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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(うーむ…)
 相変わらず高い、とハーレイが唸ってしまった広告。なんて値段だ、と。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で開いた新聞。まだコーヒーは淹れていなくて、少し座って一休み。鍋や食器は綺麗に洗って片付けたから、一仕事終わった、といった感じで。
 帰宅して夕食を作る間に、新聞にも目を通したけれど。ザッと一通り見たというだけ、興味深い記事を中心に。その読み方だと、見落としてしまうものもある。授業で使う雑談ネタとか。
 だから、こうして改めて読む。何か無いかと、読むべきものは、と。
 そうやって読むと視点が変わって、見えなかったものが見えて来るから…。
(キャプテン・ハーレイの航宙日誌…)
 さっきは気付いていなかった。立派なカラーの広告なのに。
 キャプテン・ハーレイが羽根ペンで綴っていた文字をそっくりそのまま、再現してある復刻版。文字の滲みや掠れ具合まで、それは忠実に写し取ったもの。
 日誌を読み込む研究者向けで、装丁までが本物と同じ。表紙の色やデザインはもちろん、厚みもサイズも同じに出来ているという品。
(本物は簡単に読めないからなあ…)
 宇宙遺産になってしまって、収蔵庫に収められている航宙日誌。特別公開もされたりはしない。触れられるのは、ごくごく一部の研究者だけ。選ばれた一流の学者だけしか読めない日誌。
 けれど、研究には欠かせない日誌、学者たちは研究費用で買って揃える。自分の書庫に。
 本来はそういう本だけれども、学者でなくても欲しい人間はいるものだから。
(…俺が行ってる理髪店の店主も…)
 欲しいんだった、と苦笑い。キャプテン・ハーレイのファンだと語った店主。そうとは知らずに通っていたのに、最近になって聞かされた。
 航宙日誌も全巻揃えているそうだけれど、持っていないのが復刻版。いつかはそれも、と店主が口にしていた夢。「孫や曾孫が笑うけれども、欲しいんですよ」と。



 身近な所にもいる、復刻版の航宙日誌が欲しい一般人。意外にニーズがあるのだろうか、たまに目にする立派な広告。研究者ならば、広告が無くても買う筈なのに。それが必要なのだから。
 しかし、と眺めてみた広告。ズラリ並んだ、前の自分の日誌そっくりな復刻版たち。
(まったく、とんでもない値段だな…)
 これ一冊で普通の本が何冊買えることやら、と考えてしまう。航宙日誌の中身だけなら、手軽に買える文庫版まで揃っているのに、この値段。それだけの手間がかかっているとは承知だけれど。そうでなくても、研究者向けの専門書の類は高いのだけれど…。
(こいつの原価はどれだけなんだか…)
 原価と言ってもコレじゃなくて、とクックッと笑った前の自分の航宙日誌。シャングリラでは、こんなに高くはなかった、と。
 高いも何も、シャングリラには無かった通貨や店。ゆえに値段がつきはしないし、売る相手さえいなかった。高かろうとも、在庫一掃セールでも。



 売ろうにも売れなかったんだが、と考え始めた前の自分の日誌の原価。今の時代は復刻版でさえ目を剥くような値がついているけれど、元々の値段はどんなものかと。
 あれを書くのにかかった費用はどのくらいかと、それを勘定するならば…、と。
(俺が書く手間賃などは要らんし…)
 航宙日誌を書いておくことはキャプテンの仕事の内だけれども、半分は自分の趣味でもあった。今日はどういう日だったかと、日誌を書きながら思い返す時間が好きだったから。
 一日の出来事を思い出しては綴るのだから、その日を二回味わえる。過ぎた時間を自分の好みのペースに戻して、もう一度。
(どんな日だって、いいことの一つや二つはあるもんだしなあ…)
 目が回るような思いをしていた日でも、何処かにコロンと宝物のように素敵な時間。コーヒーを飲む暇さえ無かったんだ、と嘆きたい日でも、誰かに貰った一言が嬉しかったとか。
(…前のあいつを失くしちまうまでは、そういう日誌だったんだ…)
 ブルーを失くして、独りぼっちになるまでは。絶望と孤独に囚われるまでは。
 前のブルーが長い眠りに就いてしまって、目覚めなくても。青の間で眠り続けるブルーを見舞うことしか出来ない日々でも、素敵な時間はあったから。
 仲間たちと過ごす間もそうだし、青の間にブルーを見舞う時には、いつも幸せだったから。まだ生きていてくれるのだと。このまま深く眠っていたなら、ブルーは地球まで行けるのかも、と。
 日々の出来事から幸せを拾い上げては、噛み締めた時間。航宙日誌を書いていた時間。
 もっとも、見付けた幸せのことを日誌に記しはしなかったけれど。無駄なことだと全部省いて、淡々と書いておいたのだけれど。



 半分は趣味で書いていたなら、貰える筈もない手間賃。好きでやっていることなのだから。
 それにキャプテンには無かった給料。通貨が存在していない船に給料は無くて、働いてもそれを貰えはしない。残業代だって支払われはしない、ブリッジ勤務を終わらせた後に書いていたって。
 手間賃はタダな航宙日誌。色々な意味で、タダでしかない。それがタダだと、他の費用は…。
(紙と、表紙と、インクに羽根ペン…)
 いわゆる実費というヤツだ、と思い浮かべた、日誌を書くのに必要だったもの。日誌の本体と、文字を書くための文具。
 レトロな羽根ペンを愛用していたけれども、羽根ペンになる前は、普通のペン。何処にでもある普通のペンで綴っていたのが初期の頃の日誌。
(羽根ペンにしても…)
 今でこそ高い値段の文具で、小さなブルーが買い損なったくらいだけれど。今の自分の誕生日に贈ろうと買いに出掛けて、手も足も出なかったほどなのだけれど。
 前の自分が使っていたのは、買った羽根ペンなどではなかった。前のブルーが奪った物資の中にあった羽根ペン。大量に混ざっていたものだから、不自由しないで使い続けた。ブルーを失くしてしまった後にも、前の自分が命尽きるまで。
(奪ったヤツだし、タダみたいなもんだな)
 それを載せていた人類の船に、代金は払っていないから。ブルーが奪ってそれでおしまい。白い羽根ペンも、それに合わせたペン先も。
(インクは船で作って貰っていたが…)
 いくら丁寧に保管しておいても、羽根ペンと一緒に手に入れたインクは古くなったら使えない。物資を奪う時代が過ぎたら、専用に作って貰っていた。
 とはいえ、さほど高いものでもなかっただろう。他のペンにも使うインクを、自分専用のインク壺に入れて貰っていただけだから。「これに頼む」と、愛用の物を係に渡して。



 使っていた文具はそんな具合で、航宙日誌を綴っていた紙も、最初は平凡なノートだった。船に何冊もあったノートで、前のブルーが奪ったもの。
(纏まった量になって来た頃に…)
 何冊か纏めて綴じたのだった。ノートを挟めるファイルノートを倉庫で貰って、それに挟んで。
 背表紙にあった、タイトルを書いた紙片を入れられる部分。其処に「航宙日誌」の文字と、中のノートを綴った年号などを書き入れた。後になって分かりやすいようにと。
 それを本棚に突っ込んでみたら、グンと値打ちが増した気がした航宙日誌。ノートの形で並べておくより、断然、こっちの方がいい。一冊の本を書き上げたようで、ノートの時とは重みが違う。綴り続けた日々の価値まで、上がったように思えたから。
(もっと見栄えを良くしたくてだな…)
 ファイルノートでこれだけ値打ちが出るのだったら、本物の本の形にしたなら素晴らしくなるに違いない。本の中身の価値はともかく、見た目に栄える。こうして本棚に並べた時に。
 そう思ったから、製本しようと考えた。暇を見付けて、少しずつ。元のノートを分解してから、丁寧に糸で綴ってゆく。出来上がったら表紙をつけて…、と。
 作業自体は経験済みだし、時間をかければ充分に出来る。ノートを本に仕上げることも。
 早速、次の日から取り掛かったノートの製本だけれど。
(ブルーが手伝いに来やがって…)
 何処で嗅ぎ付けたか、たまたま部屋を訪ねて来た時、自分が作業中だったのか。本にするのだと知ったブルーは、いそいそと手伝いにやって来た。
 「料理のレシピを本にする時、ぼくも一緒にやったから」と助手に名乗りを上げたブルー。本にするなら手伝うからと、二人で作った方が早いと。



 有難そうに聞こえるブルーの申し出。二人でやれば確かに早いし、大いに助かるのだけれど。
 問題は本にしたい中身で、料理のレシピとは全く違う。日々の出来事を綴った日誌で、ブルーが興味津々のノート。いったい何を書いているのかと、隙を狙って盗み見ようとしている日誌。
 「手伝ってくれ」と言おうものなら、まさしくブルーの思う壺。手伝いと称して、堂々と読める航宙日誌。製本しながら、次から次へと。
 その手は食わない、と断ったけれど、諦めないのがブルーだから。
(追い払うのが大変だったんだ…!)
 さて、と作業に取り掛かったら、ヒョイと現れるものだから。「手伝おうか?」と。
 ブルーが顔を覗かせる度に、「いや、大丈夫だ」と身体で隠した航宙日誌。その度に作業は一時中断、まずはブルーを追い払うこと。好奇心の塊が部屋にいたのでは、決して続けられないから。
 初期の日誌は自分で製本、表紙も自分で作っていた。レシピ本の時の要領で。
 その内に本作りの好きな仲間が気付いて、「最初から本に書けばいい」と専用の物を作り上げてくれた。立派な本の形だけれども、何も書かれていない物を。しかも、こだわりの一冊を。
 何度もデザインを訊きに来てくれて、サイズも色々検討して。表紙の色を好みで選べて、入れる文字の色も書体も選べた専用の日誌。一冊使い終わる頃には、また新しい物を作ってくれた。
(あれが今でも残ってるヤツの原型なんだ…)
 前の自分の制服が出来た後、表紙の色を制服に合わせて渋い茶色に、と注文したら。
 本作りが好きな仲間たちは喜んで応じてくれた。その上、それまでの航宙日誌の方まで、それと揃いに出来るようにと新しい表紙を作ってくれた。
 「自分で作り直せるだろうし、揃いの表紙の方がいいから」と。
 仲間たちの好意で貰った表紙を付け替えていたら、やはり現れたブルー。「手伝おうか?」と。二人でやった方が早いと、料理のレシピの本作りは一緒にやったじゃないか、と。
 もちろん、お帰り願ったけれど。中身を読まれてはたまらないから。



 本物のキャプテン・ハーレイの航宙日誌は、そうやって出来た本だった。原価はせいぜい、紙と表紙とインク代。綴るのに使った糸や接着剤、それを入れても微々たるもの。
(タダとは言わんが、その辺の本より安いんじゃないか?)
 日記帳の値段くらいだろうな、と結論付けた。沢山書けて、本の形になっているような日記帳。今の自分も使っているから、少しも高くないことは分かる。ノートよりかは高いけれども、普通の本を買うよりは安い。同じような形の本を買ったら、作者などに支払う分が上乗せされるから。
(やっぱり、べらぼうに高いぞ、これは)
 原価を思えば、ぼったくりにしか見えない値段の復刻版。気軽に買えはしない本。
 けれど、そっくりには出来ている。前の自分の遠い記憶が「違う」と言いはしないから。本当にとてもよく出来ていると、こんな日誌が部屋にあった、と懐かしさが心に広がるから。
 遠く遥かな時の彼方で、せっせと書いていた日誌。ブルーが覗き込もうとする度、身体で隠して「俺の日記だ」と守り続けた航宙日誌。
(いつから書いていたんだっけな…?)
 ブルーを部屋から追い出す時には、「俺の日記だ」が決まり文句だった。常に敬語で話すようになっても、その時だけは。恋人同士になった後にも、一度も読ませはしなかった日誌。
 決まり文句になった言葉は、恐らくは最初からのもの。製本していた時からのものか、それとも日誌を書き始めて直ぐに使っていたか。
(あいつが黙っているわけがないし…)
 きっと一冊目のノートの頃から来ていただろう。いったい何を書いているのかと、覗き見たくて何度でも。その度に決まり文句を使って、ノートをパタリと閉じたろうけれど。
 その一冊目は、いつから書いていたのだろうか。前の自分の航宙日誌。



 はて…、と考え始めたこと。一番最初の日付はいつのものだったろうか、と。
 キャプテンだから、と書いていたのが航宙日誌。シャングリラでの日々の出来事、それを綴っていた日誌。初めの間は、倉庫で貰った平凡なノートに、普通のペンで。
(いきなり初日から書くか…?)
 キャプテンになったその日に書くだろうか、と浮かんだ疑問。それこそ「キャプテンに就任」と書いて終わりになりそうだから、書いていないと思うのだけれど。
 船のあちこちを把握してから、書き始めそうな気がするのだけれど。
 何故だか、「書いた」という記憶。自分はその日も日誌を書いたと、確かに書いていたのだと。
(だが、書くようなことがあるのか、初日に…?)
 キャプテンに就任、と書いたら終わりだろう初日。それを自分は書いたのだろうか、短い文を。右も左も分からないような新米キャプテンなのに、倉庫でノートを貰って来て。
(一人前に航宙日誌ってか…?)
 スタイルにこだわる方ではないが、と自分でも不思議に思える記憶。書くようなことも無かっただろうに、航宙日誌を書き始めた理由が分からない。
 データベースにアクセスしたなら、無料で見られる本物の航宙日誌の文字をそっくり写し取ったもの。それを読んだら、記憶の小箱を開けられるけれど。
 前の自分が綴った文字から、その時の思いを読み取れるけれど。
(こういうのはだな…)
 簡単に出来る種明かしよりも、手掛かりを一つ、二つと集めて思い出すのが楽しいから。日誌を書いていた時のように、過ぎた時間を追体験できるものだから。
(よし…!)
 考え事をするなら書斎なんだ、と移動を決めた。熱いコーヒーも淹れて行って、と。



 そうして移った、気に入りの書斎。いつもの椅子に腰を下ろして、コーヒーを一口。
 あの頃には本物のコーヒーを飲んでたっけな、と思い出が一つ蘇る。白いシャングリラになった後には、キャロブのコーヒーだったけれども。
 さてと、と手繰り始めた記憶。キャプテンになった初日のこと。
(羽根ペンはまだ無かった時代で、普通のペンで…)
 そのペンで何を書いたのだろうか、前の自分は?
 まだキャプテンの部屋も無かったし、元の部屋をそのまま使っていた。厨房時代の部屋で、机は愛用していた木製。白い鯨が出来た時にも、それを運んで行ったほど。木で出来た机は年月と共に味わいが増すし、磨いてやるのが好きだったから。
 机だけは立派にキャプテン・ハーレイ。初日から整っていたと言える舞台装置で、レトロだった趣味の品なのだけれど。
 他には特に無かった持ち物。キャプテンならばこれ、といったもの。制服も無くて、動きやすい服を着ていただけ。厨房時代と変わらないものを。
(キャプテンになったし、キャプテン・ハーレイではあったんだが…)
 就任式も特に無かった。今日からキャプテン、そういった感じ。
 ブリッジの仲間と挨拶を交わして、「よろしく」と握手した程度。船の仲間が揃いはしないし、乾杯だってしていない。キャプテンという職が出来ただけだし、祝い事とは違うから。
(厨房の方なら、引き継ぎを済ませたんだがなあ…)
 自分が抜けたら、色々と変わってくるだろう厨房。手作りのレシピ本を譲り渡して、愛用の鍋やフライパンなども「大事に使ってやってくれ」と仲間に譲った。「後は頼むぞ」と。



 けれど、ブリッジの方では違った。操船技術も持たないキャプテン、レーダーの見方も知らない有様。引き継ぎどころか、新入り同然。求心力だけを買われて就任したのだから。
 着任したって、ブリッジでは役に立たないキャプテン。それでもいいから、と請われたのだし、恥じることなど無かったけれど。
(いずれは操舵も覚えるから、と挨拶はしたが…)
 あの段階では基礎も分かっていなかったのだし、計器の一つも読み取れはしない。そんな自分がキャプテンになって、初日は何をしたのだろうか。
(ボーッと立ってもいられないしな…)
 座っていたってそれは同じで、いたずらに場所を塞ぐだけ。
(視察にでも出掛けて行ったのか?)
 それはブルーの役目の筈だが、と考えたけれど。視察の時にはブルーが先に立って、前の自分は後ろを歩いた。ソルジャーと並んで歩ける立場にいなかったから。キャプテンだから。
 けれど、自分がキャプテンになった頃のブルーは…。
(まだリーダーで…)
 ソルジャーという呼び名は無かった。あくまでリーダー、皆のために物資を奪うだけ。あの頃のブルーは視察をしてはいなかった。
 そうなってくると…。
(俺の役目だよな?)
 船内を視察して回るのは、と蘇った記憶。かなりの間は、前の自分がやっていた視察。
 ブルーがソルジャーになるまでは。…キャプテンを従えて堂々と歩き始めるまでは。



 ならば視察に出たのだろうか、とブリッジの景色や扉などを思い浮かべていたら。
(待てよ…?)
 外側からスイと開いた扉。其処から入って来たブルー。
 「行こう」と誘われたのだった。キャプテンなら船を知らなくては、と。ブリッジだけでは船の全ては分かりはしないし、ぼくと一緒に見て回ろう、と。
(思い出した…!)
 君は厨房一筋で来ていたからね、と船の中を連れ回してくれたのがブルー。次はこっち、と。
(俺だって充分、詳しかったが…)
 厨房が居場所だったとはいえ、備品倉庫の管理人をも兼ねていた。ブルーが奪った物資の分配も前の自分がしていたほど。倉庫に入れたり、必要な仲間に配ったり。
 「見当たらない物があるなら、ハーレイに訊け」とまで言われた自分。だからキャプテンに、と頼まれた。船の仲間を纏め上げるには適任だ、と。そういう人間が必要だから、と。
 厨房だけに籠っていたなら、そんな自分は出来上がらない。船のあちこちに出掛けていたから、詳しくなった船の中やら仲間の事情。
 けれど流石に、機関部などの奥となったら管轄外。部外者は邪魔になるだけだろう、と遠慮して入っていなかったから。
 そうした所へもブルーと二人で出掛けて行った。キャプテンなのだし、遠慮は要らない。確かに知っておくべき所。船の心臓なのが機関部。
 ゼルが出て来て、「こっちだ」と案内してくれた。「気を付けろよ」と注意しながら、立ち入り禁止の区画までをも。「キャプテンだったら見ておけよ」などと、分かりやすく説明してくれて。
(厨房にもブルーと行ったっけな…)
 其処は充分知っているから、と言っているのに、腕を引っ張られて入った厨房。
 昨日まで一緒に料理をしていた仲間たちが拍手で迎えてくれた。「おめでとう」と、凄い出世をしたものだ、と。
 祝って貰った、キャプテン就任。
 リーダーのブルーも一緒なのだし、と心尽くしの祝いの一皿。「食べて行ってくれ」と、笑顔で作ってくれた仲間たち。けして豪華ではなかったけれども、美味しかったと今でも思う。ブルーと二人で食べる分だけ、皿に盛られていた料理は。



 隈なく回った船の中。全部の通路を歩いたのでは、と思うくらいに。一回りしたな、と自分でも分かったものだから。
(帰ろうとしたら…)
 ブリッジに向かう通路の方へと足を向けたら、「まだ見ていない所があるよ」とブルーにクイと引かれた袖。「キャプテンなら船を見ておかなくちゃ」と。
「船って…。もう見たじゃないか」
 全部お前と回った筈だぞ、それこそ奥の奥までな。見落とした所は無いと思うが…。
「でも…。アルタミラでしか見ていないよね?」
 この船の全体像ってヤツは、と微笑んだブルー。だからハッキリ知らない筈、と。
 アルタミラでは駆け込んだだけの船だったのだし、きっと分かっていないと思う、と。
「いや、見たが…」
 これでもキャプテンになったわけで、だ…。
 難しいことは何も分からないが、どんな船かは知っておかんと…。
 ゼルたちもそういう考えだったし、ちゃんと見せては貰ったんだ。それこそ色々な角度から。
 絵を描けと言われても困っちまうが、船の姿なら把握してるぞ。こういう船だ、と。
「それって、全部データでしょ?」
 アルタミラでは肉眼だったけど、今は宇宙に出てるから…。
 船を外から見るのは無理だし、ハーレイが見たのは元からあったデータの筈だよ。
 船外活動、最低限しかしていないもの。船の姿を掴めるほどには、誰も離れていないんだよ。
 ぼくは何度も外に出たから、よく分かる。
 たったあれだけ離れたくらいじゃ、船は壁にしか見えないよね、って。



 本物の船を見せてあげる、とブルーは腕を引っ張った。「こっちに来て」と。
 まさか格納庫に行くつもりでは、と思う間に、連れて行かれた先にはハッチ。補修などで船外に出る時に使う、減圧室の先の小さなもの。宇宙服を着た人間が二人、辛うじて擦れ違えるくらいのサイズの円形の扉。
「ま、待て、出るのか!?」
 此処から外へ出ようと言うのか、この向こう側は宇宙なんだが…!
 こんな所から外へ出るのか、格納庫にある船を使うんじゃなくて…?
「大丈夫。ハーレイくらいは守れるからね」
 それに格納庫の船なんか…。誰も一度も使っていないし、それこそアテにならないよ。
 ぼくに任せておいてくれれば、ちゃんと案内してあげるから。
 この船が外からどう見えるのかも、ハーレイが見たいと思う角度も。
「なら、宇宙服を…!」
 ちょっと戻って探してくるから、待っていてくれ。減圧室には置いてないしな、宇宙服。
 俺が着られるデカいサイズのヤツ、直ぐ見付かるといいんだが…。
 とにかく急いで行ってくるから…!
「要らないってば、宇宙服なんか」
 ぼくは一度も着たことが無いよ、あんなのを着たら動きにくいと思うけど?
 視界だって狭くなってしまうと思うから…。そのまま出るのが一番なんだよ、船を見るなら。
 強化ガラスを通して見るより、肉眼の方がずっといいから…!
「ま、待ってくれ…!」
 お前はそれで大丈夫なのかもしれないが…!
 俺は宇宙に出たことは無くて、宇宙服だって、まだ一度もだな…!



