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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(カレーってヤツは、一晩寝かせると美味いんだ)
 だから今夜はカレーなんだ、と帰宅したハーレイが開けてみた鍋。ふわりと立ち昇るスパイスの香り。よし、と頷いて蓋をする。温めるのは着替えてから。
 ブルーの家には寄れなかった日、最初から無理だと分かっていた日。会議の予定で、間違いなく長引くものだったから。今までの経験からしても、けして早めには終わらない。
 それを考えて、昨日の夜に仕込んだカレー。少しの量でも本格的にと、手抜きはせずに。
(丁度いい具合に出来上がったぞ)
 作ってから今までに経った時間で馴染んだろう味、スパイスもしっかり効いている筈。鍋の中でトロリとしていた金色、温め直すのが楽しみではある。
 いそいそとキッチンを後にして着替え。スーツを脱いでネクタイも外して、家で寛ぐ時の服に。
(さて、と…)
 次は飯だ、と戻ったキッチン。鍋の中身を確認してから、焦がさないようにゆっくりかき混ぜて弱火で温めてゆく。フツフツと滾り始める頃には、それは美味しそうなカレーの匂い。
 同じようにとろみがついたものでもシチューなどではこうはいかない、カレーならではの複雑に絡み合った香りが食欲をそそる。味も香りも様々なスパイス、それがカレーの命だから。



 グツグツと煮立ったビーフカレー。タマネギなどの具はミキサーにかけて滑らかに。レストランなどで出てくるカレーの風味を目指した、今回の分は。ジャガイモやニンジンがゴロゴロと入ったカレーも好きだけれども、今日はプロ風。一晩寝かせて更に美味しくなった筈。
(カレーはコレに限るってな)
 寝かせておくのが一番なんだ、と温まったカレーを炊き立ての御飯にたっぷりとかけた。自分が一人で食べるのだから、惜しみなく。
 ダイニングのテーブルに運んで、早速頬張る。熱々のカレーを白い御飯に絡めてやって。
(…久しぶりだぞ、この味も)
 美味い、と顔が綻ぶ満足の味。昨日から仕込んでおいたからこそ、この味が出来る。ゆっくりと寝かせたカレーならでは、作り立てとは違ったコクとまろやかさ。
 一晩寝かせられない時には、鍋ごと水で急冷するのも悪くない。それから温め直してやったら、この味わいに少し近付く。母がプロの料理人から習った裏技。「急ぐなら、これが一番です」と。
 自分も母から教わったから、カレーを作ったら冷やしたものだ。
(一晩置くより、食いたいじゃないか)
 鍋にたっぷり作ったのなら、その場で食べたい。一晩もお預けを食らっているより。
 とはいえ、最近は御無沙汰のコースだけれど。
 大きな鍋にドカンと山ほど、作ることはしなくなったのだけれど。



(なんたって、ブルーに会っちまったしな?)
 前の生から愛した恋人、まだ十四歳にしかならないブルー。
 青い地球の上で再び出会えたけれども、恋人同士で一緒に住むにはブルーは少々幼すぎた。年も背丈もまだまだ足りない、結婚出来るほどではない。ブルーの家を訪ねて会うのが精一杯。
 仕事が早く終わった時には出掛けてゆくから、夕食はブルーの家で食べることになる。ブルーの両親もいるテーブルで。
 そんなわけだから無くなってしまった、カレーを大鍋で大量に仕込んで何日も食べるお楽しみ。
 作ったその日に鍋ごと冷やして出来立てを味わい、次の日には一晩寝かせた味。二日続いても、飽きないカレー。朝と昼とは違う料理を食べているのだし、二日続きでも楽しめる。三日も続けて食べることもある、三日目はカツを乗せたりもして。
 そうでなければ、カレーを使った料理を色々。カレー風味のグラタンもいいし、今の自分が住む地域だからこそ作れるカレーうどんだとか。
 すっかり遠くなってしまった、大鍋一杯のカレーの日々。一晩寝かせたカレーでさえも、久々に作ったという始末。会議のお蔭で作れたカレーで、怪我の功名と言うかもしれない。本当だったらカレーを仕込んで出掛けるよりかは、ブルーと会っていたいのだから。
 今日はブルーに会えなかったから、それが怪我。一晩寝かせたカレーはとても美味だけれども、これを孤独に食べているより賑やかなブルーの家がいい。
 けれど、恋しくなってきたカレー。ブルーに会うまではドカンと作って食べていたな、と。



 思い出したら、次から次へと浮かんでくる味。カレーを使った料理の数々。あれも作れる、この料理も、と。カレーが無ければ出来ないアレンジ、今では作れそうもない。大鍋に一杯のカレーを仕込むことなど出来ないのだから。
(だが、いずれは…)
 また、あの料理を楽しめる。大鍋でカレーをドカンと作って、それをベースに色々アレンジ。
 いつかブルーと結婚したなら、二人で暮らし始めたならば。
 ブルーの家まで出掛けなくても、いつでも食事は一緒だから。大鍋で仕込んでおいたカレーも、ブルーと二人で食べるのだから。
 作ったその日は、鍋ごと冷やして出来立てのカレー。次の日は一晩寝かせたカレー。二日続けて楽しんだ後は、どんな料理を作ろうか。ブルーの意見も聞いてやらねば…。
(カレーも色々作らないとな?)
 この地域ならではのカレーライスもいいけれど。何日も食べるのも楽しいけれど。
 同じカレーでも、本場だというインド風やら、スープのようなタイカレーやらも面白い。まるで違った味わいのカレー、ナンで食べたり、御飯にかけたり。
 カレー粉を使った料理も多いし、全部をブルーに披露していたら何日かかるか。
(そいつもきっと、いいもんだぞ)
 自分と同じで好き嫌いが全く無いブルー。食は細いけれど、何でも食べる。前の生で餌と水しか無かったアルタミラ時代が影響したのか、幼い頃から無かったと聞く好き嫌い。
 そのブルーならば、どんなカレーも食べてくれるし、お気に入りだって出来るだろう。この味が好きだ、と喜んでくれるカレーの料理。なにしろカレー料理は本当に数が多いのだから。



(カレーライスにしたって、だ…)
 今日のカレーはビーフだけれども、チキンやポークや、シーフードなど。
 入れる具もそうだし、カレー粉の配合で味が変わって面白いもの。火を噴きそうなほど辛い味もあれば、幼い子供でも喜んで食べる甘口もある。
(俺のオリジナルだって出来るしな?)
 気に入った味のカレー粉を混ぜて作るのが自分のオリジナル。これとこれだ、と混ぜてケースに詰め込んでおいて、使いたい時に出してくる。
 ただ、絶品のものが出来ても、二度と再現出来ないこともあるけれど。この割合で混ぜた筈だと記憶を頼りに混ぜ合わせてみても、上手くいかないオリジナル。
(スパイスってヤツは難しいんだ)
 ほんの少しの加減の違いで味がガラリと変わってしまう。カレー粉と呼ばれる粉の中身は、実に様々なスパイスを混ぜたものだから。素人ではなかなか作れないから。
 そもそもスパイスを買いに行っても、どれがいいやら…、とカレーライスを頬張っていて。
 料理の腕とカレー粉作りはまた別物だと、本場に行けば家の数だけカレーの味があるのだし、とカレーの世界の奥の深さを考えていて…。
(待てよ…?)
 今の自分はとてつもない贅沢をしているのでは、と気が付いた。
 たかだかカレーライスだけれど。昨日の夜に作って一晩寝かせたカレーをたっぷり、白い御飯にかけただけだけれど。サフランライスを炊いたのならばともかく、ただの白い御飯。



 しかし…、と眺めたカレーの皿。口に運んでみたカレーライス。
 味も香りも、スパイスが作り出している。ターメリックにクミン、カルダモンなど。数種類ではとても出来ない、作り出せないカレーの味。
(シャングリラでは…)
 カレー粉は合成品だった。何種類ものスパイスが必要なカレー粉の本物を作れはしなかった。
 白い鯨にあった農業用のスペース、其処は必需品となる作物の栽培が最優先だったから。穀物に野菜、それから果物。一部のスパイスはあったけれども、カレー粉が作れるほどのスパイスを栽培してはいなかった。そのスパイスが無くても困りはしないから。
(合成品でも、カレー粉だけはあったんだがなあ…)
 ピリッとした風味を料理に加えてくれるカレー粉、それは当時も存在したから。カレー粉を使う料理は残っていたから、白いシャングリラにもあったカレー粉。合成してまで。
 SD体制の時代に消された食文化の中には、カレーライスも、本場インド風のカレーも含まれていたのだけれども、カレー粉は立派に生き残っていた。SD体制が基本として選んだ文化の料理にカレー風味が根付いていたから。
(前の俺が厨房で料理をしていた頃には…)
 カレー粉はまだ本物だった。スパイスをふんだんに使った香り高いカレー粉、それを振り入れて作った様々な料理。
 あの頃は、船に必要な物資はブルーが奪って来ていたから。人類の輸送船に積まれたカレー粉は全て本物、合成品ではなかったから。



 けれども、時代は移り変わるもの。前の自分は厨房からブリッジに居場所を移してキャプテンになったし、シャングリラも巨大な白い鯨に改造された。船の中だけで生きてゆけるように。物資を奪って生きるのではなくて、自分たちの手で全てを賄える船に。
(自給自足の船になっちまって…)
 一気に落ちたカレー粉の風味。スパイスが命のカレー粉の味が一番顕著に落ちたかもしれない。他の調味料はスパイスが全てではなかったから。ケチャップもマヨネーズも、ビネガーなども。
 食料の生産が安定してゆけば、白い鯨でも充分に作れたケチャップやマヨネーズといったもの。
 ところがカレー粉はそうはいかなかった、何種類ものスパイスが材料なのだから。味も香りも、スパイスが生み出すものなのだから。
(…これだけが足りない、ってわけじゃなかった…)
 足りないスパイスが一種類なら、あるいは二種類くらいだったら、合成品を作り出すのもきっと簡単だっただろう。本物の味には及ばないまでも、近い味のものを作れただろう。
 けれど、カレー粉に使うスパイスは「殆どが無い」といった状態。
 船で作れるスパイスの方が遥かに少なく、残りは合成するしかなかった。自然が生み出す香りや味を。一つ一つが個性に満ちている様々なスパイス、それに近いものを。



 最初に作られた合成品のカレー粉は不評で、「料理が黄色くなっただけだ」と言われた有様。
 見た目こそカレー風味だけれども、食べてもカレーの味がしないと。
(あそこで諦めなかった所がなあ…)
 前の俺たちの執念かもな、と可笑しくなった。食い物の恨みは怖いと言うし、と。
 黄色いだけのカレー粉では駄目だ、と合成品の試行錯誤が続いた日々。ヒルマンが幾つもの案を出しては、合成品が試作されていた。
「ちょっと辛すぎるんじゃないのかい?」
 辛いだけだよ、とブラウが一蹴したこともあった、「辛ければいいってもんじゃないよ」と。
「今度のヤツは、ちと甘すぎるのう…」
 何を入れたというんじゃ、コレに。ワシらが目指すのはカレー粉じゃぞ?
 もっとピリッとさせんかい、とゼルが文句を言ったりもした。
 利き酒ならぬ利きカレーといった所だったろうか。
 厨房のスタッフに試作した合成品を使ったカレーソースを作らせて、集まってはそれを味見していた前の自分たち。ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。もちろんブルーも。
(合格したヤツを、食堂で試しに使わせてみて…)
 仲間たちの舌で審査して貰って、アンケートを取った。それに基づいて、改善すべきと思われる点を改善してみて、また利きカレーで、それから食堂で出してアンケート。
 よくぞ投げ出さなかったと思う、「もうこのくらいにしておこう」と。黄色くなったらもう充分だと、ピリッとするならそれだけでいいと。



 何度も何度も繰り返した試作、利きカレーに加えて仲間たちへのアンケート。
(なんとかカレー粉は出来たんだが…)
 もうこれ以上は無理だろう、とヒルマンが判断するまで試作を重ねて出来たカレー粉。改良する余地は残されておらず、それが完成品だとされた。シャングリラではこれが限界だ、と。
 そうして生まれたカレー粉だけれど、香ばしくはなかった、本物のようには。味わいも本物には遠く及ばず、何処かぼんやりとしていたカレー粉。味も香りも。
 かつて食べていた本物のカレー粉、その味を知る仲間たちが残念がったほどに。
 この船にも充分な数のスパイスがあればと、栽培出来る余裕があれば、と。
(子供たちだって、違うと言っていたからなあ…)
 保護したミュウの子供たち。
 皆、シャングリラに来るよりも前は、養父母の家やレストランなどで本物のカレー粉が使われた料理を食べていたから、直ぐに気付いた。カレー風味の料理の違いに。
 船に来たばかりで「合成品」という言葉をまだ知らない子でも、この船のカレーは少し違うと。見た目はそっくり同じだけれども、今まで食べていたものとは違うと、首を傾げた子供たち。
 どうしてこういう味がするのかと、この船のカレーはあんまりカレーらしくないと。



 ナスカがメギドに滅ぼされた後、前のブルーを喪った後。
 シャングリラはアルテメシアに向かって、星を丸ごと手に入れた。かつて追われた雲海の星を。
 あの星で補給した物資の中には、カレー粉も入っていたのだった。
(誰が言い出したんだったか…)
 今となっては思い出すことも出来ないけれども、補給物資に決まったからには、発言権があった誰かだろう。かつて利きカレーをしていた中の誰かか、あるいは厨房の誰かだったか。
 「本物のカレー粉を使った料理を食べてみたい」という要望が書かれた書類にサインした自分。
 自給自足の船であっても、たまにはカレー粉もいいであろう、と。
 補給すべき物資のリストは係に回され、カレー粉が調達されて来た。本物のカレー粉が存在した頃よりも遥かに増えた人数、それに充分対応出来る量の。
 厨房では早速、カレー粉を使った料理が作られ、食堂で皆に供された。白いシャングリラで養殖していた魚のムニエル、それのカレーソース。
 「本物の味だ」と大喜びした仲間たち。カレーソースは確かにこういう味だった、と。
 遠い昔に本物を食べていた者たちにとっては、懐かしい味。嬉しい味。
 後から船に来て育った者には、もっと懐かしくて嬉しい味。養父母たちと食べた味なのだから。
 彼らは養父母の記憶を失くしていないし、鮮やかに思い出せただろう。かつて本物のカレー粉を使った料理を食べていた日々を。



 食堂で弾けた沢山の笑顔。アルタミラからの古参の仲間も、アルテメシアで保護された者も。
 大感激だった者も少なくなかった、アルテメシアで加わった若い仲間たち。
(アレで感激していたヤツは…)
 誰と誰か、と覚えている顔を数えてゆく。カレーソースのムニエルを嬉々として頬張った年若い仲間たち。シドも、リオも、ヤエもそうだった。シャングリラに来てから長く経つのに。
 もっと年若いニナやマヒルやヨギたちだって…、と彼らを思い浮かべていて…。
(ジョミーもか…!)
 あの席にはジョミーもいたのだった、と気が付いた。ソルジャーとして多忙を極めた時期だったけれど、どういうわけだか、あの時、ジョミーも食堂にいた。
 前の自分もいたわけなのだし、食事をしながら皆と打ち合わせでもしていただろうか?
(…そいつは思い出せないんだが…)
 どうしてジョミーと前の自分があそこにいたのか、全く思い出せないけれど。
 「ママの味だ」と言っていたジョミー。
 前のブルーがシャングリラに連れて来させた頃の姿に、十四歳の少年に戻ったかのように綻んだ顔。嬉しそうだった笑顔。
 ずっと昔にこれを食べたと、母が作った魚料理と同じ味だと。



(あれくらいか…?)
 ジョミーが見せた人間らしさ。ソルジャーではなくて、ジョミーという人間に戻った顔。
 地球を目指しての戦いに次ぐ戦いの中で、一度だけ見せた笑顔だったかもしれない。あの他には思い出せないから。ジョミーの笑顔は、ただの一つも。
 赤いナスカが在った頃には、ジョミーも明るく笑っていたのに。宇宙を流離っていた時代の暗い表情、それをすっかり拭い去って。
 古参の仲間と新しい世代の対立が起きても、ジョミーは笑顔を失わなかった。赤いナスカに根を下ろしたいと願う世代のためにと、笑顔で頑張り続けていた。どうすべきかと迷った時にも、迷う心を見せることなく。強くあらねばと、皆の力にならなければと。
 けれど、ナスカを失った後は笑わなくなってしまったジョミー。常に厳しい顔だった。冷酷とも言える表情でもあった、感情などもう持ってはいないと氷のような瞳をしていた。
 そのジョミーが笑顔を見せた瞬間、それがカレーソースの魚のムニエルを食べた時。ジョミーを育てた母が作った魚料理と同じ味の料理。
(そうか、あの時のカレー粉でなあ…)
 合成ではなかった本物のカレー粉が引き出した、ジョミーの笑顔。凍っていた心がほんの一瞬、溶けて光が射し込んだように。本当はこういう顔で笑うと、本当のジョミーはこうなのだと。
(あれがジョミーの、おふくろの味ってヤツだったのか…)
 今の自分は、ブルーの母が焼くパウンドケーキが好物だから。隣町に住む母の味と同じだと顔が綻んでしまうから。
 あの時のジョミーも、カレーソースの味を「同じだ」と思ったのだろう。ジョミーを育てた母が作った魚料理と同じ味がする、本物のカレー粉を使った料理。



 味の記憶は大きいのだな、と改めて思ったジョミーの笑顔。本物のカレー粉で生まれた笑顔。
(こいつは、ブルーに…)
 話してやらねば、「カレー粉のことを覚えているか?」と。
 前のブルーも参加していた利きカレーはもちろん、ブルーがいなくなった後の話も。ジョミーが見せた笑顔のことも。
(シャングリラ風のカレーと言っても…)
 あの頃はカレーライスは無かったのだし、カレー風味の料理は今でも色々。
 カレー粉の話をするのに相応しいものと言ったら、カレー風味のソースだろうか。白身魚によく合うソース。ジョミーの笑顔を引き出したソース。
 とはいえ、ブルーも覚えているだろう、合成品のカレー粉はもう何処にも無くて。
(本物のカレー粉しか無いんだよなあ、今の時代は…)
 どんなカレー粉でもスパイスは本物、その配合を変えてあるだけ。前の自分たちが懸命に作った合成品など、今は存在しないから。
(…カレーライスにしておくかな)
 カレーソースだと、ブルーの母に手間をかけさせてしまうから。買って来てかけるだけのカレーソースはあるのだけれども、それをかける料理を作らないとソースはかけられない。
 だからカレーライスにしようと思った。御飯を炊いて貰うだけで済むから、レトルトのカレーを食料品店で買って行けばいい。
 ただし、ブルーの母が用意した料理が無駄にならないよう、予め通信を入れておいて。
 「昼食はカレーを買って行きますから、御飯だけ炊いておいて下さい」と。
 そうそう、「ブルー君には内緒でお願いします」とも言わねばならない、思い出話は会ってからゆっくり語りたいから。ブルーが「カレー」で思い出してしまったら、つまらないから。



 準備を整えて待った土曜日、買っておいたレトルトカレーを二つ持って出掛けた。自分の分と、ブルーの分と。
 門扉を開けに来たブルーの母にそれを渡すと、怪訝そうな顔で。
「カレーでしたら、いくらでも作りましたのに…」
 何か特別なカレーなのかと思いましたけれど、ごくごく普通のカレーですわね…?
「そうなんですが…。出来合いという所がポイントなんですよ」
 シャングリラでは、カレー粉は合成品しか無かったんです。
 今の時代は合成品はありませんから、気分だけでも…。
 ですから、これは袋ごと温めただけで持って来て頂けますか?
 御飯にかけるのは、ブルー君と私でやりますから。



 二階のブルーの部屋に行ったら、案の定、ブルーに「お土産は?」と訊かれた。カレーが入った袋を渡すのを窓から見ていたのだろう。「昼飯まで待て」と言ったら、期待に満ちた瞳のブルー。どんな御馳走が出て来るのかと。
 けれど、昼食の時間にブルーの母が運んで来たものは、白い御飯が盛られた皿と…。
「えーっと…。カレーライス?」
 これって普通のレトルトカレーみたいに見えるけど、何か特別?
「いいや、その辺で普通に売られているレトルトカレーだが…?」
 しかしだ、袋を破ってかけながらでいい、ちょっと考えてみるんだな。
「何を…?」
 ただのカレーだよ、とブルーがレトルトカレーを御飯の上にかけているから。
「そうか、本当にただのカレーか? …まあ、確かに今では普通なんだが…」
 シャングリラじゃ、うんと贅沢どころか、食えやしなかったぞ、こんなカレーは。
 前の俺が厨房で料理をしていた頃には、食おうと思えば食えたんだが…。
 もっとも、あの頃はカレーライスってヤツが無くてだ、カレーソースとか、カレー風味だとか。
 そういうヤツさえ、真っ当なのを食えなくなっちまったのが白い鯨なんだが…?
「そうだ、スパイスが無かったんだっけ…!」
 シャングリラで本物のカレー粉を作るのは無理で、合成品になっちゃって…。
 最初のは「料理が黄色くなっただけだ」なんて言われてしまって、頑張って改良したっけね。
 ヒルマンが色々考えてみては、ゼルやブラウたちとカレーソースを食べてみて。
 ちょっと辛すぎるとか、甘すぎるだとか、その度にヒルマンが調整してて。
 やっと出来たけど、本物のカレー粉と全く同じにはなってくれなくて、ぼんやりした味…。
「思い出したか?」
 あれを考えれば、こいつは本当に贅沢なカレーというわけだ。本物のカレー粉なんだから。
 カレーライスなんぞは何処にも無かった時代だったが、今度は合成品の方が無くなっちまった。
 何処でもカレー粉はスパイスで出来てて、あの味はもう何処を探しても無いんだよなあ…。



 それを考えたら面白いもんだ、とカレーライスをスプーンで口に運んでいたら。
 ブルーが赤い瞳でじっと見詰めて、こう訊いて来た。
「…ハーレイ、あの後、本物を食べた?」
 シャングリラのカレー粉は合成品になってしまったけれども、それよりも後。
 前のぼくが死んでしまった後なら、本物のカレー粉を手に入れることは出来たよね?
 アルテメシアでも、ノアでも、何処の星でも、カレー粉は売られていたんだろうし…。
 それとも、カレー粉は補給しないで、合成品のままだったわけ…?
「その話もしておかんとな。…前のお前は、もういなかったが…」
 前の俺もキャプテンの仕事をしていただけでだ、半ば死んじまったようなものだったんだが…。
 この間、カレーを食ってて思い出したんだ。シャングリラにあったカレー粉のことを。
 そしたら色々と出て来た中にな、本物のカレー粉も混ざっていたさ。
 アルテメシアを落とした後に、補給したいと出された要望書。そいつの一つがカレー粉だった。
 カレー粉くらいはいいだろう、とサインをしたんだ、前の俺は。
 それで本物のカレー粉がシャングリラにやって来たってわけだが、それで作ったカレーソース。魚のムニエルにかけて出したら、船のみんなが大喜びでな…。
 その中にジョミーも入っていたんだ、「ママの味だ」と喜んでいた。子供みたいな顔をして。
 …前のお前が死んじまった後、ジョミーは笑わなくなっちまったが…。
 あいつの唯一の笑顔かもしれん、あの時、カレーソースのムニエルで見せた笑顔がな。
「そっか…」
 ジョミーは笑ってくれてたんだね、お母さんの味にもう一度会えて。
 本物のカレー粉を使ったソースが魚にかかっていたから、お母さんの味になったんだね…。
 シャングリラに来た子供は誰でも、カレーの味が違うと思っていたんだから。



 それならいい、と微笑んだブルー。
 ジョミーが少しでも笑顔を見せてくれていたのなら、と。
「…だって、ジョミーが笑わなくなってしまったのは、ソルジャーだったから…」
 ソルジャーなんかにされてしまって、地球を目指すしかなかったから。
 前のぼくがジョミーを選んだからだよ、ぼくの後継者はジョミーにしよう、って。
 ぼくがジョミーを見付けなかったら、ジョミーにはもっと違う人生があったんだよ。
 あれだけサイオンが強かったんだもの、シロエみたいにバレたりしないで生きられたかも…。
 サムやスウェナとも、教育ステーションでちゃんと再会出来ていたかも…。
 ジョミーの人生、ぼくのせいで台無しになっちゃったんだよ、ソルジャーにされて。
 もしもソルジャーになっていなかったら、きっと沢山笑って生きて…。
「そうではないと思うがなあ…」
 最初の間はお前を恨みもしたんだろうが、最後までお前のせいだと思っちゃいないだろう。
 まるで笑わなくなっちまったのも、前のお前がいなくなった後だ。
 せいせいした、と笑う代わりに、あいつは笑わなくなった。
 あいつ自身が色々と考えた末に決めたんだろうさ、その生き方を。
 感情を殺して、笑わないままで、真っ直ぐに地球へ。
 自分で決めた生き方だったら、誰も恨まないし、後悔も無かったと思うんだがな…。



 前の自分ですらも恐ろしいと思ったほどの、ブルー亡き後のソルジャー・シン。
 人類軍の救命艇さえも「沈めろ」と命じたほとに容赦なかったソルジャー。
 ジョミーには考えがあると信じていたから、それでも自分は何も言わずに従ったけれど。苦言の一つも呈すること無く、地球までついて行ったのだけれど。
(…あいつには、あいつの生き方ってヤツがあったんだ…)
 きっとジョミーにしか分からなかった、本当の思い。トォニィでさえも知らなかったろう。
 それを語る前にジョミーは地球の地の底で逝って、前の自分も死んでしまった。
 だから分からない、ジョミーの思い。どうして笑わなかったのか。感情を殺してしまったのか。
 後悔は無かったと思うけれども、ブルーも気にしていたのなら。
 自分のせいで笑わなくなったと思っていたなら、ジョミーの笑顔を思い出したとブルーに語れたことは大いに価値がある。
 あの時だけしか見ていないけれど、確かにジョミーは笑ったのだから。
 本物のカレー粉を使ったカレーソースで、「ママの味だ」と嬉しそうに。
 少年だった頃の姿を思い出したほどに、それは明るく笑ったから。



 ブルーはカレーライスをスプーンで掬って、「ジョミーのお母さんの味…」と口に運んで。
「…他にもあるかな、ジョミーの笑顔」
 前のぼくが死んでしまった後にも、ちゃんと笑ってくれていたかな…。
 笑わなかった、って言われているのに、カレーソースでジョミーは笑顔になったんだから。
 何も記録が無いっていうだけで、ジョミー、他にも笑っていたことがあったのかなあ…。
「どうだかなあ…」
 思い出せるといいんだがなあ、カレーで一つ思い出せたし。
 お前がそれで救われるんなら、もっと幾つも頑張って思い出したいが…。
「ううん、頑張ってくれなくていいよ。…何かのはずみに思い出したら、また教えて」
 それだけでいいよ、努力してまで思い出さなくてもかまわないよ。
 だって、前のハーレイには笑う余裕も無かったんだし…。
 前のぼくが死んでしまった後には、ただ生きてたっていうだけだ、って…。
 ぼくがジョミーを支えてあげて、って頼んだから、地球まで行くしかなくて…。
「なあに、俺だって笑う時には笑っていたさ」
 笑い話だって幾つもしてやったろうが、前のお前がいなくなった後の。
 とんでもない買い物をしちまったヤツらとか、そういったのをな。



 お前は何も心配するな、と言ってやったけれども、辛かった前の自分の生。
 前のブルーがいなくなった後は、ジョミー以上に笑わない人生だっただろう。
 ジョミーは自分で笑わない道を選んだけれども、前の自分は笑うことが出来なくなった人生。
 どんなに愉快なことがあっても、心の底から楽しめたことは一度も無かった。魂はとうに死んでいたから、前のブルーと一緒に逝ってしまったから。
 そうやって笑うことさえ忘れて、ひたすらに地球を目指したけれど。
 地球に着いたら全て終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと、それだけを思っていたけれど。
 今はブルーとまた一緒だから、二人で青い地球に来たから。
「…カレー粉なあ…。今はこうしてレトルトカレーを持ってくるしか無かったわけだが…」
 いずれは俺の自慢のカレー料理を披露せんとな、お前と二人で食える時が来たら。
 お前の家で食うんじゃなくって、ちゃんと俺の家で。
「うん、楽しみにしているからね」
 今のハーレイ、料理は前より得意だって言うし…。
 カレー粉を使った料理も沢山あるから、とっても楽しみ。
 ハーレイが作ってくれるカレーを早く食べたいよ、毎日カレーでもいいくらいだよ。
「おいおい…。まあ、そういうコースもあるわけだがな」
 でっかい鍋でドカンと作って、そいつを毎日食べるんだ。
 最初は出来立てのヤツを食ってだ、次の日は一晩寝かせたカレー。これが実に美味い。
 それから後はだ、カレーを使った色々な料理を作ろうっていう寸法だ。
 カレーグラタンとか、今の時代ならではのカレーうどんとかをな。



 白いシャングリラには無かった本物のカレー粉。合成品しか無かったカレー粉。
 今は本物のカレー粉が何処にでもあるし、カレー料理も山のようにある。
 ナンで食べるインド風のカレーに、スープにも似たタイカレー。
 他にもカレーの料理は色々、ブルーには端から披露して食べさせてやりたいけれど。
 いつかブルーと結婚したなら、まずは今ならではのカレーライスから始めよう。
 ビーフにチキンに、それからポーク。
 地球の海の幸がたっぷり入った、シーフードカレーも作ってやろう。
 何種類ものスパイスだけで出来ている、シャングリラには無かった本物のカレー粉。
 「贅沢なものが食える時代だよな」と、ブルーに微笑み掛けながら。
 「もっと辛いのも作れるわけだが、お前、挑戦してみるか?」とパチンと片目を瞑りながら…。




           カレーの風味・了

※シャングリラから消えてしまった、本物のカレー粉。人類との戦いに入った後の時代まで。
 そしてカレー粉が船に戻った時、ジョミーが見せた笑顔。おふくろの味の記憶は大切なもの。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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(…キース…?)
 ぼくが会った時より老けてるけれど、とブルーが見付けたキースの写真。
 学校から帰って、ダイニングでおやつを食べていた時に。母が用意してくれたケーキと、紅茶。ふと目に留まったテーブルの新聞、それを広げたらキースがいた。国家主席の姿のキース。
 前の自分が出会った頃には、キースの顔には無かった皺。それが幾つか刻まれたキース、様々な苦労が皺の形で現れたろうか。国家主席に昇り詰めるまでには、色々とあったに違いないから。
(いくらマザー・システムが作った人間にしても…)
 周りの者たちはそうだと知らないのだから、妬みから来る嫌がらせなども多かっただろう。上に行けば行くほど、蹴落とそうとする人間も増えて、順風満帆ではなかったと思う。
(…この記事には何も書いてないけど…)
 キースが味わった苦労は何も。恐らく、キースは何をした人間だったかを紹介しようと書かれた記事。自分で新聞を読むようになった子供たちにも分かるように、と。
 学校で習う歴史の復習、そういった感じ。SD体勢を終わらせることを決断した指導者、機械に作り出された生命体でも人類の良心とも言える人間だった、と。
 国家主席として成し遂げた偉業と、その前の彼についても少し。
 メンバーズ・エリートだった頃には、ナスカを滅ぼしたミュウの敵だったとも。



 記事の殆どは国家主席のキースについてのものだから。
(前のぼくのことは…)
 名前だけしか書かれてはいない。
 シャングリラに囚われていたキースの脱出を阻もうとしたことも、メギドで対峙したことも。
 「ソルジャー・ブルーとも出会っていた」と簡潔に記され、たったそれだけ。前の自分が地球を目指したことが全ての始まりだと言われているから、出会った事実は書かねばならない。キースも歴史を変えた英雄の中の一人なのだし、英雄同士が顔を合わせたことは重要だから。
 出会って何があったわけでもないけれど。ただ会っただけで、それでおしまい。シャングリラの格納庫ではキースが逃亡しただけだったし、メギドの方でも似たようなもの。キースは前の自分と会ったけれども、メギドを沈められてしまったのだから。つまりはキースの作戦ミス。
 メギドの制御室で自分を取り押さえようとして失敗したのか、先を越されてしまったのか。今も真相は謎とされていて、何があったのかは誰も知らない。
(キースがぼくを撃ったっていうのも、仮説だしね…)
 聖痕が現れた頃の自分は、それすらも知らなかったのだけれど。瞳からの出血で受診した病院、そこで出会った医師の話で初めて耳にした仮説。
 本当に自分がソルジャー・ブルーの生まれ変わりだった、と分かった後に調べてみた。どうして仮説とされているのか、なんとも不思議だったから。
 撃たれた方の自分にしてみれば、一大事件。キースが最初から急所を狙っていたなら、あの場で倒れていただろうから。メギドを沈められずに死んでしまって、歴史も変わった筈なのだから。



 そうして調べて分かったこと。生前のキースは何も語りはしなかった。書き残してもいない。
 あの時、メギドで何があったか、前の自分に何をしたのか。誰にも語らず、データすら残さず、キースは時の彼方へと消えた。SD体勢の崩壊と共に、地球の地の底に埋もれて消えた。
(キースがぼくを撃った話は…)
 弾倉の弾の残りを数えた、当時の部下から流れた仮説。弾倉が一つ足りなかったことも、部下は気付いて覚えていた。キースの銃の手入れをしていた一兵卒。
 階級の低い者の場合は銃の手入れも自分でするのが普通だけれども、キースほどの地位の者だと部下に任せてチェックをするだけ。きちんと手入れが終わった銃を調べて、「よし」と頷く。
 そんな具合だから、メギドで使われた銃も、当たり前に部下が手入れをしていた。普段と同じにキースから受け取り、不具合などが無いかどうかを確かめ、「どうぞ」と返した。
 彼にとっては仕事の一つで、弾倉の装填も任務の内。弾が、弾倉が使われたのなら。
(…それで使ったらしい、って気付いて…)
 かなりの数の弾が減っていて、弾倉も一つ消えていたから。キースが銃を使ったことは確かで、それも一発や二発ではないと気付いた部下。ならばキースは何を撃ったのか、銃口の先にいたのは誰か。状況を思えば、該当する者は一人しかいない。ソルジャー・ブルー。
 けれどキースは語らなかったし、一兵卒の身では質問など出来ない。訊いた所で、本当のことを話して貰えるとも限らない。「戯れに撃った」と言われれば終わり、単なる射撃練習だったと。
 だから沈黙を守った部下。上官が何も言わないのなら、と。
 その彼が口を開いた時には、SD体制は終わっていた。キースも死んでしまっていた。
 前の自分が英雄として讃えられ始めたからこそ、彼は沈黙を破って話した。遠い昔に数えた弾の残りと、一つ消えていた弾倉のことを。
 キースはソルジャー・ブルーを撃ったのだろうと、証拠は何も無いのだけれど、と。



 それが「キースはソルジャー・ブルーを撃った」と今も伝わる仮説。証拠が無いから、一兵卒の証言として記録されているだけ。
(キースと、前のぼくとのことは…)
 メギドで出会ったことしか知られてはいない。何らかの形で出会った筈だ、と。
 前の自分がメギドの内部に入り込んだ後、「狩りに出掛ける」と部下のセルジュに指揮を任せて出て行ったキース。彼を追い掛けたというマツカ。
 公式な記録はたったそれだけ、減っていた弾と消えた弾倉のことはあくまで仮説。
 データは残っていなかったから。長い沈黙を破って証言した部下、裏付けを取ろうと学者たちが調べにかかったけれども、当時の記録は何処にも無かった。破棄されたという形跡さえも。
 なにしろ、ただの銃だから。射撃練習に使っていようが、実戦だろうが、全てを記録しておくとなれば膨大な量になってしまって手に負えない。一日単位でデータを残しはしない。しかも個人の持ち物としての単位では。
 あったけれども、無かったも同然だった当時の記録。キースが所属していた部隊の者たちの銃は全て纏めて一つの記録で、前の自分を攻撃しようとして同士討ちになった船も含まれたから。
 爆沈した船と一緒に消えた銃やら弾倉やらは膨大な数で、特定出来なかったキースの銃。それに弾倉、真相は掴めないままになってしまった。本当に弾は減っていたのか、弾倉が一つ無かったというのは事実かどうか。
 だから今でも分からない。仮説は仮説で、公式記録になってはいない。
 キース自身が語らないまま、時の彼方に消えたから。何も言わずに死んでいったから。



(…どうして黙っていたんだろう…)
 前の自分を撃ったことを。どうしてキースは何も語らず、書き残すこともなかったのだろう。
 反撃されて巻き込まれそうになった所をマツカに救われたことが情けなかったか、守る筈だったメギドを沈められたことが恥だったのか。
 メンバーズ・エリートとしてのプライドが許さなかったかもしれない、どちらであっても。
(あの頃のキースは…)
 シロエが命懸けで手に入れた出生の秘密は知りもしなくて、メンバーズとしてミュウという種を殲滅しようとしていただけ。マザー・システムが命じるままに、疑いもせずに。
 そういう立場にいたキースだから、誰にも言わずにいたかもしれない。前の自分を撃ったということ。メギドの制御室にいるのを見付けて、撃ち殺そうとしていたこと。
 肝心の敵を殺し損ねてしまったのだから。
 息の根を止めてメギドを守るつもりが、瀕死の自分にまんまと沈められたのだから。
 キースは使命を果たせはしなくて、マツカが救いに来なかったならば命も失くしていた所。
 失敗と呼ぶには大きすぎた代償、メギドは破壊されてしまってシャングリラまで取り逃がした。とても成功とは言えなかった作戦、ナスカを崩壊させられただけ。ミュウの殲滅は叶わなかった。
 前の自分を殺せていたなら、結果は違っていたのだろうに。
 だからキースは誰にも言わずに、書き残しもせずに逝ったのか。
(それとも…)
 思う所があったのだろうか、前の自分に。
 撃ったことを話せなくなるような何か、黙っておこうと決意せざるを得なかった何か。
 メギドを沈められてしまった後には、残党狩りを命じたと伝わるキースだけれど。あえて命令を無視したマードック大佐、彼の決断と共に今も知られているのだけれど。



