嫌った半分の旗。
 けれど旗には詳しくないから、いつも「あるな」と見ているだけ。
(前のぼくだって…)
 半分の旗は知らないらしくて、遠い記憶も引っ掛かって来ない。知っていたなら、「あれだ」とピンと来るだろうから。遠く遥かな時の彼方で得た知識でも。
(シャングリラに旗は無かったものね…)
 白いシャングリラにも、白い鯨になる前の船も。
 旗が翻るのを見てはいないし、ミュウとは縁が無かったもの。人類の世界にあっただけの物で、船の外でたまに目にしただけ。
 旗を揚げたのは人類の世界。どういう風に揚げていたのか、それさえ興味を抱いてはいない。
 だから知らない、半分の旗が駄目な理由も。



 前のぼくでも知らなかったことを、今のぼくが知ってるわけがないんだから、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、チャンス到来。
 母が運んでくれたお茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「朝の旗、あれからどうなったの?」
 途中で止まっちゃってた旗だよ、ハーレイ、揚げようと頑張ってたでしょ?
「アレか…。俺じゃどうにもならなかったし、結局、修理だ」
 他の先生たちも来てはみたんだが、引っ掛かったんじゃなくて滑車が壊れていたらしい。
 ポールの天辺についてるヤツだな、そいつを使ってロープと旗を動かしてるから…。
 帰りにはちゃんと揚がっていただろ?
 業者の人を呼んだら直ぐに来てくれたわけで、滑車も無事に直ったってな。
「修理することになっちゃったんだ…」
「当然だろうが、あのままにしておいちゃ駄目だしな」
 なにしろ半分揚がっているんだ、其処が大いに問題だ。
 あれじゃ縁起が悪くていかん。いくら壊れたからと言っても。
「縁起が悪い…?」
 旗が半分しか揚がっていないと、縁起が悪くなっちゃうの…?



 どうしてなの、と尋ねてみたら「知らないか?」と覗き込まれた瞳。…鳶色の瞳で。
「半旗、知らんか?」
 言葉のまんまだ、半分の旗という意味なんだが。
「半旗…?」
 なあに、それ…。そんな言葉は初めて聞いたよ、前のぼくだって知らないよ。
「そうそう無いしな、今の時代じゃ。…半旗ってヤツは」
 人間はみんなミュウになっちまって、平和そのものな時代だし…。
 色々な技術が進んだお蔭で、事故だって滅多に起こらないしな。
「…事故?」
 事故と旗って…。どうしたら半分の旗と事故とが結び付くの?
 助けて下さい、って旗を振るんだったら分かるけど…。此処にいます、って振り回す旗。
「そういう旗とは違うんだ。…半旗はポールに揚げておく旗で…」
 普段だったら、一番上まで揚げておくのが旗なんだ。…それは分かるだろ?
 しかし、誰かが亡くなった時は、半分までしか揚げないってな。その揚げ方を半旗と呼ぶんだ。
 弔意を表すって意味になるから、学校の旗がそれだとマズイぞ。
 誰も死んではいないわけだし、半旗だなんて縁起でもない。これから事故でも起こりそうでな。
 ウッカリ半旗を揚げたばかりに、誰かが事故に巻き込まれるとか。
「そうだね…」
 あの旗にそういう意味があるなら、ホントに大変。…縁起が悪いよ。
 滑車が壊れて止まった旗でも、見た目は半旗なんだから。
「お前がしつこく訊かなかったから助かった」
 あそこで説明する羽目になっていたら、柔道部のヤツら、気にしちまうしな。
 半旗を揚げたのはあいつらなんだし、心が落ち着かないってヤツだ。
 直ぐに直れば良かったんだが、あのまま授業になっちまったから…。
 業者を呼ぼうってことになった時には、あいつらは授業を受けていたしな。



 壊れた滑車の修理が出来たのは、一時間目が始まってから。
 ハーレイや他の先生たちが色々試して、「駄目だ」と業者に連絡したのが朝のホームルームの後だったから。「これは自分たちの手では直せない」と。
 業者が滑車を修理するまで、半旗になったままだった校旗。
 それは確かに、半旗の意味を知っていたなら気にするだろう。「まだ直らない」と、柔道部員の生徒たちだって。彼らが校旗を揚げようとしたら、途中で止まってしまったのだから。
 弔意を表す半旗にしたのは、柔道部員の生徒たち。…そんなつもりは無かったのに。
「ハーレイ、なんて言っておいたの?」
 柔道部員の人たちに。…ぼくはいいけど、あの人たちだって訊いたでしょ?
 旗が半分しか揚がっていないと、どうして駄目ってことになるのか。
「俺の気分の問題だ、とだけ説明したさ。…半分だけっていうのは駄目だ、と」
 そう言っておけば、「きちんと揚げるのが好きなんだな」とも取れるしな。
 旗が途中で止まっちまったら、だらしないようにも見えるから…。良くないってのも、そっちの意味に考えることも出来るだろ。
 同じ揚げるならシャキッとしろ、と。上まで揚がらないんだったら、揚げない方がマシだとな。
「そっかあ…。ハーレイなら、それも言いそうだもんね」
 柔道は礼を重んじる、って何度も聞いたし、旗もシャキッと。…途中で止まっただらしない旗、他の生徒も見るもんね。運動部が交代で揚げてるんなら。
「そういうこった。多分、それだと思っただろうな、あいつらだって」
 まさか半旗とは思うまい。…今の時代は、お目にかかる機会も少ないからな。
 揚げるようなことが滅多に無いんだ。運が良ければ一生、見ないで終わると思うぞ。



 あの連中にその気があったら、調べているかもしれないが…、とハーレイは顎に手をやった。
 上まで揚げるつもりで準備した校旗、それが半旗になってしまった運の悪い柔道部員たち。
「もっとも、調べようと考えたって…。無理かもしれんな」
 半旗って言葉を知らなかったら、まるで手掛かりが無いわけだから…。
 家に帰って家族に訊いたら、教えて貰えるかもしれないが。半旗って言葉を調べてみろ、と。
「それ、前のぼくも知らなかったよ」
 今のぼくじゃなくて、前のぼく…。前のぼくだって知らないままだよ、半旗って言葉。
 家に帰ってから考えたけれど、何の記憶も引っ掛かっては来なかったから…。
「だろうな、旗が無かったからな」
 天辺まで揚げる旗にしたって、半旗にしておく旗にしたって。
 シャングリラには旗は無かったわけだし、前のお前は半旗と無縁だ。…旗が無いんだから。
「作っていないものね、シャングリラでは」
 旗は一度も作らなかったし、旗を揚げるポールも無かったし…。
「無かったよなあ、お前のせいでな」
 お前がゴネなきゃ、旗だってきっとあっただろうに…。
「えっ…?」
 ぼくのせいだなんて、どういうこと?
 前のぼくが何かやったっていうの、シャングリラで旗を作れないように…?
「なんだ、忘れてしまったのか。…お前らしいと言えば、お前らしいが」
 嫌だったことは忘れちまうんだよな、まるで最初から無かったように。
 シャングリラで旗を作ろうって話、パアになっただけで、ちゃんと会議で出た議題なのに…。
 白い鯨にデカイ公園が出来上がってだ、アルテメシアに着いた後にな。
 あの公園ならブリッジからも良く見えるんだし、旗を揚げるには丁度いい、と。
 何処かにポールをドカンと建ててだ、ミュウの旗を毎日、揚げることにしよう、と。
「そうだっけ…!」
 ミュウの旗を揚げるんだったっけ…。人類がやっていたみたいに。



 白いシャングリラが、アルテメシアの雲海の中に居を定めた後。
 この星を拠点に地球を目指そうと、大きな夢を描いていた頃。いつか此処から旅立つのだ、と。
 幾つもの夢が広がった船で、ヒルマンとエラが言い出した旗。ミュウのための旗を作ろうと。
 人類の世界には、何種類も旗があるという。彼らの集団に合わせた旗が。
 首都惑星ノアのパルテノンに行けば、翻っているらしい沢山の旗。地球の紋章が描かれた旗や、人類が暮らす星々の旗。全部はとても掲げられないから、主だった星の分の旗だけ。
 言われてみれば、前の自分も目にしていた旗。アルテメシアに降りた時には。
「そういえば、アルテメシアにも旗があったかな…?」
 アタラクシアとかエネルゲイアで見掛けたような気がするよ。…そういう旗を。
「あると思うよ、ユニバーサルの前には間違いなくあるね」
 地球の紋章の旗とアルテメシアの旗が…、と答えたヒルマン。それと一緒に、エネルゲイアなら其処の紋章が入った旗が。アタラクシアなら、アタラクシアの紋章になる。
 常に掲げられている旗が三種類、時には増えるらしい旗。
 人類統合軍や国家騎士団、そういった軍の偉い人間が視察に来たなら、それらの旗が。軍全体は地球の紋章を使うけれども、人類統合軍や国家騎士団にも独自の旗があったから。
 揚げられる場所が何処であるかを示すのが旗。
 育英都市を束ねるユニバーサルなら、その星の旗と育英都市の旗、それに地球の旗。
 人類を統べる首都惑星なら、地球の旗と主な星々の旗と。



 それに倣ってシャングリラでも、と出された案。地球の紋章の旗の代わりに、ミュウだけの旗。
 ブリッジが見える一番広い公園に揚げれば、誰もが目にすることだろう。
 人工の光が作り出している船の昼と夜、それに合わせて毎朝、揚げる。夜は下ろして、また次の日の朝に高く掲げて…、と。
 揚げる係を定めてもいいし、希望者たちが交代でもいい。とにかく毎朝、ミュウの旗を揚げるというのが大切。このシャングリラはミュウの船だ、と表す旗を。
「良さそうじゃないか、旗ってのはさ」
 あたしたちだけの旗なんだろ、と乗り気になったブラウ。「素敵じゃないか」と。
 人類が旗を掲げているなら、ミュウにも旗があったって、と。
「わしも賛成じゃな。わしらの船にピッタリじゃわい」
 この船だけで生きてゆけるんじゃし…、とゼルも頷いた。自給自足で生きてゆけるよう、作った船が白い鯨だから。何処からも補給を受けることなく、飛び続けられるミュウの箱舟。
 もう人類から奪った物資に頼らなくても、誰も困りはしない船。
 衣食住の全てを船で賄い、余裕を持って暮らしてゆけるから。
 船全体が一つの世界で、小さいながらも自治権を持った星のよう。
 社会から弾き出されたミュウでなければ、何処かの星に立ち寄った時は、旗を掲げて貰える船。こういう客人が来ているから、とその星を纏める機関の前に。
 アルテメシアなら、ユニバーサルの建物の前に翻るのだろう。
 いつも掲げられている三種類の旗、それと並んでシャングリラを表すミュウたちの旗が。
 今はまだ、叶わないけれど。
 いつになったらその時が来るか、それさえも見えはしないけれども。



 そうは言っても、旗を作る案自体は悪くなかった。皆が眺めるミュウのための旗。毎朝、公園に掲げられる旗。
 きっと誰もが誇りを胸に、旗を見上げることだろう。これが自分たちの旗なのだ、と。
 いつか人類に認められたら、この旗を揚げて貰おうと。
 地球の紋章の旗と並べて、ミュウという種族を表す旗を。シャングリラで毎朝、掲げた旗を。
 とてもいい案に思えたけれども、心配な点が一つだけ。だからヒルマンに尋ねてみた。
「旗を作ろうというアイデアはいいね。ぼくも賛成だと言いたいけれど…」
 その前に一つ、訊いておきたい。…その旗の模様はどうなるんだい?
 旗には模様があると言ったね。ミュウのための旗には、どんな模様をつけるんだろう…?
「もちろん、ミュウの紋章だよ」
 船の誰もが知っているのだし、あれの他には考えられない。
 デザインも素晴らしい紋章だからね、あのまま旗に使えるよ。何処も手直ししなくてもね。
「それは困るよ…!」
 何も知らない人が見たなら、ただの模様で通りそうだけど…。
 この船の中じゃ、そういうわけにもいかないだろう。模様の意味を誰もが知っているんだから。
 どうして赤い色が入るか、あの赤は何を指しているのか。



 困る、と顔を顰めた紋章。ミュウの紋章はフェニックスの羽根で、孔雀の尾羽を元にしたもの。
 孔雀の尾羽には目玉の模様がついているから、ミュウの紋章にも同じに目玉。
 ただし、紋章に組み入れられた目玉は、ソルジャーだった前の自分の瞳。お守りの目玉。
 皆の制服にあしらわれた石、赤い石がお守りだったのと同じ。メデューサの目と呼ばれた、遠い昔の地球のお守り。メデューサの目は青い目玉だけれども、ミュウのお守りは赤い瞳だと。
 ミュウのお守りが赤い瞳なら、紋章に使う孔雀の尾羽の目玉も赤。
 そうしておこう、と赤い目玉がミュウの紋章にも組み込まれていたものだから…。
「ぼくの瞳がミュウの旗にも入るのは、ちょっと…」
 困ってしまうよ、ミュウの紋章には例の目玉があるんだから。…制服の赤い石と同じで。
「緘口令を敷いちまってるじゃないか、その件はさ」
 いずれは謎になっちまうよ、とブラウは他人事のように言ったし、ヒルマンも大きく頷いた。
「そうだよ、これから新しい仲間も増えてゆくのだし…」
 あの赤が何か知らない仲間が、きっと大勢になることだろう。どうして赤い石なのかも。
 だから旗には、ミュウの紋章で問題ないと思うがね?
 古い仲間も、すっかり忘れてしまっているよ。…我々の旗が地球に翻る頃にはね。
「地球だって…!?」
 引っくり返ってしまった声。自分の瞳があしらわれた旗が、憧れの星に掲げられるなんて、と。
 けれど、ヒルマンは意にも介しはしなかった。「そうだとも」と笑みを湛えただけ。
「地球まで辿り着いたからには、我々の存在が認められたということだ」
 そうなったからには、地球はもちろん、パルテノンや他の場所でも、我々の旗を掲げなければ。
 人類が揚げている幾つもの旗と並べて、ミュウの旗を掲げて貰うのだよ。
「それは、ぼくには最悪だから…!」
 君たちは良くても、ぼくにとっては最悪のシナリオと言ってもいい。
 広い宇宙の何処へ行っても、ぼくの瞳が描かれた旗が風に翻っているだなんてね…!



