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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(んーと…?)
 席は幾つも空いているのに、と眺めたブルー。なんだか変、と。
 学校の帰りに乗り込んだ路線バス。学校の側のバス停から。いつものバスで、混み合う時間とは違うのに。今日も座れる、と開いた扉から乗ったというのに、中で立っている若いカップル。
 立っている乗客はその二人だけ。吊り革を握って、バスの真ん中辺り。
(…ぼく、座ってもいいんだよね?)
 他にも席は空いているのだし、元気そうな若いカップルだから。
 松葉杖を支えにしている人とか、赤ちゃんを抱いた母親などではないのだから。
 大丈夫だよね、と空いた席の一つにストンと座った。お気に入りの一人掛けの席。通学鞄を膝に乗っけて、抱え直す間も気になること。
 どうして二人は席に座ろうとしないのだろう?
 座る場所なら幾つもあるよ、と車内をキョロキョロ見回したけれど…。
(そっか…!)
 バスが走り出したら気が付いた。ほんの少し、車体が揺れたはずみに。
 吊り革を握ったカップルも揺れて、仲良く笑い合っている。「驚いた」とでもいった具合に。
 肩を並べて乗っている二人、お互いの顔は直ぐ隣同士にあるけれど。
(…空いている席…)
 幾つもあるのに、二人掛けのシートが塞がっていた。友達同士らしい人やら、親子連れなどで。端から埋まって、余っていない。二人掛けのシートに限っては。
 自分が座ったような一人用なら、あちこちに空いているけれど。
 何人もが横に並んで座れる後部座席も、両端は空席なのだけれども…。



 後ろから前まで順に数えても、二人掛けの空席は一つも無かった。一人用の座席か、一番後ろのシートの両端に一人分ずつか。
(席はあるけど、二人並んで座れないんだ…)
 二人用の席が空いていないから。後部座席の二人分の空席、それも並んではいないから。
 そういうことなら、二人が立っているのも分かる。席が幾つも空いていたって。
 せっかく二人でバスに乗ったのに、離れ離れは悲しいから。一人用の座席が前後に並んだ場所もあるけれど、それは並んで乗るのとは違う。前後に分かれてしまうだけ。
(一人は後ろを向いて喋らなきゃ…)
 きっと、それだと落ち着かない。二人一緒の気分になれない。顔だけこちらを向いていたって、身体も足も反対向け。首から下は、すっかり全部。
 そんな風に分かれて座るよりかは、並んで立った方がいい。二人一緒に。
(一番後ろの席の両端が空いている分も…)
 端っこ同士に腰を下ろしたら、話すことさえ出来ない有様。先に座っている人たちが気付いて、詰めてくれればいいけれど…。
(詰めて下さい、って頼めないよね?)
 他にも席はあるのだから。前後に分かれて座れる場所なら、ちゃんと空席があるのだから。
 その状態で「詰めて下さい」だと、ただの我儘。
 二人並んで座りたいから、その席を空けてくれませんか、と言いに行くようなものだから。



 これは駄目だ、と気付いた、立っている理由。吊り革を持って並んだカップル。
(ぼくだって…)
 ハーレイと二人で乗っていたなら、そうするだろう。座席が幾つも空いたバスでも、立っている人が他に一人もいなくても。
 乗った途端に、ハーレイに「お前、座れ」と、空いた座席を指差されたって。丁度いいだろ、と一つ選んで促されたって。
(ハーレイ、ぼくだけ座らせるんだよ…)
 並んで座れる席が無いなら、座らせてくれて、ハーレイは側に立つのだろう。前や後ろが空いていたって、座らずに。ハーレイの身体が反対側を向いてしまわないように。
 ハーレイの方が立っていたなら、ちゃんと向き合って話せるから。背の高いハーレイは、身体を屈めて。自分はハーレイの顔を見上げて。
(でも、そんな風に座るより…)
 一人だけで席に腰掛けるよりは、吊り革を握って二人で立つ。隣同士で、仲良く並んで。
 そっちの方が幸せだから。顔も身体も、離れてしまいはしないから。
(疲れていたら、座っちゃうかもしれないけれど…)
 弱い身体が邪魔をしたなら、諦めて座るしかないけれど。それが正しいやり方だけれど。
 今、カップルで乗っている二人。
 女性はとっても元気そうだから、立っていたくもなるだろう。「座るといいよ」と男性が空いた席を指しても、「平気」と笑顔で断って。
 下手に離れてしまうよりも、二人。横を向いたら、顔が見える場所で。



 それで二人は立っているんだ、と分かったら羨ましくなった。仲の良さそうなカップルが。
 席は幾つも空いているのに、座ろうとしない恋人たちが。
(いいな…)
 何処かへ出掛けた帰りなのだろう、男性と女性。けして大声ではないのだけれども、耳に届いてくる会話。「楽しかったね」とか、「また行こう」だとか。
 チビの自分には、まだまだ出来ないハーレイとのデート。二人一緒にバスにも乗れない。
 いつか大きくなるまでは。前の自分と同じに育って、キスを許して貰えるまでは。
(ホントにいいな…)
 あんな風にハーレイとデートしたいな、と膨らむ夢。それに憧れ。
 早く大きくなりたいんだけど、とカップルの二人を見詰めていたら…。
(あっ…!)
 女性が片手で、嬉しそうに持ち上げた紙袋。吊り革を握っていない方の手で。
 とても小さな袋だけれど。重さも殆ど無さそうだけれど。
(プレゼントなんだ…)
 中身はきっと、男性からの。今日、贈られたプレゼント。
 「ありがとう」という声が聞こえるから。
 女性はとても幸せそうだし、男性の方も素敵な笑顔を向けているから。



 贈り物だ、とチビの自分でも、ピンと来た小さな紙袋。今日のデートの途中の何処かで、女性が貰ったプレゼント。
(二人で見付けて買ったとか…?)
 デートの目的は二人で買い物、其処で出会ったお店の商品。ショーケースの向こうに、たまたま何か。女性が惹かれて、「あれ、素敵ね」と覗き込んだら、男性が「欲しい?」とプレゼント。
 それとも男性がデートの前に用意していて、食事の時に渡したとか。
 誕生日のプレゼントや、記念日だとか。その可能性も充分にある、とても小さな紙袋。
(どっちなのかな?)
 カップルはデートの先達なのだし、興味津々、耳を傾けてみたけれど。
 どんなデートをして来たのかが、とても気になる所だけれど。
(喜んでることしか…)
 二人の会話からは分からない。はしゃぐ女性の輝く表情、プレゼントはまるで宝物。
 それと、早く紙袋を開けてみたくてたまらないこと。
 家に帰ったら、二人一緒にゆっくり中身を眺めるらしい。幸せな気分に包まれて。
 コーヒーを淹れて、テーブルで。二人きりの家は、何処よりも落ち着く場所だから。
(中身、何だか分からないけど…)
 きっと素敵なものなのだろう。家に帰るのが楽しみなもので、二人でゆっくり眺めたいもの。
 今日のデートの記念品。バスで座席に座れなくても、幸せなデートを締め括る何か。
(うんと幸せそうだよね…)
 二人とも、と見ている間に、降りるバス停に着いたから。
 まだ立っている二人を見詰めて、振り返りながら降りたほど。
 いいなと、あんなデートがしたい、と。ハーレイと二人であんな風に、と。



 家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、思い出すのはバスで見たカップル。
 二人一緒に立っていた姿が羨ましかったし、プレゼントも気になって仕方ない。嬉しそうだった女性の顔。「ありがとう」と持ち上げて見せていた紙袋。吊り革を握っていない方の手で。
(アクセサリーかな?)
 女性が持っていたバッグよりも小さな紙袋。それに見合ったサイズの中身。
 頭に浮かぶものと言ったら、アクセサリーくらい。お菓子の箱なら、もっと大きいだろうから。
 女性が一目惚れしたペンダントだとか、「どれがいい?」と二人で相談して決めたとか。
 あるいは男性のセンスで選んだアクセサリー。今日のデートに行く前に買って、食事の時とかにプレゼント。「誕生日だよね」だとか、他にも記念日。
(そういうのもいいよね…)
 二人で買うのも楽しそうだけれど、サプライズで貰うプレゼント。「似合いそうだ」と見付けて来てくれた何か。
 素敵だよね、と思ったけれど…。
(ぼくがつけるの?)
 デートに出掛けて、ハーレイに貰ったペンダントを。ブレスレットとか、そういうものでも。
 二人一緒に選ぶにしても、ハーレイが買って来て「ほら」と贈ってくれるにしても…。
 さっきの女性が持っていたような紙袋。それに収まりそうなサイズのアクセサリー。
(うーん…)
 アクセサリーをつける趣味は無かった。
 チビの自分はつけはしないし、前の自分もつけてはいない。ペンダントも、他の色々な物も。
 前の自分はただの一度もつけなかったし、今の自分もつけてみたいとは思わない。
(ペンダントとか、ブレスレットとか…)
 身を飾る物は何も要らない。
 欲しいアクセサリーは一つだけ。アクセサリーと呼ぶよりは、むしろ…。



 あれは印、と思う物。いつか左手の薬指に嵌める結婚指輪。
 ハーレイとお揃いのデザインの指輪、結婚式の日に互いの指に嵌めるもの。ずっと二人、と。
(シャングリラ・リング…)
 それだけだよね、と考えながら帰った二階の自分の部屋。
 欲しいアクセサリーがあるとしたなら、結婚指輪で、シャングリラ・リング。
 でも…。
(シャングリラ・リングは…)
 何処かの店へ買いに出掛けるのとは違うらしいから、ああいう風には貰えない。バスで見掛けたカップルのように、デートの時に二人で買ったり、贈られたりは無理。
 シャングリラ・リングは結婚するカップルがたった一度だけ、申し込めるという結婚指輪。遠い昔に解体された、白いシャングリラから生まれる指輪。
 白い鯨があった記念に、保存されている船体の一部の金属。それがシャングリラ・リングを作る材料、毎年、決まった数の分だけ指輪が出来る。
 応募者多数だったら抽選、当たれば費用は加工賃だけ。
 結婚指輪を嵌めるのならば、断然、シャングリラ・リングがいい。白いシャングリラの思い出の指輪、それをハーレイと二人で嵌めたい。
 けれど人気のシャングリラ・リング、まずは抽選に当たらなければ。
 当たった時には、きっと送られて来るのだろう。結婚式に間に合うように。結婚式が抽選よりも先に済んでいたなら、ハーレイと二人で暮らす家へと。
(デートの時には貰えないよね…)
 それに二人で買う物ではないし、ハーレイがくれる物でもない。
 シャングリラ・リングが入った小さな袋を、デートの帰りに提げられはしない。
 プレゼントされる物ではないから。…普通の結婚指輪にしたって、きっと事情は同じこと。



 残念、と零れてしまった溜息。勉強机に頬杖をついて。
(プレゼント、持ってみたいのに…)
 ハーレイと二人、楽しく出掛けたデートの帰り。街で食事や、買い物をして。
 車に乗って出掛けてゆかずに、行きも帰りも路線バス。プレゼントを持つなら、バスがいい。
 今日の帰りに見掛けたカップル、あの二人のようにバスに乗る。他にも乗客がいるバスに。
 二人並んで座れる座席が無かったとしても、気にしない。二人で立てば済むことだから。
 吊り革を握って立つにしたって、空いた席に二人で座るにしたって、きっと見て貰える紙袋。
 小さな袋を提げて乗ったら、「プレゼントなんだ」と。
 他の人たちも乗っているバスで、プレゼントの入った袋を提げて幸せ自慢。「貰ったんだよ」と声にしなくても、あの女性のように「ありがとう」と少し持ち上げてみせて。
(ハーレイの車でドライブするのも素敵だけれど…)
 路線バスに乗って幸せ自慢もしてみたい。
 買って貰ったプレゼントを提げて、デートの帰りに。席が無くても、立ちっ放しでも。
 ドキドキと胸が高鳴っていたら、足も疲れはしないだろう。
 早く帰ってプレゼントを二人で開けようと。袋から出して、包みを解いて、眺める中身。
 とても素敵だと、今日のデートの記念にピッタリ、と。



(でも、アクセサリーは…)
 二人で選んでも、困るだろうか。ハーレイが買ってくれたとしても。
 欲しいアクセサリーは、シャングリラ・リングだけなのだから。前の自分も、今の自分も、身を飾りたいとは思わないから。
(…だけど、デートの帰りに持つなら…)
 プレゼントの袋を提げてみたいなら、きっとアクセサリーが一番。重たくはなくて、片方の手で提げられるから。吊り革を握っていない方の手で、ヒョイと持ち上げられるから。
(誰も気付いてくれなかったら…)
 今日の女性がやっていたように、「ありがとう」と持ち上げてみせる紙袋。
 あんな風に提げて幸せ自慢をしてみたいのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、ぼくって、ペンダント、似合う?」
 似合いそうかな、ペンダント…。アクセサリーの。
「はあ? ペンダントって…」
 なんだそりゃ、と丸くなっている鳶色の瞳。「アクセサリーのペンダントだと?」と。
「そう。…ブレスレットとかでもいいけれど…」
 ぼくに似合うかな、ブレスレットとか、ペンダントとか。
「お前、そういうのが欲しいのか?」
「ちょっとだけ…」
 似合わないなら、諦めるけど…。ぼくには似合いそうにない…?



 今のぼくじゃなくて、育ったぼく、と付け加えた。チビの自分には似合わないのだし、デートの時に買って欲しいものがアクセサリーだから。
 大切なことを言い忘れていたと、其処が肝心だったっけ、と。
 案の定、ハーレイは「なんだ、育ったお前のことか」と納得した風で。
「アクセサリーなあ…。まあ、男性用のもあるけどな」
 お前がどういうのを想像したかは知らんが、女性用のとそっくりのもあるし、違うのもあるな。
 デザインはそれこそ色々だ。同じ男性用と言っても。
「ホント!?」
 男の人用のアクセサリーって、ちゃんとあるんだ…。女の人用のを買わなくっても。
「お前の年だと縁が無いしな、知らないのも無理はないだろう」
 嘘は言わんが、なんだって急にアクセサリーの話になるんだ?
 前のお前は、アクセサリーなんかつけてなかったが…。つけたいって話も聞いちゃいないが…。
 まるで初耳だが、今のお前はアクセサリーが好きなのか?
 いつかつけたいと思っているとか、お母さんがつけているのを見て欲しくなったとか…。
 それとも新聞で何か読んだか?
 ラッキーアイテムってヤツもあるらしいしな、幸運のシンボルをあしらったのとか。
「そうじゃなくって…」
 欲しいよね、って思っただけだよ、アクセサリーじゃなくって、袋!
 アクセサリー入りの袋が欲しいと思ったんだよ、買ったら入れてくれる袋が…!



 今日の帰りのバスで見掛けた、と話したカップルとプレゼント入りの小さな袋のこと。
 席に座らずに立っていた二人、空いた席には隣同士で座れないから。吊り革を握って立ちっ放しでも、幸せそうだった若いカップル。女性の手には、とても小さな紙袋。
 あれがやりたい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
 買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、デートの帰りに二人一緒に路線バス、と。
「あの袋、絶対、アクセサリーだと思うんだよ。うんと小さい袋だったから」
 このくらいだったよ、きっと中身はアクセサリーだよ。
 ぼくも、ああいう紙袋を持って乗りたいよ、バスに。幸せ自慢をしてみたいもの。周りの人に。
「なんだ、そういうことだったのか」
 アクセサリーは似合うかだなんて、いきなり言い出すもんだから…。
 てっきりお前はアクセサリーが好きなのかと、とクックッと笑っているハーレイ。
 今のお前は、つけてみたいのかと思ったぞ、と。
「笑わないでよ、ぼくは真剣なんだから!」
 きっと幸せに決まってるんだよ、ああいうのって。
 ホントのホントに幸せそうなカップルだったし、立ちっ放しでも幸せ一杯のまま。
 だから羨ましくなっちゃって…。ぼくもやりたくなってしまって…。
 ぼく、ペンダントが似合いそう?
「ペンダントか…。育ったお前なら美人なんだし、似合うだろうとは思うんだが…」
 お前、そういうのは好きだったか?
 さっきも訊いたが、つけてなかっただけで、前のお前はアクセサリーが欲しかったのか?
 でなきゃ、お前の好みだとか。今のお前は興味があるとか…。
「欲しいと思ったことはないけど…」
 シャングリラ・リングだけでいいんだけれど。…当たらなかったら、普通の結婚指輪で。
 でも、ハーレイとデートするんなら…。



 プレゼントが入った袋を提げて幸せ自慢、と訴えた。幸せ自慢をしてみたいよ、と。
 ハーレイの車で出掛けるドライブも素敵なのだけれども、たまには二人で路線バスに乗って。
 二人並んで座れる座席が無かった時には、二人で吊り革を握って立って。
「バスに乗ってる人たちにだって、見て欲しいもの…。幸せそうなカップルだよね、って」
 あの紙袋にはプレゼントが入っているんだな、って見て貰えるのがいいんだよ。
 ぼくも帰りのバスで見てたし、うんと幸せそうだったから…。
 いつか大きくなった時には、ああいうデート。…帰りのバスではプレゼント入りの袋を提げて。
 それにはアクセサリーでしょ?
 吊り革を握っていない方の手で、「これ」って持ち上げられそうなのは。小さくて軽くて。
「ふうむ…。お前が見掛けたカップルの場合は、そうなんだろうが…」
 俺もアクセサリーだろうと思うが、お前、勘違いをしてないか?
 色々とあるぞ、プレゼントには。
 アクセサリーだと決めてかからなくても、他にも色々あるもんだ。
「そうなの? だけど、紙袋…」
 こんなのだったし、アクセサリーしか入らないんじゃないの?
 もっと大きな袋でなくっちゃ、違うプレゼントは無理なんじゃない…?
「其処が勘違いというヤツだ。アクセサリーだと思ったばかりに、頭が固くなってるってな」
 小さな袋で贈れる物も、世の中、色々あるわけで…。
 チビのお前でも分かりやすい物なら、文房具の類が一番だろうな。
 たとえば、ペン。
 お前が俺の誕生日にくれた羽根ペンの箱はデカかったわけだが、あれが特別すぎるんだ。
 普通のペンなら、もっと小さい。ペンだけ入ればいいんだから。
 現に、俺が使っているペンが入っていた箱、あれよりもずっと小さいヤツだったしな。



 こいつだ、とハーレイがポケットから取り出した、瑠璃色のペン。
 人工のラピスラズリだと聞いた、金色の粒が幾つも不規則に散っているそれ。宇宙のようだ、と一目惚れして、ハーレイが買った。教師になって直ぐに、記憶が戻るよりもずっと昔に。
 なのに、ペンにはナスカの星座が隠れていた。鏤められた金色の粒の中の七つが描き出す星座。赤いナスカで種まきの季節に昇ったという、七つの星たち。
 ハーレイはペンをチョンとつついて、「このくらいだっけな」と手で形を作った。
「箱に仕舞おうってことはないから、箱の方が仕舞いっ放しなんだが…」
 これが入ってた箱は、こんなモンだぞ。
 箱がこうだから、入れてくれた袋も小さかった。そっちのサイズは忘れちまったが…。
「ペンダントの箱くらいだね…」
 ママの部屋に行ったら、たまに見掛けるペンダントの箱。
 小さい箱に入っている物、アクセサリーだけじゃないんだね…。
「そうだろ? ペンなら、この程度ってな」
 羽根ペンの箱が例外なんだ。羽根ペン自体がデカイもんだし、インク壺とかもつくからな。
 だから、小さなプレゼントの箱が欲しいと言うなら、ペンはけっこうお勧めだ。
 お前にも似合いのペンが見付かるかもしれないぞ。俺と一緒に文房具の店に出掛けたら。
 ペンというのもいいよな、うん。
 それに腕時計が入ってる箱も、小さい箱だと思わないか?
 小さい箱入りのプレゼントってヤツは、探せばいくらでも見付かるわけだ。
 探そうというつもりがなくても、偶然、バッタリ出会っちまうこともあるだろう。
 それこそデートの醍醐味だってな、お前と二人で見付けて、選んで、俺がその場でプレゼント。
 包んで貰って、袋つきだ。お前の憧れになっているらしい、幸せ自慢が出来る紙袋。