 なんとも謎だ、とキースの記事が載った新聞を閉じて、おやつの残りを食べ終わって。それから自分の部屋に帰って、座った勉強机の前。
 机の上に頬杖をついて謎を考えてみるのだけれども、解けないパズル。
 キースが最後まで誰にも話さず、記録も残していなかった理由。ソルジャー・ブルーを撃ったというのに、彼自身が言った「伝説のタイプ・ブルー・オリジン」に弾を何発も撃ち込んだのに。
 キースが沈黙を守っていたから、前のハーレイでさえも知らなかった前の自分の最期。
 メギドでキースに撃たれていたことを、前のハーレイは知りもしなかった。キースが誇らしげに語っていたなら、何処かで記録を目にしたろうに。地球を目指した旅の途中で、キースの輝かしい過去の戦歴として見付け、怒り狂っていたろうに。
(あいつを殴り損なった、って…)
 地球で出会ったのに殴る代わりに挨拶をしてしまったのだ、と悔やんだハーレイ。
 キースが何をしたのか全く知らなかったから、人類を代表する国家主席に礼を取った、と。
 今もハーレイはキースを許してはいない。前のハーレイが殴り損なった分だとばかりに憎んで、嫌って、キースの名を冠した花さえも八つ裂きにしてやりたいと言っていたほど。
 けれども、自分の思いは違う。
 ハーレイのようにキースを嫌いはしないし、憎んでもいない。
(あの時のままで時間が止まっていたなら、嫌ってたかもしれないけれど…)
 青い地球の上に生まれ変わって、その後のキースを知ったから。
 どう生きたのかを知っているから、キースに対して憎しみなど無い。ほんの小さな欠片さえも。



 前の自分との出会いがどうあれ、最後にはミュウを認めてくれたのがキース。
 彼が動いてくれなかったら、SD体制が崩壊した後、ミュウと人類とが手を取り合えるまでには長い時間がかかっただろう。彼がスウェナ・ダールトンに託した、全人類に向けてのメッセージ。あれが放送されなかったなら、人類はミュウを敵だと思ったままだったかもしれないから。
 キースの心が何処で変わったのかも知りたいけれども、歴史の上ではマツカの功績。ひたすらにキースに尽くし続けたミュウの青年、彼がキースを変えたと言われる。それに出生の秘密を暴いたシロエと、この二人がキースの心を動かしたのだと。
 キースが考えを変える切っ掛けになった人物、その中に前の自分は含まれていない。何の影響も与えたことになってはいない。
 シャングリラとメギドで出会っていただけ、対峙しただけ。



(でも、本当に…?)
 そうだったろうか、キースは何も思いはしなかったのだろうか?
 前の自分を撃ったことを誰にも話さないまま、記録も残さずに逝ってしまったキース。ミュウの長に何発も撃ち込んだのなら、話を上手く持って行ったら英雄扱いだっただろうに。
 たとえメギドを沈められていようが、防ごうと戦ったのだから。メギドの炎も止められるほどの力を秘めたタイプ・ブルーと、伝説のタイプ・ブルー・オリジンと戦って生還したのだから。
(…だけど、キースは黙ったままで…)
 英雄にはならず、戦績も記録されなかったから、前のハーレイも気付かなかった。キースが前の自分を撃ち殺そうとしていたことに。
(あの時のキース…)
 言葉を交わす暇すら無かったけれども、心も読み取れなかったけども。
 前の自分に銃口を向けたキースの心を占めていたのは、使命感だけではなかった気がする。
 メギドを沈めにやって来たミュウ、それを倒すのなら弾は一発で済むのだから。最初に見舞った弾が心臓を貫いていたら、自分は斃れていたのだから。
 そうする代わりに、急所を外し続けたキース。今のハーレイは「嬲り殺しにしやがったのか」と怒ったけれども、それとは違ったように思える。
 前の自分への強い憎しみや恨みでそうしていたのではない、と。
 落ち着いて考えられる今だからこそ、余計にそうだと思えてくる。獲物を追い詰めた狩人の如く振舞っていたキースだけれども、自分は本当に単なる獲物だっただろうか、と。



 何発も、何発も撃って来たキース。銃弾を浴びても張れたシールド。最初は防げなかったのに。三発も撃ち込まれてから、ようやくシールドしたというのに。
 それだけの時間をキースは前の自分に与えた。最初の一発で倒す代わりに。
 使命感だけで撃っていたなら、有り得ない。狩りを楽しんでいたのだとしても…。
(蹲っていたってメギドは止められない、って…)
 反撃してみせろ、と言ったキースを覚えている。シールドを張っていた自分に。
 まるで自分がメギドを止めるのを待っていたようにも思えるキース。そうしてみせろとキースは確かに言ったのだ。メギドが止まれば、前の自分の勝ちなのに。
 どうしたら、そう考えるのか。そんな考えになったというのか。
 前の自分がメギドを止めていたら、キースの立場が無いというのに。追い詰めた筈の獲物に牙を剥かれて、散々な目に遭うというのに。
 結果的にメギドは沈んだけれども、キースの出世は止まらなかった。メギドを失ったことは罪に問われず、最後には国家主席にもなった。
 けれども、そこまでキースが読んでいたとは思えない。メギドを沈められても自分の戦績に傷は付かないと、まさか知ってはいなかったろう。
 あの時点では、キースは自分の生まれを知らなかったのだから。
 人類の指導者になるべくマザー・システムが生み出した生命、それゆえに何をしようとも頂点に昇り詰められるのだと気付いていたわけがないのだから。



 考えれば考えるほどに分からなくなる、キースの思い。
 最初の一発で前の自分を殺さなかったことも、反撃してみせろと言っていたことも。
 あの時に既に、キースの心は変わり始めていたのだろうか。ミュウに向ける目、それが少しずつ変わりつつあった時なのだろうか。
 単なる人類の敵とは違うと、ただの異分子とは違うらしいと。
 そう考えていたのなら分かる、前の自分が何処までやれるか、見定めようとしていたのなら。
 最初の一発で倒してしまえば、何も起こりはしないから。
 ミュウの長が何処まで出来るものなのか、それを見られはしないから。
 下手をすれば巻き添えになっていたというのに、キースは見ようとしたのだろうか。自分の身を危険に晒すことになっても、前の自分の覚悟のほどを。
 ミュウという種族を守るために何処まで出来るというのか、やれるのかを。
 命を捨てても仲間たちを守ることが出来るか、それとも果たせず倒れて死ぬか。ミュウの長には何が出来るか、どれほどの覚悟を持っているのか、それをキースは見たかったのか。
 …そして自分は望み通りの結果を出せたというのだろうか?
 キースがそれを待っていたなら、前の自分もキースの心を確実に変えた。
 記録は何も残されてはいないけれども、ミュウに対する考え方を。
 恐らくはナスカでミュウと出会って変わり始めていただろう心、それを大きく変えたのだろう。
 ミュウも人だと思う方へと。
 どう扱うかは別だけれども、マザー・システムに命じられるままに機械的に消していた考え方は終わったのだろう。
 異分子とはいえ人は人だと、慎重に見極める必要があると。
 そうしてキースはマツカを側に置き続け、子細に観察していたのだろう。利用するのではなく、どうするべきかを。ミュウという種族を、ミュウの今後をどうしてゆくのが最良なのかと。
 国家主席にまで昇り詰めた時、答えは恐らく出ていたのだろう。
 ミュウが何者かをグランド・マザーに問い質すことも、結果によってはマザー・システム自体に反旗を翻すことも。



 多分そうだ、と思えるけれど。やっと答えが出て来たけれども、何処にも証拠は残っていない。
 キースが何を考えていたかも、何を思って前の自分を撃ったのかも。
(ぼくがメギドから生きて戻って、キースと話が出来ていたら…)
 国家主席になったキースと話せていたなら、キースの思いを聞けただろうか?
 どうしてメギドで一発で殺してしまわなかったか、反撃してみせろと言ったのか。
 それを自分が聞けていたなら…。
(歴史も変わった?)
 赤かったという地球に降りたミュウたちの中に、ジョミーの他に前の自分もいれば。
 キースと話が出来ていたなら、全てが変わっていたかもしれない。
 グランド・マザーをもっと容易く倒せていたとか、同じように地球が燃え上がっても、犠牲者は出ずに終わっていたとか。
 ジョミーもキースも、前のハーレイたちも死なずに地球から離れられる道。
 そういう道も開けていたかもしれない、キースと自分が話せていたら。分かり合うことが出来ていたなら、歴史がすっかり変わってしまって。



 どうなんだろう、と考え込んでいたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から見れば、手を振るハーレイ。門扉の所で、こちらに向かって。
 せっかくハーレイが来てくれたのだし、自分の考えを話したくなった。ハーレイはキースを嫌うけれども、誰かに聞いて欲しいから。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、恐る恐るこう切り出してみた。
「あのね…。キースのことなんだけど…」
「なんだ?」
 キースの野郎がどうかしたか、と案の定、不快そうなハーレイ。眉間にも皺が刻まれたけれど、話したい気持ちは止められないから。
「…ぼくのこと、どう考えていたのかなあ、って…」
「はあ?」
 どうって、前のお前のことをか?
「そう。…嫌いだったのか、もっと他の感情もあったのか」
 単に憎んでいただけじゃなかった、っていう気がするんだよ。
 前のぼくがメギドから生きて戻っていたとしたなら、キースと話が出来たんだけど…。
 地球に降りた時に、キースとゆっくり。
 そしたら歴史も変わっていたかも、って思うんだけれど…。
「話だと? 問答無用で撃つようなヤツとか?」
 前のお前を嬲り殺しにしようとしたのがキースなんだぞ、分かっているのか?
「でも…。反撃してみせろって言ったよ、キースは」
 それじゃメギドは止められないぞ、って確かに言っていたんだよ。
 だからね…。



 ぼくは考えたんだけれど、と自分の見解を披露した。
 キースは前の自分が何処まで出来るかを見ていたのだと、ミュウの長の覚悟を知りたいと思って一発で殺さなかったのだ、と。
「お前なあ…。そいつは考えすぎってもんだろ」
 あいつがそういう考えだったら、もっと早くに決着がついていそうだが…。
 前の俺たちが必死に頑張らなくても、人類がさっさと降伏するとか、地球への道が開けるとか。
「…そうなのかな?」
 あれでもキースは頑張ってくれていたんだと思うんだけど…。
 シャングリラが地球まで早く行けるように、グランド・マザーにも働きかけて。
「おいおい、地球へ行こうと最後のワープをしたシャングリラを待っていたのはメギドだぞ?」
 それも六基と来たもんだ。…途中で止まりはしたんだが…。
 メギドなんぞを用意して待っていたのがキースだ、最終的にはグランド・マザーに逆らったが。
 いいか、キースはそういうヤツでだ、前のお前を撃った時からミュウに対する考え方を変えつつあったとは思えんが…。
 俺にはとても思えないんだが、お前の考えではそうなるんだな?
 …お前はつくづくキース好きだからな、いい方へと考えちまうんだろうなあ、どんなことでも。



 あんな酷い目に遭ったくせに、とハーレイはフウと溜息をついて。
「お前ときたら、キースの嫁にまでなるくらいだしな?」
「えっ?」
 お嫁さんってなんなの、ぼくはキースと結婚なんかはしてないよ…?
「例のシリーズだ、お前が何度も見ている夢だ」
 チビのお前をキースが嫁にしようと待ち構えてるんだろ、何度結婚しかかったんだ?
「…三回かな?」
 覚えてるのは三回だけれど、もっと他にも見ているのかな…?
 起きたら忘れている夢もあるし、ひょっとしたら三回だけじゃないかも…。
「ほら見ろ、お前がキースに好意を持ってる証拠だってな」
 でなきゃ結婚しないだろうが、いくら夢でも。
 お前はキースを嫌うどころか、嫁に行くくらいに好きだってことだ。
「…嫌いじゃないけど、お嫁さんはちょっと…」
 お嫁さんになるならハーレイだけだよ、そうでないとホントに困るんだけど…。
 あの夢でもいつも困ってるんだし、キースのお嫁さんっていうのは嫌だよ。
「知らんぞ、今夜はその夢じゃないか?」
 キースのことをじっくり考え続けたみたいだからなあ、また結婚する夢だと思うが。
「そうなるわけ?」
 ぼくは真面目に考えてたのに、あの夢をまた見てしまうわけ…?
「そうじゃないかと俺は思うが…。よし、楽しみに待つとするかな」
 明日は土曜日だし、どうなったのかを訊くことにする。俺は朝から来るわけなんだし。
「酷い…!」
 酷いよ、ハーレイ、ぼくにあの夢、見ろって言うの?
 キースのお嫁さんになれって言うわけ、あの夢はもう懲り懲りなのに…!



 酷い、と抗議したのだけれども、ハーレイは取り合ってはくれなかった。「明日が楽しみだ」と面白がるだけで、キースの話も「考えすぎだ」の一言で終わり。
 そのハーレイが夕食を食べて帰って行った後、お風呂に入って、パジャマに着替えて。
(あんな夢なんかは見ないんだから…!)
 キースと結婚などしてたまるものかと、ぷりぷりと怒って入ったベッド。腹が立って眠れないと思っていたのに、いつの間にやらウトウトと落ちた眠りの世界。
 そうしたら…。
(えーっと…)
 ゆったりとソファに腰掛けたキース。その後ろ姿。
 あの夢なのだ、と直ぐに気付いた。悔しいけれども、本当に見てしまったらしい、と。
(…コーヒー飲んでる…)
 こちらに背を向け、コーヒーを傾けているキース。多分、マツカが淹れたコーヒー。
 けれどもマツカは見当たらなくて、どうやらキースは一人きりで部屋にいるらしいから。
(お嫁さんシリーズでも、この際、話…)
 話がしたい、と考えた自分。夢の中だから、難しいことはすっかり忘れていたけれど。
 前の自分をどう思ったのかを訊きたかったことなど思い出せなくて、けれど話がしてみたくて。
 キースの前へと回り込んだら、キースが「うん?」と視線を上げた。
 国家主席だけれども、若いキースが。前の自分が出会った頃と同じに若いキースが。
「どうした、何か用でもあるのか?」
「…えっとね、ちょっと話をしてみたくって…」
「お前のドレスのデザインのことか?」
 それならマツカも呼ばんといかんな、細かい打ち合わせはマツカに任せてあるんだし。
「ううん、そうじゃなくて…」
 ドレスはどうでもいいんだけれども、お嫁さんのこと…。
 キースがぼくを選んだことだよ、ウェディングドレスまで注文しちゃって。



 なんでお嫁さんがぼくになるの、と訊いてみた。
 ぼくはソルジャー・ブルーだけれど、と。
「…キースの敵だよ、なのにどうしてお嫁さんなの?」
 ぼくの他にも、人間は沢山いるんだけれど…。ぼくにしなくても、ホントにいっぱい。
「俺は運命だと思っているが?」
 お前と出会ったのも、結婚しようと色々と準備していることもな。
「なんで運命?」
「メギドに来たのはお前だろうが」
 俺が待っていると承知の上で来たわけだろうが、違うのか?
「それはそうだけど…。ぼくが自分で行ったんだけど…」
 でも、お嫁さんになりに行ったわけではないんだから、と反論した。
 ぼくには役目があったから、と。
 夢の中でも、ほんの少しだけ微かに覚えていた自分の正体。メギドを目指した本当の理由。
「ミュウの長としてか?」
「うん。…ぼくがみんなを守らなくちゃ、って」
 だから行ったんだよ、メギドまで。…お嫁さんになろうと思ったんじゃないよ、ホントだよ。
 キースが間違えちゃってるだけだよ、ぼくはソルジャー・ブルーなんだから。
「…俺はそいつに興味があったな、お前が何処まで出来るのかに」
「え…?」
 何処までって…。ぼくはみんなを守るだけだよ、お嫁さんになりに行ったんじゃなくて。
 ソルジャー・ブルーだからメギドに行ったよ、たったそれだけ。
 だけどキースがぼくを見付けて、お嫁さんにするって…。



 何処まで出来るかっていうのはどういう意味、と尋ねたけれど。
 キースが何を言っているのか掴めないから、キョトンと見詰めてしまったけれど。
「…さあな? どういう意味なんだろうな」
 とにかく、俺はお前が嫌いではないぞ。ミュウの長だろうが、ソルジャー・ブルーだろうが。
 でなければ嫁に欲しいと思わん、とキースがポンと叩いたソファ。自分の隣。
 俺と話がしたいんだったら、此処に座って話さないか、と。
(…キースの隣?)
 話をしたい気はするのだけれども、キースの隣は危なそうで。
 座ったら最後、キスの一つもされてしまいそうで、座っていいのか、断るべきか。
(…どうしよう…)
 悩んでいる内に、パチリと覚めた目。
 とうに朝日が照らしている部屋、キースの答えは聞き損なった。
 今になって思い出した問い。前の自分をどう思っていたか、それを訊こうとしていたのだった。
 夢の中でも、夢の世界のキースでも。
 憎んでいたのか、そうではないのか、前の自分を最初の一発で殺さなかった理由は何なのか。
(…キース、何処まで出来るのか、って…)
 それに興味があったと言った。
 夢の中の自分は首を傾げるしかなかったけれども、あれがキースの答えだろうか。
 前の自分が仲間たちを守るために何処まで出来るか、それを知りたいと思っていたと。
 あくまで夢の世界のキースで、本物のキースではないのだけれど。



 夢の続きを見るには、もう遅い時間。眠り直す前に目覚ましが朝だと告げそうな時間。
(…夢は見たけど、ちゃんと訊けなかった…)
 けれども、夢の世界のキースは答えをくれた。「何処まで出来るか、興味があった」と。
 本物ではないキースの言葉。夢の世界に住むキースの言葉。
 ベッドから起きて、顔を洗って着替えをして。朝食も食べて待っている内に、ハーレイが訪ねて来てニヤリと笑った。「昨夜の夢はどんな具合だった?」と。
「夢の世界でキースに会えたか?」
 今度こそ結婚しちまった…ってわけじゃなさそうだな、お前、機嫌がいいからな。
 あの夢を見たら俺に文句を言うのが常だし、あの夢、見ないで済んだのか?
「…見たんだけど…。結婚する夢じゃなかったよ」
 キースのお嫁さんになる予定だったけど、結婚式を挙げる中身じゃなくて…。
 少しだけキースと話したんだよ、前のぼくのことを。
 メギドに行った理由もちゃんと言ったよ、みんなを守るためだった、って。
 夢の中だから、ちょっぴり間違えていそうだけれど…。
 ソルジャー・ブルーだったことは覚えていたけど、深刻さは分かっていなかったかも…。
 でもね、キースは言ったんだよ。
 ぼくが何処まで出来るというのか、それに興味があったんだ、って。
 …夢の中のぼくには意味が分かっていなかったけれど、起きたら分かった。
 キースはやっぱり、前のぼくが何処まで出来るのかを見てみたかったんだ、って。



