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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(制御室…)
 急がなくては、と辺りを見回したブルー。早く行かないと、メギドの炎がシャングリラを襲う。一度目の攻撃は受け止められたけれど、二度目が来たらもう防げない。
 自分だけでは無理だ、と思った第一波。ジョミーが、トォニィたちが来てくれたから助かった。急成長して仲間を守った子供たち。彼らは力尽きてしまっていたから…。
(もう誰も…)
 シールドを張れる仲間はいないだろう。ジョミーの力も、相当に削られている筈だから。
 そう考えたから、此処まで来た。たった一人で、このメギドまで。地獄の劫火を滅ぼすために。自分の命と引き換えにして。
 けれど、シャングリラからメギドまでの距離。ジルベスター・セブンとジルベスター・エイト、二つの惑星の間を飛んだ。ジルベスター・エイトまで辿り着いたら、展開されていた人類軍の船。
 メギドを目指す自分を撃ち落とそうと、何度レーザーが放たれたことか。それを躱して飛んで、飛び続けて。…ようやっとメギドに着いたけれども。
 奪われてしまっていた体力。それにサイオン。余計な力は使えなかった。制御室を破壊するのに必要な力、それが無ければ来た意味が無い。
 だから出来なかった瞬間移動。メギドの制御室まで飛ぶこと。
 十五年もの長い眠りから覚めて間もない身体な上に、残り僅かになった寿命。生きていることが不思議なくらいに、もう残されていない生命力。メギドの制御室へと一気に飛んだら、それだけで力尽きるだろう。肝心のシステムを破壊出来ずに、床へと倒れ込んでしまって。
 それを防ぐには、自分の足で歩くしかない。制御室の在り処は透視出来るから、その場所まで。
 サイオンの使用は最低限に留め、自分の二本の足で進んで。



 装甲を破るのに使ったサイオン、力が抜けてゆくのを感じた。人類軍が誇る最終兵器は、堅固な城塞だったから。そうして中へと入り込んだら、直ぐに通路があったのだけれど。
(…制御室までに、何層あるのか…)
 幾つの床を抜けてゆかねばならないのか。抜けたその先で、どれだけの距離を歩くのか。
 考えただけで気が遠くなりそうな、制御室へと向かう道のり。それを歩いてゆかねばならない、出来るだけサイオンを使わずに。床と壁とを壊す時しか、サイオンを使ってはならない。
(…あの先へ…)
 二層、三層と抜けて来たけれど、まだまだ長く続いてゆく道。遥か彼方に見えている扉、其処も単なる目印の一つ。扉の先は行き止まりだから、床を壊して下の層へと。
 辿り着いても、終点にはなってくれない扉。制御室に行くには、もっと下まで。もっと遠くへ。
 とにかく進んでゆかなければ、と歩くけれども、ふらつく足。よろけて壁についてしまう手。
 息はとっくに荒くなっていて、文字通り肩で息をするよう。
 とても苦しくて、歩くだけでも辛くて、倒れてしまいそうで。
(ハーレイ…)
 誰か、と心で呼び掛けてみても、返ってくる筈もない仲間たちの声。
 このメギドには、ミュウは一人もいないから。たった一人で来たのだから。



 懸命に前へ進むけれども、よろけて足元が危うい身体。壁にもたれては、整える息。
(…ハーレイ…)
 こんな時には支えてくれた、あの手が無い。「ソルジャー」と呼ばねばならない時でも、支えてくれていたハーレイ。「これもキャプテンの役目ですから」と。
 シャングリラの通路で、視察先などでよろめいた時は、いつも。「無理をなさらないで」と。
 恋人同士なことを知られないよう、キャプテンの貌をしていたハーレイ。けれど、ソルジャーを支えるふりをしながら、あの手で支えていてくれた。逞しい筋肉を纏った腕で。
 なのに、苦しくてたまらない今。誰かに支えていて欲しい今。
 誰も此処へは来てくれないから、一人で歩いてゆくしかない。床に倒れてしまいそうでも。
(ぼくが選んだ…)
 こうすることを。
 シャングリラから遠く離れたメギドで、一人きりで死んでゆくことを。
 それは覚悟の上だったけれど、ハーレイに最後の言葉も残して来たけれど。
(こんなに苦しいことだったなんて…)
 思わなかった、と壁に預けた背中。先を急ぐけれど、息を整えねば、と。無理をしすぎて此処で倒れたら、全てが終わってしまうのだから。
(支えてくれる手が、無いというだけで…)
 なんと苦しくて長い道のりなのか。まだ遠い扉、其処は終点ではないというのに。
 制御室の場所はまだずっと先で、此処まで来た距離の比ではないのに。



 何処まで続くのか、この苦しくてたまらない道は。早く終わりが来て欲しい道は。道が終われば自分の命も終わるけれども、それを「早く」と願うほどの辛さ。歩くことが苦痛なのだから。
(…シャングリラでも、歩けなくて…)
 倒れたのだった、と思い出した、キースと対峙した時。
 捕虜の逃亡や、錯乱状態だったカリナのサイオン・バースト。大混乱だった船の中では、一人も気付きはしなかった。自分が眠りから覚めたことにも、格納庫へ向かっていることにも。
 あの時もふらつく足で歩いて、何度も倒れてしまった通路。ハーレイが来てくれなかったから。支えてくれる手が無かったから。
 それと同じに、今も一人きり。果てが無さそうに思える道をただ一人、よろめきながら。
(でも、みんなを…)
 白いシャングリラを守るためには、歩くしかない。此処で倒れるわけにはいかない。
 どんなに苦しくて辛い道でも、自分の足で。一人きりで。
(ハーレイ…)
 君の手が此処にあったなら、と支えてくれる手を思ったけれど。
 ハーレイがいてくれるわけがない。
 もう二度と生きて会えはしないのだから、その道を自分が選んだから。
 メギドは自分が止めてみせると。命と引き換えに破壊しようと、此処まで飛んで来たのだから。



 そうは思っても、辛すぎる道。苦しいだけの道をたった一人で、死へと向かって歩いてゆく。
 歩くより他に道は無いから。余計なサイオンは使えないから、長い長い道を。
(行かないと…)
 ぼくがみんなを守らないと、と背を預けていた壁を離れて、歩き始めた所で目が覚めた。
 ぽっかりと、自分のベッドの上で。…青の間ではなくて、今の自分の子供部屋で。
(……夢……)
 囀っている小鳥たちの声。白いシャングリラにはいなかった小鳥。
 カーテンの隙間から射している光、土曜日の朝だと教えてくれる地球の太陽。
 そうだったっけ、とソルジャー・ブルーからチビの自分に戻った。ぼくは今のぼく、と。
 さっきまで自分が歩いていたのは、前の自分が歩いた道。遠い昔に、あのメギドで。
(…いつもの夢と違ったよ…)
 何度も襲われたメギドの悪夢。青い光が満ちる制御室で、たった一人で死んでゆく夢。
 撃たれた痛みでハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちだと泣きじゃくりながら。
 右手が冷たく凍える夢も辛いけれども、今日の夢も悲しい、と零れた涙。
 死へと向かって歩いてゆくのに、誰も支えてくれはしない道。苦しくて、とても辛いのに。
(…早く死んじゃいたい、って思うくらいに苦しかったよ…)
 なのにちっとも終わらないんだ、と前の自分と重なった心。果てが無いように思えた道。
 たった一人で歩く途中に、何度終わりを願っただろう。早く全てを終わらせたいと。一人きりで歩く道が辛くて、とても苦しくて。
(…忘れちゃってた…)
 すっかり忘れていた記憶。早く、と死が待つ場所に着くのを願ったくらいに辛かったのに。
 涙ぐみそうな思いをしたのに、自分は忘れてしまっていた。
 あの後のことが辛すぎて。やっと辿り着いた制御室の中で、悲しすぎる死が待っていたから。



 夢だったんだよね、とホッとした今の自分の部屋。両親がくれた、小さなお城。
(ぼくの家…)
 パパもママもいてくれる家、と胸に溢れる温かさ。一人きりで歩かなくてもいいから。苦しくて辛い長い道のり、あの道はもう過去のものなのだから。
 顔を洗って、着替えも済ませて、噛み締めて食べた朝御飯。幸せだよ、と。
(今のぼく、ホントに幸せ一杯…)
 トーストだって食べられるし、と大きく口を開いて齧った。口一杯に。いつもは少しずつ齧ってゆくのに、まるで食べ盛りの友達たちのように。
「あら、どうしたの?」
 今日はお腹が空いているの、と尋ねた母。そんなに大きく齧るなんて、と。
「前のぼくの夢、見ちゃったから…。今のぼくは此処にちゃんといるよね、って」
 トーストだって本物だよ、って口一杯に頬張っちゃった。
 だって、メギドの夢だったから…。
「…痛かったのね? ブルー、血だらけになっちゃったものね」
 痛かったでしょう、と顔を曇らせる母は知っている。聖痕と同じ傷を負わされたことを。
「ううん、それじゃなくて、独りぼっち…」
 メギドの中を歩いてたんだよ、制御室まで行かなくちゃ、って。制御室、とても遠いのに…。
 うんと長い道を歩いて行くのに、ぼくは独りぼっち。メギドに仲間はいなかったから…。
 身体が辛くてフラフラなのに、誰も支えて助けてくれない夢だった、と話したら。
「…そうだったのか…。可哀相にな」
 栄養、しっかりつけておかないと。頑張って歩いて行けるようにな。
 今のお前は元気に歩けよ、と父が分けてくれたソーセージ。「これも食べてな」と。



 ポンとお皿に引越しして来たソーセージ。一気に戻れた幸せな現実。
 ソーセージは有難迷惑だけれど。朝から沢山入らないのに、貰っちゃった、と。パパは酷い、と仕方なくフォークで刺して齧ったら、その父が「偉いぞ」と笑顔になって。
「栄養もつけなきゃいけないが…。お前が頑張って歩いて行く時には、だ…」
 パパもママも一緒に歩いてやるぞ。お前を独りぼっちにしたりはしないさ。
 よろけて倒れそうになったら、パパが支えて歩くわけだな。もちろん、ママも。
「ええ、そうよ。ブルーが倒れないように」
 何処でも一緒に行ってあげるわ、メギドでもね。
「メギドって…。ママも死んじゃうよ、メギドなんかに行っちゃったら…!」
 逃げる方法、無いんだから。…メギドを壊したら、巻き添えになってしまうんだから。
「だけど、ブルーが行くんでしょう? ちゃんと歩けもしないのに」
 ママは行くわよ、ブルーと一緒に。一人で行かせられないもの。
「パパもそうだな、お前はパパの子なんだから。メギドだからって、逃げやしないぞ」
 お前が行くと言うんだったら、パパも一緒に行かないと。お前が倒れてしまわないように。
 フラフラなんだし、ただでも弱くてチビなんだから。
「…パパもママも来てくれるんだ…。メギドなんかでも…」
「当たり前でしょ、何処の家でもそうよね、パパ?」
「誰だってそう言うだろうなあ、子供を独りぼっちにさせるような親はいないぞ、ブルー」
 今の時代は本物の家族なんだから、と父の手でクシャリと撫でられた頭。何処でも一緒に歩いてやるさ、と。
「ありがとう、パパ! ママも、ありがとう…!」
 ぼく、本当に幸せだよ。一緒に歩いて貰えるだなんて、ぼくはホントに幸せ一杯…。



 両親に御礼を言って、幸せな気分で食べた朝食。父が分けてくれたソーセージの分、食べ過ぎた気分はするけれど。
 でも幸せ、と部屋に帰って、勉強机の前にチョコンと座った。
(パパとママ、ぼくと歩いてくれるって…)
 一緒に歩いて支えてくれる父と母。きっと本当に来てくれるのだろう、メギドの中を歩いてゆく時でも。辿り着いた先には、死が待つとしても。
 そう言ってくれた両親は頼もしいけれど、もっと一緒に来て欲しい人は…。
(ハーレイ…)
 絶対に来ては貰えない人。メギドには来てくれない人。
 ハーレイが来ると言ってくれても、自分は止めねばならないから。メギドの中では、どうしてもソルジャーになってしまうから。
(パパとママなら、来てくれたら、とても嬉しいけれど…)
 ハーレイは無理だと分かっている。生きて戻れない、あの道を一緒に歩けはしない、と。
 もしもハーレイを連れて行ったら、シャングリラはキャプテンを失うから。ハーレイ抜きでは、船は地球まで行けないから。
 だから駄目だ、と首を横に振るしかない恋人。
 今日は訪ねて来てくれるけれど、あの辛かった道を一緒に歩けはしないハーレイ…。



 パパとママは歩いてくれるのに、と悲しい気持ちを拭えないままで、ハーレイを迎えてしまった部屋。いつもの土曜日と変わらないのに、あの夢を忘れていなかったから。
 母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去ってゆくなり、大きな身体にギュッと抱き付いていた。自分の椅子は放ってしまって、ハーレイの膝の上に座って。
「なんだ、どうした?」
 甘えん坊だな、今日のお前は。…土曜日だからって、甘えすぎじゃないか?
「…夢を見たんだよ。だからハーレイにくっつきたくて…」
 ちょっとだけ、こうしていてもいいでしょ。ハーレイの側にいたいんだから。
「夢って、メギドか?」
 見ちまったのか、あの時の夢。俺にくっつきたがるなら、メギドの夢しか無さそうだが…。
「そうだけど…。メギドの夢だったんだけど…」
 いつもの夢と違ったんだよ、独りぼっちで歩いて行く夢。
 制御室まで行かなくっちゃ、ってメギドの中を歩いて行くんだけれど…。とても遠くて、途中の道がとても長くて…。
 ぼくの身体は弱っているから、足はフラフラで、息だって切れてしまってて…。
 苦しくて辛くて、それでも一人で歩くしかなくて…。
 メギドには誰もいないんだものね、ぼくを支えて一緒に歩いてくれる人は、誰も…。



 とても悲しい夢だったんだよ、と訴えた。苦しくて辛い道を歩いているのに、ぼくは一人、と。
「こんなに苦しいだなんて思わなかった、って考えてるんだよ。…夢の中のぼく」
 早く終わって欲しいくらいで、だけど終わりはずうっと先で。
 道の終わりに着いた時には、死ぬんだって分かっているくせに…。それでも早く着きたい、って思っているんだよ。
 苦しい思いをしながら歩き続けるより、終わっちゃった方が楽なんだから。
「…妙に生々しい夢だな、それは。…本当にあったことなのか?」
 前のお前がそう思ったのか、メギドの中を歩きながら…?
「うん…。ぼくもすっかり忘れてたけど…」
 最後に起こったことの方がずっと、悲しくて辛くて苦しかったから…。
 もうハーレイには会えないんだ、って泣きじゃくりながら死んじゃったから。
 歩いてた時のことなんかは思い出しもしないよ、何もかも失くしちゃったんだもの。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって、もう本当に独りぼっちで、それっきりだから…。
「そうだったのか…。前のお前は、独りぼっちで歩いていたのか…」
 メギドの制御室に着くまでの間に、お前が歩いて行った距離。
 相当なもんだぞ、メギドのデカさは桁外れだからな。
 ただでも長い道だというのに、よろけながら歩いて行っただなんて…。
 その時間、きっと長かったよな…。一分や二分で着くわけがないしな、制御室には。
「時間なんか覚えていないけど…。それに時計も無かったから」
 でも…。夢の中でぼくが見たのと、おんなじ。
 今は記憶がハッキリしてるし、夢のせいで長かったんじゃないんだな、って分かっているよ。
 本当に長い道だったんだよ、サイオンは出来るだけ残しておかなきゃいけなかったから。
 床や壁は壊さなきゃ前に進めないけど、他は歩いて行かなくちゃ…。
 瞬間移動で一気に飛んでしまったら、ぼくのサイオン、それで無くなってしまうから…。
 制御室を壊す力が無くなっちゃうから、瞬間移動は無理だったんだよ…。



 前の自分がメギドで歩いた、苦しくて、とても長かった道。早く終わりを、と願うくらいに。
 辿り着けば死ぬと分かっていたのに、道の終わりを待ち望んだほどに。
 支えてくれる人は、誰一人としていなかったから。一人きりで歩くしかなかったから。
「…長かったんだよ、ホントのホントに。歩いても、歩いても終わらなくって…」
 何度もよろけて、急がなくちゃ、って思っていたけど休憩もして。
 ほんのちょっぴりだったけれども、壁にもたれて一休みしてた。倒れちゃったら駄目だから。
 倒れるよりかは、一休みの方がマシだもの。…休んだら、また歩き出せるから。
「やっぱり俺も行くべきだったな、お前を支えに」
 よろけちまったら、手を差し出して。俺に掴まって歩けるようにと、腕だって貸して。
 いざとなったら抱き上げて歩くっていう手もあるしな、シャングリラでもやっていたろうが。
 お前の具合が悪くなったら、俺が青の間まで運んだもんだ。…いろんな場所から。
「それは駄目だよ。…ハーレイはメギドに来ちゃ駄目なんだよ」
 ハーレイがいなくなってしまったら、誰がシャングリラを地球まで運ぶの?
 誰がジョミーを支えるって言うの、ぼくを支えるよりジョミーの方が大切なんだよ。
 死んでしまうぼくを支えていたって、何の役にも立たないんだから。…ジョミーを支えて、地球まで行ってくれなくちゃ駄目。
 …パパとママに夢の話をしたらね、ぼくと一緒に歩いてくれるって言ったけど…。
 二人とも、ぼくを支えてメギドの中でも歩いてあげる、って言ってくれたんだけど…。
 パパとママは一緒に来てもいいけど、ハーレイは駄目。
 別の役目があるんだから。…ハーレイにしか出来ないことなんだから…。



 来て貰うならパパとママだよ、とハーレイを止めた。本当は誰よりも来て欲しい人を。メギドで思い浮かべた人を。絶対に駄目、と。
「…ハーレイの役目は、シャングリラを地球まで運ぶこと。…ジョミーを支えてあげること」
 前のぼくも、ハーレイにジョミーを頼んで行ったよ。ぼくと一緒に来るなんて、駄目。
「だが、そう思ってしまうじゃないか。お前がどんな思いをしたのか、それを知ったら」
 俺の温もりを失くして独りぼっちになるよりも前から、お前は一人だったんだろうが。
 メギドの中でよろけていたって、誰も支えてくれやしなくて。
 そいつを聞いたら、俺も行くべきだったと思う。お前を支えて、一緒に歩いてやるために。
 おまけに、お前のお父さんたちも、そうするんだと言ったとなると…。
 俺が行かないわけにはいかんな。前のお前がよろけた時には、俺が支えていたんだから。
「だけど、キャプテンは来ちゃ駄目なんだよ、メギドには」
 キャプテンの役目は、シャングリラを守ることなんだから。メギドを沈めに行くんじゃなくて。
 どうせ死ぬんだって分かり切ってる、前のソルジャーを支えに行くことじゃなくて…。
 夢の中でも、絶対に、駄目。
 ぼくを助けて逃げる夢ならかまわないけど、一緒に死んじゃう夢なんか駄目。
 だから一緒に歩いちゃ駄目だよ、ぼくがメギドでよろけていたって。…独りぼっちで苦しそうに歩いていたとしたって。
「分かっちゃいるがな…」
 前の俺が正しい選択をしたということは。…俺にとっては間違いだったが。
 俺はお前を追うべきだったと今も思うが、キャプテンがそれをするべきではない。
 そうしていたなら、シャングリラが無事に地球まで行けたか、俺にも自信が無いからな。
 お前が言う通り、俺は行っては駄目なんだろう。前のお前を支えたくても、メギドには。
 船に残って、最後まで指揮を執り続ける。それがキャプテンなんだろうがな…。