 大きな袋でもかまわないなら、服だって、とハーレイが挙げるプレゼント。
 贈れる物なら幾らでもあるぞと、デートに出掛けて買ってやれる物、と。
「店は山ほどあるからなあ…。売られている物も山ほどだろうが」
 小さな袋に入る物から、デカイ袋が出て来る物まで。
 プレゼントする物に合わせて袋のサイズも変わるってわけだ、大きかったり、小さかったり。
「そうなるね…。だったら、ぼくがデートで貰ったプレゼント…」
 大きい袋を提げてバスに乗ったら、もっと幸せ自慢が出来るかな…。
 こんなに大きなプレゼントの袋を貰ったよ、って。
「それはかまわないが、欲張りすぎると、お前、自分で持てないぞ?」
 重たすぎるとか、袋がやたらデカすぎるとか…。提げるには邪魔になっちまって。
 お前が貰ったプレゼントなのに、お前の代わりに俺が持つことになるとかな。
 それじゃ幸せ自慢が出来んぞ、見ている人には持ち主が誰か謎なんだから。俺が持ってちゃ。
 舌切り雀の話があるだろ、大きい葛籠と小さな葛籠。
 デカけりゃいいってモンでもないから、その辺の所は気を付けてくれよ?
「プレゼント…。買ってはくれるの?」
 いつかハーレイとデートに行ったら、大きい物でも、小さい物でも。
 アクセサリーじゃなくっても。…ペンとか服とか、腕時計でも。
「もちろんだ。お前が欲しい物があるなら、俺の予算の範囲内でな」
 べらぼうに高いのは買ってやれんが、お前、そういう高いのを欲しがるタイプじゃないし…。
 きっと大丈夫だろうと思うぞ、俺の財布の方だったら。
 何かあるのか、欲しい物が?
 今から目星を付けたいくらいに、これだと思うプレゼントが。
「どうだろう…?」
 デートに行ったら、買って欲しいと思ったけれど…。
 買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、幸せ自慢がしたかったけど…。



 欲しい物はあるか、と改めてハーレイに尋ねられたら、出て来ない答え。「これが欲しい」と。
 アクセサリーは欲しくない。シャングリラ・リングか、結婚指輪があれば充分。
(ホントに思い込んじゃってたから…)
 デートに出掛けたらプレゼントはこれ、と思い込んだから、アクセサリーだと考えただけ。
 ペンダントは自分に似合うだろうかと、ブレスレットでもいいんだけれど、と。
 男性用のアクセサリーがあると聞いても、少しも弾まない心。欲しいだなんて思わない。
(…どんなのがあるの、って思いもしないし…)
 きっと店にも行かないだろう。ハーレイとデートに出掛けたとしても、男性用のアクセサリーを扱う店なんかには。
(前を通って、ハーレイが「前にお前に話したヤツだぞ」って言ったって…)
 入ってみるか、と訊かれたとしても、「ううん」と首を横に振りそう。
 話の種にと入ってみたって、買わずに出て来ることだろう。欲しいと思っていないのだから。
(ペンも、腕時計も…)
 チビの自分には、今、持っている物が似合いの品。大きくなったら欲しいと思う物が無い。
 服だって、まるで思い付かない。自分で買いには出掛けないから。
(欲しい物、なんにも出て来ないよ…)
 考えてみても、何一つとして。
 あんなに「いいな」と憧れたのに、思い付かない袋の中身。
 ハーレイと二人でデートに出掛けて、帰りに提げる紙袋。プレゼント入りの袋の中に、いったい何を入れたいのかが。
 欲しい物はきっと、プレゼント入りの袋だけ。貰ったんだ、と幸せが心に満ちて来る袋。
 それを見て欲しいと、路線バスに乗りたくなる袋。
 ハーレイと並んで座れる座席が、一つも空いていなくても。二人で立ちっ放しになっても。



 欲しい物なんか何も無い。ただ幸せなデートがしたい。
 ハーレイに買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、幸せ一杯の帰り道。路線バスに二人で乗り込んで。並んで座れる席が無ければ、吊り革を握って、二人で立って。
「…欲しい物、今は無いみたい…」
 アクセサリーは要らないし…。腕時計もペンも、服とかだって…。
 袋が欲しいだけだったみたい、帰りのバスで幸せ自慢が出来るから。貰ったんだよ、って。
「そう来たか…。要はプレゼントが入った袋が欲しい、と」
 俺に貰ったプレゼントの袋。小さい袋でも、大きいのでも。
 それなら、中身のプレゼントだが…。
 選ぶ所から俺と二人でやるのか、俺が一人で決めてプレゼントか、どっちがいい?
 店に入って、お前が迷って、俺が「これなんかどうだ?」と言ったりして決めるプレゼント。
 そういうのも出来るし、俺が勝手に「これがいいな」と買って来ちまうことだって出来る。
 そっちだったら、お前はデートの時に受け取るだけだ。
 とっくに結婚していたとしても、隠し方は幾つもあるってわけで…。デートの途中で、いきなり袋が出て来るわけだな、俺が持ってた荷物の中から。「プレゼントだ」と。
 そのやり方だと、小さな袋になっちまうがなあ、隠せるサイズの。
 お前、どっちが欲しいんだ?
 俺と二人で選ぶプレゼントか、俺が決めちまったプレゼントか。
「…どっちだろう…?」 
 ハーレイと二人でお店で選ぶか、ハーレイが選んだのを貰うかだよね?
 選びに行くなら、何を貰えるかは分かるけど…。ハーレイが選んで来るんだったら、貰った袋の中身が何かは、開けてみるまで謎なんだよね…?



 どっちがいいんだ、と尋ねられても、それだって悩む。
 プレゼントは何かとドキドキしながら開けるのもいいし、二人で選ぶのも楽しそうだから。袋の中身が決まっているのも、自分で決めるのも素敵だから。
「…それも、とっても悩むんだけど…」
 ハーレイが選んでくれたのもいいし、二人で選ぶのもいいし…。
 欲しい物が何か決まってないから、ぼくの好みが無いんだもの。これがいいな、って思う物が。
「要は決まっていないんだな?」
 アクセサリーだなんて言い出したくせに、本当に欲しいプレゼントは。
 自分で選ぶか、俺に任せるかも、それさえ選べやしない状態、と。
 お前が欲しいプレゼントってヤツは、今の時点じゃ、プレゼント入りの袋だけらしいな。
 さっきお前が言ってた通りに、デートの帰りに提げて歩ける袋さえあれば大満足、と。
「そうみたい…」
 もちろん中身は入っていないと困るけど…。空っぽの袋じゃ駄目なんだけど。
 何を袋に入れたいんだ、って訊かれても思い付かないよ。
 多分、ホントに何でも良くって、提げて帰れたらそれで幸せ。
 ハーレイと二人でバスに乗れたら、バスに乗ってる人たちに袋を見て貰えたら…。



 中身さえあれば、プレゼントは何でもいいんだけれど、と困り顔をするしか無いけれど。
 欲しいプレゼントも、自分で選ぶかどうかも決められないのだけれど。
 ハーレイは「欲の無いヤツだな」と微笑んだ。「しかし、如何にもお前らしい」と。
「前のお前もそうだったが…。欲が無いんだ、お前はな」
 だったら、俺からのプレゼントは、だ…。お楽しみに取っておくといい。
 お前が何か思い付くまで。これが欲しい、と言える時まで。
「え…?」
 取っておくって、どういうことなの?
 ぼくはプレゼントを決められなくって、中身がちゃんと入っているなら、袋だけでいいのに…。
「それじゃ、お前もつまらんだろうが。俺だって張り合いが全く無いぞ」
 何でもいいから袋に入ったプレゼントをくれ、と言われても…。
 どうせ、俺とデートが出来るようになるまで、そういうプレゼントは贈れないからな。
 食ったら消えて無くなる菓子とか、そんな物しか渡してやれないんだし…。
 その分、きちんと取っておくんだ、俺への貸しで。
 そうしておいたら、初めてのデートの時かどうかはともかく、欲しい物が出来たら買ってやる。
 二人で選ぶか、俺が勝手に選んで買うかも、お前の自由で。
 お前の好きにするといい。
 「こんなのが欲しい」と強請るのもいいし、俺を連れて店に行くのもいいし。
「…いいの?」
 ぼく、欲張りで、うんと我儘かもしれないよ…?
 今は何にも決まってないけど、欲しい物が出来たらうるさいかも…。
 ハーレイに選んで貰うどころか、お店を幾つも端から回って、決めるまでに時間がかかるかも。
 もう一軒、ってあちこち引っ張り回して、最後の最後に、最初のお店がいいって言うとか…。



 欲張りで我儘で、自分勝手な買い物かも、と心配になった未来の自分。
 前の自分には出来なかったことが多すぎたから、その分、今度は我儘かも、と。
 ミュウの未来は背負っていないし、ソルジャーでもない幸せ一杯の普通の子供。それが育てば、前の自分とは比較にならない、我儘な自分が出来上がるかも、と。
「…我儘な買い物でもいいの、ハーレイ?」
 ぼくの気に入る物が見付かるまで、無駄にあちこち歩き回っても…?
 それで勝手にくたびれちゃって、休憩しよう、って騒いでばかりのデートでも…?
「当然だろうが、デートってヤツはそういうもんだ」
 我儘な恋人に振り回されて、荷物を持てとか、疲れただとか。
 それに付き合えるのも楽しみの内だ、お前と二人で思う存分、デートなんだから。
 プレゼントを決めるのに散々迷って、決まったら、そいつを俺に買わせて…。
 ついでに帰りはバスに乗るんだな、そのプレゼントが入った袋を見せびらかすために?
「そう! デートの帰りは幸せ自慢!」
 デートで買って貰ったんだよ、ってバスの中で自慢しなくっちゃ。
 大きな袋でも、小さな袋でも、ぼくが自分で提げるから。
 ぼくが持たなきゃ、幸せ自慢にならないもの。ぼくの袋だ、って気付いて貰えないから。
「よしよし、あちこち歩き回って買い物なんだな」
 お前がバスで帰れるだけの元気、残しておかんといけないし…。
 疲れすぎないように見張るのも俺の役目だな。歩きすぎだぞ、と注意をして。
 お前が「疲れちゃった」と言い出す前に、その辺の喫茶店とかに入って休ませる、と。



 そっちの方も任せておけ、とハーレイはパチンと片目を瞑ってくれたから。
 帰りに乗るバスは、二人並んで座れる座席が空いているといいな、と言ってくれるから…。
「んーと…。ぼくは、立っている方が幸せかな?」
 空いている席があるより、そっちの方。ハーレイと二人で立って乗る方。
「何故だ? 座れる方が幸せだろうが」
 お前、歩き回って疲れてるんだし、空いている席がある方が…。
 俺と二人で座れる方が断然いいだろ、楽なんだから。
「足は楽かもしれないけれど…。立つ方がいいよ、吊り革を持って」
 だって、その方が、プレゼントの袋を持っているのが目立つから…。
 座っている人にも、立ってる人にも、提げてる袋を見て貰えるでしょ?
 沢山の人に幸せ自慢が出来るよ、立っている方が。
 その方が絶対、ぼくは幸せ。
「おいおい、無理はするなよ、お前」
 散々歩き回って疲れてるのに、帰りのバスでも立ちたいだなんて…。
 我儘ってヤツにも程があるだろ、俺はお前と並べなくても、お前を絶対、座らせるからな…!

 混んでいたって、誰かに頼んで空けて貰って座らせる、とハーレイは苦い顔だけど。
 それが無理なら、バスは諦めてタクシーだ、と眉間に皺まで寄せているけれど。
 足がすっかり疲れていたって、プレゼント入りの袋を提げて、ハーレイと二人で立っていたい。
 デートの帰りに、「ぼくのだよ」と見せて、幸せ自慢をしたいから。
 座ってしまって膝の上の袋が見えにくくなるより、大勢の人に見せて自慢をしたいから。
 ハーレイと二人、デートに出掛けて、買って貰ったプレゼント。
 それが入った袋さえあれば、きっと幸せ一杯だから…。




             提げたい袋・了


※ブルーがバスで見かけたカップル。女性が幸せそうに持っていたのは、小さな紙袋。
 そういう袋を、いつか提げられる日が来るのです。ハーレイから貰ったプレゼント入りの…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













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(あれ…?)
 学校の帰り、ブルーが見付けた女の子。家から近いバス停で降りて、住宅街を歩いていた時。
 下の学校の子で、まだ小さい子。一枚の紙を手にして、それを見詰めては周りをキョロキョロ。少し進んでは、止まったりして。
(道、分からなくなっちゃったんだ…)
 地図を見ながら来ているのだし、迷子という歳でもなさそうだけれど。どうにもならないらしい行き先、きっと目的地の欠片も見えていないから…。
「どうしたの?」
 何処へ行くの、と声を掛けたら、紙から顔を上げた女の子。ホッとした色を浮かべた瞳。
「友達の家、分からないの…」
 遊びに来てね、って地図をくれたんだけど…。遊ぶ約束、したんだけれど…。
「えっと…。その地図、見せてくれるかな?」
 ぼくも見ないと分からないしね。行き先が何処か、どう行けばいいか。
「うんっ! はい、これ」
 分かるかしら、と差し出された紙。子供らしいタッチで描かれた地図。道らしき線や、大まかな目印、けれど木の絵を描かれても困る。木は何処にでもあるんだから、と見ていたら。
 「あのね…」と女の子が指差した木の絵。「この木、公園なんだって」と。
「ふうん…?」
 公園といえば…、と心当たりの場所が幾つか。広い公園もあるし、小さいのも。地図に描かれた道の具合や、木の絵のマークと頭の中で順に重ねていって…。
 あれだ、と思い浮かんだ公園。下の学校の頃に、友達と何度も遊びに出掛けた。それほど広くはないのだけれども、子供の目には立派な公園。大きな木だって確かにあった。目立つ所に。



 解けた、と思った地図の謎。けれど、口では説明出来ない。こんな小さな子供では。大ざっぱな地図しか無いのでは。
「分かったよ。君の友達の家は、こっちの方」
 おいで、と笑顔で屈み込んだ。「ぼくと行こう」と。
「連れてってくれるの?」
 お兄ちゃん、学校の帰りなのに…。お友達と遊びに行かなくていいの?
「平気だよ。今日は約束、していないから。それに…」
 また迷っちゃうよ、この地図だと。描き直すよりも、案内した方が早いから。
 ぼくと行こう、と歩き始めた。微笑ましい地図に目を落としながら。
(…これじゃ、絶対、迷うんだから…)
 公園までの道もそうだし、その先の道も大いに問題。住宅街の中にありがちな行き止まりの道、それまで自由に通り抜けられるように描いてあるから。
(子供だったら、通れちゃうこと、あるもんね…)
 顔馴染みのご近所さんの家なら、庭の端などを遠慮なく。生垣と生垣の間の狭い溝でも、子供の目には道に映るから。
 こうなるだろうな、と自分の経験からも分かる、子供らしいミス。
 自分が地図を描いて渡すなら、頭の中では道になる場所。逆に自分が貰った時には、どうしても見付けられない道。知らない場所では、家は巨大な壁だから。間に溝が挟まっていても。



 小さかった頃を思い出しながら、お喋りしながら歩いて行った。女の子が通う下の学校は、前に自分がいた学校。春に卒業するまでは。
 先生のことや、学校の花壇や、幾つでもある共通の話題。相手が小さな女の子でも。
 二人で地図を頼りに歩いて、例の公園の側も通って…。
「はい、ここ」
 この家なんだと思うけど…。公園が此処で、道がこうだから。
「ホントだ、お兄ちゃん、ありがとう!」
 此処、と女の子の顔が輝いた。表のポストに書いてある名前、それが友達のものらしい。地図を渡して招待した子の。
 女の子が横のチャイムを押したら、中から出て来た同い年だろう女の子。「いらっしゃい!」と庭を駆けて来るから、「良かったね」と微笑み掛けて手を振った。
「じゃあね、楽しく遊んでね」
「お兄ちゃんも気を付けて帰ってね!」
 地図はいいの、と訊いてくれるから、「大丈夫だよ」と頷いた。この辺りでもよく遊んだから、地図が無くても家に帰れる。
 女の子たちに何度も手を振りながら角を曲がって、目指した公園。さっきの地図では一本の木になっていたんだっけ、と。
(木だけだったら、どの公園にもあるものね…)
 あの女の子が別の公園を見付けていたなら、もっと困ったことだろう。公園はあるのに、繋がる道が違うから。地図に描かれた通りの道は、其処から続いていないから。
(ぼくでも悩んじゃったもの…)
 地図を貰っても帰れないよね、と公園の側を通って、家の方へ続く道に入った。此処からだと、家はこっちの方、と。近道するならこの先を…、と考えながら。



 家に帰るのは少しだけ遅くなったけれども、してあげられた道案内。友達の家に行く女の子。
 今頃はきっと、仲良く遊んでいるだろう。おやつを食べているかもしれない。自分が母の焼いたケーキを、口に運んでいるように。
(良かったよね…)
 ぼくが上手い具合に通り掛かって、と嬉しくなった。女の子の役に立てたから。
(あのくらいの年の子供って…)
 大人には声を掛けにくいもの。どんなに道に迷っていたって、生垣の向こうの大人には。
 自分が顔を知らない人には、自分からは声を掛けられない。忙しそうだ、と遠慮してしまって。趣味の庭仕事と、仕事の区別もつかないで。
 あの時間だと、散歩している大人の数は少なめ。もしも自分と出会わなかったら…。
(今も何処かで迷ってたかも…)
 目的地を見付けられないで。「公園はあるけど、地図にある道が何処にも無い」とか、「途中で道が消えちゃった」だとか。
 そうならなくてホントに良かった、と食べ終えたおやつ。
 あの子たちもケーキを食べたかな、などと考えながら。クッキーとかホットケーキとか、と。



 二階の自分の部屋に戻って、窓から眺めた公園の方。女の子を案内して行った家も、目印だった公園の木も、此処からはまるで見えないけれど。
(何をして遊んでいるのかな?)
 仲良しの二人の女の子。道に迷った子も、帰り道はもう迷わないだろう。大人がきちんと地図を描いてくれたら、自分で歩いて帰ってゆける。行き止まりの道や、謎の公園は消え失せるから。
 それに、あの家の人が送って行くかもしれないし…。
 遅くなったから、と車を出して。二人がたっぷり遊んだ後で。
(チビのぼくでも、役に立てたよ)
 相手は小さな子供だけれども、充分に役に立てたと思う。
 謎解きみたいな地図を読み解いて、目的地まで案内したのだから。こっちだよ、と一緒に歩いて案内。自分の家とは違う方まで。
 大人の人が相手だったら、遥かに分かりやすいだろう地図。見せて貰って道が分かれば、指差すだけでも大丈夫なのに。
 地図を示して「今は此処です」と教えた後には、「この先を右に曲がるんです」とか。
 けれど、さっきの女の子。
 謎の地図を頼りに歩いている子は、そうはいかない。案内しないと迷うだけだし、通り掛かって本当に良かった。チビの自分でも。
 十四歳にしかならないチビでも、自分だってまだ子供でも。



