シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あいつ、あの日は此処にいたんだ…)
ハーレイの目にふと留まったソファ。ブルーの家には寄れなかった日、帰って来た家で。自分の家だから何の遠慮も要らないとばかりに、鞄をドサリと投げ出した。ソファの上へと。
それから着替えを済ませて戻って、放り出してあった鞄を端にきちんと置き直そうとして。
(…此処だったんだ…)
此処にブルーが座ってたんだ、と小さな恋人の姿を思い出した。このソファにチョコンと座った恋人、パジャマ姿だった小さなブルー。
どうして気付かなかったのだろう。今日まで何度もソファに座ったし、鞄も何度も置いたのに。着替え用の服を置いて出掛けて、此処で着替えることもあるのに。
たった一度だけブルーを座らせたソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
ブルーと出会って間もない頃に。メギドの悪夢に襲われたブルーが恐怖に怯えながら眠った夜。瞬間移動など出来ない筈のブルーが此処まで飛んで来た。何ブロックも離れた此処まで、寝ていた自分のベッドの中へと。
(あの夜は俺もパニックだったしなあ…)
寝ぼけ眼で「何かがベッドにいる」と感じて、母の猫かと思った自分。隣町の家にいた真っ白な猫のミーシャが来たなと、潰してしまってはマズイだろうと。
けれども、自分の子供時代にミーシャはいなくなっていたから。何かが変だと手で探ろうとした時、耳に届いたブルーの寝言。「ハーレイ」と漏らして、「会いたいよ」と。
何が起こったのか、それで分かった。前のブルーと同じ背丈に育つまでは家に来るな、と言っておいたブルーが瞬間移動でやって来たのだと。自分でも知らずに、無意識の内に。
(…実際、アレは驚いたんだ…)
小さなブルーが自分のベッドに飛び込んで来た上、懐にもぐり込んで来たのだから。
今とは違って、再会してから間もない頃。
前のブルーと長く過ごした恋人同士だった頃の記憶が勝っていたから、ブルーを求める気持ちもあった。幼い身体でもブルーは同じにブルーなのだし、身体ごと手に入れてしまいたいと。
そうは思っても、無垢で小さなブルーにはまだ早すぎる行為。いくらブルーがそれを望んでも、心も身体も耐えられはしないと分かっていたから、懸命に自分を抑えていた。
「家には来るな」と釘を刺したのも、その一つ。ブルーが家に遊びに来た時、見せた表情が前のブルーと重なったから。思わず抱き締めてしまいたくなる前のブルーに見えたから。
(…重なっちまったら、もう止まらないんだ…)
たとえブルーが幼くても。悲鳴を上げても、もう止まらない。力の限りに抱き締めるどころか、強引にキスして、服も剥ぎ取って…。
そうならないよう、「来るな」と言っておいたブルーが同じベッドに入って来た。眠ったままで胸に縋り付いて来た、これでパニックにならない方が不思議だろう。
(ウッカリ俺まで眠っちまったら、何をやらかすか…)
なにしろブルーがいるのだから。腕の中で眠っているわけなのだし、そのまま自分が夢の世界の住人になれば、前のブルーと同じつもりで眠りこけながら何をするやら…。
指が、手が、眠るブルーの身体にけしからぬことをしてしまいそうで。悪ふざけの範囲で済めばまだしも、それで済まなくなったなら。ブルーのパジャマを脱がせるだとか、その下の肌を探ってズボンの中まで手を入れるだとか…。
(そいつは大いにマズイんだ…!)
ブルーはきっと眠りながらでも、そういった行為に応えるから。幼い心も、小さな身体も眠りの前には何の歯止めにもなりはしなくて、前のブルーの動きをなぞってしまうだろうから。
一度ブルーが応えてしまえば、きっととんでもないことになる。気付けば小さなブルーの身体を組み敷いてしまって、もう本当に止まれない所まで行っていそうな予感がしたから。そうなってもブルーは微塵も困りはしないだろうけれど、自分の方は…。
(取り返しのつかないことをやっちまったと、きっと一生…)
悔やみ続けることだろう。ブルーが大きく育った後にも、二人で暮らせるようになっても。
それだけは御免蒙りたいと、いくらブルーは平気だとしても自分の良心が咎めるから、と朝まで必死に抑え続けた自分の劣情。ブルーが欲しいとざわめく心。
眠っても駄目だし、欲望に負けてブルーに触れてしまえば、もうおしまいで。ブルーは腕の中にいるのだけれども、「愛おしい」と思う以上の気持ちを持ってしまえば破滅するだけで。
朝まで眠らずに耐えて耐え続けて、ようやくブルーが目覚めてくれて。
「ハーレイの家に来られたんだね」と無邪気に喜ぶブルーと一緒に寝室を出て、階段を下りて、リビングに来て。
「此処に座れ」と座らせたソファ。一人用ではなくて、ゆったりと座れる大きなソファ。
ブルーが座ったのは、その一度きり。あの朝にチョコンと腰掛けたきり。
(遊びに来た日は座っていないし…)
教え子を招くようなつもりで、ブルーを家に呼んでやった日。前のブルーとそっくりな貌をするブルーに驚き、心をかき乱された挙句に「大きくなるまで来るな」と告げねばならなかった日。
けしからぬ気持ちになっては駄目だ、と心の何処かで考えていたのかどうなのか。
この部屋でブルーと話す時には、一人用のソファに腰掛けて向かい合っていた、これとは別の。二人で並んでも充分すぎる余裕のあるソファ、これではなくて。
リビングの端の、大きなガラス窓越しに庭が見える場所。其処にブルーと座っていた。
けれども、ブルーがベッドに飛び込んで来た後に迎えた朝。あの朝はブルーを此処に座らせた、何も思わずに。広いソファの方がいいだろう、とパジャマ姿の小さなブルーを。
(あいつが一人で座るだけだっていうのも、あったんだろうな)
自分はブルーの家に通信を入れたり、顔を洗って着替えたりと用があったから。ブルーと一緒に腰掛けて話すどころではなくて、するべきことがあったから。
ブルーが一人で座るだけなら、邪心の入る余地などは無い。ソファはただの椅子で、一人用でも大きなものでも、座り心地が良ければそれでいいのだから。
(それっきりか…)
あの朝だけか、と眺めるソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
此処に腰掛けたブルーを見たくなっても、ブルーは来ないし、招きも出来ない。
今はまだ。
十四歳にしかならないブルーが大きく育って、前のブルーと同じ姿になるまでは。
柔道部員たちが押し掛けて来た日は、このソファも寿司詰めになるのだけれど。冬の寒い日に、木の枝にギュウギュウと連なって止まるメジロさながらの光景だけれど。
メジロ押しだか、寿司詰めだかの賑やかな教え子たちの集団、そんな見慣れた光景よりも。
(…此処にあいつなあ…)
此処にブルーがいてくれればな、と思いが募る。けして叶いはしないけれども、小さなブルーが前と同じに育つ日までは無理だけれども。
(…柔道部員どもとは、まるで値打ちが違うんだ)
端から端までギュウ詰めに座って、その連中の膝の上にも乗ろうという輩がいるくらい。もっと座れるとメジロ押し並みにギュウギュウとやって、零れ落ちたりしているくらい。
そういう彼らも面白いけれど、見ていて飽きはしないのだけれど。彼らがギュウギュウ押し合うソファより、満載になって溢れるソファより、ブルーが座っているソファがいい。
(小さなあいつは、もう呼べないし…)
いつか大きく育つ時まで、待っているしか無いのだけれど。
ソファに気付いたら、其処にブルーが座っていたのだと思い出したら、いて欲しいブルー。
柔道部員たちのメジロ押しも愉快で笑えるけれども、ブルーに座って欲しいものだと。
そう思ったから、夕食の後はコーヒーを淹れて、そのソファに座ることにした。熱いコーヒーを満たした愛用の大きなマグカップ。それを片手に「今日は此処だ」と。
自分がドッカリ腰を下ろしても、大人が二人は楽に座れる余裕があるソファ。柔道部員たちなら四人は基本で、大抵、五人は詰まっている。「もっと詰めろ」と、「まだいけるだろ」と。
そのソファの丁度真ん中あたりに座って、隣にブルーがいるつもり。マグカップを持っていない方の手、その手でブルーの肩を抱けたなら、と。
ブルーは苦手なコーヒーだけれど、隣に座るのを嫌とは言うまい。「ぼくは紅茶の方がいい」と紅茶を手にしていそうだけれども、きっと隣に座ってくれる。
早くその日が来ないものかと、此処にブルーがいてくれれば、と誰もいない隣に溜息をついて。いつになったら此処にブルーが来てくれるのかと、空っぽの隣を眺めていて。
(…そうだ)
ブルーなら家にいるじゃないか、とマグカップをコトリとテーブルに置いて向かった書斎。あの書斎にはブルーがいるのだった、と。
よくコーヒーを飲んでいる書斎、本たちに囲まれた憩いの空間。其処に据えてある机の上には、小さなブルーの写真を収めたフォトフレーム。夏休みの終わりにブルーと写した記念写真。
フォトフレームの中、自分の左腕にギュッと抱き付いた笑顔のブルーに「すまん」と詫びて頭を下げて。そうっと開けた机の引き出し、日記の下から引っ張り出した写真集。
正面を向いた前のブルーの写真が表紙に刷られた、『追憶』のタイトルを持つ写真集。最終章はメギドへと飛ぶ前のブルーの最後の飛翔で始まり、爆発するメギドで終わっている。
悲しくて辛い本だけれども、前のブルーが愛おしいから。こうして自分の日記を上掛け代わりに被せてやって、いつも引き出しの中に。泊まりの研修にも持ってゆくほど愛おしいブルー。
これだ、と大切にリビングへ運んだ写真集。それをソファの上、自分の隣に置いたら、ブルーが其処にいるかのようで。前のブルーが幻となって、隣に座っているかのようで。
これでいいのだと、今夜はブルーと二人なのだと、少し温くなったコーヒーを口にしながら。
「なあ、ブルー…」
いつかは座ってくれるんだよな?
今はこういう写真しか無いが、ちゃんと本物のお前になって。俺の隣に、この姿で。
…おっと、ソルジャーの衣装はもう要らないんだぞ、お前の好きな格好でいい。普段着だろうがパジャマだろうが、俺は全く気にしないからな。
此処に座ってくれればいいんだ、俺の隣に。…お前の苦手なコーヒーを飲めとは言わないから。
そうは言っても、お前は飲みたがるんだよな、と語り掛けても返らない返事。
写真のブルーは何も言わずに見上げてくるだけ、瞳の奥深く悲しみと憂いを揺らめかせて。前のブルーが強くあろうと隠し続けた真の表情、それを湛えた眼差しで。
どの写真よりも有名なそれを見詰めて、前のブルーに思いを馳せて。
「今はゆっくりしていい時代だぞ」と、「俺の家だから、のんびりしてくれ」と、和らぐ筈などないブルーの表情を和らげたいと話し掛けていて…。
そこで気付いた、これが初めてではないと。
こうしてブルーと語り合った時間、それが確かにあった筈だと。
ブルーと話していた記憶。今と同じに、前のブルーと。
けれどブルーは幻ではなくて、もちろん写真であったわけもなくて。
(待てよ…?)
青の間には一つも無かったソファ。一人用さえ無かったのだから、二人用などある筈もない。
なのに、並んで座った記憶。前の自分の隣に座っていたブルー。
ソファに腰掛け、隣を向いたらブルーがいた。前のブルーが微笑んでいた。そうして二人並んで話した、何度も何度も語り合っていた。
まるで今夜の自分のように。前のブルーの写真集と隣り合わせに座って、答えが無くても自分の想いを語り掛けては、話しているつもりで頬を緩める自分のように。
青の間にソファは無かったというのに、あれは一体、何処だったろう?
何処でブルーと並んで座っていたのだろうかと、遠い記憶を懸命に手繰り寄せていて…。
(そうか、俺の部屋か…!)
あそこだった、と蘇った記憶。
白いシャングリラの中、広かった前の自分の部屋。キャプテン・ハーレイが暮らしていた部屋。仕事柄、様々な者たちが出入りするから、応接用のスペースも設けられていた。寝室や航宙日誌を書いていた部屋とは違った空間。其処に置かれていた応接セット。ソファとテーブル。
前のブルーが訪ねて来た時は、ソファで語らうのが常だった。
恋人同士の仲になるまでは低いテーブルを挟んで向かい合わせで、前の自分が淹れた紅茶などをお供に笑い合ったり、地球への夢を語り合ったり。
そうして恋が実った後には…。
(あいつが俺の隣にいたんだ…)
もう向かい合わせに座ることは無くて、いつも並んで座ったソファ。
ブルーの居場所は前の自分の隣で、すぐ側にあった前のブルーの温もり。たまに向かい合わせで座った時にも、いつの間にか隣に来ていたブルー。前の自分の隣に座っていたブルー。
横を向いたら、其処にブルーの笑顔があった。幸せそうに微笑む顔が。
わざわざ肩を抱き寄せなくても、ブルーの方から自然ともたれて来ていた記憶。前の自分の肩に身体を預けてしまって、眠くもないのに目を閉じていたり。…そう、幸せを噛み締めるように。
(あいつが俺の部屋に来たがったのは…)
ソファのせいでもあったのだろうか?
青の間には無かった、二人並んで座れる場所。並んで腰掛け、語り合える場所。
今の時代も、恋人たちは並んで座るのが常だから。白いシャングリラでも、そうだったから。
ブルーはそれを真似てみたくて、恋人同士で座る気分を味わいたくて、ソファが備えられていた前の自分の部屋を訪ねて来たのだろうか…?
それだけではないと思うけれども、ソファも理由の一つだったろうか、と。
(どうなんだかな…)
真相を小さなブルーに訊いたら、喜ばせるだけの質問だけれど。
ソファが関係していようが、まるで全く無関係だろうが、問われたブルーは間違いなく赤い瞳を輝かせて喜ぶだろうけれども。
尋ねてみようか、明日は土曜日だから。ブルーの家へ行く日だから。
(…お前は知っているんだろうがな…?)
どうだったのかを俺に教えてくれはしないんだろうな、と問い掛けた写真集の表紙のブルー。
答えは返って来なかったけれど、憂いを秘めた顔のブルーが一瞬、微笑んだようにも見えた。
「思い出してくれたんだね」と。
ぼくたちのことを、君の部屋のソファに並んで座っていたことを、と。
その夜は前のブルーとソファで過ごして、それから書斎で日記を書いて。その日記を『追憶』の上にそっと被せて、「おやすみ、ブルー」と引き出しを閉めた。
一晩眠ってもソファの思い出を覚えていたから、頭にきちんと残っていたから。小さなブルーに尋ねてみようと、ブルーの家へと歩いてのんびり出掛けて行って。
生垣に囲まれた馴染みの家に着いて、二階のブルーの部屋で向かい合わせに腰掛けてから質問をヒョイと投げ掛けてみた。
「お前、ソファのことを覚えているか?」
ソファと言ったら家具のソファだが…。こういう椅子とは違って、ソファだ。
「ハーレイの家の?」
うん、覚えてるよ、リビングに置いてあったよね。大きなソファにも、一人用のにも座ったよ。どっちも座り心地が良くって、フカフカのソファ。
「いや、それじゃなくて…」
今の俺の家にあるソファじゃなくてだ、前の俺の部屋の…。
「え?」
ブルーがキョトンと首を傾げるから、「キャプテンの部屋にあったヤツだ」と説明をした。
「忘れちまったか、前の俺の部屋にあったソファ」
キャプテンの部屋には客も来るしな、応接セットがあったわけだが…。ソファとテーブルが。
お前、座っていたろうが。いつでもソファで俺の隣に。
「ああ、キャプテンの部屋のソファ…!」
あったっけね、と嬉しそうに頷いたブルー。
大きなソファが置いてあったと、あれは青の間には無かったものだと。
来客が多いキャプテンの部屋ならではの家具で、ソルジャーの部屋には無かったっけ、と。
ブルーはキャプテンの部屋のソファも、青の間にソファが無かったことも思い出したから。前の自分たちの部屋にあった家具の違いに気付いてくれたから。
これはチャンスだと、昨夜からの疑問をぶつけることにした。ブルーはソファが好きだったのか否か、それを訊くのが自分の目的なのだから、と。
「よし、ソファがあったことは思い出したな? それでだな…。お前に訊いてみたいんだが…」
前のお前が俺の部屋に来たがっていたのは、あのソファのせいか?
「…ソファ?」
ソファのせいって、どういう意味なの?
