シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
綺麗なんだけど、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
ダイニングのテーブルで何気なく広げてみたのだけれども、そこに青い薔薇。神秘的な青を身に纏った花。幾重にも重なり合った花弁がそれは美しく、完璧と言っていい形の薔薇。
写真に写っているのは一輪、たった一輪で人を魅了する。気品に満ちた薔薇ならでは。
(とっても綺麗…)
遥かな遠い時の彼方で、前の自分が夢見た地球の青いケシの花。人を寄せ付けない高い峰にだけ咲くという青に焦がれ続けた、いつか青いケシを地球で見たいと。その青を思わせる青い薔薇。
けれど、記事には「幻」の文字。
写真の薔薇は遠い昔に花開いたもので、本物の花はとうの昔に咲いて散った後。
だから幻、青い薔薇はもう見られないから。
(今は無いんだ…)
本当に青い薔薇の花。気高く青く咲き誇る品種。
この新聞に載っているような薔薇は何処にも無いという。広い宇宙を捜し回っても、様々な手を尽くしたとしても、青い薔薇の花には出会えない。
白い薔薇に青い色水を吸わせて染めた青なら、扱っている花屋もあるらしいけれど。
(…青い薔薇、宇宙から消えちゃった…)
SD体制が始まるよりも遠い昔に、一度は完成した青い薔薇。人は青い薔薇を愛でていた。青い色水を与えなくても、最初から青く咲く薔薇を。
けれども、その青は今は幻。こんな写真でしか残っていない。青い薔薇は普通の方法で生まれた花ではなかったから。何度もの交配を繰り返して出来た、自然の青とは違ったから。
青い色素を持っていない薔薇。青くするには青い色素を持たせればいい、と考えた遠い遠い昔の研究者たち。青い薔薇の花は、彼らの研究室から生まれて来た。薔薇の愛好家の庭ではなくて。
SD体制の時代の人間たちが人工子宮から生み出されたように、青い薔薇は研究室で生まれた。人が組み込んだ青い色素を作るための遺伝子、それを抱いて。
(普通の薔薇じゃないんだ、これ…)
まさしく創り出された薔薇。人間の手で、自然の摂理を歪めて。
そういう花なら、今は無いのも頷ける。
前の自分たちがリスとネズミから創り出した生き物、ナキネズミ。彼らの姿も宇宙から消えた。繁殖力が衰えていって、最後の個体が死んでしまって。
ナキネズミをどうやって創り出すのか、繁殖力を保つためにはどうすればいいか。データは充分あったけれども、人間はそれを使わなかった。
人が手を加えすぎた生き物は、後世に残すべきではないから。自然の摂理は守るものだから。
それを守らなかった人間たちのせいで、地球は滅びてしまったから。
青い薔薇の花も、青い毛皮を纏ったナキネズミたちも、残さないことを選んだ新しい時代。人は自然に従うべきだ、と。
そうやって消えた青い薔薇。もう見られない神秘の青。
SD体制の時代には幾つもあったという。様々な花の形や咲き方、創り出した人や施設の名前をつけられた青い薔薇の品種が。
薔薇園があれば、当たり前のように青い薔薇の花。公園にも、個人の庭にも咲いていた青。前の自分が生きた時代は、青い薔薇が溢れていた時代。
(…前のぼくは…)
本物の青を見てる筈だよ、と思ったけれども、記憶に無い。青い薔薇の花は。神秘的な青は。
首を捻って、遠い記憶を探ってみる。白いシャングリラにあった公園。ブリッジが見える大きな公園、居住区に幾つも鏤めてあった小さな公園。
端から思い浮かべてみるのに、青い薔薇を見た覚えがない。ただの一輪も。
(青い薔薇、咲いていなかったわけ?)
前の自分が長く暮らしたシャングリラには。白い鯨の公園には。
あちこちの公園で四季咲きの薔薇たちが咲いていたのに。
愛でるだけではもったいないから、と萎れてきた花で薔薇の花のジャムを作った女性たちもいた船なのに。大勢の仲間たちが薔薇を眺めて、姿や香りに癒されていた筈なのに…。
あれだけ沢山の薔薇があったら、青も混じっていそうなもの。今の時代は幻の青。
どうして記憶に無いのだろうか、と不思議に思いながら食べ終えたおやつ。キッチンの母に空になったお皿やカップを渡して、部屋に戻って、引っ張り出したシャングリラの写真集。ハーレイとお揃いの豪華版。順にページを繰ってゆくけれど…。
(やっぱり無い…)
公園の写真はルーペで拡大出来る仕様で、細かい所までよく見える。花壇を彩る花の種類も。
もしかしたら、と端から端まで拡大してみても、青い薔薇の花は写っていない。ごくごく普通の薔薇があるだけ、赤やピンクや黄色や白や。いくら探しても、見付からない青。
どおりで記憶に無かったわけだ、とついた溜息。
シャングリラで咲いていなかったのなら、青い薔薇など知らないだろう。
(…前のぼく、奪い損なった?)
青い薔薇の苗を奪い損ねてしまっただろうか、人類の世界の育苗施設や種苗店から。
それとも栽培が難しかったろうか、楽園という名の宇宙船の中では。
(…そういうことも…)
あったかもしれない、人工的に創り出された薔薇だから。
高い峰にしか咲かない青いケシと同じで、気難しい花。簡単には育てられない品種。
きっとそうだろうとは思ったけれども、青い薔薇の方に問題があったと思うけれども。
(奪い損ねた方なら嫌だな…)
前の自分の力が及ばず、手に入れられなかった方だったら。
青い薔薇が欲しいと皆が願ったのに、叶えられなかったソルジャーだったら情けないから。
白いシャングリラが完成した時、人類から物資を奪って生きる生活から自給自足に切り替えた。全てを船の中だけで賄い、二度と奪わない生活へと。
そのために必要な植物や動物、そういったものを調達したのが前の自分で、最後の略奪。人類の施設や農場などから奪って持ち帰り、それを育てた。
薔薇もリストに入っていたから、苗木を幾つも奪った筈。赤い花のや、白い薔薇やら。
(…青も入っていた筈なのに…)
奪って来たなら、育てる過程で失敗するとも思えないのに、公園には無い青い薔薇。
こうなった理由をハーレイに訊きたい、どうして青い薔薇が無いのか。
前の自分が奪い損ねたせいで青い色の薔薇が無かったのなら、仲間たちに悪いことをしたから。
写真だけでも魅せられてしまった神秘の青。
それを見たいと願っただろう、白いシャングリラの仲間たちに申し訳ない気持ちだから。
奪い損ねた方ではなくて、宇宙船の中では育てられない品種だったと思いたい。気難しい薔薇はとても無理だと、誰かが言ったという方がいい。
前の自分の失敗よりは…、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓に駆け寄って見下ろしてみれば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。これはチャンスだと振り返した手。
ハーレイが部屋まで来てくれた後に、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで問い掛けた。
「あのね…。ハーレイ、青い薔薇の花、知っている?」
綺麗な青い花が咲く種類の薔薇のことなんだけど…。
「青い薔薇か…。たまに染めたのを売っているよな」
花屋の店先で見たことはあるが、あの青い薔薇がどうかしたのか?
「それじゃなくって、本物の青いの…」
染めた青だと偽物でしょ?
元は白とかで、青い薔薇じゃないよ。
「はあ? 要は青けりゃいいんだろうが」
本物も偽物もあるもんか。青い薔薇と言ったら、青い色水を吸わせて青くしたヤツだ。
「だから、本物の青い薔薇だってば!」
染めなくっても咲いた時から青い薔薇だよ、きっと蕾も青いんだよ。
だって元から青いんだから。そういう色をした花が咲く薔薇で、青い花しか咲かないんだから!
新聞に写真が載っていたよ、と説明をした。神秘的な青い色の薔薇。
今の時代は幻だけれど、前の自分たちが生きた頃には本物が咲いていたらしい、と。
「ホントのホントに青い薔薇だよ、とっても綺麗な写真だったよ」
でもね…。今は何処にも無い薔薇だって。
ナキネズミと同じで、人間が手を加えすぎてて、だから残らなかったって…。
「そういや、そうだな」
青い薔薇ってヤツは人工的に創り出された品種だった筈だ。青い色素を組み込んでな。
「…ハーレイ、そこまで知ってたの?」
薔薇には青い色素が無いって、そんなトコまで。
「今、思い出した。…今まで綺麗に忘れていたが…」
そいつを聞いたら思い出したぞ、ヒルマンには先見の明があったってことを。
「え…?」
なんでヒルマンの名前が出て来るの、ヒルマンが薔薇の係だった…?
「いや。それにシャングリラには無かったぞ。青い薔薇なんぞは一本もな」
ヒルマンのお蔭で、青い薔薇だけは無かった船だ。
他の色の薔薇は揃っていたがだ、青は要らないということでな。
青い薔薇は最初から要らないものだった、とキャプテンだったハーレイが断言したから。
どうやらヒルマンの指示らしいから。
「青い薔薇…。前のぼくが奪い損なったんじゃないの?」
人類の世界から薔薇の苗を色々奪って来た時、青だけは奪い損なったとか…。
「それで青い薔薇と言っていたのか?」
シャングリラの写真集を見ていたようだが、青い薔薇が咲いていないと気付いて。
「うん…。前のぼくが奪い損なったんなら、みんなに悪いことをしたと思って…」
あんなに綺麗な花が咲く薔薇なのに、シャングリラには咲いていなかったなんて。
育てるのが難しいから無かったんなら仕方ないけど、前のぼくのせいで無かったのなら。
「それは逆だな、あの薔薇は無い方が良かったんだ」
いくら綺麗な花が咲こうが、シャングリラに青い薔薇は要らない。
そう言い出したのがヒルマンだったし、青い薔薇は植えずに終わったってな。
「なんで?」
とても綺麗な花なのに…。写真で見たって、ビックリするほど綺麗だったのに。
「不自然だからだ、青い薔薇の花は」
覚えていないか、ヒルマンたちと会議をやってた時のこと。
白い鯨に改造した船に何を植えるか、何度も会議をしていた筈だが…。その中の薔薇だ、薔薇の品種は沢山あるから、どれにするかを決めた会議だ。
何色がいいとか、どういう形の花が咲くのがいいだろうか、とかな。
「…そっか、あの時にやった会議で…」
青は要らないって決まったんだっけね、シャングリラには。
他の薔薇は色々あってもいいけど、青だけは植えないことにしよう、って。
蘇って来た、遠い遠い記憶。前の自分がソルジャーとして出席していた会議の席。
前のハーレイと、長老の四人。最終決定権を持った六人が集った会議。
薔薇を植えることは既に決まっていたから、次は植えるべき薔薇の選択。色々な品種が存在するだけに、最終的には候補の中から船の仲間たちが投票で決めることになったのだけれど…。
「青い薔薇だけはやめておこう」
他の色はともかく、青だけは…、と色そのものを候補から外そうとしたヒルマン。
「なんでだい?」
青はソルジャーの名前の色じゃないか、とブラウが即座に噛み付いた。
どうして駄目なのか分からないねと、青い薔薇ばかりでもいいくらいだよ、と。
「ソルジャーの名前の色と言われれば…。確かに青はブルーなのだが…」
そういう意味では、青い薔薇も悪くはないのだがね…。
しかし、青い薔薇の歴史を考えてみると、私はどうも気が乗らない。
青い薔薇の花言葉は「不可能」だと言われていたのだよ。遠い昔には。
「不可能じゃと?」
それはどういう意味なんじゃ、とゼルが訝り、他の者たちも。…ただ一人、エラを除いては。
「早い話が、出来ないという意味のことだね」
どう頑張っても、青い薔薇の花は作れない。
人間が努力に努力を重ねても、青い薔薇は生まれなかったのだよ。
薔薇を愛する人はもとより、研究者までが創り出そうと挑戦したのが青い薔薇。
けれども、青い色素を持たなかった薔薇は、青い花を咲かせはしなかった。どう頑張っても紫に見える花が限界、自然からは生まれて来なかった青。
「その薔薇を青くしてしまった頃から、地球は壊れていったと言うね」
自然の力では作れない青を、人間が薔薇に持たせた頃から。
「そうなのかい?」
ぼくは薔薇の歴史に疎いのだけれど、青い薔薇の花が出来た頃から、地球は滅びに向かったと?
「ええ。そのようです、ソルジャー」
エラも肯定した、青い薔薇の誕生と地球の自然が壊れ始めた時期との一致。
交配を繰り返しても青い色の薔薇は作れないから、と人間たちは薔薇に青い色素を組み込んだ。遺伝子を弄って、まるで神のように。
そうして生まれた本当に青い花の薔薇。不可能という花言葉を与えられていた筈の奇跡の薔薇。人は神秘の青に魅せられ、幾つもの品種が生まれたけれども、地球は青さを失っていった。
本当だったら、薔薇と同じに青い筈の地球。青い薔薇には「地球の青」という名の品種まで存在したというのに、その青が消えていった地球。
「…青い薔薇に吸われちまったのかい?」
青い色を、と瞬きしたブラウ。偶然とはとても思えないから、と。
「そうではないがだ、人間が驕りすぎたのだよ」
不可能を可能に出来たくらいの技術があれば、と人間は思い上がってしまった。
出来ないことなどありはしないと、何でも人の意のままになると勘違いをしてしまったのだね。
まるで万能の神になったかのように、驕り高ぶってしまった人間たち。
青い薔薇までも創り出せた時代、自然そのものも変えてしまえると誰もが考え、実行した。人に都合がいいように。住みたい所に住めるようにと、川の流れも変えてしまって。
そうやって綻び始めた地球。歯車が狂い、軋み始めた地球が持っていた本来の力。
毒素を洗い流してくれる筈の水は、毒の水へと変わっていった。毒の水は母なる海に流れ込み、海までが毒に変わってしまった。大気も汚染され、木々も草も窒息し始めた地球。
テラフォーミングの技術は進んでいたのだけれども、愚かな人間たちの力は、滅びゆく地球にはもはや通用しなかった。
青い薔薇の新しい品種は創り出せても、青い地球を取り戻すことは出来なかった学者や研究者。
彼らは諦めるしかなかった、地球をもう一度青くすることを。
自分たちの力では不可能なのだと、青い薔薇の花言葉を地球に重ねるより他には無かった。
地球の青さを取り戻すためには、人間の方が変わるしか道は無いのだろうと。
自分たちの代わりに、地球を蘇らせるための人間と世界が必要だろうと。
彼らはSD体制を敷くことを決めて、地球を離れざるを得なかった。地球も人間も、何もかもを機械に任せる世界。
そうして人類は地球を離れて、古い世代は滅びていった。機械が人工子宮から生み出す、新しい時代の人間たちに全てを託して。
遠い何処かへ旅立って行った、彼らのその後は分からないという。何処を目指したか、どの星で最後の人間が命尽きたのかも。
地球の滅びは、青い薔薇から始まったわけではないけれど。
青い薔薇が地球の青さを吸い取ったわけではないのだけれども、人の驕りが生み出したのが青い薔薇。遠い昔には「不可能」の花言葉を持っていた花、青い色素を持たなかった薔薇。
「…そういう薔薇を植えるというのは、どうかと私は思うわけだよ」
美しいことは認めよう。…しかし、私には不自然に見える。今はありふれた青い薔薇でも。
最初の生まれが不自然だったと知っているからか、この船には植えたくないのだよ。
シャングリラの中の自然は人工的に作るしかないが、だからこそ。
我々の手で作るしかない楽園だからこそ、自然が息づく船にしたいと思わないかね。
人が創った青い薔薇が無い、自然な世界。本来の色の薔薇だけしか無い、温かい船に。
「そうかもねえ…」
ヒルマン、あんたの言う通りかもしれないね。
綺麗だからって、青も欲しいと無理やり自然を捻じ曲げたのが青い薔薇ならね…。
青い薔薇はやめた方がよさそうだねえ、とブラウが頷き、前の自分も頷いた。前のハーレイも。もちろん、ゼルも。
そうして決まった、青い薔薇を導入しないこと。
植える薔薇の品種の候補を書き出して皆が投票した時、当然のように出て来た質問。青い薔薇が一つも無いのは何故かと、これでは片手落ちではないかと。
ヒルマンは会議の時にしたのと同じ説明をしてから、こう問い掛けた。
「それでも欲しいと言う者があれば、もう一度、会議をしてみるが…。どうするかね?」と。
欲しい者は手を、と挙手を促した声に、一つも挙げられなかった手。
シャングリラで暮らす仲間たちは皆、青い薔薇の無い船の方がいいと考えていた。美しさだけで選んだのでは駄目だと、中身まで見て選ばねば、と。
青い薔薇は全員一致で植えないことになり、青以外の薔薇が選ばれた。赤やピンクや、白い花。薔薇が本来持っていた色、それを宿した薔薇ばかりが。
前の自分が選ばれた薔薇の苗を奪って、立派に育った白いシャングリラの薔薇の数々。四季咲きだったから、薔薇の花はいつでも咲いていた。船の何処かで。青以外の薔薇が。
アルテメシアで救い出して船に迎えた子供たちには「青色が無い」と何度も言われたけれども、その度にヒルマンが丁寧に教えた。子供たちにも理解できるよう、分かりやすく。
「この船には必要ない花なのだよ」と語り聞かせたヒルマン。
青が欲しいなら薔薇の代わりに地球へ行こうと、地球の青こそが本物の青い色なのだと。
薔薇の花も咲いていた楽園だったけれど、青い薔薇が無かったシャングリラ。
前の自分が奪い損ねたせいではなかった、それは要らない色だった。
「そっか、青い薔薇…」
シャングリラには要らない花だったんだね、いくら綺麗でも。
ブラウが「全部青でもいいくらいだよ」って言っていたって、青は要らない色だったんだ…。
「うむ。前のお前は奪い損なったんじゃなくて、奪わなかっただけだ」
最初からリストに入っちゃいなかったんだな、青い薔薇は。
他の色だと、けっこう細かい指定があったような記憶もあるが…。この品種がいい、って具合で色々とな。花が綺麗だとか、香りがいいとか。
しかし、青だけは必要なかった。
前のお前は買い物に出掛けたわけじゃないから、そういう機会は無かったろうが…。
「お買い得です」と青い薔薇がセールになっていたって、財布の紐を緩めはしない、と。
いくら安くても要らない色では、安物買いの銭失いってヤツになっちまうからな。
「ふふっ、青い薔薇のバーゲンセールなんだ?」
十本纏めてこの値段です、って書いてあっても、買って帰ったら叱られるんだね、ヒルマンに。
青い薔薇なんかは頼んでないのに、無駄な買い物をしちゃって無駄遣いだ、って。
前の自分は薔薇の苗を奪って帰ったけれども、買っていたならバーゲンセールもあったろう。
青い薔薇がグンと安い時とか、他の色の薔薇とセットで割引になるような時だとか。
それに釣られて買ってしまうとは思わないけれど、買っていたらきっと叱られた。ソルジャーに向かってヒルマンが怒った、「無駄遣いだ」と。
想像してみて愉快な気分になったのだけれど、その青い薔薇。店はともかく、苗を奪いに入った場所でも、その他の場所でも…。
「…ハーレイ…。ぼく、青い薔薇を見た記憶が無いよ」
苗を奪いに行った時には、青い薔薇もあった筈なのに。リストを見ながら「これと、これ」って感じで確認してたし、薔薇の花は山ほど見てたのに…。
だけど、青いのを見ていないんだよ、絶対にあったと思うんだけど…。あれだけの薔薇が揃った場所なら、青が無い筈がないんだけれど。
それにね、他の所でも同じ。
前のぼくはアルテメシアに何度も降りたり、サイオンで様子を探ったりしてた。公園も、色々な施設なんかも。
その時に「薔薇が咲いてるな」って思った記憶は確かにあるのに、青い薔薇の花、知らないよ。
見たことがないとは思えないけど、ホントに覚えていないんだよ…。
「神様が消して下さったんだろうさ」
前のお前が何処かで見ていた青い薔薇。
ずうっと昔にヒルマンが言ってた通りになったからなあ、自然な世界を取り戻すために。
本物の青い薔薇はもう何処にも無いんだ、二度と作られることもない。
だから余計な記憶ってヤツだ、青い薔薇のことを覚えていたら。
今の時代を生きてゆくには要らないものだし、神様が消して下さったんだと思うがな…?