 そういったことを考えていたら、チャイムの音。ハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで紅茶のカップを傾けながら、帰り道の話。
「ねえ、子供って面白いね」
 ぼくも子供だけど、もっと小さい下の学校の子供。
「はあ?」
 面白いって、何かあったのか?
 何が、と鳶色の瞳が瞬く。「下の学校、寄って来たのか?」と。
「違うよ、女の子に会っただけ。…バス停から家まで歩く途中で」
 道案内をしていたんだよ。友達の家に遊びに行こうとしていた子の。
「ほう…?」
 そいつが面白かったのか?
 道案内の途中で聞いた話だとか、その子が何かやらかしたとか。
「ううん、面白かったのは地図。友達に描いて貰った地図をね、見ながら歩いてたんだけど…」
 子供が描いた地図だったから、ぼくが見たって、まるで謎々。
 行き止まりの道が通り抜けられるように描いてあるとか、公園に木が一本だけとか。
 もっと育った子供だったら、ああいう地図は描かないよね、って…。
 とっても頭を使っちゃったよ、道案内を始める前に。この地図はどう読むんだろう、って。
「なるほどなあ…。謎解きまでして、道案内か」
 お前らしいな。うん、前のお前もそうだった。道案内、得意だったしな。
「え…?」
 道案内って…。ぼくが?
 前のぼく、道案内なんか…。そんなの、別に得意なんかじゃ…。



 なんで、と捻ってしまった首。ハーレイは何を言い出すのだろう、と。
 前の自分は道案内などしていない。案内する人もいなかった。
 いくらシャングリラが巨大な船でも、ソルジャーだった自分は誰も案内しない。シャングリラの中で誰かを案内するなら、それはキャプテンだったハーレイの役目。
 もっとも、ハーレイ自身が出てゆくことは少なかったけれど。適任の者に「頼む」と出す指示、それに応じて係が動いた。
 船に迎え入れられた子供たちなら、ヒルマンや養育部門の者たち。新しい部署に配属されてゆく者だったら、其処に詳しい仲間たちなど。
 案内係は揃っていたから、前の自分はハーレイを従えて歩いていただけ。
(ソルジャーに道を訊こうって人も…)
 いるわけがなかったシャングリラ。迷うような子供は一人で歩いていなかったのだし、大人なら迷うことがない。迷いそうな場所なら、まず間違いなく案内係が一緒だから。
(慣れてない人が機関部とかに迷い込んだら大変だしね?)
 それに迷っても思念波があった。今の時代は使わないのがマナーだけれども、前の自分が生きた時代は使うのが普通。船の中で迷ってしまったのなら、「何処だろう?」と飛ばせば良かった。
 そういう思念が飛んで来たなら、近くの仲間が拾ってくれる。もちろん道も教えてくれる。
 思念波という便利な手段を持っていたから、迷っている最中に前の自分が通り掛かっても…。
(訊かないよね?)
 雲の上の人にも等しいソルジャー。
 エラたちがそう教えていたから、道を訊くなど、とんでもないこと。まして道案内など、頼みはしない。ソルジャーに案内させたりはしない。
(アルタミラを脱出してから、直ぐの頃でも…)
 誰にも道は訊かれていない。チビだった上に、ハーレイの後ろをついて歩いたり、ブラウたちと散歩に出掛けていたのが自分だから。
 道を尋ねたい仲間がいたなら、ハーレイたちに訊いただろう。チビの子供に尋ねなくても、側に大人がいたのだから。



 どう考えても、していそうにない道案内。得意どころか、ただの一度もしていないと思う。
 だから、ハーレイにぶつけた疑問。
「前のぼく、道案内は一度もしてないよ?」
 忘れたわけでもないと思うけど…。一度もやったことなんか無いと思うんだけど。
 道案内をしたことが無いのに、得意だったって、変じゃない?
 ハーレイ、誰かと間違えていないの、道案内が得意だった誰かと混ざっちゃったとか。
「お前なあ…。俺がお前を誰かとごっちゃにすると思うのか、よく考えろよ?」
 恋人同士じゃなかった頃から、俺の大切な友達だ。一番古くて、大事な友達。
 他の誰かと混ざりはしないし、間違えることもないってな。俺の特別だったんだから。
「だけど、道案内…。そんなの一度も…」
「俺の先導、していただろうが」
 キャプテンになって直ぐに始めた、操舵の練習。
 シミュレーターでの訓練が済んだら、お前が案内してくれたんだ。何処を飛ぶかを。
 俺はお前を追えば良かった、シャングリラで。舵を握って、とにかく前へと。
「あれは道案内とは言わないと思う…」
 変な所ばかりを選んでたんだし、道に迷わせてるみたいなものだよ。
 ちゃんと真っ直ぐな道があるのに、其処から外れて回り道だとか、行き止まりの道に入るとか。
 だってそうでしょ、シャングリラは酷く揺れてしまって、ゼルたちが「死ぬかと思った」なんて言ってたほどだもの。
 道案内なら、ぼくは真っ直ぐ飛ばなくちゃ。「こっちだよ」って、迷わないように。
 船が揺れない道を探して、そっちへ飛んで行かないとね。



 前の自分がハーレイを案内して行った先。シャングリラを飛んで行かせた航路。
 小惑星が無数に散らばる場所やら、重力場が歪んでいた空間やら。熟練の者でも飛びにくい所、そういう場所で操船させた。船が壊れてしまわないよう、シールドで包んで守っておいて。
「…ハーレイが練習しやすいように、って選んでた進路だったけど…」
 船のみんなには酷い迷惑で、ハーレイにだって迷惑だったと思う…。
 ちょっとやりすぎてしまったくらいに、スパルタ教育だったもの。
 少しずつハードルを上げるんじゃなくて、いきなり高いハードルを飛ばせていたんだから。
「そうか? 充分に役立つ道案内だったと思うがな?」
 ゼルやブラウの心臓までは面倒見切れんが…。あいつらにとっては、最悪だっただろうが…。
 しかしだ、俺にとっては違った。最高の道案内というヤツだ。
 お蔭で俺は操舵を覚えて、あのシャングリラを動かせるようになったんだから。誰よりも上手く操れるように、どんな航路でも飛んでゆけるように。
 白い鯨になった後にも、いろんな所を飛んで行けたさ。あの時のお前のお蔭でな。
 何度もお前に話してやったろ、三連恒星の重力の干渉点からワープしたヤツ。
 あんな判断が出来た理由も、今から思えば、お前のスパルタ教育の成果だろう。どんな時でも、冷静にやれば道は見えると、お前が教えてくれたんだからな。
 とんでもない所ばかりを飛ばせて、「こう飛べ」と。俺が新米だった時から。
 それにだ…。



 お前が皆を導いてたろ、と鳶色の瞳で見詰められた。船だけではなくて仲間たちを、と。
「どう進むべきか、前のお前が導いてたんだ。あの船に乗ってた仲間たちをな」
 自給自足の船になった後も、その前も。…お前がソルジャーになってからは、ずっと。
「それは違うよ、ソルジャーは確かにぼくだったけど…」
 ぼくの名前で出した通達も多かったけれど、一人で決めてなんかはいないよ。大切なことは。
 アルテメシアから逃げる時には、ぼくが一人で決めたけれども…。非常事態だから、話は別。
 普段は何でも会議だったよ、ヒルマンたちを集めて決めていたでしょ?
「その結果を皆が認めてくれたのは何故だ?」
「えーっと…?」
 何故って訊かれても、どういう意味なの?
 ソルジャーの名前で出した通達は、従うのが船のルールだったよ。会議で決まったことだもの。
「其処だ、そいつが重要なんだ」
 会議で決めて、それを信じて貰えた理由。誰も文句を言ったりしないで、船のルールだから、と従ってくれた理由だな。
 不平や不満が出なかった理由は、お前だろうが。…お前がソルジャーだったからこそだ。
「前のぼくは何も…」
 してはいないよ、演説とかも。こう決めたから、っていうのもエラたちが伝えていたし…。
 船のことなら、前のハーレイがキャプテンとして発表していたんだし。
「それはそうだが、皆が見ていたものはお前だ」
 いざとなったら、お前がいる。桁外れに強大なサイオンを持ったソルジャーが。
 どんな目に遭おうが、お前が何とかしてくれる、と皆は信じていたわけだ。
 物資や食料を奪って来たのは前のお前だし、それを頼りに生きてた頃からソルジャーなんだ。
 お前がいれば何とかなる、と皆が思ったから、ルールも守ってくれたんだな。
 そうじゃないのか、白い鯨になるよりも前から、お前は船も、仲間たちも案内してたんだ。
 こっちへ行こうと、次はこっちだ、と。



 雲海の星、アルテメシアに辿り着くよりも前のこと。漆黒の宇宙を旅していた頃。
 青い地球は憧れだったけれども、地球の座標は掴めなかった。目標とする座標も何も無かった。
 ミュウを受け入れてくれる星は無いから、何処へも行けない。降りられはしない。
 その日任せの宇宙の旅。
 障害物などを避けて飛ぶだけ、そういう航路。
 けれど、必要な物資や食料の補給。それが無ければ生きてゆけない。
 前の自分は、一人で皆を生かし続けた。食料も物資も、他の者には奪えないから。武装した船は持っていなくて、誰も出掛けてゆけなかったから。
「いいか、シャングリラの改造だって…。お前が決めたも同然なんだぞ」
 改造しようという話ならあった。アイデアだけなら、誰にでも出せた。理想だってな。
 しかし、そいつを実行に移すとなったら別だ。理想だけではどうにもならん。
 お前がいなけりゃ、誰も決心出来ていないぞ。
 改造中の船をどうするんだ、っていう大問題があったんだから。
 修理しながら飛ぶのと違って、まるで無防備になっちまう。…改造する場所によってはな。
「そうだっけね…」
 メイン・エンジンを止めてしまったら、船を急には動かせないし…。
 ワープドライブの改造中なら、人類軍がやって来たって、ワープするのは無理なんだから…。



 船の改造には伴う危険。もしも人類に見付かったならば、全てが終わってしまいかねない。船を動かして逃げる手段が、使えない段階だったなら。
 そうは思っても、人類から奪った船のままでは限界があった。元は輸送船だった船だけに、武装してはいない。そのための設備も搭載出来ない。
 サイオンの力で船を守るためのシールドやステルス・デバイス、それも現状では搭載不可能。
 武装し、シールドとステルス・デバイスを備えられたら、戦える船が手に入るのに。
 逃げることしか出来ない船から、一歩前進出来るのに。
 船の改造が上手くいったら、自給自足も可能になる。人類の船から奪わなくても、食料も物資も賄える船。そういう船が出来上がったら、何処へでも旅を続けてゆける。
 輸送船など飛んでいそうにない、どんな辺境星域へも。
 地球を探しての流離いの旅も、この船一つで出掛けてゆける。補給の心配が要らないのだから。



 欲しい船なら、もう見えていた。造れることも分かっていた。
 そのために改造している間に、船が発見されなかったら。人類の目から逃れられたら。
 けれど、何処にでも出没するのが人類の船。輸送船だったり、客船だったり、軍の船だったり。
 いきなりワープアウトサインが確認されることも多くて、予見は出来ない。
 ワープ自体は充分な距離を保ってするものだから、今までは逃げれば見付からなかった。人類の船のレーダーに映ったとしても、ほんの一瞬。
 艦種を識別されるよりも前に離脱したなら、「何かの船」で済むことだから。同じ人類の船だと思って、わざわざ追っては来なかったから。
 その手が全く使えないのが改造中。船を何処へも動かせない時。
 あれは何か、と人類が確認にやって来たなら、正体を知られてしまうだろう。アルタミラと共に消えた筈の船、コンスティテューションだと特定されてしまったら。
 それを動かし、飛び立った者がいるとしたなら、ミュウの他には無いのだから。
 直ちに呼ばれるだろう援軍、あるいは人類軍の艦隊。
 たった一隻でも、ミュウの船には違いないから。
 マザー・システムが存在を知ったら、今度こそ消しにかかるだろうから。
(…人類軍に見付かったって…)
 改造後の船なら戦える。一大艦隊を前にしたって、ワープする時間を稼ぐ程度には。
 だから誰もが欲しかった船。造りたいと夢を描いていた船。
 人類の船に発見されずに、無事に改造出来るなら。そうすることが可能だったら。



 それが必要だと考える時期が、来ていた船がシャングリラ。同じシャングリラでも違う船。
 白い鯨になるだろう船、ミュウの箱舟とも呼べる船。その船が要ると、造らなければと。
(前のぼくにも分かってたから…)
 船はぼくが守る、と仲間たちの前で宣言した。改造するなら、守り抜こうと。
 決して人類には見付からないよう、全力を尽くして隠し、守るからと。
 発見されない保証があるなら、誰も反対したりはしない。誰もが欲しい船なのだから。夢の船が本当に手に入るのなら、危険が伴わないのなら。
 そして取り掛かった船の改造。誰にも反対されることなく。
 元の船からは想像もつかない巨大な船が完成するまで、前の自分は一人きりで船を守り続けた。
 人類の船が近付いた時は、シールドを張って船を隠して。
 惑星上での改造中とか、自力で航行不可能な時。そういう時には、たった一人で。
 船を完全に隠してしまえるステルス・デバイス、それは船体が完成するまで搭載出来ない。船を守るための役には立たない。
 だから、白いシャングリラが出来上がるまでは、本当に一人で守った船。
 誰の助けも借りることなく、借りたくても誰の助けも無いまま。
 タイプ・ブルーは一人だけしかいなかったから。他の者では、手伝うことさえ出来ないから。



 全部お前の力だった、とハーレイの鳶色の瞳の色が深くなる。「お前が皆を導いたんだ」と。
「お前がいなけりゃ、白い鯨は出来てない。…どんなに皆が欲しがってもな」
 安全に改造出来る方法が無けりゃ、誰も賛成しやしない。命の方が大切だからな、夢の船より。
 お前が守ると言ってくれたから、皆、安心して取り掛かれた。
 同じ造るならこういう船だ、とアイデアだって山ほど出せたんだ。こうしたい、とな。
 白い鯨はそうして出来たが、あの船でなけりゃ、アルテメシアにも行けていないぞ。
 つまり、ジョミーも見付けられないということだ。…あの星で助けたミュウの子供たちも。
「そうだね…」
 若い世代が育ちはしないし、ジョミーも見付けられないし…。
 前のぼくたちの代で旅は終わりで、そのまま宇宙に消えていたかも…。
「そうだろうが。前のお前の寿命が尽きたら、俺たちの旅も其処で終わりだ」
 もう食料を奪えはしないし、飢えて死ぬしかないってな。
 アルタミラからの脱出直後にそうなりかけたが、前のお前が助けてくれた。
 しかし、お前がいなくなったら、もう食料は何処からも来ない。みんな揃って飢え死にだ。
 自給自足の船でもないから、そうなるより他に道は無い。
 何もかもが全て終わっていたんだ、あの船が無けりゃ。…アルテメシアに行ける白い鯨が。



 ハーレイの言葉が示す通りに、元の船ではアルテメシアに潜むことさえ出来なかった。
 輸送船だった船は、大気圏内を長く航行するには不向き。行きたいと夢見た地球であっても。
 改造案には、その点も漏らさず盛り込まれた。大気圏内を飛べる船にしようと。
 けれども、いくら案があっても、本当に改造を始めるためには、船の安全の確保が必要。人類に発見されてしまえば、其処でおしまいなのだから。
「全部お前が決めていたんだ、結局はな」
 船の改造の時にしたって、お前が守ると宣言したから、やろうと決まった。
 お前があれを言わなかったら、誰も改造しちゃいない。元の船のままだ、最後までな。
 これじゃ駄目だと分かっていたって、いつか全てが終わっちまうんだと気付いてたって。
「そうなるの…?」
 ぼくが決めたってことになってしまうの、シャングリラを改造するってこと。
 改造する間は守るから、って言っただけなのに…。改造しようとは言ってないのに。
 みんなが会議で決めたことだよ、船を改造することは。
「会議でも何でも、お前が何も言い出さなくてもだ」
 決めて導いていたんだ、お前が。
 自分じゃ気付いていなかったとしても、俺たちも、俺たちが乗っていた船も。



 お前だったから出来た道案内だ、と言われたけれど。「道案内、得意だっただろ?」とも言って貰ったけれども、前の自分は辿り着いていない。皆で目指そうとしていた地球には。
 アルテメシアの雲海に隠れて、其処から追われて飛び立っただけ。地球の座標も掴めないまま。
 だから…。
「途中までなら、案内したかもしれないけれど…」
 だけど、地球には行けなかったよ?
 前のぼくは道案内を途中で放り出しちゃって、最後まで出来ていないから…。
 道案内をしたとは言えないよ。「この先は他の人に訊いてね」って、道端に置き去りにするのと同じ。今日の女の子を公園の側に一人で置いてくるとか、そんな感じで。
「それは違うぞ。お前は道案内を投げ出しちゃいない」
 地球に行けたジョミーは誰が見付けた?
 誰が船まで連れて来たんだ、お前の跡を継いだソルジャー・シンを?
 お前だ、とハーレイの瞳が真っ直ぐ向けられる。
 いつもお前が導いていた、と。
 きっと地球まで、と。



「でも、前のぼくは…」
 本当に途中で死んじゃったんだよ、地球なんか見えもしない間に。
 地球を見たかった、って思ったくらいに、地球が夢の星でしかなかった頃に。
「死んじまっても、それでもだ」
 メギドを沈めて守っただろうが、俺たちを。お前はシャングリラを最後まで守ってくれたんだ。
 お前が守ってくれなかったら、あそこで旅は終わっていた。飢え死にじゃなくて、メギドの炎に焼かれちまって。
 それに、お前が地球を目指していたから、ジョミーも地球に向かったってな。地球に行かないとミュウの未来は開けやしない、と気付いたからだ。
 お前は道案内を放り出したんじゃない。道案内の途中で歩けなくなって、目的地までの行き方を説明しただけだ。この先の道をこう行って、とな。
 そうやって教えて貰った道。そいつをジョミーが歩いて行った。俺たちを連れて。
 時には悩んで、「どうだったっけ?」と思い出しながら、自分の頭で右か左かと考えながら。
 お前が教えた道順がちゃんと合っていたから、俺たちは地球に着けたんだ。
 今の時代も言うだろうが。
 学校の入学式の時には、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と。
 学校に通って勉強出来るのも、青い地球があるのも、前のお前のお蔭だとな。
「あれ、褒めすぎだと思うんだけど…」
 今の学校でも聞いたけれども、記憶が戻る前だったから…。
 ぼく、前のぼくに感謝しちゃった。「ありがとう」って。
 だけど今だと、顔が真っ赤になっちゃいそうだよ。褒めすぎなんだもの、恥ずかしくって…。
「俺は正しいと思うがな…?」
 褒めすぎてなんかいないと思うぞ、お前は立派に道案内をしたんだから。
 俺はお前の側で見たんだ、道案内が得意なソルジャー・ブルーが、どう生きたかを。



 もっとも、今じゃ本当の意味での道案内が精一杯のチビなんだが、と微笑むハーレイ。
 道に迷った女の子を目的地まで、ちゃんと送り届けたというのがお前らしい、と。
「謎解きみたいな地図だったんだろ?」
 その子が持ってた、肝心の地図。どの公園かも分からないくらいの、とんでもないヤツ。
「そうだけど…。誰でも出来るよ、道案内くらい」
 この辺りに住んでる人だったら。ぼくでなくても、他の人でも。
「まあな。俺でもその地図、読んでやるんだろうが…」
 眺めても意味が分からなかったら、誰か捕まえて訊くんだが…。通り掛かった人とかを。
 それで駄目なら、近くの家だな。チャイムを鳴らして、出て来た人に訊くってな。こういう道を知りませんかと、多分、近所の筈なんですが、と。
 そうすりゃ分かるし、俺だってその子を連れて行ってやることは出来るんだが…。
 やっぱりお前らしいと思うぞ、道案内をしたというのは。
 前のお前は、途方もなく長い地球までの道を、最後まで案内したんだからな。
「そうなのかな…?」
 ぼくには少しも自信が無いけど、本当にちゃんと案内出来た…?
 途中で分からなくなってしまって、「誰かに訊いてね」って逃げ出さなかった…?
「逃げちゃいないさ、お前はな」
 さっきも言ったろ、ちゃんとジョミーに教えたと。地球までの道と、行き方をな。
 前のお前は頑張ったんだが…。
 誰にも真似なんか出来ないような、それは凄くて立派な道案内をしたんだが…。