 着てみたことが無いんだが、と言い終わらない内に、ブルーが開けてしまったハッチ。
 円形に開いた穴の向こうは真空なのだし、吸い出されると思ったけれど。
「大丈夫だと言ったよね?」
 ハーレイ、ちゃんと息が出来てる筈だよ、外にも放り出されてないし…。
 この減圧室、少しも減圧しなかったのにね?
「そのようだ…。これもお前の力なのか?」
 生きた心地もしなかったんだが、何も起こらん。お前、ハッチを開けちまったのに。
「ぼくはいつでも、ハッチも開けずに飛び出してるよ?」
 瞬間移動で出て行くんだから、壁なんか無いのと変わらないしね。
 だけど、今日はハーレイがビックリしないようにと、此処に来たんだ。
 いきなり宇宙に飛び出して行けば、ホントに驚くだろうから…。ハッチを通って外に行くなら、他のみんなと全く同じ。
 宇宙服があるか無いかの違いだけだよ、船外活動の時は、みんな此処から出るんだから。
 ほら、其処が宇宙。ハッチの向こう。
 あの真っ暗な所はすっかり宇宙なんだよ、船の外壁を通り抜けたら。



 行こう、とブルーに手を引かれた。いつの間にか消えていた重力。二人揃って床を離れて、壁に開いた丸い穴へと。元は閉まっていたハッチ。其処を通って、船の外へと。
 息は少しも苦しくはなくて、周りの温度も変わらないまま。まるで見えないカプセルに入って、宇宙に浮いているかのように。
 ブリッジでも見ていた瞬かない星、それが幾つか散らばる空間。星と船とを除いた所は真っ暗な闇で、遥か彼方に恒星が一つ。
 その星の光で浮かび上がったシャングリラ。元はコンスティテューションだった船。
 ブルーは何もしていないように見えるけれども、船との距離が離れてゆく。最初は聳え立つ壁に見えたのが、壁の周りに少しずつ宇宙が見え始めて。
「こんな船なのか…」
 外から見たなら、こういう風に見えるのか…。見せて貰ったデータのままだが、やっぱり違う。
 俺がこの目で見ているせいか、本物なんだって感じがするな。
 この船の中にみんなが乗ってて、俺たちが生きてる世界がそっくり乗っかってるんだ、と。
「ね、見に出て来て良かっただろう?」
 ハーレイはこの船のキャプテンなんだよ、これからハーレイが守っていく船。
 ぼくも守るけど、船のみんなの暮らしを守っていくのはハーレイ。ぼくは物資を奪うだけだし、それを上手に使っていくのはキャプテンの仕事。食べるのも、船を修理するのも。
「そうなるんだな…」
 みんなの命を守るんだよなあ、この船を焦がさないように。
 昨日までならフライパンだったが、今日からは船を焦がさないのが俺の仕事だ。
 こうして見るとデカイ船だな、フライパンとは比較にならん。…焦がさないのは大変そうだが、焦がしちまったらエライことになるし…。
 頑張らないとな、船のみんなを守れるように。この船もきちんと守ってな…。



 これがシャングリラという船なのか、とブルーのお蔭で実感出来た。船の中だけを歩いたのでは掴めなかっただろう感覚。この船が全てなのだ、と分かった。自分たちの世界を乗せている船。
「ハーレイ、船を何処から見たい?」
 一周してはみたけれど…。此処からだとかなり遠いしね。
 もっと近くで見てみたい所、あるんだったら近付いてみるよ?
 船全体は見えなくなるけど、しっかり見たいと思う部分があるのなら…。
「ブリッジの方が気になるな…」
 俺の居場所になる所だしな、見られるものなら見ておきたいと思うんだ。
 このくらいの距離のままでいいから、ブリッジが見える方へと回ってくれないか?
「了解。…それじゃ、近付いてみるね」
 ブリッジを外から覗けるトコまで。みんなの顔が見えるくらいに。
「待て、近付くって…! そんな所まで接近したら…」
 ブリッジのヤツらが慌てるだろうが、俺たちが外に出ているだなんて知らないんだから…!
 操船ミスをしたらどうする、とんでもない方向へ舵を切るとか…!
「平気だってば、見えないようにしておくから」
 ぼくたちが外を飛んでいることが、分からなければいいんだしね。
 宇宙だけしか見えなかったら、いつもと同じなんだから。



 任せておいて、と笑みを浮かべたブルー。姿を消すのは簡単だから、と。
 人類の輸送船に近付く時には、よく使う手だとブルーは言った。サイオンで乱反射させる情報、姿が見えなくなるのだという。其処にいるのに、いないかのように。宇宙の闇に溶けてしまって。
 今から思えば、後に生まれたステルス・デバイスの原点だろう。
 そして真空の宇宙空間で生きていられたのは、ブルーが張っていたシールドのお蔭。あの時点で使いこなせる仲間は、ブルーの他にはいなかったけれど。
 ブルーは前の自分を連れて宇宙を移動し、ブリッジの方へと近付いて行った。強化ガラスの直ぐ側まで。中にいる者たちが見える所まで。
「あそこがハーレイの席だったんだよ、空いてるだろう?」
 誰も座っていない、あの席。これからハーレイが座る場所はあそこ。
 キャプテンの席がきちんと決まるか、決まらないかは分からないけど…。
 あそこだと思っておけばいいかな、今日はあそこに座っていたしね。
「そうか、あそこか…」
 あそこに座って指揮を執るのか、これから先は。
 このシャングリラが焦げちまわないように、みんなが安心して暮らせるように。
「うん。…ハーレイがキャプテンになってくれて良かった」
 本当にハーレイで良かったと思う、この船のキャプテン。
 ぼくの命を預けられるよ、君にならね。
 そう思ったから、「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と言ったけど…。
 改めて思うよ、こうして君と二人でいると。
 ハーレイがキャプテンで良かったな、って…。君と二人なら大丈夫だ、って。



 本当だよ、と柔らかく笑ったブルーと一緒に、船をもう一度一周して。さっきのハッチから中に戻って、ブルーが閉ざした宇宙への扉。宇宙は壁の向こうになった。重力も床に戻って来た。
「はい、おしまい。…これで視察は済んだよ、全部」
 ハーレイ、キャプテンの仕事、頑張って。
 ぼくと二人で焦がさないように守って行こうね、シャングリラを。
「ああ、分かってる。お前の期待を裏切らないようにしないとな」
 焦げたじゃないか、と睨まれないよう、精進するさ。…なったばかりの新米だがな。
 努力しよう、とブルーと別れて戻ったブリッジ。自分のための席に座って、眺めた強化ガラスの向こう。漆黒の闇が広がる宇宙を、ブルーと二人で飛んだのだった、と。
 誰も気付いてはいなかったけれど、ブリッジの外を、確かに二人で。船を眺めに。真空の宇宙を移動しながら、あらゆる角度で見て来た船。自分たちの生きる世界を乗せている船。
(この船を守る…)
 シャングリラという名の、仲間たちと一緒に生きてゆく船を。世界の全てに等しい船を。
 それを預かるキャプテンとして。文字通り、船の長として。
 今はまだ右も左も分からないけれど、計器もレーダーも読めないけれど。
 こうしてキャプテンになったからには、操舵を覚えて、船を自在に動かしてゆこう。
 宇宙まで視察に連れて行ってくれた、まだ少年の姿のブルー。
 「ハーレイがキャプテンになって良かった」と、ブルーは言ってくれたから。その信頼と期待を裏切らないよう、しっかりと立ってゆかなければ。
 ブルーと二人で、この船を守る。今日から、自分はキャプテンだから。
 フライパンから舵に持ち替えて、船を操ることを覚えて。



 決意を新たにしたブリッジ。漆黒の宇宙を飛んでゆく船で、いつかは自分がこれを動かそうと。
 ブルーが望む通りの場所へと、自分で船の舵を握って。
(頑張らないと、と思ったんだ…)
 着実に前へ進んでゆこうと、一日たりとも無駄にすまいと。一足ずつ前へ歩み続けて、一日でも早く船を操れるキャプテンに、と。この決意こそが最初の一歩、と。
(何をしたわけでもなかったんだが…)
 決意してみても、意味が読み取れない計器。どう使うのかも分からないレーダー。もちろん舵を握れはしないし、「触らせてくれ」とも言えずに終わった初日。キャプテンになった最初の日。
 けれど、此処から進んでゆかねばならない自分。真のキャプテンへの道を。
 だから書こうと思ったのだった、自分の歩みを綴る日誌を。
 ブリッジの皆が共有している記録とは別に、個人的なものを。日々の出来事を書き留めようと。
 そう考えたから、勤務時間が終わった後に出掛けた倉庫。ノートを一冊貰って帰った。いつもと変わらない部屋へ。昨日までいた厨房時代と、何も変わっていない部屋へと。
 机に向かって広げたノート。それにレシピを記す代わりに、記した自分の一日の記録。今日から船のキャプテンになった、と書き始めたのだったか、一行目は。
 船をあちこち視察したことや、機関部の奥に初めて入ったことなどは確かに書いたけれども。
(ブルーと宇宙を飛んでいたことは…)
 微塵も書きはしなかった。ブリッジの仲間は知らないのだから、伏せておこうと。宇宙服を着て出たならともかく、ブルーの力で生身で出掛けていたのだから、と。
(あれが前の俺の、隠し事の始まり…)
 全てを書いたわけではなかった航宙日誌。「俺の日記だ」とブルーにも見せなかったけれども、個人的な思いを記してはいない。ブルーとの恋も、二人で過ごした時間のことも。
(そうか、初日からブルーとのことを隠していたか…)
 こりゃ傑作だ、と可笑しくなった。恋をしていたわけでもないのに、伏せてしまったブルーとの思い出。二人で宇宙から眺めていた船、宇宙服も無しで。
 明日は小さな今のブルーに話してやろう。「初日から嘘を書いていたぞ」と。
 土曜日だから、ブルーの家を訪ねてゆく日だから。



 そして次の日、小さなブルーと向かい合わせで座った部屋。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで切り出した。
「俺の日誌のこと、覚えているか?」
 前の俺のだ、キャプテン・ハーレイの航宙日誌。…あれにそっくりの復刻版が出てるだろ?
「買う決心がついたの、ハーレイ?」
 やっと買うの、とブルーが瞳を煌めかせるから。
「いや、高いなと広告を見てて…。べらぼうな値段の本だろうが」
 元の日誌はタダのようなモンだったのに、と考えていたら、あれこれと思い出してだな…。
 それでだ、俺のキャプテン初日の日誌なんだが…。
「日誌、初日から書いてたの?」
 真面目だったんだね、ちゃんと初日も書いたんだ…。もっと後からかと思っていたのに。
「まあな。それも真っ赤な嘘というヤツを」
「え? 嘘って…」
 ありもしないことを書いておいたとか、凄くカッコ良く脚色したとか…?
「その逆だ。お前が連れて行ってくれた視察を伏せた」
 実に劇的な出来事だったが、前の俺は書かなかったんだ。お前と一緒に視察したことを。
「視察って…。あちこち案内してあげたのに?」
「そいつは書いてあるんだが…。締め括りのヤツだ、宇宙からの視察」
 お前、連れて行ってくれただろうが。船を見るなら外からでないと、と。宇宙服も無しで。
「…あれ、書いてないの?」
「うむ。どうせ仲間は誰一人として気付いちゃいないし、その方がいいかと…」
 宇宙服も着ないで外に出るなど、キャプテンがすべきことでもないしな。
「酷い…!」
 ハーレイに船を見せてあげなくちゃ、と思ったから連れて行ったのに…!
 二人きりで船の外に出たのに、何も書かずに済ませたなんて…!



 酷い、とブルーは膨れたけれど。暫くは膨れっ面だったけれど、初日から書かれずに伏せられてしまった、キャプテン・ハーレイが経験したこと。宇宙からシャングリラを眺めた事実。
 それを書かずに済ませたほどだし、一事が万事だと悟ったようで…。
「…だったら、前のぼくとのことは…」
 宇宙からの視察も書いてないんじゃ、恋人同士になってからのことも…。
「何も書くわけがないってな」
 あの視察以上にマズイだろうが、後になって誰かが読んだ時に。…お前とのことを書いたなら。
「今度の日記も同じなんだね。今のハーレイが書いてる日記」
 日誌じゃなくって日記だけれども、ぼくのこと、書いていないんでしょ?
「今のトコはな。どうせ元から覚え書きだし」
 航宙日誌とはまるで違うぞ、本当に日記なんだから。後進のために書いてもいないし。
「いいけどね…。ぼくのこと、生徒としか書いていなくても」
 他の生徒と区別がつかない書き方でも仕方ないけれど…。
 今はいいけど、今度は結婚するんだから。ずっとそれだと、ぼく、怒るからね?
 それと、前のハーレイの航宙日誌…。



 いつかは買って欲しいんだけど、と強請られた。例の高価な復刻版。
 今のブルーは、それの秘密を知っているから。書かれたままの文字を見たなら、蘇ってくる遠い日々の思い出。其処に書かれた文字以上のことを、今の自分は読み取れるから。
(きっと買わされちまうんだろうなあ…)
 結婚して二人で暮らし始めたら、あの高い本を丸ごと全部。前の自分が綴り続けた長い日誌を、最初の巻から終わりの巻まで。
(おまけに、その日は何があったか、解説も無理やり…)
 させられることになりそうだけれど、きっと幸せだろうから。
 ブルーと二人で開く日誌は、前の自分が手に入れられなかった幸せの中で読むのだから。
 「知らんな」とケチなことは言わずに、ブルーに説明してやろう。
 「この日はだな…」と、隠し事はぜずに、正直に。前の自分の想いもこめて。
 きっとブルーには、最初から恋をしていたから。
 アルタミラで初めて出会った時から、きっと惹かれていた筈だから…。




            航宙日誌の始まり・了

※前のハーレイが書いていた航宙日誌。ブルーとのことは、初日から書かなかったのです。
 けれど、復刻盤を見たなら、全てを思い出せる筈。いつか買って、ブルーに解説することに。
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(ふうん…?)
 綺麗、と小さなブルーが眺めたガラスの靴。学校から帰っておやつの時間に広げた新聞、其処に載っていた美しい靴。
 幼い頃に読んだお伽話から抜け出したように、澄んだ輝き。イメージそのまま、キラキラと光る透明な靴。クッションの上に置かれて、お姫様が履くのを待っているよう。
 なんて素敵な靴なんだろう、と添えられた記事を読んでみたら。
(大切な人へのプレゼントにどうぞ、って…)
 本当に本物のガラスの靴。履いて歩くのは難しいけれど、履いても割れはしない靴。小さなヒビさえ出来はしなくて、足にピッタリ合うらしい。ガラスだから歩けないだけで。硬いガラスは足の動きに添って柔らかく曲がらないから、靴擦れなどが出来てしまって。
 足のサイズにピッタリ合わせて、大切な人へのプレゼント。そうするためのガラスの靴。
(大切な人だから…)
 もしも自分が贈るのだったら、ハーレイということになるけれど。
(違うよね、多分…)
 ガラスの靴を履くには大きすぎる足。サイズは特注になってしまいそう。ガラスの靴はピッタリ合うのが売りらしいけれど、基本のサイズはあるだろうから。
(微調整して作るんだよね?)
 きっとその方が効率的。一から作ってゆくよりも。
(ハーレイのサイズで作って下さい、って頼んだら、待ち時間、うんと長いかも…)
 それでも出来るとは思うけれども、貰うのなら自分の方だろう。ガラスの靴はお姫様の靴だし、写真の靴も女性向け。すらりとして華奢で、踵が高くて。



 何処から見ても、男性用ではないデザイン。お伽話の世界の靴。
 自分も男には違いないけれど、貰うなら多分、自分の方。いつかハーレイのお嫁さんになるし、花嫁衣装も着るのだから。
(だけど、貰っても…)
 似合いそうにないガラスの靴。チビの自分が履いてみたって、学校でやる劇の登場人物のよう。懸命に役を演じているだけ、大人の役でも子供は子供。お姫様でも、王子様でも。
(もっと大きくならないと…)
 ガラスの靴は似合わないだろう。サイズがピッタリ合っていたって、劇の衣装にしかならない。金色の紙で出来た冠などと同じで、子供に似合いの舞台用の小物。少しも値打ちが無さそうな靴。いくら綺麗に光っていたって、履いているのは子供だから。
(ぼくが履いても似合うようになるのは…)
 前の自分と同じに育って、結婚出来るくらいの年頃。花嫁衣装が着られる頃。
 だから、この靴もプロポーズ用の靴なのだろう。お伽話に憧れる女の子にプレゼントするより、プロポーズ。大切に想う恋人に渡して、履いて貰って。
(指輪よりかは…)
 こっちの方が好みかも、と考えた。
 プロポーズには指輪がつきものだけれど、指輪は結婚指輪で充分。婚約指輪なんかは要らない。貰ったところで嵌めることもないし、つけてゆく場所も無いのだから。
 それよりはガラスの靴がいい。指輪と違って飾っておけるし、いつも眺めて幸せな気分。見れば浮かぶだろうプロポーズの言葉、貰った時の気持ちなんかも。貰った場所も。
 そう思ったら…。
(ガラスの靴…)
 この靴が欲しくなって来た。煌めくお伽話の靴。本当に履けるガラスの靴を、ハーレイから。
 「お前の足に合う筈なんだが」と。



 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、忘れられないガラスの靴。透き通ったガラスで出来た靴。足にピッタリのガラスの靴は…。
(シンデレラだよね)
 ガラスの靴を履いたお姫様。憧れの王子様とダンスを踊って、幸せ一杯のハッピーエンド。
 今の自分もハーレイとハッピーエンドを迎えるのだから、ガラスの靴が似合うと思う。使わない婚約指輪などより、ガラスの靴でプロポーズ。
 それがいいな、と夢を膨らませていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ワクワクしながら切り出した。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、靴をプレゼントしてくれる?」
 今じゃなくって、ぼくが大きくなってから。…靴のプレゼント。
「はあ?」
 靴ってなんだ、俺と一緒にジョギングするのか、そのための靴か?
「違うよ、ガラスの靴だってば!」
 シンデレラが履いてたガラスの靴だよ、今日の新聞に載ってたんだよ!
 とっても綺麗なガラスの靴。足にピッタリに作って貰えて、本当に履ける靴だって。硬いから、歩くのには向いてないらしいけど…。
 「大切な人へのプレゼントにどうぞ」って書いてあったから、きっと恋人用だと思う。ガラスの靴でハッピーエンドになるお話でしょ、シンデレラは?
 だからね…。



 プロポーズしてくれる時はそれがいいな、と注文した。足にピッタリのガラスの靴。婚約指輪を貰うよりもガラスの靴がいい、と。
「そうなのか? 婚約指輪よりもガラスの靴なあ…」
 まあ、お前、確かに指輪は嵌めそうにないが…。プレゼントしても。
「シャングリラ・リングは欲しいし、嵌めるよ! シャングリラから作る指輪だもの!」
 それに結婚指輪はちゃんと嵌めるよ、シャングリラ・リングじゃなくっても!
 抽選に外れて普通の指輪になってしまっても、ハーレイとお揃いの指輪なんだから!
 前のぼくたちは嵌められなかった、結婚してる印なんだから…!
「そいつは俺も何度も聞かされてるが…。それ以外の指輪はあまり興味が無いんだろ?」
 婚約指輪は贈るつもりだが、お前、仕舞っておくだろうしな。…つける代わりに。
「うん、そんな指輪は嵌めないよ。大切にするけど、宝石の指輪は、ぼくはあんまり…」
 つけて行くような場所も無いしね、高い指輪を買って貰っても。
 ハーレイと結婚出来れば充分、婚約指輪も要らないくらい。結婚指輪だけで。
 でも…。
 プロポーズにガラスの靴もいいな、と思うから…。ハッピーエンドのお姫様の靴。
 婚約指輪を貰うよりかは、断然、そっち。うんと幸せな気分になれそう。
「…男物の靴は無いと思うぞ?」
 なにしろガラスの靴なんだしなあ、普通、男には贈らんだろうし…。
「それでもいいから! 新聞に載っていたガラスの靴も、女の人の靴だったから!」
 ホントにシンデレラが履きそうな靴で、踵も高くて…。あの靴が欲しいよ、シンデレラの靴。
 夢みたいに綺麗なガラスの靴が。
「なるほど…。要はハッピーエンドなんだな、お前の夢は?」
 宝石のついた指輪を貰うより、ハッピーエンドのガラスの靴。
「そう!」
 幸せになれそうな気分がするでしょ、ガラスの靴を貰ったら。
 プロポーズされて指輪を嵌めてみるより、足にピッタリのガラスの靴を履く方が。



 絶対、幸せになれそうだから、と強請った靴のプレゼント。気が早すぎる話だけれど。まだまだ結婚出来はしなくて、プロポーズの日も来ないのだけれど。そうしたら…。
「そうだな、今は時間切れにもならないしな」
 ガラスの靴もいいかもしれんな、あれの魔法は時間が来たら解けちまうんだから。
「え…?」
 時間切れってなあに、それに今って…?
 ハーレイ、魔法を見たことがあるの、時間切れになっちゃうシンデレラの靴を…?
「シンデレラに会ったことは無いがだ、似たような人なら知っていた」
 前のお前だ。時間が来たら魔法が解けて、ソルジャーに戻っちまうんだ。
 俺だけの大切なお姫様なのに、魔法の時間が終わっちまったら…。
「あ…!」
 そうかも、前のぼくならシンデレラかも…。舞踏会には行かなかったけど。
 ハーレイとダンスもしていないけれど、恋人でいられた時間は確かに魔法だったかも…。
 みんなに内緒で、知られるわけにはいかなくて…。
 恋人同士でいられる時間が終わっちゃったら、前のぼく、ソルジャーに戻っておしまい…。