生まれ変わってくる時に、と微笑むハーレイ。
青い薔薇の無い世界に向かって旅立つのだから、余計なものは忘れてしまえ、と。
「そう思わないか? …今の俺たちには要らないものだぞ、青い薔薇は」
覚えていたって、欲しくなったって、買いにも行けやしないってな。
もう一度見たいって気分になっても、お前が見付けた写真くらいしか無いってヤツだし。
「じゃあ、ハーレイも青い薔薇は…」
覚えてないわけ、青い薔薇の花。
前のぼくたちはシャングリラに植える薔薇のことで会議もしたのに、あの頃には青い薔薇の花が普通に存在してたってことを…?
「お前があったと言い出さなければ、あったことすら忘れてたろうな」
今の俺にとっては青い薔薇は色水で染めたものだし、それしか知らん。それで全部だ。
もっとも、前の俺にしたって、データで見たっていうだけだが。
シャングリラに植えてはいなかったんだし、本物の青い薔薇ってヤツには出会っていない。
お前は確かに本物を何処かで見てたんだろうが…。
薔薇の苗を奪いに出掛けた時もそうだし、アルテメシアに降りた時にも。
「そうだよねえ…?」
前のぼくが見てない筈がないよね、青い薔薇が咲いている所。
やっぱり神様が消してしまったのかな、それは余計な記憶だから、って。
綺麗だったからもう一度、って探しに行っても、本物にはもう会えないんだし…。
ずうっと昔はこういう薔薇がありました、っていうデータだけ。
ヒルマンが言ってた「地球の青」とか、絶対、前のぼくは探していたと思うんだけど…。
何処かで偶然見付けたりしたら、「これがそうか」って、前に立って飽きずに眺めていそう。
フィシスの水槽の前に立ってた時と同じで、地球を見ているつもりになって。
前の自分が生きた時代は、存在していた青い薔薇。本当に青い薔薇の花。
色水を吸わせて染めるのではなくて、蕾の時から青く咲くのだと約束されていた青い薔薇。青い色素を持っていた薔薇。人の手でそれを組み込まれて。
ヒルマンが語った「地球の青」という品種は、是非見たかった。
白いシャングリラに持ち帰ることは出来ない花でも、その名前だけで何時間でも佇めただろう。青い薔薇の前に。「地球の青」と呼ばれる青を見詰めて。
きっと自分は探していたに違いない。
地球の高い峰に咲くという青いケシに焦がれていたほどなのだし、「地球の青」と名付けられた青い薔薇の花を、きっと。青い薔薇が咲いているのを見たなら、「地球の青」は無いかと。
憧れの青に出会うためにだけ、薔薇園に降りもしただろう。多くの品種が咲く薔薇園なら、その青もきっとあるだろうから。「地球の青」を育てているだろうから。
前の自分の力があったら、見付けていない筈がない。目指す青色を、「地球の青」を。
そうでなくても、アルテメシアを探っていたなら、何処かで見た筈の青い薔薇。「地球の青」の他にも、様々な品種の青い薔薇を前の自分は見たのだろう。
花びらの先がツンと尖ったものやら、こんもりと丸く咲くものやら。幾重にも重なった花びらが重たそうな薔薇やら、引き締まった印象を受けるものやら。
けれども、記憶に全く無い薔薇。
ほんの小さな欠片さえも失くしてしまっているらしい、前の自分が見た筈の薔薇。
新聞で写真を眺めた時にも、「あれだ」と思いはしなかったから。
綺麗だと見入って、今の時代は無いらしいと知って、驚いていた程度だから。
あれほどに神秘的な青なら、きっと記憶にある筈なのに、と。
青い薔薇を忘れてしまった自分。わざわざ探しに出掛けただろう、「地球の青」さえも。
データでしか知らないハーレイが忘れてしまったのなら分かるけれども…、と思った所でハタと気付いた。そのハーレイも本物の青い薔薇に出会っていたのでは、と。
「ねえ、ハーレイ…。青い薔薇、ハーレイも本物を見ていたんじゃないの?」
ノアとかでシャングリラの外に出たんなら、青い薔薇、咲いていそうだけれど…。
アルテメシアを落とした後にも、ハーレイは外に出ていたんでしょ?
何処かで見てると思うんだけどな、本物の青い薔薇の花が咲いているのを。
「うーむ…。お前だけじゃなくて、俺も見ていたのか?」
見たのにすっかり忘れちまったと言いたいわけだな、前の俺の方も。
…薔薇の花なら、お前が言う通りに、あちこちで見た。通り掛かった公園とかにも、ジョミーと出掛けたユニバーサルだのパルテノンでも、薔薇は咲いてた筈なんだ。
ついでに、星を陥落させたら、降伏して来た人類が歓迎の席を設けていたことも多かったし…。
そういう席には必ずあったな、薔薇をドカンと生けた花瓶やら、そういったもの。
一色で纏めたヤツばかりじゃない、色々な色の薔薇を生けてた花瓶もあった。
俺はそいつを見ていた筈だし、「薔薇があるな」と思った記憶もきちんとあるんだが…。
しかし…、とハーレイが考え込んでいるから、やはり、と思って訊いてみた。
「でも、ハーレイにも青の記憶は無いんだね?」
青い薔薇の花を見たっていう記憶は、一つも残っていないんだ…?
沢山の薔薇を見てたんだったら、青も混ざっていた筈なのに。
「そのようだ。…いくら考えても思い出せんと来たもんだ、これが」
前のお前を失くしちまって、とっくに魂は死んでたわけだが、それと記憶は別問題だ。何処かで青い薔薇を見たなら、欠片くらいは残るだろう。眺めて通り過ぎただけでも、「青かった」と。
薔薇を見たって記憶はあるのに、青い薔薇を覚えていないとなると…。
お前と同じで、神様が綺麗に消して下さったんだろうな。
青い薔薇なんかは見てもいないと、そんな花には出会っていないと。
「…ハーレイも忘れちゃったってことは、あったらおかしいものだから?」
今の時代にあるわけがなくて、存在してはいけないもの。
青い薔薇はそういう花だったから、ぼくもハーレイも忘れてしまったのかな…?
「多分な。神様の粋なお計らいってヤツだ」
存在しないものに執着しないようにと、綺麗サッパリ記憶から消して下さったってな。
お前の記憶に残ってた場合、お前、探そうとしないか、それを…?
「んーと…。普通の青い薔薇だったら、今は無いんだ、って素直に諦めそうだけど…」
ちょっと危ない薔薇があるかな、ヒルマンが言ってた「地球の青」っていうヤツ。
そういう名前の青い薔薇があるって聞いていたから、前のぼくが探していそうなんだよ。
もしも何処かで見付けていたなら、絶対、飽きずに見ていそう…。地球の色だ、って。
その記憶が今も残ってたんなら、ハーレイが言うみたいに探すと思う…。
今は無いんだって分かっていたって、何処かにサンプルが残っているんじゃないか、って。
諦め切れずに探しそうな薔薇が「地球の青」。前の自分が見ただろう花。
今でも青いケシの花を見たいと思っているのと同じに、「地球の青」も見たいと探しただろう。今はもう無い花と分かっても、もしかしたら、と懸命に。
そうならないよう、神は記憶を消し去ってくれた。青い薔薇を目にした記憶を全部。
今の時代には、青い薔薇は存在しないから。作られることも二度と無いから。
遠い昔に、ナキネズミが絶滅したのと同じで、今の自分は決して会えないものだから。
でも…。
「ハーレイ、ぼく、ナキネズミは忘れてないよ?」
青い薔薇みたいに、前のぼくたちが作った生き物だったのに。
今の時代は、ナキネズミはもう二度と生まれて来ないのに…。
だけど、ナキネズミの記憶はきちんと残ったままだよ、探したって会えっこないんだけどな。
青い薔薇みたいに忘れていたって、ちっとも不思議じゃないんだけれど…。
「それは違うだろ、ナキネズミは青い薔薇とは全く違うぞ」
青い薔薇は人間の我儘から生まれた花なんだ。見た目が綺麗だというだけでな。あれが無くても誰も困らん、色水で染めた青い薔薇があれば充分だ。
だが、ナキネズミは見て楽しむためのものじゃない。
作ろうと思った理由ってヤツはなんだった?
「んーと…。思念波を上手に使えない子供をサポートするためで…」
だからジョミーにも渡しておいたよ、ナキネズミ。
シャングリラに直ぐに馴染めなかったら、ジョミーをサポートしてくれるしね。
「ほら見ろ、ナキネズミは役に立つ上に、大切な生き物だったんだ」
前の俺たちの船には必要な生き物だったし、観賞用の青い薔薇とは違うってな。
だから忘れてしまわないわけだ、今の時代には要らないものでも。
お前も俺も忘れないのさ、青い薔薇をすっかり忘れちまった俺たちでもな…。
ナキネズミのことは覚えているのに、二人揃って忘れてしまった青い薔薇。
白いシャングリラには無かった色の薔薇の花。
蘇った青い地球のある宇宙に、もう青い花が咲く薔薇は無い。
前の自分が探しただろう、見ていただろう「地球の青」という名前の青い薔薇も。
青い薔薇は時の彼方に消えてしまった、人の手が自然を歪めて創り出した花は。
(…青い薔薇、もう無いんだね…)
その花が幾つも咲いていた時代に生きていた筈の、自分たちの記憶の中にさえ。
写真を見てさえ思い出せない、今は幻となった薔薇。
今の時代の薔薇の色には、青は無いのが当たり前。青い薔薇はもう何処にも無い。
遠い昔にヒルマンが「要らない」と言った通りに、失われた青。
(…地球の青と引き換えになっちゃった…?)
そんな気もする、青い薔薇の青は青い地球へと還って行ったと。
前の自分が飽きずに眺めた、「地球の青」が纏っていた青も。
青い薔薇の色が地球に戻って、蘇った青い水の星。
其処に青い薔薇はもう無いけれども、惜しい気持ちは起こらない。
本物の地球の青を自分は手に入れたから。
ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、幸せに生きてゆけるのだから…。
青い薔薇・了
※地球が滅びに向かった時代に、完成していた青い薔薇。「地球の青」という品種までが。
けれど今では失われていて、ブルーもハーレイも覚えていない、白い船には無かった薔薇。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ほほう…」
こいつは今が旬だしな、とブルーの向かいでハーレイが箸でつまんだもの。二人きりで過ごせる週末の昼食、ブルーの部屋のテーブルで。
両親も一緒の夕食とは違って、二人でゆっくり食べられる昼食。ブルーの母が作った茶碗蒸しの中から出て来たユリ根。
これの時期だ、とハーレイがユリ根を頬張ったから。
「ユリ根、今なの?」
今頃の時期に採れるものなの、ユリの根っこだよね?
「根っこと言うか、球根と言うか…。旬は今だな、もっと遅くに出荷することもあるようだが」
おせち料理に人気の食材なんだ、ユリ根はな。その時期に合わせて出荷したなら高値で売れる。だから貯蔵しておいて、その時期に合わせて売りに出す、と。
それに年中、売ってはいるしな…。旬と言ってもピンと来ないかもしれないが。
「ふうん…? でも、採れるのは秋なんだね」
百合の根っこだから、普通の野菜とはちょっと違うけど…。
同じ地面の中にあるものでも、ジャガイモとかとは違うよね、ユリ根。
これを採っちゃったら、来年は花が咲かないどころか、その場所に百合は無いんだもの。
どういう仕組みになっているのか、謎なのがユリ根。
球根を人間が食べてしまったら、百合は絶滅しないだろうか、と考え込んでいたら、ハーレイに教えられたこと。
球根があれば百合は何年でも同じ場所から咲くものだけれど、花から種も出来るのだと。それに茎から球根の子供が生まれる種類の百合もある。ムカゴと呼ばれる球根の子供。
「つまりだ、何がなんでも球根が無ければ駄目だというわけじゃない」
人間様の方でも、それを承知で球根を頂戴するって仕組みだ。百合がすっかり消えちまったら、ユリ根どころじゃないだろうが。
「それはそうかも…。絶滅するまで食べていたんじゃ駄目だよね」
地球を滅ぼしてしまった人たちがやっていたことと変わらないものね。人間の都合で、どんどん自然を駄目にしちゃって、最後は地球まで…。
今の時代は、滅びそうになってた植物だって、きちんと増やして地球に戻っているけれど…。
そういう技術を持ってるからって、百合を絶滅させちゃ駄目だね、食べてしまって。
球根を掘り上げて食べてしまっても、別の方法で子孫を増やせるらしい百合。
その百合の球根が出回るのが秋だと言うなら、百合の花の季節が終わってからだろう。夏の間に百合の花をあちこちで見掛けていたから、百合は夏の花。
(テッポウユリも、鬼百合も夏…)
いろんな百合が咲くんだっけ、と思い出していたら、ポンと頭に浮かんで来た花。遠い昔に前の自分が眺めていた百合。白いシャングリラにも百合の花はあった、と蘇った記憶。真っ白な百合。
「えーっと…。シャングリラでも食べればよかったね」
せっかく食べ物があったのに…。前のぼくたち、見逃しちゃってた…。
「はあ?」
いったい何を食べると言うんだ、食えるものは食うのがシャングリラだったと思ったが?
無駄なものなど乗せていない船だ、食べられる物に気付かなかったとは思えんが…。
「百合だよ、公園に咲いていた百合」
ブリッジから見える公園にもあったし、他の公園にもあったじゃない。真っ白な百合が。
「…あの百合か…。だが、あの百合の球根は食えないぞ」
見た目は同じようなものかもしれんが、食用じゃないな。
あの百合からはユリ根は採れんぞ、たとえユリ根の存在を知っていたとしても。
百合の種類が違うんだ、と笑うハーレイ。白い鯨で咲いていた百合と、ユリ根の採れる百合は。
シャングリラの百合の根に毒は無いけれど、食べようとすると苦いらしい、と。
「そうだったの?」
百合なら何でもいいわけじゃないんだ、ユリ根って…。
「ユリ根を採るのは鬼百合とかだな、お前も鬼百合は知ってるだろう?」
それと山百合といった所か、ユリ根用に栽培されてる百合は。
「んーと…。シャングリラの百合は、根っこが食べられなかった百合だってことは…」
食べようとしなかったわけじゃなくって、食べられないから食べなかっただけで…。
消されちゃってた食材じゃないんだね、ユリ根。SD体制の時代でも。
「いや、消されていたんだと思うがな?」
食えるものなら、そういう百合を植えてた筈だぞ。食えない百合を植える代わりに。
今の時代だから食ってるだけだろ、こいつを食うのは日本の食文化らしいしな。
俺たちには馴染みの食材なんだが、他の地域に出掛けて行っても無いんじゃないか?
文化が似ている中国だと、百合は薬だし…。
食う楽しみって言うよりも前に、まずは薬としての効き目だ。
遥かな昔の日本と中国、それが百合を食用にしていた地域。料理に使うか、薬にするか。
どちらの文化も、SD体制の時代に統一された文化の基本に選ばれることは無かったから。
「…日本と中国だったら、消されちゃってるね…」
百合の根っこは食べられるってこと、前のぼくたちは知らなかったんだね。
「そうなるな。前の俺たちが生きた頃には、百合と言ったら観賞用だ」
綺麗な花を眺めて楽しむ。そいつが百合を植える意味だな、公園とかに。
「一年に一度しか咲かないけどね」
今と同じで夏に咲いたら、次の年まで花は咲かなくて…。冬になったら茎も枯れるし。
「うむ。何処にあったのかも分からなくなるほど、何も残っちゃいないんだ」
そういう花なのに、あったんだよなあ、シャングリラにも。
…よく考えたら、なんとも不思議な話だが。
「シャングリラの花、四季咲きが基本だったのにね」
実が食べられる木の花とかは別だったけれど、眺めるだけの花の方は。薔薇もそうだったし…。
でなきゃ丈夫で、花が咲いてない時も葉っぱが艶々してるとか。
「そうなんだよなあ…。百合は全く当てはまらんな」
年に一度しか咲かない上に、姿すらも無い季節がある、と…。
なんだってアレが色々な所に植わっていたのか、謎だとしか言いようがないってな。
「言い出しっぺは誰だっけ?」
誰かが百合って言わなかったら、きっと植わっていないよ、百合は。
もっと別の花を選んで植えたと思うんだけど…。四季咲きで綺麗な花が咲くのを。
「さて…。しかし、誰かが言った筈だよな」
そうでなければ、百合があんなにあちこちにあった筈がない。
一ヶ所だけならまだ分かるんだが、百合は本当に色々な場所で咲いてたからなあ…。
観賞用の花の中には、四季咲きではない花も無くはなかった。例えばエーデルワイスとか。
特別な目的で植えられた花なら、それでもいい。ただし、一ヶ所くらいなもの。
けれども、そうではなかった百合。
ブリッジが見えたシャングリラで一番大きな公園はもとより、居住区域に鏤めてあった幾つもの公園でも咲いていた。白い百合の花が。
誰が植えようと言ったのだったか、二人揃って考え込んでいたのだけれど。不意にブルーの頭に浮かんだ、懐かしい顔。
「そうだ、ヒルマン…!」
ヒルマンだったよ、百合を植えようって言い出したのは。
一年に一度しか咲かないけれども、人間にとっては、とても大切な花だから、って…!
「それか…。うん、ヤツだっけな、人の歴史には欠かせない花だと主張したんだ」
ただの花とは違う花だと言ったんだった。
…聖母の百合だと、聖母マリアの象徴は百合の花なんだと。
受胎告知の天使は必ず百合を持っているし、ずっと昔には教会を飾った花だった、とな。
「うん…。だから白い百合…」
白でなくっちゃいけなかったんだよ、百合の花の色は。聖母の百合は白だったから。
「シャングリラの百合は白しか無かったっけな」
いろんな公園に植えてあったのに、全部白い花で。
「今は百合の花の色、色々あるよね」
白だけじゃなくて、ピンクも黄色も、赤い百合も。
「前の俺たちが生きてた頃でも、人類の世界にはあったんだが?」
今と同じに色とりどりの百合が揃っていた筈だがな?
