シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「…どうしても駄目?」
ママ、と縋るような目でブルーは母を見上げたけれど。ベッドの中から、顔だけ出して。
お願い、と目と言葉とで訴えたけれど、母は見下ろして「駄目ね」と睨んだ。
「今日で三日目でしょ。まだ熱が下がらないじゃない」
約束だから、と母の口調は変わらない。いつもは優しい母だけれども、今は学校の先生のよう。宿題をしないでやって来た子に、「休み時間にやりなさい」と言い渡す時の。
(…ママ、酷い…)
一昨日の夜から出ていた熱。微熱だけれど、喉が痛むから間違いなく風邪。金柑の甘煮を食べて治そうと頑張っていたのに、下がらない熱。ちゃんと薬も飲んでいたのに。
熱が下がってくれないせいで、今から注射に連れて行かれる。家から近い病院まで。痛い注射は大嫌いなのに。出来れば打たずに済ませたいのに。
ベッドの側から動かない母に、もう一度だけ頼んでみた。
「ママと約束したけれど…。注射、嫌いなの、知ってるでしょ?」
もう一日だけ。明日まで待ってよ、熱が下がるかもしれないから…。
「いい加減にしなさい、今日まで待ってあげたんだから」
注射をしたら、直ぐに下がるの。風邪だってアッと言う間に治るわ。
第一、熱が下がらなかったら、ハーレイ先生にも御迷惑でしょ。
毎日がスープ作りじゃない、と言われたらそう。仕事の帰りに寄ってくれるハーレイ。寝込んでしまった自分のために、野菜スープを作ってやろうと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。その味が今も好きだった。前の自分が好んだ味が。
ハーレイが作る、野菜スープのシャングリラ風。今はそういう名前がついた、病気になった時の定番。熱を出して学校を休んだ日から、ハーレイは毎日来てくれていて…。
(今日が木曜…)
野菜スープは今までに何回作って貰ったっけ、と指を折りかけたら、母が顔を覗き込んで来た。
「注射が嫌なのはいいけれど…。治らないままで土曜日がいいの?」
ハーレイ先生が来て下さっても、ベッドから出られないままね。
お茶もお菓子も、テーブルじゃ駄目。ブルーはベッドの中で食べるの。
「それは嫌だよ!」
せっかくハーレイが来てくれるのに、と声を上げたら、「注射に行くわね?」と念を押された。迎えのタクシーを呼んでおくから、着替えて下りていらっしゃい、と。
(…治らなかったら、ベッドの中…)
ハーレイと過ごせる素敵な時間が、きっと台無し。テーブルを挟んでのお茶もお菓子も、向かい合わせで食べる昼食も、すっかり駄目になってしまうから。
両親も一緒に囲む夕食も、仲間外れになるだろう自分。ハーレイはダイニングで両親と食べて、病気の自分は部屋でポツンと独りぼっち。
(野菜スープのシャングリラ風は、部屋に届けて貰えても…)
ハーレイが側で食べさせてくれても、夕食のテーブルにはいられない。寝ていなさい、と両親に叱られるから。パジャマ姿で下りて行っても、追い返されてしまうから。
悲しい土曜日を迎えるのは嫌。注射はとても嫌いだけれども、寂しい土曜日は来て欲しくない。母の言葉は正しいのだから、仕方なく起きて着替えた服。病院に出掛けてゆくために。
階段を下りて下に行ったら、支度を整えて待っていた母。タクシーも直ぐにやって来た。病院は家から近いけれども、歩いてゆくには遠すぎる。
(注射…)
このタクシーに乗って行ったら注射、と泣きそうな気持ちで向かった病院。待合室が大勢の人で混み合っていたらいいのに、と。痛い注射を打たれる時を、少しでも先延ばしにしたいから。
けれど、着いてみたら少なかった人。「注射は嫌だ」と泣き叫びそうな子供もいなくて、じきに回って来た順番。母は診察室の中まで付いて来た。「注射は無しで」と勝手に断らないように。
顔馴染みの医師は、とても温厚な人なのだけれど…。
「注射を打っておきましょう。なあに、このくらい直ぐに治りますよ」
一本打って、家で大人しく寝ていれば、と出て来た注射器。
(やっぱり…!)
嫌だ、と逃げ出したい気分。まるで小さな子供みたいに、泣けたらどんなにいいだろう。目からポロポロ涙を零して、大暴れして。
幼い頃から、注射が嫌いで苦手だった自分。他の子たちは大きくなったら我慢するのに、自分はどうしても駄目だった。一向に慣れはしなかった。
その上、今では前よりも怖くて苦手な注射。前の自分の記憶が戻って来たせいで。
(注射されたら…)
酷い目に遭わされるんだから、と前の自分が悲鳴を上げる。注射は嫌、と。
此処から逃げて帰りたいのに、看護師がまくり上げる袖。消毒されて、医師が手にした注射器。大嫌いな針がブスリと刺さって、とびきり痛くて、前の自分と一緒に悲鳴。
十四歳にもなって、叫ぶ子供もいないだろうに。医師も看護師も笑っているのに。
散々な目に遭ったけれども、なんとか終わった注射の刑。処方された飲み薬を母が受け取って、呼んで貰ったタクシーで家に帰ったら…。
(ちょっとマシかな?)
そう思えた身体。服からパジャマに着替える時に、出掛ける前よりも楽な気がした。ほんの少し身体が軽くなったような、そういう感じ。
ベッドに入って、暫くしたらスウと眠って。昼食は母に運んで貰って、薬を飲んでまた眠って。
夕方にはすっかり下がっていた熱。今朝までの熱が嘘だったように。
これなら明日は学校に行けそう、と思っていたのに、ホットミルクを持って来てくれた母は…。
「熱が下がって良かったわね。でも、明日も学校は休むのよ?」
先生がそう仰ってたから。無理をしないで、家でゆっくりするように、って。
「えーっ!」
そんな、と懸命に抗議したけれど、三日も続いていた微熱。ただでも虚弱な身体なのだし、熱が下がって直ぐに動いたら、ぶり返すこともあるだろう。医師が心配している通りに。
幼い頃から診てくれている医師の見立ては間違っていない。明日も休むのが治す早道。
熱は無くても、家で大人しく。疲れたら直ぐに眠れるように、自分の部屋で。
頭では分かっているのだけれど。だから渋々頷いたけれど、母が出て行ったら零れた涙。
せっかく注射に耐えたのに。嫌な注射を我慢したのは、学校に行けばハーレイに会えると思ったからなのに。…ハーレイが仕事をしている昼間も、挨拶をしたり、姿をチラと見掛けたり。
(…ハーレイ先生って呼ばなきゃ駄目でも、ハーレイはハーレイ…)
家で一人で寝ているよりは、ハーレイに会えるチャンスが幾つも転がっている学校。廊下とか、朝のグラウンドとか。そっちの方が断然いいのに、明日も欠席。
今日は木曜で明日は金曜、学校に行けないままで週末。ハーレイと一日一緒にいられるけれど、それまでの時間を損した気分。今日と、それから明日の分とを。
(…明日も学校で、ハーレイに会えない…)
昼の間は絶対会えない、と悲しんでいたら、聞こえたチャイム。この時間ならきっとハーレイ。仕事の帰りに、野菜スープを作りに来てくれたのだろう。
少ししてから、扉をノックする音。扉が開くと、ハーレイの姿。母は一緒に来ていない。お茶やお菓子を運んで来たって、自分はベッドの住人だから。テーブルに着けはしないから。
昨日も一昨日も、ハーレイのお茶は部屋に届きはしなかった。きっと野菜スープを煮込む間に、母が「どうぞ」と出すのだろう。ケーキなんかも添えたりして。
今日もそうだ、と視線をやったら、「起きてたか?」と微笑むハーレイ。
「熱が出てたの、下がったんだってな。注射に行って。…偉いぞ、お前」
お前、注射は嫌いなのにな、と大きな手で撫でて貰えた頭。俺がいなくてもよく頑張った、と。
「え…?」
ハーレイがいなくても、って…。どういう意味なの、いつもハーレイ、いないじゃない。
ぼくが病院に注射に行く時、ハーレイはついて来ないでしょ?
病院に行くなら、付き添いは母。大きな病院だったら両親。病院に連れて行くのは家族。それが家族の役目なのだし、ハーレイに代わりを頼みはしない。家族同様の付き合いでも。
ハーレイは何を言うのだろう、とベッドの中で首を傾げていたら…。
「いや、今日はお前が注射に行ったと、お母さんから聞かされたら、だ…」
思い出しちまった、昔のことを。…前のお前のことを一つな。
「昔のことって…。その話、ぼくに聞かせてくれるの?」
「それはかまわないが…。俺のスープがお留守になっちまう」
野菜スープを作るんだったら、キッチンに行かんと無理だからな。此処じゃ作れん。
昔話をしている間に、晩飯の時間になっちまったら…。今日のお前は野菜スープは無しだ。
スープ無しでも気にしないんなら、昔話をしてやるが。
「いいよ、ハーレイの野菜スープは無しでも」
この風邪、食欲は落ちてないから…。あのスープしか欲しくないようなヤツじゃないから。
でも、ママに頼みに行かなくていいの?
野菜スープは今日は作らないから、ぼくの食事はお願いします、って。
「その心配は要らないってな。お母さんから注射の話を聞いた途端に思い出したし…」
昔話を一つ思い出しましてね、と言っておいたんだ。お前の体調がいいようだったら、懐かしい話をしたいんですが、と。
だからだ、俺がキッチンに下りて行かなきゃ作ってくれるさ。俺の代わりに、お前の晩飯。
俺はベッドで寝ているお前に、昔話を聞かせてやっているんだから。
「そっか…。それなら安心だね」
ママだって直ぐに分かってくれるね、ハーレイが下りて行かなかったら。
昔話で忙しいんだ、って晩御飯の支度をしてくれるよね…。
普段だったら、「スープを作りに行くとするかな」と、頃合いを見て下りてゆくのがハーレイ。そうでなければ、先に作って「お前のスープが出来てるぞ」と、トレイを手にして現れるか。
そのハーレイが昔話と言って来たなら、母もその内に気付くだろう。今日は野菜スープの出番は無くて、昔話の日なのだと。ハーレイの仕事は昔話、と。
野菜スープのシャングリラ風は好きだけれども、今は昔話を聞きたい気分。前の自分の。
「ハーレイ、昔話って…。「俺がいなくてもよく頑張った」って、何のこと?」
注射だっていうのは分かるけれども、なんでハーレイ…?
「そいつが俺の昔話だ。前のお前の思い出ってヤツだ」
お前、注射が大嫌いだっただろうが。生まれ変わっても、記憶が戻る前から嫌いだったほどに。
前のお前は、最初から酷い注射嫌いで、今のお前もそれを引き摺ってる。
もっとも、シャングリラは、最初は注射が無かったんだが。
病気になっても、注射を打つってことは無かった。…あの船の初期の頃にはな。
「そういえば…。無かったっけね、いつも薬で」
注射の代わりに、飲み薬が出てたんだったっけ…。
前のぼく、そっちも嫌いだったけど…。薬の味も苦手だったんだけど。
アルタミラの檻で暮らしていた頃、飲み水に何度も薬を入れられてたから…。あの味も嫌い。
注射よりかはマシだけれども、薬も好きにはなれないよ、ぼく。
病気になったら、苦手な薬を飲まされた船。それでも、船に注射は無かった。最初の頃は。
ノルディが医師を始めるまでは、無かった注射。
船に注射器はあったけれども、医師代わりだったヒルマンは使わなかったから。ヒルマンは皆の怪我や病気を診てはいたものの、「素人だしね」が口癖だった。少し知識があるだけだから、と。
博識だったから、医者の代わりをしていただけ。それがヒルマン。
けれど、ノルディの方は違った。仲間の病気や怪我を治そうと、倉庫に薬を貰いに出掛けていたノルディ。備品倉庫の管理をしていたハーレイが、「病気がちなのか」と思ったくらいに。
そんな具合だから、ノルディはいずれ医師になろうと決めていた。病気も怪我も治せる医師に。
腕を磨いて、知識を増やして、ノルディは医師への道を進んだ。
独学の医師で、何の資格も無かったけれども、ハーレイがキャプテンになるよりも前に、皆からドクターと呼ばれたノルディ。病気も怪我も治してくれる、と。
ハーレイは「覚えてるか?」とノルディの思い出を話してくれた。物資を奪いに行くのなら、と薬品などを注文し始めたノルディ。これがあったら早く治せるとか、これが欲しいとか。
「それでだ、前のお前が医療用具を纏めてドカンと奪って来て…」
メディカル・ルームの基礎が出来たら、練習用の人形をお前に注文したんだ、ノルディのヤツ。
注射を練習したいから、と医者とかを養成するステーションで使っていた人形を。
人間相手じゃ何度も練習出来はしないが、人形だったら練習し放題だしな。
失敗したって文句は言わんし、痛そうな顔をするわけじゃなし。…腕に打とうが肩に打とうが。
「やってたっけね、注射の練習…。暇が出来たら」
注射器を持って、人形相手に。この薬品を打つんだったら、此処だ、って。
本とか映像を見ながら練習していて、見ていて、とても怖かったんだよ。
だって、注射の練習だもの…。覚えるためにやっていたんだもの。
前の自分は、あれが怖かったのだった。人形を相手に、注射の練習を繰り返すノルディ。
覚えたが最後、自分も注射されるだろうと。今は薬で済んでいるけれど、いずれは注射、と。
だから恐怖を分かって欲しくて、前のハーレイを捕まえた。厨房の仕事が終わった後に、部屋へ帰る所を呼び止めて。「ちょっと来て」と、自分の部屋まで引っ張って行って。
「ねえ、ハーレイ…。聞いて欲しいことがあるんだけれど…」
「どうしたんだ?」
何か食べたい料理でもあるのか、と訊かれて、「ううん」と横に振った首。
「ノルディの注射…。毎日、練習してるでしょ?」
ぼくが奪って来た人形で。「今のは痛すぎたかもしれないな」なんて言いながら…。
「ああ、あれか。頼もしいよな、その内に注射一本で治るようになるぞ」
今だと、薬を何回も飲まなきゃいけない病気が。注射ってヤツはよく効くらしい。
ノルディが注射を覚えてくれたら、寝込むヤツらも減るってもんだ。
「そうじゃなくって…。ぼくはノルディが怖いんだよ…!」
今はいいけど、その内に注射を覚えちゃう。そしたら、ぼくにも注射するんだよ。
ぼくは弱くて直ぐに寝込むから、薬の代わりに注射をしそう。
でも、ぼくは注射がとても嫌いで…。注射を覚えようとしてるノルディも怖いんだよ…!
注射は嫌だ、とハーレイに向かって訴えた。本当に怖くてたまらなかったから。注射への恐怖を誰かに聞いて欲しかったから。
「ぼく、アルタミラで酷い目にばかり遭ってたんだよ…! 注射のせいで…!」
研究者たちに何度も何度も注射されてて、その度に酷い目に遭って…!
だから注射は怖いんだってば、研究者じゃなくてノルディでも…!
「注射って…。ノルディの注射も怖いって…」
そういや、俺と初めて出会った頃のお前の腕…。酷かったっけな…。
「注射の痕だらけだったでしょ? どっちの腕も」
見て分かる分だけで、あれだけの数。…消えかかっていたのが、もっと沢山。
とっくに消えてしまった分なら、あんな数では済まないんだから…。百とか千とか、数えられる数じゃなかったんだから…!
ぼくが覚えていない分だって、きっと山ほど。消えちゃった記憶も多い筈だから。
何度打たれたか分からないよ、と身体を震わせた注射の忌まわしい記憶。実験のために打たれた薬物、それに結果を調べるための採血だって。
幾度となく針を刺されていたから、恐ろしかった。苦痛の記憶しか無い注射が。
「おいおい…。治療用だってあった筈だぞ、注射」
嘘みたいに痛みが消えるヤツとか、ぐっすり眠れるヤツだとか。
どれもが酷い注射ばかりじゃないだろ、マシな気分になれる注射もあっただろうが。
「マシな気分って…。苦しい注射の方ばっかりだよ…!」
いつだって痛くて、チクッとして。酷い時だと、針が刺さった時からズキズキ。
そして注射をされた後には、うんと苦しくなるんだよ。身体が辛くて丸くなりたいのに、実験のために手足を固定されてて…。もがくことだって少しも出来ずに、苦しいだけ。
その間にまた注射されるんだよ、薬の追加をするだとか…。
ぼくの身体がどうなっているか、調べるために血を抜くだとか…!
気分が良くなった注射は知らない。そんな注射をされてはいない。ただの一度も。
もしも打たれていたとしたって、記憶の形になってはいない。激しい苦痛でのたうち回る自分に研究者たちが打っていたって、苦しさしか覚えていないのだから。
ハーレイが言う「気分がマシになる注射」をされていたって、苦しみもがいた自分は知らない。
唯一のタイプ・ブルーだった自分は、死なないように治療されたけれども、それだけのこと。
実験でボロボロになった身体が回復したなら、また実験が待っていたから。
苦痛ばかりの毎日の中で、あの狭い檻で目覚めた時。腕に注射の痕が幾つあろうが、まるで関係無いのだから。古い痕なのか、新しい痕か、それさえも。また注射されるだけのこと。
だから知らない、治療用の注射。気分が良くなる注射などは。
「そうなのか…。俺は身体がデカイからなあ、負荷をかける実験の方が多かったし…」
どの程度まで耐えられるのか、という実験だけに、俺の身体を治さないとな?
身体が駄目になっちまったなら、そいつを治して次に備える。腕でも、足でも。
そういう時には注射だったし、俺が打たれた注射は治療用の方が多いんじゃないか?
お蔭で治ると知っているわけだ、具合が悪い時には注射、と。
なあに、お前も心配は要らん。
安心して打って貰うといいと思うぞ、ノルディが注射をマスターしたら。
「でも、怖い…!」
ぼくは注射が怖いことしか覚えていないし、打って欲しいと思わないんだけど…!
注射をされるくらいだったら、薬を山ほど飲まされた方がマシなんだけど…!
「今から心配しなくても…。一度打ったら気分も変わるさ」
確かに針はチクッとするがな、じきに気分が良くなるから。
そういうモンだと分かってしまえば、お前も注射の良さに気付くぞ。実に役立つと。
怖いのは最初の一回だけだが、注射をするのはノルディなんだ。研究者たちとは違って仲間だ。
お前が怖いと思っていたって、アッと言う間に済ませてくれるに決まってる。
もう終わりか、と目を丸くするぞ、きっと手早いだろうしな。
怖がらなくても大丈夫さ、とハーレイは肩をポンポンと叩いてくれたのだけれど。直ぐに注射も平気になれる、と繰り返し言ってくれたのだけれど。
(大丈夫だ、って言われても…)
嫌なものは嫌だ、と思った注射。あんな怖いものは絶対嫌だ、と。
それからどのくらい経った頃だったか。ある日、体調を崩してしまった。朝、目覚めたら重たい身体。朝食を食べに行く元気も無いから、ハーレイに部屋まで運んで貰った。
食べ終わった後、ベッドでウトウトしていたら、やって来たノルディ。医療用の鞄を提げて。
多分、ハーレイがノルディに知らせたのだろう。往診に行ってくれるようにと。いつもと同じに診察と問診、それが済んだら再び開けている鞄。きっと中から薬が出て来る。
(…薬も嫌いだったけど…。飲まないと治らないもんね…)
量が少ないといいんだけどな、と眺めていたら、「これで治る」とノルディが取り出した注射。一本打ったら熱も下がるし、身体がグンと楽になるから、と。
そうは言われても、注射は嫌。怖い思いしかしていないのだし、悲鳴を上げた。
「やめてよ、注射は嫌なんだよ!」
痛くて怖いし、それだけはやめて。お願い、我慢して薬を飲むから…!