前のハーレイの部屋は好きだったけれど、何度も泊まりに行っていたけど…。
「いや、もしかしたら、あのソファに座りたくて来ていたのかもな、と思ってな…」
友達同士だった頃には向かい合わせで座ったもんだが、恋人同士になってからは、だ。いつでも俺の隣に座っていたしな、前のお前は。
たまに向かい合わせで座った時にも、気が付いたら俺の隣に来てた。当たり前のように。
…だからだ、お前、あのソファに座ろうとして来ていたのかと思ったんだが…。
青の間にソファは無かったからなあ、並んで座れはしなかったからな。
どうだったんだ、と尋ねたら、ブルーの顔が花が開くようにふわりと綻んで。
「うん、そうだよ」
あのソファに座りたいから行ってたんだよ、ハーレイの部屋に。
ソファが目当てじゃない時だって、もちろん何度もあったけど…。ソファが無くても、行きたい部屋ではあったんだけれど。
…だって、ハーレイの部屋だから。ハーレイのためにあった部屋だから、何処もハーレイの色で一杯。緑とかそういう色じゃなくって、ハーレイの好きな色なら何でも。机も床も、壁の色もね。
あの部屋の全部が好きだったけれど、ソファに座るのも大好きだったよ。
すっかり忘れてしまっていたけど、あのソファ、お気に入りだったんだよ…。
ソファそのものもハーレイらしくて好きだったけれど、ハーレイの隣が好きだった、とブルーは笑みを浮かべて答えた。前のハーレイの隣に並んで座るのが、と。
「あそこでしか並んで座れなかったしね…」
どんなにハーレイの隣に座りたくっても、あのソファだけしか無かったから。
「…そうか?」
お前、しょっちゅう俺の隣にくっついていたと思うんだが…。
もたれていたり、俺の腕にギュウッと抱き付いていたり。
「それはそうだけど…。間違いないけど、そういう時にはベッドだったよ」
ベッドの上とか、ベッドの端に並んで座っていた時だとか。そんな時だよ、くっついてたのは。
だけど、椅子はね、ハーレイの部屋のソファだけだった。
ハーレイと同じ椅子に並んで座れる所は、あのソファだけしか無かったんだよ…。
公園のベンチや、シャングリラの中を移動するための小さな車両の座席やら。
そうした場所なら並んで座ったことも珍しくなかったけれども、ソルジャーとキャプテンの貌で座っていただけ、とブルーに言われてみれば。
確かにそういう記憶しか無くて、休憩中のソルジャーの隣に座って話をするとか、視察の途中に隣り合わせで座ってゆくとか、それだけのこと。同じ椅子に並んで腰を下ろしていても。ベンチや座席で隣り合っていても、あくまでソルジャーとキャプテンだった。
「…ハーレイと恋人同士で並んで座っていられる椅子は、本当にあのソファだけだったんだよ」
シャングリラはうんと広かったけれど、あそこだけが誰にも見付かる心配が無かった場所。
どんなに二人でくっついてたって、恋人同士なんだって分かる話をしてたって。
あの船の中に、恋人たちのための場所は幾つもあったのに…。
公園のベンチも、休憩室とかに置いてあったソファも、恋人たちが並んで座ってたのに。
「そういや、そうだな…」
仲良く並んで座っているな、ってヤツらを見掛けることが多かったっけな。
並んで座るってだけじゃなくって、手を繋いでたり、肩を抱いてたりしたっけな…。
「でしょ?」
だから、あのソファが好きだったんだよ。あそこなら並んで座れるから。
恋人同士の気分になれたよ、他の恋人たちみたいに公園とかではなかったけれど。
何処でも恋人同士の顔をして堂々と並べはしなかったけれど、あのソファは別。ハーレイの肩にもたれていたって、くっついてたって、何の心配も無かったんだもの。
…キャプテンの部屋に断りも無しに入ろうって人は無いものね。誰か来たなら、パッと離れて、ハーレイの向かいに座り直せばいいんだから。
でなきゃ瞬間移動で逃げてしまうとか、誤魔化す方法は山ほどあったし…。
だけど、そんなことは一度も無かったんじゃないかな、行ってたのはいつも夜だったから。
本当に素敵なソファだったよ、と小さなブルーは懐かしそうで。
どうして今まで忘れていたのかと、あのソファがとても好きだったのにと遠く遥かな時の彼方に消え去った船を、キャプテンの部屋を、其処にあったソファを思い浮かべているようだから。
「…お前、やっぱり、アレが目的だったんだな?」
あのソファに座ろうと思って来ていたんだな、俺の部屋まで。
「それだけってわけじゃないけどね」
ハーレイの部屋も好きだったと言ったよ、何処を見たってハーレイの色で。
航宙日誌を書いてるハーレイを眺めているのも大好きだったし、お酒を飲んでるハーレイも…。
青の間だと見られないものばかりが揃っていたから、いつ出掛けたって楽しかったよ。
それにね、ハーレイと過ごせる時間。
恋人同士でいられる時間も大切だったよ、ソファだけに限った話じゃなくて。
キスとか、その先のことだとか…、と小さなブルーがチラリと意味ありげな視線を寄越すから。
(…そうだ、あのソファでも…!)
二人並んで座っていたから、隣同士でくっつき合っていたのだから。
ソファに座ったまま、キスを交わしたりしたのだった。ただ触れるだけのキスとは違って、恋人同士の深いキス。そのまま溶け合ってしまえそうなほどに熱くて激しいキスを。
ふざけ合ったこともあったのだった、ベッドに行く前の恋人同士の戯れの時間。互いの肌を探り合ったり、ブルーの補聴器を外してしまって柔らかな耳を味わってみたり。
流石にソファでは愛は交わしていないけれども。
そういう気分になって来たなら、ブルーを抱き上げてベッドに運んでいたけれど…。
実はとんでもない場所だったのか、と今頃になって思い出したソファ。
小さなブルーに質問したのはマズかったろうかと、藪蛇だったかと慌てた所で手遅れなのだし、此処は平静を装っておくのが一番だろう。ブルーが何処まで覚えているかは謎だから。忘れている可能性も高いのだから、自分さえ口を噤んでおけば、と。
そんな祈りが天に届いたか、ブルーはキスだの本物の恋人同士だのと言いはしないで。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくもハーレイに質問があるんだけれど…」
訊いていいかな、ソファのことで。
「ん?」
ソファがどうかしたか、前のお前が好きだったソファか、前の俺の部屋の?
「ううん、そうじゃなくて…。今度もソファに並んで座っていいんだよね?」
今のハーレイの家にあるソファ。
あの大きなソファ、ハーレイと並んで座っちゃってもかまわないよね…?
「もちろんだ」
どうして駄目ってことになるんだ、お前、俺の嫁さんになるんだろうが。
俺と一緒に暮らすわけだし、あのソファはお前のためのものでもあるわけだ。
俺が仕事に行ってる間に寝転んで本を読んでいようが、昼寝しようが、お前の自由だ、誰からも文句は出ないってな。
キャプテンの部屋にあったヤツはだ、俺の私物か、そうでないのか微妙だったが…。
仕事用って側面もあったわけだし、半分ほどは公共の物かもしれなかったが…。
今度は違うぞ、明らかに俺の私物だからな。好きに使ってかまわないんだ、昼寝でもなんでも。
そうでなくても、柔道部のヤツらに既に蹂躙されている。
ヤツらが来たなら、あのソファは遠慮なく奪い合いなんだ、挙句の果てにはメジロ押しってな。ギュウギュウ詰まって、端っこのヤツが零れ落ちてる有様だぞ。それでも足りずに上に乗るヤツも現れるわけだ、他のヤツらの膝の上にな。
だからお前も好きに使え、と許可を出してやった。
今はまだまだ早すぎるけども、いつか大きく育った時には、まずは二人で並んで座る所から。
結婚したなら、ソファはブルーのものでもあるから、もう本当に好き放題に。昼寝をしようが、寝そべって本を読んでいようが、どんな風にも使っていいと。
「お茶を飲んだり、菓子を食ったりするのなんかは基本だな。ソファ本来の使い方だし」
何に使おうが、俺は小言を言いはしないぞ。
お前なら大事に使うだろうしな、柔道部のヤツらみたいな無茶はしないで、それは大切に。
「ありがとう、ハーレイ! ぼくのソファにもなるんだね、あれは」
それなら、今度はキスだけじゃなくて、もっと他にも…。
「はあ?」
キスとはなんだ、と背中に冷汗が流れたけれども、冷静なふりで訊き返したら。
「えーっと…。前は一応、遠慮してたし…」
前のハーレイの部屋にあったソファはね、ハーレイがさっき言ってた通りだったし…。
ハーレイの部屋のソファではあったけれども、ハーレイの私物かどうかは難しくって…。
だから、遠慮はしていたんだよ。
これよりも先はちょっとマズイかもしれないよね、って。
あのソファはヒルマンやゼルや他の仲間たちも座るソファだったから、と染まっている頬。
そういうソファでは流石にどうかと、前の自分も考えて遠慮していたと。
「…キスと、ちょっぴりふざけ合うくらいは大丈夫かな、って思ったけれど…」
ベッドの代わりにするっていうのはあんまりかな、って。
このままソファで出来たらいいのに、って思っていたって、ハーレイにベッドに運ばれちゃっておしまいだったし、やっぱりそういうことだよね、って…。
ぼくから強請っちゃ駄目だと思って、ソファでは我慢をしていたんだよ。
とても大好きな場所だったんだし、本当はあそこをベッド代わりにしたかったけど…。
だからね、今度はソファでもお願い。キスだけじゃなくて、ホントはベッドですることまで。
「こら、お前…!」
キスも駄目だと言っているのに、何の話をしてるんだ…!
第一、お前は何歳なんだ、十四歳にしかなっていないだろうが…!
背伸びしてベラベラ喋ってる中身、今のお前には意味が分かっているかも謎だぞ、馬鹿者が…!
子供のくせに、とブルーを叱り付けたけれど。
小さな子供が何を言うかと、前と同じに育ってから言えと顔を顰めてやったけれども。
「…でも、ソファの話…。言い出したのはハーレイだよ?」
ハーレイが先にぼくに訊いたんだよ、あのソファのことを覚えてるか、って。
あれに座りたくてハーレイの部屋に行ってたのか、って質問したのはハーレイじゃない…!
「だから訊きたくなかったんだ…!」
お前を喜ばせるだけかもしれん、と思ってはいたが、真相ってヤツを知りたかったし…。
それだけを訊ければ充分なんだと腹を括ってやって来たのに、お前ときたら…。
余計なことまで思い出しちまって、ソファの使い方の注文だと?
今のお前に似合いのソファの使い方はだ、昼寝と寝そべって本を読むことだ…!
チビが、とブルーの額を拳で軽くコツンと小突いたけれど。
ブルーは「ハーレイが先に言ったくせに」と膨れっ面をしているけれど。
(…まあ、いずれはな?)
小さなブルーが前と同じに育ちさえすれば、今度は二人でソファに座れる。今はまだ二人並んで座れないソファに、隣り合わせで。
最初はそこから、隣同士で仲良く座って、お茶やお菓子や、他愛ない話。
ブルーの肩を抱いたりしながら、微笑み交わして、くっつき合って。
そうして始まる、今の生でのブルーとのソファの使い方。恋人同士での座り方。
二人並んでソファに座って、それからキスも、その先のことも、前の生では無理だったことも。
ブルーも自分も遠慮していて、出来なかったソファの使い方。
あのソファをベッド代わりに使ってみようか、いつかブルーと結婚したら。
同じ家で暮らして、同じソファを使える時が来たなら。
ブルーもあのソファの持ち主になって、昼寝に使うような時が来たなら。
それもいいな、と零れそうな笑みを今は懸命に堪えるけれど。
小さなブルーを喜ばせてしまう結果を招かないよう、威厳を保っておくけれど。
いつかはブルーと使いたいソファ。恋人同士の熱い時間を、甘い営みをあのソファの上で…。
二人のソファ・了
※前のハーレイのキャプテン時代に、部屋にあったソファ。前のブルーのお気に入りの場所。
恋人同士で並んで座れる所は、その一つだけ。今の生でも、素敵な場所になりそうです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(うー…)
暑い、とブルーが思わず零した学校からの帰り道。路線バスを降りて家まで歩く途中で、口からポロリと漏れた一言。本当に暑く感じるから。
夏の季節はとうに終わって、秋と呼ぶのが相応しい今。カレンダーでも、日々の気温も、草木の様子も空の色も。なのに何故だか暑く思えてしまう今日。長袖の制服が身体に絡み付くよう。
(…ホントに暑い…)
ハーレイは今日の古典の授業で「小春日和」と言っていたけれど。秋らしくない暖かすぎる日、それを指すのが小春日和という言葉。遥かな遠い昔にこの地域にあった小さな島国、日本の言葉。アメリカでは「インディアン・サマー」と呼ばれていたらしい、遠い昔に。
小春日和は晩秋のものだとかで、こう付け加えていたハーレイ。「正確には、小春日和ってヤツには少しばかり早いんだがな」と、「季節外れの残暑と言うべき所かもな」と。
(小春日和でも、季節外れの残暑でも…)
気温が高すぎ、と零れる溜息。学校や路線バスは空調が効いていたけれど、外へ出たなら空調は無くて。日射しが痛いとまでは思わなくても、夏が戻って来た気分。
実際の気温は、きっと夏には及ばないけれど。真夏だったら涼しく感じる程だろうけれど。
(…でも、暑いよ…)
この季節には珍しい、汗ばむ陽気。制服が夏服でない分、余計に。
あまりに暑くて、家に帰ったら冷たいものが欲しいけれども。
(アイスは無理…)
ひんやりと溶けるアイスクリームが食べたいけれど、母は買ってくれてはいないだろう。作ってくれているわけもない。
夏の盛りの頃ならともかく、今は秋。本来だったら涼しい季節にアイスクリームを食べるなど、身体に悪いと母は考えるに決まっているから。丈夫ではないのが自分だから。
それでも冷たい何かが欲しい、と祈るような気持ちで家まで帰って。
門扉を開けて庭を通り抜け、玄関の扉に辿り着くなり、中に入るなり「ただいま」の続きに奥に向かって叫んでしまった、「お帰りなさい」と出て来た母に。
「暑かったー!」
とても暑かったよ、もうヘトヘトだよ…!
「そうねえ、暑い日になっちゃったわね。疲れたでしょう、早く着替えていらっしゃい」
冷たいものを用意してあげるから、と笑顔の母。着替えたらダイニングにいらっしゃい、と。
「ありがとう、ママ!」
一気に元気が湧き上がって来た。家までの道は暑かったけれど、冷たいものが待っているらしいダイニング。おやつの時間を過ごすテーブル。
(もしかして、アイス?)
母がわざわざ口にするからには、その可能性もあるだろう。買い物に行ったか、庭仕事なのか、外の暑さをじかに感じて、その中を帰って来る自分のために用意してくれたとか…。
(買ってくれたのかな、それとも作った?)
どちらにしたって期待出来る、と大喜びで着替えを済ませた。半袖は流石に叱られそうだから、薄手の長袖。制服よりはずっと涼しくなった。
後は冷たいアイスクリームで身体の中から冷やすだけ、と階段を下りて行ったのだけれど…。
ダイニングのテーブルに着いて、ワクワクしながら待った自分の前にコトリと置かれたグラス。心を躍らせたアイスクリームの代わりにグラスで、パフェなどの類にも見えないから。
「なにこれ…」
これはなあに、と指差したグラス。うっすらと露はついているけれど、氷も入っていないから。
「ミルクセーキよ。ちゃんと冷たい牛乳を使って作ったのよ」
シロエ風のホットミルクよりいいでしょう、と微笑む母。今日は暑いから、これの方が、と。
確かにシロエ風のホットミルクよりはいいけれど。マヌカの蜂蜜がたっぷり入った温かい牛乳を出されるよりかは、この方がずっとマシだけれども。
「…アイスじゃないんだ…」
うんと暑かったから、アイスクリームが欲しかったのに…。
冷たいものってママが言うから、もしかしたら、って期待してたのに…。アイスクリーム。
「あら、材料は似たようなものよ。アイスクリームも、ミルクセーキも」
どっちも牛乳と卵とお砂糖で出来るの、作り方と冷やし方の違いで変わるのよ。
アイスクリームも作れるけれども、それじゃ身体に悪いでしょう?
暑いのは今だけ、夕方になったら一気に冷えてくると思うわ。だから身体を冷やしちゃ駄目よ。
ミルクセーキに氷も入れていないでしょう。このくらいがいいのよ、ブルーの身体とお腹には。
冷やしすぎは本当に良くないの、という母の心遣いに我儘は言えないから。
今のハーレイの好物だというパウンドケーキも焼いてくれてあるから。
文句は言えない、アイスクリームが出て来なくても。ミルクセーキしか無いテーブルでも。
仕方なく飲むことにしたミルクセーキ。氷も浮かんでいないグラス。
外側に露がついていたって、きっとそれほど冷えてはいない。冷たい牛乳を使った分だけ、その分だけの冷たさなのに違いない。
そう考えたら悔しくなる。同じ材料で出来ると言うなら、アイスの方が良かったのに、と。
(でも、今日はハーレイが好きなパウンドケーキ…)
母が焼くパウンドケーキは、ハーレイの母が作るパウンドケーキと同じ味だと聞いている。別の人が作ったとは思えないほどに似ていると。それを知って以来、特別なパウンドケーキ。
ミルクセーキをお供に食べるおやつは、パウンドケーキなのだから。
それに小春日和という言葉をハーレイの授業で教わったから。
いい日なんだと、きっと幸せな日なのだろうと思うことにして、ミルクセーキをグラスから一口飲んだら。コクリと喉へと送り込んだら。
(あれ…?)
知っている味、と弾んだ心。
この味をぼくは知っているよ、と。
(…当たり前でしょ?)
味は知っていて当然だもの、と呆れてしまった自分の反応。喜んでいる自分の舌と喉。
ミルクセーキなら幼い頃から何度も何度も飲んでいるのだから、お馴染みの味。暑い夏が過ぎて御縁が無くなっただけで、この夏だって何度も飲んでいた筈。
それをそこまで喜ばなくても、と自分の単純さに驚かされる。小春日和の暑い日に飲んだ冷たい飲み物、それだけで嬉しくなるのだろうか、と。
でも…。
(ハーレイ…?)
何故だか浮かぶハーレイの顔。パウンドケーキが好きな恋人の顔。
ミルクセーキを夏休みに二人で飲んだだろうか?
夏休みでなくても、ミルクセーキが似合いの季節に。初夏の頃とか、残暑だとか。
(そうなのかも…)
部屋では確かに飲んだ筈。今日のよりも冷たいミルクセーキを、氷が浮かんでいたものを。部屋だけでなくて、きっと庭でも飲んだのだろう。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子がある場所、初めてのデートの思い出の場所で。お気に入りの庭のテーブルと椅子。
あそこだったら、何でも特別に思えるから。デートの気分で過ごしているから、ミルクセーキも素敵な味がしたのだろう。今日のデートはミルクセーキ、と。
(…でも…)
一度は納得しかけたけれども、それにしては妙に懐かしすぎる。ミルクセーキの味わいが。喉をスルリと滑り落ちて行った味が、滑らかで甘い独特のコクが。
舌と喉とが喜んだ味が、その記憶が何故か遠すぎる。庭のテーブルと椅子で飲んでいたのなら、間違いなく夏のことなのに。夏の終わりでも残暑の頃でも、一つ前の季節のことなのに。
けれど遥かに遠い気がする、さっき心が弾んだ味。ミルクセーキの味を知っているのだと喜んだ心、飛び跳ねた心は夏よりも前のものに思えて。
(なんで…?)
ミルクセーキは夏のものなのに。それにハーレイとミルクセーキを飲んだ夏なら、今年の夏しか無い筈なのに。
どうしてそういう風に感じるのか分からない、とミルクセーキをもう一口。
まさか前のぼくだったわけでもあるまいし、と。
そうしたら…。
牛乳と卵黄、それから砂糖。滑らかになるまで泡立て器で混ぜたミルクセーキ。喉の奥へと滑り落ちた味、舌に残った優しい甘さ。
(ハーレイのだ…!)
思い出した、と蘇った記憶。遠い遠い昔、遠く遥かな時の彼方で飲んだミルクセーキ。白い鯨になる前の船で、シャングリラと呼ばれていた船で。
あの船の厨房で、前のハーレイがミルクセーキを作ってくれた。まだキャプテンの任に就いてはいなくて、あそこで料理をしていた頃に。
「まあ、飲んでみろ」とハーレイが差し出したミルクセーキ。作り立てのものを。
(…あの味だっけ…)
知っている筈だ、とミルクセーキを味わってみる。この味だったと、同じ味だと。
(…牛乳と卵と、それからお砂糖…)
たったそれだけの材料で出来る飲み物だけれど。今の自分には珍しくもないものだけど。
シャングリラで飲んだミルクセーキの味は、とても大切な思い出だから。
(此処のテーブルで考えてるより…)
部屋で懐かしい記憶を追いたい、時の彼方の遠い記憶を手繰り寄せたい。ミルクセーキの味だけ舌に残して戻って、部屋でゆっくり。
(うん、この味…)
こういう甘さで、この舌触り、と舌と喉とに覚え込ませて。ハーレイが好きなパウンドケーキも慌てずにしっかり味わってから、空になったお皿やグラスをキッチンの母に返しに行って。
「御馳走様」と二階へと続く階段を上った、一刻も早く戻らなくては、と。
そうして戻った自分のお城。青の間とは比べようもない小さな部屋でも、今の自分が住んでいるお城。勉強机の前に座って、頬杖をついて遠い記憶の中に浸った。
(ハーレイのミルクセーキ…)
あの味だった、と舌と喉とに残っている味を思い出す。あれとおんなじ、と。
シャングリラが自給自足の船ではなかった、ハーレイが厨房にいた時代。食料は全て前の自分が人類の輸送船から奪って手に入れ、ハーレイはそれを料理していた。食材が偏ってしまった時でも工夫を凝らして、皆を飽きさせないように。あれこれ試作し、様々なものを。
何かと言えば試作品を作っていたハーレイに、ある時、「厨房に来ないか」と声を掛けられた。栄養のつくものを飲ませてやろう、と。
栄養を摂るなら料理だとばかり思っていたから、新作のスープかシチューだろうと思ってついて行ったのに。飲むならそれだと考えたのに。
「…なあに?」
ハーレイが用意した材料はたったの三つで、しかも一つは砂糖だから。砂糖の入ったシチューやスープは知らないけれど、と首を傾げて何が出来るのか尋ねたら。
「いいから、見てろ」
こいつはだな…。シチューでもスープでもなくてだな…。
ハーレイがパカリと割った卵は、白身は使わないようで。他の器に入れて冷蔵庫の中へ片付けてしまった、「こっちは何に使うかな…」などと言いながら。
牛乳と卵黄、それから砂糖。ボウルの中で泡立て器でシャカシャカ手際よく混ぜて、「ほら」と作ってくれた飲み物。ガラスのコップにたっぷりと注いで渡された。
「ミルクセーキだ、そういう名前の飲み物なんだ」
ちょっと美味いぞ、この前、コッソリ作ってみたからな。少しだけの量で。
卵の料理を作っていた時に、とハーレイが悪戯小僧のような笑みを浮かべて保証するから。
「ふうん…?」
ミルクセーキって言うんだ、これ?
卵の黄身しか使わないなんて、なんだかとっても贅沢そうだね…。
興味津々でミルクセーキなるものをコクリと飲んだら、甘くて、卵黄のせいかコクがあって。
ハーレイが自信を持って勧めたわけだと、誘われたわけだと嬉しくなった。餌と水しか無かったアルタミラ時代のせいで好き嫌いは全く無いのだけれども、美味しいものは分かるから。美味しい食べ物を口にしたなら、幸せが胸に広がるから。
「美味しいね、これ。…ミルクセーキ」
ハーレイ、ぼくのために作ってくれたの、コッソリ試してみてたってことは?
「偶然、レシピを見付けたからな。しかしだ、この通り、材料がなあ…」
卵の白身は使わないと来た、飲み物にしては贅沢すぎだ。他のヤツらには出せんぞ、これは。
だが、栄養はたっぷりあるし…。背も伸びそうだから、お前に作ってやることにした。
「背が伸びるって…。ホント?」
ミルクセーキでぼくの背が伸びるの、本当に?
「作るのを見てたろ、牛乳が入っているからな。背を伸ばすんなら牛乳だぞ」
おまけに骨も丈夫になるんだ、お前にピッタリの飲み物じゃないか、ミルクセーキは。
頑張って早く大きくならんとな、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
お前はずっと子供の姿でいたんだから、と。
もう成長を止める必要は無いし、こいつを飲んで大きくなれよ、と。
(ミルクセーキで背が…)
伸びるぞ、と微笑んでくれたハーレイ。卵黄で栄養もつくからと。
ただ、材料が贅沢だから。食堂で他の仲間たちにも飲ませていたなら、卵白が余りすぎるから。嗜好品とも言える飲み物にそれは出来ない、と頭を振っていたハーレイ。食料事情が安定しないと作れはしないと、この船の中で牛乳も卵も賄えるようになれば別なんだが、と。
それでも、ハーレイはミルクセーキを作ってくれた。「一人分ならなんとかなるさ」と、何度も厨房に呼んでくれては、「コッソリだぞ」と念を押して。「お前の分しか無いんだから」と。
(そうだったっけ…)
他の仲間が厨房にいない、試作の時間。ハーレイが好きに厨房を使える時間。
そういう時に何度も作って貰った、ミルクセーキを。「作ってやるから」と厨房に呼ばれて。
牛乳と卵黄と砂糖から作る栄養たっぷりの甘い飲み物、背が伸びるというミルクセーキ。何度も飲ませて貰っていたのに、ハーレイが厨房にいなくなったら、ミルクセーキはなくなった。
シャングリラのキャプテンになったハーレイはもう、厨房には立たなかったから。厨房で試作をすることは無くて、ミルクセーキをコッソリ作れはしなかったから。
飲めなくなってしまったミルクセーキ。作ってくれるハーレイがいなくなったから。ハーレイは前と変わらずいたのだけれども、居場所が変わってしまったから。
(あれっきりだっけ…?)
ミルクセーキは消えてしまったんだっけ、と遠い記憶を探ってみる。前の自分の背はぐんぐんと伸びて、年齢を止める所まで育ったけれど。ミルクセーキの助けは無かった、背が伸びる美味しい飲み物はもう貰えなかった。
(…他の栄養で伸びたんだよね?)
前のぼくの背、と溜息をつく。ミルクセーキが無くても栄養は充分に摂れたし、牛乳も卵も他の食べ物に入っていたのだから、と。
ハーレイが作るミルクセーキで伸ばせなかったことは寂しいけれど。あれで育ったのなら幸せも大きかっただろうに、と思うけれども、ハーレイは別の所で助けてくれたから。
キャプテンとして船を纏めて、リーダーと呼ばれていた自分を補佐してくれたし、ソルジャーになった後にもずっと右腕でいてくれたのだし、ミルクセーキを残念がっても仕方ない。
「コッソリだぞ?」と作ってくれていたミルクセーキよりも、ずっと自分の役に立つことをしてくれていたのがハーレイだから。キャプテン・ハーレイだったのだから…。
そうは思っても、寂しい心。ハーレイが作るミルクセーキは消えたのだった、と。
(あんなに優しい味だったのに…)
前のハーレイのミルクセーキ、と遠い遥かな記憶を手繰れば、不意に現れたハーレイの笑顔。
とびきりの笑顔のハーレイが青の間に立っていた。「懐かしいでしょう?」と。
キャプテンの制服をカッチリと着込んだハーレイの手にあった、厨房のトレイ。青の間へ食事を運ぶ係が使っているものと同じトレイで、上にはグラス。ミルクセーキが入ったグラスが二つ。
持って来てくれたのだった、懐かしい飲み物を厨房から。
こういう贅沢な飲み物が作れるくらいに、シャングリラの食料事情は安定しましたよ、と。
「覚えていらっしゃいますか、ブルー?」
ミルクセーキですよ、私が厨房の責任者だった頃には何度も作っていたものですが…。
これを堂々と作れる時代になりました。卵も牛乳も、もう当たり前のものになりましたからね。
「…君が作ってくれたのかい?」
グラスは二つあるようだけれど、君の分まで作れたのかい?
ぼくが作って貰っていた頃には一人分だけで、君は味見に少し飲んでいただけだったのに。
「いえ、残念ながら…。材料は豊富にあるのですが…。私の分まで作れるのですが…」
ここで私が「自分でやるから」と作り始めたら、大変なことになりますよ。
いくら厨房の出身だったと知られていたって、初めての筈のミルクセーキを慣れた手つきで作り始めたら、昔のコッソリがバレますからね。作る機会がいつあったんだ、と。
「それもそうだね、君の手際が良すぎるわけだね」
あれだけ何度も作ってたんだし、わざと失敗してみせたのでは不自然すぎるし…。
バレないためには作らないのが一番いいよね、ミルクセーキは。
ハーレイが厨房でコッソリ作っていたミルクセーキ。シャングリラの中だけで卵も牛乳も賄える時代になった今では、バレても時効で笑い話で済みそうだけれど。
キャプテンが盗みはやっぱりマズイと、ソルジャーが一人だけ贅沢な飲み物を飲んでいたこともマズイだろうと、ミルクセーキの話は隠しておくことになった。
「犯罪者は私だけなのですが…」
厨房で盗みを働いていたのは私一人で、あなたはミルクセーキを飲んでらっしゃっただけで…。
「コッソリなんだと知っていて飲んでいたわけだからね、共犯と言うんじゃないのかな?」
ぼくが「作って」と頼んだわけではないけれど…。「作るな」とも言っていないから。
「なるほど、止めてらっしゃらないなら、共犯なのかもしれませんね」
卵の貴重さは、あなたも充分に御存知でしたし…。
飲み物に仕立ててしまうよりかは料理するのが本当だろうと、承知しておられたわけですし。
それでも「やめろ」と仰らないまま、作る所を御覧になっていらっしゃったということは…。
犯罪行為を放っておいでになったのですから、リーダーらしからぬ行動ですね。
「そうだろう?」
だから共犯だよ、ぼくだって。
一生隠しておくしかないってことなんだろうね、君が本当はミルクセーキを作れることは。
どうやら二人して犯罪者らしい、と笑い合って飲んだミルクセーキ。
ハーレイが作ったものではなかったけれども、とても懐かしい味がする、と。
牛乳と卵黄、それから砂糖。白い鯨になったシャングリラだからこそ出来る贅沢、誰もが飲めるミルクセーキ。ずっと昔に飲んでいたとは言えはしないと、作っていたことも秘密にせねばと。
(あれから何度も…)
頼んだのだった、ハーレイが青の間へ来る時に「ミルクセーキを持って来て」と。
とっくに背丈は伸びていたのに、とうの昔に年齢も止めてしまっていたのに。
だから笑っていたハーレイ。ミルクセーキを満たしたグラスを持ってくる度に。
「これを飲んでも、あなたの背丈はもう伸びませんよ?」
私があなたに作っていた頃とは、すっかり事情が違うのですが…。
シャングリラの食料事情も変わってしまいましたが、あなたのお身体にもミルクセーキはとうに必要ないのでは…?
「骨を丈夫にするんだよ。牛乳が入っているんだから」
牛乳と言えばカルシウムだろう、骨が丈夫になる筈だよ。ミルクセーキを飲んでいればね。
そんな屁理屈を言いながら飲んだ。年齢を止めてしまった身体の骨が丈夫になるなどと言えば、ノルディに笑い飛ばされたろうに。「そういうことはありませんよ」と、「カルシウムはとっくに足りているものと思われますが」と。
それでも、かつてはハーレイが作ってくれていたミルクセーキ。その懐かしい味が飲みたくて、何度もハーレイに注文していた。「本当は君が作ったミルクセーキが飲みたいのに」と。
恋人同士になった後にも、何度その望みを口にしたことか。
「君が作ったのが飲みたいな…」
共犯だったことがバレてもいいから、またあのミルクセーキを作って欲しいな。
こうしてミルクセーキを飲むとね、君が作ってくれていた頃を思い出すんだよ、今でもね。
「野菜スープが限界ですよ」
ソルジャーのためにキャプテンが何か作るとなったら、あれくらいです。
あのスープでしたら、誰もが承知しておりますし…。ブリッジを抜けて作りに行っても、変だと思う者は一人もいませんが…。
ミルクセーキとなったら話は別です、ソルジャーのお好きな飲み物を何故キャプテンがわざわざ作りに行くのです?
野菜スープは私のレシピだと知られていますから、誰かに「任せる」と言わない限りは作るのは私の仕事でしょうが…。ミルクセーキは既にレシピがあるのですからね、厨房に。
それを私が作っていたなら恋人同士なのがバレますよ、と指摘されればそうだから。他の仲間に仲を疑われ、本当にバレるかもしれないから。
ハーレイが作るミルクセーキを味わえないことは、仕方ないとは思ったけれど。
「でも、いつかまた飲んでみたいよ」
君が作れそうなチャンスが来たなら、あの懐かしいミルクセーキを。
「では、シャングリラが地球に着いたら作りましょう」
地球に着いたら、ソルジャーもキャプテンも、お役御免になるでしょうから。
肩書きが無くなってただのミュウになれば、恋人同士だと皆に明かしても大丈夫ですし…。
私たちの仲を隠さなくても良くなったならば、また作りますよ。地球に着いたら。
あなたのためにミルクセーキを、とハーレイは約束してくれたけれど。
地球の牛乳や卵黄や砂糖、それを使って作ると言ってくれたのだけれど。
(…ぼくの寿命が…)
尽きると分かって、夢は儚く消えてしまった。地球へ行く夢。白いシャングリラで辿り着く夢。
自分がシャングリラを守り続けて、ハーレイが舵を握って、いつか。青い地球まで。
その夢は消えて、ミルクセーキも頼まなくなった。飲めば悲しくなってしまうし、胸がツキンと痛くなるから。「ハーレイが作るミルクセーキはもう飲めない」と涙が零れてしまうから。
(それっきり…)
ハーレイに「ミルクセーキを持って来て」とは頼まなくなって、やがてジョミーを船に迎えて。
前の自分は深い眠りに就いてしまって、目覚めた時には永遠の別れが待っていた。たった一人でメギドへと飛んで、別れてしまった前のハーレイ。
飲めなくなったミルクセーキ。
前の自分は死んでしまって、ミルクセーキを頼むことさえ出来なくなってしまったから…。
幸せな思い出も沢山あるのだけれども、最後は悲しい思い出しか無いミルクセーキ。
前のハーレイにもう一度作って貰えないまま、終わってしまったミルクセーキ。
(…ハーレイ、覚えているのかな?)
今も覚えてくれているのだろうか、あの懐かしい飲み物を。皆には内緒でコッソリ作って、前の自分に飲ませてくれていたミルクセーキを。
訊いてみたい、と窓の方へと視線を向けたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄れば、門扉の所で手を振るハーレイ。
最高のタイミングで来てくれた恋人、仕事の帰りに寄ってくれたハーレイ。母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去ってゆくなり、勢い込んで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ。…ミルクセーキを覚えてる?」
「ミルクセーキ?」
覚えてるかって…。俺にわざわざ訊くってことはだ、レシピの話ってわけじゃなさそうだな?
たまに作って飲んではいるがだ、そいつのことではないんだろうな…?
「…今も作るの、ミルクセーキを?」
前のハーレイが作ってたんだよ、まだ厨房にいた頃に。卵の黄身しか使わないなんて、凄く贅沢だった時代に。…飲み物のためにだけ、そういう使い方をしたらマズイだろう、っていう頃に。
前のぼくのために作ってくれたよ、「コッソリだぞ」って。ぼくの分しか無いんだから、って。
「ああ、あれなあ…!」
ミルクセーキを作っていたんだっけな、前の俺もな。
前のお前がチビだった頃に、厨房に呼んでは「背が伸びるぞ」って。
だが、キャプテンになっちまった後は、コッソリ作りには行けなくて…。シャングリラの改造が済んでミルクセーキが作れるようになった時には、コッソリがバレるから作りに行けなくて。
バレてもいいから作ってくれ、って前のお前が言い出した頃には、お前との仲がバレそうで…。
地球に着いて恋人同士だと言えるようになったら、作ってやるって約束したんだっけな…。
とうとう作ってやれなかったな、とハーレイも思い出したから。
「前のお前は、ミルクセーキを頼むことさえしなくなっちまって、それっきりだったな」と深い溜息をついたから。
「…それは仕方ないよ、前のぼくの寿命が尽きると分かってしまったら…」
もう頼みたくはなかったんだよ、ハーレイが作るミルクセーキは二度と飲めないんだから。
厨房の誰かが作ったヤツでも、飲んだらハーレイのミルクセーキを思い出しちゃうし、飲めずに死んでしまうんだってことを思い知らされちゃうんだし…。
だから飲まなくなっちゃったんだよ、ミルクセーキは。
ハーレイに届けて貰ったとしても、思い出よりも悲しさの方が強くなるのに決まっているから。
「…そうだったな…。俺が約束を果たしてやれる日が来ない以上は、辛いだけだな…」
いつか必ず作ってやるから、と言ってやれた間は温かな思い出の味だったろうが…。
そんな日は来ないと分かっちまったら、悲しい味にしかならないからな…。
「うん。…それで頼まなくなっちゃったけれど、それまでは大好きだったんだよ」
誰が作ったミルクセーキでも、前のハーレイが作ってくれてたミルクセーキを思い出すから。
あの味だった、って幸せだったし、コッソリ作ってくれてた姿も覚えていたから。
…前のハーレイは、前のぼくにもう一度作ってくれないままで終わってしまったけれど…。
前のぼくがメギドで死んでしまって、それっきりになってしまったけれど。
…今度はぼくに作ってくれる?
今のハーレイのレシピでいいから、またミルクセーキ。
「作ってもいい時が来たらな」
俺がお前に手料理ってヤツを御馳走するとか、家に呼んでやることが出来る日が来たら。
お前が前のお前とそっくり同じ姿に育って、キスもデートも出来るようになったら、またアレを作って飲ませてやろう。
コッソリじゃなくて、堂々とだ。材料はあるし、俺たちの仲も隠さなくてもいいんだからな。
今は駄目だぞ、と言われたけれど。
前と同じに育たない内は、ミルクセーキも作ってやらないと釘を刺されたけれど。
「…まあ、焦らずにゆっくり育つことだな、今度は約束を守ってやれるんだし」
お前がきちんと大きくなったら、うんと美味いのを作ってやるさ。
ミルクセーキのレシピも今は色々あるわけなんだが、前の俺のレシピでやっても美味い筈だぞ。
今は材料がいいからな。牛乳も卵も、それに砂糖も、地球のヤツを使うわけなんだし…。
シャングリラの頃とも、前のお前が奪ってた頃のヤツとも、まるで違った味わいだぞ、うん。
「そうだね…!」
ハーレイが作ってくれる野菜スープも、今はとっても美味しいんだし…。
レシピを変えてしまったのかな、って思ったくらいに、同じ野菜でも美味しいんだし。
牛乳も卵も、ずっと美味しいに決まっているよね、あの頃よりも。
ハーレイが作るミルクセーキも凄く美味しくなっているよね、ハーレイの腕が落ちてなければ。
「こら、俺の料理の腕前は前より凄いと何度言ったら分かるんだ…!」
前の俺よりも色々な料理を作っているのが今の俺だぞ、腕が落ちるわけないだろう。
あまりの美味さにお前の頬っぺたが落っこちるようなミルクセーキを飲ませてやろう。
頬っぺたが落ちて行方不明になっちまわんよう、しっかり押さえておくことだな。
「落っこちてもいいよ」
行方不明になっちゃってもいいよ、ハーレイが作るミルクセーキがまた飲めるなら。
美味しく全部飲み終わってから、落ちた頬っぺたを探しに行くよ。
だって、ハーレイも一緒に探してくれるに決まっているもの。
「押さえておけって言っただろうが」って、ぼくのおでこをコツンとやって。
シャングリラでハーレイが作った頃とは違って、白い鯨で注文していた頃とも違って、今ならば地球の食材で作ったミルクセーキ。牛乳も卵も、それに砂糖も、青い地球のものばかりだから。
前の自分が生きた頃には無かった贅沢な食材、ミルクセーキはきっと美味しいに違いない。
本当に頬っぺたが落っこちるほどに、行方不明になりそうなほどに。
前の自分がミルクセーキを飲まないようになってしまってから、長い長い時が流れたけれども、約束が叶う。青い地球の上で。
ハーレイがまた、ミルクセーキを作ってくれる。
最初のミルクセーキがいつになるかは分からないけれど、その後はもう何度でも飲める。
いつか結婚して二人で暮らす家で作って貰って、あの思い出のミルクセーキを。
ハーレイと二人、何度も何度も、「あの味だよね」と微笑み交わしながら…。
ミルクセーキ・了
※前のハーレイが厨房にいた頃、ブルーだけに作っていたミルクセーキ。贅沢だった飲み物。
けれど手作りはその時代だけで、それっきり。次に手作りして貰えるのは、青い地球の上で。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えーっと…)
そうだったっけ、と新聞を覗き込んでしまったブルー。
学校から帰って、おやつの時間に。ダイニングのテーブルにあった新聞、それを広げて見付けた記事。幸せそうな花嫁の写真が目を引いたから。ブーケを手にして、最高の笑顔で。
自分もいつかはこんな写真を撮れる日が来る、とワクワクと記事を読んだのだけれど。てっきり結婚式の儀式の中身か、そんな内容だと思ったけれど。
(んーと…)
誓いのキスとか、結婚指輪の交換だとか。二人で署名する結婚証明書と言うのだったか、それの書き方とか、そういうものだと後学のために読んだのに。
(勉強にはなったと思うんだけど…)
記事の主役は花嫁が手にしたブーケだった。真っ白な薔薇と飾りのグリーンと、名前を知らない白く清楚な花を纏めた綺麗なブーケ。純白のリボンも結び付けてある、ブーケの花たちの美しさを更に引き立てるように。多分、レースで出来ているリボン。
ブーケについての記事と言っても、注文の仕方や選び方というわけではなかった。花嫁のためのブーケはあって当然、それを前提として書かれた記事。ブーケの参考には全くならない。
けれども、記事には重要なことが書かれてあった。結婚式で花嫁がすべきこと。
(ブーケトス…)
正確に言うなら、結婚式を終えた花嫁から参列者に向けての贈り物。それがブーケトス、花嫁のブーケを空へと投げる。結婚式に集まってくれた人たちの方へと高く投げ上げ、ブーケが落ちたら其処にいた人が次の花嫁。次に結婚出来る花嫁になれるというのがブーケトス。
実際に見たことは一度も無かったけれども、考えてみればドラマのシーンで見たかもしれない。花嫁が空へブーケを投げる姿を、ふわりと飛んでゆくリボンが結ばれた花束を。
(欲しいな、これ…)
勉強になったと思った点は其処だった。花嫁が投げたブーケを貰えば次の花嫁になれると書いてあったから。そのためのブーケトスだったっけ、と思い出した。
自分自身が結婚式でブーケを空へと投げるかどうかは、この際、あまり関係がない。関連行事の一つなのだと覚えておけばそれで充分、忘れていたって多分、問題は無いだろう。
(…誰かが教えてくれそうだしね?)
ブーケを手にしたままでいたなら、「早く投げて」と声が上がるとか、結婚式を挙げた所の係に促されるとか。こうして記事になるほどだから。
(ぼくのブーケはどうでもいいけど…)
結婚式を挙げた後なら、ブーケは本当にどうでもいい。花嫁姿を引き立てるための飾りの花束、貰って喜ぶ人がいるなら惜しげもなくポンと投げるだけ。空に向かって。
それはどうでもいいのだけれども、問題はブーケ。この新聞の記事にあるような。自分より先に結婚式を迎える花嫁、その人が空へと投げ上げるブーケ。
(ぼくもブーケが欲しいんだけど…)
自分の結婚式用ではなくて、先輩の花嫁が手にしたブーケ。それが欲しいと記事を眺める。白い薔薇と名前も知らない花々、それにグリーンを纏めたブーケを。
ブーケトスのブーケを貰いさえすれば、ハーレイと早く結婚式を挙げられそうだから。結婚式を早く挙げられるように、背丈だってグンと伸びそうだから。
(ブーケを貰えば、次の花嫁になれるんだしね?)
学校を卒業して十八歳の誕生日が来たら、直ぐに結婚出来るようにと前の自分と同じ背丈に。
誕生日がまだ来ない内から、ハーレイとキスを交わせる背丈まで育っていたなら、結婚式だってグンと早まるに違いないから。
結婚式に向けての力強い味方になってくれそうな花嫁のブーケ。幸せな花嫁が空に向かって投げ上げるブーケ、それが欲しいと思うけれども。
(でも…)
ブーケトスのブーケを貰いたかったら、行くべき場所は結婚式場。花嫁のブーケを作るだけなら花屋さんで間に合うだろうけど。「こんなのが欲しい」と注文したなら、予算に合わせて幾らでも作れるのだけれど。
(…ブーケだけあっても、意味なんか無いし…)
投げてくれる花嫁がいなくては。幸せを分けてくれる先輩の花嫁、その人が投げたブーケを手に出来なければ、次の花嫁にはなれないのだから。
結婚式に行かない限りは、手に入らない花嫁のブーケ。本物のブーケ。
(譲って貰う、っていうのも書いてあるけど…)
記事に載っている花嫁のブーケの入手方法、運に頼らずに確実に手に入れるための方法。
空へと投げるブーケトスだと、誰が貰えるか分からないから。「あの人にあげたい」と力一杯に空へ投げても、狙いが外れて違う誰かが貰ってしまうかもしれないから。
そうならないよう、あらかじめ花嫁に頼んでおく。「結婚式が終わったらブーケを下さい」と。
一言お願いしておきさえすれば、ブーケトスの代わりにプレゼント。「どうぞ」と渡して貰えるブーケ。花嫁の手から直接、幸せのブーケ。
次は自分が花嫁になりたいと強く願うなら、この手段。
花嫁の方でも「是非に」と欲しがる人がいるなら、喜んで譲ってくれるから。ブーケトスという結婚式を彩る行事は出来ないけれども、他の誰かが幸福になってくれるなら。
花嫁のブーケを貰いたいなら、ブーケトスで飛んで来たのを掴むか、花嫁に頼んで手に入れる。方法は二つもあるのだけれども、どちらのブーケも自分は貰えそうにない。
結婚式に呼ばれる機会は無さそうな上に、結婚しそうな知り合いが何処かにいたとしたって…。
(…男の子のぼくには…)
ブーケなんかは譲って貰えないに決まっている。
男の子は花嫁にならないのが普通で、花嫁を貰う方だから。「譲って下さい」と大真面目な顔で頼みに行っても、きっと冗談だと思われる。結婚式を盛り上げるためのジョークで、花嫁の緊張をほぐしてくれる素晴らしい笑いをプレゼントしたと全員に誤解されるのがオチ。
ブーケトスの方で貰おうと待っていたって、掴んだ途端に「こっちに頂戴」と言われるだろう。自分の周りにいるだろう女性、その中の誰かに「どうぞ」と笑顔で渡すしかない。たまたま自分が受け取ったけれど、これは女性のものだから、と。間違いでしたと、あなたのですよ、と。
(…カッコよく譲らなきゃ駄目なんだよ…)
本当は自分が欲しいのに。
次の花嫁になろうと思って、頑張って手にしたブーケなのに。
そうは思っても、普通だったら花嫁にならない男の子。それが自分で、どんなにブーケを持っていたくても、女性陣から「頂戴」と言われたら譲るべき。
彼女たちは何も知らないのだから。ブーケを貰った男の子だって花嫁を夢見て生きているとは、微塵も思っていないのだから。
どう考えても、手に入りそうもない花嫁のブーケ。投げて貰う方も、譲って貰う方も。
それさえあったら、次の花嫁は自分なのだと大いに自信がつくのだろうに。全く伸びてくれない背丈も、ぐんぐんと伸びてゆきそうなのに。
結婚式に出掛けて行っても貰えないブーケ。頑張って掴んでも、譲らなくてはいけないブーケ。
(…ハーレイと結婚するって決まった後なら…)
婚約したなら、花嫁になるのに違いないから、ブーケを貰おうとしても不思議ではないけれど。変だと言われもしないけれども、今度はブーケを貰う意味の方が無くなってしまう。
もう結婚が決まっているなら、ブーケが欲しいと努力しなくても次の花嫁になれるから。周りの女性たちと順番が多少前後したとしても、花嫁になるのは確実だから。
(ちょっと早いか遅いかの違いだけだしね…)
次の花嫁には違いない自分。ハーレイと結婚する自分。
婚約していては、貰う意味が全く無いブーケ。他の人が貰うべきブーケ。
まだ結婚が決まっていない誰か、そういう女性に「どうぞ」と譲ってあげるべきだし、もちろんそれでかまわない。もう欲しいとも思わない。次の花嫁は自分だから。結婚式の日が来たら花嫁になって、ハーレイと結婚出来るのだから。
そうは言っても、今はまだ見えもしない婚約。遠すぎて見えない結婚式の日。
少しでも早く結婚したいし、花嫁になりたいと思うから。
(…ブーケ、欲しいのに…)
こういうブーケを投げて貰うか、頼んで譲って貰いたいのに、と眺める写真。新聞記事の花嫁のブーケ、真っ白な薔薇や名前も知らない花を纏めて純白のリボンを結んだブーケ。
欲しくて欲しくてたまらないのに、貰えない。
誰も自分には投げてくれないし、譲って貰えそうもない。結婚式に呼んで貰えるアテも無い上、呼んで貰えても男の子はブーケを貰えない。
(どう考えても駄目だよね…)
貰えないよ、と溜息をついて閉じた新聞。諦めるしか無さそうなブーケ。
せっかく耳寄りな情報を掴んでも、どうにもならない花嫁のブーケ。貰えたら心強いのに。次の花嫁は自分なのだと、幸せな気持ちになれるだろうに…。
素晴らしい力を持っているらしい花嫁のブーケ。それがあればと、何処かで貰うことが出来たらいいのに、と部屋に帰ってからもブーケが頭から離れない。新聞で見掛けた真っ白なブーケ。
(…誰か、くれないかな…)
本当にあれが欲しいのに、と勉強机の前に座って諦め切れずに考えていたら、耳に届いた来客を知らせるチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、もう早速にブーケの話題を持ち出した。母の足音が階段を下りて消えるなり、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、花嫁のブーケって知っている?」
花嫁さんが持ってる花束。白い薔薇のとか、ドレスに合わせて色々あるヤツ。
「いつかお前が持つんだろ?」
俺と結婚する時に。ウェディングドレスのデザインに似合いの綺麗なヤツを?
これを使いたいという好みの花でも出来たのか、
と訊かれたから。
「そうじゃなくって、ブーケトスだよ」
結婚式の後で花嫁さんがブーケを投げるでしょ。今日の新聞にも書いてあったよ。
「ああ、あれな。…ブーケトスなら何度も見たなあ、結婚式で」
お前は本物を見たことが無いというわけか。チビだからなあ、無理もないが…。シャングリラの頃にはやってなかったし、知らなくても仕方ないんだが…。
ブーケトス、誰に投げてやるんだ?
お前の従姉妹か友達あたりに、欲しがりそうなヤツがいるのか?
「ぼくが欲しいんだよ!」
あれを貰ったら、次の花嫁になれるって言うし…。新聞にもそう書いてあったし。
次の花嫁になれるんだったら、ハーレイと結婚出来る日だって早く来てくれそうだから…。
でも…。
結婚式に出掛けて行っても、花嫁に譲って欲しいと頼んでも、男の子の自分にはブーケを
貰える道が無い、と説明していて気が付いた。
「そうだ、ハーレイ、結婚式は?」
「はあ?」
結婚式って誰の話だ、俺とお前の結婚式なら、まだまだ先の話なんだが…?
「友達の結婚式とかは無いの?」
そういうのに呼ばれて行くことは無いの、ハーレイ、友達、多いでしょ?
学校の頃の友達もそうだし、柔道とか水泳で出来た友達とか、学校の先生仲間とか…。
「そうだな、まるで無いとは言えんが…」
結婚がまだの友達もいるし、後輩だったら人数はもっと増えるな、うん。
「だったら、それに呼ばれた時には、ぼくを一緒に連れて行ってよ」
結婚式の後のパーティーは出られなくてもいいから、結婚式に。
式だけだったら、祝福してくれる人は多いほどいいって聞いたことがあるから、結婚式だけ。
「…どうするんだ?」
式だけだなんて、お前、何しに行くつもりなんだ。
結婚式が無事に終わったら、俺はパーティーに行っちまうんだが?
「花嫁さんのブーケを貰うんだよ!」
結婚式場の前で待ってるんだよ、ブーケを投げてくれるのを。
欲しいっていう人が予約を入れてて貰っちゃったら仕方ないけど、そうでなければブーケトスで投げてくれるでしょ?
運が良ければ受け止められるし、と話したら。
ハーレイが隣にいてくれるのなら、「こいつは俺の花嫁になる予定で…」と周りの人に説明して貰えるから、男の子でもブーケを持って帰れそうだとアイデアを披露してみたら。
「お前なあ…。そりゃあ、説明くらいはしてやるが、だ」
俺と一緒に結婚式なんかに行けるってことは、とっくに俺と結婚してるか、結婚が決まった後のことだと思うがな?
今のお前は俺とデートに行けやしないし、デートに行くなら大きく育てと言ってあるよな?
前のお前と同じに育って、俺とキスしてもかまわない背丈になるまでな。
「そっか…。そうだよね、ハーレイと一緒に行けるってことはそういうことだね…」
ぼくも結婚式に出てみたいから連れて行って、って頼めるんならデートだし…。
ハーレイとデートに行けるんだったら、結婚するってことは決まっているよね…。
それならブーケを貰う意味が無いね、ぼくは結婚するんだから。
次の花嫁になれるんだから、ブーケは他の人のものだね…。
名案を思い付いたと思ったけれども、ハーレイと一緒に出掛けた結婚式でも貰えないブーケ。
他の誰かが貰える筈の幸せを横から奪ってしまっては駄目だろう。花嫁のブーケを貰わなくても次の花嫁になれるのだから。ハーレイとの結婚はもう決まっていて、結婚式を待つだけだから。
(…ブーケ、やっぱり貰えないんだ…)
結婚が早くなるおまじない。貰えば次の花嫁になれる花嫁のブーケ。
譲って貰う方はもちろん、ブーケトスで手に入れる道もどうやら夢で終わるらしい。幸せ一杯の花嫁が投げてくれるブーケは貰えない。
いつか自分が投げるだけで。
結婚式の時に忘れていたって、「投げるんですよ」と注意されるか、「投げて下さい」と沢山の手が空に向かって差し伸べられるか、どちらかで。
「ぼく、あげるだけでおしまいなんだ…」
花嫁さんのブーケは貰えなくって、ぼくのブーケを誰かにあげるだけなんだ…?
「いいじゃないか、その後は俺との結婚生活なんだぞ?」
お前がブーケを投げるってことは、結婚式が終わりましたという意味だろうが。
俺との結婚式を済ませて、お前は俺の嫁さんなんだ。
いいか、嫁さんになるんだぞ?
前のお前が三百年以上も俺と一緒に暮らしていたって、ついになれなかった嫁さんにな。
メギドで死んじまって終わりじゃないんだ、と大きな褐色の手で握られた右手。
この手はずっと温かいんだ、と。
二度と温もりを失くしはしなくて、冷たく凍えはしないんだ、と。
「…そうだね、ハーレイと一緒なんだね。今度はずっと」
ぼくの右手は欲しいだけ温もりを貰えるんだね、いつでも、欲しいと思いさえすれば。
「そうだ、死ぬ時までしっかり握っててやるさ」
お前の右手は最後まで温かいままなんだ。俺が握っていてやるから。
死ぬ時も俺と一緒なんだろ、今度のお前は。
「うん、ハーレイと最後まで一緒」
ハーレイと一緒に死ぬんでなければ嫌だよ、ぼくは。
独りぼっちで生きていくなんて、ぼくは絶対、耐えられないから…。
前のハーレイにそれをやらせてしまったけれども、ぼくには無理に決まっているから…。
ちゃんと心を結んでおいてよ、結婚したら。
ハーレイの心臓が止まる時には、ぼくの心臓も一緒に止まるように。
「…それがお前の望みだったな、寿命が短くなってしまってもかまわないから、と」
「何度も言ったよ、そうしておいて、って」
ぼくのサイオンは不器用だから、心を結ぶなんてことは出来ないし…。
ハーレイに頼んでおくしかないから、結婚したら直ぐに結んで。
そして最後まで一緒なんだよ、ハーレイに手を握って貰ったままで一緒に死ぬんだよ。
ぼくの手は温かいままで。
ハーレイの温もりを持ったまんまで、ハーレイと一緒に何処かへ還って行くんだよ…。
いつか命が尽きた時には、ハーレイと二人で還ってゆく場所。
この青い地球に生まれ変わる前に二人で過ごしていたのだろう場所、其処へハーレイと手を繋ぎ合ったまま還ってゆく。
今度は温もりを失くすことなく、前の生の終わりに凍えた右手をハーレイにしっかり握り締めて貰って、包んで貰って。
それが今度の自分の最期で、その日が来るまでハーレイと離れることなく一緒に暮らして…。
幸せになれるに決まっているのが今の生。前と違って今度はきっと、とハーレイの手をキュッと強く握り返したら。
「よし、俺と一緒に暮らせるってことが幸せなんだとは分かっている、と」
だったら、贅沢を言っていないで、だ…。
お前の幸せ、分けてやるんだな。これから幸せになりたいヤツに。
「え?」
分けるってなあに、ぼくの幸せを誰に、どうやって…?
