忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(すっかり遅くなっちまった…)
 ハーレイは愛車を走らせていた。街灯や対向車のヘッドライトはあるのだけれども、夜だから。もうすっかりと更けているから、外側から見ても車体の色は漠然としか分からないだろう。緑色を帯びた車だとしか。
 前の自分のマントの色。その色と同じ色をした車。初めての車を買った時から、この色だった。今よりもずっと若かった自分。青年には些か渋すぎる色。けれど、この色しか…。
(無いと思ったんだ、俺の車には)
 お似合いですよ、と勧められた鮮やかな黄色の車は論外。褐色の肌には黄色の服がよく似合うと知っていたのだけれども、車の黄色は違和感があった。それよりは白、と。
 白の車をまじまじと眺めて、少しいいなと思ったけれど。どういうわけだか、「白は駄目だ」と考えた自分。「俺の車には似合いの色だが、欲しい気にならん」と。
 様々な色を見比べた末に「これにします」と選んだ深い緑色。何処から見ても年配向きで、店の人にも「もっと明るい色の方が」と鮮やかな緑を勧められたけども、「違う」と感じた明るい緑。
 「これが気に入ったから」と譲らずに決めた、今の緑に。前の自分のマントの色に。
 まさかそうだとは、夢にも思わなかった色。縁があったとは知らなかった色。
 初めての車を披露した時は、友人たちに散々呆れられたものだ。「渋すぎるぞ」と。遠慮のない者はこうも言ってくれた、「その車に乗るだけで三十歳は老けられそうだな」と。
 実際、そういう色だから。
 今の時代は人間は誰もがミュウになっていて、若い姿で年齢を止めてしまえる世界。年を重ねた人は少なくて、深い緑色の車が似合う姿なら、もう充分に「老けた」年齢。
 そういう人たちが乗っているような車を買うとは、と何人もに笑われ、それから後も…。
(今の車に買い替えた時だって、まだ言われたんだ!)
 三十代でそれは渋すぎないかと、今度は違う色の車を選んで買ったら良かったのに、と。



 車は長く乗るのが信条、今で二台目になる愛車。これに乗って今の学校に赴任した時も、やはり同僚たちが「渋い趣味だ」と漏らした感想。「濃い色が好きなら青もあるのに」と言った者やら、いっそ黒の方が若い者でも似合う色なのにと評した者やら。
 前の自分のマントの色の車は、この年になってもまだ渋いらしい。三十八歳くらいでは。もっと年を重ねて五十代の声でも聞かない限りは、「渋すぎる趣味だ」と言われるのだろう。
 けれど…。
(この色には意味があったってな)
 小さなブルーと出会って分かった、自分が何者だったのか。この色の車に惹かれた理由も、白い車を選べなかった原因も。
(…白は好きだが、好きじゃなかったんだ…)
 自分ではなくて、前の自分が。キャプテン・ハーレイだった自分が。
 前のブルーと共に暮らしたシャングリラ。長い長い時を共に生きた船、ブルーが守った白い船。そのシャングリラから、ブルーがいなくなったから。ブルーを失くしてしまったから。
 それでも自分はシャングリラの舵を握って行くしかなかった、遠い地球まで。前のブルーがそう願ったから、「頼んだよ、ハーレイ」とジョミーの補佐を自分に託して逝ったから。
 ブルーを失くして、仲間たちはいても常に孤独で。目指す地球はブルーと何度も夢見た星から、旅の終わりを告げる星へと変わってしまって。
 地球に着いたら全てが終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと、それだけを思って生きていた自分。魂はとうに死んでしまって、屍のようになった身体で。
 ブルーが命を捨てて守った白いシャングリラは悲しい船になってしまった、ブルーの姿は何処を探しても無かったから。ブルーの声は二度と聞こえなかったから。
 前のブルーの思い出が幾つも詰まった、白く優美なシャングリラ。船を預かるキャプテンゆえの思い入れも深い船だったけれど、ブルーを失くした悲しみの方が遥かに大きかったから。
(…白い車は…)
 無意識の内に避けたのだろう、今の自分も。
 白を選んでもブルーがいないと、好きな色でも悲しい思いをするだけなのだ、と。



 けれどブルーは帰って来た。十四歳の少年の姿で、蘇った青い地球の上に。
 前の自分の記憶も戻って、ブルーと再び巡り会えた。お蔭で車の色の謎も解けたし、次は白でもいいなと思う。ブルーがいるなら白い車も悪くないから、白はシャングリラの色だから。
 とはいえ、今はまだ濃い緑色。向こう五年は乗りたい車で、大切に乗ってやりたい車。ブルーと最初のドライブに行く時は、この車に乗って出掛ける予定。
 それが夢ではあるのだけれども、ブルーはまだまだ幼いから。十四歳にしかならないから。
(…こいつが現実…)
 ブルーを助手席に乗せる代わりに、定員一杯に乗せた同僚たち。とうに下ろして来たけれど。
 金曜日の夜、同僚たちと仕事帰りに食事に出掛けた帰り道。バスで通っている同僚たちには車が無いから、自分も運転手の一人。どうせ気ままな一人暮らしだし、遅くなってもかまわない帰宅。家が遠い者たちを送ることにした、車に乗れる人数だけ。
 順に一人ずつ下ろしていって、最後の一人の家まで行ったら、自分の家からは離れた郊外。窓を開けて軽く手を振った後は、いつもより長い帰り道。時ならぬドライブ、久しぶりの。
(…ブルーは抜きだが、ドライブはだな…)
 嫌いではないし、今でも時々走ってはいる。ブルーの家に寄り損なった日の帰りなどに。
 車の数も減った夜更けに、やっと戻って来た自分の家がある住宅街。幹線道路から入った後には出会う車も無い時間。
 其処を走って、間もなく見えて来た門灯と庭園灯の明かりと。暗くなったら自動で灯る仕掛けにしてある明かりで、自分の家。



 もう寝静まっているらしい近所の家々、その前を静かに走って行って…。
(よし、帰って来たぞ!)
 ブルーの家には寄れなかったけれど、いい日ではあった。同僚たちとの楽しい食事に、有意義な話題や愉快な話題。ブルーの代わりに同僚たちを満杯に乗せてのドライブの時間も悪くなかった。
(…欲を言えば、あそこはブルーとだな…)
 二人きりで、と行きたかったけれど、それはまだまだ先の話で、夢だから。
 小さなブルーが前と同じに育つ日までは叶わない夢だと分かっているから、欲張りはしない。
 今の自分には同僚たちとのドライブが似合いで、でなければ一人きりでのドライブ。今のように一人で車を走らせ、こうして家まで。
 慣れた手つきでハンドルを切って、車をガレージに入れにかかった。
「シャングリラ、無事にご到着ってな」
 ついつい零れるシャングリラの名前、遠く遥かな時の彼方で前の自分が動かした船。舵を握って立っていた船、ブルーと暮らした白い船。
 今の愛車はシャングリラのような宇宙船ではないけれど。大きさも形も違うけれども、いずれはブルーと乗る予定になっている愛車。ブルーと乗るなら、この車だってシャングリラ。二人だけのために動くシャングリラで、白くなくてもきっと立派なシャングリラになる。
(俺が動かすわけなんだしな?)
 さて…、とガレージの所定の場所に車をピタリと停めたけれども。前も後ろも、脇のスペースも狙い通りにいったけれども。



(む…?)
 見事に車を停めたというのに、肝心の台詞が出て来なかった。
 シャングリラを停めるための言葉が、ガレージに車を停める所で言うべき言葉が。
 今は車の形だとはいえ、シャングリラのつもりだったのに。あの白い船と同じ気分で、いつかはブルーを乗せる予定のシャングリラで家に着いたのに。
 思い付かない決め台詞。シャングリラを停めるなら、言うべき言葉。
(うーむ…)
 最後の最後が決まらなかった、と溜息をついて切ったエンジン。せっかくシャングリラの気分で帰って来たというのに、どうにも間抜けなオチになった、と。
 キャプテン・ハーレイだけが言える台詞がある筈だけれど。こういう場面で使う言葉が。
(だが、出て来ない、と…)
 ウッカリ者め、と車のキーを抜いて、降りてドアを閉めて。鍵をかけた後、玄関まで庭の芝生を横切る途中でハタと気付いた。「無かったのだ」と。
(…停めてないんだ、シャングリラは…)
 だから言葉がある筈もない。車をガレージに停めるのに使えるような言葉は、何処を探しても。
 愛車のエンジンは止めたけれども、キーだって抜いて来たのだけれど。
 シャングリラの場合は、止めたことなど無かったエンジン。いつも動いていたシャングリラ。
 雲海の星、アルテメシアの雲の中でも、ナスカの衛星軌道上にあった時でも。
 衛星軌道上ならば止めても良さそうなエンジンだけれど、シャングリラはそうはいかなかった。あの船を隠すためのステルス・デバイス、それを止めることは出来ないから。エンジンを止めれば止まってしまうステルス・デバイス、そうなれば人類に姿を発見されかねないから。
(機関停止、としか…)
 言えなかったのだった、シャングリラでは。
 止めていい機関はどれとどれで、と確認しながら出していた指示。エンジンを切れなかった船。
 シャングリラはそういう船だった。ある筈もなかった、停めるための言葉。



 そうだったっけな、と頭を振り振り、横切った庭。庭園灯や門灯の明かりがほのかに照らし出す芝生。空を仰げば星空があった、白いシャングリラで旅をした空が。この地球が青く蘇るより前、遥かな昔に前の自分が地球を目指して旅した空が。
 前のブルーがいなくなった後、シャングリラは地球までやって来たけれど。前の自分もミュウの代表としてシャングリラから地球へと降りたけれども、やはり止めずにおいたエンジン。
 シャングリラは死の星だった地球の衛星軌道上にあった、いつでも脱出できるようにと。いざとなったら自分たちを捨てて地球を離れろと、そういう指示を下しておいた。
 あれだけ巨大な船のエンジンは直ぐにかかりはしない。だから「止めるな」と主任操舵士だったシドに命じた、「会談が始まるまでには時間がかかるが、止めて待つな」と。
 前の自分が最後まで停めなかった船。停めるための言葉を持たなかった船。
(なにしろ港が無かったからなあ…)
 地球に着いた時もそうだったけれど、地球に宙港は無かったけれど。
 それよりも前も、シャングリラには無かった港なるもの。船を停めておくためにある港。
 アルテメシアを落とした直後は、宙港へと船を降下させたものの…。
(あれは人類への示威行動で…)
 港に入ることが目的というわけではなかった、シャングリラの存在を誇示するためのジョミーの戦略。アルテメシアから地球へと向かう途中に落とした星々、其処の宙港でも。
 「ミュウの船が下りる」ことに意味があったから、言わば作戦行動中。普通の宇宙船の入港とは違って、管制官などいようがいまいが…。
(強引に下りるだけだったんだ…)
 だから自分は言ってはいない。シャングリラを停めるための言葉を、入港する時に使う言葉を。



 つまり、シャングリラには無かった港。決まりに従って入港する場所。
(おまけに母港なんぞは何処にも…)
 まるで存在しなかった。シャングリラが帰るべき港は無かった、宇宙の何処にも。地球への道を進んでゆくだけの船に、帰る場所など要らないから。あの船に母港が出来るとしたなら…。
(地球に辿り着いて、人類がミュウの存在を認めた時だけなんだ)
 俺は港に帰って来たが、と鍵を開けた家。今の自分の家の玄関。
 今の自分の愛車にとってはガレージが母港、自分にとっては家が母港といった所か。
(こうして明かりも点いてるってな)
 門灯や庭園灯もそうだし、玄関の脇の明かりも同じ。夜に戻ったら点いている明かり、滑走路に灯った誘導灯のように。海にある港の灯台などのように。
 玄関を入ってパチンと明かりを点けたけれども、その気になったら、帰って来た自分を出迎えるように灯る仕組みに調整できる。歩いてゆく先で順番に点くよう、センサーを使って。
(だが、俺はレトロなヤツが好きだし…)
 便利な仕掛けにしておくよりかは、手動が好み。暗がりでパチンと入れるスイッチ、そうやって灯る明かりが好み。
 自分の港の家だからこそ、自分の好みで。
 少し暗すぎて「何処だ?」と手探りで探すスイッチ、それも楽しみの内だから。サイオンの目で見て探すよりかは断然手探り、どんなに効率が悪かろうとも。
 此処は自分の家だから。母港なのだから、のびのびと羽を伸ばせばいい。船が戻って休むための場所、それが母港というものだから。



 食事は同僚たちと済ませて来たし、着替えた後にはコーヒーがあればそれで充分。愛用の大きなマグカップにたっぷりと淹れて、今夜は書斎へと運んで行って。
 小さなブルーが持っているのと同じシャングリラの写真集を棚から出して、机に置いた。椅子に腰掛け、コーヒーを飲みながら表紙を飾った白い船を眺める。
(…こいつに港は無かったか…)
 まるで気付いていなかったが、と漏れた苦笑い。俺としたことが、と。
 この写真集に収められた写真が撮られた時代。トォニィの代は、キャプテン・シドが舵を握った時代は、シャングリラにも出来ていた港。何処の星にも降りて良かったし、母港もあった。
 彼らの時代はノアとアルテメシアがシャングリラの本拠地、どちらも母港。二つもあった理由は簡単、白い鯨をノアが迎えたがったから。当時の首都惑星だったノアにもシャングリラを、と。
 トォニィが燃え上がる地球を後にして、向かった星はアルテメシアだったのだけれど。あの星がミュウの歴史の始まりの星だと、真っ直ぐに向かって行ったのだけれど。
 そうして母港はアルテメシアになって、後からノアが加わった。
 けれど、前の自分が生きた時代には…。
(アルテメシアは旅立ったきりで、戻っていないぞ)
 逃げるように後にした時とは違って、陥落させた後。ジョミーがその気になりさえすれば、あの星を拠点に定めることも出来ただろう。そうしていたなら、アルテメシアは母港になった。
 けれどジョミーはアルテメシアをあっさりと離れ、地球へと向かう道を選んだ。ミュウの拠点は地球にすべきだと、それでこそ向かう意味があるのだと。
 何処の星を落としても、変わらなかったジョミー。母港を持たずに白い鯨は地球へ向かった。
 整備する時も、ゼルとブラウとエラが指揮する船を加えて船団を組んで旅立った時も、白い鯨が下りた港は仮の港で、最後まで母港は無かったのだった。いつでも戻れる母なる港は。



 前の自分が生きた時代はそういう時代。シャングリラに母港が無かった時代。
 赤いナスカには長く留まったし、定住したいと若い世代が言い出したほどの星だったけれど。
 彼らがナスカに執着したせいで惨劇が起こってしまったけれども、あのナスカでも衛星軌道上に浮かんでいただけのシャングリラ。港ではなくて、暗い宇宙に。
 ナスカの宙港が狭かったこともあったとはいえ、やはり止められなかったエンジン。万一の時を考えるならば、シャングリラのエンジンを止めてはならない。
 だからナスカには下りられなかった、シャングリラの母港はナスカでも無いままだった。
(流浪の民か…)
 ナスカに基地を築いたとはいえ、地球に向かうまでの仮住まいに過ぎなかった星。長く続いた放浪の旅で疲れ果てた仲間たちを降ろして休ませた星。
 いずれは地球へと旅立つのだから、ナスカがあってもミュウは流浪の民だった。乗っている者が流浪の民なら、その箱舟も同じだろう。母港を持たない流浪の船。
 母港が無ければ、全機関の停止は有り得ない。けしてエンジンは止められない。
 白い鯨へと改造するために無人の惑星に下りていた時も、大部分の機関は動いていた。メインのエンジンの改造中には補助のエンジンがフル稼働していたし、他の機関も、ワープドライブも。



 ついに一度も見ないままだった、エンジンを止めたシャングリラ。
 そんな指示など出せはしなかったし、出せる状況にもいなかった。エンジンを止めていい母港は無かったのだから。シャングリラは母港を持たないままで地球へと向かったのだから。
(…前の俺が言葉を知らないわけだ…)
 船を停めるための。シャングリラを入港させる時に使う言葉を、前の自分は使わなかった。その必要が無かったから。使う場面が無かったから。
 港が無いなら、船は停まらない。
 陥落させた星の宙港に下りる時には、何らかの形で指示を下した筈だけれども…。
(俺は、なんて言っていたんだっけな…?)
 シャングリラ発進、という言葉は何度も使った。様々な場面で、色々な場所で。
 人類に追われてアルテメシアを後にした時も、「シャングリラ、発進!」と命じていた。重力圏からのワープなどという前代未聞の荒技での旅立ち、仲間たちの士気を鼓舞するように。
 前のブルーを失くしてから戻ったアルテメシアでも、地球に向かって旅立つ時にはそう言った。
 けれども、その後の旅路で幾つもの宙港に下りた時には…。
(…着陸でもなし…)
 思い出せん、と頭を振った。これだった、という言葉が欠片も出て来ないから。
 多分、その時々で違ったのだろう。
 降下してゆく星の状態などに合わせて、高度をどのくらいで保持とか、そういった風に。宙港に船を停めておくにしても、エンジンは稼動したままなのだから「このまま停船しておけ」だとか。
 そう、地球へ降りる時にもシドに命じた記憶があった。
 「衛星軌道上で停船、ただしエンジンは万一に備えて動かしておけ」と。



 その場に応じて変わっていたらしい、シャングリラを停めておくための言葉。
 停めると言っても、エンジンは止まらないのだけれど。本当の意味では止まっていなくて、船は動いていたのだけれど。
(つまり決め台詞が無かったわけだな)
 「シャングリラ発進」という言葉はあっても、無かったらしい、その逆の言葉。シャングリラを格好よく停めるための言葉。
 ならば作るか、という気がしてくる。
 白いシャングリラは時の彼方に消えたけれども、今の自分のシャングリラ。前の自分のマントの色をしている愛車。あれのためにも作ってやるか、と。
 自分が「ただいま」と家に、母港に帰って来るなら、今のシャングリラにも相応しい言葉を。
 ガレージという名の母港に入る時のための言葉を、ピタリと停めてやる時の言葉を。
(ただいま、と声に出して家に入ってはいないがなあ…)
 そう言ってみても、待っている人がいないから。一人暮らしの家だから。
 けれども帰る家があるから、心では言っている気がする。「ただいま」と一人で扉を開けて。
 俺の家だと、今日も家まで帰って来たぞ、と。