 あんまりすぎる、と拒絶したのがミュウの紋章。それをミュウの旗に描くということ。
 赤い瞳は自分の他にはいないわけだし、いたたまれない気持ちがするだけだから。
 そう思ったから、別のデザインにするのなら許す、と言ったのに。
 白いシャングリラの船体にあしらった、自由の翼とかミュウを表すMの文字とか。他にも意匠があるわけなのだし、旗にはそれを、と推したのに…。
「…あの紋章が使えないんじゃねえ…」
 まるでミュウらしくないじゃないか、とブラウが振った頭。「あれがいいのに」と。
「まったくじゃて。…船にも描いてあるというのに」
 わしらの船には、あれが似合いの紋章なんじゃ。旗も同じじゃ、わしらの旗にするのなら。
 他の模様の旗なぞ要らんわ、とゼルもブラウと同じ意見。
 ヒルマンとエラは最初からミュウの紋章を使うつもりだったし、別の案を出す気さえ無かった。
 赤い瞳が描かれた紋章を旗に使えないなら、旗など要らない、というのが総意。
 キャプテンだった前のハーレイも賛同したから、それっきり…。
「…シャングリラに旗、無かったっけ…」
 ミュウの紋章の旗は嫌だ、って前のぼくが反対しちゃったから…。
 他のデザインにして欲しい、って言っていたのに、誰も賛成しなかったから…。
「そういうことだ。…お前のせいで旗は無かった」
 作ろうって案は出たというのに、お前が却下しちまったんだ。…デザインのせいで。
 駄目だと切り捨てられちまったら、もうどうしようもないだろうが。
 前のお前はソルジャーだったし、俺たちだってゴリ押しは出来ん。…旗くらいではな。
 そういうわけで、あの船では旗は、作られないままになっちまった。
 だからだな…。



 後にアルテメシアを制圧した時、其処に掲げるミュウの旗は存在しなかった。
 かつて追われた雲海の星。旗を作ろうという案が出た時、シャングリラが潜んでいた惑星。
 遠い昔に夢見た通りに、アルテメシアにミュウたちの旗を掲げられる時がやって来た。
 アタラクシアでも、エネルゲイアでも、都市を統べていたユニバーサルの前に聳えるポールに。
 新たな時代の統治者になった、ミュウの存在を表す旗を高々と。
 人類側から「旗を掲げたい」と打診されたのだけれど、その旗を持っていなかったミュウ。
「…ジョミーが俺に、「旗をどうしようか」と訊いて来たから…」
 ミュウの紋章を入れた旗を作ろうと思ったらしいが、俺は許可しなかったんだ。
 そうする代わりに、「ソルジャー・ブルーの御意志だ」と言った。…旗が無いのは。
「ええっ!?」
 ハーレイ、ジョミーにそう言ったわけ…?
 ぼくが言ったから、シャングリラにミュウの旗は無くって、新しく作れもしないって…?
「何か間違ったことを言ったか?」
 全部、本当のことだろうが。…シャングリラに旗が無かった理由も、お前の気持ちも。
 それに、お前の思い出を守りたかったしな。
 あんなに嫌がっていたんだから。…ミュウの紋章入りの旗は嫌だ、と。
 いくらジョミーの時代だとはいえ、それを崩してしまいたくはない。お前が嫌がったデザインの旗を、お前がいなくなった後に作るだなんて。
 …ヒルマンたちも同じだったさ、「それで良かろう」と頷いてくれた。
 ミュウの旗を掲げたい気持ちはあったようだが、前のお前の思いを大切に守りたい、とな。



 ハーレイが許可を出さなかった旗。人類側は「旗があるなら掲げたい」と打診して来たのに。
 そして「ミュウの世界に旗などは無い」と返答したジョミー。
 どういう理由か訊きもしないで、「それがブルーの意志だったなら」と。
 ミュウたちは旗を持たなかったから、旗を作って掲げる代わりに、地球の紋章の旗を下ろした。もう支配者は機械ではないと、彼らの旗は必要無いと。
 アルテメシアの旗と、エネルゲイアやアタラクシアの旗を残して。
 旗を掲げるためのポールは、一本だけ旗を失った。地球の旗は下ろされてしまったのだし、次の支配者は旗を持たないミュウだったから。
 それから後に制圧した星は、何処でも同じ。首都惑星だったノアが陥落した時も。
「…そうだったんだ…。ミュウの旗を揚げて貰う代わりに、地球の紋章の旗を下ろすだけ…」
 旗の無いポールが一つ出来たら、ミュウが支配する星だったんだ…?
 地球の紋章の旗はもう要らないから、その旗、ポールから下ろしてしまって。
 …なんだか寂しい気もするけれども、ミュウの紋章の旗が揚がるよりは、やっぱりマシかな。
 前のぼく、とっくに死んじゃってたけど、それでも何処かで見ていたのかもしれないし…。
 ジョミーが旗を作っていたなら、「酷い」と泣きたくなっただろうしね。
「そんなトコだな、前のお前は」
 強いくせして、おかしな所で泣き虫なんだ。…それに恥ずかしがり屋だったっけな。
 制服の石が赤い理由を、ジョミーにも教えずに逝っちまった。
 だからジョミーは分かっちゃいないぞ、どうして旗が駄目だったのか。
 ソルジャー・ブルーは旗というヤツが好きじゃなかった、と思っていたかもしれないな。
 いったい何があったんだろうと、旗を嫌いになった理由は何なんだろう、と首を捻って。
「…そこまでは責任持てないよ…」
 前のぼくの意志だってジョミーに言ったの、ハーレイじゃない。
 だからハーレイの責任なんだよ、旗が無かった理由でジョミーが悩んじゃったんなら。
「さあ、どうだか…」
 俺はお前の気持ちを思って、「旗は駄目だ」とジョミーに言った。
 お前、さっき自分で言ってただろうが、死んだ後でも、あの紋章の旗は嫌だとな。



 何もかも前のお前のせいってわけで…、とハーレイに真っ直ぐ見詰められた。
「シャングリラに旗は無いままだったし、ミュウの旗だって無かったわけだ」
 嫌だと言われたら仕方ないしな、あの紋章の他には考えられなかったし…。ミュウの旗には。
 それをお前が却下したから、前の俺たちには旗が無かった。…掲げるためのポールが出来ても、掲げてくれる星を手に入れても。
 全部お前のせいだったんだぞ、今の旗もな。
「今の旗…?」
 それって何なの、今の旗っていうのは何…?
「あるだろ、宇宙全体の旗。…学校じゃ揚げていない旗だが…」
 政府の機関が入ってる場所や、大勢の人が集まる博物館とかに揚がっているヤツ。
 地球がデザインされている旗だ、学校の授業でも教わるだろう?
 この旗が宇宙のシンボルです、とな。
「知っているけど…。そういう旗はあるけれど…」
 ぼくのせいだなんて、なんでそういうことになるわけ?
 あの旗のデザイン、前のぼくは全然知らないよ?
 地球をデザインするんだったら、こういう旗が素敵だよね、って思ったことも無いけれど…?
「前のお前はそうだったろうな、旗をデザインするとは思えん」
 それをやってりゃ藪蛇ってヤツで、「丁度いいから」とミュウの紋章の旗を作られちまうから。
 だがな…。ミュウの旗が何処にも無かったというのが問題なんだ。
 あれを作る時にミュウの旗があったら、人類側の旗のデザインと絡めりゃ良かった。
 ジョミーが「下ろせ」と命じて進んだ、地球の紋章が入った旗だな。
 そうすりゃ、ミュウと人類の時代に相応しい旗が出来たのに…。
 お互いの旗を半分ずつ使って、これからの時代は旗と同じに手を取り合おう、と。
 しかし、肝心のミュウの旗が無かったもんだから…。



 人類の旗と組み合わせようにも、旗を持ってはいなかったミュウ。誰も作らなかったから。
 組み合わせることが出来ないのなら、と人類側も自分たちの旗を捨てることになった。
 宇宙全体を表す旗は、トォニィの時代に、一から新しく出来たデザイン。
 ミュウと人類が案を出し合って、新しい時代を象徴する旗を作って掲げた。
 その頃にはまだ再生していなかった地球を中心に据えて、宇宙全体を表す旗を。
「お前、旗では、とことん迷惑かけたってな」
 全ての始まりの英雄とはいえ、旗の件では、トォニィの代まで迷惑を…。
 ジョミーは旗をどうしようかと悩んだ挙句に、俺に「駄目だ」と言われちまったし…。
 お前が我儘を言ったばかりに、今の時代まで引き摺ってるわけだ。
 ミュウの紋章の欠片さえも無い、ああいう旗が宇宙全体の旗なんだから。
「それでいいんだよ、前のぼくの瞳が今もあるより…!」
 運が悪かったら、前のぼくの瞳、今の旗にも入っていたかもしれないから…。
 あの旗を今のぼくが眺めたら、ピンと来ちゃうかもしれないから。
 此処のデザイン、前のぼくの瞳を使ってるよ、って。
 そんなの嫌だよ、恥ずかしすぎるよ…!
 シャングリラどころか、地球にも、宇宙全体にだって、ぼくの瞳の旗なんて…。
 あれから凄い時間が流れて、今のぼく、やっと地球に来たのに…。
 旗が揚がっている所に行ったら、嫌だった旗があるなんて…。
 ジョミーが後から作った旗のデザイン、今の時代まで生き残ってしまっているなんて…!



 酷すぎるよ、と悲鳴を上げた。考えただけでも恥ずかしいから。
 前の自分の赤い瞳をデザインしていたミュウの紋章。それを使ったミュウたちの旗。
 今もデザインが残っていたなら、きっといたたまれない気持ちだから。
(穴があったら入りたい、って…)
 そういう時に言うんだよね、と考えてしまうような光景。宇宙のあちこちに自分の瞳。
 前の自分の瞳だけれども、自分の瞳には違いないから…。
 これでいいんだ、と開き直っておくことにした。
 ハーレイに教えて貰った旗。
 半分しか揚がっていなかった校旗、それのお蔭で分かった事実。
 前の自分が反対したから、ミュウには無かったらしい旗。
 ジョミーの時代になった後にも、人類たちがミュウの旗を掲げたいと言う時代が来ても。
 それに、ミュウと人類が和解した印、そういう旗を共に作ろうという案が出た時も。
(…ミュウの旗、無くても別にいいよね…?)
 宇宙全体を表す旗には、今も使われているデザインの方が、きっといい。
 ただ組み合わせて使うだけより、ミュウと人類がアイデアを出し合ってデザインした旗。
 その方がずっと、新しい時代に相応しい旗だと思うから。
 古い時代を引き摺る旗より、平和な時代に似合いの素敵な旗だから。
(…ぼくだって、今はただのチビだし…)
 前の自分の瞳の旗は欲しくない。
 ハーレイと二人、青く蘇った地球で、平凡に生きてゆきたいから。
 ソルジャー・ブルーの記憶を持っていたって、ただそれだけのチビなのだから…。




             無かった旗・了


※前のブルーが嫌がったせいで、ミュウの船には無かった旗。後の時代に困ったようです。
 星を落としても旗は掲げられず、人類と和解した後も、デザインを混ぜた旗を作れなくて…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(世の中、色々いるもんだな…)
 人それぞれか、とハーレイが眺めた新聞記事。ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
 今日はダイニングでコーヒーな気分。愛用のマグカップにたっぷりと淹れて、傾けながら広げた新聞。ニュースやコラムや、あれこれと読んでいく内に…。
 見付けた記事が、酒のラベルのコレクターたちの特集だった。酒好きな上に、飲んだ記念に酒のラベルを集めてゆく。写真を見れば、アルバムにズラリと彼らの自慢のコレクション。
(集め方のルールも、人によりけりか…)
 飲んだ日付の順に貼る者や、酒の種類別に貼ってゆく者。酒の産地で分けている者も。
 決まったルールが無いというのが、ラベル集めの魅力の一つ。これに貼るものだ、とアルバムが売られているわけでもない。個人の好みで選べるアルバム、それに貼り方。
(今に始まった趣味じゃないんだな)
 SD体制が始まるよりも前の時代から、コレクターたちは存在したらしい。まだ人間が地球しか知らなかった遠い昔から。
 今の時代も、地球はもちろん、あちこちの星にコレクター。酒を飲んだら、記念にラベルも。
 おまけに、自宅で飲んだ時だけに限らない。コレクターたちが記念に残すラベルは。
(店で飲んでも、そいつのラベルを剥がして貰って…)
 持ち帰るのが彼らの流儀。「集めているので、ラベルを下さい」と。
 コレクターの数が多いものだから、そういうサービスをしている店も多いという。客のグラスに注いだ後には、「ラベルをお持ちになりますか?」と尋ねる店。
 客の方から頼まなくても。店員に「欲しい」と言わなくても。



(そういや、見たな…)
 前に見たぞ、と覚えがあった。あれはいつだったか、同僚たちと出掛けたレストラン。普段より洒落た店に入って、料理も酒も楽しんだ時。
 隣のテーブルに座っていたのが、ワインのラベルを剥がして貰っていた人だった。「頼むよ」と声を掛けていた紳士。「いつものように貰うから」と。
 心得ました、といった風にサッと空のボトルを下げた店員。食後のコーヒーを飲み終えた紳士が席を立つ時、「どうぞ」と渡していたラベル。綺麗に剥がして、乾かしたものを。
 ああいうのもあるのか、と見るともなしに眺めていた。「酒のラベルを持ち帰るのか」と。
(俺たちのワインは、安いのだったし…)
 味さえ良ければそれで充分、と皆で注文していたワイン。質より量が最優先だ、と。高級な酒を頼まなくても、楽しく飲めれば最高だから。
 とにかく量を、と頼んでいたから、ラベルはどうでも良かったけれど。料理に合うなら、何処のワインでも誰も気にしていなかったけれど。
 高いワインを頼んだ人なら、ラベルが欲しくなるだろう。趣味で集めている人ならば。
(…手頃な値段のワインにしたって、珍しいのもあるからなあ…)
 酒好きが集まる店にだったら、様々な酒も集まるもの。店主のこだわり、味で選んだ各地の酒。それを端から楽しむのならば、コレクターは「欲しい」と言いそうなラベル。
 カップルで食事に入った店なら、記念日のワインのラベルを貰いもするだろう。誕生日だとか、一世一代のプロポーズの時のワインとか。
(酒のラベルか…)
 急に飲みたい気分になった。こんな夜には酒を一杯、と。
 ラベルを集める話だとはいえ、酒の話題には違いないから。楽しみ方の一つがラベル集めだし、酒の余韻を味わうもの。アルバムを広げて、「あの時の酒だ」と頷くラベル。
 酒の味やら店の雰囲気、そういったものが詰まったラベル。たった一枚の紙なのに。
 面白い趣味もあるものだ、と心は酒へと飛んでゆくから、コーヒーの後で…。



 書斎に移って、秘蔵の一本。ワインではなくて、とっておきのボトルのウイスキー。
 グラスは二つで、引き出しから出した前のブルーの写真集。『追憶』というタイトルの。表紙に刷られた真正面を向いたブルーは、一番知られている写真。憂いと悲しみを秘めた瞳の。
 本当のブルーを捉えた一瞬、何処で撮られたかも分からない写真。恐らくは映像の中の一コマ、後に誰かが見付けた表情。
 …前の自分は、この写真を持っていなかったから。前のブルーがいなくなった後、懸命に探した本当のブルーが写った写真。けれど一枚も見付けられずに、前の自分は逝ったのだから。
 後の時代の誰かのお蔭で、こうして此処にいるブルー。写真だけれども、「これがブルーだ」と思える一枚。前のブルーと向き合っているような気分になるから、こうして机に置いてやる。
 グラスを軽く掲げてみせて…。
「お前も飲むか?」
 飲めないことはよく知ってるが、と注いでやったブルーの分。「ほら」と写真集のブルーに差し出し、コトリと置いて。
 「今夜は付き合え」と自分のグラスを傾けながら、「美味いんだぞ」と微笑み掛ける。
 ブルーは酒が駄目だったけれど、それでも飲もうと努力していた。悪酔いしたって、酷い頭痛に苦しんだって。前の自分が好んでいたから、「ぼくも飲むよ」と何度も強請って。