「お前のブーケだ。…俺の花嫁になった、お前のブーケ」
さっきから自分で言ってただろうが、次の花嫁になれるブーケが欲しいと。
そいつをお前が投げてやるんだ、結婚式に来てくれたヤツに。
誰が受け止めるのかは分からないがだ、お前のブーケは間違いなく最高のブーケなんだ。
どんな花嫁のよりも凄いブーケだ、この宇宙の誰よりも幸せな花嫁がお前だからな。
いいか、ソルジャー・ブルーの恋が実った瞬間なんだぞ、今の俺との結婚式。
前の俺たちはいつから恋して、いつから一緒にいたんだっけな…?
生まれ変わりだと誰にも明かしていなくても。
前の自分たちがソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったことなど、誰にも話さないで結婚式の日を迎えたとしても、周りの誰もが知らなくても。
遥かな遠い時の彼方で、あのシャングリラで三百年以上も共に暮らして、恋をして。
ハーレイと一緒に長く長く生きた、キスを交わして、愛を交わして。
恋は誰にも明かせないままで、最後までずっと秘密のままで。
結婚することは叶わなかったけれど、メギドへと飛んでしまって別れたけれど。
それまではずっと続いた恋。前の自分が深い眠りに就いてしまった後にも、その枕元で子守唄を歌ってくれたハーレイ。ナスカで生まれた子供たちのための子守唄を。「ゆりかごの歌」を。
その歌を自分は覚えていた。ハーレイが歌った子守唄を。深い眠りの底にいたのに、その歌声を感じ取っていた。
ハーレイとの絆はずっと続いて、メギドでも断ち切られはしなかった。
悲しみの中で泣きじゃくりながら死んだというのに、ハーレイの温もりを失くしてしまって右の手が冷たく凍えたのに。
独りぼっちになってしまったと、もうハーレイには会えないのだと泣いていた自分。
けれども絆は切れはしなくて、青い地球へと続いていた。前の自分が夢に見た地球へ。その上でハーレイと暮らす未来へ、結婚して生きてゆける未来へ。
考えてみれば、ハーレイが語るとおりに壮大な恋。遥かな時の彼方から今まで繋がった恋。
白いシャングリラはとうに無いのに、前の自分たちは伝説の英雄になったというのに。
「ほらな、お前と俺との恋。…この宇宙の誰よりも長くて凄い恋だってな」
ちょっと誰にも真似は出来んぞ、ここまでの恋は。
「そうかもね…」
ぼくたちの他には誰もいないかもね、こんなに長い恋をした人。
「いないに決まっているだろう。普通は此処まで待たなくっても、何処かで結婚出来そうだぞ」
これだけしつこく恋をしていれば、もっと早くにゴールに辿り着けそうなんだ。
ところが俺たちはそうはいかなくて、とうとう此処まで来ちまった。恋をしてるのに、結婚式を挙げられないまま今に至る、と。
此処に来る前は何処にいたのか知らんが、ちゃんと結婚出来ていたなら忘れはしない。そうだと思うぞ、誓いのキスを交わして結婚していたのなら。
つまりだ、俺たちは恋をしたまま、ゴールに向かって歩き続けて来たわけだ。青い地球まで。
お前との結婚式が恋のゴールになるってことだな、それから結婚生活になる、と。
もう最高の結婚式だぞ、そこまでの長い恋が実って結婚しようというんだから。
式に来てくれた誰も全く気付いていなくても、俺たちの絆はずっと続いて来たんだからな。
自分たちが生まれ変わりだと知る両親はともかく、他の人々はまだ何も知らないだろうから。
長く長く続いた恋が実って結婚するとは、夢にも思いはしないのだけど。
ただの教師と教え子の結婚、そのくらいにしか考えていないわけだけれども。
「分かるな、この地球どころか宇宙の何処にも、これほどの凄い結婚式は無いってな」
その結婚式のためのブーケは最高の愛のお裾分けだ。
お前が幸せを分けてやれ。次の花嫁になる誰かにブーケを投げてやって。
この手で力一杯にな、とハーレイの大きな両手で改めて包み込まれた右手。
前の生の最後に凍えた右の手、メギドでハーレイの温もりを失くしてしまった右手。
「…ぼくが投げるの?」
ぼくのブーケを投げてあげるの、結婚式に来てくれた人たちに?
「そうさ、この手が最高に幸せになる日だろうが。結婚式の日」
いや、最高の幸せに向かって歩き出す日か、結婚して一緒に暮らせるようになるんだからな。
「そうだね、ずっとハーレイと一緒だものね」
おんなじ家で二人で暮らして、何処へ行くのもハーレイと一緒。
前のぼくたちには出来なかったことだよ、ずうっと一緒にいるなんてこと。
「なら、そいつを他のヤツらにも分けてやってこそだろ」
俺たちのように幸せな結婚が出来ますように、と俺たちの幸せのお裾分け。
神様だってそうお思いになるさ、幸せを分けてやれってな。
「そっか、神様…」
結婚式には神様もセットだったんだっけね、教会で式を挙げるんだから。
前のぼくたちが生きていた頃にも消えなかった神様、その神様がいるのが教会だから…。
自分たちを生まれ変わらせてくれた神様。
前とそっくり同じ姿に育つ身体に、前の自分が行きたいと願った青い地球の上に。
聖痕をくれた、ハーレイともう一度巡り会わせてくれた神様。
その神様の前で結婚するのだから。
白いシャングリラには無かった教会、きっと其処での結婚式になるのだろうから。
「…ブーケ、投げなくちゃいけないね」
結婚式の記念に取っておきたい気もするけれども、ぼくのブーケは投げなくっちゃね…。
「そうだろ、自分だけ幸せになってはいけないってな」
前のお前ほどにやれとは言わないが…。
自分の命も幸せも捨てて他のヤツらを幸せにしろとは、俺は絶対に言いはしないが。
「…うん、ハーレイに言われなくても、前のぼくみたいに出来はしないよ」
今のぼくにはメギドを沈めに行くのも無理だし、ハーレイと別れて行くのも無理だよ。
あんな強さは持っていないし、サイオンだって駄目で、うんと弱虫なんだもの…。
「それなら、ブーケくらいはな」
幸せのお裾分けにどうぞ、と力一杯に投げてやるんだな。
うんと遠くで「此処までは届きそうにない」と残念そうに見ているヤツにも届くくらいに。
宇宙で最高のブーケなんだし、思いがけない幸せを貰ったと喜んで貰えるのがいいだろうが。
貰えて当たり前のような所で待ってるヤツより、前へ行き損ねちまってしょげてるヤツに。
「そうだね、そういう人の所まで届けられるように頑張ってみるよ」
ボールを投げるのは下手だけれども、遠くまで飛んでくれないけれど…。
ブーケは遠くまで投げられるといいな、貰おうと思って待ち構えている人よりも遠い所まで。
頑張って遠くに投げてみるね、と返事してから気が付いた。
花嫁の幸せのお裾分けのブーケ、貰った人は次の花嫁になれると言われているブーケ。
自分も欲しいと思ったくらいで、手に入らないと溜息をついていたけれど。
それを自分が結婚式の時に投げるのだけれど、その結婚式。
ウェディングドレスを着るのではなくて、白無垢もいいという話もあった。ハーレイの母の花嫁衣装だった白無垢、それを着るのも悪くないと。
もしも白無垢を花嫁衣装に選んだとしたら、ブーケはいったいどうなるのだろう?
白無垢でもブーケは持つものだろうか、持ったとしたって遠くへ投げることが出来るだろうか?
「えーっと…。ハーレイ、ブーケなんだけど…」
ウェディングドレスじゃなかったとしても、ブーケは持っててかまわないの?
ぼくが白無垢を着ていたとしても、花嫁さんならブーケを持つの?
「白無垢か…。そういや、そういう話もあったな、結婚式には白無垢ってヤツが」
俺のおふくろは持ってなかったな、結婚式の写真を見ただけだが。
アレだとブーケは無いものだしなあ、なにしろブーケはウェディングドレスとセットなんだし。
「…ブーケ、変でしょ?」
白無垢だったら変になるでしょ、ブーケなんかを持ってたら。
ブーケは投げてあげたいけれども、白無垢だったらちょっと無理かも…。
白無垢だとブーケは持たないらしい、っていうのもあるけど、投げるのも難しそうだから。
ドレスと違って袖が長いよ、あんな袖だと袖が邪魔して投げられないよ。
「それでも投げたらいいんじゃないか?」
白無垢に似合いそうなブーケを頼んで、作って貰って。
なあに、ブーケを作る人だってプロなんだ。注文があればきちんと作るさ、白無垢用のでもな。
「白無垢ではブーケは持たないものです」と断られることはないと思うぞ、プロなんだから。
プロってヤツはだ、注文どおりに仕事をこなしてこそだからなあ、どんな世界でも。
せっかくだから白無垢でもブーケでいいじゃないか、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
男同士の結婚式だし、色々と型破りな式になってもかまわんだろうが、と。
「袖が邪魔をして投げられない、って所も心配無用だ、手伝ってやる」
だからお前は思い切り投げろ、白無垢を着てても力一杯。
「手伝ってやるって…。ハーレイ、サイオンで投げてくれるの?」
ぼくの力じゃ袖が邪魔して近くにポトンと落っこちそうだし、うんと遠くへ飛ぶように。
ハーレイのサイオンを乗せてくれるの、ぼくのブーケに?
「おいおい、それは反則だろうが」
ブーケトスの記事、ちゃんと読んだか?
あれはサイオン抜きのものなんだ、どんなに器用に使える人でも使わないのが決まりだってな。
サイオンを使えば狙った所に届いちまって、ブーケトスをする意味が無くなる。それじゃ花嫁に頼むのと何も変わらんだろうが、「ブーケを下さい」と譲って貰いに出掛けるのとな。
だからだ、サイオンは使わずに自分の力だけで投げることになっている。
もちろんお前もそうするべきだな、俺が手伝うのは袖を持つことだ。
「…袖?」
「白無垢の袖だ、それを押さえておいてやる」
お前の綺麗な腕が剥き出しになっちまうんだが、仕方あるまい。
幸せのお裾分けをしようと言うんだ、「俺だけのものだから見せてやらん」とは言えないしな。
其処は我慢だ、お前がブーケを投げる間はグッと我慢をしておくさ、俺も。
本当の所は、そんな大盤振る舞いはしたくないんだが…、とハーレイは笑う。
お前の綺麗な腕を眺めていいのは俺だけなんだと、前の俺だった頃からそうだった、と。
「ふふっ、そうだね、前のぼくだと手まで隠れていたものね」
手袋ですっかり隠れてしまって、ハーレイとドクターの前でしか手袋は外してなくて…。
腕も同じで、誰も見てなんかいなかったものね。
「うむ。…そいつを大盤振る舞いなんだが、白無垢でもブーケは投げるべきだぞ」
最高の愛のお裾分けが出来ると気付いたからには、ケチケチしていちゃ駄目だってな。
神様も「投げろ」と仰るだろうさ、お前のブーケ。
白無垢だろうが、腕が剥き出しになって誰かがヒューッと口笛を吹こうが、投げてこそだ。
誰の所に届くか知らんが、次の花嫁は間違いなく凄い幸せを掴めるんだろう。
この広い宇宙で多分、一番長い恋をした花嫁のブーケなんだから。
頑張って投げろよ、力一杯。
お前の腕が丸見えになってしまったとしても、俺は我慢して袖を押さえてやるんだからな。
投げるんだぞ、とハーレイが強く念を押すから。
自分でも投げなければいけないだろうという気がするから、結婚式ではブーケを持とう。
ウェディングドレスでも、白無垢でも、ブーケ。
花嫁衣装に似合うブーケを作って貰って、それを手にして結婚式を挙げて。
式が終わったらブーケトス。
きっと何処にも無い、長い長い恋が実った花嫁のブーケ、前の自分だった頃からの長い恋。
前世は知られていないままでも、最高の愛のお裾分け。
前の生の最後にメギドで冷たく凍えてしまった右の手に持って、力一杯に遠くへ投げて。
それが終わったら、ハーレイと二人で歩いてゆく。
結婚指輪を左手の薬指に嵌めて、手を繋ぎ合って、青い地球の上を。
最高の愛のお裾分けをして、いつまでも何処までも、何度も何度もキスを交わして…。
花嫁のブーケ・了
※ブルーが欲しくなった花嫁のブーケ。早く結婚できるように、と思ったのですが…。
花嫁になった時に自分が投げてあげる方が、良さそうです。どんな花嫁衣裳を選んでも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
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(ふうむ…)
これはブルーが喜びそうだ、とハーレイが目を留めたラスク。ブルーの家には寄れなかった日の帰り、いつもの食料品店で。
ラスクは普段から菓子類の棚に並んでいるのだけれども、見付けた場所は店に入って直ぐの特設売り場。様々な店が出店してくる楽しいコーナー、其処がラスクで有名な店になっていた。
名前を何度か耳にした店、材料にこだわり、贅沢に焼き上げられていると評判のそれ。二枚ずつ透明な袋で包装されたラスクは如何にも美味しそうだから。
(よし、土産に買って行ってやるかな)
小さなブルーに土産を買うなら、食べたら消えて無くなるもの。ブルーの方では、手元に置いて眺められるものや、大切に使える品物が欲しいようだけど。文具や小さな置き物の類。
(欲しい気持ちは分かるんだが…)
フォトフレームとシャングリラの写真集がお揃いだから、と無邪気に喜ぶ小さなブルー。もっと他にも、と願う気持ちは良く分かる。とはいえ、ブルーは十四歳にしかならない子供なわけで。
(残せる土産は、もっと大きく育ってからだな)
恋人らしくなってからだ、と決めている。小さな間は土産はこういうものでいい。二人で一緒に食べてしまえば無くなってしまう菓子や果物、子供の間はそれが似合いの土産物。
明日は土曜日、ブルーの家にゆく日だから。丁度いいな、とラスクを買ってゆこうと決めた。
「一つ下さい」と二枚入りのラスクが幾つも詰められた箱を注文してから、自分用にも小さめの箱を試食用に一つ。美味しいに決まっているだろうけれど、自信を持って勧めるためには一足先に食べておかねば話にならない。「美味いんだぞ」と言ってやりたかったら。
家に帰って、買って来た食材で手際よく作った満足の夕食。ゆっくりと味わい、片付けをしたらコーヒーを淹れて、さっきのラスク。二枚入りの袋を一つ箱から取り出し、熱いコーヒーが入ったマグカップも持って書斎へと。
ダイニングで食べてもいいのだけれども、今夜は書斎の気分だから。好きな本たちが囲む空間、其処でのんびり寛ぎながら。
小さなブルーと二人で写した写真を収めたフォトフレーム。それを飾った机の前の大きな椅子にゆったり腰掛け、コーヒーを一口、ラスクも齧って。
(これは美味いな)
評判の店と言うだけはある、と一枚目を食べ終えてからパンフレットを開いてみた。買った時に袋に入っていたから、書斎に持って来ておいたもの。読んでおこう、と。
(ほほう…)
書かれているラスクの作り方。材料のパンから既に特別、ラスクにするために焼くというパン。材料の小麦粉のブレンドにこだわり、焼き加減にも注意を払って。
砂糖はもちろん高品質だし、驚いたのはバターの使い方。厳選されたバターを溶かした上澄み、それだけを使用するらしい。ゆえにバターのしつこさが無くて、何枚でも食べられそうなラスクが出来る勘定、人気の所以。
(贅沢なもんだな)
菓子なんだが、と苦笑いした。料理だったら分かるけれども、相手はラスク。美味しいラスクを作り出すためにパンから作って、バターも上澄みだけしか使わないとは、と。
ラスクは本来、残り物のパンで作る菓子。それをパンから作る贅沢、美味な理由も頷ける。
(専用のパンから作ったラスクなのか…)
これは心して味わわねば、と二枚目のラスクを暫し観察することにした。ただボリボリと食べてしまっては失礼だろうと、贅沢すぎるラスクに敬意を表して。
(ラスク専用のパンと来やがったぞ)
そのパンだけを食べてもきっと美味しいのだろう。自分が日頃食べているパン、それよりも味は上かもしれない。小麦粉のブレンドから焼き加減まで、こだわりのパンだと言うのだから。
(…ラスクにするのに最適なだけで、食事用ではないかもしれんが…)
齧ってみたい気もするな、とパンフレットに載っているパンの写真を眺めていたら思い出した。行きつけの近所にあるパン屋。レストラン部門を併設するほどだし、店で焼き上げたパンが自慢で品揃えも豊富。
其処で毎年、クリスマスが終わったら売られる限定商品があった。年に一度だけ、クリスマスの後の僅かな期間だけ。
クリスマスに向けてドッサリと並ぶシュトーレン。箱に入った贈答用から、お茶の時間に気軽に切って食べられる小さなサイズまで。白い砂糖の粉を纏ったシュトーレンの山が出来るけれども、全部売れるとは限らない。クリスマスの日まで切らせはしないし、残ってしまうシュトーレン。
けれど、クリスマスを過ぎたら売れない。シュトーレンの季節は済んだとばかりに、他の品物が売れてゆく。
(そいつを逆手に取るんだよなあ…)
もう売れないと判断されたら、売り場から消えるシュトーレン。暫く経ったらお洒落なラスクが現れる。胡桃やレーズンがふんだんに鏤められた贅沢なラスク、その正体はシュトーレン。
売れ残ったものを切って、バターと砂糖をまぶして焼き上げるだけ。これが人気で、飛ぶように売れる。シュトーレンだった頃より高い値段になっているのに、気にする人など無いラスク。
あれも贅沢なラスクだった、とクリスマスの後の店の光景を思い浮かべた。新しい年が来てから間もなく並ぶのだったか、あのラスクは。限定商品と書かれた札を添えられ、誇らしげに。
(材料は売れ残りというヤツなんだが…)
クリスマスが終わって数日の間は割引になるシュトーレン。それでも売れずに残ってしまえば、あの贅沢なラスクに化ける。期間限定の人気商品に。
(ラスクにしなくても、シュトーレンは日が経ったヤツほど美味いんだがな?)
