シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「あっ…!」
コロン、とブルーが床に落としたコイン。学校ではなくて、自分の部屋で。
手にした財布の中から一枚、転がっていって、ベッドの下へ。アッと言う間に、コロコロと。
(あーあ…)
落としちゃった、と零れた溜息。学校から帰って、おやつの後で戻った小さなお城。母に貰った昼食代とお小遣い。それを入れようと財布を出していた時の事故。勉強机の前に座って。
落ちたコインはベッドの下。取ろうと床に屈み込んだのだけれど…。
(届かないよ…)
手を突っ込んでも取れないコイン。腕の長さが足りないから。
(んーと…)
こういう時には長さを足せば、と机から物差しを取って来た。充分に長いし、これで引っ掛けて取ればいいや、と。
なのに、コインが薄いせいなのか、自分の腕前が悪いのか。物差しを何度入れてみたって、先にくっついてはくれないコイン。少しも上手く引っ掛からない。床にコロンと横倒しのまま。
(ちょっとくらい動いてくれたって…)
どうして駄目なの、と格闘している内に聞こえたチャイム。まだ早いから、と眺めた時計が示す時間は、思った以上に遅い時間で。
(まさか、ハーレイ!?)
物差しを床に放って窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。落としたコインは、諦めるしかないだろう。ハーレイが帰ってゆくまでは。
(…拾ってるような時間があったら、ハーレイとお喋り…)
後にしよう、と片付けた物差し。それに財布も。
コインは後で、と決めていたのに、やっぱり気になるベッドの下。あそこにコイン、と。
お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んでハーレイと向かい合わせに座っても。ついつい目が行くベッドの方。コインを拾い損なっちゃった、と。
きっと何度も見ていたのだろう、ハーレイに「おい」と掛けられた声。
「さっきから何を見てるんだ?」
心がお留守になってるようだが、何度も見ているベッドの方。…それも下だな、床の方だ。
あそこに何か隠しているのか、ベッドの下に?
どうなんだ、と鳶色の瞳が見詰めてくるから、慌てて「ごめん」と謝った。
「何も隠してないけれど…。余所見しちゃって、ごめんなさい…」
隠すんじゃなくて、落っことしちゃった。ベッドの下に入ってしまったんだよ、コインが一枚。
ママに貰ったお小遣いを財布に入れてた時にね、床に落としたら転がっちゃって…。
ベッドの下、と項垂れた首。あの下に入ったままになってる、と。
「拾えばいいだろ、落としたんなら」
俺が来た途端に落としたとしても…。ちょっと拾うから、と言えばいいだけのことだろうが。
余所見ばかりをされるよりかは、待たされた方が俺は気にならないがな?
「…拾えないんだよ、手が届かなくて…」
知っているでしょ、ぼくはサイオンじゃ拾えないこと。うんと不器用になっちゃったから。
だから手でしか拾えないんだし、それでも頑張ったんだけど…。
物差しで引っ掛けようともしたけど、コイン、ちっとも引っ掛からなくて…。
「そういうことか…。何処だ?」
俺なら拾ってやれるだろう。手が届かないほどの場所にしたって、サイオンもあるし…。
コインくらいはお安い御用だ、どの辺りなんだ?
ベッドの下は暗くて見えにくいからな、と椅子から立ち上がってくれたハーレイ。拾ってくれるつもりなのだし、「ここ…」と指差したベッドの下。
「この奥の方…。見える?」
「…あそこか、確かに落ちてるな。コインが一枚」
床に屈んで、「届くかもな」とハーレイが伸ばしてくれた腕。長い腕がしっかり捕まえたから、コインは無事に戻って来た。「ほら」と渡されたコインが一枚。ハーレイの手の温もりつきで。
「ありがとう…!」
御礼を言って、財布に入れようとしたけれど。…ほんのり温かい、一枚のコイン。拾ってくれた大きな褐色の手から移った温もり、コインは冷たいものなのに。
(ハーレイが拾ってくれたコイン…)
それに温かい、と気付いた幸せなコイン。これは特別、ハーレイに拾って貰えたのだから。
ただのコインなら財布に戻しておしまいだけれど、幸せな道を歩んだコイン。落っこちた時には不幸だったのに、今はハーレイに拾って貰って幸せ一杯、幸運なコイン。
(…うんと幸せ…)
とても幸せなコインなのだし、他のとは別に残しておきたい。使ったりせずに、大切に。
だから財布に入れる代わりに、引き出しの奥に仕舞っておこうとしたのだけれど…。
「どうして財布に入れないんだ?」
引き出しなんかに入れてどうする、行方不明になっちまうぞ。きちんと財布に入れないと。
「大丈夫だよ、後で入れ物を探すから。…失くさないように」
これはハーレイに拾って貰ったコインだもの。特別だから、大事にするよ。
財布に入れたら無くなっちゃうでしょ、使ってしまって。
「馬鹿野郎!」
何が特別だ、たかがコインが一枚だ。第一、俺は拾っただけで…。
元はお前のコインなわけだし、プレゼントとは全く違うだろうが!
そんなことをするなら、次から二度と拾ってやらんぞ、と睨まれた。腕組みまでして、眉間には皺。「特別も何も」と、「せっかく手伝ってやったのに」と。
「手が届かなくて拾えない、と困っているから、手伝ったんだぞ」
ついでに、そいつはお前の昼飯代だろうが。それ一枚でランチ、食えるだろ?
「そうだけど…。一日分なら充分だけど…」
ちょっと足したら、ジュースとかも一緒に買えちゃうけれど…。
「なら、入れておけ。財布の中にな」
貴重な小遣いというヤツだ。ランチが一回分なんだから。
貯めて何かに使うならいいが、記念に取っておくには少々、高すぎるってな。
もっとも、もっと安いコインでもだ…。俺が拾った記念なんかに残しておくのは禁止だ、禁止。
そういう魂胆でまた落とさないように、今からきちんと言っておく。厳禁だぞ。
分かったら、さっさと入れるんだな。元の財布に。
「うー…」
ハーレイのケチ!
ぼくのコインだもの、どう使っても良さそうなのに…。取っておくのも自由なのに!
なんで駄目なの、一枚くらい…!
いいでしょ、と抗議したって出ないお許し。ハーレイは「財布に入れろ」と睨んだまま。
仕方ないから、「残念…」と財布に戻したコイン。同じコインたちが入っている中に。
チャリンと入れたら、どれだったのかは、もう分からない。
コインの見た目はまるで同じで、他にもコインが入っていたから。色々な額のコインと一緒に、紛れてしまった幸せなコイン。同じ種類のコインは三枚、その中にすっかり混じってしまって。
こういう時に限ってコインが一杯、と嘆いた財布。同じ種類は三枚だけでも、他のコインが沢山あったら、滑り込める場所も多いから。財布を閉じてしまった後には、中で動きもするのだから。
(幸せなコイン、無くなっちゃった…)
ホントにどれだか分かんないよ、と財布を鞄に戻したけれど。元の椅子へと座ったけれど。
(…作られた年とか…)
見ておけば良かった、と後悔しきり。コインの製造年が分かれば、目印になった筈だから。運が良ければ「これだ」と見付け出せたから。…他のコインに紛れていても。
(同じ年に作ったコインばかりでも、傷があるとか…)
ほんの小さな引っ掻き傷。それがあったら分かったのに、と相も変わらず上の空。ベッドの方を何度も見ていた時と変わらないから、「お前なあ…」とハーレイがついた大きな溜息。
「拾ってやっても、拾わなくても、今日のお前は上の空ってな」
俺よりもコインが気になるらしいな、お前ってヤツは。…まったく、どうしようもないヤツだ。
恋人よりもコインの方か、と俺が怒って帰っちまったらどうするつもりだ?
だが、まあ、一つ思い出せたし…。許してやるがな、ボーッとしてても。
「え?」
思い出せたって…。何の話なの?
「ようやく聞く気になったってか。俺の話を、ちょっとは真面目に」
コインよりも俺だって気持ちになったか、さっきよりは?
「ごめんなさい…。ちゃんと聞くから、その話、教えて」
何か思い出があるんでしょ?
コインか、何かを拾う話か、そういうので。…今のハーレイのお話だよね?
ぼくにも聞かせて、と興味が出て来たハーレイの思い出。幸せなコインはもう捜し出せないし、考えていても無駄なこと。それを追うより、ハーレイの過去を知りたいから。
(今のハーレイ、ぼくよりもずっと年上だものね?)
思い出だってきっと沢山、と瞳を輝かせて、思い出話を待っていたのに。
「生憎と、俺じゃないってな」
前のお前だ、コインのお蔭で思い出したのは。
「…前のぼくって…。何かやってた?」
コインを落としてしまうなんてこと、前のぼく、しないと思うけど…。
お小遣いなんかは貰っていないし、お金だって持っていなかったもの。使うことが無いから。
「コインじゃないがだ、俺に拾わせていたってな」
今日と同じで、「拾ってくれ」と。
「拾って貰うって…。何を?」
何をハーレイに拾わせていたの、前のぼくならサイオンで拾えた筈なのに。
わざわざハーレイに頼まなくても、ちゃんと自分で拾えそうなのに…。
「一つだけじゃない、いろんな物だな。お前が俺に拾わせたのは」
最初は偶然だったんだが…。お前が狙っていたわけじゃなくて。
俺に拾わせるつもりは無かったんだが、お前、拾えなかったんだ。頑張ったのに。
青の間のベッドの馬鹿デカイ枠、あれの下に見事に挟まっちまって。
「ああ…!」
そういえばあったね、頼んだことが。
ぼくの力じゃ拾えなくって、ホントに困っていた時だっけ…。
思い出した、と蘇って来た前の自分の記憶。ソルジャー・ブルーだった頃の、遠い昔の。
もうハーレイとは恋人同士になっていた時代。夜になったら、青の間を訪ねて来たハーレイ。
(でも、キャプテンの仕事もあったから…)
一日分の報告だったり、キャプテンとしてソルジャーの指示を仰いだり。
その夜も、ハーレイが来たら訊くべきことがあるかどうか、と書類を見ていた。昼の間に開いた会議。其処で「次回までに」と配られたもの。次の会議で検討する議題や、その資料など。
順にめくって読んでゆく内に、うっかり落とした一枚の書類。
それはスルリとベッドの下へと滑り込んでしまって、枠と床の間に挟まって…。
(引っ張っても、ビクともしなくって…)
何処かに端が引っ掛かったらしくて、動かない書類。無理に抜いたら、きっと破れる。ビリッと真ん中から破れてしまって、真っ二つに裂けてしまいそう。
(瞬間移動で…)
それなら取れる。一瞬の内に、書類は手の中に戻って来る。
けれど、エラやヒルマンたちなら言うだろう。「人間らしく」と。安易にサイオンに頼るなと。自分の肉体が持っている力、それを使って拾うべきだと。
サイオンはミュウだけの力だから。人類には無い能力なのだし、人間らしくあるべきだと。
だから駄目だ、と瞬間移動をさせるのはやめて、枠を持ち上げようとした。両方の腕で。
(この枠が、ほんの少しだけ…)
床から離れて隙間が出来たら、足で書類を蹴ればいい。引っ掛かっているのも外れるだろう。
そう考えて挑んだけれども、重くてとても持ち上げられない。動いてくれないベッドの枠。
何度、両腕に力をこめても。今度こそ、と歯を食いしばっても。
どんなに努力を重ねてみたって、ベッドの枠は動きもしない。僅かな隙間も出来てはくれない。
やっぱり無理だ、とサイオンを使って取ろうとしたら、開いた扉。緩やかなカーブを描いて下へ伸びるスロープ、その端に見えたハーレイの姿。
恋人が来てくれたのだから、と書類の件は一時中断。なのにハーレイには分かるらしくて、側に来るなり問い掛けて来た。
「どうなさいました?」
何か困ってらっしゃることでも…?
気になることでもおありなのですか、そういう風に見えるのですが…。
「分かるのかい? 大したことではないんだけれど…」
この下に書類が挟まっちゃってね、引っ掛かったらしくて取れないんだ。
サイオンを使えば直ぐに取れるけど、エラたちがいつも言うだろう?
「人間らしく」と、肉体の力を使うべきだと。
ぼくも頑張ってはみたんだけれど…。ぼくの力ではビクともしないよ、このベッドの枠は。
「枠に挟まったのですか?」
「そう、此処の下」
覗いてみれば見えるよ、これ。…ほら、引っ張っても出て来ないんだ。
「無理に引っ張ったら破れそうですね、真ん中から」
この枠の下敷きということは…。
此処だけ浮いたら、引っ張り出せると思いますよ。ですが、あなたの力では…。
まず無理でしょうね、この枠はとても重いですから。
「そうだよね…」
サイオンで抜くよ、瞬間移動で。そうしようと思っていた所だから。
「お待ち下さい、私の力なら動かせるかもしれません」
あなたよりは力が強いですから、このくらいは…。サイオン無しでも、少しくらいなら…。
やってみましょう、とハーレイが両腕で持ち上げた枠。それは本当に少し浮き上がったから…。
「今です、ブルー!」
抜いて下さい、今の間に…!
「ありがとう、ハーレイ!」
取れた、と素早く抜き出した書類。端には皺が残ったけれども、破れずにちゃんと取り出せた。人間らしい方法で。サイオンの助けを借りることなく。
ハーレイが「もういいですね?」枠を下ろした後に、「君は凄いね」と褒めたのだけれど。
「いえ、それほどでも…」
馬鹿力だというだけですよ。こういう身体ですからね。
昔からゼルに言われたものです、「このデカブツ」だの、「独活の大木」だのと。
この程度のことも出来ないようでは、本当に独活の大木ですから…。
持ち上げられて良かったですよ。馬鹿力などは、褒めて頂くほどのことでは…。
「馬鹿力って…。凄い力だと思うけれどね?」
ぼくには出来なかったことだよ、この枠を腕の力だけで持ち上げるのは。
それを軽々とやってのけたんだし、凄いことだと思うけど…。馬鹿力なんて言わなくても。
「ありがとうございます。…ゼルにかかれば、馬鹿力だろうとは思いますがね」
ですが、お力になれて良かった。
こんなことでしたら、いつでもお手伝いさせて頂きますよ。
人間らしくなさりたいのに、あなたのお力が足りない時には。
私がお役に立てるのでしたら、と力強い言葉を貰ったから。ハーレイが手伝ってくれるから。
(前のぼく、調子に乗っちゃって…)
何かを落として取れない時には、いつもハーレイに頼っていた。「ぼくじゃ無理だ」と、恋人がやって来るのを待って。「あれを取って」と、「拾って欲しい」と。
ベッドの枠の下に挟まるどころか、青の間の巨大な貯水槽に落とした時だって。
(…ハーレイ、どうやって拾ってたんだっけ?)
思い出せない、貯水槽に落としてしまった時。サイオンを使わずにどうやって、と。
首を捻って考えてみても、答えが出ないものだから…。
「あのね…。ハーレイが拾ってくれていた話…」
色々な時に拾って貰ったけれども、貯水槽の時はどうしてたっけ?
あそこ、深くて、水が一杯だったのに…。手を突っ込んでも、底まで届くわけがないのに。
「頭を使えよ、シャングリラの基本は「人間らしく」だ」
あの貯水槽の係にしたって、例外じゃない。深いからって、サイオンで掃除するのはなあ…?
メンテナンスをしてたヤツらが使う道具が奥にあったろ。
普段はきちんと仕舞ってあったが、貯水槽の掃除をしようって時には出て来たヤツが。
「そうだっけね…!」
道具、色々、入ってたっけ…。
ぼくが会議とかで留守の間に、係が掃除をしてたから…。あの貯水槽にも係がいて。
青の間には部屋付きの係が配属されていたけれど、それとは別にメンテナンスの係がいた。青の間の空調やら貯水槽やら、そういった設備を専門に扱っていた係。
彼らのための道具を収めた小さな物置。
貯水槽に何か落とした時には、ハーレイは其処の道具で拾った。網だの、マジックハンドだの。
「…何回、お前に拾わされたか…」
ベッドの下やら、貯水槽やら。
俺が青の間に出掛けて行ったら、「あれを拾って欲しいんだけど」と頼まれるんだ。
「さっき、ハーレイも言ったじゃない。人間らしく、だよ」
シャングリラの基本はそれだったんだし、ハーレイ、手伝ってくれるって言ったし…。
ぼくの力で拾えない時は、ハーレイが拾ってくれるって。
「そう言っては待っているんだからなあ、俺の仕事が終わるまで」
ブリッジ勤務が終わって報告に出掛けてゆくまで、お前、拾おうともせずに。
たまには自分で拾えばいいんだ、「人間らしく」にこだわらずに。
どうしても出来そうにないって時には、使っていいのがサイオンだったぞ。サイオンってヤツは本来、そうするためにあるんだから。…足りない能力を補うために。
「自分で拾った時もあったよ!」
何もかもハーレイ任せにしてはいないよ、前のぼくだって!
ベッドの下なら放っておいても大丈夫だけど、貯水槽はそうじゃないんだから…。
あそこに書類を落としちゃったら、ハーレイが来るまで待っていちゃ駄目。
書類はすっかりふやけてしまって、読めなくなってしまうんだから。
他の物でも、水に落ちたら駄目になっちゃうものはあるでしょ?
そういう時には拾っていたよ。道具は上手く使えないから、緊急事態だ、ってサイオンでね。
長い時間、水に浸かっていたなら、使えなくなってしまう物。それをウッカリ落とした時には、サイオンでヒョイと拾っておいた。ハーレイが来るまで待っていないで。
ちゃんと拾った、と胸を張ったら、「まあな…」と苦笑いしているハーレイ。
「お前の都合で決まるんだっけな、俺に拾わせるか、お前が自分で拾うかは」
そういや、俺が拾った中でも一番デカイの。
お前だっけな、大物ってな。
「えっ、ぼくって…?」
どうしてハーレイがぼくを拾うの、前のぼく、迷子の子猫なんかじゃないよ?
落ちていないと思うんだけど…。
いくらハーレイが拾うのを仕事にしてたとしたって、落ちていないものは拾えないよ?
「落っこちたろうが、前のお前は」
そして間違いなく俺が拾った。…いつも通りに。
「落ちたって…。何処に?」
「いつも通りと言っただろうが、その言葉だけで分からんか?」
お前が俺に拾わせてた場所は青の間ばかりで、あそこで落ちるとなったなら…。
貯水槽の他に何があるんだ、お前、あそこに落っこちたんだ。
「…そういえば…」
ぼくが落ちちゃったんだっけ…。
いつもと同じで拾って貰って、それを見ていて、今度はぼくが…。
落っこちたんだ、と時の彼方から戻った記憶。前の自分がやった失敗。
貯水槽の側に屈んでいたハーレイ。隣で「ハーレイはいつも上手に拾うね」と、感心して眺めていた自分。あの時は何を拾って貰ったのだったか、使っていた道具は何だったのか。
「拾えましたよ」とハーレイが差し出して来たから、「ありがとう」と受け取ろうとして崩したバランス。貯水槽の直ぐ側だったのに。
よろめいた身体はアッと言う間に落っこちた。貯水槽へと。
サイオンで落下は止められるけれど、元の場所へも戻れるけれど。
(人間らしく…)
拾って貰おうと思ったのだった、ハーレイに。貯水槽に落とした物たちのように。
そして落っこちた貯水槽。シールドも張っていなかったから…。
(ドボンと落ちて、真っ直ぐ沈んで…)
水面までの距離があった分だけ、沈んだ暗い水の中。前の自分の身長よりも深く。
懸命に浮かび上がったまではいいけれど、闇雲に水を掻くしかなくて。
「ブルー!!」
ハーレイが下へと差し伸ばした腕。青の間の床に腹這いになって。
けれども、届くわけがない。水面はもっと下だったから。
そのハーレイの顔を見上げながら必死に水を掻いていたら、サイオンで身体が浮く感覚。自分は使っていないというのに、ふうわりと。
水から引っ張り出そうとするのは、ハーレイが使っているサイオン。
落ちた自分を拾い上げるには、マジックハンドも網も役立たない。もっと小さな物のためにと、作られている道具だから。それで人間は拾えないから。
水の中から救い出そうと、ハーレイが包んだ淡い緑のサイオンカラー。沈む前にと、早く水から引き上げようと。ハーレイの身体も、同じ色の光に包み込まれていたのだけれど…。
「待って…!」
慌ててハーレイを止めようとした。人間らしく落っこちたのに、これでは何の意味も無いから。
サイオンで助け上げられたのでは、拾って貰うことにならないから。
「ブルー!?」
何を、とハーレイのサイオンは揺らがないけれど、伝えなければ。
どうして自分が落っこちたのか、サイオンを使って此処から出ようとしないのか。
「人間らしく…!」
ぼくが落ちても、人間らしく…!