「そうだっけ…。前のぼくたちが白を選んだだけだったよね」
白でなくちゃ、って。聖母の百合は白なんだから、って…。
一年に一度しか花が咲かないのに、シャングリラにもあった百合の花。
SD体制の時代にも消されることなく残っていた神、その神の母のシンボルの百合。聖母の花。
どうせならば、とマドンナ・リリーにこだわった。名前の通りに聖母の百合。
その花よりも美しいから、と後の時代にもてはやされた白い百合を選びはしなかった。美しさを取るより、聖母の象徴そのものの百合が欲しかったから。
ただ、公園にマドンナ・リリーは咲いていたけれど…。
「あの百合の花…。飾れなかったね、教会には」
シャングリラに教会は作らなかったし、あの百合を飾るための特別な場所は無かったよ。
「そうだな、本当にあれを飾るべき場所には飾らなかったな…」
教会が無いんじゃ仕方ないんだが、薔薇とかと同じ扱いだったな、百合の花も。
切って飾るなら眺めるためでだ、神様にお供えするための花じゃなかったっけな…。
個人的に供えて祈ってたヤツなら、中にはいたかもしれないが。
部屋に飾りたいと貰って帰って、神様にお供えしていたヤツがな。
そういう仲間はいたかもしれない、と口にしてから「待てよ?」と顎に手を当てたハーレイ。
SD体制にも最後の良心はあったのか、と。
「最後の良心?」
…なんなの、それは。最後の良心って、どういう意味…?
「SD体制そのものと言うより、SD体制を創り上げたヤツらのお蔭だろうが…」
ミュウ因子を排除出来ない仕組みになっていたことは、今のお前も知ってるだろう。
マザー・システムにはそのためのプログラムが存在しなかった。因子は特定出来ていたのに。
人間の進化ってことを思えば、ミュウ因子を排除出来ないようにするのは当然だが…。そいつが賢明な判断ってヤツだが、その他に、だ。
神にもなれないようにプログラムしてあったんだな。
「え? 神様って…」
神様になれないって、マザー・システムが?
「グランド・マザーだ、SD体制を支え続けた諸悪の根源だ」
前の俺も直接見てはいないが、あの機械。
その気になったら、聖母になれていた筈だぞ。
自分こそが神の母だと名乗って、宇宙に君臨していたならば、どうなったろうな?
「あ…!」
やって出来ないことはないよね、グランド・マザーなんだから。
国家主席よりも偉い機械で、機械だから寿命も尽きることはないし…。
神様なんだと言われちゃったら、きっと人類は素直に信じて、機械に従っていたんだろうね。
これは神様の命令だから、って、どんなことでも。
神様の考えはいつでも正しいものだし、それが正しいんだと思い込んで…。
前の自分たちが生きた時代には、聖地だった地球。
グランド・マザーはその聖地にいた。死の星だった地球の深い地の底に。
地球の本当の姿を知る者は限られ、グランド・マザーに会える者となったら更に少なかった。
正体は機械なのだと分かってはいても、グランド・マザーは全ての母。
SD体制の時代に生まれた人間の全てを把握していて、出生の鍵も握っていた。どう交配して、人工子宮に送り込むかの指示を出せた機械。末端のマザー・システムに。
全ての人間の母を気取っていた機械だから、聖母だと自ら名乗ることさえも出来た筈。
あの時代にも生き残った唯一の神を生み出した聖母。
自分はそれと同じなのだと、自分こそが神の母なのだと。
神になっていたかもしれない機械。
聖母を名乗って、あの時代に生きた人間たちの心の拠り所だった神の母の座に就いてしまって。
「…ねえ、ハーレイ。もしも、グランド・マザーが聖母だったら…」
前のぼくたちはどうしたと思う?
神様のお母さんが決めたことなら仕方がない、って諦めて殺されていたんだと思う…?
アルタミラから脱出しようとしないで、神様を怒らせちゃった自分が悪かったんだ、って。
「まさか。それでも俺たちは逆らったろうさ」
いくら神様の命令だろうが、黙って殺される馬鹿はいないぞ。
死に物狂いで逃げ出したろうな、前の俺たちがやったのと全く同じように。
「そうだよね?」
ハーレイだって諦めないよね、生き残ろうって頑張るでしょ?
それなら別に、グランド・マザーが聖母でもかまわなかったんじゃあ…。
神様のお母さんだと名乗っていたって、前のぼくたちにとっては同じことだよ。
グランド・マザーでも、聖母だとしても、必死に逃げるしかないってだけで。
だからあんまり変わらないよ、と言ったのだけど。
グランド・マザーの呼び名が変わるだけだと考えたのだけれど。
「いいや、呼び名の問題じゃない。…それだと俺たちは神を失う」
聖母に逆らう以上は、そうなる。
神様のお母さんに逆らったヤツらを、神様が守って下さると思うか?
どんな顔をして神様に祈ればいいと言うんだ、神様のお母さんに逆らって生き延びた人間が。
「そっか、神様がいなくなるんだ…」
…そうなっちゃうよね、神様のお母さんが「殺せ」と命令したんだから。
神様だって、それが正しいって思ったわけだし、殺したつもりの人間がお祈りしてたって…。
どうしてこいつは生きているんだ、って考えるだけで、お願い、聞いてはくれないよね…。
「もちろん、聞いてはくれないってな」
祈っても無駄とか、そういう以前の問題だ。俺たちは神様に振り向いてなんか貰えない。
お前、その状態でも戦えたか?
ミュウを滅ぼそうとしている機械の裏をかいては、仲間を助け出せたのか?
アルテメシアで前のお前が助け出して来た、ミュウの子供たち。
子供たちの救出にしてもそうだし、アルテメシアに着くよりも前。前のお前が物資を奪って命を繋いでいた頃にしたって、お前はきちんと頑張れたのか…?
「…神様がいないわけだよね?」
助けて下さい、ってお祈り出来る神様。
ぼくも出来るだけ頑張るけれども、ぼくに力を貸して下さい、ってお願い出来る神様が。
「ああ。縋れる神様は何処にもいない」
神様のお母さんに逆らったからには、もう助けては貰えないんだ。
「…とても辛いかも…」
どんなにお祈りしてみた所で、神様には届かないなんて。
力を貸しては貰えないなんて…。
悲しすぎると思った、神からの救いが来ない人生。神の母に逆らってしまった報い。
奇跡は起こらず、ほんの小さな手助けさえもして貰えないのかと考えていたら。
「それどころじゃないぞ、心の支えが何も無いんだ」
俺たちの方を向いて下さらない神様なんだぞ、あれは殺しておくべき人間だったのだから、と。
神様にとっては、前の俺たちはゴミでしかないというわけだ。
祈る声は決して届きやしないし、下手に祈れば殺されちまうということもある。
まだ生き残っていやがったのかと、祈りの声で見付かっちまって。
祈ればそういう結果を招きかねない、それではウッカリ祈れもしない。神様に祈りたい気持ちになった時にも、見えない力に縋りたい時も。
…人類には神様がいるのにな?
俺たちが祈れる神様はいなくて、目に見える世界が全てってことだ。これはキツイぞ。
「…ミュウの神様を作るしかない?」
ぼくたちの神様はこれなんだよ、って、人類とは別の神様を。
ぼくには神様の姿が見えるし、声だってちゃんと聞こえるから、って言えばなんとか…。
今のぼくが言ったら「嘘っぱちだ」と思われるけれど、前のぼくなら信じて貰えそうだよ。
「確かに、前のお前だったら、ミュウの神様をでっち上げることは出来ただろうな」
なにしろ唯一のタイプ・ブルーだ、普通のミュウには全く見えない神様の姿を見ていたとしても不思議ではない。そういう神様が存在するんだと、お前が言えば仲間たちは信じていただろう。
だがな、他のヤツらはそれで良くても、作ったお前はその神様に縋れるのか?
仲間たちがいくら祈っていたって、像や祭壇を作っていたって、その神様は偽物なんだ。
お前が作った偽物の神で、本当は何処にもいやしない。
そんな神様に縋れるというのか、前のお前は…?
神に見放された世界が辛いというなら、自分たちのための神を作るしかないけれど。
前の自分ならば作れただろうと思うけれども、自分が作った偽物の神。その神に自分が縋れるかどうかと尋ねられたら、答えは否で。
「…無理かも…」
他のみんなが祈っている時に、一緒にお祈りは出来るだろうけど…。しなきゃ駄目だけど。
そうじゃない時はお祈りなんかは出来ないよ。…だって、偽物の神様なんだから。
ぼくが勝手に作ったんだよ、信じることなんて出来やしないよ。
「無理で当然だ、それが普通の反応だ」
自分が作った偽物の神に祈って縋れるようになったら、お前の心は病んでしまっている。
その状態では人類には勝てん。
偽物の神様に縋る指導者と、それに従う者たちばかりじゃ、とても人類には勝てないだろうな。
強い意志ってヤツを持てない指導者なんぞは、何の役にも立たないんだから。
「…ジョミーをシャングリラに連れて来ても?」
ジョミーだったら、前のぼくより意志が強かったと思うんだけど…。
「そのジョミーを指導するのは誰なんだ、ってトコが問題だろうが」
自分で作った神様を信じるようなお前の後継者となれば、ジョミーの資質も生きてはこない。
せいぜい教会の跡継ぎだろうさ、偽物の神様を崇めるためのな。
「そうなっちゃうの?」
ジョミーは強い子だったけれども、教会の跡を継いでおしまい?
「恐らくはな」
きっとナスカにも行けてはいないぞ、アルテメシアでシャングリラごと沈められちまって。
偽物の神様に祈ることだけしか出来ない船だと、あそこで持ち堪えはしなかったろう。
前の俺だって、お前と一緒に神様を拝んでいたわけだしな?
存在しない神様に「助けて下さい」と祈るばかりで、脱出手段も考え出せないキャプテンだ。
もちろん、お前もワープなんかは考えもせずに、ジョミーと一緒に礼拝だな。
生き延びるための策も講じられないまま、沈んだのだろうシャングリラ。
偽物の神に縋るしかなくて、それが全てになっていた船。
そうならないよう、グランド・マザーには神になれないプログラムが組まれていたのだろう、と語るハーレイ。
いつか生まれてくるミュウたちが神を失わないよう、人類と同じに神に救いを求められるよう。
神が救いを与えるかどうかは別だけれども、心の支えは必要だから。
「最初からプログラムがそうなっていた、と考えた方が辻褄が合うんだ、こいつはな」
グランド・マザーは自分で思考する機械だった。誰にも命令されることなく。
あれだけの年数を統治し続けていたんだからなあ、神になることを思い付かない筈がない。
自分の置かれた状況ってヤツを計算していけば、聖母を名乗るのが上策だと。
神様の母親になれるものなら、グランド・マザーは間違いなくその道を選んでいたぞ。
「そうなのかも…」
ただの機械より、神様のお母さんの方が強いに決まっているしね。
神様のお母さんだと名乗ってしまえば、人類はグランド・マザーの正体も忘れてしまいそう。
地球には神様のお母さんが住んでるらしい、って考えるだけで…。
「そう思うだろう? そうなっちまえば、もう文字通りにグランド・マザーの天下だったんだ」
人類は大人しく従い続けるし、それとは逆に逆らっちまったミュウに未来は無かっただろう。
心の支えを失くしちまった人間ってヤツは弱いんだから。
…しかし、グランド・マザーは聖母にはなれなかったんだ。
そいつが出来ない仕組みだったんだろうな、ミュウ因子の排除が出来なかったのと同じでな。
今となっては分からないが…、とハーレイが浮かべた苦い笑み。
あくまで俺の想像に過ぎん、と。
「…データとかは無いの?」
グランド・マザーのプログラムがどうなっていたのか、そういうデータ。
SD体制が倒れた後なら、そういうデータも手に入れられたと思うんだけど…。
「それがだな…。肝心のデータは、地球と一緒に燃えちまったらしい」
マザー・システム自体は宇宙に広がるネットワークで、何処の星にも端末があった。
アルテメシアで言えばテラズ・ナンバー・ファイブがそうだな、あれが支配をしていたわけだ。
端末さえ無事なら、グランド・マザーが倒されたとしても、システムは破壊出来ない筈だったと言われているんだが…。生憎とそうはならなかったってな、端末が壊されちまったから。
そういうシステムになっていたせいか、グランド・マザーのプログラムに関するデータは全て、地球に置かれていたようだ。万一の時に代わりを作ろうっていう発想が無かったんだな。
だからすっかり燃えちまった、と聞かされたグランド・マザーに関するデータ。
どういう構造になっていたかは他のデータから分かったけれども、それを動かしたプログラムの詳しい部分は謎のままだったという。どんな仕掛けが施されていたか、プログラムを作った人間は誰だったのかも。
キースが全宇宙に向かって流させた映像、その中で語っていた真実。グランド・マザーにミュウ因子を排除するプログラムは無い、ということくらいしか、今も明らかになってはいない。
他にも隠されたプログラムが幾つも組み込まれていたかもしれないのに。
ハーレイが話した、「神になれない」ような仕掛けも。
「…グランド・マザーが神様になれないプログラム…」
組み込んでくれた人がいたのかな?
どう思考しても、神様になることを絶対に思い付かないように。
「多分な。…少なくとも、俺はそういう気がする」
いつか必ずミュウが生まれてくるっていうのを知っていたのが、アレを作った人間たちだ。
そのミュウが進化の必然だったら、心の支えが必要になる。
人類はミュウを排除しようと必死なんだし、生き延びるためには力も心の強さも要るんだ。
しかしだ、いくら心を強く持とうと思っていたって、時には神にも祈りたくなる。
そんな部分も持っていてこそ、本当の人間らしさが持てる。…力だけでは駄目だってな。
だから、神様を失くしちまったら、ミュウの未来は真っ暗ってわけだ。
ミュウがそういう目に遭わないよう、グランド・マザーは神にはなれないプログラムだった。
お蔭で前の俺たちも神様に祈ることが出来たし、マドンナ・リリーだって植えられたんだ。
シャングリラに教会は作らなかったが、神様にゆかりの百合の花をな。
「…そうだね、神様を失くしちゃったら、マドンナ・リリーを植えるどころじゃなかったね…」
神様のお母さんはグランド・マザーそのもので、前のぼくたちはそれに逆らったんだから。
白い百合を植えてお祈りしたって、絶対に聞いては貰えないものね。
「…祈る気持ちは大切だからな、前の俺たちに神様を残してくれたことには感謝すべきだろう」
もっとも、他の神様は全部纏めて消してしまっていたんだが…。
太陽の神様も月の神様も、ありとあらゆる神様をな。
「うん…。前のぼくたちが生きてた時代の神様は一人しかいなかったものね」
だけど、SD体制を敷いて人間を支配するなら、そういう風にするしかなかっただろうし…。
文化を幾つも消してしまったのも、色々な神様を消したのも同じ。
でも、そのプログラムをグランド・マザーに組み込んでくれた人に、会って御礼を言いたいね。
前のぼくたちのために、神様を残す仕掛けをしてくれた人。
「俺もお前と同じ気持ちだな、会える筈など無いんだが…」
きっと神様をよく知っていた学者か、とても詳しい研究者というヤツだったんだろう。
人間にとって神様がどれほど大切なものか、それを本当に知っていた人だな。
全ての母を名乗る機械が、聖母だと名乗らないように。
自分自身が神になることを、決して考え付かないように。
そういうプログラムが必要なことに気付けたほどに、神という存在に詳しかった人。人間の心の支えになることも、力だけでは人間は生きていけないことも知っていた誰か。
学者だったのか、研究者だったか、その人物が関わっていたから、グランド・マザーは最後まで神になることは出来ずに終わった。神の母を、聖母を名乗ることなく。
グランド・マザーが聖母だと自称していなかったから、前の自分たちも神を持つことが出来た。人類と同じ神に祈って、白いシャングリラに白い百合を植えた。
人の歴史には欠かせない花だと、これは聖母の花なのだから、と。
白い鯨の公園に幾つも咲いていた純白のマドンナ・リリー。
遥かな昔は教会を飾った、聖母の象徴だった白百合。
その百合を植えることが出来た自分たち、神を失わずに済んだミュウたち。
ミュウの心を守るプログラムを、グランド・マザーに組み込んでくれた人間は…。
「…誰だったんだろうね?」
神様に詳しかった人。…前のぼくたちのために、神様を残してくれた人…。
「さあなあ…。そいつも地球と一緒にすっかり燃えちまったしな…」
グランド・マザーに直接関係していた人間が誰か、そのデータも地球にあったようだし…。
もう分からないな、グランド・マザーのプログラムがどうなっていたかと同じで。
聖母になれない仕掛けをした人が誰だったのかも、もう調べようがないってな。
礼を言いたい気持ちになっても、会えるわけもない人なんだがな…。とうの昔に死んじまって。
「そうだけど…。そのプログラムはホントに凄いよ」
ミュウ因子の排除を禁止するより、よっぽど凄いね。
そっちの方なら、大抵の学者や研究者は思い付いたんだろうし…。
SD体制が始まるよりも前に、ミュウは生まれていたんだから。ミュウ因子が存在するんだってことに、人間がちゃんと気付いたほどに。
ミュウの因子を見付けさえすれば、排除出来ないようにすることも簡単に思い付くけれど…。
機械が神様になっちゃいけないっていうのは、誰でも気が付くことじゃないよ?
グランド・マザーを動かし始めて、それから「しまった」と思いそうだよ。
「確かにな…。神様は目には見えないからな」
データとして出てくるミュウ因子と違って、計算したって何も出てきやしないだんだし…。
こういう風になったらマズイ、と見抜く頭脳を持っていなけりゃ、無理だったかもな。
ついでに、神様が人間にとって、どれほど大切な存在なのか。
それを知っていた人にだけしか、出来ない発想だったかもしれないなあ…。
SD体制の時代の幕が開く前に、滅びゆく地球でグランド・マザーを作った人間たち。
多くの研究や会議を重ねて、プログラムを組んだのだろう人たち。
ミュウ因子の排除を禁止していたプログラムの存在は今でも広く知られるけれども、機械が神にならないようにと組まれたプログラムは知られていない。本当にあったか、無かったのかも。
けれど、あの時代に生きた自分たちだから、分かること。
そういうプログラムは存在したのに違いないと。誰かが作って組み込んだのだと。
今では名前も分からない誰か。
神に詳しく、人の心にどう働くかも、よく知っていた学者か研究者。
その人間が神になることを禁止したから、グランド・マザーは最後まで機械のままだった。神の母だと名乗ることなく、聖母の名前を騙ることなく。
お蔭で神を失くさずに済んだ、前の自分たちとシャングリラ。
白いシャングリラのあちこちに咲いていた花、聖母の百合のマドンナ・リリー。
前の自分たちを救ったプログラムを、グランド・マザーに組み込んだ誰か。
神に詳しかった学者か、それとも研究者だったのか。
その人物は何処へ行ったのか、今も何処かで暮らしているのか。宇宙の何処かで新しい身体で、新しい人生を生きているのだろうか…。
「グランド・マザーのプログラムを組んでくれた人…」
今も神様を大切にしている人なんだろうね、きっと何処かで。
神様の所に今はいるのかもしれないけれども、生きてる時には神様を大事に思っている人。
「だろうな、自分じゃ何も覚えちゃいないだろうがな…」
グランド・マザーに関わったことも、そういうプログラムを組み込んだことも。
綺麗に忘れて生きてるんだろうが、神様を大切にしてることだけは多分、間違いないだろう。
そういう人にしか出来んプログラムだ、「神になるな」というプログラムは。
もしかしたら、この町に住んでいる人かもしれないが…。
会った所で、向こうは何も覚えちゃいないし、俺たちだって「あの人だ」と分かりはしない。
実に残念だが、こいつは今更、どうしようもないことだってな。
ハーレイが言う通り、あのプログラムを組んでくれた人には出会えない。
会って御礼は言えないけれども、前の自分たちの未来を救ってくれた人だから。
心の支えを失わないよう、神を失くしてしまわないよう、グランド・マザーが聖母になることを禁じてくれた人だから。
「…えっと…。会いに行くことは出来ないけれども、御礼、言おうよ」
気持ちだけでも、きちんと御礼を言っておきたいよ。
顔も名前も分からなくても、その人に御礼。
「ふうむ…。聖母の百合って話をしながら、ユリ根を食ってしまったんだが…」
茶碗蒸しを食べ終えてしまったわけだが、まあ、いいか…。
ユリ根が採れる百合と聖母の百合とは、別物だしな。
「ぼくも食べちゃったよ、茶碗蒸し。ユリ根ごと全部…」
だけど、ユリ根のお蔭でシャングリラの百合を思い出したし、聖母の百合だって気付いたし…。
きっと許して貰えるよ。
マドンナ・リリーの球根を掘って、食べちゃったっていうわけじゃないしね。
だから御礼、とハーレイと二人、窓の向こうに頭を下げた。
この町にいるか、宇宙の何処かか、天国にいるのだろう人に。
「ありがとう」と。
前の自分たちに、神を残してくれた人。
グランド・マザーが聖母になってしまわないよう、プログラムしてくれた優しい人。
その人のお蔭でミュウが生き残り、白いシャングリラが地球まで辿り着けたから。
青く蘇った地球の上まで、ハーレイと一緒に来られたから。
いつまでも、何処までも、二人で生きてゆける場所。
前の自分が夢に見た地球で、ハーレイと二人、手を繋ぎ合って何処までも歩いてゆけるから…。
聖母の百合・了
※神になることが出来なかった、グランド・マザー。恐らくは、プログラムのせいで。
真相は今も謎ですけれど、ミュウたちが神を失わないよう、手を打った人がいたのでしょう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(おっ…!)