なのにラスクにしないと売れないのか、とクリスマス用に作られた菓子の不思議さを思う。味はクリスマスの前と後とでガラリと変わりはしないのに。
クリスマスケーキだったら日持ちの関係で駄目になっても分かるのだけれど、シュトーレンなら日数が経つほど味が馴染んで美味しくなる。シュトーレンを生み出した地域の辺りでは、食べずに一年置いておく人があるほどに。その方が断然美味しいから、と。
(おふくろも置いていたっけなあ…)
手作りしたものや、店で買って来たシュトーレンを外気に触れないように包んで、初夏の頃まで食料品用の棚に置いていた。この地域では夏が暑いから、流石に夏は越せないだろうと。
今でも隣町の家に行ったら、棚にあったりするシュトーレン。自分もたまに買って置いておく、味が馴染んだ頃に食べようとパンなどを仕舞っておく棚に。
(…贅沢な時代になったもんだな)
売れ残りのシュトーレンをラスクにしてしまう件はともかく、ラスクにするパンを焼くなんて。食べるために焼かれるパンと違って、菓子にするためにだけ焼かれるパン。
それも小麦粉からこだわったパンで、焼き加減までラスクに最適になるように。
(シャングリラの頃だと考えられんぞ)
焼き立てのパンを食事用にしないで、最初から菓子にしてしまうなんて。
自給自足で生きていた頃も、前のブルーが物資を奪っていた時代にも、大切な食料だったパン。今の自分が暮らす地域では主食と言ったら米だけれども、あの時代の主食はパンだった。
食事をするならパンが欠かせなかった船。朝食はもちろん、昼食も夕食もパンはつきもの。そのパンを菓子に変えてしまうことなど有り得ない。
古くなってしまったパンならともかく…、と二枚目のラスクを袋から出した。これがラスク用のパンから作られた贅沢なヤツか、とガブリと齧る。上等な生まれだけあって流石に美味い、と。
なんとも贅沢すぎるラスクはサクサクとしていて、しつこくなくて。砂糖の甘さが後を引く味、もっと持って来ておけば良かった。小さい箱でも数は入っていたのだし…、と思った所で。
(…ん?)
ふと引っ掛かったラスクの記憶。遠く遥かな時の彼方で食べていたラスク。
前の自分が生きていた船、白いシャングリラにもラスクはあった、と気が付いた。あの白い船でラスクを食べたと、立派なラスクがあったのだったと。
なにしろ自給自足の船だし、前の自分が食べたラスクの材料は…。
(古いパンだよな?)
焼かれてから日が経ってしまって、固くなったパンで作られたラスク。専用のパンを焼くのではなくて、残り物のパンから作ったラスク。
それは間違いないけれど。シャングリラでは馴染みの菓子の一つで、保存にも適した優れもの。パンが残れば厨房のスタッフがラスクにするのが常だったけれど…。
(だが、もっと…)
身近だったような気がするラスク。単なる残り物から生まれた菓子というだけではなくて、前の自分の思い出の菓子だという記憶。
前のブルーと食べたのだろうか、それで覚えているのだろうか?
贅沢ではない、固くなったパンで作られたラスク。シャングリラでは定番の菓子だったから。
前のあいつと食べたラスク…、と遠い記憶を手繰ってみて。
(うん、食ったな)
確かに食べた、と頷いた。
ブリッジでの勤務を終えて出掛けた青の間、ソルジャーとしてのブルーに一日の出来事の報告をしたら、後は二人で過ごせる時間。恋人同士の二人に戻って、肩書きなどは外してしまって。
その時間が来るのを待ちかねたように、ブルーが紅茶を淹れてくれた。紅茶のお供に菓子などもブルーが用意していた、二人分を。「キャプテンとお茶にするのだから」と。
その菓子の中にラスクもあった、と残り物のパンから出来ていた菓子を思い浮かべたけれど。
(待てよ…?)
懐かしいね、と微笑みながらラスクを味わっていたブルー。
今の子供の指と違って、しなやかで長かった白い指。手袋を外した指がラスクをつまんで、桜の色をした唇に運んで、その唇から零れた言葉。「君のラスク」と。
(そうか…!)
俺のラスクか、と一気に蘇った記憶。
あの船で自分がラスクを作った。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。まだキャプテンに就任してはいなくて、厨房が居場所だった頃。
最初のラスクを作ったのだった、あのシャングリラにあった厨房で。
あれはいつだったか、皆と食事をしていた食堂。配膳や給仕は他の仲間たちがやっていたから、
調理を終えたら皆と一緒にテーブルに着いた。前のブルーが隣に座って、ゼルやヒルマンたちとも近い席。いつの間にやら、自然と決まってしまった配置。
そのテーブルで「パンがすっかり固くなっちまってるよ」と、ぼやいたブラウ。「あんたたち、パンを作りすぎたんじゃないのかい」と。
「ちゃんと計算して焼いてくれないとね。これじゃ風味が台無しじゃないか」
食料が無かった頃ならともかく、なんで今頃、ガチガチのパンを食べなきゃいけないんだい?
「いや、それは…」
俺たちがヘマをしたわけじゃないんだ、と言い訳ならぬ説明をした。
パンが残ってしまった理由は、単なる皆の嗜好のせい。普段通りの量を焼いたけれども、パンの他にパスタなども作って出していたから、バランスが崩れて偏った。
いつもならパンを食べる者たちがパスタをおかわり、それで満足して去って行った結果、減ってしまったパンの消費量。食べる者がいなければパンは残るし、次のパンを焼くのももったいない。まだまだパンはあるのだから。固いパンでも、お役御免だと捨てていいような船ではない。
「本当に普段と同じ分だけ焼いたんだ。作りすぎちゃいない」
要る分だけ焼くのは無理があるだろうが、毎日、毎日、焼き立てっていうのも難しいんだ。
焼き立ての日もありゃ、そうでない日もあるってわけで…。今はパンの在庫が山ほどあって…。
明日くらいまでは固いパンだな、悪いが、我慢して食ってくれ。
今の固いパンが無くなっちまえば、直ぐに焼き立てのパンを出せるってモンで…。
「それは分かっちゃいるんだけどね」
食べないことには次のパンは無いし、これは捨てちまって新しいパンを作れとも言えないし…。
でもねえ…、と愚痴を零したブラウ。
同じパンなら、もっと美味しく食べたいもんだね、と。
ブラウの言うことも一理あったし、何より皆に喜んで貰える食事にしたい。パンが固いと愚痴を零すより、こんな食べ方も美味しいものだと思って欲しい。
だから工夫した、固くなったパンをグラタンに入れて焼き上げたりして。具だくさんのスープも作ったりした、パンを一緒に混ぜ込んで。
ソースやスープに浸されたパンは柔らかくなるから、固いパンと違って文句は出ない。またかと飽きてしまわれないよう、味付けなどに変化をつけた。
あくまで食卓に並べられる料理、それしか思い付かなかったけれど。パンを使った菓子類などは考え付きさえしなかったけれど。
そうやって工夫を重ねていた日々、ある時、炒め物の試作をしていたら。
またパンが余ってしまいそうだ、と厨房の仲間から入った相談。「グラタンにするか」と返事を返して、炒め物の後はグラタンの試作を始めたのだけれど。今度はどういう味にしようかと、鍋でベースのソースを作っていたのだけれど。
其処へブルーがやって来たのだった、まだ少年の姿をしていたブルーが。
「何が出来るの?」
そのソースと、こっちのパンとで何が出来るの、ねえ、ハーレイ?
「固いパンには馴染みのパングラタンだが」
今日はどういう味にするかな、グラタンに入れる具だって工夫をしないとな?
いつも同じだと飽きられちまうし、これから研究しようってトコだ。
「パン、余ったんだ…。ハーレイ、いつも大変そうだけど…」
それって、お菓子にならないの?
「はあ?」
菓子とは、と驚いて訊き返した前の自分だけれど。ブルーはと言えば、調理台の脇に置いてあるパンを指差して。
「固くなったパン、ちょっとビスケットに似ていない?」
「ビスケットって…。そんなのがパンに似ているか?」
似ても似つかん代物なんだが、と頭に描いたビスケット。ブルーが奪う物資に混ざっていたり、厨房で焼いたり、平たい菓子なら良く知っている。パンとは違って固い菓子。
「固いトコだよ。そこが似てるよ、ビスケットと固くなったパン」
ビスケットだったら、立派なお菓子。…固いパンもお菓子にならないかな、って。
「ふうむ…。菓子か…」
確かに菓子なら、固いヤツでも誰も文句は言わないな。
ビスケットが固いと苦情が来たことは無いし、嫌な菓子なら食わなきゃいいだけのことだしな。
ブルーが言い出した、菓子という案。固くなったパンで作る菓子。
それは考えてもみなかったから、データベースを調べに出掛けた。パンから菓子を作れないかと参考になりそうなレシピを探しに。
古くなったパンで出来そうな菓子、と調べてみたら、同じグラタンでも菓子のがあった。残ったパンを利用した菓子、マーマレードとバターを塗ったパンと甘いソースで作るもの。
その名もブレッド・アンド・バタープディング、「ビートン夫人の家政書」という地球が滅びる前のイギリスで編まれた本にも載っていた由緒正しいレシピ。
(…こんな時代から、人間は固くなったパンの使い方で悩んでいたってか?)
十九世紀の本なんだが、と興味を引かれて関連のレシピを探れば出て来たサマープディング。
そちらも固くなったパンを使うのが決め手で、後の時代にはパンをわざわざ固くなるまで放っておいてまで作ったらしい菓子だけれども。ベリーを散らした赤紫の姿が美味しそうだけれど。
これは贅沢すぎて作れない、新鮮なベリーが山ほどあるような船ではないから。仮にあっても、固くなったパンを菓子にするために使うよりかは、もっとベリーが生きる使い方をしたいから。
(固くなったパンと砂糖くらいで何か…)
出来るものは、と調べ続けて、見付けたのだった、ラスクのレシピを。
パンをスライスしてバターを塗り付け、その上に砂糖。どちらもたっぷり、それからオーブンで砂糖が溶けるまで焼いてゆくラスク。バターと砂糖が馴染んで縁がカリッとなったら完成品。
こいつはいい、と書き抜いて戻ったラスクのレシピ。
オーブンに入れたら十五分もあれば焼けるというから、試作する時はブルーに声を掛けた。例によってパンが余ってしまって固くなったから、「お前が言ってた菓子を作るぞ」と。
ブルーが見ている前で始めたラスクの試作。パンをスライスして、バターを塗って…。
どんな具合かと、甘い匂いが漂うオーブンの前で二人で待った。そうして出来上がったラスクを取り出し、冷ましてから「ほら」とブルーに渡してやったら。
「美味しいね!」
ビスケットよりもずっと美味しいよ。サクサクしていて、それに甘くて。
「うむ。思った以上の出来栄えだな、これは」
こういう菓子が作れるとはなあ、固くなったパンで。
お前が菓子だと言ってくれなきゃ、思い付きさえしなかっただろう。今日だって、きっと試作をしてたぞ、グラタンとかの。菓子じゃなくって、いわゆる料理というヤツのな。
前のブルーが「お菓子にならないの?」と尋ねたお蔭で生まれたラスク。
これは使えると残りのパンで作ったラスクは好評を博し、パンが固いと苦情を言われる代わりに喜ばれた。とても美味しい菓子が出来たと、これならいくらでも食べられそうだと。
パンが余れば、固くなったものを使ってラスクに。厨房のスタッフたちも覚えた鉄則、ラスクは船の定番になった。前の自分が厨房を離れてキャプテンになってしまった後も。
自給自足の船にするための移行期を除けば、シャングリラでよく作られた菓子。パンが余ったらラスクの出番で、誰もが好んで口にしていた。バターと砂糖とパンで出来た菓子を。
前のブルーは特に…。
(君のラスク、って言ったんだっけな…)
それは嬉しそうな顔で、ラスクをつまんで。お茶のお供がラスクの時には。
前の自分はとうに厨房を離れていたのに、「君が初めて作ってくれた」と懐かしそうに。
二人で食べたと、作る所から側で見ていて、オーブンの前で出来るのを待ったと。
(思い出の菓子か…)
すっかり忘れちまっていたな、と自分の額を指で弾いた。ウッカリ者め、と。
ブルーへの土産に持ってゆこうと買って来たくせに、ラスクが何かを忘れ果てていた。ブルーと二人で食べていたことも、ブルーのアイデアで自分が作った菓子だったことも。
こうなって来たら、自分で作って持って行ってやりたいくらいだけれど。
白い鯨ではなかった頃のシャングリラの厨房、あそこで作った素朴なレシピでラスクを作りたい所だけれども、それは叶わない。
(手料理を持って行くのはマズイし…)
古くなったパンを使ったラスクでも、手作りの菓子には違いない。それを持って行けばブルーの母に気を遣わせてしまうし、下手をすれば「先日のラスクの御礼に」と土産を貰いかねない。
それを避けるには、買ったラスクを手土産にするしかないだろう。「シャングリラの頃の思い出ですから」と言えば問題無いのだから。
(忘れていたくせに、いいものを買ったというわけか…)
あの船には贅沢すぎるんだがな、と浮かべた笑み。
ラスク用のパンから焼いてはいないし、バターだって上澄みだけではなかったのだし、と。
次の日、朝食を済ませて少し経ってから、歩いて出掛けたブルーの家。
生垣に囲まれた家に着いたら、ブルーの母が門扉を開けに出て来たから。「買って来ました」と渡した、ラスクが入った紙袋。「シャングリラで食べていたんです」と断りながら。
(まるっきり嘘ってわけじゃないしな?)
前のブルーのアイデアから生まれて来たラスク。「君のラスク」と懐かしんでくれていた頃には恋人だったブルーとの思い出のラスク、その話はブルーの母には出来ない。大切な一人息子の恋の相手が自分だなどとは、口が裂けても言えないから。
(この手の嘘は幾つ目なんだか…)
申し訳ない気もするけれども、ブルーにはキスも許していないし、ここは大目に見て欲しい。
いつか「ブルー君と結婚させて下さい」と申し込んで腰を抜かされる日までは、生まれ変わって再び出会った親友同士ということで。
ラスクも前の生でお茶を飲みながら食べていた菓子で、ソルジャーだったブルーとキャプテンが過ごしたティータイムの思い出を語り合うための土産なのだということで…。
そういうことにしておいて欲しい、と心で詫びながら渡したラスク。
ブルーの母は「いつもありがとうございます」と礼を言って受け取り、紅茶と一緒に運んで来てくれた。綺麗な器に二枚ずつ入った袋ごと盛って、取り分けるための菓子皿もつけて。
小さなブルーは「ハーレイ先生のお土産よ」と聞かされて喜び、母の足音が階段を下りて消えた途端に身を乗り出した。
「ハーレイ、ラスクを買いに行ってくれたの、このお店まで?」
有名なお店だよね、よく広告を見掛けるもの。
食べたこともあると思うんだけど…。ママのお友達か誰かに貰って。
「いや、買いに出掛けたわけじゃない。いつもの店に来ていたんでな」
知っているだろ、俺の家の近所の食料品店の特設売り場。
今週はラスクの店だったらしい、昨日寄ったら売っていたから買って来た。美味いと評判の高い店だし、土産にするのに丁度いいかと…。
俺用にも買って帰って食ったが、美味かったぞ。まあ、遠慮しないで食ってみろ。
「うんっ!」
ありがとう、と包装を嬉しそうに破っているブルー。
二枚入りの中の一枚を愛らしい指でつまんで、パクリと齧って「美味しいね」と弾ける無邪気な笑顔。前のブルーが「君のラスク」と見せた笑みとはまるで違った子供の表情。
「まあな、こだわりの材料だからな」
パンから作っているんだそうだ。このラスクを作るためだけのパン。
小麦粉のブレンドにもこだわりました、っていう御大層なパンだ、並みのラスクとは違うんだ。ラスクと言ったら、古くなっちまった固いパンから作るもんだが…。
こいつは専用に焼かれたパンを使った贅沢なヤツだ、バターも上澄みだけらしい。前の俺たちが暮らした船だとバターは大事な食料だったし、上澄みだけなんていうのはなあ…。
「そうだね、そんな使い方はとても出来ないよ」
バターの在庫が切れそうだ、って大騒ぎになったこともあったよ、シャングリラでは。
…アルテメシアから宇宙に逃げ出した時に、牛たちがミルクを出さなくなって。
シャングリラの話を混ぜてやったのに、ブルーの頭は固くなったパンよりバターの方へと行ってしまった。「お菓子にならないの?」と口にした本人のくせに、パンよりもバター。
どうやらブルーは思い出さないようだから。放っておいたら、シャングリラの酪農事情に纏わる話を次から次へと始めかねないから、ストップをかけることにした。
「…もっとケチなラスクにしておけば良かったか?」
こういう有名店のヤツじゃなくって、食料品店の棚に並んでいるような普通のラスク。
「えっ?」
キョトンとしている小さなブルー。「普通のラスクがどうかしたの?」と。
「そいつの方が良かったのかと思ってな」
上澄みバターを使ったラスクじゃ、贅沢すぎて思い出せないようだしな、お前。
「何を?」
思い出せないって、ぼくが何を?
バターのことなら覚えてるじゃない、シャングリラじゃバターは大事な食料だった、って。
お料理するのに欠かせなかったし、合成品だと味がガクンと落ちちゃうんだもの。
「…ほら見ろ、お前はまたバターの方に向かって行っちまうんだ」
バターよりも大事なものがあるだろ、ラスクを作るにはパンが無くっちゃ始まらない。
こいつはとびきり上等だからな、パンから焼いてるわけなんだが…。ラスクは本来、固くなったパンで作るもんだぞ、シャングリラでさえ嫌われ者だった固いパン。
そいつを美味しく食べられないかと工夫したのがラスクってヤツだ、シャングリラでもな。
…覚えていないか、俺のラスクだ。お前といつも二人で食ってた。
お前、食べる度に言ってただろうが、「君のラスク」と。
「ああ…!」
思い出した、と叫んだブルー。
ハーレイのラスク、と。
シャングリラの厨房で作ってくれたと、初めてのラスクを二人で食べたと。
端っこを一度掴んでしまえば、戻るのは早かった一連の記憶。
ブルーはたちまち全て思い出した、シャングリラでラスクが生まれた切っ掛けが前の自分だったことも、試作の時の光景も。甘い匂いが漂うオーブン、その前で出来るのを待っていたことも。
「ハーレイのラスク…。美味しかったよ、このラスクよりも」
前のぼくが今でも覚えてる味は、このラスクよりもずっと上だったよ。
…ハーレイが作ってくれたからかな、「お前が言ってた菓子を作るぞ」って。
どんなお菓子が出来るんだろう、ってドキドキ見ていて、出来上がったのを二人で食べて。
最初に作ったのがハーレイだったから、ラスクはいつでもハーレイのお菓子だったんだよ。
ハーレイがキャプテンになっちゃった後も、ぼくにとってはハーレイのお菓子。
誰が作ったラスクでも全部、ハーレイのラスク。
だからラスクを食べる時はいつも、「君のラスク」って言ってたんだよ、とても懐かしいお菓子だったから。ハーレイが作ってくれたんだっけ、って思ってたから…。
それでラスクを持って来てくれたの、前のぼくのことを思い出したから?