「薬よりいいぞ、早く治るから。薬だったら三日はかかるが、注射だったら一日ってトコだ」
半日も経たずに気分が良くなる。体力も消耗しないで済むし。
この方がいい、と注射の準備を始めたノルディ。注射器に薬品をセットしてゆく。
「嫌だってば! ぼくはホントに注射が嫌で…!」
やめて、お願い。薬を少なくしてって言ったりしないから…!
薬がドッサリでもかまわないから、注射はしないで…!
涙交じりで叫んでいるのに、ノルディは注射をするつもり。消毒用の綿が入ったケースも出して来たものだから、飲み薬ではとても済みそうにない。
「やめてよ、ホントにお願いだから…! 注射はやめて…!」
お願いだってば、聞こえないの、ノルディ!?
誰か助けて、助けて、ハーレイ…!
声の限りに叫んだ自分。無意識の間に思念波で助けを呼んでいたらしくて、ハーレイが大慌てで飛び込んで来た。部屋の扉を乱暴に開けて、凄い勢いで。
「どうしたんだ、ブルー!?」
なんだ、何があった!?
「ハーレイ…!」
助かった、と思った瞬間。これで注射を打たれずに済むと。
ハーレイの方はノルディの姿に驚いたようで、何事かとキョロキョロしているから。この状況を説明しないと、とノルディの方を指差した。「注射を打つって言うんだよ」と。
薬でいいと言っているのに、注射をする気だ、と叫んだら事情は分かって貰えたけれど。危機も理解してくれたようだけれども、其処までだった。
「なるほど」と大きく頷いたハーレイ。「ついに注射か」と、「嫌なのは分かるが…」と。
「しかしだ、それなら打って貰わないとな」
嫌がっていたんじゃ治らないから。…駄々をこねずに、注射して貰え。
「え? 注射って…」
前に言ったじゃない、ぼくは注射が怖いんだ、って…!
酷い目に遭ったことしかないから、注射は怖くて嫌なんだよ…!
覚えてるでしょ、と懸命に助けを求めているのに、ハーレイの答えはこうだった。
「それを言うなら、俺もお前に言った筈だぞ。一度打ったら気分も変わる、と」
お前は注射の良さを知らないんだ、これで劇的に治るってことを。
そのままじゃ一生、損をするってな。注射だったら直ぐに治るのに、無駄に何日も寝込む羽目になって。それだとお前の身体も辛いし、辛い時間も長引いちまう。早く治すのが一番だ。
やってくれ、ノルディ。こいつの言うことは聞かなくていい。
「そんな…! 酷いよ、ハーレイ!」
ぼくを助けに来てくれたんでしょ、ぼくが呼んだから…!
なのにノルディに味方するなんて、ハーレイ、何かを間違えてない…?
「俺は間違えてはいない筈だぞ。お前の病気を治す手伝いをしてやるんだから」
いいか、我慢して注射して貰うんだ。それがお前の身体のためだし、お前のためだ。
俺は料理の途中だったのを、放り出して駆け付けて来たんだからな。
全力で走った俺の気持ちを無駄にするなよ、お前を助けてやるために。
注射からお前を助け出すのか、病気から助けるかだけの違いだ。同じ助けるなら、病気の方から助け出すのが正しいだろうが。誰に訊いても、そう言うだろうな。
「ハーレイ…!?」
ぼくは注射から助けて欲しいんだけど…!
病気の方はどうでもいいから、ぼくを助けて!
お願い、病気で寝込むくらいは、アルタミラに比べたら何でもないから…!
実験に比べたら病気なんか…、と心の底から思ったのに。熱も辛さも我慢出来ると考えたのに、一蹴された。「お前の知ってる注射とコレとは違うんだ」と。
「気分が良くなる注射ってヤツを覚えておけ」と、ベッドに腰を下ろしたハーレイ。前の自分の願いとは逆に、ノルディに協力するために。
注射から助けてくれるどころか、そのまま押さえ込まれてしまった。強い腕でグイと抱えられた身体。「こっちでいいか」と袖を捲られ、剥き出しにされた細い左腕。
「嫌だよ、やめて!」
助けてって言っているじゃない!
お願い、ぼくを放して、ハーレイ…!
「助けに来たと言っただろうが。こいつで病気が治るんだから」
ノルディ、早いトコやっちまってくれ。下手に暴れたら、余計に熱が出るからな。
こいつは俺が押さえておくから、とハーレイに掴まれた腕は動かせなくて。暴れようにも、足もハーレイの逞しい足に絡め取られて、奪われてしまった身体の自由。
「嫌だ」と涙を零しているのに、ノルディは斟酌しなかった。腕を消毒され、血管の位置を指で探られて、ブスリと打たれた恐ろしい注射。グサリと刺さった注射の針。
痛くて悲鳴を上げたけれども、痛みは多分、チクッとした程度だっただろう。ノルディは何度も練習を重ねて、自信をつけてから注射器を手にした筈だから。
それでも「痛い」と叫んだのが自分。嫌な思い出しか持たない注射は、恐怖で痛く感じるもの。ほんの僅かな痛みであっても、まるで槍でも刺さったかのように。
ノルディが「もう終わったぞ」と針を刺した場所にテープを貼ってくれた後も、まだポロポロと零れていた涙。注射は酷く痛かった上に、ハーレイも助けてくれなかった、と。
とんでもない目に遭った注射だけれども、病気は治った。いつもだったら熱にうかされて過ごす所を、ほんの半日で下がった熱。夕方には楽になっていた身体。
その代わりに見た、アルタミラの悪夢。ベッドで眠っていた筈なのに、気付けば実験室に居た。白衣の研究者たちに取り巻かれていて、打たれる注射。「どのくらい入れる?」と。
(やめて、助けて…!)
そう叫ぶ声は声にならなくて、腕に何度も針が刺される。「もっと多く」と、「次の薬だ」と。薬の量を増やされたならば、もっと苦しくなるというのに。もう充分に苦しいのに。
(お願い、やめて…!)
誰か助けて、と叫んだ声で目が覚めた。実験室でも檻でもなくて、ベッドの上で。
苦痛は少しも残っていないし、もう消えていた熱っぽさ。だるさも、手を動かすのも辛く感じた身体の重さも。
(…ノルディの注射…)
あれが効いたんだ、と眺めた腕。袖を捲ったら、腕に貼られているテープ。
(こんなの、貼って貰っていない…)
アルタミラでは、テープなど貼って貰えなかった。実験動物だったから。患者ではなくて、治療するのも次の実験のためだったから。
実験動物の肌などは守らなくていい。注射を打つ前に消毒したから、感染症の心配は無い。針を刺した痕から血が流れようが、流れ出した血が肌にこびりつこうが。
初めて見た、と指先で撫でてみたテープ。もう剥がしてもいい筈だけれど、そのまま腕に残しておいた。「今の注射は治る注射」と、「怖い注射とは全然違う」と。その印のテープ、と。
そうは思っても、怖かった注射。少しも減らない注射の恐怖。身体は楽になったけれども、怖い気持ちは残ったまま。腕にテープが貼ってあっても、違う注射だと分かってはいても。
やっぱり駄目だ、と横になっていたら、夕食を運んで来てくれたハーレイ。まだ食堂に来るのは無理だろうから、とトレイに乗せて。
「どうだ、身体は楽になったか? 顔色は良くなったみたいだが」
熱は下がったか、と額に当てられた手。「よし」とハーレイが浮かべた笑み。下がったな、と。
「そうみたい…。身体もずいぶん楽になったよ」
朝は手足が重かったけれど、もう大丈夫。だるい感じも無くなったから。
「ほらな、そいつは注射のお蔭だ」
ノルディが言ってた通りだろう? 半日も経たずに気分が良くなる筈だとな。
お前は酷く嫌がっていたが、注射は効くんだ。これでお前も分かっただろうが、注射の良さが。
「でも、怖いってば…!」
怖い気持ちは消えていないよ、注射を打たれる前とおんなじ。今もやっぱり怖いままだよ。
寝てる間に、アルタミラの夢も見ちゃったし…。夢の中で注射を打たれちゃったし。
きっとこれからも、注射される夢を見るんだと思う。ノルディに注射をされちゃったら。
だから嫌だよ、注射だけは。ぼくは飲み薬でいいんだってば…!
「駄目だな、注射の方が早く治るとノルディも言っていたろうが」
お前の弱い身体のためにも、注射で治すべきだってな。すっかり消耗しちまう前に。
アルタミラの怖い夢ってヤツはだ、その内に見なくなるってもんだ。
治る注射だと覚え直したら、嫌な思い出は消えちまうからな。
ハーレイに諭されたのだけれども、どうしても恐怖が消えなかった注射。痛い針が腕にグサリと刺さる注射器。逃げ出したくてたまらないのに、注射の評判が上がる一方だった船。
あれのお蔭で早く治ると、病気の時は注射に限ると。注射は怖いものなのに。
「…なんで、みんなは平気なわけ?」
ぼくはいつでも逃げたくなるのに、みんなは自分で行っちゃうわけ?
ノルディの所へ、「注射を頼む」って。…薬を飲んで、寝ていればいいと思うのに…。
みんな変だよ、とハーレイに零したら、「俺と同じってことなんだろうな」と返った返事。
「注射で治ることだってある、と知っているんだ。…アルタミラの檻にいた頃からな」
もちろん、中には酷い注射を打たれたヤツもいるだろう。お前みたいに。
しかし、そういう目に遭った後は、ちゃんと治療用のを打って貰って、治ったわけだ。そいつを覚えているってことだな、注射でマシな気分になった、と。
その時の気分や、楽になった記憶。そいつを今も忘れてないから、注射がいいと考える。何日も苦しい思いをするより、注射で早く治したいと。
つまりだ、お前ほどの目には遭っていないということだろうな、この船のヤツら。
治療用の注射を打たれた記憶も残らないほど、実験ばかりの日々を過ごしちゃいなかった。
苦しい思いはしたんだろうが、お前よりかはマシだったんだ。…俺も含めて、一人残らず。
それで注射をされても平気で、自分から頼みに行くんだろうな。
誰の記憶にもあった、治る方の注射。身体が楽になる注射。
残念なことに、前の自分にだけは無かった記憶。注射は苦痛を運んで来るもので、いつも苦しみ続けただけ。注射の針を刺される度に。薬を身体に入れられる度に。
アルタミラで打たれた、数え切れない恐ろしい注射。ノルディが打ってくれる注射は、その数に及びはしなかった。
「楽になった」と何度思っても、忌まわしい記憶は消えないまま。注射の後に貼られるテープを何度眺めても、「今の注射は病気が早く治る注射」と思おうとしても。
だから、最後の最後まで…。
「お前、抵抗し続けたんだ。注射を打たれるってことになったら」
ソルジャーになっても、青の間が出来ても、一向に慣れやしなかった。
注射は嫌いで、それは嫌だと文句ばかりで。
「だって、注射はホントに嫌だったから…。どうしても慣れなかったから…」
ノルディが治療にやって来る度、「注射とは違う方法がいい」とゴネたソルジャー。それが前の自分。船の仲間たちは誰も知らなくて、ノルディとハーレイが知っていただけ。
「お蔭で、俺はいつでもお前を宥める役だったんだ。…ノルディに呼ばれて」
他のヤツらに知られないよう、俺に思念を寄越すんだ、あいつ。注射するから、と。
「そうだったっけね…」
いつもハーレイが急いで来てたよ、ノルディが注射をする時には。
ホントに忙しかった時は仕方ないから、ぼくだって我慢してたけど…。でも、嫌なものは嫌。
ハーレイが「これで治るから」って言ってくれなきゃ、アルタミラしか思い出さないし…。
ぼくの寿命が残り少なくなって来た頃にだって、ハーレイ、いつも来てくれたっけね。
注射をされることになったら、ぼくの付き添い。
前の自分にノルディが注射を打とうとする度、付き添うために来ていたハーレイ。流石に身体を押さえ付けることは無かったけれども、「大丈夫ですよ」と何度も掛けてくれた声。これで身体が楽になりますからと、注射が一番効きますからね、と。
「まったく、何回、お前の注射に付き合ったんだか…」
前のお前は、基本は我慢強かったのに…。注射の針の痛みなんかは、きっと痛みの内にも入っていなかったろうに。
「痛さは関係無かったんだよ、本当の痛さがどのくらいかは…!」
もっとグッサリ縫い針とかが刺さっていたって、平気だったと思うけど…。消毒して貰って薬を塗らなきゃ、と思いながら針を抜いただろうけど…。
注射だけはホントに駄目だったんだよ、ノルディに何回注射されても…!
そのせいで今のぼくも駄目だよ、記憶が戻ったら余計に駄目。
三百年以上も嫌いなままで生きてたんだし、注射は今も嫌なんだってば…!
注射なんかは無い世界がいいな、と文句を言ってみたけれど。
前の自分たちが生きた頃からずいぶん経つのに、どうして今もあるんだろう、と注射の存在する世界に苦情を述べたけれども。
「お前なあ…。今の時代もあるってことはだ、やっぱり注射が一番なんだ」
なんと言っても、よく効く薬を身体に直接入れられるんだし…。注射が一番効くのが早い。
ノルディも研究を重ねてはいたが、いつも最後は注射の出番になっただろうが。
前のお前が文句を言うから、極力、打たないようにしてても。
それと同じだ、今の時代も。お前がどんなに注射嫌いでも、今日みたいに打つしかないってな。
「酷い…!」
ぼくはこれからも、ずっと注射を打たれちゃうわけ?
病気になったら病院に行って、注射されるしかないって言うの…?
「うーむ…。俺の家の近所の医者ってヤツもだ、問答無用で打つタイプだが…」
早く治すには注射に限る、と飲み薬よりも前に注射なんだが、庇ってはやる。
お前の注射嫌いってヤツは、俺も充分、知ってるからな。
「よろしくね。ぼくが注射を打たれないように」
ちゃんと頼んでよ、ぼくは注射が苦手なんだから。…飲み薬の方でお願いします、って。
「そりゃまあ…なあ? 俺の大事な嫁さんなんだし、頼んではやるが…」
早く治るのがいいんじゃないかと思うがな?
付き添ってやるから、注射を一本、打って貰うのが一番だろうが。
「分かってるけど…」
駄目なものは駄目。前のぼくだって、最後まで苦手なままだったでしょ…?
ハーレイが聞かせてくれた思い出話。ソルジャー・ブルーも嫌っていた注射。
どうしても打つしかないとなったら、付き添いが呼ばれていたほどに。
ドクター・ノルディが思念を飛ばして、キャプテン・ハーレイを呼び出したほどに。
注射で治ると分かっていたって、苦手なままだった前の自分。本当に最後の最後まで。
今日も注射で治ったけれども、やっぱり注射は嫌だから。早く治ると分かっていたって、注射が嫌いでたまらないから。
(…ハーレイに付き添い、お願いしないと…)
今度も注射を打たれる時には、ハーレイに側にいて貰おう。
いつか大きくなったなら。ハーレイと二人で暮らし始めたら、注射に行く時はハーレイと一緒。
前の自分がそうだったように、温かな声で守って貰おう。
「大丈夫だから」と、「怖くないから」と。
これですっかり良くなるからと、「痛くても我慢するんだぞ」と。
それに今度は、手だって握って貰えるだろう。「俺が一緒だ」と、大きな手で。
今度は結婚するのだから。ハーレイが手を握ってくれていても、誰も咎めはしないのだから…。
嫌だった注射・了
※注射が嫌いだった前のブルー。青の間が出来た後になっても、付き添いが必要だったほど。
生まれ変わっても同じに苦手で、今度も付き添いが要りそうです。注射の時はハーレイ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(口髭用のカップ…?)
変な物がある、とブルーが覗き込んだ新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
口髭のある人が使った専用のカップなのだと書かれていた。カラー写真を何枚もつけて。人間が地球しか知らなかった時代に、そういうカップが誕生した、と。
(ムスタッシュカップ…)
それが口髭用のカップの名前。ムスタッシュはそのまま、口髭の意味。名前からして口髭専用、遠い昔の地球で生まれた。千八百六十年代、いわゆる十九世紀。
イギリスという国が栄えた時代で、其処は紅茶が好まれた国。その国で暮らす紳士のためにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(口髭を濡らさずに飲めるティーカップ…)
ふうん、と読んでいった記事。発明した人はハービー・アダムス、今も名前が伝わるほどだし、相当に流行ったのだろう。口髭用だというカップは。
(髭マークつき…)
このタイプだったら、ムスタッシュカップを知らない人でも口髭用だと分かるかもね、と眺めた写真。カップの内側に橋を渡すように、最初からついている口髭置き。
カップと同じ素材で出来ているそれは、色々なデザインがあるのだけれど。形も模様もカップによって違うけれども、ユニークなのが髭の絵つき。「ここに乗せて下さい」という印。
(口髭、紅茶に入りそうだものね…)
カップの紅茶を飲もうとしたら、中にポチャンと。口髭ガードだという専用の橋が無かったら。その上に髭を置かなかったら。
大人気だったというムスタッシュカップ。それを反映して、ティーカップからマグカップまで、色々なカップについている橋。口髭を乗っけておくための。
面白いね、と読み進めたら、ムスタッシュカップが生まれた理由。口髭を乗せる橋が歓迎された理由は、紅茶で濡れるからではなくて…。
(髭の形が崩れちゃうんだ…)
紅茶の湯気で溶けてしまうというワックス。紳士たちが髭を固めておくのに使ったもの。当時の紳士は髭好きが多くて、大流行だったのがピンと捻り上げるタイプ。
これがそうです、と載っている古い写真の人物の髭が…。
(……ゼル……)
そうとしか見えない、立派な口髭。遠く遥かな時の彼方で、ゼルが生やしていた口髭。カイゼル髭と呼ぶらしい。写真の人物や、ゼルの口髭は。
(この形の髭が大流行…)
大勢の人がゼルのような髭を蓄えた時代。そうは言っても、自慢の髭が崩れないよう、カップの形を改造だなんて、凄すぎる。橋を一本渡すだけでも、ひと手間かかる製造過程。
発明した人も凄いけれども、イギリス紳士の紅茶への情熱も、きっと凄かったのだろう。専用のカップを用意してまで、飲みたかった紅茶。
(口髭があるお客さんが来たら、出してたのかな…?)
しげしげと見詰めたカップの写真。カップ本体の形も模様も実に様々、口髭用の橋が無ければ、普通のカップになりそうなもの。繊細な花柄のカップも沢山。
髭の種類も幾つもあったと書かれているけれど、そちらがメインの記事ではないから。
(ゼルの髭しか載っていないや…)
口髭を生やした人の写真は、カイゼル髭の一枚だけ。
きっと口髭の代表選手、と納得した。ヒルマンだったら頬髭もあったし、口髭よりも頬髭の方が目立っていたという記憶。ムスタッシュカップの記事に添えるには、不向きなのだろう。
(だって、口髭用だしね?)