 それに、今は一人の家だけれども、些か大きすぎる家なのだけれど。
(いずれはブルーが…)
 待っていてくれる日が訪れる。
 まだ十四歳にしかならないブルーが、前と同じ姿に育ったら。結婚出来る年を迎えたら。
 二人で暮らせるようになったら、「ただいま」と声に出すことだろう。今のシャングリラだとも言える愛車をガレージに停めて、庭を横切って、玄関を開けて。
 ブルーは奥で待っているのか、それとも気付いて玄関先まで出て来るか。「おかえりなさい」と迎えるブルーに、「ただいま」と笑顔を向けるのだろう。
(そうなってくると…)
 小さなブルーと決めるべきだろうか、シャングリラを停めるための言葉は。
 ブルーとはドライブにも出掛けるのだから、いずれブルーも目にする場面。今のシャングリラをガレージに入れて、ピタリと停める時に使える決め台詞は…、と考えているのが自分だから。
(そうだな、あいつはソルジャーだしな?)
 今のブルーに「何か無いか?」と尋ねてやったら、大喜びで案を出しそうだけれど。
 それよりも前に、ソルジャーだった頃のブルーが案を持っていた可能性がある。いつか地球へと夢見たブルーは、シャングリラが役目を終えた後のことも何度も語っていたのだから。
 地球に着いてソルジャーとキャプテンの立場から解放されたら、色々なことをやりたいと。
 ソルジャーもキャプテンも要らないのならば、もうシャングリラも停まっている筈。エンジンを止めて、仲間たちも船から降りてしまって。
 その日を夢見たブルーだったら、具体的な案を考えていたかもしれない。
 前のブルーは言えずに終わったけれども、言おうとしていたシャングリラの旅の終わりの言葉。
 キャプテンだった自分ではなくて、ソルジャーが命じる停船の言葉。
 旅は終わりだと、シャングリラはついに地球まで辿り着いたのだから、と。



(その可能性は大いにあるな…)
 ブルーだからな、と頬が緩んだ。
 青い地球に焦がれ続けたブルー。いつか行きたいと何度も語っていたブルー。
 地球に焦がれて、焦がれ続けて、とうとうフィシスを攫ったくらいに。フィシスがその身に抱く映像、青い地球へと向かう旅の景色。それが欲しいと、望んだ時にいつでも見られるようにと。
 それほどに焦がれた青い地球なら、その青い地球に白いシャングリラを停める時の言葉も…。
(…持っていそうなんだ、あいつだったら)
 其処までの旅路を終えた仲間を労う言葉と併せて、それも。旅をした船を停める言葉も。
 キャプテンだった自分に代わって、ブリッジに立って命じる言葉を。
 シャングリラの舵を握ったキャプテンに向かって言うべき言葉を、白い鯨を停める言葉を。
 それがあるなら、使ってみたい。今の自分のシャングリラに。いつかはブルーと乗る愛車に。
(明日、訊いてみるか…)
 あったのかどうか、と少し温くなったコーヒーのカップを傾けた。
 明日は土曜日、ブルーの家に行く日だから。ブルーと一緒に過ごせる日だから。



 次の日、ブルーの家に出掛けて。小さなブルーの部屋で二人で向かい合うなり、忘れないでいた質問を早速投げ掛けた。
「おい、シャングリラを停める言葉を知ってたか?」
「え?」
 シャングリラって…、とブルーが首を傾げる。停める言葉って、どういう意味、と。
「白い鯨だ、前の俺たちが乗ってた船だ」
 あのシャングリラを停めるための言葉ってヤツをだ、どうやら俺は知らないようだ。
 …忘れちまったっていうんじゃなくてだ、最初から存在しなかったらしい。
 前のお前が生きてた間は、港に入るって場面が無くてだ、一度も言ってはいなかったんだが…。
 言う必要すら無かったわけだが、その後も使う場面が無かった。
 シャングリラには母港が無かったからなあ、エンジンを止めることは無かったわけだ。いつでもエンジンは動きっ放しで、止めてはいない。…最後までな。
 前の俺が地球に降りる時にも、「エンジンは止めるな」とシドに言って降りた。
 そんな具合だから、シャングリラのエンジンを止めて本当に停める時の言葉を知らないんだ。
 もちろん、アルテメシアやノアの宙港に降りてはいたんだが…。
 そういう時には、状況に応じて言っていたらしい。こんな手順で停船しろ、と。エンジンは常に動かしたままで、高度なんかを保ってな。
 …しかし、前のお前は地球に行こうと夢を見て、幾つもの夢を抱えて。
 地球に着いたらやりたいことを山ほど持っていたのがお前だ、それだけに地球に辿り着いた後のことも考えていたのかもな、と思ってな…。
 仲間たちに贈るための言葉と、シャングリラの旅の終わりを告げるための言葉と。
 前の俺に向かって「エンジン停止」と命令するとか、着陸だとか。
「…えーっと…。訊いてくれたのは嬉しいけれど…」
 その発想はぼくにも無かったよ。
 シャングリラのエンジンは動いてるもので、止めるなんて想像もつかなかったから…。
 だって、止めたらステルス・デバイスまで止まってしまうんだものね。



 前のぼくは地球へ行く夢を見ていただけだから…、と困ったように微笑むブルー。
 そうでなくてもシャングリラの操船はキャプテン任せで、地球に降りる時にもそのつもり、と。
 仲間たちを労う言葉はともかく、シャングリラに関しては任せておくだけ、と。
「シャングリラはハーレイが動かしてたんだし、前のぼくは乗っていただけだよ?」
 ハーレイから報告は聞いていたけど、ぼくはシャングリラを動かしてないし…。
 地球に降りるからって、ぼくが其処だけ指揮を執ったら変になっちゃう。
 間違ったことは言ってなくても、シャングリラの指揮はソルジャーの役目じゃないしね。
「なるほどな…。前のお前がそうだったのなら…」
 やはり決め台詞は無しってことだな、困ったことに。
「…決め台詞?」
 なんなの、それって何に使うための決め台詞なの…?
「大したことではないんだが…。今の俺が乗ってるシャングリラが、だな…」
 俺の車だ、俺が運転している以上はアレもシャングリラには違いない。今の俺用の。
 そいつを昨日、ガレージに入れようとしたら相応しい言葉が無かったんだ。
 前の俺は散々「シャングリラ発進」と言ってたわけだが、その逆が無かった。使う場面がまるで無いんじゃ仕方ないがな、今は事情が違うだろうが。
 あの頃のシャングリラには母港が無くてだ、エンジン停止は有り得なかったが…。
 俺の車にはガレージという名の母港があるのに、とショックだと言うか、ガッカリと言うか…。
 いっそお前と考えようかと思ったわけだな、車を停めるための決め台詞を。
 それで、もしかしたら前のお前にアイデアがあったかと思ったんだが…。
 前のお前も持っていなかったか、決め台詞。
 さて、シャングリラをどうやって停めたもんかな、今のシャングリラは車だがな。



 宇宙船とは違うんだが…、とブルーの瞳を覗き込みながら。
「お前だったら、なんと言ってみたい?」
 俺の車をガレージに入れて停める時には、なんと言いたい?
「…どうして、ぼくと一緒に考えるの?」
 ハーレイの車の話なんだよ、ぼくに訊くよりハーレイが自分で考えた方がいいと思わない?
 その方がきっとハーレイらしくて、かっこいい言葉になりそうだけど…。
「忘れちまったか? 俺の車の役目ってヤツを」
 俺の車は、俺たちのためだけのシャングリラになる予定だろうが。
 今は緑の車なわけだが、いずれはシャングリラと同じ白い車にするのもいいなと言った筈だぞ。
 お前は俺の隣に座って、俺に注文するわけだ。何処に行きたいとか、此処で止めてだとか。
「そうだっけね…!」
 我儘を言っていいんだっけね、もっと遠くまで行ってみようとか、もう帰ろうとか。
 ちょっと止めてだとか、ぼくの好きなように。



 でも…、と考え込んでしまったブルー。
 どんな言葉があったっけ、と。
「シャングリラを停めるための言葉は無かったし…。前のぼくだって考えてないし…」
 ギブリとかなら着艦だとか言っていたけど、あれはシャングリラに降りるための時で…。
 地面に下りるなら着陸だろうけど、シャングリラもそれでいいのかな?
 宙港だったら、どう言って宇宙船を下ろしているわけ…?
「さてなあ…」
 どう言うんだかなあ、宙港に船を下ろす時には。
「ハーレイ、ホントに知らないの?」
 エンジンは止めていなかったにしても、シャングリラは宙港に下りてたんでしょ?
 アルテメシアでも、ノアとかでも。
「それはそうだが…。さっきも言ったろ、エンジンを止めてなかったからな」
 本当の意味で停めたわけじゃなかった、だからそいつの言い方は知らん。
 キャプテン時代に使ってないしな、今の俺が知るわけないだろう。
 ただの古典の教師なんだぞ、宇宙航学なんぞは知らん。
「…それじゃ、シドのを調べたら?」
 データベースにあるんじゃないかな、キャプテン・シドの時代のデータも。
 シャングリラは色々な星に行ったんだし、シャングリラを停める言葉だってあるよ。
 エンジンを止めてもいい時代だから、ハーレイの目的にピッタリなのが。
「それも一つの方法なんだが…。他人の言葉を使うよりかは、オリジナルだろ?」
 宇宙航学じゃ、なんて言うのか調べるにしても、シドに頼るよりは俺の力でだな…。
 でもって、そいつをアレンジするのがいいと思わないか、本物の船じゃないんだから。
「うん、そういうのも良さそうだよね」
 宇宙船だったらピッタリな言葉でも、車だったらピンと来ないかもしれないし…。
 車は着陸しないんだものね、ガレージに入れるのに着陸だと可笑しくて笑っちゃいそう。
 素敵な言葉が見付かるといいね、ハーレイの車にピッタリのシャングリラを停める言葉が。



 今はまだ、お互い、アイデアは無いけれど。
 車になったシャングリラを停める言葉は、一つも思い付かないけれど。
 いつかブルーを助手席に乗せて、ドライブに出掛けられるようになったら…。
「これだ、っていうのを考えなくちゃな、シャングリラ用の」
 シャングリラは車になっちまったんだが、そいつに似合いの停めるための言葉。
「ハーレイと二人で考えようね、似合いそうなのを」
 ぼくも頑張ってアイデアを出すから、ハーレイも色々考えてよ。
 うんとかっこいい言葉がいいよね、「シャングリラ、発進!」って言ってたハーレイはとっても素敵だったから。
 あれに負けないほどかっこいい言葉で車を停めてよ、キャプテンらしく。
 車だけれども、ハーレイがキャプテン。
 だって、ぼくたちのシャングリラなんだから。
「分かっているさ」
 制服を着るってわけにはいかんが、そこは格好よく決めないとな。
 そうでなければ決め台詞にする意味が無いしな、シャングリラを停めるにはこれだ、ってな。



 いつかブルーが前と同じに大きくなったら、ドライブに行けるようになったら。
 ブルーと二人で言葉を決めよう、二人で乗ってゆくシャングリラを停めるための言葉を。
 車になったシャングリラを母港に、ガレージに停めるための言葉を。
 そして二人で車から降りて、家という名前の港に着く。
 暗くなっても暖かな明かりが点く家に。
 次々に明かりを点けて回って、それから始まる幸せな時間。
 二人だけのためにある幸せ一杯の港に入って、笑い合ったり、食事をしたり。
 今のシャングリラを停めておける家で、いつまでも二人で暮らしてゆける家で…。




             船を停める言葉・了

※「シャングリラ、発進」という言葉はあっても、無かったものが停船する時の言葉。
 前のハーレイは使わないままで、今でも思い付かないのです。いつかブルーと考えたいもの。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










PR

(あれ?)
 こんな所に、とブルーの目に付いたもの。
 学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中の道端で。舗装された道にコロンと落っこちていた真っ白な石。丸くて、小さくて、可愛らしい石。親指と人差し指とで作る輪っかより少し大きい、手のひらに載せたら真ん中にストンと収まりそうな。
(ちょっとウサギみたい?)
 そう思って屈んで拾い上げた。真ん丸ではなくて、卵にも似た楕円形。それが丸っこいウサギの身体みたいに思えたから。長い耳も尻尾も無いけれど。
(…やっぱりウサギ…)
 手のひらに載せてまじまじと見たら、一層ウサギに見えてくる。ただの真っ白な石だけれども、ペンか何かで耳や目などを描いてやったら立派なウサギになるだろう。そういう石の細工物を見たことがあった、丸い石に絵を描いて出来る動物。自分が見たのは猫だったけれど。
 両親と出掛けた時に覗いたギャラリー、ズラリと並んでいた石の猫たち。それと同じにこの石はウサギ、中にウサギが入っている石。白いウサギが中に一匹。
(絵を描かなくても、ウサギに見えるよ)
 ウサギみたい、と拾ったからにはウサギの石。耳も尻尾もついていなくても。
 きっと直ぐ横の石垣のある家、其処から落ちて来たのだろう。それほど高くはない石垣で、上に生垣。何かのはずみに生垣の外へと転がってしまって、そのまま道まで落っこちた。
 石は自分で戻れないから、道端でポツンと人が通るのを待っていたわけで…。



 拾った小石をチョンとつついて、滑らかな表面を撫でてみて。
(戻してあげなきゃ…)
 白いウサギが落ちて来たらしい、石垣の上の庭の中へ。生垣越しに覗いてみたら、丸っこい石が幾つも敷かれているようだから。庭の端っこを彩る飾りで、色も大きさも色々あるし…。
 石のウサギは間違いなく此処から落っこちた。通り掛かった猫のオモチャにされたか、カラスがつついて落っことしたか。生垣の向こうに押し出されてしまって、石垣をコロンと転がり落ちて。
 あんなに幾つも石があるなら、石のウサギには恋人がいるかもしれないから。
 落っことされて帰れなくなったと泣いているかもしれない小石。恋人と離れ離れになった、と。生垣の向こうでも石のウサギの恋人がオロオロとしていそうだから。いなくなってしまった恋人を探しに行こうとしたって、石垣からは降りられないから。
(恋人、茶色のウサギなのかも…)
 ハーレイと二人で何度も話した、ウサギの話。もしも自分がウサギだったら、ハーレイも茶色いウサギになるという話。そういう話を何度もした後、お互いウサギ年だと分かったから。ウサギの話はグンと身近になってしまって、白いウサギと茶色のウサギ。そういうカップル。
 この石のウサギの恋人も茶色い石かもしれない、見れば「ウサギだ」と思う石。この石よりかは大きい小石で、並べて見たならハーレイと自分に見えそうな石。
(ホントにそうかも…)
 そうだったとしたら面白い。石のウサギには茶色い石のウサギの恋人、いつも庭で一緒。
 仲良くしてね、と白い石のウサギを生垣の奥へと戻しておいた。茶色いウサギは生垣が邪魔して見えないけれども、きっと何処かにいるんだよね、と。
 ちゃんとくっついて、落っこちないように気を付けないといけないよ、と。



 石のウサギに「さよなら」と手を振って、家に帰って。
 着替えを済ませてダイニングでおやつの時間だけれども、庭を眺めたら思い出す石。石垣がある家の庭に戻した、真っ白でコロンと丸かった石。
(どうしてるかな、石のウサギ…)
 もう恋人と出会えただろうか、置いてやった場所から恋人の姿は見えただろうか?
 今はまだ少し距離があるかもしれないけれども、その内にまた寄り添い合えることだろう。元の通りに恋人同士で仲良く二人で。石のウサギでも二匹より二人、恋人同士に似合いの言葉。
 いいことをした、と嬉しくなった。
 道端で見付けて拾い上げて戻してあげた庭。落っこちていた石のウサギは庭に帰れた。
(ぼくとハーレイみたいに幸せ…)
 いつでも一緒で、これからも一緒。
 ずっと仲良くいられますように、と石のウサギの幸せを願う。茶色いウサギと仲良くしてねと、いつまでも二人で幸せでね、と。



 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、忘れられない白い石のウサギ。
 あれは河原の石だったから。人間が削って丸く仕上げた石とは違って、川の流れが気の遠くなるような長い時間をかけて磨いた石だったから。
 そうやって生まれた石のウサギなら、ああいうウサギになったなら。
(ずっと仲良し…)
 石のウサギに恋人のウサギがいるのなら。茶色いウサギがいつも隣にいるのなら。
 同じ川の流れで一緒に生まれて、河原の石を集める人に拾われて、あの家の庭までやって来た。離れないまま、同じ袋に詰め込まれて。同じトラックか何かに乗って。
(運命の恋人…)
 ぼくたちみたい、と頬が緩んだ。ぼくとハーレイ、と。
 前の自分たちがそうだったから。生まれた時には別だったけれど、その頃の記憶は全く無くて。成人検査と人体実験で失くしてしまって、お互い覚えていなかった。養父母の顔も、育った家も。
 前の自分もハーレイも二人して、記憶の始まりはアルタミラにあった研究所。
 そのアルタミラがメギドの炎に滅ぼされた日に初めて出会って、同じ船で逃げて。長い長い時を共に暮らして、恋をして、いつも一緒にいた。
 互いの居場所が違う時にも、心はいつも寄り添っていた。白いシャングリラで、どんな時にも。
 本当に運命の恋人同士で、出会った時から特別だった。
 恋だと気付いていなかっただけで、あの瞬間から一目惚れ。誰よりも息が合った二人で、だからキャプテンを決める時にもハーレイを推した。その名が候補に挙がっていたから。前の自分の命を誰かに預けるとしたら、ハーレイがいいと思ったから。
 それでも恋だとまだ気付いてはいなかったけれど。ハーレイの方でもそうだったけれど。
 シャングリラが白い鯨になった後にもまだ気付かなくて、お互い、本当にのんびりで。
 けれども恋が実った後には、いつも一緒で、離れている時も心は寄り添い合っていたのに…。



(ぼく、落っこちちゃった…)
 帰り道に出会った石のウサギみたいに、石垣からコロンと。
 石垣ではなくてシャングリラからコロンと落ちてしまった、たった一人でメギドへと飛んで。
 いつまでも一緒だと誓ってくれたハーレイとも別れて、さよならのキスも出来ないままで。
 おまけに最後まで持っていたいと願ったハーレイの温もりも失くしてしまって、右の手が凍えて独りぼっちで迎えた最期。もうハーレイには会えないのだと泣きじゃくりながら死んでいった。
 石垣から落っこちてしまった自分。茶色い石のウサギと離れて、一人きりで。
 それを神様が拾い上げてくれた。落っこちたのだと気付いてくれて。
 白いシャングリラに戻す代わりに、ハーレイと一緒に元の河原へ戻してくれた。母なる地球へ。
 全ての生き物を生み出した星へ、青い水の星へ。
 前の自分も前のハーレイも、地球から生まれて来たのだから。SD体制が始まるよりも遠い昔に地球で生まれた誰かの子孫で、命の源は地球なのだから。
 前の自分が焦がれた星。石のウサギが生まれた星。



 白くて丸かった石のウサギ。石垣から落ちてしまったウサギ。
(あの石ころには、ぼくが神様?)
 茶色い石のウサギの恋人がいるのなら。落っこちてしまった石のウサギを心配していた、恋人のウサギが庭の石の中にいたのなら。
 きっといる筈だと思う。
 前の自分たちがそうだったように、あの石のウサギにも運命の恋人の石のウサギが。
(だって、ぼくよりも前に…)
 誰かが通って石のウサギに出会っていたなら、拾う代わりに蹴っていたかもしれない。靴の先でコンと蹴ってみるには丁度いい大きさだったから。たまには石蹴り、と考える人もいるだろう。
 蹴られていたなら、もうあの庭には帰れない。あそこから落ちたと分からなくなるし、また他の人にポンと蹴られてしまって、どんどん遠くへ行ってしまうこともあるだろうから。
 自分よりも幼い子供だったら、持って帰ってしまいかねない。宝物にしようと、石のウサギを。白くて綺麗な丸い石だし、宝物にはピッタリだから。
 石のウサギがそんな目に遭う前に、誰よりも早く通り掛かったのが自分。何もしないで通過した人もあっただろうけれど、それではウサギは元の庭には帰れない。
 上手い具合に自分が通って、拾って、石垣の上へと戻してやった。恋人のウサギが待っていると思って、あの庭へ。そういう気持ちになったからには、茶色いウサギはきっといる。あの庭に。
(…前のぼくと重なっちゃったから…)
 拾い上げたのかもしれない、石のウサギを。
 ウサギみたい、と何の気なしに拾ったけれども、心の底ではとうに重ねていたかもしれない。
 白いウサギは自分なのだと、茶色いウサギのハーレイもいると。
 落っこちてしまった石のウサギは、前の自分を見ているようだと。