 今のお前の道案内は、迷った女の子を送り届ける程度でいいな、とハーレイが瞑った片目。
 お前らしいが、その程度でいい、と。
「今度は俺が案内するから、お前は家の近所にしておけ」
 この家から歩いて行ける程度の、道案内だけでいいってな。
「道案内って…。ハーレイが?」
 いったい誰を案内するの、ぼくの代わりに?
 ぼくは思念波、ちっとも上手に紡げないんだし…。ハーレイを呼ぶの、無理なんだけど…。
 代わりに案内してあげて、って呼ぼうとしたって出来ないんだけど…。
「俺が案内するヤツか? わざわざ俺を呼ばなくてもいいぞ」
 最初からお前の隣にいるから、呼ばなくてもちゃんと聞こえてる。
 ついでに俺が案内するのは、お前だ、お前。
 ドライブでも、旅でも、お前の側には俺がいるだろうが。…いつでもな。
 行き先が分からなくなってしまったら、俺に任せてくれればいい。
 俺が案内してやるから。いざとなったら誰かに訊くとか、方法は色々あるんだから。



 お前は俺に尋ねればいい、と優しい言葉を貰ったから。道案内をして貰えるから。
 前の自分が頑張ったらしい道案内は、今度はハーレイに任せておこう。
 何処へ行く時も、初めての場所を歩く時にも。
「それじゃ、お願い。…ハーレイに全部、任せちゃうから」
 此処に行きたいけど、どうしよう、って。…どうやって行けばいいんだろう、って。
「それでいいんだ、俺は責任重大だがな」
「二人一緒に迷わないように?」
 おんなじ所をグルグルするとか、違う方向に行っちゃうだとか。
「そういうこった。しかし、俺だって元はキャプテンだしな?」
 進路を読むってヤツは得意だ、と頼もしいハーレイ。多分、キャプテンだったからではなくて、今のハーレイも得意なのだろう。記憶が戻る前から、きっと。地図を片手に歩くことが。
 だから大きくなった時には、ハーレイに任せて、歩いたり、旅やドライブをしよう。
 道案内はして貰えるから。
 もしも迷っても、ハーレイが訊いて、正しい道を見付けてくれるから。
 二人一緒に、見付けた道を進んでゆこう。初めての場所へ、知らない道を。
 「こっちだよね」と微笑み交わして、歩く時には手をしっかりと握り合って…。




              道案内・了


※小さな子供の道案内をしたブルー。前のブルーは、もっと凄い道案内をしていたのです。
 ミュウたちを地球まで送り届けるために、案内した道。ソルジャー・シンにも道を教えて…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(ハーレイの椅子…)
 ふと、ブルーの目に留まった窓際の椅子。学校から帰って、おやつを食べて戻った部屋で。
 テーブルとセットで置かれた二脚の片方、二脚とも同じデザインのもの。どっしりと重い、木で出来た椅子。背もたれの部分は籐で編まれて、それを木枠が取り巻いている。
 座面は淡い苔の緑色、前のハーレイのマントの色を薄めたような優しい緑。ハーレイに似合うと思うけれども、「ハーレイの椅子」は、そういう意味ではなくて…。
(たまにはいいよね?)
 こっち、と座ってみたハーレイの椅子。いつもハーレイが腰掛ける側。二つの片方、ハーレイが座るための椅子だから「ハーレイの椅子」。「ハーレイの席」ともいうべき場所。
 其処に座ってキョロキョロ部屋を眺め回して、それから向かいの自分の椅子へ。テーブルの横を回り込んで。チョコンと座ってみた感じでは…。
(どっちも、おんなじ…)
 見えるものはともかく、椅子の座り心地。ハーレイの椅子は、ほんの少しだけ、座面がへこんでいるのだけれど。
(ハーレイは重いし、ぼくが膝の上に乗ったりもするし…)
 そのせいでクッションの厚みが変わった。自分が座っている椅子に比べて、本当に少し。座ったくらいでは分からない程度、見比べて気付くか、気付かないか。
 僅かな違いしか無い椅子なのに、ハーレイの椅子の方が胸が高鳴る。腰掛けた時に。
(もう一度…)
 ちょっとだけだよ、とハーレイの椅子に戻って座ってみて。
 それから自分の椅子に戻って、また「ちょっとだけ」とハーレイの椅子へ。満足するまで交互に座って、嬉しくなった。「どっちもぼくの椅子だもの」と。
 ハーレイの椅子も自分の持ち物、この部屋にある椅子だから。ハーレイの椅子と呼んでいても。



 二脚の椅子は、両親が買ってくれたもの。テーブルとセットで、来客用にと。
 買って貰った時は立派過ぎると思ったけれども、今では自分にピッタリのもの。来てくれる人が出来たから。前の生から愛した恋人、ハーレイが座るのに丁度いいから。
 テーブルも椅子も、大人のハーレイには良く似合う。チビの自分には立派過ぎても。
(いつかは持って行くんだから…)
 ハーレイの椅子を、ハーレイの家へ。
 結婚して二人で暮らす時が来たら、この椅子たちも連れてゆく。いつも二人で座った椅子。間に挟んだテーブルもつけて、沢山の幸せな思い出ごと。
(ハーレイの家でも、ちゃんと二人で座るんだよ)
 何処に置くかは分からないけれど、きっとハーレイが素敵な場所を見付けてくれる。椅子たちも居心地が良さそうな場所を。「此処がいいぞ」と運んでくれて。
(引越し屋さんにトラックで運んで貰っても…)
 この辺に、と頼んで椅子とテーブルを置いて貰っても、「こっちの方が…」と楽々と持ち上げ、運んでしまいそうなハーレイ。「俺は此処だと思うがな?」と、テーブルも椅子も。
(ハーレイの家は、ハーレイが一番分かってるものね?)
 椅子もテーブルも、着いたその日にまた引越しだよ、と可笑しくなる。そうでなければ、何日か経ってから突然に。
 「この場所も悪くないんだが…」とハーレイが椅子を抱え上げて。「此処なんかどうだ?」と、別の場所へと運んで行って。「お前も此処に座ってみろ」と、「こっちの方が良くないか?」と。
 きっとそうなることだろう。テーブルも椅子も、似合いの場所を決めて貰って。



 その光景が目に浮かぶようだから、ふふっ、と笑って立ち上がった。椅子たちの未来。
(ハーレイの椅子も、ぼくの椅子も、一緒にお引越し…)
 最初はハーレイの家に引越して、次はハーレイの家の中で。部屋から部屋へと引越しして。早く見てみたい椅子たちの引越し、まずは梱包されるのだろう。この家から運び出すために。
(まだまだ先の話だけど…)
 結婚出来る年でもないし、と勉強机の前に座った。ストンと、其処に置かれた椅子に。
 勉強や読書に使っている椅子、その椅子から窓辺の椅子を眺めて…。
(ぼくの椅子が三つ…)
 全部で三つ、と数えて幸せな気分。三つの椅子のどれにも思い出、幸せな日々も詰まった椅子。
 それにベッドにも座っていいから、この部屋には…。
(椅子が四つも…)
 あるんだものね、と弾む胸。ただ椅子があるというだけなのに、もう嬉しくてたまらない。
 一つ、二つと椅子を数えて、「やっぱりベッドは椅子じゃないかな」と思ってみたり。
 どうなのかな、とベッドに座りに出掛けて、「違うかな?」とポンと叩いて…。
(椅子とベッドは見た目が違うし…)
 椅子は全部で三つだよね、と戻った勉強机の前。元通りに椅子に座った途端に…。
(あれ…?)



 不意に掠めた、ドキドキしながら椅子に座っていた記憶。これはぼくの椅子、と胸を弾ませて。
 遠い遠い記憶で、おぼろげなもの。自分は椅子に座っているだけ。
(前のぼく…?)
 あれは青の間での出来事だろうか、立派な椅子を貰ったから。やたらと広くて大きすぎた部屋、青の間に釣り合う椅子やテーブル。
 でも…。
(ぼくの心、もっとドキドキしてた…)
 そういう記憶。今と同じに子供の心で、腰掛けて「ぼくの椅子だよ」と。
(なんで…?)
 どうしてドキドキしていたのだろう。子供の心だった頃なら、特に立派でもなかった椅子。船に元からあった椅子だし、平凡なもの。
 誰の部屋にもあったような椅子が部屋に二つだけ、最初は一つ。部屋に備え付けの椅子は一脚、それをそのまま使っていた。椅子は椅子だし、座れればいいから。
(後で、もう一個貰って来て…)
 二つになった部屋の椅子。
 ハーレイが来た時に座れるように、と貰った二つ目。それを貰うまでは、ハーレイと二人で話す時には、ベッドを椅子の代わりにしていた。一人しか椅子に座れないのでは落ち着かないから。
 一人は椅子で、一人はベッドを椅子代わりに。
 ベッドの方に座っていたのは、自分だったり、ハーレイだったり。
 二人並んで、ソファのように使っていたこともあった。ベッドに背もたれは無いのだけれど。
 そんな具合だから…。
(二つ目の椅子が嬉しかった…?)
 ドキドキしたのは、そのせいだろうか。今の自分と同じくらいに、心も身体もチビだった頃。
 やっとお客様用の椅子が出来たから。
 椅子の代わりにベッドを使わなくても、ハーレイと二人で座れるから。ちゃんとした椅子に。



 そうなのかな、と考えたけれど。きっとそうだと思ったけれど。
(ぼくの分…?)
 さっきよりもハッキリしてきた記憶。「自分用の椅子だ」と弾んだ心。自分用ならば、一つ目の椅子。最初から部屋に置かれていた椅子だから…。
(何か特別…?)
 平凡な椅子で、自分で選んだわけでもないのに。部屋にあったものを使っただけなのに。
 わざわざ誰かが運んでくれた椅子だったならば、少しは事情も変わるけれども。
(ただの椅子だよ…?)
 これとあんまり変わらないかも、と今の自分の椅子を眺める。勉強机で使うための椅子を。
 座り心地は悪くないけれど、シンプルな椅子。窓辺の来客用とは違って、立派ではない。
(あっちみたいな椅子だったんなら、分かるけど…)
 普通の椅子で何故、あんなに心が弾んでいたのだろう?
 自分用だと御機嫌で腰掛けていたのだろうか、本当にただの椅子だったのに。
(椅子なんて…)
 何処にでもあるし、珍しくもない家具なんだけど、と思った所で気が付いた。椅子は違う、と。
 そうじゃなかったと、椅子は特別だったんだ、と。
(…アルタミラ…)
 前の自分が長い年月、閉じ込められていた研究所。心も身体も成長を止めて。
 あそこでは檻で暮らしたけれども、檻には無かった椅子などの家具。
 檻だけがあった、狭くて何も無い檻が。自分用の物があったと言うなら、ただ、檻だけ。 
 椅子も机も無かった場所。床に転がるしかなかった檻。ベッドさえも持っていなかったから。



 アルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、
皆で乗り込んだ宇宙船。生き残るために、燃え上がる星を後にした。壊れ、砕けてゆく星を。
 命からがら脱出して、直ぐに貰った部屋。一人用の個室。
 空き部屋は船に幾つも備わっていたから、その日の内に。「此処を使え」と。
 後にシャングリラと名付けた船は、元々は輸送船だった船。あれで脱出した仲間たちは多くて、本当は足りていなかった個室。人数分の部屋は無かった。
 けれど、アルタミラの檻で味わった恐怖に加えて、脱出の時の地獄のような光景。空までが炎で赤く染まって、大地はひび割れ、燃えて崩れていったから…。
 とても一人ではいられない、と個室を嫌った者が殆ど。区切りさえ無い部屋で皆で雑魚寝でも、その方が心が落ち着くと。毛布などがあれば充分だから、と。
 特に希望を出さなかった者だけが個室になった。前の自分がそうだったように。



(部屋の割り振り…)
 誰がしたのかは覚えていない。多分、関心も無かったのだろう。
 何も注文をつけなかったから、ハーレイの部屋とは隣同士にならなかった。二人部屋もあったと思うけれども、同じ部屋にも入らなかった。前の自分も、ハーレイも個室。
 部屋同士の距離は近かったけれど。別のフロアに分かれることも無かったけれど。
(じゃあね、って…)
 脱出した日に、皆で食べた非常食ばかりを集めた食事。それでもパンはふわりと膨らみ、温かい料理も食べられた。アルタミラでは餌と水しか無かったのに。
 その食事の後、ハーレイと別れて入った部屋。「此処だ」と教えて貰った個室。足を踏み入れ、ベッドがある、と嬉しくなった。眠るためだけに使う家具。
 そのくらいの記憶は残っていたから、「もう床じゃない」と喜んだ。夜はベッドで眠れる生活、それを手に入れられたのだと。
 サイオンを使いすぎて疲れ果てていたから、シャワーを浴びて戻った後には倒れ込んだベッド。もう恐ろしい日々は終わりで、ゆっくり眠っていいのだから。



 疲れた身体に引き摺られるように、沈んでいった眠りの淵。夢も見ないでぐっすり眠って、目を覚ましたら…。
(檻じゃなくって、ぼくのための部屋で…)
 自分だけの部屋が周りにあった。檻よりもずっと広い部屋。ベッドの他に椅子も見付けた。一つだったけれど、自分用の椅子。好きに座ってかまわないもの。
(椅子まであるんだ…!)
 ベッドだけじゃなくて、と嬉しくて早速、座ってみた。檻には置かれていなかった椅子に。
 弾んだ心は、その時の記憶。「ぼくの椅子だ」と、胸をドキドキさせて。
(本当に、ただの椅子だったのに…)
 椅子があることが夢のように思えて、座ったり立ったり、椅子無しで床に座ってみたり。椅子のある生活を楽しみたくて。椅子はこんなに素敵なのだと、一人ではしゃいで。
 「朝飯だぞ」とハーレイが呼びに来てくれるまで。「今、行くよ」と返事して立ち上がるまで。
 それほどに胸が高鳴った椅子。自分のものだ、と喜んだ家具。



(ベッドは寝転ぶ場所だけど…)
 のんびり転がってゴロゴロ出来るし、眠る時には心地良い家具。ベッドが自分にくれる安らぎ、それも大好きだったのだけれど、椅子は特別。もっと人間らしい家具。
 椅子は座れる場所だったから。座るためだけの家具だったから。
 眠るだけなら、ベッドが無くてもなんとかなった。檻の中でも、床で眠れた。柔らかなマットや枕が無いだけ、固い床しか無いというだけ。
 檻でも充分、眠れたけれども、座ることは出来はしなかった。椅子というものに。
 座るための場所は、床があるだけ。床にペタリと腰を下ろして座る以外に無かった方法。
(椅子みたいなのは…)
 実験でならば座らされたけれど、椅子ではなくて実験器具。
 突き飛ばされるようにして腰掛けたら直ぐに、手足を拘束されていた。椅子のようなものに。
 そうして始まる人体実験、拷問でしかなかったもの。
(あんなの、椅子って言わないよ…)
 苦痛を運んでくるだけのもので、苦しかっただけの椅子に似たもの。
 本物の椅子は檻には無かったのだし、座れる場所は固い床だけだった。どれくらいの歳月を檻で過ごして、床に座っていたのだろう?
 椅子を持たずに生きていたろう、あの狭苦しい檻の中で。
 やっと貰えた自分用の椅子。好きな時に座れる、人間らしい暮らしをさせてくれる家具。
 それが自分のものになった、と前の自分は大はしゃぎだった。「ぼくの椅子だ」と。



 何度も座ったり、立ったりした椅子。初めて貰った自分用の椅子。
 ベッドよりもずっと素敵に思えて、座ったままウトウトしていたくらい。此処でも眠れる、と。
(その内に慣れて、忘れちゃったけど…)
 当たり前のものになってしまったけれども、一番好きだった家具かもしれない。シャングリラと名付ける前の船では。実験動物ではなくて、人間として暮らし始めた頃は。
 そういったことを考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。いつもの椅子に腰を下ろした恋人に。
「あのね、椅子のこと覚えてる?」
「はあ?」
 椅子って…。どの椅子だ、前に持って来てやったアレか、キャンプ用の椅子か?
 テーブルとセットで何度か持って来てたが、今は白いのになっちまったしな、庭の椅子は。
「それじゃなくって、最初の椅子だよ」
 前のぼくたちの、一番最初の。…ハーレイも持っていたじゃない。
「なんだ、そりゃ?」
 最初の椅子って、キャプテンの席のことなのか?
「もっと前だよ、アルタミラから逃げ出して直ぐ…。貰った個室に椅子があったよ」
 あの椅子だってば、最初の椅子。アルタミラの檻には無かったでしょ?
 椅子なんか入れて貰ってないから、座れる場所は床だけで…。
「そういや、そうだな…」
 ベッドも無かったし、家具なんてヤツは一つも無かった。…あの檻にはな。
 人間扱いしちゃいない、っていう研究者どもの態度が表れてたなあ、そういうトコにも。



 家具無しだなんて動物並みだ、とハーレイが顰めてみせる顔。あの檻は酷いモンだった、と。
「無事に逃げ出せたお蔭で、家具のある生活に戻れたってな」
 人間らしくベッドで眠って、枕も毛布も…。檻だった頃とは大違いだ。
「でしょ? それでね、ぼくはとっても嬉しかったよ、あの椅子が」
 ぼくの椅子なんだ、ってドキドキしてた。何度も立ったり座ったりしたよ、初めての椅子。
「椅子って…。そんなにか?」
 お前、それほど椅子があるのが嬉しかったのか…。あんな平凡な椅子ってヤツが。
「うん。ハーレイは?」
 ぼくね、あそこの椅子に座ったはずみに思い出しちゃって…。椅子を貰った時のことを。
 ハーレイも嬉しかった筈だよ、個室だったから椅子もついていたでしょ?
「ついてたが…。俺の場合は、どちらかと言えばベッドの有難さで…」
 椅子もあるな、と思いはしたが…。ベッドの方が素敵に見えたな。寝る場所が出来た、と。
「そうだったの?」
 椅子よりもベッドが気に入ってたんだ、前のハーレイ…。
 みんな同じだと思ったのに…。椅子があるなんて、とても人間らしいのに…。
「ベッドも充分、人間らしいぞ。床で寝なくていいんだから」
 今夜からベッドで眠れるんだ、と思ったらワクワクしたもんだ。もう王様の気分だってな。城は無くても、贅沢なベッドを手に入れた、と。
 ベッドの方がいいと思うか、椅子の方がいいと感じるか…。
 俺とお前の考え方の違いではなくて、檻にいた年数の違いなのかもしれないな。
 お前、とんでもなく長く檻にいたから。…俺とは比較にならんくらいに。



 ずっと檻の中で暮らす間に、忘れちまっていたんだろう、と言われた椅子。
 座るための椅子の存在を。座る時には椅子を使うと、床に直接座るのではないということを。
「忘れちまっていたんだったら、椅子ってことにもなるだろうなあ…」
 人間扱いされているんだ、と感じる家具。…昔は椅子に座ってたことを、椅子を見るまで綺麗に忘れていたんなら。椅子が記憶から消えていたなら。
 そりゃあ大切に思うんだろうな、文化的な暮らしが出来るんだから。人間らしく椅子に座って。
「…ハーレイは椅子を覚えてた?」
 椅子を使って座っていたこと、ハーレイはちゃんと覚えていたの…?
「多分な。ベッドの方を嬉しく思う程度には」
 椅子はオマケだ、ベッドつきの部屋とセットで来たオマケ。あれば便利で、それだけのことだ。
 座るだけなら、ベッドで充分、間に合うんだし…。無くても別に困らないしな?
「そうなんだ…。ハーレイがそうなら、他のみんなも椅子よりもベッド…」
 ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。あの船の仲間は、きっと全員、ベッドだよね…。
 椅子かベッドか、どっちが素敵な家具だったのかを尋ねたら。
 …椅子って言う人、いそうにないよね。床で寝るより、ベッドの方がいいもんね…。
「お前、つくづく酷い目に遭ったな」
 椅子まで忘れてしまうくらいに、ずっと檻の中か…。
 そりゃあ成長も止まっちまうな、心も身体も。育っても何もいいことは無いし、檻の中だし…。
 可哀相にな、ベッドよりも椅子だと思ったなんて。
 俺たちに椅子を寄越さなかった、研究者どもが悪いんだが…。床だけあれば充分だろう、と。
 動物には家具を与えなくても、餌と水だけでいいと思っていやがったんだ。あの連中は。