口髭がトレードマークの人でなくっちゃ、と考えた。ヒルマンよりかはゼルの方、と。
おかしなカップがあったみたい、と何度も眺めたムスタッシュカップ。口髭がある人の御用達。必要は発明の母だけれども、何も此処までしなくても、と。
なんとも傑作なカップだった、と部屋に帰っても忘れられない。口髭を乗せる橋つきのカップ。とはいえ、自分には全く関係ない話。今の自分はチビの子供だし、前の自分も…。
(髭なんか生えなかったから…)
滑らかだった前の自分の顔。口髭も顎髭も生えはしなくて、産毛だけ。口髭が無ければ、出番が無いのがムスタッシュカップ。欲しいと思ったことさえも無い。髭も、口髭専用カップも。
(それに、髭…)
前のハーレイも生やしていなかった。二人で何度もお茶を飲んだけれど、ハーレイも口髭専用のカップに用は無いから、青の間には要らないムスタッシュカップ。
(そういうカップは無かったけれど、髭の人だって…)
専用カップが必要なほどの人数じゃないよ、と思い浮かべたシャングリラ。前の自分が暮らしていた船。あのシャングリラで髭を生やしていた人といえば…。
(ゼルとヒルマン…)
他にいたっけ、と首を傾げたけれども、どうにも思い出せない顔。船の仲間は覚えているのに。生まれ変わった今になっても、全員の名前を言えるほどなのに。
(だけど、髭の人…)
ゼルとヒルマン、あの二人しか浮かんで来ない。前の自分が知っている顔は二つだけ。
もっとも、アルテメシアを脱出した後、誰か生やしたかもしれないけれど。赤いナスカに降りた頃には、他にいたかもしれないけれど。
前の自分の記憶にある髭は、ゼルとヒルマンの二人だけ。彼らしか生やしていなかった髭。他に一人もいなかったのは、年齢のせいもあるかもしれない。
(若いと、あんまり似合わないものね…)
本当の年齢はともかくとして、外見は若かった仲間たち。アルタミラからの脱出組も。若い間に年を取るのをやめてしまったから、船の仲間は青年ばかり。
(んーと…)
この顔も駄目であの顔も駄目、と色々な仲間の顔に描いてみた髭。頭の中で。誰の顔にも、髭は似合わなかったから…。
(長老並みに年を取らないと…)
髭を生やしても駄目なんだよ、と考えた。きっと似合いはしないのだと。
けれど、その辺の事情は聞いてはいない。ゼルとヒルマン、あの二人が髭を生やしていた理由。前のハーレイからは聞かなかったし、多分、ゼルたちからだって。
今の自分が忘れたのではなかったら。記憶から消えたわけではないなら。
(聞いてないけど、ゼルはカイゼル髭…)
そういう名前の髭だったんだね、と今の自分が仕入れた知識。さっき新聞で読んだカイゼル髭。それを固めるワックスが湯気で溶けないようにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(カイゼルカップって名前じゃないから…)
他にも口髭の名前は幾つもあったのだろう。大流行したのがカイゼル髭だっただけで。
(あの頃だったら、ゼルは流行の最先端だよ)
だってカイゼル髭なんだもの、とゼルのピンとした口髭を思った。カイゼル髭、と。
(…ゼルがカイゼル髭…)
髭の名前にゼルの名前が入ってるよ、とクスッと笑ったのだけれども…。
クイと心に引っ掛かったもの。ゼルが生やしていたカイゼル髭。
(ちょっと待って…!)
それだ、と蘇って来た記憶。遠く遥かな時の彼方で、ゼルの顔にあったカイゼル髭。ゼルの顔にあれが生まれた理由。ゼルだからカイゼル髭だっけ、と。
(最初は長老のみんなに共通の話で…)
前の自分を補佐してくれた、長老たち。それにキャプテンだったハーレイ。
仲間たちが外見の年齢を止めてゆく中、彼らはそのまま年を取り続けた。前の自分は、とっくに年を取るのを止めていたのに。
「あたしたちには、威厳ってヤツが必要なんだよ。なにしろ、あんたが若いんだから」
周りがしっかりしていないとね、と年を重ねていったブラウたち。外見から自然に生まれてくる重み、それも役立つ筈なのだから、と。
そうして時が流れてゆく中、髭を伸ばすと言い出したゼル。長老たちが集まった席で。
「顎髭がいいと思うんじゃがな。こんな具合に」
こうじゃ、とゼルが顎の下に手で描いてみせたイメージ。十センチくらいはあっただろうか。
「私も伸ばそうと思っていてね。髭は貫禄がありそうだから」
やってみようと検討中だ、とヒルマンも髭を伸ばすつもりで、たちまち顔を顰めたエラ。
「髭だなんて…。それも二人で伸ばすだなんて。あなたたちの立場が分かっていますか?」
無精髭という言葉があるほどですから、髭は賛成できません。
貫禄を出そうと言うのだったら、年齢を重ねてゆくだけでいいと思いますが?
「無精髭とは違うわい! 髭は威厳があるものなんじゃ」
きちんと手入れをしておれば問題ないじゃろうが。
わしの顔じゃぞ、わしだって無精髭は御免じゃ。この顔に似合う髭がいいんじゃ…!
どういう風に伸ばしてゆくかはヒルマンと二人で考えるわい、と言い切ったゼル。伸ばす過程で文句が出て来ないように気を付ける、と。
髭を伸ばしたかった二人は、エラの小言を言葉巧みに躱し続けて…。
「なんだい、顎髭じゃないのかい?」
顎はツルリとしてるじゃないか、とブラウが見詰めたゼルの口髭。顔の両側にピンと張り出して立派だけれども、最初に言っていた顎髭が無いから。綺麗に剃られたツルツルの顎。
「わしは考えを変えたんじゃ。これでいいんじゃ、顎髭は要らん」
ピッタリの髭が見付かったからな、わしはこれからコレにするんじゃ。
得々とゼルが髭を引っ張るから、前の自分も興味を引かれた。ピッタリの髭とは何だろう、と。
「ピッタリの髭って…。その髭なのかい?」
「そうじゃ、カイゼル髭と言うんじゃ!」
似合うじゃろうが、と言われたものの、カイゼル髭。耳に馴染みが無い名前。
「ふうん…? ゼルが生やすから、カイゼルなのかい?」
自分の名前の前にカイとつけるのかな、そのタイプの口髭を生やす時には?
「カイゼルと言ったら、カイザーじゃが?」
そのままの意味じゃな。読み方だったか、発音だったか、それが違うというだけなんじゃ。
「カイザーって…」
ゼルの髭という意味ではなくて、カイザーだって…?
頭を掠めた嫌な思い出。カイザーの方なら、前の自分も知っていた。リーダーからソルジャーに変わった切っ掛け、皆が投票で決めた尊称。候補の中にあったカイザー。
やたら偉そうな代物だったから、忘れられずに覚えていた。カイザーという言葉の意味を。
「カイゼルの意味は、皇帝なのかい…?」
皇帝がカイザーだったと思う、と確かめてみたら。
「そうじゃ! 皇帝の髭じゃから、カイゼル髭と言うんじゃ、これは」
ゼルの話では、遥かな昔の地球にあった国。ドイツ帝国のヴィルヘルム二世、独特の形の口髭を誇っていた皇帝。彼の名にちなんで、同じタイプの口髭にカイゼル髭と名前が付いたらしい。
「皇帝が生やしていた髭だって?」
前の自分も驚いたけれど、ブラウもポカンと口を開けていた。「そりゃ偉そうだ」と。
「皇帝の髭じゃぞ? 由緒正しい髭というヤツじゃ、カイゼル髭は」
上手い具合にわしの名前も入っておるしな、ちゃんと「ゼル」とな。
ソルジャーも勘違いしたほどなんじゃし、これこそがわしに似合いの髭じゃ。顎髭なんぞより、ずっといいわい。カイゼル髭の方が。
素晴らしいじゃろ、と自慢するゼルの姿に、ブラウが「ヒルマン髭は?」と尋ねた。ヒルマンの名前が入っているとか、そういった髭もあるのかい、と。
「いや、私のは…。残念ながら…」
ゼルのようにはいかなかったね、と苦笑するヒルマンは口髭に頬髭。如何にも由緒がありそうな形に見えたけれども、ヒルマンの名前を織り込んだ髭は無かったらしい。
カイゼル髭が流行った時代は、髭も色々あったのに。髭の紳士が多かったのに。
ヒルマン曰く、無精髭という言葉もあるのが髭だけれども。その髭が紳士のお洒落だった時代、そういう時代があったという。髭を伸ばしていた紳士たち。
「古き良き時代というヤツだね。伸ばすと言ったら反対された、ゼルや私にしてみれば」
その頃の髭は、大層優遇されていたから…。専用のカップもあったくらいに。
「カップだって?」
何のカップだい、と前の自分もブラウも不思議に思った。カップと言ったら、紅茶やコーヒーを飲むためのもの。それしか頭に浮かんで来ないし、髭の紳士の専用カップなど想像出来ない。
何の目的でそれが在ったのかも、どんな形のカップなのかも。
「普通のカップと同じように使うカップだよ。発明された国では、紅茶用だったらしいね」
他の国でも作られていたし、形も色々だったから…。コーヒーを飲んでいた紳士もいただろう。
ムスタッシュカップという名前のカップで、ムスタッシュは口髭の意味だった。名前の通りに、口髭用のカップなわけで…。
口髭の形が紅茶の湯気で崩れないよう、それに濡れないようにとも思ったんだろうね。カップの内側に、髭を乗せておくための橋がくっついていたんだよ。最初から。
残念なことに今の時代は無いらしい、と笑ったヒルマン。
ムスタッシュカップはとうの昔に廃れてしまって、現物も残っていないようだという。博物館にあったとしたって、展示される機会も無いのでは、と。展示しても分かって貰えないから。
けれど、ゼルとヒルマンが生やした口髭。
紅茶やコーヒーを飲むには不向きだけれども、ムスタッシュカップが無くても問題無いらしい。湯気で崩れたり、濡れたりするのを防ぎたかったら、サイオンを使えばいいことだから。
わざわざカップを誂えなくても、髭をシールドしておけるから。
(…ムスタッシュカップ、って言っていたっけ…)
時の彼方で、前の自分が聞いただけのカップ。さほど興味が無かったのだろう、どんなカップか改めて尋ねはしなかった。訊いていたなら、「こういうカップで…」と思念で伝えて貰えたのに。
(ああいうカップだったんだ…)
ムスタッシュカップ、と思い浮かべた新聞記事の写真。前の自分が名前だけを聞いた、カップの写真を見てしまった。長い長い時が流れた後で。青い地球の上で。
ゼルとヒルマンは多分、見たことがあっただろう写真。髭が優遇された時代の口髭用のカップ。
(…今のハーレイ、知ってるのかな?)
口髭用にと発明されたムスタッシュカップ。
それに、そのカップが生まれる切っ掛けになった紳士たちの髭。皇帝が生やしたカイゼル髭。
今のハーレイは沢山の知識を持っているから、生まれ変わった後に覚えたかもしれない。こんなカップがあったようだと、このスタイルの髭の呼び名はこう、と。
前のハーレイの記憶が戻る前から、ちゃんと仕入れて。今のハーレイの知識として。
(知ってるかどうか、訊いてみたいな…)
仕事の帰りに寄ってくれたら訊けるんだけど、と思っていたら、チャイムが鳴った。急いで窓の所に行ったら、ハーレイが手を振っている。庭を隔てた門扉の向こうで。
(やった…!)
これで訊ける、と小躍りした。ムスタッシュカップも、カイゼル髭も。
今のハーレイは知っているのか、其処から入って思い出話。シャングリラのことを話そうと。
ワクワクしながらハーレイを迎えて、テーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けて。テーブルには母が運んで来てくれた紅茶もあるから、カップをチョンとつついて尋ねた。
「あのね、ハーレイ…。ムスタッシュカップって、知っている?」
紅茶とかを飲むカップだけれど…。ちょっと変わっているカップ。
「口髭用のだろ? こういうカップの内側にだな…」
こんな感じで髭を乗せるための部分がくっついていて、とハーレイが指で描いた形。新聞で見た写真とそっくり、間違いなくムスタッシュカップだったから、念のため。
「今日の新聞、読んで来たの?」
ムスタッシュカップの記事が載っていたけど、家か学校で読んじゃった?
「いや、前にたまたま読んだんだ。あれは新聞ではなかったぞ」
何の本だったか、タイトルは思い出せないんだが…。あのカップが生まれた時代を詳しく書いた本だな、その手の本は多いんだ。人気の高い時代だから。
「それじゃ、写真も載ってたの?」
ムスタッシュカップの写真も見られた?
「見たぞ、何枚か載ってたからな」
写真無しだと、どんなのか想像しにくいだろうが。あんなカップは。
「傑作だよねえ、髭を乗せておくための橋がついてるカップだなんて」
ぼくが見た写真だと、髭の絵が描いてあるのもあったよ。あれだと分かりやすいけど…。
髭の絵は無しで、あのカップだけを見たら悩んでしまいそう。これはなあに、って。
「確かにな。何に使うのか、まず分からんなあ…」
カップだというのは理解できるが、あの橋を何に使うのか。
其処に砂糖を乗せて出すんだ、と言われたらコロリと騙されそうだぞ。
でなきゃスプーンを置く場所だとか…。間違え方は幾らでもありそうだよな。
本当の使い方を知らなきゃ分かるもんか、とハーレイも知っていたムスタッシュカップ。ずっと昔にシャングリラで聞いた、髭の話とは無関係に。
ならば今度は髭を訊かねば、と「カイゼル髭っていうのも知ってる?」と尋ねたら。
「もちろんだ。ムスタッシュカップの時代に流行ったヤツだな、カイゼル髭は」
あれだろ、ゼルが生やしていたような髭。ああいう髭がカイゼル髭だ。
「そっちも本で読んだわけ?」
「さてなあ…。どうだったかなあ、髭用のカップほど印象に残るものでもないし…」
これだ、と直ぐには思い出せんな。小説なんかにも出て来るから。
「そっか…。それでね、ムスタッシュカップなんだけど…」
ヒルマンも話をしていたよ。口髭用のカップなんだ、って。
「はあ? ヒルマンって…」
どうしてムスタッシュカップの話になるんだ、ヒルマンも髭を生やしちゃいたが…。
シャングリラには無かったぞ、ムスタッシュカップ。あったら忘れる筈がないからな。
「えっとね…。そういうカップがあったんだ、っていう話。ずうっと昔は、って」
ヒルマンとゼルが髭を伸ばした時の話だよ。
髭を伸ばしたら貫禄が出るから、って二人で揃って伸ばすことにして…。エラが文句を言っても無視して、あのスタイルになった後。
髭が優遇されてた時代もあったんだ、ってムスタッシュカップの話をしてた。そういうカップを作ったくらいに、髭が流行していた時代。
皇帝だって立派な髭を生やして、その皇帝と同じ髭だからカイゼル髭。皇帝はカイザーで、同じ意味の言葉がカイゼルでしょ?
それが気に入って、ゼルはカイゼル髭にしたんだよ。
顎髭を伸ばすつもりでいたのに、やめてしまって口髭だけ。自分にピッタリの髭だから、って。
皇帝の髭で、ゼルの名前も入っているのがカイゼル髭、とハーレイに話した。それで顎髭よりも口髭、と。
「覚えていない? とっても得意そうだったけど…」
わしにピッタリの髭なんじゃ、って。…ヒルマンの方は、そういう髭は無かったけれど。
なんでああいう髭にしたかは、前のぼくも聞いていないんだけど…。
「あったな、そういう話もな…。思い出したぞ、俺も危ないトコだったんだ」
綺麗サッパリ忘れちまってたが、危機一髪というヤツかもしれんな。
「え? 危ないって…。何が?」
キョトンと瞳を見開いていたら、「分からないか?」とハーレイが指差した自分の顔。
「髭だ、髭。あの二人に呼ばれちまってな…」
自分たちは髭を伸ばすことにしたから、お前も伸ばせ、と言われたんだ。俺が伸ばせば、長老の男は全員が髭ってことになるだろ?
そうなればエラの小言も減りそうだからな、髭は長老のシンボルなんだと言い返せるから。
あいつら、悪知恵を働かせやがって…。俺を巻き込もうと、あの手この手だ。
キャプテンこそ髭を伸ばすべきだと、うんと貫禄が出るからと来た。
「そうだったの!?」
ゼルたち、ハーレイを髭の仲間にしようとしてたんだ…。
二人だったらエラも怒るけど、ハーレイまでってことになったら、確かに怒りにくいかも…。
長老なんです、っていう印が髭なら、ちょっと文句は言えないものね…。
まるで知らなかった、前のハーレイが見舞われた危機。髭を伸ばせと誘った二人。ヒルマンと、ゼルと。「キャプテンこそ髭を伸ばすべきだ」と。
「…ハーレイ、どうやって無事に逃げられたの?」
ゼルはとっても押しが強いし、ヒルマンだって粘り強いよ?
二人揃って押し掛けられたら、とても断りにくそうだけど…。それにハーレイの飲み友達だし。
顔を合わせる度に「髭を伸ばせ」で、しつこく言われそうなんだけど…?
「その通りだ。あいつらは諦めが悪かった。…また来るから、と諦めないんだ」
しかし、諦めて貰わないと…。俺は髭を伸ばしたいとは思わなかったし、いくら誘われても気は変わらない。髭面の俺なんて、自分でも想像出来なかったしな。
だから、ヤツらが言ってくる度、「髭なんか手入れしていられるか」と断ったんだが…。
伸ばした髭を手入れするより、剃った方が早いと言ったんだが。
キャプテンの仕事は多忙なんだし、髭の手入れは時間の無駄だ、と。
そしたら、「ムスタッシュカップはどうだ」と言われた。…あいつらにな。
「ムスタッシュカップって…。なに、それ?」
口髭があるから、ムスタッシュカップを使うんでしょ?
髭は伸ばさないって言っているのに、ムスタッシュカップが何の役に立つの?
「俺が見事に髭を伸ばしたら、そいつの出番になるからな」
レトロな物が好きだろう、と攻めて来たんだ、あいつらは。
髭を伸ばしたら、うんとレトロなムスタッシュカップを使えるぞ、とな。
「ムスタッシュカップって…。あの頃は、シャングリラでカップは作っていなかったよ?」
前のぼくが奪ったカップばかりで、船では作っていなくって…。
それに奪って来るにしたって、ムスタッシュカップが作られてた時代は、ずうっと昔だよ?
ヒルマン、自分で言ってたじゃない。現物は残っていないだろう、って。
「作ってやると言われたんだ!」
宇宙の何処にも存在しないレトロなカップを、俺専用に!
髭を伸ばすなら、ゼルが作ってプレゼントすると、餌をちらつかせに来やがったんだ…!
前のハーレイを髭仲間にしようと企んだらしい、ゼルとヒルマン。二人よりも三人の方が何かと便利で、エラの小言も躱せるから。
けれど、ハーレイは首を縦に振らず、ゼルとヒルマンは考えた。木で出来た机を使っている上、羽根ペンを愛用していたハーレイ。誰が見たってレトロ趣味だから、それを使おうと。
悪党二人が目を付けたのが、ムスタッシュカップ。遥か昔の十九世紀に流行ったカップ。口髭を生やした紳士のためにと生まれたカップで、現物は残っていないだろうから…。
「わしが作ってやろうと思うんじゃが…。髭を伸ばすんなら、上等のムスタッシュカップをな」
どうじゃ、ムスタッシュカップじゃぞ?
ヒルマンが今、話したじゃろうが。本物は多分、残っておらんと。なにしろ十九世紀じゃし…。
しかし、わしなら、本物そっくりのヤツを作ってやれるんじゃ。
髭を伸ばして仲間になるなら、最高のヤツをプレゼントしてやれるんじゃがのう…。
レトロの極みじゃ、とハーレイを引き摺り込もうとしたゼル。一緒に髭を伸ばさないか、と。
ゼルは手先が器用だったから、具体的なプランも披露した。
ハーレイが選んだ好みのカップに、割れて駄目になった食器で作った髭用の橋。そちらも好みの形に仕上げて、外れないようにくっつける。たったそれだけ、けれど宇宙に一個だけのカップ。
ムスタッシュカップは、時の彼方に消えたから。多分、残っていないから。
そういうカップが欲しくないか、とニヤニヤと笑うゼルの隣で、ヒルマンも大きく頷いた。
「いいと思うよ、ムスタッシュカップ。君はコーヒー党なわけだが…」
紅茶に限ったものでもないしね、ムスタッシュカップ。紳士の好みも色々だから。
髭を伸ばして、ブリッジでムスタッシュカップに淹れたコーヒー。
レトロなカップで、大いに威厳が出ると思わないかね。口髭専用のカップなのだよ?
「威厳よりも前に、笑い物だと思うんだが…!」
そいつが本当に洒落たカップなら、廃れる代わりに今も残っている筈だろうが!
流行った当時はそれで良くても、後の時代に笑われたからこそ、消え失せたんだと俺は思うが!