 ただの石ころだったのだけど。本物のウサギではないのだけれど。
(でも、河原の石…)
 川で生まれた自然のウサギ。元は丸くはなかったろう石、それがウサギの形になった。長い耳も尻尾も無かったけれども、ウサギを思わせる形の石に。
 人が磨いたわけではなくて、川の流れが作り上げたウサギ。長い長い時をかけて何度も転がし、丸い形に磨き上げて。
(きっと魂が入ってるんだよ)
 川の流れが、神様が作ったウサギの形の石だから。真っ白なウサギだったから。
 恋人の茶色いウサギだっている、もちろん川から生まれたウサギ。白いウサギと一緒に流れて、川の中をあちこち転がりながら生まれた茶色いウサギ。
 同じウサギ年のハーレイと自分、恋人同士の自分たちのように。
 運命の恋人同士に生まれた石のウサギのカップルがきっと、あの庭に住んでいるのだろう。
 生まれた川から運ばれて来て、一緒に庭の飾りになって。
 石垣からコロンと落っこちてしまった白いウサギも無事に戻って、これからもずっと二人一緒に仲良く暮らしてゆくのだろう。
 石に二人は変だけれども、ウサギで二人も変なのだけれど。



 恋人同士の石のウサギたち。川の流れが生み出したウサギ。
(河原の石…)
 本当にとても不思議だと思う、硬い筈の石が丸くなる。ゴツゴツしていただろう石が川の流れに磨かれ、長い時をかけて滑らかになる。石のウサギも生まれてくる。
 人が磨くなら機械を使えば簡単だけれど、それをしないで自然が生み出す丸い石。
(地球だからだよね?)
 この地球は水の星だから。
 テラフォーミングされた星とは違って、本物の川が幾つも流れている星だから。
 前の自分が白いシャングリラで長く潜んだ雲海の星にも、川は流れていたのだけれど。青い海も存在していたけれども、地球のそれとは違ったもの。人間が暮らす都市の周りに築かれただけで、川の流域は長くはなかった。石のウサギを作れるほどには。
 今の時代はかなり技術が進んだけれども、やはり蘇った青い地球には敵わないという。どんなに整備しようとしたって、何処か作り物めいた川や海になると。その星で人間が生きてゆける範囲で海を作って、川を作ってゆくしかないと。
(…そんな川だと、石のウサギだって…)
 地球のようには簡単に生まれないだろう。川の長さが足りない分だけ、流れ下る水の量が少ない分だけ、石を磨くには時間がかかる。河原に自然と丸い石ころが積み上がるまでには、途方もない時が必要な筈。
 蘇った今の地球の上なら、石のウサギは川に行ったら見付かるだろうに。
 源流で探すのは無理だけれども、いくらか流れ下った川なら、河原に下りてゆける川なら、石のウサギは何処でも探して拾えるだろうに。
(白いウサギも、茶色いウサギも、拾い放題…)
 これがそうだと思う石を拾って持って帰れるし、耳や尻尾を描いたっていい。拾っては駄目だと言われはしないし、だからこそ帰り道で出会った石のウサギもあの家の庭にいたのだから。



 河原の丸い石を持って帰るのも、庭の飾りにしてしまうのも、地球ならば自由。
 流石にトラックで乗り付けたりして、物凄い量を積み込んでいたら「許可は貰いましたか?」と訊きに来る人があるだろうけれど。「景観を損ねてはいけませんよ」と。
 けれども、自分で持てるくらいなら幾つ拾ってもかまわない。許可を得ている石材店なら、川の見た目を損なわない範囲で沢山持っても帰れるのだし…。
(トラックに何台分も貰える時だってあるんだよね?)
 地球を流れる川は長いから、自然と石が溜まってしまう。放っておいたら川の流れが変わったりするから、そうならないよう、石を取り除く工事をする。そういう時には、河原の石は工事業者が大量にどけて、石材店などが貰ってゆく。それこそトラックに何台分も。
 地球の川ならではの贅沢な光景、自然が磨いた石を山ほど取っていい時。
(石のウサギが何百匹も…)
 もっと凄くて何千匹だろうか、あの家の庭の石のウサギはその中のカップルだっただろうか?
 一緒にトラックに積んでゆかれて、選り分けられた後もずっと離れずに。
 そう思ったら、ふと…。



(石…?)
 頭に浮かんだ河原の石を積んだトラック、そちらは何とも思わないけれど。
 荷台に積まれた石が問題、大量の丸い石ころの山。川で生まれた石のウサギたち、白いウサギや茶色のウサギ。それが混ざった河原の石ころ、地球の石たち。
 何故だか記憶に引っ掛かる。地球の石だ、と。
(なんで…?)
 それが欲しかったという記憶。河原の石なら拾い放題、いつでも拾いに行けるのに。幼い頃には両親と河原で遊んだ時などに拾ったのだし、幼稚園や学校の遠足でも。
 今だって拾いに行こうと思えば路線バスに乗って川の近くまで行きさえすれば好きに拾える。
 わざわざ欲しいと思わなくても、「欲しかった」と残念がらなくても。
 そうなってくると、この記憶は…。
(前のぼく…?)
 河原の石など欲しがったろうか、アルテメシアに川はあったけれども。テラフォーミングされた星の川だけに、地球の川とは違った筈。人工的だった堤や河原に特に惹かれはしなかった筈で。
 それなのに何故、と遠い記憶を手繰ってみて。
 欲しかったと思った河原の石ころ、それは何かと考えていて…。
(そうだ…!)
 あれだ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
 前の自分がそれを見ていた。
 アルテメシアの博物館で。仰々しく展示ケースに収められたそれを、河原の石を。



 ソルジャー・ブルーだった頃の自分。ガラスケースの向こうの石。
(地球の石…)
 博物館で特別展示をされていた石。
 前の自分がどうやって知ったかは今では思い出せないけれども、「地球の石が博物館に来る」というから、閉館した後にコッソリ入った。警備システムなど、前の自分には存在しないも同然で。巡回してくる警備員にしても同じことだから、たった一人で展示ケースを覗き込んだ。
 昼の間は大勢の人類が行列していた「地球の石」。それを一人で独占しようと、心ゆくまで見て帰ろうと。今はまだ座標も掴めない地球、その地球から来た石を見ようと。
(…あれも石のウサギ…)
 ガラスケースの中にいたのはコロンと丸い石ころだった。川で磨かれた白い石のウサギ。
 あの頃の自分はウサギだとは思っていなかったけれど。
 説明文を読み、川の流れが磨き上げた石だと知って覚えた深い感動。これこそが青い地球からの恵みなのだと、水の星でしか生まれない石なのだと。
 草や木ならば、テラフォーミングした星でも同じに育つけれども。地球のそれと変わらない花を咲かせるけれども、川で生まれる石は出来ない。石をここまで丸く出来るだけの川の流れは、人の手ではまだ作り出せない。豊かに流れる川を生み出す技術は無いから。
 そう、あの時代はそうだった。どんなに時間をかけたところで、石を磨ける川は無かった。技術不足で足りない流量、川の長さも流れも充分ではなかったから。
 だから見入った、地球で生まれた真っ白な石に。水が磨いた丸い石に。
 なんと素晴らしい石だろうかと、地球にはこれほどに豊かな水があるのかと。
 地表の七割を海が覆う地球。
 その地球でなければ生まれない石、地球を初めて身近に見たと。



 一目で魅せられた地球の石。青い水の星が生み出した奇跡。
 それに焦がれた、白く丸い石に。青い地球ではないというのに、地球の欠片に過ぎないのに。
(欲しかったんだっけ…)
 ただ丸いだけの白い石なら要らないけれども、地球で生まれた石だから。地球を潤す川が磨いて丸く仕上げた石だったから。地球の記憶も、水の記憶も、その身に刻み付けた石。
 美しいと思った、まるで地球のように。青い母なる星のように。
 いくら眺めても飽きなかったから、何度も通った、博物館が閉館した後に。昼の間はごった返す特別展示を一人占めして、ケースの向こうを覗き込んで。
 いっそ盗もうかと思ったくらいに欲しかった石。地球の記憶を宿した石。
 あれはフィシスが来る前だった。地球へと向かう旅の映像はまだ持っていなくて、青い水の星はデータだけ。シャングリラのデータベースにあった分だけ、それが全てで。
 だから余計に石が欲しくなった、「あの石があれば地球に手が届くのに」と。
 もちろん本当に届きはしないし、人類はミュウを認めもしないけれども、行きたい地球。いつか行こうと夢見ている星。その地球の記憶を宿している石、それがあったら幸せだろうと。水の星の奇跡が生み出した石は、地球の大地に触れた気持ちをきっと運んでくれるのだろうと。



 欲しくて、欲しくて、手に入れたくて。
 けれど、人類の宝だから。人類もまた、地球に焦がれているのだから。選ばれた者しか行けない地球。それゆえに特別展示が人気で、地球の石を見たいと大勢の人類が博物館に行くのだから。
(諦めてた…)
 自分が奪ってしまっては駄目だと、あれは人類の宝だからと。
 それでも惹かれる、地球の石に。コロンと丸くて白い小石に、地球の川が磨いた白い石に。
 足を運んでは深く魅せられ、手に入れることは許されないと密かに何度も零した溜息。
 それをハーレイに見抜かれたのだった、もうすぐ展示が終わるという頃に。
「ブルー…。何かお気にかかることでも?」
 おありでしょうか、と尋ねられた青の間。ハーレイの勤務が終わった後に。
「なんでもないよ」
 気のせいだろう、と返したのだけれど。
「いえ、そうだとは思えません。この所、ずっと遠くを見ていらっしゃるような…」
 アルテメシアではなくて、もっと遠い所。宇宙でも御覧になっておられるかのようで…。
 心配事がおありでしたら、どんなことでも伺いますが。
 …あなたの恋人としてはもちろん、キャプテンの方の私にしても。



 ハーレイの鳶色の瞳は、前の自分への気遣いに溢れたものだったから。
 心配の色まで見えていたから、嘘はつくまいと打ち明けた。「地球の石だよ」と。毎日のようにそれを見ていると、シャングリラからも心の瞳で見てしまうのだと。
「サイオンを使えば、人類だらけの昼の間でも見えるからね。この船から」
 展示ケースだけに狙いを定めて、見ようと思いさえすれば。
 …でも地球の石は、もうすぐ他の星に運ばれて行ってしまうんだよ。
 見たいと思っても見られなくなる。シャングリラからも、博物館の中に行っても。
 そう考える度に、あの石が欲しいと思ってしまうんだ。
 だから余計に見てしまって…。心配かけてごめん。
「あなたの力なら奪えるでしょうに、地球の石など簡単に」
 持ってお帰りになればいいのです、こんな所で溜息をついていらしゃる間に。
 今は夜ですし、警備の者たちも朝まで気付きはしないでしょう。ケースから石が消えた所で。
「そうなんだけれど…。人類の夢が詰まった石だよ、それに希望も」
 元老だとか、メンバーズだとか。そういった一部のエリートだけしか地球には行けない。
 その夢の星の石を見たいと、人類だって行列してるんだ。子供を連れた養父母たちも、養父母としての義務が終わって引退している者たちも。
 …次に行く星でもそうなんだろうね、みんながあの石で夢を見るんだよ。地球にはこういう凄い石があると、川の水だけで石が磨かれて丸くなるんだと。
 その夢の石を、子供たちにとってはいつか行きたい希望の星の石を奪えるかい?
 ぼくの勝手な欲望だけで。
「それはそうかもしれませんが…」
 人類にとっても、地球は夢の星なのが普通のことで、養父母のコースを選んだ者には見ることが叶わない星なのでしょうが…。
 子供たちにしても、余程のエリートにならない限りは、地球に降りられはしないのですが…。
 ですから、人類の夢と希望が詰まった石だと仰るお気持ちは分からないでもないですが…。



 その人類に夢も希望も奪われたのが私たちでは、とハーレイは真実を口にした。
 今でこそシャングリラを手に入れたけども、アルタミラでは夢も希望も無かった筈だと。
「私たちから全てを奪って、人としてすら扱わなかったのが人類ですよ?」
 彼らの仕打ちに比べれば、地球の石くらい…。
 夢と希望の石だと仰るのでしたら、私たちが奪われた分を取り返したっていいでしょう。
 奪ってしまってもいいと考えます、キャプテンとしても、あなたの恋人としても。
 …ソルジャーが盗みを働くというのはどうかと思う、ということでしたら、秘密になされば…。
 船の者たちは地球の石すら知らないのですし、見ても「石か」と思うだけです。
 あなただけの宝物になさっておけば、地球の石だとはバレないでしょう。青の間の係が目にした所で、石は石でしかありませんから。
 そうなさるのなら、私は黙っておきますよ。白い石の正体が何なのかは。
「ううん…。いつか自分で手に入れるよ」
 奪うんじゃなくて、正々堂々と正面から。君と一緒に地球に行ってね。
 このシャングリラでいつか行くんだから、その時でいい。
 それまではぼくだけの夢にしておくよ、地球に行ったらああいう石があるんだから、と。
 川で生まれる石なんだからね、河原に出掛けて君と二人で拾えばいい。
 あの白い石にそっくりな石を、川の流れが磨き上げた石を。
「シャングリラの色の石ですね」
 この船と同じ色をしている石を拾いに、あなたと地球まで行くのですね。
「そうだよ、二人で幾つも拾おう」
 きっと地球には山のようにあるに違いないから。
 白い石だけを選んで拾っていっても、持ち切れないほど河原に落ちているんだろう。
 今は御大層にケースに入って、一つだけ展示してあるけれど。
 地球に行ったら、きっと珍しくもなんともないもので、拾っても拾ってもきりが無いんだよ。
「…それは確かにありそうですね」
 頑張って拾い集めることにしますが、何日経っても一向に終わらないような…。
 あなたも私もすっかり疲れてしまいそうですが、地球ならではの愉快な体験が出来そうですね。



 地球に着いたら、ハーレイと二人、河原で白い石を集める。丸く磨かれた自然の石を。
 まさか本気で全部拾おうとはしないだろうけれど、飽きるまで二人で幾つも幾つも拾おうと。
 そんな夢と希望が溢れる約束をした後、地球の石は旅立って行ったのだった。
 展示期間が終わって梱包されて、次の星へと。
 丸く白い石はもう見られなくなったけれども、ハーレイのお蔭で寂しい気持ちはなくなった。
 いつか拾えばいいのだからと、ハーレイと二人で河原へ行こうと未来への夢が出来たから。
 地球の石が欲しいと思う気持ちを、ハーレイに打ち明けられたから。
 「石が欲しいのなら奪えばいい」と言ってくれたハーレイ、その言葉が自分の力になった。
 奪うよりかは正面から堂々と手に入れてみせると、いつかは地球へ行くのだからと。
 ハーレイがそれを言わなかったら、きっと一人で最後まで悩んでいただろう。
 地球の石は欲しいけれども、手に入れることは許されないと。それでも欲しいと、一人きりで。
 あの地球の石を乗せた船が旅立つのを、悲しい気持ちで見送っただろう。
 もう永遠に見られなくなったと、あの白い石は自分の前から消えてしまったと。



 ハーレイと一緒に拾おうと決めた地球の石。地球の河原にあるだろう石。
 疲れ果てるまで二人で拾う筈だったのに。白い石ばかりを集めて回る筈だったのに。
(…白い石、一つも拾えなかった…)
 前の自分は、地球には辿り着けなかったから。
 寿命が尽きてしまったこともあるけれど、それよりもメギド。仲間たちの未来を、あの白い船を守るために自分はメギドで散った。地球への夢を抱えたままで。青い水の星を一目見たかったと、ハーレイと一緒に行きたかったと。
 地球への夢も、ハーレイとの恋も捨てるしかなかった前の自分の最期。
 白い石を拾いに行く約束などは、もう忘れていた。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右の手が冷たいと泣いた自分は。独りぼっちになってしまったと泣きながら死んでいった自分は。
(…でも、前のぼくが地球に着いていたって…)
 メギドで死なずに、寿命が尽きずに母なる地球へと辿り着いても、其処に綺麗な川は無かった。
 前の自分があると信じた青い水の星は無かったから。フィシスが抱いていた青い地球ですらも、機械が作った幻の星に過ぎなかったから。
 あの頃の地球は赤い死の星で、澄んだ流れは何処にも無かった。
 どう転んだとしても、拾えなかった河原の石。
 前の自分が夢に見ていた、白くて丸い河原の石。川の流れが磨き上げた石。



 今日の帰り道、自分はそれに出会ったけれど。
 前の自分が欲しがった地球の石だとも知らず、石のウサギを石垣の上の生垣の向こうにヒョイと戻してやったけれども、ハーレイの方はどうだろう?
(…ハーレイ、覚えているのかな…)
 石を拾おうっていう約束、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から見れば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
 訊かなくては、と部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、地球の石、覚えてる?」
「はあ?」
 地球の石って…。その辺に幾つも落ちてるだろうが、俺たちは地球にいるんだから。
「そうじゃなくって…。前のぼくが欲しがってた地球の石のことだよ」
 ハーレイは本物を見ていないけれど、ぼくはきちんと話をしたよ?
 アルテメシアに特別展示で来ていた石だよ、川で生まれた丸い白い石。
 欲しかったけれど、人類の宝物だから…。
 奪えないよね、って言ったら、前のハーレイが「奪っていい」って…。人類はぼくたちから夢も希望も奪ったんだし、石くらい奪っていいじゃないか、って。
「ああ、あれなあ…!」
 あったな、そういう話がな。
 俺が奪えと唆したら、前のお前は「正々堂々と手に入れてみせる」と言ったんだっけな。
 いつかシャングリラで地球に着いたら、石は山ほど拾えるんだから、と。