 遠く遥かな時の彼方に消えてしまったソルジャー・ブルー。前の自分が失くしたブルー。
 今は地球の上に、生まれ変わったブルーがいるけれど。小さなブルーが戻ったけれども、今でも忘れられない恋人。気高く美しかった人。
 たまに、こうして語りたくなる。ブルーは生きているというのに、前のブルーと。
「…前のお前と飲んでるんだし、こういうのも記念の酒かもな」
 俺が一人で飲むのと違って、お前と一緒だ。…今夜はな。
 ん?
 記念の酒って、どういう意味だってか。さっき、面白い記事を読んだもんだから…。新聞でな。
 店に出掛けて酒を飲んだら、ラベルを貰って帰るんだそうだ。コレクターなら。
 もっとも、こいつはワインじゃないからなあ…。
 俺が一本飲んじまわないと、ラベルを剥がして貰って帰るのは無理そうだが。
 ワインだったら軽いモンだが、ウイスキーを一本飲むとなるとだ、俺でも一晩かかっちまう。
 それに一気に飲んじまうよりは、ゆっくり飲みたいのがこの手の酒で…。
 ラベルを貰おうというんだったら、ボトルをキープするのがいいんだろうな。
 …お前は知らんか、ボトルキープなんぞは…。
 シャングリラには無かったしなあ、そういう洒落た習慣は。
 そもそも酒を飲ませる店が全く無かったわけだし、ボトルキープがあるわけがない。
 お前が知らないのも無理はないってな、今じゃ普通のことなんだが。



 ボトルキープ、と写真集の表紙のブルーに語る。自分のボトルを店に預けておくのだ、と。
「今はそういう時代なんだ。俺だって店で酒が飲める、と」
 それも本物の酒ばかりをな。合成なんて、今の時代じゃ何処にも無い。
 お前と酒を飲むことは滅多に無かったが…。いいモンなんだぞ、本物の酒は。
 酔っちまう所は同じだがな、と前のブルーが悪酔いしたのを思い出す。酒に弱くて、苦手だったブルー。それでも飲もうと重ねた努力。悉く無駄になっていたけれど。
(…飲めないヤツが頑張ってもなあ…)
 不味いと文句を言った挙句に悪酔いなんだ、と苦笑い。そうなっても懲りなかったんだが、と。
 ブルーは全く飲めなかったから、ゼルやヒルマンと飲んでいた酒。飲みたい気分になったなら。
 彼らとグラスを傾けた酒は、最初の頃には本物だった。
 ウイスキーもラムも、ブランデーもワインも、正真正銘、本物の酒。前のブルーが奪った物資に酒が混じっていた時は。
 白い鯨になった後には、もう合成の酒しか無かった。自給自足で生きてゆく船では、酒を仕込む余裕が無かったから。酒に回せるだけの収穫、それを得られはしなかったから。



 どれも合成だったんだっけな、と過ぎ去った時の彼方を思う。
 今はこうして本物の酒で、ブルーのためにも注いでやっているけれど。俺の秘蔵の酒なんだ、と持って来たけれど、前の自分の酒は違った。同じ秘蔵でも合成ばかり。
 白いシャングリラが出来た後には。…前のブルーと恋人同士になった頃には。
「なあ、ブルー。…今の時代は、酒と言ったら本物ばかりで…」
 本物だからこそ、酒のラベルのコレクターだっているんだが…。アルバムに貼っているんだが。
 前の俺たちだと、ラベルを集めてみたってなあ…?
 粋なコレクションにはなりそうもないな、第一、ラベルが無かったから。
 合成の酒にラベルなんかは…、とウイスキーのボトルを指で弾いて、気が付いた。秘蔵の酒にもラベルが貼られているのだけれども、それを目にして思い出したこと。
 そうじゃなかった、と。前の自分も同じにラベルを見ていたのだと。
「…違うな、俺が間違えちまってた。ずいぶん昔になっちまったから…」
 今の俺の目が見て来たものも多いから。…酒にしたって、何にしたって。
 シャングリラにもあったんだっけな、酒のラベルというヤツは。
 合成の酒でもかまうもんか、とゼルたちが作っていやがった。…色々なのを。
 それにコレクションだってしてたんだっけな、あいつらは。
 ゼルとヒルマン、あの二人は酒が好きだった上に、酒のラベルのコレクターでもあったんだ…。



 懐かしいな、と細めた目。遠い昔の飲み友達。あいつらがラベルを集めていた、と。
 前のブルーが奪った酒。人類の輸送船から様々な物資を奪うついでに、本物の酒も奪って来た。たまたまだったり、「丁度あったから」と酒入りのコンテナを狙って奪い取ったり。
 本物の酒を何本も飲んでいる内に、いつの間にやら始まっていたラベルのコレクション。
 最初は偶然、手に入れた高級なワインから。
 ヒルマンが調べて、「これは滅多に無いワインだよ」と記念にラベルを剥がしておいた。二度とお目にはかかれないだろうし、飲んだ記念にするのだと。
(…あれが始まりで、その後だって…)
 高級品に出会った時やら、美味しかったと思えた酒。
 そういう酒をすっかり飲んでしまったら、ゼルもヒルマンもラベルを残した。「記念品だ」と。
 専用のアルバムに貼っていたラベル。「こんなにあるぞ」と自慢していた。
 白い鯨が出来上がった後は、もう増えなかったコレクション。本物の酒は無くなったから。
 けれども、こだわりたかったゼルとヒルマン。
 酒のラベルのコレクターとしては、酒が入っただけの瓶など、許せるものではなかったらしい。酒はそれらしい姿でないと、と注文をつけたボトルの形。「こういうのがいい」と。
 合成ラムやウイスキーなど、どれも専用のボトルが出来た。形だけで区別がつくように。
 そして大切なのが酒の素性を表すラベルで、合成品でもラムはラム。ブランデーだって。
(あいつら、ラベルにもこだわったんだ…)
 本物の酒があった時代に、彼らが集めたコレクション。幾つもアルバムに貼られたラベル。
 それを元にして作られたラベル。合成品でも本物らしい味わいを、と。



 白いシャングリラで作り出された、合成品の酒と専用のボトル。きちんとラベルを貼り付けて。酒が飲めない者が見たって、一目で中身が分かる瓶。ラムだとか、ウイスキーだとか。
 初めの間は、その程度で済んでいたラベル。中身が分かれば充分だろう、と。
 ところが船で長く暮らして、余裕が出来たら変わって来た。同じ酒なら、もっと楽しくと。同じ飲むなら味わい深くと、気分だけでも豊かにやろう、と。
 ヒルマンとゼルはラベルに凝った。本物の酒があった時代は、ラベルのコレクターだったから。
 どうせやるなら、とデータベースから引き出して来た、高級な酒のラベルのデータ。
 それをそっくり真似て印刷、ボトルにペタリと貼ったのが彼ら。
「中身は合成だってのに…。どれを飲んでも同じ味しかしないってのに…」
 いろんな銘柄にしてしまいやがった、ウイスキーもラムも、ブランデーもな。
 ワインの方だと、何年ものだ、とラベルを貼るんだ。作ったばかりのワインにだって。
 数え切れないほどの銘酒をせっせと捏造していたわけだが、覚えているか?
 今のお前はどうだろうなあ…。
 酒どころじゃないチビのお前が、ラベルまで覚えているのかどうか…。
 この続きはあいつと話すとするか、と瞑った片目。
 今のお前も酒は駄目だし、飲める年でもないんだがな、と。
「…というわけで、続きは明日だ。今のお前に話してやろう」
 楽しみにしてろ、明日になるのを。酒のラベルの話なんだし、お前とも縁が無さそうだがな。
 おやすみ、ブルー。
 いい夢を見ろよ、と引き出しに仕舞った写真集。自分の日記を上掛け代わりに被せてやって。
 それが済んだら、ブルーの分にと注いだ酒も飲み干した。「美味いんだがな」と。
 こんなに美味い酒が飲めないのがブルーなわけで…、とクックッと笑う。
 前のブルーも飲めなかったけれど、今度のブルーも酒は恐らく駄目だろうから。
 明日はブルーに酒のラベルの話をたっぷり聞かせてやろう。土曜日なのだし、朝から出掛けて。
 のんびり二人でお茶を飲みながら、白いシャングリラの思い出話を。



 次の日の朝も、酒のラベルの話は覚えていたけれど。小さなブルーに話すつもりだけれど。
(酒は持っては行けないしな…)
 十四歳にしかならないブルーに、酒を飲ませるわけにはいかない。酒を飲むなら二十歳から、というのが今の時代のルールだから。
 話だけだ、と歩いて出掛けたブルーの家。朝食を済ませて、丁度いい時間に着くように。
 ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合わせ。早速、ブルーに問い掛けてみた。
「お前、シャングリラの酒を覚えているか?」
 白い鯨になった後だな、本物の酒が無かった時代。…酒と言ったら合成ばかりで。
「お酒って…。いつも悪酔いしてたけど?」
 ハーレイが美味しそうに飲むから、美味しいのかな、って分けて貰って。
 だけど、美味しくないんだよ。それに、飲んだら胸やけがしたり、頭がとても痛くなったり…。
 あんなのの何処が美味しいんだろうね、今でも分からないんだけれど…。
 変な飲み物、とブルーが唇を尖らせるから。
「悪酔いなあ…。他には?」
 お前が酒が苦手だったというのは、俺もハッキリ覚えているが…。
 他には何か覚えていないか、あの船の酒。
「…乾杯のワインをハーレイに飲んで貰っていたよ」
 新年のお祝いに飲むワイン。…あれだけは本物だったよね。ちゃんとブドウの実から作って。
 でも、本物でも、ぼくには同じ。飲んだら酔っ払ってしまうだけ。
 だから一口飲んだ後には、いつもハーレイに渡していたよ。
「その程度か…」
 覚えてるのは、悪酔いするってことだけか…。ワインの話も悪酔い絡みなんだし。
「どうしたの?」
 他に何かあるの、お酒のことで?
 ぼくが忘れてしまってる話、ハーレイ、何か思い出したの…?



 なあに、と小さなブルーが訊くから、「まあな」と浮かべてみせた笑み。
「ラベル、覚えていないかと…。酒のラベルだ」
 酒の瓶にはラベルがあるだろ、今のお前は知ってる筈だぞ。…お父さんだって飲むんだから。
「…ラベル?」
 瓶に貼ってあるヤツのことだよね、ウイスキーとか、ワインとか…。
 いろんな模様がついているけど、お酒のラベルがどうかしたの?
「そのラベル…。白い鯨になったシャングリラじゃ、色々とデッチ上げていたんだが…?」
 ゼルとヒルマンがやっていたんだ、あいつらは酒好きだったから…。
 本物の酒があった時代は、酒のラベルをコレクションしていたほどだったしな。
 その時代に培った知識と言ったら聞こえはいいが…。そいつを悪用していたとも言う。
 合成の酒に上等な酒のラベルを貼るんだ、データベースから引き出した情報を元に印刷してな。
 それだけじゃないぞ、作ったばかりのワインのボトルに何年ものだ、というヤツをだな…。
 貼っちまうんだ、と話してやったら、「あったっけね…!」と煌めいたブルーの瞳。
「思い出したよ、ワインのボトル。…乾杯用だった赤ワイン…」
 古いワインほど、上等なワインになるんだっけ?
 それに、美味しいワインが出来た年のも、とてもいいワインってことだったよね。
「うむ。今の時代は当然そうだが、あの頃もそうだったんだろう」
 ヒルマンたちがそう言ってたしな、「長く寝かせておいたワインは美味いものだ」と。
 それからワインの当たり年。…あんな時代に、本物の当たり年があったかどうかは怪しいが…。
 今の時代なら、もう間違いなく本物の当たり年だがな。
 美味いブドウがドッサリ実って、最高の時期にいい天気が続いて、上手い具合に収穫出来て。
 そいつを使ってワインを仕込めば、極上のワインが出来るってわけだ。
 当たり年というのは、そういうモンだし…。
 前の俺たちが生きた時代の当たり年ってヤツは、今から見たならお粗末だろうさ。
 テラフォーミングが一番進んでいたノアですらも、最高のブドウは育たなかったんだろうしな。



 今とは事情がまるで違うぞ、と教えてやった当たり年。美味しさが違ったろうワイン。
 けれども、当たり年というのはあった。人類の世界には存在していた当たり年のワイン。それを何年も寝かせたワインも、当たり年でなくても長く寝かせて味わい深くなったワインも。
 ゼルとヒルマンは、それらを真似た。シャングリラで作った本物のワインに貼るラベル。
 たった一年しか寝かせていないワインのボトルに、古い年号。当たり年やら、長く寝かせてあるワインなのだと偽って。
 真っ赤な嘘のラベルだけれども、船の仲間たちも楽しみ始めた。同じワインを作るのならばと、凝るようになったラベルのデザイン。その道のプロのゼルとヒルマンの意見を聞いて。
 今年のワインに入れる年号は何にしようかと、どんなデザインのラベルがいいかと。
「あのラベル…。合成のワインのボトルにも貼ってあったよね」
 どれを見たって、何年ものとか、何年も寝かせてあるだとか…。嘘ばっかり。
 面白かったけどね、ラベルだけで美味しいワインの気分になれるなら。…他のお酒だって。
 前のぼくは飲みたくなかったけれども、お酒の好きな仲間たちなら。…前のハーレイも。
「そういうことだな。気分だけでも、ということだ」
 極上の酒のラベルが貼ってあったら、ただの瓶詰の酒よりいいだろうが。
 ゼルたちが思い付かなかったら、その可能性も高かったんだぞ。どの酒にだって同じボトルで、ラベルの代わりにシールが貼ってあるとかな。中身はコレだ、と書いてあるだけの。
「…それが美味しくないっていうのは、ぼくでも分かるよ」
 今のぼくでも分かっちゃう。…だって、ジュースを買ったりするもの。
 こういうジュース、ってワクワクするのが瓶とか缶のデザインで…。開ける前から味が楽しみ。
 もしも全部が同じデザインなら、買う時だって楽しくないよ。
 こんな味だと嬉しいよね、って瓶とか缶で想像するのに…。搾り立てとか、粒入りだとか。
「なるほどなあ…。ジュースも同じか」
 そうかもしれんな、ただのガラス瓶に詰めてあるだけのジュースじゃつまらん。
 瓶にラベルがあってこそだな、何処で育った果物を使って、何処の会社が作ってるのか。