レトロ趣味にも色々あって、とハーレイが必死に打った逃げ。
自分が欲しいと思わない物は、レトロの極みでも価値はゼロだと。ムスタッシュカップは要りもしないと、髭も剃る方が好みだから、と。
「それでもしつこく通って来たがな、あいつらが髭を伸ばしてゆく間には」
こういう顔に憧れないか、と髭面の紳士の顔写真を見せに来るだとか…。
ムスタッシュカップが出来上がったらこんな感じだ、と絵を描いて持って来るだとか。
欲しくないか、と何度も言ったぞ、レトロの極みで宇宙に一つ、と。
「ハーレイ、危なかったんだ…」
髭を伸ばせって言われていたなんて…。ホントに全然知らなかったよ、前のぼく。
ゼルもヒルマンも、ぼくには何も言わなかったし…。ハーレイを誘っているんだってこと。
もしもハーレイが巻き込まれてたら、ゼルたちの仲間にされていたわけ?
「そうなるな。…俺が髭面の紳士もいいな、と惹かれちまうとか、レトロなカップに…」
ゼルが何度も「こんなのはどうじゃ?」と見せに来ていた、手作り予定のムスタッシュカップ。
あれにウッカリ釣られていたら、だ…。
キャプテン・ハーレイも見事な髭面だったんだろうな、あの二人に負けず劣らずの。
「……ハーレイに髭……」
ゼルが生やしていたカイゼル髭とか、ヒルマンみたいな髭だとか…。
ムスタッシュカップに釣られたんなら、口髭は絶対、生やすんだよね…?
でなきゃカップの出番が無いから、ハーレイに口髭…。
ゼルみたいな髭を生やしていたとか、顎髭も伸ばしちゃってたとか…?
向かい側に座ったハーレイの顔をまじまじと眺めて、何度もパチクリ瞬きをした。
ハーレイがゼルたちの勧誘に乗っていたなら、とんでもないことになっていたかもしれない。
(…威厳たっぷりかもしれないけれど…)
口髭を生やしたキャプテン・ハーレイ。もしかしたら、ついでに顎髭だって。
髭を蓄え、ムスタッシュカップでコーヒーを飲んでいるハーレイ。宇宙にたった一つしかない、御自慢のレトロなムスタッシュカップ。口髭を置く橋がついたカップで。
「…前のぼく、それでも恋をしたかな?」
ハーレイが髭面になっちゃっていても。…口髭を生やしたハーレイでも。
「どうだかなあ…。俺はお前に一目惚れだし、お前もそうだという話だし…」
恋をしたのがずっと後なだけで、出会った時から特別だしな?
俺が髭面になっていようがいまいが、お前は俺に惚れたんじゃないか?
ただなあ…。前の俺が口髭を生やしていたらだ、とりあえずキスに邪魔だと思うぞ。
お前が顔を近付けて来たら、どうしても髭が触るわけだし…。
この髭が邪魔だ、と思っちまうのか、髭もいいなと思ってくれるか。邪魔な髭でもな。
「やっぱり、髭は邪魔だよねえ…。ぼくもそう思うよ、キスの時には邪魔かもね、って」
それで、ハーレイ…。キスしてもいい?
「なんだと!?」
どうして其処でキスになるんだ、髭の話をしてるんだろうが!
「ハーレイ、自分でキスって言ったよ。髭があったら邪魔そうだ、って」
今のハーレイにも髭は無いでしょ、だからキス。
邪魔な口髭は生えてないから、キスをするのも簡単だよね、って。
「揚げ足を取るな!」
お前、まだまだ子供だろうが!
チビの間はキスはしないと言った筈だぞ、俺の髭とは別問題だ!
もっと大きく育ってから言え、そういうませた台詞はな…!
コツンと軽く叩かれた頭。「子供は子供らしくしろ」と。
そうなることは分かっていたから、「痛いよ!」と大袈裟に騒いだ後で。「ハーレイのケチ」と睨み付けた後で、この騒動の原因をハーレイにぶつけてみた。
ゼルとヒルマンがハーレイを勧誘していたカップ。餌にしていたムスタッシュカップを。
「えっと…。ハーレイ、ホントにムスタッシュカップは要らないの?」
レトロの極みって言われたらそうだし、ちょっぴり欲しいと思わなかった?
口髭を生やすのとセットでなければ、ゼルの手作りで宇宙に一つ。
そういうカップは欲しくなかったの、ハーレイだけしか持っていないレトロなカップなんだよ?
「別に欲しいとは思わなかったなあ…。いくらレトロでも」
今の俺でも、其処は同じだ。そういうカップの知識は持ってて、復刻品もあるようだがな。
「復刻品って…。ホント?」
あんなカップが売られているわけ、ちゃんと新しく作ったヤツが…?
「イギリスではな。…昔、イギリスだった辺りの地域に行ったら、あるんだそうだ」
もっとも、お前が新聞で見た写真のカップは、古いヤツかもしれないが。…十九世紀の。
データは今も残っているしな、前の俺たちの頃と同じに。
「そうだね、うんと古いデータで、本物はとっくに消えちゃってる物…」
色々あるよね、カップの他にも。本とか、昔の服とか家具とか。
…復刻品のムスタッシュカップがあるんだったら、ゼルたち、あのカップ、欲しいかな?
口髭専用のカップなんだし、お店で売られているんなら。
「あいつらか…。あるなら、買うかもしれないなあ…」
なにしろ自慢の髭だったんだし、俺まで引き摺り込もうとしたし…。
こだわりの口髭を持ってたからには、あのカップも試してみるかもな。
本当に役に立つのかどうかと、興味津々で紅茶を淹れて。…紳士気取りで傾けてみて。
やりそうだよな、とハーレイが笑みを浮かべるカップ。口髭専用のムスタッシュカップ。
シャングリラには無かったカップだけれども、それが思い出を連れて来てくれた。髭の話やら、前のハーレイが髭の危機だった話やら。
ハーレイはレトロな物が好きだし、いつか旅をして、復刻品のカップに出会ったら…。
「ムスタッシュカップ、一つ買ってみる?」
ぼくもハーレイも口髭は無いから、役に立つのか分からないけど…。
普通のカップでお茶を飲むより、邪魔な感じのカップなのかもしれないけれど。
「ふうむ…。土産物に一つ買うってか?」
前の俺は本物を貰い損なったが、今なら土産に買えるわけだし。
「うん! いいでしょ、口髭専用のカップ」
選べるんなら、髭の絵がついてるヤツがいいかも…。
それとも、ゼルが「こんなのはどうだ」って、絵を描いたヤツに似たのがいいかな?
思い出だもの、とハーレイに微笑み掛けた。
前のハーレイは髭を生やさなかったけれども、その思い出に一つ、ムスタッシュカップ。
口髭は二人とも生やさないけれど、旅の記念に買ってみる。
二人で眺めては、「危なかったね」と幸せに笑い合うために。
遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが見舞われた危機。
それを二人で思い出しては、ムスタッシュカップをつついてみよう。
口髭専用に発明されたカップを、ゼルが作ろうとしていたカップの復刻品を…。
口髭用のカップ・了
※ゼルとヒルマンが生やしていた髭。実は、ハーレイも髭仲間にしようとしていたのです。
レトロ趣味なハーレイ用に、ムスタッシュカップを作ってやるから、と。危なかったかも…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ね、ハーレイ」
温めてよ、と小さなブルーが頼んだ休日。ちょっと温めて欲しいんだけど、と。
よし、とハーレイが差し出した大きな手。「ほら」と右手を包み込もうと、心得たように。頼む時はいつも、そうだから。「温めてよ」とハーレイに強請る日は、いつも。
前の生の最後に凍えた右手。撃たれた痛みで失くしてしまった、右手に持っていた温もり。最後まで持っていたかったのに。ハーレイの温もりを持っていたなら、一人ではない筈だったのに。
独りぼっちだと泣きじゃくりながら、前の自分は死んだから。
冷たかった右手を覚えているから、今もハーレイに温めて貰う。右の手が冷えていない時でも、その温もりが欲しくなるから。
けれども、今日は欲しいものが違う。温めて欲しいのは右手ではなくて…。
「どうしたんだ、ブルー? 手を寄越さないと温められないぞ?」
早くしろよ、と鳶色の瞳が促すから。
「それじゃなくって…!」
こっち、と乗っかったハーレイの膝。自分の椅子から立って行って。テーブルを挟んだ向こうへ回り込んで。
膝の上に座って、両腕でギュッと抱き付いた大きな身体。広くて逞しい胸にピタリとくっつく。
(ふふっ、あったかい…)
ぼくのハーレイ、と頬を、身体を擦り寄せる。ハーレイはぼくのものなんだから、と。
甘える仕草に途惑いながらも、ハーレイは腕を回して抱き締めてくれた。落っこちないように。
それから溜息交じりの声が降って来た、頭の上から。
「お前なあ…。温めてくれって、手じゃないのか?」
いつだって右手ばかりだろうが。何なんだ、これは。俺にお前をどう温めろと?
「全部に決まっているじゃない! ハーレイにくっついているんだから!」
たまには丸ごと温めてよ。右手だけだなんて、ケチなことをしないで。
ぼくたち、恋人同士だけれども、キスをするのは駄目なんでしょ?
キスは頬っぺたと額だけだぞ、ってハーレイ、いつも言ってるから…。唇は駄目、って。
「当然だろうが。お前はまだまだチビで子供だ」
前のお前とそっくり同じ背丈になるまで、キスは駄目だと言った筈だぞ。
あと二十センチだ、頑張って伸ばせ。…俺としては急いで欲しくないがな、子供時代を思い切り楽しんで貰いたいからな。
「いつだって、そう言うんだから…。ゆっくり大きくなるんだぞ、って」
キスが駄目なら、ぼくを丸ごと温めるくらいのことはいいでしょ?
ほんのちょっぴりくっつくだけだよ、ぼくはそんなに重たくないと思うから…。
それに身体ごと、もっとしっかり温めて欲しいと思っても…。
本物の恋人同士になるのも駄目みたいだし、と言ったらコツンと小突かれた。額を、軽く。
「そういう魂胆なら降りて貰うぞ。俺を誘惑しようってか?」
チビのくせして、一人前に…。降りて自分の椅子に戻るんだな。
「駄目!」
一人で座るより、二人がいいよ。ハーレイと一緒に座っている方が、断然いいよ。
もうくっついた、と抱き付いていたら。降りてたまるかと甘えていたら…。
(嘘…!)
慌てて離れたハーレイの身体。膝からピョンと飛び降りた。有り得ない音が聞こえたから。扉の向こうで母の足音。階段を上ってやって来る音。
大急ぎで自分の椅子に戻って、何食わぬ顔でカップも手にした。飲んでるんです、といった風になるよう、紅茶のカップを。中身は少しは減っているから。
でも…。
(…違った…)
階段を上がって来た母の足音は、違う方へと。こちらへは来ずに、遠ざかってゆく。母の部屋に用事があったのだろう。何かを取りにやって来たとか、置きに行くだとか。
紅茶のカップを手にしたままで息を詰めていたら、暫くしてから下りてゆく音。さっきとは逆に階段を下へ、トントンと。
母の足音が消えてしまってから、安堵の息と一緒に零れた言葉。
「ビックリした…」
「実は俺もだ」
俺としたことが驚いちまった、心臓がドキンと跳ね上がったぞ。
柔道の試合の真っ最中でも、落ち着いてるのが自慢なんだが…。そうでなきゃ俺が負けちまう。相手のペースに持ち込まれたら負けだ、勝負ってヤツは。
思いもよらない技で来たって、冷静に対処出来てこそだが…。
どうやら一本取られちまったな、お前のお母さんに。見事な一本背負いってヤツで。
試合だったら俺は今頃床の上だ、とハーレイは両手を広げて降参のポーズ。負けちまった、と。
(…ママ、ハーレイを投げ飛ばしちゃった…)
なんだか凄い、と思うけれども、さっきの母は本当にハーレイを心底驚かせたのだろう。試合中なら、母のペースに持ち込めるような勢いで。
(ぼくもビックリしちゃったもんね…?)
ハーレイのように上手い例えは見付からないけれど、自分も母にしてやられた。油断していて、隙だらけ。柔道だったら投げ飛ばされて、床に転がされていたのだろう。
(…ママが二階に来るなんて…)
こんな時間に、と眺めた時計。反則だよね、と。
ハーレイとこの部屋で過ごすようになって、いつの間にか二人で気付いていたこと。二人きりでゆっくり過ごせる時間は此処、と。
母が扉を軽く叩いて、「お茶のおかわりは如何?」と現れない時間。
最初の間は階段を上る音がしないかと、常に気にしていたのだけれど。何度も二人で会っている内に、母のルールというのを覚えた。この間ならば来ないようだ、と。
今の時間もそういう時間。母が扉をノックしない時間。
知っていたせいで、安心し切っていたものだから。ハーレイもそれが分かっていたから、甘えていたって許してくれた。膝の上に座って抱き付いていても。
母は来ないと二人揃って思い込んでいたら、とんだ不意打ち。いきなり聞こえた母の足音。行き先は別の部屋だったけれど、扉を叩きはしなかったけれど。
縮み上がってしまった心臓、自分も、それにハーレイだって。
「…ホントにビックリしちゃったけれど…。ママの足音」
でも、間に合ったね、ぼくの逃げ足。ママが来てても、絶対にバレなかったと思う。ハーレイの膝に座ってたことも、抱き付いてくっついてたことも。
「まったくだ。鮮やかだったな、チビだけにすばしっこいってか?」
座るだけじゃなくて、カップまで持って。何処から見たって、椅子から動いちゃいないってな。
「ぼくも上出来だったと思う。顔だって普通だったと思うよ」
ビックリした、って顔じゃなくって、普通の顔。ドキドキしてるのは心臓だけで。
だからね、きっとホントに来ちゃった時でも大丈夫だよ。
ハーレイにくっついて甘えてる時にママが来たって、ちゃんと元通りに椅子に座って。
「悪いヤツだな、お母さんに内緒の恋人か」
べったりくっついて、キスだの何だの言ってるくせに…。お母さんには秘密なんだな?
「ハーレイだって、おんなじじゃない!」
ぼくがホントは恋人だってこと、ママもパパも少しも知らないんだから…!
ずうっと秘密で隠してるでしょ、ぼくと同じで内緒じゃない!
「まあな。…バレちまったら、色々と困るんだろうしなあ…」
お前が大きくなっていたなら、何の問題も無いんだが。
生憎と、恋をするには早すぎる年で、立派にチビの子供だからなあ…。誰が見たって。
俺の方が大人な分だけ、お前よりもタチが悪いかもな、と苦笑するハーレイ。同じように隠しているにしたって、お前はチビだからまだマシだが、と。
「…そういうものなの?」
おんなじ秘密を抱えているのに、ハーレイの方が悪いってことになってしまうの?
先生だからっていうんじゃなくって、大人だから…?
「大人だからというのもあるし、俺の方が遥かに年上だしな?」
こういった秘密の恋ってヤツはだ、見付かった時には年上の方が分が悪いもんだ。
責任はお前にあるんだろう、と責められるのは年上の方だってことさ。長く生きてりゃ、知恵もつくしな。甘い言葉でたぶらかしたとか、巧みにたらしこんだとか。
隠さなければいけないような恋の道へと、若いヤツを引き摺り込んだ悪党なんだからな。
「そうなんだ…。責任を問われちゃうんだね。バレちゃった時には、年上の方が」
だったら、前のぼくたちだと…。
ハーレイと恋人同士だったのがバレちゃっていたら、悪者にされてしまうのは…。
「お前の方ってことになるのかもなあ、俺より遥かに年上だったし」
見た目はともかく、本当の年。…お前の方が俺よりもずっと年上だったんだから。
「中身はそうじゃなかったけどね」
ぼくの中身は年下だったよ、ハーレイよりも。
記憶をすっかり失くしてしまって、成長も止めてしまっていたから…。身体も、心も。
「最初だけはな」
俺の後ろにくっついて歩いてたチビで、中身も見た目と同じだったが…。
外見そのものの子供だったが、それは最初の内だけだろうが。俺よりも年下だったのは。
後の時代は違うだろ、というハーレイの指摘。ちゃんと成長して行ったから、と。
「物資を奪いに行っていたチビが、リーダーと呼ばれるようになっていって…」
立派にソルジャーになったわけだし、あの頃にはもうチビじゃない。…俺の前では違ったが。
後ろにくっついて歩かないだけで、俺に甘えていたのがお前だ。昔と同じで。我儘も言ったし、弱さも見せた。…俺の方がずっと年上なんだ、とお前は思っていたからな。心の中身。
しかしだ、皆の前では違った。俺を従えて歩くソルジャーで、誰よりも年上の長だってな。
「…ブラウたちはそれまで通りだったよ?」
エラは「ソルジャーは誰よりも偉いのですから」って言っていたけど、ブラウとかゼル。それにヒルマンも、ちゃんと分かってくれていたけど…。
ぼくはちっとも変わっていない、って。責任が増えた分、頑張っているだけなんだ、って。
だから前のぼくを支えてくれたし、ぼくよりも年を取っている分、力になってくれたけど…。
本当の年はずっと上でも、心の中身はブラウたちの方が年上みたいなものだったから。
「それは確かにそうなんだが…。前の俺にも分かっちゃいたが…」
船のヤツらも、アルタミラから一緒だったヤツらは知っていたろう。チビだったお前が頑張って育って、ソルジャーをやっていたことを。…本当のお前は年下なんだということを。
最初から船に乗ってたヤツらは、全員、年上だったんだからな。見かけだけなら、お前よりも。
つまりはお前より大人だったわけで、チビだったお前も当然、知ってる。
だが、アルテメシアに着いてから増えた仲間は違うぞ。あいつらはソルジャーしか知らない。
追われていた自分を助けてくれたのは誰か、誰のお蔭でシャングリラまで逃げて来られたか。
一番最初に教わることだぞ、ソルジャー・ブルーの偉大さってヤツは。
「うーん…。ヒルマンの係だったっけね、それ…」
シャングリラに来た子が落ち着いて来たら、船の仲間たちを紹介して。
前のぼくに会うのは一番最後で、「ソルジャーに御礼を言いなさい」だっけ…。
それよりも前に養育部門で会っていたって、ぼくと一緒に遊んでいたって、あの時だけは別。
偉い人なんだ、って緊張しちゃって、御礼も言えずにピョコンと頭を下げるだけの子とか。
確かにハーレイの言う通り。雲海の星、アルテメシアで救出されたミュウの子供たち。
新しく船に加わった仲間は、前の自分が子供の姿だった時代を全く知らない。あの船やミュウの歴史を学ぶ時には教わるけれども、たったそれだけ。子供だった前の自分に会ってはいない。
彼らが見たのは、ソルジャーとして完成された姿だけ。誰よりも年上で、青の間で暮らす偉大なソルジャー。その人生はミュウの歴史そのもの。
「…じゃあ、ハーレイと恋人同士だっていうことがバレてたら…」
悪者扱いされてしまうの、どっちだったわけ?
本当の年はぼくの方が上で、中身はハーレイの方が年上だったんだけど…。
「さてなあ…。お前の方が遥かに年上なんだし、分が悪いのか…。それとも俺の方なのか」
どちらが相手をたぶらかしたということになったか、大いに悩むトコではあるな。
ゼルたちだったら、俺を悪者にしそうだが…。場合によっては殴られちまいそうなんだが。
若いヤツらは、どうだったんだか。…年上なのはお前だしなあ、偉いのもな。
「…悪者になるの、ぼくなのかな?」
退屈で恋の相手が欲しくて、ハーレイを青の間に引っ張り込んで…。
キャプテンの仕事で忙しいのに、ぼくのお相手までさせていたってことになるのかな?