 囚人にだって椅子はあるもんだが…、とハーレイがついた大きな溜息。
 今の時代は囚人はもういないけれども、人間が地球だけで暮らしていた頃。囚人の扱いは相当に酷く、扉もすっかり塗り込めることがあったほど。食事を差し入れる窓だけを開けて。
「そういう所に放り込まれて、死ぬまで外には出られなかった囚人もいたんだが…」
 椅子くらいは持っていたそうだ。寝るためのベッドと、座るための椅子と。
 よほどの酷い牢獄でなけりゃ、囚人にも椅子はあったってな。死刑が決まっている囚人でも。
 前の俺たちは囚人以下だ。…人間扱いされちゃいないし、実験動物そのものだな。
 いや、待てよ…。椅子が無いのが普通だっていう国もあったか、昔だったら。
「えっ?」
 椅子が無いのが普通だなんて…。何処の国なの、うんと貧しい国だったとか…?
「貧しいから椅子が買えないんじゃない。要らないから持っていなかった」
 古典の世界だ、昔の日本。俺が授業で教えているだろ、貴族がのんびり平和に暮らしてた時代。平安時代だ、あの時代に椅子はあったのか?
「えーっと…。引き摺りそうな着物のお姫様とかがいた時代だよね?」
 あの時代に椅子って…。無かった…かな?
 椅子に座ったお姫様の絵は、そういえば一度も見たこと無いかも…。
「まるで無かったってこともないんだがな」
 立派な椅子は作られていたが、普段の暮らしに使うんじゃなくて儀式用だな、あの頃の椅子。
 一番偉い帝だけが座って、他の人間は使わなかった。椅子があっても無いのと同じだ。
 誰も使いやしないんだから。…椅子という物を知っていたって、全く活用しないんじゃな。



 帝しか座らなかった椅子。子供が帝だった時には、椅子に上るための専用の踏み台が使われた。それだけでも分かる、儀式用の椅子だということ。普段の暮らしに使う椅子なら、子供用の椅子を作ったろうから。踏み台を作って据える代わりに。
「そっか…。椅子はあっても、使わないんだね」
 椅子があったら座りやすいと思うけど…。床に座るより椅子だと思うよ、長い時間なら。
 前のぼくでも、椅子で感激してたのに…。椅子があるのに使わないなんて、なんだか不思議。
 平安時代の日本人なら、あの檻でも平気だったのかな?
 ベッドも無かった文化なんだし、椅子も無いなら、あの檻の中でも大丈夫かも…。
「狭すぎるとは思うんだが…。平安時代の貴族の家はデカくて、仕切りが殆ど無かったからな」
 しかし、檻には空調もあったし、考えようによっては天国かもな。
 実験と餌ってヤツさえなければ、あれでも立派な家かもしれん。
 殺風景でも、うんと狭くても、凍えはせんしな?
 貴族はともかく、あの時代の貧しい人間からすれば、きっと本当に天国だぞ。
「檻なんだけどね…。実験動物用の」
「その実験と不味い餌さえ無ければ、だ…。貴族でも入りたがるかもしれんな」
 空調システムが故障しなけりゃ、温度はいつでも適温だ。暑すぎもしないし、寒すぎもしない。
 寝苦しい夜や寒すぎる日には、「入れて欲しい」と言い出すヤツが多そうだ。
 多少狭くても、住めば都と言うんだから。
「うーん…」
 空調とかが無かった時代なんだし、それだけでも羨ましがられそう…。
 ベッドや椅子はついてないけど、元から使っていなかったんなら、平気かな…。
 前のぼくたちは、椅子とベッドの暮らしに慣れていたから、あの檻、相性が悪かっただけで。



 人体実験も不味い餌もなくて、其処で暮らすというだけならば。檻でも良かったかもしれない。狭い檻には、ベッドも椅子も無くて床だけでも。
 けれども、誰とも会えなかった檻。言わば独房、話し相手もいなかったから…。
「ねえ、ハーレイ。前のぼくたちが入れられてた檻…」
 もしも自由に出歩けていたら、他の檻の仲間と話が出来たら…。
 ベッドも椅子も無いような檻でも、気分、少しは違っていたかな…?
 出歩いた後は檻に入って、大人しくしてなきゃいけなくても。…自由時間が少しあったら。
「多分、違っていたろうな」
 人体実験と餌の毎日でも、ホッと一息つける時間があったなら…。仲間同士で愚痴を零せたら。
 しかし、人類はそいつを認めはしないな、なにしろ相手はミュウなんだ。
 ミュウ同士だと、相乗効果でサイオンが強くなるわけだが…。それが無くてもヤツらは許さん。
 一人一人は弱いミュウでも、何人か寄れば、考えを纏め始めるからな。
 檻にポツンと一人でいたんじゃ、思い付かないようなアイデアってヤツも湧いて来る。ついでに勇気百倍ってトコだな、仲間がいれば。
 反乱なんかも考えついたりするだろう。一人じゃ無理でも、何人かいれば、と。
 そうならないよう、一人ずつ閉じ込めてあったんだ。誰とも接触出来ないように。
「…その効果、ホントにあったよね…」
 顔見知りの仲間は誰もいないし、話したことさえ一度も無かったわけだから…。
 前のぼくたち、メギドで星ごと滅ぼしてやるって言われても…。
 シェルターに纏めて入れられちゃっても、出るための方法、相談しようともしなかったし…。
「何も出来なかったろ、死んじまうんだと分かっていても」
 お前がシェルターをブチ壊すまでは、みんな諦めちまってた。…前の俺もな。
 あそこでお前が膝を抱えて諦めていたら、何もかも終わりだったんだ。
 額を集めて話し合えるような関係を俺たちが築いていたなら、また違ったかもしれないが…。
 あれだけの仲間が力を合わせてぶつけていたなら、シェルターを壊せたかもしれないんだがな。
「そうかもね…」
 みんなが必死に頑張っていたら、壊せたかも…。此処だ、って一ヶ所に力を集中させたら。



 きっと出来たのだと思う。前の自分が壊したシェルター、それを内側から壊すくらいは。全員が力を合わせていたなら、扉くらいは吹き飛んだ筈。
 けれど、幾つもあったシェルター。大勢の仲間が閉じ込められていたのだけれども、自分たちの力で脱出した者はいなかった。前の自分とハーレイが行くまで、皆、シェルターに入っていた。
 駆け付けた時には、壊れてしまっていたシェルターも幾つもあった。
 入れられた者たちが脱出を試みたならば、そうなる前に逃げ出せたろうに。シェルターごと命を失くす代わりに、外へ出ることは出来ただろうに。
(…みんな、知り合いじゃなかったから…)
 纏め上げようという者もいないし、纏まろうとも考えない。自分の隣や前や後ろにいる者たち。それが誰かも分からないのだし、あの状況では自己紹介など始めないから。
(知らない人だ、っていうだけで…)
 人間は声を掛けにくいもの。まるで知らない人間には。
 前の自分たちを一人ずつ檻に閉じ込めた人類、彼らのやり方は正しかったと言えるだろう。
 星ごと滅ぼされそうになっても、団結を知らなかったミュウたち。
 そうなることを知っていたから、人類はミュウをシェルターに閉じ込め、自分たちは宇宙へ逃げ出して行った。あの種族はもう滅びるだけだと、計算ずくで。
 首のサイオン制御リングも、そう読んだ上で外して行った。それが無くなっても、ミュウたちは何も出来ないから。一人ずつ自分の殻に籠って、震えることしか出来ないから。
 希少な金属を使用していた、サイオンを制御するリング。
 ミュウたちと一緒に焼き滅ぼすには惜しいものだから、人類はそれを回収した。きっと何処かで売り飛ばしたろう、凄い値をつけて。皆で山分けしたのだろう。
 ミュウは滅びたに決まっているから、もう要らないと。売ってしまってかまわないと。
 彼らの計算が正しかったから、救えなかった仲間たちがいた。シェルターの扉を壊すサイオン、それを纏めることが出来ずに。
 前の自分とハーレイが懸命に駆け付けた時には、シェルターごと瓦礫や地割れに飲まれて。



 もしも交流があったとしたなら、もっと早かっただろう行動。何をすべきか、皆で考えて。
 前の自分が一人でシェルターを壊さなくても、皆の力で扉を壊して、外へ逃れて。
「…人類の計算、合っていたけど…。誰も逃げようとしなかったから…」
 逃げるつもりで頑張っていたら、シェルターごと潰されたりはしないで、生き残れたのに…。
 ぼくとハーレイが間に合わなくても、ちゃんと逃げられた筈なのに…。
 どのシェルターでも、みんな、閉じ込められていただけ。ぼくたちが扉を開けに行くまで。
 そういう仲間しかいなかった割に、あそこからの脱出、上手くいったね。
 船はこっちだ、って見付けて離陸の準備をしてたり、逃げて来る仲間を誘導したり。
「一人残らずミュウだったからだ」
 シェルターから出られりゃ、余裕も出て来る。出られたんだから、逃げてやろうと。
 生きようって気力が湧いて来たなら、サイオンも自然と使えるってな。元々持ってる力だけに。
 思念波を飛ばせば、自己紹介なんかは一瞬で済む。
 一人が気付けば後は早いぞ、こうやって知り合いを増やせばいいと。みんな仲間だと。
 俺とお前がシェルターを開けようと走ってる内に、逃げたヤツらは信頼関係を築いてたってな。
 誰が誰かもちゃんと分かるし、得意分野も当然、分かる。
 船を見付けて準備したヤツらは、そういうのが得意だったんだ。動かしたこともないような船を前にしたって、なんとかしようと思える連中。
 もっとも、基本の知識が無いから、手順通りに実行するしかなかったが…。
 そのせいで乗降口を閉めずに離陸しちまって、ハンスの事故が起こってしまったんだがな…。



 だが、俺たちはアルタミラから脱出できたんだ、というハーレイの言葉に間違いはない。互いに思念波を遣り取りしての交流、それを始めたら早かった。理解し合うことが。
 船で宇宙へ逃げ出してからも、役に立ったのが思念波の存在。
「ぼくたちの部屋割、あの日の内に出来ちゃったのも…」
 誰がどういう人間なのか、船のみんながきちんと分かっていたからだものね。
 個室を貰っても平気なタイプか、毛布や枕をかき集めて来て何人もで固まっている方が好きか。
「うむ。実に便利な能力だったな、ああいう時にも」
 人類ばかりの船だったならば、そうそう上手くはいかないぞ。あれだけの人数なんだから。
 全員が納得出来る部屋割、人類には多分、無理だったろう。その日の間に決めちまうなんて。
 ミュウだったからこそ、直ぐに決まって、椅子もベッドも貰えたわけだな。
 個室でもいい、と思ったヤツらは、もれなくベッドと椅子つきの部屋で。
「…あの時の部屋割…。ハーレイの隣にすれば良かった…」
 決めてしまう前に頼んでいたなら、隣同士だったと思うんだけど…。
 ぼくたちの部屋は同じフロアだったし、ぼくの隣の仲間とハーレイの部屋を取り替えていても、何も問題はなかったのに。
 ハーレイはまだキャプテンとかじゃないんだもの。きっと通った筈なんだよ。…注文すれば。
「俺も、どうして言わなかったんだか…」
 チビのお前は言いに行くのに、勇気が必要だったかもしれないが…。
 俺にしてみりゃ、部屋割を決めてたヤツらも同じ年頃の仲間なんだし、割り込むくらいは簡単なことで…。横から「ちょっといいか?」と言えば良かったんだよな、俺の部屋割。
 お前の隣の部屋にしてくれと、友達だからと、一言、頼んでおいたらなあ…。



 失敗だった、とハーレイも自分も思うけれども、隣同士ではなかった部屋。貰った個室。椅子とベッドが備え付けられた部屋は、多分、ほど良い距離だったのだろう。
 ハーレイと二人、お互いの部屋に招いて、招かれて過ごしていた。お互い、二つ目の椅子も用意して、来客に備えて。
 前の自分が好きだった椅子。人間らしいと思った家具。…すっかり忘れていたけれど。
 そして今では、自分のための小さなお城に椅子が三つもあるものだから…。
「えっとね…。前のぼく、部屋に置く椅子を増やしてたけど…」
 ハーレイが座る椅子が欲しいな、って二つ目の椅子を貰いに行ったんだけれど…。
 今のハーレイの家にも、椅子を増やしてもいい?
 前にも頼んでいるけれど…。椅子を二つほど。
「椅子を二つか…。この椅子だろ?」
 俺とお前が座っている椅子、こいつを持ってくるんだな?
 お前が俺の嫁さんになる時は、この椅子も一緒にやって来る、と。
「そう!」
 ハーレイの家に引越すんだよ、椅子と、それからテーブルも。
 これにピッタリの場所を見付けて、ハーレイの家でも二人で座っていたいから…。
 そっちの椅子がハーレイの椅子で、こっちがぼくの。
 ハーレイの家に引越した後も、いい場所があったら、ハーレイ、運んでくれるよね?
 引越し屋さんに置いて貰った場所より、素敵な場所が見付かったら。
「もちろんだ。…季節に合わせて引越しもいいぞ」
 眺めのいい部屋とか、落ち着く部屋とか。
 何処にだって俺が運んでやるさ。前のお前と椅子の話を聞いちまったら、尚更だってな。



 任せておけ、とハーレイは約束してくれたから、この椅子たちはいつか引越しをする。
 ハーレイと二人で暮らす家まで、大切に梱包して貰って。他の色々な荷物と一緒に。
 この椅子たちをハーレイの家に増やして、置いて。
 そしてハーレイの家にある椅子にもストンと座ろう、幸せな気分で。
 これも今日からぼくの椅子だよ、と。
 ぼくをよろしくと、これから一緒に暮らすんだから、と椅子にも挨拶をして。
 ハーレイの家にある椅子の全部に、自分を紹介して貰おう。
 「俺の嫁さんだ」と、「よろしくな」と。
 それが済んだらハーレイと二人、どの椅子に座って話そうか。
 手を繋ぎ合って歩く幸せな未来、これから歩いてゆく道にあるだろう夢を。
 何をしようか、何処へ行こうかと、二人、いつまでも、尽きることのない幸せな夢を…。




              座れる椅子・了


※今のブルーが持っている椅子たち。けれど、前のブルーが檻にいた時には、無かった椅子。
 ベッドよりも椅子を嬉しいと思ったくらいに、過酷だった日々。今では座れる椅子が幾つも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













(橋が色々…)
 ホントに色々、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 地球のあちこちに色々な橋。デザインも色々、色や素材も。同じ石造りでも地域によって変わる石の色。遠く遥かな昔に愛された橋たち、それの形を真似ているから。
(地球が滅びるよりも、ずっと昔の…)
 イギリスだとか、フランスだとか。もっと昔のローマ帝国とか、様々な国が誇った橋たち。
 SD体制が始まる頃には、もう失われていたという。高層ビル群の中に埋もれて、それがあった川と一緒に滅びて。
 けれども、青く蘇った地球。魚が棲む川も帰って来たから、似合う橋をと架けられた橋。遥かな昔にあった橋たち、そういう橋がよく似合うと。
(全部、復活した橋なんだ…)
 今の自分が住む地域。日本という島国があったという場所、此処にも蘇った色々な橋。石造りの橋や、木で美しく組み上げた橋。
 川の水が雨で増えすぎた時に備えて、工夫がしてある橋だって。
(流れ橋…?)
 水量が多くなった時には、橋の板が外れて流れ出す橋。それが流れ橋、橋げたは壊れずに残る。板がしっかりつけられていたら、一緒に壊れてしまう所を。
 橋げたはちゃんと残っているから、板をつければ元通り。壊れても壊れない橋が流れ橋。
 沈む橋だってあるらしい。沈下橋という名前。大水の時には壊れないよう、川の中に沈む。橋は欄干を持っていないから、流木などで壊れはしない。引っ掛かる欄干が無いのだから。
(水が引いたら元通り…)
 ちゃんと水面に顔を出して来て、前と同じに渡ってゆける。橋は壊れていないから。



 この地域だけでも沢山ありそう、と眺めた橋の写真たち。地球の上には数え切れないほど、この地域にもきっと色々ある筈。綺麗な橋やら、珍しい工夫を凝らした橋が。
(此処から近い所だと…)
 何があるかな、と考えたけれど、素敵な橋は特に無さそう。川は流れているのだけれども、橋は平凡な橋ばかり。何処に行ってもありそうな橋。
(デザインは色々なんだけど…)
 わざわざ写真を撮る人はいないし、それが目当てで観光客が来ることもない。橋を見ている人がいたなら、どちらかと言えば…。
(橋の周りを飛んでる水鳥…)
 そちらの方が目的だろう。一年中いる鳥たちもいれば、渡りをして来る鳥たちもいる。橋の上に立って餌を投げたりする人もいるし、釣り人を見物する人だって。
(橋そのものは見ていないよね…)
 いくら考えても思い付かない、家から近い特別な橋。新聞に載せて貰えるような。
 一つも無いや、と気付いてしまったら…。
(いつかハーレイと…)
 こういう橋を渡ってみたいな、と写真を見渡してから閉じた新聞。橋の特集。ハーレイと旅行に出掛けて行くなら、いろんな橋を渡ってみるのも楽しそう、と。
 絵になる橋や、有名な橋や、珍しい工夫がしてある橋。二人で一緒に橋を渡りながら、あれこれ話して、記念写真も撮ったりして。



 素敵だよね、と夢を描きながら戻った部屋。
 勉強机の前に座って、さっき見て来た橋の写真たちを思い浮かべていたのだけれど。
(…橋…?)
 ハーレイと一緒に渡りに行こう、と考えた橋。大きくなったら、と夢見た橋というもの。今では普通に目にしているから、橋は珍しくもないけれど…。
(…前のぼく…)
 前のハーレイとは渡っていない。ただの一度も、ハーレイと二人で橋を渡ったことは無い。
 シャングリラに川は無かったから。橋を架けるような川は流れていなかったから。
(公園に…)
 居住区に鏤められた公園、其処を流れる川ならあった。ほんの小さな、癒しの流れ。せせらぎの上には橋もあったけれど、流れに見合った小さなもの。
(ハーレイだったら一歩で渡ってしまえそう…)
 その程度だから幅も狭いし、二人一緒には渡れない。二人で橋を渡りに行っても、一人ずつ別に渡るしかない。ハーレイが先に渡ってゆくとか、前の自分が先だとか。
(あんな橋だと無理だよね…)
 二人一緒に行くだけ無駄、と考えなくても分かる橋。
 川が無ければ橋も無いから、話にならない二人で橋を渡ること。絶対に無理、と。



 他に橋らしきものはあっただろうか、と探った記憶。川は無くても、橋のようなもの、と。
(まるで無いこともないけれど…)
 形だけなら、と辿るシャングリラの中のあちこち。広い公園の上に浮いていたブリッジ、其処に繋がる橋ならあった。下は川ではなかったけれど。
 それ以外なら、点検用の橋が幾つか。機関部の上などに架かっていた橋。
(ああいう橋なら、ハーレイと渡ったんだけど…)
 たまに二人で歩いたけれども、あくまで視察。ソルジャーだった前の自分と、後ろを歩いていた前のハーレイ。制服を纏って、キャプテンとして。
 その上、橋を渡っているという感覚も持っていなかった。橋の下に川は流れていないし、水鳥も飛んでいないのだから。
(前のぼくたち、一緒に橋を渡っていないよ…)
 長い年月、恋人同士だったのに。
 白いシャングリラで共に暮らしたのに、一度も渡っていない橋。だから、今度は…。
(ハーレイと二人で渡りたいな…)
 色々な橋を、と強まった思い。
 部屋に帰って来た時よりも、ずっと。新聞を眺めて夢を見ていた時よりも、ずっと。



 二人で橋を渡りたいよ、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、早速訊いた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくと一緒に橋を渡ってくれる?」
 川に架かっているでしょ、橋。ああいう橋だよ、あれをハーレイと渡りたいんだけれど…。
「はあ? 橋って…」
 そういうデートは、お前、まだまだ早いだろうが。チビなんだし。
「デートって?」
 そりゃあ、デートかもしれないけれど…。デートに行かなきゃ渡れないしね。
 でも、橋を渡るだけでデートになるの?
 デートのついでに渡るものでしょ、とキョトンとしたら。
「なんだ、違ったのか…。てっきり橋でデートなのかと…」
 お前が橋って言い出すから…。俺と一緒に渡ろうだなんて。
 橋でデートというのがあるんだ、二人で一緒に渡ったら恋が叶うとか…。
 有名なのだと、橋の欄干に錠前をつけるっていうヤツだよな。
 南京錠は知っているだろ、あれに二人のイニシャルを入れて、橋の欄干にくっつける。それから鍵を川に捨てれば、永遠の愛の誓いってな。
 ずっと昔のヨーロッパで生まれた話らしいが、世界中に広がっていたそうだ。
 もちろん今でも、ちゃんとやっているぞ。昔はこれをやってました、って地域に行けば。



 ハーレイの話では、橋の欄干にくっつけてゆく南京錠は、今の時代も大人気。発祥の地を名乗る地域はフランス、「元の橋そっくりに作った橋です」と大々的に宣伝しているくらい。
 有名なだけに、観光客もつけてゆくらしい。カップルで渡って、南京錠を橋の欄干に。その鍵は下を流れる川に投げ入れ、永遠の愛を誓い合う。この鍵はもう外れないから、と。
「凄い数らしいぞ、橋についてる南京錠」
 重さも凄いし、放っておいたら橋の欄干が壊れちまうから…。
 古いヤツから順に外して、数が集まったら溶かしてモニュメントにするそうだ。橋の近くにある公園に幾つもあるとさ、愛の誓いのモニュメントが。
「そうなんだ…。知らなかったよ、その橋は」
 橋を渡ったら恋が叶うっていう橋だって。どうして橋がそうなるのかな?
「俺も知らんが…。橋は繋いでいるからな。二つの岸を」
 こっちと向こうと、二つの世界を繋いでくれる。恋人同士の二人も繋いでくれそうじゃないか、橋に頼んでおいたらな。
 恋人同士を繋ぐ橋なら、カササギの橋があるだろう。七夕の夜にだけ架かる、天の川の橋。
 彦星と織姫は伝説だがなあ、そんな具合に恋人同士を結んでくれるのが橋ってヤツだ。
「カササギの橋…。ハーレイ、天の川を泳いでくれるんだっけね」
 ぼくたちの間に天の川が出来てしまった時は。…雨が降って、カササギの橋が出来ない時には。
「お前に会いに行くためならな。天の川、泳ぎ渡るしかないだろうが」
 どんなに広くても、俺は泳いで渡ってみせる。お前が待ってる向こう岸まで。
 しかし、お前はデート抜きで橋を渡りたいのか?
 どうやら、そういうつもりだったようだが、なんでまた…。



 俺と橋なんかを渡りたいんだ、と尋ねられたから、きちんと答えた。渡りたい理由を。
「…前のぼくたち、一緒に橋を渡っていなかったんだよ」
 ずっとハーレイと生きていたのに、一度も渡っていなかった…。
 シャングリラに川は小さなヤツしか無かったし…。点検用の橋がある場所は、視察で渡る以外に二人で行きはしないし、恋人同士で渡ったことは無かったっけ、って…。
 今日の新聞に色々な橋の記事が載ってて、そのせいで気が付いたんだよ。前のぼくたち、一度も渡っていないよね、って…。
「それで橋だと言い出したのか…」
 吊り橋効果ってわけでもないんだな?
 橋の特集を読んだらしいが、吊り橋の話も書いてあったか?
「吊り橋も載っていたけれど…」
 効き目があるって話はなんにも…。吊り橋効果って、どういうものなの?
「そのままの意味だな、吊り橋が持ってる独特の効果」
 あれはユラユラ揺れるもんだし、渡る時には普通の橋より怖い思いをするってことで…。
 そういう橋の上で会ったら、恋に落ちやすいという話があるんだ。それが吊り橋効果だが?
「吊り橋効果って…。ぼくとハーレイ、元から恋人同士じゃないの」
 一緒に吊り橋を渡ってみたって、何も変わりはしないと思うよ。最初から恋をしてるんだから。
「ほらな、吊り橋を二人で渡っても意味が無いから…」
 てっきりデートの方なのかと…。
 俺と二人で橋を渡って、恋を叶えて結婚だとか、錠前をつけて永遠の愛を誓うとか。
「違うってば!」
 ハーレイと橋を渡りたいだけだよ、前のぼくたちは一度もやってないから!
 あんなに長い間、ずっと恋人同士だったのに、二人で渡っていないんだから!



 本当に橋を渡りたいだけ、と言ったけれども、これもデートと呼ぶのだろうか?
 ハーレイと二人で渡りたいのだし、橋に願いをかけにゆくのとは違っても。
「…やっぱりデートになっちゃうのかな…。ハーレイと橋を渡ること」
 恋が叶う橋とか、南京錠をつける橋じゃなくても。…その辺の川にある橋でも。
「当然、デートになるんだろうな。橋を渡りに行きたい、ってことで」
 俺と二人で食事に行くとか、ドライブに出掛けてゆくだとか。…デートの目的は色々だしなあ、そいつが橋を渡るってことになるだけだ。食事やドライブと何も変わらん。
「じゃあ、今は駄目?」
 ぼくが大きくなるまで駄目なの、ハーレイと橋を渡るのは。
 その辺の橋を渡りに行くなら、二人で出掛けられそうだけど…。次の土曜日とかにでも。
「まるで駄目とは言わないが…。近所の橋を渡るだけなら」
 しかしだ、お前、教師と渡って面白いのか?
 今のお前と出掛けてゆくなら、俺はあくまで教師で守り役、そういう立場になるんだが?
 二人で橋を渡る時には、もちろん橋に纏わる授業。古典の世界を語るってな。
「そうなっちゃうわけ?」
 ハーレイが話してくれるわけだし、きっと楽しい中身だろうけど…。
 恋人同士って雰囲気じゃないね、行きも帰りも古典の授業。
 そんなのに時間を使うくらいなら、家でゆっくりしている方がいいみたい…。
 ぼくの家なら、恋人同士で色々な話が出来るんだから。
「分かったか、チビ」
 橋を渡るのは当分先だな、俺とデートをしたいなら。
 初めて二人で渡る橋だ、と感激しながらデートを楽しみたいならな。



 その日が来るまで我慢だ、我慢、と一蹴されてしまった、二人で橋を渡りにゆくこと。
 教師と生徒の関係ではなくて、恋人同士の二人として。
 家から近い橋でも渡れないのがチビの自分なら、いつか大きく育った時には、恋人たちのための橋を渡りたい。ハーレイと二人で、デートに行って。
「…今は駄目なの、分かったよ…。だったら、ぼくが大きくなったら…」
 恋人向けの橋を渡ってみたいな、ハーレイが話してくれたヤツ。
 渡ると恋が叶う橋とか、南京錠をつける橋みたいなの。
「そりゃまあ…。お前さえ、前と同じ姿に育てばな」
 断る理由は全く無いなあ、むしろ俺から誘いたいほどだ。こういう橋があるから行こう、と。
 前のお前とそっくり同じな美人と一緒だ、俺だってうんと鼻が高いし…。
 ん…?
 待てよ、とハーレイが顎に手を当てたから。
「どうかした?」
 前のぼくと同じに育ったぼくでしょ、デート出来ると思うけど?
 橋を渡りに行きたいな、ってお願いしたのも、ぼくが先だし…。何も問題、無い筈だよ?
「そうじゃなくてだ、恋人用の橋…。無かったか?」
 前のお前も知っていた橋で、恋人用のが。
「恋人用って…。何処に?」
 橋でしょ、何処にそんなのが?
「シャングリラだが…」
 それ以外の何処にあると言うんだ、俺もお前も知っていた橋。…恋人用の。
「あるわけないでしょ、恋人用の橋なんか」
 アルテメシアの方ならともかく、シャングリラなんて…。アルテメシアでも怪しいよ。あそこは育英都市だったんだし、カップルは全部、結婚してたんだもの。
「それはそうだが、あったような気が…」
「まさか。…シャングリラだ、って聞かなかったら、もしかしたら、とは思うけど」
 シャングリラに恋人用の橋があるわけないでしょ、普通の橋でも無かったような船なんだから。



 そういう夢でも見たんじゃないの、と笑っていたら。「今のハーレイのと混じったんだよ」と、今の時代の有名な橋を思っていたら…。
「いや、あった。…思い出したぞ」
 間違いなくあった、シャングリラにな。正真正銘、恋人用の橋ってヤツが。
「あったって…。何処に?」
 嘘でしょ、と見開いてしまった瞳。けれどハーレイは、自信たっぷりに。
「橋があったのは、機関部だ」
「機関部!?」
 あそこに橋って…。点検用の橋は幾つかあったし、前のぼくも視察していたけれど…。
 一般人は立ち入り禁止だった筈だよ、船の心臓部で、それに危険もあったから…。
 そんな所に恋人用の橋があるなんて、有り得ないでしょ?
 デート出来ない場所なんだから。立ち入り禁止で。
「立ち入り禁止の場所だったからだ」
 そいつが解ける時って、あったか?
 一般人でも機関部に出入り自由になる時、あの船で一度でもあったのか?
「無いと思うよ、ぼくの記憶にある限りでは」
 機関部は常に動かしてたしね、どんな時でも。
 オーバーホールに入る時でも、予備の機関を動かさないと…。シャングリラは宇宙船だから。
 機関部が完全に止まっちゃったら、エネルギーの供給が出来なくなっちゃう…。
「解けないだろうが、立ち入り禁止は」
 だからこそなんだ、恋人用の橋があそこにあったのは。
 立ち入り禁止と言ってはいても、警備員が立ってるわけじゃなかったからな。入ろうとするのを止めるヤツはいないし、たまには隙があるってことだ。
「隙…?」
「こっそり入ってもバレない時、と言えば分かるか?」
 運が良ければ、中に入れる。恋人同士で、大急ぎでな。
「ああ…!」
 いたんだっけね、そういうカップル。隙を狙って駆け込むんだっけ…!



 確かにあった、と蘇って来た、シャングリラの恋人用の橋。立ち入り禁止の機関部の奥に。
 常に動いていた機関部だけれど、白い鯨になった後。
 アルテメシアの雲海に潜んでいた時代には、平穏無事と言ってよかったシャングリラ。人類軍の船は来ないし、宇宙を飛んでいるわけでもない。雲の中を飛べればそれで充分。
 エネルギーをフルに使いはしないし、機関部にいたのは最低限の人数だけ。必要な機関の動きをチェックし、定時報告をする程度の。
 おまけにワープドライブとなれば、まるで使われない部分。当然、誰もいはしない。惑星上から直接ワープはしないのだから、使いもしないし、メンテナンスが行われるだけ。
 其処に架かった、点検用の橋。
(あれが恋人用の橋…)
 白いシャングリラで、恋人たちが目指した橋。恋が叶うと、其処へ行こうと。
 誰が最初に言い出したのかは、誰も調べはしなかった。せっかくの夢が台無しだから。
 ただ、伝説があっただけ。
 ワープドライブは別の空間への転移装置で、遠く離れた違う場所へと飛ぶための機関。
 だから、幸せな世界へ、と。二人の幸せな未来へ飛ぼう、と。
 点検用の橋の上に二人で立って、手を繋ぎ合って願いをかける。
 「どうか幸せになれますように」と。
 無事に願いをかけ終わるまで、追い出されずにいられたら。僅かしかいない機関部の係、それに見付かって放り出されなかったら、幸せになれると伝わっていた。
 船の中だけが世界の全てだったシャングリラ。
 閉ざされていた船ならではの、小さな小さな恋の伝説。恋人たちのための、幸せの橋。



 白いシャングリラにも橋はあった、と懐かしく思い出したワープドライブ。立ち入り禁止の筈の機関部の奥に、恋人用の橋があったんだっけ、と。
「…ホントにあったよ、恋人用の橋…」
 入っているのがバレちゃった時は、ゼルに物凄く叱られるのに…。「危険なんじゃぞ!」って、頭から湯気が出そうな勢いで。
 だけどコッソリ入っちゃうんだよ、恋人たちが。
 叱られたって懲りもしないで、見付からずに願いをかけられるまで。
「反省するって言葉は無かったよなあ、あいつらの辞書に」
 願いをかければ幸せになれる、っていう橋があるからには、何がなんでもやり遂げる、とな。
 なまじ機関部の人数が少なかったモンだから…。何度もやってりゃ成功するから。
 いつの間に、あんな妙な噂が出来ていたのかは、俺も知らんが…。
 そういう意味では、俺はキャプテン失格なんだが。船の噂も知らんようでは。
「白い鯨になってからだ、っていうことだけしか分からないよね…」
 改造前だと、機関部、もっと狭かったから…。
 入ろうとしたら、係が住んでる区画も通って行くことになるから、あの船じゃ無理。
 でも、それだけしか分からないから…。
 前のぼくが噂を聞いた時には、とっくに有名になってたんだよ、あの橋は。



 白いシャングリラに張り巡らしていた、思念の糸。万一の時には役立つからと。
 けれども、糸が察知するのは、仲間に迫った危険などだけ。行動も思いも追いはしないし、何をしているかも伝わりはしない。意図して調べにかからない限り。
 だから気付きはしなかった。船で生まれた恋の伝説、ワープドライブの橋のことにも。
「お前、あの橋の噂をゼルから聞いたんだっけな」
 会議が終わった後の時間に、たまたま一緒に休憩してて。
 その前の日に、あそこに入って叱られたヤツらがいたもんだから…。「また来おったわ」という愚痴が始まっちまって、それで初めて橋の存在に気付いた、と…。
「うん…。そういう橋があっただなんて、ってビックリしたよ」
 機関部の奥にコッソリ入って、恋のお願い。ワープドライブがある場所なんかで。
 だけど、素敵な話だから…。
 根拠なんかは全く無くても、恋人同士で出掛けるんだ、っていうだけで幸せそうだったから…。
 ぼくも渡りたくなっちゃったんだよ、ハーレイと一緒に。
 視察で何度も渡っているのに、それとは別に、恋人同士でお願いをしに。
 ぼくたちも幸せになれますように、って。
「頼まれたっけな、ゼルと別れた後に早速」
 一緒に行って欲しいんだけど、と大真面目な顔で。
 願いをかけると幸せになれる橋らしいから、二人で機関部に行きたいんだ、と。
 俺の方でも、そういう気分は無いでもないし…。
 ただの橋だと分かっていたって、お前と一緒に願いをかけたら、幸せが来るかもしれんしな?
 キャプテンだった俺でも、その始末だから…。
 恋人同士のヤツらが機関部の奥を目指していたのも、当然と言えば当然だよなあ…。
 何度叱られても、懲りないで。…成功するまで、何回でもな。



 前のハーレイに「行きたい」と頼んだ、機関部の奥の、恋人たちが願いをかける橋。恋人同士で橋の上に立って、手を繋ぎ合って祈る橋。「どうか幸せになれますように」と。
 誰にも見られず、それが出来たら、願いが叶って幸せになれる。
 そう聞いたから「自分も」と考えた、恋人同士で出掛けてゆく場所。ハーレイと行こうと、橋の上で願いをかけようと。
 ハーレイは「ええ」と頷いてくれたけれども、ソルジャーとキャプテンだったから。船の中では常に制服、それだけで人目に立つのだから。
 何度二人で挑んでみたって、目立ち過ぎて、どうにもならなかった。
 今日こそは、とコッソリ忍び込んでも、直ぐに見付かり、視察なのだと勘違いをして、大急ぎで駆け付けた機関部の者たち。ソルジャーとキャプテンを案内せねば、と。
 いくら頑張っても、二人きりで行けない機関部の奥。
 「ワープドライブを見て来るから」と二人で行こうとしたって、「ワープの準備は万全です」と係の者が出て来る有様。前に点検した日はいつで…、などと報告するために。
 これでは駄目だ、と諦めるしかなかった正面からの突破方法。
(…とにかく祈ればいいんだから、って…)
 ある夜、ついに瞬間移動で飛び込んだ。
 ブリッジでの勤務を終えたハーレイを連れて、青の間から一気に機関部の奥へ。
 恋人たちが願いをかけると噂の、ワープドライブに架かった点検用の橋の上へと。
 其処に立ってしっかり手を繋ぎ合って、二人で祈った。「どうか幸せになれますように」と。
 祈った間はほんの一瞬、ハーレイと一緒に逃げて帰った。誰にも見られず、元の青の間へ。
 そうして願いをかけたのだけれど…。



 儚く散ってしまった恋。前の自分はメギドへと飛んで、ハーレイと離れてしまったから。
 右手に持っていたハーレイの温もり、それさえ失くして独りぼっちで潰えた命。ハーレイの方も地球までの長く辛い旅路を孤独と絶望の只中で生きて、地の底で死んでいったから…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、あの橋でお願いしたけれど…」
 どうか幸せになれますように、って二人できちんとお祈りしたけど…。
 瞬間移動で入って逃げて、って反則だったから、幸せになれなかったかな?
 誰にも見られずにお願いしたけど、ちゃんと入ったわけじゃないから…。
「さてなあ…?」
 そこまでは分からん、元々がただの噂だからな?
 出処不明で、伝説には違いないんだが…。相手はワープドライブの橋だぞ、点検用の。
 そいつが真面目に願いを聞いて、本当に幸せをくれるかどうかは謎なんだから。
 キャプテンとしての俺の目で見りゃ、「くだらん噂だ」とも言えたしな?
「そうなんだけど…。でも、伝説の橋なんだよ?」
 恋人同士でお願いする場所で、誰にも見られずにちゃんと祈れたら、幸せになれる素敵な橋。
 カリナとユウイも祈ったのかな、ハロルドたちも?
 ナスカの子たちのパパとママたち、みんな、あの橋で無事にお祈り出来たのかな…?
「おいおい、そいつが叶ったかどうか、知られるようでは駄目だろうが」
 誰かが見ていたことになるんだぞ、「あの二人はきちんとお祈りした」と。
 見られちまったら、幸せは来ないというのが伝説だったんだから。
「それもそうだね…」
 誰にも見られずにお祈り出来たら、幸せになれるって言うんだものね。
 カリナたちの時代は、きっと難しかっただろうね、お祈りするの。
 シャングリラは宇宙に出てしまっていて、機関部の係も増えただろうし…。
「ナスカに到着した後だったら、暇なもんだぞ、機関部も」
 アルテメシアの頃と変わらん、宇宙ではあったが、既に飛んではいなかったからな。
 機関部の奥に入るくらいは、多分、簡単だっただろうさ。…あの橋の上に立つことだって。



 実際の所はどうだったのかは俺は知らんが、とハーレイは苦笑するけれど。
 ナスカの時代のワープドライブ、恋人たちのための橋の噂は、全く知らないらしいけれども。
 あそこに、伝説は確かにあった。
 誰にも見られず、恋人同士で橋の上に立って、手を繋いで祈れば幸せになれると。
 ソルジャーがジョミーに代替わりしても、きっと伝説は残っただろう。幸せな伝説なのだから。恋人同士で橋を目指したら、幸せを手に入れられるのだから。
 何人もの恋人たちが幸せを願って、あの場所に二人で立った筈。
 機関部の奥にコッソリ入って、ワープドライブの点検用にと架けられた橋に。手を繋ぎ合って、あの橋の上に。
 周りは機関部にワープドライブ、立ち入り禁止で、ロマンチックではない場所に。
 機関部の者たちに見付かったならば、ゼルの雷が落とされる場所に。
(ワープドライブ…)
 違う空間へと飛ぶためのゲート、それを開くのがワープドライブ。
 遠く離れた場所へ一瞬で飛んでゆけることは、ロマンなのかもしれないけれど。
 今よりもずっと幸せな未来、其処へ飛ぶことも出来る場所だと、夢は広がりそうだけれども。



 いったい誰が言い出したのかは、あの時代でも分からなかった。
 機関部の奥に架かっていた橋、其処で願いをかけること。恋人同士で立って幸せを祈る場所。
 けれども、あれも橋だったから。…今の時代も、恋の願いをかける橋があると聞いたから。
「人間って、いつの時代も、同じようなことを思い付くのかな?」
 シャングリラにあった恋人用の橋…。川も無いのに、ワープドライブの点検用の橋だったのに。
 だけど、あそこで幸せをお願いしていたんだし…。お願い用のルールもあったんだし。
 今の時代も、橋でお願いするんでしょ?
 橋の欄干に南京錠をつけて、鍵は川の中に捨てちゃって。…ずっと恋人同士です、って。
「あれはだ、今の時代のヤツだぞ」
 前の俺たちが生きてた時代に、人類の世界に、恋の願いをかける橋があったかどうかは知らん。
 シャングリラには確かに恋人用の橋があったが、人類の方はどうだかなあ…。
「そういう話は、ヒルマンだってしていないよね…」
 人類の世界にも詳しかったけど、似たような橋が人類の世界にあるってことは。
 それとも、そんな話を教えたら、機関部の橋、認めるようなものだから…。
 「入っていいよ」ってお許しを出したみたいになって、ゼルがますます怒りそうだから…。
 知っていたけど、言わずに黙っていたかもね。
 人類の世界にもあるようだよ、って。…昔の地球にも南京錠をつける橋があってね、って…。



 恋人たちのための橋の伝説、それをヒルマンが知っていたかどうかは分からない。今となっては時の彼方で、訊きにゆくことは出来ないから。
 けれど、白いシャングリラの機関部にあった、恋人たちのための橋。
 立ち入り禁止の区域なのだし、危険と言えば危険だけれども、頑丈な鍵をつけたり、警備の者を配置したりと、厳しくすることはしなかった。誰も立ち入れないように、とは。
 シャングリラの最高責任者だった、前のハーレイも。
「…ハーレイ、あそこの橋なんだけど…」
 もっと厳重に管理することは出来たよね?
 立ち入り禁止区域だから、って鍵をかけるとか、警備員を置いて見張るだとか…。
 誰もコッソリ入れないように、うんと厳しくしちゃうってこと。
「それは出来たが、あの橋はだな…。俺も自分で立ってたんだし、禁止は出来んぞ」
 お前と一緒に、何度あそこを目指したことか…。最後は反則技を使って出掛けたくらいに。
 それにソルジャーだった前のお前も、俺とは同じ立場だったし…。
 第一、ヒルマンたちだってだな?
 認めてたじゃないか、ああいう場所も必要だろうと。
 一隻しかない箱舟の中でも、伝説の一つくらいは、と。
 ゼルだって何度も怒ってはいたが、「鍵をかける」とは言わなかったぞ。警備員を置いて、誰も入れないようにしてやる、ともな。
 つまり、黙認というヤツだ。
 堂々とやるのは許してやれんが、コッソリやるなら見逃してやる、と。
 そのコッソリでさえ、上手くいかなかったのが前の俺たちで…。
 瞬間移動で入るしかなくて、一瞬で逃げて帰ったんだよな、あれが精一杯だったんだっけな…。



 前のお前の反則技で、とハーレイも懐かしそうだから。あの時のことを思い出していると、瞳の色で分かるから…。
「恋人用の橋、シャングリラにもあったのに…。前のぼくたちも行ったのに…」
 反則以外では、とうとう成功しなかったから…。二人で立ち損なっちゃったから…。
 今度はハーレイと行ってみたいな、恋人用になっている橋。渡ると恋が叶う橋とか、橋の欄干に南京錠をつける橋とか。
「よしきた、お前が俺とデート出来るようになったらな」
 それに二人で旅行もだ。…南京錠をつける橋に行くなら、本家本元が最高だしな?
 他にも橋は色々あるから、探しておこう。恋人用のも、二人で渡って楽しめる橋も。
 そういや、面白い吊り橋があるぞ。
 さっき話した、吊り橋効果を狙ってる橋じゃないんだが…。
 遠い昔の伝説ってヤツだ、橋そのものが。
 古典の授業でも教わるだろうが、ずっと昔の日本の平家物語。あれと関係があるんだぞ。
 戦いに負けた平家の落ち武者、それが隠れた山奥の村に架かっていたって橋なんだ。
 カズラ橋という名前でな…。



 落ち武者狩りの兵士が来たなら、切り落とせるように作られた橋がカズラ橋。
 シラクチカズラというツタの一種を編んだ吊り橋、ツタを切ったら橋は壊れて、もう渡れない。敵が渡ろうとしても深い谷だから、けして追っては来られない仕組み。
「その橋、とっても面白そう…!」
 日本だった頃と同じやり方で作ってるんだね、ツタだけで?
 普通の吊り橋とかよりもずっと、歴史が古い吊り橋なんでしょ?
「そういうことだな、平家物語の時代から変わっていないらしいし…」
 せっかくだから、と昔みたいな深い谷を選んで架けてあるそうだ。
 お蔭で、とても怖いらしいが、渡ってみるか?
 下を見た途端に歩けなくなるヤツ、けっこう多いという話だが…。
「ハーレイと一緒に渡るんだったら、平気だよ」
 ちっとも怖いと思わないもの、ハーレイと手を繋いでいたら。
 それに吊り橋効果もあるでしょ、普通の吊り橋よりも怖い橋なら期待出来そう。
「…お前も無駄だと言ってたじゃないか、吊り橋効果」
 元から恋人同士の二人じゃ、全く意味が無いってな。
「恋はとっくにしているけれども、もっと恋人!」
 もっとハーレイのことを好きになるんだよ、吊り橋効果で。
 二人で橋を渡れるだけでも、うんと幸せなんだから…。
 前のぼくたち、反則しないと、恋人用の橋には立てなかったんだから…!



 白いシャングリラにあった伝説の橋。
 機関部の奥で恋人たちが願いをかけた、ワープドライブの点検用にと架けられた橋。
 誰にも見られず、恋人同士でコッソリ其処に立てたら、幸せになれるという伝説。
 橋の上で二人、手を繋ぎ合って。
 「どうか幸せになれますように」と、祈りを捧げられたなら。
 その橋に二人で立ち損ねたから、今度はハーレイと橋を渡りに出掛けてゆこう。
 前は一度もデートで渡っていない橋。それを渡りに、色々な場所へ。
 橋の欄干に南京錠をつける橋にも、ツタを編んで出来たカズラ橋にも。
 他にも色々な橋があるから、ハーレイと二人で渡りにゆこう。
 いつか自分が大きく育って、お許しが出たら。
 恋人同士で橋を渡れる時が来たなら、今度こそ二人、手をしっかりと繋ぎ合って…。




              恋人たちの橋・了


※今の時代は色々な橋があるのですけど、シャングリラで恋人たちが挑んだ立ち入り禁止の橋。
 誰にも見付からずに願いをかけたら、幸せになれる、と。黙認していたゼルたちは太っ腹。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(わあ…!)
 綺麗、と小さなブルーが眺めた窓の外。土曜日の朝に、目覚めて直ぐに。
 今日はハーレイが来てくれるから、と張り切ってシャッと開けたカーテン。よく晴れてる、と。部屋は二階だから、空も庭も窓から見えるのだけれど。
 窓から近い庭の木々の間、其処に見付けた素敵なもの。夜の間に蜘蛛が張った巣、それに朝露。朝の日射しにキラキラと光る、とても細かなレース模様。
 蜘蛛が紡いだ糸のレースは、露の玉を纏って輝くよう。夢の国から来たみたいに。
(ホントに綺麗…)
 見惚れてしまうレースだけれども、露が幾つもつかなかったら、きっと気付いていないだろう。露を煌めかせる、朝の日射しが無かった時も。
 偶然生まれた、自然の造形。光るレースの芸術品。細い細い糸と、くっついた露と、朝の光と。
(これだったら、虫も大丈夫…)
 蜘蛛が巣を張って狙っている虫。その虫たちも安全な筈。
 露を纏った光のレースは目立つから。これだけキラキラ輝いていたら、遠くからでも蜘蛛の巣があると分かるから。
 罠があるのだと分かっていたなら、きっと引っ掛かる虫などはいない。光のレースがある場所を避けて、上手く躱して飛んでゆく筈。
 蜘蛛に食べられてしまわずに。粘りを持つ糸に絡め取られて、御馳走にされてしまわずに。
 死が待つ罠ではないというなら、蜘蛛が張った巣は芸術品。窓から眺めて楽しめるもの。
(ハーレイにも見せてあげたいな…)
 とても綺麗で素敵だから。蜘蛛が編み上げて、露が飾った自然のレースなのだから。
 そう思ったのに…。



 顔を洗って着替えも済ませて、朝食を食べて戻った部屋。
 窓の向こうを覗いてみたら、もう消えていた蜘蛛の巣の露。太陽の光が消してしまって。幾つもあった露の玉たち、それをすっかり蒸発させて。
 夏の日射しには敵わなくても、太陽の光はやっぱり強い。蜘蛛の巣の露を消せるのだから。
 露の玉たちを失くしたレースは、ただの蜘蛛の巣。細くて、頼りないほどの糸。
(これじゃ、ハーレイには見て貰えないよ…)
 せっかく綺麗だったのに。光り輝くレースが庭を飾っていたのに。
 残念、と溜息をついて始めた掃除。いつもの習慣。
 床を掃除して、窓辺のテーブルを拭いて、ハーレイと自分が座る椅子の位置を整えていて。
(蜘蛛の巣も掃除しちゃおうかな?)
 ふと思い付いた、蜘蛛の巣の掃除。窓の向こうにあるのだから。
 あんなに大きな蜘蛛の巣なのだし、あったら虫が可哀相。露の光は消えてしまったから、今では虫を捕える罠。虫たちの目に映らないよう、細い細い糸で編まれた死を運ぶ罠。
 引っ掛かったらそれでおしまい、蜘蛛に見付かって糸を巻き付けられて。生きたままでバリバリ食われてしまうか、後で食べようと糸で包んでおかれるか。
(あれがあったら、殺されちゃう…)
 蝶とかが食べられてしまうんだよ、と蜘蛛の巣を取ろうと思ったけれど。
 掃除のついでに死の罠の糸を切ろうと考えたけれど、窓からは手が届かない。どう頑張っても、長い物差しまで引っ張り出しても。
(ぼくって駄目だ…)
 掃除出来ない蜘蛛が張った巣。虫たちの命を奪う罠。
 風に揺れるのが見えているのに、自分にはどうすることも出来ない。支える糸を一本切ったら、あの巣は半分壊れるのに。それだけで危険を減らせるのに。
 けれどサイオンもまるで使えないから、こうして眺めているしかない。何も出来ずに。
 虫たちが引っ掛かりませんように、と祈ることだけが精一杯で。



 ハーレイが訪ねて来てくれてからも、気になる蜘蛛の巣。
 向かい合わせで座るテーブル、それは窓辺にあるのだから。ついつい外へと向きがちな瞳。話の合間に、蜘蛛の巣の方へ。虫が引っ掛かったら大変だよ、と。
 何度も視線を外へ遣るから、「どうかしたのか?」と尋ねられた。鳶色の瞳の恋人に。
「さっきから窓が気になるようだが、其処から何か見えるのか?」
 庭に猫でも入って来たのか、俺は全く気付かなかったが。
「えっとね…。蜘蛛の巣があるんだよ」
 あそこ、と指差した大きな蜘蛛の巣。
 ハーレイに見せたかったことも思い出した。「ほほう…?」と外を見る恋人に。
「あれか、けっこうデカイ巣だな」
 ジョロウグモだな、あの大きさだと。
「朝はとっても綺麗だったよ、それで蜘蛛の巣に気が付いたんだよ」
 露が一杯ついていたから、キラキラ光ってレースみたいで…。
 ハーレイにも見せたかったんだけれど、朝御飯を食べたりしてる間に消えちゃった…。露が。
「蜘蛛の巣なあ…。露がつけば確かに綺麗だよな」
 あんな所にあったのか、と見惚れちまうくらい見事なもんだ。宝石で出来てるみたいにな。
「見たことあるの?」
 露でキラキラ光っているのを。…朝早く起きて?
「馬鹿にするなよ、俺が何年生きていると思っているんだ、お前」
 早起きしなくても、何度も見てる。ガキの頃にも、今の家に引越しして来てからも。
 そいつを俺に見せられなかったから、あの蜘蛛の巣が気になるのか?
 朝には綺麗だったのに、と。
「ううん、そっちはいいんだけれど…」
 蜘蛛の巣、虫が捕まっちゃうよ。光っていたなら、目立つから虫も避けるだろうけど…。
 今みたいに見えにくい糸になったら、気付かないままで飛んで来るでしょ?
 引っ掛かったら餌にされちゃう、そんなの可哀相じゃない…!



 蜘蛛の巣を取ろうと挑んだけれども駄目だった、とハーレイに話した。掃除のついでに壊そうとしたのに、糸を切ることも出来なかった、と。
「ぼくの手、届かないんだよ。頑張ったけど…」
 長い物差しも使ってみたけど、糸を切ることが出来なくて…。蜘蛛の巣、そのまま…。
 放っておいたら、虫が捕まって食べられちゃうのに…。引っ掛かったら、おしまいなのに。
「おいおい、蜘蛛も必死なんだぞ」
 あのデカイ巣が張ってあるのは、何のためだと思ってるんだ?
 蜘蛛が獲物を捕まえるためだ。蜘蛛だって虫だ、餌が食えなきゃ死んじまう。
 飢え死にしたら大変だろうが、そうならないよう、せっせと糸を張ってだな…。
「分かってるけど…。でも…」
 食べられちゃう虫が可哀相だよ、あの巣が無ければ大丈夫なのに…。
 ぼくが蜘蛛の巣、壊せていたなら、虫は助かる筈だったのに。
 出来なかったから、虫が引っ掛かったら死んじゃうんだよ、と訴え掛けたら。
「仕方ないな…」
 物差し、此処に持って来い。お前が言ってた長い物差し。
「取ってくれるの?」
 ぼくの代わりに壊してくれるの、あの蜘蛛の巣を?
「蜘蛛には可哀相だがな。…巣作りで腹が減ってるだろうに」
 しかしだ、あそこに虫が引っ掛かったら、お前、泣き出しそうだしなあ…。
 お前の力が足りなかったから、虫が捕まって食べられるんだ、と。
 そうなってから虫を助けてやるのも、あの巣を先に壊しておくのも、大して変わらないからな?
 どっちにしたって蜘蛛は飢えるし、それなら先に壊した方が…。
 壊しておいたら、お前の泣き顔、見なくて済むだろ。



 悲しむお前は見たくないから、と物差しを握って、窓から手を一杯に伸ばしてくれたハーレイ。蜘蛛の巣を支える糸を一本、二本と断ち切り、すっかり壊してしまった蜘蛛の巣。
 ついでに、最後の糸にぶら下がっていた蜘蛛も引っ掛けて、ヒョイと放った。物差しで上手く、遠く離れた木の梢へと。
「壊してやったぞ、もう大丈夫だ」
 こいつは返す、と物差しを渡されたけれど、その物差しが遠くへ飛ばした蜘蛛。ポーンと飛んで行っただけだし、きっと木の葉か枝にしっかり掴まっただろう。死にはしないで。
(…生きてるよね?)
 木にぶつかって死んでしまわずに、木の枝か葉に掴まって。「ビックリした」と目を見開いて。
 蜘蛛は生きているに決まっているから、物差しを片付けて椅子に戻って、眺めた庭。あの辺りの木に飛んでったよ、と。
「今の蜘蛛…。飛んでった先で、また巣を張っちゃう…」
 さっきみたいに大きなのを。あそこだと絶対、手は届かないし…。どうしよう…。
「お前なあ…。殺したいのか、あの蜘蛛を?」
 巣を作るな、ってことになったら、俺が殺すか、獲物を獲れずに飢え死にするかのどっちかだ。
 そういう風にしたいのか、お前?
「えーっと…」
 殺したいとは思わないけど…。飢え死にさせようとも思ってないけど…。
「だろうな、深く考えてはいないんだろうが…」
 あの蜘蛛、お母さん蜘蛛かもしれないんだぞ。お腹に卵を抱えてる蜘蛛。
「え…?」
 お母さんだったの、赤ちゃんのために巣を張ってたの…?
「時期にもよるがな。今の季節に卵を産むかは分からんが…」
 そうだとしたなら、あの巣は一匹だけのためじゃないんだ。これから生まれる沢山の卵、それに栄養をつけてやるために獲物を待っていたってな。
「そっか…。ぼく、悪いことをしちゃったかな?」
「知らなかったんだから、仕方がないと思うがな?」
 それに知っていても、目の前で獲物が食われちまうのはキツイもんだし…。
 蜘蛛だってきっと許してくれるさ、殺されちまったわけじゃないから。また頑張ろう、と。



 ハーレイに巣を壊された蜘蛛。遠くの梢に飛ばされた蜘蛛。
 もしも卵を産む蜘蛛だったら、子供たちのためにと新しく作り直す蜘蛛の巣。獲物を捕まえて、育つための栄養がたっぷり詰まった元気な卵を産むために。
「あの蜘蛛、俺が投げちまったが…。あんなにデカくちゃ、もう無理なんだが…」
 知ってるか、ブルー?
 蜘蛛の子供は空を飛ぶんだぞ、風に乗ってな。翅も無いのに。
「…ホント? さっきハーレイが投げたみたいに?」
 空を飛んで行くの、蜘蛛の子供は?
 小さい間は空を飛べるの?
「うんと小さい間だけだが、飛べるそうだぞ。翅の代わりに、蜘蛛の糸でな」
 卵から孵って、糸を出せるくらいに育ったら。
 一緒に孵化した兄弟が全部、一斉に糸を出すらしい。いい風が吹いている日を選んで。
 自分の身体よりもずっと長い糸だ、それがパラシュートになるってわけだ。糸が風に攫われて、蜘蛛の身体ごと空に舞い上がる。赤ん坊の蜘蛛は小さいからな。
「そうなんだ…。赤ちゃんの蜘蛛だから飛べるんだね。重くないから」
 糸と一緒に飛べるくらいに小さい蜘蛛。それって、どのくらい飛んで行けるの?
「風任せだしな、吹く風の気分次第だが…」
 相当な距離を飛ぶらしい。蜘蛛が自分で歩いていたんじゃ、辿り着けそうもない遠い所まで。
 昔、日本があった頃には、そいつを意味する言葉まであった。
 なにしろ沢山の糸が飛ぶんだ、名前がついても不思議じゃないよな?
 雪がよく降る北の方でついた名前だったから、秋に飛んでいたら「雪迎え」。雪の季節を迎える前だし、雪を呼ぶんだと思われていた。
 逆に、雪が消える春に飛んだら「雪送り」。雪の季節は終わりだと見上げていたんだろうな。
 白い蜘蛛の糸だ、雪を連想しやすいじゃないか。ふわふわと沢山飛んでいたなら。