 しかし…、と苦しそうな顔のハーレイ。
 そんな思いまでさせていたのかと、苦しくて辛い道を一人で歩かせたのか、と。
「…お前がメギドに着いてからの話は、俺は殆ど知らないからな…」
 お前、喋りはしないから。…俺もわざわざ訊きはしないし、本当に何も知らなかった。
 早く終わりがくればいいのに、と思いながら歩いていたなんて…。独りぼっちで歩いたなんて。
「大丈夫、直ぐに忘れちゃうから」
 夢を見たせいで、今はハッキリ覚えているけど…。今日まで一度も思い出さなかったもの。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちになっちゃった方が辛かったから…。
 右手が冷たくなっちゃった方が、ずっと悲しくて辛かったんだし、それが最後の記憶だから…。
「そうかもしれんが、辛い思い出を、もっと辛くて悲しい思い出で消すというのもなあ…」
 いい思い出で消えてしまうのならいいが、辛い思い出のお蔭で忘れられるだなんて…。
「平気だってば。今日まで、そうやって消えていたんだから」
 ぼくは平気だよ、きっと明日には忘れてるから。
 もしも覚えていたとしたって、とっくに終わったことなんだもの。…ずっと昔に。
「だが、お前…。こうして甘えているじゃないか」
 俺にくっついていたい気分で、抱き付いて、膝に乗っかって。
 最近はずいぶん減っていたのに、俺に会うなり抱き付くだなんて…。その夢のせいだろ、一人で歩いていたっていう。…俺が一緒なら良かったのに、と思わなかったか?
「…ほんの少しね。夢の中でも、前のぼくも」
 でも、駄目だって分かっているから…。一人でも頑張って歩いて行かなきゃ。
 ハーレイに甘えたい気分になるのも、今日だけだよ。いきなり思い出しちゃったから。
「そうは言われても…」
 俺だって、辛くなっちまう。前のお前がどんな気持ちで、一人で歩いていたのかと思うと…。
 歩いてた道が長かったんなら、辛い時間も苦しい時間も、その道の分だけあったんだから。



 お前に何かしてやりたかった、とハーレイは背中を撫でてくれるけれど、戻れない過去。
 あの日へと時を戻せはしなくて、やり直すことは出来はしなくて。
 それに、戻れても、ハーレイにメギドには来て貰えない。ミュウの未来が危うくなるから。
 今の自分も分かっているから、夢の世界でもメギドに連れては行けないハーレイ。
 辛くて苦しかった道を歩く夢に、来てくれるのは両親だけ。「頑張れよ」と支えてくれる父と、手を握ってくれる優しい母と。
 ハーレイは決して、来てはくれない。夢の中でも、あの長い道を歩く時には。
(悲しかったけど、仕方ないもの…)
 支えて欲しいのにハーレイがいない、と思ったメギド。
 夢の中の自分も考えたけれど、前の自分も変わらなかった。あの手が欲しい、とハーレイの手に縋りたいのを堪えて歩いた。
 自分が選んだ道なのだから、と。一人で歩いてゆくしかないと。



 それでも苦しくて悲しかった、とハーレイの身体に抱き付いていたら。広くて逞しい胸に、頬をすり寄せて甘えていたら…。
「ふうむ…。前のお前には何もしてやれなかったんだが…」
 今となっては、もうどうしようもないんだが。…お前、やっぱり可哀相だしな…。
 よし、今はまだ少し早すぎるんだが、楽しみに待っているといい。
 お前のお父さんたちに負けてはいられないからな、俺だって。お前の恋人なんだから。
「待つって…。何を?」
 早すぎるって、いったい何を待っていればいいの?
「俺がお前にしてやれることさ。前のお前に出来なかった分、今のお前に」
 前のお前がメギドで一人で歩いていた分。前の俺がお前を、一人で歩かせちまった分。
 お前の隣で支えてやれなかった分を、幸せな所で今のお前に返してやろう。うんと幸せな気分になって、独りぼっちで歩いた辛さを忘れられるように。幸せなんだ、と思えるように。
 これは俺にしか出来ないことだし、お前のお父さんたちには決して負けないってな。
「幸せな所って…。何処で?」
「まだまだ先だな、俺とお前の結婚式ってヤツだから」
 少し早すぎると言っただろうが。お前はチビだし、結婚出来る歳にもなっていないし。
「結婚式の時に、何かするわけ?」
「定番と言えば定番なんだが…。お前、抱き上げて欲しいんだろうが」
 俺に抱き上げて貰って、記念写真を撮りたいと言っていなかったか?
 お姫様抱っこというヤツで。あのポーズで俺と写真を撮るのが夢なんだ、とな。
「そうだけど…?」
 ママたちも写真を飾っているから、やっぱりあれを撮りたいよね、って…。
 だけど、白無垢だと抱き上げる写真は無いみたいだから、ちょっぴり悩んでいるんだよ。
 白無垢にしたら、ああいう写真は無理なんでしょ?
 ウェディングドレスでないと駄目かな、って思うけれども、白無垢だって…。



 幸せ一杯の結婚式の写真。両親の記念写真を眺めて、憧れたポーズ。いつかはぼくも、と。
 けれど、白無垢を花嫁衣装に選んだ時には、撮れないらしいのが、あのポーズの写真。白無垢も素敵だと思っているのに、ああいう写真が撮れないのなら…、と頭を悩ませている問題。
 白無垢はハーレイの母が着たと聞くから、着てみたいのに。
「そいつだ、お前の憧れの写真。…それを必ず撮らせてやろう。結婚式の日に」
 前のお前を一人で歩かせちまったからなあ、その時の分をお前に返そう。
 結婚式の時は、俺がお前を抱き上げて歩く。支える代わりに、ヒョイと抱き上げて。
 ほんの短い距離なんだろうが、幸せな気分を味わってくれ。俺の嫁さんになったんだ、とな。
 お前が白無垢を選んだとしても、俺がしっかり抱え上げてやる。
「…ホント? 白無垢でも、あの写真、撮ってもいいの?」
 駄目なんだって思っていたけど、あのポーズで記念写真を撮れるの?
「心配は要らん。俺がお前を抱き上げるんだし、カメラマンがちゃんと撮ってくれるさ」
 普通はしないポーズなんだが、と思っていたって、プロなんだから。
 きっと最高の写真が撮れるぞ、幸せ一杯のお前の笑顔。白無垢でも、ウェディングドレスでも。
 俺がきちんと抱いててやるから、何枚でも写して貰うといい。
 でもって、それから後はずっと、だ…。



 もう一人では歩かなくてもいいだろうが、と笑ったハーレイ。「俺がいるんだから」と。
「支えるどころか、ずっと一緒だ。どんな時でも、どんな所でも」
 お前を一人で歩かせやしない、絶対にな。お前が一人で歩きたいなら、止めはしないが。
「結婚したら、ずっとハーレイと一緒?」
 ぼくが歩く時は、いつもハーレイが一緒に歩いてくれるの、何処へ行く時も?
「流石に仕事の間は無理だが、それ以外の時は一緒だな」
 そういうもんだろ、結婚式を挙げるんだから。
 お前は俺の嫁さんになって、二人で暮らしていくんだし…。前よりもずっと幸せになれるぞ。
 俺はお前を支え放題だし、抱き上げて歩いていたっていい。何処へ行くにも。
 シャングリラだと、支え放題とはいかなかったしなあ…。キャプテンの仕事の範囲でしか。
 前のお前に付きっ切りというのは無理だった。…俺の居場所はブリッジだったし。
「そうだっけね…」
 視察の途中でよろけた時とか、具合が悪くなっちゃったとか…。そういう時だけ。
 寝込んじゃってても、支えに来てはくれなかったよね。仕事が終わらない内は。
「そうだったろう?」
 しかし、今度は堂々と恋人同士だからなあ、いくらでもお前を支えてやれる。
 お前が一人で息を切らして、苦しい思いで歩くことはないんだ。俺が必ず支えるから。
 まあ、それ以前に、そんな目にお前を遭わせはしないが…。
 のんびり歩いていればいいんだし、息なんか切れはしないんだがな。



 お前のペースでゆっくり歩こう、とハーレイは微笑んでくれたけれども、ふと思ったこと。前の自分がメギドで歩いた、あの長い距離。
 一人だったから、とても辛くて苦しかったけれど、二人だったらどうなるだろう、と。もちろんメギドは御免だけれども、幸せな今。いつかハーレイと二人で歩ける時だったなら…、と。
(もっと長くて厳しい道でも、幸せかも…)
 メギドでは普通の通路だったけれど、足を取られるような厄介な道。足がすっぽり沈んでしまう深い雪とか、ツルツルと滑る凍った道。
(おまけに風邪まで引いてるとか…)
 熱っぽい頭で、コンコンと咳をしている時でも、二人なら幸せかもしれない。もう帰りたい、と思う代わりに、もっと先まで、と強請るとか。
 ハーレイに「帰ろう」と手を引かれても。「連れて戻るぞ」と抱き上げられても。
 メギドの時には、早く終わって欲しかったのに。辛くて苦しいだけの道など、最後に待っているものが死でも、早く終われと願ったのに。
(雪道で、風邪でも、もっと先まで…)
 行きたいとハーレイに強請るのだろうか、「まだ行きたいよ」と。もっと二人で歩こうと。
 風邪を引いていて、苦しいのに。足が靴ごと雪に埋まるのに。



 そう思ったから、ハーレイに訊いてみることにした。最高の場所が見付かったから。雪が沢山、ありそうな場所。風邪を引くかもしれない場所。
「あのね…。ハーレイと二人で歩きたい時に、ぼくが息切れしててもいい?」
 風邪を引いてて、熱も咳も出てて、歩こうとしたらフラフラのぼく。
 ハーレイ、ぼくを支えてくれる?
 前のぼくをメギドで支えられなかった分まで、うんと長い道を歩いてくれる…?
「風邪を引いて熱って…。そんな状態で歩きたいのか、お前は?」
 しかも俺とって、デートなのか、それは?
「うん。…旅行中だと、また別の日に、って言ったって無理な時があるでしょ?」
 三日間しかいられないのに、ぼくの風邪、治らないだとか…。だけど、どうしても見たいとか。
 サトウカエデの森を見たいよ、雪の季節に行こうって約束してたよね?
 その時にぼくが風邪を引いたら、雪の森で、支えて歩いてくれる…?
「熱が出ていて、咳までしてて…。それでも雪の森に出掛けてデートだってか?」
「駄目? 本物のサトウカエデの森を見るのは、前のぼくの夢の一つだけれど…」
 メイプルシロップが採れる季節に、ハーレイ、行こうって言ってくれたよ。
「…分かった、そういうことならな。お前を支えて歩いてやろう」
「もっと先まで、って頼んでもいい? ハーレイが帰ろうって言い出したって」
 まだ見たいんだ、って我儘、言ってみたいな。フラフラでも、雪で歩きにくくても。
「任せておけ。支えてもいいし、いざとなったら俺が抱き上げて歩いてやるから」
 サトウカエデの森なら、いくらでも歩いてやるさ。ヨロヨロしてるお前と一緒に。
 同じようによろけていたって、行き先がメギドの制御室だと、ついて行けないらしいからな。
 その分、余計に頑張らないと。メギドは夢でも駄目らしいしなあ…。
「パパとママは来てくれるんだけどね」
 でも、ハーレイは絶対に駄目。…メギドの中では、キャプテンだから。
「お前のお父さんたちは行くというのに、行けないのが俺だというのがな…」
 サトウカエデの森で頑張るとするか、お父さんたちに負けないように。
 お前がどんなに我儘だろうが、倒れそうでも「行くんだ」と言っていようがな。



 俺が支えて行ってやる、とハーレイに約束して貰えたから。
 抱き上げて運んでもくれるそうだから、いつか幸せに無理をしようか。
 前の自分がメギドで一人で歩いた道より、もっと長くて歩きにくい道をハーレイと二人。
 息が切れても、熱や咳で身体がとても辛くても、ハーレイと一緒。
 足元が雪で歩きにくくても、ハーレイにしっかり支えて貰って、サトウカエデの森の中を。
 もっと先へと、もっと歩こうと。
 「行きたい」と強請って、支えて貰って、きっと幸せに歩いてゆける。
 一人で歩く道ではないから。
 ハーレイが隣で支えてくれるし、いざとなったら、抱き上げて運んでくれるのだから…。




            一人だった道・了


※前のブルーがメギドの中で歩いた道。瞬間移動は使えないだけに、一人きりでよろけながら。
 けれど、今度は、もっと長い道になっても、ハーレイが支えてくれるのです。雪の中でも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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(わあっ…!)
 懐かしい、とブルーの目を引き付けたもの。学校から帰って、おやつを食べに来たダイニング。ふと見たテーブルの上にアルバム、見覚えのある表紙の一冊。
(幼稚園の…)
 卒園記念に貰ったアルバム。表紙は幼稚園でつけて貰ったけれども、アルバムにしてくれたのも幼稚園の先生たちだけど。
(ぼくも作った…)
 頑張ったっけ、と思い出が蘇ってくるアルバムの中身。先生に「はい」と貰った画用紙、それに絵を描いたり、みんなお揃いのアルバム用紙に写真を貼ったり。
 半分ほどは自分で作った手作り品。この世に一冊、そう言ったっていいくらい。
(そうそう、こんな絵!)
 描いたんだよ、と浮かび上がってくるクレヨンを握った自分の姿。もっと上手に、と一所懸命。誰よりも上手く描きたくて。卒園記念になるのだから。
 頑張ったぼく、とパラリ、パラリと順にページをめくっていたら…。
「懐かしいでしょ?」
 ブルーのアルバム、と母がダイニングに入って来た。おやつのケーキや紅茶のカップ、ポットも載せたトレイを手にして。
「このアルバム…。ママが出して来たの?」
「ええ、そうよ。他のアルバムを取りに行ったら、あったから」
 きっとブルーも喜ぶと思って…。普段はアルバム、わざわざ探しに行かないでしょう。
 せっかくだから、ハーレイ先生にも見て頂く?
「えっ?」
 ハーレイって…。幼稚園のアルバム、ハーレイに見せるの?



 それはちょっと、と絶句してしまった、開いたばかりのアルバムのページ。先生が作ってくれたページで、将来の夢を書くページ。「おおきくなったら、なりたいもの」という見出し。
 絵を描いた子もいたのだろうけれど、幼稚園児だった頃の自分は…。
(…書いちゃった…)
 たどたどしい字で「ウサギ」と書かれた、将来の夢。クレヨンで描いたウサギの絵まで。
(まだ諦めていなかったんだ…)
 この頃には、と恥ずかしい気持ちになる「ウサギ」。幼かった頃の自分の夢。ウサギになったら元気一杯、と夢を見ていた。野原を自由に走ってゆけるし、弱い身体が元気になるよ、と。
 ウサギになるには、まず友達にならなくては、とウサギの小屋を覗いていた。幼稚園に行く度、覗き込んでは「ぼくもウサギになりたいな」と。
 両親にも夢を語ったけれども、人間はウサギになれないから。気付いた時に諦めた夢。ウサギは無理、と。
(ウサギのこと、ハーレイも知っているんだけれど…)
 知ってくれていて、「お前がウサギになるんだったら、俺もウサギだ」と言ってくれたけれど、それはそれ。「小さい頃の夢だったんだよ」と話をするのと、こうして証拠があるのとは違う。
(本気だったのか、って笑われちゃうよ…)
 卒園アルバムにも書くほどなのか、と可笑しそうに眺めるハーレイの姿が目に浮かぶよう。
 「笑うつもりは全く無いぞ」と言っていたって、揺れているだろうハーレイの肩。懸命に笑いを堪えているのが分かる肩。そうでなければ、遠慮しないで大笑いするか。



 ハーレイにはとても見せられない、とパタリと閉じた記念アルバム。「ウサギ」と夢が書かれたページ。これは秘密にしなければ。見せるだなんて、とんでもない。
「こんなの、駄目だよ。恥ずかしいもの」
 絵とか、字とかが下手くそなのは、子供だから仕方ないけれど…。みんな同じだと思うけど。
「あら、そう? ウサギさんになるっていう夢、可愛いらしいのに」
 小さかったから見られた、素敵な夢よ。今のブルーは、ウサギだなんて思わないでしょ?
 それに、ハーレイ先生には内緒でも…。いつかは誰かが見ると思うわよ、ブルーのアルバム。
「見るって…。誰が?」
「ブルーのお嫁さんには渡さないとね、「見て下さい」って」
「え?」
 お嫁さんって…。ぼくのお嫁さんには見せるものなの、このアルバムを?
「当たり前でしょ、ブルーのお嫁さんなのよ?」
 ちゃんと見せなきゃ、と微笑んだ母。一緒に暮らす人なんだもの、と。
「そういうものなの? …アルバム、見せなきゃいけないの?」
「いけないっていうのとは少し違うわ。見せたら、自分も見せて貰うのよ」
 どちらが先っていう決まりは無いわね、お互いに見せ合うものよ、アルバム。だって、思い出が一杯でしょう。こういう風に育ちました、って。
「ママも、パパのを見たりした?」
「色々見たわよ、幼稚園のも、学校のも。…家族写真のアルバムもね」
「…ママのは? ママのアルバム、パパも知ってるの?」
「よく知ってるわよ、この家に持って来たんだもの」
 ブルーのアルバムとかと一緒に仕舞ってあるから、何度もパパと一緒に見たわね。幼稚園のも、他のアルバムも。
「アルバム…。お嫁さんに行く時は、持って行くものなの?」
「もちろんよ。パパだって自分のを持って来てるわよ、大切な思い出なんだから」
 結婚して二人で暮らすんだったら、お互い、持って来なくっちゃ。赤ちゃんの時の写真だって。



 だからブルーのアルバムも誰かが見るわね、と楽しそうにページをめくっていた母。
 「将来の夢はウサギさんね」と、例のページを何度も広げて、他のページも懐かしそうに。
 その時は、それで終わったけれど。「絶対に見せないでよ?」と念を押したから、ハーレイには見せずに済みそうだけれど。
 おやつの後で部屋に帰って、座った勉強机の前。大変なことになっちゃった、と。
(ぼく、お嫁さんは貰わないけれど…)
 ハーレイのお嫁さんになるのだけれども、お嫁さんはアルバムを持って行くもの。一緒に暮らす結婚相手と、それを開いて見るために。母だって持って来たのだから。
 幼稚園のも、他のアルバムも、持ってお嫁に行くのなら。そういうものなら、「ウサギ」という夢が大きく書かれた、自分の卒園記念アルバムも…。
(ハーレイが見るんだ…!)
 今日はなんとか隠しおおせても、きっといつかは。
 結婚する時に持って行くなら、ハーレイが見るだろう卒園記念に作ったアルバム。他にも持って行くわけなのだし、アルバムは全部見られてしまう。生まれて直ぐの写真から、全部。
(恥ずかしすぎるよ…!)
 ウサギのアルバムも恥ずかしいけど、と思わず抱えてしまった頭。
 あのとんでもない夢の他にも、まだ色々とあるのだろう。アルバムに仕舞って忘れてしまった、今から思えば恥ずかしい夢。下の学校でも、何度もアルバム作りをしたから。
 写真の方だって、きっとドッサリ。覚えていない写真が沢山。変な顔のとか、悪戯中とか。
(女の子の格好はしていないだろうけど…)
 そういう友達のアルバムを目にした記憶が幾つも。仮装だったり、お姉さんのスカートを履いた所をパシャリと撮られた写真だったり。
 「カッコ悪いけど、剥がしたら叱られるんだよなあ…」と頭を掻いた友達。剥がして捨てたら、きっとゲンコツでは済まないから、などと。



 自分にもありそうな恥ずかしい写真。覚えていない分、余計に厄介な写真。「ウサギ」と書いた卒園記念アルバムのことを、すっかり忘れていたように。
(お嫁に行く時は、アルバムを持って行くなんて…)
 将来の夢がウサギだった証拠や、顔から火が出そうな写真やら。全部纏めて持ってゆくらしい、いつかハーレイと結婚する時。
 アルバムなんかは無かったことにしておこうか、とも思うけれども。
(…ママが荷物に入れちゃうよね?)
 持って行かない、と置いてあるのに、「入れ忘れてるわ」と親切に。アルバム用の箱を作って、丁寧に詰めて、箱の外には「アルバム」の文字。一目で中身が分かるようにと。
(どうしよう…)
 ハーレイに全部見られちゃうよ、と嘆いていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、もう本当に落ち着かない。ハーレイのせいで悩んでいたのだから。
(本当に全部、見られるんだよね…?)
 出来れば見ないで欲しいんだけど、と向かいに座ったハーレイをチラリ、チラリと見る内に。
「俺の顔に何かついているのか?」
 ケーキの欠片でもくっついてるか、とハーレイがグイと拭った唇。
「そうじゃないけど…」
 ドキリと跳ねてしまった心臓。そんなにハーレイを見ていたろうか、と。
「ふむ…。お前、やたらと焦っていないか?」
「なんで分かるの!?」
 飛び上がるほどビックリしたら、鳶色の瞳に可笑しそうな色。
「図星か…。そんなに驚かなくても、取って食ったりはしないが、俺は」
 頭からバリバリ食いはしないぞ、人食い鬼じゃないんだから。
 もっと育って美味そうになったら、優しく食べてやるんだけどな。