「そうなのかもなあ、若いツバメというヤツで」
薔薇のジャムは似合わないと言われちまった、この顔だがな。
なんて物好きなソルジャーだろうと、お前の趣味まで疑われるぞ。もっと若くて顔のいい仲間は大勢いるのに、なんだってアレを選んだんだ、と。
「そうなっちゃうかもね…。バレてしまったら、シャングリラの危機だと思ってたけど…」
深刻な話になるよりも前に、笑い物にされちゃっていたのかも…。
前のぼくの趣味が酷すぎる、って船中の話題になってしまって、針の筵になってたかもね。
「有り得るなあ…。そういう情けない結末も」
お前の趣味の悪さばかりが問題になって、格好の話題を提供して。
俺たちが心配していたようなことは、誰も言いさえしなかったかもな。もっとマシな恋人を探すようにと、前のお前に進言するヤツが次から次へと現れるだけで。
前の自分との恋がバレたら、若いツバメになるらしいハーレイ。年の差が大きすぎるから。前の自分の方が遥かに年上、ハーレイの立場は若いツバメに違いないから。
そうなっていたら、と二人して笑い転げた。実際は誰にもバレはしなくて、今の時代もバレてはいない。前のハーレイは航宙日誌に書かなかったし、前の自分も記録を残しはしなかったから。
誰も気付きはしなかった恋。ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの恋。
(あれ…?)
確かに隠し続けた恋。誰にも知られてはならないと。
白いシャングリラが出来上がった後、アルテメシアに辿り着いてから芽生えた恋。アルタミラの地獄で出会った時から、ずっと互いを特別に思っていたくせに。
(…ぼくもハーレイも、恋だと気付いてなかったから…)
恋に落ちた時は、船に新しい仲間が増えていた。ソルジャー・ブルーしか知らない仲間。チビの頃の自分をまるで知らなくて、ハーレイとの恋がバレた時には若いツバメだと思いそうな仲間。
そういう仲間たちが大勢いた船、その船でハーレイと恋をしていて…。
(前のぼく、必死に隠してた…?)
今日の自分がやったみたいに。
母の足音を聞いて、大慌てで椅子に戻った自分。あんな具合に、危機一髪といった状況。
上手に隠して振舞わないとバレるから、と。
そうなってしまったら大変だからと、とても慌てたような気がする。白いシャングリラで。
前の自分が懸命に隠していたらしい恋。若いツバメかどうかはともかく、ハーレイとの恋。
(隠すって、誰から…?)
皆の前では、あくまでソルジャーとキャプテンだった二人。言葉遣いも、仕草も、全部。
恋人同士の時間を過ごした青の間や、前のハーレイの部屋。其処から一歩外へ出たなら、全てをきちんと切り替えていた。互いを見る時の表情までも。
そこまで徹底していたのだから、自分たちの仲を見破れるような仲間はいなかった筈。
恋人同士になるよりも前から、ハーレイと二人で朝食を食べていたから、なおのこと。早朝から青の間にハーレイがいても、あくまでキャプテンの仕事の一環。報告する事項が多かっただけ。
キャプテンが夜に青の間に行くのも、一日の報告をしに出掛けるわけだし、問題はない。報告を終えてキャプテンの部屋に帰ったかどうか、監視するためのカメラも無かった。監視カメラを常に見ている者だって。
白いシャングリラは、管理社会だった人類の世界とは違ったから。皆の生活を尊重したから。
そのせいで、後にキースが逃亡した時、対応が後手に回ったけれど。捕虜の部屋を監視していたカメラはあっても、逃げ出した先の通路などには監視カメラが無かったから。
そういう船だったシャングリラ。恋人同士で過ごす時間を隠すくらいは簡単なこと。
(別に必死に隠さなくても…)
人のいない通路でハーレイとキスをしていたほどだし、苦労をしていた筈がない。普段の行動に気を付けていれば、決してバレはしないのだから。
(でも、慌ててた…?)
バレてしまう、と慌てた記憶。さっき自分が慌てたように。
しかも、一度や二度ではなかったような気までしてきた。何度も慌てふためいていた、と。
そんなことなど有り得ないのに。上手く隠して、平然と振舞っていた筈なのに。
何か変だ、と首を傾げてしまった記憶。前の自分たちは本当に上手くやっていたのに。
(…慌てるなんてこと、一度も無かった筈なんだけど…)
記憶違いか何かだろうか、と考え込んでいたら、ハーレイに「おい」と声を掛けられた。
「どうかしたのか、黙り込んじまって」
可笑しそうにコロコロ笑っていたのに、いきなり黙ってしまったぞ、お前。
お母さんの足音がした時みたいに、それこそピタリと。
「それなんだけど…。前のぼくも慌てていたような気がして…」
変だよね、慌てることなんか一度も無い筈なのに。…いつもきちんとしてたのに。
「何の話だ?」
慌てるだとか、前のお前だとか。俺にはサッパリ分からないんだが…?
「若いツバメの話だよ」
「はあ?」
ますます謎だぞ、若いツバメの話で笑っていただろうが、お前。…慌てるどころか。
「本物の若いツバメだってば、前のハーレイとぼくのことだよ」
バレたら大変、って慌ててたような気がするんだよ。前のぼくが。
それも一回や二回じゃなくって、何回も…。バレちゃいそうだ、って大慌てで。
「それは無いだろ、俺たちは注意してたんだから」
お前の部屋と俺の部屋でしか、恋人同士の会話はしない。…そいつが基本だ。
外で会ったらソルジャーとキャプテン、表情にだって気を付けてたぞ。慌てるも何も、そういう場面が無いと思うが?
青の間も、前の俺の部屋も、許可を得てから入るというのがシャングリラの約束事だったし。
「そうだよねえ?」
今のぼくの部屋と違って、うんと特別な部屋だったから…。青の間も、前のハーレイの部屋も。
挨拶もしないで入る仲間はいないし、ベッドに入っていたとしたって、時間はたっぷり…。
少し待って、って返事しておいて、起きて着替えればいいんだから。
中の様子は覗けないもの、シャワーを浴びる間だって待たせておけるよ。ぼくもハーレイも。
今の自分の部屋と違って、閉じ籠もれた上に、証拠隠滅のための時間も取れた部屋。前の自分が暮らしていた部屋、青の間の守りは完璧だった。キャプテンの部屋も似たようなもの。
(…部屋付きの係も、留守の時しか黙って入りはしなかったから…)
不意打ち出来るような仲間は誰もいなかった筈、と思った途端に気が付いた。たった一人だけ、いたことを。不意打ちして来た例外が一人。
「そうだ、ジョミーだ…!」
ジョミーだったんだよ、前のぼくを慌てさせてたの…!
ぼくとハーレイが一緒にいる時に、何度も青の間に入って来て…!
「あいつか…!」
そういや、あいつがいたんだっけな。…俺も何度も慌てたんだった、いきなり来るから。
何の前触れも無いんだよなあ、なまじっかタイプ・ブルーなだけに。
おまけに、入室許可なんか取りはしなくて、いつも突進して来やがるんだ。自分の都合で。
あのタイプ・ブルーの厄介者は…、とハーレイも顔を顰めたジョミー。
「…前のぼくもウッカリしてたんだけどね…」
ジョミーが船にやって来た頃には、何も問題無かったから。…ぼくたちのことに関しては。
他の件だと、問題は山積みだったけど…。ジョミーは少しも船に馴染もうとしなかったしね。
「喧嘩は起こすわ、ヒルマンの言うことも聞きはしないわ…」
そんな調子だから、そもそも青の間に来なかったしな。お前の方針でもあったわけだが…。
自分の意志で来ようとするまで放っておけ、と。
あれじゃ作法を学ぶことさえ無いってな。青の間に入る時には入室許可を貰うこと、と。
「うん…。それを教えるのは、ヒルマンだし…」
そのヒルマンの講義だってロクに聞きやしないし、エラの出番は無かったし…。
ソルジャーに敬語で話すどころか、青の間に行く時の礼儀作法を教わる場面も無かったよね…。
それも良かろう、とジョミーを放っておいたのが前の自分。挙句にジョミーは、船に慣れなくて逃げ出したほど。「ぼくをアタラクシアに、家に帰せ」と言い放って。
もっとも、全て計算ずくではあったけれども。
「ジョミーが船で暮らしてた間、ぼくは弱っていたけれど…」
成人検査を妨害するのに力を使いすぎてしまって、身体を起こすのも辛かったけれど…。
でも、ハーレイはちゃんと毎晩、ぼくの所に来てくれていたし…。
「何も変わりはしなかったからなあ…。俺たちが二人で過ごす時間は」
弱っちまったお前を抱き締めて、「早く治せよ」って言ってやって。
時間がある日は野菜スープも作っていたんだ、お前のために。…お前が寝込んだ時と同じに。
「うん…。たまにジョミーの強い思念が飛び込んで来たけど…」
夜はジョミーも眠っていたしね、ぼくたちの邪魔にはならなかったよ。ほんの少しも。
だから…。
二人して安全だと思い込んだジョミー。他の仲間たちと同じで問題無し、と。
ソルジャー候補としての前途は多難だけれども、それはそれ。自分たちの恋が脅かされる心配は無いと、今までと何も変わりはしないと。
いずれジョミーが一人立ちしたら、ソルジャー・ブルーは不要になる。ソルジャーはジョミーに代替わりをして、前の自分の負担も減るかもしれない、と思ったくらい。
そうなったならば、残り少ない寿命が尽きるまで、ハーレイとゆっくり過ごせるだろう。二人でいられる時間の長さは変わらなくても、自分の負担が減った分だけ。
(そんな夢まで見てたんだけどな…)
きっと幸せに違いない、とその日を夢見た。いつかソルジャーではなくなる日を。
ジョミーが船から出て行った後も、直ぐに戻ると考えていた。自分の居場所が無いという現実、それをアタラクシアで知ったら。空っぽになった家を見たなら。
船に戻れば、ジョミーはソルジャーを継ぐしかない。そして自分はいずれ引退。
そう思ったのに、一筋縄ではいかなかったジョミー。船には戻らず学校に出掛け、幼馴染たちに会ったりしたから、直ぐに追手がかかってしまった。
ジョミーはユニバーサルに捕まり、それからはもう大変な騒ぎ。前の自分は命懸けでジョミーを追う羽目になった。自分は生きて戻れなくても、ジョミーだけは、と。
(だけど、なんとか戻って来られて…)
思った以上だったジョミーのサイオン、それに救われて戻った自分。力は尽きていたけれど。
「お前が無事に戻ってくれてホッとしたんだ、あの時は…」
ジョミーには散々振り回されたが、とハーレイが今でも呻くくらいの命の瀬戸際。死んでいても不思議ではなかった状況。ハーレイはきっと、気が気ではなかったのだろう。
「…ぼくも嬉しかったよ、生きて戻れて」
もう戻れないと思っていたもの、シャングリラを離れて飛び立った時は。
…こんな所で死んじゃうんだな、って。ハーレイに「さよなら」も言えないままで。
それなのに、生きて戻って来られたから…。ハーレイが「大丈夫ですか」って来てくれたから。
幸せだったよ、またハーレイと生きてゆけるんだ、って。
いつかジョミーがソルジャーになったら、もっと幸せに残りの時間を過ごせるよね、って…。
思いがけなく手に入れられた、命の続き。ハーレイと一緒に生きてゆける時間。
その幸せを噛み締めながら日々を過ごして、ある夜、青の間で抱き合っていたら。
「ソルジャー・ブルー!」
(えっ!?)
突然響いた声に、慌てて離れた。ハーレイの胸から。
すっかり身体が弱っていたから、本当にただ抱き合っていただけ。ソルジャーの衣装もマントも着けたまま、ハーレイもキャプテンの制服のままで。ベッドの端に腰を下ろして。
前の自分は座り直して、ハーレイはベッドの側に控えた。其処へ駈け込んで来たジョミー。息を切らせてスロープを上がって。
そして、ようやく二人いることに気が付いたらしく。
「あれっ、ハーレイ?」
何故、とキョトンとしているジョミーに、ハーレイは穏やかな笑みを浮かべて返した。
「どうなさいました、ジョミー?」
こんな時間に…。居住区や通路は、とうに暗くなっていると思いますが…?
「ううん、ちょっと…」
特に用事は無かったんだけど…。その…。ちょっとだけ…。
腹が立ってとても眠れないのだ、と零したジョミー。昼間の訓練で長老たちに小言を言われて、横になるとそれを思い出すから。ゼルの怒鳴り声やヒルマンの渋面、エラの顰めっ面などを。
誰かに愚痴を言いたくなっても、ジョミーの周りにまだ友はいない。船の仲間たちは、人類軍に攻撃された時のことを覚えているから。
それがジョミーのせいだったことも、ソルジャー・ブルーまで喪いかねなかったことも。
だから駆け込んで来たジョミー。愚痴を言うなら此処が一番、と。ハーレイがいたことに驚いたものの、ジョミーは一息に不平不満をぶちまけて…。
「…ごめん、遅くに文句ばかりで。でも、全部言ったらスッキリしたから…」
また明日からは頑張れそう。おやすみなさい!
「あ、うん…。おやすみ、ジョミー」
「キャプテンも遅くまでご苦労様! お互い、毎日大変だよね!」
無理しないでね、と元気に駆け出して行ったジョミー。さっきまでとは打って変わって、明るい笑顔でスロープを降りて。その姿が扉の向こうに消え失せてから…。
「…ご苦労様じゃない…んだけどね?」
君は仕事に来たわけじゃなくて、ただ単に…。
「ええ…。仕事はとうに終わりましたし…」
あなたのお側にいるというだけで、これから寝ようかという所ですが…。
おやすみのキスをあなたに贈って、あなたを腕にしっかりと抱いて。
まさかジョミーがやって来るとは…、とハーレイを嘆かせた、とんでもなかった闖入者。
安全だとばかり思っていたのに。他の仲間と全く同じで、何の心配も無いと信じていたのに。
それから後も何度もやられた。ハーレイと二人で過ごしている時、何の前触れもなく飛び込んで来たジョミー。普段は思念で分かるというのに、この時ばかりは分からなかった。
(…腹が立ってた分、遮蔽の力が逆に強かったとか…?)
誰にも言えない愚痴を抱えて怒っていたから、そのせいで。筒抜けにならずに、胸の中だけ。
「ブルー!」と叫ぶ声を聞く度、何度慌てたか分からない。早くハーレイから離れなければと、きちんとジョミーに向き合わねばと。
前の自分が深く眠ってしまうまで。ハーレイと二人で眠っていた夜が無くなるまで。
「…前のぼく、ジョミーのせいで、とっても苦労してたよ…」
いつ飛び込んで来るか分からないから、いつだって、とても大慌てで。
「俺もそういう気がしてきた。…苦労したんだ、と」
あいつはお前のお母さん以上に、パターンが読めなかったしな…。
今日は来そうだ、と身構えていたら、来ないで終わって肩透かしを食らうし、その逆も、だ。
おまけに足音がするわけでもなくてだ、いつもいきなり「ブルー!」なんだ。
「タイプ・ブルーな上に、元気は余っていたからね…」
変な時だけ、遮蔽が完璧だったんだよ。愚痴を零しながら走って来たら分かるのに…。
全部溜め込んで、少しも漏らさずに走って来るから、余計に始末が悪かったんだよ。
そんなジョミーに、「青の間に入る時には、許可を取ること」って言っても怒るだけだから…。
今更教えても仕方ないよね、って諦めるしか無かったんだよ…。
何度も慌てさせられたけれど、それでもジョミーには気付かれないで済んだ恋。青の間に夜遅くキャプテンがいても、仕事なのだとジョミーは勘違いをしてくれたから。
とはいえ、危うい橋を渡っていたのだろうか、今から思えば。
ジョミーが来てからは、自分たちの恋は。
一つ間違えたら、二人一緒にベッドの中だとか、キスの最中かもしれなかったから。
「…前のぼくの後継者、危険が一杯…」
ミュウの未来のためには必要だけれど、凄く危険な存在だったかも…。
「前の俺たちにとってはな。いきなり飛び込んで来るんだから…」
どんなはずみでバレてしまうか分からないじゃないか、俺たちがどういう関係なのか。
俺はいつだって青の間にいたし、お前と抱き合っていた真っ最中だし…。
「…バレてないんだよね?」
前のぼくとハーレイが、恋人同士だったこと。…ジョミーは知らなかったんだよね?
「そうだと思うぞ。…お前がいなくなっちまった後に、何も言われていないからな」
気付いていたなら、きっと慰められただろう。俺は恋人のお前を失くしちまったんだから。
「それが根拠なの? だったら、どうかな…」
ジョミー、人が変わったみたいになってたんでしょ、ナスカから後は。
わざわざハーレイに言いに来るかな、「大丈夫かい?」って。
ハーレイを慰めているような暇があったら、とにかく進め、ってことにならない…?
「そういえば、そうか…」
俺の魂が死んでしまっていたのと同じで、あいつは感情をすっかり殺しちまってた。
例外なんかがあるわけがないな、たとえ前のお前の恋人でもな…。
結局、ジョミーは気付いていたのか、いなかったのか。
何度も不意打ちされたけれども、前の自分とハーレイとの恋に。いつも二人で迎えたけれど。
「…謎だね、ジョミーがどっちだったか…」
知っていたのか、知らないままか。…なんにも記録は残ってないし…。
「うむ。気付いていたのに、秘密を抱えて死んじまったのか、それとも知らなかったのか…」
謎ではあるなあ、あいつのこと。
今となっては確かめようもないんだが…、とハーレイも首を捻っているけれど。
前の自分たちの恋に、気付いていたかもしれないジョミー。何度も青の間に飛び込む内に。
もしもそうなら、ジョミーに礼を言っておかねばならないだろう。
前のぼくたちの秘密を守ってくれてありがとう、と。お蔭で幸せな恋が出来たよ、と。
「…ハーレイ、どうする? ジョミーが秘密にしてくれてたなら…」
お礼を言わなきゃ駄目だと思うよ。前のぼくたち、ジョミーに見逃して貰ったんだから。
シャングリラ中に思念波で喋られてたって、何も文句は言えないのに…。
あの頃のジョミーの勢いだったら、本当に全部、筒抜けなのに。
「…一応、言うか? ありがとう、と」
「言っておきたいと思わない? だって、ジョミーはジョミーだもの」
ぼくたちの恋には気付いてなかったとしても、地球まで行ってくれたソルジャー。
命懸けで前のぼくの願いを叶えてくれたよ、だから御礼を言っておこうよ。
「そうだな、あいつも本当に最後まで頑張ったしな…」
よし、とハーレイが頷いてくれたから、二人で窓の向こうの空に向かって御礼を言った。
ありがとう、と。
ぼくたちはとても幸せだからと、ジョミーも何処かで幸せに、と。
前の自分たちの秘密の恋を、知っていたかもしれないジョミー。
それならば、本当にありがとうと。今度の恋は秘密にしないで、結婚して幸せになるからと…。
隠していた恋・了
※前のブルーとハーレイの恋に、気付いていたかもしれないジョミー。何度も二人を見る内に。
けれど、どうだったかは分からないまま。ジョミーは気付いていたのでしょうか、本当は。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(え…?)
雪、とブルーが見上げたもの。まだ早すぎ、と。雪が降るには。
学校からの帰り道。家の近所のバス停で降りて、のんびり歩いていたら、ふわりと。頭の上から雪のひとひら、でも落ちて来ない。白い欠片は浮かんだまま。
何故、と真っ白な雪をよく見たら…。
(羽根…)
何かの小鳥か、それとも鳩か。柔らかそうな白い一枚、ふんわりと宙に浮いているそれ。まるで重さが無いかのように。羽根だけで飛んでいるかのように。
(流れてく…)
風は吹いてはいないけれども、空気の流れがあるのだろう。目には見えない、触れない流れ。
白い羽根はそれに乗ってゆく。ふうわり、ふうわり、流れてゆく。落ちて来ないで。
捕まえることが出来るかな、と白い欠片を追い掛けたけれど。もう少し、と伸び上がって懸命に手を伸ばしたけれど。
(残念…)
生垣の向こうに消えてしまった。ふわりと越えて、行ってしまった。
気が早すぎた雪のひとひら。本当は小鳥の羽根だけれども。
(今の、本物の雪だったら…)
是非とも捕まえたかった、と思う。不器用なサイオンでは無理なのだけれど、その分、頑張って追い掛けて。さっきよりも、もっと。
もしも、本物の今年最初の雪だったら。
一番最初に空から降って来た白い欠片なら、この手で捕まえてみたかった。
掴んだら雪は溶けてしまうから、そうっと手のひらで受け止めるように。上手い具合に、自分の方へと来てくれるように。手のひらの真ん中に、ふわりと落ちて。
捕まえたいな、と見上げる空。まだ秋の空で、雪の季節には少し早すぎ。
けれども、いつかは雪が降るから。真っ白で軽い雪が舞うから、最初のひとひらを捕まえたい。一番最初に降って来た雪、それを上手に捕まえられたら…。
(幸せな気分になれそうだものね?)