 思い出した、とハーレイが浮かべた苦い笑み。
「…白い石…。拾い損なっちまったな、前の俺たちは」
 お前はいなくなっちまったし、それじゃ二人で石を拾えやしないんだからな。
「うん。…それに、とうに寿命も尽きていたしね」
 地球には行けない、って気が付いた時に、沢山の夢を諦めたけど…。
 あの石もその中の一つだったんだね、ぼくは綺麗に忘れていたよ。
 メギドに行く前に「地球を見たかった」って思ったけれども、白い石のことは忘れてた。
 ハーレイと拾おうって思ってたことも。
「俺もすっかり忘れていたなあ、地球に着いた時は」
 あの地球に川はあったわけだが、ちゃんと宇宙から海も川も見てはいたんだが…。
 それでも全く思い出さなかったな、地球の川に行ったら何があるのかは。
「…やっぱり死の星だったから?」
 赤い星にしか見えなかったから、ハーレイ、河原の石の約束、思い出せなかった…?
「いや。…お前がいなかったからだろう。俺の隣に」
 あの約束を交わしたお前がいないというのに、約束だけを思い出してもなあ…。
 意味が無いだろ、そんな約束。
 今だったらお前が此処にいるんだし、約束にも値打ちがあるってもんだ。
 その上、俺たちは二人で地球に来たんだ、石は幾つでも拾えるぞ?
 それこそお前が疲れ果てるまで、「もうやめようよ」と俺に言うまで、幾つでもな。



 いつか約束を果たしに行くか、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
 シャングリラはもう無くなっちまったが、俺の車で、と。
「河原でもいいし、海辺でもいいぞ」
 好きなだけ拾って集めればいい、前のお前の憧れの石を。
 俺も一緒に拾うんだしなあ、デカい袋でも持って行くかな、うんと丈夫でデカいヤツを。
「えーっと…。河原はいいけど、海まで行ったら砂になっていない?」
 川の流れでどんどん砕けて、海に着く頃には砂なんでしょ?
 それじゃ白い石なんかは落ちていないよ、真っ白な砂は沢山あるかもしれないけれど…。
「そうでもないぞ。石ころだらけの海岸ってヤツもあるからな」
 多分、海辺の岩が砕けて波に磨かれるんだろう。
 もうゴロゴロと転がっているぞ、大きな石から小さな石まで、丸いのがな。



 海でも川でも俺の車で連れて行ってやろう、と指切りをして貰ったから。
 頼もしい約束をハーレイがしてくれたから。
 二人でドライブに行けるようになったら、前の自分たちの夢を叶えに出掛けて行こう。
 川の流れや海の波が磨いた丸い石ころ、それを二人で拾い集めに。
 前の自分が欲しかった石は白い石だったけれど、茶色い石も一緒に拾って。
 白い石を一個拾ったのなら、それに合わせて茶色いのを一個。
 そしてハーレイに「石のウサギだよ」と並べて見せよう、白い丸い石と、茶色い石を。
 「こうするとウサギのカップルみたいだよね」と。
 今の自分も、今のハーレイも、ウサギ年でウサギのカップルだから。
 ウサギになるなら白いウサギと茶色いウサギで、いつまでも一緒なのだから。
 だから丸い石も、白と茶色で。
 ハーレイと二人で幾つも集めて、今の幸せを石のウサギのカップルの数で確かめ合って…。




           白い石のウサギ・了

※前のブルーが出会った、地球の石。欲しくて、けれど「いつかは拾える」と考えた石。
 拾えないままで終わったのですけど、今は好きなだけ拾えるのです。青い水の星の上で。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(おっと…)
 今日は無いのか、とハーレイが覗き込んだパン屋の棚。
 ブルーの家には寄れなかった日、買い出しとばかりに来たのだけれど。田舎パンも、食パンも、バゲットなどもすっかり売り切れてしまった後。いわゆる食事パンが無い。
(…調理パンならあるんだが…)
 サンドイッチや、ピザソースを塗って焼いたパンやら。甘い菓子パンも色々あるのに、何故だか食事パンだけが売り切れ。考えてみれば毎日食べるパンとも言えるし、もっと早い内に買ってゆく人が多いのかもしれない。昼の間に買い物に出掛けて、ついでにパンも、と。
(出遅れちまったか…)
 レストラン部門も併設しているパン屋は、店で焼いているのが売りだから。逆に言ったら商品の売れ行き、それを見ながら追加で焼いたり、焼かなかったりもするだろう。ほんの少しだけズレたタイミング。半時間ほど早く来たなら…。
(どれかはあったと思うんだ)
 それに閉店にはまだ早い時間、あと一時間、もしかしたら半時間経った頃に来たなら、目当てのパンの中の一つが棚に並ぶ可能性はある。今日の間に完売しなくても、明日の午前中に充分売れる食パンやバゲット、そういったものが。



 とにかく、少々、悪かった運。どう見回しても棚に見当たらない食事パン。
 こんなことなら買って来ればよかった、いつもの食料品店で。さっき買い出しに寄って来たから買おうと思えばついでに買えた。あの店でもパンは焼いているのだし、目的のものを。
(あの店のパンも美味いんだが…)
 けして悪くはない味わい。食料品を並べた棚の列とは別の一角、独立した店かと勘違いしそうなパンのコーナー。焼き上がる頃になったらオーブンからの匂いがふわりと漂う。
 其処で買うこともあるのだけれども、今、「パンが無い…」と立ち尽くしている店。この店だと窯が違うのだろうか、それとも熟練の職人の腕か。同じパンでも…。
(グンと美味いと思うんだ…)
 食パンも田舎パンも、バゲットも。だから、時間のある日はこちらで買いたい。わざわざ回ってくるだけの価値はある味、そのためにやって来たというのに。
 欲しいパンは無くて、棚は空っぽ。調理パンや菓子パンは揃っているのに。
(…戻るか?)
 さっきの食料品店に、と思ったけれども、その店までの距離。歩いて戻るなら五分も要らない、苦にもならない僅かな距離。そう、歩くのなら散歩がてらと言える距離。
 ところが仕事の帰りだったから、車なるものを連れていた。前の自分のマントの緑をした愛車。それがパン屋の駐車場にいるし、食料品店に戻るのだったら車も一緒に。
 エンジンをかける手間はともかく、駐車場から出て、また別の店の駐車場まで。パンを買ったら車に戻って、またエンジンをかけて家に帰るわけで…。



 たかがパンのために面倒だろう、と考えた。歩くならともかく、車付きでは、と。
(まあいいさ)
 確か家にも残っていたしな、と食料品店には戻らずに帰宅してみたら。買い込んで来た食料品を冷蔵庫や棚などに仕舞っていったら、ようやく分かったパン事情。
 あると思った筈のパンが無かった、食パンが一切れあっただけ。朝には分厚いトーストを二枚、でなければバゲットや田舎パンで同じくらいの量を食べるのがお決まりなのに。
 どうしたことか、と足りなすぎる量の食パンの袋を眺めていて…。
(そういえば…)
 今朝は多めに食べたのだった。分厚く切ったトーストを三枚、マーマレードとバターをたっぷり塗って。オムレツやソーセージやサラダと一緒に。
 早く目が覚めたから出掛けたジョギング、出勤したら柔道部の朝練があるものだから。しっかり食べねば、とジョギングした分、トーストを一枚追加していた。あれさえ無ければ食パンの残りは記憶どおりで、明日の朝の分まであっただろうに。
(やっちまったな…)
 面倒がらずに買いに戻っておくべきだった、と思うけれども。今から歩いて出掛けていくという手もあるけれど。
(着替えたいしな?)
 スーツ姿で住宅街を散歩したって楽しくない。同じ歩くなら、断然、普段着。
 それに着替えをしている間に、パン屋の方では新しいパンが焼き上がって棚に並ぶことだろう。食パンかバゲット、田舎パンといった類の食事パン。焼き立てを買いにいけばいい。



 頭の中で手順を決めて、スーツを脱いで着替えたけれど。重い上着やズボンの代わりに家で着るラフな服を身に纏ったら、今度はゆっくりしたい気分で。
 のびのびと好きに過ごせる我が家。やっと戻って来たというのに、パンのためにだけ出掛けるというのも些か面倒になって来た。「お座り下さい」と置かれた椅子やらソファを眺めたら。
(パンを買いに行く時間があったらだな…)
 コーヒーを淹れて新聞も少し読めるだろう。夕食の支度を始める前に。
 同じだけの時間をどう使うかなら、そちらの方が有意義だろうと思うから。熱いコーヒー片手に広げる新聞、その方が遥かに贅沢な時間に決まっているから。
(…明日の朝は飯だな)
 パンが足りない分は白米で補うべし、と決断を下した。米なら研いでセットしておけば、明日の朝には炊き立てのものが食べられる。御飯茶碗に好きなだけよそって、パンの代わりに存分に。
 オムレツにもサラダにもソーセージにも、パンと決まってはいないのだから。
 前の自分が生きた時代はともかく、今の地球。今の自分が暮らす地域では、食事のお供に御飯が出るのは当たり前。前の自分ならパンがつくものと思い込んでいた料理などでも、御飯とセットで食べる家の方が多いのだから。魚のムニエルにも、ステーキなどにも御飯というのがこの地域。
(日本の文化というヤツだな)
 気取ったフランス風のコース料理でも、頼めばパンからライスに変わる。白い御飯に。
 そんな具合だから、明日の朝食にトーストと御飯を一緒に並べても、誰も笑いはしないだろう。「朝からしっかり食べるんですね」と、「御飯は腹持ちがいいですからね」と。



 夕食用の御飯を多めに炊くより、明日の朝に炊き立てを食べるのがいい。そう思ったから、要る分だけ炊いて食べた夕食。買って来た魚などを料理する間に御飯は炊けたし、のんびりと。
 片付けを終えたら、書斎でコーヒー。愛用の大きなマグカップに淹れて、運んで行って。
 パンの件は失敗だったけれども、お蔭で二度目のコーヒータイム。普段だったら、帰宅してから二回も取れはしないのに。
(怪我の功名か…)
 こんな日だっていいもんだ、と机の上のフォトフレームの中、小さなブルーに笑い掛ける。俺としたことが、ちょっと失敗しちまったぞ、と。
(明日の分のパンを切らしちまった。…お前だったら、あれで充分足りるだろうがな)
 俺のトーストの一枚分はお前の分だと二枚だよな、と可笑しくなった。食が細いブルーの小さな胃袋、分厚いトーストはとても入らない。朝一番から食べられはしない。
 小さなブルーに自分の失敗談を話してやったら、次は引き出しの中の前のブルーの写真集。前のブルーが寂しくないよう、自分の日記を上掛け代わりに被せてやっている写真集、『追憶』。
 それを取り出し、表紙に刷られた前のブルーと向き合った。こっちにも報告すべきだな、と。



(おい、失敗をしちまったぞ?)
 厨房にいた頃だったら大惨事だな、と心でブルーに語り掛けた。明日の朝食用のパンを切らしてしまったんだと、シャングリラだったら大騒ぎだ、と。
「でもまあ、なんとかなるもんだ。前の俺とは一味違うといった所か」
 今は米の飯がある時代だからな、と声に出してみる。心で語るのもいいのだけれども、声にした方がブルーと話している気がするから。
「何度も教えてやっただろう? 米の飯ってヤツ」
 明日の朝はそいつを炊いて食うんだ、パンが足りない分だけな。
 米ってヤツは実に便利なもんだぞ、俺が弁当を作る時にも米の出番だ。そのままでも美味いし、炊き込み御飯にしたっていいし…。
 味がついた飯の作り方も色々あるんだぞ、と知らないだろう前のブルーに教えてやった。炊けた御飯でも味はつけられると、具だって後から入れられるのだと。
「そうさ、パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、というわけだ」
 元々のヤツでは御飯じゃなくてだ、菓子なんだがな、この台詞。
 高貴なお姫様が仰ったそうだ、「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」とな。
 その応用だな、俺は明日の朝はパンの代わりに御飯なんだ。
 悪くないだろ、と言ってやったら、ブルーがクスッと笑った気がした、「君らしいよ」と。
 「ハーレイはやっぱり料理好きだね」と、「パンが無ければ御飯なんだね」と。



 なんとも自然に心に届いたブルーの声。前のブルーの懐かしい声。
(おいおいおい…)
 打てば響くように返ったブルーの声だけれども、いくらなんでも前のブルーは言わないだろう。お菓子の部分を御飯に入れ替え、ポンと投げ返してはくれないだろう。
(…俺の勝手な夢なんだな)
 シャングリラでは一度も言っていない筈の、あの台詞。「パンが無ければ…」と始まる、有名な言葉。御飯どころか、菓子の方でさえ口に出したことは無いだろう。
 第一、知らなかったと思う。前の自分はあの言葉を。
 今ならではの知識で薀蓄、それを語っても前のブルーが瞬時に反応する筈がない、と自分勝手な想像に苦笑したけれど。あまりに都合が良すぎるだろうと、酷いものだと思ったけれど。
(…待てよ?)
 何故だか心に引っ掛かる。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という遠い遥かな昔の姫君の言葉、広く知られた有名な言葉とシャングリラ。
 それが重なるように思えた、何故か。
 あの船に高貴な姫君などはおらず、世間知らずの極みの言葉も無かったろうに。
 シャングリラの食料は無駄にするなど許されないもの、不足することもまた許されない。あんな言葉が出て来る余地など、あの船には無かった筈なのに。



 けれども、何処かで耳にしたように思えてくるから、なんとも不思議でならないから。
(誰か言ったか…?)
 まさか俺ではない筈なんだが、と遠い記憶を探ってみて。自分ではないと確信したものの、まだスッキリとしないから。
 何度も何度も繰り返してみた、頭の中で。あの言葉を。パンが無ければお菓子なのだがと、あの船では有り得ない状況の筈なんだが…、と。
 そうこうする内、「菓子だ」と掴んだ記憶の手掛かり。パンではなくて菓子の方だと、あの船で菓子を巡る何かが…、と。遥かな時の彼方の記憶。シャングリラと菓子。
 たった一つの小さな手掛かり、それを懸命に手繰り寄せていたら…。
(そうか…!)
 あれだ、と蘇って来た、厨房にいた頃に起こった事件。
 事の起こりは前のブルーが人類の輸送船から奪った食料、あの有名な言葉はその時に生まれた。
 いや、言葉自体は遠い昔からあったわけだし、再発見されたと言うべきか…。



 ある日、ブルーが奪って来た食料をコンテナから運び出してみたら。
 アルタミラを脱出した直後に起こったジャガイモ地獄を彷彿とさせる代物が中に詰まっていた。かつて何度も起こってしまった食料の偏り、それがジャガイモ地獄やキャベツ地獄。ジャガイモは山のようにあるのに他の食材が殆ど無いとか、そういう事態。
 前のブルーが手当たり次第に奪った頃には、よく起こっていた。今ではブルーも選んで奪うし、ジャガイモ地獄は過去のものになってしまっていたのに。
(…焼き菓子地獄だったんだ…)
 他の食料は足りていたのに、どういうわけだか無かったパン。代わりにドッサリ、マドレーヌやフィナンシェといった焼き菓子の山。
 小麦粉は混ざっていたのだけれども、パンを焼けるだけの量は無かった。料理に使えば無くなるだろう量、そのくらいしか無かった小麦粉。
「ごめん…。ぼくが間違えちゃったんだ」
 コンテナの中身を読み誤った、と謝ったブルー。
 お菓子ではなくて、パンの類だと思って奪って来たんだけれど、と。
 一日分すらも無かったパン。船で焼こうにも、足りない小麦粉。パンの備蓄はまだあるけれど、あと数日で切れるから。焼くにしたって材料不足だから、ブルーが奪いに出たわけで…。



 もう一度奪いに行ってくる、とブルーが出ようとするものだから。
 前の自分が慌てて引き留めた、「俺が何とかしてみるから」と。パンが足りないくらいのことでブルーを危険に晒せはしない。ブルーにとっては容易いことでも、そう甘えてはいられない。
 とはいえ、菓子の山ではどうにもならないのが現状。フィナンシェもマドレーヌも、甘い菓子でしかなくてパンには化けない。
 菓子は菓子だし…、と倉庫に運んだ菓子の山を前に悩んでいたら。
「別にいいんじゃないのかね?」
 ヒルマンがフラリとやって来た。ブラウもゼルも、それにエラも。何事なのか、とその顔ぶれに驚いたけれど、ブルーの姿で納得した。ブルーが呼びに行ったのだろう。パンならぬ菓子を奪ってしまった責任を感じて、「ハーレイを助けてあげてよ」と。
「こりゃまた見事なお菓子の山だねえ…」
 お菓子だらけだよ、とブラウが呆れつつもヒルマンに「ほら、出番だよ」と声を掛けたら。
「この菓子だがね…。悩まなくても、このままで出せばいいんじゃないかと思うがね」
 有名な言葉もあることだし、とヒルマンは「こうだ」と披露した。
 曰く、「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」。
「ちょっと、ヒルマン…! あんたのアイデアって、それだったのかい?」
 そりゃね、お菓子も食べ物だけどさ…。パンが無ければお菓子だってことになるのかい?
 あんたが名案があるって言うから、あたしも期待していたのにさ…!