サイオンだったら、ぼくの力でも上がれるから…!
君が拾ってくれるんだろう、ぼくが落としてしまった時は…!
自分の力で拾えない時は、いつだって、君が…!
だから今も、とバシャバシャと水を掻きながら叫んで、ガボッと飲んでしまった水。泳ぎ方など習っていないし、シールドもせずに深い水の中に入ったことは無いから。
それでもハーレイが拾ってくれると、拾って貰おうと考えたのが前の自分で。
水を飲んだせいで声も失くして、けれど思念波さえも使わないままで…。
「ブルー!!」
一刻を争うと気付いたのだろう、貯水槽に飛び込んで来たハーレイ。キャプテンの制服を脱ぎもしないで、マントも背中に背負ったままで。
ハーレイが上げた水飛沫を頭から被ったけれども、貯水槽の水も揺れたのだけれど。
沈みそうな身体に回された腕。グイと脇から抱え上げるように。
「動かないで下さい」と声を掛けられ、ハーレイは前の自分をしっかりと抱えて泳いでくれた。
スロープに上がれる所まで。水面からスロープが近い所まで。
泳ぎ着いたら、ハーレイに押し上げられたスロープ。「縁を掴んで下さい」と。スロープの縁を掴むのが精一杯だったけれど、ハーレイは立ち泳ぎしながら背を押してくれて…。
やっとの思いで這い上がったら、直ぐにハーレイも上がって来た。突っ伏したままの前の自分を気遣うように掛けられた声。
「大丈夫ですか?」
「水、飲んだ…」
後は言葉になってくれなくて、ただゲホゲホと咳き込むだけ。ハーレイは背中を擦って叩いて、飲んだ水をすっかり吐き出させてから、強い両腕で抱き上げた。前の自分を。
そのままバスルームに連れて行かれて、頭から浴びせられた熱いシャワー。貯水槽の水で濡れてしまった服を剥ぎ取りながら、ハーレイは熱い湯をせっせと浴びせ続けて。
「とにかくシャワーで温まって下さい、お身体が冷えてしまっています」
お湯も張りますから、バスタブにも浸かって頂かないと…。
もう少しだけお待ち下さい、たっぷりのお湯を張ってからです。バスタブの方は。
「…君は?」
ぼくの面倒を見てくれるのは嬉しいけれど…。
君も一緒に落っこちたんだよ、あの貯水槽に。君も身体を温めないと…。
「このくらい、なんともありませんよ」
プールが深いか、浅いかだけの違いです。普段から泳いでいますからね。
貯水槽で泳ぐのは初めてでしたが、日頃の練習が役に立ちました。あなたを拾えましたから。
次はこちらへ、と浸けられたバスタブ。湯加減を調べて、手足を擦ってくれるハーレイは濡れた制服を脱いでしまって、バスローブだけという姿。「私は風邪など引きませんから」と。
「でも、ハーレイ…。君の着替えは…?」
シャワーやお風呂は後でもいいけど、君の服…。その格好じゃ冷えるだろうに。
誰かに頼んで持って来させるとか、きちんとした服を着た方が…。
「私の服なら、明日の分が置いてあるじゃありませんか」
あなたと一緒に過ごすのですから、いつも運んでありますが…?
濡れていない服はちゃんとあります、あなたが心配なさらなくても。
「だけど、バスローブしか着てないし…」
アンダーくらいは着た方が…。
でないと君の身体も冷えてしまうよ、ぼくの世話なんかをしている間に。
「大丈夫ですよ、頑丈に出来ていますから」
アルタミラからの筋金入りです、体力だったら船の誰にも負けませんとも。
私の身体を心配するより、ご自分の心配をなさって下さい。
あんな所でサイオンも無しで、溺れそうな目に遭われるだなんて…。
「人間らしく」と言っても程度があります、私が直ぐに引き上げていたら、こんなことには…。
あなたがサイオンを使っておられたとしても同じです。
落下を止めるくらいのことなら、あなたには朝飯前なのですから。
次からは「人間らしく」は無しです、とバスルームで厳しく叱られた。普通の物を拾うだけなら今まで通りに手伝うけれども、持ち主の人間は別だから、と。
冷えた身体が温まったら、バスタオルで水気を拭われた。髪に至るまで、ゴシゴシと。
病気の時しか使っていないパジャマを着せられ、押し込まれたベッド。上掛けを肩まで引っ張り上げたら、ハーレイはシャワーを浴びに出掛けた。「直ぐに戻ります」と。
戻った時にもバスローブだけで、鳶色の瞳でじっと見詰めてから奥へ入って。
「…此処で作れるのは、これだけですから」
何の食材も無かったので、と熱い紅茶を淹れて来てくれた。火傷しそうなくらいのを。
ベッドの上で上半身を起こして飲んでいる間も、冷えないようにと肩に毛布を掛けられた。膝はもちろん上掛けの下で、飲み終わってカップを返したら…。
カップを片付けに行ったハーレイは、戻るなり言った。「暖かくして休んで下さい」と。
有無を言わさぬ口調だったけれど、水に落ちた自分を拾い上げてくれたのがハーレイだから…。
「じゃあ、温めてよ」
ぼくの身体を温めるには、何が一番か知ってるだろう?
君の身体で温めて欲しいよ、身体も、それにぼくの心も。…いつもみたいに。
「いいえ、今夜は添い寝だけです」
ご自分に自覚が無いというのは頂けませんが…。
あれほどの無茶をなさるのですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
まさか「拾ってくれ」だなどと…。
あなたは物ではないのですから、拾うという言葉は当て嵌まりません。救助に救出、助けるとも言っていいでしょう。
救助の時まで「人間らしく」とは、エラもヒルマンも一度も言ってはいませんが…?
御存知でしょう、アルテメシアから子供たちを救出して来る時はどうするか。
人間らしくサイオンを封じるどころか、フルに使って救出するのが船の基本で鉄則ですが…?
それも忘れてらっしゃるようでは、ご自分のお身体も分かっておられませんね。
もう充分に弱っておられて、いつも通りの過ごし方など、無理に決まっていますとも。
あなたはきっと風邪を引いておしまいになりますから、とハーレイは添い寝しかしなかった。
パジャマ姿の前の自分を抱き締めるだけで、ハーレイの身体にはバスローブ。
「これでも風邪を引かれますよ」と、「明日になったらお分かりになります」と繰り返して。
自分では「まさか」と思ったけれども、翌朝、本当に引いていた風邪。
水に落ちた結果は発熱と、熱でひりつく喉と。
ハーレイは「やっぱり…」と深い溜息をついて、朝食の支度に来た係に野菜を持って来させた。前の自分が寝込んだ時には、作ってくれた野菜のスープ。それをコトコト煮込むために。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだ素朴なスープ。
出来上がったら、スプーンで掬って食べさせてくれて…。
「…熱いですから、気を付けて。それにしても、あなたという人は…」
本当に弱くていらっしゃる。
ご自分で落ちた水だというのに、こんな風に寝込んでおしまいになって…。
私も後から飛び込みましたが、何処もなんともないですよ?
こうしてスープも作りましたし、この後は仕事ですからね。いつもと同じにブリッジに行って。
「君が頑丈すぎるんだよ!」
普段から風邪なんか引かないじゃないか、ぼくが引いても移りもしない。
君と一緒にしないで欲しいよ、ぼくの身体は繊細なんだよ…!
「お分かりでしたら、次からは控えて頂きたいと…」
昨日も申し上げましたよね?
物を落としてしまわれた時は、サイオン抜きで拾わせて頂きますが…。
持ち主の方が落ちた時には、サイオン抜きには致しません。問答無用で救出させて頂きます。
けれど、あなたは、懲りるということを御存知ないような気もしますから…。
貯水槽には近付かないで下さい、私が何かを拾う時には。
あなたを拾うのは二度と御免です、とハーレイに真顔で叱り付けられた。
それからは側で覗けなくなった、貯水槽での落とし物拾い。網を使うのも、マジックハンドも、離れた所から見るしかなかった。
「ハーレイ、危ないからそっちにいろって言うんだよ」
もっと丁寧な言葉だったけど、意味はおんなじ。こっちに来るな、って。
「当たり前だろうが!」
あんなのを見たら、二度とお前を近付かせないのが一番だ。
落ちないようにするのも、自分の力で上がって来るのも、前のお前なら簡単なのに…。
今の不器用なお前と違って、半分寝てても出来た筈なのに…!
「そうだけど…。今のぼくだと、ホントに無理だよ」
ぼくが落っこちても拾ってくれる?
何処かの池とか、湖だとか…。デートの途中で落っこちた時は。
「もちろん拾うが、サイオンは必ず使うからな?」
ついでに、お前が落っこちる前。
そうなる前に、落ちないように俺が支える。
前の俺は油断していたわけだな、お前が落ちるとは思わないから。
落ちても自分で落下を止めたり、シールドを張ったり、ちゃんと出来ると信じてたしな…?
前のお前で懲りているから、俺は決して油断はしない、とハーレイは言っているけれど。
デートで水辺に出掛けた時には、手をしっかりと握っていそうだけれど。
(…前のぼくが落っこちちゃった時…)
抱えて貰って泳いだ思い出、あの腕が忘れられないから。
スロープに自分を押し上げてくれた、逞しい腕の記憶も鮮やかに思い出せるから。
(…落ちてみたいかも…)
水泳が得意な今のハーレイと、いつかデートに出掛けたら。
落ちられそうな水があったら、前の自分が落っこちたように、バランスを崩して水の中へと。
風邪は引きたくないのだけれども、ハーレイに助けて貰いたいから。
サイオンは抜きで、「人間らしく」とお願いして。
ぼくを拾ってと、懸命に水を掻いて叫んで。
きっとハーレイは、「仕方ないな」と飛び込んで拾ってくれるから。
拾い上げた後も、あの時みたいに、あの時以上に、きっと優しくしてくれるから…。
拾って欲しい・了
※青の間の貯水槽に落ちてしまった、前のブルー。ハーレイに拾って欲しくてサイオン抜きで。
望みは叶ったわけですけれど、風邪を引いてしまって叱られた結末。でも、幸せな思い出。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「こらあっ、そこ!」
何をしている、と怒鳴ったハーレイ。古典の授業の真っ最中に。
突然のことにブルーもビックリしたのだけれども、声が向けられた先には男子生徒が一人。彼の瞳も驚きで真ん丸、教室の前でボードを背に立つハーレイをポカンと見ているだけ。
ハーレイは腕組みをして男子生徒を睨んだ。「そう、お前だ」と。
「さっきから気になっていたんだが…。俺の授業はそんなに退屈か?」
鏡を見詰めて何をしている、此処からは良く見えるんだが?
「え、えっと…。じゅ、授業はちゃんと聞いてます! でも…」
この前髪が気になって、と指差す寝癖がついた前髪。あらぬ方へと跳ね上がったカーブ。それを引っ張っていたらしい。鏡を覗いて、なんとか直せないものかと。
「ほほう…。手鏡持参でか?」
なかなか洒落た鏡だな。わざわざ家から持って来たのか、お前のか、それともお姉さんのか?
「こ、これは…。ぼくのじゃないです、違うんです!」
だから没収しないで下さい、という叫び。鏡はクラスの女子の持ち物、頼み込んで貸して貰ったらしい。「少しだけ」と。
「なんだ、お前の鏡じゃないのか。つまらんな」
実につまらん、お前のだったら良かったのに。…没収の件とは関係ないぞ?
「え…?」
「とびきりの渾名、つけてやろうと思ったんだが」
ずいぶん熱心に鏡を見てるし、お前に相応しいヤツを。もうピッタリの名前があるんだ、お前のように鏡ばかり見てるヤツにはな。
これだ、とハーレイがボードに書いた「水仙」。冬に咲く香り高い花。寒さの中で凛と咲く花、それが水仙だった筈。
「こういう名前をプレゼントしようかと…。水仙、もちろん知っているよな?」
今の季節の花じゃないんだが、普通は知っているだろう。白いのとか、ラッパ水仙だとか。
しかし、お前にくれてやるのは花の名前の水仙じゃない。名前の元になった伝説の方だ。
水仙の学名ってヤツは、ギリシャ神話の美少年から来ていてな…。
ナルキッソスという名前なんだが、水鏡に映った自分に恋をしちまったんだ。その少年は。
ところが相手は自分なんだし、恋が実るわけないからな?
水鏡ばかり覗き続けて、憔悴し切って死んじまった。そして水仙の花に変身した、と。
そんなに鏡が気になるんなら、この名前、お前にくれてやるんだが…。
鏡がお前の持ち物だったら、もう確実に名付けていたな。お前の名前は水仙君だ、と。
「酷いです!」
ぼくは自分の顔を見ていたわけじゃなくって…。この寝癖が…!
「酷いのはお前だ、今は授業中だ」
鏡に夢中になれる時間じゃないんだぞ。お前がナルキッソスだと言うなら、仕方ないがな。
他のヤツらも、しっかり肝に銘じておけよ?
授業中に鏡で身づくろいをしてたら、遠慮なくコレをつけるからな。水仙だ、水仙。
ただし、男子の場合に限る。
女子につけたら、なんの意地悪にもならん。綺麗ですね、と褒めるようなもんだ。素敵な名前をくれてやろうって気は無いからなあ、俺にもな?
その場合は別のを考えておこう、とても悲しくなるようなヤツを。
覚悟しとけよ、というハーレイの言葉にドッと笑って、戻った授業。思いがけないタイミングで来た、雑談の時間はこれでおしまい。
水仙になった美少年。ギリシャ神話のナルキッソス。水鏡に映った自分に恋して、眺め続けて、とうとう窶れて死んでしまって。
(…鏡なんか…)
ぼくは授業中に見ないもんね、と自分自身を振り返る。
寝癖なら家を出る前に母に直して貰うし、そのための時間が無かったとしても…。
(ハーレイの授業中には見ないよ、鏡)
小さな鏡に映った自分と格闘するより、ハーレイを見ている方がいい。「ハーレイ先生」としか呼べないけれども、ハーレイには違いないのだから。
寝癖なんかはどうでもいい。ハーレイが笑って見ていたとしても、鏡を覗いて直しはしない。
(鏡の自分を覗き込むより、ハーレイがいいよ)
たとえ寝癖のついた髪でも、それをハーレイに笑われていても、きちんと前を見ていたい。前で授業をしている恋人、鏡を見るより、断然、そっち。
髪が好き勝手に跳ねていたって、直したい気分になっていたって。
鏡を覗いて直しているより、ハーレイの姿を見る方がいい。ハーレイの目が笑っていても。
学校が終わって、家に帰っても覚えていたこと。鏡を見ていた男子生徒と水仙の話。
もしも自分がやっていたなら、ハーレイは渾名をつけるだろうか。「水仙君」と。
恋人だけれど、遠慮なく。学校では教師と生徒なのだし、「お前はコレだ」と。
(…つけちゃうのかな?)
それとも恋人だから免除だろうか、見ないふりをして。そっちだといいな、と考えていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
テーブルを挟んで向かい合わせで、興味津々で。
「ハーレイ、あの渾名、ぼくにもつけるの?」
つけてしまうか、見ないふりをして助けてくれるか、いったい、どっち?
「はあ? 渾名って…」
それに見ないふりって、何の話だ?
「今日の授業だよ、ぼくのクラスで言っていたでしょ。…鏡で寝癖を直してた子に」
水仙って渾名をつけちゃうぞ、って。…他の生徒も覚悟しとけよ、って。
だから、ぼくでもつけちゃうの?
授業中に鏡を見てた時には、ぼくも水仙って名前になっちゃう?
「…水仙って名前、欲しいのか?」
それとも見逃して貰いたいのか、其処の所が気になるな。お前の希望はどっちなんだ?
俺としては見ないふりを選びたいんだが、水仙って名前が欲しいんだったら…。
「ちょっと興味があっただけだよ、どっちかなあ、って」
ぼくが鏡を見るわけないでしょ、ハーレイが授業をしている時に。
自分の顔なんか見てても仕方ないもの、自分を見るよりハーレイの方!
「そうだろうなあ、お前はな」
たとえ寝癖がついていようが、俺の方ばかりを見てるんだろうな。
お前、いつでも見詰めているしな、俺が背中を向けている時も、授業が終わって出て行く時も。
気配で分かるさ、と笑うハーレイ。「お前の視線は直ぐに分かる」と。
「第一、お前は自分の姿にまるで頓着しないしなあ…」
前に寝癖で慌ててた時は確かにあったが、あれは俺が訪ねて来るからで…。
お前が学校に出て来る方なら、寝癖を直している暇が無ければ、そのままだろうが。俺の授業に顔を出す方が大切だしな?
要するにお前、俺がいなけりゃ、寝癖どころか、どう育っても気にしないだろ?
ソルジャー・ブルーと瓜二つの姿にならなくても。
お前の姿で期待されるような顔に育つ代わりに、ごくごく普通の顔になっても。
「うん、多分…。それに、ぼく…」
そっちの方がいいな、と思っていたみたい…。すっかり忘れてしまってたけれど。
ハーレイに会って、早く前のぼくと同じ姿になりたくて…。そっちばっかり考えてたから。
でも、前は…。
違ったみたい、と白状した。ソルジャー・ブルーと同じ姿は欲しくなかった、と。
目立ちたいタイプではなかったから。
見た目でキャーキャー騒がれるよりは、地味な姿の方がいい。何処にいるのか分からないほど、他の人たちに紛れてしまう姿が。
「欲のないヤツだな、せっかく綺麗に生まれついたのに」
今はまだ可愛いって感じの顔だが、充分、人目を惹くってな。小さなソルジャー・ブルーだし。
なのに、そいつは要らないと来た。目立たない姿に育ちたかった、と。
前のお前もそうだったが…。鏡なんか見ちゃいなかったしな。
「だって、どうでもいいじゃない」
鏡を見たって、何が変わるっていうわけでもないし…。ぼくはぼくだし、それだけだもの。
前の自分も、顔など気にしていなかった。自分は自分で、それ以上でも以下でもないから。
外見が気になる女性ではないし、自分の顔がどうなっていようが、どうでもいいこと。
前のハーレイに恋をするまでは、本当に頓着していなかった。見た目などには。
恋をしてからも、とうに年を取るのをやめていたから、老けてゆくわけではなかったし…。
「前のぼくが鏡を覗き込んでも、何も変わらなかったでしょ?」
せいぜい寝癖を直すくらいで、他には何も…。綺麗になるってわけでもないし。
「化粧してたわけじゃないからなあ…」
鏡を見たって、することが無いな。もっと綺麗になれるんだったら、別だったろうが。
寝ても起きても同じ美人じゃ、どうにもならん。鏡なんかは見る価値も無いな。
猫に小判とは少し違うが、前のお前に鏡は全く要らなかったわけで…。
ん…?
待てよ、とハーレイが顎に手を当てたから。
「どうかした?」
何か変なことでも思い出したの、前のぼくのことで…?
「いや、変というわけじゃないんだが…。お前が鏡を覗いてたような…」
えらく熱心に、鏡ってヤツを。
「自分の顔を見てたってわけじゃないでしょ、それは」
青の間の鏡は別だってば。
何度も覗き込んでいたけど、見ていた意味が違うんだもの。鏡の向こうを見ていたんだよ。
ハーレイだって知っていたでしょ、鏡は別の世界に繋がっているっていう言い伝え。
それを通って地球に行けたらいいんだけれど、って見ていたよ、いつも。
青の間の奥で見ていた鏡。向こう側の自分と手と手を重ねて、鏡の世界に入れないかと。鏡から道が開かないかと、一気に地球まで飛べる道が、と。
前の自分が何度も夢見た、鏡の道。覗いていたのは鏡の道だ、と言ったのに…。
「違うな、もっと昔のことだ」
鏡の道の時じゃなかった。そっちなら俺も分かっているさ。
「昔って…?」
いつのことなの、もっと昔って…?
「青の間の鏡を覗くどころか、青の間はまだ無かった頃で…」
ソルジャーでさえも無かった頃だと思うんだが…。そういう記憶だ、俺のはな。
「なんで、そんな頃に?」
鏡の道はまだ知らなかったよ、そんなに昔のことだったら。
だから鏡を覗く理由が無さそうだけど…。チラとは見るけど、それだけだよ。
「俺にも分からないんだが…」
その辺りは全く思い出せんが、お前、確かに鏡を見てたと…。
「鏡って…。そうだっけ?」
知らないよ、ぼくは。
鏡を見ていた覚えなんか無いし、眺める理由も無いんだから。鏡の道は別だけれどね。
別の世界へ繋がる扉になるならともかく、ただ映し出すだけの鏡は要らない。朝、起きた時に、チラと覗けば充分だった。髪が変な風に跳ねていないか、眠そうな顔をしていないかと。
たったそれだけの鏡だったし、熱心に覗き込むわけがないよ、と思ったけれど。
鏡の道を知らない頃なら、きっと見ないと考えたけれど。
(…鏡…?)
不意に蘇って来た記憶。
ハーレイの言葉通りに遠い遠い昔、鏡を見ていた少年だった自分。鏡に映った顔は子供で、今の自分と変わらないくらい。そういう顔をした自分が鏡の中にいて、それを覗いている自分。
じっと眺める鏡の向こう。自分しか映っていないのに。
(なんで…?)
どうして、と不思議になる記憶。鏡を見ている少年の自分。
鏡の中を覗き込んでは、大きな溜息。いつも、いつも、いつも。
そして見回していた他の仲間たち。溜息を零した後には必ず、ぐるりと何かを確かめるように。
(…自分に恋はしていないよね?)
水仙になった少年のように、自分に恋してはいないと思う。なんて素敵な少年だろう、と。
鏡の自分に見惚れなくても、特別だったハーレイがいたから。
恋ではなくても、一番古い友達だと思っていた頃にしても、誰よりも特別だったハーレイ。鏡の自分を見詰めているより、ハーレイの方がずっといい。
けれど記憶の中の自分は、鏡を覗き込んでは溜息。
他の仲間たちを見ては溜息、皆の方へと視線を移して見回した後は。
だから…。
変な記憶だ、と思いながらも話してみた。それを呼び覚ます切っ掛けになったハーレイに。
「えっとね…。ハーレイの記憶で合ってたよ」
ホントに鏡を見ていたよ、ぼく。…今のぼくと変わらないくらいのチビだった頃に。
それでね、ぼく、溜息をついてたみたい…。
「溜息だって?」
どういう溜息だったんだ、それは?
溜息と言っても色々あるしな。ホッとした時とか、感心した時にも溜息は出るし。
「そんな溜息とは違うと思う…。多分ね」
鏡を見ていて溜息をついて、その後は他のみんなを眺めて…。そっちも溜息。
なんだか自信が無さそうな感じがしてこない?
どっちを見たって溜息だもの。…鏡の中のぼくも、他のみんなも。
「そりゃ、水仙の話とは逆様っぽいな…」
鏡のお前が素敵だったら、そいつで満足していりゃいいし…。他のヤツらまで見なくても。
同じ顔がそっちにいるといいな、と確かめてたなら、「いない」と溜息も零れそうだが…。
そういうわけでもなさそうだしなあ、お前の話しぶりからしても。
「でしょ? きっとガッカリしている溜息だよ、あれ」
ぼくってよっぽど、自分の顔に自信が無かったのかなあ…。
今のぼくだと、ソルジャー・ブルーにそっくりだ、って言われちゃうから大丈夫だけど…。
普通の顔になりたいな、って思ってたくらいに、顔に自信はあったみたいだけど。
「お前、一人だけチビだったからなあ…」
大人ばかりの船の中でチビは一人だけだし、チビと大人じゃ顔は違って当然だし…。
でもまあ、自信は失くしそうだな、どうして自分だけチビなんだろう、と。
そのせいで溜息だったんじゃないか、と言い終えた途端に、ハーレイがポンと手を打った。遠い記憶を捕まえたらしく、「そうか、アレだ」と。
「アレだったっけな、確かに鏡だ」
でもって、溜息。お前、幾つもついていたんだ。…鏡を見ては。
「思い出したの?」
ぼくが溜息をついてたトコまで。鏡のことを覚えていたのも、ハーレイだけど…。
「ああ。お前の目が問題だったんだ」
「ぼくの目…?」
目だ、と聞いたら蘇った記憶。前の自分がチビだった頃に、何度も覗いていた鏡。
其処に映った自分の瞳は、いつ見ても赤。今の自分の瞳と同じ。
今の自分には慣れた色だけれど、前の自分は赤い瞳が気になっていた。船には仲間が大勢乗っているのに、赤い瞳を持つ者はいない。自分だけしか。
鳶色の瞳や、青や、緑や黒や。
色々な瞳の仲間がいるのに、赤い瞳は一人だけ。それに…。
(元は水色…)
最初から赤くはなかった瞳。成人検査を受ける前には、水色の瞳を持っていた。
忘れていなかった、本来の自分の瞳の色。そして船には、同じ水色の瞳の仲間も乗っていた。
(前のぼくの目、色が変わっちゃった…)
アルタミラの檻で生きていた頃は、それほど気にしていなかったこと。檻に鏡は無かったから。
自分の顔が映っていたのは、実験室の設備など。磨き上げられた物の表面。
たまに目にすることはあっても、成長を止めていたほどなのだし、どうでも良かった。瞳の色が何であろうと、赤い瞳でも、水色でも。
こういう色に変わったんだな、と思う程度で。
金色だった髪が銀色に変わるくらいだし、瞳の色も変わってしまうだろう、と。
けれど、アルタミラを脱出した後。船の仲間に、赤い瞳の持ち主は誰もいないと気付いて…。
(ぼくの目、気持ち悪くない…?)
一人だけ、赤い瞳だから。血のような色の瞳だから。
気味悪く思う仲間はいないだろうか、と気になって覗いていた鏡。赤い瞳の自分の顔を。
サイオンの強さを怖がる仲間もいるのだけれども、この目だって、と。
血のように赤い色の瞳も気味悪がられそうだと、こんな瞳の仲間は一人もいないのだから、と。
(…水色だったら良かったのに、って…)
鏡を覗く度に零れた溜息。自分が失くしてしまった色。水色の瞳を持っていたなら、仲間たちと同じだったのに。…青や緑や鳶色の中に溶け込めたのに。
鏡から瞳を上げて見回すと、目に入る青や緑の瞳。自分も持っていた筈の瞳、赤い瞳に変わってしまう前までは。
ああいう瞳を持っていたのに、と零れる溜息。
自分の瞳は水色だったと、あの色のままが良かったと。赤い瞳より、水色がいいと。
いくら鏡を覗き込んでも、水色の瞳の自分はいない。赤い瞳が映るだけ。
あの水色が欲しいのに。水色の瞳のままでいたなら、気味悪がられはしないのだろうに…。
溜息ばかり零していたから、ある日とうとう、ハーレイに訊かれた。「どうしたんだ?」と。
食堂にあった鏡を覗いて、いつもと同じに深い溜息を零したら。
「お前、溜息ばかりだぞ。…この所、ずっと」
それも鏡を覗き込んでは溜息だ。食堂でもそうだし、休憩室でも。
何か気になることでもあるのか、鏡の中に…?
「…ぼくの目……」
「目? 目がどうかしたか?」
痛むのか、何か入ってそのままになってしまっているのか、目に?
それならヒルマンに診て貰わないと…。溜息をついて見ているだけでは治らないぞ。
「違うよ、ぼくの目はなんともないんだけれど…」
ぼくの目、気持ち悪くない?
ハーレイ、今も見ているけれども、気持ち悪いと思わない…?
「気持ち悪いって…。何故だ?」
どうしてそういうことになるんだ、お前の目が気持ち悪いだなんて。
「…一人だけ赤いよ、ぼくの目だけが」
他のみんなは青い目だとか、緑だとか…。ハーレイだって鳶色だよ。
赤い色の目はぼく一人だけで、他には誰もいないから…。
「俺はなんとも思わないが…」
気持ち悪いどころか、綺麗だと思うくらいだが?
お前の目、とても綺麗じゃないか。とびきり澄んでて、キラキラしてて。
「でも、赤くって変な色…」
血の色みたいな赤色なんだよ、自分でも変だと思うもの。普通じゃないよね、って。
こんな目の仲間は誰もいないよ、と訴えた。幸い、周りに他の仲間はいなかったから。壁の鏡を見ていた時には、とうに終わっていた食事。皆、持ち場や部屋へと散ってしまって。
ハーレイの仕事は料理だったから、後片付けはしなくていい。それで残っていたのだろう。
「ぼくの目、ホントは赤じゃなかった…。だから分かるんだよ、変だってことが」
元は水色だったのに…。成人検査を受ける前には、ちゃんと普通の色だったのに…。
ぼくの水色、無くなっちゃった。…こんな赤い目になっちゃった…。
「そう言ってたなあ…。ミュウになる前は違ったんだ、と」
成人検査でミュウに変わるついでに、身体まで変化しちまったんだな。
サイオンに目覚めるのと引き換えみたいに、色素がすっかり抜けちまって。
「え…?」
色素って…。それって、どういうこと?
「そのままの意味だな、色素は色素。…色ってことだ」
俺の肌の色、こんなだろ?
こいつも色素が作ってるわけだ、この目の色も、髪の色もな。他のヤツらも同じ仕組みだ。肌の色も髪も、目の色だって。
ところが、お前には色素が無い。水色の瞳をしていた頃には持っていたのに。
お前みたいなのをアルビノって言うんだ、色素を失くしたヤツのことをな。
「アルビノ…?」
そういう言葉があるんだったら、ぼくが特別おかしいわけではないの、ハーレイ?
ぼくみたいな人間、この船には乗っていないってだけで、ちゃんと普通にいるものなの…?
「さあなあ…。俺もそこまでは…」
聞いちゃいないし、とんと分からん。
お前がアルビノだってことなら、ちゃんと聞いてはいるんだがな。
ヒルマンが詳しい筈だから、と連れてゆかれたヒルマンの部屋。「俺もヤツに聞いた」と。
其処で教えて貰ったアルビノ。色素が欠けた個体のこと。
人間に限らず、動物にもアルビノは存在するという。ただし、滅多に現れなくて、大抵は弱い。
「生命力自体が弱いそうだよ、アルビノに生まれた動物はね」
ブルーも虚弱な身体ではあるが…。アルビノのせいではないだろう。多分、元々の体質だ。
なにしろ、アルビノに変化しただけだし、アルビノが持つ筈の欠点が無い。…ブルーにはね。
恐らく、無意識の内に、サイオンで補っているんだろう。そう考えるのが自然だと思うよ。
本当は光に弱いらしいからね、アルビノは。瞳も、肌も。
宇宙船の中では肌の心配は要らないが…。太陽の光は無いわけだから。
しかし、光は事情が違う。光が強い場所もあるのに、ブルーは困っていないようだし。
目が痛むことはないだろう、と話したヒルマン。強い光は目を傷める、と。
「そうなんだ…。赤い目だから?」
赤い目は光に弱い色なの、他のみんなの目とは違って?
「少し違うね、赤が光に弱いわけじゃない」
目にも色素を持っていないから、そのせいで光に弱くなる。遮ってくれる色が無いからね。
その赤は血の色が透けて見える赤で、水色の瞳を持っていた頃には隠れていたんだ。その下に。
「…この目、やっぱり血の色なんだ…」
ヒルマンは気持ち悪くない?
血の色の赤の目だなんて…。気味が悪いと思わない?
アルビノがとても珍しいんなら、この色、普通じゃないんだもの。
気味が悪いと思ってる仲間、船に何人もいそうだけれど…。
珍しいと教えられたアルビノ。おまけに瞳の赤は血の色。気味悪がられても仕方ない、と溜息をついてしまったけれども、ヒルマンは「大丈夫だよ」と微笑んでくれた。
「心配しなくても、それも個性の一つだよ」
青や緑の瞳と同じで、たまたま赤というだけだ。珍しい色でも、瞳の色には違いない。瞳の色は幾つもあるから、赤があってもいいだろう。一人くらいは。
そうは言っても、水色の瞳だったことを覚えているから、余計に気にしてしまうのだろうね。
私は赤でもいいと思うよ、水色の瞳をしていなくても。
「俺もそう思うぞ、会った時から赤なんだから」
むしろ水色に戻った方が、驚いてしまうといった所か…。俺の知ってるブルーじゃない、と。
赤でいいじゃないか、赤い瞳で。俺もヒルマンも、気味が悪いと思ったことは一度も無いぞ。
「だけど、みんなは…」
きっと気味悪いと思ってるんだよ、血の色だもの。青や緑じゃないんだもの…。
ぼくのサイオンが強いだけでも怖がられてるのに、目まで血の色をしているなんて…。
「そんな話は聞かないよ、ブルー」
少なくとも私は、一度も聞いたことがない。…ハーレイもそうだね、聞かないだろう?
どちらかと言えば、覚えやすいくらいに思っている筈だよ、この船の皆は。
赤い瞳は一人だけだし、この先、何かと分かりやすくて便利だからね。
今は一人だけ子供で小さいけれども、育ったら皆と区別がつかない。大人になってしまったら。
普通の姿だと皆に紛れてしまうだろうから、赤い瞳の方がいい、と言ったヒルマン。
銀色の髪なら他にもいるから、一人だけの赤い瞳がいい、と。
「皆が集まった時にだね…。誰でも一目で分かるだろう?」
赤い瞳ならブルーなんだ、と考えなくてもピンと来る。きっと目立つよ、赤い瞳は。
子供の姿で目立てる時代が過ぎてしまったら、その瞳の出番が来るわけだ。
「…そうなのかな?」
他のみんなと区別がつくのが便利なのかな、血の色の目でも?
ぼくだけ変に目立っていたって、誰も気にしたりしないのかな…?
「目立つのは悪いことではないよ」
特にブルーは、他の仲間には出来ない仕事をしているのだし…。
これから先も同じだろうから、その分、目立つ方がいい。何処にいるのか分からないよりは。
「俺もヒルマンに賛成だ」
お前は何処だ、って捜し回らなくても、誰でも簡単に見分けが付くしな?
赤い瞳のヤツがいたなら、そいつがお前なんだから。
どんな隅っこに紛れていたって、赤い瞳でお前だと分かる。便利だろうが、色々な時に。
こういう顔で…、と捜さなくても、目だけで区別がつく方がな。
赤い瞳は目印ってことでいいじゃないか、と二人に言われて、そんな気になった。血の色の赤を透かした色でも、目印になるなら、それでいいかな、と。
気味悪く思う仲間がいたって、この色が役に立つのなら。将来、見分けやすくなるなら。
「…鏡、見るのをやめたんだっけ…」
ぼくの目は赤がいいんだから、ってハーレイたちが言ってくれたから…。
ハーレイがヒルマンの所へ連れてってくれて、説明、ちゃんと聞けたから…。
アルビノのことも、ぼくの目が役に立つことも。…血の色の目でも。
「パッタリとやめてしまったっけな、あの日から」
鏡は同じ場所にあるのに、もう覗かなくなっちまった。あんなに毎日、覗いてたのに。
じいっと鏡を覗き込んでは、俺でも変だと気付くくらいに溜息ばかりだったのに。
「大丈夫、って言って貰えたからだよ」
赤い瞳はぼくの個性で、ぼく一人しかいないから…。
いつか大きくなった時には目印になって役に立つから、それでいい、って。
役に立つなら、きっとみんなも喜ぶし…。気味悪い色でも、目印だったら気にしないもの。
赤い目、一人しかいなくて良かった、って思うでしょ?
大勢の中からぼくを見付けるには、赤い目を捜せばいいんだから。
そうして覗くことをしなくなった鏡。食堂で見掛けても、休憩室でも。
鏡を覗き込むのをやめたら、気にならなかった仲間たちの目。視線もそうだし、あれほど何度も溜息を零した、青や緑の瞳の色も。…自分とは違う、普通の色を湛えた瞳も。
一人しかいない赤い瞳も、個性だから。血の色を透かした気味悪い赤も。
いずれ自分が皆に紛れてしまった時には、きっと役立つだろうから。育ってチビではなくなった時に、この瞳だけで捜し出せるから。
「ホントに心が軽くなったんだよ、あれで」
ぼくの目、目印なんだから、って。赤くて変な色でも、目印。
目立つんだったら、それでいいもの。小さい間は気味が悪くても、大きくなったら便利だしね。
ぼくは何処なの、って慌てなくても、赤い目だけで見付けられるから。
「…お前、そう言っていたんだが…」
俺もヒルマンも、あの時は本気でそのつもりだったんだが…。いい目印だ、と。
なのに、育ったお前ときたら、とびきりの美人になっちまって、だ…。
赤い瞳で見分ける必要、無かったってな。
何処にいたって、どんな隅っこに隠れていたって、誰でも一目で気付くような美人。振り返って見るとか、立ち止まってしげしげ見ちまうだとか。
…もっとも、お前、ソルジャーだったし、そうそう見惚れちゃいられないんだが…。
ボーッと突っ立って見てようものなら、エラが飛んで来て叱られるってな。「失礼ですよ」と。
「それがソルジャーにすることですか」と、「謝りなさい」と。
その点、俺は恵まれていたな、シャングリラでも一番の美人を一人占めだ。
堂々と出来やしなかったんだが、好きなだけお前を見ていられた上、恋人に出来た幸せ者だぞ。あの船で最高の美人ってヤツを、俺は独占してたんだから。
あれほどの美人になるとはなあ…、とハーレイは感慨深そうだけれど。
今も手放しで褒めているのだけれども、前の自分は水仙になった美少年とは違っていた。自分の姿に見惚れはしないし、鏡を覗き込んだりもしない。
身だしなみさえ整えられたら、それで充分だと思った鏡。チビだった頃に鏡を何度も覗き込んだことすら、忘れ果ててしまっていたのだから。
赤い瞳はどう見えるのかと、溜息をついて。気味悪くないかと、仲間たちの瞳の色を気にして。
鏡を熱心に覗いていたのは、その時だけ。
育った自分の姿を映して、「綺麗だ」と見惚れた記憶は全く無いものだから…。
「…前のぼく、自分を美人だと思ったことはないけど?」
船のみんなが言っていたから、そうなのかな、って思っただけで…。鏡なんかは見てないよ。
もっと綺麗になりたいな、って覗きもしないし、「美人だよね」って見てもいないけど…。
でも、ハーレイには、好きだと思って欲しかったかな…。
ハーレイが好きだと思ってくれる姿に育ったお蔭で、恋人にして貰えたんだから。
「そりゃ光栄だな、俺のことは意識してくれていたんだな?」
お前、自分の姿に興味は全く無かったくせに…。鏡もどうでも良かったくせに。
鏡を熱心に見ていた時にも、目の色ばかり気にしていたのにな?
そんなお前が、俺の目にお前がどう映るのかは、一応、気にしてくれていたと…。
俺がお前にぞっこんだったのは、美人に育ったからなんだ、とな。
「そうだよ、それにね…」
今のぼくもだよ、ハーレイの好きな姿に育つのが、ぼくの目標なんだもの。
早く大きくならないかな、って、鏡、何度も見ているし…。大人っぽい顔も研究してるし。
前のぼくだと、こんな顔だよ、って。
「まだ早い!」
今から研究しなくてもいい、チビのくせに!
水仙って渾名をつけられたいのか、お前ってヤツは…!
チビは鏡を見なくてもいい、とハーレイに叱られたけれど。
「何度も見るなら、水仙って名前で呼ぶからな」と睨まれたけれど、鏡の中の自分を見たい。
前の自分とそっくり同じに育った姿を早く見たいから、覗きたい鏡。
チビの自分が映る鏡を覗き込んでは、「もっと大人に」と。
赤い瞳の色を気にする代わりに、「前のぼくと同じ」と、赤い瞳に満足して。
(…それって、自分に見惚れてるのとは違うよね…?)
だから水仙になった美少年とは違うものね、と考える。
鏡を覗くのはハーレイのためで、早くハーレイにピッタリの自分に育ちたいから。恋人のために頑張りたいから。…一日も早く、ハーレイとキスが出来る恋人になりたいから。
(鏡、これからも覗かなくっちゃね…)
前の自分と同じ姿を、鏡の中に見付ける日まで。前と同じに育つ時まで。
ハーレイの授業中にはしないけれども、きっと何度も覗き込む。
(でも、水仙にはならないんだよ)
水仙になってしまった少年、彼の名前は貰わない。「水仙」の名では呼ばれない。
授業中には、鏡の自分を覗き込むより、ハーレイの姿を見ていたいから。
その方がずっと幸せなのだし、きっとハーレイもそうだから。
自分がチビで、生徒の間は。前の自分と同じに育って、いつか結婚出来る日までは…。
水仙と鏡・了
※赤い瞳の人間は自分しかいない、と溜息をついていた前のブルー。何度も鏡を覗き込んで。
けれど目印になるのなら、と納得してから、見なくなった鏡。凄い美形に育ったのに…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(なんだ、こりゃ!?)
どうなってるんだ、とハーレイが仰天した光景。ブルーの家には寄れなかった日、仕事の帰りに入ったパン屋。家から近くて、パンを買うなら其処なのだけれど…。
花屋と間違えたのかと思った。足を踏み入れたら、辺り一面、花だったから。
お馴染みの薔薇やら、カーネーションやら、ありとあらゆる種類の花たち。色もとりどり、その香りだって。
(…花だよな?)
様々なパンが積み上げられた、パン売り場。陳列棚も、パン籠を並べたテーブルの上も、沢山の花が彩っている。所狭しと、誇らしげに咲く幾つもの花。
パンが積まれたトレイとトレイの間から咲いて、陳列棚の柱にも。パン籠が置かれたテーブルの隙間も、花たちが埋めている有様。もちろん床にも、花屋よろしく花瓶がドッサリ。
(…あっちも凄いぞ…)
レジを挟んだ向こう側にあるレストラン部門。一見、普通のレストランだけれど、パンが専門の店が手掛けているから、パンを幾らでもおかわり出来る。パン皿が空いたら「如何ですか?」と。何種類ものパンが食べ放題で、そちらも人気。
そのレストランの方も花だらけだった。入口の両側に花が飾られ、中にも溢れている花たち。
客たちが座るテーブルはもちろん、カウンター席も、床も花で一杯。
何事なのかと思ったけれど。
此処は確かにパン屋だよな、と何度も瞬きしたほどだけれど。
(パンと花の日々…)
そう書いてある小さな札。気を取り直して、パンを買おうとトングとトレイを取ろうとしたら。札もやっぱり、花に埋もれて。
いったい何だ、と読んでみた札。文字の周りにも花模様の縁取り。
(酒と薔薇の日々…?)
昔の映画のタイトルです、という紹介。それをもじって「パンと花の日々」。そういう企画で、「興味のある方はチラシをどうぞ」と、花の下にチラシが隠れていた。二つ折りにして。
(ほほう…?)
買う前に読んでもいいんだよな、と一枚、引っ張り出してみた。「パンと花の日々」も気になるけれども、「酒と薔薇の日々」にも心惹かれる。酒好きとしては。
ふうむ、と開いて眺めたチラシ。「酒と薔薇の日々」は、人間が地球しか知らなかった遠い昔の映画。そのタイトルにオーナーが引っ掛けたらしい、遊び心で。「パンと花の日々」と。
(映画の中身は謎なのか…)
今は失われて、タイトルしか残っていないという。「酒と薔薇の日々」と。
酒と薔薇の日々があるというなら、パンと花でもいいだろう。たまには、こういうイベントも。
(…まずはパンだな)
チラシは帰ってゆっくり読もう、とトレイとトングを手に取った。田舎パンを買おうか、焼けたばかりのバゲットもいいし、トースト用のパンだって…、と眺めてゆく棚。
何処もすっかり花だらけだなと、田舎パンの周りにも花がドッサリ咲いてるぞ、と。
選んだパンをトレイに載せて運んだレジにも、華やかな花。パン屋ではなくて花屋のように。
面白いもんだ、とパンの袋を提げて帰って、夕食の後で広げたチラシ。熱いコーヒーを淹れて、書斎の椅子にゆったり座って。
(パンと花の日々なあ…)
店では映画のタイトルとまでしか読まなかったけれど。オーナーの遊び心なのだ、と溢れる花を眺め回して、買い物を済ませて帰ったけれど。
(…毎日のパンか…)
パンは毎日食べるもの。御馳走ではなくて、普段着の食べ物なのがパン。それが無ければ、困る人は困る。朝はパンだ、と決めている人だって多い筈。
遠い昔の人間も同じ。パンが主食の地域だったら、パンが無いのは飢えるということ。食べ物が何も無いということ。…パンは命の糧なのだから。
けれども、花はそうではない。眺めて楽しむためのもの。心に余裕がある時に。
パンも無いほど飢えていたなら、誰も花など見向きもしない。花があっても、食べ物が無ければ飢えて死ぬから。花よりもパンが欲しいから。
(生きてゆくのに欠かせないパンと、心にゆとりのある時の花と…)
意外な組み合わせをお楽しみ下さい、というのが「パンと花の日々」のコンセプト。
パンを扱う店だけれども、綺麗な花たちも並べました、と。
(確かに意外性はあったんだ…)
入った時にも驚いたけれど、チラシを手にしてパンを選んでいた時。
普段とは違って見えたパンたち。ただの食パンも、田舎パンも、焼き立てのバゲットたちも。
花に彩られて並ぶパンたちは、どれもとびきり豪華に見えた。値段以上の、特別なパンに。
いつもの値段で売られているのが、不思議に思えてしまったほどに。
(こう、王様の食卓って言うのか?)
王侯貴族が食事するテーブル、其処に置かれたパンのよう。贅を尽くした料理と一緒に、黄金の皿に盛られたりして。
晩餐会などで使うテーブルは、花で飾られたらしいから。庭師が咲かせた美しい花を、惜しげもなく切って、豪華な器に生けて。
(有り余るほどの金があったら…)
テーブルだけと言わず、パンの皿にだって花を飾っただろう。招かれた客の数だけ並ぶパン皿、それを残らず花で取り巻いて。どの客の前にも、美しい花が溢れるように。
(花よりも先に、黄金の皿や銀の皿だとは思うんだが…)
遠い昔は、季節外れの花も贅沢だったという。今と違って、金持ちの特権だった温室。寒い冬に花を咲かせられる設備は、金持ちしか持っていなかった。
そんな時代なら、やった貴族もきっといた筈。「パンと花の日々」さながらの宴会を。客たちが度肝を抜かれるような、とても贅沢な冬の宴席。これだけの花を用意するには、どれだけの財産が要るのだろうと、誰もが驚く花が溢れたパン皿の周り。
屋敷の外は雪なのに。花が咲くなど信じられない、冬景色が広がっている筈なのに。
今日のパン屋は、その雰囲気を味わわせてくれたという気がする。普段着のパンまで花で飾って楽しむ贅沢、遠い昔の王侯貴族になったような気分。
オーナーも洒落たことをするな、と花だらけだった店内を思い浮かべていたら…。
(ん…?)
ふと引っ掛かった、花たちの記憶。花が溢れていたテーブル。
そういうテーブルを見たことがあった、と花が頭を掠めたから。其処で食事をしていたから。
(…結婚式か?)
友達か、それとも同僚か。披露宴の時のテーブルだったら、花で飾るのはよくあること。新婦の好みの花を飾るとか、ドレスの色に合わせてあるとか。
幾つも見て来た披露宴の席。けれど、それよりも花が凄かったように思える記憶。
テーブルに溢れ返った花たち、まるで今日見たパン屋のように。花も主役であるかのように。
(いつなんだ…?)
何処で見たんだ、と記憶の糸を手繰ってゆく。花が溢れていたのは何処だ、と。
そうしたら…。
(シャングリラか…!)
あの船だった、と蘇った記憶。前の自分が生きていた船。遠く遥かな時の彼方で。
(まさにパンと花の日々…)
宴会じゃなくて、普通の食卓に花だったんだ、と思い出したから。懐かしい思い出が時を越えて姿を現したから、浮かんだ笑み。あの船で溢れる花を見たな、と。
(ブルーに話してやるとするかな…)
パンと花の日々を。シャングリラに溢れていた花たちのことを。
幸い、明日は土曜日だから。ブルーの家へと出掛けてゆく日で、夜までゆっくり過ごせるから。
一晩眠っても、忘れなかったパンと花の日々。
いい天気だから、歩いて出掛けた。途中で入った昨日のパン屋。店中に花が溢れている中、二つ選んで買った菓子パン。ブルーの分と、自分の分と。紅茶のお供になりそうなものを。
チラシも忘れずに貰っておいた。花たちの下から引っ張り出して。
そしてブルーの家に着いたら、目ざとく袋に目を留めたブルー。それを提げて部屋に入るなり。
「ハーレイ、お土産?」
買って来てくれたの、何かお土産。…パン屋さん?
「ああ。お前のおやつに丁度いいかと思ってな」
話している間に、ブルーの母が届けてくれた紅茶と、パンを載せるための皿と。その皿にポンと置いた菓子パン。袋から「ほら」と取り出してやって。
甘い菓子パンは、紅茶にも合う。前に自分も食べているから、間違いなく。
ブルーはしげしげと菓子パンを眺めて、首を傾げた。
「このパン、ハーレイのお勧めなの?」
「もちろん美味いが…。そうじゃなくてだ、今日はこっちの方だな」
こういうイベントをやっていたから、と渡したチラシ。「俺も昨日は驚いたんだ」と。
「…パンと花の日々?」
なあに、これ?
昔の映画のタイトルの真似って…。「酒と薔薇の日々」…?
「読んでみろ、何か思い出さないか?」
酒と薔薇の日々の方とは違って、パンと花の方で。…パンと花の日々だ。
「えーっと…?」
毎日のパンで、パンと花との組み合わせ…?
ちょっと想像もつかないけれども、これがどうかしたの?
パン屋さん、いったい、どうなっていたの…?
「そりゃまあ…。凄い光景だったぞ、間違えて花屋に入ったのかと思ったくらいに」
何処もかしこも花だらけでな…。パンを並べた棚にまで花だ。
そういうの、お前、何処かで見ている筈なんだがな…?
俺は確かに見たんだが、と話してもキョトンとしているブルー。「いつの話?」と。
「…ハーレイが見てて、ぼくも見たなら、前のぼくたちのことだろうけど…」
シャングリラで花なんか飾っていたかな、パンを並べた棚なんかに…?
厨房にパン専用の棚はあったけど…。焼き上がったら並べていたけど、其処に花…?
そんな所に花を飾っても、厨房の人しか見られないじゃない。食堂からは見えないんだもの。
「お前が言うのは、パンの棚だが…。棚じゃなくって、パンの方だな」
毎日のパンで、誰もが普通に食っていたパン。食べ物ってヤツだ。
そういう普通に食べてた飯が花だらけだった、と言えば分かるか?
パンもスープも、何もかもだ。食堂中が花まみれになっていたってわけだが、思い出さんか?
「食堂中に花って…。ああ、あったっけね…!」
思い出した、と手を打ったブルー。
前のぼくが失敗したんだっけと、それで食堂に花が一杯、と。
まだ白い鯨ではなかった時代のシャングリラ。人類の船から奪った物資で皆が命を繋いでいた。食料も物資も、何もかも、前のブルーが奪って来たもの。輸送船を見付けたら、出掛けて行って。
必要な物資を切らさないよう、仲間たちが飢えてしまわないよう。
ある時、物資を奪いに出て行ったブルー。輸送船が近くを通過するという情報が入ったから。
いつもと同じに、コンテナを幾つか奪って戻って来たのだけれど…。
「なんだい、これは?」
ブラウが呆れたコンテナの中身。奪った物資を仕分けするために、コンテナを運んだ格納庫で。
「…花だらけじゃないか」
花は食えんぞ、とゼルが覗いたコンテナの奥。「何処まで行っても花のようだが」と。
ヒルマンが見ても、エラが眺めても、前の自分が覗き込んでも、ものの見事に花ばかりだった。今を盛りと咲き誇るものや、これから咲こうとするものや。
鉢に植えられた花とは違って、どれも切り花。色も種類も様々なものがコンテナに一杯。
きっと何処かの星の花屋に運ぼうとしていたのだろう。テラフォーミングの成果が芳しくない、こういった花々を育てられない星へ。
そういう星でも利用価値があれば、人類は大勢住んでいるから。資源の採掘に適しているとか、他の星への中継地点に向いているとか、理由は色々。
人間がいれば町が生まれて、町が出来れば花だって売れる。その星で花が育たないなら、余計に花を見たくなるから。
こうしてわざわざ運んで行っても、花たちは全部売れるのだろう。入荷したと聞けば、買いたい人間が詰め掛けて。アッと言う間に一つ残らず売り切れそうな、コンテナ一杯に溢れる花たち。
残念なことに、ミュウが奪ってしまったけれど。
花よりも食料や衣類などがいい、と誰もが考えるような船に運ばれてしまったけれど。
他のコンテナには食料品。当分は奪いに出掛けなくても済むだけの量の。
肉や魚や、野菜などや。乳製品だって充分あったし、食べてゆくには困らない。けれど、溢れる花たちの方は…。
「…やっぱり捨てた方がいいかな…」
捨てて来ようか、コンテナごと。…花なんか、料理したって食べられないし…。
食料は他にたっぷりあるから、花まで料理しなくても…。昔だったら、別だけれどね。
奪った食料が偏っていたって食べてた時代、とブルーがついた溜息。
アルタミラからの脱出直後は、そういう時期も確かにあった。ジャガイモだらけの食事が続いたジャガイモ地獄や、キャベツばかりのキャベツ地獄といった具合に。
けれども、今では安定している食料事情。ブルーは選んで奪って来るから、食材も物資も偏りはしない。不要だったら、捨ててしまってもいい時代。
そういう時代になっていたから、ブルーが犯した小さなミス。もう一つ、と欲を出して奪った、中身を調べなかったコンテナ。きっと食料だろうから、と。
奪って持って帰る途中で、ブルーも気付いていたという。食料ではなくて花だった、と。
とはいえ、せっかく奪った物資。捨てるかどうかは船に戻ってからでいい、と考えたらしい。
コンテナを一つ余分に運ぶくらいは、ブルーには何でもなかったから。
そうは言っても、食べられない花。食料は他に沢山あるから、花まで食べる必要はない。宇宙に捨ててしまうのならば、ブルーに任せれば一瞬で済む。瞬間移動で放り出すというだけだから。
花の処分はそれでいいか、と前の自分は考えたけれど。
ブルーも同じに、「捨てた方がいいよね」とコンテナの扉を閉めかけたけれど。
「ちょいと待ちなよ、飾るって手もあるんだからさ」
花は食べられやしないけどね、とブラウが止めた。これは飾っておくものだろう、と。
「飾るって…。でも、何処に?」
こんな船で、とブルーは周りを見回したけれど、ゼルも「そうだな」と頷いた。
「モノってヤツは考えようだ。これだけあるんだ、嫌というほど飾れるぞ」
どうせだったら、派手に飾ってやろうじゃないか。
人類どもの世界じゃ、こいつを売っているんだから。花屋に並べて、買いに来る客に。
俺たちは金を払っちゃいないが、こうして頂いちまったんだし…。
飾ったって別にかまわんだろうが、人類は食えもしない花を贅沢に飾っているんだからな。
俺たちには花を飾るような余裕はまるで無いのに、こんな風に輸送してやがる。
見ろよ、コンテナ一杯分だぞ?
贅沢なもんだ、俺たちの船とは生きてる世界が違うってな。
だったら真似をしようじゃないか、と言い出したゼル。たまには贅沢したっていいと。
わざわざ奪ったわけではないから、オマケで手に入れた花なのだから。
「花を飾ってもかまわんだろうが、ミュウの船でも」
手に入れたものを使おうってだけだ、そいつで贅沢するだけなんだし。
捨てるよりかは、うんと贅沢した方がいいと思わないか?
「私もそれに賛成だね。有効に使った方がいい」
捨てるよりも、とヒルマンがエラに視線を向けた。「どう思う?」と。
「飾るべきだわ、捨てるくらいなら。…だって、これは全部、飾る花なのよ?」
そのために運んでいるんじゃないの、とエラも花を飾りたい一人。飾るための花は、遠い昔には本当に贅沢だったんだから、と。
「花は贅沢だったのかい…?」
本当に、とブルーが訊いたら、「そうだよ」とヒルマンが即座に答えた。「ずっと昔は」と。
「エラが言った通りに、今よりもずっと昔のことだ。人間が地球しか知らなかった頃だね」
今のような輸送技術は無かった。星から星へと花を運べるような技術は。
珍しい花が欲しいのならば、自分たちで育てて咲かせるしかない時代でね…。
おまけに温室も、一部の特権階級だけの持ち物だった。
自然の花が咲かない季節に、温室で育てた花で飾るのは、もう最高の贅沢だよ。そういう設備を作れるだけの財産があって、惜しげもなく切って出せるのだからね。
「そうよ、こういう飾るための花は贅沢品だったのよ」
放っておいても咲くような花とはわけが違うの、余裕が無いと育てられないから。
それを沢山飾れる人なんて、ほんの少ししかいなかったのよ。
お金も、花の手入れをする使用人も、山ほど持ってた人間だけだわ。王様や貴族といった人間。
そういう人間になった気分で贅沢しましょ、というのがエラの提案。ヒルマンも同じ。ブラウは最初から飾ろうと考えていたし、ゼルも贅沢をしようと思っていたわけだから…。
「いいねえ、あたしたちも昔の貴族の仲間入りかい」
お城ってわけにはいかないけどねえ、こんな船だし…。普段は花も無いわけなんだし。
だけど、今なら山ほどだ。飾るべきだよ、この花はね。
捨てるだなんて、とんでもない、とブラウが改めて覗いたコンテナ。「飾らないと」と。
「そうでしょ、ブラウ? こんなチャンスは、そうそう無いわよ」
飾らなくちゃね、とても素敵に。…今の時代でも、私たちには花は贅沢なんだもの。
この船に飾っておくべきだわ、とエラも主張したし、誰も反対しなかった。花を飾ることに。
(…飾るだけなら、エネルギーを食うわけでもないし…)
花を生けておく器や水も、船にあるもので間に合うだろう。備品倉庫には器が色々、水は充分に足りている。コンテナ一杯の花を養える程度には。
「…いいだろう。ブルー、その花たちは捨てなくてもいい」
飾ろうという意見の方が多いんだ。それに反対する理由もないしな、俺の立場からは。
せっかく手に入れた花なんだから飾ってやろう、と前の自分が下した判断。
もうキャプテンになっていたから、自信を持って。船の最高責任者として、「大丈夫だ」と。
これくらいの花なら積んでおけると、宇宙に捨てる必要は無いと。
花を飾ると決まった後には、何処に飾るかが問題だけれど。小分けにして船のあちこちに飾るという意見も出たのだけれども、「食堂がいい」と言ったヒルマンとエラ。
皆が集まって食事する場所で、其処なら誰もが花を見られる。一日に三回、朝、昼、晩と食事の度に。それに広さもあるのが食堂。テーブルに飾って、他にも色々。
花が贅沢だった時代は、宴席に飾られていたというのも決め手になった。贅沢な食事は出来ないけれども、花を飾ればきっと豊かな気分になれる、と。
なにしろ、コンテナに一杯分もある色々な花たち。全部を纏めて見られる方が断然いい。分けてしまったら、どれだけあったか分からなくなるし、値打ちも減ってしまうだろう。
同じ飾るなら食堂がいい、と花たちは食堂に運ばれた。手の空いた者たちを総動員して、使える器を運んで、生けて。
「これは床だな」とか、「テーブルには、これ」と、相談したり、指図し合ったり。
次から次へと運び込まれて、生けられていったコンテナ一杯分の花。色も形も様々なものが。
薔薇やら、百合やら、カーネーションやら、ふうわりと白いカスミソウなどが。
何種類もの花を一緒に生けた器もあったし、一種類の花で纏めたものも。同じ色合いの花たちを合わせた器も、色とりどりの花を生けた器も。
前の自分や、ブルーはポカンと見ていたけれども、エラとブラウは張り切っていた。皆と一緒に生けて回って、ああだこうだと器の場所を移動させたり、入れ替えたりと。
ヒルマンも皆を指図していたし、ゼルは花たちの運搬係。「まだまだあるぞ」と、「これも」と次々にコンテナの中から運び出して。「次はこいつだ」とドカンと置いて。
そんなわけで、見事に飾り立てられた食堂。テーブルには幾つも花が生けられた器が置かれて、テーブルの無い床にも花が入った器。歩くのに邪魔にならない場所に。
食堂一杯に溢れた花たち。香りも彩りも実に様々、それに囲まれての食事の時間。誰もが豊かな気分になった。ただ花があるというだけで。普段は見られない花が溢れているだけで。
いつもと変わらない普通の食事で、いつものパンが出て来ても。
御馳走ではない料理を作っている者たちも、食堂の雰囲気を楽しんでいた。料理を味わう仲間の表情、それが素敵なものだから。まるで御馳走を食べているように、賑やかな声が飛び交うから。
「花があるだけで違うもんだな、食事ってヤツは」
いつものパンの筈なんだがなあ、ずっと美味いって気がするんだよな。
それに料理も、こう、輝いて見えるって言うか…。照明、変えていないのにな。
「まったくだ。同じスープを飲むにしたって…」
テーブルだけしか無いっていうのと、花があるのとでは違うよなあ…。
どっちを見たって花が咲いてて、あっちとこっちで違う花だろ?
ついつい余所見をしながらスープを飲んでるわけだが、こいつが美味い。花のせいだな。
花は食えない筈なんだがなあ、こんなに飯が美味いとは…。
いつまでも咲いててくれればいいがな、萎れて枯れてしまわないで。
皆に喜ばれた、食堂を飾った沢山の花。前のブルーが間違えて奪ってしまった花。
危うく宇宙に捨てられる所だった花たち、ゼルやブラウが止めなければ。ヒルマンとエラが花の歴史を知らなかったら。…遠い昔は花は贅沢なものだった、と。
飾る場所を食堂にしたのも良かった。
食卓を彩る花たちは其処に集まる皆に愛され、散るのを惜しまれ、まめに世話をされて…。
「ハーレイ、あの花…。最後までみんなが見てたんだっけね」
一番最後まで頑張って咲いてた花が駄目になるまで、船のみんなが。
毎日、毎日、花を楽しみにして食堂に来て。
「エラたちが、きちんと生け替えてたしな」
この花はもう萎れちまった、というヤツはどけて、元気な花を纏めて生け直して。
茎が弱って駄目になっても、花だけを水に浮かべてやって、生き生きと咲かせておくとかな。
頑張ってたよな、と今も思い出せる、エラたちの努力。花の命を伸ばしてやるための工夫。
今から思えば、フラワーアレンジメントというものだった。きっと調べていたのだろう。船とは縁の無い花だけれども、手に入れたからには生かそうと。
美しく生けて、飾って、愛でて。…最後の一輪まで、無駄にはすまいと。
大切にされた花たちだけれど、造花ではなくて本物の花。いつか命は終わってしまう。花びらの色が褪せていったり、少しずつ萎れていったりして。
そうして食堂から消えた花たち。一輪、また一輪と数が減っていって、最後の花も。
見られなくなってしまった花の最期を誰もが惜しんだ。もっとゆっくり見ていたかった、と。
「またあるといいな、コンテナ一杯の花ってヤツが」
リーダーのミスだっていう話なんだが、もう一度やってくれたらいいな、と思わないか?
ミスでもなければ花なんて無いし、あれだけの量は無理だしなあ…。
「ああいうミスなら大歓迎だ。山ほどの花を見られるならな」
食堂に花が溢れるんなら、ミスも大いに歓迎ってトコだ。物資が少々、足りなくてもな。
そのくらいのことは我慢するさ、と船の仲間たちは言ったのだけれど。
また花がドッサリ来てくれないかと待ったのだけれど、ブルーはミスをしなかったから、二度と無かった花で溢れていた食堂。豊かな気分になれた食堂。
いつもと変わらないメニューだったのに、御馳走に思えた素敵な場所。
パンも料理も、スープも美味しく変えてしまった、食堂を飾っていた花たち。
それから長い時が流れて、シャングリラは白い鯨になった。自給自足で生きてゆく船、幾つもの公園を備えた船に。巨大な白い鯨の中では、色々な花が咲いたけれども…。
「…俺たちがシャングリラで育てていた花、どれも綺麗に咲いてたんだが…」
色々な花が咲いたもんだが、あの時みたいな贅沢ってヤツは、二度と出来ないままだったな。
船で咲いた花を端から集めて、食堂を飾り立てるのは。
「…無かったっけね、そんなの、一度も…」
シャングリラの花は、咲いているのを公園で眺めるものだったから…。
摘んでもいいのはクローバーとか、スミレとか…。スズランだって、摘んでいい日は一日だけ。五月一日だけは摘んでいいけど、他の日は駄目だったんだから。
薔薇とか百合とか、大きくて目立つ綺麗な花だと、ホントに其処で見ているだけ。
そうでなければ、ちょっとだけ切って、花瓶とかに生けるのが精一杯だよ。
…パンと花の日々、二度と無かったね。
あの時は、そういうお洒落な名前は無かったけれども、パンと花の日々。
「そのままだよなあ、あれは本当にパンと花の日々というヤツだったんだ」
毎日食べてるパンが美味くなる、実に素敵な魔法だったが…。
俺もすっかり忘れていたなあ、昨日、パン屋に入った時も。
俺は花屋に来ちまったのか、と見回していても、あそこじゃ頭に浮かばなかった。
前の俺たち、あれと全く同じことをやっていたのにな…。
やり始めた理由も、意味も違うが、パンと花の日々。
最高に美味い飯を食っていたんだ、食堂に花が山ほど溢れていたお蔭でな。
今の自分は忘れてしまっていたのだけれども、パンと花の日々は確かにあった。白くはなかった頃のシャングリラで、楽園という名を持っていた船で。
懐かしくそれを思い出していたら、「ねえ」とブルーに問われたこと。
「…トォニィ、やってくれたかな?」
パンと花の日々、シャングリラでやってくれたと思う?
平和な時代になってたんだし、コンテナ一杯の花も買えるよ。奪わなくても、お金を払って。
あちこちの星を回っていたなら、お金、沢山あっただろうし…。
その気になったら、食堂一杯の花だって。…食堂、ずっと大きくなってたけれど。
「花を買うだけの金は充分、あったんだろうが…」
パンと花の日々、お前の記憶に入ってたのか?
ジョミーに残した記憶装置だ、あれにきちんと入れてあったか、あの時の記憶…?
「…入れていないよ、ずっと昔のことだったもの」
それに失敗した話だから、残しておいても役に立たない記憶でしょ?
ジョミーが見たって、花が一杯溢れてるな、って思うだけだよ。
あんな風に食堂を花で飾らなくても、美味しい食事が出来る時代になっていたしね。
合成品とか代用品を使う料理もあったけれども、シャングリラの食事は美味しかったもの。
「なら、無理だろ。…トォニィが気付くわけがない」
お前がソルジャーでさえもなかった頃にだ、食堂を花で飾り立てたことがあっただなんて。
俺も航宙日誌には書いてないしな、あの時のことは。
お前が失敗しちまったんだし、書き残すのはどうかと思って書かずにおいたんだ。
みんながどんなに喜んでいても、元はお前のミスなんだから。
だからトォニィがやるわけがない、と思うけれども、平和になった船だったから。
前の自分がいなくなった後に、白いシャングリラに花は溢れたと思いたい。
広い食堂を花で埋め尽くす「パンと花の日々」は無くても、船の中には沢山の花。誰もが好きに切って飾れて、それを愛でられる船になってくれていたなら、と。
シャングリラはもう無いけれど。…前の自分が好きだった船は、ブルーと共に暮らした船は。
前のブルーを失くした後には、辛かった白いシャングリラ。
どうしてブルーは此処にいないのかと、自分だけが生きているのかと。
前の自分が失くしたブルーは、生まれ変わって帰って来てくれたけれど。土産に買って来た甘い菓子パン、それを「美味しい」と喜ぶ小さなブルーになって。
「ハーレイ、お土産のパン、美味しかったから…」
前のぼくたちのことも思い出したから、いつか二人でやってみたいね。あの時みたいに。
「やってみたいって…。パンと花の日々か?」
俺がパンを買って来た店のヤツとは違って、お前と暮らす家でってか?
「…駄目?」
花で一杯のテーブルだけでもかまわないから。
床にまで置こうって欲張らないから、テーブルの上に花を沢山。
置く場所がもう残ってないよ、って思うくらいに、お皿とかの無い場所は花だらけで。
「お前がやってみたいのならな」
あれをもう一度、と言うんだったら、いいだろう。
今度はお前のミスじゃなくって、俺が金を出して花を買い込む、と。
お前は店で端から選べ。「この花がいい」とか、「こっちも」だとか。薔薇でも何でも、お前の好きな花を端から選んじまっていいから。…予算なんかは気にしていないで、好きなだけな。
いつかブルーと暮らし始めたら、望みを叶えてやるのもいい。遠い昔にシャングリラでやった、パンと花の日々をもう一度。
毎日のパンや食卓だからこそ、贅沢に。あの時のように、花一杯に。
華やかにテーブルを飾ってみようか、ブルーが選んだ沢山の花で。置き場所がもう無いほどに。
けれど、同じに花で飾るなら…。
「…俺としては、お前を飾りたいがな」
パンと花の日々もいいがだ、同じ飾るなら、お前がいい。…そう思うんだが。
「え?」
ぼくって…。ぼくを飾るの、いったい何で飾るつもりなの?
「花に決まっているだろうが。…今はそういう話なんだぞ、パンと花の日々」
お前には花が映えそうだ。パンやテーブルよりも遥かに、飾る値打ちがありそうだがな?
「花で飾るって…。ぼく、男だよ?」
女の人なら分かるけれども、ぼくを飾ってどうするの。…男なのに。
「お前、薔薇の花、似合うだろうが」
前のお前は、そういう評判だったしな?
薔薇の花と薔薇のジャムが似合うと、そういう綺麗なソルジャーだと。
だから今でも似合う筈だぞ、前と同じに育ったら。
綺麗な薔薇の花を山のように買って、お前を飾れたら幸せだろうな。
まさしく酒と薔薇の日々だ、とブルーに向かって微笑み掛けた。
酒も好きだが、お前と薔薇の日々がいいな、と。
それが最高だと、俺にとっての「酒と薔薇の日々」ってヤツだ、と。
「酒を片手に薔薇を見るより、お前の方がいいからなあ…」
お前を綺麗な薔薇で飾って、俺の隣に座らせておく、と。…酒は無しでも、お前に酔える。
パンと花の日々より、酒と薔薇の日々。
今の俺なら、間違いなくそれだ。酒じゃなくてだ、お前なんだが…。俺を酔わせる美味い酒は。
「酒と薔薇の日々…。ハーレイもお酒、大好きだけど…」
その映画、どんなお話だったんだろうね?
お酒を薔薇で飾るのかなあ、瓶とか、お酒のグラスとかを。
「さあなあ…?」
とんと謎だな、タイトルしか残っていないんだから。
知りたくなっても誰も知らんし、データは何処にも無いんだし…。
そいつが少し残念ではあるな、お前を飾って酒と薔薇の日々が出来るんだから。
今は失われた、遠い昔の映画の中身。
それを惜しいと思うけれども、いつかは酒と薔薇の日々。ブルーと薔薇の日々が来る。
パンと花の日々を味わった筈の前の自分には、最後まで出来なかった贅沢。
前のブルーは、自分だけのものにならなかったから。
最後までソルジャーのままで逝ってしまって、失くしてしまった恋人だから。
けれど、今度の自分は違う。
帰って来てくれた小さなブルーは、いつか自分のものになるから。
今度こそ自分だけのブルーになってくれるのだから、その時は酒と薔薇の日々。
ブルーが望むなら、パンと花の日々も。
食卓を溢れるほどの花で飾って、ブルーを綺麗な薔薇で美しく飾り立てて…。
パンと花の日々・了
※リーダーだった頃の、前のブルーの失敗。切り花が詰まったコンテナを奪ったのですが…。
捨てるよりも飾った方がいい、と床まで花で埋もれた食堂。たった一度きりの、最高の贅沢。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(とっても綺麗…)
見に行きたいな、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
「光の遊園地」という見出しと写真。夜の遊園地を捉えた幾つもの写真は、どれも光に彩られた世界。まるで煌めく宝石箱。様々な色のイルミネーション、遊具にも、木々の枝にも光。
夏に比べれば、夜のお客が減る季節。日は長くないし、冷える夜だってあるのだから。
そういう季節も客を呼ぼうと、夜になったらライトアップ。観覧車はもちろん、遊園地へと続く並木道だって。光で出来た遊園地。その入口へと向かう道から、光の世界が始まる仕掛け。
(…シャングリラだって…)
大人にも人気の、白いシャングリラを象った遊具。それも綺麗な青い光を纏って、宇宙に浮かぶ地球に照らされているかのよう。青く輝く水の星に。
(地球の青かな…?)
それとも、タイプ・ブルーのサイオンカラーをイメージしたか。
白いシャングリラは遠い昔のミュウの箱舟、今も語られる伝説の船。それを導いたソルジャーは全て、もれなくタイプ・ブルー。
初代だった前の自分も、地球まで行ったジョミーもそう。最後のソルジャーのトォニィだって。
(タイプ・ブルーか、地球の青か、どっち…?)
自分の好みで決めていいなら、断然、青い地球なのだけれど。
前の自分が焦がれ続けて、見られずに終わってしまった星。あの時代にはまだ、青い地球は夢の星だったのに。蘇ってはいなかったのに。
(…前のぼく、知らなかったから…)
青い星だと信じて夢見た。その地球の上に、生まれ変わって来たのが自分。残念なことに、青い地球はまだ見られていない。宇宙旅行をしたことが無いから。
それでも青い地球は好きだから、シャングリラを彩る青い光は地球の青。その方が好き。
前の自分のサイオンカラーで照らされるよりは、地球の青の方がきっと似合うと思うから。
地球の青だよ、と勝手に決めたら、今度は気になる他の写真たち。昼間とは違う姿に変わった、光で出来た遊園地。夜の闇の中にぽっかり浮かんだ、夢の世界のように見えるから…。
(ハーレイと行ってみたいな、これ…)
そんな気持ちがこみ上げてくる。二人で行けたら素敵だろうと、光の中を歩いてみたいと。
「綺麗だよね」と見回しながら。無数の煌めきに照らされながら。
けれど、ハーレイには頼むだけ無駄。
きっとこう言うに決まっているから、「それはデートだ」と。夜の遊園地に二人で行くなんて。二人きりで夜の外出なんて。
(ハーレイ、絶対、断るんだよ…)
「駄目だ」と睨む顔つきまでが、頭の中に浮かんで来るけれど。声も言葉も浮かぶのだけれど。
光が溢れる遊園地には、両親と行ってもつまらない。幼い頃なら、それで良かったけれど。
(パパやママと一緒に行ったって…)
この年になって、両親とはしゃぎ回れはしない。「次はあっち!」と手を引っ張って。
友達と行く手もあるのだけれども、どうせ行くならハーレイがいい。
ハーレイだったら、何もかも分かってくれるから。
白いシャングリラを煌めかせている青、それを「地球の青だよ」と言いたがる理由も、白い船で暮らした前の自分も。
そういう話はしないにしたって、ハーレイとだったら、きっと楽しい。
夢の世界にも思える光の遊園地。其処を一緒に歩いたら。幾つもの光を見上げられたら。
おやつを食べ終えて部屋に戻っても、頭を離れない遊園地。夜になったら綺麗なんだ、と。光に包み込まれるから。幻想的な夢の世界に変わるから。
もしもハーレイと出掛けられたら、観覧車に乗ってみたいと思う。シャングリラよりも。
(上から見たら、きっと凄いよ)
遊園地を全部、見渡せるのが観覧車。ゆっくりと高く昇ってゆくから、どんどん広がる窓の外の景色。最初は乗り場の近くだけしか見えないけれども、一番上まで上がったら…。
(…光の遊園地を、全部、丸ごと…)
目に出来るのだし、観覧車が一番いい乗り物。光の遊園地に行くのなら。
(みんな、おんなじことを考えそうだし…)
長い行列が出来ているかもしれないけれども、行列したって乗る価値がある観覧車。光の世界を全部見られるなら、夢の世界を眺められるなら。
その観覧車もイルミネーションで光っているから、並んでいる間も退屈しない筈。次から次へと色が変わるのが、観覧車だと書いてあったから。花火みたいに華やかに点滅してみたり。
(…夢みたいだよね…)
色とりどりに輝く観覧車。行列しながらそれを眺めて、順番が来たら乗り込んで。
ゴンドラがゆっくり昇り始めたら、窓の外は煌めく光の洪水。宝石箱の中身を広げたように。
とても素敵な夢の世界で、光で出来た遊園地。
今の小さな自分にとっては、本当に夢物語だけれど。
ハーレイとそれを見に行きたくても、連れて行っては貰えないけれど。
でも行きたい、と心から消えない遊園地。昼間ではなくて、夜だけの光の遊園地。
(駄目で元々…)
ハーレイに「行きたい」と強請ってみようか、もしも訪ねて来てくれたなら。仕事の帰りに来てくれたならば、断られるのは承知の上で。
仕事の終わりが遅くなったら、来てはくれないのがハーレイ。「遅い時間でも大丈夫ですよ」と母が言っても、父が「どうぞ御遠慮なく」と何度言っても。
夕食の支度に間に合う時間を過ぎてしまったら、ハーレイは来ない。今日がどうなるかは、まだ分からない。来なかったならば、最初から脈無し。頼みたくても会えないのだから。
(来てくれたら、ちょっとは…)
お願いを聞いて貰える可能性があるかも、と考えてみる。もしかしたら、と。
そんな夢など叶うわけがないのに、欲張りな夢。ハーレイと二人で夜の遊園地に出掛けること。
「来てくれないかな」と、「来たら頼んでみるんだけどな」と夢を描く内に聞こえたチャイム。窓に駆け寄って見下ろしてみたら、門扉の向こうにハーレイの姿。
やった、と躍り上がった心。これで頼めると、お願いしようと。
母が案内して来たハーレイ、いつものようにテーブルを挟んで二人で座った。向かい合わせで。胸を高鳴らせて、声にした夢。
「あのね、遊園地に行きたいんだけど…」
今日の新聞に載っていたから、急に行きたくなっちゃって…。駄目?