ぼくが一番、と空からの手紙を貰った気分。高い空から舞い降りた手紙。神様が作って、天使が雲の間から降らせる真っ白な雪。最初のひとひらは、天からの手紙かもしれないから。
受け取った人には幸せをどうぞ、と書かれた幸運のメッセージ。それが欲しいな、と。
雪は冷たいものだけれども、綺麗だから。
小さな右手で受け止めたって、きっと凍えはしないから。前の生の終わりに、温もりを失くして凍えた右手。ハーレイの温もりが消えてしまった手。
それが冷たいと泣きじゃくりながら死んだけれども、雪を受け止めても、右手が凍えはしないと思う。悲しい記憶が蘇る代わりに、胸が温かくなるだろう。
最初の雪のひとひらだったら、捕まえられた幸運に酔って。
手の上でそれが溶けてゆくまで、幸せな気分で見ているのだろう。辺りに雪が降っていたって、白い雪が幾つも降って来たって。
これが一番最初の一つ、と溶けてゆくのを惜しむのだろう。もう少し待って、と。
雪に手紙が書いてあるなら、それを読ませて、と。幸せの手紙の中身はなあに、と。
空から舞い降りる幸せの手紙。一番最初の雪のひとひら。
手紙を書くのは神様だろうか、それとも小さな天使だろうか、と考えていたら。
(雪の妖精…)
そっちかもね、と思った最初の雪のひとひら。幸せの手紙も素敵だけれども、妖精が乗っかっているかもしれない。一番最初に舞い降りる雪には、雪の妖精。
(雪の季節の始まりだもの…)
一緒に降りて来るかもしれない。空の上から、この地上へと。一番最初のひとひらに乗って。
雪の妖精が乗って来たなら、幸運どころか、願いを叶えてくれるかも、と広がった夢。妖精には不思議な力があるから、雪の妖精がいるのなら。
(雪の結晶って、花みたいだし…)
とても小さな氷の結晶、それが組み合わさったのが雪。色々な形の六角形が。
一つ一つが花のように見える、雪を作っている氷の結晶。六角形をした雪の花が幾つも。
花には妖精がいると聞くから、雪の花にだって、小さな妖精。
残念ながら、妖精に会ったことは一度も無いけれど。前の自分も、今の自分も。
(だけど、いるよね?)
遠い昔から伝わるのだから、出会ったことが無いというだけ。出会うチャンスが無かっただけ。
運が良ければ、きっと妖精にも会えるのだろう。花の妖精や、雪の妖精。
雪に妖精がいるのなら。六角形をした氷の花にも、妖精が住んでいるのなら。
出会いたいな、と描いた夢。雪の妖精、と。
家に帰って、制服を脱いで、母が用意してくれた美味しいおやつを食べて。
二階の自分の部屋に戻ったら、思い出した夢。帰り道に雪だと思って眺めた羽根と、雪の妖精。
真っ白な羽根は捕まえ損なったけれど、雪なら上手く掴みたい。サイオンを上手く使えない分、頑張って手を差し出して。追い掛けて、一杯に手を伸ばして。
一番最初の雪のひとひらを、妖精が乗っていそうなそれを。空から舞い降りて来た幸運を。
(雪の妖精…)
受け止めた雪から、妖精がヒョイと現れたなら。本当に乗って来たのなら。
どんな姿をしているのだろう、会ったことがない雪の妖精。雪だるまが雪の妖精だろうか?
(…雪だるまだったら、何処でも作るし…)
この地域でも、他の地域でも。雪を丸めて、目や鼻をつけて。
(地域で違ってくるんだったら…)
遠い昔に日本だった此処では、雪ウサギのような姿だろうか。お餅のように固めた雪に、南天の実で出来た真っ赤な瞳。緑色をした南天の葉っぱで、長い耳を二つくっつけて。
雪ウサギだったら、とても親しみの湧く姿。幼かった頃は、ウサギになりたいと思ったくらい。それに、今では…。
(ぼくも、ハーレイもウサギ年…)
ハーレイに教えて貰った干支。今の自分もハーレイも、干支は同じにウサギ。正真正銘ウサギのカップル、白いウサギと茶色のウサギ。
本当に自分はウサギなのだし、雪の妖精が雪ウサギならば、きっと友達になれるだろう。ウサギ同士で、仲良くなって。
雪の妖精に出会えたら。可愛らしい雪ウサギが来てくれたなら。
本当に願いが叶うかも、と更に大きく膨らんだ夢。雪の妖精と友達になったら、きっと願い事も叶えてくれる。妖精が持っている不思議な力で、アッと言う間に。
雪の妖精が乗っていそうな、一番最初の雪のひとひらに出会えたら。上手く捕まえられたなら。
(ちゃんと会えたら…)
友達になれたら、願い事はもちろん背を伸ばすこと。前の自分と同じ背丈に、ハーレイとキスが出来る背丈に。
妖精だったら、きっと簡単なこと。南天の葉っぱの耳をピクンとさせたら、叶いそうなこと。
(雪の季節は、まだだけど…)
頑張りたいな、と思ってしまう。今日の羽根は捕まえ損なったけれど、本物の雪は捕まえたい。空から落ちて来た最初のひとひら、雪の妖精を乗せた真っ白な欠片。
この冬、最初の雪が降りそうな日に、空を見上げて。
今か今かとワクワクしながら、空からの最初の手紙を探す。いつ降って来るかと、降りる先はと首を長くして。捕まえなくちゃ、と心を躍らせて準備して。
ひらりと雪が降りて来たなら、失敗しないで手のひらに、そっと。上手く手のひらの真ん中に。
そうしたらきっと、雪の妖精が出て来るのだろう。
一番最初の幸運をどうぞと、願い事は何かありますか、と。
(会いたいよね…)
雪の妖精。この冬の最初の雪のひとひら、それに乗って降りて来そうな妖精。
どんな姿をしているだろうか、雪だるまか、可愛い雪ウサギなのか。雪ウサギだったら、きっと友達になれるんだよ、と夢を描いていたら、聞こえたチャイム。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊いてみることにした。今のハーレイは、沢山のことを知っているから。キャプテンだった頃とは違う知識で、言い伝えなどにも詳しいから。
テーブルを挟んで向かい合わせで、早速、ぶつけてみた質問。
「えっと…。ハーレイ、雪の妖精、知っている?」
「雪の妖精?」
それは雪のことか、冬になったら降って来る雪。…あの白い雪の妖精ってか?
「うん。今日、学校の帰りにね…」
バスを降りてから歩いていたら、真っ白な雪が浮かんでたんだよ。空にふんわり。
あれっ、と思ったら白い鳥の羽根で、本物の雪じゃなかったんだけど…。鳩か小鳥の羽根。
捕まえられるかな、って追い掛けてみたけど、他所の家の方に行っちゃった…。生垣を越えて。
今のぼくのサイオン、少しも上手く使えないから…。頑張ってたのに、掴めなかったよ。
それでね、その時に考えたんだけど…。
もしも本物の初雪が降って来た時、一番最初の雪を上手に捕まえられたら、凄くない?
雪の妖精に出会えそうだよ、一番最初の雪に乗っかっていそうだから。
雪の季節の始まりなんだもの、この雪に乗って下へ降りて行こう、って。
だから、雪の妖精が気になっちゃって…。どんなのかな、って。
妖精の姿が知りたいんだよ、と今の物知りなハーレイに頼んだ。雪の妖精を知っているのなら、ぼくに教えて、と。
「ハーレイも見たことは無いだろうけど…。雪の妖精も、他の妖精も」
会ったことがあるなら、とっくに話してくれただろうから。こんなのに会ったぞ、って。
「なるほど、雪の妖精か…」
一番最初の雪に乗って降りて来るんだな。雪の季節が始まる時に。
「そう! 普段は空の上で暮らしているけど、冬の間だけ降りて来る妖精」
雪の結晶って、花みたいな形をしてるから…。花には妖精がいるって言うから、雪にも妖精。
真っ白な雪の花と一緒に降りて来そうでしょ、これからは雪の季節だよ、って。
雪の妖精、ウサギだといいな、と思うんだけど…。ウサギの妖精。
「ウサギ?」
なんだって雪の妖精がウサギになるんだ、白いからか?
「雪ウサギだよ、雪と南天で作るでしょ? 南天の実の目と、葉っぱの耳と」
そういう妖精だったらいいな、って思わない?
ぼくたち、ウサギのカップルだもの。ウサギ年で、白いウサギと茶色のウサギ。
だから、雪の妖精が雪ウサギだったら、仲良くなれそう。おんなじウサギなんだから。
「ははっ、お前なら友達になれそうだな。チビの頃の夢はウサギになることだったと聞くし…」
ぼくもウサギだよ、と自己紹介をしそうだな、うん。ウサギ年だから本物のウサギ、と。
それで、友達になってどうするんだ?
雪の妖精と一緒に遊ぶのか、雪が降る度に?
お前の友達が一人増えるな、と腕組みをして頷くハーレイ。冬の間だけの友達か、と。
「友達が出来るのはいいんだが…。ちゃんと暖かくして遊ばないとな」
雪が降るほど寒いわけだし、風邪を引かんように。マフラーとかも、きちんと巻いて。
「そうじゃなくって…。友達になったら、一緒に遊びもするんだろうけど…」
願い事を聞いて貰うんだよ。妖精には不思議な力があるでしょ、そういうお話、沢山あるよ。
雪の妖精でも、きっと同じだと思うから…。ぼくの願い事を叶えてくれそう。
「願い事だと?」
「そう。ぼくの背、ちっとも伸びてくれないから…」
妖精に頼めばきっと伸びるよ、前のぼくと同じ背丈になるまで。凄い速さで。
ひょっとしたら、一日で大きくなるかも、パパもママもビックリしちゃうくらいに。
「ふうむ…。妖精の力ってヤツか…」
不思議な力はあると言うなあ、昔から。色々な薬を持っていたりもするし…。背を伸ばすための薬もあるかもしれないが…。
「ホント? だったら、余計にお願いしなくちゃ!」
背が伸びる薬を分けてちょうだい、って。雪の妖精と、うんと仲良くなって。
「こら、慌てるな。あるかもしれんと言っただけだぞ、背が伸びる薬」
それにだ、雪の妖精の場合はだな…。ちょっと問題がありそうだよなあ、雪だけにな。
この地域だと、雪の妖精は恐ろしいと言われているんだが…、とハーレイは難しそうな顔。
雪の妖精と友達になるどころではない、と。
「今はどうかは分からないが…。少なくとも、此処が日本って国だった頃のは駄目だな」
一緒に遊ぼうとも思わない筈だぞ、会っちまったら。…雪の妖精。
「雪の妖精…。やっぱりいるんだね、そういうのが。だけど…」
悪い妖精なの、雪の妖精は?
日本だった頃に住んでた妖精、人間に酷いことでもするの…?
「まあ、色々ではあるんだが…。酷いことをしない場合もあるが…」
お前、雪女を知らないのか?
日本で雪の妖精と言ったら、それは雪女のことなんだが。
「雪女…」
そういえばいた、と思い出した雪女の昔話。
雪の夜に出る雪女。出会った人間に冷たい息を吹きかけ、凍らせて命を奪ってしまう。
中には違うものもいるけれど、大抵は、そういう怖い伝説。雪の恐ろしさを語るかのように。
真っ白な雪は綺麗だけれども、時として荒れて、人を、家を埋めてしまったから。
サイオンを持たなかった時代の人には、雪は危険なものだったから。
雪の妖精に会って、友達になって…、と夢見ていたのに、ハーレイに聞かされた雪女。雪の降る夜に白い着物で現れ、人を凍らせて殺してしまう雪女。
「…雪の妖精って、雪女なの?」
あれだって言うの、雪の妖精。…雪ウサギじゃなくて。
「この地域ではな。雪女のお供に、雪のウサギもいるかもしれんが…」
満月の夜には、沢山の雪の子供を連れて遊ぶと言うから、雪のウサギも連れているかもしれん。子供たちと一緒に遊べるようにな。
しかし、雪ウサギも、雪女のお供をしているわけだし…。雪の子供の遊び友達だ。雪の妖精とは少し違うな、雪の妖精は雪女だから。
つまりだ、雪の妖精に会うとなったら、雪女なわけで…。会ったらロクなことにはならん。
願い事が叶うとか、妖精の薬を貰うだとか…。雪女が相手だと、かなり難しいぞ。
「うん、分かる…。大抵は死んじゃうらしいから。…雪女に会うと」
「そういうこった。たまに、宝物を貰った人の話もあったりはするが…」
普通は凍死しちまうんだから、欲張るのはやめておくんだな。雪の妖精に会おうだなんて。
ついでに、会ったら願い事をしようだの、薬だのと…。友達程度にしておけよ。友達だったら、雪女も殺しはしないだろうしな。
まあ、当分、雪は降りそうもないが…。まだまだ先の話なんだが…。
楽しみだな、いつか雪の季節が来るのが。
「…楽しみって…。何が?」
ハーレイ、雪の妖精は雪女だ、って言ったじゃない…!
そんなのに会いたいと思っているわけ、ぼくには「ロクなことにならない」って言ったくせに!
でも、ハーレイは楽しみだなんて、どういうこと…?
雪の季節が楽しみだ、とハーレイは待ち遠しそうな顔に見えるのだけれど。この地域では、雪の妖精は雪女。恐ろしい存在だと話したくせに、ハーレイは何を楽しむのだろう?
まるで分からない、と物知りな恋人を見詰めていたら…。
「俺が楽しみにしているものか? 雪の妖精に会いたいとまでは思わんが…」
雪が降るのも、雪景色もだ。どれも楽しみだな、俺は雪を全く知らないからな。
「えっ? 知らないって…」
ハーレイは隣町で育ったんでしょ?
この町と同じで雪が降ったり、積もったりすると思うけど…。雪は何度も見てる筈だけど。
それに、ぼくが生まれる前に、この町に引越しして来たって聞いたよ。ぼくは十四年しか生きてないけど、雪は何度も見ているし…。雪だるまだって作っていたよ?
ハーレイが雪を知らない筈がないじゃない。ぼくと同じ町にいたんだから。
「確かに、今の俺にとっては、雪は馴染みのものなんだが…」
冬になったら降って来るもので、たまにドカンと積もったりもするが…。
その雪、この目で見るというのは初めてだろうが。…前の俺だと。
生まれ変わった俺の目を通して見るわけなんだが、前の俺が見る初めての雪だ。肉眼ではな。
「そうだっけ…!」
前のハーレイ、雪の中には出なかったっけ…。
シャングリラの周りにも雪は舞ったけど、船の中には、絶対、入って来られないものね…。
前の自分とハーレイが暮らした白い船。遠く遥かな時の彼方の、白い箱舟。
シャングリラが潜んだ雲海の星、アルテメシアにもあった雪景色。テラフォーミングされていた星の上では、冬になったら雪が積もった。空気がキンと冷える季節は。
シャングリラを取り巻く雲の海からも、白い雪が無数に舞い降りて行った。遥か下へと。
白い鯨の周りで幾つも巻いていた渦。風に吹かれて舞い狂った雪。白い雪たちが作った渦。
けれど、前のハーレイが目にした雪は、いつもモニター越しだった。
雪雲の中を飛んでゆく船、それの周囲の状況は、と。
船首は、船尾はどんな具合かと、映し出されてゆく映像。ハーレイはそれでしか雪を知らない。船の外へは出ていないから、肉眼で眺める雪を知らない。
前の自分は、その雪の中へ出ていたこともあったけれども。
白いシャングリラと白い雪の渦、それを何度も外から眺めていたのだけれど。
雲海の星を追われた後に、シャングリラは宇宙を長く旅した。赤いナスカに辿り着くまで。
ナスカで雪が降っていたなら、前のハーレイも見ている筈。ナスカには降らなかったのだろう。降っていたとしても、入植地にまでは届かなかった。星の極点に近い所で降っていただけで。
だからハーレイは雪を知らない。アルテメシアでは見ていないから。けれど…。
「ハーレイ、雪を見てないの? ナスカでは見なかったみたいだけれど…」
前のぼくが死んじゃった後に、何処かで見てない?
地球に行くまでに、幾つもの星に降りた筈だよ。其処で雪景色を見なかったの?
…まさか、雪が降っていたのかどうかも、ハーレイにはどうでも良かったとか…?