 地球が滅びるよりも前には、世界中にいた空を飛ぶ蜘蛛。小さい間に、糸を使って。風に乗って遠い、遠い旅をして。
 中国では遊糸という名で呼ばれた、大勢の蜘蛛の子供たちの飛行。文字通り空を飛んでゆく糸。
「地球は一度は滅びちまったが…。今はすっかり元通りだしな?」
 昔と同じに、世界中に空飛ぶ蜘蛛の子供がいるってわけだ。日本や中国だけではなくて。
 地球は広いし、同じように空を飛んでいたって、桁外れな場所もあるからなあ…。
 たまにニュースになったりするんだ、こいつがな。
 雪迎えだとか、遊糸なんていう洒落た名前じゃないんだが…。バルーニングと言うんだが。
 物凄い数の蜘蛛が風に乗って飛んで行ってだ、纏めて着地しちまって…。
 辺り一面、真っ白な糸に覆われるってな、そういう時にはニュースになる。糸だらけだ、と。
「凄い…! 蜘蛛の糸でしょ、あんなに細い糸なのに…」
 それが一杯、ってニュースになるほど沢山の糸。頑張ったんだね、蜘蛛の子供たち。
 人間の目に留まるくらいに、凄い数のグループなんだから。
「蜘蛛としては失敗なんだがな。…糸だらけってのは」
 どんなに見た目が見事だとしても、ニュースになっても、大失敗というヤツだ。
 風任せだから仕方ないんだが、纏めて着地しちまわないよう、いろんな場所に散らばらないと。
「なんで?」
 蜘蛛は縄張りとかは無いでしょ、巣を張って獲物を待つだけだから。
 それとも餌が足りなくなるかな、おんなじ所に沢山の蜘蛛が巣を作ってたら。
「餌の問題も大きいが…。生物としての問題もある」
 上手く分散出来てないから、生き残るのが難しいんだ。散っていたなら、チャンスは増える。
 嵐が来たとか、旱魃だとか。自然の中では色々あるだろ、命の危機が。
 散らばっていれば、一つのグループが滅びちまっても、他のグループが生き残れるから。
「そうだね…」
 兄弟が殆ど死んでしまっても、生き残りがいれば滅びちゃうことはないものね。
 子孫を増やせば滅びないんだし、散らばってる方が安心だよね。離れ離れは寂しいけれど。



 大勢の仲間と一緒にワイワイ暮らせていたなら、楽しそうに思える蜘蛛たちの世界。空を飛んで旅をして行った先でも、仲間たちと一緒だったなら。
 けれども、それは人間だから思うこと。蜘蛛の世界では逆が正しい。兄弟たちと離れ離れでも。空の旅の途中で、皆と別れてしまっても。
 ハーレイは「分かったか?」と、バルーニングの失敗例について教えてくれた。
「俺も何度かニュースで見てるが、馬鹿デカイ布でも地面に被せたみたいだぞ」
 レースと言うより、透ける布だな。そいつが辺り一面だ。塵も積もれば山となる、ってトコか。細い糸でも、物凄い数になった時にはああなる、と。
 だが、蜘蛛の方じゃ、固まっちまったらおしまいなんだ。運が悪かったと言うべきか…。
 風に乗って空の旅に出たなら、あちこちに広く散らないと。
 そういう意味では、シャングリラはリスクが高かったよな。…前の俺たちが生きていた船。
「シャングリラ…?」
 どういう意味なの、シャングリラは蜘蛛の子供たちとは違うけど…。
 乗っていたのは人間なんだし、大勢の仲間と助け合える方がいいじゃない。生きてゆくのにも、食べ物や物資を手に入れるにも。
 みんなで協力し合うのがいいよ、でないとミュウは生き残れないよ?
「それはそうだが、考えてみろ。…バルーニングと同じ理屈で」
 蜘蛛の子供たちは散らばることで、生き残るチャンスを増やしてるんだ。滅びないように。
 しかし、シャングリラはそうじゃなかった。皆、纏まって乗っていだろ、あの船に。
 早い話が、シャングリラが沈めば終わりだったろうが。…ミュウという種族は。
 ミュウを乗せた船は、あの船だけしか無かったんだから。あれが沈めば滅びるしかない。
 なのに、人類はシャングリラを退治し損ねた。何度も攻撃して来たのにな。
 アルテメシアから逃げ出した時もそうだし、ナスカだってそうだ。もちろん旅の途中でも。
 たった一隻しか船は無いのに、前の俺たちは生き残った。…滅ぼされずに。
 進化の必然だったとはいえ、珍しいケースなんだと思うぞ。纏まってたのに生き延びたなんて。



 そう思わないか、と尋ねられたら、頷かざるを得ない運の良さ。前の自分たちとシャングリラ。
 蜘蛛の子供たちは滅びないように散ってゆくのに、纏まったままで旅をしていた。大勢の仲間を乗せた箱舟、白いシャングリラに固まったままで。
 考えてみれば、他の星でも生まれていたミュウ。
 SD体制はミュウ因子を排除しなかったのだし、何処でもミュウは生まれていた筈。前の自分やハーレイがいたアルタミラのように、大勢のミュウが発見された星もあったろう。
 けれど、何処からも第二、第三のシャングリラは出て来なかった。シャングリラとは違う名前の船にしたって、ミュウの仲間が集まる船は。
 そういう船は一つも出て来ないままで、白いシャングリラも増えはしないまま。仲間たちを他の船に移して、艦隊を組むことも出来たのに。シャングリラを艦隊の中心に据えて、何隻かで。
 仲間の数が増えていっても、シャングリラはずっと一隻だった。たった一隻で宇宙を旅した。
 人類軍との本格的な戦闘状態に入った後でも、やはり変わらず一隻のまま。
 船が増えたのは、ソル太陽系が目前に迫ってからのこと。
 ゼルとブラウと、エラが指揮官だった船。その三隻が新たに加わったけれど…。



 ハーレイの口ぶりからして、あの船たちは分散するためではなかったのだな、と思ったから。
「えっとね、ハーレイ…。シャングリラとは違う船…」
 ゼルやブラウが指揮していた船、あったでしょ?
 前のぼくがいなくなった後。…もうすぐ地球だ、っていう頃には。たった三隻だったけど。
 だけど、あの船…。あれを増やしたのは、生き残るためじゃなかったんだよね?
 シャングリラが沈められちゃったとしても、エラたちの船が残ってるから、っていう意味の船。
「そういう船とは違ったな。結果的に、あれがコルディッツを救いはしたが…」
 ゼルの船にステルス・デバイスを搭載していたお蔭で、ミュウの仲間は救えたんだが…。
 あの三隻があるからといって、シャングリラが無くても生き残れるってわけじゃなかった。前と全く変わらなかったな、ミュウの事情というヤツは。
 単に戦力を増やすためにだけ、あの三隻を加えたんだし…。あっちに移った重要人物は、ゼルやエラたちだけなんだから。
 そんな船だけ残っていたって、ミュウの未来は無さそうだろうが。
 ソルジャーは辛うじて生き残っていても、キャプテンだった俺はいないし、二番手のシドも…。
 ブリッジクルーも全滅だろうし、シャングリラを支えたヤツらも同じだ。
 それでどうやって生きて行くんだ、自給自足も出来ない船で。
 たった三隻で命からがら逃げ出したとしても、二つ目のナスカも作れやしない。
 残った船には、戦闘員しかいないんだから。でなきゃ機関部担当とかで、料理の腕も怪しいぞ。
 あんな船だけ残っても駄目だ、ミュウは生き延びられないってな。



 艦隊の形を取った時にも、やはりリスクは分散してはいなかった。空を旅する蜘蛛の子供たち、彼らが滅びてしまわないよう、降りる先を変えて散らばるようには。
 地球を擁するソル太陽系が近付いて来ても、相変わらずシャングリラが核だったミュウ。それを失くせば滅びるのに。生き延びる道は無いというのに。
「…前のぼくたち、間違えてたかな、戦法を…?」
 シャングリラだけに固まってたのは、失敗だったみたいだけれど…。
 たまたま上手く行ったってだけで、一つ間違えたら、ミュウの未来も無かったんだけど…。
「まったくだ。実に危うい道ってヤツだな、シャングリラだけで旅をしていたなんて」
 前の俺も気付きもしなかった。危ない橋を渡ってるんだということに。
 本格的な戦闘なんかは、一度もしないままだったしなあ…。一方的に追われるだけで。
 ジョミーが地球を目指すまではだ、防戦一方と言ってもいい。一度も打って出ちゃいない。
 アルテメシアで前のお前たちの代わりに囮になっても、ただそれだけのことだったしな。
 こっちから派手に爆撃するとか、そんなことはしていないんだから。



 前の俺たちは生存本能が薄かったんだろうか、とハーレイがついた大きな溜息。
 お前でさえも死んでしまったし、と。
「前のお前は、俺たちよりかは逞しかった筈なんだ。身体は遥かに弱かったがな」
 それでも、物資を奪いに行ったり、人類の施設に忍び込んだり…。
 身の危険ってヤツは感じた筈だぞ、お前にとっては大した脅威でなかったとしても。
 そんなお前でさえ、メギドを沈めて死んじまった。…生きて戻ろうとは、思いもせずに。
「あれは、みんなを守るためで…!」
 みんなの命を守るためだもの、生き残るためにやったことだよ。ミュウの未来を守るために。
「そうなんだろうが、死んじまったというのがなあ…」
 普通だったら、ああいう時には、自分も一緒に行き残る道を探すだろうが。
 死んでたまるか、と踏ん張るのが生存本能ってヤツで、実際、出来ないわけじゃなかった。
 一人でメギドに出掛ける代わりに、ジョミーも連れて行くとかな。
「そんなことをしたら、危ないじゃない!」
 トォニィたちは船に戻せたとしても、ジョミーも一緒に行くなんて…。
 もしもメギドで、ソルジャーが二人とも死んでしまったらどうするの!
「お前、それほどジョミーが信用出来なかったか?」
 一緒に行ったら足手まといで、何の役にも立たないだとか。…共倒れになってしまうだとか。
「ううん…。ジョミーだったら、ちゃんと戦えたと思う…」
 二人がかりならメギドを沈めて、キースの船ごと壊せたと思う。指揮官を失くして人類軍が混乱している間に、シャングリラまで逃げることだって…。
「ほら見ろ、お前でもその有様だ。…生きようと思えば生きられたのに」
 ナスカに残った連中だってそうだ、シェルターごと押し潰されてしまったキムやハロルド。
 どうしても生きたい、助かりたい、と言うんだったら、あの連中だって助け出せたぞ。
 メギドに襲われた後にしたって、ジョミーはナスカにいたんだから。
 たった一言、「船に戻りたい」と頼めば良かった。そうすりゃ、どうとでもなった。
 ナスカにシャトルを降ろせなくても、ジョミーの力で皆を乗せることなら出来たんだから。



 惑星崩壊を起こしつつあったナスカの大地。揺れ動き、地割れが走る地面にシャトルを降ろせはしない。滑走路が確保出来ないから。
 けれど、ある程度の高度までなら降りられる。ジョミーが其処まで皆を運べば、収容は可能。
 ナスカに残った仲間たちが皆、シェルターを捨てていたならば。脱出の道を選んだならば。
 なのにそうせず、残ってしまった大勢のミュウたち。崩れゆく星では、シェルターの中も恐らく無事ではなかったろうに。明かりも消えてしまったろうに。
「人間ってヤツはパニックになると、頭が真っ白になっちまってだ…」
 目の前の危機を回避する代わりに、どうでもいいようなことをしようとするらしいんだが…。
 逃げればいいのに、崩れそうな家の掃除を始めちまうとか。
 ナスカに残ったヤツらも同じで、シェルターの中で落ちてくる瓦礫の掃除をしたかもしれん。
 思念波で助けを求めりゃいいのに、汚れちまったから床を綺麗にしないと、と。
 その可能性はあったとしたって、それよりも前に、危機感ってヤツが欠けていた。
 あれだけ危険だと警告したのに、残ってしまう辺りがな。
 …そういうヤツらも仲間だったんだ、生存本能は薄かったかもな。
 前の俺たちが生きた時代のミュウは全員、お前も含めて。



 シャングリラだけに固まって生きていただけあって、とハーレイに指摘されたこと。生存本能が薄い種族だったと、生き残る意欲に欠けていたと。
 言われてみれば、前の自分は思い付きさえしなかった。
 自分が生き残ることはもちろん、リスクを分散することも。一撃で滅ぼされてしまわないよう、仲間たちを散らせておくことも。
「…シャングリラ、一つじゃ駄目だったんだ…」
 沈められたらおしまいだものね。幾つかの船に分けておいたら、他の船が残ることもあるのに。
 前のぼく、全然、気付かなかったよ。
 救命艇は欲しかったのに…。意味なんか無いって言われたけれども、いつかは欲しい、って。
「あれだって、船を分けていたなら、意味は充分あっただろうさ」
 非常事態に陥った時は、それで脱出すればいい。他の船が収容しに来るからな。
 夢物語ってわけじゃなかった筈だぞ、シャングリラの他にも船を持つことは。
 前のお前なら、船だって奪えていたんじゃないか?
 適当な船を見付け出したら、乗ってるヤツらを放り出して。…殺さなくても、意識を奪って押し込めておけばいいんだから。お前が欲しかった救命艇に。
 それごと宇宙に放り出したら、船は貰っておけるだろうが。放り出された人類の方も、救命艇の中で気が付いた後は、救難信号を出せば助けが来るんだからな。
「…そうだったかも…」
 もしも欲しいと思っていたなら、船は貰えていたかもね。物資を奪うのと同じ要領で。
 コンテナを盗むか、中の人類を放り出すかの違いだけだし…。前のぼくなら、出来たんだし。
 武装した船だって奪えた筈だよ、白い鯨が出来る前でも。
 ビクビクしながら隠れてなくても、戦える船を持てていたよね、奪っていたら。



 人類を一人も殺さなくても、きっと奪えただろう船。乗員を全部、救命艇で宇宙に捨てて。
 その手を使えば、艦隊は組めた。シャングリラの他にも船を引き連れ、仲間たちを乗せて。
 船を一隻沈められても、ミュウが滅びてしまわないように。
 空を飛んでゆく蜘蛛の子たちが、生き残るために散らばるように。
 それをしないで、シャングリラだけで旅を続けた前の自分たち。リスクを分散させることなく。
「…前のぼくたち、やっぱり駄目だったのかな…」
 頑張って生きてたつもりだけれども、色々、失敗していたのかな。
 人類は逞しく生きていたけど、ミュウは弱くて、生存本能だって薄くって…。
「駄目だったんだろうな、生き物としては」
 蜘蛛の子供でも、散らばって生きようと旅をするのに。…固まっていたら滅びるから、と。
 前の俺たちには本能どころか、立派な脳味噌があったってのに…。
 誰一人として、其処に気付きやしなかった。前のお前も、ヒルマンも、エラも。
 船を分けようと、そうした方が生き残れるチャンスが増えるから、とは。
 だが、そんなミュウでも神様が助けて下さったんだ。生きろと、無事に生き延びろと。
 そのお蔭で今があるってな。
 人間は誰もがミュウになった世界。戦いなんかは無くなっちまった平和な世界が。
「本当だね。滅びちゃっても、文句は言えなかったのに…」
 生き残るための努力をしていたつもりで、間違ったことをしてたのに。
 シャングリラだけに固まって住んで、他にも船を持つことなんか、一度も考えないままで。
 もしもシャングリラが沈んでいたなら、ミュウはおしまいだったのにね…。



 何も知らずにシャングリラだけで生きていたのに、滅びなかった前の自分たち。本当だったら、船を奪って艦隊を作るべきだったのに。
 ミュウという種族を守りたいなら、そのための手段を講じておくべきだったのに。
 糸を頼りに空を旅する、蜘蛛の子供たちも知っていること。固まってしまったら失敗なのだと、滅びないためには散らばらねば、と。
 幸運だったとしか言いようがない、シャングリラで旅をしていたミュウ。滅びの危機に気付きもしないで、たった一隻の箱舟に乗って。
「…そういえば、蜘蛛もシャングリラにはいなかったよね」
 蜘蛛の巣なんかは見たことがないよ、あの船では。大きなのも、隅っこに出来る小さいのも。
「まるで必要無かったからなあ、蜘蛛なんかは」
 虫を食べるっていうだけなんだし、その虫にしても、ミツバチしかいない船ではな…。
 大切なミツバチを食われちまった、と大騒ぎになって直ぐに駆除だな。役に立たん、と。
 しかしだ、もしもシャングリラに蜘蛛がいたなら、ヤツらは空を飛んだだろうし…。
 あの船の中しか行き場が無くても、散ろうと旅をしたんだろうし。
 そいつを見てれば、前の俺たちだって、リスクの分散というヤツをだな…。
 いや、考え付かないか、前の俺たちじゃ。
 今度の蜘蛛はこんなに遠くまで飛んで行った、と記録を取るとか、その程度だな。
 ブリッジにまで飛んで来たとか、どうやって青の間まで飛べたんだか、と首を捻るとか。



 あんな状態でよく生き残れたな、とハーレイも呆れる、生存本能が薄かったミュウ。
 生き残るために努力していたつもりだったけれど、やり方を間違えていたらしいミュウ。一隻の箱舟を沈められたら、それでおしまいだったのに。
 綱渡りのような危うい航路を、最後まで旅して行ったのに。…地球に着くまで。
 それでも滅びなかったミュウ。蜘蛛の子供でも知っていることを、知らずに旅をしていたのに。
 本当に神が味方してくれたのだろう、さっきハーレイが言った通りに。
 「生きろ」と、「ミュウの時代を作れ」と。
 空を旅する蜘蛛の子供の話を聞いたお蔭で、神の助けに気付いたから。蜘蛛の子供が糸を頼りに空を飛ぶことは、窓の外に巣を張っていた蜘蛛のお蔭で聞けたのだから…。
「…ねえ、ハーレイ。さっきの蜘蛛、ちゃんともう一度、巣を張れるかな?」
 ハーレイに投げられちゃったけれども、あの木の所で巣を作れるかな?
 ちゃんと御飯が食べられるように、虫を捕まえられるような巣。…お母さんの蜘蛛なら、お腹の卵もきちんと育ててあげられるのを。
「おっ、考えが変わったか?」
 虫が可哀相だと騒いでいたのに、蜘蛛の心配、することにしたか。
 俺に蜘蛛の巣、すっかり壊させちまったのにな。
「生きてゆくのが大切でしょ?」
 蜘蛛もそうだし、前のぼくたちだって、そうだったんだよ。
 滅びちゃったらおしまいなんだし、頑張って生きていかなくちゃ。…ちょっと失敗していても。
 固まって生きてちゃ駄目ってことには、気付かないままで旅をしてても。



 生きていくには、食事するのも大事だものね、と微笑んだけれど。
 「だから蜘蛛には巣が要るんだよ」と言ったけれども、また蜘蛛の巣が出来たなら。露を纏って光る姿は綺麗だとしても、虫を捕えて食べるための罠が出来たなら…。
(虫、頑張って助けちゃいそう…)
 死の罠に虫が引っ掛からないよう、物差しを伸ばして、巣の糸を切って。
 ハーレイがやってくれていたように、蜘蛛の巣を壊して、蜘蛛だって遠くへ放り投げて。
(物差しを伸ばしても届かなかったら、またハーレイに頼むとか…)
 でなければ父を呼んで来るとか、もっと長い棒が無いかと探しに出掛けてゆくだとか。
 だから蜘蛛には、見えない所で頑張って欲しい。
 この部屋の窓からは見えない所に、虫を捕える巣を張って。餌の虫たちを捕まえて。
 前の自分たちも、隠して貰って生き残ったから。
 人類に滅ぼされてしまわないよう、神様が広げてくれた袖の中に。
 生き残るための努力を間違えていたのがミュウだったのに、神様に助けて貰ったから。
 神様が助けてくれたお蔭で、固まっていても大丈夫だったから、あの蜘蛛も何処か見えない所。
(そういう所で頑張ってよね)
 巣を壊されずに済む場所で。
 自分の目からは見えない所で、いつか卵が孵った時には、糸を飛ばして空の旅をして。
 シャングリラには無かった蜘蛛の糸のレースは綺麗だけれども、虫の命を奪うから。
 虫の命が奪われる前に、きっと助けてしまうから。
 前の自分たちの姿を重ねて、可哀相になって。
 「生きて」と「早く此処から逃げて」と、蜘蛛の都合も考えないで。
 今の自分は幸せだから。
 虫だって幸せに生きて欲しいから、蜘蛛の巣を壊しておかなくっちゃ、と…。




           蜘蛛の子の旅・了


※旅をする蜘蛛の子供の話から、ブルーとハーレイが気付いたこと。シャングリラのリスク。
 一隻の船に集まったままで旅をするのは、危険だったのです。神の采配で生き延びたミュウ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












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