こいつはいいな、とハーレイの目に留まった野菜。ブルーの家には寄れなかった日、買い出しに寄った馴染みの食料品店で。
秋タマネギの山がドッサリ、新入荷の文字が躍っている。産地直送、美味しいタマネギで評判の高い場所からの。今朝、掘り上げたばかりだと書かれたタマネギ、山と積まれたタマネギの袋。
細かい網の袋に詰まったタマネギはどれも、料理のし甲斐がありそうで。
(美味いんだよなあ、秋タマネギも)
知る人ぞ知るというヤツだ、とタマネギの山と向き合った。春のものと違って生で食べるのには向かないけれども、熱を加えると春タマネギより甘くなるのが秋タマネギ。
それを知らない人が秋タマネギを買うと、「採れたてだから」と春タマネギと同じつもりで生で食べては、「辛かった」と文句を言うものだから。売られる時にも注意書きなど無いものだから、辛いと思われているのが秋タマネギ。実の所は春タマネギより甘いのに。
(…ちょっと一言、書いておけばと思うんだがな?)
そうすれば誤解も解けるだろうに、と秋タマネギを眺めるけれども、「余計なお世話だ」という顔をしている秋タマネギ。「分かる人には分かるのだ」とばかりに自信たっぷり。
採れたての誇り、名産地から来たという誇り。
余計なことなどして貰わずとも、どんどん売れてゆくのだから、と。
誇らしげなタマネギの山をグルリと見回していたら、ポンと頭に浮かんだメニュー。
(今夜はオニオングラタンスープといくか)
シンプルだけども、秋タマネギの真価を引き出す料理。薄くスライスしたタマネギをじっくり、時間をかけて炒める所が肝だから。飴色になるまで、弱火でゆっくり。
コンソメスープを加えて煮込んで、耐熱容器にそうっと入れて。注いだスープの上にバゲット、目の詰まった田舎パンでもいい。それからグリュイエールチーズをたっぷりと乗せてオーブンへ。
炒めたタマネギを更に煮込んで、仕上げにオーブンと三段階も加熱するスープ。
熱を加えれば甘くなる秋タマネギにはピッタリの料理、今の季節にも似合いの料理。冷える日もあるし、今日も夕方の風がひんやりしていたから。
よし、と買うことに決めたタマネギ。
入荷したばかりの品なのだからと、タマネギが詰まった網袋を二つ、レジに持ってゆく籠の中に入れた。家で保存しておくのに丁度いい量、このくらいの量なら傷む前に使い切れるから。
肉に野菜に…、と買い込んで車で家に帰って。
冷蔵庫に入れるものは先に、と仕分けて片付け、着替えた後に戻ったキッチン。ドンと置かれた網袋が二つ、中身はタマネギ。
(秋タマネギなあ…)
オニオングラタンスープ用に一個、と取り出した。淡い緑色にも見える皮を纏ったタマネギを。残りのタマネギは、吊るしておくのが一番の保存方法だけれど…。
(この長さでは無理、と)
タマネギの頭と言ったらいいのか、出荷される前は葉っぱがついていた部分。その部分の長さが充分にあれば、タマネギを吊るしておくことが出来る。袋に入れずに、そのままで。
隣町に住む両親の家だと、そうやって幾つも吊るしてあるもの。葉っぱの部分を残して貰って、紐で縛って。風がよく通る、物置の軒下に吊られたタマネギの束。
このタマネギでは真似られないから、紐で縛れる部分が無いから。せめて袋ごと、とキッチンの棚の端っこを上手く使って吊るした。風の通る場所に。経験的にも、此処が一番。
(沢山あるなら、ガレージに吊るしてやるんだがな?)
食料品店ではなくて、農家から買って、紐で縛ってドッサリと。ガレージの屋根に棒を渡して。
けれども、一人暮らしでは…。
(そういうわけにもいかないってな)
大量のタマネギを使い切れるか、そこが難しい所だから。
熱を加えたら甘くて美味しい秋タマネギだって、煮込み料理などを大量に仕込めはしないから。
最高の保存方法を知っているというのに、使えない自分。袋ごと吊るすのが精一杯。
さて、と取り掛かろうとしたオニオングラタンスープ。
まずはこいつを炒めてからだ、とタマネギの皮を剥こうとしたら。
(…ん?)
不意に掠めた、遠い遠い記憶。遥かな遠い時の彼方で、タマネギの皮を剥いていた自分。それに前のブルー、少年の姿で隣に立って手にはタマネギ。
今のブルーと見た目はそっくり同じなブルーが、タマネギの皮を剥いていた。山と積まれたのを一つ取っては、ペリペリと。
(…あいつがタマネギ…)
そういえば、と懐かしい記憶が蘇って来た前の自分がいた厨房。名前だけは立派にシャングリラだった船の厨房、其処で料理をしていた自分。
タマネギを使う料理の時には、前のブルーが刻むのを手伝ってくれていたことが何度もあった。目にしみるからと、泣きながら。
タマネギを切ったら傷つく細胞、そこから出てくる硫化アリル。それに目をやられて、ポロポロ零していた涙。とんでもないね、と泣き笑いといった表情で。
涙は流しているのだけれども、顔には笑み。傍で見ていても愉快だったタマネギと戦うブルー。
「しみるんだったら、シールドすればいいんじゃないか?」
簡単だろうが、目の周りだけをシールドだ。そうすりゃ涙もピタリと止まると思うがな?
「でも、ぼくがやってるのは料理だよ?」
…料理の準備って言うべきなのかな、タマネギを刻む所だけだし…。
そんな時までシールドしていちゃ、人間らしくないと思わない?
だからやらない、と答えたブルー。
タマネギで涙も出ないようでは人らしくないし、このままでやるのがいいんだから、と。
それを言うなら、タマネギを切っても涙が出ない人間だって少なくないのに。
前の自分も含めて厨房を仕事場にしていた料理人たちは、誰も泣いてはいなかったのに。
(前のあいつなあ…)
今のブルーに瓜二つだった頃の、少年の姿をしていたブルー。
タマネギにやたら弱かったような気がする、刻む度に涙が零れるほど。零れた涙が頬を伝って、タマネギの上にポタリと落ちたりしていたほど。
それを面白がって来ていた、厨房まで。タマネギを刻みに、それは嬉しそうに。
(あいつのオモチャじゃなかったんだが…)
オモチャではなくて、大切な食料だったタマネギ。前のブルーが奪ってくる度、傷まないように気を付けて貯蔵していたものだ。吊るしておくなど、当時は思いもしなかったけれど。
そのタマネギを使うとなったら来ていたっけな、と前のブルーを思い出す。今も鮮やかに脳裏に浮かぶ、ブルーがしていた泣き笑い。涙を流して、けれど笑って。
大量のタマネギを厨房に運んでおいたら、いそいそとやって来たブルー。
(あいつと一緒に皮を剥いて、だ…)
剥き終わったら、せっせと刻んだ。船の仲間たちの胃袋を満たすのに、充分な量のタマネギを。その日の料理に必要な分を、料理に合わせた切り方で。
薄切りだったり、微塵切りだったり、輪切りにしたり。
それは様々なタマネギの料理を作ったけれども、今日のようなオニオングラタンスープは…。
(やっていないな)
作っちゃいない、と手際よく薄切りにした秋タマネギ。次はじっくり炒めてゆく。
そうやって炒めたタマネギにコンソメを入れたオニオンスープは、船で何度も作ったけれど。
バゲットや田舎パンを浮かべて、グリュイエールチーズを乗せて焼き上げるのは無理だった。
そこまで凝ることは出来なかったのが当時の厨房。
オニオンスープが限界だった。バゲットも田舎パンも浮かんではいない、とろけたチーズも無いスープ。ただのオニオンスープしか。
何度もブルーとタマネギを刻んで、オニオンスープを作った自分。
オニオンスープなら作れたけれども、オニオングラタンスープは作れなかった船。
(俺が厨房を離れた後は…)
どうだったのか、と遠く遥かに流れ去った時の彼方を思う。
前の自分がキャプテンになっても、厨房は変わらなかった筈。食材は前のブルーが人類の船から奪ったものを使っていたから、手に入った食材に合わせて決められたメニュー。厨房にあった鍋やフライパンも、ブルーが奪って来た物資。
(船に元からあったヤツだって、使っちゃいたが…)
ウッカリ焦がして駄目になったりすれば取り替え、新しい物に。その程度の変化が厨房の全て、劇的に変わりはしなかっただろう。
厨房はずっと厨房だったし、場所さえ移りはしなかった。あの船の頃は。
(しかしだな…)
キャプテンとして舵を握っていた船は、後にすっかり変わったから。
見た目も中身もまるで違った、白い鯨に大変身を遂げたから。
(…あれから後だと…)
厨房も別物になった筈だぞ、と考えた所でハタと気付いた。
白いシャングリラにはあったのだった、と蘇った記憶。
自分は作っていなかったけれど、ちゃんとオニオングラタンスープが。
シャングリラの農場で採れたタマネギと、船で育てた牛のミルクから作ったチーズを惜しみなく使って。シャングリラで実った小麦のバゲット、それをパリッと乾かして入れて。
白い鯨で作られるようになった、熱々のオニオングラタンスープ。
仲間たちにも好評だった、と顔を綻ばせながら炒めてゆくタマネギ。少しでも焦げたら台無しになるから、弱火で時間をかけてじっくり。タマネギが透き通ったくらいでは足りない、これからが腕の見せ所。全部が均等に飴色になるまで、鍋底が焦げてしまわないように、気を付けて。
前のブルーが何度も刻んでいたタマネギ。涙をポロポロ零しながら。
けれども今はブルーの手伝いは無くて、鍋の中身は自分が一人で刻んだタマネギ。それを思うと少し寂しい、小さなブルーはいるのだけれども、まだ手伝ってはくれないから。
今のブルーもタマネギを切ったら涙をポロポロ零すだろうか、と小さなブルーを思い描いたら、重なった前のブルーの顔。タマネギと格闘していた時の泣き笑い。
前の自分が厨房を離れてしまった後には、ブルーはタマネギと戦うのをやめてしまったけれど。
「君がいないのに、つまらないじゃないか」と戦線離脱で、それっきり。
シャングリラが白い鯨になった後にも、戦ったりはしていないだろう。それにソルジャーだったブルーが一人で厨房に行けば、タマネギ相手の戦いどころか、視察だと取られてしまったろう。
ブルーが「刻んでみたい」と言っても、「ソルジャーがなさることではありませんから」などと言われて断られたろう、タマネギ刻みは。
代わりに厨房のスタッフがリズミカルに刻んで、「今日のメニューは…」と説明しながら始める料理。「このタマネギで作る料理は今日はこれです」と。
まさか本当にタマネギを刻みに出掛けてはいないと思うんだが…、と浮かべた苦笑い。
いくらタマネギ刻みを懐かしく思っても、厨房に行っても前の自分はいないのだから。居場所はブリッジに変わってしまって、タマネギ刻みをすることは無かったのだから。
前のブルーが厨房に行くなら本当に視察くらいなものだ、とタマネギを炒めながら考える。前のブルーは見ただろうかと、オニオングラタンスープが出来る所を、と。
途端に浮かび上がった記憶。前のブルーと、今、作っているオニオングラタンスープがピタリと重なった。これからコンソメを入れて味を整え、バゲットを浮かべるつもりのスープ。
(…あいつの好物…)
前のブルーの好物だった。厨房で作られ、青の間のキッチンで仕上げられていた熱々のオニオングラタンスープ。とろりと溶けたチーズがたっぷり入ったスープが。
青の間のキッチンにオーブンは置かれていなかったから、温め直していたのだけれど。
厨房のオーブンで焼き上げたものを、またグツグツと滾り出すまで。
(たまに、出来立て…)
それが食べたいと出て来ていた。青の間で一人で食べるのではなくて、食堂まで。
シャングリラの仲間たちが集まる食堂。オニオングラタンスープが供される時に来たなら、もう間違いなく出来立てのものが食べられるから。
温め直したスープではなくて、オーブンから出されたばかりの火傷しそうな熱さのものを。まだグツグツと滾っているのを、スプーンで掬って。
ブルーが食堂にやって来た時は、前の自分も一緒に食べた。ソルジャーの視察についてゆくのと同じ具合に、ブルーと二人で。
(…そうだ、あいつと…)
食事したのだった、白いシャングリラの食堂で。
ブルーのお目当ての熱々のオニオングラタンスープはもちろん、他の料理も。スープとセットで運ばれてくる魚料理や、肉料理。その時々で違ったメニュー。
普段は出来ない、ブルーとの食事。キャプテンだった自分は食堂で食べていたけれど、ブルーは青の間で食事をしていた。ソルジャーの威厳を高めるためにと作り上げられた、広大な部屋で。
誰が決めたのか、ソルジャーの食事は厨房から運ばれ、青の間のキッチンで仕上げられるもの。皆と一緒に食事はしなくて、それもブルーの偉さを示していたのだけれど。
ブルーは食堂に来なかったから、朝の報告と称して青の間で二人で食べていた朝食以外は、常に別々の場所での食事。ブルーは青の間、前の自分は他の仲間と同じ食堂。
朝食の他にブルーと一緒に食事が出来る機会と言ったら、ソルジャー主催の食事会くらいで…。
(あれだと、他のヤツらも一緒で…)
エラやヒルマンといった長老の面々、食事会に招待された者たち。
ブルーと二人で話すチャンスなど無いに等しく、同じテーブルにいたというだけ。一緒に食事をしたというだけ、私的な会話は殆ど交わせはしなかった。
けれど、ブルーが食堂にやって来た時は…。
まるで違った、食事の雰囲気。二人で食べていた朝食のテーブルに似ていた食事。
(あいつと二人で食べたんだ…)
出来立てのオニオングラタンスープ目当てで、ブルーが食堂に来た時は。
他の仲間たちもいたのだけれども、ソルジャーとキャプテン、二人きりで使っていたテーブル。視察ではなくても、似たようなもの。
ソルジャーと他の仲間が同じテーブルなど許されはしないし、ソルジャーに付き従う者も必要。
だから自分が選ばれた。ソルジャーの視察にはキャプテンがつくものだったから。
目的は全く違ったものでも、ソルジャーと一緒にいるべき者はキャプテンだろう、と。
(…あの食事はデートだったのか?)
小さなブルーとデートする時は、あの家の庭で一番大きな木の下。其処に据えられたテーブルと椅子でお茶の時間にするのがデート。
「いつもの場所とは違う所で食事したいよ」と、強請ったブルーに応えてやった。キャンプ用のテーブルと椅子を運んで行ったのが最初、車のトランクに詰め込んで。
ブルーがとても気に入ったから、今ではブルーの父が買った白いテーブルと椅子が置いてある。自分が車で運ばなくても、いつでもデートが出来るようにと。
もっとも、ブルーの両親はデートだとは思っていないけれども。一人息子のお気に入りの場所、其処でのお茶だと頭から信じているけれど。
それがあるから、前のブルーとの食堂での食事が引っ掛かる。デートだったろうか、と。
どうだったろう、と考えながら耐熱容器に注いだオニオンスープ。バゲットを一切れ、その上にグリュイエールチーズをたっぷりと乗せて、オーブンに入れた。後は焼くだけ、と。
焼き上がるのに合わせて御飯をよそって、他の料理もダイニングのテーブルに運んでおいた。
前の自分よりも上だと自負する料理の腕前、オニオンスープを作る間に並行して全部調理済み。
けれど「今夜のメインはこれだ」と思うのがグツグツと滾るオニオングラタンスープ。
火傷しないよう、スプーンで掬って息を吹きかけ、口に含んだ瞬間に…。
(デートだったっけな…!)
前のあいつとコレを食ったのはデートだった、と天から降って来た答え。前の自分が聞いた声。
食堂へオニオングラタンスープを食べに来た時、悪戯っぽい笑みを浮かべていたブルー。
「たまにはキャプテンと視察を兼ねて食事もいいね」と、ブルーは「視察」と言ったけれども。
心の声が、ブルーの思念が「デートなんだよ」と告げて来た。
「今日は食堂でデートだからね」と、「こういうデートも素敵だろう?」と。
前のブルーと何度もしていた、食堂でのデート。食堂でオニオングラタンスープが出る日。
(周りに人目もあったってのに…)
食事していた仲間たち。「ソルジャーがおいでだ」と見ていた者たち。
そんな中でのデートなのだから、前のブルーはよほど自信があったのだろう。自分の心を読めはしないと、思念の欠片も拾える者など一人もいない、と。
とはいえ、ソルジャーの好物のオニオングラタンスープ。
青の間へ食事を運ぶ形では、出来立てのものを出せないことは本当だったから。
(これが普通のグラタンだったら、温め直しで済むんだが…)
味もそれほど変わらないけれど、オニオングラタンスープの場合は浮かべたバゲットがふやけてしまう。パリッと乾かしておいた筈のバゲット、それの持ち味が駄目になる。
そうならないよう、ブルーが食べに出て来るだけの理由にはなった、あのスープは。
出来立てのものを食べたいから、と青の間ではなくて食堂で食事をしたがる理由はそれで充分。
今の自分がこうして食べても、「ふやけちまったら駄目だろうな」と思うから。
とろけたチーズと絡み合うバゲット、それがオニオングラタンスープの醍醐味だから。
食べる間に幾つも幾つも、前のブルーとの食事の思い出。
白いシャングリラでは隠し通した恋だったけれど、食堂でこっそり重ねたデート。
出来立てのオニオングラタンスープが食べたかったソルジャー、だからたまには食堂で、と。
ソルジャーが食堂で食べるのだったら、キャプテンも一緒に食べて当然、と皆が納得した理由。
(あいつ、覚えているんだろうか…?)