 ブラウはもちろん、皆が唖然としたのだけれども、エラも「有名な言葉なのですよ」と頷いた。
 ヒルマンが言うには、SD体制が始まるよりも遥かな遠い昔のこと。
 高貴な生まれで世間知らずのお姫様が言った、飢えに苦しむ民衆に「パンが無いなら、お菓子を食べればいいでしょう」と。
 彼女の周りに飢えなどは無くて、パンもお菓子もあったから。どうしてパンが無いと駄目なのか不思議でならないと、お腹が減るならお菓子を食べておけばいいのに、と。
「酷いもんだねえ…。まるで人類みたいじゃないか」
 あいつらだったら言ってくれそうだよ、あたしたちに向かってその台詞をね。
「いや、餌でないだけマシじゃないか?」
 菓子なんだから、と笑ったゼル。人類が言うなら、そこは「餌」だと。
 間違いない、と笑いが弾けて、ヒルマンが始めた補足の説明。その言葉を言ったと伝わる姫君はフランス革命で民衆に処刑されたけれど、別の人の言葉だという説もあると。
「彼女の叔母の一人だとも言うね、前のフランス王の娘の」
「ありゃまあ…。それじゃ、濡れ衣だっていうのかい?」
 それも酷いね、とブラウが頭を振ったら、「もっと面白い話もありますよ」と微笑んだエラ。
 その言葉の主は処刑された王妃だけれども、お菓子は普通のお菓子ではなかったのだという話。
「クグロフというお菓子だそうです、お姫様の生まれ故郷のお菓子で…」
 パンに似たお菓子だったのですよ。形はパンとは違うのですが…。決まった形があるのですが。
 でも、食べた感じは甘いパンのようで、そのせいでああいう言葉になった、と。
 パンが無ければクグロフを食べておけばいいのに、どうしてそうしないのだろうと。
 もっとも、パンも食べられないような飢えの中では、クグロフも作れなかったでしょうが。



 本当の意味で「お菓子」と言ったわけではなかったかもしれない、遠い昔のお姫様。彼女なりにパンが無い現実を考えた末に、「クグロフがある」と提案した甘いパン風の菓子。
 別の説では、本当に世間知らずな王様の娘、お姫様の叔母の言葉だとも。
 今となっては誰が言ったか、どういう意味かも分からないけれど、パンが無くてお菓子ばかりの船にはピッタリの言葉だったから。
 飢えているなら笑い事では済まないけれども、パンが無いというだけだから。
 「これは使える」ということになった、その日の内にヒルマンが食堂で皆に伝えてくれた。船の食料は充分だけれど、パンだけが無い。パンだけのためにブルーに再調達を頼めはしないし、暫く我慢をして欲しいと。
「…そんなわけでね、一つ言葉をプレゼントしよう。こういう時に似合いの言葉を」
 パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…そう言ったお姫様がいたそうだよ。
 だから、高貴なお姫様になったつもりで、パンの代わりにお菓子だね。
 さっきも言ったような事情で、パンは当分、無いそうだから。



 誰からも文句は出なかった。
 ヒルマンは「パンが無ければ…」の背景もきちんと説明したから、パンの代わりにお菓子がある分、ずっとマシだと仲間たちはストンと納得した。
 本当だったら、そういう言葉が飛び出す時には代わりのお菓子も無いのだから。食べ物さえ無い飢えに見舞われ、お菓子どころではないのだから。
 ヒルマンのお蔭で、実際にパンが無くなった後。焼き菓子が食事に添えられる日々がやって来た時、皆は不満を漏らす代わりに面白がった。
「お姫様気分も悪くないよな、パンが無ければ菓子なんだからな」
「男でお姫様はないだろうけどな…。畜生、俺も女だったら良かったのか?」
 女性はもれなくお姫様だ、と羨ましがったりした仲間たち。
 飢えこそ経験していないけれど、アルタミラで餌と水しか無かった時代を知っているから、皆が笑っておしまいになった。パンが無くても。お菓子が代わりに置かれていても。
 それどころか逆に大人気だった、菓子で食べる食事。



(何の工夫も要らなかったんだっけな)
 焼き菓子の山に前の自分は「どうしたらいいのか」と頭を抱えていたのに、思いもよらない方へ転がった焼き菓子地獄。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という言葉によって。
 菓子はそのまま出せばよかった、パンを出すようにパン皿に載せて。
 今日の料理に合いそうな焼き菓子はどれかと、組み合わせを少し考えただけ。見た目や風味や、そういったもので。フィナンシェもマドレーヌも、ダックワーズも。
 どんな料理にも菓子をつけて出した、チキンだろうが、魚だろうが。ムニエルだろうが、ソテーだろうが、ローストだろうが。
 食堂で出される菓子つきの食事、今日はどういう組み合わせだろうかと楽しんでいた仲間たち。
 パンの代わりに今日もお菓子だと、お姫様だと笑い合って。
(前のあいつも…)
 添えられた菓子を頬張りながら、嬉しそうに笑っていたのだった。
 「ヒルマンのお蔭で助かったよ」と、「ハーレイも、ぼくも助かったよね」と。
 焼き菓子地獄は天国になった、遠い昔のお姫様の言葉の力を借りて。パンが無ければお菓子だと思った、飢えを知らなかったお姫様。
(懐かしいなあ…)
 あの思い出を話してやろうか、小さなブルーに。
 明日は幸い、土曜日だから。パンの代わりにお菓子を食べていた船の話を。



 次の日、食パンは一切れしか無かったのだから、朝食のテーブルにそれと御飯。炊き立てのを。他はいつものオムレツにソーセージ、サラダも添えて。
(パンが無ければ御飯を食べればいいってな!)
 上等じゃないか、と笑いながら食べた、御飯は菓子より遥かに美味いと。白い御飯は甘い菓子と違って自己主張しないから、オムレツにもソーセージにも、サラダにも合う。なにより炊き立て、ホカホカと湯気が立つのが菓子との違い。まるで焼き立てパンのよう。
 今は便利なものがあるな、と感心しながら頬張った。前の自分が生きた頃には、パンが無ければ菓子だったのに、と。
 あの時、菓子の代わりにパスタが山ほど詰まっていたなら、パスタだったかもしれないけれど。
 けれどパスタも、御飯ほどには万能と言えない食べ物だから。どんな料理にもパスタがあればと言い切れる人は多分、少ないだろうから。
 やはり食事には菓子より御飯、と美味しく食べていて、ふと思い付いた。
(そうだ、あいつに…)
 菓子を買って行こう、昼食用に。
 同じ思い出話をするなら、あの頃の食事に近いのがいい。ブルーの母が昼食に何を出そうとも、パンでも御飯でもなくて、焼き菓子を添えて。
 そしてブルーに尋ねてみよう。「お前、こいつを覚えているか?」と。



 朝食を済ませて、ブルーの家へと向かう途中で寄った焼き菓子の店。どれにしようかとケースを覗いて、見付けたフィナンシェ。それにマドレーヌ。
(有難いことに、そっくりだってな)
 焼き菓子地獄の記憶の菓子と瓜二つのフィナンシェとマドレーヌだから。ブルーの分と、自分の分とを考えながら買った。これをお供に食事をするならこのくらい、と。
 菓子を詰めて貰った紙袋を提げて、ブルーの家まで歩いて行って。門扉を開けてくれたブルーの母に、その紙袋を手渡した。
「すみません。今日の昼食、料理は何でもかまいませんから…」
 御飯やパンをつける代わりに、これをつけて出して頂けますか?
 この通り、フィナンシェとマドレーヌしか入っていないのですが…。
「え? 御飯の代わりにお菓子ですか?」
 お昼御飯はチキンのソテーのつもりでしたし、御飯でもパンでも合いますけれど…。
 パンを御希望でしたらともかく、お菓子というのは何ですの…?
「シャングリラの思い出なんですよ」
 ブルー君の失敗談と言っていいのか、悪いのか…。私がキャプテンになるよりも前の話ですね。
 奪って来てくれた食料の中にパンが全く無かったんです。船で焼こうにも、小麦粉も無くて…。
 代わりに焼き菓子が山ほど入っていました、その時の解決策だったんです。
 ヒルマンがこう言ってくれたんですよ。「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」。
 御存知でしょうか、SD体制が始まるよりも遠い昔の姫君の言葉だそうですが。
「えーっと…。マリー・アントワネットでしたかしら、フランスの王妃様ですわね?」
 聞いたことがありますわ、その言葉。
 でも…。お菓子も無かったと思いますわよ、その言葉が生まれた時代には。
 シャングリラにはお菓子があったんですのね、それなら思い出にもなりますわよね。お菓子さえ無い状況だったら、思い出どころじゃありませんもの。



 例の言葉をブルーの母は知っていたから、面白そうに引き受けてくれた。
「お昼御飯はチキンのソテーに、フィナンシェとマドレーヌをお出ししますわ」と。
 案内されたブルーの部屋では、ブルーが「お土産は?」と待ち侘びていたのだけれど。お土産は食べ物と決まっているから、お菓子だと思ったらしいのだけど。
「…あれ? ママのお菓子…」
 ハーレイが持って来たお土産、お菓子じゃないの?
 ママに袋を渡しているのがちゃんと見えたよ、お土産、持って来てくれた筈なのに…。
「まあ、待て。アレの出番は昼飯なんだ」
 それまで楽しみに待つんだな。わざわざ買いに行って来たんだから。
「ホント!?」
 お店で見付けたわけじゃなくって、ハーレイ、買いに行ってくれたんだ?
 それってとっても期待出来そう、美味しいんだよね?
「うむ。俺も気に入りの店のではある」
 柔道部のガキどもに御馳走するには上等すぎるし、あいつらには買ってやらないが…。
 他ならぬお前のためだからなあ、うんと奮発してやったぞ。
「ありがとう、ハーレイ!」
 何が出るのかな、お昼御飯が楽しみだよ。ハーレイのお気に入りのお店のだなんて…!
(…嘘は言っちゃいないぞ)
 まるで嘘ってわけじゃないんだ、と心の中でだけクックッと笑う。
 あの店の焼き菓子は材料がいいから、なかなかに美味しいと評判だしな、と。



 そして迎えた昼食の時間。ブルーの母が「お待たせしました」と運んで来たチキンのソテーと、スープとサラダはいいのだけれど。
 お茶椀に盛られた御飯は無くて、パン皿にパンは載っていなくて。バゲットやトーストの姿など無くて、代わりに焼き菓子。フィナンシェとマドレーヌ、それがブルーのパン皿の上に一個ずつ。ハーレイのパン皿には二個つずつ置かれて、おかわり用にと盛られた籠も。
 「ごゆっくりどうぞ」とブルーの母が去って行った後、ブルーは目を丸くして焼き菓子を眺め、それからチキンのソテーなどを見て。
「…なにこれ?」
 ハーレイのお土産、もしかして、これ?
 お昼御飯だけど、フィナンシェとマドレーヌを買って来たわけ…?
「そうなるな。俺はチキンを買って来ちゃいないし、スープもサラダの野菜もだ」
 この焼き菓子を買って来たってわけだが、忘れちまったか?
 食事には何も、御飯と決まったわけではないし…。パンと決まったわけでもないし。
 思い込みというヤツはいかんぞ、もっと頭を柔らかくしろ。
 パンが無ければ、どうするんだっけな?
 今は御飯もあるわけなんだが、その御飯ってヤツが無かった時代。
 前の俺たちはどうしてたっけな、パンを食べようにも、そいつが何処にも無かった時は…?



 アレだ、と片目を瞑ってみせた。有名な言葉なんだが、と。
「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…覚えていないか?」
 ずうっと昔のお姫様の言葉だ、前の俺たちにヒルマンが教えてくれた。それにエラもな。
 前の俺がだ、パンが何処にも無いと悩んでた時に、出して貰った助け舟だ。
 ヒルマンとエラを連れて来てくれたのは、お前だったが。
「…思い出した…!」
 前のぼくだよ、パンはきちんと入っているつもりで食料を奪って帰ったのに…。
 パンだと思った中身はお菓子で、こういう焼き菓子ばっかりで。
 小麦粉もパンを沢山焼けるほどには入っていなくて、ハーレイが困ってたんだっけ…。
 「俺が何とかする」って言ってくれたけど、ハーレイにもいい方法は何も見付からなくて。
 それでヒルマンたちに相談したっけ、「パンが無いけど、どうしたらいい?」って。
 あの時にヒルマンが考えてくれた言い訳がそれだよ、パンが無ければお菓子ってヤツ。
 こういうお菓子が食堂で出てたよ、普通のお料理とセットになって。



 前のぼくの失敗、とブルーが肩を竦めているから。
 やってしまったくせに忘れちゃってた、と申し訳なさそうにしているから。
「なあに、お前が気に病む必要は無いってな」
 前のお前が奪わなければ、菓子だって手に入らないままで飢えるしかない船だったろうが。
 白い鯨に改造するまでは、シャングリラはそういう船だった。
 あの時だって、菓子があったら上等だ。ジャガイモ地獄とかに比べりゃ、食材の方は揃ってた。一緒に食うためのパンが無いだけで、料理は色々出来たんだからな。
「でも、失敗…。みんなは面白がってくれていたけど…」
 ヒルマンが知恵を出してくれなきゃ、あんな風に上手くいったかどうか…。
 パンが無いぞ、って文句を言う人、まるで無かったとは言えないかも…。
「そいつだけは無いな、パンの出来に文句を言うヤツはいたって、パンそのものは」
 あるだけ有難いと思って食ってただろうさ、パンの代わりに焼き菓子でもな。
 お姫様気分とはいかなかったろうが、それでも文句を言うヤツはいない。前のお前がいなけりゃ飯も食えずに死ぬしかないんだし、パンを寄越せとは誰も言わんな。
 …それにだ、俺も昨日に失敗したんだ。
「何を?」
 失敗って、ハーレイ、何をやったの?
「…情けないんだが、パンをすっかり切らしちまった」
 パンを買いに行ったら売り切れでな…。戻って別の店に行くかと思ったんだが、車だったから、それも面倒だと思っちまって…。
 確か家にはまだあった筈だ、と帰ってみたら一切れしか残っていなかった。
 俺は毎朝、分厚いトーストを二枚は食いたいタイプだからなあ、一枚じゃ足りん。食パンとか、田舎パンだとか。何にしたって、朝からしっかり食べたいんだ。
 …それなのに、たった一切れだぞ?
 失敗と言わずに何と言うんだ、パンを買わずに帰ったことを。
 しかし、だ…。



 今は米の飯がある有難い時代だからな、と語った今朝の自分の食卓。パンが足りない分は御飯を炊いて、オムレツにソーセージにサラダ、と。
「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、ってトコだろ、今は」
 そいつを声に出して言ったら、何処かで聞いたような気がしてなあ…。
 今の俺じゃなくて前の俺がだ、元の言葉を知っていたんじゃないか、と記憶を探って、だ。
 シャングリラのことを思い出したんだ、パンの代わりに菓子を出してた、と。
 …前の俺たちは菓子を食うしかなかったわけだが、今の俺には御飯ってヤツがあったってな。
 実にいい時代になったと思わないか?
 パンが無い時は米の飯を炊けば、立派にパンの代わりを果たしてくれるんだしな。
 これがパスタじゃそうはいかんぞ、何にでも合うとは言い難いじゃないか。
「本当だね…!」
 御飯だったら、ホントに何でも合うものね…。
 前のぼくたちの頃の食事でも、御飯で充分、食べられるよ。
 御飯があるって素敵なことだね、前のぼくたちは御飯なんか食べていなかったのに。



 それに今はお菓子も沢山ある時代、とフィナンシェとマドレーヌを見ているブルー。
 奪って来なくても店に行けば買えるし、思い付きで食事にも添えられる、と。
「そうでしょ、ハーレイ?」
 あの時の食事と同じにしよう、って思ったら買って来られる時代。
 ぼくの家まで歩く途中で、美味しいお店にヒョイと入って。
「そうだな、この店の他にも幾つもあるなあ、こういった菓子が買える店」
 お互い、あの頃の俺たちに比べりゃ、お姫様だな。
 パンも御飯もあるっていうのに、わざわざ菓子と来たもんだ。
 無いのなら菓子でも仕方ないがだ、あるに決まっているのをこうして菓子にしちまって。
「うんっ! ハーレイもぼくも、お姫様だね」
 パンが無くても、御飯があるし…。パンも御飯も揃っていたって、お菓子もあるし。
 今ならハーレイみたいに言えるね、「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない」って。
 御飯も無いなら、お菓子を食べればいいのにね、って。



 ブルーと二人、焼き菓子をお供にチキンのソテーを頬張った。スープもサラダも。
 シャングリラの頃には、本当にパンが無かったから焼き菓子を食べたのに。パンを焼こうにも、小麦粉も足りなかったから。
 それに比べて、贅沢になった食料事情。
 パンも御飯もあるというのに、思い出のためだけにお菓子を選んでいい時代。
 「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」と言った高貴な姫君さながらに。
 この幸せな今の時代を、ブルーと一緒に生きて行こう。
 青い地球の上で手を繋ぎ合って、パンも御飯も、お菓子も選べる幸せな今を…。




         パンが無ければ・了

※シャングリラで起こった、お菓子だらけの日々。ヒルマンの機転で一気に楽しい毎日に。
 今ではパンの代わりに御飯で、充実している食糧事情。幸せな青い地球での暮らし。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(ふうむ…)
 いいな、とハーレイが目を留めたエスカルゴ。いわゆる食用カタツムリ。生とは違って調理したもの、自宅で焼けば出来上がる品が並べてあった。ブルーの家には寄れなかった日、帰りに覗いたいつもの食料品店で。
 特設売り場ではなくて、普通の売り場。こういった洒落た食品も置いたりするから、いつ来ても飽きない店で、手ぶらで帰ったことが無い。
(たまにはエスカルゴも美味いんだ、うん)
 せっかくだからと買うことに決めた。エスカルゴの生など買ったことがないし、料理した経験は無いのだけれども、美味しさはよく知っている。味の決め手はエスカルゴバター。
(エスカルゴのブルゴーニュ風だっけな)
 そういう名前がついている料理、遠い遥かな昔の地球でつけられた名前。エスカルゴで知られたフランスのブルゴーニュ地方、其処での調理方法だったらしい。
(でもって、今でもブルゴーニュ風なんだ)
 ブルゴーニュ地方があった地球は一度滅びて、青く蘇った地球に再びブルゴーニュ地方。自分が住んでいる地域が日本の文化を復興させているのと同じで、ブルゴーニュだって存在している。
(…エスカルゴはどうだか知らんがなあ…)
 養殖方法はちゃんとあるのだし、ブルゴーニュ地方に限ったものでもないだろう。エスカルゴは多分、自分が住んでいる地域でも育てている筈だから。
(だが、本家本元を名乗っていそうではあるな)
 エスカルゴ料理は此処から生まれました、と高らかに謳っているかもしれない。此処で作るのが本物なんです、と。
 地球はすっかり変わってしまって、地形もまるで違うのに。
 それ以前に一度滅びてしまって、エスカルゴどころではなかったのに。



 今の青い地球に住む人々には、地球と言ったら青い星。遠い昔には死の星だったことも、地球を蘇らせるためにSD体制が敷かれていたことも歴史の彼方の出来事で…。
(多少地形が変わりましたが、って話で済んじまってるなあ…)
 前の俺たちの苦労は知るまい、とクックッと喉を鳴らしてしまった。家に帰って、エスカルゴを店の袋から取り出したら。パッケージに書かれた「ブルゴーニュ風」の文字を目にしたら。
(ブルゴーニュも今じゃ普通だしな?)
 かつてのフランスの文化で暮らしている地域、その一部分がブルゴーニュ。今は誰もがそういう認識、遠い遥かな昔のブルゴーニュ地方もこうだったろう、といった感覚で。
(俺たちも言えた義理ではないんだが…。日本はこうだと思ってるわけで…)
 事実、自分も今の青い地球を当たり前のように享受していた。ブルーと出会って、記憶が戻ってくるまでは。前の自分が目にしていた地球、赤い死の星を思い出すまでは。
(しかしだ、俺にとっては地球はこうなわけで…)
 青くて、ブルゴーニュ地方もきちんとあって…、とエスカルゴが詰まった袋の封を切る。蘇った地球に生まれたからには、そのように生きていいだろう。前の自分が苦労した分、今度は楽しく。
(ブルーも一緒にいるんだからな)
 まだ十四歳にしかならないブルーだけれども、いずれ育ったら結婚出来る。二人で一緒に暮らす家でも、エスカルゴを食べたりするだろう。
 「ブルゴーニュ風と来たもんだぞ」と、「こいつが今では当たり前ってな」などと平和な時代を笑い合いながら。



 買ったエスカルゴは全部で六個。焼きやすいように専用の皿までついている。素朴な素焼きで、くぼみが六つ。その一つずつにエスカルゴが一個、エスカルゴバターが詰まった口を上に向けて。
 オーブンで焼いてもいいのだけれども、他の料理を作るついでに見ながら焼くのも面白い。
(…そっちにするかな)
 香ばしいエスカルゴバターの香りは食欲をそそるし、焼き加減も目で確かめられるから。それでいこうと始めた夕食の支度、エスカルゴに合わせてムニエルやスープとフランス風を意識して。
 エスカルゴは熱々が美味しいから、と最後に焼いた。まだ熱い皿ごとテーブルに運んで…。
(トングとフォークは無いんだがな?)
 あんなのは店で使うもんだ、と持って来た、ごくごく普通のフォーク。洒落た店だとエスカルゴ専用のトングとフォークが出ることもある。トングで殻をしっかり掴んで、細くて長いフォークを使って引っ張り出す中身。
 けれども、そんなものまで要らない、家で食べるなら。普通のフォークで充分間に合う。熱々の殻で火傷しないよう、気を付けて扱いさえすれば。
 頬張ったエスカルゴは期待通りの美味しさ、買って帰って正解だった。わざわざ店まで出掛けて食べる必要は無し、と言いたくなるほど。
 エスカルゴの身を食べた後には、お楽しみが一つ。たっぷり詰まっていたエスカルゴバター。
 熱で溶け出し、皿のくぼみと殻の中とにソースのように溜まっているけれど…。