 気分だけでも本物の酒に近付けよう、と作られていたのがシャングリラにあった偽物のラベル。合成の酒が詰まっているのに、貼ってあるラベルは本物そっくり。
「…前の俺たちの船じゃ、酒のボトルに貼る偽物のラベルは普通だったが…」
 合成品のワインにだって、当たり年のワインだと大嘘つきなラベルが貼られていたんだが…。
 そんな船でも、本物のワインは特別だったぞ。
 少しだけしか作れなかったが、乾杯用の赤ワインだけは、そりゃあ素晴らしいラベルだった。
「特別って…。何かあったっけ?」
 デザインだったら、仲間たちのアイデアを募っていたし…。
 本物のワインもそうだろうけど、デザインするのに何か約束事でもあった…?
「デザインじゃないな、それよりも後だ」
 毎年、ラベルが出来上がって来たら、お前がサインを入れていたんだ。
「え?」
 サインって…。ぼくが、ワインのラベルに?
「その通りだが?」
 保証します、とソルジャーのサイン。…他のワインとは違うんだから。
 合成でもなければ、混ぜ物も無しの本物のワインだったしな。それをお前が保証してた、と。
 ソルジャーのサインが入っていたなら、そのラベルつきのワインは間違いなく本物なんだ。
「やってたね…!」
 忘れちゃっていたよ、そんなこと。
 ぼくはお酒が苦手だったし、あのワインだって一口しか飲まなかったから…。



 忘れてた、とブルーがコツンと叩いた額。「頑張ってサインしてたのに」と。
 シャングリラで作られた本物のワイン、新年を迎えた時の乾杯に使われた赤ワイン。それだけで無くなってしまったけれども、ボトルは一本だけではなかった。船の仲間は多いのだから。
 そのボトルに貼られていたラベル。仕込まれた年号は嘘八百が書かれていたって、中身は本物。
 きちんとブドウから作ったワインで、直ぐに分かるよう、ブルーが入れていたサイン。
 「ぼくは、お酒は飲めないのに…」と苦笑しながら、一枚ずつ。
 実際、ブルーは乾杯さえも苦手だったのだけれど、それでも毎年、サインに工夫を凝らした。
 ワインのラベルが出来て来たなら、サインを何処に入れようかと。
 デザインを損ねてしまわないように、気を付けて。時には字体を変えたりもして。
「あのラベル、人気が高かったんだぞ」
 毎年、引っ張りだこだったってな。ワインのボトルが空になった後は。
「人気って…。誰に?」
 本当に本物のワインだったし、お酒が好きだった仲間たちかな?
 ゼルたちみたいに、本物のワインのラベルをコレクションしてた人が多かったとか…?
「そういうヤツらもいたんだろうが…。欲しかったのかもしれないが…」
 とても言い出せなかっただろうな、ライバル多数というヤツだから。…それも強いのが大勢だ。
 同じ酒好きなら、勝負のしようもあっただろうが…。欲しいと声も上げただろうが…。
 生憎と、あれを欲しがってたのは、ゼルたちじゃなくて、女性陣だったんだ。
 なにしろ、ソルジャーのサインだからなあ、船の女性たちの憧れの。
 そいつが入ったラベルなんだし、欲しい女性が列を成すってな。
 酒好きの男がウッカリ混ざろうもんなら、もうジロジロと見られたろうさ。
 いったい何しに来やがったんだ、と冷たい目で。ただの酒好きは引っ込んでろ、とな。



 前のブルーのサインのお蔭で、絶大な人気を誇っていたのが本物のワインに貼られたラベル。
 それを求めて船の女性たちが集まるけれども、全員の分があるわけがないし、奪い合い。
 新年を祝った乾杯の後は、希望者が厨房に押し掛けて。
 空になったボトルから剥がされるラベル、それを一枚貰いたいからと、クジ引きなどで。
 小さなブルーは、案の定、騒ぎを知らなかったらしい。赤い瞳をキョトンと見開いて…。
「そうだったんだ…。ワインのラベルなんかでクジ引き…」
 お酒好きの男の人たちが貰えないほど、女の人たちが押し掛けてたなんて知らなかったよ。
 ワインのラベルを取り合わなくても、サインくらいなら、いくらでもしてあげたのに…。
 ぼくに「お願い」って言ってくれたら、ちゃんとサインをしてあげたのに…。
「お前、全く分かっていないな。…なんでラベルの奪い合いなのか」
 前のお前はソルジャーなんだぞ、雲の上みたいな存在だ。…デカイ青の間で暮らしてるような。
 それを捕まえて頼めるか、おい?
 サインして下さい、と言える勇気を出せるような女性がいたと思うか…?
「…難しいかもね…」
 ぼくに薔薇のジャムをくれてた人たちも、直接、届けに来なかったから…。
 試食用のは持って来たけど、その後はずっと、部屋付きの係に渡してたから…。
 サインを頼むのは難しそうだね、ぼくは気にしなかったのに…。



 いくらでも書いてあげたのに、と小さなブルーは言うのだけれども、前のブルーも同じだったと思うけれども。…ソルジャー・ブルーは雲の上の人で、誰もサインは頼めなかった。
 そんなわけだから、前のブルーのサインを手に入れるための、唯一の手段がワインのラベル。
 本物のワインにだけ貼られるラベルで、本物の証にソルジャーのサインが添えられたから。
 前のブルーに憧れていた船の女性たちは、ワインのラベルのコレクションを作っていた。
 自分だけの小さなコレクション。そっと眺めて楽しむもの。
 けして全部は揃わないのに。
 船で作られていた本物のワイン、その数よりも多かったのがラベルを欲しがる女性たち。いくら頑張ってクジを引いても、毎年の分は手に入らない。外れてしまう年の方が多くて、貰えない。
 分かっていたって、彼女たちが続けたコレクション。
 運よく手に入れた年のラベルを、アルバムにペタリと貼り付けて。
 ラベルに刷られた偽の年号、それとは別に、本当の年号を多分、アルバムに書き入れて。
 毎年の分が揃わなくても、揃えられるような強運の女性がいなくても。
 一枚だけでもラベルがあったら、充分に宝物だから。前のブルーのサインが入った、最高の宝物だったのだから。



 コレクターだった女性たちが作ったアルバム、それを目にする機会は無かった。酒好きの仲間は集めたラベルを披露したがるものだけれども、あくまで同好の士が相手。
 それと同じで、女性たちの場合も、見せ合う相手はコレクター仲間。自分のアルバムには欠けているラベル、それを羨んだり、求められて自分のラベルを見せたり。
「前のお前がサインしたラベル…。剥がされた後は、見てないな…」
 女性陣に仕舞い込まれてしまって、俺の前には出て来なかった。アルバムはあった筈なんだが。
 ついでに前のお前と違って、俺の方のサインは誰も集めちゃいなかったな…。
「ハーレイ、人気が無かったものね…。女の人には」
 ぼくには信じられないけれども、薔薇のジャムも薔薇も似合わないとか言っちゃって…。
 ハーレイだってカッコいいのに、誰も分かってくれないんだよ。
「そうなんだよなあ、女性には全くモテなかったな」
 俺のサインがあったとしたって、集めちゃくれなかっただろう。
 それに本物の酒は、あのワインしか無かったし…。
 キャプテンがサインして、品質を保証できるような代物は何も無かったな。シャングリラでは。
「お酒、本物が他にもあったら、ハーレイのサインもあったのにね」
 これは間違いなく本物だから、ってキャプテンのサイン。…ウイスキーとかに。
「いや、その場合もサインするのは、お前だろう」
 まるで飲めなくても、それとこれとは話が別だ。
 ソルジャーとキャプテンでは重みが違うし、其処はお前がサインしないと。
「…ハーレイに譲るよ、そっちの方は」
 ワインだったら新年を祝う乾杯用だし、大切な儀式に使うためのお酒だったけど…。
 それ以外なら、何の儀式も無いから、本物でもただの嗜好品。
 本物ですよ、っていう印があったら充分なんだし、キャプテンのサインでいいんだってば。
「そう来たか…。確かにただの酒ではあるな」
 貴重な本物の酒だってだけで、船の仲間が揃って飲むってモノでもないか…。
 キャプテンのサインで充分だろうな、酒が飲めないソルジャーを引っ張り出さなくても。



 そっちだったら誰かが集めてくれただろうか、と思ったサイン。前のブルーのサインと違って、サイン目当てではない誰か。酒好きなラベルのコレクター。
 「これは本物の酒のラベルだ」と、剥がして大切にアルバムに貼って。もしかしたら、ヒルマンたちだって。前に集めたコレクションの続きに、「これも」とペタリと貼り付けて。
 俺のサインは全く抜きで…、と考えてしまったラベルの価値。
 ソルジャーのサイン入りだった時は、酒よりも値打ちが高いのがサイン。けれどもキャプテンがサインしたなら、高くなるのは中身の価値。…本物の酒だ、と思った所で気が付いた。
 時の彼方に消えてしまったワインのラベル。…前のブルーがサインしたもの。
「あのラベル…。残っていたら大した値打ち物だろうな」
 たかがワインのラベルなんだが、宇宙遺産になったんじゃないか?
 年号がまるで出鱈目だろうが、デッチ上げだろうが、そんなことは気にもされないで。
「…なんで?」
 どうして宇宙遺産になるわけ、ただのワインのラベルだよ?
 それに年号だってメチャクチャ、当たり年とかを適当に刷っていただけなのに…。
「ワインの方はどうでもいいんだ、本物なんだという印の方だ」
 お前がサインしてたんだろうが、一枚一枚、きちんと自分で。…ソルジャー・ブルーと。
 其処が大事だ、前のお前のサインは残っていないんだ。…ただの一つも。
 俺の日誌は残っているがな、超一級の歴史資料にされちまって。
「本当だ…!」
 ソルジャー・ブルーのサインです、っていうのは聞いたこと無いよ。
 ホントに何処にも残っていないね、あったら宇宙遺産かも…。
 ワインのラベルに書いたサインでも、それが残っていたんなら。…誰かが残しておいたんなら。



 だけど残っていないみたい、とブルーは暫く考え込んで。
「えーっと…。宇宙遺産は無理だけれども、今のぼくが書けばいいのかな?」
 きっとサインは同じだろうから、今のぼくがサイン。…ソルジャーは抜きで。
「サインって…。どうするんだ、何にサインするんだ?」
 ソルジャーは抜きでサインだなんて、と尋ねたら。
「いつかね、ハーレイとお酒を飲んだら、その記念に」
 デートに行ったら、ハーレイがお酒を頼む時だってありそうだから…。
 そういう時には、ラベルを剥がして貰うんだよ。お店の人にお願いして。
 剥がしたラベルを持って帰ったら、ぼくがサインを入れるのはどう?
 今のぼくだから、値打ちは少しも無いけれど…。ただの記念にしかならないけれど。
「貰って帰るって…。お前、知ってるのか、そのサービスを?」
「サービスって?」
「酒のラベルをくれるってヤツだ」
 店で頼めば、ラベルを剥がして貰えるってな。…その日に飲んだ酒の記念に。
「知らないよ?」
 ぼくはお酒は飲めないから…。興味も無いから、そんなの初耳。
「だろうな…。お前が知っているわけがないな」
 酒は飲めないし、まだまだチビだし、何処かで見たって忘れちまうのが関の山ってか。
 レストランでもやっているから、出会っているかもしれないがな。…忘れただけで。



 今の時代もコレクターがいて、そういうサービスをする店があるんだ、と教えてやった。
 本当の意味でのコレクターもいるし、記念日だからと貰って帰る人だって、と。
「ラベルを集める趣味は無くても、記念日は別だ、というのもあるからなあ…」
 特別な日のデートとかなら、その時に頼んだ酒のラベルを残しておこう、と。
「そうなんだ…。だったら、貰って帰らなきゃ!」
 ハーレイとのデートの記念なんだよ、ラベル、貰って帰らないと…。
 ちゃんと貰って、帰ってからぼくがサインをするよ。
 シャングリラでラベルにサインしていた頃と同じに、何処に書こうか考えたりして。
 どんなサインを入れるのがいいか、書き方とかにも工夫をして。
「いいかもなあ…」
 同じラベルのワインを飲んでも、お前が工夫をしてくれるってか。
 今日のサインは此処に入れようとか、こんな風に書いたらいいだろうか、とか。
 そいつは大いに楽しみだよなあ、アルバムも買って来ないとな。
 この日に飲んだワインなんです、と説明も添えておけるヤツ。
 お前と店で一緒に飲むならワインだろうし、俺の秘蔵の酒のラベルも貼らないと…。
 飲めないくせして、お前、絶対、強請るんだから。
 お前と二人で空けた酒には違いないから、そいつもお前のサイン入りでな。



 よろしく頼むぞ、と言ったら「うん」と頷いたブルー。「ちゃんと書くよ」と。
 ブルーは約束してくれたのだし、いつか結婚したならば。
 一緒に暮らせる時が来たなら、酒のラベルを増やしてゆこうか。
 シャングリラの女性は全てのラベルを集め損ねてしまったけれども、今の自分は出来るから。
 二人で空けたボトルの数だけ、ブルーのサインがついてくるから。
 幸せのラベルのコレクション。
 店や家で飲んだ、ブルーとの記念。
 ブルーは酒が苦手なままでも、飲めなくてもサインをくれるから。
 サインが入ったラベルを幾つも幾つもアルバムに貼って、二人で眺められるのだから…。




              記念のラベル・了


※シャングリラの女性たちに大人気だった、前のブルーのサインが入ったワインのラベル。
 今も残っていたら、宇宙遺産になっていた筈。今のブルーのサインは、ハーレイとの記念に。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
  ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(あれ?)
 なあに、とブルーが目を留めたもの。学校から帰るバスの窓から。
 お気に入りの席が空いていたから、其処に座って外を眺めていたのだけれど。普段は見掛けないそれに、直ぐに気付いた。いつもと違う、と。
(行列…?)
 大勢の人が歩道に行列。並んで歩いているわけではなくて、止まった行列。子供連れの女性や、普段着の男性、どういう目的で集まったのかが分からない群れ。
 しかも行列はパン屋の前から始まっているようで、其処から長く伸びているから…。
(なんで?)
 どうしてパン屋に行列なのか。新しく出来たパン屋ではないし、行列を見たことも無い。バスで通る時間はいつも殆ど変わらないから、行列が出来るなら、何度も見ている筈なのに。
(このバス、いつも乗ってるバスだよ…?)
 だけど行列なんか知らない、と首を捻っていたら、パン屋の前で止まったバス。信号のせいで。赤信号の間は動かない。今の間、と見詰めた列の先頭、時間が書かれたプラカード。
(焼き上がりの時間…!)
 店員が高く掲げたプラカードには、今から少し後の時間が大きく書いてある。オーブンで焼いているパンが出て来る時間で、「もう少しお待ち下さい」とも。
 店の張り紙もよく見えた。目立つ所に貼ってあったし、その前に行列は無かったから。
 今日だけ特別、最高の材料を使って焼かれる食パン。店主のこだわり。
 それを求めて焼き上がる前から長い行列、予約は取っていないから。買いたい人は焼き上がりを待って、店に入るしかないのだから。