 シンデレラは夜にお城の舞踏会へと出掛けるけれども、前の自分も夜の間だけのお姫様。昼間は白いシャングリラを守るソルジャー、夜になったらハーレイの恋人のお姫様。
 ダンスの代わりに抱き締めて貰って、キスを交わして、二人きりの甘い時間が始まる。ガラスの靴を履いて踊る代わりに、ソルジャーの靴を脱いでしまって。
 靴だけでなくて、マントも上着も何もかも脱いで。ハーレイと抱き合って愛を交わして、二人で寄り添い合って眠って。恋人同士の夜を過ごして、朝になったら…。
「お前、靴を履いて行っちまった」
 シンデレラは靴を落としてゆくのに、お前は履いて行っちまうんだ。
 元のソルジャーに戻ってしまって、お姫様のお前は消えちまう。俺の前からいなくなるんだ…。
「それを言うなら、ハーレイもじゃない…!」
 お姫様じゃなくて王子様だけど、靴を履いたら元のキャプテン。
 前のぼくの恋人は消えてしまったよ、キャプテンの靴を履いちゃったら。
「まあな。…お互い様ってトコか」
 お前はソルジャーで、俺はキャプテン。恋人同士の顔は誰にも見せられなかった。
 夜の間だけしか、魔法はかからなかったんだ。前の俺たちが恋人でいられる魔法はな…。



 昼間も恋はしていたけれども、皆の前ではキスは出来ない。抱き合うことも、手を繋ぐことも。
 前の自分も前のハーレイも、お互い、夜だけの恋人同士。
 魔法の時間が終わった後には、靴を落としてさえ行けなかった二人。シンデレラが片方落とした靴は、ハッピーエンドに繋がったのに。シンデレラの足にピタリと合って。
「前のぼくたち、靴も落とせなかったよね…」
 魔法の時間が終わっちゃったら靴を履くんだし、両方履くしかなかったから。右も左も。
 制服を着たら、靴も履かなきゃ…。
「靴を片方だけっていうのは有り得なかったからなあ、俺たちの場合」
 キャプテンにしてもソルジャーにしても、だらしないってことになっちまう。
 靴を片方しか履いてないんじゃ、寝ぼけてるとしか見えないからな。両方きちんと履かないと。
「そうでしょ? ぼくがやっても、ハーレイがやっても、エラに叱られてしまいそう」
 片方の靴はどうしたのです、って怖い顔をして睨まれて。急いで履いて来て下さい、って。
 でもね…。前のぼくたち、靴を落としては行けなかったけど、その必要は無かったと思わない?
 片方の靴を持って探しに出掛けなくても、誰だか分かっていたんだから。…自分の恋人。
 前のぼくもハーレイも、ちゃんと恋人、分かっていたでしょ?
 何処にいる人で、どんな人なのか。顔も名前も、何もかも全部。
「違いないな…!」
 靴を落としちゃ行けなかったが、最初から落とす必要も無い、と。
 俺はお前を間違えやしないし、お前だって俺を間違えやしない。靴を頼りに探さなくても、船の中で会えば分かるってもんだ。
 他のヤツらが周りにいたから、出会ってもキスは出来なかったし、プロポーズも出来なかったというだけのことで…。前の俺たちには、片方だけの靴は要らなかった、と。
 持ち主は誰か、お互いに知っていたんだからな。



 それに、とハーレイが浮かべた笑み。「靴が頼りでも苦労しないぞ」と。
「俺はともかく、お前の場合は靴を見ただけで誰か分かったからな」
 あの靴の持ち主が分からないヤツは、シャングリラには一人もいなかったろうさ。
 あれを履ける足の持ち主を探さなくても、同じデザインの靴は他に一つも無かったんだから。
「ぼくだけだったしね、あんな靴…」
 他には誰も履いてなかったよ、あんなに目立つブーツなんかは…!
「そういうこった。俺の靴なら他に幾つも…って、サイズで分かるか」
 同じデザインの靴が山ほどあっても、俺の靴のサイズは特大っていうヤツだしなあ…。
「当たり前だよ、長老の靴は全部おんなじだったけど!」
 キャプテンの靴と長老の靴は、同じデザインになってたものね。男性用でも、女性用でも。
 それに、仲間の靴だって。…男性用のはハーレイたちのと良く似ていたよ。パッと見ただけじゃ分からないほど、見掛けはそっくり。
 でも、前のぼくだって、サイズで誰だか直ぐに分かったよ。靴の持ち主。
 ハーレイが靴を片方落として行ったら、「この大きさなら、ハーレイだな」って。
「そうなんだよなあ…。俺の足だけが無駄にデカかったんだ」
 ミュウは大抵、虚弱に出来ていたもんだから…。アルテメシアで新しい仲間が増えていっても、前の俺みたいにデカい身体の持ち主は一人もいなかったっけな。
 あの図体に見合った靴を履いてたのは俺しかないし、他のヤツらには大きすぎる靴で…。落ちていたなら、俺の靴だと分からないヤツは誰もいないか。
 お前の場合はつまらないんだな、恋人探し。
 俺が片方落として行っても、誰の靴か直ぐに分かるんだから。
「ハーレイもでしょ!」
 先にハーレイが言い出したんだよ、ぼくの靴は見ただけで分かるって!
 ピッタリの足の持ち主は誰なのか探さなくても、同じデザインの靴は無いんだから、って!



 前の自分も前のハーレイも、探す必要が無かった靴の持ち主。片方落としていった恋人。
 誰に見せてもデザインかサイズで分かってしまうし、自分たちだって同じこと。
 つまらないような気もするのだけれども、逆に考えれば探さなくても出会える恋。片方だけでも靴があったら、それだけで。誰の靴かと、一目見ただけで。
(お互い、探さなくても済むんだっていう方が凄いよね…?)
 シンデレラの王子は国中を探させるのだから。片方だけのガラスの靴を家臣に持たせて、それがピッタリの人は誰かと。誰とダンスを踊ったのかと、自分が恋をした人は、と。
 そうしなくても、恋の相手が直ぐに分かったのが前の自分たち。考えようによっては、お伽話の恋人たちよりずっと上。探す必要も無いのだから。靴が片方ありさえすれば。
(シンデレラよりも凄いよ、これって…)
 本当に運命の恋人同士、と前の生へと思いを馳せていたら、ハーレイに声を掛けられた。
「そういえば…。お前、羨ましがっていたっけな?」
 俺に何度も言っていたもんだ、そんなのがいいな、と。
「羨ましいって…。何が?」
 何が羨ましかったの、前のぼくは?
「前の俺の靴だ。さっきから話題になっている靴」
 キャプテンだった俺が履いてた靴だな、ゼルやヒルマンのと全く同じでサイズ違いの。
 シャングリラで一番デカいサイズで、他のヤツが履いたら脱げそうなヤツ。
「靴って…。なんで?」
 どうしてハーレイの靴が羨ましいわけ、あの靴、船に溢れていたよ?
 ゼルやブラウのは全く同じで、男性用の靴も見た目は殆どおんなじで…。
 ハーレイの靴って言わなくっても、シャングリラの中には山ほどあったと思うんだけど…!
 ゼルの靴でもヒルマンの靴でも、どれでも羨ましそうなんだけど…!



 まるで記憶に無い話。平凡だったキャプテンの靴。長老たちは揃いのデザインだったし、男性の制服に合わせた靴も似たようなもの。並んで立ったらそっくり同じに見えたくらいに。
 あんな靴の何処が良かったのだろう?
 シャングリラでは本当にありふれた靴で、珍しくもなんともなかった靴。通路に片方落っこちていても、誰の靴か分からないほどに。ハーレイの特大の靴でなければ。
 どう考えても平凡な靴で、前の自分が目を留めそうにもないのだけれど。
(羨ましいって言ってたんだし、何かいいトコ、あったんだよね…?)
 きっとその筈、あの靴ならではの魅力が何処かに。
 履き心地だろうか、と思ったけれども、ソルジャーの靴の履き心地が悪いわけがない。比べれば遥かに上だった筈で、足にピッタリだった筈。それこそシンデレラの靴のように。
(履いてることを忘れるくらいの靴だったよ…?)
 大袈裟なブーツだったけれども、軽やかで、重みを感じさせなくて。
 それでいて防御力はとても高かった。衝撃などから守ってくれた頼もしい靴。いつも着けていた手袋と同じ。身体に負担をかけない素材で、それは丁寧に作られていた靴。
 起きている間は、何処へ行くにもあの靴を履いていたのだから。船の中でも、船の外でも。
 常に足を包み続ける靴だし、不快感を与えないように。締め付け過ぎたり、緩すぎたりでは話になりはしない靴。身体の一部であるかのように、馴染んでいないといけない靴。
 ソルジャーのための靴だったのだし、シャングリラの中では最高の履き心地の靴だった筈。他の仲間とは足のサイズが変わってくるから、誰が履いても最高の靴とは言えないけれど。
 ハーレイだったら足が入らないし、他の仲間でも靴擦れが出来たかもしれない。
 とはいえ、前の自分にとっては、シンデレラの靴のようだった靴。前の自分のためだけの靴。
 そういう靴を履いていたのに、どうしてハーレイの靴が羨ましかったのだろう?
 いくらでも船にありそうな靴が。落っこちていても、持ち主が全く分からないような靴が。
 …サイズの問題を抜きにさえすれば。ハーレイの靴なら、サイズで一目瞭然だから。



 分からないや、と首を傾げて考え込んでいたら、「忘れちまったか?」と可笑しそうな声。
 あんなに羨ましがっていたのに、と。
「前のお前は、あの靴が羨ましかったんだ。船に溢れていた靴がな」
 何処から見たって平凡な靴で、ありふれたデザインだったんだが…。おまけに地味だし。
 しかしだ、お前、前の俺が朝にアレを履く時、よく言ってたぞ。
 俺の足元を覗き込んでは靴を眺めて、指差したりして。
 ハーレイの靴は普通でいいね、と。ぼくのと違って、みんな履いてる靴だから、とな。
「ああ…!」
 そうだったっけ、普通なのが羨ましかったんだ…!
 ハーレイの靴はみんなと同じで、ゼルもヒルマンもブラウも履いてて…。他の仲間もよく似てる靴で、おんなじ靴が船に一杯。誰の靴だか分からないくらい。
 でも、ぼくの靴はシャングリラで一人だけしか履いてなくって、誰も同じじゃなかったから…。少しも普通じゃなかったから…!
 思い出した、と手を打った。
 前の自分が履いていたのは、よく目立つブーツ。上着に合わせたデザインのもので、白くて縁に銀の装飾。しなやかな素材で出来ていたけれど、邪魔なものではなかったけれど。
(靴じゃなくって、ブーツなんだよ…)
 ブーツも靴の一種だとはいえ、ハーレイたちの靴とは違う。あちらはごくごく普通のデザイン、ズボンの裾から覗くもの。制服が主役で靴は脇役、大して人目を引いたりはしない。
 ブーツの方だと、ズボンの裾はブーツの中に入るのに。ブーツも立派に制服の一部、履いていることを前提にして服もデザインされていたのに。
 男性用に作られた制服の靴も、ハーレイたちの靴と殆ど同じ。誰も履いてはいなかったブーツ。靴はズボンの裾から覗いて、脇役でしかないものだった。
 前の自分の靴だったブーツは、目立つブーツは、どちらかと言えば…。
(女性用の制服の靴とおんなじ…)
 あっちはブーツ、と零れた溜息。遠く遥かな時の彼方で、前の自分がそうだったように。
 其処を何度も見詰め直しては、「女性用かも…」と溜息を漏らしていたように。



 蘇って来た前の自分の記憶。男性は履いていなかったブーツ。自分の他には、ただの一人も。
 男性用のブーツと言えば、修理などの時の作業用。人前に出る時は履き替えるもので、ブーツで船内を歩いていたりはしなかった。よほど急いでいる時以外は。
 けれど、女性はいつでもブーツ。制服がそういうデザインだったし、子供の頃から。小さい間は短いブーツで、大きくなったら長い丈になっていたブーツ。
「ハーレイ、前のぼくが履いてた靴だけど…」
 ぼく一人しか履いていなかったことも普通じゃないけど、ブーツだったことも普通じゃないよ。
 あの船でブーツを履いていた人、男の人には誰もいなくて…。
 作業服とかを入れなかったら、ブーツは女性用の靴。女の人の制服の靴がブーツだったよ。
「思い出したか、そこが問題だったんだよなあ…」
 お前、何度も文句を言うんだ、「この靴は女性用だと思うんだけど」と、俺だけに。
 服飾部門のヤツらに文句を言えはしないし、会議にかけて変えるわけにもいかないし…。
 もっと早くに気付いていたなら、デザインの段階で変えられたろうが…。後の時代でも、素材が完成するまでだったら、多分、変更出来たんだろうが。
 …お前、気付くのが遅すぎたんだな、男でブーツはお前だけだということに。
 前の俺だって、お前が文句を言うまで全く気付かなかったし、無理もないとは思うんだが。
「うん…。ぼくもホントにウッカリしてたよ」
 ハーレイたちの靴とは違う、ってトコばかり見てて、船全体が見えていなくって…。
 前のハーレイと恋人同士になった後だよ、女の人の制服だったらブーツなんだ、ってことに気が付いたのは。…それまではちっとも知らなかったよ、ホントだよ。
 きっと、カップルを見ていることが増えたからだね、あそこにも恋人同士の二人がいる、って。
 ぼくがハーレイと恋人同士だって宣言出来たら、あんな風に一緒にいられるのに、って…。
 だから女の人の方を見ながら、ぼくの姿を重ねてた。ハーレイと二人で歩きたくって。
 そうやって何度も眺めていたから、ブーツにも気が付いちゃった。男の人はハーレイと同じ靴を履いてて、女の人の靴はブーツだよね、って。
 …おまけにデザイン、そっくりなんだよ。前のぼくのブーツと女の人のと、殆ど同じで…。
 だってそうでしょ、どっちも似たような形なんだよ、並べてみたら。



 色は全く違うんだけど、と今も鮮やかに思い出すことが出来る、女性たちが履いていたブーツ。制服のスカートと同じ色のブーツで、縁の飾りが金色だった。
 どういうわけだか、ソルジャーだった前の自分のブーツと瓜二つのように思えたそれ。そういうデザイン、縁飾りが少し控えめなだけ。女性用の方が。
 ハーレイはもちろん、服飾部門の者たちも含めて誰も気付いていなかったけれど、一度気付くとそう見えた。ソルジャーのブーツは女性用だと、それとそっくり同じ形で、男性用の靴とは少しも似ていないと。
 たった一人だけ、ブーツを履いた男性だった前の自分には。女性と同じブーツの前の自分には。
「酷いと思うよ、あのデザイン。…なんで女の人用なわけ?」
 ハーレイと恋人同士になった後に出来たブーツだったら、嬉しいけれど…。ぼく一人だけが違う靴でも、女の人用と同じブーツでも。
 偶然なんだ、って分かっていたって、ハーレイの恋人用のデザインみたいな気分だから。
 二人で一緒に歩く時には、こっそりハーレイの恋人気分。…並んで歩けなくったって。
 だけど、そうじゃなかったんだもの…。ブーツの方が先にあったんだもの。
「お前、ブーツについては文句ばっかりだったな」
 同じ制服でも、上着の模様は「お揃いだね」と大喜びをしていたくせに。
 俺と恋人同士になった後で気付いて、「ハーレイのと同じ」と何度も触っていたくせに…。前の俺の上着についていた模様、お前の上着と揃いになっていたからな。
 ブーツも前向きに考えればいいと思うんだがなあ、俺の恋人になっていたんだから。女性用のがピッタリじゃないか、俺とこっそりカップル気分で。
 なのに、それを言ったらお前は怒り出すんだ、「ブーツは別だ」と。このブーツだけは、とても許す気分になれないと。
「決まってるじゃない、上着の模様と靴のデザインとは違うんだよ?」
 上着だったら、ソルジャーとキャプテンがお揃いでも変じゃないんだよ。恋人同士でなかったとしても、シャングリラを纏める二人だから。
 でも、ソルジャーのブーツと女性用のブーツ、同じデザインにしておく意味があるわけ?
 いざという時には戦いに出るのがソルジャーなんだよ、船を守って戦う役目。
 ソルジャーはそういう仕事だけれども、女の人たちは全く違うよ?
 戦いになんか参加しないし、ブリッジにいてもレーダーだとか分析担当…。
 ソルジャーとは立場が違いすぎるし、同じデザインの靴にする意味が全く無いんだけれど…!



 どう考えても納得出来ない、と未だに腹が立つブーツ。女性用と同じだったデザイン。
 前のハーレイと恋人同士になっていたって、複雑な気持ちは拭えなかった。女性みたいだ、と。
 しかも最初から、そういうデザイン。他の男性は普通の靴だったのに。
「おいおい…。俺と恋人同士にならなきゃ、お前、気付かなかったんだろうが」
 そんなに文句を言ってやるなよ、誰も悪気は無かったんだ。あのデザインにしようと考え付いたヤツも、それでいいと決めた前の俺たちも。
 ただなあ…。ちょいと気になる点はあるなあ、今になってみたら。
「今って…。ハーレイ、何かを思い出したの?」
 誰かがブーツの話をしてるの、聞いたとか?
 前のぼくが眠ってしまった後とか、いなくなってしまった後とかに…?
「いや、そうじゃないが…。お前でも分かることだな、うん」
 ジョミーのブーツだ、お前のとそっくり同じじゃなかった。上着のデザインが違ったように。
 そいつに合わせて変えてあったんだと思いたいんだが、もしかしたらだ…。
「…デザインした人、前のぼくのブーツに気付いてたわけ?」
 あの通りにしたら女性用と同じデザインになる、って気が付いてたから変えちゃった?
 ぼくだけだったら、誰も気付きはしないけど…。
 ジョミーも同じブーツを履いたら、気付かれるかもしれないものね?
 履いてる人が一人増えたら、その分、目に付きやすくなるから。ブーツの男の人が二人、って。
 でなきゃ、ジョミーが気付くだとか。…「このブーツ、女の人のと同じだけど?」って。
「今となっては謎なんだがなあ、可能性ってヤツはゼロではないな」
 お前の制服をデザインしたヤツ、職業柄、いつも仲間たちの服を見ていただろうし…。
 それこそ、お前と同じくらいに後になってから、ミスに気付いたかもしれん。やっちまったと。
 しかし、自分から「変更します」と言えば墓穴だ。理由を訊かれて、怒鳴り付けられて。
 …それはマズイ、と自分一人の腹に収めてたら、ジョミーが来たってこともある。
 服のデザインを任せられたから、ブーツのデザイン、直したかもなあ、バレないように。
 ソルジャーの制服はブーツなんだと、女性用のブーツとは全く違う、と。
「…それ、酷くない?」
 怒っていいかな、ぼくのはやっぱり女の人の靴だったんだ、って…!
 ジョミーのブーツは男性用だけど、ぼくのはホントに女性用のブーツだった、って…!