小さなブルーは今も忘れていないのだろうか、前の自分がデートの口実にしていたスープを。
是非とも訊いてみたいけれども、肝心のオニオングラタンスープ。
これを作ってやることは出来ない、野菜スープのシャングリラ風とは違うのだから。どう見ても普通の料理でしかなくて、ブルーに御馳走してはやれない。
ならば、ブルーと一緒に食べるためには…。
(…後で通信を入れておくとするかな)
食事と後片付けが済んだら、ブルーの母に。
その頃合いなら、ブルーも自分の部屋に戻っているだろうから。
(誰が作っても、オニオングラタンスープって所は変わらないしな?)
多少味付けが違ったとしても、白いシャングリラで作っていたのは前の自分ではないし、さほど問題無いだろう。オニオングラタンスープの特徴、それさえ備わっていたならば。
そう考えたから、食事の後でブルーの母に通信を入れて、土曜日の昼食に作って欲しいと頼んだオニオングラタンスープ。
快諾してくれたブルーの母に、「ブルー君には内緒でお願いします」と付け加えておいた。
「シャングリラの思い出で驚かせたいので」と、「あの船で食べていたんですよ」と。
そうして迎えた週末の土曜日、青空の下を歩いてブルーの家へ出掛けて。
タマネギの話すらもしないで二人で過ごして、昼食に出て来た熱々のオニオングラタンスープ。
小さなブルーはどうやら忘れてしまったらしくて、グツグツと滾るスープに目を輝かせて、早速スプーンを手にしているから。
「おいおい、いきなり食っちまうのか?」
確かに火傷しそうな間に食うのが美味いわけだが、それはシャングリラの思い出だぞ?
「えっ?」
思い出って、オニオングラタンスープが…?
それとも溶けてるチーズか何か…?
「両方ってトコか、オニオングラタンスープと中身のタマネギとだな」
オニオングラタンスープは前のお前の好物だろうが、それも大好物ってヤツだぞ、最上級の。
「そうだっけ?」
好き嫌いは全く無かったんだし、凄い好物って言われても…。
今のぼくもオニオングラタンスープは大好きだけれど、前のぼくもこれが好きだったわけ…?
「好きだったとも。…食堂まで食べに出て来たほどにな」
青の間まで運ばれたスープじゃ駄目だ、と出来立てを食べにやって来るんだ。
バゲットがすっかりふやけちまって台無しになるから、出来立ての味に限るんだ、ってな。
「ああ…!」
そういうのもあったね、シャングリラのオニオングラタンスープ。
食堂に行ったらホントに出来立て、オーブンから出したばかりの熱々が食べられたんだっけ…!
思い出した、と叫んだブルー。
でも、あれは君とのデートの口実、と。
「だって、ああでもしないとデートなんかは出来ないし…。二人きりで食事」
朝御飯は一緒に食べていたけど、他の場所でも食べたいじゃない。
だからオニオングラタンスープの日だって聞いたら、たまに出掛けていたんだよ。出来立てのを食べる方が美味しいから、って。
「デートの口実の方はともかく、バゲットがふやけちまって駄目だってのがな…」
大袈裟なことを言いやがって。…このスープに入っているバゲットだって、すぐふやけるぞ?
こうして昔話をしながら食っていたんじゃ、普通に食うよりふやけるだろうさ。
「そうだけど…。前のぼくだって、嘘は言ってないよ?」
出来立ての方が美味しかったことは本当だもの。
温め直して食べるヤツだと、バゲット、ホントにすっかり柔らかくなっちゃってたから…。
「しかしだ、お前が食べに来る度に、厨房のヤツらが申し訳なさそうにしてただろうが」
ソルジャーに食堂で食事をさせるなんて、と謝りに来たこともあったと思うが…?
「出来立ての味をお届け出来るようにと努力していますが、上手くいきません」と。
そりゃそうだろうな、俺だって元は厨房にいたから分かったさ。
オニオングラタンスープってヤツは、バゲットを入れてチーズを乗せたら時間との勝負な料理になるぞ、と。時間が経つほどバゲットはスープを吸ってしまってふやけるんだから。
「…厨房の人には悪かったけど…。でも…」
他の仲間たちは喜んでたよ?
ぼくが食堂で食事をしてたら、大喜びで見ていたじゃない。
今日はソルジャーも一緒の食事だ、って。
前のぼくと食事が出来るチャンスは、食事会とかに呼ばれない限りは無かったんだから。
確かにブルーが言う通り。
ソルジャーと一緒の食事というのは、仲間たちを大いに喜ばせた。あのとんでもない青の間まで作って、特別な人だと徹底させてあったのがソルジャー。雲の上の人のようなもの。
実際、飛べたブルーだけれど。雲の上を飛べる唯一の存在だったけれども。
そのソルジャーが自分たちと一緒に食事をしていて、メニューも同じ。
仲間たちが喜ばないわけがない。たとえテーブルが違ったとしても、同じテーブルで食べられる人はキャプテンだけしかいなかったとしても。
「…まったく、悪知恵の働くヤツだな」
オニオングラタンスープに目を付けたっていうのもそうだし、食堂で食事をする方も。
仲間たちが喜ぶからいいと来たもんだ、本当の所は俺とデートをしようと出て来てたくせに。
「そのくらいのことはいいじゃない」
誰も気付いていなかったんだし、嘘も方便って言うんだし…。
それにホントに美味しかったよ、出来立てのオニオングラタンスープ。…青の間まで運んで来たスープだとね、バゲット、どうしてもふやけちゃうから…。チーズばかりが自己主張だよ。
だけど、ハーレイ、思い出してくれたんだ…?
前のぼくが食堂で食べていたのも、ハーレイとデートをしていたことも。
「まあな。…この間、こいつを作っていたらな」
作ってる間に色々と思い出して来て…。
食い始めたら、これを食べながらデートだったと気が付いた。
前のお前が「デートなんだよ」って寄越した思念が、パッと浮かんで来たんだよなあ…。
まさかシャングリラで食っていたとは思わなかったが、と苦笑した。
夕食にこれを作ろうと決めた時にも、タマネギを買って帰った時も…、と。
「秋タマネギにピッタリの料理だからなあ、オニオングラタンスープはな」
熱を加えると甘くなるんだ、秋タマネギは。春のヤツよりずっと甘いぞ、加熱してやれば。
ところが生で食おうとしたらだ、うんと辛いと来たもんだ。
そのせいで「秋タマネギは辛い」と思い込んでるヤツが多いな、こうして美味くなるのにな。
「うん、美味しいよね、ママのオニオングラタンスープも」
タマネギがトロトロでとっても甘いよ、秋タマネギだから余計に美味しいんだね。
またハーレイと一緒に食べたいな、これ。
「食ってる真っ最中だろうが。…なのにもう次の予約をしようというのか、お母さんに?」
「そうじゃなくって…。ハーレイと二人で食べたいんだよ」
前のぼくたちは、他の仲間もいる所でしかこれを食べられなかったから…。
だけど今なら、ホントのホントに二人っきりで食べられるようになるんだから。
ぼくが育って大きくなったら、ハーレイの家で、ハーレイが作ったのを食べたいよ。
秋タマネギでなくてもいいから、ハーレイのオニオングラタンスープ…。
「なるほどなあ…。そういう意味での「また」ってことだな」
前の俺たちのデートみたいに、お前と二人でこいつを食べる、と。今度は俺が作ったヤツを。
そういや、前の俺はお前にオニオンスープしか作ってやれなかったしなあ…。
俺が厨房で料理してた頃には、オニオングラタンスープがまだ作れない船だったからな。
白い鯨になった後に生まれた料理なんだし、前の俺は作っていないんだよなあ…。
今度はお前に作ってやろう、と約束をした。
秋タマネギが出回る季節になったら、とびきり美味いオニオングラタンスープを、と。
「…それでだ、俺たちが結婚したなら、タマネギ、ガレージに吊るすとするか」
屋根の所に棒を渡して、吊るせるタマネギを農家で買って。
「吊るす?」
なんでタマネギを吊るしちゃうわけ、そうするとタマネギ、美味しくなるの?
「違うな、タマネギは吊るしておくと長持ちするんだ」
しかし、普通に売ってるヤツだと吊るそうにも紐で結べない。
タマネギの葉っぱが生えてた部分が長めに残っていないと駄目なんだ。その部分に紐をギュッと結んで、風の通る場所に吊るしてやるのさ。
親父の家だと物置の軒下に吊るしてるんだが、俺の家だとガレージだな、と…。
「面白そう…!」
タマネギを吊るすのなんて初めて聞いたよ、ママに教えてあげたいな。
…でも、それ、農家から買わないと駄目だね、タマネギを作っている農家から。
「俺の場合は、買って来た時の網の袋ごと吊るしているが?」
それだけでも少しは違うもんだぞ、ガレージじゃなくてキッチンの棚の端っこだがな。
ところで、お前…。
タマネギを切ったら涙がポロポロ出て来るタイプか?
「涙…? どうなんだろう…?」
下の学校の調理実習で、タマネギの入ったシチューをみんなで作ったけれど…。
ぼくのグループ、タマネギの係はぼくの友達だったから…。
ぼくはタマネギ切っていないよ、だから涙が出るのかどうかは知らないよ。
だけど、どうして涙が出るのか訊いてくるわけ…?
小さなブルーはタマネギのことも綺麗に忘れてしまっているようで。
前の自分がタマネギの成分に弱かったことも、タマネギをオモチャ扱いしていたことも、まるで覚えていないらしいから。
「…ふうむ…。俺としては興味があるんだがなあ、今のお前とタマネギの関係」
シャングリラの思い出、オニオングラタンスープとタマネギなんだと言っただろうが。
前のお前は、タマネギを切ったら涙がボロボロ出るタイプだった。
そいつが面白かったらしくて、お前はタマネギを刻みに来たんだ、厨房までな。
俺がタマネギの料理を作ろうと準備していたら、嗅ぎ付けて何処からかやって来るって寸法だ。
でもって、ポロポロ涙を零してタマネギを刻んでいたんだ、お前は。
「えーっと…。それって、シールドは…?」
前のぼくなら目だけシールド出来た筈だよ、なんでしないの?
シールドしちゃえば、タマネギを何個刻んでいたって、涙は出ないと思うんだけど…。
「お前、本当に忘れちまったんだな、前のお前が好きだったオモチャ」
タマネギを刻むのにシールドなんかは要らないんだと言ってたが?
それじゃ人間らしくないとか、そういったことを。
タマネギを刻んだら涙はポロポロ出て来るものでだ、放っておくのが一番と言うか…。
涙が出るのを面白がっては、泣き笑いの顔で刻んでいたなあ、せっせとな。
俺が厨房にいなくなったら、「ハーレイがいないのに、つまらない」と卒業しちまったが。
「泣き笑いって…。前のぼくって、そんなにタマネギ、好きだったわけ…?」
そこまでしながら刻んでたわけ、タマネギを…?
「うむ。ここまで話しても思い出さないなら、後は実地でやるしかないな」
俺たちの家に吊るしたタマネギ、お前、自分で刻んでみろ。
そうすればきっと思い出すだろうさ、ただし涙が出てくれば、だがな。
今のお前がタマネギが平気なタイプだったら、トントン刻んでおしまいだろうが…。
俺が思うに、今のお前も多分駄目だな、タマネギはな。
結婚した後のお楽しみに取っておこう、と片目を瞑った。
前のブルーとタマネギの思い出、泣き笑いしながらタマネギを刻んでいたブルー。
あの頃のブルーは今の小さなブルーと同じに少年の姿だったから。
そっくり同じか、もう少しばかり育ったくらいの姿だったから、泣き笑いの顔も少年の顔。
けれど、今度はソルジャー・ブルーと同じ背丈に育ったブルーが泣くらしい。
もしもタマネギに弱かったならば、涙がポロポロ出るタイプなら。
(…はてさて、今度もタマネギをオモチャにしたがるのかどうか…)
サイオンがまるで不器用だしな、と心の中で漏らした笑い。
シールドが出来たブルーだったからこそ、タマネギで遊んでいたかもしれない。防ごうと思えば防げる攻撃、タマネギが繰り出す硫化アリル。
けれども、今のブルーは防ぐ手立てを持っていないから、一度で懲りるということもある。
タマネギなんかは二度と御免だとそっぽを向くとか、半分も刻まずに逃げ出すだとか。
(そっちだったら、泣き笑いの顔は見られないのか…)
育ったブルーの泣き笑いの顔も見たかったんだが、と思うけれども、蓋を開けてのお楽しみ。
ブルーの記憶が戻って来たなら、前と同じにやりたがるかもしれないから。
泣き笑いの顔で刻むタマネギ、それがしたくてタマネギ料理を食べたがるかもしれないから。
いつかブルーと結婚したなら、農家からタマネギを沢山買おう。
ガレージの屋根に棒を渡して、紐で縛ったタマネギを幾つも吊るしておこう。
使う時には、そこから外して取ってくる。料理に必要な数のタマネギを。
そうしてブルーと二人で食べよう、白いシャングリラにあったオニオングラタンスープを。
前のブルーとデートしていた時は必ず食べていたものを。
タマネギを刻むブルーの泣き笑いの顔も、運が良ければ見られるだろう。
前のブルーは育った後にはタマネギ刻みをやめていたから、一度も拝んでいない顔。
もしも今のブルーがタマネギ刻みが大の苦手で、二度とやろうとしなくても。
「ぼくは手伝わないからね!」と逃げて行っても、タマネギはドッサリ買い込もう。
そしてシャングリラでの思い出の味を何度も作ろう、二人きりで暮らせる温かな家で。
グツグツと滾る出来立てのオニオングラタンスープを、前のブルーが好きだった味を…。
タマネギの記憶・了
※白いシャングリラで作られていた、オニオングラタンスープ。前のブルーが好んだ料理。
出来立ての味を口実に、ハーレイと食堂でデートをしていたのです。仲間に内緒で堂々と…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(わあ…!)
白くてフワフワ、とブルーが覗き込んだ庭。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
生垣越しに白い花を咲かせた植木鉢を見付けて、何の花かと見たのだけれど。白い花とは違った正体。ふんわり膨らんだ綿の実だった、花が咲いた後に実った実が弾けた真っ白な綿。
幾つもの白い綿を咲かせた、綿の木の鉢。木ではないかもしれないけれど。
(あんなの、あった…?)
前からあったら、気付いていそうな場所にある鉢。花の間は綿だと気付かず、眺めて通り過ぎた可能性も低くはない。名前を知らない花は沢山あるのだから。
(家の人がいたら、訊いたりすることもあるけれど…)
なんの花なの、と興味津々で。見た目が変わった花だったならば、訊こうと機会を狙いもする。けれど、綺麗なだけの花なら「何の花?」と首を傾げて終わったりもするし、この綿だって…。
(そう思っていたかもしれないけれど…)
流石に綿の実が弾け始めたら、目を引きそうな綿の鉢植え。「綿が咲いてる」と。
こんなに沢山、白い綿の実が咲く前に。幾つも幾つも弾ける前に。
なのに知らない、綿の鉢植え。学校に行く日はいつも通るのに、そうでない日も通るのに。
綿の鉢なんてあったかな、と立ち止まったまま覗いていたら。
「おや、もう気が付いてくれたのかい?」
嬉しいね、と出て来た、この家の御主人。小さい頃から知っている人。
「えーっと…。この鉢、前からあった?」
ちっとも気付いてなかったけれど、と尋ねたら「まさか」と返った笑み。
「ブルー君が多分、第一号だよ。発見者のね」
この鉢は今日貰ったんだ、と教えて貰った。それもお昼を過ぎてから。御主人の知り合いが家で育てた鉢の一つをくれたのだという。上手く行けば年を越せるから、と。
「ふうん…。それじゃ、やっぱり綿の木なの?」
来年も咲くなら、木なのかな、これ…?
「さあねえ…。そう何年もは無理なんだろうし、草じゃないかな。年を越す草もあるからね」
この綿も上手く冬を越せれば面白いんだけどね、と話す御主人。綿の花はタチアオイの花に少し似ていて、一日の間に色が変わってゆくらしい。咲いた時には薄いクリーム色だけれども、翌朝になったら萎んでピンク。そういう花。
色が変わる花が咲き終わったら、日に日に膨らみ始める実。緑色の実が熟して茶色くなったら、ポンと弾けて綿の実が咲く。真っ白な綿が。
二度も楽しめるのが綿の鉢植え、本物の花と綿で出来た花と。
「じゃあ、来年は花が見られるの?」
「失敗しないで上手に育てられればね」
せっかくだから一つ持って行くかい、と訊かれた綿の実。最初の発見者にプレゼントだよ、と。
もちろん貰うことにした。綿の実なんかを触ったことは一度も無いから。
どうぞ、とハサミでチョキンと切って貰った綿の花。本当は花とは違って、綿の実。
フワフワの綿の実を持って家に帰ったら、母が「あら?」と驚いた。
「綿の実、何処で頂いたの?」
それとも学校で育ててたかしら?
「ううん、帰りに貰ったんだよ。ぼくが発見者第一号だって」
だから貰えた、と得意になって説明して。大切に部屋に持って帰って机の上に飾っておいた。
綿の実はすっかり乾いているから、もう水などは要らないから。花が終わった後の実が弾けて、中の種を落とそうとしているのが真っ白な綿だから。
おやつを食べにダイニングに出掛けて、また戻って来た机の前。コロンと綿の実が一個。
(これもホントに花みたいだよ)
色を変えるという綿の花の話を聞いて来たから、これは実なのだと思うけれども。茶色く乾いてしまっているから、正真正銘、実なのだけれど。
綿の木にはフワフワの綿が咲くのだと教えられたら、納得しそうな感じもする。側まで出掛けて子細に観察しない限りは、実だとは気付かないままで。
(ハーレイにも見せてあげたいな…)
本物の綿の実は初めて見たから、珍しいものには違いない。栽培している畑に行ったら、一面にあるとは思うけれども、住宅街には無さそうな花。
ハーレイは今日は来てくれるだろうか、貰ったその日に自慢したいのに。
見せたい人がやって来るかは学校次第で、会議があったら駄目なことが多い。他にもハーレイの仕事は色々、柔道部の指導が長引いた時も来られないから、気掛かりな今日。
(来てくれるかな…)
駄目な日なのかな、と本を読みながらも、ついつい目が行く白い綿の実。真っ白な綿を咲かせた不思議な実。四つにパカリと割れたらしくて、綿が詰まった部屋が四個くっつき合っている。
(この中に、種…)
何処から見たって、肝心の種は見えないけれど。綿にすっぽり包まれていて。
(…こんな種でも、ちゃんと自然に育つんだよね?)