 チビの間はミルク臭くて…、と普段だったら嬉しい冗談。今日はちょっぴり恋人扱い、と幸せな気分になれるけれども、今は大きな問題が一つ。
 ハーレイが「食べ頃だな」と思ってくれたら、自分はお嫁に行くのだから。見せたくないよ、と隠しておきたいアルバムが詰まった箱と一緒に。
 どうしよう、と恥ずかしい気持ちが膨らむ一方、穴があったら入りたいくらい。アルバムを全部抱えて入って、蓋をパタンと閉めたいくらい。
「…重症だな。とびきりの言葉をプレゼントしても、お前、喋りもしないんだから」
 で、何を焦っているんだ、お前。…俺が来た時には、もう焦っていたみたいだが。
「えっと、アルバム…」
「アルバム?」
 それは写真を貼るアルバムのことか、なんでアルバムで焦るんだ?
「ママが、結婚する時には持って行くものよ、って…」
 赤ちゃんの時からのアルバムを全部、持って行くんだって言ったんだけど…。
 ママもパパも、この家に持って来たんだから、って…。
「普通はそうだな、大事なアルバムは持って行くもんだ」
 元の家は直ぐそこなんです、っていう時は置いて行く人も少なくないが…。見たくなった時に、見たい分だけ選んで運べばいいことだからな。最初から持って行かなくても。
 そのアルバムがどうしたんだ?
「恥ずかしいじゃない、アルバムを持って行くなんて!」
 自分じゃ覚えていないくらいに、小さい頃のもあるんだよ?
 こんな写真は恥ずかしいよ、って思う写真も入っているのに、それだって全部…。
 あんまりだよね、って思ってたんだよ、ぼくもお嫁に行くんだから…!
「アルバムつきだと恥ずかしい、ってか…。それで嫁に行く相手の俺を見てた、と」
 見られちまう、と焦っていたんだろうが、いいことじゃないか。素晴らしいことだ。
「何が?」
「今の俺たちだから出来ることだぞ、アルバムは困る、と焦るってヤツ」
 お前が焦る気持ちも分かるが、それは幸せなことなんだ。…今だからこそだぞ、そのアルバム。



 前の俺たちは持っていたか、と訊かれたアルバム。卒園記念や、赤ん坊の頃からの写真が山ほど詰まっているアルバム。
 今の自分は何冊も持っているけれど。記憶から消えたアルバムの数も多そうだけれど。
「…前のぼく…。アルバムなんかは無かったね…」
 それに記憶も無くなっちゃってた、子供の頃の。…育ててくれた人たちの顔も、育った家も…。学校も友達も、何もかも全部。
 今のぼくだと忘れてるだけで、切っ掛けがあれば思い出せるけど…。前のぼくだと、全然駄目。成人検査と人体実験で、全部消されてしまったから。
「それだけじゃないだろ、あの時代だと無理だったんだ。子供時代のアルバムってのは」
 ミュウじゃなくても、普通に育って成人検査をパスした子でも。
 成人検査を受けた後には全部処分だ、そうだったろうが。
 子供時代の記憶ってヤツは、機械が消して上手く書き換えていたんだから。
 違うのか、と言われた通り。前の自分たちが生きていたのは、そういう時代。子供時代の沢山の思い出、それが詰まったアルバムを持った大人は一人もいなかった。人類が暮らす世界には。
「…そっか、ジョミーがお母さんと一緒に見てたアルバム…」
 目覚めの日の前に、懐かしそうに見ていたけれど…。ジョミー、持ってはいなかったよね。
 ジョミーの子供の頃のアルバム、シャングリラには無かったんだっけ…。
「無くなってただろ、ジョミーが家に帰った時には」
 前のお前が「帰っていい」と言ってやった後、ジョミーは真っ直ぐ帰ったが…。
 もうあの時には無かった筈だぞ、俺はこの目で見ちゃいないがな。
「うん、無かった。アルバムも、家族写真が入った写真立ても全部…」
 ユニバーサルから専門の職員が送り込まれて、処分しちゃった後だったよ。
 あの時代は、何処の家でも同じ。…次の子供を育てる人だと、前の子供の思い出は処分。
 次に来る子が、不思議だと思わないように。「この人、だあれ?」って訊かないように…。



 血縁関係の無い親子だけしかなかった時代。養父母が愛情を注ぐ子供は、原則として一人だけ。
 十四歳まで育て上げたら、新しい子供が貰えたけれど。養父母はそれでかまわないけれど、次の子供は「前の子供」のことを知らない方がいい。親の愛情を信じられなくなるから。
 新しい子供が何も疑問を抱かないよう、消されてしまった「前の子供」の痕跡。アルバムやら、家族写真やら。子供部屋の中身も含めて、全部。
「ほらな、人類でも持てなかったんだ。子供時代のアルバムは」
 普通に暮らしていた人類は誰も、アルバムを持っちゃいなかった。自分の成長記録の分は。
 おまけに記憶も曖昧なんだぞ、成人検査で消されちまって。
 前の俺たちほどではなくても、親の顔とかはハッキリ覚えてなかったようだし…。
 子供時代のアルバム以前に、そいつの中身の記憶が無かった。漠然とした記憶が残っただけだ。
 アルバムに写真を貼っていこうにも、貼るべき写真が無かったんだな。頭の中にも。
「じゃあ、今は…。アルバムを持ってる今のぼくたちは…」
 とても凄いんだね、前のぼくたちが生きた時代に比べたら。…アルバムが幾つもあるんだから。
「幸せすぎる時代だろうが。記憶は一つも失くしちゃいないし、子供時代のアルバムもある」
 自分じゃすっかり忘れていたって、アルバムを見れば思い出せるんだ。
 赤ん坊の頃は流石に無理でも、もう少し大きくなった頃なら。
 写真を撮った場所は何処だったかとか、このオモチャがお気に入りだったとか。
 アルバムってヤツは宝箱だな、思い出の宝庫。懐かしい思い出が山ほど詰まっているんだから。



 その宝箱を持っている上に…、とハーレイが指差した自分の頭。この中にも、と。
「俺たちの場合は、此処にも秘密の宝箱が入っているってな。デカイのが一個」
 前の俺たちの分まで持っているだろ、記憶をドッサリ。普段は忘れちまっているが…。
 一人で二人分の人生の記憶だ、こいつは凄い。生憎と、前のアルバムは持っちゃいないがな。
「そうだね、前のぼくたちの分は、子供時代が無いけれど…」
 成人検査よりも前の記憶は、何も残っていないんだけど。
 あの時代の普通の子供たちより、ずっと酷い目に遭ったから。…何も残らなかったから…。
「それでも、余分に持ってるじゃないか。前の俺たちはこう生きた、とな」
 普通の人だとそうはいかんぞ、生まれてくる前の記憶なんぞは無いんだから。
 今のが全てで、今の人生の分だけだ。頭の中にある、記憶のアルバムっていうヤツも。
 ところが、俺たちはもう一人分、持っている。前のお前や、前の俺が生きた人生の分の記憶を。
 そいつをヒョイと思い出しては、今のと比べられるんだ。此処が違うと、此処も違うと。
 うんと幸せな今の人生を、何倍も楽しめるというわけだな。前の人生が不幸だった分だけ。
「不幸って…。前も幸せだったよ、ぼくは」
 辛いことも沢山あったけれども、前もやっぱり幸せだった。
 不幸だったか、幸せだったか、どっちなのかと訊かれた時には、幸せだったって答えるよ。
 やせ我慢じゃなくて、ホントに幸せだったから。
 だってね…。



 ハーレイと一緒だったから、とニッコリ笑った。だから幸せ、と想いをこめて。
 辛い人生だったけれども、ハーレイと会えた前の生。
 前の自分が生きていたから、前のハーレイとも巡り会えた。出会って、同じ船で暮らして、恋が芽生えて、キスを交わして。…長い長い時を二人で生きた。幸せな時を二人で過ごした。
 白いシャングリラの中が全ての世界でも。誰にも恋を明かせなくても。
「前のぼくはとても幸せだったよ、ハーレイに会えて、ハーレイと一緒」
 ハーレイに会う前は辛かったけれど、それよりも後はずっと幸せ。
 どんなに悲しいことがあっても、ハーレイがいてくれたから。…いつでも一緒だったから。
 最後は離れてしまったけれども、またハーレイと会えたでしょ?
 だからホントに幸せなんだよ、前のぼく。今の幸せは、前のぼくがいたお蔭だから。
「なるほどなあ…。前のお前とのことに関しちゃ、確かに幸せだけだったな。前の俺だって」
 あのシャングリラで幸せだった、と思う記憶には、前のお前がいるもんだ。何処かに、必ず。
 俺も幸せな人生だったが、残念なことに、アルバムが無いな。
 子供時代の分じゃなくてだ、前のお前との思い出の分。そいつの写真を貼ったアルバム。
 頭の中にはアルバムがあるが、手に取って見られるヤツが無いんだ。
「無いね、前のぼくと前のハーレイの思い出が詰まったアルバム…」
 写真集なら出てるんだけどな、あれはアルバムとは言えないし…。
 自分で写真を貼ったヤツじゃないし、スナップ写真や記念写真とは違う写真だし…。
「それもそうだが、写真集、前のお前のばかりじゃないか」
 前の俺のは出ていないんだよな、欲しがるヤツが無いからなんだが…。
 キャプテン・ハーレイの写真集なんか、出したって売れやしないんだが。
「ぼくは悔しいよ、前のハーレイの写真集が出ていないこと!」
 もしも出てたら、お小遣いをはたいて買っちゃうのに…。
 カッコいいキャプテン・ハーレイの写真、アルバムでなくても欲しいのに…!



 アルバムが無かった前の自分たち。子供時代のアルバムは無くて、恋人同士のアルバムも。前のハーレイと恋をしたのに、そのアルバムは残っていない。アルバムは存在しなかったから。
 けれど、前の自分たちも幸せに生きた。不幸な時代だったけれども、恋人同士で生きた時間は。
 恋人同士になるよりも前も、二人一緒なら幸せだった。アルタミラで出会った時から、ずっと。二人一緒にいた時は、いつも。
 最後は悲しい別れだったけれど、それも今へと繋がったから。幸せな恋の続きが始まったから、きっと幸せだったのだろう。あの悲しかった別れでさえも、今の幸せへの旅立ちならば。
「前のぼくたちのアルバム、欲しかったな…」
 いろんな所で、二人で写真。青の間もいいし、公園だって。…展望室も、ブリッジとかも。
 ハーレイと二人で写したかったよ、いろんな写真を。
 恋人同士になる前の分も、沢山あったら良かったのにね…。
 ハーレイが厨房で料理をしていて、ぼくが隣で見ているのとか。二人でジャガイモの皮を剥いているのとか、他にも色々。
 思い出は山ほど残っているのに、それの写真が無いなんて…。アルバムに貼っておきたい大切な写真、一枚も残っていないだなんて…。
「お前なあ…。どう考えても無理だろうが。前の俺たちのアルバムなんて」
 前のお前の公式な写真でさえも無かったんだぞ、シャングリラには。
 今は有名なヤツがあるがだ、前の俺はアレを知らないってな。あれを撮るためにポーズをつける前のお前も、写真を写したカメラマンも。…知っているだろ、真正面を向いた前のお前の写真。
「あるね、前のぼくの写真集にも入っていたよ」
 アレが表紙になっているヤツも、ホントに沢山あったっけ…。いつの写真か知らないけれど。
 でも、前のハーレイの写真集は一冊も無くて、なんだかホントに悲しい気分。
 ハーレイの写真集があったら、アルバムの真似が出来るのに…。
 写真集を買って来て、お気に入りのを切り取って貼れば、それっぽいのが出来そうなのに…。
 前のぼくの写真集も買って切り取って、一緒に貼って。
 いい感じにサイズとかが合ったら、お揃いの枠で囲んだりして、ハートも描いて…。



 ホントに残念、と前のハーレイの写真集が無いことを嘆いたら。前の自分たちの恋のアルバムは作れやしない、と零していたら。
「仕方ないだろう、前の俺の写真集を作ろうってヤツがいないんだから」
 売れそうもない本は無理だからなあ、文句を言ってもしょうがない。
 前の俺たちのアルバムが無いのも、今更どうしようもない。時間を戻して作れやしないし、前の俺たちに戻ったとしたら、写真どころじゃないんだから。…アルバムもな。
 その分、今度は作れるぞ。誰にも遠慮は要らないわけだし、写真は何処でも撮り放題だ。
 アルバムだって山ほど作れる、ハートも山ほど描いたっていいし。
 一番最初に作るアルバムは、結婚式のアルバムだろうな。花嫁姿のお前が主役の。
「ウェディングドレスか、白無垢だよね。…どっちにするかは決めてないけど…」
 ハーレイの写真も沢山欲しいよ、結婚式のアルバムだもの。うんとカッコいいハーレイが沢山。
 二人一緒のも山ほど写して、後で選ぶのに困るくらいに写真が一杯。どれを貼ろうか、って。
「悩むんだろうなあ、どの写真のお前も綺麗だろうし…」
 とても選べん、と全部纏めて貼っちまうかもな、分厚いアルバムを買って来て。
「そうかも…。ぼくもハーレイの写真、全部貼ろうとしそうだから…」
 この写真もいいし、こっちもいいね、って迷って選べそうにないから。
 最初のアルバムは写真選びに困りそうだけど、その後もいっぱい作りたいね。ハーレイとぼくの写真のアルバム、前のぼくたちのアルバムが無かった分まで。
「もちろんだ。家でも沢山写すんだろうが、あちこち出掛けて写さないとな」
 旅行もそうだし、親父たちと釣りに行くのもいいし…。
 親父たちの家でも色々撮れるぞ、夏ミカンの実でマーマレードを作る時とか。



 あの木の下でも写真を撮ろう、と提案された夏ミカンの木。隣町で暮らすハーレイの両親、その家の庭の目印だという大きな木。夏ミカンがドッサリ実る季節や、花の季節に。
(…最初に撮れるの、いつなのかな?)
 黄色い実が山ほど実っているのか、白い花が沢山咲いているのか。それとも小さな緑色の実が、幾つも下がっている頃なのか。
 早く写真を撮りたいよね、とハーレイと並んで木の下に立つ日を夢見ていたら…。
「アルバム作りを始めるからには、前のアルバムも見ようじゃないか。お前と二人で」
 俺はコーヒーでも淹れて。…お前は紅茶か、ココアでも飲んで。
「前のアルバムって…。前のぼくたちの写真集?」
 ハーレイの写真集は無いから、前のぼくので、ハーレイが沢山写っているヤツ?
 あれ、ぼくは好きじゃないんだけれど…。
 このハーレイは素敵だよね、って思う写真は、前のぼくとセットなんだから。
 ハーレイを盗られちゃった気がして、腹が立って買わなかったんだよ。これは嫌い、って。
 あんな写真集が欲しいの、ハーレイ?
 ぼくが大きく育った後なら、今みたいに腹は立たないのかもしれないけれど…。
「いや、それじゃなくて…。前というのは、今の俺たちの前って話で」
 今の俺たちの昔のアルバム。子供時代からのアルバムってヤツだな、幾つもあるだろ?
 お前もそいつを持ってくるんだし、二人でゆっくり見るのもいいぞ。
 こんな時代もあったんだよな、って笑って、思い出話をして。
「子供時代のアルバムって…」
 ハーレイ、見たいの、ぼくのアルバム?
 お嫁に行く時に持って行ったら、ハーレイ、それを見るって言うの?



 酷い、と叫んだのだけど。悲鳴を上げてしまったけれども、ニヤリと笑みを浮かべたハーレイ。余裕たっぷり、腕組みをして。
「ほほう…。俺のアルバム、見たくないのか?」
 子供時代のアルバムってヤツは、俺だって持っているわけだ。…今の俺はな。
 前にミーシャの写真を探して見せてやったぞ、おふくろが飼ってた白い猫のミーシャ。
 俺の子供時代のアルバムの写真、お前はそれしか知らない筈だが…。
 他には何も見せちゃいないし、ミーシャの写真に俺は写っていなかったしな。
「そういえば…。ミーシャは見せて貰ったけれど…」
 ハーレイの写真は見たことがないよ、ミーシャが家にいた頃の写真。
 ねえ、ハーレイのアルバム、どんな写真が入っているの?
 子供時代のハーレイが沢山写っているよね、釣りの写真も、柔道の写真も入ってる…?
「さてなあ…? そいつは見てのお楽しみってな」
 しかしだ、お前が見せてくれんというのに、俺だけがお前に見せるのか?
 どうぞ遠慮なく御覧下さい、と俺のアルバムを公開するのか、お前のは内緒らしいのに?
 そいつは不公平ってモンだぞ、そう思わないか?
 お前はアルバムを見られるのが嫌で、出来れば持たずに嫁に来たいわけで…。
 そうするのは別にかまわないんだが、俺のだけ見せろと言われても…。



 俺のアルバムを見たいのならば、お前も持って来ないとな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 不公平なのは良くないからな、と。
「それって、交換条件ってこと?」
 ハーレイのアルバムを見せて欲しかったら、ぼくのアルバムも見せろってこと…?
 結婚する時にはちゃんと持って行って、ハーレイに全部、見て貰うわけ…?
「さっきも言ったが、持って来なくてもいいんだぞ。お前が嫌なら」
 嫌だと言うのを無理にとは言わん、誰にだって秘密はあるもんだ。前の俺たちだって、最後まで隠し通したからなあ、恋人同士だったことをな。
 だから、お前がアルバムを一生秘密にするのもいい。俺には見せん、と隠したままでも。
 その代わりに、だ…。俺のアルバムも隠しておく。
 俺が仕事に行ってる間にコソコソ見られないように、きちんと秘密の場所を作って。
「えーっ!?」
 見せてくれないの、ハーレイのを?
 隠してしまうの、ぼくが絶対見られないように…?
 ハーレイの子供時代の写真、とっても見たいのに…。いろんな写真を見てみたいのに!
 幼稚園の卒園記念アルバムとかもあるでしょ、それも見たいよ。
 でも、見たいのなら、ぼくのを持って行かなくちゃ駄目…?
 赤ちゃんの頃からのアルバムだとか、幼稚園の卒園記念アルバム…。
「当然だよなあ、俺のを見ようとしているのなら」
 秘密にするなら、お互い、一生、見せずに過ごす。お前も、俺も。
 見てみたいのなら、自分のアルバムも「どうぞ」と出すのが常識だろうが。
 俺にだって秘密はあってもいいんだ、お前が秘密を持ちたいのなら。
 いいな、俺のアルバムを見たいんだったら、お前もきちんと持って来い。
 どうやら幼稚園の卒園記念アルバムってヤツを、隠しておきたいみたいだが…。そいつも一緒に持って来るんだぞ、俺の幼稚園時代のアルバムを見せろと言うのなら。



 どんな秘密が隠れているのか知らないが…、とスウッと細められた鳶色の瞳。卒園記念アルバムとやらで、お前は何をやったんだか、と。
「楽しみにしてるぞ、お前の秘密。…嫁に来るまでに、覚悟を決めておくんだな」
 幼稚園の卒園記念アルバム、それを一番に見ようじゃないか。俺のも家にあるからな。
 だがな、お前が出さなかったら、俺のも秘密の場所に突っ込む。
 前のお前なら、一瞬で在り処が分かっただろうが、今のお前じゃ無理だしな?
 何処に隠すかな、屋根裏にするか、庭にデッカイ穴でも掘るか…。鍵付きの頑丈な箱も何処かで買って来て。鍵は隠すより俺が持つのが一番だ、うん。
 そうやっておけばコソ泥が出ても安心だしな、と一人で頷いているハーレイ。秘密を持つなら、対策の方も万全に、と。
 アルバムを隠すつもりでいるハーレイ。もしも自分が、アルバムを秘密にしたならば。
 結婚する時に持たずに行ったら、ハーレイのアルバムは鍵がかかった箱の中。屋根裏か庭で発見できても、肝心の鍵が開けられない。鍵はハーレイが持って出掛けてゆくのだから。



 自分のアルバムを恥ずかしがったら、見られないらしいハーレイのアルバム。
 子供時代のハーレイが山ほど詰まっているのも、幼かった頃の夢が書かれていそうな、幼稚園の卒園記念アルバムも。
 それが見たいなら、自分もアルバムを見せるしかない。将来の夢が「ウサギ」と書かれた、あの恥ずかしいアルバムも。とんでもない写真が潜んでいそうな、小さかった頃のアルバムも。
(…どうしたらいいの…?)
 見せたら絶対、笑われるのに、とハーレイを睨みたいけれど。
 前の自分は、こんな幸せな悩みは持っていなかった。
 アルバムなどは無かったから。子供時代はこうだったから、と披露しようにも、そのアルバムが無かったから。それに、よくよく考えてみれば…。
(前のぼく、ハーレイと最初から一緒…)
 アルタミラの地獄で出会った時から、二人一緒にあの船で生きた。それまでの記憶は、消されて持っていなかった。前の自分も、前のハーレイも、お互いに無かった子供時代。
 そんな記憶は無かったから。見せ合おうにも、記憶もアルバムも無かったから。