 あんまりだよ、とプンスカ怒ろうとしたら、「推測だぞ?」と宥められた。偶然だということもあるから、怒ってやるなと。それに本当だったとしたって、とっくに時効なのだから、と。
「お前の靴に話を戻そう。ブーツのデザインの方じゃなくてな」
 女性用に見えたって件はともかく、お前はブーツで、前の俺は船に溢れていた靴。
 そいつが羨ましかったんだろうが、前の俺の靴。…ブーツじゃなくて普通だったから。
 誰でも履いてて、目を引くこともないからな。前のお前の靴と違って。
「うん…。ハーレイの靴、ホントに普通の靴だったもの…」
 前のぼくは目立ち過ぎるブーツで、ぼくしか履いていなかったんだよ。ホントにぼくだけ。
 それに、ソルジャーの役目をやってる限りは脱げないし…。あの靴もソルジャーの制服だから。
 ぼくもおんなじ靴にしたい、って注文したって、絶対に無理。服に合わないから。
 ソルジャーはソルジャーの服しか着ていられないし、靴だって同じ。
 みんなと同じ制服なんかは着られないでしょ、そんな我儘、言えないものね…。
 ぼくもああいう靴がいいとか、あの靴がいいから普通の制服を着てみたいとかは。



 前の自分が羨ましがったハーレイの靴。他の仲間たちと同じような靴。片方だけ通路に転がっていても、誰の靴だか分からないほどに。サイズを調べない限り。
(ハーレイの靴なら、見たら誰でも分かるけど…)
 前の自分が落とした靴なら、きっと分からなかっただろう。同じサイズの靴を履いている仲間が多くて、その中の誰の靴なのか。それこそ船中、持ち主を探して回らない限り。
 けれども、前の自分の靴は違った。一人だけブーツで、目立つデザイン。片方だけでも、直ぐに持ち主が分かってしまう。この靴だったらソルジャーだ、と。
 たった一人だけ、違ったデザイン。他の仲間は履いていない靴。
 そういう靴を履いているのだ、と自覚させられたら、羨ましく感じたのだった。他の仲間たちと似たデザインの靴のハーレイが。長老たちとはそっくり同じで、男性用の制服の靴ともそっくり。見た目だけなら区別がつきはしなかった。長老用の靴と男性用の靴は。
(みんな、ああいう普通の靴…)
 女性はともかく、男性ならば。ブーツではなくて、ズボンの裾から覗く靴。
 ずっと昔は自分もそういう靴だったのに、と何度もハーレイの靴を見ていた。制服が出来る前の時代は、普通の靴を履いていたから。
(ブーツなんかは…)
 多分、履いてはいなかっただろう。物資に混ざっていたとしたって、好んで選びはしなかった。ブーツが好きで履いていたなら、記憶に残っているだろうから。
(歩きにくいし…)
 ソルジャーのブーツならばともかく、ファッションとして選ぶブーツの方は。
 人類軍の制服のブーツは別だけれども、普通に売られていただろう物は。今の自分も、ブーツを履きはしないから。短いブーツも、長いブーツも。



 普通の靴が一番いい、と羨ましかった前のハーレイの靴。ああいう靴を履けたなら、と。
 ソルジャーの制服を着ている限りは、けして履くことは出来ない靴。
「お前、何度も普通の靴を履きたがって…」
 履いてみたい、と俺に言うんだ、そんなこと出来やしないのにな。
 いいな、と眺めて、羨ましがって、時々、夜に…。
「ハーレイの靴を借りてみたっけね、ぼくにも履かせて、って」
 ちょっと脱いで貸して、って借りてたんだよ、ハーレイが椅子に座っている時に。
 青の間でしかやってないけど、借りて履いてみて、「似合うかい?」って。
 ブカブカの靴で、ぼくに似合うわけないのにね…。大きすぎて直ぐに脱げちゃってたし。
 でも、憧れの靴だったから、と時の彼方から戻って来た記憶。
 いつか平和を手に入れたならば、ソルジャーが要らなくなったなら。
 普通の靴をまた履いてみたいと願った自分。ハーレイが履いているような靴を。ブーツではない普通の靴を。
 その日を夢に見ていたのだった、前の自分は。ハーレイの靴を眺めて、借りて履いてみては。
「そういや、俺が選んでやるって言ったんだっけな」
 お前が靴の話をした時。…ソルジャーの制服が要らなくなったら、普通の靴を履きたい、と。
 その時にお前が履くための靴は、俺がピッタリのを選んでやるから、って…。
「そうだっけね…。ハーレイ、最初の靴を履いた時にも、ぼくに付き合ってくれたしね…」
 まだシャングリラじゃなかった船で、サイズが無くって探していた靴。
 ハーレイの足は大きすぎたし、ぼくはチビで足が小さかったし…。
 足に合う靴が見付からなくって、ハーレイは靴に切れ目を入れてて、ぼくは詰め物。前のぼくの足にピッタリの靴が見付かるまでは待っててやる、ってハーレイ、約束してくれたものね。



 まだシャングリラの名前が無かった船。最初から船に積まれていた靴も、前の自分が奪う物資に紛れていた靴も、ありふれたサイズの靴ばかり。特大のと子供用のは混じっていなかった。
 皆が自分に合う靴を選んで履いていた中、一番最後まで足にピッタリの靴が無かった二人。前のハーレイと、前の自分と。
 ハーレイは「俺の靴が先に見付かっても、履かずに待つ」と言ってくれたし、前の自分も思いは同じ。ハーレイの靴が見付かるまでは、と。
 そんな日々の果てに思い切って奪った、靴ばかりが詰まっていたコンテナ。大きな茶色の革靴はハーレイの足に丁度良かったし、小さな白い革靴は自分の足に似合いのサイズ。誂えたように。
 二人揃って手に入れられた、履くことが出来たピッタリの靴。
 あの頃からの運命だろう、と前のハーレイは微笑んだのだった。
 「普通の靴を履かれる時には、あなたの靴は私が選んで差し上げますよ」と。
 恋人として、心をこめて。
 足に合ったサイズと、似合いのデザイン。そういう靴を探して差し上げますから、と。



 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが言ってくれたこと。靴を選んでくれる約束。前の自分にピッタリの靴を、ソルジャーのブーツとは違う普通の靴を。
「…ぼくの靴、選んで貰い損なっちゃった…」
 死んじゃったから仕方ないけど、普通の靴を選んで貰える時代にもなっていなかったけど…。
「ふうむ…。だったら、今度は選んでやろうか?」
 お前はソルジャーとは違うわけだし、どんな靴を履くのも自由だしな。
 …って、お前、ガラスの靴が欲しいんだったか。歩けるようには出来ていないらしいが…。
「ガラスの靴…。靴の話を思い出したら、余計、欲しいかも…」
 ハーレイが選んでくれる約束、ぼくはすっかり忘れてたけど…。
 もしも選んでくれるんだったら、ガラスの靴がいいな。本当に履けるガラスの靴。
 歩くのはちょっと無理みたいだから、デートには履いて行けないけれど…。飾るだけだけど。
「よし、プロポーズの頃に俺が覚えていたらな」
 そいつをお前にプレゼントしよう、足にピッタリのを注文して。
 「俺と結婚してくれるんなら、この靴を履いて欲しいんだが」と。
「ホント?」
 買ってくれるの、ガラスの靴を?
 プロポーズの時はそれを履けばいいの、「うん」って返事して、足にピッタリの靴…?
「指輪よりもロマンチックだろうが。…お前、宝石の指輪に興味は無いんだからな」
 だったら、ガラスの靴の方がいいだろ、お前の足にしか合わない靴。
 お前に靴を選んでやるのは、前の俺の約束だったんだから。
 それに、お前も欲しいらしいしな、本当に履けるガラスの靴が。
「うん…!」
 あの靴が欲しいよ、ハーレイから。
 きっと最高に幸せな気分になれるよ、ぼくの足にピッタリのガラスの靴を履けるなら…!



 いつかハーレイと結婚する時、宝石のついた婚約指輪は要らないけれど。
 高い指輪なんかは要らないけれども、ガラスの靴は強請ってみようか。
 本当に履けるガラスの靴。
 前の自分は、ハーレイに靴を選んで貰い損なったから。普通の靴を選んで貰う前に、ハーレイと別れてしまったから。泣きじゃくりながら、独りぼっちで死んでしまって。
 けれど今度は青い地球の上、ハッピーエンドのガラスの靴。
 片方だけの靴ではなくて、ハーレイに両方、買って貰って。右足の靴も、左足の靴も。
 「履いてくれるか?」と差し出されるだろう、キラキラと煌めくガラスの靴。
 ハーレイからのプロポーズの言葉、それに応えて綺麗なガラスの靴を履く。
 「ありがとう」と、「君が選んでくれたんだよね」と。
 ガラスの靴では歩けないけれど、伸び上がって甘いキスを交わそう。
 プロポーズの返事はしたのだから。ハーレイと二人、幸せに生きてゆけるのだから…。




              ガラスの靴・了


※シャングリラでは、ブーツを履いていた男性はソルジャーだけ。前のブルーが憧れた靴。
 いつかハーレイに選んで貰う筈だったのが、普通の靴。今度は選んで貰えるのです。
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「クシャン!」
 風邪かな、と小さなブルーが竦めた首。学校から家に帰った途端に出たクシャミ。自分の部屋で制服を脱いで着替えていたら、いきなりクシャンと。
(風邪、引いちゃった…?)
 帰り道に少し冷たかった風。バス停から家まで歩く途中で。ほんの僅かな時間だけれども、肌に冷たく感じた風で身体を冷やしてしまったろうか?
(出てたのは顔と手だけでも…)
 身体も冷えたのかもしれない。冷たいな、と感じた空気が肌を伝って、服の下まで。
 きちんとウガイも済ませたとはいえ、心配な風邪。生まれつき弱いブルーの身体は、油断したら風邪を引くのだから。
(明日は土曜日なのに…)
 ハーレイと一緒に過ごせる日。風邪を引いたらそれが台無し、お茶も食事も楽しめない。楽しい休日が駄目になったら大変だから、と着替えを済ませたら一直線にキッチンへ。おやつにするならダイニングだけれど、とにかくキッチン。其処の食料品の棚。
(ハーレイの金柑…)
 これだ、と手に取ったガラス瓶。中に詰まった金柑の甘煮、隣町に住むハーレイの母がコトコト煮込んで作ったもの。「風邪の予防にいいんだぞ」とハーレイがくれた頼もしい金柑。
(三個ほど…)
 食べておかなくちゃ、と小さな器に取り出した。風邪を引きそうな時はこれが一番、と。
 その様子を母が見ていたお蔭で、シロエ風のホットミルクも貰えた。「今日はこれでしょ?」とケーキと一緒に出て来たミルク。
(風邪に効くんだよね?)
 これもハーレイに教えて貰った、セキ・レイ・シロエの好物だったという飲み物。歴史に名前を残した少年、シロエが注文していたミルク。マヌカの蜂蜜とシナモンが入ったホットミルク。



 金柑の甘煮を三個と、シロエ風のホットミルク。おやつのケーキも美味しかったから、温まった身体。けれど二階の部屋に戻ったら、窓の向こうで風の音。きっとさっきより冷えるだろう風。
(あんまり寒くならないといいな…)
 夜中に冷えると、メギドの悪夢を見てしまうから。そうならないよう、ハーレイに貰った右手を包むサポーターをはめて眠るのだけれど、忘れてしまうこともある。今は幸せな毎日だから。
(ウッカリ忘れてしまうんだよね…)
 今の自分の小さな右手。それが今より大きかった頃に、どんな思いをしたのかを。時の彼方で、ハーレイの温もりを失くした自分。右手が凍えてとても冷たいと、泣きながら死んだ前の自分。
 悲しい記憶を秘めた右の手、普段は忘れているけれど。メギドのことも、右手が凍えたことも。
(ハーレイが来てくれると温かいのに…)
 心も身体も温かくなる。声を聞いただけで心が弾むし、温かく幸せにほどける心。大きな身体に抱き付いたならば、優しく温かいハーレイの温もり。
 ハーレイの膝の上に座って甘えて、あれこれ話をしたいのに。心も身体も温めたいのに。
(来なかった…)
 今日は仕事で遅いみたい、と零れた溜息。ハーレイが来てくれる時間は過ぎてしまったから。



 寂しい気持ちで本を読んでいたら、夕食前にまたクシャミが出た。もう少ししたら母が呼ぶ声が聞こえるだろう頃合いで。クシャンと、一つ。
(ホントに風邪かも…)
 部屋は暖かくしてあるのだから、冷えたせいではなさそうなクシャミ。俄かに覚えた心細さ。
 今のクシャミが本当に風邪で、明日の土曜日が駄目になったらどうしよう、と。
(ハーレイは来てくれるだろうけど…)
 お見舞いに来てくれるだろうとは思うけれども、たったそれだけ。風邪でベッドの住人だったら楽しさ半減、全滅と言ってもいいかもしれない。二人でお茶を飲めはしないし、食事も出来ない。ハーレイは「寝てろ」と言うに決まっているから、向かい合わせで座れはしない。
 同じ風邪でも平日だったら、事情はまるで違うのに。大抵はハーレイが仕事帰りに来てくれる。前の自分が大好きだった、素朴な野菜スープを作りに。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだスープ。前の自分の病人食。同じスープを作って貰って、食べる間に昔語りを聞かせて貰ったり。
 平日に風邪で寝込んだのなら、幸せな時間を味わうことが出来るけれども、休日の風邪は素敵な時間を減らすだけ。ベッドから起きることも出来ずに、一日が終わってしまうのだから。
 せっかくハーレイが来てくれるのに。午前中から訪ねて来てくれて、夕食の後のお茶まで一緒。それが吹き飛ぶ風邪は嫌だ、と頭を振った。
(金柑も食べたし、シロエ風のミルクも…)
 だから大丈夫、と思いたいのに、さっき出たクシャミ。二度目だなんて、と怖くなるクシャミ。



 気のせいだよね、と不安を打ち消しながら食べた夕食。ハーレイの席が空いたテーブル。両親と囲んだ夕食だけれど、食べ終えた後に出たクシャミ。それも立て続けに三回も。
「あらあら…。やっぱり風邪なんじゃないの?」
 今日はお風呂は入らない方が、と母の心配そうな顔。「その方がいいわ」と。
「やだ!」
 お風呂は入る、と主張した。物心ついた頃から、こういう時でも入るのがお風呂。熱があっても入りたいほど、お風呂に入るのが大好きだから。
 ソルジャー・ブルーだった頃から、そう。無理をしてでも入っていた。暖かなバスタブのお湯に浸かるのが好きで、幸せな時間だったから。
 今の自分が幼い頃からお風呂好きなのも、そのせいだろう。文字通り寝込んでしまわない限り、お風呂は入ると決めている自分。母は「本当にお風呂好きだわねえ…」と溜息をついて。
「じゃあ、入ってもいいけれど…。温まったら、直ぐに寝るのよ」
 それから、早めに入ること。食べて直ぐだと消化に悪いし、もう少ししたら。
「はーい!」
 一時間ほどしたら入るよ、それでいいでしょ?
 お風呂が済んだら本も読まないで、ちゃんとベッドに入るから!



 約束を守って入ったお風呂。パジャマを着て部屋に戻った後には、急いでベッドに潜り込んだ。風邪を引いてはたまらないから、暖かい間に寝るのが一番、と。
 なのに、夜中にぽっかり覚めた目。見上げた暗い部屋の天井。
 サポーターをつけるのを忘れた割には、メギドの悪夢は見ていない。他の怖い夢も。けれども、目覚めてしまった自分。どうしてだろう、と考えてみたら。
(喉がちょっぴり…)
 痒いような、くすぐったいような感じ。放っておいたら痛みへと変わる、風邪の前兆。
(ハーレイのお母さんの、金柑の甘煮…)
 あれを食べなきゃ、と思っているのに、今度は睡魔。金柑を食べに行かせるものか、と包み込む眠気。それに捕まったら駄目なのに。風邪の悪魔の思う壺なのに。
(…金柑…)
 起きて金柑、と考える自分と、「寝ていればいい」と誘う声と。どちらがいいのか、迷っている間に捕まった睡魔。ウトウトと目を瞑ってしまって、そのまま落ちた眠りの淵。
 眠りは心地良かったけれども、暖かくて幸せだったけれども…。



 次に目覚めたら朝になっていて、起きるなり「クシャン!」と出て来たクシャミ。風邪の悪魔に捕まった。クシャミが何度も出て来る上に、少し熱い身体。喉にも痛み。
 このくらい、と起き上がろうとしていた所へ、運悪く通り掛かった母に聞かれたクシャミ。扉を開けて入って来た母は、見るなり「風邪ね」と見破った。
「今日は起きないで寝ていなさい」
 今なら熱も高くないから、大人しく寝てれば治る筈よ。朝御飯は持って来てあげるから。
 薬も飲むのよ、嫌がらないで。
「でも、ママ…! 今日はハーレイが…!」
 来てくれるんだよ、土曜日だから。
 このくらいの風邪なら大丈夫だから、ハーレイには風邪って言わないで…!
 来てくれなかったら大変だもの、どうせぼくは風邪で寝てるんだから、って…!
「心配しなくても、来て下さるわよ」
 普通の日でも、風邪を引いたら来て下さるでしょ、お仕事が忙しくない時は。大丈夫よ。
 一応、連絡はしておくけれど、と出て行った母。
 ハーレイ先生にも都合があるだろうから、風邪を引いたことは伝えなければ、と。



 母が連絡をしようと思う気持ちは、よく分かる。たまにハーレイがくれるお土産、お菓子などの食べ物ばかりだけれど。…買って来ようと思っているなら、今日だと無駄になるだろうから。
 風邪で寝込んだ病人には向かない食べ物やお菓子、それを買ったら大変だから。
 けれど、ハーレイには風邪を引いたと伝わるわけで、寝ていることも知られてしまう。いつもの調子で訪ねて来たって、自分はベッドの住人なのだと。
(ぼくが寝ているから、来ないなんてこと、きっとないよね…?)
 ジムや道場に出掛けてしまって、午後からしか来てくれないだとか。それが心配。ハーレイにも行きたい場所はあるだろうし、やりたいことも多い筈だから。
(…ひょっとして、夜に来てくれるだけ…?)
 平日のように、野菜スープを作るためだけに。他の時間はハーレイ自身のために使って。
 そうなってしまったらどうしよう、と気掛かりな所へ母が届けてくれた朝食。トレイに乗せて。小さめのホットケーキが一枚、それにシロエ風のホットミルク。
 栄養をつけないと治らないから、と頑張って食べて、嫌いな薬も飲んだ。「起きちゃ駄目よ」と母に念を押されて、大人しく横になったけれども。
(…ハーレイ、ちゃんと来てくれる…?)
 もう少ししたら、休日にハーレイが来る時間。今日はどうだか分からないけれど。車で何処かに出掛けてしまって、夜まで来ないかもしれないけれど…。



 時計を見たら悲しくなるから、壁の時計に背を向けた。枕元の目覚まし時計は見えはしないし、これで時間は分からない。ハーレイが来てくれる筈の時間がとっくに過ぎてしまっていても。
(…来てくれないなら、時計なんかは見えなくていいよ…)
 それに身体が熱っぽい、と瞳を閉じてウトウトし始めて。…どのくらい眠っていたのだろうか、不意に温かな声が聞こえた。
「おい、大丈夫か?」
 寝ちまってるのか、それならそれでかまわないんだがな。
「…ハーレイ…?」
 聞きたくてたまらなかった声。目を開けてみたら、ベッドの側に座っていたハーレイ。いつもの指定席の椅子を運んで来て、すぐ側に。
「すまんな、起こしちまったか?」
 寝てたのにな、とハーレイが申し訳なさそうな顔をするから、「ううん」と返した。
「ちょっとウトウトしていただけ…。ハーレイ、来てくれないかと思って」
 もし来なかったら、とても寂しいから…。時計を見たくなくて、目を瞑ってた…。
「ふうむ…。俺が来たのに気付かなかったし、寝てたんだろうが…。起こしちまったな」
 でもまあ、今は大丈夫か。
 風邪を引いても、薬も病院も、何でもあるし。…ちょっとばかり目を覚ましちまっても。
「え…?」
 どういう意味なの、何でもあるって…?
 もしかして前のぼくのことなの、ハーレイ、何か思い出したの…?
「まあな。…お前、しょっちゅう風邪を引くのに、なんだって今まで忘れてたんだか…」
 ついでに、思い出す切っ掛けっていうのも要らないらしいな、場合によっては。
 風邪だと聞いたら思い出すなら、とうの昔に思い出してた筈だからなあ…。



 お前はちゃんと寝ていろよ、と額に当てられた大きな手。普段は温かいと思う手なのに、今日はひんやり心地良い。きっと熱があるせいだろう。
 ハーレイは指で前髪を優しく梳いてくれてから、そっと手を離して。
「覚えてるか? お前の初めての風邪」
「風邪…?」
「昔話さ、シャングリラのな」
 いや、そんな名前さえ無かった頃か…。あれはコンスティテューションだっけな、人類がつけた名前ってヤツは。
 そいつで暮らしていた頃の話だ、まだ暮らしとも言えなかったか…。ゴチャゴチャしてて。
 いいか、眠くなったら眠っちまえよ、頑張って起きていないでな。
 寝るのも風邪の薬の内だ、とハーレイが言うから、素直にコクリと頷いたけれど。
「…眠くなったら寝るから、聞かせて。ハーレイの話」
 前のぼくの初めての風邪の話って、どんなのだったの…?
 やっぱり熱を出しちゃったのかな、喉が痛くてクシャミもしてた?
 教えて、どんな風だったのか…。
「どんな風も何も、風邪だったが? 今みたいにな」
 流行っていたってわけでもないのに、前のお前が引いちまったんだ。
 きっと気が緩んじまったせいってヤツだな、そういう時には風邪に罹りやすくなるもんだ。
 アルタミラから無事に脱出して、船のみんながホッとしていた頃だしな。



 まだ船の中は綺麗に片付いてはいなかったが、という言葉を聞いたら思い出した。脱出してから間もない船で、前の自分が引いてしまった風邪のことを。
 人類がアルタミラの宙港に捨てて行った船。物資を沢山積んでいた船は、急な脱出には不向きと判断されたのだろう。乗員は他の船に乗り換えて逃げて、置き去りにされた宇宙船。
 コンスティテューション号はそういう船で、ミュウにとっては命を救ってくれた船。これからは此処で生きてゆこうと、希望を与えてくれた船。どうやら追手も来ないようだから。
 今と同じに綺麗好きだった前の自分は、通路などに雑然と置かれた荷物を片付けようと考えた。移動しやすい船になるだろうし、広いスペースも取れるようになる。きっと快適な船になるから、とにかく整理整頓を、と。
 やり始めたらハーレイが手伝ってくれて、次第に他の仲間たちも加わっていった。そんな日々の中、クシャン、と一つ出たクシャミが切っ掛け。風邪の兆候。
 前の自分は全く気付かず、その日も片付けを続けたけれど。荷物を倉庫に運び込んだり、空いた所を掃除したりと。



 片付けや掃除は埃が舞うから、埃のせいだと思ったクシャミ。他の仲間も、ブワッと埃が舞った時などに何度もクシャミをしていたから。
 けれど、その日の夜になったら、だるかった身体。何故だか手足が重く感じた。片付けが済んで夕食の時間を迎えた頃には。
(椅子に座ってても、だるかったんだよ…)
 普段だったら、座った時には一休み。ホッとする筈の椅子だというのに、座っているのに必要な力。身体がふらつかないように。ウッカリ滑り落ちないように。
 なんとか食べ終えて自分の部屋に帰ろうと歩き出したら、ハーレイに声を掛けられた。食堂から通路に出て直ぐの場所で。
「おい、どうした?」
 食事、嫌いなメニューだったか?
 ちゃんと食べてはいたようだが…。ああいう味のは好きじゃなかったとか。
「違うよ、今日のも美味しかったよ」
 なんでもないよ、食べ終わるまでに少し時間がかかっただけで。
「…なんでもないって…。そういう風には見えないぞ、お前」
 元気が無い、と覗き込まれた瞳。今と同じに穏やかな光を湛えた鳶色の瞳で。
 何かあったかと、いつもと様子が違うんだが、と。
「なんだかだるい…。それだけだよ」
 ちょっと身体がだるくって…。椅子に座っていたら、落っこちそうな感じになっちゃって…。
「働きすぎか?」
 お前、小さいのに、頑張って荷物を運ぶから…。疲れてしまっているんじゃないのか、あちこち掃除もして回るしな?
「そんなことはないと思うけど…」
 ちゃんと休憩だってしてるし、働きすぎにはならないよ。でも、重い荷物を持ちすぎたかな?
 サイオン無しでも持てるかも、って試していた分、疲れたかもね。



 一晩寝たら治っちゃうよ、とハーレイと別れて戻った部屋。暫くベッドに転がっていたら、手も足も軽くなったから。「今の間に」とシャワーを浴びに出掛けて行った。埃を落として、すっきりした気分で寝たかったから。
(うん、平気…)
 熱いシャワーで温まったら、だるかったことなど嘘のよう。やっぱり疲れただけだったんだ、と眠る時に着る服に着替えて、ベッドに入った。ぐっすり眠れば、きっと明日には元通りだから。
 もう大丈夫、と眠りに落ちて、どのくらい経った頃だったろうか。
(暑い…?)
 じっとりと汗ばんだ肌で目が覚めた。空調が誤作動したのだろうか、室温が高くなるように。
(ぼくじゃ、修理は出来ないし…)
 下手に止めたら、宇宙船の部屋は寒くなることを知っている。それを利用した倉庫があるから。暑くなる壊れ方をしていたとしても、スイッチを切れば冷蔵庫のようになるだろう部屋。
(明日になったら、ゼルに頼んで…)
 誤作動にせよ、壊れたにせよ、自分ではどうにも出来ない空調。ゼルは機械に強いそうだから、直ぐに直してくれるだろう。それまでの我慢。
(シールドを張るほどじゃないよね、こんなの)
 アルタミラで何度もやられた人体実験。鉄さえ溶けそうな高温だとか、何もかも凍りそうな低温だとか。それは酷い目に遭っていたから、汗ばむ程度の暑さでサイオンは使いたくない。
(こんなのを被っていなければ…)
 暑くないよ、と上掛けを剥いだら、一瞬、ひんやりしたのだけれど。気持ち良かったのは僅かな時間で、今度は寒くなってきた。歯がガチガチと鳴り出すほどに。
 慌てて上掛けを被り直したら、やっぱり暑いような気がする。身体が熱の塊になったみたいに。
(暑いんだよね?)
 これが邪魔、と剥がした上掛け。空調もおかしいようだけれども。
 上掛けを剥がすのを待っていたように、いきなり寒くなったから。適温だった時間は少しだけ。



(この部屋、暑いの? それとも寒いの…?)
 何度も上掛けを被っては剥いで、剥いでは被って。暑さと寒さに襲われ続けて、すっかり疲れてしまった身体。なんとも酷い空調だけれど、朝まで我慢するしかない。
 あまりに疲れてしまっていたから、もうシールドも考え付きはしなくて。
(暑い方だと汗をかくから…)
 きっと寒い方がまだマシだよね、と上掛け無しで寝ることにした。身体を丸く縮めていたなら、暖かくなるような気もするから。凍死するほどの寒さなどではないのだから。
 そうして眠って、ふと気が付いたら、動かすことさえ辛かった身体。鉛のように重たい手足。
 何かが変だ、と思うより前に酷い寒気が襲って来た。外からではなくて、身体の中から。空調が壊れていたのではなくて、寒さの元は自分の身体だと今頃になって気付いた始末。
(どうしよう…)
 多分、身体の具合が悪い。頭も重いように思うし、恐らく病気なのだろう。人体実験で酷い目に遭わされた後には、よくあったこと。身体が重くて動かないのも、ガタガタ震え出すことも。
 けれども、自分で治したことなどは無い。ただの一度も。
 そういう時には、アルタミラでは人類が治療していたから。次の実験をするために。
 たった一人しかいないタイプ・ブルーは、死なせたらもう実験出来ない。新しいデータを二度と取れない、タイプ・ブルーに関しては。
 だから研究者たちは治療をさせた。死んでしまわないよう、適切な処置を。医学を修めた白衣の者たち、彼らが専用の部屋に運び込んでは、何度も何度も治療し続けた。
(だけど、治し方…)
 ぼくは知らない、と嘆くしかない。自分の身体の面倒でさえも、見られなかったのが檻だから。あの檻の中で、ただ生かされていただけだから。
 治療される時は専用の部屋で、白衣の者たちがしていた処置。それが終われば檻に戻され、餌と水とで飼われていた。必要に応じて水に薬が入れられたけれど、自分にとってはあくまで飲み水。薬の味がしていただけで、どう効いたのかもよく分からない。
 まるで知らない、自分の身体の治し方。こういう時にはどうすればいいのか、手掛かりさえも。



 何をすればいいのか、どうすべきなのか。本当に何も思い付かないから、どうしようもなくて。朝になったらしいことは分かっても、起きられないままでベッドの上。
 なんとか手繰り寄せた上掛けを頭から被って、ブルブル震えているしかなかった。寒さは少しも減らないけれど。上掛けを強く巻き付けていても、凍えてしまいそうだけど。
 そうやって一人震え続けて、ベッドの上で丸まっていたら…。
「ブルー?」
 どうしたんだ、とハーレイの声が降って来た。部屋まで見に来てくれたハーレイ。朝食を食べに来なかったから、と心配して。
「…ハーレイ…?」
 上掛けから顔を覗かせてみたら、見慣れた大きな身体があった。屈み込むように。
 そう、今のハーレイがベッドの側にいるように。あの時は、椅子は無かったけれど。ハーレイは遠い日を今も忘れていなくて。
「驚いたんだぞ。お前の部屋を覗きに行ったら、ベッドでブルブル震えていて」
 ちゃんと上掛けは被ってるんだし、部屋だって暖かかったのにな。
「だって、寒かった…」
 冷凍庫に入ったみたいだったよ、寒くて凍えてしまいそうで。手も足も、とても冷たくて…。
「そう言うから、俺が触ってみたら熱いんだ」
 冷たいどころか火傷しそうに。…そこまで熱くはなかったんだろうが、そう思えたな。
 お前が冷たいと言ったもんだから、俺もそのつもりで触ってみたし。



 前のハーレイの手が触った額。寒さが和らいだ気がした手。暖かくなった、とホッとしたのに、聞こえた声は逆だった。「冷たい」ではなくて、「熱いじゃないか」。
 何故、と思わず見開いた瞳。今もこんなに寒いのに、と震えながらハーレイを見上げたら…。
「こりゃ、風邪だな。熱があるから寒いんだ」
 身体はうんと熱いんだがなあ、自分じゃ分からないんだな。だから寒くて震えてしまう。
「風邪…?」
 なんなの、ぼくはどうなっちゃったの…?
「風邪は風邪だな、そういう病気だ。お前、クシャミもしてるだろうが」
 喉だってきっと痛い筈だぞ、どうなんだ?
「うん、少し…。それに身体が重くて起きられないよ」
「だろうな、これだけ熱があればな。誰だってそうなっちまう」
 昨日の夜から、お前、だるいと言ってたし…。あの時からもう風邪だったんだ。
 しかし、どうすりゃいいんだか…。俺も風邪としか分からないしな。
 治し方は全く知らないんだ、と済まなそうな顔をしたハーレイ。俺じゃ駄目だ、と。
 今から思えば不思議な話。今のハーレイならばともかく、前のハーレイが風邪と見破ったこと。
「…ハーレイ、よく風邪なんか知ってたね」
 あの頃はまだ、みんな記憶が曖昧で…。知らないことも沢山あって、そっちが普通だったのに。
 前のぼくだって、身体の具合が悪いことしか自分じゃ分からなかったのに…。
「お前の他にも友達、いたしな」
 一番古い友達は前のお前だったが、他にも大勢いたろうが。
 お前と違ってチビじゃなかったから、友達を作りやすかったんだ。向こうも話しやすいしな。
 前のお前も馴染みのヤツなら、ヒルマンだとか。



 そのヒルマンを呼びに走ってくれたハーレイ。「ちょっと待ってろ」と。
 ヒルマンは調べ物が得意な男で、思わぬ怪我や病気の時には頼りになった。船に最初からあった薬や包帯、そういったものを調べ尽くしていたから。
 まだ来ていなかったノルディの時代。応急手当も、その後の治療もヒルマンがやっていた時代。
 ハーレイが連れて来たヒルマンは、熱を測ったり、口を開けさせて覗き込んだりして。
「風邪だね、これは。治すためには栄養と、薬と…。後は睡眠だよ」
 食べられそうなものをしっかりと食べて、よく眠るように、と言われたのに。
 薬も幾つか処方して貰って、我慢してきちんと飲み込んだのに…。
「思い出したよ、ぼく、アルタミラの夢が怖くって…」
 薬を飲んだら思い出すんだよ、アルタミラで飲まされていた薬のことを。
 毒は飲まされていなかったけれど、薬の味は実験のことを思い出すから…。治療される時に薬を飲んだし、薬入りの水も飲まされたから。
「ああ、あの頃のお前はな」
 今のお前がメギドの悪夢を見るのと同じで、アルタミラの夢を見ちまっていた。
 具合が悪くなった時には、身体が思い出すんだろう。酷い実験で苦しかったと、今と似たような目に遭わされたと。
 そこへ薬を飲んでたわけだし、余計に思い出しちまうよなあ…。アルタミラで飲まされてた時はどうだったのかを、お前の意識がある時にも。



 眠らなければと思っていたのに、熱にうかされると襲ってくる悪夢。研究者たちが来て、入れと命じる強化ガラスのケース。高温の蒸気が噴き出して来たり、液体窒素が注ぎ込まれたり。
 身体が熱いと高温実験の夢で、寒気がする時は低温実験。他の実験の夢も幾つも繋がって来た。頭の中を掻き乱される心理探査や、身体に負荷をかける実験。
 その度に悲鳴を上げて目が覚め、少しも眠った気分がしない。眠れば地獄に連れ戻されるから。ヒルマンは「眠るように」と言ったのに。そうしないと多分、治らないのに。
 それでも眠るのは怖い、と震えていた所へ、ハーレイが様子を見に来てくれた。「昼飯だぞ」と消化の良さそうなスープの器をトレイに乗せて。
 「食べられそうか?」と訊かれたスープは飲めたけれども、問題は薬。飲み込んだら、舌と口に一気に蘇ってくる忌まわしい記憶。アルタミラの地獄で飲んだ味だ、と。
 この味がまた悪夢を連れて来るだろうから、ハーレイに向かって「眠れないよ」と訴えた。夢を見るから怖くて無理だ、と。眠っても直ぐに目覚めてしまうと、自分の悲鳴で目が覚めると。
「お前、眠れないと言うもんだから…」
 俺が仕事を抜けて来たんだ、食事のトレイを返しに行ってな。仕事と言っても、片付けて掃除をするだけだったが。…あの頃はまだ、厨房の係じゃなかったし。
「そうだね、ぼくと一緒に片付けてただけ…」
 だからハーレイが抜けても平気。誰も困りはしなかったものね、代わりの人はいるんだから。
「頼むと言うだけで良かったからなあ、料理の途中やキャプテンってわけじゃないからな」
 直ぐに抜けられたさ、お前の看病をすると言ったら。お前、あの船じゃチビだったしな。



 「来てやったぞ」と部屋に戻って来てくれたハーレイ。椅子をベッドの側に運んで来て、座って大きな手を差し出した。「ほら」と、「手を出せ」と。
 上掛けの下から手を出してみたら、その手をそっと包み込んだ手。「俺がいるから」と。
「こうして握っていてやるから。…これなら夢も見ないだろ?」
 此処はアルタミラの檻じゃないんだ、お前は独りぼっちじゃない。酷い実験なんかも無い。
 怖い夢なんか見なくていいんだ、安心して眠っていればいい。俺がお前の側にいるから。
 大丈夫だぞ、と握ってくれた、温かくて大きなハーレイの手。
 ふわりと心が軽くなったようで、瞼を閉じても感じた思念。寄り添ってくれるハーレイの心。
 それきり悪夢は襲って来なくて、やっと眠れた。夢も見ないで、ぐっすりと深く。
 目覚めたら、もう夕食の時間。誰かが届けに来てくれたのだろう、二人分の食事が机にあった。普通の食事がハーレイ用で、もう一つのトレイに病人用のスープ。
 ハーレイは自分の食事を後回しにして、スプーンでスープを食べさせてくれた。「お前、身体が弱っているしな」と、「夢のせいで酷く消耗しちまってるし」と。
 嫌いな薬も、ハーレイが口に入れてくれたら嫌な味が少し和らいだ。これは病気が治る薬、と。
 ハーレイが食事を食べ終える頃には、船の中は夜へと移る頃合い。通路などの明かりが暗くなる時間、夜間に仕事をする者以外は部屋に戻ってベッドで眠る。
「さてと…。そろそろトレイを返しに行かんと」
 厨房の明かりが消えちまうしなあ、朝食の準備をした後は。
 もう帰ろうか、ってトコで仕事を増やしちゃ申し訳ない。俺だって寝なきゃならないし。
「…ハーレイ、帰るの?」
「当たり前だろ、此処は俺の部屋じゃないからな」
 お前の部屋だし、俺のベッドも何も無い。それじゃどうにもならんだろうが。



 人間、夜はきちんと眠らないとな、とハーレイはトレイを手にして出て行った。昼間よりも暗い通路へと。厨房にトレイを返しに出掛けて、それから部屋に戻るのだろう。ハーレイの部屋に。
 ポツンと一人、残された部屋。ハーレイが消し忘れて行ったらしい照明。
(夜は消さなきゃ…)
 個人の部屋の明かりを何時に消すかは、住人の自由。自動で消えたりしない照明。エネルギーを無駄に使わないよう、消さなければと思うけれども。
(…身体、重たい…)
 独りぼっちになったせいなのか、心細くて力が入らない身体。さっき薬を飲んだ筈なのに、また熱が上がるのかもしれない。手足が冷えて来たようだから。
(治ってないんだ…)
 熱が出たら襲ってくる悪夢。昨夜は夢は見なかったけれど、今夜はどうなってしまうのか。熱と寒気に苛まれたなら、明日の朝には今朝よりも酷い状態になっているかもしれない。
(…ぼく、どうなるの…?)
 怖い、と身体を震わせていたら、開いた扉。其処から入って来たハーレイ。
「待たせたな」
「え?」
 ハーレイ、帰ったんじゃなかったの?
 此処はハーレイの部屋じゃない、って言っていたでしょ、どうしたの…?
「シャワーを浴びに行って来たのさ、服も着替えてあるだろうが」
 さっきの服とは違う筈だぞ、覚えてないかもしれないがな。お前、病気でボーッとしてるし。



 今夜は此処でついててやる、とハーレイは手を握ってくれた。ベッドの側の椅子に腰掛けて。
「俺がいるから安心して眠れ。お前、一人じゃ怖いんだろうが」
 一晩中、ろくに眠れなかったら、治るどころじゃないからな。ちゃんと眠って治さないと。
「それじゃハーレイ、眠れないよ」
 椅子に座って寝るなんて…。座ったままなんて、無理だってば。
「俺は頑丈だから、何処でも眠れる」
 アルタミラの檻を考えてみろ。あれに比べりゃ、椅子は充分、立派な寝床だ。
「でも…。椅子とベッドは全然違うよ」
「いいんだ、お前のベッドはお前専用だ。お前には大きいベッドだろうが…」
 二人も寝られる大きさじゃないぞ、どう見たってな。
 それよりは床の方がいい。椅子も悪くないが、床に座って寝る手もある。お前の手を離さないで眠るためには、そっちの方がいいかもな。
 お前のベッドの端っこを借りて、俺の身体を少し乗っけて。
 とにかく、お前は眠ることだ。俺が朝までついててやるから。
 俺が椅子で寝るか、床で寝るかは、俺がゆっくり考えるさ。お前が眠っちまってからな。



 心配しないでぐっすり眠れ、と握ってくれた大きな手。温かくてがっしりしていた手。
(ホントに椅子とか床で寝る気なの…?)
 まさか、と思ったハーレイの言葉。きっと自分が深く眠ったら、部屋に帰ってゆくのだろうと。朝まで覚めないだろう眠りに入ったと見たら、手を離して。
(…それでもいいよ…)
 今だけでも眠れたら充分だから、と目を閉じて、いつの間にか眠ってしまって。
 ふと目覚めたら部屋は暗くて、独りなのだと思ったけれど。
(ハーレイ…)
 直ぐ目の前にあったハーレイの寝顔。眠る前に聞いた言葉通りに、ハーレイは床に座って眠っていた。胸の辺りまでをベッドに乗せて、握っている手は離さないままで。
(…ホントに寝てる…?)
 ハーレイの手を握り返してみたら、キュッと力が返ったけれど。握り返してくれたのだけれど、ハーレイは夢の中らしい。微かに笑みを浮かべただけで、何の言葉も返らないから。
(朝まで一緒にいてくれるんだ…)
 一人じゃないよ、と安心し切って落ちていった眠り。恐ろしい夢は見なかった。
 朝になったら、「起きたのか?」とハーレイの優しい笑顔。「昨日よりずっと顔色がいい」と。
 ハーレイは朝食を取りに行ってくれて、今度は自分で食べられた。嫌いな薬も我慢して飲んだ。その日もハーレイはついていてくれて、眠る時には握ってくれた手。
 次の日には熱が出ることはなくて、そうやって最初の風邪は治った。ハーレイがしっかり握ってくれた手、その手に悪夢を防いで貰って。



「…思い出したよ、前のぼくの風邪…」
 ハーレイに手を握って貰ってたんだよ、一晩中、側にいてくれて…。床で眠って。
「お前のベッドじゃ眠れなかったしな、狭かったし」
 それに、心配だったんだ。…あの時、お前が引いちまった風邪。
 医者はいないし、薬だって船にある分だけで…。無いものは手に入れようがない。医者も薬も。
 こじらせちまったら、どうしようかと…。風邪で死ぬこともあるんだから。
「そうだったの?」
 ハーレイ、あの時、もう知ってたの?
 風邪をこじらせたら、死んじゃうこともあるんだってこと。
「…ヒルマンから話は聞いていたんだ。お前には言わなかったがな」
 熱が上がってゆくようだったら、気を付けないといけないと。衰弱が酷くなったらマズイと。
 しかしだ、病気ってヤツは不安になったら治らないもんだ。治ると信じていないとな。
 だから黙ってついていたんだ、お前が弱らないように。
 「大丈夫だから」と言ってやるのが一番の薬で、お前も安心するだろう?
 俺の心配は知られちゃ駄目だ、と思ってはいても心配だった。お前の熱が下がるまではな。
 俺がお前にしてやれることは、手を握ることしか無かったんだから。
 あれ以上の薬は手に入らないし、医者もいなかったんだから…。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
 だけど、今のはただの風邪だよ。薬だってあるし、お医者さんもいるし…。
「まあな。だが、早いトコ治したいだろ?」
 早く治せば、明日の午後には俺と二人でお茶が飲めるかもしれんしな?
 こんなベッドの所じゃなくって、いつもの椅子とテーブルに行って。そのためにも、だ…。



 今日は無理やり起きようとせずに、話を聞きながら寝てることだな、と言われたから。
「ぼくの手、ちゃんと握ってくれる?」
 あの時みたいに、と差し出した手を「もちろんだ」と握ってくれた手。
「こうしてしっかり握っててやるが、スープはどうする?」
 俺がお前の手を握ってたら、野菜スープが作れないんだが…。俺の手、塞がってるからな。
「スープよりもハーレイの手の方がいいから、食事はママに任せるよ」
 朝はママが作った食事を食べたし、お昼も作ってくれると思う。ハーレイの分も。
 今日の風邪、食欲は落ちてないから、ママの食事で大丈夫。
 だからハーレイは手を握っててよ、この手もちゃんと効くんだから。
 前のぼくの風邪、この手に治して貰ったんだから…。
 握っていてね、と強請った手。風邪を治せるハーレイの優しい大きな手。
 たまにはこういう風邪の治療もいいだろう。
 思い出したから、初めての風邪を。前の自分が罹った風邪を。
 まだ野菜スープも無かったけれども、ハーレイが治してくれた風邪。
 あの時のように、ハーレイの手で風邪を治して貰うのも。
 しっかりと手を握って貰って、ウトウトしながら心と身体を休められる幸せなひと時も…。




            初めての風邪・了


※アルタミラから脱出して間もない頃に、前のブルーが罹った風邪。しかも悪夢まで。
 そんなブルーが弱らないよう、側にいたのがハーレイなのです。眠っている間も手を握って。
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(えーっと…?)
 ピンクなの、とブルーが驚いて眺めた記事。学校から帰って、おやつの時間に広げた新聞。何か面白いニュースはないかと、ダイニングのテーブルで熱い紅茶を飲みながら。
 其処に書かれていた、幸せの色。もちろん「幸せ」に色などはついていないのだけれど。
(一位はピンク…)
 幸せをイメージする色の一位。幸せの色、と思い浮かべる色はピンクが一番多いという。男女を問わずにピンクが一位。そう書かれた記事。
(ピンク…)
 女の子が好きな色だとばかり思っていたのに、幸せの色。男性の場合もピンクだなんて、と首を捻ってしまったけれど。
(でも、ピンク色…)
 幸せというものを考えてみたら、ポンと頭に浮かんだマーク。ハッピーな印のハートの形。愛の印でもあるハートだけれども、幸せと言えばやっぱりハート。星や三角ではなくて。
 幸せのハートマークに色を塗るなら、きっとピンクが相応しい。赤では愛になってしまうから。青や緑では、なんだか幸せらしくないから。
(…ぼくでもピンク…)
 ホントにピンクになっちゃった、と目をパチクリとさせた幸せの色。思ってもみないピンク色。確かにピンクが一位なのだろう、自分の中でも。
(ちょっとビックリ…)
 考えたこともなかったよ、と驚かされた幸せの色。幸せだったら、毎日幾つも降ってくるのに。まさかその色がピンクだなんて、と。



 幸せの色の一位がピンクだったら、二番目の色は何色だろう。改めて記事を覗き込んでみたら、二位はオレンジ色だった。これも男女で同じ答えで、二番目はオレンジ。
(部屋の明かりの色なのかな…?)
 ホッとする気分になれる色。夜に暖かく灯る明かりは、オレンジが断然、幸せに見える。素敵なことが始まりそうで。美味しい食事や、楽しいパーティー。
(蝋燭とか、暖炉もオレンジ色だよ)
 家に暖炉は無いのだけれども、両親と出掛けたホテルなんかで見た暖炉。前に座ってパチパチと燃える炎を見ていた時には、幸せな気分になったもの。とても暖かくて、とても幸せ、と。
 バースデーケーキに灯す蝋燭もオレンジ色の火、クリスマスに飾る蝋燭の火も。咄嗟にこれだけ浮かぶのだから、オレンジ色が二位なのも分かる。ピンク色の次に幸せな色。
 三番目は…、と記事を読んだら、これまた男女が全く同じ。黄色だという幸せの色。
(お日様の色かな…?)
 太陽そのものは金色だけれど、暖かな日だまりは黄色だと思う。柔らかく包み込む黄色。人間も草木も、動物たちも。お日様の色なら、暖炉や明かりの色より大切な色になるけれど…。
(当たり前すぎて、みんな慣れっこ…)
 パチンとスイッチを入れなくても日だまりは出来るから。蝋燭や暖炉みたいに火を点けなくても空から降ってくる色だから。
 同じ選ぶなら、ひと手間かかるオレンジ色の方が幸せの色になるだろう。当たり前にある太陽の光よりかは、人工の光。それを灯せば「幸せの色」が出来るのだから。
 沈んだ気分になっていたって、暖炉の前の椅子に座ればきっと心が温まる。身体と一緒に、心もほぐれて。蝋燭だって、きっとそう。優しい光が心を温めてくれる筈。
(自分で作れる所が人気なんだよ、きっと)
 それでオレンジ色の方が黄色よりも上、と納得した二位。三位が黄色になることも。



 さて次は、と眺めた記事に添えてある表。この先は男女で幸せの色が変わってくるから、と。
(うーん…)
 変わっちゃうのか、と不思議な気分。三番目までは同じだったのに、此処から先は違うという。それほどに偉大な色なのだろうか、ピンクとオレンジと黄色の三つ。特に一位のピンク色は。
(お日様の色でも、明かりの色でもないんだけどな…)
 どうしてピンク、と思うけれども、自分もピンク色だったから。ピンク色をしたハートマークが浮かんだのだから、幸せはピンク色なのだろう。理由は謎でも、幸せのピンク。
(えっと、四番目は…)
 ぼくは男の子だからこっち、とチェックした男性の幸せの色の四番目。今度は緑。
(緑色…)
 草も木も緑色だよね、と溢れる自然の色を思った。太陽と水と土が育てる草木の緑。それに…。
(ハーレイのサイオンカラーも緑…!)
 前の生から愛した恋人、ハーレイが纏うサイオンの色。滅多に目にすることはないけれど、淡い緑がハーレイを包む。前の生も今も、ハーレイはタイプ・グリーンだから。
 おまけに車の色も緑で、前のハーレイのマントの緑。深い緑はハーレイのシンボル、今は愛車の色として。前のハーレイなら、キャプテンのマント。
 ホントに緑は幸せの色だ、と嬉しくなった。自然の緑も大切だけれど、ハーレイと縁が深い色。サイオンに車に、キャプテンのマント。三つもハーレイと繋がるのだから、とても幸せ、と。



 次が水色、その次は青。似たような色が二つも続いた。
 水色も青も、蘇った地球が持っている色。今の自分は宇宙からは見ていないけれども、この星は青に彩られた星。七割を水が覆っているから、宇宙から見れば青い星。
 海も空も青い星なのが地球で、空は明るさでその色を変える。抜けるような青から、水色まで。雲の具合や、光の具合で。
 地球の色なら、幸せの色にもなるだろう。前の自分なら、一番に選んでいたかもしれない。
(ぼくのサイオンカラーも青で…)
 ハーレイから見たら、幸せの理由が自分よりも一つ増えそうな青。「ブルーの色だ」と。残念なことに、今の自分はハーレイに見せてあげられないけれど。サイオンカラーを身に纏えるほどに、上手く扱えはしないサイオン。前と違って不器用すぎて。
(次は金色…)
 多分、太陽の光の金色。燦然と輝く金色の光は、宝物の色も兼ねている。遠い昔から価値のある黄金、本物でなくても豊かな気分になれる色。どういうわけだか、感じる幸せ。
(本物の金は持ってないけど…)
 今の自分も前の自分も、黄金などとは縁が無い。それでも幸せの色なのは分かる。自分と近しい金色の物は何があったか、と数えてみた。
 真っ先に浮かんだ、前のハーレイの制服の肩章。威厳たっぷりのキャプテンの金色。あの制服にあしらわれた模様も金色だった。前の自分のソルジャーの上着、それとお揃いの意匠だった模様。
(ぼくのが銀色で、ハーレイは金色…)
 そこまで考えた所で気付いた、ハーレイの髪。制服の模様と同じに金色。前のハーレイも、今のハーレイも金色の髪だった。見慣れすぎていて、今まで浮かんで来なかったけれど。
 やっぱり金も幸せの色、と綻んだ顔。今のぼくにも、前のぼくにも幸せな色、と。



 その次に挙がっていたのが白。何故、白なのかと思うよりも前に…。
(シャングリラの色…!)
 遠く遥かな時の彼方で、ハーレイと暮らした真っ白な船。最初はともかく、改造した後には白く輝いていたシャングリラ。あの船でハーレイと恋をしていた。二人、幸せに暮らしていた。
 船の中だけが全ての世界でも。…降りる地面が無かった船でも。
 前の自分には、白は幸せの色だった。幸せな世界を乗せていた船、世界の全てだった船。それが纏った美しい白は、本当に好きな色だったから。あそこに幸せが詰まっている、と。
 今の自分が生きる世界に、白いシャングリラはもう無いけれど。時の流れが連れ去っていって、何処を探しても無いのだけれど。
 いつか着るだろう花嫁衣装は、シャングリラと同じ真っ白な色。ウェディングドレスか、白無垢なのか、今はまだ分からないけれど。どちらも白くて、頭にはベールか綿帽子。それも真っ白。
(白も幸せの色なんだよ…)
 前のぼくにも、今のぼくにも、と心に幸せが満ちる。純白の花嫁衣装を纏う時には、もう最高に幸せだろう。前の生から恋人同士だった二人を、神様が結び合わせてくれる日。
 その日が来るのが待ち遠しい。真っ白な衣装で、ハーレイと愛を誓い合う日が。
 白も素敵、と結婚式を思い描いた後に書かれていた赤。幸せの色の九番目。
(ぼくの瞳の色…)
 それしか思い付かないけれども、幸せな色ではあるらしい。こうして書かれているのだから。
(ハーレイが幸せになってくれるといいな…)
 ぼくの瞳の色の赤で、と自分の瞳に感謝した。恋人に幸せを感じて貰える色で良かった、と。



 幸せの色は十番目までで、最後の色は黄緑色。春の訪れを告げる芽吹きの緑。いい季節だな、と誰もが幸せになりそうな色で、選ばれる理由は充分だけれど。
(褐色は…?)
 ハーレイの肌の色の褐色、それに瞳の色の鳶色。どちらも表に入っていない。もしかしたら、と女性の方の表を眺めても、書かれていない褐色と鳶色。
 今の自分も、前の自分も、幸せになれる色なのに。褐色も鳶色も大好きなのに。
(どうして入っていないわけ?)
 酷い、と記事を読み進めてみた。何処かに書かれていないかと。表には無くても、記事の方には詳しく色々載っているかも、と。十五番目とか、二十番目くらいまで、と。
 けれど無かった、あの表の続き。代わりに解説がくっついていた。
(ほんの一例…)
 幸せの色は、何処で統計を取るかで変わってくるらしい。同じ地球でも、同じ地域でも、人間は大勢いるのだから。全員に訊いたわけではないから、その時々で。
 ただ、色々な人が調べたデータを比較してみると、順位はともかく、ピンクと暖色系の色が多い傾向があるという。幸せの色を尋ねたら。
 男性も女性も選ぶらしいのが、ピンクと暖色系の色。幸せの色はこの色だ、と。



 必ず一番と限ってはいない、幸せの色のピンク色。とはいえ選ばれることが多い色がピンクで、暖色系の色も選ばれやすい。男性であっても、女性であっても。
(ぼくの場合は…)
 どうなんだろう、と考えながら帰った部屋。空になったお皿やカップをキッチンの母に返して、戻った二階の自分のお城。勉強机の前に座って、頬杖をついて考え事の続き。幸せの色は、と。
 今の自分なら、褐色と鳶色。ハーレイと直ぐに結び付く色。
 時の彼方の前の自分なら、シャングリラの白と地球の青。世界の全てを乗せていた船、恋をして幸せに暮らしていた船。シャングリラの白は幸せの色で、あの船で目指した地球の青もそう。
 もちろんハーレイの色だって。褐色と鳶色も、前の自分の幸せの色。
 どれもピンクとも暖色系とも違うけれども、幸せの色はこれだと言える。褐色と鳶色、白と青。欲を出すなら金と緑も。ハーレイの髪の色の金色、前のハーレイのマントの緑。
 幸せの色の半分はハーレイ、半分以上とも言えそうな自分。幸せの色はハーレイの色。
(ハーレイだったら…?)
 どうなるのだろうか、幸せの色は。ハーレイが「これだ」と考える色は。
(ぼくの色、ちゃんと入ってる…?)
 瞳の赤とか、髪の銀色。ハーレイが思う幸せの色に、自分の色はあるのだろうか?
 さっきの表だと赤が入っていたのだけれども、あくまで一例。統計によって変わってくる色。
(赤は暖色系だけど…)
 選ばれやすい暖色系の赤。銀よりは望みがありそうだけれど、ハーレイにとっての幸せの色とは限らない。もっと他の色がいいかもしれない、それこそピンク色だとか。
(ぼくの色の中にピンクは無いよ…)
 今の自分も、前の自分も、縁の無いピンク。唇の色が辛うじて桜色なだけ。ピンク色よりも薄い桜色、頬っぺたの色も似たようなもの。
(ぼくの色、無かったらどうしよう…)
 ハーレイが幸せを感じる色たちの中に、自分の色が一つも無かったら。銀色も赤も、他の色も。
 そういうことだって無いとは言えない、決めるのはハーレイなのだから。



 かなり心配になってきた色。ハーレイにとっての幸せの色。
(どんな色なの…?)
 その中にぼくの色はあるの、と悩んでいる内に聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、思い切って訊いてみることにした。それが一番早いから。
 テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイ、好きでたまらない鳶色の瞳。幸せの色を湛えた瞳を見詰めて、投げ掛けた問い。
「あのね、幸せの色ってなあに?」
 幸せに色があるとしたなら、どういう色が幸せの色?
「ほほう…。珍しい質問だな。幸せの色か」
 それならピンクだ、幸せの色はピンクだろうが。
「えっ、ピンク!?」
 そんな、と悲鳴を上げそうになったハーレイの答え。自分には無いピンク色。
 まさかハーレイもピンクだったなんて、と愕然とした幸せの色だけれども。
「違うのか? ピンクというのが多いと聞いたが」
 統計を取ると必ずと言っていいくらいにだ、ピンクが入ると聞いたんだがな…?
「それは読んだよ、新聞で!」
 ホッとした余りに、八つ当たりじみた口調になってしまった自分。これじゃ駄目だ、と分かっているから、慌てて直した子供っぽい態度。幸せの色について話したいのに、喧嘩になったら不本意だから。不幸せの色は欲しくないから。
 こういう記事を読んだんだよ、と幸せの色の例を順番に挙げた。ピンクでオレンジ、と。十番目だった黄緑色まできちんと並べて、それから質問。ハーレイの幸せの色はなあに、と。



「ふうむ…。俺にとっての幸せの色か」
 それならピンクというわけじゃないな、いや、ピンク色も入りはするんだが…。
 一番に浮かぶのはピンクなんだが、俺が幸せになれる色ってことなら、お前の色だな。ピンク色より、そっちがいい。…お前が持ってる色の方が。
「ぼくの色って…。やっぱり赤色?」
 新聞記事にも載ってた色だし、暖色だし…。ぼくの瞳の赤色がいい?
「赤もそうだが、銀色もそうだ。お前の髪の色の銀色」
 前のお前も入れていいなら、紫も幸せの色なんだろうな。前のお前のマントの色だし。
「そうなの?」
 赤で銀色で紫になるの、ハーレイの幸せの色っていうのは?
 ピンク色が一番に浮かんで来たって、ぼくの色の赤とか銀色になるの…?
「当たり前だろうが、俺はお前が好きなんだから。恋人の色が俺の幸せの色だ」
 そう言うお前はどうなってるんだ、幸せの色は何色なんだ?
「ハーレイの色だよ、決まってるでしょ」
 だけど、新聞にあった幸せの色には入ってなくて…。ぼくの幸せの色の、ハーレイの色。
 それで心配になっちゃったんだよ、ハーレイの幸せの色はどうだろう、って。
 ハーレイの幸せの色の中には、ぼくの色は入っていないのかも、って…。
「なるほど、そう思ったから怒ってたんだな、俺がピンクと答えた時に」
 俺の幸せの色はお前の色じゃないらしい、と早合点して。お前、ピンクじゃないからな。
 心配は要らん、俺だってお前と全く同じなんだから。幸せの色はお前の色だし、ピンクはただのイメージってヤツだ。漠然と幸せの色を考えた時に浮かぶ色。お前は何色になるんだ、そこは?
「えーっと…。ぼくも最初はピンクだったよ、新聞を読んで考えた時…」
 なんでピンクが一番なの、って驚いたけれど、ぼくの頭の中にもピンク。…ピンクのハート。
 ごめんねハーレイ、それを忘れて怒っちゃって。
「ほらな、お前もピンクだろうが。…ありがちなんだな、幸せの色にピンクはな」
 謝らなくてもかまわないんだぞ、俺の答えも悪かったんだし…。話をきちんと聞くべきだった。どういう意味の質問なのかを、考えて答えるべきだったんだ。
 ん…?
 待てよ、幸せの色でピンクってか…。問題は色で、其処へピンクで…。



 そういう話をずっと昔にしたような…、と考え込んでいるハーレイ。腕組みをして。
「幸せの色はピンクなんだが、そいつはどうかという話で…」
 変だな、幸せの色が何色だろうが、別にかまわないと思うんだが…。人によって違うのは普通のことだし、俺とお前でも違うんだしな?
 俺はお前の色で幸せになれるし、お前は俺の色だと言うし…。世の中、そんなものなんだが。
「誰かピンクに文句を言ったの?」
 そんなの、どうでもいいのにね。幸せの色は幸せの色だよ、それ、いつの話?
「お前と会ってからではないなあ、もっと昔の話の筈だ」
 はてさて、あれは何処だったんだ…?
 俺の友達に、そんなに心の狭いヤツらは一人もいそうにないんだが…。
 そうなると今の俺じゃないのか、前の俺なのか…?
 だが、前の俺でピンクって…。それに文句をつけるヤツらがいたって状況、有り得るのか?
 シャングリラだと話題になりそうもないが…。幸せの色はともかく、ピンクを巡って頭を悩ますことなんかはな。あの船じゃ、たかが幸せの色くらいのことで…。
 …いや、違う。それだ、シャングリラだ!
「シャングリラ?」
 あの船で問題になりはしないでしょ、幸せの色がピンクだろうが、別の色だろうが。
 似合っていない、って笑われる程度でおしまいになると思うんだけど…。前のハーレイに薔薇のジャムが似合わないって言われていたのと同じ。クスクス笑って、それでおしまい。
「そいつが誰かの幸せの色のイメージならな」
 ゼルがピンクだと主張したとか、前の俺とか、それなら笑われて終わりだったろうが…。
 そうじゃないんだ、ピンクは船の色だったんだ。
 覚えていないか、シャングリラの色の候補ってヤツだ。前の俺たちの白い鯨の。
 危うくピンクになりかけたんだぞ、お前、忘れているようだがな。
「…ううん、思い出した…」
 最初から白い鯨じゃなかったっけね、そのイメージじゃなかったんだっけ…。



 そうだった、と蘇って来た遠い遠い記憶。シャングリラがまだ白い鯨ではなかった時代。
 今のままでは駄目だと皆が考えた、船での生き方。人類から奪った物資に頼るようでは、未来は創り出せないから。自分たちの力で生きられなければ、一つの種族とは言えないから。
 船の中だけで全てを賄い、自給自足の生活をする。それが理想で、そうしなければと。
 そして決まった、シャングリラを丸ごと改造すること。今の船とは全く違ったミュウの箱舟に。形も、船の性能さえも。…元の船の使える部分は生かして、他の部分は一から作っていって。
 それまでのゼルやヒルマンの研究成果を盛り込んだ船。すっかり生まれ変わる船。
 完成すれば独特のカーブを描くであろう優美な船体、鯨を思わせる船の設計図が出来上がった。ミュウが持つサイオンを使ったシステム、シールドやステルス・デバイスとの兼ね合いで鯨。
 最大限の効果を発揮するには、鯨に似た船体が最適だった。人類の船とは外見からして全く別の種類の船が。人類が見たなら、非効率だと思いそうな姿をしている船が。

 設計図を前にして開かれた会議。こういう船に生まれ変わる、と説明したゼル。会議の席には、いつもの六人。ソルジャーだった前の自分と、キャプテンのハーレイ、長老のゼルたち。
「それで、船体の色なんじゃがな…」
 ヒルマンとも何度も話し合ったんじゃが、暗めの色がいいじゃろう。
 宇宙空間で目立たないような色にすべきじゃ、人類に発見されんようにな。
 迷彩色にするという方法もあるし、どういう色にするべきか…。それを早めに決めておかんと。
 これだけのデカイ船となったら、塗料も大量に要るんじゃから。
「今、ゼルが言った通りだよ。塗料の量も馬鹿にならない」
 早い間に決めて準備を進めないと、とヒルマンも言った。資材の調達が必要だから。
「あんたらの言うことは分かるんだけどさ。でもねえ…。どうせ見えないじゃないか」
 ステルス・デバイスを稼働させたら、船は見えなくなるんだろ?
 見えてないのに、暗めの色だの迷彩色だの、そんなので塗る意味があるのかい?
 何色にしてもいいじゃないか、と言い出したブラウ。
 どんな色を塗ってもかまわないのだし、ハッピーなピンクでもいいくらいだ、と。
「ピンクじゃと!?」
 何を言うんじゃ、この船をピンクに塗るんじゃと…?
 ピンクというのはピンク色じゃな、とゼルの声が震えているのに、ブラウは涼しい顔だった。
「そうだよ、ピンクの水玉模様でもいいくらいだよ」
 ピンクはハッピーな気分になるしね、水玉模様もハッピーでいい感じだよ。
 見えやしないんだし、うんとハッピーなピンクにするのもいいと思うけどねえ…?
「…わしは、そんな船は御免じゃぞ」
 ハーレイ、お前はどう思うんじゃ。キャプテンじゃろうが、ピンク色の船でも気にならんのか?
「私も勘弁して欲しいのだが…」
 いくらなんでも、ピンクは酷い。…幸せなイメージの色かもしれんが、船にその色は…。
 ピンク色をした船のキャプテンには、私もなりたくないのだが…!