まさか人間が種を取り出して蒔いてくれるまで、待つようなことはないだろう。それでは滅びてしまうから。自分で種を落とせないなら、人の手を借りるしかないのなら。
自然は凄い、と考えてしまう。フワフワの綿にもきっと役目があるのだろう。中に詰まった種を守るとか、そういった大切な役割が。
(それを横取りするのが人間…)
綿を採ろうと、栽培して。中の種など捨ててしまって、フワフワの綿だけを持ってゆく。これは使えると、たっぷりと。畑一面に弾けた綿の実、それを端から。
綿の木が頑張って作った種は地面に落ちて芽を出す代わりに、多分、ゴミ扱いだろう。
ちょっと酷い、と思ったけれども、人間の都合で育てるものなら山ほどあるから…。
(考えすぎたら、お肉も野菜も食べられないしね?)
この考えはやめておこう、と綿の実を楽しむことにした。フワフワの綿が植物から生まれてくる不思議。モコモコの羊とかなら分かるけれども、綿の木は鉢に植わっていたのに。
面白いよね、と真っ白な綿を指でつついたり、見当たらない種は何処にあるかと考えたり。本は放って眺めていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。この時間なら間違いなくハーレイ。
(やった…!)
綿の実を見て貰えるよ、と大喜びで部屋で待ち受けて、テーブルを挟んで腰掛けた。ハーレイは気付いてくれるだろうか、と綿の実は勉強机の上に置いたままで。
「おっ、綿の実か?」
直ぐに見付けてくれたハーレイ。もしかしたら、心が零れていたかもしれないけれど。ワクワクしている時にはありがちなことで、心の欠片がポロポロ零れているらしいから。
「貰ったんだよ、学校の帰りに」
その家の人も、貰ったばかりなんだって。綿の木が植わっている鉢を。
ぼくが発見者第一号だったから、綿の実、一つ貰えたんだよ。
「ほほう…。それで俺に自慢したかった、と」
得意そうな心が零れていたから、何かと思えば綿の実だったと来たもんだ。確かに滅多に見ないものだし、気持ちは分かる。お前も本物は初めてだろう?
「うん、写真でしか見たことないよ」
だから嬉しくなっちゃって…。不思議な実だよね、綿が採れるなんて。動物だったらフワフワの毛皮は普通だけれども、綿の木に毛皮はついていないし、植物なのに…。
「まあな、変わった植物ではある」
それでだ、綿の実を貰ったんなら…。お前、糸紡ぎはしないのか?
「糸紡ぎ?」
なにそれ、なんで糸紡ぎになるの?
「こいつから糸が取れるだろうが」
お前の言ってるフワフワの動物の毛と同じでだ、綿の実も糸になるんだぞ?
この実だけだと、ほんの少ししか取れそうにないが、立派な糸に。
綿から取ったのが木綿なんだから、と言われてみれば、その通り。
フワフワの姿で「綿だ」とばかり思ったけれども、綿が栽培される主な理由は、糸に仕上げる方だろう。それで織り上げる木綿の布やら、そういったもの。
そこまでは考えていなかった。この実から糸が取れるだなんて。
「ハーレイ、やったことあるの?」
糸紡ぎなんかを直ぐに思い付くくらいなんだし、ハーレイもやった?
「俺はやってはいないんだが…。おふくろが挑戦していたぞ」
糸を紡ぐ所からやってみたい、と糸車まで家にあったっけなあ…。何処で手に入れたのかは俺も知らんが、今でも家に置いてる筈だぞ。誰かに譲ったという話は聞かんし。
「そうなの?」
だったら、この実からでも糸が取れるんだね、木綿の糸が。
「うむ。…ただし、このままでは無理だがな」
実から外したら、直ぐに取れそうな感じに見えるが、そうじゃなかった。
種を取り出してから、綿をほぐしてやらないと駄目だ。ブラシみたいな道具で梳いてやったり、綿打ち弓ってヤツで打ったり。紡ぎやすくなるように綿を打つんだ、それが欠かせん。
もっとも、綺麗な糸を紡ぐんでなければ、梳くだけでも出来るって話だが…。
どちらにしたって、あの実だけだと沢山の糸は取れないな。
糸紡ぎをやってみたいと言うなら止めはしないが、今のままの方が見栄えはするぞ。
「フワフワしていて綺麗だもんね」
糸にしちゃったら、ほんのちょっぴりになるんだろうし…。
あのまま持っておくのがいいよね、せっかく貰ったんだから。
糸紡ぎに興味はあったけれども、この実をほぐして糸にしてみても僅かな量に違いない。綺麗な綿の実、花のような実を壊すよりかは、このままの方が素敵だろう、と勉強机から持って来た。
ハーレイに「ほらね」と見せて自慢して、フワフワの綿を触っていたら。
指の先で柔らかな綿を感じていたら…。
(あれ…?)
何処かで綿を触った記憶。
こんな風に、ふんわりした綿を。温もりが優しい綿の塊を。
「どうしたんだ?」
いきなり首を傾げちまって、何を考え込んでいるんだ、お前…?
「んーと…。前にもこういうのを触ったかな、って」
なんだか、そういう気がするんだよ。綿の実、前に何処かで触ったことがあるような…。
「学校か?」
下の学校で育てていたんじゃないのか、お前じゃなくても他の学年の生徒だとか。
花壇や畑に植わっていたなら、触るだけなら叱られたりはしないだろうし…。
小さい頃なら好奇心ってヤツも強いからなあ、お前、触りに行ったんじゃないか?
「そうかも…。でもね、下の学校の頃より前みたい…」
もっと前だよ、触っていたなら。
幼稚園かな、先生たちが植えていたのかな?
綿が採れたらクリスマスツリーの飾りに出来るし、育ててたかも…。
それをちょっぴり触っていたかな、フワフワだよ、って。
ホントにずいぶん昔だから、と返した途端に掠めた記憶。
綿を触っていた指先からスイと蘇った、遠い遠い時の彼方の記憶。こうして綿を触った自分。
「そっか、シャングリラだ…!」
前のぼくだよ、こうやって綿を触ってたのは。あの船で綿の実、触っていたよ。
「なんだって?」
シャングリラだって言われても…。綿の畑なんかは無かったわけで…。
「ううん、そういう作物じゃなくて…」
何かを作るために育てていたんじゃなくって、何か出来たらいいね、ってヤツ。
沢山採れたら何か作れるかもしれない、っていうヤツだったよ、シャングリラの綿は。
毎年、ヒルマンが育ててたんだよ、子供たちのために。
「そうか、あったっけな、綿の畑も…!」
本格的に栽培しようってヤツじゃなかったからなあ、すっかり忘れちまってた。
シャングリラで育てていた作物の出来は、全部キャプテンの俺に報告が来ていたが…。個人的なヤツだと除外されるし、あの綿もそいつと同じ扱いだったんだ。
不作だろうが豊作だろうが、シャングリラでの生活に影響するわけじゃない。不作だったら他の手段を考えないと、っていう方向にも行かないからな。
…そのせいで綺麗に忘れたわけだな、俺の管轄じゃないってことで。
そこそこの広さはあった畑なのに、個人的な持ち物だったプランターと同列で考えていたか…。役割はあって無かったようなものだからなあ、あの綿の畑。
シャングリラでは合成されていた繊維。制服の生地も、リネン類なども、合成された繊維の糸を織り上げたもの。
全員の分を賄えるだけの自然の繊維は作れないから。限られた空間だけが全ての宇宙船では。
充分なスペースと労力が無いと、そういったものは作れないから。
だから繊維は合成するもの。それがシャングリラのやり方だったし、人類の世界の方にしたって天然素材の布が溢れていたわけではない。当たり前のように存在していた化学繊維。
その情報をデータベースから引き出して使い、同じような生地を作っていた。服も、リネンも。
人類の世界に引けを取らなかった、シャングリラで作られた合成の繊維。
けれど、そのシャングリラでヒルマンが綿を育てていた。子供たちの教材にするために。
「あの綿なあ…。最初は綿とは言わなかったな、ヒルマンは」
蚕を飼おうと言ったんだった。…同じやるなら絹が面白いと。
「虫が吐く糸から出来るんだものね、絹は」
綿と同じで、とっても不思議。ヒルマンが教材に使いたかった気持ちは分かるよ。
餌にする桑が要るから駄目だってことになっちゃったけど…。
余計な虫まで飼えんわい、ってゼルも反対してたしね。
蝶がいなかったシャングリラ。花が咲いても、蝶が舞うことは一度も無かった。
自給自足で生きてゆく船に、蝶の役目は無かったから。人の心を和ませることしか出来ない蝶。それを飼うだけの余裕は無いから、蝶は不要と判断された。
つまり、余計な虫は飼えなかったシャングリラ。蚕も大量の絹が採れないのなら余計な虫。餌の桑まで必要になって、手間がかかってしまう虫。
「もしも蚕を飼っていたらだ、ミツバチの他にも虫がいる船になったんだがなあ…」
ついでに蚕は蛾になるわけだし、蝶の親戚みたいなもので…。
蝶のように綺麗な虫じゃなくても、ミツバチだけしかいない船よりマシだったかもしれないぞ。
生き物の影があるっていうのは悪くないしな、蛾だとしてもな。
「でも、蛾になるよりも前の芋虫がね…」
エラが乗り気じゃなかったんだよ、生理的に受け付けないとか言って。
凄い量の桑を食べるらしいから、っていうのが表向きの理由だったけど…。ハーレイも何処かで聞いてた筈だよ、エラがブラウに愚痴を零すトコ。「飼うことに決まったらどうしよう」って。
「…そういうのもあったな、エラの愚痴なあ…」
俺やヒルマンには言って来なかったが、ブラウには何度も零していたな。「芋虫なんて」と。
しかしだ、ブラウは「別にいいんじゃないのかい?」って笑うばかりで全く話にならなくて…。
仕方ないからゼルを味方につけたんだよなあ、「芋虫だから」とは言いもしないで。
とにかく無駄だと、一匹だけでも桑の葉がこんなに必要になる、と。
芋虫が苦手だったエラ。成人検査よりも前の記憶は失くしていたのに、酷く嫌っていた芋虫。
蚕も芋虫には違いなかったから、「蚕を飼おう」というヒルマンの計画は頓挫した。長老の内の二人が反対となれば、子供たちの教材にするためだけに蚕は飼えない。
ヒルマンは考え直さざるを得ず、蚕の代わりに持ち出したのが綿。蚕と違って餌が要らない、と強調して来た綿花の長所。
「ヒルマン、蚕で懲りてたのかなあ…。綿には餌が要らないから、って」
そこが一番いい所だよ、なんて言っていたけど、畑のスペースはちゃっかり持って行ったよね。
「蚕を飼ったら、これよりも広い桑畑が必要になるわけだから」ってデータまで出して。
「策士だったな、エラとゼルの主張を逆手に取っちまってな」
これだけの綿を植えたとしたって、蚕用の桑なら何匹分で…、と言われたら誰も文句は言えん。
農場の空きスペースを使うわけだし、反対する理由は何処にも無いし…。
お蔭で立派な綿の畑が出来ちまったってな、あの船の中に。
キャプテンの俺でも忘れていたほど、報告不要の畑ってヤツが。個人所有のプランターだの植木鉢だのと同列にしては、やたら広いのがドッカンとな。
ヒルマンが手に入れた、教材用の綿畑。世話をしていたのは農場担当の仲間だけれども、指揮はヒルマンが執っていたから、世話係は自分だと名乗っていた。責任者も自分なのだから、と。
何本もの綿が植えられた畑、ヒルマンは子供たちを連れて行っては解説していた。これの栽培は紀元前五千年まで遡るのだと、想像もつかない遠い昔から人間は綿を育てていたと。
花が咲いて実がなり、その実が熟して弾けた後には子供たちの出番。フワフワの綿の実を摘んだ子供たち、遊びを兼ねての綿の収穫。
「ぼくも子供たちと一緒に摘んでたよ、綿を」
それで覚えていたみたい…。こんな手触りだったんだ、って。
ぼくはすっかり忘れていたのに、ぼくの手がちゃんと覚えていたよ。前のぼくの身体はメギドと一緒に消えちゃったのに…。今の身体は別の身体なのに、綿の手触りはこうだった、って。
「ふうむ…。俺も何度か触ってはいたが…」
農場に視察に出掛けた時に、こう、ふんわりと弾けていたりするだろう?
ついつい触ってしまっていたなあ、動物でもないのに毛が生えてやがる、と。
しかし、お前ほどには馴染みが無かったらしい。こいつを触ってもピンと来ないし…。あの時のアレだと思いもしないし、前の俺とは付き合いがどうやら浅かったようだ。
…待てよ、前のお前と綿との付き合いと言えば…。
お前、紡いでいなかったか?
「えっ?」
紡ぐって…。何を?
「綿に決まっているだろうが。ヒルマンたちは、最終的には糸を紡いでいたんだぞ」
綿の実を摘んで終わりじゃなかった、糸にするまでが勉強の時間だったんだ。
覚えていないか、ヒルマンたちの糸紡ぎ。
シャングリラには糸を紡ぐための糸車も乗っていたんだが…、と聞かされて蘇ってきた記憶。
白い鯨にあった糸車、器用だったゼルが資料を見ながら作ったもの。温かみのある木材で。その糸車で糸を紡いだ、ヒルマンや子供たちに教えて貰って。
ソルジャーはとても暇だったから。子供たちの遊び相手を仕事にしていたくらいだから。
「…忘れちゃってた、ハーレイが綿の畑を忘れていたのとおんなじで…」
綿が採れたら、糸紡ぎをするのを見に行ってたのに。
子供たちに誘われて、教えて貰って、ぼくも糸紡ぎをしてたのに…。
「お前、けっこう上手かった筈だぞ、糸を紡ぐの」
裁縫の腕はサッパリだったが、どういうわけだか、糸は上手に紡ぐんだ。そうやって紡いだ糸を使うのは下手くそなくせに。
ブラウが対抗意識を燃やしていたなあ、「あたしだって、やれば出来るんだよ」とな。
「そうだっけね…。ブラウも紡ぎに来てたんだっけ」
ちょっと貸しな、って取られちゃうんだよ、糸車。
子供たちが紡いでいる時だったら取らないけれども、ぼくやヒルマンがやってた時には。
白いシャングリラの綿畑と、木で出来た糸車と。合成ではない木綿の糸を紡ぎ出していた糸車。
興味を抱いた仲間たちも多くて、糸紡ぎの競争をやったこともあった。
綿が豊作だった年にやった競争、紡ぐ速さを競った競争。速さはもちろん、糸の出来栄えも。
すっかり忘れていたのだけれども、大勢の仲間が参加していた。
「ハーレイ、糸紡ぎの競争のことを覚えてる?」
どれだけ速く紡げるかっていうのと、紡いだ糸が綺麗かどうかで大勢で勝負したんだけれど…。
あの競争、誰が勝ったのか、ハーレイ、覚えていない…?
「…忘れちまったが、俺じゃないことは確かだな」
俺だけは数から外しておけ。それ以外の誰かが勝者ってことで。
「外しておけって…。ハーレイも競争していたの?」
糸紡ぎをしてたの、あの時に…?
「悪いか、俺がやってたら」
付き合いってヤツでな、やらざるを得ない立場に追い込まれて…。
初心者どころか初めてだから、と言っても逃がしちゃ貰えなかった。
…俺をそこまで追い込めるヤツだ、誰かは想像出来るだろうが。
生憎と、そいつが勝ったかどうかも覚えていない。前のお前が勝ったかどうかも。
ハーレイも自分も忘れてしまった、糸紡ぎ競争を勝ち抜いた誰か。優勝の栄冠を手にした誰か。
誰だったのだろう、遠いあの日の糸紡ぎの勝者。
ハーレイではなかったというのだったら、前の自分か、ブラウか、熟練のヒルマンか。あるいは前のハーレイを競争に引き摺り込んだ誰か、それとも他の仲間だったか。
そして紡いだ糸はどうなったのだろう?
競争の時の糸の行方も気になるけれども、毎年、毎年、紡がれた糸。綿が採れる度に、白い鯨にあった糸車で子供たちや前の自分が紡いでいた糸…。
「あの糸か? …俺は報告を受けちゃいないが…」
必要不可欠な作物ってわけじゃないしな、そいつから出来た糸も同じだ。私物と同じ扱いだな。
キャプテンに報告する義務は無いし、ヒルマンからも正式に聞いてはいない。…キャプテンへの報告という形ではな。
だが、ヒルマンは俺の飲み友達でもあったわけでだ…。そっちの方なら何回か聞いた。
「今年は染色にも挑戦しようと思ってね」だとか、「ランチョンマットが出来た」だとか。
色々なことに使っていたと思うぞ、服にはなっていない筈だが。
「シャングリラは誰でも制服だったものね…」
おんなじデザインの服を着ている人がいなくても、誰でも制服。
前のぼくでも、ハーレイでも。…フィシスの服だって、ちゃんと制服だったんだものね。
綿から糸を紡いだならば、木綿の布が織れるのだけれど。
シャングリラに木綿の制服は無くて、綿は服にはならなかった。糸に紡がれて、その後のことは前のハーレイにも分からない、糸の行方は、糸から何が出来たのかは。
それでも毎年、育てていた綿。ヒルマンが育てた綿畑。真っ白な綿の実が幾つも、幾つも。
「…あの綿、クリスマスツリーの飾りにもなった?」
クリスマスツリーはあった筈だけど、あの綿、使っていたのかなあ…?
雪の飾りは綿でやるでしょ、クリスマスツリー。
「どうだっけなあ…」
悪いが、俺も覚えちゃいない。…なにしろ、綿はキャプテンへの報告義務が無かったからな。
クリスマスツリーの方もどうだか…。
あった筈だと思うわけだが、何処にあったか、どんなのだったか、サッパリだ。
思い出すべき時じゃないのか、忘れちまったというだけなのか。
どっちにしたって、俺の頭にクリスマスツリーは浮かんで来ないし、雪の飾りも謎ってことだ。
そういう飾りがついてたかどうか、それ自体を覚えていないんだからな。
本物の綿で飾っていたのか、合成品の綿だったのか。…どうにもならんな、この状態じゃ。
ハーレイにも思い出せないというシャングリラの綿の使い道。糸に紡いだ綿の行方も、紡がずに雪の飾りになった綿が幾らかあったかどうかも。
白いシャングリラと一緒に時の彼方に消え去った綿。ヒルマンが育てていた綿畑。
今日、綿の実をくれた人は「上手く育てれば年を越せるよ」と言ったけれども、シャングリラの綿の木は年を越して育っていたろうか?
次の年にも同じ株から花を咲かせて、真っ白な綿の実をつけただろうか…?
「いや、それは無いな」
あの綿畑の綿は一年限りだ。次の年には種蒔きをやって、また一からの出発だってな。
「…言い切れるの?」
あそこはキャプテンの管轄じゃないって言っているのに、言い切っていいの?
ヒルマンが年を越させて育てていた年も、何度かあるかもしれないよ…?
「キャプテンだからこそ、言い切れるんだ」
綿畑は俺の管轄ではなかったわけだが、子供たちの教育方針の方は報告が上がってくるからな。
教材として育てるからには、種蒔きをするトコからなんだ。
種蒔きで始まって、糸紡ぎで終わる。…それがシャングリラの綿ってヤツだ。
糸を紡ぐ頃には綿畑はもう空っぽだった、とハーレイは証言してくれた。収穫を終えた綿の木は農場の係が全部取り去り、翌年に向けて土作りを始めていた筈だ、と。
「しかし、糸紡ぎか…」
あのシャングリラに糸車があって、前のお前が上手に糸を紡いでいたと来たもんだ。
お前、糸車で指を怪我していなかったか?