「ほほう…。遊園地か、いいんじゃないか?」
お前くらいのチビが好きそうな場所だしな。行けばいいだろう、今度の土曜日にでも。
俺はその日は来ないことにするから、お前の好きにするといい。誰と行くのかは知らんがな。
「そうじゃなくって…!」
遊園地には行きたいけれども、一緒に行きたい人が決まっているんだよ。別の人じゃ駄目。
ハーレイと一緒に行きたいんだから、と正直に言ったら、案の定…。
「どうしてデートに行かねばならん」
お前とデートはしないと何度も言った筈だが、とハーレイの眉間に寄せられた皺。そのくらい、分かっているだろうに、と。
「分かってるけど…。でも、シャングリラが綺麗なんだよ!」
「はあ?」
シャングリラが綺麗って、どういう意味だ?
それがどうしてデートになるんだ、俺と一緒に遊園地に行きたいと言い出すなんて。
「…えっとね、夜の遊園地…。昼間とは別になるんだよ」
ライトアップで、イルミネーションが一杯で…。
光の遊園地に変わるんだって、夜になったら。それがとっても素敵なんだよ、本当に。
写真が幾つも載っていたから、と説明した。光の遊園地は昼の姿とは全く違う、と。中でも青く輝く白いシャングリラ。それが綺麗と、あの青はきっと地球の青だ、と。
「タイプ・ブルーの青じゃなくって、地球の青だよ。きっとそうだよ」
本物のシャングリラは、地球が青くなる前に消えちゃったけど…。
青く照らすなら地球の青だよ、ハーレイだったら分かってくれるでしょ?
ぼくが「地球の青だ」って言う理由。…タイプ・ブルーの青じゃないよ、って。
「もちろん、分かるが…。お前は地球に行きたがっていたしな、あの船で」
本物の地球は青くなかったが、それでも地球の青が似合うと言いたいんだろう?
前のお前やジョミーたちのサイオンの青よりは、ずっと。
…それで、そいつを見たいだけなのか?
地球の青を纏ったシャングリラってヤツを、遊園地まで見に行きたいと…?
「それも見たいけど、観覧車にも乗りたいな」
上から見たら、きっと素敵で凄いから。遊園地が全部見えるんだもの、光が一杯。
ゆっくり上まで上がって行く時も、降りて行く時も、窓の外、夢の世界でしょ…?
「断固、断る」
お前の気持ちは分からんでもないが、お母さんたちと行って来い。
でなきゃ、友達、誘うんだな。大勢いるだろ、一人くらいは行ってくれるさ。
「それじゃ、つまらないよ!」
さっきも言ったよ、行きたい人は決まってる、って。別の人と行くんじゃ駄目なんだ、って…!
ハーレイと一緒に行きたいんだよ、と訴えた。
光の遊園地に出掛けてゆくのも、シャングリラを眺めて観覧車に乗るのもハーレイと一緒、と。
「ハーレイ、分かってくれたじゃない。どうして地球の青なのか、って」
シャングリラを綺麗に光らせてる青、タイプ・ブルーの青じゃないんだってこと。
分かってくれるの、ハーレイだけだよ。…だからハーレイと一緒に行きたいんだよ。
それでも駄目なの、パパやママや友達と行けって言うの…?
「お前なあ…。俺と一緒に遊園地って…。しかも夜に、って…」
そういうのは、もっと大きく育ってから俺に言うんだな。
デートに行けるようになるまで待て。そういう歳になるまでな。
「…やっぱり、そう?」
例外ってわけにはいかないの?
いくらシャングリラが綺麗でも…。夜の遊園地を観覧車に乗って、見てみたくても。
「当たり前だろうが!」
チビのお前とデートはしない。例外は無しだ。
その上、俺と観覧車に乗りたいだなんて…。ますますもってお断りだな、そいつはな。
観覧車はデートの定番なんだ、と睨まれた。「チビのお前は知らないだろうが」と。
「その手のヤツらは、昼間はそれほどいないからなあ…」
子供の客の方がずっと多いから、まるで目立たないと言うべきか。
ところが、夜になったらカップルがグンと増えるんだ。二人一緒にアレに乗ろうと。
ゴンドラに乗ったら二人きりだし、外は夜だから、ロマンチックな雰囲気になるし…。
観覧車でプロポーズするヤツもいるくらいだぞ。二人きりの世界なんだから。
「…プロポーズ?」
あんな所でプロポーズするの、どうやって…?
「そいつはアイデア次第ってトコか…」
定番中の定番だったら、もちろん指輪だ。「結婚して欲しい」と取り出してな。
「それじゃ、いつかハーレイも、ぼくにプロポーズをしてくれる?」
二人一緒に観覧車に乗ったら、プロポーズ。
指輪なんかはどうでもいいから、プロポーズして欲しいんだけど…。
「観覧車って…。お前、そんな場所でもかまわないのか?」
アレはグルグル回ってるんだぞ、いくらゆっくりでも地上に着いたら降ろされちまう。
まるで時間が足りないじゃないか、プロポーズの後の余韻ってヤツが。
もっとプロポーズに似合いの場所なら、色々あるのに…。個室のある洒落たレストランだとか、夜景の綺麗な公園だとか。
そういう場所を選んでおいたら、「思い出の場所だ」と記念日の度に行けるんだが…。
出掛けてゆっくり食事するとか、同じベンチに座るだとか。
しかし、観覧車じゃそうはいかんぞ。思い出のゴンドラに乗れたとしたって、一周しちまったら降りるしかないし。…もう一周、って続きに乗るのは無理なんだから。
「んーと…」
そうだね、観覧車だったら、そうなっちゃうね…。一周したら時間はおしまい…。
プロポーズされても、持ち時間が少ないらしい所が観覧車。レストランや公園とは違った場所。次のお客が待っているから、それに乗ろうと。ズラリと並んで列を作って。
クルリとゆっくり一周したなら、「降りて下さい」と開けられてしまうゴンドラの扉。どんなに二人で乗っていたくても、一周して降りて来たならば。
其処でのプロポーズはどうだろう、と考えたけれど。制限時間つきのゴンドラ、観覧車の上でのプロポーズは嬉しくないだろうか、と自分に尋ねてみたけれど。
(…降りて終わりでも、かまわないよね?)
記念日のデートに、同じゴンドラに乗れなくても。思い出の場所に出掛けて行っても、クルリと回って地上に戻ればそれでおしまい、制限時間つきのデートでも。
(…プロポーズして貰えるってことが大切なんだし…)
何処でもいいや、と返った答え。それをそのまま口にした。
「プロポーズの場所なら、何処でもいいよ」
一周して来たら、降ろされてしまう観覧車でも。…記念日にデートしようとしたって、思い出の場所には、観覧車が一周する間だけしかいられなくても。
何処だっていいよ、ハーレイがプロポーズしてくれるなら。
レストランどころか街角でだって、ぼくはちっとも気にしないから。…もう最高に幸せだから。
「プロポーズの場所、こだわらないのか…」
ロマンチックな場所がいいとか、雰囲気のいい店だとか。…普通、こだわるもんだがな?
「他の人たちはどうか知らないけど、こだわると思う?」
ぼくがこだわると思っているの、プロポーズの場所や雰囲気とかに?
「…結婚出来ればいいんだったな、お前の場合は」
俺と一緒に暮らすのが夢で、目標ってヤツもそれだっけか…。
「そうだよ、だからプロポーズだけで充分なんだよ」
結婚しよう、って言ってくれるんでしょ、それで充分。指輪も何にも要らないんだから。
観覧車でもいいんだけれども、ホントに何処でもいいんだよ。
遊園地でなくても、レストランでも公園でもなくて、歩いてただけの街角でも。
何処でもプロポーズは出来るんだから、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。
だから遊園地に連れて行ってと、夜の遊園地に行きたいからと。
「…光の遊園地、見に行きたいよ…。シャングリラを見て、観覧車だって…」
プロポーズは何処でもかまわないんだし、観覧車がそういう場所だっていうのは抜きにして。
地球の青色に光るシャングリラ、二人で見ようよ。…観覧車からも、きっと見えるよ。
「遊園地なあ…。しかも夜にな」
今は駄目だな、まだプロポーズをしてやれないのと同じだ、同じ。
二人きりで夜の遊園地なんて、立派にデートなんだから。…昼の遊園地でも同じだぞ?
お前と二人で出掛けちまったら、それはデートになっちまうってな。
「…夜の遊園地、ハーレイと一緒に行きたいのに…」
シャングリラ、とっても綺麗なのに。あれって絶対、地球の青だよ。その青なんだよ。
それに遊園地も、夢みたいに綺麗なんだもの。ハーレイと二人で見に行きたいよ…。
「…お前、前にも言わなかったか?」
「えっ?」
何を、とキョトンと目を見開いたら、ハーレイは「いや…」と顎に手をやって。
「とても綺麗だから見に行きたい、っていうヤツだ」
前にも俺に言っていないか、そういうことを。…一緒に行こうと。
「ライトアップの記事は初めて見たよ?」
今日の新聞を読むまで全然知らなかったし…。遊園地の広告、見ていないから。
「だろうな、俺もお前の口から、そいつを聞くのは初めてだ」
やってるってことは知ってたが…。始まる前にも何かでチラッと目にしたからな。
しかし、確かに聞いたような気が…。
お前が行きたいと強請っていた気がするんだがなあ、今日みたいに。
綺麗で、おまけに遊園地で…、と記憶を探っているらしいハーレイ。
けれども、自分もその記憶は無い。遊園地に行きたいと強請ったことなら、あったとしても…。
(…綺麗だから、って場所じゃないよね、遊園地は?)
楽しそうだとか、あれで遊んでみたいとか。そういう理由で誘う所で、綺麗だからと強請るのは今日が初めての筈。きっとハーレイの記憶違いだと考えたのに…。
「そうだ、お前が言ったんだ。…もっとも、あれは今の遊園地ではなくてだな…」
前のお前だ、行きたいと俺に言い出したのは。
「…前のぼく?」
ぼくが言ったの、前のハーレイに?
「ああ。今の遊園地とはまるで違うが、それでも光の遊園地だった」
そんな名前で呼ばれていたのか、違ったのかは覚えていないが。
とにかく光に照らし出された遊園地。太陽じゃなくて、夜に人工の明かりでな。
「光の遊園地って…。そんなの、何処で?」
何処にあったの、その遊園地?
「アルテメシアに決まっているだろう。…人間が暮らしている星は、あそこだけだった」
前のお前が生きてた間に、シャングリラが旅した星の中では。
あそこにあった、アタラクシアの遊園地だ。前のお前が俺と一緒に行きたがった光の遊園地は。
「アタラクシアの遊園地って…」
なんで、そんな所?
どうしてハーレイと行きたがるわけ、光の遊園地をやってるから、って…。
「覚えていないか、お前、救助班のために下見に出掛けて…」
船から思念で見ているよりも、と身体ごと出掛けて行っちまって。
ついでだから、と夜まで観察していた間に、ライトアップに出くわしたんだが…?
「…思い出した…!」
あったんだっけね、そういうのが。…前のぼくが見た、光の遊園地。
昼間とはすっかり違う姿の、光で出来てた遊園地が…。
雲海の星、アルテメシア。シャングリラが長く潜んだ星。
子供たちを育てる育英都市があった、人工の海を持った惑星。育英都市はアタラクシアと、もう一つ。同じ惑星の上に、エネルゲイアという都市も。
前の自分が探りに出たのは、アタラクシアの方の遊園地だった。子供のための育英都市。それに遊園地、だから閉園時間も早い。今の時代の遊園地よりは。
けれども、夜の遊園地も人気。闇が降りる夜ならではの光の演出、イルミネーション。
前の自分はそれを目にした。サイオンで姿を隠してしまって、明るい頃から隠れ続けて、夕闇が辺りを覆った後に。
一つ、二つと灯り始めていた明かり。日暮れと共に。足元が暗くならないように。
そういうものか、と眺めていたら、一斉に点いたイルミネーション。揃って咲いた光の花たち。色とりどりに、煌びやかに。それは華やかに、辺り一面に。
俄かに明るくなった園内。夜空の星たちを全て集めて、地上に持って来たかのように。
(とても綺麗で…)
遊園地は、まるで夢の国。お伽話の世界さながら。
輝くお城や、観覧車などや、あちこちに続く並木道。全てが光の煌めきの中。
それを見ていたら、闇はこの世に無いかのよう。
ミュウと知れたら殺される世界、この遊園地でも処分された子供はいたというのに。
同じ轍を二度と踏まないようにと、こうして自分が降りて来たのに。
(光って…)
なんと美しいものなのだろう、と光の遊園地に酔いしれた自分。
ミュウが人知れず処分される世界、それは何処にも無いように見える。暗い闇を抱えた、機械が支配している世界。そんな世界は存在しない。この遊園地だけを見ていたら。
無数の光は夜の闇さえ明るく照らして、希望の光そのもののよう。
こんな世界に住んでいたなら、争いも何もかも、光に溶けて消えてゆきそう。
光は闇を照らし出すから。闇を払って、美しく輝き続けるから。
閉園時間が訪れた後も、イルミネーションはまだ消されなかった。来ていた客たち、彼らが全て家路につくまで。遊園地を離れて帰ってゆくまで、彼らの行く手を照らすかのように。
一時間ほどは、そのまま灯っていたろうか。誰一人いなくなってしまっても。警備の者しか歩く姿が無くなってからも、夢の世界を守るかのように輝いていたイルミネーション。
それにすっかり魅せられたから、船に帰って提案した。長老たちが集まる会議の席で。
白いシャングリラの中の公園、其処でもあれが出来ないだろうか、と。ブリッジが見える、船で一番大きな公園。幾つもの明かりを飾り付けてやって、夜になったらそれを灯して。
「いいと思うんだよ、きっと希望が見えるだろうから」
光にはそういう力があるんだ、と遊園地を見ていて分かったからね。あれは凄いよ。
この船でも毎晩やるようにしたら、希望が見えると思わないかい?
「公園を光で飾り立てるじゃと?」
エネルギーの無駄じゃ、とゼルが放った一言。「そんなものには何の意味も無いわい」と。
「そうだよ、それに…。子供たちに夜更かしは勧められないね」
公園なんかに来てるよりかは、寝るべきだよ。どうだい、ヒルマン?
あたしは間違っていないと思うけどね、とブラウも賛成しなかった。ヒルマンもエラも。
「でも…。あれは希望の光なんだよ」
少なくとも、ぼくにはそう見えた。夢も、希望も、あそこで見たよ。
昼の間は、ただの遊園地だと思っていたのに、夜になったら別の世界に変わったから…。
すっかり暗くなっていたのに、光り輝く夢の世界で…。この世界はとても素敵なんだ、と。
「何処に希望があると言うんじゃ、この船の先の!」
希望の光どころではないわ、とゼルは首を縦に振ってはくれない。機関長の彼に反対されたら、回して貰えないエネルギー。公園を彩る沢山の明かりを灯したくても。
「今は確かにそうかもしれない。でも、夢は大切なものだから…」
希望が駄目なら、今は夢でいい。その夢を船で見て欲しいから…。夢の世界を見て欲しいから。
「夢にしてもじゃ、実現可能な夢がいいんじゃ」
わしらでも手が届く程度の、現実的な夢を見るのが今は似合いというものじゃ。
大きすぎる夢を持ってしまったら、叶わなかった時が辛いだけじゃぞ。
現に出番が無いじゃろうが、と槍玉に挙げられた展望室。いつか其処から青い地球を、と夢見て皆が望んだ部屋。
ガラス張りの展望室の向こうに、青い地球は今も見られないまま。それどころか、雲に覆われたままのガラス窓。いつ入っても雲しか見えない、青い地球を見ようと作られた部屋。
あれと同じじゃ、と切って捨てられたイルミネーション。
人類の真似などしなくてもいいと、この船にそれは要らない、と。
誰も賛成しなかったけれど、美しかった光の国。アタラクシアで見た光の遊園地。その煌めきが忘れられなくて、心から消えてくれなくて…。
その夜、ハーレイが青の間にやって来た時に、ポツリと零した。会議の席では、反対意見を皆と唱えていたキャプテンに。…前の自分が恋した人に。
「やっぱり駄目かな…」
ぼくの考え、誰も分かってくれなかったけれど…。君も同じで、駄目だったけれど…。
「ブルー…?」
今日の会議のことですか?
シャングリラの公園を光で飾るという件でしたら、私も賛成いたしかねますが…。
船のエネルギーには余裕があります。ですが、そういう飾りには意味が無さそうですから。
「…見ていないからだよ、あの遊園地を」
光で出来た遊園地をね。本当に夢の世界だったよ、闇も影も入り込む余地なんか無い。
君もあれを見れば変わると思うよ、意見がね。夢も希望も必要なんだと、作り出せると。光さえあれば、気分だけでも。…この世界には夢も希望もある、とね。
本物を見に、一緒に行ければいいんだけれど…。そうすれば分かって貰えそうなのに…。
そうだ、ぼくと行こう。アタラクシアまで、あの遊園地を眺めにね。
視察ということにすればいいだろう。君が人類に見付からないよう、ぼくが姿を隠すから。
「…そのお気持ちは分かりますが…」
私は船を離れられません。たとえ視察でも、私はキャプテンなのですから。
他の仲間たちは、地上に降りられないミュウの箱舟。ミュウの子供たちの救出に向かう、救助班所属の者以外は。どんなに地面を踏んでみたくても、けして許されることはない。危険だから。
誰一人として自由に降りられない船、それをキャプテンが降りるわけには、と断られた。まして遊園地の視察などでは、と。
ハーレイの意見を変えられないなら、公園をイルミネーションで飾るのは無理。
本当に綺麗だったのに。光の遊園地は夢の世界で、とても美しかったのに。
(…シャングリラでは無理なんだ…)
希望が見えない船なんだから、と項垂れていたら、手を握られた。褐色の手で、ギュッと。
「…今は無理ですが、あなたがそれほど仰るのなら…」
それならば、いつか…。ご一緒しましょう、その遊園地へ。
「え…?」
いつか、って…。君が、ぼくと一緒に?
「ええ。…この船に、希望が見える時が来たら。今は見えない希望の光が」
皆の心にも余裕が出来たら、それを一緒に見に行きましょう。…皆には視察ということにして。
あなたが魅せられた光の世界がどれほどのものか、この船でやるだけの価値があるかを。
「本当かい?」
来てくれるのかい、ぼくと一緒に遊園地まで?
昼間から潜んで、日が暮れて辺り一面が輝き出すまで、アタラクシアに…?
「はい。…いつになるかは分かりませんが…」
お約束しますよ、あなたの夢を私も見に行くことを。
地球の座標が手に入る頃になるのでしょうか、皆にも希望の光が見える時代と言うのなら。
「…その頃にもやっているかな、あれを?」
あの遊園地で続いているかな、夜になったら一面に光を灯して綺麗に照らし出すこと…。
「やっていますよ、その頃も、きっと」
人類の世界は、そうそう変わりはしませんから。…子供たちを育てるための都市では。
ですから、いつか…、とハーレイが約束してくれたこと。アタラクシアまで、二人で行こうと。夜になったら光り輝く遊園地を見に。美しく煌めく夢の世界を眺めるために。
けれど、行けずに終わってしまった。
希望の光を掴むよりも先に、前の自分の命そのものが。
光の遊園地に酔いしれたアルテメシアからも、地球からも遠く離れたメギドで。
だから二人で行けなかった場所。ハーレイと二人で眺められずに、消えてしまった光の遊園地。光の遊園地はきっとあったのだろうに、自分の命が尽きたから。
それをまざまざと思い出したら、もう黙ってはいられなくて。
「…ハーレイ、ぼくに約束してたよ。…前のぼくだけど」
いつか行こう、って。ぼくと一緒に、夜の遊園地へ。…光の遊園地を見に行くんだ、って。
みんなに希望の光が見えたら、地球の座標を手に入れたら。
「そのようだな。…確かにお前と約束をした」
前のお前だったが、約束したことに間違いはない。夜の遊園地へ二人で行こうと。
「…今は駄目?」
あの時の約束、今は駄目なの?
地球の座標はもう要らないんだよ、ぼくたち、地球にいるんだもの。
船のみんなを心配しなくても、ハーレイはもうキャプテンじゃないし…。ぼくもただの子供。
それに希望は山ほどあるでしょ、夢だって。
だから、約束…。前のハーレイの約束だけれど、遊園地、一緒に行ってくれない?
地球の青色に光るシャングリラを見たいよ、観覧車に乗って上からだって。
「…今の俺たちに希望はあるがだ、一つ大きな問題がある」
お前、すっかりチビだろうが。…あの時のお前と違ってチビだ。
俺とデートに行くには早くて、まだまだ小さな子供でしかない。…違うのか?
デートは駄目だと何度も言ったぞ、今までも、それに今日だってな。
しかし…、とハーレイが握ってくれた手。遠い昔の、あの日のように。約束を交わした遠い昔の青の間のように、大きな手で。今は小さくなってしまった、子供になった自分の手を。
「前のお前とした約束でも、約束には違いないからな」
思い出した時には果たすこと、って前にもお前に言ったっけか…。
幸せな約束ってヤツに時効は無いと。たとえ何年経っていようが、お互い、約束は果たそうと。
そう言ったからには、あの約束も有効だ。…今の時代でも。
幸い、光の遊園地ってのは、今もやってるようだから…。この町でも見られるらしいから。
いつか行こうな、お前と一緒に。…あの時の約束、叶えるのが俺の役目だから。
もうキャプテンではなくなっちまって、視察も何も無いんだが…。
見に出掛けても、ただの遊びで、夜のデートだというだけなんだがな。
「ホント?」
本当にぼくと行ってくれるの、光の遊園地を見るために?
地球の青色に光るシャングリラとかを見て、観覧車にも乗ってくれるの?
前のぼくたちだと、観覧車には乗れなかったけど…。それは流石に無理だったけれど。
「ほらな、今ならではのお楽しみってヤツが増えてるだろうが」
俺とお前で観覧車だ。…前の俺たちだと、これは出来んぞ。
前のお前が上手く情報を操作したなら、観覧車だって乗れたんだろうが…。そんなの、視察では思い付いたりしないしな?
お前も、俺も。…あんな乗り物もあるんだな、と見上げる程度で。
「そうだったと思う…」
人間が大勢、並んで順番を待っているよね、って眺めるだけで満足だったよ。前のぼくなら。
だけど、今のぼくは乗りたいよ。…ハーレイと一緒に観覧車に。
プロポーズは無しでも乗ってみたいな、と強請ったら。夜の遊園地を上から見たいと頼んだら。
「お安い御用だ、観覧車くらい。…行列だって俺に任せておけ」
長い行列が出来ていたなら、お前は休んでいるといい。立って待つのは俺に任せて。
順番が来るまで、側のカフェにでも座ってな。
「ううん、ぼくもハーレイと一緒に待つよ」
二人一緒なら、行列も平気。きっと疲れてしまいもしないよ、ハーレイと一緒なんだもの。
手を繋いで一緒に立っていたなら、ぼくは絶対、疲れないから。
「…そうなのか? 無理はするなよ」
もう駄目だ、と思うより前に俺に言うんだぞ、「疲れちゃった」と。
一緒に行列するんだったら、そいつを約束してくれないとな。お前がすっかり参っちまったら、デートどころじゃないんだから。
「…約束する…。ハーレイに心配かけないように」
くたびれちゃったら、きちんと言うよ。…「ちょっと座って休んでもいい?」って。
「よし。…それなら、いつか二人で行こう」
お前が大きくなったらな。俺とデートが出来る背丈に。
そしたら一緒に光の遊園地を見に行こう。やってる季節に、お前と二人で。
前のお前との約束だから。…幸せな約束に時効は無いって、俺は確かに言ったんだしな。
「うん、約束…!」
いつか行こうね、今は無理でも。
ぼくが前のぼくと同じに大きくなったら、二人で行こうね、夜の光の遊園地に…。
前の自分がアタラクシアで見惚れた光の遊園地。夢と希望の世界がある、と。
それを知って欲しくて誘ったハーレイ。いつかは、と答えてくれた前のハーレイ。
(…幸せな約束に、時効は無いから…)
今は小さくて無理だけれども、いつか大きくなったなら。
デートに行ける背丈になったら、ハーレイと二人で出掛けてゆこう。
平和になった幸せな時代に、光が溢れる夜の遊園地へ。前の自分が虜になった光の国へ。
夢と希望が溢れる世界。光が輝く夢の世界へ、ハーレイと。
観覧車に乗って、上からも見て。
ゴンドラの中でも手を繋ぎ合って、光の世界を眺めては微笑み交わしながら…。
光の遊園地・了
※夜の遊園地を見た、前のブルー。けれど、シャングリラの公園でのライトアップは無理。
そしてハーレイと約束した、夜の遊園地の視察。今のハーレイとなら、いつか行けるのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれ?)
テントウムシだ、とブルーが見詰めた小さな虫。学校から帰って、おやつの時間。ダイニングのテーブルの上に、チョコンと一匹。赤い背中に、七つの黒い星を乗っけたテントウムシ。
艶々と光る丸っこい姿は可愛らしいけれど、テーブルに住んでいるわけがないから。
(くっついて来ちゃった?)
庭から、母に。そうでなければ、母が生けようと持って入った花に。
ちっちゃいよね、と眺めて、指でチョンとつついて、庭に戻そうかと考えていて…。
ほんの少しだけ目を離したら、テントウムシの姿は無かった。窓越しに庭を見ていた間に。
(いなくなっちゃった?)
消えてしまったテントウムシ。テーブルの上には紅茶のカップやケーキのお皿くらいだけ。順に動かして探したけれども、テントウムシは見付からない。テーブルの下を覗いてみても。
(…消えちゃった…)
ダイニングは広くて、入り込めそうな所が沢山。小さな虫なら。
その上、廊下に繋がる扉。それが細めに開いていた。テントウムシなら通れる程度に。あそこを抜けて、廊下に行ってしまったろうか。
床をチョコチョコ歩くのはやめて、何処かへ飛んで行っただろうか?
テントウムシには翅があるから、広げたら直ぐに飛び立てる。テーブルから上へ、扉をくぐって外の廊下へ、階段を抜けて二階にだって。
けれども、開いていない窓。玄関の扉も閉まったまま。テントウムシは外に出られない。いくら飛んでも、せっせと歩き回っても。
(家の中で迷子…)
庭には戻れず、家の中をぐるぐる回るだけ。此処はいったい何処なのだろうと、住み慣れた庭は何処に消えたのかと。
それはとっても可哀相だから、通り掛かった母に話した。「テントウムシが消えちゃった」と。
「さっき、テーブルの上にいたのに…。出してあげなくちゃ、と思ってたのに…」
直ぐに外へ出してあげれば良かった、見付けた時に。
もし見付けたら出してあげてね、可哀相だから。…お腹だって、きっと減っちゃうし…。
「心配しなくても、大丈夫なんじゃないかしら?」
ちょっと気が早いテントウムシだけど、冬になったら家の中で暮らしていることもあるの。
暖かいから、わざわざ人間の家に入って冬越しするのよ。
丁度良さそうな隙間を探して、潜り込んで。
引き戸の隙間なんかにね、と母は教えてくれた。春になるまで家の中よ、と。
(それなら安心…)
テントウムシが迷子になっても、春になるまで家で冬越し。暖かくなったら其処から出て来て、開いた窓を探すのだろう。風の吹いて来る方向は何処か、ちゃんと見付けて。
開いた窓や扉があったら、後は空へと飛び立つだけ。春になった、と。
行方不明になった時には慌てたけれども、家の中でも大丈夫らしいテントウムシ。良かった、と二階の部屋に帰って、勉強机の前に座って。
昨日の続きの本を読んでいたら、パタッと落ちた丸っこい虫。本の上に赤いテントウムシ。
(くっついてたの!?)
ぼくに、と驚いて目を丸くした。頭の上に乗っかっていたか、服の何処かに入っていたか。肩か背中にいたかもしれない、自分では気付いていなかっただけで。
(潰しちゃわなくて良かったよ…)
椅子に座った時に、お尻や背中で。テントウムシは小さいのだから、チビの自分の体重だって、確実に潰れてしまうから。
危なかった、と思った所へチャイムの音。仕事帰りのハーレイが門扉の脇で手を振っている。
せっかくだから、この珍客を披露しようと思った。窓から庭には、まだ出さないで。ハーレイが来る前に他所へ行かないよう、丁度あった小さな空き箱に入れて。
暫くしたら、母が案内して来たハーレイ。いつものテーブルと椅子で向かい合うなり、その箱を開けて中身を見せた。
「あのね、ハーレイ…。こんなのが、ぼくにくっついて来ちゃった」
テントウムシ。…おやつの時間にダイニングにいたけど、行方不明になっちゃって…。
ついさっき、落ちて来たんだよ。本を読んでたら、机の上に。
ぼくと一緒に来ちゃったみたい。髪の毛か、服にくっついちゃって。
「テントウムシか…。そりゃ運がいいな」
お前、いいことあるんじゃないか。今日か、それとも明日かは知らんが。
「えっ、いいことって?」
運がいいって何のことなの、虫がくっついて来たらいいことがあるの?
「そうだが…。何の虫でもいいわけじゃない」
テントウムシなら、幸運なんだ。幸運を運んでくれる虫だし、それがくっついてくれたらな。
「そうなんだ…!」
知らなかったよ、幸運だなんて。テントウムシって、そういう虫なんだ…。
何かいいことあるといいな、と顔を綻ばせたけれど。
空き箱の中の幸運の使者を、赤い背中を見詰めたけれど…。
(テントウムシ…?)
それに幸運、くっついて来ると幸せを運ぶらしい虫。
知っているような気がして来た。けれど自分が知っているなら、見付けた時に気付いた筈。本の上にポトリと落ちて来た時に、「今日はツイてる」と、幸運が来ることを思い出して。
なのに全く気付かなかったし、だとしたら、これは今の自分の知識ではなくて…。
「…前のぼく、知ってたみたいだよ。テントウムシのこと」
くっついて来たら幸せなんだ、って知っていたように思うんだけれど…。
「お前、色々な本を読んでたからなあ、そのせいじゃないか?」
人間が地球しか知らなかった頃から、テントウムシは幸運の虫なんだから。ずっと昔からな。
「そうなのかも…。本で読んだのかも…」
でも、と心に引っ掛かる記憶。テントウムシと、テントウムシが運ぶ幸運と。
それにシャングリラ、白い鯨までが絡む記憶だという気がするから、尋ねてみた。
「ねえ」と鳶色の瞳を見詰めて。
「…テントウムシ、シャングリラで飼っていたかな?」
白い鯨に改造した後、あの船の中で…?
「おいおい、まさか…。シャングリラの中でテントウムシって…」
害虫を退治してくれるんだから、役に立たない虫ではないが…。
その害虫がいなかった船だぞ、シャングリラは。害虫がいなけりゃ、役に立つも何も…。
飼っている意味が無いわけなんだし、テントウムシなんかはいなかったな。
「だよねえ…?」
虫って言ったら、ミツバチだけの船だったよね?
蝶だって飛んでいなかったんだし、テントウムシがいるわけないよね…。
理屈では分かっているのだけれども、やはり引っ掛かるテントウムシ。
白いシャングリラに、テントウムシはいなかったのに。ハーレイもそう言っているのに。
もしもテントウムシがいたとしたなら…。
「テントウムシ…。前のぼくが、くっつけて帰るなんてことは…」
外に出た時、服にくっつけて帰って来たりはしないよね?
アルテメシアには何度も降りたけれども、虫と一緒に船に帰ってしまうようなことは…。
「無いな、お前はきちんと気を付けてたしな」
余計な虫が紛れ込んだら、生態系ってヤツが乱れるし…。生態系って呼べるほどには、ご立派なモンじゃなかったが…。
それでも木や草や花や、野菜なんかを育ててたわけで、虫一匹でも馬鹿には出来ん。
前のお前は船に戻る前に、サイオンで全部追い払ってだな…。
待て、それだ!
くっついて来たんだ、とハーレイが言うから見開いた瞳。
「…くっついて来たって…。前のぼくに?」
「ああ、救出の下見に出掛けた時に」
テントウムシを連れて来たんだ、くっつけたままで戻ったぞ、お前。
「ええっ!?」
それって、とっても大変じゃない!
害虫じゃなくても、シャングリラに虫を持ち込んだなんて…!
まさか、と息を飲んだけれども。前の自分がミスをする筈が無い、と考えたけれど。
(…テントウムシ…?)
マントの下から、コロンとそれを落とした記憶。テーブルの上に。
本当だった、と思った途端に、鮮やかに蘇ったテントウムシを巡る出来事。ミュウの子供を救出するべく、下見に出掛けたアルテメシアの住宅街。
「思い出したよ、ヤエの時だっけ…!」
ヤエの救出をどうしようか、ってヒルマンたちと相談していた時だよ。
「勘が鋭い子だったからなあ、ヤエって子は」
どのタイミングで救い出すかで、救助班のヤツらも悩んでいたんだ。それで俺たちに話が来た。普段だったら、立てた作戦の計画をチェックするんだが…。
ヤエの時には、「どうしましょうか」と、計画自体を訊いて来やがった。
まだ当分は大丈夫そうだし、急がなくてもいいだろうか、と。それとも急いだ方がいいのか。
どっちなんだ、ってことになったら、経験豊富な年配者たちの出番だってな、そういった時は。
あいつらが悩んでいたのも分かる、とハーレイがついた大きな溜息。
幼かったヤエは、自分で上手くやっていたから。
他の人間には無いらしい力、サイオンを隠して、ごくごく普通の子供のふり。
けれど、いずれはバレるもの。
どんなに上手く隠していたって、成人検査はパス出来ない。
何かのはずみに心理検査を受けさせられても、やっぱりバレてしまうだろう。ミュウなのだと。
ヤエは失敗していなくても、他の子供の派手な喧嘩に巻き込まれたなら、有り得る検査。
感情の激しい子供はミュウの疑いがあるとされているから、検査する。そのついでにヤエも、と連れて行かれたら誤魔化せない。小さな子供の力では、とても。
人類の世界で暮らす以上は、常にリスクが伴うもの。危機がいつ来るかは分からないもの。
長老たちが集まる会議で焦点になったのも、その部分。
ヤエは幸せに暮らしているから、今の幸せを見守るべきか。それとも船に連れて来るべきか。
「お前、早めがいいと思う、と言い出して…」
しかし、ヤエの気持ちも尊重したいし、どうするか考え込んでしまって…。
養父母と一緒に暮らせる幸せ、シャングリラに来たら消えちまうからな。二度と会えなくなってしまうし、家に帰れもしないんだから。
「…それで見に行って来たんだっけね…」
船から思念で見ているだけでは、分からないことも多いから…。
ホントに幸せに過ごしているなら、ギリギリまで待つのがヤエのためだし…。
どんな家だか、見て来よう、って。思念体じゃなくて、身体ごとね。
だって、その方が色々なことが掴めるもの。
そう考えたから、ヤエの家まで出掛けて行った。白いシャングリラから地上に降りて。
気配を隠して庭にいたのに、姿は見えない筈だったのに…。
(ヤエが窓からヒョイと覗いて…)
まだ小さいのに、眼鏡だったヤエ。
その眼鏡を外して、またかけ直して、窓越しにこちらを見詰めて来た。真っ直ぐ、見えない筈の自分を。「あそこにいる」と気付いた顔で。
ヤエの視線は逸れなかったから、「まずい」と慌てて撤収した。
見詰めているヤエは、サイオンの瞳で見ていることに気付かない可能性も高いから。
庭を指差して「誰かいるの」と親に告げたら、ヤエの努力が台無しだから。
(…ミュウを見たこと、無いんだものね…)
姿を消すような力を持つとは、ヤエは知らないし、気付くかどうか。気付けば黙っているだろうけれど、幼いだけに「ホントにいるの」と言い張ることもありそうなこと。
けれど自分が消えてしまったら、「あれも変なもの」と分かる筈。
養父母に「見た」と言いはしないで、心に仕舞っておくだろう。サイオンを隠しているように。
急いで帰ったシャングリラ。空も飛ばずに、瞬間移動で。
ヤエの家から青の間に飛んで、忘れていた虫を追い払うこと。船に入る前にサイオンで、軽く。
そして招集した長老たち。ヤエの救出は急ぐべきだ、と。
「まだ心配は要らんじゃろうが」
利口な子じゃと聞いておるわい、緊急性は無さそうじゃが…?
もう少しばかり、親元に置いてやってもじゃな、とゼルが引っ張った髭。
シャングリラに来た子供たちは皆、引き離された親を恋しがるから。…ユニバーサルに通報した人間が親だった時も、そうとは知らずに。
「でも、ぼくがいるのに気が付いたんだ」
姿を隠して庭にいたから、普通のミュウなら気付かないのに…。
あの子は思った以上に敏いよ、それだけ危険が高いってことだ。サイオンがかなり目覚めてる。何かあったら、直ぐに爆発しかねないほどに。
「気付いたのかい、あんたの姿に。それはマズイかもしれないねえ…」
急ぎで救出させようか、とブラウが言った時、テーブルの上にコロンと落ちたテントウムシ。
マントの下に入っていたのか、胸元から。
赤い背中に黒い星が七つ、丸くて小さなテントウムシ。船にはいない筈の虫。
ヤエの話は途切れてしまって、皆の瞳が釘付けになった。テーブルの上のテントウムシに。
「なんだい、それは?」
ブラウが訊くから、バツが悪くて口ごもりながら。
「…テントウムシ…かな?」
ぼくが持ち込んでしまったみたいだ、ヤエの家から。…庭にいた間にくっついたらしい。
「よほど慌てておったんじゃろう。普段はきちんと見ておるからな」
妙な虫を船に持ち込まないよう、戻る時には。
サイオンで追い払うのを忘れたんじゃな、とゼルも見ているテントウムシ。
「ごめん…。ぼくとしたことが、ウッカリしていた」
直ぐに出すよ、とテントウムシを手に取りかけたら、「急がなくても」とヒルマンの声。それは幸運の虫なのだから、と。
「テントウムシがくっついて来ると、幸運が来ると言うのだよ」
そう言うそうだよ、ずっと昔から。…人間が地球だけで暮らしていた遠い昔からね。
「ええ、聖母マリアのお使いですから、テントウムシは」
幸せを運ぶそうですよ、とエラも頷いたテントウムシ。幸運を連れて来たのでしょう、と。
「それでは、ソルジャーに幸運が?」
来るのでしょうか、とハーレイが興味深そうにテントウムシを眺めたけれど。
「どうなんだかねえ、幸運を貰うのはヤエじゃないのかい?」
今までにこんな事件は一度も無かったからね、とブラウが指でチョンとつついたテントウムシ。
あの子は強運なんじゃないかと、この船で幸せを掴むんだろう、と。
「そうだね、ヤエの方がいい」
ぼくなんかよりも、ヤエが幸運を貰うべきだろう。ヤエの人生は、これからだから。
ミュウの未来を担う子供には幸運があった方がいい、と指先で触れたテントウムシ。七つの星を背負った背中。この虫は後で、ヤエの家の庭に返しておこう、と。
「それで、救出はいつにするんじゃ?」
わしらが計画を立ててやらんと、救助班のヤツらも困るじゃろう。「急げ」だけでは。
具体的な案というヤツをじゃな…、とゼルが元へと戻した話題。テントウムシから。
「タイミングを見るのが大切だろう。でも、出来るだけ早い方がいい」
期間は短くしたいけれども、どのくらい…、と皆に意見を求めた自分。
直ぐにでも救助に向かえるけれども、ヤエの家での暮らしも守ってやりたいし、と。
そうしたら…。
「一週間でいいと思うよ、テントウムシのお告げだからね」
七日後がいいと思うんだがね、とヒルマンが不思議なことを言うから。
「お告げって…?」
テントウムシは喋っていないと思うけど…。いったい何がお告げなんだい?
「この背中だよ。黒い星が七つあるだろう?」
聖母の七つの喜びと七つの悲しみ、それを表しているんだそうだ。テントウムシの七つの星は。
星が七つだから、一週間といった所だろうと考えたわけで…。
一週間後なら、長すぎもしないし、短すぎもしない。救助班の準備も充分出来るだろう。
ミュウと発覚してからの救助と違って、ヤエを連れて来るというだけだから…。
きっとそのタイミングで上手く運ぶさ、と穏やかな笑顔だったヒルマン。
「それは予知かい?」と前の自分も、ゼルやブラウたちも、テントウムシを見て笑ったけれど。背中の七つの星を数えて、一週間後と決まった救出。
今から直ぐに準備を始めて、一週間後にヤエを船に迎える。万一の場合は、もっと早くに。
前の自分がくっつけて戻ったテントウムシ。それが会議の行方を決めた。ヤエをシャングリラに迎え入れる日は、一週間後にすべきだと。背中に背負った黒い星の数で。
会議が終わった後にヒルマンとエラから聞いた話では、赤い背中も聖母の色。聖母マリアが纏うローブに使われる赤。青いマントに赤いローブの聖母の絵画が多いという。
赤は聖なる愛、青は真実を示す色。聖母の衣の赤を纏ったテントウムシ。「聖母のカブトムシ」とか、「聖母の鳥」とか、様々な名を持つ聖母の使い。
それが幸運を運ぶと言うなら、幸せを連れて来るのなら…。
(助けに行くまで、ヤエを頼むよ)
あの子をよろしく、と瞬間移動で帰してやったテントウムシ。
ヤエの家の庭に、ヤエが自分を見付けた辺りに。
救出までに一週間。一刻を争うわけではないから、充分にあった準備期間。
救助班の者たちは計画を練って、シャングリラではヤエを迎える部屋の用意が始まった。どんな部屋や家具を好みそうな子か、揃えておいてやるべき物は…、と。
そうする間も、人類の世界では何も起こらず、ヤエはミュウだと知られないままで…。
「ホントに丁度七日目だっけね、ヤエの救出」
ヒルマンが言ったテントウムシのお告げ通りに、一週間後。
どうやってヤエを説得するのか、救助班の仲間は色々考えて行ったのに…。
お菓子に釣られてついて来そうな子供じゃないから、シナリオ、山ほど考えてたのに…。
「すっかり無駄になっちまったなあ、あいつらの努力」
自分の方から、スタスタ近付いて行ったんだから。人類のふりをしていた救助班のヤツに。
遊びに行ってた友達の家から、帰る途中のことだったっけな。
「うん…。ぼくも船から見てたけれども、ビックリしちゃった」
チラッとそっちの方を見たな、と思ったら近付いて行くんだもの。「こんにちは」って。
知り合いの人に会ったみたいに、ニコニコして。
ホントにビックリ、と今でも思い出せる光景。幼かったヤエの救出の時。
庭に隠れていた自分に気付いたくらいに、目覚め始めていたサイオン。それにヤエの資質。
勘の鋭い子供だったから、一目見ただけで仲間を見分けた。「同じ種類の人間だ」と。
そして思念波で投げ掛けた問い。「迎えに来たの?」と。
面食らったのは、救助に向かった仲間の方。
まるでシナリオには無かったのだから、「あ、うん…。まあ…」と思念を返すのが精一杯。
けれどもヤエは途惑いもせずに、思念を紡いで無邪気に訊いた。「何処へ行くの?」と。
「シャングリラだ」と貰った答え。同じ仲間が集まる船だと、雲の中にあると。
コクリと大きく頷いたヤエ。「一緒に行く」と、救助班の仲間の手をキュッと握って。
後は大人と子供の散歩。誰も怪しまない、微笑ましいだけの大人と子供。
ヤエはそのまま家には帰らず、隠してあった小型艇に乗って、白いシャングリラにやって来た。好奇心に瞳を輝かせながら、空の旅を充分に満喫して。
そんなケースはヤエの時だけ。
自分から声を掛けた子供も、自分から「行く」と言い出した子も。
船に着いても、皆を質問攻めにしたヤエ。格納庫で迎えたハーレイや長老たちはもちろん、他の仲間も片っ端から。
「この船は何処へ行く船なの?」とか、「どうして私たちは他のみんなと違うの?」だとか。
船の設備にも興味津々、隅から隅まで見て回った。子供でも入れる所は全部。機関部にも入ってみたがったけれど、「危険だから」と諭されて渋々、小さな覗き窓から覗いた。
ヤエの噂はアッと言う間に船に広がり、何処に行っても歓迎された。「何を見て行く?」と。
長老たちが集まるお茶の席でも、自然と話題になるのはヤエで。
「流石はテントウムシの子だよ、ヤエはね」
将来はきっと大物になるに違いないよ、とブラウも高く買っていた。いずれブリッジに来そうな気がする、と。「でも、それだけでは終わらないね」とも。
「シャングリラの役に立ってくれそうじゃな」
女の子じゃが、仕込めば機械にも強くなれると思うんじゃ。こう、今からじゃな…。
英才教育をしてみたいんじゃが、とゼルも惚れ込んだヤエの才能。「あの子は伸びる」と。
「そうだね、ヤエは幸運の子だしね」
テントウムシの、と前の自分が浮かべた笑み。
「この船で幸せになって欲しいよ」と、「ヤエが自分で選んだ道なんだから」と。
他の子供たちとは違ったヤエ。
追われて仕方なく来たのではなくて、家も両親も捨てて、白いシャングリラを取ったのだから。
此処に来ようと、このシャングリラで生きてゆこうと。
前の自分は「幸せになって欲しい」と、ヤエの幸福を願ったけれど。
テントウムシが運ぶ幸運、それを持つのがヤエだったけれど…。
「ハーレイ、ヤエって確か…」
前のぼくが死んじゃった後で、トォニィとアルテラが仲良く喧嘩してるのを聞いて…。
泣いちゃってたって言ってなかった?
格納庫でトォニィの船の調整をしていた時に。
「アレなあ…。若さを保って八十二年っていうヤツだろ?」
青春してるな、と羨ましがって泣いていたのを、聞いちまったんだよな、前の俺がな…。
お前を失くしちまった後の、俺の数少ない笑いの一つだったな、あの時のヤエは。
「いったい何がいけなかったの」と悔しがっていたが、本当に何が駄目だったんだか…。
八十二年も若さを保って頑張るからには、片想いのヤツでも心にいたか…。
それとも全くアテも無いのに、恋に恋する乙女だったか。
まさか訊きにも行けないからなあ、あれっきりになってしまったが…。
どうなったんだか、ヤエの女心というヤツは。
恋の方では、幸運、掴めていなかったよなあ、あの時点では…。
「そうだよねえ?」
好きな人をちゃんと捕まえていたら、そんな所で泣かないし…。
コッソリ聞いちゃったハーレイが笑うことだって無くて、ヤエは幸せ一杯だもんね?
ゼルとブラウが読んだ通りに、立派に育ったテントウムシの子。強運のヤエ。
分析担当のブリッジクルーとして、エンジニアとして、ヤエは優秀だったのだけれど。
本当に強運の子だったけれども、幸運は手に入ったろうか?
一人の女性として夢を描いていただろう幸福、愛する人と一緒に暮らす幸せは。
「…どうなんだろうね、ヤエ…。ちゃんと幸せになれたと思う?」
テントウムシに貰った幸運、シャングリラだけで使い果たしていないよね?
ブリッジクルーで、エンジニアで…。とても凄いけど、それだけで幸運、無くなっちゃった?
ヤエの恋が実る分の幸運、少しも残っていなかったとか…?
「生憎と俺も死んじまったから、あの後は知らん」
幸せな結婚が出来たのかどうか、最後まで独身のままだったのか。
そうは言っても、ヤエだからなあ、記録を調べりゃ分かるんだろうが…。
あれほどの人材はそうはいないし、トォニィとキャプテン・シドの時代も船を支えていた筈だ。
シャングリラが役目を終えた後にも、引く手あまただったとは思うんだが…。
そいつはヤエの腕が目当てでだ、求婚者が列を成すってわけではないからなあ…。
「ヤエの記録は、確かに残っていそうだよね…」
重要人物ってほどではなくても、記録を残して貰えるだけの功績は積んでいるんだし…。
キースがコルディッツでミュウを人質に取った時にも、ヤエのお蔭で救出できたんだから。
ゼルの船にステルス・デバイスを搭載しておいたのって、ヤエなんだものね。
きっと記録は残っているよね、ヤエがシャングリラを離れた後も。
白いシャングリラが無くなった後に、強運のヤエは何処へ行ったのか。
とうに結婚相手を見付けて、その人と一緒に旅立ったのか、旅立った先で恋をしたのか。
記録は何処かにあるだろうけれど、調べれば答えは出るだろうけれど。
「…調べない方がいいのかな?」
ヤエは幸せを捕まえたのか、羨ましがるだけになっちゃったのか。
もしもテントウムシがくれた幸運、シャングリラで使い果たしていたら…。
なんだか凄く申し訳ないし、ヤエだって知られたくないと思うし…。
「そうだな、恋は最後まで手に入らなかったかもしれないからなあ…」
才能の方では引く手あまたでも、「天は二物を与えず」と言うし。
もっとも、お前は幾つも持っているようだが…。
前のお前も今のお前も、優秀な頭も、恋も、とびきり綺麗で誰もが見惚れる姿も持ってる。
今のお前はまだまだチビだが、いずれ美人に育つんだから。
しかしだ、ヤエは美人と言うには…。どちらかと言えば可愛らしい方で、愛嬌だしな?
誰もが恋をしたがるタイプの女性とは少し違っているよな、人を選ぶというヤツだ。
「うーん…」
人を選ぶって言葉は、そういう時に使うんだっけ?
だけど、ヤエの魅力も、分かる人には分かる筈だと思うんだけど…。
とっても頭が良くて賢くて、おまけに可愛らしいんだから。
八十二年も放っておかれたみたいだけれども、それって、ヤエが間違えていない?
とっくに恋人がいるような人を好きになっても、駄目なんだもの。
前のぼくとか、ハーレイとかをね。
「…前の俺だと!?」
それは考えてもみなかった…。前のお前の方ならともかく、前の俺ってか?
もしもそうなら、選択ミスだな。俺にはお前がいたんだから。
前のお前に惚れてたにしても、結果は同じなんだがな…。
恋人がいる人に恋をしたって、恋は決して実りはしない。
横取りしようとしても出来ない、横から奪えるような恋なら、それは本物の恋とは違う。
たまにはそういう恋もあるけれど、奪い取った恋が本物のこともあるのだけれど。
「…ヤエって、間違えちゃっていたかな…?」
前のぼくを好きでもハーレイがいたとか、ハーレイを好きでも、ぼくがいたとか。
ぼくの方ならフィシスがいたから、諦めだってつきそうだけれど…。
ハーレイだったら誰もいないし、そう思い込んで好きだったかもね?
いつか振り向いてくれるといいな、って思い続けて、八十二年も頑張ったのかも…。
「…俺じゃなかったと思いたいんだが…」
ゼルとかヒルマンとか、他にもいるだろ、恋人のいない渋い男なら。
しかし、前の俺だったという可能性だって否定は出来んか…。
薔薇の花もジャムも似合わないから、モテるわけがないと思っていたが…。
蓼食う虫も好き好きなんだし、ヤエの好みのタイプだったってことも有り得るな、うん。
「…ぼくも悪趣味だって言うわけ?」
前のハーレイが好きだったんだよ、今のハーレイも大好きだけど。
ぼくの趣味まで変に聞こえるから、蓼食う虫も好き好きっていうのは言い直してよ!
「すまん、すまん」
お前の趣味は悪くない。…ちょっと変わっているってだけでだ、悪趣味とは少し違うよな。
「それ、言い直せていないから!」
もっと上手に言えないの?
ハーレイ、古典の先生なんだし、言葉も沢山知っているのに…。
そんな調子だから、前のハーレイだって気付かなかったかもしれないよ?
ヤエが「好きです」って打ち明けてるのに、「そりゃ光栄だな」って笑って終わりだったとか。
絶対そうだよ、ヤエが好きだったの、前のハーレイだったんだよ…!
八十二年も若さを保って頑張ってたのは、振り向いて貰うためだったんだよ…!
きっとそうだよ、とハーレイを軽く睨んでおいた。「鈍いんだから」と。
ヤエが本当にハーレイに恋をしたかはともかく、「蓼食う虫も好き好き」などと言われたから。今の自分も前の自分も、悪趣味なのだと決め付けたのがハーレイだから。
(…ヤエに「すまん」って何度も謝るといいよ、心の中で…!)
全部ハーレイが悪いんだから、と苛めてやった鈍い恋人。自分を悪趣味だと言った恋人。
ヤエもハーレイが好きだったろうか、今となっては分からないけれど。
ハーレイが気付いていなかっただけで、ヤエはハーレイを見ていたろうか…?
そうだったとしても、強運のヤエは、幸せだったと思いたい。
欲しかった恋が手に入らなくても、テントウムシの子だったから。幸運の子供だったから。
(…きっと幸せだったよね…?)
シャングリラが地球を離れた後も。
いつも見詰めていたかもしれない、前のハーレイがいなくなっても。
テントウムシに貰った幸運を背負って、何処かの星で。
もしかしたら恋まで手に入れてしまって、それは幸せな人生を。
テントウムシは幸運を運ぶ虫だから。
ヤエは幸運のテントウムシの子、背中に七つの星を背負ったテントウムシと一緒だったから。
白いシャングリラにたった一度だけ、姿を見せたテントウムシ。
それが運んだ幸運はきっと、ヤエのためだけにあったのだから…。
幸せだっただろうヤエ。恋は出来なくても、何処かの星で。
恋を手に入れたら、もっと幸せだったろう。一緒に生きる人を見付けて、いつまでも、きっと。
子供だって生まれていたかもしれない、今の時代は当たり前の自然出産児。
ヤエが母親になっていたなら、きっと、幸せな子供が育っただろう。
(お母さんになっても、ヤエなら完璧…)
子育ても、料理も、全部楽々とこなしていって。子供と沢山遊んでやって、愛を注いで。
そういう姿が見える気がする、小さなテントウムシの向こうに。
今の自分にくっついて来た、赤い背中の丸っこい虫に。
「ハーレイ、このテントウムシ…」
ぼくにくっついて来ちゃったけれども、やっぱり放してあげなくっちゃね?
ママは「家の中で冬越しするのよ」って言っていたけど、まだ冬越しには早いから…。
「その方がいいな、暖かい間は、外でのんびりしたいだろうしな」
こいつの幸運、お前が貰っておくんだろ?
今度もお前にくっついて来たが、前のはヤエに譲っちまったし…。
「あれは最初から、ヤエのだったと思うけど…」
このテントウムシは、ぼくにくっついて部屋まで来たし…。
テントウムシの幸運を譲りたい人もいないしね。…ハーレイの他には。
ハーレイにはちょっぴり譲りたい気分。
さっきは苛めてしまったけれども、ハーレイと幸せになりたいんだもの。
「なるほどな…。俺には譲ってくれるんだな」
だったら、二人で分けることにするか。
こいつが運んでくれる幸運、お前と俺とで半分ずつだ。
それでいいだろ、それなら一緒に幸せになれる。今でも充分幸せなんだが、もっと、ずっとな。
テントウムシに幸せを貰うとするか、とハーレイがパチンと瞑った片目。
こいつの幸運は半分ずつだ、と。
「俺が半分、お前が半分。…上手い具合に、テントウムシの背中、半分ずつになってるし…」
翅を広げりゃ、丁度半分に分かれるってな。真ん中から。
「ホントだね…! なんだか相合傘みたい」
名前を書きたい気分だけれども、そしたら背中の星が見えなくなっちゃうし…。
じゃあ、ぼくが、こっち。こっちの半分が、ぼくの幸せ。
「よしきた、俺がこっち側だな」
それじゃ窓から放してやるか。こいつは指先から飛んで行くから…。
幸せが多めに来るよう、お前の指に止まらせてやれ。そう、そんな風に。
俺がこうして手を添えておくから、そうすりゃ二人で放せるだろう?
ほらな、とハーレイが導いてくれた手。右手の人差し指の先っぽ、テントウムシを止まらせて。
そして二人で窓を開けたら、空に飛び立ったテントウムシ。
(ちゃんと飛んだよ…)
ぼくとハーレイの手から飛んだよ、と見えなくなるまで見送った。
ハーレイと二人、手を握り合って。
空に放ったテントウムシが、幸せに飛んでゆくように。
自分たちにも、幸運がやって来るように。
白いシャングリラに紛れ込んでいた、一度だけ来たテントウムシ。
あのテントウムシはヤエのものだったけれど、今度は自分のものだから。
チビの自分にくっついて来た、幸運を運ぶテントウムシ。
ハーレイと幸運を分け合ってもいい、二人だけのための小さなテントウムシなのだから…。
テントウムシ・了
※前のブルーが、たった一度だけ、シャングリラに持ち込んでしまった虫が、テントウムシ。
幸せを運ぶという虫の幸運は、ヤエが貰ったらしいです。最後まで、幸せに暮らした筈。
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