 他のパンたちも売られているから、行列とは別に入っていく人もいたけれど。見ている前で一人扉をくぐったけれども、他の人たちはズラリと行列。
 通行の邪魔にならないようにと、歩道の端に一列に立って。また一人、列の最後に並んで、その分だけ長くなった行列。きっとまだまだ伸びるのだろう。
(最後の人、ちゃんと買えるかな…)
 今日だけの特別な食パンを。列に並んで、焼き上がりを待って。
 プラカードを持った店員が立っているほどなのだし、整理をするだろうけれど。行列がどんどん伸びていったら、店の中から応援が来て。
 列に並んだ人を数えて、焼けるパンの数と照らし合わせて、列の最後尾に見張りに立つ。やって来る人の数に応じて、「此処までです」と終わらせる列。
 「食パンはもうありませんので、此処で販売終了です」と。
 そしたら伸びなくなる行列。後は短くなってゆくだけ。食パンがオーブンから出されて来たら、前の人から順に買っては、家に帰ってゆくのだから。
(買いに来たのに締め切られちゃったら、残念だけど…)
 ガッカリするしかなさそうだけれど、ちゃんと間に合って列に並べたら幸せだろう。オーブンの中の食パンが焼けるのを待つ行列。「もうすぐかな」と時計を見ながら。
 焼き上がりの時間になった後にも、後ろの方だと直ぐには買えない。前の人から順番だから。
 最後の方だと、どのくらい待つことになるのか分からないけれど、幸せなのに違いない。歩道に並んで待たされたって、目的の食パンを買って食べられるのだから。
 行列しただけの甲斐はあった、と抱えて帰る、こだわりの食パンが入った袋。宝物のように。
(美味しいのかな?)
 あんなに大勢並ぶんだもの、と気になる行列。焼き上がりの時間は、まだ来ない。
 バスの方が先に動き始めたから、行列もパン屋も、遠ざかって見えなくなったけれども…。



 家に帰って制服を脱いで、ダイニングに出掛けて、おやつの時間。
 母が用意してくれたケーキと紅茶を味わう間に、ふと思い出した行列のこと。パン屋の前の。
 大勢が行列していたわけだし、もしかしたら…。
(パン屋さんの広告…)
 あったのかな、と今日のチラシを引っ張り出して来て、端から調べた。けれど、チラシは入っていない。それなら新聞の方だろうか、と広げてチェックしていたら…。
「どうしたの、ブルー?」
 新聞は分かるけど、何故チラシなの、と入って来た母。「何か欲しいの?」と。
「違うよ、ちょっと調べ物…。今日の帰りに…」
 バスの窓から見えたんだよ。パン屋さんの前に凄い行列。
 だからチラシが入っていたのか、新聞の記事に出ていたのかな、って…。
「ああ、パン屋さんね。バスが通る道の」
 これでしょう、と母が棚から持って来たチラシ。他のチラシとは違う場所から。
 テーブルに置かれたチラシは、確かにさっきのパン屋のもの。「食パン」の文字が躍っている。
「このチラシ…。なんで取ってあるの?」
「買いに行こうと思ったからよ」
 決まってるでしょう、そうでなければ他のチラシと一緒の所に入れておくわよ。
「でも、食パン…。今日だけだよ?」
 今日だけ特別って書いてあったよ、だから行列だったんだもの。
「それがね…。明日もあるのよ、ほら」
 ちゃんとよく見て。特別は二回、今日と明日とで、時間にしたら丸一日というわけね。



 母が指差す所を読んだら、本当にそう。こだわりの食パンが売られる期間は丸一日。今日は午後から、明日は午前中。買いに来る人の都合もあるから、午後だけの日と、午前中の日と。
 今日の午後だと、母は買いには出掛けられない。一人息子が帰る時間に留守になるから。
 それで明日、息子が学校に行っている間に、買いに行こうというのが母の計画。食パンが焼ける時間に間に合うように、早めに出掛けて行列をして。
「ホント!?」
 ママも並ぶの、あの行列に?
 それで食パンを買ってくれるの、こだわりって書いてあるけれど…。
「美味しいっていう評判なのよ。その食パンが」
 だったら、食べてみたいじゃない。行列したって、うんと美味しい食パンならね。
「そんなこと、どうして知ってるの?」
 今日だけ特別、っていうパンなのに…。あんな行列、ぼく、一回も見ていないのに…。
「前に聞いたの、ご近所さんから」
 まだお店には出してないけど、とても美味しいパンがある、ってね。
 そういう評判、と母は教えてくれた。
 この家からは少し離れた、あのパン屋。御主人が焼いているのだけれども、根っからパン好き。売り物にするパンとは別に、趣味で焼いている特別なパン。材料や焼き方にこだわって。
 それをいつかは売ろうとしていて、知り合いの人たちにお裾分け。
 「お金は要らないから試食をよろしく」と渡して、「どうでしたか?」と意見を貰って。
 その段階でもう充分に美味しかった、という話。改善する所が無いくらいに。
 だから噂を聞いていた人は、誰もが待っていた発売される日。
 こだわりのパンだけに定番商品にするのは無理だけれども、いつか売られるだろうから。



 やっと完成した食パン。御主人が「売ろう」と思える味に。
 それで今日と明日との特別、次はいつになるか分からない。定番には出来ないパンだから。
 母が買いに行こうと考えるのは当然だけれど、帰り道に見掛けた長い行列。歩道にズラリと。
「…ママ、行列が凄かったよ?」
 まだ焼き上がりの時間じゃないのに、歩道に長い行列で…。見てた間にもまだ伸びてたし…。
「大丈夫よ。早めに並べば、そんなに待たなくても済むし…」
 ブルーが出掛けて、お掃除とかを済ませたら直ぐに出掛けて来るわ。
 きっと丁度いい時間だと思うの、明日の焼き上がりはこの時間でしょ。ママは早い方よ。
 一番は無理でも、二十人目までには入れるかしら、と頼もしい母。
 「美味しい食パンを楽しみにしてるといいわ」と、「明後日の朝は、その食パンね」と。
 こだわりの材料で焼いた食パンは、本当にとても美味しいらしい。母が並びに行くほどに。
(ふふっ、行列のパン…)
 バスの窓から「美味しいのかな?」と見ていた行列。そのパンを自分も食べられる。母が明日、買いに出掛けたら。行列に並んでくれたなら。
 もう楽しみでたまらないから、「ママ、頑張って並んでね!」と頼んでおいた。母なら、きっと大丈夫。早めに出掛けて列に並んで、食パンを買って帰るだろう。
 こだわりの味の食パンを。材料も焼き方も、こだわったパンを。



 ワクワクしながら帰った部屋。バスの窓から眺めた行列、特別なパンを買うための。
 明日には母が買ってくれるから、学校から戻ると「これよ」とテーブルの上に食パン入りの袋。あの店の名前が書かれた袋で、中身はとても特別なパン。今日と明日しか売られないパン。
(美味しいんだよね、売り出す前に噂になるほど)
 食パンはシンプルな基本のパンで、何も入ってはいないパン。レーズンもチーズも、胡桃などのナッツ類だって。なのに美味しいパンとなったら、相当なもの。
(そのまま食べても美味しいパンで、トーストにしても美味しくて…)
 マーマレードもバターも、きっと良く合うパンなのだろう。サンドイッチを作ってみても。
 食べるのが楽しみな、こだわりのパン。最初はそのままで齧ってみよう。何もつけないで。
 パンの持ち味を堪能したら、次は夏ミカンのマーマレード。隣町でハーレイの母が作る、太陽の光を集めた金色。
 マーマレードの瓶を届けてくれる、ハーレイにもうんと自慢したい。行列のパンを食べたなら。大勢の人が並ぶくらいに、評判のパンを食べられたなら。
(ママに頑張って貰わなくっちゃ…)
 明日は並んで貰うんだよ、と心を弾ませていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、食パンの話。
「あのね、明日は行列のパンなんだよ」
 ママが並びに行ってくれてね、食べられるのは明後日だけど…。行列の食パン。
「はあ? 行列って…」
 なんだ、そりゃ。お母さんが並ぶと言ってるんだし、行列のパンって名前じゃなさそうだが…。
 何処かにあるのか、行列しないと買えないパンが?
 俺は知らんぞ、と鳶色の瞳が瞬くから。
「えっと、ハーレイも知っていそうだけれど…」
 ぼくが乗るバスが走ってる道。…バス停からだと、ちょっと向こうになるけれど…。



 あそこ、と説明したパン屋がある場所。ハーレイも「あれか」と頷いてくれた。
「確かにあるな、パン屋が一軒。…で、あのパン屋に行列なのか?」
 行列ってヤツには見覚えが無いが、たまに行列、出来てるのか?
「ううん、初めての行列じゃないかな…。ぼくも見たこと無かったから」
 今日とね、明日だけなんだって。…こだわりの食パンを売るんだよ。御主人の自慢の。
 前から試作していたらしくて、その時から美味しかったんだって。
 材料にも焼き方にもこだわったパンで、定番商品にするのは難しいから、今日と明日だけ。
 今日は午後から売ったけれども、明日は午前中に売って、丸一日だけの特別なんだよ。
「ほほう…。明日も売るのか、午前中に」
 今日の分はとっくに売れた後だったんだろうな、俺が車で通った時には行列はもう無かったし。
 いつもと変わらん景色ってヤツで、何も気が付かずに走って来たが…。
 そういうことなら、俺も行くかな。…明日の午前中に。
「え?」
「丁度、空き時間ではあるんだ、うん。明日の午前なら」
 何時からなんだ、売り出す時間。…まあ、何時でもかまわんわけだが…。空き時間だしな。
「ハーレイも行くの!?」
 学校から出て、パン屋さんまで?
 食パンを買いに出掛けて行列をするの、あんな所で…?
「悪いか、美味いパンだと聞いたんだぞ?」
 それも試作の段階で。そいつが完成したとなったら、並ぶだけの価値は充分にある。
 並びに行ける時間もあるから、是非とも買いに行かないとな。
「そういうものなの?」
 授業が無い間に、わざわざ行列…。食パンを買いに…?
「聞いたのも何かの縁だってな。で、何時だ?」
 焼き上がるっていう時間だ、時間。それを教えて貰わんと…。並ぶ都合があるだろうが。



 何時なんだ、と尋ねられたから、答えた時間。ハーレイは「よし」と手帳に書いた。
「これより早めに行くことにしよう。俺の授業は無いんだから」
 パン屋の前で並んでいたって、他の先生たちも文句は言わん。羨ましがられる程度だな。他にも誰か出掛けるかもなあ、パン好きがいれば。
 でもって、明日はパンを買いに行って、お前のお母さんに会うかもしれんぞ。
 上手い具合に行列の中で会えるようなら、お前の話でもしてくるか。…並んでる間に。
「いいな、ママ…。ハーレイと行列…」
 お喋りしながら行列なんでしょ、焼き上がったパンが売られるまでは?
 売り始めた後も、順番が来るまでハーレイと一緒…。ぼくも並びに行きたいよ…。
「こらこら、お前は授業中だろ」
 生徒は学校を抜けられやしないぞ、教師とは立場が違うんだから。
 学校をサボッて並ぶのも無しだ。具合が悪くて欠席したなら、行列どころじゃないからな。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…」
 ママはハーレイと並ぶのかも、って考えたら、とても羨ましくて…。
 ぼくも行列、してみたいよ。ハーレイと一緒に列に並んで。
「やる予定だろ、そりゃあとんでもなく長い行列で」
 博物館のヤツだ、宇宙遺産になっちまった俺のナキネズミの特別公開。…今はウサギだが。
 普段はレプリカの木彫りだからなあ、本物は百年に一度だけしか見られないわけで…。
 アレを見るための行列、建物をグルリと取り巻くと教えてやっただろ?
 一番乗りを目指して、何日も前から並ぶヤツらもいるほどで…。
「その行列は、ずっと先じゃない!」
 五十年ほど前に公開したから、まだそれくらいかかるんだよ!
 木彫りのウサギを見に行く行列、五十年も待たなきゃ駄目なんだから…!



 もっと早くに行列したいよ、と気が長すぎる恋人を睨み付けた。五十年なんて酷すぎる、と。
「ハーレイと一緒に並びたいのに…。明日だって並びたいくらいなのに!」
 学校のある日じゃなかったんなら、ママと一緒に出掛けて行って。
 ママも一緒でかまわないから、ハーレイと行列したかったよ…。
「お前なあ…。そうなっちまったら、怒り出すくせに」
 学校が無いなら休日ってことで、俺は午前中からお前の家に来るんだが?
 そうする代わりに、パン屋に並びに行くんだぞ。…ちょっと遅れる、と連絡を入れて。
 お前、それでもかまわないのか、俺と二人でお茶を飲む代わりにパン屋で行列。
 ついでに、お前のお母さんまで一緒に並んでるんだし、二人きりで話せやしないんだが…?
「…そっかあ…。そうなっちゃうね…」
 ハーレイと行列は出来るけれども、ママと三人の時間になっちゃう…。お休みの日に…。
 パンを買った後も、家まで帰って来る道はずっと、ママとハーレイとぼくの三人だよね…。
「やっと分かったか。…お前、目先のことしか考えていないな」
 俺と行列しようってトコだけ。これなら出来る、と思った途端にパン屋の行列と来たもんだ。
 なにもパン屋にこだわらなくても、行列のチャンスは幾らでもあるさ。
 宇宙遺産の木彫りのウサギは、流石にちょいと遠すぎる未来の話ってことになるんだが…。
 他にも行列は幾つも出来るし、並びたいなら並び放題だろうが、お前。
 なんたって、お前、前のお前じゃないんだから。
「…前のぼく?」
 どうして、前のぼくっていうことになるの?
 行列なんでしょ、前のぼくと行列、繋がりそうにないんだけれど…?
「お前、忘れてしまったのか…。前のお前の夢だったのに」
 シャングリラで行列、お前、やりたがっていたろうが。
 他のヤツらは並んでいるのに、お前は行列したくても出来なかったから…。
「ああ…!」
 そうだったっけ、前のぼく、並べなかったっけ…。
 行列だよね、って並びたくても、目の前で行列、消えちゃったんだよ…。



 思い出した、と蘇って来た遠い遠い記憶。前の自分が夢見た行列、皆と一緒に並ぶこと。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた船。ミュウたちの箱舟だった船。
 楽園という名のシャングリラで出来た、色々な行列。大勢の仲間たちが並んでいた。順番が来るまで、列を作って。
 食事の時にも出来たけれども、それとは別にあった行列。新作のお菓子が配られる時とか、味の感想を聞きたいからと試食する仲間を募る時とか。
 数は充分あるのだけれども、早く欲しいから出来る行列。噂を聞き付けた仲間が並んで。
 自分の順番が回って来るまで、誰もが並んで待っていた。列が伸びても、なかなか前に進まない時も。「遅い」と文句を言いもしないで、それは楽しそうに、幸せそうに。
 けれど、ソルジャーだった前の自分は…。
「ぼく、行列に並べなくなってしまったんだよ…!」
 行列があっても、いつ見付けても。…ぼくは絶対、並べないんだよ…!
「ソルジャーになっちまった後ではなあ…」
 リーダーだった間は、ちゃんと並べていたのにな。…みんなが行列していた時は。
 しかし、ソルジャーは駄目だった。船で一番偉いわけだし、並ばせるわけにはいかんだろうが。
「行列は並ぶためのものじゃない!」
 順番が来るまで待つためのもので、待ってる間も楽しいんだよ。まだなのかな、って。
 前に並んでる仲間を数えて、「もうすぐだよね」って嬉しくなったり。
 それが行列だったのに…。並ぶのも待つのも、素敵な時間だったのに…。