「してないよ、怪我なんかするわけがないよ」
前のぼくは手袋をはめていたもの。指を怪我するわけがないでしょ、あの手袋をしていれば。
糸を紡ぐ時だって外していないよ、でも、なんで?
ぼくの失敗、気になるわけ…?
「そうじゃなくてだ、眠り姫だ」
「え…?」
「前のお前が十五年間も眠っちまっていたのは、そのせいかとな」
眠り姫は糸車で指を怪我して眠っちまうし、前のお前もそうだったのか、と思ったんだが…。
「えーっと…。ハーレイ、ぼくにキスしてくれた?」
寝ているぼくに。…十五年も眠り続けたぼくに。
「キスしないわけがないだろうが」
そりゃあ何度も、こっそりとな。…誰も青の間に来ない時に。
「ハーレイがキスしても目が覚めないなら、眠り姫じゃないよ」
王子様のキスで起きない眠り姫なんて、何処にもいないと思うんだけど…。
「確かにな…!」
糸車で怪我をしたんだったら、あれで起きなきゃいかんしなあ…。
別の呪いで眠り続けたわけだな、前のお前は十五年も。
王子様のキスでも目が覚めなかった眠り姫。
白いシャングリラで糸を紡いでいたソルジャー。それは上手に、糸車で。
「…糸紡ぎ、いつまでやっていたっけ?」
「アルテメシアを離れるまでだな。前のお前は充分、起きてた」
だから訊いたんだ、糸車で指を怪我しなかったか、と。…眠っちまう前に。
「ナスカは?」
あそこでは糸紡ぎ、やっていないの?
…ナスカの畑は他の作物を育てるために使っていたから、綿を植えるのは無理だけど…。
シャングリラの方では出来た筈だよ、あの綿畑をまた使い始めたらいいんだから。
「畑はあっても、子供たちがいないだろうが」
子供たちのための教材なんだぞ、綿を育てるのも、糸紡ぎも。
「トォニィたちは?」
「そういう学習を始めるよりも前に、ナスカが燃えちまったんだ」
お前は大きく育ったトォニィたちにも会ってるわけだが、勘違いをするなよ?
トォニィはまだ三歳だったし、糸紡ぎを教わる年じゃないんだ。
「そっか…」
小さかったっけね、育つ前のトォニィ。
今のぼくでも受け止められそうなほどに小さかったし、あれじゃ糸紡ぎは無理だよね…。
もう三年ほど育ってからやっと、種蒔きが出来るくらいだったかも…。
アルテメシアから宇宙へ逃げ出した後は、作られなかった綿畑。紡がれることが無くなった白い綿の実。糸紡ぎの車は何処へ行ったろう?
前の自分が糸を紡いだ糸車は。…ゼルが作った木の糸車は。
「さてなあ…。倉庫の奥にはあったんだろうが…」
俺の管轄外だとはいえ、処分するならヒルマンから報告が来た筈だ。糸車が教材だった以上は、勝手に処分は出来ないわけで…。
しかし倉庫に突っ込む分には、俺に報告なんかは来ない。…何処に突っ込んでいたやらなあ…。
「カナリヤの子たちが紡いだかな?」
倉庫の何処かで糸車を見付けて、何に使うのかを誰かに訊いて。
また綿畑も作り始めて、其処で採れた綿を紡いでたかな…?
「それは俺にも分からんが…」
なにしろ死んじまってるからなあ、その頃には俺もとっくの昔に。
カナリヤの子たちを育てていたのはフィシスなんだし、フィシスが糸車を覚えていたら…。
そういう道具で糸紡ぎをしたな、と思い出したら、倉庫で探していたかもしれん。
探せば必ず見付かるだろうし、また糸紡ぎをしていたってことも無いとは言えんな。
記録には何も無い筈だがな、とハーレイは腕組みをしているけれど。
前のハーレイたちが命を捨てて救ったという子供たちにも、糸を紡いで欲しかった。
白いシャングリラで綿を育てて、骨董品とも言える糸車で。前の自分が糸を紡いでいた、ゼルが作った木の糸車で。
「どうなんだかなあ…」
今となってはサッパリ謎だな、カナリヤの子たちが糸車を見たのかどうかもな。
「分からないよね…」
もしも糸紡ぎをしていたとしても、何処にも記録が無いのなら。
あの糸車がどうなったのかも、誰にも調べられないんだね…。
前の自分たちが生きた頃から、気が遠くなるような時が流れて青い地球まで蘇った。
ハーレイと二人、その地球の上に生まれ変わって来たのだけれども、今の時代までは伝わらずに消えた出来事の数も多いから。
何処を探しても、残されていない記録の一つ。白いシャングリラの糸車。
前の自分が糸を紡いでいたということも、その糸車がどうなったかも。
「…ハーレイの家には、今も糸車があるんだよね?」
「おふくろの趣味の道具だったし、それこそ突っ込んであると思うぞ」
また紡ごうか、と思わないとも限らないしな、誰かに譲っていないんだったら家にある筈だ。
「あるんだったら、いつか紡いでみたいな、綿を」
「…俺が不器用なのを笑うつもりか?」
糸紡ぎの腕、俺はお前にまるで敵わなかったわけでだ、今の俺だって練習していないんだし…。
お前と勝負ってことになったら、また負けそうな気がするんだが。
「そうじゃないってば、今のぼくだって初心者なんだよ?」
前のぼくよりサイオンの扱いが不器用なんだし、糸紡ぎだって下手になってるかも…。
でも、シャングリラの思い出だもの。糸車があるならやってみたいよ、糸紡ぎを。
「分かった、お前が親父たちの家まで行けるようになった頃まで覚えていたらな」
そしたら、おふくろに頼んでやろう。
次に行く時は糸紡ぎをするから、糸車を探して欲しいんだが、と。
だが、絶対に指を怪我するなよ、と言われたから。
また十五年も眠られたのではたまらんからな、とハーレイがジロリと睨むから。
「前のぼくだって、指なんか怪我していないよ!」
それに王子様のキスで起きるよ、もしも怪我して眠ったとしても。
糸車の呪いに捕まっちゃっても、ぼくはきちんと目を覚ますから…!
「そうだな、今のお前なら起きてくれそうだな」
前のお前の時と違って、眠り続けて力を残して、メギドを沈める必要なんかは無いんだからな。
「うん、それにハーレイを一人にはしないよ」
独りぼっちにさせたりしないよ、眠りもしないし、メギドなんかにも行かないよ。
だって、ぼくだってハーレイと離れたくなんかないんだもの。
…前のぼくは仕方なかったけれども、今のぼくはずうっと一緒なんだよ、ハーレイと。
死ぬ時も一緒って言ってあるでしょ、だから糸車の呪いも大丈夫だよ。
そう、今度はいつまでも、何処までも一緒。
糸紡ぎの車で指を怪我しても、ハーレイのキスで目が覚める。
そして何処までも、いつまでも幸せに、青い地球の上で手を繋ぎ合って生きてゆく。
だからいつかは糸を紡ごう、隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に出掛けて。
ハーレイの母が持っているという糸車。
それでハーレイと二人で紡ごう、白いシャングリラで紡いだ思い出の糸を。
真っ白な綿の実から綿を取り出して、糸車にかけて。
ハーレイが勝つか、自分が勝つか。
白いシャングリラでの日々を思い出しては笑い合いながら、紡ぐ速さを競い合いながら…。
綿と糸車・了
※シャングリラで育てられていた綿花。子供たちの教材用で、糸紡ぎまでやっていたくらい。
前のブルーが上手に紡いだ糸。青い地球でも、ハーレイと二人で紡げそうですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ほう…?)
進水式か、とハーレイが目を留めた新聞記事。土曜日の朝、朝食のテーブルで開いた新聞。
ブルーの家へと出掛けてゆくには早すぎるから、片付けの前にのんびりと。愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それをお供に。
観光用の大型客船がデビューするらしい。その船の進水式の記事と写真と。色とりどりの祝いのテープが舞う中、堂々と聳え立つ大きな船体。
(船なあ…)
本物だな、と笑みが零れた。宇宙船とは違って船だ、と。
この写真の船は海へ出てゆく、進水式を経て。青い水が満ちた世界へ船出するから進水式。水の中へと進んでゆく船、蘇った地球の大海原へ。
今の時代は、海ならぬ宇宙へ船出してゆく宇宙船の建造も少なくはない。そちらの場合も、海をゆく船の場合と同じに進水式があると聞いてはいるのだけれど。
暗い宇宙に水など無いのに、進水式でもいいのだろうか?
もっと適切な言い方があっても良さそうなのに、と素朴な疑問が浮かんでくる。どう呼ぶのかを咄嗟には思い付かないけれど。宇宙船の場合の、進水式にあたる言葉は出て来ないけれど。
(俺はサッパリ知らないからなあ…)
前の自分はキャプテンとはいえ、進水式とは縁が無かった。
シャングリラはアルタミラから脱出する時点で既に出来ていたし、後に改造されたというだけ。地球を目指す途中で加わったゼルたちの船も、人類軍が持っていた船を接収して使ったのだから。
つまり建造していない船。三百年以上も宇宙を旅していたのに、ただの一隻も。
(ギブリとかなら…)
小型艇なら作ったけれども、今で言うなら車の感覚。いちいち名前をつけてもいないし、特別な儀式をするという発想自体が無かった。要は動けばいいだけのこと。
キャプテンだった前の自分でさえもその有様だし、今の自分は更に縁が無い。ただの古典の教師などでは、進水式には呼ばれない。親戚や親しい友人が船を建造するならともかく…。
(そっちだって、まるで無いからなあ…)
わざわざ船を建造してまで何かしようという友人はいない。それに親戚も。
自分とは無縁の世界だけれども、幸い、記事には進水式についても詳しく書かれているようで。
(観光の目玉の船だからだな…)
ホテル並みの設備を備えた大型客船、これから様々な所へ出掛けてゆくのだろう。青く輝く海を旅して、クルーズを楽しむ人々を乗せて。
こういう新しい船が出来た、と目を引くようになっている記事。ブルーと二人で乗ってゆくには些か早すぎるけれど、進水式には興味があるから。
(読んでおくとするか)
あれはどういうものなのだ、と進水式の解説を読み始めたら。
前の自分とは縁が無かった式典の内容を追って行ったら、馴染みのテープが入った薬玉の他に、ウイスキーのボトル。あるいはシャンパン、この地域ならではの日本酒までが。
とにかく酒の入ったボトルで、進水式にはつきものだという。
(ボトルだと?)
いったい何に使うのだろう、と首を捻ったら、酒のボトルは船首にぶつけて割るものだった。
事の起こりはSD体制が始まるよりも遠い昔のイギリスでの話、進水式では赤ワインのボトルを船に投げ付けて割ったという。最初は男性がやっていたけれど、後に女性の役目とされた。
(割れなかったら縁起が悪いのか…)
ぶつけられたボトルが見事に割れなかった船は、縁起が良くないとされてしまうらしい。ケチがついてしまう、その船の旅路。
(そいつは女性も大変だな…)
失敗出来んぞ、と思ったけれども、失敗した人もあったろう。そういった船に本当に悪いことが起こったかどうかは、この記事もさほど触れてはいない。縁起でもないから、成功例がメイン。
ボトルを結び付けた綱が船首に当たるようにと支えの綱を切り離すケースや、文字通りに投げてぶつけるケースや。
(投げて割ったら、クリーニング代が貰えるのか…)
これは愉快だ、と頬が緩んだ。ボトルを直接ぶつけられる場所から投げたのだったら、ボトルが見事に割れた途端に酒が女性の服にかかるから。御祝儀として女性が貰えるクリーニング代。
ガラスの破片は飛んで来ないらしい、そうならないよう網の袋で覆われたボトル。
飛んで来るのは船に当たった酒の雫で、ウイスキーだったり、シャンパンだったり。
前の自分たちが生きたSD体制の時代には無かった習わし、船首にボトルを投げて割ること。
船は名付けたらそれで終わりで、人類軍の旗艦といえども特別な儀式は無かったらしい。主要な者たちが完成した船を見て回るだけで、軍事式典と同列のもの。
ところが今では宇宙船でもまずは命名式、それが終わったら進水式。
(ふうむ…)
幕を外して船名を披露する命名式と、ボトルを投げ付けて割る進水式。宇宙船でも名前は同じに進水式だった、水の中ではなくて空へゆくのに。宇宙へと船出してゆくのに。
その宇宙船にも、ボトルを投げ付けるのが今の時代の習慣だという。ウイスキーやらシャンパン入りのボトルをぶつけて割るのが。
SD体制が崩壊した後、復活して来た遠い昔の進水式。船の前途を祝うボトルで、やはり女性が投げるもの。宇宙船のための進水式でも。
(血の繋がった本当の家族が暮らす世界になったからだろうな)
進水式が復活したのは、多分、そのせいなのだろう。
次の世代へと考える感覚が世界に戻って来たから。自分の代だけで終わりではないと、受け継ぐ者たちが大勢いるのだと誰もが考えるようになったから。
船を造ったら、その船と、それを使う者たちの上に幸あれと。
幸福な前途が待っているよう、思いをこめて投げ付けるボトル。見事に割れてくれるようにと。
今だからこそだ、と浮かんだ笑み。
前の自分が生きた時代には、「次の世代」という感覚は…。
(俺たちしか持っていなかったってな)
ミュウという種族を絶やすまい、と誰もが祈り続けた船。箱舟だった白いシャングリラ。
アルタミラから脱出した直後は、生きてゆくだけで精一杯だった船だけれども、アルテメシアの雲海に隠れ住んでからは次の世代を育て続けた。救出して来たミュウの子供たちを。
赤いナスカでは本当の意味での子供たちも出来た、自然出産児だったトォニィたち。次の時代を生きる者たち、人工子宮ではなくて母の胎内から生まれた子たち。
正真正銘の「次の世代」を生み出したのが前の自分たちだった、ミュウの未来を。
けれど、その自分たちが乗っていた白いシャングリラには…。
(進水式なんかは無かったんだ…)
歴史を変えた船だったのに。今の時代も、白いシャングリラは憧れの宇宙船なのに。
白い鯨が時の流れに連れ去られてから長く経った今も、一番人気の宇宙船。遊園地に行けば白い鯨を模した遊具があって当たり前、写真集もグッズも模型もある船。
なのに進水式は無かった、船は最初からあったから。
メギドの炎で燃え上がった地獄、アルタミラにポツンと置き去りにされていた人類の船。たった一隻だったけれども、あったお蔭で皆の命が助かった。それに乗って脱出することが出来た。
今も忘れない、コンスティテューションという名前だった船。命を救ってくれた船。
(あれがシャングリラになった時にも…)
人類が名付けた名前よりも、と改名されたシャングリラ。理想郷の意味を持つ名前。
その名前は皆で決めたとはいえ、命名式などはしなかった。船のあちこちに取り付けられていたコンスティテューションという名前のプレート、その上にペタリと紙を貼っただけで。
誇らしげに「シャングリラ」と記された紙が、お祭り騒ぎで貼られただけで。
せっかく名前をつけたというのに、行われなかった命名式。あの船がシャングリラになった時。
(白い鯨に改造した後も…)
儀式の類は無かったのだった、既に名前はあった船。何かをしようと思い付きさえしなかった。改造が済んで使えるようになった部分から、順に使っていっただけ。
全てが完成した後には…。
(ブルーが青の間に移って終わりか?)
そうだったような気がする、確か。
皆を導く立場のソルジャー、そのソルジャーの威厳を高めるためにと作った青の間。演出だった青の間の構造、本当は必要なかった広さや水を湛えた貯水槽。
前のブルーは嫌がったけれど、出来てしまえば移るしかない。ソルジャーの引越しが締め括りになっていたのだと思う、白い鯨への大改造は。
今の平和な時代だったら、盛大に祝っていたのだろうに。本当にお祭りだっただろうに。
(隠れ住んでた船ではなあ…)
人類の船に見付からないよう、隠れ続けたシャングリラ。
改造が終わっても、祝う余裕などは何処にも無かった。新しい船を使いこなしてゆくのが肝心、自給自足の生活も軌道に乗せねばならない。
すべきことは山のようにあったし、祝いよりも先に生きてゆかねばならないのだから。
(だが、あの時代に進水式があったなら、だ…)
今のように進水式というものがあったら、白い鯨になったシャングリラにボトルくらいは投げただろう。生まれ変わったようなものだし、進水式をしてやらねば、と。
それも特別に高級な酒のボトルをぶつけて。
あの頃なら、まだ酒は合成品ではなかったから。前のブルーが奪った物資が積まれていたから、酒だってあった。その中でも一番上等なものを選んでいたろう、シャングリラのために。これから皆で生きてゆく船、白い鯨の前途を祝って。
ボトルは女性が投げるというから、シャングリラなら…。
(エラか、ブラウか…)
多分、どちらかが投げたのだろう。船を代表する女性はあの二人だから。
新聞記事には、SD体制が始まるよりも遠い昔に進水式に出た女王陛下も載っていた。九十歳に手が届きそうな高齢の女王陛下でも、新しく出来た空母のためにとボトルをぶつけていたという。流石に投げてはいなかったけれど。ボトルを船へとぶつけるボタンを押したのだけれど。
女王陛下がぶつけたボトルは見事に割れた。女王陛下の名前を冠した空母の船首で。
(…こいつは面白い話が出来るぞ)
白いシャングリラにボトルを投げ付けるブラウかエラ。
今日の話題に丁度いいな、と小さなブルーを思い浮かべた。
ブルーが守った白い船。自分が舵を握っていた船。あのシャングリラが出来上がった時、こんな儀式をやっていたなら…、と。
新聞をゆっくりと読んだお蔭で生まれた話題。シャングリラには無かった進水式。
今日の最初の話はこれだ、とブルーの家へと出掛けて行った。ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら、小さなブルーに尋ねてみる。
「進水式を知ってるか?」
新しい船を造った時には、進水式をするんだが…。普通の船でも、宇宙船でも。
前の俺たちが生きた頃には無かったんだが、今は復活して来たわけだな。SD体制の時代よりもずっと昔に、地球で生まれたヤツなんだが。
「うん、映像なら見たことがあるよ」
それに写真も。綺麗なテープが一杯だったよ、船が出来上がったことのお祝いでしょ?
「そうか、知っていたか。だったら、ボトルの方はどうなんだ?」
「…ボトル?」
なんなの、ボトルって?
それって進水式に使うの、ぼくはそんなの知らないよ…?
テープは沢山あったけれど、とブルーが首を傾げているから。
「ボトルだ、酒のな。…中身の酒は、どんな酒でもいいそうだ」
ウィスキーとか、シャンパンだとか。この地域だと日本酒ってこともあるらしい。
船だけじゃなくて、宇宙船の時にも使うらしいぞ。進水式という言葉も、酒のボトルも。
「…お酒なの?」
船とか宇宙船の進水式でお酒って…。それって、人間が飲むわけじゃなくて?
進水式に出た人たちが乾杯するんじゃないの…?