 ぼくの願望が入っているかな、と話した夢のキースの言葉。
 考えていたことが夢にそのまま現れただけで、現実はそうではなかったのかな、と。
「…本物のキースは、そうは思っていなかったのかな?」
 前のぼくが何処まで出来るかなんて、キースはどうでも良かったのかな…?
「そうだと思うが?」
 だからこそ前のお前を嬲り殺しにしようとしたんだ、あいつはな。
 お前が何を考えていたか、どれだけの覚悟でメギドに行ったか、キースに分かるわけがない。
 第一、あの野郎がお前と話をするか、とハーレイは苦い顔付きだから。
 それが正しいのかもしれないけれど。
 キースは前の自分を獲物としてしか見ていなかったのかもしれないけれど。
(真相は謎…)
 弾倉に残った弾の数を数えたキースの部下の証言だけが根拠になっている仮説よりも謎。
 キースが何を思っていたのか、どうして前の自分を最初の弾で殺さなかったのか。
 謎は今でも解けはしないし、前の自分がキースに撃たれた事実でさえもが未だに仮説。決定的な証拠は出なくて、「そういう説もある」と言われているだけ。
 けれど、何処かで本物のキースに出会えたら。
 尋ねてみたいという気がする。
 何を思って前の自分を撃ったか、反撃してみせろと言ったのか。



(…夢のキースが言っていたのが、本当だったら…)
 そうしたら、きっとハーレイだって。
 キースが嫌いで今も許さず、憎み続けているハーレイだって。
(…キース嫌いが治りそうだよ)
 前の自分を嬲り殺しにしようとしたのではなくて、見定めようとしていたのなら。ミュウの長の覚悟を見たかったのなら、あのやり方にもキースの信念があったのだから。
(でも、キースとは会えないよね…)
 会えはしないと分かっている。そんな奇跡は起こりはしないと。
 だから気長に説得するしかないのだろう。キースが嫌いなハーレイを。
 いつか結婚するハーレイ。二人で暮らしてゆくハーレイ。
 そのハーレイとは、SD体制を終わらせてくれたキースの話もしたいから。
 前の自分が出会ったキースの思い出も語り合いたいから。
 何より、いつまでも悲しんで欲しくないから、「殴り損なった」と悔やんで欲しくないから。
 ハーレイの傷を癒すためにも、キース嫌いを治したい。
 たとえキースと結婚してしまう夢が立派なシリーズになろうとも。
 いつかはハーレイにも笑顔でキースを語って欲しい。癒えた心で、穏やかな顔で。
 「あいつも決して悪いヤツではなかったんだな」と、「ヤツも英雄には違いないしな」と…。




             解けない謎・了

※今の時代も仮説のままの、キースがブルーを撃ったこと。証拠は残っていないのです。
 どうして撃ったか、それを知りたいと思ったブルー。夢で出会ったキースの言葉も謎のまま。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












(えーっと…)
 ブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。ダイニングのテーブルに置かれていた新聞、それを広げてみたのだけれど。
(サボテンが一杯…)
 赤茶けた岩砂漠とでも言うのだろうか、荒地にニョキニョキと生えたサボテン。人間の背よりも丈が高くて、枝分かれしている独特の姿。「西部劇の舞台でお馴染みです」と書かれてあった。
(西部劇かあ…)
 SD体制が始まるよりも遥かな遠い昔に生まれた西部劇。当時に撮影された映画などが人気で、愛好家も多い。詳しいことは知らないけれども、父が見ていたことがあるから舞台は分かる。
 今ではこういう景色もある地球。サボテンしか見えない岩砂漠。
 その気になったら緑の大地も作れるだろうに、あえて荒れ地で生きているものはサボテンだけ。
(ホントに元気になったよね、地球)
 前の自分が生きた頃には、地球は死の星だったのに。
 こんな砂漠を作らなくても、地表は砂漠化していたという。前のハーレイも見た赤かった地球。生きているものなど何も無かった。陸にも、母なる海の中にも。
 SD体勢の崩壊と同時に地球は燃え上がり、地上の全てが生まれ変わった。汚染された大気も、何一つ棲めなかった海も、朽ち果てた大地も、何もかもが。
 蘇った地球に戻った生態系。地球が滅びる前の姿に合わせて、こういう岩の砂漠まで。
 人間が住みやすい場所にするなら、砂漠よりは緑の平原だけれど、そうしないのが今のやり方。遠い昔に地球が滅びた理由の一つがそれだったから。
 人の都合で川の流れを変えてしまったり、沢山の水を汲み上げたりして作った農地。本来の姿を失った大地は急速に砂漠化していった。元々は人が住んでいた場所、そこまでが砂の嵐に埋もれて消えた。人が犯した大きな過ち。自然を大きく変えてしまうこと。
 遥かな昔の反省をこめて、今の地球には砂漠もある。砂の砂漠も、岩の砂漠も。



 歴史の彼方で白いシャングリラが辿り着いた頃には、地球は砂漠の星だったのに。
 あの赤い地球を見た人々に「今は砂漠もあるんです」と言おうものなら、「あの頃も砂漠だ」と苦々しい顔をされそうだけれど、本当に今もある砂漠。ただしサボテンが生えている砂漠。
(ちゃんと命は戻ってるんだよ、砂漠にも)
 サボテンの他にもいる筈の生き物、写真に写っていないだけで。鳥も虫も蛇も、他にも色々。
 前の自分が生きた時代の砂漠とは違う、何もかもが。同じ砂漠でも、きちんと命が息づく場所。
 もっとも、前の自分は地球は青いと頭から信じていたけれど。
 様々な命が生まれて来た地球、辿り着いたなら何処もかしこも生命の輝きで一杯だろうと。
 それを見たいと願っていた。青い地球を彩る命の数々。
(でも、サボテンは…)
 流石に夢見ていなかった気がする、こんなサボテンだらけの荒地は。岩の砂漠は。
 いつか母なる地球に着いたら見たかったものは、人を寄せ付けない高い峰に咲くという青いケシやら、シャングリラにもあったエーデルワイスが自生している姿やら。
 サトウカエデの森もあるのだと思っていた地球、その森で採れたメイプルシロップで食べたいと願ったホットケーキ。地球の牧草を食んで育った牛のミルクのバターもつけて、と。
 そういった夢を見ていたんだよ、と思ったけれど。
 西部劇の舞台になった砂漠も、ニョキニョキと生えているサボテンも、前の自分が焦がれ続けた地球の姿には無かった筈だ、と新聞の写真を眺めたけれど。



(…あれ?)
 サボテンという言葉が引っ掛かった。心の何処かに、微かにカサリと。
 西部劇の世界にニョッキリと生えたサボテンではなくて、ただ「サボテン」という言葉。
 前の自分は地球のサボテンを夢見たろうか?
 すっかり忘れてしまったけれども、岩の砂漠に生えているようなサボテンを。
(…サボテンなわけ?)
 そんな記憶は無いんだけれど、と首を捻って閉じた新聞。サボテンよりもまずはおやつ、と。
 食べる間に考えてみても、やはりサボテンの記憶は無くて。
(気のせいだよね?)
 きっと何かの勘違い、とキッチンの母に空になったお皿やカップを返して戻った部屋。勉強机の前に座って、改めてサボテンを思い浮かべてみた。さっきの新聞記事のサボテン。
(いくらなんでも…)
 前の自分が憧れた中に、サボテンは入っていないだろう。西部劇が大好きだったならともかく、それ以外ではサボテンを夢見る理由が無いから。
(他の種類のサボテンにしたって…)
 見たいと焦がれる植物とは少し違うと思う。夢もロマンも無さそうなサボテン。
 サトウカエデの森のようにメイプルシロップが採れるのだったら、それは素敵な植物だけれど。高い峰にしか咲かない青いケシやエーデルワイスだったら、見に行く価値もあるのだけれど。
(サボテンだしね…?)
 人の役には立ちそうもないし、夢が広がる植物でもない。多分。



 けれど、頭から消えないサボテン。どうしたわけだか、しっかりと心に絡み付いたまま。
 サボテンは何かの役に立つのだろうか、前の自分が夢見る価値があっただろうか…?
(ドラゴンフルーツ…)
 役に立つと言えば、そのくらいしか思い付かない。あれはサボテンの実なのだから。
 美味しい果物には違いないけれど、今ならではの味覚の一つ。白い鯨では育てていないし、前の自分は食べてはいない。味を知らないのでは、見たいとも思わないだろう。いつか地球に着いたらドラゴンフルーツが実るサボテンを見に出掛けたいと夢見もしない。
(それとも、前のぼくが奪ったわけ?)
 シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃に。食料は人類の輸送船から奪うものだった時代に、ドラゴンフルーツも奪って来たのだろうか。他の食料と一緒にコンテナに入っていたとかで。
 それならば食べて気に入ったかもしれないけれども、そういうのとは違う感覚。
 サボテンの記憶はもっと別の、と心が訴えている違和感。ドラゴンフルーツの味は違う、と。



 ならば何だと言うのだろう。サボテンだった、と思う自分は。
(サボテンは役に立たないのに…)
 あんなのだよ、と思い浮かべたさっきの写真。赤い岩砂漠に生えていたサボテン。
 白いシャングリラには、あれは無かったと断言出来る。あのサボテンは何処にも無かった、と。
(それに、棘だらけ…)
 種類にもよるけれど、サボテンは大抵、棘があるもの。鋭い棘を生やしているもの。
 栗のイガでもゼルが「危険じゃ」と言ったほどだし、役立たずで棘だらけのサボテンなどは…。
(あるわけないよね、シャングリラに)
 うん、と納得したのだけれど。まだ引っ掛かってくるサボテンの記憶。
 サボテンの棘が刺さったかのように、心から抜けてくれないサボテンという言葉。あった筈などないものなのに。白い鯨で役に立たないサボテンを育てたわけがないのに。
(絶対、無いって…!)
 役に立たないし、棘だらけだし、と思うけれども、だんだん自信が無くなって来た。サボテンの棘が心に刺さって抜けないから。今も刺さったままだから。「サボテンなのだ」と。



(サボテンなんかは、シャングリラには…)
 必要無かった筈の植物。余計なものなど乗せていなかった船がシャングリラ。
 役に立たないから、蝶さえも飛んでいなかった。青い小鳥も飼えなかった。そのシャングリラに役立たずのサボテンがあったと言われれば驚くしかない、「なんでそんなものが」と。
 誰も導入しようとしないし、育てた筈もないのだけれど。
 やっぱりサボテンの棘が抜けない、心に刺さった「サボテン」の名前。不思議なことに。
(…ハーレイに訊く?)
 まさかあったとは思えないけれど、あったなら知っているだろう。キャプテンは船の全てを把握していたのだから、サボテンがあれば。誰かがコッソリ育てていたというのでなければ。
(…コッソリだったら、ぼくだって…)
 もっと記憶がハッキリ残っていそうではある。それを育てていた仲間の顔や名前まで。どうしてサボテンをコッソリ育てているのだろう、と疑問に思ったことだろうから。
 なんとユニークなことをするのかと、そんなにサボテンが気に入ったのか、と。



 ハーレイに訊くのが確実そうなサボテンの記憶。仕事の帰りに寄ってくれれば、と思っていたらチャイムが鳴った。窓に駆け寄ってみれば、門扉の所で手を振るハーレイ。丁度いいタイミングで来てくれた恋人。
 母がお茶とお菓子を置いて行ったテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、サボテンを覚えてる?」
「サボテン?」
 なんだそれは、とハーレイの鳶色の瞳が丸くなるから。
「やっぱり無いよね…。サボテンなんか」
 役に立たないし、棘だらけで危ない感じだし…。あったわけがないよね、サボテンは。
「なんの話だ?」
 どうやら植物のサボテンらしいが、サボテンがどうかしたのか、お前?
「んーと…。シャングリラにサボテン、あったかなあ、って…」
 ドラゴンフルーツは食べていないと思うんだけど…。他のサボテン。
「前の俺は料理はしてないぞ。サボテンは食えるそうだがな」
 お前の言ってるドラゴンフルーツはサボテンの実だが、そうじゃないサボテン。
「そうだったの?」
 他のサボテンの実も食べられるの、ドラゴンフルーツじゃないサボテンも?
「実だって食えるが、サボテン料理というのがあるんだ」
 種類によっては、サボテンそのものを料理しちまう。野菜と同じ扱いだな。
 サラダにもするし、炒めたり、フライにするだとか…。もちろん棘は綺麗に抜いて。
「へえ…!」
 棘があるのに、それを抜いてまで食べるんだ?
 そこまでするなら美味しいんだろうね、サボテンの料理。
「らしいな、俺も食ったことは一度もないんだが…」
 ドラゴンフルーツがせいぜいなんだが、いつかは食ってみたいもんだな、サボテン料理。
 お前と好き嫌い探しの旅をする時は、是非とも食いに行こうじゃないか。俺たちの口に合うのかどうか、サボテン料理を色々とな。



 サボテンの名産地だという、かつてメキシコと呼ばれた国があった辺りの地域。サボテン料理は其処の名物で、SD体制の時代には無かった食べ物らしい。サボテンを食べる文化が独特過ぎて。
 ドラゴンフルーツは果物だったから残ったけれども、サボテンそのものを料理するのは。
「…それじゃ、シャングリラにサボテンがあったのかも、っていうのは、ぼくの勘違い…?」
 前のぼくたちが生きてた頃には、サボテン、野菜じゃなかったんだし…。
 シャングリラで育てる意味が無いよね、食べられないんじゃ。
「だろうな、サボテンなんぞがあるわけがないぞ」
 食おうって文化が無かったからには、あの船では役に立たんしなあ…。花と違って癒されるってわけでもないし…。棘だらけでウッカリ触れもしないし、公園にだって向かないんだ。
 今の時代も、その辺の公園にサボテンなんかは植わっていないぞ、危ないからな。子供が触って怪我でもしたら大変だから、って所だろうが…。
 それにサボテンは寒さに弱いし、公園に植えたら冬の間は特別な世話が要るだろう。囲いをして霜や雪から守ってやらんと…。それだけの手間をかけた挙句に、子供が怪我しちゃ話にならん。
 つまりだ、今の時代でもサボテンってヤツは、役に立つどころか手間だけかかって…。
 いや、待てよ…?
 役に立つどころか手間だけと来たか…。



 ちょっと待ってくれ、と眉間を指でトントンと叩いているハーレイ。
 そうすれば記憶が戻るかのように、まるで魔法の仕草のように。「サボテンなあ…」と呟いて。
「…サボテンには色々と種類があって、だ…」
 同じサボテンとはとても思えん姿形のが山のようにあって、大きさだって色々で…。
 中には食えたり、薬になったり、人間様の役に立つものも…って、そうだ、思い出したぞ!
 シャングリラにサボテンはあったようだぞ、お前の勘違いでも記憶違いでもなくて。
「ホント?」
 何か役に立つサボテンがあったの、あの船に?
 ぼくはすっかり忘れているけど、ぼくもそのサボテンのお世話になってた…?
「いや、違う。お前がサボテンの世話になるどころか…」
 逆だ、逆。シャングリラにあったサボテンは、全く逆のサボテンだった。
「えっ?」
 逆っていうのはどういう意味なの、いったいどんなサボテンだったの?
「文字通りに逆っていうことだ。人間様の役には立たない」
 前の俺たちにも、船で飼ってた動物たちにも、まるで役に立たない、ただのサボテン。
 世話されるばかりで、恩返しは一度もしなかった。
 役立たずの極め付けってヤツだな、あのシャングリラにあったこと自体が奇跡のような。
 普通だったら「これは駄目だ」と放り出されて終わりだったぞ、あのサボテンは。
 シャングリラの中には、役に立たないものなど一つも無かったからな。
 前のお前が「青い鳥を飼いたい」と言っても、却下されたのがシャングリラだ。
 だが、あの役立たずのサボテンはのうのうと乗っていたんだ、何もしないでドッカリとな。



 ヤツが来たのはまさに偶然というヤツで…、とハーレイが浮かべた苦笑い。
「前のお前が奪った物資の中にだ、コッソリ紛れていやがったんだ」
 覚えていないか、ヤツがシャングリラに来た時のこと。
 このくらいのサボテンが植わった鉢が混ざっていただろうが、と手で示された小さな球形。
 本当に小さな、直径三センチほどの丸い形をハーレイが指で作っているから。
「そうだっけ…?」
 丸いサボテンみたいだけれども、そんなの、シャングリラにあったかなあ…?
 ぼくは全然覚えていないよ、サボテンが物資に混ざってたことも。
「そうだろうなあ、その様子じゃな。すっかり忘れてしまったようだが…」
 ヒルマンの金鯱と言えば分かるか、あのサボテン。
「ああ…!」
 思い出したよ、あったね、金鯱!
 ヒルマンが育てていたんだっけね、何の役にも立たないサボテンだったけど…!



 シャングリラが白い鯨になるよりも昔、前の自分が物資を奪って、それで生活していた頃。
 ある時、人類の輸送船から失敬して来たコンテナの中に、何故か混ざっていたサボテンの鉢。
 さっきハーレイが手で作ったような小さなサボテンが植えられた鉢が一個だけ。
 どう見ても船の役には立ちそうにない上、小さいながらも鋭い棘を纏ったサボテン。廃棄処分にするしかない、と捨てる方へと選り分けられた。それがシャングリラの鉄則だから。役に立たないものは廃棄し、そうでないものは出番が来るまで倉庫で保管、と。
 ところが、サボテンが混ざっていたと聞き付けたヒルマンが鉢を検分しにやって来たことから、ガラリと変わったサボテンの運命。
 ヒルマンはサボテンを矯めつ眇めつ調べた末に、前の自分たちを招集した。キャプテンは当然、ゼルにブラウにエラといった面々。誰もがまだまだ若かったけれど。
 シャングリラでの決定権を持つ者たちを集めて、サボテンの鉢を指差したヒルマン。テーブルに置かれた小さな鉢を。
「このサボテンだがね…。廃棄処分に決まったようだが、かまわないのなら…」
 私が育ててみたいのだがね。…何の役にも立たないことは承知なのだが。
「育てるって、また…。なんでだい?」
 今、役に立たないって言わなかったかい?
 なんだってそんなものを育てようって言うのさ、エネルギーと時間の無駄じゃないか。



 分からないねえ、とブラウが頭を振って、前の自分たちも頷いた。役に立たない上に棘だらけのサボテン、それを育てて何になるのか、と。
「これは大きくなるらしいのだよ、今はまだ小さいサボテンだがね」
 ほんの子供だ、赤ん坊と言ってもいいくらいの年の頃だろう。育てばもっと大きくなるそうだ。直径が一メートルになると言うから、いやはや、この姿からは想像もつかない大きさで…。
 そこまで育とうというサボテンだけに、花が咲くのは三十年後だということだよ。
「三十年だって?」
 ちょいとお待ちよ、三十年って、十年の三倍の三十年かい?
 そんなに経たないと花が咲かない赤ん坊なのかい、このおチビさんは…?
 ブラウが思わず「おチビさん」と呼んでしまったくらいに小さなサボテン。三十年後までは花が咲かないらしいサボテン。
 誰もが唖然としたのだけれども、それがサボテンの正体だった。二百年とも言われる長い寿命を持ったサボテン、金鯱という名前があるらしい。
「この金鯱は人類の世界で人気だそうだよ、ただし問題は寿命の長さだ」
 花が咲くまでに三十年だけに、どのくらい経てば花を見られるかを考えてもみたまえ。
 いいかね、今から育てて三十年もかかるのだよ…?
「…教育ステーションを卒業してから、直ぐに育て始めても長そうだねえ…」
 大負けに負けて、ステーション時代に育て始めたと勘定しても…、と考え込んだブラウ。
 その金鯱の鉢を抱えて社会に出てから二十六年、そんなに経たないと花は無理か、と。
 養父母になるコースに進んだのなら、最初の子供が成人検査を受けて旅立った後になるね、と。
「えらく気の長い話だな、おい」
 最初の子供は、いつまで経っても花の咲かないサボテンを見ながら育つわけか、と呆れたゼル。
 次に来た子供も成人検査を受ける二年ほど前まで花を見られそうもないじゃないか、と。



 サボテンの金鯱は花が咲くまでに三十年かかるもの。ブラウが計算していた通りに、成人検査を受けた直後から育て始めても、社会に出てから二十六年が経つまで花は咲かない。
 養父母になるなら、二人目の子供が成人検査を受けて巣立ってゆく二年前まで咲かない花。先の子供は花が咲くことさえ知らないままで旅立つことになるだろう。
 養父母になってから金鯱を育て始めたのなら、二人目の子供も花が咲くのを見られない。子供は十四歳で成人検査を受けるものだし、二人育てても二十八年、三十年には足りないから。
 そういう平凡な人生を歩む者たちと違って、地位のある者。高い地位と収入を得ている者なら、高価な金額をポンと支払い、直ぐに花の咲く金鯱の立派な鉢を買えるシステムらしいけれども。
「へえ…。メンバーズ様の御用達かい、このサボテンは?」
 これは一般人向けらしいけどね、とブラウが鉢を顎でしゃくった。
 もっと育って立派になったら、メンバーズ様が高い値段でお買い上げになるのかい、と。
「そんな所だろう。直ぐに花が咲く金鯱を買えるとなったら、そういう人種になるだろうね」
 メンバーズ・エリートだの、元老だのという社会を牛耳る連中だけの特権だよ。
 だから育ててみたいわけだよ、幸い、時間はたっぷりとあるし…。
 寿命の長いミュウの船には、ピッタリの植物だと思わないかね?
 三十年は人類にとっては人生の三分の一になってしまうが、我々はそうではないのだから。
「いいねえ、ちょいと偉くなった気分になれるよ」
 今はチビでも、いずれはメンバーズ様がお買い上げになるような立派な姿になるんだし…。
 そんな御大層なサボテンってヤツが、あたしたちの船にあるっていうのも素敵じゃないか。
 育ててみよう、とブラウが賛成、ゼルも「俺も賛成だな」と手を挙げた。役に立たなくても実に愉快な話だから、と。
 前の自分も、ハーレイも、エラも異存は無かった。
 ごくごく少数の人類のエリート、彼らだけが直ぐに花が咲くのを見られるサボテン。他の者なら三十年も待たないと花を見られないサボテン、それを育てるのも一興だろうと。
 ミュウにとっては、三十年は大したものではないのだから。十年の三倍に過ぎないのだから。



 そうしてシャングリラで育てることに決まった小さなサボテン。ほんの赤ん坊だった頃の金鯱。
 ヒルマンが正体に気付いたお蔭で、廃棄処分を免れた。宇宙に捨てられてゴミになる代わりに、船の中に居場所を得ることが出来た。何の役にも立たないけれども、花さえ咲かないのだけれど。三十年が経たない限りは、ただの棘だらけの丸いサボテン。
 そのサボテンの鉢をヒルマンがせっせと世話していた。白い鯨になる前の船で。
「…シャングリラを改造しようって話が出始めた頃だぞ、花が咲いたのは」
 ヒルマンがサボテンを育て始めた時には、誰も想像さえしなかったがなあ、改造だなんて。
 …それだけの技術を前の俺たちが手に出来るなんて、夢にも思っていなかった頃だ。いつまでもあの船で宇宙を旅していくんだろうと信じていたがな、前の俺でさえも。
「うん、ぼくだって…」
 ずっとあの船で、修理をしながら旅をするんだと思ってた。前のぼくが物資を奪いながら。
 自給自足で生きていける船なんて、考えてさえもいなかったよ。白い鯨の欠片さえもね。
 …だけど、あのサボテンの花が咲いた頃には、そういう話になっていたんだよ。
 三十年なんて大したことはないって思って育てていたけど、そういう意味では凄かったかも…。
 とんでもない長い年数をかけて育って、やっと花が咲いたあのサボテン。
 シャングリラがすっかり生まれ変わるような話が出て来る頃まで、花を咲かせずにいたなんて。
「まったくだ。気が長いにも程があるってな」
 ほんのこれくらいだったのに、花が咲く頃にはデカく育っていたからなあ…。
 ついでに、花が咲くようになっても、まだまだ育つと来たもんだ。
「そうだったよね…」
 ヒルマンが言った通りにぐんぐん育っていったんだっけ。
 育つスピードは遅かったけれど、人類だったら、育ち切るより前に寿命が尽きただろうけど。



 寿命は二百年ともヒルマンが話していた金鯱。直径一メートルくらいに育つのだとも。
 予言通りに、それは大きく育ったのだった、あのサボテンは。
 サボテンの鉢を手に入れたシャングリラの改造が無事に終わって、白い鯨になった後にも…。
「まだ育っている最中だったっけね、サボテンは…」
 寿命が尽きる気配さえ無くて、少しずつ大きくなっていって。
「逞しく生きてやがったなあ…」
 最初の姿はこんなのだった、と言っても信じて貰えないくらいにデカくなっちまって。
 あいつ専用の場所まで貰って、次の代まで育てられていて…。
 ヒルマンの世話が上手かったんだろうな、あんなにでっかく育ったってことは。
 人類のお偉方だって、これほど立派な金鯱を持っちゃいないだろう、と思って見ていたもんだ。
 パルテノンの庭にはあったかもしれんが、個人じゃとても持てなかっただろう。
 自分の寿命が尽きてしまって、世話するどころじゃなくなるからな。
 …今と違って血の繋がった家族はいないし、代々、受け継いでいくのは無理なんだから。
「そうだよね…。後継者に譲る、っていう発想は無さそうだし…」
 人類は自分のことだけしか考えていない種族だったし、次の誰かに譲りはしないね。
 そうするくらいなら捨ててしまえとか言い出しそうだよ、自分が死んだら処分しろ、って。
「如何にもありそうな話だな。…寄付すらしそうになさそうだな、うん」
 これがミュウなら、次の世代のためにと残しておくものなんだが…。
 次の世代の金鯱を育てていたっていうのも、そのためなんだが、人類だとな…。
 自分が死んだら墓場まで持って行きそうだよなあ、実際の所はどうなっていたのか知らないが。
 「処分しろ」と遺言を遺したとしても、マザー・システムが回収させた可能性もある。なにしろ高価なサボテンだしなあ、処分よりかは高く売り付けた方がいいかもしれん。
 …マザー・システムがどう考えていたか、俺は知りたいとも思わんが…。
 人類が遺した遺言でさえも、機械が勝手に踏みにじっていたとは考えたくもないし、知りたくもないな。…いくら人類でも、同じ人間には違いない。
 そいつらが愛した金鯱をマザー・システムが掻っ攫っては、利用していたとしたら腹が立つ。
 死んじまったからもういいだろう、と遺言も無視して売っていたとかな。



 本当に考えたくもない、とハーレイが呻くように呟く通り。
 マザー・システムならやりかねなかった、人類の遺言を握り潰して、遺産を奪ってしまうこと。恐らく本当にやっていたただろう、金鯱だけのことに限らず。
 養父母として生きた人類のささやかな財産も、権力者たちの財産も。
 次の世代など存在しなかったのが人類の社会なのだし、何もかも奪われていったのだろう。その持ち主の命が尽きれば、マザー・システムに。高価な金鯱も、ささやかな物も。
 シャングリラに乗っていた金鯱は仲間たちに愛され、次の世代までが育てられていたけれど。
 最初の金鯱がいなくなった後も、次の金鯱が立派に育って後を継げるようにと。
 多分、幸運だった金鯱。
 シャングリラに連れて来られた時こそ廃棄処分の危機だったけれど、その後は持ち主がコロコロ変わりもしないで育っていった。
 前の自分が生きていた間も、その後もずっと世話をしていた係はヒルマン。
 地球でヒルマンが命尽きるまで、金鯱の世話は最初に金鯱を育て始めた人物のまま。金鯱の方が先に寿命が尽きてしまって、ヒルマンが地球で死んだ時には、二代目が船にいたのだから。
 人間が全てミュウになった今の時代なら、そういう金鯱も珍しいことはないけれど。あの時代に生きた金鯱の中では、同じ人間が最後まで世話した唯一の金鯱だっただろう。
 シャングリラの他にはミュウの船は無くて、金鯱は人類のものだったから。二百年も生きる金鯱よりも遥かに寿命の短い、人類の時代だったのだから。
 それを思うと、愛おしい金鯱。
 すっかり忘れてしまっていたけれど、シャングリラにあった丸いサボテン。



「ねえ、ハーレイ。…あれって、名前はあったんだっけ?」
 金鯱っていう名前じゃなくって、あのサボテンだけについてた名前。
 ぼくがブルーとか、ハーレイがハーレイって名前みたいに、あれにも何か。
「いや、ヒルマンは金鯱とだけ…」
 でなきゃサボテンだな、それで充分通じたからなあ、アレしか無かったんだから。
 シャングリラには他のサボテンは乗っていなくて、あの金鯱と跡継ぎが乗っていただけだ。
 わざわざ名前を付けるまでもないし、金鯱かサボテンとしか聞いていないが…。
 しかし名前はあったかもなあ、俺が聞いてはいなかっただけで。
 船の仲間たちが自分で好きな名前を付けては、そいつで呼んでいたかもしれん。ペット感覚で、名付けた仲間の数だけ名前があったとしても俺は驚かないぞ。
「その可能性もあるかもね。…ヒルマンだって、本当は名前を付けていたかも…」
 ハーレイは何か名前を付けた?
 前のぼくは名前を付けてないけど、前のハーレイは名前を付けてあげたの、あの金鯱に?
「名付けていたなら覚えているさ。あの船にサボテンがあったことをな」
 …忘れちまっていたとしてもだ、お前にサボテンと訊かれた途端にアレだと思い出しただろう。前の俺が名前を付けてたヤツだと、その名前ごとな。
「そっか…」
 ハーレイも名前は付けてないんだね、あの金鯱はずうっと船にいたのに。
 シャングリラが改造されるよりも前から船に乗ってて、大きく育って花を咲かせて、代替わりもしたサボテンなのに…。
 ちょっと残念、名前があったなら知りたかったな。ヒルマンが付けてた名前でもいいし、仲間の誰かがコッソリ呼んでた名前でも。
 …長いこと一緒にいたサボテンなんだもの、名前を付ければ良かったかな、ぼくも。



 今となっては、名前があったかどうかも分からないサボテン。ヒルマンが世話をしていた金鯱。
 ミュウの船ならではの気長なペットのような植物だった。何の役にも立たなかったけれど、花が咲くまで三十年もかかったという代物だったのだけれど。
「…ハーレイ、あのサボテンはトォニィの時代もあったかな?」
 ちゃんと二代目から三代目に変わって乗っていたかな、シャングリラに…?
「多分な。なんでサボテンなんだ、と言われながらも乗ってただろうな」
 そもそも、ジョミーもアレの由来を知ってたかどうか…。
 俺は話した覚えなんか無いし、ヒルマンがジョミーに言ったかどうかも分からんし…。
 ジョミーの代で既に謎だったかもな、あのサボテンがどういう理由でシャングリラに来ることになったのか。廃棄処分にされる所を救われたとは思っていなかったかもな、ジョミーもな。
 なんたって、ジョミーが船に来た時には、二代目になっていたんだから。
「そういえば…。ジョミーが来た時には、とっくに二代目…」
 最初の金鯱はいなくなってて、二代目が育ってたんだっけ…。それと跡継ぎの三代目と。
 それじゃジョミーは知らなかったかもね、一代目が船に来た理由。
 シャングリラにはサボテンも乗ってるんだ、って思っておしまいだったかも…。
 どうしてサボテンが乗っかってたのか、不思議にも思わないままで。



 シャングリラが白い鯨になるよりも前から、役立たずなのに乗っていたサボテン。捨てられずに堂々と船に居座り、代替わりまでした丸いサボテン。
 あの金鯱もきっと、他の木たちと一緒に引越したのだろう。白いシャングリラが解体される時、アルテメシアか他の何処かの惑星に。
 アルテメシアに行ったとしたなら、今もシャングリラの森の何処かにいるかもしれない。大きく育った丸いサボテンが、もう何代目か数えられないほどに代替わりをした金鯱が。
「…金鯱、今も人気なの?」
 もうメンバーズとか、元老とかはいないけど…。今でも金鯱、人気なのかな?
「人気らしいぞ、ミュウと同じで長生きだからな」
 二百年ほど生きるわけだし、並みのペットより一緒にいられる期間が長い。
 花を咲かせる楽しみもあるし、デカく育つのも見ていられるし…。
 育てている人は多いらしいぞ、いわゆるサボテン愛好家だな。
 俺たちもまた育ててみてもいいかもしれんな、前の俺たちが育て始めたくらいのヤツから。
 今度は名前も付けてやってだ、デカくなるまでちゃんと世話して。
「いいかもね。…かなり大きくなっちゃうんだけど」
 家の中に置いたら凄いことになってしまいそうだけど、大きくなったら庭に置く…?
 雪とかが降っても大丈夫なように、ちゃんと温室を作ってやって。
「そいつもいいなあ、リビングにデカイ金鯱がいるのも面白いがな」
 ギリギリまでリビングでデカくしてから外に出すかな、運び出すのも大変そうだが…。
 今のお前じゃ瞬間移動でヒョイと運べやしないし、俺が抱えて運んで行くしかなさそうだがな。



 人間が全てミュウになった今は、誰でも気軽に育てて大きく出来るサボテン。丸い金鯱。
 花が咲くまでの三十年はミュウの世界では長くはないから。
 メンバーズも元老院もマザー・システムも消えて、ミュウの時代になったから。
 金鯱は高価なサボテンではなくて、愛好家が好きに育てているもの。花を咲かせて楽しむもの。
 そういう時代に生まれ変わって、青い地球の上でハーレイと一緒に生きてゆく。
 今度も前の自分たちのように、サボテンを育ててみるのもいい。
 小さな金鯱の鉢を買って来て、こんなに大きく育てられたと、そろそろ花が咲きそうだと。
 前のように大きく育ってしまったら、ハーレイが苦労しそうだけれど。
 「こんなにデカイのを俺が運ぶのか」と、温室まで抱えてゆく羽目になっていそうだけれど。
 けれども、それも平和の証。青い地球に二人で来られたからこそ、金鯱を運ぶことになる。
 だから自分も鉢を運ぶのを手伝おう。ハーレイと一緒に抱えてゆこう。
 「落とさないでよ」と声を掛けたら、「落とすなよ?」と返りそうな声。
 ハーレイと二人で大きな金鯱の鉢を抱えて、庭の温室まで笑い合いながらの引っ越し作業。
 青い地球の上で、今度はハーレイと一緒に育てた金鯱の鉢を抱え上げて…。




              船とサボテン・了

※役に立たない植物などは無かった船がシャングリラ。それなのに育てられていたサボテン。
 廃棄処分を免れてまで、改造前からずっと船にいた立派な金鯱。ミュウの箱舟ならではの話。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












「クシャン!」
 学校から帰って部屋に入った途端に、クシャミが一つ。立て続けには出なくて、一回きり。
 制服を脱いで着替える間も、クシャミは一度も出なかったけれど。
(…風邪引いちゃった?)
 ちょっと心配、とブルーは壁の鏡を覗いてみた。大きく口を開けて。喉は赤くないし、今の所は痛みも痒いような違和感も無い。風邪の兆候か、ただのクシャミか、難しい所。
 風邪を引いていたクラスメイトは誰もいなかったし、バスの中にもいなかったと思う。けれども少し心配ではある、クシャミがたった一回きりでも。
(…本物の風邪だと、これからクシャミ…)
 それに始まって喉が痛み出して、その内に熱も。そうなったらもう、寝込むしかなくて。
 前と同じに虚弱に生まれた身体は無理が利かないのだから、欠席するしかない学校。ハーレイが教師をしている学校。ハーレイに会えるチャンスを失くしてしまう欠席。
(風邪を引いちゃったら、ホントに大変…)
 クシャミの間に治さなければ、と決心した。風邪でなくても何かのはずみにクシャミは出たりもするけれど。そういうクシャミだと油断していて、本物の風邪にはなりたくないから。



 帰ったら食べに行くおやつ。階段を下りて、ダイニングまで。覗いてみたら、ちゃんとケーキがあったけれども、その前に風邪を退治しようと向かったキッチン。
(金柑…)
 貯蔵用の棚に置いてある瓶。ハーレイの母が作った金柑の甘煮がビッシリ詰まっている。隣町に住むハーレイの両親の家の庭で実る金柑、それをハーレイの母がコトコト煮込んだ甘煮。
 風邪の予防にいいのだから、とハーレイが持って来てくれた。夏ミカンのマーマレードは両親も食べているのだけれども、金柑の甘煮はブルー専用。両親はつまんだりしない。
 その瓶を開けて、金色の実をスプーンで掬って小皿へと。
(三つくらいかな…?)
 クシャミは一回きりだったのだし、一粒でいい気もするけれど。二粒で充分効きそうだけれど、念のために三つ。金柑の甘煮が減って来たなら、またハーレイがくれるのだから。
(そっちの方がお得だよね?)
 前に大事にし過ぎて食べなかったら引いた風邪。ハーレイに「馬鹿」と叱られた。金柑の甘煮は毎年沢山作るのだから、いくらでも持って来てやると。それなら食べて減らした方が…。
(また貰えるんだよ、金柑の甘煮)
 ハーレイの両親からのプレゼントを。自分のことを「新しい子供が一人増えた」と喜んでくれた優しい人たちからの贈り物を。ハーレイの両親は、いつか自分たちが結婚すると知っているから。



 甘いけれども、ほろ苦い金柑の甘煮。一粒ずつ口に運んで噛み締め、味わって食べた。ついでに甘煮が浸かったシロップ、それもスプーンに一杯分を掬って湯呑みに。
(お湯で薄めて…)
 飲めば効くのだとハーレイに聞いた。金柑のエキスがたっぷり溶け込んだシロップだから。薬を薄めて飲むようなもので、ハーレイの両親はもっと簡単な方法で作っているらしい。
(金柑入りの薬缶って言った…?)
 専用の小さな薬缶に金柑の実を幾つか入れて、砂糖を加えて煮ておくだけ。溶け出したエキスをお茶の代わりに飲むのだという。
(こんな味かな?)
 同じ味だと嬉しいんだけどな、と薄めたシロップを飲んでいた所へ入って来た母。
「あら、金柑のシロップ、飲んでるの?」
 金柑もちゃんと食べたみたいね、幾つ食べたの?
「三つ…。さっきクシャミが出ちゃったから」
 だけどクシャミは一回だけだよ、風邪じゃないとは思うけど…。念のために、って。
「いい心掛けだと思うわよ。用心するのが大切なんだし」
 やっと風邪を引くのに懲りたかしら、と母は可笑しそうにクスクスと笑った。
 おやつを食べに来ないと思ったら、おやつの前に金柑だなんて、と。