 ぼくも並びたい、と何度も言ったのに。行列に並びたかったのに。
 新作のお菓子や試食用の料理、そういったものを求めて出来る行列。幸せそうな仲間たちの列、其処に加わりたかったのに…。
 並んでみよう、と出掛けて行ったら、目の前で消えてしまう行列。
 正確に言えば、列はそのままあると言うのに、そっくり移動したようなもの。前の自分が行列を見付けて並んだ途端に、サッと真横に。
 「ソルジャーはお先にいらして下さい」と、順番を譲った仲間たち。「前へどうぞ」と一番前の順番を。行列の先頭に立てる権利を。
 列はあっても無いのと同じで、一番前に行くしか無かった。何人の仲間が並んでいても。行列の一番最後に並べば、かなり待たされそうな時でも。
 いつでも消えてしまった行列。…ソルジャーだから、というだけで。
 白いシャングリラでも、白い鯨になるよりも前の船の時にも。
 並びたくても行列は無くて、仲間たちが行列していただけ。前の自分が一番先に入った分だけ、伸びてしまった行列を。順番が来るまで、待つための列を。
 「新作のお菓子は、どんな味だろう」とか、「試食用の料理が楽しみだ」などと語らいながら。
 先に受け取った仲間たちを呼んで、「美味いか?」と訊いてみたりもして。



 いつも賑やかだった行列。楽しそうだった仲間たち。待ち時間が長くなっていたって、列が長くなっていったって。
 「ちょっと遅すぎたか」と苦笑しながら、最後尾に並んでいた仲間。「遅いからだ」と笑う声も聞こえた、前の方から。「もっと早くに来れば、此処だったぞ」と。
 並び損ねてしまった行列。…行く度に消えた、仲間たちと一緒に並ぶ夢。ソルジャーだった前の自分は、順番を譲られてしまうから。「どうぞ」と列の一番前が空いてしまうから。
「…ソルジャーになる前は、ぼくだって列に並べたのに…」
 行列があったら、一番後ろに並んでそのまま待てたのに…。ぼくの順番が来るまでの間。
 ぼくの後ろに並ぶ人もいたけど、前の人も並んだままだったよ。…ぼくがいたって。
「そうだったよなあ…。俺と一緒に並んだりな」
 二人でいた時に列を見付けたら、並びに行ったもんだった。「何の列だ?」って訊きながらな。
「うん、順番を取ったりもして…」
 行列が出来るって分かってた時で、二人一緒じゃなかった時。
 ぼく、ハーレイの代わりに並んでいたっけ、「並んでるから早く来て」って思念を飛ばして。
 おやつの時にも、試食の時も…、と懐かしく思い出す光景。
 列があったら、「二人分だよ」と言いながら並んだ前の自分。行列の一番最後の場所に。
 「ハーレイが後から来るんだから」と、二人分の順番を待っていた。ハーレイが来るまで、一人並んで。後ろに誰かがやって来たなら、「ぼくは一人で二人分だよ」と説明をして。
 そのハーレイが順番を取っていてくれたこともあった。「早く来いよ」と飛んで来た思念。
 初めから二人で出掛けたことも、何回だって。
 新作のお菓子や試食の情報、それを二人で聞き付けて。並びに行こうと、誘い合って。



 ハーレイと二人で並んでいたのに、消えてしまった素敵な時間。順番が回って来るまでの間に、色々話して、「まだかな?」と伸び上がったりもして。
 あの行列が好きだったのに。…とても幸せな待ち時間だったのに。
「行列…。前のぼくだけは行列が駄目で、ホントにぼくだけ…」
 ハーレイは行列してたのに…。キャプテンだって、偉かったのに。
 ソルジャーの次に偉い立場だったよ、キャプテンは。…だから、恋人同士だったことも秘密。
 でも、ハーレイは並べたんだよ、みんなと一緒に行列をして。
「エラたちだって並んでいただろ」
 ゼルもブラウも、ヒルマンもだ。…フィシスは行列に来ちゃいなかったが…。
 もしもフィシスが並んだとしても、行列は消えなかっただろう。俺やゼルも並んだんだから。
 前のお前だけだ、いわゆる特別扱いってヤツは。
「それはそうだけど…。そうなんだけれど…」
 ハーレイだって並べた行列、どうしてぼくだけ駄目だったの?
「お前が自分で言ってる通りに、ソルジャーだったからだ」
 船で一番偉いわけだし、そのソルジャーを並ばせるような仲間は一人もいないってな。
 順番をサッと譲ってこそだぞ、あのシャングリラの仲間だったら。
 それに俺はだ、キャプテンってトコが重要なんだ。…シャングリラという船のキャプテンだぞ?
 キャプテンは船の仲間たちを優先しなければならん。自分のことを考えるよりも前に。
 あの船で卵を食ったのも俺が一番最後だったんだから、とハーレイが挙げた卵というもの。
 白い鯨に改造した後、シャングリラで育て始めた鶏。最初は貴重品だった卵が少しずつ増えて、皆に一個ずつ行き渡るようになった時。
 …ハーレイはようやく卵を食べた。それまで食べずに、仲間たちに譲り続けた卵を。一人に一個あるわけなのだし、ハーレイも一個、卵を食べてもいいのだから。
 長いこと貴重品だった卵。そのシャングリラ産の卵を、一番最初に食べていたのが前の自分。
 行列に並ぶ必要が無かったソルジャーだから。
 貴重な卵で栄養をつけて、強大なサイオンを維持することが大切だと皆が考えたから。



 一事が万事で、行列さえも無かったソルジャー。逆に行列していたハーレイ。
 シャングリラで飼っていた鶏の卵、それを食べたのも最初の一人と、最後の一人。船での立場は二人とも皆より上だったのに。ソルジャーの次に偉いのが、キャプテンという認識だったのに。
「前のハーレイとぼく、立場が違い過ぎだったんだよ!」
 どっちも偉い筈なのに…。ぼくばかり特別扱いをされて、ハーレイはそれほどでもなくて…。
「ソルジャーとキャプテンだったんだしな。…そんなモンだろ」
 お互いの仕事の内容からしても、妥当な扱いだと思うがな?
 前のお前は、仲間たちを導くのが仕事。精神的な支えだったし、他のヤツらと同列ではな…。
 マズイだろうが、全く同じに扱っていたら。…特別だって所を強く押し出さないと。
 逆に俺の方は、親しみやすさが必要だった。船の仲間が相談しやすい、頼れるキャプテン。船の中のことなら、何でも任せておいてくれ、とドンと構えていないとな。
 そのキャプテンが偉そうだったら、誰も相談しに来やしない。…それでは駄目だ。
 行列にだって並ばないとな、貴重な情報収集の場だぞ?
 新作の菓子や料理の評判はもちろん、船のヤツらの噂話も聞ける。列に並んでいる間にな。
 しかし、ソルジャーは全く違う立場で、俺みたいに列に並ぶわけには…。
 偉いって所だけは同じなんだがな…。そのせいで、俺とお前が恋人同士だったということも…。
「誰にも絶対言えなかったし、一緒に行列も出来なかったんだよ!」
 ハーレイと並びたかったのに…。
 ソルジャーになる前にやってたみたいに、二人で行列、したかったのに…!
 ホントに一度も出来ないままだよ、恋人同士になった後には…!
 恋人同士で並んでいたなら、もっとずっと楽しかったのに…!



 きっとそうだ、と悔しくてたまらない行列。並んで待つのが楽しい行列。
 ハーレイと恋人同士になった時には、もう行列は何処にも無かった。あったけれども、無いのと同じ。前の自分が近付いた途端、行列は消えてしまったから。ソルジャーに順番を譲ろうとして。
 もっと昔は、ハーレイと友達同士だった頃には、何度も二人で並んだのに。
 ソルジャーにされてしまうよりも前は、並ぶのが当たり前だったのに。
 二人で出掛けて列に並んだり、順番を取ったり、取って貰ったり。
 いつも二人で並んだ行列。「もうすぐかな?」と前を眺めて、貰える物に心をときめかせて。
 新作のお菓子や、試食用の料理。それを貰ったら、ハーレイと感想を語り合ったりもして。
「…恋人同士で行列、したかったんだよ…」
 みんなの前では、恋人同士だって言えなくても。…ソルジャーとキャプテンだったとしても。
 それでも二人で並べていたなら、きっと幸せだったから…。
 友達同士で並んでた頃と、同じように楽しかった筈だから…。
 二人だったら。…ハーレイと二人で行列出来たら、ホントのホントに幸せだったと思うから…。
 だけど、行列、出来ないまま。…ぼくが行ったら、行列はいつも消えてしまって。
「お前、そればっかり言ってたからなあ…」
 あれは何とか出来ないのか、と俺に相談したりして。「キャプテン権限で何とかしろ」とか。
 やたらと無茶を言ってくれたが、無理だったものは無理だったわけで…。
 青の間まで作られちまったお前だ、行列の件も諦めて貰うしかなかったってな。
 しかし、今度は出来るだろうが。…俺と行列。
 誰も「駄目だ」と言いやしないし、お前が行ったら行列が消えることだって無い。
 今度のお前はソルジャー・ブルーに似てるってだけの、俺の恋人で嫁さんなんだし。
「並べるの、うんと先だけど…」
 ぼくが大きくならないと駄目で、ハーレイとデートに行けなくちゃ駄目。
 行列が出来る所に出掛けて、ハーレイと二人で並ぶんなら。…チビのぼくでは、デートも無理。
 まだ行列には並べなくって、行列のある場所にも行ったり出来なくて…。
「それはそうだが、出来ないよりマシだ」
 いつかは俺と並べるだろうが、行列ってヤツに。…恋人同士で、手を繋いで。
 その日を楽しみに待っておくことだな、チビのお前は。
 でもって、俺は、だ…。



 明日はパン屋で行列だ、とハーレイに苛められたけど。
 「チビが学校に行ってる間に、お前のお母さんと並んでこよう」と言われたけれど。
 そのハーレイが明日はパン屋の前で行列、こだわりの食パンを買うのなら…。
(ハーレイと同じ食パンを食べられるよ…)
 今日と明日しか売られないらしい、パン屋の御主人の御自慢のパン。材料と焼き方にこだわったパンで、大勢の人が行列するパン。
 自分は行列出来ないけれども、母もハーレイも並びに行くなら、同じ食パンが手に入る。
 前の自分とハーレイが一緒に並んでいた頃、新作のお菓子や試食用の料理を貰ったように。同じ物を列に並んで手に入れ、あの船で食べていたように。
(…ぼくは並びに行けないけれども、おんなじ行列で、おんなじ食パン…)
 今はそれだけで我慢しておこう。同じ行列で手に入れたパンを、お互いの家で食べるのだから。
 自分が並びに行けない代わりに、母が並んでくれるのだから。
 その母がハーレイと行列で出会って、自分の代わりにお喋りするのは癪だけれども、仕方ない。チビの自分はデートも無理だし、今は我慢しかないのだし…。
「…ハーレイ、忘れずに並んでよ?」
 ちゃんと時間は教えたんだし、焼き上がる前にパン屋さんの前で行列してね。
 そしたら、お揃いのパンになるんだよ、ハーレイのパンも、ぼくの家のも。
 お揃いのパンで朝御飯だよ、明後日の朝は!
「そう来たか…。明後日の朝はお揃いのパンか」
 食パンらしいし、おふくろの夏ミカンのマーマレードで食うんだな?
 お揃いってことは、そこまで揃えるつもりだろ、お前?
「決まってるじゃない!」
 最初はそのままで食べてみるけど、トーストには絶対、マーマレード。
 だからハーレイもマーマレードで食べてね、ちゃんと食パンを買いに行けたら。
「よし、頑張ってくるとするかな」
 お前の夢の行列だしなあ、気合を入れて忘れずに行くさ。…食パンを買いに。
「ありがとう! ハーレイ、行列、約束だよ?」
 ママにも頑張って並んで貰うね、パンが買えるように。ハーレイに負けない時間から行って。
 もしも会ったら、お喋りは無しでいて欲しいけど…。それは無理だから、仕方ないよね…。



 ママとお喋りしたっていいよ、と渋々、認めるしかない行列。
 此処で「駄目!」と駄々をこねたら、「なら、やめておくか」と言われそうだから。ハーレイは行列をしてくれなくて、お揃いのパンが手に入らないから。
(…我慢しなくちゃ…)
 我儘を言わずに我慢したなら、明後日の朝は、きっと幸せ。
 ハーレイも母も行列に並んで、手に入れるだろう特別なパン。こだわりの材料で焼いた食パン、それがお揃いのパンになる。ハーレイの家と、自分の家と。明後日の朝は、同じ食パン。
(…夏ミカンのマーマレードを、うんとたっぷり…)
 ハーレイも同じのを食べてるんだよ、と思い浮かべながら、幸せ一杯で頬張るトースト。きっと美味しいに違いないから、ハーレイだって喜ぶだろう。
 そしていつかは、そのハーレイと二人で並ぶ。明日は並べない行列に。
 パンでも、なんでも、二人で行列。
 もう行列は消えはしないから。それに、手を繋いで恋人同士で並べるから。
 長い時間を待たされたって、二人一緒なら、幸せな時間。
 「もうすぐかな?」と伸び上がったら、「どうだかなあ?」とハーレイの声が返ったりもして。
 きっと幸せに違いないから、二人一緒に並びたい。
 どんなに長い行列でも。
 建物をぐるりと取り巻いてしまうらしい、宇宙遺産の木彫りのウサギの特別公開の行列でも…。




             並びたい行列・了


※ブルーが見付けた、パン屋の前に出来た行列。そして思い出した、前の生での行列のこと。
 前のブルーが列に並んでも、行列は消えてしまったのです。今度は、ハーレイと一緒に行列。
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(亜空間理論…)
 ハーレイが勉強してたヤツ、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
 ふと目に留まった本のタイトル、宇宙船のパイロットを目指す人たちの必読書らしい。亜空間についての知識が無ければ、ワープなど出来はしないから。
(…前のハーレイなんだけれどね?)
 亜空間理論の本を読んでいたのは。「サッパリ分からん」とぼやきながらも。
 シャングリラのキャプテンに就任した後、操舵の練習を始めたハーレイ。厨房で料理をしていた頃とは、違う世界に飛び込んで行って。
 キャプテンには必要なことだから、と懸命に努力し続けていた。操舵は出来なくてもいいという条件付きで、選任されたキャプテンなのに。「船を纏めてくれればいい」と。
 けれどハーレイは、それで良しとはしなかった。船を動かせるキャプテンになろうと、専門書を読んでの勉強から。やがてシミュレーターでの練習、ついには実地。
 そうして出来たキャプテン・ハーレイ。誰よりも巧みにシャングリラを動かし、細かい癖だって掴んでいた。白い鯨になる前も、後も。
(こっちの本は参考書…)
 パイロット養成校での授業について行くための、何種類もの参考書たち。難解そうなタイトルが幾つも、きっと自分が読んだって…。
(分からないよね?)
 参考書に書いてある中身。参考書でも、まるで分からない筈。
 学校の成績はトップだけれども、パイロットの勉強はしていないから。義務教育の間は、学校で教えはしないから。
 亜空間理論も、他の参考書も。…日々の暮らしに必要無いから、義務教育では習わない。