(こいつは、こうして食ってこそなんだ)
 カリッと焼いておいたトーストに溶けたバターを吸わせて口へと運んだ。ニンニクの微塵切りやパセリやハーブを練り込んだバター、それが美味しい。このバターだけを使った料理もあるほど。エスカルゴは抜きで、エスカルゴバターで仕上げる料理。
 ガーリックトーストもエスカルゴバターで作れるものだし、炒め物にもよく合うバター。それにエスカルゴそのものの味が入れば、美味しさはもう格別で…。
(エスカルゴの出汁が入っています、ってトコか)
 前の自分だったら何と言ったろうか、出汁という言葉が無かった時代。肉汁か、ブイヨンとでも呼んだだろうか、エスカルゴを焼いたら出て来る独特の味の液体を。
 ともあれ、エスカルゴバターだけでは出せない風味。エスカルゴのブルゴーニュ風を食べた時にしか味わえない味、バゲットを買って来ておいても良かったかもしれない。
 元から固いバゲットはフランス料理向きだし、トーストせずともエスカルゴバターを吸い込んで美味しくなるものだから。
(この次にエスカルゴを買おうって時には、バゲットもだな)
 バターだけでも一品作れる味なのだから、と殻の中に残ったバターもトーストにつけて頬張り、次のエスカルゴをフォークで引っ張り出した。中身を食べたら、バターを味わう。ニンニクなどの旨味とエスカルゴの出汁、それが複雑に絡んだ味を。



 なんとも美味い、と舌鼓を打つエスカルゴ。御大層にもブルゴーニュ風。地球ならではの味だと言いたいけれども、他の星でも料理の名前は同じだろう。エスカルゴバターを使って作れば、星の名前が何であってもブルゴーニュ風で、味わいもきっとそうは変わらない。
(だが、本家本元は地球でだな…)
 ブルゴーニュが少し変わっちまったが、と思い出す地球。前の自分が宇宙から見た赤い死の星。あの頃であれば、ブルゴーニュ地方は地図の通りにあっただろう。生き物の姿が無かっただけで。
 まさか蘇るとは夢にも思わなかった地球。前の自分が涙するしかなかった星。
 その地球は青い星に戻って、自分も其処に生まれ変わった。地形は変わってしまったけれども、ブルゴーニュ地方がある地球に。ブルゴーニュ風と言ったらあそこ、と誰もが思い浮かべる星に。
 エスカルゴのブルゴーニュ風は実に美味しくて、エスカルゴバターも最高で。
 買って帰った甲斐があった、と熱々のそれを頬張る内に。



(…待てよ?)
 何処かで食べたエスカルゴの記憶。そっくり同じにブルゴーニュ風。
 それを大勢で食べた気がする、とても賑やかに。
(誰の披露宴だ?)
 結婚式くらいしか思い付かない、大人数でこの手の料理といえば。エスカルゴが出て来るようなテーブルとくれば、多分、パーティーくらいなもの。食料品店の棚にも並ぶエスカルゴとはいえ、学校の給食に出はしないから。少し気取ったレストランとか、そういう所の料理だから。
 ブルゴーニュ地方の人にとっては、普段着の味かもしれないけれど。馴染みの家庭料理といった所で、エスカルゴバターを作り置きして「時間が無い日はコレだ」と焼くかもしれないけれど。
(しかしだな…)
 今の自分が住んでいる地域はブルゴーニュではなくて、遠く離れた日本なわけで。エスカルゴは洒落た料理な扱い、結婚式の披露宴などのパーティーの席が似合いの料理。
 大勢でエスカルゴを食べていたなら、ただの教師な自分の場合は結婚式の披露宴くらい。他には思い当たる節などはなくて、それしか無いと思うのだけれど。
(それにしては、だ…)
 妙に賑やかだったような記憶。エスカルゴを食べていたパーティー。
 披露宴どころか宴会と呼ぶのが相応しいような、かしこまった所がまるで無いもの。
(そんな豪華な宴会なんぞが…)
 あったろうか、と首を捻った。エスカルゴのブルゴーニュ風が出されるような宴会の席。
 教師仲間の宴会はそこまで豪華ではないし、学生時代の宴会も同じ。柔道や水泳で遠征した先で歓待されても、エスカルゴほどの豪華料理は出なかった筈。
(…ブルゴーニュ地方に行ってりゃ、それもアリかもしれないが…)
 生憎とそういう記憶は無かった、ブルゴーニュ地方を名乗る地域で大会などには出ていない。
(…宴会料理でエスカルゴだぞ?)
 考えられん、と頭を振った。きっと何かの記憶違いで、そんな宴会は無かったのだろう。何かのパーティーの記憶と混ざって、食べたと思っているのだろう。
 それが自然で、ましてシャングリラにエスカルゴがあった筈もないし、と思った所で…。



(違う…!)
 シャングリラだった、と気が付いた。あの船で食べた、エスカルゴを。ブルゴーニュ風を。
 青い地球など何処にも無かった遥かな昔に、白い鯨になるよりも前のシャングリラで。
 前のブルーが人類の輸送船から奪って来たのを、前の自分たちが初めて目にしたエスカルゴを。
 奪った物資は分類されて、調理されたり、分配されたりしていたけれど。食料は主に前の自分が仕分けをしたのだけれども、ある日、その中にエスカルゴがあった。それも大量に。
「なんなんだい、これは?」
 野次馬よろしく、やって来たブラウ。「妙なものがある」と連絡をしたら、真っ先に。
「俺にも分からん。…だが、食料には間違いなさそうだ」
 食料しか入っていないコンテナの中から出て来たから、と説明している最中に現れたゼル。謎の食材を見るなり一言。
「カタツムリだな、これは」
 そうとしか見えん、と梱包されたエスカルゴを指先でピンと弾いたゼル。まだ若かった頃で髪も豊かで、後の姿を思えばまるで別人。前の自分も若かったけれど。
 食材は保管庫に仕舞わなくてはいけないけれども、正体不明のカタツムリ。生きてはいない冷凍食品らしき代物、それが山ほど。とにかく冷凍、と倉庫に突っ込んだものの、謎だから。その内の一つを保冷が出来るケースに詰め込み、ゼルたちを呼んだという次第。
 とにかく来てくれ、と招集をかけた部屋にはブルーも来たけれど。「カタツムリだよね」と指でつつくだけ、答えを持ってはいなかった。
 ヒルマンとエラも同じ意見を述べたけれども、どちらからともなく出た「エスカルゴ」の名前。そういう食べ物があった筈だと、食べられるカタツムリだったと思う、と。
「…これがそうなのか?」
 何も書かれていないんだが、と示したカタツムリ入りのパッケージ。製造された日と廃棄処分に回すべき日と、それしか記されていなかった。つまり本当に謎のカタツムリ。
「多分、エスカルゴだと思うのだがね」
 調べてこよう、とデータベースに向かったヒルマン。エラと二人で。



 謎のカタツムリが詰まった保冷ケースを手にして、調べ物に出掛けた博識な二人。ブルーたちと部屋で待っている間に、答えは直ぐに届けられた。「エスカルゴだったよ」と明快に。
「この殻のままで焼くんだそうだ。中身は出さずに」
 どうやらそういう料理らしい、とヒルマンがまだ凍っているエスカルゴをつつくと、エラが。
「エスカルゴのブルゴーニュ風と言うのだそうです、バターを詰めてあるのです」
 ニンニクやパセリなどを刻んで練り込んだエスカルゴバター、それが決め手の料理だそうです。中のバターが美味しいらしいですから、零さないように焼くべきかと。
 ですから殻のままで調理を、と二人に言われたものだから。
「…ならば試しに焼いてみるかな、試食といくか」
 今なら厨房も空いているし、と皆を引き連れて出掛けた厨房。パッケージは上手い具合に十二個入りだったから、一人に二個という勘定。傾かないよう注意して並べて、オーブンへ。
 初めてだけに火加減に気を付け、これで焼けたと確信した所で二個ずつ皿に移して渡した。
「本当は専用の道具があるのだそうだよ」
 中身を引っ張り出すための、と解説しながらフォークでエスカルゴの身を出したヒルマン。前の自分もそれに倣った、ブルーたちも。熱々のエスカルゴを口に運んだ感想は…。
「美味しいじゃないか、カタツムリだとも思えないねえ…!」
 極上だよ、とブラウが絶賛、ゼルも「美味い!」と文句なしで。ヒルマンもエラも、前の自分もエスカルゴの味が気に入った。前のブルーも「美味しいね」と笑顔で頬張った。



 中に詰まっていたバターが溶け出したのが美味だったから。捨ててしまうには惜しい味だから、誰からともなく「行儀が悪いが…」と、カタツムリの殻から、バターが零れた皿から食べてみて。
 本当に美味しいと頷き合って、ブラウが真っ先に言い出した。
「食べる方法、何かあるんじゃないのかい?」
 お皿まで舐めたくなる味なんだよ、このまま捨てるとも思えないけどねえ?
「確かに、あるかもしれないね」
 調べてみる価値はあるだろう、と試食の後で、ヒルマンとエラは再びデータベースへ。間もなく二人は調べて来た。エスカルゴを食べた後に残ったバターは食事用のパンにつけて食べると。
「料理のソースと同じ扱いです、マナー違反にはならないそうです」
 それにエスカルゴバターというものは…、と続けたエラ。バターだけでも料理に使える頼もしいもので、ガーリックトーストをそれで作ったり、他にも色々な使い道が、と。



 試食してみて上々だったから、冷凍倉庫に突っ込んでおいたエスカルゴは他の料理と合いそうな日に焼いて食堂で出した。頭数を数えて、一人に三個。
 エスカルゴバターを食べるためのトーストもつけて、ヒルマンが料理名と食べ方を解説して。
 美味い、と評判だった味。エスカルゴのブルゴーニュ風という名前の食べ物。地球にあるというブルゴーニュ地方はどんな所かと、思いを馳せた者も多かった。
 また食べたいと声は高まったけれど、エスカルゴは物資に混ざっていなくて。
「…ぼくが奪いに行って来ようか?」
 前のブルーは探しに出掛けると言ったけれども。
「探すって…。エスカルゴを積んだ輸送船をかい?」
 そこまでしなくてもいいんじゃあ…。だって、相手はカタツムリだよ?
 無ければ困るっていうものでもなし、現に最初はエスカルゴなんて名前も知らなかったんだし。
 わざわざ奪わなくてもいいだろ、エスカルゴくらい。



 ブラウの言葉は正しかったから、前のブルーがエスカルゴを探しに出ることは無かった。
 偶然積んでいたならともかく、探してまでは要らないだろうと。
 そうは言っても、美味しかったことも間違いないから、エラがエスカルゴバターを持ち出した。あのバターだけでも料理に使えるのだから、それを使えば、と。
 データベースから引き出して来たというエスカルゴバターの材料と作り方。これをベースにして船にある材料で工夫すれば、と。エスカルゴバターが出来たら、それで料理を、と。
(俺が色々と試作してみて…)
 バターにニンニク、パセリといった主な材料が豊富な時に何度も試した。どういう割合で混ぜてゆくべきか、トーストにつけても美味しいエスカルゴバターはどれかと。
 エスカルゴバターを作っていた時、前のブルーが覗きに来ては出来上がるのを横で待っていた。出来立てのエスカルゴバターを塗ったトースト、それを楽しみにしていたブルー。
 カリッと焼けたガーリックトースト、「エスカルゴ無しでも美味しいよね」と。そんなブルーの意見も取り入れ、「これだ」と自信を持てるのが出来た。
 完成品の披露はトーストに塗ってのガーリックトースト、「エスカルゴの味だ」と喜んで食べた仲間たち。「これをもう一度食べたかった」と。
 皆の舌にも合う味と分かれば、後は工夫を凝らすだけ。材料のある時に作り置きして、似合いの食材が手に入った時にエスカルゴバターで料理する。意外なことにキノコにも合った。チキンならまだしも、キノコは肉ですらないというのに。
 ニンニクやパセリなどを微塵切りにして練り込むバターの味は好評で、シャングリラに定着したエスカルゴバター。
 本物のエスカルゴは二度と無かったけれども、ブルゴーニュ風のエスカルゴを積んだ輸送船とは出会わないままになってしまったけれど。



 前の自分が厨房を離れた後も受け継がれ、作られていたエスカルゴバター。シャングリラが自給自足の白い鯨に改造されても、エスカルゴバターは残っていた。
(確かムール貝で…)
 白いシャングリラで養殖していたムール貝。繁殖力が強くて環境の変化にも強かった上に、身も大きいからシャングリラにはピッタリの貝だった。
 あれにも使われていたのだったか、エスカルゴバターは。「同じ貝だから、余計に美味しい」と本物のエスカルゴを食べたことのある者たちが喜んでいた記憶。
 「ムール貝でもブルゴーニュ風だ」と、「エスカルゴに一番近い味はこれだ」と。
 ムール貝の時にも、やはり添えられていたバターを食べるためのパン。溶けて殻から溢れた分はこれを使えば一滴残らず食べられるから、と。
(…あのバターは俺のレシピだよな?)
 多分、その筈だと思う。
 確認はしていないけれども、前の自分の舌が「違う」と言わなかったから。エスカルゴバターに使っていた材料、それと同じものは白いシャングリラでもきちんと作っていたのだから。合成品に頼ることなく、ニンニクもパセリも栽培していた。
 材料が揃うならレシピを変える必要は無いし、きっとそのままだっただろう。前の自分が厨房で試作を繰り返しては、ブルーに試食をさせていたエスカルゴバター。
(こいつは、ブルーに…)
 話さなければ、思い出したからにはエスカルゴのことを。エスカルゴバターを作ったことを。
 明日は土曜日だから、あの店に寄って買って行かねば、思い出の味のエスカルゴを。遥かな遠い昔に一度だけ食べた、本物のエスカルゴのブルゴーニュ風を。



 次の日、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中に、食料品店で買ったエスカルゴ。少し思案して、一人に六個はブルーにはやはり多すぎだろうと、二人で六個。
(…シャングリラの食堂で出した時にも、一人に三個だったしな?)
 これで充分、と保冷用の袋に入れて貰って、生垣に囲まれたブルーの家までのんびり歩いて。
 門扉を開けに来たブルーの母に袋を手渡した。「昼食に焼いて貰えますか?」と。
 シャングリラの思い出の味なので、と中身を指差して頼んだら。
「…エスカルゴ……ですわね?」
 こんな洒落たお料理があったんですか、シャングリラには?
 生のエスカルゴは、今でも大きな食料品店にしか無いと思うんですけれど…。
 うちの近所では買えませんわ、と目を丸くしているブルーの母。「凄い船ですね」と。
「いえ、それが…。一回だけしか無かったんですがね、本物は」
 ブルー君…。ソルジャーになるよりも前のブルー君が奪って来たんです、輸送船から。
 ですが、エスカルゴバターは定番でしたよ、エスカルゴの評判が良かったもので。
 色々な料理に使われていまして…、とトーストもつけて欲しいと注文した。エスカルゴバターを味わうために、と。
「あら、バゲットではありませんの?」
 バゲットをおつけしようと思っておりましたけれど、トーストですの?
「最初はトーストでしたから。…本物のエスカルゴがあった時には」
 後の時代には、バゲットの出番もあったのですが…。エスカルゴではなくてムール貝でしたが、エスカルゴバターを使っていた貝は。



 そういった話をしてから、ブルーの部屋へと案内されたわけだから。二階の窓から下を見ていたブルーは保冷用の袋にも当然、気付く。それが母の手に渡されたことも。
 母がお茶とお菓子を用意するために部屋を出てゆくなり、桜色の唇から飛び出した質問。
「お土産、なあに?」
 持って来たでしょ、ママに渡しているのが見えたよ。何をくれたの?
「まあ、待ってろ」
 その内に分かるさ、俺からの土産。
 慌てるな、とブルーに返したけれども、母が運んで来たお菓子は手作りだったから。どう見ても土産などではないから、ブルーは首を傾げながら。
「えっと…。ハーレイのお土産は?」
 このお菓子、ママのお菓子だよ。ハーレイのお土産、何処へ行ったの?
「もう少し待て。いずれ出てくる」
 お母さんが忘れちまったとか、自分のお菓子を優先したとか、そういうわけではないからな。
「もしかして、御飯?」
 お昼御飯になるような何かを買ってくれたの、そういうお土産?
「まあな。それだけで腹が一杯になるってヤツでもないが」
 ちょっとしたおかずと言った所か。チビのお前でも、あれだけで腹は膨れそうにないし。
「なんだろう? ぼくでもお腹が一杯にならないようなもの…」
 だけど立派なおかずなんだね、ハーレイが買って来てくれるんだから。
 何処かの名物とか、そういった感じ?
「…名物と言えば名物かもなあ、名前からして」
 誰が聞いてもピンとくるのか、そうじゃないのかは分からんが…。
 それっぽい名前のものではある。
「ふうん…?」
 地名なのかな、それともお店の名前かな?
 聞いただけでも分かる人には分かるんです、っていうのもあるしね、お店の名前。



 名物と聞いて、昼御飯の時間を楽しみにしていたブルーだけれど。
 母が何の皿を運んで来るかと、何度も時計や扉の方を眺めて待っていたのだけれど。昼御飯にと届けられたものは、例のエスカルゴだったから。他はピラフやサラダだったから。
「…エスカルゴ…?」
 ハーレイのお土産、エスカルゴだったの、これを持って来たの…?
「うむ。こいつは思い出の味なんだが?」
 エスカルゴのブルゴーニュ風だ、ブルゴーニュ地方の名物と言えば名物かもしれんな。
 今の時代はどうだか知らんが、地球が滅びてしまう前にはエスカルゴの名産地だったらしいし。
「え…?」
 そんな所のエスカルゴがどうして思い出の味なの、前のぼくは地球を知らないよ?
 ブルゴーニュって、確かフランスだよね?
 前のぼくが生きてた頃には地球は死の星で、フランスも無かったと思うんだけど…。
 そこのエスカルゴを食べたくっても、いろんな意味で食べられなかった筈なんだけど…?



 どうしたら思い出の味になるの、とキョトンとしている小さなブルー。
 まるで忘れてしまっているようだから、「奪って来たろ?」と教えてやった。
「前のお前だ、まだリーダーですらなかった頃だな」
 お前が奪った物資の中にだ、山ほどの冷凍のエスカルゴが混ざっていたんだが…。これと同じでブルゴーニュ風のだ、この貝は何かと前の俺にも謎だった。
 なにしろ見た目がカタツムリだしな、食えるにしたってどうやって料理をするんだか…。
 分からないから招集をかけて、ヒルマンたちと試食したんだが?
 ヒルマンとエラが「エスカルゴだ」と正体を解き明かしてくれて、俺が焼いてみて。
「ああ…! あったね、そういうエスカルゴ…!」
 とっても美味しかったんだっけ、ハーレイが焼いて、一人に二個ずつ。
 エスカルゴも凄く美味しかったけど、バターが美味しかったんだよ。
 お行儀の悪い食べ方をしたよ、エスカルゴの殻とか、お皿からまで食べちゃったんだよ。溶けたバターが零れてたから、お皿の分まで。
「思い出したか? エスカルゴのことを」
 あの時の食べ方をやってもいいぞ。今日はパンもあるが、せっかく思い出したんだしな。
 お母さんに頼んで、食堂で出した時と同じにトーストにして貰ったんだが…。
 食堂じゃ流石に皿からはマズイし、ヒルマンとエラが調べたお蔭でパンで食うのも知ってたし。
「そうだっけね。食堂の時にはトーストがついてたんだけど…」
 ハーレイと最初に食べた時には、ぼくもお皿を舐めちゃってたし…。
 じゃあ、ちょっと…。
 お皿の分はトーストにするけど、殻に残ったバターはそのまま食べてみるね。



 エスカルゴの身を一個、フォークで引っ張り出して食べた後。
 ブルーは殻をヒョイと持ち上げ、中のエスカルゴバターを「美味しい!」と吸っているから。
「気に入ったか? 一人三個って勘定なんだが…」
 俺は昨日に六個食ったし、全部お前にやってもいいぞ。食えるんならな。
「んーと…。六個も食べたら、ピラフを残してしまいそうだよ…」
 でも美味しい、と二個目の殻からエスカルゴバターを吸っていたブルーが「あれ?」と赤い瞳を見開いて。
「…ハーレイ、このバター、作っていたよね?」
 エスカルゴがとっても美味しかったからまた食べたい、っていう仲間が多くて…。
 ぼくが奪って来ようかって言ったら、ブラウが、そこまでしなくてもいいじゃないか、って…。
 それでエスカルゴバターを作るってことになっていなかった?
 美味しいのはエスカルゴバターなんだし、それがあれば、って。
「おっ、思い出してくれたのか?」
 前の俺がせっせと作っていたこと、お前、思い出してくれたんだな?
「うんっ!」
 ハーレイ、厨房で色々と作り方を考えてたっけ…。どれが一番美味しいだろう、って。
 ニンニクやパセリを細かく刻んで、柔らかくしたバターに練り込んじゃって。
 出来上がったら「これはどうだ?」ってパンに塗って焼いてくれていたよね、試食用に。
 前のと比べてどんな風だ、って訊かれたこともあるし、もっとパセリが多い方がいいか、とか。
 エスカルゴバターが完成するまで、何度も食べに出掛けていたよ。
 あのバターを塗ったガーリックトースト、ハーレイと何度も食べたっけね…!



 完成品が出来上がるまでにトーストを何枚食べただろう、と懐かしそうなブルー。
 とても香ばしいトーストが出来ても、ハーレイは納得しないんだから、と。
「あのバター、あれからどうなったっけ…?」
 ハーレイが作ったエスカルゴバター、あの後はどうなっちゃったのかな…?
「定番だったぞ、白い鯨になった後もな」
 ムール貝で好評を博していたと思うんだが…。
 これで作れば同じ貝だから、エスカルゴの味に一番近い、と言うヤツもいて。
 ムール貝のブルゴーニュ風って呼ぶヤツもいたぞ、ムール貝のは。
「そうだっけ…! ムール貝にも使っていたよね、エスカルゴバター」
 あれ、ハーレイのレシピだった?
 ハーレイが作ったエスカルゴバターの味だったのかな、ムール貝で作っていた頃も…?
「多分、そうだと思うんだがな」
 俺の舌は違和感を覚えちゃいなかったわけだし、材料は船に揃っていたし…。
 何か足りないものがあったなら、レシピを変えるってこともありそうなんだが…。
 そうじゃなかったから、俺のレシピのままだろう。
 バターをこれだけ使うんだったらニンニクがこれだけ、パセリはこれだけ、と。
 だが、確認はしていないからな、誰かが変えていたかもしれん。
 もっと美味いのが作れるだろうと工夫したヤツ、絶対に無いとは言えないからな。



 今となっては謎なんだが…、と笑ったら。
 シャングリラの厨房のレシピは残っていないから、自分の目では確かめられないと、「前の俺のレシピのその後はお手上げなんだ」と、軽く両手を広げて見せたら。
「あのレシピ、今でも覚えてる?」
 エスカルゴバターのレシピは、ハーレイの頭に残っているの?
「まあな。単純なもんだし、よく作ってたし…」
 厨房の誰かが書き残していたら、俺のレシピか、そうでないかは一目で分かるな。
「じゃあ、作ってよ」
 今日のお土産は買ったヤツだけど、ハーレイのレシピでエスカルゴバター。
「手料理は駄目だと言ってるだろうが」
 何度言ったら分かるんだ。持って来られるなら、俺だってちゃんと作って来てる。
 エスカルゴを買って持ってくる代わりに、あのバターを持って来てトーストってトコか。
「いつか、食べられるようになった時だよ!」
 ぼくが前のぼくと同じに育ったら、ハーレイの家にも行けるし、食べたいよ。
 ハーレイが作ったエスカルゴバター、こういう味のヤツだったよね、って。
「分かった、腕を奮うとするかな、お前のために」
 ガーリックトーストもいいが、ムール貝のブルゴーニュ風も作ってみないといけないな。
 俺のレシピで作っていたのか、厨房のヤツらが変えちまったのか。
 二人がかりなら謎も解けるだろ、同じ味だったか、違う味だったか。
 …いくら昔のことだとはいえ、こうして思い出せたんだからな。



 いつかブルーにエスカルゴバターを御馳走する。前の自分が作ったレシピで。
 その時には本物の生のエスカルゴも買って来ようか、せっかく地球に来たのだから。青い地球の上にブルゴーニュ地方を名乗っている場所もあるのだから。
「なあ、ブルー。…お前と二人で食おうって時には、本物のエスカルゴのも試してみないか?」
 前の俺たちは冷凍で一回きりだったしなあ、そうじゃないのを。
 生のエスカルゴを買いに行ってだ、そいつでブルゴーニュ風といこうじゃないか。
 ちゃんと今ではブルゴーニュ地方も地球にあるってな、地形はすっかり変わっちまったが。
 エスカルゴのブルゴーニュ風が生まれた時代とは、まるで別物のブルゴーニュだが…。
 だが、地球だしなあ、エスカルゴバターを作るんだったら本物がいいと思わんか?
 でもって、バゲットも用意して、溶けたバターをそいつで食べて。
「本物のエスカルゴでハーレイが作るの? ブルゴーニュ風を?」
 凄く楽しみ、ムール貝のブルゴーニュ風とか、ガーリックトーストも楽しみだけど…。
 前のハーレイのレシピで本物のエスカルゴのブルゴーニュ風が食べられるなんて、夢みたい。
 …そんなの、想像もしていなかったよ、前のぼくは。
「だろう? 今度は二人で工夫するかな、エスカルゴバターを使った料理」
 前の俺の時は俺が一人で考えていたが、今度はお前と一緒に暮らすんだしな。
 どんどんアイデアを出してみるといいぞ、こんな料理はどうだろう、とな。
「もちろんだよ!」
 ハーレイ、料理が得意なんだし、無茶を言っても作ってくれそう。
 これのエスカルゴバターがいいよ、って凄くとんでもないのを頼んでも。
「おいおい、とんでもないヤツってか…」
 好き嫌いが無いのは知っているがだ、変なのは勘弁してくれよ?
 流石に刺身には合いそうにないんだからなあ、エスカルゴバターっていうのはな。



 刺身は駄目だ、と言ったけれども、やってやれないこともない。
 生の魚では合わないけれども、ソテーしたならエスカルゴバターも合いそうだから。
 ブルーが無茶を言うのも楽しいし、自分で無茶をしてみるのもいい。
 「前の俺なら、これは有り得ん」と思う食材が山ほど溢れているのが今だから。
 前の自分がブルーと二人で作ったエスカルゴバターのレシピ。
 それを使って、きっと色々な料理が出来る。
 青い地球の上で、美味しいエスカルゴバターを使って、幾つも、幾つも。
 ブルーと一緒に味見してみては、「これは美味いな」と得意料理に加えていって…。




            エスカルゴの味・了

※前のブルーたちが一度だけ食べたエスカルゴ。そこから生まれた、エスカルゴバター。
 シャングリラで受け継がれた前のハーレイのレシピ、今度は青い地球で味わえそうです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(えーっと…?)
 白い、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、ダイニングでおやつの時間の真っ最中に。
 テーブルの上にあった新聞、それを何気なく広げてみたら白い鳥の写真が載っていた。白文鳥のような小鳥だけれども、鳥籠の中でも人間の手の上にいるわけでもなくて。
 何処かの屋根らしき所に止まった小鳥の写真に「アルビノ」の見出し、白い雀だと書いてある。そう言われてみれば、白い小鳥の隣にごくごく普通の雀が何羽か。
 生まれつき色素を持たないアルビノ、雀の場合は白文鳥みたいな姿になってしまうらしい。瞳の色はよく分からないけれど、桜色とも黄色とも見えるクチバシと足。本当にまるで白文鳥。
(ぼくとおんなじ…)
 アルビノだったら自分と同じなのだし、それに姿も愛らしいから。興味津々で記事を読み始めて驚いた。アルビノが珍しいことは分かるけれども、雀の場合。羽は弱くて、飛ぶ力も弱いと書いてある。普通の雀たちよりも弱く生まれてしまった雀。
(ぼくはサイオンがカバーしてくれるけど…)
 遥かな昔のアルビノだったら、太陽の光に弱かったらしい。目には光が眩しすぎるから保護するためにサングラス。肌も日焼けする前に火傷してしまう、太陽の光を直接浴びたら。
 日光浴どころか、太陽が空に輝く間は自由に出歩けなかったと言う。遠い昔のアルビノならば。
 けれども、今は誰もが持つサイオン。それが弱点を補ってくれる、意識せずとも。赤い血の色を透かす瞳は平気で太陽を見上げられるし、肌だって見る間に真っ赤に腫れたりはしない。
 前の自分だった頃と同じで、何の不自由もない身体。
 不器用なサイオンも、これに関しては全く問題なかったらしい。
 生きるのに必要なことだから。呼吸するように自然に備わった力、身体の中を巡るサイオン。



 今の時代もアルビノの人間は珍しいけれど、サイオンのお蔭で誰でも普通の生活が出来る。外を駆け回ることも出来れば、太陽の光が強い真夏に海へ出掛けて泳ぐことだって。
(…ぼくだって身体が弱くなければ…)
 前と同じに虚弱な身体に生まれなければ、元気一杯の子供だっただろう。弱い身体はアルビノに生まれたからとは違って、身体の中身の問題だから。アルビノゆえの弱点ではないのだから。
(ぼくの身体が弱いだけだよ、アルビノじゃなくても)
 つまりは健康に全く支障が無いのが今のアルビノ、人間がアルビノに生まれた場合。
 ところが雀だとそうはいかないらしい、羽が弱いというのなら。飛ぶ力までが弱いのなら。
 それに…。
(酷い…!)
 なんて酷い、と記事の内容に憤ってしまった。真っ白な雀に添えられた記事の次の文章。
 羽が弱いだけでも可哀相なのに、白い雀はもっと酷い目に遭うのだという。卵から孵った時には他の雀と同じに見えるし、ほんの僅かだけ皮膚の色が違う程度だけれど。少し育って羽根が生えてきたら、白い羽根が身体を覆うから。兄弟の雀とは違う色の羽根を纏うから。
 見掛けが異なるアルビノの雀は、巣から追い出されてしまうのが普通。自分の子供とは違う、と親鳥が外へと捨ててしまったり、兄弟たちに放り出されたり。
 だから滅多にいないらしいアルビノ、自分の力で巣から出られるまで育てないから。それよりも前に巣から出されて、死んでしまうのが白い雀の運命だから。



 育つことさえ難しいらしいアルビノの雀。ただでも羽が弱いというのに、その羽を使って巣立つ所まで育てて貰えない真っ白な雀。親鳥や兄弟に巣から追い出されて。
(運が良かったの…?)
 珍しいという白い雀は運良く難を免れて、此処まで大きく育ったろうか。それとも親鳥や兄弟に恵まれた雀だったのだろうか。色が違うからと嫌いはしないで、優しく受け入れてくれるような。
 とにかく雀は飛べる所まで育ったのだし、生きられて良かったね、と微笑んだけれど。
 後は元気に暮らしてくれれば、と記事を読み進めたけれど。
(……嘘……)
 普通の雀とは見掛けが違った真っ白な雀。人間が見ても同じ雀とは思えない雀。
 まるで違うから、交配したがる相手もいないと書かれてあった。一緒に子孫を残そうとする雀は何処にもいなくて、つがいになれはしないのだと。
(そんな…)
 同じ写真に写っている雀は、白い雀と同じ巣で育った兄弟なのだろうか?
 仲良く屋根に止まっているのに、白い雀のすぐ側に二羽もいるというのに。一緒に餌を見付けに来たのか、羽を休めてお喋り中か。
 白い雀も育ったからには大丈夫だとホッと安心したのに、これから先。
 親兄弟ではない他の雀は、相手にしてくれないというのだろうか?
 見掛けが違う雀だから。雀の色の羽根の代わりに、真っ白な羽根を纏っているから。
 恋人が欲しいと思っても。
 恋をしたいと囀っても。



(可哀相すぎるよ…)
 雄か雌かは知らないけれども、独りぼっちの真っ白な雀。
 記事には書かれていない性別、外見だけではきっと判断出来ないのだろう。羽根の模様で見分けようにも、真っ白な雀なのだから。雄か雌かの違いが分からないのだから。
 鳥は大抵、雄と雌とで羽根の模様が違うもの。尾羽の形まで違っていることも珍しくない。雀も何処かが違うのだろうか、どれも同じに見えるけれども。
(…でも、この雀がどっちなのかは…)
 写真を撮った人にも分からず、それを調べた学者にだって分からなかった。雀に詳しい人間でもその有様なのだし、雀同士なら本能的に避けるのだろう。あれは違うと、雀ではないと。
 無事に育った白い雀なのに、恋も出来ずに生きるしかない。恋の相手が現れないから。
 そればかりか…。
(殺されちゃうの?)
 白い雀に生まれた宿命、真っ白な羽根を持っているせいで。
 普通の雀は地味な色だから、何処へでも姿を隠せるのに。空を飛んでいても目を引かないのに、白い雀はそうはいかない。木の葉や土などは隠れ蓑になってくれる代わりに、白い羽根の色を逆に目立たせるだけ。空を飛んでも似たようなことで、白い身体が日射しを弾いて輝くだけ。
 雀を餌にする天敵の目に付きやすいから、白い雀は狙われる。
 前の自分のように狩られて、殺されてしまって、それでおしまい。
 恋も出来ずに、それっきりで。鷹や大きな鳥に追われて、弱い羽では逃げ切れなくて。



 新聞の写真の白い雀は卵から孵って六ヶ月か七ヶ月くらい。そこまで生きられたことが奇跡で、動物学者も驚くほどの珍しさ。白い雀は育たないから、育っても狩られておしまいだから。
 無事に育った白い雀は、こうして新聞記事にもなった。白い雀がいると聞き付け、粘り強く雀が来る場所で待って写真を撮影した人のお蔭で。
 なのに…。
(これっきり…)
 白い雀と人との出会いは、これっきり。
 学者を驚かせ、新聞の紙面を飾った奇跡の雀は、保護しては貰えないのだという。天敵のいない動物園とか、怪我をした鳥などの面倒を見てくれる場所。そういう施設は白い雀を受け入れない。
 せっかく大きくなれたのに。
 巣から追われず、鷹にも狩られず、此処まで育って来られたのに。
 珍しいアルビノの雀がいると、奇跡の雀だと人間が見付けてくれたというのに、その人間は保護しない。白い雀がのびのびと暮らせる施設に収容してはくれない。
 自然の生き物は自然のままに。人は手出しをせずに見守る、それが蘇った地球の鉄則だから。
 どんなに珍しい白い雀でも、例外になりはしないという。
 いつか狩られてしまう現場に写真を撮る人が居合わせたとしても、写真を撮るだけ。天敵の鷹を追い払おうとしてはくれずに、白い雀の最期を撮影して帰るだけ。
 自然はそういうものだから。食物連鎖というものだから。



 溜息をついて閉じた新聞、アルビノの雀には無いらしい未来。恋も、普通の雀の寿命も。
 あまりに雀が可哀相すぎて、部屋に戻っても頭から離れない真っ白な姿。白文鳥かと思った雀。
(ちょっとくらい…)
 例外があってもいいのにと思う、こんな時くらい。
 自然の掟は分かるけれども、白い雀を保護して助けてやるくらい。
 雀が一羽消えたところで、鷹は困りはしないから。他の獲物を探せばいいだけのことで、獲物は沢山いるのだから。白い雀を食べれば特別な栄養になるならともかく、雀は雀なのだから。
 それに、白い雀。
 自然の中へと置いておいても、恋の相手は見付からない。他の雀とつがいになって子孫を残せる雀だったら、保護してしまえば自然のバランスが少し崩れはするけれど。白い雀に恋をする相手はいないわけだし、自然のバランスは崩れない。
 だから助けてやりたいと思う、自分と同じにアルビノの雀。放っておいたら他の雀よりも哀れな最期を迎えるのだから。
(可哀相だよ…)
 恋も出来ずに独りぼっちで、狩られて死ぬまで生きてゆくだけ。
 飛ぶ力さえも弱い身体で、いつか終わりが来る日まで。



 勉強机の前に座って、頬杖をついて。白い雀を待ち受けているだろう運命を思うと、胸の奥から遠い記憶が湧き上がってくる。いつか狩られる真っ白な雀。
(前のぼくみたい…)
 メギドでキースに狩られた自分。そう、あれは文字通りに「狩り」だった。
 前の自分を殺したいなら、メギドを止められたくなかったのなら、心臓を狙えば良かったのに。たった一発、それだけで終わり。シールドも張れなかった前の自分は倒れておしまいだったろう。
 それが出来る腕を持っていたのがキースだったのに、そうする代わりに急所を外した。
(…絶対、わざと…)
 三発も続けて狙いを外すわけなど無いから。ただの兵士だったらともかく、メンバーズなら。
 キースが何を思っていたかは分からないけれど、楽しんでいたことだけは分かった。前の自分を追い詰めたならば何が起こるか、どうやって仕留めるのがいいかと。
(…狩りを楽しみすぎて失敗…)
 最後の一発で仕留めるつもりだったのだろう。「これで終わりだ」と撃ち込んだ弾。シールドを突き抜けて右の瞳を砕いたあの弾、それで獲物を倒すつもりでいたのだろう。
 成功するとキースが思い込んだ狩り。獲物を仕留めて、メギドも守れると思っていた狩り。
 けれど、生憎と前の自分は反撃の機会を狙っていたから。狩られながらも、どうすればキースの裏をかけるか、懸命に考え続けていたから。
(…巻き込んでやろうと思ってたのに…)
 残ったサイオンの最後の爆発、暴走させるサイオン・バースト。それでキースもメギドも纏めて終わりだと思っていたのに、逃げられたキース。駆け込んで来たマツカが連れ去ったキース。
(…あの時、キースが死んじゃってたら…)
 SD体制の崩壊までには長い時間がかかっただろう。ミュウと人類との和解までにも。
 だからキースを恨みはしないし、憎んでもいない。共に語り合える機会があったら、違う道へと歩んだろうから。キースの地球への固い忠誠、その信念を覆すことが出来たなら。
 それが分かるから、前の自分を狩ったキースを、けして恨んではいないけれども…。



(そうだ、ハーレイ…!)
 ハーレイはキースが嫌いなのだった、前の自分を狩った男だと知ったから。
 嬲り殺しにしようとしたことを知ってしまったから、キースを嫌っているハーレイ。まるで違う生を生きている今も、前の生からの続きを生きているかのように。「あいつを殴るべきだった」と何度も口にしているハーレイ、「知っていたなら殴っていたのに」と。
 前の生が終わった日の一日前、死に絶えた地球へと降りたハーレイ。其処でハーレイはキースと再び出会ったけれども、人類側の代表たる国家主席と挨拶を交わしてしまったという。人類側との会談に向けて、ミュウを代表する一人として。
(前のぼくのことを、ハーレイは知らなかったから…)
 キースがメギドで何をしたのかを知っていたなら、殴ったのにと悔やむハーレイ。殴れる機会を逃した上に、二度とチャンスは来ないのだと。キースは何処にもいないのだから。
(ハーレイだったら…)
 どうするだろうか、白い雀の話をしたら。
 前の自分とそっくり同じに、狩られてしまうだろう雀。白い身体が天敵の目を引き、弱い羽では逃げられなくて。普通の雀に生まれていたなら、そんなことにはならないのに。
(…見付かりにくいし、逃げる速さだって、もっと…)
 真っ白な姿に生まれたばかりに、狩られるだけの運命の雀。恋も出来ずに狩られて終わり。
 あの可哀相な白い雀を、ハーレイだったら助けに行ってくれるだろうか?
 キースさながらの鷹に狩られて、死んでしまうしかない白い雀を。



 ハーレイだったら、と見えて来た希望。
 前の自分と何処か重なる白い雀を、ハーレイは助けてくれるかもしれない。
(えーっと…)
 白い雀が見付かった地域は此処から遠いけれども、遥かな昔はオーストラリアという名の大陸があった辺りだけれど。ニュースが届くくらいなのだし、同じ地球には違いない。
 その地域で暮らす人たちに向けて、白い雀を助け出すために、何か運動をしてくれるとか。署名活動だとか、そういったことを。例外を認めてくれそうなことを。
 前の自分の最期を知っているハーレイならば、と恋人の顔を思い浮かべた。
(…白い雀、前のぼくと少し似ているものね…)
 放っておいたら、鷹に狩られてしまうのだから。
 前の自分がキースにそうされたように、獲物を求める鷹に殺されてしまうのだから。



 頼もしい援軍に思えるハーレイ。白い雀を助けようと言ってくれそうなハーレイ。
(来てくれないかな…)
 そしたら早く頼めるのに、と何度も視線を投げた窓。白い雀を助けてやるなら、一日でも早く。此処でこうしている間にも、目立つ身体で何処かを飛んでいるのだろうから。
(…鷹に見付かったらおしまいだものね)
 他の雀よりも狙われやすい真っ白な身体、逃げて飛ぶには弱すぎる羽。助けに行くまで頑張って逃げて、と祈るような気持ちで窓の方を何度見ただろう。不意に聞こえたチャイムの音。待ち人が訪ねて来てくれた合図。
 窓に駆け寄り、門扉の向こうのハーレイに大きく手を振った。「待っていたよ」と。



 やがて部屋まで母に案内されて来たハーレイ。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、もう早速に切り出した。
「あのね…。ハーレイ、白い雀を知っている?」
 今日の新聞に載っていたけど、ハーレイ、その記事、気が付いてた?
「いや? …白い雀というのはなんだ?」
 白いってことはアルビノなのか、そいつが何処かで見付かったのか?
「そう。…えっとね、昔はオーストラリアだった場所だよ、今は地形が変わっているけど…」
 其処で見付かったんだって。真っ白で、白文鳥みたいに見えちゃう雀。
 可愛かったけど、その雀、可哀相なんだよ。…ちょっぴり、前のぼくみたい。
「前のお前だと?」
 何処が雀と似てると言うんだ、前のお前が?
「…鷹の獲物になっちゃう所…。白い雀は目立つんだって」
 普通の雀だったら、そう簡単には見付からないけど、白い身体はよく目立つから…。
 それに白い雀は羽も飛ぶ力も弱いんだって。見付かっちゃったら、もう逃げられないよ。
 前のぼくがメギドでキースに撃たれた時と同じで、そのまま殺されちゃうんだよ…。
「なるほどなあ…。獲物になるために生まれて来たような雀というわけか」
 おまけに弱くて、見付かったら最後、もう逃げ道は無いんだな。
 …確かに前のお前に似てるな、メギドでキースに嬲り殺しにされそうだったお前に。
 前のお前はキースにとっては格好の獲物で、どう考えても狩りを楽しんでいたようだからな。



 あれに似ているな、とハーレイの眉間に寄せられた皺。キースの名前は聞きたくもない、という風に見える表情、ハーレイは今もキースを許していないことが分かる顔だから。
「…じゃあ、助けてあげてくれないかな、雀」
 白い雀は保護して貰えないんだよ、今のままだと。…珍しい白い雀なんだ、っていうだけで。
 放っておいたら、じきに鷹とかに見付かってしまって獲物になっちゃう。
 そうならないように助けてあげてよ、あの白い雀。
「助けるって…。俺がか?」
 俺がそいつを助けてやるのか、誰も助けてやらないから、と?
「うん、ハーレイは大人だから…」
 ぼくみたいにチビの子供じゃないから、色々と方法を知っているでしょ?
 白い雀を保護して下さい、って署名を集めてお願いするとか、その地域の人たちに手紙を書いて保護を頼むだとか。
 雀を保護してくれそうな施設、きっと幾つもあるんだろうし…。それを探して片っ端から手紙を出したら、何処かが動いてくれるかも…。
 …今は駄目でも、「お願いします」って頼めば保護してくれるかも…。白い雀は珍しいもの。
 展示したってきっと綺麗だよ、大勢の人が見に行くだろうし、お願い、ハーレイ。
 白い雀を助けてあげてよ、このままだったら前のぼくみたいに鷹に殺されちゃうんだもの…。



 お願い、と頭を下げたけれども、ハーレイは難しい顔付きで腕組みをして。
「うーむ…。お前の気持ちは分からないでもないんだが…」
 前のお前に似てると言われりゃ、俺も助けてやりたい気持ちもするんだが…。
 助ける相手が雀じゃなあ…。いくら珍しくても、雀は雀だ。
「…駄目なの?」
 ハーレイでも助けられないの?
 白い雀を助ける方法、ハーレイにも思い付かないの…?
「お前もその記事、読んだんだろうが。…それで雀が保護されていないと知ってるわけだ」
 記事に書いてある通りだってな。野生の生き物はそのままに、っていうのが地球の基本だろ?
 そいつを捻じ曲げちゃいかんってことで、白い雀もそのままなんだ。
 雀じゃなくって特別に珍しい生き物だったら、保護するってこともあるんだろうが。
「でも、青い鳥…」
 前に青い鳥を飼おうとしてたよ、今のぼく。
 ハーレイが「欲張るんじゃない」って言うから逃がしたけれども、ウチに来たオオルリ。
 ダイニングの窓にぶつかってしまった青い鳥だよ、ハーレイも一緒に見てたでしょ?
 あれは飼っても良かったんだし、白い雀だって誰かが飼っても良さそうなのに…。
 オオルリも雀も似たようなものだよ、おんなじ野生の生き物だよ…?



 あの青い鳥は飼おうと思えば飼えた筈だ、と主張したら。オオルリを飼ってもかまわないなら、白い雀も飼えそうだけど、と食い下がったら。
「そりゃまあ、まるで駄目ではないが…」
 実際、野生の鳥を引き取って面倒を見ている施設もあるしな、絶対に駄目なわけじゃない。
 あのオオルリは窓のガラスに勝手にぶつかったわけで、お前が捕まえた鳥ではないし…。
 そいつを獣医に連れて行ってだ、後遺症が出たら大変だからと飼ってやるのはお前の自由だ。
 しかし、そういう例外を除けば、野生の鳥を飼うというのは難しいな。
 さっきも言ったろ、野生の生き物は自然の中にそのまま置いておくのが地球の基本だ。
 よほどの理由があれば別だが、保護するなんぞはとんでもない。
 何処の施設でもまず断られるぞ、大怪我をした雀を持ち込んだんなら、いけるだろうが。
「それじゃ、白い雀…」
 鷹にやられて落っこちてました、っていうんでなければ何処も保護してくれないの…?
「そういうことだ。誰かが拾って連れて行ったら、治療して飼って貰えるだろうが…」
 怪我もしないで飛んでいるなら、可哀相だが、諦めるんだな。
 狙われて殺されちまいそうだ、っていうのは保護する理由にはならん。
「ハーレイ、酷い…!」
 可哀相だよ、あの白い雀…!
 自分のせいで白く生まれたわけじゃないのに、白いだけで目立って狙われて殺されちゃって…!
「…それを言うなら、前の俺たちだって、そうだったろ?」
 俺たちはミュウになろうと思ったわけじゃない。…なりたくてなったわけじゃないんだ。
 だが、人類は俺たちに何をした…?
 ミュウだというだけで、ヤツらは俺たちをどう扱ってくれたんだっけな…?



 狩られるどころか、もっと酷い目に遭っただろうが、と言われてみればそうだから。
 同じ人間で姿形も変わらないのに、実験動物扱いだった前の自分たち。ミュウだというだけで、ただサイオンを持っていただけで。
 過酷な人体実験の末に死んでいった仲間も多かったのだし、アルタミラから脱出した後も隠れているしかなくて。挙句の果てに追われもしたから、ナスカは滅ぼされたのだから。
 人間だったミュウでもその有様なら、ただ白いだけの雀ともなれば…。
「…仕方ないわけ…?」
 羽根の色が他の雀と違うだけだし、誰も助けてくれないの…?
 そうなってしまうの、あの雀、あのまま殺されちゃうのを待つしかないの…?
 白い雀は、生まれた時から大変なのに…。色が違うから、巣から追い出されることもあるのに。
 大きくなっても、恋の相手も出来ないんだよ…?
 羽根の色が普通の雀と全く違っているから、つがいになる鳥、いないんだって…。
 だからホントに独りぼっちで、その内に殺されちゃうんだよ…?
 白い雀に生まれたってだけで、アルビノだったっていうだけで。
 何も悪いことをしていないのに、独りぼっちで殺される日を待つだけだなんて可哀相だよ…。
「…そうだったのか…。白い雀は、狙われるだけじゃないんだな…」
 独りぼっちになっちまうわけか、そいつは確かに可哀相だと俺も思うが…。
 そうは言っても、決まりは決まりだ。
 「可哀相だから助けて下さい」と言い始めたらキリが無い。
 例外はあくまで例外ってヤツで、そうそう幾つも無いもんだ。白い雀は諦めるしかないだろう。
 すまんが、俺にもどうにもならん。…助けてやりたい気持ちはあっても、無理なものは無理だ。



 だが…、とハーレイが浮かべた笑み。難しそうな顔から、いつもの穏やかな笑みへ。
「白い雀は可哀相だが、そいつにだって、だ」
 もしかしたら…な。まるで救いが無いってわけでもないかもしれんぞ、本当のトコは。
「救いって…。なに?」
 あの羽根の色は変えられないのに、飛ぶ力だって弱いのに…。
 救いなんか何処にもありそうもないよ、人間が保護してあげない限りは。
「いや、保護されるよりも今のままがいい、と白い雀は思っているかもしれん」
 つまりだ、俺みたいなのがいるかもしれん、ということさ。
「えっ?」
 ハーレイは何もしないって言ったよ、雀は助けてあげられないって言ったじゃない…!
「本物の俺のことじゃなくてだ、白い雀にとっての俺っていう意味だが…?」
 恋人だ、恋人。俺がお前の側にいるように、その雀にだって恋人がいないとは限らないぞ?
 白い雀でも気にしやしない、っていう恋人だな、そいつはもちろん普通の姿の雀なわけだ。
 つまり運命の恋人ってヤツだ、本当だったら相手にされない筈の雀に恋をしている雀。
 俺たちが地球に生まれ変わって出会えたようにだ、白い雀にもいるかもしれないだろうが。
 どんな時でも離れやしない、と側にいてくれる恋人の雀。
 それがいたなら、独りぼっちじゃないからなあ…。
 人間にウッカリ保護されちまったら、その恋人とは離れ離れになっちまうんだぞ、白い雀は。
 そうなるよりかは、今のままがいいと思わないか?
 少しばかり目立つ羽根の色でも、恋人と一緒に暮らせる方がな。
 絶対にいないとは言い切れないんだぞ、そういう恋人。白い羽根でも気にしないヤツが。



 現に白い雀を育てた親がいるんだろうが、とハーレイはパチンと片目を瞑る。
 白い雀は巣から追い出されるのが普通だというのに、お前の両親のように大切に子供を守って、立派に育ててくれた親が、と。
「巣から追い出さない親がいるなら、恋をするヤツだって無いとは言い切れないからな」
 ちょっと違うが、これも個性だと思う雀はいるってことだ。
 白い雀の親もそうだし、一緒に育った兄弟だって白い雀を雀だと認めているわけなんだぞ。
 他にもいないとは誰も言えんな、白い雀がちゃんと雀に見える雀が。
「…そういえばそうだね…」
 親鳥と兄弟が白い羽根でも雀なんだって思っていたから、白い雀はちゃんと大きく育てたし…。
 おんなじように雀なんだ、って考える雀がいたって不思議じゃないかもね…。
「な? まるで無いとは言えないだろうが」
 そいつは強運な雀だってことは間違いないなあ、無事に育って大人になっているってだけで。
 他の巣で生まれたら追い出されちまって死んでいただろうに、いい巣に生まれて来たわけだ。
 それだけ運の強い雀だ、恋人だって何処かにいるだろうさ。



「…本当に?」
 あの白い雀の恋人の雀が何処かにいるの?
 独りぼっちで生きていかなくてもいいの、恋人の雀がいるのなら…?
「そう思っておけば気が楽だろう?」
 前のお前は、白い雀に似てはいたんだが、前の俺が側にいたってな。
 それと同じで、白い雀も前のお前みたいに、幸せに生きていけるかもしれん。
 運命の恋人と出会って、一緒に巣作りをして。
 仲良く暮らしていくかもしれんぞ、学者たちだってビックリしちまう結末ってことで。



 白い雀にも未来が無いとは限らないぞ、と微笑むハーレイ。
 普通の雀に生まれなくても、幸せな未来が待っているかもしれないのだから、と。
「…ただし、キースに狩られてしまわなければ、だが…」
 お前が言ってた狩りの獲物だ、雀の場合は鷹なんだがな。
 運悪く鷹に出会っちまったら、白い雀はそれで終わりだ。前のお前がそうなったように。
 …鷹は獲物を嬲り殺しにするような真似はしないだろうがな。
「キース…。撃たれた時はとても痛かったけれど…」
 そのせいでハーレイの温もりまで失くしてしまったけれども、キースは役目を果たしただけ。
 マザー・システムが命じた通りにミュウを殲滅しようとしただけ、前のぼくまで含めて、全部。
 どうして嬲り殺しにしようとしたのか、それは今でも分からないけれど…。狩りをしていたってことは分かるよ、一撃で倒せば良かったのに。
 …でもね、ぼくは別に、キースのことは…。恨んでいないよ、あれはキースの役目だったから。
 もっと違う形で出会っていたなら、キースとも分かり合えていたんだと思うから…。
「…お前はいつでもキースを庇うな、あんな酷い目に遭ったというのに」
 あれはキースの役目だったと、仕方がないと、お前は許してしまうんだ。
 だからだ、それと同じことだな、白い雀が鷹に狩られて死んじまったとしても。鷹の方は獲物を捕まえただけで、自分の仕事をしたってだけだ。
 鷹のキースは自分の役目を果たしただけだと思っておけ。自分のために獲物を捕ったか、子供のために捕まえたのか…。いずれにしたって遊びではなくて、必要だから狩りをしたわけだ。
 …もっとも、俺なら怒り狂うんだがな。
 何が役目だと、お前を殺してしまったくせに、と。
「そっか、ぼくがハーレイに言ってることと同じなんだね、恨んじゃ駄目、って」
 キースは何も悪くないから、ぼくも恨んでいないんだから、って。
 白い雀が鷹に捕まっても、それと同じで、怒ったりしちゃ駄目なんだね…。
「そういうことだな」
 鷹は獲物を捕まえなくては生きていけんし、それがたまたま白い雀になったってだけだ。
 白い雀が目立っていたのが運の尽きだな、普通の雀なら見付からなかった可能性もあるんだし。



 しかし…、とハーレイの鳶色の瞳が優しい色を湛える。
 白い雀が幸せになれるといいんだがな、と。
「俺たちには何もしてやれないがだ、せっかく生まれて来たんだからなあ…」
 そして大きく育ったわけだし、俺たちみたいに幸せに生きて欲しいよな。
 お前が助けてやりたかったほど、前のお前に似ているんだし。
「うん、本当に似ているんだよ…」
 だから幸せになって欲しいよ、鷹に捕まったりせずに。
 独りぼっちで生きるんじゃなくて、ちゃんと一緒に暮らせる恋人も見付けて欲しいよ…。
「うむ。二人で祈ってやるとするかな、そいつのために」
 俺たちに出来ることと言ったら、それくらいしか無いんだからな。
「そうだね…!」
 お祈りだったら神様に届いて、聞いて貰えるかもしれないし…。
 自然の中で暮らす生き物のことも、神様はきちんと見てるんだろうし…。
 それがいいよね、お祈りするのが。
 白い雀が幸せに生きていけますように…、って。



 保護してやることは出来ない雀。真っ白な身体のアルビノの雀。
 遠い地域に生まれた小さな雀だけれども、ハーレイと二人、天に祈った。
 前の自分に少し似ている、白い雀の幸せを。
 白い雀に恋人は出来ないと言われていたって、運命の恋人が見付かるように。
 恋人と出会って、白い姿でもキースのような鷹に狩られないで。
 幸せに生きて、ちゃんと未来を築けるように…、と。
 いつかハーレイと結婚して二人で歩いてゆく道、白い雀にもそれと同じ道を歩んで欲しい。
 青い地球の上で、恋人と生きてゆける道。
 何処までも、いつまでも手を繋ぎ合って、幸せに歩いてゆける道を…。




           アルビノの雀・了

※ブルーが見付けた、アルビノの雀の記事。前の自分と重なるのに、助けてやれないのです。
 けれど、その雀にも恋人がいるかも。幸せになれるよう、祈るのがブルーに出来ること。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]