(バレちゃってるよ…)
 金柑の甘煮を大事にし過ぎていちゃったこと、とダイニングのテーブルでついた溜息。ケーキを食べながら、さっきの母の顔を思い返して。
 ハーレイに金柑の甘煮を貰ったまではいいのだけれども、食べずに何度か引いてしまった風邪。ほんの少しの喉の痛みで食べるのは惜しいと取っておいたり、重ねた失敗。
 風邪を引く度、「ちゃんと食べろと言っただろうが」とハーレイに叱られたり、睨まれたり。
 予防のためにと渡してあるのに、どうしてお前は食べないのかと。
(でも…)
 金柑が減るのが惜しかったことも大きいけれども、寝込んでしまったらハーレイの野菜スープが飲めるから。前の自分が好きだったスープ、それを作って貰えるから。
 まるっきり損だというわけではない、学校で会えなくなるというだけ。教師としてのハーレイに会えない、それだけのこと。大抵の時は、ハーレイはスープを作りに来てくれるから。
(…学校で会えないのは、惜しいんだけど…)
 ハーレイの授業がある日だったら、手を挙げれば当てて貰えたりする。教師と生徒でも、会話は会話。質問に答えるだけであっても、ハーレイと一対一で話せる。楽しい雑談もきっと聞けるし、魅力的なハーレイの古典の授業。
 それが無い日でも、何処かで会える。チラリと姿を見掛けるだけでも、挨拶だけでも。
 運が良ければ立ち話を少し、昼休みなどに。もっと運が良ければ、柔道着のハーレイとバッタリ出会えたりする、朝に登校した時に。
 学校に行ったら会えるハーレイ、学校でしか会えない教師のハーレイ。
 そういう姿も大好きだったし、「ハーレイ先生」に会える学校は貴重な場所なのだけれど…。



 学校もいい、と分かっていたって、ハーレイが作る野菜スープが飲みたくなる。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだスープ。素朴で優しい、滋味深いスープ。今ではお洒落に「野菜スープのシャングリラ風」などと呼ばれているそれ。
 あの味が欲しくて、たまに引きたくなってしまう風邪。
 金柑の甘煮もパクパク食べるには惜しい気がして、やっぱり大事にしてしまう。風邪の予防にと毎日食べるなど、とんでもない。いざという時にだけ食べれば充分。
(だけどハーレイにはバレちゃってるし…)
 金柑の甘煮を惜しがることも、スープが欲しいと機会を狙っていることも。
 風邪を引いたら「またか」と叱られるに決まっているから、今日は早めに食べた金柑。ちゃんとシロップも飲んでおいたし、きっと効き目があることだろう。
(金柑、三つも食べたんだから…)
 風邪は退散、とケーキをパクリと頬張った。ケーキで栄養も可笑しいけれども、エネルギーにはなる筈だから。金柑で風邪をきちんと治して、ケーキで栄養補給なんだよ、と。



 おやつを食べ終えて、戻った部屋。入ってもクシャミは出なかった。
(うん、平気かな?)
 学校から戻って直ぐのクシャミだけ、あれっきりクシャミはしていない。おやつの間も、部屋に戻っても出て来ないクシャミ。
 たまたまクシャンと出ただけだったか、風邪の兆候だったのか。分からないけれど、クシャミが何度も出ないからには風邪を引いてはいないのだろう。引きかけていても治った風邪。ハーレイの母が作った金柑の甘煮を食べたお蔭で。
 もう大丈夫、と本を読んでいたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれたから、自慢した。風邪だったかもしれないけれども、もう治ったと。
「ちゃんと金柑、食べたんだよ。クシャミは一回だけだったけれど、三つもね」
 シロップも薄めて飲んでおいたよ、だからクシャミは出てないし…。
 いつもハーレイに叱られてるから、今日は早めに食べておいたよ。
「そいつは素晴らしい心掛けだな」
 風邪は引き始めが肝心だからな、引いたかもしれん、と思った時には金柑だ。
「でしょ?」
 怪しいな、って思ったから…。ただのクシャミってこともあるけど、用心しないと…。
 風邪を引いちゃったら、また学校を休んじゃうことになっちゃうもの。



 金柑の甘煮を惜しがらずに食べたことを、ハーレイは「偉いぞ」と褒めてくれたから。
 「いつもその調子だといいんだがな」と頭をクシャリと撫でてくれたから、嬉しくなった。
(…食べて良かった…)
 こうしていても、やはり出ないクシャミ。風邪は本当にすっかり治ってくれたのだろう。早めに食べて正解だった、と金柑の味を思い出す。食べるお薬、と。甘いけれども、ほろ苦い甘煮。
 その金柑をくれたハーレイと楽しく話している途中で気が付いた。
(あれ…?)
 前に風邪を引いた時、ハーレイが作ってくれた風邪引きスペシャル。白いシャングリラの頃にはそういう名前は無かったけれども、野菜スープにとろみをつけて溶いた卵を入れたもの。
 前の自分も馴染んでいた味、喉が痛い時には作って貰った。卵が貴重だった頃から。自給自足の生活を始めて、鶏の卵がまだ充分には無かった頃から。「ソルジャーだから」と卵を一個。
 それはともかく、「俺のおふくろの風邪引きスペシャルなんだ」と出て来たお粥。鶏のささみと白ネギにニンニク、生姜も入った優しい味。鶏のスープでコトコトと炊いた、ハーレイの母の風邪引きスペシャル。
 ハーレイの母がそういうレシピを持っているからには、ハーレイも風邪を引くわけで…。
 そうでなければ、風邪引きスペシャルはきっと存在しないだろう。作る必要が無いのだから。
 けれど、丈夫に見えるハーレイ。風邪などは縁が無さそうだから。
(…なんで風邪引きスペシャルなわけ…?)
 風邪を引きやすい自分ならばともかく、と質問してみることにした。まずは風邪から、と。



「えーっと…。ハーレイは風邪は引かないの?」
 風邪を引いたって言ってたことは無いけど、ぼくと違って風邪は引かない…?
「引かないが?」
 見れば分かるだろう、風邪を引きそうに見えるのか、俺が?
 日頃からきちんと鍛えているんだ、酷い風邪が流行っているような時でも、まず引かないな。
「…でも、ハーレイのお母さんの風邪引きスペシャル…」
 そう言ってお粥を作ってくれたよ、ぼくが風邪を引いてしまった時に。
 鶏のささみが入ったヤツだよ、ハーレイのお母さんの風邪引きスペシャル。それがあるんだし、ハーレイも風邪を引いてたのかと思ったんだけど…。
「なんだ、そいつか。…それはまあ…。ガキの頃には無茶もするしな」
 風邪だって引くさ、いくら頑丈に出来ていたって。物事には限度ってヤツがあるんだ。
「無茶って…。ハーレイ、子供の頃から鍛えてたんでしょ?」
 柔道も水泳もやってた筈だよ、それなのに風邪を引いちゃったの?
「引いちまったな、冬の最中に川に入った時のが一番酷かったか…」
 鍛えるために入ったんなら、心構えが出来ているから引かないが…。上がった時にも、ちゃんと着替えを用意してあるし、大丈夫なんだが…。
 聞いたことはないか、寒稽古ってヤツを。冬の寒い時期に川に入るってヤツだな、武道で。
 水泳の方でも寒中水泳っていうのがあるだろ、ああいうのなら俺もやってたが…。
「冬に川って…。泳いだりもするって、聞いたことならあるけれど…」
 それをやっても平気なハーレイが、なんで風邪を引くの?
 おんなじように川に入っただけでしょ、ハーレイ、いったい何をやったの…?



 聞いただけでも風邪を引きそうな寒稽古だの、寒中水泳だの。そういったもので鍛えていたのにハーレイは風邪を引いたと言うから、興味津々で尋ねてみたら。
「…笑うなよ? 本当に無茶の極みって言うか、馬鹿としか言いようのない話だからな」
 親父と一緒に釣りに行ったんだ、冬の川にな。雪がちらつくような日だったんだが…。
 俺は魚がまるで釣れなくて、ふと覗き込んだら魚はいるんだ、デカイ鯉とかが。
 網で掬ったら獲れるだろうな、と網を持って川に入ってだな…。もちろん最初は浅い所だ、靴を脱いでズボンの裾をまくって入れる程度の。
 ところが魚は逃げるわけでだ、そいつを夢中で追い掛けていて…。気が付いたら首まで浸かっていたのさ、魚を待ち構えようと川の中にドッカリ座り込んで。
「座ってたって…。冷たい川に首まで浸かって?」
「魚の動きをしっかり見るなら、その方がいいと思ったんだよなあ…」
 それで掬おうとしたわけなんだが、親父の雷が落ちたってな。何をしてるんだ、と。
 直ぐに上がれと叱られたものの、着替えなんかは持っちゃいないし…。服はビショ濡れで冷たいだけだし、風邪を引くしかないだろうが。
 親父の上着を着せて貰っても、俺のズボンとかは何処にも無いんだから。



 濡れ鼠になったハーレイは三日間ほど寝込んだらしい。ハーレイの父が家へと急いだ車の暖房も役に立たなくて、身体がすっかり凍えてしまって。
「ハーレイ、凄すぎ…。それでも三日で起きられるなんて」
 たったそれだけで、酷い風邪が治ってしまったなんて。
「そうか? 単に冷えちまっただけだしなあ…」
 熱さえ下がれば、どうってことは…。こじれちまったら大変だったろうが。
「ぼくなら何日も寝込んじゃうよ! 三日じゃ、とっても起きられないよ!」
 一週間で済めばいいけど、二週間くらいは寝ていそう…。
 その前に川には入らないけど。冬の寒い時に川に入るなんて、足だけでも風邪を引いちゃうよ。
「まあ、そうだろうな。お前だったら」
 しかしだな…。足を浸けただけで風邪を引きそうなヤツは、お前くらいなものじゃないか?
 ガキってヤツは丈夫なもんだぞ、お前の友達はどうなんだ。
 その程度で風邪を引きそうな感じか、と尋ねられてみれば、自分の周りにも頑丈な身体の友達。
 真冬でも薄着をしている友人もいれば、真冬の川に自転車ごと落ちたと笑っていた友人。怪我はしたけれど、風邪など引いてはいなかった。怪我だってほんの掠り傷で。
「…ホントだ、みんな丈夫だね…」
 自転車ごと川に落ちた子だって、風邪は引いてないよ。浅い川だけど…。
 でも、濡れたのは濡れたんだろうし、ぼくだったら、やっぱり風邪を引くと思う…。
「お前が弱いというだけのことだ、ガキは本来、丈夫なもんだ」
 多少の無茶なら風邪など引かんし、「子供は風の子」と言うだろうが。
 お前が昔と変わらないだけだ、前のお前だった頃とそっくり同じに弱い身体で。
 もっとも、耳は普通に聞こえてるんだし、お前の身体も前よりは立派になってるわけだが…。



 ミュウも丈夫になったもんだぞ、と笑みを浮かべているハーレイ。
 前の俺たちが生きた頃とはまるで違って、と。
「…そうだっけ?」
 医学が進んだってだけのことじゃないの、今の時代ならリオだって喋れるようになるんだよ?
 ヒルマンの腕だって、今は本物の自分の腕を作って貰えるんだし…。
 だから丈夫に見えるだけじゃないの、病気だって簡単に治せるものね。
「医学の進歩ってヤツは認めるが…。それだけじゃないぞ」
 考えてみろよ、シャングリラの中はどうだった?
 あの船に風邪はあったのか、うん…?
「風邪は…。ぼくも引いてたし、普通にあったよ」
 ハーレイの野菜スープに風邪引きスペシャルがあったくらいだもの、風邪はお馴染み。
 酷い感染症とかは無かったけれども、風邪くらいはね。
「ほら見ろ、あの船でさえも引いていたんだ、風邪を」
 お前が普通だと言ってるくらいに風邪を引いてた、それほどにミュウは弱かったんだ。
「えっ? 弱いって…」
 風邪だよ、風邪は今でも普通にあるよ?
 今のハーレイだって子供の頃に引いちゃったんだし、前のぼくたちだって風邪くらい引くよ。
「いいか、前の俺たちが暮らしていたのはシャングリラだぞ?」
 名前の意味でのシャングリラじゃない、あの船の性質を考えてみろ。
 前の俺たちにとってはシャングリラが世界の全てだったし、あの船の外に居場所は無かった。
 何か起こっても避難場所など無かったんだぞ、どういう風にしてたんだっけな…?



 外界からは完全に切り離されていた、とハーレイが指摘する通り。
 新しい仲間の救出に向かった者たちは医療チェックを受けたし、救出に使われた小型艇は消毒。
 それ以外にも、シャングリラの中は定期的に消毒されていた。外の世界から感染症などが入って来ないよう、入ったとしても未然に食い止められるよう。
「そうだったっけね…。神経質なほどにやっていたよね、消毒とかを」
 格納庫なんかは特に厳しくやっていたっけ、外から直接、小型艇が戻って来るんだから。
「分かったか。…あれだけやってりゃ、普通は風邪を引かないぞ」
 前の俺たちの頃はともかく、今の時代なら引きっこないんだ。今の世界はどうなっている?
「んーと…。何処も消毒はしてないね…」
 学校だって、手を洗いましょう、って言われるだけだよ。
 夏休みとかには消毒だってするんだろうけど、毎週とかはやっていないよね…。
「当然だ。それにだ、買い食いだって普通だろうが」
 お前だって友達と遊びに行ったら、公園とか店で何か買っては食べているんだろう?
 渡されたものを、その場で、そのまま。
「うん。手が汚れてたら洗いに行くけど…」
 そうじゃなかったら、そのままだね。ウガイなんかはしてないし…。
「前の俺たちの時代だったら、それだけで風邪を引いてるな」
「そうなの?」
「うむ。風邪のウイルスが口から入って、喉にくっついちまってな」
 間違いなく風邪だ、シャングリラに乗ってた仲間たちなら。元気そうだったゼルやブラウでも。
「そんなに酷いの、今の世界は?」
 風邪のウイルスで一杯だって言うの、シャングリラがあった頃とは違って…?
「外の世界の状況ってヤツは、今でも大して変わらない筈だと思うんだがなあ…」
 酷くなっちまったってことは無いと思うぞ、ことウイルスに関しては。
 ただし根絶してもいないな、それをやったら人間は弱い生き物になってしまうんだから。



 SD体制が敷かれていた時代も、今の時代も。
 人間が弱くなりすぎないよう、この地球も他の惑星なども無菌状態ではないという。酷い疫病は根絶されたけれども、それ以外の菌は残されたまま。風邪のウイルスも。
「それにだ、虫刺されだって普通のことだろうが。家の庭で蚊に刺されたりとか」
 毒を持ってる生き物もいるし、世の中、決して無害ってわけではないってことだ。
「前のぼくたちの頃は、毒のある生き物はいなかったんだっけ?」
「そうらしいなあ、毒キノコも無かったんだしな」
 あの時代だったらキノコは何処でも取り放題で食べ放題だったのに、と言うヤツもいるし…。
 キノコ狩りなんて出来なかったんだがなあ、あの時代にミュウに生まれていたら。
「ふふっ、そうだね。シャングリラに乗れたら運が良かった時代だものね」
「まったくだ。乗れなかったヤツらの方が遥かに多かったんだが、あれから時が経ちすぎたな」
 SD体制の時代にキノコ狩りをしたかった、と言っても頷くヤツらばかりだ。
 その時代に生きたミュウの仲間たちに申し訳ない、と思う時代は過ぎちまったらしい。
 キノコ狩りに出掛けて、毒キノコかどうかと悩む羽目になって、SD体制の頃なら良かった、と寝言を言える平和な時代だ。
 今の俺たちも、その恩恵を蒙って生きてるわけだし、文句を言おうとは思わないがな。



 前の自分たちが生きた時代とは違って、元に戻されている生態系。毒のある生き物も毒キノコも排除されていない世界、毒は自分で気を付けて避けてゆかねばならない。
 それと同じで、ミュウに合わせて消毒してあるわけではない世界。白いシャングリラとは違った世界で、風邪のウイルスは何処にでもあるものらしいから。買い食いで風邪を引くそうだから。
「それじゃ、今のみんなが風邪を引かないのは…」
 前のぼくより丈夫だったゼルやブラウでも引きそうな風邪を、ぼくが引いたりしないのは…。
 風邪のウイルスが少ないからだ、ってわけじゃなくって…。
「ミュウが頑丈に進化したってな」
 前の俺たちの時代みたいに、ミュウと言えば虚弱と決まったものではなくなったんだ。とっくの昔に人類並みに頑丈になって、そう簡単には風邪も引かん、と。
「…ハーレイも?」
 前より丈夫になったわけなの、それで柔道とか水泳なの…?
「俺は元から引いていないぞ、風邪なんて」
 ついでに身体も頑丈だったな、耳以外はな。
 あの時代だから柔道も水泳も今のようには出来なかっただけで、機会さえあれば…。
 仮に成人検査をパスしてたとすれば、水泳の方は今と似たようなものだったかもしれん。
 柔道は無かった時代だからなあ、そっちの腕前は謎なわけだが。



 シャングリラの時代から俺は頑丈だったろうが、と言われてみれば。
 船の中では運動不足になりがちだから、と初めの頃から通路で走ったりしていたハーレイ。白い鯨になった後には水泳だってしていたのだった。そんなハーレイだから、風邪だって…。
「ハーレイ、滅多に引いていなかったっけ…」
 前のぼくは何度も引いていたけど、風邪を引いたハーレイは殆ど知らないかも…。
「引いても鼻風邪程度だったな、寝込むようなヤツを引いてはいない」
 同じ風邪でも、前のお前が引いた時には寝込んでいたが。
 シャングリラの風邪は同じウイルスの筈だからなあ、俺なら鼻風邪で済んだわけだが。
「うん…。おんなじ時期に流行った風邪なら、ウイルスも同じ筈だよね…」
 でも、ハーレイは平気だったんだよ、風邪を引かない時の方が多くて。
 たまに引いても鼻風邪程度で、ぼくの方が遥かに重症で…。
 だから野菜スープを作ってくれたよ、「このくらいは食べて下さい」って。
 喉が痛いよ、って言ってた時には、卵が入った風邪引きスペシャル。
 …ハーレイがスープを作ってくれなきゃ、ぼくはもっと酷い風邪になっていたかも…。
 体力がすっかり落ちてしまって、何も食べられなくなって。
「…そこまで酷くはならんだろう」
 ノルディもいたんだ、そうなる前に注射をするとか、頑張って治療をしただろうさ。
 お前は注射は嫌いだったが、酷い風邪なら押さえ付けてでもブスッとな。
 俺がお前の腕を押さえて、ノルディが問答無用で注射だ。



 風邪でそこまでの悲劇にはならなかった筈だが…、と可笑しそうにしていたハーレイだけれど。
「そういや、お前の鼻風邪もあったな」
 ノルディに注射はされていないが、とんでもないのが。
「鼻風邪?」
「ああ、酷いヤツだ。とびきり酷い鼻風邪だったな」
 どういうわけだか、鼻の症状が最悪だった。いつもだったら喉に出る分が鼻に出たのか…。
 鼻水が酷くて鼻をかみ過ぎて、鼻が真っ赤になっちまって。
「あ…!」
 そうだったっけ、と思わず押さえてしまった鼻。
 前の自分が引いたのだった、そういう風邪を。鼻の症状が酷すぎる風邪を。
 シャングリラの仲間たちに移さないよう、青の間に引っ込んでいたのだけれど…。
「あの時のお前、皆に見せられたモンじゃなかったな」
 自発的に閉じ籠もっていてくれたからなあ、キャプテンとしては有難かったが。
 あんなお前がシャングリラの中を出歩いていたら、俺は即座に捕まえたな。
 「ソルジャーのお仕事は私が代わりますから、どうか青の間にお戻り下さい」とな。
「捕まえるって…。どうしてなの?」
 他のみんなに移すからなの、そうならないように青の間から一歩も出なかったよ?
「移す方もそうだが、お前の顔だ。見せられたものじゃないと言ったろ」
 鼻がすっかり真っ赤なんだぞ、見ただけで誰でも笑い出しちまう。
 その場ではなんとか持ち堪えたとしても、お前の姿が見えなくなった途端に大笑いだな。
「笑うって…。ぼくは病気で…!」
 風邪を引いたんだよ、笑わなくてもいいじゃない…!
 可哀相だと思って欲しいよ、あの鼻風邪はホントに鼻が痛くて辛かったんだし…!