 だから分からない、専門分野。パイロットになりたい人たちだけが学ぶこと。
(この辺りは、前のぼくたちが生きてた時代と同じ…)
 遠く遥かな時の彼方の、機械が支配していた時代。歴史の授業で学ぶSD体制の時代。
 あの時代でも、そうだった。最初は誰もが全く同じ教育を受ける。今の自分が通う学校、其処で教わる義務教育。
 授業の中身はSD体制の時代と全く違うけれども、どの子も同じに学ぶということ、その点では前の自分が生きた時代と変わらない。基本の教育は誰でも同じで、知識も同じ。
 けれど、その後が変わってくる。あの時代と、今の時代とでは。
(ぼくは行かないつもりだけれど…)
 義務教育を終えた後には、上の学校が待っている。其処へ行きたい子供たちのために。
 上の学校に進むのだったら、自分がやりたいことを学べる学校へ。
 どんな学校でも自由に選んで、好きなコースに入学出来る。これが前の自分の時代との違い。
(パイロットになるための学校だって…)
 卒業後の適性検査で落ちてもかまわないなら、今の自分でも志願は出来る。弱すぎる身体では、とてもなれないパイロット。適性検査で落っことされるに決まっている。
 それでも学んでみたいのだったら、入学出来るし、卒業も出来る。
 今の時代はそういう時代。
 「あなたには向いていませんから」と、門前払いは有り得ない。
 実力不足で授業についていくのは無理だ、と判断されたら入れないけれど。無理に入っても後で苦労をするだけなのだし、他の学校を勧められるけれども。



 今の自分でも入れそうな、パイロット養成校という所。入学資格は多分、あると思う。宇宙船を実際に動かすつもりもないのに、入る人たちはいるようだから。
 そういう分野を勉強したい、と入学する人。其処の出身の作家もいるような時代。本物の知識を使って書いているから、パイロットたちに大人気。本格派の宇宙小説だ、と。
(幼年学校だと、パイロットは…)
 あるのだろうか、そういう職業を目指すコースも。
 幼年学校は、子供ばかりが行く学校。人間が全てミュウになった時代ならではの子供の学校。
 義務教育を終えた後にも、心も身体も子供のままの子、そういった子が通う場所。
 専門の知識は学ぶけれども、子供でもついてゆけるようにと、ゆったり組まれたカリキュラム。休み時間を多めに取ったり、遊ぶための時間が設けてあったり。
 通う子供が困らないよう、義務教育の時代と変わらない雰囲気が売りらしいけれど…。
(勉強したい分野は色々なんだし…)
 パイロットを目指すコースもあるかもしれない。
 いつか大きく育った時には、適性検査だけで済むように。子供の身体では合格できない、受験も出来ない適性検査。それさえ受ければ、もう直ぐにだってパイロットになれる知識を、子供の間に身につけておく。幼年学校に通う間に。
(幼年学校は嫌だけどね?)
 チビのままで育たなかったとしたって、ハーレイと結婚したいから。
 十八歳になったら結婚出来る年になるから、チビの自分でもハーレイと結婚出来る筈。せっかく二人で暮らせるのだから、学校になんか行きたくはない。
 幼年学校に通いながらの結婚だなんて、絶対に御免蒙りたい。
(パパとママ、ぼくには向いてるつもりでいるんだから…)
 冗談交じりに言われもするから、チビのままだと入学手続きをされてしまいそう。学校へ下見に連れて行かれて、「此処がいいから」と入学するよう勧められて。



 それは嫌だし、早く大きくなりたいんだけど、と帰った二階の自分の部屋。
 幼年学校には入りたくないし、背丈を伸ばして早く大きくならなくちゃ、と。前の自分と同じに育てば、行かなくて済む幼年学校。子供のための学校だけに、入学資格も無くなる筈。
(幼年学校じゃなくっても…)
 他の学校でも、行きたくはない。上の学校に進むよりかは、ハーレイと結婚する方がいい。断然そっちで、とうの昔にそのつもり。「上の学校には行かないよ」と。
 これにしたって、前の自分が生きた時代との大きな違い。
 自由に選べる、この先の進路。義務教育を終えた後には、何をするかも、どう生きるかも。
(前のぼくたちの時代だったら…)
 ミュウだと判断されなかったら、成人検査をパスした子供は大人の社会に向けて旅立つ。直ぐに大人になれはしないし、そのための準備段階から。
 教育ステーションに移って、四年間、色々な専門コースの勉強をする。それが済んだら、大人の社会の仲間入り。宇宙に散らばる星へと散って。
(だけど、機械が決めてたんだよ…)
 一般人になって養父母にだとか、メンバーズだとか、研究者だとか。
 教育ステーションでの成績にも左右されるけれども、それよりも前に、何を学ぶのか。どういう勉強をしてゆくのかを、自由に選べはしなかった。
 成人検査の時に機械が調べた適性、それに応じて決められた教育ステーション。
 優秀だからメンバーズに、とエリートコースに送り込まれたり、どうやら平凡な子供らしいと、一般人向けのステーションに振り分けられたりと。
 子供時代には、誰だって夢があっただろうに。
 メンバーズ・エリートになりたいだとか、大きくなったらパイロットだとか。
 けれど、機械が決めてしまう進路。夢は無視して、適性だけで。
 パイロット希望だった子供が、一般人のコースに送られるとか。自分も子供を育ててみたい、と夢見ていた子が、メンバーズの道に送られるとか。



 希望が通りはしなかった時代。望んだ道が待っているとは限らなかったSD体制の時代。
 望み通りのコースに進んだ子供もいただろうけれど、夢が潰えた子だって沢山。そういう場合は記憶処理だってしただろう。機械にはそれが出来たのだから。
(もしも、前のぼくが成人検査をパスしていたら…)
 ミュウだと判断される代わりに、ちゃんと合格していたならば。
 どうなったのだろう、前の自分の人生は。どういう風に生きたのだろう…?
(何も覚えていなかったから…)
 子供時代の記憶をすっかり失くしていたから、望みのコースが何だったのかも分からない。前の自分が夢見たコースも、なりたいと望んでいたものも。
(ソルジャーじゃないことだけは確かだけどね?)
 今の時代も大英雄のソルジャー・ブルー。前の自分はミュウの初代の長だった。
 誰に訊いても、ソルジャー・ブルーの職業は「ソルジャー」なのだけれども、ソルジャーは船の仲間たちが名付けてしまった職業。シャングリラにいたミュウたちが。
 昔からあった仕事ではないし、それになりたい筈がない。ソルジャー以前に、ミュウにだって。
 社会から弾き出された異分子、見付かれば処分されたのがミュウ。
 そんな将来を夢見るような子供はいないし、きっと違う未来を望んでいた筈。
 ごくごく平凡に子供を育てる一般人とか、研究者だとか、技術者だとか。
(…パイロットだとか、メンバーズとかは…)
 今と同じに弱かったのだし、多分、考えてはいなかったろう。なれる筈など無いのだから。
 それでも、あった筈の夢。大人になったら、こういう風に生きていこうと。



 前の自分が望んだ道。夢見ていたのに、選ぶことさえ出来なかった道。
 いくら機械が決めた時代でも、運が良ければ、その入口に立てただろうに。ミュウにならずに、成人検査をパスしていたら。教育ステーションに入れたならば。
(前のぼくの夢…)
 何だったのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りに来てくれたハーレイ。
 前のハーレイなら、将来の夢は何だったろう、と思ったから問いを投げ掛けた。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで向かい合わせで。
「えっとね…。ハーレイが子供だった時…。大人になったら、何になりたかったと思う?」
 どういう夢を持ってたのかな、ハーレイの将来の夢って、何?
「はあ? 何って…。俺は教師だが?」
 ガキの頃には、プロの選手を夢見たこともあったんだが…。
 教師になろうって夢もあったし、夢はきちんと叶えたぞ。お前も知ってる通り、教師だ。
「今じゃなくって、前のハーレイだよ」
 前のハーレイは何になりたかったの、成人検査を受ける前には…?
「おいおいおい…。覚えているわけがないだろう」
 今の俺の身体に生まれ変わる前から、そんなの覚えちゃいなかったぞ。
 成人検査と、その後の人体実験で記憶をすっかり奪われちまって、何もかも全部。
 前のお前もそうだったろうが、子供時代の記憶なんかは無かった筈だ。
「分かってるけど、ちょっと気になっちゃって…」
 今だと好きに選べちゃうでしょ、将来は何になりたいか、って。
 本当になれるかどうかはともかく、なろうとして頑張ることは出来るよ。それに向かって。
 だけど、前のぼくたちが生きた時代は違ったから…。
 これになりたい、って夢を持っていたって、機械が「駄目」って言ったらおしまい。



 「なりたい」と「なれる」は違った時代、と説明した遠い昔のこと。今とは違った、と。
 機械が進路を決めた時代で、個人の希望は通らなかったと。
「前のぼく、何になりたかったか、さっき考えていたんだよ」
 もちろん覚えてないけれど…。ハーレイと同じで、何も覚えていないんだけど…。
 前のぼくがなりたいと思っていたもの、ソルジャーじゃなかったことだけは確かだから…。
「そりゃそうだろうな、ソルジャーだけは有り得んな」
 ソルジャーなんて職業もそうだし、ミュウになるって未来も考えたりしない。
 前のお前の将来の夢は、まるで叶わなかったんだな。…何を夢見ていたにしたって。
「でしょ?」
 夢とは違いすぎる未来で、きっと想像もしていなかったよ。ミュウの長になる自分なんて。
 でも、前のハーレイなら、案外、パイロットになっていたのかも…。
 ミュウにならずに、成人検査をパスしていたら。
 ぼくが最初に考えてたのは、そっちなんだよ。前のぼくが成人検査をパスしていたなら、どんな未来が待っていたかな、って。
 前のぼくが何になっていたかは分からないけど、ハーレイだったらパイロット。宇宙船のね。
 成人検査で適正あり、って結果が出ちゃって、そういう教育ステーションに行って。
 シャングリラの代わりに、うんと大きな客船とかを動かすんだよ。遠く離れた星から星へ。
「どうだかなあ…。料理人かもしれないぞ」
 元は厨房出身なんだし、料理人が向いていたんじゃないか?
 パイロットよりかは、前の俺らしい職業のような気がするが…。
「料理人かあ…。その可能性も充分あるよね…」
 前のハーレイ、料理も得意だったんだし…。
 キャプテンの前は厨房だったし、料理人っていうこともあったかな…?



 そっちの道に進んだだろうか、と考えた前のハーレイの未来。成人検査をパスしていたら。
 けれど、料理人よりはパイロットの方が優れた人材。社会の役に立つ才能。
 機械が判断していたのだから、ハーレイはパイロットになっていたかもしれない。料理人よりも稀有な存在だから。誰にでも出来るものではないから。
「…ハーレイ、やっぱりパイロットになっていたんじゃないの…?」
 料理人だと思っていたって、進路は機械が決めてたんだよ?
 パイロットの才能を持っているなら、そっちに行かせてしまうんじゃない?
 料理が出来る人は沢山いるけど、パイロットになれる人は少ないし…。今の時代も少ないよ。
 だから、前のハーレイにパイロットの才能があったら、そのコースになったと思うんだけど…。
「うーむ…。まるで無いとは言い切れないな」
 俺の頭の中を探って、パイロット向きだと判断したなら、そういう教育ステーションか…。
 パイロットになるための勉強ばかりをするってわけだな、四年間も其処でみっちりと。
「それが前のハーレイの夢だったのかもしれないよ?」
 大きくなったらパイロットだ、って宙港とかで飛んで行く船を見上げてたかも…。
 その夢を知らずに叶えていたかも、シャングリラで。
 前のハーレイはキャプテンだったし、あんなに大きな船を動かしていたんだから。人類の船より遥かに大きい、鯨みたいなシャングリラを。
「いや、俺としては料理人の方だと思うがな?」
 前の俺がなりたかったものがあるとしたなら、パイロットよりは料理人だ。
「なんで?」
 どうして分かるの、パイロットじゃなくて料理人だ、って。
 記憶を全部失くしていたのに、そんなの分からないじゃない。どれがハーレイの夢だったか。
「それがそうでもないってな。…前の俺ってヤツに関しては」
 前のお前も知ってた筈だぞ、俺が厨房に入った理由。
 厨房で料理をしてるヤツらの手元を見てたら、どうにも危なっかしい気がしてなあ…。
 「貸してみろ」って入って行ったら、身体が勝手に動いちまった。こうやって、こう、と。
 料理が身体にしみついてたんだ、相当、料理をしていた筈だぞ。…前の俺はな。



 パイロットになるのが夢の子供だったら、料理に興味は無いだろう、と言われればそう。
 養父母の家でせっせと料理をしている代わりに、きっと宙港に行くだろう。宇宙に飛び立つ船を眺めに、いつか自分もあの船で宇宙を飛んでゆこうと。
「そっか…。じゃあ、前のハーレイが成人検査をパス出来ていても…」
 パイロットを育てる教育ステーションに行って勉強しなさい、って言われちゃったら…。
 夢が台無しだね、料理人になりたかったなら。…いつもお料理していたんなら。
「きっとガッカリしてたと思うぞ、なんてこった、と」
 此処じゃ料理も出来やしない、と溜息の日々というヤツだ。…周りはウキウキだろうがな。
 パイロットになれば地球にも飛んで行けるし、憧れの星に一歩近付いたんだから。
「でも、ハーレイはガッカリだよね…。料理人になりたかったんだから」
 その進路、変えられないのかな?
 途中で変えるの、あの時代だと無理だよね…。パイロットだったら、パイロット。
 大きな船を任されるのか、同じパイロットでも下っ端になるかの違いくらいで。
「そんなトコだな。一度決まったら、あくまで其処での成績次第の振り分け程度だ」
 もっとデッカイ船が良かった、と思っても、小さな輸送船の交代要員にしかなれないだとか。
 でなきゃ、勉強の成果を生かして通信士だとか、整備士だとか…。
 進路を丸ごと変えてしまうというのは、結婚以外じゃ無理だった筈だ。
 結婚するなら仕方ない、と一般人向けの教育ステーションに送ってくれるってな。
 …待てよ、その手があったんだから…。
 料理人だって、一般人向けの社会を構成出来たんだから…。