ハーレイのラスクだって言っていたこと、ハーレイ、覚えていてくれたんだね…。
「…まあな。本当の所は、俺も忘れてしまってたんだが」
評判のラスクを売っているな、と思ったから土産に持って来ようと買ったんだ。
その段階では何も覚えちゃいなくて、家に帰って食ってた時にもまだ完全に忘れていたな。袋に二枚ずつ入ってるだろうが、一枚目の時は何も思っちゃいなかった。美味いラスクだと思いながら食って、二枚目に齧り付いた所で気が付いたんだ。
だが、シャングリラにもラスクはあった、という程度でなあ…。
前のお前と二人で食ってた、ってトコまで行ったら、お前が言ってた「君のラスク」って言葉を思い出したってわけだ。
そいつが頭に浮かんで来たらだ、後は芋づる式だったな。最初はお前のアイデアだったことも、試作する時にお前を呼んだってことも。
俺のラスクだと気付いちまえば、どうしてすっかり忘れていたのか不思議なくらいに昔の記憶が戻って来たな。お前と同じだ、お前も一気に思い出したろうが、ラスクのことを。
前の自分がブルーのアイデアを元に作ったラスク。シャングリラにあったラスクの始まり。
固くなったパンはお菓子にならないのか、と遠い昔に尋ねたブルーは、青い地球で小さな子供の姿になってしまって、首を傾げて。
「…ハーレイ、今はラスクは作っていないの?」
料理は今でも得意なんでしょ、ラスクくらいは簡単に作れそうだけど…。
「一人暮らしで作ってもなあ…」
パンが固くなるほど食材の管理が出来ていないっていうわけじゃないし、たまにウッカリ忘れてしまって固くなっても食べ方はそれこそ色々あるしな。
わざわざラスクを作らなくても、その日の間にパングラタンとか…。シャングリラの頃だと苦労してたが、一人分くらいはラスク以外の食べ方で充分いけるんだ。
ついでに、俺の教え子どもはだ、ラスクを作って御馳走しようが、何の有難さも感じてくれん。いつも食わせてる徳用袋のクッキーの味が変わった程度に思うだけだな、間違いない。
だから今ではラスクは作らん、たまに食いたきゃ店で買えるし。贅沢でない並みのラスクがな。
「そうなんだ…。でも、ハーレイのラスク、また食べたいよ」
思い出したら食べたくなったよ、ハーレイが作っていたラスク。
「作ってやるさ。今は駄目だが、いつかはな」
今は手料理は持って来られないから、ラスクも駄目だ。
しかし、いずれは手料理も持って来られるようになる勘定だし、お前も俺の家に来られる。
そしたら幾らでもラスクを作って御馳走するから、楽しみにしてろ。
一緒に暮らせるようになったら、もう好きなだけ食べ放題だぞ、俺が作るラスク。
クリスマスの季節が過ぎた後にはシュトーレンで作る豪華版もやるか、と誘ったけれど。
近所のパン屋で割引セールのシュトーレンを買って、胡桃やレーズンがたっぷりと入った豪華なラスクを作ってやろうか、と言ったのだけれど。
「ううん、普通の、あの味がいい」
シャングリラで一番最初に食べたあの味、あの味と同じラスクをまた食べたいな。
前のぼくが今でも覚えている味、今日のお土産よりずっと美味しいと思ってるラスク。
あれを作ってよ、固くなったパンで。…シュトーレンとかの豪華版より。
「かまわんが…。もちろんあれを作ってはやるが、最初はその味で満足でもだ」
いずれ贅沢を言い出すようになると思うがな?
このラスクみたいに美味いラスクは作れないかと、パンから作ってバターも上澄みだけを使えば美味しいラスクが出来そうだけど、と俺に色々注文するんだ、美味いラスクの作り方。
「そうかもね…」
最初は良くても、ずっとハーレイと一緒なんだし…。
いつも二人でお茶が飲めるし、ラスクも好きなだけ食べられるんだし。
シュトーレンで作るラスクも欲しいって言い出しそうだね、幸せだらけで贅沢になって。
前のぼくなら大満足だったハーレイのラスク、もっと美味しくして欲しいよ、って。
「そういうコースだと思うがな?」
俺はそういう予感がするなあ、今のお前が食べたがるラスク。
前の俺が作ったラスクのまんまじゃ、いずれ駄目だと言われそうだと思うんだが。
固くなったパンの食べ方で悩んだシャングリラ。そこから生まれて来たラスク。
けれども今では、ブルーも自分も、青い地球に生まれ変わったから。
青い地球で幸せに生きてゆける未来が待っているから、ラスクもきっと贅沢になる。
最初は嬉しい懐かしい味も、気が付けばすっかり今風になって。
地球ならではの食材を贅沢にたっぷり使って、地球風のラスクになってしまって。
それでも二人で幸せな時間、地球風になったラスクを頬張る。
「ハーレイのラスクだ」と喜ぶブルーと、二人きりの家で過ごすティータイム。
今はまだ子供の指のブルーが、前と同じにしなやかで長い白い指を持つブルーに育ったら。
結婚して二人で暮らし始めたら、贅沢な地球風になったラスクを幾つも幾つも作ってやって…。
ラスクの始まり・了
※固くなったパンから生まれた、シャングリラのラスク。前のブルーのアイデアが発端でした。
けれど作ったのは前のハーレイで、前のブルーが好んだお菓子。「君のラスク」と。
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(わあ…!)
ふわり、と浮かんだブルーの身体。舞い上がった空。
飛べたらいいな、と空を見ていた家の庭から、ふうわりと。芝生から離れて浮いた両足。
まるで重さを感じないから、体重がある気がしないから。泳ぐように腕で空気をかいたら、上に昇れた。かいた分だけ、透明な空気が満ちている庭をスイと上へと。
もしかしたら、と腕を動かしたら、まだ昇れる。面白いように、上へ、上へと。
浮き上がったと思う前には、庭の芝生に立っていたのに。一階の屋根よりも低い所から見上げていたのに、その屋根と同じ高さまで浮いた。自分の部屋を窓から覗ける、外側から。
(…ぼくの部屋…)
嘘みたい、とガラス越しに眺めた部屋の中。いつもハーレイと使うテーブルも椅子も、勉強机もベッドも窓の向こう側。それを空中に浮かんで見ている、窓の外から。
(もっと上に行ける…?)
手だけではなくて足も使って泳いでみたら。泳ぐならこう、と両足をパタパタさせたら、さっきまでより速く泳げた。空気の中を。
部屋の窓より高く上がれた、家の屋根よりも。庭で一番大きな木と同じ高さもアッと言う間で。
もう一回、と手と足で大きく空気をかいたら、木の上まで昇ってしまった身体。
普段は下から見上げる梢も、木の下に据えらえた白いテーブルと椅子も、今は自分の下にある。空を泳いで此処まで上がった、屋根よりも、木よりも高い所まで。
宙に浮かんでいる身体。家も庭も上から見ている自分。
(飛べた…!)
前の自分だった頃と違って、今の自分は飛べないのに。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、空を飛ぶ力は無い筈なのに。
けれどもフワフワ浮いている身体、重力の影響を受けない身体。懸命に手足を動かさなくても、ストンと落ちていったりはしない。家の真上にプカプカと浮いて下を観察している自分。
(…こんなに簡単だったんだ…)
すっかり忘れてしまっていたけれど、空を飛ぶこと。前の自分が自由自在にやっていたこと。
思い出したら、少しも大したことではなかった。空をかくだけ、空気の中を泳ぐだけ。そうするだけで高く上がれる、泳いだ分だけ昇ってゆける。両腕と足とで泳いだ分だけ、上へ、上へと。
(もっと上まで行けるよね?)
ぐんぐんと空の中を泳いで、家の屋根も庭で一番高い木の梢も遠くなってゆく。青空と白い雲に向かって泳いだ分だけ、遥か下へと。
町がオモチャのように見えるほど、高い所まで舞い上がれた空。道を走る車は分かるけれども、人はどれだか分からない。それほどに高い場所まで昇れた、疲れもしないで空を泳いで。
スイスイと此処まで泳げたのだし、楽々と飛んで来られたのだし…。
これならハーレイの家へも行けちゃうよね、と考えた。
「来ては駄目だ」と叱られてしまう家だけれども、ちょっと空から行ってみるだけ。どんな風に見えるか覗いてみるだけ、家の上から。
もしもハーレイがいないようなら、窓の向こうも見てみたい。自分が来たと知られないように、庭の芝生には下りないで。足を地面につけはしないで、ふわりと宙に浮かんだままで。
(覗くくらいはかまわないよね?)
一度だけ中を案内して貰った家、それをしっかり見てみたい。あの時は二度と来られないなんて思わなかったし、次の機会にゆっくり見ようと、次の部屋へと急いだから。家の中を少しでも早く見て回りたくて、「隣の部屋はなあに?」とハーレイの袖を引っ張ったりしたくらいだから。
(二階にあったの、寝室と、それから子供部屋と…)
他にも部屋を見せて貰った、「適当に使っているんだがな」とハーレイが言っていた二階。一人暮らしには広すぎる家だし、特に使い方を決めてはいないと。
(一階へ行けば…)
リビングにダイニング、キッチンにもあった広い窓。書斎に窓は無かったけれども、何処かから覗けば見えないこともないだろう。書斎の扉が開いていたなら、中の机や本棚なども。
こんなチャンスを逃す手はない、せっかく空を飛べたのだから。
家の庭から空を泳いで、此処まで昇って来たのだから。
ハーレイの家まで飛んでゆこう、と思ったけれど。
自分の背丈が前の自分と同じになるまで行けはしない家、それを外からコッソリ見ようと小さな胸を弾ませたけれど。
(でも、どっち…?)
行きたい家は何処だっただろう。どっちへ飛んだらハーレイの家があるのだろう?
まるでオモチャのような町。遥か下にある自分が住む町、これでは何処に何があるのか、いくら見たって分からない。大きな緑は公園だろうと思うけれども、他のは何がどれなのか。
あまりに高く舞い上がりすぎて、ハーレイの家が何処にあるのか掴めない。後にして来た自分が住む家、それもどれだか分からない。あの辺りかな、と漠然と思う程度でハッキリしない。
この状態ではハーレイの家がある場所も分からない、せめて自分の家のある位置と、路線バスが走る大きな通りが何処にあるかを把握しないと。
家から少し歩いた所のバス停、其処を目印に「こっちの方だ」と考えないと。
(…家が見える高さまで下りないと…)
あれが間違いなく自分の家だ、と分かる高さに下りなければ。家が見えたらバス停がある通りを探すのも簡単、ハーレイの家がある方向も直ぐに「こっち」と見当がつく。
それが分かったら、もう一度空を泳いで、ハーレイの家へと飛んでゆく。両手と両足でスイスイ泳いで、何ブロックも離れた場所に向かって楽々と。
此処まで昇って来られたのだから。息も切らさず、疲れもしないで飛べたのだから。
でも、下りるには…。
(…どうするの?)
どうしたらいいの、と空の上で頭を抱えてしまった。
泳ぐのは簡単だったけれども、下に向かって空気をかいても上手くいかない。両手と両足をバタつかせてみても、覗き込むように上半身を下へ傾けても、沈まない身体。
空気の中を下へと泳ぐことが出来ない、逆に上へと昇ってしまう。上へ上へと、さっきまでより高い所へ舞い上がる身体。
(どうして上へ行っちゃうの…!)
泳げば泳ぐほど上へ行く身体、空に昇ってゆく身体。
プールで泳いだことはあっても、潜ったことは殆ど無いから、やり方が全く分からない。空気をかいても下りてゆけない、下りる代わりに上へゆくだけ。青い空へと昇るだけ。
闇雲に空気をかけばかくほど、どんどん遠くなってゆく地面。小さく小さくなってゆく町。この有様では、ハーレイの家を目指すどころか…。
(家にも帰れないんだけど…!)
身体が浮いた、と大喜びで空から見ていた自分の家。窓から覗いた自分の部屋。大好きな両親と暮らしている家、その家にも帰ることが出来ない。
(パパとママ、ぼくを探してくれる?)
いないと気付けば慌てて探してくれそうだけれど、まさか空とは二人とも思いもしないだろう。サイオンの扱いが不器用すぎる一人息子が空へ昇って行っただなんて。
(…空は探して貰えないよ…)
疲れてしまって落っこちるまで、浮いているしかないのだろうか?
こんなに高い空から怪我もしないで、無事に地面に落ちられるだろうか?
(まさか、死んじゃう…?)
真っ逆様に落ちて、シールドも張れずに固い地面に叩き付けられて。両親にも、家を見たかったハーレイにも会えずに、それっきりで。
(そんな…!)
楽しかった空は恐怖の場所に変わった、このまま死んでゆくのだろうかと。
ハーレイと二人で生まれて来た地球、幸せ一杯に暮らせる筈だった未来は此処で消えるのかと。
泣き出しそうになってしまった空の上。さっきまで楽しく泳いでいた空。
其処で目覚めた、パチリと開いた自分の瞼。身体の下にはもう空は無くて、しっかり受け止めてくれるベッドの感触。柔らかくて暖かな自分のベッド。
カーテンの隙間から射し込む光で朝だと分かった。ハーレイが来てくれる土曜日の朝。
(…夢…)
夢だったんだ、とホッと息をついたら、俄かに惜しい気持ちになった。
下りられないと、死んでしまうと焦り出す前に感じた心地良さ。何処までも高く昇れた空。
(…もっと飛べたら良かったのに…)
下りる方法さえ分かっていたなら、夢の中でもハーレイの家へ飛べたのに。青い空を何処までも飛んでゆけたし、もしかしたら隣町までも。
ハーレイの両親が住む家を探しに、隣町の空へ。庭にある夏ミカンの大きな木が目印、あの木がそうかと空から見付けて、どんな家かと上を何度も回ってみて。
同じ夢なら、それが良かった。死んでしまうと泣きそうな気持ちで目覚める夢より、空を自由に飛んでゆく夢。ハーレイの家へも、隣町へも、何処までも空を駆けてゆく夢。
(…ぼくの馬鹿…)
下りる方法を忘れるなんて、と不器用な自分を叱ったけれど。
空を飛べないことはともかく、夢で飛んだなら下り方だって、と叱り付けたけれど。
(えーっと…?)
馬鹿な自分を詰っている内に、ハタと気付いた。
下り方も何も、前の自分はあんな風に飛んではいなかった。空を泳ぎはしなかった。真っ直ぐに飛ぶ時も、白いシャングリラの周りを飛ぶ時も、空をかいてはいなかった手足。
空を飛ぶために手や足は使っていなかったのだし、下り方を忘れる以前の問題。空の泳ぎ方など知らないのだから、潜り方だって知るわけがない。
(…前のぼく、どうやって飛んだんだっけ…?)
どうだったっけ、と考えていたら思い出したプール。夏に学校であったプールの授業。水の上にプカリと浮くことが出来た、「確かこういう感じだった」と前の自分を思い浮かべたら。重力から身体を切り離す感覚、その端っこを捕まえたら。
けれど、参考にしかならないプールの記憶。浮いていただけで、泳ぎは下手だったから。
前の自分が空を自由に飛んだ方法、それを泳ぎに応用するには記憶が足りなさすぎたから。
それでもプールで浮くことは出来た、前の自分が浮いていたように。空に浮かんでいたように。
(…ハーレイ、プールでコツを教えてくれるって…)
水泳が得意な今のハーレイ、そのハーレイが飛び方を思い出す手伝いをしてくれると言う。水の中だと身体が浮くから、何度もプールに通っていたなら空を飛ぶコツが掴めるだろうと。
そのせいで空を泳いだだろうか?
今の自分は少しくらいは泳げるのだから、空を泳いで飛んでゆく夢を見たのだろうか?
下手くそな空の旅だったけれど。
高く舞い上がった所までは良くても、下りられなくなってしまったけれど。
落っこちて死ぬ、と泣きそうになった所で終わった空を飛ぶ夢。泳いで高く舞い上がる夢。
とんでもない結末になってしまった夢だったけれど、恐怖に変わった夢だけれども。
(でも、飛ぶって…)
空を飛ぶことは気持ち良かった。本当の飛び方とは違って泳いだ空でも、地面から離れて空へと昇ってゆくことは。庭の芝生が、家が、木が、町が、遥か下へと遠ざかることは。
今の自分が初めて見た夢、青い空をぐんぐん飛んでゆく夢。
(前のぼくの記憶が戻ってからだと、ホントに初めて…)
幼かった頃には空を飛ぶ夢も見ていたけれども、飛べないようだと気付いてからは見ていない。タイプ・ブルーのくせに飛べない現実、それを認識してからは。
物分かりが良くなって見なくなったのか、ガッカリして見なくなったのか。
けれども、こうして夢を見たから。家の庭から空に昇って、遥かな上から町を見たから。
(…ぼくだって飛べる?)
前の自分がやっていたように、あの青い空を飛べるだろうか。町の上空の飛行は禁止されている今だけれども、飛んでもいいと許可が下りている場所、其処から高く昇れるだろうか。
前にハーレイが「お前なら綺麗に飛ぶんだろうな」と呟いていたように、天使の梯子と呼ばれる光の中を昇ってゆけるだろうか。今のハーレイに見せたい姿を披露することが出来るだろうか?
(…夢の中では飛べたんだしね?)