 ハーレイの丁寧な言葉遣いが崩れたくらいに、衝撃的だったピンク。前の自分の前では敬語で、けして崩しはしなかったのに。
 よほどピンクが嫌だったのだろう。全体がピンクに塗られている船、それのキャプテンを務めることが。キャプテンは船の代表だから。持ち主ではなくても、責任者だから。
 ハーレイを慌てさせたくらいに、とんでもなかったピンク色。いくらハッピーなピンク色でも、船の色としてはどうなのか。ピンク色をした巨大な鯨の宇宙船は。
 けれど、ブラウの言う通り。船を何色に塗ったとしたって、見えないことは確かに事実。新しい船に搭載されるステルス・デバイス、それを使えば近付くまで発見出来ないのだから。
「…ピンクは嫌じゃが、何色でもいいというわけか…」
 暗い色だの迷彩色だのと、隠す方へと考える必要は無いんじゃな。わしも失念しておった。
 何色にしようが、確かに見えはしないんじゃった。よほど近付かない限りはのう…。
「そういうことなら、地球の青でもいいんだね」
 ぼくはピンクよりも青がいいかな、と前の自分が考えた青。
 物資を奪いに出掛けた時に、青い宇宙船にも出会っていたから、地球の色の青も素敵かも、と。
「そういうことだね、青もいいだろう。しかし…」
 何色でもいいということになれば、皆の意見も訊いてみないと、とヒルマンが髭を引っ張った。
 船の命運を左右しないのなら、こういう会議で決めなくても、と。
「私もそれに賛成ですわ。皆、この船で暮らすのですから」
 自分が好きな色の船が一番でしょう、とエラも言ったから、取ることになったアンケート。船の仲間は誰でも一票、新しい船に相応しい色を。
 どんな色でもかまわないから、と船の完成図を食堂に貼って、皆に配られた投票用紙。鯨の姿に似たシャングリラには、どういう色が似合うかと。これだと思う色を一つ、と。



 食堂の壁に貼られた船の完成図は、様々な角度で描かれていた。見れば見るほど鯨の姿。本物の鯨は宇宙を泳げはしないのに。海が無ければ生きられないのに。
 船の仲間たちは完成図を見ては、賑やかに話し合っていた。鯨らしい色にするより、洒落た色の船がいいだとか。宇宙で映える色がいいとか、それよりも地球の青だとか。
 投票期間が終わった後に、いつもの会議で開けてみた箱。投票用紙を次々に開いて確認したら。
「なんだ、ピンクは無いのかい?」
 一人もピンクと書いちゃいないよ、そりゃ、あたしだって書かなかったけどさ…。
 ハーレイのあんな顔を見ちまった後じゃ、遠慮するのが筋ってもんだし。
 でもさ、一人くらいはいたっていいと思うんだけどねえ、ハッピーなピンク。
 あの色の何処がいけなんだい、とブラウは不満そうだったけれど。
「内装ならともかく、外側じゃぞ?」
 センスの問題というヤツじゃろうが、皆、真剣に考えたんじゃ。ピンクはいかん、と。
 しかし意外じゃな、白がトップになるとはのう…。
 平凡なんじゃが、とゼルが首を捻った白という色。宇宙船にはありがちな色。
 けれども、白は宇宙では映える。恒星の側を飛んでいたなら、白く輝く船になるから。
 ステルス・デバイスを使っていたなら、その美しさは見えないけれど。宇宙の暗さに溶け込んだままで、何処からも見えはしないのだけれど。



 圧倒的に多かった白という意見。そう書かれている投票用紙。
 会議室のテーブルに並んだ白を推す紙を見ながら、「そういえば…」とエラが口を開いた。
「白い鯨の話がありましたね。とても大きな白い鯨の」
 SD体制が始まるよりも、ずっと昔に書かれた小説。…人間が地球だけで暮らしていた頃に。
 とても有名だったそうです、「白鯨」というタイトルで。
「ふうむ…。私も読んだよ、あの話なら」
 もっとも、本当に白い鯨がいたかどうか…、とヒルマンも知っていた小説。遥かな昔に綴られたもの。白い鯨と戦い続ける船員たちの物語。その頃は捕鯨船で鯨を狩っていた時代だから。
 ヒルマンが言うには、白い鯨は多分、創作。アルビノの鯨は長く生きられないだろうから。
 けれど、小説の白い鯨は巨大な鯨で、人間よりも強かった鯨。戦いを挑んだ人間の船は、壊れて海に沈んでいった。助かった者はただ一人だけで、小説の語り手は生き残りの男。
「へえ…! 人間の船を沈めちまうのかい、白い鯨は…!」
 あたしたちの船にピッタリじゃないか、この船で地球を目指すんだからさ。
 いつかは戦う時も来るだろ、人類軍の船ってヤツと。そいつを沈めてやらなくっちゃ。
 白い鯨みたいに強い船がいいね、とブラウは白へと意見を変えた。ピンクだと言い出して投票をさせた、張本人の宗旨替え。
 鯨の形の宇宙船なら、白い色がいいと。強そうな白い鯨にしようと。



 ブラウが意見を変えた後には、ゼルも続いた。同じ鯨なら、強い鯨の白が良さそうだと。白鯨の話を知っていたヒルマンとエラに異存があるわけがないし、前の自分もいいと思った。
 白に投票した仲間たちは其処まで考えたわけではないだろうけれど、白がトップで、白くて強い鯨の話があるのなら、と。
 ハーレイも反対しはしなかったし、ゼルなどはすっかり御機嫌で。
「白い鯨じゃな、うんと目立つ色もいいからのう。見えないとなれば、どんな色もアリじゃ」
 誰も投票してはおらんが、金色に輝いていてもいいくらいじゃぞ。
 ヒルマン、金色の鯨というのはおらんのか?
 そいつが白より強いんじゃったら、金色も悪くはなさそうじゃがな。
「ちょいと、やりすぎだよ、金色ってのは。ピンクの方がまだマシってもんだ」
 キンキラキンの船よりは、ハッピーなピンクだよ。あたしは断然、そっちを推すね。
 でもピンクよりも白だけどね、と白がお気に入りになっていたブラウ。白鯨の白、と。
 ブラウがピンクと言わなかったら、きっと無かっただろう投票。船の色はゼルとヒルマンの提案通りに、暗い色になっていただろう。そうでなければ迷彩色に。
 宇宙で少しも目立たない色、まるで本物の鯨のように。ステルス・デバイスを稼働させなくても見えにくかったろうシャングリラ。
 同じ形でも、違って見えたに違いない。前の自分たちが暮らした白い鯨とは。



 そうして白にすると決まったシャングリラの色。仲間たちの投票で決めた通りに、白く塗られた新しい船。自給自足で生きてゆける船、ミュウの箱舟。
 白い鯨はそうやって生まれたのだった、とハーレイのお蔭で思い出せた。
「シャングリラ…。ホントだ、ピンクになるトコだったんだっけね」
 どうせ見えないから、ってブラウが…。
 まさか本当にピンクに塗りはしなかっただろうけど、ブラウがピンクって言わなかったら、白い鯨になってはいないね。投票は無しで暗い色になったか、迷彩色で。
「そういうこった。白い鯨にはならなかったぞ、ゼルとヒルマンの意見が通って」
 前の俺にしても、それが正しいと思っただろうし…。見付かったら駄目な船なんだから。
 とはいえ、俺も忘れていたんだがなあ、白になる予定じゃなかったことを。あの船で長年暮らす間に、すっかり慣れてしまっていて。…シャングリラは白い船なんだ、とな。
 だが、冷静に考えてみれば、あの色は目立ち過ぎなんだ。暗い宇宙じゃ白は目を引く。
 ちゃんと分かってはいたんだが…。ナスカでも姿を消していたんだぞ、何も来なくても。
 ステルス・デバイスのオーバーホールが必要になった時には焦ったもんだ。普段だったら、特に心配いらないんだが…。予備のシステムが使えるんだが、あの時は違った。デバイス・システムを完全に止めなきゃ出来んと言われて、生きた心地もしなかった。
 止めちまったら、船は丸見えになるんだし…。万一ってこともあるんだからな。
 それでも思いはしなかったんだよな、「なんだって白にしたんだ」とは。
 人類軍の船の中には、暗い色のも迷彩色のもあったのになあ…。



 シャングリラは白いものだと思い込んでいたんだな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 他の色は思い浮かばなかったと、塗り替えようとも思わなかった、と。
「それだけ馴染んだ色だったんだな、あの船の白は」
 ついでに気に入りの色だったわけだ、キャプテンとしても。…目立ち過ぎる白い鯨でもな。
「ハーレイ、あの船、人類軍は確か…」
 白い鯨の名前で呼んでいたんだよね?
 前のぼくは直接聞いてはいないけれども、エラが言ってた小説の鯨。
「そうさ、人類軍のヤツらが付けてた名前はモビー・ディックだ。白い鯨だ」
 もっとも、そいつを傍受したって、俺は全く思い出しさえしなかったんだが…。
 シャングリラが白い理由はそれだと、まさしくモビー・ディックだとはな。
 …人類軍のヤツら、縁起でもない名前を付けていやがったんだな、モビー・ディックと戦ったら負ける筋書きなのに…。船は沈んで、一人だけしか生き残らないっていう結末なのに。
「勝てる自信があったんじゃないの? 小説のようにはならないぞ、って」
 でも、シャングリラの色、白にしておいて良かったね。白い鯨だからモビー・ディック。
 もしもピンクの鯨だったら、そういう名前になっていないよ。人類軍が呼ぶ時の名前。
「ピンクの鯨か…。そんな小説、多分、今でも無いんだろうな」
 小さな子供向けの絵本だったら、ピンクの鯨もいそうだが…。きっと可愛い名前なんだぞ、白い鯨とは違ってな。
 しかし、人類軍のヤツらが可愛い名前をつけてくれるとは思えんし…。
 それよりも前に、悪趣味な船だと思われたかもなあ、巨大なピンクの鯨ではな。
 キャプテンの俺でも恥ずかしくなるようなピンク色では、どんな名前でも文句は言えん。いくら幸せの色だと言っても、ピンクの鯨は俺は嫌だぞ。



 ピンクにされなくて本当に良かった、とホッとしているらしいハーレイ。ピンク色にはならずに済んだシャングリラ。遠く遥かな時の彼方で、ブラウが「ハッピーな色」と言っていたピンク。
 思いがけなく蘇った記憶、シャングリラの白と幸せのピンクが思わぬ所で繋がった。ハーレイと新聞記事のお蔭で、思い出せたシャングリラが白かった理由。
「ハーレイ、今でもピンクのシャングリラは嫌みたいだけど…」
 幸せの色はピンクなんでしょ、シャングリラの白も幸せの色?
 前のぼくの上着も白だったけれど、白もハーレイの幸せの色の仲間入り…?
「そうだな、シャングリラの白も、前のお前の上着の白もいいんだが…」
 別の白もいいなと思い始めたな、幸せの色。
 今の俺ならではの幸せの色で、もう最高に幸せな白。
「なあに?」
 どんな白なの、今のハーレイが幸せになれる白い色って…?
「決まっているだろ、お前の花嫁衣装の色だ」
 ウェディングドレスか、白無垢なのか、どちらを着るかは決まってないが…。
 お前、真っ白なのを着るだろ、俺と結婚する日には。
「そっか、ウェディングドレスの白…!」
 白無垢だって真っ白だものね、綿帽子もベールも白いよね。
 記事を読んでた時に考えたくせに、忘れちゃってた。最高に幸せな日に着る色なのに…。



 純白に輝く花嫁衣装。ウェディングドレスにベールを被るか、白無垢を着て綿帽子か。
 晴れの日の白に身を包んだら、お嫁に行く。
 遠い昔に前のハーレイと恋をしていた船の色を纏って、今のハーレイの所へと。
「お嫁さんの白…。白は今でも幸せの色だね」
 シャングリラで幸せだった頃と同じで、今も幸せの色なんだね。
 ピンクも幸せの色だけれども、白もとっても幸せな色。
「そうだな、前の俺たちの頃から変わらんなあ…」
 前のお前の色、俺は紫だと言ってたが…。白もお前の色なんだよなあ、昔も今も。
 お前の肌は真っ白なんだし、そいつを忘れちゃいかんな、うん。
 でもっていつかは白い車にするんだっけな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 今の俺の車の次のヤツは、と。
「うん、ぼくたちのシャングリラだよね!」
 ハーレイが運転してくれる車で、二人だけで乗るシャングリラ。
 今の車の色も好きだけど、買い換える時は白い車にしたいって言ってたものね、ハーレイ…!



 本物のシャングリラは時の流れが連れ去ったけれど、今は残っていないけれども。
 今度も白いシャングリラに乗ろう、白い鯨ではないシャングリラに。
 前のハーレイのマントの色をしている車が、役目を終えて去ったなら。
 買い換える時がやって来たなら、白い車に買い換えて。
 ハーレイと二人、またシャングリラに乗ってゆく。
 そういう名前の白い車に、二人きりでドライブに行ける車に。
 幸せの色はピンクだけれども、白も最高に幸せな色。
 白い花嫁衣装を纏った後には、いつか真っ白なシャングリラに乗って走ってゆけるのだから…。




           幸せの色・了


※ブラウがピンクと言わなかったら、白いシャングリラは生まれていなかったのです。
 暗い色になったか、迷彩色か。投票で白に決まったのですけど、今の生でも白は幸せの色。
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(コーヒーフェアか…)
 ハーレイが手に取り、眺めたチラシ。ブルーの家には寄り損なった日、夕食の後で。
 夕刊に入った折り込み広告、百貨店での特別企画。あちこちの星から集めたコーヒー、もちろん地球産のコーヒーだって。
 コーヒーの木の写真まで載せて、購買意欲をそそる仕掛けだけれど。明日から一週間の企画で、催事用のホールを丸ごと使うらしいのだけど。
(まるっきり縁が無いってな)
 コーヒー党のくせに、と浮かべた苦笑い。コーヒーと紅茶、どちらが好きかと尋ねられたなら、迷わずコーヒーと答える自分。現に今だって、テーブルの上にコーヒーを満たしたマグカップ。
 以前だったら、いそいそ出掛けて行っただろう。試飲が出来るコーナーもあるし、物珍しさで。他の星から来たコーヒーの味はどうかと、たまにはそういう豆もいいかと。
(地球のにしたって…)
 普段はお目にかかれない物もあるだろう。それも豊富に。どれを買おうか迷うくらいに。
 けれど、無くなってしまった御縁。高い豆でも相手はコーヒー、手が出ないほど小遣いに不自由してはいないのに、行っても仕方ないコーヒーフェア。
(あいつに出会ってしまったからなあ…)
 前の生から愛した恋人、十四歳にしかならないブルー。小さなブルーはコーヒーが苦手で、前のブルーもそうだった。「何処が美味しいのか分からないよ」と嫌がるコーヒー。
 時間がある日は、小さなブルーに会いに行くのが常だから。ブルーの家を訪ねてゆくから、街に出掛けてはいられない。百貨店に行くより、ブルーの家。
 ブルーもコーヒー好きだと言うなら、土産に買う手もあるけれど。今日のように学校を出るのが遅れた日などに、街へと車を走らせて。
(だが、土産にもならないんだ…)
 土産話にも出来やしない、とコクリと飲んだ熱いコーヒー。今の自分にはこれで充分だと、街に出掛けてまで珍しい豆は要らないと。



 そうは思っても、コーヒー党には違いない。コーヒー豆より恋人の方を選ぶけれども、気になるコーヒーフェアの文字。小さなブルーに出会う前なら、きっと飛び付いただろうから。
(俺しか飲めんというのがなあ…)
 前はともかく今度もなんだ、と零れる溜息。生まれ変わってもコーヒーが苦手な、愛おしい人。
 この状況ではコーヒーフェアに出掛けて行っても仕方ない。無駄に時間を取られるだけ。いつかブルーと結婚したなら、「ちょっと付き合え」と引っ張って行ってもいいだろうけれど。
 いくらブルーは飲めないと言っても、やめる気などは無いコーヒー。毎日必ず飲むだろうから、コーヒー豆だって買いにゆく。だから、たまにはコーヒーフェア。試飲出来ないブルーを連れて。
(嫌そうな顔はするんだろうが…)
 興味津々でもあるだろうブルー。こんな飲み物の何処がいいのか、と他の客たちの観察もして。
 そういう日まではお預けだな、とチラシをテーブルに置いたのだけれど。
(…待てよ?)
 俺の事情は大きく変わったんだった、と再び手に取った百貨店のチラシ。今の自分は前に比べて中身がグンと増えている。キャプテン・ハーレイの記憶が戻って、加わったから。
(今の俺ならではの発見もあるか?)
 同じコーヒーフェアのチラシでも、前の自分の記憶が戻った今ならば。
 ただの嗜好品であるよりも前に、コーヒーの価値が全く違う。白いシャングリラではキャロブのコーヒー、本物ではなくて代用品。イナゴ豆で出来ていたコーヒー。
 人類の船から物資を奪っていた時代ならば、本物のコーヒー豆だったけれど。



 コーヒー自体が値打ち物だった、と前の自分になったつもりで眺めたチラシ。さっきより輝いて見える気がする、本物のコーヒーばかりのチラシ。
(コーヒー豆だというだけで値打ちが出るからなあ…)
 何度懐かしく思っただろうか、あの船で。キャロブのコーヒーを口にしながら、本物のコーヒー豆があった時代を。カフェインを加えて作る代用品とは違った深みのある味を。
 こだわりの豆など無かったけれども、本物を懐かしんでいた。また飲めたら、と。
 あの頃の自分の目で見たチラシは、夢の世界を見ているよう。どれも本物ばかりのコーヒー。
(おまけに地球産と来たもんだ)
 今でこそ見慣れた数々の銘柄、けれども前の自分は知らない。地球産を謳ったコーヒー豆など、前の自分が生きた頃には無かったから。
(てっきり、貴重品だとばかり…)
 前のブルーが奪ったコーヒー豆の中には無かった地球産。希少な豆だから、手に入らないのだと信じていた。人類の聖地だった地球。其処で採れるだろうコーヒー豆は、普通の輸送船で運ぶには価値が高すぎるのだと。…地球産の作物ばかりを扱う輸送船、そういう船があるのだろうと。
 まさか、その地球が無いとは夢にも思わなかった。
 白いシャングリラで辿り着くまで、赤茶けた死の星を目にするまでは。



 無くて当然だったんだ、と今だからこそ分かる地球産。蘇った青い地球で育ったコーヒー豆。
 沢山あるな、と見ていった後は、他の星から来たコーヒーたち。多分、その星の自信作。
(アルテメシアにノアか…)
 前の自分も飲んだ筈なのに、まるで覚えていない味。飲みたいと願った本物のコーヒーだったというのに、感動すらも覚えなかった。
 ブルーを失くした後だったから。地球を目指しての旅の途中で、陥落させた幾つもの星。其処で出されたコーヒーの味は、もはやどうでも良かったから。
 何を食べようが何を飲もうが、栄養補給をしていただけ。シャングリラを地球まで運ぶために。ブルーが遺した言葉を守って、ジョミーを支えてゆくために。
 だから興味も無かったコーヒー、味も銘柄も知るわけがない、と思ったけれど。
(ん…?)
 これは、と目を引いたノアのコーヒー。数量限定の特別輸入。
 わざわざ枠で囲まれたそれは、キースが飲んでいたコーヒーだという。銘柄は「マツカ」。
(うーむ…)
 そんなものが存在していたのか、と唸ってしまった、伝説の国家主席の御用達。キースが好んだ味のコーヒー、いつもマツカが淹れていたもの。
 ノア産のコーヒー豆のブレンド、それが「マツカ」というコーヒー。もちろん後から付けられた名前、キースが国家主席だった頃には名前も無かったマツカのコーヒー。



(キース好みのコーヒーなあ…)
 添えられている説明文。国家主席になるよりも前から、キースはこれを好んだらしい。マツカに命じて淹れさせていた味、他の者たちが淹れたコーヒーでは駄目だった、と。
 キースもマツカもいなくなった後、マツカが遺した記録のお蔭で分かったブレンド。どんな豆をどうブレンドしたのか、豆の種類や割合などが。
 マツカは細やかに気を配り続け、そのブレンドを完成させた。キースが「美味い」と思ったろう味、それをきちんと覚えていて。この豆の味が好きなようだと、この割合で混ぜてみようと。
 キースは多分、言葉にもしていなかったろうに。「美味い」とも、それに「不味い」とも。
 顔にも出してはいなかったろうに、マツカが作り上げたブレンド。キースのためにと、いつでも美味しいコーヒーを飲んで貰えるようにと。
(心も読まずに、よくやったもんだ)
 あんな男の好みなんぞを掴むのは大変だっただろうに、と思い浮かべたマツカの顔。前の自分は会っていないけれど、今の自分は何度も写真を見ているから。
 キースは今も嫌いだけれども、マツカのことは嫌っていない。トォニィが殺してしまった仲間。人類の世界で生きていたミュウ。
 キースがSD体制に反旗を翻した理由の中には、マツカの存在もあっただろうから。記録は何も無いのだけれども、誰もがそうだと考えている。マツカの存在は大きかった、と。
 コーヒー豆をブレンドしていたほどだし、マツカは本当にキースのために心を砕いたのだろう。見えない所まで心を配って、キースの世話をしていたのだろう…。



 今の時代まで伝わるブレンド、「マツカ」と名付けられたノア産のコーヒー。キースが好んだ、マツカがブレンドしていたコーヒー。それを見付けたということは…。
(ブルーに教えてやれってことか?)
 このコーヒーの存在を。ノア産のコーヒーのブレンドの一つ、マツカの名前を持ったコーヒー。遠く遥かな時の彼方で、キースに仕えた心優しいミュウの名前を。
 キースを庇って命を落とした、人類の世界で生き続けたミュウ。キースの元から逃げ出さずに。その気になったら、逃げる機会はきっと何度もあっただろうに。
 キースを選んで、ついて行こうと決めたのがマツカ。命ある限り。キースは人類だったのに。
 マツカがキースを嫌わなかったように、ブルーもキースを嫌わないから。どちらかと言えば好きらしいから、コーヒーの「マツカ」を知ったら喜ぶことだろう。
 「キースがいい人だったからだよ」と、「だからマツカも頑張ったんだよ」と。
 教えてやったら、喜ぶに違いないブルー。キースが好んだコーヒーの「マツカ」。
(なんだって、俺が…)
 キースは今でも嫌いなんだが、とチラシを睨み付けてみたって、気付いたものは仕方ない。このコーヒーを小さなブルーに教えてやるのが自分の役目。忌々しいけれど、買いに出掛けて。
(人気商品だろうしな…)
 その上、数量限定となれば、勤務時間中に抜け出すしか道は無いだろう。週末ともなれば朝から人が並ぶだろうから、確実に手に入れたいなら平日がいい。
 なんとか外へ出る用を作って、百貨店の開店時間に合わせて。明日から始まるフェアの期間に、マツカという名のコーヒーを買いに。



 心でそういう段取りをつけて、次の日、出勤してみたら。丁度、街まで出られそうな者を探していたから、名乗り出た。午前中に担当の授業が無い上、車も持っているのだから。
 「私が行きます」と引き受けた用事、ついでに休憩時間も貰えた。午前中はゆっくりしてくれていい、と。用件自体は、それほど時間がかからないのに。
 願ってもない外出の機会。昨日の今日とは運がいい。出掛ける先も百貨店から近かった。
(先にこっちを済ませるべきだな)
 コーヒーを買おう、と百貨店の駐車場に車を入れて、急いだ売り場。催事用のホールに行列中の客たち、並んだ後に二人が続いた所で「此処までです」と店員の声。
(凄い人気だな…)
 のんびり来ていたら買えなかったぞ、と驚くほどの人気の「マツカ」。果たして人気はマツカの名なのか、それを好んだキースの方か。
(どっちなんだか悩むトコだが、知りたくもないな)
 殆どの客がキースのファンなら、情けない気分になるだろうから。「俺もそういう扱いだな」と溜息が心に満ちるだろうから。
 キースとマツカのファンが半々、マツカのファンが多めなのだ、と自分を慰める間に来た順番。
(これか…)
 残り三個になっていた「マツカ」、同じ店が扱う他のコーヒーは山ほど並んでいるというのに。店員が「こちらですね」と示すパッケージに、刷られたマツカとキースの写真。
(こっちが非常に腹が立つんだが…!)
 キースの写真は要らないんだが、と言いたい気持ちをグッと堪えて包んで貰った。買い物の後は学校の用事。そちらは並びもしないで済んだし、休憩はせずに戻った学校。コーヒーは車に残しておいた。持って入って何なのか知れたら、コーヒー党の同僚たちに…。
(味見させてくれ、と言われちまうんだ!)
 それもキースの方のせいで、と断言できる。伝説の英雄が好んだコーヒー、その味を是非、と。マツカがキースのために作ったブレンド、それを飲みたいと。
 誰がキースの宣伝をするか、と知らんぷりを決め込んだ「マツカ」のコーヒー。小さなブルーに話してやるなら、土曜日だろう。きっと飲みたがるに違いないから、ゆっくり出来る休日に。