 けれども、今は持っている過去。今のハーレイも、今の自分も、子供時代の記憶やアルバム。
 思い出が山ほど、記憶も山ほど。それが詰まったアルバムだって。
(ぼくの知らない、ハーレイの写真を見たいなら…)
 アルバムを持ってお嫁に行く。母や父がアルバムをこの家に持って来たように。
 そしてハーレイと二人で広げる、「ぼくのはね…」と、「俺のヤツは…」と。
 見せるのはとても恥ずかしいけれど、二人で見せ合ったら、きっと…。
(恥ずかしさだって、きっと減るよね?)
 余裕たっぷりのハーレイにだって、変な写真がありそうだから。可笑しすぎる将来の夢だって。
 思い切って自分も持って行こうか、さっきの卒園記念アルバムを。小さかった頃のアルバムも。
 今の自分は、まだ恥ずかしくて、ハーレイに見せられないけれど。
 将来の夢は「ウサギ」と書かれた、アルバムは隠しておきたいけれど。
 それでも、あれを持って行こうか、いつかお嫁に行く時は。
 いつかはハーレイに、自分を丸ごと貰ってもらうのが今の夢だから。
 丸ごと貰ってもらうのだったら、秘密だってきっと、ハーレイのものになるのだから…。




              秘密のアルバム・了


※ブルーの卒園記念アルバム。将来の夢がウサギなだけに、ハーレイには秘密にしたいのに…。
 ハーレイのアルバムを見るためには、自分も見せるしかないのです。でも、それも幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












「今の時代は、こういう文化は無いんだが…」
 話の種に聞いておくんだな、と始まったハーレイお得意の雑談。教室の前のボードに書かれた、「切符」という文字。どう見ても切符。列車に乗るための乗車券。いわゆるチケット。
 ある筈だけど、と首を傾げたブルー。他のクラスメイトたちも。
 切符と言う人やら、乗車券やら、呼び方は人それぞれだけれど、今も存在している切符。これを買わないと乗れない列車。何処へ行くにも必要なもの。列車に乗ってゆくのなら。
 皆の疑問を読み取ったように、ニヤリと笑みを浮かべたハーレイ。腕組みをして余裕たっぷり、「ただの切符だと思っているな?」と。
「…違うんですか?」
 ぼくたちの思う切符とは、と男子の一人が声を上げたら。
「もちろんだとも。特別に売られた切符なんだぞ、俺が言うのは」
 期間限定と言うべきか…。ある時期が来ないと発売されない切符だな。
「記念切符は今もありますが?」
 イベントに合わせて、絵がついてるのとか、何かグッズがつくだとか…。
 今だって、幾つも売られていると思いますけど。
「違うな、もっと特別だ」
 ついでに、切実でもあった。こいつに全てを賭けるとまでは言わんが、手に入れたい切符。
 まあ、今の時代も、記念切符を手に入れようと行列するヤツはいるんだが…。
 朝も早くから駅に出掛けて、並んでるヤツも多いんだがな。
 しかし、俺が言う切符は遥かに特別だった。そういう記念切符とかよりも、ずっと。



 合格切符、とハーレイが書き加えた「合格」の文字。ボードの「切符」のすぐ前に。
 ざわめくクラスメイトたち。合格の意味は分かるけれども、合格切符とはなんだろう?
 学校で受ける様々な試験、体育や他の授業でも。合格したなら、次のステップへ進める仕組み。逆に落ちたら、「出来ていない」と補習があったり、余分に課題を貰ったり。合格するまで。
 けれど、合格に切符は要らない。自分の努力が必要なだけ。そもそも切符が売られてはいない、職員室に出掛けて行っても。合格のための切符なんかは。
 ハーレイは「知らんだろうな」とクラスを見回して。
「ずっと昔には、受験というのがあったんだ。SD体制が始まるよりも前のことだな」
 受験だから、試験を受けるわけだが…。お前たちが知ってる試験なんかとは全く違った。
 そいつに落ちたら、行きたい学校に行けないどころか、後の人生まで変わるんだ。夢に見ていた未来が壊れちまうとか、それは散々な目に遭った時代。
 努力で挽回出来ればいいがな、出来なかったら「あの時、合格していれば…」と、一生、嘆いているしかなかった。スタートラインで失敗した、と。
 そうなっちまえば人生台無し、誰だって行きたくない道だろう?
 避けるためには合格すること、それが大切なんだから…。合格したい、と買いに出掛けたのが、合格切符というヤツだ。
 買ったら受かるというわけじゃないが、合格しそうな気分になれる。お守りだな。
 切符には行き先とかが書いてあるだろ、そいつで縁起を担ぐんだ。
 駅の名前を上手く並べて読んだら、「本調子」になって調子が出るとか、そんな具合に。
 本調子で試験に臨めたんなら、実力を発揮できるしな。



 色々なパターンがあったんだぞ、とハーレイが挙げる合格切符。遠い昔の日本の文化。
「ずいぶん人気を集めたらしいが、今の時代は縁が無さそうだな、こいつはな」
 それにSD体制の時代は、縁が無いなんていうものじゃなかった。合格切符は。
「受験が無かったからですね?」
「その通りだ。あの時代にも試験は色々あったわけだが…」
 お前たちの知ってる試験と変わりはないなあ、必要な知識や技術があるかを調べるためだし。
 だが、その前が全く違った。昔の受験に当たる部分だな、自分の進路を決めたい学校。
 其処に行くのに、選択肢ってヤツが存在しなかった。
 あの時代は何もかも、問答無用だったんだ。機械が決めていたんだぞ、進路。
 パイロットになりたい、と思っていたって、菓子職人のためのコースに放り込まれて、ケーキを作る一生なんかは当たり前だった。
 どうする、そんなことになったら?
 夢も希望もありやしないぞ、自分じゃ選べはしないんだから。やりたい仕事も、未来もな。
「困ります、それは!」
 スポーツ選手は流石に無理でも、仕事は自分で選びたいです、と大騒ぎするクラスメイトたち。自分の能力の限界はともかく、行きたい道に行きたいんです、と。パイロットでも、料理人でも。
「だろうな、普通はそういうもんだ。…だから人生、楽しいわけだ」
 パイロットの道に行った後でだ、やっぱり漁師になりたいだとか。
 農業が好きでやっている内に、栽培技術を極めてみたくて、研究者の道に行っちまうとか。
 好きに選べて、なんとでも出来る。
 その楽しみってヤツを奪っていたのがSD体制だったわけだな、合格切符の時代より酷い。
 合格切符の時代だったら、努力次第で巻き返しだって出来たんだから。



 SD体制の時代に生まれずに済んで良かったな、とハーレイは笑っているけれど。クラスメイトたちも「ホントにそうです!」と、みんな明るい笑顔だけれど。
(ハーレイ、あの時代の生き証人…)
 前のハーレイは死んでしまったから、生き証人と言えるかどうかはともかく、SD体制の時代に生きていたのが前のハーレイ。自分の他には、両親と聖痕を診てくれた医師しか知らないけれど。
 機械が統治していた歪んだ世界。今は誰もが誤りだったと認める時代。
 其処で確かに生きていたのに、こうして話のネタにしているハーレイは強い。
 前の自分たちは、進路すらも決めては貰えなかったのに。ミュウに生まれたというだけで。SD体制が良しとしなかった因子、それを持って生まれて来ただけで。
 けれど、ハーレイの話はそちらに行かずに…。
「合格切符は今では人気が無さそうなんだが…。売っても誰も買いそうにないが…」
 同じ時代に、幸福切符もあったんだ。幸福駅に行くための切符がな。
「幸福駅って…。それは欲しいです!」
 欲しい、と上がった幾つもの声。男子も女子も、瞳を輝かせた幸福切符。
「やっぱりなあ…。幸福行きの切符は欲しい、と」
 残念ながら、こいつも今は無くなっちまった。
 なにしろ幸福駅が無いから、其処へ行くための切符も無いんだ。当然と言えば当然だろうが。



 幸福切符を売るためだけに駅を作るのも…、と言われてみればもっともな話。合格切符も本当にあった駅の名前を使ったからこそ、人気だった切符。その駅は実在したのだから。
 実在しない駅をわざわざ作って幸福切符を売り出したって、それでは効き目が無いだろう。駅は新しく作られたもので、有難味が全く無いのだから。
(…でも、ずっと昔の幸福駅って…)
 やっぱり誰かが作ったのだろうか、切符を売ろうと幸福駅と名前をつけて。それが次第に人気を集めて、新しい駅でもかまわないから、と大勢の人が買ったのだろうか、と考えたのに。
「勘違いしているヤツもいそうだから、言っておくがな…」
 幸福切符の幸福駅は、最初から本物の幸福駅だぞ。切符を売るための駅名じゃなくて。
「えっ!?」
 本当ですか、と驚くクラスメイトたち。彼らも疑っていたらしい。商売用の駅名では、と。
「正真正銘、本物だ。幸福は駅の名前でもあったが、そういう地名だったんだ」
 まだ人間が住んでいなかった土地を開拓した時、幸福という名を付けた。同じ住むなら、素敵な地名がいいに決まっているからな。それで幸福駅が生まれた、其処に線路が敷かれた時に。
 ただ、人間の住む土地は変わってゆくもんだ。幸福駅の近くで暮らす人が減って、列車の乗客も減っちまったから…。幸福駅を通る線路は廃線になって、列車は走らなくなった。
 そうなった後も、幸福駅は残ったそうだ。駅があるなら、入場券があるからな。入場券が欲しい人が大勢買いに来るから、列車が通らなくなった後にも、幸福駅はあったらしいぞ。



 本当にあった幸福駅。其処を通る列車が無くなった後も、入場券が売れたという駅。今はもう、何処にも無いけれど。地球が滅びてしまった時代に、幸福駅も消えてしまったけれど。
(合格切符はどうでもいいけど、幸福切符は欲しいよね…)
 今の時代も、幸福駅があったなら。幸せになれる切符がある駅、幸福駅。
 合格切符の方も、ちょっぴり欲しい気持ちがするけれど。体育の時間の実技試験に、ポンと合格できるなら。いつも落っこちてばかりなのだし、合格切符で受かるなら。
(だけど、落ちるの、ぼくのせいだし…)
 自分のせいだと自覚はあるから、合格切符は無くてもいい。落っこちるのも自分の個性。
 けれど、幸福切符は欲しい。幸せを運んでくれそうだから。幸福駅に行く切符だから。ホントに欲しい、とクラスメイトたちもワイワイ騒いでいるけれど。
「文化は色々復活したがだ、幸福駅を作るってのはなあ…」
 この辺りに駅があったんです、と調べることは簡単なんだが、今の時点で計画は無いな。線路を作ろうって計画の方も。
 まあ、いつか出来るかもしれないが…。夢のある駅だし、誰かがやろうと言い出してな。
 お前たちの中の誰かが作るかもな、と締め括られた今日の雑談。作るんだったら頑張れよ、と。
 今は無いという幸福駅。
 幸福切符は欲しいけれども、買いに行こうにも、無いらしい駅。
 とても素敵な駅名なのに。その駅があれば、幸福駅へ行ける切符が買えるのに…。



 ちょっと残念、と考えたせいか、家に帰ってから思い出したのが幸福切符。母が作ったケーキを食べて、幸せな気分で戻った部屋で。
(幸福切符…)
 そういう切符があったんだよね、と頬杖をついた勉強机。合格切符が手に入らなくても、今なら困らないけれど。体育の実技試験に落っこちていても、人生が狂いはしないのだけれど。
(SD体制の時代だったら、困ってたかもね?)
 成人検査にパスしていたなら、運動が苦手な子供だからと何処へ行かされただろうか。
(エリート候補生は無理…)
 全ての面で優れた子供しか入れなかった教育ステーション。前の自分はどう転んでも、地球には行けていなかったらしい。エリート候補生になれなかったら、一生、地球には行けないから。
(だけど今だと、運動が駄目でも困らないんだし…)
 手に入れるのなら、合格切符より幸福切符。断然、そっちが欲しいのだけれど、幸福駅が無いというなら仕方ない。存在しない駅の切符は買えない。
(誰か、駅を作ってくれてたら…)
 幸福切符が買えたのに、と惜しい気持ちがしてしまう。幸福駅行きの素敵な切符。眺めるだけで幸せがやって来そうな切符。
 沢山の文化を復活させるついでに、幸福駅も作って欲しかった。遠い昔に駅があった場所に。



 もしもあったら、どんな駅だろう、と想像してみた幸福駅。きっと昔の幸福駅にそっくりな駅。小さくて可愛い駅なのだろうか、白く塗られていたりして。木で建てられた素朴な駅で。
 今もあったら、と思い描いた幸福駅の駅舎だけれど。幸福駅に行ける切符も買えるけれども。
(幸福切符を買わなくっても、みんな幸せ…)
 人間が全てミュウになった今は、もう争いも起こらない。せいぜい喧嘩で、喧嘩したって直ぐに仲直り出来るのがミュウの特徴。相手の気持ちが分かるから。心を読まなくても、表情だけで。
 すっかり平和になった時代に、幸福駅は要らないのだろう。幸福切符を手に入れなくても、人は幸福なのだから。幸せに生きてゆけるのだから。
 もっと、もっと、と欲張って幸福を求めないように、幸福駅も幸福切符も無いのだろう。誰もが充分に持っているから、幸福を、幸せというものを。
(神様にだって、都合があるよね…)
 平和な時代をくれた神様。人間が幸せに生きられる世界をくれた神様。それだけで奇跡、神様が創った最高の世界。おまけに地球まで青く蘇って、誰でも地球を見られる世界。
 こんなに幸福な今の時代に、「もっと」と考えるのは欲張りだから。もっと幸せになりたい、と願うのは我儘だろうから。
(幸福駅も、幸福切符も…)
 無いんだよね、と納得出来る。あったら欲しい切符だけれども、それが無いのも当然な時代。
 誰もが幸せになったから。幸福切符を持っていなくても、幸せがやって来るのだから。
 前の自分が生きた時代なら、そうではなかったのだけど。不幸だらけの世界だったけれど。



 ミュウに生まれただけで不幸だった、と言い切れる世界。前の自分が生きていた時代。
(…ミュウだとバレたら、それでおしまい…)
 その場で撃ち殺されて終わりか、実験施設に送られるか。人間としては扱われなくて、実験用の動物になるか、生きる価値も無いと処分されるか。
 なんとか其処から逃れたとしても、シャングリラの他に居場所は無かった。閉ざされた世界で、箱舟の中でしか生きられなかったミュウという種族。
 それが今では、誰もがミュウ。
 もう人類は追って来ないし、殺されることも無い時代。シャングリラの中で生きた頃には、誰も想像出来なかったくらいに幸福な世界。ミュウのために世界があるのだから。
 けれども、前の自分たちは…。
(ホントに不幸だったんだよ…)
 幸福駅行きの切符があったら、縋りたいほどに。ただの切符でも、幸福駅と書かれているだけの切符でも。
 いつか幸福に辿り着けそうな気持ちがするから、きっと大切にしただろう。
 生き地獄だったアルタミラから逃れ、シャングリラという船を手に入れた後も、まだ欲しかった幸福の切符。そういう切符があったとしたなら、幸福駅に行こうと願っただろう。
 切符に書かれた幸福の文字を、何度も何度も見詰めながら。
 これがあったらきっと行けると、幸福が溢れる幸せな駅に行くのだと。



 前の自分が幸福切符を持っていたなら、どんな幸福を夢見ただろう。今のような時代は、きっと夢にも思わないから、もっと小さくてささやかな幸福。考え付く限りの、幾つものこと。
(ミュウが殺されない時代になりますように、って…)
 それに地球にも行かなければ、と前の自分になったつもりで色々と挙げてみたのだけれど。幸福切符に託したい夢を、一つ、二つと数えたけれど。
(……切符……)
 シャングリラには無かったっけ、と気付いた切符。幸福切符も、合格切符も、普通の切符も。
 あの船からは、何処にも行けはしなかったから。切符は売られていなかったから。
(シャングリラの中が、世界の全部…)
 外の世界は人類の世界。ミュウを受け入れてはくれない世界。
 白いシャングリラが出来上がった後も、バスにさえ乗りには行けなかった。アルテメシアに辿り着いても、雲海の中から出られなかった。外へ出たなら、たちまち攻撃されるから。
 ミュウの仲間を救い出すために、人類の世界に紛れ込んでいた潜入班。彼らはバスに乗っていたけれど、あくまで任務で、自分のために乗ったわけではなかったバス。乗る時にだって、データを誤魔化して乗っていたから、乗車券を持っていたとしたって、買ってはいない。
(…それに、バスが限界…)
 アルテメシアには二つの都市があったけれども、潜入するなら片方だけ。同じ人間が同時に二つ担当したなら、発見されるリスクが高くなる。アタラクシアに派遣する者と、エネルゲイアとは、必ず別にしてあった。だから長距離移動はしないし、乗るならバスだけ。
 白いシャングリラには切符が無くて、人類の世界に降りた者でも、バスが限界。
 ミュウに生まれたというだけのことで、バスにしか乗れはしなかった。列車にも、船にも、他の星へゆく宇宙船にも。
 人類の世界に降りることが出来た、潜入班所属の者たちでさえも。



 誰も持ってはいなかったんだ、と思い出した切符。シャングリラには切符が無かったから。
(前のぼく…)
 一度も切符を手にしなかった。あの時代にも切符はあったのに。
 切符と呼んでいたかはともかく、列車に乗るにも船に乗るにも、切符は必要だったのだから。
(合格切符や幸福切符は無かったけれど…)
 アルテメシア行きの切符もあっただろうし、アタラクシア行きやエネルゲイア行きの切符。首都惑星だったノア行きの切符や、あちこちの教育ステーションに行くための船の切符やら。
(でも、地球行きの切符は…)
 無かったのだろう、あんな赤茶けた死の星では。…前の自分は知らなかったけれど、青い地球は無かったのだから。
 マザー・システムが人類の聖地と呼んだ、母なる地球。その地球は青くなくてはいけない。青く輝く水の星だと、皆に教えていたのだから。宇宙で一番美しい星、それが地球だと。
 けれど、本当は違ったから。地球は死の星のままだったから。
 誰も行かせては貰えない。青い地球などありはしないと、皆に知れたら大変だから。
 あの時代に地球まで辿り着けたのは、秘密を漏らさないエリートだけ。一般人を乗せた宇宙船が地球に行くことは無いし、地球行きの切符は無かっただろう。エリートたちを地球へ運ぶ船なら、切符は要らないだろうから。「ご苦労」と乗り込み、偉そうに乗ってゆくだけだから。



 無かったよね、と思った地球行きの切符。今の時代なら、何処の星でも買えるけれども。自分が住んでいる青く蘇った地球、此処へと向かう宇宙船の切符。
(あれ…?)
 そういえば、と浮かんで来た記憶。シャングリラには無かった切符のこと。
 前の自分も、切符というものを手に取ったことはあったのだった。白い鯨になる前の船で。
 人類の輸送船から奪った物資で皆の命を繋いでいた頃。物資の中に、たまに紛れていた切符。
(誰かの荷物が混ざってたりして…)
 明らかに個人の持ち物と分かる、切符が入っていた荷物。それを開けたら出て来た切符。
 そんな荷物に出くわす度に、切符を失くした持ち主はどうしているだろう、と笑い合っていた。無事に行き先へ着けるだろうかと、まさか船から放り出されはしないだろうが、と。
 切符が無ければ、船に乗る資格が無いのだから。そう言われても仕方ないから。
(SD体制の終わりの頃に…)
 冬眠カプセルに入れられて宇宙に放り出された人があった、と何かで読んだ。ミュウが落としたアルテメシアなどからの移民船で。
 まだ人類の勢力下にあった星に移住しようと、全財産を処分してまで乗り込んだ人を。
 大勢の人類を乗せていた船は、まるで奴隷船のようだったという。混み合っていた上に、食料も充分ではなかった船。乗組員の機嫌を損ねたら最後、宇宙に放り出されてしまった。一人減ったら増えるスペース、食料だって余裕が出来るのだから。
(酷い話だよね…)
 けれど、前の自分が奪ってしまった切符の持ち主。その人類は無事に目的地に着けただろう。
 切符を持っていないことが知れたら、始まっただろう取り調べ。本人に事情を訊くよりも前に、問い合わせる先はマザー・システムが持つ個人情報。この人間で間違いないかと、船に乗り込んだ目的は、と。
 瞬時に分かる、その人間が切符を持っていたこと。切符を紛失しただけなのだ、と。
 そういう意味では、マザー・システムは有難い存在だった。徹底していた管理社会も。



 何度か出会った、人類の持ち物だった切符たち。行き先は宇宙に散らばる惑星だったり、様々な場所へ向かう船が集まる中継用の宇宙ステーションだったり。
(あの切符の中に地球行きのは…)
 一枚も無かったのだった。今の自分は無かった理由を知っているけれど、前の自分は本当に何も知らなかったから、地球行きの切符が欲しかった。青い地球へと向かう船の切符。
 それがあったら、大切に持っていたかったのに。
 いつか地球まで辿り着けるよう、お守りにして眺めていたかったのに。
(あれって…)
 幸福駅行きの切符と同じ、と気が付いた。前の自分が欲しいと思った地球行きの切符。
 地球に着いたら、きっと幸せになれるから。苦しい時代はきっと終わって、青い水の星で幸せに生きてゆけるから。
 その地球へ行けると書いてあるのが、地球行きの切符。まるで幸福切符のように。
(…そんな切符は無かったんだけど、知らなかったから…)
 地球行きの切符の方が欲しかったのに、と見ていた違う行き先の切符。ミュウだった前の自分は買えもしないのに、「地球行きの切符だったら良かったのに」と。
 前の自分が生きた時代に幸福切符は無かったけれども、いつの時代も人は求めていたのだろう。
 幸福駅へと向かう切符を、幸福という駅に行ける切符を。
 手に入れたいと願う幸福、其処へと自分を運んで行ってくれる素敵な夢を乗せた切符を。



 前の自分が欲しかった切符。幸福駅へ行く切符ではなくて、地球行きの切符。
 けれども、それは前の自分のための幸福切符だから。欲しいと願った切符だから。幸福駅行きの切符を教えてくれた、ハーレイに話したい気分。「前のぼくも欲しかったんだよ」と。
(ハーレイ、来てくれたらいいのにな…)
 帰りに寄ってくれないかな、と窓の方に何度も目を遣っていたら、聞こえたチャイム。待ち人が訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日の授業の時に言ってた、切符の話…」
 こんな切符があったんだぞ、って話していたでしょ、昔の切符。
「合格切符か、面白い話だっただろう?」
「そっちじゃなくって、幸福の方だよ! 幸福切符!」
 幸福駅行きの切符の話…。幸福駅、今は無いらしいけど…。
「なんだ、お前も幸福切符が欲しいのか?」
 クラスのヤツらも欲しがっていたが、お前も欲しいクチなんだな。幸福切符。
「うん。でも、欲張り…」
 今の時代は、幸せが沢山ある時代だから…。みんな幸せに暮らせる時代で、幸せ一杯。
 そんな時代に幸福切符を欲しがったりしたら、欲張りだよね、って。
 クラスの友達はかまわないけど、ぼくだと欲張りすぎだから…。
 前のぼくよりずっと幸せなんだし、もっと幸せになりたいだなんて、欲張りすぎだよ。
「まあなあ…。俺たちの場合はそうなるだろうな」
 もっと幸せになりたいんです、とは言いにくいからな、前が前だけに。
 今の時代の暮らしだけしか知らなかったら、欲張りってことにはならないだろうが。
「ハーレイだって、そう思うでしょ?」
 今のぼくだと、幸福切符を欲しいと思うのは欲張りすぎ、って。
 でもね、そういう切符なんだけど…。



 欲しかったんだよ、と打ち明けた。「ぼくじゃなくって、前のぼくが」と。
「前のぼくが欲しかった切符は、地球行きの切符。たまに切符が紛れてたでしょ?」
 人類の船から物資を奪ってた頃に、時々、人類が持ってた宇宙船の切符。
 見付かる度に、地球行きの切符があればいいな、って思ってたんだよ。
「そういや、お前、欲しがってたなあ…」
 今度も違った、って残念そうな顔で見てたな、違う行き先が書かれた切符。
 地球行きのヤツが欲しいのに、と。
「うん…。地球行きの切符が手に入ったら、大切に持っていたかったのに…」
 お守りにしたいと思っていたのに、いつだって別の行き先ばかりで…。
 とうとう一枚も無かったんだよ、地球行きのは。…切符、何度も紛れていたのに…。
「そうだったっけな。…あの頃の俺は、きっと航路が違うんだろうと思っていたが…」
 地球へ向かう船は、もっと違う所を飛んでいるんだと信じていたな。
 座標も分からなかった星だし、そう簡単には近付けない所にあるに違いないと。
 コソコソ隠れて飛んでいる船じゃ、地球行きの船と航路が交わりはしないんだろうと…。
「前のぼくも、そうじゃないかと思っていたけど…。きっと出会えないだけなんだ、って」
 だけど、本当は地球行きの船が無かっただけ。青い地球は何処にも無かったから。
 普通の人を地球まで載せて行く船は、あの頃は一つも無かったから…。
 あるわけないよね、地球行きの切符。そんな切符を持っている人がいないんだから。
「まったくだ。あの時点で気付くべきだったんだな、あちこちで物資を奪ってたんだし」
 どうも怪しいと、誰も地球へは行こうとしないと。
 切符の数は、それほど多くはなかったが…。それにしたって、人類の夢の星だったんだから。
 一枚くらいは混じっているのが普通だよなあ、地球行きの切符。
 誰もが行きたい夢の星なら、地球へ向かうヤツも多いんだろうし。
「そうなんだよね…。地球に住めるのは一部の人でも、行くのは自由だろうから」
 地球を見に旅行するんです、って人が沢山いる筈なんだよ。本当に人類の聖地だったら。



 青い地球が何処かにあったなら。きっと人類は旅をしたのに違いない。地球を見ようと、其処に住めるほど偉くなくても、青い星を一目見てみたい、と。
 けれど無かった地球行きの切符。それを持った人が何人も旅をしているだろうに、一枚も手には入らなかった。…今から思えば、とても奇妙なことだったのに。
「前のぼく、なんで気付かなかったんだろう…」
 地球行きの切符が無いっていうのは、変だってこと。
 他の星へ行こうとする人の数より、地球へ行こうとする人の方が多そうなのに…。
 それが一枚も混じっていないだなんて、なんだか変じゃないか、って。
「地球行きの切符だったからじゃないのか?」
 前のお前が行きたかった星で、幸福駅行きの切符みたいなものだろう?
 幸福を運んでくれる切符なんだと思い込んでいたから、手に入らなくても不思議じゃない。
 素敵な夢の切符ってヤツは、そう簡単には手に入らないからこそ価値がある。
 地球行きの切符が山ほどあったら、有難味も何も無いからな。お守りどころか、ただのゴミだ。
「そう、それなんだよ!」
 前のぼくは幸福切符も、幸福駅も知らなかったけど…。
 幸福駅行きの切符の代わりに、地球行きの切符が欲しくって…。お守りに持っていたくって。
 もしも地球行きの切符があったら、地球まで運んでくれそうだから。
 幸福行きの切符で幸せになれるみたいに、地球に行けるお守りになりそうだから…。
 人間って、いつの時代でも同じなんだね。
 幸せになれる切符が欲しくて、行き先が地球か、幸福駅かの違いだけなんだよ。
「そうかもなあ…」
 前のお前は、幸福切符を知らなかったが、同じような意味で地球行きの切符が欲しかった。
 SD体制よりも前の時代の日本のヤツだと、幸せになりたくて幸福切符。
 わざわざ幸福駅だけ残して、入場券を買いに出掛けて…。
 同じようなことをしたかったんだな、前のお前も。地球行きの切符を、幸福行きの切符にと。
 面白いもんだな、考えてみると。…前のお前が幸福切符を探してたなんて。



 SD体制が始まるよりも遠い昔に、人気を集めた幸福切符。幸福駅という名の駅名の切符。その駅を通る列車が無くなった後も、幸福駅は残り続けた。切符を欲しがる人がいたから。
 幸福という駅に行きたくて。幸せに辿り着きたくて。
 前の自分は、それと同じに地球行きの切符が欲しかった。行き先に「地球」と書いてある切符。
 そういう切符が手に入ったなら、地球まで運んでくれそうだから。その切符が使える宇宙船には乗れないけれども、いつか地球まで行けそうだから。
「…前のぼくは地球行きの切符が欲しくて、ずうっと昔の人は幸福駅行きの切符が欲しくて…」
 どっちも幸せになれる切符で、今だって欲しがる人はいるのに…。
 クラスのみんなも欲しがっていたし、ぼくだって欲張りすぎでなければ欲しいよ、幸福切符。
 そう思うけれど、幸福駅、今は無いんだね。
 …ちゃんとあっても良さそうなのに。日本の文化で、作っておいてもいいと思うのに…。
 幸福駅があった所と同じ所に、昔のとそっくりな幸福駅を。
 きっと人気が出ると思うよ、列車が通る駅じゃなくても。駅だけポツンと建っていたって。
「今は無いのは、要らないからだろ。…幸福駅が」
 観光名所にはなりそうなんだが、心の底から幸福が欲しくて駅に行くヤツがどれほどいるか…。
 いつか幸せになってみせる、と頑張らなくても、幸せを持っているんだから。
 前の俺たちなら、幸福切符が欲しいと本気で願っただろうが…。幸福駅に行ける切符ってヤツが欲しかったろうが、今の俺たちだと、そいつは本当に必要なのか?
 そうじゃないだろ、幸せはとっくに山ほど持っているんだから。
 他のヤツらも同じことだな、幸福切符を手に入れなくても幸せなんだ。もうちょっと、と欲張ることはあっても、ほんの小さな幸せじゃないか?
 デカイ幸せは、最初から持っているんだから。暖かな家も、温かな家族も、何もかも全部。



 そうだろうが、とハーレイが穏やかに微笑む通り。
 今の時代は、幸福を求めなくても幸せな時代。幸福駅行きの切符に縋らなくてもいい時代。
 誰もが幸せに生きてゆけるし、幸福切符で貰える幸福は小さなもの。もうちょっとだけ、と願う小さな幸福、ささやかな幸せ、たったそれだけ。
「そっか、幸福駅行きの切符が無いのは、欲張りになっちゃうからだけじゃなくて…」
 幸福切符を持っていたって、あんまり意味が無いからなんだね。大きな幸せは、みんな最初から全部揃っているんだから。
「そういうことだな、幸福駅も幸福切符も必要ないのさ。…今の時代は」
 俺たちだって要らないだろうが、幸福切符は。
 前の俺たちには必要だったが、今の俺たちには要らないってな。
「んーと…。ホントは、ちょっぴり欲しいんだけど…」
 幸福駅が今もあるなら、幸福駅行きの切符が欲しいよ。
 前のぼくは地球行きの切符を手に入れられなかったから…。代わりに、今の幸福切符。
「おいおい、そいつで何をするんだ?」
 どんな幸せを頼むつもりだ、幸福切符に?
「決まってるでしょ、ハーレイと幸せになりたいんだよ」
 前よりも、うんと幸せに。…結婚して、ハーレイと一緒に暮らして。
「幸せにって…。なれないわけがないだろう…!」
 そんな切符に頼らなくても、お前は幸せになるんだろうが。
 今度こそ俺と一緒に暮らして、いつまでも幸せ一杯で。
 お前は帰って来たんだから。…俺の所へ。
 新しい命と身体を貰って、うんと幸せに生きて行ける地球に生まれて来たんだから。
 幸福駅の役目がすっかり終わっちまったほど、平和で幸せな青い地球にな。



 そうじゃないのか、と言われた通りに、今の時代は幸福駅が要らない時代。幸福駅行きの切符が無くても、生きているだけで誰もが幸せになれる。青い地球でも、他の星でも。
 人間は全てミュウになったし、大きな幸せは最初から持っているものだから。もうちょっと、と願う幸せも、生きていればきっと貰えるのだから。
「いいか、今の俺たちが生きてる時代ってヤツは、だ…」
 誰でも幸せを山ほど抱えて、幸福駅に向かって歩いているってな。自分の足で。
 自分だけの幸せを見付けていくんだ、歩きながら。幸福駅はいつでも、目の前なのさ。
 一歩進めば、直ぐに幸福駅に着く。もっと、と先へ進んで行ったら、其処にも幸福駅ってな。
「そうかもね…!」
 歩けば歩くほど幸せになってゆけるんだものね、今の時代は。
 明日は今日よりもっと幸せで、その次は、もっと。
 いつかハーレイと結婚したって、幸せはまだまだあるんだもの。幸福駅が一杯、駅が山ほど。
 自分で歩いて見付けるんだね、今の時代の幸福駅は…。
 幾つも幾つもある幸福駅、と胸に溢れた幸せな気持ち。今は幸福駅が幾つも。
 この幸せな今の時代を、ハーレイと二人で歩いてゆこう。
 幸福駅に行く列車は無くても、線路も無くても、幸福駅はあるのだから。
 切符が売られる駅とは違って、誰の前にもある幸福駅。
 何処までも、いつまでも、幸せの中を、ハーレイと歩いてゆけるのだから…。




              幸福への切符・了


※遠い昔に実在していた幸福駅。そこの切符が人気だったように、前のブルーが望んだ切符。
 地球へ行く切符は、手に入らないままでしたけど…。今は幸福駅の切符も要らない時代。
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 さて…、とハーレイが皆を見回した古典の授業。小さなブルーも座っている教室。
 昼間だが怖い話でもするか、と。
「今は怪談の季節だからな。シーズンにピッタリというヤツだ」
 職業柄、怖い話は山ほど知ってる。どんなのが聞きたい、怖くて眠れなくなるようなヤツか?
 シーズンだしなあ、とびきり怖いのを話してもいいぞ。
「間違ってると思いますが!」
 今が怪談の季節だなんて、と声を上げたクラスのムードメーカーの男子。怪談の季節はとっくに終わっているから、ハーレイ先生は間違えてます、と。
「間違えてるだと? それはお前だ、間違ってるのはお前の方だ」
 だが…。お前だけでもないんだろうなあ、間違えてるのは。
 よし、怪談の季節は夏だと思うヤツは手を挙げろ。俺が数えるから。
 夏なヤツは、と訊かれてサッと挙がった何人もの手。もちろんブルーも。
(…夏だもんね?)
 見回してみたら、全員の手が挙がっていたからホッとした。ぼくだけじゃない、と一安心。
 けれど、ハーレイの方は「ふうむ…」と腕組みをして。
「みんな揃って夏だと来たか。何処で訊いてもこうなるんだが…」
 間違ってるのは俺の方だと言い返されるのも、定番なんだが…。怪談は夏のものだとな。
 作られたイメージは今も健在ってことか、SD体制の時代は遠い昔のことなんだが。
「え?」
 クラス中がキョトンと見開いた瞳。SD体制の時代とは、いったいどういう意味だろう?
 遥かな昔に機械が統治していた世界。機械が作った偽の情報を誰もが信じた時代。当時は死の星だった地球が青いと思い込まされたり、血縁の無い親子関係が普通なのだと思っていたり。
 その時代はとうに過去のものになって、支配していたマザー・システムも壊された後。
 なのにどうして、作られたイメージが今も残っているのだろう?
 しかも怪談の世界なんかに、SD体制の名残などが。



 変だ、と誰もが首を傾げる中、ハーレイは「マザー・システムは無関係だぞ?」と前のボードをコンと叩いた。俺の話とSD体制は関係無い、と。
「似てるトコはだ、作られたイメージを信じ込んでる所だな。怪談は夏のものなんだ、と」
 だが、間違えて覚えてるのもいいことだ。
 SD体制が消しちまってた、日本の文化が復活している証拠だからな。怪談は夏だ、というのは日本の文化の一つだ。他の地域じゃ、特に夏とは言わないんだから。
 ついでに日本も、昔は夏とは決まってなかった。
 …百物語というのがあるだろ、集まって怖い話を披露するヤツ。百話目を語り終わった途端に、本物の化け物が登場すると言われているが…。
 百話だぞ、百話。それだけの怪談を繰り広げるなら、夜の時間が長くないとな?
 夏は日暮れが遅いものだし、夜明けも早い。そんな季節にやっているより、時間がたっぷりある季節の方が雰囲気が出る。だから、元々は春雨の夜や、秋の夜長が怪談の季節だったんだ。
 つまり今だな、秋は怪談のシーズンだった。ずっと昔の日本ではな。



 ところが、とハーレイがボードに書いた「歌舞伎」の文字。江戸時代に流行った歌舞伎のことは授業で教わる。後の時代まで愛された芝居。
「こいつが季節を変えちまったんだ、怪談の。…歌舞伎は年中、やってたわけだが…」
 夏になったら、芝居小屋の入りが悪くなる。今と違って冷房が無いから、人の集まる所なんかに行きたくないのが人情ってモンだ。
 どうせお客は来ないんだから、と人気役者も休みを取ってた。そうなると残るのは若手だろ?
 自分たちの人気では客を呼べんし、ただでも客が来ない季節だし…。
 なんとか人を呼べないものか、と目を付けたのが怪談だった。大掛かりな仕掛けや、本物の水。そういったものを派手に使って、怖い芝居をやったわけだな。
 そいつが人気を集めたもんで、夏に怪談をやることになった。客の方でも、夏は怪談を楽しみに出掛けてゆくって寸法だ。芝居小屋へと。
「へええ…。それで怪談は夏なんですか…」
 江戸時代に決まっちゃったんですか、と目をパチクリとさせているクラスメイトたち。
 まさか歌舞伎のせいだったとはと、それまでは春や秋だったのかと。
「そうなるな。夏になったら、怪談をやって客を集めるわけだから…」
 芝居の中身も、本来は冬の場面だったヤツを夏に置き換えて演じるとかな。
 季節感ってヤツも大切だろうが、芝居の世界に客を引き込むには。
「季節を変えるって…。そこまでやってたんですか!?」
「客を呼べないと話にならんし、サービス精神だったんだろうな」
 芝居を見ている客の方でも、「おや?」と思うヤツはいたんだろうが…。
 面白かったらそれで充分、と文句はつけなかっただろう。せっかくの芝居見物の席で、つまらん話はするもんじゃない。無粋な客だと思われちまうし、周りも楽しくないからな。



 そういうわけで…、と続いた話。
 江戸時代に出来てしまったイメージ、夏になったら怪談の季節。芝居小屋の目玉が怪談だけに、芝居小屋の外でも流行った怪談。怖い話は夏が似合う、と。
 お蔭で後の時代になっても、怪談と言えば夏のもの。客を怖がらせるお化け屋敷も、夏に幾つも作られたという。
「怖いと背筋が寒くなるしな、暑い夏にはピッタリだったというわけだ。涼しくなって」
 生憎、SD体制の時代には消されちまっていたが…。怪談は夏だというイメージは。
 それが立派に復活して来て、お前たちも夏だと思い込んでる。日本の文化が戻ったからだ。
 だが、秋だからと油断するなよ。年中、お化けは出るもんだ。
「出るんですか!?」
「夏は作られたイメージなんだ、と言った筈だぞ」
 お化けや幽霊にシーズンオフは無いんだからな、と結ばれたハーレイの今日の雑談。
 如何にも出そうな夜中なんかは気を付けるように、と。
(お化けにシーズンオフは無し…)
 ちょっぴり怖い、と震えたブルー。
 フクロウの声をお化けだと思って怯えた、幼かった頃。幸い、本物の幽霊やお化けに出くわしたことは無いのだけれど。
(一年中、出るってことだよね…?)
 夜に一人で歩くのはやめよう、と肝に命じた。
 元々、夜の散歩はしないけれども。庭がせいぜい、垣根の外へは行かないけれど。



 学校が終わって家に帰って、おやつを食べて。
 美味しかった、と部屋に戻ったら、ハーレイの雑談を思い出した。ずっと昔は、秋は怪談。夜の時間が長くなるから、百物語に丁度いい季節。気候も快適、寒くも暑くもない季節。
(本当は今が怪談の季節で、お化けとかにはシーズンオフが無いんだったら…)
 出るのだろうか、お化けや幽霊。
 夜にパチンと明かりを消したら、この部屋にだって。何処からかスウッと入り込んで。
 ああいったものに、壁などは意味が無いだろうから。屋根だって通り抜けるだろうから。
(今のぼくだと、大丈夫だけど…)
 お化けはともかく、幽霊の方は部屋に入って来ないだろう。恨まれるような人は誰もいないし、恐ろしい目にも遭ってはいないから。…幽霊のいそうな場所に行くとか。
(でも、前のぼく…)
 チビの自分はいいのだけれども、生まれ変わる前の自分の方。
 ソルジャー・ブルーだった頃の自分は、恨みを買ってはいないだろうか。普段はすっかり忘れてしまっているのだけれども、前の自分は人を殺した。ミュウの未来を守り抜くために。
 躊躇いもなくぶつけた強いサイオン。いったい何人殺しただろうか、あのメギドで。前の自分が倒して進んだ警備兵たち、彼らの数だけ命も思いもあったのに。
(恋人がいた人とか、家に家族がいた人だとか…)
 そんな兵士もいたかもしれない、あの中には。
 メギドへと飛ぶ前の自分を撃ち落とそうとして、同士討ちになってしまった人類の船。幾つもの船が宇宙に散ったし、彼らも恨んでいたかもしれない。前の自分に出会わなければ、と。