現実の世界でも、いつか飛べそうな気がしてきた。
とてもリアリティーがあった夢だし、本当になるかもしれないと。空を泳いだことは非現実的な話だけれども、地面を離れて眺めた庭やら、自分の部屋や屋根、それは本物のようだったから。
本当に身体が宙に浮いたら、きっとこんな風に見えるのだろう、と思うくらいに。
今は全く飛べないけれども、膨らんだ希望。今の自分だって、と。
タイプ・ブルーに生まれたのだし、いつか飛べるかもと、もうワクワクと高鳴る胸。
だから、ハーレイが訪ねて来てくれて、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで座った途端に勢い込んで切り出した。
「あのね、飛べたよ!」
「はあ?」
飛べたってなんだ、とハーレイの鳶色の瞳が丸くなったから。
「えっと、空…。夢だったけれど…」
目が覚めたら夢になっちゃったけれど、ぼく、飛べたんだよ。
「夢か…。だろうな、お前が飛べるわけがないからな」
前のお前の頃ならともかく、今のお前じゃ飛ぶなんてことは出来そうもないし。
「うん…。でも、本当に飛んだんだよ、ぼく」
家の庭から空に飛んだよ、と説明をした。
芝生を離れて、窓から覗いた自分の部屋。二階にある窓を外から覗き込んだことなど無いのに、机も椅子も勉強机も、ちゃんとそれらしく見えたのだと。梯子でも架けて覗いたように。
そういう本物そっくりの眺めで始まり、どんどん上へと昇ってゆく夢。
この町の遥か上まで昇ったけれども、町だってきっと、空から見たならあんな風だと。夢の中で見た自分の部屋と同じに、きっと本物もああなのだと。
「ほほう…。それで飛べたと言うんだな、お前?」
夢でも本物そっくりだったし、得意満面で俺に報告している、と…。
現実のお前も飛べるかもしれんと思っているといった所か、今のお前は?
「…そうだけど…。だって、あの景色、本物そっくり…」
だからね、きっと予知みたいなもの。
今はちっとも飛べないけれども、いつかは飛べるようになるんだよ、っていう夢だよ、きっと。
ぼくも飛べるよ、と笑顔で恋人に自慢したのに、そのハーレイは腕組みをして。
「お前の気持ちも分からないではないんだが…。そう信じたい気持ちも分かるが…」
そいつは夢の王道だってな、空を飛ぶ夢の。
「え?」
王道ってなんなの、どういう意味なの?
「ありがちと言うか、有名と言うか…。昔からある夢のパターンだ、その手の夢は」
何処から見たって本物そっくり、自分が本当に空を飛んだと考えるのが一番自然そうな夢。
ところが、そういうわけじゃないんだ。ミュウなんか存在しない頃から、人間が何度も見て来た夢だと言われている。SD体制が始まるよりも遥かに昔の時代からな。
そんな時代に人間は空を飛べやしないし、空を飛ぶための船すらも無い。なのに何故だか、空を飛ぶんだ、夢の中でな。本当は飛べもしないのに。
…つまりだ、お前の夢もそいつだ、いつか飛べるという予知じゃない。
現に、そういう空を飛ぶ夢。俺も見たしな、どう間違えても俺が飛べるわけないのにな…?
「ハーレイも見たの、空を飛ぶ夢を?」
本当に本物そっくりの景色、ハーレイも夢で見たって言うの?
「ガキの頃にな」
今の年では流石に見ないが、ガキの頃にはよく見てたもんだ。お前が見た夢と同じで空を泳いだことだってあるし、前のお前がやってたみたいにスイスイと飛んでたこともあったなあ…。
あれで飛べると思い込んじまって飛んだもんだ、とハーレイが苦笑しているから。
「飛んだって…。ハーレイ、やったの、ソルジャー・ブルーごっこを?」
まさか、と息を飲んでしまったブルー。
今の時代の男の子たちがよくやるけれども、大人や教師は「やらないように」と注意する遊びが前の自分の真似をすること。空を飛ぼうと高い木などから飛ぶソルジャー・ブルーごっこ。
もちろん飛べずに落っこちるから、怪我をすることも多いから。
大人たちは厳しく注意するけれど、それを聞かないのも子供の特権。一種の度胸試しとも言えるソルジャー・ブルーごっこ、怪我をしたって名誉の負傷で英雄扱い。
それをハーレイがやっていたなんて、とブルーは驚いたのだけれども。
「…実はな、やってみたってな」
よく考えてみろよ、俺だぞ、俺。
柔道だの水泳だのと運動ばかりの悪ガキってヤツだ、やっていない方が不思議だろうが。
「だけど、今まで言わなかったじゃない!」
ソルジャー・ブルーごっこの話は出てたし、ハーレイの武勇伝だって…。
子供の頃の話は幾つも聞いているのに、ソルジャー・ブルーごっこは聞いていないよ!
「お前が笑うに決まってるだろう」
なんたって、前のお前は本物のソルジャー・ブルーで、本当に空を飛べたんだからな。
ついでに今の利口なお前は、ソルジャー・ブルーごっこなんかはしないだろうが。
「…それはそうだけど…」
無茶をするよね、って見てただけだし、怪我しちゃったら「やらなきゃ良かったのに」と思っていたけれど…。
でもね、やった子たちを笑いはしないよ、勇気があるのは本当だもの。
やりもしないで見ていただけの臆病なぼくより、よっぽど英雄。
だからハーレイのことも笑うよりかは、「流石ハーレイ」って思う方だよ、本当だよ?
笑わないから教えて欲しいな、ハーレイがソルジャー・ブルーごっこをやった時の話を。
どんな感じで飛んで行ったの、と尋ねてみたら。
「ん? それはな…」と教えて貰えたハーレイの過去。空を飛ぶ夢を見てから直ぐの出来事。
高い木に登って、空を滑るように飛んだと言う。空気をかいて泳ぐのではなくて、真っ直ぐに。
ソルジャー・ブルーごっこをする子は、大抵、そういうパターンだけれど。
「…ハーレイ、大怪我?」
高い木だったら、落っこちたら骨が折れちゃう子もいるし…。
ハーレイも酷い怪我をしちゃったの、骨は折れなくても手とか膝とかが血だらけだとか。
「いや、隣の木に飛び移れた」
何本か枝を折っちまったが、幹にベタンと抱き付くような感じでな。
地面まで落ちて行っちゃいないさ、飛び移る時に折れちまった枝で掠り傷が幾つか出来たがな。
「隣の木って…。運が良かったの?」
飛べなかったけど、落っこちないで済んだのなら。
「そうらしい。ついでに俺の腕前もな」
もしも駄目ならこいつで行こう、と隣の木に向かって飛んだんだ。
飛び出す前から決めていたわけだ、飛び移れそうな木が生えている所で飛ばないと、とな。
万一の時のことは考えていた、と笑うハーレイ。
空を飛ぶ夢は見られたけれども、ソルジャー・ブルーのように上手く飛べるとは限らないから。
「失敗するってこともあるしな、それに備えて隣の木なんだ」
俺がやったのはムササビの真似だ、空を飛ぶならアレだろうと。
「…ムササビ?」
「うむ。同じように空を飛ぶヤツだったら、モモンガもいるがな」
似たような姿をしてるヤツらだが、モモンガはムササビよりも遥かに小さいからなあ…。
飛んでる姿を見付けやすいのはムササビだろうな、このくらいはあるし。
空を飛ぶのに膜を広げたら、こんな感じか。ちょっとした空飛ぶ座布団ってトコだ。
もっとも、ヤツらは飛ぶと言うより空を滑って行くんだが…。
いくら飛膜を広げたってだ、それと手足をバタバタさせたら飛べる仕組みじゃないからな。
上手い具合に空気を掴んで飛んで行くのがムササビだな、うん。
木から木へと飛んで移って行くんだ、膜を一杯に広げて空飛ぶ座布団みたいに。
翼も無いのに空を飛んでゆく哺乳類。ネズミの仲間に含まれるムササビ。
長い前足と後足との間にある飛膜、それを広げて滑空してゆく森の生き物。
その飛び方を頭に置いていた、とハーレイは子供時代にやったソルジャー・ブルーごっこで無事だった理由を教えてくれた。飛べなかったら滑空すること。とにかく隣の木まで飛ぶこと、と。
「そんなわけでだ、俺のソルジャー・ブルーごっこってヤツはだ…」
失敗はしたが、怪我はしていない。
うんと高い木の上から飛んだからなあ、無事だったことも含めて英雄だったぞ。まるで飛べずに終わった割には、一種の成功例ってことで。
「凄いね、普通はそこまでしないよ?」
失敗した時のことまで考えてないよ、ぼくの周りでやってた子たちは。
高い木から飛ぶんだ、って頑張って登ってた子も、高い塀とかから飛んでいた子も。
「だろうな、普通はそういうモンだ」
所詮は子供の発想だからな、どうすりゃいいのか思い付く方が珍しいってな。
俺の場合は親父のお蔭だ、ソルジャー・ブルーごっこをやると話したわけではないが…。
相談したってわけでもないがだ、本当に親父のお蔭ってヤツだ。
もっとも、親父の方にしてみりゃ、そんなアイデア、教えたつもりも無いんだろうがな。
「面白い生き物の巣を見付けたから、今度の休みに連れて行ってやろう」と言っただけだし。
ハーレイの父が釣りに出掛けて発見したというムササビの棲み家。
老木の幹に口を開けていた洞、ムササビは其処に住んでいた。夜になったら飛び始めるから、と日がとっぷりと暮れてから観察しに行ったらしい。警戒されないように小さな明かりを持って。
「此処から先は声を出すなよ、と言われたな」
人間がいると分かっちまったら、ムササビはなかなか出て来ないしな?
腹が減ったら出てくるだろうが、早めにお目にかかりたいなら静かに待つのが一番なんだ。
そうやって待って、出て来たムササビ。実に見事に飛んで行ったな、隣の木まで。そこから後はフワリと飛んでは進んで行くんだ、餌を探しに。
飛んで行っちまったムササビが元の木にまた戻って来るまで、親父と一緒に待ってたなあ…。
「いいな、ムササビ…」
ぼくは本物、見たことがないよ。
…動物園にいるのは見たんだろうけど、飛んでなかったし…。
飛んでないんじゃムササビなんだって分かってないよね、だから本物、知らないんだよ。
ハーレイにソルジャー・ブルーごっこのやり方を教えた先生だったら、会ってみたいな、本物のムササビ。本当に空を飛んでるムササビ。
「…見たいのか?」
お前もムササビの観察ってヤツに出掛けたいのか、夜になってから?
「うん。ぼくより上手に飛べるらしいしね、ムササビは」
ハーレイの先生になれるくらいに上手なんでしょ、ソルジャー・ブルーごっこのための?
「おい、先生って…。お前がソルジャー・ブルーごっこを始めちまったら、俺が困るんだが?」
今のお前は飛べやしないし、木から隣の木まで飛ぶのも失敗しそうな気がするんだが…。
「見たいだけだよ、ムササビを!」
ぼくの先生になって欲しいとは思っていないよ、どんな風に飛ぶのか見てみたいだけで…!
「ふうむ…。なら、いつかな」
俺の先生に会いに行くとするか、大恩人かもしれないが。
ムササビは人間じゃないわけなんだが、ヤツのお蔭で怪我をしないで済んだんだしな。
いつか連れてってやるとするか、と微笑むハーレイ。
俺と二人で遅い時間でも出歩けるようになったなら、と。
「それでだ、お前が見たって言う空を飛んでる夢だがな…」
ガキの頃の俺もアレで飛べると思ったわけだが、あの夢もけっこう面白いもんだ。
「面白いって…。何かあるの?」
ハーレイ、あの夢がどういう夢かを知ってるって言うの、夢占いとか…?
「いや、夢占いの方もあるんだが…。夢占いよりも今の時代に相応しい話と言うべきか…」
空を飛ぶ夢は大昔からあったわけだが、あの夢の正体は思念体だという説がある。
人間がみんなミュウになってしまった時代ならではの説なんだがな。
「思念体って…。ホント?」
「お前は体験したばかりだが…。ちゃんと景色が見えただろう?」
本当だったら、見える筈のない景色ってヤツが。
自分が空を飛ばない限りは、こんな風には見えっこないぞ、という色々な景色。
「そうだよ、だから飛べると思ったんだよ」
何処から見たって、本物みたいな見え方をしていた夢だったもの。
そこの窓から覗いたんだよ、この部屋の中を。
ぼくは外から見たことないのに、ちゃんとそういう風に見えてた。
不思議だったよ、ぼくがどんどん上に行ったら、部屋の中の見え方も変わっていったもの。この椅子やテーブルの角度が変わって、奥にある家具から先に隠れてしまって見えなくなって。
「其処だな、本当に飛んでいたとしか思えないわけで…」
しかし本物の自分の身体は、ちゃんとベッドで寝ているわけで。
そういう時でも身体の外へ出て行けるのが思念体だろうが、身体はベッドに置いたままでな。
前のお前も得意だったが、生憎と俺は出来ないな。…今でも出来ないヤツが殆どといった所か、思念体になって自由にあちこち出歩くのは。
だがな、うんと昔は幽体離脱って言葉があったんだ。SD体制が始まるよりも昔の時代。
魂だけが抜け出すってヤツが幽体離脱だ、概念としては思念体に近いものがある。
その辺もあって、ああいう夢を見ている時には思念体になっているんだという説なのさ。大昔の人も、俺みたいに思念体にはなれないヤツでも、潜在的には能力がある、と。
無意識の間に思念体になって出て行った時の夢がアレだ、というわけだな。
「じゃあ、あの夢のぼくも思念体なの?」
ぼく、思念体になって空を飛んでいたの、だから景色が本物だったの…?
「そこでだ、お前に改めて訊いてみたいが、夢のお前はどうやって飛んだ?」
どんな風にして空を飛んでいたんだ、飛べたと嬉しそうだったが。
「泳いでたよ?」
水の中を泳いで進むみたいに、空気をかいて泳いだんだよ。
泳ぐのと違って楽だったけど…。どんなに上まで泳いで行っても、少しも疲れなかったけど。
「なるほどな。…それで、前のお前の思念体ってヤツは泳いでいたか?」
身体から出たら泳いでいたのか、思念体は?
「…ううん…。泳いでない…」
泳いでなんかいないよ、身体ごと空を飛ぶ時と同じ。
こっちの方、って真っ直ぐ飛んで行くだけで、手も足も少しも使わなかったよ。
言われてみれば、まるで違うのが思念体の時と、本物そっくりの空を飛ぶ夢。
思念体だと思えば解決しそうだったけれど、前の自分は思念体の時に泳いでいないし…。
「ほらな、そう証言するヤツらもいるから、思念体説は弱いんだ」
思念体になって抜け出せるヤツでも、あの手の夢を見るらしくってな。
どうも違うと、あの夢は思念体になっているわけではなさそうだ、と証言されると反論出来ん。思念体だということになれば、本物そっくりの景色ってヤツも素直に納得出来るんだがな。
「…実際はどうなの、あの夢の正体」
思念体じゃないなら、どうしてああいう夢を見ちゃうの?
「ただの願望だと言われているなあ…」
空を自由に飛べたらいいのに、と思う心が見せる夢なんだそうだ。今の所は。
…その割にハッキリ見えるんだがなあ、色々なものや、空から眺めた景色やら。
俺がソルジャー・ブルーごっこに自信を持って挑んだほどにだ、空を飛んだとしか思えない夢。
あの景色だけは今も謎だな、願望にしては出来すぎなんだが。
「そうだよね…。ぼくにもただの夢だとは思えないけれど…」
だけど思念体とは違うし、あの夢、ホントに何なんだろうね?
「さてなあ…?」
ミュウしかいない世界になっても、まだ分からんというのがなあ…。
あの手の夢なら、思念体だのサイオンだので簡単に謎が解けそうな時代になったんだが。
もっとも、生まれ変わりの仕組みも謎だからな、と指摘されればその通りで。
今の自分たちが此処にいる理由も解けないのならば、あの夢は…。
「空を飛ぶ夢、神様の悪戯?」
悪戯なのかな、空を飛べたらこんな景色が見えますよ、って。
「プレゼントかもしれないぞ」
飛びたい人間は昔からいるしな、そういうヤツらの夢が叶うように神様からのプレゼント。
今の時代だと、そのプレゼントの意味を間違えちまって、ソルジャー・ブルーごっこになるが。
「んーと…。ひょっとしたら、天使の悪戯かもね?」
天使は翼が生えているから、寝ている間に魂だけヒョイと持ち上げちゃって。
天使の力で飛んでいるのに、人間の方は気付いていなくて、自分の力で飛んでるつもり。
「それはありそうだな、悪戯好きの天使もいそうだ」
お前、そいつに捕まったんだな、でもって空を泳いじまった、と。
ついでに前のお前が飛べていただけに、今度も飛べるとデッカイ夢を持っちまったんだな。
今の時代も解けない謎。
空を飛ぶ夢、まるで本当に自分が飛んでいるかのように。
最後に怖い思いをする羽目になった夢だけれども、空を泳ぐのは本当に気持ち良かったから。
「…空を飛ぶ夢、また見られるかな?」
今のぼくでも飛べた気になるし、また見られたらいいんだけれど…。
「夢だけにしとけよ、ホントに飛ぶなよ?」
俺みたいに無事に済むとは限らないんだぞ、飛んじまったら。
「それはムササビを見てからにするよ。ぼくでも空を飛べるかな、って考えるのは」
ムササビだって飛べるんだったら、タイプ・ブルーのぼくは充分、飛べそうだもの。
「…ヤツらはソルジャー・ブルーごっこの参考にしかならんのだがな?」
飛べなかったら隣の木まで、と飛び立つ場所を選ぶ時とだ、飛び立った後に飛べなかった時。
とにかく隣の木に飛び付こう、と狙いを定めて空に飛び出すだけなんだがなあ…。
だが、まあ、いいか、とハーレイが片目を瞑るから。
「お前は本来、飛べる筈だし、ムササビに飛び方、習ってくるか?」と笑うから。
ソルジャー・ブルーごっこに挑んだハーレイに飛び方を教えた教師を、無事に隣の木へ飛ばせてくれた教師だというムササビをいつか見に行こう。
森の中に住んでいるムササビ。
大きな古い木の洞から夜に出て来て、フワリと滑空するムササビ。
ハーレイの父に棲み家を探して貰って、その近くでハーレイと張り込みをして。
夜でも二人で出掛けられるようになったなら。
ハーレイの車で夜のドライブ、ムササビの住む木を見に行けるようになったなら。
今の自分は飛べないけれども、森を飛んでゆくムササビを見る。
「ぼくより上手いね」と、「当たり前だろう、俺の先生なんだぞ」と小声で囁き合いながら…。
空を飛ぶ夢・了
※飛べないブルーが見た、空を飛ぶ夢。どうしてそういう夢を見るかは、今でも謎。
夢のお蔭で聞けた、ハーレイの子供時代の武勇伝。空を飛ぶための先生は、なんとムササビ。
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