 土曜日までにブルーの家に寄った日が一度、黙っておいたコーヒーのこと。話したくなる気分を飲み込み、別の話をしておいて。
 そして土曜日、コーヒーの「マツカ」が入った紙袋を提げて出掛けたブルーの家。二階の窓から見ていたブルーは、とうに紙袋に気付いていたから。
「ほら、土産だ。お前用ではないんだがな」
 ブルーの部屋で向かい合わせに座って、テーブルに置いた紙袋。ブルーは「えっ?」と赤い瞳を丸くした。
「ぼくのじゃないって…。パパかママ用?」
 それなら、ママに渡せば良かったのに…。暫く来ないよ、お茶もお菓子も持って来たもの。
 晩御飯の時に渡したいとか、そういう物なら分かるけど…。お酒か何か?
「いや、酒じゃないが…。お前用にと買いはしたんだが…」
 お前の好きな物じゃないのさ、土産に貰っても困りそうな物だ。
 そんな代物を、お前用だと言うのもなあ…。
 だが、開けてみろ。…お前への土産には違いないからな。
「ふうん…?」
 なんだか変なの、貰っても困るお土産だなんて…。
 ぼくの友達、旅行のお土産にヘンテコな物をくれたりすることがあるけど、そういうヤツ?
 こんなのを貰っても使えないよ、って思うカップだとか、変な形のキーホルダーとか。
「あるなあ、そういう土産物ってのも」
 俺も若い頃にはよく貰ったなあ、何処で着るんだって悩む模様のシャツとかを。
 そこまで酷いのを買って来たってわけじゃないがだ、お前には迷惑な物だと思うぞ。



 見れば分かる、と促してやって、ブルーが開けた紙袋。中から出て来た「マツカ」のコーヒー。一番最初に目に入るのは、パッケージの模様でもあるコーヒー豆の写真の方だから。
「なに、これ…?」
 どうして、ぼくにコーヒーなわけ?
 ホントに苦手なお土産だけど…。なんでコーヒー、ぼくにくれるの?
「よく見てみろ。キースとマツカの写真がついているんだ」
 その下に説明が書いてあるだろうが。…そのコーヒーの名前もな。
「ホントだ、キース…。それに、マツカ…?」
 キースの写真がくっついてるのに、コーヒーの名前、マツカなんだ…。キースじゃなくて。
「そうだ、そいつはマツカと言うんだ」
 マツカって名前がついたコーヒー。…マツカが生きてた頃には無かった名前なんだが。
「うん…。そう書いてあるね、キースのために作ったブレンド…?」
 キースが好きだったコーヒー豆のブレンド、それの再現…。だからマツカって言うんだね。
 いつもマツカがブレンドしていて、キースのお気に入りだったから。
「そのようだ。…こんな所に名を残したんだな、マツカはな」
 俺も全く知らなかったが、コーヒーフェアのチラシで見付けた。こういうのがある、と。
 お前に教えてやりたかったし、土産に買って来たってわけだ。
 キース好みのブレンドって所は腹が立つんだが、これを作ったのはマツカだからな。
 …前の俺はマツカには会えずに終わっちまったが、仲間の一人には違いない。
 それにだ、お前、マツカがキースに淹れてたコーヒー、あると知ったら見たいだろうが。
 キースのためにと、ミュウだったマツカが工夫を凝らしたコーヒー豆が。
 お前、キースをちっとも嫌っていないからな。あんな目に遭わされちまったのに…。



 どういうわけだか嫌わないんだ、と顔を顰めたら、ブルーにも気持ちは伝わったようで。
「ハーレイ、キースは嫌いなのに…。今でも嫌いなままなのに…」
 このコーヒーを買ってくれたの、ぼくが見たがるだろうと思って…?
「ああ、学校を抜け出してな。…一応、用事はあったんだが」
 誰か街まで行けるヤツは、と探していたから、俺が出掛けた。この百貨店にも寄れるからな。
「学校のある日に抜け出したって…。そこまでしたの?」
 ホントに用事があったにしたって、街までわざわざコーヒーを買いに…?
「こいつは限定品だったんだ。一日に売る数が決まっているから、帰りじゃ買えん」
 しかし、お前が喜びそうだと思ったからなあ、このコーヒーは。
 …俺の直ぐ後ろで、その日の分は売り切れだったが…。買えて良かったか、このコーヒー?
「うん、嬉しい。…こんなのがあるぞ、って教えてくれるだけでも充分、嬉しかったと思う」
 ハーレイが行くまでに売り切れていても、ぼくはちっとも怒らなかったよ。
 そのコーヒーの本物だなんて、買って貰えて、とっても嬉しい。…マツカのコーヒー。
 だって、キースはマツカを大事にしていたんだな、って分かるもの。
 キースに冷たくされていたなら、コーヒーまで作りはしないでしょ?
 「コーヒーの味がすればいいんだ」って、適当に淹れていたと思うよ、その辺の豆で。
 酷い時にはインスタントで済ませてたかもね、こうしてブレンドする代わりに。
「…やっぱりあいつの肩を持つのか…」
 お前らしいとは思うんだが…。このコーヒーで嬉しくなるほど、キースを高く買ってる、と。
 俺がキースにコーヒーを出すなら、インスタントどころか泥水を出したいほどなんだがな。
「いつも言ってるでしょ、ぼくはキースを嫌いじゃない、って」
 出会った時代と立場が違えば、きっと友達になれた気がするよ。
 ナスカでキースと会った時にも、もっと時間があったなら…。話が出来たら違ったかもね。
 キースは結局、SD体制を壊す方へと行ったんだから。…考え方を変えたんだから。
 考えるための時間さえあれば、ナスカでもキースは変わってた。そういう人間。
 だからキースは嫌いじゃないよ。ホントは誰よりも人間らしくて、優しい人類だったんだもの。
 ミュウだったマツカが、こんなコーヒーを作っていたのが証拠。キースのためにね。



 ハーレイもこれを飲んでみたら、と小さなブルーに勧められた。例の「マツカ」のコーヒーを。
 「きっとマツカの心が分かるよ」と、「美味しいコーヒーだと思う」と。
「おいおい…。俺にこいつを飲めってか?」
 よりにもよってキース好みのコーヒーを俺に飲めと言うのか、コーヒーの名前はマツカだが…!
 しかし、作ったのがマツカだっただけで、この味はキースが好きだった味で…!
 なんだって俺がキースと同じコーヒーを飲む羽目になるんだ、俺はあいつが嫌いなんだが…!
 お前が飲みたがるだろうとは思ったんだが、どうして俺が…!
「でも、このコーヒー、ハーレイのでしょ?」
 ぼくにお土産って言っていたけど、ぼくはコーヒー、苦手なんだし…。
 貰っても美味しく飲めるわけがないし、第一、買ったの、ハーレイなんだよ?
 学校を抜け出して行列に並んで、手に入れた限定品なんでしょ?
 前のハーレイの記憶を持っていなかったとしたら、凄く飲みたいコーヒーじゃないの?
 ハーレイはコーヒーが大好きなんだし、行列が出来るほどの限定品なら飲みたくならない?
「それはそうだが…。そう思ったから、学校でも隠しておいたんだが…」
 ウッカリ持って入って行ったら、「それは何です?」と訊かれちまって、味見されそうで…。
 コーヒー党のヤツらは多いからなあ、開けて飲みたがるに決まってる。なんたってキース好みのコーヒーだからな、伝説の英雄で国家主席の。…どんな味だか知りたいヤツらが押し寄せるぞ。
 そうならないよう、車に乗せておいたんだ。開けられちまったら、土産に出来んし。
「ほらね、キースの好きなコーヒーだから、と思わなかったら平気でしょ?」
 ハーレイだって何も知らない時に誰かが買って来たなら、飲みたがる方。どんな味なのか。
 きっと美味しいに決まってるんだよ、このコーヒー。…飲む人がキースでなくっても。
 美味しくなければ、今まで残る筈がないもの。マツカが作った時のまんまで。
 ぼくも付き合うから、飲んでみてよ。…ぼくにくれたんだし、決めるのはぼく。
 ママに頼んで淹れて貰おうよ、マツカのコーヒー。ね、いいでしょ?
 ちょっと待っててね、ママに頼んでくる!
 ママー!



 コーヒー豆が入った袋を手にして、部屋から駆け出して行ったブルー。階段を下りる軽い足音、母を呼ぶ声。
 暫く経ったら、ブルーは息を弾ませて戻って来た。「コーヒー、ママに頼んで来たよ」と。
 ブルーが母に「淹れて」と頼んだ「マツカ」のコーヒー。中身はブレンドされたコーヒー豆で、それを挽く所から始めるのだから、昼食の後に出て来るらしい。
 コーヒーは苦手なブルー用にと、ミルクや砂糖もたっぷり添えて。甘いホイップクリームも。
「ハーレイ、コーヒー、楽しみだね」
 ママが淹れるコーヒーの味は大好きなんでしょ、それに今日のは特別な豆。マツカのコーヒー。
 行列が出来て、直ぐに売り切れになっちゃうほどだし、凄く美味しいコーヒーだと思う。ママもビックリしていたよ。「こんなコーヒー、あったのねえ…」って。
 キースが好きだったコーヒーの味って、どんなのだろうね、楽しみだよね?
「楽しみって…。お前、コーヒーは苦手なくせに…」
 そいつを楽しみにしているだなんて、お前は本当にキースが好きだな。
 撃たれた挙句に、お前の右手は冷たく凍えてしまったのに…。今でも夢に見るほどなのに。
 せいぜい興味を持つ程度だと思っていたのに、「楽しみ」と来たか。味見よりも上の扱いだな。
 俺としては複雑な気分だが…。キースが好きなお前というのは。
「頑張ったんだよ、キースだってね」
 人類として、出来る限りのことをしようとしただけ。…メギドを沈められないように。
 もしもメギドを壊されちゃったら、ミュウを滅ぼせなくなるし…。それがキースの役目なのに。ミュウを滅ぼして、人類の未来を守ることが。
 そうするのに、ぼくが邪魔だっただけ。…だから撃つしかなかっただけ。
 ぼくを憎いと思っていたって、それはメギドを沈めに来たから。
 ミュウを滅ぼそうと思っていたのも、そういう役目で来たからなんだよ。
 前のぼくもキースも、自分の役目を果たそうとして頑張っただけ。違う立場で、仲間のために。
 ミュウと人類、それぞれの生きる世界を守らなくちゃいけなかったから…。



 残酷なことをしたキースだけれども、それは立場がそうさせただけ、と微笑んだブルー。
 ナスカをメギドで滅ぼしたことも、前のブルーを撃ったことも。
「本当なんだよ、ハーレイだって分かる筈だよ。歴史の授業でも習うんだから」
 キースはメギドを持ち出したけれど、あの時、マツカはとっくにいたよ?
 それよりも前に、キースを助けに一人でナスカに来たんだから。…他の人類は来なかったのに。
 マードック大佐も、マツカを一人で行かせたほどだし、キースを助ける気は無かったのに。
 だけどマツカは、たった一人で…。もしかしたら、自分も助からないかもしれないのに。どんな敵がいるかも分からない所へ、命懸けでキースを助けに来ちゃった…。
 あそこでキースを助けなかったら、マツカは元通り、コッソリ隠れて生きられたのにね。
「それもそうか…。マツカの正体はバレていなかったんだったっけな」
 だからソレイドにいられたわけで、ミュウだと見抜いたキースが消えたら安全なわけか…。
 なのに助けに出掛けたんだな、自分の正体を知ってたヤツを。放っておいたら、それまで通りに隠れて生きていけたのに…。
「でしょ? マツカは気付いていたんだよ。キースがどういう人間なのか」
 自分の役目と関係無ければ、無駄に人殺しはしない人間。本当は優しい人間なんだ、って。
 そのことにちゃんと気付いていたから、一人でナスカに来たんだよ。誰も行こうとしないから。
 キースを助けて逃げた後だって、マツカはキースを守ってた。ホントに必死で。
 前のぼくはメギドで会っているもの、キースを助けに来たマツカに。…マツカが来なかったら、キースは死んでしまっていたよ。前のぼくに道連れにされてしまって。
 …ホントのホントに命懸けだよ、あんな所から脱出するのは。一人だけでも難しいのに、キースまで連れて。それでもマツカはキースを助けに飛び込んで来たよ、躊躇いもせずに。
 どんな人間か分かってなければ、そうはしないと思わない…?
「…なるほどなあ…。ミュウを皆殺しにしようとしたヤツなんだし…」
 血も涙も無い冷酷なヤツだと思っていたなら、助ける必要は無いってか。自分の勝手でメギドに出掛けて行ったわけだし、其処でキースが死んじまっても誰にも責任は無いってわけで…。
 むしろ世の中のためかもしれんな、残党狩りの命令を無視したマードック大佐もいたんだから。
 同じ軍人でも「やりすぎだろう」と思ったくらいのキースのやり口。そんな野郎は死んじまった方がいいんだろうに、マツカが助けたということは…。
 お前が言うのが正しいんだろうな、それでも俺はキースを好きにはなれんがな…。



 小さなブルーの意見を聞いても、憎い気持ちが消えないキース。前のブルーを撃ったから。
 撃たれた痛みで、持っていた温もりを失くしたブルー。前の自分の左腕から、ブルーは温もりをそっと持って行った。何も言わずに、それだけを持って一人でメギドへ飛び去ったブルー。
 温もりがあれば、一人ではないと。最後まで二人一緒なのだと。
(なのに、あいつは独りぼっちで…)
 泣きじゃくりながら死んでしまったと、小さなブルーが話した最期。温もりを失くして、右手が冷たく凍えてしまって。前の自分との絆を失くして、独りぼっちになってしまって。
(いくらブルーが許していても、俺は…)
 あいつを許す気にはなれない、と心の奥から消えない憎しみが凍った塊。許せないキース。
 小さなブルーが何と言っても、それが正しいことであっても。
 前のブルーを独りぼっちにさせてしまった男だから。死よりも恐ろしい孤独と絶望の中で、前のブルーは泣きながら死んでいったのだから。
 けれど、ブルーには何度も重ねて「許せない」と言わない方がいい。ブルーを悲しませることになるから、「ぼくのせいだ」と。「ハーレイに辛い思いをさせてる」と。
 だから飲み込んだ、キースへの怒り。自分一人で抱えておこうと、もう言うまいと。

 それからは二人、和やかに話して、昼食の後に出て来た「マツカ」のコーヒー。普段はブルーの部屋では出ないコーヒー、それが二人分。
 ブルーの母は、豆の袋も持って来た。「残りはお持ちになりますでしょ?」と。小さなブルーは苦手なコーヒー、猫に小判というものだから。宝の持ち腐れになってしまうから。
 きっとブルーも、母にそう言っておいたのだろう。キース好みのコーヒー豆など、自分は少しも欲しくないのに。
 そんなわけだから、キースとマツカの写真付きのパッケージまでがやって来た。中の豆ごと。
 ブルー用にと、たっぷりのミルクや甘いホイップクリームも揃ったテーブル。
(うーむ…)
 飲むしかないか、と腹を括ってコーヒーのカップを持ち上げた。自分が持ち込んだコーヒー豆。それに小さなブルーの望み。「飲んでみてよ」とブルーは言ったし、赤い瞳に期待の色。
 コクリと一口、飲んだコーヒー。ふわりと漂う独特の香りは、今の地球産にはとても敵わない。
 けれど、あの時代ならば、最高のコーヒーだったろう。味の方は悪くないのだから。
「ハーレイ、どう?」
 マツカのコーヒー、ちゃんと美味しい?
「まあ…。美味いんだろうな、あの時代にこの味だったんだから」
 キースめ、最高に美味いコーヒーを飲んでいやがったんだな、俺は代用品だったのに…。
 本物のコーヒー豆なんぞ無くて、いつもキャロブのコーヒーだったろ、シャングリラはな。
「今の時代だと、どうなるの?」
 あんまり美味しくないんだったら、きっと今まで残りはしないし…。美味しいんだよね?
「実に癪だが、美味いってことは間違いないな」
 ただ、如何せん、香りがなあ…。物足りないって感じがするなあ、今の俺には。
 他の星のコーヒーは大抵こんなもんだが、今は地球産のがある時代だしな?



 地球で採れたコーヒー豆の香りにはとても及ばないな、とは言ったけれども。
 優しい味に思えるコーヒー、苦味とは別に。
 多分、マツカの心遣いが今でも生きているのだろう。懸命にブレンドしていたマツカの心が。
(深い味には違いないんだ、今でも充分、こいつのファンを集められるような…)
 きっと「マツカ」の名前が無くても、キースにゆかりのコーヒーでなくても売れる味。ノア産の他のコーヒーよりも「美味しい」と選ばれそうな味。
 それをマツカは作り上げた。遠く遥かな時の彼方で、キースのために。
 ブルーは「ふうん?」と首を傾げて、自分のカップから飲み始めて。たちまち「苦い」と顰めた顔。なのにミルクを入れようとせずに、カップを口に運んでいるから。
「どうした?」
 ミルクと砂糖をドッサリじゃないのか、それにホイップクリームも。…味見した後は。
「このまま飲むのがいいかと思って…。マツカの気持ちがこもっているもの」
 それを台無しにしたら駄目だよ、せっかくマツカが心をこめてキースのために作ったのに。
「マツカなら許してくれると思うぞ、お前の飲み方」
 台無しだなんて言いもしないで、自分で入れてくれそうじゃないか。ミルクも砂糖も。
「ホント?」
「マツカだからなあ、誰にでもきっと優しいだろう。嫌な顔一つしないだろうさ」
 キースはどうだか知らないが…。「そいつの何処がコーヒーなんだ」と言うかもしれんが。
「うん。キースなら、きっと笑うんだよ」
 今のぼくがやっても、前のぼくでも。…コーヒーの値打ちが分かっていない、って。
 「これだから子供は話にならん」って笑われちゃうのが、今のぼく。
 前のぼくだと、「ミュウの長は子供みたいな舌だ」って大笑いだよ、きっと。
 そんな酷い舌の持ち主のくせに、なんでメギドを止められたんだ、って呆れられるんだよ。
 だけど、苦手なものは仕方ないよね、コーヒー、ホントに苦いんだもの…。



 マツカが許してくれるんならいいかな、とブルーがたっぷり注いだミルク。それに砂糖と、甘いホイップクリームも。いつもの飲み方を始めたブルー。「美味しくなった」と。
 そんなブルーには猫に小判な「マツカ」のコーヒー。とはいえ、キース好みのコーヒーは欲しい気にならないから、残りの豆は置いて帰ろうと思っていたのに。
 数量限定で売るほどの豆だし、ブルーの両親が美味しく飲んでくれればいい、と考えたのに。
「駄目だよ、これはハーレイが持って帰って」
 ママも言ってたでしょ、ハーレイが持って帰らなきゃ。ぼくはコーヒー、苦手なんだし。
「それを言うなら、俺はキースが苦手だが?」
 あいつが嫌いでたまらないのが俺なわけでだ、キース好みのコーヒーなんぞは嬉しくもないぞ。
 だが、美味いのは美味いんだから…。お前のお父さんとお母さんに飲んで貰えばいいと思うが。
「ううん、ハーレイが飲むべきなんだよ」
 このコーヒーが美味しいんだったら、余計にハーレイが飲まないと…。
 キースに美味しいコーヒーを飲んで欲しくて、マツカが作ったんだから。いろんな豆を選んで、色々な割合で何度もブレンドしてみて。
 そうやって頑張ったマツカの気持ち。…キースのために、って頑張ったマツカ。
 ハーレイにもマツカの気持ちが分かれば、キース嫌いが少しはマシになりそうだから。
 このコーヒーの美味しさが分かるんだったら、マツカの気持ちも分かるでしょ?
「そう来たか…」
 しかしだ、コーヒーくらいで気が変わるほどに、俺は甘くはないんだが?
 キースを許せる気にはならんと、さっきも話した筈なんだがな…?



 そう簡単に変わるものか、と言いはしたけれど、小さなブルーの願いだから。そうして欲しいと赤い瞳が見詰めていたから、コーヒー豆の残りは家へと持って帰ることにした。
 その夜、ブルーと別れた後に、自分の家で例の豆を挽いて、それでコーヒーを淹れてみて…。
(いつかキースを許せる日、か…)
 傾けた愛用のマグカップ。香り高くはないのだけれども、優しい味の「マツカ」のコーヒー。
 熱いコーヒーが喉を滑っていったら、「来るかもしれない」という気がした。
 今は許せない、前のブルーを苦しめたキース。悲しすぎる死へとブルーを追いやったキース。
 とても許せはしないけれども、憎くてたまらないけれど。
 許せる時が来るかもしれない、ブルーと暮らし始めたならば。
 小さなブルーが前とそっくり同じに育って、本当にブルーを取り戻したら。
 そうすればきっと、憎しみも消えてゆくのだろう。キースの本質とやらも見えて来るのだろう。今の自分には見えない部分。分かってはいても理解したくない、キースの優しさや人間らしさ。
 いつか憎しみが消えたなら。…胸の奥にある憎しみの塊が溶けて綺麗に無くなったなら。
(それまでは、マツカには悪いんだが…)
 キース嫌いでいさせて貰う、と傾ける熱い「マツカ」のコーヒー。時の彼方でキースに仕えた、優しいミュウが作ったブレンド。
 香りは地球産の物に及ばなくても、美味いコーヒーだと。
 マツカの思いは時を越えたと、キースにそれだけの値打ちがあったかは俺は知らないが、と…。




          マツカのコーヒー・了


※コーヒーに名前を残したマツカ。キースのためにブレンドしたものが、遥か後の時代まで。
 地球産に香りは及ばなくても、味は最高だという「マツカ」。彼が遺した、優しさの証。
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