 恨まれてはいない、と言い切れないのが前の自分。人を殺して、人類軍の船に同士討ちをさせてしまった自分。もしも彼らが恨み続けて、幽霊になっていたのなら…。
(…もしかして、出る?)
 この部屋にだって、と見回したけれど、前の自分は彼らの幽霊に出会ってはいない。前の自分が見ていないものは出ない筈、と安堵しかけて気が付いた。
(ぼく、死んじゃったし…)
 それでは出会うわけがない。恨んで出たって相手も幽霊、まるで話にならない状況。幽霊同士で会った所で、怖がっては貰えないのだから。
(じゃあ、今のぼくに…)
 その分を返しに来るだろうか、と肩をブルッと震わせたけれど、今の自分はもう時効だろう。
 ソルジャー・ブルーにそっくりなチビでも、同じ魂でも、時間が経ちすぎているのだから。
 自分がこうして生まれ変わって来たのと同じで、彼らも何処かで新しい命を貰った筈。人類軍にいたことは忘れて、今の時代ならミュウとして。
 ひょっとしたら、何処かで会っているかもしれない。幼かった自分に、公園でお菓子をくれたりした人たち。その中に混じっていたかもしれない、温かな笑顔の人たちの中に。
 今は平和な時代だから。人殺しなどは起こらない時代、人を恨みもしないから。



 どうやら会わなくて済みそうな幽霊。前の自分が、誰かの恨みを買っていたとしても。
 心配なのはお化けくらいで、幽霊の方は大丈夫だよ、と思った所で気が付いた。
(シャングリラ…)
 前の自分が暮らした船。三百年以上もの時を過ごしたけれども、幽霊が出るとは聞かなかった。ただの一度も聞いてはいないし、幽霊はいないのかもしれない。
(怪談、沢山あるんだけれど…)
 今の時代も語られるけれど、シャングリラには無かった幽霊話。あれだけ大きな船になったら、一つくらいはありそうなのに。
(アルタミラで殺されてしまった仲間が、夜になったら歩き回るとか…)
 あるいは助けられずに殺されてしまったミュウの子供たち、彼らの声が聞こえるだとか。照明を落とした夜の通路で、はしゃぎ回る子供たちの声や足音。
 あってもおかしくない話。見た人がいたり、聞いた仲間が何人もいたり。
 けれど、一つも無かった怪談。幽霊の話は誰もしなくて、前の自分も聞いてはいない。そういう話があったのならば、確かめに行こうとする筈だから。
 アルタミラで死んでしまった仲間や、助け損ねた子供たち。
 彼らが船に乗っているなら、助けてやらねばならないから。…いつまでも船に乗っていないで、また幸せに生きられるように。
 どうしても船に残りたいなら、船の仲間たちを怖がらせないように注意もして。
 前の自分はソルジャーだったし、それも仕事の内だったろう。船に幽霊が出るというなら、皆が怯えてしまわないよう、手を打つことも。
 その必要は無かったけれど。
 シャングリラに幽霊は乗っていなくて、怪談も無かったのだから。
 でも…。



 ふと思い出した、幽霊のこと。前の自分が聞いていた言葉。
(誰か、幽霊って…)
 幽霊などはいなかった筈のシャングリラ。なのに幽霊を探していた誰か。
 誰だったのか思い出せないけれども、確かに誰かが探していた。出る筈もない幽霊を。あの船で誰も見なかったものを。
(誰…?)
 いったい誰が探していたのか、何故、幽霊を探すのか。怪談が好きで探すにしたって、そういう噂も無かった船では、探し回るだけ無駄だったろうに。
 探していた人も、理由も全く分からないや、と小さな頭を悩ませていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、幽霊なんだけど…」
 幽霊のことで、ハーレイに教えて欲しいんだけど。
「お前、幽霊、見たことあるのか?」
「ううん、一度も見たこと無いけど…」
 ぼくも、前のぼくも、幽霊には会っていないんだけど…。
「なら、怪談をしてくれってか? とびきりの怖い話ってヤツを」
 今日の授業では話さなかったが、今は怪談のシーズンだしな?
 どんなのがいいんだ、俺が帰ったらガタガタ震え出すほど怖い話か?
 この部屋で一人で眠れなくなって、お母さんたちの部屋に行くようなヤツ。…風呂もトイレも、とても一人じゃ入れません、って泣きながら付き添いを頼むくらいの。
「そうじゃなくって…!」
 本物の怖い話じゃなくって、幽霊の方。
 幽霊が出て来る話を聞かせて欲しいんじゃなくて、幽霊のことを訊きたいんだよ…!



 でも、その前に、と釘を刺すのも忘れなかった。「怖い話はしないでよ?」と。
 とびきり怖い怪談とやらを、聞かされたのではたまらないから。小さなチビの自分が聞いたら、きっと酷い目に遭うだろうから。
「ホントに怪談は要らないからね。…授業中に聞かされちゃったら諦めるけど、今は嫌だよ」
 それで、幽霊の話なんだけど…。
 今日のハーレイの話を聞いたら、色々と思い出しちゃって…。
 シャングリラには幽霊、出なかったでしょ?
 見たって話も聞かなかったし、出るって話も無かった筈。だけど、誰かが探してたんだよ。幽霊なんかは出ない筈の船で、幽霊探し。
「なんだって?」
 そんな酔狂なヤツがいたのか、シャングリラに…?
 怪談を楽しむ余裕があるなら結構なんだが、出て来ないものは探しても無駄だと思うがな?
「そう思うんだけど…。だけど、確かに幽霊を探していたんだってば」
 誰だったか思い出せないんだけど…。何故、幽霊を探してたのかも。
「それは、いつ頃のシャングリラだ?」
「えっ?」
「アルタミラから逃げ出した後か、白い鯨になった後かだ」
 時期によって探す幽霊が変わって来そうだからな。
 白い鯨なら、助け損ねた子供の幽霊。…アルタミラの方なら、船に乗れなかった仲間たちだ。
 逃げ出す前に死んじまった仲間は大勢いたから、幽霊になって乗っていたっておかしくないし。
「そうだね、時期は手掛かりになりそう…」
 誰だったのかも分からないけど、船の景色とかで思い出せるかな…?
 改造してすっかり変わっちゃったし、幽霊探しの場所くらいなら分かるかも…。



 えーっと、と遠い記憶を手繰る。幽霊を探して歩いていた誰か、その人が行った所は、と。
(誰だっけ…?)
 それに何処、とハーレイに貰ったヒントを頼りに探ってゆく。場所は何処なのか、いつの話か。おぼろげな記憶は頼りなさすぎて、何も掴めそうにないのだけれど。
(…乗降口…?)
 其処だ、と浮かんだ小さな手掛かり。いつも閉まっていた扉。
 白いシャングリラに乗降口と呼ばれるものなどは無くて、改造前の船にあったもの。宇宙空間に乗り降りをする場所は無いから、常に閉まっていたわけで…。
(ハンス…!)
 たった一度だけ、乗降口を使った時。アルタミラから脱出する時、皆が其処から乗り込んだ。
 もう生き残りは一人もいない、と確認した後もギリギリまで待って離陸した船。誰かいるなら、助けたいという一心で。誰もいないと分かってはいても。
 そうして地面を離れてゆく時、閉めるのを誰もが忘れた扉。ブリッジの者たちは全く気付かず、乗降口から外を見ていた前の自分たちも、閉めることに思い至らなかった。開けたままだと危険なことにも、離陸するなら閉めるものだという鉄則にも。
 其処から放り出されたハンス。ゼルの弟。
 ゼルはハンスの手を握り締めて、引き上げようと力を尽くしたけれど。その手は離れて、燃える地獄へ落ちて行ったハンス。「兄さん」という叫びを残して、ただ一人きりで。



 思い出した、と蘇った記憶。
 ゼルが弟を探していた。夜を迎えて明かりを落とした船の中で。暗くなった乗降口の辺りで。
 もしや姿が見えはしないかと、幽霊でもかまわないからと。乗っているのかと、ハンスの幽霊を探したゼル。いるのなら、きっとこの辺りだと。ハンスは此処しか知らないから、と。
「ゼルだった…!」
 幽霊、ゼルが探していたんだよ。ホントだよ、ずっと若かったゼルが。
「あいつがか?」
「うん…。ハンスの幽霊を探していたよ。乗降口の所に行って」
 夜になったら探してたんだよ、毎日かどうかは知らないけれど…。
 前のぼくが泣きそうな思念を拾った時には、いつだってゼル。…ハンスの幽霊を探してたゼル。
 知ってたの、前のぼくだけなのかな?
 そういう話は聞いていないし、前のハーレイも知らなかったのかな…?
「ゼルなあ…。待てよ、そういえば…」
 俺も会ったな、幽霊を探していたゼルに。
 夜に通路を歩いていた時、妙な方から来たもんだから…。そっちに用があったのか、と訊いたらハンスを探していたんだ。乗降口まで行った帰りだと答えたっけな。
 幽霊でもいいから会いたいんだが、と話していた。「今夜も会えなかったがな」と。
「ゼル…。ハンスの幽霊に会えたのかな?」
 会えたから、探さなくなったのかな?
 もう一度会えて、もしかしたら話も出来たとか…?
「会えていないと思うがな…?」
 ずいぶん後になってからでも、酔った時にたまに零してた。
 ハンスときたら、会いにも来ないと。幽霊になって来ればいいのに、一度も会いに来ないとな。



 だから会えてはいないんだろう、とハーレイはフウと溜息をついた。ゼルがいつまで幽霊探しをしたかはともかく、ハンスには会えなかったようだ、と。
「幽霊ってヤツは、この世に思いを残して死んだ人間の霊だという話だから…」
 そいつが本当の話だったら、ハンスの幽霊が出てもおかしくはないが…。
 ゼルと一緒にシャングリラにいたくて、乗っていたって少しも不思議じゃないんだが。
「幽霊、いないの?」
 ハンスの幽霊が出なかったんなら、幽霊は存在しないものなの…?
「そう思うのか?」
「だって、見たことがないよ、前のぼくは」
 三百年以上も生きていたって、ただの一度も。
 アルタミラだったら、幽霊、山ほどいそうなのに…。研究所の中、ミュウの幽霊だらけで。
 それにシャングリラだって、幽霊は沢山いそうな感じ。ハンスもそうだし、アルタミラで死んだ仲間たちが大勢、「乗せてってくれ」って乗っていそうだし…。
 アルテメシアで助け損ねた子供たちだって、乗せて欲しくて来そうだよ?
 だけど幽霊の話は一つも無くって、前のぼくも見てはいないんだから。
「前の俺も、其処は同じだが…」
 あの船で幽霊を見てはいないが、幽霊が存在するかどうかってことになったら…。
 今の時代もいるかはともかく、昔はいたんじゃないかと答える。魂は存在するんだから。
 お前も俺も生まれ変わりだ、魂があるって証拠だろうが。
 身体を持たずに此処にいるなら、俺たちは立派に幽霊なわけだ。
 つまり、幽霊は存在する。魂があるなら、幽霊だって存在しないわけがないからな。



 ただ、問題は出るかどうかで…、とハーレイの指がトンと叩いたテーブル。魂があっても、姿を見せに行かない限りは幽霊になれはしないから、と。
「お前も俺も、魂を持っているわけで…。こうして生まれ変わる前なら、幽霊になれた」
 思いを残して死んだ人間しか出ないにしたって、残した思いがあったなら…な。
 俺はお前を追い掛けることしか考えていなかったわけだから…。
 思い残すことは無かったわけだが、お前は違う。…地球を見たかった、という気持ちはどうだ?
 本当に微塵も思わなかったか、地球を見ないままで死ぬのは嫌だ、と。
「…ちょっぴりなら…」
 ほんの少しなら思っていたかも…。
 シャングリラが地球に行くんだったら、幽霊になって一緒に行きたかったかも…。
 それに船にはハーレイもいるし、幽霊になることが出来るなら。
「ほらな、お前は幽霊になれる資格があったんだ。…何処にも生まれていなかったんなら」
 死んだ途端に、何処かに生まれ変わっていたなら、幽霊になってる暇は無いんだが…。
 今頃になって俺と二人で地球にいるんだ、生まれ変わっていたとは思えん。お前も、俺もな。
 そして、お前が幽霊になって出てゆきたいなら、俺も一緒に行っただろう。
 アルテメシアでも、解体される前のシャングリラでも。
「…でも、前のぼくの幽霊、出ていないよね?」
 ハーレイと二人で出てはいないよね、出たなら記録がありそうだから。
「まったくだ。…ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの幽霊なんだぞ」
 怪談じゃなくて、神様が現れたみたいな扱いになっていそうじゃないか。
 此処に確かにいたんです、って像が出来たりして、観光名所になっちまってな。
「ホントだね…」
 恨んでます、っていう顔で出るんじゃないから、見た人、大喜びしそう…。
 凄い幽霊に出会ったんだ、って自慢して回っていそうだよ。
 もしもカメラを持っていたなら、ぼくたちの幽霊、写真に撮ろうと大慌てかも…。撮影するまで消えないで下さい、ってカメラを向けて、うんと沢山、写真を撮るかも…。
 幽霊の写真、撮れるとは限らないのにね…?



 きっと撮っても写らないよね、とハーレイに言ったら、「そうでもないぞ?」と返った返事。
 遠い昔には、幽霊の写真が流行った時代があったのだという。人間が地球しか知らなかった頃、大流行した心霊写真。人間の目には何も見えなくても、カメラが捉えた幽霊の姿。
「本物かどうかは分からないがな、ずいぶん流行っていたそうだ」
 此処へ行ったら撮れるらしい、って場所に大勢、カメラを持って押し掛けるとか。
「そうなんだ…。じゃあ、撮れたのかもしれないね。前のぼくとハーレイの幽霊だって」
 だけど、幽霊が出たっていう記録も無いみたいだし…。ハーレイも知らないみたいだし。
 出ていないんだね、前のぼくたち。…幽霊になり損なっちゃった。
 ジョミーたちなら出ていたのかなあ、アルテラだとか。
「そっちも知らんな、もしも出たなら有名になってる筈だから…。出ていないんだろう」
 ジョミーはともかく、アルテラだったらトォニィのことが心残りで出そうだが…。
 出ても少しも不思議じゃないのに、出ていない。…ハンスと同じだ。
「ミュウは幽霊になれないのかな?」
 魂はあっても、幽霊になれる資格がありそうな人も、ミュウだと幽霊になれないだとか…?
 だからハンスもアルテラも駄目で、幽霊は出ないままだったのかな…?
「そうかもなあ…。ミュウは幽霊になれないのかもな」
 アルタミラにあった研究所とかなら、物凄い数の幽霊が出そうな気がするんだが…。
 あそこでさえも一つも見てはいないし、前のお前も知らないと言うし。
 第一、ミュウが幽霊になれるとしたなら、人体実験をやめちまったかもなあ、研究者どもは。
「夜になったら幽霊が出て来て、怖くて腰を抜かすから?」
「そういうことだ。…それに幽霊は昼でも出るぞ」
 本当に強い恨みがあったら、昼間でも遠慮はしないんだ。それが幽霊の怖いトコだな。
 しかし、アルタミラにミュウの幽霊は出なかった。
 シャングリラにも幽霊は出ないままでだ、アルテラの幽霊だって出てはいないんだよなあ…。



 実に不思議だ、と考え込んでいるハーレイ。今の今まで気付かなかったが、なんとも妙だと。
「アルタミラにしても、シャングリラにしても…。幽霊は出そうな感じなんだが」
 実験で殺されちまったヤツらや、シャングリラに乗れなかった子供の幽霊やらが。
 ところが、まるで出なかったもんで、そういうもんだと思ってた。
 キャプテンだった俺にしてみれば、有難いことではあったわけだが…。
 幽霊が出るって噂が立ったら、きちんと対処しなくちゃならん。怖がるヤツらも多いだろうし、夜勤をしないと言い出すヤツらも増えそうだ。それは大いに困るからなあ、キャプテンとしては。
「そっか、ハーレイの仕事になるんだ…。幽霊対策」
 前のぼくだと思っちゃってた、仲間たちの幽霊なんだから。ぼくが話を聞いてあげたり、いてもいい場所を教えてあげたり。
「いや、まあ…。俺の仕事だというだけのことで、俺には何も出来んしなあ…」
 昔話の坊さんみたいに、出なくなるような有難い話も聞かせてやれんし、前のお前に頼むことになっていただろう。あそこに出るから、なんとか出ないようにしてくれないか、と。
 幸い、何も出なかったが…。お蔭で俺は助かったんだが。
「ミュウの幽霊、なんでいないんだろ?」
 どうして一人も幽霊にならなくて、アルタミラにもシャングリラにも出なかったんだろ…?
「俺が思うに、思念体ってヤツのせいかもなあ…」
「思念体って…。どういうこと?」
 なんで幽霊にならなくなるわけ、思念体のせいで?
「俺は思念体になって抜け出すことは出来ないんだが…。昔も今も」
 しかし、前のお前やジョミーは抜け出せたろうが。身体からヒョイと、精神だけで。
 魂が自由に出入り出来るようなモンだろ、あれは?
 あそこまでの技は、生きてる間はサイオンが強いヤツにしか出来ない芸当なんだが…。
 ミュウは誰でも、死んじまったら思念体のようになるんだろう。ああ、これか、と気付くんだ。
 だから、魂が本当に身体を離れちまった時に抵抗が無いのかもしれん。
 死んじまった、とは思うんだろうが、「まあいいか」と、そのまま飛んでっちまう。この世への未練が少ないわけだな、しがみ付いてなくても次があるさ、と。



 幽霊になって恨みがましく残るよりかは、次の世界に行くんじゃないか、というハーレイの説。言われてみれば、そんな気がしないでもない。今の自分は思念体にはなれないけれど。
(ぼくのサイオン、不器用だから…)
 とても抜け出せない身体。けれども、前の自分は違った。思念体で身体を抜け出していた。
 精神だけがスルリと身体を離れて、様々な場所へ。…あまり遠くへは行けなかったけれど。
(身体に戻れなくなったら困るし…)
 このくらいかな、と考えていた限界。これより先へ行っては駄目だ、と。
 その限界が無くなったなら、と思ったことは何度もあった。いつか寿命が尽きた時には、身体を離れるだろう魂。その時が来たら、地球へまでも飛んで行けるだろうか、と。
 青い地球まで飛んで出掛けて、心ゆくまで眺めてみたいと。
(でも、ハーレイがいないんだよね…)
 死んでしまったら、ハーレイとの間に出来てしまう溝。死者と生者を隔てる壁。
 それが恐ろしくて、離れたくなくて、いつも途中で打ち消した思い。魂だけで地球に行くより、ハーレイの側がいいのだから、と。



 前の自分が考えていたことを思い出したら、腑に落ちた思念体のこと。
 アルタミラの研究所で殺されていった多くの仲間も、アルテメシアで救い損ねて死んだ子供も、幽霊になって残る代わりに未来へと飛んで行ったのだろう。希望の光が見える方へと。
「ハーレイの言う通りかも…」
 前のぼくもね、たまに思っていたんだよ。いつか死んだら、青い地球まで行けるかも、って。
 思念体だと遠い所へは行けないけれども、魂だけになったなら、って…。
「なるほどなあ…。前のお前は、そうやって飛んで行ったんだな」
 シャングリラで地球を目指して行くより、その方がずっと速いんだから。
 幽霊になって船をウロウロするより、断然、そっちだと思ったわけか。
「…どうだったのかは分からないけどね」
 ぼくは地球に行くより、ハーレイの側にいたかったから…。
 幽霊になってハーレイの側で暮らせるんなら、そっちを選んだだろうけど…。
 でも、前のぼくの幽霊、出ていないんだし、真っ直ぐに地球に行っちゃったかも…。
 だけど、青い地球は無くてガッカリしちゃって、その後は何処へ行ったのかな…?
「行くべき所ってトコじゃないのか?」
 俺の所へ戻って来るより、これだと思う道があったんだろう。先に死んだ仲間が行った道がな。
 思念体になれるミュウの場合は、前向きに未来を目指してゆこうとするのかもしれん。…幽霊になって過去にしがみ付くより、とにかく先へ進もう、ってな。
「そうかもね…」
 ハーレイの所へ戻らなかったの、そのせいかもね。
 幽霊になって戻って行くより、先に行って待っていよう、って。
 いつかハーレイが来てくれた時は、あちこち案内しなくっちゃ、って。
 何があるのか、どんな所か、うんと詳しく調べておいて。こっちだよ、って迎えに出掛けて。