前のぼくが死んでしまった後のハーレイ、抜け殻みたいになってたらしいし…。
「安心しろ。…魂はとっくに死んでいたがな、そこまで酷い状態じゃない」
たまには笑うこともあったし、周りのことはちゃんと見ていた。…キャプテンだからな。
お前が言う通り、ありこちの星に降りてはいたが…。
生憎と、雪が降っている星には出くわしていない。雪のシーズンじゃなかったんだな。
季節は色々と変わるからなあ、その星系にある恒星の気分次第で。
今の地球だって、暖かい冬があるかと思えば、やたらと寒い冬だってある。それと同じだ。
雪が降る筈の星に降りても、宙港があるような大都市にまで降らなかったら見られない。
そんなモンだろ、地球にしたって。
常夏が売りの地域もあるしな、雪なんか一度も降ってません、という。
どういう所に雪を降らせるか、そいつは恒星の気分次第で、惑星が周っている軌道次第だ。
前の俺が地球に着くまでの間に降りた星では、雪を一度も見てないし…。
シーズンを逃しちまったんだろう、と思うわけだが、其処までのデータはチェックしてないな。
ひょっとしたら、俺たちの滞在中に、何処かで降ったのかもしれないが…。
雪が降ったから見に行こう、と出掛けたヤツらの話は知らんし、雪の季節ではないと思うぞ。
雪見の旅をしていたわけじゃないから、見落としただけかもしれないが、とハーレイが浮かべた苦笑い。何処かの星で、雪は降ったかもしれないと。
「気象のチェックは、必要な場所しかしていないからな…。キャプテンはな」
だから、見たヤツはいるかもしれん。雪を見物に出掛けるんじゃなくて、たまたまな。
この星で集める物資はこれだ、と指示を出したら、色々な場所に散ってたわけだし…。その先で雪を眺めてたヤツも、中にはいたかもしれないってことだ。
しかし、雪見に行ったヤツらはいないし、俺も雪には出会っていない。ただの一度も。
前の俺が知っていた雪は、アルテメシアで見た分だけだ。…船の周りのを、モニター越しにな。
「そうだったんだ…。ハーレイ、最後まで雪を知らないままで…」
肉眼では一度も見ないまんまで、地球まで行ってしまったんだね。
アルテメシアで隠れてた間に、雪は何度も降ったのに…。幾つもの冬を越していたのに。
「…前のお前は見てたっけな。船の周りに舞っていた雪も、アルテメシアに雪が降るのも」
雪が積もってる中に出て行ったことも何度もあったし、珍しいモンでもなかったか…。
冬になったら雪が降るのも、特に寒い日は積もるというのも。
「うん…。だけど、そんなに長くは出てはいないよ」
雪を見たいから外に出よう、って思うくらいに我儘じゃないし。…船の仲間は出られないから。
外に出る用事があった時にね、積もっていたら見ていただけ。
これが雪だな、って触ったりして。…シャングリラの中には降らないよね、って。
わざわざ雪を見るためだけには、外へ出掛けはしなかったけれど。
アルテメシアに潜んでいた歳月は長かったから、何度も雪を眺めていた。雪が降る中に立ってもいた。空を見上げて、舞い降りて来る雪を手のひらで受けたりもして。
降り積もった雪を踏みしめて歩きもした。足跡が残るのもかまわずに。
そんな場所まで、人類は足を踏み入れたりはしなかったから。…雪の季節に、星の外れへは。
前の自分は何度も雪を見たのに、雪をサクサクと踏んで歩きもしたというのに…。
「ハーレイ、知らないままだったんだ…。本物の雪を」
そんなの、夢にも思わなかった。…ぼくは気付きもしなかったよ。
前のハーレイは、肉眼で雪を見なかったなんて。…最後まで見ないままだったなんて…。
「気にするな。お前のせいってわけじゃないしな、前の俺が雪を知らんのは」
たまたま運が悪かったのか、俺にその気が無かっただけか。
どっちにしたって、雪とは御縁が無かったってこった。前の俺はな。
今の俺には馴染みなんだが…。ガキの頃には、デカイ雪だるまも作ってたんだが。
そうは言っても、新しい目で見たいじゃないか。
これが雪かと、モニター越しにしか見たことがなかった前の俺の目で。…前の俺の視点で。
きっと新鮮だろうと思うわけだな、去年までのと同じ雪でも。
「それは分かるよ、ぼくもおんなじ」
前のぼくだと、雪を楽しむ余裕までは多分、無かったと思う。…見てはいたって。
雪が積もった上を歩いていたって、「どうせ人類は気付かないから」って考えてたもの。
それでも、いざとなったら消そうと思ってた。…ぼくの足跡。もしも人類が来そうだったら。
雪を巻き上げたら一瞬で消せるし、つむじ風を作り出すんだよ。サイオンで。
自然の風が吹いたように見せて、ぼくが歩いた後の雪を全部、混ぜてしまって。
…そういったことを考えてるのと、何も考えないで済む今とは違うよ。
降って来る雪を見るのにしたって、きっと全然違うんだよ…。
前の自分が降る雪の中で空を見上げる時、いつも何処かにシャングリラがあった。その場所から遠く離れていたって、空には白い鯨があるもの。雪を降らせる雲に包まれて。
けしてシャングリラを忘れなかったし、其処へ戻らねばと見上げていた。降る雪の向こうを。
(…今は、シャングリラはもう無いんだから…)
前の自分が守った船。ハーレイが舵を握っていた船。ミュウの世界を乗せた箱舟。
白いシャングリラは役目を終えて、時の彼方に消え去って行った。今の空の上に、もう守るべき船は無い。ソルジャーの役目も負ってはいない。
(…ただのチビになった、ぼくがいるだけ…)
アルテメシアではなくて、青い地球の上に。前の自分が焦がれ続けた水の星の上に。
今の自分が見上げる雪は、地球に降る雪。前の自分が生きた頃には、死の星だった地球の上に。青く蘇った星の上に降る、真っ白な雪。遥か上の空から、後から、後から。
その雪を降らせる空へ向かって飛んでゆく力は、持っていないけれど。雪が渦巻く中を飛んでは行けないけれども、今は飛べなくてもかまわない世界。
雪の空を駆けて戻るべき船は、何処にも浮かんでいないのだから。戻らなくてもいいのだから。
(…いつまでだって、見てていいんだよ…)
降りしきる雪を。一面に降って、辺りを真っ白に染めてゆく雪を。
冷えた木々の枝先や葉から白くなっていって、その内に地面にも積もってゆく。下がった気温で冷えてしまったら、地面の熱が奪われたなら。
そうして、しんしんと雪が全てを覆ってゆく。見渡す限りの白い世界が広がってゆく。
落ちてくる雪の一つ一つは、小さくて軽いものなのに。小鳥の羽根を雪だと見間違えたほどに、軽くて儚いものなのに。
けれど、幾つも降って来たなら、雪は町だってすっぽりと覆う。庭を、垣根を、家々の屋根を、すっかり白く染めてしまって。道路まで白く埋めてしまって。
遠い昔には、雪女が来ると恐れられたほどの地球に降る雪。何もかも白く覆い尽くす雪…。
怖い雪女に会いたくはないし、風邪も引きたくないのだけれども、突っ立っていたい。空の上に守るべき船が無い地球で、ソルジャーの務めが消え失せた地球で。
いつまでも、降りしきる雪の中に。積もってゆく雪を眺めていたい。
そうハーレイに話したら…。
「無茶なヤツだな、お前、シールドも張れないくせに…。前と違って」
アッと言う間に凍えちまうぞ、雪女に出くわさなくてもな。そして風邪だって引いちまう、と。
その日の夜にはベッドの住人になっていそうだが、お前、やりかねないからなあ…。
雪見をしたい気持ちは、俺にも分かる。…俺だって、同じ気分だからな。
初めての雪を思う存分堪能するなら、ボーッと立ってるのが一番なんだ。庭の真ん中に。
どうやら、俺とお前の考えは一致しているようだし…。雪、俺と見るか?
俺と一緒に積もるのを見るか、お前が見ていたい地球に降る雪。
「ハーレイと?」
いいの、ハーレイ、付き合ってくれるの?
ぼくは雪が積もるのを見ていたいだけで、きっとぼんやりしてるんだけど…。
「かまわんさ。お前、冬でも庭でお茶だと言っていただろ。…あそこの白いテーブルと椅子で」
お茶が冷めないようにポットに被せるティーコジーだとか、そんな物まで用意して。
「言ったけど…。冬の間は店じまいなんて嫌だから」
「お茶もいいがだ、そいつは抜きで二人で雪見だ」
雪が積もりそうな時に俺が来たなら、一緒に庭で見ようじゃないか。ド真ん中でな。
お前がすっかり凍えちまわないように、俺がサイオンで包んでやるから。
「ホント!?」
ハーレイのシールドで包んでくれるの、ぼくはシールド出来ないから…。
タイプ・ブルーって名前ばかりで、サイオン、とことん不器用になってしまったから…。
本当にいいの、と念を押したら、ハーレイは「任せておけ」と微笑んでくれた。
「俺が一緒に外へ出るなら、お母さんたちも許してくれるだろう?」
お前が一人で庭へ出ようとしてるんだったら、追い掛けて来て止めそうだが…。
でなきゃデッカイ傘を持たせて、直ぐに戻れと言い聞かせるとか。
しかし、俺と一緒なら大丈夫だぞ。タイプ・ブルー並みのシールドを張ってやれるんだから。
そいつの中に入っていればだ、お前は雪に濡れもしないし、風邪も引かんし。
「シールドの中に入るんだったら、くっついていても大丈夫だね!」
ぼくがハーレイに抱き付いていても、ハーレイがぼくを抱き締めていても。
その方がシールドを張りやすいものね、二人分なら。
「…そうなるな。離れていたんじゃ、張りにくいからな」
夏休みにお前と記念写真を写した時と同じだ、堂々とくっついていられるぞ。
お母さんたちが窓から見てても、俺は頼もしい守り役にしか見えないんだからな。チビのお前をシールドに入れて、我儘を聞いてやってる、と。
きっと恐縮されちまうんだぞ、「ハーレイ先生、すみません」とな。
俺はお前と一緒に雪を眺めてるだけで、前の俺には出来なかったことをしてるのに…。
ボーッと突っ立って雪を見たいな、という望みを叶えているだけなのにな。
お前のお母さんたちには申し訳ないが、とハーレイは苦笑しているけれど。
「お母さんたちが見ている前で、くっついてデートとは酷い教師だな」と唇を歪めるけれども、雪見だと言ったなら二人で出られるだろう。真っ白な雪が降りしきる庭に。
しんしんと雪が積もってゆく庭で、キスは出来なくても、ハーレイの腕の中にいられる。まるで恋人同士みたいに、抱き付いて、あるいは抱き締めて貰って。
「ふふっ、ハーレイと雪の中でデート…」
雪の妖精がお願いを叶えてくれたみたいだよね、ハーレイと一緒。
二人くっついて雪を見ていられて、どんどん真っ白に積もっていくのをボーッと眺めて。
「…雪の妖精は多分、雪女ってヤツで、お前が会いたがってた雪ウサギではないんだが?」
それに、最初に降って来た雪を捕まえたわけでもなさそうだしな。
お前の背丈は伸びやしないし、チビのままだと思うんだが…?
「でも、ハーレイとデートだよ! ちゃんとくっついて!」
キスは出来ないけど、ハーレイとくっついて二人きりでデート。雪を見ながら。
…前のぼくは本物の雪を見ていたけれども、ハーレイと一緒には見ていないから…。
今度、初めて見るんだよ。ハーレイと二人で眺める雪は。
そう思ったら、とても楽しみ。…ハーレイと二人きりで見る雪、前のぼくにも初めてだから。
「俺の楽しみも一つ増えたな、お前と一緒に見られるんだから」
一人で突っ立って見るのもいいが、お前と二人で見られるとなれば値打ちがグンと増すってな。
前の俺が一度も見ていない雪を、今度はお前と一緒に地球で見られるんだ、と。
「庭で二人で見るのもいいけど、この部屋の窓からも見ようね、雪」
きっと綺麗だよ、空から落ちて来て、窓の下へと落ちていくから。
シャングリラでハーレイがモニター越しに見ていた雪を、今度は窓のガラス越しに見ようよ。
雪雲の中とは違うけれども、その分、雪がずうっと綺麗に見える筈だよ、昼間も、夜も。
「それはかまわないが…。俺にくっつくのは部屋では駄目だぞ」
部屋の中じゃシールドは要らないわけだし、わざわざくっつかなくてもな…?
「普段と同じ程度だったら、いいじゃない!」
やっぱりくっついていたいもの。外が寒い分、くっつきたいもの…!
いいでしょ、と駄々をこねてやったら、ハーレイは「仕方ないな」といった顔。
きっと部屋でもくっつけるだろう、ハーレイの膝の上に座って、甘えて。いつものように。
窓の向こうの雪を見ながら、すっかり白くなった庭を見ながら。
庭が雪景色に変わる前には、二人で庭に立って眺める。辺りを真っ白に染めてゆく雪を、後から後から降って来る雪を。
いつか冷え込む冬の季節が、白い雪を連れて来たならば。
一番最初に舞い降りて来た雪のひとひら、それが雪の妖精を乗せて来たならば。
(…前のぼくたちが見ていない雪…)
ハーレイと二人で見上げる初めての雪を、幸せの中で眺めよう。
前の自分たちには出来なかったことを、青い地球の上で、ただ幸せに。
降ってくる真っ白な雪を眺める、ただそれだけのことだけれども。
前のハーレイは見られなかった雪を、前の自分はハーレイと一緒に見ていない雪を、降って来る雪を二人で見よう。
庭の真ん中で、二人、ぴったりとくっついて。
「綺麗だよね」と降る雪を見上げて、いつまでも二人。
庭がすっかり白くなるまで。
雪女が子供や雪ウサギを連れて遊びに来そうなくらいに、しんしんと雪が降り積もるまで…。
雪を見るなら・了
※前のブルーは見ていた雪。けれど、前のハーレイは雪を肉眼では見ていなかったのです。
今度は二人で眺めることが出来る雪。ハーレイのシールドの中に入って、降り積もるのを…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
見られてるな、と小さなブルーが気配を感じたバスの中。学校からの帰りに、いつも乗るバス。お気に入りの席に座っていたら、後ろの方から感じる視線。誰か見てる、と。
(誰…?)
この路線バスは、近所の人が乗っていることも多いから。それなら挨拶しなくっちゃ、と視線の方を振り返ってみたら、年配の夫婦。遠い所で暮らす祖父母たち、そのくらいの年。
まるで見覚えのない顔だけれど、こちらに向けられたにこやかな笑み。
明らかに自分を見ていると分かる、優しい光を湛えた瞳。自分の孫がいるかのように。
何故、とキョトンと目を丸くしたら、手を振ってくれた二人。幼い子供ではないというのに。
(そういえば…)
学校の近くでバスに乗り込んだ時、先から乗っていた夫婦。乗り込む自分を見ていたのだった、嬉しそうな顔で。知り合いの子が乗って来たかのように。
(子供好きの人は多いから…)
その時は気にしていなかった。誰かと重ねているのだろう、と。あの子だったらこんな風、と。
けれど、そうではないらしい夫婦。
知り合いでもない年配の人に、無邪気に手を振れる年でもないから、「こんにちは」という声の代わりに返した会釈。途端に弾けた二人の笑顔。また手を振ってくれた、知らない人たち。
もういいよ、と合図をしてくれたから、元の通りに座ったけれど。後ろは向いていないけど。
(久しぶりに会っちゃった…)
ソルジャー・ブルーが大好きな人、と分かった年配の夫婦の正体。前の自分のファンの人たち。たまに、こういう人たちに出会う。バスの中だったり、買い物に出掛けた先だったり。
(…そっくりだものね?)
少年だった頃のソルジャー・ブルーに。今の時代にも伝わっている、アルタミラ時代に撮られた写真。成人検査を受けた時のまま、成長を止めていた姿。十四歳のままで。
チビの自分はそれにそっくり、おまけに本物、と可笑しくなった。
ソルジャー・ブルーの大ファンらしい、あの夫婦には内緒だけれど。生まれ変わって来た本物のソルジャー・ブルー。サイオンは全く駄目だけれども、とても本物には見えないけれど。
バスを降りる時にペコリと頭を下げたら、また手を振ってくれた人たち。「さよなら」と笑顔、バスが発車してからも、見えなくなってしまうまで。
初対面の子で、何処の子供かも分からないのに。名前も知らない、他所の子なのに。
(こういう孫が欲しいんだろうな…)
あんなに嬉しそうだったのだし、きっと欲しいに違いない。ああいう孫がいたらいいな、と。
(お祖父ちゃんたちだって、喜んでるし…)
祖父母たちの自慢の、小さな自分。成績優秀な孫でなくても、可愛がられたことは請け合い。
ソルジャー・ブルーにそっくりな子だと、素敵な孫が生まれて来たと。
生まれた時から、名前は「ブルー」。アルビノの子供だったから。伝説の英雄と同じアルビノ、両親が迷わず名付けた名前。
祖父母たちも「小さなソルジャー・ブルーが来てくれた」と、喜んで抱っこしていたらしい。
ソルジャー・ブルーの赤ん坊の頃の、写真は残っていないのに。同じかどうか分からないのに。
けれども、期待通りに育った自分。アルタミラ時代のソルジャー・ブルーに瓜二つ。
そうなったお蔭で、大喜びなのが祖父母たち。
きっと将来も本物そっくり、と。ソルジャー・ブルーにそっくりの孫と一緒に歩けると。一緒に食事だって出来るし、のんびりお茶を飲むことだって、と。
ただでも孫は可愛いらしいのに、その孫がソルジャー・ブルーにそっくり。
楽しみにしている祖父母たち。いつかソルジャー・ブルーと食事する日を、賑やかにテーブルを囲める時を。
さっきの夫婦が手を振っていた理由はよく分かる、と考えながら帰った家。生まれ変わった今の自分が暮らしている家。血の繋がった両親と一緒に。
今も人気のソルジャー・ブルー。遠い昔に世界を、地球を救った英雄。
その英雄にそっくりな孫が欲しい人たちは多いだろう。バスで出会った夫婦のように。瓜二つの孫でも嬉しいのだから、それが自分たちの子供となったら…。
もっと欲しいだろう、ソルジャー・ブルー。自分たちの手で育てられる子。生まれたら直ぐに、自分たちの家にソルジャー・ブルーがやって来る。ほやほやの、ちっちゃな赤ん坊が。
ミルクを飲ませて、あやして、寝かせて、ソルジャー・ブルーを育ててゆける。そういう子供が生まれたら。自分たちの息子に生まれて来たら。
(ちっちゃい頃から…)
両親の友達に羨ましがられた、自分の姿。ブルーという名で、アルビノの自分。
小さなソルジャー・ブルーといつも一緒だなんて、と両親を羨んでいた人たち。こういう子供が生まれて来たなら、もう可愛くてたまらないのに、と。
(ママたちも、おんなじ気持ちだったし…)
ブルーと名付けるほどなのだから、物心ついた頃から、ソルジャー・ブルーと同じ髪型。もっと小さな子供だった頃も、髪型はやっぱりソルジャー・ブルー。
他の髪型は、一度も試してみたことがない。美容室の人たちだって、勧めもしない。
(ぼくも慣れてるしね?)
この髪型で、と覗いた部屋の壁に掛かっている鏡。小さい頃から見慣れた顔と、髪型と。
ただ、自分でも、まさか本当にソルジャー・ブルーだとは夢にも思っていなかったけれど。
学校で必ず教わる英雄、その生まれ変わりが自分だなんて。
似てるだけだと思ってたっけ、とクスッと笑って制服を脱いで。それから、おやつを食べようと出掛けたダイニング。階段を下りて、母が用意をしてくれているテーブルへ。
美味しいケーキは母の手作り、熱い紅茶もコクリと飲んでいるのだけれど。
(ぼくがおやつを食べていたって、きっと見物…)
少年の姿のソルジャー・ブルーが、おやつを食べている姿。そう見えるのだし、見物したい人は大勢いるのだろう。ケーキを口に入れる所や、紅茶を飲んでいる所。
ソルジャー・ブルーだ、とバスで出会った夫婦みたいに、大喜びで。
きっと何人もいるに違いない。窓の向こうの庭から中を覗けたら、と夢見る人が。
前の自分のファンの人たち。ソルジャー・ブルーにそっくりな自分を、眺めてみたいと思う人。
(動物みたい…?)
猫とか、小鳥とか、そういうペットに似た感覚。
眺めていたいし、出来れば欲しい。何をしていても可愛いから、と。おやつのケーキを頬張っていても、紅茶のカップを傾けていても。
自分で言うのも変だけれども、「可愛い」と誰もが言ってくれるから、そうなのだろう。
可愛らしいから、見ていたいもの。少年の姿のソルジャー・ブルー。
(大きくなったら、今度はカッコいいから、って…)
写真集が何冊も作られるほどのソルジャー・ブルー。小さな子供も憧れる英雄。
育った時には、ソルジャー・ブルーそのものの姿になってしまうから、やっぱり見物される筈。
「ソルジャー・ブルーだ」と、前の自分のファンたちに。
散歩していても、食料品の買い出し中でも、きっと自分を追っている視線。伝説の英雄が歩いていたなら、こんな具合、と。キャベツやトマトを買いに来たなら、こんな感じ、と。
一生、見物されそうだけれど。何処へ出掛けても、視線が追って来そうだけれど。
それでもいいや、と思ってしまう。一生、見物されていたって。
今の姿が大切だから。前の自分とそっくりに育つ、この身体が大切なのだから。可愛がられたいわけではなくて、カッコいいと言われたいわけでもなくて…。
自分では別にどうでもいいこと。自分の姿がどうであろうが、自惚れたいとも思わないから。
けれど、どうしても必要な身体。見物したがる人が大勢いそうな身体。
(ハーレイには、この姿でないと…)
前の生から愛した恋人、青い地球の上で再び巡り会えた人。
そのハーレイは、前の自分を失くしてしまった。遠く遥かな時の彼方で、「さよなら」のキスも交わせないままで。
だから、ハーレイには前の自分と同じ姿を返してあげたい。いつか大きく育った時に。失くした時と同じ姿を、前のハーレイが失くしてしまったソルジャー・ブルーと同じ姿を。
もしも自分が猫や小鳥に生まれていたなら、ハーレイを悲しませてしまうから。
再会した時、「俺のブルーだ」と喜びはしても、きっと心の何処かでガッカリするに違いない。人の姿で会いたかったと、失くした通りの姿で戻って来て欲しかった、と。
それに、寿命も短いから。猫や小鳥だと、またハーレイは自分を失くしてしまうから。
二人で幸せに生きてゆくには、必要な身体。前の自分とそっくり同じに育つ身体が欠かせない。
一生、見物される身体でも。「ソルジャー・ブルーだ」と視線を集めてしまっても。
おやつを食べ終えて、戻った部屋。座った勉強机の前。頬杖をついてハーレイを想う。また巡り会えた、恋人のことを。生まれ変わって、この地球の上で。
(ぼくが、どんな姿でも好きになるって…)
ハーレイは何度も言ってくれたけれど、この姿が一番に決まっている。前の自分と同じ姿が。
「どんな姿でも好きになるさ」と言ったハーレイも、この姿の自分に巡り会えたことを喜んだ。前とそっくり同じ自分に出会えたことを。
それに自分も、この姿がいいと思っている。注目を集めてしまう姿でも。
(猫や小鳥に生まれていたら…)
ハーレイの家で飼って貰えて、いつも一緒にいられるようでも、そうはいかない。
仕事に出掛けるハーレイについて行けないことは、人間だって同じだけれども、他の時。
ハーレイが街などに出ようという時、ケージに入れて貰ってついて行けても、ペットが入れない場所もあるから。行き先がそういう所だったら、家で留守番するしかない。一人、ポツンと。
ハーレイがベッドで眠る時だって、猫は一緒に入れて貰えても、小鳥だと無理。しなやかな猫の身体と違って、小さくて脆い小鳥の身体。
きっと潰れてしまうから。ハーレイが寝返りを打ったはずみに、下敷きになって。
(御飯を食べる時だって…)
猫や小鳥は、ハーレイと同じ御飯をテーブルで食べられない。少しくらいなら分けて貰えても、身体に毒にならない程度。
ペットも一緒に食事をどうぞ、という謳い文句のお店で食べても、ハーレイとは違うメニューになってしまうだろう。猫や小鳥にピッタリの食事、それが自分に届くのだから。
(やっぱり、今の身体でなくちゃ…)
猫や小鳥の身体は駄目だし、人間に生まれて来るのだったら、前とそっくり同じがいい。自分もそうだし、ハーレイだって。
だから見物されても平気、と思ったけれど。一生、見世物でもかまわないや、と考えたけれど。
(あれ…?)