 前の自分が引いた鼻風邪。喉の痛みや熱の代わりに、本当に鼻にだけ出た症状。酷すぎた鼻水と鼻詰まりとで、鼻は真っ赤で、鼻の周りの肌がヒリヒリと痛くて辛くて…。
 その時の顔が可笑しかったとハーレイは笑ってくれるけれども、そんなに酷い顔だったろうか?
「…お前にしてみりゃ、単に自分の鼻が赤かったっていうだけなんだろうが…」
 前のお前はだ、綺麗すぎるほどの顔も含めてソルジャーだったわけだ、美人が売りだ。
 お前にそういう自覚が無くても、船のヤツらは綺麗なお前が長だというのが自慢だったし…。
 ソルジャーの服にしたってそうだろ、前のお前に似合うようにと特別にデザインしてあった。
 そんなお前が鼻だけ真っ赤な顔を見せてみろ、もう間違いなくイメージダウンだ。
 キャプテンとしては避けたい事態だ、ソルジャーはあくまで完璧に、だ。
 …恋人だった俺にしてみりゃ、そういうお前も可愛いとしか思えなかったがな。
「えーっと…。それでノルディが青の間に閉じ込めてた…ってわけじゃないよね?」
 ぼくは最初から出るつもりなんか無かったけれども、「出ないで下さい」って厳しい顔で…。
 鼻風邪だから、動くのは平気で動けたけれども、絶対に出るな、って。
「ノルディの指示は、ただの感染予防策だが?」
 俺がノルディの立場だったとしても、同じように対処していたろうさ。
 いくらソルジャーでも、酷い風邪の患者がウロウロしたんじゃたまらないからな。
 行く先々で移しちまって、シャングリラ中が鼻風邪になったら大惨事なんだ…!

 酷い鼻風邪だった時に限らず、前の自分が風邪を引いたら。
 青の間に入る者たちは全員、感染防止にマスクを着用するものだった。治療にあたるノルディはもちろん、長老の中では丈夫な部類のゼルもブラウも。
 けれど…。



「ハーレイ、マスクしていなかった…」
 一度もマスクをしていなかったよ、前のぼくが酷い風邪を引いても。
 鼻風邪だったら、移っても鼻風邪で済むだろうけど、もっと酷いヤツ。高い熱を出したのとか、声がすっかり出なくなったのとか、他にも一杯…。
 ノルディたちはマスクで来ていたけれども、ハーレイはマスクは無しだったよ。
 マスクなんかしないで青の間に来て、野菜スープも作っていたよ。
「移らない自信があったからな」
 前の俺が一番頑丈だっただろうが、シャングリラでは。
 どんなに酷い風邪が流行った時でも、俺は引かないか、引いても鼻風邪程度だったんだ。
 前のお前は弱かったせいで、他のヤツなら酷くならない風邪でもダウンしちまってたろう?
 お前がダウンする程度の風邪では、前の俺はとても倒せんな。掠りもしないといった所か。
 だからマスクは要らなかったわけだ、俺には移らないんだからな。
 わざわざマスクをする意味も無いし、そうしたいとも思わなかった。
 ただでも病気で弱っているお前を避けるような真似はしたくないじゃないか、マスクをして。
 今のお前には近寄りたくない、と言っているのと同じだしな、マスク。
 それが必要な仲間たちなら、そういう意味にはならないんだが…。
 自分の身体を守るための鎧で、そいつが無ければ危険なんだから着けるしかあるまい。
 しかし、前の俺みたいに頑丈な場合は、お前にウッカリ近付きたくない、ということになる。
 マスクをしなくても移らないのに、「移さないで下さい」とマスクを着けていたんではな。



 第一…、とハーレイが瞑った片目。
 眠る時までマスクなんぞをしていられるか、と。
「前の俺はお前と眠ってたんだぞ、恋人同士になってからはな」
 そうなったら俺のベッドはお前と同じで、お前が風邪を引いてるからってマスクはなあ…。
 あんまりだろうが、それじゃ恋人失格ってもんだ。俺がゼルたち程度に弱くて、風邪を引いたらマズイと言うなら「すまん」とマスクをしてただろうが。…キャプテンだしな。
 キャプテンが風邪で休みとなったら、シャングリラの仲間に迷惑がかかるし、仕方なくマスクもしていただろう。ところが俺は風邪なんか引かない丈夫な身体で、マスクは必要無かったわけだ。
 その点は大いに感謝せんとな、マスク無しでお前の側にいられた。
 お前が風邪で辛い思いをしている時にも、マスクをしないで抱き締めてやれた。一晩中な。
 それにだ、お前に「おやすみ」のキスも要るんだ、こいつはマスクじゃ出来ないってな。
「…キス…」
「してやっただろうが、忘れちまったか?」
 前のお前が鼻だけ真っ赤になってた時にも、風邪でゴホゴホやってた時も。
 …今のお前にはまだ早いキスだ、俺が弱かったら、あのキスで風邪を貰っていたぞ。
「う、うん…」
 引いちゃうだろうね、おやすみのキスは…。
 して貰っていたの、頬っぺたとかおでこじゃなかったものね…。



 今はまだ貰えない、唇へのキス。それがおやすみのキスだった。風邪を引いていても、唇に。
 もっと深いキスを貰ったことも…、と真っ赤になったブルーだけれど。
「安心しろ。今度の俺もマスクは要らん」
 いずれは、お前が風邪を引いちまった時にも、おやすみのキスをしてやるさ。
 だがな、風邪は引かないに越したことはないぞ、辛いのはお前だ。
 野菜スープのシャングリラ風を作って欲しいという気持ちは分かるが、わざと引くなよ?
「うん、分かってる…」
 ちゃんと金柑で予防するよ、と答えたけれど。
 今日のクシャミを運んで来たかもしれない風邪は、金柑の甘煮で退治出来たけれど。
 いつかハーレイと結婚したなら、風邪を防がずに引いてみようか、金柑の甘煮を食べないで。
 マスク無しでも風邪を引かないハーレイ、頼もしい姿をまた見たいから。
 「俺は平気だ」と抱き締めてくれて、おやすみのキスまでくれるハーレイ。
 前と同じに頑丈な身体の恋人のキスが、強い腕が欲しいと欲が出る。
 ハーレイはきっと、優しいから。
 風邪を引いた自分を叱りはしなくて、野菜スープのシャングリラ風もきっと作ってくれるから。
 たまには引いてみたい風邪。
 ハーレイと二人で暮らせるようになったら、おやすみのキスが貰えるようになったなら…。




              引きたい風邪・了

※風邪を引かないよう、金柑の甘煮で予防したブルー。褒めては貰えたんですけれど…。
 寝込んでいたなら、野菜スープなどの特典が。風邪を引きたいような気持ちもあるのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(よし、と…)
 やるとするか、とハーレイが覗き込んだメモ。夕食後のひと時、ダイニングで。ブルーの家には寄れなかった日、試してみるなら今日が吉日、と。
 氷ギッシリがコツ、ウイスキーを一にソーダが四。そっと一回し、たったそれだけ。
 新聞に載っていたハイボールの作り方、それをメモしてあったもの。「美味そうだな」とピンと来たから、目にした時に書き抜いた。失くさないよう、酒類を入れてある棚に仕舞って。
 作りたい気分になった時が飲み時、ウイスキーと一緒に出して来たメモ。まずは氷、とグラスにギッシリ、もう文字通りに縁まで幾つも。
(こう、ギッシリと…)
 かき氷やフラッペを作ろうというわけではないから、ウイスキー用のスペースは空けておかねばならないけれど。すっかり氷で埋めてしまっては駄目なのだけれど。
 冷凍庫で作った大小の氷、それを工夫して詰めてゆく。氷でギッシリ埋まるようにと、グラスの縁まで届く高さに、と。
 ギュウギュウ詰めにはしなかったけれど、丁度いい感じに詰まった氷。グラスが冷えてゆくのが分かる。氷の冷たさで白く曇って、その内に露もつくことだろう。
(その前に、だ…)
 ウイスキーを一、と計っておいた秘蔵のウイスキー。それを注いで、お次はソーダ。
(こいつもコツの内なんだろうな)
 今までの自分のやり方だったら、ウイスキーを入れた所で混ぜていた。氷と一緒にしっかりと。当然、氷は溶けて減るから、減った分だけ足していた氷。またギッシリと。
 その後に入れていたソーダ。そこで一回混ぜて出来上がり、そういうものだと思っていた。酒を好むようになった頃から、家でも飲むようになってから。



 ところが出会った、このレシピ。ウイスキーを入れても混ぜてはならない、ソーダを入れてから一度混ぜるだけ。自分が知っている方法とは違った、まるで別物のハイボールのレシピ。
 提案していたのがバーテンダーだの、通を気取った輩だのなら、気にしないけれど。「こいつはこういうやり方なんだな」と考えるだけで、メモに残そうとも思わないけれど。
(…なにしろウイスキー作りのだな…)
 プロが紹介していたのだった、それも有名なウイスキー会社の。自分も愛飲している銘柄を作る会社が載っていた記事、其処に書かれていたレシピ。
 試すだけの価値は充分にある、と酒好きの血が反応した。きっと美味いに違いないと。
(ソーダを入れて、と…)
 これも分量通りに計っておいたソーダ、入れたらマドラーでそっと一回し。今までに作って来たハイボールとは違うやり方、たった一回混ぜるだけ。
(出来上がり、ってな!)
 表面に露が浮かんだグラスに、弾ける気泡。水割りではなくてソーダだから。ウイスキーの色も美味しそうだし、なかなかに期待出来そうではある。
 飲むなら書斎だ、と足取りも軽く運んで行った。本に囲まれた部屋は落ち着くし、ハイボールの味も引き立ちそうだから。一人暮らしで言うのもおかしいけれども、隠れ家といった趣きだから。



 ゆったりと寛げる気に入りの空間、それが書斎で、机も椅子も好きだけれども。腰を落ち着けてハイボールを飲もうとしたのだけれども、その机の上。
(…すまん)
 お前は飲めなかったんだっけな、と小さなブルーに謝った。優しい飴色のフォトフレームの中、小さなブルーと写した写真。夏休みの一番最後の日に。
 ブルーの家の庭で一番大きな木の下、小さなブルーがギュッと自分の左腕に抱き付いて、笑顔。それは嬉しそうに輝いている顔、幸せ一杯のブルーの笑顔。
 そういう笑みを向けてくれているブルーには飲めないハイボール。わざわざレシピをメモして、作って、さて味わおうと持って来たのに、ブルーは飲めない。
 写真のブルーが飲めるわけがない、という意味ではなくて。
(本物のあいつが此処にいたって、飲めないんだ…)
 まだ十四歳にしかならないブルーは未成年。今の時代は酒を飲むなら二十歳から、そういう風に決められている。前の自分が生きた頃には、十四歳なら…。
(よくは知らんが、飲んでは駄目だとは言われなかっただろうな)
 なんと言っても、十四歳の誕生日が成人検査の日だった時代。成人検査と銘打つからには、その日を境に大人の仲間入りだったろう。前の自分は検査をパスしなかったけれども。
(…落っこちちまって、後はミュウへとまっしぐらでだ…)
 実験動物として檻に放り込まれた、餌と水しか無い生活へと。実験動物に酒は振舞われないし、酒の美味さを知ったのはアルタミラを脱出した後だから。
(とうに二十歳にはなってた筈だな)
 だから知らない、前の自分が生きた時代の酒事情。シャングリラは人類の世界のルールなどとは無縁だった船だし、ヒルマンの方針で子供たちの飲酒は禁止でもあった。身体に悪い、と。
(今から思えば、先見の明…)
 あれから遥かな時が流れた今、未成年には酒は駄目だと二十歳までは禁止なのだから。ブルーのような十四歳の子供が酒と知らずに飲もうとしたなら、周りが慌てて止めるのだから。



 そういった理由で、ハイボールは飲めない小さなブルー。
 自分が美味しそうに飲み始めたなら、「いいな…」と零すことだろう。美味しそうだよ、と。
 だから写真といえども詫びたのだけれど、そのブルー。前と同じに大きく育って、二十歳になる日を迎えたとしても…。
(やっぱり飲めない気がするなあ…)
 ハイボールも、他の色々な酒も。
 育った所で、ブルーはブルーなのだから。前のブルーは酒に弱くて、全く飲めなかったから。
 生まれ変わった身体だとはいえ、劇的に変わりはしないだろう。二日酔いに苦しんでいたようなブルーが酒豪になるなど、まず有り得ない。きっと同じに弱い筈の酒。
(あいつ、今度は頑張るんだと言ってはいるが…)
 どうなんだか、と浮かべた苦笑い。
 ブルーの家に行くと、たまに「一杯どうです?」とブルーの父が出してくれる酒。いける口だと知られているから、美味しい酒が手に入ったら勧めてくれるブルーの父。
 そんな時には酌み交わす酒、ブルーの父は今や飲み友達の一人で、楽しい時間になるけれど。
 チーズやナッツや、ブルーの母が作ってくれるつまみをお供に過ごすけれども、小さなブルーは必然的に仲間外れで、酒を飲ませては貰えない。会話に混ざることは出来ても、違う飲み物。
 話題が酒へと行ってしまえば、置き去りにされる小さなブルー。大抵そうなる、ブルーの父との酒宴の流れ。
 たとえシャングリラの酒について自分が語ったとしても、ブルーはついては来られないから。
 合成の酒と本物の酒との味の違いも分かっていないし、酒は一括りに「不味かった」だけ。前のブルーにとってはそれだけ、それでは話が弾まない。「不味かったよ」だけで終わるのでは。
 「ハーレイをパパに盗られちゃった」とブルーは何度も膨れて、今度は酒を飲めるように努力をするつもり。父に自分を盗られないよう、二人で酒を楽しめるよう。



(はてさて、どうなることやらなあ…)
 いずれブルーが挑戦する酒、自分を鍛えるつもりの酒。前のブルーだった頃の苦手を克服したい気持ちは、分からないでもないけれど…。
「どう思う、お前?」
 今度のお前が挑むそうだが、と引き出しから出したソルジャー・ブルーの写真集。前のブルーの一番有名な写真が表紙に刷られた『追憶』、真正面を向いたブルーに訊いてみる。
「酒だぞ、酒。俺の飲み友達の座を父親に持って行かれたくない、というのは分かるがなあ…」
 だからと言ってだ、酒が飲めるようになるかと言ったら、そいつは話が別ってもので…。
 お前とそっくり同じだったら、どう頑張っても酒は無理だぞ、現にお前がそうだったんだし…。
 何度も飲んでは文句を言ったろ、胸やけしただの、頭痛だのと。
 …やっぱりお前も、今度も駄目だと思うよなあ?
 あいつがどんなに努力したって、酒を美味しく飲めるようにはならないってな。
 だが、このハイボールはけっこういけるぞ、メモしておいた甲斐があったというもんだ。
 俺のやり方で作ったヤツより遥かに美味い。プロが勧めるだけのことはある。
 ん?
 ハイボールっていうのは何だ、ってか?
 そいつはだな…。



 ウイスキーの飲み方の一つでソーダ割りだ、と掲げたグラス。ソーダの泡が見えるだろう、と。
「ハイボールって名前がまた面白い。…ボールなんぞは何処にも無いだろ?」
 ボウルの中でかき混ぜて作っていたわけじゃないし、そもそも料理用のボウルじゃない。
 諸説あるがだ、ボールは玉の方のボールだ、ゴルフボールとかな。
 ゴルフってヤツは、前の俺たちはやっていないが、だ…。
 ずっと昔は紳士のスポーツの一つでだな…、と前のブルーの写真に向かって話していて。
(待てよ…?)
 前に誰かから聞かされた薀蓄。ハイボールの名前の由来を色々。
 同じゴルフでも、様々な説。自分の順番が回って来たから慌てて飲もうと、酒をソーダで割って飲んだら美味だったのが始まりだとか。ソーダ割りの酒を作って貰って「美味い」と喜んだ所へ、高く上がったゴルフボールが飛び込んで来たからハイボールだとか。
 他にも色々と語った誰か。ゴルフボールとはまるで関係ない、鉄道のボール信号機。それを見る駅員がボールが上がった時に飲んだからとか、滔々と。
(…誰だ?)
 あれは自分に披露していたのか、それとも他の飲み友達にか。
 自分が『追憶』の表紙のブルーに語り聞かせているのと同じに、ハイボールを語っていた誰か。
 話していたのは誰だったろう、と酒好きの友人たちを端から思い浮かべてみるけれど。学生時代からの友人や教師仲間や、柔道や水泳をやる仲間。次々に顔は浮かんでくるのに、「こいつだ」と思う顔が無い。こいつだった、と自分の記憶が反応しない。



(はて…?)
 楽しく薀蓄を聞いていたなら、きっと覚えているのだろうに。酒が入っても、一緒に飲んでいた友人の顔を忘れはしない。話の中身が今も記憶にあるというなら、なおのこと。
 なのに浮かんでこない顔。誰だったのかが思い出せない飲み友達。記憶が飛ぶほど酷い飲み方は決してしないし、酒に弱くもない筈なのに。
(まさか、前の俺の方だったってことは…)
 有り得ないんだが、と思った所で気が付いた。その考えは間違いだったと。
(そっちだ、そっち…!)
 前の俺だ、とコツンと叩いた頭。すっかり忘れてしまっていた、と。
「…すまん、せっかく教えてくれてたのにな…」
 生まれ変わってくる時に落としちまったってことで許してくれ、と詫びた昔の飲み友達。遥かな昔に白いシャングリラで一緒に飲んでいた仲間。今と同じにハイボールを。
 それの由来についての薀蓄はヒルマンが語ったのだった。ゴルフの話も、ボール信号についての話も。どれもシャングリラとは無縁のものだったけれど、ハイボールの名前の由来はこうだ、と。