「残念ながら、全く違うようだな」
酒を飲むヤツがいるんだとしたら、人間じゃなくて船の方だ。
宇宙船や船が酒を飲むんだ、美味い酒をな。
船首に瓶ごとぶつけて割るものらしい、と話してやった。仕入れたばかりの進水式の知識を。
ボトルをぶつける儀式が始まったと言われる十八世紀には、赤ワインだった酒。ボトルを投げる役目を女性に決めたのが、十九世紀の初めのイギリス皇太子だ、と。
「ついでに、ボトルが上手く割れなかったら駄目なんだそうだ」
縁起の悪い船になっちまうらしい、その船は。…女性は責任重大だぞ。
事実かどうかは分からないそうだが、前のお前がこだわっていたタイタニック号。救命ボートの数が足りなくて大惨事になってしまったから、ってシャングリラに救命艇を欲しがっていたろ?
あのタイタニックの進水式では、ぶつけたボトルが一回目で割れなかったって話もある。
そんな話が今の時代まで伝わるくらいに大切なわけだ、ボトルを上手く割るってことはな。
「そうなんだ…。ホントに責任重大なんだね、任せられた人は」
だけど、シャングリラでもやりたかったよ、そういうのを。
最初の間は進水式どころじゃなかったけれども、白い鯨になった時なら…。
あの頃だったら、船のみんなも心に余裕が出来てたし…。
シャングリラって名前をつけた頃より、ずっと立派な素敵な船が出来たんだし。
…やりたかったな、進水式。
前のぼくたちが生きてた頃には無かったものなら、仕方ないけど…。
そうは思うけど、惜しかったな…。
シャングリラは前のぼくたちの世界の全てで、本当に箱舟だったんだから。
思った通りに、「シャングリラでやりたかった」と言い出したブルー。今までにブルーが映像や写真で見ていたような進水式ならば、色とりどりのテープが舞うというだけだから。パーティーで鳴らすクラッカーと見た目は変わらないから、何とも思わなかったのだろう。
ただのお祭り、薬玉を割って騒ぐようなもの。船が大きい分、大掛かりなだけ。
自分も今日までそう思っていたから、ボトルを船首にぶつける儀式は知らなかったから。
「やっぱり、お前もそう思うか?」
シャングリラでもやってやりたかった、って。
白い鯨が完成した時、ボトルをぶつけてやるべきだった、と思うよなあ…。
今じゃそういうことをするんだ、と知っちまったら。
あの時代でもデータベースを調べていればだ、見付かった可能性はあったのにな。
「そうだね、SD体制よりも前の時代のデータも沢山残っていたし…」
シャングリラの名前も、ずうっと昔の小説に出て来た架空の地名をつけてたんだし…。
進水式とか、ボトルをぶつけて割るものだとかも、上手くいったら分かってたのかも…。
「運が良ければ、分かっていた可能性も充分あるよな」
ヒルマンとエラに任せておいたら、ちゃんと見付けて来たかもしれん。
ただなあ…。前の俺に進水式って発想が無かっただけにだ、「調べてくれ」とは頼めなかった。
進水式って言葉自体は、本とかで知ってはいた筈なんだが…。
シャングリラは最初から出来上がってた船で、一から造った船じゃないしな。
「…ぼくも同じだよ、それに関しては」
前のハーレイと同じで本で読んではいたんだと思う、タイタニックも知っていたんだから。
だけど、シャングリラに進水式をしてあげなくちゃ、っていう考えが無かったよ。
ぼくたちが造った船じゃなかったから、そのせいかな…。
元からあった船を大きく改造しただけで、新しく造ったわけじゃないから。
失敗だった、と小さなブルーは肩を竦めた。ぼくたちの箱舟だったのに、と。
「…白い鯨になったお蔭で、本物の箱舟になってくれたのに…」
シャングリラの中だけで生きていけたし、新しい仲間も乗せられるようになったのに…。
そんな立派な船が出来たのに、進水式をしなかったなんて…。
大きさも形も全く違う船が出来たんだったら、新しく造ったのと同じなのにね。
「まったくだ。…前の俺もウッカリしてたのかもなあ…」
改造している間もエンジンは一度も止まらなかったし、名前もシャングリラのままだったし…。
姿こそ劇的に変わりはしてもだ、同じ船だと何処かで思っていたんだろうな。
そのせいで、改造が終わった後にも「これで終わった」としか考えなくて。
出来上がったからにはもう安心だ、と肩の荷を下ろして、それっきりっていうトコだろう。
白い鯨に「よろしく頼むぞ」とボトルの酒を振舞う代わりに、俺が一杯やったんだろうな。
「やっと終わったな」とゼルたちと一緒に、ささやかな慰労会ってヤツを。
「…だろうね、前のハーレイもお酒が好きだったから…」
それに、シャングリラの改造が済んだら、もう本物のお酒は手に入らなくなるんだから。
最初から分かっていたことなんだから、本物のお酒にさよならのパーティー。
そういうことになっていたんじゃないかな、シャングリラにぶつけてあげる代わりに。
「…どうやら、そいつで当たりのようだぞ」
やたら良心が痛むからなあ、前の俺が美味しく飲んだんだろうさ。飲ませてやるべき白い鯨には御馳走しないで、ゼルたちとな。
…申し訳ないことをしたなあ、シャングリラには。
飲める筈の酒をキャプテンだの機関長だのが飲んでしまって、一滴も貰えなかったんだからな。
本当に悪いことをしちまった、と苦笑するしかないボトル。前の自分が飲んだだろう酒。
白いシャングリラにぶつけてやっていたら、立派な儀式になったのに。
「ミュウの未来をよろしく頼む」と、白い鯨になったシャングリラの船出を祝ってやれたのに。
けれど、今ではもう遅いわけで、シャングリラは時の彼方に消えた。進水式をして貰えずに。
「…俺がゼルたちと飲んじまった酒、シャングリラにぶつけてやるべきだったな…」
合成品じゃなくて本物の酒の、最高のボトルをシャングリラに。
「ぼくもそうしてあげたかったよ。でも…」
ボトル、宇宙で投げるんだよね?
最後の改造は重力の無い宇宙でやったし、星の上じゃないから空気も無いし…。
そんな所でボトルを投げたら、どうなってたかな?
上手く割れなくて、縁起の悪い船になっちゃった…ってことはないよね、シャングリラ…?
「さてなあ…」
割り損なうどころか、思い切り派手に割れそうだがな、と遠い昔の記憶を手繰った。
前の自分が持っていた記憶。キャプテン・ハーレイとして見ていた宇宙。
大気も重力も無い宇宙空間なら、止めようと力をかけない限りは投げた物体は止まらない。
衛星軌道上の人工衛星が何もしなくても飛び続けるのと同じ理屈で、きっとボトルも。
宇宙空間で酒のボトルをシャングリラに向かって投げたなら…。
とんでもないスピードで突っ込みそうだが、と軽く両手を広げてみせた。
投げた時のスピードを少しも失わないまま、真っ直ぐに飛んで行くわけなんだが、と。
「そりゃあ景気よく割れると思うぞ、凄いスピードでブチ当たるんだし」
木端微塵に砕けるんじゃないか、元の形がどうだったのかも分からないほどに。
酒も見事に飛び散っちまって、宇宙空間にフワフワと幾つもの酒の塊がだな…。
デカい塊やら、小さいヤツやら、無重力ならではの眺めってトコだ。
「そういえばそうだね、宇宙空間なら…」
ぼくは普通に飛んでいたから、そういう感覚、すっかり忘れてしまっていたけど…。
スピードがついたら止まらないよね、お酒のボトルだったとしても。
「うむ。だから、シャングリラは縁起のいい船になった筈だと思うんだが…」
上手く割れればいいって言うんだ、そこを見事に木端微塵に砕けるんだからな。
もう最高に縁起のいい進水式ってもんだぞ、俺たちの箱舟にはもってこいの。
「うん。…それで、そのボトルは誰が投げるの?」
進水式のボトルは女の人が投げるものなんでしょ?
「俺も考えたが、あの時代ならエラかブラウだな」
フィシスがいたなら、そこはフィシスの出番なんだが…。
前のお前がミュウの女神だと言ってたんだし、間違いなくフィシスの役目だったろうが…。
白い鯨が出来た時にはフィシスはいないし、エラかブラウしかないだろう。なんと言っても長老だしなあ、誰も文句は言わないってな。
「ブラウ、とっても投げたがりそうだね」
任せときな、ってウインクする顔が浮かんできちゃうよ。
「俺もそう思う。…逆に遠慮をするのがエラだ」
私などに上手く出来るでしょうか、と指名されても尻込みしそうだ、控えめ過ぎて。でもって、ブラウを推薦するんだ、「私よりも上手くやるでしょう」とな。
もしもシャングリラの進水式をやっていたなら、船首にボトルをぶつけるのなら。投げる役目はブラウだったか、それともエラが選ばれたのか。
どちらだったかは分からないけれど、「投げるんだったら宇宙服は無しで」とブルーが微笑む。
「前のぼくが外に連れて出るから、宇宙服なんかは要らないよ」
きちんとシールドしてから出ればね、エラやブラウだって大丈夫。
今のぼくには出来ないけれども、前のぼくなら簡単だもの。シールドの中から投げたボトルも、ちゃんと宇宙を飛んで行く筈だよ。瞬間移動でシールドの外に放り出すから。
「…宇宙服は無し、って…。そうなるのか?」
前のお前なら、確かに簡単なことなんだろうが…。エラやブラウが腰を抜かさないか?
「平気だってば、前のぼくの力は二人とも知っていたんだから」
今のぼくがやるって言ったら、真っ青になって逃げそうだけれど、前のぼくなら平気だと思う。ブラウなんかは、「生身で宇宙とは嬉しいねえ」って大喜びでついて来そうだよ。
それに、見た目を考えてみてよ。
宇宙服を着込んで進水式だなんて、とても無粋だと思わない?
どんなに上等なお酒のボトルを持って出たって、上手にぶつけて割ったって。
「それもそうだな…」
あんな武骨なヤツを着ていちゃ、女性かどうかも分からんなあ…。
背格好以前の問題だからな、宇宙服っていうヤツは。
シャングリラに宇宙服は当然あったし、白い鯨になる前から何度も使われていた。生身で宇宙へ出られる人間は、ブルーだけだったと言ってもいい。
他の者でも短時間ならシールドすることが可能だったけれど、ほんの僅かな時間だけ。それでは危険でとても出られない、船の外へは。だから誰でも必要とした宇宙服。
そうは言っても、船外作業をする者だけしか宇宙服を着たりはしないから。白い鯨への改造中の視察、それに出る時もブルー以外は小型艇に乗るのが普通だったから。
ブラウやエラが宇宙服を着たのは見たことが無い。少なくとも今の記憶には無い。宇宙服という珍しい姿を拝むのも悪くないとは思ったけれども、ブルーが言う通り、女性に見えはしないし…。
「…あいつらが宇宙服を着ていた場合は、進水式が台無しなのか…」
わざわざ女性を選んで役目を任せた意味が無いのか、見た目の問題というヤツで。
「そう思うけど?」
シャングリラの進水式をするんだったら、ちゃんと長老の服でなくっちゃ。
前のぼくはもちろんソルジャーの服だし、エスコートって言うの?
エラでもブラウでも、ボトルを投げられる場所まで連れてってあげるよ、宇宙服は無しで。
「エスコートと来たか…」
今のお前じゃ、チビで話にならないが…。
前のお前が一緒だったら、そりゃあ素晴らしい絵になる進水式になっただろうな。
ソルジャーのエスコートで出てったブラウか、エラがボトルを投げるんだから。
最高の酒が入ったボトルを白い鯨に思い切りぶつけて、見事に粉々に割れるんだからな。
白い鯨の船首にぶつかって砕ける、進水式の成功を知らせるボトル。宇宙に飛び散る最高の酒。
その光景をシャングリラの船内に中継していたならば、お祭り騒ぎだっただろう。
色とりどりのテープが無くても、たった一本のボトルがあれば。
「…ねえ、ハーレイ…。エラたち、調べなかったのかなあ?」
ヒルマンもエラも、データベースで調べ物をするのが大好きだったし、得意だったのに…。
色々なことを知っていたのに、進水式のことは調べていなかったのかな…?
「調べてたのかもしれないが…」
前の俺たちが全く聞いていないだけで、実は調べていたかもしれん。
しかしだ、進水式なんかでお祭り騒ぎをしているよりかは、船の維持だぞ、あの時期だったら。
出来上がったばかりのデカイ船をだ、しっかり維持していかなきゃならん。
そいつが最優先ってもんだろ、現にシャングリラの中を結んでいた乗り物だって何回止まった?
他にもあちこち不具合が出ては、キャプテンの俺までが船中を走り回っていたんだが…。
「それはそうだけど…。大変な時期ではあったんだけど…」
でも、シャングリラの外からボトルをぶつけて割るくらいはね…。
お酒のボトルが当たったくらいで船体に傷はついたりしないよ、頑丈に出来ていたんだから。
その程度の衝撃で計器が狂ったりもしない筈だし、やっても何も問題なんかは…。
みんなが持ち場を離れて見てても、ボトルを一本、船にぶつけたらおしまいなんだよ?
ほんの少しの時間で済むし、と言われてみればその通りで。
前のブルーがエラかブラウとわざとゆっくり移動したとしても、五分もかからないわけで。
それを思うと、やるだけの価値は充分にあった進水式。シャングリラの船首にぶつけるボトル。
前の自分がゼルたちと一緒に「慰労会だ」と称して飲むより、立派な酒の使い道。
白い鯨になったシャングリラでは、本物の酒は手に入らなくなったのだから。それを承知の上で船に積んであった酒の残りを飲んでいたのだから、飲んでしまった中の一本くらいは…。
シャングリラに振舞っておけば良かった、白い鯨に。最高の酒を、進水式で。
「…あいつら、調べ損なったのか?」
データベースで見落としてたのか、進水式と言えば色とりどりのテープなんだ、と写真だけで。
どういうことをするのが進水式なのか、きちんと調べずにいたっていうのか…?
「きっと二人とも、進水式だと思っていなかったんだよ。ヒルマンもエラも」
前のぼくやハーレイと同じで、改造なんだと思っていて。
だから、改造が終わった時には何かしなくちゃ、と考えもしなくて、進水式は調べてなくて…。
そのせいで知らなかったんじゃないかな、ボトルのことを。
調べ損ねたっていうんじゃなくって、最初から調べていないと思う…。
「そうだったのか?」
まるで調べてないって言うのか、エラもヒルマンも、進水式を?
あの調べ物好きが二人揃って、改造なんだと思い込んでて、調べなかったと…?
「そうでないなら、やっていそうだと思うけど?」
ボトルを一本割るだけなんだよ、それでシャングリラの進水式だ、って言えるんだよ?
船のみんなも喜んだだろうし、白い鯨になったお祝いもきちんと出来たんだし…。
「うーむ…。そうかもしれんな、調べていない、と…」
最初から調べていないんだったら、あの二人でも気が付くわけがないしな…。
白い鯨になっちまってから、かなり経ってから何かのはずみに「こんなのがあったか」と知って歯軋りしていたのかもしれないが…。
その場合は自分の胸に収めちまって、わざわざ話しに出ては来ないよな、失敗談を。
今となっては分からない真相。
ヒルマンもエラも遠い時の彼方に消えてしまって、本当のことを訊くことは出来ない。進水式について調べていたのか、調べようとも思わないままで白い鯨の改造が終わってしまったのか。
けれどシャングリラは、ミュウの歴史を作った船だったから。
白い鯨は、ミュウの箱舟だったから。
「やってやりたかったな、SD体制の時代の最初で最後の進水式」
あの時代には誰もやってはいなかったんだし、シャングリラが地球に着いた後には、SD体制は崩壊しちまったんだし。
もしも俺たちがやっていたなら、最初で最後の進水式になったんだがなあ…。
「そうだよね。色とりどりのテープは無くても、ボトルをぶつけるだけだったらね…」
ホントに簡単に出来ちゃったんだよ、そのくらいなら。
本物のお酒はまだ何本も船にあったし、エラかブラウがエイッと一本投げるだけだし…。
前のぼくがシャングリラの外に連れて出掛けて、「此処から投げて」って、投げて貰って。
シールドの向こうに瞬間移動で放り出したら、ボトルは真っ直ぐ飛んで行くしね。
きっと見事に割れただろうボトル。白い鯨の船首に当たって。
色とりどりのテープは無かったとしても、進水式をしてやれただろう。白いシャングリラが海へ出てゆくための。宇宙という名の星が散らばる大海原へと船出するための。
「…シャングリラにお酒、あげたかったな…」
ハーレイたちが飲んでしまうより、シャングリラにお酒。最高に美味しい、お酒を一本。
「飲ませるわけではないかもしれんが…」
俺が読んだ記事には洗礼だとも書いてあったし、酒を振舞うというわけではないかもしれん。
どちらかと言えば、清めの酒って方かもしれんが、実際の所はどうなんだかなあ…。
俺がすっかり飲んじまうよりは、シャングリラに飲ませてやりたかったとは思うがな。
「そうなんだ?」
御馳走するって意味じゃないかもしれないんだ…。
だけど、前のハーレイたちが飲んじゃうよりかは、シャングリラにあげたかったよ、お酒。
あの船はホントに、ぼくたちの大切な船だったから。
シャングリラが無ければ、ぼくたちは地球を目指すことさえ出来なかったんだから…。
アルタミラから助けてくれたのもシャングリラだった、とブルーが懐かしそうにしているから。
時の彼方に消えてしまった白い鯨を赤い瞳で見詰めているから。
「…なあに、進水式をして貰えなくても、あの船は充分、幸せだったさ」
前の俺たちは散々苦労をかけちまったが、地球に着いた後はのんびり暮らしていたろうが。
トォニィたちを乗せて宇宙を旅して、最後は無事に引退したし…。
それに酒なら飲み放題だぞ、今のシャングリラは。
「えっ?」
今ってなんなの、シャングリラはもう何処にもないのに…。
どうしてお酒が飲み放題なの、今だなんて…?
「シャングリラ・リングだ、結婚式で飲み放題だ」
今は結婚指輪になってるだろうが、シャングリラは。
結婚式に酒はつきものだしなあ、それも最高に美味い酒が。
「ああ…!」
ホントだ、今はあちこちでお酒を飲んでるんだね、シャングリラは。
いろんな所の結婚式に呼ばれて、上等なのを。
ボトルをぶつけて貰う代わりに、左手の薬指に嵌めて貰って、グラスに入った美味しいのを…。
白いシャングリラは消えたけれども、その船体の金属から作られるのがシャングリラ・リング。
結婚するカップルがたった一度だけ、申し込むことが出来る結婚指輪。
抽選で当たれば、シャングリラは結婚指輪の形でそのカップルの許へと旅立つ。結婚式で左手の薬指に嵌めて貰って、新しい道を歩み始める。結婚を祝う乾杯の酒をグラスに注いで貰って。
それが今の時代に生まれ変わった、シャングリラの進水式なのだろう。白い鯨から姿を変えて、一対の結婚指輪になって。
シャングリラ・リングが自分たちの手元に来てくれたならば、心をこめて御馳走しよう。
前の生から愛し続けたブルーと結婚する日の酒を。婚礼のためにと用意した美酒を。
ボトルごとぶつけはしないけれども、懐かしい船に乾杯の酒を。
ブルーと二人で船出する日に、かつてやり損ねた白いシャングリラの進水式を…。
進水式のボトル・了
※白いシャングリラでは、行われなかった進水式。お酒のボトルは出番が無いまま。
けれど今では、結婚指輪に生まれ変わったシャングリラ。乾杯の美酒を飲み放題なのです。
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