 きっとそうだよ、と綻んだ顔。ハーレイが来るのを待っていようと、前の自分は考えたろう。
 幽霊になって、元の世界にしがみ付くよりも。…他の仲間たちも通ったろう道、その道を行った先の世界で、ハーレイが来るまで待つのがいいと。
「ふむ…。お前が言うなら、そうなんだろうな。ミュウの幽霊が出ない理由は」
 そういや、今の時代もだ…。幽霊が出たという話は全く聞かないし。
 いない幽霊が出るわけがないな、誰も幽霊にはならないんだから。
「んーと…。夏の怪談は?」
 怖い話はハーレイも沢山知ってるんでしょ、幽霊はやっぱりいるんじゃないの?
「それはそうだが…。具体的な情報ってヤツを、聞いたことがあるか?」
 あそこに出るのは誰の幽霊で、生きていた時の住所は此処で、といった具合に。
 漠然と白い影が出たとか、そういう話はアテにならんぞ。誰の幽霊か、知っているのか?
「ううん、知らない…」
 名前や住所は聞いたことがないよ、怖い話を聞かされたって。
 ずうっと昔の幽霊だったら、ぼくにも名前は分かるけど…。地球が滅びる前の人なら。
「ほらな、ミュウじゃない幽霊だろうが」
 でもって、そういう時代の幽霊は、だ…。
 きっと、とっくに生まれ変わって何処かで生きていると思うぞ。
 こんなに平和でいい時代なんだ、幽霊のままで踏ん張ってたって、損をしてると思わんか?
 美味いものも食えなきゃ、あちこち旅にも行けないってな。
 そんなつまらん幽霊なんかをやっているより、新しい命を貰うべきだろうが。
 幽霊なんぞはいないだろうな、今の世界は。とうの昔に生まれ変わって、全部絶滅しちまって。
 絶滅と言うかどうかは知らんが、多分、一人もいないだろうさ。



 今も残っている可能性があるのは、お化けの方だ、と笑ったハーレイ。
 幽霊は絶滅しただろうけれど、お化けだったら出るかもな、と。
「お化け…。ハーレイ、夏に探してたっけね」
 帰り道で会えるかもしれないな、って帰って行ったよ、楽しそうに。
 夏だけのものじゃなさそうだけど…。今日のハーレイの話を聞いたら。
「うーむ…。俺もすっかり毒されていたか、今の文化に」
 これは一本取られたな。夏にやってた、俺のお化け探し。
「秋もお化けのシーズンなんでしょ、本当は?」
 おまけにシーズンオフは無くって、一年中、いつでもお化けのシーズン。
 気を付けろよ、ってハーレイ、授業で言ったんだから。
「よし。…ここは前向きに受け止めるとするか、ミュウの幽霊が出ない理由を見習って」
 せっかく怪談のシーズンなんだし、失敗をバネにお化け探しだ。
 今もいるかどうか、頑張って探すことにするかな、次に歩いて帰る時から。
 今日は車で来ちまってるから、今度の土曜の帰り道からだ。
「お化け探し…。それ、見付けちゃったら怖くない?」
 凄く怖そうだよ、今の時代まで生き残ってるほどのお化けだなんて。
「何が出るかは知らないが、だ…。かかってくるなら、投げ飛ばす!」
 ダテに柔道はやっていないぞ、投げてしまえばこっちのもんだ。
 参りました、と降参するまで押さえ込んでギュウギュウ締め上げるってな。



 お化けなんぞはただの化け物、と言うハーレイなら、確かに投げ飛ばせそうだから。カッコ良く投げて、ギュウギュウ締め上げて、お化けを降参させそうだから。
「お化け、見付けたら教えてね」
 どんなのだったか、ぼくに詳しく説明してよ?
 怖くて寝られなくならない程度に、姿とか、お化けの声だとか。
「もちろんだ。俺の武勇伝つきで語ってやるさ」
 それにだ…。いいか、年中、お化けのシーズンなんだぞ?
 お前も一緒に探しに行こうな、いつかはな。結婚したなら夜のデートで、お化け探しだ。
 出るそうだという噂を聞いたら、俺と二人で出掛けて行って。
「えーっ!」
 待ってよ、なんで二人で行くの!?
 ハーレイが行けば充分じゃないの、お化けが出たらどうするの…!
 今のぼくはサイオンが上手く使えないから、見付かっちゃったらおしまいだってば…!
 お化けを投げ飛ばせるのはハーレイだけだし、ぼくは逃げるしかないんだから…!



 怖いじゃない、と叫んだけれども、楽しそうではある、お化け探し。
 今の時代は幽霊がいなくて、シャングリラの時代はお化けの方がいなかった。
 昔話に出て来る沢山のお化け、百鬼夜行の化け物だって。
 けれども、今は幽霊の代わりに、お化けの方がいそうだから。
 何処かの闇からヒョイと出て来て、人間をビックリさせそうだから。
 シャングリラの時代はいなかったお化け、それを二人で探してみようか。
 青い地球なら、何かいるかもしれないから。
 SD体制よりも古い時代に生まれたお化けに、バッタリ会えるかもしれないから。
 シーズンオフが無いらしいお化け。
 出会って怖い思いをしたって、きっとハーレイなら、カッコ良く投げてくれるだろうから…。




            怪談の季節・了


※ハンスの幽霊を探していたゼル。けれど出会えず、シャングリラには出なかった幽霊。
 何故かは全く謎ですけれど、今の時代にいそうなのは、お化け。いつか探すのも楽しそう。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










「おーい、ブルー!」
(えっ?)
 いきなり呼ばれて、ギョッとしたブルー。大きな声で叫んで駆けて来る友達。グラウンドの側に立っていた時、意外な方から。周りに生徒は大勢いるのに、友達は真っ直ぐ走って来て。
「何してんだよ、こんな所で?」
 先に行くね、って言っていたから、教室の方か、図書室なんだと思ってたのにさ…。
 なんでグラウンドの方なんかに、と訊かれたけれど。
「えーっと…」
 どう答えようかと泳がせた視線、友達は直ぐに気付いたらしい。人が大勢いる理由にも。
「ああ、ハーレイ先生な!」
 カッコいいよなあ、ハーレイ先生。柔道と水泳だけじゃないんだよなあ、なんでも出来て。
 うっわー、今の見たかよ、ブルー!?
 あんなトコからロングパスだぜ、しかも囲まれていたのによ…!
 すげえ、と興奮している友達。もちろん周りの生徒たちだって、歓声を上げて大騒ぎ。昼休みにグラウンドでサッカーに興じているハーレイ。サッカー部の生徒に誘われてプレー中らしい。
 食堂でランチを食べていた時、聞こえて来たハーレイの名前とサッカーの話。もう始まるから、急いで見物に行かなくては、と。
 思わず耳を澄ませてしまったハーレイの名前。ウサギだったら、長い耳がピンと立っただろう。幸い、耳が立ちはしないから、ランチ仲間は気付かなかった。ハーレイの名にも、サッカー見物に行くと話した生徒の声にも。
 見たい、と思ったハーレイのサッカー。それも誰にも邪魔をされずに、ワクワク心を躍らせて。感想を話し合ったりしないで、ハーレイの姿だけを見詰めて。
 ランチ仲間が気付かなかったのは好都合だ、と考えた。彼らも話を聞いていたなら、見に行くに決まっているのだから。
 「お前も行くだろ?」と肩を叩かれて、みんな揃ってゾロゾロと移動。グラウンドに着いたら、たちまち始まる賑やかな会話、ハーレイだけを見てはいられない。視線は逸らさずに済んだって。グラウンドをじっと見ていられたって、生返事することは出来ないから。



 切れてしまうだろう集中力。友達の会話を聞き逃すまいと、生返事をしてしまわないよう、と。
 ハーレイの姿に夢中になれないサッカー見物。そうならないよう、ランチ仲間と別れて行こうと決めたグラウンド。一人の方がきっと素敵で、ハーレイのプレーに酔えるだろうから。
 そう思ったから、「先に行くね」と出て来た食堂。何気ないふりを装ってトレイを返して、まだ座っているランチ仲間に手を振って。行き先は教室でも図書室でもなくて、グラウンド。
 もう始まっていたサッカーの試合、山と溢れる見物人。噂を聞き付けて一人、また一人と増える観客、ハーレイの腕と人気が凄いという証拠。
 頬を紅潮させて見ていた試合。ハーレイが決める見事なシュートや、サッカー部の主将たちでも手も足も出ない巧みなドリブル。この腕だからこそ誘われたのだ、と誰が見ても分かる。
 本当に凄い、と見入っていた所で、「おーい、ブルー!」と呼ばれてしまった。別れて来た筈のランチ仲間たちに発見されて。
(バレちゃった…)
 サッカー見物に来ていたこと。たちまちランチ仲間に囲まれ、一緒に見るしかなくなった。先に心配していた通りに、自分に向かって掛けられる声。
 皆、ハーレイを褒め称えるから、それは嬉しいのだけれど。あれこれ感想を話しながらの見物も楽しいものだけれども、ほんのちょっぴり、残念な気分。「一人で見ていたかったのに」と。
 ハーレイはプレー中に気付いて、自分に向かって手を振ってくれた。余裕たっぷりのハーレイの姿に、またも上がった大きな歓声。ボールを追いつつ、観客の方へと手を振るのだから。
 そのハーレイは、友達の声で自分に気付いてくれたのだけれど。
 「おーい、ブルー!」と呼びながら駆けて来たランチ仲間がいなかったならば、きっと気付いてくれないままで終わっただろうと思うのだけれど…。
(手なんか、振ってくれなくていいから…)
 ゆっくり眺めていたかった。他の生徒の中に混じって、ハーレイだけを。友達との会話に時間を割かずに、集中力を持って行かれずに。
 ハーレイがボールを操る姿を、誰にも邪魔をされることなく。



 その内に鳴ってしまったチャイム。昼休みが終わる時間が近い、と知らせる予鈴。それを合図に終わってしまったサッカーの試合。ハーレイが「今日はここまで」とボールを手にして。
 試合を終えたハーレイはサッカー部の生徒たちのもので、彼らと一緒に去ってゆくから。やがて授業も始まるのだから、夢の時間はこれでおしまい。心が躍ったサッカー見物。
 校舎の方へと歩く途中も、ランチ仲間たちはハーレイのプレーに感動しきりで、興奮していて。
「お前、いいよな…。あんな中で手まで振って貰えて」
 あれって、お前に振ってたんだろ、名前は呼んでなかったけど。
 ドリブルしていた最中なんだぜ、余裕だよなあ…。俺がやったら、ボールは消えるぜ。
「うんうん、俺でも取られて終わりだ。とても目なんか離せやしない」
 ハーレイ先生、ちゃんと全部が見えてるんだよな、周りのヤツらがどう動くかも。
 カッコいいよな、サッカーでも相当いい線いってたんだろうな、柔道とかが好きだっただけで。
 本当にブルーが羨ましくなるなあ、あんなの見たら…。
 ハーレイ先生と友達みたいなものなんだし…。家にだって来て貰えるんだし。
 いいな、と羨ましがるランチ仲間たち。今日の昼休みのヒーローのハーレイ、皆が憧れる先生を独占できるなんて、と。
 誰もが称賛していたハーレイ。何度も上がっていた歓声。
 そんな試合の真っ最中に振って貰えた手は誇らしいけれど、やっぱり残念でたまらない。自分は注目を浴びなくていいから、一人でこっそり見たかった、と。
 他の生徒の群れに混じって、ただの観客の一人になって。ハーレイだけを目で追い続けて、弾む心で。サッカーもあんなに上手なんだと、あの凄い人がぼくの恋人、と。



 学校が終わって家に帰っても、まだ残念な気持ちが消えてくれない。ハーレイの雄姿をじっくり見ていたかったと、ランチ仲間が自分を見付けなかったなら、と。
 グラウンドに行くとは言わなかったのに。いつもの自分の行動からすれば、グラウンドよりかは図書室で調べ物なのに。そうでなければ、教室の方。何か用事を思い出して。
(なんでバレちゃったの…?)
 ぼくがあそこに混じっていたこと、と考えてみる。おやつをモグモグ頬張りながら。母が作った美味しいケーキを、フォークで口へと運んでは。
 サッカーを見ようと群がっていた大勢の生徒たち。あの中でどうしてバレたのだろう、と。
(前のぼくならバレるだろうけど…)
 白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。ブリッジが見える広い公園や天体の間などに、皆を集めて混じったとしても、直ぐにバレただろう自分の居場所。
 仰々しかったソルジャーの服で。紫のマントや、誰も着ていなかった白と銀との上着のせいで。他の仲間たちが着ていた制服、それとは全く違ったから。
 でも、今は普通の制服なのに。同じ学校に通う男子は全員同じで、色も形もそっくり同じ。髪の色にしても、銀色の生徒は何人もいる。赤い瞳は自分一人だけれども、あれだけの群れに混じってしまえば分からない。幾つもの顔が周りに一杯、それにグラウンドを見ていたのだし…。
(ぼくの目、見えなかったと思うんだけどな…)
 ランチ仲間たちが来た方からは。後ろか、せいぜい斜め後ろから自分の姿を見付けた筈。
 だから違う、と断言出来る赤い瞳という特徴。他には何があるだろう?
(チビだけど…)
 学校でもチビの部類に入るのだけれど、男子では一番のチビだけれども。似たような背丈のチビならいるし、と零れた溜息。
 自分一人が目立つほどチビではない筈なのに、見付かっちゃった、と。
 ハーレイのサッカーを一人でゆっくり見損ねちゃったと、どうして見付かったんだろう、と。



 おやつを食べ終わって部屋に戻って、本を読んでいたら聞こえたチャイム。昼休みにサッカーをしていたハーレイ、友達も羨む今日のヒーローがやって来た。仕事が早く終わったからな、と。
 母がお茶とお菓子を運んでくれたテーブル、それを挟んで向かい合わせに座ったら…。
「お前、見に来てくれたんだな。俺のサッカー」
 サッカー部のヤツらが宣伝していたわけでもないのに、あんなに大勢見に来るとはなあ…。
 まさか、お前まで来てくれるとは思わなかったぞ。何処で噂を聞き付けたんだか。
「食堂にいたら聞こえたんだよ、他の生徒が喋ってたのが」
 もう始まるから急がないと、って。ぼくは食べてる最中だったけれど。
 だから最初から見てはいないんだけど…。ぼくが見てたの、嬉しかった?
 わざわざ手まで振ってくれたし…。あれで余計に大騒ぎだったよ、見てた人たち。
「そりゃまあ、なあ? お前がいると分かれば張り合いが出るさ」
 いい所を見せたくなるってもんだろ、恋人が見に来ているんだから。
 学校じゃ恋人扱い出来んが、カッコいいサッカーを見せてやるのは当然だ、うん。
「でも…。ぼくはコッソリ見ようと思っていたのに…」
 他のみんなの中に混じって、ぼくがいるのが分からないように。手なんか振って貰うよりかは。
「どうしてコッソリ見たかったんだ?」
 堂々と見てればいいだろうが。悪いことをするわけじゃないんだから、コソコソせずに。
「だって、ハーレイ、楽しそうだったから…」
 サッカーに夢中のハーレイは凄く楽しそうだったし、カッコ良かったし…。
 そういうハーレイを見たかったんだよ、ぼく一人だけで。ドキドキしながら、一人でこっそり。
 誰にも邪魔をされない所で、ゆっくり見ていたかったのに…。
「おいおい、そいつは俺としては嬉しくないんだが?」
 せっかくお前が来てるというのに、知らずにサッカーしているだなんて。
「そうなの?」
「決まってるだろう…! さっきも言ったが、恋人の前だぞ」
 張り切っていこうって気になるじゃないか。生徒相手でも、昼休みのサッカー試合でも。
 ヘマをしないで、カッコ良く。ボールは絶対に取らせないぞ、と。



 同じ試合なら、観客の中に恋人がいる方がいいに決まっている、とハーレイは言うものだから。より素晴らしいプレーが出来る、と力説するから。
「じゃあ、バレちゃって良かったのかな…」
「バレた?」
 いるのが俺にバレたってことか、それなら俺には最高の瞬間だったわけだが…。
 お前が見に来てくれてるんだ、と嬉しくなるじゃないか。来ると思っちゃいなかったんだし。
「そうじゃなくって…。ハーレイにもいるのがバレちゃったけど…」
 ぼくの友達にバレちゃったんだよ、グラウンドで試合を見ていたことが…!
 一人で見よう、って別れて来たのに、いるのを見付けられちゃったんだよ…!
「なるほど…。それでお前の友達が叫んでいたのか、お前の名前を」
 誰か遅れて来たヤツなのかと思ってたんだが、違ったんだな。
 お前がいるのを発見したから、名前を呼びながら走って来たという所か。
「うん…。なんでバレたんだろ、ぼくだってことが」
 先に行くね、って食堂を出たから、普段だったら図書室か教室。グラウンドにはいない筈だよ。あんなに大勢集まっていたら、ぼくなんかには気が付かないと思うんだけど…。
「目立つからだろ、お前の姿」
 あそこにいるな、と直ぐに分かるさ。生徒が山ほど集まっていても。
「目立つって…。制服はみんな同じだよ? 学年とかで分かれていないし、それこそ山ほど…」
 銀色の髪の生徒も多いし、ぼくと変わらないくらいにチビの生徒も、ちゃんといるのに…!
「やれやれ…。お前、分かっていないんだな。目立つってことが」
 同じ制服で立っていたって、似たような背格好だって。何処か違うぞ、お前の場合は。
「何が違うの?」
 他のみんなと何処が違うの、目の色は確かに違うけど…。ぼくだけ赤い瞳だけれど。
「それとは違うな、雰囲気ってヤツだ」
 お前を取り巻く空気が違うと言うべきか…。とにかく、ハッと人目を引く。
 俺がお前に惚れているのとは別の話で、お前は視線を惹き付けるんだ。其処にいるだけで。



 遠目でも分かる、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。後姿でも充分に、と。
「俺でなくても分かる筈だぞ、お前なんだと。大勢の中に混じっててもな」
 人混みだろうが、みんな揃って体操服で群れていようが。あれじゃないか、と直ぐに目がいく。
「そういうものなの?」
 だからバレちゃったの、ぼくがサッカーを見に行ってたのが…?
 探すつもりで来たんじゃなくても、ぼくがいるのが分かっちゃった?
「多分な。それに友達なら、俺と同じで親しいわけだし…」
 普通以上に見付けやすいと思うぞ、特徴ってヤツを知っているから。まずは目がいく、そしたら誰かと考え始める。情報が多いほど答えが出るのが早いわけだな、お前なんだと。
 それが分かれば、後は名前を呼ぶだけだ。お前の友達がやってたように。
 ん…?
 待てよ、と首を捻ったハーレイ。前のお前もやらなかったか、と。
「やるって、何を?」
「コッソリってヤツだ、今日のお前が目指してたヤツ」
 俺のサッカー、コッソリ見ようとしたんだろうが。友達にも俺にも気付かれずに。
 お前は失敗しちまったんだが、前のお前もやっていたような…。そういうコッソリ。
「え…? 前のぼくって…」
 コッソリと何を見に行くっていうの、ハーレイの日誌は見てないよ?
 ホントに一度も読んじゃいないし、第一、他のみんなに混じって読みには行けないじゃない!
 大勢でハーレイの部屋まで押し掛けてみても、絶対、入れてくれないんだから。
 航宙日誌が目当てなんだ、って直ぐに見破られて、扉に鍵をかけられちゃって…!
「いや、そういうのじゃなくてだな…。コッソリ何かを見るんじゃなくて…」
 お前がコッソリ隠れるってヤツだ、今日のお前が隠れたつもりでいたように。周りに生徒が大勢いるから、すっかり溶け込んだ気になって。…お前、いるだけで目立つのに。
 前のお前も似たようなモンで、それがコッソリ…。そうだ、お忍びだったんだ…!
「お忍び?」
「そういう言葉があるんだが…。今の時代は、そうそう出番が無いからなあ…」
 身分を隠して出歩くことだな、お忍びってのは。偉い人だと分かっちまったら、普通の暮らしが出来ない人たちがやっていたんだ。特別扱いされない暮らしをしてみたくってな。



 今は存在しない貴族や王族、そんな人々。買い物に行こうが、旅に出ようが、何処でも特別扱いされる。気軽に買い食い出来はしなくて、一人で旅行も出来ない有様。
 そういう暮らしは面白くない、と考えた人は、身分を隠して出掛けて行った。普通の身分の人に混じって、同じような服を身に着けて。普通の身分に見えていたなら、自由に動き回れたから。
「色々な人がいたらしいなあ、貴族は入りもしないような酒場がお気に入りだとか」
 其処に入って飲むだけじゃなくて、楽器を奏でてチップを貰っていた人だとか。
 もちろん客の方では知らない、貴族だなんて思いもしない。チップをはずんで、一緒に飲んで。朝まで歌って踊り明かして、すっかり友達になっちまうんだ。「また来いよ」ってな。
 それと同じだな、前のお前も。王様や貴族ほどじゃなかったが、特別扱いを嫌がって…。
 他のみんなと同じにしたくて、せっせと努力をしてたんだ。コッソリ普通の暮らしをしようと。
「そういえば…!」
 やっていたっけ、みんなと違いすぎたから…。
 ソルジャーなのは仕方ないけど、こんなのは望んでいないから、って。
 やたらと目立つし、前よりもずっと偉そうな感じにされちゃって…。それが嫌だから、コッソリみんなと同じふり。これさえ無ければ普通だよね、って。
 確かにアレってお忍びだったよ、いつも失敗してたけど…。一度も成功しなかったけど…!



 時の彼方から戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーだった前の自分がやっていたこと。なんとか普通になろうとして。他の仲間たちと同じになりたくて。
 遠い昔に、前のハーレイと暮らしたシャングリラ。まだ白い鯨になる前の船で、制服が生まれて間もない頃に。
(あの服、目立ち過ぎたから…)
 ソルジャー用にと作られた制服は、思った以上に特別すぎた。誰も着てはいない白と銀の上着、大袈裟に過ぎる紫のマント。それを普段から着ろと言われても、迷惑なだけ。やたらと目立つし、他の仲間たちからも「特別な人」という目で見られてしまう。制服のせいで。
(あれを着せられる前は、もっと普通に色々話してくれたのに…)
 エラが「ソルジャーには敬語で話すように」と注意したって、聞かない者も多かった。リーダーだった頃と同じに、親しい口調で話してくれた仲間たち。立ち話だって普通に出来た。
 ところが、御大層な例の制服。あれを着た途端、明らかに変わった仲間たちの自分への接し方。何処から見たって、彼らとはまるで違うから。ソルジャーの上着も、紫のマントも。
(注意しなくちゃ、って顔に書いてあって…)
 誰もが敬語に切り替えてしまい、たまに普通に話してくれても、気付いた瞬間、謝罪の言葉。
 何処へ行っても、誰と話しても、それは変わりはしなかった。ソルジャーなのだ、と服が教える肩書き。近くに寄って向き合う前から、姿が見えたその時から。
 つまりは充分に準備できた時間、ソルジャー向けの敬語に切り替える時間。あの制服を見たら、心の中で。きちんと敬語で話さなければと、ソルジャーに失礼がないように、と。
(みんな、緊張しちゃってて…)
 今までとは違う付き合いになった仲間たち。自分は何も変わらないのに、開いてしまった皆との距離。これは困る、と前の自分は考えた。元の関係に戻すためには、どうすれば…、と。
 明らかに制服が悪いと分かる。それを着るまでは、こんな風ではなかったのだから。



 前と同じに仲間たちの中に溶け込みたいから、普通に話して欲しかったから。
(あの制服さえ無かったら、って…)
 脱いでしまえば、きっと緊張しないだろう仲間。ソルジャーなのだ、と身構えないで済むから、口調も元に戻る筈。敬語なんかは出て来なくなるに違いない。
 そう思ったから外したマント。何処から見たって偉そうなのだし、これが一番悪いのだ、と。
 マントを脱いだら、後はせいぜい上着だけ。皆は着ていない上着だけれども、マントとは性質が全く違う。単なる制服、そういうデザイン。威圧感などは与えない筈。
(それに、上着さえ着ていれば…)
 ちゃんと制服は着ているのだから、誰も文句はつけないだろう。マントを省略したというだけ。たまにはそういう着こなしだって、と心の中で作った言い訳。今日はマントを着けない日、と。
 これで仲間たちの口調も元の通り、と颯爽と出掛けて行ったのに。どうしたわけだか、たちまちバレた。「ソルジャー、今日はマントは無しですか?」などと掛けられた声。出会う仲間に。
 せっかくマントを外して来たのに、と途惑う間に、飛んで来たエラ。そのお姿では困ります、と着けるように言われた紫のマント。「直ぐにマントを着て下さい」と。
 そうなるからには、どうやら上着も問題らしい。自分一人しか着ていないのだし、白い上着では何かと目立つ。それさえ脱いだら皆と変わりはしない筈、と次は上着も脱ぐことにした。ブーツが少し気になるけれども、足元までは誰も見ないだろう、と。
 今度こそ、と皆と同じになったつもりで歩いた船の中。けれど、やっぱりバレてしまった自分の正体。敬語で会話をすべきソルジャー、出会う誰もがそう扱った。「上着は窮屈ですか?」とか。
(誰も普通に喋ってくれなくて…)
 エラにも苦情を言われる始末。「ご自分の立場がお分かりですか?」と。
 これでは何の意味も無い、とスゴスゴと戻った自分の部屋。上着まで脱いでも駄目なのだから。
(一度、しみついちゃったことって…)
 変わらないのだ、と前の自分が零した溜息。制服のせいで皆が敬語に切り替えること。
 そうすべきだと皆は思っているから、自分が姿を見せた途端に、口調がガラリと変わるらしい。あの制服を着ていなくても、自分の姿を見ただけで。…前はそうではなかったのに。



 その日、仕事を終えたハーレイが部屋を訪ねて来てくれたから。
 「入って」と勧めた、いつもハーレイが座る椅子。そして早速、今日の出来事を打ち明けて…。
「どうしてバレてしまうんだろう? ぼくだってことが」
 ぼくはぼくだけど、敬語で話さなければ駄目になっちゃった方の、制服のぼく。
 あの服のせいだ、って思ったから脱いで行ったんだけど…。あれさえ着てなきゃ、みんな普通に話してくれると思ったんだけど…。
 駄目だったんだよ、みんながぼくだと気付いちゃうから。近付くよりも前に。
 直ぐ側に行くまでにバレるってことは、服のせいだけじゃないってことで…。やっぱり髪かな?
 この色の髪は目立つ色だし、それのせいかな…?
「さあ…。ソルジャーの他にも、銀の髪の者はおりますが?」
 確かに目立つ色ではありますが、彼らをソルジャーと見間違える者がおりますでしょうか?
「うーん…。この髪、染めたらいいかな?」
 もっと目立たない、黒とか茶色に。そしたら誰も身構えないから、普通の言葉に戻りそうだよ。
 敬語で話す準備が出来ていない内に、目の前にぼくが来ちゃうんだから。
「髪を染めておいでになっても、直ぐにバレると思うのですが…?」
 どんなに目立たない色になさっても、ついでに制服も脱いでおられても。
 ソルジャーは独特の雰囲気を纏っておいでですから、直ぐ分かります。きっと、誰が見ても。
 ずっと前からそうでしたよ。…ご自分では全くお分かりになっておられないだけで。



 何処におられても、どんな格好でも分かりますね、とハーレイに断言されてしまった。髪の色を変えても、制服を脱いでも無駄だろうと。きっと誰もが敬語で話すに違いないと。
「そんなの、ぼくは困るんだけれど…。普通に話して欲しいんだけど…」
 バレない方法、何か無いかな?
 ぼくが纏っている雰囲気とやらを消せる方法。君なら何か思い付かないかな、いい方法を。
「そうですねえ…。これと言った方法は思い付かないのですが…」
 私と一緒にお歩きになるのは、控えられたらどうでしょう?
「どうしてだい?」
「私も目立ちますからね。この図体もそうですが…。キャプテンですから」
 皆とは制服も違っていますよ、あなたと同じで。
 悪目立ちする私と一緒にいらっしゃったら、あなたも余計に目立たれるわけで…。
 ソルジャーがキャプテンと一緒においでになった、と皆が緊張しますから。普段以上に。
 つまり、あなたが望んでおられる普通の会話が遠ざかります。お一人で歩いておられるよりも。
 ですから、制服を脱いだり、髪を染めたりと努力をなさるおつもりでしたら、お一人で。
 私が目印になってしまいますからね、ソルジャーが此処にいらっしゃる、と。
「それじゃ、君と一緒に歩こうとしたら…。バレるってことだね、どう努力しても?」
 頑張って方法を見付け出しても、独特の雰囲気を消せたとしても。
 他のみんなと変わらないように見える方法、なんとか手に入れられたとしても…。
 君と一緒に歩いているだけで、それの効き目は無くなってしまうわけなんだ?
「そうなるでしょうね、私がお側にいたのでは…」
 私の身体は小さく出来ませんから、どうしても目立ってしまいます。
 これからも努力をなさるのでしたら、何処へ行かれるにも、お一人でどうぞ。



 より目立たない道をお求めならば、とハーレイは提案してくれた。キャプテンとしての役目以外では、近付かないようにするから、と。目立ちたくない前の自分を、無駄に目立たせないように。
 「あなたのお気持ちは分かりますよ」と、穏やかに微笑んでいたハーレイ。
 特別扱いは嫌なものだし、元の通りに話して欲しいと願う気持ちも理解できると。
(いい方法が早く見付かるといいですね、って言ってくれたけれど…)
 それが見付かっても、ハーレイと一緒に歩いていたなら、効き目は全く無くなるらしい。自分は目立っていなかったとしても、ハーレイが皆の目を引き付けるから。
(キャプテンだ、って誰でも気付くし…)
 そうなれば、一緒にいる人間にも向くだろう視線。あれは誰か、と浴びる注目。正体を知ろうと思って見たなら、きっと分かってしまうだろう。目立たないけれどソルジャーだ、と。
 其処で正体がバレてしまえば、元の木阿弥。皆は敬語で話し始めて、いつもと何も変わらない。前と同じに話の輪の中に加わりたくても、開いてしまう距離。ソルジャーだから。
(…せっかくハーレイも一緒なのに…)
 仲間たちと楽しく話したいのに、ハーレイがいるとそれが出来ない。自分一人ならば上手くいく方法を見付け出せても、ハーレイが効き目をすっかり消してしまうから。
 それでは少しも楽しめない、と思った自分。一番の友達だったハーレイ、そのハーレイと一緒に仲間たちの間に溶け込むことが出来ないなんて、と。
 一番の友達と歩くことさえ出来ないのでは意味が無い、と諦めたお忍び。正体を知られないよう努力すること。制服を脱ぐのも、髪を染めようかと考えるのも。
(ハーレイと一緒に歩けないなんて…)
 つまらないから、と前の自分は結論付けた。
 まだハーレイと恋人同士ではなかったけれども、二人でいるのが好きだったから。二人で一緒に歩きたかったし、それをやめたくはなかったから。



 そう決めたのが前の自分で、目立たないよう努力するのを諦めたのに。髪を染めるのも、制服を脱ぐのもやめたというのに、今のハーレイは「そういえば…」と顎に手を当てて。
「お前、あれっきり、やらなくなったが…」
 どうすればいいのか俺に相談してから後は、バッタリやらなくなっちまったが…。
 心境に変化があったのか?
 お前がマントを脱いでいたとか、挙句に上着も着なかっただとか、エラから報告は来てたんだ。俺も一応、キャプテンだしなあ、ソルジャーの情報も入ってくる、と。
 ところが、お前、二度とやらかさなかったんだ。せっかく相談に乗ってやったのに…。
 一緒に歩かないようにしよう、と提案してやったのに、きちんと制服を着込んじまって…。髪を染めると言っていたのも、一度も試さないままで。
 いったい何があったと言うんだ、俺に相談した後で?
「ハーレイに相談したからだってば!」
「はあ?」
 俺は真面目に答えたじゃないか、俺と一緒に歩かないのが一番だ、とな。
 目立たないようにしたいんだったら、悪目立ちする俺とは離れておくのがいい、と。
「それだよ、ハーレイと一緒にいられないんだよ!」
 ハーレイといるだけで、ぼくの正体もバレる、って言ったの、ハーレイじゃない!
 キャプテンなのと、身体のせいとで、ハーレイはとても目立つから…!
「その通りだが、どうしてお前が努力するのをやめるんだ?」
 お前はお前で頑張ってみればいいと思うのに、なんだって試しもしなかったんだか…。
 髪の毛を染めて制服を脱ぐとか、お前らしさを消す方法を。
「ハーレイが一緒にいると効かない方法なんて、探しても意味が無いんだよ!」
 上手に誤魔化せるようになったとしたって、ハーレイのいない時だけだなんて…。
 君と一緒に他の仲間と楽しめないなら、努力する意味が無いじゃない!
 ぼくの一番の友達はハーレイだったし、いつも一緒にいたかったんだよ、離れるんじゃなくて!



 恋だと気付いてはいなかったけれど、特別な存在だったハーレイ。前の自分の一番の友達。
 お忍びに未練はあったけれども、ハーレイと一緒にいる時は正体を隠せないらしい自分。一番の友達が側にいるだけで、誰なのかバレるらしいから。
 それでは駄目だ、と諦めた自分。誰よりも一緒にいたい人と離れなければいけないなんて、と。
「…そうだったのか…」
 お前が努力を投げ出した理由、俺だったんだな。…俺と一緒だとバレちまう、と。
 髪の毛を染めようかとまで言っていたのに、やけにアッサリ諦めたなと思っていたら…。
「うん。…だって、ハーレイと離れていないと効かないだなんて、そんな方法…」
 見付け出しても意味が無いでしょ、いくら普通に扱って貰える方法でも。
 みんなが普通に話してくれても、きっと楽しくないんだよ。…其処にハーレイがいなかったら。
 どうしてハーレイはいないんだろう、って考えてしまうに決まっているもの。
 …でも、今のぼくでも、ハーレイといたらバレちゃうね。
 目立たないように隠れようとしても、今日よりも、ずっと。周りが普通の生徒ばかりなら、まだマシだけど…。ハーレイと二人なら、アッと言う間に見付かっちゃうよ。あそこにいるな、って。
「お前、今度も隠れたいのか?」
「そんなことないけど…」
 ハーレイをコッソリ見られなかったのは残念だけれど、今は普通の生徒だもの。
 みんなが敬語で話しはしないし、正体がバレても、前みたいに困りはしないんだけど…。
「今のお前は普通の生徒で、将来も普通の嫁さんだろ?」
 男にしたって、嫁さんには違いないんだから。
 俺と一緒に暮らす嫁さんで、誰もお前を特別扱いして困らせることはない筈だぞ。
 俺の嫁さん、それで全部だ。今度のお前は。…俺と一緒に何処に行っても。



 だからバレてもかまわないよな、とハーレイの顔に浮かんだ笑み。
 俺と一緒にいるばっかりに、お前が此処にいるんだとバレてしまっても、と。
「いいよ、ハーレイと二人でいられるのなら。バレちゃっても」
 だけど、制服は学校の生徒の間だけしか着られないから…。
 制服を着なくなった後だと、今よりもうんと目立つかも、ぼく…。
「おいおい、其処は逆なんじゃないか?」
 制服の群れの中にいる方が目立つぞ、お前。…前のお前の制服みたいな感じでな。
 みんなの個性が減っている分、分かりやすくなっているんだな。あそこにお前、と。
 だからだ、普通の服になっちまったら、バレにくくなると思うんだが?
 色々な服の人がいるしな、実に賑やかに。
「前と同じだよ、ハーレイといたら目立つんだよ!」
 ぼくが制服を着ていなくても、同級生とかはハーレイのことを知っているもの!
 街とかでハーレイを見付けた途端に、隣のぼくまで見付けるんだよ!
 前のぼくがハーレイと一緒にいたなら、直ぐにソルジャーだとバレた頃みたいに!
「そういうことか…。あの頃と同じか」
 俺の隣にお前がいるな、とバレるわけだな、俺が発見されちまうから。
 そいつは確かにそうなんだろうな、教師ってヤツは教え子に直ぐに見付かっちまうし。



 歩いていようが、買い物に行こうが…、と苦笑するハーレイ。あいつらは目ざとい、と。
「前の学校で教えたヤツらも覚えているしな、俺のことを」
 思わん所で声を掛けられたりするもんだ。「ハーレイ先生!」と、いろんなヤツらに。すっかり大人になったヤツから、今の学校の連中までな。
 いつかはお前も巻き添えなわけか、そうやって俺が見付かった時は。
「そうなんだけど…。いいよ、バレちゃっても」
 だって、ハーレイはぼくのだから。
「おっ?」
 お前のと来たか、この俺が?
「そう! ぼくのハーレイだよ、って自慢するからバレても平気」
 バレたら、みんなに自慢するんだよ。いいでしょ、って。ハーレイはぼくのだからね、って。
「自慢って…。今日のコッソリと違っていないか?」
 友達にも内緒で、俺を見ようとしていたくせに。
 他の生徒の中に混じって、誰にも見付からないように。…バレちまってたが。
「今だからだよ、ハーレイと一緒にいられる時間が少ないからだよ!」
 だから誰にも邪魔をされずに、ゆっくり見ていたかっただけ!
 結婚したら、いつもハーレイと一緒だし…。隠れなくても、いろんなハーレイを見られるし…。
 だから、コッソリはやめて、バレた時には見せびらかすよ!
 ぼくの大好きなハーレイだもの。ぼくのハーレイなんだもの…!



 それに、今の自分は、もうソルジャーとは違うから。
 正体がバレても、特別扱いされてしまいはしないから。仲間たちとの距離が開きもしないから。
 目立ってもいいし、注目されてもかまわない。
 どんなに目立ってしまったとしても、ただのブルーで、ハーレイのお嫁さんだから。
「そう思うでしょ? 前のぼくとは全然違うよ」
 見付かっちゃっても、ぼくは困りはしないんだよ。得意になれることはあっても。
 ぼくがハーレイのお嫁さん、って嬉しくなることは何度もあっても。
「ふむふむ、ただのブルーで嫁さんなんだな、今度のお前は」
 バレちまっても、周りのヤツらの態度が変わるってわけでもない、と。誰もが敬語になっちまうことも、特別扱いを始めることも。
「ホントにただのブルーだもの。…ただのハーレイのお嫁さんの」
 今度はハーレイの方が、ぼくより特別。みんなに人気のハーレイ先生。
 柔道と水泳の腕がプロの選手並みで、サッカーだって上手くって…。今日みたいに大勢の生徒が集まっちゃうしね、ハーレイがいるっていうだけで。
「まあなあ…。生徒に人気はあるな」
 ずっと前にいた学校のヤツらも、街で出会ったら声を掛けてくるし…。
 クラブで教えた生徒だったら、未だに憧れのヒーローみたいな扱いになるのも間違いない、と。
 俺は今度も目立つわけだな、キャプテンじゃなくなったんだがなあ…。



 お前を巻き添えにするのも同じか、とハーレイは苦笑いをしているけれど。
 そのハーレイと一緒にいたなら、今の自分も前と同じに目立ってしまうのだけれど。
(…ぼくは今度は平気だしね?)
 友達が敬語になってしまったり、距離が開いたりはしないから。本当にただのブルーだから。
 ハーレイのお嫁さんになるというだけで、他には何も変わらないから。
 正体がバレてしまった時には、今は大人気のハーレイの隣で、ハーレイは自分のものだと自慢をすることにしよう。「ぼくのハーレイなんだから」と。ハーレイの腕にギュッと抱き付いて。
 そう、今度はバレてしまってもいい。目立つ姿でもかまわない。
 自分が特別扱いされない世界で、幸せに生きてゆけるのが今の自分だから。
 ハーレイの方が目立つ世界で、大きな身体と一緒に歩いて。
 早く見付けて欲しいくらいに、きっと心が弾むのだろう。
 幸せを自慢したいから。「ぼくのハーレイだよ」と、幸せ一杯で誰もに自慢出来るのだから…。




           目立つのは嫌・了


※雰囲気だけで人目を惹いてしまうのがブルー。前の生でも、普通なふりをするだけ無駄。
 ハーレイと一緒だと、更に人目を惹くのですけど、ソルジャーではない今は、それも幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













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