 それだ、とハーレイはポンと手を打った。結婚して料理人の養成コースに入ればいい、と。
 パイロットになるコースは向いていないから、と一般人向けのコースに切り替え、其処で一生の仕事に決めるのが料理人。元々才能はあったわけだし、なれるだろうと。
「アルテメシアにも料理人は大勢いたからな。育英都市でもレストランは人気だ」
 子連れの家族がよく行く場所だし、レストランに勤める料理人の種類も色々だってな。
 結婚しないで料理一筋のヤツもいればだ、家に帰れば子供の父親っていうのもいたし…。
 つまり、俺でも充分になれた。結婚の道を選んだ時点で、料理人の道も開けるわけだ。
「結婚って…。それで教育ステーションから出て行くだなんて…」
 出来るの、途中で変えちゃうなんて?
 パイロットになるための勉強を捨てて、一般人向けのコースに移るだなんて…。
「マザーが許してくれればな」
 パイロット向けの教育ステーションだと、どういう名前だったか俺は知らんが…。
 マザー・イライザしか知らんわけだが、似たようなのがいる筈だ。そいつが結婚の許可を出してくれれば、ステーションから出て行ける。未来の嫁さんと一緒にな。
「だけど…。前のハーレイ、キャプテン・ハーレイになっちゃえるような人材だよ?」
 凄い才能を持ってたんだし、無理なんじゃない?
 いくら結婚するって言っても、お許し、出そうにないんだけれど…。
「結婚したいと希望を出すのは、進路変更の最強の方法だったという話だが?」
 他にも方法はあっただろう。適性あり、と送り込まれても、途中で身体を壊しちまうとか…。
 そういう時には仕方ないしな、進路変更もやむをえない。
 しかし、自分の我儘を叶えてステーションから出て行くんなら、結婚だ。
 そいつが一番強かったわけだ、あの時代に自分の意志で進路を変えるんならな。



 スウェナ・ダールトンがそうだったろうが、と挙げられた例。
 前の自分は、子供時代しか知らないスウェナ。ジョミーの幼馴染だった少女。
 彼女はエリート育成のための教育ステーション、E-1077に行った。其処で幼馴染のサムと再会して、キースと出会った。いつも三人で過ごしたという。
 けれど、最後の四年目に変えてしまった進路。メンバーズを目指すエリートをやめて、一般人のためのコースへと。結婚したい相手がいたから、サムやキースに別れを告げて。
「そんなケースでも、マザー・イライザは許可を出したんだ」
 本当にスウェナの我儘ってヤツで、それ以外の何でもなかったのにな。
 才能だけなら、スウェナは充分、メンバーズになれたそうだから…。サムと違って。
「スウェナって…。あれはマザー・イライザの計算なんじゃあ…?」
 サムやシロエもそうだったんでしょ、キースの才能を開花させるためのプログラム。
 それだけのために集めた人間、スウェナもその中の一人だったわけで…。
 サムと同じで、ジョミーの幼馴染だから。
 スウェナをキースに近付けておいて、結婚で離れさせちゃうのも、きっとプログラムだよ。
「そいつは無いな。…キースと出会った方はともかく、離れた方は違うだろう」
 もしも計算していたのならば、スウェナがステーションから出て行く時に記憶を処理した。
 キースやサムと一緒にいたことは特に処理する必要もないが…。
 セキ・レイ・シロエ。…シロエの存在を記憶から消しておかんと、後々、マズイことになる。
 なにしろ、ミュウだというだけで選ばれた人間だからな、シロエというのは。
 いずれはキースに処分させようと、そのつもりだけで連れて来たんだ。あのステーションに。
 その程度の存在だったわけでだ、スウェナがシロエを忘れていたって問題はない。下級生の中の一人に過ぎんし、いつかキースと再会したって、「覚えていない」で済むことだ。
 俺がマザー・イライザの立場だったら、計算ずくでスウェナを旅立たせるなら、シロエの記憶は消しておく。特殊な存在を覚えたままだと、万一ってことがあるからな。
 現にシロエの記憶を消されないまま、スウェナがいたのが後で厄介なことになるんだから。
「そうだね…」
 スウェナがシロエを忘れていたなら、面倒は起きなかったよね…。



 前の自分がいなくなった後、ジルベスターからノアに戻ったキース。彼がスウェナから渡されたピーターパンの本。…シロエの遺品。
 もしもスウェナが、それに出会った時、シロエを覚えていなかったなら…。
「ピーターパンの本を見たって、スウェナには何の意味も無いよね」
 いったいどういう価値があるのか、キースに見せたら何が起こるか。
 …スウェナはシロエを覚えていたから、キースが処分したMのキャリアが誰だか分かった。
 シロエの名前でピンと来たから、高いお金を支払ってまで本を買い取って…。
 だけどスウェナは、シロエの本を知っていたのかな?
 ピーターパンの本を持っていたこと、知っていそうにないんだけれど…。シロエの宝物だから。
「そいつは本の持ち主の名前で分かるじゃないか」
 あの本をスウェナに売り付けたヤツも、当然、知っていたろうさ。
 「セキ・レイ・シロエ」と、シロエが自分で名前を書いておいたんだから。
 シロエって名前を聞いちまったら、もう買い取るしかないってな。…スウェナとしては。
「そうだよね…」
 キースを動揺させるためには、充分すぎる材料だよ、あれ…。
 本にはシロエのメッセージが仕込んであったんだから。キースが誰かを教える映像。
 シロエが命懸けで撮影して来た、フロア001の映像…。



 前の自分が生きた時代は、まだ伏せられていたその事実。マザー・システムが生きていたから。
 だから前のハーレイも知りはしなかった。
 セキ・レイ・シロエという少年の名前は、アルテメシアで救い損ねたミュウの子供として覚えていただけ。その後のシロエのことは知らない。彼がどう生きて、何を残したかも。
 そのシロエが撮ったフロア001の映像。それがキースに渡ったけれど。
 スウェナがシロエを忘れていたなら、そんな事件は起こらない。スウェナはピーターパンの本の価値に気付きはしないし、それを買おうとも思わないから。
 けれど、キースは映像を見た後、フロア001へ向かったわけだし…。
「…全部、マザー・イライザの計算だったかもしれないよ?」
 スウェナの記憶を消さないままでおいたこと。
 後でキースにシロエの本を渡させるように、きちんと計算したんだよ。
 だってそうでしょ、キースはシロエのメッセージを見て、フロア001に行ったんだから…。
「お前なあ…。深読みし過ぎだぞ、それは」
 いくらマザー・イライザが狡賢くても、相手は紙の本なんだ。…ピーターパンの本は。
 そいつがレーザー砲で撃たれた後まで残って、回収されるなんてことは普通なのか?
 どう考えても、計算ずくでは有り得ないってな。
 しかも宇宙海軍を退役しちまうような、飲んだくれの男がコッソリ隠したままだたったなんて。
 そんな所までコントロール出来ると思っているのか、マザー・イライザが?
「…無理そうだね…」
 シロエの本が残っていたのもそうだし、回収した人が退役しちゃうのも…。
 スウェナが離婚してジャーナリストになっていたのも、宇宙鯨を追い始めたのも。
 フロア001のことなら、あの映像が無かったとしても、キースは聞いていたっていうし…。
 其処へ行けってシロエに直接言われたらしいし、いつかは自分で行っちゃうよね。
 シロエが残した映像なんかは見ないままでも、機会があれば…。



 今の時代だから分かること。キースがE-1077を処分したこと。
 グランド・マザーの命令で処分しに出掛けた時、キースはフロア001に入った。候補生時代は入る機会が無かった場所へ。…キースが創り出された所へ。
 シロエのメッセージが無かったとしても、彼は同じに向かっただろう。其処だとシロエが言っていたから、確かめろと言われていたのだから。
「…キースがフロア001に入れないままで卒業したのも…」
 マザー・イライザの計算だものね、まだその時期が来ていないから、って。
 入れる時期がやって来たのが、たまたまシロエのメッセージを見た後になっただけだよね…。
「ほらな、やっぱり単なる偶然ってヤツだ」
 キースの件は全く絡んでいなかったってな、スウェナの進路変更には。
 出会うってトコだけが大切なことで、離れてゆく方はどうでも良かった。…マザー・イライザにとってはな。もう充分に役に立ったし、勝手にしろと言った所だ。
 計算ずくなら、シロエの記憶を消してから送り出すからな。…シロエは危険すぎたんだから。
 そいつをしないで結婚の許可を出したってことは、機械でも修正不可能だからで…。
 恋に囚われちまったヤツらは、言うことを聞きやしないってな。
 つまりは、前の俺が結婚しようと考えたなら…。
 パイロットのための教育ステーションから、一般人への進路変更は可能ってことだ。
 メンバーズになれそうだったスウェナでさえも、結婚を理由にステーションを離れたんだから。
 たかがパイロットの卵の俺なら、もっと簡単だったろう。
 代わりの人間は幾らでもいるし、パイロットから料理人にはなれる。
 運命の相手と恋に落ちたら、パイロットの道にもお別れだってな。



 結婚するついでに、料理人になって一般人だ、とハーレイは自信たっぷりだから。
 料理人という職業に就いて、何処かの星で平凡な暮らしをするそうだから…。
「ハーレイなら、ホントにやりそうだね」
 一般人向けのコースに行くなら、料理人になるのがいい、って。
 そういう教育を受けられるステーションに行くって、きちんと料理を勉強する、って。
「おっ、そう思うか?」
 前の俺は料理人になれそうだってか?
 パイロット向けの教育ステーションを飛び出した後に、一から出直しで勉強をして。
「きっと出来るよ、ハーレイだったら」
 厨房で料理を作っていたのに、キャプテンになって船を動かしていたんだもの。
 そっちの方がよっぽど凄いよ、料理人からパイロットだよ?
 逆の方がずっと、簡単なのに決まっているよ。…難しい本を沢山読んだりしなくてもいいし。
 今のぼくが亜空間理論の本を読んでも、意味はちっとも分からないだろうと思うけど…。料理の本なら、多分、分かると思うから。こういう材料で、こう作るんだ、って。
 だからね、前のハーレイがパイロットから料理人になるのも、きっと簡単。
 料理の基礎は身体が覚えてたんだし、後は勉強するだけだもの。
 だけど…。前のハーレイはそれでいいんだけれど…。



 どうやら料理人になりかったらしい、前のハーレイ。ただし、パイロットか、料理人か、二つに一つで選ぶのならば。他の選択肢が無かったならば。
 前のハーレイの身体が覚えていた料理の基礎とやら。それを生かせる職業が他にもあったとか、単なる趣味に過ぎなかったとか。その可能性もゼロではないから。
 とはいえ、前の自分よりは絞り込めそうなのが前のハーレイの夢で、将来、なりたかったもの。料理の腕を生かした職業、料理人というのは大いにありそうだけれど…。
「…前のぼく、何になりたいと思っていたんだろう…?」
 ハーレイは料理人の可能性が高いけれども、前のぼくには手掛かりが無いよ。
 ホントになんにも覚えていないし、教わらなくても出来る何かも無かったし…。
 サイオンは上手く使えたけれども、成人検査を受ける前には、サイオン、使っていないしね…。
「前のお前の将来の夢というヤツか…。今のお前とは違うだろうな」
 嫁さんってことはないだろうから、何の参考にもならないぞ。
 今のお前は、俺の嫁さんになるっていうのが目標だしなあ、将来の夢で。
「うーん…。前のぼくの夢、お嫁さんではないと思うけど…」
 でも、ハーレイには会えたと思うよ。…パイロットでも、料理人だとしても。
 ハーレイがどっちをやっていたって、ぼくたち、きっと出会うんだよ。
「違いないな…!」
 出会うんだろうな、まさに運命の出会いってヤツで。…きっと何処かで。
 でもって、前の俺たちが成人検査をパスして出会うんだったら、お前は年下なんだろう。
 俺の方がお前より年上になって、年の差もうんと小さいってな。前のお前と俺よりも。
「…そうなるの?」
 ぼくが年下って、どういう理由で…?
「老けたお前じゃ駄目じゃないか。俺とバッタリ出会った時に」
 人類同士で出会うんだったら、前の俺たちの年の差だったら、そうなっちまう。
 前のお前は、俺より遥かに年上だったわけなんだからな。



 成長を止めたチビだったのはミュウだったからだろ、とハーレイは笑う。
 人類同士だと、そうはいかないと。身体も心もチビの子供に出会う代わりに爺さんだ、と。
「そいつは困るし、お前は年下でいてくれないと…。俺と釣り合いが取れる程度の」
 そしてだ、俺がパイロットから料理人にコース変更しようって時。
 結婚相手はお前だろうな。俺より年下に生まれたお前。
 何処でお前に出会って惚れて、マザーに申告することになるかは分からんが…。
 お前がパイロット養成コースに入れそうな気はしないからなあ、俺が卒業した後だろう。
 パイロットになってから、寄った教育ステーションの宙港でバッタリ会うとか、そういうの。
 次に来る日は…、と学生のお前に約束しては、デートを重ねて。
 結婚しようってことになったら、お前はステーションのマザーに許可を貰う、と。
 俺の方は、お前と一緒に暮らせるようにと、パイロットを辞めて料理人の道に行くわけだ。
 パイロットのままじゃ、ゆっくり家にはいられないからな。…いつも宇宙を旅してばかりで。
 結婚を機会に、料理人になるのが一番だ。そうすりゃ、お前と一緒だしな。
「うん、そうなっていたよね、きっと…!」
 前のハーレイとぼくが、成人検査をパスしていても。
 …二人ともミュウじゃなかったとしても。
 何処かで出会って、結婚して一緒に暮らしていたよね、育英都市は無理だけど…。
 男同士のカップルだったら、子供は育てられないから…。
「確かにな。…大人しかいない星に行くしかないな」
 咄嗟にはノアしか思い付かんが、他にも幾つもあった筈だし…。
 そういう星で二人で暮らして、前のお前は、金髪に水色の瞳なんだな。…アルビノじゃなくて。
「ふふっ、そうだね」
 ミュウじゃないなら、そうなるね。…ぼくの目、水色のままなんだよね。
 そうなっていたら、今のぼくだって水色の目になっていたのかも…。髪の毛だって金髪で。
 でも、ハーレイとは一緒だよね、地球で。…今の青い地球に生まれ変わって。



 きっと、どういう道を歩いても、ハーレイと出会ったのだろう。
 成人検査をパスしたとしても、教育ステーションに進んだとしても。
 何処かで出会って、きっと恋に落ちて、二人で生きて行ったのだろう。互いの進路を、途中から変えてしまっても。
 前のハーレイも、前の自分も、機械が決めた進路を変更してでも、結婚の道を選んだだろう。
 ハーレイがパイロットから料理人になって、前の自分も教育ステーションを離れてでも。まるで全く違う進路へ向かったとしても、幸せに生きてゆけたのだろう。
 そして今度も、ちゃんと出会えた。
 ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた。
 だから上の学校に入学したりしないで、ハーレイと一緒に歩いてゆこう。義務教育を終えたら、結婚出来るから。…十八歳になるのだから。
 前の自分がなりたかったものは謎だけれども、今でも謎のままなのだけれど。
 どんな人生を歩んでいたって、きっと何処かでハーレイと会った。
 ハーレイに出会って恋をしたから、今度も二人で生きてゆく道。二人一緒に暮らせる道。
 その道を早く選びたいから、上の学校には進まない。
 前のハーレイが「結婚したい」と料理人のコースに移るのならば、相手はきっと自分だから。
 パイロットを辞めて、前の自分を選んでくれるのがハーレイだから。
 そういう出会いは出来なかったけれど、きっと何処かで巡り会う二人。
 これから先も離れないから、いつまでも二人、手を繋ぎ合って歩いてゆくのだから…。




              学校と進路・了


※前のハーレイとブルーが何になりたかったのかは、あの時代にも、今も謎ですけれど…。
 どういう道に進んでいたって、きっと二人は出会えた筈。成人検査をパスしていたとしても。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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