 白い鯨に改造された後のシャングリラ。自給自足で暮らしてゆく船、人類の輸送船からブルーが物資を奪う時代はもう終わっていた。
(あの船では酒は合成だったし…)
 単なる嗜好品に過ぎない酒は、船では作っていなかった。葡萄から出来る赤ワインだけが例外、その赤ワインも本物はほんの少しだけ。新年を迎えるイベントで乾杯に使われた特別なワイン。
 本物の酒はたったそれだけ、他は全てが合成だった。ワインもウイスキーもブランデーも。
 そんな船でも美味しく飲もうと、あれこれ工夫を重ねていたのがゼルとヒルマン。酒好きだった前の自分の飲み友達。
 ゼルもヒルマンも酒好きだったし、ブルーが奪った本物の酒があった時代の味を再び、と手間を惜しみはしなかった。合成の酒でも工夫さえすれば、きっと美味しく飲めるだろうと。
(色々とやってたみたいだが…)
 詳しいことは知らないけれども、研究会だの、勉強会だのと称して飲んでいたゼルとヒルマン。互いの部屋を行き来しては「研究室だ」と笑い合っていた。研究会だか勉強会だか、それが始まる頃合いに通路でバッタリ会ったら「参加しないか」と誘われたものだ。
(…あれに捕まったら終わりだからなあ…)
 まず間違いなく、夜更けまで逃がして貰えない。前のブルーと過ごす筈の時間が見事に潰れて、自分はともかく、ブルーの方が…。
(…寂しかったと言われちまうか、御機嫌斜めか、そんなトコなんだ)
 次の日に会ったら、そういうブルー。皆の前ではソルジャーらしく振舞うけれども、前の自分と二人きりの時には寂しそうなブルーか、御機嫌斜めか。
 そうならないよう、勉強会への参加は出来るだけ遠慮しておいた。「仕事が残っているから」と嘘をついたり、「キャプテンはそうそう飲んでいられない」と生真面目な顔で返したり。



 前の自分も酒好きだったけれど、酒よりもブルーの方が大切だったから。
 ゼルとヒルマン主催の勉強会は極力避けて、研究にも協力しなかった。足を踏み入れたら二度と逃がして貰えはしなくて、研究者の仲間入りだから。
 そうした事情で、進み具合も知らないままだった酒の研究。ある日、「出来た」とゼルが呼びに来るまで。「これでいける」とヒルマンの部屋に招かれるまで。
 自信作だ、と二人が出して来たのがハイボールだった。
(…ヒルマンが用意をしていてだな…)
 合成のウイスキーが入ったボトルと、氷とソーダ。それからグラス。
 ゼルとヒルマンは得意げに披露してくれた。グラスに氷をギッシリと入れて、ウイスキーを注ぐ飲み方を。「これにソーダを入れるのが決め手だ」と、小さな気泡が立つハイボールを。
(美味かったんだ、あれが…)
 ソーダが合成品の味を誤魔化すのか、本物の酒のように思えた喉ごし。合成の酒だとは思えない味、ゼルもヒルマンも「これに限る」と飲んでいた。ハイボールという名前なのだ、と。
 「ハイボール?」とオウム返しに尋ねた自分にヒルマンが語ってくれた薀蓄。ゴルフだのボール信号だのと。由緒正しい飲み方らしいと、もっと早くに気付くべきだったと。
 要はソーダを入れるだけ。合成の酒が持つ独特の味を消すのがソーダ。
 グラスにギッシリ詰めた氷とソーダとがあれば、美味しく飲めるウイスキー。合成品でも本物のウイスキーに負けない喉ごし、満足の味になるハイボール。



 ゼルとヒルマンの勉強会だか研究会だかは、見事な成果を生み出した。
 そして二人に言われたのだった、「この味を守るためにも氷と炭酸水を決して切らすな」と。
 キャプテンならば心しておけと、シャングリラの美味しい酒のためには必須のものだ、と。
(…妙な注文ではあったがな)
 氷と炭酸水、いわゆるソーダ。どちらも大した材料も手間もかかりはしない。氷は厨房で大量に作られていたし、炭酸水の方も同じこと。ジュースなどには欠かせないから。
 そうそう切れるものでもなかろう、と考えつつも気は配ったのだった、と蘇って来た前の自分の記憶。キャプテン・ハーレイの任務の一つ。氷と炭酸水との確保。
 あまりに愉快な任務だったし、ハイボールも美味しかったから。
(前のあいつの前でウッカリ…)
 喋ったのだった、氷と炭酸水さえあったら酒は美味い、と。合成品のウイスキーが本物のように変身すると、合成の酒に特有の味が消えるのだと。
 ブルーの方は興味津々、研究会の存在も知っていたものだから。それに捕まったら、前の自分が青の間を訪ねることが出来なくなって、寂しい思いをしたり機嫌を損ねたりしていたから…。
(ハイボールを飲みたがったんだ…)
 研究が成功したのだったら、自分にもそれを飲ませて欲しいと。美味しい酒なら、此処で作って貰えないかと。



 断ることなど出来はしないし、ウイスキーと氷とソーダを用意した自分。次の日の夜、青の間を訪ねてゆく時に。
 ゼルとヒルマンに教わった通り、自分のグラスとブルーのグラスに氷をギッシリ。ウイスキーを注いで、よくかき混ぜてから氷を足して、それからソーダ。一回だけ混ぜて「どうぞ」と渡した。赤い瞳を輝かせていた、前のブルーに。
(ソーダがある分、あいつも多少は…)
 飲めたのだった、ウイスキーをそのまま飲もうとした時はいつも、顔を顰めていたくせに。水で割っても氷を入れても、「美味しくない」と言っていたくせに。
 けれども、酒は酒だったから。ソーダで味わいが変わっただけで、正体はウイスキーだから。
 結局、悪酔いしたブルー。頭痛に胸やけといった、お決まりのコース。
 翌日の朝には、大して美味しいとも思えない上に、酷い目に遭ったと怒っていた。ハイボールの美味しさとやらも謎だと、研究会は所詮、酒好きが集まる場所なのだと。
(…今度のあいつは…)
 どうなんだろうな、と『追憶』の表紙を飾るブルーに語り掛ける。
 「お前と同じでハイボールも駄目なヤツだと思うか?」と、「しかし挑戦するんだろうな」と。
 生まれ変わってもブルーはブルーで、頑固さは変わっていないから。まだ十四歳にしかならないブルーも、前と同じに頑固だから。
(…きっと飲むんだ、今のあいつも)
 ハイボールが美味しいと言ってやったら、きっと飲もうとするのだろう。今は無理でも、大きく育って酒が飲める年になったなら。二十歳の誕生日を迎えたならば。
(そうなってくると…)
 このハイボールのレシピを話してやるとしようか、明日は土曜日なのだから。
 ブルーの家を訪ねてゆく日なのだし、「氷ギッシリがコツなんだぞ」と。



 そうして土曜日、ブルーの家へと歩いて出掛けて。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、小さなブルーに訊いてみた。
「こんな飲み物をどう思う?」
 新聞に載ってて、俺がメモしておいたんだが。
「え? 飲み物って…」
 今日はお土産は持って来てないよね、何処かで売ってるジュースか何か?
「氷ギッシリがコツなんだそうだ」
 グラスに氷をギッシリ詰め込む。そいつがコツってことらしいぞ。
「ふうん…?」
 作り方なんだね、どういう飲み物?
「氷を入れたら、ウイスキーを一。それからソーダが四って所だ」
 そっと一回し、それで全部というわけなんだが…。お前にとっては、こいつはどうだ?
「えーっと…。ウイスキーはちょっと心配だけど…。お酒だから…」
 でも、そっと一回しって、面白そうだね。たった一回、混ぜておしまい?
 そんな作り方でも美味しいの、それは?
「美味かったぞ。どうやら、そこもポイントらしい」
 俺が知ってた作り方だと、ウイスキーを入れたらよく混ぜるんだが…。そこで氷も足すんだが。
 そうする代わりに一回だけしか混ぜないって所が美味さの秘訣の一つだろうな。
「じゃあ、作ってよ、それ!」
 今はまだお酒は飲めないけれども、ぼくが大きくなったら作って。美味しいのなら。
「いいのか、これはハイボールだが?」
「……ボール?」
 ボールって何なの、お料理に使うヤツのこと…?
「覚えていないか? 前のお前が酔っ払ったのも、こいつなんだが」
 ハイボールだったぞ、美味かったと話したら作ってくれと強請った挙句に二日酔いでな。



 シャングリラでは氷と炭酸水は切らしちゃ駄目なんだ、と真面目な顔を作ってやった。前の俺の重要な任務の一つだったと、ゼルとヒルマンから任されたのだと。
「あいつらの研究会の成果だ、勉強会とも言ってたが…」
 合成のウイスキーを美味しく飲むにはハイボールに限ると、氷とソーダだと言われたんだが?
「…アレなわけ?」
 思い出したよ、その話。…合成のウイスキーでも美味しく飲める、って前のハーレイが…。
 研究会のことは知っていたから、美味しいのなら、って作って貰って、酷い目に…。
「そいつなんだが…。あれもハイボールだったわけだが」
 俺が話した氷ギッシリも同じハイボールだ、作り方が違うというだけでな。
 そのハイボールを、お前、飲むのか?
「…飲んでみたいよ、今だと地球のお酒だし…。合成のウイスキーとは違うんだし…」
 それだけでもグンと美味しそうだし、それに、ぼくだって。
 今度はお酒に強くなってるかも、前のぼくとは違うんだから…!
「ふうむ…。今度のお前もハイボールに挑戦してみる、と」
 そう言うだろうとは思っていたがだ、宣言されると嬉しくなるな。
 今度はお前と楽しく酒を飲めるといいなあ、前の俺には叶わない夢で終わったからな。



 飲めるように是非頑張ってくれ、とブルーの肩をポンと叩いた。
 お前と二人で飲める日が来るのは、まだまだ先のことなんだが、と。
「結婚したって、十八歳では酒は飲めないしな?」
 酒を飲むなら二十歳からで、それまでは俺は一人で飲むか、お前のお父さんと一緒に飲むか…。
 当分は待っているしかないなあ、お前が二十歳になるまでは。
「そうだけど…!」
 ホントに飲むなら二十歳だけど、その前から練習しておくよ。
 お酒が飲めるようにちょっとずつ練習、毒と同じで少しずつだよ。
「毒…?」
 何の話だ、毒っていうのは毒薬とかの毒か?
「うん、耐性がつくんでしょ?」
 少しずつ毒を飲んでおいたら、ちょっとくらいの毒なら平気。そう言うじゃない。
 …前のぼくでは、やってなかったみたいだけれどね、そういう実験。
 毒にまで強くなってしまったら、手に負えないと思っていたのかなあ…。アルタミラの研究所にいた人間たちは。
「おいおいおい…。俺の愛する酒を毒扱いか?」
 毒と同じだと言いたいのか、お前。少しずつ飲んで耐性をつけておこうだなんて。
「前のぼくには、お酒は充分、毒だったよ…!」
 人体実験をされてた時でも、あんな薬は飲まされていないよ…!
 薬は治療をするためのもので、飲んで吐き気や頭痛がしたって、それは副作用の中の一つで…。
 最後は具合が良くなっていたよ、人類がぼくに飲ませた薬は…!
 飲んだら具合が悪くなるものなんかは飲んでいないよ、ハーレイの好きなお酒くらいしか…!



 人体実験と比べられてしまったほどだけれども、それでもブルーは努力をしたいらしいから。
 前の自分が苦手だった酒を克服すると言ってくれるから。
「そう来たか…。なら、ウイスキーボンボンくらいから始めてみるか」
 毒に耐性をつけると言うなら、まずはそういう所からだな。
「ウイスキーボンボンって…」
 なにそれ、ぼくが食べるわけ?
「そうなるな。ウイスキーボンボンはシャングリラには無かったが…。今はあるだろ?」
 チョコレートの中身がウイスキーなんだし、初心者向けではあるだろう。
 酒だけを飲むより遥かにマシだぞ、あれならばな。
「ウイスキーボンボンは知っているけど、食べたことがないよ」
 チョコレートなんだから、ちゃんと甘いの?
 ウイスキーの味しかしないんじゃなくて?
「うむ。チョコレートをつまみに飲むようなモンかな、ウイスキーをな」
 ただし、ちょっぴりだけの量だが…。あの中に入っているわけだしなあ、ほんの少しだ。
 だが、酒に弱いヤツだと一個食べただけでも酔っ払うそうだし、間違いなく中身は酒だってな。
 お前のお父さんたちは買わんだろうなあ、お前のおやつにするためには。
 酔っ払っちまったらエライことだし、お前はただでも身体が丈夫じゃないんだから。



 今はまだ早いが、結婚したならウイスキーボンボンを買ってみるか、と片目を瞑った。
 お前の言う毒が入っている菓子を少しずつ食べればいいだろう、と。
「そうやって耐性をつけていくんだな、最初は一個で酔っ払うかもしれないが」
 慣れて来たなら、二つ、三つと数を増やしていけばいい。
 酒が飲める年になった頃には、ハイボールだって飲めるお前が出来ているかもしれないぞ。
 二日酔いにならずに、ちゃんと美味さも分かるお前が。
 酒に強いお前を作るためには、ウイスキーボンボンもいいし、酒が入った菓子とかもいいな。
 たっぷりと酒が入っている菓子、探せばけっこうあるもんだ。
「…アルコールが飛んでしまっているでしょ、お菓子なら?」
 ウイスキーボンボンはウイスキーが入っているんだろうけど、他のお菓子は…。
 ママが焼いてるフルーツケーキもウイスキーを沢山使うけれども、ぼく、酔っ払わないよ?
「いや、酒をそのまま入れちまうパフェもあったりするしな」
 チョコレートパフェだと思って食ったら、チョコレートリキュール入りだったりする。
 もちろん、少ししか入っていないが…。あれでもお前は酔っ払えそうだ。
 それからサバラン、あれもラム酒がたっぷりだからな、お前は酔っ払うだろう。
 そんな具合で幾つもあるのさ、お前にとっては毒入りの菓子。
「じゃあ、そういうので練習する…!」
 ウイスキーボンボンも頑張るけれども、パフェもサバランも頑張って食べるよ。
 幾つも食べたら耐性がついて、きっと平気になるんだろうし…。
 ハーレイ、そういうお菓子を食べられる所に連れて行ってよ、ぼくとデートに行く時は。
 そしたら早く慣れると思うよ、デートのお菓子がいつもお酒のばかりだったら。



 健気なブルーは、デートの時まで自分にとっては毒入りの菓子を食べて頑張るらしいから。
 酒に耐性をつけられるように、努力を重ねるらしいから。
「そうか、せっせと食うのか、お前。そういうことなら…」
 俺も頑張って作らないとな、酒が入った菓子ってヤツを。
 ウイスキーボンボンは店で買って来るとしても、パフェだのラム酒たっぷりのサバランだのは。
 他にも色々調べないとな、酒が入った美味い菓子をな。
「…ハーレイが作るの、お店に食べに行くんじゃないの?」
 ぼくはデートで酔っ払っても、かまわないんだけど…。
 次の日に頭が痛くなっても、お酒を飲むための練習なんだし、ハーレイに文句は言わないよ?
 ちゃんと大人しくベッドで寝てるよ、気分が良くなって起きられるまで。
「…お前はそれでいいかもしれんが、俺の方の気分が問題なんだ」
 酔っ払ったお前を他のヤツには見せたくないと、前にも言ったと思うがな?
 お前は酔ったら美人になるんだ、ただでも綺麗な顔をしてるのに、もっと綺麗に色っぽくな。
 頬がほんのり染まっちまって、目元も赤くて瞳なんかは潤んじまって…。
 美人を芙蓉の花に例えるが、酔っ払ったお前は酔芙蓉なんだ。白から赤へと変わる芙蓉だ、花の色がな。そいつと同じで、白い顔がそりゃあ色気のある顔になる。
 …あの顔は絶対、誰にも見せん。
 誰かが見たって減るわけじゃないが、酔芙蓉なお前を他のヤツらにも見せてやるほど、俺は心が広くないんだ。独占したいし、俺一人だけのものにしておきたいからな。



 酒に強くなろうと努力する過程で酔っ払ってしまって、酔芙蓉になったブルーの顔。
 それは一人で眺めたいから、ウイスキーボンボンも、酒入りの菓子も、家でだけ。
「いいな、酒の量も俺がきちんと加減するから、俺が作る菓子だけにしておいてくれ」
 ウイスキーボンボンはともかく、その他の菓子。
 店で美味そうなヤツを見掛けても、外で練習するのは駄目だ。帰ったら俺が作ってやるから。
「そっか…。ハーレイが作ってくれる分だけなんだね、食べていいのは」
 でも、ハーレイなら色々なお菓子を作ってくれるんだろうし、ぼく、頑張るよ。
 お酒入りでも酔っ払ってしまわないように、少しずつ量を増やしていって。
「頑張れよ。そしていつかはハイボールだな?」
 俺と一緒に飲むってわけだな、前のお前には無理だったヤツを。
 ハイボールの美味さが分かるお前が出来るってことか、前のお前とは一味違った。
「うんっ!」
 今度は美味しく飲めるようになるよ、酔っ払わないで。
 ウイスキーボンボンを一個から始めて、お酒の量を少しずつ増やしていくんだから。
 毒と同じできっと強くなるよ、頑張って色々と食べていったら。
 だからハーレイと二人でお酒を飲めるよ、今度のぼくは。二十歳になった頃には、きっと。
 それまでの間は、ハーレイと一緒にお酒を飲むのはパパだけど…。
 ぼくが二十歳になったら、ぼくの番。ぼくがハーレイと一緒に飲むんだから…!



 ハーレイをパパには盗られないよ、とブルーは自信満々だけれど。
 前の自分が苦手だった酒を克服しようと、その日に向かって顔を輝かせているけれど。
 きっと今度も酔芙蓉だろう、ハイボールを飲めはしないだろう。
 ウイスキーボンボンを一個で酔っ払うとか、サバランで酔ってぐっすり眠ってしまうとか。
 ブルーと二人で飲むハイボールは夢に終わって、きっと叶いはしないだろう。
 それでも嬉しい、ハイボールが駄目なブルーでも。
 前のブルーと全く同じに、二人で酒を酌み交わすことが出来なくても。
(…なんたって、結婚出来るんだしな?)
 酒が飲めるように努力をする、と言ってくれるブルーと二人で生きてゆけるのだから。
 何度ブルーが酔っ払っても、ソルジャーの務めを心配しなくていいのだから。
 二日酔いになってしまった時には、好きなだけ寝かせてやることが出来る。
 休日だったら添い寝してやれる、ブルーの気分が良くなるまで。
 だからブルーは酔芙蓉でいい、ハイボールを飲めないままでいい。
 酔っ払っても、何の心配も要らない世界。ソルジャーの務めが無い世界。
 其処へ二人で来たのだから。
 青い地球の上で、いつまでも、何処までも、手を繋ぎ合って歩いてゆけるのだから…。




          ハイボール・了

※白いシャングリラでも楽しまれていた、ハイボール。前のブルーの耳にも入った代物。
 前のブルーは酔っ払ったのに、今のブルーは苦手を克服するそうです。酔っ払わないように。
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