こうして覚悟を決めるよりも前、もっと小さくて幼かった頃。
本当に小さかった頃から、見物されても平気だった自分。両親と一緒に出掛けた先で、知らない人たちに囲まれたって。「小さなソルジャー・ブルー」を見たい人が大勢、寄って来たって。
ちやほやされるのが好きだったろうか、幼かった自分は?
誰もが「可愛い」と褒めてくれるのだし、それが大好きだったのだろうか…?
(…そうでもないよね?)
どちらかと言えば、はにかみ屋だった幼い自分。「お名前は?」と訊かれた時は、もじもじ。
胸を張って「ブルー」と答える代わりに、「えっと…」と尻込みしていたくらい。
けれど、逃げたりしなかった。いつもニコニコしていた自分。元気に名前を名乗れなくても。
(公園でも、遊園地でも、お店とかでも…)
小さなソルジャー・ブルーがお目当ての人たちに囲まれていても、それがちょっぴり恥ずかしい時も、嫌がらなかった幼い自分。名前を訊かれて、もじもじしても。両親に促されて「ブルー」と名乗った途端に、ワッと歓声が上がっても。
そうなって更に人が増えても、「早く帰ろうよ」とは言わなかった。
却ってキョロキョロすることもあった、誰が自分を見ているのかと。どんな人たちがいるのか、眺め回していた。自分を囲んでいる人の群れを、其処に新たに増えてゆく人を。
今から思えば不思議な話。はにかみ屋で、名前も直ぐには名乗れなかったほどなのに。
(なんで平気だったの…?)
大勢の人たちに取り囲まれても、それが知らない人ばかりでも。いつも、何処でも。
両親の後ろに隠れていたって、興味津々で眺めた自分。ぼくを見ているのはだあれ、と。知っている人がいるといいな、と。
知り合いだったら、とっくに声を掛けられているに決まっているのに。「ブルー君」と。自分で名前を名乗らなくても、ちゃんと名前を呼んで貰えて。
けれども、誰かを探していた。周りに人が寄って来たなら、いつだって。
(来ないかな、って…)
この人たちの中にいるといいな、と思った誰か。来てくれるかな、と。
でも、誰を?
幼い自分は誰を探していたのだろうか、自分を囲んでいる人の中に。知らない人たちが集まって来るのに、いったい誰を探すのだろう?
知り合いだったら探さなくても…、と考えたけれど。
(誰か、待ってた…?)
まさか、と思い浮かんだハーレイの顔。前の生から愛した人。
もしかしたら、と。
幼かった自分は、ハーレイを待っていたのだろうか、と。
(ぼく、ハーレイを探していたの…?)
大勢の人たちが寄って来るなら、その中にいるかもしれないと。いるといいな、と探した誰か。
それはハーレイだったのだろうか、前の自分の記憶は戻っていなかったのに。
記憶が戻っていないからには、会っても分かる筈がないのに。
ハーレイが側に来てくれていても。「名前は?」と尋ねてくれたとしても。
(だけど…)
他には思い当たらない。ハーレイの他には、誰一人として。
幼い自分が探しそうな人。知り合いでもないのに、待っていた誰か。大勢の人に囲まれる中で、逃げ出しもせずに、ニコニコとして。恥ずかしいのに、両親の後ろに隠れながらでも。
その人が姿を現さないかと、来てくれないかと待っていた人。顔も知らない、何処かの誰か。
ハーレイを探していたのだろうか、幼かった自分は。
いつの間にか、探さなくなったけれども。探したことさえ、すっかり忘れていたけれど。
(見付からなくって、諦めちゃった…?)
だとしたら、ずいぶん薄情な話。
いつ諦めたかは謎だけれども、前の生から愛し続けた人を探すのをやめてしまった。ハーレイがいないか、見回すことを。来てくれないかと、待っていることを。
諦めたならば、もう探せないのに。探すことをやめたら、出会えないのに。
どんなに愛した人であっても、探さなければ出会えない。諦めてしまえばそれで終わりで、次のチャンスは来ないのに。
けれど、探すのを諦めた自分。来てくれないかと待つのをやめてしまった自分。
ハーレイはもう来ないんだから、と考えたのか、探すだけ無駄だと投げ出したのか。幼い自分は探すのをやめて、それっきり。飽きっぽいのは、子供にありがちなことだけれども…。
(諦めちゃうなんて、酷いよね?)
もしも探すのをやめなかったら、もっと早くに出会えていたかもしれないのに。記憶は戻らないままだったとしても、「この人だよ」と見付け出して。
出会えていたなら、惹かれる理由は分からなくても、お気に入りの人になっていたろう。公園に行ったら会える人だ、と勇んで出掛けてゆくだとか。会ったら遊んで貰えるだとか。
(…記憶が無くても、きっと知り合い…)
ハーレイが公園に来る日を教えて貰って、一緒にお弁当を広げたりして。仲良くなったら、家に呼ばれたり、ハーレイが遊びに来てくれたりして。
(失敗しちゃった…)
もう少し頑張って探せば良かった。諦めたりせずに、待つのをやめずに。
ハーレイにも悪いことをしちゃった、と謝りたい気分。自分のせいで会い損なったと、頑張って探すべきだったと。
後悔しきりだった所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、母がお茶とお菓子を置いて去るなり、自分の罪を打ち明けた。
「あのね…。ぼく、ハーレイを諦めたみたい」
諦めちゃったみたいなんだよ、ハーレイのこと…。
「はあ? 俺を諦めるって…。諦めるも何も、現に今だって…」
そうか、ついにキッパリ諦めたんだな、キスをすること。いいことだ、うん。
チビのお前にキスは早いし、諦めた方がいいに決まってる。そのまま当分諦めておけよ、俺からキスを貰える日まで。
「そうじゃなくって…! キスは諦めていないから…!」
諦められるわけがないじゃない。ハーレイに会っても、ちっともキスしてくれないんだから…。
ぼくが諦めたのは今じゃなくって、子供の頃だよ。本当に小さかった頃。
知らない人たちに囲まれた時は、ぼく、いつだってキョロキョロしてた…。顔も知らない誰かを待っていたんだよ。来てくれないかな、って見回しながら。
きっとハーレイを探してたんだよ、この人たちの中にいないかな、って。
他に探しそうな人は誰もいないから、ぼくが探していたのはハーレイ。
だけど、探すの、諦めちゃった…。
いつやめたのかは覚えてないけど、もう探さなくなっちゃった。…ハーレイのことを。
探してたことも、すっかり忘れてしまってて…。あんなにハーレイを待っていたのに…。
ごめんね、とハーレイに謝った。探すのを諦めちゃってごめん、と。
「…ぼくが諦めずに頑張っていたら、もっと早くに会えたのに…」
記憶は戻って来ないままでも、友達になれたかもしれないのに。…ハーレイと、ぼく。
「そいつは無理ってモンだろう。いくらお前が探していたって」
諦めないで頑張り続けていたって、お前は俺を見付けられない。どう頑張っても。
「…なんで?」
探してたら、きっと見付けられるよ。ハーレイが来てくれていたなら。
ぼくがキョロキョロしていた時はね、周りに大勢人がいたから…。ハーレイだって覗くと思う。
あんなに人が集まってるなんて、いったい何があるんだろう、って。
「それはそうかもしれないが…。ついでに周りの騒ぎってヤツも聞こえるわけだし…」
小さなソルジャー・ブルーがいるらしい、と分かれば覗きに行っただろうな。
見てみたいじゃないか、チビの可愛いソルジャー・ブルーを。
生憎、そういう現場に出会った覚えは無いから、探すだけ無駄だ、というのは別にして、だ…。
俺がお前を見に出掛けたって、お前、俺の顔なんか知らないだろうが。
キャプテン・ハーレイの写真を見たって、まるで反応しなかったんだと前に聞いたぞ。
知ってる顔だ、と思いもしなくて、歴史の授業で教わる重要人物の一人ってだけで。
「ハーレイを探してたようなチビの頃には、写真、見ていないと思うけど…」
前のぼくの方なら知っていたけど、ハーレイの写真は知らないと思うよ。
勉強するには早すぎるんだし、ママたちも教えていないと思う。ソルジャー・ブルーは、ぼくに似ている人だから、って何度も教えてくれたけど。
「なるほど。その頃だったら、俺の写真に反応したかもしれない、と…」
だが、本当に俺を探していたか?
お前がせっせと探していたのは、本当に俺の姿ってヤツか…?
褐色の肌の男を探していたと言うなら別なんだが、と尋ねられてみたら。
具体的には無かった目標。人を探していたのは確かだけれども、その人の特徴は何も無かった。肌の色はもちろん、髪の色も、瞳の色だって。
そればかりか、探している人は男性だとも、女性だとも。
幼かった自分は、知らない誰かを探していただけ。待っていただけ、来てくれないかと。
「…ぼく、ハーレイを探してたわけじゃなかったの?」
誰でもよくって、優しくてお菓子をくれそうな人とか、そんなのだったの…?
「いや、探してはいたんだろうが…。お前は頑張っていたんだろうが…」
それが誰だか、きっと分かっていなかったんだな。探す相手が、誰なのかが。
「誰か分かっていないのに…。それでも探して、待ってるなんて…」
そんなことって、あるのかな?
ハーレイを探しているんだってことも分かってないのに、探すだなんて…。
「あるかもしれん。…子供には不思議な力があると言うからな」
特に小さな子供には。お前が誰かを探し続けていたような年の子供なら。
「ぼくのサイオン、小さい頃から駄目だったよ?」
赤ちゃんの時から不器用すぎて、ママはとっても大変だったみたいだから。
「だが、七歳までは神の内だと言うからな」
「なに、それ?」
「ずっと昔の言い伝えだ。…人間が地球しか知らなかった頃の」
この辺りが日本だった頃には、そう言ったんだ。七歳までは神の内だと。
遠い昔に、神のものだと言われた子供。
七歳になるまでは、人間よりも神の世界に近い所に住んでいるもの。神の力に守られて。
「だから子供には、不思議な力が宿るもんだ、と言われてた」
お前にだって、そういう力があったかもしれん。七歳になる前のお前なら。
「でも…。それだと、神様が違うでしょ?」
ぼくに聖痕をくれた神様は、前のぼくたちが生きていた頃の神様なんだと思うけど…。
日本に住んでた神様じゃなくて、ずっと教会に住んでる神様。
「あっちの方でも、小さな子供は天使だっていう扱いだろうが」
無垢な子供には天使がついているもんだ、って。
大人にだって、守護の天使は必ずついているんだが…。それが見えるのは子供だけだ、と。
どっちにしたって、子供ってヤツは、サイオンとは別に不思議な力があるようだから…。
お前も、気付いていたのかもな。その力のせいで。
「何に…?」
誰を探しているのかも分かってないのに、何に気付くの?
ハーレイを探し出すための手掛かりだって、ぼくは一つも知らなかったのに…。
「俺を探すと言うよりも…。何のために生まれて来たのかってことだな」
お前が気付いていたとしたなら、それなんだろう。
今のお前が何をするために、この地球の上に生まれて来たかを知っていたんだ。
「…ハーレイに会いに来たんだ、ってこと?」
ハーレイが誰かは分かってなくても、ハーレイのために生まれたんだ、って…?
「ああ。全く記憶が無かったとしても」
誰かに会うために生まれて来たんだ、と気付いていたから、お前は誰かを探してた。
それが誰だか分からなくても、来てくれるのを待っていたんだな。…小さかった頃は。
待ちくたびれて、諦めちまったみたいだが…。探すのもやめてしまったようだが。
お前は頑張っていたんだろう、と聞かされたら、ふと思い付いたこと。
自分が誰かを探していた頃、はにかみ屋だったのに、逃げもしないでニコニコ笑っていたこと。
どうして平気でいられたのかが不思議だったけれど、ハーレイを探していたのなら…。
「そっか…。それで、見られてても平気だったのかな?」
ぼくが探していたのは、ハーレイだから。…何も覚えていなくっても。
「見られてても…って、何のことだ?」
取り囲まれてたって話は聞いたが、そのことか?
小さなソルジャー・ブルーがいるとなったら、そりゃあ大勢、集まるだろうし…。
「そう。何処へ行っても目立っちゃうんだよ、小さなソルジャー・ブルーだから」
今だって、気付かれちゃったら同じ。ソルジャー・ブルーが大好きな人に。
普段はそれほど目立たなくても、ソルジャー・ブルーのファンだと駄目。見付かっちゃう。
そして見物されちゃうんだよ、何をしてても。ソルジャー・ブルーにそっくりだから。
小さかった頃もそうだったけれど、恥ずかしかったのに、平気だった…。見られていても。
どうしてだろう、って思ってたけど、探していたのがハーレイだったら、平気な筈だよ。
ハーレイに見付けて貰うためには、この姿でないと駄目なんだもの。
前のぼくと同じで、ソルジャー・ブルー。…でないとハーレイ、来てくれないもの…。
「そういうわけでもないんだが…。お前が何に生まれていたって、必ず見付け出すんだが…」
すまん、見付けてやれなかったな。お前が俺を探してた内に。
公園で会っていたかもしれないのになあ、周りに人が集まっていない時になら。
「ハーレイは子供じゃなかったんだし、仕方がないよ。…ぼくを探そうとも思わないもの」
七歳はとっくに過ぎていたでしょ、天使が見えるような子供の年も。
不思議な力は貰えやしないよ、ぼくを探そう、って思い付く力。
それに予知能力だって、前のハーレイの時から無いし…。ぼくに会えるっていう予感も無い筈。
「違いないな。…不思議な力は貰えない上に、予知能力も無し、と」
現にお前に出会った日だって、普通に出勤したんだし…。
宝物を見付ける夢も見なかったし、こんな俺では、お前を探しに行けやしないな。…残念だが。
早くに出会い損なっちまった、とハーレイが浮かべた苦笑い。せっかく探してくれたのに、と。
けれども、ハーレイと再会した日に、記憶を戻してくれた聖痕。あんな奇跡が起こるのだから、その聖痕が現れる日までは、きっと出会えはしなかった。
街の何処かですれ違っていても、公園でジョギング中のハーレイに懸命に手を振ったとしても。一瞬だけの出会いに終わって、生まれはしなかっただろう縁。知り合いにさえもなれないままで。
(…ぼくがどんなに探していたって、あの中にハーレイがいてくれたって…)
この年になるまで、会えない運命になっていたのだろう、とは思うけれども。
幼い自分が嫌ではなかった、この姿。ソルジャー・ブルーにそっくりの姿。
人が大勢集まって来ても、取り囲まれても、逃げる代わりに、いつも探していたハーレイ。
自分が探し求めているのは、誰かも知らずに。待っている人が誰かも知らずに。
恥ずかしくても、両親の後ろに隠れてしまっても、知らない人たちを見回していた。ハーレイが来てはくれないかと。ハーレイを見付けられないかと。
(…ぼくが探すのをやめちゃったのは、不思議な力が無くなったから…?)
ハーレイが言う七歳を過ぎてしまって、天使が見える無垢な子供の時代も終わって。
そのせいかどうか、探すのをやめてしまったけれど。
自分でも全く気付かない内に、諦めてしまったらしいけれども…。
それでも会えた、とテーブルを挟んだ向こう側に座る恋人を見詰める。褐色の肌に鳶色の瞳で、金色の髪のハーレイを。
幼かった自分が知らなかった特徴、探していた人はハーレイなんだ、と。
「ぼく、ハーレイを探すのをやめちゃったけど…」
諦めちゃった上に、探してたことも忘れていたけど…。やっと会えたね。今までかかって。
おんなじ町で暮らしていたのに、聖痕が出るまで会えないままで…。
だけど会えたよ、ぼくが探していたハーレイに。…誰かも知らずに探したんだけど。
ハーレイの特徴も知らないくせして、頑張ったつもりだったんだけど…。
「うむ。やっと会えたな、お互いにな」
前のお前を失くしちまってから、ずいぶん時間がかかったもんだ。今のお前が生まれてからも。
とはいえ、俺はお前を探していなかったんだがな…。やっと会えたと言う資格は無いか。
すまん、探してやれなくて。お前は頑張って探していたのに、俺の方は何も知らないままで…。
どうしようもなく駄目な恋人だな、探すことさえしなかったなんて。
諦めたお前よりずっと酷いぞ、最初から探していないんだから。
だが…。
探していなかった分まで、これからはずっと一緒だしな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
もう見付けたから、離さないと。探し損なったけれど、見付けたから、と。
「お前はちゃんと帰って来たしな、俺の所に」
しかも探してくれていたんだ、俺がいないかと、うんとチビの頃に。
そんなお前にやっと会えたから、二度とお前を離しはしないさ。お前は俺のブルーなんだから。
今度こそ、俺だけのものなんだから…。
「そうだよ、ぼくはハーレイのために生まれて来たんだから」
今のぼくの身体、ハーレイのための姿なんだよ、一番喜んで貰える姿。
大きくなったら、前のぼくと同じになる身体。…ハーレイが失くしたぼくの姿に。
ちゃんと今のぼくに生まれて来たよ。猫でも、小鳥でもなくて。ハーレイが一番好きな姿で…。
それに頑張ってハーレイを探してたんだし、御褒美のキス、と強請ったけれど。
「よし、御褒美だな? よく頑張った」と、額に貰ってしまったキス。
欲しかった唇へのキスではなくて。
それが悔しい気もするけれども、額へのキスでもかまわない。
この姿だから、額に落として貰えるキス。
もしも小鳥の姿だったら、額どころか、頭にキスを貰うのだろう。小鳥の額は小さいから。
それに、ハーレイと幸せな恋の続きを生きてゆくなら、この姿でないと駄目なのだから。
前のハーレイが失くしてしまった前の自分にそっくりな姿が、きっと一番だろうから。
そう思うから、今は額へのキスでいい。
チビの身体でも、いつか大きく育つから。
前の自分とそっくりになって、誰が見たってソルジャー・ブルーに瓜二つ。
そしてハーレイと二人で歩こう、見世物になってしまっても。
ソルジャー・ブルーが食料品の買い出しに来たならこんな風だと、注目を集めてしまっても。
今の自分は、ハーレイのために生まれたから。
小さい頃には、ずっとハーレイを探し続けていたのだから…。
探していた人・了
※幼かった頃のブルーが、探していた人。それが誰かも分からないまま、探したのはハーレイ。
いつの間にか探すのをやめてしまっても、出会えたのです。幼かった日に探し続けた人に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv